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コトバ辞典


Dream


ここで言う,Dreamは,

マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの,「I Have a Dream」ではなく,

レム睡眠(Rapid eye movement sleep, REM sleep)で見る,

夢のことである。

夢はレム睡眠というごく浅い眠りに随伴する内的体験,

だとされている。本当に完全に脳が休んでいる状態なら意識は途切れるので,夢体験が起こることは考えにくい,といわれる。

脳がある程度の活動状態に保たれている,

からこそ,夢を見ることができる。夢を見ている最中は,

脳の奥のほうにある記憶に関連した大脳辺縁系と呼ばれる部分が活発に活動し…,同時に大脳辺縁系で情動的反応に関連した部位も活発に活動している…。一方で,記憶の照合をしている,より理性的な判断機能と関連する前頭葉の機能は抑制されている,

とされ,フランスの脳生理学者ミッシェル・ジュヴェの発言がいい。

レム睡眠中には,動物も人間も危機に対処する行動をリハーサルし,いつでも行動できるよう練習している,

という。つまりは,イメージ・トレーニングである。

ここでは素人が専門的な夢に立ち入るつもりはないが,自分の夢には,ずっと特徴がある,と思っている。といって,精神分析家やユンギアンにかかったことがないので,特徴かどうかも,素人判断だが…。

特徴は,二つある(といっても正確に覚えているわけではないので),ような気がする。

ひとつは,よく夢の続きを見る。
いまひとつは,よく探し物をしている。

探し物というのは,いろんなパターンがある。たとえば,

どこかと誰かと飲んでいて,店を出て,忘れ物をしたことに気づくが,なかなか店に辿り着けない,

あるいは,

多分会社とおぼしい事務所に,忘れ物をして,それを捜しに行くのだが,事務所へたどり着けない。

あるいは,よくあるのが,

トイレに行こうとするのだが,よく知っているはずなのに,なかなかたどり着けない。あると思うと,風呂だったりする。

そのプロセスだか,別のことだか分からないが,よくあるのは,高いところから,降りていくのに難渋するのケースだ。階段だと思うと,途中で切れていたり,途方もない高さのベランダのようなものに出て,そこから下への方法がなく,そろそろと,伝わりながら下りている,ということが多い。辿り着いたかどうかまでは,覚えていない。

それと関連するが,飛び降りなくてはならない,というシチュエーションが存外多い。いまでも少しだけ覚えている例でいうと,

高い山頂から,一直線に,尾根沿いを下る,急角度の坂の上で,そこを滑り降りるか,駈け降りるか,選択を迫られている,しかし他に余地はなく,渋々というか,恐る恐る,そこを下りだす,

というような感じだ。

何処かへ行こうとして行き着かない,

何かを捜そうとして,探し出せない,

何とか行こうとすると,道や階段がない,

こんなふうな感じの夢が多い。

僕は,いつも,何かを,

探しあぐねている,

らしいのだ。夢の専門家なら,何かを言い当てるかもしれないが,まあ僕には思い当らない。第一,そんな冒険家でも野心家でもドリーマーでもないので,夢を見ているときは,わくわくよりは,じりじり,という感覚が残っている。

しかし,ああ,これはいつぞやの夢の続きだ,

と夢の中で思っていることが再三ある。単なる,デジャヴ(?)かもしれないが,確かに,その感覚があるし,

話が続いている,

(と思って夢を見ている)のである。そして,稀に,忘れ物を探し当てることがある。しかし,これは最近だが,

忘れたと,思って急いでその場へ戻ると,カードすべてが抜き取られた空財布だった,

ということがある。そのぞっとした感覚は,なんとなく残っている。

別に夢判断をしたいとは思わないが,

レム睡眠は朝に向かって増える。夢は,

脳の機能から考えると,ノンレム睡眠の時に休んだ脳機能を朝の覚醒にむけて,外界の変化から離れた夢を見ながら徐々に働かせている。

つまりはオフライン状態のときに,ウォーミングアップしているのだという。そういえば,昔は,

空を泳いている,

夢をよく見た。ユンギアンは,言葉を覚えた時代のもの,という。

しかし,何のウォームアップになるのだろう。

参考文献;
内山真『睡眠の話』(中公新書)

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岐路


岐(わかれる・ふたまた)路。分かれ道のことだ。支は,細い小枝を手にした姿で,枝の原字だとされる。枝状に別れた山道というのが,原意らしい。

「分れ道」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E5%88%86%E3%82%8C%E9%81%93)については書いたが,「わかれ」といっても,分かれ,訣れ,別れ,とある。

分は,合の反対,ものを別々にわける。
別は,弁別,これはこれ,彼は彼と区別する。
判は,分に断の意を兼ねて,判別,判決。
頒は,分かち賜う意。
析は,斤にて木をわる意。
訣は,永く別れる意。

と,わかれるだけでも,これだけある。分かれ道にも,それだけの意味がある。

そういえば,田中英光が,『さようなら』のなかで,

「人生即別離」とは唐詩選の一句,それを井伏さんが,「サヨナラダケガ人生ダ」と訳し,太宰さんが絶筆「グッドバイ」の解題に,この原句と訳を引用し…,

と書いていた。そう,どこかでも書いたが,原句は,于武陵の,

勧君金屈巵 (君に勧む金屈巵)
満酌不須辞 (満酌辞するを須いず)
花發多風雨 (花發けば風雨多く)
人生足別離 (人生別離足る)

だそうで,それを,井伏鱒二は,

コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生だ

と訳した。

一期一会

に通じるのだろうが,と思って調べていたら,寺山修司が,

さよならだけが人生ならば また来る春は何だろう

という詩を書いているという。調べると,『さよならだけが人生ならば』という題で,

さよならだけが人生ならば また来る春は何だろう
はるかなはるかな地の果てに咲いている野の百合何だろう
さよならだけが人生ならば めぐり会う日は何だろう
やさしいやさしい夕焼と ふたりの愛は何だろう
さよならだけが人生ならば 建てた我が家なんだろう
さみしいさみしい平原に ともす灯りは何だろう
さよならだけが人生ならば 人生なんか いりません。

となっている。ついでに載っていたのは,カルメン・マキに贈った,『だいせんじがけだらなよさ』という詩も,寺山修司にはある。

さみしくなると言ってみる ひとりぼっちのおまじない
わかれた人の思い出を わすれるためのおまじない
だいせんじがけだらなよさ だいせんじがけだらなよさ

さかさに読むとあの人が おしえてくれた歌になる
さよならだけがじんせいだ
さよならだけがじんせいだ

寺山修司なりのこだわりを,この詩に書いたことが分かる。(「だいせんじがけだらなよさ」はさよなら云々を逆さにしている)。

人は二度死ぬ,

というのは,柳田國男が言ったのだとばかり思い込んでいたが,クリスチャン・ボルタンスキ―というフランスの芸術家が言った言葉だ,と言う説もあり,

たった1人でも,だれかがあなたを思っている。だれもあなたのことを思わなくなったら,人はこの世からいなくなって消えてしまう,

ネイティブアメリカンのブラックウルフ族の伝承という説もあり,真偽は分からない。ともかく,

人は二度死ぬ,

そう思うと,別れにも,二度の別れがあり,

面影

が残っているだけ,あるいは,別れは終わっていない,と言うこともできる。

別れ道は,しかし,一つを捨てることだ,それを捨てたことにこだわることは,そこで決断ができなかったことだ。ならば,戻った方がいい。心にそれを残したままでは,心は,未来ではなく,過去を見続けていることになるから。

参考文献;
簡野道明『字源』(角川書店)
田中英光『さようなら』(現代社)
井伏鱒二『厄除け詩集』(筑摩書房

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なずむ


なずむは,

泥む
あるいは
滞む

と当てる。 意味は,辞書(『広辞苑』)には,

行きなやむ,はかばかしく進まない,滞る,
離れずに絡み付く,
悩み苦しむ,気分が晴れない,
拘泥する,こだわる,
かかずらわって,そのことに苦心する,
執着する,思いつめる,惚れる,
なじむ。なれ親しむ,

とあるが,他を見ると,その他に,

植物がしおれる。生気がなくなる,

という意味もある。語源は,

「ナ(慣れ)+ツム(動かず)」

で,物事が進行しない,,はかばかしく進まない,意で,心がそのことから離れないことを言う,とある。その意味では,「なずむ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E3%81%AA%E3%81%9A%E3%82%80) で述べた,「馴染む」とつながるところがある。「暮れなずむ」という言い方は,日が暮れそうでなかなか暮れない,というもともとの「泥む」に近い使われ方なのかもしれない。

本来,行き悩む,はかどらない,という意味から,何かに捉われている心の内にメタファとして使われ,そこから,悩みや苦心,執着,馴染むへと広がっていったのはわかるが,萎れるは,また別の系統で意味が広げられた感じがする。敢えて言えば,「行き悩む」が「生き悩む」あるいは「育ち悩む」とスライドさせれば,つながらなくもない。

『古語辞典』をみると,「なづみ」で出ていて,

「ナヅサヒと同根。水・雪・草などに足腰を取られて,先へ進むのに難渋する意。転じて,ひとつことにかかずらう意」

と注記がある。因みに,「ナヅサヒ」を見ると,「ナヅミ」と同根とあって,

水に浸る,漂う,
(水に浸るように)相手に馴れまつわる,

とあり,さらに,「なづさはり」という言葉があり,「ナヅミと同根」として,なじみになる,という意味が載る。「なづみ」の意味は,上記とほとんど変わらないが,

惚れること,
恋着,

が,「行き悩む」「まつわりつく」「ひとつのことにとらわれて悩む」とは別途に意味が立てられている。あるいは時代の違いかもしれないが,辞書だけからはわからない。

滞る,
閊(つか)える,
行き悩む,
拘る,
執着,
拘泥,

というのが類語だか,泥む,という言葉は,ちょっと独特の語感がある。拘泥というのと,泥むというのとでは,前者は頑なさがあるが,後者には,馴れる感じが付きまとう。元の意のもつ,

行き悩む

行き兼ねる

と並べてみると,

躊躇

というニュアンスが出る。「〜(し)兼ねる」というとき,そこには,ただ,

〜することができない,

という「不可能」とか「不出来」ということと同時に,

〜することに耐えきれない,

という心情が含まれている。「兼ね」には,「あちこちに気を使ってヒトの気持ちをおしはかる」「憚り思う」というニュアンスがある。「泥む」というときの心境と重なるような気がする。

ただこだわっているのではなく,そこに愛着というか,こだわるものがある,という感じであり,滞るという外見ではなく,おのれを滞らせている内面が,躊躇いに似てくる。

「泥」の字の,「尼」は,

尸(ひとのからだ)+比(ならぶ)の略体」で,

人が相並んで親しむさま,
人と人とが身体をよせてくっついたさま,

を示す会意文字(この含意は「昵懇」の昵に残る),

と言い,「水」をつけた「泥」は,

ねちねちとくっつく,

という意味になる。そこから,

ねちねちとくっついて動きが取れない,

という意味を含み,「拘泥」という用例につながる。いつも思うのだが,先祖たちは漢字に熟知していた。漢字を当てることで,和語が奥行と陰影をもった。「泥」の字を,なずむに当てたのには,深い意味がある。

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一貫性


どうも,

一貫性,

という言葉に弱い。始めから終わりまで一つのこと,あるいは考えを貫く,

一念岩をも通す,

というし,

虚仮の一心,

とも言う。あるいは,

匹夫も志を奪うべからざるなり,

と孔子の曰われるのも,その伝だろう。

しかし,たぶんまれだから,そういうのだろう。どうも,しかし,振り返ると,それほどの一貫性のある生き方ではない。たとえば,

人生とは,なにかを計画していている時に起こってしまう,別の出来事のことを言う,

とか,

結果が,最初の思惑通りにならなくても,…最後に意味を持つのは,結果ではなく,過ごしてしまった,かけがえのないその時間である,

というのに惹かれるのは,言い訳のにおいがするかもしれないが,そのときに身をゆだねる,ということの方に惹かれるせいかもしれない。

道草し,そこで一生過ごすかもしれない,

そのことが悪いことには思えない。よく童話であるのは,そういう道草してしまった兄弟姉妹を連れ戻す話が多いが,それは,日常側から見ているからではないのか。浦島太郎は,龍宮から戻ってきたが,それがよかったかどうか。

泉鏡花の『高野聖』の若い修行僧の宗朝が,山へ引き返さなかったことが,よかったかどうかは,誰にもわからない。山に戻り,その女の魔力で馬の姿に変えられ,猿に変えられても,その方がよかったのかもしれない。

小説では,

朝,女の家を発ち,里へ向いながらも美しい女のことが忘れられず,僧侶の身を捨て女と共に暮らすことを考え,引き返そうとする。そこへ馬を売った帰りの男と出くわし,女の秘密を聞かされる。男が売ってきた昨日の馬は,女の魔力で馬の姿に変えられた富山の薬売りだった。女には男たちを,息を吹きかけ獣の姿に変える妖力があるという。宗朝はそれを聞くと,踵を返しあわてて里へ駆け下りていった,

のだが,ここが,寄り道するかどうかの瀬戸際ということになる。

あくまでまっとうな日常をよしとするからこそ,僧の話に納得できるが,

もったいない,

あたら面白い人生を捨てた,

と思う人だっていなくはない。

安部公房の『砂の女』で,(記憶のままに書くので,思い違いかもしれないが),

砂の穴から必死で逃げようとしていたはずの男が,あるとき,砂に桶を沈めておくと,水がしみ込んでくるのを発見して,砂の中では,水の確保が最大の課題だったから,そのことをまず,自分を砂の穴に閉じ込めたはずの,当の女に伝えたい,

と思ったシーンがあった。そのとき,もう数十年も前のことだが,

ああ,日常に捉えられるというのはこういう感覚なんだ,

と感じたことを鮮やかに覚えている。それは,悪い感覚で気はなく,職場で,ある問題の解決を思い浮かべたとき,まず最初に伝えたいと思うのは,職場の仲間に,だというのと似た感覚だ。

もちろん,他方で,

死して後已む,

という思いがなくもないし,

この世に偶然はない。人は偶然を必然に変える力を持っている,

という言葉に惹かれないわけではない。だが,僕は,

寄り道,

回り道,

した人の方が好きだし,回り道したまま,戻ってこない人が,もっと好きだ。自分には,できない,何かをそこに感じるからだろう。

ひとり思い当たる人がいる。まさに,彼は,

遊子

である。

参考文献;
龍村仁『ガイアシンフォニー第三番』

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ねぎらい


ねぎらう

は,

ネギ(祈願・労う)+らう(動詞化)

で,神の心を慰め,かごを願う。禰宜も同源という。

祈るのは,結局自分のためなのだ,労いは,自分のためでもある。

棒を呑む

それも,無理やり飲まされる

ようなものだとつくづく思う。人の死を受け入れる,ということがだ。それについては,「死」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E6%AD%BB) で触れた。

連絡が遅れたのは,ぼくら二人には必ず知らせるように,と言い残した当人が,連絡先をどこにも残さなかったからだ,という。まあ,年賀状とかを書かない人なので,偶然書庫を整理していて,本の見返しに,もう一人の友人の電話番号がメモ書きしてあるのを発見した,と言う。

主人が知らせてくれた,

と再三言われたようだ。

確か,昨年夏,一度会おうか,と僕はその友人に言ったらしいのたが,言われた本人が,仕事にかまけて遅れ遅れになったことを,知らせを聞かされて悔い,その夜は眠れなかった,と言う。

お互いが無理やり飲んだ棒のことを話し,当人の悪口を言い合いながら,昼間から,二人で,飲んだくれた。二人にしては,珍しい。大体それほど強くない僕が,あれほど飲んでも,そんなに強かったか,と呆れられるほど,ほとんど酔わない。

不思議な縁で,いったん切れた関係が,本当に奇跡的な偶然で,僕が死んだ彼と再会したことで,つながりが復活した。もう,三十年近く前のことだ。それ以降は,三人離れ離れで,バラバラに仕事をしていたのに,何年かに一回,多いときは,月に一回,さりげなく誘い合って飲み交わした。その飲み交わしの場をつくるために,僕と近所に住む友人は,まず飲み交わし,それから死んだ彼との場を設定する,と言う手順を取ることが多かった。二人は,横浜に住い,亡くなった一人が八王子に仕事場を持っていたせいで,八王子か,横浜で,ということが多かった。

始めは墓参りをする気はなかったが,飯能だか入間だかに墓があり,それも,亡くなったご子息の名を刻んだ墓石の中に,納まっている,と聞くと,やはり一度は行っておかなくては,と思う。墓に,息子の名を刻んだときは,そこに自分が入る予定はなかったのだろう。しかしそこに,納まるのは,彼らしい,と思う。

遊子

という言葉が似つかわしい奴だったと思う。

飄々として生きた彼は,何となく悠然と河を渡っていった気がする。

あまり怒った顔を見たことはないが,友人は,一度だけ,建築業の作業服を着た酔っ払いに絡まれ,大声で怒鳴りあっているのを目撃したという。相手は,こっちの風体を見て差別するのか,と絡んだらしいが,そういうことのまるでない人だから,そういう因縁のつけられ方に,切れたのではないか,という。

僕もあまり怒ったところを見たことはない。僕がいらちで,もう一人と結構衝突するが,二人(の意見)はどこが違っているのかわからん,結局同じじゃないか,とよく言われたものだ。丸めれば同じだが,その差に意味があるから,そう言われると,立つ瀬がなくなる。そんな関係であった。

もう若くはないので,いら立ちをぶつけるエネルギーは失せている。穏やかなものだ。

亡くなった友人をねぎらうというよりは,残された二人を互いにねぎらい合い,結局,墓参りをすることになった。それも,彼のためというよりは,自分たちのためのような気がする。互いに体内に爆弾を抱えているのだから。

重大なものが終わるとき
さらに重大なものが
はじまることに
私はほとんどうかつであった
生の終わりがそのままに
死のはじまりであることに
死もまた持続する
過程であることに
死もまた
未来をもつことに(「はじまる」)

石原吉郎のこの詩がふいに浮かぶ。はじまるのは,死んだ彼にとってではなく,残されたものにとって,なのだろう。

死もまた未来をもつ,

確かに。

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消化


心の平安,と言うと大袈裟だが,僕にとって,心のバランスをどうとるか,と言うと,たとえば,外との関係で言うと,

@外に対し,バリアを張って外部刺激をはねつける,

A外に対し,バリアを張るが,取捨選択して,濾過する,

B別に何でも構わず浸透させ,混ぜ合わせる,

極端に言うと,こんな感じか。

かつては,まあ,バリアを張る,というか,閉じこもる,というのに近かった。自己完結したがるというか,そういう時間というか,そういう場所が必要だった。いまでもそれは,基本的に変わらないが,

別にいいじゃないか,

というほど大胆にはなれないが,

浸透させてみて,かき回し,自分でひねくり回してしまう,

というのが近いかもしれない。こちらの方が,質が悪いのかもしれない。

自分流儀に直してしまう。換骨奪胎,というと聞こえはいいが,真似という痕跡を残さない,というのに近い。そこに,自恃がある。

しかし,それは主体的になっている場合で,受け身に回ると,全くそれが出来なくなる。

自分が主体的にいろんな刺激を取りに行く,例えば,

先達の考え方,方法,

競合者の考え方,方法,

学びに行くときは,まだそれを受け止めるキャパかあるが,そうでないときは,押し込まれたり,波風立てられると,その状態をそのまま受け入れられるほどに器用でもないし,器量も小さいので,どうしても,

それを自分の中で整理統合する,

そのための時間が必要なことが多かった。いまも,そういう消化の期間は,必要でないことはないのだが,

その場で,前捌き,

ができる,面の皮が厚くなった。自分の世界と,人の世界との違いと共通点を,

そんなにタイムラグなく,

整理できる,

あるいは,

融合したり,分離したり,

出来る。なんだろう,場数を踏んだせいなのかもしれない。しかし,その本当の影響は,

後になって効いてくる,

ということが多い。特に,そこで反発や異論を感じたものほど,

自分の考えとすり合わせ,自分の世界にきちんと位置づけるためには,時間がかかるような気がする。これだけは,やはり変わらない。

その異質さというか,違和感が大きいほど,無理やり,それを呑みこまされる感じがあり,消化するのに時間がかかるということだ,しかし,その異質さを自分の中に,きちんと位置づけ直せた時,

自分に見える世界が,結構変わる,

そんな気がしている。

その意味で,結局思うのは,似た考えの人とだけ交わっていては,自分の変化というか,変身は起きず,その場合,皮下脂肪や内臓脂肪が増えるだけなのではないか,という気がする。

自分の考えの身の丈が大きくなるには,

棒を呑む

ように,本当に異質な考えを,何とか飲み下し,自家薬籠中のものにしていくという,消化の努力なしにはあり得ない,という気がしてならない。

いまは,自己完結は手放して,しかも前捌きで都合のいいものだけを濾過するのも,あまり得策ではない。むしろ,大いなる異質さ,違和感を,無理やり飲み込むことが,まだまだ必要だと,思っている。

それには,脳の消化機能を鍛えなくてはならない。

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すみません


つい言ってしまわないか。

すみません

と。大概曖昧だ。謝る意思を示すときは,

ごめんなさい,

と言う。しかし,すいませんは,ちょっとニュアンスを濁す感じがある。

すむ,

は,

住む,済む,澄む,清む,棲む,栖む,

と当てる。

すみませんは,語源的には,僕の見たものでは,

「澄み+ません」で,謝罪,感謝,依頼などで,「済みません」と書くので,「完了しない」とされることが多いが,違うのだという。

スミは,澄むが語源。かきまわした泥水が,時間経過とともに沈殿して清らかに澄んでくる。同じように,澄むはずの心が,澄まないのが,済みません,の語源,

なのだそうだ。

人から恩義を受けて,心がかき回され,いつまでも心の中が済まない,安定しない状態,

これが済みません,なのだという。

そう受け止めると,北山修氏が,こう書いていたのが,よく分かる。

「済みません」は,周辺や相手の状態がなかなかすまないという状況とともに,「御迷惑おかけして」「ご面倒をおかけして」と,相手にかけた迷惑が自分の心のなかで澄まない,落ち着かない,乱れている,という感覚や自体も捉えています。つまり,周りに濁りや乱れ,騒ぎを生じさせたことについて「すまない」と言い,相手だけではなく自分も内的にすんでいないことを進んで認め,謝罪の言葉としているわけです。それは対話の相手に向けられた謝罪であると同時に,澄んでいることを最高の規範のひとつとして共有する周りや周囲,つまり共同体に対し,自らのすんでいないという,浄化の不十分さを謹んで申し上げているのです。

そう考えると,あいまいさの中に,自分の側の落ち着かなさをも含めているということになる。その段階で,

謝罪,

の責任の所在を,相手にも分有させようとしている,と取れなくもない。

これを英語に訳そうとすると(確かではないが),

○感謝。 Thank you very much

○お詫び。I am sorry.   
     Excuse me

ネットで見ると,もっと細かく分けているのもある。

1相手の立場に関係なく使える表現(通常の表現)I'm sorry.
2「本当に申し訳ございません」と述べる時(通常の表現)I'm very sorry.
3「残念ながら,〜です」という表現(丁寧な表現)Unfortunately, 〜.
4会議に遅れる場合(丁寧な表現)Please excuse my lateness.
5たいへん地位の高い人に謝罪の意を述べる場合(丁寧な表現)A thousand apologies.
6「恐縮ですが,〜です」という表現(やや丁寧な表現)I'm afraid 〜.
7「ご理解お願いいたします」という言い回し(やや丁寧な表現)We hope you understand.
8ウェートレスがお客さんの注文を間違えた場合(やや丁寧な表現)I'm terribly sorry.
9本当に罪悪感を感じて謝る場合(やや丁寧な表現)I can't apologize enough.

まあ,ここまで細かに分けなくても,感謝と謝罪が,含まれているのでいいのだが,それだけの含意を,

すいません,

の一言ですませてしまうということは,

謝るのでも,

詫びるのでも,

礼を言うのでも,

ない,結局両者の文脈に強く依存していて,その微妙なニュアンスを,文脈まかせにする,

すいません,

なのだと思う。最近,僕が似たような便利な言葉で,多用しているのは,

恐縮です,

という言い方だ。これも,「すいません」よりは少し軽い,

ちょっとした感謝,

ちょっとしたお詫び,

ちょっとした謙譲,

を含めている。便利だが,本当に詫びなくて話せない時に,

ごめんんなさい,

が言えないということは,本当にお礼を言わなくてはならない,言いたいときに,

ありがとうございます,

が言えない,ということのような気がする。なんとなく,文脈に流して(相手のせいかも,という余韻を残す狡さがある),その場を切り抜けるような方便ではないか,という気がしないでもない。

言葉は,その人の姿勢を示す,もう少し,はっきり言うと,

生き方を示す,

曖昧で玉虫色の言い回しで切り抜ける,というのは,そういう生き方をしていく,と言っている,というか言わず語りに現れてしまっているようで,ちょっと気色悪い。

自分が,

というIメッセージというのは,

自分の責任で発する,という意味があるはずで,

主語を明確にするのと同様,

意味の明晰,明瞭な言い方をすべきなのだ,とつくづく思う。自省,自戒を込めて。

参考文献;
北山修『意味としての心』(みすず書房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

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甲斐


「かい」とは何だろう。

甲斐は,

行動の結果として現れるしるし。努力した効果,
期待できるだけの値うち,

とある。

甲斐は,

甲斐,
詮,
効,

を当てる。しかし,

甲斐がない,

詮がない,

効(目)がない,

では微妙に違う。

詮は,「はかり」の意味で,

物事の道理を明らかにとく,
物事の道理が整然と備わっている,
言葉や物事をきれいにそろえて,よいもの,正しいものを選びとる,
煎じ詰める,結局,
詳しく調べる,
なすべき方法,

と,ある。しかし,

甲斐性,
生き甲斐,
やり甲斐
年甲斐,
甲斐がある,
甲斐甲斐しい,

という使い方から見ると,「甲斐」には,

ただの効き目や効果やその測定だけではなく,

値打ちの有無,

のニュアンスがあるような気がする。語源的には,

かう(支う)の連用形。大工の「支う(かう)」では,「こんな細い棒ではカイ(支え)がないのと一緒」

という。とっさに浮かぶのは,突っ支い棒。そこでいう,「支い」と同じではないか,と思う。

かう(替う)の名詞化という説もあるが,そこからも,代価,代償,値打ちの意味が,確かに出てくる。

生きる(た)値打ち
やる代償

と解釈は可能になるようだ。

しかし,値打ちには,自分にとっての意味という部分と,ひと様から見ての意味の部分と二つある。甲斐というとき,その両方のニュアンスがある。

自分から見ると,値打ちだが,
相手から見ると,手ごたえ,張り合い,になる。

いや,

相手からの手ごたえ,張り合いが,
自分の値打ちを確かめるものになる,

とも言える。自分の甲斐が,相手に影響し,その影響が自分に反照する。結局,

甲斐,

は自己完結するのではなく,人との関係のなかで,影響し,反照する中で,強められるのかもしれない。

自分の自己対話の中では,甲斐は,張り合いのない,甲斐のないものなのかもしれない。それと,

行動の結果として現れるしるし,

という言い方からすると,一瞬のそれを測っているのではなく,積み重ねた結果を言っているようでもある。

そこにある,それ自体に,それまで生きてきた歳月の重みがあるのか,

そこで,このまま,生きていく値打ちがあるのか,

と。その歳月が,

馬齢,

なるかどうかは,自分の甲斐次第,ということになる。いや,そういう,照らし,照らし返される関係そのものの積み重ねの中で,

年甲斐

も生まれるのではないか。


参考文献;
北山修『意味としての心』(みすず書房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

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遊び


遊びという言葉がふいに浮かび,『梁塵秘抄』の有名な,

遊びをせんとや生れけむ,戯れせんとや生れけん,遊ぶ子供の声きけば,我が身さえこそ動がるれ

が続いて浮き上がってきた。しかし,遊び,というのは,

遊び,遊興,なぐさみ,

の他に,

仕事や勉強の合間,

気持ちのゆとり,余裕,

機械の部品と部品の余裕,

といった意味がある。では,「遊」という字はどうか,というと,上記と重なるが,それ以外に,

楽しむ(遊学,遊山),

自説を説きまわる(遊説),

まじわり,よしみ(交遊),

ひまびと,常業なきもの(遊食,遊民),

一定の所属なきもの(遊軍,遊魂),

というのがある。日常や,定形,ルーティンから外れている,という意味がちょっと面白い。もともと遊びは,自分の文脈から切れる,

時間,

場所,

人,

を指しているように思える。

遊子,

遊侠,

遊女,

遊里,

はそんなイメージで,まさに,日常から,

遊離,

することを言っている。その,

解き放たれた,

感覚がないと,埋没して,モノが見えないからに違いない。

非日常,

とはそんな感覚なのではないか。別の言い方をすると,ハレかもしれないが,それでは,裃が付きすぎる。

祭り

が近い。まつり,には,それ以外に,

祀り,

祠り,

があるが,ともに,定まったまつりで,祭は,

いつに限らずものを供えてまつる,

とある。まあ,ちょっとその気になったらまつる,というのは,いっとき,日常から離れる。ちょっと飛躍か? 

ただ,仕事でも生活でも,ルーティン化することで,流せる。しかしそのまま流されず,そこから抜けて出る自分がいる。その違った自分の目で,改めて日常を見る。それを余裕というなら,そのことで,日常の自分の仕事や人との距離感が見える。

間合,

と呼んでいい。それが,

遊び,

なのではないか。遊びのない,密着した,というかがちがちのハンドルでは,操作しづらいに決まっている。生き方も,そういうのりしろが不可欠なのだと,つくづく思う。

子曰く,これを知る者はこれを好む者に如かず,これを好む者はこれを楽しむ者に如かず,

その通りだが…,なかなか。

参考文献;
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)

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心が折れる


心が折れる,とは,

諦めるや挫折といったような心境

を意味するらしい。

最近使われ出した。印象深いのは,イチローが使ったのだが,元祖は,女子プロだという。

折れる

とは,

曲って二重になる,
曲って,二つに別れ離りる,
道などを曲がる,
挫ける,気勢を削がれる(腰が折れる)
主張・意見を和らげ,相手に従う
ものごとに苦労する(骨が折れる)

とあって,いまのような使い方の「 心が折れる 」の含意がなくはないが,

勢いがそがれる

というニュアンスで,いまの言い方とは微妙に違う。

女子プロで使っていたのも,ウィキペディアでは,

相手の心を折ることだった。骨でも,肉でもない,心を折ることを考えていたんで,相手を痛めつけようとは思っていなかった。本当に相手を痛めつけることなんか,目的じゃなかった。柔道やってたから,勝負に負けるときっていうのは,最初に心が折れるってこと知ってた。

という言い回しだったらしく,

再び立ち上がろうとする相手選手の気力を萎えさせ,奮い立つ気持ちを煮えさせる,

という意味だということができる。その意味では,

気勢を削ぐ,

の延長線上で,別に特に新しい言い方とは言えない。しかし,格闘家にとって,

腕を折られても心が折れなければ負けではない,

どんなに敗北だとされても,自分の心が負けを認めるまでは闘争は続く ,

という敢闘精神というか,

心が負けない,

の意味だとされるから,少し意味がシフトしていなくもない。ダメージが,

精神(こころ)

に及んだ状態,ということだと,削がれるというよりは,

挫ける,

という意味になっている。その延長線上で,「心が折れる」の現在の使い方は,

懸命に努力してきたものが,何かのきっかけで挫折し立ち直れなくなる状況,

と解説される。たぶん,それを決定的にしたのは,イチローの,WBCでの,

ほぼ折れかけてた心がさらに折れて,

という言い回しだったらしい。しかし,この経緯をみると,心が折れるには,それなりの背景が必要で,ただ,

めげる,

落ち込む,

凹む,

ギブアップ,

という気分とは違うような気がする。文脈の中で,自分が最早どうにもならないほど,自分の力の限界を思い知らされて,完膚なきまでに,打ち負かされた状態,

失望

絶望

の差くらいの隔たりなのではないか。それなりの,

努力と精進を経て実力を養ったものにだけ使える言葉,

という気がする。とっさに思い浮かんだのは,武田信玄の挑発に(に乗らざるを得ない状況で,あえて)乗って,三方ケ原で,完膚なきまでに,まさに鎧袖一触,弾き飛ばされて,恐怖で自分の糞尿に紛れて,浜松へ逃げ帰った,松平家康の心境こそ,それにあたるのかもしれない。

しかし,そのおのれの醜態を,そのまま自戒の意味で肖像画として描かせたあたりが,家康の家康らしいしぶとさなのかもしれない。その意味で,

心が折れた,

と言っている人は,(イチローも振り返ってそう言っていたように)そういう自分の追い詰められた状況を,メタ・ポジションから見るもう一つの目をもっている。あるいは,だから,

折れた,

のではなく,

折れかけた,

と言ったのかもしれない。心の折れ切った人は,心が折れた,などとは言わない気がする。その意味で,軽々に,凡人が,

心が折れる,

などという言葉を使ってはならないのかもしれない。

と書いてみて気づいたが,

こころが折れる,

心が折れる,

精神(こころ)が折れる,

とでは微妙に異なるのではないか。

精神(こころ)が折れる,

は文字通り,おのれを失うに近いニュアンスな気がする。自分の骨格をなす精神そのものが木端微塵にされたような。だとすると,それを認めるおのれがいる。だから,こうなのではないか。

心は折れる

が,

精神(こころ)は折る

ものだ,と。

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知る


たしか,映画『たそがれ清兵衛』の中で,娘が,裁縫を習うのは役に立つが,学問をすることが何の役に立つか,と問うところがあった。そのとき清兵衛は,自分の頭で考えることができる,という趣旨のことを答えていたと記憶する。

「 考える」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B)については触れたので,ここでは,知る,ということを考えてみたい。

知るには,語源的に二説ある。

ひとつは,

「シルシ(著し)」で,はっとはっきりわかるから,シル(著る)

という説。つまり,腑に落ちるというか,理解する,ということだ。いまひとつは,

心を占領する(領る),つまり占る,

だという。つまり,ある現象・状態を広く隅々まで自分のものにする,という意味だ。

学は思に原(もとづ)く

とはそういう意味のような気がする。

学びて思わざれば則ち罔(くら)く,

とはそのことだ。

それで思い出したが,前にも書いたことがあるが,

ライルが,知(ってい)る(knowing)には,

Knowing that



Knowing how

があると言っていた。

Knowing thatとは,

〜ということを知っている

というこであり,

Knowing howとは,

いかに〜するかを知っている

ということになる。ここで,清兵衛が答えたのは,前者の意味だ。それは,違う言い方をすると,

Knowing how

の持っている意味を知っていることこと,と言い替えていい。つまり,

メタ知識

である。現実にいま,われわれが直面しているのは,

解き方のわからないこと(問題,事態),

ではなく,

意味の分からないこと(問題,事態),

であり,それを解明することが,まさに考えることなのだといっていい。だとすると,そのときわれわれが,使えるのは,アナロジーなのではないか,と思う。

問う、如何なるか是れ、「近く思う」。曰く類を以って推(お)す

のと同じである。いわば,アナロジーというのは,自分の既知のものを,

異質な分野との対比を通して,

理解することといっていい。

例えば,Aを,それに似たXを通して見る(理解する)というのは,

・Aの仕組みをXの仕組みを通して理解する

・Aの構造を構造を通して理解する

・Aの組成をXの組成を通して理解する

・Aの機能をXの機能を通して理解する

等々。アナロジーで見たいのは,見えない関係を,「〜を通して」見ることで見つけることである。

アナロジーは,次の2つにわけることができる。

●類似性に基づくアナロジーを,「類比」
●関係性に基づくアナロジーを,「類推」

前者は,内容の異質なモノやコトの中に形式的な相似(形・性質など),全体的な類似を見つけだすのに対して,後者は,両者の間の関係を見つけ出す。特に関係性が重要なのであるが,これには,次の2つのタイプがある。

・両者の構成要素のもつ関係性からの類推
・両者の関係から生み出す全体構造の類推

以上のことから,アナロジーによる理解には,次の3パターンがある。

・全体に関係が似ているものを見つける
・部分からつながりを見つけ,そこから逆算して関連するものを吸引する
・部分と部分の関係の断片から全体像を見つける

アナロジーのように,既知と未知について,こういう操作をしているということは,メタ・ポジションをとっていることといっていい。つまり,自分の既知と未知とを俯瞰していくメタの位置である。

知るとは,究極,

Knowing that

なのだが,知れば知るほど,

パースペクティブが深まる,

のは,結局,メタ・ポジションが,どんどん高くなっていく,言い換えると,

俯瞰する世界が広く大きくなっていくこと,

に他ならない。

博く学びて篤く志り,切に問いて近く思う,

知は,その中にある,

である。

参考文献;
G・ライル『心の概念』(みすず書房)
佐伯胖監修『LISPで学ぶ問題解決2』(東京大学出版会)

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やる気


やる気について,自分なりに整理し直してみた。

@まず,「やる気がない」という評価は正しいか

「やる気がない」を前提に,なぜやる気がないのか(原因探求),どうしたらいいのか(手段検討),と対応するのは,やる気の問題でなければ,的外れになる。やる気がないとみえたときでも,背後を推測してみると,さまざまことが想定でき,一筋縄ではゆかないのである。

第一に,本当に本人のやる気の問題なのかどうかである。上司が,やる気がないと判断しているのは,自分の期待している仕事の仕方,仕事への取り組み姿勢,仕事の遂行能力ができていないからだが,部下には一杯一杯だけなのかもしれないし,これで十分やっているつもりなのかもしれない。それは,上司の期待が相手との間ですりあわされていないことを意味する。

 第二は,仮にやる気がないとしても,それが本人だけの問題なのかどうかである。本人にはやる気があっても,それを果たす知識やスキルが欠けていたのかもしれない,聞きたくても,周囲は自分の仕事で精一杯で声をかけられない状況かもしれない,上司や同僚との関係に悩んでいるのかもしれない等々,そうなった別の理由があるかもしれないのである。とすると,それは上司が部下の見積もりを誤ったことからきているのである。

Aどういうときにやる気をなくすのか

有名な心理学実験に,繰り返し逃れられない電気ショックを経験した犬は,避けられる場面でもそのショックを回避しようとせず無抵抗になるという。これを学習性無気力というが,自分でコントロールできない経験を重ねることで無気力になるのだというのである。それには,ふたつの要因がある。

○自分自身にコントロールできない原因があると感ずる場合(内的要因)
○外的状況がコントロールできない原因があると感ずる場合(外的要因)

要は,

自分のリソース(知識・経験・スキル)のせいと思うか,

相手(状況・条件)のせいと思うか,

だが,どちらにしても,結局自分に帰ってくる。自分にはとうてい無理だと思うか,たまたま難しすぎたが,次は努力すればできると思うか。それは,過去に成功体験をもっているかどうかによって,自分は何とかできる人間と思っているか,いつも失敗している人間だと思うかによる,といってもいい。逆に言えば,努力すればコントロールできるという自信がもてていれば,無気力に陥るのを避けられるのである。そういう自信をどうつけさせるかの問題と考えてみることが大事なのである。

Bそもそもやる気とは何か

「やる気」の「遣る」とは,「ものごとをはかどらせる」こと,やる気とは,

物事を積極的に進めようとする目的意識(広辞苑)

とある。やる気があるとは,それをするための「何か」(目的)が自分の中にあることなのである。それをするためならその気になれる,たとえば,それをする意味や価値や魅力(大切さや値打ち,面白さや楽しさ),興味や関心,自己表現(目立つ,存在感,賞賛)等々が必要なのである。

しかしそのことにどんなに価値や魅力があっても,自分にやれる(できる)と思えなければ,願望や夢,憧れで終わるだろう。その距離が遠すぎれば,努力する気にすらならないだろう。

Cやる気がある状態とはどういう状態なのか

そう考えると,やる気がある状態には,

●その気になれる意味や価値がある(やりたいことかやりたいもの)こと,
●それが自分にも,(努力すれば)やれると思えること,

が必要である。ただ,厳密に言うと,「やれる」と思うには,「やれる」という予感(自信)だけの場合と実際に「やれた」経験(実績)があってそう感じる場合とがある。予感だけなら,うぬぼれや過信も入る。現実にぶつかったとき通用する根拠もないのに,のうてんきに自信だけをもたれても困るのである。

そこで,「やれる」と思えるには,

●自分ならできるのではないかという自分への自信(あるいは自分へのプラスイメージ)だけでなく,

その裏づけとして,

●具体的にどうやればいいかがある程度見通せ(こうすればいいのではないかという予想が立ち),それなら自分にできると思えることが必要になる。

そういう予想ができるには,ある程度経験が必要である。自信を空手形にしないためには,担保となる経験が必要なのである。つまり,

第1に,「やりたいこと」が「やれる(かも)」と思えること,
第2に,「やれる(かも)」が「やれた!」経験の裏打ちをさせること,

この2つをセットにして,やる気を現実に着地させることが必要なのである。

D「やれた」ことで「やれる」を強化する

経験の裏打ちをさせるにも,まず実際にやらせなくてはならない。自分にもできると思えるには,

・やることのおおよその見通しができる,
・こうすればいいという,やり方の予想ができる,
・それをするのに必要な知識やスキルが自分にあると思える,

ことが必要である。それには,

・十分やれる可能性のあるものにチャレンジし,
・まず,確実に達成した成果をえて,

「やれた!」という成功感を感じることが必要である。

「やれる(かも)」が,実際に「やれた!」

を味うことで,

次への自信(「次もできる(かも)」)

もっとうまくやりたいという意欲

につながる。それには,楽々できるのでは自信にはならない。少し努力してクリアできるようなハードルを,励ましながら,チャレンジさせる必要がある。できないかもしれないとしり込みする不安を,

・できるだけ協力と支援を惜しまない,
・困ったときには,いつでも相談に乗る,

という後ろ盾で支えて,一歩踏み出させ,何とか「できた!」という,成功感を味わせるのである。そうした経験の積み重ねによって,どんなときもある程度「こうすればできる」という見通しをたてられる自分への自信をつけさせることである。

E人の力を借りることの意味を学ばせる

このためには,それが本人だけの孤独な戦いではなく,その努力自体が,メンバーから支えられ認められ,支援がえられ,メンバーとして受け入れられていると感じさせるものでなければならない。

なぜなら,「こうすれば」できるという見通しには,ここまでは自分でできるが,ここからは助力があればできるという判断が必要なときがある。

成功感

で,もうひとつ必要なのは,なんでも自分でやりとげることだけではなく,周りの力を借りて,一人ではできない高いハードルをクリアする経験なのだ。でなければ,自分の力以上の仕事をすることはできない。本人のやる気だけに問題を完結させるのではなく,周囲も巻き込んで仕事をやりとげていく力を育てていくプロセスこそが,チームのパフォーマンスにとっても欠かせぬことなのである。

以上を整理すると,やる気を引き出し,持続させるのは5つである。

@その気になれる意味や価値(やりたいことかやりたいもの)がある
Aやってみて,「やれた!」という成功感を味わう(実績をつむ)
B自分にもできる(こうすればできそうだ)と思える(自信をつける)
Cそうやっている自分の努力をメンバーが認めている(承認される)
Dメンバーとして受け入れられていると感じられる(有効感がある)
Eやる気を育むチームの条件

やりたいと思うものがあっても,自分ができると思えなければ,やる気にはつながらず,やりたいと思っても,どうやればいいかが見えなければ,やってみようとは思わない。またやりだしても,達成の目途が立たなければ,意欲は萎えるし,まして誰も自分のやっていることを認めてくれなければ,やる気は続かないのである。

そう考えると,メンバーのやる気を育てるのは,チームリーダーやチームメンバーが,部下を育てることに関心をもち,その気にさせる仕掛けをつくることが不可欠だとわかるのである。つまり,

@本人にやりたいことを見つける機会があり,
Aそれをやりとげるための助言やヒントをもらうことができ,
B自分にできると感じられる体験をつむチャンスが与えられ,
Cそれを後押しし,励まし支える雰囲気があって,
D一歩一歩やれたという成功感を積み重ね,
Dチームに必要な人間だと認められる,

ことが必要なのである。それはマネジメントとしての課題なのである。

参考文献;
宮本美沙子『やる気の心理学』(創元社)
波多野完治・依田新・重松鷹泰監修『学習心理学ハンドブック』(金子書房)

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嗜む


たしなむ,

という言葉の響きがいい。語源は,

タシナム(堪え忍ぶ)の変化,

だという。転じて,

深く隠し持つ,
常に心がける,
謹む,
遠慮する,
身辺を清潔にする,
有ることに心を打ちこむ,

といった意味になる,とある。ニュアンスは,嗜みは,

身につけておくべき芸事の心得を指し,「素養」よりも技術的な側面が強い,

とある。では,素養はというと,

日ごろから修養によって身につけた教養や技術を指し,「心得」や「嗜み」に比べ,実用面より知識に重きを置く,

とある。では,教養はというと,

世の中に必要な学問・知識・作法・習慣などを身につけることによって養われる心の豊かさを指す,

とある。どうも,心映えに関わる気がする。「心ばえ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E5%BF%83%E3%81%B0%E3%81%88)については触れたが,心ばえも,

心延えと書くと,

その人の心が外へ広がり,延びていく状態をさし,

心映え

と書くと,「映」が,映る,月光が水に映る,反映する,のように,心の輝きが,外に照り映えていく状態になる。心情的には,

おのずから照りだす,

心映え

がいい。つまり,内側のその人の器量が,外へあふれて出るよりは,おのずから照りだす,というのが,

嗜む,

というつつましさに似合っている。どうも,嗜みは,教養,素養,作法よりも,それをもっているとは言わなくても,そこはかとなく滲み出てくる,そんなニュアンスである。そういう,

自制,というか,慎みというか,節度,というか,謹む,とか,床しさ,

という感覚は,セルフブランディングがよしとされる今日にはそぐわないのかもしれない。

しかし,昔は一杯いた。落語の大家さんのような物知りではなく,影のように付きまとうものといっていいのか,それを,

品とか,

雅とか,

優とか,

というのだろうか。ひけらかすとか,見せびらかすのではない,そういう奥ゆかしさと,

嗜む,

とか,

嗜み,

というのはつながる気がする。

まあ,がさつで,無作法,品とか雅とかとは無縁な僕が,ないものを見て憧れる,そういう類のものかもしれない。いまどき,そんなものは,どこにもない,という気がする。


参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
中村明『日本語語感の辞典』(岩波書店)

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選択


選択している,

のと,

選択させられている,

のとどう違うか。選択しているつもりで,選択させられていることはないか,そして,そのことに無自覚であるということは。

吉本隆明は,こう言っていたのを,ちらりと見て,触発されたものがある。

人間の意志はなるほど,選択する自由をもっている。選択のなかに,自由の意識がよみがえるのを感ずることができる。だが,この自由な選択にかけられた人間の意志も,人間と人間との関係が強いる絶対性のまえでは,相対的なものにすぎない。

意思したつもりだが,結果として,関係性で引きずられている,これを文脈とか秩序とかと置き換えると,一般化されすぎ,どろどろした現実感が消えてしまう。

「関係が強いる絶対性」というのが,確か,『マチュウ書私論』のモチーフだと記憶している。

上記は,

人間は,狡猾な秩序をぬってあるきながら,革命思想を信じることもできるし,貧困と不合理な立法をまもることを強いられながら,革命思想を嫌悪することも出来る。自由な意志は選択するからだ。しかし,人間の状況を決定するのは関係の絶対性だけである。ぼくたちは,この矛盾を断ちきろうとするときだけは,じぶんの発想の底をえぐり出してみる。そのとき,ぼくたちの孤独がある。孤独が自問する。革命とは何か。もし人間における矛盾を断ち切れないならばだ。
マチウの作者は,その発想を秩序からの重圧と,血で血をあらったユダヤ教との相剋からつかんできたにちがいない。

とも語られる。さらに,

秩序にたいする反逆,それへの加担というものを,倫理に結びつけ得るのは,ただ関係の絶対性という視点を導入することによってのみ可能である,

と。倫理,別の言い方をすると,

ひととしてどうあるべきか,

は,そのおのれの置かれている文脈抜きでは,他人事でしかない。

関係性の強いる絶対性とは,客観的にあるのではなく,自分の中に,意識的無意識的に,絶対性として強いる者を感じる,

という意味だとすると,吉本の言っているより,もっと広げている(和らげている)かもしれないが,

人は知らず,おのれにとっては,

と,言うとき,

人間と人間との関係が強いる絶対的な情況,

というもの(このとき,人も状況も個別,固有化されているが)から,思想も,発想も,意識的か無意識的かは別に,逃げられない。それを土着とか,アイデンティティと言い換えると,やっぱり,少しきれいごとになる。

父親・母親との関係,

上司との関係,

影響力のある先達との関係,

地縁・血縁,

自分の置かれている立場,

生い立ち,

等々,「強いる」と受ける関係にはさまざまある。

本当の意味とは別のところで,僕の中で,「関係性の強いる絶対性」という表現で,動いたのは,結局,

関係の強いるものからは逃げられない,

ということなのか,

関係の強いるものを意識することで,選択肢が広がる,

ということなのか,

関係の強いるものに無自覚で,選択している,

ということなのか,

関係の強いるものによって,選択肢は強いられている,

ということなのか,だ。それもまた選択なのではないか。

そのとき,

人は,関係の結節点そのもの,

という言い方もあるし,

人間は社会的諸関係のアンサンブルである,

という言い方も,もっと主体的な意味に変わる。その見方が,

自分の取りうる立場を選択させる,

と言い換えてもいい。その瞬間,関係の絶対性は,相対化される気がする。

中沢新一が,

知識はかならず身体性をとおさないと本物にならない,というのは,ぼくの基本的な考え方です,

と言っていたことを,少し(でもないが)膨らませるなら,

そういう,自分の結節点が無意識に強いるものとの対決抜きには,

いかに生きるべきか,

は,自分のものにならない。

とは,ちょっと格好つけすぎか。

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捌く


てきぱきと手際よく物事を捌く,というのは,傍から見ていて気持ちがいい。手際とは,要するに,

もの事を処理する腕前,

ということになる。手際とは,

手+キワ(処理を極める)

だから,手並み,腕前となる。

捌くは,

サ+分く

で,入り組んだ物事をきちんと処理する意味である。だから,捌くの意味は,

@入り乱れたりからんだりしているものを解きほぐす
A鳥・魚などを切り分ける。解体する
B扱いにくいものをうまく扱う。また,道具などを使いこなす
C錯綜した物事を手際よく処理する
D物事を解き明かす
E商品を売りこなす
F目立つように振る舞う
Gふるまう,おこなう
H理非を裁断する

と多様に,ものごとを処理する意味がある。

確かに,捌くには,前捌き,売り捌く,荷捌き,手捌き,太刀捌き,といった腕前に絡むことがおおい。では,

こなす(熟す),

のとどう違うのか。

こなすは,

コ(小・細)+なす(為す)

で,細かく砕くが本義。それから,消化のこなれるにもつながる。意味的には,

@食べた物を消化する
Aかたまっているものを細かく砕く
B技術などを習って、それを思うままに使う。また、身につけた技術でうまく扱う
C与えられた仕事などをうまく処理する
D売りさばく
E見下げる。けなす
F動詞の連用形に付いて、自分の思いのままにする意を表す。うまく…する。完全に…する

等々。使いこなす,乗りこなす,読みこなす等々。こなすだと分かりにくいが,

こなれる,

だと,状態を示して,

細かくなる,砕けて粉になる,
熟して味がよくなる
物事に馴れる。世情につうじて角が取れる,
巧みになる

等々とよりはっきりしてくる。捌くは,動作面で見ており,こなすは,主体側で見る,つまり,捌くは,仕事や物事側,こなすは,スキル側とみれば,なんとなく,区別がつく。なんとなく,こなすには,小手先という感じがしてしまう。気のせいか。

しかし,こなすには,どこか,

やってのける
やり終える
まっとうする
やり遂げる
まっとうする

というニュアンスが付きまとう。やっとこさっとこ,必死でやり繰りしたというような。因みに,やり繰りは,

遣り+繰り

で,不十分なものを,あれこれ算段する工夫をさす。そんなニュアンスがある。

しかし,捌くには,

つかいこなす

というか,どこか軽やかな,

手綱捌き
太刀捌き
鑓捌き
前捌き
腕捌き
手捌き
足捌き

等々と,颯爽感がある気がするのは,思い過ごしだろうか。

身のこなし

身の捌き

と比較すると,こなしの方が軽く,捌きが重厚な気がする。しかし,

捌けた(人),

こなれた(人),

と,状態で表現すると,結局あまり差が無くなってしまうように見える。けれども,ニュアンス差はいくらか残り,

こなれた

というと,やっぱりスキルチックな軽さがある気がするのは,ぼくだけか。

こなれた人,

と言われるよりは,

捌けた人,

と呼ばれた方が,人としては,上に感じてしまう。錯覚かもしれないが,捌きに長けたものの方が,こなしに長けたものよりも,人としての重みが違うような…。

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アイデア


もう二十年以上,1日1アイデアを続けている。実に下らない思いつきばかりだが,そのくだらなさが,なにごとも当たり前にしない目につながると信じている。

数年前までは,1日2アイデアであったが,とうとう音をあげて,1日1アイデアに,ハードルを下げた。当初は,忸怩たるものがあったが,いまは,1日1アイデアでも,悪戦苦闘している。

アイデアについては何回か書いた,

「アイデア出し」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba4.htm#%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%A2%E5%87%BA%E3%81%97
「アイデア」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba1.htm#%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%A2

が,基本的には,

アイデアづくりの構造(http://ppnetwork.c.ooco.jp/prod02100.htm#%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%A2%E3%81%A5%E3%81%8F%E3%82%8A%E3%81%AE%E6%A7%8B%E9%80%A0

考えている。基本的には,何度も触れたことがあるが,

本来バラバラで異質なものを意味あるように結びつける,

のを創造性と言った川喜多二郎の言は正しい。しかし,もっと踏み込むと,

どんなものでもつなげることで新しい意味づけをしさえすればいい,

あるいは,

新しい意味が見つけられるなら何と何を結びつけてもいい,

と読み替えてもいい。となると,

結びつけ,

に意味があるのではなく,

意味づけ,

の方にウエイトがかかる。本来バラバラの物を意味あるようにつなげること,と。これは,

情報の編集,

である。それは,ひらめきの,脳の反応に似ている。ひらめいた瞬間,

脳の広範囲が活性化する,

つまり,いつもとは別のものとつながり,意味に気づく。言い換えると,

いろんなものとリンクさせる力

である。これを僕は,脳の筋力と呼ぶ。

脚力も膂力も腕力も,日々鍛えなくてはすぐに衰えていく。それと同じで,

脳の筋力,

も,日々鍛えなくては,ありきたりの,当たり前に見てしまう。アイデアは,

当たり前と見ない,

ことからしか始まらない。例えば,コンビニが込む。当たり前か?切符の販売機に並ぶ。当たり前か?天気が急変する。当たり前か?アホな政治家が,おのれの思想信条を国是にしようとしている。当たり前か?名字が選べない。当たり前か?

当たり前とすれば,何も問題視しないということだ。いまのまま甘受するということだ。

それは,何も考えないのと同じだ。アイデアは,いまの当たり前をどう崩すか,どう変えるか,どうしたら自分たちのためになるようにするか,を考えることだ。

その意味で,筋力を鍛えることは,生き残る力を,蓄えることだ。アウシュビッツで生き残ったのは,

未来に自分がいる意味を見つけた人たちだ,

フランクルは言う。

(ニーチェの格言)「なぜ生きるかを知っている者は,どのように生きることにも耐える」
したがって被収容者には,彼らがいきる「なぜ」を,生きる目的を,ことあるこどに意識させ,現在のありようの悲惨な「どのように」に,つまり収容所生活のおぞましさに精神的に耐え,抵抗できるようにしてやらなければならない。

生きることへの期待から,生きていることが自分たちに期待し,何をなさせようとしているかへ,180℃変えさせた,そこに自分の未来を見つけること,それが生きている意味だと,フランクルは言っているのだが,

自分が生きていることに意味を見つけたものにとって,どう生きるかは,どんな苦難の中でもどうやって生き延びるかを考えることでもあった。それが,

創造性,

に他ならない。

それは,いまのありようを,甘受せず,何としても生き残ろうとする,執念だ,

それを支えるのが,アイデアに他ならない。それは,人を出し抜くことでも,人を陥れることでもない。

フランクルの『夜と霧』で読み取った,勝手な教訓は,

創造性,

こそが生き残る鍵だということだ。どうすれば,

生き延びる創意と工夫を考え出すか,

それは,創造性というか,アイデアの,原基だと,つくづく思う。

発想力については,

http://ppnetwork.c.ooco.jp/view06.htm#%E2%80%9CCritique%20Back%20Number%204

と考えている。基本は今も変わらない。

参考文献;
V・E・フランクル『夜と霧 新版』(みすず書房)

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読む


読むというのは,

読むと,数(よ)むとは語原が同じ,つまり,

数える,

とされる。お経をヨム,と同じなのだそうだ。ヨムは,中国語源では,

文書をヨム
意味を抜き出す,
言葉を眼で追う,

を指すらしい。しかし,どうも作品(多くは文学作品だが)を読む,というときの,

読む,

はちょっと異なるのではないか,という気がする。

吉本隆明の発言に,

文句なしにいい作品というのは、そこに表現されている心の動きや人間関係というのが、俺だけにしか分からない、と読者に思わせる作品です、この人の書く、こういうことは俺だけにしかわからない、と思わせたら、それは第一級の作家だと思います。

というのがある。例によって,ちょっと逆転した物言いたが,自分に読み取れたことを人は別に読む,という相対的なものの見方が出来なければ,こういう言い方はできない。

多くが,そこに自分を読み込むことで,自分にしかこの作品は分からない,という確信(誤解)をえる。それが,作品の良し悪しの根拠という言い方は,独自で面白い。それは,逆に言うと,作家の自己完結した世界に閉鎖されれば,多くは,跳ねのけられた感覚になるに違いない。

これが正しいかどうかは別として,作品を読むというのは,

作品の意味を読み解く,

のとは異なる。そういう読み方を文芸評論家はするかもしれないが,それは,身過ぎ世過ぎのためであって,作品を読む,という場合,僕は,三つしかない,と思っている。

第一は,作家の描いた世界に,丸々乗ってしまう。まあ,これだって,読者が作品に思い描いた世界と,作家がイメージして文字にしたものとは異なっているかもしれないが。

なぜなら,ひとつの言葉の意味は,辞書的には同じでも,その言葉見るのは,それぞれのパーソナルエピソードに拠っている。人生が同じでないように,言葉に思い描くものが同じなわけはない。

僕にとっては,藤沢周平の作品がそれかもしれない。ただその世界に入り込んで,楽しんでいる。いまは,漫画の『キングダム』が,あるいは,そういう作品かもしれない。

第二は,言葉を自分の世界に置き換えて,読む。作家の描く世界を,自分流にイメージした世界として読む。そのとき,そのイメージは,明らかに,個人的なものだ。

クオリアレベルで言うと,同じ赤といっても,見ている赤の内実は違っている。にもかかわらず,「アカ」という言葉だ代替する。だから,「赤」に,おのれの描く朱を見ることで,その瞬間から,その言葉の拓く世界は,自分の世界に変わっている,と言ってもいい。

僕にとっては,これは,石原吉郎の詩だ。

第三は,作家の言葉の描く世界と,自分がその言葉に見る世界とを,キャッチボールしつつ,両者の向こうに,というか,ベン図の円の重なった部分,といったほうがいいか,そこに,独自の読んだ世界を見る。

あるいは,その作品に影響を受けて,自分の世界を築こうとする。それが,別の作品になるのか,商売になるのか,自分の生き方になるのかは,ともかく,作品に強い影響を受ける,というのは,そこから,自分が新たなアクションを起こそうとする,というのにつながる。それが,作品の完結した世界とはまったく別のものになるにしても,読み手にとっては,作家の世界とのキャッチボールの結果なのだ。

もちろん,このほかに,正確に,作家の発するメッセージを意味として受け取るという読み方もある。しかし,それでは受身だと僕は思っている。いい作品ほど,その影響と格闘することになる。

これは,僕にとっては,古井由吉であり,個別の作品で言うと,ドス・パソス『USA』であり, マリオ・バルガス=リョサ『世界終末戦争』だ。

この作家とこの作品は,僕の中でいつも格闘が続いている。それは,方法であり,世界観であり,描き出す世界像である。

いずれの読みが正しいかどうかは,ぼくにはわからない。しかし,世の中の大作,傑作については,僕はあまり関心がない。流行していようと,世界的作家であろうと,僕に刺激としてのインパクトと,強烈な存在感を示さないものは,僕にとっては,傑作でも,名作でもない。

その点では,吉本の言うことには,賛成できない。

結局読む,とは,僕にとって,僕個人と,

作家の作品との格闘,

に他ならない。作家とではないが,結果として作家個人と対峙していることになる。そして,いつも,完膚なきまでに負け続けている。

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能力


能力は,前にも何度も触れたが,独断と偏見によるけれども,

知識(知っている)×技能(できる)×意欲(その気になる)×発想(何とかする),

である,と考えている。これに,

気力(がんばる)

体力(やれる)

努力(つづける)

を加えてもいいが,大した影響はない。大事なのは,発想だっと思っている。

何とかしなければならないレベルの,いままでの知識と経験では解けないことに,立ち向かって初めて,自分が,

何を知らないのか,

何ができないのか,

に気づく。それが第一。第二に,そこで初めて,自分の頭で(知識と経験は受け取ったものだ),

どうしたら解けるかを考える。

発想を経ない経験は,結局,

出来る範囲でやる,

か,

出来ないことに目を背ける,

ことでしか,クリアできない。それは,能力のキャパを増大するチャンスをみすみす潰すことになる。

発想といっても,持っている,

知識と経験の函数,

だから,マジックのようなことができるわけではない。しかし,持っている知識の組み合わせやつなぎ方を変えるだけで,新しいアイデアやモノの見方に気づけることが多い(もちろん,自分にとって)。

ひらめく瞬間に,

脳内の広範囲が活性化する,

と言われる。それは,いままでのリンクとは全く別のつながり方によって,自分にとっての,

アッハ体験

ができる,と言うことだ。そういう経験を積み重ねることが,考える,自分の頭で考えるということだと,僕は思っている。

それを別の言い方をすると,

編集,

という作業になる。情報も知識も,編集することで,様相を変える。例えば,前にも挙げたことがあるが,映画のモンタージュ手法を例にとってみる。

「一秒間に二四コマ」の映画フィルムは,それ自体は静止している一コマ毎の画像に,人間や物体が分解されたものである。この一コマ一コマのフィルムの断片群には,クローズアップ(大写し),ロングショット(遠写),バスト(半身),フル(全身)等々,ショットもサイズも異にした画像が写されている。それぞれの画像は,一眼レフのネガフィルムと同様,部分的・非連続的である。ひとつひとつの画像は,その対象をどう分析しどうとらえようとしたかという,監督のものの見方を表している。それらを構成し直す(モンタージュ)のが映画の編集である。つなぎ変え,並べ換えることによって,画像が新しい見え方をもたらすことになる。

たとえば,陳腐な例だが,

たとえば,男女の会話の場面で,男の怒鳴っているカットにつなげて,女性のうなだれているカットを接続すると,一カットずつの意味とは別に男に怒鳴られている女性というシーンになる。しかし,この両者のつなぎ方を変え,仏壇のカットを間に入れると,怒鳴っている男は想い出のシーンに変わり,それを思い出しているのが女性というシーンに変わってしまう。あるいはアップした男の怒った表情に,しおたれた花のカットを挿入すれば,うなだれている女性をそう受け止めている男の心象というふうに変わる。その後に薄ら笑いを浮かべた女性のアップをつなげれば,男の思い込みとは食い違った現実を際立たせることになる,

等々。

アイデアも,編集という意味では,似てると言える。たとえば,創造性についての代表的な定義は,E・ヴァン・ファンジェの,

@創造者とは,既存の要素から,彼にとっては新しい組み合わせを達成する人である,
A創造とは,この新しい組み合わせである,
B創造するとは,既存の要素を新しく組み合わせることにすぎない,

である。要するに,既存の要素(見慣れたもの)から新しい組み合わせ(見慣れないもの)を創り出すことである
であるが,川喜田二郎は,わかりやすく,

本来ばらばらで異質なものを意味あるようにむすびつけ,秩序づける(新しい意味があるように組み合わせる)

ことである,

と定義している。

いずれも,言い換えれば,異質な組み合わせによって,知っているもの(見慣れたもの)を知らないもの(見慣れぬもの)にすることである。あるいは,新しい意味づけを見つけることである。

この「組み合わせ」を,アーサー・ケストラーは,

互に矛盾する二つの見地(モノの見方)に,常識的にはとうてい均衡がとれそうもないないところで「不安定な平衡状態」を見つけることだ,

と言う。つまりは,単なる寄せ集めではなく,常識的には接合点の見つけられない「異質」なものに「交錯点」を見つけ出すのである。そこにつながりを見つけることなのである。

発想を別の言い方をすると,

選択肢,

である。さらに突っ込むと,

(できるだけ)沢山の選択肢が出せる,

ということになるのではないか。当然,組み合わせの選択肢は,自己完結では限界がある。人とのキャッチボールによる,異質な選択肢を加味することが,不可欠となる。

どこまでも,コミュニケーション抜きで能力は広がらないようにできている。

参考文献;
E・ヴァン・ファンジェ『創造性の開発』(岩波書店)
瓜生忠夫『新版モンタージュ考』(時事通信社)

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迷う


いまさら迷うような歳ではない,とふとつぶやいて,迷い,という言葉の意味が気になった。

言ってみれば,迷うということは,煩悩は凡夫ゆえに仕方ないとして,何かを未決のまま,決めかねている状態といっていい。まあ,ここまで生きてくると,それは少ない。というか,迷いを蹴散らさなくては(見過ごす,目を瞑るも含めて),生きてこられまい。

辞書では一番に,
@布の経糸と緯糸がほつれて偏ること,

とでる。つづいて,

A紙などが乱れること
B迷うこと,惑い
Cまぎれること
D成仏の妨げになる妄執

とある。煩悩の方はさて置くとして,しかし,

迷い,

惑い,

は同じか?でもって,辞書を引くと,

事態を見極められず,混乱して応対の仕方を定めかねる意,

として,以下を挙げる。

@見当を失って途方に暮れる
A悩む,心が乱れる
B取り違える,考え違いをする