世の中の発想論ではたいてい,「頭のサビを落とす」「頭を柔らかくする」ということをキャッチフレーズにしている。
まず疑問なのは,そんなに簡単に,頭が柔らかくできるのか,ということだ。それより何より,何十年も生きて来たいい大人に向かって,今までの考え方を捨てろと言う。それにムッとしたことはないだろうか?
「冗談言うな,オレは長年こうやって仕事をしてきたんだぞ」と。
こう感じている自分の反感の方が正しいのではないか,と内心思いながら,そんなことを言っているから「頭が固いのだ」と言われそうで,これまでずっと言い出しそびれてきた,ということはないか。
なぜ「頭の錆」や「柔らかさ」が問題になるのだろうか。サビとか固いとは何のことなのか?錆ついて回らなくなったギア,グリスの固まったベアリング,あるいはショートして堂々めぐりする回路,といったイメージだろうか。しかしクイズやパズルといった「頭の体操」なんかで,頭の滑りがよくなったり思考が柔らかくなったりするものか。問題なのは,創造性ではないのか。パズルを解くことに長ずることで,優れた創造性を発揮したものを寡聞にして知らない。多分,クイズマニアのように,「手慣れたパズルの解き方」に習熟するだけではないか……。
なぜなら,たいていのクイズやパズルには答えがある。そういうのを,発想とは言わない,と信ずるからだ。
わたしは,頭にサビなんてないと思っている。断言してもいいが,頭の柔らかさと発想力とは関係ない。少なくとも,パズルやクイズの出来不出来と発想力とは何の関係もない。小器用にクイズをこなす小才よりも,不器用なほどに考え込む物分かりの悪さのほうがずっと大切なのだ。
敢えて言えば,頭のサビこそが,わたしたちの個性にほかならない。その人が生きる中で身につけた知識と経験のもたらす思考の慣性にほかならない。まあ,惰性に近いかもしれない面があるのは認めるとしても。
しかし,それも含めたものが,その人なりのこの時代と社会での生き方なのであり,ものの見方なのである。これを個性と呼ぶほかはないのだ。問題は,個性があるかどうかが大事なのではない(個性は十人いれば十の個性があるのであって、そのこと自体に意味も価値もない)のと同様,サビがあるかどうかが問題なのではないのだ。サビは生きて来た証にすぎない。頭の固さと評されるものも,良かれ悪しかれ,その人らしさにすぎない。大事なのは,そのサビや固さを価値あるものにできるかどうか,つまり自分のもっている知識・経験を使いこなせるかどうかなのだ。その使い方に発想力のある人とない人とに差がでる。
問題は,その使いこなし方だ。ここでも従来の発想論に不満がある。「常識は捨てなくてはいけない」「当たり前を疑ってみろ」と強調しながら,それをどうやったらいいのか,についてはどこにも具体化されていなかったことだ。
正直,わたしは,比較的クイズやゲーム感覚の頭の体操が苦手である(決して嫌いではないが)。そのためでもないが,どこかでクイズやゲームをうさん臭く感じてきた。それでいながら,一方では自分が不得手なことをずっと気にかけてもきた。しかし,多くの発想の書は,それをもって発想力診断テストとしているところがある。では,パズル発想が苦手なら,発想力はないのか?
しかし,あるとき気づいたのだ。確かに見かけはパズルは,アクロバットのような頭の回転を要求するが,そこで求めているのは手先の器用さのような頭の使い方の器用さにすぎないのではないのか?それがいわゆる発想力と何の関係があるのか?むしろそういう器用さは,手品と同様,見かけの転換だけで,本当の意味の発想の転換とは関係ないのではないのか?と。そして,人に手品の如き発想を強いるとしたら,その発想の手引の方が間違っているのではないか,と。
そういう“コペルニクス的発想転換”(?)をした以上,別の理屈を立てなくてはならない。そういう場合,わたしのような真面目さだけが取柄の(ということは何の取柄もないに等しい)手合いが言訳とするのは,往々にして,「発明は99%の努力(パースピレーション=汗)と1%のインスピレーション」というエジソンの努力神話しかない,と相場は決まっている。しかし,本当にそれだけで可能なのかどうか。
ともかく,そうした思い付きをきっかけに,いわゆる“天才”のひらめきを,自分のような凡才の汗と努力だけを担保に可能にする方法はないか,という,言わば虫のいい願望から始まった,その結論については,「アイデアづくりの基本スキル」をみていただくことにして,その背景となった考え方だけ述べておきたい。
むろん古来,多くの創造性研究の端緒もそうした問題意識にある。
古くは,いわゆるレトリック研究そのものが,能弁家の弁論技術を体系化するところから始まっている。
既に,キケロが「能弁家たちが自然におこなってきた」ものを研究したものについて,「技術から能弁が生まれたのではなく,能弁から技術が生まれた」と皮肉を言っていると,紹介しておられる佐藤信夫氏は,そういうレトリックの技術体系は,「天才が自在におこなう操作とおなじことを,凡人が不器用な努力によっておこなうと仮定すればどうなるか」という問題の立て方をしているが,それは,「天才が巨大な問題を一挙に解決して到達したのとおなじ地点へたどりつくために,律義者は,その一個の問題を大変な数の小階段に分割し,分岐点ごとに考え込む」(まるで,コンピータのモデルと同じ)というものとなる。しかし,その模型は,間違っていると,氏は指摘されている(『レトリックの消息』)。
「天才的作業を仮説的凡人のモデルによって説明している装置は,じつは装置のほうが虚構的なのであった。才能ある人間が(人間はみな装置よりも才能がある)飛躍するのではなく,それを飛躍として説明する理論のほうが幻想的に律義なのだ」と。
模型として設計している装置そのものが,虚構の「天才」モデルに対比して普通の人間を現実以上に律義(つまり間抜け,ということだ)に設定している。しかも,その前提に立って,天才の能弁(あるいは美文)を,どうすれば凡人にも可能にできるか,と設問し,虚構の「天才」の一瞬の一またぎをステップに分割して,それを愚直なまでに一歩ずつ辿ることで,それに肉薄できる,とした誤てるモデルにすぎない,というわけである。なぜなら,人間はそのモデルのように間抜けではないからなのだ,というわけである。
前述の「アイデアづくりの基本スキル」も,実はレトリック研究と同じく,凡人の律義さだけを担保に,汗と努力だけで天才の「飛躍」を図ろうとしているが,まさに人間が「モデル」のように間抜けでないからこそ,それを正当化する理由があるのである。
つまり,普通の人でも,「装置よりも才能がある」からこそ,実は発想が問題となるのである。そういう飛躍とは,慣れから来ているといっていい。われわれはレトリックでも,発想でも,愚直なまでに分解されるほどの手順を一々意識しなくても,一瞬のうちに比喩を使うし理解する。しかし,それは慣性として使い理解しているにすぎない。発想にとってはそれこそが桎梏にほかならない。モデルの,律義に分割したステップを辿らせることによって,いつもの自分の手慣れた一またぎそのものを異化すること,それがこのモデルの効果にほかならない。
それに,「仮説的凡人のモデル」に問題があったとすれば,そういう愚直なモデルを創ったことにあるのではなく,それを唯一の見習うべき手本,つまり正解と見なしてしまったことにあるのではあるまいか。しかし,正解が1つなら,ただそのままなぞればいいだけであって,そこに一人ひとりの工夫の余地はないし,そんなところに創造性などはない。
ここにあるのは,あくまで,1つのモデルでしかないのだ。それを通して,自分の発想プロセスを異質化すべき装置にすぎない。習字の手習用の手本のように,それをなぞること自体に意味があるのではなく,丁度ストップモーションにかけたゴルフスィングのように,自分が意識せずにしてきた発想プロセスを,1コマずつに分解された動作として客観的に分析してみればいいのだ。そこから自分との類似性を見つけるか異質性を感じるか,それとも自分の長所に気づくか欠点に気づくか,あるいは目指すべき目標を見つけるかは,本人次第だ。何にでも運勢占いのように託宣を戴かなくては気がおさまらないという発想をまず捨てなくてはならない。モデルは,模範解答ではなく,それを通して自分なりに新しい発想のパースペクティブ(視野)を得るべきものであって,それは他人によってではなく,自分自身によって見つけるべきものなのだ。
ちょうど宮本武蔵の『五輪書』は,天才武蔵でなくては会得できないが,千葉周作の奥義は,素人が,確実に身に付けられる教本だというのに似ている。
わたしは,だから,“ブレークスルー”とは,そういう意味でも,自分流の壁の破り方にほかならない,と思っている。ブレークスルーとは,自分の既成の発想の“変成”と考えている。問題解決で言えば,問題形成まで,である(既知を破って未知を創り直すところまで)。目標の発見・形成が目指すべきものなのだ。だから,“発想”のブレークスルーなのだ。
われわれは,爾来とかく突貫工事には慣れている。それは,誤解を恐れずに言えば,問題を解決することに長けている,ということだ。しかしその特技が効くのは,目標が明確なときだけだ。いま,われわれに必要なのは目標そのものの形成なのだ。何をしたらいいのか,何を目指したらいいのか,という最も根本的なことを発見しなくてはならない時代なのだ。だから,同じく“ブレークスルー”とは言いながら,ナドラーの『ブレークスルー思考』とは,全く問題意識を異にする。
といって,美文作成のためのレトリック体系のように,ブーレークスルーの教則本ではないから,ここあるのは,回答例のひとつにすぎない。われわれは,結局既知の枠の中で収まってしまう思考の慣性を,一度スローモーションのようにコマ毎に分割し,自覚的に1つ1つ踏み破ってみなければならない。そのためのモデルにほかならない。それを辿ってみることによって,自分なりにどこをどう直せばいいのか,その工夫のためのツールは用意したつもりである。むろん,これだけが正解では決してないし,正解だと主張もしないが。
確かに,アインシュタインがブレインストーミングをやっている姿を想像できないが,といって彼は独自のブレークスルーの仕方をもっていなかったとか,それに無自覚にやっていたと考えるべきではない。方法論のない研究などありはしない。彼もまた,自覚的にやっていたはずだ。それが何かは,外目には,多くブラックボックスとなっているだけのことだ。それをわれわれなりに,自分で創り上げなくてはならない。
創造性や発想力を問題にするとき強調されるのは,《視点の転換》とか《発想の転換》である。そのためにどうしたら発想や視点が転換できるか,パズルを使ってみたり,ゲーム感覚の「頭の体操」を試みたりする。しかし,強調したいのは,
視点(見方)を変えるのではなく,見えるもの(見え方)を変えること
である。つまり,見慣れた見方や使い慣れた発想や視点が問題なら,
見慣れた見方
使い慣れた発想や視点
がしにくい条件をつくってしまえばいいではないか,ということである。見ているものをひっくりかえせば,視点は逆立ちせざるをえない。
たとえば,下のような図形があるとする。
見方によっては,これは立方体を一方から見たものにも,正方形の穴が開いているとも見える。しかし,どうやっても,これが正方形に見えてしまって,それ以外の見方がしにくいのだとしよう。
そのとき,そういう固定観念をやめなくてはいけない,既成概念は崩さなくてはいけない,などといくら言ってみたところで仕方ないのだ。
むしろ,この図が正方形には見えないようにしてしまえばいいのではあるまいか。そういう仕掛けがつくれればいいわけだ。その方法としては,
第一には,見る位置をいろいろ強制する。一番いいのは,裏側へむりやり引っ張っていくとか,高いところへ連れていくとかだが,その代わりに,これは凸部を上から見たところだとしたらどうか,凹部を上から見たところとしたらどうかなどという別の視角を強制する方法がある。
第二には,この図をやぶったり,伸ばしたり,細かくバラバラにしてしまったりと,正方形には見えないように変形してしまう方法がある。
第三には,これは口という字を拡大したものだ、あるいは日という字を書く途中だ,または四畳半の部屋の間取り図だ,というように,この図の意味を限定したり,変えてしまったりする方法がある。
第四には,これは紙に書いた図ではなく地面に引いた線とか,ゴム膜の上に書いたものだとしたらどうか,昼間ではなく夜見えているのだとしたらどうか,あるいは洞穴で遠くに見えたものだとしたらどうか等々というように,この図から受ける常識的なイメージに,別の条件を設定し直してみる方法がある。
こうして一種強制的に,いつもの見方がしにくくすることによって,見方を変えざるをえなくすることができるのではないか,ということである。
わたしは、まず、こうした見え方を変えるための方法を《バラバラ化》と名付けている。そのためのチェックリストは,「創造的発想とは」に,実例を示した。
見る側の視点を変えさせるためにバラバラにしたものは、それだけでもいろいろな刺激を与えるが、アイデアなり発想としてまとめていくには、そのままでは思いつきにとどまることが多い。それをまとめたのが,前述の,「アイデアづくりの基本スキル」であり,「4つの発想スキルの使い方」である。
※なお,アイデアづくりの4つのスキルとは,「わける」「グルーピングする」「組み合わせる」「アナロジー」である