ホーム 全体の概観 侃侃諤諤 Idea Board 発想トレーニング skill辞典 マネジメント コトバの辞典 文芸評論


書評V


マーケティング3.0

フィリップ・コトラー他『コトラーのマーケティング3.0−ソーシャル・メディア時代の新法則』を読む。

ずいぶん昔,コトラーの,

『[新版]マーケティング原理』

『マーケティング・マネジメント[第4版]』

という大著を読んだ記憶があり,その流れで,「3.0」が気になって,数年前に買ったのに,積読になっていた。2010年上梓なので,少し現在の危機的状況とは乖離があるかもしれないと思って読み始めたが,それをあまり感じさせなかった。

おもしろいのは,

マーケティング3.0

の基本コンセプトが,

「2005年11月,ヘルマワン・カルタジャヤ率いる東南アジアのマーケティング・サービス会社,マークプラスのコンサルタント・グルーブによって生み出された。二年間の共創作業でそのコンセプトを強化したのち,フィリップ・コトラーとヘルマン・カルタジャヤが,ジャカルタで開かれた東南アジア諸国連合(ASEAN)40周年記念セミナーで思案として発表した。…マーケティング3.0は東洋で誕生し,形づくられたもの」

と,「本書が生まれた経緯」にあることだ。それを,日本語訳本としてわれわれは知る破目になっている。

僕は,日本は自画自賛し,円安誘導という短期の恩恵に浴しているうちに,企業も,社会も,国自体も,自己革新を怠り,世界の流れから,周回遅れどころか,何週も立ち遅れてしまったという危機感を持っている。本書を読んで,ますますその感を強くした。

「マーケティング3.0に進んでいる者となるとごく少数」

だそうだが,日本はおそらくその中に入らないだろう。

マーケティング1.0は,製品中心の段階,
マーケティング2.0は,情報化時代の段階,つまり情報技術がコア・テクノロジーになった時代,
マーケティング3.0は,価値主導の段階。消費者としてのみとらえるのではなく,全的存在として捉えて働きかける,

という。端的に,

マーケティング1.0は,製品中心のマーケティング,製品を販売すること,
マーケティング2.0は,消費者志向のマーケティング,消費者を満足させつなぎとめること,
マーケティング3.0は,価値主導のマーケティング,世界をより良い場所にすること,

と,整理している。

「消費者思考のマーケティング2.0と同じく,マーケティング3.0も消費者を満足させることをめざす。だが,マーケティング3.0を実行している企業は,より多きなミッションやビジョンや価値を持ち,世界に貢献することを目指している。社会の問題に対するソリューションを提供しようとしているのである。マーケティング3.0は,マーケティングのコンセプトを人間の志や価値や精神の領域に押し上げる。消費者を全人的存在としてとらえ,消費者としての一面以外のニーズや願望もおろそかにされてはならないと考える。それゆえマーケティング3.0では,感情に訴えるマーケティングを,精神に訴えるマーケティングで補うのである。」

なぜなら,

「世界的な経済危機の時代において,マーケティング3.0は消費者の生活により大きな意味を持つ。社会や経済や環境の急激な変化や混乱に,消費者はこれまで以上にさらされているからだ。病気は世界的に流行し,貧困は増大し,環境破壊は進んでいる。マーケティング3.0を実行する企業は,そのような問題に直面している人びとに解決策と希望を提供するのであり,より高い次元で消費者を感動させるのである。マーケティング3.0における差別化は,企業の価値によって進められる。」

だから,マーケティング・コンセプトは,

マーケティング1.0は,製品開発,
マーケティング2.0は,差別化, 
マーケティング3.0は,価値,

であり,マーケティングのガイドラインは,

マーケティング1.0は,製品の説明, 
マーケティング2.0は,企業と製品のポジショニング,
マーケティング3.0は,企業のミッション,ビジョン,価値,

となる。そして,今日の,

参加の時代,
グローバル化のパラドックスの時代,
クリエイティブ社会の時代,

という三つの力の中,マーケティング3.0は,

協働マーケティング,
文化マーケティング,
スピリチュアル・マーケティング,

の融合だと,本書は主張する。そして,

「マーケティング3.0では,マーケティングはブランドとポジショニングと差別化のバランスのとれた三角形として定義し直される必要がある。」

として,

「3i」

というコンセプトを打ち出す。つまり,

Brand identity
Brand integrity
Brand emage

である。つまり,

「消費者が喩横につながっている世界では,ブランドはポジショニングを明確にするだけでは価値がない。ポジショニングを明確にすれば,ブランドは消費者のマインド内で明確なアイデンティティを持つだろうが,それは必ずしも好ましいアイデンティティではないかも知れないからだ。ポジショニングは本物ではないブランドにだまされないよう,消費者に注意を促す言葉にすぎない。つまり,この三角形は差別化なくしては完全なものにならないのである。差別化は当該ブランドの真のインテグリティ(完全性)を反映したブランドのDNAだ。それは,そのブランドが約束を果たしている確かな証拠であり,約束された性能や満足を顧客に届けるということだ。ポジショニングとの相乗効果を持つ差別化は,自動的に好ましいブランド・イメージを生み出す。」

「ブランド・アイデンティティとは,ブランドを消費者のマインド内にポジショニングすることだ。…消費者に知られ,関心を引くためには,ポジショニングはユニークでなければならない。また,消費者の合理的なニーズや欲求にとって意味を持っていなければならない。それに対しブランド・インテグリティは,ポジショニングと差別化によって主張されていることを実現することだ。誠実であること,約束を果たすこと,そして当該ブランドに対する消費者の信頼を醸成することだ。ブランド・インテグリティの標的は消費者の精神である。」

このとき消費者を「全人的存在としてとらえる」というのは,

マインド,
と,
ハート,

精神,

を持つ人間として,という意味になる。マーケティング3.0は,

「消費者のマインドと精神に同時に訴えかけて,彼等のハートを動かす必要があるということだ。ポジショニングはマインドに買うべきかどうかを判断させる。ブランドが本当に差別化されていれば,精神が買うべきだという判断を強化する。最後にハートが消費者に行動させ,購買の決定を下させるのである。」

価値主導のマーケティング,

においては,企業の

ミッション(なぜ),
ビジョン(何を),
価値(どのようにして)

が問われる。ミッション,つまり,

「その企業がなにをするために存在しているのか」

という「その企業の存在理由」と,ビジョン,つまり,

企業をミッションの未来の状態へと導く羅針盤,

と,価値,つまり,

企業組織の行動規範,

何を大切にしているか,

である。そして,マーケティング3.0では,

「企業のミッションやビジョンや価値に組み込まれた意味をマーケティングすることである。」

前述の,

「ブランドの真のインテグリティ(完全性)を反映したブランドのDNAだ」

とは,ここと関わる。具体例や企業例は,本書をお読みいただくとして,

マーケティング3.0の10原則

を挙げる章で,

マーケティングと価値の関係には三つの発展段階,

があるとして,

第一段階は,マーケティングと価値が分離している(崇高な価値は必要ない),
第二段階は,フーリエ機の一部を社会的コーズ(大義)のために寄付する,
第三段階は,企業は価値通りに行動しようとし,その価値が企業にパーソナリティと目的を与える,

として,2000年の国連ミレニアムサミットで掲げた八つの目標を挙げている。

@極度の貧困と飢餓の撲滅,
A普遍的初等教育の達成,
Bジェンダーの平等の推進と女性の地位向上,
C乳幼児の死亡率の削減,
D妊産婦の健康の改善,
EHIV/エイズ,マラリア,その他の疾病の蔓延防止,
F環境の持続可能性の確保,
G開発のためのグローバル・パートナーシップの推進,

本書で「価値」との統合と言っているのは,地球規模の社会的問題のソリューション,ということなのである。その点から見ると,あるいは,我が国のトップ,企業は,周回遅れどころか,逆走していることにすら気づかないでいるのではないか,と思えてくる。杞憂でなければいいが。

参考文献;
フィリップ・コトラー他『コトラーのマーケティング3.0 ソーシャル・メディア時代の新法則』(朝日新聞出版)

戦国大名

鍛代敏雄『戦国大名の正体 - 家中粛清と権威志向』を読む。


「はしがき」で,戦国大名について,

「戦国の世に生きる大名との意識はあったろうが,『戦国大名』というレッテルを貼られた武将の誰一人として,自分が戦国大名と呼ばれていることを知らない。…戦国大名とは戦国時代に使われていた用語ではなく,歴史用語としての造語である。その本質と考えられる要素で構成された概念であって,厳密に言えば,戦国大名という大名は存在しない。」

と書く。著者は,戦国時代を,

「応仁・文明の大乱(応仁元年(1467))から,室町幕府の滅亡(天正元年(1573))までの約百年間」

とする。ただ,戦国期の始まりとされる応仁の乱の戦国始期には,戦国大名は存在しないので,戦国大名の登場(北条早雲など)期以降,四期に分けて,戦国大名を分類する。

第一世代 十六世紀第一四半期 北条早雲,今川氏親,大内義興
第二世代 十六世紀第二四半期 尼子晴久 毛利元就 北条氏綱,伊達稙宗,大内義隆
第三世代 十六世紀第三〜第四四半期 北条氏康,北条氏政,武田信玄,上杉謙信,伊達晴宗,今川義元,朝倉義景,大友宗麟,長宗我部元親,島津義久
第四世代 十六世紀第四四半期〜十七世紀 伊達政宗,毛利輝元,佐竹義宣,島津家久,上杉景勝,北条氏直

信長,秀吉,家康は,第三世代と同時代に当たることになる。宣教師は,戦国大名を,

「山口の国王(大内義隆),豊後の国王(大友宗麟)」

と,大名を国王と呼び,その領国を,

王国,

と呼び,

「全支配権と命令権を掌握した『屋形』と呼ばれた戦国大名たちは,国の領主であり国王にほかならず,その国は屋形―国衆―小領主−農夫の身分階層と土地の分配によって構成されている」

と見ていた。しかし,第四世代は, 

「前半生は戦国・織豊時代の戦国大名だが,天下人の時代に『仕置』と称した領地宛行(あてがい),すなわち安堵の朱印状によって領地に封じこめられた。」

そうした戦国大名の,

「実像を観察し戦国乱世を生きた彼らの行動規範や思考回路を探索する」

のが本書の目的である。

「大名家中における権力闘争や家臣団の内部紛争,および領域的な支配権を持つ譜代の家臣や独立性の強い一門一族との抗争など,家中の粛清」

による権力掌握プロセスを,

「粛清と王殺し」

として,第一章を始めている。下剋上,つまり,「下が上に克つ」の意味を,著者は,

「いつの時代にもある,権力闘争としての下剋上が,ことさら戦国・織豊の大名や武将の個性として解かれる理由」

を,

「毛利元就のように,守護大名と闘争して地域国家を成立させた非守護系の地頭国人らの下剋上を,戦国大名の典型とする考え方」

と,

「織豊期の下剋上(立身出世・人材登用)の代表が太閤秀吉だったように,信長・秀吉・家康らの家臣も主人にともない身分的上昇が顕著だった…。儒学者・林羅山に系図の真偽を疑われた福岡藩主黒田家にしても叱り,ほとんどの近世大名のルーツが判然としない」

と,

「十五世紀前半はに飢饉の頻発したことから,一揆の時代だった。山科本願寺の一向一揆…,対抗した法華宗の一揆が,…京中の一向宗の御堂を焼き払い,更に山科は灰燼と化し,本願寺は大阪へ移った。このような宗教一揆,宗教戦争の様相について,鷲尾隆康が『一揆の世』と嘆いた」

と,

「『俗姓凡下』と呼ばれた地侍・足軽・土豪商人ら地下人による,自由な『主取り』(主従関係を結ぶこと)や,複数の主人を仰ぐ複線的な主従関係も想定できる。ただし彼らは領主側からは,名字を持って『侍分』を自称しても,所詮『凡下』だと見下されていた。そのような身分上のボーダーラインに生きる人々が一揆の主力だった」

等々という,一種の階層のガラガラポンの様相にあることを挙げている。

そんな中で,戦国大名として権力を掌握していくプロセスを,

父子相克として,武田信虎・信玄,信玄・義信他,伊達家,島津家の内訌,
兄弟内訌として,織田信長・信勝等々,
家中粛清として,毛利元就の井上元兼一族の粛清,尼子等々,
王殺しとして,松平,大友,大内,斉藤等々,

を挙げて,

「戦国大名の軍事国家は,主に家中粛清によって構築された。『王殺し』も含めて,粛清は戦国大名の権力や権威の源泉となった。」

という。「家中」とは,

「大名の家族・親族衆,譜代・外様の家臣を大名の『家』として包括するもので,血縁・姻戚関係と主従関係,および家臣団の横の連帯によって構成された大名家の権力構造」

のことであり,だからこそ,この粛清は,

「家中や分国内で評価され認知されてこそ,権力の安定をみることができた。戦国大名の分国は,あくまでも正当な武威に支えられた軍事優先の主権国家だったのである。」

そういう戦国大名は,毛利元就の遺訓に,

「『天下御競望(ごけいもう)』など決して思ってはいけない」

とあるように,多く,

「家中と自らの領国たる『分国』を死守することに努め,天下の野望はほとんど抱いていなかった」

とされる。分国内では,戦国大名は,自らを,

公儀,

と称し,

「分国中では,戦国大名の公儀以外を排除して,大名の自力で地域国家を統治し,国家主権を形成した。」

しかし,豊臣政権が,全国制覇すると,

「豊臣政権では屈服した大名に対して,秀吉の領地朱印状をもって知行国を宛行(あてが)い,大名としての国主と領土としての分国が,列島規模の上級権力である豊臣公儀によって保証された。このような日本の国家体制のもとでは,戦国大名の自主独立した公儀は存在できない。大名間の戦争は,喧嘩と同様に私戦として断罪され,天下静謐の大義名分を掲げた統一戦争の攻撃対象となった。」

北条家は,その大義の元,二十万の豊臣軍に攻囲,押し潰された。

参考文献;
鍛代敏雄『戦国大名の正体 - 家中粛清と権威志向』 (中公新書)

ヘイト・スピーチ

師岡康子『ヘイト・スピーチとは何か』を読む。

最近ヘイトスピーチ対策法案が,実効性の是非はあるものの,ようやく国会で成立したが,本書(2013年刊行)は,「ヘイト・スピーチ」という言葉が,

「2013年に日本で一挙に広まった『ヘイト・スピーチ』という用語は,ヘイト・スピーチ・クライムという用語とともに1980年代のアメリカで作られ,一般化↓意外に新しい用語である。」

と冒頭で紹介する。そして,その言葉の成立経緯,

「ニューヨークを中心にアフリカ系の人々や性的マイノリティに対する差別主義的動機による殺人事件が頻発したことから,…ヘイト・スピーチ・クライムの調査を国に義務付ける『ヘイト・スピーチ・クライム統計法案』が作成された。これが『ヘイト・スピーチ・クライム』という用語の始まりと言われている。」

から見て,

「ヘイト・スピーチ・クライム・もヘイト・スピーチもいずれも人種,民族,性などのマイノリティに対する差別に基づく攻撃を指す。」

とし,本書の狙いを,

「現在最も焦点化している新大久保,鶴橋などにおける排外主義デモに代表される人種主義的ヘイト・スピーチracist hate speechについて中心的に取り上げるそれは『人種的烙印の一形態としての攻撃』であり,標的とされた集団が『取るに足らない価値しか持たない』というメッセージであり,それ自体が言葉の暴力であると同時に,物理的暴力を誘引する点で,単なる『表現』を超える危険性を有し,『人種的偏見,偏見による行為,差別,暴力行為,ジェノサイド』の五段階の『憎悪のピラミッドとしてしばしば説明される。」

とする。その意図を慮る前に,具体的にヘイト・スピーチを紹介して見れば,一目瞭然。たとえば,

「不逞鮮人追放」「韓国人を絞め殺せ」「うじ虫韓国人を日本から叩き出せ」「寄生虫,ゴキブリ,犯罪者。朝鮮民族は日本の敵です」「よい韓国人も悪い韓国人もどちらも殺せ」「くそ喰い土人撲滅」「害虫駆除」「韓国人売春婦五万人叩き殺せ」等々(新大久保)

「ゴキブリチョンコを日本から叩き出せ」「二足歩行で歩くな,チョンコ分際で」「いつまでも調子に乗っとったら,南京大虐殺じゃなくて,鶴橋大虐殺を実行しますよ」等々(鶴橋)

という具合である。

人を呪わば穴二つ,

という,人への罵詈雑言は,そのまま天に唾するものだが,こういう手合いには,効かない。しかし,日本政府は,基本的に人種差別に消極的だ。それどころか,石原慎太郎をはじめとして,公人自体が,平然とヘイト・スピーチをして憚るところはない。たとえば,慎太郎の発言は,

「不法入国した三国人,外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している。」

「女性が生殖能力を失ってもまだ生きているってのは,無駄な罪です。…もっとも悪しき有害なものはババァ」

「同性愛の人間ってのはかわいそうなんだよ,…遺伝工学の先生に聞いたら,人間に限らず哺乳類ってどんな世界でも必ず何パーセントかは純粋なホモができちゃうんだと」

等々,こういうのを放置できる日本の危険性は,

「偏見を拡散しステレオタイプ化し,差別を当然のものとして社会に蔓延させ,差別構造を強化することである。社会心理学者のゴードン・オルポートによれば,それは憎悪を社会に充満させ,『暴力と脅迫を増大させる連続体の一部』であり,究極的にはジェノサイドや戦争へと導く。」

ドイツでは,ユダヤ人に繰り返したヘイトスピーチが数百万人単位のホロコーストに直結した。ルワンダにおけるフツ族によるツチ族の数十万人の虐殺は,フツ族高官のラジオ報道での「ツチ族はゴキブリだ,叩き殺せ」などのヘイト・スピーチが引き金になった。我が国の関東大震災での虐殺事件も,「朝鮮人が来襲する」「朝鮮人が井戸に毒を投げた」と権力の捏造したデマとヘイト・スピーチが引き金になった。

本書では,「マイノリティ」を,

@一国においてその他の住民より数的に劣勢な集団で,
A非支配的な立場にあり,
B国民の残りの人たちと異なった民族的,宗教的または言語的特徴を有し,
C自己の文化,伝統,宗教または言語を保持することに対して,連帯意識を黙示的であるにせよ示しているもの,

とし,

「例えば,日本における米兵は,Aの要件を満たさないのでマイノリティとはいえず,米兵に対する非難はヘイト・スピーチにはあたらない。」

とする。ヘイト・スピーチに曝された人は,

「性暴力の被害者と同様,PTSDに苦しみ,魂の殺人にまで至り,自死にまで追いつめられる」

という。そして,

「私が本当に許せないのは(在特会ではなくて)このような事態が許されているこの社会の規律と良識です」

という。その通り,我が国は,人種差別にも,民族差別にも,規制に,消極的というか,むしろ抵抗し続けている。

「1979年,自由権規約を批准し,20条によりヘイト・スピーチを禁止する法的義務を負ったが,30年以上その義務を怠ってきた。」

他の人権諸条約に較べると,人種差別条約への取り組みの消極姿勢が際立つ,と著者は言う。

「人種差別禁止法もヘイト・スピーチ・クライム法もヘイト・スピーチ法もないにもかかわらず,法整備を一切行わなかったのである。日本政府の人種差別に対する特異な姿勢がここでもみてとれる。」

国内のヘイト・スピーチの放置は,言ってみれば,そういう為政者の姿勢を反映している。そして,日本政府の,

「現状が,既存の法制度では差別行為を効果的に抑制できず,かつ立法以外の措置によってそれを行うことができないほど明白な人種差別が行われている現状にあるとは考えていない」

との態度は,まさしく現行のヘイト・スピーチを助長するものでしかない。意図的であるとしたら,醜悪である。

本書は,ヘイト・スピーチに法的規制に取り組む欧米,カナダ,法規制に消極的なアメリカ,日本を取り上げつつ,表現の自由を持ち出す慎重論に,

「想像してみてほしい『うじむしゴキブリ朝鮮人』と言われ,どのような対抗言論が成り立つだろうか。…『でていけ』『叩き出せ』という表現も,マジョリティがマイノリティ,とりわけ外国籍者に対して言うからこそ社会からの排除を意味し,生活基盤を失う恐怖につながる攻撃になるのであり,マイノリティの側がマジョリティに対し,『出ていけ』ということは,何ら反撃とはなりえない。」

と述べ,さらに,

「法規制するとヘイト・スピーチとして表れていた勢力が潜在化し,より危険な暴力行為に走るとの主張は,主観的にはどうあれ,表現の自由を社会防衛機能の観点からとらえ,そのためにマイノリティらに言語の暴力のサンドバッグに耐えろと主張しているに等しい。」

少なくとも,国際基準から見たとき,

「人権基準の求める制度のほぼすべてが存在しない」

という現状は,そのまま,ヘイト・スピーチの保護と同じである。恥ずかしいことは,他にも一杯あるが,これが,

美しい日本,

と自画自賛する,我が国の実態である。

参考文献;
師岡康子『ヘイト・スピーチとは何か』(岩波新書)

40の仮説

ロジャー・R・ホック編『心理学を変えた40の研究―心理学の“常識”はこうして生まれた』を読む。

心理学といっても,本書で取り上げているのは,生物心理学,認知心理学,学習心理学,発達心理学,人格心理学,異常心理学,臨床心理学,社会心理学等々と多岐にわたり,生物学,行動科学,認知科学,精神病理学,精神医学と境界線を接している分野も多い。この中から,40の研究を取り上げているが,編者ロジャー・R・ホックは,本書のコンセプトをこう述べている。

「本書のコンセプトは,私の長年にわたる心理学講義から生まれた。心理学の教科書は,その比較的短い歴史において,心理学という科学を育ててきた中核となる研究を基本としている。しかし,教科書では,そういった独創的な研究に対して,その研究が享受すべき関心が払われることはめったにない。研究の過程は,そうした研究による発見がもつ本質,その発見にともなう高揚感がほとんど残っていないくらいまで,要約され内容が薄められている。研究方法や研究による発見についての記述のされ方のせいで,読者が研究の持つ本当の影響力について誤解することさえもときどき起る。(中略)心理学すべての基礎は研究にあり,私たちの人間行動に関する知識・理解が,今日に見られる高度のレベルまで質量ともに発展してきたのは,一世紀に渡る独創的で素晴らしい研究があったからこそであることを考えると,この状況は不幸であると言える。
 本書は,心理学教科書と,心理学を成立させた研究との間にある,かなり大きなギャップを埋めようとする試みである。」

40の選択は,編者自身,

「議論の余地はあるが,心理学の歴史において,もっとも有名で,重要で,影響力があると言ってもよい者たちである。」

と述べるように,異論はあるかもしれないが,

「本書で取り上げた研究は,もっともひんぱんに引用され続けており,発表時に多くの論争を巻き起こし,多くの関連研究が続くきっかけを作り,心理学研究の新分野を開拓したのである。」

取り上げ方は,

1.オリジナルの研究はどこで手に入れられるかがわかるように,入手しやすく,しかも正確な参照先
2.取り上げた研究が生まれることになったこの分野における背景や,研究者が研究プロジェクトとを実行するにいたった理由をまとめた簡潔な紹介
3,研究が依拠する仮説
4.被験者はどういう人物であり,その被験者はどのように選ばれたかなど,必要に応じて,研究プロジェクトで採用された実験の設計や実験の方法の詳細な説明
5.明確で,わかりやすい,専門知識や統計データを使わない,専門用語を避けた言葉による研究結果の要約
6.オリジナルの論文における著者自身の考えをもとにした,研究による発見がもつ意味
7.心理学の専門分野における同研究の意義
8.同研究を支持したり,反駁したりする研究結果やこの分野における同研究に対する疑問や批判に関するまとめ
9.同研究が引き続き影響を及ぼしていることを示す,最近の展開や他の研究者の論文における同研究の引用から一部を紹介
10.同研究に関連している祭神論文の参照先

と,その論文のポジショニングをはかると同時に,

「こうした重要な発見がもつ高揚感やドラマ性を感じ取ってもらう」

ねらいで,委曲を尽くしている。とりわけ,

仮説―実験―結論−支持・反駁

という流れは,各紹介論文ごとに徹底している。さらに,当時は議論にならなかったであろう,動物実験や被験者への研究倫理上の問題にも,いちいち触れて検討を加えている。ただ,論文を取り上げるという制約から,たとえば,フロイトは,

アンナ・フロイト,

の論文「自我関与と自己防衛」で代替せざるを得なかったような部分はある。

心理学百年余の中で,

古典的条件反射のパブロフ,
オペラント条件付けのスキナー,
認知発達段階のピアジェ,
印象形成プロセスのアッシュ,
心の中の地図(認知地図)のトールマン,
奥行認知能力のギブソン&ウォーク,
期待効果(ピグマリオン効果)のローゼンソール,
レム睡眠のアゼリンスキー,
顔表情の共通性をざぐったエクマン,
社会的再適応評定尺度(SRRS)ノホームス&レイ,
タイプAタイプBのフリードマン&ローゼンマン
異常と正常診断の不可能さのローゼンハン,
服従に関する研究のミルグラム,
認知的不協和のフェスティンガー,
左脳右脳の分業につてのザガニガ,
目撃証言の不確かさを証明したロフタス,
母と子のカンガルーケアの重要性を発見したハーロウ,
性行為の実態に迫ったマスターズ&ジョンソン,
学習性無力感のセリグマン,
セラピー理論の効果についてのスミス&グラス,
系統的脱感作法のウォルピ,
同調圧力についてのアッシュ,
責任分散で傍観するダーリー&ラタネ,

等々,懐かしいのもあれば,知らなかった研究もある。

本書を読んで感心するのは,当たり前だが,

仮説,

を一項目必ずおいていることだ。仮説とは,

現状への疑問,

に他ならない。実験プロセスや人となりの是非だけで,おもしろい仮説を葬り去るSTAP細胞騒動の,この国の,独創性とは何か,創造性とは何かという基本風土がなく,ただ結論だけを追い求める野次馬根性とのあまりの差に,愕然とする(一方,STAP細胞と名づけるかどうかは別にこの仮説を特許申請するアメリカの学者のチャレンジ精神に感心する)。

例えば,ホブソンとマッカレーは,フロイトの精神分析的夢解釈に疑問を持ち,結果として,

「生理学上の夢睡眠に,人間とその他の動物に違いはない」
「眠っている間,感覚入力(外界から脳に入ってくる情報)はブロックされている。」
「レム睡眠中に脳は活性化され,独自の情報を自ら生み出し,レム睡眠中に夢を作っている」

として,

「夢睡眠は純粋に生理的なもの」

と結論を出した。大事なのは,仮説であり,それを立証するための実験方法の構想である。その(今日では批判があるが)出色なのは,ミルグラムの服従実験である。

なお,他にもこの40から洩れているものはあるだろうが,個人的には,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/436714013.html

で取り上げたザイアンスの,

単純接触効果,

が入っていないのは,ちょっと残念である。

参考文献;
ロジャー・R・ホック編『心理学を変えた40の研究―心理学の“常識”はこうして生まれた』(ピアソンエデュケーション)

社会心理学

小坂井敏晶『社会心理学講義−〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉』を読む。


社会心理学に関する書籍は,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/398486307.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163239.html

等々,何冊か読んだが,どれも薄っぺらな感じがして,不満であった。そのわけを,本書を読んで,何分かわかった気がする。それは,今日の社会科学,あるいは広く科学そのものの陥っている陥穽でもあるように見える。

著者は,「あとがき」で,

「本書を綴り始めた頃,『社会心理学の敗北』というタイトルを考えていました。」

と書くほど,現在の社会心理学の「矮小な学問になったしまった」現状に批判的である。

「人間という存在を理解するために社会と心理の知見の統合をするという最初の野心を忘れ,心理学の軒を借りて営業する小さな屋台になり下がりました。自然科学に憧れ,模倣するうちに技術的細部にばかりこだわり,本来の使命を忘れたのです。」

と書く。本書は,著者が,「はじめに」で,

「勤務するパリ第八大学で修士課程の学生を対象に行った講義を基に構成しました。社会心理学講義とはいえ,概説や入門書ではありません。影響理論を中心に話を進めますが,個々の内容よりも社会心理学の考え方について批判的に検討します。」

と,書く通りの展開である。

「二つの重心を選びました。生物や社会を支える根本原理は同一性と変化です。ところで,この二つは矛盾する。あるシステムが同一性を保てば変化できないし,変化すれば同一性は破られる。同一性を維持しながら変化するシステムは,どのように可能なのか。」

このテーマを軸に,

認知的不協和理論のレオン・フェスティンガー,

少数派影響理論のセルジュ・モスコヴィッシ,

という二人の社会心理学者を中心に,その「発想」を学びながら,著者の問題意識を展開する。そこには,サブタイトルの,

「〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉」

が関わる。

「閉じたシステムとして社会を把握したフェスティンガーと,開かれたシステムとして理解したモスコヴィッシ。普遍的価値に支えられた〈正しい世界〉という全体主義,システムを内部から切り崩す少数派の存在意義…。」

精しくは,本論を読んでいただくほかはないが,

「科学においても哲学においても大切なのは疑問を提示し,それに何らかの答を与えることです。」

という著者らしく,著者の強烈な疑問で,本書は成り立っている。

「本書は社会心理学を俯瞰する教科書ではありません。人間を理解するために,どのような角度からアプローチすべきか。それを示唆するのが本書の目的です。」

「人間を知るためには心理と社会を同時に考慮する必要がある。というよりも,社会と心理とを分ける発想がすでに誤りです。問いの立て方や答の見つけ方,特に,矛盾の解き方について私が格闘した軌跡をなぞり,読者と一緒に考えたい。」

疑問,

とは,

「ふつう信じて疑わない常識の見直し」

であり,当たり前としていることを疑うことである。著者は,

「答より問いの立て方」

である,という。それは,

どう仮説を立てるか,

ではないか。仮説とは,

「暫定的な説明」

であり,

実験結果の予測ではない,と著者は言う。僕は,仮説を,

仮の説明概念,

と呼んでいる。STAP細胞騒動で露呈したのは,日本は,

仮説のもつ重要性,

逆に言えば,

問いを立てること,

の重要性にはほとんどか関心がない,というあきれ果てた現状だった(確かめられないままに終るのかもしれないが,小保方氏の仮説は面白いと思っている。だからこそ,検証されないうちに,ハーバード大は特許申請に動いた。彼らは仮説の持つ重要性に気づいている)。

「私の立ち位置についても少し説明します。科学的思考は客観性を重んじますが,それは中立性とは違います。学問においても政治においても中立な立場は存在しない。」

だから,著者は,こう書くのである。

「学問の背景には人生がある。考察の陰に感情や苦悩あるいは叫びが隠れている。テーマの選択にもそれは表れるし,自らとの対話を通して出てくる疑問と,それに対する答とを昇華した形で書かれる文章の行間には研究者が悩んだ軌跡が読みとれるはずです。当人の実存に無関係なテーマで人文・社会科学の研究が可能だとは私には信じられません。」

その著者は,フランスで勉強し始めた頃,

「何を研究しているかではなく,誰を研究しているのか」

と,日本の学者や学生から聞かれて当惑したと書く。そこには痛烈に批判が込められている。

「デカルトやウィトゲンシュタインに向かって,『先生は誰の専門家ですか』と尋ねるでしょうか。…あなたにとって,主体とは,時間とは,責任とは何なのか。これらの問いに対して,あなたはどうアプローチして,どのような答えをだすのか。本当に大切なのはそれだけです。」

この背景には,当然多くの日本の,人文・社会科学系の学者が,「誰かについての研究者」であり,哲学者ではなく,(カントやヘーゲルなどの)哲学者研究者でしかないという現状がある。

久しぶりに,肉体のある,というか,肉声のある論説を読んだという印象がある。こういう一節がある。

「モスコヴィッシはなぜ少数派影響理論を考えついたのでしょうか。…モスコヴィッシは構成主義的な発想をし,世界や歴史の根元的な恣意性あるいは虚構性を熟知していた点がその理由のひとつだと思います。つまり世界に普遍的な真理はない。我々の目に映る真理は人間の相互作用が生み出すという世界観です。真理だから同意するのではない。悪い行為だから非難するのでもなければ,美しいから愛するのでもない。方向が逆です。同意に至るから真理のように映る。…共同体での相互作用が真・善・美を演出するのです。
 社会心理学者は集団現象を,個人の心理メカニズムに還元して把握する。それどころか,社会状況におかれた個人心理の分析のみが社会心理学者の仕事だと考え,集団現象を研究対象に含めない学者がほとんどです。モスコヴィッシの反論を聴きましょう…。
『もっともよくある研究アプローチは,まず個人の表象を個別に分析する。そして次の段階として,集団内におかれた個人の表象を検討する。しかし集団から隔離された個人などは抽象的に考えられるだけで実際には存在しない。だから,これでは問題から逃げているだけだ。もちろん二種類の事象を区別する必要はある。しかし往々にして信じられるように,(a)個人表象と,(b)集団表象に分けるのではなく,(a)集団表象と,(b)集団におかれた個人の表象とに区別すべきである。』」

こんな当たり前のことを,と思いつつ,不意に,花田清輝が,武田戦法について書いていたことを思い出した。

「そもそもあの『風林火山』という甲州勢の軍旗にれいれいしくかかれていた孫子の言葉そのものが,孫子よりも,むしろ,猿のむれに暗示されて,採用されたのではなかろうかとわたしはおもう。『動かざること山のごとく,侵掠すること火のごとく,静かなること林のごとく,はやきことかぜのごとし。』−などというと,いかにも立派にきこえるが,つまるところ,それは,猿のむれのたたかいかたなのである。(中略)
猿知恵とは,猿のむれの知恵のことであって,むれからひきはなされた一匹もしくは数匹の猿たちのちえのことではない。檻のなかにいれられた猿たちを,いくら綿密に観察してみたところで,生きいきしたかれらの知恵にふれることのできないのは当然のことであり,観察者の知恵が猿知恵以下のばあいは,なおさらのことである。」

妙に,この痛烈な皮肉が響きあうのである。

参考文献;
小坂井敏晶『社会心理学講義−〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉』 (筑摩選書)
花田清輝『鳥獣戯話』(講談社)

アルゴリズム

デイヴィッド・バーリンスキ『史上最大の発明アルゴリズム: 現代社会を造りあげた根本原理』を読む。

本書の原題は,

The Advent of the Algorithum

「出現」というか,どうやら「降臨」という含意らしい。副題が,

The Idea That Rules the World

世界を制御する,というより,規定するというか,世界を解くための手順,ということになる。しかし,思うに,それをするには,それ自体をメタ化するポジションに立たなければ,それを解くことはできない。

本書の冒頭は,

「60年以上前,数理論理学者は,アルゴリズムの概念を精密に定義して,効率的な計算という古来の概念に実質のある内容を与えた。その定義がデジタルコンピューターの創造につながった。思考が自らの目的に物質を従わせた興味深い例である。」

で始まる。しかし,

「物理法則は時空のなかには存在しません。世界を記述するのであって,世界のなかにあるわけではありません。」

と言わしめているように,最後の方で,こう述べている。

「アルゴリズム,情報,記号のパターンが,とくに分子生物学的レベルで繰り返し現れるのを見ると,わが意を得たりという感じがするが,このパターンがどうしてここまで増えたのか,一般的に私たちにはわかっていないという,往々にして忘れがちな事実を心にとどめておくことが大切だ。…生物はなんといっても具体的で複雑で自律的な三次元物体であり,自活できる何か,あるいは誰がだ。生物は,…好きなように動きまわる世界―私たちの世界―に属している。一方,アルゴリズム,情報,記号は,抽象的,一次元,完全に静的なものであり,先の世界とは大きく異なる記号世界に属しているのだ。こうした記号が有機体を生み出し,その形態と成長を支配し,自らのコピーを未来に残すなかで,分子生物学の核心にどんと腰をすえている大きな謎に私たちは気づかされる。いま述べた過程には,命令が与えられて実行され,問いが発せられて,その答が出され,約束が成されて守られる,そういう世界に特徴的ではあるものの,純粋に物理的な客体にはけっして見られない一つのプロセスが隠れている。コンピューターが唸り,人間がそれを見守るという相互作用のあるその世界では,知能は常に知能自身に依存しており,記号体系が目的達成するというのは,目的を達成することでなされるのである。これはパラドクスではない。…200年前,スイスの生物学者シャルル・ボネ―ベイリーの同時代人―は,『脳,心臓,肺その他多くの器官の形成を支配する機構』についての説明を求めた。それに応える,力学による説明はまだ得られていない。情報がゲノムから有機体に移るとき,何かが与えられ,何かが読まれる。また,何かが命じられ,何かがなされる。しかし,誰が何を読んでいて,誰が命令を実行しているのかは,依然さだかでない。」

と。だから,

「アルゴリズム,情報,記号の概念は生命の核心にある」

けれども,

「この三つがどのように有機体を形成するのかは,知能がどのように効果を現すか」

は謎の一部であると。

「物理法則でプレートテクトニクスの複雑性は説明がついても,リボゾームの生成は説明がつかない」

つまり,まだ,

「物理法則から私たちを取り巻く世界…にいたる推論の階段」

は組み立てられていない。で,

「ステーヴン・ワインバーグの忘れがたい言明を修正しよう。科学に期待できることは,せいぜい,物理の基本法則と偶然,それに計算方法,アルゴリズム,専門化されたプログラム言語,数値的統合の手法,巨大なお決まりのプログラム(マテマティカやメープルといったもの),コンピューターグラフィクス,内挿法,コンピューター理論の近道,さらには数学者と物理学者がシミュレーションのデータを一貫したパターンや示唆に富む対称性と連続性を具えたストーリーに変換しようとする,精一杯の努力の寄せ集め等々の手段に基づいて,あらゆる自然現象を説明することくらいだ。」

と,皮肉を込めて結論づける。

http://ppnetwork.seesaa.net/article/437240511.html

で触れたように,ゲーデルのしたことは,

「基本的には,数学におけるメタフィクションに他ならない。」

のであり,「数学の『外』に出て,…数学の全体像を眺める」ことである。そして,テューリングは,公式や推論規則といった道具の代わりに「計算する機械」,「テューリング機械」を考えた。その視点の問題に行きつく,と思い知らされる。

著者は,西洋世界での偉大な概念を,

微積分,

アルゴリズム,

と言い,「三つめは現れていない」という。そして,

「アルゴリズムは,一組の規則であり,規定であり,行動規範であり,指針であり,結びつけられ制御された指令であり,規約であり,生命がさえずるカオスに複雑な言葉のショールを掛けようとする努力」

であり,その努力のプロセスを,ライプニッツから始める。

ペアノ,
ブルーノ,
フレーゲ,
ラッセル,
ヒンベルト,

と経て,ゲーデル,チャーチ,テューリング,と列伝が続く。しかし,著者は,

「ゲーデルは,成果を生むのに必要なエネルギーを得るために強い向精神薬を服用し,1930年代を通じて各地のサナトリウムを転々とせざるを得なかった。チャーチ自身は自分の生活を記号の追求に従属させ,自分の記号論理研究の一環として人生をおくった。“単純さ”ということについて急進的な意識を持ち,孤独に生きたテューリングは,最後には,生きるより死ぬほうが単純であることを受け入れた。深遠かつ強力で,論理を引き起こす学問分野として数理論理学が誕生しようとしていた時期を調べると,論理学をつくった人々は,ほとんど例外なく,生みの苦しみを人格に反映させていた。神経衰弱になる者もいれば,完全に狂ってしまう者もいたし,…酒や薬に逃避するものもいた。」

と,しかし,その結果,

「世界各地の論理学者が々概念領域を探った結果,アルゴリズムを体系化する作業はわずか数年で完了」

するに至る。そこから,

エミル・ポスト,

が,

ポスト生産方式(プロダクション)

と呼ばれる仕事をなす。テューリングマシンとの違いを,著者は,

「テューリングマシンは理想化されたコンピューターであり,テューリングマシンにはハードウエアとソフトウエアのあいだにはっきりした区別がある。テープ読み取りヘッドはハードウエア,指示はソフトウエアだ。しかし,ポストの機械は全く象徴的なものである。ハードウエアは極限にまで縮小してしまっている。人間の作業者は指示にしたがうためにだけいる。この点から考えれば,ポストはデジタル・コンピューターよりむしろそのプログラムを先取りしたものをつくりだしたのだ。」

とし,「記号で表される規則にしたがって記号が記号によって衝き動かされる宇宙にある」機械を創造したとする。そして,

ゲーデル,
チャーチ,
テューリング,

にポストを加えた四人を,

アルゴリズムの定義,

を四通りで与えた人物,とした。

「この四つの定義は“四つの言い回しによって一つの概念を定義している” という意味で等価であることに気付いた時点で,『劇的な統一』をはたした,と。それを,デジタルコンピュータ―として完成させたのが,『その深みのなさを速さと守備範囲の広さと数学上のテクニック』で補った」,

フォン・ノイマン,

ということになる。

ボルツマン,
シャンクン・マ,
シャノン,

を経て,ニューラルネットワークまで至る。しかしいまだ,

心のアルゴリズム,

は見つかってはいない。ペンローズは,

「意識は計算的なものではありえない」

という結論を下しているという。しかし,著者は,

「心に属する概念と数学上の概念をへだてる石だらけの土地は,不毛なものだと思われがちだが,現代数学はアルゴリズムの概念のなかで知能の概念そのものの存在証明を示す。」

といい,現時点の到達点を,こうまとめている。

「アルゴリズムは記号を操作するための方法である。だが,これは,アルゴリズムがなにをするかを言っているにすぎない。記号は,…世界を反映するためにある。情報を伝える手段なのだ。(中略)クロード・シャノンが情報を非公式な概念から数学上の第一級の概念に格上げしたことは,…別の目的にも役立った。複雑性を,測定可能であるため基本的なものとみなされる属性の一つとすることを可能にしたのである。(中略)ロシアの大数学者グレゴリー・コルモゴロフと,当時ニューヨーク市立大学にいた学生グレゴリー・チェイティン(中略)は同時期に,ランダムさと複雑性の間に親和性を認めた。(中略)事物の複雑性は事物が記述される状況によって測ることができるのだ。(中略)そこで,…二進数(バイナリ―)数列―0と1の列―に注目する。『ある記号列がそれより著しく短いコンピュータ―プログラムによって生成できる場合,その記号列は単純であり,そうでなければ複雑である』と…。(中略)
いま述べた定義づけが劇的な印象を与えるのは,そこに二重の還元手続が含まれているからだ。事物のなかに潜む情報は,二進法数字の列によって,それらを制御する記述はコンピュータ―プログラムによって書き表される。しかし,コンピュータープログラム自体も,記号列として書き表すことができるのだ。今や,宇宙に存在するお馴染みのものは取り去られ,ランダムさと,複雑性,単純性,情報が,…記号列の穴の上で踊る。
この複雑性という概念によって,ある程度まで,数理科学が陥っている普通の人の興味との乖離の説明はつく。」

さて,ここで,求めているのは,やはり,

「私どもは根究極的な統一理論を探し求めているのです。」

なのである。乞うご期待,である。

参考文献;
デイヴィッド・バーリンスキ『史上最大の発明アルゴリズム: 現代社会を造りあげた根本原理』(ハヤカワ文庫 NF )

秀吉像

日本史史料研究会『秀吉研究の最前線』を読む。

本書は,最新の秀吉像を,

第1部 政治権力者としての実像

では,

秀吉と朝廷との関係,
秀吉と武家官位の問題,
秀吉の大名統制策,
五大老・五奉行の機能と意義,
政権初期の知られざる家臣たち,

というテーマで,特に,

「関白になった意義,および官位を用いた大名統制」
「五大老・五奉行…も,五大老が上,五奉行が下…という尺度では測れないこと」

等々は,余り知られていない面だが,新たな側面に光を当てている。秀吉の官位制度は,

「それまでの中世の武家官途による秩序とはまったく異なるもので,秀吉によって創出され,それを継承した徳川政権によって近世武家官位制として確立されることになる。なお天正十三年九月に秀吉は豊臣姓を賜っており,秀吉の家臣・臣従大名は,官位の叙任を受ける際,当初は元々の本姓(藤原,源など)で受けていたが,聚楽第行幸後の天正十六年(1588)七月以降,豊臣政権に属する者は,叙任の際に必ず豊臣姓を与えられて用いるようになっている。」

官位は,臣従したものの忠誠を獲得するために,秀吉が与えた恩恵であって,

「秀吉の政治的意図により創出された」

と見なされている。つまり,

「諸大名に豊臣姓を授与すると同時に,苗字である羽柴を与えることにより,擬制的な血縁関係をもって,『豊臣一門』と見なすことで大名統制策のひとつとした。さらに,諸大名の家臣(陪臣)にまで豊臣姓が授与されることとなる。」

第2部 誰もが知っている秀吉が命じた政策,

では,秀吉の重要な政策である,

太閤検地,
刀狩,
惣無事,
天下統一船,
朝鮮出兵,

の見直しはかなり知られてきたが,特に,「惣無事」の可否について真のホットな論争は,ある意味秀吉像を真逆にするものだけになかなか面白い。

第3部 秀吉の宗教・文化政策の実像

では,

秀吉と寺社との関係,
キリスト教政策,
茶道との関わり,

の切り口から取り上げているが,茶道の政治的利用に焦点を当てた分析は,利休の主体的なかかわりの部分も含めて,改めて戦国期の茶道イメージを確認させられる。キリスト教禁止令については,わずか一日で,不況への規制令から,翌日には禁止令に,がらりと方針転換する背景に,何があったかの部分が,秀吉の貿易政策を象徴しておおり,なかなか興味深い。

第4部 秀吉の人生で気になる3つのポイント

では,

秀吉の出自,
清州会議以降のどこで統一に転じたのか,
家康との関係,

を取り上げている。出自では,縁者が少なく,母方の姉や弟や,母とつながる加藤清正等々は重視している。しかし,

「実父さえわからない秀吉が,竹阿弥は言うに及ばず,実父の菩提寺を建てたり,位牌を追贈したりすることをおこなっていない…し,実父や養父の系統に連なる親族が,秀吉の家臣に含まれていない」

ことから,秀吉の出自の想像がつく。さらに,

「なかには数人の子が存在した可能性」

があり,

「フロイスの『日本史』に見える記述から,生活を維持するために大政所は不特定の男性と関係を持ったのは確実であり,当時は珍しいことではなかったこと,母の大政所は貧苦にあえぐなかで,複数の男性と関係を持ち,子を産んだ可能性が高いこと…。ただし彼らは,いずれも秀吉によって殺されてしまったらしい。」

との記述に,秀吉が,どういう来歴だったかを如実に語っている。その中から,おのれの才覚ひとつで,史上初の「武家関白」として,天下人に昇り詰めるというのが,いかほど至難なことかは,想像に余る。

「秀吉は信長の小者として出発し,一代で権力を掌握し,大家臣団を築きあげた傑出した人物である。ゆえに,秀吉あっての家臣団と言い換えることも可能であろう。ここに,秀吉の家臣団の特徴がある。(中略)しかし,このいっけん頑強で一枚岩のように見えた家臣団も,秀吉というカリスマがあってのものであった。…秀吉亡き後にそのもろさを露呈する。」

秀吉ひとりの政権であり,制度としての政権には至らなかった,ということなのだろう。

参考文献;
日本史史料研究会『秀吉研究の最前線』 (歴史新書y) 

恠異

河内将芳『落日の豊臣政権: 秀吉の憂鬱、不穏な京都』を読む。


本書は,文禄五年(1596)閏七月十二日(から十三日の深夜)の,文禄大地震から書きはじめる。小田原攻めから六年後,関ヶ原合戦まで,あと四年の時期である。

この地震は,

「有馬―高槻断層帯,さらに,淡路島では東岸の複数の活断層や先山断層が活動」

したもので,その規模も,

「内陸の活断層が引き起こした地震としては最大級に近く,マグニチュード七・五以上でマグニチュード八近い値と推測」

される大規模なものであった。しかも余震が翌年まで続くのである。この地震で最も大きな被害を受けたのは,

伏見城(指月城),

で,醍醐寺三宝院門跡義演の『義演准后日記』によれば,七月十三日の条に,

「伏見のこと,御城御門・殿以下大破,あるいは顛倒す,大殿守(天守)ことごとく崩れて倒れえわんぬ。男女御番衆数多(あまた)死に,いまだその数知れず,そのほか諸大名の屋形,あるいは顛倒,あるいはあい残るといえども,かたちばかりなり,そのほか在家のていたらく,前代未聞,大路も破裂す,ただごとにあらず」

と記す。また,吉田社の梵舜という僧侶の『舜旧記』には,

「大地震,子の刻で数万人死す,京中寺々所々崩れ倒る,第一伏見城町已下転倒しおわんぬ,大仏築地・本尊破裂しおわんぬ,北野経堂・東寺金堂(食堂カ)以下倒れると」

とあり,

「もっとも大きな被害を受けたのが,当時豊臣秀吉(羽柴秀吉)が主要な虚点のひとつとしていた『伏見城町』(伏見城(指月城)とその城下町)と,秀吉によって造立された『大仏』(東山大仏)の『築地』(築地塀)や『本尊』だった」

のである。

社会を震撼させたこの地震が引き金で,「地震大凶ゆえ」と,文禄から,

慶長,

へと年号が改元される。著者は言う。

「これからわずか三年後に秀吉も亡くなってしまうことを考えたとき,この地震による『伏見城町』と『大仏』『本尊』の崩壊は,秀吉とその政権,いわゆる豊臣政権の崩壊のはじまりを暗示するものになったであろう。」

と。そして,

「そのような崩壊は,この地震によってのみ突然はじまったわけではなく,それを準備する時代の動きも徐々に用意されていったのではないかと考えられる。本書は,そのような時代の動きを文禄元年から五年という,文禄の年号を冠する時期にあえて限定してみようとするものである。」

と意図を説明する。

天正から文禄に改元された天正二十年(1592)は,小田原北条氏が滅亡し,奥羽仕置も終り,

「もはや秀吉とその政権に歯むかう敵は存在せず,天下統一がなしとげられた時期にあたる。つまり,権力としては絶頂期をむかえていたころだが,しかしながら,絶頂期こそ,崩壊の序曲がはじまるというのも世の常であろう。」

と,本書が,文禄年間(1592−96)というかぎられた時期に注目する理由を述べている。ちょうど文禄の役という対外戦争が始まるが,本書は,

「そのような対外戦争や,あるいは政権そのものに焦点をあわせるのではなく,むしろ,その外側にいる人びと,とりわけこの時期,秀吉とその政権下にあった京都という都市に住む人びとに焦点をすえて,時代の動きというものを見ていきたいと考えている。」

と述べる。いわば,

時代の雰囲気,

というものをつかんでみようとする試み,といっていい。その反照になっているのは,

桃山の京都,

を,

弥勒の世,

とした,林屋辰三郎氏の言葉にある,

豪華絢爛な桃山時代,

というイメージや,『大かうさまのくんきのうち』(太田牛一)の自画自賛するような,

ありがたき御代,

ではなかった時代の雰囲気を,伝えようとしている。

象徴的なのは,文禄四年(1595)十月の,宇喜多秀家女房(前田利家の娘)の,

狐憑き,

騒動と,秀吉政権による,

野狐狩り,

である秀次切腹,秀次妻子の処刑から二カ月後のことである。この翌年六月二十七日,京都周辺で,

降砂,

あるいは,砂ともされるが,

「土器(かわらけ)の粉のごとくなるもの」(『義演准后日記』)
「こまかな灰」(イエズス会宣教師)

が,「四方曇りて雨の降るがごと」くに降り,七月十二日に,

大地震,

が起こり,翌々日十四日には,

降毛,

が起きる。

「白くて長い毛髪の大量の雨が降った…老婆の毛髪と何らかわっていない」(『義演准后日記』)

ものが,正午まで降り続いた(この砂と毛は浅間山噴火が原因らしいが)。こうした,

「恠異(かいい)」

について,義演は,

「不可思議なる恠異,ただごとにあらず」

と,日記に書く。そして,

「まことに百姓の労苦このときなり,地検をせられ,あまつさえ昼夜普請に責めつかわれ,片時も安んずることなきなり,よって土を雨(ふら)すは余儀なきか,ついでに去年関白秀次謀反,誅せられ,今が数万人をもって,伏見山を開く,衆人群集す,まことに毛を雨するゆえなり」

と,秀吉と政権への批判を書きとめている。秀吉は,地震直後にもかかわらず,大破した伏見城を指月山から別の木幡山へと移し再建しようとしていたのである。しかも再建を思い至ったその日に,

降毛,

という恠異が起きたことについての上記義演の解釈は,ひとり彼のみではなく,

「『東寺寺僧』による『太平御覧』や『随書』など漢籍を『選出』しての解釈」

であり,多く共有されていたらしいのである。その解釈は,

「秀次事件や伏見城再見などに対する『天』のふるまいにほかならないと解釈されていたことをふまえたとき,人びとのなかで,秀吉やその政権が『天道,すなわち神様』や『天』から見放されつつあるのではないかという思いはもはや押さえがたいものになっていたことであろう。」

と,著者は書きとめる。秀吉死去の二年前である。『当代記』の,

「太閤秀吉公,日本小国には不相応の才人たり,しかるところかくのごとくの人の苦労を顧みたまわざること,ときの人不審」

という記述が象徴している。

「資料の表側にはなかなか出てこない闇の部分に焦点をしぼった」

本書は,確かに,政権末期の豊臣時代の暗い破滅の兆候を,のぞき見させてくれている。

参考文献;
河内将芳『落日の豊臣政権: 秀吉の憂鬱、不穏な京都』(吉川弘文館 歴史文化ライブラリー)

小田原攻め

中田正光『最後の戦国合戦「小田原の陣」』を読む。

秀吉の「関東惣無事令」,再三の上洛要請,北条氏直の舅に当たる家康からの要請に,迷い続けた北条が, 氏政の四男氏規の上洛,出仕を経て,天正十七年(1589)極月(十二月)上旬に,氏政・氏直が,上洛出仕するという誓約,

御請一札,

を秀吉に届け,落着する運びになっていた。懸案の,

沼田領問題,

も秀吉による,

上野の中で真田の知行地の三分の二を,沼田城とともに北条領地とし,三分の一は真田領とし,家康支配下の信州伊奈郡を真田に引き渡す,

という裁定で決着したはずであった。しかし,名胡桃城事件が起きる。このいきさつは,沼田領の三分の一の真田領にある名胡桃城を,11月3日,

「相模(北条)が信濃の真田の城を一つ取った」(松平家忠日記)

という事件が起きる。つまり,名胡桃城の城代鈴木主水が猪俣邦憲に城を奪われる事態が起きる。それを聞いた秀吉は,11月21日

「この上は,北条出仕申すにおいても,彼のなくるみへ取り懸け討ち果たし候者どもを成敗せしめざるにおいては,北条赦免の儀これあるべからず候。その意を得て,境目の諸城共へ来春までに人数を入れ置き,堅固を申し付く」

と指示した,という。しかし,この名胡桃事件,いささかきな臭い。森田善明氏も,秀吉の謀略と言っていたが,氏直は,こう弁明している。

「名胡桃城はすでに真田から北条へ渡されたものなので,奪い取る必要がない。中山の書付をみればわかる」

と。中山とは,

「中山城(群馬県東郡高山村)の城主で真田昌幸の家臣だった中山右衛門尉か,あるいは弟の中山九兵衛のどちらかである。中山城も名胡桃城とおなじように,沼田・岩櫃の中間にあり,越後道(旧三国街道)を抑えていた。
 中山城主の中山右衛門尉は,天正十年(1582)秋に北条方となっていた津久田城(群馬県渋川市)を攻めたが,伏兵によって殺害された(『加沢記』)。これにより,主人を失った地侍の中山衆と他の侍衆57名は北条方に属した。
 こうして天正十年以来,中山城が存在する吾妻郡高山村周辺は北条に押さえられていたが,天正十四年九月七日に真田昌幸が奪還に成功してからは,兄を失っていた中山九兵衛尉も再び真田に属した(『沼田根元記』)。
 しかし,北条軍の勢いが増してくると,九兵衛尉は再び北条軍に追われ,やがて天正十六年11月22日名胡桃城へと逃亡し,当時の城代とかっていた妹婿の鈴木主水(重則)に介抱を受け食客の身となった。
 この九兵衛尉が,やがて天正十七年に猪俣邦憲の家臣にそそのかされ,名胡桃城代だった鈴木主水を城から追い出し,追い出された主水は沼田の正覚寺で自刃して果てたというのが『加沢記』の『名胡桃事件』といわれるものである。」

と,著者は書く。当然猪俣邦憲の独断でできるはずもなく,この背後には,北条の意志,小田原城の氏政・氏直親子の意志がある,と著者は見る。これを,

「中山右衛門尉が北条に攻めたてられた天正十年の春,名胡桃城主でもあった中山氏は北条との間で名胡桃城を引き渡すという合意を交わしていた可能性がある。」

それを証にして,「奪い取ったのではない」と弁明していたことになる。確かに,北条方には,

「名胡桃城を奪い取ったという認識はなかった」

のかもしれないが,事実上,秀吉の沼田裁定を反古にしようとしたことになる。

しかし,裁定で沼田問題が落着したはずの十月,秀吉は,大規模な軍事作戦を指示しているのである。

「一,兵糧奉行に長束正家,ならびに小奉行十七人を命じる,
 一,年内に代官潟り二十万石を受け取り,来春早々ねで駿州江尻・清水へ運送してくらを建てて入れ置き,惣軍勢へ配分すること,
 一,黄金二万枚を受け取り,勢州・尾州・三州・駿州で八木(米)を買い調え,小田原近辺の舟着へ届け置くこと,
 附(つけたり),馬二万疋の飼料を調え置き,滞りなく与えること」(『碩田叢史』)

さらに,軍役定書があり,

「一,来年の春に関東に攻め込むための軍役のこと,
 一,五畿内は半役,中国地方は六人役のこと,
 一,四国地方から尾張までの間は六人役のこと,
 一,三河・遠江・駿河・甲斐・信濃は七人役のこと,
 右,軍役書付けのように,来三月出陣して,小田原北条を攻め滅ぼす,忠勤に励むように」

と定めている。これを,著者は,

「これを北条を滅ぼすための戦争準備だったと解釈するのは早計ではないだろか。長年の懸案だった沼田問題を解決して北条氏政の上洛が決定し,いよいよ関東の統治上の処置に取り掛かろうとする準備だったのではないだろうか。
 この軍事行動は『北条を攻め滅ぼす』と強圧的に表現しているものの,内実は沼田領を含めた関東の今後の統治上の政策を平和裏に確実に進めるための軍隊派遣であり,北条攻略を目的とした軍隊派遣ではなかったと思われる。」

と書く。是非はわからぬが,素人ながら,

「秀吉の関白就任後に行われた四国・九州への出兵と国分けで,一貫して共通していたのは,当事者の意見を聞き届け,最低によって平和裏に解決しようとした」

という「惣無事」の概念にとらわれ過ぎているように見える。敢えて,氏政の上洛前に軍令を出すという意図は,少し違うのではないか。少なくとも,家康が,氏政に上洛を促す手紙の中で,

「北条領を望んでいない」

と言い訳するほどに,天正十六年段階で,

「坂東の北条殿(の領地)が家康の領国」(ルイス・フロイス)

になると噂さされていたこともあり,家康移封は既定路線だったとみるのが順当ではないのか。だからこそ,本来沼田城の付城として作られた名胡桃城は,北条にとって戦略上重要な意味,つまり,

「北条方の沼田城を監視する付城の役目をしていた名胡桃城を抑えることにより,それまで越後道への警戒が手薄状態だった状況を克服し,三国峠を越えてくると予想されていた北国勢(上杉・前田を主力とする軍勢)の最前線となることを回避する作戦だった。」

ということになる。いずれにしろ,秀吉方に口実を与えるという行為が持つ,重要性と,秀吉の動員する軍事的・経済的力量を見積もりそこなった,という意味では,この段階で,北条方は戦術にこだわって,戦略を誤った,というべきなのかもしれない。

では,なぜ,秀吉は,北条を打ち滅ぼす,という選択をしたのか。

「小田原攻めを通し,秀吉が民衆に対して取りつづけた対策があった。それは,『奴原』と呼ぶ侍たちに対しては容赦しなかったが,非戦闘員の一般民衆に対しては寛大な姿勢だった。
たとえば,天正十三年(1585)紀州・太田城(和歌山市)を攻めたとき,『各地にいる悪人の主だった奴らを選んで首を切り,残った百姓やそのほかの住民の妻子以下は助命するように』と,侍たち五十人以上が打ち首となり,百姓の家族は助命された(『太田文書』)。
これはあたかも中間搾取層(棟梁の奴原,侍衆)の否定と同時に,平百姓といった土地を所有する農民の救助を意味した。
 戦国大名の家臣たちは,その大部分が郷村に居住して,直接的に村人たちを支配していた。彼らは在地領主として,農家(名子と呼ぶ反自立的な農民を従えた一軒の農家であったが,税収取の中に組み込まれていた。)とは徴税関係によって結ばれていた。
 大名たちは,こうした家臣(在地領主・中間搾取層・奴原)と,農家との徴税関係をみとめていた。
 ところが秀吉はそうした関係を断ち切り,家臣たちを郷村から切り離し,それまでの領主的権限を剥奪しようとした。」

この延長に,各大名に課す軍役の基準となる「太閤検地」,さらには,戦国大名の鉢植大名化がある。父祖伝来の土地にいる諸大名,特に,家康を北条の関東に,上杉を会津に,伊達を仙台に,と鉢植えのように戦国大名を移封していくためには,北条が攻め滅ぼされなければ,大名の鉢植化の将棋倒しが始まらなかった。僕はそう見たが,如何か。

参考文献;
中田正光『最後の戦国合戦「小田原の陣」』(歴史新書y)
森田善明『北条氏滅亡と秀吉の策謀』(歴史新書y)

七将

三池純正『大坂の陣 秀頼七将の実像』を読む。

取り上げている七将は,

真田信繁,
長宗我部盛親,
毛利勝永,
後藤基次,
明石全登(たけのり),
木村重成,
大野治房,

である。多分馴染みが一番薄いのは,大野治房かもしれない。大野治長は有名だろう。その実弟である。また,大坂城落城後,脱出し生き延びたことが確かなのも,治房のみである。

七将の中で,最も若く,この冬の陣が初陣なのが,木村重成である。夏の陣で,戦死したが,わずか二十二歳である。秀次事件に連座して父常陸介切腹したのが三歳の時,以後,母の宮内卿局とともに淀君に引き取られ,母は秀頼の乳母となり,重成自身秀頼の小姓として,秀頼とともに成長,慶長十年(1605)に秀頼が右大臣になるとともにね重成も,諸大夫長門守に任じられ,初陣ながら,冬の陣では,三千の兵を率いた。

基次の家臣,長沢九郎兵衛の『長沢聞書』には,

「秀頼公と木村長門守は同年にして乳兄弟」

とある。

冬の陣では,重野・今福の戦いで,佐竹義宣に柵を占領され,その応援に駆け付けた重成は,佐竹隊を押し戻して追撃,鴫野からの上杉景勝隊の援護で分断され,孤立した際,救援の後藤基次に,交替を申し出られ,

「初陣の今日,途中で戦場を引き渡しては何の面目がたちましょう。」

と,言い切ったと言われる。夏の陣では,若江で,井伊直孝隊と激突,終に討死する。もともと討死を覚悟で,髪に香を焚いておいたとされる重成は,唯一,家康の首実検が行われた武将だが,重成の首からも微かに項の香りがした,という。著者は,家康が,

「大阪にも,見事な心がけを持った武士がいたものか。重成は稀代の勇士である」

といったという言葉を伝える。

天王寺の戦いで,家康本陣に突入し,二度本陣を突き崩して,あと一歩まで迫った真田信繁については,有名だが,最後数名にまで追いつめられ,安居神社で,松平忠直の配下,西尾仁左衛門に打ち取られる。それについて,細川忠興は,

「信繁は負傷した上,疲労して倒れていたところを討たれただけで,何の自慢にもならない。」

と書き,島津家には,

「真田日本一の兵(つわもの),いにしへよりの物語にもこれなき由」

と絶賛されている,という。まさに,死して名を残す,である。

後藤又兵衛については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/438599575.html?1464982607

で触れた。

明石全登は,キリシタンとして有名だが,宇喜多家のお家騒動直後,多くの家臣が去った後の宇喜多家を支え,関ヶ原では八千の大軍を率いて福島正則と対峙,小早川秀秋の秀家の裏切りで敗北した後,主君秀秋が戦場を離脱するまで敵兵を一身に受けて,踏みとどまり,秀家の離脱を見届けて,脱出した。

大坂入城に際しては,二千人のキリシタン武士とともに,七人の神父も大坂城に入ったとされる。夏の陣では,生国魂辺りから,精兵三百とともに押し出し,藤堂孝高虎隊を撃破,その後方の水野勝成隊,松平忠直隊を突き崩して,家康本陣に突入を試みるが,阻まれて,包囲を破って城東へ退いて行った,とされる。。諸説あるが,全登の行方は分からないままである。

毛利勝永は,関ヶ原で西軍につき,改易された。土佐の山内一豊に預けられたが,秀頼の要請を受けて,息子勝家ともども,密かに土佐を脱出,入城した。夏の陣では,真田信繁とともに,家康本陣に迫った。最後は,本丸に戻り,秀頼の介錯をし,嫡男勝家とともに,自刃する。

これら七将の中心にいるのは,豊臣秀頼である。秀頼については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/408642088.html

で触れた。家康は,豊臣家に大坂城から退城を促し続けた。

「少なくとも,秀頼の母淀殿や秀頼の側近大野治長らは,最後は家康の意向を汲み,大坂城を出ることで,豊臣家の存続を目指そうとしていた」

が,それを拒み,家康に挑んだについては,秀頼の強い意志が,一貫して貫いている。

参考文献;
三池純正『大坂の陣 秀頼七将の実像』(歴史新書)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E9%87%8D%E6%88%90
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%B3%E5%85%A8%E7%99%BB
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%9F%BA%E6%AC%A1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%B9%81
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E9%A0%BC

後藤又兵衛

福田千鶴『後藤又兵衛 - 大坂の陣で散った戦国武将』を読む。

著者は,「あとがき」で書く。

「いざ調べ始めると,案の定,わからない。というより,納得いかないことばかりだった。特に播磨後藤氏と又兵衛との関係について,通説で言われていることは江戸時代になってから創られたものと確信するにいたった。諱からして,又兵衛が生存していた時期に基次を名のった形跡はない。」

つまり,

後藤又兵衛基次

といわれている,「諱」すら確かではないのである。しかし読みながら思ったことは,この時代,

来歴,

など無用の時代だったのではあるまいか。その人本人の器量だけが重要で,どこの由来で,どういう出身なのかが問題にされたのは,平和な江戸時代であり,二世三世が跋扈し,どういう家柄かだけが問われる今日は,個々人の才能にとっては,生きづらい時代なのかもしれない。思えば,徳川家だって辿れば,どこぞの乞食坊主まがいであったと言われる。この時代,すべてが「どこの馬の骨」か,という時代だった。

大坂城落城後,細川忠興は,その様子をこう手紙に書いている。

「さなだ・後藤又兵衛手がら共古今これなき次第に候」

本人は大坂冬の陣直後に,

「けふニあす替候浮世之習,面白候,大身小身も分別之仕置はむし口ニて候との申事候」

という文意の手紙を残している(ここで又兵衛の諱は「正親」となっている)。

「むし口」とは,「無口」の意で,著者は,

「目の前のいつ変るともしれないことをとやかく言ったりせず。『無口』で済ませておくことが,大身であろうと小身であろうと,武士にとって分別のあるしかたではないか」

と意訳する。

『豊内記』を例に,侍を,

「品々ある国とともに栄え,国とともに滅びるを社稷の臣」

「国の事はともあれ,善にも悪にも主君次第に成りゆくを譜代の臣とも,重代の家人」

「渡り者にて善き国へ身を寄せ,悪しき主君を去るを渡り奉公とも客臣」

とにわけ,

「又兵衛は故郷の播磨を去ったことで社稷の臣としての道を失い,悪しき主人長政のもとを去ったことで譜代の臣として生きる道をも否定した。残る生き方は,渡り奉公人の世界のみであった。そうした渡り奉公人の世界に生きればこそ,その渡り奉公人の『花時』が終焉を迎えようとしているなかで,又兵衛は最後の大きな夢を託せる人物として豊臣秀頼を選んだのである。」

その秀頼はというと,徳川側が流した虚像を剥がすと,

「最終決戦である五月七日未明に秀頼が先手に出陣して下知すれば軍勢の勇みとなり,たとえ敗軍しても秀頼が天王寺を墓所とする覚悟を究めていれば,如何なる弱兵といえども秀頼を観てて逃げたりはしないので,比類なき前代未聞の一戦を遂げるべき」

と真田信繁が主張したのも,

「勝ち負けではない。比類なき前代未聞の一戦を遂げ,色あせることのない名を末代まで残すことにこそ,定めなき浮世を生き,戦場を死に場所と思う中世人(戦国武将)にとっての最後の夢があった。命を預ける。そして,その命を預かる。これをつなぐものが『器量』である。そして,最後まで運命をともにする。そのような人物に出会えたことに生きていた証をみるのである。」

とされる秀頼は,最後に,

「運命早究りたり,ながらへてわが世の衰えを見玉わんより,同じ道に急ぎ後世を楽しみ玉ふべし,百年の栄華も一睡の夢と成り果てる習いなり」

と,自害を引きとめる母(茶々)に言ったとされる。秀頼像については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/408642088.html

で触れたように,

大坂夏の陣で,細川忠興は,

「秀頼は大阪小人町近辺まで出陣し,先手は『伊藤丹後・青木民部組中』であった」

と書状で伝えている。この地は,

「徳川方の小笠原秀政・忠脩父子が討死し,弟の忠政…も瀕死の深手を負った激戦区である。物語を辛口で評することで知られる忠興が,激戦区への秀頼の出陣を疑わなかった点は,秀頼が大阪城本丸の奥に隠れて何もしなかった軟弱者であるかのようなイメージを否定する…」

と,見直されつつある。つまり,

「秀頼は自己に一命を預けた者たちを見捨てるような武将ではなかった。かような武将だからこそ,又兵衛は大坂城に入り,和議後も大坂城を去ることなく,夏の陣を死に場所に選んだのである。」

翻って,又兵衛が,黒田長政のもとを去ったのは,

「主君長政に一命を預けられない,と考えたのではないだろうか。なぜなら,長政は器量のある戦国武将―預かった命を見捨てない―から,処世術にたけた近世大名―黒田家存続のためなら家臣の命も見捨てる―へと,自己のありようを変えようとしていた。それを大きく促したのは,天下泰平,徳川の世への移り変わりである。」

そのような変化は,「軽薄そのもの」と又兵衛には見えた。

又兵衛は,六尺以上あったとされる。その具足が,五男爲勝が受け継ぎ,菩提寺の景福寺(鳥取市)に納められた,

日月竜文蒔絵仏胴具足,

が伝来し,現在大坂城天守閣にある。

大坂陣中では,

「白黒段々の筋の幟,指物は黒に半月を描き,具足も黒で,兜の立物は獅噛(しかみ),武者羽織は,表を白色の熊皮,裏は玉虫色の大緞子,見送りに鉞を白糸にて大紋とし,纏は二重の鳥毛,上は角取紙があった。(中略)馬印は大ホオズキの提灯,使番は黄色の四半旗,家中の指物は黒一本撓い。」

又兵衛は入場に際して,中国の諸大名から三千余騎を借用した,と言う。黒い撓にそろえた兵団は,真っ赤の撓にそろえた,真田信繁と好対照であった。

最後にいくつか誤植に気付いたが,

「市川歌右衛門」

とあるのは,

「市川右太衛門」

の誤りである。

参考文献;
福田千鶴『後藤又兵衛 - 大坂の陣で散った戦国武将』(中公新書)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%9F%BA%E6%AC%A1
http://www.sankei.com/west/photos/150314/wst1503140006-p2.html
福田千鶴『豊臣秀頼』(吉川弘文館)

歴史認識

東郷和彦『歴史と外交─靖国・アジア・東京裁判』を読む。

著者は,終戦時外務大臣であった東郷茂徳の孫にあたる。その来歴を,日韓問題の章で,著者はこう書く。

「東郷茂徳は,鹿児島市から車で約一時間ほどの距離にある日置郡東市来街美山という村(現・日置市)の出身だった。美山は慶長三(1598)年,朝鮮戦役の最後に,半島から撤退する豊臣秀吉軍に拉致された朝鮮の陶工たちが,居を構えた場所である。この村で,朝鮮の陶工たちは,薩摩藩の独特の保護と隔離の政策下で,当時は世界の最先端技術による陶器を製産,世に知られる薩摩焼となった。
 茂徳の父寿勝はこの村の陶工のひとりであり,明治維新のとき,旧姓朴を捨て,東郷姓を名乗った。茂徳は,明治十五(1882)年,この村に生まれ,この村からやがて,東京帝国大学に学び,外交官になった。」

以来三代続く外交官の家系である。

本書は,

靖国神社,
慰安婦問題,
日韓関係,
台湾関係,
原爆投下問題,
東京裁判,

と,いずれも「歴史認識」「戦争責任」に関わる,戦後70年もたっていながら,いまだ何一つ国家として主体的に,まともに解決できていない実にホットな問題を,冷静に腑分けし,論点整理をしている。個々に異論はあっても,必要なのは,こういう論点整理,つまり,

メタ・ポジション,

からの俯瞰だということをつくづく感じさせる。本書は,2008年,第一次安倍内閣当時に上梓されたが,以降,事態は一向に改善されていない。いや,改善どころか,悪化の一途をたどり,政権自ら歴史の全否定をし始めている。その意味で,本書の冷静な腑分けが,いまなお際立っている。

「あとがきにかえて」で,

「歴史に関心を寄せない民族に,おおきな将来性があるとは思えない。
 だが,わが民族の,歴史に対する関心を見ていると,もうひとつ,そこに,猛烈な内部対立があり,巨大なエネルギーが,その内部対立に割かれていることを感じざるをえない。
 歴史と民族のアイデンティティに関するわが国内の議論は,相互尊重にもとづく対話というよりも,人格攻撃を含む,猛烈な相互攻撃の渦のように感ぜられるのである。とくに,最近の出版の中には,右から左に対する猛烈な批判の書があふれているように思われてならない。
 そういうことは,もうそろそろ,終りにしないといけない。」

と書く言葉が,切実である。幕末の,攘夷派と佐幕派のテロに見まがう口撃が,ネット上で,炎上という形で発生する。とても筆者の願いとは反する方向へ,その後さらに進んでいるように見える。

「日本自身として,戦争責任の問題をどう考えるのか。日本自身でこの問題について考え,結論を出し,それをサンフランシスコ条約第十一条との関係も十分に考えたうえで,受け入れていく」

というあなた任せの東京裁判以外に,戦後唯一,戦争責任の問題について,自分で判断したのが,

村山談話,

である,と著者は見る。

「閣議決定によって採択されたこの談話こそ,それまでの戦争責任に関する議論を総括し,政府として,自発的に下した,最も重要な意思決定だったと思う。」

著者は,慰安婦問題については,河野談話を,

「私自身は,明確に,“河野談話派”だった。私の年代の外務官僚としては,それは,一般的な立場だった。」

と語る。いまの世代の外務官僚とどの程度の認識さがあるのかは知らないが,漏れ聞こえる昨今の外交官の言動は,そこからは大きくずれ,夜郎自大化しているかに見える。印象深いのは,

「トーゴーさん,あなたは納得できないかもしれない。しかし,いまのアメリカ社会における,性(ジェンダー)の問題は,過去十年,二十年前とはまったくちがった問題になっている。
 婦人の尊厳と権利を踏みにじることについては,過去のことであれ,現在のことであれ,少しでもそれを正当化しようとしたら,文字どおり社会から総反撃を受けることになる。(中略)
 要するに,慰安婦の問題を考えるとき,多くのアメリカ人は,いま現在,自分の娘がそういう立場に立たされたらどうかということを本能的に考える。ましてや,それが,少しでも『甘言によって』つまり『だまされて』連れてこられ,そのあと,実際に拒否することができなかったというのであれば,あとは,もう聞く耳もたずに,ひどい話だということになる。
 あなたが言われるように,そういう甘言でもって強制された人は全員ではなかったかもしれないし,軍の本旨としてはそういう事態を抑制したかったとしても,それが徹底して厳密に抑止できなかった以上,結果責任は免れないということになる。
 (中略)日本全体が,今述べたアメリカ社会の現状を知ったうえで,議論しているだろうか。」

著者はアメリカでの慰安婦セッションの後,参加者から言われたことを書きとめている。この意味を弁えた議論がなされているとは,今日到底思えない。「朝日新聞が…」といい,言い訳し,正当化しようとした瞬間,そっぽを向かれている,ということが認識できているとは思えない。それは,著者の言う,

「情報戦で,極めて深刻な立ち遅れに至っている」

というレベルの問題ではない。集団拉致が誤報であることを言いことに,慰安婦問題自体を,公娼の問題にすり替えようとしている,というその姿勢そのものに問題がある。僕は個人的に,何千人単位で,インドネシアから徴用された人が,戦後多く行方不明となり,その帰還に尽力された日本人を知っている。ことは,慰安婦問題だけではない,占領地の人々を勝手に強制的に徴用するばかりか,シンガポールの華人虐殺のように公にならない虐殺,暴行,拉致は数知れず,そのいっさいに頬被りし続けているという態度そのものが問われている。「責任を取る」と二言目には言うどこやらのトップ同様,責任を取るとはどういうことかを,日本は国家として,本当にほとんど世界に,アジアに発信していないのである。慰安婦は,その象徴に過ぎない。

ところで,日韓問題で,著者は,安重根に言及し,彼の,

「いまは韓日は非常に不幸なかたちで袂をわかってしまった。しかし,いずれの日にか,韓日清はともに手を携えて,北東アジアの平和と繁栄をつくっていかなければならない。」

という言葉を載せる。僕はそこに,勝海舟が,(ということは,多分横井小楠も)三国連携を言っていたことを思い出させ,当時のトップクラス(維新の遂行者のほとんどはそこに入れない)の知性が抱く構想を共有する,安重根の人物とその無念さが見える気がする。

著者は,どの問題でも,常に,

「日本国および諸外国が受け入れられるような最善のかたち」

を,独自に提案する。その冷静なメタ・ポジションからの整理は,得難い。その上で,

「先の大戦にかかわる歴史認識の問題は,日本がいずれかの時点で克服すべき課題である。しかし,そのためには,戦略と情報が必要である。戦略とは,一番重要なのはなにかを識別し,選択し,他の重要なものとのあいだに優先順位をつけて,一つひとつ時間差をつけて解決していくことである。また,情報とは,相手側がなにを考えているかを知悉することである。」

開戦前に似て,自己に都合のいい情報のみを入れて自画自賛し,自己正当化し,相手を矮小化する今日のありようは,著者の考えとはあまりにも乖離している。

参考文献;
東郷和彦『歴史と外交─靖国・アジア・東京裁判』(講談社現代新書)

間違い

キャスリン・シュルツ『まちがっている―エラーの心理学、誤りのパラドックス』を読む。

本書の原題は,

Being Wrong

であり,サブタイトルが,

Adventures in the Margin of Error

となっている。邦語のサブタイトル「エラーの心理学、誤りのパラドックス」だと,間違いではないかもしれないが,焦点がずれる。

本書は,通常の「エラー」「錯覚」「勘違い」の本と違うのは,人が「間違った」と,認めないときも,認めたときも,その状態で起きる内的反応に焦点を当てていることだ。その意味で,

Being Wrong,

とは言い得て妙,「間違っている」と訳すと,微妙にずれる。多く,間違うことを,

「ただ恥ずかしい愚かなこととされるだけではない。無知で,怠惰で,精神的に可笑しくて,道徳的に堕落しているとみられることもある。」

しかし,

「間違いをそんなふうに見ることこそが,何より間違いなのかもしれない。それは私たちのメタミステーク(誤りに関する誤り)だ。私たちは,間違っているということの実態について誤解してしまっている。間違うというのは,頭が悪いことのしるしどころか,人間の認知能力の要にあることだし,道徳的な欠陥どころか,思いやり,前向きの姿勢,想像力,自信,勇気といった,最も人間的でほめられるべき性質とも切り離せない。間違いは,無知や頭の固さのしるしなのではなくて,私たちが学習して変わっていくことの根幹にある。間違えばこそ,私たちは自身についての理解をバージョンアップし,世界についての考えを修正することもできる。」

と,それが本書の底流に流れる通奏低音である。

「人の間違いがどんなに的はずれで,苦しく,つまらなくても,自分が何者であるかを教えてくれるのは,つまるところ,正しいところではなく,間違っているところなのだ。」

と。「Adventures」とあるのは,そういうところを狙うという含意がある。その意味で,著者の引用する,アウグスティヌスの,

「私は『もし私が間違っているのなら,私は存在する』と答える。存在しないものは間違いようがない。したがって私が間違っているなら,私は存在せざるを得ない。そして,私が間違っているということが私の存在を証明するなら,自分の間違いを見ることが,私の存在を確かめるのであって,私が存在すると考えることは間違いようがないではないか。」(『神の国』)

を引用する。しかし,それは間違いを認めたときだ。誤っている時,

「誤りが見えない(エラー・ブラインドネス)」

状態にある。間違いが何であれ,自分には見えない。しかし,誤りに気づいた時,

「一人称単数現在形では,誤りは文字どおり存在しない」。

自分が間違ったと気づくとは,自分では,

「I was wrong」

としか言えない。なぜなら,

「現在進行中の誤りは知覚できない」。

だから,誤りを,認めない。

「あることを,それが正しくないのに正しいと信じることだ―あるいは逆に,それが正しいのに正しくないと信じることだ。」

あるいは,

「私たちが正しいと感じるのは,自分が正しいと『感じる』からだ。私たちは正確さの指標として,自分自身の確信を使う。…私たちの確信は,内面にとくに鮮明な像が存在することを反映する」

から。そして,著者は,「間違っているのは,…必ず何かの信念」だと言い切る。さらに,

「自分が抱く信念は,自分の正体と不可分のこと」

であり,そこには,その人の振る舞い,知識,経験を含める。著者は,

「私は『信念』という言葉と『理論』という言葉を,…ほとんど同じものとして使っている。」

というとき,人の言動・意思決定を左右するものも,結局「信念」(違う言い方をすれば先入観)と言っているのに等しい。そこで,例に引いているのは,グリーンスパンの間違いの原因なのである(グリーンスパンは「世界のモデル」という言い方をしているらしいが)。そして皮肉を込めて,こう言う(これはそのまま黒田日銀総裁にも,アベノミクスを喧伝するわが国の首相にも当てはまる)。

「それはすべて,グリーンスパンの自由市場哲学と同じく,世界に関するモデルなのだ。…世界のモデルとは地図であり,基本的には信念もそういうもの,つまり,私たちの物理的,社会的,感情的,精神的,政治的地形を頭の中に再現したものだ。」