野臥 |
中田正光『伊達政宗の戦闘部隊』を読む。

戦国大名の軍事力の基礎となる,戦闘部隊,兵站部隊の実像は,よく分かっていないこと言う。本書は,
後北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされる一年前の天正十七年(1589)年,伊達氏が相馬攻めの為に領内一部郷村で陣夫動員調査を行った『野臥日記』をもとに,動員兵力の内実に迫ろうとした。
記録に残っているのは,現在の宮城県白石市の一部と刈田郡,福島県の信夫郡,伊達郡の一部で実施された記録である。
『野臥日記』では,当時郷村に住んでいる壮年男子をすべて書き記しているが,家族や女性,子供が記されていないため,村の住民数まではわからない。野臥とは,百姓たちが武装した状態をいうのだそうだ。「野伏」とも書く。
ただ記録には,比較的裕福な家主,半自立的で未だ自分の耕作地を持たない名子,家主に一生隷属している下人が記されており,煩い(病人),牢人,行人(修験者),中懸(なかけ=下層家臣組士)が記録されている。さらに,馬上の侍である「平士」(へいし)に相当する地頭(郷村の領主)としての地侍なでが記されている。
たとえば,こんなふうに記されている。
かぢや 大波分
上 や一郎
上 四郎兵へ 大分
上 藤十郎
上 与二郎
大なミ殿分
上 寺嶋二郎兵へ
上 大波与三さへもん
上 わく沢新兵へ
上 助ゑもん
上 たんは
山伏 大泉房
上 新さえもん
上 や一郎
上というのは,健康状態を上中下で区別したもの。「かぢや」は,農耕具や刀槍といった手工業的作業に従事していた非農業的存在の在家という意味。「大波分」とあるのは,大波玄蕃という地頭が知行していることを明記している。「大なミ殿分」は,山伏を含めた八人を,大波氏が扶持しているということであ。なお,大波氏は,伊達家の中で「召出」という,門閥的な存在であったと推測されている。これによって,鍛冶屋在家の四人と,大波殿分の八名が,陣夫として動員可能と判断されたことを意味する。
在家(ざいけ)というのは,本来は一軒の農家のことを言う。しかし実際には,数軒集まって在家と呼んでいることが多い。屋敷,菜園を含めてそう呼ぶ。屋敷の主人は家族兄弟のほか,名子,下人まで従え,農家とはいうものの経済的には恵まれている。本来,在家とは郷村に数人いた地頭地主(伊達氏と御恩と奉公の関係にあった家臣)が税を徴収する際の呼び名で,在家農民と直接相対していたのは地頭たちということになる。大名は,こういう地頭を介して,郷村支配を行っていたが,『野臥日記』は,直接把握しようとしたものと見ることができる。
郷村に根を張り,多くの耕作地や在家を所有し,自らも農耕に従事していたような地頭こそが伊達家家臣団のなかの「馬上の平士」に相当する(地侍・土豪)。もしその村が大名の直轄地の場合は,地頭的存在は,伊達政宗自身ということになる。
もう一例。小国郷の中島在家。
中島 大波分
上 十郎ゑもん
上 惣さへもん
上 助十郎
御なかけ てらさき弥七郎
同 かんのとさの守
ここには二人の「御なかけ」(名懸)というのは歩卒の足軽で,弓組,鉄砲組が主力となっていた。これは,伊達氏と「奉公と御恩」の関係にある給人(知行地を与えられている家臣)ではなく,単に伊達氏に抜擢された有力農民であり,地侍・土豪のように馬上は許されない。しかし,著者は言う。
伊達氏が有力農民たちを歩卒侍(中懸衆)として抜擢して,伊達氏直属の弓衆に仕立てることで,村では地頭大波氏との徴税関係を廃止し,地頭と有力農民の名懸たちを引き離す結果となったことを意味する。
つまり農から兵への分離のはじまりである。やがて名懸を城下に住まわせ,村から引き離そうという展望があったことを示している。
と。こういう軍勢構成から考えれば,
ある時期,伊達氏の軍勢一万のうち,直臣は500程で,残りはほとんどが郷村からの動員兵や臨時雇いであった,
という。つまり,
伊達氏は,重層的に直臣である家臣団を形成し,さらに,郷村の地頭領主を召出や平士として,さらに在家農民から多くの兵士を動員していった,
のである。となると,映画や小説のような激しい戦闘はしにくいはずである。なぜなら,
こうした兵を失うということは村の崩壊につながりかねなかった。つまり,耕作者を失うことを意味していたからである。ましてや,伊達氏の直轄地から集められた者たちが多ければ年貢が見込めなくなる…。だから合戦以前には必ず調略という誘いの手を伸ばし,戦わずして勝つことを℃の武将たちも求めていた。
それは当然,戦いになって,
撫で斬りその数を知らず,
と必ず戦勝報告に記す,常套句も信じてはいけないということを意味する。領有しても,村々に耕作者がいなければ,何のための戦いだったかがわからなくなる。
いまひとつは,最近は,「乱取り」が常識的に言われるようになったが,野臥主体の戦闘集団の狙いは,乱取りにある。
当時のおもな合戦のねらいは乱取りであって,村や町を襲って金目になる物を奪い取ることに主眼が置かれた。なかでも牛や馬は在家農民(野臥)たちの貴重な家財…,
であったらしい。それは伊達氏が,兵農分離が進んでいないせいだという常識を,著者は疑っている。基本的に,程度の差はあれ,伊達家の軍隊構造と変わらなかったのではないか。
現に,関ヶ原の合戦終了後,徳川軍の雑兵たちは引き揚げ途中で,牛馬の略奪に夢中になっていた,といわれる。実態は変わっていないのである。
こうした地頭と在家の関係を決定的に断ち切るきっかけになったのは,秀吉であり,惣無事令の儀の発令によって,大名間の私闘だけではなく,百姓・町人の自力救済の武装蜂起も否定した。やがて,支城廃棄,刀狩り,検地と,次々と全国均一の仕置きが進められ,兵農分離への本格的な一歩となっていく。
この後,帰農するか城下へと移り住むかの,一人一人の選択がやってくる。それは身分社会の確立への道でもある。
参考文献;
中田正光『伊達政宗の戦闘部隊』(歴史新書y) |
孤立無業 |
玄田有史『孤立無業』を読む。

どこかで,ひきこもり,ニート,フリーターを含めて500万人という推測数値を聞いたことがある。ここでいう,孤立無業もこの中に入る。500万かというと,一世代200万人(もっと少なくなっているが)と見積もって,二世代半に当たる。それは,その人たちが,社会保険料をきちんと払う仕事をしていないということになる。それを聞いた時,足もとで,社会保障制度は崩壊している,と感じた。
「労働力調査」によると,2012年を平均すると,15歳以上の人口は1億1098万人,そのうち就業者は6270万人,その差が,無業者で,4828万人になる。
著者は,その無業者の中で,
20〜59歳で未婚の人のうち,仕事をしていないだけでなく,ふだんずっと一人でいるか,そうでなければ家族しか一緒にいる人がいない人,
を孤立無業者と呼び,それを研究してきた,という。本書は,
そんな無業者の実態をデータ(「社会生活基本調査」)に基づき,詳しく紹介している。
この,「孤立無業」とは,日本で開発された概念で,英語でSolitary
Non-Employed Persons を指す。2011年の調査では,162万人,10年間で80万人近く増加しているという。
孤立無業者を,
20歳以上59歳以下の在学中を除く未婚無業者のうち,ふだんずっと一人か,一緒にいる人が家族以外にはない人々,
と定義している。2011年時点で,60歳未満の未婚無業者は255.9万人,そのうち孤立無業者が162.3人,実に60歳未満の未婚無業者の63%を占める。このうち,家族型孤立無業は,128.0万人,8割弱を占める。そして,求職活動に消極的なのが,家族型で,29.3%は,仕事をしたいと思っていない。
では,これは,ニート(not in education, employment or
training)やフリーター,ひきこもりと,どういう違いがあるのか。
厚生労働省は,ニートを,
15〜34歳の非労働力人口のうち,通学,家事を行っていない者,
と提示しているが,労働力調査から,2011年時点で,約60万人になる。このうち非求職型と非希望型を合計すると,43.2%,そのうちニートであり,同時に孤立無業である人は,30.0%を占める。
同じく厚生労働省は,フリーターを,
15〜34歳の男性または未婚の女性(学生を除く)で,パート,アルバイトとして働く者,またはこれを希望する者,
と定義していて,やはり,2011年時点で,176万人になる。
厚生労働省は,ひきこもりを,「ひきこもりの支援・評価に関するガイドライン」で,
さまざまな要因の結果として社会的参加(義務教育を含む就学,非常勤職を含む就労,家庭外での交遊など)を回避し,原則的には6ヵ月以上にわたって概ね家庭にとどまり続けている状態(他者と交わらない形での外出をしてもよい)
と定義している。ただ実態は把握しにくく,ガイドラインでは,ひきこもり状態の子供のいる世帯を26万世帯と試算しているが,内閣府(「若者の意識に関する調査」)は,「自室からほとんど出ない」「自室から出るが家から出ない」「近所のコンビニなどへは出かける」という狭義のひきこもりが,15歳以上39歳以下で23.6万人,「普段は家にいるが,自分の趣味に関する用事の時だけ外出する」準ひきこもりが46.0万人と試算している。著者は,
(いま)無業であることが,就職しないということを意味しないが,
孤立状態にあることは,仕事に就こうとする活動やそもそも働こうという希望を抑制することにつながる,
とし,さらに,
自分ひとりで考えているだけでは,かえって悩み過ぎてしまって,袋小路に陥ることもあります。結局,考え過ぎてしまって「自分には働くことは無理」と思い込み,就職を断念する,
ことになり,ニートになる原因の一つとなっている,と著者は分析し,
さらにいえば,ニートになることが,ますます無業者の孤立に拍車をかける,
という。そして,
ニート状態にある若者も,最初から働くことをあきらめていたわけではありません。かつては一生懸命就職活動をしていた人も多くいます。その方が言うには,ニートには「就職を求める人たちの長い行列の後ろのほうに自分は並んでいる」感覚があるそうです。そして「その行列は,前のほうだけ入れ替わっている様子は感じるけれども,少しずつでも自分の順番が前に繰り上がっていく気配がない」というのです。そして「このまま並んでいても希望は見えないし,かといって他の方法が思いつくわけではない。そのまましばらく並んでいたが,どう考えても自分の番がきそうもない」。そのなかで仕事に就くことを徐々に断念し,ニートになっていく,
という。そしていったんニートになると,ますます孤立化を深めていく。
孤立無業→ニート→孤立無業→ニート…
と負のスパイラルに落ち込んでいく。孤立無業では,一度も,仕事をしたことのない人が20%を超える。しかも孤立無業のうち,一人型では,4人に一人が,受けられるなら生活保護を受けたいと考えている,のである。
これは正直,心底日本の危機と思う。希望のない社会に,未来志向は生まれない。単なるポジティブシンキングのレベルの話ではないのである。
著者は言う。
政府の手で100人のニートを自立させることは難しい。むしろ100人のニートを支援できる10人の若者を育ててほしい。政府が若者を支援するのも重要ですが,若者を支援する若者を支援することは,もっと大事なことなんです。
と。なぜなら,
孤立無業者本人が自分の力だけでは踏み出すことができない以上,他者のほうから働きかける。つまり会うとリーチによって上手に「おせっかい」することが肝要,
だからなのだ,と。
僕は,こうした若者の現状は,社会の生み出したものであり,それが家庭に反映し,それが個人に反映すると思っている。いま日本の社会は病んでいる。一朝一夕に特効薬はない。しかし,いま動きはじめないと…という著者の危機感だけは,伝わってくる。
参考文献;
玄田有史『孤立無業』(日本経済新聞出版) |
ストレス |
家近良樹『西郷隆盛と幕末維新の政局』を読む。

あとがきで,著者は,
従来の日本史研究者があまりにも健常者中心であること,
を問題意識に,西郷隆盛のストレスを,久光との葛藤を通して,幕末から,明治六年の政変まで辿る。是非はともかく,西郷隆盛の抱えていた桎梏が見え,それはまた同時に,西郷自身のものの考え方の一貫した軸のようなものまでをあぶりだすところが,いままでの史書にない,斬新さといっていい。
朝鮮へ政府要人を使節としてなにがなんでも派遣しなければならないほど,朝鮮問題が緊迫化していないなかで,
西郷が朝鮮使節志願を,突然,閣議で願い出た後,板垣(退助)に,協力を求めて,
是非,此処を以テ戦に持込不申候ては迚も出来候丈に無御座候付,此温順の論を以テはめ込み候へば必ズ可戦機会を引起し可申候付,只此一挙に先立,死なせ候ては不便杯と若哉姑息の心を御起し被下候ては何も相叶不申候間,只前後の差別あるのみに御座候間,是迄の御厚情を以御尽力被成下候へば死後迄の御厚意難有事に御座候間,偏ニ奉願候。最早八分通は参掛居候付,今少の処に御座候故,何卒奉希候…
という必死の手紙を認める。著者は言う。
この文面からは,当時の西郷が,まるで死神に取り付かれたかのように死に急ぐ姿が浮かび上がってくる。
と。この後,三条(実美)との会見を板垣に報じる,西郷の文面にも,
此節は戦を直様相始め候訳にては決て無之,戦は二段に相成居申候。只今の行掛りにても,公法上は押詰候へば可討の道理は可有之事に候へ共,是は全ク言訳の有之迄にて,天下の人は更に存知無之候へば,今日に至り候ては全ク戦の意を不持候て,隣交を薄する儀を責,且是迄の不遜を相正し,往先隣交を厚くする厚意を被示候賦を以,使節被差向候へば,必ズ彼が軽侮の振舞相顕候のみならず,使節を暴殺に及候儀は決て相違無之候間,其節は天下の人,皆挙て可討の罪を知り可申候間,是非此処迄に不持参候ては不相済場合に候段,内乱を冀ふ心を外に移して国を興すの遠略は勿論,旧政府の機会を失し無事を計て終に天下を失ふ所以の確証を取りて論じ候…
と,その動機を余すところなく語っている。
第一は,「使節を暴殺に及候儀は決て相違無之候間,其節は天下の人,皆挙て可討の罪を知り可申候」と,本来なら征韓するほどの理由がなかったにもかかわらず,それを強引につくりだそうとしている,
第二は,「内乱を冀ふ心を外に移して国を興す」と,不平士族の不満をそらそうとしている,
第三は,「旧政府の機会を失し無事を計て終に天下を失ふ所以」と,旧幕府が平穏節を計り,事なかれ主義に陥ったために滅んだが,新政府の現状はそれに近いという危機意識がある,
というのである。それにしても,と著者は言う。
西郷はひどく急いていたのである。ここには,余裕を失っている,それまでの西郷とはまったく異なる別人の姿が見られる…
と。そして,この時期,西郷は,極度の体調不良に陥っていた。
数十度の瀉し方にて甚以て疲労…
という状態なのである。これは,下剤を日常的に用いていたゆえに起きたことだが,それは,陛下から遣わされたドイツ人医師の,持病である「肩並びに胸杯の痛み」対策として,肥満解消のための瀉薬療法と食事療法という処方にもとづくが,このために,日に五六度の下痢に苦しめられることになる。
その原因となった西郷の持病に,著者は,ストレスを見る。
その一つは,西郷の性格である。一般には豪放磊落と受け止められているが,
ステレオタイプ化された西郷 隆盛像から離れて,西郷のありのままの姿を追う…,
として次のような特徴を上げた。
第一は,軍好き。単なる戦闘好きだけにとどまらず,戦に臨む前の緊張感を持って日常を生きるのを好んだ。
第二は,多情多感。目配り,気配りの凄い,きめ細かな感情の持ち主。感情の豊かな人間味あふれた人物であった。血気にはやり,自分の感情を率直に噴出させるタイプで,その分好き嫌いが激しい。「相手をひどく憎む」「度量が狭い」という藩内の評もある。
第三は,策謀家・政略家。緻密かつ論理的・組織的な頭脳の持ち主。あ相手との駆け引きを楽しむタイプ。無策な人間を軽蔑した。ただし策略家としては,失敗が多い。
そして,著者は,
こうした容易に他人に信をおけないタイプの人間は,当然相手の行為をめぐって憶測をたくましくし,そのことで強いストレスを受ける羽目になる。
というが,むしろ,西郷が矢面に立つほかない出色の人物である故に,というべきなのかもしれない。そして,西郷の特色は,常に死の意識が付きまとっていることだ。いつくかのエピソードで有名なのは,僧月照と入水自殺から,一人生き延びた後,大島に流罪になるが,このエピソードで,
南洲は此事あってより後は…終始死を急ぐ心持があったものとおもわれる,
という(重野安繹の)回想もあるが,西郷自身は,「土中の死骨」と自ら称し,
投身という「女子のしさうな」手段を講じ,しかも自分一人生き残ったことを悔いる言葉を吐いた,
という。それが強く西郷の中にあったらしく,それを象徴するのが,二度の流罪から赦免されて軍賦役になった西郷が,長州藩邸に乗り込み,長州藩を関係者を説得するとして,
迚も説得いたし付け候儀は六ケ敷候得共,承引致さず候迚空敷帰し申す間敷,殺し候えば長には人心を失い申すべし,
と,朝鮮使節と同じ発想,自分の死を持って,軍の名分を立てようという発想がみられる。
しかしそれ以上に,ストレスとなったのは,斉彬死後,国父として薩摩の実力者となった島津久光およびその近臣との間での葛藤として,現在化する。
とりわけ,「地ゴロ」(田舎者)発言以来,久光の憎悪を一身に受け,奄美大島,沖永良部島と二度の流人生活を余儀なくされ,軍賦役で復帰して以降は,久光を意識し格段に慎重になった,と言われる。
しかも慶応三年時点ですら,武力倒幕に傾く,「暴論派」は,藩内でも少数派で,小松帯刀も,慶喜の大政奉還以降,慶喜を新体制の中心に据えようという方向に転じ,京都藩邸ですら,武力討幕を志向するものは少数派であった。しかし,この時期に,久光は,体調不良に陥り,国元へ帰国,代わって,藩主茂久が上洛,以後,その機をつかんで,曲折を経ながら,鳥羽伏見で,戦端を開くに至る。
藩の大勢,当然久光自身も,倒幕を容認していない。そんな中で戊辰戦争に引きずり込まれ,薩摩藩は,多大の犠牲を払い,しかも人口の四分の一にまで達する,他藩と比較にならない20万人に及ぶ武士が,廃藩置県で路頭に迷うに至る。その憎悪とプレッシャーは,西郷に重くのしかかっていた,と言えるだろう。
それが病気の一因かどうかはどうかはわからないが,西郷という人間に大きなストレスを与えていたことだけは間違いない。少なくとも,ただ,西郷自身の志向だけから,征韓を急いだというより,薩摩の藩内事情(久光の反発を含めた)が,西郷にその善後策を強いたということだけは間違いない。その責めを一身に背負うタイプの人間でもあったということだ。
そうした西郷を取り巻く環境を,病気という切り口で,いままでは異なる歴史の断面を剔抉した手際は,鮮やかだと思う。
ところで,小松帯刀と島津久光の体調不良がなければ,鳥羽伏見に始まる戊辰戦争を経た明治維新への回路はよほど違ったものになったということを,感じる。著者は,小松が体調を崩して鹿児島から上洛できなくなったのを,
…このことが薩摩藩ひいては日本国そのもののその後の運命を大きく変えることになったと言ってよい。
と,述懐する。確かに,「たら」「れば」は歴史にはないが,こう思わせるのは,結局歴史を作るのは人間だからだとつくづ思う。
参考文献;
家近良樹『西郷隆盛と幕末維新の政局』(ミネルヴァ書房) |
リラクセーション |
成瀬悟策『リラクセーション』を読む。

正直に言うが,リラクセーションは苦手である。だから,この本も,長く積読になっていた。ただ,不意に手に取って,読み始めてしまった。
本書について,著者は,
本書のリラクセーションは,巷間行われている筋の生理的な弛みを目的とするものではありません。自分の体の「緊張を自分で弛める」という本人自身の心理的な努力活動を目指しているのです。…からだの緊張という生理的な現象を手がかりとしながら,ご自身でそれをリラックスさせる努力と体験の仕方を模索し,有効なやり方を見出して,自らに適したものを見につけ,生活のなかで習熟していけるようになっていただくことです。
と言う。まあ,自分で緊張を見つけ,それをほぐす方法を見つける手がかりに,ということのようだ。
実のところ,リラクセーションの状態がわからない。だらけているせいか,いつも弛緩していると思いきや,とんでもない。弛めようとしても,どこかで身構えている緊張が残っている。たとえば,
何かをしようとする,しようとしない,いずれにしても,意図があり,意図があるところでは,筋緊張が伴う。
これから動作しようとする予期的な意図の仕方,その気になり方によって現れる準備緊張。
緊張が不全ないし残留して,慢性化する恒常緊張。
人前に出るとか,試験や面接をうけるという状況で起こる場面緊張。
翌日のことを考えて緊張が強くなるイメージ緊張。
等々,日常生活にストレスはつきものだが,
ストレスに対して自分のこころが緊張したというふうに感じているのですが,緊張したのは自分のからだであって,心ではありません。…こころは自分が緊張させた自分のからだの緊張を感じているだけなのです。
と。では,その緊張をどう弛めるのか。
筋の過剰な緊張に対処する仕方として,「弛む」と「弛める」があり,著者はこう言います。
「弛む」ことをよしとするのは,収縮・緊張している筋群の緊張水準が低下した状態であることを重視するからで…本人自身がその「弛む」プロセスそのものに直接関わるか否かに関係なく,どんな方法によつても筋緊張が低下した状態になりさえすればよしとします。
それに対して,
「弛める」ことを重視するのは,自分のからだの緊張レベルを高いところから低いところへ,自分自身の目的実現的な努力,即ち動作という心理活動を意識し,さらにはそれができるようになることを目指しているからです。
当然本書の目指しているのは,
本人自身が主体的に関わり,…自分で自分のからだを「弛める」自己弛緩という心理活動
である。
自己弛緩のプロセスでは,主体が自ら弛めようという意志をもって,ともすれば無用な緊張に走ろうとする自分のからだ,すなわち「身体」という自分自身に真正面から立ち向かいます。
ところで,
リラクセーションが難しいのは,自分が緊張していることに気づいていないからです。
その通りなのだ。そこで,
緊張を捨てなさいといっても,それが容易に務できるわけではありません。幸い緊張感は,その存在を肩の凝り,背中の痛み,頸の突っ張り,腰の痛み,股や膝の突っ張りなどの身体的緊張として,その所在を明らかにしています。それらの部位に本人自身が力を入れて緊張させているのが原因ですから,それを止めさえすればいいのです。
それがリラクセーションの基本は,入れた力を抜くことだが,自分の力を入れていることに気づいていないのだから,自分が緊張していることに気づくためのひとつの方法として,ジェイコブソンの弛緩方法を入り口として紹介している。
これについての評価ができるほど,リラクセーションに精通しているわけではないが,自分で筋肉をそらせることで,緊張する感覚を味わってみるには,いい方法のように思われる。
それは,緊張させながら,緊張を弛める,というもののようだ。
自分のからだに意識を向ける,と言うことの重要性は,ある意味,自分の凝っている,あるいは緊張している部分に注意を向けるということの,重要なのかもしれない。
自分のそれに鈍感だと,どうしても人のそれにも鈍感になる。まずは,自分のからだの好不調,緊張弛緩程度には敏感になりたいものだ。
参考文献;
成瀬悟策『リラクセーション』(講談社ブルーバックス) |
フューチャーサーチ |
マーヴィン・ワイスボード&サンドラ・ジャノス『フューチャーサーチ』を読む。

フューチャー・サーチは,もともと「ストラテジック・フューチャー・コンファレンス」と言っていたそうだ。そのままだ。未来への話し合いを構造化したものだからだ。
著者はこう書く。
フューチャー・サーチが効果的なのは,…私たちにとって大切ではあるが一人ではできない課題に取り組む中で,人間としての尊厳や意味,コミュニティを求める内なるニーズにアクセスすることができるからだと考えています。「全体
“象”」(whole
elephant)との関係から自分自身をみることで,過去に不可能だったアクションプランを生み出すことができるのです。
群盲象をなでる
のことわざがあるが,それぞれがそれぞれの経験でモノを見ている。それをもちよって,共通の現実,象を作らない限り,相手がどう理解しているかは見えてこない。「全体象」はそれを言っている。
そのために,フューチャー・サーチでは,
・ホールシステムが一堂に会する
・ローカル(検討対象とする組織やコミュニティ)での取り組みを,「全体象」(グローバル)の中でとらえる。
・未来に焦点をあて,コモングラウンドを明確化する
・参加者が自己管理し,行動に責任を持つ
の4つの基本原理に基づいて,三日間(正確には,初日午後から,三日目の午前まで)の日程で行われる。
初日午後は,過去を振り返る。現在と外部のトレンドに焦点をあてる
2日目午前は,トレンドの続き。現在に焦点をあて,自分たちの行動を認める
2日目午後は,理想的な未来のシナリオ,コモングラウンド(共通の拠りどころを)を明確化する
3日目午前は,コモングラウンドの明確化。アクションプランの作成。
活字の上だけではわからないが,広範囲なステークホルダーを集め,自分ちのコンテクストを確認して,未来像を描こうという流れは見えてくる。
成功の条件を,こうまとめている。
・ホールシステムが一堂に会する
・ローカルな行動を起こすコンテキストとしての全体象
・問題と対立に注目するのではなく,コモングラウンドと未来に焦点をあてる
・小グループによる自己管理
・全日程への完全な出席
・快適な話し合いの環境
・3日間の日程
・フューチャーサーチ終了後の活動についての責任を公にする
特に,問題に焦点をあてず,いまここにある現実と,未来を志向する姿勢が強調される。それには,
・意見はすべて正当なものと考える
・すべてをフリップチャートに書く
・お互いに耳を傾ける
・時間を守る
・問題と対立を扱うのではなく,コモングラウンドと行動を探求する
を原則とし,
私たちは,対立には目をつぶり,すでに決議されたことや,これまでがお互いに接することがなかったために行動を起こすことができなかったことを共に実行するために,対立を受け入れ,解決できないことは保留にすることを進めているのです。
その背景をこう説明している。
(すべての対立に取り組まなければならないという考えに)フューチャーサーチではそこにはまってしまうことは命取りになります。…もし私たちが最も深いところにある意見の相違について徹底的に検討し始めたなら,私たちは家族,同僚,…とですら一日を乗り切ることを難しくなってしまうでしょう。日常生活において,私たちはすべての問題に取り組んではいないのです。フューチャーサーチでも,合意したことに対して行動を起こす前に,対立しているすべての問題に取り組まなければならないということはありません。
妥当だと思う。未来に向かって,問題に焦点をあてるのではなく,解決状態(その時どういう状態になっていたらいいか)に向かって何をするかに焦点をあてようとしているのだから。
さてしかし,これは体験してみるべきものだから,この仕組みがいいものかどうかは,何とも言い難い。しかしそれとは別に,僭越ながら,違う感慨が起きる。
こうやって,次々アメリカのソフトを輸入し,お先棒を担ぐ連中がいっぱいいることに,辟易する。自分の頭で考えるものは,外に答えを探そうとはしないものだ。しかし,コーチングもそうだが,いつも答えを欧米に求める姿勢を,恥ずかしいと思わない限り,このいまの日本の体たらくは変わらない。
中国の偽造を言っている場合ではない。精神は,全く同じ構造だ。
日本に,こういうようなソフトがないのかと言えば,ある。たとえば,遠く,中世に,小さな共和国を維持した,70戸ほどの小さな村がある。そこでは,
乙名を指導者とする行政組織,在家を単位とする村の税を徴収し,若衆という軍事・警察組織をもち,独自の裁判を行い,村の運営を寄合という話し合いですすめ,そのために,構成員は,平等な議決権をもつ,
自治の村であった。それを惣村という。
あるいは,秩父事件でも,われわれのリーダーシップの根がある。
そこに,ソフトがある。しかし,
ひとつは,多くは歴史上,失敗とみなされるために,
さらにはわれわれが,答えを外に探したがるために,
いまも昔も,ないがしろにされてきた。おのれたちのリソースを大事にしないものは,根無し草である。
まあ,最後は愚痴になった。
参考文献;
マーヴィン・ワイスボード&サンドラ・ジャノス『フューチャーサーチ』(ヒューマンバリュー)
蔵持重裕『中世 村の歴史語り』(吉川弘文館)
長崎浩『政治の現象学あるいはアジテーターの遍歴史』(田畑書店) |
お伊勢参り |
鎌田道隆『お伊勢参り』を読む。

楽しさと学びとを深く広く定着させた江戸時代の旅,その代表がお伊勢参りではなかったか…
という著者の言い分も分からないではないか,少し楽天的すぎる。
抜け参り
という言葉がある。奉公人が主人に断りなく,家出する。主婦も家出する。そして,
伊勢神宮とさえ言えば家出も許される,
しかも,雇い主側も,
伊勢までの往復の日数を数えてまってみた,
という社会的な風潮があった。しかし無一文でも,沿道の人の施行を受けて,多くは,無事に帰ってこられる,という社会的基盤もあった。逆に言うと,伊勢参りは,封建時代の身分にしばりつけられた自分のありようを,一瞬解き放つ,絶好の機会となっていた,ともいえる。
一般に旅費は,一日当たり,四百九文,一文を二十円から三十円とすると,一日おおよそ一万円,これは普通の奉公人レベルで賄える金額ではない。それも,伊勢参りという名目があると,施行で支えてもらえる。
江戸時代,日常的な参宮とは別に,大規模な集団的参宮が,おおよそ,六十年に一度起こっている。
慶安三年(1650)江戸の商人たちが中心。白装束。
宝永二年(1705)京都の子供たちが発端,360万人。
享保八年(1723)京都の花街の遊女たち。派手な衣装・装束。
明和八年(1771)京都周辺から始まり,お札降りで拡大。
文政十三年(1830)阿波から始まる。450万人。
その他にも地域的に群参があったとされるが,時代が下るにつれて,施行や接待が拡充し,明和の大阪施行では,豪商たちが,競って施行したり,阿波藩や郡山藩の領主層も,施行に乗り出している。
こうした施行の基盤があることが,より誰でもが参宮にかこつけて抜け参りに出やすくしている,ということはいえるだろう。
こういう領主層の好意的態度こそ,おがげまいりの性格を示しているという考え方もあるが,藤田俊雄は,こう言っている。
「おかげまいり」とむすびついた「おかげおどり」にたいして,伊賀名張や大和俵本では,藩役人が必死になってこれを抑圧しようとし,領民と激しく対立した…,
という事実を上げ,政治的な集団運動ではなかったにしろ,必ずしも,領主にとって,全く危険のないものではなく,
(大名による)施行がおこなわれた反面には,無言の大衆的圧力がはたらいていることを見なければならない…,
としている。たとえば阿波藩の施行には,前年ぬけ参り禁止をした反動とみることができる,と。それだけ,伊勢参りという行為のもつ,社会的プレッシャーというものが相当に大きかったと,見ることができる。
確かに,伊勢参りには,参宮という信仰心とともに,一面日常を脱出する娯楽の側面があることを否定しないが,反面で,身分社会の下層の人々,奉公人,農民の,そうしたくびきからの解放という側面があったことも事実なのである。
伊勢参りを止めだてした主人に神罰がくだったという話がいろいろ伝搬しているということは,雇い主側へも強烈なプレッシャーとなっており,伊勢参りと言いさえすれば,突然の出奔も許さざるを得ない風潮があり,それを物質面で支える施行のバックボーンもあった。
この背景を考えるとき,幕末の慶応に大流行した「ええじゃないか」は,このおがけまいりの延長線上にありながら,ほとんど伊勢参宮や信仰とは関係なく,爆発的なエネルギーの解放という側面が突出した現象であったことがよく見えてくる。おかげまいりの流れをただの信仰と娯楽だけにみると,ええじやないかは異質のものに見えるが,エネルギーの解放という側面で見れば,見事につながって見える。
その面で,著者は楽天的にも,この面を全く見逃しているように見える。既にそのことは,江戸時代最後の「おかげまいり」である文政のおかげまいりにその兆しはあったのである。それを全く言及しないのは,意図があるのでなければ,少し杜撰ではないか。
文政のおかげまいりに際しては,続いて,地域によって,おかげおどりが流行る。
誰いうともなく,踊らないものは一族病死し,家が焼失するという噂が立ち,揃いの緋紋羽のぶっさき羽織をつくり,明け六つに氏神の杜に勢ぞろいし,踊り騒ぐうちに村役人に交渉して,年貢一石につき三斗の減免を要求し,ついに一斗の減免に成功したという。
ここには,慶応の「ええじゃないか」に直接つらなる,時代の変化を見抜いた,したたかな民衆の解放感がほの見える。
参宮にかこつけて抜け参りする民衆に,その兆しがずっとあったのである。それは,
伊勢参り大神宮にもちょっと寄り
のしたたかさ,なのである。
参考文献;
鎌田道隆『お伊勢参り』(中公新書)
藤田俊雄『「おかげまいり」と「ええじゃないか」』(岩波新書) |
差別 |
網野善彦『日本中世に何が起きたか』を読む。

著者が崩した常識は一杯あるが,本書は,そうした我々の常識崩しには格好の著作といっていい。
まず日本という国はいつ成立したのか。
「日本国」という国名は,七世紀末から八世紀初めに決まるのだと思います。浄御原令という令が決まった698年ごろだというのが今のところ,研究者の多数意見ですが,大ざっぱに言って,七世紀末から八世紀初めという点では一致していると思います。注意しておく必要のあるのは,その時点の日本国の領域には東北と南九州は入っていません。北海道,沖縄はもちろんです。
ということは,それ以前について,軽々に日本とか,日本人という言葉を使ってはいけない。日本人がずっといたかのようなイメージを懐きかねない危険がある,と指摘する。では倭人かというと,日本人と倭人は重ならないところがある。だから,
聖徳太子は倭人ではあるが日本人ではない,
と著者は言う。さらに,著者は,「列島東部人」「列島西部人」という言い方をしている。なぜか。埴原和郎氏の説を紹介しているが,
弥生文化が流入してから古墳時代まで,七,八百年から千年ぐらいの間に,百万人以上に及ぶ人が西の方から日本列島に入ったのではないかと言われています。
(「列島東部人」「列島西部人」)の間の差異,現代の東日本人と西日本人,とくに畿内人の差と,朝鮮半島の人びとと西日本人,とくに畿内人との差異とどちらが大きいかというと,前者の方がむしろ大きいのだそうです。
これは遺伝子レベルでの検討だと思われるが,日本が均一というあいまいな言い方は,ためにする場合を除くと,危険である,といっていい。関西人気質と関東人気質の差は,結構根が深い。
ところで,近世以前,百姓というと農民というイメージが強く,農業社会であった,と受け取られてきた。それについて,強烈に異質なメッセージを発し続けてきたのが著者だ。
近世においても「百姓」はその原義の通り,直ちに農民を意味するのではなく,実体に即してみても「農人」だけでなく,商人,船持,手工業者,金融業者等,多様な非農業民を含んでいること,また従来,貧農・小作農と見られてきた水呑,加賀・能登・越中の頭振,瀬戸内海地域の門男(亡土),越前の雑家,隠岐の間脇など,多様な呼称を持つ無高民のなかにも,土地を持てないのではなく全く持つ必要のない商人,廻船人,職人などの富裕な都市民が数多くいた事実を認識したのは,(中略)奥能登地域と時国家の調査を通じてであった。
いわゆる差別問題も,その視角から見ると,全く様相が変わる。転機は,十三〜十四世紀と見られる。
遊女・白拍子・傀儡の地位は,十四世紀ごろまでの日本の社会の中ではかなり高かったと思うのです。(中略)鎌倉時代のごく初めの『右記』という…記録にも,遊女・白拍子は,「公庭」―朝廷に直属するものだとはっきり書いてあります。ですから,遊女の和歌は,勅撰和歌集にたくさん出てきますし,十四世紀,つまり南北朝前期のころまで,貴族たちは自分の母親が遊女・白拍子出身であることについて,何らひけめを感ずることなく堂々と系図に書いています。
そして著者はこう言う。
私はいわゆる被差別部落の直接の源流がはっきりと姿を見せるのは,やはり遊女が差別され始めるのと時期を同じくしていると考えているのです。
奈良時代に悲田院が設けられ,身寄りのない病人や捨て子が収容されていた。これが被差部落問題と深くかかわっている,と言われている。九世紀ころまでは,成人した孤児は,戸主の養子となったり,独立した戸を作ったりと,平民と同じ扱いを受けている。しかし九世紀末ころには,律令国家自体が崩れ,悲田院も維持できなくなる。そこで,そこにいる人は,何か仕事を探さなくてはならなくなる。さらには,
穢れの「清目」を一つの仕事,
とするようになり,十一世紀から十二世紀にかけて,悲田院に収容できなくなった人々を救済しようとする,聖,上人といわれる僧侶が関与し,
非人,乞食といわれるような人々の集団が十一世紀半ばごろになると,畿内―京都,奈良を中心に,まず姿を現してきます。
そうして,西日本には十二世紀から十三世紀にかけて,各地にこういう非人の集団が見られるようになる,
という。そして,
この人々が,…浄め−清目,つまり葬送や清掃,さらに罪の穢れを浄める機能を持った刑吏としての仕事,罪人の宅を壊し,人を追放する,あるいは人を処刑するような仕事に携わっていたことも,確認できるようになります。
同時に牛や馬の死体処理,その皮革の加工,細工に携わる者は,河原者と呼ばれているが,非人や河原者は,
遊女の社会的な地位が高かった時期,つまり十四世紀までは,非人にせよ,河原者にせよ,まだ社会的に固定された差別,賤視を受けていない,
と著者は見る。なぜかというと,
これらの人は神社の神人,寺院の寄人という立場に立っていたわけです。さらにまた京都―洛中洛外の非人の集団は,検非違使庁という天皇直属の官庁を通じて,天皇にも直接統括されています。
つまり,聖なる存在であめ天皇と直接つながっているという意味で,聖視される存在だったと,著者は見る。
天皇や神仏そのものに直属する地位にあるという意味で,「神奴」「寺奴」と表記され,神仏,天皇の奴婢として,
神人,寄人,供御人(天皇の直属民)という称号を持っていた。
つまり一般の平民と区別され,平民にできない職能を持っており,鎌倉時代の非人の訴状では,
神仏に直属して,「清目」という大事な職能によって神仏に奉仕するのが自分たちの使命としている,
と堂々と書いているという。
供御人,神人,寄人―商工業者,芸能民から遊女,非人を含む天皇,神仏の直属民は,一般平民の負担する課役は免除されております。そのかわりに,それぞれの芸能を通じて天皇神仏に奉仕をすることになるのですが,関所や津泊などの港でも交通税を免除されて,諸国を自由に通行することが出来ました。
供御人,神人,寄人は,非農業民なので,津や泊に根拠を持つことが多いが,非人の根拠地は,宿と言われている。それが,南北朝の動乱を機に,十五世紀にはいると,
非人の宿についてみても,鎌倉時代までは「宿」という字を使っております。…十六世紀ごろから,「夙」という字を非人の「宿」に関しては使うようになっております。
という。そして,「穢多」という文字も一部で使われ始める。なぜそうなったのか。著者は,こう結論づける。
では一体なぜ南北朝の動乱以後,遊女や非人の地位が決定的に低落したか,なぜ賤視されるようになったか。それはこの動乱を境に天皇,神仏の権威が決定的に低落したことと表裏をなしていると考えられます。
鎌倉幕府とそれを倒した後醍醐天皇の建武政府の崩壊,
いわば当時の日本国を統合していた幕府と天皇の二つの大きな権威が,一挙に崩れた,
同時に,それはそれまで続いてきた神仏の権威の失墜をも伴い,その権威に依存して職能を発揮してきた人々が,
聖別された存在から賤視の方向に差別された存在への転落が葉きりここに現れてくる…
と著者は言う。しかしそれは同時に,秩序だって管理されてきたものの崩壊といってもいいのだと思う。
悪党
というものが同時に,その時代の中で脚光を浴び始める。悪という言葉は,
どうもこれが差別の問題とどこかで関わりを持っている,
と著者は言い,多く,神人,寄人,供御人,非人と重なっている。
人の予想のつかない,自分にはわからない何か否応のない力に動かされる行為…
を悪という意味でとらえていたのではないか,そして,
一遍が「悪党」と呼ばれる集団に支えられていたことは,『一遍聖絵』という絵巻物にも描かれています。その一遍は,
「身命を山野にすて,居住を風雲にまかせて」遍歴する遊行。信・不信,浄・不浄を問わず,広くすべての人びとに名号札を賦る賦算。そして念仏する喜びを身体そのものの躍動によって表現する踊念仏
であり,その悪人を肯定し,その中に自らをも置く姿勢は,そのまま親鸞の悪人正機につながっていくように見える。
著者は,高校教師であった時に,
なぜ平安末・鎌倉という時代のみにすぐれた宗教家が輩出したのか,
という問いに応えようとしたもののひとつ,という言い方をあとがきがしている。それは,どういう時代なら,傑出した人物を生み出せるのか,というふうに問いを変えてみると,別の答えが見えてきそうである。
網野善彦『日本中世に何が起きたか』(歴史新書y) |
生き残り |
渡邊大門『黒田官兵衛』を読む。

僕はそもそも黒田官兵衛という人物が,世に言うほどたいそうな人物とは思わない。講談じゃあるまいし,当時軍師などという存在はいない。所詮,信長,秀吉,家康の配下として力量を発揮しただけの人物だと思う。
多くは,黒田家の正史『黒田家譜』に因っているようだが,これがまた食わせ物だ。そもそも家譜とか家系図が正しいなどという思い込みは棄てたほうがいい。秀吉程でないにしろ,家康にしろ信長にしろ,戦国時代から出てきた武将,大名は,それほどの出自ではない。だから,江戸自体家系図づくりが盛んに行われた。平和な時代になると,武功で名を成せなければ,出自か先祖の武功を誇るしかない。
『黒田家譜』は,三代目藩主光之(官兵衛の曾孫)が貝原益軒に編纂を命じた。既に官兵衛死して八十年,官兵衛誕生から数えれば百四十年経過している。したがって,
黒田家の先祖が近江佐々木源氏出自,
という記述すら怪しい。しかも史料不足から,いまでは偽書とされる『江源武鑑』が多用されており,
有力な大名家の家譜は,正史と位置づけられ,そこには「真実」が記されていると考える向きが多い。しかし,実際には,一次史料を用いて子細に内容を検討する必要がある。特に……『黒田家譜』に動向が記されていても,裏付けとなる一次史料がない場合は,そのまま鵜呑みにすることはできない。伝承(口伝)などにより,不確かなまま記された可能性がある。
と著者は慎重な物言いをされている。しかし,僕は,家譜は,ただ正史を書くために記されたのではない,と考える。系図と同様,自らの出自と武功を顕彰するのが目的だと考える。不都合な部分はカットされるだろう。
著者はこう言う。
改めて,近世初期に期待された官兵衛像を考えてみると,名君像を提示したかったと推測される。それは,先見性に優れており,戦いの巧者であり,江戸幕府成立の立役者であり,質素・倹約を旨とする理想の君主像である。官兵衛の逸話が数多くさまざまな形で残っているのは,その証左と言えるであろう。
たとえば,『黒田家譜』によると,官兵衛は運命の岐路に立たされると,必ず正確な判断を行っている。…政局を見誤り,正確な判断を下せず没落した大名は数多い。官兵衛は,その都度判断を見誤ることなく,尋常ならざる出世を遂げた。先見性は,名君の重要なファクターであった。…藩祖ともいうべき官兵衛を名君に仕立てることは,長政(官兵衛の子)や福岡藩にとっても重要なことであった。それゆえ諸書を通じて,官兵衛の神憑り的なエピソードが繰り返し再生産されることになった。
と。ふと思い出すのは,二兵衛と並び称され,長政の命を救った竹中半兵衛の子,竹中重門が書いた,秀吉の伝記『豊鑑』である。祖先を顕彰することは,そのまま自らの家系を顕彰することになる。
その意味では,関ヶ原で下した判断が正しくても,加藤清正や福島正則は,家康にとって利用価値はなく,黒田や細川は利用価値があったということだ。関ヶ原で判断を誤っても,立花宗茂のように復権するものもあれば,,島津義久のようにしぶとく生き残るのもある。また毛利や上杉のように減封されて生き残った者もある。
あくまで,主導権はそのときの天下の実勢を握ったものの手中に,それぞれの命運はある。それがあの時代の厳然たる事実であるとするなら,生き残れた判断だけに,価値があるのではないだろう。
そのあたりは僕にはわからないが,少なくとも,石田三成のような,覇権に挑む生き方を,官兵衛が取らなかったことだけは確かである。その意味では,毀誉褒貶は別にして,官兵衛に,三成ほどの気概は感じられない。
著者はこう締めくくっている。
官兵衛の出自は播磨の一土豪であり,小寺氏の一家臣に過ぎなかった。しかし,官兵衛のすぐれた才覚は認めざるを得ない。(中略)官兵衛がいかんなく才能を発揮したのは,類稀なる交渉術を駆使する調略戦であった。敵方の領主を見方に引き入れたり,和平を結ぶ際に有利な条件のもとで締結に漕ぎ着けるなど,その役割には大きな重責が伴った。官兵衛は,秀吉の中国計略以後,北条氏討伐の小田原合戦に至るまで,その役割を全うしたといえる。
そして,官兵衛を軍師とするには無理があり,
官兵衛は数々の大名との交渉を担当したことから,「取次」などと称するのが無難なようだ。
と結論づけている。それは蜂須賀正勝も同様であり,毛利側の交渉窓口であった安国寺恵瓊もまた同じ役割を担っていた,ということができる。
参考文献;
渡邊大門『黒田官兵衛』(講談社現代新書) |
剣禅一如 |
渡辺誠『真説・柳生一族』を読む。

剣豪小説の中で,記憶に残る立会いのひとつが,吉川英治『宮本武蔵』での,柳生四天王と武蔵との戦いのシーンだが,それがフィクションとわかっていても,ついその眼で柳生一族を見てしまう。
いまひとつは,本書でも指摘しているが,五味康祐の『柳生連也斎』での連也斎と武蔵の弟子鈴木綱四郎との立ち会いシーンだ。
いずれにも,小説に過ぎない。本書は,戦国時代,織豊の戦乱を生き残り,家康に見出されることで地歩を固めて以降,柳生宗厳(むねよし)石舟斎,柳生宗矩,柳生十兵衛三厳(みつよし)を中心に,柳生家の歴史をたどる。
中心は,戦国時代を,松永,筒井,信長,秀長,家康となんとか生き延びようとする戦国の小領主でありつつ,しかし上泉伊勢守から新陰流の印可を受けた剣豪でもある柳生宗厳石舟斎。
戦国時代にもかかわらず,流祖伊勢守の新陰流の特色は,
戦国末期の諸流が一般に本源としていた,戦場における甲冑武者剣術―介者剣術刀法・理合を徹底的に革新して,人性に自然・自由・活発な剣術を創めた,
といわれるもので,その本質は,
敵の動きに随って,無理なく転変して勝つ刀法,
といわれ,
一方的に敵を圧倒し尽くして勝つことが能ではなく,敵と我との相対的な関係,千変万化する働きのもとに成り立っている,
とする。この兵法観の背後にあるのは,
禅の思想であり,石舟斎も参禅したし,宗矩も沢庵とも深い交わりがあり,
剣禅一如
の境地を進化させている。このあたり,武蔵の『五輪書』と読み比べると,「石火のあたり」「紅葉の打ち」というように,間合いにしろ,相手との駆け引きは同じでも,武蔵が,圧倒的な膂力を前提にしているということがよくわかる。
宗矩と武蔵は同時代人だが,武蔵は牢人であり続け,島原の乱では,養子伊織の仕える小笠原家に陣借りして,参陣し,石垣から転落して負傷したのに対して,宗矩は,家光政権の惣目付として,一万石の大名に上り詰め,家光をして,
吾,天下統御の道は,宗矩に学びたり,
と言わしめる幕閣のひとりでもあった。
勝海舟は,『氷川清話』で,宗矩について,
柳生但馬守は,決して尋常一様の剣客ではない。名義こそ剣法の指南役で,ごく低い格であったけれど,三代将軍に対しては非常な権力を持っていたらしい。…表向きはただ一個の剣法指南役の格で君側に出入りして,毎日お面お小手と一生懸命やって居たから,世間の人もあまり注意しなかった。しかしながら,実際この男に非常の権力があったのは,島原の乱が起こった時の事でわかる…。
と言っている。島原の乱のこととは,宗矩が,
一揆鎮圧軍の上使に,格の低い板倉重昌を任命したことに反対し,板倉は討ち死にする,
と予言したことを指す。宗矩は,その時,
一揆討伐は苦戦になることを,家康が一向一揆で苦しんだことを例に,攻めあぐねているうちに,諸大名は最初は従うが,そのうちに足並みが乱れ,再度上使が派遣されることになれば,板倉は面目を失い,例え一騎でも吶喊し討ち死にする,
と説いた。既に出立した後で,任命は取り消されず,結果,戦いが苦戦の中,再度上使派遣が,松平信綱と決まると,板倉は無謀な総攻撃を仕掛けて,討ち死にする。
僕は,宗矩のこの立場は,おそらく武蔵が願ってかなわなかったことなのだと想像する。城や街の縄張りまでやってのけた武蔵は,剣術家としてではなく,宗矩のような帷幄にいる役どころを望んでいたに違いない。
一介の牢人の子と小なりと言えど領主の子の,出発点のわずかな差は,大きい。それは度量,器量,技量の差では追いつけない隔てのようだ。
参考文献;
渡辺誠『真説・柳生一族』(歴史新書y) |
人間原理 |
佐藤勝彦『宇宙は無数にあるのか』を読む。

佐藤勝彦氏は,インフレーション理論の提唱者の一人だ。その彼が,宇宙論の潮流である,「人間原理」との対決をしているところが,見どころか。
イギリスの天文学者,マーティン・リースは,この宇宙を成り立たせている6つの数を挙げている。逆に言うと,その数値が違っていれば,宇宙のあり方がいまとは違っている,ということになる。
第一は,N。電磁気力を重力で割った比のこと。もしNが10の30乗,つまり重力が現実の100万倍だったら,天体はこれほど大きくなる必要はない。その場合,微小な虫でさえ,自分の体を支えるために太い脚を持たなければならない。それよりおおきな生物が生まれる可能性は皆無となる。つまり,われわれが存在するのは,重力が弱いおかげということになる。
第二は,ε(イプシロン)。太陽の中では,二個の陽子と二個の中性子が融合してヘリウムの原子核が作られる。融合の前後では質量が異なり,ヘリウムの方が軽い。この質量の軽くなる度合いを示すのがε。それは,0.007。しかしもしこれが,0.006未満なら,陽子と中性子がくっつきにくく,宇宙は水素だけの世界になる。0.008より大きかったら,中性子なしに陽子がくっつき,複雑な元素はできにくく,やはり生命は生まれない。人間が生まれる宇宙は,0.006から0.008の間に収まっていなければならない。
第三は,Ω。宇宙が減速膨張するのか,加速膨張するのかの鍵を握る数となる。現在宇宙は加速膨張しているが,やがて膨張から収縮することになる。そうなると,遠い将来,一点で潰れる(ビック・クランチ)ことになる。そうでなく膨張し続ければ,あらゆる物質が素粒子レベルでバラバラになり,引き裂かれる(ビック・リップ)。潰れもせず,引き裂かれず原則膨張し続けるには,宇宙の全物質の重力と膨張を後押しするエネルギーの力関係で決まる。重力が膨張エネルギーを上回れば収縮し始める。その境界線が臨界密度(Ω)。この密度は,宇宙が平坦になる密度ということになる。もしΩが1より大きければ(物質の密度が臨界密度より高ければ)宇宙の曲率は正になり,収縮を始める。逆に1より小さければ,初めから等速で膨張したので,ガスが固まらず,銀河や星ができない。曲率1だから,宇宙は平坦に保たれている。
第四は,λ。宇宙を押し広げる斥力として働く真空のエネルギーの大きさを示す。この数値が小さいために,現在の宇宙が成り立っている。
第五は,Q。銀河や星の集合体である銀河団などのまとまり具合を示す数字。現実の宇宙では,Qは,十万分の一となっている。これが100分の一といった大きな数値なら,ほとんどの構造がブラックホールになっている。十万分の一になっているので,銀河や星が存在する。
第六は,D。次元。われわれは,三次元に暮らしているが,もし二次元なら,生物は存在できない。三次元空間では重力の強さが距離の自乗に反比例するが,四次元なら距離の三乗に比例する。そうなると,銀河の中心程重力の影響が大きく,三次元では銀河の中心を回転している星々が,スパイラルを描くように中心部に堕ち,ブラックホールだらけの宇宙になる。
こういう奇跡のような数字をみると,人間が生まれるように,「ファイン・チューニング」されたようにみえる。
これを人間原理という。
スティーブン・ワインバーグは,マルチパース(多数宇宙)による人間原理を,こう主張する
宇宙は無数に存在し,それぞれが異なった真空のエネルギー密度を持っている。その中でも,知的生命体が生まれる宇宙のみ認識される。現在の値より大きな値を持つ宇宙では天体の形成が進まず,知的生命体も生まれない。認識される宇宙はいま観測されている程度の宇宙のみである。
無数の宇宙があり,その中で天体の形成が進み,知的生命体の生まれる宇宙がある。そこで観測される宇宙が,その知的生命体を生むのに都合よく見えるのは当たり前,…これが人間原理と呼ばれるものだ。
これより前,ロバート・ヘンリー・ディッケは,もっとはっきりした言い方をしている。
宇宙開闢の初期条件は人間が生まれてくるようにデザインされている…。
初めて人間原理という言葉を使ったのは,ブランドン・カーター。コペルニクス原理に対比させて人間原理と呼んだ。
まるで,せっかく人間中心からの転換を果たしたコペルニクス以前に,天文学者が回帰しようとしているような,異様な意見に見える。
著者は,人間原理を使うことなしに,宇宙の平坦問題を,インフレーション理論で,説明可能だという。
インフレーション理論は,宇宙がビックバンを起こした理由を説明し,真空の相移転による急膨張が終わったところで放出された膨大なエネルギーによって,宇宙が火の玉になったことを説明すると同時に,
宇宙が完全に均質な空間ではなく,星や銀河といった構造の「タネ」になるデコボコが生まれた理由を
明らかにしている,としてこう説明する。
…全体の構造を造るには「事象の地平線」を超える大きなスケールの密度揺らぎか必要です。ビックバン理論ではちいさなゆらぎしかできないのです。
事象の地平線とは,「そこまでは光が届く境界線」のことです。アインシュタインの相対性理論によれば,光速は宇宙の「制限速度」ですから,それよりも速く移動できるものはありません。したがって「地平線」の向こうには情報や物質が伝わらない。つまり,因果関係をもつことができないのです。
初期宇宙はこの地平線距離が短く,空間全体が因果関係をもつことができませんでした。全体の構造を作るほど大きな密度ゆらぎを作れないのも,そのためです。
まず「密度ゆらぎ」の問題は,微小なゆらぎが急速な膨張によって一気に大きく引き伸ばされたと考えれば説明がつきます。つまり現在の私たちが観測できる宇宙は,「地平線」の内側にあった領域が大きく拡大されたものなのです。
だとすれば,観測できる宇宙が「一様」になっているのも当然でしょう。インフレーション前に「地平線」の内側にあった領域は,因果関係があるので,物質やエネルギーを移動して均一な空間にすることができます。
そして,平坦問題も,
私たちが観測できる宇宙が初期宇宙の一部を拡大したものだとすれば,「一様性問題」と同様,これは不思議でもなんでもありません。
初期宇宙の曲率が大きく正か負の値を取っていたとしても,その一部がインフレーションによって巨大に引き伸ばされれば,そこは平坦に見えます。「地平線」の外側まで観測できれば,…大きく曲がっているのかもしれませんが…。
しかし人間原理は,天文学者を二分している。
スティーブン・ホーキングは,マルチバースの人間原理について,
マルチバース(多数宇宙)の概念は物理法則に微調整があることを説明できる。この「見かけの奇跡」を説明できる唯一の理論だ。物理法則は,われわれの存在を可能にしている環境因子にすぎないのだ。
と擁護する。しかし一方,デビッド・グロスは,
それはまったく科学ではない。科学の理論に必要な観測的実証性も反証可能性もない。結局,論理を詰めることによって究極の理論に到達するという物理学の目的を,放棄することになる。
と厳しく批判する。著者は後者の立場に立つ。こう締めくくっている。科学者の矜持というものだろう。
四半世紀前に人間原理を知ったとき,これはとうてい科学ではない,と強い嫌悪感を覚えたものである。物理学者の端くれとして,
論理を詰めて研究を進めるならば,私たちは,未定定数を一切含まない究極の統一理論に達するはずだ
そもそも,物理法則の美しさから考えても,物理法則はでたらめにサイコロを振ってきまっているようないい加減なものではなく,確かな原理で確定的に決まっているものだ
という信念を,貫いてほしい。コペルニクス的転換を逆回転させるのが,科学であるはずはない。
参考文献;
佐藤勝彦『宇宙は無数にあるのか』(集英社新書) |
霊 |
安斎育郎『霊はあるか』を読む。

「霊魂不説」が,仏教の教義上の原則だそうだ。親鸞は,
悲しきかな道俗の,良時吉日を選ばしめ,天地地祗を崇めつつ,卜占祭祗勤めとす
五濁増のしるしには,この世の道俗ことごとく,外儀は仏教の姿にて,内心外道を帰敬せり
と,表向きは仏教の装いをしていながら,心は仏道を離れている,と嘆いている。
先日亡くなった市川団十郎の辞世,
色は空 空は色との 時なき世へ
は,そのあたりの仏教の本質をとらえている気がしないでもない。すなわち,色即是空・空即是色,形あるものはいずれ空になる,実体のない空がそのまま万物の姿でもある,と。
本来,仏教は,本来,霊肉二元観・霊魂不滅論を取らない。「霊魂不説」すなわち,霊魂と肉体の二元的考え方を否定し,
実践的主体ということから,心を重視するが,存在論としては,あくまでも心物相関にたち,一方を不滅の実体,他方を滅の仮象などとはみない。心物ともに空・無自性を基本とする…。
しかし,
輪廻転生説がとりいれられ,輪廻する主体が問題となり,その結果,輪廻主体が一種の霊魂のごとき色彩を呈するに至り,また祖先崇拝に結びつき,祖先の霊に対するまつりをおこなうようになった…。
と著者は,仏教事典から引用する。そしてこう言い切る。
われわれが人生で扱う命題群を「科学的命題群(客観的命題群)」と「価値的命題群(主観的命題群)」とに分類してきた。前者は,「事実との照合を通じて命題の真偽を客観的に決定できるような命題群」であり,後者は,「命題の真偽が価値観に依存するため客観的に決定できないような命題群」である。「霊は実体を持つ存在である」とか,「霊は祟る」といった命題は明らかに「科学的命題」であり,もしそのように主張するのであれば,その真偽は科学的検証の対象とされなければならない。
そして心霊写真のトリック,コナン・ドイルがお墨付きを与えた妖精写真のトリック,念写のトリック,霊感商法の詐術,神霊手術のトリックなどを例示しつつ,律儀にというか,大真面目に,真正面から,
霊が見えるとはどういうことか
を検討していく。なんだか,この辺りは,薪を割るのに,薙刀か太刀を取り出しているようで,ちょっとユーモラスではある。
まず何かが見えるには,自らが発光しているか,他の光源によって反射しているかのいずれかだ,として発光生物を検討していくが,それは無理として,反射しているのだとすると,
どう考えても霊は物質系だ,
とし,ではどんな原子で構成されているのか,そして,物質で構成されている霊が移動するには,移動のためのエネルギーを調達しなければならない,しかし,火葬された体から抜け出した霊が,
生きたままの元素組成で再構成されるなどということ自体,あり得ない…。
という調子である。たぶん霊を信ずる人間とは,すれ違うことになるだろう。なぜなら,著者自身も言うように,
一般に人間には,自分の尺度に合わないものは心理的に受け入れを拒否するような面があり,自分の考えを支持する情報には進んで耳を傾けるが,それを否定するような情報に接すると心理的な不快感を感じて,さまざまな理由をつけてその受け容れを拒否する傾向がみられる,
のは振り込め詐欺にあうトンネルビジョンと化した老人を見れはよくわかる。後は,それぞれの生き方の問題なのだろう。
加藤周一の5つの秘訣が少しは参考になる。
1.因果関係を速断するな
2.AとBの関係を論じるには,AB両概念を明確にせよ
3.枝葉を省き,本質を見きわめよ
4.主観的願望と客観的推論を峻別せよ
5.事実と照合して白黒のつく問題とそうでない問題とを区別せよ
まあ,著者自身も言っているように,白黒のつかない思い込みの領域に踏み込んでいるのかもしれない。
それだけに,著者の言う,次の言葉は説得力がある。
人生には,思い描く通りにはいかない困難がつきものだ。そんな時,人は「なぜ自分にはこんな困難がつきまとうんだ」と思い悩む。どんな事態にも,そうした事態がもたらされた原因があるはずだか,時には思いがけず降って涌いた災難が困難が原因となることもある。…そのような場合,少なからぬ人が自分の不運を嘆き,「どうして理不尽にもじぶんだけこんな不幸が降りかかるのか」と自問自答する。「霊」が心の隙間に入り込むのは,そんな時だ。人間の特徴は,自分の見聞きするもの,体験するものに原因を求めたがることだ。「なぜ」にこだわる心と言ってもいい。自分の納得のゆく理由が欲しい。(中略)そんな時,「霊」は便利なのだ。
それ自体は,心の安寧を求めるその人なりの選択だが,そこに付け込まれる余地がある。
科学的命題には科学的な思考を貫く,という著者の姿勢は,正しいが,なかなか難しい。しかし,あいまいなものをあいまいなままに受け入れるのだけはやめなくてはならない。
分からなければ,わかるまで,納得がいくまで,その案件を「宙」に浮かして,結論を出さない。
それくらいはできる。
参考文献;
安斎育郎『霊はあるか』(講談社ブルーバックス) |
NVC |
マーシャル・B・ローゼンバーグ『NVC』を読む。

かつて我が国に,襲撃してきた軍人に,
話せばわかる!
と叫び,
問答無用!
と射殺された首相がいた。不謹慎ながら,ふいにそれを,思い出した。
基本,コミュニケーションで解決できるのは,コミュニケーションレベルに過ぎない,再三書いているのは,このイメージがあるからだ。政治的課題,社会的課題,地球規模の課題は,コミュニケーションの問題ではなく,仕組みやシステムや制度の問題だ。そのためにコミュニケーションが不可欠なのはわかっているが,それは,関係性の枠のなかでのコミュニケーションとは別次元の問題だ。
パレスチナ人とユダヤ人がコミュニケーションすることで,イスラエルという国とパレスチナという国の政治的課題が解決することはないし,未だかって解決できていない。それはレベルの違う話だ。
しかもそのコミュニケーションが機能するためにすら,曲がりなりにも,両者(あるいは関係者)がその土俵に乗るという意志と思いがなければ,成り立たない。土俵の有無が,コミュニケーションのスキルを論じる前に,コミュニケーションを機能させる前提になる。
『NVC』で語られている例は,ふたつの例外を除いて,ほとんどが,そういう土俵があるか,土俵が設えられるということが,暗黙のうちに前提にされている。問題なのは,その前提をどうつくるか,だ。それが,上記で言った,関係性の枠という意味だ。そのことについては,本書では一切語られていない。舞台の上で演じているのに,その舞台がないかのように,NVCのプロセスを語るのは,フェアではない。コンテクスト抜きのコンテンツは,黄身だけ剥き出された趣だ。
この本の枠組みについての印象から入ったのは,そこを抜きにしては,コミュニケーションレベルでさえ,解決できないと信ずるからだ。家族や友人,同僚は当然だが,ギャングだって,そこにコミュニケーションの土俵を設えている。設えてなければ,冒頭の「問答無用」になる。
そこで,具体的に考えるために,NVCプロセスを例示してみる。
NVCプロセスの構成要素は,次の四つだ。
・自分の人生のしつを左右する具体的行動の「観察」
・観察したことについて抱いている「感情」
・そうした感情を生み出している,価値,願望,「必要としていること」
・人生を豊かにするための具体的な行動の「要求」
これを,具体例を挙げて考えてみる。ただし,後でアサーティブ・アプローチと対比するために,例を,いつも厳しく叱責し,大声を出す上司に対するアプローチとしてみる。
●第一構成要素は,観察。評価を交えず観察する。
上司は,指示されたことを提出すると,間違いを次々と指摘し,赤字で訂正を加え,大声で,いったいいつまでこんな初歩的なミスを繰り返すのか,いい加減にしてくれ,と怒鳴る。指示された案件が,無傷でOKをもらえたことは一度もない。
●第二の構成要素は,感情を見きわめ表現する。
あなたに指示案件を提出するたびに,びくびく怯えています。たまた大声でどなられるのではないか,と提出する時間をぎりぎりまで先延ばししてしまいます。
●第三の構成要素は,自分の感情の底に何があるのか,を見きわめる。上司の否定的なメッセージを受け止めるには,4つの選択肢があると,NVCでは考えている。
1.自分自身を責める
2.相手を責める
3.自分の感情と,自分が必要としていることを感じ取る
4.相手の感情と,相手が必要としていることを感じ取る
ここで,自分の感情は,怯えと恐怖。再三の叱責で自己嫌悪に陥っている。
自分が必要としていることは,この間に自分が上司の求めているレベルの100とはいかないまでも,かなりの程度質が上がっている,その自分の成長を認め,君の仕事で助かっている,あるいは,役に立っていると,承認してほしいということ。
上司は,自分の仕事のレベルに苛立っている。上司が必要としていることは,いい加減,こんなことで俺に手間をかけさせないでくれ,早く一人前になって,俺を楽させろ,俺にはチーフとしてやらなくてはならないことが一杯ある,こんなことで俺のチェックリストが不要になるくらいの一人前に成長してくれ。
●第四の構成要素は,人性を豊かにするための人への要求である。
「チーフが僕の成長がのろいのに,いらだっておられるのはよくわかります。自分ももっと的確に指示を摑むよう,指示をいただいたその場で,指示内容をきちんと把握するようにして,指示についての遺漏をなくすように努力します。チーフにお願いは,より自分が成長し,チーフの手がかからないようにするために,前より少しでも良くなっている部分はお認めいただけると嬉しいです。それて,もう少し穏やかに教えていただけると,受け入れやすいのですが…」。
最後に,自分の要求について,上司に,伝え返しを求める。
「僕のリクエストについて,どのようにどのように受け止められたのか,率直にフィードバックをいただけると嬉しいです」。
以上が,僕の受け止めた,NVCのラフなステップだ。
アサーションでは,LADDER法やDESC法があるが,いずれも,事実を描写することが重視される。後述するアサーティブ・アプローチでも,事実を重視する。たとえば「傲慢」というのではなく,「いつ,どこで,何をした」ことが自分に傲慢に見えたかが語られること。その意味では,NVCも同じだ。
さて,次に,上記のNVCプロセスと対比するために,アサーティブプロセスを以下に紹介する。
アン・ディクソン『第四の生き方』,森田汐生『「NO」を上手に伝える技術』を参考に,あくまで,僕の理解に基づいてアサーティブ・プロセスとして展開したものだということをお含みいただきたい。
上位者にいつも厳しく叱責されている部下という立場での,僕流のアサーティブ対応プロセスは,
1.土俵を共有する
セットアップである。「ちょっとよろしいでしょうか」「少しお時間いただけますか」など,いまから話をしたいという土俵を相手と共有する。
2.自己開示する
自分の今の気持ちを正直に伝える。「言いずらいんですが……」「どう申し上げていいか迷っているんですが……」「どきどきしているんですが……」という言い方をすることで,相手の身構えを緩める。
3.事実を伝える
ここは,相手を持ち上げたり,感情を交えるのではなく,「いつも大声で叱責されるのですが」「いろいろ細かな気配りをいただくのですが」など,事実,起こっていることを表現する。ここで,「いやなんです」という感情から伝えては,相手は受け入れにくい。
4.感情を言語化する
ここは,その事実に対して,自分がどう感じてきたか,を率直に伝える。「大声を出されるたびにびくびくして
おびえていました」「ちょうど何かしょうとするたびに先回りされた気がしていやでした」等々。
5.望む変化をリクエストする
率直に,どうしてほしいか,どうなりたいかを伝える。「〜したい」「〜してほしい」「〜してほしくない」「〜してはどうでしょうか」。ただ,いくつも要求を羅列するのではなく,ひとつ,しかも的を絞る。あわせて,それを放置した自分の責任はきちんと伝える。「もっと早くお伝えしないでいた自分にも責任があります」「迷いに迷って言いそびれてしまった私も悪いと思います」等々。
6.相手の反応を求める
自分が言ったことについて,相手がどう受け止めたかをきちんと聞く。自分の主張を理解してほしいなら,相手も理解将とする姿勢がいる。
7.繰り返す
自分のしてほしいことをもう一度,きちんと整理して伝える。相手の反論や感情的反発にふりまわされることなく,自分の主張を繰り返す。
8.会話を終了させる
相手にうんといわせるまで主張するのが目的ではない。それでは,立場が代わっただけで同じコトをしていることになる。相手に考える時間を与え,選択の余地を残す。「聞いてくれてありがとう」「ぜひ心に留めておいてください」「2,3日後に話す時間をつくってください」
かなりNVCアプローチとアサーティブ・アプローチは重複している。重なる部分も少なくない。しかし微妙だが,両者には重大な差がある。その差は,
ひとつは,両者の間に土俵をつくろうとするかどうかだ。土俵がないところでは,共有も,共感も難しいと僕は思う。
いまひとつは,そのアプローチが,
人は分かりあえる,
ということを前提にしているのか,
人はわかりあえない,
を前提にしているのかの違いだ,と僕は思う。
わかる,というのはこちらがそう受け止めた,そう理解したということであって,言葉レベルでフィードバックしあったところで,相手のすべてがわかるわけではない。とりあえず,
仕事をうまく進めるために,
両者の関係を崩さないために,
両者のつながりを保つために,
等々限定はいろいろあるだろうが,「理解」するたびに,微妙にこぼれていくものがある。そのことを分かっているかどうかの差だ。
僕は,「わかる」とは,
お互いが分かりあえないことがあることを分かりあう,
ということだと思っている。あるいは,
自分にわかる部分しかわからない,
ということだと言ってもいい。
この差は大きい。傲慢さを感じたのはここだが,もっとあけすけに言うと,鈍感さといってもいい。
どんなに話しても,
どんなに言葉を交わし合っても,
お互いに分かりあえない部分があるという悲しみ,切なさがあるから,
話す,
のと,わかりあえると思い込んで,
話す,
のとでは違う。「わかりあえる」と思っていれば,なぜ分かりあえないか,わかりあえない原因を探していくことになるだろう。それはまた別の物語をでっち上げ,両者の齟齬を増やすだけだ。
それはつまらなくないか?いや,それよりなにより,
それでは人のもつ奥行きを軽視していないだろうか?
分かりあえない悲しみということがわからなければ,人というものがわかりっこない。
その眼で見ると,NVCのプロセスには,そういう鈍感さがある。まだしも,アン・ディクソンのアサーティブには,その心の陰影がある気がする。
分かりあえる部分でしかわかりあえない,
だからこそ,一生かけてお互いが分かりあおうとする。しかし,わからないことと,信頼は別だ。わからなくても,信頼はできる。言葉に尽くせなくても,その立ち居振る舞いだけで,十分信頼はできる。
なお,わかりあえないことについては,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/10996546.html
ですでに触れた。
参考文献;
マーシャル・B・ローゼンバーグ『NVC』(日本経済新聞出版社)
アン・ディクソン『第四の生き方』(つげ書房新社)
平木典子『アサーション・トレーニング』(金子書房)
平田オリザ『わかりあえないことから』(講談社現代新書)
森田汐生『「NO」を上手に伝える技術』(あさ書房) |
オカルト |
大田俊寛『現代オカルトの根源』を読む。

著者は,オウム事件の最期の指名手配犯菊池直子と高橋克也が逮捕された後,かつてのオーム真理教の幹部,いまはオームの後継団体のひとつである「ひかりの輪」の代表上祐史浩氏と対談したおり,
そもそもオウムという宗教団体は何を最終目標にしていたのか,
について,上祐氏が,
シュノイレカエ,
と言ったとき,意味が分からなかったと,ということから書き始めている。そして,それが,
種の入れ替え,
と思いいたるのに,しばらくタイムラグがあった,という。そして,こう書く。
言われてみれば確かに,オウム真理教の世界観をこれほどまでに凝縮して表現した言葉も,他に存在しないであろう。
として,オウムの世界観を,
オウム真理教の教義は,その根幹において,きわめて単純な二元論から成り立っていた。…すなわち,現在生きている人間たちは,霊性を高めて徐々に「神的存在」に近づいてゆく者と,物質的次元に囚われて「動物的存在」に堕ちてゆく者の二つに大別される。
人間の霊性は不滅であり,それは輪廻転生を繰り返しながら,永遠に存続する。また,人生における数々の行為は,すべて「業」として霊魂のうちに蓄積される。人間の生の目的は,良いカルマを積むことにより,自らの霊性を進化・向上させることにある。
現代における真の対立とは,…「神的種族(神人)」と「動物的種族(獣人)」のあいだにある。近い将来に勃発する最終戦争=ハルマゲドンにおいては,秘められていた両者の対立が顕在化し,それぞれがこれまで積み上げてきた業に対する審判がくだされる。真理の護持者であるオウムは,最終戦争を生きぬくことによって,世界を支配する主流派を,動物的種族から神的種族への「入れ替え」なければならない…。
と要約する。そして,大量のサリンを散布して日本を壊滅させ,「真理国」を創ろうとしていたオウムの計画は,阻止されたが,
しかしオウムという教団は,麻原が当初に抱いた「浄化」の手段としての最終戦争という構想,すなわち物欲に塗られた動物的人間を粛清し,超能力を具えた神的人間を創出するという「種の入れ替え」に向けて,着実に歩み始めていたのである。
とまとめる。そしてこの「霊的進化」源流を,
ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキーの「神智学」という宗教思想運動から辿っていく。そこに,既に,オウムの思想の源流が胚胎している。ついで,チャールズ・リードピーター,ルドルフ・シュタイナー,ルシファー・キリスト・アーリマン,グイド・フォン・リストとランツ・フォン・リーベンフェルスの「新テンプル騎士団」,ルドルフ・フォン・ゼボッテンドルフの「トゥーレ協会」へと至る。この協会には,後のナチズムの重要な役割を担う,ルドルフ・ヘス,アルフレート・ローゼンベルクなどがいたのである。この「トゥーレ協会」が,国家社会主義ドイツ労働者党=ナチスへと改称されていく。
戦後は,ナチズムとの関係から,神智学の系譜は,下火になるが,「霊性進化論」の潮流はアメリカを中心に,オカルティズムと装いを変えて,広がっていく。
エドガー・ケイシーの超古代史と輪廻転生,
ジョージ・アダムスキーのUFOと宇宙との結合,
ホゼ・アグエイアスとマヤ歴,
デーヴィッド・アイクと爬虫類人類の陰謀
等々と脈々とつながり,日本の三浦関造,本山博,桐山靖雄(阿含宗)を経て,そこに入信していた麻原,さらに大川隆法へとたどっていく。
こうしたオカルティズムの系譜は,近代科学によっていったん打ち捨てられた宗教の知恵を,霊性進化として再解釈して,再発見してきた歴史といっていいが,著者は,こう締めくくる。
人間を単なる物質的存在と捉えるのではなく,その本質が霊的次元にあることを認識し,絶えざる反省と研鑽を通じて,自らの霊性を進化・向上させていくこと。それが霊性進化論の「正」の側面であるとすれば,…その裏面に強烈な「負」の側面を隠し持っている。端的に言えば,霊性進化論は,往々にして,純然たる誇大妄想の体系に帰着してしまうのである。
読んでいくと,そこまで妄想を広げていくのかというほど,気味の悪い部分がある。正邪対立の二元論は往々にして,陰謀説になり,人種差別につながる。それは,ある意味で,自分たちを「神の化身」としてエリート意識をもち,批判者を,「霊性のレベルが低い」「低級霊悪魔に憑りつかれている」「動物的存在に堕している」といった差別につながりやすい。オウムの暴走に,そういう選別意識が働いていたのではないか。
参考文献;
大田俊寛『現代オカルトの根源』(ちくま新書) |
大きなビジョンを描く |
前野隆司『思考脳力のつくり方』を読む。

日本だけではなく,世界中が,部分最適思考が蔓延し,
とにかくどこにも大きなビジョンがない。理念がない。思想がない。ぶれない基準がない。
そう著者は慨嘆し,
大きなビジョンを描き,実行し,表現するための考え方のフレームワークを整理し,明らかにすること,
それが本書の目的だと,「大見えを切らせていただく」と,言い切った。
ではそのフレームワークは,何か。4つだ。
要素還元思考
システム思考
ポスト・システム思考
システム思想
一見して明らかなように,メタ化になっていることだ。要素還元思考をメタ化し,大きなフレームで見ることで,システム思考になり,それ自体の限界をメタ化することで,ポスト・システム思考となり,最後に,その全体を俯瞰するシステム思考へと至る。
要素還元的な思考は,部分部分を深く理解しさえすれば,あとはそれらを寄せ集めることによって,ものごとの全体も理解できるという(一足す一は二の)論理に基づいている。
システム思考とは,ものごとをシステム(要素間の相互作用およびその結果全体としての性質が部分の振る舞いに影響する創発が起きる)としてみることによって,システム全体の問題を明確にしたり,解決したりする思考法。
著者は言う。
システム思考の最も重要な点は,…要素還元の視点からひとつ視点をひろげることだ。要素還元思考では,ひとつの視点から物事を捉えている。
しかしシステム思考が有効なのは,線形相互作用の場合だ。
システムの要素間が非線形相互作用をする場合,…未来を予測することは不可能なカオス(混沌)が生じうる。システムの振る舞いは,ある臨界点を超えると急激に乱雑さを増し,予測不可能になる。
いわゆるバタフライ効果の,複雑系である。
システム思考は,システムの大雑把なモデル化には役立つ。特に,非線形が小さく,カオスが生ずる可能性が小さいときには,とても有効だ。
しかし複雑系の場合,
システムをロジックツリーのような形で論理的に分解して最適な答えを求めようとする発想から抜け出す必要がある。
と著者は言う。「目的・条件・手段が多様であったり時間とともに変動したりするために,目的・条件・手段の予測確定が困難」になる。その場合,答えは多様になる。
設計空間の自由度の方が解空間の自由度よりも大きいために,創造的に拘束を設けないと解が求まらないような悪設定問題,あるいは,そもそも問題定義を明確に行えない悪定義問題,問題解決手段を明確に定義できない悪構造問題,
においては,設計はアートとサイエンスの両方にまたがる。そこでは,
最適解ではなく,設計条件を満足する複数の「満足解」
が求める解になる,と。
こういうシステム思考とポスト・システム思考の関係は,ニュートン力学とアインシュタインの相対性理論に類比できる。
そして,システム思想は,
頭で考える思想ではなく,環境と身体と脳が接続された全体システムとして感じる思想だ。
という。そしてこうも言う。
矛盾を容認しないのがシステム思考,容認するのがポスト・システム思考なら,矛盾であるかどうか,容認するかどうか,という価値判断を超越するのがシステム思想だ。
と。正直言って,システム思考のメタ化であるポスト・システム思考まではわかる。そこでは,静的なモデルでは解けない複雑系,観察者自身をも巻き込んだ対象化がなされる。その主客分離が捨てられた世界をメタ化したとき,すべてが対象化される世界を,「悟り」と言われたのでは,ちょっとついていけなくなる。
システム思想とは,いつ死んでもいい覚悟がすでにできていて,そうだからこそ,もはや当然,利己への執着などという醜いレベルは超越している境地なのだ。
おいおい,と言いたくなる。問題なのは,ものを見る視点だったはずだ。境地など持ち出されては,もはや,単なる自己完結へともどっているとしかいいようがない。
ところで,
要素還元思考
システム思考
ポスト・システム思考
システム思想
の4つの関係は,包含関係という。まあ,入れ子構造というわけだ。
で,こういう。
現実的な問題関係をどこで行うかというと,直観的に言って,要素還元思考が四十パーセント,システム思考が三十パーセント,ポスト・システム思考が二十パーセントと,システム思想が十パーセント,
とみる。
メタ化かの究極が,「悟り」というのは,ちょっと思考停止に見える。著者が得意げなだけに,少し距離をおきたなる?
研究者なら,どうせ境地というなら,その境地をもっと具体的に,システム思考で,ツリー型,マトリックス型,ネットワーク型と詳細に分析したように,境地のものの見方を,詳細に分析すべきではないのか。
たとえば,著者の挙げていた例を借りるなら,釈迦型,老子型,荘子型,禅型等々。
「悟り」などと丸めるのは,僭越ながら,学者としての学究の放棄に見える。
参考文献;
前野隆司『思考脳力のつくり方』(角川書店) |
出自 |
渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』を読む。

蟹はおのれに似せて穴を掘る,というが誠に人は自分を語ってしまうというか,語るに落ちるというか,つくづく表現することは,自分をさらけだすことだ,と思わされる。
いまも昔も,極貧から,トップに上り詰めた人は本当に少ない。特に身分社会の中では,秀吉以外にはいない。しかも,源平藤橘と同様,「豊臣」姓を与えられ,しかも五摂家以外つけなかった関白職に就き,それを養子秀次に継がせたものは,歴史上秀吉以外いない。その故か,「太閤」というと秀吉のことを指すと相場が決まってしまった。
当然その異能の出世ぶりの原因を探りたくなる。著者は言う。
最近の秀吉の出自や職業をめぐる研究は状況証拠に頼っているので,肯定も否定もできない側面がある。ただ,秀吉の特殊性を極端に強調するのは,あまり不自然で現実的ではないと考える。
賛成である。因みに,出生をめぐる説には,本人の書かせたものを含め,一杯ある。
@信秀の鉄砲足軽 木下弥右衛門の子(『太閤素性記』)
A信秀の御伽衆 筑阿弥の子(『甫庵太閤記』)
B正親町天皇の御落胤(『関白任官記』)
C尾張の「あやし」の民(『豊鑑』)
D若いころは下っ端の小者に過ぎず,乞食をしたこともある(安国寺恵瓊の手紙)
E甚だ微賤に身を起こし(イエズス会1585年年次報告)
Fきわめて陰鬱で下賤な家から身を起こし(ルイス・フロイス『日本史』)
G貧しい百姓の倅として生まれた。若い頃には山で薪を刈り,それを売って生計を立てていた。(同上)
H彼はその出自がたいそう賤しく,また生まれた土地はきわめて貧しく衰えていたため,暮らしていくことができず,その生国である尾張の国に住んでいたある金持ちの農夫の許に雇われて働いていたからである。このころ彼は藤吉郎と呼ばれていた。その主人の仕事をたいそう熱心に,忠実につとめた。(1600年&1601年耶蘇会の日本年報)
I薪を売って生計を立てていた。(『看羊録』)
J秀吉は十歳の頃から他人の奴婢とならざるを得ず,方々を流浪する身となった。遠江,三河,尾張,美濃の四か国を放浪し,一か所にとどまることはなかった。(『甫庵太閤記』)
Kミツノゴウ戸の生まれ(『祖父物語』)というところから,「都市民で,出自は職人ないし商人」(服部秀雄『河原ノ者・非人・秀吉)
L十五歳のとき,一貫文を与えられて家を飛び出し,その一貫文で木綿針を買い,それを売って生計を立てた。(『太閤素性記』)
M連雀商人(行商人)(石井進『日本の中世T』)
秀吉の異能を,その出自と来歴に求めることについて,著者は,
このような出自を持ったため,秀吉は特殊能力を身につけたと考えられている。…しかし,…秀吉を語る史料で共通しているのは,「貧しい」の一言である。
その通りだ。そしてこう付け加える。
貧しい人間は,貧困から抜け出すため,さまざまな創意工夫を行うようになる。無論,秀吉もその一人であった。秀吉と同じような環境にあった人物は,ほかにも大勢いたはずである。その中から秀吉が抜けだし,信長に登用されたのは,卓抜した能力と粘り強く辛抱強い性格があったからであった。そして,秀吉自身の強い上昇志向である。
史料から確かに言えることは,
@貧しい百姓の子であること。
A若い頃,薪拾いをしていたこと。
B非常に厳しい生活を強いられ,乞食のようであったこと。
だと著者は言う。そしてこうまとめる。
秀吉に備わっていたのは,主人の言いつけを忠実に守り,任務を遂行するという勤勉さにあった。同時に創意工夫を凝らし,これまでの不合理性を改め,改革していくという能力である。信長に仕えて以後,秀吉は栄達を遂げるが,その原点はこの二つの能力がったと考えられる。
妥当だろう。同じ環境にいた人間は一杯いても,秀吉にはならなかった。なれなかった。その異能ぶりが突出しているから,環境に原因を求めたがるが,後にも先にもこんな人物が出ていないことを見れば,その能力の突出を見るだけでいい。
しかし,この著者も,結局,「貧しさ」「出自の賤しさ」故に,ということを再三強調する。「貧しさ」があったことは,異能の原因ではないし,出世意欲の原因でもない。残酷さも,猜疑心も,そこに起因させようとする。
出自の賤しい秀吉は,自らの残虐性を誇示し,伝説を作り上げることで,自身の姿を大きく見せようとしたのである。
と。これでは,ただ原因を「貧しさ」と「賤しさ」に丸め直しただけではないか。そして,著者は,
もしかしたら,秀吉は生涯を貧しさのまま過ごしたほうが幸せだったかもしれない。
とまでいう。おいおい,それでは,まるで秀吉の人生を認めないのと同じではないか。
参考文献;
渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(歴史新書y) |
黄禍論 |
飯倉章『黄禍論と日本人』を読む。

黄禍論は,いわば白禍の裏返しといっていい。19世紀から20世紀初頭までの帝国主義的進出や植民地支配を正当化したのが,人種主義である。
自らを優秀であると信じた白人は,有色人種を支配することは理にかなっていると考えたのである。
しかしその論拠への不安が黄禍に違いない。著者はこう書く。
抑圧された有色人種が連合して白人支配に抵抗し,世界規模の人種間戦争が起きるのではないかと危惧する人々が白人のなかに現れる。そのような危惧のなかでも,とくに東アジアの黄色人種,日本人と中国人が連合して攻めてくる,といった脅威は「黄禍」と名づけられた。
本書は,それを欧米の新聞・雑誌の風刺画を通して,探っていこうとしているところが,ユニーク。ここでは,それを具体的に紹介できないが。
日本が,世界政治の舞台に登場するのは,日清戦争後の三国干渉の時期,三国干渉の当事者,ドイツ皇帝(カイザー)ヴィルヘルム二世が,黄色人種の勃興を脅威と説き,一幅の寓意画「ヨーロッパの諸国民よ,汝らの最も神聖な宝を守れ!」を創らせた。後に「黄禍の図」とも呼ばれ,黄禍思想が流布するきっかけとなったものである。
もっとも他の国々では,それに同調したという様子はなく,そこには,
黄禍を利用してヨーロッパの国際関係を,ドイツに有利な形で進めたい,というカイザーとドイツの意図が透けて見える。
その意味で,国際関係の中で,日本や日本人が,
時に極端に歪曲されて醜く描かれる…
一方で,日本を支持したり,頼りにした国々では,
「黄禍」をパロディ化して嘲笑ったり,批判している風刺画もたくさん描かれている…
つまりは,ドイツのように,自国の主張にとって使い勝手のいい批判ネタとして使われたといっていい。
たとえば,日本人学童に対する差別的措置から始まった,日系移民をめぐる日米対立は,排日移民法の成立をもってひとつの決着を見るが,人種主義による日米憎悪の増幅は,太平洋戦争の遠因の一つと言われるほどのものだが,著者いわく,
太平洋戦争は,白人のくびきから東南アジアが逃れるきっかけを作ったといえる。一方で,人種によって日米がお互いに対する憎悪を増幅したはての戦争であったといえる。
と。
面白いのは,第一次大戦後,設立される国際連盟の規約に,
人種平等条項
を入れるように,日本が提起した問題だ。
日本は会議で独自に提案をし,人種差別撤廃を「信教の自由」条項に盛り込もうとしたが,議長を務めていたイギリスやフランスの委員から反対を受けた。条項そのものも採択されなかった。その後も日本側は,人種平等という表現を国民平等という表現へトーンダウンして何とか連盟規約に盛り込もうとした。
結局採択されなかった。その時代の国際関係の主潮がよく見える。皮肉なことに,それは,第二次大戦後,敵側の国々よって規範化された。
国際連合設立時,主要連合国(米英ソ中)の間では,国連憲章に,人種平等を明示しないというコンセンサスがあったらしい。
それが覆るのは,国際連合を設立に導いた1945年4月から6月のサンフランシスコ会議において,フィリピン,ブラジル,ドミニカ,メキシコ,カナダといった中小の連合国が,人種平等条項の挿入を要求して交渉し,劇的ともいえる成果を上げたためである。
つまり,国連憲章第一条に,
人種,性,言語又は宗教による差別なく
と明示されることになった。
最後に著者は,こう締めくくる。
日本は,アジアにおける非白人の国家として最初に近代化を成し遂げ,それゆえに脅威とみなされ,黄禍というレッテルを貼られもした。それでも明治日本は,西洋列強と協調する道を選び,黄禍論を引き起こさないよう慎重に行動し,それに反論もした。また,時には近代化に伴う平等を積極的に主張し,白人列強による人種の壁を打ち破ろうとした。人種平等はその後,日本によってではなく,日本の敵側の国々によって規範化された。歴史はこのような皮肉な結果をしばしば生む。そう考えると,歴史そのものが一幅の長大な風刺画のように思えないでもない。
参考文献;
飯倉章『黄禍論と日本人』(中公新書) |
ホミニンの旅 |
アリス・ロバーツ『人類20万年 遥かな旅路』を読む。

BBCのドキュメンタリーの書籍化ということを,購入してから知ったが,独立したものとして読んでも十分(というかEテレでの放送を観たが,本の方がはるかに突っ込んでいた),人類の系譜をたどる道が,シンプルではなく,いまだ論争の続いている領域であることが,よくわかって,面白い。特に,考古学者たちが,現場に立って,自説を語るところは,正解はないとはいえ,人の持つ先入観の強さを感じさせて,いろいろ考えさせられる。
著者は言う。
現生人類(ホモ・サピエンス)は,二足歩行する類人猿の,長い系譜の最後に遺された種で,「ヒト族(ホミニン)」に属する。…時をさかのぼれば,ホミニンの系統樹には多様な枝が茂り,同じ時代に複数の種が存在することも珍しくなかった。だが,三万年前までに,その枝はわずか二本を残すのみとなった。現生人類と,近い親戚のネアンデルタール人である。そして今日,私たちだけが残った。
そして,
奇妙に思えるかもしれないが,ホミニンが何種いたのかは,まだわかっていない。
とも。
600万年ほど前に,人類の祖先である猿人が類人猿とわかれて以来,200万年前に,ホモ・ハビリス(器用な人)が石器を使うようになり,ホモ・エレクトス(立つヒト)の時代に,第一次出アフリカが行われたとされる。100万年前には,ホモ・エレクトスはジャワ島や中国に達していた(ジャワ原人,北京原人)。60万年前,ホモ・エレクトスの系譜からホモ・ハイデルベルゲンシスがわかれ,30万年前,ヨーロッパに移住したホモ・ハイデルベルゲンシスから,ネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルタレンシス)が生まれた。
一方現生人類(ホモ・サピエンス)は,20万年前,アフリカに残った集団(ホモ・ハイデルベルゲンシス)から生まれ,地球全体に広がっていった。これを「アフリカ単一起源説」というが,ホモ・エレクトスやホモ・ハイデルベルゲンシスなどの古代種が,各地に拡散した後,それらの地域で現生人類に「進化」したとする「多地域進化説」もある。北京原人の研究者は,北京原人(ホモ・エレクトス)が直接中国人に進化したと主張している。
しかしDNAのmtDNA(ミトコンドリアDNA)によって,母方をたどっていくことができる。それによると,20万年前にアフリカにいた一人の女性に始まる,ということが明らかにされている。それを,「ミトコンドリア・イブ」あるいは「アフリカのイブ」と名づけられている。
だが,なぜ,その女性がアフリカにいたと言えるのだろう。それは,系統樹の枝が最も込み入っている部分,言い換えれば,mtDNAが最も多様な地域がアフリカにあるからだ。証拠となるのはmtDNAだけではない。Y染色体を含め,他の染色体の遺伝子も,アジアやヨーロッパに比べて,アフリカの人々の遺伝子のほうが多様なのだ。そうした遺伝的多様性のすべてが,アフリカがホモ・サピエンスの故郷であることを語っている。なぜなら,どこよりも多様な枝が茂ったのは,変異を起こすための年月がたっぷりあったからで,それはアフリカに他のどこよりも昔から人類が暮らしていたからなのだ。
現生人類最初の化石は,エチオピア・オモで見つかった。19万5000年前と結論付けられている。
ではいつ,現生人類は,出アフリカをしたのか。
遺伝子的には,mtDNAの系統樹から,アフリカから出る旅は,一度だけだった可能性が高い,そう遺伝子学者は言っている。
アフリカ外の人類は全員,約8万4000年前後にアフリカで生まれたL3と呼ばれる系統につながっている。L3の「娘」である「ハプログループ」MとNは,およそ七万年前に現れた。Mの系統が最も多様に枝を茂らせているのは南アジアで,それはこの「ハプログループ」が南アジアで生まれたことを示唆している。Mの枝の一つであるM1は南アフリカで見つかっているが,それは最終氷期極相期が終わった後に,外からアフリカにもどった集団だと考えられている。一方,Nの系譜はほぼすべてがアフリカの外にある。…このパターンを見たまま説明すれば,約8万5000年前から6万5000年前のある時期に,L3の枝の一本がアフリカから出て,その後,インド亜大陸あたりでNとMが芽を出した,と言えるのだろう。そして,ヨーロッパに現れた最初の現生人類は,北アフリカからレヴァント地方を通ってやってきたのではなく,インド亜大陸に定住した集団の一部が,西へ流れてきたことになる。
もちろん遺伝子でわかることは,系譜であって,具体的にどれだけが,どういうふうにたどって,地球上にちらばっていったかまではわからない。
だから,考古学が必死で発掘し続けている。しかし,
現生人類が移動した道筋をたどっていくのは難しい。後期旧石器時代,後期石器時代より前の時代の道具は,現生人類が作ったのか,それともネアンデルタール人など他の旧人類が作ったのか,判別しにくい。
しかも,頭骨の形状分析は,難しい。集団間で異なるだけではなく,個体間でも異なり,さらに,個体間の違いが集団間の違いよりも,大きかったりする。
著者は,アフリカから,インド,インドネシア,オーストラリア,東アジア,ヨーロッパ,アメリカと人類の拡散していった道筋を,考古学者を尋ねながら,辿っていく。
著者と明らかに違う見解も,たぶんテレビのドキュメンタリーだからだろうか,きちんと言い分を聞き,その反論を,別の考古学者にさせる。ホモ・エレクトスの地域進化したのが中国人だという説には,上海の遺伝学者に批判させる。
遺伝的証拠は,アフリカ単一起源説が正しいことを示しているのです。地域連続説は間違っていたのです。
と言わせている。そして著者は,こう付け加える。
タイやカンボジアなど,アジアでも南方の人々のY染色体の方がより多様であることは,人類が最初にその一帯に移住し,それから北へ広がっていったことを語っている。そしてY染色体の系統樹は,人類が東アジアに入ってきた時期は,六万年前から2万5000年前のいつかであることを示唆している。mtDNAも南方の人ほど多様であり,移住が南から始まり,北へ広がっていったことを支持している。
我々が皆,アフリカのイブの子孫である,ということは,
わたしたちは皆アフリカ人なのだ。
という著者のメッセージは,その言葉通りに受け取らなくてはならない。
参考文献;
アリス・ロバーツ『人類20万年 遥かな旅路』(文藝春秋)
池内了『科学の限界』(ちくま新書) |
ラノベ |
波戸岡景太『ラノベのなかの現代日本』(講談社現代新書)を読む。

ラノベ,ライトノベルの世界を知らなかったので,その意味では,著者が冒頭でこう書くのを,新鮮な視界が開けたような感じで読んだ。
ラノベ,という文芸ジャンルがある。正式名称は,ライトノベル。従来の文芸作品全般を「ヘビー」なものと考え,質量ともに「ライト」であることを追求した小説群のことを指す。読者層は主に中高生とされている。しかし,…平成生まれの世代は,そのほとんどが,何らかのかたちでラノベの影響下に(あるいは,ラノベを意識せざるを得ない状況下に)育ってきたといえるだろう。
だが一方で,昭和生まれの世代ほとんどにとって,ラノベはある日突然降ってわいた「よく分からないジャンル」である。
そう考えると,直木賞受賞作品が売れず,本屋大賞を設けざるを得なかった書店の危機感は,社会的な根拠があったと言うべきなのだろう。しかし,
ラノベという文芸ジャンルは,現代日本におけるひとつの「断絶」を意味している。
かつてそういう代表だったマンガやアニメは幅広いターゲット向けになったのに対して,ラノベは,
そのターゲットはあまりに限定的だ。なにより致命的であるのは,ラノベが若者向けの日本語で書かれている,という至極明快な事実である。…ましてや,ラノベのテキストに書き込まれているのは,日本の中高生がちょっとだけ背伸びしてほくそ笑みたくなるようなスラングであり,世界観である。「ぼっち」,「ジト目」,「リア充爆発しろ」…。
つまり,ラノベという「日本語で書かれた小説」は,若者たちにとっての「現代日本」を題材とし,彼らにとっての「現代日本」そのものを主題としている。
ということらしい。そこで,本書がしようとしていることは,SFやファンタジーやラブコメといった多彩なジャンルを取り込んだラノベについて,
「ライト」であることが,書き手と読み手のコミュニケーション効率を向上させるための「軽快さ」を意味している場合,ラノベのテキストが共通言語のように抱えている「現代日本」の姿を知ることは,やはり重要だと思われる。なぜなら,そこで得られるのは,昭和が青春だった世代と,平成の世に学生時代を過ごした世代のあいだに横たわる,「現代日本の断絶」を乗り越えるための教養であるからだ。
という。大学の教員であるゆえに「教養」とでるのだろう。しかし,別に断絶を乗り越えたいとは思わないし,文芸という共通の土俵に乗っていれば,後は,ただ中身ではなく,その表現としての力量,表現としての突出力だけが問題になるだけと考えている人間には,断絶という言葉は意味を持たない。
どうも,著者はそう考えないらしい。
いまどきの若者の書いた小説を読み,「俺たちの若い時はこんなんじゃなかった」とくちにしてしまう―まさにその刹那,読者はみずからが属すべき「世代」なるものを創出する。
という。だから,自分の代弁として,著者は,村上龍と村上春樹を対照として出している。どうも,それこそが,蟹はおのれの甲羅に似せて穴を掘る,に見えてくる。俺たちの若い時はこんなんじゃなかった,等々と口にしない僕には,この問題意識はさっぱり共有できない。そう言っている限り,相手ばかりか,自分自身をもステレオタイプでしかとらえられていないことの象徴のようにしか見えないと思うからだ。。
それに,小説を題材にして,その著者の描く「現代日本」を評論するというこの著者の手法が,なじめないのは,文芸という土俵に乗ったら,どの世代が描くものも,日本を切り取っているものにすぎない。それなら,もっと上の世代の切り取っている日本と対比しなくては,ラノベの世界を相対化できないのではないか,という疑問からくる。しかし著者は,そうは考えていないらしい。W村上を出したのも,対照としているだけらしいのだ。
たとえば,「ほっち」について,渡航(わたり わたる)の『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』から,
1987年生まれの渡が描く「ぼっち」とは,たとえば,遂にドラえもんがやってこなかった(高校生になった)「その後の野比のび太」を想像してみるといいかもしれない。
といい,入間人間(いるまひとま)の『ぼっちーズ』では,
大学生になっても,ついにのび太のままであった「ぼっち」は,
「独りぼっち」のぼっちは,「墓地」に通ずる
とつぶやき,
誰かと一緒にいても,自分は変わらない。
と言う。そこに,著者は,
オタク的な自己卑下はない。彼らは,明らかに,のび太のままに成長してしまった自分を嘆いてはいない。
と見る。そして,こう書く。
|