愛知万博また迷走
堺屋太一氏が顧問辞任
「このままでは地方博になる」。こんな言葉を残して,堺屋太一氏が28日,愛知万博協会の最高顧問を辞任した。就任からわずか3ヵ月。大阪万博を手がけた経験から,多くの観客を集める構想を次々打ち上げた堺屋氏。環境保護をめぐるごたごたから,環境万博にこだわる協会や愛知県。双方の「万博観」の違いは最後まで埋まらなかった。「堺屋後」の愛知万博はどこへ進むのか。開幕まで4年を切ってもなお迷走が続く。
プロ自任「巨大施設を」
「成否の責任は地元にある。私は私として最善のものを出した」
堺屋氏は28日,最後の記者会見でこう語った。
名目上は「任務完了」だが,実際は構想が地元に拒否されたための途中降板だ。
愛知万博のテーマは,「自然の叡智」で,目指すのは,「21世紀型の環境万博」。しかし,豊田章一郎協会会長の強い要請を受けて3月に最高顧問に就任した堺屋氏は,就任直後の記者会見などで「計画はないと思っている。成功させようと思えば汗をかかないといけない」と発言。地元に強烈なパンチを見舞った。
堺屋氏は70年の大阪万博にかかわったほか,セビリア万博(90年)でも日本館の総合プロデューサーを務め,「万博のプロ」を自任する。
就任後も゛「多くの人が一ヵ所に集まり文化的に沸き立つ行事が万博」「非日常が大切」などと「持論」を展開した。
6月になって,面積1ヘクタールの巨大映像装置や100万人収容の巨大野外劇場などを提案したが,県や協会は「理解できない」。最後は,所管の経済産業省も「実現不可能」と冷ややかな態度で,行く手を阻まれた。
「20世紀型」地元反発
「小さくてもキラリと光るものをやりたい。規模の大小は成功,不成功を判断する基準にはならない」
地元愛知県の神田真秋知事は今月22日の議会答弁でこう語った。言葉には出さないものの,堺屋構想「拒否」を改めて表明したものだった。
協会や県が練り上げた計画の構想入場者数は1500万人。だが堺屋氏は,何度もつくば科学技術博(85年)や大阪花博(90年)に触れ,「最低でも2000万人を集める」と強調してきた。
地元には,入場者をそこまでふくらますことができない事情があった。
当初予定していた海上の森(愛知県瀬戸市)の造成計画は「自然破壊」という批判を浴びた。その反省から,昨年7月,市民団体などの意見も入れ,森の利用や入場者数を縮小し,やっと計画が軌道に乗った経緯がある。
堺屋氏の構想は,せっかく積み上げてきたものをぶちこわしかねない。当然のように,市民団体からは,「堺屋さんは20世紀型の発想。どうしてそんな人に頼むのか」といった反発が起きた。
辞任発表を受けて,名古屋市の松原武久市長は28日,「3ヵ月,エネルギッシュな行動に情熱を感じた」と言いながらも,構想には消極的な姿勢を変えなかった。
後の展開ほぼ白紙
協会は当初,堺屋構想を新しいプロデューサーが引き継ぎ,具体化に着手するシナリオを描いていた。だが,堺屋氏が辞任したため,今後の段取りはほぼ白紙だ。
共産党や社民党の地元国会議員は,国会などで「いっそ中止にしたら」と政府に迫っている。推進派の自民党や民主党の県議からも「いったいどうなっているのか」と疑問の声が出始めた。
もともと産業技術の振興や国威発揚の場だった万博で,自然保護や環境問題に取り組みながら,興行的に成功させるのは至難の業だ。やはり「環境」を前面に打ち出した昨年のドイツ・ハノーバー博は,入場者数が想定の半分以下の約1800万人にとどまり,地元に巨額の赤字を残した。
28日,県議会に出席した坂本春生協会事務総長は「(堺屋案を)参考にして,協会案を大至急示したい」と答えただけ。今後の具体的なシナリオは示せなかった。
愛知万博
97年に開催が決定した。開催期間は05年3月から半年間。当初は海上の森が主会場だったが,99年11月に博覧会国際事務局(BIE)が「国際博を利用した土地開発事業だ」と批判。これを受けて,主会場を愛知県少年公園(同県長久手町)に移し,00年12月のBIE総会で計画が登録された。今年から招致活動に入り,これまでカナダやユネスコなど8つの国と国際機関が参加を表明した。 |
(朝日新聞2001.6.29朝刊14版)
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