発想には思い込みが邪魔になる-1-
発想には思い込みが邪魔になる-2-
頭が錆ついては発想できない,だから正しい発想法を身につけなくてはならない,というのは,どうも思い違いではあるまいか。そこで頭の体操をしたり,創造性技法を学んだりするのも,悪いことではないが,その前に大事なことを見逃してはならない。そもそも発想というのは,自分のもっている“サビ”からしか生まれはしない。自分の“サビ”こそが,その人の個性であり,そこにしか発想の素はない。問題は,それをどう活性化できるかなのだ,という点を。
「頭のサビを落としたい」「頭を柔らかくしたい」「柔軟な考え方ができない」というのが,創造性訓練に参加する人の動機のようである。なぜなら「手慣れたやり方やものの考え方から出られない」からだと言う。そこで「一生懸命勉強して発想力豊かになりたい」というのが,大方の参加者の口にすることなのである。これが創造性についての思い違いなのだ。
なぜ「頭の錆」や「柔らかさ」が問題になるのだろうか。この“サビ”とか“固い”とは何のことなのか?錆ついて回らなくなったギア,グリスの固まったベアリング,あるいはショートして堂々めぐりする回路,といったイメージなのだろうか。
そう感じるのは,自分たちが身につけた知識と経験では問題が解けなくなったからなのか,あるいはいままでのやり方では壁が破れなくなったからなのだろうか?しかし,どうもそこまで深刻のようではないのだ。なぜなら,もしそこまで追い詰められていたら,訓練している暇に必死で解き方を考えた方がいいし,そうすれば,昔の人の「窮スレバ即チ変ジ,変ズレバ即チ通ズ」ではないが,何とか光明が見えてくるものだ。それこそが発想の神髄なのだ。
そこまで深刻ではないとすると,何となく自分のやり方・考え方(知識・経験)が古くなった,時代遅れになった,と自分でも感じるし,人からも言われている。あるいはどうも人の意見を聞かなくなって,頑迷に自説を押し通そうとする。あるいは自分の身につけた価値観で,いつもワンパターンのことばかり言っている。自分の過去のこと(たいした成功談でもないが)をとかく自慢したがる。酒を飲むと愚痴っぽくなり,くどくどと同じ小言を言う。いつも仕事のことしか考えない(といって別に新しい企画や仕事の改革というよりは人間関係や上司の悪口),たまに口を開くと野球か競馬かゴルフのスィングのことばかり,等々ということはないか。しかしこれは発想の問題というよりは老化の問題ではあるまいか。老化防止と発想力とを混同しているところはないか。
そこまでいかないまでも,何となく自分のいままでのやり方では通用しなくなっていると感じているのだとしても,それはそれまでの自分を捨てればすむことではあるまい。深刻な事態でないとすると,このままではいけないという危機意識なのだろう。そう感じている人なら,少なくとも人並み以上に仕事をし,それなりに仕事の仕方に自負もあるのではあるまいか?それを無下に無駄,無用,あってはならないものとして脱ぎ捨てるべきものなのだろうか。第一,何十年と生きてきた人の考え方や見方が,そんなに簡単に柔らかくなったり,変えたりできるものなのかどうか。
こうした思い違いが生まれてくるには,理由があるようなのだ。それを推測してみるに,まず第一に,どうもこうした誤解の背後には,発想とはクイズやパズルといった「頭の体操」のようなもので,頭をもみほぐさないといけない,というイメージがあるからではあるまいか。しかしパズルを解くことに長ずることで,優れた創造性を発揮するのだろうか。はっきり言って,答えはノーである。なぜなら,「手慣れたやり方やものの考え方から出られない」から発想力が必要だと感じたのなら,パズルであれ何であれ,「解き方に慣れる」とは,また別の「手慣れた方法」を習得するにすぎないからだ。
いま1つは,正しい発想法や創造性技法を身につけさえすれば,それが発想転換装置となって,トコロテンのように発想が押し出されてくる,といった思い込みがあるのかもしれない。まさかそこまでではないにしても,自分のものの考え方は間違っているに違いない,どこかに「正しい発想の仕方」というものがあるのではないか,と発想法に正解を求めているのではあるまいか。しかし正解があるなら,それは発想ではなく,知識の習得にすぎない。暗記でも何でもして覚えさえすればすむ。しかし「正しい」発想法を「学ぶ」ということは,また別の手慣れたやり方を身につけるだけではないか。
結論を先に言えば,頭にサビなんてないし,固い頭もないと思っている。問題なのは,そういうふうにしか自分のことを考えられない思い込みの堅さの方なのだ。はっきり言って,頭の柔らかさと発想とは全く関係はない。少なくとも,パズルやクイズの出来不出来と発想力とは何の関係もない。
敢えて言えば,頭の“サビ”と思われるモノこそが,その人の個性にほかならない。その人が生きる中で身につけた知識と経験のもたらす思考の慣性(あるいは惰性)にほかならない。それは,その人なりの生き方なのであり,ものの見方なのである。これを個性と呼ぶほかはないのだ。問題は,個性があるかどうかが大事なのではない(個性は十人いれば十の個性があるのであって,そのこと自体に意味も価値もない)のと同様,サビがあるかどうかが問題なのではないのだ。サビは生きて来た証にすぎない。頭の固さと評されるものも,良かれ悪しかれ,その人らしさにすぎない。大事なのは,そのサビや固さを価値あるものにできるかどうか,つまり自分のもっている知識・経験を使いこなせるかどうかなのだ。その使い方に発想力のある人とない人とに差がでる。学習するとすれば,その使い方にほかならない。
発想とは,自分のもっているサビやコダワリ(つまり知識・経験)を捨てることからは生まれはしない。それをベースにして,ずらす,あるいは組み替えることだ,ととりあえずここでは言うにとどめよう。自分の頭を柔らかくすることは難しくても,結果として頭が柔らかくなることは可能なのだ。少なくとも,自分の頭のサビを大事にしないところからは発想は生まれないことだけは言っておかなくてはならない。自分のもっているもののキャパシティ(容量)を超えて,手品のように発想が生み出されると期待することはできないのだ,と。
ところで,創造性の問題を考えるとき,いつも思い浮かぶのは,梅棹忠夫氏が1960年代に指摘された,次のような言葉である。
つまり,後発先進国であるわが国の場合,「創造をやっているよりは,イミテーションをやったほうが,はるかに効率がたかいし現実的であったわけです。だからといって,今後もそのほうが効率がたかいであろうということはかならずしもいっておれないあらたな条件がはじまってきた。創造性を発揮することがより有効であるということになれば,それが発揮されるのがあたりまえで,問題はそういう状況に身をおくかどうかです。」(『情報論ノート』),と。
「そういう状況に身をおくかどうか」とは,“創造性を引き受けるかどうか”ということにほかならない。もうお手軽な物真似ではなく困難ではあっても創造をしようと,と思い決めることだ。しかし,70〜80年代を通して,われわれは自分たちのおかれているこの“状況”を自覚して困難を「引き受けた」だろうか?残念ながら,そうではなかった。いい材料が,いま盛んに問われている知的所有権である。
ともすると,われわれが主張するのは,次のような意見だ。例えば,90年代を通して,日米の知的所有権を巡る確執では,「(ロータリーエンジン量産化に成功したのは日本だけだという例を上げながら)もともと技術とはモノを作ることである。だから技術の優劣はでき上がったものを見ればはっきりする。『よそで考えた原理を取り入れただけだ』と言ってみても,アイデアだけでモノを作れなければ,技術があるとは言えないのだ」(唐津一,日経ビジネス1991.12.16)といったような発言が,企業の現場を知っている人ほど強く主張された。
これはこれで必ずしも間違ってはいないと思う。しかし,当時も,ひょっとするといまも,知的所有権をめぐる,アメリカ側の問題の立て方とは微妙なズレがある。
このズレは,次のように理解するとわかりやすいのではないか。例えば,液晶の開発に当たって,「適当な温度変化や電圧によって分子配列の規則性が変化し,それによって色調や光の透過性が変わる」という原理の発見を重視するのか,それともその発見を低コストで歩留りの高い液晶材質の最適組み合わせを発見することで量産化した技術力を重視するのかの違い,あるいは電球の例で言えば,「溶解熱の高い発光体」というフィラメントの発明か,その発光体材料として竹の炭を使ったほうがいいかタングステンを使うほうがいいかの発見との違い,ということである。特許をめぐる日米の制度的な違いや特許の適用範囲の広狭の差として表面化しているように見える問題の本質は,創造性についてどこに評価のウエイトをおくかの差のように思われてならないのである。
ある意味では,創造性の範囲を限定的に考えるかどうか,つまり発明や発想をピンポイント,つまり個々人の寄与を強く意識するかどうかなのではあるまいか。だからこそ,その適用範囲を幅広く保護しようとする。その立場からみれば,日本側は創造性という領域を(その応用範囲にまで)広く認めようとしているのに,逆に特許の適用範囲は(アイデアだけで幅広く網をかけられてはかなわないと),限定的にとらえようとしている。それは,そもそもの発想を軽視しているとしか見えないだろう。どっちが正しいかどうかではなく,何が問題となっているかを重視すれば,そう見える。
現に,液晶の開発競争のとき日本企業がやったのは,まさに材質組み合わせをしらみ潰しする徹底した試行錯誤ではなかったか。それは既に液晶についての発見があったからできたことではなかったか?そして,いま知的所有権として,問われているのはこの発想部分なのだと考えなくてはならない。ある意味で,梅棹氏が指摘した「引き受ける」べき状況の中身とは,いまそういうものなのではあるまいか。
両者の対立を整理すれば,どこまで創造性というものの範囲を含めるか,なのである。少々極論すれば,着想の部分なのかその実現化プロセスまで含めるかなのである。前者は,何が分かっていない(あるいは解くべき)問題なのかを明確化し,その問題を解ける形に組み替えることであり,後者は,それをどうやれば実現できるか,どうやれば解決できるか,という実現の仕方の問題になる。
つまり,先の液晶の例でいえば,「適当な温度変化や電圧によって分子配列の規則性が変化し,それによって色調や光の透過性が変わる」という発想の解明が前者であり,その発想を低コストで歩留りの高い液晶材質の最適組み合わせを発見し,どうすればより効率よい量産化ができるかを実現していくことが後者である。ある意味では,前者はアイデア発想(構想)プロセス,後者はそれを実現していく過程,あるいは前者を目標の形成過程,後者は目標の実現過程と言ってもいいし,別の言い方をすれば,前者が創造(発想)過程,後者が問題解決過程ということになる
どちらが重要かを言い争うことに意味はない。両者が相俟って初めて創造性は実現できるのだから。しかし,われわれが遅れを取っているのは前者であり,いまわれわれが引き受けなくてはいけない創造性とは,この部分にほかならない。
では,この意味の発想はどうしたら生み出せるのか。創造性についての代表的な定義は,
@創造者とは,既存の要素から,彼にとっては新しい組み合わせを達成する人である,
A創造とは,この新しい組み合わせである,
B創造するとは,既存の要素を新しく組み合わせることにすぎない,
つまり,既存の要素(見慣れたもの)から新しい組み合わせ(見慣れないもの)を創り出すこと,とされる(E.ヴァン・ファンジェ『創造性の開発』)。言い換えれば,異質な組み合わせによって,知っているもの(見慣れたもの)を知らないもの(見慣れぬもの)にすること,と言うことができる(逆に,知らないものを知っているものにするのは,知識の習得ということになる)。しかしいくら既知の要素を組み合わせるからといっても,組み合わせさえすれば創造的なものが生み出せるわけではない。
この「組み合わせ」を,アーサー・ケストラーは,習慣的には相互に矛盾して連結しそうにない2つの見地(モノの見方)を常識的な脈絡(合理的なつながり)で結びつけるのではなく,常識的には考え方や価値観の上で,均衡がとれそうもないないところに「不安定な平衡状態」を見つけることだとしている(『創造活動の理論』)。「組み合わせ」は,単なる寄せ集めではなく,常識的には接合点の見つけられない「異質」なものに「交錯点」を見つけ出すことなのである。そういう特異点を発見すること,逆に言えば,そうして組み合わせたものが異質なものになりうる「つながり」を見つけることなのである。それはどうやったら可能なのか?
わかりやすい例は,映画のモンタージュ手法である。「1秒間に24コマ」の映画フィルムは,それ自体は静止している1コマ毎の画像に,人間や物体が分解さたものであり,この1コマ1コマのフィルムの断片群は,クローズアップ(大写し),ロングショット(遠写),バスト(半身),フル(全身)等々,ショットもサイズも異にしており,部分的・非連続的な認識−分析された認識−を表している。それら分析された認識を構成(モンタージュ)し直すことによって新しい認識がえられることになる。
例えば,男女の会話の場面で,男の怒鳴っているカットにつなげて,女性のうなだれているカットを接続すると,1カットずつの意味とは別に男に怒鳴られている女性というシーンになる。しかし,この両者のつなぎ方を変え,仏壇のカットを間に入れると,怒鳴っている男は想い出のシーンに変わり,それを思い出しているのが女性というシーンに変わってしまう。あるいはアップした男の怒った表情に,しおたれた花のカットを挿入すれば,うなだれている女性をそう受け止めている男の心象というふうに変わる。その後に薄ら笑いを浮かべた女性のアップをつなげれば,男の思い込みとは食い違った現実を際立たせることになる。
少々陳腐なつなぎ方を例示しすぎたかもしれないが,ともかくこうした組み合わせによって見え方が変わること,だからそれが異質な組み合わせであればあるほど新しい見え方が生まれてくるところに創造性があり,それによって開けてくる「新しい認識」こそ,創造性がもたらす新しい視界(パースペクティブ)にほかならない。
それは,例えばニュートンの例を考えてみると,よりはっきりするだろう。常識的には,ニュートンは万有引力の法則を発見したということになる。しかし,ニュートンが著書『プリンキピア』でしたことは,既に既知である,ガリレオ,デカルトによって完成された“慣性の法則”や,太陽と惑星の距離の二乗に反比例する引力が働いているという,ケプラーやフックによって発見された法則を,統合する(組み合わせる)ことを通して,天体を含めたすべての力学的運動の新しいパースペクティブ(見方)を創り上げたところにある(だから,フックは,ニュートンの万有引力の法則について,抗議したといわれている)。つまり,既知の法則を組み合わせることで,全体として新しい見方(パースペクティブ)を提示したのだ,と言っていいのである。ここに創造力の鍵がある。(以下続く)
【以下続く】
侃侃諤諤ページへ
【目次】へ
|