発想には思い込みが邪魔になる-2-
発想には思い込みが邪魔になる- 1-
◆自分の知っていることだけを見ている
組み合わせることは誰にでも可能であるが,そこから新しいパースペクティブをもたらすような組み合わせを発見するのは容易ではない。前述のモンタージュだって,それが新奇であるよりはステレオタイプな心象表現になってしまうことの方が圧倒的に多いのだ。それは,われわれが身につけた知識・経験によって,常識的な枠組を作り上げてしまっているからにほかならない。
これについて,N.R.ハンソンは次のような問題提起をしている(『知覚と発見』)。つまり,20世紀のわれわれと13世紀の人々とは,日々巡る太陽に同じものを見ているのだろうか?と。そしてこう問う,なぜ,同じ空を見ていて,ケプラーは,地球が回っていると見,ティコ・ブラーエは,太陽が回っていると見るのか?あるいは,同じく木から林檎が落ちるのを見て,ニュートンは万有引力を見,他人にはそうは見えないのか?と。
そしてハンソンは,“見る”とは,次の図を,
出典;N.R.ハンソン『知覚と発見』(紀伊国屋書店)
木によじ登っている熊“として見る” (seeing
as)ことであり,それは,90度回転したら,次のような様子が現れるだろう“ことを見る”(seeing
that)のである,と言う。
出典;N.R.ハンソン・前掲書
つまり,われわれは対象に自分の知識・経験を見ている。あるいは知識でつけた文脈 (意味のつながり)を見ている。20世紀の我々は,「宇宙空間の適当な位置から見れば,地球が太陽の回りに軌道を描い」(ハンソン)ていると(知っていることを)見ている。13世紀の科学者は,太陽が地球の回りに描く軌道(プトレマイオスの天動説)を見ている。見ているのは知識なのだ。対象に意味や関係を見るときも同じことだ。因果関係を見るとは,こうなればこうなるだろうという,自分の知っている関係を見ているし,仮説としてこうしてみれば,こうなるのではないか,と見るのも,また知識の関数として見ているのだということができる。
これが,アインシュタインの言う「われわれに刷り込まれたモノの見方の集合体」なのであるが,ことは単に個人的な習慣的思考,思考の慣れの問題だけでなく,生きている時代や社会の歴史的・文化的な思考の枠組(パラダイム)でもある。その“見る癖”は,われわれが,いまの時代を生きることを通して形成された (あるいは伝承された),時代のもつモノの見方の集合体なのだ,ということができる。
『問題意識を育てる』を参照してください。
◆知っているものに見える,知っているものしか見ない
こうした“癖”がある種の予断や先入観になることについて,数々の心理実験があるが,古典的なものとして,ブルーナーとポストマンの次のような実験が有名である。即ち,観察者に数秒間トランプのエース・カードの配列(1列4枚の3列)を見せ,その中に何枚のスペードのエースがあったかをたずねるものである。ほとんどの観察者は3枚と答えるが,実際には5枚あるのである。ただしそのうちの2枚は“赤い”スペードのエースになっている。だれもがスペードは黒と思い込んでいるので,赤いカードはハートかダイヤとの見込み判別してしまうのである。
あるいは,心理学のテキストによく出てくる例では,天井から2本の紐がぶら下がっており,1本をもつともう1本の紐が届かないようになっている。周囲には椅子とハンマーがおかれている。どうやってもう1本に手を届かせられるかを考えさせようとすると, 10分以内に解ける人は39%しかいないという。ハンマーは釘を打つものと見なしているために,それを錘りに振子にするという発想が出てこないのである。
あるいは別の例では,机の上に画鋲が入った箱とローソクがあり,このローソクをドアに立てろという課題を与えられる。ほとんどの人が解けないという。画鋲が一杯だと,箱=容器という発想にとらわれていて,箱を空けて鋲でドアに止め,そこにローソクを立てる,ということに思い至らない,とされる。
われわれは知っているということによって,それを知っているものを見てしまう(知識・経験のアテハメ)だけではなく,知っているものとして見てしまう(つじつま合わせ),知っているものと見てしまう(錯覚),知っているものに見えてしまう(幻覚)等々,知識・経験 (知っていること)がそれ以外に見ることを妨げている。この“こだわり”は,
執着心(自分の見方=考え方にこだわる),
固定化(経験的に身につけた価値観,区別,分類でしか見れない),
中心化(観念や感情のある1点,焦点から目が離せない),
といった,ある意味で自分の正解(多くそれは時代のもつ正解)への固執だ。われわれは,知っているものを見る,といったのはゲーテだが,もっと言えば ,「知っていることが見える」からこそ,「知っていることしか見ない」ことが起こる。“見る癖”とは,知っていること(知識)によってつけられた折り目で皺の寄ったモノの見方なのである。頭のサビとか固さと言いたくなるのはこのことだ。しかし,これも自分の知識・経験でしかないのだ。
◆制約を崩す手掛かり
こだわりとは,正解への固執だから,ある意味では,こうしてはいけない,こうすることはできない,こうしなくてはいけない,それをは許されていない,それはまずい,と自分でタブーを設定することだ。だからといって,それをやめるのは簡単ではないが,そういうこだわりができなくする仕掛をつくることはできる。次の図は,発想のテキストによく出題される問題だ。
「4つの直線で一筆で9点を通過させて下さい」という。教科書的な正解は下図になる。
その心は,9点を結ぶ正方形という枠の中で考えるからいけない,と枠づけられた発想の例として取り上げられる。しかし,こういう正解の仕方にこそ問題がある。
ラッセル・L・エイコフは,これを宿題に出された自分の娘に,別図のように紙を折れば解けることを示した。
ところが,翌日娘が教室でその回答を発表すると,教師は「そういうことはできない」と,その回答を拒絶したのである。娘が「折ってはいけないとは聞いていない」と言っても,「問題の説明が,どうであったとしてもどうしてもそれはできない」と突っぱねるばかりだった,という。エイコフは,こう言う。「問題に対する解を見つけることではなく,先生の知っている,そしてあたかも先生がその解を自分で見つけたかのごときふりができる」解を見つけさせるやり方によって,教師自身が「自分で思い込んでいる制約条件のために」問題が解けていないのだ,と (『問題解決のアート』)。こういうのが,正解へのこだわりなのである。
エイコフの考え方を更に進めたのは,読者からのさまざまなアイデアを紹介している,ジェイムズ・L・アダムスである (『創造的思考の技術』)
例えば,エイコフ流の折るという発想を徹底して,縦の3点が互いに接触するほどに紙を折り曲げ,次にその3列の点を,横1列に並ぶように紙を折り曲げていく。すると1本の線で通る。また9点を描いたページを切り取り筒状に丸めれば,それを周回する線は1本ですむ。また,9点を巨大化すればどうか。ほんの少し,例えば活字の2倍位の大きさにしただけで,縦3点を斜めにかすめさせれば,3本で引けるはずだ。その逆に,9点を点ほどに極小化すれば,一筆で塗り潰せる。もっと極小な点なら,ペン先の1滴でも9点を通るだろう。その9点が地球規模の大きな球面におかれているとすれば,どうか。地表の9点など極細の1線で一回りできるだろう。もっと原始的に考えるなら,紙に描かれた9点を,焼鳥の串でも鉛筆でも,1点ずつ順繰りに手繰って貫いても,1本で通るはずだ。
エイコフやアダムスが試みているのは,与えられた課題を解くには,頭の中でどこかで習ったことはなかったか,知っていることはないかと記憶を探る(正解を探る)前に,課題の方の条件,位置,状況,外観,形状,意味等を変えてみるということだ。9点が課題の視覚条件よりも小さければどうか,大きかったらどうか,2次元平面という条件を変えて,筒にしたり,くしゃくしゃにしたらどうか等々,知っているから見慣れた見え方しかできないなら,見慣れた見え方ができないように対象を動かしてみたらどうかということだ。
どうしてもいまあるカタチや条件でなくてはいけないと思ってしまうなら,どんな発明も生まれはしなかったろう。それを違った見方(不都合,不便,不愉快等々)で見えたものだけに,違った見え方がもたらされた。そういう見方ができないなら,そういう見方をせざるをえないように,条件やカタチの方を変えてみればいいのだ。そうするだけで,見慣れた見え方は変わり,課題が別の意味,外観を見せ始めるのである。先に述べた,問題を解ける形に組み替えるとは,こういうことなのだ。(了)
「考えるとはどういうことか
「続・考えるとはどういうことか
「続々・考えるとはどういうことか
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