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書評\


尖端

大岡昇平他編『青春の屈折下(全集現代文学の発見第15巻)』を読む。

現代文学の発見、

と題された全16巻の一冊としてまとめられたものだ。この全集は過去の文学作品を発掘・位置づけ直し、テーマごとに作品を配置するという意欲的なアンソロジーになっている。本書は、

青春の屈折、

と題された、二分冊の後半である。収録されているのは、

野間宏『崩壊感覚』
武田泰淳『異形の者』
井上光晴『ガダルカナル戦詩集』
久坂葉子『ドミノのお告げ』
安岡章太郎『ガラスの靴』
中村真一郎『天使の生活』
吉行淳之介『驟雨』
石原慎太郎『処刑の部屋』
深沢七郎『東京のプリンスたち』
大江健三郎『叫び声』
山川方夫『愛のごとく』
黒田三郎『ひとりの女に』
岸上大作『意志表示』
寺山修司『田園に死す』
大島渚『青春残酷物語』

である。戦前にほぼ、十八、九歳以上であったものと、それより若かったものとでは、たぶん格段の差が出る気がしている。戦争体験のあるものとないものとの差、と言い換えてもいい。

野間宏『崩壊感覚』
武田泰淳『異形の者』
井上光晴『ガダルカナル戦詩集』

に、

安岡章太郎『ガラスの靴』
中村真一郎『天使の生活』
吉行淳之介『驟雨』

を加えた、戦後派作家と、いわゆる第三の新人を一つにくくるのは、乱暴かもしれないが、1930年前後生まれが画期に思える。それ以降の、

大江健三郎『叫び声』
山川方夫『愛のごとく』
石原慎太郎『処刑の部屋』

とは格段に作風が変わると見えた。後世になってみると、そう見える。そして、

大江健三郎『叫び声』

が、数段に、頭抜けている。明らかに、健三郎が、日本文学の新しい地平を切り開いている、ということが、こうして同時期の、他の作家と比べてみると歴然としていることに、僕は驚いた。若い頃、この文体が苦手で、難渋した記憶がある。しかし、今日、改めて読み直してみると、この文体が、時代を切り開き、今やこういう表現が、当たり前になってしまっている、ということにも気づかされる。それほど、この文体もまた、画期であった。

他の作品と比べてみると、はっきりしているが、たとえば、

山川方夫『愛のごとく』
石原慎太郎『処刑の部屋』

と比べてみても、作品世界の構造の大きさ、奥行き、射程の長さ、すべてにおいて、そのスケールが全く違う。他の作品、

山川方夫『愛のごとく』

は、ちょっと例外として、今日、それを読んでもほとんど感動もしない。むしろ、古さを覚える。しかし、

大江健三郎『叫び声』

は、朝鮮戦争前後という時代背景を別にすれば、その内容は、いまだ、今日の日本の状況をも射止めている。射程の長さとは、そういう意味だ。

ダリウス・セルベゾフ(癲癇を病むアメリカ人退役兵)、
虎(日系移民とアフリカ系アメリカ人との混血)、
呉鷹男(日本人と在日朝鮮人の混血)、
僕(日本人の大学生)、

という人物構成そのものが、何かを象徴し、その関係性は、今日の日本をも射抜いている。小説とは、

何を描くか、

ではなく、

どう描くか、

とは、文学の方法(作法ではない)を指す。明確な方法意識のある作家とそうでない作家との差は、時間がすっかりそのメッキを洗い流してくれるという見本のように思う。ただ、第四章だけ、「僕」という語り手を外しているように見える。それだけ呉鷹男をクローズアップしたいという意図かと思うが、結構を崩したようで、ちょっと気になった。

石原慎太郎『処刑の部屋』
大島渚『青春残酷物語』

は、よく似た内容の作品だが、懸命に時代に追いすがろうとするように見えて、あまり好ましくない。石原慎太郎は、いつか時代に取り込まれ、大島渚は時代に追いつかれ、追い抜かれ、晩年の、

愛のコリーダ(1976年)、
愛の亡霊(1978年)、
御法度(1999年)、

は、時代の背中を見ているような位置にいることに気づいていない滑稽さがあった。

山川方夫『愛のごとく』

については、「古井論」http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic1-1.htmで触れたことがある。

参考文献;
大岡昇平他編大岡昇平他編『青春の屈折下(全集現代文学の発見第15巻)』(學藝書林)

まくら

柳家小三治『ま・く・ら』『もひとつま・く・ら』を読む。

 

今更めくが、柳家小三治『どこからお話ししましょうか』http://ppnetwork.seesaa.net/article/473027032.html?1578515555という柳家小三治自伝を読んだついでに、「まくら」だけを集めたものがあると知って、読み始めた。

柳家小三治は、噺の導入部である「マクラ」が抜群に面白いことでも知られ、「マクラの小三治」との異名も持つ。全編がマクラの高座もあるとか。

「まくら」http://ppnetwork.seesaa.net/article/421083802.html
「気っ風」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473027032.html?1578515555

で触れたことと重なるが、

まくら、

は、その演目に合ったものをするが、基本的には、

演じる落語の演目に関連した話をする、
現代ではほとんど使われなくなった人、物、様子などの解説をする、

2種類が骨格で、それにいろいろまぶす結果、いろいろな話が加えられるらしい。小三治のように、

まくらだけで高座が終わる、

ということもあるが、そこまで行くと、本題に入らなくて(そこで終わらないで)、このまま続けてほしい、と(観客側が)いうほどの、まくら自体が、

エンターテイメント、

になっているからかもしれない。しかし、それは、噺家としての力量が前提で、個人的には、まくらでその力量が見える気がする。

「マクラは、噺の本題とセットになって伝承されてきているものが少なくない」

という。しかし、素人ながら、マクラの果たす役割は、ただ、

現実(この会場のこの時、この場)と噺の世界、

をつなぐ、

回路
というか、
異次元を開くまじない(「開けゴマ」みたいな)、

というだけではない気がする。もちろん、そういう意図があるにはあるが、僕は、いま、噺をしようとしている噺家その人が、その導き手で、その人の口先に乗って、一緒に噺の世界へ入って行くための、

協約関係、
というか、
共同作業関係、
というか、
同盟関係、
というか、

違う言い方をすると、

この(噺の)船頭の船に乗ってついて行っても大丈夫、

という見立ての位置づけにあるのではないか、という気がする。独演会が多いので、初めから、その噺家を目当てに出かける場合、それは不必要に見えるかもしれないが、寄席で、次々と噺家がとっかえひっかえ(失礼、入れ代わり立ち代り)登壇する場面を想定すると、

まくら、

は、ある意味、リアルに噺家の人柄と力量とを見極める手がかりになっているのではないか、という気がする。

「マクラはお客さんが本編に入りやすい状態にほぐす役割を兼ねているのです。このマクラは落語にとって前フリなのです。また、マクラは『話す』のではなく、『振る』といいます。なぜなら、まずはこのマクラでお客さんを『振り向かせる』ということでしょう。」

とある。しかし、当たり前だが、まくらにその噺家の技量と力量と器量が反映している。これも、前にで書いたが、

まくら、

に個性があり、人柄が出る、というよりも、噺そのものに人柄が出るというか、極端に言うと、噺が、

人柄で変る、

という意味では、「まくら」は、その人柄のリトマス試験紙なのかもしれない。しかし、活字で読むのは、「まくら」の内容で、本来、

その場、
その時、
その雰囲気、

を共有するその時その場の観客と共に、聞かなければ、口調も、テンポも、声音もわからない。それでも本書は可笑しい。著者自身が、「あとがき」で、

「たしかに自分で高座でしゃべったものには違いないのだけれど。聞いて下さっているお客さんは興味を持って眼を輝かせたり、わらってくれてはいましたよ。その反応に乗せられてついつい長い枕話になったり、だけどそれは、その時その時空間に消えてしまう私とお客さんとの瞬間瞬間の共有時間であり、お互いのその場限りの楽しい時間、としてのおしゃべりだったのです」

と本人自身が語っている通り、本来活字化されるはずのないものが活字化された。それでも、

「読んでみると自分ながら面白ぇこというヤツだなァコイツァ。と笑っちゃったりして。とてもみっともない」

と書いているほどではあるのだが。

読み通してみて感じたのは、たぶん、その場では、この何十倍もおかしかったであろうことは、たしか、

めりけん留学奮闘記、

を当時NHKで観たときの、捧腹絶倒をよく記憶しているので、想像がつく。

ニューヨークひとりある記、
玉子かけ御飯、
駐車場物語、
ミツバチの話、
熊の胆の話、
小さんにも事務員さんにもなる名前、
笑子の墓、
パソコンはバカだ!!

等々、別に作り話ではなく、

「ここに載ってるのは全部自分が実際に出会ったり感じたことばかり、そのまんま。第一、枕としてしゃべっているということは、『このあとは落語をおしゃべりさせていただきますよ』という前提があっての枕ですから」

とある通り(あとがき)自身の体験を話しているだけだが、なぜが可笑しい。句会の仲間でもある故小沢昭一は、

「ある一つの材料を語るのに、もう根ほり葉ほり、いろんな角度から、しつこくイジル。腰をすえて、ああもこうも、オモシロイことを見つけてこだわっていく。そういうネバッコイ話運び」

が真骨頂と、評する。オーディオ、オートバイ、塩、熊の胆、ハチミツ等々、それがそのまま話になっていく。

ふと、僕は、

お伽衆、

のことを思い出した。御伽衆(おとぎしゅう)は、

「室町時代後期から江戸時代初期にかけて、将軍や大名の側近に侍して相手をする職名である。雑談に応じたり、自己の経験談、書物の講釈などをした人。御迦衆とも書き、御咄衆(おはなししゆう)、相伴衆(そうばんしゅう)などの別称もあるが、江戸時代になると談判衆(だんぱんしゅう)、安西衆(あんざいしゅう)とも呼ばれた。」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E4%BC%BD%E8%A1%86#cite_note-ko-1

咄(はなし)相手を主としたから御咄衆とも言うが、正確には御伽衆の中に御咄衆が含まれる。御伽衆は、語って聞かせる特殊な技術のほか、武辺談や政談の必要から相応の豊富な体験や博学多識、話術の巧みさが要求されたため、昔のことをよく知っている年老いた浪人が起用されることが多かった、ともある(仝上)。

慶長年間(1596年‐1615年)に御伽衆の笑話を編集した『戯言養気集』(ぎげんようきしゆう)には、

「御伽衆の講釈話が庶民に広がって江戸時代以降の講談や落語の源流となったとも言われるので、御伽衆は落語家の祖でもある」

と、まさに、落語の先祖である。豊臣秀吉の御伽衆の一人、

曽呂利新左衛門、

は、実在を疑われているが、

「落語家の始祖とも言われ、ユーモラスな頓知で人を笑わせる数々の逸話を残した。元々、堺で刀の鞘を作っていて、その鞘には刀がそろりと合うのでこの名がついたという(『堺鑑』)。架空の人物と言う説や、実在したが逸話は後世の創作という説がある。また、茶人で落語家の祖とされる安楽庵策伝と同一人物とも言われる。」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BD%E5%91%82%E5%88%A9%E6%96%B0%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80。こんな逸話がある、とか。

秀吉が、猿に顔が似ている事を嘆くと、「猿の方が殿下を慕って似せたのです」と言って笑わせた。
秀吉から褒美を下される際、何を希望するか尋ねられた新左衛門は、今日は米1粒、翌日には倍の2粒、その翌日には更に倍の4粒と、日ごとに倍の量の米を100日間もらう事を希望した。米粒なら大した事はないと思った秀吉は簡単に承諾したが、日ごとに倍ずつ増やして行くと100日後には膨大な量になる事に途中で気づき、他の褒美に変えてもらった。
御前でおならをして秀吉に笏で叩かれて、とっさに「おならして国二ヶ国を得たりけり頭はりまに尻はびっちう(びっちゅう)」という歌を詠んだ。
ある時、秀吉が望みのものをやろうというと、口を秀吉の耳に寄せた。諸侯は陰口をきかれたかと心落ち着かず、新左衛門に山のような贈物を届けたという。

等々(仝上)。この曽呂利に擬されているのは、落語の祖とされる、

安楽庵策伝、

で、安楽庵策伝が京都所司代の板倉重宗に語った話をもとに作られたのが、元和9年(1623年)の、

『醒睡笑』

である。収載された話は約1、000話に及び、

「収載された話は最後に落ち(サゲ)がついており、策伝はこの形式で説教をしていたと考えられている。『醒睡笑』には現在の小咄(短い笑い話)もみられ、また、この本に収載された話を元にして『子ほめ』『牛ほめ』『唐茄子屋政談』『たらちね』など現在でも演じられるはなしが生まれているところから、策伝は『落語の祖』といわれる」

のであるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%BD%E8%AA%9E

なにやら、小三治の「まくら」を読むと、軽口・頓智に富み、狂歌の達人として人気者だったという、

曽呂利新左衛門、

のことを思い出す。本書所収の、

めりけん留学奮闘記、
ニューヨークひとりある記、
玉子かけ御飯、
駐車場物語、

は、まさに御伽衆の笑話を思い出させる。

参考文献;
柳家小三治『ま・く・ら』(講談社文庫)
柳家小三治『もひとつま・く・ら』(講談社文庫)
野村雅昭『落語の言語学』(平凡社選書)

物語

大岡昇平他編『物語の饗宴(全集現代文学の発見第16巻)』を読む。

本書は、

現代文学の発見、

と題された全16巻の一冊としてまとめられたものだ。この全集は過去の文学作品を発掘・位置づけ直し、テーマごとに作品を配置するという意欲的なアンソロジーになっている。本書は、

物語の饗宴、

と題された巻である。収録されているのは、

谷崎潤一郎『蘆刈』
白井喬二『第二の岩窟』
江戸川乱歩『屋根裏の散歩者』
夢野久作『うやかしの鼓』
小栗虫太郎『完全犯罪』
貴司山治『舞踏会事件』
直木三十五『鍵屋の辻』
子母澤寛『名月記』
五味康祐『喪神』
司馬遼太郎『おお、大砲』
久世十蘭『母子象』
星新一『鍵』
小松左京『御先祖様万歳』
五木寛之『幻の女』
野坂昭如『浣腸とマリア』
水上勉『越後つついし親不知』
井上靖『姥捨』
由起しげ子『女の中の悪魔』

である。いわゆる「小説」としての面白さは、

由起しげ子『女の中の悪魔』

だが、

「物語」とは何か、

をわきまえているのは、

谷崎潤一郎『蘆刈』

である。

何かを語ることを語る、

という、

物語の構造、

をそのまま、現前化してみせている。

能、

の、

ワキ、

シテ、

という、

能の基本構造、

ワキの語りの中に登場するシテの語り、

を借りて、実に鮮やかに、

語るとは何か、

を、構造として、顕在化して見せた。『蘆刈』は、

君なくてあしかりけりと思ふにもいとど難波のうらはすみうき

まだをかもとに住んでゐたじぶんのあるとしの九月のことであった。

と、こう始まる。大和物語の歌を、エピグラフのように掲げて、「わたし」の語りから始まる。まるで、ワキの語りのように始まり、中洲で観月のさなか、

「と、そのとき近くの葦の葉がざわざわとゆれるけはひがしたのでそのおとの方ほ振り向くと、そこに、やはり葦のあひだに、ちやうどわたしの影法師のやうに゜うづくまつてゐる男があつた」

と、男と出会い、その男の語る「お遊さん」の話が、主題である。そしてしゃべり終えて、、これからお遊さんを見に出かけるという。

「わたしはをかしなことをいふとおもつてでももうお遊さんは八十ちかいとしよりではないでせうかとたづねたのであるがただそよそよと風が葦の葉をわたるばかりで汀いちめんに生えてゐたあしも見えずそのをとこの影もいつのまにか月のひかりに溶けて入るやうにきえてしまつた」

と、「わたし」の語りは終わる。まさに、

生きている「ワキ」と、幽霊あるいは精霊である「シテ」の出会いから始まる、

「能」の物語そのものをなぞりながら、

物語の構造、

を示している。「わたし」は、

語り手、

でありながら、「男」の語る物語の、

聞き手、

でもある。そして、この「わたし」は、

物語空間の境目、

に立っている。この「わたし」の語りも、『蘆刈』では、物語の中に入っているので、『蘆刈』は、

語られる物語を語る物語、

となる。この「わたし」の位置を、物語の外に置くと、物語の外から語る語り手になる。通常の物語は、そうして、いきなり、その語り手が語る物語になる。しかし、たとえば、

『鍵屋の辻』

では、「語り手」は、当初物語空間に登場して、下僕に腰を打たれた荒木又右衛門の技倆について云々し、

……尤も芥川龍之介に云わせると、
 「そりゃ君、又右衛門きが棒だと知っていたから、撲らしておいたのだよ」
と説明するが、

といったことを語る。しかし、この場合、こういう語りのおかげで、作品全体が、今風にいう、

実録的、

な雰囲気を出すことに成功している。

…郡山には荒木の屋敷趾が判っている。数馬の家も粟屋町に残っている。川合又五郎の墓は寺町万福寺にあって、念仏寺の河合武右衛門の墓と隣同士になっている。外の連中のは何も残っていない。鍵屋は現在も茶店である。仇討の跡には碑が立っている。

と終る。しかし、別に実録ではない。やはり「語られたもの」に過ぎない。ただ語り手がおのれの見解を語って見せているだけである。同じ構造は、

五味康祐『喪神』
司馬遼太郎『おお、大砲』

にもある。『喪神』は、

 瀬名波幻雲斎信伴が多武峰山中に隠棲したのは、文禄三年甲午の歳八月である。この時、幻雲斎は五十一歳―。
 翌る乙未の歳七月、関白秀次が高野山に出家、自殺した。すると、これは幻雲斎の隠棲を結びつける兎角の噂が諸国の武芸者の間に起こった。秀次は、曾て、幻雲斎に就き剣を修めたためからである。

とはじまる。『おお、大砲』も、似ている。

 むかし、和州高取の植村藩に、ブリキトースという威力ある大砲が居た。居た、としか言いようのないほど、それは生きもののな扱いを、家中からうけていた。

この語り口は、語り手が、物語の中へ、出たり入ったり、自在に動く。それ自体が、語りの世界、つまり、

物語、

の中のことなのだが、読者には、作家がそう語っているかのような錯覚を与え、時に、事実であるかのように思わせる、一種、これ自体が、語りの世界なのである。そういう語り手の詐術というか、操作をせず、純粋に、物語世界そのものを描き出しているものとして、

由起しげ子『女の中の悪魔』

は、出色である。

 下りの特急の食堂は、昼食の時間をすこし過ぎたところで、適度に空いていた。
 四人がけのテーブルは、高村剛三と連れの二人で占領して、一人分の席があいている。

とはじまる物語は、終始一貫、物語の時空の外に語り手は立つ、という通常の物語の方法を堅持し、堅牢な物語世界を描き切っている。

谷崎潤一郎は、こう書いている、という(あとがき)。

「筋の面白さは、言ひ換へれば物の組み立て方、構造の面白さ、建築の美しさである。これに芸術的価値がないとはいへない。……凡そ文学に於いて構造的美観を多量に持ち得るものは小説であると私は信じる。筋の面白さを除外するのは、小説という形式が持つ特権を捨ててしまふのである。」(饒舌録)

と。

参考文献;
大岡昇平他編『物語の饗宴(全集現代文学の発見第16巻)』(學藝書林)

証言としての文学

大岡昇平他編『証言としての文学(全集現代文学の発見第10巻)』を読む。

現代文学の発見、

と題された全16巻の一冊としてまとめられたものだ。この全集は過去の文学作品を発掘・位置づけ直し、テーマごとに作品を配置するという意欲的なアンソロジーになっている。本書は、

証言としての文学、

と題された巻である。収録されているのは、

大岡昇平『俘虜記』
原民喜『夏の花』
吉田満『戦艦大和の最期』
長谷川四郎『シベリヤ物語』
藤枝静男『イペリット眼』
富士正晴『童貞』
堀田善衛『曇り日』
石上玄一郎『発作』
西野辰吉『C町でのノート』
木下順二『暗い火花』
開高健『裁きは終わりぬ』
梅崎春生『私はみた』
広津和郎『松川裁判について』
秋山駿『想像する自由』
李珍宇『手紙』

である。

開高健『裁きは終わりぬ』は、アイヒマン裁判、梅崎春生『私はみた』はメーデー事件、広津和郎『松川裁判について』は松川裁判の、それぞれ傍聴記録、証言、論証である。しかし、ノンフィクションであれ、フィクションであれ、日記であれ、見聞録であれ、いずれ、カメラで言うなら、フレームを決めた画像でしかない。フレームを決めた瞬間画像は客観的ではない。その瞬間、大なり小なり、私的パースペクティブを免れないのである。その意味で、

証言としての文学、

などというものは成り立たない。文学が、

思想の伝達手段、

でないように(プロレタリア文学をめぐる茶番で実証済み)、

事実の証言手段、

でもあり得ない。文学は、

虚実皮膜、

の時空にある。意識的に虚構を立てるのと、意識的に事実を語ろうとするのとは、程度の差でしかない。

ぼくは、どんな情報も、大なり小なりフェイク、であると思っていて、そのことは、

「言葉の構造と情報の構造」http://ppnetwork.c.ooco.jp/prod0924.htm

で触れた。つまり、

それがフィクションであれノンフィクションであれ、
証言であれ偽証であれ、
事実の報告であれ虚報であれ、

発信者が、事実と思っていることを、自分の観点から言語化しているにすぎない。それは、意識的に嘘を報告することと、程度の差でしかない。
 

事実そのものは、情報にはなり得ない。ユカタン半島に巨大隕石が落ちても、それを人が情報化するまで、それは人に伝わることはない。だが、それが情報化(フィクション化であれノンフィクション化であれ、科学レポートであれ娯楽情報であれ)されたとき、

「情報は発信者のパースペクティブ(私的視点からのものの見方)をもっている。発信された『事実』は,私的パースペクティブに包装されている(事実は判断という覆いの入子になっている)」

のであるhttp://ppnetwork.c.ooco.jp/prod092.htm。だから、

証言としての文学、

などというタイトルは、

自家撞着、

以外の何物でもない。そのことを、本作品群が、例証している。

あとは、文学として、

虚実の皮膜、

で自立しているかどうかだけだ。事件や現実に依拠している限り、作品世界は自立していない。その意味では、

李珍宇『手紙』

は作品ではない。

収録されたものの中で、作品として、自立できているのは、

大岡昇平『俘虜記』
原民喜『夏の花』
吉田満『戦艦大和の最期』
長谷川四郎『シベリヤ物語』
藤枝静男『イペリット眼』
富士正晴『童貞』
堀田善衛『曇り日』
石上玄一郎『発作』
西野辰吉『C町でのノート』
木下順二『暗い火花』

である。突出しているのは、

大岡昇平『俘虜記』

である。ある意味で、私的フレームの中で、ひとつの作品世界を自立せしめている。戦後の出発点にふさわしい、といっていい。

石上玄一郎『発作』

も、この作家らしい構造化された作品だが、僕にはこの人がいつも作りすぎる虚構に、嘘を感じてしまう。その意味では、自立が状況に依存している、と思わせる。

長谷川四郎『シベリヤ物語』

は、独特の雰囲気を醸しだしている。シベリア抑留中の俘虜生活を描きながら、どこかメルヘンのようにふんわりした雰囲気を作りだしている。それは、作家の視点にあると思う。たしか、チャップリンが、

人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ、

といったことを思い出す。別に描写の視点が俯瞰にあるのではなく、作家の登場人物に対する距離の置き方が、ロングショットであることによる。あるいは、変な言い方だが、作家の感情は遠くにおいて、ひとごとのように、書いている。

昔々あるところに、

と同じ語り口である。悲惨さは、その距離で漉されている。

吉田満『戦艦大和の最期』

は、日記の体裁をとりながら、

片仮名表記、
と、
文語体表記、

で、一定の距離感をもち、多少情緒過多ながら、一応の日録の体裁を保ち、自立する世界を保ち続けている。しかし、『戦艦大和の最期』の、

「初霜」救助艇ニヒロワレタル砲術士、左ノゴトク洩ラス、

として、最後に追加した文章、

救助艇タチマチニ漂流者ヲ満載、ナオモ追加スル一方ニテ、スデニ危険状態ニ陥ル 更ニ収拾セバ転覆避ケ難ク(中略)シカモ舩ベリニカカル手ハイヨイヨ多ク、ソノ力激シク、艇ノ傾斜、放置ヲ許サザル状況ニ至ル
ココニ艇指揮オヨビ乗組下士官、用意ノ日本刀ノ鞘ヲ払イ、犇ク腕ヲ、手首ヨリバッサ、バッサト斬リ捨テ、マタハ足蹴ニカケテ突キ落トス……

について、

初霜短艇指揮官・松井一彦の反論や、吉田に削除を求める書簡、

がありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E8%89%A6%E5%A4%A7%E5%92%8C%E3%83%8E%E6%9C%80%E6%9C%9F、また、大和乗組員の生き残り八杉康夫が、

内火艇は船縁が高くて海面に顔を出している様な漂流者の手は届かないから基本的にありえないことで、羅針儀がある内火艇に磁気狂いの原因となる軍刀を持ち込むこともありえないという。また艇にはロープが多く積まれ、引き揚げなくてもロープにつかまらせて引っ張ればいい。それに駆逐艦に救助された大和の乗組員たちは皆横瀬に軟禁され、お互いが体験したことを話し合っていたから、酷い行為があれば一遍に話題になっていたはずだが、そんな話は全くなかった、

と答えている(仝上、https://news.nifty.com/article/domestic/society/12280-535250/)し、八杉に詰問されて、吉田は「私はノンフィクションだと言ったことはない」と弁明したとされる(仝上)とか、さまざまに異論が出ている。あくまで、作家の体験に終始している限り、実名を出しているからと言って、誤解や勘違いで済む。しかし、伝聞を載せたことで、いろいろ異論が出た。ま、大なり小なり、フェイクなのは仕方がないが、この部分は、本論とは関係ない部分で、ちょっと欲を出したとしか言いようのない、蛇足である。これで、全体の印象が変わるのは、残念な気がする。

秋山駿『想像する自由』

は、李珍宇『手紙』によって、

内部の人間、

という概念の演繹をしているだけで、僕には、自閉された空間を堂々巡りしているようにしか読めなかった。始めに、「内部の人間」ありきで展開する論旨の外に、李珍宇『手紙』は、秋山の手を逃れて自立している、と見えた。

参考文献;
大岡昇平他編『証言としての文学(全集現代文学の発見第10巻)』(學藝書林)

壮大な思考空間

I・カント(篠田英雄訳)『純粋理性批判』』を読む。

  

壮大な認識プロセスについての仮説といっていい。とうてい自分のような浅学、浅薄な輩の及ばぬ世界で、すべてを理解するのは、手に負えない。当たり前だが、あくまで、自分の中に残った感想に留まるほかはない。

たしか、ゲーテが、

われわれは知っている物しか目に入らない、

といった。この、知覚したものを、

表象、

といい、これを現実ではなく、

現象、

と、カントは言った。

「つまり我々が認識し得るのは、物自体としての対象ではなくて、感性的直観の対象としての物――換言すれば、現象としての物だけである」

ここから、人の認識プロセスの、

感性→悟性→理性、

の奥行きを徹底的に点検していく。

「感性によって我々に対象が与えられ、また悟性によってこの対象が考えられ」
「理性によって対象とその概念とを規定する」

あくまで、

実在、

ではなく、心の中の認識プロセスに徹頭徹尾貫徹していくところは、呆然、唖然、慄然とするしかないほどである。

「私がここに言う(純粋理性批判の)批判は、書物や体系の批判ではなく、理性が一切の経験にかかわりなく達得しようとするあらゆる認識に対して、理性能力一般を批判することである。」

と「序文」で述べている。批判とは、

純粋理性批判の法廷、

である、と。

ゲーテの言う、

知っている物しか目に入らない、

あるいは、さらに、誤解を恐れずに言うなら、

知っている物しか目に入らないことを知っている、

ことをも、カントは、

ア・プリオリ、

という。

「経験そのものが認識の一つの仕方であり、この認識の仕方は悟性を要求するが、悟性の規則は、対象がまだ私に与えられない前に、私が自分自身のうちにこれをア・プリオリに前提していなければならない。そしてかかる悟性規則はア・プリオリな悟性概念によって表現せられるものであるから、経験の一切の対象は、必然的にかかる悟性概念に従って規制せられ、またこれらの概念と一致せねばならない」

「つまり、我々が物をア・プリオリに認識するのは、我々がこれらの物のなかへ、自分で入れるものだけである」

からである。もちろん、

「私の感官に関係するような物が私のそとにあるということの意識は、私自身が時間において規定されたものとして存在しているという意識と同様に確実だということである」

が。

では、そうした内的プロセスで、

「悟性および理性は、一切経験にかかわりなしに何を認識し得るか、またどれだけのことを認識できるか」

が、本書の主要な問題であると、カントは述べる。ちなみに、カントの言う、

経験、

は、

「対象は我々の感覚を触発し或いはみずから表象を作り出し或いは我々の悟性をはたらかせてこれらの表象を比較し結合しまた分離して感覚的印象という生の材料に手を加えて対象の認識にする、そしてこの認識が経験といわれるのである」

と、つまり、

「認識は、すべて経験をもって始まる」

のである。

そして、対象を認識するというのには、

直観によって対象が与えられ、
悟性概念によって対象が、考えられる、

「即ち認識には、二つの要素が必要なのである」

と、そして、

「我々は、カテゴリーがなければ、対象を思惟することができない。またこの概念即ちカテゴリーに対応する直観によるのでなければ、思惟された対象を認識することができない」

と。ちなみに、ア・プリオリなカテゴリーとして、「分量」(単一性・数多性・総体性)、性質(実在性・否定性・制限性)、関係(付属性と自存性・原因性と依存性・相互性)、様態(可能・不可能、現実的存在・非存在、必然性・偶然性)を、アリストテレスに倣って、名付け、

かかる概念が経験を可能にする、

としている。ただし、

「純粋悟性概念は、常に経験的にのみ使用せられ得るものであり、決して先験的には使用せられ得ない」

とある。この場合、「先験的使用」とは、「この概念が物一般即ち物自体に適用されること」であり、「経験的使用」とは、「この概念が現象だけに適用されること」であり、

「悟性がア・プリオリになし得るのは、可能的経験一般の形式を先取的に認識することだけである――また現象でないものは経験の対象になり得ないから、悟性は感性の限界、つまりそのなかでのみ我々に対象が与えられるところの限界を踏み越えることはできない、ということである。悟性の諸原則は、現象を解明する原理にすぎない」

と。そして、規則を用いて現象を統一する、

「悟性の諸規則を原理のもとに統一する能力」

が、理性になる。理性は、

直截に経験やまたなんらかの規則を原理をもとに統一する能力、

である。当然対象ではなく、悟性と関わる。理性は、

推理の能力、

なのである。

「およそ推理には、理由となる一個の命題(大前提或いは大命題)と、これから引き出されるいま一個の命題(小前提或いは小命題)即ち推論があり、最後にこの推論の結果(理由と帰結との関係、結論)がある、そしてこれによって第二の命題(小命題)の真が第一の命題(大命題)の真と必然的にむすびつくのである。」

悟性の推理の場合、

「推論された判断が、第一の命題にすでに含まれていて、この判断が第三の概念(媒概念)によって媒介されなくても、第一の命題から導出される」

のに対して、理性推理の場合、

「結論を出すために、理由となる認識(大前提)のほかに、なお別の判断(小前提)を必要とする」

つまり、

三段論法、

を要する。つまり理性概念は、

推理によって得られた概念、

であるために、

正しい推論らしく見せかけて忍び込んだ、

詭弁的概念、

に陥る危険がある。

「理性の固有な原則は、一般に、悟性の制約された認識に対して無制約的なものを見出し、これらによってその統一を完成することである。だから、理性は無制約的なもの、すなわち原理の能力ではあるが、しかし対象と直接関係せず、悟性とその諸判断とのみ関係するから、その活動はあくまで内在的でなければならない。もし……認識の現実的な対象にまで高めようとするならば、それは悟性の概念を無制約的なものの認識に適用することによって。超越的となる」(シュヴェーグラー)

のであり、カントは、無制約的な推理には、論理学の、

定言的推理、
仮言的推理、
選言的推理、

から導き出して、

心理学的、
宇宙論的、
神学的、

と三つの理念に分ける。これは、「我々の表象のもち得る」関係が、

主観に対する関係、
現象における多様な客観に対する関係、
あらゆる物一般に対する関係、

であるが、この表象の綜合的統一をこととする理念は、

思惟する主観の絶対的(無条件的)統一を含み、思惟する主観(「私」)は心理学の対象、
現象の条件の系列の絶対的統一を含み、現象の総括(世界)は宇宙論の対象、
思惟一般の一切の対象の条件の絶対的統一を含み、物(一切の存在者中の存在者)は神学の対象、

とする理性推理に分野分けする。そして、その誤謬を、心理学の、

「私は多様なものをいささかも含んでいないような主観という先験的概念からこの主観そのものの絶対的統一を推論する。しかしこのような仕方では、私はかかる主観に関して如何なる概念も持ち得ない」

ので、この種の推理を、

先験的誤謬推理、

といい、宇宙論の、

「与えられた現象一般に対する条件の絶対的全体という先験的概念の設定を旨とするものである。そして私は、一方の側の系列の無条件的、綜合的統一について自己矛盾する概念を持つところから、これに対立する統一のほうが正当であるという推論をする。しかしそれにも拘らず私は、この統一についてなんら知るところがなく、従ってなんの概念ももち得ない」

という推理を、

アンチノミー、

といい、神学の、

「私に与えられ得る限りの対象一般を考えるための条件全体から、物一般を可能ならしめるための一切の条件の絶対的、綜合的統一を推論する、――換言すれば、単なる先験的概念によっては知り得ないような物から、一切の存在者中の存在者というようなものを推論する。しかし私は、超越的概念によってはかかる存在者を尚さら知り得ないし、またその無条件的必然にいたっては、それについてまったく知りようがない」

という推理を、

理想、

と名づける。その詳細をここで展開しても意味がないが、この「理性」の広大な広がりに魅せられ、埴谷雄高が『死霊』を着想したのは、有名である(『死霊』http://ppnetwork.seesaa.net/article/471454118.htmlについては触れた)。

「恐らく、思考の訓練の場としてこれほど広大な場所はないのである。勿論、この領域は吾々を果てなき迷妄に誘う仮象の論理学としてカント自身から否定的な判決を受け、そこに拡げられる形而上学をこれも駄目、それも駄目、あれも駄目と冷厳に容赦なく論破するカントの論証法は、殆ど絶望的に抗しがたいほど決定的な力強さをもっている。けれども、自我の誤謬推理、宇宙論の二律背反、最高存在の証明不可能の課題は、カントが過酷に論証し得た以上の苛酷な重味をもつて吾々にのしかかるが故に、まさしくそれ故に、課題的なのである。少なくとも私は、殆んど解き得ざる課題に直面したが故にまさしく真の課題に直面したごとき凄まじい戦慄をおぼえた」

と書いている(あまりに近代文学的な)。

僕は、誤謬推理の中で、コギト批判の部分に強く惹かれた。

我思う、ゆえに我あり、

である。ここに、

実体化、
単純化、
同一化、
物体と相互的、

の罠がある、と。

「私は、単に思惟するだけではいかなる対象も認識しない、対象の認識は、与えられた直観を意識の統一に関して想定することによってのみ可能である。そしてまたおよそ思惟は、かかる意識の統一によって成立する。それだから私は、思惟する私を直接に意識することによって、私自身を認識するのではない。私は、直観において与えられた私を、思惟の機能に関して規定されているものとして意識するときに、私を認識するのである。従って思惟における自己意識の様態は、いずれもそれ自体まだ対象に関する悟性概念ではなくて、単なる論理的機能にすぎない。しかしかかる論理的機能は、思惟に認識の対象をあたえるものではない、従ってまた私自身をも認識の対象として与えるわけにはいかない」

「われわれが思惟だけにとどまっている限り、我々は実体即ちそれ自身だけで自存する主観という概念を、思惟する存在者の自分自身に適用する必然的条件をもたない」

「『私は考える』という命題は経験的命題であり、この命題はまた『私は実在する』という命題を含んでいる。しかし私は、『思惟する一切のもの(存在者)は実在する』と言うことはできない、もしそうだとしたら。『思惟する』という特性が、この特性をもつ一切の存在者を必然的存在者にすることになるからである。従って私は私の実在を、『私は考える』という命題から推論されたものとみなすことはできない、ところがデカルトはそれができるとおもったのである」

「それだから私が思惟によって表象するところの『私』は、あるがままの私でもなければ、私に現れるままの私でもない、この場合の私は、客観を直観する仕方を度外視して、自分自身を客観一般としてのみ考えるのである」

と。「われ思う」は、自己意識である。そのことで、実体としての私の存在の証明にはならない。あくまでデカルトは、

そのように意識している我だけはその存在を疑い得ない、

ところに力点を置き、自我の自立を想定していたのかもしれないが。しかし、この心の作用の実体化は、今日も根強い。「我思う」は、

「単なる意識、すなわちあらゆる表象および概念に伴ってそれらを統合し担っているところの心の作用である。この思考作用が今や誤って物と考えられ、主観としての自我が客観、魂としての自我の存在とすりかえられ、前者について分析的に妥当することが後者へ綜合的に移されるのである」

と(仝上)。この綜合的と、分析的も、カント独特の用語である。

「述語Bが主語の概念の内にすでに(隠れて)含まれているものとして主語Aに属する」

ものを、

分析的、

といい、

「述語Bは主語Aと結びついているが、しかしまったくAという概念の外にある」

ものを、

綜合的、

という。主語Aから演繹できるものを分析的、主語Aを相対化し、俯瞰(帰納)しなくては、綜合的ではない。そこから、「我思う故に我あり」の、「我思う」に、分析的に「我あり」が含まれていなければ、「我思う」自体を相対化し、「我」の外から俯瞰しなくては、明らかにできない、というふうにも言えるのである。

参考文献;
I・カント(篠田英雄訳)『純粋理性批判』(岩波文庫)
A・シュヴェークラー『西洋哲学史』(岩波文庫)

日本的なるもの

大岡昇平他編大岡昇平他編『日本的なるものをめぐって(全集現代文学の発見第11巻)』を読む。

現代文学の発見、

と題された全16巻の一冊としてまとめられたものだ。この全集は過去の文学作品を発掘・位置づけ直し、テーマごとに作品を配置するという意欲的なアンソロジーになっている。本書は、

日本的なるものをめぐって、

と題された巻である。収録されているのは、

谷崎潤一郎『吉野葛』
室生犀星『かげろふの日記遺文』
宇野千代『おはん』
井伏鱒二『吹越の城』
滝口修造『北斎』
飯澤匡『箒(ははき)』
花田清輝『月の道化』
秋元松代『常陸坊海尊』
保田與重郎『日本の橋』
小林秀雄『無常といふ事』
坂口安吾『日本文化私観』
中野秀人『真田幸村論』
石川淳『秋成私論』
寺田透『和泉式部論』『和泉式部日記』序
杉浦明平『戦乱時代の回想録』
廣末保『盲目の景清』

である。

「日本的なるもの」という本巻のタイトル自体があいまいなため、古典や古典論、土俗にまでが入り込んでいて、何を指して、

日本的、

としているのかが、はっきりしない。少なくとも、

日本的、
あるいは、
日本的なるもの、

を直截に論じているものは、

保田與重郎『日本の橋』
坂口安吾『日本文化私観』
石川淳『秋成私論』

しかない。しかし、

保田與重郎『日本の橋』

は、日本の橋をめぐって他国のそれとは違うことを縷々述べているにすぎず、情緒過多の文章には辟易する。

「橋も箸も梯(はしご)も、すべてはしであるが、二つのものを結びつけるはしを平面の上のゆききとし、又同時に上下のゆききとすることはさして妥協の説ではない。(中略)神代の日の我国には数多(あまた)の天の浮橋があり、人々が頻りと天上と地上を往還したといふやうな、古い時代の説が反って今の私を感興させるのである。水上は虚空と同じとのべたのも旧説である。『神代には天に昇降(のぼりくだ)る橋ここかしこにぞありけむ』と述べて、はしの語源を教へたのは他ならぬ本居宣長であつた。此岸を彼岸をつなぐ橋は、まことに水上あるものか虚空にあるものか。」

「そして日本の橋は通の延長であつた。極めて静かに心細く、道のはてに、水の上を超え、流れの上を渡るのである。ただ超えるといふことを、それのみを極めて思ひ出多くしようとした。」

「日本の文学も日本の橋も、形の可憐なすなほさの中で、どんなに豊富な心理と象徴の世界を描き出したかといふことは、もう宿命のみちのやうに、私には思はれる。それは立派な建造としての西洋や支那の橋とちがつてゐた。まづ寒暑を思ひ、その風景の中を歩いてゆく人を考へて、さういふおもひやりを描き込んだやうな日本の絵と、芸術といふ非情冷血のものにふさはしい異国の絵は異なる筈である。日本の古代の橋が百姓に閑暇な九月十月のころの傭で作られたやうなことも、異国の政治文化とひきくらべると、まことに雲泥の差があらう。あの茫漠として侘しく悲しい日本のどこにでもある橋は、やはり人の世のおもひやりと涙もろさを芸術よりさきに表現した日本の文芸芸能と同じ心の叙情であった。」

こんな、条理も合理も論理をも、情に呑み込むようなところであろう。これが、保田の考えた、

日本的なもの、

である。しかし、多く、日本的なものを辿ると、それは、ほとんど、

中国という臍の緒、

にたどり着く。四季の感覚、情緒、節句、正月という民俗、ほとんど中国に由来する。日本的情緒とされるもの自体、日本人は、漢詩から学んだ結果だ。たとえば、白居易、

慈恩の春色 今朝尽く
尽日徘徊して寺門に倚る
惆悵す春は帰りて留め得ず
紫藤花の下 漸く黄昏

『和漢朗詠集』に収められたせいもあり、春の心情に決定的な影響を与えた、という。後の、

待てといふに留まらぬものと知りながら強ひてぞ惜しき春の別れは(詠み人知らず)

君にだに尋はれてふれば藤の花たそがれ時も知らずそありける(紀貫之)

草臥て宿かる比や藤の花(芭蕉)

等々、春、黄昏、藤の花、に同じ光景を見、同じ心情を懐く。それを日本的というが、ほとんど中国の漢詩から、その叙情を学んだのであるhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/406252031.html?1412021752

その意味で、文字をもたなかった我々祖先が、

平仮名、

片仮名、

を作り出した。そして、漢字を、

真名、

と呼んだ。祖先は、それから学んだ、仮の文字であることを知っていたからである。仮名は、本来、

かりな、

と訓んだのであるhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/441386581.html。仮名は、漢字を和語に合わせて、日本化した文字である。その意味で、僕は、

日本的なるもの、

を探るのは意味がない、と思っている。むしろ、「日本的なるもの」は、

日本化、

にこそ、ある。日本的な代表である、

浮世絵、

も、唐絵を意識して生まれた「大和絵」の流れをくむ。その意味で、

日本的なるもの、

を考える鍵は、

日本化、

にあると思う。

石川淳『秋成私論』

は、まさに、それを語っている。

「秋成の怪異譚というものは、中国の文学様式が日本に影響してきたそのはてに生まれた、日本の発明と考えられます。(中略)怪異譚という短編様式が日本で成立したとは言えない。……やはり短編として様式が成立したのは秋成の『雨月』に至ってそれがはっきりしたわけです。」

「秋成の文章は、たとえば…『白峯』の書き出しをとってみても、見かけに依らず、これが美文的構成になっていない。(中略)この文章は今でも生きてうごいている。これをうごかしているものは、調子だのクサリだのではなくて、まさにことばのエネルギーです。一行書くと、その一行の中に弾丸のようなものがひそんでいて、つぎの一行を発射する。そして、またつぎの一行。それからそれと、やがて月の世界までもとどくでしょう。ことばのはたらきとして、これは後世にいうところの散文の運動に近似するものです。すでに『雨月』の当時にあって、秋成の美文は散文の萌芽を内にひそめていたといっても、大していいすぎではないでしょう。」

まさに、この、

日本化の発明、

こそが、

日本的なるもの、

そのものではあるまいか。

坂口安吾『日本文化私観』

の痛快無比の論旨に賛成である。

「タウトが日本を発見し、その伝統の美を発見したことと、我々が日本の伝統を見失いながら、しかも現に日本人であることとの間には、タウトが全然思いもよらぬ距りがあった。即ち、タウトは日本を発見しなければならなかったが、我々は日本を発見するまでもなく、現に日本人なのだ。我々は古代文化を見失っているかも知れぬが、日本を見失う筈はない。日本精神とは何ぞや。そういうことを我々自身が論じる必要はないのである。説明づけられた精神から日本が生まれる筈もなく、又、日本精神というものが説明づけられる筈もない。日本人の生活が健康でありさえすれば、日本そのものが健康だ。」

と。そして、こう結論する。

「そこに真に生活する限り、猿真似を羞じることはないのである。それが真実の生活である限り、猿真似にも、独創と同一の優越があるのである。」

と。これこそが、

日本的なるもの、

である。

参考文献;
大岡昇平他編『日本的なるものをめぐって(全集現代文学の発見第11巻)』(學藝書林)

「仁政」期待

深谷克己『百姓一揆の歴史的構造』を読む。

本書は、著者の、

百姓一揆関係の論稿を加筆・訂正してまとめたもの、

であるため、全体が一貫したものとして展開されているわけではないが、

問題の立て方、問題への接近の仕方の共通性というものがある、

とし、著者自身が「序章」で、

それを一言でいうと、百姓一揆史の研究は幕藩制史研究に緊密に結びつけられていなくてはならないといつも思い、また心がけてきた、ということである。……その統一の意味は、(中略)百姓一揆史における、一揆そのものの特徴を掘りさげていくことをつうじて幕藩制国家史や幕藩制社会史へ可能なかぎり架橋していく、あるいは一揆史から百姓論・小農論の見なおしにまで至り、また農民の個人史にまで分けいっていく、ないしはそれらの考察が同時的であるような一揆史のとらえ方をしていく、というような意味である。

と述べている。そのことは、たとえば、

百姓一揆の「中心原理」は直訴(越訴)と制裁、あるいは直訴の原理と制裁の原理の二つである……。つまり、強訴は直訴の原理に支えられ、打ちこわしは制裁の原理にささえられるのである。そして、直訴の原理は国家の支配の方式と深く関連しあい、制裁の原理は共同体の維持の方式と深く関連しあっている。直訴と制裁の意味は、その対極的な解決方法としての内済(示談・和解)とつきあわせてみるとより鮮明になる。幕藩制下では、内済は国家と共同体を持続させる重要な方式―強制をともなう―だったが、この内済原則と直訴の原理、制裁の原理は対抗の関係にあって、内済原則の破れ目から百姓一揆の直訴と制裁が噴きでてくるとも言えるのである。
したがって、百姓一揆の「中心原理」を深く解明していこうとすれば、どうしても国家の歴史と共同体の歴史へ拘らざるをえなくなる。国家論・共同体論と交接しない百姓一揆論はなりたたないのである。

という説明からも明白である。

本書は、

第一部 百姓一揆の運動と意識
第二部 島原・天草一揆の位置
第三部 百姓一揆の成立と展開
第四部 世直しへの展望
第五部 百姓一揆の研究視角

の五部に編成されているが、

論稿の寄せ集めなので、多少の重複はやむを得ないとしても、

第一部 百姓一揆の運動と意識
第二部 島原・天草一揆の位置
第三部 百姓一揆の成立と展開

を整理して、一貫性を持った一揆論にまとめなおすることはできなかったのか、と疑問に思う。多くの研究書が、論稿を寄せ集めてお茶を濁すという感じなのは、どういうことなのだろう。

僕個人の関心は、かつては、

「自力救済」http://ppnetwork.seesaa.net/article/467902604.html

で触れたように、大山崎の油商人、米商人、土倉・酒屋等々は、

惣中、

という自律的組織(「所」と呼ぶ)をつくり、みずからの領域内の諸問題を自律的に解決する能力を獲得し、構成員からも、外部勢力からも「公」的な存在と認められるようになったし、また、

「小さな共和国」http://ppnetwork.seesaa.net/article/468838227.html

で触れたように、小さな村ながら、乙名を指導者とする行政組織を持ち、在家を単位とする村の税を徴収し、若衆という軍事・警察組織を持ち、裁判も行い、村の運営を寄合という話し合いで進め、そのため構成員は平等な議決権を持つ、自治の村落、

惣村、

をつくり、住民の家を保護することを目的に、中世の村の、

自力救済、

を原理として、

領主−村関係、

自体が、支配関係ではなく、

契約関係、

としようとしてきた。だから、

「領主が地下のために“奉公”した時は地下は年貢を納めるべきである」

という年貢の概念をもち、

「自力救済…の道はリスクが大きいことも認識しているのである。平和確保の“しんどさ”、それが有償でも武士を雇う関係を時に生み出すのである。在地の人々にしてみればそうした保護機能こそ領主に期待した。領主がそれに応えてくれるからこそ年貢も出すのである」

というものであった。場合によっては、

「サバイバル」http://ppnetwork.seesaa.net/article/463189273.html

で触れたように、

「敵軍におおくの米や錢を支払って『濫妨狼藉停止(ちょうじ)』の禁制や制札」

を買い取り、さらに、敵味方の境目の村々は、

「敵対する双方の軍に、年貢を半分ずつ払って両属(半手・半納)の関係」

を結ぶことで、

「村の平和」

を買い取っていた。さらに、

「隠物・預物」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464048075.html

で触れたように、領主の城は、村人の避難所として、

地域の危機管理センター、

としての役割を託してきた。だからこそ、年貢を払ったのである。しかし、豊臣政権の太閤検地、兵農分離、それを受け継いだ徳川政権の幕藩体制下で、かつてのそうした領主は、

鉢植化、

し、全国へ移封、転封され、縁もゆかりもない領主が、自分たちの上に落下傘のように降りてきた。それでもなお、かつてと同様に年貢を納めた原理は何なのか、が僕には興味があった。

幕藩体制下の一揆では、自力救済は消え、

百姓共永々相続、御百姓相勤、

と自己認識し、

以御愛隣御救ひ被下置候、

と懇願に転換する意識の転換は何によってもたらされたのか。

その転換期にあるのが、島原一揆のようである。太閤検地、兵農分離に際して、国人、土豪層の一揆が、

天草国人一揆、

等々の一揆とは異なるが、有馬旧臣、小西旧臣が在地化し、まだかつての在地領主としての力を集落に温存していた、ということが背景にある、と僕は見るが、著者は、新たな領主として移封してきた松倉・寺沢は、

大名一円支配、

を目指し、

旧土豪層の在地先制支配力の政治的解体を意味し、……本来的な国人・土豪一揆の成立は不可能な段階に立ち至った……。(中略)生産農民の側からいえば、なによりも村落から領主的核が失われてしまい、そのかぎりで領主権力に対して相対的に自立性をもつ生産共同体が獲得され、新しい村落秩序が生みだされる出発点にたちえた…。(しかし)余りも早く(藩権力が)集権化されて、かえって深く在地性を喪失した藩権力の脆弱性からくる焦燥の暴力的収奪の結果が、農民の必要労働部分にまでくいこみ(囲炉裏銭、窓銭、棚銭、戸口銭、死人に穴銭、生子の頭銭等々)、……農民の窮乏がしいられた

結果が招いたという、幕藩体制確立期の矛盾が生み出したもの、と見る。しかしその説明では、一揆参加の村々の多く(有馬領南目の村々)が一村挙げて、女も子供まで参加し、この一揆だけが、江戸時代の一揆の中で、

「宗教王国」実現を願望、

し、

百姓の国、

を目指すという、目的意識を持ったものだったことの背景には、十分迫り得てはいない気がする。

しかし、この一揆を転機に、

幕藩体制的な「御百姓」意識が社会化、

されていくことになる。この時期、年貢の村請制を契機に、年貢負担者を増やすという方向で、

隷属身分農民層、
小百姓層、

の、小農経営が前進していく。それには、

年貢・諸役皆済(「取立(とりたて)」)……のためには、農民を土地に緊縛し(「有付(ありつけ)」)、その経営を維持させる(「成立(なりたち)」)ことが不可欠、

となる。こうして、

小農経営の、領主による強度の収奪ゆえの不安定さを基本的な根拠として、経営維持のための領主による直接の助成米金、さらに年貢未納用捨分、引免分、さらには土地丈量の縄延分、川除工事等々が、領主の「御仁恵」(「御愛隣」「御憐愍」「御慈悲」等々)という人格的な倫理的基礎に由来する「御救」として、社会化されていったのである。幕藩領主の全剰余労働収奪は、一方での「収斂」と、他方での「御救」の矛盾的統一によって農民から最大限収奪を実現するということにほかならなかったが、幕藩イデオロギーは、そのような現実的関係をとり結ぶ領主と農民を、「お救」を基軸的媒介とする「仁君」と「御百姓」の「仁政」論的意識関係として思想化していくことで形成された。このような治国・養民を使命とする「仁君」と上納・養命を使命とする「御百姓」を両極とし、それを身分関係として結合させる領主および農民の規範的な身分的階級的自己認識および関係意識の理念化された総体は、幕藩制国家の支配思想としての幕藩的「仁政」イデオロギーと呼ばれるべきであるが、それは、(中略)村請制村落の成立を基盤とする、いわゆる村請教化制の実現ともいうべき、この時期の系統的な触書・法度の読聞せ、その請書への連印等の具体的なイデオロギー編制過程において社会化されたのである。

だとして、とっかえひっかえ、かつての領主とは違い、ただ鉢植え化した縁もゆかりもない領主にまで、「仁政」を期待して、年貢を納め続ける、というのは、かつて安全の担保に領主に納税していた意識と、確かにどこか通底するといえなくもない。期待は空手形になっても、直訴、強訴しかとりえないというのは、自力救済とは格段に違うように見えるが、心性としては、他人頼みという意味で似ている。それを奴隷根性というのはいいすぎだろうか。

この「仁政イデオロギー」「仁君」への期待は、水戸黄門を見るまでもなく、大衆化され、いまだ隅々にまで我々の心の奥底にまで浸透している気がする。

この「仁政」期待の心性は、そのまま、維新後、

日本国家の支配イデオロギーとして近代天皇制イデオロギー、

へと接続し、やはり「仁政」「仁君」を期待し、いまだに、日本人を縛り付けている気がする。お上意識、あるいは、お上に逆らうことへの心理的抵抗は、他方で、

仁政、

を期待する他力頼み、御上頼みの奴隷根性につながっている気がしてならない。

ただ、本書では、その機微を深奥まで突き止めるのは任でないとはいえるが、いささか説明のみで終わって、まさにその核心である、

系統的な触書・法度の読聞せ、その請書への連印等の具体的なイデオロギー編制過程、

そのものを、具体的、かつ綿密に掘り下げていないのは、

百姓一揆史の研究は幕藩制史研究に緊密に結びつけられていなくてはならない、

という問題意識のわりには、具体的な追求不足は否めない。

参考文献;
深谷克己『百姓一揆の歴史的構造』(校倉書房)
仁木宏『戦国時代、村と町のかたち』(山川出版社)
蔵持重裕『中世村の歴史語り―湖国「共和国」の形成史』(吉川弘文館)
藤木久志『城と隠物の戦国誌』(朝日選書)
藤木久志『戦国の村を行く』(朝日選書)

政治と文学

大岡昇平他編『政治と文学(全集現代文学の発見第4巻)』を読む。

現代文学の発見、

と題された全16巻の一冊としてまとめられたものだ。この全集は過去の文学作品を発掘・位置づけ直し、テーマごとに作品を配置するという意欲的なアンソロジーになっている。本書は、

政治と文学、

と題された巻である。収録されているのは、

中野重治『五勺の酒』
武田泰淳『審判』
野間宏『顔の中の赤い月』
椎名麟三『深尾正治の手記』
田中英光『地下室から』
井上光晴『書かれざる一章』
佐多稲子『夜の記憶』
倉橋由美子『パルタイ』
真継伸彦『石こそ語れ』
本多秋五『芸術・歴史・人間』
荒正人『原子核エネルギー(火)』
林達夫『反語的精神』
平野謙『政治と文学』『「政治の優位性」とはなにか』
福田恆存『一匹と九十九匹と』
中野重治『批評の人間性』
竹内好『日本共産党批判』
小林秀雄『政治と文学』
伊藤整『組織と人間』
埴谷雄高『政治の中の死』
奥野健男『「政治と文学」理論の破綻』
針生一郎『「革命運動の革命的批判」の問題点』
佐多稲子『松川無罪確定の後』
高橋和己『政治と文学』

である。戦後の様々な局面で論争されてきた「政治と文学」だが、今日、文学作品として、読むに堪えうるのは、

倉橋由美子『パルタイ』
真継伸彦『石こそ語れ』

のみである。『パルタイ』は、非常に意識的に抽象化された視点、言い変えると、遠くから眺めているために、一種、

パロディ、

であるが、「証言として文学」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473706547.htmlで触れた、長谷川四郎『シベリヤ物語』と似た手法である。そこで、

独特の雰囲気を醸しだしている。シベリア抑留中の俘虜生活を描きながら、どこかメルヘンのようにふんわりした雰囲気を作りだしている。それは、作家の視点にあると思う。たしか、チャップリンが、

人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ、

といったことを思い出す。別に描写の視点が俯瞰にあるのではなく、作家の登場人物に対する距離の置き方が、ロングショットであることによる。あるいは、変な言い方だが、作家の感情は遠くにおいて、ひとごとのように、書いている。

昔々あるところに、

と同じ語り口である。悲惨さは、その距離で漉されている、

と書いたことが、ここでも当てはまる。その距離が、感情をも、漉す。

真継伸彦『石こそ語れ』

は、どちらかというと、私小説の流れの書き方の多い「プロレタリア文学」系の作品に対して、意識的な方法、

死につつある転向者、

に視点を置いた、その、

独自の方法、

がよい。多少作為的なところは、やむを得ないが、文学とは、

何を書くかではなく、どう書くか、

であるという見本のような作品である。

他の作品は、その時代背景抜き去ると、文学作品として、ほとんど読むに堪えない。

本巻は、「政治と文学」と題しただけに、評論が多いが、政治の季節の時代、右も左も、ほとんど作品として、大したものがなかった、ということだろう。井上光晴は、

どう描くか、

を獲得して以降、『ガダルカナル戦詩集』『虚構のクレーン』『死者の時』『地の群れ』等々で、おのれを示した。むしろ党派性にかかずらう以上に、政治と直面しているし、あるいは戦時下発禁を食った、石川淳「マルスの歌」こそが、本巻に納められるにふさわしいと思う。

「政治と文学」は、何も、マルクス主義文学運動、だけではないはずである。戦時下、軍部のお先棒を担いだ文学者たちの作品だってあるはずである。それはちょうど裏表の関係なのだ。たとえば、

作家同盟解散後、党の政策の下請け機関と化した芸術運動に愛想づかしをし、作家の実践は創作以外にないと叫んだ徳永直、林房雄、森山啓らは、やがて革命運動そのものからはみだして、支配機構の網の目に期辛味取られていったのである(「革命運動の革命的批判」の問題点)。

確かに、高橋和己の言うとおり、

「私自身も、文学の自律性というものに関する過大な幻想はもたないほうがいいと考えている。権力というものは、虱をおしつぶすように人間をおしつぶすことぐらい朝飯前にできるものであり、文学者の精神を鞭と牢獄、あるいは幣束ではりとばして、ねじまげることぐらいは残念ながら簡単にできることである。ちょっと節操を守ることすら、どんなに恐ろしい犠牲を覚悟せねばならないかということに無智な、大義名分論を、私はあまり信用しない。

その通りである。しかし、ここでは、

文学者の仕事、

文学の仕事、

がごちゃごちゃになっていないか。文学者は押しつぶされるかもしれないが、文学は押しつぶされない。文学は、虚構の世界である。政治的圧迫があっても、「マルスの歌」発禁後、「一休咄」「曽呂利咄」等々の世界に進んだ石川淳がいい例だ。林達夫が言うように、

思想家の今後にのこされた道は、牢獄と死とのソクラテスの運命を甘受するか、でなければデカルトのように仮装された順応主義のポリティークをとる以外にはない……、

のである。それを、

コンフォルミスム・デギゼ(仮想せる順応主義)、

と、林は名づける。戦時下、

哲学には、今や隠退するか、討死するか、でなければ何らかの形のコンフォルミスムの道に歩み入るか―この三つの途しかのこされていません、

が、

思想闘争は猪突や直進の一本調子の攻撃に終始するものではない。また終始してはならない。そんなことでは、それは警官の前で、戦争絶対反対!と叫んでその場で検束されてしまう。あのふざけ者のタダイストと、結果的には一向変わりなく、道行く群衆はただ冷然とそれを見送るだけのことだ。もちろんそのような英雄主義を、私はいちがいに貶そうとするものではない。ただそれは私の好みではなく、また思想闘争には個性の数だけ先方があるということである。

と(反語的精神)。それをするのは、現実の文学者である。そこで、文学の仕事として、

どう書くか、

が問われてくる。

参考文献;
大岡昇平他編『政治と文学(全集現代文学の発見第4巻)』(學藝書林)

日本人の食生活

渡辺実『日本食生活史』を読む。

類書が少ないせいか、随分前(1964年)に上梓された本だが、新装版が出ている。本書は、「我が国の食生活史の時代変遷」を、以下のように、「便宜上区分して」、

自然物雑食時代(日本文化発生−紀元前後) 先土器・縄文時代
主食・副食分離時代(紀元前後−七世紀) 弥生・古墳・飛鳥時代
唐風食模倣時代(八世紀−一二世紀) 奈良・平安朝時代
 貴族食と庶民食の分離 奈良時代
 型にはまった食生活 平安時代
和食発達時代(一三世紀−一六世紀) 鎌倉・室町時代
 簡素な食生活 鎌倉時代
 禅風食の普及 室町時代
和食完成時代(一七世紀−一八世紀) 安土・江戸時代
 南蛮・シナ風の集成 安土・桃山時代
 日本料理の完成 江戸時代
和洋食混同時代(一九世紀−現在) 明治・大正・昭和の時代
 欧米食風の移入 明治・大正時代
 現代の食事 昭和時代

ほぼ一万年にわたる日本の食生活史である。

まず、先土器・縄文時代は、

「何千年にもわたる時代であって、北方系・南方系の両文化がわが列島においてたくみに混合調和している。…この時代は狩猟生活が中心であり、漁撈も行われ、自然物採集」

の時代である。

「日本語と同系統のものは琉球語だけである…。そして日本語がアルタイ諸言語や朝鮮語と同系であるとしても、それと分離したのは六・七千年より古いことであって、そのような太古に日本人の祖先が国土に渡り来たり、この国土で独自の発達をとげたものであると考えられる…。(中略)このように日本民族は単一の人種系統に属するものではなく、石器時代において多くの種族が渡来し混血が行われ、そこに南北両系統の文化が混合し、その後の歴史時代に入っても異質文化をたえず摂取してこれと同化した」

という特質は、ある意味、これ以降の日本の文化すべてに言える、今日まで蜿蜒と続く特色となる。

弥生・古墳・飛鳥時代は、

「金属器と稲作農業の登場によって、農耕が主な生業となり、食生活が安定し、そこに富の蓄積が始まり貧富の差を生じ、貴族と農奴階級が分離して氏族制度が完成する。特に朝鮮半島から仏教・儒教とともに種々の文化が輸入され、食生活も半島のそれを上流階級が模倣し、輸入した時代」

である。特に、紀元前三世紀ごろの、稲作のもたらした衝撃は、

日本史上のいかなる変革にも劣らぬ深刻なもの、

であった。

まず北九州の海岸地帯にはじまり、紀元前一世紀には近畿地方に入り、紀元三世紀の終わりごろには関東地方にもおよび、やがて縄文文化は消滅した、

と。

奈良・平安時代は、

隋や唐と正式に国交がひらかれ、その影響がいよいよこの時代にわが国の文化の様相にいちじるしく洗われる時代、