できる部下のOJT
仕事ができる,という評価を上位者がするとき,確かに当該下位者が,その職務知識・職務態度及び職務遂行能力において,期待にふさわしい水準にあるという場合が多いが,反面上位者の期待をそつなくこなす能力であるかもしれない危険を伴っている。
しかし逆に本人側から考えてみると,「自分が努力すれば環境や自分に好ましい変化を生じさせうるという自信や見通し」をもっているということにほかならない。この能力と自信(有能感・有効感)を“コンピタンス”という。そしてこの有能感の手ごたえには,努力の主体が自分であるとする自律性の感覚(自己決定感)が不可欠であるとされる。つまり「自分の考えを実現すればより効果的のはずだ」という自信にほかならない。
問題は本当にそれが優れているのなら,OJTは不要だということだ。OJTは目的ではなく手段にすぎないのだから。
△で部下の能力を示し,□で上位者の能力とみなしたとして,上下の仕事能力を比較してみる。もし△が□を上回っていれば,上下の能力逆転,□が少しでも△を出ているところがあれば,そのはみ出し部分を教えていくことになる。
もし,上位者の方が優れているところがあるなら,その面を見つけるとは,下位者の不足部分を見つけることである。それはOJTニーズの発見といっていい。しかし逆に,上位者に優れた箇所が全くない(あるいは当該職務に要めの専門能力に劣る)となれば,無理やり自分の上回っているところを捜し出すか,あるいは下位者の欠点やあら捜しをするか,さもなくば最後はおのれの肩書や職位に伴う権威に頼るほかなくなるのだろうか。
しかしそれはOJTについての誤解と“有能感”への買いかぶりにすぎない。
0JTを考えるとき,すぐ浮かぶのは,コーチング,マン・ツー・マン指導ということだ。いわゆるTWIでいう,習う準備をする→作業を説明する→やらせてみる→教えた後をみる,というステップが想定しているのも,スキルや技術といったパーソナルな能力・技量育成にすぎない。
しかし,OJTには,次のように,パーソナルな指導とシチュエーショナルな指導の2つの面があることを忘れてはならない。
属人的部分の指導(態度・スキル・知識)
パーソナルな指導
役割的部分の指導(当事者意識・役割意識・使命感)
シチュエーショナルな指導(場面や状況に応じた対応力・実践力)
パーソナルとは,個人別という形態面の意味と,個別(パーシャル)という内容面の意味の両面がある。したがってシチュエーショナルという場合,そうした能力の各単位機能を,ひとまとまりの仕事を通して,トータルに使いこなすという意味を含んでいる。
周知の通り,能力といった場合,それぞれの人が置かれた状況において,期待されている役割を把握して,それを遂行してその期待に応えていける能力(前述のコンピタンスにほかならない)と,英語ができるとか文章力があるとかといった個別の単位能力(アビリティ)がある。パーソナルな指導でカバーするのはその2面にほかならない。
しかし,既にお気づきの通り,知識・技能もそうだが,ましてコンピタンスは,1対1という個別の応答的環境での実力は温室育ちにすぎない。むしろ実践を通して,現実の問題解決の経験を積み重ねてこそ,それが現実の実力となる。その意味では,1対1の指導の傘に支えられて“できる”能力は,まだ「〜について」知っているに留まる。現実の経験を通して「〜について,どうするか」を考え,達成することによって初めて,身についた自分の力となる。前者を所有型知識(knowing
that),後者を遂行型知識(knowing how)という。
後者を身につける機会・場を意識的に与えていくことが,シチュエーショナルな指導にほかならない。こうしてOJTは,知識を生きたものにするところまでいく。現実に仕事を完成させていくプロセスを通して,個別の能力をトータルに使っていく実力を身につけていける。
たとえば,ただ企画する発想力だけではなく,自分を取り巻く状況を読み,上司・先輩を含めた周囲を説得し巻き込んでいく能力,実践上のリスクや障害を排除していく力など,現実に仕事を完成していくまでのさまざまな困難をも体験させていくことを含んでいる。そういう機会・場を意識的に与えていくということにほかならない。
だから,仮に下位者が,専門知識や新しい情報収集力に優れているとしても,上位者はシチュエーショナルな指導,つまり下位者に成功体験の機会を与えられる立場にいることを忘れてはならない。
また上位者は,より上位の視点から,個々の能力を目標へと統括していく役割があり,目標への道筋とステップから外れないようにフォローしていく立場にもある。
むろんそれには下位者の視点とは異なる俯瞰する視点を持っていることが前提となる。それがマネジメントにほかならない。たまたま下位者の方が優れているとしても,上位者としては,その下位者の仕事も含めて組織目標へと統括しなくてはならない。その面で,方向と里程の道しるべを示すこともまた,大事な役割だろう。
そして,むしろその部下が真に優れているのなら,彼を統括するチームにおける仕事遂行のモデルとし,自分たちの仕事の進め方の価値基準としていく姿勢もまた,マネジャーの取るべき態度であるはずだ。マネジャーがすべてを率先し,組織のモデルとならなくてはならないと思い詰めるのは,過去のマネジメントスタイルにすぎない。むしろ,今日のように複雑で変化の激しい時代に対応していくためには,いわゆるシンボリックマネジャーの,“シンボリック”な機能を下位者に譲ること,それによってチームとしての時代にあった規範を創り出すのも,統率者としての力量にほかならない。
必要なのは,自分の統括範囲の目標を見失わず,それに向かってどう手段を総動員していけるか,ある意味ではそうしたプロデュース機能をもつことが,これからの上位者(マネジャー)の役割にほかならない。
大体“優れた”と見なされる部下は,多く上位者から「仕事はできるが,態度が生意気」と,“出る杭”視され,逆に下位者側は上位者を「聞く耳を持たず,手続き的なあら捜しばかりする」と“小舅”視することが多い。それは,パーソナルな指導部分,属人的な部分と役割的な部分では優れているが,「どうやって実現していくか」という前述の遂行型知識に不足があることが多いからにほかならない。言い換えると,有能感は強いがそれを実現する手段に欠けている。それは下位者に限ったことではないかもしれない。「仕事ができる」と言われる人に共通の,自分の能力をたのみすぎる自信家の性癖といっていいかもしれない。とりわけ“組織の中において”どうやって実現していくか,という面をおろそかにするという意味では。
ともかく,組織の中で何かを実現していくノウハウ(いわゆる“もっていき方”)については,上位者は,既に経験においても,人的ネットワーク,人的影響力においても,組織においては1日の長があるはずだ。それが有益なはずだ。
しかし,それすら下位者が優れているとすれば(それほど優れているのか,劣っているのかは別として),おのれを知って,ただ黙って邪魔にならないように道を譲るほかはない。そうすることがより部門としての目標達成に有効なら,ただ見守ることもシチュエーショナルな機会づくりというべきかもしれない。それが人間としての魅力でもある。
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