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書評Ⅺ


マージナル

村井章介『中世倭人伝』を読む。


本書の主役は、十五、十六世紀の李氏朝鮮の記録、『朝鮮王朝実録』に登場する倭人である。頻出する、

倭人、
倭賊、
倭奴、
倭、

等々と呼ばれる人々の活動範囲は、

朝鮮半島南辺、対馬・壱岐、済州島、西北九州、中国江南の沿海地方などをふくむ海域、

であり、これは、三世紀前の『魏志倭人伝』で、

倭人、

として登場し、九州を中心として、

朝鮮半島南部、
山東半島、
江南地方をふくむシナ海域、

までの広い範囲に広がっていた、中国人が、

倭種、

として、

形質・風俗・言語等の共通性に注目してくくった「倭人」の分布とほぼ重なっているのである。

朝鮮人や中国人があい変わらずかれらを「倭人」と呼んだのも、ゆえのないことではなかった、

のである。もちろん、

「倭寇」「倭人」「倭語」「倭服」などというばあいの「倭」は、けっして「日本」と等置できる語ではない。民俗的には朝鮮人であっても、倭寇によって対馬などに連行され、ある期間をそこでくらし、通交者として朝鮮に渡った人は、倭人とよばれている。海賊の標識とされた倭服・倭語は、この海域に生きる人々の共通のいでたち、共通の言語であって、「日本」の服装や言語とまったくおなじではなかった。
こうした人間集団のなかに、民族的な意味での日本人、朝鮮人、中国人がみずからを投じた(あるいはむりやり引きこまれた)とき、かれらが身におびる特徴は、なかば日本、なかば朝鮮、なかば中国といったあいまいな(マージナルな)ものとなる。こうした境界性をおびた人間類型を〈マージナルマン〉とよぶ。かれらの活動が、国家的ないし民族的な帰属のあいまいな境界領域を一体化させ、〈国境をまたぐ地域〉を創り出す、

その領域に侵食され、結局国が衰弱、滅んでいった李氏朝鮮の記録を中心に、本書は、

多様さと矛盾にみちた中世の「倭人」たちの群像を描き出し、そこから国家や民族、あるいは「日本」を相対化する視点をさぐること、

を目標の一つとし、さらに、

蔑視と恐怖、軽侮と脅迫といった要素を多分にふくむ両民族の…(中略)交流のすがたを、光と影のあやなす時代相として描き出すこと、

をもう一つの目標として、その交流の実態を象徴する、

三浦(さんぽ)、

という、

朝鮮半島東南部沿岸に成立した三つの倭人居留地ないし港町、

に局限して、描いている。

この時代は、前期倭寇と呼ばれる十四世紀の倭寇を、

一定の経済的給与とひきかえに投降をうながしたり(降倭・投化倭)、恭順の意を示した通交者に名目的な挑戦の官職を与えたり(受職倭人)、平和的な交易者として来朝するよう勧めたり(興利和人)、日本の諸勢力の使者という名義での来朝を許したりし(使送客人)、ばあいによっては国内居住を認めることもあった(恒居倭)、

というような懐柔策によって、あるいは、倭寇の根城の対馬征伐(応永の外寇)等々の軍事的な打撃によって、倭寇が下火になった時期に当たる。

朝鮮当局者が、

倭寇と通行者が同一実体の両面、

であると見抜いた結果の、硬軟取り混ぜての政策の対象となった「倭人」は、一筋縄ではいかない。著者はこう書く。

「辺民」が「倭賊」に侵されることに心痛していたソウルの高級官僚とはちがって、南辺の人々には、倭人との交じりあいを当然とする意識があったろう、

と。

そもそも人々は倭服を着、倭賊と称したのだろうか。朝鮮側記録には、

済州流移の人民、多く晉州、泗川の地面に寓し、戸籍に載らず、海中に出没し、学びて倭人の言語・衣服を為し、採海の人民を侵掠す。推刷(調査)して本に還さんことを請う、

あるいは、

此の輩(済州の鮑作人)、採海売買して以て生き、或は以て諸邑の進上を供す。守令は故を以て編戸して民と為さず、斉民も亦或いは彼の中に投じて儻を作す。人言う、「此の徒詐りて倭服・倭語を為し、竊かに発して作耗(賊を働く)。其れ漸く長ずべからざるなり」、

と。それは、

倭人との間になんらかの一体感を共有していた、

と考えないと解釈し得ない、と著者は書く。それは、

戸籍によって掌握することのできない人間集団、という共通性をおびはじめている、

と。その意味では、「倭人」を即「日本人」とは解釈できない。

倭人沙伊文仇羅(左衛門九郎)、
倭人而羅三甫羅(次郎三郎)、

と、倭人風の名を名乗っていても、

もと是れ我が国の人、

つまり朝鮮人であり、たから、

日本の倭人、

などという奇妙な表現で記されるほどである。こう記録にある。

加延助機〈倭の別種〉、博多等の島に散処し、常に妻子を船中に載せ、作賊を以て事と為す。面黒く髪黄いろく、言語・服飾は諸倭と異なる。射を能くし、又善く剣を用う。水底に潜入して船を鑿つは、尤も其の長ずる所なり、

と。日本の海賊だが、朝鮮側の認識では、

倭の別種であり、その言語・服飾も「諸倭」と異なっていたという。これはけっして日本の中央の、たとえば畿内あたりの言語や服装ではない。中央から見ても異様な言語・異様な服装であったに違いない、

のである。著者は、こう書く。

対馬あたりの海域で海賊行為を行っていた人々にとって、和服は共通のいでたち、和語は共通の言語だったのではないか。その服を着、そのことばを話すことによって、かれらは帰属する国家や民族集団からドロップ・アウトし、いわば自由の民に転生できたのではないか、

と。とすると、

倭寇は日本人か朝鮮人か、という問い自体、あまり意味がない。倭寇の本質は、国籍や民族を超えたレベルでの人間集団であるところにこそあるのだから、

と。まさに、

マージナル・マン、

つまり、

境界に生きる人々、

なのである。明の衰退にともなって登場する、

後期倭寇、

といわれる十六世紀は、

五島や平戸や博多の和人海商、たとえば王直を代表とする江南沿海地方の代海商、たとえばシナ海交易ルートに乗って、マラッカからマルク(モルッカ)初頭、広東、舟山諸島、琉球、そして九州へと進出してきたポルトガル勢力、

といった密貿易の役者たちによる交流は、

倭寇的状況、

と呼ばれるような、マージナルな人々のより大きな広がりへとシフトしていく。しかし、この、

中世のアナーキーな状態は、清や朝鮮、徳川幕府の海禁政策によって、

対外交通・貿易の国家管理が完成し(いわゆる鎖国)、……国家領域を超えて〈地域〉が存立しうる状況は大きく後退し、「倭人」たちも表舞台から退場する。

マージナル領域は、南北朝から、室町、安土桃山、と国内の混乱を反映していた、ということがわかる。その意味で「中世倭人」とは、言い得て妙である。

参考文献;
村井章介『中世倭人伝』(岩波新書)

戦争の技術

二木謙一『合戦の文化史』を読む。

本書は、もともとは、「合戦の舞台裏」というタイトルであったらしい。「舞台裏」には違いないが、どちらかというと、

武具、

兵器、

の推移を辿っているので、「文化史」という雰囲気はない。むしろ、軍事技術史、といった感じではあるまいか。 

本書を読んで、面白いことに気づいた。ひとつは、 

日本の技術革新、

の特徴である。それは、ほとんど伝来技術によってスタートする。例えば、武器は、日本は世界史レベルからかなり遅く、

「ふつうはまず木・石製にはじまり、ついで銅・青銅製に移り、そして鉄器という順序に発達している。しかも多くの国では千年または千五百年という長い青銅器時代がある。ところが日本では、このいわゆる青銅器時代はなく、木・石器時代から、いきなり青銅・鉄器がほとんど同時にもたらされ、その後も超スピードで鉄器時代に進んでいるのである」

と、いわば文明国ではない故の、おくれてのスタートなのだが、

「弥生式時代から古墳時代にかけての数百年の間に、武器の製造や使用法も急速な発達をとげ」

て、

「四世紀のころには種々の武器を製造する鍛冶部があらわれ、七世紀ごろになると、逆に中国や朝鮮に対して日本製の武器が多量に輸出されるまでになっていた」

という、

「またたく間に外来文化を模倣し、さらに独自のものまでを創造する」

という特徴が武器でも表れていることである。

「中世倭人伝」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-11.htm#%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%8A%E3%83%AB)によると、16世紀半ば、

灰吹き法、 

という画期的な銀精錬技術を密かに伝習して、それまで輸入品であった銀を、大量の密輸品として朝鮮に輸出するに至り、朝鮮側は、

「倭国の銀を造ること、未だ十年に及ばざるに、我国に流布し、已に賎物(ありふれた物)となる」と述べせしめた。正当な伝来ではなく、そのために朝鮮人が罪に問われたほどなのに、日本は、この技術によって、17世紀には、世界の銀生産量の三分の一を占めるに至るのである。ここにも、技術革新のコアを模倣する力を見ることが出来る。しかし、銀の精製法の革新である、電解精錬を、日本が開発したということはない。

さらに、種子島経由で伝来した火縄銃でも同じことが起きている。

鉄砲伝来は天文十二(1543)年であるが、

「日本の戦国大名らは、またたく間に鉄炮と火薬の製法を学んで、新兵器として活用することに成功したのである。信長が長篠合戦ではじめて鉄炮の組織的活用をおこなったのは天正三(1575)年だが、それから二十五年後の関ケ原合戦のころには鉄炮は主力兵器となっていた」

のであり、戦国時代末期には、

日本は50万丁以上を所持していたともいわれ、当時世界最大の銃保有国、

であった、とされる。しかし、その後三百年、江戸末期に、ゲーベル銃がもたらされるまで、

火縄式、

が改められることはなく、結局外国製の、

ゲーベル銃、

メニエー銃、

が輸入されるまで、

燧石式、

も、

雷管式、

も、

まして、

後装施条銃(ライフル)、

も開発できなかったのである。

こうした日本の軍事技術開発の桎梏には、もうひとつ大きな敗因がある。それは、

兵法、

の無いことである。兵法學は、

甲州流、

越後流、

北條流、

等々あるが、

甲陽軍鑑、

を代表とする、その著作は、

「孫呉の兵法や『平家物語』『太平記』など戦陣の物語をもとに、陰陽五行や天象方位をまじえて適宜につくりあげたものであり、…しょせんは泰平の世の軍学者が考えだしたもので、現実味に乏しい」

つまりは、

虚構の兵法、

にすぎず、一人の孫子(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-1.htm#%E5%AD%AB%E5%AD%90)も、ひとりのクラウゼヴィッ(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-1.htm#%E6%88%A6%E4%BA%89%E8%AB%96)も生み出さなかった。戦術レベルではなく、戦略レベルの戦争論は、以後今日まで、日本では、論じられたことはないし、広くそうしたソフトウエア全般については、日本には一つも世界基準となるものを生み出せていない。旧軍部の参謀本部自体が、甫庵信長記の創作をもとに、桶狭間等々の戦術を研究していたのであるから、噴飯物で、とてもアメリカ相手に勝てるはずはないのである。『甫庵信長記』の捏造については、「信長の戦争」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-10.htm#%E9%80%9A%E8%AA%AC%E3%82%92%E8%A6%86%E3%81%99)で触れた。

参考文献;

二木謙一『合戦の文化史』(講談社学術文庫)

代表

内村鑑三『代表的日本人』を読む。



「代表」というのは、それでもって全体を示すものになるようなものを指す、果たして、これが日本人を示していることになるのかどうかは、僕には確信がないが、ここには芸術家が入っていないのは、如何なものだろうか。入っているのは、

西郷隆盛、
上杉鷹山、
二宮尊徳、
中江藤樹、
日蓮上人、

の五人である。それが代表しているのは、

武士、
大名、
農民、
儒者、
僧侶、

である。言い方を変えれば、

統率者、
統治者、
農業家、
教育家、
宗教家、

であり、それが表現しているのは、

維新指導者、
仁政体現者、
農業改革者、
市井の聖賢、
宗教改革者、

ということだろうか。人選は、著者の価値観なので、この五人で、当時(明治末)の日本への反照、あるいは対照として示していたのかもしれない。それにしても、

運慶、
快慶、

はともかくとしても、

雪舟、
光悦、
光琳、
広重、
北斎、

等々、我国の芸術家が挙がっていないのはなぜなのだろう。

著者は、西郷隆盛を、

クロムウェル、

に擬し、上杉鷹山を、

君子、

に擬し、

二宮尊徳を、

ピューリタン、

に擬し、中江藤樹を

聖人、

に擬し、日蓮を、

マホメット、

に擬した。その是非はともかく、日本人を、世界に比肩させて紹介しようとする意図は見える。特に日蓮については、

みずから日本におけるキリスト教の日蓮たらんとした志、

を、訳者(鈴木範久氏)は汲み取っている。

本書を書くことにより、キリスト教を受容した日本人である内村自身の、アイデンティティの確立、

をはかろうとしている、と。

敢えて、ちょっと背伸びして、西欧人に擬しているところには、そんな含意があるのかもしれない。ただ、

鷹山、
尊徳、

に見る、

仁政期待、

の思いが透けて見えるところは、時代背景はあるが、少し気になる。

「『仁政』期待」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-9.htm#%E3%80%8C%E4%BB%81%E6%94%BF%E3%80%8D%E6%9C%9F%E5%BE%85)で触れたように、

仁政イデオロギー、
仁君への期待、

は、水戸黄門を見るまでもなく、大衆化され、いまだ隅々にまで我々の心の奥底にまで浸透している気がする。

徳川時代に植え付けられた「仁政」期待の心性は、そのまま、維新後、

日本国家の支配イデオロギーとして近代天皇制イデオロギー、

へと接続し、やはり「仁政」「仁君」を期待し、いまだに、日本人を縛り付けている気がする。お上意識、あるいは、お上に逆らうことへの心理的抵抗は、他方で、

仁政、

を期待する他力頼み、御上頼みの奴隷根性につながっている気がしてならない。その意味では、逆に日本人のもつ心性を、照射してくれている感じがなくもない。

参考文献;
内村鑑三『代表的日本人』(岩波文庫)

関ケ原合戦図

桑田忠親,武田恒夫他『関ケ原合戦図(戦国合戦絵屏風集成第三巻)』を読む。 

関ケ原合戦図絵図は、今日、四種類十数点の遺品がある、とされる(神山登「関ケ原合戦図屏風の絵画的特色」)。

第一類 旧津軽家本関ヶ原合戦図屏風(大阪歴史博物館蔵) 八曲一双(各隻194×590センチ)
第二類 井伊家本関ヶ原合戦図屏風(彦根博物館蔵) 六曲一隻(156.7×361.2センチ)
    木俣家本関ヶ原合戦図屏風(同) 六曲一隻(159.1×364.6センチ)
    関ヶ原町教育委員会蔵本関ヶ原合戦図屏風 六曲一隻(175×380センチ)
第三類 徳川美術館本関ヶ原合戦図屏風 二曲二双(72.4×55.4センチ)
    東京国立博物館蔵本関ヶ原合戦図屏風絵 紙本二巻(縦79センチ)
第四類 国会図書館蔵本関ヶ原合戦絵巻 二巻
    静嘉堂文庫蔵本関ヶ原合戦絵巻物 一巻
    大東急記念文庫蔵本関ヶ原合戦絵巻 二巻

である(仝上)。このうち、第四類は、絵巻物なので、本書は扱っていない。本書は、

旧津軽家本関ヶ原合戦図屏風(大阪歴史博物館蔵) 八曲一双
井伊家本関ヶ原合戦図屏風(彦根博物館蔵) 六曲一隻
木俣家本関ヶ原合戦図屏風(同) 六曲一隻

を扱っているが、

井伊家本関ヶ原合戦図屏風(彦根博物館蔵) 六曲一隻
木俣家本関ヶ原合戦図屏風(同) 六曲一隻
関ヶ原町教育委員会蔵本関ヶ原合戦図屏風 六曲一隻

は、

同じ大きさの画面とほぼ同じ構図である、
合戦の布陣人物の配置、旗指物の有様は全く同一、

等々から、原本を同じくする模写本とみなされている(仝上)。特に、

赤い旗指物を誇張して描くことから井伊直政を中心として木俣右京・向山内記といった井伊藩の猛将たちの関ヶ原合戦での奮闘ぶりを顕彰することが主目的、

であったとみられ(仝上)、いずれも、落款から幕末期の制作とみなされており(岡本良一「関ケ原合戦図屏風」)、旧津軽家本の関ケ原合戦図屏風が、

合戦の起きた慶長五年(1600)以後十年余の間に制作された、

と、実戦から隔たっていない時期に制作された、

実戦の記録性と迫真力をもった生々しい戦況の現実観とを具備した歴史画として高く評価されている、

のと、比較すると、大きさからいってもスケールからいっても、落差がある。

普通、屏風といえば六曲一双で、その大きさも縦横およそ150センチ×370〜380センチが通り相場であるが、この屏風は194センチ×590センチという大型で、さすがに家康が命じて制作させたもの、

とされている(仝上)だけの特別のものである。これが、

津軽屏風、

といわれるのは、旧津軽家に長く襲蔵されてきたからである。津軽家の史料(津軽藩旧記伝類)には、家康の異母弟松平康元の娘満天姫(まてひめ)が、家康の養女として津軽二代藩主信枚(のぶひら)に嫁いだ際の輿入れ道具の一つとして持参したことが知られている。満天姫は、

嫁入りに際し家康の所持していた「関ヶ原合戦図屏風二双の内一双」を拝借したい旨申し出たところ、家康は一度は外の品ならば何なりと許すと断ったが、満天姫の熱意に折れて、「遠国のなぐさみにもせよ」と所望を許した、

という。その経緯を、『津軽藩旧記伝類』の「藤田氏旧記」に、

満天姫君或年家康公へ御願被成候は、子孫へ長く宝に仕度候間、関ヶ原御屏風二双の内、一双拝借仕度旨申上ければ、家康公仰に其義は迚も望に叶ひがたし、外品なれば何なりと望に叶ふべしと申ければ、姫、余の御品は少も望無御座候、何にも頂戴被仰付度旨、泪を流して無余儀御願被遊ける故、家康公にも左程のことならば暫く預け置の間、少しく遠国のなぐさみにもせよと御預被遊けるとなり、

とある(仝上)。津軽屏風の特徴は、

右隻は、大垣城、杭瀬川の戦いが描かれ、
左隻は、勝敗の帰趨の決まった後の、石田・島津・小西・宇喜多・大谷陣営の敗走する様子と、これを追う東軍が描かれる、

が、他の合戦図と比較して、

2026人、

も描かれているのに、家康すら、右隻に、

大勢の馬上の鎧武者に囲まれるように疾駆する、鉢巻頭の鎧武者が家康と判定されるのであるが、この家康以外、左右両隻を通じて誰一人としてその名を指摘できる人物はいない、

ばかりか、部隊も、判然としない。この種の合戦図では、「異例」のこととされる。通常、

馬印・幟・指物などの旌旗によって、部隊名はもちろん、個人名までがはっきりと指摘できる、

のであるが、その中で、例外的に、

左隻の合戦の画面には西軍陣地を突破する福島正則らの先鋒隊が奮戦する有様だけが描写、

されているのである。満天姫の前夫は、福島正則の子正之であり、その死後家康の元に戻っていた。満天姫のこだわりは、ここにあったのではないか、とされている。で、

家康としては全部手放してしまう気になれず、八曲の二双の内の半分、つまり、第一隻(右隻)と第三隻(左隻)とを対にして一双にして与えたのではないか、

と(小和田哲男「関ヶ原合戦図屏風」)し、そう考えると、普通、

一つの大きなテーマを扱い、その図様を画面構成する場合、必ず図様は連続した形式で構成されるのが常套的表現法、

なのに、現存の津軽屏風が不自然に切れていて、左隻と右隻の図様がうまく連繋できていない画面構成(神山)である理由が、たとえば、

満天姫は福島隊にこだわった。前夫のおもかげのありそうな部分、第一隻(右隻)と第三隻(左隻)をピックアップした、

と考える(小和田)と説明できる、と。つまり、

本来二双ということになると、右から第一隻・第二隻・第三隻・第四隻とあったわけで、場面から見ると、その第一隻と第三隻が現存し、第一隻を右隻、第三隻を左隻とよんでいる、

ことになる(仝上)。第四隻には、

佐和山攻略の状況が描かれていた、

と(岡本)考えれば、大垣城からはじまった関ヶ原合戦の時間経過が、完結するということになる。

なお、津軽屏風に描かれている家康は、

神格化された後世の家康像、

とは異なる現実味があり、合戦直後に描かせたと考えられる傍証となる。

屏風絵は、現物を目の前に見るのが一番だが、ガラス越しでは細部は見えず、画集の良さは、ある面細部をくまなく見ることが出来ることだが、全体の流れが一覧しにくいことが、当然ある。

絵巻物、

から派生した屏風絵だけに、時間軸が、右から左へ、同時に、

東から西へ移動していく、

形になっている。そうみると、津軽屏風の断続が、一層際立って見えてくる。特に、「津軽屏風」は、各軍の旗幟も明らかでなく、家康を除くと、殆ど個人を識別するのも難しいが、合戦後近い時期に描かれただけではない、

記録映画的価値、

があるのは、

小荷駄(輜重)隊の物資運搬状況、
野陣の状況、
穀竿をふるって稲こきをしたり、杵で脱穀したりする様子、

等々、他の合戦図屏風にはない描写が豊富であり(岡本)、それは、俯瞰してでは気づけない、画集ならではの特典である。

参考文献;
桑田忠親、武田恒夫他『関ケ原合戦図(戦国合戦絵屏風集成第三巻)』(中央公論社)
藤本正行「入門戦国合戦図屏風」(別冊歴史読本『戦国合戦図屏風』)(新人物往来社)
小和田哲男「関ケ原合戦図屏風」(仝上)

紙碑

宮本常一『忘れられた日本人』を読む。

著者は「あとがき」で、

無名にひとしい人たちへの紙碑(しひ)のできるのはうれしい、

と書く。まさに、

無名の人々の紙の碑、

である。特に、

名倉談義、

土佐源氏、

梶田富五郎翁、

が印象深いが、とりわけ、

土佐源氏、

は、創作かと思わんばかりの、その人の一生が、語られている。多くは、語りによって表現されているが、ふと、V・E・フランクルの、

人は誰もが語るべき物語を持っている、

という言葉を思い出す。その物語を聞き出す、著者の聴く力に敬服する。博労であったが、盲目となり、乞食になって、橋の下に住む語り手は、最後にこう締めくくる。

「婆さんはなァ、晩めしがすむと、百姓家へあまりものをもらいに行くのじゃ。雨が降っても風がふいても、それが仕事じゃ、わしはただ、ここにこうしてすわったまま。あるくといえば川原まで便所におりるか、水あびに行く位のことじゃ……。ああ、目の見えぬ三十年は長うもあり、みじこうもあった。かまうた女のことを思い出してのう。どの女もみなやさしいええ女じゃった。」

これを創作と疑った人に対し、「宮本氏は……採訪ノートを示して墳った」(解説・網野善彦)という。もっともだろう。ここまで赤裸々に語らせるには、並の人の聞き取り力では不可能なはずだからである。

橋の下の乞食の物語は宮本氏というすぐれた伝承者を得て、はじめてこうした形をとりえた、

のである(仝上・網野)。

著者は山村調査の方法について、こう書いている。

「……私の方法はまず目的の村へいくと、その村を一通りまわって、どういう村であるかを見る。つぎに役場へいって倉庫の中をさがして明治以来の資料をしらべる。つぎにそれをもとにして役場の人たちから疑問の点をたしかめる。同様に森林組合や農協をたずねていってしらべる。その間に古文書があることがわかれば、旧家をたずねて必要なものを書きうつす。一方何戸かの農家を選定して個別調査をする。私の場合は大てい一軒に半日かける。午前・午後・夜と一日に三軒すませば上乗の方。(中略)

古文書の疑問、役場資料の中の疑問などを心の中において、次には古老にあう。はじめはそういう疑問をなげかけるが、あとはできるだけ自由にはなしてもらう。そこでは相手が何を問題にしているかがよくわかる。と同時に実にいろいろなことをおしえられる。「名倉談義」はそうした機会での聞取である。

その間に主婦たちや若い者の仲間にあう機会をつくって、この方は多人数の座談会形式ではなしもきき、こちらもはなすことにしている。」

そして、

「私のいちばん知りたいことは今日の文化をきずきあげてきた生産者のエネルギーというものが、どういう人間関係や環境の中から生れ出てきたかということである。」

と。だからこそ、その一人に語りを深追いしていく。調査に反対している人のところへも行く。しかし、

「どうにもならなくて手をあげたという場合はすくない。これは私が前時代的な古風な人間であるからだと思う。そして相手の人が私の調子にあわせるのでなく、自分自身の調子ではなしてくれるのをたいへんありがたいと思うし、その言葉をまたできるだけこわさないように皆さんに伝えるのが私の仕事の一つかと思っている」

と。

まさに、「はなす」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba7.htm#%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%99)は、

放す(心の中を放出する)

である(大言海)。「かたる」との差は、

筋のある、

事柄や考えを言葉で順序立て、

というところになる。その中に、

庶民の「生活誌」(仝上・網野)、

がおのずと浮かび上がってくる。

「村の寄り合い」にある、村里内の話し合いは、

「今日のように論理づくめでは収拾のつかぬことになっていく場合が多かったと想像される。そういうところではたとえ話、すなわち自分たちのあるいて来、体験したことにこと寄せて話すのが、他人にも理解してもらいやすかったし、話す方もはなしやすかったに違いない。そして話の中にも冷却の時間をおいて、反対の意見が出れば出たで、しばらくそのままにしておき、そのうち賛成意見が出ると、また出たままにしておき、それについてみんな考えあい、最後に最高責任者に決をとらせるのである。これならせまい村の中で毎日顔をつきあわせていても気まずい思いをすることはすくないであろう。と同時に寄りあいというものに権威のあったことがよくわかる。

対馬ではどの村にも帳箱があり、その中に申し合せ覚えが入っていた。こうして村の伝承に支えられながら自治が成り立っていたのである。」

とあり、そのゆったりとした時間の流れは、危機に際してもきちんと働くことは、中世、近江の「小さな共和国」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-8.htm#%E5%B0%8F%E3%81%95%E3%81%AA%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD)で触れた、琵琶湖畔の、

「集落が、乙名を指導者とする行政組織を持ち、在家を単位とする村の税を徴収し、若衆という軍事・警察組織を持ち、裁判も行い、村の運営を寄合という話し合いで進め、そのため構成員は平等な議決権を持つ、自治の村落」

であったことと通底する気がする。史料の言葉で、これを、

惣村、

と呼び、

「惣の目的は住民の家を保護することで、平等観念は一揆の原理」

と同じである。

参考文献;宮本常一『忘れられた日本人』(岩波文庫)

伝説

松浦玲『検証・龍馬伝説』を読む。


「慶応二年正月のいわゆる『薩長同盟』あるいは『薩長連合』で、木戸と小松や西郷との間では、協定内容の文章化、相互に署名した文書の交換というような手続きはまったく行われなかった。だから木戸は、自分の記憶による協定内容を箇条書きにして、立会人であった龍馬の確認を求めたのである。この事実は、同盟関係の危うさと坂本龍馬の役割の大きさとの二つを同時に示している。龍馬が裏に返事を認めた龍馬宛木戸孝允書簡は、このときの協定内容を確実に後世に伝える唯一の記録であって、明治維新史の超一級史料である。この朱筆を振るったとき、龍馬はまぎれもなく歴史の歯車をうごかしていた。」

しかし、同盟の立会人であった坂本龍馬は、

「どこかでこの『同盟』関係から外されてしまった」

のである。それには、

「薩摩と長州の直接の交渉が緊密になるに従って、そのどちらの藩士でもない龍馬が必要とされなくなる」

だけではなく、龍馬自身が、

「薩長同盟が目指すのとは違う道を歩いている」

結果であった。

「初めはなんとなく変だなと感じさせる程度だった微妙な違いが次第に広がり、慶応三年十一月、龍馬が京都で暗殺されたときには、西郷・木戸ら薩長の中枢と龍馬とは、別の世界にいたという感じがするほど隔たっていた」

このあたりの詳細を、本書は、例によって、史料を詰めつつ、勝海舟との関係も含めて、あぶり出していく。

同盟立ち合いの後、

「薩摩名義で長州のために購入して亀山社中が乗り回していた桜島丸(乙丑丸)を幕府と戦っている最中の長州に引き渡してから、龍馬と亀山社中は船も金もない苦境に陥った」

それを助けたのは、木戸孝允で、木戸は、

「もう龍馬は薩摩・長州の繋ぎ役として不要になったと、冷静に判断できる立場」

にあり、

「しかし木戸としては薩長同盟の恩人を見殺しにできないので、龍馬個人を長州本藩と長府藩との庇護下に置いた。それと同時に、龍馬が土佐との関係を回復するよう手助けする」

で、後藤象二郎と会見し、土佐の資金で海援隊が出来上がる。この、後藤との関係が、後に龍馬が大政奉還を容堂を介して建白し、慶喜を動かすきっかけになる(船中八策)。もちろん、大政奉還は龍馬の独創ではない。

「大政奉還論は早く文久段階から大久保一翁や松平春嶽によって、政局に影響力をもつ議論として持ち出されている。(中略)一翁も春嶽も徳川氏は政権を返上すべきだとの考え方を生まじめに堅持し続け、機会あるごとに繰り返し持ち出している。(中略)慶喜は春嶽を裏切って十五代将軍の地位に就いたのである」

龍馬が後藤象二郎に船中八策を示したとき(慶応三年四月)、薩摩は、

「武力討幕以外にないと思い定めていた時期」

であった。だから大政奉還は、

「京都で討幕派『外交』を担当している薩摩の西郷隆盛や大久保利通は迷惑だった。しかし、土佐を敵に回すことはできない。議論でだめだった場合は次は武力討幕、あるいは建白段階でも武力による脅迫を辞さないという暗黙の了解で、先ず平和裡に幕府に迫るというのをやらせてみるしかなかった。六月下旬の薩土盟約とは、そういうことである。」

龍馬は、討幕派に近い位置と、大政奉還寄りの位置と、振れながら、慶喜に期待する立場にいる。だから、

「慶喜が大政奉還の上表を提出したのと同じその(慶応三年十月)十四日、薩長討幕派代表は天皇が薩長両藩主に『賊臣慶喜を殄戮(てんりつ)せよ』と命じた『討幕密勅』を受け取る。請書に署名したのは薩摩が小松・西郷・大久保、長州が広沢真臣、福田俠平、品川弥二郎の計六名であった。」

かつての「薩長同盟」の立会人、

「坂本龍馬には何の挨拶もなかった」

のである。

「短期間ながら龍馬と行動を共にしていた戸田雅樂(尾崎三良)が十七日西郷に会い、大阪から同じ船で西へ向かっているので、龍馬もかれらの動きをまったく知らなかったわけではあるまいが、どうも『別世界』にいるという感じが強い。『密勅』のことは、少なくとも事前には教えて貰えなかっただろう」

というほど、薩長と、大政奉還後の諸侯会議に期待した龍馬との距離は、限りなく大きかったのである。

「薩長討幕派が十二月九日に敢行した王政復古クーデタは、大政奉還後の公式の政治日程が諸侯会議であることを無視し、あるいはその可能性を横合いから断ち切って、武力で御所を固め天皇親政を宣言したものである。会議抜きで『盟主は天皇』ときめたのである」

著者はこう付記する。

「この話は、新政権のいかがわしさを、よく現わしている。龍馬がここまで生きていれば、会議派諸侯やその家臣団と協力して新政権の弱点を衝き、内側から作り替えてしまうことも可能だったかもしれない。」

ところで、意外なことに、著者の推測では、

「龍馬が海舟に宛てた手紙は一通も残っていない」

らしいのである。そして、

「龍馬が海舟に弟子入りして、日本一の大先生に就いて海軍を勉強中だと姉の乙女に自慢する手紙は良くしられている。しかし注意してみれば、そういう手紙は文久三年の前半、八・一八政変以前に限られている。このような関係がずっと続くのではない。(文久三年)七月二十五日の(佐藤)与之助報告に示されている龍馬が、海舟に従って海軍のことを考えて来たという関係の頂点を示していた」

そして、帰国命令を拒否して再度脱藩した龍馬は、

「正式発足の神戸操練所から閉め出された」

のである。

「(佐藤)与之助と海舟は終始緊密に繋がっている。この与之助と海舟のセットに対し、龍馬は外側なのである」

佐藤与之助は、海舟より二年年長の弟子である。長崎海軍伝習に随行し、オランダ語で海舟の代役が出来るほどの海舟塾の塾頭であり、神戸にも随行し、神戸海軍操練所と海舟塾のきりもり役を果たす。

龍馬は、

「元治元年八月二十三日に京都から神戸に戻ってきたことが記録されて以後、海舟の日記には龍馬のことがプッツリと出なくなる。」

のである。著者は、こう推測する。

「書きたくないという気分がいささかは兆していたのかもしれない」

と、元治元年、(大坂町奉行)松平大隅に預けていた海舟の金を受け取って指示された支払いをした佐藤与之助は、そのうち、

十両を坂本龍馬、
十両を高松太郎、
三十両を近藤長次郎、

がそれぞれ無断で借りだされていたということを知る。このことを、しばらく伏せていた与之助は、半年後、彼らが返済する当てがないことを確かめたうえで、海舟に報告した。このことが背景にあったのかもしれないが、それよりは、海舟の立ち位置が、

「海舟は龍馬と与之助の中間にあって与之助寄りに位置する」

のであり、その外にいる、

「龍馬からは遠い」

のである。海舟は、幕府内にとどまり続ける。

「それゆえ戊辰戦争に際しては徳川方を代表して西郷隆盛と談判し、幕府の後始末をすることになる」

のである。

参考文献;
松浦玲『検証・龍馬伝説』(論創社)

アジア観

松浦玲『明治の海舟とアジア』を読む。

明治維新の時数え四十六歳の海舟は、七十七歳まで生きた。その海舟は、

明治人と際立って違っていたところ、

は、

日清戦争に反対だったこと、
と、
西郷隆盛は征韓論者ではないと主張し続けたこと、

の二つだと、著者は述べる。これが本書を貫く、通奏低音である。

「日清戦争に反対するのも、西郷隆盛が征韓論者で無いと言うのも、共にアジア問題である。明治の海舟は、アジア問題について、同時代の日本人とは異なる考え方を持っており、福沢諭吉の『脱亜入欧』論と対比させていえば、海舟は、アジアに踏み止まるという意見だった。ヨーロッパ的な国家になる必要はないと思っていた。」

これは、どこか、

「儒教的な政治的=道徳的君主の思想を本気で日本に適用しようと試みて、幕末の政局中に短期間ながら特異な位置境地を切り開いた」

横井小楠に似ている。海舟は終生、「横井小楠と西郷隆盛の二人に最大級の敬意を払い続ける」のである。横井小楠(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-6.htm#%E5%B0%8F%E6%A5%A0%E8%AB%96)については触れた。

幕末の頃から、海舟は、

日清韓三国同盟による西欧列強に対抗する、

という構想を持っていた。幕末に神戸の海軍操練所を創った時、海舟は、

「この操練所を日本、朝鮮、清国三国同盟の足掛かりにしようという遠大な構想を持っていたのだが、幕府主流から危険視され、潰されてしまった」

のである。日清戦争に反対した海舟は、

隣国交兵日
其軍更無名
可憐鶏林肉
割以与魯英

という詩を書き、終始一貫、日清戦争にも朝鮮介入にも、反対し続ける。反対に当たって、

「日本が『文明』で中国が『野蛮』だという伊藤や陸奥(それに福沢)の図式を拒否した」

のである。

「この戦争に名分が無いこと、とりわけ開戦にもちこむ手順が無理無体であることは、政権担当者にもよくわかっている。海舟がそれを非難していることに気付きながら、しかしあの戦争は有益だったと論じたのは、陸奥宗光外相の下で外務次官を務めた林菫である。(中略)その林も、『無名の師』だという海舟の論は理解できた。外交の中枢に居て、開戦が無理無体であったことを、誰よりもよく知っているからである。しかし、林は、有形無形の利益が莫大であったことを対置して、道義の問題を切り捨てる。(中略)第一に、……第二次伊藤内閣は開戦によって条約改正を遂行することが出来た。(中略)戦争が議会の条約改定反対を押さえる手段に使えると読み、同時にイギリスとの調印を以って、これからやろうとする日清戦争の後盾としたのである。(中略)日本は挙国一致で戦争にのめりこみ、天皇の下に団結するという国民感情も、このときできあがった。清国や中国人に対して持っていた畏怖の念は放棄され、侮蔑感がとって代わる。
 条約改正の後楯効果も大きかった。日本は日清戦争を『文明』に助けられてやった。(中略)欧米的国際法規さえ守っていれば、欧米から突然の武力介入を心配する必要はなく、『文明』国の一員として安んじて『野蛮なる支那』を討つことができる。つまり帝国主義的侵略を行っている列強と対等に、帝国主義の許容範囲めいっぱいの戦争が出来るわけである。……列強を怒らせないかぎり、日本は朝鮮や中国に対し、侵略の先例を開くことができるようになったのである。(中略)
 海舟はそういうことすべてに反対だった。
 彼は、幕末以来の筋の通ったアジア同盟論者である。東アジア三国の団結で欧米の侵略をはねかえせという原則的立場を維持し続けている。(中略)
 海舟にいわせれば、朝鮮や中国を叩いたり馬鹿にしたりすることが近代国家なのであれば、日本は近代国家にならない方が良いのである。」

「海舟にとっては大久保から伊藤に引き継がれた薩長藩閥政権の主流と、自由民権とは、西欧型近代を目指す点で基本的に同じ方向を向いている。そうして、それと『西郷』が対立しているのだ」

海舟が西郷の復権に尽力する一方で、彼が征韓論ではない、と主張し始めるのには、

「西郷隆盛崇拝者の中には西郷が征韓論者だと信じて、それ故に彼を頌え、西郷隆盛の遺志を継ぐなどと称している手合いが多数いる。それでは西郷隆盛復権が、朝鮮戦略アジア侵略につながってしまう」

のである。

「海舟がそうするのは、海舟自身のアジア問題であり、日清戦争の問題である。日本政府批判であり、戦争に熱狂した日本人批判である。『朝鮮を征伐して、西郷の志を継ぐなどと云ふことが、何処にあるエ』なのである」

だが、残念ながら、

「この時も、現在も、日本近代国家―日清戦争を既定のこととしてものごとを考えている人には、海舟が何を言っているのか見当もつかないのではあるまいか」

という著者の呟きは、重い。著者はこう書く。

「日清戦争がアジアを犯した病毒の猛烈さを改めて痛感せざるを得ない。日清戦争が不義の戦争であるにも拘らず、日本が勝ったことの衝撃が中国人を動かす。その毒は、康(有為)や梁(啓超)ら改革派だけでなく、孫文ら革命派をも犯していたのではないか。
 日清戦争の毒が梁啓超や孫文を犯すという言い方は、二十年前には理解されなかったに違いない。今でも誤解や反発を招く恐れは充分にある。中国人による中国の改革や革命は、たとえそれが悪しき日本の影響に起因するものであっても肯定的にとらえるのが当然とされており、それをも批判しようとする私の発想は、保守反動の謗りを免れないからである。だが、そこを肯定すれば、結局は日本の『先進性』を認めざるをえなくなる。価値の方向がそうなるのだ。それを疑ってみる勇気を与えられたことが、明治の海舟につきあってきた私の収穫である」

と、そして、こう本書を締めくくるのである。

「地域としての『アジア』において。日本が突出した資本主義的近代国家となり近代帝国主義国家となり、敗戦を経て現在でも資本主義的突出は改めて世界的な影響力を持ちながら『アジア』を引きずる。日本人の自尊心、愛国的ナショナリズムは、それにくすぐられている。中国の『現代化』スローガンも日本人の愛国的ナショナリズムをくすぐっていると、残念ながら言い添えておかなければなるまい。こうして我々は、いろいろ難癖をつけながらも結局は日本近代の総体を是認する歴史観を保持し、日本の近代化が何故かくも成功したかという分析に力を注いでしまうのである。転換は難しい。アジアを、日清戦争のときに海舟が考えていたところまで立ち戻って考えてみるのは、転換を模索するための一つの方法となるだろう」

少なくとも、三十年余前のこの述懐は、世界第二の経済大国となり、米中対立をしている今の中国の台頭を前に、別の感慨が浮かぶ。しかし、今の中国に、かつて膨張した大日本帝国を彷彿とさせる夜郎自大さは、逆に、アジアの近代化の出発点は、何であったを考える、別の視点からのパースペクティブが開けるのかもしれない。

なお、海舟の生涯については「行蔵は我ニ存す」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-10.htm#%E8%A1%8C%E8%94%B5%E3%81%AF%E6%88%91%E3%83%8B%E5%AD%98%E3%81%99)で触れた。

参考文献;
松浦玲『明治の海舟とアジア』(岩波書店)

直観

和辻哲郎『日本精神史研究』を読む。

通読して、僕には、

精神史、

というのは疑問に感じられたた。解説の加藤周一氏は、内田義彦氏の、

作品としての社会科学、

を例に、

対象とする世界のできるかぎり客観的な分析と叙述が、同時に著者の内面的な世界を反映する、

という意味で、これを、

著者の内部、その希望や悲しみ、感受性や価値観、つまるところ人格の全体を滲みださせる。そこで認識と表現とが重なる、

とし、本書を、

作品、

と位置づけるのは納得できる。しかし、これが精神史であるとした理由、

第一に、その精神が時代を超越するのではなく、それぞれの時代に固有の精神、すなわち「時代精神」があるということ、

第二に、「時代精神」は、もちろんその時代の経済的要因、殊に生産形態とその直接の社会的表現によって、条件づけられるが、それのみによって決定されるのではなく、「精神」の自己展開として成り立つということ、

第三に、「時代精神」の表現が、文化の各領域にわたること、

には、納得しがたい。たしかに、本書の収める、

飛鳥寧楽時代の政治理想、
推古時代における仏教受容の仕方について、
仏像の相好について、
推古天平美術の様式、
白鳳天平の彫刻と万葉の短歌、
万葉集の歌と古今集の歌の相違、
お伽噺としての竹取物語
枕草紙について
源氏物語について
もののあはれについて、
沙門道元、
歌舞伎について、

等々は、

造形芸術の様式、文学作品の評価基準、宗教的感情の形態などは、すべて時代精神の具体的な表現、

とみなすことはできる。しかし、

個別の領域を一時代の文化へ統合するための方法であると同時に、各時代の文化を単に偶然的な継起としてではなく、一定の方向をもつ発展として理解する方法、

に徹していたとは、僭越ながら、とても思えない。まして、

時代の流れのなかで前後する事象を相互に関連づけ、歴史を、相互に関係しない過去の事実の単なる記録から、区別する、

という視点で、全体を俯瞰している記述はない、と思う。本書で通底しているのは、

和辻哲郎の直観(あるいは直感)の冴え、

である。各テーマは、僕には、

先ず結論ありき、

で始まっている。と思える。事実を積み上げ、論証した結果の結論ではなく、和辻の直観を正当化、ないし、脈絡づけるための記述であるように見えてならなかった。

その意味では、「古寺巡礼」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-3.htm#%E5%8F%A4%E5%AF%BA%E5%B7%A1%E7%A4%BC)で、聖林寺十一面観音について、

「このような偉大な芸術の作家が日本人であったかどうかは記録されてはいない。しかし唐の融合文化のうちに生まれた人も、養われた人も、黄海を越えてわが風光明媚な内海にはいって来た時に、何らか心情の変移するのを感じないであろうか。漠々たる黄土の大陸と十六の少女のように可憐な大和の山水と、その相違は何らか気分の転換を惹起しないであろうか。そこに変化を認めるならば、作家の心眼に映ずる幻像にもそこばくの変化を認めずばなるまい。たとえば顔面の表情が、大陸らしいボーッとしたところを失って、こまやかに、幾分鋭くなっているごときは、その証拠と見るわけに行かないだろうか。われわれは聖林寺十一面観音の前に立つとき、この像がわれわれの国土にあって幻視せられたものであることを直接に感ずる。その幻視は作者の気禀と離し難いが、われわれはその気禀にもある秘めやかな親しみを感じないではいられない。」

という記述や、『鎖国―日本の悲劇』にあった,敗北によって,情けない姿をさらけ出した日本民族の,

科学的精神の欠如,

への反省のなかで,再三出てきた「世界的視圏」,特に「視圏」という言葉を持ち出した、和辻の、直観的に世界を捉える力量にこそ、本書の特徴があるのではないか、と思う。

本書でも、それは再三にうかがえる。それを拾い上げていくと、その直観が、すべてを言い尽くしている気がしてならない。

『大宝令』を制定した政治家はある意味で社会主義的と呼ばれ得るような理想を抱いていたのである。(中略)彼ら政治家を動かしていたのは純粋に道徳的な理想である。「和」を説き「仏教」を説き聖賢の政治を説く十七条憲法の精神に動かされ、断乎として民衆の間の不和や困苦を根絶せんと欲したのである。(中略)実行の点で何があったとしても、この種の制度を確立した政治家の理想そのものには十分意義を認めざるを得ぬ。(「飛鳥寧楽時代の政治的理想」)

彼ら自身の自然人らしい憧憬の心を、仏像に投射して経験したのである。彼らの持たざるものを新しく仏教から得たのではない。が、この経験は、彼らのすでに持てるものを、力強く開展させた。漠然たる予感として存した完全への憧憬は、この経験のゆえに、より高い内容を獲得した。たとえば、彼らが祓いの儀礼の内に頼るべき力を感じている間は、その力によって示唆される永遠者は非人間的なある者である。しかるに彼らが、ほのかに微笑める彌勒あるいは観音の像に頼るべき力を感じる際には、そこに人間的な愛の表情が永遠なるものの担い手として感ぜられているのである。(中略)これらの人間的な美しさが完全なる世界の片影であることを学んだ。……この契機によって彼らは、理念としての「法」の世界へ第一歩を踏み出すのである。(「推古時代における仏教受容の仕方について」)

この相好が仏菩薩に必要である……が、それは何ゆえであるか。何ゆえにこの相好が仏像として美しいのであるか。この疑問については、それがインド及びシナ伝来の様式であるという以外には、久しい間何の答えをも自分は見いだすことができなかった。しかるにこの疑問は、ついに嬰児によって自分に解かれたのである。最初自分は、生まれて間もない嬰児の寝顔を見まもっていた時、思わず「ああ仏様のようだ」と言おうとした。が、(中略)仏像や菩薩像の作家がこの最も清浄な人体の美しさを捕らえたのに相違ないことを、―すなわちこの美しさを成長させる人体に生かせることによって彼らの「仏」や「菩薩」を創作し得たのに相違ないことを、確信するに至ったのである。(中略)
ところで我々は、仏像や菩薩像において嬰児の再現を見るのではない。作家が捕らえたのは嬰児そのものの美しさではなくして、嬰児に現われた人体の美しさである。それによって彼は、「嬰児」ではなくして「仏」や「菩薩」を表現する。(「仏像の相好についての一考察」)

天平の彫刻家は、現実の人の姿の内に「理想の姿」を直視するのではない。彼らにとっては理想は決して姿とはなり得ないものである。姿は総じて象徴にほかならない。従ってこの象徴としての姿は、具体的な一つの現実の姿からではなく多くの現実の姿から、理想の標準のもと拓び出され構成されたものにほかならぬ。この事実を証示する著しい例は、天平の仏菩薩像の体が嬰児の肉体から作りだされていることである。嬰児の肉体をモデルとしてしかも堂々たる偉大性を作り出すということは、全然他に例をみない。作者は一つの嬰児の姿において仏の姿を直視したのではない。嬰児の体の細部はただ手段として用いられ、本質的には嬰児と縁なき象徴的な姿が構成しいだされたのである。(「推古天平美術の様式」)

『古今』の歌人は、……『万葉』の歌人と異なった感情を歌おうとする。たとえばこまかい情調の陰影のごとき。そうしてそのためには『万葉』の率直な表現法は間に合わぬのである。「現(うつつ)にはさもこそあらめ」という表出の如き、『万葉』の歌人には到底見られない。彼らは人目をはばかる恋を一つの鋭い瞬間において表現することはできるが、その恋全体を背景としてそこににじみ出る心の影を軽く現わすというごとき技巧は知らぬのである。また彼らは「夢」をいうことはできても、「夢てふものは」と言うことはできぬ。名残り惜しい夜明けを詠嘆することはできても、「事ぞともなく明けぬるものを」と嘆くことはできぬ。(中略)ここに言葉の使用法における新しい境地が開ける。『万葉』の歌人において単に具象的な、限定された意味をのみ持っていた言葉が、ここでは連想によって、広い、さまざまの意味と情緒とを指示する言葉に押しひろげられる。(「『万葉集』の歌と『古今集』の歌との相違について」)

(天からの迎えの来る)段に『竹取物語』全体の重心がある。(中略)羽衣を身に着けるとともに地上的な物思いが、現世の煩悩が、立ちどころに消え失せるというような考えは、奈良朝の神仙譚にはなかった。しかし仏菩薩もなくてただ天人のみなる月の都、老いもせず、思うこともなく、しかも「父母」というもののある常世の国、それは仏教的な空想ではない。恋があり夫婦があり親子があった海神(わたつみ)の国が、地上的な不完全さを漸次払い落とし、煩悩なき浄光の土の観念を漸次取りいれつつ、ついに海底の国より天上の世界に発展してきたのである。(「お伽噺としての『竹取物語』」)

元来「ものの哀れ」なるものは、永遠なるイデアへの思慕であって、単なる感傷的な哀感ではない。それは無限性の感情となって内より湧き、あらゆる過ぎ行くものの姿に底知れぬ悲哀を感ぜしめる。しかし、この底知れぬ深みに沈潜する意力を欠くものは、安易な満足、あるいは軽易な涙によって、底の深さを遮断する。そこに感傷性が生まれて生活を浅薄化するのである。清少納言は時人とともに軽易な涙に沈溺することを欲しなかった。それをするには彼女はあまりに強かった。しかしその強さは、無限なるものに突き進む力とはならなかった。彼女もまた官能的享楽人として時代の子である。ただ彼女は、過ぎ行く享楽の内に永遠を欲していたずらに感傷するよりは、享楽が過ぎ行くものなることを諦観するところの道に立ったのである。この点で彼女は、紫式部が情熱的であるのに対して、むしろ確固たる冷徹を持する。そうして彼女の全注意を、感覚的なるものに現われた永遠の美の捕捉の方に向ける。彼女の周到にして静かな観察には、右の意味で主観的情熱からの超越がある。(「『枕草紙』について」)

『源氏物語』の芸術的価値については、自分は久しく焦点を定め惑うていた。……もし現在のままの『源氏物語』を一つの全体として鑑賞せよと言われるならば、自分はこれを傑作と呼ぶに躊躇する。それは単調である、繰り返しが多い。従って部分的に美しい場面も、全体の鈍い単調さの内に溺らされてしまう。古来この作が人々の心を捕らえたのは、ここに取り扱われる「題材」が深い人性に関与するものなるがゆえであり、また所々に美しい場面があるからであって、必ずしもその描写全体が傑れているゆえではなかろう。我々はこの物語を読み行く際に、絶えず転換して現われてくる場面の多くが、描写において不十分であることを感ずる。(「『源氏物語』について」)

宣長は「もの」という言葉を単に「ひろく言ふ時に添ふる語」とのみ解したが、しかしこの語は「ひろく言ふ」ものではあっても「添ふる語」ではない。「物いう」とは何らかの意味を言葉に現わすことである。「物見」とは何物かを見ることである。さらにまた「美しきもの」、「悲しきもの」などの用法においては、「もの」は物象であると心的状態であるとを問わず、常に「或るもの」である。美しきものとはこの一般的な「もの」が美しきという限定を受けているにほかならない。かくのごとく「もの」は意味と物とのすべてを含んだ一般的な、限定せられざる「もの」である。限定せられた何ものでもないとともに、又限定せられたもののすべてである。……「もののあわれ」とは、かくのごとき「もの」が持つところの「あはれ」―「もの」が限定された個々のものに現われるとともにその本来の限定せられざる「もの」に帰り行かんとする休むところなき動き―にほかならぬであろう。(中略)「もののあはれ」とは畢竟この永遠の根源への思慕でなくてはならぬ。(中略)「物のあはれ」という言葉が、……必ずしも「物のあはれ」という言葉にふさわしい形にのみ現われるとは限らぬ。愛の自覚、思慕の自覚の程度により、あるいは愛の対象、思慕の対象の深さいかんにより、ある時は「物のあはれ」という言葉が、率直で情熱的な思慕の情の直接さを覆うおそれがあり、またある時は、強烈に身をもって追い求めようとする思慕のこころの実行的な能動性を看過せしめるおそれがある。「物のあはれ」という言葉が、その伴なえる倍音のことごとくをもって、最も適切に表現するところは、畢竟平安朝文芸に見らるる永遠の思慕であろう。(「もののあはれ」について)

彼にとっては、衆生の悩みをいかなる程度に「助け遂げる」かよりも、衆生救済の仏意をいかなる程度に「自己の内に」体現し得るかが問題なのである。ここにおいて親鸞の慈悲と道元の慈悲との対照が明らかになる。慈悲を目的とする親鸞の教えは、その目的を達するために、一時人間の愛から目をそむけて、ただ専心に仏を念ずることを力説し、真理を目的とする道元の教えは、その目的を達するために、人間の没我の愛を力説するのである。前者は仏の慈悲を説き、後者は人間の慈悲を説く。前者は慈悲の力に重きを置き、後者は慈悲の心情に重きを置く。前者は無限に高められた慈母の愛であり、後者は鍛錬によって得られる求道者の愛である。(「沙門道元」)

我々はこの劇において、その戯曲的要素への注意を遮断し去った時に、一つの美しい夢幻境へ誘い入れられるのである。我々はもはや劇中の人物の「人格的行為」を見るを要しない。永い伝統を負った舞台装置や役者の衣装の装飾的絵画的効果、同じく永い伝統によって訓練された役者の体の彫刻的及び舞踊的効果、及びその微妙なせりふ回しの音楽的効果。それらによってわれわれはここに純粋の劇と区別すべき別種の劇を見いだすのである。この劇においては戯曲はただ絵画的彫刻的舞踊的及び音楽的効果に都合よき輪郭でありさえすればよい。ここに作りだされる美はただ形と線と色との交錯、その動きの微妙なリズム、それに伴なう旋律的な声音などに直接に基づくのであって、これらの動作に現わされる倫理的意味に基づくのではない。(中略)従ってこの美は戯曲的要素の少ないものにおいてほど一層純粋に現われる。『暫』とか『狐忠信』とか『車引』とかのごとく、絵画的舞踊的効果のために写実的な要求や戯曲の制約を全然放擲して顧みないもの、あるいはさらに『関兵衛』『田舎源氏』『鷺娘』のごとく、純粋に舞踊であるもの……。(歌舞伎劇についての一考察)

確かに本書の、どの「テーマ」も、時代の申し子である。それを掘り下げていけば、その時代の精神を反映しているかもしれない。しかしだからと言って、それが時代精神として連続するためには、もう一つ俯瞰する視点が要る。でなければ、各時代精神を覗き見ただけなのではないか。本書の各テーマに、時代精神の反映はあっても、それをつなぐ問題意識が、全体を貫いているとは見えなかった。だから、

「考察をすすめるに従って仏教思想がいかに根深くこれらの時代の日本人の精神生活の根柢となっているかを見いだし、仏教思想の大体の理解なくしては考察を進め得ざるに至った。そこで自分はシナ仏教の理解によって、それがいかに日本人に受容され、いかなる意味で鎌倉時代の新運動となったかを理解せんと志したのであったが、シナ仏教の理解はインド仏教の理解なくしては不可能であり、結局原始仏教以来の史的開展を理解することによってのみシナ日本における仏教思想の特殊性が理解せられ得るものであることを悟るに至った。(中略)しかしこれを理解せずには考察を進め得ないと悟った以上、まわり道であっても仕方がない。のみならず学問としては日本精神史を明らかにするのも仏教思想を明らかにするのもその間に軽重の差があるとは思えない。」

とし、「日本精神史の叙述から横道にそれ」た、としていることからも、明らかであると思う。結果として、通貫するものに気づいたのではあるまいか。

参考文献;
和辻哲郎『日本精神史研究』(岩波文庫)

独自の領域空間

村井章介『アジアのなかの中世日本』を読む。

「マージナル」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-11.htm#%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%8A%E3%83%AB)で触れた村井章介『中世倭人伝』の背景になる時期と重なり、「海の民」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-10.htm#%E6%B5%B7%E3%81%AE%E6%B0%91)で触れた田中健夫『倭寇―海の歴史』や、「倭寇」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-10.htm#%E5%80%AD%E5%AF%87)で触れた竹腰輿三郎『倭寇記』でいう、前期倭寇と言われる時期を中心に、中世日本の、本土の中心から離れた、辺境地域の倭人たちの世界を、「アジア」という広がりの中で、多角的に洗い出している。

「ここでわたしがしつらえた《アジア》というステージに登場する役者は、けっして国家だけではない。たとえば倭寇のように、国際関係を背景から規定するとともに、国家のわくを超えた地域の担い手となり、一面では国家の規制力によってゆがめられる、そういった人間集団も、主役に名をつらねている。またアイヌや琉球人のように、独自の国家を所有した有無はあるにせよ、結果的には日本の国家に呑みこまれてしまった民族集団が、自己を形成する過程も、重要なだしものだ。このように日本の中世は、国家のわくぐみを相対化し、《可能性としての歴史》を構想するのに好適な素材に恵まれている。

そしてこの素材にとりくんだ背景には、現代に生きるわれわれが、国家利害をすべてのうえにおく思考からいかに脱却し、アジア諸民族や国内の少数民族との関係をどう自覚的に創造しうるか、という問題関心があった。」

と著者は、全体の編集意図を整理している。

面白いのは、南北朝から、室町、戦国時代と、国内政権が分散的、拡散的で、中央集権的な国家ができるまでの間、周辺は、倭寇に代表されるような人々が、朝鮮半島や中国沿海部、フィリピン、インドシナ半島と、広い領域に、他国に強い影響を与え続けていたことだ。その人々は、「倭人」とされるが、その、

「《倭》とは本来日本の同義語ではなく、《倭種》とは西日本のみならず、江南から山東半島、朝鮮半島南部にかけての大陸沿海部にも分布する、海洋民的な性格の人びとのこと」

なのである。

その一つのモデルを、著者は、

「列島内の一部分が、内海を通じて列島外の一定地域と結ばれ、こうして国境を超えたひとつの地域、たとえば私が『環シナ海地域』とよぶような地域が登場します。こうなりますと地域の登場は、列島中央の国家権力から発する求心力に抗して、国家的統合を相対化する遠心力として作用するでしょう。ここで措定された『地域』とは、伝統的な海外交渉史の主要概念である『国交』や『貿易』が線で表象されるとすれば、面で表象される点に特徴があります。そして地域を面たらしめているものは、それ自体多彩な要素からなるところの交渉の担い手たちであり、かれらが展開する多様で多面的な活動そのものだといえます。具体的に申しますと、中国人海商、倭寇、琉球人などがこの担い手でありまして、かれらは、それぞれの出身の国家に対しては相対的に『自由』にふるまい、自由な分だけ『地域』への帰属意識をもっていた、と考えられます。」

と書く、その《面としての地域》は、倭寇の、あるいは倭寇を装う集団の活動地域と重なっていく。そして、この問題意識は、ともすると中世を、武士の世界と見る見方への反論になりえるのである。たとえば、

「従来日本の中世を前進させたものとイメージされてきたのは、武士=在地領主、およびかれらが結集した権力である幕府であったが、これら《武》の勢力が力をふるいえたのは、《文》に対して先進的だったからではなく、むしろ中国文明を中心とする東アジア世界のなかで、日本のおかれた辺境性にもとづいている。『自力救済』や『寄せ沙汰』にみられるように、暴力とコネが一貫して紛争解決の手段だったのが日本の中世の特徴であって、この未開性にくらべれば、『武人より文人、武勇よりは安穏に価値を見出す東アジアの世界観』にそれなりに従うべきところがあったのではないか」 

と。それは、「脱亜入欧」という今日までつづく考え方に通底するアジア蔑視への痛撃となり、それは何処か、

幕末期の勝海舟(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-10.htm#%E8%A1%8C%E8%94%B5%E3%81%AF%E6%88%91%E3%83%8B%E5%AD%98%E3%81%99

横井小楠(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-6.htm#%E5%B0%8F%E6%A5%A0%E8%AB%96

の描いていた世界観と通底するものがある。

さて、その意味で中央の「日本」から離れた周辺での、幅広い世界像を描いている点で、

V 中世日本列島の地域空間と国家、

が出色である。「周辺」とは、中央から見た場合、

異域、

であり、

化外、

であり、

ケガレの地、

であり、

鬼の住処、

であり、中央から、

「皇都→畿内→外国(げこく)は浄から穢へと段階的に移行する同心円構造をなしていた」

のであるが、しかし、

「周縁の人びと境界の往来者にとって、異域はもはや鬼のすみかではなく、あらたなもうひとつの《文明》であった。異域に人力のおよばざる鬼ではなく、自己と種々のちがいはあるにせよ人間を発見するとき、それはもはや異域ではなくなり、それと自己とをへだてる境界の性格も変わってくる。」

それを著者は、

海上の境界という観念の出現、

と特徴づける。著者はそのモデルを、

環日本海地域、

東シナ海地域、

に見出す。前者は、

十三湊を中心に、北海道のアイヌ、沿海州、高麗までの日本海地域、

になる。後者は、

倭寇活動地域、

と重なる。しかし、その時代は、十六世紀後半の秀吉の統一で終わりを迎える。その決算が、

文禄・慶長の役、

であるが、

「国内戦争の論理をそのまま延長したものであり、朝鮮の自主性を徹底的に無視し朝鮮人民に甚大な損害をもたらした暴挙であった……。そこには、中世を通じて温存されてきた、朝鮮を日本に服属すべき国とみなす観念の反映をみてとることができる。」

それは、そのまま、武の政権の明治政府の行動へとつながり、今日までその禍根は尾を引いている。

参考文献;
村井章介『アジアの中の中世日本』(校倉書房

いき

九鬼周造『「いき」の構造』を読む。

著者は、「いき」を、

内包的構造、
外延的構造、
自然的表現、
芸術的表現、

に分けて、その構造を鮮明にした。「内包的構造」では、

媚態、
意気(意気地)、
諦め、

の三つの表徴に分解した。

「媚態」とは、異性に対する「媚態」である。

「異性との関係が『いき』の原本的存在を形成していることは、『いきごと』が『いろごと』を意味するのでもわかる。『いきな話』といえば、異性との交渉に関する話を意味している。」

「媚態」とは、

「一元的の自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度である。そうして『いき』のうちに見られる『なまめかしさ』『つやっぽさ』『色気』などは、すべてこの二次元的可能性を基礎とする緊張にほかならない。」

と。

「意気」すなわち、「意気地」とは、

「意識現象としての存在様態である『いき』のうちには、江戸文化の道徳的理想が鮮やかに反映されている。江戸児(えどっこ)の気概が契機として含まれている。(中略)『江戸の花』には、命をも惜しまない町火消、鳶者(とびのもの)は寒中でも白足袋はだし、法被一枚の『男伊達』を尚(とうと)んだ。『いき』には、『江戸の意地張り』『辰巳の侠骨』が無ければならない。『いなせ』『いさみ』『伝法』など共通な犯すべからざる気品・気骨がなければならない。『野暮は垣根の外がまへ、三千楼の色競べ、意気地くらべや張競べ』というように、『いき』は媚態でありながらなお異性に対して一種の反抗を示す強みをもった意識である。(中略)『いき』のうちには溌剌として武士道の理想が生きている。」

であり、

「理想主義の生んだ『意気地』によって媚態が霊化されていること」

が「いき」の特色であると、する。「諦め」は、

「運命に対する知見に基づいて執着(しゅうじゃく)を離脱した無関心である。『いき』は垢抜けがしていなくてはならぬ。あっさり、すっきり、瀟洒たる心持でなくてはならぬ。」

とし、

解脱、

とする。

「『いき』は『浮かみもやらぬ、流れのうき身』という『苦界(くがい)』にその起源をもっている。(中略)『諦め』したがって『無関心』は、世智辛い、つれない浮世の洗練を経てすっきりと垢抜けした心、現実に対する独断的な執着を離れた瀟洒として未練のない恬淡無碍のこころである。」

と。そして、この三者を、

「第一の『媚態』はその基調を構成し、(中略)媚態の原本的存在規定は二元的可能性である。しかるに第二の徴表たる『意気地』は理想主義の齎した心の強みで、媚態の二元的可能性に一層の緊張と一層の持久力を呈供し、可能性を可能性として終始せしめようとする。(中略)媚態の二元的可能性を『意気地』によって限定することは、畢竟、事由の擁護を高唱するにほかならない。(中略)媚態はその仮想的目的を達せざる点において、自己に忠実なるものである。それ故に、媚態が目的に対して『諦め』を有することは……、かえって媚態そのものの原本的存在性を開示せしむることである。媚態と『諦め』の結合は、自由への帰依が運命によって強要され、可能性の措定が必然性によって規定されたことを意味している。」

とまとめ、要するに、

「『いき』という存在様態において、『媚態』は、武士道の理想主義に基づく『意気地』と、仏教の非現実性を背景とする『諦め』とによって、存在完成にまで限定されるのである。」

と。さらに、「意気」の外延的構造では、「上品−下品」、「派手−地味」、「意気−野暮」、「渋み−甘味」の中で、位置づけなおしてみせる。しかし、著者自身が、「結論」で、

「『いき』を分析して得られた抽象的概念契機は、具体的な『いき』の或る幾つかの方面を指示するに過ぎない。『いき』は個々の概念契機を分析することはできるが、逆に、分析された個々の概念契機をもって『いき』の存在を構成することはできない。」

と言っているように、分解された要素を束ねても、「いき」とはどこかに乖離がある。読みながら感じた違和感は、それだけではなく、少しく「武士道」や「江戸ッ子気質」について、理想化され過ぎている感があった。

「いき」は、

意気、

と当て、

明和頃、深川の岡場所に流行し、のちに一般化した語。粋であること、あかぬけしていること、洗練された美があること、しゃれていること(江戸語大辞典)、

近世中期頃からの江戸の町人に主に発達した美意識の一。嫌味なくさっぱりした態度、垢抜けした色気、洗練された媚態などを意味した(古語大辞典)、

(心映えの「意気」とは区別し、「清爽」を当て)意気ある人の、風采(ふり)、瀟洒(さっぱり)したるより出づ、さっぱりとして、いやみなきこと、婀娜たること、粋なること(大言海)、

とある。「いなせ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E3%81%84%E3%81%AA%E3%81%9B)で触れたことがあるが、「いき」は、

心意気の略、

ではないか。その意味は、

気持ちや身なりのさっぱりして垢抜けしていて、しかも色気をもっていること、

あるいは、

人情の機微に通じ、特に遊里や遊興に精通していること、

ということらしい。類語に「伊達」というのがある。語源は、

ひとつは、「取り立てる」の「タテ」で、目立つという意味。実際以上に誇示する。

いまひとつは、「タテダテシイ」の「ダテ」で、意地っ張りという意味だ。伊達の薄着、というように、言ってみると依怙地を張っている、というニュアンスである。だから、

ことさら侠気を示そうとすること、

とか

派手にふるまうこと、

とか

人目につくこと、

とあって、そこから、

あか抜けていきであること

とか

さばけていること

となっていく。しかし、どこかに、「見栄をはる」とか「外見を飾る」というニュアンスが抜けない。似たものに、「伝法」もある。「伝法な」は、

浅草伝法院の下男が、寺の威光を借りて、悪ずれした荒っぽい男であったのが、「デンポウ」なの由来、

とされる。転じて、無法な人、勇み肌という意になっていく。「鉄火肌」というのもその流れだろう。「鉄火」というのは、鉄火場、つまり博奕場である。しかし、「鉄火肌」の「鉄火」は、

鉄火(鉄が焼かれて火のようになったもの)、

という意味から来ているので、気性の激しさを言っている。

また「いさみ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba5.htm#%E5%8B%87%E3%81%BF)は、

市人の、気概(いきはり)を衒(てら)ふ者。其の気立てを、いさみ肌、きほいはだ、と云ふ(大言海)、 

気概を、

いきはり、

と訓ませ、意気地を張る、というニュアンスにし、それを衒う、つまり、

見せびらかす、ひけらかす、

という含意である。そういうのを喝采するひとがいるから、ますますいきがる、ということになる。

どうも、いきがっている本人ほど、周囲は、認めていず、だからいっそう伊達風を張る。その辺りの瘦せ我慢というか、依怙地さは、嫌いではないが、所詮、

堅気ではない、

のである。まっとうではなく、そういう男伊達というか侠気というのは、

戦国武将の気風の成れの果て、

らしく、そのことは、「サムライとヤクザ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-6.htm#%E3%82%B5%E3%83%A0%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%81%A8%E3%83%A4%E3%82%AF%E3%82%B6)で触れた。

僕は、「いなせ」や「いき」は、気骨とは違うと思う。「気骨」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E6%B0%97%E9%AA%A8)は、 

「気(気概ある)+骨(人柄)」

である。これこそが、サムライである。

容易に人に従わない意気、自負、

こそが、「いき」ではないのか。それは、「心映え」だから、見栄を張って、外に着飾るものでも、言い募るものでもないのである。

三田村鳶魚は、

「武士が単なる偶像化されたる『人間の見本』であったり、あるいは、『人間の理想化』であっては、『武士道』甚だ愚なるものである。」

と言っている。著者の「武士道」が理想化され過ぎているように感じるのは僻目だろうか。「武士道」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-2.htm#%E6%AD%A6%E5%A3%AB%E9%81%93)については触れたが、武士道の謂れについて、鳶魚は、

「戦国末期の『武辺吟味』というのは、弓馬・剣槍、あるいは鉄砲等の武器に関することで、主として戦場における働き、すなわち、軍事上における働きの場合に用いられたものであって、今日いうところの武士道ではなく、むしろ、兵書・兵学に属するものであった。吟味は今でいう研究という言葉に相応するものだ。それよりも、『男の道』の方が『武士道』には近い。『そうしては男の道が立たない』というようなことは、『武士道が立たない』というのと同一の意味で用いられた言葉だ。故に、もし『武士道』なるものの語原的詮索をするとしたならば、武士道の母胎は『男の道』であって、これから、武士道なる言葉が転化し発生したものだ、ということが出来る。」

とし、武士道とは、

義理、

すなわち、

善悪の心の道筋、

である、とする。もう少し突っ込めば、

倫理、

である。倫理とは、

いかに生きるか、

である。だから、

「武士が切腹をするということには、二通りの意味がある。その一つは、自分の犯した罪科とか過失とかに対して、自ら悔い償うためには、屠腹するということであり、今一つは、申し付けられて、その罪を償うということである。そして、そのいずれにしても、切腹は自滅を意味する。(中略)切腹は、…武士に対する処決の一特典にしか過ぎない のである。ただ自らその罪に対する自責上、切腹して相果てるというその精神だけは武士道に咲いた一つの華と言っ てもよいが、武士道の真髄ではあり得ない。」

したがって、他人の忖度とは無縁である。前に、

心映え、

といったのはその意味である「心映え」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E5%BF%83%E3%81%B0%E3%81%88)で触れたように、その真髄は、周りへの影響のニュアンスの、

心延え、

というではなく、何か一人輝きだしている、

心映え、

がいいのである。

ついでながら、著者の「江戸児」は、鳶魚に言わせると、現実とは異なるようである。「江戸ッ子」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/436936674.html)で触れたことだが、「江戸ッ子」は、

「表通りには住んでいない。皆裏通りに住んでいた」

つまりは、

裏店(うらだな)、

に棲む。では、裏店とは何か。鳶魚曰く、

長屋と裏店とは違う、

という。

「長屋というのは建てつらねた家ですから、どんな場所にもあった。水戸様の百間長屋などというのは、今の砲兵工廠の所にあったので、その他大名衆の本邸には、囲いのようにお長屋というものがあって、そこに、勤番士もおれば、定府の者もおりました。長屋の方は、建て方からきている名称ですが、裏店の方は、位置からきている名称」

で、位置とは、場所を指す。

「裏店というのは、商売の出来ない場所」

で、ここに住んでいるのは、

「日雇取・土方・大工・左官などの手間取・棒手振、そんな 手合で、大工・左官でも棟梁といわれるような人、鳶の者でも頭になった人は、小商人のいる横町とか、新道とかいうところに住んでおりますから、裏店住居ではない。」

では、裏店に対して、表店とは何か。そのためには、町人とは何かが、はっきりしなくてはならない。

「町人という言葉から考えますと、武家の住っている屋敷地に居らぬ人、市街地に住んでいる人を、すべて言いそうなものなのに、町人といえば商人に限るようになっている」

のであって、そこには、裏店の人間は入らない。「江戸ッ子」の風体は、

半纏着、

で、

「明らかに江戸ッ子を語っているものは、半纏着という言葉です。半纏着では、吉原へ行っても上げない。 江戸ッ子というと、意気で気前がよくって、どこへ行ってももてそうに思われるが、半纏着だと銭を持っていても女郎さえ買えないんだから、ひどいものです。この連中は、普通の人の着物を長着という。羽織は見たこともない手合だから、長着は持っていない。持っているのは、半纏・股引だけだ。もし長着があるとすれば、単物に三尺くらいのものでしょう。」

と。いったいこの「江戸ッ子」は何人いるのか。

「大概 江戸の人口の一割くらい」

で、五万人、と鳶魚は見積もる。我々のイメージしている「江戸ッ子」は、町人かその使用人であったが、それを鳶魚は、「江戸ッ子」に入れないらしい。

なお、「野暮」については、「野暮天」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba1.htm#%E9%87%8E%E6%9A%AE%E5%A4%A9)で触れた。

参考文献;
九鬼周造『「いき」の構造』(岩波文庫)
三田村鳶魚『武家の生活』(Kindle版)
三田村鳶魚『江戸ッ子』(Kindle版)

戊辰戦争

石井孝『戊辰戦争論』を読む。

戊辰戦争については、ぼくは不案内なのだが、様々の論争があるらしい。著者は、

服部之総氏の説を継承し、戊辰戦争の本質を「絶対主義形成の二つの途の戦争」とする見解を堅持する。しかし、「二つの途」、……すなわち天皇制絶対主義路線と大君絶対主義(徳川絶対主義)路線の対抗関係の源流を慶応初年までさかのぼってさぐらなければならない、

として、本書に戊辰前史を加えたと、「はしがき」で書く。しかし、この文章を読んでもわかるように、歴史叙述は、誰かの説を前提にかたるものなのか、という疑問が浮かんでくる。それは、既に、先入観をもとに歴史を見ることではないのか。服部氏の説とは、

純粋封建権力としての将軍制から半封建的絶対権力主義への移行は、客観的に二つの途において可能であった。一つの途は、天皇制によって荘厳された徳川家がその権力の座を純粋封建制ヒエラーキーの首長から絶対主義的権力者へとそのままおしすすめる途である。フランスのブルボン家の途はそれであり、その場合公式の関係は、法王とルイ十四世の関係にひとしいであろう。いま一つの途は、徳川家の権力の地位を否定して天皇が直接絶対主義的権力の象徴でなく実体たる地位を占める途であり、さしあたっては朝廷が徳川家にとってかわる途である。

というものである。まさにこの概念を、そのまま踏襲して、歴史を見ている観がある。このとき天皇は十六歳であり、孔明天皇は毒殺された、と著者は、断言している。

天皇は、十二月十一日ごろから疱瘡にかかっていたが、その後経過は順調で、全快に近づいていた。ところがその矢先の二十四日夜から容態急変、二十五日には「御九穴から御脱血」という異常な症状を呈し、はげしい苦悩のすえ、同日深夜、あわただしく黄泉へと旅立った。その症状から、天皇の死因は急性砒素中毒と推定される。

更に討幕の密勅が、

あらゆる面で詔書の形式と一致しない、

偽書の可能性が高い。ということは、既にブルボン家と対比するアナロジー自身が破綻している。にもかかわらず、あらかじめ、

天皇制絶対主義路線、

大君絶対主義(徳川絶対主義)路線、

等々と概念づけた物の見方で、歴史を見ようとしているのは歴史学者として如何なものであろうか。すでに、論証する前から、

天皇制絶対主義路線と大君絶対主義(徳川絶対主義)路線の対抗関係、

という結論ありき、なのである。こんな歴史叙述があっていいのか、大いに疑念を感じる。

歴史とは現在と過去との絶え間ない対話である、

とは、E・H・カーの著名な言葉である。確かにそうではあるが、結果として「絶対主義」化したということが、仮に正しいのだとしても、その結果から、維新の当事者が当初からそれを目指していた、とするのは無理があるのではないか。

僕には、「伝説」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-11.htm#%E4%BC%9D%E8%AA%AC)で触れた、十二月九日の王政復古クーデターについて、

大政奉還後の公式の政治日程が諸侯会議であることを無視し、あるいはその可能性を横合いから断ち切って、武力で御所を固め天皇親政を宣言したものである。会議抜きで、「盟主は天皇」と決めたのである。(中略)討幕派にしてみれば盟主が(徳川)慶喜に落ち着くことは避けられないという見通しがあり、武力で、クーデタで事を処するしかなかった。また政権代表には、会議で選ばれるという次元を超えた存在、つまり天皇を当てるしかなかった。(中略)クーデタ直後に大阪に移動した慶喜は十二月十六日、大坂城でパークスやロッシュに会って、あなたがたとの条約を履行するのは今後とも私だ、つまり日本国の元首はこれまでどおり自分だと言明する。これは国際的に有効だった。京都はこれに対抗して、天皇こそが元首だと言おうとする。「朕は大日本天皇にして同盟列藩の主たり」とはじまる詔書を発しようとしたのである。しかしこの詔書は、天皇が署名したにもかかわらず議定の松平春嶽と山内容堂が副書を拒否したために不発に終わった。春嶽や容堂にしてみれば、天皇を同盟列藩の主に決めた憶えはない。諸侯会盟して盟主を選ぶという手続きを中断して、薩長が勝手に天皇を持ち出したのである。
この話は、新政権のいかがわしさを、よく現わしている。

と記述する文章(松浦玲『検証・龍馬伝説』)のほうが、現在と対話しつつ、はるかに着実に、先入観で分類せぬ事実を積み重ねている。討幕派に天皇を持ち出して、別の日本を創ろうとする意図があったことは確かだろう。たとえば、伊藤俊輔は、アーネネスト・サトウに、

将来の版籍奉還から廃藩置県、さらに武士団の解体まで、

見通していた。しかし、それは、藩に割拠する幕藩体制から統一国家を目指そうとする以上、徳川側にもそれに似た構想はあった。たとえば、大政奉還の起草者である永井尚志は、春嶽の近臣・中根雪江に、慶喜が、

日本はしまいには郡県制度になる、英国も昔は封建であったが、公議の上、郡県でなくては強国になれないということで、郡県になった。日本もそのようになるだろう。

という意向であることを語っている。それを「絶対主義」という概念にくくってしまえば、たぶん見えるものが見えなくなる。既成の概念にカテゴライズし、収斂させる事実分析は、もはや事実ではなく、概念でものを見ているに過ぎないのではないか。

たとえば、薩長盟約に、

皇国之御為皇威相輝き御回復に立至り候を目途に誠心を尽し、

とあるのを、

漠然たる表現ながら、王政復古、すなわち天皇制を目指す両藩の同盟であるということができよう、

となると、概念という先入観で物を見ている陥穽にはまった記述そのものに見える気がする。

幸いなことに、解説者(家近良樹氏)は、

明治維新によって天皇制絶対主義が成立したとする説は、いまでは通説的な地位から降りている、

とある。

絶対主義云々といった枠組みに基づく問題提起それ自体が成り立たなくなっている、

らしいのである。でなくては、歴史ではなく物語である。

参考文献;
石井孝『戊辰戦争論』(吉川弘文館)
松浦玲『検証・龍馬伝説』(論創社)

軍事としての戊辰戦争

保谷徹『戊辰戦争(戦争の日本史18)』を読む。

本書は、

戊辰戦争の全過程を軍事史の観点からわかりやすく見通すことを目指している。いわゆる戦史そのものではなく、戦争をささえた体制や仕組みに注目し、かつ戦争や戦場の実態を「戦争の社会史」として描こうとした。また、戊辰戦争そのものが軍制上の画期となり、ライフル銃段階に照応するある種の軍事革命であった、

という著者のモチーフから描かれている。

第二次長州戦争で、官軍として幕府から動員された諸大名軍は、戦端を開いて、彼らに立ち向かってくる長州兵が、

これまでの常識にない新しい軍隊、

であることに驚く。それを、加賀藩士が、長州勢に攻め破られた小倉口の状況を、本藩に、こう書き送った。

長州勢は、押し出し候節は銃隊は駆足並にて押し来たり、発砲の矢頃に至り候えば、太鼓打ち止め、直に散兵と相成り、銘々物陰を撰びて手早く身を隠し、顔ばかり出し砲發致し、匍(ふ)せて進み寄り候由(略)、小銃は皆尖丸にて、柵杖を遣い候ことなく、巣口より玉を入れ、その台尻を地に突着して撃ち出し候故、至極弾込め早く御座候、散兵の働き手早なること各感心仕り居り申し候、大砲は尖弾・丸弾入り交じりこれ有り候由、旗は小旗に至って短き小旗壱本まで、槍は一本も御座無く、服は黒あるいは紺色の筒袖にて、羽織も多分は着用仕らず、笠は韮山笠を着用仕り居り候えども、戦さの節は雨中にても着用致さざる由、

と。つまり、長州勢は、

尖丸(尖頭弾)、

を用いた前込めの、

施条銃(ライフル)、

を装備し、

散開して、遮蔽物の陰から発砲する、

という戦い方で、槍など持たぬ、

すべてが銃砲隊、

であり、大砲もまた、

尖弾(長弾)、

のライフル砲が混じっていたのである。総合的に見て、両軍の差は、

滑腔銃(かっこうじゅう)、
と、
施条銃(せじょうじゅう)、

の差であり、それぞれの技術段階に照応した、

戦術・戦法、

また、

軍隊編成、

の差にあった。火縄銃や雷管ゲーベルは、ライフルがなく、球形弾を使用していた。ライフルとは、

ライフリングを施された銃身を有する火器である(すなわち、銃身内側に発射体に回転を与える浅い螺旋状の溝を有し、これによって飛翔中に安定させる)、

もので
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%8A%83、ゲーベル銃とは、

前装式(マズルローダー式)、滑腔銃身(ライフリングがない)、フリントロック式(燧石式)、またはパーカッションロック式(雷管式)の洋式小銃である。日本では、幕末期に西洋軍制を導入した江戸幕府や藩が相次いでゲベールを購入した。1831年に砲術家の高島秋帆がオランダから輸入したのが始まりとされる。幕末の早い段階から輸入が開始され、すでに施条銃の時代となっていた西欧から旧式のゲベールが大量に日本に輸出された。また輸入だけではなく、火縄銃とは発火装置が異なる程度だったため各地で国産のゲベールが製造されたほか、火縄銃の発火装置を(燧石式を飛ばして直接)管打式に改造した和製ゲベールも見られる、

とされる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%AB%E9%8A%83

日本が開国した時期は、

欧米で急速な火器革命が進展した。小火器の分野では、フランスのミニエ大尉による拡張式弾丸の発明以来、装填が容易な前装施条銃(ライフル)が登場し、小銃はこれまでの50〜100メートル内外の距離で使用されていたものが、射程が500〜1000へと一気に伸びたことによって、400〜500メートルの距離でも銃撃戦が交わされるようになった、

のであり、

列強が前装ライフル銃(ミニエ銃と総称)を装備するのが1850年代半ば、さらに後装銃に切り替えるのがその十年後、つまり戊辰戦争の直前に当たっていた、


のであり、日本は、新旧様々な小銃が、武器商人によって、持ち込まれていた武器の市場になっていた。

ライフル銃の、この射程距離では、もはや弓や槍は無用のものとなり、これまでのような、

大隊中心の密集部隊からの一斉射撃、

という戦い方から、

小隊や中隊を基本とする散兵して遠距離から狙撃する、

という戦い方(散兵戦術)に変化している。古くて射程の短い銃装備の密集部隊では、ただ標的になるだけである。
火器が新式になれば、戦術・戦法・軍編成も改める必要が出てくる。火器の一新によるこうしたパラダイム転換は、

ある種の軍事革命、

と考えることが出来る。現に、東征軍は諸大名への動員に際し、

銃隊・砲隊の外、用捨のこと、
隊長・指令・輜重掛等、実地用務の外、冗官用捨のこと、

等々と通達し、

幕府と異なり、新しい軍事段階に照応する戦力を明確に要求していた、

のであり、確かに、

一旦戦場に出てしまえば、射程の短い火縄銃やゲーベル銃の部隊では全く役に立たない。動員をかけられた諸藩は、長崎や横浜で必死に新式のライフル銃を求める、

ことになる。唯一、東北戦争で、征討軍の班内侵入を退けた庄内藩は、攻め返して秋田城を落城寸前まで追いつめ、孤立すると、藩内まで鮮やかに撤兵して、降伏した。これを可能にしたのは、いち早く新式鉄炮に対応した軍事体制を整えていたからである。

結局、最新兵器をいち早く整え、それに見合った軍制と、戦法を整えた薩長、土、肥等々西南諸藩に、ついに幕府側の準備は追いつかなかった、ということになる。それは、たぶん、単に兵器輸入の遅速の問題ではなく、トップの政治判断の遅速の問題ではなかったか、と思う。クラウゼヴィッツの言う、

「戦争」は,あくまで政治的目的達成の手段である、

に鑑みるとき、その前の段階から、どう準備するかも、政治力の中に入る。急遽将軍職に就いた慶喜には、時間が足りなかった憾みはあるが。

参考文献;
保谷徹『戊辰戦争(戦争の日本史18)』(吉川弘文館)

戦術の勝利、戦闘の敗北

藤井尚夫『フィールドワーク関ヶ原合戦』を読む。

著者は、

地形を知らなければ、浅学の書も、古文書も読み違えてしまう。フィールドワークで地形を知ると、通説の矛盾が見えてくる。そして戦場の遺跡が語る情報が、矛盾の隙間を埋めると、「叩き台」ができる。この「叩き台」の上にいくつか仮説を乗せ、戦いを頭の中に復元する。
こんなことをくりかえした結果、この「本」ができた。

と「あとがき」に書く。関ケ原の遺構を見ながら、

後手必勝、

を考えた三成の戦略を想定して見せた。

前日まで大垣城に籠っていた三成や、西軍の部隊が城をでた。東軍にしてみれば、好機到来である。東軍の勝利へのシナリオは、移動中の西軍を補足し、乱戦の中で家康得意の即応的対応による勝利であろう。

ところが、戦いが始まってみると、西軍は盆地の西辺に陣地を構え、東軍は陣地戦に引きずりこまれていたのである。

関ヶ原盆地は、濃尾平野の北西の角にある。中山道、北国海道、伊勢街道の交差する盆地の、笹尾山と天満山の東に、西軍は陣を張った。西軍陣地の弱点は、笹尾山と天満山の間の(北国海道の通る)400メートルの平地である。ここが石田三成の持ち場であった。西軍の狙いは、

長篠の合戦、

で織田・徳川連合軍が、野戦陣地をつくり武田軍と対峙したのと対比される。連合軍は、持ち場で迎撃し、

待ち戦、

で、武田軍に先手を委ね、十分攻撃させ、武田軍の攻撃力が限界に達したところで、反撃に移った。「近代軍事用語」でいう、

攻勢防御、

である。三成の守備する平地の維持が、後手必勝を完遂する必須条件であった。

古文書には、この平地の部分に柵が画かれ防禦工事がされていた様子が見える。ここには現在も土塁の一部が残されている、

という。

西軍の粘りで、攻者側に立つ東軍主力の攻勢限界が見えてきた、のである。後手必勝には、

相手の攻勢を押さえること、

が第一条件である。それを西軍はクリアした。

そして、ついに三成の考える後手必勝の最終段階に到った。東軍は攻勢限界に達している。ここで西軍の大反撃が開始されれば、東軍は壊乱状態に陥る可能性が高い。

三成は、反撃開始の合図を出す。

しかし、反撃攻撃に出たのは石田軍と小西軍、宇喜多軍だけであり、西軍主力の中では小早川軍、島津軍や脇坂、朽木等の諸隊は反撃に加わらない。南宮山の西軍も動かない。反撃は中途半端なものになった、

のである。

反撃に出た西軍の一部が、今度は東軍の防禦クッションに吸収され、時を待たず西軍は攻勢限界にいたった。

ここに至って、

両軍の最高指揮官の意図とはまったく違った混戦、

となり、これを決したのは、

小早川秀秋の裏切り、

である。

家康が西軍の野戦築城された陣地での戦いを望んだとは考えられない。小早川の陣のすぐ近くで東軍が戦ったのは、西軍に引きずられての偶然の結果である。不確実な小早川の裏切りだけに期待をかけ、守りの固い野戦陣地を攻撃するシナリオを作るほど、家康は他人に甘える人物ではない。

小早川軍八千が、南から西軍の脇を衝き、西軍は壊乱した。著者は、こう述べている。

もし小早川秀秋が、長篠合戦のような後手必勝の戦闘を多く経験した武将なら、躊躇なく西軍の一斉反撃に加わった可能性は低くなかろう、

と。

結局、三成は、戦術で家康にまさったが、戦闘で負けた。しかし、それは、南宮山の西軍、毛利秀元、吉川広家が動かず、島津勢、脇坂勢も動かなかったのは、家康の政治力に屈したという意味で、戦略の敗北である。

本書は、現場の遺構から、今までの関ケ原の常識を覆し、西軍側の戦略的な陣地戦を明らかにした。三成の誤算は、描いた戦術を遂行する戦力の見積もりをあやまったことにある。

本書は、また会津での、上杉・佐竹と上杉征伐軍との対峙も合わせて描く。景勝の敗北を、

上杉軍は後手必勝の戦場に防禦工事を行い、万全な構えを整えた。(中略)西国での事変を知った家康は、八月四日小山を出て五日江戸に帰城した。……家康が上杉領を侵さないのなら景勝には戦う意志がないのである。(中略)家康が西へ進みえたのは、家康の意志によるのではなく、景勝のつくりだした軍事的空白が家康の西進を可能にしたのである。(中略)景勝は、政治的感覚がない。軍人家康は敵であるが、政治家家康は彼にとって評価外の存在だったのか。
この時点で景勝が戦線を離脱したのは、政治家家康も彼の敵であることを認識できなかったからである。景勝の敵である政治家家康の力を削ぐために、景勝はいつでも侵攻可能と思わせる態勢を取り続け、家康を関東に釘付けにするべきだった。
(中略)結局は景勝のこのときの戦線離脱が、関ヶ原合戦の後、上杉家を政治的敗者にしてしまうのである、

と政治力のなさにみる。

参考文献;
藤井尚夫『フィールドワーク関ヶ原合戦』(朝日新聞社)

終末論的瞬間

RK・ブルトマン『歴史と終末論』を読む。

大学一年の時、確か一般教養の哲学で勧められて読んだのだが、何に感動したのか、すごく影響を受けたと思い込んでいた。しかし改めて読み直してみても、その感動が甦ってくることはなかった。多分、末尾の、

「わたしは歴史の意味を見ることができない。だから、歴史の中へ織り込まれたわたしの生は無意味である」と不平を言う人は、次のようにいましめられねばならない。あなたはまわりを見まわして普遍史をのぞきこんではならない。あなたは自分自身の個人的な歴史を見つめなければならない。歴史の意味は常にあなたの現在にあるのであって、あなたはそれを見物人にようにみることはできないので、ただあなたの責任ある決断においてのみ見なければならない。終末論的な瞬間である可能性が凡ゆる瞬間の中にねむっている。あなたはそれを目ざまさなくてはならない、と。

という、実存的な言葉に惹かれたのかもしれない。この言葉は、フランクルの、

そもそも我々が人生の意味を問うてはいけません。我々は人生に問われている立場であり、我々が人生の答えを出さなければならないのです、

とか、

どんな時にも人生には意味がある。未来で待っている人や何かがあり、そのために今すべきことが必ずある、

といった言葉を思い起こさせるところがある。しかし、読み直してみて、気づいたことは、主旨は、

宗教的な終末論、

が、

地上に降り、

世俗化され、ついに、

歴史の意味は常にある。そして、現在がキリスト教信仰によって終末論的現在として理解されるとき、歴史の意味が実現されるのである、

と、「いま」「ここ」の、

凡ゆる瞬間は終末論的である、

瞬間へと収斂する流れの中にある、ということである。だから、

パウロとヨハネによれば、終末論的なできごとは劇的な宇宙的破局として理解されるべきではなく、イエス・キリストの出現をもってはじまり、それにつながって歴史の中で繰り返し起こる歴史内の事件として理解されるべき、

ものとなり、

決断を要求する、

ものとなる。

神の恩寵によって自分自身から自由であるものとして、また自分の新しい自己をあたえられたものとしてわたし自身を新しく理解することについて決断する、

という、瞬間、瞬間が終末へと変じている、この歴史観の変遷の中から、人は、

到達点に立つことも、歴史の外に立つこともできない、

のであり、

歴史の内部に立ち、

如何なる現在の瞬間にも真実の生を所有することはできないが、常にその途上にありつつ、しかも自分自身から独立した歴史の進行によって左右されることのない人間の本性――これが歴史性である。凡ゆる瞬間は責任の今、決断の今である。このことから理性的必然性によって発展する進歩から成り立っているのでもない。というのは、歴史的経過は人間の責任、個々の人間の決断に課せられているからである。歴史の統一は未来に対すると同様過去に対する責任としてのこの責任に基礎をおいている。

のである。

未来に対する責任は、同時に、過去の遺産に対する責任を負う、

という、

一人一人の決断、

に、終末論的一瞬を収斂させたところに、本書の眼目がある。

歴史経過の凡ゆる現在の瞬間に歴史的全体が充満する、

からこそ、その瞬間が終末なのである。その意味では、その瞬間が、

世界審判、

でもある。

凡ゆる現在がそこから生じる過去は決定する過去ではなくして、解決もしくは展開を要求する諸々の問題を現在に提供するところの過去である。個人は己の状況を知ることによって自己自身を知るのである、

からこそ、

凡ゆる瞬間は責任の今、決断の今、

なのであり、その意味で、

凡ゆる現在の瞬間は終末論的瞬間、

なのである。それに比べれば、

歴史を自然や宇宙に準えて、周期的な自然的な、生成と消滅のリズムとして観察する、

ギリシャ・ローマ的な歴史観も、

現在の世界が終わり、新しい、終ることのない世界がもたらされる、

とするユダヤ的な終末論も、

キリストの受肉、十時か上の死、復活及び栄光化がはじまる、

とするキリスト教的な終末観も、

期待されていた世界の終わりが到来せず、「人の子」が雲に乗って天から現れず、歴史が進行して終末論的な共同体が歴史的現象になった、

ことによって世俗化し、

キリストの体としての教会、

が代わり、終末論は、際限のない未来へ移し入れられ、

受洗、

そのものが、終末へと矮小化されていく。それは、歴史の外に立つことではなく、歴史の中に立つことを求めることに変わった、と言ってもいい。終末論の世俗化の、

ヘーゲルの絶対精神の弁証法、

も、

マルクスの弁証法、

も、いわば、終末論の世俗化である。それが、

科学的進歩、

になり、

福祉、

になっても、

世界の歴史は同時に救済の歴史である、

という終末論の変形であることに変わりはない。

ヘーゲルとマルクスは、それぞれの流儀で自分が歴史の目標を知っていると信じ、この前提された目標の光の下で冷気の進行を解釈したのである、

しかし、そのいずれもが、

歴史の外に立っている、

のではないか、と。

参考文献;
R・K・ブルトマン『歴史と終末論』(岩波現代叢書)

世界と世界史

K.・レーヴィット『世界と世界史』)を読む。

著者の、次のことばは印象的である。

「何かを問うこと、そしてそれによってそのことを問題にすることは、与えられたものを超えて問う者だけができる。何かを問うことなしにそのまま受け取る者は、そのことを求め検べつつ問題にすることができない。問題にされうるのは、人が距離をおいたものだけである。(中略)距離をおくということは、世界および自分自身から離れていることによって、自分自身および世界の何の疑いもない自明的存在を放棄したことを意味する。そのように距離をおいて遠ざけることなしには、世界の解明は存在しない。(中略)動物も人間も無言で直接に苦痛を表すことができる。しかし人間だけが、何が苦しいかを言い、それによって自分自身および自分の苦痛に距離をおくことができる。距離をおくというこのすべての人間的態度を特徴づけることがらに、人が相対するものを対象化する可能性が存する。」

それは、「世界」や「世界史」という概念をつかむためには、この世界を、そして、その全体を対象化しなければならない。日本には、「世界」も「世界史」も、近代化する以前、つまり開国するまでは存在しなかった。今日の「世界」は、仏教語の「衆生が住む時空」の意味でしかなかった。つまり、日本には、今日言う、

地球上の人間社会全体、

という意の、

世界、

はなかった。世界が無ければ、

世界史、

もない。そういう対象化する者は、

「そのことによって、世界および自分自身から自分自身を疎外したことになる。人間は、他在にあって自分自身を失わずにいるためには、世界の中へ、何か他の見知らぬものの中へはいるように、よそ者として居をかまえることができ、またそうしなければならない。疎外という距離を保ちながら、人間は、存在するすべてのものに近づき、見かけの上ですでに熟知しているものを不審なものとして習得することができる。もし人間が、自分が浸透している自然と自分を包囲している世界から、それを不審なものと見るほど、自分を遠ざけることができず、植物のように大地に合生して、地面に根を張っているか、あるいは動物のように特別な環境に縛りつけられているとしたなら、人間は自分自身および世界に対して何らかの態度をとることも、自分自身および世界に、それが(自分自身および世界が)何であるかを、問うこともできないであろう。」

といういうマインドは、西欧的だが、それは、『鎖国―日本の悲劇』で、和辻哲郎をして、敗北によって,情けない姿をさらけ出した日本民族の,

科学的精神の欠如,

を嘆かせた「世界的視圏」,特に「視圏」の射程の短さを撃つ言葉につながる気がする。

そのマインドは、ギリシャの、ギリシャ語の「テオリア」、

知識のための知識欲、

から始まる。「実際的に有用な目標をもたない純粋な知識欲」は、

あるものから距離を保つ、

ということが本質的な特徴である。

「あるものから距離を保つということは、世界の中における習慣的な生活から遠ざかったことを意味する。そのように遠ざかって距離を保つことがなければ、いかなる世界解明も存在しない。(中略)そこに、人がある態度をとって対するものの対象化の可能性が存する。」

そして、

存在するものの全体を包括的に把握する者を、

哲学者、

と呼ぶ。

「事物がそのようにあって別のようにあるのではないということに驚異することができる」

それは、

「可視的な世界の驚くべき事実、太陽の規則的な運行、月の盈虧(えいき)と星の運動、一般に天界、そして地上で発生し消滅しながら生きている一切のもの」

に向けられる。ここには今日言う「歴史」はない。経ていく時間は「宇宙」(コスモス)の循環の一つでしかない。アリストテレスは、

「『世界』は、コスモスと同時にウーラノスをも意味する。そのさいウーラノスはもっと外側の天球の包括的なものを、コスモスは包括されたもののそれ自身において組織されたものを表す。両者はあわせて、世界秩序としての世界、宇宙の秩序づけられた支配と管理を表す。」

という世界を描く。ギリシャ人にとって、

死すべき人間に対する永遠の天界、

は、人とは別の世界であり、そこには、

世界史、

は存在しない。しかし、

「ユダヤ教とキリスト教が超世界的な創造者たる神に対する人間の関係に問題を集中してコスモスを軽んずる用になって以来、世界は世界史になってしまった。」

のであり、

「人間があらゆる被造物のなかで神の唯一無類の似姿であり、あるいは選ばれた民として神と契約を結んでいるものとすれば、人間は世界においてある特別な地位――人間のみを神的なものと同類のものたらしめ、『神の死』の後に地上の創造主にするような地位――を占めることになる。」

つまり、「世界」は、ギリシャ的「コスモス」から、

「神によって意欲された創造から、人間のための人間世界になる。」

という、「救済」のための「世界史」になる。この、

救済史、

つまり、

神的な始りから神的な終わり、

を、

約束からその実現(最後の審判)への前進、

とみなしたことが、

ヘーゲルの世界精神の現実化、

という、

キリスト教的信仰の世俗化をもたらし、それが、マルクスの、

史的唯物論、

という終末論の世俗化を理論化に至らしめた。しかし、こうした「何かを目指している歴史」という考え方、

歴史主義、

は根深く、

「もろもろの理念、神、道徳律、理性の権威、進歩、支配者の幸福、文化、文明などがその建設的な力を失い、無価値」

になったとし、

「人間は歴史的に制約されているのみならず、根本的に歴史的に存在する――つまり人間は徹頭徹尾時間的な存在だからである。歴史的な意識と伝達の可能性は、ハイデッゲルによれば、人間的実存――それの時間性がもっとも決定的に表現されるのは、それが死を予想して実在している、あるいは『終わりに向かう存在』である、という事実においてである――の総体的かつ徹底的な歴史性に存する。」

とするハイデッガーですら、

「存在そのものは『存在の生起』であり、その真理は真理の生起であり、歴史的な出現と隠伏はそれぞれ、そのさどの決定的な瞬間に変化する『現前』と『不在』である」

と、言ってみれば、時間軸を短くし、終末を、「存在の運命」の瞬間に貶めただけのように見える。だからこそ、ヘーゲルとハイデッガーとは、「異なるものではない」と、著者は言ったのであろう。

「両者は精神史的歴史主義と存在史的歴史主義の同じく近代的な思い上がりの中で動いている。」

と。

「世界は、われわれが『世界の中に在る』というそのつどの歴史的な事実を超えて、存続する。世界と世界史は互いに等置されているのでもなければ、おのずから生きている人間がただちに歴史的実存なのでもない。哲学が昔から要求してきたように、全体において存在するものを単に言葉の上だけでなく真に考察する者は、世界を世界歴史で狭めようとすれば、かならずその主題を取りはずすことになるであろう。ヘーゲルの形而上学的歴史主義、マルクスの歴史的唯物主義、ハイデッゲルの『存在の定め』(中略)はいずれも、人間から出発するがゆえに、世界の理解のためにはひとしく不十分である。」

とし、こう言う。

「おのずから存在するコスモスの全体においては、すべての人間的な言説、すべての饒舌は、自然をつらぬいている無言の沈黙の音のない声を中断するものにすぎない。」

と。ふと、今日の宇宙論においても、同じく「人間から出発する」発想の、「人間原理」http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-6.htm#%E4%BA%BA%E9%96%93%E5%8E%9F%E7%90%86理論を思い出したように、

「世界を世界史と、そして世界史を人間の作ったものと、取りちがえる」

のは、いまも生きている。

著者は、最後に、

「われわれが知識を有する以前には、山や川が単純に山や川であり、それ以上の何物でもないように見える。われわれがある程度の洞察を獲得すると、山や川は山や川以上の何物でもないことをやめる。……しかしわれわれが完全な洞察に到達すると、山はふたたび単純に山になり、川はふたたび単純にかわになる。」

という禅語を引く。それは、

このようにあって別のようにない、

という世界の承認へとたどり着く。道元の、

而今(じこん)の山水は古仏の道どう現成(げんじょう)なり。ともに法位住じゅうして、究尽の功徳を成ぜり、

という

今、眼前の山水の自然の姿はそのまま仏の悟りであり、それ以上の教説はあり得ない、

と通ずるが、対象化するプロセスを経ていないものは、修行前の「山と川」しか見ることはできないのである。その差は大きい。それは痛烈な警告である。

参考文献;
K・レーヴィット『世界と世界史』(岩波書店)

エクリチュール

ロラン・バルト『零度のエクリチュール』を読む。

本書は、

零度のエクリチュール、
記号論の原理、

の二本の論文を載せる。前者は、

「文語の歴史的条件についての自由な考察である。自由ではありえないエクリチュールを通してつねに自らを意味づけざるを得ない文学のある種のむずかしさ」

を、後者は、ソシュール後の、

「構造主義的言語学の概念」

を叙述している、と著者は「まえがき」で述べる。二つの共通点は、

「通称従属的意味作用(コノタシオン)と呼ばれている同じ言語の事実を扱っている。コノタシオンとは、どのような記号(シーニュ)のシステムの上にあろうと、二次的な意味が発展する現象をいう。」

とし、その「二次的な意味が発展する現象」が、前者は、

「作家の言述(ディスクール)は、それが語っている内容と同時に、それが文学だということを語っている」

ということを、後者は、

「コノタシオンと、その反対命題である意味表示作用(デノタシオン)とが言語学概念のシステムを仕上げている」

ということを分析している、と著者は絵解きしている。

僕には、「エクリチュール」についての論述の方が興味深かった。「エクリチュール」は、英語では、

Writing,mode of writing,

に当たり、敢えて訳せば、

書字、
書法、
書き方、
文章以外の映画・演劇・音楽などの表現法、

等々と説明される。たとえば、

評論モード、
小説モード、

と言ったり、

物語モード、
私小説モード、

と言ったりする、表現の様式を指す、と思われる。バルトは、冒頭、

「エベールは『ペール・デュシェーヌ』紙の記事をいつもきまって、『くそ』とか、『ちくしょう』といった類のコトバではじめたものだった。これらの粗野な口調は別に何も意味(シニフィエ)しはしなかったが、さし示し(シニヤレ)はしていた。何をか? ある革命的シチュエーションの全体をである。だからこれはもはや単に伝達(コミュニケ)したり、表現(エクスプリメ)したりするだけではなくて、言語(ランガージュ)のかなたのものを強いるのが機能であるエクリチュールの見本といっていいし、言語のかなたのものとは歴史であると同時に、そこにおける主体の決意なのである。」

と書き、その文章が時代に対する罵り言葉の中に、革命時の「過激派」であるという言外の意味を滲ませている。この「エクリチュールの見本」は、書き手の選択でもあることを、同時にバルトは言っている。そして、こう補足する。

「告げ知らせるあてなしに書かれる言語というものはないし、『ペール・デュシェーヌ』紙について真実なことはまた、文学についても同様だ。文学も内容や個性的な形式(フォルム)とはちがった何事かをさし示しているはずであり、その何事かはまさしく文学が文学として刻印されるゆえんのもの、つまり自らの囲い(クロチュール)にほかならない。そこから、言語体(ラング)とも文体(スチル)とも関係なしに与えられ、あらゆる可能な表現様式の厚みのなかである儀式的言語の孤立を明示することをめがけた諸記号(シーニュ)の総体が生ずる。」

この総体、つまりエクリチュールが、

「文学をひとつの制度と位置づけ、明らかに文学を歴史から引き離す傾向をもつ。どんな囲いも永続の観念抜きには作られないからである。」

それは作家の前に、彼の、

言語体(ラング、例えば、日本語、フランス語を指す)、
文体(スタイル、センテンス、句読点、語彙、改行などのその人の文章スタイル)、

とは別に、

「選択を不可避とさせるもののように」

立ち現れ、

「自分が思うままにできないもろもろの可能性にしたがって文学を意味づけることを作家に余儀なくさせる」

と。このとき、エクリチュールは、制度として、あるいは「約束事」として、ある。しかし、

「作家の最初のミブリは、過去のエクリチュールを引き受けるにせよ拒むにせよ、そうすることによって自分の形式の拘束(アンガージュマン)を選ぶことだった。」

だから、エクリチュールは、

「作家がその途中で出会い、眺め、対峙し、引き受けなければならず、作家としての自分自身を破壊しないではけっして破壊できないオブジェ=形式を馴らしたり、はねつけたりする一種の修練」

となった、と。矮小化した言い方をするようだが、たとえば、

小説とはこういうもの、

という制度化したものを崩すのは結構きつく、

これは小説ではない、

といういい方で拒絶されうる、一種、小説というものの、

パラダイム、

である。そうみると、バルトが、

零度のエクリチュール、
あるいは、
エクリチュールの零度、

というものを、

中性のエクリチュール、

と言っていることの意味が、分かってくる。現代の最先端の作家が何を意識的に試みているかは、僕にはわからないが、