創造的であるためには何が必要か
〜どう自分自身を異質化するか〜
発想力やブレークスルーを考えるとき,スキルとしてどう可能にするかだけではクリアできることはむしろ少ない。ブレークスルーためには,知識・経験でできあがったものの見方(パースペクティブ)そのものを覆さなくてはならない。ある程度知識・経験を蓄積してきた人間にとっては,それはある意味で,自分のこの現実への対処の仕方全体を見直さなくてはならないことであり,それ自体たやすいことではない。
確かに人間の脳はフレキシブルであって,ある程度混乱にも対応可能ではあるが,大概の未知については,われわれは極めて巧みに既知の知識でその穴を埋めてしまう。なぜなら,われわれには,知っていることあるいは知っていると思うことに則してこの世界を推論しようとする,抜きがたい傾向があり,またそれがわれわれの生き方に利便性を与えているからにほかならない。それが,人間が生きていくための特有の防御機構なのである。それはまた,われわれがモノを見るとき“視点”という,「一部目隠し」することによってのみ,情報を組織化することの背景になっている。またそれを利用するから,一対一の対応にこだわらず,大まかな対応のみを見るから,初めてアナロジーや比喩が可能ともなる。
こうした人間のある種のアバウトさが,自分の「既知の知識のネットワーク」以上に「無意識のネットワーク」に支えられており,その奥行は深く,人間の容量は見かけよりは大きい。それを逆手にとらない法はない。
われわれの,非ノイマン的な脳には,コンピュタのように中央処理装置はない。知識は過程そのものであり,われわれはわれわれの知識(無論無意識層を含めた)そのものといってもいいのだ。われわれのこの知識ネットワーク自体がソフトでありハードである。つまり,自らがプログラムし自らが動かされるものでもある。とすれば,自分の既知のパースペクティブを壊すことも,自らの努力で十分できるはずなのだ。そのために,どうしたらいいのかはこのコーナーで,過去にいくつか触れてきた。
その手順は,まず自分の既知の知識ネットワークによる強力な“当て嵌め”を妨げること,そのために情報を異質化(バラバラ化)して,それ自体異質な見え方をさせること,それによってまず既知のパースペクティブを崩し,崩れた中から1つひとつ括り直して新しい関係を付け直して,新しい見え方を炙り出すこと,その作業の困難さと煩雑さに耐えること,それによって初めてとらえ直された未知のパースペクティブを創り出すことができる,というところにある。
天才はいざしらず,通常の常識人であるわれわれにとっては,それは多分に,意識的かつ意志的な作業のはずである。だから,必要の都度,そういう作業に耐えるということでもいいが,むしろ,そういう意志的な試みを,知識・経験のもうひとつの慣性にまでする意志も,必要かもしれない。つまり,何でも当て嵌めによってステレオタイプとする慣性に対して,そうしかけたとき,常に“まてよ”“これはいけない”と立ち止まり,後戻りする癖を作り上げることも重要なのだ。われわれのものの見方が「ものを見るときの癖で折り目がつき,皺に」なっているなら,その皺を,絶えず延ばすもうひとつの“癖”を,たとえ難しくても作ろうとする日常的な試みも忘れてはならない。
発想というのは,特別のことではない。そもそもわれわれが日常やっているモノを見,モノを考えているステップそのもの,つまり生き方そのものにほかならない。だからこそ,われわれの「抜き難い」“皺”を崩すのは容易なことではないのだし,逆に言えば,もうひとつの“癖”をつける努力をすれば,ある程度,その癖が新しい“皺”になってくれるはずだ,ということも期待できるのである。
バラバラにすることで,モノの在り方を変えることで,見え方を変え,見え方が変わることで,別のとらえ方をせざるをえなくなり,自分のモノのとらえ方が変わる,という意味で,次のような図式を示すことができる。
在り方を変える→見え方が変わる→とらえ方が変わる
↑ ↓ ↓
在り方が変わる←見え方を変える←とらえ方を変える
しかし,これは正確には次のような図式としなくては,意味が完成しないのだ。
在り方を変える→見え方が変わる→とらえ方が変わる→在り方が変わる
↑ ↓ ↓ ↓
在り方が変わる←見え方を変える←とらえ方を変える←在り方を変える
つまり,もし自分のとらえ方が変わるのなら,それは自分の在り方,生き方まで変えるものでなくてはならないはずだ。そしてもし自分の在り方までも変わるほどのものなら,その変化は,前の自分のとらえ方をも変えるはずだ。そしてとらえ方が変わることで,見え方が変わるということでもある。
多分そこで,もうひとつの知識の慣性ができたということになるかもしれないが,そこでさらにまた,自分見え方をかえればそれでいいのだ。そうやって知識の構造そのものを変えることが,自分をも変えることが,ソフトウエアであると同時にハードウエアでもあるわれわれの脳そのものの性格だからだ。
その意味で,発想とは自分を限界づけてしまえば,そこまでで終わりだといっていい。自分はこれだけのものだと思えば,それだけのものにしかなれない,別の見方,とらえ方,在り方の可能性を自分で閉ざしてしまうことだ。それが“皺”となれば,それだけの慣性に自分の在り方を止めてしまうだけだ。だから,“まだまだ”と,自分の可能性,自分の夢を信ずることが,そこまでの知識の組み替えに取り組む原動力であり,あるいは大袈裟に言えば,われわれが生きることの意味のように思う。前述した,発想のための“心構え”とは,お気づきのように,それはその人の生き方にかかわったものだ。だから,そういうモノの見方をしようとすれば,そういう生き方になるし,そういうモノの見方をしなければ,それだけの生き方しかできない。そういう生き方をすれば,そういう見方に変えるとは,この間の経緯を言っているのだ。とすれば,発想が小手先の技法だけの問題でないのは当然のことなのである。
発想スキルが得られればそれでよし,とするのは,また別の知識を手に入れただけのことで,それでは知識を組み替えるという,発想の根本がわかったことにはならないはずなのだ。技法はあくまで,組み替えのサポートにすぎず,どんな知識であれ,それを当て嵌めようとする限り,発想には反したことなのだとわかれば,まず始めなくてはならないのは,何処かから手に入れた知識を当て嵌めとしまう自分の構え(皺)そのものを,日常的に崩すことなのだ。
慣性化したモノのとらえ方を変えるために,生き方の側から,自分の惰性的な生き方を変えるにはどうしたらいいのだろうか?この場合も,生活パターンを変えざるをえなくする方法はないだろうか?あるいは,ここでも逆手に取って,自分のとらえ方や見方を変えることで,生き方への刺激とすることはできないか?と考えてもいいかもしれない。
われわれは,起きて生活しているときの,72.8%はコミュニケーションに使っているといわれる。その意味では,一番インパクトの大きいのは人といえるかもしれない。ヒントは,いつも同じ人とばかり接したり,同じ状況の中にばかりいては,マンネリ化してしまう,というありきたりのところにあるかもしれない。
とかく会社人間であることを批判されることが多いが,会社人間になるくらいでないと,仕事がしにくいし,また仕事に入れ込むほどそうなる面は否めない。一度も会社人間であるほど力量と業績を残したことのない人間だけが,会社人間のマイナス面のみを数え上げたがるのだ,
とそれぞれが己の自負を恃みにした結果が,「同質縁(どうしつえにし)症候群」(志津野知文氏)と言われる症状をもたらしているのではないのか。曰く,
@近眼症状(自分の近くのもの,すぐ周囲のもの,すぐ役立つことにしか目が向かない)
A狭眼症状(自社,職場,業界しか視野にない)
B傍目症状(ウチの会社,ウチの業界,あるいは横並び意識,同期,同僚意識)
こうした症状が,知識・経験を狭めるだけでなく,その慣性を強烈なものとして,別の発想,別の視点を取りにくくさせている。それが,“会社人間”と幾分揶揄を込めて言われる謂れかもしれないのだ。
これを脱するにはどうしたらいいのか,を筆者なりのささやかな経験から,以下に“5つの異質化”として提言しておきたい。
日常的に言えば,3つの異人とは,異なる性・異なる年齢・異なる職業の人ということになる。これに,異なるレベル,異なる経歴,異なる役割を加えてもいい。ともかく,9時から5時まで,同じ面々とずっとすごし,更にアフター5まで,同じ職場の面々と,しかも話題も同じ仕事か上司の悪口,おまけに土日までゴルフで,職場の面々か仕事関係というのでは,知識の慣性が強まりこそすれ弱まることは考えられない。そうすることが仕事だというのは,そういう生活パターンしかしないことの言い訳にはならない。ひょっとすると,そういう生活パターンから外れることを恐れ,敢えてそうしているのだとしか思えない。
有名な坂本龍馬の逸話がある。
あるとき,若い後輩に,「大事なものは何か」と聞かれて,「刀」と答えた。その若者が,次に龍馬に会ったとき,誇らし気に刀を差していると,龍馬は,「まだそんなものを差しているのか,君は遅れている」とピストルを示した。次に若者が龍馬に会ったとき,ピストルを示すと,「もうそんなものは時代遅れだ,これからはこういうものの時代だ」と言って,万国公法の本を示した,という。
何となく,時代の流行を追っかけている若者の気風を彷彿とさせ,ほほえましい面もあるが,われわれは通常これを,龍馬に視点をおいて,そういう時代の先を視る先見の明が必要だ,といった教訓話として受け止めるケースが多い。しかし,われわれに重要なのは,龍馬側の視点ではなく,龍馬に教えられた若者の側に視点をおいてみるべきなのではあるまいか。こういう異質な人とどれだけ付き合っているか,というようにだ。そうした影響で変わっていく生き方,変えられていく生き方の方に着目すべきように思われる。
そうすることで,当り前と思っている,あるいは世の中はこんなものだと高を括っている自分の思考の慣性にショックを与えなくてはならない。筆者は,何年か前,ある作家にお目にかかった折,こんな話しを聞かされたことがある。氏は,毎日早朝から午前中は口に糊する仕事をされる,そして午後からは毎日映画を観て回られるのだ,という。まさに9〜5時の世界にいた自分には新鮮な驚きであった。そういう生き方があるのか,と。思考の慣性から,自分や自分の周りのことを前提にしか,モノ見られない。蟹は自分の甲羅に似せて穴を掘るとか,自分の甲羅でのみ世界を見るのを止めるには,異質な人間と付き合うことが絶対必要だと,思うのである。
ひところ,これからはノウハウの時代ではなく,ノウフウの時代とかで,人的ネットワークづくりというのがはやったが,揚げ句は,いろいろなところで人脈をつくっておけば仕事の役に立つかもしれないという下心でやったのでは何にもならない。それでは,仕事外延を広げたことにしかならないからだ。
9〜5時の世界の人間にとっての,3つの異質状況は,仕事以外の場,家庭以外の場,行きつけ(なじみ)以外の場,と言えるだろう。逆にいつもディスコでお立ち台に立っているようなタイプの人はそれ以外の場所を,いつも“お宅”している人は自宅以外の場所へ,と別の工夫がいることは,当然だろう。
欧陽修の三上説(馬上,枕上,厠上)のように,それが日常の文脈から解きはなって,寛げるから,という消極的理由もあるが,むしろ積極的意味をここでは考えている。
たとえば,通勤するとき,乗り換え口や出口を考えて,いつも同じ車両の同じ扉近辺に乗っていないだろうか。しかも始業時刻から,いつも同じ時間で。そうすると,全くおもしろいことに,その時間帯の車両の乗客の顔ぶれというのが,大体揃っている,というか,いつも見慣れた顔があることが多いのである。いかに,世の会社人間の生活パターンが似通っていることか。確かに,そうするといつもの美人に会えるという余得はあるかもしれないが,こんなことを毎日繰り返していて,思考の慣性が停滞気味になるのも無理はないのではあるまいか?
例えば,夜遅くなると,どんなに長いタクシー待ちの行列があっても,辛抱強く待ち続けるとか,酒が入るとワンパターンで必ずラーメンを食わないと収まらないとか,ともかく癖だか皺だかに,引きずりまわされすぎる。多少時間がかかっても,タクシーを待たないで歩いて帰るということをしてみた方がいいのだ。
筆者の自宅も最寄り駅からバスで20分,遅くなればタクシー待ちの行列に加わるしかない。しかし,私はしばしば歩く。歩くと小1時間はかかる。鶴見川の支流沿いの土手をゆっくりと歩く。すると,酔眼にも,川沿いの風景が日々変わっていくのがわかる。つい1ヵ月前には雑木林の丘があったのに,みごとに削り取られて,マンションが建ち始めている。そうすると,丘の陰で見えなかった向こう側に,いつの間にか満開になっている桜の林が覗いていたりする。あるいは,海までは数十キロもあるのに,川風に潮の薫りがしたりする。鶴見川が海につながっているのだ,と実感できる,等々。
あるいは,仕事の帰路,いつもの私鉄ではなく,ちょうどそれと平行している私鉄の駅から帰ってみたことがある。バスで,同じバス停に,反対側から降りる,すると何となく風景が違う。で,住宅地の裏側から入っていった。まるでいつも見慣れた通勤路で見るのとは違った顔を,おなじみの家々がみせる。気づかなかったが,裏庭には大きな犬がいたりする。いつものパースペクティブの裏側をみているのだ,という気がしたものだ。
わずかのことだが,通勤経路をちょっと変えてみる,すると見慣れた風景の裏側に気づく。乗る電車をわざと1本ずらしてみる,すると意外にも空いていたりする。あるいは2〜3時間通勤時刻を遅らせてみる,と乗客の層が全く変貌していて,乗客の顔がラッシュに比べてゆったりしているように見える。乗る車両をわざわざ一番後ろにしてみる,すると何をあくせくしていたのかと思うほど,途中で空いて座れたりする。
あるいは家族と旅行してみるのもいい。意外と気づかなかったが,女房の老いたのに改めて目を見張るかもしれない。しかし,旅行もリゾートマンションは駄目だ。あれは日常をそのまま移行するだけにしかならない。いつもおさんどんをしていなかったとしたら,夫が3食をこしらえるというのなら,話は別だが。
あるいは,国内旅行でツアーに加わってみるというのも意外と面白い。添乗員のいるのがいい。赤い三角の旗の後ろを,修学旅行のように,金魚のうんこみたいにゾロゾロついて歩く。胸にLOOKとか何とか旅行ツアーのバッチをつける。そして名所旧跡では必ず説明者がつく。いつもひとり旅のときは,そばに立って立ち聞きしたものだが,逆に立ち聞きするのを追っ払う,等々。もちろんいつもツアー旅行しない人は逆のことをしなくてはならない。
われわれの発想は,生きてきた場所や関係の中で拘束されている。それを別の状況で,違った見え方を誘い出してみることも,悪くはないのだ。
インプットは,刺激・情報・知識・経験,すべてを含む。雑誌+漫画+週刊誌の3点セットにしろ,日本経済新聞+日経ビジネス+ビジネス書にしろ,タイムス+英字新聞+ウォールストリートジャーナルにしろ,あるいは技術書+専門新聞+原書にしろ,同じであって,自分の慣れた分野からの情報だけに偏っていては,思考の慣性に流されるだけなのだ。といって,若者向けの雑誌や女性誌を読むべきだなどとは言わない。そんなことをしても身につかないし,自分の興味の起こらないことを無理にしたところで,だからあいつらは駄目なんだ,と自己防衛するか,ますます慣性の後押しをすることになるだけだ。
第一,いろんな知識・経験を手に入れるという意味で,購読雑誌を広げるということ自体,アイデアや発想の正解を何処かに求めようとしているにすぎない。必要なのは,慣性化した思考の流れを留めること,いつもの手慣れた知識の回路をずれてみること,そうやって違う回路を開くことなのだ。それは外に何かを求めるのではなく,自分の慣性的にやっていることをずらすだけで十分できることなのだ。“別のところを見てみたら”どうか,と思うだけでも違うはずだ。
活字をやめて映像,漫画をやめて活字,車をやめて歩く,新聞をやめてテレビ,というように少しずらすだけで十分だと思う。例えば,新聞なら,何も大見出しの記事を読むことはない。たいていテレビで報道された後のことだから,新聞の視点を押し付けられるだけだ。それはテレビで見ておけばすむことだ。それよりも,社会面の隅っこのベタ記事や,下の方にある囲み記事や,コラム,シリーズ記事だけを見る方がいい。あるいは,2紙以上購読していると,妙に扱いの小さい記事が目につくことがある。で,他紙を覗くと,前日トップ記事になっていて,他紙に出し抜かれたために,扱いが小さいのだと,納得する。大新聞社などといっても,子供が拗ねているのあまり違いはないらしいのだ。
ちょっと違ったところに焦点を当ててみる,ということがこの場合もっとも大事な気がする。定期購読している雑誌だったら,あるコーナーを定点観測してみると,雑誌の航跡が,どう時代と共に右に左にずれていくかもよく見える。
われわれの脳細胞は120〜160億あるといわれているが,脳細胞だけは再生されないから,二十歳を過ぎれば,日々10万個ずつ減っていく。にも拘わらずそれ以降の方が学習できるのは何故か。それは,細胞のつながり方が増えるということによってだ。つまり,ネットワーク化した回路が,複雑に絡み合うことで,脳のネットワークは多層化し減少しても屁でもないのだ。第一,どんな天才でも脳細胞の30%位しか使いこなせないのだ。回路を広げることより,回路の絡みを深化させたほうがいい。材料ばかりいろいろ広げるのではなく,少ない材料の料理方法を変えることでも,いろいろ刺激となるはずだ。
情報化社会になると,何か情報機器を駆使することが,優れた情報をもっている,あるいは情報処理に長けていると思い込みがちだか,大間違いだ。情報機器を駆使している人が情報の読みに長けているとしたら,それはもともと情報機器を思考の慣性を異質化させるかたちで使っているからであって,情報機器そのものが思考を異質化させるのではないのだ。いくらPOS情報が集約できても,それ自体は売れているものと売れないものしか示しはしない。何が売れるかを読み取れるかどうかは,人間側の思考のネットワークの出来不出来によるのだ,ということを承知しておかなくてはならない。
ともすれば,人との連絡−FAX,電話,ネット,携帯等々というかたちになりがちだ。仮に,情報機器が,自分の思考パターンを異質化してくれるとしても,それに慣れれば,それが思考の慣性となってしまうことに変わりはない。
何にしろ,手慣れた手段,手順,ステップを変えてみること,ずらしてみることが大事だ。そう発想する人にとってのみ,何でもが,異質化のきっかけとなり,素材となるはずだ。
たとえば,仕事の出来る人とは,読める人ということだ。それは,思考の枠組ができている人,コツについて触れたように,「こうなったときには,こうすればこうなる」「こういうことなら,きっとこうなる」と,手慣れた判断がつき,テキパキと処理していける人だ。しかし,それが思考の慣性にほかならない。
「何が原因,あるいは結果と見なされるかは,主としてわれわれが何を探しているのか,何がわれわれの問題であるのか,何を価値あることと考えているのか,どこに関心があるかなどの,またわれわれが疑問を表現する方法の関数なのである。」(ハンソン)
これを言い換えれば,結局仕事の読み,仕事のコツは,思考の慣性の関数ということなのだ。われわれに必要なのは,いつものやり方をかえて,「こうすればこうなる」と読めるのなら,「こうしなかったらどうなるか」を試みてみることだ。そうやってずらしてみることだ。
自分をずらすことが一番難しい。どれだけ結婚相手を変えても,結局最初の夫人のバリエーションの範囲の中だけだという例は一杯ある。だから自分を変えることは難しい,というのは一面真実だが,反面そういう自分の像が思い込みによって偏っている可能性もあるのだ。自分をそういうようにしか見ない,自省の慣性に汚染されている,とでも言ったらいいか。
「まず,どんな人の中にも,まだ実現されていないさまざまな可能性が潜んでいると言ってよい。言い換えるなら,人間はほとんど誰もが,つぎのように感じたりするものである。自分の人生航路がほんの少しでも違ってさえしたら(これは致命的な言葉である),自分とてあんなではなかっただろうに。また自分が選んでしまった分野とは違った分野でなら,私とても,もっと大きな成功をとげていただろうに,などと。」(ストー)
というとき,ストーは,マイナス要因として,これを挙げている。しかし,これは自画像が自分で思っているほど一枚岩ではないし,自分で感じているほど人生は一直線ではない,既知の自分とは異質の自分,別の自分,ありえた自分,なりたい自分,可能性の自分,夢の自分を,再度取り戻す材料として使ってみたらどうか,と思う。それには3つ視点があるのではなかろうか。
@いまの自分の異質化
何も脱サラだけが生き方を変え,自分を変える方法ではない。自分についての慣性化した見方をずらす方法を見つければいいのではなかろうか?
例えば,大体のビジネスマンは,会社の名刺をもっており,その肩書に一喜一憂する。しかし,自分で自分の名刺を作ってみることだ。例えば,知人に聞いたところでは,「全日本ラーメン愛好会会長」という名刺を作った人がいる。もちろん,会員は自分だけだ。また知人のひとりは,主夫という肩書の名刺を作った。何も名刺をつくれとのみ勧めているのではない。自分で自分の慣性化した見方をずらしてみろ,と勧めているのだ。違った自分,こんな自分があるのか,と。
趣味を変えることができるなら,それでもいい。髭を伸ばす,鼻毛を伸ばす,髪を切る,髪を伸ばす,眼鏡を変える,何でもいいのではなかろうか。そうやろうとすることで,既に慣性化した自画像は崩れかけているのだ。妻を変えても変わらないのは,そういう自分だからそういう妻しかえられない,ということなのだ。
エルンスト・マッハは,寝椅子に横たわる自分が自分にどう見えるかを示した,有名な自画像(マッハの自画像)を画いている。それは,ふさふさした髭が肩の先になびき,肩から首へと移るべきあたりから先は白紙になっている。下方に向かっては短縮された遠近法で,奇妙に押し潰された形の胴,脚,足と続いている。そこには鏡で見るのと異なり,主体がない。「首なし,それが自分で自分をみたときの人間というものである」(E.ブロッホ『異化』)と,見なすと,われわれは,その自分を死ぬまで見つけ続ける過程にある,と考えるべきだ。それが,灰色であれ,バラ色であれ,単色の自画像が全てと受け止める必要はないのだ。
A昨日の自分の異質化
自分が選択してきた岐路を振り返ってみる(あのときこうしていたら,こうしなかったら)ことは,羨望や後悔であって,あまりいい意味では受け止められていないようである。しかし,われわれの人生は,ひとつひとつ小さな選択と決断の連続だ。昔,「決断とは,何かを捨てることだ」という名言を吐いた人がいたが,捨てた道が,分岐点には無数にあるはずなのだ。ありえた自分の可能性を言うことは,「たら」「れば」はない,と言われるように,無用の繰り言の面もあるが,既に忘れてしまった決断を思い出すことは,そのときの忘れてしまった決意を思い起こすことでもあるのだ。少なくとも,“いま”の自分は,過去からただ一直線につながっているのではなく,紆余曲折の結果なのだと気づけることは大事ではなかろうか?
ありえた無数の別れ道は,捨てて来た自分の可能性でもあるはずだ。それは,慚愧の対象ばかりではなく,自分の厚みのはずなのだ。ただ馬齢を重ねただけにしろ,馬でしかないのが自分の厚み(あるいは薄み?)でもあるのだ。
その自分の無数の選択の重要性は,そのまま,“いま”もまた無数の選択(断念)の連続であり,未来もまたその無数の決断の果てにあるのだと,いうことなのだ。
B明日の自分の異質化
明日を,“いま”の延長線上に,このままずっと続くという思いで描いている人は,結局,過去も今も自分の決断の結果だということを気づかない,気づきたくない人だ。会社・仕事が永久に続くように現在の延長線上に明日を描くということは,ある意味で変化を拒んでいるに等しい。あるいは,別の自分の可能性をみようとしないことだ。しかし拒もうと拒むまいと,延長線上になど明日はない。延長線上にもってこようとする自分の選択があるだけだ。それは,過去を異質化する視線にだけ見えてくる。
自分を異質化するのもしないのも自分だけの技だ。しかし,少なくとも,死ぬまで自分の可能性を信じたいし,夢を失いたくない。前述した通り,そういう心にのみ,発想が可能なのだ。その意味で,少しでも慣性化,いやただの惰性となった生き方を,ずらす試みをしてみること,それでも変えられなければ,更に工夫をしてみること,自分の生き方にすら発想転換ができなくて,仕事の上だけでお手軽な発想手法を身につけようなどというずぼらさで,発想を願うのはおこがましいと言うべきかもしれない。
余談だが,私は世の中には4種類の人間がいると思っている。
第一は,まさにとんでもないブレークスルーを,いとも簡単にやり遂げる天才肌の人。どこからそんな発想が出てくるのか,とまさにゼロからの発想としか見えない類いだ。
第二は,先達のアイデア,発想を巧みに組み合わせて,新しい枠組,輪郭を創り出していく人。その枠組づくりに,努力と工夫の跡が伺える,オリジナリティがある。
第三は,先達の金棒引き。ある意味では受け売りだが,そのことに気づいており,何とか自分なりに文脈をつけてはいるが,その枠組に囲い込まれている。
第四は,受け売りであることも気づかず,あるいは性格に受け売りしようということにも無頓着で,おおよそオリジナリティとか発想とかには無関心の人。
これは別に優劣をつけているのではない。いわば,発想のブレークスルーというものに関心があるかどうかの差にすぎない。そんなことに何の意味も見い出さない人もいるし,「このここの部分は自分の発案なのだ」と僅かな差異にも自分のオリジナリティを言わなくては気の済まない人もある。問題なのは,関心さえあれば,ブレークスルーを意識的に何とかしようとするし,何とかできるのが人間であり,そういう人にとって,できるだけ手掛かりになるものを,と心がけてみた。
(了)
「発想力とは何か」「問題意識を育てる」「発想には思い込みが邪魔になる」を参照
侃侃諤諤ページへ
【目次】へ
|