空洞化 |
浅井基文『集団的自衛権と日本国憲法』を読む。

本書は,ブッシュ政権,小泉政権の成立という,今から16年も前の時代状況を背景に,タイトルになっている,
集団的自衛権,
をめぐる論議を取り上げている。にもかかわらず,先年集団的自衛権を巡って論議されたことを映し鏡のように,炙り出している。結局,日本の政府は,対米関係に振り回されているのである。
その時点で,ブッシュ政権は,
日本が集団的自衛権を行使することに踏み込む,
ことを求めている。それを著者は,
「一つは,ブッシュ政権が進める軍事戦略の見直しとのかかわりです。この軍事戦略の見直しを進めていくうえでは,日本がきわめて重要な要素となるのです。
つまり,アメリカがこれからおこなうことがある戦争に日本が全面的な協力体制をとるようにすること,言いかえれば,集団的自衛権を行使することに踏み込むことが,欠くことができない前提条件になる,ということです。日本がどう出るかによって新しい戦略の行方が決まる,といっても決して言い過ぎではありません。
もう一つ実際的な問題として,これまでの日米軍事関係,とくに日本のこれまでの対応に対する不満がブッシュ政権の内部で強まってきたことも無視できません。日本の集団的自衛権の行使に踏み込まない限度での対米協力に終始してきたことを,ブッシュ政権はもはやこのままにしておくことはできないと考えるのです。」
とし,そして,こう書き加える。
「以上二つの事情に共通することがあります。つまりいずれの場合にも,ブッシュ政権は日米軍事関係のあり方を,集団的自衛権を軸にして根本的に変えようとしているということなのです。」
この帰結が,自衛隊のイラク派兵,に行き着くのである。
国務省の副長官アーミテージは,
「アメリカと日本―成熟したパートナーシップに向けて」
という,いわゆる「アーミテージ報告」を,ブッシュ政権成立前に出してる。
「改訂された日米防衛協力のための指針(新ガイドライン)は,(日米)同盟において日本が役割を拡大するうえでの出発点(フロア)であって最終目標(シーリング)ではない…。(中略)日本が集団的自衛権を禁止していることは,同盟の協力にとって制約であり,この制約を除くことによって安全保障上の協力がより緊密かつ効果的になる」
今回の安倍政権の集団的自衛権をめぐる法制化は,ほぼこの報告の敷いた路線に応える対応ということがわかり,
「九・一一事件がおこった後,特に国務省のアーミテージ副長官…が『旗を見せろ』とせまってから,小泉首相は血相を変えて動き始めました。アメリカの報復戦争を無条件で全面的に支持しただけではありません。自衛隊を海外派兵して,アメリカの軍事行動を支援する方針を追求したのです。それが特措法であり,この法律を根拠にした自衛隊の海外派兵でした。」
という経緯は,今日見るとき,著者の,
「特措法と海外派兵は,事件に対処するための例外的なもの,と受け止めるとしたら,それはとんでもない間違いです。それは,集団的自衛権行使というアメリカの対日要求を実現し,憲法九条の枠組みを最終的にとりはらうための布石です。」
という言葉は,集団的自衛権法制化の露払いだったということがはっきりわかるのである。
「集団的自衛権に関する政府の憲法解釈は,一見明確です。それは,他衛を本質とするいわゆる集団的自衛権の行使は,憲法九条のもとでは認められない,とするものです。この解釈は,集団的自衛権の本質…を踏まえたもの,といえます。
しかし実際には,アメリカが対日軍事要求をエスカレートするにしたがって,保守政治は,集団的自衛権を禁止する憲法第九条をなんとかしたい,と動いています。」
そして,「特措法」では,
武力行使にあたらない,
戦闘行為がおこなわれておらず,活動期間を通じて戦闘行為が行われないと認められる地域に限定する,
という方針で,
「日本は武力行使しないんですよ。個別自衛権,集団自衛権の問題は,武力行使する場合のことでしょう。(中略)テロ根絶,テロ抑止のために支援,協力態勢をつくるというのが今考えている新法の考え方である。」
「アメリカは個別自衛権でこのテロとの闘いに向かっている。日本は集団的自衛権でもない,個別自衛権でもない,国際協調だ」
等々と詭弁で潜り抜け,まさに集団的自衛権行使の露払いを果たしたことになる。
「つまり,武力行使はしないということによって,特措法は憲法違反という批判を入り口で封じる。また,集団的自衛権の問題も武力行使とのかかわりあいで問題になるわけだから,武力行使はしないと言い切ることで,特措法を集団的自衛権とのかかわりで批判する動きに対抗する。特措法では海外出動する自衛隊は武力行使することも予定しているが,その問題については,…自然権的権利の行使としての武器使用ということで言いぬける,ということなのです。」
このやりとりを見ると,集団的自衛権法制化で,意識的に集団的自衛権を個別自衛権と混同させることで誤魔化した経緯を思い起こさせる。著者は,
「憲法違反のことをやろうとしながら,そういう批判を言いのがれるだけのために,政府がいかにごまかしの議論をすることにきゅうきゅうとしているか,…。こういうやり方がまかり通ってしまったことが,戦後日本の安全保障のあり方について,私たちの健全な思考をさまたげてきたと思います。」
と書く。それは,16年たっても,いささかも変わらず,対米重視とは聞えがいいが,アメリカ政府の意向にふりまわされている姿勢だけが際立つだけである。当時,自由党の党首小沢一郎は,
「反テロのムードに便乗して,なし崩しに既成事実をつくろうとしている。その体質と手法は戦前の昭和史と同じ」
と喝破している。そのなし崩しは,ほぼ憲法九条を空洞化するところまできた。それは,九条にとどまらず,
基本的人権,
も,何よりも,
議会制民主主義,
も,さらには,
三権分立,
までも,ほぼ空洞化しつつある,憲法九条の空洞化は,
戦後日本の空洞化,
そのものの象徴である。
参考文献;
浅井基文『集団的自衛権と日本国憲法』(集英社新書) |
法務官 |
北博昭・NHKスペシャル取材班『戦場の軍法会議:日本兵はなぜ処刑されたのか』を読む。

本書の中心になっている取材は,ある兵隊を,
逃亡罪
で,処刑した事件である。
「その事件が起きたのは,1945年(昭和二十年)2月のフィリピン。米軍から激しい攻撃を受けた日本軍の部隊が,ルソン島北部にある山岳地帯に追い込まれ,食糧も弾薬も底をついたため,兵士たちは飢えや病気に苦しんでいた。こうした中,悲劇は起きた。中田富太郎という二二歳の海軍の上等機関兵が,食糧を求めて周辺をさまよい,部隊を離れたため『逃亡罪』の容疑で逮捕された。『軍法会議』と呼ばれる軍の法廷が屋外で開かれ,裁判官を務めた上官たちが,中田に死刑判決を下す。そして,銃殺刑によって若い命が失われた。」
その軍法会議に立ち会った法務官は,メモを残していた。
「中田富太郎はの死刑宣告あり。これは犯罪事実自体としては死刑宣告に値せざるやに認めらるるも(中略)遂に処刑を選ぶこととしたるものなり」
中田は,奔敵未遂・略奪・窃盗の容疑で,死刑に処せられる。
「軍法会議では,通常五人いる裁判官のうち,四人を軍人…,さらに軍人の中でも階級が一番上の兵科将校が裁判長を務めていた。(中略)五人の裁判官のうち必ず一人は,『軍人』ではない『文官』の『法務官』が担当することが法律で定められていた。」
後に法改正がなされ,法務官も武官とされることになるが,戦時下での臨時軍法会議(では控訴審はない)で,法務官がこう記録しているのである。その法務官のメモには,
犯罪犯行表,
があり,その供述調書には,
「空腹に耐えかね,部隊から逃走す」
という記述がいっぱいある。
「おそらく中田も食糧をとりに部隊を抜け出して捕まったのではないか」
と,取材の過程で,体験者が語る。その人は言う。
「日本軍上層部の『現地調達』というバカな考え。これがすべての敗因ですよ。食糧を送り込まずに,現地で調達せぇ,って無茶で無謀な戦略です。それも日本軍は,前線へ行けば行くほど食糧が無いんです。米軍は逆ですよ。前線に行けば行くほど,豪華なレーション(軍に配給される食糧パック)が飛行機でばらまかれる。それに日本軍の上官連中は,食糧を独り占めにしていた。」
現地にいたもう一人の目撃者は,
「バヨンボンでおかしなことがあってな。ある戦友が突然処刑されたんや。藪の中で。」
と,
語る。法務官と同行していた録事(事務官)は
「裁判は,屋外で行われ,米軍の飛行機が頭上を通過する度に木陰に隠れて中断したこと,中央に三人の裁判官が座り,向かって上手に録事,下手に検察官が座っていたこと。そこで裁判官から罪状を告げられたこと,一一人を裁いた裁判は一時間程度で終わった」
と語り,中田上級機関兵について,
「今度逃亡したら,向こうに入ってこちらの様子がみんな分かるから処刑にされたんだ」
ということを,誰かから聞かされたことを覚えていた。中田は英語が堪能で,
「これは逃亡したら日本の軍隊の情報がみんなアメリカにつうじちゃうんじゃないか…。(中略)中田は死刑にしないとマズいという“空気”が流れたんです。」
と。
「“空気”という責任が極めて曖昧なものによって『法の正義』がねじ曲げられ,軍隊という“大の虫”を生かすために,一人の兵士という“小の虫”の命が奪われる。」
しかし,これは,ほんの一例に過ぎない。メモにはこうある。
「16名密に準備の上兵器食糧携行二月一八日逃亡せり。外に一二名は正に非ざることを知り帰隊せしをもって厳重告諭の上総員特攻に使用。国賊の汚名をそそがしめんとす。」」
つまり,
「逃亡兵を軍法会議にかけることなく,代わりに自らの命と引き替えに,敵に体当たりをする特攻作戦に使われた」
のである。体験者は,
「私はそれを逃亡だと思ってないんですよ。(中略)食うもの食わせて,飲むもの飲ませとったら,にげやしませんよ。」
そして「特攻」について,
「切り込みのことですよ。決死隊ですよ。もう行って死んで来いって。生きて帰ってくるなということですよ。これで帰ってくれば,今度はもう味方にやられるわけですよ。」
といい,そしてこう付け加える。
「上官にとって,兵隊の数が減れば“口減らし”にもなる。酷いものですよ。(中略)だけど,食べ物がないから,人を減らすしかないんですよ。(中略)食糧を捜しに部隊から一時でも離れた兵隊を,『敵前逃亡』だという罪をなすりつけ,決死隊に送れば,…責任をとがめられることもない。」
しかし,そういう汚名を着せられた,遺族は汚名を雪ぐ機会もないまま,しかもある時までは,年金までも支払われなかった。唯一の名誉回復の裁判(吉池裁判)も,請求を棄却された。
戦後軍の法務官だった人たちは,多く法曹界において大きな影響力を発揮した。そして,
「複数の元法務官は,戦争被害を受けた一般の人たちによる賠償請求を国が斥ける根拠になってきた『受任論』という考え方の形声に関わっている」
という。判決文に曰く,
「戦争犠牲,戦争損害は,国の非常事態のもとでは,国民の等しく受忍しなければならないところ」
と。法務官は,自分の責任も放棄し,責任を取るべき人間をも免責し,国をも免責するという,二重三重に,無任性を発揮したというべきである。
「軍法会議で不当に処刑された兵士の遺族は未だに苦しんでいて,名誉の回復がなされていない。…そもそも検証すること自体が不可能になっているのは事実である。“国家の非常事態だったから”,“当時の法律にもとづいてやっていたから”などの理由で,戦時中に行われたことを戦後検証することさえ避けてきた」
というより,逃げてきた法曹界である。
「誰ひとりとして,軍法会議の実態に真摯に向き合った元法務官はみあたらなかった。」
このことは,当時しかるべき地位にいたほとんどすべての人間に当てはまる。
参考文献;
北博昭・NHKスペシャル取材班『戦場の軍法会議:日本兵はなぜ処刑されたのか』(NHK出版) |
避決定 |
森山優『日本はなぜ開戦に踏み切ったか―「両論併記」と「非決定」』を読む。

本書の意図を,著者が「あとかぎ」で,
「これは,大本営政府連絡懇談会(連絡会議)における『国策』策定という当該期の意思決定の『制度』を対象に,開戦過程に対して筆者なりの説明を試みたものである。しかし『非決定』というネーミングのインパクトが強かったためか,『非決定』なのに開戦を決定したではないか,という批判も受けた。今にして思えば,『避決定』としたほうが実態に近かったかもしれないと反省している。このため,本文中では『非(避)決定』としている。」
と書く。本書のサブタイトルにある,
「両論併記」と「非決定」
とは,「明確な意思決定が困難な場合の国策」決定プロセスの,
「コンセンサス方式による文案の決定のありよう」
を指す。それは,
「@『両論併記』=一つの『国策』の中に二つの選択肢を併記する。二つどころか,多様な指向性を盛り込み過ぎて同床異夢的な性格が露呈する場合もある。
A『非(避)決定』=『国策』の決定自体を取り止めたり,文言を削除して先送りにすることで対立を回避する。
B同時に他の文書を採択することで決定された『国策』を相対化ないしは,その機能を相殺する。」
と,著者は,整理する。そして,
「となると,なぜ日米開戦のような重大問題で,これら当事者全員の意思決定が可能となったのだろうか。それは,日米開戦が,それ自体を目的として追求された結果,選択されたわけではなかったことも一因である。」
そのプロセスを見ていくのが本書の狙いになる。
「その中で明らかになってくることは,むしろ,効果的な戦争回避を決定することができなかったために,最もましな選択肢を選んだところ,それが日米開戦だったという事実である。」
1940年以降,政府と統帥部との関係緊密化の試みとして設けられた,
大本営政府連絡懇談会 ,
で,国家の方針を定める「国策」が決定されることになったが,そこで41年7月から42年の「対英米蘭開戦の件」まで,10件以上の「国策」が決定される。しかし,
「たとえば,…1941年7月2日に御前会議で決定された『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱』…は,対英米戦に関する重大な文言が認められた『国策』であった。ここでは,仏印とタイへの進出による南方進出態勢の強化がうたわれたが,そのためには『対英米戦を辞せず』とされていた。日本は,この決定に従って南部仏印に進駐し,英米蘭の対日全面禁輸を招来した。『対英米戦を辞せず』と大見得を切ってまで決定された『帝国国策要綱』だったが,つきなる措置を決めた…『帝国国策遂行要領』(9月6日)では,外交交渉と戦争準備を並行して進め(『両論併記』),開戦の判断は10月上旬まで先送り(『非(避)決定』)されていたのである。
ところが,近衛内閣は期限が過ぎても判断をなし得ず,10月中旬に崩壊した。そして新たに組閣した東条には『白紙還元の御諚』が下され,『国策』は反故となった。八月末から十月までの間は,国際情勢が激変した時期ではない。つまり,日本はいったん決定されたはずの政策を実行に移すまでの間に,内閣の崩壊と更なる根本的な政策内容の検討を余儀なくされたのである。このような『国策』とは,いったい何なのであろうか。」
この「避決定」たるゆえんを,こう「あとがき」で書く。
「後世の目から冷静に評価すれば,,戦争に向かう選択は,他の選択肢に比較して目先のストレスが少ない道であった。海相の任命,被害船舶の算定,海軍の開戦決意,『聖断』構想,天皇の作為,いずれもが,もし真剣に実行しようとしたら,それまでの組織のあり方や周囲との深刻な軋轢が予想された。実は,回避されたのはそのような種々の係争が予想される選択肢だったのである。つまり,内的なリスク回避を追求した積み重ねが,開戦という最もリスクが大きい選択であった。にもかかわらず,当事者にとっては,開戦は三年めの見通しのつかないあいまいな選択肢だった。ようするに,目の前の軋轢を回避し,選択の結果についても判断を避けることが可能になる。開戦決定は,一見非(避)決定から踏み出した決定に思えるが,非(避)決定の構造の枠内にとどまっていたのである。
全く逆の発想もある。それは何もしないという選択,意図的な非(避)決定の貫徹,つまり臥薪嘗胆である。しかし,これは受苦の連続となることは必定だった。確実に国力が低下して行くなかで,状況の好転をひたすら待ちつづける。小役人的に目先のリスクを回避するのに汲々としていた当時の指導者層に,あえて『ジリ貧』を選ぶというような,そんな肝が据わった行動が期待できただろうか。」
と切り捨てる。ここで言う臥薪嘗胆とは,アメリカの石油禁輸措置を受けて,東条首相が示した,
戦争することなく臥薪嘗胆,
直ちに回線を決意し戦争によって解決,
戦争決意の下に作戦準備と外交交渉,
という選択肢の,「臥薪嘗胆」つまり,石油禁輸に堪える,ということを意味する。しかし,陸軍が,中国よりの撤兵を拒む以上,対米交渉も先行きの見通しは立たない。
「浮き彫りになったのは,結局どんな選択肢をとるにせよ,日本に明るい未来は来そうにないということであった。種々の限定付きであるにせよ,最も希望の持てそうな選択肢が南方資源確保のための開戦であった。しかしそれは,希望的観測に根拠を置く,粉飾に満ちた数字合わせの所産だったのである。日本の選択が『ベスト・ケース・アナリシス(全てが良い方向に転ぶことを前提とした分析)』に依拠していたと指摘される所以である。」
「非(避)決定」の一例は,対米戦の主たる戦力となるはずの海軍自体が,
「成算があるのは緒戦の資源地帯占領作戦のみであった。長期戦の見通しは『不明』」
「開戦三年め以降の見通しは不明という態度をとり続けていた」
(中国からの)「撤兵問題だけで日米が戦うなど『馬鹿なこと』という立場」
であった「海軍が戦争やむなし」と決意したのは,「開戦三年め以降の戦局に対する判断を放棄したことと同意義だった」にもかかわらず,結局,
「英米可分論や船舶損耗量の見通しのような,それまでの海軍の立場を揺るがしかねず,かつ周囲との軋轢が予想される戦争回避策を避けた,ということである。つまり決定回避の対象が開戦ではなく,目前の重圧(しかも海軍にとっての)に向けられたのである。そして三年め以降は不明という戦争見通しは,海軍の立場を守るうえでも有効だった。開戦という選択肢の評価は,三年め以降にしか判明しないからである。海軍は組織的利害を優先し,自らが戦争の行方を判断することを放棄した。」
というていたらくなのである。多くの軍人は,たとえば,参謀本部の中堅幕僚は,ぎりぎりまで戦争回避を画策する重臣を,
「皇国興亡の歴史を見るに国を興すものは青年,国を亡ぼすものは老年なり。(中略)若槻,平沼連の老衰者に皇国永遠の生命を託する能わず」
と,冷ややかである。しかし著者は,
「この後,わずか四年を経ずして,永遠の筈の皇国の生命を断ち切ることになる選択をしたのは彼らのほうであった」
と切り捨てる。この間の決定の過程をみるとき,
「そもそも,何故に両論併記や非(避)決定を特徴とする『国策』が必要とされたのであろうか。それは,強力な指導者を欠いた寄り合い所帯の政策決定システムが,相互の決定的対立を避けるためであった。そのための重要な構成要素が,『国策』の曖昧さであった。それでは,臥薪嘗胆,外交交渉,戦争という三つの選択肢から,なぜ臥薪嘗胆が排除されたのだろうか。それは臥薪嘗胆が,日本が将来に蒙るであろうマイナス要素を確定してしまったからであった。これに比較して,外交交渉と戦争は,その結果において曖昧だった。つまり,アメリカが乗ってくるかどうかわからない外交交渉と,開戦三年めからの見通しがつかない戦争は,どうなるかわからないにもかかわらず選ばれたのではなく,ともにどうなるかわからないからこそ,指導者たちが合意することができたのである。」
結局,結果として,
「何のための戦争だったのだろうか。即物的な観点からすれば,石油のためであった。…結果的に,石油のための戦争となったのである。」
ということになる。著者は,陸軍が,中国からの撤兵に反対したのに象徴されるように,
「日本は,自らの政策が破たんしたツケを,自らが傷ついてまで支払う責任感に欠けていた。最低限度の現状維持すら確保できなくなった日本は,それまでの『成果』を無にしないため,」
対英米戦に突入することになる。
こうした意思決定システムの原因は,明治憲法体制にある。著者は,明治憲法体制における政治システムを,図のようにまとめているが,
「明治憲法体制において,天皇は統治権の総攬者の大元帥という絶対的な立場にあったが,同時に責任を負わないことにもなっていた(天皇無答責)。政治的選択には,必ず結果責任がつきまとう。それを担ったのが内閣や統帥部(陸軍は参謀本部,海軍は軍令部)やそれ以外の超憲法機関(枢密院など)だったのである。」
とし,問題は,
「これらがビラミッド型の上下関係ではなく,それぞれの組織が天皇に直結して補佐するようになっていたことである。たとえば,戦争指導については大元帥である天皇に直属している統帥部が輔翼…し,内閣は軍政事項(軍の行政事務。軍の規模や,それを支える予算措置など)を除いてこれにタッチできなかった。」
上記の大本営政府連絡懇談会は,こうした横並びの弊を打破するための策ではあった。
結局こういうシステムを見ていると,明治維新のツケが,結局戦争へと突入させるに至ったとみることができる。とするなら,今日,再び,戦後体制を覆して,明治体制へと戻そうとする試みは,再び,結果として,日本の壊滅へと至るのが必然であるように思える。これは,見事なループ構造に見える。しかし,一度目は,悲劇だが,二度目は,喜劇でしかない。
参考文献;
森山優『日本はなぜ開戦に踏み切ったか―「両論併記」と「非決定」』(新潮選書) |
怪を志す |
岡本綺堂編訳『世界怪談名作集』を読む。

編者の綺堂は,
「外国にも怪談は非常に多い。古今の作家、大抵は怪談を書いている。そのうちから最も優れたるものを選ぶというのはすこぶる困難な仕事であるので、ここでは世すでに定評ある名家の作品のみを紹介することにした。
したがって、その多数がクラシックに傾いたのはまことに已む得ない結果であると思ってもらい たい。
怪談と言っても、いわゆる幽霊物語ばかりでは単調に陥る嫌いがあるので、たとい幽霊は出現しないでも、その事実の怪奇なるものは採録することにした。」
として,以下の17編を採録している。
「貸家」エドワード・ブルワー・リットン
「女王」アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン
「妖物」アンブローズ・ビヤース
「クラリモンド」ピエール・ジュール・テオフィル・ゴーティエ
「信号手」チャールズ・ディケンズ
「ヴィール夫人の亡霊」ダニエル・デフォー
「ラッパチーニの娘 アウペパンの作から」ナサニエル・ホーソーン
「北極星号の船長 医学生ジョン・マリスターレーの奇異なる日記よりの抜萃」アーサー・コナン・ドイル
「廃宅」エルンスト・テオドーア・アマーデウス・ホフマン
「聖餐祭」アナトール・フランス
「幻の人力車」ラドヤード・キップリング
「上床.」フランシス・マリオン・クラウフォード
「ラザルス」レオニード・ニコラエヴィッチ・アンドレーエフ
「幽霊」ギ・ド・モーパッサン
「鏡中の美女」ジョージ・マクドナルド
「幽霊の移転」フランシス・リチャードストックトン
「牡丹燈記」瞿宗吉
たとえば,ポーが入っていないのについては,
「アラン・ポーの作品──殊にかの『黒猫』のごときは、当然ここに編入すべきであったが、この全集には別にポーの傑作集が出ているので、遺憾ながら省くこと
にして、その代りに、ポーの二代目ともいうべきビヤースの『妖物』 を掲載した。」
とあるので,何かの全集の一巻として編集されたものらしい。
この中に,「牡丹燈記」が入るのは,小説といっても,
志怪小説,
であって,今日言う小説ではないので,いささか不釣り合いかもしれない。「志怪」つまり,「怪を志(しる)す」とは,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/434978812.html
で触れたように,
「市中の出来事や話題を記録したもの。稗史(はいし)」
であり, ここで言う,「小説」は,
「志怪小説、志人小説は、面白い話ではあるが作者の主張は含まれないことが多い。」
とされるが,中国明代の小説集『剪灯新話』に収録された『牡丹燈記』は,志怪小説であるのだから,である。
プーシキン,
モーパッサン,
ディケンズ,
というビッグネームも並ぶ中で,何より圧倒的な筆力を見せるのは,プーシキンの,
「女王」
だと思う。「女王の遊び(
骨牌戯の一種)」の必勝の秘策を巡る,一種の怪異譚であるが,主人公(ヘルマン)はそれを手に入れるために,それを知る伯爵夫人に近づくために付き添いの女(リザヴェッタ・イヴァノヴナ)を欺き,それを知る伯爵夫人を脅して知ろうとし,死なしめてしまう。その伯爵夫人の幽霊が訪れ,
「わたしは不本意ながらあなたの所へ来ました」と、彼女はしっかりした声で言った。「わたしはあなたの懇願を容れてやれと言いつかったのです。
三、七、一の順に続けて賭けたなら、あなたは勝負に勝つでしょう。しかし二十四時間内にたった一回より勝負をしないということと、生涯に二度と骨牌の賭けをしないという条件を守らなければなりません。それから、あなたがわたしの附き添い人のリザヴェッタ・イヴァノヴナと結婚して下されば、私はあなたに殺され
たことを赦しましょう」
と言って去る。もとろん,主人公(ヘルマン)は,約束を守らず,三回目に勝負に入った日,
右に女王が出た。左に一の札が出た。「一が勝った」と、ヘルマンは自分の札を見せながら叫んだ。「あなたの女王が負けでございます」と、シェカリンスキイは慇懃に言った。
ヘルマンははっとした。一の札だと思っていたのが、いつの間にかスペードの女王になっているではないか。
と,大敗し,発狂する。
次は,ディケンズの,
「信号手」
を取る。そして,意外にも,こう並べてみても,
「牡丹燈記」
がいい。圓朝が惚れ込んだだけのものはある。その次に,ジョージ・マクドナルドの,
「鏡中の美女」
がいい。
これらのが他の作品と何が違うのか,と考えてみた。大きいのは,
作品の構造の奥行,
ではないか,と思う。それは,作品の主人公のいる世界の更に奥の世界を感じさせるものだ。「女王」だと,
伯爵夫人の過去,
と,
ヘルマンの欺き,
と,
付添女の戸惑い,
と,
ヘルマンの挫折,
とが,別々の世界として同時進行で重なり合う。「牡丹燈記」でいうなら,
主人公,
と
幽霊,
と,
法師,
と
道人,
であり,それぞれ,並行宇宙のように,同時に存在している世界があり,それを自在に行き来する道人が,最後,
九泉の獄屋,
つまり,
地獄,
へと,迷う三人を送りつける,という意味ではさらに向こうに世界がある。重なる世界は,それぞれ異にしても,でも,それが作品に奥行を与える。「信号手」で,「私」がこう書く。
この物語の不思議な事情を詳細に説明するのはさておいて、終わりに臨んで私が指摘したいのは、不幸なる信号手が自分をおびやかすものとして、私に話して聞かせた言葉ばかりでなく、わたし自身が「
下にいる人!」と彼を呼ん
だ言葉や、彼が真似てみせた手振りや、それらがすべて、かの機関手の警告の言葉と動作とに暗合しているということである。
このとき,予兆の世界と実現の世界の重なり合い,ということになる。
怪異は単純ではない。多重宇宙や並行宇宙を挙げるまでもなく,たとえば,この世とあの世は,次元を異にして,同時に存在している,という(メタ化された)目から,見ることなしに,物語世界の奥行が広がることはない。
参考文献;
岡本綺堂編訳『世界怪談名作集』(Kindle版) |
孝明天皇 |
家近良樹『幕末の朝廷―若き孝明帝と鷹司関白』を読む。

本書は,幕末という大きな転換点で,歴史を変える役割を果たした孝明天皇に焦点を当て,
「通商条約の勅許問題を契機に,江戸期を通じて朝幕間最大の政治対立にまで発展した安政五年政変に至る過程を分析しようとする」
ものである。結果,
「本人の意思とは裏腹に重要な役割をはたすことになったのが,孝明天皇であった。ペリー来航に代表される未曾有の対外危機に遭遇した彼は,広く知られているように,安政五年(1858)の時点で,幕府が推し進めようとした開国路線の前に立ちはだかることになる。
もし彼がこうした姿勢を貫かなかったならば,その後の歴史は,我々の知るそれとは相当程度異なるものとなったであろうことは間違いない。だが,孝明天皇は,この時点で,開国路線に待ったをかけ,ここに幕末日本の運命は事実上決した。これ以降,朝幕関係は悪化し,それに伴って日本は動乱の時期に突入する。その結果,最終的には,幕府支配が倒され,長い歴史を誇った摂関体制も一気に廃止されることになる。そして,平安時代より続いてきた伝統的な朝廷のあり方を否定したうえで,天皇を国家元首とする新しい政府(近代天皇制国家)が創出された。」
という,この時期の孝明天皇の揺れ動く意思決定プロセスをつぶさに分析していくのである。
「まず,政変前の平穏であった朝幕関係や朝廷社会の内部」
「つづいて,その後,どう政変が発生したのか」
「そして最終的には,その後の天皇および朝廷社会のあり方にいかなる影響を及ぼしたのか」
を展開する。そこでは,著者は,三点に留意したという。
第一に,
「政変に至る過程を分析するにあたって,孝明天皇の動向を軸にしながらも,従来はほとんど本格的に取り上げられることのなかった一連の人物(関白の鷹司政通など)にも焦点をあてて,じっくり公家社会のじっくり解明する」
サブタイトルに「若き孝明帝と鷹司関白」とある所以である。孝明帝の父,仁孝帝以来三十年関白職にとどまった関白との関係は,なかなか一筋縄ではいかない。本人自身が病弱で,再三辞意を表明しながら,慰留され続けてきた。しかも仁孝帝より一回り以上年上で,しかも,
鷹司家と仁孝・孝明両天皇が同じ血脈(政通の祖父輔平の実兄は,光格(孝明の祖父)天皇の父閑院宮典仁親王),
であったことも,
「両天皇(仁孝・孝明両天皇)にとって,政通は血縁的に親しい感情を持てる相手であり,その分政通には,天皇の支持が当初から獲得しやすかった」
ということも,さらに,鷹司関白が,
「周到な配慮のできる,真に『大人』の関白であった」
からこそ,人心を掌握できた,その人と孝明帝との確執が,大きな作用をしていくことになるらこそである。
第二は,通説となっている,
「孝明天皇は,長期間にわたって朝廷を支配してきた摂家(関白の鷹司政通)に対抗して,天皇権(天皇の権勢)の回復に努めた豪胆な性格の天皇であったこと,その背景に祖父光格天皇の存在が大きく影を落としていることを力説する」
評価に対して,
「安政五年の時点で彼を豪胆な君主に変貌させたのが,すぐれて幕末期に特有の事情によったことを明らかにしようとする」
という本書の狙いは,ほぼ達成されている。気弱で,やさしい配慮(鷹司関白に,辞任後,異例の太閤の称号を贈る)の孝明帝が,どうして頑なに開国を拒むに至った彼の経緯は,説得力がある。そのことが,逆に,合理的で,迷信を排する鷹司関白との対立をもたらすことになっだけである。
第三は,
「幕末期の天皇や公家については,漠然たる形であれ,世界史の流れを理解できない頑迷固陋な人間集団(閉鎖的で狂信的な攘夷主義者の集まり)といった評価が定着しているようだが,この点の再評価を試みる」
とする。
「彼らの主張には,変革を拒否する守旧主義や,欧米諸国の文物・宗教に対する偏見と誤解が色濃く見られた」
ことは確かだが,
「アメリカ等が強制してきた,いわゆる『グローバル・スタンダード』(それは『世界通商の仕向』『万国共通の常例』『世界普通の御法』といったお題目のもと,文化・文明の両面で欧米的価値観を日本側に強引におしつけようとするものであった)への鋭い批判が見られたのも事実である。すなわち,健全なナショナリズムの萌芽がそこには含まれていた」
とも見なし,時代状況の中で,守旧となることが,ある意味を持つことも的確に分析されている。
さて,本書を通読して,つくづく感じたのは,,リーダーが,下々に広く意見を求めることは,多く,責任放棄か,バックアップを求めてということになる,という点である。それは,リーダーが,意思決定することに揺らいでいることが多い。意思決定した後にその是非を求めるのと,その前に意見を求めるのとでは雲泥の差だ。
老中阿部正弘は,ペリー来航後,それまでの意思決定システムを崩し,
「上は天皇・諸大名から,下は幕臣に至るまで,国内の広い層の同意を得て,幕府の方針を決定檣とはかった」
結果,多くは,「存念なし」と,意見すら表明し得ない有様で,
「幕府首脳は,自分たちを援護してくれる筈の『世論』づくりに失敗した」
が,同じことは,老中堀田正睦に勅許を迫られ追い込まれた孝明帝が,取ったのも,
「多くの人々の意見を聴いて,それを参考にする手法(口実)」
であった。
「もし仮に,孝明天皇が,いくら自分は開国に反対すると叫んでも,それが即,朝廷の方針とはならなかったのである。すなわち,長年にわたって,朝廷の方針は関白−両役(武家伝奏と議奏,なかでも武家伝奏)ラインによって決定されてきた。そこで,開国路線にとりあえず待ったをかけるためには,従来の朝廷の最高意思を決定するあり方を,一時的にせよ停止する必要が出てくる。そして,このために天皇が採ったのが,開国に反対する圧倒的な世論を朝廷内に形成し,それでもって開国を阻止する作戦であった。」
一旦開けたパンドラの箱は,元へは戻らない。阿部正弘は,朝廷の意見を聴取するにあたって,
「叡慮に,かよう遊ばされたくと申す思し召しもあらせられ候はば,ご遠慮なく仰せ出され候よう,左候はば,その思し召しにて御取計らいも仕るべく儀と申すことに再応申し述べらる」
と,リップサービスで言ったことが,朝廷側に,
「国家の御大事は公武御一体の御義」
と受けとめさせ,以後,朝廷側に強く意識させることになる。ここでもパンドラの箱を不用意に開けたのである。
リーダーが意思決定に当たって,広く意見を求めることが,結果として,リーダーの思惑通りにはならないことは,今日でも,国民投票に振り回された例で見ることができる。それは,意思決定の先送り以上の悪夢しか生まないようである。
参考文献;た
家近良樹『幕末の朝廷―若き孝明帝と鷹司関白』(中公叢書) |
ポー |
エドガー・アラン・ポー『エドガー・アラン・ポー完全版』を読む。

何十年ぶりかで,再読した。やはり,圧倒的に,『うづしほ』あるいは『メールストロムの旋渦』と題される作品がいい。Kindle版のせいか,森鴎外の訳が載っていて,対比することができる。まず鴎外訳。
「船は竜骨の向に平らに走つてゐます。と申しますのは、船のデツクと水面とは并行してゐるのでございます。併し水面は下へ向いて四十五度以上の斜な角度を作つてゐる船の中で、わたくしが手と足とで釣合を取つてゐますのは、平面の上にゐるのと大した相違はないのでございます。
多分廻転している速度が非常に大きいからでございませう。
月は漏斗の底の様子を自分の光で好く照らして見ようとでも思ふらしく、さし込んでゐますが、どうもわたくしには
その底の所がはつきり見えませんのでございます。なぜかと申しますると、漏斗の底の所には霧が立つてゐて、それが何もかも包んでゐるのでございます。その霧の上に実に美しい虹が見えてをります。回教徒の信ずる所に寄りますると、この世からあの世へ行く唯一の道は、狭い、揺らめく橋だといふことでございますが、丁度その橋のやうに美しい虹が霧の上に横はつているのでございます。この霧このしぶきは疑もなく、恐ろしい水の壁面が漏斗の底で衝突するので出来るのでございませう。併しその霧の中から、天に向かつて立ち昇る恐ろしい叫声は、どうして出来るのか、わたくし
にも分かりませんのでございました。
最初に波頭の帯の所から、
一息に沈んで行つたときは斜な壁の大分の幅を下りたのでございますが、それからはその最初の割には船が底の方へ下だつて行かないのでございます。船は竪に下だつて行くよりは寧ろ横に輪をかいてゐます。それも平等な運動ではなくて目まぐろしい衝突をしながら横に走るのでございます。或るときは百尺ばかりも進みます。又或るときは渦巻の全体を一週します。そんな風に、ゆるゆるとではございますが、次第々々に底の方へ近寄つて行くことだけは、はつ
きり知れているのでございます。
わたくしはこの流れている黒檀の壁の広い沙漠の上で、周囲を見廻しましたとき、この渦巻に吸ひ寄せられて動いているものが、わたくし共の船ばかりでないのに気が付きました。船より上の方にも下の方にも壊れた船の板片やら、山から切り出した林木やら、生木の幹やら、その外色々な小さい物、家財、壊れた箱、桶、板なんぞが走つています。」
次いで佐々木直次郎訳。
「船はまったく水平になっていました、―というのは、船の甲板が水面と平行になっていた、ということです、―がその水面が四十五度以上の角度で傾斜しているので、私どもは横ざまになっているのです。しかしこんな位置にありながら、まったく平らな面にいると同じように、手がかりや足がかりを保っているのがむずかしくないことに、気がつかずにはいられませんでした。これは船の回転している速さのためであったろうと思います。月の光は深い渦巻の底までも射しているようでした。しかしそれでも、そこのあらゆるものを立ちこめている濃い霧のためになにもはっきりと見分けることができませんでした。その霧の上には、マホメット教徒が現世から永劫の国へゆく唯一の通路だという、あのせまいゆらゆらする橋のような、壮麗な虹がかかっていました。
この霧あるいは飛沫は、疑いもなく漏斗の大きな水壁が底で合って互いに衝突するために生ずるものでした。―がその霧のなかから天に向って湧き上がる大叫喚は、お話ししようとしたって、とてもできるものではありません。
上の方の泡の帯のところから最初に深淵のなかへすべすべりこんだときは、斜面をよほど下の方へ降りましたが、それからのちはその割合では降りてゆきませんでした。ぐるぐるまわりながら船は走ります、―が一様な速さではなく―目まぐるしく揺れたり跳び上がったりして、あるときはたった二、三百ヤード―またあるときは渦巻の周囲をほとんど完全に一周したりします。
一回転ごとに船が下に降りてゆくのは、急ではありませ
んでしたが、はっきりと感じられました。こうして船の運ばれてゆくこの広々とした流れる黒檀の上で、自分のまわりを見渡していますと、渦に巻きこまれるのが私どもの船だけではないことに気がつきました。上の方にも下の方にも、船の破片や、建築用材の大きな塊や、樹木の幹や、そのほか家具の砕片や、こわれた箱や、樽や、桶板などの小さなものが、たくさん見えるのです。」
どちらがいいとは言えないが,好みで言うと,(原作がそうなのだろうが)ハイフンを省いた鴎外訳の方が,完結でいい。
それにしても,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%A0
で,
「メイルストロム(ノルウェー語: malstrøm
[発音の仮名転写例:メルストロム]、英語: maelstrom
[発音の仮名転写例:メイルストラム])は、ノルウェーのロフォーテン諸島はモスケン島周辺海域に存在する極めて強い潮流、および、それが生み出す大渦潮を指す語(慣習的な日本語音訳)。
ノルウェー語で「mosk (意:sea splay、波飛沫) + -n
(定冠詞)」の意からなる最寄りの島名 "Mosken" (モスケン)と同じく(あるいは、これを語源として)、現地語(および、英語等)では
Moskenstraumen
(ノルウェー語発音の仮名転写例:モスケンスラウメン)など(その他は#呼称を参照のこと)とも呼ばれ、これを日本語ではモスケンの渦潮(モスケンのうずしお)と訳す(モスケンの大渦巻[モスケンのおおうずまき]などとも呼ぶ)。」
という大渦巻を,スローモーションのように描きだす筆力は,最初に読んだときも,再読,再々読したときも,変らず,圧倒される。
ポーの描く世界は,
「アッシャー家の崩壊」
「黒猫」
「ウィリアム・ウィルソン」
「落穴と振り子」
等々の恐怖小説,あるいは,
「モルグ街の殺人」
「盗まれた手紙」
「マリー・ロジェの怪事件」
「黄金虫」
という,いわゆる,ポー自身が「推理物語(the tales of rasiocination)」と呼んでいた作品群,あるいは,
「十三時」
のようのユーモアもの,いずれも,特異なシチュエーションの作品世界であるためか,昔語りでいう,
むかしむかし,あうるところに,おじいさんとおばあさんが住んでいました,
という,イントロというか,作品世界へのつなぎが必ずある。あるいは,
能のワキ,
シテが登場するための舞台装置を,必ず設えている。あるいは意識的なのかもしれないが,僕には,直接作品世界の中から始めないのが,結構まだるこしかった,というのが正直な感想である。さて,推理小説の嚆矢とされる作品を読みながら,
「マリー・ロジェの怪事件」
の中で,C・オーギュスト・デュパンの,
「もしも理性が真実なものを探して進むのならば、常套なものの面から突き出たものを手がかりにすることによってであって、また、こういった事件についての正しい質問は、『どんなことが起ったか?』ということよりも、『起ったことのなかで、いままでぜんぜん起ったことの
ないのはどんなことか?』ということなんだ。」
というセリフに,物を見るときの鍵が示されている。ポーの推理場面は,たまに現場へ行くこともあるが,多くは,新聞情報,あるいはそこに示される目撃情報から,推測していく。そのプロセスは,まさに情報分析と仮説を立てていく作業そのものだと,感心させられる。デュバンの言う,
「『どんなことが起ったか?』ということよりも、『起ったことのなかで、いままでぜんぜん起ったことの ないのはどんなことか?』」
とは,問題解決手法のEM(飯久保廣嗣)法が,
原因分析(PA:Problem Analysis),
において,
トラブル発生時の「原因究明」において、問題の対象と現象を特定し、発生事象(IS)と比較事実(IS
NOT)の情報収集を行い、その特異性と変化から原因を推定し、対策を講じる思考プロセス,
そのものと同じである。その視点で見るとき,小説的興味とは別に,デュバンの推論は,なかなか興味深いのである。
参考文献;
エドガー・アラン・ポー『エドガー・アラン・ポー完全版』(Kindle版) |
死者の書 |
折口信夫『死者の書・口ぶえ』を読む。

解説によると,「死者の書」は,単行本として上梓される際,雑誌連載時の第一回目と第二回目とは入れ替えられているらしい。つまり,
「彼(か)の人の眠りは、徐(しず)かに覚めて行った。まっ黒い夜の中に、更に冷え圧するものの澱んでいるなかに、目のあいて来るのを、覚えたのである。
した した した。耳に伝うように来るのは、水の垂れる音か。ただ凍りつくような暗闇の中で、おのずと睫と睫とが離れて来る。膝が、肱が、徐(おもむ)ろに埋れていた感覚をとり戻して来るらしく、彼の人の頭に響いて居るもの――。全身にこわばった筋が、僅かな響きを立てて、掌・足の裏に到るまで、ひきつれを起しかけているのだ。
そうして、なお深い闇。ぽっちりと目をあいて見廻す瞳に、まず圧(あつ)しかかる黒い巌(いわお)の天井を意識した。次いで、氷になった岩牀いわどこ。両脇に垂れさがる荒石の壁。したしたと、岩伝う雫しずくの音。」
と始るのは,連載時は,単行本で「六」にあたる,
「門をはいると、俄(にわ)かに松風が、吹きあてるように響いた。
一町も先に、固まって見える堂伽藍がらん――そこまでずっと、砂地である。
白い地面に、広い葉の青いままでちらばって居るのは、朴(ほお)の木だ。
まともに、寺を圧してつき立っているのは、二上山(ふたかみやま)である。其真下に涅槃仏(ねはんぶつ)のような姿に横っているのが麻呂子山(まろこやま)だ。其頂がやっと、講堂の屋の棟に、乗りかかっているようにしか見えない。こんな事を、女人(にょにん)の身で知って居る訣(わけ)はなかった。だが、俊敏な此旅びとの胸に、其に似たほのかな綜合の、出来あがって居たのは疑われぬ。暫らくの間、その薄緑の山色を仰いで居た。其から、朱塗りの、激しく光る建て物へ、目を移して行った。」
が冒頭であった,という。おそらく,これによって,死者である滋賀津彦(大津皇子)の思い人である耳面刀自(みみものとじ)と,万法蔵院に入り込んだ郎女(藤原豊成の娘)とを重ねようという意図からだったと想像される。
作品の構成というなら,むしろ,僕は,「三」の,
「万法蔵院(まんほうぞういん)の北の山陰に、昔から小な庵室(あんしつ)があった。昔からと言うのは、村人がすべて、そう信じて居たのである。荒廃すれば繕い繕いして、人は住まぬ廬に、孔雀明王像(くじゃくみょうおうぞう)が据えてあった。当麻(たぎま)の村人の中には、稀(まれ)に、此が山田寺である、と言うものもあった。そう言う人の伝えでは、万法蔵院は、山田寺の荒れて後、飛鳥の宮の仰せを受けてとも言い、又御自身の御発起からだとも言うが、一人の尊いみ子が、昔の地を占めにお出でなされて、大伽藍(だいがらん)を建てさせられた。其際、山田寺の旧構を残すため、寺の四至の中、北の隅へ、当時立ち朽(ぐさ)りになって居た堂を移し、規模を小くして造られたもの、と伝え言うのであった。そう言えば、山田寺は、役君小角(えのきみおづぬ)が、山林仏教を創はじめる最初の足代(あししろ)になった処だと言う伝えが、吉野や、葛城の山伏行人(やまぶしぎょうにん)の間に行われていた。何しろ、万法蔵院の大伽藍が焼けて百年、荒野の道場となって居た、目と鼻との間に、こんな古い建て物が、残って居たと言うのも、不思議なことである。
夜は、もう更けて居た。谷川の激たぎちの音が、段々高まって来る。二上山の二つの峰の間から、流れくだる水なのだ。」
と,女人結界を破ったとして,万法蔵院の庵室に謹慎したところから始めてもよかったのではないか,と思う。
折口信夫という巨人に申し上げるのも,僭越の極みだが,最初に,滋賀津彦の思いを出してしまったために,それが全体の翳としておおいかぶさるようにはならず,途中で消えていく印象がある。むしろ,郎女が結界を犯して,謹慎しているという背景に,その翳が滲み出てくる方が,完成版のもつ,滋賀津彦が,庚申で尻切れトンボのように消えていくのに比べれば,いいように思う。
ま,しかし,大事なのは,どうも構成ではなく,
語りの構造,
なのではないかと思う。作者は,語りを,滋賀津彦についての,
「おれは活(い)きた。
闇(くら)い空間は、明りのようなものを漂していた。併し其は、蒼黒い靄の如く、たなびくものであった。
巌ばかりであった。壁も、牀(とこ)も、梁(はり)も、巌であった。自身のからだすらが、既に、巌になって居たのだ。
屋根が壁であった。壁が牀であった。巌ばかり――。触っても触っても、巌ばかりである。手を伸すと、更に堅い巌が、掌に触れた。脚をひろげると、もっと広い磐石(ばんじゃく)の面(おもて)が、感じられた。
纔(わず)かにさす薄光りも、黒い巌石が皆吸いとったように、岩窟(いわむろ)の中に見えるものはなかった。唯けはい――彼の人の探り歩くらしい空気の微動があった。
思い出したぞ。おれが誰だったか、――訣(わか)ったぞ。
おれだ。此おれだ。大津の宮に仕え、飛鳥の宮に呼び戻されたおれ。滋賀津彦(しがつひこ)。其が、おれだったのだ。」
と,郎女についての,
「南家の郎女の神隠しに遭ったのは、其夜であった。家人は、翌朝空が霽れ、山々がなごりなく見えわたる時まで、気がつかずに居た。横佩墻内(よこはきかきつ)に住む限りの者は、男も、女も、上の空になって、洛中洛外を馳はせ求めた。そうした奔(はし)り人(びと)の多く見出される場処と言う場処は、残りなく捜された。春日山の奥へ入ったものは、伊賀境までも踏み込んだ。高円山(たかまどやま)の墓原も、佐紀の沼地・雑木原も、又は、南は山村(やまむら)、北は奈良山、泉川の見える処まで馳せ廻って、戻る者も戻る者も、皆空足からあしを踏んで来た。
姫は、何処をどう歩いたか、覚えがない。唯家を出て、西へ西へと辿たどって来た。降り募るあらしが、姫の衣を濡した。姫は、誰にも教わらないで、裾を脛はぎまであげた。風は、姫の髪を吹き乱した。姫は、いつとなく、髻(もとどり)をとり束ねて、襟から着物の中に、含(くく)み入れた。夜中になって、風雨が止み、星空が出た。
姫の行くてには常に、二つの峰の並んだ山の立ち姿がはっきりと聳(そび)えて居た。毛孔(けあな)の竪(た)つような畏(おそろ)しい声を、度々聞いた。ある時は、鳥の音であった。其後、頻(しき)りなく断続したのは、山の獣の叫び声であった。大和の内も、都に遠い広瀬・葛城あたりには、人居などは、ほんの忘れ残りのように、山陰などにあるだけで、あとは曠野(あらの)。それに――本村(ほんむら)を遠く離れた、時はずれの、人棲(すま)ぬ田居(たい)ばかりである。」
と,大伴家持についての,
「兵部大輔(ひょうぶたいふ)大伴家持は、偶然この噂を、極めて早く耳にした。ちょうど、春分から二日目の朝、朱雀大路を南へ、馬をやって居た。二人ばかりの資人(とねり)が徒歩(かち)で、驚くほどに足早について行く。此は、晋唐の新しい文学の影響を、受け過ぎるほど享(う)け入れた文人かたぎの彼には、数年来珍しくもなくなった癖である。こうして、何処まで行くのだろう。唯、朱雀の並み木の柳の花がほほけて、霞のように飛んで居る。向うには、低い山と、細長い野が、のどかに陽炎かげろうばかりである。資人の一人が、とっとと追いついて来たと思うと、主人の鞍に顔をおしつける様にして、新しい耳を聞かした。今行きすごうた知り人の口から、聞いたばかりの噂である。
それで、何か――。娘御の行くえは知れた、と言うのか。
はい……。いいえ。何分、その男がとり急いで居りまして。
この間抜け。話はもっと上手に聴くものだ。
柔らかく叱った。そこへ今も一人の伴(とも)が、追いついて来た。息をきらしている。」
という語りを並行させている。それぞれを並べ替えたと解説の言う,
「時間の経過通りに進行していた物語をいったんばらばらに切り離して,あらためて映画のモンタージュのように自由につなぎ合わせたのだ。物語を流れる時間は錯綜し,物語の筋は混乱する。その結果,作品は謎に満ち,複雑な陰影をもつことになった。」
とあるのは,推測だが,こうした語りの対象をつなぎかえた,ということだ。しかし,これは,作家の仕事というより,学者が,素材(あるいは伝承の資料)を,矯めつ眇めつして,並べ替えている作業のように見える。
それは,作家自身の博識の広がりの中,いくつものイメージを重ねて,読み手をその広大な奥行へといざなう。しかし,それは,作家のそれだろうか。むしろ,折口自身が,おのが掌にある世界を,カードのように並べて見せているだけだ。
作品は,語りである。能において,シテが演じるさまざまなものを,ワキは,目撃者として,あるいは,語り手として,語る。そのとき,語りは二重になる。シテは,ワキから見た時,語られているものであると同時に,語る者でもあり,その語りは,幾重にも,重ねられていくことができる。時間軸を重ねることで,幾重にもときとところは,重なり合い,混淆しあって,幻想の世界の奥行になる。
僭越ながら,語りとして言うなら,郎女に語りかける姥の語り,
「郎女は、御存じおざるまい。でも、聴いて見る気はおありかえ。お生れなさらぬ前の世からのことを。それを知った姥でおざるがや。
一旦、口がほぐれると、老女は止めどなく、喋しゃべり出した。姫は、この姥(うば)の顔に見知りのある気のした訣(わけ)を、悟りはじめて居た。藤原南家にも、常々、此年よりとおなじような媼(おむな)が、出入りして居た。郎女たちの居る女部屋までも、何時もずかずか這入って来て、憚(はばか)りなく古物語りを語った、あの中臣志斐媼(なかとみのしいのおむな)――。あれと、おなじ表情をして居る。其も、尤(もっとも)であった。志斐老女が、藤氏とうしの語部の一人であるように、此も亦、この当麻(たぎま)の村の旧族、当麻真人の「氏の語部」、亡び残りの一人であったのである。」
で始まり,
「藤原のお家が、今は、四筋に分れて居りまする。じゃが、大織冠(たいしょくかん)さまの代どころでは、ありは致しませぬ。淡海公の時も、まだ一流れのお家でおざりました。併し其頃やはり、藤原は、中臣と二つの筋に岐(わか)れました。中臣の氏人で、藤原の里に栄えられたのが、藤原と、家名の申され初めでおざりました。
藤原のお流れ。今ゆく先も、公家摂籙(くげしょうろく)の家柄。中臣の筋や、おん神仕え。差別(けじめ)差別(けじめ)明らかに、御代御代(みよみよ)の宮守(みやまもり)。じゃが、今は今、昔は昔でおざります。藤原の遠つ祖(おや)、中臣の氏の神、天押雲根(あめのおしくもね)と申されるお方の事は、お聞き及びかえ。」
という語りこそ,能のワキに近い,語り手ではないのか。だから,語りの構造から言えば,「死者の書」は,
「郎女さま。
緘黙(しじま)を破って、却(かえっ)てもの寂しい、乾声(からごえ)が響いた。
郎女は、御存じおざるまい。でも、聴いて見る気はおありかえ。お生れなさらぬ前の世からのことを。それを知った姥でおざるがや。」
という姥の語りから始まってもいいのだ,とすら思う。僕は,
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic2-2.htm
で書いた中上建次の『千年の愉楽』のオリュウノオバの語りを,あるいは,『奇蹟』の語りを思い描いている。
「どこから見ても巨大な魚の上顎の部分の見えた。その湾に向かって広がったチガヤやハマボウフウの草叢の中を背を丸めて歩いていくと、いつも妙な悲しみに襲われる。トモノオジはその妙な悲しみが、巨大な魚の上顎に打ち当たる潮音に由来するのだと信じ、両手で耳を塞ぐのだった。指に擦り傷や斬り傷がついているせいか、齢を取って自然にまがり節くれだったためか、それとも端から両の手で両の耳を完全に塞ぐのをあきらめてそうなったのか、指と指の隙間から漏れ聴こえる潮音はいっそう響き籠り、トモノオジの妙な悲しみはいや増しに増す。
トモノオジは体に広がる悲しみを、幻覚の種のようなものだと思っていた。日が魚の上顎の先にある岩に当たり水晶のように光らせる頃から、湾面が葡萄の汁をたらしたように染まる夕暮れまで、ほとんど日がな一日、震えながら幻覚の中にいた。幻覚があらわれ、ある時ふと正気にもどり、また幻覚に身も心も吸い込まれてゆく。」
こう語り始められたとき、語り手が向き合っている(語ろうとしている)のは、現のトモノオジかトモノオジの思い出か、あるいはトモノオジの幻想のはずである。
現と幻とかが交錯させるには,語り手をぼかさなくてはならない。作家の知識もいらない。作品自体が,
幻想化,
するとは,幻想を語ることではなく,語りそのものが幻想化することでなくてはならない。それは,語り手自体を,現ともゆめともわからぬものにしていく必要がある。究極イメージしているのは,古井由吉の『眉雨』の語りである。
たとえば、次のような、時枝誠記氏の風呂敷構造の日本語の,「詞」と「辞」になぞらえるなら

辞をもたない語り,零記号化した語りの入子を重ねた語りならどうか。そこには語っている“いま”も
“ここ”もない,幻想も現実も区別する指標はない。「誰がしゃべっているのか。(中略)ディスクールが、というよりも、言語活動が語っている」(バルト)ことになる,そういう語りである。時枝誠記説の,日本語の風呂敷構造では,
辞において初めて、そこで語られていることと話者との関係が明示されることになる。
第一に、辞によって、話者の主体的立場が表現される。
第二に、辞によって、語っている〃とき〃が示される。
第三に、辞の〃とき〃にある話者は、詞を語るとき、一旦詞の“とき”と“ところ”に観念的に移動して、それを現前化させ、それを入子として辞によって包みこんでいる。
辞において,語られていることとの時間的隔たりが示されるが,語られている“とき”においては、“そのとき”ではなく、“いま”としてそれを見ていることを,“いま”語っていることになる。零記号化するとは,その“いま”が消されることで,時間は無限に重ねられ,いつともどことも辿れない中を漂う。
そういう語りこそ,死者の書にふさわしい語りなのではないか。そのとき,もはやワキすらいない。いきなり,幻想そのものが,幾重にも語り重ねられていく。
参考文献;
折口信夫『死者の書・口ぶえ』(岩波文庫)
http://ppnetwork.c.ooco.jp/prod0924.htm
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic1-1.htm
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic1-3.htm
時枝誠記『日本文法 口語篇』(岩波全書 |
ソフト・テクノロジー |
D・A.・ノーマン『人を賢くする道具―ソフト・テクノロジーの心理学』を読む。

原題は,
Things That Make Us Smart;Defending Human
Attriyutes in the Age of the Machine
である。著者は,「日本語版の読者へ」で,
「今日の問題は,テクノロジーのデザインを技術信奉者に任せきりにしてきた点にある。今こそ,日常を生きている人間の側が,コントロールの主体となるべき時である。目標は高いところにある。すなわち,我々が,我々の生み出した機械仕掛けのあるいは電子式の道具とより調和のとれたやり取りができるようになること,である。機械が,人間のニーズに自らを適応させなければならない。今はまだ,人間の側が,機械の気まぐれにつきあわなければせならないことがあまりにも多すぎるのである。」
と述べる。つまり,それは,「まえがき」で述べることにつながっていく。
「我々の社会では,人の生き方に対して機械中心の態度を知らず知らずのうちにとるようになってしまった。人間側よりテクノロジー側の要求に重点をおき,われわれの方が機械のサポート役となることを強いる。これは人間が最も不得意としていることだ。さらに悪いことに,機械中心の見方では,人間は機械と比べて,精密さや繰り返しや正確さが必要な行動が苦手な欠陥品ということになる。こういうことはよく言われるし,社会にも広まっているが,それは人間に対する最も不適切な見方である。」
だから,
「今はわれわれがテクノロジーに仕えてしまっている。われわれは機械中心の見方を覆し,人間中心の見方に変えなければいけない。テクノロジーがわれわれに仕えるべきなのである。これは,テクノロジーの問題であると同時に社会の問題でもある。」
と。これは,一度大学を辞めてコンピュータ業界に入った著者ならではの,
「何よりもわれわれの社会構造こそが,テクノロジーの進む方向と生活へのインパクトの両方を決めている」
という問題意識で,単なる反科学技術としてではなく,
「テクノロジーと人間との関わりを社会問題として捉えなければならない」
という考えに基づく。サブタイトルとなっている,
ソフト・テクノロジー,
とは,ハード・テクノロジーと対比させて使われている。
「精密で正確な測定に頼る科学を『ハード』サイエンスと呼ぼう。観察や分類,主観的による測定や評価に頼らなければならない科学を『ソフト』サイエンスと呼ぼう。そしてこの二つの科学の上に築かれ,これらを活かすテクノロジーをそれぞれハード・テクノロジー,ソフト・テクノロジーと呼ぼう。さて,ハード・サイエンスやハード・テクノロジーは,それ自体が悪いわけではない。問題は,それが置き去りにするものの中にある。ハード・サイエンスは,測定できるものだけを測定し他を無視する。ソフト・サイエンスはこうした忘れ去られている部分を救おうとする。」
今日起こっているのは,
「テクノロジー…が,生活のある一面を意図的に重視し他の面を無視する考え方をもたらす。重視するかどうかはその真の重要性によるのではなく,今日のツールで科学的,客観的に測定できるかどうかという恣意的な条件によるのである。」
ということによる偏りである。これでは,「人を賢くする」道具になりきっていない,というわけである。機械の機能で,人間の機能を測るというのは本末転倒だが,しかし,多く,機械に慣れているか(機械に適合しているか)どうかで,人を測っている。機械をコンピュータに置き換えれば,そういう評価の仕方を当たり前にしている。しかし,それは機械基準で考えているのであって,人のもつ能力を活かしたり,伸ばしたりするように,機能しようとしていない。それでそれでいいのか,そういう社会のあり方でいいのか,という問いが,著者の問題意識であり,本書を貫くテーマである。
著者は,人の認知を,
体験的認知(experimental cognition),
と
内省的認知(reflective cognition)
の二つに分けて考える。
「体験モードにおいて,我々は特別な努力なしに効率良く周囲の出来事を知覚したりそれに反応したりできるようになる。これはエキスパートの行動モードであり,効率的行動のキーとなる要素である。内省モードは比較対照や思考,意思決定のモードである。このモードにより新しいアイデア,新たな行動がもたらされる。それぞれのモードはどちらも人間の行動には重要なものであるが,まったく異なったテクノロジーの支援を必要とするのである。人間の知覚と認知に結びついたこれらのモードの違いに対する十分な理解なしには,テクノロジーに手綱をつけること,つまり製品を人間に適合させることは不可能なのである。」
しかし,現状,どちらかというと,体験モードに偏っている,と著者は見る。
「テレビや他の娯楽メディアの価値に関する意見の対立はこれらの二種類の認知の性質を混同することから起こっている。現在の多くの機械とその使い方がうまくいっていないのは,体験的状況に対して内省のためのツールを,内省的状況に対して体験ツールを与えてしまっていることによる。」
と。確かに,ゲーム感覚で学ぶ等々という体験型のツールは増えている。体験を入口にして誘おうとする傾向は強まっている。まさに,器械に使われている。体験モードは,
「新しい体験を得ることができても,人間がものごとを理解するうえでの新しいアイデア,新しいコンセプト,進歩をもたらすことはできない―そうするためには内省が必要なのである。」
今日,それが使えてもそれ自体がブラックボックスになっているモノが圧倒的に増えている。それは,あるいは人間の退化なのかもしれない。ふと,
「学びて思わざれぱ則ち罔(くら)く,思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し」
という孔子の言葉を思い出した。体験と内省は,両輪である。
(メタ化かしなければ)体験しただけでは,自分のスキル,ノウハウにはならない,
というのも同趣旨である。そのためのツールがなにほどあるのか,という著者の問いは,20年以上前なのに,未だ生きていると思う。
参考文献;
D・A.・ノーマン『人を賢くする道具―ソフト・テクノロジーの心理学』(新曜社認知科学選書) |
列伝 |
司馬遷『史記列伝』を読む。

本書は,司馬遷が『史記』において創始した歴史叙述の一形式,紀伝体の,
列伝,
の訳である。『史記』は,
中国の二十四史の一つ,黄帝から前漢武帝までの二千数百年にわたる通史,
であるが,紀伝体は,班固の『漢書』以降の歴代の正史はみなこの形式を踏襲する,とされる。『史記』は,
本記12巻,
世家 30巻,
表 10巻,
書8巻,
列伝 70巻,
からなる。本記,世家は,『春秋』『左伝』に倣う部分があるが,年表,『列伝』は,司馬遷が創り出した。ちなみに,我が国の『日本書記』も,『日本書』か『日本書紀』かの論争はあるが,
『日本書紀』は「紀」にあたる,
ので,紀伝体全体の,『日本紀』の部分のみ,つまり未完,とされる説もある。
列伝とは,
人々の伝記を連ね記したもの,
だが,訳者(小川環樹)は,「伝」について,
「『伝』という語の本来の意味は広義の伝承であり,経書の注釈などが『伝』とよばれるのも,師から門人(たぶん口づたえ)次つぎに語りつがれたからであろう。司馬遷がただ『伝』とは言わず『列伝』の名称をことさら選んだ理由は,いくつかの解釈があるが,私の臆説を言えば,かれはある個人の性格やその一生を叙述することに特別の意義を見出したからであって,単に伝承されたことを転述するのではないと考えたからであろうと考えられる。そうでなければ,『商君列伝』その他ただ一人のことをしるしながら『列伝』というのは奇異である。」
と書く。
それにしても,列伝記載中,生をまっとうしたものは数えるほどしかいない。暗殺されるか,処刑されるか,牢死するか,自決するか,いずれも王や競争相手によって振り回されていく。いやいや王自体が,秦の二世,三世皇帝のように,佞臣に追い詰められていく。斯く言う,司馬遷自身が,匈奴に降伏した李陵を擁護して,武帝の怒りを買い,宮刑(腐刑)という屈辱を味あわされた。
本書の中で,列伝と言いつつ,
ただ一人だけを叙述,
する場合と,
数人併せて一群の伝記,
とする場合があり,後者は,
合伝,
と呼ばれる,「長耳・陳余列伝」のような組み合わせたものと,さらに,
雑伝,
と呼ばれる。テーマで寄せ集めた,例えば,循良な官吏の,
循吏列伝,
漢代儒者の,
儒林列伝,
孔子の高弟七十数人の,
仲尼弟子列伝,
等々がある。訳者の言うように,
「雑伝の中に司馬遷の独特の歴史観または人間観をあらわすものがある。」
ので,たとえば,
刺客列伝,
の,秦王政(始皇帝)の暗殺をねらった荊軻の,有名な,
風蕭々とふきて易水寒(つめ)く
壮士一たび去(ゆ)かば復(ふたた)び還(かえ)らず
歌う場面は印象深いが,秦王暗殺の場面は詳細を究める。そのことについて,司馬遷は,「太史公曰く」として,
「世間では,荊軻といえば,太子丹の運のこと,つまり『天が穀物を雨とふらせた,馬に角がはえた』などの話をひきあいに出す。それは度がすぎる。また『荊軻は秦王に負傷させた』とも言う。すべて正しくない。ずっと以前公孫季功(こうそんきこう)と董生(とうせい)は,夏無且(かぶしょ 御典医。その場に居合わせて薬箱を荊軻に投げつけ,秦王を助けようとした)とつきあったことがあり,彼の事件をくわしく聞き知っていた。わたくしのために話してくれたのが,以上の如くなのである。」
と書く。秦から前漢へと,秦滅亡後,高祖,恵帝,文帝,景帝を経て,武帝の世となっても,見聞の実話が残っている,そういうリアリティを感じさせる。
あるいは,「游侠列伝」も,こういう史書には珍しい。太史公自序は言う。
「苦難にある人を救い出し,金品に困っている人を援助することでは,仁者も学ぶ点があり,信頼を裏ぎらず,約束にそむかないということでは,義人も見習う点があろう。ゆえに游侠列伝第六十四を作る」
と。冒頭に,司馬遷はこう書きだす。
「韓非子は述べている。
『儒は,文の知識によって法律を乱し,そして侠は,部の暴力を用いて禁令を破る』と。」
そして,游侠について,
「游侠とは,その行為が世の正義と一致しないことはあるが,しかし言ったことはぜったいに守り,なそうとしたことはぜったにやりとげ,いったんひきうけたことはぜったいに実行し,自分の身を投げうって,他人の苦難のために奔走し,存と亡,死と生の境目にわたったあとでも,おのれの能力におごらず,おのれの徳行を自慢することを恥とする,そういった重んずべきところを有しているものである。」
と書く。さらに,
「古(いにし)えの游侠については,なにも(伝わらず)知るすべはない。
近世では,延陵(の季子)や孟嘗君・春申君・平原君・信陵君たちは,いずれも国王の親族で,領地をもち大臣の位をもって裕福であったため,天下の人材を招き集め,その名声は諸侯の間にも鳴りひびいていた。かれらも,すぐれていない,とは評することのできない人たちであった。しかしかれらは,たとえば追い風にのって叫びをあげたようなものであって,その声そのものが速さを増したわけではなく,(声を運んだ)風(財産や地位)の勢いがはげしかったのである。
ところが,民間の裏町に住む侠客について言えば,おのれの行いをまっすぐにし,名誉を重んじた結果,評判は天下にひろがり,りっぱだとほめない者とてなかった。これこそ困難なのだ。それなのに,儒家も墨家もどちらも游侠を排斥し棄てさって,かれらの書物に記しとどめはしなかった。秦より前の時代では,民間独行の游侠の事蹟は埋没して伝わっていない。わたしはそのことをきわめて残念に思う。」
とまで書く。あるいは「貨殖列伝」では,おのれの才覚で巨大な富を築いた庶民を書く。太史公自序に,
「官位をもたない全くの平民でも,政治の害にはならず,人びとの活動をさまたげることもなくて,うまい時機を見はからい物の売買をし,それでもって富をふやす。知あるひとは,そこから得るところがあるだろう。ゆえに貨殖列伝第六十九を作る。」
と。
「雑伝の多くは,後世の歴史家といえども,取り上げない人物を主人公とする。」
訳者は,司馬遷の思いをこう仮託する。
「四十八歳で宮刑を受け,不具者とされて以後,かれが歩いた人生の裏側が顔を出しているのだとも言える。かれは否応なしに正字の世界の裏面を考えさせられた。そのことが皮肉な形で,通常は高く評価されない人びとの伝記をも作ることを可能にしたのであった。」
司馬遷の知識の深さ,見識の広さ,と同時に,対象とする歴史を俯瞰しようとする問題意識に,ただ圧倒される。しかも,列伝中の人々の,歴史に振り回され滅びていく悲劇の描写は,生き生きとしているのである。
参考文献;
小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳『史記列伝』(岩波文庫)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%B7
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%8A%E8%BB%BB |
マネジメント |
佐々木圭吾『みんなの経営学―使える実戦教養講座』を読む。

本書の「まえがき」で,著者は,ドラッカーの,
「マネジメントとは,伝統的な意味における一般教養である。」
を引く。経営学があって,企業経営があるのではなく,企業経営という現実があって,経営学がある。経営学は,だから,後追いでしかない。過去の知恵と知識と経験を整理したものだ。ドラッカーの意味は,そういうことではないか,と僕は思う。僭越ながら,歴史学に近い。しかし過去から学ばないものは,何度でも同じ轍を踏むことになる。そういう意味でも,教養である。だから,未来については,教養として以上の役には立たない。
マネジメントのマネージとは,
何とかすること,
であるが,それは,むろん,精神論でも,努力論でも,行動論でもない。いかに,
(誰でも,いつでも,どこでも,何とかできる)仕組み,
をつくるか,ではないか。著者は,「部下が言うことを聞かない」という愚痴を言う上司について,
「直接動かすことのできない他人をいかに動かすか(動いてもらうか)が,マネジメントを考える際の最重要ポイントになります。」
と言っているのは,そういう意味でなくてはならない。だから,
個々の能力発揮の有無,
個々のやる気の有無,
個々のコミュニケーションの是非,
という個人レベルのことを言っているのは,マネジメントではない。
どういう仕組みにすれば,
能力を発揮しやすくなるか,やる気を高めてくれるか,コミュニケーションの齟齬を生まないか,を考えることが,マネジメントでなくてはならない。それは,
仕組み,
や
仕掛け,
や
システム,
を考えることに他ならない。バーナードが,
「権限が委譲されるなんてフィクション(作り話)で,権限が部下によって受容されて初めて成り立つものだ」
というのは,上司と部下の個々人の意思や関係性を言っているのではない。それもまた,
仕組み,
の観点から考えなくては,意味がない。
成果主義,
は,結局業績というカネの面だけで「働き方」の仕組みを作ることで,組織としての仕組みをシンプルにした。しかし,それだけで「働く」仕組みが成り立っていたわけではないために,マイナスだけが目立つ。僕には,マネジメントの,手抜き,怠慢にしか見えない。目に見えるところだけで測るなら,そこだけにしか注力しなくなる。その付けは,マネジメントにとって小さくないはずである。
著者は,フェッファーとサットンの,イノベーティブな企業かどうかの,キークエスチョン,
「失敗した人はどうなりましたか?」
を紹介している。それに対して,
「周囲に失敗した人がたくさんいますよ」
「このヒット商品は大失敗に続く三度目の正直だったんです」
という答えが返ってくるヒット商品連発の企業を挙げ,
「失敗する確率が高い挑戦を自発的に行っていく意欲を高めるためには,組織的な『支え』が必要ではないでしょうか」
と言っているが,この「支え」こそがまさに,
仕組み,
であり,それがトップマターであること,つまり,
マネジメントそのもの,
であることは明白である。あるいは,リーダーシップ(本書でも,リーダー論とリーダーシップ論を混同しているのは気になるが)についても,著者は,
ピーターの法則,
を挙げる。つまり,
人は無能と呼ばれるまで出世する,
である。つまり,その職位に求められる成績を上げられなくなるまでは,出世する,ということだ。これも,実は,
仕組み,
そのものでしかない。当該職位での成績を基に昇進させていく,という仕組みの結果である。それは,育成と評価の仕組みそのものの結果でしかない。
バーナードは,組織が生成・存続していくための要因を,
協働意志,
共通目的,
コミュニケーション,
を挙げたが,目的があって,協働意志とコミュニケーションが必要となる。つまり,
共通目的,
があってこそである。とすると,組織の問題が生まれた時,
「組織的視点を持った人は,組織の具合がおかしくなったとき,『犯人捜し』ではなく,…『やる気はあるのか(協働意志)』『全員が目的を理解し納得しているのか(共通目的)』『メンバー全員のコミュニケーションがとれているか(コミュニケーション)』といった眼鏡で組織を見直す…。」
と著者は書くが,それはマネジメントの視点ではない。僭越ながら,それは傍観者視点である。マネジメントの当事者なら,
やる気があるか,
ではなく,
やる気を高める仕組みはきちんとあるのか(あるいはそれが機能しているのか),
でなくてはならないし,
目的を理解し納得しているか,
ではなく,
目的を理解し納得させる仕掛けはあるのか(あるいはそれが機能しているのか),
でなくてはならないし,
コミュニケーションはとれているか,
ではなく,
コミュニケーションがとれる仕組みはあるのか(あるいはそれが機能しているのか),
でなくてはならない。この発想こそが,
マネジメントは仕組みを考えること,
の肝のはずである。
バーナードが,組織が生き延びるには,有効性と能率が必要であり,それには,
「組織メンバーが従うべき規範や価値基準である道徳準則を創造する必要があり,道徳準則の創造こそが経営者のやそくわりである」
と言っているのは,「経営準則」つま経営ビジョンという目的が明確になってこそ,そのためにどうメンバーのやる気を高め,コミュニケーションが取れるようにするか,というその仕組みを考えていくことになる。まさにそこにこそマネジメントそのものの背骨があるからにほかならない。
参考文献;
佐々木圭吾『みんなの経営学―使える実戦教養講座』(日本経済新聞出版社) |
中島敦 |
中島敦『中島敦全集』を読む。

久しぶりに,「李陵」「山月記」を読み直して,改めて,その硬質な文章に感嘆した。若いころ読んだのとは別の感慨もある。本書の中では,『古譚』の,「狐憑」「木乃伊」「山月記」「文字鍋」がいいが,やはり,
「山月記」
が群を抜く。「山月記」の,李徴の語り,
「何故こんな運命になったか判らぬと、先刻は言ったが、しかし、考えように依れば、思い当ることが全然ないでもない。人間であった時、己は努めて人との交を避けた。人々は己を倨傲だ、尊大だといった。実は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。勿論、曾ての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云わない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。
共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。己の珠に非ざることを惧れるが故に敢て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心
が猛獣だった。虎だったのだ。」
これを何のメタファと見てもよい。いずれ,この固執は,歳を経て顕在化する。虎になるとは限らない。ある意味で,年を経て図に浮かび上がる部分が違うことに気づく。
「山月記」の
「隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。いくばくもなく官を退いた後は、故山、虢略に帰臥し、人と交を絶って、ひたすら詩作に耽った。下吏となって長く膝を俗悪な大官の前に屈するよりは、
詩家としての名を死後百年に遺そうとしたのである。」
あるいは,
「李陵」の,
「漢の武帝の天漢二年秋九月、騎都尉・李陵は歩卒五千を率い、辺塞遮虜鄣を発して北へ向かった。
阿爾泰山脈の東 南端が戈壁沙漠に没せんとする辺の磽确たる丘陵地帯を縫って北行すること三十日。
朔風は戎衣を吹いて寒く、いかにも万里孤軍来たるの感が深い。漠北・浚稽山の麓に至って軍はようやく止営した。すでに敵匈奴の勢力圏に深く進み入っているのである。」
と,中島に漢文の素養があるせいもあり,その文体の作り出す凛とした雰囲気が,中国に題材を取ったものに合っている。『古俗』の,
「盈虚」の,
「衛の霊公の三十九年と云う年の秋に、太子蒯聵が父の命を受けて斉に使したことがある。途に宋の国を過ぎた時、畑に耕す農夫共が妙な唄を歌うのを聞いた。
既定爾婁豬
盍帰吾艾豭
牝豚はたしかに遣った故
早く牡 豚を返すべし
衛の太子は之を聞くと顔色を変えた。思い当ることがあったのである。」
「牛人」の,
「魯の叔孫豹がまだ若かった頃、乱を避けて一時斉に奔ったことがある。途に魯の北境庚宗の地で一美婦を見た。俄かに懇ろとなり、一夜を共に共に過して、さて翌朝別れて斉に入った。斉に落着き大夫国氏の娘を娶って二児を挙げるに及んで、かつての路傍一夜の契などはすっかり忘れ果ててしまった。」
さらに,「名人伝」。子路を主人公にした,
「弟子」の,
「魯の卞の游侠の徒、仲由、字は子路という者が、近頃賢者の噂も高い学匠・陬人孔丘を辱しめてくれようものと思い立った。似而非賢者何程のことやあらんと、蓬頭突鬢・垂冠・短後の衣という服装で、左手に雄雞、右手に牡豚を引提げ、勢猛に、孔丘が家を指して出掛ける。雞を揺り豚を奮い、嗷しい脣吻の音をもって、儒家の絃歌講誦の声を擾そうというのである。」
もいい。しかし,意外に『南島譚』の「幸福」「夫婦」の,のびやかな作品も,作家の気質に合っているような気がする。『南島』の「幸福」の,
「昔、此の島に一人の極めて哀れな男がいた。年齢を数えるという不自然な習慣が此の辺には無いので、幾歳ということはハッキリ言えないが、余り若くないことだけは確かであった。髪の毛が余り縮れてもおらず、鼻の頭がすっかり潰れてもおらぬので、此の男の醜貌は衆人の顰笑の的となっていた。おまけに脣が薄く、顔色にも見事な黒檀の様な艶が無いことは、此の男の醜さを一層甚だしいものにしていた。此の男は、恐らく、島一番の貧乏人であったろう。」
「夫婦」の,
「今でもパラオ本島、殊にオギワルからガラルドへ掛けての島民で、ギラ・コシサンと其の妻エビルの話を知らない者は無い。ガクラオ部落のギラ・コシサンは大変に大人しい男だった。其の妻のエビルは頗る多情で、部落の誰彼と何時も浮名を流しては夫を悲しませていた。エビルは浮気者だったので、(斯ういう時に「けれども」という接続詞を
使いたがるのは温帯人の論理に過ぎない)又、大の嫉妬家でもあった。己の浮気に夫が当然浮気を以て酬いるであろうことを極度に恐れたのである。」
は,中国素材のものと比較すると,語彙はさほどに違わないが,印象が変わるのは,中国素材の作品は,自分の素養で書いているのに対して,『南島譚』などは,ひとつ立ち位置を挙げて,メタ・メタ・ポジションに立っているからではないか,という気がする。
他方,作家とおぼしい人物主題の,「カメレオン日記」の,
「博物教室から職員室へ引揚げて来る時、途中の廊下で背後から『先生』と呼びとめられた。
振返ると、生徒の一人――
顏は確かに知っているが名前が咄嗟には浮かんで来ない――が私の前に来て、何かよく
聞きとれないことを言いながら、五寸角位の・蓋の無い・菓子箱様のものを差出した。」
や,「斗南先生」の,
「雲海蒼茫 佐渡ノ洲
郎ヲ思ウテ 一日三秋ノ愁
四十九里 風波悪シ
渡ラント欲スレド 妾ガ身自由ナラズ
ははあ、来いとゆたとて行かりょか佐渡へだな、と思った。題を見ると、戯翻竹枝ととある。
それは彼の伯父の詩文集であった。」
や,「虎狩」の,
「私は虎狩の話をしようと思う。虎狩といってもタラスコンの英雄タルタラン氏の獅子狩のようなふざけたものでは
ない。正真正銘の虎狩だ。場所は朝鮮の、しかも京城から二十里位しか隔たっていない山の中、というと、今時そんな所に虎が出て堪るものかと云って笑われそうだが、何しろ今から二十年程前迄は、京城といっても、その近郊東小門外の平山牧場の牛や馬がよく夜中にさらわれて行ったものだ。」
は,ちょうど中国ものと南洋ものとの中間に位置する。作品に対する印象の違いは,作品と作家の向き合い方の差のように思われる。素養で書くというのは,漢文の素養で,自家薬篭中のものの如く書く,ということを意味する。そこに硬質の緊張感はある。それは,あるいは漢文というものの,独特の読み下し文の緊張感に依存する。しかし物語世界との距離は小さい。南洋ものは,ある程度の距離があり,その分余裕というか,ユーモアが出る。中間の「三造」ものや「わたし」ものも,ユーモアはなくはないが,どこか自虐的というか,被虐的な翳がつきまとう。
わずか33歳で亡くなった作家の,これを使い分けて書く,才能に驚く。ふと,発想は,
知識と経験の函数,
という言葉を思いだした。意外と,いいのは,ロバート・ルイス・スティーヴンソンのサモアでの晩年を描いた,
『光と風と夢』
だ。日記による自身の独白と,客観部分とを使い分けながら,二面から
スティーヴンソン像,
を描きだそうとする。それは,「彼」として,
「小説(ロマンス)とはcircumstanceの詩だと、彼は言った。事件(インシデントよりも、それに依って生ずる幾つかの場面の効果を、彼は喜んだのである。ロマンス作家を以て任じていた彼は、(自ら意識すると、せぬとに拘わら
ず)自分の一生を以て、自己の作品中最大のロマスたらしめようとしていた。(そして、実際、それは或る程度迄成功したかに見える。)従って其の主人公たる自己の住む雰囲気は、常に、彼の小説に於ける要求と同じく詩をもったもの、ロマンス的効果に富んだものでなければならなかった。雰囲気描写の大家たる彼は、実生活に於て自分の行動する場面場面が、常に彼の霊妙な描写の筆に値する程のものでなければ我慢がならなかったのである。傍人の眼に苦々しく映ったに違いない・彼の無用の気取(
或いはダンディズム)の正体は、正しく此処にあった。)
の文を地とすることで,「日記」の文が図として浮かび上がる。
「性格的乃至心理的小説と誇称する作品がある。何とうるさいことだ、と私は思う。何の為にこんなに、ごたごたと性格説明や心理説明をやって見せるのだ。性格や心理は、表面に現れた行動によってのみ描くべきではないのか?(中略)
さて、又一方、ゾラ先生の煩瑣なる写実主義、西欧の文壇に横行すと聞く。目にうつる事物を細大洩らさず列記して、以て、自然の真実を写し得たりとなすとか。その陋や、哂うべし。文学とは選択だ。作家の眼とは、選択する眼だ。絶対に現実を描くべしとや?誰か全き現実を捉え得べき。現実は革。作品は靴。靴は革より成ると雖も、しかも単なる革ではないのだ。」
「自己告白が書けぬという事は、人間としての致命的欠陥であるかも知れぬことに思い到った。(それが同時に、作家としての欠陥になるか、どうか、之は私にとって非常にむずかしい問題だ。或る人々にとっては極めて簡単な自明の問題らしいが。)早い話が、俺にデイヴィッド・カパァフィールドが書けるか、どうか、考えて見た。
書けないのだ。何故?俺は、あの偉大にして凡庸なる大作家程、自己の過去の生活に自信が有てないから。単純平明な、あの大家よりも、遥かに深刻な苦悩を越えて来ているとは思いながら、俺は俺の過去に(ということは、現在に、ということにもなるぞ。しっかりしろ!
R・L・S・)自信が無い。幼年少年時代の宗教的な雰囲気。それは大いに書けるし、又書きもした。青年時代の乱痴気騒ぎや、父親との衝突。之も書こうと思えば書ける。むしろ大いに、批評家諸君を悦ばせる程、深刻に。」
「三造」ものは,ひいき目にみても,後世には残らぬが,この作品の持つ厚みは,今日読んでも,新たな驚きがある。ただ,この手法が,好いかどうかは好みが分かれようか。
中島敦については,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E6%95%A6
に詳しい。ロバート・ルイス・スティーヴンソンについては,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%B3
に詳しい。
参考文献;
中島敦『中島敦全集』(Kindle版) |
志異 |
蒲松齢 『聊斎志異』を読む。

本書は,怪異文学の最高峰と言われる『聊齋志異』の,490余篇に及ぶと言われる作品の中の,21作のみの,いわば,『聊斎志異』の触りにすぎない。ほとんどが,田中貢太郎訳であるが,最後の一作,『石清虚(せきせいきょ)』のみが,国木田独歩の訳である。
作者は蒲松齢,聊齋は作者の号および書斎の名であり,書名の,『聊齋志異』とは,
「聊齋が怪異を記す」
の意味である。
志怪
http://ppnetwork.seesaa.net/article/434978812.html
で触れたように,これも,
志怪小説,
に入る。「志怪」とは,
「怪を志(しる)す」
という意味であり,「志」という字は,
「士印は,進み行く足のかたちが変形したもので,之(いく)と同じ。士女の士(おとこ)ではない。志は『心+音符之』で,心が目標を目指して進み行くこと」
とある。意味には,「しるす」「書き留めた記録」という意味もある。「怪」の字は,
「圣は,『又(て)+土』からなり,手でまるめた土のかたまりのこと。塊と同じ。怪は,それを音符とし,心を添えた字で,丸い頭をして突出したいような感じを与える物のこと」
とある。で,「あやしい」「見馴れない姿をしている」「不思議である」という意味になる。ついでに,
「志異」
の,「異」の字は,
「『大きなざる,または頭+両手を出したからだ』で,一本の手のほか,もう一本別の手をそえて物を持つさま,同一ではなく,別にもう一つとの意。」
とある。だから,「異類」「異端」「異様」等々,
普通とは違った奇妙な事がら,
といった意味になる。「怪異」ともいうので,
志怪,
と,
志異,
との差はないようだが,敢えて差異を言えば,
怪しい,
より,
異なる,
と言うところなのではないか。「志異」と敢えて,言ったのには,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/444432230.html
で触れた「怪奇」とは異なる,という意味が含まれているのか,と想像する。
ここで言う,「小説」は,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/432692200.html
で触れたように,
「市中の出来事や話題を記録したもの。稗史(はいし)」
であり,
「志怪小説、志人小説は、面白い話ではあるが作者の主張は含まれないことが多い。」
とされる。しかし,本書の巻末には,
「鄒濤の『三借廬筆談』によると彼は茶とパイプを傍ら置いて大通りに座し、道を通った者をひき止めては語らって奇異な事柄を収集し、気に入るものがあればそれを粉飾して文にしたという(ただし魯迅はこの話を疑っている)。こうして40歳の時には12巻・490余篇に及ぶ志怪小説『聊斎志異』が完成された。聊斎志異の完成後も蒲松齢は同郷
の王士禎の協力を得て文章の改易を続け、死の直前まで行っていた。 聊斎志異は蒲松齡の死後刊行された。」
とある。「小説」の,
「市中の出来事や話題を記録したもの。稗史(はいし)」
でいう,稗史とは,
「昔、中国で稗官(はいかん)が民間から集めて記録した小説風の歴史書。また、正史に対して、民間の歴史書。転じて、作り物語。転じて,広く,小説。」
であり,それが転じて、作り物語。転じて,広く,今日言う,虚構としての小説になっていくが,ここに登場するものは,
「面白い話ではあるが作者の主張は含まれないことが多い。」
という結構を保ち,
「内容は神仙、幽霊、妖狐等にまつわる怪異譚で、当時世間に口伝されていたものを収集して小説の形にまとめたものである。」
さて,だから,本書の第一話,
考城隍(こうじょうこう),
は,
「予(聊斎志異の著者、蒲松齢)の姉の夫の祖父に宋公、諱をZといった者があった。」
と始る。聞き書きのスタイルを取る。「小説」の結構とは,このことである。
おもしろいのは,第十五話,
促織(そくしょく),
である。「促織」とは,
こおろぎ,
とルビがふられている。
「明の宣 宗の宣徳年間には、宮中で促織あわせの遊戯を盛んにやった」
ので,民間から献上させた。貧しい主人公は,ある知らせで知った場所で,促織を捕まえる。
「それは大きな尾の長い、項(うなじ)の青い、金色の翅をした虫であった。」
しかし,それを息子が誤って殺してしまう。叱られた子供は井戸に落ちるが,意識がもうろうとしている。そんな時,小さな虫を捕まえる。
「それを見ると
促織の上等のものとせられている土狗(どこう)か梅花翅(ばいかし)のようであった。それは首の角ばった長い脛をした 虫」
であったが,小ささいわりに強く、
「宮中に入ると、西方から献上した蝴蝶、蟷螂、油利撻、青糸額などいう有名な促織とそれぞれ闘わしたが、その右に出る者がなかった。そして琴の音色を聞くたびにその調子に従って舞い踊ったので、ますます不思議な虫とせられた。天子は大いに悦ばれて、詔をくだ」
され,献上した撫軍(ぶぐん),邑宰(むらやくにん)を介して,主人公にも巡り巡って恩賞があり,
「数年にならないうちに田が百頃、御殿のような第宅、牛馬羊の家畜も千疋位ずつできた。で、他出する際には衣服や乗物 が旧家の人のよう」
になった。 意識朦朧とした息子は,
「後一年あまりして成の子供の精神が旧のようになったが、自分で、
『私は促織になってすばしこく闘って、捷(か)って今やっと生きかえった。』」
不思議ではあるが,志怪と志異の差は,こんなところにあるのかもしれない。
参考文献;
蒲松齢 『聊斎志異』(Kindle版) |
気づきトレーニング |
J・オールダム,T・キー,I・Y・スタラック『ゲシュタルト・セラピー−自己への対話』を読む。

原題は,
Risking Being Alive,
「ゲシュタルト・セラピストによって研究開発された心理学的な道具を紹介する考え方,そして,読み物を集めたものです。」
と「はじめに」に,ある。ゲシュタルト・ツール集なのか,と読み終わって,この一文の存在に気づいた。確かに,全15章の各章ごとに,気づきを確認する「実験」4〜11が設けられ,一人で,あるいはパートナーと,15のテーマについて「気づき」トレーニングの実践をしながら,読み進めていく仕掛けにはなっている。
もちろん,
地と図,
のどこ(何)を図とするかに正解があるわけではない。著者の一人,イゴール(Y・スタラック)は,
「今これを書きながら,『私は今どこにいるのだろう』と自問しています。そして,『私は過程の中にいる』というのが答えです。私の一生が終る日まで,私は過程の中にあるでしょう。今の中に存在し,生きているということがもたらす違いは,はっきり反応することができるということです。」
と書く。
いま・ここ,
にあるとは,そういうことなのだろう。それは,自分が,何を図として見ているか,に気づいていること,でもある。
「『ゲシュタルト』とは,ドイツ語で『かたち,全体のかたち,全体性』を意味する言葉です。(中略)どのような物体,かたち,あるいは形状を認識するば場合でも,まず最初にその物体を周囲から区別するという過程が必要です。つまり,物体は『地』の上に浮かび上がる『図柄』として見られなければなりません。物体に焦点が定められ,『地』との間の境界がはっきりと識別されると,ゲシュタルトが形作られたといわれます。(中略)私たち一人一人は,自分の意識の全体という地の中から,……明確で変化の可能性に富んだ図柄の実体をつくり出す能力を持っているとゲシュタルト・セラピストは考えています。」
この瞬間瞬間の気づきを広げることが,自分自身を理解するよう助ける,とする本書は,
気づきのトレーニング,
の書でもある。気づきの対象は,
外側の領域(感覚的な気づき),
と
内側の領域(感覚的な気づき),
だけではなく,
中間の区域(抽象的な気づき),
にも向けられる。つまり,
思考,夢想,空想,過去の思い出,将来への計画,
等々,多くこうした認知が気づきを妨げる。ゲシュタルト・セラピーの創始者フリッツ・パールズは,
「神経症的な苦しみというのは,想像上の苦しみ,空想上の苦しみです。」
というが,不安,恐れ,怒りの多くは,自分の思いが引き起こす。
「私たちは自らの考えと空想の世界に閉じ込められていると,危険を冒して,実際に起こることを体験しないかぎり,自分が考え出した悲観的な予想を試したり,それが正しくないと説明することができなくなります。」
そして,
「ゲシュタルトの気づきのトレーニングは,私たちがある瞬間に感じることそのものと,外の世界で起こっていることそれ自体に私たちの気づきの焦点を合わせることをうながして,固定化した行動様式を崩すことを目的としています。私たちはある特定の瞬間に自分が誰であるかを見るだけでなく,その瞬間に自分がどのように万物の体系に組み込まれているかをも見なければなりません。このようにして初めて,私たちは自分自身と周りの世界にはっきりと反応することができます。しかし,これには危険が伴い,私たちは自分の行動の責任をとらなければならないのです。」
さらに,
「ゲシュタルト・セラピーでは,『責任』という言葉がしばしば『反応能力』を意味するものとして使われます。
普通,日常用いられる『責任』という言葉には,社会から与えられる道徳的,または倫理的な要求という意味を付近でいます。(中略)こうした一般的な意味では,『責任のある』という言葉は,私たちの自然のままとは関係のない一連の期待に対する反応という意味を含んでいます。それに対して反応できる能力を持つということは,私たちが゛どのように選択するかを選ぶという意味を持っています。(中略)重要なことは,私たちは選択することができる,と認識することなのです。」
気づき,
図柄と図,
責任,
反応する能力,
接触,
三つの回避,
等々,と続く各章の流れは,なかなかよく出来ている。気づきの実験を重ねていくことが,
「私たちの生きる世界全体は絶え間なく変化し,私たちはその変化に遅れないように,意識的に気づきを用いなければなりません。世界がいつも新しいと気がつくことは,心をワクワクさせ,本当の喜びにつながることがありますが,私たちは変化が私たちのためのなるようにしなければなりません。変化から常に自分を守ろうとしてはいけません。私たちが好むと好まざるとにかかわらず,世界は変化し続けているのですから。
変化が私たちの役立つためには,『今,この瞬間』に生きていることができる必要があります。『今,この瞬間』は,他のどの瞬間とも違う時であり,『今,この瞬間』に私たちが話している人は,一瞬前に話していた人とは違うのです。この瞬間に生きるためには,私たちはその時に何が起こっているかを決定しなければなりません。それをするためには,瞬間的に,見,触れ,感じ取る選択の自由をもち,そして,ほんの少し前の過去に見たことの記憶にとらわれないようにしなければならないのです。気づきの実検は,手っ取り早い方法です。」
と,有効なのだ,と。で,
「この瞬間に生きることによって,私たちは自分の運命をコントロールすることになる」
と。ある意味,何気なく流さない,という意識,メタ化を重視するところは,西欧的であるが,どこか禅に通じることを,パールズが(どこかで禅を)けなしていた以上に,強く感じさせられる。
参考文献;
J・オールダム,T・キー,I・Y・スタラック『ゲシュタルト・セラピー−自己への対話』(社会産業教育研究所) |
老子 |
福永光司訳『老子』を読む。

第一章の,
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