砲術 |
宇田川武久『幕末 もう一つの鉄砲伝来』を読む。

たかが大砲ながら,わが国では砲術と言われ,剣術と同じく,弟子入りして免許皆伝を得なければならない。日本で初めて西洋流砲術を取り入れた高島秋帆は,「兵制砲術書を通詞に翻訳させ,オランダ製の鉄砲を買い入れ,出島のオランダ人から教えを受けながら」,「砲術」を弟子をとって指南した。ただ,秋帆のすぐれたところは,幕府に招かれて江戸に入ると,
「一〇〇名近くの門人を演武の陣容に編成し…火砲と歩,騎馬によるモルチールの榴弾の仕掛打と焼夷弾,ホーウィッスルによる小形の榴弾の仕掛打と数打,馬上筒(燧石式拳銃)の射撃,鉄炮備打,カノン三連と燧石式小銃射撃」
と,曲がりなりにも,個人技ではなく,軍制としての射撃を見せたところだ。しかし,登用した水野忠邦が失脚すると,秋帆は獄に繋がれ,九年後のペリー来航まで西洋式は和式の個人技の後塵を拝することとなる。
本書は,幕末まで日本各地で営々と受け継がれてきた和流砲術を,その一家関家を中心に,
「幕末の砲術社会の全体像を知るためには,西洋流との競合を視野に入れながら和流の顛末」
を語ろうと意図している。いわゆる種子島の鉄炮伝来を,
第一次鉄炮伝来,
とするなら,
第二次鉄砲伝来,
と目すべきは,嘉永六(1853)年六月,アメリカのペリー艦隊の浦賀来航,翌年の日米和親条約締結等々を経て,祖法の鎖国が瓦解して,
「外国勢力の火砲船艦を眼前にして衝撃を受けた幕府は,海防のために西洋の軍事制度を模倣する軍制改革に着手した。幕府と諸藩の軍制改革の進行によって,わが国に西洋の鉄砲や軍事知識が大量に流入した。」
いわば,これが幕末第二次鉄砲伝来の衝撃である,と著者は書く。
鉄炮伝来以来,武芸としての砲術が誕生し,幕末には,西洋式も含めて,400近くの流派が流行したと言われている。しかし,明治政府による古流武芸の停止令によって,その多くの砲術資料が廃棄されてしまった。その中で,土浦の砲術家関家の資料が発見され,本書は,多くそれによりつつ書かれている。
「関流の祖は文禄四(1595)年生まれの関八左衛門之信であり,最後の宗家は文政十一(1828)年に生まれ,明治二十二年に病死した信順である。」
本書は,幕末を生きた,関流宗家の信威・知信・信順と三代の事績を西洋流の台頭と関連させながら編年的に追っている。
「関家は砲術を私の家業として継承したが,土浦藩家臣としての公務があった。」
とあるように,砲術は,稼業であり,「私」なのだ。それにしてもどうして,わが国では,スキルを私の秘伝・秘事として,一子相伝したがるのか。それが,スキルを社会の文化として共有化するという姿勢を欠く。茶道しかり,華道しかり,それは結局,私の金儲けの仕組みとしてしか考えられていなかった,というのは言いすぎであろうか。
砲術も,秘事化される。
「鉄炮が伝来すると,各地に鉄炮の取り扱いを教えることを生業とする砲術家が現れたが,その中から弟子に秘事を授ける流祖が誕生した。火薬は炭・硫黄・硝石を調合して作るが,その際,調合の比率,四季の温湿度を知ることが秘事とされた。通常,発射薬は玉の重さに比例し,一分玉だと一分で同量とし,三匁は玉の重さより幾分少ない。一〇匁で七匁,弾が大きくなると三分の一程度の割合になった。これを『薬積(くすりづもり)』の秘事という。」
鉄砲の仕様,撃つ姿勢にまで秘事はわたる。たとえば,
「鉄炮は銃身と銃床とカラクリ(機関部)からなり,銃身の筒元と先口には照準具の目当を取り付けたが,鉄炮の仕様は流派によって異なった。(中略)
鉄炮は姿勢と呼吸と引金の一致が重視され,膝台・立放頬付・伏せ構え・腰だめなどの射法があり,構え方,手足や顔の位置,距離の取り方を『目当定』の秘事といった。」
思えば,それは職人技と称賛される。しかし,ゼロ戦を製造するのにも,それを操縦するパイロットにまでそれが要求されるところに,日本の悲劇がある。あるいは,日々ビジネスマンにも,そういう個人技の変種を求めている。日本がソフトを汎用化できない,つまり,個人技に留める伝統から,未だに抜け出せていない。ゼロ戦については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163418.html
に書いた。
さて,では,弟子入りするとどういう手順で,皆伝に至るのか。
「弟子は大小の鉄砲を自由に扱えたわけではなく,一定の期間の修行を要した。関流の場合,入門の都市は一〇目玉(一〇目(匁)の玉の意味)正打(しょううち),二年目で二〇目玉正打,四年目で五〇目玉正打,六年目で目録,七年目で二〇〇目玉正打,八年目で小赦(こゆるし),九年目で三〇〇目玉正打,一〇年目で免許,最上級は九〇〇目玉の皆伝とした。」
十年掛けて,皆伝である。その間時代がどんどん変わる。とても,対応できるはずはない。さらに,
「秘事の伝授には内打(ないうち)と正打があり,内打は正打の前の非公式の伝授,正打は宗家や師範の所属藩の役人の立ち会う正式な伝授をいった。門弟は入門や伝授のたびに師匠に謝礼を届け,所属藩主からの謝礼もあった。これが宗家や師範の経済的基盤となった。」
当然弟子には,大名家もあり,江戸時代を通じて,
「丹波福知山・肥後島原・陸奥相馬・磐城・日向延岡,下総生実などの諸藩においては,関流が流行した」
とある。
しかし,威力の彼我の差は一目瞭然,ペリー来航の幕府は嘉永六(1853)年,
「鉄炮師胝(あかがり)市十郎に在来の鉄炮を西洋ゲーベル銃に改造」
させる。ベリー再来航には間に合わなかったが,個人技の各砲術指南家の背後には,それぞれ鉄炮鍛冶がおり,製造技術が背後にあることをうかがわせる。後年になるが,幕府は,安政二年から六年までの間に,6040挺のゲーベル銃を製作している。
「安政三(1856)年の春,ゲーベル銃製作のテキスト『銃工便覧』が版行された。…全国各地の鍛冶たちは,同書を片手にゲーベル銃の製作に挑戦し,洋式化を助けたが,その一方で,和銃を雷管式に改造することも全国規模でおこなわれた。」
この辺りの,キャッチアップする時のわが国の強みがいかんなく発揮されている。
この少し前,幕府はアメリカと条約締結した嘉永七(1854)年,軍事制度を洋式化する軍制改革に着手する。
「(秋帆の弟子江川英竜の子)江川英敏に湯島の鉄砲製作場で西洋小銃一万挺の製作を命じ,…オランダからゲーベル銃六〇〇〇挺を買い入れた。」
このゲーベル銃がモデルとして,全国の鍛冶が政策にいそしむことになるのである。こうした軍制の前に,個人技は,立つ瀬はなく,関流の関利喜助も,「西洋流の修行を拝命」するに至る。
個人技をどう全体のスキルとして共有化するかは,野中郁次郎氏の研究にも見られる如く,わが国組織・社会の宿痾に見える。
なお,幕末の鉄砲については,
http://www.xn--u9j370humdba539qcybpym.jp/archives/4946
http://www.geocities.jp/irisio/bakumatu/arms.htm
http://portal.dl.saga-u.ac.jp/bitstream/123456789/120368/1/honda_201210.pdf
等々に詳しい。
参考文献;
宇田川武久『幕末 もう一つの鉄砲伝来』(平凡社新書) |
治癒力 |
アンドルー・ワイル『癒す心、治る力―自発的治癒とはなにか 』を読む。

本書は,「自然的治癒」あるいは「治癒力」に焦点を当てて,「治療」ではなく(治癒力を高める)「健康」志向に,その具体的な処方箋にまで及んで懇切な解説がされている。その意図を,著者は,
「わたしは本書に『自然的治癒(Spontaneous
Healing)』というタイトルをつけた。治癒というプロセスの内在的・内因的な特性に読者の注意をうながしたかったからだ。治療が好結果をもたらしたときでさえ,その結果とは,別の条件下ではなんらの外部からの刺激なしに作動したかもしれないような,元々内部に備わった治癒機構の活性化そのもののことなのだ。本書のテーマはとても単純だ。からだには治る力がある。なぜなら,からだには治癒系(ヒーリング・システム)が備わっているからだ。健康な人でも治癒系について知りたいと思うにちがいない。いま健康でいられるのは治癒系のはたらきのおかげであり,治癒系にかんする知識があればより健康になることも可能だからだ。もし不幸にしてあなたが,またはあなたの愛する人がいま病気であれば,やはり治癒系について知りたいと思うだろう。なぜなら,治癒系にかんする知識こそが回復への最良の希望になるからだ。」
と述べている。その発想スタイルは,癌について,
「それは,たとえ初期のがんであっても,体内にがんができていること自体,すでに治癒系の相当の機能不全をあらわしているということである。」
という記述にみることができる。
「とはいえ,細胞が変異することと,がん性の成長をつづけ,宿主を死にいたらしめる力を得ることとのあいだには,根本的な相違がある。細胞が悪性に変異するとき,その細胞は表面の膜に異常な抗原を出現させて,あらたな自己証明を行なう。すると,その細胞の変異を,常時監視している免疫系が自己のからだに帰属していない『非自己』として認識し,それを排除する。無数の細胞分裂がたえまなく行なわれる一方,悪性変異を起こす可能性は常に存在する。がんのタネはたえずつくられ,免疫系がそれを確実に除去している。つまり,進化の途上でわれわれのからだが発達させてきた,がんにたいする防衛機構である治癒系の主要機能は,悪性細胞を除去する免疫監視機構なのである。」
と。しかし,自然治癒に委ねよ,などとは著者は言わない。
「病気になったときは,健康を回復するためにどうすべきか,どんな行動をとるべきかをきめなければならない。その一連の行動をきめるのは自分の責任である。その責任を回避すれば,自分にかわってだれかがきめることになるが,それが自分にとって必ずしも最良の選択になるとはかぎらない。もっとも重要な判断のポイントは,医師などの専門家に診てもらうことが心身の治癒系を助けることになるか,それともさまたげることになるかの一点である。」
として,こう忠告する。
「たとえば現代医学は,外傷の治療に非常に有効である。もしわたしが交通事故で重傷を負ったら,迷わず現代医学の救急救命センターに駆けこみ,シャーマンやイメージ療法家,鍼灸師のところにはいかないだろう。(中略)
現代医学はまた,診断と,あらゆる危機の対処にひじょうにすぐれている。出血・心発症・心臓麻痺・肺水腫・急性うっ血性心臓疾患・急性細菌感染・糖尿病性昏睡・急性腸閉塞・急性虫垂炎などは現代医学にかぎる。(中略)一般的にいって,きわめて深刻かつ執拗な症状,または通常の経験の範囲をこえていて,早急な手当てが必要だと思われる症状の場合は,現代医学を選ぶべきである。」
本書は,三部に分かれている。
第一部は,
「治癒系というものの存在をあきらかにし,こころとの相互作用をもふくんだ治癒系のはたらきをしめす証拠の提示にあてたい。DNAにはじまる生物学的組織のすべてのレベルにおいて,我々の内部には自己診断・自己修復・再生のメカニズムが存在し,必要があればいつでも活動をはじめる体制にある。この内在的な治癒メカニズムを活用する医学は,ただ症状をおさえるだけの医学よりもはるかに効果的である。」
というだけでなく,多くの経験談が挿入されていて,それは,
「自発的治癒はけっして稀なことではなく,しょっちゅう起こっている」
ということを,教えてくれる。しかし,それには,患者自身が,
「これ以上できることはない」
「病気と共存するしかない」
「あと半年のいのちだ」
等々という医師のペシミズムにめげす,回復した一人が証言するように,
「治癒への道のりは人によってちがうかもしれない。でも,道は必ずあるわ。探し続けることよ!」
と,諦めず,捜し続け,たずね続けることでもあるらしい。そのために著者は,こんな知恵を授けてくれる。
からだは健康になりたがっている。
治癒は自然のちからである
からだはひとつの全体であり,すべての部分はひとつにつながっている。
こころとからだは分離できない。
治癒の信念が患者の治癒力に大きく影響する。
そして,こう付け加える。
「治癒は内部から起こる。治癒の原動力は,生きものとしてのわれわれの,本然の力そのものから生じるのである。」
と。
第二部は,
「治癒系をうまくはたらかせるための方法が記されている。ライフスタイルを変え,眠っている治癒力を目覚めさせるための情報」
が満載である。そして,「ただひとこと,歩け!」として,
「からだの適度の運動とじゅうぶんな休息の機会をあたえることによって,自発的治癒が起こる機会をふやすことができる。
からだの運動はじつにさまざまな方法で治癒系のはたらきを活発にする。血液の循環をよくし,心臓のポンプ作用を強化し,動脈の弾力性を高める。と同時に,呼吸器系のはたらきを円滑にし,酸素と二酸化炭素の交換を促進して,からだが代謝産物を排出するのを助ける。代謝産物の排出はまた,呼気のいきおいと腸の運動によっても助けられる。さらに脳からのエンドルフィン分泌を促進し,抑うつ状態を改善して,気分を爽快にする。代謝とからだ全体のエネルギー効率を高める。ストレスを緩和し,深いリラクセーションと眠りをもたらす。そして,免疫機能そのものをも高める。(中略)
人間は歩くようにできている。からだが直立二足歩行で移動するようにできているのである。歩行は複雑な行動であり,歩行のためには感覚経験と運動経験との高度な機能的統合が要求される。歩行は筋骨格系のみならず,脳の訓練にもなる。歩行にともなう一要素でしかないバランスのことを考えてみればいい。凹凸のある重力場の表面で姿勢を変え,移動しながら,楽々と無意識のうちにバランスをたもつために,脳は膨大な情報処理を必要とする。その脳がたよりにしているメカニズムのひとつが,たとえば三次元空間で定位を感知する内耳の機関である。…脳はからだのバランスをたもつために,耳からの情報に加えて,視覚情報にも,それ以外の情報にもたよっている。皮膚の触覚受容体は脳に,からだのどの部分が地面に接しているかを知らせ,筋肉・腱・関節の自己受容体は脳に,空間におけるからだの各部分の正確な位置をたえず知らせている。」
等々。二か月で治癒力を高める,という具体的なプログラムまである。
第三部は,
「病気の対処法に関するアドバイスである。ここでは現代医学と各種代替療法それぞれの長所と短所をあきらかにし,治療に成功した患者が用いた戦略の数々を紹介する。わたしが提供するのは,現代によくみられる多くの病気の症状を改善するための自然療法である。」
しかし,著者は,こう付け加えるのを忘れない。
「自然療法には忍耐力が必要であることも覚えておいてほしい。現代医学の抑圧的なくすりにくらべて,自然療法の方法は効果が出るまでに時間がかかるのがふつうだからだ」
参考文献;
アンドルー・ワイル『癒す心、治る力―自発的治癒とはなにか 』(角川文庫) |
ゆらぎ |
吉田たかよし『世界は「ゆらぎ」でできている―宇宙、素粒子、人体の本質』を読む。

「この世にあるすべての物質は,常に揺らいでいる」
という文章で始まる本書は,「ゆらぎ」様々にわたって紹介していく。
ひとつは,量子力学の「粒子と波動の二重性」。しかし,
「では,物質がミクロの世界で波になっているというのは,具体的には何がゆらいでいるのでしょうか。…方程式を完成させたシュレディンガー自身でさえ,よく分かりませんでした。」
というしろもの。その答は,マックス・ボルンの,
「物質がその場に存在する確立」
が揺らいでいる,というもの。それに対して,アインシュタインが,
「神はサイコロを振らない」
という名言を残して,受け入れなかったのは有名な話。しかし,今日は,ボーア研究所の提案した,
コペンハーゲン解釈,
が大勢派になっている。つまり,「観測するまでは粒子がどこにあるか確率でしかわからないのに,観測した瞬間に位置が確定する」という考え方である。それを,アインシュタインは,
「私が見るまでは,月はあそこになかったのか」
と,コペンハーゲン解釈を皮肉っている。コペンハーゲン解釈に異をとなえる立場については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/421586313.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/416694519.html
で,触れたところだ。
こうした「ゆらぎ」の究極は,「超ひも理論」であろう。物質を構成する最小単位の素粒子,10の−35乗という極小の世界には,34から36の素粒子がある,と想定されている(重力相互作用を生みだすグラヴィトンだけは輪になっているが,それ以外はひも)。この違いは,
「ひもの揺らぎ方が異なるために,別々の素粒子として観測される」
とされる。この説によれば,
「物質の存在自体も,その本質は揺らぎにある」
ということになる。この素粒子を構成するミクロのひもは,
「そもそも太さはないので,構成している材質もありません。ただ長さのみを持っていて,それが揺らいでいるだけです。(中略)ただ,揺らいでいるものは,点でもなければ面でもなく,短いながらも間違いなく線状のものです。点は0次元,面は2次元ですが,素粒子はどちらでもなく,1次元の線状のものが揺らいでいるのです。」
この証明は,現在の観測技術では難しいとされているが,宇宙の観測にわずかな期待がもたれている。
「長い宇宙の歴史の中で,最もエネルギーの水準の高かったのは,間違いなくビックバンの直後です。最新の研究では,現在,ビックバンから138億年が経過していると考えられていますが,宇宙のどこかに宇宙ひもと呼ばれる当時の痕跡が残っている可能性があり,これを発見すれば,超ひも理論が正しいと証明できるかもしれないのです。」
宇宙生命学については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/423899201.html
で触れたが,
「このミクロの揺らぎがもとになり,現在の宇宙全体の構造ができあがったということがわかってきた」
と,著者は続ける。銀河の配置には,その存在の粗密に揺らぎがある。それを,
泡構造,
と呼ぶが,つまり,
「何も存在しない,空洞のような部分を取り囲むように銀河が存在し,さらにまた隣の空洞のような部分を取り囲むように銀河が存在し,さらにその隣も同じような構造になっている」
という。それは,
「少なくとも宇宙が誕生してから38万年後には,物質の密度にほんのすこしだけ場所によって濃淡の差があったということです。いわば,こうした空間的な密度の揺らぎが種となって,宇宙の泡構造が育ったと考えられています。」
しかも,ビックバンを証明するマイクロ波背景放射には,周波数に揺らぎがあったことが発見される。それは,
「温度に換算すると,わずか10万分の一程度の不均衡さ」
である。
「火の玉のような状態だった誕生まもないころの宇宙は,物質がまったく均衡に存在していたというわけではなく,ごくごくわずかではありますが,濃いところと薄いところがあった」
しかし,その揺らぎが大きければ,今のような宇宙にはなっていない。
揺らぎとは,ある意味,不均衡ということである。たとえば,心臓は,揺らいでいる。
「心臓の鼓動がまったく揺らがず,完全に一定のリズムを刻み続けている」
としたら,脳死か重度の心不全,と言われる。生きているということは,振幅がある,ということだ。当たり前だが,妙にほっとさせられる。固定するということは,死んでいる,に等しいのかもしれない。
人は,
概日リズム
サブ概日リズム
概潮汐リズム
概8時間リズム
概2日リズム
概月リズム
と様々な周期リズムで,周囲の環境に適応するあそびを持っている。だから,人は,1日を,24時間ではなく,25時間で設定しているのも,そのせいらしいのである。
参考文献;
吉田たかよし『世界は「ゆらぎ」でできている―宇宙、素粒子、人体の本質』(光文社新書)
吉田たかよし『宇宙生物学で読み解く「人体」の不思議』 (講談社現代新書) |
二人称 |
西川アサキ『魂と体、脳 計算機とドゥルーズで考える心身問題』を読む。

冒頭にこう書く。
「本当に存在するものは何だろうか?
私の『今・ここでの体験』だろうか? それとも,他人から見た『物質としての脳』だろうか? もちろん,両方だろう。ところが,そういった瞬間,『私』の体験と『他人からみた』脳を結ぶメカニズムが知りたくなる。しかし,他人からみた世界,三人称で語られる客観的物理的世界では,脳は複雑な回路にすぎない。そこに一人称の世界,『私』に体験できる質(クオリア)を『生み出す』機構は今のところ見つからず,今後もわからない。」
いわゆる心身問題が,この「三人称的世界=脳」と「一人称的世界=クオリア」の間の問題として現れる。で,
「一人称での心身問題の問いは,『この体験=クオリアから,どのように世界を構成するか?』という形をしている。一方,三人称の場合は,『脳はどのようにクオリアを生みだすのか?』という形になるだろう。」
と整理し,こう問う。
「では,『二人称』の心身問題の問いはどのようなものになるのだろうか?二人称の世界には『私』と『あなた』が存在する。だから問いも二つの方向性をもつ。つまり,(私からあなたへ)「あなたには,心はあるのか?」という方向,そして,(あなたから私へ)「私の体験が,分かるか?」の二とおりだ。」
その意味をさらに続ける。
「この問いかけ方は,きわめて個別的な存在,つまり『私』の前にいる『あなた』や,『あなた』の前にいる『私』が入っている点で,三人称の問い方と異なる。一方,『この私』以外の他者が,『世界にある事物一般の中に吸収され埋没してしまいがちな一人称とも異なる。もちろん二人称を,通常の心身問題に近いバージョンにすることもできる。」
そのニュアンスを,続けて,こう書く。
「たとえば『「この」脳に「あなたはいるか?』という形はどうだろうか? しかし,このときも『脳(一般)にクオリア(というもの)がどのように宿るか?』とは,少し異なるニュアンスが残存する。三人称には個別性がないし,一人称には個別性しかない。一方二人称というのは,その両者を結ぶ。そのとき,対面であることから生じる不確実性,緊張感が生じる。」
と,そして,この問題意識を前提に次の意図を読むと,本書の目指すものが見えてくる。
「ここで一歩引いた視点から,『心身問題』を一種の『ゲーム』だと考えてみよう。つまり,出発点として,『本当に存在するもの=実体』を選び,『選ばれなかったもの=非実体=錯覚』の出発点を説明するロジックを探すゲームだ。たとえば『実体』として脳をとれば,『非実体=錯覚』は『クオリア』だから,『脳がいかにしてクオリアを生みだすのか?』を説明するロジックを探すことが『心身問題』を解くことになる。逆に『実体』を『クオリア』にして同じゲームをはじめることもできる。」
「あるいは,『実体』として『何か新しいX』を持ち出し,『脳』と『クオリア』がともにそのXからくる『錯覚』だと視点を変えることもできる。」
ここで,著者は,その実体とするXを,ライプニッツの考えた「モナドロジー」という世界観を取り上げる。それは,
「まず『実体』としての『モナド』がある。(中略)『モナド』は,基本的には,我々の意識の特徴,つまり『単一で分割できないが,内部に表象=知覚=クオリアをたくさん抱え,変化する』という特徴を一般化したものだ。」
で,「クオリアを実体とする立場で『心身問題』を解く方法の,極端な形」だから,うってつけである。
そして,著者はもう一つ仕掛ける。ライプニッツのモナドロジーそのものを扱うに,それを論じるドゥルーズの『襞』をもってくる。モナドロジーの「あなた」を配することで,ある意味,実体化したクオリアに対比する「あなた」を配した格好に,二重に仕掛ける。それは,ライプニッツが,「モナドロジー」を文通という常に具体的相手を想定して展開したこととも重ねあわされている。それを,キルケゴールの『死にいたる病』にある(ある著作家の作品に知らぬまに誤字がまぎれこんだ)「誤字」の,
「この語字は自分が誤字であることを意識して作者に反抗しようとする。『いやだ。おれは抹消されるのを欲しない。おれはおまえをやり込めるための証人として,…ここに立っているのだ』」
この対話になぞらえる。この場合,どちらが実体でもいいのだ。で,
「実は本書では,冒頭で述べた『心身問題ゲーム』でのXとして,この形の不確実性,二人称の緊張感を持ってきて議論を展開しようとしている」
と。そして,ライプニッツのいう「支配的モナド」と著者の本書で使う「中枢」がキー概念となる。
「(中枢は)もともと著者がコンピュータ・シミュレーション用に考えた概念で,…次の条件を満たすシステム内の特殊な要素が『中枢』である。つまり,[1]それは,自分の属するシステム(身体)に対する縮図=概要を持ち,[2]それは,システムの他の要素に命令を下し,[3]それが失われると,システム全体の協調が破壊され,[オプション]多くの場合,それは唯一(の存在)である。」
という。しかし,集合知のように,「『中枢』的な命令者がいないにもかかわらず,全体として協調した機能…が出現=創発する」ことがある。にもかかわらず,多く,「中枢」が採用されている。
「だとするなら,その必要性はどこから来るのか? そこで,中枢なき集合知の出現=創発ではなく,『中枢それ自体の出現=創発に関するシミュレーションがあれば,『支配的モナド』や『実体的紐帯』(ライプニッツの持ち出した概念)を,より展開するための道具として使えるのではないかと考えた。」
その結果として,本書で最終的に「二人称としての心身問題」に行き着くことになった,と,著者は言う。当然これは,予想がつくように,「私」というものの発生,ということのシミュレーションになる。
著者自身も,「本書は飛ばし読みできない」と書いているように,前の章で展開した概念に依拠して次に進むというようになっているので,(手に余るが,仮にしようとしても)要約するのも難しい。上記の問題意識から,出された結論部分をまとめて,締めくくりとしたい。しかし,実は,本書は,ウロボロスのように,巻末が,巻頭へと戻るような仕掛けにもなっているのだが。
著者は,暫定的と断ってこうまとめる。
「中枢は恐らく二つのモードで体験されうる。一つは,他人の脳,それは体験にとっての不確実性が集中する場所である。これはいわば,三人称の中枢体験であり,または『図』としての中枢である。一方,もう一つのモードがある。それはさまざまな体験を位置づける場,安定した『地=フレーム』としての中枢だ。三人称としての中枢体験に対して,これを一人称の中枢体験と呼ぼう。一人称の中枢は,不確実性が集中する三人称としての中枢と相補的な,安定した背景として体験される。(中略)
別の言葉で言えば,一人称の中枢体験=地の安定性が,『空間』の原基であり,この構造が安定な時に限り,『脳に集中した不確実性=普通の心身問題』が出現できる。しかし,地としてのフレームが不安定になる=一人称としての中枢が不安定になるとき,不確実性は,他者の内部や,脳といった三人称の中枢にも,閉じ込められなくなる=集中しなくなる。すると,陰翳と窪みの間にある『ズレ』のように,異なるクオリア間の協調の不確実性が露呈する。」
この一人称と三人称の中枢が崩れるとき,「二人称の心身問題」,「エージェント間の協調可能性の吟味プロセスが露呈する」という。ここで「わたし」というもののことを言っている。最後に,その「わたし」について,こう締めくくる。
本書で再三取り上げられているシミュレーションは,「ロボットに組み込むプログラムを抽象化したもの」だという。それをロボットに戻した場合,
「ロボット内に自己組織化する『中枢=主体』と,その機能の研究の焦点が向かう。『わたし』は,『なぜ』必要なのだろうか? それを研究者がプログラムするのと,自己組織化させた場合の違いは何だろうか? 直感的には,そこで鍵になるのは,中枢の入れ子構造だと思う。たとえば,脳の場合,身体に脳という『中枢』があるように,脳内にはさらにワーキングメモリー実行系という『中枢内中枢』もあるとも解釈できる。もし,このような入れ子及びその動的な階層変更が,機能的な意味を持つなら,中枢を自己組織化させる場合にのみ生ずる機能があるかもしれない。プログラムを直接書いてしまうと,何レベル入れ子を作るかを先に決定する必要があるが,自己組織化の場合,それをダイナミックに解決してもらうことが可能だからだ。」
とすると,「わたし」と「あなた」の対話は,構造化され,中枢を生みだす,というように見える。いまのところ「わたし」をそう見ていいのか,とふと疑問に思う。いずれ,「X」を実体と仮定したものから始まったのであって,その対話もまた,脳のホログラフのようなものなのではないか。それは,心身問題のとば口を一歩もはいっていないのではないか,と。
参考文献;
西川アサキ『魂と体、脳 計算機とドゥルーズで考える心身問題』(講談社選書メチエ) |
分人 |
平野啓一郎『私とは何か――「個人」から「分人」へ 』を読む。

私事ながら,昔から,
本当の自分,
とか
自分らしく,
とか
ありのままの自分,
という言葉が大嫌いであった。それは,いまある自分への言い訳でしかない。いま,ここにいる自分以外には,自分はいない,その自分が,
ありのままの自分,
であり,
本当の自分,
であり,
自分らしさ,
そのものだと思ってきた。その自分から逃げられないのである。逃げないことが,自分の人生だからである。何度か自殺しそうになり,その都度思いとどまってきたのは,
自分以外自分の人生を生きていくものはいない,
からだ。著者は,
「個人から分人へ」
と題し,こう「まえがき」で書く,
「全ての間違いの元は,唯一無二の『本当の自分』という神話である。
そこでこう考えてみよう。たったひとつの『本当の自分など存在しない。裏返して言うならば,対人関係ごとに見せる複数の顔が,すべて『本当の自分』である。』
で,「個人(individual)」ではなく,inを取った「分人(dividual)」という言葉を,著者は導入する。
「分人とは,対人関係ごとの様々な自分のことである。恋人との分人,両親との分人,職場での分人,趣味仲間との分人,…それらは,必ずしも同じではない。
分人は,相手との反復的なコミュニケーションを通じて,自分の中に形成されてゆく,パターンとしての人格である。」
つまり,
「一人の人間は『わけられないindividual』な存在ではなく,複数に『わけられるdividual』存在である。」
というわけである。で,
「個人を整数の1とするなら,分人は,分数だとひとまずはイメージしてもらいたい。私という人間は,対人関係毎のいくつかの分人によって構成されている。そして,その人らしさ(個性)というものは,その複数の分人の構成比率によってけっていされる。」
人は,社会的存在である。確か,僕の記憶に間違いがなければ,人の存在は,人と人との関係の,
ノッド(結び目knot),
である。その意味でネットワークの結節点なのである。
「私という存在は,ポツンと孤独に存在しているわけではない。つねに他者との相互作用の中にある。というより,他者との相互作用の中にしかない。」
その意味では,その人がつながる人との側面,
「分人はすべて,『本当の自分』である。」
ということになる。だから,逆に言えば
「本当の自分は,ひとつではない。」
ということになる。その人の個性というのは,
「誰とどうつきあっているかで,あなたの中の分人の構成比率は変化する。その総体があなたの個性となる。」
という意味では,
「分人のネットワークには,中心が存在しない。なぜか?分人は,自分で勝手に生み出す人格ではなく,常に,環境や対人関係の中で形成されるからだ。私たちの生きている世界に,唯一絶対の場所がないように,分人も,一人一人の人間が独自に構成比率で抱えている。」
著者に言わせると,分人には,その対人関係の親疎に合わせて,
「不特定多数の人とコミュニケーション可能な,汎用性の高い分人」(社会的な分人)
「特定のグループ,社会的な分人がより狭いカテゴリーに限定されたもの」(グループ向けの分人)
「特定の相手に向けた分人」
の3レベルがあるが,
「社会的な分人が,特定の人に向けて更に調整されるかどうかは,必ずしも付き合った時間の長さには比例しない」
らしい。この,
多種多様な分人の集合体,
として,われわれは存在していいる,というわけだ。
「誰に対しても,首尾一貫した自分でいようとすると,ひたすら愛想の良い,没個性的な,当たり障りのない時分でいるしかない。まさしく八方美人だ。しかし,対人関係ごとに思いきって分人化できるなら,私たちは,一度の人生で,複数のエッジの利いた自分を生きることができる。」
あるいは,相手の対応しているさまざまな分人の振幅そのものが,
私,
という人間なのである。その意味で,確かに,
「私たちの人格そのものの半分は他者のお蔭なのである。」
だから,
「あなたの存在は,他者の分人を通じて,あなたの死後もこの世界に残り続ける。」
とは,例の,人は二度死ぬ,という意味の,別の側面から見た意味になる。そうして,「私」の死後も,相手の分人の中に「私」は生き続ける。
余談だが,f-MRI(機能的核磁気共鳴画像)で,脳の働きのマッピングが可能となり,一人の人間の中の,慎重な行動の「私」と衝動的な行動の「私」が共存することが,観察され,個人内葛藤と呼ばれている。「分人」が,f-MRIで確かめられる日が来るかもしれない。
参考文献;
平野啓一郎『私とは何か――「個人」から「分人」へ 』(講談社現代新書) |
職場学習 |
中原淳『職場学習論―仕事の学びを科学する』を読む。

著者は,本書の意図を,
「『人は,どういった支援を受けて成長するのか』,はたまた『どういう特徴を持った職場であったら,人々は助け合い,かかわりあいを持とうとするのか』…本書で筆者が探求したいことは,まさに,これである」
と述べる。つまり,「これまで,いわば『ブラック・ボックス』と化していた『職場における人々の学習』を,具体的には,
「人は,職場で,どのように他者とかかわり,どのような成長を遂げるのか」
また,
「人が成長する職場というものは,どのような組織的特徴を持っているのか」
について実証的に探究するのを意図している。
このベースになったのは,二つの調査である。ひとつは,「他者支援調査」,いまひとつは,「ワークプレイスラーニング調査」である。詳しくは本書を見ていただくことにして,本書のキーワードを著者は,次のように定義している。
他者は,仕事を達成する中で関与のある人」として,上司,上位者,先輩,同僚・同期,部下,である。
学習は,「経験によって,比較的永続的な認知変化・行動変化・情動変化が起こること」として非常に広範囲に捉える。
支援は,「何らかの意図をもった他者の行為に対する働きかけであり,その意図を理解しつつ,好意の質を維持・改善する一連のアクションのことを言い,最終的な他者のエンパワーメントをはかること」とする。
職場は,「責任・目標・方針を共有し,仕事を達成する中で実質的な相互作用を行っている課・部・支店などの集団」。
支援としては,
業務支援(仕事に必要な情報を提供してくれる,仕事の相談に乗ってくれるなどの業務に密接に関連する支援)
内省支援(客観的な意見を与えたり,振り返りをさせたりといった経験にメタ化の機会を与える支援)
精神支援(他者から与えられる,仕事の息抜きになる,精神的安息をえられるなどの支援)
がある,とする。さらに,向上する能力を,
業務能力向上,
他部門理解向上,
他部門調整能力向上,
視野拡大,
自己理解促進,
タフネス向上,
と挙げている。僕は,この能力の上げ方で,引いた。仕事ができる,あるいは,業務遂行能力が向上するとはどういうことか,について,基本的な齟齬を僕は感じた。ありていに言えば,職場で,
成長するとはどういうことか,
あるいは
成長するとは何ができることか,
あるいは,
成長するとはどうあることか,
という核の認識を欠いている,という気がしたのである。
http://ppnetwork.seesaa.net/article/417632824.html
でも述べたが,アージリスは,能力を,
アビリティ
と
コンピタンス
をあげた。コンピタンスとは,
それぞれの人がおかれた状況において,期待される役割を把握して,それを遂行してその期待に応えていける能力,
であり,ある意味,役割期待を自覚して,そのために何をしたらいいかを考え実行していける力であり,その先に,いわゆるコンピテンシーが形成される。つまり,それは,
自分がそこで“何をすべきか”を自覚し,その状況の中で,求められる要請や目的達成への意図を主体的に受け止め,自らの果たすべきことをどうすれば実行できるかを実施して,アウトプットとしての成果につなげていける総合的な実行力,
である。アビリティとは,
英語ができる,文章力がある等々といった個別の単位能力,
を指す。どうも,多く,本書で言っている能力には,肝心の,
コンピタンス
が含まれていないのである。コンピタンスとは,
自分は何をするためにそこにいて(目的意識),
そのために何をするのか(役割意識),
である。これを,自己の,
ポジショニング,
あるいは,
立ち位置,
という。これなしの能力は,背骨のない付け焼刃でしかない。つまり,実践の場でチームの,職場の実践力にはならない。その意味で,本書の支援が,ただ,そこで与えられた役割をこなすのに必要な知識・スキル程度だとするなら,そんな人が何人集まっても,組織は生きないし生き残れない。主体的に動ける能力が育てられていないからである。
実は,本書を読みながら,かつて,たしか,若林満氏らが,
入社直後配属された上司次第で,伸びしろ(成長と置き換えてもいい)が決まる,
といった,十数年に渡る調査結果を,随分前に出されていたのを思い出していた。調べたが,多分該当するだろうと思われる引用文しか見つからなかった。
http://sucra.saitama-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/BKK0000686.pdf?file_id=18084
には,こうある。
「若林ら(若林・南・中島・佐野,1980)は,初期キャリアにおける LMX(垂直交換関係)とキャリア発達との関係を明らかにするために,流通業の大卒男子新入社員
85 名を対象として 3年間にわたる追跡研究を行った.その結果,『入社後 1
年間の直属上司との垂直的交換関係』は,直属上司による『職務遂行』の評価や,人事記録から得られた『給与』や『ボーナス』などの『ハードな側面』と新入社員本人による『職務欲求』『職務充実』『職務満足』『組織コミットメント』など『ソフトな側面』の両面にわたって強く一貫した予測効果を見せた.ここでいう,『直属上司との垂直的交換関係』は,『自分が上司に理解されている度合い』『上司の期待が自分に明示される度合い』『上司が自分の意見や提案を受け入れる度合い』『仕事を離れたつきあいの度合い」などで測定されている.結果を見ると新入社員本人の高い潜在能力が,直属上司との良好な交換関係を通じて開花し,キャリア発達過程は『高い目標と挑戦→直属上司の理解と援助→目標達成→心理的成功体験→成長欲求の強化→より高い目標と挑戦」という好循環を形成していた.一方,『入社時に評価された潜在能力』は高かったが,『直属上司との垂直的交換関係』が低かったグループでは,本人の成長へのモチベーションが『抑圧』されてしまい,それはより深刻な『幻滅感』を生み出してキャリア発達が阻害される結果となっていた.これら入社後
3 年間のデータは,当該新入社員が係長に昇格する時点(入社 7 年目)と課長に昇格する時点(入社 13
年目)の人事データと関連づけてフォローアップがなされた.」
管理監督職昇進時まで追跡されて,その結果をフォローし,確かめているものであった。
ある意味で,そのコアとなるものは,
アビリティ
ではない,と思う。今でいう,(上司をモデルとした)コンピテンシーの育成ではあるまいか。
役割意識と目的意識は,
役割意識なくして目的意識はない
が
目的意識なくして役割意識はない
という関係にある。それが成長の軸で,どのポジション,どの職種についても,ついて回る。
その点では,
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod062100.htm
でも書いたが,まずは,コンピタンスの確認こそが大事なのではないか。
自分は何のためにここにいるのか,
そのためにどういう役割を担うのか,
そのために何が必要なのか,
ここで初めて,必要なアビリティが明確になる。
その意味で,本書の職場学習には,本人がその組織で生きていくためのコアな軸を欠いているように思える。
ただ,第五章「職場コミュニケーションと『能力向上』」は,ある意味現実的には暗黙の裡にわかっていることだが,職場でどれだけざっくばらんな会話ができるか,が能力向上に資するというところは,その風土づくりは上司次第という意味も含めて,納得できる。しかし,かつて,
上司はその職場風土そのもの,
という常識があったが,筆者らは,ご存知なかったように思えてならない。
参考文献;
中原淳『職場学習論―仕事の学びを科学する』(東京大学出版会) |
山形有朋の靴 |

最近,ずっとニッチ時間を見つけては,Kindle版で,昔の大衆小説をぱらぱらと読んでいる。岡本綺堂や野村胡堂,佐々木味津三,林不忘と言ったところに辿り着いた。岡本綺堂については,何度か触れたことがある。
http://ppnetwork.seesaa.net/article/418326441.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/418161213.html
等々,何度か触れたことがある。僕は個人的に言うと,岡本綺堂は,野村胡堂よりはるかに,文章も構成もまさると思うが,佐々木味津三,
http://www.aichi-c.ed.jp/contents/syakai/syakai/tousan/106/106.htm
というと,『右門捕物帳』や『旗本退屈男』は思い浮かんでも,東映の時代劇映画で,大友柳太郎の『右門捕物帳』や市川右太衛門の『旗本退屈男』しか知らず,原作を読む機会もなかったし,かつては,そんなに簡単に読もうにも手に入らなかった。だから,興味を惹かれて,原作を始めて読むと,映画の主人公のキャラクターとは随分イメージが違うことには驚かされる。しかし,あくまで小説の結構ということだけを考えても,またエンターテインメントとしての出来栄えとしても,現在から見ると(現時点の視点から振り返ると),まあ,映画の原案程度のレベルに見える。いまなら,どの賞にもかすりもしない気がする(失礼…!)。ただ,話自体は,面白いつくりになっていて,それだけに,映画作りには,格好の原作になった,という気がしてならない。
しかし,表題作についてきた四作品,どうやら佐々木味津三の晩年(といっても,37歳でなくなっているのだが)の作品群,「老中の眼鏡」「山県有朋の靴」「流行暗殺節」「十万石の怪談」はいい。「流行暗殺節」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000111/files/1485_16865.html
もいいし,「老中の眼鏡」も,
http://www.aozora.gr.jp/cards/000111/files/1483_16864.html
悪くないが,特に,「山県有朋の靴」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000111/files/1486_16867.html
には感心した。いまはどこででも,簡単に読めるが,こういう作品が,埋もれていたのか(僕が知らないだけだが),と妙に印象深い。
維新という時代の転換で,取り残された元旗本が,徳川幕府を倒した側の山県有朋の下男に落ちぶれ,有朋の靴を磨いている,という境遇にある。感情を失い,というか殺して,ただ無気力無感動に,淡々と過ごしている。しかし仮面のその表情の下にある,鬱屈がほんの些細なことで吹き出す,その悲しみが,僕にはよく沁みた。
よく考えると,映画のイメージで,作家を投影していたのかもしれない。他にも読めていないものがあるので,たまたまをそもそもとしているかもしれないが,
「佐々木の『右門捕物帖』は、嵐寛寿郎と山中貞雄によって「和製シャルロック・ホルムス」と銘打ち、
『むっつり右門』シリーズとして映画連作された。主人公の「むっつり右門」というあだ名、バスター
・キートンを手本にした無口なキャラクター、人差し指を立ててアゴに手を持っていく癖、これらはすべ てアラカンが創作したものである。
また登場人物の『あば敬(アバタの敬四郎)』、『ちょんぎれの松』も、アラカンや山中が創ったもの
で、映画に合わせて佐々木が原作小説に逆輸入したキャラクターである。『あば敬』の『村上』という姓も、映画でこれを演じた尾上紋弥の本名が『村上』だったことに因んでアラカンが思いつきでつけた。
『右門捕物帖』の設定は、このように嵐寛寿郎プロダクションで先行して創作され、佐々木の原作に採
り入れられていったのだが、当の佐々木は怒りもせず、『こんどの映画どうなる?』とアラカンに聞いてき
て、あべこべに映画の内容を小説のネタにしていた。」
「佐々木の代名詞ともなった作品『旗本退屈男』は、昭和5年にこれを読んだ市川右太衛門が気に入っ
て映画化。以後右太衛門の主演代表作となり、計31本の大ヒットシリーズとなった。」
等々,とあるから,映画のイメージが強いのは当たり前かもしれない。ある意味,映画を意識して,小説を書き,いまで言うと,テレビドラマの小説化のような,先駆けをやっていたことになる。その意味では,『旗本退屈男』のほうは,
「無役ながら1200石の大身。本所割下水の屋敷に住む。独身で家族は妹の菊路。他に使用人が7名同居。身長五尺六寸(約170cm)というから当時としては容貌魁偉な大男」
という原作とは,イメージが違うか,僕の年代だと右太衛門のイメージが鮮烈で,若さをあまり感じない。そのイメージのまま読むと,文章は,確かに,若い,眉目秀麗とあっても,それをスルーしてしまう。視覚で作られたイメージは強い。
「旧制愛知一中(現:愛知県立旭丘高等学校)を中退した後、明治大学政経科を卒業。雑誌記者の
かたわら小説を書き、1919年『大観』に載せた「馬を殴り殺した少年」で菊池寛に見出される。文壇
に姿を現した当初は純文学を志していたものの、父親が遺した借金の為に経済的環境が厳しく、長兄を早くに亡くした事で家族を養い、また家の負債を返す必要が生じたために大衆小説に転向。当時は
格下と言われていた大衆向け小説を書くことに抵抗を感じたが、芥川龍之介から激励を受け感激し、そのことが後々まで影響したと自著に記している。」
とあるので,その筆力を現実化するのに暫し猶予が要ったということか。しかし,
「しかし、自らの体力を削って無理な執筆を重ね、それが為に健康を害してしまい、若くしてこの世
を去った。その死は、現在でいうところの過労死であると言われている。37歳没。 また、小説家とし
て成功した後は弟や妹一家を東京に呼び寄せ、家計の面倒も見たという。」
とあるように,「有朋の靴」が,絶筆という。絶筆と聞くと,また感慨も少し動く。
参考文献;
佐々木味津三『右門捕物帳・旗本退屈男』(Kindle版) |
ビッグデータ |
海部美知『ビッグデータの覇者たち』を読む。

著者は,シリコンバレーに10年以上住んでいるが,エンジニアではない。むしろ,
「技術の話になると,実はエンジニアの話についていくだけで必死」
なのだという。その著者が,
「ビックデータという現象が,企業経営や消費者の日常生活にどのような影響を与えるのかという点から非常に興味を持っており,この本もその観点から書き進めていきたい」
と「はじめに」で述べる。ある意味在米体験を通して,利用者の目線で追っている,と言っていい。
で,著者は,ビックデータを,大まかに,
「人間の頭脳で扱える範囲を超えた膨大なデータを,処理・分析して活用する仕組み」
「『予測』『絞り込み』『見える化』がピッデータの得意技…集計や分析をくわえて何らかの意味を引き出す」
と説明する。いまのところ,「膨大なデータ」とは,
「数十テラバイト(テラ=2の40乗倍)からペタバイト(ペタ=2の50乗倍)といった単位のデータ量」
を想定するらしい。これは時々刻々膨れ上がっていくに違いない。われわれは,天気予報,グーグル,クレジットカードの不正防止,アマゾン等々で日々その恩恵を受けている。
そして,データは(ビックデータ業界では),
新しい石油,
に喩えられる。つまり,
「次世代の産業のコメになるかもしれない」
というわけである。2011年と,少し前だが,マッキンゼーのレポートでは,世界の地域ごとのデータ蓄積量が比較されている。それによると,
「2011年の推計新規データ蓄積量(累積ではなく,1年間に新たに蓄積される量)はアメリカが3500ペタバイト,ヨーロッパが,2000ペタバイト」
と,他の地域を圧倒している。日本は,世界で3番目ながら,400ペタバイトと,250ペタバイトの中国より少し大きい程度。著者は言う。
「ネットの自由度が低い中国と比べてもこの程度しか多くないのかと少々驚きました。」
考えてみれば,もちろん無機的データもさることながら,ツイッターのつぶやきやフェイスブックへの投稿有機的データでも,欧米に圧倒されているのである。これが,
「原料となる資源」
次世代産業のコメということを考えると,情報に対する,日本の為政者,企業経営者の感度の鈍さは,致命的ではないのだろうか(平気で公文書を廃棄し,改竄し,隠蔽する人々だからなぁ)。
「有機的データを使ったビックデータの手法は,…『従来の何かの代替』ではなく,『ネットでしかできないこと』をユーザーに提供する,新しいネット産業のサービスの屋台骨であり,激烈な競争を勝ち抜くための大きな差別化要因となっています。」
しかし,有機的データには,「プライバシー侵害」という陥穽がある。しかしネット企業は,敢えて火中の栗を拾おうとする。なぜか。著者は,その理由を,
「究極的には,『ビッグテータの活用がユーザーのためになる』,さらにそれゆえに『コストを下げ,利益を上げることができる』からです。」
と説明する。さらに,
「シリコンバレーの人々は,『世界を良くする』としいうスローガンをさらりと口にしますが,ビッグデータの分野でも,これをどう役立てるかという『志』は常に底流として持っています。」
という。目的意識と言い換えてもいい。それに比べて,日本の企業には『グローバル化』というお題目はあっても,
「根底に多くの人が共感するような志を持っていなければ,各国のユーザーや業界コミュニティに賛同してもらえません。」
と,日本の企業の志の無さに,巻末で危惧を述べている。そう言えば,たとえば,かつてソニーが会社設立趣意書で,
一、真面目なる技術者の技能を、最高度に発揮せしむべき自由闊達にして愉快なる理想工場の建設
一、日本再建、文化向上に対する技術面、生産面よりの活発なる活動
一、戦時中、各方面に非常に進歩したる技術の国民生活内への即事応用
一、諸大学、研究所等の研究成果のうち、最も国民生活に応用価値を有する優秀なるものの迅速なる製品、商品化
と述べていたように,かつて製造業にはあった気がする。
閑話休題。
グーグル,アマゾン,フェイスブックといったウエブ企業を中心に,ビックデータの活用例を紹介しているが,いずれも,
「ビックデータ技術の力を自前でもっていなければ,ネットの世界ではもはや大きく成功はできないといってしまってもいいのかもしれません。」
というが,その展開は,ヒッグス粒子の発見といった科学の分野でもビックデータの活用は不可欠で,たとえば,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/421758173.html
で取り上げた,東京大学宇宙線研究所の低バックグラウンド多目的宇宙素粒子検出器XMASS(Xenon
detector for weakly interacting MASSive particles)実験のプロジェクトが,
「闇黒物質に蹴飛ばされたキセノンの原子核は,周囲のキセノンを電離させるなどの影響を与えながらエネルギーを放出して,最終的に止まります。蹴飛ばされたキセノンからエネルギーを得た,周りのキセノンは,紫外線を出して蛍光が発生します。その光が,642本の光電子増倍管が捕まえる信号」を,「長い時間をかけてデータを蓄積し,それを精密に解析することによって,初めて『発見』となるのです。」
と言っていたのも,また同じ例であるようだ。
ビックデータというのは,どこかにあるのではなく,日々の投稿,ツイッターをはじめとした個々のデータそのものが,資源になっていく。たとえば,2013年,アメリカ議会図書館で,ツイッター上の公開ツイートがアーカイブ化され,すべて閲覧できるようになった,という。
「06年の創業以来,これまでのツイートというと,その数1700億本,データ量にして133テラバイトだそうです。」
あほらしいようなツィートも,罵詈雑言も,すべて議会図書館に収蔵されたのである。この姿勢が,そもそも違う。これからは,こういう有機的データをどう使うかの時代になっている。著者は言う。
「もしかとたらビッグデータの技術は,今のグーグル検索やアメリカ議会図書館のツイッター・アーカイブのような形で,社会科学的な『知のプラットフォーム』を作る,という役割までで止まるかもしれません。(中略)それでも先進国で『モノを作る過程でマージンを生みだす』という富の創出の仕組みが終わった現在,『サービス業で富を生みだす』『社会的な難問を解決する』という次の反映を切り開くには,ビッグデータ技術などを使って,『知識を集めて増幅させる』という仕組み以外に,有効なやり方を私は知りません。」
人文科学系を潰そうとし,平気で文書を廃棄するわが国は,ひょっとすると戦後レジームの前へと先祖返りしようとしている分,既に世界の最先端から,遠く置いてきぼりを食っているような,気がしてならない。ツイッターをアーカイブにする,それが次世代の産業のコメという発想は,今の経団連のトップ経営者はおろか,わが国の為政者のどこにも無いに違いないのだから。
参考文献;
海部美知『ビッグデータの覇者たち』 (講談社現代新書) |
世界観 |
中村桂子『科学者が人間であること』を読む。

本書が描かれたのが,2013年。わずか二年で,日本国内のの風向きがガラリと変わってしまったことがよくわかる。その意味で,「おわりに」で,
「筆を進めながら常に思っていたのは,あたりまえのことばかり書いているということでした。特段新しいことはありません。けれどもあの大きな災害から二年半を経過した今,科学者が変ったようには見えません。震災直後は,原発事故のこともあり,科学者・技術者の中にある種の緊張が生まれ,変ろうという意識が見られたのですが,今や元通り,いやいぜんより先鋭化し,日常や思想などどこ見吹く風という雰囲気になっています。
それどころか今,『経済成長が重要でありそれを支ええる科学技術を振興する』という亡霊のような言葉が飛び交っています。ここには人間はいません。経済成長とは具体的にどのようなことで,誰の暮らしがどのように豊かに豊かになるのか,幸せになるのかという問いも答もありません。したがって科学技術についても,イノベーションという言葉だけしかないところに大きな予算をつけることが『振興』とされ,その研究や技術開発によって人々の日常がどのようになるかということは考えられていません。私達って人間なんですというあたりまえのことに眼を向けない専門家によって動かされていく社会がまた始まっているとしたら,やはり『科学者が人間であること』という,あたりまえすぎることを言わなければならないと思います。」
と書く言葉が,見事に今日への予言になっている。フクイチはまだ汚染を垂れ流し続け,到底コントロール不可能と見せつけているのに,早くも,原発の再稼働が,科学者のお墨付きではじめられている。そのことに対する,(真の)科学者自身からの,日本の科学あるいは科学者はどうあるべきか,の提言の書である。しかし,著者自身の予言した通り,元の木阿弥,たぶん,また同じ轍を踏むであろうことも,予想される。
本書は,
「50年近く,生命科学の研究に関与しながら,常に本当にこれでよいのだろうかと考え続けてきました。『人間は生き物である。自然の中にある』ということを,最新の生命科学研究の知識を踏まえて,『生命誌(バイオヒストリー,Biohistory)』という新しい知として提案し,近代を問い直して」
きた,著者の,震災を経験しての,(大森荘蔵,南方熊楠等々を参照しつつ)科学者としての在り方を問い直した本,となっている。その考え方は,
「西欧で生まれた科学そのものを否定するのではない方法で,科学という呪縛から解かれることが必要」
とするもので,たとえば,ゲノムを例にして,こう書いている。
「(ゲノムは)一つの細胞の中にあるDNA全体をさします。その性質を一言で表現するなら関係性でしょう。遺伝子と遺伝子,細胞間,さらにはある生物と他の生物との『関係性』『ネットワーク』を内に持つものと捉えることができます。そこで,地球上の全生物の基本物質であるDNAを個々の遺伝子とのみ捉え,個別に分析を進めていくだけでなく,一つの細胞の中にあるDNAのすべてをゲノムとして捉え『全体』を見ようと考えました。さらには生きものを38億年という長い歴史の産物と考える視点から生きものの本質を見るという知を進めることで,世界観の転換につなげたいと思ってきました。」
それは原発に関わった専門家の「狭い視野の価値観で動いていること」への批判となっている(またぞろ,懲りもせず復活してきているが)。著者は,そこに,
「自らもまた社会の中に生きる一人の『生活者』であるという感覚を失い,閉じられた集団の価値観だけを指針に行動している」
のを見る。それは過去のことではなく,今現在も,またぞろ大手を振って闊歩している。それは原発だけではない。たとえば,ヒトゲノム開発をめぐっても,
「日本の大型プロジェクトは…『ゲノムの解析が終わったのだから次はタンパク質でしょう』という単純な発想で,しかも3000億円のたんぱく質の構造をきめるという,量で勝負をするプロジェクトを巨額の資金を投入して始めました。ここには,ゲノム解析に到る研究の歴史や生命現象を考える姿勢,医療という応用へ向けての研究戦略などがまったくありません。これは,基礎研究としても,社会に役立つための研究として評価のできない進め方です。」
と,同様に,「狭い視野の価値観で動いている」,そう言い方は妥当ではないが,まるで金鉱を探す山師そのもののような専門家集団である,と僕には見える。著者は,アニメの『鉄腕アトム』の主題歌,
空を超えて ラララ 星の彼方
ゆくぞ アトム ジェットのかぎり
心やさしい ラララ 科学の子
十万馬力だ 鉄腕アトム
と,『きかんしゃトーマス』の主題歌,
じこがほら おきるよ
いいきになっていると
そうさ,よそみしているそのときに
じこしは おきるものさ
を対比しながら,科学に対する(日本と欧米の)見方の差を例示しつつ(「安全神話」自体があり得ない),
「専門家への信頼がなくなっている理由は,現在の科学そして科学者のありようそのものが間違ってからなのです。」
と,言い切る。そして,その突破口を,大森の,
「日常描写と科学描写の重ね描き」
に見出す。大森は,その意図を,
「私が富士山を見ながら立っている。それは乃ち,光波が私の眼に達し,わたしの脳細胞が興奮しているそのことに他ならないのである。物理学者や化学者はもとより,生理学者もまた,彼らの実験室の中での実際の研究ではこの『すなわち』の『重ね描き』にしたがっているのである。」
と説く。それは,
「科学をする者は科学と日常と思想とを自らの中に取り入れていなければならない」という,著者の思いと重なった瞬間である。それを,
機械論的世界観から抜け出す手がかり,
とし,それを,
「略画的世界観」(自分の眼で見,感じているときの世界像)と「密画的世界観」(近代科学の分解していく世界像)
の「重ね描き」という。それは,
「『科学的』だからといって,密画のほうが略画より『上』なわけでも,密画さえ描ければ自然の真の姿が描けるわけでもないということです。密画を描こうとする時に,略画的世界観を忘れないことが大事なのです。」
という。これは,著者の言う「あたりまえ」のことなのかもしれない。しかし,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163312.html
で触れたように,
サムシング・グレート
という,西欧の科学者には,信仰心と両立させるマインドがある,それを別の言い方で言っているように見える。それ抜きなら,試験管で子供すら創り出すことを,心に何のこだわりもなく,やってのけてしまう。それは,
すべてがわかるわけではない,
という謙虚さに通じる。熊楠は,
「科学哲学は仏意を賛するものとでも見て」
と,自分流に表現している。著者は,大腸菌の遺伝子4100個から,「重要な代謝経路の遺伝子」を欠いても大腸菌は生き延びる,という例を挙げて,
「生きものはその場その場に応じて適当に対処するのです。生物医学では,このような性質をもつものを全体像はまだわからないままに技術に用いるわけですから,『わかっていない』ということを忘れずにいることが大事です。」
と,述懐する。しかし,我が国では,隅々まで,科学神話に陥る余地がある。「きかんしゃトーマス」と「鉄腕アトム」の差は,意外と大きいのかもしれない,と思い知らされるのである。しかし,国立大から,文系を消そうという方向の行き着く先は,金になり,役に立つなら,人体実験でも,戦争でもなんでもする,といういつか来た道に通じるような気がしてならない。
参考文献;
中村桂子『科学者が人間であること』 (岩波新書) |
人体 |
吉田たかよし『宇宙生物学で読み解く「人体」の不思議』 を読む。

http://ppnetwork.seesaa.net/article/420205932.html
で取り上げたのが,地球史の中で生命起源を探ろうとするものであった。しかし,本書は,端から,生命由来を宇宙と決めてかかっている。そういう成りたちの学問のせいか。
宇宙生物学とは,
「地球に限定せず,宇宙全体の広い視野で生命の成り立ちや起源を解明する学問で,アストロバイオロジーと呼ばれています。」
という。たとえば,その宇宙生物学が挑んでいる最大のテーマの一つが,
「生物を生みだすアミノ酸が宇宙のどこからきたのかを解明すること」
とあるのがいい例だ。そして,暗黒星雲にアミノ酸を発見すべく,壮大なプロジェクトがスタートしている,という。なぜアミノ酸か。
「生命とは,アミノ酸を組み合わせて作られた精密機械」
だからである。いま,
「アミノ酸は,地球上ではなく宇宙空間で合成されたものだという説」
が浮上しつつある,と著者は言う。なぜなら,
「地球上の大半の生命は,ある特徴を持ったアミノ酸しか使用していない」
という「生命の七不思議」があるのだという。
「アミノ酸には右型と左型の2種類のタイプがあります。(中略)鏡像対象になっている2種類のものが存在し,それぞれ右型と左型といいます。試験管の中で普通に化学反応を指せてアミノ酸を合成すると,右型と左型は,ちょうど50%ずつ出来上がります。(中略)ところが,不思議なことに,この地球上で生きている生命は,大半が左型のアミノ酸だけしか利用していないのです。」
その不可思議さも,
「宇宙で誕生したアミノ酸から地球上の生命が誕生したと考えれば,都合の良いストーリーが組み立てられます。実は,もともと太陽系には,左型のアミノ酸のほうが多かったと考えられるのです。実際,現在でも,宇宙からやってくる隕石を分析すると,左型のアミノ酸が多いことが確認されています。」
なぜならば,円偏光と呼ばれる紫外線の性質が関わっている,という説があるらしいのである。
「電磁波の中には,波が伝わっていくときに振動する向きが円を描きながら回転するという特殊タイプがあり,これを円偏光と言います。波が回転する方向が右向きなら右円偏光,左向きなら左円偏光というのですが,右円偏光の紫外線が当たれば右型のアミノ酸が壊され,左円偏光の紫外線が当たれば左型のアミノ酸が壊されることが確認されています。どうやら太陽や太陽系ができる前には,宇宙の中のこの領域では,右円偏光の紫外線多く放射されていたようなのです。これにより右型のアミノ酸だけが壊れたため,比較すると左型が多くなり,それが現在の生命にも受け継がれていると考えれば,矛盾なく説明が可能です。」
その宇宙由来のアミノ酸同士を結合させ生命活動を担うタンパク質に成長させるゆりかごとして,
「注目を集めているのが,熱水鉱床と呼ばれる場所です。(中略)この熱水鉱床では,アミノ酸同士が自動的に結合することがわかっています。海底の熱水鉱床では,高温高圧のため,水は超臨界という特殊な状態になっています。これにより,脱水縮合反応と呼ばれる反応が起き,アミノ酸がつながるのです。」
と,このストーリーが可能であるなら,
「地球外生命が存在する場所として,がぜん,期待が高まるのが,木星の衛星のエウロパです。エウロパには広大な海があり,しかも海底には熱水鉱床が広がっている可能性が高いからです。」
と,宇宙へと視野を広げていく。
もともと生命の源となった海水の大量の水分は,「彗星」に由来している,と考えられている。
「42億年前から38億年前にかけて,彗星が次から次へと大量に地球に衝突しました。彗星は,別名『汚れた雪だるま』と呼ばれています。その名のとおり,彗星を構成している成分は,ほとんどが水の凍ったもので,その中に少量の有機物などが混ざっています。(中略)人間の構成要素のうち,地球に由来した物質はわずか30%に過ぎず,人体の70%は本を正せば彗星だったということになります。」
しかも,もともとその水分にはナトリウムはほとんど含まれていない。海を塩水に変えるのに月が果たした役割が大きいとされている。いまでも,月は年々3.6pずつ地球から遠ざかっているが,それは時代を遡るほど地球に近かったということを意味する。
「ジャイアント・インパクト」説によると,45億年前,火星サイズの惑星が地球に衝突し,その破片が集まったのが月とされている。その時点で,現在の1/12位の距離に月があった。引力は12乗,つまり144倍,「誕生当初の海では現在の100倍以上のエネルギーで潮の満ち引きが行われていた」ことになる。
「月は今の4倍の速さで地球の廻りを回っていたのですが,地球の自転も早く,6時間で一周していました。…つまり,当時は干潮と満潮が1時間半ごとに繰り返しおとずれていたわけです。」
その結果,地殻は潮の流れで削られ,ナトリウムが一気に融け出した,と考えられている。
「体内の細胞は,ほとんどすべてが何らかの形でナトリウムを利用して活動していますが,その中でもとりわけ大きく依存しているのが神経細胞と筋肉細胞です。神経も筋肉も,細胞膜にナトリウムイオンを通す穴が空いており,ここを通ってナトリウムイオンが細胞内に入ってくると,神経細胞は興奮状態になり,筋肉細胞は収縮を始めます。」
つまり,ナトリウムを媒介にしなければ機能を果たせない,ということになる。だから,
「人体では,血液もリンパ液も,ナトリウムイオンの濃度が135〜145mEq/Lの範囲内に収まるよう,厳密にコントロールされている」
特に,濃度が110mEq/Lを下回っただけで,全身の筋肉が痙攣し,脳内の神経細胞が異常をきたし昏睡状態に陥る,という。
少なくとも,宇宙由来かどうかは別として,いまの地球の誕生以来の経緯が,わずかでも狂っただけで,われわれが存在するにしても,よほど今とは変わったものになっていた可能性は高い。
生命誕生の環境という意味で,この広い宇宙の在りようが,いまをもたらしていて,それが,身体の細部に大きな影響を与えている,ということは,癌を考えただけでも奥が深い,ということが見えてくる。本来(地球上に酸素はなかったため)嫌気性であった生物が酸素を利用することで,爆発的な進化を手に入れたが,それは,(ウラン236の不安定さを使う)原子力の利用に似ている,と著者は書く。
「人体は有機化合物と酸素分子を反応させ,二酸化炭素と水に変えることでエネルギーを取り出しています。2つの酸素原子が結合した酸素分子の状態に比べると,酸素原子が炭素原子と結合している二酸化炭素や,酸素原子が水素原子と結合している水の状態のほうがはるかに安定的です。この大きな落差が人体活動を支えるエネルギーの根源となっているのです。」
しかし,そのおかげで,
「その巨大なエネルギーを使って細胞を爆発的なスピードで増殖できる能力を手にしてしまいました。実際条件さえ整えば,人間の細胞はわずか20時間で分裂できるので,細胞の数は20時間ごとに2倍に増え続けることが可能なのです。」
その結果,
「たった1個の癌細胞でも倍々ゲームで増殖することで,1ヵ月が経過すると700億個に増殖することになります。」
著者曰く,
「酸素の利用は,生命が高等生物に発達するうえで不可欠なことでしたが,同時に癌というパンドラの箱を開けることにもなったのです。」
と。しかも,癌で死亡る割合は,チンパンジーでも2%,人間は,日本人で30%の死亡率で,これは,脳の巨大化と関わる,と最近見なされるようになった,という。脳は,6割が脂肪でできており,そのため,
「人間が脳を急激に発達させるためには,死亡を作る能力を高める必要があり…,実際ブドウ糖から脂肪を合成する能力を比較すると,人間は哺乳類の中で傑出して高いのです。」
それが,癌を宿痾とすることにつながった,ということになる。
参考文献;
吉田たかよし『宇宙生物学で読み解く「人体」の不思議』 (講談社現代新書) |
ニューラルネットワーク |
前野隆司『脳はなぜ「心」を作ったのか』を読む。

著者は,冒頭でこう言い切る。
「ある日,『心』と『からだ』の成り立ち方はだいたいおなじではないか,と考えているときに,急に心の謎を解く手がかりがひらめいた。私は,生物の脳が,なぜ,なんのために心を作ったのか,そして心はどんなふうに運営されているのか,という心の原理を理解したつもりだ。」
と。そして,
「心が実に単純なメカニズムでできていて,作ることすら簡単であることを,誰にもわかる形で明示できる。これまで心の謎だと言われていた事柄にもほぼ堪えられる。だから,近い将来,心を盛ったロボットを簡単に作れるようになるだろう。」
とも。それが,サブタイトルの,「『私』の謎を解く受動意識仮説」である。著者は,「意識」の主要な謎,
〈私〉の不思議
バインディング問題
クオリア問題
を順次,著者流に解き明かしていく。その際,著者は,「自分」「私」〈私〉を,
「自分」とは,自分のからだと脳を含めた,個体としての,あるいはハードウェアとしての自分,
「私」とは,前野隆司(それぞれ一人一人)の「意識」のことだ。前野隆司の現象的な意識を指す。
〈私〉とは,ものやことに注意を向ける働き(awareness)を除いた自己意識について感じる部分,
と,区別する。
「〈私〉とは,自己意識の感覚―生まれてからこれまで,そして死ぬまで,自らが生き生きと自分の意識のことを振り返って,ああ,これが自分の意識だ,と実感し続けることのできる,個人的な主体そのもの―のことだ。」
これを,
自己意識のクオリア,
と呼ぶが,それは,
錯覚にすぎない,
といい,「心を盛ったロボットは簡単に作れる」とまで言うのである。触覚を専門とする著者は,たとえば,
「私たちは指先で何かに触ったとき,熱いか冷たいか,つるつるかザラザラかを瞬時に,しかも指先で感じるような気がする。しかし指先にはマイスナー小体やメルケル小体といった触角のセンサがあるだけでせ,脳はない。だから,当然,熱いか冷たいかとかつるつるかざらざらかといった情報を皮膚は計算することは決してできない。なのに,どうして触角のクオリアを指先でかんじるのだろうか。」
それは,脳で計算されたあとに,「あたかも感覚器のある場所で感じたかのように見せてくれている」ということになる。例のリベットの,何かを取ろうとする動作を,
意図したよりも350ミリ秒(0.35秒)早く,無意識下の運動準備電位が生じ,実際に指が動いたのは意図した200ミリ秒(0.2秒)後であった,
という実験が示しているのは,
「人が『意識』下でなにか行動を『意図』するとき,それはすべてのはじまりではない。『私』が『意識』するよりも少し前に,小びとたちは既に活動を開始しているのだ。」
ここで小びとと著者が準えているのは,
何らかの機能をこなすニューラルネットワーク(脳の神経回路網)のモジュールの比喩,
である。言い方は変だが,何かを意図したのは,そう意図するように脳が働きかけているからだ,ということになるる。たとえば,脳はこういうこともする。
「感覚受容器から大脳新皮質の感覚野まで信号が伝達するのに要する時間は,感覚ごとにに違う。目の網膜で光を受け取ってから,その信号が脳の第一次視覚野に到着するには0.05秒かかるのに対して,鼓膜から第一次聴覚野までは0.02秒しかかからない。なのに,光と音が同時に目と耳に到着したとき,人は,同時か,または,むしろ光の方が早いように感じる。これは,信号の届いた時刻を,脳が都合のいいようにずらしている結果だ。」
たとえば,
「大脳皮質を刺激したときには,指に刺激を与えたときよりも,『意識』されるタイミングが0.5秒もおくれるのだ。これも奇妙な結果だ。体性感覚が活動し始めてから,脳の『意識』をつかさどる部分が触感覚を『意識』するまでに0.5秒もかかるのだとしたら,実際に指が何かにさわった時に瞬時に触感覚を『意識』できることを説明できない。」
として,著者は,
「『意識』するタイミングは,錯覚」
だと考える。
「いまというタイミングが,実は今だと思っている瞬間よりも,本当は少し遅いのに,それが(脳に)ごまかされている…。」
ということになる。で,
「小びとたち(無意識)は『私』(意識)にしたがっているのか,それとも,『私』(意識)は小びとたち(無意識)にしたがっているのか」
を,著者は,
心の天動説(「私」中心の世界観)
と
心の地動説(「私」は受動的)
と呼ぶ。もちろん,「受動意識仮説」の由来は,ここにある。
「つまり,『私』や〈私〉は世界の端っこにいて,無意識の小びとたちの『知情意』の結果を受け取るだけの脇役」
なのだ,ということだ。たしか,エリクソンは,放れ馬を例に,馬が帰り道を知っていると,無意識に喩えた。その意味ともつながる気がする。
著者は,心を昆虫の反射行動に準えて,「それと大差ない」という。進化の流れから考えたとき,
「進化というのは,真っ白な設計図にゼロから新しい生物のデザインをするような,華麗で創造的なものではない。」
のであり,それは体だけではなく,脳の神経系もそのはずではないか,という著者の指摘に,僕は賛成である。
「もともと下等な生物がもっていたニューラルネットワークを,…新しい情報処理ができるように設計変更しているのだ。このように考えると,受動的な『意識』という考え方は,実は下等な生物のやり方と似ていて,理にかなっている。
能動的な『意識』が存在すると考えようとすると,『意識』をもたない動物から『意識』をもつ動物への進化は,あまりにも不連続に思える。」
で,自説をこう説明する。
「私が述べてきた『無意識』の小びとたちとは,実は,昆虫の反射行動と同じように,…複雑なフィードバック結合が巧みに組み合わされていることに他ならない。」
それは,
「自動的な『私』は,前肢が羽になり手になったように,既存の神経系の構造を少し設計変更することによってつくりだされたということだ。進化の理にかなっている。」
と。そして,
「昆虫の反射の拡張として,小びとたちや『私』や〈私〉をつかさどるたくさんのニューラルネットワークに接続すれば,心全体を作ることができる。」
との著者の発言に期待したい。
参考文献;
前野隆司『脳はなぜ「心」を作ったのか』(ちくま文庫) |
イリュージョン |
前野隆司『錯覚する脳』を読む。

同じ著者の『脳はなぜ「心」を作ったのか』と一緒に買ったのたが,前後逆に読み始めてしまった。『脳はなぜ「心」を作ったのか』については,別途触れるとして,本書である。
サブタイトルに,「『おいしい』も『痛い』も幻想だった」とあるので,おおよそ,著者の主張は予想できる。心身二元論でも,心一元論でもなく,心も,知覚も,表象も,
「すべてはイリュージョンである。」
が,「お伝えしたいこと」である,と冒頭で言いきっている。つまり,
脳も肉体である,
ということである。著者は,本書で,その脳の作り出す意識とは,
「あたかも心というものがリアルに存在するかのように脳が私たちに思わせている」
が,しかし,「意識は幻想のようなもの」ではなく,
錯覚,
だという。つまり,「知覚が客観的性質と一致しない」のである。で,著者は,
「意識はイリュージョンのようなものだ」
という。本書は,それを述べるためのものだ,とも言う。意識には,
覚醒しているという意味,
と
〜について向ける意識,
という意味のそれとがある。後者には,脳の機能に着目する機能的意識(これは定量的に表せるようになるはずである)のほかに,
現象的意識,
と言われるものがある。何かを見ている時の質感や,何かを意識したときの感覚のような,いわゆる,
クオリア,
と呼ばれるものがこれである。イリュージョンと著者がいうのは,このクオリアを指している。
で,心身二元論の立場の,チャ―マーズ『意識する心』をだしに,それに対比しつつ徹底して,脳一元論(心身一元論)を展開していく。著者の立場は,
「心身一元論に立脚し,脳のニューラルネットワークによって,意識の現象的な側面が(あくまでイリュージョンとして)作られている…」
と考えるところにいる。
ペンフィールドの描いた,脳の,運動・感覚中枢の位置に,それが司る身体部位を対応させた図,
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/90/Homunculus-ja.png
があるが,しかし(触覚が専門の)著者は言う,
「痛みを感じるのは皮膚の表面だ。皮膚の表面は,角質層という,死んだ皮膚で覆われている。つまり,新しい皮膚は,真皮と表皮の境目で作られ,約一ヵ月かけてだんだん上昇し,表面に角質層として堆積するころには既に死んでいる。角質層は,皮膚を保護する層であり,表面の摩擦によって垢となり剥がれ落ちる運命にある。
そして,痛覚受容器は,角質層のある皮膚の表面ではなく,皮膚内部に配置されている。真皮と表皮の境目あたりか,あるいはもっと深いところにある。それなのに,痛みを感じるのは皮膚の表面なのだ。」
手がないのに手が痛いと感じる,(僕も昔読んだが)V・S・ラマチャンドランの『脳のなかの幽霊』の幻肢の例が,本書でも挙げられているが,それと同じではないか,と著者は言う。記憶で書くが,鏡で脳に,失った手があるように錯覚させると,痛みが消えた,とあったように思う。そのことと,子供が,母親に,
「痛いの痛いの飛んでけ」
と言われて,痛い部分をさすったりしてもらっただけで,痛みが和らぐ(さするだけで痛みの数十%が和らぐと言われている)のとは関係があるのかもしれない。もっと面白いのは,
触角の把持力の制御,
である。重さのわからないコップや,肩さのわからない豆腐を,ちょうどいい力で持つように,把持する力を調節する機能だが,人間は,
「必要最小限の把持力の1.2倍から1.4倍という,ちょうど強すぎず弱すぎない力を加えてものを持つ事ができる。」
のだが,実は,それは意識に上らない,サブリミナル(閾下)で行われている。
「つまり,把持力を制御する際に,人は,指の表面と物体との間にどのくらいの局所的な滑りが生じているのかを意識できない。意識できないにもかかわらず,明らかに把持力制御のために使われているという点がおもしろい。」
と。そして,そのことは,例の意志の問題と絡んでくる。リベットの実験である。
「人が指を動かそうとするとき,『動かそう』と意図する自由意志と,筋肉を動かそうと指令する脳のニューロンの運動準備電位が,どんなタイミングで活動するかを計測した」
実験である。結果は,
「筋肉を動かすための運動準備電位は,意識下の自由意志が『動かそう』と意図する瞬間よりも0.35秒も先だ」
というものだ。そして,著者は,こう言う。
「すべての認知はそうなのだ。見た瞬間にリンゴだとわかるはずがないのと同様に,聴いた瞬間に恋人の声だとわかるはずはない。読んだり聴いた瞬間に,言葉の意味がわかるはずはない。触った瞬間に,熱いと感じるはずはないし,ものの形がわかるはずがない。(中略)ニューラルネットワークによる『知』の情報処理にかかる時間分だけ,本来は遅れるはずなのだ。それを,脳が補正して,タイミングを合わせてくれているとしか考えられない。」
たとえば,
「視覚情報処理にかかる時間はざっと0.2秒から0.5秒だといわれる。刺激が複雑になると,その意味を意識するまでの時間は長くなる。」
しかしそんなタイムラグはあまりない。
「私達は本当は遅れて意識しているのに,時間をさかのぼって意識したかのように感じるようにできているのだ。」
と。その意味では,
脳は,自分が知っている以上を知っている,
と,ミルトン・エリクソンなどが言うことは,ある意味当たっている。
「意識は,たまたま子びとたち(ホムンクルスのこと)の決めた結果を感じているにすぎない」
と,著者は揶揄交じりに言う。
「でも,どちらも自分なのだから,いいじゃないか」
と。確かに。そう考えれば,心安らかではある。
参考文献;
前野隆司『錯覚する脳』(ちくま文庫) |
表情 |
P.エクマン・W.V.フリーセン『表情分析入門―表情に隠された意味をさぐる』を読む。

十年近く前,エクマンの『顔は口ほどに嘘をつく』を読んだ記憶があるが,詳細はほとんど忘れている。
http://ppnetwork.seesaa.net/article/409638012.html
に参加した折,思い出しように本書を購入したまま,積読になっていた。どうやらこの本の方が,先に上梓されたもののようである。
本書も,顔の表情について書かれている。
「驚き,恐怖,怒り,嫌悪,悲しみ,幸福の感情が,ひたい,眉,瞼,頬,鼻,唇,顎,の変り具合に応じてどのように表情として示されるのか」
をスチール写真で提示され,
「感情表出の近くを妨害し混乱させる共通項は,驚きと恐怖,怒りと嫌悪,悲しみと恐怖の間にみられるちがいを際立たせる写真からあきらかになる」
として,その微妙な違いは,
「感情表出の族(family)を示す写真の中に示されている。たとえば,驚きは大きな族(big
family)を持つ感情である。驚きを示す顔はひとつだけではない。不可解による驚き,唖然としたときの驚き,幻惑による驚き,ちょっとした驚き,中程度の驚き,そして極度の驚きなど,たくさんの驚きの表情がある。悲しみと怒りの表情,怒りと恐怖の表情,驚きと恐怖の表情などを示すのに,どのようにして種々の感情がまじりあってひとつの顔の表情になるのか,それを表示する写真から顔の表情の複雑さがつまびらかにされる。」
既に明らかにされているように,顔の感情表現は万国共通である。本書では,
「6つの感情,すなわち,幸福,悲しみ,驚き,恐怖,怒り,嫌悪」
がどのように顔に現れるだけではなく,
「6つの感情が混じりった33種類の感情がどのように顔に表されるか」も呈示している。当然,顔の感情を詳らかにすることで,同時に,「それぞれの感情経験」をも詳細に知ることになる。僕自身は,この感情の複雑な表れが,興味深かった。
実は,顔に現れるメッセージは,感情メッセージだけではない。しかし,本書は,
「素早い信号による感情メッセージ」
に焦点を当てる。そして,それは,
「恐怖,怒り,驚きなどの一時的な気持ち」を指している表情が本物か偽装されたものかということをどのようにすれば識別できるのか」
に焦点を当てる,ということでもある。当然,長い時間つづく「気分(ムード)」とは違う。あるいは,表象的メッセージ,たとえば,同意を求めるときに眼でシグナルを送るといったようなものや,コンマや句読点代わりに,会話の句読法として,顔に現れる渋面,歪みとも違う。
「感情を表す顔の表情のほとんどはごく短時間」
で,素早いもので一秒の何分の一,と言われる「微表情(micro-expressions)」と名付けられるものから,ごくありふれた巨視表情(macro-
expressions)でも数秒しか続かない。
「感情をあらわす顔の表情が5秒ないし10秒も続くことはむしろ稀」
なのであるらしい。逆に言えば,
「かなり長時間示される顔の表情が,実は感情をあらわす純粋の表情ではなく,誇張した形で面白半分に感情を示すにせの表情であることがよくある」
のである。ほんの一瞬しか現れないから,見落とされるのである。本書では,沢山練習課題が示されているのも,トレーニングを要するからにほかならない。途中で,僕自身は,練習問題をスルーした。著者は,顔面統御を認知することの意味を問う。
あなたは,本当に人の顔を見るのをいといませんか?
あなたは,ある人の本当の気持ちを実際に知りたいですか?それとも,その人があなたに知ってほしいとのぞむものだけで十分ですか?
等々,人の顔面統御を認知するということは,知らなくてもいいことを知る,ということを意味する。相手は,僕のことをひょっとすると好きなのかもしれない,という幻想の中で付き合っている方が,相手の僅かな微表情から,相手の嫌悪や軽蔑やらを感じ取ってしまうことが,日常に置いて,幸せかどうかはわからない。
てな負け惜しみを言いつつ,前著『顔は口ほどに嘘をつく』につづいて,敬遠しつつ,本を閉じた。
しかし,
感情の意図的な表出と自然に生ずる表出の区別,
抑制された感情表出,調整された感情表出,隠蔽された感情表出,そして混合した感情表出それぞれの区別,
句読法や例示の形で言葉とともに使われる顔のパターンの区別,
言葉の形成に必要な筋肉活動の区別,
等々を必要とする人には,著者らの開発したFACS(Facial Action Coding
System)がある。
参考文献;
P.エクマン&W.V.フリーセン『表情分析入門―表情に隠された意味をさぐる』(誠信書房) |
節税 |
富岡幸雄『税金を払わない巨大企業』を読む。

著者は,ご自分のことをこう紹介する。
「戦後,国税庁の職員として,徴税の現場や税務行政の管理を経験しました。…毎年のように,脱税摘発件数と摘発額の双方で第一位。『節税』という言葉を初めて発表したのは,大蔵事務官時代の私でした。…また私は,第一回公認会計士試験,および第一回税理士試験の第一号合格者でもあります。退官後は中央大学の教授として税務会計学を創始し,…多くの会社の顧問も担当して参りました。」
その動機を,あとがきで,徴兵後無事復員したとき,
「日本を戦争に駆り立てた原因のひとつに,国家財政のもろさや経済の脆弱さが挙げられます。日本の財政や経済の弱さを補うために,他国に侵出を企んだのです。―こんな悲惨な戦争を二度と起こさないためにも,日本を内側から強くしなければならない。そうしなれば,戦争で亡くなった人たちに申し訳ない。」
という決意にあるとしています。それだけに,
「現在の日本の財政が著しく弱いのは,税の不公平さに起因することに気づきました。特に,大企業を優遇し,その財政面での“帳尻合わせ”をさせられているのが,一般国民や中小企業だった…。」
と語る言葉には説得力がある。
「法人税と法人住民税,法人事業税を合計した法定税率」(マスコミの使う実効税率)
は,35.64%に下げられ,さらに,2015年度から数年以内に20%台に引き下げた。しかし,著者は言う,
「大企業は,課税ベースである課税所得が,実際にはタックス・イロ―ジョン(課税の浸蝕化)やタックス・シェルター(税の隠れ場)によって縮小され,実際の納税額は大きく軽減されている」
と。たとえば,法定税率が38.01%だった2013年,負担の低い企業を例示している。
三井フィナンシャルグループ0.002%
ソフトバンク0.006%
みずほフィナンシャルグループ0.09%
三菱UFJフィナンシャルグループ0.31%
みずほコーポレート銀行2.60%
みずほ銀行3.41%
ファーストりてーリング6.92%
オリックス12.17%
三菱UFJ銀行12.46%
キリンホールディングス12.60%
等々。その他,住友商事13.52%,三菱重工業16.76%,小松製作所18.76%,日産自動車20.45%,サントリーホールディング21.16%,本田技研工業25.72%,トヨタ自動車27.97%…と続く(トヨタにいたっては,法人税を五年間も払っていなかった)。詳しくは本書を見ていただければいい。にもかかわらず,
「早急に25%まで引き下げる」
よう,経団連は申し入れている。しかし,
「納税額は『課税所得×税率』で算出されます。…たとえ税率が高くても,課税ベースである課税所得を低くおさえることができれば,実際の納税額を少なくすることが可能です。実際に,大企業の納税額が少なく,実効税負担率が低いのは,課税所得を少なくできるからです。」
その仕組みとして,著者は,
@企業の会計操作
A企業の経営情報の不透明さ
B受取配当金を課税対象外に
C租税特別措置法による優遇税制
D内部留保の増加策
Eタックス・イロージョンとタックス・シェルターの悪用
F移転価格操作
Gゼロ・タックスなどの節税スキーム
H多国籍企業に対する税制の不備と対応の遅れ,
を具体的に挙げている。その他,税制上,分離課税などによって,税負担の不公平も加わり,
「日本社会は,現在,税を逃れる手段をもつ1%足らずの富裕層と,その尻拭いをするように重税に苦しむ99%を超える貧困層とに二極化しつつあります」
と,著者は憂う。結果として,
「所得税と法人税の空洞化により,日本の富と税源が失われて,財政赤字の増大を招いている」
ことになる。法人税を,1%下げるごとに4700億円の税収減になる。20%台となると,2兆6508億円以上の税収減になる。その代替に,
配偶者控除の撤廃,
パチンコの換金に課税,
果ては,カジノ構想と,本命を攻めず,明後日の方向に,それも多く国民負担の方向に舵を切ろうとしている。
「企業は法人税を法定正味税率どおりに納税し,受取配当にも一定の税率を課し,優遇税制を見直すことです。現状での消費増税や再増税は,法人税を引き下げるためのバーターではなかったのでしょうか。
私がこのように日本の大企業優遇を憂うのは,借金まみれの日本の財政を健全化させ,活力と競争力のある企業社会に改造し,強い経済を創出して,国民経済を繁栄させたいがゆえです。」
という,まっとうな意見の通る見込みはない。庶民にできることは,まっとうに税金を払わない企業の世界規模の不買運動をすることかもしれない。
参考文献;
富岡 幸雄『税金を払わない巨大企業』 (文春新書) |
生理 |
古井由吉『雨の裾』を読む。

古井由吉の文体は,
生理,
だと思う。皮膚感覚というか,内臓感覚というか,吉本隆明の詩に,
風はとつぜんせいりのやうにおちていった(「固有時との対話」)
というのがあったが,その生理の感覚そのものを描く,と僕は思っている。
古井由吉については,もう何度か書いた。吉本隆明 が言っていたと思うが,
「文句なしにいい作品というのは,そこに表現されている心の動きや人間関係というのが,俺だけにしか分からない,と読者に思わせる作品です,この人の書く,こういうことは俺だけにしかわからない,と思わせたら,それは第一級の作家だと思います。」
僕にとっては,古井由吉こそが,そういう作家だ。前作『鐘の渡り』については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/395877879.html
で書いた。そこでも触れたが,随分昔,古井の文体について,
http://www.d7.dion.ne.jp/~linkpin/critique102.htm
で,自分なりに書き尽くしたので,後は,大体,楽しんで読んでいるつもりなのだが,今回,あれっと,思ったのは,
「躁がしい徒然」
「死者の眠りに」
あたりの文体が,少しく硬い,というこなれない印象があった。しかし,他の作品には,そういう印象はないので,ただの感覚だが,使われている言葉が,ちょっと違う,ということだ。たとえばだが,
「しかし老年がきわまれば,住み馴れた家を外からあやしみのぞくどころか,家の内にあっても夜中に,手洗いに立って迷うことがあるとか,かねてからそんな話を耳にするたびに,どういう惑わしなのだろうか,と我身の行く末を思って暗い気持ちにもなり,そして何日もしてから,未明に寝覚めして手洗いに立つ途中で,こんなことでもあろうか,とかすかに思いあたるようで,家の内をあらためて見まわすこともあるが,かりに寝惚けて床から起きあがる時に方向を取り違えたとしても,迷うにはなにぶん家が狭すぎる。そのうちに読んだ医学記事の,老化のすすんだ視覚のありようの分析によれば,眼の空間識の変調によって空間が展開図のように,前面にあるのも側面にあるのもひとしく平らたく,一面にひらいてしまう,と考えられるという。なるほど,それなら遠近も方角も失われて,家の内でも迷うはずだ。さらに,空間というものは視覚ばかりでなく聴覚によっても形造られているはずであり,この空間識の変調は視覚の狂いにつれての聴覚の狂いであり,老年の難聴もあるだろうが,戸外のさやぎやそよぎの,人心地のつく音をあらかた遮断した今の世の住まいのせいかとも思われた。」(「躁がしい徒然」)
この感覚は,まぎれもなく古井由吉のものだが,文体が,気のせいかちょっと違う気がした。
夢とうつつの狭間,
いまとそのときとの狭間,
こことあそことの狭間,
等々。狭間というか,ないまぜになったという感覚は,ちょうどベン図ふうに言うと,現と夢,自分と他人の円が,境界詮無く,重なっている,いや,その円が,一つ二つどころか,いくつも重なりあっている,古井そのものの世界だ。
おのれと他人との狭間(綯い交ぜ)
というのもある。それは,
自分というもののゆらぎ,
うつつと言うものの曖昧さ,
あると無いとの不確かさ,
という,日常感覚を,生理のようにたじろがせる,その感覚は,読むほどに,おのれ自身に食い込んでくる。たとえば,前回も触れたが,
それは木目だった。山の風雨に曝されて灰色になった板戸の木目だった。私はその戸をいましがた、まだ朝日の届かない森の中で閉じたところだった。そして、なぜかそれをまじまじと眺めている。と、木目が動きはじめた。木質の中に固く封じこめられて、もう生命のなごりもない乾からびた節の中から、奇妙なリズムにのって、ふくよかな木目がつぎつぎと生まれてくる。数かぎりない同心円が若々しくひしめきあって輪をひろげ、やがて成長しきると、うっとりと身をくねらせて板戸の表面を流れ、見つめる私の目を眠気の中に誘いこんだ。ところがそのうちに無数の木目のひとつがふと細かく波立つと,後からつづく木目たちがつきつぎに躓いて波立ち,波頭に波頭が重なりあい,全体がひとつのうねりとなって段々に傾き,やがて不気味な触手のように板戸の中をくねり上がり,柔らかな木質をぎりぎりと締めつけた。錆びついた釘が木質の中から浮き上がりそうだった。板戸がまだ板戸の姿を保っていることが,ほとんど奇跡のように思えた。四方からがっしりとはめこまれた木枠の中で,いまや木目たちはたがいに息をひそめあい,微妙な均衡を保っていた。密集をようやく抜けて,いよいよのびのびと流れひろがろうとして動かなくなった木目たちがある。密集の真只中で苦しげにたわんだまま,そのまま封じこめられた木目たちがある。しかし節の中心からは、新しい木目がつぎつぎに生まれ出てくる。何という苦しみだろう。その時、板戸の一隅でひとすじのかすかな罅がふと眠りから爽やかに覚めた赤児の眼のように生まれて,恐ろしい密集のほうへ伸びてゆくのを,私は見た。永遠の苦しみの真只中へ,身のほど知らぬ無邪気な侵入だった。しかしよく見ると,その先端は針のように鋭く,蛇の舌のように割れてわずかに密集の中へ喰いこみ、そのまま永遠に向かって息をこらしている……。私も白い便箋の前で長い間、息をこらしていた。(「木曜日に」)
その感覚の時間の流れそのものに沿って書く。しかし,先の引用は,「作家」とおぼしい書き手そのものが,曖昧になることはない。そのせいかもしれない。あるいは,たとえば,
「……私は、徒労感に圧倒されないように、足もとばかりを見つめて歩いた。そしてやがて一歩一歩急斜面を登って行く苦しみそのものになりきった。すると混り気のない肉体の苦痛の底から、ストーヴを囲んでうつらうつらと思いに耽る男たちの顔が浮んできた。顔はストーヴの炎のゆらめきを浴びて、困りはてたように笑っていた。ときどきその笑いの中にかすかな苦悶の翳のようなものが走って、たるんだ頬をひきつらせた。しかしそれもたちまち柔かな衰弱感の中に融けてしまう。そしてきれぎれな思いがストーヴの火に温まってふくらみ、半透明の水母のように自堕落にふくれ上がり、ふいに輪郭を失ってまどろみの中に消える。どうしようもない憂鬱な心地良さだった。だがその心地良さの中をすうっと横切って、二つの影が冷たい湿気の中を一歩一歩、頑に小屋に背を向けて登って行く……。その姿をまどろみの中からゆっくりと目で追う男たちの顔を思い浮べながら、私はしばらくの間、樹林の中を登って行く自分自身を忘れた。
だがそれから私はいきなり足を取られて,前のめりに倒れそうになって我に返った。」(「男たちの円居」)
たぶん,作品の結構も違うし,語り手の位置も違うのだが,なんとなく,難く感じるのは,説明になっているからなのだろう。若い頃の作品と八十代の作品を比較するのも,何だが,自分の気になったところに焦点を当てると,もうひとつ,同じように,
「記憶の時間の流れには幾僧かがあって,それぞれ遅速を異にするように思われる。その速い遅いの時間が,めぐりめぐって,ときたま一点で交わると,人は額へ手をやって,いつのことになるか,と迷ううちにこうして思い出しているいまがさらにあやしくなる。年を収るにつれて,頻繁というほどではないが,よく起こるようだ。朝の目覚めの際にもう一度思わず深くなった眠りから起き出してくると家の内の,見馴れたものが見馴れぬものに映る。いや,そうではない。あまりにも見馴れた様子をことさらに,まやかしのように,際立たせる。しかもいつだか格別の心境から眺めたことがあるように,遠いところから張りつめて,息をこらして,物の表情が浮かびあがる。見つめ返せば,物それぞれの,てんでに主張する鮮明さがかえってみる眼から識別の力を失わせる。つれて自分の立ちどころも知れぬようになり,ささやかながら昏迷の危機ではあるが,それでも何知らぬ顔でいつもと変わらぬ起きがけの言葉を家の者と交わしてのそのそと歩きまわっている。さすがにここまで生きた者のしぶとさと言うべきか。」(「死者の眠りに」)
たぶん,書き手は,感覚の外に立っているせいだ。そのせいで,説明に感じ,違いを感じた。木の目を見ている,「木曜日に」と好対照だ。
「雨の裾」
「夜明けの枕」
「踏切り」
がいい。しかし,文体は,やはり微妙に変わっているのに気づく。
「それきり雨は来なかった。だいぶして刻々の緊張の抜けた気持ちから,こうしていれば夜明けも近いなと男がつぶやくと,まだまだ明けはしないわ,と女は答えて立ち上がり,手提げから取り出してきてひらいたのを見れば,握り飯がふたつきっちりと包まれていた。すっかり忘れていたわ,でも,梅干しを入れてきたので,と女はちょっと鼻を寄せてから一つを男に渡し,もうひとつを自分に取った。さすがに病床から椅子を壁際へ引いて,顔を向かいあわせて食べることになった。女はひっそりとたべながら大きくひらいた目を男の目へ,見つめるでもなく,ただあずけていた。男は逸らすのも支えをはずすようで受け止めるままにしていると,口にした握り飯から女の手のにおいがふくらんでくる。肌を触れ合う以上のことではないか,と男は呆れた。」(「雨の裾」)
たぶん,書き手の位置のせいだ,と気づく。しかし,この,書き手が,誰か他人(ここでは友人)のことを書く,という入り方は,古井作品では,珍しくない。たとえば,友人の話を語る書き手の,
「原っぱにいたよ、風に吹かれていた、年甲斐もない、と友人はおかしそうに言う。見渡すかぎり、膝ほどの高さの草が繁り、交互に長いうねりを打っていた。風下へ向って友人はゆっくり歩いていた。夜だった。いや、夜ではなく、日没の始まる時刻で、低く覆う暗雲に紫色の熱がこもり、天と地の間には蒼白い沼のような明るさしか漂っていないのに、手の甲がうっすらと赤く染まり、血管を太く浮き立たせていた。凶器、のようなものを死物狂いに握りしめていた感触が、ゆるく開いて脇へ垂らした右の掌のこわばりに残っていた。いましがた草の中へふと投げ棄てたのを境に、すべてが静かになった。」(「哀原」)
に比べても,外から眺めている感覚が大きい。それを距離の取り方の違いと取るか,現実感覚からの隔たりと取るか,今のところ答はない。しかし,この距離の取り方も,僕は悪くない気がする。粘りより,淡々とした気味が,一つのリズムになっているように思えるのだ。
参考文献;
古井由吉『雨の裾』(講談社) |
同期 |
蔵本由紀『非線形科学 同期する世界』を読む。

著者の蔵本由紀氏は,
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%B5%E6%9C%AC%E7%94%B1%E7%B4%80
日本の非線形科学の先駆者。
「著書の"Chemical Oscillations, Waves, and
Turbulence"は非線形動力学の分野でもっとも引用される文献の1つで、『出版部数より引用件数のほうが多い』」
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