科学的・論理的に思考する
かつて,生物学者の日高敏隆氏が,こんなことを言っていたことがあります。
若い頃,高山に生息するマツノキハバチという蜂の研究をしていました。ある年に大量発生したり,わずかな数に激減したりするのですが,生態が余り知られていないため,研究室で生育してみることにしました。中央アルプスの二千五百メートル付近で幼虫を捕まえ,一度目は,常識的な昆虫の飼育温度25度に設定したが,3日で全滅した,次の年,気温が問題だったのではないかと気づき,高山の温度に近い気温に保ってみましたが,やはり全滅してしまいました。昆虫生理学者に調べてもらっても,病気ではないという。翌年はっと気づいたそうです。高山の温度に一定にするといっても,捕まえたときの夏の温度を保ったが,「もしかすると,夏は夏の,冬は厳冬の温度が必要なのではないか」と。そこで,一年間の温度変化を調べ,そのサイクルに合わせた気温変化を実現してみたところ,翌年孵化に成功した,というのです。
そこで,問題は,「はっと気づいた」というところです。まさか,学術論文に,「はっと気づいた」とは書けず,温度計測記録をもとに「1日のうちに高温低温の周期が必要」と結論づけたそうです。
ここで,われわれは,問題を見つけたりその解決を思いついたりしたことを人に語って,共感ないし納得してもらうのと共通する場面に出会っているのです。
業務の中で,問題を発見したときどうするのでしょうか?職場やチームのメンバーに,自分と同じように問題だと感じてもらい,一緒に解決行動をとってもらうには,それなりの問題のとらえ方と問題の整理が必要です。たとえば,「あのトラブルはほっておいてはいけない」と感じたとしても,なぜほっておいてはいけないのか,何故そう思ったのかをきちんと説明できなくてはなりません。更にいえば,そもそもそれをトラブルと感じてくれないかもしれないのです。それを,他の誰にとっても問題だと感じ,共有化してもらわなくてはなりません。組織で仕事をする以上,自分の関心やテーマを実現するには,上司やチームの仲間を動かし,共通の課題として取り組んでもらうほかはありません。
実は,ここに,科学的思考と論理的思考の,一人一人にとっての必要性と出会っているのです。
それが科学的かどうかの目安は,観測可能性です。実務に即していえば,再現できることと検証できること,です。もちろん目に見えることを意味しません。過去は復元できませんが,事件の現場検証のように,その状況と事実が共有化できればいいのです。そのとき必要なのが,データと論理による説得力です。
われわれが,問題と出会っているとき,ではどう問題をつかまえればいいのでしょうか。
それを自分がどの位置から見ているのか,
それはいつ始まって,いつまで続いているのか,
それはどういう場所(位置)で起こって,どんな広がりがあるのか |
を意識しなくてはなりません。これを整理すると,
・問題の空間化(広がり度) どことどこで起きたのか
・問題の時間化(奥行度) いつからいつまでに起きたのか
・問題のパースペクティブ化(観察者からの距離と遠近法) 誰が,どう体験したのか
の三点になります。筆者は,これを問題の構造と呼んでいます。
問題の空間化は,問題の起きている場所のポジショニングです。ポジションとは,人と仕事の系となっている組織の中での,位置・役割関係を意味しますが,その組織の外(部と考えれば他部門,組織と考えれば他社等々)との関係の中で,更にもっと広く同業他社,業界の中等々,社会的な広がりの中に位置づけることも含まれます。その中で,「どこで,誰(と誰)が,何をした(しなかった)から,どうなった(ならなかった)」と問題がとらえられることになります。
問題のパースペクティブ化とは,問題の観察者からの距離です。私(あるいは,当事者)の位置が問題です。問題に対する「私」の視点あるいは視角です。問題の当事者なのか,解決当事者なのか,傍観者なのか,評価者の立場なのか,意思決定の立場なのか等々。
ここで問題なのは,この問題の解決当事者となりえる(なる気がある,なれないが火中の栗を拾う気がある等々)かどうかなのです。
以上の,問題の空間化,問題のパースペクティブ化に時間軸を加えてみるのが,問題の時間化です。過去→現在なら,「どうなったか(どうしたか)」であり,現在→未来なら,「どうなるか(どうするか)」となります。「私」の位置は,その経過の中で,変わっていくはずです。問題は継時的に変わっていきます。時間感覚抜きの,停止した解決策は,意味がないのです。もし距離が近ければ,問題の変化に関われますが,遠ければ,どうしようもありません。
出会った問題は,チームメンバーや上司に報告しなくてはなりません。業務に関わる問題であれば,尚更です。そのとき,情報の構造が問題となってきます。
たとえば,事件を報道した新聞記事を考えてみます。その記事は,事実かどうかを問うことは意味がありません。事実は,ありますが,それを目撃した人は事実全部を把握できるのではなく,自分の把握できる範囲で,認識するのです。そのときその観察位置が問題になるのです。取調官はまた自分の理解できる範囲で理解し,記者は自分の理解に基づいた判断で記事を書くのです。
ですから,情報は,次のような構造をしているのです。
・発信者(目撃者)による主観(発信者に理解された範囲で意味付けられた情報)
・記者(伝聞者)による主観(記者に咀嚼された範囲でまとめられた情報)
・受信者(読み手)による主観(読み手にわかる範囲で意味を読み込まれた情報)
の3重の偏りがあるということです。もちろんその偏りを限りなくゼロに近づけることはできます。そのために,目撃者と受信者が,共通の問題認識の土表に立っている必要が出てくるのです。そこで,科学性と論理性が必要になるのです。つまり,自分の問題をどう正確に伝えて,同じ土俵に乗ってもらうか,そのために科学的思考を必要とするのです。
@演繹的思考と帰納的思考
科学的とされる方法論の代表に,演繹的推論と帰納的推論があります。定められた前提条件から結論を導くのが演繹的推論であり,個々の事例から一般的な知識を導くのが帰納的推論です。
演繹的推測の典型は,数学の定理の証明のように,前提を立てて結論を導き出すタイプですが,野矢茂樹氏は,意味に関わる推論として,たとえば,
「ペンギンは哺乳類じゃないよ,だってあれ,鳥だもの」
を例に,「鳥」という言葉の意味の中に,哺乳類ではないという意味が含まれていること,もし事実に関わる推論なら,翼のある哺乳類を探さなくてはならないが,仮に翼があっても哺乳類としての特色を持っていれば,鳥ではありえないこと,それが「鳥」という言葉に含まれている意味だということを指摘しています。(1)
数学の定理もまた,定理の意味に含まれていることを前提に展開していくことになります。上述の,日高氏の話の中で,「常識的な昆虫の飼育温度25度に設定した」というのも,演繹的推測の例といっていいでしょう。演繹的な推測の場合,「それゆえに」と,結論付けられることになります。
野矢氏の練習問題に,「イリオモテヤマネコは天然記念物だ。だからむやみに捕獲したら罰せられる」「あの福引はもう1等は出ない。だってさっき一本しかない1等が出ちゃったからね」は演繹的推論だが,「いままで宝くじを買ったが当ったためしがない。どうせまた外れる」「下腹の右の方が痛い。盲腸かな」は,違うといっています。
この違いの基本は,前提としていることの中に,後段の結論を導くに足る意味が含まれているかどうかです。
だから,演繹的推理は,前提→論証→結論,の流れが,一本の論理的流れになっていなくてはならないのです。そこに,飛躍があるとすると,推測が入ってくることになります。ここで必要となるのが,帰納的推測なのです。
帰納的推論では,個々の事実,出来事から,一般的な結論を導き出すことになりますが,
@具体的な事実やデータを集め,
A何らかの共通点を見つけ,グループ化して,
Bそれをもとに全体を説明できる仮説を立て,
Cそれを検証する,
という流れで推測していきます。そこには演繹のような意味的連続性はないので,ある種の飛躍が伴うことになります。そのとき,この推測の信頼性を確実にするには,
@データや事実の正確さや適切さ
Aデータや事実の数,
B全体を説明できる適切な一般化
C反証を立ててみても,それを崩せる推測の正当性,
といったものが必要です。われわれは,ともすると,「たまたま」を「そもそも」と言いやすい傾向にあります。「たまたま入ったファミリーレストランの,たまたま食べたある料理がまずかったのかもしれないのに,そもそもファミレスは,安いけどまずいものだ」と決めつけがちです。それを正当化するには,データや事実の数を増やし,なおかつ,「まずくないファミレスはない」ことを検証しておかなくてはなりません。
フィリップ・ゴールドバーグは,こんな例を紹介しています。
ある心理学者がノミを「とべ!」と言ったら跳ねるように訓練した。試みに,ノミの足を一本取ったところ,ノミはまだ命令にしたがってとぶことができた。そこでさらに一本ずつ足を取っていったが,ノミはまだとぶことができた。やがて足を一本もなくしてしまったノミは命令してもとばなくなってしまった。それをみた学者は,こう結論づけた。「足をすべて失ったノミは聴覚をなくす」と。(2)
ここにあるのは,帰納的推測の持つ的外れな飛躍の見本です。ノミの「足を順次」とっていっても,とべという指示にしたがったというのも,足がなくなったことで「命令がきこえなくなった」というのも,足=耳というのも,ひとつひとつ架空の一般化のもとにうちたてられています。しかし,前提となっている,「とべと命じたらとぶノミ」という一般化自体が崩れてしまえば,この全体の論証の枠組みは崩れ去ります。
帰納的推測は,集められた事実に基づきますから,それが間違っている,あるいは検証不能なら,その結論は再現不能です。更に,その事実に基づいて結論づけられたものも,結論としての的をはずしていることになります。
しかし,この結論を笑い飛ばすことはできますが,このプロセスを笑い飛ばすことはなかなかできにくいものがあります。ここには,われわれがものを考えようとするときの展開の仕方の一例が現れているからです。
たとえば,先の日高氏の論証の流れは,
@「はっと気づいた」前段階で,まず,一定の温度に保ってはどうかと着想しています。いわば,一定温度維持仮説を立てる,
A次に,自分たちの管理の瑕疵ではないかと疑い,温度管理不徹底仮説を試す,
B更に,温度を山の一年の変化に合わせればいい,つまり気温の高い夏と寒い冬の両方が必要なのではないかという,通年気温変化仮説にたどりつく,
となります。
ノミの帰納推測との違いはどこにあるのでしょうか?誰がやっても,確かめられるところです。事実ではなく思いこみの世界に入ってしまえば,それを崩すことはできません。多くの人を納得させる事実とデータのない推測は科学的思考ではありません。
Aフロー型思考と構造型思考〜因果関係の判断
問題(P)というのは,P=f (c1,c2,c3,c4……cn)と,いくつかの原因(cause)の組み合わせの関数と表現できます。
ひとつの問題に寄与している(と思われる)原因を洗い出し,その相互関係の中から,特定できる因果関係を抽出していくわけですが,それには,
@関連事実を集める
A通常との変化チェックする
B仮定してみる……経験・原則・公理で仮説を立てて,事実で確認する
等々がありますが,ここで,帰納的推測(@A)や演繹的推測(B)がなされることになります。科学的思考の実践編です。
原因追求の仕方には,フローで考えることとツリーで考えることが可能です。
@フロー型
たとえば,廊下で滑って転んだ→バナナの皮が転がっていた→ゴミを捨てたものが落とした→といったように,時系列の流れになることが多いと思います。しかし現実には,このように単線の因果の流れにはなりません。たとえば,
転んだ人間は遅刻しそうで走っていた→寝坊した→前夜深夜まで残業した→
廊下は老朽化していてワックスで表面をごまかしている→今朝塗り替えたばかり→
という複々線の因果が平行して流れていることが多いのです。これを見逃すと,ノミの仮説を笑えなくなります。
Aツリー型(たとえば5WHY)
これは,上記の平行した因果の流れを同時的に分析するのと同時に,それを構造化して,より細分化していくことになります。その問題の原因と考えられるものは何と何と何か,その原因の原因と考えられるものは何と何と何か,その原因の原因と考えられるものは……と「なぜ」を連発して(たとえば,5Whyはひとつに5ずつ原因を絞り出します),どんどん原因を個別化,特定化していきます。
この利点は,原因が特定されることで,「何をすればいいか」まで,解決のアクションに直結させるところにあります。
分析シート例
気をつけないといけないのは,原因分析のような森の中に踏み込んだとき,因果関係を目的化するおそれがあることです。それを避けるには,
@何のために原因究明が必要なのか,
Aそれによって何を実現したいのか,
Bどういう成果が得られればいいのか
といった問題解決の目的や目標を見失わないことです。たえず,図のような,全体像を意識するシートの中で,分析することです。
あくまで,科学的思考も原因分析も,問題解決の手段なのです。われわれは実務の世界にいます。製品をつくって売る,システムを作って売る,サービスを提供する,娯楽や楽しさを提供する等々,スタイルやカタチは変わっても,問題なのは,科学的であるかどうかではありません。提供する製品やサービスがユーザーにとって必要なものだったのかどうか,あるいは,ユーザーが本当に求めていることは何なのかを,つかむことです。われわれに発生する問題のほとんどは,誰が真の受益者か,誰のためにそうしているのか,を見失ったところで起きています。それを正し,何をすればいいかをつかもうとしつづけること,そのことを確かめ,検証し,確信を持つためにこそ,科学的思考が必要なのです。
最後に,本当にその推測なり思考が正しいかどうかが問題になります。それは,当初の問題を論理的に整理できていることが必要です。たとえば,目的手段分析という考え方があります。これは目的のためにどういう手段があればいいのか、その手段のためにどういう手段があればいいのか、その手段のためにどういう手段があればいいのか………、と手段をブレークダウンすることによって、具体化していくものです。これが、モノ(商品)やコト(システム、制度等)の場合は、機能や働きの目的機能分析になります。
一見むずかしそうですが、われわわれが、日常の意思決定で使っていることです。たとえば、下図のように、明日の旅行に必要なものは何か、という目的を考え、そのために何が必要となるかを列挙していき、その列挙したもので十分かをチェックする、という場合と、考え方は同じです。
この目的→手段を,目的を結果に,手段を原因に置き換えれば,結果→原因の連鎖として組み直すことができます。そして,その原因群で,本当にそういう結果をもたらすのか,たとえば,ノミの足すべてを切る→聞こえていて飛べないの因果の流れを推測するのに,何が不足しているのかを洗い出す作業,この検証がなくては,科学的思考も科学ごっこに終わるだけなのです。(完)
ロジカルシンキング研修プログラムについては,ここをご覧ください
。
また,「問題意識と気づきの共有化」については,ここをご覧ください。
ロジカルシンキングロジカルシンキングについては,ここをご覧ください
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