われわれがモノを考えるという活動は,通常は行動のように外部からは伺えないほどに内面化されているが,初めからそうなのではない。この内面化のプロセスを明らかにすることで,思考の発達のステップを明らにすることができる。こうした点から,思考の仕組みを明らかにしたのが,J.ピアジェである。それによれば,思考発達は,
感覚運動的知能の段階(0〜2歳)
前操作的思考の段階(2〜6,7歳)
具体的な操作的思考の段階(6,7〜11,2歳)
形式的な操作的思考の段階(11,2歳〜14,5歳で成人に近づく)
の4段階を取るとした。年齢は個人差も時代差もあるので目安にすぎないが,このステップの順序は,その中間に様々なレベルの移行ゾーンを持ちながらも,変わらないとされている。
感覚運動的知能とは,五感や動作を通して外部との関係を体得していく時期と考えることができる。ここでは,「対象物の不変性」つまり,そこに見えるものは,布で覆われようと遮られようとある,ということを知っていく段階だということができる。この時期を通して,われわれは自分が動くと見え方が変わること,自分が動けば近くなり遠ざかれば小さくなることを,暗黙のうちに身につけていくのではなかろうか。これによって,乳児のときに喜んだ「いないいない,ばあ」には反応しなくなる。そこにあるものが見えなくなっても,そこにあることがわかっていれば,再び現れたことに面白がったり驚いたりはしないからだ。
この時期の末には,例えば,手の平のコインを乗せ,それを布団の下に入れて隠し,空の手を見せると,子供はそこにコインがないとわかると,すぐに布団を剥がす行動をとる,ということをピアジェは実験している。既に子供は,目に見えないところ(布団のした)でモノが移って(隠され)も,それを追跡していくことができる。このとき,初歩的な推論をしているのである。ただし,子供は言葉ではなく,感覚運動的な活動(行動)によってそれを確認していくりのである。
前操作的思考とは,表象的思考,つまり実物ではなく実物のイメージを描くことができること,言葉を使ってモノやコトを表現できることを意味する。それは,運動感覚的活動の内面化といっていい(一々行動で示さなくても,前述の例なら,言葉でその推測を説明できるようになっている)。それは,ままごと遊びで,はっぱを札とみなしたり,ごっこ遊びなどで,シンボルを自由に扱えるようになっているところに典型的に見いだすことができる。そこでは,そこに母親がいなくても,母親を表象しながら,母親のつもりになって,その行動をなぞることができる。感覚運動的活動では,その場やそのモノに依存していたのにそれなしで,既に頭の中だけで,活動することができるようになっていることを意味する。それは描画,工作といったことができるようになったり,言葉によっての表現も可能となる段階である。
ただし,まだ言葉は内面化されていないから,遊んでいるとき,誰に話しかけるというのでもなく独り言をしゃべっている。
4歳女の子「この木にはね,おサルが上るのよ。おサルさんかわいいね,すうっと登ってすうっとおりるのよ」
4歳男の子「ハイウェーだぞ。メルセデスベンツが走るんだぞ,大きいんだぞ」
お互いに誰かと話し合っているわけでないし,人に聞かれているというつもりもない。ただ自分で自分が考えていることをどんどんことばにして,それを刺激にしてまたしゃべっている。これを思考プロセスそのものが外面化しているとみることもできるだろう(相良守次編『学習と思考』)。
ここでピアジェが操作的といっているのは,言葉や記号を操作して思考できることを意味する。数を数えるのに指やモノで数えるのではなく,数字を操作することができること,あるいはスズメ>鳥>動物>生物といった類(クラス)の関係を頭の中で概念的に理解できること等々,われわれ成人が難なくこなしている思考における,抽象的概念的な働きを意味している。したがって,この段階では,イメージや表象はまだモノやコトといった具体的なものを媒介にしないと不十分なのであり,まだ知覚イメージ(知覚的図柄)に左右されてしまう。
例えば,同じ量でも,右の方が多いと答える。また一方から他方へ移すと,見かけに左右されて,量が変わったと判断する。高さと全体量の関係といった操作的思考ができていないから,視覚的な同値性が見られないと,同値と認めないのである。
具体的操作思考の段階では,具体的な事物についての概念ができ,モノを見たり扱っている限り,論理的な思考が働かせられるようになる。したがって分類や配列ができ,ここでは操作的思考として,スズメ>鳥>動物>生物といった類(クラス)の関係の分類や前述のコップの見かけに左右されたりせずに,全体量の同一性を理解できるようになる。
しかし,例えば5歳の子に水を入れたコップと穴の開いた50円玉を見せて,
「このお金を入れたら,浮くか,沈むか」
と聞くと,
「沈む」と答えた。その理由を聞くと,しばらく50円玉を見詰めて,
「穴が開いているから」と答えた。で,次に穴の開いていない50円玉を取り出して,同様の質問をすると,
「沈む」
「穴が開いていないから」と答える。奇妙な理屈だが,金属でできたものの沈む知覚経験が強く印象づけられていて,それに左右されているということができる。しかし,理由は説明できないのに,言語的概念を手に入れた8歳の子供になると,同じ質問をされると,「お金=鉄みたいなものは沈む,木の棒=木でできているもの浮く」という反応をする。重い軽いという概念で区別している。ただしまだそれは法則的な整理ができていないから,「鉄でできている船は浮くではないか」と問うと,「船の形にすると皆浮く」という形で答える。それに答えるためには,ものごとを統合的に説明し,仮説から演繹的に推論する論理体系を学ばなくてはならない。
またこの段階になると,通常は独り言は少なくなって,「………ここはうんと………」(ぶつぶつ口の中で言っているけれども,あまり聞き取れない),というように,独り言が次第に聞き取れなくなっていく。それは,自分のためにしゃべっているのであって,別に文脈が整っている必要がないからであり,それだけ,自分の内的会話と人とのコミュニケーション(社会的会話)とが分離していくということでもある。こうして言語が内面化されていく(相良等・前掲書)。
次いで,形式的操作思考の段階では,具体的事物がなくても,頭の中で論理操作ができるようになる。とくに前段階でできなかった,「もし,こうなったらこうなる」といった形で推理できる,仮説演繹的な思考ができるようになる。既に成人の思考の段階にある,ということができる。いわば人間としての思考の枠組ができあがるのである。
しかし,こうした論理的思考は,いわばそれまでの感覚運動的知能,表象的思考,形式的思考と,順次,言語だけでなく,動作・行動や知覚イメージ,映像を内面化してきたその積み重ねの結果として形成されているということを忘れてはならない。「操作とは,内面化された活動である」というのは,そのことであり,われわれの中には,感覚運動的活動がひょいと外面へ現れることがあるのだ。例えば,ゴルフのスイングを想定するとき,肱の恰好や腰の据わり方を,思わず躯を動かしながら,あれこれ考えている。これは,自分の躯の動きが頭の中にしまわれている(内面化されている)ものが顕在化したと考えられる。また,ソロバン上手が暗算に際して,そろばんがなくても,頭にそろばんのイメージをつかまえられる(イメージの内面化)し,同時に思わず右手で空を弾くような仕草をする(動作の内面化)。これらは,内面化された動作が,一瞬外へ滲み出た例ということができる。あくまで,操作的思考は,「内面化された活動」だというのは,そういうことを意味している。
その面で,特に付け加えておく必要があるのは,動作の内面化には重要な問題が含まれているという点である。「いないいない,ばあ」には反応しなくなる時期を通して,われわれは対象への距離と位置を学んでいく。それは,見え方が変わっても対象が存在しつづけること,しかし見え方は見方によって変わりうること,即ち,視点の問題である。そこから,「そもそも立体という考えは,人間が動けるから存在するわけです。もしたとえば私が植物としてこの場所に立っていただけだとしたら,つまり私が生まれてこのかたいままで全然移動していないとすると,私には立体という観念はないわけだ。立体は,自分と立体との間に相対的な運動が可能で,物体を上下,左右,前後から見ることができて,はじめてわかる」(森政弘)と,言えるのである。
感覚運動的知能を手に入れたとき,われわれきは,同時にどこから見たらどう見え方が変わる(見方を変えると見え方が変わる)か,ということをもつかんだということだ。それが,実はイメージを左右する重要な問題であることは,繰り返すまでもないだろう。と同時に,見ることに視点をもつことが,いかに根深くに関わっているかを示してもいるのである。
これは,別の言い方をすると,初期には個別具体的であったものが,言葉や理屈を通して,どんどんまとめた抽象化・一般化したものに昇華していくということでもある。それが知識を得るということになるのだろう。
これをわれわれの日常レベルでの思考の仕方からみると,それらは,どういう形でわれわれの中に蓄積(記憶)され,それを,そのつどどういうふうに取り出しているかという視点から考えてみることができる。ひとつの考え方は,
・エピソード記憶(個人的な過去の出来事,想い出のシーンが,そのときどきの状況と脈絡をもって蓄積されているモノやコトのエピソード)
・意味記憶(いままで学んだ知識や論理の蓄積)
・手続記憶(自転車に乗れる,機械が操作できるといった技能の蓄積)
といった分類となり,手順→意味→エピソードの順に下位システムを形成しているとされている(E.タルビング)が,誤解を恐れずに,この記憶の階層を前述の4層に当て嵌めて,強引に単純な図式にしてしまえば,
といったふうに層をなしているというふうにみることができる。つまり,われわれの感覚運動活動やイメージは,個別の想い出に支えられ,彩られているのである。しかし,各層は多少の交ざり合いはあっても,それぞれがバラバラのネットワークとなっていて,意味を辿っても必ずしもそのエピソードにつながるとはいえない。
エピソード記憶は,特定の時期に限定された独特の時間的な組織化になっていて,何かの薫りからある想い出が浮かんだり,ある感情(悔しさや怒り)によって,ふいに昔の恥ずかしい体験が思い出されたりする(ポップアップ現象)。ある言葉から,一瞬の出来事がイメージされたりということもある。あるいは意識しないで独自の言葉や色への嗜好が現れているということがある。その意味で,エピソード記憶の多くは無意識状態にあるとみなされる。といっても,無意識というのは,ここからここまでというように,絶対的な領域として確定しているものではなく,あるときは意識化されても,別のときには意識の外にあったりする相対的なものであり,固定された場所(フロイトが表現した“潜在意識”や“意識の底”“意識の下”というのはあくまで比喩である)として実体的にとらえるべきではなく,「常にあたかも(as
if)」(ユング)としてしか説明できない,そのときどきの意識にのぼらないものを,無意識とみなせばよい。
論理や意味を考えているときには,直接には個別の体験とは接続しにくいが,無意識で独特の意味(ニュアンス)を見ているかもしれない。あるいは,自分では論理的でも,その根拠にしているのは,法則を納得させる個別の体験が強力に作用しているのかもしれない。モノの見方に個別のエピソードからの情緒的歪みがあることに気づかないでいるかもしれない。ある意味で,エピソード記憶は,ネットワーク全体に浸潤していて,エピソード記憶は意味記憶で意味づけられ,意味記憶はエピソード記憶エピソードで感情的に色付けられているが,そのことにわれわれは自覚的でないから,独自の彩りには気づいていないし,またその個別の根茎となっているエピソードを意識していないだけなのだ。エピソード記憶は,知識や意味的なつながりを追いかけている中からは見えてこない。それには自覚していないからだ。にもかわらず,一種キイワード(あるいはキイとなる偏光眼鏡)のようなものに出会うと,一瞬のうちに回路が変わり,独特のエピソード記憶と接続してしまう(ある恰好をしたとたんに,小学校のときの忘れていた光景とつながる,というように),極めて近いところにある。
このように,エピソード記憶のほとんどは,ときとところによって浮かんだり沈んだりしているものであり,無意識のネットワークなのである。しかし,その人としての独自性は,個人としての経験の蓄積であるエピソード記憶の中にこそあるのだから,ここにこそ,良くも悪くも,その人のオリジナリティがあると考えるべきではあるまいか。これこそが,本来の自分の知識・経験(あるいは個人的経験に彩られた知識)であり,たとえ常識や定石にとらわれたものであったにしろ,その独自の彩りの中に,発想のオリジナリティの基盤がある。われわれはこれ以外に独自のものをもっていないのだから,独自のエピソードに彩られた知識や経験,イメージ,感覚を,どう生かすか,どう引き出すかが重要なのだ。