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発想では,「頭のサビを落とす」「頭を柔らかくする」ということをキャッチフレーズにしている。しかし,なぜ「頭の錆」や「柔らかさ」が問題になのか。あるいは,サビとか固いとは何のことか?錆ついて回らなくなったギア、グリスの固まったベアリング,あるいはショートして堂々めぐりする回路,といったイメージだろうか。 しかしはっきり言うが、クイズやパズルといった「頭の体操」で、頭の滑りがよくなったり思考が柔らかくなったりするのは,何のためなのか。クイズにたけることが,ここで目的ではないはずだ。アイデアを出す,クリエイティブな発案をする,といったことが問題のはずだ。つまり,問題なのは,創造性ではないか。パズルを解けることで,アイデアが生まれやすい? そんなことはありえない。パズルを解くことは,予定された答えを見つけることだ。アイデアを出すことは,何処にも答えのないところに,答えを創り出すことだ。暗算に長けて,数学者になれないのと同様,出題者の設定した枠組みの中でのパズルに優れていても,パズル設定者の頭脳を越えることはできない。それかあらぬか,パズルに長ずることで、優れた創造性を発揮した例を寡聞にして知らない。 頭にサビなどない。断言してもいいが,頭の柔らかさと発想力とは関係ない。少なくとも、パズルやクイズの出来不出来と発想力は何の関係もない。小器用にクイズをこなす小才よりも,不器用に考え込み,己のこだわりに粘り強くしがみつく,物分かりの悪さのほうがずっと大切なのだ。 敢えて言えば,頭の“サビ”こそが,わたしたちの個性にほかならない。その人が生きる中で身につけた知識と経験のもたらす思考の慣性にほかならない。それは,その人なりのこの時代と社会での生き方なのであり,ものの見方なのである。これを個性と呼ぶほかはないのだ。問題は,個性があるかどうかが大事なのではない(個性は十人いれば十の個性があるのであって,そのこと自体に意味も価値もない)のと同様,サビがあるかどうかが問題なのではないのだ。サビは生きて来た証にすぎない。頭の固さと評されるものも,良かれ悪しかれ,その人らしさにすぎない。大事なのは、そのサビや固さを価値あるものにできるかどうか,つまり自分のもっている知識・経験を使いこなせるかどうかなのだ。その使い方に発想力のある人とない人とに差がでる。
問題は,その使いこなし方だ。どうしたら「常識をはずすことができるか」を、現実的な例をとりながら,具体的に考えてみること。あるいは優れた人達には常識にすぎない「発想の前提」である,「当たり前を疑う」とはどうすることなのか,どうすれば「常識外れのものの見方をしたことになるのか」を手順やステップに分解し,具体的なプログラムとして示そうとしたところにある。 そこで,その分割したステップを一つひとつたどってみる。手慣れた,ひとまたぎを,ストップモーションのように,一コマずつ送って,慣性化した(惰性化した?)思考ステップそのものを,待てよと立ち止まってみる。これによって,意識しないできた自分の発想プロセスを見直してみることができる。 こうして「待てよ」と立ち止まることには,もうひとつ大事な意味がある。どうもわたしたちは,情報を集めるにしろ,集めた情報を処理するにしろ,いつも正解は外にある,と思い込んでいるところがある。「どこかを探せば正解が見つかる」「何かを集めれば正解になる」等々。そこでは正解は創り出すものではなく,捜し出すものだという意識が根強い。むろん情報や情報収集を否定しているのではない。こういう意味の情報の扱い方を問題にしているのである。これを前提にした発想スタイルが問題なのである。いまわたしたちに必要なのは、 ただ集めても仕方ない(どこにも正解の既製品はない) 集めたものをただつなげても仕方ない(既に誰かが考えたことを確認したって意味はない) 創造されたものをただ再現しても仕方ない(必要なのは模倣や写しや手直しではなく創造だ) と思い定め,いままで前提としてきた発想スタイルそのものに「待った」をかけることだ。そのためにどうしたらいいかを,今後定期的に,具体的に考えていきたい。 具体的なトレーニングについては,掲載目次をご覧下さい。 目次へ
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