中里紀元『秀吉の朝鮮侵攻と民衆・文禄の役』を読む。
本書は、所謂、文禄・慶長の役の、
天正20年(1592年)に始まって翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役、
を描く。通常文禄の役、というが、文禄元年への改元は12月8日に行われたため、4月12日の釜山上陸で始まった戦役初年のほとんどは、厳密にいえば天正20年の出来事になる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9)らしい。
著者は、
「私の祖父は唐津藩御用窯の最後の御用碗師であった。文禄、慶長の役で唐津藩初代藩主寺沢志摩守広高によって連行されて来た朝鮮陶工又七(トウチル)が私たちの祖先にあたる」
いわば、略奪連行された朝鮮の人たちは、
薩摩藩だけで三万七千人、
といわれる途方もない数である。特に陶工の連行は、ために朝鮮の生産は衰微したといわれるほどの惨状となり、逆に有田焼、唐津焼といわれるものは、拉致してきた朝鮮人の手に始められたものである。その子孫の著作であることには、ちょっと感慨がある。ただ、問題意識が、侵略した日本軍の行状にあるのか、現地の人々の惨状にあるのか、焦点が定まらず、時系列に、日本軍の経路に合わせて叙述していく方式は、もう少し工夫があってよかったのではないか、という憾みがある。
この朝鮮侵略は、まさに、
無名之師、
である。「無名の師」とは、
おこす名分のない戦争、
の意であり、特に仕掛けられる側だけでなく、仕掛ける側においても必要がなくかつ勝算が確定的でない場合に独裁的な指導者によってなされるものを言う、
とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%84%A1%E5%90%8D%E3%81%AE%E5%B8%AB)。後漢書・袁紹劉表列伝に、
曹操法令既行、士卒精練、非公孫瓚坐受圍者也。今棄萬安之術、而興無名之師、竊為公懼之
とある。
名分の無い戦争、
である。
無名之兵(三国志・魏書)、
とも書く。まさに、秀吉の朝鮮出兵は、「無名之師」そのものであった。
秀吉の妄想とも言うべき、
唐入り、
という構想から、
ただ佳名を三国(日本、明、天竺)に顕さんのみ、
という朝鮮王への手紙にある、途方もない妄想の実現を目指すのである。そのために、朝鮮は、
仮道(途)入明、
つまり、
秀吉は朝鮮にみずからのもとに服属し、明征服の先導をするよう命じ、
それに応じないことを理由として、四月先手勢の小西行長軍は、釜山城を攻撃する。こうして、翌年まで続く戦争が始まるが、初期の快進撃は、朝鮮軍のゲリラ戦、李舜臣率いる朝鮮水軍による敗北、明軍の参戦などによって、補給線を断たれ、寒気と食料不足に悩まされた日本軍は、南部へ後退、恒久的な支配と在陣のために朝鮮半島南部の各地に拠点となる城の築城を開始し、日本・明講和交渉が始まったところで、文禄の役は終わる。
しかし、十五万余の渡海軍は、翌年には、七万四千余人の減員となっている。特に、先手勢の小西軍は、一万八千が、六千余に減っているし、加藤・鍋島勢も、二万二千から一万一千に減っている、という惨憺たるありさまである。もちろん、この減員は、戦国時代の軍隊が、
かりに百人の兵士がいても、騎馬姿の武士はせいぜい十人足らずであった。あとの九十人余りは雑兵(ぞうひょう)と呼んで、次の三種類の人々からなっていた。
@武士に奉公して、悴者(かせもの)とか若党(わかとう)・足軽などと呼ばれる、主人と共に戦う侍。
A武士の下で、中間(ちゅうげん)・小者(こもの)・荒子(あらしこ)などと呼ばれる、戦場で主人を補(たす)けて馬を引き槍を持つ下人(げにん)。
B夫(ぶ)・夫丸(ぶまる)などと呼ばれる、村々から駆り出されて物を運ぶ百姓(人夫)たちである、
という(藤井久志)編成から見て、雑兵の中には,侍(若党,悴者は名字を持つ)と武家の奉公人(下人)もいるが、人夫として動員された百姓が多数混在している。この構成の中で、多く、弱い立場のものが一番しわ寄せを受け、主従のつながりを持たぬ人夫たちの多くは逃亡している可能性があるので、すべてが戦病死者というわけではないが、その消耗はすさまじい。それにしても、異国の厳冬のさなか、どう生き延びたのだろうか。
本書は、時系列に追うために、こうした兵員各層の実像に迫りきれておらず、そのあたりも、事件を概括しているだけの恨みが残る。
それにしても、秀吉の朝鮮、明を侮る姿勢は、滑稽というよりも悲惨である。しかし、その姿勢は、西郷の征韓論、明治政府の朝鮮併合にまで、通奏低音のように続き、今日もまだ、どこかにいわれなき朝鮮蔑視が続くのが、やりきれない。
それで思い出すのは、西郷の征韓論に抗議、自裁した薩摩藩士横山安武(森有礼の兄)のことを思い出す。これについては、「異議」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-5.htm#%E7%95%B0%E8%AD%B0)でも触れた。
横山安武の抗議の建白書は、こう書く。安武の満腔の思いがある。全文を載せる。
朝鮮征伐の議、草莽の間、盛んに主張する由、畢竟、皇国の委糜不振を慷慨するの余、斯く憤慨論を発すと見えたり、然れ共兵を起すに名あり、議り、殊に海外に対し、一度名義を失するに至っては、大勝利を得るとも天下萬世の誹謗を免るべからず、兵法に己を知り彼を知ると言ふことあり、今朝鮮の事は姑らく我国の情実を察するに諸民は飢渇困窮に迫り、政令は鎖細の枝葉のみにて根本は今に不定、何事も名目虚飾のみにて実効の立所甚だ薄く、一新とは口に称すれど、一新の徳化は毫も見えず、萬民汲々として隠に土崩の兆しあり、若し我国勢、充実盛大ならば区々の朝鮮豈能く非礼を我に加へんや慮此に出でず、只朝鮮を小国と見侮り、妄りに無名の師を興し、萬一蹉跌あらば、天下億兆何と言わん、蝦夷の開拓さへも土民の怨みを受くること多し。
且朝鮮近年屡々外国と接戦し、顧る兵事に慣るると聞く、然らば文禄の時勢とは同日の論にあらず、秀吉の威力を以てすら尚数年の力を費やす、今佐田某(白茅のこと)輩所言の如き、朝鮮を掌中に運さんとす、欺己、欺人、国事を以て戯とするは、此等の言を言ふなるべし、今日の急務は、先づ、綱紀を建て政令を一にし、信を天下に示し、万民を安堵せしむるにあり、姑く蕭墻以外の変を図るべし、豈朝鮮の罪を問ふ暇あらんや。
朝鮮を小国と見侮り、妄りに無名の師、
を起こした延長線上に、日清戦争があり、日露戦争があり、その権益を守るための太平洋戦争がある。この建白書は、現代日本をも鋭く刺し突く槍である。いまなお、嫌韓、ヘイトの対象にして、言われなく他国を侮蔑する者への、無言の刃である。
しかし、「通底」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-1.htm#%E9%80%9A%E5%BA%95で触れたように、
「中国に倣った中華思想を基軸に据え」た大宝律令が完成した大宝元年(701)の元日,
「文武天皇は大極殿に出御し,朝賀を受けた。その眼前には前年新羅から遣わされた『蕃夷の使者』も左右に列立した。」
という。この中華思想「東夷の小帝国」意識は,
「日本(および倭国)は中華帝国よりは下位だが,朝鮮諸国よりは上位に位置し,蕃国を支配する小帝国」
を主張するというものだ。それと同時に,
「朝鮮半島諸国に対する敵国観も,日本人の意識の奥底に深く刻まれた。もともと,交戦国であった高句麗や新羅に対する敵国視は古い時代から存在していたのであるが,(中略)その後新羅に替わって半島を統一した高麗は高句麗の後継者と自称したが,日本ではこれを新羅の後継者と見なした。そして新羅に対する敵国視もまた,高麗に対しても継承させたのである。」
この対朝鮮観の根深さは,ちょっと衝撃的である。われわれの夜郎自大ぶりには,われわれの1500年に及ぶ年季が入っているのである。この根の深さは、深刻である。
参考文献;
中里紀元『秀吉の朝鮮侵攻と民衆・文禄の役』(文献出版)
藤木久志『【新版】雑兵たちの戦場−中世の傭兵と奴隷狩り』(朝日選書)
倉本一宏『戦争の日本古代史−好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』(講談社現代新書) |