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書評]


ちぎっては投げ。。。

粉川哲夫編『花田清輝評論集』を読む。

本書は、編者粉川哲夫氏が、

「1949年刊行の『二つの世界』から、遺著となった1974年刊の『箱の話』にいたる九冊の著書から、二九篇のエッセーを選び、ほぼ発表年次順に並べたもの」

であるが、それは、

「花田清輝の文体の多様さや思考の飛躍のあざやかさが端的に表れているものを優先した」

と「解説」で記す。理由は、

「花田清輝にとって、文体は、つねに『内容』と深く結びついているのだが、花田清輝の世界の魅力に接するには、『内容』からよりも文体から入る方がこの作者の流儀にかなっていると思うからである」

としている。そのせいか、僕には、『復興期の精神』『鳥獣戯話』『小説平家』『室町小説集』等々のフィクションに比べると、いまひとつのれなかった。大庭みな子氏が、いつも「くっ、くっ、くっ、」と笑いながら愛読した、というほどの切れ味を感じられなかった。

思うにそれは、編者言う、

「花田清輝の文章は、ことごとく、政治的・文化的な状況に触発されながら書かれている。文壇青磁から国際政治まで、書の文化からテレビ文化までのあらゆる日常的現象から刺激を受けながら、彼が『乱世をいかにいきるか』で言った『ちぎっては投げ、ちぎっては投げ』という批評活動」

の、肝心の文脈を共有できないからに違いない、という気がした。その点、フィクションは、そもそも共有できる文脈の上で展開されるのだから、格段に違うのかもしれない。それと、フィクションの中では、記憶で書くので間違っているかもしれないが、『鳥獣戯話』の中に、れっきとした史書にまぎれて偽書(『逍遥軒記』だったか)を史書の如くに引用して、煙に巻いていたようなことは、現実相手にはむつかしいせいかもしれない。

その中では、1959年刊行の

「柳田國男について」

は、出色であると思った。柳田國男の姿勢を、

前近代的なものを否定的媒介にして、近代的なものを超えようとする、

態度とみる。それはまた、花田自身の方法論とも重なる。だから、

「わたしは、どちらかといえば、柳田史学よりも柳田民俗学に―柳田民俗学によってあきらかにされたわが國におけるさまざまな芸術のありかたに、ヨリ多く興味を持つ。なぜなら、わたしには、それらの芸術のありかたを否定的媒介にしないかぎり、近代芸術をこえた、あたらしい革命芸術のありかたは考えられないからである」

と書いている。それは柳田國男が『藁しべ長者と蜂』で、

「國の文芸の二つの流れ、文字ある者の間に限られた筆の文学と、言葉そのままで口から耳へ伝えていた芸術と、この二つのものの連絡交渉、というよりも、一が他を育み養ってきた経緯が、つい近頃まで心附かれずに過ぎた。昔話のやや綿密なる考察によって、始めて少しずつ我々にわかってきたのである。いわゆる説話文学に限らず、歌でもことわざでも、もとは一切が口の文芸であり、今でもまだ三分の一はそうだ。現にカタリモノなどは、活字になってもなおカタリモノと呼ばれている。即ち少しも筆を捻らぬ人々の隠れたる仕事のあと始末だったのである。それが文人を尊敬するの余りに、悉く椽の下の舞になってしまった。読者という者の文芸能力を無視して、大衆はアレキサンドル大王の兵士の如くでどこへつれて行って討死させてもよいもののようになった」

と述べているのに触れて、

創造者としての大衆の主体性を過小評価、

しているとして、かつての「芸術大衆化論争」を批判しているのだが、それは、今日死語に近いので省くとして、柳田が、

「活字文化以前の視聴覚文化と、以後の視聴覚文化とのあいだにみいだされる対応」

に着眼し、

「前者を手がかりにして後者を創造することによって、活字文化そのものをのりこえていく」
「民間説話などに代表されるかつての視聴覚的表現を手がかりにして、ラジオやテレビなどの未来の新しい視聴覚表現をつくりだし、文学的表現の限界を突破していく」

という問題意識は、半世紀たった今日、確かに、今日、ネットやゲームを含めたデジタル映像文化や漫画が活字文化を凌駕しているのを見るとき、たぶん花田清輝が想定したものとは違ったものになっているはずである。花田の想定した「のりこえ」像はわからないが、活字文化は、(凸版印刷の時代の)「活字」という言葉自体が死語になりつつあるのを考えると、最早文字単独で世界をつくる文学以上のことが、視聴覚、あるいは視聴触覚で、表現できる、それが技術的に可能になっているということははっきりしている。そのコンテンツが、活字文化のそれを超えているかどうかは別だが。

花田は、この中で、桑原武夫の、

「日本文化のうち西洋の影響下に近代化した意識の層があり、その下に封建的といわれる、古風なサムライ的、儒教的な日本文化の層、さらに下にドロドロとよどんだ、規定しがたい、古代から神社崇拝といった形でつたわるような、シャーマニズム的なものを含む地層がある」

を紹介しているが、分解して見せた文化地層の、最下層のどろどろした地層こそ、柳田が探求し続けた世界である。今日でも、表層の積み重なりがあろうとも、突然何かの折に吹き出てくるようなマグマとして、あることは確かである。

2020年の春、コロナ禍の最中、疫病よけに効くとされる妖怪「アマビエ」がネットを中心に注目を集めたのも、文化地層の底からの蘇りの気配ではある。

しかし、そのマグマは、あるいは、視聴覚化した瞬間、例えば、鳥山石燕『画図百鬼夜行』や、水木しげるの『妖怪事典』のように見える化した瞬間、怖くもなんともなくなるということはある。そこに文学の可能性は、僕は残っているし、それは口承文芸と共通する、想像力に依拠した文脈だと感じているのだが。

ところで、もうひとつ本書で取り上げておきたいのは、

「ダイダラ坊の足跡」

ので触れている、南方熊楠である。その巨人ぶりは、今や知らぬ人はいないが、

「日本の学者、口ばかり達者で、足が動かぬを笑い、みずから率先して隠花植物を探索はすることに御座候」

と言いつつ、馬にけられて膝関節を痛めながら、歩くのを諦めぬ姿を書き記す花田には、イロニーも、皮肉もない。珍しいことである。

最晩年、遺著に納められた「箱の話」に、

ひるがえって考えるならば、ここに、こうして立っているわたし自身が、無数の先祖の『生きている墓』であって、べつだん、かれらは、石でつくった、墓らしい墓を欲しがってはいなかったのかもしれないのだ」

とある。それは服部之総の、

「子供のない夫婦はあるが、父と母をもたぬ子供はいない。そうだとすれば、鼠算というものは、子供に関するかぎり不確実であるが、祖先に関するかぎり確実にふえていくものである」

を受けてのものだが、不思議と印象深い。、

なお花田清輝の作品については、

「鳥獣戯話」
http://ppnetwork.seesaa.net/article/470946114.html
「復興期の精神」
http://ppnetwork.seesaa.net/article/472034541.html
「小説平家」
http://ppnetwork.seesaa.net/article/470800504.html

についてそれぞれ触れた。

参考文献;
粉川哲夫編『花田清輝評論集』(岩波文庫)

万物一体の仁

宮城公子『大塩平八郎』を読む。

何度目か、ふと気になって、また本書を開いた。大塩中斎に寄り添い、その思想の流れに則って、中斎の一生を追う。本書は、中斎の思想、陽明学というより、中斎自身が孔孟学と呼んだ、その思想の決算書のような性格を持つ。

大塩平八郎。諱は後素、字は子起。号は中斎。享年45。

大塩をさして、友人頼山陽は、

小陽明、

と渾名したという。著者は、「序」で、こう書く。

「大塩にあっても陽明学はまさしく『述べて作らず、信じて古を好む』ものとしてあった。大阪東町奉行所与力として民政にあたる中で、洗心洞での門弟への講義の中で、あるいは伝え聞く各地からの民情不穏の情況で、そして打ち続く『天保飢饉』のさなかにあって、大塩は常に陽明学を通して聖人や賢者の言葉を追体験しようとした。しかも日常の言動から、心の奥底の隠微な動きにおいてである。大塩の本領は、この追体験の厳しさと、そこにあらわれる強烈な個性にこそあろう。そして儒者なら誰も知る言葉より反乱を導き出したその一点において、大塩は全く新しい創造をなしとげたのであり、長い儒学史上、たぐい稀なものものとして輝く」

と。しかし、

「陽明学そのものは為政者の治世のための学問であり、けっして『反乱の学問』ではない」

そのことを、大塩は百も承知していた。しかし、大塩の「万物一体の仁」の思想によれば、

「草木瓦石も我心中の物だから、字義通りの宇宙の存在すべてを、自分のこととしてひきうける無限責任の前に立つ。この無限責任を背負い、『故に大人は斃れて後已む』と大塩は命がけの『功夫』(実践修養)を自分に課した。こんな命がけの功夫によりはじめて『心太虚に帰し』、太虚と合一しうる。その時、人は『四海を包括し、宇宙を包含して、捕捉すべからざるものなり。大を語れば天下能く載する莫き』(洗心洞箚記)ものとなる。」

自ら、こう書いている。

「眼を開き天地を俯瞰して以て之を観れば、則ち壌石は即ち吾が肉骨なり。草木は即ち吾が毛髪なり。雨水川流は即ち吾が膏血精液なり。雲煙風籟は即ち吾が呼吸吹嘘なり。日月星辰の光は即ち吾が両眼の光なり。春夏秋冬の運は即ち吾が五常の運なり。而て太虚は即ち吾が心の蘊なり。嗚呼人七尺の躯にして而も天地と斉しきこと乃ち此の如し。三才の称豈徒然ならんや」

と(洗心洞箚記)。確かに、大塩自身は、

「民の苦しみは我の苦しみ」

でありそれを見過ごすことはできない。しかし、あくまで儒者は、それを治世に生かすべく、そういう為政者を動かすしかない。だから、友人平松楽斎に、

「君が今、『己を知る』明君に会わず、このうえ働こうとする」

のは、孟子のいう、

「憑婦臂を攮(かかげ)て下車」、

の類と諫められ、いったんは、自ら何かしようとすることを、思いとどまった大塩であったが、幕閣の、とりわけ老中水野越中守、大阪東町奉行跡部山城守兄弟による、

「大阪市中の在米確保で厳しい他所積制限令を出し、日々の飯米を買い出す細民を罰しつつ、他方で幕命を受け江戸廻米に奔走する大坂町奉行の飢饉対策」

には怒りを抑えきれなくなる。「大学卒章」の、

「小人をして国家を為(おさ)めしむれば、菑害(さいがい)並び至たる。善者有りと雖も、亦之を如何ともする無し」

という文言が大塩の目の前に現実として見えてきた。

「『民を視ること傷める如し』。これは大塩が幾度となく反芻した言葉であるが、今大塩の目前に飢えに倒れ、死のうとしている民衆が横たわる。『万物一体の仁』とは井戸に落ちかかる子をみれば、誰しもはっとして、とるものもとりあえず救おうとする『惻隠の情』が、その基底にあった。民の苦痛は我の苦痛である。民の飢え、民の苦しみは我の飢え、我の苦しみ。今、我が手が痛み、我が足が萎える。大塩は民衆と一体化し、町奉行並びに諸役人に怒りを爆発させる。」

大塩の思想的転換を、こう捉える。

「大塩が何かを決意した時、それは打ち続く天変地異と、同じように猖獗をきわめる百姓一揆を前に『大学卒章』の中に小人が権柄を握る幕藩制支配の危機を読み取り、百姓一揆や打ちこわしの鎮圧を決意していたのかもしれない。大塩の『万物一体の仁』の思想からすれば、一揆に立ち上がり、為政者に手向かう民もまた、わが心中の悪なのであり、己の責任において、それは鎮圧されねばならなかったから。だが、この『万物一体の仁』からすれば、同じく飢えに苦しむ民衆もわが心中の問題であり、己の責任において救わねばならない。『小人をして国家を為(おさ)めしむれば、菑害並び至たる』という『大学卒章』は『万物一体の仁』により、飢えに苦しむ民衆と完全に一体化することによって、はじめて現実の幕藩制支配者への批判の思想となりえた」

と。而して、蜂起の檄文は言う。

「四海こんきういたし候ハゝ天禄ながくたゝん、小人に国家をおさめしめば菑害并至と、昔の聖人深く天下後世、人の君人の臣たる者を御誡被置候ゆヘ、東照神君ニも、鰥寡孤独ニおひて尤あはれみを加ふへくハ是仁政之基と被仰置候、然ルに茲二百四五十年太平之間ニ、追々上たる人驕奢とておこりを極、太切之政事ニ携候諸役人とも、賄賂を公ニ授受とて贈貰いたし、奥向女中之因縁を以、道徳仁義をもなき拙き身分ニて、立身重き役ニ経上り、一人一家を肥し候工夫而已ニ智術を運し、其領分知行所之民百姓共へ過分之用金申付、是迄年貢諸役の甚しき苦む上江、右の通躰之儀を申渡、追々入用かさみ候ゆへ、四海の困窮と相成候付、人々上を怨さるものなき様ニ成行候得共、江戸表より諸国一同右之風儀ニ落入、天子ハ足利家已来別而御隠居御同様、賞罰之柄を御失ひニ付、下民之怨何方へ告愬とてつけ訴ふる方なき様ニ乱候付、人々之怨気天ニ通シ、年々地震火災、山も崩、水も溢るより外、色々様々の天災流行、終ニ五穀飢饉ニ相成候、是皆天より深く御誡之有かたき御告ニ候へとも、一向上たる人々心も付ず、猶小人奸者之輩、太切之政を執行、只下を悩し金米を取たてる手段斗ニ打懸り、実以小前百姓共のなんきを、吾等如きもの、草の陰より常々察し悲候得とも、湯王武王の勢位なく、孔子孟子の道徳もなけれバ、徒ニ蟄居いたし候処、此節米価弥高直ニ相成、大坂之奉行并諸役人とも、万物一体の仁を忘れ、得手勝手の政道をいたし、江戸へ廻米をいたし、天子御在所之京都へハ廻米之世話も不致而已ならす、五升一斗位之米を買に下り候もの共を召捕抔いたし、云々」

これを評して、

「大塩は檄文起草の段階では、すでに死を決していたと思われる。自身が死を決することなく、どうして他人に死を迫りえよう。その意味では、二千字に及ぶ挙兵の檄文は大塩の思想的遺書である」

と。しかしその思想に立ち開かったのが、大塩の最愛の弟子、宇津木靖である。

宇津木靖(通称矩之允)、字は共甫、静区(せいおう/せいく)。彦根藩士。享年29。

「図らざりき、先生此言を出すや、夫れ災を救い民を恤ふは官自ら其の人あり、況や豪戸を屠って之を済ふ、是れその民を救ふ所以は、即ち民を災する所以なり。其れ乱民と為らざる者幾んど希なり。苟も余の言にして聴かれずんば、則ち師弟の義永く絶たん。安んぞ乱民の為に従はんや」

という宇津木の諫言は正鵠を射ていた。

「救民は町奉行が主体となってやるべきである。そのために富豪を誅伐したならば、民を救おうとしてかえって兵火で民を災し、挙句百姓一揆のごとく秩序を乱すことになる」

と。

「宇津木の理解した大塩中斎の思想からは、民衆によびかける挙兵はあろうはずがなかったし、それが大塩の思想の本質だった。宇津木の諫言は民衆によびかける挙兵にあらわになった大塩の『万物一体の仁』の思想の破綻を正確についている」

のである。

「大塩は蓄電した河合郷左衛門をそのまま見逃したし、密訴することになる吉見九郎右衛門が病気を理由に挙兵参加への返答を渋っても『心緩々保養専一』にするよう、挙兵のさいはそのまま立ち退けと許した」

にもかかわらず、ひとり、宇津木のみは惨殺せしめた。これについて、著者は、

「私は大塩が、宇津木の言葉を認め彼を生かしたならば、大塩の挙兵の意図が今ここですべて崩壊する。大塩は宇津木を殺さねば前へ進めなかったのだと考えたい」

とする。宇津木の指摘するように、儒者として、蜂起はその理論の破綻そのものである。治者の学問を、治者を介さず自ら実践できるなら、自らを容れる君主を求めて、孔子も、孟子もさまよい続ける筈はないのだから。

著者はこうまとめる。

「大塩の悲劇は『万物皆我に備わる』といい、また『仁者は天地万物を以って一体と為す』といって、民衆はもとより草・木・瓦・石にいたるまでの天地万物をすべて心の中のこととしてひきうけ、それをつき離し、客観化することはもとより、無関心でさえありえなかったことにある。大塩は世界存在にたいする無限責任を背負って生き、そして死んだといえよう」

と。しかし、大塩の思想の全体像を、その形成から完成まで見届けた著者にしても、

「大塩の生涯の思索と実践の中に、大塩が挙兵に追いつめられていく過程をさぐり、その『所業の終る処』を見届けた今となっても、やはり、私には大塩が生と死を分つ最後の深淵をどう飛び越えたかに、答えられない」

と書く。その、儒者であることをやめ、反乱者として立つ、その深い淵は、大きく広いほど、目の前の、飢饉と困窮の人々への、大塩のやむにやまれぬ思いの深さを感じる。

大塩逮捕のために大阪城代土井大炊頭の下で働いた鷹見泉石は、

「京、大津辺、下々而て、大塩様の様に迄世のためを思召候儀、難有と申者、八分通りの由」

と日記に書き残した。以て瞑すべしであろうか。

なお、矩之允と平八郎の思想的対立については、「架空問答」として、項を改める。

参考文献;
宮城公子『大塩平八郎』(ぺりかん社)
吉田公平訳注『洗心洞箚記』(タチバナ教養文庫)

無名之師

中里紀元『秀吉の朝鮮侵攻と民衆・文禄の役』を読む。

本書は、所謂、文禄・慶長の役の、

天正20年(1592年)に始まって翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役、

を描く。通常文禄の役、というが、文禄元年への改元は128日に行われたため、412日の釜山上陸で始まった戦役初年のほとんどは、厳密にいえば天正20年の出来事になる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9)らしい。

著者は、

「私の祖父は唐津藩御用窯の最後の御用碗師であった。文禄、慶長の役で唐津藩初代藩主寺沢志摩守広高によって連行されて来た朝鮮陶工又七(トウチル)が私たちの祖先にあたる」

いわば、略奪連行された朝鮮の人たちは、

薩摩藩だけで三万七千人、

といわれる途方もない数である。特に陶工の連行は、ために朝鮮の生産は衰微したといわれるほどの惨状となり、逆に有田焼、唐津焼といわれるものは、拉致してきた朝鮮人の手に始められたものである。その子孫の著作であることには、ちょっと感慨がある。ただ、問題意識が、侵略した日本軍の行状にあるのか、現地の人々の惨状にあるのか、焦点が定まらず、時系列に、日本軍の経路に合わせて叙述していく方式は、もう少し工夫があってよかったのではないか、という憾みがある。

この朝鮮侵略は、まさに、

無名之師、

である。「無名の師」とは、

おこす名分のない戦争、

の意であり、特に仕掛けられる側だけでなく、仕掛ける側においても必要がなくかつ勝算が確定的でない場合に独裁的な指導者によってなされるものを言う、

とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%84%A1%E5%90%8D%E3%81%AE%E5%B8%AB)。後漢書・袁紹劉表列伝に、

曹操法令既行、士卒精練、非公孫瓚坐受圍者也。今棄萬安之術、而興無名之師、竊為公懼之

とある。

名分の無い戦争、

である。

無名之兵(三国志・魏書)、

とも書く。まさに、秀吉の朝鮮出兵は、「無名之師」そのものであった。

秀吉の妄想とも言うべき、

唐入り、

という構想から、

ただ佳名を三国(日本、明、天竺)に顕さんのみ、

という朝鮮王への手紙にある、途方もない妄想の実現を目指すのである。そのために、朝鮮は、

仮道(途)入明、

つまり、

秀吉は朝鮮にみずからのもとに服属し、明征服の先導をするよう命じ、

それに応じないことを理由として、四月先手勢の小西行長軍は、釜山城を攻撃する。こうして、翌年まで続く戦争が始まるが、初期の快進撃は、朝鮮軍のゲリラ戦、李舜臣率いる朝鮮水軍による敗北、明軍の参戦などによって、補給線を断たれ、寒気と食料不足に悩まされた日本軍は、南部へ後退、恒久的な支配と在陣のために朝鮮半島南部の各地に拠点となる城の築城を開始し、日本・明講和交渉が始まったところで、文禄の役は終わる。

しかし、十五万余の渡海軍は、翌年には、七万四千余人の減員となっている。特に、先手勢の小西軍は、一万八千が、六千余に減っているし、加藤・鍋島勢も、二万二千から一万一千に減っている、という惨憺たるありさまである。もちろん、この減員は、戦国時代の軍隊が、

かりに百人の兵士がいても、騎馬姿の武士はせいぜい十人足らずであった。あとの九十人余りは雑兵(ぞうひょう)と呼んで、次の三種類の人々からなっていた。
@武士に奉公して、悴者(かせもの)とか若党(わかとう)・足軽などと呼ばれる、主人と共に戦う侍。
A武士の下で、中間(ちゅうげん)・小者(こもの)・荒子(あらしこ)などと呼ばれる、戦場で主人を補(たす)けて馬を引き槍を持つ下人(げにん)。
B夫(ぶ)・夫丸(ぶまる)などと呼ばれる、村々から駆り出されて物を運ぶ百姓(人夫)たちである、

という(藤井久志)編成から見て、雑兵の中には,侍(若党,悴者は名字を持つ)と武家の奉公人(下人)もいるが、人夫として動員された百姓が多数混在している。この構成の中で、多く、弱い立場のものが一番しわ寄せを受け、主従のつながりを持たぬ人夫たちの多くは逃亡している可能性があるので、すべてが戦病死者というわけではないが、その消耗はすさまじい。それにしても、異国の厳冬のさなか、どう生き延びたのだろうか。

本書は、時系列に追うために、こうした兵員各層の実像に迫りきれておらず、そのあたりも、事件を概括しているだけの恨みが残る。

それにしても、秀吉の朝鮮、明を侮る姿勢は、滑稽というよりも悲惨である。しかし、その姿勢は、西郷の征韓論、明治政府の朝鮮併合にまで、通奏低音のように続き、今日もまだ、どこかにいわれなき朝鮮蔑視が続くのが、やりきれない。

それで思い出すのは、西郷の征韓論に抗議、自裁した薩摩藩士横山安武(森有礼の兄)のことを思い出す。これについては、「異議」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-5.htm#%E7%95%B0%E8%AD%B0)でも触れた。

横山安武の抗議の建白書は、こう書く。安武の満腔の思いがある。全文を載せる。

朝鮮征伐の議、草莽の間、盛んに主張する由、畢竟、皇国の委糜不振を慷慨するの余、斯く憤慨論を発すと見えたり、然れ共兵を起すに名あり、議り、殊に海外に対し、一度名義を失するに至っては、大勝利を得るとも天下萬世の誹謗を免るべからず、兵法に己を知り彼を知ると言ふことあり、今朝鮮の事は姑らく我国の情実を察するに諸民は飢渇困窮に迫り、政令は鎖細の枝葉のみにて根本は今に不定、何事も名目虚飾のみにて実効の立所甚だ薄く、一新とは口に称すれど、一新の徳化は毫も見えず、萬民汲々として隠に土崩の兆しあり、若し我国勢、充実盛大ならば区々の朝鮮豈能く非礼を我に加へんや慮此に出でず、只朝鮮を小国と見侮り、妄りに無名の師を興し、萬一蹉跌あらば、天下億兆何と言わん、蝦夷の開拓さへも土民の怨みを受くること多し。
且朝鮮近年屡々外国と接戦し、顧る兵事に慣るると聞く、然らば文禄の時勢とは同日の論にあらず、秀吉の威力を以てすら尚数年の力を費やす、今佐田某(白茅のこと)輩所言の如き、朝鮮を掌中に運さんとす、欺己、欺人、国事を以て戯とするは、此等の言を言ふなるべし、今日の急務は、先づ、綱紀を建て政令を一にし、信を天下に示し、万民を安堵せしむるにあり、姑く蕭墻以外の変を図るべし、豈朝鮮の罪を問ふ暇あらんや。

朝鮮を小国と見侮り、妄りに無名の師、

を起こした延長線上に、日清戦争があり、日露戦争があり、その権益を守るための太平洋戦争がある。この建白書は、現代日本をも鋭く刺し突く槍である。いまなお、嫌韓、ヘイトの対象にして、言われなく他国を侮蔑する者への、無言の刃である。

しかし、「通底」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-1.htm#%E9%80%9A%E5%BA%95で触れたように、

「中国に倣った中華思想を基軸に据え」た大宝律令が完成した大宝元年(701)の元日,

「文武天皇は大極殿に出御し,朝賀を受けた。その眼前には前年新羅から遣わされた『蕃夷の使者』も左右に列立した。」

という。この中華思想「東夷の小帝国」意識は,

「日本(および倭国)は中華帝国よりは下位だが,朝鮮諸国よりは上位に位置し,蕃国を支配する小帝国」

を主張するというものだ。それと同時に,

「朝鮮半島諸国に対する敵国観も,日本人の意識の奥底に深く刻まれた。もともと,交戦国であった高句麗や新羅に対する敵国視は古い時代から存在していたのであるが,(中略)その後新羅に替わって半島を統一した高麗は高句麗の後継者と自称したが,日本ではこれを新羅の後継者と見なした。そして新羅に対する敵国視もまた,高麗に対しても継承させたのである。」

この対朝鮮観の根深さは,ちょっと衝撃的である。われわれの夜郎自大ぶりには,われわれの1500年に及ぶ年季が入っているのである。この根の深さは、深刻である。

参考文献;

中里紀元『秀吉の朝鮮侵攻と民衆・文禄の役』(文献出版)
藤木久志『【新版】雑兵たちの戦場−中世の傭兵と奴隷狩り』(朝日選書)
倉本一宏『戦争の日本古代史−好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』(講談社現代新書)

架空問答(中斎・静区)

大塩中斎については、「万物一体の仁」http://ppnetwork.seesaa.net/article/475454613.html?1591380773で触れたが、大塩平八郎中斎は、天保八年(1837)二月一九日(三月二五日)に門人と共に蜂起する。その檄文に曰く、

四海こんきういたし候ハゝ天禄ながくたゝん、小人に国家をおさめしめば菑害并至と、昔の聖人深く天下後世、人君人の臣たる者を御誡被置候ゆヘ、東照神君ニも、鰥寡孤独ニおひて尤あはれみを加ふへくハ是仁政之基と被仰置候、然ルに茲二百四五十年太平之間ニ、追々上たる人驕奢とておこりを極、太切之政事ニ携候諸役人とも、賄賂を公ニ授受とて贈貰いたし、奥向女中之因縁を以、道徳仁義をもなき拙き身分ニて、立身重き役ニ経上り、一人一家を肥し候工夫而已ニ智術を運し、其領分知行所之民百姓共へ過分之用金申付、是迄年貢諸役の甚しき苦む上江、右の通無躰之儀を申渡、追々入用かさみ候ゆへ、四海の困窮と相成候付、……。

しかし、その日、中斎は、その高弟であり最愛の愛弟子宇津木靖を惨殺せしめた。宇津木靖、字は共甫。通称は矩之丞,。静区(セイオウ)と号す。静区は全力で中斎を諫めた。その思想的対立を、架空の問答としてまとめてみた。ただ、素人の悲しさ、二人の思想を十分理解し得ていたかどうかは、些か覚束ない。乞う、ご憫笑。。。
 

 

 


静区 「予想もしないことです。先生が、左様な事を仰せ出されるとは、」

中斎 「米価暴騰し、飢餓のため道々には行き倒れが満ちている、大阪だけで、この月四十人もの餓死者が出ているというのに、町奉行は措置を過ち、豪商豪農の義捐は捗らず、あまつさえ、なけなしの大阪の米を江戸へ廻米し、あろうことかわずかの米を買いに来るものを捕縛している、これを座視するに堪えようか。いたずらに人禍を怖れ、ついに是非のこころをくらますは、もとより丈夫の恥ずるところ、しかして何の面目ありて聖人に地下に見(まみ)えんや、ゆえにわれまた吾が身に従わんのみ。」

静区 「そのお言葉、先生のお言葉とは思えませぬ。災いを救い民を恤(すく)うは官自ら、それをおこなうべきことです。その位にあらざれば、その政を謀らず。だかこそ、孔子も孟子も、ご自分を容れられる君子を求めてさまよわれたのではありませんか。先生は矩を越えられるのか。」

中斎 「民の好むところを好み、民の悪(にく)むところを悪む。それをみずからが実践せずして、完成することにはならぬ。万物一体の仁とは、かようなものではないか。でなければ、手をつかねてただ上に進言し続ければよいのか。その間に、幾人の民が死んでゆくか考えてみたことはないのか。聖徳の君子の出現を待つゆとりはない。」

静区 「ならば、それなら、建議をもって、奉行をただすべきことです。それを豪戸を屠って民を済う、さようなやり方では、かえって民に禍をもたらすだけではありませんか。」

中斎 「何度建議に及んだことか、それに対して奉行の跡部山城守がどんな仕打ちをしたか、隠居の身なれば、控えよと申し、これ以上強いて言に及べば、強訴とみなすと、みどもを脅し、乱心扱いしおった。あまつさえ、蔵書を売った資金を元に、ひとり一朱の施行をするにさえ横槍を入れ、鴻池屋や他の豪商に救民救済の資金借り入れをした件についても、鴻池らを恫喝して沙汰闇にさせおった。みどももかつて、同役のものどもに、こう予言いたしたことがあった。一体太平の世が打ち続き天下一統奢侈増長、役人共は奸曲所業のみいたし、もはや天道にも御用済みの時代になっている。七八年のうちには大凶作が到来し、世上難儀必至、されば今のうちより御手当てなされたく、そのやり方はかくかくしかじか、そのように凶作の備えができていれば、間に合うと申し上げ、そうしないと、摂津、河内、和泉、播磨の民は飢饉に及び、難渋必至と、ことを分け、たびたび上疏致したが、寸分もお取上げにならず、役人共はおのが身上を肥やすのに汲汲といたし、民の難渋を顧みない。そのとき、みどもはこう申してやった。数年のうち大凶作到来、万民飢餓に及び候わば、やむをえず天道に代わって、諸人を救い、奸曲の役人共に目に者を見せてやると、役人共を睨みつけてやった。いま、そのときがきたまでではないか。」

静区 「だからと申して、彼等豪商を襲うとは、一揆と同じではありませぬか。先生は、百姓衆の暴発を、政(まつりごと)の危機とみておられたのではなかったのですか。」

中斎 「建議をつづけても、その建策をお取上げにならねば、座して、死にゆく民を見守るのか、それとも建策を取り上げぬ山城守を陰で罵るだけでよいのか。」

静区 「それがわれらの分です。」

中斎 「分とな。むろん、天子、諸侯、大夫は天下国家に責任がある。庶人は身を修め、家を斉(ととの)えることしかできぬ。ならば学問は、天子諸侯大夫にのみに属すのか。そうではないことをわたしは教えてきたはずだ。修身はすべてのものに不可欠で、誰ひとりそこから逃れることはできぬ。では修身とは何か。孝を親に尽くすは、即ち身を修めるの根本であろう。これを家、国、天下の礎におけば、斉、治、平の功はおのずとなる。修身を通して、斉家、治国、平天下に連なっていく。庶人であっても、修身を通して、庶人から天子まで連なるのだと。それぞれが、その得たるところで、分を尽くすとは、そういう意味であったはずだ。」

静区 「庶人が身を謹み、用を節することが孝であり、それが治国平天下に関わることは確かです。しかしそれは、公儀を恐れて法度を守り、身無病に手足強健なるように養生することに第一義があったはずです。」

中斎 「飢える民を前に、さようなことを言っておられようか。死にゆくものに訓点を教えて何の役に立つか。さようなことがわれら孔孟学の道なのか。そうではあるまい。」

静区 「そうあるべきです。乱など、もってのほかです。子曰く、その人となりや、孝悌にして、上を犯すことを好む者は少なし。上を犯すことを好まずして、乱をおこすことを好む者は未だこれあらざるなり、とあります。先生は乱を起こすことを好まれるのであれば、上を犯すことを好むのであり、それは孝悌に反します。」

中斎 「上を犯しているのは、この天災、飢饉に苦しむ民を見て見ぬふりをし、民の悲嘆をよそに、老中のいいなりに、江戸廻米をきめた跡部山城であり、役人どもではないか。それこそ、上を犯すに等しい振る舞いではないのか。君子の善に於けるや、必ず知と行と合一す。小人の不善に置けるや、亦た必ず知と行と合一す。而して君子若し善を知りて行わずんば、則ち小人に変ずるの機なり。その見本のようなものであろうが。」

静区 「まったく何も救恤策をとられていないのではありませぬ。備蓄米を開きもしましたし、豪商の施行もなされています。責めるばかりでよろしいのか。人を責めずみずからを責める、と仰せになったのは先生ではなかったですか。」

中斎 「確かに奉行所では、八月救民への廉売をした、しかしそれでも買えないものが多数おり、九月になってついに無料で配布をはじめた。何か、このていたらくは。世上の実情がみえておらぬ。たしかに、鴻池、加島屋、住友などから義捐金をつのり、十月二百文ずつ配った。幸い米価はいったん下がりかけたのだ、その頃。そこに、江戸廻米だ、元の木阿弥どころか、なんのためのお救米だったのか。このちぐはぐぶりはどうか。しかも、義捐金は、三年前の三分の二ぞ、飢饉は、三年前の比ではないというに。だからみるに見かねて、みどもが、直接鴻池らに掛けあい、救済資金借り入れについて了承を取ったのだ。たかが隠居の身でそれができたのなら、奉行が本気でやれば、もっと大きなことができたはずではないか。なのに、それをさえ、山城守は、与力の隠居にすら、莫大な金子を貸し遣わすとならば、江戸から御用金の申し渡しがあった場合は、有無を言わさぬぞ、と鴻池らを脅して、みどもとの約束を反故にさせおった。民に目を向けておらぬ、江戸の兄、老中、水野越中しか見ておらぬのだ、山城守は。」

静区 「新、不新を君父に責めず、親しむの功夫(実践修養)をおのれに責むれば、則ち心を尽くし、性を尽くす大学問なり、と申されたではありませぬか。おのが力の足りなさを責むるべきです。」

中斎 「たわけたことを申すな、京から、米の買出しにきただけで入牢させられたものが、一杯おるのだぞ。惣嫁(そうか)というものを存じておるか、わずか三十二文で家のため、妻や娘が春をひさぐという、十六文でそばが食えるのにだぞ。質屋は質流れが続き、閉店に追い込まれ、売り払うものがなくなった貧しい民は、女房や娘が路傍で春をひさぐしかないのだ。奉行所がしたことはそれを取締っただけだ。毎日毎日四十人もの行き倒れがでておる、そんな中での江戸廻米だ、何が将軍宣下の儀式のためか。この未曾有の大飢饉のさなか、米が不足しているのに、わずかの米を取り上げられて、どう生きよと申すのか。矩之允、そう申すなら、なぜ、だれひとり諌めぬ、上様を、水野越中守を、奉行の跡部山城守を、諌めぬ。誰か一人でも諌めたか、飢えたる民に鞭打つ所業を、唯々諾々と忠実に遂行するばかりではないか。それがそちの申す分か、一体どこに治国がある。」

静区 「そのことに異論はありませぬ。しかし民の楽しみは吾の楽しみであり、民の好むところを好み、民の憎むところを憎むとは、先生ご自身ではなく、政をつかさどるものの心構えのはずではありませぬか。そのように、民を観るべしと。」

中斎 「民の楽しみは吾の楽しみであり、民の好むところを好み、民の憎むところを憎む、それはただ心の中でのことか。飢え死にしていくものを前に、何も為さぬのが仁か。行倒れ、死なんとする民を、吾が身の如く悲しまぬ仁などあってよいのか。日用応酬のこと、皆格物なり、豈只書を読み、物理を窮めて然る後、之を格物と謂うと云わんや。頭の中だけで考えるのをやめよ、矩之允。」

静区 「いえ、そのために事をなすべき立場のものをどう動かせるかが、われらの務めであり、仁であり、孝悌であるべきです。」

中斎 「そうではない。おのれを省みて、おのれの良知に問う。善であれば、狂者のごとく進み取る。悪であれば、狷者のごとく、拒否する志なければ、恥というべし。毎日書物を読み理をかたっても、似非君子にすぎぬ。」

静区 「先生は君主でも大夫でもありませぬ。小人をして国家を為(おさ)めしむれば菑害(さいがい)並び至る、この飢饉に、突然来りて暴を為すと仰せではなかったですか。それは政を預かるものへの戒めであったはず。それを先生みずからが、直接一揆を企てるのは、まさに突然来たりて暴を為すことそのものではありませぬか。」

中斎 「そうではない。夫れ人の嘉言善行は即ち、吾が心中の善にして、而て人の醜言悪行は亦た、吾が心中の悪なり。是の故に聖人は之を外視する能はざるなり。斉家治国平天下は一として心中の善を存せざるなく、一として心中の悪を去らざるはなし。一揆に立ち上がる民も、わが心中の悪であり、おのれの責任で鎮圧せねばならぬ。同じく飢えに苦しむ民も我が心中の苦しみであり、おのれの責任で救わねばならぬ。それが万物一体の仁だ。飢えに苦しむ民と一体になり、その苦しみになり代わって、挙兵し、災害を引き起こす小人を誅するまでじゃ。」

静区 「ご承知のはずです。それは、その立場にある者が、なすべきことを十分になしておらぬ、奉行を、ご公儀を責めておられるだけではないですか。君や父やあるいは他者に責任転嫁することなく、自分が民に親しむの功夫を為したかどうか、自分自身を責めるところからはじめなくてはならぬ。父や君、あるいは一人の民も革新していないものがあれば、自分の民を親しむ功夫が十分ではなく、ひいては明徳を明らかにする功夫も十分ではない。先生自身がそう仰せではなかったですか。」

中斎 「重ねて申すが、万物一体の仁からすれば、百姓一揆や打ちこわしをする民も、また我が心中の悪であり、おのれの手で鎮圧しなくてはならない。しかしまた同時に、飢えて苦しむ民の苦しみもまたおのれの心中の苦しみであり、おのが責任において救わねばならぬのだ。草木瓦石にいたるまで、それが死に、折れ、こわれるという生意の喪失に無関心でありえず、我が心が傷む。この感傷はこころの痛みであり、躰の痛みである。なぜなら、天地間の万物はわが心中のことであり、我の分身である。他人や民衆はもとより、草木瓦石にいたるまで、天地間の万物をすべてわが心中のこととして、それを突き放さず、自分のこととして受け止める。だからこそ、見捨ててはおけぬ。民をおのが分身とみなし、痛痒、饑寒、好悪、苦楽において民と一体となる。民の痛痒はおのが痛痒である。民の飢えはおのが飢え、おのが苦しみ、万物一体の仁とはかようなものであらねばならぬ。いま、まさに、眼を開き天地を俯仰してみれば、壤石は吾が肉骨なり、草木は吾が毛髪なり。雨水川流は吾が膏血なり。雲煙風籟は吾が呼吸吸嘘なり。日月星辰の光は吾が両目の光なり。春夏秋冬の運は吾が五常の運なり。太虚は吾がこころの薀なり、人は七尺の短躯にして天地と等しいのだ。」

静区 「故に血気ある物は、草木瓦石に至るまで、其の死を視、其の摧折(さいせつ)を視、其の毀壊を視れば、則ち吾が心を感傷せしむ。もと心中の物たるを以っての故なり、と。しかしだからといって、乱を起こすことは、上を犯す、としかいいようがありません。」

中斎 「よいかな、学は固よりおのれの心を正しくし、おのれの身を修む。然れどもおのれの心を正しくし、おのれの身を修るのみを以て学の至りと為すは、蓋し大人の道に非ず。夫れ心外の虚は、皆吾が心なり。即ち人物は心の中に在り。其の善を為し悪を去るも亦た身の事にして、而して善を為すも亦た窮まり無く、悪を去るも亦た窮まり無きなり。であればこそ、古えの明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ず其の国を治む。其の国を治めんと欲する者は先ずその家を斉(ととの)う。その家を斉えんと欲する者は、先ず其の身を修む。その身を修めんと欲する者は、先ず其の心を正す。其の心を正さんと欲する者は、先ずその意を誠にす。其の意を誠にせんと欲する者は、まず其の知を致す。知を致すは物を格(ただ)すに在り。この言葉も、そちにとっては、単なる知識をえればよい、というだけに終わるのであろう。」

静区 「それが先生の申される孔孟学徒の役割です。その理非を問い、曲直を正すために、かくあらねばならぬ心構えのはずです。一家の主の意は一家の人々に、一国の主の意は一国の人々に、天下の主の意は天下の人々に及ぶ。ひとたび意が誠でないなら、一家麻痺し、一国の人、天下の人の意が誠ではなく、家は斉(ととの)わず、国は治まらず、天下は平かではなくなる。自分の心の動きが天下の政につながっている、と。」

中斎 「いたずらに人禍を怖れ、ついに是非のこころをくらますは、もとより丈夫の恥ずるところ、しかして何の面目ありて聖人に地下に見(まみ)えんや、ゆえにわれまた吾が身に従わんのみ。どこまでもすれ違いかの。」

静区 「先生のおっしゃる誠意慎居は、心の奥底のどんな隠微な悪も見逃さず、あらゆる事柄に一瞬も怠らぬ克己の内省であるべきもののはずです。功夫(実践修養)とは、格物致知の上にも貫かれ、それによって五倫の道は真のものとして蘇り、日用人倫あらゆる事柄が、功夫の場となる。明徳親民もと一事だから、功夫は一己の道徳に終始できない。一人の民とも隔絶し、一人の民をもその所をえないならば、それは民を親しむの功夫がいまだ不十分であるばかりでなく、おのが明徳も明らかでないことになる。そう仰せになった主旨の結果が、乱民となることでしょうか。それは先生の孔孟学の破綻でなくてなんでしょうか。わが言葉に耳を傾けていただけないならば、師弟の義永く絶たんと存じます。どうして乱民に従えましょうや。」

中斎 「それもよかろう、しかしの、矩之允よ、子曰く、志士仁人は、生を求めて以て仁を害することなく、身を殺して以て仁を成すことあり。おのれは関知せずと言うばかりでは、仁とはいわぬのだ。」

静区 「先生、百歩譲りましょう。身を殺して以て仁を成すときなのだと致しましょう。しかし、心太虚に帰し、湯武の勢い、孔孟の徳あるもののみ救民のための天誅を為しうる。先生は、孔孟の徳ある者と、うぬぼれるのですか。」

中斎 「格物して後に知至る。知至りて後に意誠なり。意誠にして後に心正し。心正しくて後に身修まる。身修まって後に家斉う。家斉いて後に国治まる。国治まりて後に天下平らかなり。だが、天下が平かでなければ、いかがすればいいのか。国が治まっておらねば、いかがすればいいのか。それ故家が斉わず、身修まらず、意誠ならず、知至らずならばいかがするか。まず物を格(ただ)さねば、知を至らすことはできまい。では、物を格すとはどういうことか。意念のあるところ、直ちにその不正を去って、もってその本来の正しさを全うし、あらゆるとき、あらゆる場所において、天理を存するようにすることだ。よいか、わたしのいう致知格物は、わが心の良知を事事物物に致すことである。わが心の良知を致すのが致知であり、事事物物にその理をえるのが格物である。よいか、致知とは、知識を磨いたり、心構えを正すだけではだめなのだ。知を実現しなくてはだめなのだ。良知を致さずんば、則ち仁は決(かなら)ず熟せざるなり、とはその意味でなくてはならない。だからこそ、事に非ざるもの無し、と。是れ真の格物なり。故に王公より庶匹に至るまで、日用応酬の事は、皆格物なり。豈只に書を読み物理を窮めて、然る後に之を格物と謂うといはんや。」

静区 「君子の善に於けるや、必ず知と行と合一す。小人の不善に置けるや、亦た必ず知と行と合一す。而して君子若し善を知りて行わずんば、則ち小人に変ずるの機なり。先生は小人の合一ではないと言い切れますか。」

中斎 「儒者の学問の目的は、経世である。その根本は無欲でなくてはならぬ。孟子にいう、志士はいつも溝壑(こうがく)にあるを忘れざる、と。世を捨てて、隠棲するのも儒者の生き方だ。徹頭徹尾、政(まつりごと)に関わり続けようとする道もあろう。しかしみどもはそれを取らぬ。座して、死者がみちみちるのを、手を束ねて見守るだけはできぬ。それが天意にかなう行為と信じたら、みずから、そのために身を忘れ、家を忘れ、妻子眷属を捨てて兵を起こさざるをえない、そういう仁もある。身を安きに置かんと要(もと)むるは、即ち人情なり。然れども其の情に任すれば、即ち与に道に入るべからず。故に大人は斃れて後休む。故に斃れざるうちは其れをして善をなし、其れをして悪を去らしむ。便ちこれ功夫なり。」

静区 「先生は、かつてこういっておられた。良知の学は天下に亡びて伝わらず。只だ其の伝はらざるや、人亦た聖賢の域にのぼるを得ずして、皆酔生夢死の場に擾々(じょうじょう)たり。豈に悲しむべきに非ざるか。若し先覚者有らば、万死を犯すも疾(すみや)かに告げざるを得ざるなり。嗚呼、後の世に当たりて、先覚するものは抑も誰ぞや。吾れ未だ其の人を見ざるなり。噫。いま先生は先覚者になりたるご所存か。」

中斎 「矩之允、もうよかろう、夜も更けた、後は明日にしょうぞ。」

中斎は、ついに静区(矩之允)の諫言を論破できなかったように見える。その答えが、静区を惨殺せしめることであった。それは、おのれが磨き上げてきた学問の破綻そのものでもあった。というより、その学問の桎梏を断ち切らねば、そもそも崛起は成り立たなかったのである。それを象徴するのが、中斎の最愛の愛弟子静区であった。それを断ち切ることが、儒者であることをやめ、反乱者として立つ、その深い淵を飛び越えることであった。それほど、その深淵は、大きく隔たる。しかしそれをせねばならぬほど、目の前の、飢饉と困窮の人々への、大塩のやむにやまれぬ思いの深さは大きかった。静区を斃すことで、おのれに残る儒者の軛を断ったのだと、僕は思う。

参考文献;
宮城公子『大塩平八郎』(ぺりかん社)
王陽明『伝習録』(中公クラシックス)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
金谷治訳注『大学・中庸』(岩波文庫)
大塩平八郎『洗心洞箚記』(たちばな教養文庫)

言語空間

大岡昇平他編『言語空間の探検(全集現代文学の発見第13巻)』)を読む。

  

現代文学の発見、

と題された全16巻の一冊としてまとめられたものだ。この全集は過去の文学作品を発掘・位置づけ直し、テーマごとに作品を配置するという意欲的なアンソロジーになっている。本書は、

言語空間の探求、

と題された巻である。収録されているのは、

安西冬衛/軍監茉莉、
北川冬彦/戦争、
竹中郁/象牙海岸、
西脇順三郎/Ambarvalia、
北園克衛/黒い火、
瀧口修三/瀧口修三の詩的実験1927〜1937、
三好達治/測量船、
丸山薫/十年、
宮澤賢治/春と修羅(第一集)、
草野心平/蛙、
逸見猶吉/逸見猶吉詩集、
吉田一穂/海の聖母+故園の書+稗子伝+未来者、
中原中也/山羊の歌+在りし日の歌、
富永太郎/富永太郎詩集(第一集)、
金子光春/鮫+女たちへのエレジー、
山之口獏/山之口獏詩集、
小熊秀雄/小熊秀雄詩集、
小野十三郎/大阪、
村野四郎/実在の岸辺+抽象の城、
鮎川信夫/鮎川信夫詩集、
三好豊一郎/囚人+荒地詩集、
田村隆一/四千の日と夜、
安東次男/蘭(全)+CALENDRIER、
中村稔/無言歌、
山本太郎/かるちえ・じやぽね、
關根弘/絵の宿題、
長谷川龍生/パウロウの鶴、
黒田喜夫/不安と銃撃、
谷川雁/谷川雁詩集、
安西均/花の店+美男、
會田綱雄/鹹湖他、
石原吉郎/サンチョパンサの帰郷、
那珂太郎/音楽、
吉野弘/消息+幻・方法、
川崎洋/川崎洋詩集、
谷川俊太郎/21、
清岡卓行/氷った焔、
吉岡實/静物、
飯島耕一/他人の空、
大岡信/記憶と現在、
岩田宏/ショパン(全)、
堀川正美/太平洋、
安永稔和/鳥、
藤富保男/正確な曖昧、
入澤康夫/倖せそれとも不倖せ、
天澤退二郎/時間錯誤、
塚本邦雄/装飾楽句、
岡井隆/土地よ痛みを負え、
金子兜太/少年+半島、
高柳重信/罪囚植民地、
加藤郁乎/球体感覚、

である。現代詩から、現代短歌、現代俳句までを、編集時点では、若い、天澤までを網羅している。従来の選集にある、

「ある詩人の各時期から万遍なく少しずつ作品を選んで構成するという方法」

を採らず、

「原則として、ある詩人をある詩集だけで代表させる方法」

を取っている(編集人の一人、大岡信)それは、

「詩人の表現世界に一層深く入っていけるのではないか」

という考え方に基づく。詩だけではなく、短歌、俳句を載せたことについては、

「現代の詩的達成を考えた場合、とくに『言語空間』の多様なひろがりを考え合わせるなら、当然現代詩と同じ資格においてとりあげられるべき短歌や俳句があるという考え方」

から出ている(仝上)。本書は、帯にうたっているように、

現代詩の山巓を一望に、

したものだ。現代詩とは、

「言葉が日常世界で果たしている功利的、常套的、実用的役割を可能な限り剥ぎとって、『ものそのもの』としての言葉を純粋に洗い出し、そういう言葉によって詩を構成しようとする象徴主義の詩法」(大岡信)、

から端を発する。それは、

「現実の空間」ではなく、むしろその種の空間の不在によって成り立つ「虚の空間」

を、もっとも純粋に、最も大きな広がりをもって、つまり無限性にむかって最も遠くまで、押しひろげようとするもの、

である。いわば、虚実の「虚」である。敢えて、「詩」がそうするのは、歌が、

叙景、

抒情、

を詠ってきたことからの離脱なのだと思う。多くの現代詩人は、

言葉の非実用的、非日常的本質を洗い出すことによって、既成の詩および詩観をたえず革新してゆこうとする一貫した思想、

が共有されている(仝上)。たとえば、

「物理的な時空と異なる次元に、生の方向を組織する一つの思想として、任意の坐標系を成す」(吉田一穂)
「〈永遠〉とは『意識の世界の不完全なる構成としての知覚の虚無』である。平凡な言葉でいったら『何も無いことです』といふことである。完全なるポエジイは、何ものをも象徴し得ざる象徴を作る方法である」(西脇順三郎)
「詩は認識である」(仝上)
「ポエジイは説明しない。ただ言葉と言葉が取引をする関係を感性がとらえるのである」(藤富保男)
「詩とは詩人という無用な人間が、無用なことをライスカレーのごとく魅力的に書いたものである」(北園克衛)、

等々。抒情の中原中也が、

希望と嘆息の間を上下する魂の或る能力、その能力にのみ関っている、

と書いたとき、彼は、

何を詠うか、

に立つのに対して、現代詩は、

どう詠うか、

に関わる差にみえる。しかし、だからこそ、まったく意味不明のまま、その言葉の関係図から弾き飛ばされてしまう詩だってある。その「何」が、詩人と共有できないのである。

その意味で、僕に、それが共有できた詩片のみを、拾い上げてみた。それが僕の現代詩理解の限界、ということでもある。

てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた(安西冬衛・春)

五月は
憂愁の眼に
緑を裂く(北園克衛・暗い室内)

孤独




に濡れ

梯子


に腐っていく(同・黒い肖像)

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。(三好達治・雪)

破れた羽根をひろげた鶴に
破れた羽根よりほかのなにがあらう
破れた帆のやうにいつぱいに傾けて
鶴よ 風になにを防ごうとしてゐるのだ(丸山薫・鶴)

    まことのことばはうしなはれ
   雲はちぎれてそらをとぶ
  ああかがやきの四月の底を
 はぎしり燃えてゆききする
おれはひとりの修羅なのだ(宮沢賢治・春と修羅)

土の中はいやだね。
痩せたね。
君もずゐぶん痩せたね。
どこがこんなに切ないんだらうね。
腹だらうかね。
腹とつたら死ぬだらうね。
死にたかあないね。
さむいね。
ああ蟲がないてるね。(草野心平・秋の夜の會話)

汚れちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる(中原中也・汚れちまつた悲しみに・・・)

人間のゐないところへゆきたいな。
もう一度二十歳になれるところへ。

かへつてこないマストのうへで
日本のことを考へてみたいな(金子光晴・南方詩集)

僕らが僕々と言つている
その僕とは、僕なのか
僕が、その僕なのか
僕が僕だつて、僕が僕なら、僕だつて僕なのか
僕である僕とは、
僕であるより外には仕方のない僕なのか
おもふにそれはである
僕のことなんか、
僕にきいてはくどくなるだけである(山之口獏・存在)

けれども おれは知っていた
永遠などというものは
結局 どこにも無いということ
それは蛔蟲といっしょに
おれの内部にしか無いということを(村野四郎・秋の犬)

Mよ、昨日のひややかな青空が
剃刀の刃にいつまでも残っているね。
だがぼくは、何時何処で
きみを見失ったのか忘れてしまったよ。
短かった黄金時代―
活字の置き換えや神様ごっこ―
「それが、ぼくたちの古い処方箋だった」と呟いて・・・・(鮎川信夫・死んだ男)

一篇の詩がうまれるためには、
われわれは殺さなければならない
多くのものを殺さなければならない
多くの愛するものを射殺し、暗殺し、毒殺するのだ(田村隆一・四千の日と夜)

俺は自由だ 自由だが
ある未知のブレーキを持っている
それがこわい
人間のうちにいる小さな人間
のうちにいる奇妙な人形(山本太郎・独白)

しずかな肩には
声だけがならぶのではない
声よりも近く
敵がならぶのだ(石原吉郎・位置)

突然私は自分の眼の変化に気づいた。私の瞳孔は死者のそれにまで拡大し、私の水晶体は無限遠に焦点を合わせた。一瞬にして私は会得した。すべてを詩の視線で眺めること、ポエムアイ!(谷川俊太郎・ポエムアイ)

神も不在の時
いきているものの影もなく
死の臭いものぼらぬ
深い虚脱の夏の正午
密集した圏内から
雲のごときものを引き裂き
粘質のものを氾濫させ
森閑とした場所に
生まれたものがある
ひとつの生を暗示したものがある
塵と光に磨かれた
一個の卵が大地を占めている(吉岡実・卵)

空は希望に疲れている。
大きすぎる荷物に似た希望。
疑いすぎることが惡の同義語につながる土地(飯島耕一・空)

おまえの探している場所に
僕はいないだろう。
僕の探している場所に
おまえはいないだろう。

この広い空間で
まちがいなく出会うためには、
一つしか途はない。
その途についてすでにおまえは考えはじめている。(同・探す)

心の声にうながされたものは
十の脈絡のうちにひとつの化合をみいだす
そしてたちあがることをうながされたものは
この人間らの心と
他の人間らの手の
やわらかさにしたがって
しずかな水のふきあがりになるだろう(堀川正美・白の必要)

火事場へかけつけることをやめ
その場で
火事だ
と突然とっぴょうしもない声歩はりあげて
一心発起
自分が火事場になるのだ
火の手を
めらり挙げて
ほんのすこしでいいのだ
くりかえす世界から
はみだすのだ。(安永稔和・恐ろしいのは)

いやだと ぼくは叫べば よかった
なぜだと ぼくは問えば よかった
それだのに 灰色の獣のように走っていた
次々とうしろで堆積する出口の数におびえて(入澤康夫・いやだとぼくは)

やはり意味を読んでしまうのかもしれない。それは、言語空間の面白さを味わうのとは別の読み方かもしれない。

抒情詩もて母鎮めむにあたらしき鋸の歯かたみに反く(塚本邦雄)

参考文献;
大岡昇平他編『言語空間の探検(全集現代文学の発見第13巻)』(學藝書林)

行蔵は我ニ存す

松浦玲『勝海舟』を読む。

文政六年(1823)に生まれ、明治三一年(1899)に死んだ七十七年の生涯を、十八章に桁記述された、900ページを超える大著である。ふと思いついて、再読を始めた。この著者には、『勝海舟』『海舟と幕末明治』『明治の勝海舟』等々、海舟を論じた著作はあるが、『横井小楠』も忘れ難い。

四十代、幕末維新を駆け抜けた海舟は、死の直前の七十代、日清戦争に反対し、

隣国交兵日
其軍更無名
可憐鶏林肉
割以与魯英

と漢詩を書いて無名の師、と決めつけ、

新しい(清への)侵略の引き金になる、

と予言する見識を示し、また死の数年、

藩閥政府の迷走を観つつ、

今哉所謂藩閥の末路なり、邦家の末路にあらざるなり、

当今は幕末と無二之形勢、

と述べ、幕末と大同小異の、

閥末、

観た。海舟は、

「明治維新で敗れた側、政権を薩長に引き渡した側だという自覚は常に手放さない」

海舟にとって、

(西郷や大久保や木戸が没したけれども)「薩長に渡した枠組みは変わっていない。そうであるからには薩長で全責任を負ってもらわなければ困る」

という姿勢なのである。著者は、こう書く。

「明治十年代を完全に在野で過ごしたことも、この意識を強めた。その面が最晩年には特に強く出る。枢密顧問官として重要事項の諮詢にも与るけれども、これは所詮他人事だという醒めた気分を隠そうとしない。それで『閥末』と『我が末の世』の対比が可能となる。
 ただし徳川の世において、海舟は常に第一線の当局者であったわけではない。初めは微禄無役の御家人、蘭学修行が認められて次第に地位が昇って来ても傍系官僚の軍艦奉行にとどまり、政権の中枢部には入れなかった。軍艦奉行を罷免されて閑居した時期も長い。本当に切回したのは、鳥羽伏見の敗戦で徳川慶喜が東帰してからである。つまり幕府が倒れると決まってから、その後始末について手腕を発揮したのだった。そういうことを全部含めての『我が末の世』である。幕府はもう保たないと、他の幕臣よりも早めに見極めをつけており、それなりに手を打ってあった。だから幕府の後始末を担当することができた。
 幕末をそのように体験してきたので、その三十年後に出現した『閥末』が、海舟には能く見える。だがこれは『我が末の世』ではない。薩長の末の世である。」

還暦を迎え静岡から東京へ移転した慶喜が参内後、海舟邸を訪れ、

「先生ノ御目ノ付ケ処ハ衆人ノ及バヌ処」

と言うのである。

著者は書く。

「海舟は、幕末が終わるときに大きく輝き、閥末において小さく光った」

と。僕自身は、海舟が最も海舟らしい姿勢を示したのは、嗣子小鹿が死んだ前後の処置だと思っている。その少し前、明治二五年の正月末,福沢諭吉は,ひそかに脱稿した『痩我慢の説』を,榎本武揚と勝海舟に送り付けてきた。二人とも反応しなかったので、二月五日付で、諭吉は、

「過日呈した瘦我慢の説一冊、いずれ時節を見計い世に公にするつもりだが、事実に間違いや立論の不当のところは『無御伏蔵』御意見を承って置きたい」

と、返事を催促し、尚書として,

草稿は極秘とし、二三の親友以外には見せていない,

と断っていた。榎本は、

昨今別而多忙に付、其中愚見可申述候、

と躱したが、海舟は、

行蔵は我ニ存す,毀誉は他人之主張,我に与らず我に関せずと存候、

と有名な返事を書き、尚書についても,

各人へ御示御座候とも毛頭異存無之候

と突き放した。

福沢の瘦我慢の説は、要は,戊辰戦争のとき,徳川は徹底的に抗戦し,最後は江戸城を枕に討死すべきだった,その精神を受け継ぐことが,小国日本が世界の大国に抗していく原動力になる,と海舟の江戸城無血開城を,痩我慢の精神を踏みにじったものと非難しているのである。

しかし、海舟の返事の翌七日、長く病床にあった嗣子小鹿が死んでおり、それに際して、海舟は覚悟したことがあった。

その翌日二月八日付で、海舟は、徳川慶喜,家達両名に宛てた「志願書」なるものを認めた。「小臣家」と自称するところから始まり、勝家は先年華族に列せられたとき、御断りする決心のところ少々所存があり御受けした。このたび、

相続可致倅病没、其内拙老弱最早無程死亡可致、

という次第なので、この家族の家を、

一堂(慶喜)以御末男御相続被下候様願候、

というのである。著者はこう書く。

「海舟は、これまで私一家のことで御迷惑をかけた覚えはないのでこれだけは聞き届けていただきたい。もしこの提案が御許容なきときは特恩の家禄を返上する覚悟だと、やや脅迫気味とも感じられる強い態度だった。また受け入れられた場合、自分が生きている間は勝家、没後は『徳川家』としていただく。生き残る勝の一族が新徳川伯爵家の厄介にならずに済むだけの経済的手当はしてあると、行届いた書面である。」

慶喜は、

末男は未だ幼いので(十男精は五歳)どのように育つか心配だけれども御依頼承諾する、

とした。著者は、こう付言する。

「福沢諭吉への返書では、勝家を徳川家に渡すという類のことは何も書かれていないけれども、これは後世に対する回答である。」

と。

本書は、こう締めくくられている。

「海舟には政治的な後継者がいない。人格的な後継者を自認するのが徳富蘇峰である。海舟はそのことにどの程度の責任を有するのか。」

なお、横井小楠については、
「沼山」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E6%B2%BC%E5%B1%B1
「横井小楠T」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba4.htm#%E6%A8%AA%E4%BA%95%E5%B0%8F%E6%A5%A0%E2%85%A0
「横井小楠U」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba4.htm#%E6%A8%AA%E4%BA%95%E5%B0%8F%E6%A5%A0%E2%85%A1
で触れた。

参考文献;
松浦玲『勝海舟』(筑摩書房)

雑兵

藤木久志『【新版】雑兵たちの戦場−中世の傭兵と奴隷狩り』を読む。

何度目になるだろうか。読むたびに,戦国日本の風景が変わるのを実感する。信長,秀吉や,信玄や謙信といった戦国大名や武将を中心としてみる風景では,戦国期の実像は決して見えない。本書が与えた衝撃は,はかり知れない。

乱取り,
人買い,
奴隷狩り,
奴隷の輸出,

等々,戦国の戦場がもたらした惨状の射程は広く遠く,

山田長政,

にまで及ぶ。山田長政は,大久保忠佐の下僕だったとされる。まさに,雑兵である。それが本書の主役であるが,実は戦国大名の後押しあっての,

乱取り,

なのである。それは,上杉謙信(景虎)は常陸小田城を攻め落とした際,

「小田開城,景虎より,御意をもって,春中,人を売買事,二十銭,三十二(銭)程致し候」

というような人買いによって売り買いされるだけではなく,信玄軍の大がかりな人取りのように,

「男女生取りされ候て,ことごとく甲州へ引越し申し候,さるほどに,二貫,三貫,五貫,十貫にても,身類(親類)ある人は承けもし候」

と,身代金目的でもあり,ともにまぎれもなく,戦国武将そのものが行なっていたことである。天正元年(一五七三)四月、上洛した信長軍でも,雑兵の乱取りは、

「京中辺にて、乱妨の取物共、宝の山のごとくなり」(三河物語)

というありさまである。この雑兵を,著者はこう定義する。

「身分の低い兵卒をいう。戦国大名の軍隊は、かりに百人の兵士がいても、騎馬姿の武士はせいぜい十人足らずであった。あとの九十人余りは雑兵(ぞうひょう)と呼んで、次の三種類の人々からなっていた。
@武士に奉公して、悴者(かせもの)とか若党(わかとう)・足軽などと呼ばれる、主人と共に戦う侍。
A武士の下で、中間(ちゅうげん)・小者(こもの)・荒子(あらしこ)などと呼ばれる、戦場で主人を補(たす)けて馬を引き槍を持つ下人(げにん)。
B夫(ぶ)・夫丸(ぶまる)などと呼ばれる、村々から駆り出されて物を運ぶ百姓(人夫)たちである。」

雑兵の中には,侍(若党,悴者は名字を持つ)と武家の奉公人(下人),動員された百姓が混在している。さらに,

「草・夜わざ,かようの義は,悪党その外,はしり立つもの」

といわれる,いわゆる,

スッパ,ラッパ,

と言うところの,まあ今日の表現で忍者もまた雑兵に入る。このものたちは,

「端境期を戦場でどうにか食いつないでいた」

者たちである。こうした戦場で食いつないでいたものたちは,秀吉によって国内が統一され,戦争が消えたとき行き場を失う。朝鮮侵略は,国内で行なわれてきた,

乱取り,
奴隷狩り,

の輸出であった。一説に,掠奪連行された朝鮮人の数は,

島津だけで三万七千余,

という。出兵した各藩が連行した数は,何十万になるのか?

国外へ出た日本人は,人身売買で,外国商人に売られた人ばかりではなく,傭兵として流出した数は,馬鹿にならない。

「十六世紀末から海を渡った日本人の総数は,とても特定できないが,おそらく十万以上」

といわれる。しかも,

「海外に流れた日本の若者は,鉄砲や槍をもってする戦争に奉仕する『軍役に堪える奴隷』『軍事に従う奴隷』として珍重された」

といい,たとえば,

「1621年(慶長十七),オランダ船のブラウエル司令官が平戸に入港した。目的は幕府の許可を得て,日本人傭兵を海外に連れ出すことであった」

という。

「その多くはごく低賃金で雇われた,奴隷的な兵士であった」

とされる。こうした傭兵は,

「東南アジアの植民地奪い合い戦争や植民地の内乱の抑圧に,手先となって大きな役割を果たした」

こうした流れは,元和七年(1621)に,幕府の

「異国へ人売買ならびに武器類いっさい差し渡すまじ」

という禁令によって終止符がうたれる。このことの与えた衝撃,たとえば,オランダの,

「日本人傭兵なしでとうていアジアの戦争はたたかえぬ」

という反応を見るだけで,いかに日本人傭兵・奴隷がそれに寄与してきたかが想像される。

「切り取り強盗は武士の習い」
「押し借り強盗は武士の慣い」

という諺が,文字通りであったことを知らされるのである。

参考文献;
藤木久志『【新版】雑兵たちの戦場−中世の傭兵と奴隷狩り』(朝日選書)

倭寇

竹腰輿三郎『倭寇記』を読む。

昭和十四年上梓という、時代的制約があるが、「倭寇」といわれるものの、概略をつかむにはちょうどいいのかもしれない。ほとんど「倭寇」という言葉は、国内の文献には登場しないので、時代を経ても、それほど内容の変化はないのかもしれないが、当然最新の研究成果は期待できない。

「倭寇」という言葉が使われているが、明の文献にも、

大抵の倭寇は真の倭、十の三にして、従ふもの七、

其の倭は十の三にして倭に従ふ者十の七、倭戦へば則ち其掠むる所の人を駆りて軍峰たらしめ、法厳にして人皆な死を致す、

等々とあり、日本人だけではなく「異人種」が多数含まれている。そこには、中世の日本国内とは別の、ある種の国際的な海上世界がある。しかし、その特徴は、

日本流の紅柄染の大模様を染め出した衣服を着用、

し、また、

倭の旗號を用ひた、

とある。「倭寇」たる旗印である。

当時倭寇は、船先に八幡大菩薩の旗を立てて単に祈り、自ら安んじたもので、倭寇と云へば、必ず八幡大菩薩の旗を連想せしむるほどであるから、支那の海賊もまたこの旗を立てたものであろう。そして明人は八幡の二字を「バハン」と読むので、一転して、海賊の所業、若くは密貿易をバシンと號し、やがてそれが日本語となって、「バハンする」若くは「バハンしない」とも云ふ動詞となってしまったと云はれる、

とある。で、倭寇が用いる、

七十頓内外の船、

を、

バハン船(八幡船)、

と呼び、「バハン」は、

海賊、

を意味し、転じて、

密貿易、

を意味するようになる。

徳川氏の初、外国に航行することを許可せられた船長は、誓書に記して、「バハン致すまじく候」と書くようになった、

ともある。ただ、「バハン」の由来については異説があり、

バハンはむ支那音にあらず、配半の支那音であるとなし、昔し鎮西八郎為朝が宋の濱海を侵したとき支那の海賊から配半税(バハン)の方法に従って、収穫の山分を要求せられたことから、日本では此バハンと云ふ語を使用するようになった、

とする説もあるらしい。しかし「八幡」は、

奪販、
番舶、
破帆、

とも当てる(ブリタニカ国際大百科事典・百科事典マイペディア)らしいので、八幡大菩薩の「八幡」であるかどうかは、少しいかがわしいかもしれない。

確かに、「倭寇」は、

永正大永の頃より、伊予國海中因島、久留島、大島の地士、飯田、大島、河野、脇屋、松島、久留島、村上、北浦、等諸士共に相議して、外国に渡海し、海戦を働き各家を富さん事を謀り、野島領主村上図書を議主と定め、各其一族浮浪の人数を集め、都合三四百人大小十余艘の船に乗り、大洋を航行し、西は大明国の寧波、福建、広東、広西、等の諸州より、西南は印度の諸国、安南、広南、占城(チャンパン)、東坡塞(カンボヂャ)、暹羅、其他南海中の呂宋、巴刺臥亜(パラコヤ)、渤泥(ボルネオ)等の諸島に至り、近海諸邑を剽掠し、種々の財物器械を奪取し来たりて、其家を富せり、

とあるように、国内から出航した者たちがたくさんいたことは確かだが、明人の、

汪直、
徐海、
陳東、
鹿葉、

等々が倭寇と共謀するようになって、

倭寇の勢力が益増加、

した事実はある。後期の倭寇であるが、汪直は平戸に居を構え、

門太郎次郎史四助四郎等と結んで、方一百二十歩の巨船を作った。この船は二千人を容れ、木を以て城と楼とを船の上に立て、舟上、馬を走らせるといふ、

一大勢力を成し、1553年(明暦の嘉靖三十二)に、

數十種の倭寇を糾合して支那に侵入し、連艦数百をもって海を蔽ふて進み、……先づ昌國衛を破り、四月大倉を犯し、上海県を破り、揚子江を遡り、江陰を掠め、乍浦を攻め、金山衛を襲ひ、崇熟を攻め、翌年正月には、オオクラり蘇州を攻め松江を掠め、江北の通泰に迫り、六月には呉江より嘉興を掠め川沙窪拓林を以て巣窟となし、四方を侵掠した、

という。結局明の本軍と戦い、

死者千九百に及んだ、

というのだから、その勢力の大きさがうかがえる。しかし、豊臣秀吉の国内統一を機に、八幡の渡航を禁じたことから、さしもの倭寇は、終息したが、別の意味での海外渡航、海外貿易は、衰えず、山田長政のような、海外で活躍する者たちが続く。

参考文献;
竹腰輿三郎『倭寇記』(白揚社)

天下取り

谷口克広『秀吉戦記―天下取りの軌跡』を読む。

信長研究の第一人者による、秀吉伝、それも良質の史料をもとにした、

秀吉が信長に仕えてから賤ケ岳の戦いに勝つまでの二十数年間が、誰も真似できない彼の能力が最大限発揮された時期(おわりに)、

についての秀吉であり、

天下を平定した後の秀吉には傲岸な為政者の像が目立ち、さらに晩年には誇大妄想や惨忍さまで表れて(仝上)、

姿を隠した「かつての爽やかな姿」の秀吉像に焦点を当てている。

著者は、「一介の農民だった秀吉を天下人に押し上げたもの」は、

一にも二にもかれの精勤さ、

であるという。おそらく寝る間も惜しんで、

他の者の二倍は動いている、

と。自身が、小早川隆景に宛てた手紙で、

若い頃から、信長家中で、自分の真似のできるものはなかった、

と書くほど働いたのである。その上に、

他人の真似できない能力、

がある。その第一は、

現実を踏まえてきちんと計算できること、

を挙げる。

大ざっぱに何日行程とされているところでも、何キロメートルだから一心に飛ばせば何時間で行ける、と彼は計算する。そして、そのために必要な物資、馬とか食料とかを素早く調わせる、

という。

周りの状況を適格に読む力も、秀吉は他の者よりも抜きんでている。秀吉には、中国大返しをはじめ何度かいちかばちかの賭けがあるが、賭ける前に冷静な状況判断がある。これら徹底的に現実を踏まえた思考は、当時にあっては驚くべきものと言っていい、

と。そして、第二は、

相手をたちまちに心服させてしまう才能、

という。俗に、

人たらし、

といわれる能力である。梟雄といわれた宇喜多直家は、最晩年秀吉に心服し、毛利戦の最前線に立つ。賤ケ岳の戦いで、柴田勝家や織田信雄の配下をたちまちのうちに味方にしてしまう手腕など、

まるでマジック、

である、と。そして、

秀吉は、決して自分に付いてくる者を裏切らなかった。宇喜多に対して信長が赦免しなかった時でも、身をもってかばい、決しておろそかにすることはなかった、

と。

では、その秀吉が、天下取りに成功したのは才能だけか、というと、

何重にも重なった運の良さ、

があった、という。その一つは、

秀吉が仕えたのが能力尊重主義の信長だったということである。主君が信長だったからこそ、小者からはじまって方面司令官という家臣最高の地位まで昇進できた、

のである。第二は、

自他ともに認められた信長の後継者である信忠が、信長と一緒に倒れたことである。信忠が難を逃れていたらならば、秀吉には全くチャンスはなかったはずである。

第三は、

明智光秀と戦うことのできる軍勢を持った有力武将、柴田勝家、羽柴秀吉、滝川一益のうち、秀吉が京都から最も近い地点にいたことである。しかも秀吉は、敵の毛利氏と講和交渉の段階になっていた。本能寺の変を知った秀吉は、いち早く講和を結んで、弔い合戦に備えることができた。毛利氏が追撃してこなかったのも、大きな幸運であった。

第四は、

秀吉と一緒に弔い合戦を行ったのが三男の信孝の方であり、その功績によって、二男の信雄との差がなくなってしまったこと、後継者としての資格が互角になった二人が争ったため、一方を立てにくくなった。

第五は、

ライバルの一人滝川一益が没落しただけでなく、清須会議に間に合わなかったこと。おかげで、丹羽長秀・池田恒興を籠絡した秀吉は、勝家に対して三対一の優勢を保ったまま会議に臨むことができた。

第六は、

謀叛を起こして滅びてしまった明智光秀が、機内一帯に支配権をもつ「近畿管領」ともいうべき地位にあったということ。そのため秀吉は、その跡を取り込んで京都近辺を固めることができた。

もちろん、その幸運を生かすも殺すも、本人次第である。それについて、著者は、

これほどの幸運が重なるのだから、まさに秀吉は幸運の女神の寵児といってよいだろう。しかし、幸運を最大限に生かすものは、やはり当人の実力である。本能寺の変以後の秀吉の動きを見てみるがいい。毛利との交渉、中国大返し、山崎の戦い、丹羽・池田・堀(秀政)の取り込み、清須会議、畿内の掌握、いかに敏速でかつ適格であったか。秀吉の前には、優れた人材であったはずの明智や柴田さえ、のろまで能無しに見えてしまうほどである。

と書く。この時期の秀吉は、まさに絶頂である。

参考文献;
谷口克広『秀吉戦記―天下取りの軌跡』(集英社)

海の民

田中健夫『倭寇―海の歴史』を読む。

著者は、本書の狙いを、

「本書では、倭寇の功罪を論ずるよりも、倭寇の活動をなるべく高い観点から考察して、その実像を東アジアの国際社会という背景のなかに立体的に浮き彫りにしてみたいとおもった。これまでの歴史叙述では陸地中心の歴史観が主流をなしていたが、倭寇の問題はその範疇ではとらえきれない。より広い視野からの、国境にとらわれない海を中心とした歴史観の導入が必要である。それは単なる海面の歴史ではなく、陸の歴史をも包摂するものであり、日本の歴史ばかりではなく、琉球の歴史も、朝鮮半島の歴史も、中国大陸の歴史も、世界全体の歴史をもつつみこむ歴史叙述でなければならぬとおもう。私は本書を『海の歴史』の序章のつもりで書いた」

と記す。そのことは、「倭寇」という文字が、

中国や朝鮮の文献に見える文字、

で、

日本の文献には見られない、ということにも象徴的に表れる。「倭寇」という以上、

本来は日本人の寇賊あるいはその行動である、

はずだが、「倭寇」という言葉自体が、

時と場所のちがいによってさまざまに用いられ、「倭寇」という文字であらわされるものの実体、

は、一筋縄ではいかない。「倭寇」は、

十四〜十五世紀の倭寇、
と、
十六世紀の倭寇、

があり、「倭寇」というものが、

「東アジアの沿岸諸海域を舞台とした海民集団の一大運動であるが、構成員は日本人だけではなく、朝鮮人・中国人・ヨーロッパ人を含んでいる。日本史上の問題というよりも、アジア史あるいは世界史の問題といった方がふさわしい。倭寇の活動は東アジア諸国の国内事情を母体とし、国際関係の歪みを引き金として発生し、大きな影響、大きな爪あとを中国大陸・朝鮮半島・日本列島・琉球列島・台湾・フィリピン・南方諸地域の諸国人民に残し、これらの地域の歴史を変革しながら消滅していった」

という大きな歴史的背景抜きには捉えきれないものだからである。

「倭寇」発生時期は、

中国では蒙古民族の元から、漢民族の明へ、さらに満州族の清へ、
朝鮮半島では、四百年続く高麗から李氏朝鮮へ、
日本では、南北朝から、室町時代の武家社会へ、

と、それぞれ大きな変革期にあり、「倭寇」は、

東アジアの激動の時代に発生し国際社会を左右した、

動きであった。

前期(十四〜十五世紀)と後期(十六世紀)の倭寇に根本的な相違があるわけではない、

という考え方(本書解説、村井章介)もあるが、本著者は、両時期の構成員の差から両者を分けて考えているように見える。その違いを、

いつ、
どこで、
だれが、
どんな理由で、
なにをして、
それがどうなったのか、
その歴史的意味は何か、

の視点から整理している。「いつ」は、

十四〜十五世紀の倭寇と十六世紀の倭寇は、同性格、同内容のものではなく、連続性をみとめることは難しい、

上、両者の活動領域も、前者が朝鮮半島中心なのに対して、後者は、中国大陸全域、台湾、フィリピンにまで広がっている。

十四〜十五世紀の倭寇は、多く日本人だが、それでも、その構成員は、

倭人は一、二割で、朝鮮人が倭服をかりに着て徒党して乱をなした、

いわれる程である。十六世紀の倭寇になっても、明史や明の文献自体が、

大てい真倭は十の三、倭にしたがうものは十の七、戦うものはそこで掠めた人を軍の先鋒にする、

と書き、更には、

中国人が一、二の真倭を勾引して酋主とし、みずから髪を剃って、これにしたがう、

とか、

各賊ついに二千余の徒を糾集し、そのうち二百余人が髪を剃って、いつわって倭人をよそおっている、

とか、

三割しかいないという真倭も実は中国人が雇募したもの、

とあり、こうなると、

偽装の中国人集団、

であり、倭寇の主体が中国人ということになる。当目として有名な王直などは、平戸を本拠にし、

部下二千余人を擁し三百余人を載せる大船を浮かべていた、

という。さらに、中国では、海禁政策との関係で、

東アジアに進出したポルトガル人、イスパニア人をも合わせて倭寇と呼んだ、

というか、「倭寇」として処理してしまっていることもあり、「倭寇」と呼んでいた言葉は、かなりあいまいである。しかし、

倭寇の観念が中国人の思想の中に定着したのは、実に豊臣秀吉の朝鮮出兵の時であった。日本史でいう文禄・慶長の役は、中国にとっては最大の倭寇だったのである、

というのが、中国の中にある倭寇のイメージだということは忘れてはならない。

また「倭寇」の理由をみると、

十四〜十五世紀の倭寇は、行動目標が、

米穀などの生活必需品に置かれていたこと、

が注目されるのに対して、十六世紀の倭寇は、

掠奪、

ではなく、

私貿易、
密貿易、

であった。

倭寇の活動が低下していくのは、豊臣秀吉の国内統一、特に、天正十六年(1588)の海賊禁止令であるところを見ると、倭寇という寇賊行為が、日本側から見ると、南北朝、室町時代と、少なくとも日本国内の乱れが起因となっていることは確かである。

参考文献;
田中健夫『倭寇―海の歴史』(講談社学術文庫)

本能寺の変

高柳光寿『本能寺の変』を読む。


本能寺の変から、山崎の合戦までを追う。光秀謀叛の理由は、

怨恨説、
黒幕説、
謀略説、
不安説、

等々諸種あるが、著者は、

信長は天下が欲しかった。光秀も天下が欲しかったのである。秀吉だって賤ケ岳の戦いの後、主筋に当たる信孝を信雄に殺させ、その信雄を小田原征伐の後に改易して領地を取り上げてしまった。光秀が愛宕山で鬮を探って迷ったというのは、主殺しという道徳的な苦悶からではなく、主殺しの成否と主殺しの後における事業、天下取りの成否について迷ったものと解すべきである、

と述べる。これは、著者が『明智光秀』
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-10.htm#%E5%BC%91%E9%80%86で述べたことであるが、

天下取り、

の絶好の機会を逃さなかった、というところに原因を求めた嚆矢である。

光秀は、本能寺襲撃の当日の二日、

事終而惟日大津通下向也、山岡館放火云々(兼見卿記)、

とあるように、光秀は先ず要衝瀬田を抑えようとした。しかし、瀬田城主山岡美作・山岡対馬兄弟瀬田橋を焼かれたが、翌日の三日、

己丑(つちのとうし)、雨降、日向守至江州相働云々(兼見卿記)、

更に四日、
庚寅(かのえとら)、江州悉日向守、令一反云々(仝上)、

続いて五日、

辛卯(かのとう)、日向守入城安土云々(仝上)、

六日、七日と安土に留まり、

七日、癸巳(みずのとみ)、……當國悉皈附、日野蒲生一人、未出頭云々(兼見卿記)、

と八日まで江州の地に留まり続け、近江・美濃の諸将の誘降に努める。

誤算は、細川藤孝・忠興父子の離反であった。古くからの付き合いがあり、忠興の妻は光秀の娘(たま)であった。また光秀与力であった筒井順慶は、四日、山城槙ノ島城主とともに、近江に兵を出した。しかし、九日になって河内へ出兵する予定をしていた順慶は、にわかに兵を引き、籠城の準備に入る。

著者はこう書く。

光秀の失敗は、細川藤孝・忠興父子や筒井順慶を味方にすることができなかったばかりでなく、池田恒興以下中川清秀・高山重友、さらには塩川党など摂津衆を味方にすることが出来なかったことである、しかしこれをもって彼の無能とすることは酷である。光秀としては、これらの人々は自分の組下であるので、当然自分を味方すると考えていたであろう。それが不安であっても、これらの人々に圧力を加えるよりも、早く信長の本拠を覆滅しなければならない。摂津や太和や丹後は後でよい。そう考えることが至当である。ただこの至当の処置が至当でなくなったのは急速な秀吉の進出にあったのである。秀吉は高松にひっかかっている。そう考えるのが当然である。この当然が当然でなくなったので、摂津・大和・丹後の処置を後にするという至当が至当でなくなったのである。

秀吉の中国大返しのスピードが驚嘆されるが、実はそれ以前に、この当時にあって、

主将の訃報に接すれば、敵城攻撃の兵を徹するというのが普通、

なのである。現に、柴田勝家勢は、上杉方松倉城を攻囲していたが、松倉城の囲みを解き、攻略した魚津城をも棄てて退却し、それぞれの居城に戻っている。しかし、秀吉は、

訃報に接してから、高松開城・清水宗治切腹と談判が成立するまでおそらくは二、三時間、長く見積もって四、五時間に過ぎない。その間における彼の苦心は容易ならぬものがあったに相違ない。それなのに彼は快刀乱麻を断つという言葉通りに、異常の難問題を最大の利益を得て解決したのである。勿論、それは数日前から行われていた談判には相違ない。しかしそれにしても、このような有利な解決が瞬時に、……そう形容しても何らさしつかえないほどの速度をもって解決し得たということは、そこに彼の非凡な頭脳と能力とを観取せざるをえないのである。

この講和で、ほぼ勝負の帰趨が決したといってもいいほど、そのときの秀吉の力量を示している。

山崎の戦いは、

左翼(山の手)羽柴秀長・黒田孝高・神子田正治(秀吉組下・旗本)等々、
中央(中の手筋)高山重友・中川清秀(旧光秀組下)・堀秀政(信長近習)等々、
右翼(川の手)池田恒興(旧光秀組下)・加藤光泰・木村隼人・中村一氏(秀吉旗本)等々
後詰、筑前守馬廻衆、三七郎旗本衆、惟住旗本衆、蜂屋勢等々、

の布陣で、戦況は、秀吉右翼、川の手勢が箕(み)の手なりに(明智勢左翼を)押し包みに掛かり、特に加藤勢の進出が目覚ましく、それが明智勢を動揺させたという。このとき、秀吉は、

右翼川の手部隊を自ら率いて戦った……。山崎の戦いは左翼天王山を拠点とし、右に前方へ弧を描き、右翼川の手の進出によって敵を包囲し、これによって勝利を得たのであるが、この右翼部隊を秀吉は自分で直接指揮したのであった。天神馬場に予備軍を手中に握り、中央後方に控えていたはずであるが、事実は弟秀長に左翼の指揮を委任し、御坊塚(光秀本陣)を目標として、専ら右翼の進出を志して池田らを指揮するとともに、自分の旗本を以ってこれを遂行したのであった。

そして、著者は、こう書く。

このようにして、秀吉自身が全軍の総指揮官として、全軍を手中に握って行動させたことはいうまでもないが、敵軍包囲の作戦と主要進出部隊とを予め想定し、この主要進出部隊を自分自身が直接指揮したのであって、この一事は……戦闘における彼の決意を見るべきであり、これが主要部隊の行動を活発にさせ、全軍の士気を振り起こさせたことはいうまでもない、

と。秀吉は、戦況を報じた書状で、信長の仇を報じえたのは、

一に懸かって秀吉一個の覚悟にある、

と述べているとか。まさにそれを表した戦略であった。

参考文献;
高柳光寿『本能寺の変』(学研M文庫)

弑逆

高柳光寿『明智光秀』を読む。

 

明智光秀の言葉として伝わっているものがある。

仏の嘘は方便という、武士の嘘は武略という、土民百姓はかわゆきことなり、

と(老人雑話)。著者は、言う。

この言葉は合理主義からでなければ出ない言葉である。彼の合理主義は同じく合理主義的な信長とうまがあったであろう、

と。そして、

簡単に彼を保守的な人間と考えることは誤っていると思っている。そう思わせるのは、かれの合理主義だと思うのである、

とも。明智光秀も、

豊臣秀吉、
滝川一益、
荒木村重、
福島正則、
加藤清正、

等々この時期の武将と同じく、出自も、父の名も分明でない。少なくとも、しかし、秀吉とは異なり、

明智という名字、

は持っていた。

光秀の家は土岐の庶流ではあったろうが、光秀が生まれた当時は文献に出てくるほどの家ではなく、光秀が立身したことによって明智氏の名が世に広く知られるに至ったのであり…、そのことは同時に光秀は秀吉ほどの微賤ではなかったとしても、とにかく低い身分から身を起こした、

ということでもあった、と著者は書く。本能寺の変の後、奈良興福寺の塔頭多聞院主英俊は、

惟任日向守ハ十二日勝竜寺ヨリ逃テ、山階ニテ一揆にタタキ殺サレ了、首ムクロモ京ヘ引了云々、浅猿々々、細川ノ兵部大夫ガ中間にてアリシヲ引立之、中國ノ名誉ニ信長厚恩ニテ被召遣之、忘大恩致曲事、天命如此、

と記している(多聞院日記)が、その他、「永禄六年(一五六三)諸役人付」に載った足軽衆の中に明智の名があり、これが光秀ではないか、とされている等々あるが、いずれにしても、名のあるものではなかったことは確かである。

光秀の名が史書に見えてくるのは、永禄十一年(1568)七月に、足利義昭が朝倉義景のところから信長の招きによって美濃に赴いたときからで、この一件に光秀が関係していたのであるが、そのことは、しかし良質の史料には載らないものの、

『多聞院日記』や『原本信長記(信長公記)』などは義昭や信長を中心として記しているので、光秀のことは書いていない。またこの一件に関係した細川藤孝のことも見えていない。しかし光秀・藤孝の両人がこの一件に関係したことは事実であったらしい、

とある。細川実記には、

光秀は朝倉義景に仕えたときも五百貫文、信長に仕えたときも五百貫文と記している。これは騎馬(うまのり)の身分である、

とし、著者は、

義昭が美濃へ移った当時、光秀はすでに信長の部下となっていたことは事実とみてよい、

とする。光秀が良質の史料に登場するのは、永禄十二年(1569)四月十四日の、秀吉と連署の賀茂荘中当てた文書で、

賀茂荘内で前に没収した田畠は、少分ではあるけれども、御下知の旨に任せて、賀茂の売買升で毎年四百石ずつ運上せよ、また軍役として百人ずつ陣詰せよ、

という(義昭が承認した旨の)奉書を与えている。つまり。信長上洛の翌年には、光秀、秀吉とも、京都の政治に関与する、相当の身分になっていたことがわかる。

以後、異数の出世をし、天正八年(1580)の、佐久間信盛の追放の折檻状で、信長は、

丹波における光秀の軍功は天下の面目を施した、

というほど推賞した。その光秀は、翌九年六月二日付で、軍規を定め、

自分は石ころのように沈淪しているものから召出された上に莫大な兵を預けられた、武勇無功の族は国家の費である、だから家中の軍法を定めた、

と記した。しかし、その一年後、天正十年(1582)六月二日、光秀は本能寺の信長を襲う。光秀謀叛の理由は、

怨恨説、

を代表に、種々あるが、この謀叛が、長年練ったものではなく、細川藤孝・忠興父子への手紙に、

我等不慮之儀存立候、

とあるように、不意の決断であったことは、はっきりしており、著者は、

信長を倒すのには、今のような時期はまたと来ないであろう。天下を取るのは今だ、今をおいてほかにはない。香光秀は考えたのではなかろうか、

とし、

このようなことを彼は五月十七日安土から坂本に帰ったころからすでに考えていたであろう。そして坂本にいる間に熟考したであろう。しかし決断はつかなかった。二十六日坂本から亀山に入ったときも迷っていたに相違ない。そこで決断を神に依頼したのであった。神への依頼というのが愛宕山の参篭である。光秀は二十八日愛宕山にのぼった。そして運命の決定を勝軍地蔵の判断に任せたのである。幾度も籤を引いたというのは迷いに迷ったからであろう、

と記す。光秀は、

諸将の行動について十分検討を行い、彼らが敵対行動をとるにしてもすぐには光秀を攻撃することができない状態にあること、攻撃し來るとしてもその攻撃は短期日には決して強力であり得ないと計算した、

が、その予想を覆して、秀吉が、早くも十一日に尼崎に進出、十二日には先鋒高山重友勢が、山崎へと入ったのである。秀吉の、この予想外の急速上洛が、光秀のすべての思惑を吹き飛ばした。

明智光秀とは何者なのか。著者の言葉は痛切である。

光秀の伝記を書き了ってここに感慨なきを得ない一事がある。それは信長の行動を記さなければ彼の伝記が書けなかったということである。彼の行動は信長の意思によって制約されていた。彼は信長の意のままに動いていた。これは淋しいことである。完全に独立した人格の樹立。それの企図が同時に死であった彼である。

光秀が自分の意思で、光秀として立ったのは、信長へ謀叛であった。

参考文献;
高柳光寿『明智光秀』(吉川弘文館)

賤ヶ岳の戦い

高柳光寿『賤ヶ岳の戦い』を読む。

古くから「賤ヶ岳の戦い」と呼ばれるこの戦いの名称について、著者は、

「この江北の一戦は、本来なれば、余呉庄合戦とか、柳ケ瀬の戦いとか呼ばれるべき筈である。現に『江州余呉庄合戦覚書』という本がある位である。それなのに、古くから普通に賤ヶ岳合戦といっている。そこにはそれだけの理由がなければならない。七本槍のあった地名によるなれば、飯浦山合戦といってもよい筈である。それを賤ヶ岳合戦というには、飯浦山の戦いを秀吉が賤ヶ岳の砦にあって指揮していたからではないかと思う。七本槍の感状には柳ヶ瀬表という言葉はあっても賤ヶ岳という文字は見えていない。理窟にならない理窟をつけるような気がするが、この一戦を賤ヶ岳合戦というのは、どうもそこで秀吉が指揮をとったからではないかと思う。そしてこの切通しの勝敗が全局の勝敗を決定したからであろう。」

と分析する。実はこのことは、大事な分析を前提にしている。大垣から、大返しで、十三里を五時間で駆け戻った秀吉は、大岩砦、岩崎砦陥落で動揺する味方の士気を鼓舞するため、自分の到着を諸軍に触れ、夜明けを期して攻撃開始を令し、賤ヶ岳の砦に入った、と著者は見る。しかし、

「秀吉が賤ヶ岳の砦に入ったと書いている史料は一つもない。丹羽長秀がこの砦に入ったということは、『太閤記』『志津ヶ嶽合戦小須賀久兵衛私記』『丹羽家譜伝』などに見えている。そして、『太閤記』には、秀吉は賤ヶ岳の砦の南に旗を立てたとある。しかし、砦は山巓にある。その南では山に遮られて指揮はできない。秀吉の七本槍の感状をみると、秀吉の眼前において槍を合わせたとある。七本槍のあったところはこの切通し付近である。それを秀吉は高い所、すなわち賤ヶ岳の砦から見ていた。それでなければ、この文字は使用できない。切通しを見通せるところは、秀吉からはこの賤ヶ岳の砦より外にない筈である。秀吉はこの砦にしいて切通し付近の勝政隊攻撃の指揮をしたとすることは誤っていない。」

という前提である。それはさらに、秀吉は攻撃の部署を決め、

「自分自身で(大岩砦に留まる)佐久間盛政に当たることにした。これは、結果は追撃となったのであるが、軍全体の配備からいえば三手にわかれ、自分が左翼に廻ったことになる。そして狐塚にある勝家に対して包囲の形成をとったのである。この秀吉が左翼に廻ったということは、全軍の把握が難しいように考えられるが、(中略)このときの作戦は右翼を移動させないで、それを軸として左翼から敵の右翼を打ちのめして、これが成功を待って中央を進出させ、右翼からも突撃させるという策をとったのであり、左翼が主動部隊であり、しかもその行動は峰筋で行われたので、中央からも、右翼からも望見され、それをはっきり知ることが出来るという状態にあった。だから、秀吉自身が左翼に廻ったということは最も適当した、最も必要な処置であった。」

という戦略とも合うのである。

秀吉帰陣の方を受けて、大岩山から退陣する佐久間盛政隊を援護していた柴田勝政隊三千は、賤ヶ岳の西北方約百メートルの切通しにあり、秀吉は、切通しの東南方の小平地、切通しまでは約五百メートル、俯瞰できる位置にある。

「秀吉は旗本をその真近に攻撃態勢を取って布陣させ、自分は高いところから、敵陣とこの兵とを見おろして、攻撃の機を待っていた」

のである。

「秀吉は柴田勝政隊攻撃の機会を待っていた。この敵部隊が退却を開始するであろうことは十分予想されるところである。われはこれに対して、兵力を集中し、包囲の姿勢を取り、監視を厳重にして敵の退却開始を待てばよい。そして退却開始と同時にこれを攻撃すればよい。退却開始は敵陣動揺の端緒である。それを秀吉は待っていた。」

そして、まさに柴田勝政隊の退却開始と同時に、待機の旗本部隊に攻撃を命じた。

「勝政の部隊は切通しの低地を挟んで、その両側に布陣していたらしい。そこでまず東南方の高みにある部隊を西北方の高みに収容しようとしたのであるこの東南方の部隊が低みにかかったところを、秀吉の旗本は東南方の高みから銃撃を加え、敵が動揺するに及んで、秀吉はこれに突撃をおこなわせた。」

柴田勝政隊は、峰筋を北方へ二キロ、戦いつつ権現坂付近の佐久間盛政隊に合流しようとする。

「佐久間盛政は退却して来る柴田勝政の兵を収容し、列を乱してこれを追ってくる秀吉の兵を迎えて、これに邀撃をくわえた。」

勝政の隊は総崩れになり、二十町ばかり敵味方一つになって追い立てられたが、峰筋の高みにある二千ばかりの盛政隊は備えを崩さず、『江州余呉庄合戦覚書』には、

「盛政は分目の戦いを快くやるだろう」

と書くほど、収容は成功するかに見えたが、

「このときに当たって、茂山にあった盛政の左側背の掩護に当たっていた前田利家は、その陣地を放棄して移動を開始した。それは敵と戦闘を開始した盛政隊の背後を遮って、東方から西方へ峰越に移動して塩津谷に下り、そこから北方の敦賀方面へ脱出したのである。」

前田隊の移動は、盛政の隊からは、

裏崩れ、

に見え、

「前田隊より後方に陣していた諸隊からは盛政隊の敗走のように見えた。そこで初めから戦意を有たない部隊は勿論のこと、その他の部隊にあっても戦意を失ったらしく、早くも戦場を脱走するものが少なくなかった」

という。

「このころになると、秀吉の兵力はますます増加し、(中略)南方及び東方から佐久間信盛の隊に強力な攻撃を加えた。これに対して、盛政方にあっては佐久間盛政・原彦次郎ら奮戦大いに努め、行市山の陣地へ峰筋をしだいに北方に退却したけれども、前夜からの疲労もあり、ついに力及ばず、盛政の兵は全く潰乱に陥り、一部は峰伝いに柳ヶ瀬方面へ、また一部は山を下って塩津谷方面へ敗走したのであった。」

そして、著者はこの戦闘の帰趨をこう断言する。

「この切通しから権現坂までの戦闘の勝敗は余呉湖を中心とする柳ヶ瀬一帯の戦争を決定づけたものであるが、それはまた全戦局の勝敗をも決定したものでもあった。そして権現坂における勝敗を決定した一番大きな原因は前田利家の裏切りであったのである。」

それは、クラウゼヴィッツの、

「戦争は政治的交渉の一部であり、従ってまたそれだけで独立に存在するものではない」

という「戦争論http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-1.htm#%E6%88%A6%E4%BA%89%E8%AB%96思い起こさせる。「戦争」は、あくまで政治的目的達成の手段である。間違っても、戦争が目的化されることはない。

「戦争は政治的交渉の継続にほかならない、しかし政治的継続におけるとは異なる手段を交えた継続である」

である、と。

利家に限らず、秀吉の切り崩しは、多岐にわたったが、同じことは、勝家側からも行われ、

「堂木山の守将山路将監……、賤ヶ岳の桑山重晴・岩崎山の高山重友にしても、勝家に通じていたと思われる節がないではない。」

だからこそ、敵の陣営に加えぬため、大垣からの帰還を急ぎ、それを、味方に知らしめようとしたのである。

「そこでその帰還を味方の諸将に知らせるという目的もあって、盛んに松明を焚いた…。賤ヶ岳をはじめとして田上山からも、北国脇街道のこの松明は良く見えた筈である。」

と。だから、

「勝家の政治力が秀吉のそれより勝れていたら、賤ヶ岳の戦いは佐久間盛政の大岩山攻略を機会として勝家の勝利に帰したであろう。(中略)勝家は盛政の大岩山攻略によって秀吉陣営の崩壊を期していたのではなかろうか。岩崎山の高山重友も、賤ヶ岳の桑山重晴も敗走した。堂木山の敵も動揺した。神明山の敵も動揺したであろう。けれども田上山の羽柴秀長の陣と左称山の堀秀政の陣は微動だにしなかった。そのために堂木山の兵も神明山の兵も敗走するに至らなかったのである。すなわち秀吉の陣は崩壊すべくして崩壊しなかったのであった。秀長は勝家方の盛政のような地位にあったから問題とすることはできないとしても、秀政を完全に掌握していたことは、秀吉の政治力でなければならない。」

と。すなわち、

「戦争は単なる軍事的行動ばかりではない。戦争は戦闘ではないのである。」

と著者は締めくくる。

参考文献;
高柳光寿『賤ヶ岳の戦い』(学研M文庫)

通説を覆す

藤本正行『信長の戦争−「信長公記」に見る戦国軍事学』を読む。

本書は、

「比較的に客観的・批判的に信長を把握する太田牛一の『信長公記』に依拠しつつ、『甫庵信長記』によって形成されてきた信長の合戦像の「常識」を一枚一枚はがして歴史の真実に迫ろうとする。その手段として、合戦の場を実地検証し、現場に合わせて史料を徹底的に解読していくという方法である」

と解説の峰岸純夫氏が指摘するように、これまで、『甫庵信長記』が創作した、

桶狭間の奇襲戦、
美濃攻め(墨俣一夜城)、
姉川合戦、
長嶋一揆攻め、
長篠合戦の鉄炮三段撃ち、
石山攻めの鉄甲船、
本能寺の変、

等々の通説となってきた、

信長の軍事的天才性、

の悉くを覆したとして、今日では一定の評価を得ている著作である。その根拠が、一級史料である、

信長公記、

なのだから、著者自身が、

「大方の常識を覆すこの見解が、単なる奇説として葬り去られなかった唯一の理由は、筆者がその論拠として信長の家臣、太田牛一の書いた『信長公記』を持ち出したからである」

という通りである。さすがに、今日、大河ドラマでも、桶狭間の合戦を、

奇襲、

として描くことはできなくなった。牛一が書いた記事は、

「信長が今川軍に正面から強襲をかけたとしか読むこときができないし、それはまた、当時の状況や戦場の地理などに照らしても納得できる内容である」

のである。

合戦当日、義元が沓掛城を出て西に進み、信長も清須城を出て、善照寺砦に入る。今川方に寝返った鳴海城、大高城等々を囲んで、構えた五つの付城(丹下・善照寺・中嶋・丸根・鷲津)の一つである。この砦を拠点に、兵力集結を図った。この間に、丸根・鷲津が落とされたことを知る。

「この城は、今川方の鳴海城の丘続きにある。両者の間隔は数百メートルにすぎない。善照寺砦からは眼下に中嶋砦を望むことができるし、その南には鷲津・丸根砦のある丘陵の北側が見える(鷲津・丸根砦自体は見えない)。この位置関係は非常に重要である。なぜならば、今川方は、鷲津・丸根を落とした時点で、ただちに両砦の北側まで占拠し、善照寺砦を監視下に入れることができるからである。したがって、信長が進軍中に、鷲津・丸根砦が落ちたことを知ったにもかかわらず、善照寺砦に入ったということは、彼が最初から、その行動を隠蔽する意思がなかったことをしめしているのである。」

そして、著者は、こう付言する。

「一般に、信長は最初から義元を奇襲で討ち取るつもりで、行動を隠そうとしたとされているが、現地には、信長が軍勢を率いて身を隠す場所などどこにもないのである。下手に身を隠そうとして消極的行動に終始すれば、勝てるチャンスも逃してしまうであろう。……実際には、信長は、善照寺砦に入ってから戦いが集結するまで、常に今川方から見えるところで行動するのである。」

このとき、今川義元は、

「四万五千引率し、おけはざま山に人馬の息をやすめこれあり、(中略)戌亥(北西)に向かって人数を備へ、」

と、沓掛城と鳴海城の間にある「桶狭間山」に休息している。信長は、

「中島へ御移り候はんと候つるを、脇は深田の足入り、一騎打の道なり。無勢の様体、敵方よりさだかに相見え候。勿体なきの由、家老の衆、御馬の轡の引手に取り付き候て、声々に申され候へども、ふり切つて中島へ御移り候。此の時、二千に足らざる御人数の由、申し候」

と、家老衆の止めるのを振り切って、中嶋砦へ移る。

「中島砦は川の合流点に築かれた砦で、付近では最も低い場所にある。そしてその南の鷲津・丸根砦のある丘陵や、東の丘陵は今川軍によって占領されている。したがって、信長の移動が今川方に気づかれぬはずはなく、それだけに『無勢の様体、敵方よりさだかに相見え候』という家老衆の言葉には実感がある。」

信長に奇襲の意図がなかったことがわかる一節である。

「桶狭間山の北西、わずか二キロメートル余に織田方の中嶋砦がある。桶狭間山と中嶋砦の間は浅い谷筋で直線的に結ばれているから、義元がこの危険な地形を無視したとは考えられない。彼自身は旗本とともに後方にいたとしても、その前方に一部隊を進出させ、中嶋・善照寺の両砦を牽制したはずである。現に『信長公記』に『戌亥(北西)に向かって人数を備へ』とあるではないか。今川軍は両砦に対して戦闘態勢をとったのである。」

その中で、信長は、中嶋砦から進撃する。『信長公記』はこう書く。

「中島より又、御人数出だされ候。今度は無理にすがり付き、止め申され候へども、爰にての御諚は、各よくよく承り候へ。あの武者、宵に兵粮つかひて、夜もすがら来なり、大高へ兵粮を入れ、鷲津、丸根にて手を砕き、辛労して、つかれたる武者なり。こなたは新手なり。其の上、小軍なりとも大敵を怖るゝなかれ。運は天にあり。此の語は知らざる哉。懸らばひけ、しりぞかば引付くべし。是非に、稠(ね)り倒し、追い崩すべき事案の内なり。分捕なすべからず。打ち捨てになすべし。軍(いくさ)に勝ちぬれば、此の場へ乗つたる者は、家の面日、末代の高名たるべし。只励むべしと御諚……」

ただし、信長は「宵に兵粮つかひて、夜もすがら来なり、大高へ兵粮を入れ、鷲津、丸根にて手を砕き、辛労して、つかれたる武者なり」といったのは、誤解で、ここにいたのは新手の今川勢であるが。しかし、

懸らぱひけ、しりぞかば引付くべし、

とのみ指示し、

「敵の旗本を狙えとか、義元一人倒せなどという無茶を言っていない。目の前に今川軍が布陣しているこの時点で、そんな現実離れしたことを言っても仕方がないからである。」

で、攻撃に移る。『信長公記』には、そのありさまはこう描かれる。

「山際まで御人数寄せられ候ところ、俄に急雨(むらさめ)、石氷を投げ打つ様に、敵の輔(つら)に打ち付くる。身方は後の方に降りかゝる。沓掛の到下(とうげ)の松の本に二かい三がゐの楠の木、雨に東へ降り倒るゝ。余の事に、「熱田大明神の神軍か」と申し候なり。
空晴るゝを御覧じ、信長、鎗をおつ取つて、大音声を上げて、「すは、かゝれ、かゝれ」と仰せられ、黒煙立て懸かるを見て、水をまくるが如く、後ろへくはつと崩れなり。弓、鎗、鉄炮、のぼり、さし物等を乱すに異ならず、今川義元の塗輿も捨て、くづれ迯(のが)れけり」

織田軍は東向きに進撃した。中嶋砦を出て東に進み、東向きに戦った。

堂々たる正面攻撃、

なのである。義元討ち取りのシーンは、真に迫る。

「天文廿一年壬子五月十九日
旗本は是なり、是へかかれと御下知あり。未剋(ひつじのこく 午後二時頃)東へ向てかかり給ふ。
初めは三百騎計り真丸になつて義元を囲み退きけるが、二、三度、四、五度、帰し合せ合せ、次第次第に無人(ぶじん)になりて、後には五十騎計りになりたるなり。信長下り立つて若武者共に先を争ひ、つき伏せ、つき倒ほし、いらつたる若もの共、乱れかゝつてしのぎをけづり、鍔をわり、火花をちらし火焔をふらす。然りと雖も、敵身方の武者、色は相まぎれず、爰にて御馬廻、御小姓衆歴々、手負ひ、死人、員(かず)を知らず。服部小平太、義元にかゝりあひ、膝の口きられ、倒れ伏す。毛利新介、義元を伐(きり)臥せ、頸をとる。」

と。なぜ『信長公記』の記事を素直に読めなかったのか、浸透した通説に紛れて読めば、正面攻撃も、奇襲としか読めなくなるのか。

墨俣城も三千挺の鉄炮の三段撃ちも、何れも、『信長公記』の記事をこそ、第一にして、検証すべきだということは明らかなのだが、まだ、

奇襲説、
三段撃ち、

を固執する主張が後を絶たない。悪貨という『甫庵信長記』が良貨『信長公記』を駆逐してきた長い年月をきれいにするにはかなりの時間がかかるらしい。

三段撃ちについては、火縄銃に詳しい人が、

「火縄銃の弾込めと火皿に口薬を盛る時間を、殆どの人が、十分か十五分を擁すると思い込んでおられる。このため長篠設楽原合戦の三段構えの射法という名論が生じてくる。が、実際は一分もかからない」

と書く(名和弓雄)。たとえば、

戦国末期から早盒(はやごう)と呼ぶ、弾と火薬を入れた筒状の物が用いられ、銃口へ早盒の蓋をとって火薬と弾を一気に注ぎ込み、槊杖(かるか)(鉛の弾丸を銃身の底に圧着させる鋼鉄棒)で数回突き固める。この弾丸込めと火皿に口薬を盛る時間までおおよそ二、三十秒。引鉄を引けば、瞬時に火縄挟みが落下し、火縄の先の火が火皿の起爆薬に点火されて爆発し、銃身内の薬持の盒薬が爆発して弾丸を飛ばす。この間一、二秒。熟練者なら発砲後次弾発射準備が十八〜二十秒で完了する、

といわれる。三段撃ちなど迷論といわれる所以である。しかも、そんな記述は、『信長公記』には全くない。

鉄炮千挺ばかり、

とあるだけなのである。

参考文献;
藤本正行『信長の戦争−「信長公記」に見る戦国軍事学』(講談社学術文庫)
名和弓雄『絵でみる時代考証百科』(新人物往来社)

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