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書評\


尖端

大岡昇平他編『青春の屈折下(全集現代文学の発見第15巻)』を読む。

現代文学の発見、

と題された全16巻の一冊としてまとめられたものだ。この全集は過去の文学作品を発掘・位置づけ直し、テーマごとに作品を配置するという意欲的なアンソロジーになっている。本書は、

青春の屈折、

と題された、二分冊の後半である。収録されているのは、

野間宏『崩壊感覚』
武田泰淳『異形の者』
井上光晴『ガダルカナル戦詩集』
久坂葉子『ドミノのお告げ』
安岡章太郎『ガラスの靴』
中村真一郎『天使の生活』
吉行淳之介『驟雨』
石原慎太郎『処刑の部屋』
深沢七郎『東京のプリンスたち』
大江健三郎『叫び声』
山川方夫『愛のごとく』
黒田三郎『ひとりの女に』
岸上大作『意志表示』
寺山修司『田園に死す』
大島渚『青春残酷物語』

である。戦前にほぼ、十八、九歳以上であったものと、それより若かったものとでは、たぶん格段の差が出る気がしている。戦争体験のあるものとないものとの差、と言い換えてもいい。

野間宏『崩壊感覚』
武田泰淳『異形の者』
井上光晴『ガダルカナル戦詩集』

に、

安岡章太郎『ガラスの靴』
中村真一郎『天使の生活』
吉行淳之介『驟雨』

を加えた、戦後派作家と、いわゆる第三の新人を一つにくくるのは、乱暴かもしれないが、1930年前後生まれが画期に思える。それ以降の、

大江健三郎『叫び声』
山川方夫『愛のごとく』
石原慎太郎『処刑の部屋』

とは格段に作風が変わると見えた。後世になってみると、そう見える。そして、

大江健三郎『叫び声』

が、数段に、頭抜けている。明らかに、健三郎が、日本文学の新しい地平を切り開いている、ということが、こうして同時期の、他の作家と比べてみると歴然としていることに、僕は驚いた。若い頃、この文体が苦手で、難渋した記憶がある。しかし、今日、改めて読み直してみると、この文体が、時代を切り開き、今やこういう表現が、当たり前になってしまっている、ということにも気づかされる。それほど、この文体もまた、画期であった。

他の作品と比べてみると、はっきりしているが、たとえば、

山川方夫『愛のごとく』
石原慎太郎『処刑の部屋』

と比べてみても、作品世界の構造の大きさ、奥行き、射程の長さ、すべてにおいて、そのスケールが全く違う。他の作品、

山川方夫『愛のごとく』

は、ちょっと例外として、今日、それを読んでもほとんど感動もしない。むしろ、古さを覚える。しかし、

大江健三郎『叫び声』

は、朝鮮戦争前後という時代背景を別にすれば、その内容は、いまだ、今日の日本の状況をも射止めている。射程の長さとは、そういう意味だ。

ダリウス・セルベゾフ(癲癇を病むアメリカ人退役兵)、
虎(日系移民とアフリカ系アメリカ人との混血)、
呉鷹男(日本人と在日朝鮮人の混血)、
僕(日本人の大学生)、

という人物構成そのものが、何かを象徴し、その関係性は、今日の日本をも射抜いている。小説とは、

何を描くか、

ではなく、

どう描くか、

とは、文学の方法(作法ではない)を指す。明確な方法意識のある作家とそうでない作家との差は、時間がすっかりそのメッキを洗い流してくれるという見本のように思う。ただ、第四章だけ、「僕」という語り手を外しているように見える。それだけ呉鷹男をクローズアップしたいという意図かと思うが、結構を崩したようで、ちょっと気になった。

石原慎太郎『処刑の部屋』
大島渚『青春残酷物語』

は、よく似た内容の作品だが、懸命に時代に追いすがろうとするように見えて、あまり好ましくない。石原慎太郎は、いつか時代に取り込まれ、大島渚は時代に追いつかれ、追い抜かれ、晩年の、

愛のコリーダ(1976年)、
愛の亡霊(1978年)、
御法度(1999年)、

は、時代の背中を見ているような位置にいることに気づいていない滑稽さがあった。

山川方夫『愛のごとく』

については、「古井論」http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic1-1.htmで触れたことがある。

参考文献;
大岡昇平他編大岡昇平他編『青春の屈折下(全集現代文学の発見第15巻)』(學藝書林)

まくら

柳家小三治『ま・く・ら』『もひとつま・く・ら』を読む。

 

今更めくが、柳家小三治『どこからお話ししましょうか』http://ppnetwork.seesaa.net/article/473027032.html?1578515555という柳家小三治自伝を読んだついでに、「まくら」だけを集めたものがあると知って、読み始めた。

柳家小三治は、噺の導入部である「マクラ」が抜群に面白いことでも知られ、「マクラの小三治」との異名も持つ。全編がマクラの高座もあるとか。

「まくら」http://ppnetwork.seesaa.net/article/421083802.html
「気っ風」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473027032.html?1578515555

で触れたことと重なるが、

まくら、

は、その演目に合ったものをするが、基本的には、

演じる落語の演目に関連した話をする、
現代ではほとんど使われなくなった人、物、様子などの解説をする、

2種類が骨格で、それにいろいろまぶす結果、いろいろな話が加えられるらしい。小三治のように、

まくらだけで高座が終わる、

ということもあるが、そこまで行くと、本題に入らなくて(そこで終わらないで)、このまま続けてほしい、と(観客側が)いうほどの、まくら自体が、

エンターテイメント、

になっているからかもしれない。しかし、それは、噺家としての力量が前提で、個人的には、まくらでその力量が見える気がする。

「マクラは、噺の本題とセットになって伝承されてきているものが少なくない」

という。しかし、素人ながら、マクラの果たす役割は、ただ、

現実(この会場のこの時、この場)と噺の世界、

をつなぐ、

回路
というか、
異次元を開くまじない(「開けゴマ」みたいな)、

というだけではない気がする。もちろん、そういう意図があるにはあるが、僕は、いま、噺をしようとしている噺家その人が、その導き手で、その人の口先に乗って、一緒に噺の世界へ入って行くための、

協約関係、
というか、
共同作業関係、
というか、
同盟関係、
というか、

違う言い方をすると、

この(噺の)船頭の船に乗ってついて行っても大丈夫、

という見立ての位置づけにあるのではないか、という気がする。独演会が多いので、初めから、その噺家を目当てに出かける場合、それは不必要に見えるかもしれないが、寄席で、次々と噺家がとっかえひっかえ(失礼、入れ代わり立ち代り)登壇する場面を想定すると、

まくら、

は、ある意味、リアルに噺家の人柄と力量とを見極める手がかりになっているのではないか、という気がする。

「マクラはお客さんが本編に入りやすい状態にほぐす役割を兼ねているのです。このマクラは落語にとって前フリなのです。また、マクラは『話す』のではなく、『振る』といいます。なぜなら、まずはこのマクラでお客さんを『振り向かせる』ということでしょう。」

とある。しかし、当たり前だが、まくらにその噺家の技量と力量と器量が反映している。これも、前にで書いたが、

まくら、

に個性があり、人柄が出る、というよりも、噺そのものに人柄が出るというか、極端に言うと、噺が、

人柄で変る、

という意味では、「まくら」は、その人柄のリトマス試験紙なのかもしれない。しかし、活字で読むのは、「まくら」の内容で、本来、

その場、
その時、
その雰囲気、

を共有するその時その場の観客と共に、聞かなければ、口調も、テンポも、声音もわからない。それでも本書は可笑しい。著者自身が、「あとがき」で、

「たしかに自分で高座でしゃべったものには違いないのだけれど。聞いて下さっているお客さんは興味を持って眼を輝かせたり、わらってくれてはいましたよ。その反応に乗せられてついつい長い枕話になったり、だけどそれは、その時その時空間に消えてしまう私とお客さんとの瞬間瞬間の共有時間であり、お互いのその場限りの楽しい時間、としてのおしゃべりだったのです」

と本人自身が語っている通り、本来活字化されるはずのないものが活字化された。それでも、

「読んでみると自分ながら面白ぇこというヤツだなァコイツァ。と笑っちゃったりして。とてもみっともない」

と書いているほどではあるのだが。

読み通してみて感じたのは、たぶん、その場では、この何十倍もおかしかったであろうことは、たしか、

めりけん留学奮闘記、

を当時NHKで観たときの、捧腹絶倒をよく記憶しているので、想像がつく。

ニューヨークひとりある記、
玉子かけ御飯、
駐車場物語、
ミツバチの話、
熊の胆の話、
小さんにも事務員さんにもなる名前、
笑子の墓、
パソコンはバカだ!!

等々、別に作り話ではなく、

「ここに載ってるのは全部自分が実際に出会ったり感じたことばかり、そのまんま。第一、枕としてしゃべっているということは、『このあとは落語をおしゃべりさせていただきますよ』という前提があっての枕ですから」

とある通り(あとがき)自身の体験を話しているだけだが、なぜが可笑しい。句会の仲間でもある故小沢昭一は、

「ある一つの材料を語るのに、もう根ほり葉ほり、いろんな角度から、しつこくイジル。腰をすえて、ああもこうも、オモシロイことを見つけてこだわっていく。そういうネバッコイ話運び」

が真骨頂と、評する。オーディオ、オートバイ、塩、熊の胆、ハチミツ等々、それがそのまま話になっていく。

ふと、僕は、

お伽衆、

のことを思い出した。御伽衆(おとぎしゅう)は、

「室町時代後期から江戸時代初期にかけて、将軍や大名の側近に侍して相手をする職名である。雑談に応じたり、自己の経験談、書物の講釈などをした人。御迦衆とも書き、御咄衆(おはなししゆう)、相伴衆(そうばんしゅう)などの別称もあるが、江戸時代になると談判衆(だんぱんしゅう)、安西衆(あんざいしゅう)とも呼ばれた。」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E4%BC%BD%E8%A1%86#cite_note-ko-1

咄(はなし)相手を主としたから御咄衆とも言うが、正確には御伽衆の中に御咄衆が含まれる。御伽衆は、語って聞かせる特殊な技術のほか、武辺談や政談の必要から相応の豊富な体験や博学多識、話術の巧みさが要求されたため、昔のことをよく知っている年老いた浪人が起用されることが多かった、ともある(仝上)。

慶長年間(1596年‐1615年)に御伽衆の笑話を編集した『戯言養気集』(ぎげんようきしゆう)には、

「御伽衆の講釈話が庶民に広がって江戸時代以降の講談や落語の源流となったとも言われるので、御伽衆は落語家の祖でもある」

と、まさに、落語の先祖である。豊臣秀吉の御伽衆の一人、

曽呂利新左衛門、

は、実在を疑われているが、

「落語家の始祖とも言われ、ユーモラスな頓知で人を笑わせる数々の逸話を残した。元々、堺で刀の鞘を作っていて、その鞘には刀がそろりと合うのでこの名がついたという(『堺鑑』)。架空の人物と言う説や、実在したが逸話は後世の創作という説がある。また、茶人で落語家の祖とされる安楽庵策伝と同一人物とも言われる。」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BD%E5%91%82%E5%88%A9%E6%96%B0%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80。こんな逸話がある、とか。

秀吉が、猿に顔が似ている事を嘆くと、「猿の方が殿下を慕って似せたのです」と言って笑わせた。
秀吉から褒美を下される際、何を希望するか尋ねられた新左衛門は、今日は米1粒、翌日には倍の2粒、その翌日には更に倍の4粒と、日ごとに倍の量の米を100日間もらう事を希望した。米粒なら大した事はないと思った秀吉は簡単に承諾したが、日ごとに倍ずつ増やして行くと100日後には膨大な量になる事に途中で気づき、他の褒美に変えてもらった。
御前でおならをして秀吉に笏で叩かれて、とっさに「おならして国二ヶ国を得たりけり頭はりまに尻はびっちう(びっちゅう)」という歌を詠んだ。
ある時、秀吉が望みのものをやろうというと、口を秀吉の耳に寄せた。諸侯は陰口をきかれたかと心落ち着かず、新左衛門に山のような贈物を届けたという。

等々(仝上)。この曽呂利に擬されているのは、落語の祖とされる、

安楽庵策伝、

で、安楽庵策伝が京都所司代の板倉重宗に語った話をもとに作られたのが、元和9年(1623年)の、

『醒睡笑』

である。収載された話は約1、000話に及び、

「収載された話は最後に落ち(サゲ)がついており、策伝はこの形式で説教をしていたと考えられている。『醒睡笑』には現在の小咄(短い笑い話)もみられ、また、この本に収載された話を元にして『子ほめ』『牛ほめ』『唐茄子屋政談』『たらちね』など現在でも演じられるはなしが生まれているところから、策伝は『落語の祖』といわれる」

のであるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%BD%E8%AA%9E

なにやら、小三治の「まくら」を読むと、軽口・頓智に富み、狂歌の達人として人気者だったという、

曽呂利新左衛門、

のことを思い出す。本書所収の、

めりけん留学奮闘記、
ニューヨークひとりある記、
玉子かけ御飯、
駐車場物語、

は、まさに御伽衆の笑話を思い出させる。

参考文献;
柳家小三治『ま・く・ら』(講談社文庫)
柳家小三治『もひとつま・く・ら』(講談社文庫)
野村雅昭『落語の言語学』(平凡社選書)

物語

大岡昇平他編『物語の饗宴(全集現代文学の発見第16巻)』を読む。

本書は、

現代文学の発見、

と題された全16巻の一冊としてまとめられたものだ。この全集は過去の文学作品を発掘・位置づけ直し、テーマごとに作品を配置するという意欲的なアンソロジーになっている。本書は、

物語の饗宴、

と題された巻である。収録されているのは、

谷崎潤一郎『蘆刈』
白井喬二『第二の岩窟』
江戸川乱歩『屋根裏の散歩者』
夢野久作『うやかしの鼓』
小栗虫太郎『完全犯罪』
貴司山治『舞踏会事件』
直木三十五『鍵屋の辻』
子母澤寛『名月記』
五味康祐『喪神』
司馬遼太郎『おお、大砲』
久世十蘭『母子象』
星新一『鍵』
小松左京『御先祖様万歳』
五木寛之『幻の女』
野坂昭如『浣腸とマリア』
水上勉『越後つついし親不知』
井上靖『姥捨』
由起しげ子『女の中の悪魔』

である。いわゆる「小説」としての面白さは、

由起しげ子『女の中の悪魔』

だが、

「物語」とは何か、

をわきまえているのは、

谷崎潤一郎『蘆刈』

である。

何かを語ることを語る、

という、

物語の構造、

をそのまま、現前化してみせている。

能、

の、

ワキ、

シテ、

という、

能の基本構造、

ワキの語りの中に登場するシテの語り、

を借りて、実に鮮やかに、

語るとは何か、

を、構造として、顕在化して見せた。『蘆刈』は、

君なくてあしかりけりと思ふにもいとど難波のうらはすみうき

まだをかもとに住んでゐたじぶんのあるとしの九月のことであった。

と、こう始まる。大和物語の歌を、エピグラフのように掲げて、「わたし」の語りから始まる。まるで、ワキの語りのように始まり、中洲で観月のさなか、

「と、そのとき近くの葦の葉がざわざわとゆれるけはひがしたのでそのおとの方ほ振り向くと、そこに、やはり葦のあひだに、ちやうどわたしの影法師のやうに゜うづくまつてゐる男があつた」

と、男と出会い、その男の語る「お遊さん」の話が、主題である。そしてしゃべり終えて、、これからお遊さんを見に出かけるという。

「わたしはをかしなことをいふとおもつてでももうお遊さんは八十ちかいとしよりではないでせうかとたづねたのであるがただそよそよと風が葦の葉をわたるばかりで汀いちめんに生えてゐたあしも見えずそのをとこの影もいつのまにか月のひかりに溶けて入るやうにきえてしまつた」

と、「わたし」の語りは終わる。まさに、

生きている「ワキ」と、幽霊あるいは精霊である「シテ」の出会いから始まる、

「能」の物語そのものをなぞりながら、

物語の構造、

を示している。「わたし」は、

語り手、

でありながら、「男」の語る物語の、

聞き手、

でもある。そして、この「わたし」は、

物語空間の境目、

に立っている。この「わたし」の語りも、『蘆刈』では、物語の中に入っているので、『蘆刈』は、

語られる物語を語る物語、

となる。この「わたし」の位置を、物語の外に置くと、物語の外から語る語り手になる。通常の物語は、そうして、いきなり、その語り手が語る物語になる。しかし、たとえば、

『鍵屋の辻』

では、「語り手」は、当初物語空間に登場して、下僕に腰を打たれた荒木又右衛門の技倆について云々し、

……尤も芥川龍之介に云わせると、
 「そりゃ君、又右衛門きが棒だと知っていたから、撲らしておいたのだよ」
と説明するが、

といったことを語る。しかし、この場合、こういう語りのおかげで、作品全体が、今風にいう、

実録的、

な雰囲気を出すことに成功している。

…郡山には荒木の屋敷趾が判っている。数馬の家も粟屋町に残っている。川合又五郎の墓は寺町万福寺にあって、念仏寺の河合武右衛門の墓と隣同士になっている。外の連中のは何も残っていない。鍵屋は現在も茶店である。仇討の跡には碑が立っている。

と終る。しかし、別に実録ではない。やはり「語られたもの」に過ぎない。ただ語り手がおのれの見解を語って見せているだけである。同じ構造は、

五味康祐『喪神』
司馬遼太郎『おお、大砲』

にもある。『喪神』は、

 瀬名波幻雲斎信伴が多武峰山中に隠棲したのは、文禄三年甲午の歳八月である。この時、幻雲斎は五十一歳―。
 翌る乙未の歳七月、関白秀次が高野山に出家、自殺した。すると、これは幻雲斎の隠棲を結びつける兎角の噂が諸国の武芸者の間に起こった。秀次は、曾て、幻雲斎に就き剣を修めたためからである。

とはじまる。『おお、大砲』も、似ている。

 むかし、和州高取の植村藩に、ブリキトースという威力ある大砲が居た。居た、としか言いようのないほど、それは生きもののな扱いを、家中からうけていた。

この語り口は、語り手が、物語の中へ、出たり入ったり、自在に動く。それ自体が、語りの世界、つまり、

物語、

の中のことなのだが、読者には、作家がそう語っているかのような錯覚を与え、時に、事実であるかのように思わせる、一種、これ自体が、語りの世界なのである。そういう語り手の詐術というか、操作をせず、純粋に、物語世界そのものを描き出しているものとして、

由起しげ子『女の中の悪魔』

は、出色である。

 下りの特急の食堂は、昼食の時間をすこし過ぎたところで、適度に空いていた。
 四人がけのテーブルは、高村剛三と連れの二人で占領して、一人分の席があいている。

とはじまる物語は、終始一貫、物語の時空の外に語り手は立つ、という通常の物語の方法を堅持し、堅牢な物語世界を描き切っている。

谷崎潤一郎は、こう書いている、という(あとがき)。

「筋の面白さは、言ひ換へれば物の組み立て方、構造の面白さ、建築の美しさである。これに芸術的価値がないとはいへない。……凡そ文学に於いて構造的美観を多量に持ち得るものは小説であると私は信じる。筋の面白さを除外するのは、小説という形式が持つ特権を捨ててしまふのである。」(饒舌録)

と。

参考文献;
大岡昇平他編『物語の饗宴(全集現代文学の発見第16巻)』(學藝書林)

証言としての文学

大岡昇平他編『証言としての文学(全集現代文学の発見第10巻)』を読む。

現代文学の発見、

と題された全16巻の一冊としてまとめられたものだ。この全集は過去の文学作品を発掘・位置づけ直し、テーマごとに作品を配置するという意欲的なアンソロジーになっている。本書は、

証言としての文学、

と題された巻である。収録されているのは、

大岡昇平『俘虜記』
原民喜『夏の花』
吉田満『戦艦大和の最期』
長谷川四郎『シベリヤ物語』
藤枝静男『イペリット眼』
富士正晴『童貞』
堀田善衛『曇り日』
石上玄一郎『発作』
西野辰吉『C町でのノート』
木下順二『暗い火花』
開高健『裁きは終わりぬ』
梅崎春生『私はみた』
広津和郎『松川裁判について』
秋山駿『想像する自由』
李珍宇『手紙』

である。

開高健『裁きは終わりぬ』は、アイヒマン裁判、梅崎春生『私はみた』はメーデー事件、広津和郎『松川裁判について』は松川裁判の、それぞれ傍聴記録、証言、論証である。しかし、ノンフィクションであれ、フィクションであれ、日記であれ、見聞録であれ、いずれ、カメラで言うなら、フレームを決めた画像でしかない。フレームを決めた瞬間画像は客観的ではない。その瞬間、大なり小なり、私的パースペクティブを免れないのである。その意味で、

証言としての文学、

などというものは成り立たない。文学が、

思想の伝達手段、

でないように(プロレタリア文学をめぐる茶番で実証済み)、

事実の証言手段、

でもあり得ない。文学は、

虚実皮膜、

の時空にある。意識的に虚構を立てるのと、意識的に事実を語ろうとするのとは、程度の差でしかない。

ぼくは、どんな情報も、大なり小なりフェイク、であると思っていて、そのことは、

「言葉の構造と情報の構造」http://ppnetwork.c.ooco.jp/prod0924.htm

で触れた。つまり、

それがフィクションであれノンフィクションであれ、
証言であれ偽証であれ、
事実の報告であれ虚報であれ、

発信者が、事実と思っていることを、自分の観点から言語化しているにすぎない。それは、意識的に嘘を報告することと、程度の差でしかない。
 

事実そのものは、情報にはなり得ない。ユカタン半島に巨大隕石が落ちても、それを人が情報化するまで、それは人に伝わることはない。だが、それが情報化(フィクション化であれノンフィクション化であれ、科学レポートであれ娯楽情報であれ)されたとき、

「情報は発信者のパースペクティブ(私的視点からのものの見方)をもっている。発信された『事実』は,私的パースペクティブに包装されている(事実は判断という覆いの入子になっている)」

のであるhttp://ppnetwork.c.ooco.jp/prod092.htm。だから、

証言としての文学、

などというタイトルは、

自家撞着、

以外の何物でもない。そのことを、本作品群が、例証している。

あとは、文学として、

虚実の皮膜、

で自立しているかどうかだけだ。事件や現実に依拠している限り、作品世界は自立していない。その意味では、

李珍宇『手紙』

は作品ではない。

収録されたものの中で、作品として、自立できているのは、

大岡昇平『俘虜記』
原民喜『夏の花』
吉田満『戦艦大和の最期』
長谷川四郎『シベリヤ物語』
藤枝静男『イペリット眼』
富士正晴『童貞』
堀田善衛『曇り日』
石上玄一郎『発作』
西野辰吉『C町でのノート』
木下順二『暗い火花』

である。突出しているのは、

大岡昇平『俘虜記』

である。ある意味で、私的フレームの中で、ひとつの作品世界を自立せしめている。戦後の出発点にふさわしい、といっていい。

石上玄一郎『発作』

も、この作家らしい構造化された作品だが、僕にはこの人がいつも作りすぎる虚構に、嘘を感じてしまう。その意味では、自立が状況に依存している、と思わせる。

長谷川四郎『シベリヤ物語』

は、独特の雰囲気を醸しだしている。シベリア抑留中の俘虜生活を描きながら、どこかメルヘンのようにふんわりした雰囲気を作りだしている。それは、作家の視点にあると思う。たしか、チャップリンが、

人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ、

といったことを思い出す。別に描写の視点が俯瞰にあるのではなく、作家の登場人物に対する距離の置き方が、ロングショットであることによる。あるいは、変な言い方だが、作家の感情は遠くにおいて、ひとごとのように、書いている。

昔々あるところに、

と同じ語り口である。悲惨さは、その距離で漉されている。

吉田満『戦艦大和の最期』

は、日記の体裁をとりながら、

片仮名表記、
と、
文語体表記、

で、一定の距離感をもち、多少情緒過多ながら、一応の日録の体裁を保ち、自立する世界を保ち続けている。しかし、『戦艦大和の最期』の、

「初霜」救助艇ニヒロワレタル砲術士、左ノゴトク洩ラス、

として、最後に追加した文章、

救助艇タチマチニ漂流者ヲ満載、ナオモ追加スル一方ニテ、スデニ危険状態ニ陥ル 更ニ収拾セバ転覆避ケ難ク(中略)シカモ舩ベリニカカル手ハイヨイヨ多ク、ソノ力激シク、艇ノ傾斜、放置ヲ許サザル状況ニ至ル
ココニ艇指揮オヨビ乗組下士官、用意ノ日本刀ノ鞘ヲ払イ、犇ク腕ヲ、手首ヨリバッサ、バッサト斬リ捨テ、マタハ足蹴ニカケテ突キ落トス……

について、

初霜短艇指揮官・松井一彦の反論や、吉田に削除を求める書簡、

がありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E8%89%A6%E5%A4%A7%E5%92%8C%E3%83%8E%E6%9C%80%E6%9C%9F、また、大和乗組員の生き残り八杉康夫が、

内火艇は船縁が高くて海面に顔を出している様な漂流者の手は届かないから基本的にありえないことで、羅針儀がある内火艇に磁気狂いの原因となる軍刀を持ち込むこともありえないという。また艇にはロープが多く積まれ、引き揚げなくてもロープにつかまらせて引っ張ればいい。それに駆逐艦に救助された大和の乗組員たちは皆横瀬に軟禁され、お互いが体験したことを話し合っていたから、酷い行為があれば一遍に話題になっていたはずだが、そんな話は全くなかった、

と答えている(仝上、https://news.nifty.com/article/domestic/society/12280-535250/)し、八杉に詰問されて、吉田は「私はノンフィクションだと言ったことはない」と弁明したとされる(仝上)とか、さまざまに異論が出ている。あくまで、作家の体験に終始している限り、実名を出しているからと言って、誤解や勘違いで済む。しかし、伝聞を載せたことで、いろいろ異論が出た。ま、大なり小なり、フェイクなのは仕方がないが、この部分は、本論とは関係ない部分で、ちょっと欲を出したとしか言いようのない、蛇足である。これで、全体の印象が変わるのは、残念な気がする。

秋山駿『想像する自由』

は、李珍宇『手紙』によって、

内部の人間、

という概念の演繹をしているだけで、僕には、自閉された空間を堂々巡りしているようにしか読めなかった。始めに、「内部の人間」ありきで展開する論旨の外に、李珍宇『手紙』は、秋山の手を逃れて自立している、と見えた。

参考文献;
大岡昇平他編『証言としての文学(全集現代文学の発見第10巻)』(學藝書林)

壮大な思考空間

I・カント(篠田英雄訳)『純粋理性批判』』を読む。

  

壮大な認識プロセスについての仮説といっていい。とうてい自分のような浅学、浅薄な輩の及ばぬ世界で、すべてを理解するのは、手に負えない。当たり前だが、あくまで、自分の中に残った感想に留まるほかはない。

たしか、ゲーテが、

われわれは知っている物しか目に入らない、

といった。この、知覚したものを、

表象、

といい、これを現実ではなく、

現象、

と、カントは言った。

「つまり我々が認識し得るのは、物自体としての対象ではなくて、感性的直観の対象としての物――換言すれば、現象としての物だけである」

ここから、人の認識プロセスの、

感性→悟性→理性、

の奥行きを徹底的に点検していく。

「感性によって我々に対象が与えられ、また悟性によってこの対象が考えられ」
「理性によって対象とその概念とを規定する」

あくまで、

実在、

ではなく、心の中の認識プロセスに徹頭徹尾貫徹していくところは、呆然、唖然、慄然とするしかないほどである。

「私がここに言う(純粋理性批判の)批判は、書物や体系の批判ではなく、理性が一切の経験にかかわりなく達得しようとするあらゆる認識に対して、理性能力一般を批判することである。」

と「序文」で述べている。批判とは、

純粋理性批判の法廷、

である、と。

ゲーテの言う、

知っている物しか目に入らない、

あるいは、さらに、誤解を恐れずに言うなら、

知っている物しか目に入らないことを知っている、

ことをも、カントは、

ア・プリオリ、

という。

「経験そのものが認識の一つの仕方であり、この認識の仕方は悟性を要求するが、悟性の規則は、対象がまだ私に与えられない前に、私が自分自身のうちにこれをア・プリオリに前提していなければならない。そしてかかる悟性規則はア・プリオリな悟性概念によって表現せられるものであるから、経験の一切の対象は、必然的にかかる悟性概念に従って規制せられ、またこれらの概念と一致せねばならない」

「つまり、我々が物をア・プリオリに認識するのは、我々がこれらの物のなかへ、自分で入れるものだけである」

からである。もちろん、

「私の感官に関係するような物が私のそとにあるということの意識は、私自身が時間において規定されたものとして存在しているという意識と同様に確実だということである」

が。

では、そうした内的プロセスで、

「悟性および理性は、一切経験にかかわりなしに何を認識し得るか、またどれだけのことを認識できるか」

が、本書の主要な問題であると、カントは述べる。ちなみに、カントの言う、

経験、

は、

「対象は我々の感覚を触発し或いはみずから表象を作り出し或いは我々の悟性をはたらかせてこれらの表象を比較し結合しまた分離して感覚的印象という生の材料に手を加えて対象の認識にする、そしてこの認識が経験といわれるのである」

と、つまり、

「認識は、すべて経験をもって始まる」

のである。

そして、対象を認識するというのには、

直観によって対象が与えられ、
悟性概念によって対象が、考えられる、

「即ち認識には、二つの要素が必要なのである」

と、そして、

「我々は、カテゴリーがなければ、対象を思惟することができない。またこの概念即ちカテゴリーに対応する直観によるのでなければ、思惟された対象を認識することができない」

と。ちなみに、ア・プリオリなカテゴリーとして、「分量」(単一性・数多性・総体性)、性質(実在性・否定性・制限性)、関係(付属性と自存性・原因性と依存性・相互性)、様態(可能・不可能、現実的存在・非存在、必然性・偶然性)を、アリストテレスに倣って、名付け、

かかる概念が経験を可能にする、

としている。ただし、

「純粋悟性概念は、常に経験的にのみ使用せられ得るものであり、決して先験的には使用せられ得ない」

とある。この場合、「先験的使用」とは、「この概念が物一般即ち物自体に適用されること」であり、「経験的使用」とは、「この概念が現象だけに適用されること」であり、

「悟性がア・プリオリになし得るのは、可能的経験一般の形式を先取的に認識することだけである――また現象でないものは経験の対象になり得ないから、悟性は感性の限界、つまりそのなかでのみ我々に対象が与えられるところの限界を踏み越えることはできない、ということである。悟性の諸原則は、現象を解明する原理にすぎない」

と。そして、規則を用いて現象を統一する、

「悟性の諸規則を原理のもとに統一する能力」

が、理性になる。理性は、

直截に経験やまたなんらかの規則を原理をもとに統一する能力、

である。当然対象ではなく、悟性と関わる。理性は、

推理の能力、

なのである。

「およそ推理には、理由となる一個の命題(大前提或いは大命題)と、これから引き出されるいま一個の命題(小前提或いは小命題)即ち推論があり、最後にこの推論の結果(理由と帰結との関係、結論)がある、そしてこれによって第二の命題(小命題)の真が第一の命題(大命題)の真と必然的にむすびつくのである。」

悟性の推理の場合、

「推論された判断が、第一の命題にすでに含まれていて、この判断が第三の概念(媒概念)によって媒介されなくても、第一の命題から導出される」

のに対して、理性推理の場合、

「結論を出すために、理由となる認識(大前提)のほかに、なお別の判断(小前提)を必要とする」

つまり、

三段論法、

を要する。つまり理性概念は、

推理によって得られた概念、

であるために、

正しい推論らしく見せかけて忍び込んだ、

詭弁的概念、

に陥る危険がある。

「理性の固有な原則は、一般に、悟性の制約された認識に対して無制約的なものを見出し、これらによってその統一を完成することである。だから、理性は無制約的なもの、すなわち原理の能力ではあるが、しかし対象と直接関係せず、悟性とその諸判断とのみ関係するから、その活動はあくまで内在的でなければならない。もし……認識の現実的な対象にまで高めようとするならば、それは悟性の概念を無制約的なものの認識に適用することによって。超越的となる」(シュヴェーグラー)

のであり、カントは、無制約的な推理には、論理学の、

定言的推理、
仮言的推理、
選言的推理、

から導き出して、

心理学的、
宇宙論的、
神学的、

と三つの理念に分ける。これは、「我々の表象のもち得る」関係が、

主観に対する関係、
現象における多様な客観に対する関係、
あらゆる物一般に対する関係、

であるが、この表象の綜合的統一をこととする理念は、

思惟する主観の絶対的(無条件的)統一を含み、思惟する主観(「私」)は心理学の対象、
現象の条件の系列の絶対的統一を含み、現象の総括(世界)は宇宙論の対象、
思惟一般の一切の対象の条件の絶対的統一を含み、物(一切の存在者中の存在者)は神学の対象、

とする理性推理に分野分けする。そして、その誤謬を、心理学の、

「私は多様なものをいささかも含んでいないような主観という先験的概念からこの主観そのものの絶対的統一を推論する。しかしこのような仕方では、私はかかる主観に関して如何なる概念も持ち得ない」

ので、この種の推理を、

先験的誤謬推理、

といい、宇宙論の、

「与えられた現象一般に対する条件の絶対的全体という先験的概念の設定を旨とするものである。そして私は、一方の側の系列の無条件的、綜合的統一について自己矛盾する概念を持つところから、これに対立する統一のほうが正当であるという推論をする。しかしそれにも拘らず私は、この統一についてなんら知るところがなく、従ってなんの概念ももち得ない」

という推理を、

アンチノミー、

といい、神学の、

「私に与えられ得る限りの対象一般を考えるための条件全体から、物一般を可能ならしめるための一切の条件の絶対的、綜合的統一を推論する、――換言すれば、単なる先験的概念によっては知り得ないような物から、一切の存在者中の存在者というようなものを推論する。しかし私は、超越的概念によってはかかる存在者を尚さら知り得ないし、またその無条件的必然にいたっては、それについてまったく知りようがない」

という推理を、

理想、

と名づける。その詳細をここで展開しても意味がないが、この「理性」の広大な広がりに魅せられ、埴谷雄高が『死霊』を着想したのは、有名である(『死霊』http://ppnetwork.seesaa.net/article/471454118.htmlについては触れた)。

「恐らく、思考の訓練の場としてこれほど広大な場所はないのである。勿論、この領域は吾々を果てなき迷妄に誘う仮象の論理学としてカント自身から否定的な判決を受け、そこに拡げられる形而上学をこれも駄目、それも駄目、あれも駄目と冷厳に容赦なく論破するカントの論証法は、殆ど絶望的に抗しがたいほど決定的な力強さをもっている。けれども、自我の誤謬推理、宇宙論の二律背反、最高存在の証明不可能の課題は、カントが過酷に論証し得た以上の苛酷な重味をもつて吾々にのしかかるが故に、まさしくそれ故に、課題的なのである。少なくとも私は、殆んど解き得ざる課題に直面したが故にまさしく真の課題に直面したごとき凄まじい戦慄をおぼえた」

と書いている(あまりに近代文学的な)。

僕は、誤謬推理の中で、コギト批判の部分に強く惹かれた。

我思う、ゆえに我あり、

である。ここに、

実体化、
単純化、
同一化、
物体と相互的、

の罠がある、と。

「私は、単に思惟するだけではいかなる対象も認識しない、対象の認識は、与えられた直観を意識の統一に関して想定することによってのみ可能である。そしてまたおよそ思惟は、かかる意識の統一によって成立する。それだから私は、思惟する私を直接に意識することによって、私自身を認識するのではない。私は、直観において与えられた私を、思惟の機能に関して規定されているものとして意識するときに、私を認識するのである。従って思惟における自己意識の様態は、いずれもそれ自体まだ対象に関する悟性概念ではなくて、単なる論理的機能にすぎない。しかしかかる論理的機能は、思惟に認識の対象をあたえるものではない、従ってまた私自身をも認識の対象として与えるわけにはいかない」

「われわれが思惟だけにとどまっている限り、我々は実体即ちそれ自身だけで自存する主観という概念を、思惟する存在者の自分自身に適用する必然的条件をもたない」

「『私は考える』という命題は経験的命題であり、この命題はまた『私は実在する』という命題を含んでいる。しかし私は、『思惟する一切のもの(存在者)は実在する』と言うことはできない、もしそうだとしたら。『思惟する』という特性が、この特性をもつ一切の存在者を必然的存在者にすることになるからである。従って私は私の実在を、『私は考える』という命題から推論されたものとみなすことはできない、ところがデカルトはそれができるとおもったのである」

「それだから私が思惟によって表象するところの『私』は、あるがままの私でもなければ、私に現れるままの私でもない、この場合の私は、客観を直観する仕方を度外視して、自分自身を客観一般としてのみ考えるのである」

と。「われ思う」は、自己意識である。そのことで、実体としての私の存在の証明にはならない。あくまでデカルトは、

そのように意識している我だけはその存在を疑い得ない、

ところに力点を置き、自我の自立を想定していたのかもしれないが。しかし、この心の作用の実体化は、今日も根強い。「我思う」は、

「単なる意識、すなわちあらゆる表象および概念に伴ってそれらを統合し担っているところの心の作用である。この思考作用が今や誤って物と考えられ、主観としての自我が客観、魂としての自我の存在とすりかえられ、前者について分析的に妥当することが後者へ綜合的に移されるのである」

と(仝上)。この綜合的と、分析的も、カント独特の用語である。

「述語Bが主語の概念の内にすでに(隠れて)含まれているものとして主語Aに属する」

ものを、

分析的、

といい、

「述語Bは主語Aと結びついているが、しかしまったくAという概念の外にある」

ものを、

綜合的、

という。主語Aから演繹できるものを分析的、主語Aを相対化し、俯瞰(帰納)しなくては、綜合的ではない。そこから、「我思う故に我あり」の、「我思う」に、分析的に「我あり」が含まれていなければ、「我思う」自体を相対化し、「我」の外から俯瞰しなくては、明らかにできない、というふうにも言えるのである。

参考文献;
I・カント(篠田英雄訳)『純粋理性批判』(岩波文庫)
A・シュヴェークラー『西洋哲学史』(岩波文庫)

日本的なるもの

大岡昇平他編大岡昇平他編『日本的なるものをめぐって(全集現代文学の発見第11巻)』を読む。

現代文学の発見、

と題された全16巻の一冊としてまとめられたものだ。この全集は過去の文学作品を発掘・位置づけ直し、テーマごとに作品を配置するという意欲的なアンソロジーになっている。本書は、

日本的なるものをめぐって、

と題された巻である。収録されているのは、

谷崎潤一郎『吉野葛』
室生犀星『かげろふの日記遺文』
宇野千代『おはん』
井伏鱒二『吹越の城』
滝口修造『北斎』
飯澤匡『箒(ははき)』
花田清輝『月の道化』
秋元松代『常陸坊海尊』
保田與重郎『日本の橋』
小林秀雄『無常といふ事』
坂口安吾『日本文化私観』
中野秀人『真田幸村論』
石川淳『秋成私論』
寺田透『和泉式部論』『和泉式部日記』序
杉浦明平『戦乱時代の回想録』
廣末保『盲目の景清』

である。

「日本的なるもの」という本巻のタイトル自体があいまいなため、古典や古典論、土俗にまでが入り込んでいて、何を指して、

日本的、

としているのかが、はっきりしない。少なくとも、

日本的、
あるいは、
日本的なるもの、

を直截に論じているものは、

保田與重郎『日本の橋』
坂口安吾『日本文化私観』
石川淳『秋成私論』

しかない。しかし、

保田與重郎『日本の橋』

は、日本の橋をめぐって他国のそれとは違うことを縷々述べているにすぎず、情緒過多の文章には辟易する。

「橋も箸も梯(はしご)も、すべてはしであるが、二つのものを結びつけるはしを平面の上のゆききとし、又同時に上下のゆききとすることはさして妥協の説ではない。(中略)神代の日の我国には数多(あまた)の天の浮橋があり、人々が頻りと天上と地上を往還したといふやうな、古い時代の説が反って今の私を感興させるのである。水上は虚空と同じとのべたのも旧説である。『神代には天に昇降(のぼりくだ)る橋ここかしこにぞありけむ』と述べて、はしの語源を教へたのは他ならぬ本居宣長であつた。此岸を彼岸をつなぐ橋は、まことに水上あるものか虚空にあるものか。」

「そして日本の橋は通の延長であつた。極めて静かに心細く、道のはてに、水の上を超え、流れの上を渡るのである。ただ超えるといふことを、それのみを極めて思ひ出多くしようとした。」

「日本の文学も日本の橋も、形の可憐なすなほさの中で、どんなに豊富な心理と象徴の世界を描き出したかといふことは、もう宿命のみちのやうに、私には思はれる。それは立派な建造としての西洋や支那の橋とちがつてゐた。まづ寒暑を思ひ、その風景の中を歩いてゆく人を考へて、さういふおもひやりを描き込んだやうな日本の絵と、芸術といふ非情冷血のものにふさはしい異国の絵は異なる筈である。日本の古代の橋が百姓に閑暇な九月十月のころの傭で作られたやうなことも、異国の政治文化とひきくらべると、まことに雲泥の差があらう。あの茫漠として侘しく悲しい日本のどこにでもある橋は、やはり人の世のおもひやりと涙もろさを芸術よりさきに表現した日本の文芸芸能と同じ心の叙情であった。」

こんな、条理も合理も論理をも、情に呑み込むようなところであろう。これが、保田の考えた、

日本的なもの、

である。しかし、多く、日本的なものを辿ると、それは、ほとんど、

中国という臍の緒、

にたどり着く。四季の感覚、情緒、節句、正月という民俗、ほとんど中国に由来する。日本的情緒とされるもの自体、日本人は、漢詩から学んだ結果だ。たとえば、白居易、

慈恩の春色 今朝尽く
尽日徘徊して寺門に倚る
惆悵す春は帰りて留め得ず
紫藤花の下 漸く黄昏

『和漢朗詠集』に収められたせいもあり、春の心情に決定的な影響を与えた、という。後の、

待てといふに留まらぬものと知りながら強ひてぞ惜しき春の別れは(詠み人知らず)

君にだに尋はれてふれば藤の花たそがれ時も知らずそありける(紀貫之)

草臥て宿かる比や藤の花(芭蕉)

等々、春、黄昏、藤の花、に同じ光景を見、同じ心情を懐く。それを日本的というが、ほとんど中国の漢詩から、その叙情を学んだのであるhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/406252031.html?1412021752

その意味で、文字をもたなかった我々祖先が、

平仮名、

片仮名、

を作り出した。そして、漢字を、

真名、

と呼んだ。祖先は、それから学んだ、仮の文字であることを知っていたからである。仮名は、本来、

かりな、

と訓んだのであるhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/441386581.html。仮名は、漢字を和語に合わせて、日本化した文字である。その意味で、僕は、

日本的なるもの、

を探るのは意味がない、と思っている。むしろ、「日本的なるもの」は、

日本化、

にこそ、ある。日本的な代表である、

浮世絵、

も、唐絵を意識して生まれた「大和絵」の流れをくむ。その意味で、

日本的なるもの、

を考える鍵は、

日本化、

にあると思う。

石川淳『秋成私論』

は、まさに、それを語っている。

「秋成の怪異譚というものは、中国の文学様式が日本に影響してきたそのはてに生まれた、日本の発明と考えられます。(中略)怪異譚という短編様式が日本で成立したとは言えない。……やはり短編として様式が成立したのは秋成の『雨月』に至ってそれがはっきりしたわけです。」

「秋成の文章は、たとえば…『白峯』の書き出しをとってみても、見かけに依らず、これが美文的構成になっていない。(中略)この文章は今でも生きてうごいている。これをうごかしているものは、調子だのクサリだのではなくて、まさにことばのエネルギーです。一行書くと、その一行の中に弾丸のようなものがひそんでいて、つぎの一行を発射する。そして、またつぎの一行。それからそれと、やがて月の世界までもとどくでしょう。ことばのはたらきとして、これは後世にいうところの散文の運動に近似するものです。すでに『雨月』の当時にあって、秋成の美文は散文の萌芽を内にひそめていたといっても、大していいすぎではないでしょう。」

まさに、この、

日本化の発明、

こそが、

日本的なるもの、

そのものではあるまいか。

坂口安吾『日本文化私観』

の痛快無比の論旨に賛成である。

「タウトが日本を発見し、その伝統の美を発見したことと、我々が日本の伝統を見失いながら、しかも現に日本人であることとの間には、タウトが全然思いもよらぬ距りがあった。即ち、タウトは日本を発見しなければならなかったが、我々は日本を発見するまでもなく、現に日本人なのだ。我々は古代文化を見失っているかも知れぬが、日本を見失う筈はない。日本精神とは何ぞや。そういうことを我々自身が論じる必要はないのである。説明づけられた精神から日本が生まれる筈もなく、又、日本精神というものが説明づけられる筈もない。日本人の生活が健康でありさえすれば、日本そのものが健康だ。」

と。そして、こう結論する。

「そこに真に生活する限り、猿真似を羞じることはないのである。それが真実の生活である限り、猿真似にも、独創と同一の優越があるのである。」

と。これこそが、

日本的なるもの、

である。

参考文献;
大岡昇平他編『日本的なるものをめぐって(全集現代文学の発見第11巻)』(學藝書林)

「仁政」期待

深谷克己『百姓一揆の歴史的構造』を読む。

本書は、著者の、

百姓一揆関係の論稿を加筆・訂正してまとめたもの、

であるため、全体が一貫したものとして展開されているわけではないが、

問題の立て方、問題への接近の仕方の共通性というものがある、

とし、著者自身が「序章」で、

それを一言でいうと、百姓一揆史の研究は幕藩制史研究に緊密に結びつけられていなくてはならないといつも思い、また心がけてきた、ということである。……その統一の意味は、(中略)百姓一揆史における、一揆そのものの特徴を掘りさげていくことをつうじて幕藩制国家史や幕藩制社会史へ可能なかぎり架橋していく、あるいは一揆史から百姓論・小農論の見なおしにまで至り、また農民の個人史にまで分けいっていく、ないしはそれらの考察が同時的であるような一揆史のとらえ方をしていく、というような意味である。

と述べている。そのことは、たとえば、

百姓一揆の「中心原理」は直訴(越訴)と制裁、あるいは直訴の原理と制裁の原理の二つである……。つまり、強訴は直訴の原理に支えられ、打ちこわしは制裁の原理にささえられるのである。そして、直訴の原理は国家の支配の方式と深く関連しあい、制裁の原理は共同体の維持の方式と深く関連しあっている。直訴と制裁の意味は、その対極的な解決方法としての内済(示談・和解)とつきあわせてみるとより鮮明になる。幕藩制下では、内済は国家と共同体を持続させる重要な方式―強制をともなう―だったが、この内済原則と直訴の原理、制裁の原理は対抗の関係にあって、内済原則の破れ目から百姓一揆の直訴と制裁が噴きでてくるとも言えるのである。
したがって、百姓一揆の「中心原理」を深く解明していこうとすれば、どうしても国家の歴史と共同体の歴史へ拘らざるをえなくなる。国家論・共同体論と交接しない百姓一揆論はなりたたないのである。

という説明からも明白である。

本書は、

第一部 百姓一揆の運動と意識
第二部 島原・天草一揆の位置
第三部 百姓一揆の成立と展開
第四部 世直しへの展望
第五部 百姓一揆の研究視角

の五部に編成されているが、

論稿の寄せ集めなので、多少の重複はやむを得ないとしても、

第一部 百姓一揆の運動と意識
第二部 島原・天草一揆の位置
第三部 百姓一揆の成立と展開

を整理して、一貫性を持った一揆論にまとめなおすることはできなかったのか、と疑問に思う。多くの研究書が、論稿を寄せ集めてお茶を濁すという感じなのは、どういうことなのだろう。

僕個人の関心は、かつては、

「自力救済」http://ppnetwork.seesaa.net/article/467902604.html

で触れたように、大山崎の油商人、米商人、土倉・酒屋等々は、

惣中、

という自律的組織(「所」と呼ぶ)をつくり、みずからの領域内の諸問題を自律的に解決する能力を獲得し、構成員からも、外部勢力からも「公」的な存在と認められるようになったし、また、

「小さな共和国」http://ppnetwork.seesaa.net/article/468838227.html

で触れたように、小さな村ながら、乙名を指導者とする行政組織を持ち、在家を単位とする村の税を徴収し、若衆という軍事・警察組織を持ち、裁判も行い、村の運営を寄合という話し合いで進め、そのため構成員は平等な議決権を持つ、自治の村落、

惣村、

をつくり、住民の家を保護することを目的に、中世の村の、

自力救済、

を原理として、

領主−村関係、

自体が、支配関係ではなく、

契約関係、

としようとしてきた。だから、

「領主が地下のために“奉公”した時は地下は年貢を納めるべきである」

という年貢の概念をもち、

「自力救済…の道はリスクが大きいことも認識しているのである。平和確保の“しんどさ”、それが有償でも武士を雇う関係を時に生み出すのである。在地の人々にしてみればそうした保護機能こそ領主に期待した。領主がそれに応えてくれるからこそ年貢も出すのである」

というものであった。場合によっては、

「サバイバル」http://ppnetwork.seesaa.net/article/463189273.html

で触れたように、

「敵軍におおくの米や錢を支払って『濫妨狼藉停止(ちょうじ)』の禁制や制札」

を買い取り、さらに、敵味方の境目の村々は、

「敵対する双方の軍に、年貢を半分ずつ払って両属(半手・半納)の関係」

を結ぶことで、

「村の平和」

を買い取っていた。さらに、

「隠物・預物」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464048075.html

で触れたように、領主の城は、村人の避難所として、

地域の危機管理センター、

としての役割を託してきた。だからこそ、年貢を払ったのである。しかし、豊臣政権の太閤検地、兵農分離、それを受け継いだ徳川政権の幕藩体制下で、かつてのそうした領主は、

鉢植化、

し、全国へ移封、転封され、縁もゆかりもない領主が、自分たちの上に落下傘のように降りてきた。それでもなお、かつてと同様に年貢を納めた原理は何なのか、が僕には興味があった。

幕藩体制下の一揆では、自力救済は消え、

百姓共永々相続、御百姓相勤、

と自己認識し、

以御愛隣御救ひ被下置候、

と懇願に転換する意識の転換は何によってもたらされたのか。

その転換期にあるのが、島原一揆のようである。太閤検地、兵農分離に際して、国人、土豪層の一揆が、

天草国人一揆、

等々の一揆とは異なるが、有馬旧臣、小西旧臣が在地化し、まだかつての在地領主としての力を集落に温存していた、ということが背景にある、と僕は見るが、著者は、新たな領主として移封してきた松倉・寺沢は、

大名一円支配、

を目指し、

旧土豪層の在地先制支配力の政治的解体を意味し、……本来的な国人・土豪一揆の成立は不可能な段階に立ち至った……。(中略)生産農民の側からいえば、なによりも村落から領主的核が失われてしまい、そのかぎりで領主権力に対して相対的に自立性をもつ生産共同体が獲得され、新しい村落秩序が生みだされる出発点にたちえた…。(しかし)余りも早く(藩権力が)集権化されて、かえって深く在地性を喪失した藩権力の脆弱性からくる焦燥の暴力的収奪の結果が、農民の必要労働部分にまでくいこみ(囲炉裏銭、窓銭、棚銭、戸口銭、死人に穴銭、生子の頭銭等々)、……農民の窮乏がしいられた

結果が招いたという、幕藩体制確立期の矛盾が生み出したもの、と見る。しかしその説明では、一揆参加の村々の多く(有馬領南目の村々)が一村挙げて、女も子供まで参加し、この一揆だけが、江戸時代の一揆の中で、

「宗教王国」実現を願望、

し、

百姓の国、

を目指すという、目的意識を持ったものだったことの背景には、十分迫り得てはいない気がする。

しかし、この一揆を転機に、

幕藩体制的な「御百姓」意識が社会化、

されていくことになる。この時期、年貢の村請制を契機に、年貢負担者を増やすという方向で、

隷属身分農民層、
小百姓層、

の、小農経営が前進していく。それには、

年貢・諸役皆済(「取立(とりたて)」)……のためには、農民を土地に緊縛し(「有付(ありつけ)」)、その経営を維持させる(「成立(なりたち)」)ことが不可欠、

となる。こうして、

小農経営の、領主による強度の収奪ゆえの不安定さを基本的な根拠として、経営維持のための領主による直接の助成米金、さらに年貢未納用捨分、引免分、さらには土地丈量の縄延分、川除工事等々が、領主の「御仁恵」(「御愛隣」「御憐愍」「御慈悲」等々)という人格的な倫理的基礎に由来する「御救」として、社会化されていったのである。幕藩領主の全剰余労働収奪は、一方での「収斂」と、他方での「御救」の矛盾的統一によって農民から最大限収奪を実現するということにほかならなかったが、幕藩イデオロギーは、そのような現実的関係をとり結ぶ領主と農民を、「お救」を基軸的媒介とする「仁君」と「御百姓」の「仁政」論的意識関係として思想化していくことで形成された。このような治国・養民を使命とする「仁君」と上納・養命を使命とする「御百姓」を両極とし、それを身分関係として結合させる領主および農民の規範的な身分的階級的自己認識および関係意識の理念化された総体は、幕藩制国家の支配思想としての幕藩的「仁政」イデオロギーと呼ばれるべきであるが、それは、(中略)村請制村落の成立を基盤とする、いわゆる村請教化制の実現ともいうべき、この時期の系統的な触書・法度の読聞せ、その請書への連印等の具体的なイデオロギー編制過程において社会化されたのである。

だとして、とっかえひっかえ、かつての領主とは違い、ただ鉢植え化した縁もゆかりもない領主にまで、「仁政」を期待して、年貢を納め続ける、というのは、かつて安全の担保に領主に納税していた意識と、確かにどこか通底するといえなくもない。期待は空手形になっても、直訴、強訴しかとりえないというのは、自力救済とは格段に違うように見えるが、心性としては、他人頼みという意味で似ている。それを奴隷根性というのはいいすぎだろうか。

この「仁政イデオロギー」「仁君」への期待は、水戸黄門を見るまでもなく、大衆化され、いまだ隅々にまで我々の心の奥底にまで浸透している気がする。

この「仁政」期待の心性は、そのまま、維新後、

日本国家の支配イデオロギーとして近代天皇制イデオロギー、

へと接続し、やはり「仁政」「仁君」を期待し、いまだに、日本人を縛り付けている気がする。お上意識、あるいは、お上に逆らうことへの心理的抵抗は、他方で、

仁政、

を期待する他力頼み、御上頼みの奴隷根性につながっている気がしてならない。

ただ、本書では、その機微を深奥まで突き止めるのは任でないとはいえるが、いささか説明のみで終わって、まさにその核心である、

系統的な触書・法度の読聞せ、その請書への連印等の具体的なイデオロギー編制過程、

そのものを、具体的、かつ綿密に掘り下げていないのは、

百姓一揆史の研究は幕藩制史研究に緊密に結びつけられていなくてはならない、

という問題意識のわりには、具体的な追求不足は否めない。

参考文献;
深谷克己『百姓一揆の歴史的構造』(校倉書房)
仁木宏『戦国時代、村と町のかたち』(山川出版社)
蔵持重裕『中世村の歴史語り―湖国「共和国」の形成史』(吉川弘文館)
藤木久志『城と隠物の戦国誌』(朝日選書)
藤木久志『戦国の村を行く』(朝日選書)

政治と文学

大岡昇平他編『政治と文学(全集現代文学の発見第4巻)』を読む。

現代文学の発見、

と題された全16巻の一冊としてまとめられたものだ。この全集は過去の文学作品を発掘・位置づけ直し、テーマごとに作品を配置するという意欲的なアンソロジーになっている。本書は、

政治と文学、

と題された巻である。収録されているのは、

中野重治『五勺の酒』
武田泰淳『審判』
野間宏『顔の中の赤い月』
椎名麟三『深尾正治の手記』
田中英光『地下室から』
井上光晴『書かれざる一章』
佐多稲子『夜の記憶』
倉橋由美子『パルタイ』
真継伸彦『石こそ語れ』
本多秋五『芸術・歴史・人間』
荒正人『原子核エネルギー(火)』
林達夫『反語的精神』
平野謙『政治と文学』『「政治の優位性」とはなにか』
福田恆存『一匹と九十九匹と』
中野重治『批評の人間性』
竹内好『日本共産党批判』
小林秀雄『政治と文学』
伊藤整『組織と人間』
埴谷雄高『政治の中の死』
奥野健男『「政治と文学」理論の破綻』
針生一郎『「革命運動の革命的批判」の問題点』
佐多稲子『松川無罪確定の後』
高橋和己『政治と文学』

である。戦後の様々な局面で論争されてきた「政治と文学」だが、今日、文学作品として、読むに堪えうるのは、

倉橋由美子『パルタイ』
真継伸彦『石こそ語れ』

のみである。『パルタイ』は、非常に意識的に抽象化された視点、言い変えると、遠くから眺めているために、一種、

パロディ、

であるが、「証言として文学」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473706547.htmlで触れた、長谷川四郎『シベリヤ物語』と似た手法である。そこで、

独特の雰囲気を醸しだしている。シベリア抑留中の俘虜生活を描きながら、どこかメルヘンのようにふんわりした雰囲気を作りだしている。それは、作家の視点にあると思う。たしか、チャップリンが、

人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ、

といったことを思い出す。別に描写の視点が俯瞰にあるのではなく、作家の登場人物に対する距離の置き方が、ロングショットであることによる。あるいは、変な言い方だが、作家の感情は遠くにおいて、ひとごとのように、書いている。

昔々あるところに、

と同じ語り口である。悲惨さは、その距離で漉されている、

と書いたことが、ここでも当てはまる。その距離が、感情をも、漉す。

真継伸彦『石こそ語れ』

は、どちらかというと、私小説の流れの書き方の多い「プロレタリア文学」系の作品に対して、意識的な方法、

死につつある転向者、

に視点を置いた、その、

独自の方法、

がよい。多少作為的なところは、やむを得ないが、文学とは、

何を書くかではなく、どう書くか、

であるという見本のような作品である。

他の作品は、その時代背景抜き去ると、文学作品として、ほとんど読むに堪えない。

本巻は、「政治と文学」と題しただけに、評論が多いが、政治の季節の時代、右も左も、ほとんど作品として、大したものがなかった、ということだろう。井上光晴は、

どう描くか、

を獲得して以降、『ガダルカナル戦詩集』『虚構のクレーン』『死者の時』『地の群れ』等々で、おのれを示した。むしろ党派性にかかずらう以上に、政治と直面しているし、あるいは戦時下発禁を食った、石川淳「マルスの歌」こそが、本巻に納められるにふさわしいと思う。

「政治と文学」は、何も、マルクス主義文学運動、だけではないはずである。戦時下、軍部のお先棒を担いだ文学者たちの作品だってあるはずである。それはちょうど裏表の関係なのだ。たとえば、

作家同盟解散後、党の政策の下請け機関と化した芸術運動に愛想づかしをし、作家の実践は創作以外にないと叫んだ徳永直、林房雄、森山啓らは、やがて革命運動そのものからはみだして、支配機構の網の目に期辛味取られていったのである(「革命運動の革命的批判」の問題点)。

確かに、高橋和己の言うとおり、

「私自身も、文学の自律性というものに関する過大な幻想はもたないほうがいいと考えている。権力というものは、虱をおしつぶすように人間をおしつぶすことぐらい朝飯前にできるものであり、文学者の精神を鞭と牢獄、あるいは幣束ではりとばして、ねじまげることぐらいは残念ながら簡単にできることである。ちょっと節操を守ることすら、どんなに恐ろしい犠牲を覚悟せねばならないかということに無智な、大義名分論を、私はあまり信用しない。

その通りである。しかし、ここでは、

文学者の仕事、

文学の仕事、

がごちゃごちゃになっていないか。文学者は押しつぶされるかもしれないが、文学は押しつぶされない。文学は、虚構の世界である。政治的圧迫があっても、「マルスの歌」発禁後、「一休咄」「曽呂利咄」等々の世界に進んだ石川淳がいい例だ。林達夫が言うように、

思想家の今後にのこされた道は、牢獄と死とのソクラテスの運命を甘受するか、でなければデカルトのように仮装された順応主義のポリティークをとる以外にはない……、

のである。それを、

コンフォルミスム・デギゼ(仮想せる順応主義)、

と、林は名づける。戦時下、

哲学には、今や隠退するか、討死するか、でなければ何らかの形のコンフォルミスムの道に歩み入るか―この三つの途しかのこされていません、

が、

思想闘争は猪突や直進の一本調子の攻撃に終始するものではない。また終始してはならない。そんなことでは、それは警官の前で、戦争絶対反対!と叫んでその場で検束されてしまう。あのふざけ者のタダイストと、結果的には一向変わりなく、道行く群衆はただ冷然とそれを見送るだけのことだ。もちろんそのような英雄主義を、私はいちがいに貶そうとするものではない。ただそれは私の好みではなく、また思想闘争には個性の数だけ先方があるということである。

と(反語的精神)。それをするのは、現実の文学者である。そこで、文学の仕事として、

どう書くか、

が問われてくる。

参考文献;
大岡昇平他編『政治と文学(全集現代文学の発見第4巻)』(學藝書林)

日本人の食生活

渡辺実『日本食生活史』を読む。

類書が少ないせいか、随分前(1964年)に上梓された本だが、新装版が出ている。本書は、「我が国の食生活史の時代変遷」を、以下のように、「便宜上区分して」、

自然物雑食時代(日本文化発生−紀元前後) 先土器・縄文時代
主食・副食分離時代(紀元前後−七世紀) 弥生・古墳・飛鳥時代
唐風食模倣時代(八世紀−一二世紀) 奈良・平安朝時代
 貴族食と庶民食の分離 奈良時代
 型にはまった食生活 平安時代
和食発達時代(一三世紀−一六世紀) 鎌倉・室町時代
 簡素な食生活 鎌倉時代
 禅風食の普及 室町時代
和食完成時代(一七世紀−一八世紀) 安土・江戸時代
 南蛮・シナ風の集成 安土・桃山時代
 日本料理の完成 江戸時代
和洋食混同時代(一九世紀−現在) 明治・大正・昭和の時代
 欧米食風の移入 明治・大正時代
 現代の食事 昭和時代

ほぼ一万年にわたる日本の食生活史である。

まず、先土器・縄文時代は、

「何千年にもわたる時代であって、北方系・南方系の両文化がわが列島においてたくみに混合調和している。…この時代は狩猟生活が中心であり、漁撈も行われ、自然物採集」

の時代である。

「日本語と同系統のものは琉球語だけである…。そして日本語がアルタイ諸言語や朝鮮語と同系であるとしても、それと分離したのは六・七千年より古いことであって、そのような太古に日本人の祖先が国土に渡り来たり、この国土で独自の発達をとげたものであると考えられる…。(中略)このように日本民族は単一の人種系統に属するものではなく、石器時代において多くの種族が渡来し混血が行われ、そこに南北両系統の文化が混合し、その後の歴史時代に入っても異質文化をたえず摂取してこれと同化した」

という特質は、ある意味、これ以降の日本の文化すべてに言える、今日まで蜿蜒と続く特色となる。

弥生・古墳・飛鳥時代は、

「金属器と稲作農業の登場によって、農耕が主な生業となり、食生活が安定し、そこに富の蓄積が始まり貧富の差を生じ、貴族と農奴階級が分離して氏族制度が完成する。特に朝鮮半島から仏教・儒教とともに種々の文化が輸入され、食生活も半島のそれを上流階級が模倣し、輸入した時代」

である。特に、紀元前三世紀ごろの、稲作のもたらした衝撃は、

日本史上のいかなる変革にも劣らぬ深刻なもの、

であった。

まず北九州の海岸地帯にはじまり、紀元前一世紀には近畿地方に入り、紀元三世紀の終わりごろには関東地方にもおよび、やがて縄文文化は消滅した、

と。

奈良・平安時代は、

隋や唐と正式に国交がひらかれ、その影響がいよいよこの時代にわが国の文化の様相にいちじるしく洗われる時代、

である。

「貴族階級は奢侈的な唐様食を取り入れることに熱心であった。庶民階級は……貧窮生活者が多く、食生活も粗食であった」

とあるが、孝徳天皇のころ、牛乳が登場し、天智天皇の頃には、官営の牧場をおいて、牛を飼育し、管理する乳戸が置かれ、煮詰めた「酪」(ヨーグルトの類)や「蘇」(バターとチーズをまぜたようなもの)があり、奈良時代、

毎年全国から蘇が朝廷に貢として送られ、乳戸からは毎日新鮮な牛乳がおさめられた、

という。平安時代になると、九世紀末以降遣唐使が廃止され、模倣から独自の文化になっていくが、

「貴族の生活は先規洗例を尊重し、故実と称して旧慣を反復する形にはまった形態となった。彼等の食膳は調味や栄養よりも、盛り合わせの美を尊重する、いわゆる見る料理を育成することになった」

とある。この形式的なものが、

日本食の性格を後世まで規制する源泉、

となったらしい。

鎌倉時代は、

「武士階級…の活動の原動力となったのは、簡素な食風ではあるが、玄米食と獣肉を自由に摂取し、その上に精進料理を加えた食生活であり」

そこに、

和食の完成、

の第一歩を踏み出し、和食発達の素地をつくった、

とされる。

室町時代は、

「喫茶を中心とする食文化が日常化され、末期になると西欧食品・砂糖が移入される。中国からは饅頭・豆腐が輸入され、味噌・醤油の調味料もでき」、

日本風の食品や食生活が発生・発展する、

時代となる。この時期、農業技術の改善・農作物の改良などによって、生産が向上、米のみならず、雑穀、野菜類も豊富になり、この時期、牛蒡・蕗・名荷・芋・胡瓜・里芋・山いもの他、

西瓜、
まくわ瓜、
葡萄、
蜜柑、

なども地方の名産品として現れてきた。この時期の特質は、

食事作法、

について、伊勢流、小笠原流などの流儀ができ、たとえば、飯の食べ方にまで、

「左先を一箸、右を一箸、向を一箸、三箸を一口に入て食ふ也、我が所にて向左右と喰ふ也」

といった具合(今川大雙紙)である。宴席についても、

式三献、
七五三膳・五五三膳・五三三膳、

といった、今日の会席料理や三々九度、駆けつけ三杯に残る作法が形式化された。

安土・桃山時代は、

てんぷら、
蒸留酒、
コンペイトウ、
カステラ、
ビスケット、

等々

中国・朝鮮・東南アジアおよび南蛮から作物・食品・調理法が輸入され、これが集大成されて、

江戸時代の和食完成、

の実現に至ることになる。そして、圧巻は、江戸時代である。

「町人が経済的に勢力を得るに至ったので、武士と町人との両階級の嗜好を入れた食生活が形成される。さらに、新たにシナ風・西欧風のものがとりいれられたために、元禄・化政期には」、

和食、

が完成することになる。

「食事回数の三回は上下の階級に普及し、菜食を主とし、獣食をしりぞけ、魚肉が重視され、精細な味覚と美しい食膳や、精進料理が尊重される」、

日本式の食生活、

が完成する。

居酒屋、
飯屋、

をはじめとする飲食店が出現し、江戸では、

屋台店、

も繁盛、今日の、

鮨屋、
うどん屋、
蕎麦屋、

等々はこの時期から始まる。江戸時代に出来た食生活、飲食店は、ほとんど今日につながっているのを強く印象付けられる。

さて、明治以降洋風化が浸透するが、現代で面白いのは、

学校給食、

である。学校給食は、

明治二十二年十月に山形県鶴岡市の市立忠愛小学校で、仏教の慈善団体によって実施されたのが最初である。当時は貧困児童に対し就学奨励の意味から行われたものである、

それが全国に広まり、昭和七年には、國が直接学校給食を援助することをはじめ、

当時経済不況によって欠食児童が多くなり、これらの児童の体力低下を防ぎ就学を奨励するために実施された、

ものであり、十六年からは、

身体虚弱児・栄養不良児等に対して栄養を補給する目的から学校給食を開始した、

が、戦争で中断、戦後全校全生徒対象に改められ、今日に至っている。皮肉なことに、今日、その給食が唯一の栄養補給とする生徒が少なからずいる、という。日本は本当に豊かになったのであろうか。

参考文献
渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館)

テーマとしての「性」

大岡昇平他編『性の追求(全集現代文学の発見第9巻)』を読む。

現代文学の発見、

と題された全16巻の一冊としてまとめられたものだ。この全集は過去の文学作品を発掘・位置づけ直し、テーマごとに作品を配置するという意欲的なアンソロジーになっている。本書は、

性の追求、

と題された巻である。収録されているのは、

谷崎潤一郎「卍」
坂口安吾「私は海を抱きしめている」
室生犀星「遠めがねの春」
大江健三郎「鳩」
吉行淳之介「砂の上の植物群」
野坂昭如「エロ事師たち」
吉岡実「僧侶(抄)」
春日井健「未成年(抄)」
稲垣足穂「A感覚とV感覚」

である。

ここで、

性、

と言っているのは、解説の澁澤龍彦の言うように、

セクシュアリティ、

ではなく、

エロティシズム、

を指す。

「前者はいわば生物学的な概念、そして後者は多くの場合、心理学的な概念」

であり、

「心理学的な概念であるからこそ、エロティシズムは根文学をふくめた芸術一般の表現の問題と直接結びつくことが可能」

なのである。ちょっと変な言い方だが、

セクシュアリティ、

は、所詮状態表現に過ぎないが、

エロティシズム、

は、価値表現に関わる、と言い変えてもいい。だから、

「セックスはあくまで主題としてのみ文学に係わるのであって、エロティシズムのように、表現に伴って自然に発露してくるようなものではない、ということである。作家主体の側に、セックスが人間存在のなかで持っている意味を探ろうという、意識的な姿勢がなければ、ついにセックスは文学上の問題とはなりえない」

のである(澁澤龍彦「日本文学における『性の追求』」)。

しかし、ここに並ぶ作品は、発表当時、大変話題にもなり、評価の高かったものが多い。たとえば、

谷崎潤一郎「卍」
室生犀星「遠めがねの春」
吉行淳之介「砂の上の植物群」
野坂昭如「エロ事師たち」

しかし、今日、その主題においても、表現スタイルにおいても、いささか古めかしく感じてしまうのは、「性」に関して、時代がはるか先へ行ってしまっているからなのかもしれない。例は悪いが、大島渚の晩年の「性」を主題とする作品群、「戦場のメリークリスマス」はともかく、

愛のコリーダ、
愛の亡霊、
マックス、モン・アムール、
御法度、

が時代に追い抜かれてしまっていたことと似たことを感じる。もちろん、発売当時と今との半世紀近い時間差故だが、今日、このテーマは、その主題だけで、時代と拮抗するすることは難しい、と僕は思う。その意味で、当時新鮮だった、野坂の語り口も、今や陳腐化しているように、文体や、語りの構造だけではカバーしきれないものがある気がする。

その意味で、散文の陳腐化に比べ、詩や歌のもつ抽象度は、時代の中で、なお屹立しているのに驚く。春日井の、

大空の斬首ののちの静もりが没ちし日輪がのこすむらさき

学友のかたれる恋はみな淡し遠く春雷の鳴る空の下

童貞のするどき指に房もげば葡萄のみどりしたたるばかり

若き手を大地につきて喘ぐとき弑逆の暗き眼は育ちたり

澄む眼して君も雑踏を歩みゐむ泉水をめぐり別れしふたり

海鳴りのごとく愛すと書きしかばこころに描く怒涛は赤き

略奪婚を足首あつく恋ふ夜の寝棺に臥せるごときひとり寝

髪きつく毟るばかりにさみしくて青銅時代はながし

武骨なる男の斧にひきさかれ生木は琥珀の樹液を噴けり

夕映えの街を暴走する車愛語に倦みし気流を裂けり

等々。散文で書くと、ちょっとドン引きしそうなことが、韻律の中で、かえって凛として立つ感じがある。ある意味韻律の中に紛れることで、辛うじて、陳腐化を免れ、半世紀を経ても、まだ読むに堪える。

本巻の中で圧倒的な存在感を示すのは、

吉岡実「僧侶(抄)」

だ。戦後詩の中でも、屹立する「僧侶」だが、現実から切り離され、まさに、自立した、

言語空間、

に立つ世界は、それ自体が、永遠の生を持つように、今なお、リアルに問い続けて、今日の現実とも対峙し続けているように見える。それは、何かのアナロジーや象徴であることを拒絶するように、一つの世界像を示し続けているように見える、「四人の僧侶」は、

四人の僧侶
庭園をそぞろ歩き
ときに黒い布を巻きあげる
棒の形
憎しみもなしに
若い女を叩く
こうもりが叫ぶまで
一人は食事をつくる
一人は罪人を探しにゆく
一人は自瀆
一人は女に殺される

で始まり、最後は、

四人の僧侶
固い胸当のとりでを出る
生涯収穫がないので
世界より一段高い所で
首をつり共に嗤う
されば
四人の骨は冬の木の太さのまま
縄のきれる時代まで死んでいる

で終わる。浅薄な解釈を峻拒するように立ち尽くしている。

参考文献;
大岡昇平他編『性の追求(全集現代文学の発見第9巻)』(學藝書林)

成仁

武田泰淳『秋風秋雨人を愁殺す:秋瑾女士伝』を読む。

秋瑾(しゅうきん)、字は、璿卿(せんけい)、号は競雄。鑑湖女俠と自称した。浙江(せっこう)省紹興の人。清末の女性革命家である。タイトルの、

秋風秋雨人を愁殺す(秋風秋雨愁殺人)、

は、彼女の絶命詞と伝えられる。しかし、本書によると、「秋瑾集」では、

秋雨秋風、

となっており、当時の新聞紙上でも、みな、

秋雨秋風、

となっているし、西湖畔に建てられている記念碑も、

秋雨秋風、

となっている。彼女の親友呉燦芝のみが、

秋風秋雨、

としている、とか。

日本留学中に光復会に入り、浙江で武装蜂起を計画したが、発覚して捕縛された。

取り調べに際して、

秋風秋雨愁殺人、

とのみ書き記しただけで、何の発言もせず、

秋女士は「革命党人は死なぞおそれやしない。殺したければ殺すがいい」と豪語して、歯をくいしばり目をつぶり、酷刑(ごうもん)にたえているので、革命側の秘密をさぐり出せぬ幕友(書記とか秘書の役で政治家につきそう知識人)は、仕方なくなり、ニセの供述書をこしらえ、それに無理やり指の印をおさせた。

という。翌日六月六日午前四時に、斬首された。

本書には、秋瑾だけではなく、それと連携し、僅か前の五月二十八日蜂起した、徐錫麟についても、詳しく触れている。

徐錫麟、字は伯蓀、号は光漢子。浙江省山陰県出身。彼は、

安慶起義を計画、巡警学堂の卒業式典に際し恩銘を殺害、清軍と4時間にわたる戦闘を展開したが、圧倒的な武力の清軍に破れ捕虜となった。裁判に際しては満族駆逐を志すこと10年にして目的を達したと陳述、翌日生きながらに割腹される酷刑により死刑となった、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%90%E9%8C%AB%E9%BA%9Fが、本書には、

たまたま藩、県、道の三長官ならびに幕友が、みな紹興の生まれ、つまり錫麟とは同郷であった。殺すにしてもそれほど長時間の苦痛をあたえたくない。そこで、あらかじめ徐錫麟の陰嚢を打ちやぶってしまったので、割頭剖心(生体解剖をして、胸部を裂き心臓をひきずり出す)のむごたらしい手術(死刑)が行われるときには、すでに犯人は、感覚も失った冷たい物体と化していたのだそうである。

とある。この背景には、

山陰の知県の李宗嶽(おそらく、これは李鐘嶽のことではなかろうか)が、「秋瑾ヲ殺シタルガタメニミズカラ縊レ死ス」という……。

清朝の官吏(漢人)のなかにも、満州族の支配に反感をいだきつつ、しかも漢人革命家をころさねばならぬ立場に立たされ、結局、手を汚してからあと自殺するハメになった男はいたのである。また、そのような、うしろめたい汚れた手をもちつづけるのを拒否して、あらかじめ革命派に加勢していた、コミットしていた官吏諸君も、いるにはいたのである。たとえば、金華の鎮台提督だった蕭という男(名は不明)は、この二大事件(秋と徐の蜂起)のさい龍華会に関係があったため、刀を用いて自殺している。

等々といった漢人の支配層にも複雑な心理状態があった。ちなみに、「龍華会」とは、

別名を龍半山と称し、本部を金華におき、秋瑾が義軍の旗あげを企てるさいに、もっともたよりにし、この会を、大本営とする予定であった。

とある。秘密組織である。

これは、1907年のことである。武昌で武装革命が成功し、孫文が新政府の大総統にえらばれたのは1911年のことになる。いわば革命の魁であった。烈士を形容する言葉に、

成仁(仁を成す)、

がある。身を殺して仁を成す意である。まさに秋瑾は先駆であった。

魯迅は、1925年、「『フェアプレイ』は早すぎる」で、こう書いている。

「秋瑾女子は、密告によって殺されたのだ。革命後しばらくは『女侠』としてたたえられたが、今ではもはやその名を口にする者も少ない。革命が起こったとき、彼女の郷里(紹興)には、一人の都督―すなわちいまの督軍―が乗りこんできた。彼は彼女のかつての同士であった。その名は王金発。彼は、彼女を殺害した首謀者をとらえ、密告事件の証拠書類をあつめ、その仇に報いんとした。だが、結局、その首謀者を釈放してしまった。と申すのは、すでに民国になったからには、おたがい昔のうらみを洗いたてるべきではない、という理由かららしい。しかるに第二革命が失敗するや、この王金発自身が袁世凱の走狗のために銃殺されている。その有力なる関係者の中心には、彼が釈放してやった秋瑾殺害の首謀者があった。この男もいまでは『天寿を全う』した」

と。

秋瑾の蜂起計画は結構杜撰で、チャップリンの、

人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ、

の言葉とは逆に、

クローズアップで見れば喜劇だが、ロングショットで見れば悲劇、

の様相である。辛亥革命の先駆として、歴史の中では悲劇なのである。しかし、場違いながら、中島みゆきの、

ファイト、闘う君の唄を、闘わない奴等がわらうだろう、ファイト、冷たい水の中を、ふるえながらのぼってゆけ、

を思い出した。

匹夫も志を奪う可からず(論語)、

あるいは、

匹夫の賤にも与って責め有るのみ(顧炎武)、

なのである。清末の革命派のスローガンは、

国家の興亡は匹夫にも責めあり、

であった、という。

参考文献;
武田泰淳『秋風秋雨人を愁殺す:秋瑾女士伝』(筑摩叢書)
井波律子『論語入門』(岩波新書)

哲学史

A・シュヴェークラー『西洋哲学史』を読む。

  

本書は、「アリストテレスがそうしているように」、

哲学史をタレスからはじめる、

とし、

古代哲学(ギリシャ、ローマの哲学)、
(中世の哲学)、
近世哲学、

の区分に従い、デカルト、スピノザ、ライプニッツ、カント、フィヒテ、ヘーゲルへと至る哲学史である。

特に、第一の古代哲学は、

ソクラテス以前の哲学(タレスからソフィストまでを含む)、
ソクラテス、プラトン、アリストテレス、
アリストテレス以後の哲学(新プラトン主義までを含む)、

と詳細である。

本書は、まず哲学の定義から始まる。

哲学するとは考えること、事物を思考によって考察することである、

と。では、実際的な活動においての思考、あるいはその他の諸科学の思考と、哲学のそれとはどう違うのか。

哲学を経験的な諸科学から区別するものは哲学の素材ではなくて、その形式、方法、認識の仕方である。個別的な経験科学はその素材を経験から直接にとりあげる。それを眼の前に見出し、見たままにとりあげる。哲学はこれに反して、与えられたものを与えられたままにとりあげるということは決してしない。それは与えられたものをその最後の諸根拠にまで追求し、あらゆる個別的なものを究極原理に関係させ、知識の総体のうちにおける制約された一分肢として考察する。まさにこのようにすることによって哲学は、個別的なもの、経験のうちに与えられたものから。直接性、個別性、および偶然性という性格を除去するのであり、経験的な個別性の大洋から普遍的なものを、無数の秩序のない偶然事から必然的なもの、一般的な法則をとりだすのである。要するに哲学は、経験的なものの総体を思想的に組織された体系という形で考察するのである。

これだとわかりにくいが、これを私的に注釈するなら、

経験や具体的な諸科学のメタ科学、

ということなのではないか。あるいは、

科学のメタ科学、

と言ってもいい。

形而上学(metephysic)、

とは、ギリシャ語で、

Meta+physika(自然学)、

である。ある意味、

思考することを思考する、
思想することを思想する、

つまり、

考えることを考えること、

なのではあるまいか。だから、

経験的諸科学と交互作用をなしていること、

その意味で、

哲学は一方には経験的諸科学を制約するとともに、他方にはまた哲学自身がそれらによって制約されるということである、

のであり、その意味で、

完成された哲学、

はあり得ず、

さまざまに相継いであらわれる時代哲学という形でのみ存在する、

のである。だから、哲学史は、

これらのさまざまの時代哲学の内容、順序、および内的連関、

ということになる。結果、上述の区分で哲学の流れを俯瞰していくのが、本書である。

哲学に無縁なぼんくらな人間には、なかなか前後の道筋をたどりきれないが、その都度の、シュヴェークラーのコメントがなかなかワサビがきいていて楽しめる。たとえば、

ソクラテス以前の哲学に共通な傾向は、自然を説明する原理を見出すことである、

と、その中のエレアのゼノンの逆説(アキレウスと亀、飛ぶ矢は動かず)について、

物質と空間と時間の無限分割性という概念のうちにある困難と二律背反を、はじめて少なくとも部分的には正しく指摘したものであるが、アリストテレスはゼノンをこれらの議論のために弁証法の創始者と呼んでいる。ゼノンはまたプラトンにも根本的な影響を与えた。

プラトンとソクラテス、アリストテレスへの流れについて、

プラトンによってギリシャ哲学は、その発展の頂点に達した。プラトンの体系は、自然的および精神的宇宙の全体を一つの哲学的原理から最初に完全に構成したものである。それはすべての高い思弁の原型であり、形而上学的および倫理的観念論の原型である。ソクラテスによっておかれた単純な土台に立って、哲学の理念は、ここではじめて包括的に実現された。ここで哲学は完全な自己意識に達した……、しかしそれと同時にプラトンは、哲学を与えられた現実に観念的に対立させた。(中略)これはより実在論的な物の見方によって補われなければならなかった。そしてそれはアリストテレスに始まるのである。

結局古代哲学は、

プラトン=アリストテレス的哲学の二元論(中略)を克服しようとして挫折したのである。キリスト教はこの問題を再びとりあげたのである。それは、古代の思考が実現しえなかった理念、神の彼岸性の廃棄、神的なものと人間的なものとの本質的統一を自己の原理とした。神が人となったということ……がキリスト教の思弁上の根本理念であって、(中略)この時からずっと一元論が近世哲学全体の特徴となり根本傾向となっている。

そして近世哲学は、

古代哲学が立ちどまっていたその点から出発したのである。思考、自己意識が自分のうちへしりぞいたのがアリストテレス以後の哲学の立場であったが、これはデカルトにあって近世哲学の出発点をなしており、近世哲学はここから出発して、古代哲学が脱却しえなかったあの対立を思考によって媒介し融和させるにいたったのである。

さて、そのデカルトは、

第一に、まったくの無前提という要求を出したことによって、哲学の新しい時代の創始者である。すなわちデカルトは、思考によって措定されていないすべてのもの、あらゆるあたえられた真理に対して絶対の抗議を要求したのであるが、これはそれ以後ずっと近世の根本原理となっている。第二に、デカルトは、自己意識の原理、純粋に自立的な自我の原理を提示したが(デカルトは、精神すなわち思考する実体を個人的自己、個々の自我と考えた)、これは古代の知らなかった新しい原理である。第三に、デカルトは存在と思考、存在と意識との対立を提示して、この対立の媒介を哲学的課題として宣言したが、これは近世哲学全体の問題となっている。

デカルトの切り離した精神と物体、意識と存在を解決する一つの方法は、

二つの実体と見ないで、一つの実体の現象形態とみること、

である。それを、

神のみが実体で古物はすべて偶有的である、

と、整合的に言い表したのがスピノザである。スピノザの体系が、

デカルトの体系の完成であり真理である、

とされる所以である。

スピノザの体系は、考えうるかぎりもっとも抽象的な一神論(むしろ一元論)である。

しかしそれは、

人々の普通の観念には実在と見えるすべてのものをその視野からしりぞけ……、その欠陥は実体のこの否定的な深淵を存在と生成の肯定的な根拠に変えることを知らない点にある。

デカルトの二元論を克服する道には、

物質の側に立つか、
観念の側に立つか、

である。

一面的な観念論、

一面的な実在論(経験論、感覚論、唯物論)、

の、二つの試みは同時に始まる。実在論的発展系列の創始者は、ジョン・ロックである。

経験論が精神的なものを物質的なものの下位におき、精神的なものを物質化しようとする努力によって導かれていたとすれば、観念論は逆に、物質的な物を精神化すること、すなわち物質的な物がその下に包摂されるように精神の概念を理解することに努める。(中略)後者のそれは(ライプニッツやバークレでは)…すなわち精神(心)と表象(観念)のみが存在するという命題である。……観念論の立場は精神的な存在、自我を実体とする。

実在論と観念論を、カントは、次のように統一する。

自我は実践的な自我としては自由であり自律的であって、自分自身の無制約的な立法者であるが、理論的な自我としては受容的であり経験の世界によって制約されている。しかしそれはまた理論的な自我としてもそれ自身に二つの側面をもっている。なぜなら、一方、我々のあらゆる認識の素材が経験に由来し、経験こそわれわれの認識の唯一の領域であるかぎりにおいて、経験論が正しいとすれば、他方、経験するためには、経験によっては与えられずア・プリオリにわれわれの悟性のうちにふくまれている概念が必要であるから、合理主義が認識のア・プリオリな要因および素地を強調するのは正しいのである、

と。なお、カントの『純粋理性批判』については触れたhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/473549212.html

カントのアンチテーゼであり、フィヒテがカントの直接の帰結である。

カントはなお二元論的であって、それによれば、自我は一方では理論的自我として外界に隷属し、他方では実践的自我として外界の主人である。言いかえれば、自我は客観に対してあるいは受容的にあるいは自発的にふるまう。フィヒテは、実践理性の優位を強調することによってこの二元論をとりのぞいた。すなわち、フィヒテは、理性をひたすら実践的なもの、意志、自発性と考え、客観にたいする理性の理論的、受容的な態度をさえ、ただ活動の減少、理性そのものによって定立された正言と考えるのである。

フィヒテから出て、フィヒテと対立したシェリングの根本欠陥は、

絶対者を抽象的に客観的なものと理解したことであった。絶対者はまったくの無差別、同一性であった。このような無差別からは、第一に、規定されたもの、実在的なものへ移っていくことは不可能で、したがってシェリングは後になると絶対者と実在する世界との二元論におちいった。第二に、このような無差別のうちでは自然的なものにたいする精神的なものの優位性がなくなり、両者は同等のものとされて、観念的なものと実在的なものとのまったく客観的な無差別こそ両者よりも高次のもの、したがって観念的なものより高次のものとして定立されていた。このような一面性を反省するところからヘーゲル哲学は現れたのである。

で、ヘーゲルは、その方法によってその先行者と根本的にちがっている。

絶対者はヘーゲルによれば、存在ではなく発展である。すなわち、それはさまざまな区別と対立とを定立するが、これらは独立であったり絶対者に対立したりするものではなく、個別的なもの各々もその全体も絶対者の自己発展の内部にある諸契機にすぎない。したがって絶対者が自分自身のうちに、区別―といっても絶対者内の諸契機をなしているにすぎないような区別―へ進む原理をもっていることが示されなければならない。この区別は、おのれが絶対者へ付加するのではなく、絶対者が自ら定立するのでなければならず、そしてそれはふたたび全体のうちへ消失して、絶対者の単なる契機であることを示さなければならない。

つまり、ヘーゲルの方法は、

各々の概念はそれに固有な対立、固有な否定を自分自身のうちにもっている。それは一面的であり、その対立をなしている第二の概念へ進んでいくが、この第二の概念もそれだけでは第一の概念と同様に一面的である。かくしてこれらが第三の概念の契機にすぎないこと、そして第三の概念ははじめの二つの概念のより高い統一であり、両者の統一へと媒介するより高い形態のうちで両者を自分に含んでいることがわかる。この新しい概念が定立されると、それはふたたび一面的な契機であることがわかり、この一面的なものは否定へ、そしてそれとともにより高い統一へ進んでいく。概念のこの自己否定が、ヘーゲルによれば、すべての区別と対立の発生である。

だから、ヘーゲルの方法とは、

絶対的なものは単純なものではなく、最初の普遍者のこのような自己否定によって生まれる諸契機の体系である。この諸概念の体系もまたそれ自身抽象的なものであって、たんなる概念的な(観念的な)存在の否定、実在性、(自然における)諸区別の独立的実在へと進んでいく。しかしこれもまた同様に一面的であって、全体ではなく一契機にすぎない。このようにして独立的に存在する実在もふたたび自己を止揚して、自己意識、思考する精神のうちで概念の普遍性へ復帰する。思考する精神は、そのうちに概念的存在と観念的存在とを包括して、それらを普遍と特殊のより高い観念的統一としている。このような概念の内在的な自己運動、

なのである。

本書は、ヘーゲルまでしか語られない。しかしヘーゲルの、この観念の巨像はある意味、逆立ちしている。たとえば、

キリスト教がはじめて神と世界とを積極的に融和させる。それはキリストという人格のうちに、神的なものと人間的なものとの統一の実現である神人を見るからであり、神を、自分自身が外化(人間化)しそしてこの外化から永遠に自分のうちへ帰る理念として、すなわち三位一体の神としてとらえるからである。

というヘーゲルの絶対精神の考えは、やがて、フォイエルバッハによって、こう転倒されることになる。

神的本質(存在者)とは人間的本質以外の何物でもない。またはいっそうよくいえば、神的本質(存在者)とは人間の本質が個々の人間―すなわち現実的肉体的な人間―の制限から引き離されて対象化されたものである。いいかえれば神的本質(存在者)とは、人間の本質が個人から区別されて他の独自の本質(存在者)として直観され尊敬されたものである。

ここから、マルクスの唯物史観が始まるが、同じく人間へと取り戻そうとしたキルケゴールは、

人間は精神である。しかし、精神とは何であるか? 精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか? 自己とはひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいはその関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである。

と書いた。それが実存主義へとつながっていく。

ヘーゲルは、逆立ちした観念の巨像、総合体系である。いわば、哲学のギリシャ以来の到達点であると同時に、ある意味でコペルニクス的な転換点でもあることがよくわかるのである。

参考文献;
A・シュヴェークラー『西洋哲学史』(岩波文庫)
フォイエルバッハ『キリスト教の本質』(岩波文庫)
キルケゴール『死にいたる病』(中央公論社)

史記の世界像

武田泰淳『司馬遷―史記の世界』を読む。

本書は戦前に書かれたものなので、今日その位置づけが、どうなっているかはわからない。しかし、本書が、小説家ならではの明晰な史記の「世界像」を、描き出していることは、確かである。

『春秋』のような編年体ではなく、紀年体(きでんたい)のスタイルを編み出した「史記」の構造は、

十二本紀(ほんぎ)
 ↓
三十世家(せいか)
 ↓
七十列記(れつでん)、

という構造になっている。花田清輝が、「司馬遷が、権力のピラミッドの頂点に注目し、それからしだいにかれの視線を底辺にむけていったのは―すなわち、かれの『史記』を、まず『十二本紀』、つぎに、『三十世家』、おわりに『七十列伝』といった構成で書きすすめていったのは理由のないことではありますますい」と評したのは、武田の着眼に基づいてのものであった。

本紀は、

帝王一代の事跡、

を記したものであり、世家は、

諸侯など、世襲の家柄の記録、

列伝は、

人臣の伝記を並べた記録、

である。

史記が、ピラミッド型の階級構造にしたのは、ひとつは、その世界が頂点に立つ帝王からピラミッド構造を成していたからではあるが、いまひとつは、司馬遷が、歴史を動かすものは人間とみた、からである。

世界の歴史は政治の歴史である。政治だけが世界をかたちづくる。政治をになうものが世界をになう。「史記」の意味する政治とは「動かすもの」のことである。世界を動かすものの意味である。歴史の原動力となるもの、世界の動力となるもの、それが政治的人間である。政治的人間こそは「史記」の主体をなす存在である。政治的人間は、世界の中心となる。そのために「十二本紀」がつくられた。政治的集団は分裂する集団となる。そのために「三十世家」がつくられた。政治的人間は独立する個人となる。そのために「七十列伝」がつくられた。「本紀」についても、「世家」に於いても、また「列伝」に於いても、司馬遷は人間を政治的人間としてとりあつかうことを忘れなかった。人間が世界の中心となり、分裂する集団となり、独立する個人となるためには、政治的人間にならなければならない。政治的人間としてとりあつかわれた人間だけが、歴史の舞台に於いて、一つの役目をもつことができる。そして役目をもたされた人物として、歴史劇に出場することが許される。かくして、この人物は、あの人物と関係をもち、この役は、あの役と連絡し、そして「史記」全体ができあがるのである。

と武田は記す。そして、

「人間」の歴史が司馬遷の書こうとするところである。「人間」の姿を描くことによって、「世界」の姿は描き出される。(中略)根気よくあせらずに、あたえられた記録により、自分の眼や耳のはたらくかぎり、「人間」の姿を追い求め、「人間」の動きを見失うまいとつとめているうちに、司馬遷の世界構想はおのずと出来上がって来る。

と。だから、出来事の編年体では描き切れないので、

世界の中心となった者の本紀

それを支えた者たちの世家

個々の歴史に登場した個人としての列伝、

という、人の連鎖による「空間的構造」という「史記」世界像は、

世界の『史記』学者の誰も言わなかった、

卓見である(山本健吉)、らしい。

当然ながら、

「本紀」は時間的に継続し、かつ交替したが、各「世家」は空間的に並立し、一世界を形成している。しかもその並立はやはり、周囲から「本紀」を支える並立である。

という「本紀」と「世家」の複雑な関係を示す例として、武田は「陳杞(ちんき)世家」を挙げている。

舜の子孫は、周の武王がこれを陳に封じた。その陳を楚の惠王が滅ぼした。陳については「世家」に記載してある。禹(ウ)の子孫は、同じく武王がこれを杞に封じた。この杞を楚の恵王が滅ぼした。杞については「世家」に記載してある。契(セツ)の子孫は殷となった。殷については「本紀」に記載してある。殷が滅亡して後、周はその子孫を宋に封じた。その宋を斉(セイ)の湣(ビン)王が滅ぼした。その宋については「世家」に記載してある。后稷(コウショク)の子孫は周となった。その周を秦の昭王が滅ぼした。周については「本紀」に記載してある。皐陶(コウヨウ)の子孫の或る者は、英と六(リク)とに封ぜられた。その英と六を楚の穆(ボク)王が滅ぼした。これらについては系譜がない。伯夷(ハクイ)の子孫は、周の武王に至って再び斉に封ぜられた。封ぜられた人は太公望と曰う。この斉を陳氏が滅ぼした。斉については「世家」に記載してある。伯翳(ハクエイ)の子孫は、周の平王の時に至り封ぜられて秦となった。その秦を項羽が滅ぼした。秦については「本紀」に記載してある。垂・益・虁(キ)・龍(リョウ)はその子孫が何処に封ぜられたか不明である。手がかりがない。
右舜から龍まで十一人は、いずれも唐虞(トウグ)の際に功積徳行で有名な臣である。そのうち五人の子孫は皆帝王となった。その余の者の子孫も立派な諸侯になった。

「唐虞の際」とは、中国の伝説上の聖天子である陶唐氏(尭)と有虞氏(舜)二人の治めた時代を指す。ということは、その後の、

呉・斉・魯・燕・管・蔡・陳・杞・衛・宋・晉・楚・越・鄭・趙・魏・韓、

等々は、すべて、尭舜の時代の人々の枝葉であるが、それは「本紀」から出て、面白いことに、「功積徳行」のあった十一人のうち五人は「本紀」に載り、他のものが「世家」扱い、ということである。「本紀」と「世家」の関係がよくわかる記述である。それを、武田は、こう記す。

「本紀」継続がすでに、人間闘争を縦に貫くものであったが、「世家」並立はこれを横につらねたものと言える。「世家」分裂の出発点が、呉、斉、周型であろうと、趙、魏、韓型であろうと、分裂した以上、排他相剋の運命は免れぬ。「本紀」のみが史記世界を充たすのではないことは、「本紀」を読むだけでよく呑み込めた事実であるが、いよいよ「世家」に入ると、世界並立現象の物凄さが、身にしみてわかるのである。

「列伝」は、伯夷列伝からはじまる。その最後に、

天道は公平で、いつも善人の味方をするという者がいる。しかし伯夷、叔斉の如きは、善人と謂えないであろうか。仁をつみ行いを清くし、しかもかくの如くに餓死したではないか。孔子の弟子七十人のうち、孔子はただ顔淵だけを薦めて、學を好む者とした。それだのに顔淵は屡々貧乏で、糟糠さえ充分に食べられず、そのまま若死をしている。天の善人に報ゆるやり方とは何であるか。盗跖は毎日無辜の民を殺し、人の内臓を膾にし、暴戻無残、徒党数千人を聚めて天下を横行したが、ついに天寿をもって終わっている。これは一体何の徳があってのことか?これらはハッキリ誰にでもわかる例である。近世に至っては、素行が治まらず、悪事を犯して、しかも終身逸楽し、富貴が親子代々つづいている者がある。また、行動をつつしみ、言語をつつしみ、邪道をふまず、公明正大なことでなければ憤発しないでいて、しかも禍に遇うものが数え切れない。ここに於いてか余は惑わざるをえない。天道、是か非か、とは真実ではないか。

とある。これが、「史記」を貫く思想とされる所以である。

天道すら信じられないならば、人は何を信じたら良いのか? 司馬遷は何を信じたら良いのか? 自分である。自分の歴史である。「史記」である。天すら棄てたもの、天のあらわさなかったもの。それらの人物をとりあげ、あらわすのは、我司馬遷である。我を信ぜよ。我が歴史を信ぜよ。極端な絶望の淵に沈みながら、もりあがってくる自信力で、「伯夷列伝」は私達をおどろかすのである。伯夷の絶対否定が、かえって司馬遷の勇気を増すのである。「こころに鬱結するところがあって、その道を通ずることが出来ず、往事をのべて来者を想うのである」(太史公自序)。自ら、読者のために「天道」をつくる。自ら「天道」となって、歴史を照明する、不敵な決意である。

これは、腐刑という屈辱を被った司馬遷の心を読んだ著者の心でもある。天ではなく、往事に、天道があり、未来がある、と。

なお、「史記・列伝」http://ppnetwork.seesaa.net/article/447234854.htmlについては、触れた。

参考文献;
武田泰淳『武田泰淳全集第十一巻』(筑摩書房)

剣豪小説

吉川英治『宮本武蔵』・五味康祐『喪神』・中里介山『大菩薩峠』・柴田錬三郎『眠狂四郎無頼控』・池波正太郎『剣客商売』他を比較する。

     

    


「歴史小説」http://ppnetwork.seesaa.net/article/470502694.htmlで触れたように、世情、歴史小説と時代小説とは区別されている。

歴史小説は、

主として歴史上に実在した人物を用い、ほぼ史実に即したストーリー、またはその時代を設定して、その中での空想上の物語が書かれたものが展開される小説、

であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%B0%8F%E8%AA%AC。たとえば、司馬遼太郎の作品のほとんどは歴史小説の範疇に入る。一時凝って、ほぼ全作品を読んだが、時に、小説を歴史そのものの如く振舞うのに、辟易した。小説は小説であって、歴史にはなれない。この歴史小説に対して、

時代小説は、

架空の人物(例えば銭形平次)を登場させるか、実在の人物を使っても史実と違った展開をし(例えば水戸黄門)、史実と照らし合わせるとかなり荒唐無稽、

とされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E4%BB%A3%E5%B0%8F%E8%AA%AC。その時代小説の一ジャンルとして、

剣豪小説、

なる分野がある(仝上)、らしい。最近のものはわからないが、かつて読んだものとしては、吉川英治『宮本武蔵』、五味康祐『喪神』、中里介山『大菩薩峠』、柴田錬三郎『眠狂四郎無頼控』、池波正太郎『剣客商売』等々が代表的だ。

そんなに熱心な剣豪小説ファンではない。最初に読んだのは、

中里介山『大菩薩峠』

である。その後、何冊か間にあったかもしれないが、御多分に漏れず、

吉川英治『宮本武蔵』

である。

しばらくは藤沢周平に凝って、ほぼ全作品を読んだ。剣豪小説の部類に入るのは、隠し剣シリーズの、

『隠し剣孤影抄』
『隠し剣秋風抄』
『たそがれ清兵衛』

ではないかと思う。「たそがれ清兵衛」「隠し剣鬼ノ爪」「盲目剣谺返し」「必死剣鳥刺し」は映画化された。

「神業」http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163234.htmlで触れたことだが、昔読んだ剣豪小説の中で、決闘のシーンというか、果たし合いのシーンで、印象に残っているのは、

第一は、中里介山の『大菩薩峠』で、詳しいことは覚えていないが、土方歳三率いる新徴組の手練れが、清川八郎を襲撃しようとして、襲うべき駕籠を間違え、乗っていた島田虎之助に襲いかかり、結局島田一人に十数人の使い手全員が倒され、土方も翻弄される、すさまじい戦いシーンがあった。その迫力は、ずっと記憶に残っている。襲撃の一隊に加わった主人公、机龍之介は呆然、手をつかねて立ち尽くしていた、と記憶している。

第二に、指を折るのは、吉川英治の『宮本武蔵』で、確か武蔵が、柳生石州斎の屋敷に紛れ込み、柳生の四天王と、刃を交えるシーンがあった。その気迫と、立ち会う面々との間合いは、一瞬で決着する吉岡兄弟との立ち会いも、一条下がり松のシーンも、般若坂の決闘も、巌流島の決闘も、かすむほどの緊迫したものだと記憶している。

その他は、以上の作品ほどには印象深くないが、

五味康祐の『柳生連也斎』

での連也斎と武蔵の弟子鈴木綱四郎との立ち会いシーンも記憶に残る。

しかし、事実は小説より奇なり、実際の剣豪は、こんなものではなかったらしい。甲野善紀氏は、江戸時代の剣客で、夢想願流の松林左馬助無雲のエピソードを紹介している。

ある夏の夕方、蛍見物に川べりを門弟とともに散歩していた無雲を、門人の一人が川へいきなり突き飛ばした。無雲は突き飛ばされたなりフワリと川を飛び越え、しかも、突き飛ばした門人も気づかぬ間に、その門人の佩刀を抜き取っていた…。

それは遠い江戸時代の話ではなく、現代の武道家にもいる、という。たとえば、柔術家の黒田泰治師範は、警察の道場で、寝転んだまま力士五人に体中を押さえさせ、よもやと思っていたら、あっという間に、いとも簡単に起き上ってみせた…。

あるいは、親戚男谷信友の弟子の島田虎之助の元で修業した勝海舟が、幕末の剣豪白井亨についてこんなことを語っている。

此人の剣法は、大袈裟に云えば一種の神通力を具えていたよ。彼が白刃を揮うて武場にたつや、凛然たるあり、神然たるあり、迚も犯す可からざるの神気、刀尖より迸りて、真に不可思議なものであったよ。己れらは迚も真正面には立てなかった。己れも是非此境に達せんと欲して、一所懸命になって修行したけれども、惜乎、到底其奥には達しなかったよ。己れは不審に堪えず、此事を白井に話すと、白井は聞流して笑いながら、それは御身が多少剣法の心得があるから、私の刃先を恐ろしく感ずるのだ。無我無心の人には平気なものだ。其処が所詮剣法の極意の存在する処だと言われた。己れは其ことを聞いて、そぞろ恐れ心が生じて、中々及ばぬと悟ったよ。

その白井は、平和時の武術を晴天の雨具にたとえ、なるべく目立たぬことを心掛けるように説いたという。

雨でもないのに、これみよがしに剣術家然として歩くのは、晴れているのに雨具をつけて歩くようなもので、人々の顰蹙をかうだけだ、と。

そういう実態をみると、どうも小説は、少し立ち合いが派手だ。机竜之介は、音無しの構えだ。とは、

相手が討ってくるまで動かずに、相手がしびれをきらして斬りかかってきたところを討つ技である。相手の刀と一度も刃を合わさないので音が鳴らないので音無しという、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%BA%E7%AB%9C%E4%B9%8B%E5%8A%A9。眠狂四郎の「円月殺法」に似ていなくもないが、むしろ、竜之介の粗野で粗暴なところは、その静かに待つ剣法とは合っていないように思えてならない。

「円月殺法」は、

陽刀の変化の妙である。したがって、その鋒がおそろしいのであって、刃はおそるるに足りない。ということは、上段や青眼で、これを防ぐには魔神にひとしい迅速の術をそなえていなければならぬ。陰刀をもって、おのれの目から円月をはばむのこそ、最も適切というほかはない。陰刀の場合、刃が威力を含み、鋒は大した役に立たないからである。
 右近の無眼唯心流は、実に、狂四郎の円月殺法に勝つために編まれたかとさえ思いなされる奇怪の構えであった。
 やむなく、狂四郎は、円月殺法をすてて、刀を下段から青眼に移した。陰刀を制するには、気根を青眼に罩めるのみである。
 全身に満たした鋭気を、太刀の鍔もとより、刀身の髄 を通して、鋒までつらぬかせ、技を超えた石火応変の風心刀法を使うが肝要となる。
 狂四郎は、敵の攻撃を誘うべく、ゆっくりと、右へ右へとまわりはじめた(「眠狂四郎無頼控」)。

こう見ると、ただ受動ではない。

坂本龍馬を斬ったという今井信郎は、北辰一刀流の皆伝、榊原健吉から直心影流を学んだが、片手打ちという我流の実践剣法で、ひと打ちで相手を倒したらしいが、その彼が、こう言っている。

免許とか、目録とかという人達を斬るのは素人を斬るよりははるかに容易、剣術なぞ習わない方が安全、と。

追い込まれた人が、窮鼠猫を噛む状態の予想外の膂力とスピードの方が、対応できないということらしい。言ってみると、剣術というのは、一定の枠組みの中で、双方想定した枠内でやっているということなのかもしれない。

そういう通常の剣法に対して、いわゆる「相ぬけ」を究極の形として目指した異色の剣法に、「無住心剣術」がある。頂点は、相打ちではなく、相ぬけという。

剣術の勝負は、勝か負けるか、相打ちになるか、そうでなければ意識的に引き分けるか以外ない武術の鉄則を超え、お互いが打てない、打たれない状態で、たとえば、一雲と巨雲の師匠と弟子では、一方は太刀を頭上に、一方は太刀を肩の上にかざして、互いにすらすらと歩み寄り、いよいよの間合いに入ってから、互いに見合って、「ニコッ」とわらってやめた、という。しかし他流には負けたことはない、という。

「他流を畜生心によるもの」

と開祖・針ヶ谷夕雲(はりがやせきうん)がいう。

「無住心剣術」の稽古法は、片手打ちで、特有の絹布や木綿でくるんだ竹刀で、ひたすら相手に向かって真っすぐ入り、相手の眉間へ引き上げて落とす、相打ちから入る。

よく当たるものはよくはずれ、よくはずるるものはよく当たる、

という言葉があり、相手はこっちの姿をみて打ち込んでくるが、こちらは敵を敵として認識せず、敵の気からはずれて出ていくため、意識的に打ち込むものほどはずれてしまい、こちらは相手の気筋を外してでるため、相手には不意に目の前にあらわれるように感ずるらしい。

心にとかくの作為があって勝負に臨めば、勝負にとらわれて、足がなかなか進まず、立ちが相手に届かない、

ともいう。

いわば、「常の気のまま」を尊重する流儀のようで、相手を打つも自分が相手を打つというよりも、自然の法則(天理の自然)が自分の体を通して行われた、という理法のようだが、その太刀の威力は、すさまじく、竹刀打ちを兜で受けたものが、吐血したというほどのものだ。従って、無敗の剣とも言われる。

双方に戦う気があれば、相抜けにはならず、相打ちになる。「相抜け」とは夕雲が用いた用語で、「無住心剣」による立ち合いの理想を説いたものとされる。

双方が傷を負う相打ちとは異なり、相抜けは互いに空を打たせて、無傷の分かれとなる。むしろ高い境地に至った者同士であれば、互いに剣を交える前に相手の力量を感じ取り、戦わずして剣を納めるというもの、

であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%9D%E3%83%B6%E8%B0%B7%E5%A4%95%E9%9B%B2

「兵法を離れて勝理は明らかに人性天理の自然に安坐するところに存する」

と、刀の勝負より心の勝負を説いたものとされる。ここまで行くと、もはや剣法というよりは悟達に近い。しかし、それはすべての流派に通じるものらしい。

「眠狂四郎独歩行」にこんなシーンがある。

 池泉に浮いた沢渡り石の上で、 一間をへだてて、眠狂四郎と樋口十郎兵衛は、剣を把って、対峙していた。
 対峙してから、すでに、半刻が過ぎていた。
 流れのはやい雲を縫う下弦の月が、東側の水面から、西側の水面に移っていた。
 狂四郎は、地摺り下段。
 十郎兵衛は、上段。
 その半刻の間に、狂四郎は、一回、円月殺法を、月光の満ちた宙に、描いていた。
 十郎兵衛は、その妖しい誘いに乗って来ず、不動であった。
 馬庭念流の剛剣は、先の太刀である。それが、円月殺法を能くふみこたえて、斬り込もうとしないのであった。
 これは、狂四郎としても、はじめての経験であった。これから、さらに、半刻、いや一刻を費やしても、この対峙は崩れまい、と思われた。
 ふっと──。
 狂四郎は、自嘲をおぼえた。
 十郎兵衛が、構えたまま、半眼で、睡っているのを、さとったのである。
 真剣の試合をし乍ら、睡るとは!
 まさに、未だ曽てあり得ない不敵の振舞いといわなければならぬ。
 狂四郎は、いきなり、右足の草履を、対手の顔面めがけて、蹴りとばした。
 刹那──かっと、双眼をひき剝いた十郎兵衛は、颶風のような熱気を噴かせて、
「ええいっ!」
 と、沢渡り石を蹴って、躍った。
 狂四郎は、幻影のように、音もなく、後方の石へ、跳び退った。
 剛剣は、狂四郎が跳び退りつつ、ぬぎとばした左足の草履を、両断した。
 再び、円月殺法の地摺り下段と、馬庭念流の上段が、対立した。しかし、こんどは、ものの五秒とつづかなかった。
「眠狂四郎氏、止そうか」
 十郎兵衛は、おちつきはらった声音で、言った。
「わしは、睡気が去った。睡らずに居れば、お主の殺法をふせぐことはできぬ。……まだ、死にたくはない」

まるで、この立ち合いは、「相ぬけ」のパロディのようになっているのが面白い。

柴田錬三郎のいう、

 剣の道は、流派の如何を問わず、必ず「それ兵形は水に法る」という意味の教義を立てる。心形一致の水の妙形をもって「流」の極意とするところに、何々流「法形」が成る。この法形の神秘を悟った兵法者の眼光は、仏語的にいえば、所観の理に能観の知を対照会通して、微塵のくもりがない。すなわち、鏡のように全く澄みきって、対手の心を写しとる(「眠狂四郎無頼控」)、

とは、

奥に達するに三路、一は心形刀、一は形刀心、一は刀形心、

という言葉(常静子剣談)に通じる。

心(気)を磨くこと、
姿や動きを磨くこと、
刀法を磨くこと、

であるhttp://yamazakinomen.mizutadojo.com/joseishikendan.html。島田虎之助も、

「其れ剣は心なり。心正しからざれば、剣又正しからず。すべからく剣を学ばんと欲する者は、まず心より学ぶべし」

と言っている(仝上)、とか。

最近のものをほとんど読んでいないので軽々に言うのは、はばかられるが、柴田錬三郎の文章に比べると、池波正太郎の『剣客商売』のそれは、いささか荒っぽい気がしてならない。場合によっては、脚本化されたテレビドラマの方が数段奥深くなっていたりするのは皮肉である。たとえば、

 肉薄したが、こちらが動じなかったのを見るや、平助は飛び退って下段につけた。それを見て、
 (突いて来る……)
 と、感じた瞬間、(秋山)大治郎が、わずかに左足を引き、腰を沈めた。
 その大治郎の動きに乗じて、
 「鋭!!」
 気合声を発した鷲巣見平助が、木刀を下段につけたまま突進しつつ、
 「たあっ!!」
 一気に剣尖を垂直に伸ばし、大治郎の喉元を目がけて突き入れた。
 猛烈きわまる突きの一手であった。
 大治 郎の体がくるりとまわった。
 一瞬、
 (突かれた……?)
 と、見ている人びとの目には映ったやも知れぬ。
 二人の体が、もつれ合ったようになり、道場の床板を踏み鳴らしつつ、見所の前まで移行し、そこで左右に飛びはなれたとき、
 「う……」
 鷲巣見平助が片ひざをつき、頭をたれた。
 大治郎は腰を沈め、木刀を正眼半身に構えている。

と(「剣客商売」)。

なお、五味康祐『喪神』は、「物語」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473489712.htmlで触れたように、

 瀬名波幻雲斎信伴が多武峰山中に隠棲したのは、文禄三年甲午の歳八月である。この時、幻雲斎は五十一歳―。
 翌る乙未の歳七月、関白秀次が高野山に出家、自殺した。すると、これは幻雲斎の隠棲を結びつける兎角の噂が諸国の武芸者の間に起こった。秀次は、曾て、幻雲斎に就き剣を修めたためからである。

とはじまる「語り手」は、当初物語空間に登場してくる、という結構を採る。いささか重厚な文章は、後の作品にもつながっている気がする。

前出の、松浦静山『常静子剣談』に、

曰く「勝に不思議の勝あり。負に不思議の負なし」
問「如何なれば不思議の勝というや?」
曰く「道に遵い術を守る時は、その心必ずしも勇まずと雖も勝を得る。この心を顧る時は、則ち不思議とす」
問「如何なれば不思議の負なしというや?」
曰く「道に背き術を違う時は、敗れること疑いなし、故に爾に云」

とある(眠狂四郎無頼控、http://yamazakinomen.mizutadojo.com/joseishikendan.html)。

道に背き術を違う、

とは、どこかに原理・原則の王道を踏み外し失敗をしているということなのだろうか、なかなか難しい。相手のある中、相手との間の臨機応変の中で、踏み外さないためには、何か別のものが要る気がする。静山は言っている。

仕合をするには、高慢らしく有るは宜しからず。夫とて遜恭なるは宜しからず。唯平心にして勝負の處を得と胸に思て為すべし、

と。思うに、「平心」、

平常心、

とは、「無住心剣術」の、

心にとかくの作為があって勝負に臨めば、勝負にとらわれて、足がなかなか進まず、立ちが相手に届かない、

と通ずるが、素人の憶説が許されるなら、ある種の、

俯瞰する眼、

ではあるまいか。サッカーの優秀な選手は、試合中グランドを俯瞰している、という。それは、おのれから離れて、両者全体の動きの中で、おのれを動かせる、ということなのではないか、とは浅薄な我流の解釈である。

僕には、「眠狂四郎」の作品には、作家がそこを意識している眼があるように感じられた。たとえば、

 一歩すさって、(白鳥)主膳は、大上段にふりかぶった。
 とみた(男谷)精一郎は、ひたと、丸橋の構えをとった。右旋刀左転刀の刀法に変えたのである。
 心形刀流の口伝秘書にいう。「右旋刀左転刀二カ条は、馬上にて敵に向う太刀打ちなり。敵、我が右へ来るときは、丸橋を用う。敵、我が左へ来るときは、青眼を用う」
 とあって、元来これは、馬上剣である。
 この技法を、地上相対峙のたたかいにおいて、敵の迅業を防ぎつつ、斬りかえす術に変化せしめたところに、妙があった。敵が、自分の左に馳せちがいざまに撃って来たら、丸橋にして之を受け、太刀を右に旋して敵の左を反撃する。敵が自分の右に来たら、青眼にとって、左転する。
 ちょうど、精一郎の右側には、古樹を伐った巨株が、草の中にのぞいていた。
 当然──主膳が、左側へ奔ると見たので、精一郎は丸橋の構えをとったのである。
 ところが ──。
  主膳は、両足を、右八字に開いて、綿でも踏むがごとく、すっすっと、精一郎の右側をのぞんで、間隔をちぢめはじめたのである。
 ──しまった!
 精一郎は、背すじに、氷柱をあてられたような戦慄をおぼえた。
 もはや、丸橋から青眼へ、構え直すことは不可能である。構え直せば、隙が生じる。
 精一郎は、蜘蛛の糸にたぐりよせられる昆虫と化したおのれを感じた。
 ──どうのがれるか?
 石火の間に、事理一体の心刀を魔神のごとく発しなければ、主膳の必殺の一撃をかわすことは叶うまい。
 おそろしく長い秒刻が移った。
 ──くるぞっ!
 その直感で、精一郎の肉体のいっさいの器官が、それへ備えて、動員された。

と(「眠狂四郎無頼控」)。

因みに、松浦(まつら)静山は、松浦清(まつら きよし)、肥前国平戸藩の第九代藩主。号は静山。随筆集『甲子夜話』が有名だが、心形刀流剣術の達人でもあった。『常静子剣談』(『剣談』とも)は剣術書である。「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」は野村克也の座右の銘として有名だ。静山は、明治天皇の曽祖父にあたるとか。

参考文献;
池波正太郎『剣客商売』(Kindle版)
柴田錬三郎『眠狂四郎無頼控』『眠狂四郎独歩行』(Kindle版)
甲野善紀『古武術の発見』(光文社文庫)
甲野善紀『剣の精神誌』(新曜社)

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