できる人はどんな情報収集をしているか
集める情報とは何か
情報を集めるとはどういうことか
ただ情報を拾い集めるのでいいのか
どんな問いの立て方をするのか
情報を集めようとするとき,@知らない何かを確かめるためか,A決断や決定をするときの不確定要素を減らそうとするためか,B新たな何かを見つけたり創り出したりしようとするためか,いずれかの意図がある。いずれにしても,わわれわれが情報を集めるのは,何らかの不確実性を減らすそうというときである。
では,その情報とは何か。金子郁容は,情報の要件を,こう整理した。
・情報の発信者と受信者がいること
・伝えられるべき何らかの意味(内容)をもっていること
・受け手に伝わるスタイル(様式・形態)で表現されていること
常に発信者と受信者が明確とは限らないが,流通している情報には,特有の形式にのって意味が伝えられるということである。その形式は,一般的には定量的情報と定性的情報という言い方になるが,金子郁容にならうと,コード情報とモード情報となる。コード情報は0と1のデジタル化のようにコード化できる情報であり,定量情報はこれに含まれる。モード情報は,雰囲気,気分,空気,感情,世の中の動き,流行等々文脈(コンテキスト)に制約された情報である。マイケル・クライトンが大事にすると言ったのは,ネット情報ではなく直接人から聞く話であるが,これは究極のモード情報になる。
ところで,シャノンは,情報の不確実性を減らすために必要な量の情報を,次のように定義した。情報量I,得られる可能性のあるメッセージ数Mとするとき,
I=log2M あるいは言い換えると,M=2I
つまり,「イエス」「ノー」のいずれかの選択だけが存在するとき,そのメッセージで1ビットの情報が得られる。言い換えると,情報1ビットは,2通りの可能性からの選択を示す。それは,情報量を1ビット増やすと不確実性が半分になることを意味する(ベイトソンは,選択肢のあるものを排除するものと呼んだ)。「イエス」「ノー」1回の選択で,一つの疑問が解けていく(不確実性が減る)。これを20回繰り返すと,220,つまり1,048,576分の1に不確実性が減っていく。
情報量をあるメッセージを言い当てるために尋ねなくてはならない「イエス」「ノー」の質問数に等しい。と考えると,情報収集とは,どこかにあるものを集めるのではなく,こちらが問いを立てて探索していくことでなくてはならない。探しているものの焦点を絞るために,意味のある質問をして,具体化,特定化し絞り込んでいくのである。この流れを手順化してみると次のようになる。
@目的を明確化する。何のために収集しようとしているのかを明確化する。A目標(求める成果)を絞り込む。目的にとって必要な情報にはどんなものがあるかを明確にする。B必要情報の条件づけをする。求める情報を明確にするには,情報の条件づけをしておく必要がある。目的達成に絶対欠かせない条件と,不可欠ではないが目的達成にとってより望ましい効果を与えるであろう条件に整理しておく。C求める情報を的確な設問に置き換える。こちらに必要な情報が明確になっても,ピンポイントでそれにぶつかるとは限らない。求める情報が的確な応答として返ってくるように,具体的な設問に置き換えていかなくてはならない。その設問づくりが,Aで洗い出した必要情報の分解・細分化(つまり特定化)をしていくことになる。D求める情報の探索方法,場所・相手を具体化する。「誰にどんなやり方で,何処で,どんなデーターベースで,探索したらいいか」を列挙する。直接情報源やそれにアクセスする方法が見つからない場合は,それについて知っている人ないしそれについて探索できる情報源といった手段情報で代替する。
シャノンが言った情報量は,あくまでコード情報についてだが,何かを確かめる,たとえば知識の不足を補うという意味でなら,上記の問いかけ手順で十分だ。しかし意志決定や発見,創造のための情報収集の場合,ただ問いを立てて絞り込んだところで,得られるのは既にわかっていることではないだろうか。未知の状況の解明や未知の発見をしようとするとき,それでは意味がないかもしれない。
実は,コード情報もモード情報も,情報は基本的に人が介することで,向きが与えられると考えていい。目撃情報の発信者と受け手で構造化すると,次のように図解できる。
つまり,発信者が情報にパースペクティブ(私的視点からのものの見方)を与えるのである。発信された「事実」は私的パースペクティブに包装されているのである。コード情報でもモード情報でも,それは変わらない。情報は丸められるのである。ドラッカーは,「情報とはデータに意味と目的を加えたものである。データを情報に転換するには知識が必要である」と言ったが,それは,情報に,既知の知識で向きを加えることと考えていい。そんなとき,不確実性を減らすために,イエス,ノーで収斂しても,あまり意味がないかもしれない。情報の向きを暴く,あるいは向きを崩す問いが必要になるのではあるまいか。
ここにあるのは,情報の向きを変えるための,収集する側の意図的な試みがある。あえていえば,仮説がいるのである。端緒となる情報は,「幼い息子がホウレン草を食べるたびにご褒美としてアイスクリームを与える母親がいる。」だけである。それにベイトソンは,@からBまでの問いをたてた。つまり仮説を立てたのである。しかもこの仮説は,「母と子の行動に関するコンテキストに関わる情報」を集めるために,立てているのである(『精神の生態学』)。
研修の手法に,インシデントプロセスがある。与えられたインシデント(出来事)から,その出来事の幅と奥行を想定しながら,必要な情報を収集・分析して,その問題解決をはかっていくものである。その情報の収集の仕方には,当事者に質問をしていくもの,シート化された情報を収集するもの等々があるが,要は,事態の全体像をつかみながら,その解決のためにどういう情報が必要かを考えて,情報を収集し,解決プランを立てていく。
このとき,情報の“向き”が問題になる。たとえば,関連する情報を聞き出したとする。その情報をつなぎ合わせれば,おそらく一定の文脈が見えるはずである。で,「よしわかった!」と,結論を出せば,金田一探偵に笑われる磯川警部の安直推理になる。ここにあるのは,情報提供者のもたらした「情報の向き」に沿って推論した,いわばお膳立て通りの結論にすぎないからだ。未熟な指揮官にとって恐ろしいのは,集まった「情報が互いに支持を保証し,あるいはその信頼度を増大」しあって「心に描かれた情報図が鮮やかに彩色される」ことだと指摘していたのは,クラウゼヴィッツであった(『戦争論』)。情報の向きが揃ったときは,それを疑うにはよほどの判断力がいる。
その意味では,向きとは文脈(コンテクスト)と呼んでもいい。もっともらしい見える文脈に代わる,他のありえる文脈の選択肢をどれだけ浮かび上がらせられるか。誤解を恐れず断言するなら,必要なのは新しい現実(状況)を発見することである。情報探索とは,そのために,意識的に問いを立てることなのである(選択肢がたくさん考えられることを発想力とも呼ぶ)。もし,こうなったらどうなのか,もし,こうしなかったらどうなのか,もし,これがなかったらどうなのか……。単に「なぜ」「どうして」と分からないことを問うだけではない。いまないなにかを仮定(あるいは仮設)することである。それには,私がバラバラ化と呼ぶ切り口が使えるはずである。とりわけ,とき,どこ,だれといった条件をどう変えていくかが鍵になるはずである。
@視点(立場)を変える いまの位置・立場そのままでなく,相手の立場,他人の視点,子供の視点,外国人の視点,過去からの視点,未来からの視点,上下前後左右,表裏等々
A見かけ(外観)を変える 見えている形・大きさ・構造のままに見ない,大きくしたり小さくしたり,分けたり合わせたり,伸ばしたり縮めたり,早くしたり遅くしたり,前後上下を変えたり等々
B意味(価値)を変える 分かっている常識・知識のままに見ない,別の意味,裏の意味,逆の価値,具体化したり抽象化したり,まとめたりわけたり,喩えたり等々
C条件(状況)を変える 「いま」「ここ」だけでのピンポイントでなく,5年後,10年後,100年後,1000年後あるいは5年前,10年前,100年前,1000年前等々 |
新たな文脈をみつけるとは,それは,いまあるものを当たり前とせず,ああでもない,こうでもないと,現状に問いかけることである。これが,情報のもっている“向き”,情報の提供者の丸めた“向き”,情報の発信者がつくりだした“向き”,情報の仲介者・報告者がいじくり直した情報の“向き”
,あるいは世の中の通念としての“向き”に流されないための,自分で情報の“向き”を発見するための方法なのである(これがおそらく情報収集の成果のはずである)。既にお気づきかもしれないが,これは問題意識そのものである。そしてこれは,仕事のできる人間の,仕事の仕方そのものでもあるはずである。【了】
あわせて「情報探索のスキル」「情報分析のスキル」「」「情報力とは何か」「情報力
とは【補足】」「情報力とは【その後】」「アクセス情報への基本スタンス」「情報の“向き”をつくる」を参照ください。
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