続・考えるとはどういうことか
考えるとはどういうことか
続々・考えるとはどういうことか
前回に述べたように,思考は,
・現実の関係性の内面化=論理的思考
・言語,記号などの内面化=言語的思考
・知覚,経験の内面化=表象(イメージ)的思考
・動作,行動の内面化=感覚運動的思考
の4つの軸がある。そのうち,感覚運動的思考や表象思考は,われわれには大きな働きをしている。とりわけ子供では,成人と異なり,モノの名前や意味を知らない分,モノを説明したり考えたりするとき,モノの動きで表現(ブーンと飛んでいる仕草)したり,モノを生き物で,コトガラを別のモノで喩えたり(踏石を亀と見立てたり,湿疹をサイダーの泡と喩えたり)する。これが成人なら,簡潔にモノやコトの名前を言ってしまって終わることになる。しかしその底で,言葉の実体を,そういう具体的な体験が支えているし,イメージも内面化した知覚・経験が支えていることは,成人も変わりはしない。それが,子供に限らず,成人にとっても知覚上の錯覚に満ちている理由である。例えば,下図のようなものを示されると,右の矢の方が長いと感じたり(ミューラーリヤーの錯視),
出典;種村季弘・高柳篤『だまし絵』(河出文庫)
また,前述のように,細いコップに入ったものの方が量が多いと直観的には錯覚したりするのも,成人してからも一瞬の錯覚に陥る。しかし,それは,マイナスとのみ考えるべきではなく,例えば下図のように,
背後を想定できるのも,このイメージの働きのせいである。しかしそのために,下図のような対象では錯覚を生ずることになる(@は,ネッカーの立方体,Aは,R.ペンローズの,「考えられない図形」,いわゆる“悪魔のフォーク”)。
@
A
出典;種村季弘・高柳篤『だまし絵』(河出文庫)
@では,奥行を示す稜線が前景となったり,前出の図の点線のように後背に引っ込んで見えたりする。これは,知覚経験から,われわれが背後の状態を既に知っているからにほかならない。しかし,逆に“悪魔のフォーク”で混乱するのは,その知覚経験の当て嵌めが効かないからにほかならない。
われわれにおいて,こうした知覚経験が,子供のように単なる図柄の差で判断するほど単純ではないが,全体的に把握する上で,非常に大きな力をもっている。例えば,
adgacgaegabga□
という文字系列を解くのに,コンピュータは不得意だが,われわれは,一瞬のうちに,パターンを見つけ,agは繰り返されており,実質的には,
dceb□
の文字系列を解けばいいのだということに気づける。そして,それは,例えば,
の渦巻きのようなイメージを浮かべることで,文字の列の特色をつかむことができるし,cとd,bとeが向き合った反射の関係とイメージしたりもできる(相良・前掲書)。その意味で,この直感とでもいうべきものは,イメージを想定することで全体像をつかまえやすくすることは事実である。
確かにこうした映像的な思考,つまりいわゆる右脳的思考は,コンピュータの最も不得意とするものであり,全体的な判別,認知という経験に即したわれわれにとっては利点というべきものではあるが,それがいわゆる右脳論以来過大評価されすぎているように思われてならない。空間情報の処理を右脳がやっているという常識化した見解に対して,全体をつかむイメージの形成には左脳が大きく関与しているとする実験結果も少ないがあるし,知識の枠組が全体を一括して把握するのを助けるとする,後述のハンソンの指摘もある。こうした視覚イメージを内部記憶によって総合するためには,左脳の機能が大きく作用するというのは,また当然考えられる反論なのである。
むしろ,大事なのは,右左で脳の機能を2分する発想自体が問題なのである。われわれがイメージを浮かべているとき,脳の活動部位は,右左といった単純な区分ではきかないくらい,後頭葉,前頭葉,下部側頭葉,頭頂葉,全体にわたっている,といわれる。しかも,イメージは受動的に画像を思い描くというようなものだけではなく,能動的に(先を読むというように)働かせており,その意味では常識的な左脳の「枠組」や「パラダイム」「予期図式」のようなものをもって,予測的予期的に描いてみせるという面ももっていることを見逃せないのである。「知っているものを見る」「見たいもの(しか)見えない」「見たいものをみようとする」というのは,こうした知覚イメージもまた,われわれにとって習得されたものだからだ。その意味では,直感もまた,一種の思考の慣性といっていいのである。
【以下続く】
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