情報を編集することの効果5
〜アナロジーをどう使うか〜
情報を編集することの効果1〜アナロジー発見効果
情報を編集することの効果2〜アナロジーをどう見つけるか1
情報を編集することの効果3〜アナロジーをどう見つけるか2
情報を編集することの効果4〜アナロジーをどう見つけるか3
われわれは,前回までに,共通性の発見→グループ化→共通性の発見……によって,より上位グループ化し,アナロジーを通して,そのグループ間の関係づけをつかみ,最終的にグループ群の構造を把握し,アナロジーという眼鏡によって,新しい見え方が展け,新しい構成を造形することを可能にすることを述べてきた。新しい構造がつかめることで,情報の編集作業は最終段階になる。
例えば,Aを,Bというアナロジーとして見ることで,新たに見えてくる(分かる)コト(X)には,2つのタイプがあるはずである。
即ち,第1は,類似性として見えてくるものには,次のようなものがある。
A(の要素関係)は,B(の要素関係)を通して,Xの形に見える。
A(の要素関係)は,B(の要素関係)を引き合いに出すことで,Xの機能に見える。
A(の要素関係)は,B(の要素関係)として見ることで,Xの構造が見える。
A(の要素関係)は,B(の要素関係)をスクリーンとすることで,Xの大きさを推定できる。
A(の要素関係)は,B(の要素関係)をトレースすることで,Xの組成を推定できる,等々。
そして第2は,関係性として見えてくるものには,次のようなものがある。
A(の要素関係)は,B(の要素関係)を通して,Xの(要素)関係が見える。
A(の要素関係)は,B(の要素関係)を通して,Xの全体像(フレーム)が見える。
A(の要素関係)は,B(の要素関係)をなぞることで,Xの包含(全体・部分)関係が見える。
A(の要素関係)は,B(の要素関係)を写すことで,相互(因果・序列)関係が見える。
A(の要素関係)は,B(の要素関係)を通して,隠れて(欠けて)いた関係が見える。
A(の要素関係)は,B(の要素関係)を通して,全体の枠組を補修することができる,等々。
われわれは,自分の知っているものを通して(なぞって)しか,未知のものを理解できない。例えば,「コウモリ」が未知とすれば,既知の鳥を通して,推し量るしかないのである。そこで,鳥の構造,器官,機能を通して,コウモリのそれを推測していく,これがアナロジーである。この異同を通して,単独でコウモリを見ていたのとは違う見え方を手に入れる。ボーアが太陽系のアナロジーによって原子構造に新しい見方を示した(これはモデル)ことや,田中角栄を太閤秀吉に見立てることで彼の何かがよく見えてくること(これは比喩)も,同じくアナロジー「を通す」ことによって見えたことなのである。
仮に,そこで新しい組み合わせが見えたとすれば,それを新しい構成についての仮説として,細部の組み合わせが説明できるかどうかを,演繹していけばいいのである(もし〜と同じ組成で見たらどうか,同じ構造として見たらどう見えてくるか,等々)。それが情報の新しい見え方(解釈)を可能とするとき,アナロジーは,新しい意味と背景を見る,偏光レンズのような役割を果したのである。
アナロジーによって,新しいパースペクティブが見えてくる例は,科学的発見には枚挙しきれないほどあるが,例えば,地球が回っているとしたコペルニクスによって,宇宙の見え方が変わったように,17世紀に心臓をポンプと見立てたW.ハーヴェイによって,機械に喩えられる心臓が発見されている。それまで,静脈弁も発見されていたのに,「静脈は心臓へ向かってのみ流れ,動脈は心臓から出てゆく方向でのみ流れる」ことが見えなかった。ちょうど,宇宙の見方をアリストテレス以来の宇宙像でしか見なかったように(ハーヴェイ『動物の心臓ならびに血液の運動に関する解剖学的研究』岩波文庫)。
ではなぜ,ハーヴェイには,その搏動によって血液循環をさせる心臓が見えたのか。なぜ機械に喩えられる心臓の機能と構造が見えたのか。それは,毎日の無数の解剖によって得た情報の見え方を,その時代の知識の文脈による区分や分類で整理するのではなく,その見え方自身によって,新しく括り直そうとしたところにあった。
無数の生物,心臓をもたないミミズ,カイメンから心臓をもつカタツムリ,貝,ザリガニ,蛙,魚,哺乳類,鳥に至るまで心臓を解剖し,観察し続けて,動脈を切断すれば「半時間以内に全血量が全身」から出てしまうこと,あるいは動脈を心臓近くで「結紮する」と動脈が空になること,こうして「まずはじめに心房が収縮し,その収縮の間に血液が心室へと送り出される」「心室は充満し,心室は収縮して搏動し,血液を動脈に送り出す」と集約し,この心臓の働きが,「他の器官に先んじて発現」し,動物を1つの全体として作り上げる「一種の機械である」と見たのだ。“ポンプ”という言葉を使わないまでも,「収縮によって血液を動脈の中に押し出し」て循環させる心臓の働きを見たとき,比喩としてのポンプを見ているのである(ラマニシャイン)。それによって,その機能と構造に新しい見え方が生まれてくる。
こうしてつかまえた仮説を通して,どういう見え方ができ,新しい構成のし直しができるかを, 繰り返し検証しなくてはならない。そうやって,部分集合間の新しい関係づけを創り出すことによって,最終的に新しいシステムを形成することになる(これを図にしてみると,別図のようになる)。
情報を括り直してアイデアを創り出すのに,アナロジーを媒体にしている,構成し直し型の創造性技法の代表的なものとしては,
・アナロジーによる発想の拡散→収束をシステマティックに体系化していくプロセスをモデル化した,NM法
・一見関係ないものを類比によって結びつけていく,類比的発想モデルの代表的なものとして, シネクティクス
が挙げられる。この他,一般にはブレストの変形や発散型に分類されるものに,
・構成要素に分解し,その要素別のコンポーネント(構成要因)を洗い出し,要素間にコンポーネントの最適組み合わせを図っていく,形態分析法
・欠点(希望点)を改善のアイデア集約の鍵としてまとめていくものとして,欠点(希望点)列挙法
・属性(機能・形態・素材,あるいは機能区分)に分解して,それぞれごとに改革・改善・変更のアイデアをまとめていく,属性列挙法
がある。ただ,最終的なアイデア集約を,単に現状の枠組の範囲内ですます(改善)か,それとも枠組そのものを壊すようなものにしていくかを左右するのは,既知の枠の中でまとめるか,それを別にアナロジー等でずらしていくかにある。その点で言えば,後者の3技法は,こういうものだと先入観をもって取り組まないほうがいいだろう。
それに対して,シネクティクスとNM法は,アナロジーを使っている点が,特色である。シネクティクスは,ゴードンの開発した技法であり,この「シネクティクス」は,ギリシャ語の「無関係な要因を1つの意味あるものに統合する」という意味で,その触媒としてアナロジーを活用しようというものである。NM法はこのシネクティクスをヒントに開発された技法である。このいずれもが,誤解を恐れずに言えば,KJ法等によって情報を括り直していくプロセスの先に,そのまま論理的あるいは常識的に共通項を括ったのでは,「異質な組み合わせ」になりにくいので,アナロジーという別の枠組を下敷にすることで,特異な組み合わせを探り,アイデアを発想しようとする。そのアナロジーの使い方の違いでいろいろな技法がありうるということになる。
例えば,NM法をよりわかりやすいステップにしたNM−T法では,@課題設定→Aキイワード設定→Bアナロジー発想(キイワードから見立てられるアナロジーへと転化する)→Cアナロジーのバックグラウンドの洗い出し(アナロジーのイメージを媒介に構造や形態などをビジュアルに表現する)→Dアイデアの集約(そのビジュアルなイメージを仲介として課題解決のアイデアを洗い出す)→E解決策(アイデアの分類整理),といったステップをとる。確かに,一見すると,Bのステップでのアナロジー発想が中核のように見えるが,実は,発想プロセス全体で見れば,一番重要なのは,最後に個々のアイデアをどう組み合わせるかであり,その青写真としてどうアナロジーを使うかなのである。
問題は,どちらのアナロジーを重視するにしろ,アナロジーはどうすれば発想できるのか,ただの類比と類推と推理とはどう違うのか,あるいはモデルと比喩とはどう違うのか等々については,どの技法もあまり深入りしていないため,ほとんど前述したゴードンのアナロジー分類やその考え方を踏襲しているようなのである。しかし,そのシネクティクスの場合は,グループ討議でこうやって出てくるアナロジーを使えばいいと例示してはいるが,それ以上にそのアナロジーがどうすれば発想できるかまでは踏み込んでいない。そのため,アナロジーを展開するためには個々の経験的なひらめきに頼るしかない部分が残るのが,難点なのである。
確かにアナロジーは,アイデア着眼や連想の手段として活用するだけならともかく,最適組み合わせの青写真として活用するためには,発想全体の中でアナロジーの位置づけをより明確にし,どういうプロセスがアナロジー発見をもたらすのかをはっきりさせておかないと,アナロジーは単なる発想転換の技術程度の受け止め方しかされなくなってしまう。アナロジーは,最終的な発想の構造と文脈を決定する,発想の要なのに,である。
(了)
アナロジーについては,ここを御覧下さい。
アナロジーの見つけ方については,ここをご覧下さい。
アナロジーの見方チェックリスト,アナロジーの見え方チェックリスト参照下さい。
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