ものの見え方とは,ものの像の違いではなく,ものを視る視点の違いにほかならない。視点を変えることで,おのずと像が異なって見えてくること,それが視点の移動の意図である。それならば,対象そのものの状況・条件を組み替えてれば,視点を転換させ新たな意味が見えてくるはずである。それが文脈の転換にほかならない。
例えば,「馬鹿やろう」という言葉も,男同士の睨み合った状況と男女の睦言では全く違ってくる。文脈を変えることで,異なった価値と意味が見えてくることを意図しているといっていい。文脈崩しには次のチェックリストが有効になる。
◇主体を変える
これはどの視点から見るかということの転換でもある。相手から見たらどうなるか,例えば売る側でなく買う側(顧客側)からみたらどう意味が変わるかということでもあるし,更に掘り下げれば,何も人間の視点である必要はない。例えば細胞レベルでみたらどうなるのか,原子のレベルでみたらどうなるのか,でもいいし,逆に宇宙規模で考えてもいいし,神の視点で俯瞰してもいい。
◇対象を変える
対象を固定する必要はない。別の相手だと違う状況になるかもしれない。人間の感情が状況を見えにくくすることは多い。また対象を不動のものと見ることで,状況を固定的にしてしまっていることも少なくない。
◇時間軸を変える
これはまず,過去−現在−未来という時間を変えてみること。今でなく明日とすると見えやすくなることも多い。時間軸を直線とみなさなければ,映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の世界は成り立たないように,時間軸の設定が,文脈を変えるのである。
◇空間軸を変える
ここ・そこ・あそこ・どこの転換である。場所だけではない。方向も位置(前後左右上下)も,内外も,遠近も,表裏もある。特にわれわれの対象識知は,上下を固定してみる姿に慣れており,逆さにするととたんに識知力が落ちることが知られている。逆に言えば空間軸を転倒するだけで,馴れた文脈が異質化することを意味する。
◇理由(目的)を変える
前提としている価値・意味・基準・規範・目的・論理・感覚・感情を変えてみる。目的を下げただけで事態が急変することも少なくないはずだ。それにこだわらなくてはならないとしている自分の価値そのものを前提としないだけでも,違った見え方をするはずである。
◇方法(やり方=手段)を変える
機能を変えて代用品を使う,スタイルを変えてみる,拡大したり縮小してみる,統合したり分離してみる,手順を変えて順逆を転倒してみる,人を変えてみる,仲間を変えてみる,担当をかえてみる,不必要な部分を削除してみる,優先順位を変えてみる,下位目標を変えてみる,といったことがある。
◇水準(レベル・ウエイト)を変える
どれだけという評価基準を変えること。手段−目的を転倒することで,最終目標を先送りしたり,逆に前倒ししたりして,手段=下位目標で目標達成としたり,目標=下位目標とすることで目標水準をあげたりすることになる。また全体−部分−要素の構成を変えてみることは,目標を過小化したり逆に目標を過大化したりすることになる。
視点の移動が見る位置によって見え方を変え,文脈崩しが状況を変容させることで見え方を変えたとすれば,通常だと自分が絶対発想しそうもない領域まで,自分の発想を拡張させてみる機会の設定が,仕事に関係ないとか日常生活に不用ということで,自分の境界外に埋もれていた,あるいは放置されていた発想領域へと発想のキャパシティを拡張することになるはずである。それはただ外に新しい意味を見付けるだけでなく,自分の内にも新しい可能性を見付けることになり,それが一層発想閾を拡大することになるはずである。そこでは,目的−手段の連続性や全体−部分−要素といった既知のつなげ方(既知のパースペクティブ)をいったん括弧に入れることが必要となる。そういう見え方をする自分の視点を括弧に入れることである。
発想領域を拡張していく手近なものは“連想”である。これには,「意味的(論理的)なつながり」を広げていくものと,「イメージ的(感覚的)なつながり」で広げていくものとがある。
意味的なものは,知識や経験で連想していくもので,言葉や概念,社会的通念が仲立ちとなっていく。感覚的なものは,音,香り,形態(図形),手触り,といった五感や知覚,感性が仲立ちとなるが,そこにはものの大小,軽重,長短,拡大・縮小,膨張・収縮,遠近,といったイメージの異同も仲立ちとなる。イメージ的なものには,空間的なものだけでなく,成長・孵化・脱皮といった時間的な変化・変質をも含めていい。
連想はその中に,類似・類比・類推を含めて,ただ同質・同形だけでなく,対比的なものへもつながりを同心円のように広げていくが,それに対して,例えば,比喩はその典型だが,ただ類似性だけでイメージの連環の拡張と意味を膨らませていくことが可能である。比喩の場合,隣接性と相似性(類似性)の二つがある。前者は,「馬」に「走る」をつなげるのに対して,後者は,「馬」に「牛」を連想していく。
確かに連想や類似性の連環によって,発想の枠は拡張していく面はあるが,これだけでは平面的で,同一レベルを尻取りゲームのように広げただけでしかない。それは結局自分のもともともっていた発想閾の限界を超えていないからという面もあるが,それ以上に,その連想のつながり方が,既知の文脈や意味のつながりからみつけたきたのだから,もともとの文脈や意味の脈絡を引きずっているからにほかならない。
だから問題は,発想したものやそういう発想そのものに意味があるのではなく,1つ1つはバラバラで点でしかない発想を全く別のパースペクティブ(一定視点からの遠近法)に入れて整理し直してみることが重要なのである。
その整理の仕方の,ポイントは,関連別やテーマ別,大小別,遠近別,優先度別という既知の意味での整理を排除することである。それはまとめることを前提としているから,どうしても整合性をつけようして,多数決で整理することになる。どうしても入り切らないものを捨てるか無理やり当て嵌めるかする。それではもともとの文脈と違いのない整序になるだけだ。むしろ入り切らないで残るデータの方から文脈を見付け,それに多数派を位置付づけ直してみるべきだ。多数決で見つかる意味では二番煎じにすぎない。
カードに書き散らした発想を整理するとき,大体は系統的な遠近法でまとめようとする。それが時系列であれ,因果系列であれ,親近度であれ,どのみち既存の意味に集約するしかない。それでは意味がない。まとめることが目的化しては,多数決になるだけだ。どうしてもはみ出すデータの方に,既存の系列には収まり切れない新しい意味が出現しているかもしれないのである。
問題の意味が見えなくなるのも,“いま”“ここ”という制約の中で整合性のある説明(つじつま)を考えようとしているからのことが少なくない。思い切ってそういう制約を捨てた状況設定でストーリーを推測・想像してみるというのも有効である。文脈を換えると意味が変わる。異なる文脈に置くことで,別の意味が見えてくることも多い。
場面設定(いつ,どこで)と役柄(誰と誰が)から話の流れをとにかくでっちあげてみる。それはありうる(ありえた)可能性の再構成という意味をもっている。「やりたい(やりたかった)こと」「なりたい(なりたかった)こと」「あのときこうすればよかったこと」の復権である。それは選択肢として気付かず捨ててきたものの復元でもある。そういう目で見直すと,過去の成功例ではなく,失敗例が蘇ってくるかもしれない。
文脈崩しで触れたチェックリストが,ストーリーの切口として使えるはずである。
◇主体を変える 自分がやらなかったらどうなるか,自分が別の人格だったらどうなるか,上司や仲間がもっと助けてくれたらどうなるか,別の人だとどうするだろうか,上司ならどうするだろうか,別の会社だったらどうだろうか,誰ならいいのか
◇対象を変える あの人でなかったらどうか,あの人だったらどうか,別のイメージの客を考えたらどうなるか,誰にしたらいいのか
◇時間軸を変える 昨日だったらうまくいったのではないか,今ならうまくいくのではないか,明日ならどうなるか,1ヵ月後ならどう変わるか,1年後ならどうなるか,3年後ならどうか,いつならいいのか
◇空間軸を変える あそこでなければどうか,どこでもいいのならどうか,別の状況だったらどうか,状況の配置が変わっていたらどうなのか,どこならいいのか
◇理由を変える 全くフリーハンドだとしたらどうか,何の価値もないのだとしたらどうか,目的が違っていたとしたらどうか,どういう理由ならうまくいくのか,このままほっておいたらどうなるか
◇やり方を変えてる いままで捨てられてきたものを再現してみる,問題外としてきたことをやり直してみる,失敗したやり方を再現してみる
過去に捨てたり,過去には有益でなかった発想がいまあるいは明日なら有効であるということは多い。結局人間の発想のキャパシティは限界があり,そうそう突飛なことを思い付くことはない。いつか発想していたことを,別の文脈に刺激されて思い出すということも少なくない。とすれば,自分の過去をどう蘇らせるかということは存外重要である。その意味でも,“いま”という特定の文脈だけに合わせようとすることは,それ以外の可能性を捨てることに等しいというべきだろう。
僅かな情報からストーリーを描くということは,結局自分の経験・知識から見えるものを想定してみることにすぎない。そう考えれば,問題の見え方とは,問題を表現してみることにほかならない。既知のものをどう組み合わせて見えやすくするか,その表現力が問題へのアクセス力に差異を生むことになる。だが問題は,それをどういう位置からみているかだ。
図と地,信号(情報)とノイズ,目標と手段,部分と全体,どういう言い方をしても同じだが,われわれは自分のパースペクティブにおいて必ず差異をつけている。それがものを見分ける根拠でもあり,またものを一色でしか見られない発想閾を狭めている理由でもある。図をみわけるのは,その中に自分の既知の図形を見分けるからだ。それを支えているのは,目標であり,知識であり,経験にほかならない。だから,新しい問題に出会ったとき,それを既知化することは,一種矛盾したものを孕んでいる。結局自分の知っているもので類推することは,自分の知っている範囲を出られない,というように。
だから,視点の移動には,視点の位置を変えることだけでなく,焦点の移動(アップにしたり,無限大にしたり)もまた含まれている。図ではなく地に焦点を当てることで,信号がノイズになり,ノイズが信号になる。この転倒は意味だけでなく,価値を転倒する。そこまでいかなくても,信号の識閾を拡張する。情報が,どこかにあるものを探すのでなく,新たな意味を見付けるもの(発見するもの)になるとは,そういうことにほかならない。曖昧さが重要視されるとはそういうことにほかならない。
目標と手段についても同じことがいえる。下位目標が上位目標の手段となる,目標−手段の連鎖は,1ステップずつ解決していけば目標に到達できる,という信念に基づく。それは原因−結果の連鎖と相関している。原因があれば結果がある,というのはすべては曖昧なところなく論理づけられるとする決定論にすぎない。いま情報の意味が変わったというのは,情報の一義的な意味ではなく多義的なものを受け入れなければ意味がつかめないからにほかならない。それは原因は特定できないということだ。とすれば結果も特定できない。目標は曖昧で,下位目標が最終目標の方が問題がよく発見できることもありうるということだ。
これを敷衍してみると,情報は受信するだけのものではないということがいえるはずである。もし信号とノイズの境界が曖昧であるとすれば,発信者にとって多義的でなかったメッセージが受信者には多義的で脈絡の見えないものであること,あるいはその逆が生じえるし,現に生じている。ある定まったコードを受信し,それをコードブックで解読するだけではもはや情報は読めない。それをマイナスと見るかプラスとみるかで,問題が見えるかどうかがきまる。脈絡も意味も曖昧ということは,新たな意味を見付けられるチャンスなのだ。その意味で,第2回に否定した集団的問題解決の効果を再確認すべきだろう。つまり,いま問題の新たな意味を見付けるのが,人と人のコミュニケーションの中においてだ,という意味では重要だ,と。むろんそこでは,人によってパースペクティブが異なり,そこで整序される見え方も違っているということが前提となる。