創造性と発想力
創造性の問題を考えるとき,いつも頭に思い浮かぶのは,梅棹忠夫氏が60年代に指摘された言葉である。つまり,後発先進国であるわが国の場合,「創造をやっているよりは,イミテーションをやったほうが,はるかに効率がたかいし現実的であったわけです。だからといって,今後もそのほうが効率がたかいであろうということはかならずしもいっておれないあらたな条件がはじまってきた。創造性を発揮することがより有効であるということになれば,それが発揮されるのがあたりまえで,問題はそういう状況に身をおくかどうかです。」(『情報論ノート』)。
「そういう状況に身をおくかどうか」とは,言い換えれば,“創造性を引き受けるかどうか”ということにほかならない。それはどういうことなのだろうか?
これは私には,知的所有権で問われていることと深く関係があるように思われる。ここでで問われているのは,確かに創造性や独創性なのだが,その中で問題にされているのは,発想というものの価値評価の違いであるように思われるのである。
ともすると,われわれは,「もともと技術とはモノを作ることである。だから技術の優劣はでき上がったものを見ればはっきりする。『よそで考えた原理を取り入れただけだ』と言ってみても,アイデアだけでモノを作れなければ,技術があるとは言えないのだ」(唐津一)と考えたがる。それは間違ってはいないと思う。しかし,日米での問題の仕方に微妙なギャップがあるように思えるのだ。
私はこのギャップを,次のように理解している。例えば,液晶の開発に当たって,「適当な温度変化や電圧によって分子配列の規則性が変化し,それによって色調や光の透過性が変わる」という発見を重視するのか,それともその発想を低コストで歩留りの高い液晶材質の最適組み合わせを発見することで量産化をもたらした技術力を重視するのか,の違いなのではないか,ということである。電球で言えば,「溶解熱の高い発光体」というフィラメントの発明か,その発光体材料として竹の炭を使ったほうがいいかタングステンを使うほうがいいかの発見,との違いということになる。アメリカは前者を重視し,そこに特許のウエイトをおこうとしているのではないか,ということだ。
つまり,特許をめぐる日米の制度的な違いや特許の適用範囲の広狭の差として表面化している問題の本質は,創造性についてどこに評価のウエイトをおくかの差のように思われてならないのである。
ある意味では,アメリカからみれば,日本側は創造性という領域は(その応用範囲にまで)広くしているのに,逆に特許の範囲は,アイデアだけで幅広く網をかけられてはかなわないと,その適用範囲は限定的にとらえようとしているため,そもそもの発想を軽視していると見えるだろう。それがアンフェアと見えるかもしれない。どっちが正しいという判断ではなく,何を問題とされているか,という点を重視すれば,そう見えるのだ。
液晶の開発競争のとき,日本企業がやったのはまさに徹底した材質組み合わせの試行錯誤ではなかったか。それは先に液晶についての発明があったからにほかならない。そして,いま知的所有権として,問われているのはその発想部分なのだと考えなくてはならない。ある意味で,梅棹氏の指摘している,「引き受ける」べき状況とは,いまそういうものではないか,と考えなくてはならない,ということである。少なくとも,そう積極的に受け止めていくべきではないか,と思うのである。
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発想とは未知の問題を解ける形に組み替えることである
創造性というものを,発想からその製品化までのプロセスで考えたとき,前者は,問題を解ける形に組み替えることであり,後者は,それをどう解決していくかという実現の仕方になる。つまり,先の液晶の例でいえば,「適当な温度変化や電圧によって分子配列の規則性が変化し,それによって色調や光の透過性が変わる」という発見が前者であり,その発想を低コストで歩留りの高い液晶材質の最適組み合わせによって量産化することが後者である。ある意味では,前者はアイデアであり,後者はそれを実現していく過程であり,別の言い方をすれば,前者が創造(発想)過程,後者が問題解決過程ということになる。
あるいは,ポストイットの例で言えば,シルバーの研究からフライが,ポストイットという商品の着想を得たのが発想とすれば,3Mにその商品化をノーといわれたフライが,自宅で自作の製造マシンで,試作品を作っていくプロセスが後者ということになる。ここまでいたって初めてアイデアは形になる。
二つの部分を総称して創造性と呼びたい。どちらが重要かを言い争っても意味はない。われわれは,前者でまだまだ遅れを取っていることは間違いないし,いまからわれわれが引き受けなくてはいけない創造性とは,これにほかならない。
では,この意味の発想をどうしたら生み出せるのか。E.ヴァン・ファンジェは,創造性を,
@創造者とは,既存の要素から,彼にとっては新しい組み合わせを達成する人である
A創造とは,この新しい組み合わせである
B創造するとは,既存の要素を新しく組み合わせることにすぎない
つまり,既存の要素(見慣れたもの)から新しい組み合わせ(見慣れないもの)を創り出すこと,というのである。しかし幾ら既知の要素の組み合わせだからといって,何でも組み合わせたら創造的なわけはない。「データのくみあわせかた,あるいは配列のしかた」(梅棹忠夫)に創造性があるとは,その組み合わせをもたらす発想があるからにほかならない。それをどうしたら可能にできるのだろうか?
アーサー・ケストラーは,この「組み合わせ」を,習慣的に相互に矛盾して連結しそうにない2つの見地を,常識的に1つの脈絡で結びつけるのでなく,2つの脈絡を結合する「2つの感情もしくは考えの均衡がとれない,心の決まらない,過渡的な,不安定な平衡状態」を見つけけることだとしている。「組み合わせ」は,単なる寄せ集めではなく,常識的には接合点の見つけられない「異質」なものに「交錯点」を見つけ出すことになる。とすると,組み合わせは異質なものでなくてはならない。それはどうやったら可能なのか?。
その例に適切なのは,映画のモンタージュ手法である。「1秒間に24コマ」の映画フィルムは,それ自体は静止している1コマ毎の映像に,人間や物体が分解されてしまったものであり,この1コマ1コマのフィルムの断片群は,クローズアップ(大写し),ロングショット(遠写),バスト(半身),フル(全身)等々,ショットもサイズも異にしており,部分的・非連続的な認識−分析された認識−を現している。それら分析された認識を構成(モンタージュ)し直すことによって新しい認識がえられることになる。例えば,男女の会話の場面で,男の怒鳴っているカットにつなげて,女性のうなだれているカットを接続すると,1カットずつの意味とは別に男に怒鳴られている女というシーンと受け止めることになる。しかし,この両者のつなぎ方を変え,仏壇のカットを間に入れると,怒鳴っている男は想い出のシーンに変わり,それを思い出している女性というシーンに受け止め方が変わってしまう。あるいはアップした男の怒った表情に,しおたれた花のカットを挿入すれば,うなだれている女性をそう受け止めている男の心証というふうに変わる。その後に薄ら笑いを浮かべた女性のアップをつなげれば,全く別の印象に変わる。
少々陳腐なつなぎ方を例示しすぎたかもしれないが,ともかくこうした異質な組み合わせを発想するところに創造性があり,それによって生まれてくる「新しい認識」こそ,創造性がもたらす新しい視界(パースペクティブ)にほかならない。
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われわれは知識のアテハメやつじつま合わせにたけている
われわれは,大体情報を集めて組み合わせて,ある判断をするプロセスをとる。例えば,それをステップ化するなら,
情報を集める
↓
情報を観察する
↓
情報をまとめる
ということになろうか。しかしもちろん,われわれは一々こんなステップを取っているわけではない。分かり切ったときには,情報をかきあつめるまでもなく,自分のもっている知識や経験をあてはめるだけで十分対応できる。多少不案内であれば,書籍や経験者から情報を収集すれば,何とか判断もできる。通常われわれは,情報を集めて組み合わせているが,それを創造性とは言わない。なぜなら,そこにあるのは既知の組み合わせであり,異質化した組み合わせではないからだ。
では,異質な組み合わせはどうしたら可能なのか?それについては,アイデアづくりの4つのスキル,「わける」「グルーピングする」「組み合わせる」「アナロジー」
を参考にしてほしい。
『発想力トレーニング』については,ここを御覧下さい。
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