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書評X


終焉

服部茂幸『アベノミクスの終焉』を読む。

素人としての感想に過ぎないが,アベノミクスの印象は,じゃぶじゃぶの公共投資,でもって土建屋が活況で,人手不足。その余波で,いろんなところ(特に3K職場)が人手が足りない。一見好況のようだが,大企業が好調の割に,賃金は下がりっぱなし,非正規雇用のみ増え,円の価値は下がり,といって輸出が増えているわけではなく,貿易収支の赤字が続く,で,何番目の矢か知らないが,結局武器輸出頼みとカジノ誘致って,そんなのに日本の将来はあるのか,というものだ。

この数年のうちに,精神と文化も含めて,大事な日本の岩盤が壊されていくような不安がある。こちらは,どうせ老い先短いが,若い人の無関心が気になる……というところだ。

ほんとうはどうなのか。筆者は,

「アベノミクスが始まる前からその批判者であった。」

という。その意味で,経済学者の論拠を知りたいと思って,読み始めた。ただ,あとがきで,

「2013年10月,第三・四半期のGDP速報がでた。そこでは経済成長率が1%程度だったことが告げられた。14年四月には消費増税があり,第二・四半期には経済が落ち込むことはほぼ確実である。」

とあるように,それ以前に書かれていることを念頭に置かなくてはならない。

まえがきで,

「アベノミクスは異次元緩和という第一の矢,公共事業拡大による国土強靭化という第二の矢,成長戦略という第三の矢からなるとされる。(中略)アベノミクスの主役は第一の矢,脇役が第二の矢であり,第三の矢はまだ登場していない…。」

主役の矢については,

「安倍が無制限の金融緩和を訴えてから,株価上昇と円安が急速に進行した。(中略)しかし,黒田東彦が日銀総裁,岩田規久男が日銀副総裁に就任するのは13年三月であり,異次元緩和が始まるのは四月である。三月までの出来事はいわば『前史』である。
株価上昇も円安も異次元緩和が始まってしばらくするとストップした…。13年の上半期には高かった経済成長率も,下半期には低迷している。」

金融緩和の目的の一つは,円安による輸出拡大であった。しかし,

「12年末に円安が始まると,輸出は再び増加し始めた。円安効果を発揮していたようにみえた。ただし,増加したといっても,…12年のピークにも達しなかった。さらに円安が止まった時から少し遅れて,輸出も減少に転じた。円安が輸出を拡大させたとすれば,円安が止まれば,輸出増大が止まるのも当然であろう。他方,円安にもかかわらず,輸入の伸びは著しい。」

しかも,14年第一・四半期の経常収支は1兆4000億円の赤字である。

「日本の長期停滞の原因はデフレであり,そのデフレの原因は日銀が金融を緩和しないためだ」とする,いわゆるリフレ派の黒田,岩田両氏が日銀の総裁,副総裁に就任して始まった異次元緩和は,しかし,輸出拡大による経済復活に失敗し,

「輸出の拡大が,貿易収支,経常収支を悪化させるとともに,日本の経済回復を妨げている。」

つまり安倍とリフレ派の主張とは真反対のことが生じている。しかも,目論見に反して,

「賃金と可処分所得は名目においても低下が続いている。その結果,実質賃金と実質可処分所得は急減することとなった。」

実は,このいわゆる,失われた20年と言われている金融危機以降,日本の実質賃金も,実質可処分所得も低落傾向にあったが,

「11年以降では,実質賃金はせいぜい微減である。家計実質可処分所得は増加している時期さえみられた。ところが,異次元緩和導入以降,両者は大きく低下した。」

のである。その結果,消費が落ち込むことになる。実は,

「2013年第一・四半期の経済成長率は年率で5%近い。第二・四半期の経済成長率も高かった。このように,アベノミクスが始まってからの半年間の経済成長率はきわめて高かった。しかし,安倍政権が誕生したのは12年12月であり,異次元緩和が始まるのは,13年4月である。13年前半の高成長は異次元緩和の成果ではあり得ない。」

のである。そう,安倍政権に政権が代わって以降,

「皮肉にも,異次元緩和が始まると,経済成長率は低迷する」

のである。

「第三・四半期の経済成長率は年率で1%,第四・四半期にはほとんどゼロである。14年第一・四半期の成長率は6%と極めて高いが,消費増税前の駆け込み需要によるところが大きい。」

リフレ派の目標はデフレ脱却のはずである。現在日銀は,消費者物価上昇率を年率で2%へと引き上げ,それを安定化させることを目標としている。それはどうか。

「13年6月,消費者物価上昇率が前年同月比でプラスとなり,11月には1.6%にまで引き上げられた。13年10月以降,内閣府が調査した1年後の物価見通しの指標も3%を超えている。」

当然現在のインフレは,コストプッシュ型,つまり円安が原因である。

「12年には国内企業物価の低下は消費者物価よりも大きかった。それが13年後半には,国内企業物価の上昇率は2%を超え,消費者物価の上昇率を大きく超えるようになった。」

しかし輸入物価の上昇が止まれば,輸入インフレは止まる。

「13年5月から円安は止まっている。13年末から,輸入物価の上昇も止まった。それと期を同じくして,消費者物価も国内企業物価も上昇が止まっている。」

当然消費増税の影響は別とすると,

「これまでの消費者物価の上昇が輸入インフレの結果でないことが明らかになるまでは,本当にデフレから脱却できたかどうかの判断を行うことはできないはず…」

ということになる。この点でも,アベノミクスの成果は,まだ出ていない。

第二の矢については,

「耐久消費財と民間住宅投資は,経済の回復が始まった09年から急増している。この急増の一部分は,エコカー減税,エコ・ポイントなどの政策によるものであろう。アベノミクスが始まると,再び耐久消費財と民間住宅投資は急増する。この急増も14年4月の消費増税を無視しては考えられないであろう。政府支出の増加も大きい。」

という意味で,第二の矢の効果が上がっているといっていい。耐久消費財,民間住宅投資,政府支出でGDPの四割を占める。これが,アベノミクスの経済成長を支えた,と著者も認める。ただ,

「公共事業に代表される政府固定資本投資はGDPの5%を占めるにすぎない。建設業の就業者も全体の数%程度である。政府固定資本投資を現在のように年率二割で急増させても,それは日本のGDPを1%増加させるにすぎない。」

しかしそうして増加させることで,建設会社の設備能力と人手不足とで,需要には対応しきれない。震災復興事業も拡大している。民間の住宅,工場建設も増え,現実には,業界のキャパを超えており,自治体の公共事業への応札がない事態も起きている。バブルである。しかし,それは人手不足だけを波及させていくようにしか見えない。

さて,こうしたアベノミクスのバッボーンになっている,日本のリフレ派は,アメリカのバーナンキの,

「90年代以降の日本の長期停滞……の原因は日銀が金融を緩和させずに,デフレを放置していることにある」

という主張を受け継いでいる。その意味では,著者の,バーナンキ,グリーンスパンの

「アメリカの住宅バブルの最中に,家計はバブルの中で返済できない負債を蓄積させている」

という警告を知りながら,それに反論し,逆に,「低金利政策と金融の規制緩和によって,金融不安定性を拡大」させ,結果として,08年の危機を招来させた,経済学への手厳しい指摘は,翻って,それをまねて踏襲するアベノミクスへの批判と警告になっている。著者はこういう。

「08年の危機はバーナンキに代表される経済学が何重にも間違っていたことを示している…。」

と。それをクイギンにならって,ゾンビ経済学というが,しかし,「08年の危機はゾンビ経済学を死滅させたかにみえた」が,アベノミクスによってそれが復活した。その復活の理由を,四つ挙げる。

@危機が本当に明らかになるまで危機を否定した。
A経済現象は多面的であり,失敗の唯一の原因というものはおそらくないであろう。それを利用して,成果を自分の手柄とし,失敗の責任を他に押しつけた。
B多数派の力によつて,失敗を犯しても,自らの責任を免責している。
C政治的に有力な集団と結びつき,その利益を擁護した。

これは今,既に我々の目の前で起きつつある。

参考文献;
服部茂幸『アベノミクスの終焉』(岩波新書)

天下

金子拓『織田信長〈天下人〉の実像』を読む。

信長については,何度か触れた。もっともニュートラルで戦国大名研究家の見る信長は, 

http://ppnetwork.seesaa.net/article/390004444.html

で挙げた,池上裕子『織田信長』である。

一方,革命性を強調した信長像は, 

http://ppnetwork.seesaa.net/article/400155705.html

藤田達生『天下統一』である。

本書は,信長像を等身大の戦国大名として描く。

「はじめに」で,著者は,自分の問題意識を,こう書く。

「織田信長は本当に全国統一をめざしていたのだろうか。」

それを説明するための本書なのだ,という。そのために,

「信長が義昭を擁して上洛した永禄11年(1568)以降を対象に,とりわけ義昭が京都から追放された元亀四(天正元)年から本能寺にて信長が斃れる天正10年までの期間を中心として,信長と朝廷・天皇とのあいだに起きた事件・できごとを,一つ一つ丁寧に,史料にそくして考えてその歴史的意義をとらえ直し,最後にそれらを総合したうえでの信長の統治者(天下人)としての姿勢をうかがうという構成をとる。」

という。すでに,岐阜城・安土城の発掘がすすみ,その意図を推測する成果がでており,

岐阜城の庭園の室町将軍帝都の類似
安土城の正面の真っ直ぐな大手道に,当初から天皇行幸を構想した城造り

等々が指摘され,専売特許のように言われた,

楽市楽座

も,信長の創意というよりは,戦国大名領国で実施されている政策の継承という見方がされつつあり,さらには,領国支配のやり方も,他の大名と比較して先進性がなく,むしろ遅れていたとする考え方が,戦国大名研究の中で形成されつつある,という。

そこで,「天下統一を目指したのか」という問いについては,

天下布武

という信長の印章にも使われた,

天下

という言葉の意味が問題になる。

天下の意味には,(神田千里氏の整理によると)

@地理的空間においては京都を中核とする世界
A足利義昭や信長などの特定の個人を離れた存在
B大名の管轄する「国」とは区別される将軍の管轄領域を指す
C広く注目を集め「輿論」を形成する公的な場

の四つがあるが,「天下」の領域は,五畿内であるとするのが通常らしい。ただ,

戦国時代は,Bの「将軍の管轄領域はほとんど京都を中核とする世界に限定されていた」という意味では,Bと@は同義になる。で,

「信長の時代における『天下』の認識はここから出発しなければならない。」

とすると,天下布武の「天下」は何を意味していたのか。もしそれが,従来いわれているように「全国統一」なら,他の戦国大名に喧嘩を売るというか,宣戦布告しているようなものだ。

だから,(神田千里説に従えば)

「『天下布武』とは,足利義昭を連れて入京し,畿内を平定して凱旋するという一連の戦争を遂行した結果,将軍を中心とする畿内の秩序が回復することを勤める。」

という永禄11年に実現した状況を指す,のだという。そして,上洛後の信長の政治理念は,

天下静謐

だと,著者は考える。それは,

「室町将軍が維持すべき『天下』の平和状態を,のちに義昭や信長自身が発給文書のなかで用いる言葉」

でもある。そして,

「信長は天下静謐(を維持すること)を自らの使命とした。」

と見る。

「当初はその責任をもつ義昭のために協力し,義昭が之を怠ると強く叱責した。また対立の結果として義昭を『天下』から追放したあとは,自分自身がそれを担う存在であることを自覚し,その大義名分を掲げ,天下静謐を乱すと判断した敵対勢力の掃討に力を注いだ。」

太田牛一の『信長公記』の,「足利義昭を擁して上洛した永禄11年(1568)から没する天正10年(1582)まで,一年を一巻(一冊)で記した15巻本の自筆本のひとつ…池田家文庫本…の巻一(永禄11年)に」,

信長公天下十五年仰せ付けられ候。愚案を顧ず十五帖に認め置くなり。」

という奥書がある。別の自筆本では,

「信長京師鎮護十五年,十五帖の如くに記し置き候なり。」

ともある。つまり,「天下を十五年にわたりお治めになったといった意味」となる。側近くにいた,太田牛一からみれば,

「十五年間の信長の役割は,信長の死から二〇年ないし三〇年後の牛一にとって,『京師警護』,『天下を仰せ付けた』と認識されているのである。」

ということになる。その時代のうち,

「義昭を『天下』から追放した天正元年以降の十年間,信長と天皇・朝廷とのあいだでおきたむさまざまなできごと」を,具体的には,

天正改元
正親町天皇の譲位問題
蘭麝待切り取り
右大臣任官
絹衣相論
興福寺別当職相論
左大臣推認
三職推認

を丹念にたどりながら,信長の行動基準は,あくまでも天下静謐の維持という点にあった」ことを,描き出している。その点から見ると,秀吉の全国統一は,諸大名を鉢植化したところからも,

「信長と秀吉の間にはおおきな断絶がある」

と著者は見る。この面から,秀吉の事跡は別の証明があてられる必要があるのかもしれない。

ただ,著者は,本能寺の変が,用意なく,大童で遂行されたことに着目し,五月に,朝廷がというより,正親町天皇が,

「征夷大将軍に推認」

しようとした事実に注目する。信長がそれにどう返事したかは,どこにも記録がない。しかし,四国攻めが「天下静謐」とは関係ないところから発せられているということに疑問を呈し,将軍を意識した行動ではないか,と推測する。

あくまで,「天下静謐」という仮説を前提にすれば,ということだが,信長の中で,

天下

がいつの時点かで,全国に変わったという境界線があるのではないか,という受け止め方をすると,興味がわく。まだ,これについては,明確な答えは出されていない。

天下の意味が,五畿内から,途中で,全国統一に変わったとする説は,他でもあった,その変化を,信長がどこで,麾下の武将たちに明言したのか,それが秀吉にどう受け継がれたのか,と問題意識の立て方を変えると,本書は,その端緒に立っている気がする。その視点で見ると,本能寺の変にも別の光が当たるのではないか。

参考文献;
金子拓『織田信長〈天下人〉の実像』(講談社現代新書)

自己認識

ミシェル・フーコー『主体の解釈学』を読む。

本書は,1982年,コレージュ・ド・フランスで行った講義録である。編纂者の,フレデリック・グロは,

「フーコーは,獲得された研究成果について話すというよりは,ほとんど手探りするようにして,探求の進行を一歩一歩伝えようとするのである。講義の大部分の時間は,彼が選んだ文献の粘り強い読解と,その逐字的な注釈に充てられる。講義ではいわば『仕事中』のフーコーがみられるのだ。」

と,この年の講義の特異性を伝えている。そのせいか,たびたび,フーコー自身,

今日も少し立ち止まってみたいと思います。

ちょっと枝葉末節にこだわり過ぎて申し訳ありません。

みなさんにはあまりにも細かすぎて,足踏みしているような印象を与えるかもしれませんね。

等々と断りを入れている。確かに,あまりにも微に入り細に渉って,ギリシャも,ヘレニズム・ローマも,キリスト教にも,まったく学識のない自分がついていくのは大変だったが,そうか,ここまで綿密に,細心に文献を読みこんでいくのか,という,フーコーの学者としての読みの深さと視野の広さに同時進行で立ち会った気分ではあった。

本講義は,フーコー自身,まだ未完のまま,

自己への配慮

という観念を取り上げるところから,始まる。そして,ギリシャの

汝自身を知れ

との関係へと踏み込んでいく。通常考えている,「汝自身を知れ」は,デカルト以来というべき,

自分を見つめ,
自己の中に自己を見つめ,
そこに主体の真理を解釈する,

といった,「反省の病」(訳者)ともいうべき,自己との関係にある,自己認識,自己解釈とは別の,

自己との関係を結ぶことができるのか,

という問いへのフーコーなりの解答なのだといってもいい。

それは,キルケゴールの,

人間は精神である。しかし,精神とは何であるか?精神とは自己である。しかし,自己とは何であるか?自己とは,ひとつの関係,その関係それ自身に関係する関係である。あるいは,その関係に関係すること,そのことである。自己とは関係そのものではなくして,関係がそれ自身に関係するということである。

という,自己の中に自己完結して,入子のように入り込んでいく,自己との関係とは別のありよう,という意味と言ってもいいのかもしれない

しかし,それを,細部にわたって解釈したり咀嚼していくことは,到底僕の力の及ぶところではない。そこで,フーコー自体が,最終講義で,こうまとめているところから始めたい。

「本年度の授業で私が特に示そうとしたことは,次のことです。フランスの歴史的伝統や哲学的伝統においては―このことは西欧一般に妥当すると思われますが―,主体や反省性や自己認識などの問題の分析全体の導きの糸として特に重視されていたのは,〈汝自身を知れ〉という自己認識でした。しかしこの〈汝自身を知れ〉ということだけを独立して考えてしまうと,偽の連続性が打ち立てられ,うわべだけの歴史が作られてしまいます。つまり,自己認識の連続的な発展のようなものが考えられてしまうのです。この連続的発展は二つの方向で復元されます。第一に,プラトンからデカルトを経てフッサールに至る,根源性という方向,第二に,プラトンから聖アウグスチヌスを経てフロイトに至る経験的拡張の方向での連続的な歴史です。このどちらの場合も,〈汝自身を知れ〉を導きの糸としており,そこから根源性ないし拡張へと連続的に展開されるのです。しかしどちらの場合も,明示的にであれ,暗黙の内にであれ,主体の理論が練り上げられずに背後に残されてしまいます。」

つまり,「汝自身を知」ろうとすることではなく,「汝自身を知」るとはどういうことかが,取り残されている,といいうのである。そのために,フーコーがここでしようとしたのは,

「この〈汝自身を知れ〉を,ギリシャ人が〈自己への配慮〉と呼んだものの傍らにおくこと,さらに自己への配慮という文脈や土台の上に置くことなのです。」

そして,

プラトン主義的モデル(想起のモデル)
キリスト教モデル(自己の釈義と自己放棄モデル)
ヘレニズムモデル(自己の関係の自己目的化モデル)

の三つ(の仮説)を立てて,自己と自己との関係性の在り方を掘り下げていくことになる。

プラトン『アルキビアデス』で言っている〈汝自身を知れ〉は,

「魂が自分の本性そのものを知ること,そしてそれによって魂と本性を等しくするものに到達することであることに気づかされます。魂は自分自身を認識します。そしてこの自己認識の運動において魂は,記憶の底ですでに知っていたことを再認するのです。魂は自分自身を認識します。したがって〈汝自身を知れ〉という様態においては,次のような自己認識が問題になっているのではないことは強調しておきたいと思います。つまり,自己の自己への関係,自分自身に向けられた視線が,内的な客観性の領域を開き,そこから魂の本性とは何かを推論する,ということではないのです。そうではなく,魂とはその固有な本質において,そして固有な実在性において何であるのかということを認識すること以上のことではなく,またそれ以下でもないのです。そしてこの魂の固有な本質の把握が真理を開示してくれる。この真理は,魂を認識対象とするような真理ではなく,魂が知っていた真理なのです。」

として,

「人が自己を知るのは,すでに知っていたことを再認するためなのです。」

そして

「自分自身を認識しなければならないのは,自己に専心しなければならないからです。」

と言う。で,(プラトン主義的モデルでは)

「第一に,自己に配慮しなければならないのは,人が無知だからです。人は無知であり,自分が無知であることを知らないのですが,(出会いや出来事や問いかけの結集として)自分が無知であること,無知であることに無知であることを発見するのです。……そこで自分に専心することによって,この無知に対抗しなければならないこと,あるいは無知に終止符を打たなければならないことさえ発見するのです。これが第一点です。自己への配慮という命法を生じさせるのは,無知の発見,無知の無知の発見なのです。」

そして,第二点は,

「自己への配慮が肯定され,誰かが実際に自己を気づかおうと企てた瞬間に,自己への配慮は『自分自身を知る』という点に集約されます。自己を知れという命法が自己への配慮に覆い被さるのです。自己の認識は,魂が自分自身の存在を把握するというかたちをとります。魂は叡智界の鏡の中で自分を見ることによって自己を認知し,自分の存在を把握するのです。」

そして第三点。

「自己への配慮と自己の認識の接点にあるのが,ほかならぬ想起なのです。魂が自分の存在を発見するのは,自分が見たものを思い出すことによってです。プラトン主義的な想起においては,自己の認識と真実を知ること,自己への配慮と存在への回帰が,魂の一つの運動の中で合流し,まとめられている…。」

これに対して,キリスト教的(修徳的・修道院的)モデルが,三,四世紀につくられる。その特徴は,

「聖書」に書かれ神の言葉や,啓示によって与えられた真理を知るために,心の浄化をする,ということが自己認識の前提となっており,その特徴は,第一に, 

「自己を知ることと真理を知ることと自己への配慮の関係は循環的になっています。」

つまり,

「天獄で救われようと思うのなら,〈聖書〉に書かれていたり,〈啓示〉によつて現れたりする真理を受け入れなければなりません。しかしこの真理を知るためには,心を浄化するような知というかたちで自分自身を気づかっておかなければならない。反対に,こうした自分自身による自分自身の浄化的な知が可能になるためには,〈聖書〉や〈啓示〉の真理とすでに根源的な関係を持っていることが条件になっているのです。キリスト教においては,この循環こそが,自己への配慮と自己認識の関係についての根本的な点であるとおもわれます。」

第二点は,

「キリスト教では,自己の認識はさまざまな技法を通して実践されます。この技法の持つ本質的な機能は,内的な幻想を吹き払うこと,魂と心の内部に作られる誘惑を認めること,そしてひとが陥りかねない誘惑を失敗させることにあります。そのためには,魂の中に広がるプロセスや動きを解読するための方法が必要になります。この解読によって,こうしたプロセスや動きの起源や目的や形式を把握するわけです。」

つまり,自己の釈義が必要になる,ということである。第三は,

「キリスト教では,自分自身に返るのは,本質的かつ根源的には自己を放棄するためです。」

プラトン主義とキリスト教の間にかくされていたモデルが,ヘレニズム的モデルである。その特徴は,「自己を到達すべき目標としてたてようとした」というところにある。セネカやマルクス・アウレリウスを例にすると,

哲学には,「人間にかかわる,人間に関係する,人間を見る部分がある。哲学のこの部分は,地上で行うべきことを教える。」もうひとつは,「人間を見るのではなく,神の方を見る。哲学のこの部分は,天上で起きていることを教える。」

この両者の議論の順番は,

「まず自分自身を吟味し,考察すること,そして次に世界を吟味し,考察すること,」

なのである。「人間に関する哲学と神々に関する哲学」の順番の理由は,

「第二のももの(神々に関する哲学)だけが,第一の哲学(人間に関して何を為すべきかを問う哲学)を完成できるのです。…第一の哲学は…人生の中で不明確なさまざまな道を見極めるための光明をもたらしてくれる。…第二の哲学は,闇から私たちを引き離し,光源にまでみちびいてくれるのです。」

ここで言っていることは,

「主体の現実的な運動,魂の現実的な運動です。この運動が,この世界を形づくる闇から引き離し,世界を越えたところに上昇させてくれるのです。」

これは,言ってみると,主体自身の運動,メタ・ポジションづくりといっていい。この運動は,

「第一に,自分自身から逃れ,自分自身から身を引き離す運動であり,こうして欠点や悪徳からの離脱」

を果たすことになる。第二は,

「光がそこからやってくる地点への運動は,神へ私たちを導いてくれるのですが,だからといって,神において自分自身を喪失してしまったり,神においてみずからを滅ぼしてしまったりすることもない。そうではなく,私たちは神との本性の共有,神と共同して働くことへといたるのである。…つまり人間理性は神の理性と本性を同じくしているのです。…神が世界に対してなしていることを,人間理性は人間に対してなさねばなりません。」

第三に,

「このように光まで連れて行き,私たち自身から引き離し,神との本性の共有にまで導いてくれる運動において,私たちは最も高い地点まで昇ることになります。しかし同時に…その瞬間にこそ私たちは,まさに自然の最も奥深い秘密に分け入ることができるのです。」

僕には,すべてが理解できているわけではないが,フーコーが,セネカに代表されるヘレニズムモデルに,あらたな主体のありようを見ている,というように見えた。この運動は,

「この世界から離れて,どこか別の世界へ行こうとしているのではありません。現実から身を引き離して,なにか別の現実であるようなものに到達することではないのです。…世界の中でおこなわれ,世界の中で実現される主体の運動なのです。…この運動は,神と本性を共有する私たちを,頂上まで,この世界の最も高い地点に連れて行きます。この世界の頂上にいるとき,まさにそのことによって,自然の内奥が,秘密が,懐が,私たちに明らかにされるのですが,その瞬間にも私たちはこの世界を離れることはないのです。(中略)私たちは神が世界を見ている視点に到達しますが,この世界に対して本当には背を向けることなはしに,私たちが属している世界を見るのであり,したがって私たちは,この世界における私たち自身をみることができるのです。」

だから,視点の運動なのだと思う。自分対して,自分のいる世界に対して。だから,

「自分を知るためには,自然に対する視点を持っているという条件が必要」

であり,ここで言う自己認識は,自己分析とは無縁なものであり,

「自然についての知が解放的な効果を持つ」

のである。つまり,

「自然についての知,世界を踏破する大いなる視線,また私たちがいる場所から退き,ついには自然全体を把握するに至る視線…」

のことを指している。間違いなく,自己完結した自己対話を指していないことは確かであり,セネカの目指していることは,

「世界から離脱して,そこから目をそらし,別の現実を見ようという努力ではないのです。そうではなくて,中心的であると同時にひじょうに高い一点に身を置き,世界の全体的な秩序,私たち自身がその一部をなしているような全体的な秩序を見下ろすことなのです。…すなわち,世界認識そのものの努力,できるだけ高く身を引き上げ,そこから全体的な秩序としての世界を,…見下ろそうとする努力なのです。すなわち俯瞰的な視点であり,…この自己の自己への俯瞰的視点は,私たちが一部をなすこの世界を包み込み,そうしてこの世界そのものにおける主体の自由を保障してくれるのです。」

この主体における視点の運動は,そのまま認識の運動でもあり,それが単なる閉塞した自己認識でないことは,よく見える。その流れというか,そこに力を入れるフーコーが,この講義自体で,ハイデガーと対決をはかり,講義最後で,

「西洋哲学の問題がこのようなもの―すなわち,世界はいったいどのようにして認識の対象であると同時に主体の試練の場ともなりうるのかという問題,テクネー(技法)を通して世界を対象として自分に与えるような認識の主体があり,また,この同じ世界を,試練の場という全く異なった形式で自分に与えるような自己経験の主体があるということはどういうことなのか,という問題―だとしましょう。もし西洋哲学への挑戦がこのようなものだとするならば,なぜ(ヘーゲルの)『精神現象学』がこの哲学の頂点にあるかがよくおわかりでしょう。」

と述べて,ヘーゲル『精神現象学』を復権させた,その背景が,よく見えてくるような気がする。『精神現象学』を若いころ,ひとりで,逐語的に読んだときの,その朧な記憶から見ると,そこにある自己というものの,あるいは,自己と自己との関係の深さと奥行きというものは,現象学的な自己完結の世界に比して,圧倒的な広がりがあることだけは確かに思える。と同時に,昨今はやりの「自己」「自己対話」「自己発見」が,いかにうすっぺらで,何周もの周回遅れの気がしてならない,日本の精神風土の貧弱さを思わざるを得ない。

まあそれはさておき,セネカの運動のためには,様々な訓練が必要で,その一例として〈死の省察という訓練〉というのがある。この訓練は,

「ある一日に一月,一年,さらには人生全体が流れてしまうかのようにその一日を生きる,という訓練です。そして生きつつある一日の各時間は,人生の年齢のようなものであるのだから,夕べに至ったとき,ひとはいわば人生の夕べ,まさに死ぬ時に至っている。これが最後の日という訓練です。この訓練は,…一日の各時間が人生という長い一日の瞬間であるかのように,一日の最後の瞬間が人生の瞬間であるかのようにして自分の一日を組織し経験することなのです。このようなモデルにしたがって一日を生きることがてきたならば,一日が終わって眠ろうとする瞬間に,『私は生き終えた』と,喜びとともに笑顔で言うことができるのです。」

これに倣ったマルクス・アウレリウスは,

「最高の人格とは,日々をおのが終焉の日のごとく暮らすことだ」

と書いている。ここには,瞬間に対する俯瞰的視点と,生全体に対する回顧の視点がある。視点の運動とは,こう言うことを言うのだろうと,思う。

大事なことは,この三つのモデルは,いずれも,

自己自身による自己自身の変容

ということである。それは,

いかにして真理を語る主体

たりえるかという,実践的な真摯な問いである。こういう問いは,和辻哲郎が羨望を込めて言った,西欧の,

視圏

に関わるように思える。そういう視点は,日本人には,持てるのか,いや,持ったことがあるのか,読むにつれて,おのれの薄弱な自己基盤(コーチングでいうファウンデーションのことではない,この世界を俯瞰するに足る知の不足のことだ)に,身震いした。それは,自己認識する自己の視点のことであり,見られる自己のことでもある。

参考文献;
ミシェル・フーコー『主体の解釈学』(筑摩書房)

家臣

谷口克広『信長・秀吉と家臣たち』を読む。

谷口克広氏の近刊『信長と将軍義昭 - 提携から追放,包囲網へ』を予約購入する際,つい間違えて,一緒に購入してしまった。

実は数年前,新書版で読んでいるはずで,それを失念して,タイトルだけで,Kindle版でまた購入してしまった。こう言うことは,恥ずかしながら,結構ある。読んだことを忘れている。購入してから書棚にあることに気づく場合もあるが,読みだしても気づかない場合もある。どこかで読んだような,と思って初めて気づくこともある。読んでいないで,積読だと,同じ本を何冊も購入したこともある。

こんなレベルの読み方なので,右から左へ,読み飛ばしているから,身になってはいない。

今度は,秀吉,信長からすこし外して,家臣という側面に焦点を当てて,読み直してみた。

信長と秀吉の関係をみるとき,いつも思い出すのは,信長の,秀吉正妻おねへの手紙である(というよりは,返事である。ということは,おねが秀吉の浮気を訴えた手紙が存在するということになるが)。

「藤吉郎れんれん不足の旨申すのよし,言語道断曲事候か。いず方を相尋ね候とも,それさまほどのは,又再びかのはげねずみ相求め難き間…これより以後は,身持ちようかいになし,いかにもかみさまなりに重々しく,悋気などに立ち入り候ては,然るべからず候」

おねをなだめつつ,やきもちをたしなめている手紙である。よく,信長の気遣いの例として出されるが,それ以上に,秀吉及びおねへの(ただならぬ)厚意を感じる。他に,こうした,個人的な家臣の妻にあてた手紙があるのかどうか知らないが,おねがそういう手紙を直々,信長に出して個人的なことを訴えられる関係が面白い。そこには,おねと信長の関係以上に,「はげねずみ」と呼ぶ秀吉への信長の親しみを,ここから感じる。

では家臣としての,秀吉はどういう家臣だったのか。

秀吉が,確実な史料に登場するのは,永禄八年(1565)で,

「尾張と美濃の境目に本拠地を構えている坪内氏に宛てた証文で,信長が坪内氏に発給した宛行状の副状である。当時秀吉は二十九歳だが,もう信長の奉行人ないし武将格にまで出世している。」

微賤の身から小者として仕えた秀吉は,後に小早川隆景に手紙で書いたように,「家中のものの真似のできない」ような「寝る間も惜しむ」働きぶりを示す。著者はこう書く。

「宣教師ルイス・フロイスも言っているが,信長は早起きである。それに,突然たった一人で駈け出すこともある。側近にしてみれば,常に目を離せない主君なのである。秀吉は小者ながらも,まず直接信長に知ってもらい,次には目を懸けられるよう一生懸命に努めたものと思う。おそらく睡眠時間を大幅に削って頑張ったのだろう。」

と。ついに,天正元年(1573),小谷攻めの功で,北近江三郡を与えられる。十二万石の一国一城の主となる。さらに,天正八年,播磨,但馬を与えられ,五十万石大大名になる。その動員兵力は,備前・美作の宇喜多直家の軍と合わせると,三万になる。

著者は言う。

「信長は能力至上主義者だから,低い地位の者を抜擢した例はたくさんある。それにしても,秀吉ほどの出世は類がない。出発点が小者の身分で,最後は(中国)方面軍司令官にまで登り詰めるのだから,これ以上ありえない出世である。小者なら小者の仕事,奉行なら奉行の仕事を常に全うするし,部隊指揮官に出世したなら,戦いの中で自分の指揮する部隊を最大限に生かそうとする。天賦の才に恵まれていたのは確かだが,それ以上に,現実を直視しながら他人の何倍も努力を心掛けていたというのが,秀吉の出世の秘訣であろう。」

と。あの信長が,秀吉のおべっかなんぞに欺かれはしない。そうではない,陰日向のない勤勉さと努力を,よく分かっていたのだと思う。

「例えば,元亀元年から天正元年までの三年間,秀吉は浅井攻めの最前線である横山城に置かれる。何度も敵の逆襲をしのぎ,見事にその地を守り抜く。その多忙の間,秀吉が畿内の地に発した文書が二十点近くも見られるのである。度々京都に上っていたことがわかる。」

あるいは,こんなエピソードがある。播磨攻めの最中のことである。

「秀吉の猛烈な働きを見て,信長は,……いつになく優しい手紙を秀吉宛に送る。
『よく働いた。戻ってきて一服せよ。』
しかし,秀吉はきかない。
『いえ,このぐらいでは,たいした働きではありません。』
とせっかくの慰労を断って,隣国の但馬まで攻め込み,いくつかの城を落とすのである。
秀吉が安土に報告に上がるのは,十二月になってからだった。ちょうど信長は三河に鷹狩りに行っていたが,出発する前,秀吉が来たら褒美として渡すように,と天下の名物『乙御前釜』を用意していた。信長がこれほど家臣に気を遣うことは珍しいことである。」

この主従の関係は,阿吽の呼吸に見える。

「秀吉は,信長の家臣としての務めについてよく知っていた。思い切り働いて成果を上げさえすれば,信長は必ず認めてくれるということを心得ていたのである。」

だから,

「三木城攻めの時も秀吉は,ずっと不眠不休の努力を続けた。二年近くの攻囲の末ようやく攻略した後,彼は有馬温泉に行き,二日二晩眠りつづけたという。」

では,秀吉の家臣は,どうか。例の高松を撤退した秀吉は,一日一夜で姫路城まで戻る。そこで交わされた会話が,『川角太閤記』に出ている。

「風呂からあがった秀吉は,城に蓄えていた金銀や米をすべて家臣に分け与え,籠城の覚悟のないことを示す。そして,(信長馬廻りで,監察として派遣されていた堀)秀政に向かって次のように宣言する。
『此の度,大博奕を打ち,御目に懸くべき候』
それに対する秀政の弁,
『御意の如く,世間の為体(ていたらく),博奕も成目に来たり,風も順風と見え申し候。帆を御上げなさるべく候。こなたなどの御身上からは,か様の時,二つ物懸の御分別御尤もかと存じ奉り候』
この秀政の言葉の後,側にいた(祐筆の)大村由己が,『名花の桜,唯今,花盛りと見え申し候,御花見御尤もかと存じ奉り候」,さらに黒田孝高が『殿様には御愁嘆の様には相見え候得ども,御そこ心をば推量仕り候。目出度き事出で来るよ』と…」

秀吉をあおったという。問題は順序である。秀政は,信長のトップクラスの側近である。黒田は,秀吉の与力に過ぎない。秀政の発言こそが,この場では意味がある。そして,この両者の関係こそが,のちのち,天下取りに大きく寄与する。山崎では,秀政は,一手の指揮を執り,中川瀬兵衛,高山右近を指揮する。清州会議の結果,信長家家督が三法師となると,秀政は,その傅役となり,秀吉を支えることになる。

ついでながら,秀吉の家臣のように扱われているが,黒田官兵衛も,竹中半兵衛も,蜂須賀小六も,直臣ではない。あくまで,秀吉与力として信長から派遣されている。弟小一郎もまた,あくまで与力である。秀吉ではなく,信長の家臣である。その意味で,いわでもがなだが,半兵衛は軍師ではない。半兵衛の子,重門の書いた,『豊鑑』にもそんなことは書かれていない。『信長公記』には,半兵衛死後,

「六月廿二日,羽柴筑前与力に付けられ候竹中半兵衛,播磨御陣にて病死候。其名代として,御馬廻りに候つる舎弟竹中久作播磨へ遣わされ候」

という記述がある。竹中家の家臣を統率させるという意味である。半兵衛が,軍師でなければ,官兵衛が軍師であるはずもない。


参考文献;
谷口克広『信長・秀吉と家臣たち』(学研新書)

自己目的

豊下樽彦・古関彰一『集団的自衛権と安全保障』を読む。


豊下樽彦・古関彰一『集団的自衛権と安全保障』を読む。

冒頭で著者は,憲法解釈の変更についての,記者会見で,具体的な例を挙げたとを取り上げた。それは,

「事実上朝鮮半島有事を想定しつつ,避難する邦人を救助,輸送する米艦船が攻撃を受けた場合」

であった。そして,

「このような場合でも日本自身が攻撃を受けていなければ,日本人が乗っているこの米国の船を日本の自衛隊は守ることができない」

と述べて,集団的自衛権行使ができない現状では,国民を守れない例とした。しかし,基本的に,これは,嘘である。いろんな意見がすでに出されているが,著者は,

「実はこうした事例は,現実には起こりえない。なぜなら在韓米軍が毎年訓練を行っている『非戦闘員避難救出作戦』で避難させるべき対象となっているのは,在韓米国市民14万人,『友好国』の市民八万人の計二二万人であり,この『友好国』とは,英国,カナダ,オーストラリア,ニュージーランドというアングロ・サクソン系諸国なのである。」

つまり,

「朝鮮半島有事において米軍が邦人を救出することも,ましてや艦船で避難させることも,絶対ありえないシナリオなのである。」

にもかかわらず,平然と,

「お父さんやお母さんや,おじいさんやおばあさん,子供たちかもしれない」という情緒で,訴えたのである。著者は,

「こうしたトリックまがいの手法をとらざるを得ないところに,安倍首相が主導する集団的自衛権をめぐる議論の“支離滅裂さ”が象徴的に示されている」

という。僕はそうは思わない。論理が破綻しようが,支離滅裂だろうが,説明した実績だけが残る。ある意味,国民を馬鹿にし,見下し,いずれついてくる,と思っている節が見え,そちらの方が,半ば事実になりつつある現状を見ると,空恐ろしい。

あるいは,「安倍首相が“執念”をもやす」機雷掃海についても,同じことが見て取れる。著者は言う。

(想定されているらしい)「ホルムズ海峡は,オマーンあるいはイランの領海によって占められ公海は存在しないのである。とすれば,安倍首相の公約(海外派兵は致しません,を指す)に従えば,海上自衛隊の掃海艇はホルムズ海峡の手前で引き返してこなければならず,そもそも掃海活動など行えないのである。」

と。しかし,論理的矛盾,奇奇怪怪の「ためにする議論」であろうと,蟻の一穴という既成事実を積み重ねるための詐術といっていい。著者は,

「公海の存在しないホルムズ海峡での機雷掃海というシナリオの立て方それ自体のなかに,自ら宣言した公約を簡単に破棄してしまう意図が当初より孕まれているのである。」

という。というより,その意図を実現するための詐術としての論理でしかない。いや,論理というより,こじつけである。

著者は,こう嘆息する。

「なぜ集団的自衛権をめぐる議論は,これほどリアリティを欠いているのであろうか。それは,本来であれば何らかの具体的な問題を解決するための手段であるはずの集団的自衛権が,自己目的となってしまっているからである。」

そして,こう付け加える。

「それはつまるところ,集団的自衛権の問題が,安倍首相の信念,あるいは情念から発しているからである。」

それはまさに,国家の私物化である。おのれの実現したいことが,国民の望まないことであっても,何が何でも,実現してしまおうというのは,北朝鮮同様の独裁国家になりつつあることを示している。

集団的自衛権を足掛かりに,目指していることは,

戦後レジームからの脱却

である。著者は言い切る。

「最大の眼目は,青年が誇りをもって『血を流す』ことのできるような国家体制を作り上げていくところにある」

と。そこには,現象的には,靖国参拝,「村山談話」「河野談話」の見直しとして現れ,そこから仄見えてくるのは,

東京裁判史観からの脱却

という課題の具体化なのである。自民党憲法改正草案,国家安全保証基本法などにみられるのは,

「サンフランシスコ講和条約を基礎として米国が作り上げてきた戦後秩序そのものへの挑戦」

であり,だからこそ,

「米国主導の戦後秩序を否定する信条と論理を孕み,それに共鳴する広範な支持基盤を有した政権が初めて登場し,いまや日本を担っているのである。」

と著者は危惧を示している。

「これこそ,日本の孤立化が危惧される所以であり,日本をめぐる安保環境の悪化をもたらしている」

と。その危惧は,ジャパンハンドラーの一人として,アーミテージらとともに,集団的自衛権行使できるよう,介錯改憲を求めてきたはずの,元国防次官補・ジョセフ・ナイの,

「集団的自衛権が『ナショナリズムのパッケージで包装』される,つまりは,『好い政策が悪い包装』で包まれるならば近隣諸国との関係を不安定にさせるので反対である,との立場を表明した」

発言に見ることができる。著者は,

「ジャパンハンドラーの最大の誤算は,日本が集団的自衛権を解釈変更して海外での武力行使に踏み出すことを強く主張する政治勢力が,実は,『東京裁判史観』からの脱却というイデオロギーによって色濃く染められていることであった。」

と。それは,アメリカが築き上げた戦後秩序への挑戦なのである。だから,日本に続いて韓国を訪れたオバマ大統領は,日本に明確な警告を発した。

「従軍慰安婦問題について『恐るべき言語道断の人権侵害』と断じ,その上で,突如として安倍首相の名前を上げ,『(首相は)過去というものは誠実かつ公正に認識されなければならないことを分かっている,と考える』と,異例の形で厳重に “釘をさした”のである。これは,安倍の「歴史修正主義は断じて許さない」というオバマの宣言とみることができる。」

そして,安倍の進める集団的自衛権に対して,「歓迎する」と言いつつ,

@「日米同盟の枠内」であること
A近隣諸国との対話

という厳重な二条件を課した。

「要するに,集団的自衛権の行使は米軍の指揮下で行われねばならないこと,しかしその前提として,中国や韓国との『対話』が不可欠の条件である」

ということである。結局,

「米国の政権は,中国や北朝鮮の脅威を煽りたて日本を米国の軍事指揮下に“動員”しながら,現実には,日米同盟の枠を越えたレベルから自らの国益に沿って行動」

するということである。これのどこが,誇れる国なのか。めざす戦後レジームからの脱却とはこういうことなのか?

在日米軍のために辺野古で着々と進めている工事と言い,どうも言っていることとやっていることが,支離滅裂。ただ国の岩盤を砕いている気がしてならない。

参考文献;
豊下樽彦・古関彰一『集団的自衛権と安全保障』(岩波新書)

奥行

今野真二『日本語の考古学』を読む。

著者は,

「『考古学』は……「(具体的な)モノを通して」過去の文化を考える学問だ…。本書ではこれから,日本語という言語を対象に『考古学』的なアプローチをしてみようと思う。ここで扱う『モノ』とは,写本や印刷物などの文献である。
過去の日本語を分析するためには,残された文献に就くことになる。…本書が扱うのは,かつて誰かが手で書き写した,あるいは活字を用いて印刷した,具体的なモノとしての書物である。

と「はじめに」で書く。つまり,電子化されたテキストではない,ということだ。なぜなら,

「例えば,同じ『土左日記』の写本であっても,写した人が違えば,漢字や平仮名の使い方が違っていることがある。もっと細かいことを言えば,同じ漢字でも書き方が違ったり,同じ文を書いていても改行箇所が違ったりする。あるいは書き間違えが含まれていたり,注釈のようなメモが書き加えられていたりする。使われている紙も異なる。このように,一つ一つの情報はささいなものだったとしても,そこには,過ぎた「時間」を復元するためのなんらかのヒントがあるのではないだろうか。」

と。だから,言葉としてのまとまりをどう意識していたかとか,どこを文章を区切るか(文のまとまりをどう意識していたか)とか,一つの行をどう意識するか(改行はどこで何を持って意識されたか)とか,等々細かな日本語の過去を洗い出す。そして,それは,

現在につながっている,

という。

たとえば,われわれにとっては,「楷書以外で書かれた漢字」に出会うことはないが,

「書体の歴史を考えたとき,楷書体はむしろ新しい書体である。中国において楷書体が成立したのは初唐だと考えられている。秦の始皇帝(中略)が統一してできた書体が『小篆』である。始皇帝が統一する以前の篆書から派生したものが『隷書』である。(中略)隷書を簡捷化した草隷…をさらに省略化した『草書体』がうまれ…,後漢に入ると盛行していたことがわかっている。隷書から草書が発生する過程で,現在の行楷書に当たる書体が派生し…楷書が完成するのが…初唐…と考えられている。」

朝鮮半島を経て伝わる中国文化は,中国と日本とでは,百年位のタイムラグがある。だからほぼ百年後,平城宮から出土した木簡は,楷書で書かれている。そう考えると,たとえば,現在残されている『万葉集』の西本願寺本(鎌倉時代後期に書写された)は,楷書体で書かれている。

「わたしたちが手にしている最古の写本と,『原万葉集』との間には,失われた時間が横たわっている,ということである。ほぼ楷書体しか知らない現代のわたしたちには想像もつかないような大きな『質的変化』がそこに秘められているかもしれない。」

と,さらに,

「今から一万年あまり前から縄文時代が始まったというみかたがある。社会生活をしているのだから,おそらくは日本語(につながるような言語)が使われていたと考えてよいと思うが,そうだとすれば,日本列島上で日本語は一万年以上使われていることになる。その中で,文献に日本語が足跡を刻むのは,七世紀以降で,現代までたかだか千五百年ぐらいということになる。その千五百年の中で,明治…以降はまだ百五十年にもみたない。局所的といっていもよい。しかしその明治期の日本語でさえ,…現代の日本語とは異なっている。わたしたちが思うほど,現代は絶対のものではない。」

たとえば,漱石の文庫本を,例にとると,まずは,表記が換えられている。

仮名遣いや用いている漢字など

が違うだけではない。著者は,「仰向」と言う表記を例に挙げる。最初の刊行(大正三年 岩波書店)では,

あふむけ

とルビがふられている。この時代の「あふむく」は,発音は,

アウムク

である。しかし,文庫本では,

あおむけ

とルビをふる。つまり,現代日本語としての発音を示したことになる。あるいは,

蒼い

は,

青い

に表記が換えられている。あるいは,

さうして



そして

に換えている例もある。印刷されたものについてですら,このような表記の転換が行われている。

「厳密に言えば『本文』を変えたことになるであろう。『作者』を,テキストの改変ができる唯一の人と定義するならば,このテキストの作者はだれということになるのだろうか。」

という著者は,夏目漱石ですらこれである。書き写しを繰り返した,たとえば,紫式部『源氏物語』,紀貫之『土左日記』(紀貫之は左の字を使っている)の作家となると,はなはだ覚束ないのではないか,と言っているのである。

そもそも書写原本とまったくおなじテキストを作ろうとして書写したとしても,不注意から写し損なうことも考えられる。あるいはちょっとした箇所について,原本に何らかの「錯誤」があるのではないかと考えて,書写者の判断で「本文」を変える可能性はつねにある。

藤原定家は,紀貫之の自筆本を,

もとのまま書いた

という。たとえば,

いひ/つかふものにあらすなり
いま/はとても見えすなるを

という文章について,為家筆者本では,

「『さ』には,漢字『散』を字源とする異体仮名(散)が使われているが,定家はこの〈散〉を『す』と判読している。(中略)定家にとって,仮名『さ』にあたる〈散〉はすでになじみのうすいものであった可能性がたかい。」

つまり,どんなにそのまま写そうとしても,

書く時に使用する仮名字体そのものも,変化している可能性がある

という制約があるということらしい。

こうやって一枚一枚薄皮を剥がすようにして,日本語の原風景を探っていく仕事は,実は,過去のことではなく,いまにつながっている気がしてならない。たとえば,繰り返しを示す,

「〱」

があるが,これを行の頭に持ってこないようにするという意識が,16世紀の鎌倉時代に書写された『竹取物語』に見える。いまだと,禁則処理として扱われることにつながる,意識である。

最後にもうひとつ,椿は,

ツ婆木

豆波木

と表記される。「木」は,

「『ツバキ』の『キ』という音ではなく,その『意味』において『椿』という樹木と関連づけられており,『万葉仮名』つまり仮名としてではなく,漢字として使われている…」

というのである。

都婆伎
とか
都婆吉

の表記の場合は,音を利用して書いている。つまり,

古代においてすでに,漢字「木」が樹木を指す日本語「キ」と強く結びついていた

わけである。その意味で,

エノキ
ヒノキ

のそれも,「木」が意識されなくなっている例と言えるらしいのである。

『新撰字鏡』をみると,漢字の和訓に万葉仮名が当てられている。

村 牟久乃木(ムクノキ)
槙 万木(マキ)
樟 久須乃木(クスノキ)
桐 支利乃木(キリノキ)

こうした背景にあるのは,その時代の語構成の感覚である。しかしその特徴は,

「『ミナト』に単漢字『港・湊』をあてるようになると,もともとは,『ミ(水)+ナ(助詞のノ)+ト(戸)』という語構成をなしていたことがわからなくなり,『まつげ』に単漢字『睫』をあてるようになると,もともと『マ(目)+ツ「助詞ノ+ケ(毛)」であることがわからなくなる。同じように,〈燃料にする木〉という語義の『タキギ』はよく考えれば,『タキ+キ』という語構成をしていることがわかる。動詞『タク』の連用形『タキ』に『キ=木』が複合している。現在では,単漢字『薪』をあてることがほとんどなので,『よく考え』ないと,そのことに気づきにくい。しかし『万葉集』には『燎木伐(たきぎこる)』…とある。『燎』字には〈やきはらう〉という字義がある。また,『多伎木許流(かきぎこる)』ではやはり,『タキギ』の『ギ』に『木』字が使われている。』

日本語の考古学は,このように丹念に,砂を払い,いわば,日本語の根っこ探っていく試みと言える。その奥行きの中に,いまの日本語がある,ということがよく伝わってくる。

語源が気になっている僕には,語源すら,日本語と表記として使った感じとの「音」を使ったり,「意味」で使ったりというその使い分けまで踏み込んでいくと,書くことと話すことの言葉の乖離にことばの深い奥行が見えてくる気がする。

参考文献;
今野真二『日本語の考古学』(岩波新書)

家と血と藝

中川右介『歌舞伎 家と血と藝』を読む。

昨年の五代目歌舞伎座の杮葺落興業では21演目が上演され,演目ごとの配役表のトップ,つまり主役に据えられた役者は,十人。

坂田藤十郎,尾上菊五郎,片岡仁左衛門,松本幸四郎,中村吉右衛門,中村梅玉,坂東玉三郎,坂東三津五郎,中村橋之助,市川海老蔵,

である。しかし,この十人は,家としては,七家となる。

市川團十郎家(海老蔵)
尾上菊五郎家(菊五郎)
中村歌右衛門家(梅玉,橋之助,坂田藤十郎)
片岡仁左衛門家(仁左衛門)
松本幸四郎家(幸四郎)
中村吉右衛門家(吉右衛門)
守田勘彌家(坂東玉三郎,坂東三津五郎)

本書は,「この七家の家と血と藝の継承の歴史を描く」が,

「全体としては,明治以降現在までの歌舞伎座の座頭をめぐる権力闘争の歴史でもある。」

しかし,どういう権力闘争なのか,というと,

「『歌舞伎座の舞台で主役を演じること』を求めての闘争である。他の劇場で主役を演じることができても,歌舞伎座の舞台に立てなければ意味がないのだ。それは歌舞伎座が劇界で最高位の劇場だからである。そうなったのは明治以降でしかないのだが,逆に言うと,明治以降の歌舞伎の世界は歌舞伎座を頂点とした構造となっている。さらに,その歌舞伎座で主役を勤めることができるのも,いま挙げた七つの家が中心という構造になってしまった。」

何が主役を張る決め手になるかと言うと,「藝」ではあるが,「人気」も必要であるし,「政治力」も必要になる。

「歌舞伎の場合は,役者個人の『藝』や『人気』もさることながら,その『家』の歴史や格式といった要素が大きく左右する。……門閥で成立している世界といったほうがいい。そして,門閥を支えているのが『世襲』制度である。」

だから,七家は,親子関係だけでなく,「複雑きわまりない姻戚関係」によって,

「ひとつの巨大ファミリーを形成している。『歌舞伎役者の八割は親戚』である。」

という。しかし,

「この『世襲』『門閥』による七家寡占体制は,しかし,四百年続く歌舞伎史の最初期から続いているものではなく,この百年ほどの間に確立したものに過ぎない。」

本書は,まさに,この体制の形成史そのものになっている。

「戦国武将列伝の歌舞伎役者版を描つもり」

で,語られていく。その複雑な関係は,たぶん,振り返らないとよくわからない。たとえば,

「いまや歌舞伎界は七代目松本幸四郎の子孫なくしては成り立たない」

ほどと言われるが,その七代目は,三重県の土木業を営む家の子として生まれ,藤間流家元,二代目勘右衛門の養子となり,九代目團十郎の家に住み込むようになり,高麗蔵襲名,幸四郎襲名を果たした人物だ。著者は言う。

「七代目松本幸四郎の最大の功績は三人の息子を戦後を代表する幹部役者に育て上げたことだと言われる。ただ育て上げただけではない。三人を,市川宗家,中村吉右衛門,尾上菊五郎それぞれの後継者にまでしたのだ。すなわち,息子たちが十一代目市川團十郎,八代目松本幸四郎(白鷗),二代目尾上松緑であり,他に娘婿が四代目中村雀右衛門だ。そして孫が十二代目團十郎,九代目幸四郎,二代目吉右衛門,三代目松緑,八代目大谷友右衛門,七代目中村枝雀,曾孫が十一代目海老蔵,七代目染五郎,四代目松緑となる。」

と。これだけで,四家が関わることになる…。

さて,話を戻すと,本書は,「宗家」と呼ばれる團十郎家の,十二代團十郎の死から,語られていく。そして,最後は,中村勘九郎の息子・七緒八の,歌舞伎座での初舞台で締めくくられる。

「この勘九郎の子・七緒八は,初代中村歌六の六世代目の男系の男子にあたる。さらにこの子は尾上菊五郎家の血も引いており,三代目菊五郎から数えて八世代目,その父の初代尾上松助からだと九世代にわたり血脈が確認できる。五代目菊五郎は中村羽左衛門家に生まれているので,この子は十一代羽左衛門から数えると八世代目になる。さらに,祖母(十八代勘三郎の妻)が中村歌右衛門家の出なので,こちらをみると,五代目福助から五世代目になる。…これに横や斜めの関係もあるので,歌舞伎の幹部役者のほとんどが,彼の親戚である。」

しかし,

「歌舞伎の世界は世襲といえども,必ずしも実子が継いでいるわけではない。そして名家に生まれただけでは主役は務められない。名家だからと言って,いつまでも続くわけではない。」

という。たとえば,明治以降劇界で天下を取った役者,

「九代目團十郎,五代目歌右衛門,六代目歌右衛門に共通するのは,その名が自動的に与えられたのではなかったということだ。自分の力で獲得した名跡である。六代目菊五郎にしても,五代目の実子だが,義兄・梅幸を押し退けての襲名であり,その後に苦労があった。初代吉右衛門は父がいたとしても傍系の人で,彼が創業者に近い。みな,『役者の子』(養子を含む)ではあったが,エスカレーターに乗るようにして,出世したわけではない。」

坂東玉三郎は,「現在の幹部クラスのなかで数少ない『大幹部』の『実子』ではない役者」だ。

「このことは幹部の血縁でなくても才能と運があれば主役を勤められることの証拠ともいえる。しかし彼が今日のポジションに到達できたのは,徳川時代からの名門家の養子になったからでもある。その手続きを踏んでいなかったら,彼の今日のポジションはない。」

つまり,

「坂東玉三郎という当代随一の女形は,歌舞伎の可能性と限界と矛盾の象徴」

でもある。著者はこういう。

「二十一世紀になってもなお,歌舞伎の舞台では血統による世襲と門閥主義により,幹部役者の家に生まれた者でなければ主役を演じられない。逆に言えば,幹部の子として生まれれとりあえずチャンスが与えられ,誰の眼にも『あれはダメだ』と映らない限りは主役あるいは準主役としてでることができる。」

こんな箱庭の芝居に,いまを生きているものの息吹はない。いま一種の演劇ブームである。ものすごい数の小さな劇場に,若い人が押しかけている。その熱気とエネルギーは,歌舞伎座にはない。僕は,顰蹙を買うかも知れないが,税金で守らなくてはならないような伝統芸能は,いらないという主義だ。それはもはや死んだものだ。死んだものは,いま必要ではないということだ。囲われた「伝統芸能」は,いまという時代と格闘しない。そんなものは文化ではない。文化は過去にはない。いま,われわれ自身が,あらたな伝統の担い手なのであって,もしあるとするなら,そこにこそ,金を投入すべきだと考えている。亡くなった勘三郎は,そのことに敏感であった。コクーンで彼を観たとき,その熱意を感じた。しかし,それを継ぐ者はいない。歌舞伎が,そういう古典芸能に陥るかどうかの,いま瀬戸際にあるように思える。

参考文献;
中川右介『歌舞伎 家と血と藝』(講談社現代新書)

言霊

佐佐木隆『言霊とは何か』を読む。

著者は,言霊の,一般的な理解の例として,『広辞苑』を引く。

「言葉に宿っている不思議な霊威。古代,その力が働いて言葉通りの事象がもたらされると信じられた。」

と。しかし,一見して,異和感がある。言と事をイコールと感じるからといって,誰の言葉でも,その言葉通り実現すると,信じられたのか,と。

著者は,

「古代日本人にとって『言霊』とはどんなものだったのかを具体的に検討」

するのを目的として,

「言葉の威力が現実を大きく左右したり,現実に対して何らかの影響を与えたりしたと読める材料のみを取り上げ」

て,

「言葉の威力がどのようなかたちで個々の例に反映しているのかを,『古事記』『日本書紀』『風土記』に載っている神話・伝説や『万葉集』に見える歌などを読みながら,一つ一つ確認していくことにしたい」

とまえがきで述べる。それは,結果として,言葉が一般的に霊力をもつという辞書的通念への批判の例証になっていく。

まず,「言霊」の「こと」は,一般的に,「事」と「言」は同じ語だったというのが通説である。あるいは,正確な言い方をすると,

こと

というやまとことばには,





が,使い分けてあてはめられていた,というべきである。ただ,

「古代の文献に見える『こと』の用例には,『言』と『事』のどちらにも解釈できるものが少なくなく,それらは両義が未分化の状態のものだとみることができる。

という。ただ,まず「こと」ということばがあったと,みるべきで,「言」と「事」は,その「こと」に当てはめられただけだということを前提にしなくてはならない。その当てはめが,未分化だったと後世から見ると,見えるということにすぎない。

「『言霊』の『霊(たま)』は,『魂』の『たま』と同じ語であり,

霊魂,精霊

のことだと,一般には説明されている。

で,「言霊」使用例(「言霊」を読みこんだ例は『万葉集』には三首しかない)の分析に入る。たとえば,

@神代より 言ひ伝て来らく そらみつ倭国は 皇神の 厳しき国 言霊の幸はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり…(山上憶良)

A志貴島の 倭国は 言霊の 佐くる国ぞ ま福くありこそ(柿本人麻呂)

B言霊の 八十の衢に 夕占問ふ 占正に告る 妹相寄らむと(柿本人麻呂)

これ以外に,『古事記』『日本書紀』『風土記』を含めて,「言霊」の確かな用例はないのだという。で,ここから,その意味をくみ取っていく。

Bの「夕占問ふ」とは,「夕占」である。

「夕方,道の交差点になっている辻に立ち,そこを通行する人が発することばを聞いて事の吉兆・成否を占う,」

という意味である。おみくじを引いて,神意を知るのと同じというと,言いすぎか。

Aは,その前の長歌をうけている。そこには,

「葦原の 瑞穂の国は 神ながら 事挙げせぬ国 然れども 辞挙げぞ吾がする 言幸く ま福いませと 恙無く ま福くいまさば 荒磯波 ありても見むと 百重波 千重浪しきに 言上げす 吾は 言上げす吾は」

とあり,@もAも,

「皇神(すめかみ)」「神(かむ)ながら」を承けたかたちで「言霊」という語が用いられている,ということである。

として,著者は,ここで用いられた

「『言霊』が神に対する意識と密接な関係があったことを物語る,」

として,こう説く。

「人間の口から発せられたことばが,その独自の威力を発揮し,現実に対して何らかの影響を及ぼす,といった単純な機構ではない。神がその霊力を発揮することによって,『言霊の幸はふ国』を実現し『言霊の佐くる国』を実現するのだというのが,(@とAの)『言霊』に反映する考え方なのである。」

当然,Bの占いも,

「行為が向けられた相手は神であり,『占正の告る』の主体も神だということになる。つまり,人間が『占』を行って,神に『問ふ』のであり,神がそれに応じて『占に告る(占いの結果にその意思を表す)』のである。」

と述べ,『広辞苑』に代表される通説の説明は不十分で,

「(三例の)「言霊」は神を意識して用いられたものであるのに,…神とのかかわりが視野にはいっていない,」

と言う。そして,

「三例の『言霊』は,神がもつ霊力の一つをさすもの,」

と考えると,ことばに対する当時の日本人の考え方は,原始的なアニミズムを脱し,

「『言霊』については,早い段階で,人間には具わっておらず神だけがもつ霊力だと考えられるようになっていたのではないか」

と推測する。そして,以降,ことばの威力を,文献にあたりながら,

いかに神の霊力

を意識していたか,を検証していく。

呪文
祝詞
国見・国讃め
国産み
夢あわせ

等々を検討したうえで,

「本書では,ことばがその威力を発揮して現実に何らかの影響を与えた,と読める材料だけを古代の文献から集め,その内容を具体的に分析した。『古事記』『日本書紀』『風土記』の神話・伝説や『万葉集』の歌を見る限り,ことばの威力が発揮され,それが現実に影響を与えるのは,神がその霊力を用いる場合である。人間の発したことばを聞き入れた神がその霊力を発揮して現実に影響を与える,というかたちになっているのが普通である。」

とまとめる。つまり,

「人間の発することば自体に威力があって事が実現するのではなく,人間の発することばを聞き入れた神が事を実現してくれる…,」

というわけである。

「ことばに霊力がやどると信じたのは,人々の間で日常的に何気なく交わされることばではな(く)…儀礼の場で事の成就を願う非日常的な状況において,特別な意識をともなって口から発せられることばに霊力がこもる…」

ということである。上記の万葉三首以降,「言霊」をもちいた歌は,数えるほどしかない。そこでも,強く神対する意識がある。では,どこで,

「人間の発することばにまで拡大され,さらにまた,ことばそのものに霊力がやどるという解釈にまでかくだいされることになった,」

のか。著者は,江戸時代の『万葉集』で,上記三首の解説を調べる。

江戸時代前期,契沖の『万葉代匠記』
江戸時代中期,賀茂真淵『万葉考』

では,神との関係を明確に意識している。しかし,

江戸時代後期,橘千蔭『万葉集略解』

では,

この歌に神霊がやどって,

と,神意抜きの解釈に変わる。師の真淵が「神の御霊まして」という説明の神意をはき違えてしまったらしいのである。

これ以降,

言霊とは,ことばの神霊のことであり,発することばにおのずから不思議な霊力がある

というように変わっていく。それは,とりもなおさず,

自然や神への畏れ

をなくしてしまった現れなのではないか,と思う。だから,

ことばをもちいた祝詞や和歌や諺にも言霊が宿る,

と際限なく拡大していく。それは,人の不遜さ,思い上がりに通じるものがあるような気がしてならない。人というより,日本人の,と言った方がいい。その不遜さは,またぞろ,妖怪のように復活してきた気配である。夜郎自大とはよく言ったものである。

参考文献;
佐佐木隆『言霊とは何か』(中公新書)

世界観

千田稔『古事記の宇宙(コスモス)』を読む。

著者は,あとがきで,こう書く。

「本書では,『古事記』の底流をなしている自然をぬきだして,日本人の自然観と,そこから見えてくる,カミ意識に主たる焦点を定めた。古来,この国のカミ意識は,万物に神霊が宿っているというアニミズムであった。欧米などの一神教からは,見えない世界であって,原始宗教とさげすまれた位置づけをされてきた。だが,地球のいわゆる「環境問題」が深刻化の様相を呈しつつある昨今,自然界のすべてに神霊が宿り,人間も自然界に属しているというアニミズム的認識こそが,『環境』論を考えるとき,『共生』よりも,強い倫理性を発信できると思い,そのようなことが『古事記』によって示唆されているのではないかという思いで,本書を綴ってみた。」

と,しかし,序では,

「『古事記』は史書である。史書に登場する神々のすべてを,単純にアニミズムという枠内に収めることはできない。なぜならば,純粋な自然の霊への信仰だけでなく,『古事記』という政治的色合いをもった史書に収められている自然と神の関係からは,創作性をぬぐいさることができない場面もあるからである。そのために,本書では,無垢の自然に宿る神と,政治性をおびた人格神的なものとを交錯させながら述べることになる。」

と,『古事記』の性格のむずかしさを言い当てている。で,構成としては,

「ある種博物誌のような体裁をとっているが,それは,『古事記』という一つの宇宙論的記述を,腑分けして,解き明かそうとした試み…,」

として,

「史書としての『古事記』をいっぽうに意識しながら,『古事記』の中に見出される自然に目を注ぎ,この国の自然観の源流をたどってみたい,」

と,天と地そして高天の原,ムスヒとアマテラス,海,山,植物,鳥,身体,

と,章分けされている。しかし,一番面白いのは,



である。まず,言う,

カミ

の語源が分からないのである。



が語源ではないか,とあたりをつけていたらしいが,

そうではないのだという。で,いくつかの説が載せられている。

大野晋は,

「カミの語源としてこれまで上げられた,『上(カミ)』,鏡(カガミ),畏(カシコミ),カミの『ミ』は『ヒ』の転化で太陽のことであるという諸説は,いずれも古代の音のうえで『カミ(神)』の語源とはいえないとして,しりぞけた。そして南インドのタミル語との比較研究によれば,カミ(神)の古形カムは『カ』と『ム』との複合によつて成りたった語で『カ』は光線・雷光で『ム』は王・領主であると判明した。」

という。

本居宣長は,「まだ思いつかない」としたうえで,

「すべてカミ(迦微)というのは,…天地の諸々の神をはじめ,それをまつる神社に坐す御霊をも指し,また人は言うまでもなく,鳥・獣・木草の類,海・山などその他何であっても,尋常でないほどすぐれたるところがあって,かしこきものをカミと言う。」

谷川健一は,

「神(カミ)はクマと音が通じていて,クマシネは神に捧げる稲のことでその稲を作る田をクマシロというとして,…『和名抄』の岩見国邑知郡と淡路国三原郡に神稲(くましろ)郷…もそれに準ずるとする。」

もうひとつ谷川は,

「『クマ』は山の籠ったところを指す形容語という説があるが,『カミ』も幽暗なところに在すものという意味であると説く。」

さらに,古代朝鮮語のcomあるいはkumaは,どちらも暗い空間という意味である,ということから,著者は,

熊野

のことを想起する。そして,

「牟婁(むろ)という地名が熊野にあること,『むろ』は『もり(杜)』に由来するならば,大和の三輪山,すなわち『古事記』の御諸山の『みもろ』に通じることから,『熊野』という地名と『カミ』とのつながり」

は検討に値すると,留保しつつ,著者自身は,『カミ』の由来を,

「本来『カミ』は荒ぶる存在であったため,白いイノシシも黒いクマも『カミ』として認識されたが,黒いクマがより獰猛であったために『カミ』のシンボル性を強く表現した」

と考えるに至る。それは,本居宣長の,あらぶるものすべてが「カミ」とするものの延長線上にあるが,そういうものとして,カミを見ていく,と言う仮説の上に立って書いている,と表明のと同様である。

もうひとつ著者が注目するのは,道教の影響である。『古事記』の撰録と献上を太安万侶に命じたのは元明天皇であるが,諡が,

天淳中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)

である。

天淳中原

とは,天の瓊(たま)を敷きつめた原,瀛は瀛州(中国の東の海に浮かぶ不老長寿の薬のある三神山の一つ)という意味で,真人とは,道教で高い位の千人をいう。

その元明天皇に強い影響を与えた斉明(皇極)天皇も,宮の近くにある多武峰の山頂に,両槻(ふたつきの)宮あるいは天宮(あまつみや)と呼ばれる観,つまり道教寺院をつくった。

ということは,『古事記』を作った人々には,道教の世界観で,見えていたものがある,そうして見えた景色がある,ということなのだ。

その意味で,『古事記』の冒頭,

「天地初めて発けし時,高天の原に成れる神の名は,アメノミナカヌシ(天之御中主)の神。次にタカミムスヒ(高御産巣日)の神。次にカミムスヒ(神産巣日)の神。この三柱の神は,みな独神と成りまして,身を隠したまひき。」

でいう,「高天」に神が住むという信仰は,道教由来ではないか,と言う。

「おそらく,高天の原は,…中国の経典を参考にしてつくられた言葉であると思われる,」

と,著者は推測する。その意味するところは,

「『古事記』は稗田阿礼の口誦によったとする素朴な成立事情だけからは説明できない,」

ということになる。そして,この『古事記』の冒頭は,『日本書紀』にはなく,一書第四の諸説の一つとして載せているだけである。このことを,著者はこう推測する。

「これは,天武天皇の命によってつくられた『古事記』の高天の原の記述には,政治的宗教的意図があることを明示していると読みとれるのである。『日本書紀』の編纂者たちは,それを過小評価しようとしたのである。」

実は,その言葉が,その言葉を使っている人の見ている世界を示す。その言葉の意味に,大袈裟に言えば,世界観がある。人は,世界を,おのれの世界観で見ている。というより,おのれの世界観しか,そこに見ない。別に現象学的な意味だけではなく,そういうものの見方なのだ。とすると,その言葉が,どう意味で使われたのか,はその世界を共有するためには必須になる。

世界観と言う言い方が大袈裟なら,景色といってもいい。たとえば,

ササギ

という鳥の名がある。仁徳天皇を,

大雀命(おおさざきのみこと)

とよぶ,このサザキである。これには,



の字を当てて,

スズメ

であったり,

ササギ

であったりし,『日本書紀』では,鷦鷯の字で,ササギ,と訓ませている。これは,今日,

みそさざい

を意味する。雀かミソサザイかでは,見えているものが違うのである。

『古事記』の宇宙を見るのは,一筋縄にはいかないのである。

参考文献;
千田稔『古事記の宇宙(コスモス)』(中公新書)

劣化

佐伯啓思『正義の偽装』を読む。

帯には,

稀代の社会思想家

とある。しかし,読んで,異和感のみが残った。福田恆存はまだしも,件の長谷川三千子を麗々しく引用するあたり,そのレベルの人かと,ひどく幻滅した。

著者は,本書について,

「時々の時事的な出来事や論点をとりあげつつ,それをできるだけ掘り下げて,使嗾的に論じるというのが連載の趣旨なのです。」

という。そのうえで,

「私には今日の日本の政治の動揺は,『民主主義』や『国民主権』や『個人の自由』なる言葉を差したる吟味もなく『正義』と祭り上げ,この『正義』の観点からもっぱら『改革』が唱えられた点に在ると思われます。われわれは,本当に信じてもいないことを『正義』として『偽装』してきたのではないでしょうか。」

と書く。この文章に,詐術がある。自分は,

「この世の中に対する私の態度はかなりシニカルなものです。」

といって,まず部外者に置く。そうすることで,上記の「偽装」については,責任を逃れている。そして,

さしたる吟味もなく,

「正義」と祭り上げ

もっぱら「改革」が唱えられた

本当に信じてもいないことを「正義」と「偽装」

しているのは,著者ではない,「愚かな日本人」ということになる。著者の論拠は,保守だから,主として,

サヨク

野党

がその批判の対象になる。しかし,かくおっしゃる世の中で,ご自分はのうのうと大学教授を享受している,この社会の当事者である点を,置き去りにしている。かつて,吉本隆明が,丸山眞男の当事者意識を痛烈に批判していたのをふと思い出す。当然,僕は,この著者の言うところの,

サヨク

に該当するらしいのだが,しかしいまどき左翼だの右翼だのというふるい分けというか,レッテル張りに意味があるのだろうか。せいぜい石破氏のデモを「テロ」と名付けたり,安倍氏が批判者を「左翼」というラベル貼りする以上の実態はないと思うが,未だラベル貼りすることで,自分をその埒外に置きたい人がいるらしい。けれども,自分を埒外におこうと,どの立場に立とうと,時事に対して,批判することはもちろん自由だ。しかし,評論家であることは許されない。この日本において,自分だけ埒外にいることはできない。自分または自分の家族も巻き込むことを意識しない当事者意識の欠けた意見は,基本,聴くに値しない。

しかし,本書へのいらだちは,それだけではない(当事者意識のないどころか,高みから見下ろしているのは,この手の論客のお得意技なので,そのことはさて置いても)。

たとえば,

「『自由』や『民主』『富の獲得』『平和主義』といった戦後の『公式的な価値』は,実は,一皮むけば,すべて自己利益の全面肯定になっている」

と書く。「公式的な価値」って,誰にとって,誰が,と言う茶々は入れない。そういう言い回しで,皮肉たっぷりに言うのが,ご自分の存在基盤になっているらしいので,言ったところで,痛痒を感じまい。問題は,これは,著者の仮定にすぎないということだ。そう著者が仮に仮説として言った,ということだ。ところがである。つづいて,

「すると人はいうでしょう。人間とはそういうものだ。どうして利己心をもって悪いのか。そうです。別に悪くありません。誰もが自分の生命や生活を第一に考え,自己利益を目指し,富が欲しい。これは当然と言えば当然です。しかし,戦後の『公式的な価値』は,この本質的にさもしい自己利益,利己心を『正しいもの』として正義にしてしまったのです。それに『自由』や『民主』や『経済成長』や『平和主義』という『錦の御旗』を与え,『政治的正しさ』を偽装してしまったのです。」

こういうのをマッチポンプと言う。ご自分で問い,それに「さもしい」という問いにはなかった価値判断までも加え,「(自分ではないアホな国民が)正しいものにしてしまった」と言っている。この論旨は,詐欺である。

そもそも仮定は,著者がした。この仮定を受け入れなければ,たとえば,「自己利益」という前提を外せば,別の結論になる。こういうのを,前提に結論を入れている詐術という。

決められない政治,責任を取らない云々と批判のある風潮に対して,こう言う。

「『決断をする』にせよ,『責任をとる』にせよ,これは指導者に求められる責務なのです。そして,『決断』も『責任』も,それなりの力量や先見性をもった『主体』でなければできません。『決断』はいうまでもなくまったく未知で不確定な未来へ向けてひとつの事柄を選び取ることで,そこには先見性と強い意志がなければなりませんし,『責任』の方も,選択の結果がいかなる事態を引き起こすかというある程度の因果関係の推論がなければ意味を持ちません。」

ここまでは,まあ,いい。しかし,ここからがお得意の論旨の展開である。

「こうしたことを予見できるのは,人並み外れた能力なのです。ということは,われわれは,人並み外れた力量を指導者に求めているのです。(中略)ところが他方で,われわれの理解する『民主主義』とは,『民意を反映する政治』であり,われわれの常日頃の思いや感情や不満が正字に反映されるべきだ,という。指導者とは,われわれのいうことをよく聞き,われわれの不満を代弁してそれを解消してくれるはずの者なのです。端的に言えば,民主主義のもとでの政治家とは,『庶民感覚』をもった者で,できる限り我々に近い人であるべきなのです。
こうなると矛盾は覆い隠すべくもないでしよう。われわれは,一方で,指導者に対してわれわれにはない卓越性とたぐいまれな力量を求め,他方では,指導者はわれわれとチョボチョボであるべきだといっているのです。」

こうやって,単純化して,あえて,論点を明確にするというやり方はある。しかし,この矛盾は,著者が立てた仮説に基づく。その仮説が違っていれば,話はかみ合わない。

たとえば,「無責任」で問題にしていることは,こういう抽象的なことではない。もっと具体的な,あのこと,このことである。ひとつひとつの具体的なことについて,責任を取っていない,と言っているのである。

最近の例で言えば,原子力規制委員会の田中委員長は,合格を認定したが,

「再稼働の判断には関与しない。安全だとは私は申し上げません」

と言い,菅官房長官は,

「規制委が安全性をチェック。その判断にゆだねる」

と言い,岩切薩摩川内市長は,

「国が責任を持って再稼働を判断すべき」

と言う。そして,

「もし事故が起きたら、その時の責任は?」

と質問されて,岩切薩摩川内市長は,

「これは国策だから、国が責任を取るべきだと思う」

と言う。責任とは,たとえば,この一連のなすり合いのような,具体的な言動,事案について言っている。

あるいは,メルトダウンしたフクイチは,いまだコントロールできず,全太平洋を汚染つつあるのに,

コントロールロー出来ている,

という平然とウソを言い,ウソがまことの如く頬かむりしているという,個々の具体的な言動を指している。それを一般論に置き換えて,それは,

ないものねだりだ,

ということで,無責任を容認しようとする,この論旨こそが無責任な,論旨のすりかえである。たとえば,政治も,国家→県→市町村という政治レベルのクラスを意識的にぼかし,一般論として,ひとしなみに捉えて,政治家は,

われわれの不満を代弁してそれを解消してくれるはずの者

と言い替えてしまう。まさに,巧妙かつ卑劣である。この手の論旨に満ち溢れていて,もういちいち指摘するのも辟易する。

G・ライルは,知性は,

Knowing that
だけではなく,
Knowing how

がなければだめだという。著者は,シニカルに逃げて,

Knowing how

を一切示さない。自分なりにどうするかを示さなければ,所詮知識のひけらかしか,批判への評論でしかない。自分は安全なところで,時代を享受しながら,時代をシニカルに皮肉る。知性的なふりをした,巧妙なプロパガンダ以外の何ものでもない,

社会思想

の「偽装」である。しかし,ご自分が当事者意識を持とうが持つまいが,ご自分の子息,縁者の子息は巻き込まれる。あるいは,黒澤明がこずるく兵役を免れたように,この手の人には,抜け道があるのかもしれない。でなければ,ご自分を対岸においてものを言う神経が理解不能だ。

たしか,ミルトン・エリクソンをベースにする,NLP(神経言語学的プログラミング Neuro-Linguistic Programming)には,ミルトンモデル(その反対はメタ・モデル)というのがあり,物事をあいまいに糊塗する言葉遣いというのを列挙している。たとえば,

一般化
省略
歪曲

とあるが,とくに気になるのは,省略の一種(だと思う),

遂行部の欠落(あるいは遂行主体の曖昧化)

といわれるものだ。

誰が,
誰にとって,

という主体が,対象が,意識的にぼかされる。NLPのテキストは言う,

「話し手は,自分に当てはまるルールや自分の世界モデルを,他人にも押し付けようとする時に,遂行部の欠落を使います。」

あたかも,

すべて,
みんな,

ということで,何かを手に入れようとする子どものよく使う手のように。

「みんなそうだよ」。

参考文献;
佐伯啓思『正義の偽装』(新潮新書)
G・ライル『心の概念』(みすず書房)

知性

田坂広志『知性を磨く』を読む。

律儀なファンではないが,以前に,何冊か強い印象を懐かされた本を読んでいる。基本的に,その知性に惹かれていることが,普段は読まない「ノウハウ」チックな本書を手にした動機である。

著者は問う。

「学歴は一流,偏差値の高い有名大学の卒業。
頭脳明晰で,論理思考に優れている。
頭の回転は速く,弁もたつ。
データにも強く,本もよく読む。
しかし,残念ながら,
思考に深みがない。(中略)
端的に言えば,「高学歴」であるにもかかわらず,深い「知性」を感じさせない…,
ではなぜ,こうした不思議な人物がいるのか?」

と。著者は,

知能

知性

をこう区別する。

「知能」とは,「答の有る問い」に対して,早く正しい答えを見出す能力
「知性」とは,「答の無い問い」に対して,その問いを,問い続ける能力

と。さらに,

知識

知恵

知性

をこう整理する。

「知識」とは,「言葉で表せるもの」であり,「書物」から学べるもの
「智恵」とは,「言葉で表せないもの」であり,「経験」からしか摑めないもの
「知性」の本質は,「知識」ではなく,「智恵」である

と。そして,いまひとつ,「専門性」について,

「我々は,『高度な専門性』を持った人物を『高度な知性』を持った人物と考える傾向にある」
しかし,
「『高度な専門性』を持った人物が無数にいながら,肝心の問題が解決できない」
と。

フクイチの放射汚染はまだ続いており,太平洋全体に汚染が広がりつつある。しかし,少なくとも,汚染を止める手立てを,専門家は何一つ構築できていないどころか,めどさえ立っていない。

ふと思い出すのは,アーサー・C・クラークが言っている言葉である。

「権威ある科学者が何かが可能と言うとき,それはほとんど正しい。しかし,何かが不可能と言うとき,それは多分間違っている」

と。著者は,サンタフェ研究所で,

「この研究所には,専門家(スペシャリスト)は,もう十分いる。われわれが本当に必要としているのは,それらさまざまな分野の研究を『統合』する『スーパージェネラリスト』だ」

という発言に触発されて,これからは,

「垂直統合の知性」を持ったスーパージェネラリスト

が必要と説く。それは,

さまざまな専門分野を,その境界を超えて水平的に統合する「水平統合の知性」

ではない。その例を,アポロ13号の事故の時,NASAの主席飛行管理官を務めていたジェーン・クランツに,そのモデルを見る。そこでは,混乱し絶望的状況の中で,

「我々のミッションは,この三人の乗組員を,生きて還すことだ!」

と明確な方向性を示し,次々に発生する難問を,専門家たちの知恵を総動員して,次々とクリアし,無事に帰還させた。そして,ここに,知性のモデル(「スーパージェネラリスト」)を見つける。

「まさに『知性』とは,容易に答の見つからない問いに対して,決して諦めず,その問いを問い続ける能力のこと。」

として,「七つのレベルの思考」を提示する。

第一は,明確なビジョン
第二は,基本的な戦略
第三は,具体的な戦術
第四は,個別の「技術」
第五は, 優れた人間力
第六は,すばらしい「志」
第七は,深い思想

この字面だけを見ていると,常識的に見えるかもしれないが,たとえば,

戦略とは,「戦い」を「略(はぶ)く」こと
技術の本質は,知識ではなく,「智恵である」

というように,ひとつひとつに,著者なりの「知略」が込められている。

このすべてに僕は賛成ではないが,すくなくとも,自分なりの体験と知恵から「知性」を描き出そうとする,オリジナルな思考のプロセスがよく見える。

智恵をつかむための智恵とは,

「メタレベルの知性」

という著者の「知性」のメタ・ポジションには,深く同意するところがある。

ライルは,知性について,

Knowing how(ある事柄を遂行する仕方を知っている)

Knowing that(何かについて知っている)

に分けた。そして,こう書く。

「ある人の知識の卓越や知的欠陥を問題にしている場合においてさえも,すでに獲得し所有している真理の貯蔵量の多寡は問題ではない」

と。ただ,このKnowing howとKnowing thatは,同じクラスと考えず,クラスが別と考えると,

Knowing howについてのKnowing that

というメタレベルの「知」であることも含意していることになる。

僕は,必要なのは,智恵とか知識とか知能というレベルではなく(それがあることを前提にしないと話は進まないが),

メタ・ポジション

での思考力なのだと思う。自分の経験を智恵にすることが必要だとは思うが,著者の言うように不可欠とは思わない。むしろ,

目利き

出来るメタ化の力なのだと,感じた。

参考文献;
田坂広志『知性を磨く』(光文社新書)
G・ライル『心の概念』(みすず書房)

九条

松竹伸幸『憲法九条の軍事戦略』を読む。

昨年刊行されたものだ。もはや時機を失したか,と悔いつつ,失いつつあるものの大きさに思い至る。

はじめにで,著者はこう書く。

「九条と軍事力の関係が相容れないという点では,護憲派と改憲派は共通している…。だが私は,この既成事実に挑戦することにした。護憲派にも軍事戦略が必要であると考えるにいたった。」

と。その意味では,本書の主張は,堂々の議論と,国民全体のコンセンサスを経るという,改憲プロセスを念頭に置いての論旨というふうに考えられる。しかし,議論も討議もないまま,泥棒猫のようにこそこそと既成事実を積み重ねて,実質改憲を果たし,集団的自衛権の行使を可能とし,武器輸出三原則を放棄し,あろうことか,イスラエルと共同開発まで踏み込むとは,著者の予想を超えている。

おそらく,今後,いままでの対米従属の政治路線からは,アメリカの戦争に従属従軍し,いまそうであるように,イスラエル側に加担し,アラブを敵に回すことになるだろう。ついこの間,3.11のために祈ってくれたガザの子供たちのことは報じられないまま,その子供たちが戦車に蹂躙されているのを,黙認している日本政府の行動は,世界に,日本のポジションを明確に語っている。

では,われわれは,一体何を喪おうとしているのだろうか。

九条のもと,専守防衛を旨としたきたが,それは,

「専守防衛とは相手からの武力攻撃を受けたときに初めて防衛力を行使し,その防衛力行使の態様も自衛のための必要最小限度にとどめ,また保持する防衛力も自衛のための必要最小限度のものに限るなど,憲法の精神にのっとった受動的な防衛戦略をいう…」(大村防衛庁長官 参議院予算委員会 81.3.19)

つまり,

日本側が反撃を開始するのは相手から武力攻撃を受けたときであり,
その反撃の態様は,自衛のための必要最小限度の範囲にとどめ,
その反撃をする装備も自衛のための必要最小限度

というものである。これに合わせて,自衛権発動の三要件というのがある。