発見的認識を生むもの
〜何が発想のきっかけになるか〜
われわれが,見ているモノが何かを見分けるには,二つのアプローチを取っている,とされている。つまり,
@対象の部分や要素をつなぎ合わせて,ひとまとまりに束ねていくプロセス
A全体を知っている何かに当てはめてひとまとまりに見分けるプロセス
である。
次の図をみてほしい。
@コンテクストの中におかれた部分要素 Aコンテクストから切り離された部分要素
出典;ハンフリー&リドック『見えているのに見えない?』(新曜社)
右の各部分が何かは,ジグソーパズルのように,各部分をひとつずつ,対応させながら,つなげていかなくてはならない。しかし,もし左の全体図がわかれば,各部分が顔の一部であることはすぐ見分けられるはずである。この二つの認知の仕方は違うのである。
脳に脳溢血等で障害を生じた人は,川に浮いているものを見て,水鳥と答えたという。実際は川に落ちた犬だったのである。動いているものが見えただけで,見えている部分を統合しても何かがわからなかったのである。そこで,水にいる動物→水鳥と推測したのにすぎない。こうした症例は,失認症といわれる。
この症状では,モノは見えている。写生をさせてみれば,正確に細部まで描ける。が,描いたモノが何かがわからない。文字の綴りはひとつひとつ音読できる。しかし単語としてまとまるとその意味がわからない。向こうから人が来るのは見えている。しかしそれが自分の妻であることが見分けられない。見分けられないのは,記憶の中の妻の顔と目の前の顔とをつなげられなかったからだ。部分を束ねてくることと全体をひとまとまりに見分けることとが切れているのである。ものは見えているのにそれが何かが見えない(ハンフリーズ&リドック『見えているのに見えない?』)。
われわれは,見ているものが何かを見分けるプロセスを,意識することはない。おそらく一瞬の間に,見えているものが何かを見分けている。これを,敢えて分解すると次のようになるのではないか。
@対象の部分を拾い集める。どっちを向いているか。色はどうか。影はどうか。どのくらいの大きさか。線はどうなっているか。角は鋭いが鈍いか。位置は,キメは等々。
A各部分をつなぎ合わせて,ひとまとまりにする。どれが背景なのか,どれが見ているものの輪郭なのか,区別がつけられる。
Bひとまとまりになったものの輪郭がまとまる。どうも人間の顔のようだ,というように。
Cその方向を決める。前向きなのか,横向きなのか。その向きによって,自分がそれにどういう位置関係にあるかがわかる。
D記憶にある情報と照合される。それと符合することによって,それが何かを見分ける。
われわれは,このプロセスを一瞬の内にまたぎ越しているが,実感から言うと,部分は,何かの一部として意識したときの方がよくわかる。前述の顔のように,全体が顔とわかっていれば,部分のつながり方がわかるのである。
部分を束ねることと全体を見分けることは,どちらか一方だけが働くということでない。もうひとつ図を見てほしい(「全体と部分の矛盾」参照)。
部分の構成要素は果物だが,全体は顔と見分けることができる。果物をどんなものと取り替えても,この位置関係が大体似ていれば,顔と見分ける。部分を見分けることと全体の構図を見分けることとは独立しているのである。福笑いでも,かなり位置関係が変わっても,顔という全体でやっているから,顔に見えるのに似ていなくもない。これが,特定の誰かを見分けるとなると,そうはいかない。それが妻であるかどうかは,この図のように,目と鼻と口があればいというわけにはいかない。目の大きさ,目の左右の微妙な違い,鼻の位置,目と鼻の位置関係等が決定的に重要である(ハンフリーズ&リドック・前掲書)。
この違いは,次のように分解して見ると,よくわかるように思う。まず,
@部分間の関係がつかまれる。それが,
A記憶の中の顔のパターンと照合される。この果物間の関係が崩れない限り,顔という構図が変わらない。しかし,もし,
Bこの関係に,あの目鼻立ちは誰かに似ていると,特定のつながり関係がつかまれると,
Cその関係が,再び記憶と照合され,アジャコングとかタイガーマスクと符合すれば,そう特定される。
Dその特定の目鼻立ちの関係をもった顔として見分けられる。そうなると,もう果物は取り替えはきかなくなる。そう見分けられると,部分は個別的に見えていくのである。
これは,モンタージュ写真をつくるときに似ている。目撃した犯人の顔の記憶と照合しながら,バラバラの目,鼻,口の間に特別なつながりをつけようとしているのである。
われわれが,バラバラにしたことは,前述の顔の要素をバラバラに切り離したのと同じ状態である。すると,このバラバラのものに,一方では,ひとつひとつつながりをつけなくてはならないが,他方では,そのつながりから何か照合できる構図を見つけ出し,それと照合しなくてはならない。つまり,集約していくには,
@部分をひとつひとつつなぎあわせて束ねていく
A部分の配置と照合できる,全体としての構図を見つける
の二つのアプローチがあるのである。
せっかくバラバラにしたのに,元のモノと照合してしまったのでは何にもならない。照合すべきものを見つけてくるには,何か工夫が必要である。
◆まず,部分を束ね直す
部分を束ねていくというプロセスを取り入れたものが,有名なKJ法である。これは,
@情報を部分に切断する(つまりバラバラにする)
Aバラバラのものをつなげる(グルーピング)
B各グループを更に大きなグループにまとめる(グループに階層をつける)
Cグループ間の関係を見つける(グループ間の構造化)
D全体像を表現
と,整理できる(北川敏男『情報学の論理』)。@〜Bは,「部分を束ねる」プロセス,CDは全体の構図を見つけるプロセスである。
@〜Bでグループの間に「関係」見つけたとしても,その延長線上に集約すれば,どうも元々のものからそれほど変わりばえのしないものになりそうである。そこで,それを飛躍させるためには,CDでは,別の発想をすべきではないか。つまり,その関係から単純に見えるものではなく,予想外のところから全体像をもってくることはできないか?その全体像に照合すると,全く違った様相で,各グループの関係が見えている,というように。その鍵は,アナロジーにある。
◆全体をひとまとめに見分ける鍵はアナロジー
アナロジーというのは,一般に,類比とか類推と言われる。“何か”に見立てる,“何か”として見る,“何か”になぞらえる,あるいは,〜のような,というのも同じである。要するに,対象を似ている別の何かと見なすことである。そうすることでより一層そのものがよくわかることがある。人間の脳は,コンピュータにたとえることで,情報処理としての働きがよく見えてくる。理論を建築物に喩えると,その骨格が弱いとか,土台が曖昧とか,そのことによって理論が見やすくなる。原子核の周りを電子が回っているという構造は,太陽系に見立てることで,核と電子の関係がよく見える。
たとえば,いま手元にあるマジックインキを例にとって,似ている(あるいは関係がある)何かにアナロジーを立ててみれば,
マジックインキの仕組みに(それと似た,関係のある)アルコールランプの仕組みを見る
マジックインキの構造に(それと似た,関係のある)ボールペンの構造を見る
マジックインキの組成に(それと似た,関係のある)石油ストーブの組成を見る
マジックインキの機能に(それと似た,関係のある)万年筆の機能を見る
マジックインキの形状に(それと似た,関係のある)ジッポのライターの形状を見る
マジックインキを(それと似た,関係のある)絵の具チューブで喩える
マジックインキに(それと似た,関係のある)シャチハタネームの意味をもって言う
等々となる。あまりうまい見立て方でないかもしれないが,こうすることでマジックインキにビジュアルなイメージを描きやすくなるはずである。マジックインキに部分的な特徴,あるいは全体的印象等々をピックアップする。それに《似たところ》《関係あるところ》のあるモノを取り上げ,それと疑似的にイコールと見ることである。むろんそのものでないし,全ての構造と機構が一対一で対応している同一のものでもない。人間の脳の例で言えば,情報処理としての機構のみをピックアップして,そこでイコールとしているにすぎない。
しかし,アナロジーによって,そこに新しいものが見えてくる。たとえば,マジックインキに筆記用具以外の,石油ストーブやライターを見立てたとき,マジックインキのもつ機能に広い見え方が可能になる。アナロジーに期待するのは,そういう飛躍したものを照合することによって,バラバラにしたものの間に,新しい関係が見えてくることである。
『発想できる仕掛けをつくる1』『発想できる仕掛けをつくる2』
『アナロジーの見つけ方』
侃侃諤諤ページへ
【目次】へ
|