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Critique Back Number 1


高沢公信"Critique"/1999.12.20

監督機能を切り口にマネジメントを考える

 

  • 監督者の機能が戦術的というのは正しいか

 一般に監督者の機能を,課長等の管理者のそれと比較して,

  管理者の機能   戦略的 長期的 全体的 外部志向

  監督者の機能   戦術的 短期的 個別的 内部志向

 といった区別をすることが多い。しかし,この区別に意味があるとは思えない。戦略か戦術かは相対的な問題でしかない。組織全体の目標にとっては,すべては戦術にすぎない。個々の目標にとって,戦略とみなされることも,その上位目標からみれば,その戦術にすぎない。つまりどのレベルのことを問題にして戦略的なのか戦術的なのかを云々しない限り,まったく無意味なのだ。たとえば,個々のメンバーにとって,監督者の示す方向が,自分の仕事達成によって係としての目標達成に寄与し,それが課としての目標達成に寄与し,ひいては組織全体の目標達成の一翼を担っているものでなくてはならない。とすれば,その方針がメンバーにとって戦略的なものでなければならないのは当然ではなかろうか。

 大事なことは,目標−手段の連鎖をきちんと抑えた上で,何が自分の役割・立場からの重要な戦略なのかを自覚することだ。とすれば,戦術的か戦略的かということは,個別の役割において考える必要のあることであって,課長には課長の戦略があるように,監督者は監督者としての戦略があると考えることが,問題に主体的に取り組むための前提のはずだ。

 更に付け加えるなら,いまどき,監督者と課長の役割に差を設けて考える視点こそ不適切であって,そういう視点で自分の役割を自己限定する監督者は多分失格者となること疑いない。監督者といえど,その上位者の目標・戦略をきちんとふまえなければ自分の方針がブレークダウンできないという意味だけでなく,自分の方針が場合によっては上位者の戦略を修正させなくてはならない場合もありうるのであって,その意味で,監督者が戦術的であることに自己満足するようでは,課長になって突然戦略的な視野でものが見られるようになるとは考えられない。戦略的であることは,内部志向であってはならないし,長期的でなければならないのは,これまた当然のことだ。

  • マネジャーの機能

 そこで,あえて監督者という役職にこだわらず,今日一つの部署ないしチームを統括していくとはどういうことかを考えなくてはならない。その役割は,大きく分けて二つある。即ち, 

 @向かうべき方向と方針を提示する役割

 Aその方向と方針に向け,メンバーを奮い立たせ集団としての力を盛り上げる役割

 である。

 前者を“旗降り機能”と言うなら,後者を“仕掛けづくり機能”と言うことができる。前者を外部志向,後者を内部志向と称してもいい。これを整理するなら,@は,「トップ方針の実践化(トップ方針のブレークダウンと自部門方針の確立)」「目標の設定とその実行計画の立案,およびその完全達成」「トップの意思決定への参画(戦略マインド)」「問題(課題)の探求(設定)と解決」等々“戦略”にかかわるもの,Aは,「コミュニケーションの円滑化」「協働体制づくり」「部下の育成・指導」「職場風土づくり」等々“戦術”にかかわるもの,ということになる。

 これを完遂するためには,「状況の変化を読み取り,いま何をしなければならないかを自覚して,トップに意見具申する力があり,更にトップ方針の実践化に当たっては,それをきちんと自部門にブレークダウンし,メンバー一人一人の目標としてきちんと設定でき,その遂行のための実行計画を立案すると,どうしたらメンバー一人一人の力を最大限に引き出しながら,しかも一人一人の成長をサポートしながら,チーム全体として活気ある体制を形づくれるかに腐心し,目標を完遂しきること」というふうに表現できる。どのレベルがより戦略的で,より戦術的かという区別をつけることに意味があるとはいえないというのは,このことにほかならない。


  • 変わる管理者機能

 周知のように,「情報化社会とは,重工業を中心とした世界からコンピュータを中心とした情報通信機器によるネットワーク化した社会」と呼ぶことができる。脱工業化というのは,工業が廃るということではなく,工業が情報によってあらたな結び付きの中に入るということにほかならない。工業化,つまり機械化は,

 □→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□

 という線形の工程で表現できる。その各工程ABCは,高度化しても,

 A□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□

 B□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□

 C□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□

 各工程は短縮できても,A+B+C…の総和にしかならない。しかし,情報化では,

  ┌A□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□

 X┼B□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□

  └C□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□

 1コンピュータシステムXにおいて,ABCの工程を同時処理することができる(もちろんフレキシブルに工程を組み合わせられる)。それは,更に集積すれば,いくつものXをZによって,いくつものZを,Yがというように,同時処理の集積度は高っていく。高度とはそういうことである。高度機械化では,生産手段の線型につないだ総和なのに対して,高度情報化では,生産手段は飛躍的に短縮される。

 こうした多元的,多層的な展開が可能となる組織で必要なのは,上位者→下位者という仕事の流れや中心→周囲という仕事の格付けやピラミッド型の組織編成でないことは明らかである。必要なのは,多中心的に,個々が自立した動きを同時進行するのを統括していくための,長期的かつ戦略的な視野にほかならない。それをここでは戦略と呼ばなくてはならない。それがあってこそ必要に応じて結合・分離・再結合を柔軟にしながら,多元的な活動を統括することができる。

 いま管理者に要請されるのは,どのレベルであれ,自分が集積度の高いセンターマシンとなれるかどうかだ。その下の層でもそうであり,個々のメンバーも別のネットワークのセンターとならねばならない。そうしてこそ,組織活動は多元的かつ多層的でありうる。それを統括すべき管理者が戦略的であるのはまず前提要件となったと知るべきであろう。


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高沢公信"Critique"/2000.2.4.

プロフェッショナル性とは

 

  • プロとアマの違いは何か

 プロであるとは,その能力と成果物で“金”が取れることには違いがないが,最大の特色は,自分独自の(オリジナルな)“方法論”をもっ ていることだ。どんなに経験したことのない,未知の(領域の)問題にぶつかっても,瞬時に(といかないこともあるが),自分なりにどうすればいいか,どういうやり方をすればいいかの判断と決断ができることだ。それは,また,自分のやり方に対する批評力があることをもいみする。つまり,自分の方法の方法をもっていることであり,自分のコトバで自分のやり方(の新しさ,独特さ)と内容(の独自性と共通性)を語れる(コトバをもっている)ということである。

 人の能力は,

 能力=知識(知っている)×技能(できる)×意欲(その気になる)×発想(何とかする)

 と分解できる。「知っていて」「できる」ことだけを,「その気になって」取り組んでも,いままでやったことをなぞるだけのことだ。いままでやったことがない,いまのスキルではちょっと荷が重い,といったことに取り組んで,「何とかする」経験をどれだけ積んだか,でその人の能力のキャパシティは決まる,と言っても過言ではない。
 そうして積み上げた知識と経験を,ただそのまま体験として蓄積するだけでは,プロにはなれない。それを,批評するパースペクティブを持っていること,つまり,自分の方法の方法,プロフェッショナルのプロフェッショナル,つまりプロフェッショナルであるとは,メタプロフェッショナルであることなのである。それは,自分が何の,どんなプロフェッショナルであるかを,コトバにできることでもある。人に伝えられるコトバをもっているかどうか,がプロとアマの本質的な差のように思う。

 言ってみれば,人は生きてきた分だけ,量や質はともかく,知識と経験は蓄積される。人の能力はそこにしかない。それをどう生かすかにしか,自分を生かす途はないのである。それをどうコトバにするか,そこに自分の“方法論”を明確化する筋がある。


  • 一流と二流の差

 世の中には,一流と二流がある。しかし,二流があれば,三流もある。三流があれば四流がある。しかし,それ以下はない。

 「一流の人とは,常に時代や社会の常識(当たり前とされていること)とは異なる発想で,先陣を切って新たな地平に飛び出し,自分なりの思い(問題意識)をテーマに徹底した追求をし,新しい分野やものを切り開き,カタチにしていく力のある人。しかも,自分のしているテーマ,仕事の(世の中的な)レベルと意味の重要性ががわかっている。

二流の人とは,自らは新しいものを切り開く創造的力はないが,「新しいもの」を発見し,その新しさの意義を認める力は備えており,その新しさを現実化,具体化していくためのスキルには優れたものがある。したがって,二番手ながら,現実化のプロセスでは,一番手の問題点を改善していく創意工夫をもち,ある面では,創案者よりも現実化の難しさをよくわきまえている。だから,「二流の人」は,自分が二流であることを十分自覚した,謙虚さが,強みである。

 「三流の人とは,それがもっている新しさを,「二流の人」の現実化の努力の後知り,それをまねて,使いこなしていく人である。「使いこなし」は,一種の習熟であるが,そのことを,単に「まね」(したこと)の自己化(換骨奪胎)にすぎないことを十分自覚できている人が「三流の人」である。その限りでは,自分の力量と才能のレベルを承知している人である。

 自分の仕事や成果がまねでしかないこと,しかもそれは既に誰かがどこかで試みた二番煎じ,三番煎じでしかないこと,しかもそのレベルは世の中的にはさほどのものではないことについての自覚がなく,あたかも,自分オリジナルであるかのごとく思い上がり,自惚れる人は,「四流以下の人」であり,世の中的には“夜郎自大”(自分の力量を知らず仲間内や小さな世界で大きな顔をしている)と呼ぶ。

 少なくとも,自分自身と自分の仕事と成果に誇りをもっていること,あるいは誇りをもてるようにするにはどうすればいいかをたえず考えていることが,四流かそうでないかの分かれ道であるように思う。


  • せめて三流にとどまりたいもの……

 自戒として,せめて三流でありたいし,それは能力の問題ではなく,意識してできる,生き方の問題であるように思う。そのためには,自分の能力と実力の現状に自足せず,世の中の水準,流れと対比しながら,たえずこれでいいのかと自らを振り返り,チェックし,レベルアップする努力を続けていることが必要である。例えば,(ある本から抜き出したものだが)次のような自問をしてみる。

そもそも自分の職業は何か(何屋か?)
これまで実際にやりとげたことは何か?
顧客の中で誰かそのことを証明してくれるか?
自分の技能(スキル)が最高水準にあることを示すどんな証拠があるか?
競争社会を乗り切っていくのを助けてくれるような新しい知人を,会社をこえて何人得たか?
今年度末の(職務)履歴には昨年と違った内容のものになるか?

 自分一人である程度の領域がカバーできる力があればあるほど,期待する水準が高いので,自分一人で何でもできるなどと思い上がらず,組織やチームで推進していく(達成度を高める)にはどうしたらいいかを考えている。一人で得られる(世の中の水準から見た)成果や情報力はチームや組織で得られるものに比べれば格段の時間とコストがかかるのだから。


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高沢公信"Critique"/2000.4.3.

発想転換の転換をはかる

 

  • 個性重視に雪崩を打っているが…

 「『動かざること山のごとく,侵掠すること火のごとく,静かなること林のごとく,はやきこと風のごとし。』−などというと,いかにも立派にきこえるが,つまるところ,それは,猿のむれのたたかいかたなのである。」と,世の武田好きの神経を逆なでしたのは,花田清輝氏(の『鳥獣戯話』)でした。
 むろん,その意とするところは,「猿のむれの示すところによれば,戦場のかけひきとは,要するに,すすむべきときに,いっせいにすすみ,しりぞくべきときに,いっせいにしりぞくことを意味する。ところが,その当時の武士たちは,『ぬけがけの功名』が大好きであって,全体の作戦など眼中になく,ただ,もう,むれを離れて,おのれの勇敢さをひけらかす機会のみをうかがっている阿呆らしい連中ばかりだったから,すすむこととともに,しりぞくことを知っていた信虎のために,かれらが,ひとたまりもなく,一敗地にまみれ去った」というのにあったのです。

 長々とこんな引用から始めたのには訳があります。実は,「すすむべきときに,いっせいにすすみ,しりぞくべきときに,いっせいにしりぞく」むれの戦法を,つい少し前までの,(筆者もその末端にぶら下がっていたのですが)日本株式会社の社員になぞらえることができます。それに比し,「ただ,もう,むれを離れて,おのれの勇敢さをひけらかす機会のみをうかがっている」個人技に,日本株式会社の社員が見立てた欧米(とりわけアメリカ)ビジネスマン像を見ることができましょう。

 いまや一転,組織的な発想を非とし,ただひたすら“個(性)”重視へと雪崩を打っています。いわゆる「集団主義」から個性重視への発想転換自体が重要なのに異論ありませんが,問題なのは,集団から個へと,一斉に右へならえする発想転換の仕方なのです。


  • 新たな集団主義が必要ではないか

 ついこの間まで,日本社会の強みは集団主義にあり,それは農耕型社会で培ってきた生きる知恵だと,自認してきたのではなかったでしょうか。それが,弱みに変じた理由は何でしょうか。思うに(天の邪鬼な言い方ですが),それは,アメリカ型(個人技)の視点から,「猿の知恵」(の“むれ志向")を推し量るからではありますまいか。「猿知恵とは,猿のむれの知恵のことであって,むれからひきはなされた一匹もしくは数匹の猿たちの知恵のことではない。檻のなかにいれられた猿たちを,いくら綿密に観察したところで,生きいきしたかれらの知恵にふれることのできないのは当然であ」ると,いま一度花田氏を借りるまでもなく,「むれからひきはなされた一匹もしくは数匹の猿たち」でない,むれの中でこそ真価を発揮する,われわれの新たな「集団主義」を,いま一度創造し直すべきなのではないでしょうか。

 門外漢が言うのも口はばったいのですが,もちろんそのときの集団主義は,「右向け右」で思考停止するそれでないことは,言うまでもありません。そこで必要なのは,情緒的な“みんな”志向ではありません。実態からみれば,既に“みんな”は均一ではなく,パートタイマー,派遣社員,中途採用者,出向社員,場合によっては,それに外部業者,下請けまで加わった,バラバラの“みんな”です。ただ目的達成のためにテンポラリーに関わっているだけです。これを,旧来の,プロジェクトチームやタスクフォースだけでカバーするのは無理です。いつ組織の束ねがバラけるかもしれないファジーさや,過去の延長線上での予測が効かない非線形な組織運営に対応できる,新しい組織原理が必要となりましょうし,現にそうなりつつあります。

 そこでは全人格的な関わりより,そのタスクを完成するためにどうそれぞれの能力をフルに引き出すかが必要です。当該の目的完遂に関与できなければメンバーになりえない,という徹底したプロ意識を引き出さなくてはならないのです。橋梁工事の鳶職がプロジェクトを求めて世界を飛び回っているように,その力量を発揮させる場を創ることが必要となるのです。

 南極点到達を競ったアムンゼンとスコットのうち,海軍軍人の組織原理に拠ったのはスコット,各分野のプロフェッショナルによるプロジェクトチームに拠ったのがアムンゼンでした。勝つために非情になりきったのは,4人体制の装備・食糧計画を無視して,情緒的な「一緒に連れていってやりたい」という思いつきで極点隊メンバーを1人増やしたスコットではなく,橇犬すら食糧として計算し尽くしたアムンゼンでした。なぜなら,彼は何が目的達成に不可欠かのみに徹底してこだわりつづけたからです。

 といっても,これを情報論から見れば,リーダーの情報が必ず正しいのではありません。情報の発信者という面からはリーダーもメンバーも同列なのです。それを徹底させれば,組織はネットワークになります。そこには先輩も後輩もありません。それを果たす能力と意欲だけが問題なのです。聞き及んでいるかぎりでは,たまごっち開発で威力を発揮したのは,組織の境界を越えた,こうしたグループウエアだったはずです。

 象徴的に言えば,「この指止まれ」と誰でもが,目標を掲げてプロジェクトをスタートさせられる(起業家的)仕組みこそが望ましい。旗は管理者やキャリアのある者のものだけでなく,力あるもの誰でもが振れなくてはなりません。


  • 集団主義だからだめだったのか?

 思えば,百人寄れば百の個性があるのは当り前であり,もともと個性そのものに価値があるのではありません。とすれば,実は,集団から個への発想転換で求められているのは,どう個性を生かす(仕組みを創る)かなのです。そこでは,新しいリーダーシップこそ必要なのです。この点から考えれば,実は「集団主義」そのものがだめだったのではなく,“みんな”に寄りかかった(あるいは担がれた)だけのリーダーがだめだった,ということに気づくはずです。

 そこで思い当たるのは,勝海舟のことです。維新後,福沢諭吉が『痩我慢の説』で,勝の幕末の政権運営を,「予め必敗を期し,その未だ実際に敗れざるに先んじて自ら自家の大権を投棄し,只管平和を買わんとて勉めた」と痛罵したのに対し,送られた本に,勝はこう返事したのです。

 「行蔵は我に存す,毀誉は他人の主張,我に与からず我に関せずと存じ候」

 簡潔な,しかし痛烈な返答の後背にあるのは,勝の矜持です。今日ただいま(リーダーに)必要なのもこれではないでしょうか。よってたかって,ひたすら外からの毀誉褒貶に右往左往する現況に,いったん耳を塞ぎ,冷静に,自己の立場,状況を見直し,何が本当の強みなのかに確信を持つことではありますまいか。

 バブルの中で学んだことがあるとすれば,世の中が一斉に右へならえしたとき,それに棹さすだけ でなく,それに異をとなえる,あるいは死んだふりをする見識が必要だということではなかったでしょうか。もちろん,一つのパースペクティブ(遠近法)でしかものが見れないなら,時代の罠にはまるだけです。一つのパースペクティブにこだわるのは,ありうる無数のパースペクティブに盲目になることです。必要なのは多様なパースペクティブを手放さないことです。勝海舟の矜持の根拠はそこにあったはずです。

 いま,実はバブルと同じ状況にあります。情報バブル,ネットバブルのことを言っているのではありません。一斉に,インターネットに雪崩を打っていることを問題にしています。インターネットの重要なことは論を待ちません。しかし,一体誰が,その重要性を,自分の力で,とことん考えて,判断したのか?が問題です。
 インターネットが儲かるから,インターネットに乗らないと乗り遅れるから,時代はインターネットにシフトしているから……。
 まったく十年前のバブルのときと同じではないのでしょうか?

 いったい,ネットとは何か,その特性,将来性,広がりについて,どれだけの企業が,とはつまり,企業のトップが冷徹に思考し,判断したのでしょうか?果たして,どれだけの企業が,ネット上で生き残れるのか。一体ネットで何をするのか。自社の資源はネットに向いているのか?いや,ネットに乗り遅れたら,本当に生き残れないのか?ネットに乗らないことでかえって生き残れるのではないか?

 いままた,リーダーこそが問われているのです。


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