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コトバ辞典
時間感覚は,歳と共に早くなる。
空間は双方向なのに,時間は一方通行で,逆転はない。それについて,こんな記述があった。
「虚数の時間を,数学的に,空間の一つの次元(方向)と同じものに当たると考えると,かつて時間は存在しなくて(それゆえ因果律はなくて),四つの次元を持つ四次元空間が存在しており,その四次元空間のうつの一つの次元が,何らかの理由で変質し,それがやがて私たちの知る実数の時間になった(それゆえ因果律のある時間になった)のかもしれない。」
と,まあ,しかし逆転はないので,時間が一方通行である事実に変わりはない。
ほとんどの生物は,24時間サイクルの体内時計を持っている。生理時計である。サーカディアンリズム,
おおよそ一日のリズム
である。人間(をはじめ,哺乳類)だと,視床下部の視交叉上核が,主要な役割を果たしている,という。地球上生物は,動植物から単細胞生物まで,地球の昼夜の24時間サイクルに適応した生理リズムを創り出してきた。
しかし,人間の場合,意識というか,自身を対象化している対自がある。その心理的な時間がまたある。その心理的時間が,生理的時間,物理的理的とは別に,人に違う時間感覚を与える。たとえば,夢中になっていると,時のたつのを忘れて,もうこんなに経ったのか,と感じるように。
ジャネの法則
というのがあるそうである。、19世紀のフランスの哲学者ポール・ジャネが発案し,甥の心理学者ピエール・ジャネの著書において紹介された法則である。
@人間は,生理的に興奮して体温が上がるほど,心理的には時間の流れを「遅く(長く)」感じる
興奮して体温が上がると体内時計が早くなり,脳内の酸化新陳代謝の速度も速くなるから,生理的には同じ時間でも,心理的には「遅く(長く)」感じるものらしい。それは,平静だと,逆に,心理的には早く感じる,ということになる。
A人間は生理的には同じ時間でも,時間の経過に注意を向ければ向けるほど,心理的には時間の経過を「遅く(長く)」感じる。
早く過ぎてくれればいいと思うときほど,時間はなかなか過ぎて行ってくれない,というのはよくある。
B人間には生理的に同じ時間でも,時間の経過中に起きる出来事が多いほど,心理的には時間の流れを「遅く(長く)」感じる。
ここから,逆に,
加齢にともなう時間感覚が想定できる。つまり,なぜ,歳をとると,時間の流れを早く感じるのか,と。
生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢の逆数に比例する(年齢に反比例する)
というのである。
その人が自分の人生で経験してきた「時間の長短」(年齢差)によるからである。
つまり,同じ一年でも,五歳の子にとっては,1/5だが,80歳の人間にとっては,1/80だからである,ということになる。
しかし寿命時間は,一律である。
心拍数の周期(心周期)は,体重の1/4乗に比例する,
人は,一分間に約60回,心周期は1秒,ハツカネズミは600回,心周期は0.1秒。つまり,
体重が十六倍になれば心周期は二倍になる,
さらに,寿命も,
体重の1/4乗に比例する,
という。で,心周期も寿命も,それぞれ体重の1/4乗に比例するので,
寿命を心周期で割ると,すべての哺乳類は,
15億回,
という数値になる。心臓が15億回鼓動すると,寿命が尽きる,というわけである。さらに,寿命を呼吸の周期で割ると,
3億回,
つまり,すべての哺乳類は,3億回呼吸をすると,寿命が尽きることになる。ずいぶん昔,『ゾウの時間ネズミの時間』(本川達雄)で読んだはずだと思うが,すっかり忘れていたが,
心拍数
呼吸数
は,どの生物も皆,それぞれのサイズにあった,同じ長さの時間を生きる,ということになる。それは,細胞の分裂の限度(DNAの末端にあるテロメアは分裂ごとに短くなり,半分になると分裂を停止する),つまり,細胞再生しないとき,と一致しているのであろう。
ならば,どれだけ,
長い,
と感じる時間を生きるか,ということになるのだろう。それを,
心の時間
というのだろう。それを,人間の心の中だけにある,
宇宙の時間,
とハイデガーは呼んだそうだ。そこでは,
相対性原理の物理的時間の制約
を免れているのである。
参考文献;
岸根卓郎『量子論から解き明かす「心の世界」と「あの世」 』(PHP)
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「決めつけ」は,
極めつけ,
とも当てる。
咎める
とか
呵(しか)る
とか
叱責
という意味がある。辞書によっては,
厳しく叱りつける
一方的に断定する
と,ただ咎めるだけではなく,叱る側に,価値基準というか,判断要素というものがあって,それに基づいて,一方的に断罪する,というニュアンスである。
場合によっては,
勝手な判断,独断,
に近い。その判断基準に焦点を当てると,
思い込み,
偏見,
固定(既成)観念,
先入観(見),
ということになり,その是非は,
断定,
裁定,
であって,それ以外の考慮の余地はない,ということになる。決めつけられた側には,取り付く島のない状態となる。もし,会話の最中にそう相手から言われたら,たぶん,途中から相手は,耳を閉ざし,そうではない,ちがう,という自己対話に陥るのではないか。
同じ「きめつけ」でも,
「決め」という字を当てると,思い込んでいる部分に焦点が当たり,
「極め」に当てると,その限定された狭い先入主に焦点が当たる,
という気がする。。
「決」の字を構成する,「夬(かい)」は,
「コ印+又(手)+指一本」
の会意文字で,手の指一本をコ型に曲げ,物に引っ掻けるさま,またコ型に抉るさま。「抉」の原字。で,「決」は,
「水+夬」
で,水によって堤防がコ型に抉られること,がっぽりと切れることから,決定の意に転じた。だから,「決」は,
川の水が川の包をコ型にえぐっって切る(「決壊」)
ズバリ切ることから,きっぱり決める(「断(切る)」が判断の意に転じたのと同じ)
という意味がある。
「極」を構成する「亟(きょく)」は,
上下二線の間に人を描いて頭上から足先の端までの間を示し,それに人間の動作を示す口と又(手)とを加え,体の端から端までを緊張させて動作することを顕わす。「亟」は,たるまない,すぐに等々の意味を含む。
「極」は,
「木+亟」
で,端から端まで張ったしん柱,
の意。そう考えると,「決め」は,抉るような厳しさを示し,「極め」は,逃げ場のない感じになる。
自分が決めつけられたことがあるので,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163096.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/391125143.html
決めつけられると,追い詰められてしまうところがある。人は,多面的,多様な側面を持っているので,省みれば,なにがしか当たっていなくもない。だから,余計始末が悪い。
たとえば,運動したい,という人に,
運動しないと何が困るんですか,
という問いは,場合によっては,相手に,決めつけ感を与えるらしい。それは,運動していないことを咎めているふうでもあるし,その話題を出したこと自体を咎めているふうでもあるし,別にどうでもいいじゃないかと言っているふうにも聞こえる,つまり,その問いは,「運動」についての,聴き手側の先入観で,決めつけた問いになっている。
運動しないことで,何も困らないように思えるのですが,
とか,
(相手が主婦なら)主婦の人っていつも駆けずり回っているという印象があるんですが,
といったこちらの思考というか,発想の元そのものを洗いざらいオープンにすることで,問いの言葉の印象が変わるのではあるまいか。
言葉は,何かを丸めている。
問いも,考えている何かを前提にしなければ,出てこない。とすれば,問いには,問う側が,その問いを生み出した自分の思考の流れそのものをも含めてさらけださないと,相手の思考の文脈にはピタリ入らないことがある。
すべて,決めつけは,決めつけている前提をオープンにしなければ,決めつけられた側は,争えないのである。
「君はやる気がないのかね」
と決めつけられても,相手にそう見えていることは,こちらからはコントロールのしようがない。しかし,
「いつも遅刻しているから,僕には,君がやる気がないように見える」
と言われれば,争う余地が出てくる。論旨の因果の破綻や,事実が争える。
決めつけを避けることは出来ない。人は,自分の思考回路からしか結論は出せないから。しかし,相手に決めつけを争う余地を残さなくては,ただ意味なく追い詰めているだけだ。
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徹底的,
という言葉を,随分昔,
テッテ的,
と言い換えるギャグ(というか風刺)があった。つげ義春が『ねじ式』で使っていた記憶がある。そういう雰囲気があった時代が確かにあった。いまや,ドイツの公共放送ZDFが,日本政府と原子力産業を「情報隠蔽と改竄の常習犯」と報ずる時代だ。テッテ的とは程遠い。
だから,先日来日した独のメルケル首相が安倍首相に,慰安婦問題は過去を踏まえてきちんと解決をと何度も言ったそうだが,安倍首相は,最後に「内政干渉だ」と怒り出した,という。そういう国とそういう時代に,わが国のありようは,この何年かですっかり変わってしまった。「八紘一宇」が,この国の国会で,堂々賛美されるところにまで,今日来てしまった。
さて,徹底とは,
其処まで貫き通ること,
残る隈なく行き届くこと,
ある一つの思想・態度を貫くこと,
という意味だ。そのほかに,
蘊奥に達すること,
という意味もあるようだ(『大言海』)。
徹底は,日本語源にはない。中国由来,
「徹(とどく・とおる)+底」
が語源。中途半端ではなく,どこまでも押し通す。それは,どうも日本流儀では,かつても今もない,らしい。
それで思い出した。肥後の神風連(しんぷうれん)太田黒伴雄(大野鉄兵衛)の師となる(同じ勤皇党の川上彦斎にとっても師となる),原道館・林櫻園は,
兵は怒りなり,
と言い,攘夷論の盛んであった時期,
国を焼き尽くしてでも、夷狄と徹底的に戦うべきだ,
と主張した。攘夷論に,そこまでの覚悟を持った主張はなかった。それは,
「我国太平久しく、軍備廃頽し、軍器の利鈍、彼我比較にならない。戦わば敗を取るのは必至だ、しかし上下心力を一にし、百敗挫けず、防御の術を尽くせば、彼皆海路遼遠、地理に熟せざるの客兵である。かつ何をもって巨大の軍費を支えん。遠からずして、彼より和を講ずるは明々白白の勢いではないか。もし、一度彼が兵鋒を頓挫すれば、我国威は雷霆の如く、西洋に奮うべし。」
その戦いを通してしか、おのれの日本人としての背骨は通らない,その背骨なくして,世界に伍していくことはできない,という趣旨であった。そこにあるのは,完膚なきまでに,旧弊を灰燼に帰せしめる,という荒療治だ。こうした徹底論は,妥協派というか,現実派の前に,狂気として葬りさられる。言うところの,
焦土灰燼に天佑あり,
は,所詮妄想に過ぎない,と言えば言える。しかし,何かを貫徹しなくては,新たな地平は開かない。
櫻園の対極にあるのは,同時代の,同じ肥後の実学党と呼ばれた,横井小楠である。
日本に限らず世界中皆吾が朋友なり。
と言い,二人の甥を龍馬に託して洋行させる折送った,有名な送別の詩,
堯舜孔子の道を明らかにし
西洋器械の術を尽くさば
なんぞ富国に止まらん
なんぞ強兵に止まらん
大義を四海に布かんのみ
に,小楠の思いの丈がある。僕はこの徹底した楽天主義が好きだ。これを,「とほうもない誇大妄想」(渡辺京二)という評言もある。しかしこれはこれで,現実的な処方箋は立つし,また小楠なら立てたであろう。
衆言は正義を恐れ
正義は衆言を憎む
之を要するに名と利
別に天理の存する在り,
小楠と櫻園とは,ちょうど真反対に振り切れる立ち位置だが,何れの立ち位置も,いまだかって日本はとったことは一度もない。
昨今の,過去と遂に(というか踏ん切り悪く)訣別できず,過去の亡霊を復活させているありようを見ると,絶望に駆られる。
「徹底ということは,底に徹することであるが,その『底』というものは,自己の限界であることは明白である。」
とは,悲惨を悲惨として,敗北を敗北として,焦土を焦土として,徹底的に受け入れることだ。それが本来の米百俵,
「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」
の精神のはずだ。
しかしわれわれは,230万人の戦死者(その150万人は餓死者)の他,2,000万以上のアジアの人々の戦争犠牲者を出したことについて,遂に主体的に,徹底して向き合うことはなかった。別にドイツが素晴らしいとは言わない。他国は,どうでもいい。是非はともかく,70年もたって,いまだ戦後処理が終わっていない(と他国に揶揄される),この体たらくは何だろう。関係国とのすべての交渉が終わっていない,という政治的未処理の
継続に70年もかかっていて,その処理を終える意志が全く見えないことに,呆れるばかりである。対米関係でも,この国土が電波,空域,原子力のすべてに対米従属状態(占領下とはあえて言わないが,しかしアメリカの許諾抜きでは自由に意思決定できない状態)であること自体,いまだ戦後処理は完了していない。その意味では,敗戦処理はほとんど終わっていない。しかし終わっていないことにすら,気づいていない,というか,認めていない。
ドイツのように,領土に固執するのをやめることが是,と言っているのではない。それは交渉事だ。しかし,主体的に,本気で戦後を処理し尽くす覚悟を,為政者も,われわれ国民も,しなかったし,しようとしていないし,多分することはないだろう,ということだ。決断とは,
何かを捨てることだ,
それは,金や物や土地とは限らない。おのれの面子を捨てることもある。しかし,
面子を捨てる,
ことは,
矜持を捨てる,
ことではない。おのれの体面を守ることで,かえって矜持を捨てていることに気づいていない。
どうやらわれわれは,徹底という言葉を,自国のことばとして,持っていないということだ,と思う。言葉は,自分たちの現実を丸めるところから生まれる。和語として,遂にそういう言葉を持たなかった。なぜなら,そういう振る舞いをしてこなかったし,していないから,それをあらわす言葉がない(のではないか)。
言葉は,その人の振る舞いを表す。
参考文献;
渡辺京二『神風連とその時代』(洋泉社)
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「蜻蛉返り」というのは,
(トンボが勢いよく飛びながら,急に向きをうしろにかえることから)
空中で体を上下一回転させること,宙返り
歌舞伎で,役者が舞台で手をつかず宙返りすること,筋斗(とんぼ)返り
目的地に着いてすぐ引き返すこと
という意味がある(『広辞苑』)。もともと,
トンボリ・トンボ返り
で,返りは,空中で身をひるがえす擬態語,つまり掌をつかずに宙返りすること,とある。
歌舞伎の立ち回りには,
千鳥・大回り・むなぎば・腹ぎば・横ぎば・ぎば・入鹿腰・ひともかえり・二ツがえり・つづけがえり・逆立・杉立・そくび落とし・胸がえり・手這・猿がえり・あとがえり・重ねがえり・飛越・ほくそがえり・死人がえり・かわむき・水車・一ツとこがえり・仕ぬき
等々とある。「ぎば」というのは,宙返りのことである,そうな。
「中通り(ちゅうどおり)の役者は,『蜻蛉返り』ということを,必ず知っている…。」
と鳶魚先生はおっしゃる。ちなみに,中通りとは,名題役者(看板役者)の下,その下が下回りということになるらしい。名題下とか,相中(あいちゅう),下立役(したたちやく)とか,名題の下の役者を階級化したのは明治以降らしい。その区別は,正直よくわからない。
で,「蜻蛉返り」という名のいわれは,
「進んで来た位置で,そのまま後ろへ退ることが出来るのは蜻蛉だけで,その他の動物にはない,そこから起こったものだという。」
この説明がリアルである。実際に蜻蛉を見慣れたものだけが,その本当の意味が分かる。単に「身をひるがえす」ではわからない具体的なイメージが浮かぶ。つまり,「蜻蛉返り」の表現には,それぞれを受けとめた人それぞれに,
エピソード記憶
として,そのトンボの具体的な姿が,あったのである。
しかし,歌舞伎の立ち回りとなると,立役が主役とおもいきや,鳶魚曰く,
「主役となる者よりも,蜻蛉返りの方が見せものなので,それが,舞台の変化,局面の転換とでもいいますか,そういう方に効能があったのみならず,またすこぶる舞台面を賑やかすものでもあったのです。」
とある。主役だけで芝居は出来ない。そういう立役を,名題以下の中から抜擢する仕組みを捨てた今日の,血脈だよりの歌舞伎界の貧困化は,当然と言えば言える。
さすがに鳶魚は,その始まりを調べていて,享保十七年(1732)の新浄瑠璃『壇浦兜軍記』に,捕物場面で,「真逆様に,でんぐり返り」とあり,さらに,延享二年(1745)の『夏祭浪花鑑』には,「とんぼう返り仕やらふ」とあるとして,人形が蜻蛉返りをやっていた,と伝えている。
これが歌舞伎になると,
「蜻蛉返りをする者を,『トッタリ』というのは『捕えたり』ということで,むろん捕物の話ですが,これらの言葉は,人間のする芝居に発生したものでなく,人形芝居から起こったのではないか,という疑いがある。」
として,そのことに詳しい伊原青々園(せいせいえん)という人の説明を紹介している。
「自分の考えでは,能の方に『仏倒れ』といって,はずみをつけないで,体がそのまま,そこに倒れるという仕方がある。これはたしかにトンボの一種である。その次は人形の方で,『太閤記』の鈴木孫一が,腹を切ると蜻蛉返りをする。これは人形では死の苦悶などという,こまかい表情ができないから,ああいう倒れ方をしてそれを見せる。」
と言っている。さらに,どうも,この軽業のような所作が歌舞伎に入ったのには,「阿国歌舞伎以来,あらゆる見せ物から,面白いことは皆歌舞伎に取り入れているので,蜻蛉返りもそのころからあったものじゃないかと思われる。」と付け加えている。中国の芝居の影響もあるかもしれないと断ったうえで,さらに,
「『劇場年鑑』などをみましても,天明二年(1782)から立ち回りに後ろ返りをはじめたと,書いてあります天文(1736)以来は,弥弥人形芝居の方で,いろいろな仕出しの多かったときですから,…蜻蛉返りは,人間がやるには相当な稽古を要するけれども,人形ならば簡単に行われる…。」
と,推測している。
思うのだが,この宙返りに,
蜻蛉返り
と名付けたセンスに,驚く。
鼠返し,
というのは,そのままズバリだし,
燕返し,
というのは,確か宮本武蔵に敗れた,佐々木小次郎が得意とした剣技だったが,これも,
ツバメの素早く身をひるがえして飛ぶ様子
から,身を反転させること,あるいは,
ある方向に振った刀の刃先を急激に反転させる技,
に名づけた,蜻蛉返しと似た命名だ。これには,
柔道の足技の一つで,相手の足払いを瞬間的に足払いで返す早技,
というのもあり,麻雀のいかさまにも,
隙を見て牌山と手牌をすべて入れ替えてしまう技
に燕返しというのがあるらしいが,まあ,剣技から来た流用に過ぎまい。それにしても,燕返しの方が,ひらりひらりの感覚は,ピタリだと思うが,すでに,その言葉が剣技として広まっていたせいで,その名は使えなかったのだろうか。
参考文献;
三田村鳶魚『捕物の話 鳶魚江戸ばなし』(Kindle版)
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目の前を妨げるものの喩えとして,
壁
という言い方をする。目の前を遮る,あるいは,おのれの超えられない境界の喩えとして使う。
壁を,辞書で引くと,
家の四方を囲い,また室と室の隔てとするもの。ことに塗壁,すなわち下地をわたし,木舞(こまい)をかき,土を塗って作ったものを言う,
とあり,その他に,
(壁を「塗る」と「寝(ぬ)る」とをかけて)夢。
(女房詞,白壁に似ているところから)豆腐,おかべ,
登山で,直立した岩壁,
障壁,障害物
吉原の女郎屋の張見世(はりみせ)の末席(壁際),新造女郎が坐った,
近世後期,江戸で野暮,無粋を言った,
と並ぶ(『広辞苑』)。まあ,正真正銘の壁から,ものの喩えに移っていくのがよくわかる。
壁と見る,
というのは,野暮と見なす,つまりは軽蔑する意だが,
壁に馬を乗りかける,
というのは,無理押しを指す。この言い方がなかなか粋である。
閑話休題。
ここでは,
壁に突き当たる,
を言いたいために,遠回りした。何せ,障害というか,押しても引いても,動かない,まさに,二進も三進もいかない状態である。しかし,壁を無視すれば,問題と同じで,なかったことで過ごせないわけではない。
「かべ」というのは,語源に,
「カ(処)+ヘ(隔)」,場所の隔ての意味
と
「カキ(垣)+へ(隔)」,建物の周りや内部の仕切りの意
の二説があるらしい。漢字の「壁」の原字は,
「辟」
で,薄く平らに磨いた玉,表面が平らで,薄いという意味を含んでいる。で,「土+辟」は,
薄くて,平らなかべ,
の意らしい。「牆(しょう)」が,家の外を取り巻くながい「へい」で,それに対して薄く衝立式のを「かべ」を言ったらしい。それがのちに,家の内外の平らな「かべ」を言うようになった,という。ちなみに,「牆」を調べると,「爿+嗇」で,「爿(しょう)」は,「木を両分せし形,片の対」とある。「檣」は,「麥+作物をとり入れる納屋」からなり,収穫物を取れ入れる納屋を示す。「牆」は,納屋や蔵の周りに作った細長いへいをしめす,という。
壁というのは,
スランプ
とも
凹む
とも
落ち込む
というのとも,違う気がする。凹むや落ち込むについては,「凹む」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E5%87%B9%E3%82%80),「心が折れる」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E5%BF%83%E3%81%8C%E6%8A%98%E3%82%8C%E3%82%8B),「落ち込む」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E8%90%BD%E3%81%A1%E8%BE%BC%E3%82%80)
等々何度か触れた。スランプは,誰かの台詞ではないが,一流のスキルや技量の持ち主がなる,一時的な不調,不振なので,僕のようなものには,あまり関係がないが,いずれも,内的な要因である。つまり,心理的にか,技術的にか,ペースダウンの状態である。しかし,壁というのは,主観的なものであることは同じだが,
いまの自分にとって大きな障害,ハードル,
がある,と感じていることだ。多く,才能や技量という内的なものが,外の障害に跳ね付けられて,そう感じるという意味では,実は,いまの自分の力量にとっては,階段を昇るようには,越えられないハードルと感じている,ということだ。仮に,外からの手助けがあるとしても,そのステージの力量が満たなければ,また別の壁にぶつかるだろう。
壁は,何かにチャレンジしなければなく,ただの見晴るかす視界があるだけだ。何かにチャレンジしようとするものにだけ,そこに壁が見える。しかし,結局,それは,外に在るのではなく,
自分の内の限界意識,
が作り出す,影に過ぎない。しかし,その限界意識は,主観的に,作り出しているものではない。具体的に次のステージに上れないという事実が突きつける壁である。自覚的なものであると同時に,現実的なものでもある。たとえば,才能,というとき,それは,主観的だが,その差は,歴然として,客観的に在る。世の中は,多く,ステージごとに住み分けているから,同じプロフェッショナルと言いながら,あるステージからは相手にされないプロだってある。そのとき,差は,主観的ではなく,客観的にある。
ただ,思うのだが,その自分が直面している限界を,顕微鏡で見るか,遠眼鏡でみるかによって,壁の見え方が変わる。「どつぼ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E3%81%A9%E3%81%A4%E3%81%BC)
で書いたように,どつぼにはまった状態と同じく,その嵌りきった凹みというか,壁そのものと真正面に向き合った立ち位置から,距離を取って,「窮すれば通ず」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E7%AA%AE%E3%81%99%E3%82%8C%E3%81%B0%E9%80%9A%E3%81%9A)
で書いたことと重なるが,自分を俯瞰できる立ち位置に立てられれば,その壁の見え方も変わるかもしれない。
ただ,それは壁がなくなったわけではない。壁があるという事実を消すわけではないので,その突破口が,というより,
迂回路,
というべきか,まだチャレンジする経路が見える,というだけのことに過ぎない。
それを慰めとするか,諦めとするか,元気づけとするかは,その先どうするかの決断次第,ということに尽きる。
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狷介とは,
頑固で自分の信じるところを固く守り,他人に心を開こうとしないこと。またそのさま。片意地。
と,一般の意味。『広辞苑』をみると,
「『狷』は,頑固,「介」は堅いこと。現在は多く悪い意味で使う,
と断りがあって,「固く自分の意志を守って人と妥協しないこと」という意味を書いている。確かに,狷介は,あまりいい意味には使わず,どちらかというと,とげとげしたと取り付く島のないイメージがある。しかし,『大言海』には,
「人の,おのれが分を守りて,不義をせざること,介は,精神の堅固にして抜くべからざること」
とあり,「人の性質に,頑なに志を執りて,情を容れず,聊かなる,不義,不正をも敢えてせざること」と,どちらかというと,志操堅固の意味が強い。
「狷」の字は,
「小回りしてせかせかとはしる犬,また小さく枠を構えて,その外へでないこと」
という原意があるようで,性急とか,片意地とか,鋭い,といったどちらかというといい意味を持たない。まあ,
心が狭い,
というニュアンスである。「介」の字は,
「人+八印(両脇にわかれる)」
で,両側に分かれること,とある。さらに,両側に分かれることは,両側から中の物を守ることでもあり,中に介在して両側を取り持つことでもある,という。だから,
はさむ(「介意」)
仲立ちをする(「仲介」)
助ける(「介助」「介護」)
両側から挟んで身を守るよろい(「介冑」)
鎧や殻のように固い(「耿介」耿)
両脇から孤立するさま,転じて大きい(「介立」)
ひとつ(「一介=一个」「一介」)
という意味になる。どちらかというと,挟んで仲立ちする意味なのに,「狷」と一緒になると,「堅い」とか「孤立」の意味が滲んでくるようである。『論語』の,
中行を得てこれを与にせずんば,必ずや狂狷か,狂者は進みて取り,狷者は為さざる所有るなり,
でいう「狷」は,
潔癖で強情な偏人,
と,貝塚茂樹注にある。中庸をベストとする孔子には,
中庸の徳たる,それ至れるかな,
という言葉がある。中庸とは,
偏らず常に変わらないこと,
とある。不偏不倚で過不及のないこと,
ともある。語源的には,「中(なかほど)+庸(かたよらない)」で,
物事の中ぐらいの節度を守る
ともある。
「中」とは,
もともと,旗竿を枠の真ん中に突き通した姿を描いたもので,真ん中の意。「突き通す」の意味があることを忘れてはいけないようだ。だから,
「決して過不及の中間をとりさえすればよいという意味ではない。」
ではないので,中途半端や足して2で割るというものではないようだ。そんな意なら埒もないことで,わざわざ言うに値しないだろう。
「庸」の字は,棒を手に持って突き通すこと。「通」と同じく,通用する,普通のという意を含む,とある。「通」の,「用」は,「卜(棒)+長方形の板」の会意文字で,「棒を板に通したことを示す会意文字。これに人を加えた「甬(よう)」は,人が足でとんとんと地板を踏み通すこと。「辶(足の動作)+甬」で,途中でつっかえ止まらず,とんと突き通ること,という意。
こうみると,実は,中庸は,それほど簡単ではない。貫き通す真ん中の位置が,常に通用するとはかぎらない,それでもそれを貫くから,
一以て貫く,
となるのだろう。現実と妥協しながら,生きていく人から見れば,それが時に頑なで頑迷固陋に見えるはずである。
四文字熟語の,
狷介固陋(かたくなに自分の意志を守って,人のことを受け入れないさま)
狷介孤高(自分の意志をかたくなに守って,他と協調しないさま)
というのも,その辺りの微妙なニュアンスを含んでする。僕には,儒学者・横井小楠の,
彼を是とし又此を非とすれば
是非一方に偏す
姑(しばら)く是非の心を置け
心虚なれば即ち天を見る
心虚なれば即ち天を見る
天理万物和す
紛々たる閑是非
一笑逝波に付さん
等々の詩は,そういう含意を持って,是非の二者択一ではない視点をいつも持つことを言っている。だから,勤皇派からは佐幕派に見え,佐幕派からは,勤皇派に見える。
人の生きるや直し
というのは,そういう貫いた軌跡を指しているに違いない。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
野口宗親『横井小楠漢詩文全釈』(熊本出版文化会館)
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「きいたふう」は,
利いた風
と当てるか,
聞いた風
と当てるかで違う(『広辞苑』)。同じく,
「きいたふうなことを言う」
でも,
「利いた風」なら,
気が利いていること,
になるし,
「聞いた風」なら,
いかにも物事に通じているように気取ること,
知ったかぶりで生意気なこと,
つまり,
なま聞き,半可通,
になる。しかし,どうも,どちらに当てても,
さも知っているような小生意気な様子,
を指して使う,とある(『語感の辞典』)。「風」が,そのニュアンスだから,「気が利いている」風であり,「知っている」風なのだろう。
ただ『語感の辞典』には,「古めかしく」とあり,
大学生にも通用しなくなった,
とある。昨今大学生は,知性のモデルではなく,病だれの「知性」の方だから,大学生が使わないからと言って,世間一般とは言い難い。むしろ「大学生にも」ではなく,「大学生には」なのではないか。
閑話休題。
語源的にも,
「利いた(ためした,物事に通じている)+風(様子)」
とあり,
わかりもしないのに,わかったような生意気な態度をする様子,
とある。
子曰く,道を聴きて塗(みち)に徳は,徳をこれ棄つるなり,
というのがとっさに浮かぶ。
衒う
というのがこれに当たるのだろう。「衒う」は,
(「照らふ」の意)かがやくようにする,見せびらかす,
という意味になる。「衒」の,「玄」は,
細くて見えにくい糸をあらわす,
といい,よく見えない,曖昧であるという意をもつ。「衒」は,「行+玄」で,
相手の目をごまかして,真相が見えないようにする行いのこと,
とある。だから,意識して,そうしている,という意味では,
すかす
とか
虚飾
とか
見栄
とか
体裁ぶる
とかに近い。顔や身なりを装うのと,知性を装うのとの違いに過ぎない。
類語は,
見識張る
というのが近いが,
曲学阿世
となると,追従にシフトしているので,若干ずれる。
管を以て天を窺う
とか
小知を以て大道を窺う
となると,井の中の蛙で,自覚していないから,さらにずれる。
おのれの分,
ということを意識する。つまり,
分け与えられた性質,地位,身のほど,力量,
の意味だ。天分,性分,分際,身分,分相応,という使い方をする,「分」である。「分」の字は,
「八印(左右にわかれる)+刀」
で,二つに分ける,意。
何と分けたのか,
何から別れたのか,
を考えるとき,知とは,世界から別れたことだ。しかし,見えている世界は,その別れ方,つまり,距離の取り方で異なる。同じく,全体の部分である,といっても,地上に立つのと,月から地球を見るのとは違う。
分を弁える,
とは,そういう意味だと思う。その距離が見えているかどうかが,聞いた風かどうかの別れ道なのだと思う。
由(子路)よ,汝に知ることを誨(おし)えんか。知れるを知るとなし,知らざるを知らざるとせよ。これ知るなり。
である。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
中村明『日本語語感の辞典』(岩波書店)
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最近は,あまり使うのをきかないが,
得たり賢し,
という言い回しがある。辞書(『広辞苑』)には,
「物事がうまくいって得意になったときに発する語。しめた,これはありがたい」
といった意味になる。
「多く『と』を伴って副詞的に用いる」とあり,「『得たり賢し』と,云々」という言い方になるのだろう。
物事が自分の思いどおりになったときの喜びの気持ちを表す語,
ともあり,「得たり賢しとばかり攻めたてる」と言った使い方になる。しかし,
「動詞ウ(得)の連用形に助動詞タリが付いた形,感動的に使う」
と言われる,
得たり,
自体が,
うまくいった,しめた,
という意味なので,「賢し」は,言葉のリズムとして付けたしたという感じなのではないか。
得たりおう,
とも言うが,
得たりやおう,
が,「心得て受け止める時,またうまく仕遂げたときなどに発する語」で,
上手くいったぞ,
という意味で,「得たりやおうと立ち上がる」と言った使い方をする。
得たりや応う,
と表記するようだから,応答し合う,えいえいおう,に似た使い方なのか,と想像してしまう。
『古語辞典』には,
「エタリに感動の助詞ヤと感動詞のオウの続いた形」
として,
「得たりやおうとて,十騎の兵,轡を並べて懸けたり」
という例文が出ている。『大言海』は,
「おうは,唯(お)の延,やと共に,感動詞なり」
として,
「手ごたえして,はたと中(あた)る,えたりやおうと,矢さけびをこそしてんげれ」
という例文を載せる。その言葉がもつ,場面というかニュアンスが伝わってくる。
因みに,
えいえいおう,
は,
「『えいえい』という大将の掛け声に呼応して軍勢一同が『あう(オオ)』と声を合わせ、これを三度行なったという。『えいえい』は前進激励の『鋭』、『おう』はそれに応じる『応』の意であるという。」
あるいは,
「大将が三度弓杖(ゆんづえ)で地面を叩き、『えい、えい、えい』と三声の鬨をあげ、家来が声を合わせ、『応(おー)』と応える」
ともある。この場合も,「えいえい」自体が,
力を入れた時発する声,
とある。弓を引いたり,力をいれたりするとき,「えい」という声を発する,それである。その他に,
呼びかける声,
とあり,「えいえい」と掛けて,「おう」と応えることで,鬨の声になる。これは,
武家の作法,
とされており,
「勝凱をつくることは、軍神を送り返し、奉る声なり」
とあるように,戦勝祈願と戦勝御礼の意味があるようだ。「えいえいおう」も,
「『訓閲集』の表記では、『えい』も『おう』も異なり、『曳(大将が用いるエイ)』『叡(諸卒が用いるエイ)』『王』の字を用いており、また、軍神を勧請する際、『曳叡王(えいえいおう)』と記し、大将が『曳』と発した後に、諸卒が『叡王』とあげるとしており、声に関しては、『初め低く、末高く張り揚げる』と記している」
とあるなど,まあ,一種の
験担ぎ,
の色合いがある。
鬨を合わせる
鬨の声を挙げる
という言い回しがあるが,軍勢が揃って大声で「おう」と叫ぶことを指す。ある意味結束と士気を鼓舞するためにするので,
出陣時,
攻撃開始時,
敵が鬨を挙げた時(それに応じて),
戦勝の時,
凱旋の時,
等々にする。作法だから,流派によって多少の差異があるらしい。こんなことまでも,何々流と,何でも,個人ベースの相伝の秘儀にしてしまう,日本的と言えば日本的な兵法になるのだろう。
参考文献;
笹間良彦『図説 日本戦陣作法事典』(柏出版)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E3%81%A1%E9%AC%A8
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かたなしは,
伊達男もかたなしだね,
等々とつかう。しかし,かたなしは,同じ,
形無し
と当てても,
跡かたがないこと,形跡が残っていないこと
さんざんなこと,面目を失うこと
形無し銭(文字がつぶれた見えないようになった銭)の略
というほかに,形容詞としての使い方があり,
容貌が醜い,汚い
形跡が残っていない
という使い方があり,『古語辞典』にあるのは,前者の使い方例だ(記憶では,前者の使い方に「陋無し」を当てていた例がある。「陋)は狭いとか粗末という意味。乚+丙は,足さえ左右に開けない狭さの意。阝は,「阜」で,土盛り)。
語源をみると,
形無しは,
「カタ(形)+無し」
で,みじめな様子,本来の姿が損なわれてすっかりだめになること,という意味らしい。
この辺りは,原意は,
何かの調子に本来の形を損なったさま,
だったのだろう。それに毀誉褒貶の価値観がはいると,
面目を失う,
になり,美醜の価値感がはいると,
みっともない,
みにくい,
となる,というような。
漢字の「形」という字は,
左側は,もともと井(ケイ)で,四角いかたを示す象形文字。「彡」は,指事文字。
飾りや模様を表す記号として,彩・影・形等々の字に使われている。で,「形」は,
「井+彡」で,いろいろな模様をなす枠取りや型のこと。
異説に,「幵(そろえる,たいら)+彡(刷毛で刷く)」というのがあり,その場合,
美しい線で象られたものの形態,
となる。「型」の字は,「刑+土」で,
刑は,「井(四角い枠)+刂」で,小刀で枠の形を刻む意を持つ。「刂」は,刀で,そう言えば,「創」の字は,
鋳造するとき,できた後,刀で鋳型に切れ目を入れる
意だと,どこかで聴いた記憶がある。左側は,「形」と同じで,井の変形。「耕」の「井」と同じで,畑に枠の筋目を入れる=たがやす意味。「刑+土」は,
砂や粘土で作った鋳型のこと,
という。その「型」からきているのか,日本語の「かた」は,
カタ(堅・固)
で,土を固めて乾かし,カタを取ったのが,語源。だから,
カタ
カタチ
カタメル
イガタ
のカタも同源。平面的なカタより,立体的なカタのことを指すらしい。となると,わかりやすい。そのかたちが崩れていれば,形無しである。
こう見ると,どちらにしろ,きちんとカタのあるもの,形の整った姿勢,振る舞い,評判の人が,そのカタチを崩し,見る影もなく,尾羽打ち枯らす状態を指す。
「尾羽打ち枯らす」という言い方は,鷹の,尾羽が損じてみすぼらしくなること,を指しているから,烏や雀には使えないのと同様,「かたなし」も,もともと形のない人には使えない,ということになる。。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
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よしなしごと,
の「よし」である。「よしなし(由無し)」は,
手掛かりがない
関係がない
根拠が薄い
くだらない
つまらない
といった意味であるが,「〜という由で」「〜された由で」という言い方をする,「由」は,古語辞典では,
「『寄(よし)』と同根。物の本質や根本に近寄せ,関係づけるものの意。つまり,口実,かこつけ,てがかり,伝聞した事情・体裁などの意。類語『故(ゆゑ』は,ものごとの本質的・根本的な深い原因・理由・事情・由来の意。」
と,ことわりがある。どうも,「由」と「故」の違いが判らない。それは,後で確かめるとして,まず,「由(よし)」は,
口実・かこつけ
わけ・理由
てがかり
伝えられた事情
趣旨
(平安女流文学で,「ゆゑ」と区別して)二流以下の血統,またその人の風情・趣向・教養・人品
体裁。格好
といった意味になる。語源的にも,
「寄す」の名詞形
とされ,ものごとの拠り所とされる事柄,由緒の意とされる。ついでに,「寄し」はというと,
「由と同根」
とあって,
統治者としてゆだねる,まかす,
近寄らせる,
関係があると(世間で)噂する
とある。そういえば,「何々の由」というとき,少しく,風聞のニュアンスを含めている。明確であれば,「何々の故」という言い方をしそうだ。では,「ゆゑ」は,というと,
「本質的・根本的な深い理由・原因・由来の意。平安女流文学では,由緒正しいこと,一流の血統であること,またその人に見られる一流の風情・趣味・教養などをいい,二流のものはよし(由・縁)といって区別した」
ということわりがあり,
重大な深い理由,確かな原因
正しい由緒
一流の血筋
一流の趣味・嗜好
一流の風情・雅趣
と意味が並ぶ。話は違うが,今日の意味での血筋とは違う。血筋たるべく,血の滲むような教養と修業を積む。
豊臣秀頼は,その血筋たるべく努力を重ね。今日残る墨跡に,その「ゆゑ」が明白に残る。ここで言う,一流とは,ただの血筋ではない。血筋だけを誇る手合いの体たらくは,今日日々目撃させられ,世界の笑いものになっている。ここで血統とは,その血統であれば,それなりの教養と修業を積む機会が与えられたであろう,という前提である。それが身分社会というものらしい。ちょっと話は違うが,八丁堀同心というと,『必殺仕事人』の中村主水を思い浮かべるが,八丁堀組屋敷内に道場があったぐらい,日々必要な鍛錬を怠らない。怠れば,その役にふさわしくない,と見なされる。それは致仕せざるを得ないことを意味する。身分社会とは,その身分に安住し,のほほんとしていることではない。ピンからキリまで,その役目にある限り,果たさねばならない責務がある。それを果たすべく,努力を怠らない。だから,江戸時代,主君が主君の任を果たさなければ,家臣が押し込め(「主君押込」),無理やり隠居させた例すらある。
ここで「ゆゑ」というのは,そういう重みがある。ゆゑを「一流」とするにはそれなりの所以があるのである。因みに,「ゆえん」とは,
故ニナリがつまって,ユエンナリとして使われ,ついでユエンだけが独立して使われるようになった,
とある。そうすると,所以もまた,確たる例証,根拠なく,使うと,語の定義からすると,誤用になるのかもしれない。
ついでに,「縁」を調べると,
因果の法則の直接的原因を助けて結果を生じさせる間接的原因としての補助的条件。またこの二つの原因を合わせて,因とも縁ともいう。
なるほど,直接的原因ではないから,「由」と類縁なのか。
縁は異なもの味なもの
という「縁」は直接的な結縁ではないが,男女をつなげる不思議な因縁とは,なかなか微妙である。
「よしなし」も,ただつまらない,という意味ではなさそうである。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
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やさしい,
は,
優しい
とも
易しい
とも
恥しい
とも当てる。語源は,
「痩さし」
である。「身も痩せるような恥ずかしい思い」である。
慎みがあって殊勝だ,
という意味らしい。転じて,
思いやりがあって,心遣いがある,意となり,さらに転じて,
わかりやすい,
扱いやすい,
処理しやすい,
たやすい,
と変化してきた,とある。『古語辞典』にも,
(人々の見る目が気になって)身も痩せ細る思いがする意,
が転じて,遠慮がちに,つつましく気を使う意,またそうした細やかな気遣いをつつましく気をつかう,意。
とあり,
身も細るようだ,肩身が狭い
恥ずかしい,面目ない,
気を遣ってつつましい,遠慮がちで控えめである
ときてから,やっと,
優美である
心憎い,
健気である
優雅である
温かく思いやり深い
平易である,
と意味が続く。その意味で,優しさとは,人に対しての気遣いではなく,そこに居ること自体を遠慮する,憚る気遣いという感じが強い。
漢字の「優」の字はどうかというと, 「人+憂」の,
「憂」の,原字は,人がしずしずとしなやかなしぐさをするさまをえがいた象形文字。「憂」は,それに心を添えた会意文字で,心が沈んだしなやかな姿を示す。で,「優」は,
しなやかにゆるゆるとふるまう俳優の姿,
の意で,
しなやかなしぐさを示す人(「俳優」)
やさしい(「優毅」)
しなやかなさま(「優美」)
すぐれている(「優秀」)
ゆたか(「優裕」)
といった意味を持つ。どうも,「優」には,
それを演ずる,
というニュアンスがある。そのせいか,「人+憂」には,
仮面をつけて舞う人
という意味があったという説もあるのである。つまり,本来,
俳優(わざおぎ)
であり,最も近い類語「情け」は,
「ナス(作・為)+ケ(見た目,接尾語)
で,
心遣いが目に見えるさま,
なのである。だから,ある意味,
人に対して,場に対して,心を砕く,
という意識なのではないか。それは,人に対する気遣いではなく,自分自身に対する意識,自分自身の中かから出ている意識,
なのではあるまいか。だから,
人に対する優しさは,
人を気づかうことではあるが,もともと自分をワンダウンさせて,気遣いを見せるふるまいである。それ(そういう自分の気づかうふるまい)が,ある程度相手に見えなければ,その下手に出ている,つまり,相手を上げていることが,相手に見えなければ,意味がない。だからこそ,それが度をこせば,
偽善
にもなる。だからこそ,それを「情けない」と感ずる。「情けない」とは,
思いやりがない,
無愛想である,
武骨である,
あさましい,
ふがいない,
という意味である。おそらく,身分社会を反映しているのだと思う。場を弁える,とは,多分そういうことだったのではなかろうか。
それにしても,この「やさしい」の変化の,内の憚る気持ちが,外に気遣いとなり,その見易さが,易しさへと変るというところに,人の哀しみがにじみ出ている気がしないでもない。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
竹内整一『「おのずから」と「みずから」』(春秋社)
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「面白い」(興味が感じられるという意味)の語源は,
「オモ(面)+白い」
で,顔面が白くなるのが語源とするの,がある。もう一つ説があって,
「面+著し」
で,顔の前がパッと明るくなる,という意味,という説がある。で,
「面白いは当て字という説や,どうも胡散臭いというので,教科書では,仮名書きにされていますが,これは語源に従った正しい書き方です。心に強く感じて,パッと顔の前が明るくなるような感情を,オモシロイというわけですから,面白いと書いて,合理的な表記です。」
と,補足説明がある。ネットの語源説明では,
「『面』は目の前を意味し,『白い』は明るくてはっきりしていることを意味した。そこから目の前が明るくなるような状態をさすようになり,目の前にある景色や美しさを指すようになった。さらに転じて,『楽しい』や『心地よい』等々の意味を持つようになり,明るい感情を表す言葉として使われるようになった。」
とあり,
「火を囲んで話をしていたところ,面白い話になると皆が一斉に顔を上げ,火に照らされた顔は白く浮かび上がったところからなどといった説」
を,俗説として退けている。しかし,そうだろうか。
『古語辞典』には,「面白し」について,
「オモは面,正面,面前の意。シロシは白し。明るい光景とか明るいものを見て,目の前がパッと開ける意。また気分の晴れ晴れとする意。それが音楽・遊興などの快さというようにひろまり,文芸・装飾その他に対する知的感興を一般に表すようになった。」
とある。
目の前がパッと明るくなる感じ,
というのは,
目の前がパッと開けた感じ,
でもある。それは,何も景色だけとは限らない,何かを見て,一瞬に世界が開く感じは,同じである。あるいは,何か思いついて,ひらめいた一瞬も視界が開いた感じがある。その意味で,囲炉裏で面白い話を聞いて,パッと眼前が開いた感じがしてもおかしくはない。
能の起源は,天の岩戸に引き籠った天照大御神の御心を捉えんとして,奏した神楽が,「申楽のはじめ」とされるそうだが,
「遊芸に愛で給ひて,大神岩戸を開かせ給ひし時,諸神の面,ことごとくあざやかに見て初めしを以て,『面白』と名付初められしなり。」
という,申楽起源に絡んだ「面白」語源説まである(『風姿花伝』)そうだから,日の前で,火に照らされてではないにしろ,パッと視界が開いた時に見せる表情そのものは,俗説とばかりはいえないだろう。
能芸論では,「面白し」を,
@岩戸前にて神に奏した神楽の遊びが納受されたときに起きた言葉であること
Aそれは「闇黒」から「明白」への開放・転換の形容語であること,
Bそれは,「うれし心」「歓喜」「微笑」といったものを内在させていること,
C表現としての「面白し」は,「闇黒」から「明白」へ,「うれし心」への契機を知的に捉えなおしたものであること,
とまとめて,
「面白とは,一点付けたる時の名也」
「明白となるは花,一点付けたるは面白なり」
という説もあるらしい。「一点付けたる」とは,点を一つ打つの意で,「事態を知的・客観的に捉えなおす」という意味らしい。よく分からないで言うのもなんだが,たとえば,書画を眺めていて,何か足りない気がして,点を付け足した,そうしたら面白い,となった,そんな感じであろうか。この段階では,それを「面白し」と言い得る,知的レベル,までに昇華されている,というべきか。
俗人には,ちょっと近づきがたいが,そのせいか,本来の「面白し」の意味は,
(景色や風物が明るくて)心が晴れ晴れするようだ
(気持ちが解放されて)快く楽しい
心惹かれる,感興がわく,
と,やはり知的である。一方,現代の「面白い」にも,『広辞苑』には,
(一説に,目の前が明るくなる感じを表すのが原義で,もと,美しい景色を形容する語)目の前が広々と開ける感じ
と,説明があって,
@気持ちが晴れるようだ,愉快である,たのしい,
A心が惹かれるさま,興趣がある,趣向がある,
B一風変わっている,滑稽だ,
C思い通りでこのましい(主に打消しの語をともなって,「面白くない」)
と,確かに「愉快系」にシフトしているが,しかし笑っているとき,我々の頭の中には,ひらめいたのと,似たことが起こっているのではないか。特に,落語の落ちや下げ,ジョークによって,とんでもないものがつながれ,むすびつけられたとき,一種視界が開く感覚がある。ああ,そうか,というように。それは,何かがひらめいた瞬間そっくりである。
それこそが,面白い,の真骨頂である。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
竹内整一『「おのずから」と「みずから」』(春秋社)
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おもてなし
とさんざん吹聴されたが,そう口にしている連中に,(国民への)もてなしごころは持ち合わせはないらしい。まあ,そういうのを外面がいい,という。
「もてなし」は,語源的には,
「持て+成す」
で,取り持って行動すること,こころを込めて客を大事にして御馳走すること,という。しかし,
取り持って行動する
ことが,どうして,
御馳走
という意味になるのかが,見えない。『古語辞典』によると,「もてなし」は,
モテは接頭語,相手の状態をそのまま大切に保ちながら,それに対して意図的に働きかけて処置する,
という意,とあり,その意味として,
物に手を加えず,あるままに生かして使う。相手をいためないように大事に扱う
相手に対していろいろ面倒をみる
物事に対処する,ものごとを処置する
接待する,馳走する
扱う,見せかける
という意味で,その他に,
とりなす,
世話する,引き立てる
もてはやす
そぶりをする,
といった意味もある。どうやら,
相手を大事にする,
という意図があり(その場合の相手は「人」とは限らない),それに対して,こちら側の姿勢次第で,
面倒を見たり,
引き立てたり,
御馳走したり,
となる。その意味では,御馳走は,もてなしの一部に過ぎない。類語は,
御馳走
ふるまい
饗応(供応)
といった感じになる。「馳走」は,
「チ(馳せる)+走(はしる)」
で,駆け回って心を尽くす,
という意味で,駆け回って,奔走するという意味合いが強く,ここでも,直接的な酒食による供応は,その対応の一つに過ぎない。
ふるまいは,語源的には,
「振るひ+舞う」
で,鳥が羽を動かして飛び回る,意で,どちらかというと,人目に立つ行動,という意味が強く,
人目につくような勝手な行動をする,思いのままの挙動をする,
ある心づもりをもって身を処する,
用意し身構えて行動する,
という意味が最初に来て,最後に,
人をもてなす,御馳走する,
が加わる。「大盤振る舞い」という言い方がある。元来は,「椀飯振舞」と当てて,
江戸時代,一家の主人が正月などに親類縁者を招いて御馳走をふるまったこと,
を意味し,目立つというか,忙しく供応する,という振る舞いに焦点が当たっていなくもない。
「饗応」も,
響きが声に応ずるように,人の意を体してすぐさま行動を起こすこと,
という意味である。『古語辞典』でも,
相手をもてなすこと
相手の気に入るように調子を合わせること
とあり,酒宴の意味は,派生的のようである。ただ,「饗」の字には,
「郷+食」
だが,「郷」の字の原字は,「卿」で,「ごちそう(皀)の両側に人がひざまずいて向かい合ったさま」を示す会意文字。「郷」は,「邑+卿の略体」で,向かい合ったむらざと,「饗」は,「食+郷」で,向かい合って食事をすること,という意味がある。「供」の字も当てるが,「共」は,「□印(あるもの)+両手」の会意文字で,供の原字。□印で示されたあるものを左右の両手で,うやうやしくささげるさまを示す,捧げる動作は,両手を同時に動かすため,共は,共にの意味に転じた,という。
こう見ると,「もてなし」とその類語も,酒食でもてなしたり,御馳走を供する,というよりは,
相手への姿勢,
を指している。その場合,「おもてなし」とは,
客に対して心のこもった待遇や歓待やサービスをすること,
ではなく,それはただの一面に過ぎず,あるのは,
相手を大事にする,
という心映えだったのではないか,と思う。その心映えは,
ハレ
だけで示されるものではない。日々,民をいたぶり,玩ぶ心に,そういう心映えはなく,原義通りの,ただの,
振る舞い,
つまり,
外面だけの目立つ行為,
にしか見えない。「心映え」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E5%BF%83%E3%81%B0%E3%81%88)については書いた。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
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「うつつ」は,
現
と当てる。意味は,
(死んだ状態に対して)現実に生きている状態。現存。
(夢や虚構に対して)目覚めている状態,この世に現に存在しているもの。現実。
気が確かな状態。意識の正常な状態。正気。「―に返る」
(「夢うつつ」「夢かうつつか」と言うところから誤って)夢とも現実ともはっきりしない状態。夢見心地。夢心地。
といった意味になる。「うつつ」の語源は,諸説あるらしいが,手元の辞書には,
ウツシ(顕)の語幹のウツを重ねた
「ウツ(現実)+ウツ(現実)」
の約で,目覚める意,とある。しかし,「うつうつ」を辞書(『広辞苑』)で引くと,
半ば覚め,半ば眠っているさま,うとうと,うつらうつら,
とある。どうも,
夢うつつ,
が,本来,
夢と現実,
の意味なのに,
夢か現実か区別しがたいこと,
と誤用(?)とされているのは,『古今集』に「夢かうつつか」「うつつとも夢とも」等々と使われるうちに,夢と現の区別のつかない状態,
夢見心地
を指すようになった,とされる。ただ,ある辞書(『日本語 語感の辞典』)には,
「夢心地」や「夢見心地」が夢のような現実の意識を指すのに対して,この語は,実際に夢である可能性を否定しない,
とある。まあ,夢と現の曖昧な状態,という意味では,
うつつを抜かす,
の,「夢中になる」「心を奪われる」という意味で使われているのにつながるのかもしれない。「現」という意味の「うつつ」なら,現実にいる,という意味になるはずなのに,
夢うつつをぬかす,
の「夢」が抜けた状態で使われている。
ところで,「うつつ」には,「うつつ」の「うつ」が,
移る,
と同根,とする説があって,「現実感覚の移る」を「写る」「映る」と絡める説まである。間接的な情報なので,ここからは,妄説の類になるが,「移」は,
「禾(いね)+多」
で,もともと,稲の穂が風に吹かれて横へ横へなびくこと,横へずれる,という意をもつらしい。まあ,考えれば,現実は,流れる川に喩えられる。
うつせみ,
の「うつ」でもある。本来,
現身(うつしみ)
とする説もある。この世に生きている人間,の意味である。それが,音韻変化したこともあるが,元来生きている人,この世,という意味しか持っていなかったものが,平安時代以降(『万葉集』の「うつせみ」を「空蝉」つまり),
蝉の抜け殻
の意味と解するようになったので,はかなさ,無上のニュアンスをもつようになった,とされる。というよりは,この時代の終末思想,末世思想が,「うつせみ」に「空蝉」とあてさせたのだろう。その辺りが,「夢うつつ」を,夢見心地に変じさせた時代背景に見える。
なんとなく,うつつが夢とセットに浮かび,「うつつ」そのものが不確かで,移り行くものにみえている時代を映している。いま,では,現は,確かなのか。
「放射能と共に生きる」
「(放射能に汚染されていても)食べて応援」
「(何でもかんでも,デモも政権批判も,人質救出失敗の検証することも)テロ」
等々とテレビでいい,新聞で喧伝する,そのリアリティさのなさはどうか。一体どちらが,夢うつつなのか,と言いたくなる。日本社会は,いつまで,花見を続けているつもりなのか。足元の危機に迂闊すぎる。
「ありてなければ」
という言葉がある。
あるものはかならずなくなる,
いまあるものはほんとうにあるのか,ゆめかまぼろしか,
という意味だが,その状態に,いまわれわれはいるのか。その自己完結した世界観は,現代の,「うつつ」の中では,存在し得ない。にもかかわらず,夢うつつでいるのは,愚か,でしかない。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
竹内整一『「おのずから」と「みずから」』(春秋社)
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ぼんやり
というのは,
物の形や色などがはっきりせず、ぼやけて見えるさま。
事柄の内容などがはっきりしないさま。意識,記憶がかすんでいるさま。
元気がなく、気持ちが集中しないさま。
気がきかず、間が抜けているさま。
といった意味がある。少なくとも,驚きのあまり言葉を失った様子の,
呆然,茫然自失,唖然,肝をつぶす,言葉がでない,言葉を失った,放心状態,ポカン,
や, 脳に血液が十分通わないことが原因で、自然に起きた意識喪失としての,
失心,卒倒,失神,人事不省,気絶,
といった類のこととは別のことだ。日常生活は普通にしているが,
ぼさっと,
ついつい,
ついうっかり,
うかうかと,
ふと,
ぼーっとして,
思わず,
漫然,
取り留めない,
何となく,
といった,注意不足というか,気を抜く,というのに近い。結果として,注意力散漫,気の弛み,緊張感の欠如,精神の弛緩で,うかうかと何かを引き起こす。そのときになって,はっとする,というか,
不覚
を悟る,ということになる。古語辞典には,
うかと,
というのが載っていて,ほぼうっかりと同義で,気づかずにいる状態,の意味としている。
語源的には,「ぼんやり」は,
「ボヤ+リ」
で,ボヤっとしたの語幹。ボヤに,リが加わり,音韻変化で,撥音化し,
ボ+n+ヤ+リ
となったもの,とされる。転じて,間抜けで気がきかない,という意味になった,とある。いわば,
ぼやっとした,意識が焦点の合わない状態,
にあるということに近い(それを対象側で言えば,ぼやけていることになる)。意識して,何かをしていない,ということだ。そうなれば,周囲への目配り,気配りがおろそかになる。よく,遠くから見知った顔に気づくが,相手は,すれ違っても,こちらに気づかない,ということがある(当然逆もある)。それは,
意識が内向き,
になっていて,心の中の何かにとらわれている,ということでもある。多く,ぼんやり,とはそういう状態ではないか。それは,不用心に身をさらしている,ということになる。心ここに在らず,というほどのことではないが,だから,
うっかり,
うかうか,
なのだ。なんとなく,
迂闊
に似ている。迂闊は,中国語の,
迂(曲がりくねって遠い)+闊(打・搗)
で,事情が遠い,意。日本語では,注意力が足りずうっかりする,意。しかし,辞書には,語源の,
回り遠くて,実情に当てはまらない,迂遠の意味,
のほかに,
大まかで気のおおきいこと,
意味もあるようだ。細かなことを気にしない(気にならない),ということだ。「迂」の字は,
回りくどくて実際的でない,
ものごとに疎く実際的でない,
という意味がある。
「辶+于」の「辶」は「辵(ちゃく)」で,
はしる,たたずむ
という意味。「于」は,指事文字(形をもたない抽象的な、ようす・動作・状態などを、象徴的に表そうとした字)で,
息が喉につかえて,わあ,ああと漏れ出すさま,
を示す。直進せず,曲がる意を含む。
「闊は,「門+活」「活」は,水が勢いよく流れること。ゆとりがあって,つかえない,意。「寛(ゆとりがある)」の語尾が縮まった形,という。だから,
ひろびろしている,
はるかとおい,
ゆるい,
という意味になる。両者合わせて,
遠くて,実際的でない,
というか,(意識の)ピントが合わない(からぼんやり見える),という意味に取れる。
ぼんやりしている,迂闊に過ごす,というのは,身の回りを見過ごす,ということに近い。それは,
見れども見えず,聞けども聞こえず,
つまり,
心焉(ここ)に在らざれぱ,視れども見えず,聴けども聞こえず,食らえども其の味を知らず,此れを,身を脩むるはその心を正すに在り,と謂う。
である。それは意識状態というよりも,是非の判断状態といってもいい。簡単に付和雷同するときは,ほぼぼんやり,と言っていい。
ぼんやり
は,自滅の始まりである。おのれに迫る危機に疎い,ということでもある。それを
うつけ
という。「うつけ」というのは,
中がうつろになっている,
ぼんやりしていること,またはそういう人,
という意味である。「うつける」から来ている。
中がうつろになっている,
とは,ぼんやりそのままを言い当てている。
参考文献;
金谷治訳注『大学・中庸』(岩波文庫)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
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「お陰様」という言葉の意味は,感謝だが,「
感謝」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E6%84%9F%E8%AC%9D)については触れた。
お蔭(陰)様は,辞書的には,
(多く「おかげさまで」の形で)他人から受けた助力や親切に対して感謝の意をこめていう語。
上記をさらに敬っていう語。「すべて神様のお蔭と感謝する」
ということで,日本語の語感では,
よいことがあったとき,そういう結果をもたらしたものに感謝の気持ちを述べる言葉,
となる。「様」を取った,お蔭(陰)は,しかし,微妙に違う。
神仏からのお助け,加護,人から受けた恩恵,力添え
(善悪にかかわらず)ある人や物事がもたらす結果,影響,
となり,そのときに手を貸してもらった助力や加護への,
恩や恩義,
そのものを指している。語源的には,「お蔭」は,
「御+かげ(陰,蔭)」
で,他人から受ける恵み,擁護のことをいう。本来は,神さまの加護である。ある意味,
恩や支援をメタファーでオブラートに包む,
特有の言い方になる。でも,
お蔭様で,
とは言うが,神さま以外に,
ご加護をもちまして,
とか,
ご恩をもちまして,
と言う(ことは少ないが,言うとする)と,少し重すぎるし,直截すぎる。
ご厚情をもちまして,
とか
ご厚恩によりまして,
という言い方と比べると,「蔭」のイメージが大きい。庇護,加護のイメージを与える。が,
お蔭様で,
と言うのと,
ありがとう,
と言うのとも(最近ありがとうございますの意味が軽くなっているとは言え),少し違う気がする。
ありがとう,は,
有り難い,
から来ている。有り勝ち,ではなく,めったにない,ありそうもない,からこそ,ありがたい。しかし,
お蔭様
と言うとき,その助力,庇護,加護,が影(あるいは「庇護」の庇)のように,助けてくれたというニュアンスがあると同時に,しかし,「恩」の中身は,ぼかしている。その意味では,「ありがとう」よりは,相手の力を借りた,と言う言外のニュアンスが強い。
だからと言って,本当に助力した人に対する言い方としては,曖昧で,こちらのプライドを残した言い方になる。そのニュアンスが気になる。
類語としては,
恩や恩義
を意識しているのだが,
お力添えいただきありがとうございました,
という具体的な言い方には,遥かに及ばない,こちら側の曖昧化している言い回しが,本当に力をその人から借りたのだとしたら,透けて見えるに違いない。
お蔭参りという言い方が,お蔭のもつ意味を端的に示している。お蔭参りは,「御蔭をもちまして」と,伊勢神宮へ参詣することだが,多く江戸時代,それは身分社会の軛を脱する口実に使われたようだ。それについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163467.html
で触れた。ま,お蔭様,と言うのは,その程度の,曖昧で,儀礼的な挨拶のニュアンスがある,ということなのかもしれない。
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場打て,
という言葉が,岡本綺堂の小説を読んでいたら出てきた。昨今はあまり耳慣れないが,
その場の空気や様子に圧倒されて気後れのすること。
という意味らしく,
「少しも場打てのした容子もなく、すらりと立って」(里見ク『多情仏心』)
「こんな古風な爺さんとは殆んど出会つた事がないのだから,最初から多少場打ての気味で辟易して居た所へ」(夏目漱石『吾輩は猫である』)
「弁舌さわやか場打てせず」
といった用例が出ている。ただし,用例は,明治,大正期の作家までのようだ。ニュアンスとして,「あがる」の意味より少し強い感じがある。
(人前で)その場の晴れがましい雰囲気に気おくれがすること。
という説明もあるところから見ると,どうやら,その場が,
特別の場
であるらしい。綺堂の小説では,司法試験の試験会場であった。しかし,その語源が,調べた限りではわからない。古語辞典では,
その場のありさまに心打たれておじけるること
場おじ
気後れすること
とあり,「大いに心を苦しめ場打てして思ひけるは」という用例が出ている。現代の辞典では,手元の『広辞苑』には出ているが,他の辞典には出ていないのもある。
「場おじ」
という言いようなら,その場に,その雰囲気に,怖気づいたという意味では,よく分かる。「場打て」の,「打て」が鍵かも知れない。で,「打」は,と調べると,
「丁」は,もと釘の頭を示す,□印であった。直角にうちつける意を含む。
「手+丁」
で,とんとんうつ動作を表す。そこから,
うつ。直角にうち当てるまともにたたく
自分の所有とする
動詞のうえについて,〜する意。「打掃」「打畳」
〜から
ダース
という意味で,関係ないかもしれないが,「打掃」「打畳」の使い方が,
打ち払う,
打ちのめす
打ち続く
と動作を強める使い方の「打ち」につながっているのではないか,と勝手に想像した。その意味の,「打ち」は,
その意を強める,
のほかに,
瞬間的な動作であることを示す,
として,「打ち見る」のような用例があった。
閑話休題。
漢字の「打つ」ではなく,日本語の「うつ」の語源を調べると,
「手の力で強く打撃する」
からきているらしい。ウツは,アツ,ブツ,などのウ,アの語幹と関連し,
畠を打つ,太鼓を打つ,刃物を打つ,振り仮名を打つ,首を打つ,心を打つ,水を打つ,碁を打つ,舌鼓を打つ,蕎麦を打つ,非の打ちどころがない,網を打つ,芝居を打つ,手を打つ,布を打つ,博奕を打つ,
等々とものすごく幅広い使われ方がある。ためしに辞書で「打つ」を引くと,用例の多さに圧倒される。「手を使う」ものがほとんど入っているという感じである。これは,「打」を当ててはいるが,漢字の「打」の意味を超えている気がする。むしろ,喩え的に,幅広く応用した感じである(広く「あることを行う」にまで転じている)。蛇足ながら,「水を撒く」よりは,「水を打つ」の言葉のもつニュアンスを大事にした気がしてならない。そういう意味で用例が広がったのではないか。
ただ「打つ」に,
強い感動を与える
という意味で,「胸を打つ」「心を打つ」という使い方があり,この場合「打たれる」(「討」「撃」「射」は当てない)という受身の言い方で,
打撃を受ける,
押しつぶされる,
負ける
誓約を破って罰を受ける
気を呑まれる
気圧される,
等々の意味があり,「場打て」の意味としては,
場に気おされて,おじける,押し潰される,
ということにつながってくる。その意味では,類語として,
力む,強がる,気合い負け,気が引ける,気圧される,ステージ・フライト,場臆れする,上がる,
等々とあるが,
場臆れする
ステージフライト
舞台負け
というか,
その場に呑まれる,
と言うのが一番ぴたりとくる感じである。
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「
謝る」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E8%AC%9D%E3%82%8B)については触れた。改めて,違う角度で考えようとしたとき,「かたじけない」という言葉が気になった。
かたじけない,
は,
忝い
とも
辱い
とも当てる。いささか古い言い回しで,昨今こんな大時代な言い方をする人はいないだろう。語源は,
「カタジケ(緊張・おそれ)+なし(甚だし)」
で,ありがたい,おそれおおい,という意味になる。
漢字の語源では,
「辱」は,
「辰(やわらかい貝の肉)+寸(手)」
で,「辰」は,
二枚貝が開いて,ぴらぴらと弾力性のある肉がのぞいたさま,を意味する。
「寸」は,「手のかたち+一」で,手の指の一本の幅のこと。因みに,尺は,手尺の一幅で,指十本の幅。
で,「辱」は,強さをくじいて,ぐったりと柔らかくさせること,らしい。そこから,人の心を砕く,となる。
「忝」は,
「心+音符 天」
で,「天」は,大の字にたった人間の頭の上部の高く平らかな部分を一印で示したもの。もと,巓(てん・いただき)と同じ。頭上高く広がる大空もテンという。高く平らかに広がる意。「心」は,心臓を描いた象形文字。血液を細い血管すみずみまでいきわたらせる心臓の働きに着目したもの。この場合,「天」の字にはあまり意味がないらしい。で,「忝」は,
心にべたついてきになること,
という意味になる。まあ,心に引っかかる,という意味なのだろうか。
同じ,「かたじけない」に当てても,「辱」と「忝」では意味が少し変わる気がする。「辱」は,
はじる
はずかしめる
という意味があり,「自信や体面をくじく」「挫けた気持ち」「だいなしにされた気持ち」という意味がある(「恥辱」)。で,そのニュアンスで,「かたじけない」には,
相手が体面をけがしてまで,おやりくださったという意味を込めた,ありがたい,
という意味になる(「辱知」「辱交」)。他方,「忝」は,
かたじけなくする
かたじけない
の意味があり,「分に過ぎて気が引ける」という意味になる。このほかに,
はずかしめる
の意もあるが,「余計なレッテルを張る」「表面を汚す」という意味で,どちらかというと,相手がどうのこうのというより,こちらが,身を縮めている,というニュアンスである。
だから,かしこまる意味では,
辱い
でいいが,恐縮するという意味では,
忝い
でなくてはならない。類語で言うと,
お恥ずかしい,
ありがとう,
もったいない,
畏れ多い
もったいない,
お恥ずかしい,
申し訳ない,
めっそうもない,
というところだ。「もったいない」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#MOTTAINAI)については触れたが,こう見ると,やはり,
自分を卑下するか,
相手を持ち上げるか,
の二つのタイプになる。しかし,自分を下げることは,相対的に相手を持ち上げることだから,いずれにしても,相手を持ち上げることになる。もともと「有り難い」ということ自体,あり得ない(好意,厚意)と言っているのだから,感謝にニュートラルはないのかもしれない。それについては,
「感謝」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E6%84%9F%E8%AC%9D)
で触れたように,感謝自体が,元来,心の負荷を返すことなのだから。
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森鴎外の『百物語』を読んでいたら,
「くわばらくわばら」,
と似た意味らしい使い方で,
「鶴亀鶴亀」,
という言い回しがあった。「くわばらくわばら」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E3%81%8F%E3%82%8F%E3%81%B0%E3%82%89%E3%81%8F%E3%82%8F%E3%81%B0%E3%82%89)については
触れた。まあ,雷除けのまじない,転じて,
災難がわが身に降りかかりませんように,
との意味で「くわばらくわばら」と唱えている。同様に,
不吉なことを見たり聞いたりしたときに縁起直しに言う語,
らしい,のである。そういえば,祖父母辺りが使っていたような記憶が,ぼんやりある程度で,ほぼ死語に近い。ただし,語源辞典には,出ていなかかった。俗語なのかもしれない。と思い,手元の古語辞典を調べたら,「つるかめ」として,
(鶴は千年亀は万年といわれ,めでたいものとされているところから)思わず不吉な言葉を発したり,縁起の悪いことがあったときに,災厄を祓うために言う言葉,
とあった。まあ,
縁起直しに言う言葉,
で,めでたいコトを並べて,厄払いというか,験直し,をしようというのだから,誰かの口癖ではないが,
「あぶない,あぶない」,
というところを,
「松竹梅,松竹梅」,
と言っているようなものだ。とすると,くわばらくわばら,とは少しニュアンスが違うようだ。類語に,
犬(いん)の子犬(いん)の子
とか
剣呑剣呑(けんのんけんのん)
とか
が挙げられているが,「犬(いん)の子犬(いん)の子」は,『広辞苑』によると,
邪を祓うために子供の額に「犬」の字を押すまじない
とか
子どもが怯えたときなどに唱える呪文
とあり,どちらかというと,「ちちんぷいぷい」に近いかもしれない。「ちちんぷいぷい」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E3%81%A1%E3%81%A1%E3%82%93%E3%81%B7%E3%81%84%E3%81%B7%E3%81%84)については触れた。「剣呑」は,剣難(けんなん)の訛という。つまり,
「剣+難」
で,研によって引き起こされる難儀,
の意味である。「剣呑」は当て字らしい。だから,「剣難」「剣呑」は,
危ぶむこと,
あやういこと,
で,危険な様や不安な様を表す言葉。「剣呑、剣呑」と重ねて使う事で、意味を強調する,
という。しかし,「けんのんけんのん」と言うときは,まじないではないが,
物騒で近付きたくない時などに,「剣呑、剣呑」と言って回避するように使う,
という。まあ,「やばい」と言う意味の,もともとの意味に近いかもしれない。もちろん,
危険を承知で近付く時には「剣呑、剣呑」とは表現しない,
とあった。当たり前だろう。
鶴亀鶴亀,
くわばらくわばら,
犬の子犬の子
剣呑剣呑
と,危ない状況に直面したときでも,使い方の微妙な差があり,かつて日常語が豊かだった気がしてならない。いまなら,
やばい,
の一言で,片づけられてしまうだろう。
「
やばい」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba12.htm#%E3%82%84%E3%81%B0%E3%81%84)については触れた。「かわいい」「やばい」等々,ひとつのことばで,多様な意味を含ませるのは,より文脈に依存する傾向を強めた,と言えなくもない。
それは,日本語のもつ強い特性だから,やむを得ないと言えば言えるが,本来,言語は,現実性を丸めるものだ。丸めるとは,メタ化するということだ。メタ化力が劣るということは,ものごとを客観化できない,ということを意味する。それは,主観の中に,即自の中に埋もれることだ。究極の文脈依存は,大勢の流れるままに無関心に,何も考えずに,ちょうど,レミング鼠が集団移住をはじめ,そのマスの力によって,多く海に飛び落とされるケースがあり,集団自殺と誤解されてきたが,そういう集団圧力に翻弄される,と言うのに近い。
せっかく千年余,日本語の言語力を,漢字の吸収によって高めてきたのに,その漢字力を低下させて,またまた先祖がえりというか,言語をもたない時代のように,言語力が,退化している兆しでなければいいのたが。
「漢字(この表現自体,なかなか意味深だが)」との出会いについては,「てにをは」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E3%81%A6%E3%81%AB%E3%82%92%E3%81%AF),「漢語」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-4.htm#%E6%BC%A2%E8%AA%9E)
で触れた。
参考文献;
金田一京助・春彦監修『古語辞典』(三省堂)
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天を楽しみて命を知る。故に憂えず
とは,『易経』繋辞上伝にある。いわゆる楽天の出典らしい。
何度も書いたが,
死生命有り
富貴天に在り(『論語』)
である。ここでいう,天には,「生き死にの定め」「天の与えた運命」の二つがある。
そう,天命が定められているなら,齷齪あがく必要はない,内に聞こえる天の声を承けて,
おのれのなすべきこと
を果たせばよい。
これも,前に書いたが,天命には,三つの意味があり,一つは,天の与えた使命,
五十にして天命を知る
である。いまひとつは,天寿と言う場合のように,「死生命有」の寿命である。
そして,いまひとつ,
彼を是とし又此れを非とすれば,是非一方に偏す
姑(しばら)く是非の心を置け,心虚なれば即ち天を見る(横井小楠)
で言う天は,「天理」のことだ。だから,神田橋條治氏流に言うと,
天命を信じて人事を尽くす
となる。
迷った時,何を聞くか,心の声であり,天の声だ。天の声は,天理に通じ,天命に従う。
心虚なれば即ち天を見る
とは,「虚心見理」である。
このとき,自分を離れ,虚心に,天に耳を傾ける。
これを天に照らす
ともいう。ここには,天理にかなうはずという,自らへの確信である。
虚心とは,
心に何のわだかまりもないこと
という。たぶん,虚心に内なる声を聴くとき,
坦懐,
つまり,心たいらか,胸にわだかまりない状態でなくてはならない。そういう意味では,心の鬱屈が解き放たれてのびやかになった状態を表すと言っていい。
おそらく,それを待つのではない。心に鬱屈のない日などは数えるほどしかない。そうではなく,
ただ,天地に連なって立つ(在る)
状態になることで,あるいは,そういう状態をつくることで,心が,開かれる。それが,
確信
である。だから,主体的なのである。そこに,天と心をつなぐ回路が通じる。その意味で,
天命を信じて人事を尽くす,
か,あるいは,清澤満之は,それを,
天命を安んじて人事尽くす,
としたが,
もちろん,生きるのも為すのも自分である。他力に頼ったところで,それにすがってやったのでは,自責ではない。他力本願とは,ある意味,すがることの放棄である。
はからい
を捨てることである。それは,逆に言うと,何かをしたからとか,しなかったから,というおのれの思い入れや希望や仮託を捨てることである。それは,自分の責任で生きる,ということに他ならない。
天命
は,ただ,それを自覚しなければ,耳にも心にも聞こえない。主体的なかかわりの中で,自分の責任で生きる。その結果を忖度しない。
他力には義なきを義とす
とは,
「『義』とは,自力のはからいをさしているから,人間の思慮や作為を否定するのが他力である」
意味である。
天を楽しみて命を知る。故に憂えず
とは,天の理法を楽しみ,自分の運命を生きる喜びを知るならば,人に憂いはない,という意味である。その意味で,
「楽天」と「知命」
はセットである。だから,それを受け入れて,楽しめるのである。
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「いなせ」は,
鯔背
と書くらしい。語源は,江戸日本橋の魚市場の若者が,
鯔(イナ ボラの幼魚)の背のような髷を結ったから,
という。威勢のいいこと,粋で,勇み肌なこと,またそういう気風を指す。その髷を,
鯔背銀杏,
というらしい。因みに,「粋(粹)」は,
心意気の略
である。その意味は,
気持ちや身なりのさっぱりして垢抜けしていて,しかも色気をもっていること,
あるいは,
人情の機微に通じ,特に遊里や遊興に精通していること,
ということらしい。しかし,漢字の,「粋」の字は,
小粒できれいにそろったさま,
の意で,
「米+卒(卆)」の「卒」は,
「衣+十」で,ぱっぴのような上着を着た十人ごと一隊になって引率される雑兵や小者を表す。小さい者が揃いの姿をしたの意らしいから,小さい者という意。で,「米+卒」で,
小さいコメがそろっていて混じりけのないこと,
ということになる。類語に「伊達」というのがある。語源は,
ひとつは,「取り立てる」の「タテ」で,目立つという意味。実際以上に誇示する。
いまひとつは,「タテダテシイ」の「ダテ」で,意地っ張りという意味だ。伊達の薄着,というように,言ってみると依怙地を張っている,というニュアンスである。だから,
ことさら侠気を示そうとすること,
とか
派手にふるまうこと,
とか
人目につくこと,
とあって,そこから,
あか抜けていきであること
とか
さばけていること
となっていく。しかし,どこかに,「見栄をはる」とか「外見を飾る」というニュアンスが抜けない。
似たものに,「伝法」というのもある。「伝法な」は,
浅草伝法院の下男が,寺の威光を借りて,悪ずれした荒っぽい男であったのが,「デンポウ」な,の由来,
とされる。転じて,無法な人,勇み肌という意になっていく。「鉄火肌」というのもその流れだろう。「鉄火」というのは,鉄火場,つまり博奕場である。しかし,「鉄火肌」の「鉄火」は,
鉄火(鉄が焼かれて火のようになったもの)
という意味から来ているので,気性の激しさを言っている。
どうも,いきがっている本人ほど,周囲は,認めていず,だからいっそう伊達風を張る。その辺りの瘦せ我慢というか,依怙地さは,嫌いではないが,所詮,
堅気ではない,
のである。まっとうな,素人ではなく,その筋の,玄人なのである。それは,額に汗して働く人の上前を撥ねる連中である。だから,
いき
とか
いなせ
を気取る人間が嫌いである。どうやら,そういう男伊達というか侠気というのは,
戦国武将の気風の成れの果て,
らしく,そのことは,「サムライとヤクザ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba4.htm#%E3%82%B5%E3%83%A0%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%81%A8%E3%83%A4%E3%82%AF%E3%82%B6)
で,「サムライ」と「ヤクザ」について触れた。いずれも,
無職渡世,
と相場は決まっている。つまりは,寄生虫である。いくら粋がっても,嫌われ者なのである。だから,余計に粋がる。
いなせやいきは,気骨とは違う。「気骨」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E6%B0%97%E9%AA%A8)については書いた。粋がるのではなく,気骨,
「気(気概ある)+骨(人柄)」
こそが,サムライである。
容易に人に従わない意気,自負,
こそが,粋である。それは,心映えだから,見栄を張って,外に着飾るものでも,言い募るものでもないのである。「心映え」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E6%B0%97%E9%AA%A8)については
触れた。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
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過日,国のトップが,国会の委員会で,野党の質問者に,関係のない「野次」をとばして話題になった。
一説によると,ネトウヨにとって,左翼,とか反日というのと同義で,「日教組」という罵りや揶揄が使われるそうだから,トップの心性が,ネトウヨとまったく地続きだということが,はしなくも露呈した,ということでもあるらしい。
ま,そんなことはどうでもよく,本題は,野次って何,ということ。
「野次」は,「弥次」とも当てる。「やじる」
やじること。また、その言葉。「やじを飛ばす」とか「やじの応酬」という使われ方をする。
という意味だが,「野次馬」の略,という意味もある。これは後回しにするとして,「やじる」を調べると,
(「やじ」を活用させた語)第三者が当事者の言動を,大勢に聞こえるように大声で非難し,からかう。また一方を応援するのに,他方の言動を嘲笑し,妨害する
とある。芝居の野次でも,国会での野次でも,外野が言う。直接言えないし言える立場にもないから,外野から揶揄する,悪態をつく。それを,第三者ではない当事者が,幾らでも直接言えるし,言う機会も場も与えられている当事者が,他方の相手に対し,当人が質問をしている最中に,話している相手とはまったく関係のない嘲笑や悪態をついたとしたら,それは,もう野次ではなく,本人への罵倒か悪口である。それは喧嘩を売っている,と社会通念上はみなすのではないか。
「野次」では,語源がみあたらないので,「やじる」を調べると,
「ヤジウマのヤジ+る」
で,騒ぎ立てる,からかいや非難の声をかける,という。では,ヤジウマの語源は,というと,
オヤジ馬からオが脱落したもの
という。
老いた馬が,若い馬の後にくっついてばかり,
の意とある。。転じて,
ただ騒ぐだけの人
となり,現代では,
物見高く見物していて騒ぎ立てる人々,
という意味になる。別説に,「ヤンチャ+馬」の変化したものというの語源説があるらしいが,それならば,仮名遣いが,ヤヂウマとなるはずであし,くっついて歩くだけという意も,「ヤンチャ」にはないので,「?」としている。
『大言海』では,「老牡馬」の「老」が落ちたものとある。
老馬は,役に立たないものにて,常に若き馬の尻につきて歩くより,「尻馬」とも呼ばれ,その尻馬から,雷同の意に転じた,
とある。『古語辞典』の「やぢうま」の項では,
「彌次馬」とも書くが,
近世,宿駅用意して,官用に供した馬,
とある。本来は,これだったのかもしれない。
で,「野次馬」を,辞書で調べると,
「馴らしにくい馬,悍馬」という意とともに,「老馬」として,「おやじうま」の略とも。
もうひとつ,
自分に関係ないことを人の後についてわけもなく騒ぎまわること,またそういうひと,
とある。
やはり,当事者が騒ぎ立てることは,野次とも野次馬とも関係ない暴言で,喧嘩を売っているに等しい。しかし相手がそれをたしなめた場合,普通,立場がなくなるはずである。それを,しれっと,さらに繰り返し,翌日も開き直るどころか,あさっての返答をして平然としている。こういうのを,ふつうは,頭がおかしい,とみなす。残念ながら,それがわが国のトップであり,日本という船の船長なのである。
野次の類語は,
半畳をいれる,
が最も近いが,これは,「半畳ヲ入レル」が語源。「半畳」は,昔の芝居小屋の敷物で,
芝居役者の演技に不満があるとき,見物人が半畳を投げ入れた,
ところから来ている。相撲で,横綱が負けると,座布団が飛ぶが,それがこの雰囲気に似ている。いまは,
非難の声を出す,
という意で使われる。この類語は,
からかう,
茶化す
冷やかす
揶揄
囃す
嘲る
玩ぶ
愚弄
という,相手にとって嬉しくない意味が含まれている。更に関連語を拾うと,
妄言
憎まれ口
悪口
悪態
妄言
雑言
というのが続く。
この雰囲気が腑に落ちない向きは,ためしに,友人にか,家族にか,相手と話している最中に,話と無関係な悪態で,茶々をいれてみるといい。別に「日教組」である必要はない,「パン」でも「小豆」でも「美人」でもいい,入れたときの相手の表情に,すべてが現れている。
コミュニケーションは,相手がどう返すかで,自分の言ったことの意味が決まる,
のである。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
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感謝というのは,
有り難く感じて,謝意を評すること
という意味である。
ありがとう,
と言う。別に,
お陰様、
という言い方もする。「お蔭様」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E3%81%8A%E8%94%AD%E6%A7%98)については書いた。「お陰様」と「ありがとう」は,微妙な差がある。あるが,相手への感謝にかわりはない。
感謝は,
「感(感じる)+謝(礼をいう)」
だが,「感」は,
「心+咸」
「咸」は,戈で,ショックを与えて口を閉じさせること,
で,「緘(とじる)」の原字。で,「感」は,
心を強く動かすこと,
で,
強い打撃や刺激を与える,
という意を含んでいるようだ。だから,
強く心にこたえる(「感銘」)
強く相手の心を打つ
強く心にこたえるもの
神経の刺激によって得るもの,感じ,感覚
寒暑や環境のショックを受けること
といった意味になる。一方,「謝」は,
「射」が,はりつめた矢を手から離しているさま,
弓の緊張が解けてゆるむ
という意味で,「言」をつけることで,「謝」は,
言葉に表すことによって,負担や緊張をといて,気楽になること,
という意味になる。で,
あやまる,心の負担をおろしてせいせいできるように,礼,お詫びの意を表す(「謝謝」「謝礼」)
断る,言い訳をしてことわって心の負担をおろす(「謝絶」)
御礼,またはお詫びの気持ち,またはそれをあらわす金品(「薄謝」)
つげる,言葉を飾っていう
勢いが抜けてさる(「代謝」)
張りつめて開いた花や葉が,緊張を解いてぐったりする(「凋謝))
多謝,謝謝
という意味になる。
こう見ると,
ありがとうございます,
とか
お蔭様で
と言いつつ,実は,感謝と言うのは,する側の,心理的負担というか,心理的負い目というか,その借りを返すという心理がなくもないことを,鋭く,「謝」の字自体が示しているようである。
だから,確かに,感謝と言うのは大事だし,お蔭様でという気持ちも重要だが,そこに,当てにしているものがあるとすると,そこには下心があることになる。
ではなく,本心から,
ありがとう
あるいは,
お蔭様で,
と言える心性というのは,どういうものなのだろう。
たとえば,その関係そのものの中にいるのではなく,それを俯瞰する位置に自分を上げたとき,そこから見ると,感謝の意味が変わるのではないか。
誰かに,
とか,
何について,
とか,
ではなく,感謝自体の意味が見えてくる。そのとき,実は,
心の負担があるから,感謝するのではない,
逆に,
感謝すると,心に負担があったかのように感じる,
ということなのではないか。
心に負担はないが,
感謝した瞬間,
まるで心の負担が軽くなったような気持ちになる,と言うところが見えてくるような気がする。
つまり,感謝は,誰かのために,あるいは,何かのために,するのではなく,
感謝自体のために感謝する,
まるで心に何か負担があったかのように,その瞬間心が軽くなる。たとえば,
ありがとう,
あるいは,
お蔭様で,
と言うことで,あたかも,何かひとつ心の重荷が取れて,軽くなったような気になる。そういう効果が,あるということなのではないか。ということは,そう口に出せば出すほど,なにやら,
心が軽くなっていく,
そんな心地なのではあるまいか。
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僕は,自分の中では,作家というのは,
小説家,
だと思っていて,文学者というと,純文学系,日本文学全集に名を残す作家のことと,思い込んでいた。
作家というのは,辞書では,
詩歌,小説,絵画など,芸術品の制作者,特に小説家。
ウィキペディアには,
「作家とは、芸術や趣味の分野で作品を創作する者のうち作品創作を職業とする者または職業としていない者でも専門家として認められた者をいう。
芸術家に含まれる者の多くはこの意味での作家であるが、職種・肩書きとして、○○作家と呼ぶかどうかは、すでに固有の職業名称が確立しているか否かによる。すなわち伝統的芸術分野では詩人・画家・作曲家・監督などの呼称が確立しているため○○作家とは呼ばないが、新しい芸術分野や趣味の分野では、○○作家、○○創作家、○○クリエイターという用い方がされる。ただし伝統的芸術分野においても、○○作家という語を用いる場合がある。
ただ単に『作家』と言った場合、著作家、とくに小説家を指す場合が多い。だが、『作家』という職業は様々に枠が広いため、そう呼称されるのを嫌うものもいる。逆に、小説は書いていないが単に作家と称するケースも存在する。」
とあり,作家=小説家というのは,あるいは,先入観なのかもしれない。
「作家」は,
「作(つくる)+家」
で,家をおさめる意,のようだ。しかし,どうして,それが小説家や制作者を指すようになったのだろう。その語源がわからない。
「作」の字は,
「乍」は,
刀で素材に切れ目をいれるさま
を描いた象形文字。急激な動作であることから,「たちまちに」の意の副詞に専用に使われるようになったため,
「人+乍」の「作」
の字で,人為を加える,動作をする,の意を表すようになった,とされている。それで思い出したが,「創造」の「創」の字の,「刂」は,
刀
を意味し,刃物で,素材に切れ目を入れること。素材に切れ目を入れるのは,工作の最初の段階でもあることから,はじめる,の意にも転じた,という。
記憶で書くので,間違っているかもしれないが,確か,鋳造するとき,砂で型をとるが,冷めたとき,刀で傷をつけた,という言われを,どこかで聞いたことがある。もっとも,もっともらしい説には,眉に唾をつけた方がいいかもしれない。
「家」は,
「宀(やね)+豕(ぶた)」
で,たいせつな家畜に屋根をかぶせたさま,である。イエといういみのほかに,専門の学問技術の流派またはそれに属する者という意味がある。
作家を,イエをつくる,というから意味が分からないか,例えば,一家を成すという言葉がある。だから,
イエをナス,
あるいは,
イエをオコス,
と呼ぶと,何となく意味が見えてくる気がする。たしか,かつて中上健次が,文学者のことを,
作家としての店を張る
という言い方をしている。文筆というもので,店を張っている,悪い言い方をすると,
売文
ということになる。おのれの筆先ひとつで,文章で,店を張っている,ということになろうか。その意味では,小説家も,劇作家も,脚本家も,エッセイストも,すべてライターは,作家ということになる。
文筆家
という概念が,ひとくくりするには,妥当な言い方なのかもしれない。
ベイトソンが,
情報とは差異である,
と言っていた。そのことは,「情報」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E6%83%85%E5%A0%B1)で
触れたが,作家は,筆先で,世界を見せるのだと思う。新たなパースペクティブと言い換えてもいい。それが,小説家や脚本家のように,フィクションの場合もあろうが,エッセイストやノンフィクションライターなら,この世界の,別の見え方を示すことで,新たな視界を開いて見せるのだろう。
その違いは,わずかなのだと思う。わずかな切れ目,差異に目を止め,そこをクローズアップして見せる見せ方,写真家が,同じ世界に異世界を見せるのと同じように,視角と視点で炙り出す,その手際が,腕なのだろう。その意味では,画家を含めた,その他の芸術家にも,同じことが言えるのだろう。
そのことから,得られるのは,
新しいパースペクティブなのか,
新しい(こころの)風景なのか,
異なる視点なのか,
いままでとは違うものの見方なのか,
新しい価値の世界なのか,
いずれにしろ。そのことで,自分の実人生の体験では得られない体験をすることになる。でなければ,その店で買いたいとは思わないだろう。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
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ふいと,
汚れっちまった悲しみに
というフレーズが,口をついて出ることがある。有名な,中原中也の,
汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる(『山羊の歌』)
の冒頭である。つづいて,
汚れっちまった悲しみは
たとえば狐の革裘
汚れっちまった悲しみは
小雪のかかってちぢこまる
汚れっちまった悲しみは
なにのぞむなくねがうなく
汚れっちまった悲しみは
懈怠けだいのうちに死を夢む
汚れっちまった悲しみに
いたいたしくも怖気おじけづき
汚れっちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる……
と続く。僕は,ずっと,このフレーズの「悲しみ」を,「哀しみ」とも違う感情,切ない嘆きのように受け止めてきた。本来の解釈ではないかもしれないが,自分の「かなしみ」を,使い古された「悲しみ」という言葉でしか表現できない自分自身への焦れのように感じていた。
だから,「汚れっちまった悲しみ」が繰り返し,何かに喩え,何かに言い換え,何かに仮託して,しかし,結局ピタリとくる,いい言葉にもいい喩えにも出会えず,
なすところもなく日は暮れる
しかないと嘆いているのである,と。
「悲しい」は,語源として,前にも書いた気がするが,三説あるらしい。
ひとつは,「カネ(困難,不可能)+シ」で,「〜しかねる」の,力が及ばず,何もできない切ない気持ちの「カネ」に,シが加わった語(大野説)
もうひとつは,「かな(感動助詞)+し」で,感動が強く迫る意を表す。
通説とされているのは,「カナシ(愛+シ)」で,感動が強くて激しく心に迫って,ゆすぶられ何もすることができない意。
しかし,古語辞典を見ると,
「愛し」は,身に染みていとおしい,可愛い,強く心惹かれる,感心する,
の意で,
「悲し」は,可愛そうだ,気の毒だ,残念だ,
となっている。もともと「かなし」としか表現できない,和語の貧しさに,「悲」と「愛」の字を当てて,意味が広がり,乖離していったのではないか。用例を見ると,
「愛し」は,万葉集に,「妻子(めこ)みれば,かなしくめぐし」があるので,最初は,この意味だったはずで,漢字を当てることで,繊細な心を表現する言葉を手に入れた,という感じがする。その意味で,通説が,実体に近いのではないか。
「愛」の字を構成する「旡」(カイ・キ)の字は,
人の胸をつまらせて後ろにのけぞったさま
で,「愛」は,
「心+夂(足を引きずる)+旡」
で,心が切なく足もそぞろに進まないさま。意味は,
いとおしむ
めでる
おしむ
可愛がる
で,この「愛」の字を当てることで,この漢字の意味の方へ「かなし」がシフトしていった,ということがよくわかる。
「悲」は,
「心+非」で,
「非」は,羽が左右に反対に開いたさま,両方に割れる意を含んでいる。で,「悲」は,心が調和統一を失って胸が裂けること,胸が裂けるような切ない感じ,という意味になる。だから,「悲」の意味は,
かなしい
あわれみ
になる。おなじ「かなしい」でも,
「哀」は,
「口+衣」で,
「衣」は,かぶせて隠す意。で,「哀」は,思いを胸中におさえ,口を隠してむせぶこと,という意味になる。「哀」の意味は,
(あるおもいのために胸のつかえた気持ち)あわれ,せつない,
(かわいそうで胸が詰まるような気持ちになる)あわれむ,
(つらくて胸のつかえた気持ち)かなしみ,
となる。だから,「悲しい」と書くのと,「哀しい」と書くのでは,意味が違ってくる。漢字がなければ,「かなしい」の意味は,すごく薄っぺらだったに違いない。あるいは,「哀」「悲」の字を知ってから,そういう感情の機微を知ったのかもしれない,季節感を知ったように。そのことは,
「漢語」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-4.htm#%E6%BC%A2%E8%AA%9E),「発見」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-4.htm#%E7%99%BA%E8%A6%8B)
で書いた。
心や思いを表現する言葉を探しあぐね,和語には語彙が足らず,必然的に漢語をひたすら借りて,さらには造語した。今日のカタカナ語もまた,そういう表現欲求の結果である。それだけ,固有の和語が,貧弱であることのあかしである。もともと文字をもたない民族であった。それゆえにこそ,言語化には貪欲なのかもしれない。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
金田一京助・春彦監修『古語辞典』(三省堂)
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下駄をはかせる
ものごとを実際より高くみせる
囲碁で,一間または二間離れて石を打ち,相手の石が逃げられないようにする(「下駄にかける」とも)
といった意味があるらしい。その他,
活字時代,必要な活字がない場合,活字を逆さまにして代わりに入れる習慣があった。活字の底は四角く平らになっており中央を横切るように太い溝が彫ってあるので,それを印刷すると「〓」となり、これが下駄の歯の跡に見えることから「下駄(ゲタ)」と呼ばれた。
という特殊な意味もあるようだ。
成績に下駄をはかせてもらえるほど,覚え目出度い学生ではなかったが,「下駄をはかせる」というのは,
大工用語で,古い柱の根が腐ったりしたとき,新しい木材で根継ぎをする,
というのが,語源らしい。「下駄」自体が,
「下(低い)+タ(足板)」
で,木製の低い足駄(あしだ)の意味らしい。足駄(あしだ)自体がよくわからなくなっているが,
屐とも書き,また屐子 (けいし)
ともいう。主として雨天用の高下駄。木製の台部の表に鼻緒をつけ,台部の下には2枚の差歯がある。足下または足板の転訛した呼称といわれる。
とある。これだと区別がつかないが,
@(雨の日などにはく)高い二枚歯のついた下駄。高下駄。
A古くは,木の台に鼻緒をすげた履物の総称。
足駄の方が上位概念らしい。下駄自体は,中世末,戦国時代が始まりらしいが(「下は地面を意味し,駄は履物を意味する。下駄も含めてそれ以前は,『アシダ』と呼称されたという説もある),その中で,近世以降,雨天用の高下駄を指すようになったものらしい。
「下駄をはく」というと,
中間で値段を高くして利をとる
ものごとが終わる,決着がつく(「下駄をはくまでわからない」というような)
と,また意味が少し変わる。
「下駄」自体が,身の丈よりも,高めに見せる,見かけが変る,という印象があるせいなのか,暗に,
実体と乖離している,
というニュアンスがあるようだ。柱を継ぐこと自体が,ちょっと後ろ暗いニュアンスがあるせいだろうか。
下駄を預ける
という使い方もあるが,これは,
すべてを相手を頼んで,処理を一任する,
という意味だが,
(自分に関する問題などに関して)決定権を譲り全面的に相手に任せる(自分では動けなくなることから)
というニュアンスがある。語源的には,
遊郭や芝居小屋で下足番に下駄を預ける,
という意味であり,転じて,
自分の身の振り方を任す,
という意になり,さらに転じて,
自分は動かず,すべて相手または,第三者に処置を任せる,
という意味になったという。
下駄を預けるはともかく,下駄をはかす,の類語というと,
鉛筆を舐める,
とか
さばを読む,
というのが思い浮かぶ。鉛筆を舐める,というのは,
数字を操作してごまかす,
という意味だと思っていたが,こういう説明があった。
「丁寧に考える,慎重に書く,というような意味で使っていました。昔の鉛筆は,今と違って,書いていると文字の色が薄くなってきたのです。ちょうど芯の部分にロウがくっついたような感じで,紙の上で滑ってしまうのです。今でも安物の鉛筆(メモ帳にくっついている小さい鉛筆など)は、この傾向があります。」
と。しかし,一般には,
数字上の行為をほどこすことであり,予算や企画書などの書類作成に際して,数字的にも,ムリがあったり,つじつまが合わなかったりしたときに,適当な加筆訂正をして都合の良い結果を導く,
などと,あまりいい意味では使わない。多く,下駄をはかせるのと同じような,数字操作をする,という意味で使われている気がする。
鯖を読むも,
数をごまかす,
という意味で使われる。語源的には,「鯖読み」として,
「鯖+ヨミ(読む,数える)」
で,鯖を数えるときごまかすことが多かったから,と言われる。鯖は腐りやすい魚なので,売り急ぐことが多く,急いで数えるため,数え間違いの多い魚で,「いい加減に数を数える」ことから,
ごまかして,自分の利をはかる,
都合のいいように数や年齢をごまかす
となったとされる。
いずれにしても,故意に実態を糊塗するという意識で,言うことに違いはない。まあ,
鉛筆を舐めて,下駄をはかせて,鯖を読む,
というところか。これは,そのまま,今日の日本の現状である。実態から目を背けない,ところからしか進歩も前進も成長もないはずなのだが。。。。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
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どうも,お世辞というのが苦手である。誉めるのも,苦手だが,まだ事実なら,承認のしようはある。しかし,まったくの絵空事へのお世辞は,追従に似ていて,潔しとしない。かつては,多分数えるほどしかなかったはずである。いいことかわるいことか,いまは,平気で言っているかもしれない。しかし,言いながら,照れる。そういうことを言う自分に照れている。
お世辞の「世辞」は,語源を調べると,
「世(世事をうまくおこなうための)+辞(言葉)」
で,「あいそのよいことば」とある。どうも僕のイメージとは異なる。で,意味を調べると,
他人に対して愛想のいい言葉,
人の気をそらさないうまい口ぶり,
相手を喜ばせようとして,実際以上にほめる言葉,
追従口,
とあり,大概,
見えすいた
という形容がつき,
お世辞抜きで上手い
とか
上手いとはお世辞にも言えない
という言い回しがあり,ただの愛想のいい,とは微妙に違う。因みに,「愛想」は,
人に与える好感,好意,
とあって,その他に,
好意のあらわれとしての茶菓などのもてなし
飲食店の勘定(書)
とある。語源は,
「愛(愛らしい)+相(様子)」
とある。そうか,「愛想笑い」とは,相手への好意を示しているのか。たとえば,好意の互恵性というのがあって,
「他者から好かれると,その人を好きにならずにはいられない」
という説がある。これは,前にも書いた気がするが,
第一には,好意的な自己概念を求める欲求がある,
第二には,自己評価と類似した意見の他者を好む傾向がある,
という仮説がふたつあることによるらしいが,僕が社会心理学を,いささか信用できないのは,ストーカーを考えたら,この説は崩壊するからである。
お愛想,という言い方をすると,ここにもやはり,世辞に似たニュアンスがある。
「何のお愛想もできませんで,失礼しました」
とか
「どうも愛想なしで」
という言い方をする。「御愛想尽かし」の意味の勘定をしてくれ,から,「おあいそ」となったという説もある。
異説では,お店側が,「御愛想がなくて申し訳ありません」「愛想づかしなことではありますが」と断りながら,勘定書を示したというのもあるが,それがだんだん短くつまって「あいそ」,ちょっと丁寧に「おあいそ」となり,いつしか「おあいそ」だけで勘定の意味を持つようになり,客のほうも、自分からその言葉を使うようになった,という。
まあ,支払いを画期に,両者のもてなし,もてなされ関係が,一旦(双方で)「愛想」を切る,でもあるし,「愛想」=もてなしを切る,という意味にもなるのだろう。
それにしても,
お愛想,
と
お世辞,
とでは,どっが追従度が高いのだろうか。類語を見ると,
外交辞令
おべっか
おべんちゃら
お上手
巧言
甘言
はむき
等々とある。から世辞という言葉があるくらいだから,世辞より見えすいているのが,から世辞ということになるのか。これと,
外交辞令
は,まあ,いわゆるリップサービスだが,リップサービスは,
口先だけの好意
お世辞
とあり,外交辞令は,
相手に好感を持たせる
外交上,社交上の応接,
から転じて,口先だけのお世辞,
とあるから,基本は,お世辞と同格ということになる。この場合,相手を,
ワンアップ
している感じになる。お上手も,お世辞に似ている。一方,おべっかは,
へつらうこと,
だし,同じく,へつらうは,
気にいるようにふるまう
媚びる,
おもねる,
追従,
となる。追従は,
人の後につき従う,が転じて,こびへつらう,
となる。だから,いずれも,自分を
ワンダウン
して,相手を持ち上げている。相手を実像以上に大きいということで,相手をうれしがらせている。はむきも,おべっかに似ている。
その意味では,から世辞があり,愛想があり,世辞がある,という感じなのだろうか。この場合,自分を下げないまま,口先だけで,相手を持ち上げているのが,巧言と甘言ということになる。その意味で,これは,前捌きで,テクニックで,おのれは脇において,相手だけを持ち上げている。まあ,自分はニュートラルにおいているということになる。
お世辞も,お愛想も,もし,巧言,甘言のように,本当に口先だけではなく,おのれをワンダウンして,言っているとすれば,その瞬間に,ただの追従に化している可能性がある。もしそれに無意識なら,ちょっと始末が悪い。
たぶん,自分を持しつつ,口先だけで,相手を持ち上げる,というわけには,なかなかいかない。だからこそ,苦労するのかもしれない。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
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店員が,陳列の商品について,客に,
「〜になってございます」
と言っているのが耳に聞こえた。そう言えば,当事者として,店員から言われたことがある。テレビでも,似た言い回しをしていた。そういうことを教育するものがいるに違いない。
敬語・謙譲語・丁寧語について,詳しくはないが,
〜になっています。
か,
〜になっております,
というのが,たぶん,普通の言い回しではないか。別の敬語の乱れは,今に始まったことではなく,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/413913243.html?1423687556
で触れたが,三田村鳶魚が,中里介山の『大菩薩峠』について,言いまわし,言葉遣いをさんざんにこき下ろしているが,たとえば,
「お銀がお君に向って、『まあ、お前、三味線がやれるの、それは宜かつた、わたしがお琴を調べるから其れをお前の三味線で合せて御覧』と言っている。気取った生活をしている人間なら、『三味線がやれるの』なんていう、野卑な言葉を遣うはずがない。しかしこれはもともと百姓なんだから、身分のない娘とすれば、そういうふうに砕けた方がいいかもしれないが、それにしてもこれは砕け過ぎていて、甲州の在方の娘らしくない。それほど砕けたかと思うと、『お琴を調べるから』という。お台所のお摺鉢がおがったりおがったり式だ。おの字の用例を近来の人はめちゃめちゃにしている。めちゃめちゃにしているのではない、御存知ないのであろう。すべてのことを差しおいて、この短い会話だけ眺めても、一方では琴におの字までつけるに拘らず、一方では『やれるの』と言う。一口にいう言葉のうちに、これだけ品位の違ったものが雑居している。百姓の娘が増長して、悪気取りをして、こういうむちゃくちゃをいったとすれば、それでいいかもしれないが、作者はそういう気持で書いたものとも思われない。」
といった具合である。話を元へ戻せば,「〜になってございます」は,
「〜になって」
を,
「〜にさせていただいて」
とすれば,自然と,「おります」となったのではないか。敬語や,謙譲語は,相手との関係を反映している。万事が,フランクで,日常と非日常の区別がなくなった社会を反映しているのだから,別に取り立てて,取って付けたような丁寧語を使わなくても,
「〜になっています」
ですむものを,どこの誰が教えいるのか知らないが,とんでもない無知をかえってさらけだしているようにしか見えない。
「ございます」というのは,
「御座+あり+マス」
で,gojaariから,aとjが抜けてゴザイとなり,丁寧語のマスが加わったもの,とされている。
ござる
も関連語だが,これは,
「御座+す」(おわす),「御座+ある」(ござる)
で,「おわす」の当て字,「御座す」を,字音で読み,動詞化の「アル」を付けたのが語源とされる。「御座」は,
「座」の尊敬語。貴人の席。
を指し,そこから,「いらっしゃること」をも指す。たとえば,「この処に御座をなされ」というように。だから,「茣蓙」は,イグサで編んだ敷物だが,もともと
「御+座+むしろ」のムシロを略したもので,「蓙(ござ)」を当てる。
「になって」
と,「その状態に成ってある」ことを,さらに,「御座います」と重ねているので,
「〜になってございます」
は,
「になってなっています」
と言っているに等しい。しかも,自分の「している状態」に敬語を使っている形になる。丁寧も,度が過ぎると,馬鹿丁寧で,
慇懃無礼
に近いのではないか。前にも書いたが,「座」は,「坐」が,人二人+土」で,人々が地上に坐って,頭が高低で凸凹するさまを示していて,
「广+坐」
で,家の中で人の坐る場所であり,それに「御」をつけて,敬っている。
その意味では,
「〜してございます。」
という言い回しも,考えようによっては,自分の動作を敬うカタチになっており,何だか,客に対して丁寧に行っているつもりが,そうしている自分に敬語をつけていることになり,一層客を馬鹿にしている言葉遣いに聞こえる。
自分の使いなれない言葉でも,語感的に異和感があるかどうかはわかるのではあるまいか。言われた通りに言っているなら,それはロボットであり,その先に来る図は,とても恐ろしい。自分で感じ,考えることをやめたら,何でもしかねないのではないか。言われたら,何でも,その通りにするのだろうか?
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
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問いのことである。人は,問われたことについて,答えを自分の中に探し出そうとする,という。その意味で,質問は意味があるが,つくづく思ったのだが,問いは,聴き手側から出てくるのではない,ということだ。
質問については,「質問リスト」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/prod06432.htm#%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E8%B3%AA%E5%95%8F%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%881)
で原則を考えたが,やはりわかっていなかったのだと,思い知る。質問を,共感性ということに即して考えるなら,問いは,話し手自身の中から吹き出てくる。
共感性については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/410724005.html
に書いたが,それにあわせて,話し手のペース,つまり思考スタイルに即することについては,マイペースと呼び,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/412037148.html
に書いた。ここでも触れたことを,もう少し踏み込むなら,話し手の沈黙を,沈黙として意識したら,それは話し手の沈黙ではなく,聴き手の(感じ取っている)沈黙,外から見ている沈黙である。その沈黙の受け取り方で,聴き手側のポジションが見えてくる。寄り添うとか,共感性などという言葉は,その瞬間意味をなさない。話し手のペース,息遣いそのものに即している,あるいはそばにいるなら,話し手の黙っている時間は,
話し手と一緒に答を自分の中に探している時間であり,
それを言語化する,どういう言葉にしたら,きちんと表現できるかを考えている時間であり,
何だろうと考えている時間であり,
等々,沈黙ではないのである。黙っている時間は,
黙っていても
考えているのだ
俺が物言わぬからといって
壁と間違えるな(壺井繁治)
黙っている本人にとって,沈黙ではない。言葉の20,30倍のスピードで意識が流れている,そのさ中にいるのだ。
吉本隆明の言う,
沈黙とは,内心の言葉を主体とし,自己が自己と問答することです。自分が心の中で自分に言葉を発し,問いかけることがまず根底にあるんです。
という通りなのだ。沈黙を沈黙と感じたら,聴き手としての自分は,相手をメタ・ポジションから見ていないまでも,距離を置いて眺めている証拠である。そばに立っているなら,あるいは,共感しているなら,その沈黙は,待つ時間ではなく,一緒に考えている時間である。当然,沈黙を感じるなどということはない。待つとか待たないとか,考えている本人が感じるはずはないのだ。
僕は,沈黙への感じ方が,自分が話し手のどこにいるのか,その距離を測る目安だと思っている。それは,田中ひな子さんのことは,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163109.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163304.html
等々,何回か触れたが,それが,話し手の自己対話の中に紛れ込むことだとすると,沈黙は喧しい自己対話の最中のはずなのだ。
相手近くに,共感して立っているかどうかの目安は,第一には,沈黙への距離だと思うが,もう一つは,問い,質問だと思う。
質問は,聴き手の中から生まれてくるのではなく,話し手の話の中から,問いが生まれてくる,ということに,いまさらだが,気づいた。問いは,話し手の自己対話の中から,吹き出しのように,生まれてくる。それが,聴き手側から出てきたとすると,
それは何ですか,
そのことをどう思いますか,
という類の質問になる,しかし,話し手自身から出てくると,
そのことは,何なんだろうね,
そのことをどう思ったらいいんだろう,
となる。問いは,自問なのだとすれば,質問ではない。
「質」は,
「斤」+「斤」+「貝」
と分解できる。「斤」は,
重さを計る錘に用いた斧,
で,「斤」ふたつとは,
重さが等しいことを意味する。「貝」は,
割れ目のある子安貝,または二枚貝,
を示す。古代には貝を交易の貨幣にもちいたので,財貨を意味する。で,「質」は,
Aの財貨と匹敵するだけの中身の詰まったBの財貨
を表す。名目に匹敵する中味がつまっていることから,実質,抵当の意味になる。
「問」は,前にも書いたが,
「門」+「口」
で,「門」は,
二枚の扉を閉じて中を隠す姿を描く象形文字,
で,隠してわからない意やわからないところを知るために出入りする入口の意。「問」は,
分からないことを,口で探り出す,
という意味になる。その意味では,「問い質す」というときの,「質す」は,かなり意味が重たい。その中身の真価の是非,有無を尋ねている。
だから,質問というより,疑問,あるいは,問いかけ,ひょっとすると否定疑問なのかもしれない。自分に向かって,問い質す奴はあまりいない。
それって,どういう意味だろう。
それを考えるには,どうしたらいいのだろう。
なぜそれが出来ないと思うのだろう。
それって,妙じゃないか。
自分への問いかけは,おのれ自身の未知の扉をおとない,それを開けて,解き明かすような,おのずと湧き出てくるもののはずだ。そうでない問いは,話し手ではなく,聴き手の中から出ている。そういう問いをつかみたいと思っている。それも,相手に寄り添えているかどうかの目安のはずである。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
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「窮すれば通ず」は,
行き詰まってどうにもならないところまで来てしまうと,案外活路がひらかれて何とかなるものである,
という意味だとされる。『折たく柴の記』にも,
「窮して通ずとこそ題易にも見え侍れ」
とあるらしい。ここが,日本的な極楽とんぼで,窮したら,ただ窮するに決まっている。ずいぶん昔,棋士の呉清源さんが新聞のインタビューで,「日本では『窮すれば通ず』が諺になっているが,本来は『窮即変,変即通』で『変ず』が抜けている」という指摘をしておられたそうだか,そう言いたくなるのはよくわかる。
原文は,『易経』に,
易窮則変 変則通 通則久
とあるそうだ。つまり,「易は窮すれば則ち変じ,変ずれば則ち通ず,通ずれば則ち久し」であり,ただ,
「変ず」
が抜けているだけではない,「変じ」と「変ずれば」が抜けている。つまり「変ず」がなければ,窮したまま,ということになる。しかも,「易は」の主語があって,「窮すれば通ず」というような「窮したおのれ」の慰めにはならない,ということらしいのだ。
『易経』をさらりと読み飛ばしただけなので,改めて探してみると,
易は窮まれば変じ,変ずれば通じ,通じれば久し。ここをもって天よりこれを祐け,吉にして利ろしからざるなり。
とあり,その前がある。
神農氏没して,黄帝堯瞬氏作(おこ)る。その変を通じ,民をして倦まざらしめ,神にしてこれを化し,民をしてこれを宜しくせしむ。
とある。中国の堯瞬の前の,神農,その前の包犧氏という歴史(神話)を例にしているのである。ただ,(個人が)行き詰まってどうにもならないところまで行けば何とかなる,などという意味でないことだけは確かである。
思うに,「変化」に意味があるのではないか,ただ行き詰まったところで,何かが変ずる,というような僥倖がふりかかるなどということではないはずである。
「易とは天地と準う。故に能く天地の道を弥綸(びりん もれなく包み込む)す。」
「易とは象であり,象とは像すなわち物の姿に像(かたど)るという意味である。また彖(たん 卦辞)とは,その卦(か)の全体の意義を総括する材料という意味であり,それぞれ爻(こう)は天下の万物の動きに効(なら)う(爻=効)変化を示す。だらかこそ卦や爻によって吉凶が生じ,微妙な悔・吝も明らかになるのである。」
とある。そして,
「その中に示された道はしばしば変化し,変動して一箇所に停止することはなく,六虚すなわち卦中の六爻にあまねく流通し,絶えず上り下って常住することなく,陰陽剛柔互いに入れかわって,これを一定不変の法則としてとらまえることは困難であり,ただただ変化流転する動きのままにあるよりほかはない。」
ともある。だからこその,
臨機応変
なのであり,誰もが,その「変ずる」に出会えるわけではないのである。
「天下の賾(錯綜,入り組んで見分けがたい複雑さ)を究め尽くしたものは卦の中に示され,天下の動(変動,変化きわまりない動き)を鼓舞するものは卦爻の辞の中に示され,陰陽の変化に即して適宜これを裁ちきって融通性を発揮させることはいわゆる変の中に示され,これを推し進めてその場その場の具体的な処理を講ずることはいわゆる通の中に示され,神妙の働きを尽くしてその理法を明らかにするのは,それを利用する物の資質如何によるのであり,暗黙の中に益の道を成就し,言わず語らずして誠信の実効をあげ得るのは,その人の徳行如何によるのである。」
と。結局は,
「一陽一陰これを道と謂う。これを継ぐものは善なり。これを成すものは性なり。仁者はこれを見て仁と謂い,知者はこれを見てこれを知と謂い,百姓は日に用いて知らず。故に君子の道は鮮(すくな)し。」
となる。だれにでも,「変」が生じ,「通じる」という意味ではない。
上面を撫ぜただけで言うのは,おこがましいが,
「変化とは進退の象」
とある。つまり,たとえば,どつぼにはまって,二進も三進もいかなくなったとき,前へ前へと同じことを繰り返すと,それはますます深みにはまるだけである。立ち止まる,ということが,変化を生むことがある。何かに憑かれたような一途な執着が,剥がれ落ちる,それだけで見え方が変わることは起きる。
ソリューション・フォーカスト・アプローチに,
もしうまく行っているなら,変えようとするな
もし一度やってうまく行ったなら,またそれをせよ
もしうまく行っていないのであれば,(なんでもいいから)違うことをせよ,
という3ルールがある。これも同じことだ,変化を起こしたくないなら,そのまま続ければいい。しかし,変えたいなら,何でもいい,いままでとは違うことをせよ,である。
易には直接関係ないが,そこから,類推するのは,発想である。行き詰まって,思いつめた頭を,たとえば,「や〜めた」と解き放った瞬間,視界が開けることが,たまにある。
よくひらめきの三上(馬上,厠上,枕上)と言うが,何もなくて,ただ寝ていたら,いいアイデアが浮かぶなどということは,三年寝太郎ではあるまいし,ありえないのである。数学者の岡潔氏が,
縦横斜め十文字,考えて考えて考えた末に,それでもだめなら寝てしまえ,
といった趣旨のことを言っておられた由だが,「寝てしまえ」だけとっても,ひらめきの条件にはならない。似たことは,よくアイデアとか創造性が,
既存の要素の組み合わせ
というが,では組み合わせたら,何かいいアイデアが生まれるのか,というとそんなことはない。その辺りは,さすが(NM法の)中山正和氏で,
情報を集めて,加工して,孵化して,
といわれる流れを,
@方向づけする(問題意識の言語化)
A情報を集める
B情報の切断
C組み合わせ
と分解した。まず大事なのは,問題意識とされる。問題意識とは,
第一信号系の条件反射である
から,それを第二信号系の言語によって「意志的に『方向づける』」と言っている。実は,多く忘れられているが,自分の関心につながらないところではアンテナ感度は鈍る。鈍った感度で情報が集まるわけはない。問題意識の言語化は,
アンテナの指向性
を高める操作なのである。これなしの,ステップは,本気でアイデアを考えたことのない人の説だろう。
もう一つ重要なのは,「情報の切断」である。情報は,基本的に自己完結している。「情報」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E6%83%85%E5%A0%B1)については触れた。自己完結しているというのは,論旨,意味づけられている,ということである。だから,論旨,というか因果関係といってもいいが,それを切断する。
われわれがひらめいたとき,
脳の広範囲が活性化する,
と言われている。発想は,ただの情報の組み合わせではない。自分の中にあるリソース,
意味記憶,
エピソード記憶,
手続き記憶,
とリンクすることで,情報がリンクしあい,今まで見えなかった意味が,パースペクティブが開く。忘れられているが,発想はそもそも主体的な作業ということである。そのためには,「切断」がなければ,デジャヴな発想に留まる。その意味で,最初の問題意識の言語化が,ここと関わる。発想は,その広げた風呂敷以上にはいかないのである。
ま,というように,「変化」が生まれるには,ただ窮したり,ただ寝ていても,「産むが安し」とはいかない。ブラックボックスの部分を見ないで,慰めにするのは,自堕落の始まりである。
参考文献;
高田真治・後藤基巳訳注『易経』(岩波文庫)
中山正和『発想の論理』(中公新書)
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機・期・幾,
前から気になっていたのは,「機」と「期」の違い。それと「幾」が絡むとは知らなかった。そこには,
「幾」:ごくわずか,兆し,機微
「機」:物事の仕組みのツボ・勘所
「期」:約束された時,時が熟し満ちる
「幾と機と期を観る」とは,ごくわずかな変化の兆しを察し,それを動かす勘所に焦点を合わせたら,後は時が熟するのを待つことが大切です。
とあった。それが,物事を成し遂げるために必要なことだ,と。御尤もである。でも,自分流に確かめてみたい。
まず,「幾」。
幺+幺(細い糸,わずか)+戈(ほこ)+人
の会意文字(既成の象形文字または指事文字を組み合わせて作られた漢字)。
人の首にもうわずか戈の刃が届きそうなさま
を意味し,もう少し,わずか,細かい,という意味を含む。もうわずかの幅をともなうことから,はしたの数(いくつ)を意味するようになった,という。そのため「幾」の意味は,
いくつ,いくばく。九以下のはしたの数を示す。(「幾人」「幾何(いくばく)」「幾年(いくとせ)」)
近い(幾百里)
ほとんど,もう少し(幾亡国)
こまかい兆し(「知幾」)
庶幾(こいねがわくば)
になる。「幾」と対比されるのが,「殆」。「殆」は,
あやうい,
という意味だが,
「歹(死ぬ)+台(鋤を用いて働いたり,口でものを言ったりして,人が動作することを示す)」
で,これ以上作為すれば死に至ること,動けば危ないさまをあらわすので,「幾」に近い,ほとんど,という意味があるが,その場合は,
(八,九分,という意味だが)危ない場合に使うようだ。
「幾」に「木」の加わった,「機」は,
「木+幾」で,木製の仕掛けの細かな部品。わずかな接触で噛み合う装置のこと。
という意味になる。だから,意味は,
はたおり機(「機杼」)
部品の組み立てでできた複雑なしかけ(「機械」)
ものごとの細かいしくみ(「機構」「枢機」)
きざし(「機会」「投機」)
人にわからないこまかい事柄(「機密」)
勘の良さや細かな心の動き(「機転」「機知」)
となる。では,「期」はどうか。
「期」の字の,「其」は,四角い箕を描いた象形文字。四角くきちんとした,の意を含む。箕の原字。
で,「期」は,
「月+其」で,月が,上弦→満月→下弦→朔を経て,きちんと戻り,太陽が,春分→夏至→秋分→冬至を経て正しく元の位置に戻ること,
を意味する。したがって,「期」の意味は,
取り決めた日時(「期間」)
予定する,必ずそうなると目当てを付ける(「期待」「期する」)
一定の時と所を約束して会う(「期会」)
一ヵ月,または一年
等々となる。
こう考えると,幾→機→期と,時間間隔が延びる,ということになる。ただ,『易経』に,
子曰く,幾を知るはそれ神か。君子は上交して諂わず,下交して瀆(けが)れず,それ幾を知れるか。幾は動の微かにして,吉のまず見(あら)われるものなり。君主は幾を見て作(た)ち,日を終うるを俟たず。
とある。兆しを見て,直ちに機と判別する,ということか。それは,日々の心構えになっているという意味なのだろう。
機に臨み変に応ずる
というが,「機」に臨む前に,「幾」に,兆しに気づいて即応できる構えができていなければ,対応できない。「危機」も「逸機」も,その意味では,結果であって,
「逸『幾』」の結果,「逸機」と「危機」になる。
「機根」という言葉があるらしいが,「気根」とも当てる。
仏教の教えを聞いて修業しうる素質
気力,根気
といった意味だが,「気」と「機」が交換しうる,というのが面白い。「気」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-5.htm#%E6%B0%97)については書いたが,
「万物は五行に還元せられ,五行は陰陽に還元せられ,陰陽は太極に,太極は無極に還元せられる」
という宇宙観の背景にあるのが,「気」となる。「気配」の「気」であり,「幾」にも通じる。その意味で,機と期と幾は,気に通じている,と言えなくもない。
「生とは気の集結であり,死とは気の解散」
とまで広げると,意味がなくなる。すでに「情報」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E6%83%85%E5%A0%B1)
で触れたことがあるが,
情報とは差異である。
人の気づかぬ差異を,「幾」と言い換えてもいい。それは,問題意識と置き換えてもいいかもしれない。問題意識とは,問題に着眼するのではない,常に,
こうなっているはず(という目指す)状態
を常態と見なしているから,その差異に目ざとい。それは,目標意識というよりは,目的意識の鮮明であるかどうかの差であるのだろう。
参考文献;
簡野道明『字源』(角川書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
高田真治・後藤基巳訳注『易経』(岩波文庫)
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ある芝居を観ていて,
ああ,この人たちは,きちんと訓練ができている,
と,感じたことがあった。それを,筋がいいというか,正統な,あるいは王道のしっかりした訓練を受けている,という感じであった。別に僻目で言うのではないが,歌手やタレント上がりに見受ける,何とも締りのない台詞回しや,口跡の悪さ,姿形というか,立ち居振る舞いのめりはりのなさとは違って,指の先まで,きちんと神経が行き届いている,という印象である。それを,筋目正しいという表現をするのがいいかどうかわからないが,正統派だと感じたのである。
ということを,あるとき,ふいに思い出した。
自分は,そういう折り目正しい教育もキャリアも経ていないので,というか,いつだったかある資格の再々試験の時,面接官が,あなたは本当に資格を取る気があるのか(とは,資格の主張がわかっていてそれを理解しょうとしているのかという意味),と叱責されたように,まともに受け止めないというか,我流に転換してしまう癖がある,というおのれに目が向いた次第である。
あるいは,折り目正しい行儀のよさへの憧れかもしれない。必ずしも,そういう人が,優れた役者になるとは限らない。名をなすとはきまってはいない。しかし,由緒正しい演技は,脇でいても光る。どこぞのジャニーズ系の主役を食うくらいの存在感はある。そういうのに対する憧れのようなものが,僕の中にある。
といって,
異端
と,胸を張るほどの気概はない。「異端」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E7%95%B0%E7%AB%AF)については書いた。自分流儀にしてしまわないと,居心地が悪いというだけなのかもしれない。
地金
という言葉が,そのとき浮かんだ。付け焼刃では,きちんとしたものには仕上がらない。
地金が出る
とか
地金がさびる
という。地金の良し悪しが,最後に出る。その地金である。別に由緒とか血筋とか血統とかを,この場合言っているのではない。由緒正しい連中が,幕末も,戦前も,戦中も,戦後のいまも,ろくなことをしていないことは,事実が証明している。結局,ひと,である。その人次第である。
地金というと,
めっきの下地や,加工の材料となる金属。じきん。
生まれつきの性質。本性。主として悪い意味で使う。
とあるが,後者のことを言おうとしているのではない。金属の用語としての「地金」には,
細工物の材料にする金属。
めっきの土台の金属。
貨幣などの材料に溶かして使う金属材料。金・銀などをいう。
ふだんは表れない,生まれつきの性質。本性。
「地金を出す」というとき,メッキの土台のことを言っている。どんなに付け焼刃をしても,地が鈍刀なら,意味はない。
日本刀だと,
日本刀の材料となる玉鋼は日本独自の「たたら吹き」で造られる。これを熱して鎚で叩き,薄い扁平な板をつくる。これを水に入れて急冷して,余分な炭素が入っている部分を剥落とす。これを「水減し」または「水圧し(みずへし)」という。ここまでがへし作業と呼ばれる地金づくりである。
という作業を経て,初めて地金になる。この後も,何度も熱しては,叩き延ばし,折り重ねては,叩き,を繰り返す。最終的には,
含有炭素量が異なる心金(しんがね),棟金(むねがね),刃金(はのかね),側金(がわがね)の4種類の鋼に作り分けられ,棟金,心金,刃金の3層を鍛接して厚さ20mm,幅40mm,長さ90mm程の材料が4個取れるくらいに打ち伸ばして4つに切り離す。これは「芯金」と呼ばれる。側金も加熱され長さが芯金の倍になるくらいに叩き伸ばされ中央から切り離されて,芯金と同じ長さの側金が2本作られる。さらに,側金,芯金,側金の順で重ねられ,鍛接されて,厚さ15mm,幅30mm,長さ500-600mm程度に打ち伸ばされる。「てこ」が切り離されて,刀の握り部分になる「茎(なかご)」が沸かされ鍛接される。
ようやく,刀の形になっていく。しかし,元は,地金である。ここのつくり込みが不十分なら,その上の汗水たらした作業はすべて消える。
それがない自分を嘆いているのではない。ひとはひとのもつ遺伝子の可能性以上にはなれない。とすると,ひとつことをコツコツと叩き上げていくタイプではないというだけのことだ。
「地」の,「也」は,
うすいからだののびた蠍を描いた象形文字,
で,「土+也」で,平らに伸びた土地を示す,という。まさに,土壌である。因みに,「土」も,象形文字で,
土を盛った姿を描いたもの,
という。古代人は,土に万物を生み出す充実した力があることを祀った。このことから,「土」は,充実したという意味を含む。という。また「土」の字は,「社」の原字であり,土地の神や氏神の意となっていった,という。
思えば,自分のからだは,「土」である。メタファーというより,そのものズバリ,そうである。脳もまた,肉体である。リソースそのものである。そう思えば,それを耕す以外に,実りはない。あいにく,人は,おのれの「地」以外は耕さない。まだ未開の原野が,一杯残っている(はずである)。
耕し方も,結局自己流でしかない。いやいや,自己流以外にはない。たまには,隣の芝が青く見えたりもするものである。
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「ちちんぷいぷい」は,不思議な言葉だ。幼児に向かって言うらしい語感はある。
ちちんぷいぷいは,
一般には子供が怪我をしたときになだめるときに,用語である。主に母親などが,「ちちんぷいぷい,痛いの痛いの,飛んでけ」といったように使用する。
古くはもっと長く「チチンプイプイ御代(ゴヨ)の御宝(オンタカラ)」ととなえた,という。その語源は,
「智仁武勇は御代の御宝」(ちじんぶゆうはごよのおたから),
とされる,とある。これは,三代将軍徳川家光の乳母・春日局が子をあやすために,「知仁武勇は御代の御宝」(知力と武力に長けた貴方は徳川家の宝なのですから,どうか泣かないで下さい)」と残したことに由来する。しかし,異説もあるらしい。もう一つは,
仏教用語の「七里結界」(四方七里に邪を寄せ付けない結界をはる)
に由来するというのである。詳しくない僕には,どちらも,もっともらしいが,単に,喃語に合わせているようにも見える。
似たのに,「どっこいしょ」がある。
民俗学者の柳田国男によると,「何処へ」が語源だとされる。語源的にも,
「何処へ(相撲の掛け声)+しょ(掛け声)
で,本来は,荷物を運ぼうとして力を入れるときの声で,転じて,腰を下ろすとき掛け声のに使う,という。余談ながら,坐るぞ,あるいは,力を入れるぞ,という合図をすることで,身体への不意打ちの衝撃に備えさせる意味では,効果的なのだ,と聞いたことがある。身体への合図,と考えると判りやすい。ネット上には,
「『どこへ』はもともと感動詞で,相手の発言や行動をさえぎる時に使う言葉です。『なんの!』や『どうして!』などと同じように思わず力が入る言葉だったのです。江戸時代には歌舞伎にもよく出てきていました。『どこへ!』が『どっこい!』となり,さらに『どっこいしょ!』と変化したと言われています。相撲で『どすこい!』と言うのも,この『どこへ』が語源のようです。」
手元の古語辞典を引くと,「どこへ」は,
「何処(どこ)への意から,相手の行動などを遮り,止める意。どっこい。」
とある。「ところがどっこい」というのが,いまも生きている。これだけはっきりしていても,異説はあって,
古来からの山岳信仰で,その信仰として山に登る風習があり,その際「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」と唱えながらのぼっていた。六根,つまり“目・鼻・耳・舌・身・意”とをいい,これらを清めるために「六根清浄」と唱えたのです。「ろっこんしょうじょう」と唱え,それがが「どっこいしょ」と聞こえた,
というのではないかという説である。
しかし,勝手な億説だが,どうも逆のような気がする。たしかに,
「六根清浄 お山は晴天」
と山を登るときに,教えてもらった記憶があるが,江戸時代に,「どっこいしょ」という掛け声が先にあって,あるいは同時でもいいが,(その言葉が人口に膾炙していて)富士講の人々が,どっこいしょという掛け声に,しゃれで,六根清浄を当てた,のではないか。いまで言えば,「だめよ,だめだめ」の類が,あちこちで転用されるようなものだ。真偽は別に,その方が面白い気がする。
「どっこいしょ」に似た掛け声に,「よいしょ」「こらしょ」というのがある。
「よいしょ」には,
力を込めて重い物を持ち上げたりするときに発するかけ声。よいさ。
ある動作を起こそうとするときに発するかけ声。
俗謡・民謡などの囃子詞(はやしことば)。
の他に,名詞として,
相手の機嫌をとって,おだて上げること
というのがある。どちらが先かはわからないが,どうやら,幇間や寄席から出てきた言葉らしい。扇子を広げて,尻を端折った幇間が,扇子を煽って,よいしょ,と掛け声を出している図が浮かぶ。そうやって,客を「持ち上げる」という洒落なのではないか。掛け声が,これも先なのかもしれない。
掛け声は,ことばのルーツとしては古い,と学んだ記憶が,微かにある。歌のルーツも,そうやって一緒に何かするときの掛け声の延長戦上と,考えてもいいのかもしれない。だから,「よいしょ」が「顧客をよいしょする」にしゃれたのだと思う方が,面白い。
「よいしょ,こらしょ」
と対になっているのも,掛け声の自然発生と考えた方が,無理がない。「やっさ」「ほいさ」や「えっさほい」にちかいところでは,「わっしょい,わっしょい」に代わった,「そいやさ」も,掛け声である。
確かに,仏教由来の言葉は,挨拶,玄関,普請,等々日常語にあるのは,確かだが,動作や労働につながるのは,意外にもっと古いのではないか,という気がする。
上へ
この言葉は,元総理の大平正芳氏の揮毫にあるらしい。あるいは,武田豊(元新日鉄副社長)氏の座右の銘らしく,仕事で多少の引っ掛かりがあったので,日経ビジネスの「有訓無訓」辺りに登場されて,それを書き取ったものに違いない。調べると,
「『任怨』とは『何か思い切った新しい仕事をやる時には,きまってだれかの怨みをかう。だが,そうした怨をいちいち気にしていたのでは,とても新規事業はやりとげられない。敢えてその怨を受けよ。中傷の火の粉を恐れるな。(あえて言えば,自省の糧にする)』の意。『分謗』とは,『いったん志をともにした以上は,一心同体となってその怨を分けて受ける気概がなければならない。』」
という意味だとか。まあ,
「人に怨まれるのを恐れず,非難は,敢えてわが身に も引き受ける」
ということだ。覚悟を言っている。大平氏の造語という説と,安岡正篤氏の言葉ともあるが,『任怨』『分謗』は,それぞれ,『三事忠告』にある言葉。『三事忠告』は,
「著者は元代の官僚・儒学者の張養浩。民衆を指導していく立場にある政治家・役人が持つべき信念・道徳が書かれた政治指南書。内容は『廟堂忠告』,『風憲忠告』,『牧民忠告』から成っており,それぞれ,内閣大臣,法務警察関係者,地方行政担当者に宛てる忠告と言う形で説かれている。」
という。『三事忠告』は,
「元代の官僚・張養浩が県令となって著した『牧民忠告』,御史となって著した『風憲忠告』,大臣となって著した『廟堂忠告』の三部を合わせて名付けたもので,明の洪武22年,広西按察司僉事の揚子宏はこれを刊行して『為政忠告』としたが,42年後の宣徳6年に,河南府長官の李驥がこれを重刻して『三事忠告』と改名した。」
とし,『廟堂忠告』は,
第一 修身・・・身を修めること
第二 用賢・・・賢者を用いること
第三 重民・・・民を重んずること
第四 遠慮・・・先々に心すること
第五 調燮・・・調え和らげること
第六 任怨・・・怨を受けて恐れぬこと
第七 分謗・・・同僚の謗りを我も分かつこと
第八 応変・・・変に応ずること
第九 献納・・・忠言を奉ること
第十 退休・・・いつ役を退くか
十カ条となっており,ここから取った。それぞれについては,
http://www.asahi-net.or.jp/~du1t-mrkw/ryousyo/bijines/isei3bu.htm
にあるが,そこには,「任怨」「分謗」
任怨(道に当たっては,甘んじて人の怨も受けること) 自分が正しいと思ったこと,全体のために最善と思われることについては,たとえ一部の人から怨みを受けようとも実行しなければならない。
分謗(同僚の受けるべきそしり,批判を我が身に分担すること) いい組織というのは仲間がミスしたり,そのために非難されているときに知らん顔をせずにかばう組織。
と説明があった。四文字熟語にも,
自ら進んで怨みを引き受け,人の謗りを自分の身に引き受けるの意。リーダーの心構え。
と説明があった。
しかし,思うのだが,そんなことをわざわざ口に出さねばならないようなことなのか。それは,リーダーの基本的覚悟ではないのか。そんな覚悟もなく,リーダーになったということのほうが笑えるのではないか(しかし,いまの為政者を見ていると,それを口に出している大平元首相の方がはるかにましたが)。
それを言うなら。組織メンバーとして,この心構えをもつ奴のほうが,はるかに目を瞠るに値する。
「任」の字の,
「壬」は,「腹の膨れた糸巻の軸」または「妊娠して腹のふくれた女性の姿」を示す
という。「妊」の原字。で,「人+壬」の「任」は,
腹の前に荷物を抱え込むこと,
転じて,抱え込んだ責任や仕事の意となる,とある。だから,「任」は,
抱え込んだ重い荷物(「任重而道遠」)
抱え込んだ仕事(「任務」)
仕事を引き受ける
役目や仕事を与えてまかせる
上辺は柔らかだが腹黒い(「任人」)
まかせる(「放任」)
重みや仕事を引き受けて,我慢する
等々の意味になる。どうも「抱え込んでいる」というイメージになる。担うという意味とは少し違う気がする。
「怨」の「心」の上の字は,
人が二人からだをまげて小さくまるくかがんださま,
を表し,それに「心」を加えた「怨」は,
心が押し曲げられて屈んだ感じ,いじめられて発散できない残念な気持ち,
という意味という。だから,「怨」は,
人に抑えられて気が晴れない,残念でむかむかする(「怨恨」)
無念
うらめしさ
あだ
といった意味になる。どこか,勝手に心で報いられぬ思いを膨らませているという感じである。因みに,
怨は,恩の反対。
恨は,心に深く残った怨み。
憾は,やや軽い。
といった,「うらみ」の違いがある。
「分」は,
「八+刀」で,二つに切り分ける
という意。だから,
わけて別々にする(「分割」)
判別する。見分ける(「分別」)
わかつ(「分配」)
わかれる(「分裂」)
区別,けじめ(「分明」)
ポストに応じた責任と能力(「本分」)
等々の意味になる。明らかに,分担という意味と,別れという意味とがある。
「謗」は,
「言+旁(両脇,脇に広げる)」,
だが,「旁」の「方」は,
左右に柄の張り出たすきを描いた象形文字。両脇に出る
という意を持つ。で,「旁」は,
「二印(ふたつ)+八印(左右にわかれる)+方」
で,中心から左右上下に他れて張り出ることを示す。
「そしる」には,
「謗」 蔭口
「誹」 人の非を指摘する。「非」も同じ。
「譏」 他人の落ち度・欠点を細かく言い立てる
「毀」 誉の反対。
がある。「謗」が,蔭口なら,そんなものは無視してよい,とまでは言わないが,担うというほどのものではない。
こう考えてくると,「任怨分謗」は,トップの覚悟というようなものではなく,まさに「小役人」(この場合の「小」は若いという意味だ)の教育にこそ,柱とすべきことだ,という気がするが,いかがであろうか。
すくなくとも,トップになってから掲げるようなことではない。
リーダーにしろリーダーシップにしろ,若いころから,人の力を借り,あるいは人を巻き込んで,おのれの裁量,器量以上の仕事をしてきた人間でなくては,その器量と技量は身につかない。だから,「任怨分謗」は,そういう若い人こそが肝に銘ずべきことではないか。とても,付け焼刃で身につくものではないと思っているので,そういう経験を身につけてこなかったものが,掲げる格言なのではないか,という気がする。
元代の官僚・張養浩が県令となって著した,御史となって著した『風憲忠告』,大臣となって著した,ということに意味がある。部下に向かって言っている。おのれの自戒の言葉ではないのではないか,とおもえてならない。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
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知らずに使っている仏教用語というのの,ランクが出ていて,
1位 愛嬌 47.9%
2位 挨拶 44.5%
3位 アバター 38.4%
4位 安心 34.3%
5位 食堂 32.3%
とあった。半分以下なので,多くは,承知の上と言えるが,意外なのは,
アバター
で,「ネットワーク上の仮想空間でのユーザーの分身」というのは,判っていたが,
サンスクリット語の「アヴァターラ」が語源で,「(神や仏の)化身」
という意味があるそうである。周知のことなのかもしれないが,「化身」を,ネット上の分身に当てた人が偉いというか,どこまでわかっていたのであろうか。
愛嬌は,愛敬とも書く。
「あいきょう」と読むと,
女性や子供などが,にこやかでかわいらしいこと,またこっけいでほほえましいこと
人に好かれるような愛想や世辞。また催しごとや者をル時に沿えるもの。座興。
ひょうきんで,憎めない表情や仕草
「あいぎょう」と読むと,
親愛と尊敬の念をもつこと。人から愛され敬われること。
顔つき・振る舞い・性格などが,優しく愛らしいこと。
となる。語源的には,仏教用語で,
「愛+敬」
で,愛し尊敬する意(仏・菩薩の,優しく情け深く,穏やかな容貌や態度を表現する愛敬相から来ている)。平安時代になって,『源氏物語』や『枕草子』でも,女性の顔や言動に使われるようになった。
あいぎょうづく
あいぎょうおくれたる
といった使い方で,「あいきょう」に転じた。この意のときは,「愛嬌」と書く。
漢字から当たってみると,「愛」は,
いとおしむ(「恋愛」「愛惜」)
とか
めでる(「愛好」)
とか
好きでたまらない
という意味。「愛」は,
「心+夂(足をひきずる)+兂(人が胸を詰まらせてうしろへのけぞったさま)」
を表し,心が切なくつまって足もそぞろに進まないさま,を意味する。
では,「敬」はと言うと,
うやまう
とか
つつしむ
とか
身をひきしめてかしこまる
とか
尊敬の気持ち
という意味。「敬」の「苟」字は,
苟(きょく)は,苟(こう)ではなく,
「羊の角+人+口」
からなる会意文字(既成の象形文字または指事文字を組み合わせること。会意によって作られた漢字)。角に触れて,人がはっと驚いて体をひきしめることを示す。
「苟(引き締める)+攴(動詞の記号)」
で,「はっとかしこまって体をひきしめること」という意味になる。
「嬌」の字は,
なまめかしい
とか
「阿嬌」で愛人や若い女性を親しみを込めて呼ぶ言葉
という意味があり,艶っぽい字らしい。「嬌」の字の「喬」は,
高の字の先端がなよなよと曲がった形で,曲線状にしなる意で,
「女+喬」
で,女がしなやかに体をくねらせる
という意味になる。
こう考えると,「愛敬」は,敬って身を引き締める,謹む,という意味しかない。「愛嬌」の字に後に当てられたのは,まさに当を得ている。
男は度胸女は愛嬌
と言うが,むしろ,
男は愛敬女は愛嬌
なのかもしれない。
参考文献;
http://news.ameba.jp/20150106-559/
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
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「敷居」とは,
@地上に敷いて座る,筵の類
A古くは,閾。部屋の境の戸・障子・襖の下にあって,それを開け立てするための溝のついた横木
の意味で,ある意味,
門の内外を分けるために敷くもの
といってもいい。内と外の境界を意味していた。その対になるのが鴨居。
敷居ごし,
というと,隔てを意味するし,
敷居を跨げば七人の敵
というのも,その意味から来ている。閾値とか識閾というのは,境界を指す。
閾
は,区切る,という意味だが,「門」の中の,「或」は,
領域を上下の境界線で囲んだカタチ+戈(ほこ)
で,区切りをしてその中を守る「域」の原字。「閾」は,「門+或」で,
門のところで内部と外部との区域を分けること
で,敷居の意味と区切る意味とがある。
昨今,「敷居が高い」の意味が,
「自分には分不相応」「手が届かない」
「高級(上品)すぎて入りにくい」
という,「ハードルが高い」「レベルが高い」と同じ意味で誤用されている,という。本来は,
不義理や面目ないことなどがあって,その人の家に行きにくい,
敷居を跨げない,
という自責の意味なのに,他責の意味に転じている。最近はやりの妖怪ウォッチのおかげて,自分の失敗やへまを妖怪のせいにするのと軌を一にする。問題の外在化そのものは悪くないが,他責までいっては,おのれを改めるという部分が消えてしまう。
しかし,実体として敷居が消えていけば,意味が変わっていくものかもしれない。
文化庁が発表した平成20年度「国語に関する世論調査」では,
http://www.bunka.go.jp/publish/bunkachou_geppou/2011_04/series_08/series_08.html
にあるように,「あそこは敷居が高い」を,本来の意味とされる「相手に不義理などをしてしまい,行きにくい」で使う人が42.1%,本来の意味ではない「高級すぎたり,上品すぎたりして,入りにくい」で使う人が45.6パーセントという。
もともと古い時代の日本の家屋は,開き戸かあげ戸が一般的で,引き戸ひいては引き戸に必要な敷居は用いられていなかった。敷居が一般化するのは,室町時代後期に個々の部屋を仕切る書院造が確立し,引き戸が用いられるようになってからであり,武家社会の浸透とともに普及した。礼儀作法において,敷居は踏んではいけないものとされているが,それほど古いものではない。
とあるように,この言葉自体がそんなに由緒あるものとは思えない。
小学館『大辞泉』編集部が集約した,
間違った意味で使われる言葉ランキング,
というのがあって,第一位は,ハッカーで,「コンピューターに侵入し,不正行為を行う人」ではなく,
インターネットやコンピュータに詳しい人,
という意味に代わって使われている。間違いではないが。。。第二位は,「確信犯」。「信念に基づいて『正しいことだ』と思い込んでする犯罪」ではなく,
悪いことであるとわかっていながらする犯罪
として使われがちだという。第三位は,「他力本願」は,
自分で努力するのでなく,他人からの助けに期待すること
で使われる。その意なら,他力本願したくなるわけだ。因みにも第四位は,「破天荒」。「いままで誰もしなかったことをする」ではなく,「豪快で大胆不敵」と矮小化されている。第五位は,「姑息な手段」の「姑息」。「その場逃れ」「医時事凌ぎ」ではなく,「卑怯」と意味が変わっている。第六位が,「失笑」。「可笑しさに堪えきれず,吹き出す」ではなく,「笑も出ないくらいあきれる」で使う。笑いを失う,という意味では,語意に忠実かもしれない。そして,第七位が,「敷居が高い」。ついで,「さわり」を,「話の最初の部分」と,「なしくずし」を,「物事をは少しずつ済ましていく」ではなく,「物事があいまいなまま進んでいくこと」。「悪びれる」を「気後れして卑屈な様子をする」ではなく,「虚性を張って悪事をしても悪いとは思わない態度をとる」に,変って使っている。「悪びれる」は,おおく,「悪びれない」という使い方をするので,こういう解釈になった。「なし崩し」は,僕自身も,「物事を少しずつ先送りして,帳消しにする」というニュアンスの意味で受け止めていた。
言葉は変化するので,意味が変るのは,当たり前だが,会話をしていて,自分の使った言葉が,自分の込めた意味かどうかは,注意深くなくてはならない。
会話は,後続する人が,どう返事するかで決まるので,修正できるが,文書の場合,世代が違えば,意味が変る,ということもある。
竿さす,
の誤用もそうだが,実体験に竿で船を操るところを見ていないと,文字だけで意味をとりがちになる。昔,
取りつくヒマがない,
を口癖にしていた先輩がいたが,「取り付く島がない」を耳でを覚えると,そういうことはある。
同様に,
言い間違いされる言葉ランキング
というのもあり,
第一位は,「途切れがちの会話などを,うまくつなぐことができない」の意味での,正しい「間が持てない」ではなく,「間が持たない」という使い方をする。第二位は,「声を荒らげる」ではなく,「声を荒げる」。つまり「ら」抜きである。第三位は,「足をすくう」を,「相手のすきをついて失敗させる」ではなく,「足もとをすくう」という意味で使う。喩えだったのだから,先祖返りみたいなものだ。ついで,「采配を振るう」ではなく,「「采配を振る」が正しい。「怒り心頭に発する」ではなく,「怒り心頭に達する」と使う。
こういうのは,「的を射る」を「的を得る」という言い方をするのに似て,実体験が無くなれば,音韻変化するのはやむを得ない。
最近,上にも出た,「食べれる,生きれる,来れる」という「ラ抜き言葉」,「書けれる」「読めれる」と余計な「れ」を足す「レ足す言葉」,「言わさせていただきます」「急がさせてすみません」と,「さ」を加える「サ入れ言葉」というのが,ことばの乱れを指摘する専門家の指摘するものだそうだが,いささか鼻白む。
「ら」抜きは,かなり古くから(江戸時代から)あったとする説もあり,別に誰も気にしなくなるだろう。尊敬語や謙譲語が礼儀上必要だったのは,身分社会の反映に過ぎない。それが簡素化していくプロセスで,余分になったり,不足したりすることはある。ほおっておけば,失礼な言葉は,消えていくだろう。
御苦労さま
は上から目線,
お疲れ様
が,どちらにもとれるニュートラル,というのが落ち着いてきたように。言葉に目くじらを立てるものは,言葉生きて使われているものだということを忘れている気がしてならない。
普通の人は,多分気にかけないだろう。なぜなら,最後に淘汰されたものだけが,文化の堆積の上に残ることを知っているから。
参考文献;
小学館の国語辞典『大辞泉』編集部
http://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000003.000007379.html
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士業という言葉があるらしい。
名称の末尾に「士」の文字がついている場合が多いということに由来しているらしい。「-士」だけに限らず,「-師」の名称も含むため,「士師業」「師士業」などとも呼ばれる。
呼称は,資格は,無資格者の実施が禁止されている業務を行うことが許可される業務独占資格と,その名称を用いて業務を行うことが許される名称独占資格とに分かれる。
しかも,
士業には営利目的ではなく職能であるという意味がこめられている。従って一部の士業では,株式会社を始め普通法人などを設立・兼業する事が許されていない。
という。なかでも,八士業というのが代表的で,
弁護士,司法書士,土地家屋調査士,税理士,弁理士,社会保険労務士,行政書士,海事代理士
を指すらしい。師と士の違いが分かりにくいのは,
傷病者や褥婦の看護や診療の補助を行なうことを業とする看護師(士)。かつて女性は「看護婦」,男性は「看護士」と呼ばれていたが,2001年に保健婦助産婦看護婦法が保健師助産師看護師法に改正されたのに伴って,2002年から男女とも「看護師」に統一された,
という例だ。なぜなら,「士」は,
おとこ
あるいは
諸侯・大夫・士の「し」
あるいは
学問や知識によって身を立てる士(「士不可以不弘毅」)
あるいは
士農工商の「士」
あるいは
士官,兵士の「士」も弁護士の「士」
を意味し,象形文字に由来する。すなわち,
男の陰茎の突き立ったさまをえがいたもので,牡の字の「士」でもある(本来「土」ではなく「士」らしい)。
とされ,成人は自立するおとこの意。「事(旗を立てる)」と同系,「仕(身分の高い人のそばに立つおとこ)」とも同系。日本語の「し」は,漢字音「シ」をそのまま使っていて,
人に仕えるもの,官にある男子,
といった意味になる。つまり,おとこ,という意味が元来ある。しかし,そう言えば,「殿さま」や「トップ」は,「士」とは言わない。
一方,「師」は,
戦,軍隊(周代,2500人を一師といった)
とか
大勢のひとがあつまる(京師)
とか
先生,人に教える人(子弟)
とか
職業
といった意味になり,「師」の字の,
左側は,隊や堆と同系の言葉,右側の「帀」は,ぐるぐる回ること,の二つを重ねたもので,
(異説には,「阜(おか)」+「帀(之の倒字,めぐり集まる)」で)
あまねく,人々を集めた大集団のこと,転じて,人々を集めて教える人,
という意味になる。
所謂士業のうち,「師」を使うのは,看護師,保健師,助産師以外は,
医師,歯科医師,薬剤師,臨床検査技師,診療放射線技師,鍼灸師,あん摩マッサージ指圧師,柔道整復師,理容師,美容師,
等々,理容師も,
中世の欧米諸国では理容師は外科的処置を行う外科医,歯科医師でもあった。
と言われているから,その流れから言うと,「医療補助職」のお仲間にということになる。
臨床検査技師,診療放射線技師は,技師の師なので,ちょっと例外かもしれないが,ここでも,なぜ歯科技工士は歯科技工技師ではないのだろう。「技師」と「士」の使い分けも,さらには,臨床工学技士というのもあり,「技士」と「技師」の使い分けも,気になる。
これ以外は,
義肢装具士,社会福祉士,介護福祉士,精神保健福祉士,救急救命士,理学療法士,作業療法士,言語聴覚士,視能訓練士,臨床工学技士, 歯科技工士,
等々,「士」である。これらは比較的新しい資格が多いのだとすると,「士」とつけるには,根拠があるらしい。
最近は,カタカタの者が多くなって,カウンセラーやセラピストというが,資格名となると,臨床心理士となるし,フィナンシャルプランナーも,ファイナンシャル・プランニング技能士となる。「師」ではなく,「士」になる。この辺りの,法律上の「士」と「師」の区分けは,何か基準があるのだろうか。
ここからは,憶測だが,「士」は,一人業という気がする。その人の力量次第という感じだ。そして,どことなく。「おとこ」のにおいを残しているような感じがなくもない。
あるいは,もう少し踏み込むと,「師」の仕事には,チームという側面がある。「チーム医療」ということが最近言われるらしいが,医師一人ではなく,周囲の補助やサポートをする人があって初めて,診断と治療ができる。医者は,そうは思っていない人が多いらしく,「医師」でははなく,「医士」の人が目につくようだが。
この辺りへの疑問は多いらしく,答えを出そうと悪戦苦闘している。いくつかネット上から拾ってみると,たとえば,医療現場の声として,
「『師』は業務独占ができる職業で,『医師』『看護師』などがそれにあたります。業務独占とは,他の人がその業務に携わることができないものを指します。一方『士』は名称独占ができる職業で,『理学療法士』『作業療法士』『栄養士』等々。これは他の人でも精通していれば,その職業を行うことができます。
『業務独占』『名称独占』の違いというもの関係あるのではないでしょうか。
業務独占は,資格がなければその業務が行えない。資格がない状態でその業務を行うと刑罰の対象となります。医師,看護師,准看護師,薬剤師,診療放射線技師など,多くの医療資格が当てはまります。
名称独占 資格がなくてもその業務が行えます。しかし,資格がなければその名称を名乗れません。理学療法士,作業療法士,調理師,介護福祉士,社会福祉士などが該当します。
医療や介護の世界で資格は,実は『業務独占』と『名称独占』というものに大きく分かれています。
たとえば,人の命に関わる医療の場合,医療行為というのは基本的に禁止行為となっており,専門的な教育,訓練を受けて,その禁止行為を行うことを許されたのが『免許』です。このように,禁止行為が可能となる免許が必要な資格のことを『業務独占』といいます。一方,『名称独占業務』は,資格がなくても業務が行えるため,当然ながら業務独占より給与面等で待遇が悪くなってしまいます。」
とあり,これが,順当な解答なのかもしれない。資格は,無資格者の実施が禁止されている業務を行うことが許可される業務独占資格と,その名称を用いて業務を行うことが許される名称独占資格とに分かれる,という論旨とあう。
ただ,「師」のつく職業は,明治維新前から,医師,薬剤師(薬師),陶工(土師),美容師(髪結師),漁師,猟師などがあり,「士」は使えない,という説明があった。
「『士』は『物事を処理する才能のあるもの』。才能をもって官に使えるのが本来の意味。そのため,武士,力士(江戸時代では藩のお抱え),騎士などに使われます。職業(資格,免許などが必要なもの)における『士』も同様で,行政書士,弁護士,税理士,公認会計士,不動産鑑定士などが「士」になります。
『師』は人を集めた大集団であり,そのことから『人の集団を導く者』『教え導くもの』になったとされています。このことから,教師,能楽師,牧師などに使われます。職業による『師』では,医師,美容師,薬剤師,理容師などがこれに当たります。『保育士』も集団を導くと考えられますが,その対象が子どもに限定されていることもあり,「士」になったと思われます。
もう一つ『司』がありますが,こちらは『役所』という意味で,その役に対して責任を持つ者ということです。そのために行司,国司など使用例は多くありません。職業としては児童福祉司,保護司などです。」
このあたりが,一応の最終整理にはなっているのかもしれない。因みに,「司」は,
つかさどる
とか
一事に通じてそれを役目を担当する(「有司」,「行司」もそれか)
とか
役人
とか
役所
の意で,
「人+口」
から成り,厂は,人の字の変形。口は,穴のこと。小さな穴からのぞく,ことを表す。「覗」「伺」「祠(神意をうかがう)」の原字。そこから転じて,「司察」の「司」,よく一事を見極める。の意になった。
ただ,師と士の区別がなかなか一筋縄ではいかないのは,五百年前の『七十一番職人歌合』の,百四十二人の職人の中に,「れんかし」という職人がいた。そこでは,「連歌師」と書くが,かつては,
連歌士
と表記されたらしい。師匠ではなく,連歌の練達の士という意味だろう。「士」が男だからというのではない。
女連歌師
がいたことが,『筑波問答』にあるという。「師」が指導するというニュアンス,宗匠,師匠の意味である。で,「士」は,おとこあるいは,一人で技(業)を売る人,という意味だろう。で,力士,金剛力士。
その意味では,職業を指す,猟師,漁師,薬師,医師で言う,「師」とは「師」の発生系列が違うのだろう,と思う。
「師」という言葉には,グループというか集団というイメージが付きまとうが,連歌師は,「師匠」でもあるが,思えば,百韻で十人,千句,二千句となるとかなりの人数を一つの場に取りまとめて,一つの作品にまとめ上げていくディレクターの役割がある。ま,「士」よりは,「師」のイメージの方が正しいかもしれない。
正直,ここまで探っても,なお探り出すとさらに迷路に入り込むのは,例えば,律令制下の日本における典薬寮の職員には,
医師,針師,按摩師,呪禁師,医博士、針博士、按摩博士、呪禁博士、薬園師,
等々とあり,ここでは,「博士」と「師」が使い分けられている(これは何とかわかるにしても)。さらに,前出の,『七十一番職人歌合』で見ると(見間違いでなければ),
摺師,包丁師,縫物師,組師,陰陽師,絵師,冠師,轆轤師,唐紙師,仏師,経師(表具師)。
と書くが,
蒔絵士,筏士,塗士
は,「師」を当てていない。摺師は,師で,なぜ蒔絵士は士なのか,しかも,研(とぎ)は,「研」だけで研士とは書かない。こうなると,区別の基準が見えず,もう迷路である。
はて,さて,以上,師と士について,なんとなく,やみくも巨象を撫でただけの感がある。ただずっと頭の隅に引っかかっているのは,ひょっとすると単に,発祥の律令制時以来,役人の趣味嗜好(?),おもいつき,省益の反映,あるいは前例踏襲癖といったことだけではないのか,という,疑念が,拭えないのだが。。。
参考文献;
綿抜豊昭『戦国武将と連歌師』(平凡社新書)
上へ
くわばらくわばら,
なんて言い草は,死語か。しかし,こういう表現にも歴史がある。もちろん,
桑を植えた広い畑。桑田
という意味もあるが,
落雷を防ぐために唱えるまじない。
嫌なことや災難を避けようとして唱えるまじない。
といった,呪文のように唱える,というのがある。そのわけは,
地名や人名伝説に由来する
という。
ひとつには,菅原道真の領地「桑原」にあるらしい。都には落雷が多かったが,この地だけは,被害がなかった。で,落雷除けのマジナイに使った,というのである。
ふたつには,大阪和泉軍の桑原の井戸に落雷後,すぐに蓋をして雷を出られなくしたので,雷神が「自分は桑の木が嫌いなので,桑原と唱えたなら二度と落ちない」と誓った,という伝説によるともいう。この説には,異説もある。和泉の西福寺には雷井戸と呼ばれる井戸があるらしい。このお寺には奈良時代に道行と言う修行僧がいて,雷に遭遇したとき,慌てずに大般若経を浄写したところ雷がピタリとやんだという伝説があり,それ以来ここにある井戸には雷を封じ込める力があると言われるようになった。「くわばら くわばら」と唱えることで「ここは雷を封じ込めた雷井戸のあるクワバラですよ」と雷に教えると言うことになった,というもっと詳しい説明がついたものもある。
三つには,説話的な説で,桑原という人が落ちてきた雷さまを助けたという。そこで雷さまが「おまえとおまえの子孫の住む場所には雷を落とさない」と約束をしたのです。それ以来雷が落ちそうになると,誰もが桑原さんの子孫だと「くわばら くわばら」と言うようになったというものである。
四つには,昔から雷は何故か桑畑に落ちないといわれていて,そのために,雷がなると昔は桑畑に逃げたと言われている。そこから,雷が鳴り出すと「くわばら くわばら」と言って,雷を避けるようになったと言われています。
いずれも,雷除けの呪文として言い伝えられている。雷自体ももちろん怖いが,それが,何かの祟りとなると,もっと怖い。菅原道真が代表だが,崇徳上皇とか,将門といい,落雷や地震などの天変地異と結び付けられる。
「
怨霊」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-4.htm#%E6%80%A8%E9%9C%8A)については
触れたが,たとえば,菅原道真の場合,藤原氏の陰謀で京都から九州の大宰府へと追い払われた。その死後,藤原の関係者は次々と謎の死をとげたとも言われているほどで,京都の御所では雷が落ちるたびに,菅原道真が雷様となって,藤原氏に復讐しているのだと噂された。そこで,京都の人は藤原氏の巻き添えを食って雷に当たらないようにと「ここは道真様の領地ですので雷は落さないで下さい」と言う意味で,領地名「くわばら くわばら」と,唱えた,という尾鰭までがつく。
さらに,叱られたり,お小言を言われることを「雷が落ちる」と表現したことから,これにも「くわばら,くわばら」と唱えるようになった,という説明もある。ただ,怖いものへのおまじないとして,汎用されただけなのかもしれない。ネットには,
「この言葉の由来は,私の記憶では,雷のときに,遠くの桑畑(桑原)に落ち,近くに落ちるなよという願いでつぶやいた,なのですが,友人の説では,桑畑は雷が落ちにくいといわれており,ゆえにくわばらと唱えると言います。」
というのがあったが,ある意味,災難が,
わが身に降りかかりませんようにとの意味で「くわばらくわばら」
と唱えているので,それを,遠くの桑畑(桑原)に,と祈るか,ここは桑原,と祈るかは,大した差ではない。
しかし,「くわばらくわばら」の類語は,捜したが,見つからなかった。たとえば,
南無さん
神様仏様
と,安全,安穏を祈るまじないはあるが,自分だけというあからさまな,呪文は,見当たらなかった。いまや死語だが,「今だけ,カネだけ,自分だけ」という今の時代には,ふさわしい呪文かもしれない。
呪い(まじない)というのは,
神仏その他不可思議なものの威力を借りて,災いや病気などを起こしたり,また除いたりする
という意味だが,「呪い(まじない)」は,語源的には,
「魔+シ(行為)+ナヒ(接尾語)」
で,魔の作用を実現する行為,という意味。「呪(のろい)」という漢字は,「咒」という字を書く。
「口+兄(大きい頭の人)」
で,もともと「祝」と同じで,
「人が祈りの文句を称えること」
で,祝は,サイワイを祈り,呪は不幸を祈ると,別けて使うようになった,とされる。いずれにしても,
口を通して,言葉として発せられることで,呪力をもつ,
と考えられる。つい言霊,と言いたくなるが,「言霊」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-5.htm#%E8%A8%80%E9%9C%8A)
で触れたように,言葉そのものに力があるのではなく,神に託すから,その言葉が威力を持つ。まじないという意味では,たとえば,
験を担ぐ(「縁起を担ぐ」から転じた語か,ある物事に対して,よい前兆であるとか悪い前兆であるとかを気にする)
御幣担ぎ(御幣を担いで不吉を払うという意味から,縁起やゲンを担いで,つまらぬことを忌み嫌ったりすること)
と似ているが,言葉,ということに視点を置けば,呪文ということになる。
@ 一定の呪術的行為のもとにそれを唱えると神秘的な力が現れるという言葉・文句。まじない・のろいの文句。
A 密教・修験道・陰陽道(おんようどう)などで唱えるまじない。
という意味だが,
ちちんぷいぷい
が一番使われているか。そのほかに,
オン・キリキリ・〜 (密教)
臨兵闘者皆陣列在前 (九字)
エロイムエッサイム,我は求め訴えたり(水木しげるの漫画,「悪魔くん」で使われ有名になる)
アブラカダブラ
等々,やはり経文から切り取った言葉が多いが,「なんまいだぶ,なんまいだぶ」が一番身近か。
たかが,「くわばらくわばら」も,探れは奥が深い。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
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耳に従う,という言葉がふと口をつく。
人の言葉を素直に聞く,
あるいは,
自分と異なる意見も反発しなくなる,
と訳される。
吾十有五にして学に志し,三十にして立ち,四十にして惑わず,五十にして天命を知る。六十にして耳に従う。七十にして心の欲する所に従いて矩を踰(こ)えず,
である。而立,不惑,知命,耳順と,言う。
しかし,戦後七十年にして,心の欲するままに,矩を超えようとしている,この国について,恥ずかしさが先に立つ。欧米世界がどう見ているかは,
ロスチャイルド銀行家ファミリーが所有する世界的な政治・経済紙「The
Economist」が、増刊号として毎年暮れに「翌年の予想」を出版している。今年の増刊号は,昨年暮れに出た「2015年の予測」だが,表紙には,プーチン,習近平を除いて西側世界のトップがズラリと顔をそろえている。しかし安倍首相の姿だけが見当たらない,
というところに現れている気がする。
別に世界を動かさなくてもいい。しかし,世界に恥ずかしくない,国として,国民として,立っているのかどうか,が問われている。
耳という字は,
耳を描いた象形文字で,柔らかい,という意味がある。物の両脇に付いた耳状のものという意味がある。
「黄金の耳」という言葉があるそうである。
「鼎黄耳(こうじ)金鉉(きんげん)あり。」
「鼎を担いで運ぶための鉉(つる)を通す耳が壊れていたら供物を運べないので,鼎の耳は国の権威を保つ「王の耳」に喩えられる,」
という。さらに,
鼎の耳に空いた穴には,賢者の諫言・智恵・明知を表す「金鉉」が貫いており,虚心に人の意見を聞くリーダーの耳を「黄金の耳」
というのだそうだ。どの国とは言いたくもないが,多く,トップは,裸の王様になる。
優れたリーダーの三条件というのがあるそうである。
君子はその身を安くして而る後に動き,その心を易くして而る後に語り,その交りを定めて而る後に求む(『易経』繋辞下伝)
と,優れたリーダーは,
「1.危ない時には動かない 負ける喧嘩はしない。
2.よく考え確信を持ってから平易な言葉で語る 思いつきで語ることはない。
3.人とは親しく交際し,信頼を深めてから物事を求める。」
と。「みんなで考え,一人で決める」のがリーダーだと思っているから,別にこの通りのリーダー像が正しいとは思わない。しかし,自分が,王様ではなく,国民の信任を受けたのだとすれば,少なくとも,国民のためになるように,動かなくてはならない。とすれば,おのれの趣向や趣味や,ましてやおのれ一個の思想信条の実現のために,国を玩弄してはならない。
そんな当たり前のことが,日本のトップで,弁えていた人間が何人いるのか。国のためと称して,ほとんど国のためにならず,国民のためと称して,おのが欲求を実現しようとする輩ばかりなのではないか。そして,哀しいかな,それは,国民のレベルと程度を反映している。世界に出して恥ずかしいとすれば,それは,国民自身が恥を世界にふりまいているのである。
子貢問いて曰わく,何如なるかこれこれを士と謂うべき。子曰く,己を行うに恥あり,四方に使いして君命を辱めざるは,士と謂うべし。曰わく,敢えて其の次を問う。曰,、宗族は孝を称し,郷党は弟を称す。曰く,敢えて其の次を問う。曰く,言必ず信、行必ず果,硜硜然(こうこうぜん)たる小人なるかな。抑々亦以て次ぎと為すべし。曰く,今の政に従う者は如何。子曰く,噫(ああ),斗筲(としょう)の人,何んぞ算(かぞ)うるに足らん。
二千二百年以上前の,孔子の言に,頷くよりは,涙が出る。
「四方に使いして君命を辱めざる」
君命を,国民の輿望と読み替える。
「言必ず信,行必ず果」
はそのままでいい。言に信が置け,結果を出しているのか,言の表裏は問わず,結果の数字のみだ。GDPがマイナスなのに,誰ひとり騒がない,ほとほと呆れて,言葉もない。
今だけ,金だけ,自分だけ,
しか関心がないのが,昭和恐慌の後に似ている。その後に来たのは,戦争の二十年である。戦争以外に,経済打開の道が無くなったのである。そのことで利を得るものの代行行為である。戦争は,政治の失敗の表現である。
斗筲
とは,
「斗」が当時の一斗,
「筲」が当時の一斗二升,
で,そうした桝で測れる器量,という意味だ。これでも貶めているらしいのだか,まだまだ大きすぎる。一合枡以下なのではないか。あるいは,まあいい,そんなことを比較してみたところで仕方がない。
耳に従う,
つまり聴く力とは,聴きたいことを聞くことではない。おのが利をはかるために聞くことでもない。そんな分かりきったことが,通用しない時代が,すぐそこに来ている。
懸念や心配ではなく,すでに,自由な発言を,まして政権批判を許さない時代が来てしまった。かつて東欧諸国では,パロディがはやった。江戸時代も,戯作者は,粋に諧謔を作品化した。これから,そういう時代が来る,ということだ。表玄関で,大手を振って入ってくる作品は,官製か官許のものだと心得なくてはならない。真実は,裏メッセージでしか語れない時代がきた。
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日本語の「もったいない」は,
環境3R+R(リスペクト)をたったひとことで表す,
MOTTAINAIとして,世界的に知られてしまったが,本来の意味は,
もったいなし
で,
勿体とは,
ものものしいありさま
高ぶった様子
高ぶったさま
を指す。漢字の「勿」は,
さまざまの色の吹き流しの旗を描いた象形。色が乱れてよくわからない意を示す。あるいは水に沈めて隠すさま,
ともいう。そこから転じて,広く,「ない」という否定詞となり,「そういうことがないように」という禁止の言葉となった。たとえば,
過則勿憚改(過てば則改むるに憚ること勿れ)
と,いうように。「勿」は,「物」とも当てるらしい。で「物」を見ると,
「牛+勿」で,色合いの定かでない牛。一定の特色のない意から,いろいろなものを表す意,となる。牛は,モノの代表として選ばれただけ,
とあり,「勿体」は「物体」とも当てる。
ま,ともかく,「勿」の意味は,
なかれ(禁止の辞)
とか
ない,否定を表すことば
とか
つとむ
とか
にわか
といった意味だから,
勿論で,ろんずるまでもなし,
とか
勿怪で,思いがけない,
とか
勿勿で,にわか,あわただしい,こころがそぞろなさま
と使う。で,
勿体で,
物々しき様子,
尊大なさま,
という意味になる。そこで,「勿体ない」は,というと,語源的には,
@「モッタイ(物々しい様子)+ナイ(はなはだしいの接尾語)」で,ことさら重要らしく見せる,という意。
A「勿(無)+体+ナイ」で,正体がない,よろしくない,もってのほか,という意。そこから転じて,粗末に扱うのはもってのほかだ,捨てるのは惜しいねとなる。
の二説があるらしい。辞書には,,
@神仏,奇人に対して不都合である,不届きである,
A過分のことで畏れ多い,かたじけない,有り難い
Bそのものの値打ちが生かされず無駄になるのが惜しい,
といった意味だが,@とAはともかく,Bの意味は,どこかとってつけた感じがしなくもない。そのせいか,勿体・物体は,
物の形,
物のあるべき姿
を意味し,そこから,
物の本質
物の正体
となり,そこから,
重々しい態度
などの意味が派生したのだ,と解釈する向きもある。まあ,こういうもっともらしい説は,ためにする部分があり,むしろ,「勿体」自体を,素直に見れば,すでに,
体(軀,躯,躰,體,軆)を為さない,
テイと読むか,タイと読むか,カラダと読むかは別に,この字のそのものから考えれば,
本来の状態ではない,
見かけと違う,
見かけ倒し,
という,否定的なニュアンスがある。だから,勿体の「物々しき様子,尊大なさま」という言葉自体が,見かけ倒しという意味を言外に含んでいる。
因みに,横道にそれるが,体(軀,躯,躰,體,軆)の「體」は,「豊(きちんと並べる意)+骨」。「体は」,「人+本(もと笨で,ホンと読む)」で,中国でも古くから「體」の俗字として使われてきた。尸(人が横になって寝た姿)と同系で,各部分がつらなってまとまりをなした人体を意味し,のちに広くからだや姿の意となった,とされている。
その「体」に,「ない」重ねると,「勿体ない」は,
「テイをなしていない」こともない
となる。
つまり,
大事でないことはない,
とか
重要でないことはない,
という意味に変わる。「勿体ない」は,だから,「惜しい」「畏れ多い」という意味に先祖返りした感じがしなくもない。
そのせいか,
勿体ぶる
とか
とか
勿体がお
とか
勿体を付ける
とか
勿体らしい
という,「勿体」に関わる語彙には,見かけ倒し,という皮肉るニュアンスが付きまとっている。
もともとは,だから,勿体ないにも,
有り難すぎて恐縮する
という,相手の振る舞いへの皮肉のにおいがったのではないか,という気がしてならない。
畏れ多い,
というべきところを,更にへりくだると,
勿体ない,
とおのれを貶める,といったふうな。だから,
ものを粗末にしてもったいない,
仕えるのに捨ててしまうのはもったいない,
という言い方には,少し,相手の振る舞いを咎める意図が入っているので,というか,ものを大事にしろ,ものを粗末にするな,という躾というか,行儀を正す意図があるはずなので,単純に,
その価値を活かしきっていなくて,惜しい,
という意味だけではなかったような気がするのだ。だから,類語の,
畏れ多い,
でも,
惜しい
でも,
不相応な
でも,
捨てるにはまだ早い
でも,
違和感がある
でも,
使い方が雑で惜しい
でも,
粗末にする,
でも,
勿体ないのニュアンスにはならない。もったいないには,仕付ける(仕付け縫いの意味の仕付け)の意味がある。
だから,環境分野で初のノーベル平和賞を受賞したケニア人女性,ワンガリ・マータイさんが,日本語の「もったいない」に感銘を受けて,
環境 3R+Respect=もったいないを,
Reduce(ゴミ削減),Reuse(再利用),Recycle(再資源化)という環境活動の3Rをたった一言で表せるだけでなく,
かけがえのない地球資源に対するRespect(尊敬の念)が込められている言葉,「もったいない」として,環境を守る
世界共通語「MOTTAINAI」として広めることを提唱した,
という意図は,
勿体ないのもつ,
事々しい言いようにはふさわしい,
のだと思う。それは,人の振る舞いへの行儀,礼儀運動としては,ふさわしい言葉だと思う。
ただ,それをこれからの日本のムーブメントにするとき,かつて,
「欲しがりません勝つまでは」
「生活下げて 日の丸上げよ」
というスローガンとして,かつて国民に忍耐を強いる国民精神総動員運動として,物資の節約,廃品,金属等の回収・リサイクル,歓楽街のネオンのライトダウンなどの取り組みが行われた。その分を軍備や企業の税率を下げることに使われかねない嫌な雰囲気がある。それこそ,
勿体ぶったスローガン
にされる(可能性のある)ことには細心の注意がいる。そのオーソライズに,必ず,
日本の民族信仰である古神道においては,森羅万象に対して,「散る桜の花びら」や,「生き物の吐息の一つ一つ」にまで,慈しみや感謝の念をもって接してきた,
という自画自賛が,裏打ちとされ,
勿体づけられるに違いない。くわばらくわばら(あれ?くわばらってどういう意味だっけ)。
参考文献;
金田一京助・春彦監修『古語辞典』(三省堂)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
中村明『日本語語感の辞典』(岩波書店)
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「地震・雷・火事・おやじ」は,一般には,
地震,雷,火事などの災害に匹敵するほど親父が怖かったのは,年長の男性によって支配される家族制度である家父長制のもとでのことで,現在では親父はそれほど怖いものとは思われていない。
「親父」の代わりに「女房」や「津波」など,怖いと思うものに置き換えて使われることもある。「親父」は「親爺」とも書く。
と説明されることが多い。しかし,「地震・雷・火事・おやじ」のおやじは親父ではなくて,
「大山風(おおやまじ)」もしくは「大風(おおやじ)」であり,簡単にいうと「台風」のこと。
と言うもっともらしい説が,流布している。で,
「・・・『地震,雷,火事,おやじ』のおやじは,オオヤマジ(大きい風=台風)がなまったという説もある」,と『お天気生活事典』などの著書がある福井地方気象台防災業務課長の平沼洋司さん(59)は話す。」(朝日新聞)
という説明があったりするので,ややこしい。しかし,
おおやまじ
すべての辞書検索で該当する情報は見つかりませんでした。
という報告もあり,その報告では,
「なお『大やまじ』説が,はじめて紹介された書籍を調べると,なんと!森田正光さん著の『雨風博士の遠めがね―お天気不思議ものがたり』(新潮社
1977)にたどり着くのだそうです。
ということは,責任の矛先は森田さんに向くわけです。森田さんの弁解?によれば,むかし気象庁などの大先輩の何人もが『大やまじ』説を口にされてるのを聞いた記憶があり,件の書籍で書くに当たって書籍で調べた所,明確な根拠は見つからなかったので『こういう説もある』と断定はしなかったそうです。
それが,テレビのクイズ番組などマスコミであっという間に広まり,いつの間にか通説として現在定着してしまったというのが実態のようです。だいたいマスコミで広まった時期も2000年以降だそうで,このあたり符合しています。」
とあり,上記の朝日新聞記事も,その時期らしい。考えてみれば,
地震・雷・火事・おやじ
と落ちるから面白いのであって,
地震・雷・火事・台風
では,面白くも可笑しくもない。やはり,諺に,もっともらしい理屈をひねり出した人間がいるのだろう。
道を聴きて塗(みち)に説くは,徳をこれ棄つるなり
である。「尤もらしい」の「尤も」というのは,元来,
御尤も
というように,ちょっと茶化すニュアンスがなくもない。
どこから見ても理屈にかなっている
という意味だが,
「もっとも,…」
と接続詞として使うときは,
そうは言うものの
ただし,
はたまた
という余白を残している。だから,
ご無理御尤も
もっともごかし
もっとも至極
もっとも千万
という使い方をするので,「尤もらしい」という口吻をちょっと含めていなくもない。
御尤も役
という,「御尤も」と相槌を打つ役が,端役の代名詞にあるくらいだが(ちょっと意味が違うか)。
「尤」の字は,
手の肘+―
で,手のある部分に,いぼやおできが出来るなど,思わぬ事故の生じたことを示す,という。で,災いや失敗の生ずることで,肬(いぼ)や疣(いぼ)の原字。多くは,
科,
わざわい
とがめる,
失敗を責める
という意味で,いい意味ではないが,
尤者
で,優れたものという意味もあるので,
もっとも,
目立っていちばんに,
とりわけ,
という意味を持っていないわけではない。普通もっともというと,「最も」と当てるが,「最」は,
最上,
最初
という意味で,「最」は,
「おおい+取る」
で,かぶせたおおいをむりやりにおかして,少量ずつ,つまみ取ることを示す,という。もともとは,「極少」の意味なのに,「少ない」の意を失って,「いちばんひどく」の意となったとされる。日本語で言うと,
「最」は,
「いとど」と訳す。はなはだの意で,優れて異なる,という意味,日本語で言うと,「けやけし」になる。「けやけし」とは,
異様だ
際立つ
こしゃくである
と辞書にある。「もっとも」と言いつつ,
確かに理屈に合っているが,小癪,小賢しい,と感じているということだ。つまりは,心のどこかで,
?
を感じている,という意味だ。
もっともらしい,
とは,兎角言い得て妙である。確かに,
地震・雷・火事・大やまじ
には,小癪なもっともらしさがある。しかし,「御尤も」と茶化すに如くはない。
参考文献;
http://flyman.jugem.cc/?eid=1046
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
簡野道明『字源』(角川書店)
上へ
「
躾」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba1.htm#%E8%BA%BE)については書いたことがある。躾は,犬猫の躾と同じで,立ち居振る舞いの規制であるが,それを社会的に広げれば,礼あるいは礼儀である。お行儀が悪い,といわれれば,それは,ある意味,躾と礼儀作法の両方を含んでいる感じである。
躾は,
礼儀作法を身につけること。
縫い目を正しく整えるために仮に縫い付けること。
行儀は,
立ち居振る舞いの作法のほか,修行・実践に関する規則,という仏教の儀式上の意味もある。
礼儀は,
社会生活の秩序を保つために人が守るべき行動様式,敬意を表す作法。
とある。敢えて言えば,ベン図ふうに図解するなら,躾の円の外側に,行儀の円,その外に,礼儀の円が同心円に重なっているとも見えるが,礼儀を身につけさせることを躾けと言う,という言い方もできる。
仮縫いの躾があるから,まともな縫い付け,つまり社会的なありよう,対人関係のあり方,振る舞いができるようになる,
ということもできる。躾について,
人間または家畜の子供または大人が,人間社会・集団の規範,規律や礼儀作法など慣習に合った立ち振る舞い(規範の内面化)ができるように,訓練すること。概念的には伝統的な子供への誉め方や罰し方も含む。
という説明もある。その意味では,社会的人間としてのありようを整えるという意味がある。他の,群れで暮らす動物にも,その躾はあるようだから。
交通ルールと同じで,社会的に関わる以上,相互に当たり前とする了解事項がある。それを前提にして動いているから,それを外されると,基本的なかかわりがぐちゃぐちゃになる。
躾は,前にも書いたが,
「シ(為・仕)+付けるの連用形」。
で,「仕付く」とは,
馴れている
身についている
という意味で,「仮に糸で縫い押さえておく」という「躾(仕付け)」の意味は,なかなか意味深である。つまり,躾けられただけでは,まだ仮免許なのである。あとは,おのれが日々身につけて,
おのれの立ち居振る舞い
として完成させていく。それが,躾,つまり,
身の美,
礼儀なのではないか。礼の人,孔子(因みに孟子は,義の人らしい)は,
命を知らざれば,以て君子と為すなすことなきなり。礼を知らざれば,以て立つことなきなり。言を知らざれば,以て人を知ることなきなり。
という。人として,「立つことなき」とはなかなか厳しい。これを逆さにすれば,
君子博く文を学びて,これを約するに礼を以てすれば,亦以て畔(そむ)かざるべし。
とも。躾は,「仕付け」に過ぎず,学ばなければ,おのれのものにならない。それは,意味を知る,ということなのではないか。意味とは,目的である。目的とは,志である。
志は気を師(率)いるものなり。気は体を充(統)ぶるものなり。夫れ志至れば,気はこれに次ぐ。故に曰く,其の志を持(守)りて,其の気を暴(害)うこと無れ。…志壱(専)らなれば気を動かし,気壱らなれば則ち志をおごかせばなり。
と,孟子は言う。孔子は,別の言い方をする。
名正しからざれば則ち言順(したが)わず,言順わざれば則ち事成らず,事成らざれば則ち礼楽興らず,礼楽興らざれば則ち刑罰中(あ)たらず,刑罰中らざれば則ち民手足を措く所なし。故に君子これに名づくれば必ず言うべきなり。これを言えば必ず行うべきなり。
名すなわち名目,あるいは名分といってもいい。目的である。個人にとっては,志である。行き当たりばったりの言に信用がないのは,今日の日本を見ればわかる。名目なく,言なく,礼なき国が,立つところがあるはずはない。
礼を為して敬せず,
とは,礼なきに等しい。いやいや,人ではない。
人にして仁ならずんば,礼を如何せん。
である。仁とは,
子曰く,人を愛す。
あるいは,孟子曰く,
惻隠の心
である。
ヒト皆人に忍びざるの心有り。
の心映えである。
惻隠の心無きは,人に非ざるなり。辞譲の心無きは,人に非ざるなり。是非の心無きは,人に非ざるなり。惻隠の心は仁の端(はじめ)なり。羞恥の心は,義の端なり。辞譲の心は,礼の端なり。是非の心は,智の端なり。
惻隠の情なき人は,人ではない。人でない為政者は,為政者の資格がない。それは,そもそも躾られていない人である。仕付けられていない人にかぎって,多く,他人には多くを求める。
匹夫も志を奪うべからざるなり,
等々は,仕付けられていない人の耳に届くことはない。ならば,
その身正しければ,令せずして行われ,その身正しからざれば,令すと雖も従わず
である。
参考文献;
小林勝人訳注『孟子』(岩波文庫)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫
上へ
中国絵画における,気の表現については,「気」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-5.htm#%E8%A8%80%E9%9C%8A)
で触れたが,僕は,気というと,
浩然の気
という言葉がすぐに浮かぶ。浩然の気とは,
曰く,言い難し。その気たるや,至大至剛にして直く,養いて害うことなければ,則ち天地の間に塞つ。その気たるや,義と道とに配す,是なければ餒うるなり。是れ義に集いて生ずる所の者にして,襲いて取れるに非ざるなり。行心に慊(よか)らざることあれば,則ち餒う。
と,まあ,注釈では,
天地にみなぎっている,万物の生命力や活力の源となる気。
物事にとらわれない,おおらかな心持ち。
とある。「天の和気」が浩然の気とされる。では,そもそも「気」とは何か。これはなかなか難しい。
漢字の「気(氣)」は,まず,
「气」は,遺棄が屈折しながら出て来るさま,
といい,
「气+米」で,米をふかすとき出る蒸気
を指す。漢字の「気」の意味は,
@息。「気息」「呼気」
A個体ではなく,ガス状のもの。「気体」「空気」
B人間の心身の活力。「気力」「正気」
C漢方医学で,靭帯を守り,゛い名を保つ陽性の力のこと。「衛気」
D天候や四時の変化を起こすもとになるもの陰暦で,二十四気。「節気」「気候」
E人間の感情や衝動のもととなる,心の活力。「元気」「「気力」
F形はないが,何となく感じられる勢いや動き。「気運」「兵革之気」
G偉人のいるところに立ちあがるという雲気。「望気術」
H宋学で,生きている,存在している現象を言う。「理気二元論」
Iかっとする気持ち。「動気」
となるが,日本語で言う「気」は,固有の日本語としてはない言葉で,漢字の音をそのまま使い,
目に見えないが,空中に満たされているもの,
といった意味で,漢字の意味を流用しながら,微妙に違う意味にスライドしている。
@天地間を満たし,雨中を構成する基本と考えられるもの。またその動き。
・風雨・寒暑などの自然現象。「気象」「気候」「天気」
・15日のたは16日間を一期とする呼び方。三分してその一つを,候と呼ぶ。二十四節気。
・万物が生ずる根元。「天地正大の気」
A正命の原動力となる勢い。活力の源。「気勢」「精気」「元気」
B心の動き・状態・働きを歩赤津的に表す。文脈に応じて重点が変る。
・(全般的に見て)精神。「気を静める」「気が滅入る」
・事に振れて働く心の端々。「気が散る」「気が多い」
・持ちつづける精神の傾向。「気が短い」「気がいい」
・あることをしようとする心の動き。つもり。「どうする気だ」「気がしれない」「まるで気がない」「やる気」
・あることをしようとして,それに惹かれる心。関心。「気をそそる」「気を入れる」「気がある」「気が乗らない」
・根気。「気が尽きた」
・あれこれと考える心の動き。気遣い。心配。「気を揉む」「気に病む」「気を回す」「気が置ける」「気になる」
・感情。「気まずい」「気を悪くする」「怒気」
・意識。「気を失う」
・気質。「気が強い」
・気勢。「気がみなぎる」
Cはっきりとは見えなくても,その場を包み込み,その場に漂うと感じられるもの。
・空気。大気。「海の気」「山の気」「気体」「気圧」
・水蒸気のように空中にたつもの。気(け)。
・あたりにみなぎる感じ。「殺伐の気」「鬼気」「霊気」「雰囲気」
・呼吸・息遣い。「気息」「酒気」
Dその物体本来の性質を形づくるような要素。「気の抜けたビール」
等々,僻目かもしれないが,どうも,具体的にもの,形而下的な,あるいは現象としての「気」にシフトして使われている気がしてならない。矮小化する,というと貶めすぎだろうか。
たとえば,元気は,
天地の間に広がり,万物生成の根本となる精気
を指し,「儒教における生成論で宇宙の根源である太極に呼応する概念,『元気・陰陽・四時・万物』の一つ」とされるのに,
活力の源となる気力
から変じて,
健康で勢いのいいこと
と,心と体の活動性を示す言葉に代わっている。
精を練って気に化し,気を練って神に化する
ときにも「気」であるし,五気朝元,つまり,
木・火・土・金・水
の五気(五行)が,「元」に帰一する,「気」であり,さらには,
陰陽二気
の「気」であり,そして,
「神を練って虚に還し,復た無極に帰す」
と,循環する。
「万物は五行に還元せられ,五行は陰陽に還元せられ,陰陽は太極に,太極は無極に還元せられる」
という宇宙観の背景にあるのが,「気」となる。
中国で「気」の哲学される張横渠は,
「天地は虚を以て徳となす,至善なるものは虚なり」
として,「虚の極致,『太虚』」が天地宇宙の別名とする。
「太虚とは…気の充満」であり,
「聚まりて万物とならざることあたわず,万物は散じて太虚とならざることあたわす」
として,
万物は気の凝集によってできたものであり,その気は宇宙合そのものを形成している。
人も万物も「気の海」に浮かんでいる,
とは,まるで,気は「原子」そのものようである。だから,張横渠の哲学は「唯物論」と位置づけられる,と言う。
「気は坱然たる太虚にして,あるいはのぼり,あるいは降り,あるいは動,あるいは靜,あるいは屈し,あるいは伸び,飛揚して一瞬もとどまることがない。これがすなわち『易』でいうところの『絪縕』である。」
『易経』には,
天地絪縕して万物化醇し
男女精を構せて,万物化生す
とある。絪縕とは,「密接にまじりあうこと」という。
「気は不思議な存在である。どこまでも同じ一つの気でありながら,しかも同時に,常に必ず陰陽二気である。二にして一,一にして二,本質的に矛盾的な存在である。いっさいの存在は,このような気(陰陽)の自己運動の過程からせいりつしてくるものにほかならない。それはあたかも水と氷のごとくであって,すべての存在は変化の途中におけるただ一時形,ちょうど水の一部分が氷となって浮かんでいるようなものである。」
このような気の自己運動から,万物が生まれる。
「気によって化する」
そこにこそ「道」がある,と言うのである。
「太虚によりて天の名あり,気化によりて道の名あり」
と。島田虔次氏は,こう表現する。
「『道』とは,野馬,盛んな活動状態を内に含みながら,しかもこのうえないハーモニー,すなわち『太和』を保っているところ,そこにこそ『道』があるのである。」
と。そして,
「生とは気の集結であり,死とは気の解散」
である,と。この先に,理気二元論の朱熹が来るらしいのだが,ま,それは別の話として,こう「気」を振り返ってみると,
「浩然の気」
が,単なる,
天地にみなぎっている,万物の生命力や活力の源となる気。
物事にとらわれない,おおらかな心持ち。
ではないはずである,天地生成の気を感じ,おのれが,道を意識している,という気概まで含んでいるように見える。
「志は気を師(率)いるものなり。気は体を充(統)ぶるものなり。夫れ志至れば,気はこれに次ぐ。故に曰く,其の志を持(守)りて,其の気を暴(害)うこと無れ。…志壱(専)らなれば気を動かし,気壱らなれば則ち志を動かせばなり。」
とはこの心境か。
参考文献;
島田虔次『朱子学と陽明学』(岩波新書)
高田真治・後藤基巳訳注『易経』(岩波文庫)
小林勝人訳注『孟子』(岩波文庫)
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昔から,粗忽である。軽率と言い換えてもいい。粗忽とは,辞書的には,
@あわただしいこと。あわただしくことを行うこと。
A軽はずみなこと。そそっかしいこと。また,そのさま。軽率。
B不注意なために引き起こしたあやまち。そそう。
C唐突でぶしつけなこと。失礼なこと。また,そのさま。
とある。ここにないが,もうひとつ,早飲み込みというのがある。早合点,である。軽はずみに含まれる,と言えば言えるが,分かったつもりで動いて,結果,その後処理にバタバタする,という奴である。行動自体は同じことになる。
「粗忽」の語源では,
「粗(あらい)+忽(うっかりする)」
で,そそっかしい,というニュアンスが強い。因果をたどると,
あわただしい,
というか,
気持ちがせかせかして落ち着きがない,
というか,まあ,
せっかち
に起因している,というように見える。で,結果として,
軽はずみになったり,
不躾になったり,
ということになる。語感的には,
不注意による過ち,
そういうことの多い性格,
となるが,たぶん,一種のトンネルビジョンに陥っている,ということだ。何か一点に気を取られて,あるいは思い込んで,たとえば,忘れ物でも,なくしものでもいいが,そのことが視野を蓋って,モノが見えなくなり,あわてる,ということになる。
バタバタするのは,
所要時間の見積もりが,実時間より長く見積もっていたか,
実時間の見積もりが,所要時間よりも短く見積もっていたか,
いずれにしても,実時間不足と思い込んでいるか,実時間不足に陥るかの差はあっても,その時点では(時間がないと),焦っていることに変わりはない。
落ち着け,
という声がかかるのは意味があって,トンネルビジョンから,つまり,そういう心理的どつぼから抜け出すには,
距離を置く,
しかなく,それにはまずは,立ち止まるしかない。それが,
時間的にか
空間的にか,
は別にして,距離を置く第一歩だからだ。
落ち着く,
というのは,
「オチ(おさまる)+ツク(安定する)」
で,おさまる,しずまる,という意味になる。それは,
その場に立ち止まる,
まずは,止まって居つく,
というニュアンスがある。そう考えると,粗忽の類語とされる,
そそっかしい,
軽々しい,
はまだしも,
上っ調子,
おっちょこちょい,
軽はずみ,
軽率,
と「粗忽」とは少しニュアンスが違う。ましてや,
軽佻浮薄,
無分別,
盲目的,
とはかなりの隔たりがある。結果として,軽率な振る舞いになるにしても,上っ調子や,おっちょこちょいなのではなく,何かに捉われ,執着してしまう結果の,
不注意な行動,
ということになる。外見は,変らないにしても,内心の葛藤は,かなりの差がある。単に何も考えず,軽はずみに,というよりは,考えているうちに,何かにとらわれ,逆に,執着し,考え込んだ結果のバタバタになる。そのせいか,
忽
には,
うっかりしているまに,
こころがうつろなさま,
というニュアンスがあり,
勿(ブツ)
は,吹き流しがゆらゆらして,はっきりと見えないさまをえがいた象形文字で,
「心+勿」
は,心がそこに存在しないまま,見過ごしていることを,示す。同じく,心ここにあらずでも,どこかに,まだ救いがある,というのは,思い入れが過ぎるか,
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
日本中村明『日本語語感の辞典』(岩波書店)
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「当局者迷」というフレーズは,調べると,
当局者迷 傍観者清(旁观者清)」
と続くらしい。だから,
当事者は目がくもり傍観者はよく見える,岡目八目,
となる。これも,元は,
「碁を打っている本人は局面がしばしばわからなくなるが,傍で見ている人は却ってはっきりとわかっている,というところから派生して,当事者は問題の局面がしばしばわからなくなるが,部外者のほうが却ってはっきりと把握していることをいうようになった。」
とある。しかし,
当局者迷
だけなら,
知らぬが仏,
ということになる。裸の王様,と言い換えても的を外すまい。「知らぬが仏」は,「知るが煩悩」か「見ぬが秘事」と続く。知らない方が,幸せということもあるが,どこかに嘲りがある。
トンネルビジョンに陥りやすい,ということなのではないか。多く,迷路に入り込んだとき,頭の隅で,自分がトンネルに入っているのではないか,という疑念がかすめる。人は,メタ・ポジションにも,メタ・メタ・ポジションにも立てる。それがそう囁いている。しかし,信じているというか,思い込んでいるというか,妄想に陥っているときは,そこしか見えない。
これしかない,
とか,
この道しかない,
等々というのは,もはや迷路に入り込んでいる証拠である。ヴァレリーだと思ったが,
アイデア一杯の人は決して深刻にならない,
と言った。選択肢が一杯あることを知っているからだ。この選択肢が一杯だせることを,発想力が豊かと言うが,思い込んだ結果,鬱に落ち込むか,ひと様を巻き込んで,一緒に奈落に陥るか,のいずれかである。だから,トンネルビジョンに陥ったときは,まずは立ち止まり,
距離を置く。
時間的にか,空間的にか,距離を置く。いまひとつ,自分を他人の目でみるという手もある。たとえば,自分の尊敬した人の目で,「その人なら自分をどう見るか」と,いわゆるエンプティチェアの独演である。しかし,所詮,自己対話に過ぎない。限界がある。
だから,優れたトップは,別の声を必ず傍に置く。ホンダやトヨタの例を出すまでもなく,秀吉なら,小一郎(秀長)であり(堺屋太一『豊臣秀長―ある補佐役の生涯』がある),家康なら本多正信,と言うところだ。しかし,小一郎死後秀吉がトンネルビジョンに陥ったように,ひとり舞台となると,自分の妄想から出られなくなる。
軍師と言うのは,講談本ならともかく,日本には存在しなかった。たとえば,
「軍師は,西欧の軍制度における参謀などと異なり,軍司令官的な存在とも対等,ないしやや上位の関係にあり,賓客(要人),顧問的な立場であった。時として君主の師匠扱いもされ,君主より上位の存在の場合すらあった。」
と言うが,こうした軍師像は,儒教道徳的な考え方,後世のイメージによって創作された部分が大きく,実際に軍司令官的存在に対し,上位の立場で軍事にのみ助言する軍師という存在は『三国志演義』・『水滸伝』,あるいは日本の戦国時代を基に作られた軍記物などの創作の世界にのみ登場する存在,らしい。
たとえば,ウィキペディアでは,
「官制上の軍師は,両漢交替期の群雄が名士を招聘したことに端を発する。劉秀配下のケ禹における韓歆,隗囂における方望が当時の軍師の例である。諸軍閥は軍師を文字通り『師』として,帷幄で謀略をめぐらす任務を託した。群雄と軍師との関係は君臣の間柄ではなく,軍師は進退去就の自由を有する賓客として遇された。両漢交替期の軍師は戦時体制下の臨時職であったため,後漢の中国統一ののちに廃止された。」
とあるから,今川義元の,朝比奈泰能,太原雪斎がそれに近いのかもしれない。軍師と言うより,師と言う感じである。その意味では,上杉景勝の直江兼続は,家康の本田正信に近い存在かもしれない。謀臣ではあるが,軍師ではない。対話対手,という言い方が近い。
実際,秀吉の軍師として有名な官兵衛も,肝心の賤ヶ岳の合戦には,戦場にいなかったことが,官兵衛に指示する文書から明らかだし,竹中半兵衛も,将官に過ぎず,秀吉を動かせる人物ではない。第一,官兵衛も,半兵衛も,信長の家臣で,あくまで信長の指示で秀吉を与力しているにすぎない。
自己対話は,多く妄想を増殖させる。それを煽るのが,佞臣。つまりへつらう臣である。多く,その実像は,今日の日本の為政者周辺で見ることができる。メディアのトップ,産業界のトップまで,官房秘密費で,飲食し,「いわゆる同じ釜の飯を食う」に近い状態にしている。これでは,自己増殖は止まらない。
自己対話に,批判的な視点をいれるのが,いわば,謀臣であり,参謀であると思う。謀臣とは,はかりごとを立てる臣,という意味と,主君に反逆する臣下の意味とがある。参謀とは,指揮官を補佐して,作戦,用兵その他一切の計画・指導に当たる人,である。因みに補佐とは,人の仕事を助ける人,とある。補佐は,輔佐ともかく,
「補」の字の, 「甫」は,
田んぼの(「圃」)原字。平らにへばりつくの意をもつ。「おぎなう」意である。
「衣+甫」で,布切れを平らにして,破れ目にぴたりとへばりつかせる,
という意になる。で,「補」の意味は,「おぎなう」だが,
衣服の破れ目に布切れをあてがう(「補綴」「補衣」)
不足しているところをたすける(「補欠」)
利益やためになる助け(「小補」)
助ける役
といった意味の広がりになる。では,「輔」は,
「車+甫」
で,車に沿えた添え木。だから,「輔」の意味は,たすけるだが,添え木,という意味で,
車を補強する添え木(「輔車」)
その人のそばにひたとくっついて力を添える
そばに寄り添って助ける
というように,寄り添う添え木の意味が強い。
因みに,「謀」は,楳=梅の原字。暗くてよくわからない,意味。したがって,はかりごとは,陰謀とか謀議とか,あまりいい意味はない。となると,「輔」の添え木ではない,「補」の,不足やかけているものを補う,「補佐」が,この場合の「傍観者」に当たる。
今日,どれもこれも,金太郎飴のように,悪相で,人品骨柄の賤しい人間しか周りにいないのは,トップの器量そのものの反映である。沖縄県知事への対応を見ている限り,到底,人物ではない。しかし,そんな人物をトップにいただくことは,残念ながら,それ自体が,日本人すべての器量の反映である。内誉めでなければ,外からは,そう見えるはずである。
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何かを学んだとき,うろ覚えたが,確か,8時間後には,その,
1/2〜1/3
を忘れる,と言われる。たしか,エビングハウスの忘却曲線というやつだ,調べ直すと,
「20分後には42%を忘却し,58%を保持していた。 1時間後には56%を忘却し,44%を保持していた。 1日後には74%を忘却し,26%を保持していた。
1週間後(7日間後)には77%を忘却し,23%を保持していた。 1ヶ月後(30日間後)には79%を忘却し,21%を保持していた。」
とある。聞いたり,体験したりする直後から忘れていく,というらしい。しかし,僕は,これをあまり信じていない。忘れているのではなく,脳のなかに貯蔵された記憶とアクセスがしにくくなる,ということだと思っている。まあ,俗説に,死の直前,
一生分が,フィルムのラッシュのように,目の前を流れていく,
というのをどこかで信じているせいかもしれない。しかし,アクセスできないというのは,知らないのとほとんど変わらない。その意味では,学んだことを,使ってみることで,脳のリンクが強化される,というのは,正しいようだ。少なくとも,
学んだり,体験しただけでは,自分のスキルやノウハウにはならない,
というのは正しいようだ。その意味では,一度立ち止まって,
何を学んだのか,
何を経験したのか,
を振り返っておくことは,重要なのだと思う。その振り返り,というのは,
自分のもっている知識や経験とすり合わせて,それとつなぎ直す,
という作業なのではないか。自分のもっている知のネットワーク,体験のネットワークの中につなぎこむ,ということだ。それは,
得た知識
と
やってみた体験
と,自分の知識・経験とを,メタ・ポジションから見る視点をもつということなのかもしれない。
知には,G・ライルの言うように,
Knowing how
と
Knowing that
があるのだが,体験したことをつなぎ直すというのは,
どうやったのか,
どう学んだのか,
というKnowing howを,
Knowing that化
することに他ならない。王陽明は,
抑々知っているという以上,それは必ず行いに現れるものだ。知っていながら行わないというのは,要するに知らないということだ。
と言うが,そもそも,
Knowing that
と
Knowing how
を別と考えることが間違っている,というに等しい。王陽明の,
知といえばすでにそこには行が含まれており,行とだけいえばすでに知が含まれている…,
というのもその趣旨だ。
知は行の始(もと),行は知の成(じつげん)
とはその意味だ。あるいは,知は自己目的ではない,と言い換えてもいい。
行のための知でもなく,知のための行でもない。
元来は,
そのことをよくしようと求めるから学といい,その惑いを解こうと求めるから問といい,その理に通じようと求めるから思といい,その考察を精にしようと求める上から弁といい,その実際を履行しようと求める上から行という…,
ものなのではないか。それは,『中庸』の,
博くこれを学び,審らかにこれを問い,謹みてこれを思い,明らかにこれを弁じ,篤くこれを行う。学ばざることあれば,これを学びて能くせざれば措かざるなり。問わざることあれば,これを問いて知らざれば措かざるなり。思わざることあれば,これを思いて得ざれば措かざるなり。弁ぜざることあれば,これを弁じて明らかならざれば措かざるなり。行わざることあれば,これを行いて篤からざれば措かざるなり。
から来ているし,元をたどれば,『論語』の,
子夏曰く,博く学びて篤く志り,切に問いて近くに思う,
につながる。そもそもかつての知は,実践のための知であった。
行えない,
行わない,
のは知ではないのである。いわゆる,
修身斉家治国平天下
である。つまり,
古えの明徳を天下に明らかにせんと欲する者は先ずその国を治む。その国を治めんと欲する者は先ずその家を斉(ととの)う。その家を斉えんと欲する者は先ずその実を脩む。その身を脩めんと欲する者はまずその心を正す。その心を正さんと欲する者は先ずその意を誠にす。その意を誠に千と欲する者はその知を到(きわ)む。知を到むるは物に格(いた)るに在り。物に格りて后知至(きわま)る。知至まりて后意誠なり。意誠にして后心正し。心正しくして后身脩まる。身脩まりて后家斉う。家斉いて后国治まる。国治まりて后天下平らかなり。
いやはや,ノウハウ(Knowing how)抜きの知(Knowing that)はなかったのである。
それにしても,秘書がとか,妻がとか,そもそもしかるべからざる人間が上にいて国が治まろうはずはない。その現状を見るとき,大塩平八郎を思い出さざるをえない。
それでもなお,知の破綻は,自己完結によってもたらされる。現実との格闘抜きの自己完結があり得ないところで,自己完結させれば,知は細る。
大塩平八郎が,「此節米価弥高直ニ相成,大坂之奉行并諸役人とも,万物一体の仁を忘れ,得手勝手の政道をいたし」と,一揆の檄文に書かざるを得なかったのは,おのれの「万物一体の仁」の思想に反してでも,そこに閑居して見過ごせない「惻隠の情」に従ったとみるべきだ。そして,現今の為政者も,天保当時の幕閣と比べても劣らない体たらくである。
とすれば,ノウハウとは,ただ知の自己完結ではない。「民を視ること傷めるが如し」という思想を実践することを手ばなして,「万物一体の仁」を称えることは出来ないという,(大塩が体現した)最後の倫理が見える気がする。それもまたKnowing
thatである。
参考文献;
溝口雄三訳注『伝習録』(中公クラシクス)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
金谷治訳注『大学・中庸』(岩波文庫)
上へ
かつては,自責化という言い方で,
@自分が主体になって解決する。もちろん必要なら,メンバーや上位者の支援を求める。その判断も自責である。
A自分に解決できるカタチに置き換える。こういうカタチなら,ここまでできるという判断がつけられる。
と,仕事に置ける,自己責任の取り方を,常々おのれに言い聞かせてきた(それが常にできたとは言わないが)。それは,生き方においても同じなのではないか。
人事を尽くして天命をまつ,
という言葉が好きになれないのは,どこかに,決裁を仰ぐ姿勢がある。しかし,神田橋條治氏流に,
天命を信じて人事を尽くす,
か,清澤満之の,それを,
天命を安んじて人事尽くす,
に換えたものの方が,自責に近い。天命というと,場違いかもしれないが,おのれの役割,使命と置き換えてもいい。
生きるのも為すのも自分である。他力に頼ったところで,それにすがってやったのでは,自責ではない。他力本願とは,ある意味,すがることの放棄である。
はからい
を捨てることである。それは,逆に言うと,何かをしたからとか,しなかったから,というおのれの思い入れや希望や仮託を捨てることである。それは,自分の責任で生きる,ということに他ならない。
天命
は,ただ,それを自覚しなければ,耳にも心にも聞こえない。主体的なかかわりの中で,自分の責任で生きる。その結果を忖度しない。
他力には義なきを義とす
とは,
「『義』とは,自力のはからいをさしているから,人間の思慮や作為を否定するのが他力である」
意味とされる。だからと言って,どんな生き方をしてもいいということではない,と思っている。『歎異抄』の,
「善人なほもて往生をとぐ,いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく,『悪人なほ往生す,いかにいはんや善人をや』。
この条,一旦そのいはれあるに似たれども,本願他力の意趣にそむけり。
そのゆゑは,自力作善の人(善人)は,ひとへに他力をたのむこころ欠けたるあひだ,弥陀の本願にあらず。しかれども,自力のこころをひるがへして,他力をたのみたてまつれば,真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれら(悪人)は,いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを,あはれみたまひて願をおこしたまふ本意,悪人成仏のためなれば,他力をたのみたてまつる悪人,もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ,まして悪人はと,仰せ候ひき。」
も,だからと言って,自責なき生き方をしていい,という意味ではない。おのれの人生の舞台で,おのれの天命を尽くす,後は,計らいをいれない。
其の道を尽くして死する者は,正命なり
と,『孟子』にあるのもそれである。
中島らもが,
「人間にはみな『役割』がある。その役割がすまぬうちは人間は殺しても死なない。逆に役割の終わった人間は不条理のうちに死んでいく。」
と言っていた(そうだが,そういう)のも,それに違いない。スピリチュアリティにおいてすら,
「人生には目的があります。しかしその目的は,それに携わる人間が操り人形でしかないほど融通性のないものではありません。笛に踊らされる人形ではないのです。…あなた方には個的存在としての責任と同時に,ある限度内の自由意志が与えられているのです。」
という。それは,
「内部に完全性を秘めそれを発揮しようとしている未完の存在」
であるからこそ,
「人生はしょせんは一つの長い闘いであり,試練です。魂に秘められた可能性を試される戦場に身をおいている」,
その場で,「この世に存在する目的」を果たす努力なしにはない,それを通して,
「自分とはいったい何なのか,如何なる存在なのか,如何なる可能性をもつか」
を悟ることはない,と言っている。神田橋條治さんのいう,
遺伝子の可能性の開花,
もそれだし,孟子の,
万物皆我に備わる,
というのもそれであり,
之を求むるに道あるも,之を得るに命あるは,是れを求むることを得るに益なきなり。外に在る者を求むればなり。
というのもそれである。
仏性
といい,
一切衆生悉有仏性,
というのも,またおのれの中にある。
「仏性を開発自由自在に発揮することで,煩悩が残された状態であっても全ての苦しみに煩わされることなく,また他の衆生の苦しみをも救っていける境涯を開くことができるとされる。この仏性が顕現し有効に活用されている状態を成仏と呼び,仏法修行の究極の目的とされている。」
という(説明される)のにも通じる。
参考文献;
アン・ドェーリー編『シルバー・パーチの霊訓(一)』(潮文社)
小林勝人訳注『孟子』(岩波文庫)
上へ
『孟子』にある,
我善く浩然の気を養う。敢えて問う,何をか浩然の気と謂う。曰く,言い難し。その気たるや,至大至剛にして直く,養いて害うことなければ,則ち天地の間に塞(み)つ。その気たるや,義と道とに配す。是れなければ餒(う)うるなり。是れ義に集(あ)いて生ずる所の者にして,襲いて取れるに非ざるなり。行心に慊(こころよ)からざることあれば,則ち餒う也。
は,「浩然の気」が独り歩きして,士の心映えを示すものになった。その例が,文天祥の,
天地に正気あり,
雑然として流形を賦す
下は則ち河嶽と為り
上は則ち日星と為る
人に於いては浩然と為る
沛乎として滄溟に塞つ
皇路清く夷(たい)らかに当たりて
和を含みて明庭に吐く
時窮まれば節乃ち見(あら)われ
一一丹青に垂る
という「正気の歌」につながる。この歌は,これに和した,藤田東湖の,
天地正大の気
粹然として神州に鍾まる
秀でては不二の嶽杜為り
巍々として千秋に聳ゆ
注いでは大瀛(だいえい)の水と為り
洋々として八洲を環(めぐ)る
発しては万朶の桜となり
衆芳與(とも)に儔(たぐ)ひ難し
凝りては百錬の鉄となり
鋭利鍪(かぶと)を断つ可し
盡臣皆熊羆にして
武夫盡く好仇なり
神州孰か君臨せる
万古天皇を仰ぐ
皇風六合に洽(あまね)く
明徳太陽にrし
世として汚隆無くんばあらざるも
正気時に光を放つ,
という「正気歌」を通して有名になった。しかし,明らかに,文天祥にとって,おのれ一個の気概をうたったものが,おのれがたつ国誉めに変身してしまった。
文天祥に和して,東湖は,意味を変えた。
正気,浩然の気とは,おのれの信ずる確信に基づく。自分のなかにある譲れない何か,それが正気に通じている。おのれのみの節義だ。それはこの国のありようとはつながらない,おのれの拠って立つ何ものかのはずだ。それをこの国のありようとつなげた瞬間,おのれの生きざまの言い訳になる。おのれを小さな国体につなげてしまったことになる。そうすることでおのれの拠って立つ拠り所をえたかも知れぬが,天地はもっともっと広く,広大無辺のはず,そういう天地の正気ではなくなっている。
それは東湖にとって,異国への,おのれを正当化する言い訳として,だしに使われている。国がなくなろうが,会社がなくなろうが,おのれが持さねばならぬ義ではなくなっている。
いま,それと同じ空気が流れている。「自画自賛」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E8%87%AA%E7%94%BB%E8%87%AA%E8%B3%9B)が満ち溢れている。それについては触れた。
義は,
正義ではない。「義」の字を構成する,
我
は,「ぎざぎざとかどめのたった戈」を描いた象形文字であり,「義」は,
「羊+我」
で,
かどめがたってかっこうのよいこと,
きちんとして格好の良いと認められるやり方,
を意味する。孟子の言う意味は,
よしあしの判断によって,適宜にかど目をたてること,
という。あるいは,
羞悪の心が義の端
とする。悪すなわち悪く,劣り,欠け,あるいはほしいままに振舞う心性を羞じる心である。それは,あくまで,倫理である。倫理とは,
(おのれが)いかにいくべきか,
であって,人に押し付けたり,押し付けられたりするものではない。そう見れば,文天祥の義に対して,東湖のは,大義や正義に紐づけられている。おのれの生き方ではないところから,義を語っている。
そういう語り口が闊歩し始めたら,危険の兆候である。
僕は,義とは,
問い
であると思う。どこかに正しい答えがあるのではない。これでいいのか,このありようでいいのか,とみずからを問うものである。その意味で,答えは永遠にないはずなのである。それは,
倫理に通じる。倫理は,
生き方
である。この生き方でいいのか,と自らに問う。それと同じである。だから,孟子は言う。
天下の廣居に居り,天下の正位に立ち,天下の大道を行ふ。志を得れば民と之に因り,志を得ざれば,独り其道を行ふ。富貴も淫すること能わず,貧賤も移すこと能わず,威武も屈すること能わず
と。
参考文献;
小林勝人訳注『孟子』(岩波文庫)
冨谷至『中国義士伝』(中公新書)
上へ
正直は,中国語の,
正しく+素直な
というのが語源であるそうだ。平安の頃から使われているらしい。常識的には,
心が正しく素直なこと,陰日向のないこと。
率直なこと。ありのまま。
という意味だが,その他に,
桶屋の用いる長さ1.2m鉋。木をその上に乗せて,推して削る
とか
家屋・柱などの垂直を検査する具で,長い木の上下に同じに長さの横木があって,上の横木の一端から錘重を垂れる
という意味もある。
「正」は,
「一+止(あし)」で,足が目標の線めがけてまっすぐに進むさまを示す。
と言い,「征」(まっすぐすすむ)の原字,という。そのせいか,この字には,
ただしい
まっすぐである
ただす
という意味の他に,
主なものである
丁度の時刻
まと
等々といった意味がある。
「直」は,
「―(まっすぐ)+目」
で,まっすぐに目を向けることを示す。だから,「直」には,
まっすぐなさま
なおきこと
じかに
等々といった意味になる。
その意味では,「正直」は,正しいかどうかよりは,真っ直ぐに目を向ける,と言うニュアンスが強いのかもしれない。しかし,「正直」が,高く買われているかと言うと,そうでもない。
正直の頭に神宿る
という言い方もあるが,
正直一遍律儀真法(まっぽう)
正直貧乏横着栄耀
とも言い,融通のきかなさを揶揄する言い方も結構ある。しかし,それは,是非,可否の判断から,外から言うからであって,内から見れば,そうではない。確かに,少し前の新聞記事に,
「『自分と相手のお金の取り分の比率を変えながら提案を受け入れるかどうかを聞く』という実験を行った結果そのような結果が得られたとのこと。また,その結果と脳内におけるセロトニン神経細胞の密度を比較したところ,『正直者』タイプの人間はセロトニン神経細胞の密度が少なかったという。そのようなタイプの人間は,セロトニンによる我慢が効きにくいのではないかと見られている。」
といったことが出ていて,単なる単細胞と言われているに等しく,「正直一遍律儀真法」を証明しているようで,正直は分が悪い。ネットでは,正直とは,
「古代の『清明心』が中世に入り武士階級を中心に発展し形成された概念。近世になると更に『誠』の精神へと発展していく」
という説明もあった。しかし,「誠」の「成」は,
「戈+丁」
で,「戈」はほこ,「丁」は,打ってまとめ固める意。打の原字。「成」には,
「道具でとんとんとうち固めて城壁をつくること」
「かけめなくまとまる」
「まとめあげる」
という意味があり,「誠」には,
かけめない言行
を指す。そこには,言い方は悪いが,何についてかは問わず,言行に矛盾がなければよしとするように聞こえる。それは,他律的であり,自律的ではない。
ぼくは,正直を,何か外の価値,規準に照らすのではなく,おのれ自身の倫理(とは,いかに生きるべきか)にこそ照らすべきだ,と思う。
それは,内なる声,というか,自分の本音,と言うべきものとまともに向き合う,ということにつながるのではないか。
自分の気持ちと言うと,少しぶれが大きすぎるので,内なる声にしておくが,それはあるいは,(他人にではなく,おのれ自身に)オープンである,ということにつながる。ひょっとすると,それは,自分自身に対してメタ・ポジションを維持する,ということなのかもしれない。それが,外から矛盾に見えたとしても,厭わないことにしたい。自分がそういう振る舞いを選択していることに自覚的であるという意味で,だ。
以前書いたが,かつていろいろ世話になった先輩は,肝炎の入院先で,高見順の『死の淵より』を読んでいる,と言ってにやりと笑ってみせた。本人なりの意地と意気なのかもしれない。
石田三成は,刑場へ行くとき,「柿」を勧められて,それは体に悪いとか言って,刑吏の嗤いを誘ったというが,そういう刑吏を三成は嘲った。それで思い出すのは,フランス革命で処刑される貴族の誰それが,刑場へ行く馬車の中でも本を読み続け,下りろと促されて,読みかけのページに折り目を付けたと言われるが,おのれの矜持を徹底するという意味で,そこまでいけば,生きざまには違いない。
ただし,その振る舞いを自覚的に選択しているという意味で,である
そういう意味の,正直でありたいと思う。
人の生きるや直し
である。
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格闘の「格」の字の「各」は,
「夂(あし)」と四角い石を組み合わせて,足が硬い石につかえて止まったさまを示す,
という。「格」は,
つかえて止める堅い棒,引っかかる木,
の意味と言う。そのせいか,「格」には,
つかえる,堅い心棒,人間が芯に持つ本質(「骨格」「人格」)
とか
(つかえる)かどや枠,ものごとを制限するきまり(「格式」)
とか
堅い材料でつくった,ものを留めておく道具,四角く区切ったますがた(「格子」)
とか
こつんとうちあたる(「格闘」「各段」)
とか
至る,本質に突き当たる
とか
ただす,かどめをつける
といった意味がある。格闘は,「挌闘」の字もあるが,この場合は,打つというニュアンスが,「扌」で直接的にでる。しかし格闘には,何か本質的な部分での闘いというようなニュアンスがある気がする。
「闘」は,元来は,「鬪」であり,「鬥」は,
ふたりが武器を持って戦うさま
を示し,「鬪」は,「たちはだかってきりあうこと」を意味する。
しかし,ここで言おうとする「格闘」とは,人とではなく,自分,それも自分の才能というか,限界との格闘である。
人の可能性は無限である,
という。しかし,それは,「可能性」であって,イコール,
実現性,
という意味ではない。ハイデガーではないが,ひとは,確かに,
死ぬまで可能性の中にある,
だから,ずっとそうなれるかもしれない,というあいまいな宙ぶらりの中にいられる,という意味でもある。
僕は,少なくとも,自分の才能の限界を思い知らされてからは,
無限の可能性
などということは,口が裂けても言えない。前にも書いたと思うが,神田橋條治さんが,
自己実現とは遺伝子の開花である,
という言葉が一番ぴんと来る。
「鵜は鵜のように,烏は烏のように」
とその言葉は続く。鳶は鳶であり,鷹は鷹。そういうと,諦念に聞こえるかもしれないが,そうではない。遺伝子の持つ可能性を,開花させるも,蕾のまま萎れさせるのも,おのれ自身である。
才能との格闘,
とはそういう意味だ。しかし,
鵜は鵜のように,烏は烏のように
ということが簡単に見極められはしない。鷹のつもりで,一生,可能性を追うことだってある。可能性だから,誰にも否定はできない。
問題は,そのことの覚悟なのかもしれないのだ。
一生を賭すつもりがなければ,鷹になることを追いかけるのは,単なる世迷言に過ぎない。そして,不思議なことに,賭した分だけの,なにがしかが返ってくる気がする。
鷹にはなれなかったが,何かになっている,
ということに気づくのだ。目指したものとは違ったかもしれないが,打ち込んだ時間は,そのまま人生になっている,ということなのだろう。
ひょっとすると,鳶だと諦めてそこそこの生き方をするより,身のほど知らずに,鷹のふりをすることで,しゃにむに突き進むことが,鷹にはなれないまでも,おのれのもつ伸びしろをかなり広げてしまう効果がある,ということがあるのではないか。
僕のような怠け者には,余りわからないが,身の丈以上のことをしているうちに,身の丈そのものが大きくなる,というようなことが起きる,のではあるまいか。
多く格闘は,そういうことに対してのみなされない。日常の些事と言ってしまうと,言い方が悪いが,ほとんど,大半は,本筋とは関係のないことに費やされる。
特に問題は,似た領域のことの場合だ。たとえば,書くことが仕事であれば,自分本来のチャレンジすべきことではないところで,悪戦苦闘する。しかし,それもまた書くことには違いないので,そのことで,ちっぽけな達成感と充足感がある。
それは,身の丈内のことなので,格闘ではない。格闘ではないことに費やす努力が,格闘のエネルギーを消耗させてしまう,ということはある。それは,身の丈だから,自分の限界を超える努力も工夫もいらないが,それでも書く努力はいるからだ。だからこそ,
覚悟
と言ったのだ。それは,関係ないことを思い切りよく捨てて生きられるか,ということでもある。賭す,とはあるいは,そういう意味かも知れない。しかし,もう一つ大事なのは,
身の丈を超えた成りたいおのれ
になり切って,恥じない,ということも,覚悟に含まれるのかもしれない。僕のように,中途半端な常識人で,テレが出てしまうと,そう成りきれないのである。そこには,
人が何と言おうと,そうなりきってしまう,
いうなれば,頑なほど,おのれを信ずる,ということが必要なのかもしれない。よそ目には,バランスを崩しているように見えるが,本人の中では,自信と夢は,分銅が釣り合っている,というような。
でなければ,無謀なチャレンジは出来ないのかもしれない。
思うのだが,どうしても突破できない壁へのチャレンジをしない限り,壁そのものの大きさも強さねわからないし,自分のもつ限界も見えない。
限界はある。限界のぎりぎりまでいって,撥ね返された(と思い込んでいる)経験から言うと,その限界を突破するのは,並大抵ではない。
やはり,ずぼらな僕のような人間のよくできる仕業ではない。
参考文献;
神田橋條治『技を育む』(中山書店)
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傘というと,連想が変かもしれないが,傘化けを思い出す。水木しげるの妖怪でも登場する,一本足で,ひとつ目の妖怪である。
妖怪については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163408.html
で触れたことがあるが,使い古して捨てられた道具が妖怪になる,それを,つくも神と呼ぶ。
つくも神とは,ウィキペディアに,
付喪神,は当て字で,正しくは「九十九」と書き,この九十九は「長い時間(九十九年)や経験」「多種多様な万物(九十九種類)」などを象徴し,また九十九髪と表記される場合もあるが,「髪」は「白髪」に通じ,同様に長い時間経過や経験を意味し,「多種多様な万物が長い時間や経験を経て神に至る物(者)」のような意味を表すとされる,
とある。長く生きたもの(動植物)や古くなるまで使われた道具(器物)に神が宿り,人が大事に思ったり慈しみを持って接すれば幸をもたらし,でなければ荒ぶる神となって禍をもたらすといわれる。つまりは,親しみ,泥んだものや人や生き物が,邪険にされて妖怪と化す,というわけだ。どうもそれはものや生きもの側ではなく,こちら側の負い目や慙愧の念に由来する影に思える。確か,花田清輝が,
「煤払いのさい、古道具たちが、無造作に路傍に放り出されるということは、彼らにとって代る新しい道具類のどんどん生産されていたことのあらわれであって、室町時代における生産力の画期的な発展を物語っている」
と書いたいたように,こちらの都合によるものらしい。だから,捨てられたものは,妖怪に化す。
傘のような日用品は,とりわけそうなのだろう。そのほかに,化けぞうり,化け下駄,甕のやお化け甕長(かめおさ)等々あるようだ。八百万の神々をまつるわれわれらしい。そう言えば,長く生きた大木や昔からある岩に神が宿ると考えるので,それらもつくも神と見なすことはあるようだ。
ところで,日本語では,語源的には,
カザス,カザシの語根
で,雨,雪,日光を防ぐために頭にかぶるもの,のことを意味する。古来「かさ」は笠を指し,傘は「差しがさ」と呼称したらしい。
確か,ずいぶん前,朝日新聞の記者が,防水性を調べた時,編笠,陣笠,網代笠等々と比較して,いわゆる三度笠が最も優れている,という体験記を記していたように記憶しているが,昔の旅人の知恵はなかなかしたたかなのだと,思い知らされる。
調べると,「三度笠」は,股旅ものなどの時代劇で渡世人が被っている印象が強いが,
もとは江戸,京都,大坂の三ヶ所を毎月三度ずつ往復していた飛脚(定飛脚)のことを三度飛脚と呼び,彼らが身に着けていたことからその名がついた,
と言うのだから,雨に強いのは当たり前と言えば当たり前だ。しかし,笠には,「陣笠」や「塗笠」というのがあり,
塗笠は,檜や杉の板材を薄く剥いだ「へぎ板」に和紙を貼って漆を塗って作成
陣笠は,竹で網代を組んで和紙を貼り,墨で染めて柿渋を塗って作成。刃や矢などから身を守る防具
といい,陣笠は,戦国時代の足軽が貸与されたもので,それだと,
締めた皮革の裏側に「筋金」と呼ばれる鍛鉄製の骨板を渡し漆をかけたもので,
後には鍛鉄製のものに代わったほどだが,これは鉄炮が主流になったのに対応したものに違いない。こうなると,まったく別の用途で,雨に濡れないのは当たり前だが,ただ三度笠に較べると,動きやすさから,直径がはるかに小さくなっているはずである。
ところで,傘というと,高貴な人に差し掛けている天蓋(開閉できない傘)を思い描く。それは古代中国で発明されたらしく,その後百済を経て,仏教儀式の道具として日本に伝わり,「きぬがさ」(衣笠)と呼ばれた,らしい。
平安時代に製紙技術の進歩や竹細工の技術を取り込んで改良され,室町時代には和紙に油を塗布する事で防水性を持たせ,現在と同じ用途で広く使用されるようになった。それと共に傘を専門に製作する傘張り職人が登場,技術が進歩し,『七十一番職人歌合』には傘張り職人の姿が描かれている,
という。
そういう経緯からか,「唐傘」と呼ばれたようだが,
和傘はおもに竹を材料として軸と骨を製作し,傘布に柿渋,亜麻仁油,桐油等を塗って防水加工した油紙を使った。洋傘の骨が数本程度に対して,和傘の場合数十本の骨が用いられる。これは洋傘と傘の展開方法が異なるためで,余った被膜を張力で張るのではなく,竹の力により骨と張られた和紙を支える仕組みとなっているためである。窄めた際に和紙の部分が自動的に内側に畳み込まれる性質を持つ。
という。
それにしても,基本的に,洋傘にしろ,和傘にしろ,
全体を支える中棒,
全体を覆う傘布(カバー),
傘布を支える骨,
によって構成される。これは傘のはじまり以降変わらない。折り畳み傘だって,骨が屈折できることをのぞけば,一向に変わらない。
傘が,手に持たなければならないいわれはなく,雨を防げればいいのだから,たとえば,
頭上に雲のように,
あるいは,
風船のように,
浮いていてくれても,雨は防げる。誰もが同じことを発想するらしく,ネットでこういうタイプの傘(と当てていいのかどうか)が詐欺案件としていっとき話題になったことがある。あるいは,収納性という点で言えば,
ミウラ折り
のように折り畳める平の面の方が,いいのに,
平たい円錐形
という原型からあまり出ないのには,理由があるのだろうか。
大きな三度笠に,市女笠のような,雨除けのカーテンようのものがついていれば,両手があくし,好都合に思えるのだが,ちょっと見かけは悪い。
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目くじらを立てるとは,
目をつりあげて人のあらさがしをする。他人の欠点を取り立てて非難する。目角(めかど)を立てる。
という意味で,たとえば,「小さなミスに目くじらを立てる」というように,あまりいい意味には使わない。
目くじらとは,
「目+くじら(端・尻)」
で,目尻を指す。「目をくじる」とも言い,
他人の欠点を言い立てる,
という意味らしい。「くじる」は,
くりねじる,
と言うのの約で,
穴に入れてねじりほじくる,
という意味になり,重箱の隅をほじくる,いった意味となり,いずれも,言外に,
目くそ鼻くそ
じゃないか,という冷笑の含意がある気がする。これについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/404676321.html
で触れた。これは,類語を拾うなら,
非難する,咎める,詰る,厳しく注意する,責め立てる,文句を言う,苦情を言う,抗議する,苦言を呈する,責めつける,責める,責め立てる,批判の声を上げる,批判する,小言を言う
,
等々とあるが,微妙にニュアンスが違う気がする。あえて言えば,
咎める,
責める,
詰める,
だが,
なじる,
が近い気がする。「咎める」は,
とが(科,軽い罪)+メル(動詞化)
で,軽い科を責めなじる,という意味になる。「責める」は,「攻める」と同根で,「攻める」は,
「攻む」(間隔を詰める)
で,「相手に近づいて力を加える」で,「責める」も同様,
相手に迫って,相手の当然果たすべきことを咎める,
という意味になる。当然,そこから「詰める」も類推が働くが,「詰む」とか迫る,という意になるが,「詰」は,
言い逃れの余地のないように締めつけながら問い質す
の意で,漢字そのものに咎める意味がある。
しかし,いずれも,明らかに,相手に重大な瑕疵があるとまでは言えないのに,大袈裟にとがめだてる,という意味から言うと,「目くじらを立てる」とは,少しニュアンスの差がある。
「目くじら」には,傍から見ていて,「何を大袈裟な」というか,ちょっと咎める側を嘲笑するというか,たしなめる意味合いがありそうである。
針小棒大
である。つまり,
針ほどのことを棒のように言う,
という感じが近い。大袈裟にとがめだてるほど,咎めている側の人となりが露呈する,というか,その人の器量が鏡にうっすうと,明らかになる。咎める,というのは,咎めるに値する瑕疵というか,問題があったということである。問題とは,期待値(こうあるべき,こうなっているはず,こうしたい,こうありたい等々)と現状のギャップだから,咎めている側の価値基準が,明示されているに等しい。
問題や瑕疵というのは,重大なルール違反や法律違反はともかく,結局,そうあるべし(そうしたい)という咎めている価値とのズレを責めているにすぎない。
その期待値を共有していなければ,咎めている側が咎められる。しかし,である。
小事は大事,
だから,周囲が小事と思っているからといって,ほんとうに,それが小事とは限らない。重箱の隅の穴が,蟻の一穴かどうか,咎めている側を嗤う側にも,またその器量が問われていいるのに違いはない。
蟻の一穴,天下の破れ,
ではないと確信がないものが,軽々に,
目くじらを,目くそ同様に笑う資格はないのである。哂っているおのれ自身が,世界から笑われていないとは限らないのである。おのれ自身をモニタリングするメタ・ポジションを持てない限り,そのリスクはいつもある。メンターというか,スーパバイザ―というものの存在が,必要である,というのはそのことなのだと思う。
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筋を通す,ということを言うとき,いくつかの意味がある。辞書だと,
道理にかなうようにする,
物事の首尾を一貫させる,
といった意味になる。道理にかなう,というのは,
人の行いや物事の道筋が正しく,論理的であることを意味する表現。合理的であること,
「理にかなう」とも言う,
とある。で,筋を通す,には,
全体を通じて論理的なおかしさのないようにすること,
という意味が一つ出てくる。たとえば,
整合性をもたせる,
辻褄を合わせる,
調和をもたせる,
統一性をもたせる,
一貫性をもたせる,
等々がある。しかし,それを,意志の固さということになぞらえると,
心に決めたことを他からの圧力に負けずに押し通すこと,
という意味になり,たとえば,
意地を貫く,
意地を通す,
初志貫徹する,
自分を通す,
自分を貫く,
自分を曲げない,
こだわる,
等々になる。あるいは,筋を,道義とか義とか仁とかといった,その人の倫理になぞらえると,
あくまでも道義心に則って進めるさま,となり, たとえば,
義を貫く,
ということになる。もうすこし,平たく,人の生き方になぞらえると,
真心をもって相手との約束を守ること,
となると,
信義を守る,
信義を貫く,
義理堅い,
等々となる。
筋は,元来,
「ス(直)+ヂ(道)」
で,
真っ直ぐな線状のもの,
細く長い線状のもの,
が語源。「筋」は,
肉体の力を伝えるスジ,筋肉
を指すらしい。そのせいか,「筋」には,
肉の筋,線維
という意味の他に,
ひとつづきになった線状のもの
という意味があり,「筋を通す」につながる。だから,同じく「すじ」といっても,
血統
物事の通り
小説・演劇・映画などのあらまし
具体的な名を出せないとき,政府筋といった言い回し
素質
鉄道・街道の沿線
細いものを数える時の単位
等々になる。しかし,ここからは,僕の憶説だが,基本は,
道理にかなう
というか
理にかなう
のではないか,ヤクザが極道の筋を通すことを,その筋の人ならともかく,一般社会では,
筋が通っている
とは,言わない。道理にかなうというか,理にかなってはいないからだ。
では理にかなうとはどういうことか。僕は,ロジカル・シンキングで言うことと,ここはつながっているのではないか,という気がしてならない。
その生きざま
や
意地を通す
や
おのれを通す
が,評価されるには,そこに意味や価値が見えなければ,単なる頑固,依怙地に過ぎない。その理を辿ってみると,なるほどと,心を打つか,腑に落ちるものがあるからではないか。そこは,ロジカル・シンキングと一致する。論理を他の人がたどれなければ,その理は,不合理か非合理か,理不尽ということになる。
では,たどり直せる筋とはどういうことか。
ある推論が論理的であるとは,
その推論のプロセスが形式的に正しいこと
をさす。それを妥当性と呼ぶ。つまり,話がつながっていること,つじつまがあっていること。つまり,ロジカルかどうかとは,そのプロセスの筋が通っているかどうかをさす。その妥当性は,結論の是非や実質的内容とは関係なく,前提と結論のつながり方に依存している。
筋の通り方には,一般に,
●意味の論理の筋
●事実の論理の筋
のふたつがある。前者を演繹,後者を推測,と呼ぶ。
演繹では,妥当かどうかという形式的側面(論理性)が問題
になり,
推測では,説得的かどうかという内容的側面(事実性)が問題
になる。しかし両者は相互補完である。推論で確証された法則が演繹の前提となる。
演繹とは,ある主張からその含意している意味をとりだすこと。一つないし複数の主張から,その意味するところを明らかにし,それによって論証を組み立てたてる。演繹的思考は,与えられた前提から結論に至る,前提→論証→結論と流れが一本の論理的流れにならなくてはならない。前提となっている一般的論(真理=法則)の個別化をたどり,「それゆえに」「だから」と結論づけていく。つまり,例証をする,守りの論理である。演繹的結論の場合,論理の流れに飛躍があるとすると,前提以外の要素をいれた,推測(論理の飛躍か前提の間違った適用)が入っていることになる。
一方,推測は,ある事実証拠に基づいて,それには含意されていないような,他の事実ないし一般的な事実の成立を結論する。これには,三つある。
ひとつは,仮説的思考。証拠をもとにそれをうまく説明するタイプの推測。証拠がなぜそうなっているかを説明していく。その場合,仮説のよしあしは,次の点によって評価される。
・立てた仮説が,証拠となる事実を適切に説明しているかどうか
・他に,事実を説明するに足る仮説がないかどうかのチェック
いまひとつが,帰納的思考。仮説的思考のなかでも,個別の事例を証拠に,一般的主張を結論するものを帰納的思考という。帰納的思考は,個々の事例から出発し,別の事例へ,あるいは一般化に向かう。帰納的思考は発見的で,攻めの推論である。
ついでに,もうひとつが,アブダクション。与えられた証拠のもとで,最良の説明を発見する推理方法。理論の真偽を問うのではなく,観察データのもとで,どの理論がよりよい説明を与えてくれるのかを相互比較する。データのもとで,仮説間の相互比較しベストのものを選び出す。
ちょっと細分に入り過ぎた。
さて,では,筋を通す,ということは,確かに,たどり直してみたら,一貫していた,と思えることだとして,しかし,そうやって理をたどるのは,おのれ自身なのか,誰なのか。友人なのか,知人なのか,親族なのか。しかし,仮に,誰かにたどってもらってみて,
一本筋が通っているね,
などと評されて,嬉しいものなのか。その点は,いささか疑わしい。所詮,自分の人生にとことん付き合っているのは,外面も内面も,自分でしかない。他人の評は,単なる印象の積み重ねに過ぎない。勝海舟ではないが,
行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張
なのである。
だから,僕は,筋を通す,というのは,他人の目から見て,ではないのではないか,という気がする。他人におのれの生き方をたどって,是非を言ってもらうために,筋を通しているわけではないからだ。
むしろ,吉本隆明の言う
「重要なことは何かといったら, 自分と, 自分が理想と考えてる自分との, その間の問答です。 『外』じゃないですよ。 つまり,人とのコミュニケーションじゃ
ないんです。」
という自己対話なのではないか。他人から見たら,筋も軸もいい加減に見えようと,理想の自分との対話の中で,自分が道を決めているかどうかの方が,遥かに重い。で,死の直前,自分の来し方を尋ねてみて,
一本に見えているかどうか,
が大事なのだ。ここで言いたいのは,事実として,
一本筋であったかどうか,
ではないということだ。大事なのは,死に臨んで,生きてきた道筋が,いまの自分に必然だと思える,そのときの心境こそが肝心要なのだ。
おのれの過去の見え方は,いまのおのれの生き方に依存する。つまり,
ああ,ここへ来るべくしてきたのだな,
と思える心境に,そのときいることこそが大事なのだ。僕にとって,筋が通る,とはそういうことだ。
結果として,そういう自己認知のできる生き方をしておきたい,ということに尽きる。
そういえば,勝海舟は,こんなことを言っていた。
主義といひ、道といつて、必ずこれのみと断定するのは、おれは昔から好まない。単に道といつても、道には大小厚薄濃淡の差がある。しかるにその一を揚げて他を排斥するのは、おれの取らないところだ。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
野矢茂樹『論理トレーニング』(産業図書)
市川伸一『考えることの科学』(中央新書)
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「勿怪の幸い」
とは,思いがけないような幸運が舞い込んでくること。降ってわいたような好機。
まあ,僕にはあまり縁がないが,
「物怪の幸い」
とも書くらしい。語源を調べると,「もっけのさいわい」とは,
「(思い)設ケヌサイワイ」
の変化,という。
モウケノサイワイ→モッケノサイワイ
と変化したという。「勿怪」は当て字で,別の表記,
「物怪」
は,「ブッカイ」で,
あやしいものの意,という。
「物怪」からきているのか,「勿怪の幸い」の「勿怪」とは,
人にたたりする死霊や生霊の「物の怪(け)」のこと,
とする説もある。でもって,
「もののけ」が「もっけ」となり,「妖怪」「変化」の意味となった,とする。それが,室町時代,「意外なこと」という意味になり,「意外な幸運」という意味に変じた,と。つまり,
「もともとは,物の怪(勿の怪)の幸いといい,物の怪(妖怪)がもたらす幸福を意味した。山姥や鬼や座敷童子が禍や福をもたらすという,各々違う物語が伝承されていて,妖怪は祟りや恐怖だけの存在ではなく,時として幸福を授けてくれる存在であり,古神道や神道の神々や,九十九神も同様に禍福をもたらす存在である。これらは,自然崇拝に見られる特徴であり,自然の一部である天気や気候においても,適度な晴れや雨は実りや慈雨であるが,過ぎれば日照りや水害になることと共通する。」
とも。どちらが正しいかはわからない。要は,語源の定かではない言葉らしいということだ。ただ,
禍福はあざなえる縄の如し
で,たとえば,「化け」が
「大化け」
になるように,あるいは,化粧が
化生
から来ているように。いや,あるいは,本来,化生は,
語源は仏教語にあり,あらゆる生きものを生まれ方の違いによって四分類した四生(ししょう)の一つ
だそうである。因みに,四生は,
胎生(たいしょう)。母胎から生まれるもの。人間,象,牛などの人類および獣類。
卵生(らんしょう)。卵から生まれるもの。孔雀などの鳥類。
湿生(しっしょう)。湿気の中から生まれるもの。蚊・蛾などの虫類。
化生(けしょう)。よりどころなしに,自らの過去の業力によって忽然と生まれるもの。天の神々,地獄の住人,前世の死の瞬間から次の生を受ける瞬間までの中間的存在である中有(ちゅうう)の生きもの。
で,そのため,仏や菩薩など天界の衆生を指して,
弥陀の浄土に直ちに往生すること,
といった意味さえあるのに,変じて,
化け物,
変化
を指すに至るのと,似ている。
それにしても,「勿怪の幸い」は,
思いもうけぬこと,
意外,
という意味だが,例えば,こう言う説明がある。
想像も出来ないことから災いが福に転じることや,思いもしなかったような幸せが転がり込んでくるさまを表す言葉である。不幸中の幸い,棚から牡丹餅に通じる。
棚ぼたは,たまたま頭上の棚から牡丹餅が落ちてきた,というだけのことだ。たしかに,
思いがけない幸運
には違いないが,昔の人が,「勿怪」「物怪」を意味なく当てたとは思えない。「物怪」「勿怪」は,
思いがけないこと。不思議なこと。また,そのさま。
異変,災害,けしからぬこと。不吉なこと。また,そのさま。
とある。「勿怪顔」という言葉もある。
不思議な顔
意外な顔つき
という意味である。確かに,「勿怪の幸い」の類語は,
まぐれ幸い
僥倖
拾い物
という言葉があるが,「物怪」の,裏の意味,つまり,
不吉なこと,
や
異変
のなかの,
にもかかわらず,
それなのに,
それが,意想外に幸いをもたらした,
災い変じて幸いとなる
とか
禍を転じて福と為す
というニュアンスが込められている気がしてならない。だから,「勿怪」「物怪」の字を当てたように思えてならない。
因みに,「わざわい」は,
「ワザ(人力の及ばない不気味な神意)+ワヒ(接)」
で,「サイ(幸)+ワヒ」に対する語。ついでに,「禍」は,
「示(神・祭壇)+咼(まるくくぼんだ穴)」
で,神の祟りを受けて4思いがけない落とし穴にはまることを意味する。つまり,神が下すわざわい。「災」の,
「巛」は川をせき止める堰
で,それに「火」を加えた「災」は,
順調な生活を阻んで止める大火のこと,
それを転じて,生活を邪魔する物事を指す,という。
「災」にしろ「禍」にしろ,身の不幸を嘆いた,と思いきや,一転幸運が舞い込んだ,その一端の落ち込みが,そのあともたらされた幸いの嬉しさの大きさを示している,そんな気がする。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
上へ
「萎える」は,
草木がぐったりして,しおれる
という意味から,たぶん,転じて,
病み衰える
とか
ぐったりする
となったと思われる。
「萎」の,「委」は,
しなやかにまるく曲がったさま
で,
艸+委
は,草木がしおれて,しんなりまるく曲がって垂れる,意となる。
疒+委
で,痿(なえる)は,手足がぐったり垂れる,意。
イ(ひと)+委
で,倭
で,セガまるく曲がって背の低い人,の意。「倭人」と呼ばれた「魏志倭人伝」のわれわれの祖先は,背が低かったのだと想像がつく。表意文字はわかりやすい。
因みに,「彫」の字もなえる,と読む。
ほる,という意味だが,しぼむ,なえる,とも読む。
「周」は,田の中一面に作物の実ったことを示す。稠密の「稠(びっしり)」の原字らしい。
彡(もよう)+周,
は,器物の表面全体にびっしりと模様を付けること,で,ここからは「なえる」意味は出てこない。ただ,用法で,
「凋」に当てて,「凋落」を「彫落」と使ったところから,転じたらしい。
「凋」は,
しぼむ
という意味で,もともと,
ピンと張っていた葉が,寒さに打たれてしぼみ,だらりとたれる,あるいは,生気を失って衰える,しおたれる,意。
冫(こおり)+周
で,だらりと垂れさがる意。針を失ってしぼみたれる,意。「周」は音を示すだけで,原義とは関係がらい,という。
音を当てただけで,意味が転ずるというところが,元の漢字自体は表意でありながら,わかりにくいと同時に,面白いところなのかもしれない。
ただ,萎えるというとき,外見のそれを指していない。つまり,心が萎えることだ。それは,たぶん,絶望ではない。萎えるのは,無力感からに違いない。
めげる,というと,気が弱る,怯む,という感じだし,
「
凹む」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E5%87%B9%E3%82%80)については触れたが,凹むのは,鑓込められて,屈する,という感じだし,
落ち込む,というと,悪い状態にはまっている,という感じになる。
「
諦める」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E5%87%B9%E3%82%80)というのは,断念する,悪い状態を受け入れる,という感じになる。
近いのは,「心が折れる」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E5%87%B9%E3%82%80)で,気力を萎えさせ,奮い立つ気持ちを萎えさせる,と言った挫折感に近い。
しかし,萎えるというのは,気力とか奮い立つということとは似つかわしくない。まして挫折感とはちょっとっ違う気がする。萎えるには,外見の,
ぐったりしたとか,しおれる,
と同時に,内面のしおたれた状態であり,それは,外圧とか外力とかではなく,自滅というか,自分の思いや屈託で,押し潰されている,という情けない状態といっていい。
へなへなとくずおれた感じだろうか。あるいは,
萎縮
に似ているが,この場合,外の力に圧倒されて縮む感じて,少し違う。自力で,というのも変だが,自力が失せて,崩れ,縮む感じなのである。
しなびる(「萎びる」と書くが)
しおれる(「萎れる」と書くが)
が近い。
へたり込む
というのも近い。他力や相手,状況とは関係なく,
自分の力の限界
というものにぶつかって,おのれを知る,と同時に,その場にへたり込む,という感じか。
だから絶望感ではないのだ。絶望感というのは,希望が絶えた感じだが,そうではなく,無力感なのだ。希望や絶望とは次元が違う。
自力で立っていられない時の,希望や絶望とは別の,喪失感である。
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恙無しとは,
病気・災難などがなく日を送る。平穏無事である
という意味で,。「恙無く暮らす」とか,「恙無く日程を終える」という使い方になる。まあ,
息災である
無事である
という意味である。つい,日々是好日が浮かぶが,表面的にはともかく,意味合いが違うようだ。
こだわり,とらわれをさっぱり捨てて,その日一日をただありのままに生きる,清々しい境地,
を指すらしいので,どちらかというと,嵐の日であろうと,何か大切なものを失った日であろうと,悲嘆にくれる日であろうと,ただひたすら,ありのままに生きれば,全てが好日なのだ,という境地を指すらしい。まあ,そうはいかない。
「恙」は,
田野で人をさし,発病させる寄生虫,つつがむし
を指し,
無恙(ブヨウ)
と言うと,
つつがむしにやられない意のことから,無事で日を過ごすこと,
を意味する。『楚辞』から始まって,漢・六朝から,対手の安否を尋ねる手紙の常套句となった,
とある。「恙」には,その他,
病気,やまい,
の意があり,「恙病(ようへい)」で病気,「清恙(せいよう)」でご病気,「恙憂(ようゆう)」で心配,を指した。
ツツガムシ病は,
ツツガムシリケッチアの感染によって引き起こされる,人獣共通感染症のひとつであり,野ネズミなどに寄生するダニの一群であるツツガムシが媒介する,
という。症状は,ネットで見ると,
「ツツガムシに刺されてから5-14日の潜伏期ののち,39度以上の高熱とともに発症し,2日目ころから体幹部を中心とした全身に,2-5mmの大きさの紅斑・丘疹状の発疹が出現し,5日目ころに消退する。倦怠感,頭痛,刺し口近くのリンパ節あるいは全身のリンパ節の腫脹も多く見られる症状である。重症例では,髄膜脳炎,播種性血管内凝固症候群や,多臓器不全で死亡する」
こともあるとされるので,結構大変である。そう考えると,「無恙」の意味がちょっと重い。
「恙無し」の日本語の語源には二説ある。
ひとつは,「ツツガムシの被害にあうことがない」で,無事という意味
いまひとつは,「継ぐ+継ぐ」で,「ツギにツグ」つまり,継続するという意味。つづけるも同源とする。
しかし,別の説もある。
「手紙などで,相手の安否などを確認する為の常套句として使われる『つつがなくお過ごしでしょうか…』の『つつがなく』とは,ツツガムシに刺されずお元気でしょうかという意味から来ているとする説が広く信じられているが,これは誤りである。
もともと「恙」(つつが)は病気や災難という意味であり,そうでない状態として『つつがない』という慣用句ができた。これと別に正体不明の虫さされのあとに発症する原因不明の致死的な病気があり,それは『恙虫』という妖怪に刺されて発症すると信じられていた。これをツツガムシ病と呼んだ訳だが,後に微細なダニの一種に媒介される感染症であることが判明し,そこからこのダニをツツガムシと命名したものである。」
と,「恙」が病気の意味があり,それにツツガムシを当てた,ということになる。どちらが正しいかは知らないが,恙無しが,平穏無事,という意味に変わりはない。
ところで,むかしから,ある仕事や業務をし始めて,三年くらいたつと,仕事をしていて,
順調に行っている,
という,何と言うか,順調感というか,平常感というか,そういう感覚がある,と思っている。普通は意識しないが,あるとき,異和感,あれっ,というなんだろう,変だなという感覚を感じるときがある。別に具体的に何か起きているわけではないが,自分の感覚に,いつもとちょっとしたずれというか,異質感を感知したとでもいうものだ。僕は,これが,その仕事の現場感覚で,大事な問題感覚だと思っている。
問題の定義は,いろいろあるが,期待値(自分がこうあるべきだという感覚,こうしなくてはいけないという基準感,こうしたいという期待感等々を含む)と現状とのギャップである。意識しているときは,自分の思惑との差といってもいい。しかし,意識の閾下なのだが,皮膚感覚というか,空気感というか,違和を感受することがある。それは,自分の中の期待水準が明確であればあるほど鋭くなる。
一見恙無いように見えて,そのポジションを少しずらして,視点を変えると,違うということに,意識的になれる。しかし,その前に,感覚は,異和感を感じ取っていることが多い。
レミングの行進として知られている,ある種の鼠の集団自殺があるが,僕はいま日本がそんな状態にあるように思えてならない。
あるラジオ番組で,経済アナリストの,藤原直哉という方が,いまの日本人を評して,
「今だけ,カネだけ,自分だけ」の社会,
と,痛烈に批判されたそうだが,一方で,内向きで,自分探しだの,ありのままの自分だの,にうつつをぬかし,他方では,一日で何億稼いだと吹聴し,明日のことに全く思いを致していない。しかし,全体としてみると,レミングの行進になつていることに,ほとんど無沈着だ。「今だけ・カネだけ・自分だけ」のたこつぼに入っている状態だからだ。あの戦争前夜に酷似しているという人が多い。そういう人の感覚を無視してはいけない。そういう感覚を感知する人たちには,いま・ここにいながら,それを対比するアナロジカルな視点を持てているから,そう感じられるのだ。一種のメタ・ポジションである。埋没した行進の最中にいては,その異和感は感じにくい。
あるいは,なにがしかの異和感を感じているのだとしたら,おのれのその変だな,という感覚を無視してはいけない。後から振り返ると,あれだったか,と思い当ることが多いのだから。
この道しかない春の雪ふる
という種田山頭火の句に,重なるのは,春ではなく,極寒である気がする。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
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凹むとか落ち込むということは,間々ある。その度に,たとえば,「凹む」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E5%87%B9%E3%82%80),
あるいは,「落ち込む」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E8%90%BD%E3%81%A1%E8%BE%BC%E3%82%80)
等々と書くことで,自分の底から立ち上がる。あるいは,それを対象として描こうとした時は,立ち直っているのかもしれない。強靭な精神の持ち主がうらやましい。
凹むというのは,
「ヘ(減)+コム(籠む)」
というのと,
「引+込むの音韻変化」(ヒッコム→ヘッコム→ヘコム)
というのが,語源としてあるらしい。
「落ち込む」は,
「落ち+込む」
で,「穴に落ち込む」の意味から来ている。一種,見立てというか,メタファというか,アナロジーである。
心が,あるいは気分が穴に落ちている状態である。
めげる
とか
気が塞ぐ
とか
意気消沈
といった心理状態である。
あるところで,
「落ち込んでいる人の原因は,次の2つのみです。
存在
能力
この2つのどちらかです。」
と断言していた。断言されると,
そうかな,
と思うが,しかし違うのではないか。
能力
や
存在
等々という大層な問題でもないのに,些細な振る舞いや,しくじりで,おのれのありようや能力に起因させてしまっているから,落ち込みがひどくなるのではないか。
「いまは」
「そのときは」
「(もう少し)努力(工夫あるいは配慮等々)すれば」
を付けると,できないことは,「能力」そのものではないし,「存在」そのもののせいではない,と気づく。
たまたま
を
そもそも
としてしまう一般化の癖を,たしかミルトンモデルにあったような気がする。そう,
いつでも,
そもそも,
とおのれを責める方が,あるところでは,楽なのかもしれない。だから,そういう原因帰属を選択して,落ち込む。しかし,そのおのれと決別するのであれば,どこかで,立ち直らなくてはならない。それは,振る舞いや言動という,限定された部分に特化しなくては,浮かび上がるきっかけがつかめない。
だから,実は,分かっている。
そもそも
であるかどうか,
いつでも
であるかどうか,
は,わからないにしても,結局,
具体的なアクション
によってしか,穴からは出られないのだということを。しかし,
悔しいから,
あるいは,
自罰
として,
あるいは,
一時避難
として,
凹んだり,
落ち込んり,
という心理的牢獄に,ちょっとの間,おのれを閉じ込めてみたいだけなのである。
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ごめんなさい,
申し訳ない,
というのが,詫びるときの普通の言い方だ。
「すいません」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E3%81%99%E3%81%BF%E3%81%BE%E3%81%9B%E3%82%93)というのもあるが,これは,「済まない」ことを済ませよう(済ませてもらおう)とする,何となく曖昧な(心理的な)逃げがあって,本当の詫びとは思えないところがあるように,僕は感じる。
「済みません」は,
相手に悪く,自分の気持ちが片付かない。申しわけない。謝罪や依頼の時にいう
という説があるが,僕は取らない。謝る意思があるなら,
御免なさい,
か,感謝なら,
ありがとう(ございます),
であり,どこかニュートラルな(心理的な)逃げの表現に思えてならない。あるところで,
「ごめんなさい」という言葉は「許してください」というニュアンスで,自分が悪いことをしたときの言葉,
で,
「すみません」というのは,自分が悪いことをしたのではないという感じで,単純な間違いで特に誰かに迷惑をかけたわけではない場合,不可抗力,
という感じが言語化されているとあったが,その通りだろう。
ごめんなさい
過ち,非礼をわびる
他家を訪問,辞去するときに言う
と,辞書にはある。
御免は,元来,
「御+免」
で,「免ずる」の尊敬語。「お許しを」の尊敬語でもある。つまり,「御免」は,
相手が正式な許可や認可を下すことを敬った言い方,
である。ということは,許すか許さないかの決定権は,相手にある。だから,ごめんなさい(御免なさい)は,
自分の罪を認めて相手に許しを乞う謝罪の言葉,
であり,「御免」+なさいで,許す主体を敬っている。そのためか,鎌倉時代や室町初期から初見があるらしいが,
御免あれ
とか
御免候へ
と,自分を下げるか,相手を上げるか,の使い方がもともとある。だから,家をおとなうとき,
御免ください,
というのは,家へ入ることを断っている,ということになる。これに似ているのは,
失礼します,
である。ただ,日本語のニュアンスとして,「御免」には,
勘弁してください,
という意味合いなので,
「狭い道路で相手の車と擦った程度の場合には使えても,停車中の車に激しく追突したり,相手に及ぶ被害や迷惑の度合いが大きくなるにつれて使いにくくなる」
「第一原因が自分以外にあるような逃げの謝罪という印象がある」
という説が,『語感の辞典』にはあり,微妙なニュアンス差がある。
一方,申し訳ないは,
相手にすまない気持ちで,弁解のしようがない。たいへんすまない。相手にわびるとき,
に使う。この場合,
申し訳のしようもありません,
というニュアンスがある。つまり,
申し開きのしようがない,
とか
弁解の余地がない,
とか
一切の責任はこちらにあります,
という意味で,「ごめんなさい」や「済みません」よりはるかに謝罪の程度が大きい。逆に言うと,単純な名前の読み違え程度で,これを使うと大袈裟すぎて,慇懃無礼になる恐れもある。
しかし,この辺りは,相手との関係をどう自分が認識しているか,をそのまま表していて,一般論で当てはめるのは危険である。このほかに,謝罪には,
堪忍してください,
遺憾に思います,
御気の毒に存じます,
お詫びいたします,
心苦しく思います,
恐縮です,
等々がある。たとえば,「堪忍」の主体は,相手であり,御免に較べると,上下関係の錘の差はないのではないか。「勘弁してください」に近い。他の,詫び方は,たとえば,
「遺憾」に思っている自分をメタ化して,そういう気持ちです,と言っている。
「御気の毒」に思っている自分の同情心をメタ化して,そういう気持であることを伝えようとしている。
「お詫び」の気持ちをメタ化して,そういう気持ちを伝えようとしている。
「心苦しい」という気持ちをメタ化し,その気持ちである自分の心情を伝えようとしている。
「恐縮」という「身を縮めている」じぶをるメタ化して,そういう状態ですと伝えようとしている。
等々と,少し,自分に距離を置いている,という意味では,本当の意味で「謝罪」する主体ではない,というニュアンスがある気がする。「失礼しました」も,これに入る(「失礼」した自分を対象化し,そういう自分であったことを伝えようとしている)。
といった具合で,こういう表現を拾っていくと,謝る主体の微妙な立ち位置が透けて見えてくる,日本語の微妙な儀礼が隠されている。
かつて「書札礼」というのがあり,書簡を出すときの礼法が厳しく定められており,差出人と宛所の書き方などの書式や文面,字配り,文字の崩し方,紙の種類や折り方,封書の方法など文書全般に関わる礼法があり,それを見ただけで位置関係が分かった,という。「書札礼」ほどのことはないが,身分差を背景とした,ものの言いようの名残りが,まだまだ残っている。不思議なことに,その体感覚が,ある世代までは,残っていたようである。
だが,いまは,それが消えているような気がする。単に礼儀の有無というだけのものではないのかもしれないが,少なくともその振る舞いの背景に親(の振る舞い)が透けて見えるのかもしれない。僕のようながさつでお行儀の悪い奴が言うのもなんだが,躾は怖い。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
中村明『日本語語感の辞典』(岩波書店)
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「創造の始まりは自己が解くべき問題を発見することであって,何かの答を発見することではない」
とは清水博氏の,いつも引く言葉だが,「問」の,
門は二枚の扉を閉じて中を隠す姿を描いた象形文字
という。そこから,
隠してわからない,
という意や
わからないところを知る出入りする入口,
という意を含む,という。「問」は,
口+門
で,
わからないことを口で探り出す
という意味になる。「神意を尋ねる」という意味も含むようだ。「とふ」は,
「問+フ」
で,訪問した家の戸口に立って,人の安否を尋ねる意。その意味で,「訪う」とほぼ重なる。
「訪」の「方」は,
両側に柄の張り出たすきを描いた象形文字。左右に貼りだす意。「言+方」で,右に左にたずね歩きまわる意。
判らないことを尋ねまわる,ということと,問うこととは,ほぼ重なるようだ。
しかしここでは,「当たり前としていることを」改めて問うという意味で考えたい。清水さんは,こうも言っている。
「自分が解くべき問題を自己が発見するとはどういうことでしょうか。それは,『これまで(自己のいる場所で)その見方をすることにおおきな意義があることを誰も気づいていなかったところに,初めて意義を発見する』ということです。」
と。これを情報の視点から見れば,グレゴリー・ベイトソンの言う,
「情報の1ビットとは,(受け手にとって)一個の差異(ちがい)を生む差異である(のちの出来事に違いを生むあらゆる違い)。そうした差異が回路内を次々と変換しながら伝わっていくもの,それが観念(アイデア)の基本形である。
情報とは,(付け加えるなにかではなく)選択肢のあるものを排除するなにかである。」
平坦な地にわずかな図を見つけること,と言っていい。それは,別の視界がひらかれることにほかならない。
思うのだが,騙されないためには,
なぜ,それはなぜ,それはなぜ,
と,ある点に焦点を合わせて,三回なぜと問うといいらしい,ということを,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/409638012.html
で書いたが,それは,自分が,ついつい当たり前と思ってしまうことについて,強制的に,というか,機械的に,
なぜを三回繰り返す,
あるいは,
何があったのか(起こったのか)
どうしてそうなったのか
と問いかけてもいいが,そう問いかけることで,答えがあってもなくても,その答えを,自分の中で想定する,というように,人間の脳はなっているらしいのである。
もちろん,主体的に問いが生まれるにこしたことはないが,仮に主体的に問いがない場合,機械的でも問いを出した方がいいと思うのは,たとえば,
なぜ,
と問うことで,平坦で,何の疑問の漣もない景色に,「なぜ」と問うた瞬間に,理由か,目的か,意味か,を探す目になる。当たり前にしか見えなかった視界を見る見方が変わり,それが見え方を変える効果がある,と思うからである。
情報には,
「コード情報」と「モード情報」
がある。言い換えると,情報は,本来は,ことば(数値も含めたコード情報)と状況・文脈(ニュアンスのあるモード情報)がセットになっているはずである。言語化されるには,その人が受けとめた場面や出来事を意味に置き換えなくては言語化されない。つまり,それが丸めるということである。丸められることで,コード情報が本来持っていた文脈,つまりモード情報から切られ,情報は自己完結する。
しかし,その言語を受けとめたものは,その人の記憶(リソース)に基づいて受けとめる。あるいは理解する。その意味の背後に,その人のエピソード記憶や手続き記憶に基づいてイメージを描く。つまり,受け手なりにモード情報と紐づけなくては理解できないからだ。情報を,
・時間的(いつ)
・空間的(どこ)
・主体的(誰)
に紐づけなくては,(コード)情報の自己完結した意味に引きずられる,ということになる。その情報を読むということは,その意味の筋をたどって意味として納得するのではなく,“そのとき”,“そこ”に限定し直すということが,いわゆる腑に落ちるということなのだと思う。本来情報は文脈依存だからである。しかし,情報は,それが持つ文脈から切り離され,コードだけで提示される。読むとは,そのカットされた文脈を想定することでなくてはならない。それが紐づけである。
逆に言うと,その紐づけの仕方のひとつが,疑問なのである。疑問は,その人の知識・経験から考えて,
そうならないはずなのにそうなっているのはなぜか,
という問いかけなのだ。人のもつリソースは,記憶である。記憶には,
・意味記憶(知っている Knowには,Knowing ThatとKnowing Howがある)
・エピソード記憶(覚えている rememberは,いつ,どこでが記憶された個人的経験)
・手続き記憶(できる skillは,認知的なもの,感覚・運動的なもの,生活上の慣習等々の処理プロセスの記憶)
がある,とされている。もちろん,この他,記憶には感覚記憶,無意識的記憶,短期記憶,ワーキングメモリー等々があるが,なかでもその人の独自性を示すのは,エピソード記憶であると思う。これは自伝的記憶と重なるが,その人の生きてきた軌跡そのものである。意味レベルでは,誰が言っても同じだが,その言っている言葉の背後にある景色は,人によって違う。疑問は,意味レベルの疑問でなければ,その人の体験に基づく,エピソード記憶からくる。
その記憶のもつ,モード情報とつなげて,異和感を感じているのである。
問いのない読みは,「情報」の意味に絡み取られて,発信者に籠絡されることである。「読む」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E8%AA%AD%E3%82%80)
でも書いたが,横井小楠が,
学の義如何,我が心上に就いて理解すべし。朱註に委細備われとも其の註によりて理解すればすなわち,朱子の奴隷にして,学の真意を知らず。
というのは,その意味でもある。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
清水博『生命知としての場の論理』(中公新書)
グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学』(思索社)
金子郁容『ネットワーキングへの招待』(中公新書)
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つい,問題解決に走る。
かつて,カウンセリングを学んでいたおり,旦那は,奥さんの話を聞いて,「それはな,」と,つい解決策を口走ってしまい,「人の話を聴かない」と嘆かれる,という逸話を本人から,聞かされた。同じころ,本だったか,話だったかで,入院しているご主人への対応について,毎日毎日,何がしかのクレームを言い,どんな対応をしても文句を言われる,というので,ナースセンターでは,クレーマーとして知られていたご婦人が,あるとき,担当医に,そのことをまくし立てた。ずっと聴いていた担当医は,一言,「奥さんも大変ですね」と,返した瞬間,泣き崩れた,というエピソードも,話を聴く,ということについての基本中の基本なのだと,まあ,さんざん聞かされたはずであった。
しかし,日々の生活は,いやいや仕事自体が,問題解決の連続である。
どう問題解決するかに頭がいっぱいになっている。しかし,その問題解決モードは,カウンセリングでもコーチングでも,いい評価は得ない。ソリューション・フォーカスト・アプローチも,問題解決ではない。
問題解決については,前にも書いたような気がするが,要は,
何が問題か,
ではなく,
どうなったら問題解決(目標実現・目標達成)したことになるか,
ということに焦点を当てる,ということに気づいた。そして,もっと大事なことは,
それを解決(実現・達成)することで何を得たいのか,
という目的によって,改めて,
どうなったら解決(実現・達成)したことになるか,
を考える,ということを重視したはずであった。たとえば,「目標明確化に必要なこと」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/prod06203.htm#%E8%87%AA%E5%88%86%E3%81%AE%E7%9B%AE%E6%A8%99%E3%81%AE%E6%98%8E%E7%A2%BA%E5%8C%96%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AB%E5%BF%85%E8%A6%81%E3%81%AA%E3%81%93%E3%81%A8)
で考えたように,
それが手に入ることにどんな意味があるか,
それは人生においてどんな意味があるか,
それを手に入れることはどんな価値があることなのか,
ということに対比して,解決(実現・達成)したいことを,CTI流にいうなら,
大きな主題
の方へ持って行く必要がある,と。
しかし,どうしても,現実場面では,目的対応の現実的な解決状態を意識しがちである。
本当はどうしたいのか,
と問いながら,解決(実現・達成)できるレベルを無意識で模索していたりする。
問題解決を放棄する,
というか,
解決しようとするマインドを手ばなす
という姿勢もあるのかもしれないが,どうもそういうのは,僕の生き方ではない。そういう不自然な姿勢は,窮屈にする。で,思う。それなら,
本当に解決(実現・達成)するというのは,どういうことか,
という,「本当に」という部分を,徹底するというやり方なのではないか。それは,
生き方に叶う
のかもしれないし,
価値そのものに沿う
ことなのかもしれないし,
とりあえず次のステップにつなげるため
なのかもしれない。解決(実現・達成)は,いつも,連続していく。解決したら,それで終わりということには,決してならない。
真のクリエイティブというのは,
問いに答える
ことではなく,
答えられない問いを立てる
ことだとすれば,
どうなったら解決(実現・達成)したことになるのか,
という問いは,その場で簡単に答の出るような
解決状態
ではなく,問い自体を,生きつづけるような,そういう問いであっていい。
どうも簡単に答を出す癖が抜けない。
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実は,「たらしこむ(誑し込む)」の語源を調べていた。
「誑らす」
「蕩らす」
と表記し,
たぶらかす
の略ということで,簡単に決着がついてしまった。意味は,
うまくだまし込む
とか
誘惑して自分のものにする
ということらしく,それ以上の奥行はなかった。しかし,語源辞典の同じページにあった,
だらしない
が気になった。
意味は,
しまりがない,
ふがいない,
期待外れで情けない,
節度がない,
体力がなく弱弱しい
といった意味になる。だが,「たらし」について,
たらしとは女性を騙したり,言葉巧みに誘惑して弄ぶ男性のことで,「たらし」には動詞形「たらす」の「巧みな言葉で騙す」という意が含まれている。ただ,「たらし」を「だらしない」の略として「女にだらしない男」という意味で使っている人も少なくない。「たらす」は対象を特に女性を騙す男性と限定していないが,たらしは「女たらし」の略語として普及したため,こういった男性を指す,
とあって,まんざら,「だらしない」と無縁ではないらしいのである。
「だらしない」の語源は,いくつか説がある。
@「シダラ(手拍子)+ナイ」の倒語説。手拍子がしまらない,という意味。
A「シダラ(自堕落)のなまり+ナイ(甚だしい)」。自堕落の極み,という意味。「ふしだら」のシダラとする説もある。
B「シダラ(梵語,修多羅=秩序規律)+ナイ」で,無秩序の意味。
その他にも,
「しだらない」から「だらしない」に音節順序が変ったには,江戸時代に逆さことばがはやり,「あたらしい」が「あらたしい」になったのと似た現象とする説,
もある。類語を,拾ってみると,
ふしだら(サンスクリット語「sutra」を音写した「修多羅」が語源。 古代インドでは ,教法を「多羅葉」という葉に刻書し,散逸
しないように穴を開け,紐を通していた。 この紐や糸を「修多羅」といい,「シダラ(修多羅,きっちりと束ねる)」。これに「不」がついて,だらしない,しまりがない。)
大雑把(「雑把」は,雑にまとめられたものを表す。薪にするために切り割ったした木切れの「薪雑把(まきざっぱ)」という使い方をする。使われる。 方言では,燃料
にする屑板の束や,粗い茶の葉を「ざっぱ」という地域もある)
おざなり(「お+座+なり(そのまま)」で,その場を取り繕うだ,いい加減な処置の意。江戸時代,「ざなり(座成)」や「ざしきなり(座敷成)」と用いた。
座敷(宴会の席)でその場だけの取り繕った言動をするさまを表した。)
ちゃらんぽらん(語源は「チャラン(鉦の音)+ポラン(鼓や木魚などの音)で,いい加減な,の意味。無責任な態度,「ちゃらちゃら(勤続の触れ合う音)」も同類。)
ふぬけ(「腑+抜け」で,身体の中の臓腑が抜けている意。信念や態度にしっかりしたものがない。)
ぐうたら(近世,「ぐずくずして気力のない男を擬人化した「愚太郎兵衛」からきている。)
杜撰(「宋の杜黙の詩が,多く律に合わなかった故事」が語源。付可視化でいい加減なこと。)
だらだら(「タラ(垂ら)+くりかえし」の,水や汗がしたたり落ちる様子を表す言葉の濁音化。たらたらを強めた不快感を表す。)
でたらめ(「出たら+目」で,さいころをふって出たら,その時に出た目に合わせる,という意。ランダム。)
でれでれ(語源ははっきりしないが,擬態語に近いのではないか。動作・態度・服装などに締りがなく,だらしないさまだが,特に異性に心を奪われて毅然とせず締りのないさま。)
のんべんだらり(@「ノベル(伸)+ダラリ」。身体を伸ばしたまま,だらりとしているさま。A「ノベル(延)+「ダラリ」。仕事を先送りして,だらだら日を暮す。B「飲むべえでだらり」。酒ばかりのんでだらだら過ごす。三説とも,自然発生的に出てきた俗語。)
ルーズ(英語のlooseから来ている)
不摂生(身体の健康に気をつけないこと。摂(攝)の「聶」は,いくつかの物をくっつけることを示す。「手+聶」で,散乱しないわように多くの物をあわせてもつ意。生のコントロールとよめなくもない。)
のらくら(「のらりくらり」が語源。)
妄り(「乱る(水垂る)」の派生語。「妄」は,「亡(道理に合わない)+女(小さくてかわいい)」とか「女性が心を惑わされ,我を忘れる」といった意味で,正統でない,普通とかけ離れた意。)
脆い(擬態語「ポロポロ,ボロボロ」から来ている。壊れやすい。)
益体もない(「益体なし」を分解した語。役に立たない意。)
みっともない(「見とうもない」「見たくもない」が見苦しいに変化した。)
等々になる。いやはや,これだけならぶと,「なんだかなあ」と言いたくなる。
結構,多く,日常の振る舞いやら動作,その様を表す擬態語から来ているらしいところが,面白いと言えば言える。その「だらしなさ」の状態,様子を,そのまま敷衍化したと言えば言える。たとえば,ぐずぐずとしているのを,
ぐずる
と,一般化していくのに似ている。「ぐずる」は,
「ぐず(擬声語)+る(活用語尾)
から来ている。ぐずったり,ただをこねたりする,を大人に転用すれば,
言いがかりをつける,
になる。いまも,日常の態度から,擬態語,擬声語として,一般化するものが出てきているにちがいない。そのうち,
スマホる
がヒマつぶしと,汎用化されたりして。。。。
まあ,それだけの話。お粗末様。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
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伸びしろは,
伸び代
と書く。「代」は,
くいの形を描いた象形文字,弋(よく)に人を加えたもの,
で,
同じポストに入るべき者が互いに違いに入れ替わること,
という意味になる。そのせいか,
代々(だいだい)
とか
代々(よよ)
といったり,
世代
交代
代理
という使い方をする。「しろ」という意味の使い方は,本来の漢字の字義にはない,わが国のみに通用する「訓義」という。しかし,「代(しろ)」を見ると,
その物の代わりとして償う金銭や物品,「代金」「代価」
というほかに,
何かのために取っておく部分,糊代,縫代,
田または他の一区画,田代,
田地の丈量単位(稲一束を収穫する免責を一代)
とある。僕の持っている『広辞苑』には,
伸びしろ
は出ていない(最新版には載っているらしい)が,その意味は,
@金属などが折り曲げられる際に発生する伸び。また,その長さ。
A転じて,組織や人間が発展・成長してゆく可能性の大きさをいう。
とあって,「伸び代」とあてるらしい。そこから敷衍したのだろうが,
「伸び代の『代(しろ)』は,のり代,縫い代などと同様に,ある用途や作業のための余分に取ってある部分のことをいう。そこから『伸び代』とは,新しい会社や若い人について,発展したり成長したりする余地,可能性を意味している。」
という説明がなされるものがある。しかし,それはおかしい。糊代も,縫代も,あらかじめ予想された余裕,というかハンドルのアソビのようなもので,それも織り込み済みなのであって,
「伸びる余地」
という意味に使うのは,意味が違うのではないか。では,上記の,
「金属などが折り曲げられる際に発生する伸び。また,その長さ。」
は,どうなのか。調べると,
「金属加工では,金属を曲げ加工しました時,局部的に金属が延びます。これを一般的に伸び代,ひき代,曲げ代(いろいろな呼び名があります)と言います。」
という使われ方で,こちらの方が,
「伸び代」
の本来の意味に近いに違いない,という気がしてくる。で,調べると,
「材料としての金属は、曲げやプレスなど力を与えて変形させる加工をした場合に伸びるという性質がある。そのため加工前の材料を切り出す際に、後々の伸びを考慮して若干小さいサイズを用意するということが行われる。その「伸びを考慮する」ことを『伸び代を〜』と表現したようである。
しかし、どういう加工の際に伸びがどれほどかの見極めは経験に負うところが多く、『伸び代が云々』が業界の外の人には正確に伝わっていなかったようである。そのため、『何かすると伸びて余分が』ぐらいのキーワードが変形し、現在の『伸びるために必要な余分』という意味になってしまったらしい。」(http://muzinagiku.exblog.jp/17707635/)
とあって,ようやく納得がいった。本来,「期待値」という意味ではなく,どう伸び代を読んでサイズを用意するか,という作業員のノウハウにわたる部分だったのだろう。
本来は,たとえば,こんなふうに使われている。
「曲げ加工後の曲げ角にはR形状が形成され,その結果,材料に伸びが発生します。曲げ加工前の展開長から曲げ加工後の仕上がり寸法A,Bを引いた値を「両伸び」といい,その両伸びの1/2の値を片伸びといいます。伸びしろは,材料属性(板厚・材料定数など),金型属性(ダイV
幅・ダイ肩R・パンチ先端R),加工属性(ボトミング・コイニング)に影響を受けます。」
で,ここから言うと,「伸び代」というのは,
将来性とかポテンシャル
という意味ではなく,
「あると嬉しいもの」ではなく,「あることを読む必要のある職人的な勘が求められ,要求されるもの」
なのである。当然,類語として挙げられる(ネットでも類語として挙げられていた),
期待値,成長の余地,潜在能力,隠れた能力,
等々という意味を本来持っていたものではないのである。
むしろ,その意味で言うなら,注目したいのは,医学の現場で使われているらしい,
予備能
という言葉である。これは,
脳や臓器の機能の予備能力,
を指すらしい。手術などに耐えられるかとか,部分切除した残りの臓器が機能を果たせるか,といった意味で使われ,こちらのほうが,ポテンシャルの意味で使われる,「伸びしろ」に近いのかもしれない。
では,伸びしろに,「代」を当てるのはどうかというと,「代」が,
何かのためのあらかじめとっておく,
という意味からすると,金属の延びる部分をあらかじめ読んでおく,という意味での,
伸び代
なら,それでいいが,
伸びる余地
とか
ポテンシャル
の意味では,
「何かのために取っておく部分」としての糊代の意味とも,縫代の意味ともフィットしないのだから,
「代」
の字を当てては,的外れになるのではないか。不遜ながら,では,「しろ」に当てられる字は,というと,
「素」
「白」
の字がある。
素
とは,「しろ」であり「もと」であり,「はじめ」である。意味としては,
撚糸にする前の基の繊維,蚕から引き出した絹の原糸
とか,
模様や染色を加えない生地のままの,白い布
等々,下地とか地のままとか生地とか元素といった意味合いが強い。このことは,
「店仕舞い」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E5%BA%97%E4%BB%95%E8%88%9E%E3%81%84)で触れたが,『論語』の,
絵の事は素(しろ)きを後にす,
でいう「素」である。これは,古注では,
絵とは文(あや),つまり模様を刺繍することで,すべて五彩の色糸をぬいとりした最後にその色の境に白糸で縁取ると,五彩の模様がはっきりと浮き出す,
と解すると,貝塚茂樹注にはある。しかし新注では,
絵の事は素(しろ)より後にす,
と読み,絵は白い素地の上に様々の絵の具で彩色する,そのように人間生活も生来の美質の上に礼等の教養を加えることによって完成する,と解するらしい。
どちらも,「白」に通ずる。白は,
どんぐりの形状を描いた象形文字。下の部分は実の台座,上半は,その実。柏科の木の実の白い中味を示す,
という。その意味では,
なにもない
という意味,
何色にもそまっていない,
という意味の「白」からすると,
伸び代
より,
伸び白
と書きたい気がしてならない。で,ときどき勝手に,そう当て字しているのだが。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
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はしたない
は,
端ない
と書く。
「ハ(端・余分)+ナイ(甚)」
で,
・慎みがなく,礼儀にはずれたり品格に欠けたりして見苦しい。みっともない。
・どっちつかずで落ち着かないさま。中途半端である。
・間が悪く,恥ずかしい。ばつが悪い。
・自分に向けられる他人の言動を,不快に感じたり迷惑に思ったりするさま。
・人に対する配慮が欠けるさま。つれない。むごい。
・程度がはなはだしい。ひどい。激しい。
という意味があるらしい。
本来は,数が揃わないこと,中途半端な状態や気持ちを指した。そこから,現在,慎みがなく,礼儀に外れたり品格に欠けたりして見苦しいこと,間が悪いことを意味するようになった。他に,「ハシタ」は「ハシタ(間所)」の転で,「ナイ」は接尾語とする説もある,
という。
どうも,
はしたない,
と言われるのは,
一見美学に見える。よく言われた気がするが,
みっともない
とか
見苦しい
とか
下品
とか
下卑
という意味以上に,何かがある気がする。倫理というか,
生き方
に関わるような気がする。類語で言うと,
安っぽい
とか
ものほしそう
というのが近いのではないか。それは,たぶん,視点を外に置くと,そういう振る舞いが,
みっともない
というか
見苦しく
見えるということになるのではないか。その振る舞い自体を評することばではなく,外聞とか,世間体という観点での評価のように見える。もう少し突っ込むと,例えば,階級とか,階層とか,特定グループの価値基準から見ると,そこから外れたことが,
はしたない,
と評されることになる。武士であれば,
サムライらしく,
ということになる。ネットで見ると,「学校や幼稚園で親の暗黙ルール」というものがあるらしく,たとえば,
「お迎えに生足で行っては行けません。ストッキングか靴下を着用するのがマナー」
「高すぎるヒールもダメ。当然,ミュールは不可。クロックス等の踵の無い靴もダメ」
とか言うそうで,
「私立幼稚園の送迎に自転車をつかったら,『ママチャリなんて,はしたない。チャリ送迎はNGよ』と注意された」
という。そういう意味では,特定集団内のマナーから外れると,
はしたない
と言われる羽目に陥る。しかし,考えたら,それは,
自分がいかに生きるか,
とは関係ないことから,規制されている,ということになる。それが,国レベルまで広がると,
はしたない,
ではなく,
売国奴
とか
反日
と言われることになる。それは,おのれの倫理ではなく,外から生き方を強いる圧力ということになる。
かつて上司に,
君はうちの社風に合わない,
と言われたことがある。自由にふるまうことは,そこでは,
はしたない
ことだったに違いない。ひとがどんな生き方,どんな働き方をするまで規制し始めたら,右向け右で,そんな中で新たな発想は絶対生まれっこない。それは,国の,組織の,衰退の兆しである。
そう言えば,どこぞのトップが,自国の憲法を,
みっともない,
と言ったが,それはどの集団の視点から言ったものやら,しかし世界から見れば,自国の憲法を「みっともない」などと言って憚らないトップこそが,
はしたない,
と言うに違いないのである。
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色眼鏡とは,
色つきガラスを用いた眼鏡
のことであり,そこから転じて,
先入観
や
感情に支配された観察
という意味になる。しかし,僕は必ずしもマイナスには受け止めていない。
人間の心は,もの見るときのクセで,折り目がつき,皺がつくものである,
とはアインシュタインの言である。アインシュタインは,
常識とは16歳までにわれわれの心に刷り込まれたモノの見方の集合体,
とも言う。同じことは,
われわれは,知っていることを見る,
とゲーテは言った。これを,ノーウッド・R・ハンソンは,
〜として見る
と言った。「〜として」が色眼鏡に当たる。トーマス・クーンは,それを,
パラダイム
と名づけた。普通に言えば,
既成概念
とか
先入観
となるが,脳の働きから言えば,
機能的固着
である。だから,SF作家のアーサー・C・クラークは,
権威ある科学者が何かが可能と言うとき,それはほとんど正しい。しかし,何かが不可能と言うとき,それは多分間違っている,
と言ったのである。しかし,それは,その人の知識と経験そのものなのである。発想とは,
知識と経験の函数
という。自分の頭の中にないことは使えない。だから,
知っているものとして,
見る。
その例として,認知心理学の教科書に必ず出ているのは,こういうのがある。
天井から2本のロープがぶら下がっており,1本をもつともう1本の紐が届かない距離にぶら下がっています。周囲におかれている椅子とハンマーを使って,2本のロープをつなげられるかどうかを考えさせる。
これを,10分以内に解ける人は39%しかいない。ハンマーの機能,椅子の役割を知識として持っているために,
ハンマー(もちろん椅子でもいいが)をおもり代わりにロープにぶら下げて,振子にして手元に引き寄せる,
ということを思いつくのに,タイムラグがあるのである。しかし,である。振り子の原理を知っていなければ,そのことは絶対に思いつけないのである。つまり,発想は,
知識と経験の函数
だからである。だから,発想力では,
スキル
がよく云々され,いろいろな発想が発案されたが,実は,(それをやっている僕が言うのもなんだが)それはあまり役に立たない。知識と経験の函数ということは,個人が手に入れられる知識と経験には限界があるからである。だから,自己完結した,
発想スキル
よりは,人とのキャッチボールが重要であり,未だに,ブレインストーミングが使われる所以である。しかし,よく聞くのは,ブレインストーミングは,拡散するだけで,何もまとまらない,という指摘だ。
この指摘が勘違いしているのは,ブレインストーミングで,アイデアがまとめられる,というか,アイデアへと収斂できる,と思っていることだ。たぶん,そんなことはオズボーンも言っていない。アイデアを煮詰め,練り込むのは,結局個人の作業になるほかない。ただ,ブレインストーミングで必要なのは,自己完結を破る,つまり,自己撞着する自己対話の視点を変え,別の視点からものを見られるようにする,
刺激
としての機能なのだ。だから,よくやられているように,ミーティングスタイルでブレインストーミングをやっても,当たり前だが,拡散するだけだ。当然だ,ブレインストーミングには,収束の機能は持たされていない。だから,ブレインストーミングは,個を発信点として,放射線状にブレインストーミングするのが,一番効果的なのである。つまり,基本的に,集まる必要はない。
ブレインストーミングの効果は,個が持つ色眼鏡,つまり,
脳の機能的固着
を打ち崩すところにある。ひらめいた瞬間に,
脳の広い範囲が活性化する,
と言われているのが,象徴的である。いつも使い慣れた部位ではないところに刺激を与え,詰まっていた発想に,まったく違うところから光をあて,異質なリンクが生まれること,これこそが,
色眼鏡
が消えた瞬間である。
参考文献;
高沢公信『発想力を鍛える』(産能大)
N・R・アンダーソン『認知心理学概論』(誠信書房)
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見立ては,語源は,
見+立て
で,
決める,
つまり,
見て,善し悪しを決める,
という意味てある。たとえば,
母の見立ての帯
とか
医者の見立て
といったように。しかし,語義を辞書で引くと,意味は,
送別,見送り,
見てよしあしを決めること。また,見て物を選定すること。
とあり,その中には,
選定,鑑定
(医者の)診断。
遊客が合い方の遊女を選ぶこと
がある。たとえば,
伝統的に,自分の目で見てから選ぶことを「見立て」と言った。
江戸時代,呉服などを自分の目で見て選ぶことも「見立て」と言った。また,伝統的に,医者が病人を見て(診て),あらかじめ定められたどの分類に当てはまっているのか選ぶことも「見立て」と言う。つまり現代では「診断」と呼ばれている。
しかし,以上のそのほかに,
なぞらえること
という意味がある。ここでの関心は,この意味の「見立て」である。たとえば,芸術表現の一技法として,
和歌・俳諧・歌舞伎・戯作などで,ある物を別のものと仮にみなして表現すること。なぞらえること。
その意味の流れから,見立てには,
趣向。思いつき。考え。
という意味が出てくる。究極,見立ての面白さ,その趣向を競う,という意図か。
なぞらえるは,
なぞるの未然形継続反復のフが加わった「ナゾラフ」の下一段活用
とある。
異なるものを共通点があるものと見立てること
とある。見立てとなぞらえるが同義反復になっている。
なぞらえるは,
準える
准える
擬える
と漢字を当てる。
「擬」は,本物に似せて作ったものや事柄。「手+疑(まねる・なぞらえる)」
「准」は,準の俗字。法律用語。水野平らかさを基準とする
「準」は,水準器。水平を基準とする。下にたまった水の水面を基準として高低を揃えることを示す。
落語の沢庵を卵焼きに「見立て」るのは,ほぼ「準える」だが,これは,
アナロジー
あるいは
メタファー
と言い替えられる。このあたりは,「見立て」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E8%A6%8B%E7%AB%8B%E3%81%A6)
で書いたことがある。
基本的には,アナロジー(ここでは,「見立て」とほぼ同じ意味で使っているが)には,
「〜と見る」見方,
「〜にする」仕方,
「〜になる」なり方,
の3つがある,と考えている。
●「〜と見る」は,
見えているものを何かと同一視することである。芝生を緑の絨毯,群衆の逃散を蜘蛛の子といった,何かを別のモノやコトと見る,何かに別のモノをダブらせることである。これは視線の変換である。たとえば,それにあたるのは,
つもり/ごっこ/仕立てる/喩える(例える)/引用(代用・転用・兼用・併用・応用)/代理・代表/つなげる(並べる)
メタファーはここに含まれる。
メタファーつまり,隠喩は,
あるものを別の“何か”の類似性で喩えて表現するものだが,直喩と異なり,媒介する「ようだ」といった指標をもたない(そこで,直喩の明喩に対して,隠喩を暗喩と呼ぶ)。したがって,対比するAとBは,直喩のように,類比されるだけではなく,対立する二項は,別の全体の関係の中に包括される,
と考えられる。たとえば,
わたしの耳は
貝の殻
海の響きを懐かしむ
(ジャン・コクトー「わたしの耳は貝の殻」)
では,耳と貝は,対立しつつ,共通項を持つ別の同一グループの一員とみる視点がなければ,対比がそもそも成り立たない。まあ,「〜と見る(みなす)」見立ての一種には違いない。
●「〜にする」は,
一方を他方と同じにすることである。そう見えるようにする,そう見えるように変える,そう見えるように置き換える。これには,同じ大きさ(サイズ,嵩,規模,長さ,広がりの似たもので比較してみる),同じ重さ(重量で似たものを対比してみる),同じ格好/同じ形状,同じ性質,同じ次元等々といった,ミニチュア,模型,箱庭,プラモデルといったものが当てはまる。これは対象の変換である。たとえば,それにあたるのは,
模型(モデル)/かたどる(カタチにする)/なぞる(写す)/触媒(媒介)/補う(補足)/伸縮/集散(離合)/増減/開閉/置き換え(回転,転倒,裏返し)/ずらす(スライド)
等々である。
●「〜になる」は,
見る側,する側から,される側に代わることである。そういう立場になる,その役割を引き受ける,そのモノになる,その場に立つ,といった身振り,ジェスチャー,声帯模写,形態模写等が当てはまる。ゴードンの擬人的類比,空想的類比はこれに当たる。自分の変換である。
この3つの見立ては,随所で使われている。
芸術の分野では,「見立て」は,対象を他のものになぞらえて表現することである。別の言い方をすると,何かを表現したい時に,それをそのまま描くのではなく,他の何かを示すことによって表現することである。例えば,和歌,俳諧,戯作文学,歌舞伎などで用いられている。
日本庭園ではしばしば(あるいはほとんどの場合)なんらかの「見立て」の技法が用いられている。たとえば枯山水では,白砂や小石(の文様)が「水の流れ」に見立てられる。
落語では,扇子や手拭いだけを用いて様々な情景を表すが,これも一種の見立てである。たとえば扇子を閉じた状態で,ある時はこれを煙管に見立て,煙管として使ってみせ,又あるときはこれを箸に見立て,蕎麦をすすってみせる。これについては,
「見立て」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E8%A6%8B%E7%AB%8B%E3%81%A6)で触れた。
あるいは箱庭といって,小さな,あまり深くない箱の中に,小さな木や人形のほか,橋や船などの景観を構成する様々な要素のミニチュアを配して,庭園や名勝など絵画的な光景を模擬的に造り,楽しむものがある。江戸時代後半から明治時代にかけて流行した。類したものに,盆景,盆栽がある。
盆栽は,周知のとおりだが,盆景というのは,お盆の上に土や砂,石,苔や草木などを配置して自然の景色をつくり,それを鑑賞する。盆景は庭園,盆栽,生け花と同様に,自然の美を立体的に写実,表現しようとする立体造形芸術である。盆景は,盆石,盆庭,盆山などと呼ばれる芸術だが,形として表現されたのは,日本では鎌倉時代の絵巻物に出てくるのが最初である。
金閣寺,銀閣寺の庭園をつくる時に浅い木箱にその原型をつくったと言われており,これが箱庭の始まりとも伝えられている。
茶の湯でも,見立てがある。千利休は,独自のすぐれた美意識によって,本来茶の湯の道具でなかった品々を茶の湯の道具として「見立て」て,茶の湯の世界に取り込む工夫をした。たとえば,水筒として使われていた瓢箪を花入として用いたり,船に乗るために出入りする潜り口を茶室のにじり口に採り入れた等々。
落語の「長屋の花見」で,沢庵を卵焼きに見立てるなど,われわれは,手持ちのものを,見たいものに見立てて,独自の空間を創り出してきたと言っていい。考えてみれば,かつて,
ウォークマン
は,いつでもどこでもオーディオルームに見立てたと考えることも出来る。見立ては,発想の原点だが,昨今,
いま・ここにないもの
も,手軽に手に入る時代,容易に手に入らないからこそ,手に入った,
つもり
で得られる,想像力の豊かさを失ったのかもしれない。それは,創造力を失い,クリエイティビティ欠如の一因でもある気がしてならない。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
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軸がぶれない
とか
軸がしっかりしている,
とか
というのが,評価の基軸らしいのだが,僕はあいにく,軸はぶれまくり,ゆらゆらと頼りない。でもって,
軸がない,
とまで酷評されたりする。人からの毀誉褒貶は,自分ではコントロールできない。そういう他人の評に左右されず,
行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張。我に与らず我に関せずと存候。
と嘯ければいいのだけれど。それならと,グランディングに参加し始めた。まだときに失念し,ときに鬱屈に紛れたりしているのが現状だが,軸とは,
自信
でもあるのかもしれない。根拠はなく,ただ,おのれが,おのれに確信を持てればいいのかもしれない。それは,自分の仕事なのかもしれないし,自分の来歴かもしれないし,自分の家系かもしれない。その一つとして,
この大地につながっている,
という確信があることで,気持ちというか心が揺るぎなくなればいい。少なくとも,6500kmのマグマにつながる感覚だけでも,大きな励みである。
自分の軸ということを考えたとき,身体の中心線を貫いて,地球につながっているという感覚は,一種の安心感かもしれない。錯覚かもしれないが,それは,天と地とを貫く中に自分が在る,という感覚である。
その瞬間の,自分もまた透明になって,大地に連なっているという屹立感は,
天
とつながっている感覚になる。仮に,錯覚でも,その感覚が,多分大事なのだろう。いつでも,
すっくと立つ,
と,つながっていると感じられる感覚である。その意味では,一種の水準器というと,例えが変だが,
垂直
になっているかどうか,軸が,おのが身を貫いているかどうかの基準感覚である。
http://ppnetwork.seesaa.net/article/404789268.html
でも書いたように,
立つ
には特別な意味がある。立つだけで,天地に目立つ。立つに絡んでは,
引き立つ,
思い立つ,
気が立つ,
と際立つ意味合いと同時に,
立ち会い,立ち往生,立ち返る,立ち遅れ,立ち働く,立ち腐れ,立ち遅れ,立ち竦む,立ち騒ぐ,立ち直る,立ち退き,立ち通す,立ち回り,立ち向かう,立ち塞がる,立て板,立て付け,立て直し…。
と,頭に付けて,「語勢を強める」使い方をする。
立つ,
あるいは
立ち上がる
が,坐すのが中心の中では,何かを始めようとする,勢い立つというニュアンスがあるから,そういう使い方をしたのだろう。
二足で立つのは,人だけである。ただ,意味なく立っていたのでは,それこそ,申し訳がない。
立って,地軸とつながることで,何かが通りやすくなるのは間違いない。
天の声,
地の声,
という。その瞬間,ただの透明な棒になる。筒になる。いや,
ただ器として,
あるいは,
受け皿として,
導管として,
静かに立つ。
自ずから
には,
おのずから
という読みと,
みずから
という読みがある。おのずからは,
オノ(己)+ヅ(の)+から(原因,由来)
で,自分自身か,ひとりでに,という意味だが,みずからは,
身+つ(連体修飾語をつくる格助詞)+から(それ自体)
で,自分から,自身,という意味になる。
こじつけっぽいかもしれないが,
みずからの意思で,おのずから,おのれになる,
とも言える。自分の中心線を貫いて,つながろうとするのは,おのれ自身のためでありながら,
おおいなるものにつながろうとする,
そういう自然(じねん)のありようと言えるかもしれない。そのときの,ひたすら声を聞きとろうとする姿勢は,そのまま,
コーチング
や
カウンセリング
の姿勢に通底するような気がする。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
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改めて,(ビジネス)スキルをピックアップしてみている(「スキル事典(http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8)」)ところだが,
そこで考えたのは,能力というのと,スキルというのとの違いである。
能力というと,たとえば,例の如く,
能力=知識(知っている)×技能(できる)×意欲(その気になる)×発想(何とかする)
ということになる。これに,
体験(やったことがある)×気力(がんばれる)×体力(やり切れる)
を加えてもいい。ここでは,スキルは,
技能(できる)
つまり,努力すれば身につくもの,という意味である。
あるいは,知識というなら,G・ライルの言う,
Knowing that(そのことについて知っている)
と
Knowing how(どうやるかを知っている)
でいうところの,
Knowing how
つまり,やり方と言っていい。
しかし,世の中は,スキルと能力(一般)とを混同している。スキルにこだわるのは,スキルとは,
「手腕。技量。また,訓練によって得られる,特殊な技能や技術。」
と定義される。つまり,訓練によって得られるのである。得られる結果は(人によって)巧拙があっても,得られなくてはならない。ところが,である。
たとえば,ずいぶん昔,佐野勝男氏らが,ハーバード大学のロバート・カッツを紹介した(佐野勝男・槇田仁・関本昌秀『管理能力の発見と評価』。記憶では,これが嚆矢だと思うが,今日独り歩きしている)が,そこで,
「管理技能について,カッツは三つの基本的技能をあげている。テクニカル・スキル(techical Skill),ヒューマン・スキル(human
Skill),コンセプチュアル・スキル(Concrptual Skill)である。」
で,それぞれを,こう説明している。
「テクニカル・スキルはとは各職能分野における仕事の方法,手続等に関する知識・技能である。」
「ヒューマン・スキルとは,集団メンバーと上手に相互作用し,チーム・ワークを盛り立てていく技能である。上役,同僚とうまく接し,部下を上手に使い,組織の能率をたかめる,いわゆるヒューマン・リレーションの技能のようなものである。」
「コンセプチュアル・スキルとは,ものごとの全体的な関係を洞察し,論理的な思考を働かせ,創造性を発揮していく。」
とここで,佐野勝男氏等は,「技能」という言葉にこだわっている。そして,このスキルを図示した有名な,
https://img.jinjibu.jp/updir/kiji/YWK12-1023-management_skill0101.gif
について,この図式は,「この考え方をデイビズが図式化した」と断り(つまりカッツが描いたのではない),
「カッツはこれらの三つの技能は,総て訓練によって開発できる能力であると考えている」
と言いながら,
「テクニカル・スキルは別として,他の二つの技能については先天的なものを考慮はなければならない。」
と付言している。こう付言する根拠は,あるレベル以上でなければならないと,(佐野氏等が)勝手に解釈したせいだと思うが,カッツは,あくまで,(結果の)巧拙は問わず訓練できる,と考えたということを忘れてはならない。
ところが,多くは,次のように,
テクニカル・スキル(業務遂行能力)
ヒューマン・スキル(対人関係能力)
コンセプチュアル・スキル(概念化能力)
と,いつの間にか,カッツが「スキル」と言っているものを,「能力」に置き換えて訳してしまっている。技能とは,
「あることを行うための技術的な能力。うでまえ。」
である。能力一般に還元してしまっては,カッツの言っている意味が変わる。そのことに無頓着だから,定義内容まで変わっていく。
「コンセプチュアル・スキルは概念化能力とも言われ,抽象的な考えや物事の大枠を理解する力を指す。具体的には論理思考力,問題解決力,応用力などが挙げられる。」
「ヒューマン・スキルは対人関係能力とも言われ,職務を遂行していく上で他者との良好な関係を築く力を指す。具体的には相手の話をきちんと聞いて理解するヒアリング,話し合いのなかで自分の意見を主張するネゴシエーション,自分の考えを的確に,論理的に伝えるプレゼンテーション,さらにはリーダーシップやァシリテーション,コーチング,交渉力,調整力などが挙げられる。」
「業務を遂行する上で必要な知識やスキル。これは職務遂行能力とも言われ,その職務を遂行する上で必要となる専門的な知識や,業務処理能力が挙げられる。」
つまり,能力に置き換えたことで,特に,コンセプチュアル・スキルの,大事なポイントが,すり替わってしまっている。流通している考え方では,コンセプチュアル・スキルとは,具体的に,
問題解決力
や
論理思考力
と挙がるが,これは,テクニカル・スキルでしかない。そんなことを言うために,コンセプチュアル・スキルとして,カッツがわざわざ概念化したのではあるまい。ここでは,佐野勝男氏等の定義が正しい。つまり,
「ものごとの全体的な関係を洞察し,論理的な思考を働かせ,創造性を発揮」
なのであって,「論理思考力」は所詮,コンセプチュアル・スキルを実現するための手段に過ぎない。大事なのは,
「ものごとの全体的な関係を洞察」
することだ。僕は,これを,
目利き力
とか
俯瞰力
と呼ぶ。その視野によって,
意味づけること
ができる。上位になるほど求められるのは,
概念化
ではない。
意味づける
あるいは
意味の発見
である。それが新しく,革新的であればあるほど,説明したり,展開したりするのに,論理的思考力や問題解決力(というテクニカル・スキル)が要る(この作業が概念化で,概念化も手段である),というだけである。
しかし,大事なことは,こういうコンセプチュアル・スキルのような,ものの見方というか思考スタイルもまた,スキルだと,カッツが考えたということだ。そこに,佐野勝男氏等のように「先天性を」考えてしまうと,どうそれを育成したり,訓練するかは,ほぼ思考の埒外,つまり不可能になってしまう。スキルと考えるから,
どういうことを学び,
どういうトレーニングをして,
何を体験させ,
どういう知見をえさせば,
これが可能になるか,という思考が可能になる。こういう論理的な詰めは,こう考えると,その前提からして,日米格差がある。
それで思い出したが,第二次世界大戦での,戦闘機の設計思想そのものに,こういう思考の差が現れている。たとえば,
天才パイロットを前提に極限まで軽量化したゼロ戦(後ろに回られたら防げない)
と
普通の(徴兵された)パイロットをも守る防弾装備を強化したF6Fヘルキャット(ともかく兵員を守る)
との差と言っていい。だれでもが学習すれば車の運転のようにできるようになる,そのためにどうすればいいかを,具体的な訓練手段にブレークダウンしていく。これが論理的思考だ。論理的思考が手段というのはこういう意味だ。論理的思考があっても,そもそもの俯瞰力がなければ,下らぬMECE(Mutually
Exclusive and Collectively Exhaustive )のような,役にも立たない細部に血道を上げることになる。
だから,能力と言わず,誰もが身につけられるスキルということで,
ではどうすればそれを身につけることが出来るか,
というKnowing howを突き詰めていく。これを論理的に突き詰め,開発していく,これこそが,
コンセプチュアル・スキル
に他ならない。だから,上位者になればなるほど必要になる。こういうコンセプチュアル・スキルが不足しているから,研修スキルも,研修理論も,いつも,アメリカからの輸入に頼る羽目に陥る。
参考文献;
佐野勝男・槇田仁・関本昌秀『管理能力の発見と評価』(日本経営出版会)
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随分昔,REBT(Rational Emotive Behavior Therapy)を学んだ時の,どこかに残っていたのだと思うが,
二次感情
という言葉が,記憶の底からよみがえった。たぶん,
悲しんでいることに対して,恥ずかしいと感ずる,
というような,悲しみという一次感情に対する,感情的反応のことだと思う。だから,
メタ感情
とも言うと,記憶している。で,ネットを調べたら,
感情とは,何が起きているかということを知らせてくれる身体の中の信号です。起きていることに対する最初の反応は,一次感情 (primary emotion)
と呼ばれています。これらは,即座に出てくる強い気持ちのことで,この一次感情に加えて,二次感情 (secondary emotion)
を経験する可能性もあります。これは,一次感情に対する感情的反応です。別の言い方をすれば,二次感情とは,自分の気持ちについての気持ちです。
とあった。
REBTでは,
感情の決定因は,認知である,
考え方の変更は,感情を整える
と考える。例の,イラショナル・ビリーフ(認知行動療法では自動思考のゆがみ)である。多く,
〜でなければならない
とか
〜すべきである
とか
〜なのは当然である
と思い込んでいる,という類であるが,こういう思考は,ミルトンモデルではないが,遂行部(主語)が欠落して,不当に一般化され,それがおのれを苦しめる。だから,こうした考え方を,
イラショナル・ビリーフ
と呼び,それは,多く,
自分が自分に言い聞かせている,
だから,この思い込みは,変えられる,といういう考え方であった。
まずは,ある不幸な出来事に遭遇したとき,それに対するものの見方を規定し,感情を引き起こす。感情そのものが悪いわけではない。
悲しみ,後悔,不快,欲求不満
は健康なものとされ,
不安,うつ感情,敵意,自己嫌悪,自己憐憫,
は不健康とされるが,一概には言えまい。落ち込んで,自己嫌悪に陥ること自体が悪いわけではない。その自己嫌悪の拠ってきたる認知が,問われる。
しかしだ,例えば,仕事で失敗したとしよう,で,後悔し,自己嫌悪に陥る,それ自体は別にどうということはない。むしろ,失敗しても,へらへらしているようでは,異常である。しかし,
ひとは,失敗してもすぐ立ち直らなければ,不完全な人間である,
と自分で信じている(あるいは,親による刷り込みの)場合,
そういう自分に怒りを感じるかもしれない。情けない,そんなことで,へこたれて,と。
怒りは,多く二次感情,
と言われる。
僕は,この自己完結した,
認知←感情←二次感情,
という閉鎖した自己対話が,嫌いである。あるいは,そういう対話を暴き立てる所業が嫌いである。所詮,閉鎖した自己完結の世界に過ぎない。それが現実に支障を及ぼすほど,うつ状態になるとか,荒れるとかというのでない限り,そういう自己完結した感情は,わずかの時間しか持続しない。
ジル・ボルト・テイラーは,
「わたしは,反応能力を,『感覚系を通って入ってくるあらゆる刺激に対してどう反応するかを選ぶ能力』と定義します。自発的に引き起こされる(感情を司る)大脳辺縁系のプログラムが存在しますが,このプログラムの一つが誘発されて,化学物質が体内に満ちわたり,そして血液からその痕跡が消えるまで,すべてが90秒以内に終わります。」
と言われる。
たとえば,生理的な反応の怒りは90秒まで,それ以降は,それはそれが機能するよう自分が選択し続けている。つまり,思いの(というよりも思い込みの)偏りで,視野が狭窄しており,怒りつづけなければ,思いの秤のバランスが取れなくなっている,ということだ。
われわれは,視野に入ってくるものを見ているのではなく,知識を,思いを見ている。言ってみれば,見たいものしか見ない。だから,その思いで見えたものは,自分にとっては事実なのだ。だから,自己完結している。
だからこそ思うのだ。ある意味で,
メタ・ポジション
が重要には違いない。自分の,かくかくのイラショナルな考えが,屈辱感を感じさせ,それについて僕は怒っているのだな,と認知することは,確か,神田橋條治さんが話しておられた,家庭内暴力をする高校生に,
君が振るバットに手のどこがどんな具合に力が加わると,どんな力が出せるのか,を観察してくるように,
といったような観察課題を出して,治癒に持って行ったというエピソードにつながるに違いないと。
マザー・テレサの言う,
思考に気をつけなさい,それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい,それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい,それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい,それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい,それはいつか運命になるから。
も,出発点は,思いというか,考えというか,認知なのだ。
認知の歪みは,しかし,自己対話では修正できない。REBTでは,6つの原理というのがあり,(ノートに残ったメモによると)
@感情の決定因,それは認知である
A考え方の不足,それが感情を乱す
B考え方の変更,それが感情を整える
C不合理な思考は,それに先立つ多くの要因が考えられる
Dしかし多くの場合,自身が自己に言い聞かせていることが原因である
E思い込みは変えることが可能である
というものなのだが,そのREBTでも,それを直すには,行動療法を取り入れるしかない。つまり習慣化(学習)するまで,身体に覚えさせるしかない。だとすると,
「分かっちゃいるけど,やめられない」
を,たやすく覆せるかどうかは,なかなか,難しいところがある。僕は,結局のところ,
ひろい知見,つまり,見渡す,
パースペクティブの広さ
が鍵だと信じる。無知や狭い料簡では難しいのである。いやはや,
生涯一書生
とは言い得て妙である。
参考文献;
ジル・ボルト・テイラー『奇跡の脳』(新潮文庫)
REBTベーシックコース・テキスト(2006)
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性根が腐っている
とか,
性根が曲がっている,
という言い方をする。
性根とは何か。
語源的には,
しょう(本性)+ね(根)
人間の根源的な性質
を言うらしい。
で,性根の意味には,
@その人の根本の心構え。心の持ち方。根性。
A確かな心。正気。
B物事のかなめとなるところ。本質。
C情人。また,情事。
とあるが,どうやら,@の使われ方が,多いようだ。では,「性」という字は,というと,
「しょう」
とも
「せい」
とも
「さが」
とも
訓むが,
「性」は,
うまれつきもっている心の働きの特徴
さが,ひととなり,ひとやモノに備わる性質,傾向,たち
性別
外形のもとになる,中にひそむもの
の意で,
生
は,芽が地上に生え出る様であり,性は,うまれつきの澄みきった心のこと,
と言う。
「性」で意味が通じるのに,
性根
だの
根性
だの
本性
だの
性骨
だの
土性骨
だのという,根や本や骨をつけるのは,強調するためなのだろうか。では,
根
は,というと,語源は,
本源,元
の意味。植物の根,基底に広がるものということで,大和島根,富士の高根等々で言う,ネであり,あの人は,ネはいい人,というネであるらしい。
漢字の
根
は,木+艮(コン,木のモトの意)で,本と同じ,と言う。
艮
は,眼(目の玉の入る穴)の原字で,
一定のところにとまってとれない,
という意で,根は,
止まって抜けない木のネ
という意味と言う。つまりは,動かない,という含意がある。
その意味で,根性が,
@その人の本来的に持っている性質。しょうね。また,あるものに特有の性質。
A物事をあくまでやりとおす,たくましい精神。気力。
心根が,
心の奥底。本当の心。真情。本性。
というのもよくわかる。因みに,性骨は,
技芸などにおける個性的なうまさ,うまれつき会得している器用さ
である。
しかし,つくづく疑問に思うのは,こういう性質やら心根が,
カタチあるもの
実体
のように言われていることだ。結局,その人の人生は,シーケンシャルで,決して可逆的ではない。その軌跡を,印象としてとどめているから,相手のことをそう思い込むのだし,自分についても,強い印象的なことが図になって,他の面を地として沈めているだけだ。
もとより,自分というものも,自分のタチも,自分のショウネも,形はない。どこかに,そういうコアのようなものがあるのではない。
印象の蓄積に過ぎない。
しかしいったん与えたイメージを覆すことは容易ではない。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
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「てやんでえ」
って何,という話で,
「何言ってやんでえ」
の略だろう。
「四の五の言ううのに,対して言うのでは」
と言ったら,では,
「四の五の」
というのは,どういう意味か,ということになった。それでもって,調べてみるといういきさつで,このブログを書くということに相成った。「四の五の言う」の意味は,
なんのかんのとめんどうなことを言う,
とか
あれやこれやとグズグズ言っているさま,
ということらしい。「四の五の」は,江戸末期の『俚言集攬』に載っているらしい。
賭博用語で「一か八か」の対語として生まれた言葉で,サイコロの四と五の目の形が似ていたことから丁・半のどちらか選ぶか迷っているさま,あるいは,「四だの五だのと文句を言う」を意味した。ここから転じ,一般にも広く普及したが,いまではヤクザ映画や時代劇などで聞かれる程度になっている。
しかし,このほかに,
「一も二もなく」という「即座に」のという意味から,一や二どころか,四や五までぶつぶつ言うところから来ているという説,
四書五経(『論語』『大学』『中庸』『孟子』と『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』)に由来し,「四書だの五経だのと理屈ばかりこねる」という意味,
等々もあるらしい。しかしまあ,『俚言集攬』を採るのが妥当だろう。これは,想像だが,薄暗い賭場では,坐る位置によっては,四の目と五の目は見分けにくかったのではないか,だから,四なのか,五なのか,と,「四の五の」ともめやすかったのではないか,と。
『俚言集攬』には,
一富士二鷹三茄子
とか
ちんぷんかん
とかと,いまも残る言葉がある一方,できないことのたとえにして,
富士の山を張り抜く
というような, 富士山を型にして張子をつくる,という言い方のように,とうに消えた物言いが出ているようだ。「落とし前」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E8%90%BD%E3%81%A8%E3%81%97%E5%89%8D)
でも触れたが,
しかと
とか
やばい
とか
落とし前
とか
チクる
とか
うざい
とか
ばっくれる
とか
等々結構,ヤクザやその筋でしか使っていなかったことばが,素人というか一般人が平気で使うようになった。メディアの影響かもしれないが,そういう境界というのが,消えている,ということなのかもしれない。この言葉だって,消えていく。
それにしても,考えてみれば,つい,
四の五の
と口走ったが,これ自体,もともとは普通の人は使わなかったのだと考えると,いつの間にか日常語になり,そしていまでは死語に近くなっており,若い人は意味すらわからないのかもしれない。
そういえば,「ラ抜き」が問題視されていたことがあるが,たとえば,
食べられる
を
食べれる
寝られる
を
寝れる
というように。年配者は,「言葉遣いを知らない」と批判するが,若い人からは,「食べられる」ではなく「食べれる」の方をOKとするように逆転している。
しかし,この「ラ抜き」現象は,実は江戸時代からあって,それが少しずつ進行してきたものだと,専門家は指摘される。
言葉は生き物なのだから,是非を言い立てる側が,自分の拠って立つ時代背景を根拠にしているだけなのかもしれない。その意味では,いつのまにか,
ナウい
が,それを使うこと自体,微妙な空気を誘うほど,ほとんど使われなくなっている。言葉の消長というか,新しい言葉が生まれて消えていく,消費速度がどんどん早まっているような気がする。
年初にはやった言葉が,それを年寄りが知る年末ころになると,ナウいと同じシチュエーションに置かれる羽目になるのかもしれない。
いやはや,一日一日の過ぎ行く時間の早さを感じるスピードに反して,時代の動きを肌で感ずるまでにはすごく時間がかかるようになる,このギャップの大きさが加齢というもののようなのである。
参考文献;
白井恭弘『ことばの力学』(岩波新書)
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強みとは,
頼んで力とするもの,頼りになる点
という。「強」は「强」とも書く。これは,
「弘」+「虫」で,「彊」(強い弓)を音が共通であるため音を仮借した,
または,
「弘」は弓の弦をはずした様で,ひいては弓の弦を意味し,虫からとった強い弦を意味する。
さらには,
「弘」は「彊」(キョウ)の略体で,「虫」をつけ甲虫の硬い頭部等を意味した,
もうひとつ,
○+虫+彊の略字体で,がっしりした殻をかぶった甲虫。彊に通じて,堅く丈夫な意,
等々諸説ある。いずれにしても,
「彊」に通ずるとしている。「彊」は,
がっちりと堅く丈夫な弓の意。「彊」の,
畺
は,田の間にくっきりと一線で境界を付けることを示し,堅く張ってけじめの明らかな意を含む,とする。
強い弓→頼りになるもの,といった意味だろうか。
昨今,強みを生かすって,散々に言われる。しかしどうなんだろう,と僕は疑問である。いまさら,強みを確かめるっていうのは,どうも可能性(蓋然性か)を言っているだけだ。歳のせいかも知れないが,今まで生きてきた中で,たぶん,意識的,無意識的に,おのれの強みを生かしてきたはずじゃないか,それに名づけをするだけでは,と懐疑的である。まあ,好みの問題に過ぎないかもしれない。
まったく話がそれるかもしれないが,ピーター・F・ドラッカーは,
あらゆる知識労働者に三つのことを聞かなければならない。
1.強みは何か,どのような強みを発揮してくれるかである。
2.何を期待してよいか,いつまでに結果を出してくれるかである。
3.そのためにはどのような情報が必要か,どのような情報を出してくれるかである。
ということを言っていた。僕には,こちらの強みのほうが気になる。その強みとは,別の言い方をすると,「類推」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E9%A1%9E%E6%8E%A8)
でも書いたが,仕事をするとき,それが未知のことであっても,未体験のことであっても,
自分にできるカタチに置き換える
ということをする。言い換えると,自分のフィールドに持ち込んで,そこで言い換える。その,
できるカタチ
とか
自分のフィールド
というのが,ここで言う,強みなのだろうと思う。そう考えてみると,弱みを克服するというのは,無駄な努力に見える。むしろ,強みのフィールドを広げることで,
自分のできるカタチに置き換える
ことのできる,キャパシティというか,容量というものを広げることの方が,実践的である。「軸」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E8%BB%B8)
でも書いたが,かつて,軸足は多いほどいい,
と,独立した先輩らしい人が,独立しようとする後輩に話しているのを,傍で聴いていた(電車の中だったように思う)ことがある。そこで言う,
軸足
とは,専門領域というか,専門とするテーマ,といったような意味だったと思うが,それも,
得意技
と言い換えてもいい。一つしかそれがなければ,置き換えのパターンは限られる。しかし,二つあれば,四倍になる。三つあれば,九倍になる,と思っている。ビジネスの場では,
問われて,自分なりの答えが,出せなければ,
おしまいではないまでも,そこにいない(も同然の)ものと見なされる。それが間違っていても,劣っていても,自分なりの答えを出さなくてはならない。それが考えることだが,しかし,むしろ発想力だと思う。
発想というのは,
何とかすること,
である。知識や経験を当てはめただけでは,答えは出せない。出せないところに,何とか,自分なりのアイデアをだす。その経験の積み重ねがないと,やったことのないテーマには,挑めない。しかし,一度,それについて考え,自分なりの答えを出したこと自体が,何とかする経験となり,
自分にできるカタチに置き換える,
という経験を積んだことになる。それ自体が,自分の領域を広げたことになる。
答は,自分の中にしかない,
というが,しかし,発想とは,
自分の知識と経験の函数
でしかない。知らないことはわからないし,経験したことのないことは出来ない。しかし,それで終わるなら,強みは出来ない。知らないことを,
わかっていることで置き換え,
経験したことのないことを,
やったことで置き換えられる
から,強みになるのである。
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捨てるといっても,僕はへそ曲りなので,流行の捨てる何たら,には竿ささない。そうではない。そもそも捨てるとは何か。
まずは,例によって,字から。「すてる」に当てる字は,
委 「禾(まがってたれた稲)+女」で,しなやかに力なく垂れる意。ゆだねる,まかせる意だが,考えたら,おのれの手を離すという意味では,確かに,捨てるに通じる。
遺 「辶+貴(盛り上がって目立つ)」で,ものを残して立ち去り,それが図となって目立つ意。忘れる,残す,置き忘れるの意。置き残すとは,確かに,心理的には遺棄に通じる。
棄(弃) 「子の逆形+ごみとり+両手」で,赤子をごみ取りに載せて捨てるさまを表すという。思い切りよく捨てる,振り捨てる,という意味。
捨 舍(=舎)は,「(おしのばすスコップのかたち)+口印(場所)」で,のびのびとからだをゆるめて伸ばす休み場所の意。捨は,手の力を抜いて,指を伸ばし話すこと,「取」(手をひきしめて持つ)の逆。「拾う」に対することばで,いらないものとして投げ出したり,見放したりする意。
舎(舍) 「(おしのばすスコップのかたち)+口印(場所)」で,のびのびとからだをゆるめて伸ばす休み場所の意で,捨てるには違いないが,てをゆるめてはなしてやく,あるいはすておく意。
釈(釋) 睪は,「目+幸(刑具)」で,手か背をはめた罪人を,ひとりずつ並べて面通しする意。「釋」は,それに「采(ばらばらにわける)」を加えて,しこりをばらばらにほぐし,一つずつわけて,一本の線に連ねる意。で,ほぐす,とく,ゆるめる,という意で,そこから,つかんだものをはなす,すてるへとつながる。
撤 右側のつくりの方は,「ものの通りをよくする」意で,取り除く,通りをよくする,から捨てるにつながる。
捐 右側のつくりは,「○印+肉」で,捐は,丸くくりぬいて捨て去る意。資材を割く,義捐金の意味がよくわかる。
「すてる」というのは,どの「すてる」なのだろう。溜まったものや不要なものを,ただ投げ捨てるのに意味がないのは,ただの循環に過ぎないからだ。それが,
おのれの死後になるか,
いまになるか,
に,意味があるとは思えない。
捨てられない,という言い方をするが,それは捨てたくないのを言い換えただけだ。捨てたくないなら,そういう自分がいることを認めればいい。その自分も,いつかは,捨てたくなる時が来る。
僕にとって本がその類だが,捨てられなかったのは,捨てるとその後,必要になる時が必ず起き,それが,二度と手に入らない本の場合もあるからだ。いまだに探しているものがある。
学生の時,蔵書をすべて捨てたことがある。うだうだと鬱屈する自分が嫌だったからだ。捨てたからと言って鬱屈がなくなるわけではないことは,その時思い知った。現実の鬱屈は,現実に立ち向かわなくては,晴れないのだ。そんな当たり前のことを捨てることで知るとは,誠におろかであった。しかもそのとき捨てた本には,いま考えると稀覯本というか,その後捜したがついに見つからなかった本がある。その方が,かえって執着を増さしめた。
しかし生きていれば,捨てることを必然的に求めるシチュエーションにおかれる。建て替えで転居したとき,僕は,自分の執着と戦って,ほぼ半分の本と,一切の日記,書き残したものを捨てた。
本については,もはやそれほどの向学心が残っていなくて,捨ててしまったと後悔するケースは,稀になった。思えば,手に入る類の本しか読まなくなったせいだ。
しかし,僕はそういう行為に意味づけることは拒否する。
僕は,引っ越し先や運送会社の倉庫への委託を考えれば,残そうと思えばすべて残せた。そこで捨てようと思ったのは,どうせ建て替えるのなら,過去の軌跡や記録をこの際一掃してみようという意志が先だ。そこに意味は,それ以上ないし,だからと言って,自分に変化が起きたわけでもない。
第一,捨てる行為は,現実と何の格闘もしていない。ただの自己対話というか,自己完結した自分の中での世界の話だ。人は,現実と格闘しなければ変わらないと信じている。ものを捨てる行為に意味づけするのが嫌なのは,それは何一つ自分が現実と格闘しないで,自分を変えようという虫のいい心根が賤しいからだ。
片思いはいくらしても,自分は傷つかない。ストーカーも本人の妄想世界で完結している限り,傷つかない。相手と相まみえて初めて,現実にぶつかる。それを経ないで,人は,決して成長しない。妄想の世界の中では,自己対話でしかないからだ。
認知症にならない三条件というのがある。
脱メタボ,有酸素運動,コミュニケーション
である。脱メタボも,有酸素運動も自己完結してできる。大事なのは,人とのコミュニケーションなのである。独り言やテレビとの対話では,脳のネットワークは,痩せていく。いや脳細胞は死んでいく。刺激にならないからだ。同じことだ。他者と関わるとは,あるいは現実と向き合うとは,人と向き合うということだ。
敢えて言うなら,捨てるというなら,
喜捨,
それも,一切合財の預金も,家族も,家も,物も捨ててみればスッキリするだろうか。そうではないのだ。出家を決断した,その決意が,ものを放棄させるのではないのか。僕は,人の方を優先する。捨てる自分によって,自分を変えようとするのは,意志としての自分の放棄だ。
惜しむとて 惜しまれぬべき此の世かな 身を捨ててこそ 身をも助けめ
とは,佐藤義清の出家に際しての歌だと言われる。西行である。真偽は知らぬが,出家の際に衣の裾に取りついて泣く4歳の娘を縁から蹴落として家を捨てたとも,弟に託したとも,いわれる逸話が残る。
いずれにしても,一切合財を,そこに置き残したことに変わりはない。出家の意思が先なのである。
最近の脳科学に拠れば,こうである。
おのれの意図を意識するのは,運動が生ずる250ミリ秒前,脳は,それより400ミリ秒前に,運動神経系の活動電位が変化している。
つまり,おのれが捨てようと思うより前に,すでに脳は,捨てるべく身体を動かそうと活動を始めている,というわけだ。
ということは,おのれの意志の前に,そう脳は,おのれの意識に意志せしめるように活動を開始している。脳もまた自分であるかもしれないが,それは無意識のおのれだ。そのおのれをなぞって,意識が,動き始める。
しかし,だ。脳科学が何と言おうと,人は,自由意志という幻想で,自分であることができる。そういうことの方に,僕は,意味を見出す。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
上へ
詳しいことはわからないが,僕の経験の中では,このところ,鉛筆の持ち方が,変な学生が結構いる。それは,たぶん,箸の持ち方にもつながるのではないか。という気がする。偏見かもしれないが,敏捷性というか聡さともつながる気がしてならない。
変な箸の持ち方をしているだけで,そう見えてしまう,こちらの先入観のせいかもしれないが。
しかし,これは,しつけの部類だと思う。親自身が,ひょっとすると,それを教わっていない可能性がある。これを文化などと大袈裟な言い方をしたくない。どっち道,箸もその持ち方も,使い方も,中国伝来でしかなく,漢字と同様,中国文化圏内の問題でしかない。
しかし,見苦しいのである。だから,美学の問題,あるいはちょっと大袈裟に言うと,生き方の問題である。小事は大事である。
「箸」の字は,いわゆる,
食べ物を挟むのに用いる一対の棒
の「はし」をいうが,その意味以外に,
表す,述べる,書き表すの意味で,著と同義。「忠信を致し仁義を箸す」
きる,衣服を身につけるの意味で,着と同義。
つく,ねばりつくの意味で,着と同義。「兵晋陽に箸くこと三年」
といった意味があり,「竹」+音符「者」(ひとところに集める,くっつける)
とある。竹は多分素材だろう。
箸の語源には4つの説がある。
「挟むもの」という意味で,その役割を語源とする説。
端の方でつまむことから,「はし」になったとする説。
「橋」や「柱」など,その見た目の形から「はし」になったとする説。
古くは,一本の棒(竹?)を折り曲げ,ピンセットのように挟んで使ったので,鳥の嘴に似た形から,「嘴」とする説。
等々がある,といわれる。
ところで,箸はいつごろ日本に伝えられたのか。
3世紀に書かれた『魏志倭人伝』では「倭人は手食する」とあり,箸を使っていなかったようである。同じ時期について,『日本書紀』『古事記』には箸の記載がある。しかし,7世紀に入って遣隋使が中国から帰国した時にたくさんの中国文化を日本に持ち帰り,そのなかに中国の食法(箸食)があり,中国の食法といっしょに箸が日本に伝来したという説がある。まあ,その前から,中国とのやりとりがあり,いずれかに伝わってきたとみるのが妥当だろう。
とうぜん持ち方というか,使い方も伝わったはずである。どの時代に,一般庶民まで,下々までが箸を使うようになったかはわからないが,正しい箸の持ち方というのがあり,
@箸の片方(固定箸)を親指の根元にはさむ。
A薬指を軽く曲げ,第一関節の上にして親指と薬指で支える。(薬指が固定箸の重心になる)
Bもう一方の箸(作用箸)は親指の腹ではさみ,中指の第一関節で支える。(作用箸の重心には親指の腹がくる)
C作用箸の支えをしっかりさせるために,小指を薬指に添わせる。
とネットにあった。箸の使い方も,
上の箸は下の箸から離して持ちます。
おもに人差し指と中指を動かして作用箸を上下に動かしますが,上下の箸が近いと大きく開くことができないばかりか,箸先がピッタリ合わないので,小さな物をつまむこともできません。上の箸だけが動きますか?
正しい箸の使い方は,二本の箸の両方を動かすのではなく「下の箸はしっかり固定し,上の箸を動かす」ことです。
とある。これは,蝶結びと似ていて,習い性になる。恥ずかしながら,僕は,蝶結びの手順が一か所逆で,どうしても,羽が立ってしまっていた。気づいて修正すると,いつの間にか,それが習性になる。問題はそれに気づくかどうかだ。
この箸の持ち方が,ペンや鉛筆の持ち方につながる。でないと,ベンだこ(もはや死語?)が,とんでもないところにできる。
前にも書いたが,
学を好むは知に近く,力行は仁に近く,恥を知るは勇に近し
という。あるいは,士とは何かの問いに,
己を行うに恥有り
と,孔子は答えた。その伝で言うと,
握り箸(二本の箸を握り込む持ち方)
ペン箸(薬指を使わずに鉛筆を持つように箸を持つ)
交差箸(箸先が交差する持ち方)
というのは,やはり美しくない。言い方が悪いが,お里が知れる。つまり,親の不調法か無神経を宣伝しているようなものだ。
筆の持ち方と,いわゆるペン・鉛筆の持ち方とは違うようなので,軽々しいことはいえないが,
鉛筆にも正しい持ち方があるらしい(トンボ鉛筆によると)。
@人さし指は鉛筆の先から25ミリ(幼児・児童の場合)のあたりに置きます。親指は人さし指より少し後ろに置き,中指を人さし指より前に出して,3本の指で軽く持ちます。薬指と小指は中指に沿わせて軽く曲げます。
A人さし指に沿わせてえんぴつを持ちます。
Bえんぴつを正しく持つと,自然とえんぴつの軸は紙に対して50度〜60度になります。えんぴつの軸は紙と直角ではなく,右に約20度傾けます。
とある。箸もそうだが,人差し指と中指の使い方が鍵に見える。これは,どうも筆も同じらしく,ふたつあり,
単鉤法は,
親指と人差し指で筆の軸を軽く持ち,筆に中指,薬指,小指を軽く添えます。指が3本かかるので細かい文字を書くのに適している。鉛筆持ちに近い
双鉤法は,
筆の軸に親指と人差し指と中指をかけ,薬指で軽く支えて持つ。親指と指2本で筆を持ち,残りの指2本で支えとなる。現在主流となった鉛筆やペンなどとは違った持ち方になる
やはり,中指と人差し指(あるいは親指)を器用につかう。これは,手先の器用さと関係がありそうで,昨今,人のことは言えないが,日本人が無器用になってきたのと関係がある。それは,ボケともつながる気がしている。
ただ,ちょっと気になるのは,たとえば,ネットで「手先の器用さ」で引いて出てきた一文に,
「西洋料理では『ナイフとフォーク』を使って食べますが,和食では『箸』を使います。箸を使うほうが難易度が高いように思えます。たった2本の棒です。この2本の棒だけで,切ったりつまんだりするわけです。使いこなすには,ある程度の器用さが必要です。日本は,技術大国と言われます。小さな精密機械を作ったり,布に細かい縫いとりを施したりなど,小さなことを手際よく処理するのにたけています。日本人は小さなことに気を使いやすく,注意を払う性格の人が多いです。それは,箸を使う文化が影響しています。」
という類のものがある。箸は「日本文化」かもしれないが,大きくは,「中国文化圏」の中の分派であることを忘れていることだ。別にわれわれが箸を発明したのではない。倭人は「手食」していた。もし,箸がそれの淵源なら,箸を使う,韓国,北朝鮮,シンガポール,ベトナム,タイ,カンボジア,ラオス,モンゴル等々もその中に入ることを忘れてはならない。
こういう類の論旨に,自画自賛の詐術が紛れ込む。おのれを知らない,ということは,恥ずかしいことである。夜郎自大(井の中の蛙でもいい)が貶める言葉であることを,まさか知らないのではあるまい?
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
上へ
久しぶりにラッシュ時に乗り合わせると,まあ相変わらず(昔に比べるとかなり減ったが),右も左も,日経新聞を広げていること。これじゃ,日経の主張に感染するんじゃないか,と皮肉りたくなる。
別に僕は専門家でも現役ビジネスパーソンでもないので,きいたふうな口をきく資格はないが,皆が読んでいる情報源だと安心するんだろうか,と思いたくなる。同じ情報源でも,そこから読み取るものは,その人次第ということは確かにある。かつてのクレムリンウォッチャは,普通に発信されている情報から,現況の微細な変化を読み取ったと言われているのだから。
まあ,そういう例もあるには違いないが,僕は,誰もが読んでいるものなら,誰かに聞けばいいのであって,わざわざ一緒になって,それを読む必要はないと思う。電車内で新聞を読むこと自体を否定はしないが,どうせなら,人とは違うものを読んだらどうか,と思ってしまう。へそ曲がりのせいかもしれない。
情報とは,というと,たとえば,「情報とは」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/prod05111.htm#%E6%83%85%E5%A0%B1%E3%81%A8%E3%81%AF)
で挙げたように,クロード・シヤノンの,
「あるメッセージに含まれている情報の不確実性を減らすために必要な量の情報をシャノンは,次のように定義した。情報量I,得られる可能性のあるメッセージ数Mとするとき,I=log2M あるいは言い換えると,M=2I
。情報量を1単位ふやす毎に,不確実性は半分になる。つまりMはI回の二者択一の結果,発生確率1/2での等分割のI回の繰り返しとして表現できる。」
とか,N.ウィーナーの,
「情報とはわれわれが,外界に適応しようと行動し,またその調整行動の結果を外界から感知する際に,われわれが外界と交換するものの内容である。情報を受けとり利用してゆくことによってこそ,われわれは環境の予知しえぬ変転に対して自己を調節してゆき,そういう環境のなかで効果的に生きてゆくのである。」
を採りたがるかもしれないが,ぼくには,金子郁容の
「情報とは,『伝達された(る)何らかの意味』である。そのためには,3つの要件がある。情報の発信者と受信者がいること,伝えられるべき何らかの意味(内容)をもっていること,受け手に伝わるスタイル(様式・形態)で表現されていること。」
「コード化できる情報を『コード情報』と呼び,コードでは表しにくいもの,その雰囲気,やり方,流儀,身振り,態度,香り,調子,感じなど,より複雑に修飾された情報を『モード情報』と呼ぶ。」
や,ピーター・F・ドラッカーの,
「情報とは,データに意味と目的を加えたものである。データを情報に転換するには,知識が必要である。」
や,グレゴリー・ベイトソンの,
「情報の1ビットとは,(受け手にとって)一個の差異(ちがい)を生む差異である(のちの出来事に違いを生むあらゆる違い)。そうした差異が回路内を次々と変換しながら伝わっていくもの,それが観念(アイデア)の基本形である。
情報とは,(付け加えるなにかではなく)選択肢のあるものを排除するなにかである。」
等々がお気に入りである。ここから自分なりに感じたことは,
・情報には,「コード情報」と「モード情報」がある。(金子郁容)
・情報とは,データに意味と目的を加えたものである。(ドラッカー)
ということであり,さらに,
・情報とは差異である(ベイトソン)
ということだ。ということは,コード化できる,
コード情報
ではなく,コード化できない,
モード情報
こそが大事ではないかという思いにつながる。それは,言い換えると,
いま
ここ
(で得られるもの)が大事ということになる。いま,ここの変化は,いま,ここにいるものにしかわからない。その瞬間にしか得られない,という意味だ。それは,コード情報では決して得られない。
ある意味,新聞情報は,
・自己完結している→文脈・状況から分離されている
・言語化しないと情報にならない→情報は向き(意味づけ)を与えられている
・丸められている→抽象化されている
ものでしかない。そこからよほどの読解力があるならともかく,そこにある情報を読んだところで,皆と同じ程度,あるいは記事の書き手の送っている情報以上は読み取れないのではないか。
本来,情報は,
ことば(数値も含めたコード情報)と状況・文脈(ニュアンスのあるモード情報)がセットになっている。しかし,言語化されるには,その人が受けとめた場面や出来事を意味に置き換えなくては言語化されない。
その意味で,すでに丸められ,意味づけられてしまっている。
どんな場合も,出来事だけでは情報にはならない。その情報を発信してはじめて情報になる。そのとき,情報は,その人がどういう位置にいて,どんな経験と知識をもっているかによって,情報は,再構成される。つまり,コード情報であれ,モード情報であれ,情報になるためには,発信者によって向きが与えられる。向きがなければ情報にならない。
つまり,情報(報告/記事)には3つの偏りがある。
・発信者(目撃者)による主観(発信者に理解された範囲で意味づけられた情報)
・報告者(伝聞者=記述者)による主観(記述者に理解された範囲で意味をまとめられた報告情報)
・受信者(読み手)による主観(読み手に理解された範囲で意味を読み込まれた情報)
その言語を受けとめるのは,その人の記憶(リソース)に基づいて受けとめる。その意味の背後に,その人のエピソード記憶,手続き記憶に基づいて,つまりは体験に基づいてイメージを描く。読み手は,そのコード情報を,自分のモード情報で具体化し,読み直す。
その意味では,モード情報をどれだけ持っているかが,情報の読みを変える。とすれば,新聞を読んでいる暇に,車内を見まわし,いま,ここでしか取れない情報を感じ取った方がいい。
女性のファッションかもしれないし,
女子高生の生態かもしれないし,
車内の中吊り広告かもしれないし,
車内の年齢構成かもしれないし,
車窓に移る沿線の変化かも知れないし,
車窓の季節の変化かもしれないし,
等々,その蓄積が,コード情報の読みを深めるような気がしている。新聞情報に振り回されない独自の視点が必要だが,それは,コード化できる意味ベースでは決してないと思っている。
参考文献;
金子郁容『ネットワーキングへの招待』(中公新書)
P・F・ドラッカー『経営論』(ダイヤモンド社)
グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学』(思索社)
上へ
そもそも
は,
抑々
と書くが,語源的には,
ソモ+ソモ
だという。
ソモ
というのは,
「それも」
という意味らしい。で,文頭のそもそもは,,
一体,
とか
さて,
の意味になる,という。その例示として,
「そもそも,それが間違いのもと」
と示されている。しかし,不遜ながら,それは,ちょっと違うのではないか。
「そもそも,それが間違いのもと」
というのと,
「さて,それが間違いのもと」
というのと,
「一体,それが間違いのもと」
とでは,まったくニュアンスが違うのではないか。
さて,
というのは,辞書では,
「これこれで」「しかじかで」
や
「そのままで」「そのようで」
と言った使い方をするが,文頭で使うときは,
そうして,
それから,
という意味だという。しかし,ちょっと違う気がする。
それから,
だと,それまでの文意をそのまま続ける感じだか,
さて,
と使うことで,話題を転じるニュアンスがある。たとえば,
何々というわけなのです。さて,
といったとき,むしろ,「ところで」というニュアンスになる。
それより,一体には,
おしなべて,
とか
総じて
という意味になるので,いくらか,「さて」よりは「そもそも」に近いことは近いが,しかし,「一体(に)」は,
一般的に,
とか
全体的に
といった,ひとしなみに括るというか,丸めるという感じがある。あえて言うと,風呂敷でひとまとめにするというか,水平に広げる感覚である。しかし,
そもそも
というのは,
根本的に,
というか,もう少し掘り下げて,
根源的に,
という,垂直的に遡及していく感覚がある。
で,辞書を引いてみると,
「其(そ)も」を重ねた語
とあって,
ものごとを説き起こすときなどに文の冒頭に用いる語
としている。副詞的に
それがそもそもおかしい
という使い方もするが,名詞化して,
はじまり,
最初,
おこり,
という意味としても使われる,とある。この,名詞化したニュアンスが,もともと
そもそも
にまとわりつくにほひの気がする。つまり,
ことの起こり,
というか,
謂われ,
というか,
由来,
というか,
発端,
と言ったような。だから,類語としては,
元から
初めから
元来
元は
元来は
元々
最初から
古来は
当初
等々が出てくるが,しかし,「そもそも」と言うとき,単に,
始め,
とか
最初,
というのではなく,
「軽々しく言われているが,これは,そもそも」
ともったいづけて,何と言うか,仰々しくというか,思わせぶるというか,どこか,実体よりも嵩上げして,
もっともらしく権威づける(逆に大袈裟に貶めるという使い方もある),
といった意図が透けて見える感じがある。でなければ,こんな大仰な物言いはしない。
「そもそも,わが社は,」
とか
「そもそも,我が家は,」
とか,逆に,必要以上に貶めるために
「そもそも,お前と言うやつは,」
と言うのもあるが。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
上へ
「てにをは」は,
弖爾乎波
あるいは
天爾遠波
と当てる。博士家の用いた「ヲコト点」の四隅の点を,左下から順に時計回りに,左上,右上,右下の順に読んだことに由来する(「テニヲハ」となる)。
たとえば,
http://www.robundo.com/robundo/column/wp-content/uploads/2011/03/%E3%82%92%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%A6%E3%82%93-%E5%8F%B3.jpg
の図を見れば,一目瞭然。
意味的には,
助詞・助動詞・接尾語に用語の語尾を含めた汎称,主として女子・助動詞。
国語の助詞・助動詞など文節の末尾に付く語の総称。
とある。まあ,膠着語と言われる日本語の特徴である。因みに,膠着語に分類される言語は,日本語の他,
トルコ語,ウイグル語,ウズベク語,カザフ語等のテュルク諸語,満州語,朝鮮語,モンゴル語,フィンランド語,ハンガリー語,タミル語,エラム語,シュメール語,エスペラント語
などがある。
一説では,
「ヘボンがそのように呼びました。」
とある。日本語を学ぶ外国人にとっては,「て・に・を・は」の使い方は,悩ましい問題のようなのである。
「てにをは」には,そのほかの意味に,「てにをは」の用法を指し,比喩的に話の辻褄を指す。
たとえば,「てにをは」があわない,といいうと,
てにをはの使い方がおかしい,
話のあわない,話の筋道が合わない,
という意味に使う。最近では,
リテラシー
という言い方をする。リテラシーは,和製英語的には,
「何らかの表現されたものを適切に理解・解釈・分析・記述し,改めて表現する」
という意味に使われているが,元々は,
「書き言葉を,作法にかなったやりかたで,読んだり書いたりできる能力」
を指していたようだ。英語では
「letter 文字」という言葉から派生させる形でliteracyと言い,いまでは,様々に類推的・拡張的に用いられるようになり,一般的には,
「なんらかの分野で用いられている記述体系を理解し,整理し,活用する能力」
まで拡張して使われるようになっていて,たとえば,
メディア・リテラシー
コンピューター・リテラシー
情報リテラシー
等々という言い方をする。
その意味では,「てにをは」の使い方とよく似ている。
もともとは,「ヲコト点」
乎己止点
は,外国語である漢文を訓読するために漢字に付けた,点・線・かぎ形などの符号である。言ってみると,
漢文リテラシー
の成果なのである。それは,
返り点・送り仮名に当たるものや,読む順番を示したり,送り仮名や句読点,片仮名などで,漢字の四隅や中央に朱や青で書き入れ,たとえば,漢字の右上に点があれば「…ヲ」と読む。平安時代初期から鎌倉時代にかけて,僧の間で経典を読むために盛んに行われた,
という。
それにはいくつかの形式があるが,その一つの博士家では,右肩の上・中の点が「ヲ」「コト」を表したのでこの名称がある。四隅を順に読むと,「テニヲハ」になるので,「テニヲハ点」というらしいのである。
つまりは,こうやって,我々の先祖たちは,漢語を自家薬籠中のものとすることで,日本語というものの言語としての奥行を広げていったわけである。たとえば,
「明治維新に欧米の文明を受け入れて自分のものにしたのも,かつて漢字を通して中国の文明を受け入れて血肉化した経験があったからでしょう。ついでにいえば,現在中国で使われている漢字熟語60パーセントが明治維新に欧米語を受け入れるに当たって日本人が作った和製漢語だとききました。」
というほどに使いこなし,かつての知識人は,漢詩まで自ら作った。だから,真名としての漢字に対して,漢字を借りることで作り出したかなを,仮名と呼んでいる。
しかも,漢字を学ぶだけでなく,漢字を通して,
「日本人は中国から文字の読み書きを教わると同時に,花鳥風月を賞でることも学んだ。花に関してはとくに梅を愛することを学んだが,そのうち自前の花が欲しくなり桜を賞でるようになった。梅に較べて桜は花期が短いので,いきおいはかなさの感覚が養われる。」
という自分たち独自の感性を発見するところまで到達するに至る。
わが国には,文字がなかったのである。漢字をとり入れ,自分たち言葉として読む工夫をすることで,
我が国独特の漢字 仮名交じり文
でき上がってきた。「ヲコト点」は,あるいは「てにをは」は,いわば,日本語の原点そのものと言っていい。「ヲコト点」がなければ,日本語は,ずいぶん貧弱だったに違いない。
ちなみに,この「ヲコト点」のように,位置を利用した書き方は,速記の世界でもあるようだ。ただ速記の場合はスピードが要求されるので,数音の言葉に当てはめ,その点の位置から次の速記文字を書き連ねていくらしいが。
参考文献;
高橋睦郎『漢詩百首』(中公新書)
上へ
そこそこ
がいい,と思ってきた。そこそこは,
@「落ち着かず急ぐさま」や「急いで簡略にすませるさま」を表す。「食事もそこそこに仕事に戻った」
A「少ないが満足出来る程度」という意味。 類義語に『ほどほど』『いい加減』。「遊びもそこそこにしなさい」
Bそこそことは量的に辛うじてこれくらいの意で,類義語に『ある程度』『ギリギリ』。「そこそこの自信はある」
Cそこそこ(其所其所)とは場所をさすときに使われる。「ほら,そこそこ,すぐ後ろにいる」
といった意味があるが,ここでは,
まあまあ,
ほどほど,
まずまず,
と
そこそこ
との関係を考えるので,ABの意味に焦点を当てている。
十分ではないが一応のレベルにあるさま,ないし程度
の意味。だから,
ある程度,
可もなく不可もなく
平凡
よくも悪くもない
といったニュアンスである。それって,評価されていることなのか。
そこそこ
と
まあまあ
と
まずまず
では微妙にニュアンスの差がある。少なくとも,
まあまあ
は,「かなりの程度」という意を含んでいる。
まずまず
も,「まずまずの天気」という言い方をするので,曇り空ではない。しかし,「そこそこの天気」といったときは,曇り空,少なくとも雨は落ちそうもない,といったニュアンスになる。
まずまずのでき
と
そこそこのでき
と
まあまあのでき
と比較してみると,同じ中程度,平々凡々の意味ゾーンに入るとは言うが,ちょっと意味が違う。
不思議なのだが,われわれは,その言外の言葉のニュアンス差を承知している気配である。
頑張った(出来の悪い)部下に,「そこそこ」「まあまあ」とは言わず, 「まずまず」と言う。
期待している(出来のいい)部下には,「まずまず」「そこそこ」とはいわず,「まあまあ」と言う。
大口叩く部下には,「まあまあ」とも「まずまず」とも言わず,「そこそこ」と言う。
この言語感覚は何だろう。言葉で説明しようとすると,ちょっと難しいところがある。基準としては,
ほどほど
なのだが,
期待値より低ければ,そこそこ
となり,
期待値に近ければ,まずまず
となり,
期待値すれすれならば,まあまあ
という。しかし,ほどほどの中に二つの幅がある。
ひとつは,期待値というか,思っていた基準から下げていく,
という評価視線と,
もうひとつは,相手自身の力量評価と言うか,基準から上げていく,
という評価視線である。
これが自分自身だと,
まずまずは,
上の部,
まあまあは,
中の部,
そこそこは,
下の部
となる。やはりそこそこは,ぎりぎりセーフという意味になる。平凡ではなく,かろうじて,人並みという意味である。
上へ
老いは
不治の病
という。誰もが避けられない。
「おい」の語源は,
「老ゆの連用形(名詞化)」
で,「老ゆ」は,
「大+ゆ(自然に経過してそうなる)」
であろうとされている。で,
季節が終わりに近づく
意にも転じている。
老
は,象形文字で,
年寄りが腰を曲げてつえをついたたまを描いたもの
とする説がある。別説に,
「毛(髪)+人+ヒ(化ける)」
で,
人の髪が白く変化する
という意ともされている。唯一書に,
七十歳の称
とある。「曲礼」に,
大夫七十而致事
として,七十の別称として,
致仕
が,「七十にして心の欲するところに従いて矩を踰えず」からくる,
従心
と並んで,七十の異称。
中国では,七十で,官を辞することが許されるという(日本もそれに倣った)。ちょっと,日本で言う,人生五十年は,貧しい倭国ならではのことなのではないか。五十六十は,まだまだ隠遁を許されない若輩なのだ。
では,「老い」を自覚してすべきことは何か。あるいは,老者がすべき天命とは何か。これについては,「若さ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E8%8B%A5%E3%81%95)
でも書いた。
命を知らざれば,以て君子と為すことなきなり
別に君子ではないとしても,
命
いわば,生きる意味,あるいは生きている役目
を思わなければ,ただ惰性になる。
死生,命あり,
富貴,天にあり
である。生き方は,
心映え
に現れる。いや,逆か,
心映えが,生き方に現れる。この頃,老いと戦うのをやめた。なんせ,不治なんだから,それと付き合うしかない。いわば,ずっと,
ホスピス
である。でも,頭は働く。頭を働かすことはやめないことだ。ただし,
老いの入り舞
は,つまり最後のひと花は,さもしい。そうではなく,メタ・ポジションというか,
目利き
見立て
こそが,使命なのではないか。ところで,セネカは,死の訓練について,
一日の各時間が人生という長い一日の瞬間であるかのように,一日の最後の瞬間が人生の瞬間であるかのようにして自分の一日を組織し経験する……このようなモデルにしたがって1日を生きることがてきたならば,一日が終わって眠ろうとする瞬間に,「私は生き終えた」と,
笑顔で言えるだろうと,言っているという。それに倣ったマルクス・アウレリウスは,
最高の人格とは,日々をおのが終焉の日のごとく暮らすことだ
と書いている,そうだ。とすると,残された日々,このように生きてみるというのも,まだ間に合う処方箋,「人生の技法」なのだろうか。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
ミシェル・フーコー『主体の解釈学』(筑摩書房)
上へ
いわくは,いわゆる,
曰く
からきている。
わけ
とか
仔細
とか
事情
という意味である。
いわくつき
とか
いわく因縁
とか
いわく言い難し
という用例になる。
浩然の気を問われて,孟子が
いわく言い難し
と答えたという。言葉では何とも説明しがたい,という意味だが,
曰く
つまり,「言う」から来ているのを思うと,なかなか面白い。しかし,
いわく
は日本語である。語源は,
イハ(言ふの未然形)+ク(名詞化の接尾語)
で,言うことには,の意。それが転じて,理由,事情となった。
(未だ)言わんとした状態のまま,
と考えると,いわく言い難しはよくわかる。言外の意味と言うか,口に出せないという意味から,わけあり,となるのも分からなくはない。
僕の記憶が間違いでなければ,かつては,
子曰く
を,子のたまわく,と訓ませていた。
のたまわく
とは,
ノタマハ(のたまふの未然形)+ク(名詞化)
だという。ちょっと納得しがたい。で,もう少し見ると,
のたもう(宣う)
とある。
ノリ(宣るの連用形)+給ふ
の約まったもの,とある。言う,告げるの尊敬語ということになる。
つまり,もともとは,
曰(エツ)
には,言うの意味しかないのに,日本語で訓むとき,勝手に「のたまわく」と言っていたことになる。
曰
は,口をあけてものを言う,という意味。
口+乚印で,口の中から,言葉が出てくることを示す,
と言う。因みに,
謂う
は,口を丸く開けてものを言う
で,特に,人に対して言うのを指す。あるいは,その人を評するのにも使う。で,何かをめぐってものを言う時に使う。
言う
は,「辛(きれめをつける刃物)+口」で,はっきりと角目を付けて言うことを指す。
云う
は,口ごもって声を出す意。
道う
は,言うと同じのようだが,「言うは実用にして重く,道うは,虚ようにして軽い」と説明にある。ちょっと意味が分からないが,たとえば,
孟子性善を道う。言えば必ず堯・舜を稱す。
と使い分けている。
よく似たのに,
いわれ(謂われ・言われ)
がある。
由来として言われていること,来歴,理由
の意味で,
謂われ因縁(物事の起こった由来)
という使い方もある。語源は,
言は+る(受身)の名詞化
だという。これは,延々と「言われ」てきたこと→由来と考えれば,そのままだ。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
上へ
人の好意や厚意を受け取るのが苦手である。元来,人から好感をもたれる質ではないので,言われ慣れないということもある。しかし,それ以上に,そんなものに値するとは,どこかで信じていないせいかもしれない。
これについては,「受け取る」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E5%8F%97%E3%81%91%E5%8F%96%E3%82%8B)
で,別の切り口で書いたことがある。僕だって,
評価
や
褒賞
とは無縁で生きてきたわけではないから,評価されれば嬉しいし,それが報奨につながれは,なお嬉しい。
確か精神科医の神田橋條治さんが,正確ではないかもしれないが,
ほめることは的にぴったり当たらなければなめられる。
然ることは三分的を外さねば逆らう。傷口に直接触れられるのは痛いものまである。その痛さから新しい気力がおこるものであるから,傷口の深さまで見極めねばならないが,的中必ずしも心を開かない,
と,あるところで言っておられた。あるいは,どこかで,評価が的中していない,と思っているせいかもしれない。
「ほめる」は,
ホ(秀)+む
で,秀でているのをほめたたえる,という意味である。ひとくちに,
ほめる(ほむ)
といっても,
褒(貶の反対。善をほめすすめる。褒美すること)
誉(毀の反対。みんなでもてはやす,ほめそやす意。)
賛(脇から励まして力を添える。脇からほめる)
讃(ことばをそろえて,脇からほめあげる)
賞(罰の反対。褒美すること。功労に相当する褒美をあてがう意)
美(刺〈そしる〉の反対。善いことがあるのを,よしとほめる)
称(たたえる。わいわいとおおっぴらに持ち上げる)
頌(容に通ずる。人の徳を詩歌などにつくり形容してほめる)
等々とある。
何を称揚し,何を賞賛し,賞美し,礼賛し,賛美するにしても,過褒,過賞,溢美は,こそばゆい。
人は,自分の判断基準をもって,凄い,素晴らしい,と言う。しかし,それは,その人の基準に過ぎない。褒められた側は,おのれの基準があって,いっとき称揚感があっても,レベルが低いと思うと,まだまだとおのれを奮い立たせようとする。そこで,誉められれば,その賞賛は,受け取れないのではないか。
毀誉は,評価である。評価とは,
品物の価格を定めること
善悪・美醜・優劣の価値を判じ定めること
とある。結局人は人を自分の秤でしか評することはできない。「三軍を率いて指揮するとしたら,誰とともにしたいか」と,子路に問われて,
暴虎馮河し,死して悔いなき者は,吾与にせざるなり。必ずや事に臨みて懼れ,謀を好みて成さん者なり,
と孔子は答えた。そこには,問いかけた子路の一本気で勇猛を恃むことへのたしなめがある。この文章の前半は,顔回に対して,
これを用うれば則ち行い,これを舎(す)つれば,則ち蔵(かく)る。唯我と爾とこれ有るかな。
という言葉がある。それに反発しての子路の問いである。そこには,何を是とし,何を非とするか,についての孔子の明確な基準が示されている。
考えれば,『論語』は,孔子の評価基準そのものを示している。そのとき目の前にいる弟子に言っている言葉だ。たぶん,ぴたりと当てはまっていたに違いない。だからこそ,弟子はそれを記憶に残し,記録に残した。その言葉自体が学びになっていたからである。
だから,評価は,毀誉とともに,ピタリと当てはまらなければ,聴いた側は,ギャップの方に目がいく。
それは違う
ここが違う,
と,素直には受け取れまい。しかし,まあ,たぶん,あいまいに笑って流すしかない。受け取れない理由を説明するには,その乖離をいちいち説かねばならない。で,そう説明しても,その差がどこまで埋まるか…,辿れば,生き方の違いに行き着いてしまう。
勝海舟の福沢諭吉への返事,
行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張。我に与らず我に関せずと存候
が,好きなのは,そこまで自恃高く突っぱねられないせいなのかもしれない。
上へ
自分の描きたいことを書いているのでは,プロではない,
という言い方をする。読者は何を求めているのか,読者をあっと驚かすにはどう書いたらいいのか,と言うところに,物書きの真骨頂があるのだ,と。
もっともだと思うが,その説を僕はとらない。というか,僕はそれほど器用ではないので,そういうことができない。むしろ,
自分の描きたいことを書かなくて,何を書くのか,
という思いがある。せっかく,好きな物書きをするなら,おのれの好きでもないことを書いてどうするのか,と思ってしまう。まあ,だから,素人にとどまるのだろうが,しかし,思う。
売れるとか,売れないとか,を初めに考えて,面白いアイデア,画期的な商品が出ることは,ほとんどない,と僕は思っている。世に出て初めて,
こういうものが欲しかった
とか
こういうのを待っていた
という声が出るのは,市場調査をいくらやってもつかめっこない。だって,いまだかって,世に出ていないものなのだから。そのカギは,甘いと言われるかもしれないが,あのウォークマンがそうであったように,
自分が心底ほしいもの
あるといいと思っているもの
でなくてはならない。それは,自分の中にしかない。だから,
自分が面白いと思わないようなものを描いて何が面白いのか,
と思う。
だから素人なのだ,という突っ込みの声が飛んできそうだが,世の中の流れや動きを見極めて出てくる商品にろくなものはない。そうではないのだ,自分が心底欲しいものを創りだすことで,世の中が動く。だから,
考えることも,
書くことも,
面白いのではないか。それは,別の言い方をするなら,
見たこともない視界を広げる新しいパースペクティブ
なのだと思う。そういう世界があるのか,というような。
それには,顰蹙を買うのを承知で,口幅ったいことを言わせてもらうなら,
おのれを掘り下げる
以外に,新しい視界が開けることはない気がしている。結局一生かけても,掘り下げきれないで終わるにしても,だ。別の言い方をすると,
おのれ以外には,決して見えないパースペクティブを見つけること,
といっていい。それは,大袈裟だが,
新しい世界の見え方
と,いっていい。それを見つけるために,他の人の好みやニーズはどうでもいいことになる。読んでほしい読者に見えるものでは,いまある世界の延長戦上でしかない。
どれだけニーズ調査をしても,欲しがっているものを見つけられないのは,いまないものは答えようはないのだ。
確かに,
イノベーションを起こすものはセレンディピティだ。恐らく例外はない。セレンディピティとは「偶然の幸運」。予め計画されたイノベーションなんて大したイノベーションじゃない。
と脳科学者の茂木健一郎博士が言う通りなのかもしれないが,それは,ただ居眠りしているという意味ではないはずだ。本当におのれの見たいものを捜す,ということ以外にはない。
因みに,書くの語源は,
掻く,ひっかく
だと言われる。その意味では,
絵を描く
も
文字を書く
も
文章を書く
も同根ということになる。漢字では,
聿(ふで)+曰(いわく)
とか。しかし,はじめは筆ではなかったのではないか。竹簡や木簡に竹で描いていたのではないか。
ついでに,画(畫)くは,また別で,
聿(ふでを手に持つさま)+田の周りを線で区切ってかこんださま
という。
ある面積を区切って筆で区画を記すことをあらわす,新字体「画」の字は,「聿」の部分を略したもの。
まあ,いずれにしても,「書」も「画」も,「聿(ふで)」からは逃げられないようだ。
僕は,書くは,
えがく(描く,画く)
なのだと思う。錯覚かもしれないが,
自分だけに見える世界
をかくのである。その世界は,自分の中からしか見えてこない。方法や技法は,世界を描くのに使うのであって,その前に,
自分にしか見えない世界
を見つけなくてはならない。それは,一生分に値する。ついに見つけられないことも当然ある。
上へ
たとえば,まったく未経験というわけではないが,必ずしも習熟しているわけでもないようなことを,引き受けることになったとき,たとえば,
いままでとはちょっと違う種類の仕事が舞い込んできたとき,
やれる,
という感覚があるのは,どういう根拠なのだろう。
できると思うのは,ただの錯覚かもしれない。しかし,その
できる感
が,錯覚ではなく,なにがしか根拠があるのと,錯覚(過信とも,思い上がりとも呼んでいいが)との差は何だろう。
まったく同じことなら,たとえ規模が大きくなろうが,単に運営上の問題に過ぎない。しかし,微妙にテーマや課題がずれている。にもかかわらず,その瞬間に,自分の中に,何か具体的なイメージのようなものがわく(ような気がする)。そのときは,
できる
気がする。逆に,明らかにずれているというか,ベン図ふうに言うと,自分の円と依頼の(想定する)円とか,かけ離れていれば,まず,やれるとは感じない。
無理
と思うのと,
できる
と思うのとの境界線は,そこだろう。しかし,別の言い方をすると,
できそう,
と
できるかも,
と
できる,
との差は,
できる
と
できると思う
の差といっていい。その差は,ベン図の円の重なり具合の差なのだろうか。
できる気がするとき,それは,根拠というような確かなものではない。自分の経験とスキルと知識を,過半はみだしたものなのに,何か,類推が効くところがある,と言ったらいいのか。
類推,
とは中国語で,
類比+推理
を言う。類似のものに基づいて,他を推し量る,という意味になる。
まったく同じではないが,似たような仕事をしたことがあり,その経験とノウハウを当てはめると,何とかやれる,
そんな感覚か。あるいは,小さなスケールで経験したことがあるが,その何十倍ものスケールということになると,そのまま当てはまらない隙間がある。それでも,その経験からなんとなくやり方とか構成が読める,というイメージか。しかし,
そのままやれるわけではないので,その隙間というか,その未知の部分が,不安をもたらす。
昔から,仕事というのは,
自分のやれるカタチに置き換える,
ということだと思ってきた。それを自責化と呼んできた。その意味では,未知で未経験なのは,
やれるカタチに置き換えのきかない部分が大きく残るときなのだと言い換えてもいい。
若い頃なら,怖いもの見たさで,まあ,失敗するのも経験と言えるが,ある程度のキャリアを積むと,なかなかそうはいかない。だから,逆に怖さはない。失ったところで影響は知れているからだ。
むしろ,自分の中の問題の方が大きい。
できると思うのだが,その根拠が見当たらないとき,結局,
できること
と
できそうなこと
との隙間を埋めるのは,ある種の経験でしかない。僕は,人の能力は,
知識(知っている)×技能(できる)×意欲(その気になる)×発想(何とかする)
だと思うが,問題は,
何とかした経験が,
何とかなる,
の背景に必要なのだろう。まあ,そのときの,
悪戦苦闘
の経験といっても言い。
知識には,
Knowing that(そのことについて知っている)
と
Knowing how(どうやるかを知っている)
とがいるが,Knowing howは,やった数で決まる。そして,未知の領域を埋めるのは,単なる過去の経験ではなく,過去の,未知と未経験を,
何とかした経験,
でしかない。それもまた,
Knowing how
なのかもしれない。
上へ
ひとごとは,
他人事
と書く。
昨今自分のことを,ひとごとのように語る印象がある。しかし,それは,自分を対象化して,客観的に語っているようには見えない。そうではなく,自分を,
自分
というように,おのれをちょっと脇に置いて語っている,という感じなのである。主体としてのおのれではなく,ラベルとしてのおのれ,のように見える。それを感じたのは,
「親」
という言い方だ。
おやじ
とか
おふくろ
という言い方には,関係性がある。そう言った瞬間,そこに,
自分との関係性
が表現される。「くそ」がついたり「ばか」がついたりすれば,そこに自分の思いが入っているのがはっきり見える。しかし,
「親」
というとき,自分は,家族の関係から出たところから見ている。穿ちすぎかもしれないが,少なくとも,そういう言い方をするようになったのは,いつからだろうか。それは,家族そのものが,
賄いつきの下宿屋
のようになったのを反映しているのではないか,と僕は勘ぐっている。そこにあるのは,家族関係について,
ひとごと
であるという印象である。
では,ひとごとの反対は何か。どうも,そういう言葉があるかどうか知らないが,
じぶんごと(自分事)
というしかない。最近社員教育の分野でそういう言い方をしているらしいので避けたいが,「わたくし事」だと,公けに対する私になる。で,
わがこと(我が事)
という言い方もある。ま,しかし,いま使われているのに倣うとして,では,
じぶんごと
は,当事者と同じか。どうやら,最近の使われ方は,「自分ごと化」というような言い方をしているところを見ると,当事者意識を指しているらしい。しかし,これははっきり言って間違っている。
当事者の反対は,
第三者
ないし
局外者
である。当事者というのは,関係性を示している。というか,社会的役割の中で言われている。つまり,社会的役割については,前にも触れた気がするが,
「社会的役割は,もっぱら他者の期待にもとづく意味でも,もっぱら自己の認定に基づく意味でもなく,両者の相互作用の結果として多かれ少なかれ共有される。」
したがって,
「主体は,他者との相互作用において,自己にとっての意味に応じて他者に役割を割り当て,その役割と相即的に対応する自己の役割を獲得する,つまり,相互作用は,すべて役割関係なのである。」
という。ぶっちゃけて言えば,
お互いが関係する中でしか役割は生まれない。つまり,当事者意識は,
お互いの作り出していた関係
を主体的に自覚する,ということだ。だから,そこから離脱ないし,離れることを,
第三者
ないし
局外者
ということになる。ということは,ひとごとに対するじぶんごとという使い方は,当事者意識とは無関係である。
ここでいう,
ひとごと
と
じぶんごと
というのは,他者との関係ではなく,自分自身のありようを,自分のこととして認識するということだ。これができて初めて,役割を担うに足り,その役割の当事者たることを求められる。それ以前に,
自分の人生の舞台
を,自分が主役として生きる,あるいはそれを覚悟する,ということが,じぶんごとにほかならない。それは,
自分のいのち,
自分の家族,
自分の生活,
自分の時間,
自分の未来,
等々を自分自身との関係として,内から捉えることを意味する。それができなければ,
自分の人生そのもの
いや
自分の命そのもの
すら,ひとごとで考えているのかもしれない。それは,地に足ついていない,というより,ふわふわと実感のない生き方というのがあっているのかもしれない。いや,ありていにいえば,
自分として生きていない,
ということにほかならない。自分として生きるとは,
自分の意思
と
自分の感情
と
自分の思い
と
自分の振る舞い
と
自分の考え
をもって日々生きるということだ。
実感がない,
リアリティ感がない,
ということを聞くが,それは,日々,この現実の中で,
問題にぶつかり,何とかそれをやり繰りし,
感情的な葛藤を逃げずに向き合い,
悪戦苦闘しながら生きているということをしていないということだ。それは,悩んだり,怒ったり,泣いたり,わめいたり,興奮したりする,という自分の時間と空間の中で,日々を過ごすということだ。
それがなければ,たとえば,何かあれば親にすがり,何かあればそれに背を向け,葛藤から逃げていれば,自分にすら実体感がないのではないか。ましてや,自分の人生というものが見えないのではないか。それは生きていない,ということだ。なにも,日々生き甲斐で生き生きしている人生を指していない。そんなものがあると思って,日々の坦々とした平凡な生活に背を向けて,自分という狭い世界に閉じこもっているから,感情も,思いも,あいまいで,ふやふやなのではないか。
そこで一番失われるのは,想像力である。その人が生きている中身に応じてしかイマジネーションを生き生き描けない。だから,他人の痛みも,哀しみも,ほとんどひとごとにしか感じられない。
明日は我が身
も
他山の石
も
所詮対岸の火事としか見なければ,
戦争
も
ホームレス
も
貧困
も
難民
も
被曝
も
いずれはおのが身に降りかかるとは,想像もできない。本人が想像しようとしまいと,リアル世界の中にいる以上,火の粉はふりかかる。そのときになってからでは遅い。
いやいや,ひとごとではない。おのれのことでもある。自戒を込めて。
参考文献;
栗岡幹英『役割行為の社会学』(世界思想社)
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なじみは,
馴染み
と当てる。意味は,
なれ親しむこと,なれ親しんだこと,また、その人。あるいはそのもの。
同じ遊女のもとに通いなれた客。吉原では三度目以降の客をいう。遊女の側からもいう。
長年つれ添った夫、または妻。
となる。「馴染む」という動詞の意味になると,
なれて親しくなる,
馴染み客になる,
という以外に,
しっくりする,調和する,
という意味が加わっている。『語感辞典』には,
慣れてしっくりくる,
そぐう,
という意味があり,いまの語感では,このニュアンスな気がする。因みに,「そぐう」というのは,
(多く打消しを伴って使う)
として,
似合う,
そっくりつりあう,
という意味になる。『古語辞典』では,「そぐう」に「似ふ」と当てている。
「なじむ」の語源は,
「ナレ(馴れ)+シム(染む)の連用形」
で,馴れて,親しくなる,の意。『大言海』も,これを取って,
なれしむの約
とする。
それにしても,馴れ初めから,夫婦なって,連れ添ったのを,
馴染む,
というのには抵抗がある。語感としても異和感がある。
馴染金
という言葉がある。「なじみきん」と訓む。辞書(『広辞苑』)によると,
「遊里(殊に吉原)で,同じ遊女を三回目に揚げた時に堕す祝儀のお金。もと吉原では,同じ遊女のもとに三度通って初めて枕を交わす習慣があったので起こったと言われ,二両二分を定めとしていた。第一回(初会)・第二回(裏)に祝儀を出すこともあり,これらを初会馴染・裏馴染といった」
とある。それにしても,こんなに懇切な説明がいるのだろうか,と不審になる。遠い昔のことだから,というのもあるのかもしれないが。
結局,遊里の言葉から,敷衍化されたのではないか,と憶測する。その連想で,夫婦に当てはめたのだろうが,
馴染む,
という語感にはそれこそ,そぐわない。
類語をみると,馴染みの語意の幅が見える気がする。
「親密で、共に感じる感覚」として,
親交,親密, 懇親,別懇 ,親しみ,交情,誼み,入魂,昵懇
等々とあり,
「よく知られている、または、有名であるという理由でいつもの通りであること」として,
周知,馴じみ,馴染,泥み
等々とあり,
「よく知っていて好意を感じ信頼できる人」として,
フレンド,朋友,味方,身方,仲間,友垣,仲よし,知友,友人,仲良し,友朋,同朋
等々とあり,
「親密で温かみのある友情」として,
親交,爾汝の交わり,親密,懇親,親交関係,親密さ,別懇,友好,仲よし,近しさ,親密性,親近,睦まじさ,
等々とあり,
「以前から良く知っていて親しい間柄であること」として,
旧知,良く知る間柄・友人・知己・親友・刎頚の交わり・水魚の交わり・親密な間柄・昔なじみ,管鮑の交わり
等々とあり,
「いつも通っていてよく知っていること」として,
行きつけ,ゆきつけ,
等々とあり,
「同じ店をよく利用する上質の客のこと」として,
固定客,常連,得意客,おなじみさん,贔負
等々とある。どうも,外周縁になると,意味が変っていくようである。しかし,友人を見ると,その人がわかる,というが,類語を見ると,その言葉の意味が,かえって際立つ。
こう見ると,「馴染む」は単なる友人ではない。親密さでも,入魂でもない。どこか,やはり,肌感覚がある。その意味では,やはり,連れ添った夫婦というニュアンスは捨てがたいのかもしれない。
参考文献;
中村明『日本語語感の辞典』(岩波書店)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
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しがらみは,
柵
あるいは
笧
を当てる。
「水流をせき止めるために,川の中にくいを打ち並べて,それに木の枝や竹などを横に結びつけたもの。」
「転じて,柵また,せきとめるもの。あるいは,引き留め,まとわりつくもの。じゃまをするもの。」
という意味になる。動詞「しがら(柵)む」の連用形から,とあるように,本来は,
しがらむ(柵む)
から来ている。これは,
からみつける,
しがらみを設けて水流をせき止める
という意味になる。だから,「しがらみ」の語源は,
「シ(サ変為)+絡む」
の連用形の名詞化。水をせき止める柵を指していたはずが,身を束縛するものに転じた,ということになる。どうも,
水をせき止めるために,杭を打ち,それに,竹や木の枝を絡ませる,
↓
絡みつく,数多く絡ませる,
↓
かかわりあいをもつ,
↓
身を縛る,
といった変化で,柵として,外に見ていた絡み合いが,メタファになって,絡まる意味になり,それが内へと転じて,自身がその柵に絡み取られ,身を縛るというメタファになった,という流れであろうか。
『大言海』は,語源を,
「繁(しっかりと)絡むの約と云ふ」「踏み伏せて繁(しげ)く絡む」
と書く。「柵」ではなく,竹かんむりの「笧」(さく,しがらみ)を当てる。
http://www.yuraimemo.com/1308/
によると,その現物が,伊勢神宮にある,という。
「内宮の入り口、五十鈴川にかかる宇治橋の脇に…全長100メートルの木造の宇治橋の上流部分7〜8メートルに何本もの杭が打ち込んであります。これがその「しがらみ」なのだそう。上流から大木や雑木が流れてきた時に、杭にまとわりつかせることで直撃するのを回避し橋を守る役割を持ちます。」
という。すでに万葉集にも,
「みずならぱしがらみ越えて行くべくおもほゆ」
という用例があり,古くから,水を管理するのに使われた施工だったのだろう。「柵」という字自体が,
竹や木を不揃いに結び,それを並べて火が通れないようにしたもの,
という意味で,矢来,の意味だが,同時に,
流れをせき止めるために水中に作った柵,
という意味もある。「柵」は
長短不揃いな木簡(竹札,木札)を並べた短冊,
の意味で,それを道を塞ぐときの矢来に見立てて,柵を名づけたように思われる。「しがらみ」に「柵」を当てたのは,その意味からのようだが,ひょっとすると,「「柵」自体を輸入したところから来たのかもしれない。
柵を詠った歌もある。柿本人麻呂の,
明日香川、しがらみ渡し、塞(せ)かませば、流るる水も、のどにかあらまし [一に云う 水の淀(よど)にかあらまし]
明日香川に堰(せき)を作って止めたら、流れる水も緩やかになるだろうに,という意味らしいが,。
あるいは,百人一首にも入っている,春道列樹の,
山川(やまがわ)に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ 紅葉なりけり
山の中の川に、風が掛けた流れ止めの柵(しがらみ)がある。それは、流れきれないでいる紅葉の集まりだった,といった,紅葉を柵に見立てた,発見の感動を詠った感じであろうか。この限りで,柵は,水柵以上のメタファはない。
後代の,
浮き世のしがらみ
とか
世の中のしがらみ
とか
世間のしがらみ
というか,義理と人情の板挟みのような,あるいは,因縁や腐れ縁といった,鬱陶しい重荷,圧力という色合いはあまりない。
思えば,しがらみは,本来,そういう圧力を支えてくれるはずの柵であったはずなのに,いつの間にか,おのれを縛り,拘束する足枷,というが拘束衣に変ってしまっている,というのは,よくある言葉の変化ではあるが,おもしろいと言えば言える。
参考文献;
http://www.yuraimemo.com/1308/
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背を焼く
という言葉がある。
(苦しいほど多額の借金)背を焼くような借金
という意味で,梶井基次郎が使ったらしいが,僕には,
背を焼かれるような焦燥感,
焦り,
に見える。語感の問題だから,どうでもいいが。
せ
は,
セ(高く目立つもの)
が語源らしい。
物の後ろ側,
裏面
セイ
と言う。
背
の字は,
北(人が背中合わせに立った象形)+月(肉)
で,「セナカ」が原義と。
背は,
せ,せなか,
の意の他に,
物の高い部分のこと
を意味し,馬の背とか,橋の背と言う使い方をする。
その他に,
そむく,
背中を向ける,
背中を向けて離れる
(転じて)現世に背を向けて死去する
せおう
背を向けて暗誦する
といった意味があるが,「背」と言うと,「向背」「背信」と言う使い方にあるように,マイナスのイメージがある。背を向けるということからくるメタファーだろう。
「そむく」には,
叛(離反の意)
背(うらはら,になる意,向の反)
反(ひっくり返りて叛く。叛に通じ,謀反・謀叛と使う)
負(恩に背き,徳を忘れるを言う)
乖(そむいて離れる。そのさま。乖離,乖戻)
違(行き違いやくいちがい)
倍(ふたつに離れる)
北(背を向けてさむく,背を向けて逃げる)
と使い分けるが,いずれの場合も,「背」中が見える気がするのは,気のせいか。
別れる時も,離れる時も,反する時も,背中を向ける。
背中合わせ
背中同士
仲が悪いことを指すし,
背(中)を向ける
は,そのことに対して距離を置くことを指す。あるいは,逃げる,という意味も含まれる。しかし背は,
その人の意思表示
でもある。
動物なら,背を向けることで敗北を認めることだ。それに追い打ちをかける類のことはしない。
戦国時代には,そんな言い方をしないが,江戸時代になると,ネットには,
背中を切ることは卑怯とされ,また背中を切られることは敵に背を向けた,すなわち逃げようとしたことを意味するとして恥とされた。安藤信正は坂下門外の変において背中に傷を負い,一部の幕閣から「背中に傷を受けるというのは,武士の風上にも置けない」と非難されている,
というのがあった。しかし,僕には,
背を見せた方の卑怯と,背を見せたものを背後から斬ったものの卑怯とは,同罪に見える。
そもそも,背を見せることが卑怯未練と言うのは,平和ボケそのものに見える。武士道と言われるものを好まないのは,無用になりかけたおのれの存在理由を見つけようとしている程度の,平和な時代の頭でひねくり回した武道論に過ぎないからに違いない。
少なくとも,僕には,逃げることをよしとしない,と言うのは,机上の空論で,戦さの修羅場を知らぬ文官の暴虎馮河の類である,と感ずる。
戦国時代,戦いが常態ならば,そこで逃げなければ,リベンジはない。死ぬことをよしとするのは,死を自己目的化した平和の時代ないし,
戦ったことのないものの言辞に見える。たとえば,
背に腹は代えられない
ということわざがあるが,これは,
五臓六腑のおさまる腹は,背と交換できないの意で,腹を守るためには,背を犠牲にしてもやむを得ない,という意味。それが転じて,さし迫った苦痛を回避するためには,ほかのことを犠牲にしてもしかたないの意に広がった,
といわれる。
つまり,戦闘においては,腹部は大切な部分だから,進退極まった時でも,腹部を保護して背中を切らせよとの意味なのである。腹を切られれば致命傷になる。その点背中には背骨や肋骨があり,斬られても骨が内臓を庇って,致命傷にはなりにくいように背を向ける。
要は,背を向けるには,実践的な知恵もある。
大体戦闘時,殿軍(しんがりいくさ)ほど難しいものはない。秀吉が金ヶ崎で,袋の鼠の織田軍撤退の殿軍を自慢するのは当然のことだ。逆に,織田軍は,後に,撤兵する朝倉軍を,追いすがって一気に殲滅したくらい,
追い切り
という,逃げる敵の追撃戦ほどやさしい戦はない。それだけに,殿軍が重要になる。
戦時でなければ,背を向けるとは,戦意の喪失である。背を見せた人間を打ち負かせば,試合なら非難囂囂であろう。同じことだ,背を向けたものに刃を向けたものこそ,本当は,咎められるべきなのではないか。それこそ,両手を上げて投降した人間を,無視して殺戮するようなものである。
背は,人の意志であり,あるいは,背は,その人の(その一瞬までの)足跡を見せているのかもしれない。別に男の背中だけが,意味あるのではない。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
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國破れて 山河在り
城春にして 草木深し
という。本当にそうか。最近の広島の土石流は,ダムに頼って,間伐を怠った附けだと,ドイツから指摘されるありさまである。
不意に思い出す。鶴田浩二の「傷だらけの人生」(1970年)という歌を(ちょっと古い?)。
冒頭の科白の部分。。。。
「古い奴だとお思いでしょうが,古い奴こそ新しいものを欲しがるもんでございます。どこに新しいものがございましょう。生まれた土地は荒れ放題,今の世の中,右も左も真暗闇じゃござんせんか。」
である。小沢一郎が,かつて,これを何気なく口ずさんでいたと聞いたことがある。ここにある,
生まれた土地は荒れ放題
なのである。この歌ができて45年近くたったが,それがいま正鵠を射ていることが恐ろしい。
道路をつくり,新幹線を通し,ダムをつくり,堤防をつくり,防波堤をつくって,さてはて,結局土建屋は一時的に儲かったかもしれないが,失対事業と同じで,あらたな価値を生み出したとは思えない。その結果として,ますます都市部へ人が流れ,地方は,シャッター街と朽ちかけた家が並ぶ。地方の在来線に乗ればわかる。もはや,山河すら,ほったらかされて,荒れ果てようとしている。象徴的なのは,
里山の崩壊
である。それは,田畑と自然の共生する地域社会の象徴でもある。その崩壊は,必然的に社(やしろ)を荒廃させる。
社稷は国の概念より大きい,
といわれる。社稷とは,
社者,土地之主
稷者,五穀之長
という。
社は,
示(祭壇)+土
土は,
地上に土をもった姿,またその土地の代表的な木を,土地のかたしろとして立てたさま,
という。で,社は,
土地の生産力をまつる土地神の祭り,地中に充実した物を外に吐き出す土地の生産力を崇めること
という。
稷は,
禾(穀物)+田+人+夂(あし)
で,人が畑を足で踏んで耕すことを示す,
という,つまり,
土地の神とそこから収穫される穀物の神,あわせて国の守り神
であり,まあ,社稷は,
土地とそこから収穫される作物が国家の基礎
のはずの,その土地が,山河が,風土が,人心が,荒れて荒んでいる。国破れて,山河もないのである。
社(やしろ)の荒廃は,人心の荒廃である。人心の荒廃は,地域の荒廃である。地域の荒廃は,社会の消滅である。それは,社稷そのものの衰滅である。社稷が崩壊して,国が成り立つわけはない。
コンクリートで固め,囲い,ほじくりかえした山河は,到底,自然には太刀打ちできず,いたずらに,無駄なお金が山河に吸い込まれていっただけだ。
思い過ごしだろうか。地方都市へ行かなくても,都心でも,駅前はシャッター通り,真昼間,閑散として人気がない。ちょっと郊外に出ると,限界集落ではない,消滅集落が一杯点在する。そして,鉄道からも,朽ちかけた家屋と,ほったらかされ(村ごとに土地の神と五穀の神を祀っていたはずの),荒廃した社が見える。杜(やしろ)の荒廃は,その土地の人々の生活の荒廃であり,心の荒廃である。つまり,地域社会の崩壊である。
いまもじゃぶじゃぶと,土木工事に膨大なお金を投入しつづけている。一見お金が動き景気がよくなっているように見える。しかし何も付加価値を生まず,税金(借金)を投入しているだけだ。次への展望も希望もない投資になっている。膨らむのは,借金と絶望だけである。地方の人すらいう,
もう道路と橋はいい,
と。それでもまだ続ける。
考えれば,この手で,戦後一貫して,自民党政権は,この国を荒廃させてきたのではなかったか。ダムをつくり(その耐震性が問題らしい),堤防をつくり,防波堤をつくり,山を開削し,トンネルを穿ち,道を蜿蜒作り続け,それに群がるようにしてきた蟻の群れがいる。
いまもそうに違いないが,政治家の,あるいはその私設,公設議員秘書のところに,有象無象が陸続と群がりきたって,何かいい儲け話はないかとたむろしているはずだ。しかし,その政治家も,蟻どもも,この国の未来のありようにも,この国の子供たちの未来にも,向き合おうとはしていない。現実に向き合わない輩に,この荒廃が,人の荒廃,社会の荒廃,家族の荒廃,社(やしろ)の荒廃が見えるはずはない。目をつむったものに,責任をとるなどという発想があるはずはない。
だから,一転,
戦後は間違っていた,
と,その政治体制を戦前へ回帰させようとしている。では,自分たちのやってきた69年はなんだったのか。ただ国土と人心を荒廃させたこの政治はなんだったのか。
そんなことはしっちゃあいない。だって,責任を取った政治家も,要人も,官僚も,(東京裁判を除いて)一人だに見たことはない。
しかし,もはや,肝心の山河は荒廃し,社も朽ち,家も潰え,人も果て,われわれの未来に,帰るべき場所はない。
大袈裟だろうか。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
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ウィキペディアによると,
江戸時代までは,主に四書五経など漢籍の音読が行われていたらしい。黙読が主となったのは,明治時代以降になる。
とある。本当か,と思ってしまう。
書見
という言葉がある。別に音読していたとは思わないのだが。
ヨム
は,語源は,
数える
で,
読む
と
数む
は語源が同じとされる。
「讀」
は,
文書をよむ
の他,
文書の意味を抜き出す
言葉を眼で見続ける
といった意味がある。
ただ,「よむ」を引くと,
讀む(よむ 書に対してよむ 一語一句ごとに短い休止を入れつつ文章をよむ )
詠む(よむ うたう 声を長くのばして詩歌をうたう 詩歌をつくる)
訓む(よむ 字義を解釈する 言葉で導き従わせる)
念む(よむ おもう 心中でふかくかみしめる 口を大きく動かさず低い声でよむ)
誦む(となえる そらんずる 声を出してよむ)
諷む(よむ ふしをつけてよむ)
などがある。だから,必ずしも,ただ黙読するのを読書と言ったとは限らないと思える。
『信長公記』は,信長旧臣の太田牛一の書いた信長一代記だが,面前で,牛一自身が,
誦した,
つまり,声に出して読んだという。その意味で,秀吉が,自身の事跡を,祐筆,大村由己に書かせた,
『天正記』中の,
『惟任退治記』
『柴田退治記』
なども,そうしていた感じがなくもない。
ま,ともあれ,声に出すか,黙って読むかは別として,
読む
というのはどういうことなのだろう。僕もいろいろな本を読んだが,「読書」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E8%AA%AD%E6%9B%B8)で書いたが,
やはり,ただ読んで,その意図を聞き取っただけでは,心に残っていかない気がする。
学の義如何,我が心上に就いて理解すべし。朱註に委細備われとも其の註によりて理解すればすなわち,朱子の奴隷にして,学の真意を知らず。後世学者と言えば,書を読み文を作る者を指していうようなれども,古えを考えれば,決して左様な義にてはなし。堯舜以来孔夫子の時にも何ぞ曾て当節のごとき幾多の書あらんや。且つまた古来の聖賢読書にのみ精を励みたまうことも曾て聞かず。すなわち古人の所謂学なるもの果たして如何と見れば,全く吾が方寸の修行なり。良心を拡充し,日用事物の上にて功を用いれば,総て学に非ざるはなし。父子兄弟夫婦の間より,君に事え友に交わり,賢に親づき衆を愛するなり。百工伎芸農商の者と話しあい,山河草木鳥獣に至るまで其の事に即して其の理を解し,其の上に書を読みて古人の事歴成法を考え,義理の究まりなきを知り,孜々として止まず,吾が心をして日々霊活ならしむる,是れ則ち学問にして修行なり。堯舜も一生修行したまいしなり。古来聖賢の学なるもの是れをすてて何にあらんや。後世の学者日用の上に学なくして唯書について理会す,是れ古人の学ぶところを学ぶに非らずして,所謂古人の奴隷という者なり。いま朱子を学ばんと思いなば,朱子の学ぶところ如何と思うべし。左なくして朱子の書につくときは全く朱子の奴隷なり。たとえば,詩を作るもの杜甫を学ばんと思いなば,杜甫の学ぶところ如何と考え,漢魏六朝までさかのぼって可なり。且つまた尋常の人にて一通り道理を聞きては合点すれども,唯一場の説話となり践履の実なきは口耳三寸の学とやいわん。学者の通患なり。故に学に志すものは至極の道理と思いなば,尺進あって寸退すべからず。是れ眞の修行なり。
こう言っていたのは,横井小楠だが,
学ぶとは,書物やわたしの講学の上で修行することではない。書物の上ばかりで物事を会得しょうとしていては,その奴隷になるだけだ。日用の事物の上で心を活用し,どう工夫すれば実現できるのかを考える,おのれの心の修行でなくてはならぬ。
というところだろう。もっというと,
舜何人か
という気概でぶつかる,ということのようだ。
読書は,先人との会話ではあるが,そのまま受け止めては,おのれが消える,我流では,所詮身にならない。いつも,その兼ね合いで,格闘している。
新たな知見を手に入れると,いままでとの接合が難ししい。辻褄を合わせようとすると,かえって破綻する。そのときは,そのままにしておく,おのずと,矛盾を統一する,まったく異なるパースペクティブが開ける。それは,次元が変わるというのに近い。そういう読みができたことは,後々になって気づく。
たとえば,
いろんなことにくわしく, 要点をまとめることができたとしても, 自分が入っていない場合があります。 そういう人の意見を聞いていると
実感がないから,どうしても不満が残ります。
と,吉本隆明が言うのは,まとめるについても,その人の視点(あるいはパースペクティブ)がある,ということだ。その視点を手に入れる,ということが,読むことの成果だ。それは,読んだ直後ではなく,寝かせられてしばらくたってから,はっと気づく。
読みを経て,そこで,
何が,
どこまで見えるか,
が,手に入れられる。和辻哲郎の言う,「視圏」といっていい。それは,正否,是非,可否とは全く関係ない。ものが見える,ということの本当の意味だ。だから,関係ない。
堯舜も一生修行したまいしなり
とはその謂いにほかならない。読むたびに視界が開く(といいのだが)。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
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戀の字の,「心」の上の部分は,
絲+言(ことばでけじめをつける)
からなり,
もつれた糸にけじめをつけようとしても容易に分けられないこと
といい,亂・乱(もつれる)と同系統の言葉という。
亂の左側は,
糸を上と下から手でひっぱるさま,
らしい。それに右側は,
乙
印で抑える意。合わせて,もつれた糸を両手であしらうさま,だという。
戀
は,亂を音符として,心を加えた字
で,
心がさまざまに乱れて思い詫び,思い切りがつかない
の意となる。
巒(きりなく連なって続く山々)
とも同系統という。
別の出典では,
「糸+言(つなぐ)+糸」+心
とも言う。
心を言葉で糸のようにつなぐ,
意味という。しかし,少し作為に過ぎる気がする。そうではない。心を言葉の糸でつなげないから,乱れるのではないか。
恋路の闇
という。
お七こそこいぢの闇の暗がりに,
と浄瑠璃でうたわれる所以である。
なぜなら,恋は盲目ではなく,妄想だからだ。
妄想とは,
ということを真面目に考えるとややこしくなるが,中国語では,
妄(みだり)+想(空想)
で,事実でないことを空想して信じ込むこと,という。要は,
根拠のない主観的な想像
ということになるが,違う言い方をすると,
勝手な思い込み,思い入れ,
ということになる。それは,基本的に,一方的なものだ。だから,僕は,恋は,基本,
片思い
なのだと思う。
仮に,その妄想を相手が受け入れても,同じ妄想とは限らない。相手も相手の思い入れの妄想を描く。言葉ではつながらない。同じ言葉でも,その言葉の向こうに見ているものが違うのだから。
こういうとシニカルに聞こえるかもしれないが,永年連れ添ったからといって,
思いが重なる
とは限らない。重なっていると思い込むことはできる。むしろ,
重ならないズレ
をお互いが了解し合っている,というところに,年月の積み重なった智恵がある(のかもしれない)。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
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落とし前をつける
というのは,どう考えても,一般人が使う言葉ではない。ヤクザ用語かと思ったが,
元来は香具師の間で使われていた隠語で,露店などで客と折り合いをつけるため,適当なところまで値段を落とすことを意味した
という。そこから転じて,
もめごとなどの仲に立って話をつける意味になり,
さらに転じて,
失敗や無礼などの後始末をする
という意味となった。
しかと
とか
ちくる
とか
ばっくれる
とか
しばく
とか
うざい
と同類らしい。起源はもっと古いが,
やばい
というのも,隠語らしい。その意味は,
危ない
悪事がみつかりそう
身の危険が迫っている
といった不都合な状況を意味する形容詞や感嘆詞として江戸時代から盗人や的屋の間で使われた言葉であるらしい。その後戦後のヤミ市などで一般にも広がったが,80年代に入ると若者の間で,
怪しい
格好悪い
といった意味でも使われるようになるが,これが,否定的な意味から転じて,90年代,
凄い
のめり込みそうなくらい魅力的
といった肯定的な意味に変わる。どういうのだろう,ヤクザが一般社会に,経済ヤクザとして浸透したせいか,一般人が,ヤクザ化したのか,一般人とヤクザの境界線があいまいになり,ほとんどまじりあっていく。
昔は,正統(?)なヤクザは看板を背負っていたが,いまは,それも難しくなった。入り混じり曖昧化し,一般人のほうがヤクザになってきたように見える。
素人と玄人
という言い方があるが,素人と玄人の区別があいまいになったからと言って,素人が玄人に成れるわけではない。
アマチュアとプロフェッショナル
という分け方とはちょっと違うかもしれないが,玄人は,日葡辞典はないらしいので,素人に対して,当てたのではないかと言われる。素人は,
シロ(何にもそまっていない状態)+人
で,
経験の少ない人
未熟な人
を意味する。こちらが先にあって,後に,それに対する当て字としてつくられた,という説がある。
どうも思うのだが,
玄人
は自分を玄人とは言わない気がする。しかし,
プロフェッショナル
は,自分をプロと言う傾向がある。というより,意識して,プロを強調する。その辺りの微妙な心理は,玄人の対象とする領域が,芸妓や娼妓を指す場合はともかく,
技芸
や
相場
の専門家で,とくに技芸は,
伎芸
の字をあてることが多い。そうなると,
歌舞音曲
である。
歌舞は,踊りと舞であるが,音曲(おんぎょく)は,
近代以前において音楽,あるいは音楽を用いた芸能のことを指した
という。「歌舞」「音曲」はは,ともに音楽を伴った芸能全般をさす。まあ,
猿楽,謡曲(謡),勧進能,浄瑠璃,歌舞伎,人形浄瑠璃,狂言,能,義太夫節
等々,伝統芸能を指しているとみていい。そこには,
矜持
が仄見える。いちいちプロなどといわなくても,おのが芸が語っている,と。
こういう寡黙な立ち居振る舞いが好きである。
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時枝誠記は,日本語では,
「『桜の花が咲か』ない」
「『桜の花が咲い』た」
における,
「た」
や
「ない」
は,
「表現される事柄に対する話手の立場の表現」
つまり話者の立場からの表現であることを示す「辞」とし,「桜の花が咲く」の部分を,
「表現される事物,事柄の客体的概念的表現」
である「詞」とした。
要は,辞において初めて,そこで語られていることと話者との関係が明示されることになる。即ち,
第一に,辞によって,話者の主体的表現が明示される。語られていることとどういう関係にあるのか,それにどういう感慨をもっているのか,賛成なのか,否定なのか等々。
第二に,辞によって,語っている場所が示される。目の前にしてなのか,想い出か,どこで語っているのか等々が示される。それによって,いつ語っているのかという,語っているもののときと同時に,語られているもののときも示すことになる。
さらに第三に重要なことは,辞のときにある話者は,詞を語るとき,一旦詞のときところに観念的に移動して,それを現前化させ,それを入子として辞によって包みこんでいる,という点である。
これを,三浦つとむは,的確な指摘によれば,
「われわれは,生活の必要から,直接与えられている対象を問題にするだけでなく,想像によって,直接与えられていない視野のかなたの世界をとりあげたり,過去の世界や未来の世界について考えたりしています。直接与えられている対象に対するわれわれの位置や置かれている立場と同じような状態が,やはりそれらの想像の世界にあっても存在するわけです。観念的に二重化し,あるいは二重化した世界がさらに二重化するといった入子型の世界の中を,われわれは観念的な自己分裂によって分裂した自分になり,現実の自分としては動かなくてもあちらこちらに行ったり帰ったりしているのです。昨日私が「雨がふる」という予測を立てたのに,今朝はふらなかつたとすれば,現在の私は
予想の否定 過去
雨がふら なくあっ た
というかたちで,予想が否定されたという過去の事実を回想します。言語に表現すれば簡単な,いくつかの語のつながりのうしろに,実は……三重の世界(昨日予想した雨のふっているときと今朝のそれを否定する天候を確認したときとそれを語っているいま=引用者)と,その世界の中へ観念的に行ったり帰ったりする分裂した自分の主体的な動きとがかくれています。」
という,アクロバチックな構造表現になる。
かつて,これを読んだときの興奮がいまも蘇る。ひとが,何かを語る時の,その構造の奥行を垣間見た気がするのだ。そして,それを書いていた,とすると,
昨日雨が降らなかった,
という一文に,
「昨日まだ雨が降らない」とき
に
「『(明日は)雨が降るだろう』と予想した雨のふっている(だろう明日の状態の想像の中にいる)」とき
と
「今朝のそれを否定する天候を確認した」とき
と
「それを語っている」とき
と
「それについて書いている」とき
とが多層に渡って埋め込まれている,ということができる。こういう日本語では,そのつど,語り手は,
「雨の降っていない」とき
と
「雨の降っている想像の未来」のとき
と
「雨が降っていない」翌日のとき
と
そう語っているとき
と
そう書いているとき
という多重の時間を,一瞬で飛んでいるのである。そのことを意識しないと,時制は使いこなせない。
ヴァインリヒは,語りの時制について次のように指摘している。
「われわれが語るときには,その発話の場から出て,別の世界,過去ないし虚構の世界へ移る。それが過去のことであれば,何時のことであるかを示すのが望ましく,そのため物語の時制と一緒に……正確な時の表示が見られる。」
と言う。日本語が論理的でないとかと言う人は,日本語をよく知らないのだ。我々はそれほど無意識で,時制を使いこなしている。つまり,
話者にとって,語っているいまからみた過去のときも,それを語っている瞬間には,そのときを現前化し,その上で,それを語っているいまに立ち戻っているということを意味している。
こうやって多層に入子になっているのは,語られている事態であると同時に,語っているときの中にある語られているときなのである。
僕は,かつてケースライティングを職務としていたことがある。そのとき,あくまでケースライティングの書き方だが,まとめたことがある。
因みに,ここでいう「ケース」と言うのは,職場のマネジメント課題を研修として利用するために,職場で起こるような問題事例を,物語風にまとめることを言う。
そのために,起こっている問題を構造化する。
「通常問題の構造化というと,『問題と原因の因果関係』といったことになります。しかし,それでは,問題が,自分の外のことにしかなりません。問題と感じるのも,それを問題にするのも自分である以上,主体側のパースペクティブ抜きに,問題の構造化はありえません。したがって,
@問題の空間化(ひろがり)
A問題の時間化(時系列)
B問題のパースペクティブ化(誰にとって,誰からの)
の3つなくして,構造化はありえません。」
と書いたとき,問題を構造化するのは,
問題を自分の問題とすること,
言い換えると,
その問題場面に,当事者として,登場することを想定して,問題を捉えること,
ということになる。わかりにくいが,時制と同様,自分がその問題の場面のときに,飛ばない限り,当事者として問題は捉えられないということを言っていたのである。だから,鍵になるのは,
パースペクティブ
となる。
物語の形で語られている以上,語り手が,かく語っているにすきない。つまり,
「その事実を描いている,あるいは目撃しているのが誰で,どこからそれを見ているのか,のパースペクティブが明確であることです。その位置に応じて,事実は違って見える(事実はひとつなどと子供のようなたわごとを言う人は,ケースライティングどころか,マネジメントの資格もありません)し,当然,問題も違って見えるのです。
語っている『私』が,その問題を見ていることなのか
語っている『私』が,その問題を目撃した人からの伝聞を語っているのか
語っている『私』が,その問題を目撃した人からの伝聞を語った人から聞いたことなのか
語っている『私』が,その問題の当事者なのか
語っている『私』が,その問題の当事者の同僚なのか
ひとつの問題でも,それぞれの立場によって,違ってきます。それは,意識しているかどうかは別にしても,その人にとって,見えている事実が異なっているからにほかなりません。」
これは,そのまま時制と場所
いつ,どこで
につながることになる。
起きた出来事の時と場所
それを見たときのときと場所
それを聞いたときのときと場所
それを語っているときと場所
等々,つまり,それに向き合う主体も,その時制を遡らなくては,全体は見えないということになる。
ケースも物語と同じなので,
既に終わったところで語られている
というか
語られ始めたところで止まっている。
その時間を遡ることが,その全体像を辿り直すことが,自分の問題として,語り直すことなのである。問題を主体化するとは,そこなのである。
時間軸を通すことで,初めて,未来像(どうなるか)が視界に見え,
どうしたらよかったのか
(どうしなかったらよかったのか)
そこからまた別の解決物語が始まることになる。
これは,歴史を語るのも同じである。多様な物語,つまり多様なパースペクティブを捨てたとき,歴史物語はシンプルになるが,豊かさは失われ,虚構度が高まる。そんな歴史物語は使い物にならない。
参考文献;
時枝誠記『日本文法口語篇』(岩波書店)
三浦つとむ『日本語とはどういう言語か』(講談社)
ハラルト・ヴァインリヒ『時制論』(紀伊國屋書店)
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昨今気骨のある人間が少なくなった,
などときいたふうな口をきく輩が大嫌いである。では,いつの時代ならいたのか。いやしないのである。そんな人間が一杯いたら,日本は今日の体たらくになりはしないし,無益で無謀な戦争にも突入しはしないし,欧米列強の尻馬にのった侵略戦争などを,しはないのである。幕末にだって,そうはいなかった。いたら,戊辰戦争もあんなていたらくになりはしない。
気骨とは,
奇(めずらしい)+骨(人柄,気立て)
が語源。
風変わりなすぐれた性格を言うらしい。言い得て妙ではないか。
気骨の,「気」は,いわゆる,
人間の心身の活力
とか
感情や衝動のもとになる心の活力
とは,直接は関係ないらしい。因みに,気(氣)の,
气
は,息が屈曲しながら出て来るさまで,「氣」は,
米をふかすときに出る蒸気のことらしい。
辞書的には,「気骨」は,
自分の信念に忠実で容易に人の意に屈しない意気,気概
という。下手をすれば,
偏屈,
へそ曲がりなのである。類語はというと,日本類語大辞典で,
気骨
をひくと,
いき
を見よとくる。で,「いき」をみると,
士気,侠気,血気,生意気
と並んで,気骨がある。
(社会一般から見れば)ヤクザの侠気の程度だという言い方もできるが,剛健の項にいれて,
剛毅,気概,硬骨,気丈夫,反骨,強直,豪気,不撓,不屈,
と並べるのもある。しかし,
剛毅朴訥仁に近し
というのだから,やたらめったらいないのではないか。孔子は,
中行を得てこれと与にせずんば,必ずや狂狷か。狂者は進みて取り,狷者は為さざる所有るなり
といい,中庸の人がいなければ,狷者,すなわち強情屋を友とする,と言っている。
こう見ると,気骨とは,ある一点で,
頑固である
ことなのではないか。それが,どの一点かで,たんなる頑迷か強情張りになるか,骨のある人間と見られるか,の分かれ道のようなのである。
ここからは,妄想だが,地続きにせよ,
頑迷,固陋,偏屈等々は,
たんに個人的なこだわり,あるいは単純な性癖
を指しているという印象が強いのに対して,
気骨のこだわりは,
信念,信条,思想
に対する強い志向があるのではないか,という気がする。ただ,何かに強く粘着するというのは,ある意味,
気質的なもの
だから,共通している部分があり,梃子でも動かくなった瞬間は,たんなる頑迷固陋にしか見えなくなる可能性は高い。そうなれば,
たんなる頑な,ものごとの理非曲直を弁えぬ輩に成り下がるかもしれない。
その程度の頑迷な輩が,気骨あるなどと間違われている程度なのではないか。
参考文献;
芳賀矢一校閲『日本類語大辞典』(講談社)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
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昨今自画自賛がおおはやりだ。中韓を貶めて,自分を褒めるというのもあるが,手放しの自画自賛もある。
自画自賛は,自己倫理の劣化以外の何ものでもない。
自分を褒めたい,
という言葉が有効なのは,42.195キロを走りきった有森裕子に許されるが,そうでないものに,そうそう口にするのは,ほとんどみっともないといっていい。思っても,口には出さないものだ。
それに似ているといっていい。
自画自賛は,野放図な自己肥大と地続きである。
日常はつつましやかで,謙虚であったが,箍がはずれると,途端に手のひらを返したように,尊大で,自己肥大する。これって,われわれ民族の宿痾ではないか,と思ってしまう。
自分を受け入れる
ことと,
自分を褒める
こととは違う,と僕は思っている。自己を褒めるには,褒める根拠がなくては,たんなる自己妄想である。妄想にいくら妄想を積み重ねても,自分の成長にはならない。
その果てに来るのは,根拠なき自信であり,根拠なき自画自賛であり,そのまま自己肥大していく。
自己を律するとは,自制である。別の言い方をすれば,
戒め
であり,
リミッターといっても言い。制約条件といっても言い。おのれを知るとは,
おのれ自身の現実を弁える
ということでもある。弁えをなくしたら,野放図に何でも言える。古いタイプの人間と言われるかもしれないが,そういう自制心こそが,その人の品格になる,と思っている。
本屋に行って感じるのは,そういう野放図な自己肥大の発露であり,目を背けたくなるような夜郎自大の横行である。恥を知る,という言葉は死語なのか。
学を好むは知に近く,力行は仁に近く,恥を知るは勇に近し
という。あるいは,士とは何かの問いに,
己を行うに恥有り
と,孔子は答えた。そして,あるところで読んだが,
「行己有恥」の四字を「博学於文」(ひろく文を学ぶ)と対句にし,門の扉の両側に対句としてしるしてあるのを,しばしば中国で見かける
という。
僕は,発奮のスイッチは,恥にあると思っている。おのれを恥じるからこそ,おのれを励まし,おのれを高めるバネになる。
はじ(らう)
は,
「端+づ」の連用形
から来ているらしい。
中央から外れている,端末にいる劣等感
が恥であるらしい。
面目がない,
という意味である。
恥
は,
耳+心
で,
恥じらいの心が耳に出る,
のが語源とする説がある。
はじ
には,
恥,辱,愧,羞,慙,忝,忸,怩等々があるが,
恥は,心に恥ずかしく思う義,重き字なり,とある。
辱は,はずかしめであり,栄の反対。外聞の悪いことを言う。そこから転じて,かたじけなし,と訓む。
愧は,おのれの見苦しきを人に対して恥じる意で,恥ずかしくて心にしこりがあること
羞は,心が縮まること。愧じて眩しく,顔が合わせにくいこと。
慙は,愧と同じ。はづると訓む。はぢとは訓まない。心にじわじわと切りこまれた感じ。
忝は,辱と同じ。
怩・忸は,恥じる貌を意味する。心がいじけてきっぱりしない
おのれを恥じるからこそ,身を正し,振る舞いを改め,おのれを高めようとする。謙虚とは,そこから生まれる。
実るほど頭を垂れる稲穂かな
は,もはや死語か。大口をたたくのが,時代の潮流なら,僕は,そこから降りる。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
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けりがつく
けりをつける
の「けり」は,
助動詞けり
であり,けりがつくは,
助動詞けり+が+つく
の意味だ。助動詞「けり」は,
過去の助動詞キ+アリ
という説,
動詞キ(来)+アリ
とする説などがあるらしいが,いずれにしても,
ある事実を基に過去を回想する意を表し,後世には,助動詞タの意味を詠嘆的に用いることが多いという。
助動詞「た」は,
ある時点で,それがあったと確認した意味を表す,
という。つまり,文末にそれを使うことで,
基準となる時点が今となって,それがすでに起こったことを示す
という意味だから,
過去のことを示す
あるいは
動作の完了を表す
あるいは
動作の実現を促す(たとえば,「どいた,どいた」というように,動作を完了させることを促すという意味になる)
という使い方をするようだ。最後の例は別にして,
「けり」を付ける
ことで,語っていることが,語っているいまの時点から見て,それが,
終ったこと
過去のこと
を示している,ということになる。
その意味では,けりをつける,けりがつくは,
それを過去のこととして終わらせる,
というニュアンスがあり,
終止符を打つ
や
ピリオドを打つ
と似ているが,具体的に,デッドラインを引くというのとは,ちょっとニュアンスが違うような気がする。
「けりがついた」ことにしておく
「けりをつけた」ことにしておく,
あるいは,
「けりがついた」つもり
「けりをつけた」つもり
という色があって,
本当に終わったのなら,終った,とか,片づいた,と言えば済む。そうではないから,
けりがついた(はず)
というしかないような気がする。そう考えると,
帳尻を合わせる
平仄が合わない
辻褄が合う
始末をつける
落とし前をつける
というのと,どこかで重なりそうな気がしている。つまり,むりやり,決着をつけたという色合いが,どこかにある。そうしてみてみると,「けり」の用法に,
ある事実が過去にあったことを回想する
人から聞いたりして知っていたことを思い出す
過去にあったことをいま話題にのせる
いまあることが,前からのことであったと思う
時を超えてある事実が存在することを述べる
「いま」の時点を,ピンポイントと考えると,それ以前のこととなる。しかし,その「いま」が少しずつずれれば,そのまま(語っている)「今」の直前まで,それは引きずられる。
「いま」
が曲者だ。そういう意味で,
時を超えて
という用例はよくわかる。つまりは,
けりはついていない
ことになるのだろうか。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
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いい歳をして,
とか
いい歳こいて
とか言われたりする。
ある言動について、そういったことをする年齢でもないだろうに、といった意味合いを込めて言う表現。年不相応に。半ば非難の意味で、あるいは諌める意味で用いられる場合が多い。
相応の分別ができていい年齢,その年齢にふさわしくない行為や状態をあざけっていう語,
とある。あるいは,
年不相応に言動が稚拙だったり服装が若作りだったりして不恰好である様子,
ともある。まあ,面と向かってと言うよりは,蔭で言われることが多いのかもしれない。わが盟友は,かつて,
いい歳かっぱらって,
を口癖にしていたが,自分がその年齢になったせいか,ピタリと言わなくなった。
相当の年齢
分別ある年齢
とは,しかし,具体的に何歳を指すのだろう。僕より一回り位上の作家が,
昔の三十歳と今の自分とではずいぶん違う
というニュアンスのことを言っていた記憶がある。坂本龍馬や西郷隆盛が三,四十歳と考えると,ずっと分別臭く見える(だけかもしれない,なにせハロー効果が大きいので)。
分別というのは,
道理をよくわきまえていること。また、物事の善悪・損得などをよく考えること。
仏語で,もろもろの事理を思量し、識別する心の働き。
世間的な経験・識見などから出る考え
とある。では,別に歳とは関係ないではないか,と思うが,どうやら,三番目の,
世間的な経験・識見などから出る考え
から来ているのではないか。一定の年齢を積んだら,それだけの識見がある,はずと言うのである。
分別は,
分(わける)+別(区別する)
で,物事を整理して判断する,という意味になる(「ぶんべつ」と読むとそういう意味になる)。いわば,
わきまえ,
思慮
の意味と言う。ここでも,年齢は関係ないのではないか。
子曰く,後生畏るべし。焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや。四十五十にして聞こゆることなくんば,これ亦畏るるに足らざるのみ
での孔子のありよう,言動が分別なのではないか。いわゆる目利きである。だから,分別に,加齢は関係ない。加齢したら,成長するというものではない。いい歳をして,おのれが出来もしない,「中国と戦争して勝ちたい」などと暴虎馮河を吹聴し,(自分は口説の徒で何もしないから,人を)煽り立てるアホな年寄がはびこる昨今,ひよっとしたら,
分別盛り
も死語である。分別盛りとは,
成人して豊かな人生経験を持ち,物事の道理が最もよくわかる年頃
という。ひょっとしたら,孔子先生の言われる,
子曰く,吾十有五にして学に志し,三十にして立ち,四十にして惑わず,五十にして天命を知る。六十にして耳に順う,七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず
もまた死後である。その輩が,幼児教育に,
論語の素読
を挙げていた。笑うより仕方がない。おのれはまともに『論語』を読んでもいないか,
論語読みの論語知らず
のくせに,等々と言うのは,きっと
馬の面に小便
だろう。いやな世の中になってきた。だから,
いい歳をして
は死語なのだ。何か,老人臭い連中が,時代錯誤のアナクロニズムで若い人を引っ張りまわすのは,見るに堪えない。何かと言うと,教育勅語や武士道を持ち出す。
おきゃあがれ,
と海舟なら言うだろう。全国民を,
士(大夫)
にでもするつもりなのか。そうなって,困るのは,おのれたちなのに,
子貢,君に事えんことを問う。子曰く,欺くこと勿れ,而してこれを犯せ,
と言う。
而してこれを犯せ,
とは,「殿ご乱心」の場合は,「犯せ」,つまり逆らって諌めよ,と。さすれば,こぞって諫言だらけのはずである。
論語読みの論語知らず
とはこのことである。
子貢問いて曰く,如何なるをか,これこれを士と謂うべき。子曰く,己を行うに恥有り…,
という。「恥」とは,おのれの倫理の問題である。つまり,おのれの「いかに生くべきか」のコアとなる価値観の問題である。だから,僕は,サムライ(士)とは,
心映え
を言うのだと思う。それについては,「心映え」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E5%BF%83%E3%81%B0%E3%81%88)
で書いた。心映えの濁った連中は,孔子の言う,
匹夫も志を奪うべからざる,
の片言隻句もわからぬ輩である。そのどの口が言うのか。
論語の素読
と。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
上へ
先年亡くなった,十二代目團十郎は口跡が悪い,
という言われ方をしていた。
口跡は,普通に辞書を引くと,
ことばづかい
歌舞伎で,俳優のせりふまわし,またその声色
と出る。『大言海』には,
ことばの状
とあり,
声(こわ)遣い,声音,声色,
とある。語源的には,
口(言葉)+跡(言い方)
で,「特に,歌舞伎での俳優の言いまわし,セリフ回し」を指すらしい。筆跡に対する口跡という意味がある。となると,「跡」が気になる。
跡は,
あと,月次と同じ間をおいて転々と続く歩いたあと。転じて足跡。迹,蹟と同系。
あと,モノがあったあと,物事が行われたあと。
亦は,胸幅の間をおいて両脇にあるわきの下を示す。足+亦で,間隔を置いて続く足跡
という意味らしい。
こう考えると,
口跡は,
単なる「せりふまわし」ではなさそうだ。因みに,「せりふまわし」は,
台詞の言いまわし,
とある。では,言い回しはというと,
言いあらわし方,ことばの使い方
となる。なんとなく循環して,結局
言い方
につきる。口跡が悪いというのは,僕は,
台詞の切れが悪い,
と思っていた。昔の中村錦之助,萬屋錦之介が僕のイメージでは口跡の言い例になる(いまの歌舞伎界では,二代目吉右衛門も口跡がいい部類らしいが)。べらんめいというのではない。せりふの跡がきちんとたどれる,あるいは,ひとまとまりの意味をなす言葉が,ドットとして出てくる。というか,ドットとして連なる言葉の列がこちらにきちんと残る,ということだ。もちろん,声が,内に籠っては話にならない。
世界大百科事典 第2版の解説によると,
俳優の音声演技の一要素。歌舞伎俳優の発声法,せりふ回し,エロキューションなどのせりふ術と,声音,高低などの声の質の両面をいう。歌舞伎の演技は,おもにせりふとしぐさから成り立つが,なかでも,古来から〈一声二振三男〉といわれるほど口跡の良さは,役者の質を評価する重要な要素である。口跡は役者の財産という意識がそこにある。【富田
鉄之助】
とある。「一声二振三男」は,「一声二顔三姿」とも言われるが,優れた歌舞伎役者であるために求められる条件を並べたもの,といわれる。
顔や身振り手振りよりも,まず,
口跡
と言われる。調べると,
「歌舞伎のせりふには,河竹黙阿弥作品に代表される七五調の音楽のような美しい名せりふや,『ツラネ』といって荒事芸などで主人公が花道で延々と(吉例などを)述べる長ぜりふ,2人以上の役者が交互に自分のせりふを喋り,最後,デュエットのように全員で声を合わせて終わる『割(わり)ぜりふ』,更には数人の役者がまるで連歌の会を催しているように順々にあとを続ける『渡りぜりふ』など,場面場面に応じた様々なせりふ術があります。(『歌舞伎のおはなし』)
とあって,台詞回しは生命線に違いない。その意味で,メリハリというのは,なかなか意味が深い。
「歌舞伎のせりふ術で,音の緩急・強弱・高低・伸縮などの技術のことを『めりはり』と言います。これは『滅(め)る』(=緩む)と『張る』(=強める)が一つになったものです。そして『めり』と『はり』がよくきいていて,せりふが観客に鮮やかに聞こえることを『めりはり』があると言います。」(仝上)
ともある。どうやら,単に言葉が,ドットとしてただ同じサイズが点々と続くだけではなく,それにドットの大きい小さいが必要ということだ。それは,拍子というか,リズムというか,アクセントの有無といってもいい。
単に歯切れのいい喋り方だけではなく,声の質も関係がありそうだが,それ以上に,
聴き手側に,ことばの軌跡が残る
ことが大事なのではないか,しかも,
心地よい調子
として,という気がしている。そう言えば,銚子のいい台詞回しは,耳に長く残る気がする。その意味では,
ボイストレーニング( Voice training)
とは目指すものが違う気がする。発声訓練をすることで,声が外に出ても,声が,点として軌跡を残すしゃべり方にはならない。
かつて受けたトレーニングでは,声が大きいというのは,
遠くに届く
ことであって,相手に届けたれば,ボールを相手に投げるように,相手を見て言葉を投げろ,と言われた。確かに,そうだろう。遠ければ,遠い相手に届くように声を出す。
滑舌
という言葉があるが,それは,喋るとき,
相手に理解してもらうために舌や顎や口をうまく動かしてはっきりとした発音をする動作
のことを言う。ボイストレーニングではここまではするらしい。しかし,やはり,口跡とは,少しだけずれる。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
上へ
ずいぶん前,万引きをした中学生を追いかけて列車事故死させた古書店主が非難囂囂,とうとう廃業に追い込まれた。今度は,25万円のブリキの玩具を万引きされた古書店が、「期間内に盗品を返さなければ犯人の顔写真を公開する」と警告したところ,警察からの要請で顔写真の公開を取りやめた。それに対して,
「刑法の規定では、正当な債権を取り返す場合でも脅迫すれば脅迫罪になる。今回のケースは、現時点で恐喝未遂に当たる」
という識者の意見が出ていた。あるいは,
古書店側が人間違いをして,無実の人が犯人として顔を晒される危険がある
という説まで新聞には出ていた。
しかし,おかしい。問題のすり替えなのではないか。結局,弁護士曰く,
盗まれ損
なのだという。何かが,おかしくはないか。法的な不備かもしれない。しかし,そうではなく,万引きしたものを庇う風潮がある気がする。これって,まっとうに,わずかな利で稼ぐ小売りをなりわいとするものを殺すことではないのか。
そもそも万引きしたのは本人の意志である。だとすれば,追いかけられて死んだとしても,それはおのれの所業のつけなのではないか。それこそ,マスコミや為政者の言う,
自己責任
なのに,それを,万引き被害者に転嫁し,あたかも,盗まれたものを追いかけたり,告発するのが,過剰と言うのは,どう考えてもおかしい。
万引きごときで,目くじらをたてるな,というのだろうか。しかし,小事をないがしろらするものは,大事にも高をくくる。大事は小事に宿るのである。
たかが万引きと言うが,例えば,これは普通の新刊本の書店の例だが,
利益率が低い業界の書店の利益は一冊あたり2割程度である。1冊盗まれたら,元を取るのに5冊売る必要があり,利益を出すためにはもう1冊,つまり6冊,6倍も売る必要がある。万引き1回に対して6倍の売上、努力が必要,
なのだそうだ。たかが「万引き」ではないのである。もっと利益の低いコンビニなどは,もっと深刻だと思う。
一説によると子供時代から数えて,万引き経験のない人はほとんどいない,という。ネットでは,
ある二十代の女性が嘆いていた。友人らとの会話の中で,万引き経験がないことを言うと,「嘘でしょう?」「あり得ない」「信じられない」と,誰もまともに信じようとしなかったというのだ。「誰だって一度や二度は万引きをしたことがあるのは当たり前」と,万引きをしたことがない彼女はむしろ異端扱いされた,
という記事すら掲載されていた。
一事が万事である。これが,わが国の実態である。
「人のものを盗んではいけない」
と,子どもにハッキリと言い聞かせている親がどれだけいるのか,と思いたくなる。ひょっとすると,
嘘つきは泥棒の始まり
ということわざは,もはや死語なのかもしれない。なんせ,泥棒が常態になっているのなら,たかが噓くらい誰も気にもしないだろう。そのせいかどうか,平然と国家のトップが嘘を並べ立てて,恥じることがない,というのは,すでに何ごとかを象徴している。この嘘については,
http://ppnetwork.seesaa.net/archives/20140811-1.html
で,すでに触れた。
しかし,実は,もっと深刻なのかもしれないと,ふと気づく。
泥棒はいけないこと
と,建前ではわかっている。しかし,本音は,少しぐらいなら見つからなければいいのではないか,と思っている。それが積み重なれば,タテマエは,あってなきが如く,雲散霧消する。ただの本音の隠れ蓑に堕す。こっちの方が深刻である。言っていることとやっていることのギャップが大きい。そして大きいことを承知している…!
万引きとは,
「マン(一時的な運・マン)+引き」
で,マン(運)よく引き抜く(盗む)ことを言う。よく言われる,
間+引き
を語源とする説は疑わしい,という。万引きは当て字,
買い物をするふりをして隙をみて盗む
ことを言う。まさしく,
正業
への挑戦である。まっとうに働く者を助けない社会に,一体どうして喜んで税を納めるのか。税を納めている側が損なわれ,非難されるような世の中はどこか歪んでいる。
僕は危惧する。
タテマエでは,勤勉,汗水たらして働くことを言いつつ,実は,本音では,それを馬鹿にしている。いかに楽して儲けるかしか考えていない。それは,倫理(僕はいかに生くべきかという人のありようについての価値観のコア部分と思う)が崩壊しているのではないか。
それが,嘘や欺瞞を当たり前とするだけではなく,汗水たらす努力を厭い,さっさと万引きして済まそうとする風潮につながっていないか。一度,簡単に果実がでに入れられれば,万引き感覚で,他人の成果物も平然と盗む。現に農作物の盗難が相次いでいる。
それをゲーム感覚などという言葉の遊びにすりかえるのは,卑劣である。
しかし,窃盗を万引きと言い替えているところで,実は,ごまかし,自己欺瞞がある。軽くしようと,軽いと思い込まそうとしている。敗戦を,終戦と言いくるめたことから始まって,69年たって,その敗戦自体をなかったことにしようとしている心性とは,どこか地続きではないか。
いやいや,すでに民主主義,不戦の誓いと言う文言が,戦没者式辞から消えたという以上,タテマエすら危うくなってきたのかもしれない。
めくじらとは,
ささいなことにむきになる,
目角を立てて他人の欠点を探し出す,
という意味だが,語源的には,
「目+くじら(端・尻)」
で,目尻のことである。で,めくじらを立てるで,眼角を立てて,他人の欠点を言い立てる意となる。しかし,
小事は大事
という。たかが万引きと,めくじらを立てぬものは,人としての基本的なありようが腐っている。基本の構えがなっていない,気がしてならない。
めくじらをたてすぎ?
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
上へ
後始末は,
跡始末
とも書く。
別に後事を託すべきこともないので,大層な始末がいるわけではない。しかし,それなりの始末をつけなくてはならないことはある。
始末
とは,
始+末
始めと末,という意味でシンプルだ。日本語では,
片づける
倹約する
という意味になる。因みに,
仕末
は誤字らしい。辞書を引くと,
始めと終わり,終始,首尾,顛末
事の次第,とくによくない結果,仕儀
きまりをつけしめくくること,整理をすること
浪費せず,つつましいこと
といった意味になる。
跡始末をつける,というのは,
帳尻を合わせる
という意味もあるし,
平仄を合わせる,
という意味もあるし,
掉尾を飾る,
という意味もある。
棺を蓋いて事定まる,
という意味もある。
最期は人の嗜み
という意味もある。
死して後已む
という意味もある。
まあ今更遅いが,
人は生き方通りの死に方をする,
とも言う。
まあ,見栄である。
しかし,
死生命有り
六十二十は死に頃
いつ死んでも,適期,ということでもある。ただ,後に災いや面倒は残したくない。
父は,四十年余前に亡くなったが,そのとき,まだ生きるつもりであったか,再入院に際して,仕事の仕掛かりをそのままにしていった。残されたものは,その跡始末がつけるにつけられなかった。
かつては,僕も,生きられるところまで仕掛かりのままやり続けてもいいのではないか,というふうに考えていた。しかし,いまは少し考えが変わった。
やはり,後は身ぎれいにしておきたい。それは,
見切る,
ということだ。ありていのに言えば,見限る,ということかもしれない。
未練たらしい,
のは嫌なのだ,と気づいた。別に潔い,ということを目指しているのとは違う。淡々と,すべき処理をしておこうとすると,どこかで,
断念
を迫られる。捨てる,ということだ。未練なのか,後生なのか,心残りなかか,ははっきりしないが,
まだできる(かも),
という,おのれへの期待を,
棄てる
ことなのだと思う。それが無くなって,果たして,まだ生きる意欲がわくのかどうかが,まだ決めかねている所以である。
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僕は朴念仁で,機微に疎いので,がさつとか,不躾とかと言われる。
機微と言うのは,
容易には察せられない微妙な事情,趣き
あるいは
微かな兆し
の意味だという。
人情の機微を察する
が語源で,
機(物事の働き)+微(かすか)
ものごとに微かに現れるか現れない兆し,
のことといって言い。
「幾」は,
「幺二つ」(細かい糸)+戈(ほこ)+人
で,
人の首に武器を近づけて,もうわずかで届きそうなさま,
わずか
細かい
という意を含むとされる。
「機」は,
木製の仕掛けの細かい部品,
僅かな接触で噛み合う装置
のことらしい。で,「機」には,
はた,機織り機 「機杼」
部品を組み立ててできた複雑な仕掛け 「機械」
物事の細かい仕組み 「機構」
きざし,事が起こる細かいかみあい 「機会」
人にはわからない細かて事柄,秘密 「機密」
勘の良さ,細かい心の動き 「機知」「機転」
といった意味がある。
では,「微」は,というと,
「微」のつくりの方は,
「−線の上下に細かい糸端のたれたさま」+「攴」(しるし)
で,
糸端のように目立たないようにすること
「微」は,
それに「彳」(いく)を添えて,
目立たないようにしのびあるきすること
という。だから,
かすか,ほのかではっきりみえない
身分が低い,目立たない
小さくて,目立たない
ほんの少し,わずか
ひそかに
といった意味になる。
しかし,人情の機微に触れる ってどういう意味なのだろう。なんとなく,
(微妙な)気持ちが分かる
酸いも甘いも噛み分けた
情に通じた
といった意味で,漠然と,
世事に通じる,
といった意味で使われ,
人間通
とか
人間観察力にすぐれる
ということとはずれていくような気がする。
心の綾
とか
心のデリカシー
という言い方をされることがある。
なんとなく,下町のおばさんの風情になる。しかし,下手をすると,
空気が読めない,
の類と同じ,同調圧力に変わる可能性を秘めている気がする。
そうそう人の心の奥底などわかるものでもないし,勝手にわかってもらったって,当人だって迷惑に違いない。
そういうと,きっと,
機微のわからないやつ
機微に疎いやつ
と言われるだろう。その瞬間に,同調圧力になっていることに,言っている本人が気づかない。
これは,人に強要するものではない,
黙って分かった(ふりをする)
というような,
忖度というか,惻隠の情
を言っているだけなのではないか。わかったら,わかったなどと言わないのが,
機微
というものだ。
そもそも,人の感性レベルは,人によって違う。その違いが個性というものだ。どこかに,
あるべき感じ方
などというものはない。そういうことを言い出したら,右向け右と同じことをしていないと納得できない,おのれの没個性に気づくべきだろう。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
上へ
恥ずかしながら,
30代
は底なしの無知であったと,いまは思う。おのれの無知をしらぬ無恥といっていいか。吉本隆明が「無知の栄えたためしはない」を,論敵に贈っていたのを,おのれのことではないと思っていた。おのれの無知に気づかぬ無恥ほど恐ろしいものはない。
無知
とは,
知識がないこと
智恵のないこと
とあるが,どうもそういうことではない気がする。確かに,
無(ない)+知(知る)
で,知らない,ということに違いないが,中国語源では,
無恥
つまり,
無(ない)+恥(はじ)
恥知らず,の意味だという。なかなか意味深で,確かに,
知らないこと
ではなく,
知らないことを知らないこと,
と考えると,無知は無恥に通じる。
子曰く,由よ,汝に知ることを誨(おし)えんか,知れるを知れるとなし,知らざるを知らずとせよ,これ知るなり。
と,孔子が,由(子路)にこう諭したのも,そう考えると意味深い。
しかし,だ。「知らざるを知らず」とするのは,そういうほど簡単ではないのだ。何を知らないかがわかるというのは,知についてのメタ・ポジションが取れることだ。そんなことがたやすくできるはずはない。
別のところで,孔子は,自分自身は,「生まれながらにして之を知る者」ではなく,
学んで之を知る者
であると言っているが,「学んで之を知る者」の次は,
困(くる)しみて之を学ぶ
者であるという。しかし,問題は,何を,どう苦しめばそうなれるかだ,といまなら思う。これは,自分の体験だから,
たまたまをそもそも
としているかもしれないが,鍵は,
アウトプット
だと思う。インプットではなく,アウトプットすることで,脳のシナプスの回路は強化される,というが,僕は,「知る」とは,自分の言葉を得ることだと思う。ひとは,
その持っている言葉によって,見える世界が違う,
と,ヴィトゲンシュタインを読んだとき,自分流に理解したが,その独自の言葉が,その人の見ている世界を示す,と思っている。僕は,初めて一書をまとめたとき,その瞬間は,気づかなかったが,
新しい視野
を得たのだと思う。僕は,それを,
パースペクティブ
と言う。「知」は,パースペクティブなのだと思う。自分にしか見えない世界を手に入れた,と言うと,大袈裟で不遜なのかもしれない。しかし,ピンではなく,キリだとしても,あるいは,他の誰かがすでに言っていることだとしても,それでもなお,
自分の世界を語る言葉
を手に入れたことが大事なのだと思う。それは,
視点
なのかもしれないし,
視角
なのかもしれないし,
ビューポイント
と言うべきものかもしれない。それは,それを表現するコトバを手に入れたことでもあるのではないか。そこで,初めて,
見える世界
がある。それが,おのれの視界であり,景色である。それが,その人の手に入れた「知」なのだと思う。もちろん,レベルの高低もある,是非も正否もある。しかし,自分のパースペクティブを手に入れなければ,その「知」と言う土俵で語ることができない。別の言葉で言うと,
借り物ではない言葉,
借り物ではないパースペクティブ
といってもいい。そのとき手に入れたものの完成度もレベルも,いま考えれば,恥ずかしいくらいかもしれない。しかし,小なりと言えど,自分の視界を手に入れたのだと思う。そこからしか,知の更新も,知の拡大も始まらない。
因みに,そのとき広げたおのれのパースペクティブの風呂敷からは,結局出られない,のかもしれない。そこで得たのは,おのれの視界の射程なのかもしれない。そして,それ以降は,おのれの顕在化した限界との戦いなのだ,と気づく。
いまも日々更新中だが,そうは射程は伸びてくれない。しかし,あの一瞬のフロー体験があったからこそ,脳細胞が沸騰するとはどういうことかが,キリはキリのレベルで,想像がつく。いま,更新しても,あの時の,興奮と白熱は,なかなかこない。
その意味で,自分のパースペクティブをもてているかどうか,
がその人が独自の知を築いたかどうかの目安なのだと思っている。言葉遣いの中に,その人独自の言葉があるはずである。借り物ではない,その言葉に,その人の見ている,独自の
視界
がある。それは,知識の多寡ではないように思う。知識の先に,その人だけに見える視界が開けているかどうかなのだと思っている。それを,和辻哲郎流に,
視圏
と呼んでもいい。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
上へ
にほふ
と
かをる
とはどう違うのだろう。
昔,何かを書き込むノートに,匂いという字を使ったら,それは臭気の意味で,ものを知らぬと,揶揄されたことがあって,何十年も前のことだが,心にしこっている。しかし,
辞書で,香り(薫り)をひくと,
よいにおい
とでる。で,匂い
を引くと,
香り,香気
とでる。ただし,
匂い
と
臭い
は使い分けているようだが,匂いの意味は,
@赤などの鮮やかに色が美しく映えること
Aはなやかなこと,つやつやしいこと
B香り,香気
Cくさいかおり,臭気(臭いをあてる)
Dひかり,威光
とあり,臭いは,匂いのCの意味,とある。つまり,
臭
と
匂
は,ダブっていて,「臭」は「匂」の一種,ということになる。しかし,漢和辞典には,
匂
は,国字とある。峠と同じく,日本で作った字ということになる。
臭
は,
自+犬
で,嗅ぐことをあらわしている。もともとは,
臭
と
嗅
は同じ字であったが,のちに,
におい
と
かぐ
に分用された,とある。「匂」は,
韵(ひびき)
の右側を書き換えた,という。つまり
から,
匂
に作り替えたらしい。
よい響きの意からよい香りの意に換えた。香りを聞くという言い方をするから,転じるのに無理がなかったのだろう。この辺りは,メタファーを考える貴重な始原があるのだろうかが,それはまた別の話題。
ともかく,たしかに,語源的には,
ニ(丹,赤い色)+ホ(秀,際立つ)+フ(継続・反復)
で,色が際立って美しく映える,光沢があって美しい
の意であり,転じて,よい香りが際立つことを指す。という。
そう思うと,
におい
は,嗅覚の側からの視点であり,
香り(香る)
は,香っているものの側の視点での表現ということになる。確かに,語源的には,かおりは,
香+居り
で,香りが,あることを指す。
因みに,漢和辞典を引くと,においは,
殠 腐って悪しきにおい
芳 葦のよきにおい,かお。植物のかおりが上下左右に広がり出ていくことをさす。
芬 かおる,ひらく,わかれるの意で,草が初めて生じて香の分かち布くをいう。
香 におい,かおり。もとは,黍+甘(うまい)で,空気に漂ってくるにおいをあらわす。
馥 こうばし,かんばし,ふっくらとしてよい香りを発する
馨 香る,かんばし。磬(澄んだ音を出す石板)と同系で,香りが遠くまで聞こえる。
と出る。
ついでに,「かおり」と漢和辞典でひくと,においで出た,「芳」「芬」「香」「馥」「馨」以外に,
T ふすぶ,こうじし,におう
臭 かおり,におい,気の鼻に通ずるもの,くさい
苾 かおり
菲 うすい,こうばしい(貌)
薌 かおり,こうばしきもの
薆 かおる
薫 かおりぐさ,かおり。香草のにおいがたちこめていることを意味する
等々と出てくるが,その使い分けは出ていない。たぶん,漢字は,すべてのかおり,においを区別してかき分けていたはずだが,だんだん抽象的に,いわば丸められてしまったようだ。だから,
匂い
と
香り
の区別がつかなくなっている,ともいえる。
変な言い方だが,
鳥
というのと,
ヒヨドリ
というのとでは,見えている世界が違う。言葉は,その人の持っている世界の違いを顕わす。われわれは,というよりぼくには,その見分ける見え方が出来なくなっている。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
上へ
ふと,待つというのは,待っている側の時間軸しか見ていないのではないか,ということに気づく。
よく,相手の沈黙を待つ,という。しかし,それは,待っている側の勝手な都合であって,相手は,自分の時間軸で黙っている。
そう思って振り返ると,
待つ,
を少し違う視点から気づくことがあった。
まず,「まつ」の語源は,
マ(間)+ツ(統)
で,時間をひきしめてあわせるようにする
という意味。それに「待」の字を当てた。そこから,待つの意味は,
@来るはずの人やものごとを迎えようとして時を過ごす
A用意してもてなす
Bのけておく
Cしようとする動作を途中で止める
D(俟つ)頼りとする
といった意味になるが,
で,当てた漢字,「待」は,
寺(手足の動作を示す)+彳(おこなう)
で,
手足を動かして相手をもてなす,
とあるが,別の出典では,
彳(あゆむ)+寺(止まりまつ)
で,立ち止まって待つ,ともある。このほうが,「待」の字を当てた意味がわかる。
そもそも,「まつ」には,
待(来るをまつ,また来ればあしらいをする意がある)
佇(たたずむ,まっている)
俟(せかずにものが自然とそこへ来るまでまつ)
候(うかがう,はべる,まつ)
徯(望むところがあって待つ)
竣(待に同じ)
遲(いまやおそしと待ちわびる)
須(互いに求めて相待つ)
と,当てる漢字に差がある。「待つ」と当てたのには,意味がある。
しかし,いずれも,「待つ側」の視点である。いや,言い方が変か,「待つ」と言っているのは,あくまで,
待っている側
の言い分であって,待たれる側は,待たれていることを迷惑と思うかもしれない。僕は,若い頃,待つこと三時間,ようやく待ち人がやってきたが,いまならわかる,その
遅刻
には意味がある。来たくない,あるいは逡巡,躊躇が反映している。待ち合わせの遅刻には,相手にとっての意味がある。そう思うと,よく待ち合わせで,相手が遅れることが多いのは…,いやいやそれは別の話題。
よく,
相手の沈黙
を待つとか
相手の返答
を待つ,という言い方をする。「待てるかどうか」という言い方をする。しかし,考えたら,それは,待っている側の時間感覚というか,「まつ」という姿勢自体が,待つ側の視点でしかない。
待たれている側は,
待っていてほしいと思っているとは限らない。ただ,このまま黙っていたい,この沈黙の中にただひたすら浸っていたい,このままシカトしたい,このままばっくれたい,と思っているかもしれない。しかし,うざいことに,目の前の相手が,いかにも,待っているという姿勢,表情で,見つめている,ということに辟易するかもしれない。
待つ
という行為自体が,待つ側の主観というか,思い入れに過ぎない,ということに,たぶん待つ人は,ほとんど思いが至らないだろう。だから,待たれる側は,遅刻する,黙りこくる,返事を遅らす。
待つ
とか
待てる
等々ということが,自分の時間軸でしかものを見ていない証拠に過ぎない。
相手には,相手の時間軸があり,その時間軸に合わせるとすると,それは,もはや,
待つ
ということではないはずだ。なんというのだろう,
寄り添う
のか
ともにいる
のか,
いずれにしても,もし本当にそう言う姿勢なら,待つという感覚とは遠いはずだ。いや,待つという感覚はないはずだ。
それぞれ人は,自分の時間軸帆を生きている。待つとは,自分の時間軸と相手の時間軸との微妙な隙間をあらわにする。
待たれる身より待つ身
待たるるとも待つ身になるな
等々という感覚は,両者の,そういう時間感覚の違いを言っているようにも見える。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
上へ
あまりひとを怨んだり,呪ったりということをした記憶もないし,したいとも思わない。しかし,人からは,恨まれたり,呪われているような気がする。
呪う
は,語源的には,
「祈る(ノル)」+「ふ」
で,基本は,「祈る」の延長戦上にあるものらしい。
祈り続ける,
には違いないが,
相手に災いがあるように祈りつづける,
ということらしい。確かに,
のろう,
を漢和辞典で引くと,
呪
詛
が出て,後は,異字体の「咒」等々である。
呪
は,
口+兄
で,もともとは,「祈」と同じで,
神前で祈りの文句を称えること
なのだが,後,「祈」は,
幸いを祈る場合,
「呪」は,
不幸を祈る場合,
と分用されるようになった,とある。
詛
の,
且
は,俎(積み重ねた供えの肉)や阻(石を積み重ねて邪魔をする)を示す。「詛」は,その流れで,
言葉を重ねて神に祈ったり誓ったりするみと,
の意味だ。どちらも,神に祈る行為の延長戦上で,
自分の幸
ではなく,
他人の不幸
を祈るところへシフトする。しかも,
他人の不幸を実現することで自分の幸を実現しようとする
という,屈折した祈りだ。
ひとを呪わば穴二つ,
というのだが,視野狭窄の中にある執念には,見えなくなっている。
しかし,人を呪うというのは,どういう心性なのだろう。
父のせいとか,
母のせいとか,
誰某のせいとか,
世の中のせいとか,
結局その事態を招いたのは,他人ではなく,自分でしかない。それを受け入れられないというのは,どこかに,
嫉妬
か
羨望
か
妬み
があるのに違いない。
自分もそうなれたはず,
自分もそれを手に入れたはず,
なのに,そうならなかったのは,自分側ではない,
外的(阻害)要因
があったと
考えたい,
のか,
思い込む
のか,
信じ込む
のか,
いずれにしても,自分の側に,
理がある
正当性がある,
正しい,
善がある,
と思わなければ,人を落とし込めるはずはない。
それは,いわば,唯一の視点しか持てていない,自分を相対化するメタ・ポジションが持てないということなのだろう。
いやいや,他人事ではない。自分の側に要因を求めなければ,結局,
成長というか,
前進というか,
はなく,たった一つの,その時点に,何年も立ち止まったまま,ということだ。そんな,時間が過ぎていくのも気づかぬぐらいの一念があるなら,とついつい思うが,そういうものでもないのだろう。
そういうのもまた,一つの人生だ。それを選んでいるのは,おのれ自身なのだから。
上へ
まじめ
は,
真面目
をあてるが,当て字で,語源的には,
マジ(擬態・まじまじ)+目
で,真剣な顔つき,誠実な態度,誠意があるなどの意味になる。
まじまじ
は,
たびたびまばたする,眠れないさま
恥じず平気なさま,しゃあしゃあ
とある。前者から,
緊張して,眼をしばたたかせるだけの真剣な顔つき
が連想され,そこから,
本気,
や
誠実,
に広がったと考えられる。ただ,江戸時代をみると,
阿鼻焦熱の苦しみをまじまじと見てゐられうか
という使い方で,
ただなすところなく見ているさま,じっとみつめるさま,
の意と,
さすがの喜多八,しょげ返りて顔を赤らめ,まじまじしてゐるを
という使い方で,
もじもじ
の意,とある。そこからは,
真面目
の意味は見当たらない。
ただ,手を束ねてこわばっている
か,
照れて気後れ(もじもじ)している,
の意の方が強い。
真面目
の字を当てたのがいつの頃かは分からないが,
しんめんもく(と読むと,真骨頂の意味になる)
の字を当てた瞬間,他の意味が,「地」に下がり,誠実さが「図」として浮き上がった,ということなのかもしれない。
だから,辞書的には,
うそやいいかげんなところがなく,真剣であること。本気であること。また,そのさま。
真心のあること。誠実であること。またそのさま。
真剣な顔つき,本気。
だけが残ることになる。
まじ
と略すと,いっそう一か所に焦点を当てたようで,しかしこう略した瞬間,
すこし真剣さが消えて,諧謔さがでてくる。一説では,
マジは江戸時代から芸人の楽屋言葉として使われた言葉,
らしいのだが,
まじに,
まじで,
から,
まじすか?
まじ〜
と,使われると,意味は,「真面目」のニュアンスからかなりずれてくる。
本気
を「まじ」と訓ませるところまでいくと,
ちょっと皮肉が交じっているような気がする。
そう思うと,略された瞬間,軽くなり,軽くなった瞬間,そこに諧謔が生まれてくる気がする。最近では,
スマートフォンを,スマホ,
ガラパゴス携帯電話をガラケー
あるいは,
二子多摩川を,ニコタマ,
ああ,カタカナになると,一層そういうニュアンスが強まるような。
就職活動を,就活,さらにシューカツ
と書くと,そのニュアンスがわかる。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
上へ
佐佐木隆『言霊とは何か』による。
著者は,言霊の,一般的な理解の例として,『広辞苑』を引く。
「言葉に宿っている不思議な霊威。古代,その力が働いて言葉通りの事象がもたらされると信じられた。」
と。しかし,一見して,異和感がある。言と事をイコールと感じるからといって,誰の言葉でも,その言葉通り実現すると,信じられたのか,と。
著者は,
「古代日本人にとって『言霊』とはどんなものだったのかを具体的に検討」
するのを目的として,
「言葉の威力が現実を大きく左右したり,現実に対して何らかの影響を与えたりしたと読める材料のみを取り上げ」
て,
「言葉の威力がどのようなかたちで個々の例に反映しているのかを,『古事記』『日本書紀』『風土記』に載っている神話・伝説や『万葉集』に見える歌などを読みながら,一つ一つ確認していくことにしたい」
とまえがきで述べる。それは,結果として,言葉が一般的に霊力をもつという辞書的通念への批判の例証になっていく。
まず,「言霊」の「こと」は,一般的に,「事」と「言」は同じ語だったというのが通説である。あるいは,正確な言い方をすると,
こと
というやまとことばには,
言
と
事
が,使い分けてあてはめられていた,というべきである。ただ,
「古代の文献に見える『こと』の用例には,『言』と『事』のどちらにも解釈できるものが少なくなく,それらは両義が未分化の状態のものだとみることができる。
という。ただ,まず「こと」ということばがあったと,みるべきで,「言」と「事」は,その「こと」に当てはめられただけだということを前提にしなくてはならない。その当てはめが,未分化だったと後世から見ると,見えるということにすぎない。
「『言霊』の『霊(たま)』は,『魂』の『たま』と同じ語であり,
霊魂,精霊
のことだと,一般には説明されている。
で,「言霊」使用例(「言霊」を読みこんだ例は『万葉集』には三首しかない)の分析に入る。たとえば,
@神代より 言ひ伝て来らく そらみつ倭国は 皇神の 厳しき国 言霊の幸はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり…(山上憶良)
A志貴島の 倭国は 言霊の 佐くる国ぞ ま福くありこそ(柿本人麻呂)
B言霊の 八十の衢に 夕占問ふ 占正に告る 妹相寄らむと(柿本人麻呂)
これ以外に,『古事記』『日本書紀』『風土記』を含めて,「言霊」の確かな用例はないのだという。で,ここから,その意味をくみ取っていく。
Bの「夕占問ふ」とは,「夕占」である。
「夕方,道の交差点になっている辻に立ち,そこを通行する人が発することばを聞いて事の吉兆・成否を占う,」
という意味である。おみくじを引いて,神意を知るのと同じというと,言いすぎか。
Aは,その前の長歌をうけている。そこには,
「葦原の 瑞穂の国は 神ながら 事挙げせぬ国 然れども 辞挙げぞ吾がする 言幸く ま福いませと 恙無く ま福くいまさば 荒磯波 ありても見むと 百重波 千重浪しきに 言上げす 吾は 言上げす吾は」
とあり,@もAも,
「皇神(すめかみ)」「神(かむ)ながら」を承けたかたちで「言霊」という語が用いられている,ということである。
として,著者は,ここで用いられた
「『言霊』が神に対する意識と密接な関係があったことを物語る,」
として,こう説く。
「人間の口から発せられたことばが,その独自の威力を発揮し,現実に対して何らかの影響を及ぼす,といった単純な機構ではない。神がその霊力を発揮することによって,『言霊の幸はふ国』を実現し『言霊の佐くる国』を実現するのだというのが,(@とAの)『言霊』に反映する考え方なのである。」
当然,Bの占いも,
「行為が向けられた相手は神であり,『占正の告る』の主体も神だということになる。つまり,人間が『占』を行って,神に『問ふ』のであり,神がそれに応じて『占に告る(占いの結果にその意思を表す)』のである。」
と述べ,『広辞苑』に代表される通説の説明は不十分で,
「(三例の)「言霊」は神を意識して用いられたものであるのに,…神とのかかわりが視野にはいっていない,」
と言う。そして,
「三例の『言霊』は,神がもつ霊力の一つをさすもの,」
と考えると,ことばに対する当時の日本人の考え方は,原始的なアニミズムを脱し,
「『言霊』については,早い段階で,人間には具わっておらず神だけがもつ霊力だと考えられるようになっていたのではないか」
と推測する。そして,以降,ことばの威力を,文献にあたりながら,
いかに神の霊力
を意識していたか,を検証していく。
呪文
祝詞
国見・国讃め
国産み
夢あわせ
等々を検討したうえで,
「本書では,ことばがその威力を発揮して現実に何らかの影響を与えた,と読める材料だけを古代の文献から集め,その内容を具体的に分析した。『古事記』『日本書紀』『風土記』の神話・伝説や『万葉集』の歌を見る限り,ことばの威力が発揮され,それが現実に影響を与えるのは,神がその霊力を用いる場合である。人間の発したことばを聞き入れた神がその霊力を発揮して現実に影響を与える,というかたちになっているのが普通である。」
とまとめる。つまり,
「人間の発することば自体に威力があって事が実現するのではなく,人間の発することばを聞き入れた神が事を実現してくれる…,」
というわけである。
「ことばに霊力がやどると信じたのは,人々の間で日常的に何気なく交わされることばではな(く)…儀礼の場で事の成就を願う非日常的な状況において,特別な意識をともなって口から発せられることばに霊力がこもる…」
ということである。上記の万葉三首以降,「言霊」をもちいた歌は,数えるほどしかない。そこでも,強く神対する意識がある。では,どこで,
「人間の発することばにまで拡大され,さらにまた,ことばそのものに霊力がやどるという解釈にまでかくだいされることになった,」
のか。著者は,江戸時代の『万葉集』で,上記三首の解説を調べる。
江戸時代前期,契沖の『万葉代匠記』
江戸時代中期,賀茂真淵『万葉考』
では,神との関係を明確に意識している。しかし,
江戸時代後期,橘千蔭『万葉集略解』
では,
この歌に神霊がやどって,
と,神意抜きの解釈に変わる。師の真淵が「神の御霊まして」という説明の神意をはき違えてしまったらしいのである。
これ以降,
言霊とは,ことばの神霊のことであり,発することばにおのずから不思議な霊力がある
というように変わっていく。それは,とりもなおさず,
自然や神への畏れ
をなくしてしまった現れなのではないか,と思う。だから,
ことばをもちいた祝詞や和歌や諺にも言霊が宿る,
と際限なく拡大していく。それは,人の不遜さ,思い上がりに通じるものがあるような気がしてならない。人というより,日本人の,と言った方がいい。その不遜さは,またぞろ,妖怪のように復活してきた気配である。夜郎自大とはよく言ったものである。
参考文献;
佐佐木隆『言霊とは何か』(中公新書)
上へ
最近変なことに気づいた。
明治維新が,どこを起点にするかによって微妙だが,鳥羽伏見での幕府の敗北か,その前の王政復古の宣言かで,一年位違うが,1867年か1868年か,そこから敗戦の1945年まで,約77年。
そして敗戦から, 77年になるのが,ちょうどオリンピック頃となる。
僕は密かに
77年周期
を信じ始めている。
外圧に拠るか,自壊によるか,天災によるかは別にしても,77年を迎えるのはオリンピック直後,敗戦かあるいは江戸幕府崩壊に匹敵する何かが起きる気がしてならない。
単なる数字合わせかもしれない。
ひところ,ツイッター上で,こんな類比が流れ続けていた。妙に重なっている(気がする)。
1923年 関東大震災
1925年 治安維持法
1940年 東京オリンピック
1941年 太平洋戦争
2011年 東日本大震災
2013年 秘密保護法
2020年 東京オリンピック
しかし,東京オリンピックまでもたないのではないか,という危惧もあるが,この後に,
2021年
を加えて,明治維新と敗戦の年を加えると,
1868年 明治維新(王政復古の宣言を取ると,1867年)
1923年 関東大震災
1925年 治安維持法
1940年 東京オリンピック
1941年 太平洋戦争
1945年 ポツダム宣言受諾
2011年 東日本大震災
2013年 秘密保護法
2020年 東京オリンピック
2021年 ?
となる。何となく気味が悪い。
貧富の格差が拡大し,長期に経済が停滞した閉塞状況,中韓への意識と言い,「東京オリンピック」浮かれて,1930年代へと向かう社会状況と,どこか似ている。
われわれは,歴史から学ばない。だから同じ轍を何度も踏む。一部のというか,為政者の大勢(超党派の200を超えた議員による「東京裁判史観」からの脱却を目指すグループがある等々)は,敗戦後の体制が嫌なのだろう,決して敗戦自体を認めようとしない。それは,敗戦で死んだ人々への何の自責もないということだ。
しかし,かつて威勢良く,八紘一宇とかといって戦争に駆り出された軍隊がこれほど悲惨な目にあった戦争というのは,世界にほかに例がないのではないか。軍人・軍属あわせて二百三十万人の戦没者が出ているが,この半数以上が餓死者と言われる。戦闘ではなく,補給の断絶による死とは,戦略の死である。
いやいや何より,戦争自体が,
政治の死であり,政治の敗北である。
だから,開戦できても,終戦の仕方が決断できず,二発の原爆をおとされてもなお,決断できなかった。
決められないのは,いまに始まったことではない。
しかし,だ。戦後レジームの脱却の先で,目指している国は,どうやら,戦前もどきらしいのである。たとえば,それは,自民党の憲法草案を見れば一目瞭然,日本国憲法の前文にあった,
全世界の国民が,ひとしく欠乏から免れ,平和の裡に生存する権利を有する
が削除されている。「平和の裡に生存する権利」を認めないということであろうか。
そして,「第三章国民の権利及び義務」では,
第十二条(国民の責務)
この憲法が国民に保障する自由及び権利は,国民の不断の努力により,保持されなければならない。国民は,これを濫用してはならず,自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し,常に公益及び公の秩序に反してはならない。
第十三条(人としての尊重等)
全て国民は,人として尊重される。生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については公益及び公の秩序に反しない限り,立法その他の国政の上で,最大限に尊重されなければならない。
第二十一条(表現の自由)
1 集会,結社及び言論,出版その他一切の表現の自由は,保障する。
2 前項の規定にかかわらず,公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い,並びにそれを目的として結社をすることは,認められない。
とし,常に,
公益及び公の秩序に反しない限り,
公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い,並びにそれを目的として結社をすることは,認められない。
と,制約条件が付いている。それは,「公益及び公の秩序に反」に反すると,いつでも投網の範囲を広げる自由が権力側に与えられている。そう,縛りをかけたほうが,
一切の表現の自由は,これを保証する
とする方が,為政者にとって面倒で厄介に違いないのだ。それも含めた,戦前への回帰にほかならない。さらに,
第十章 最高法規
が,削除された。そこにあったのは,第九十七条,
この憲法が日本国民に保障する基本的人権は,人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて,これらの権利は,過去幾多の試錬に堪へ,現在及び将来の国民に対し,侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
である。さらに,それに先立って制定を目指す,国家安全保障基本法では,「国民の責務」として,
国民は,国の安全保障施策に協力し,我が国の安全保障の確保に寄与し,もって平和で安定した国際社会の実現に努めるものとする。
定めている。
こういうカタチで進められている体制に想定されるのは,まぎれもない戦前の復活である。自由とは為政者にとって厄介なもののはずだ。それを右向け右にすれば御しやすいかもしれない。しかし,そんな集団が強いはずはない。現に,対米戦で,奇襲を除くと,ほとんど日本は負け続けた。
しかし,負けを負けとして認めようとしないマインドにとっては,戦後の,東京裁判は屈辱なのだろう。しかしそれ前提にしたサンフランシスコ講和条約で,日本は戦後の国際社会に復帰し,この日の経済地歩がある。A級戦犯合祀の靖国参拝は,戦後体制への挑戦に見えるはずである。
靖国神社の松平永芳宮司は,
国際法的に認められない東京裁判を否定しなければ日本の精神復興はできない
との信念からA級戦犯合祀に踏み切った(だから以降,昭和天皇はそれを痛烈に批判し,以来天皇は一度も参拝していない)。まさに,合祀とは,東京裁判の否定であり,ひいては,サンフランシスコ講和条約自体の否定である。それは,中国,韓国がどうのこうのというレベルの話ではなく,サンフランシスコ講和条約を基礎としてアメリカが築いてきた戦後世界秩序への挑戦なのであり,それは今日の世界全体を敵にするというに等しい。
それが,果たして,アメリカが望むことなのか,ということが真摯に検討された節はない。その覚悟を持って,靖国参拝をしているようにも見えない。もはや,現実を直視するというより,どこか妄想の世界に生きているように見える。
国のために亡くなられた方々を云々
などというレベルの問題ではない。
しかし,戦後レジーム脱却を目指す方々にとっては,そんなことはどうでもいいらしいのである。経済的な不利益も,国民の難渋も,世界的な孤立も視野には入らない。
この先に来るものは,経済の行きづまりか,尖閣をめぐる一触による偶発的な戦争か,第二次関東大震災か東海地震による津波か,は知らないが,大きな崩壊が来るように思えてならない。
200万余の戦死者,それに倍する国内被災者,周辺諸国の人々を含めたらその10倍以上の悲惨をもたらした戦禍で瓦解した戦前の体制への復帰が,どう考えても,国民に幸せをもたらすとは思えず,戦後レジームが破壊されると同時に,そこで,日本という国が,三度目の大変革を迫られる事態を迎えざるを得ない気がしてならない。
そして,それは,いままでの流れからは,外圧によるか天災による自壊になる可能性が大きいのである。しかし,マルクスが言った,
「歴史的な大事件や重要人物はすべて,いうならば二度繰り返される」とヘーゲルはどこかで指摘したが,彼は以下のことを付け加えるのを忘れている。一度目は悲劇だが,二度目は茶番劇だということを,
になぞらえるなら,
一度目は悲劇
だが,
二度目は,同じ轍をわざわざ踏む,
喜劇
にほかならないのではあるまいか。
参考文献;
豊下樽彦・古関彰一『集団的自衛権と安全保障』(岩波新書)
マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(岩波文庫)
上へ
とも
を引くと,
友
朋
與(与)
僚
倫
侶
伴
等々が出るが,「友」と「朋」以外は,予想外。ただ「與」については,思い当るものがある。『論語』に,
中候を得てこれを与(とも)にせずんば,必ずや狂狷か。狂者は進みて取り,狷者は為さざる所有るなり
とある。中庸の人間を友とすることができないときは,狂者か狷者を友とする。狂者は積極的に行動するし狷者は絶対に妥協しないところがある,という意味だ。「与」を友としている。「与」は,
與
の字であり,
ともに
とか
あずかる
とか
くみする
という意味をもっているので,想定できなくはないが,語源をみると,
牙
の原字と同系とあり,
噛み合った姿を示す,
とある。
與
は,さらに四本の手を添えて二人が両手で一緒に者を持ち上げているさまをしめす,
と言い,
かみあわす
とか
力をあわせる
の意を含む,らしい。
僚
は,同列に並ぶ友達。仲間。僚友
とある。どうやら,官人をさして,いる。同僚の意味だ。
燎(かがりび)
の原字。前後左右に連なる意を含む。「僚」は,人を添えた字で,同列に連なる仲間のこと。
倫
は,やはり同列に並んだ仲間の意で,絶倫(仲間をはるかに超えた)。原義は,
侖
は,「あつめるしるし+冊」の会意。短冊の竹札を集めてきちんと整理するさまを指す。紙の発明前に使われていた竹簡で,竹札をつなげていたのに由来するのだろう。そこから,同類のものが,順序良く並ぶの意を含む。で,「倫」は,
きちんと並んだ人間の間がら
の意味になる。
侶
は,ともづれ,の意味。肩を並べる,意味。
呂
は,並んだ脊椎の骨の形を描いた象形文字。で,「侶」は,
同列に並んだ人,つまり,仲間
の意味。
伴
は,共,一緒に物事をする人,の意。
半
は,八印によって物を両断することを示す。で,「伴」は,
一体を二つにわけたその片方のこと,つまり,相棒
を指す。
朋
は,対等の姿で,肩を並べたともだち,の意味。
数個の貝を貫いて二筋並べたさま
を,象ったもの。同等のものが並んだ意味,になる。ただ,
同門の相弟子
を指し,「友」とは少し違う。
友
は,会意は,
庇うように曲げた手を組み合わせたもの,
で,手で庇いあうことを指す。
仲良くかばいあう仲間
の意味。同志は,「友」と言うが,「朋」とは言わない。
いずれも,「とも」には違いないが,
友
とは微妙に違う。
朋有り遠方自り来たる,亦た楽しからず乎
と一般に言うが,貝塚注は,
「遠方」は現代語の遠方ではなく,遠国の意味に取るとしてもこの時代では見慣れぬ用法である。中国近世の学者兪樾(ゆえつ)の説をもとにして,同僚や旧知人たちがうちそろってやってきて,孔子の学園の行事に参列したと解釈する,
として,こう訓んだ。
有朋(とも),遠きより方(なら)び来る,亦楽しからずや
と。しかし,貝塚先生に逆らうようだが,「朋」が,同門の相弟子と解すると,ちょっと無理な気がする。
横井小楠は,講義録のなかで,
朋友なければ学問致しても天より承け得たる明徳をあきらかにすることはできない。有朋自遠方来でいう朋有りとは、学問の味を覚え修行の心盛んなれば,おのれの方より有徳の人と聞かば遠近親疎の別なく親しみて近づいて話し合えば自然と彼方よりも打ち解けて親しむ,これが感応の理というものだ。朋は学者に限る意味ではない。誰でもその長をとって学ぶときは世人皆吾朋友なり。ぼんやり往来するという意味ではない。もう少し広めていえば,当節幕府より米利堅(めりけん)へ遣わされし使節を,米人厚くあしらい,その厚情の深きを考え思うべきだろう。これ感応の理だ。この義を推せば日本に限らず世界中皆我朋友といってもよい。
という説明をしている。途方もない楽天家,小楠らしく,話を広げているが,「朋」は,学友であり,同志の謂いではない。ただ,吉川英治の言う,
我以外皆我師
という意味で言えば,小楠の言うように,
誰でもその長をとって学ぶときは世人皆吾朋友なり
と,朋といっていいのかもしれない。因みに,同志とは,
志を同じくする人,
とある。
志,
とは,「志」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E5%BF%97)
で書いたが,
・こころざす,ある目標の達成をめざして心を向ける。「心」+さすに由来する訓。志向。
・こころざし。ある目標をめざした望み。またあることを意図した気持ち。大志。立志。
とある。一緒に何かの達成を目指している仲間である。少なくとも,「友」にしろ「朋」にしろ,ここで,
とも
といっているのが,フェイスブックでいう,
友達申請
の友達ではないことだけは確かである。
参考文献;
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
山崎正董『横井小楠』(明治書院)
上へ
死は,
歹(骨の断片)+ヒ(人)
で,人が死んで骨片になることを指す。
逝は,あの世へ行く
歿は,姿が見えなくなること,
暴は,いなくなること,
崩は,山が崩れるようになくなること。天子の死に用いる,
薨は,見えなくなることで,諸侯の死に用いる,
卒は,身分の高い人の死ぬこと,四位五位の人が死ぬこととある,
寂は,入寂,僧侶の死に用いる,
瞑は,死者が目を閉じて永眠するのを指す,
等々ある。まあしかし,おのれについては,
くたばる,
がふさわしい。あるいは,
朽ち果てる,
か
お陀仏
か。昨今,
不在のそこ,
ということを,しきりに意識する。前にも,「嫉妬」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E5%AB%89%E5%A6%AC)
書いたが,
自分のいないそこ,
という意味だ。嫉妬に近い。別に死期を察している,というような殊勝なことではない。
「
死期」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E5%AB%89%E5%A6%AC)で触れたが,近さが,間違いなく実感できるほどになったということだ。
死は,両親の死も堪えるが,友人の死の堪え方は,ちょっと違う。これについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/398323501.html
で触れた。まあ,まだ立ち直れないというか,立ち直ることはないだろう。むしろ,おのれの死をどう向かい入れていくか,というように変わるのかもしれない。
唐詩選の有名な,
年々歳々花相似
歳々年々人不同
をふと思い出す。
洛陽城東 桃李の花
飛び来たり飛び去って誰が家に落つる
洛陽の女児 顔色好し
行くゆく落花に逢うて長歎息す
今年花落ちて顔色改まり
明年花開くも復た誰か在る
已に見る 松柏の摧けて薪となるを
更に聞く 桑田の変じて海と成るを
古人無復洛城の東に無く
今人還た対す 落花の風
年々歳々、花相い似たり
歳々年々人同じからず
言を寄す 全盛の紅顔の子
応に憐れむべし 半死の白頭翁
かつては,若い人の立場で,そう見ていたように感じる。いまは,
半死の白頭翁
で見ている。歳の移り変わりを,詠嘆する気にはなれない。
明日ありと思う心のあだ桜,夜間に嵐の吹かぬものかは,
とは親鸞の言らしいが,
花に嵐のたとえもあるぞ
とか,
月に叢雲,花に風
とかは,この一瞬の楽しさ,美しさが,束の間に消えていく,
ことを言っている。いわば,
無常
だが,どうも,そのポジショニングは,自分には
よそごとか,上から目線か,
を感じてしまう。もっと切実である。
明日死ぬ,
と思っている人間に,言える言葉ではない,と考えてみれば,そのギャップは大きい。
そのいま位置いるのである。別に深刻ぶっているのではなく,実感である。だから厄介なのだ。
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正直,無知をさらけだすようだが,
志
は,士+心と勝手に分解していた。恥ずかしながら,勘違いも甚だしい。『漢字源』には,
この士印は,進みゆく足の形が変形したもので,「之」(ゆく)と同じ。士・女の士(おとこ)ではない。志は,心が目標をめざして進み行くこと,
とある。
心の之(ゆ)くところ,
ともある。『大言海』は,
こころざし
と
こころざす
を分けている。
こころざす
は,
@心,其の方へ,動き向かう,思い立つ,めざす
A志して,贈る,あたふ
B亡霊へ,香花を手向く
とあり,
こころざし
は,
@(こころざすの)@,こころばせ,こころばえ,おもいこみ
A贈り物,進物
B亡霊への手向け,追善,追福
とある。では,漢字としての「志」の意味は,というと,
@こころざす,ある目標の達成をめざして心を向ける。「心」+さすに由来する訓。志向。
Aこころざし。ある目標をめざした望み。またあることを意図した気持ち。大志。立志。
Bしるす。書きとめる。「誌」の同系。
C書きとめた記録
Dはた,幟に通ず。
Fやじり
G節義,または見識のあること。
とある。
志向性
というより,単に,
指向性
を示しているにすぎないように見える。しかし,違う気がする。
ただ目指す
という意味よりは,
尖り
を感ずる。
志士
士気
志節
志操
志願
志格
等々という語句には,
志
という言葉のもつ倫理性を強く感じる。倫理性とは,僕流儀では,
いかに生くるべきか
というその人のコアの価値観のようなものがある。
同じめざすにしても,そういう倫理とつながる。だから,
吾十有五にして学に志し
は,単に学問を学ぶというようなことではないのではないか,そこに,「志」が使われている意味は。
当然,『近思録』の由来となった,
博く学びて篤く志(し)り,切に問いて近くに思う,仁はその中にあり
の「志」を,知るに当てるには,それなりの重みがある,と見なせる。因みに,貝塚訳注では,
「志」を「識」つまり記憶するという解釈に従った。「学」は他人に習うことであり,この習ったことを「篤く志る」
とある。一般には,
博く学んで篤く志し,切に問いて近く思う
というように,こころざし,と読ませているが,すでに学ぶこと自体が,
学に志し
ているのだか,志して学んでいるものが,改めて,
博く学んで篤く志し,
は,変である。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
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「笑」の古語は,「咲」だという。
『古事記』の天の岩屋戸神話で,
八百万神共に咲ひき,
と,八百万神がアメノウズメの命の踊りに,共に笑ったという表現で使われているのは,
笑う
ではなく,
咲う
である,という。「咲」は,「笑」の古語という。
まずは,「笑う」の語源は,
ワラ(割・破る)+ふ(継続)
である。
顔の表情が割れ,それの継続・反復する状態を言う,
とある。つまり,顔の表情が割れ続ける,を指す。
では,漢字の「笑」は,と言うと,
口をすぼめて,ほほとわらう,から転じて,口を広げてわらう
とある。「笑」は,
竹+夭
と分解できるが,「夭」は,
細くしなやかな人
の意で,「笑」は,「竹+夭(ほそい)」で,もともと細い竹のこと。正字は,
口+笑
とも言う。だから,
口をすぼめてほほとわらうこと,
だったらしい。それを誤って,
咲
と書いた,と言う。では,「咲」はと言うと,
口をすぼめてわらう
という意で,「笑」から転用されたが,日本では,
鳥鳴き花咲ふ
という慣用句から,
花がさく
意に,転用されるに至ったという。
「笑」以外には,
嗤 歯をむき出してあざわらう
哂 息を漏らして失笑する
噱 大笑い
に対して,「笑」は,
喜んで顔を解き,歯を啓く,の意となる。
しかし,
笑
より,
咲
の方が,笑いによってその場が変ずる様子がよく出ているように思う。さすがに,象形文字である。
表情が一変する,
というのもまた,
咲ふ
のほうがよく表現できる。文字の向こうに景色が見える。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
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士
という字を調べていて,
侍ろう
から来ており,その連用形,
サブラヒ→サムライ
と音韻変化した,という。高位の人,目上の人の,側近くに仕える人を言う。後,北面の武士ではないが,
武士
を指すようになった,という。つまりは,ただ役割を指しているにすぎない。
士
は,成人男子を指すが,周代だと,
諸侯―大夫―士
の三層に分かれたし,春秋・戦国時代以降は,
広く,学問や知識によって,身を立てる人
を指す。論語で言う,
士は以て弘毅ならざるべからず。任重くして道遠し。仁以て己が任となす。亦重からずや。死して後己む。亦遠からずや
という,あの士である。
この士の字を,中国語源では,
仕事をする場所の目印
とある。つまり,
一(目印)+|(杭)+一(地面)
と分解できるという。そして,事は,
旗を立てる,立つ
と同系,仕とも同系とある。
では,ついでに,
侍という字は,というと,
貴人のそばで仕事をする人,またその仕事
で,
人+寺(仕事)
と分解できる。ついでに,仕事の「事」はどうかというと,
つかえる,
という意味だが,この字は,
計算に用いる竹のくじ+手
で,役人が,竹棒を筒の中に立てるさまを示し,
そこから転じて,所定の仕事や役目の意になったという。
では,「仕」は,というと,同じく,
つかえる
という意味だが,
真っ直ぐに立つ男(身分の高い人の側にまっすぐ立つ侍従)のこと,
という。
事君(君につかふ)と仕君(君につかふ)とは同じこと,
とある。
仕事という言葉自体は,語源的には,
シ(為る)+事
で,すること,しなければならないこと,の意。平安期では用例がなく,中世になって初めて現れる言葉らしい。明治期以降,物理用語として訳されて,
物体が外力で移動する
意らしい。
「侍」は結局のところ,始源的には,その立っている位置というか,立場を示しているだけに過ぎず,大事なのは,どういう「事」に仕えるか,ではないか。
事とは,旗である。旗とは,
「旗」の字のつくりの「其」を除いた部分(風になびくハタの意)+其(合図)
の意味という。旗幟鮮明の「旗」である。「はた」には,
旛(旗幅の下に垂れ下がるしるしばた),旂(鈴のある旗),旃(曲り柄の旗),旆(種々の色の帛でつくった旗),旄(毛で造った旗飾り),旌(あざやかな色の鳥の羽をつけた旗印),旐(亀谷蛇を描いた旗),旒(はたあし,旌旗の垂れ下がるもの),旟(隼を描いた旗)。
等々があるが,なぜ「旗」が,ハタの総称かというと,
龍虎を描く大将の立てるもの
だからである。
自分の旗を立てる,あるいは,仕事に旗を立てる,ということについては,「自分に旗を立てる」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba4.htm#%E8%87%AA%E5%88%86%E3%81%AB%E6%97%97%E3%82%92%E7%AB%8B%E3%81%A6%E3%82%8B)で書いたが,自分の旗を立てるとは,自分が何を仕事にしているか,あるいは,自分は何をするためにここにいるか,を明示するということに通じる,と改めて感じた次第…とは,我田引水が過ぎたか。
しかし,所詮,士とは,役割にしか過ぎない。大事なのは,
死してのち已む
という志というか,心映えがあるかどうかということなのではないか。それが,
事に当たる
の「事」であり,事は,すなわち,
おのれの旗
である。結局,その旗に,仕えることを,
仕事
という。旗なきを,
労働を
何と言うのだろうか。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
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語源的には,
左様ならば(そうであるならば)
だとされる。つまり,
そうであるならば,お別れしましょう
の古形である,と。あんまり,学者の説というものにいまいち信がおけない。へそ曲がりのせいばかりではない。何度も書いているが,
さようならなくてはならぬ故,お別れします,
という一種無常観のニュアンスがある気がしてならない。だから,
そういうわけだから,
というよりは,
そういう次第なので,
そういう仕儀なので,
という文脈というか,状況に強いられて,と言うニュアンスが強く漂っている。だから,田中英光は,他の言葉に比して,悲哀,悲壮感がある,と言う言い方をした。確かに,調べると(自信はないが),
再見
Au revoir
Auf wiedersehen
は,再会というニュアンスか,
Adios(aへ+Dios神)
Goodbye(God be with you の古形の略)
Tschuss(adiosが語源)
神とともに,というものとに,二分され,あまり,哀しみのニュアンスが出てくるものはないようだ。
アンニョンヒ カセヨ
は,気をつけてお帰りくださいというニュアンスだから,この系譜に入るかもしれない。
さようならば,お別れします,
はやはりちょっと特殊と言えるだろう。
しかし考えようによっては,二人か三人かは別にして,その場とその時間を共有したもの同士でしか伝えようのない,ニュアンスが,そこにあると言えば言える。誰に対しても,と言うのではない,
一緒に過ごしてきましたが,そういうわけなので,お別れしなくてはなりません,
なのか,
一緒に時間を共にしてきましたが,かくなるうえは,お別れしなくてはなりません,
なのかはわからないが,別れが,主体的な事由によるのではない,不可抗力な何かによって,もたらされたというニュアンスが付きまとう。
もちろん,二人だけにわかる理由があって,
かくかくの次第ですので,お別れします,
でもいいが,別れたくて別れるなら,そういう言い方はしないような気がする。
もうご一緒にはいたくないので,お別れします,
というよりは,
もうご一緒にはいられませんので,お別れします,
のほうが近いようなきがする。
しかし,われわれは,自分がそうしたいときでも,何か別の理由があるような言い回しをすることが多い。そう見れば,
そういう次第なので,
という前ふりは,なんとなく,本心を糊塗する色がなくもない。
ご免なさい
より,
すいません,
と逃げるように,
別れたい,
より,
別れなくてはなりません,
という言い方を好むのではあるまいか。
よんどころない事情で,
とか,
諸般の事情で,
という言い方をして,主意を薄める。それは,責任をあいまいにする,という色合いがある。
言葉を濁す,
誰が,という主語をごまかす,
等々,われわれ自身が,ごまかしている精神構造そのものに行き着く気がするのは,おおげさだろうか。
その意味で,
さようなら,
には,日本語特有の曖昧に,墨色に流していくニュアンスがなくはない。別れに当たってすら,そんな糊塗がいるのか,と思わないでもない。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
田中英光『さようなら』(現代社)
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辞書を調べると,
ことの次第,
ことのなりゆき
とある。語源を調べようとしたが,持っているものでは載っていない。で,大槻 文彦編『新訂大言海 』を繰ると,
旨義
あるいは
時宜
の転か,とある。
旨義は,文章などで表現されているものの,おもむき,意味,とある。
時宜は,ときの宜しきにしたがうこと,程よき頃,とある。
そのとき
を少し長くすると,
過程
ということになり,
次第,
成り行き,
顛末,
経緯,
首尾,
結末,
とほぼ重なってくる。
仕儀の「仕」は,
つかえる
意味であり,「儀」は,
のり,手本となるべき基準,作法,
という意味だ。とすると,たんなる成り行きではない。かくあるべき流れに従って,矩につかえる,といった意味になる。
そう考えると,丸めると,次第とも顛末とも変わりなくなるが,あるレベルを維持して,かくなったという意味になる。
しかも,ものによっては,仕儀には,ただ,ニュートラルな成り行きではなく,
特に,思わしくない結果・事態,
を指すともある。
そう考えると,
左様なる次第にて,おわかれします,
と
左様なる仕儀にて,おわかれします,
とでは,お互いのそれまでの経緯が,まったくニュアンスが変わる。格式ばっているというようなことではない。
両者の関係が,ニュートラルな,あるいは友好的とは限らず,
かような事態になり,
かかる仕儀になり,
と,どこか詫びるニュアンスが出てくる。そこに,基準においているのが,
両者の期待値なのか,
世の中の求める規準なのか,
は別として,それから外れている,というニュアンスが出る。だから,
野辺の送りもでき兼ねる仕儀と相成り,
といった用例につながっていく。
いやはや,かかる仕儀にて,かようなる結末と相成り,面目次第もござりませぬ。
参考文献;
大槻 文彦編『新訂大言海 』(冨山房)
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一般には,
趣き(おもむき)+味(あじ)
で,
おもしろみ,
興味をそそられてするもの,
を意味する。そして,tasteあるいはhobbyの役として使われる,と。で,ウィキペディアでは,二つの意味を挙げている。
@人間が自由時間(生理的必要時間と労働時間を除いた時間、余暇)に,好んで習慣的に繰り返しおこなう行為、事柄やその対象のこと。道楽ないしホビー(英:
hobby)。
A物の持つ味わい・おもむき(情趣)を指し、それを観賞しうる能力(美しいものや面白いものについての好みや嗜好)のこと(英:
taste)。調度品など品物を選定する場合の美意識や審美眼などに対して「趣味がよい/わるい」などと評価する時の趣味はこちらの意味である。
そこから,ひとつは,対象の状態というか,
感興を誘う状態。あじわい。おもむき
であり,他方で,それを受け止める主体側の状態というか,
ものごとの味わいを感じ取る力,美的な感覚,
を指すことになる。因みに,興味は,
興(おもしろい)+味(あじわい)
であるが,それが,玄人であるか素人であるかというと,素人の好み,という側面ということになる。それをひけらかせば,
衒学,
気取り,
ということになる。あるいは,
好事,物好き,酔狂,数寄,道楽,風雅,風流,
と並べていくと,ちょっと印象が変わる。そもそも,
趣
という字は,
向かうところを定めて疾く行く,走る,
で,本義は,時間をちぢめてせかせかといくこと,らしく,
味わいに赴く,と解すると,なかなか味わい深い。
その意味で,
情趣,風趣,興趣,妙趣,趣向,詩趣,野趣,雅趣,玄趣,意趣,深趣,幽趣,旧趣,筆趣,新趣
と,どうも素人というニュアンスから遠ざかる。
思うに,仕事と対比して,趣味を語るから,意味がねじれるのではないか。趣味は,仕事とは別次元の話なのではないか。という言い方だとおかしいか…,趣味と仕事は対比するものではない,という感じなのだ。(先の定義のように,余暇の時間=自由時間という固定観念に縛られているのではないか,自由は時間枠ではない)
興味は,
興(おもしろい)+味(あじわい)
で,ものごとに関心を向ける,とある。
味は,本来は,口で微細に吟味すること,であるようだが,それが直截性から抽象度が上がれば,
ものの味の感覚,
から,
こころに感ずる味わい,
へ変ずるのもよくわかる。仕事のモードとは別の次元,というと語弊がある。そうではない,
仕事に味わいを感趣するかどうか,という,
感覚
の鋭さの問題なのかもしれない。
楽しみて淫せず,哀しみて傷(やぶら)ず
と。ここまでいくと,品格の問題さえ含む。
ある意味,仕事に淫するを,よしとする風潮がありはないか。淫するとは,
(色事,邪悪なこと,邪道)に深入りする,度を越えてのめり込む,ひたる,
というニュアンスが色濃い。いわば,トンネルビジョンに陥っていることを指す。
楽は,
木の上に繭のかかったさまをえがいたもので,山繭が繭をつくる檪(くぬぎ)のこと,
らしい。そのガクの音を借りて,謔(おかしくしゃべる),嗾(のびのびとうそぶく)などの語の仲間に当てたのが音楽の楽。音楽で楽しむという,その意味から派生したのが快楽の楽という。だから,楽しむには,
淫する,
よりも軽やかなのではないか。その意味がなくては,
これを知る者はこれを好む者に如かず,これを好む者はこれを楽しむ者に如かず
は通じない。だから思うのだが,
仕事の息抜きに趣味
というのは,仕事の仕方としては,どこか偏りがある。昔,冗談で,
仕事が趣味
と言っていたが,そういう軽やかな仕事の仕方がいいのではないか。そのほうが,トンネルビジョンに落ち込まないだろう。
これはまた別途考える必要がある。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
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約束というのは,
括り束ねること
ある物事について将来にわたって取り決めること,約定
種々の取り決め
かねてから定まっている運命,約束事
といった意味がある。日葡事典は,
ヤクソクヲトグル
ヤクソクヲタガユ
という用例があるらしいので,戦国期には使われていたらしい。
これを守るかどうかは,たぶん,その人のコアの倫理観を反映している気がする。あまり迂闊に言うと,お前だって,と突っ込まれそうだが,いったん約束したことは(軽々に約束しがちなところがあるにしろ),何とか守ろうとする。昔,僕自身が切羽詰っていたのに,ある人に頼まれて先輩に御願い事をしていたとき,お前は人の世話を焼いている場合か,と呆れられたことがある。小心ということもある。律儀ということもあるが,その辺りは,その人の価値に拠って立つところがおおきいのだろう。しかし,「約」という字には,ちょっと悩まされているところがある。
『論語』に,何度かこの字が出る。
子曰く,不仁者は以て久しく約に処(お)るべからず,以て長く楽しきに処るべからず,仁者は仁に安んじ,知者は仁を利す(里仁篇)
の「約」は,逆境とか苦境,といった意味だ。しかし,
子曰く,約を以て失(あやま)つものは鮮(すく)なし(里仁篇)
でいう「約」は,節度とか控え目,といった意味だ。古注では,驕者への戒め,新注では,広く人全般の行動を指すが,意味は同じだ。あるいは,
子曰く,君子博く文を学びて,これを約するに礼を以てすれば,亦以て畔(そむ)かざるべし(雍也篇)
でいう「約」は,しめくくる,束ねる,集約するといった意味になる。
同じ「約」でも意味が違う。
ためしに,漢和辞典をひくと,意味としては,
つづめる,つつましい,あらまし,
といった意味になる。おおよそ,
@やくす,一点に向かって引き締める,小さく細くつづめるで,類語に,「束」(たばねて締める)が来る。
Aやくす,つづめる,細く小さく締めてまとめる,簡略にする
Bやくす,紐や帯を引き締めて結び目をつくり,それ見決めたことを思出し,目印とする,またその目印,取決め
約束は,その結び目の目印を指し,そこから転じて,取決めとなる
Cやくす,つつましい,つましく引き締める
Dあらまし
Eやくす,二つ以上の数を共通に割る
といった意味になる。
勺
は,一部をくみ上げるさまを表し,
杓(ひしゃく)
や
酌(くみあげる)
の原字。約は,
糸+勺
で,
目立つように取り上げる
意味で,
ひもを引き締めて結び,目立つようにした目印
を意味する,とある。
要(ひきしめる)
や
腰(細く日は締めた腰)
と同系という。
考えてみれば,象形文字には,表意がある。
ひもをつぼめる
を広げていけば,確かに,倹約になるし,目印にもなるし,集約にもなる。その意味も広がりは,文脈が変われば,また変じ,時代に合わせて,重みもなくなっているのかもしれない。
約を以て失(あやま)つものは鮮(すく)なし
を,勝手読みすれば,
節約するもの
であったり,
要約するもの
であったり,
束ねる
であったりとても,意味は通ずる。考えようによると,漢字は,汎用性が高い。高い分,いかようにも丸められる。その分意味が広がり,解釈が多様になる。面白いと言えば面白いが…!
参考文献;
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
上へ
最近,何事もめんどくさがるようになった。えっ,面倒って?ということで調べると,
語源的には,四説ある。
@目+ドウナ(だるい)の変化。見るのも大儀な,の意。
Aメドウ(目遠)の撥音便化で,見にくいの意。
B見たくもないの意の「面伏せ」を漢字に訳し,「面倒」として音読した。
C目+ダウ(無益)で,見るのも無駄の意。
どうもこれといって確定していないようだが,見苦しい,くどくてうるさいの意,から転じて,するのが煩わしい,厄介,世話がかかるの意味になったようだ。
面倒臭い,
は,口語的表現。
めんどくさい,
とも略される。億劫,大儀も同義だが,
億劫
は,中国語では,「億劫(おっこう)」=長い時間の意味。仏教用語。
「劫」は,サンスクリット語の音写で,古代インドで,最長の時間単位。「一劫」の長さは,百年に一度天女が高い岩山に舞い降りて頂上を撫で,その摩擦で岩山が消滅するまでの時間,だという。
その一劫の一億倍が,億劫。
きわめて長い時間。まあ,永遠と言ってもいい。そこから,長い時間がかかってやりきれない,から転じて,
おっくう
となった。
大儀は,
重大な儀式
からきて,転じて,
費用が多くかかる,
骨が折れて厄介だ,
面倒で億劫だ,
と意味が変化した,とされる。そこから転じて,
他人の労をねぎらうときに用い,ご苦労,
の意でも使う。
意味を丸めれば,確かに同義になるが,どうも,ちょっと違う。
面倒,
というのは,何しろ,煩を厭う,というか,手間を取ったり,手数を掛けるのを厭う,意味に見える。しかし,
億劫,
というのは,それをするために取られる時間の長さが予想されて,気が乗らない,という感じに見える。で,
大儀,
は,儀が,手本とか,規準とか作法の意味だから,とかく形式ばるというか格式ばって,大仰で,大袈裟で,気が重い,というニュアンスに見える。
だから,
めんどうがる,
のは,ただの怠けに聞こえ,
おっくうがる,
のは,手間を考えて,気が乗らなさに見え,
たいぎがる,
のは,辟易する感じに聞こえる。
元の意味は微妙に違ったのだろうが,日々使ううちに,違いの棘が,すり減って,違いを丸めていく,そういうものなのだろう。
しかし,歳と共に面倒になるのは,
生きること自体
が厄介で大変になるからに違いない。
よっこらしょ,
どっこいしょ,
といわないと,いちいち体が言うことをきかない。これは,いわゆる,
面倒
というのとはちょっと違うのかもしれない。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
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「ろじ」には,
露地
路地
露路
の字があてられる。別に,
路次
というのもある。辞書(『広辞苑』)には,「露地・路地」として,
(「露地」と書く)として,
屋根などの覆いがなく,露出した地面,
分納を離れた境地。法華経の火宅喩に基づく,
と二つが載り,つづいて,
草庵式の茶室の庭園。石灯籠・蹲踞・飛び石などを配する。外露地・内露地に区分,
門内または庭上の通路,
人家の間の狭い道路,
とある。僕の意識では,「人家の間の狭い道路」を「ろじ」と思ってきたので,その幅の広さにちょっと愕然とする。無知と言えば無知。しかし,別の辞書では,
(露地)屋根などがなく雨露がじかに当たる土地。
(路地・露路)建物と建物との間の狭い道。
(路地・露路)門内や庭内の通路。
(露地・路地)草庵式茶室に付属した庭。腰掛け・石灯籠 (いしどうろう) ・飛び石・蹲踞 (つくばい) などを配し、多くは外露地と内露地とに分けられる。茶庭。
と,使い分けを整理していた。「路」と「露」の字,「路」と「地」の区別は,後で見るとして,『大言海』は,「露地」と「路地」を別々項目を立てている。
「ろぢ(路地)」として,「ミチスヂにて,屋根なき地かと云ふ。路次(ろじ)の条をもみよ」とあり,
門内,庭上の通路,
東京にて,市街の人家の間の狭き路,京に途子(づし),
とある。いわゆる「路地裏」の「路地」は,地域限定なのか,という感じである。因みに,「路次(ろじ)」をみると,辞書(『広辞苑』)には,「古くは『ろし』」といったとある。確かに,『古語辞典』には,「ろし」で載る。『大言海』には,
みちすじ,またはみちのついで,道すがらなること。行路,
とあり(辞書(『広辞苑』),『古語辞典』にはこの意味のみしか載らない),その他に
庭園(にわ)の称(多く茶亭に云ふ)。露地。
人家の間の細き路(露地,路地,露路などと書くは仮名遣いたがへり)
とある。「路次」は「ろじ」と「露地・路地・露路」は「ろぢ」(『古語辞典』によると,「上方では,「ろうぢ」と発音する)であることを指している。
で,『大言海』は,「露地(ろぢ)」については,「みちすじにて,庭に通ふ處か」として,
屋根などの覆いなき地。青天井の地。
路次の意味(庭園(にわ)の称(多く茶亭に云ふ)。露地。)
三界の火宅を離れたる境に譬へて云ふ語。
とあり,どうやら,先ずは,
「路次」
と
「路地・露路」
の区別,つまり,「道筋の途次(みちすがら)」という「路次」か「道筋(通っている道)」の「露路・路地」の区別があり,これは,「じ(し)」と「ぢ」で使い分けられていた。
「露路」
と
「路地」
の違いは,「覆いの有無」になる。「露路栽培」とは言うが,「路地栽培」とは言わない。しかし,いずれも,道筋,それも細い道筋を示した言葉であった,と想像がつく。「露路」は,『古語辞典』に,
「露わな土地,露出した地面」
とある。それが意を十分示している。そこから,特別に道を指すようになった謂れは,後に回して,語源を見ると,
「露路」は,(中国語で)「露(むき出し)+地(地面)」
で,
「路地」は,「路(みち)+地(地面)」
とある。
漢字を見ると,「路」は,連絡の路という意味らしい。「各」は,「夂(足)+口(堅い石)」で,脚が石につかえて,転がしつつ進む,意と言う。狭いと同時に,未整備の感じであろうか。「地」は,平らに延びた土地を意味し,「露」は,さらす,とか,透ける,という意味がある。
本来は,覆いの有無の違いの「ろぢ」に,特別な意味を持ちこんだのは,
千利休が茶庭を露地と呼んだ,
ことにはじまる。どうやら,「三界の火宅を出で露地に坐す」の仏語から取ったものらしい。しかし,
「露地は、本来は『路地』と表記されたが、江戸時代の茶書『南方録』などにおいて、『露地』の名称が登場している。これは『法華経』の『譬喩品』に登場する言葉であり、当時の茶道が仏教を用いた理論化を目指していた状況を窺わせる。以後禅宗を強調する立場の茶人達によって流布され、今日では茶庭の雅称として定着している。」
とあるから,もともとは「路地」と表記していたのかもしれない。
路地については,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B7%AF%E5%9C%B0
露地については,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%B2%E5%9C%B0
に詳しい。しかし,上記には,
「小間の茶室に付随する簡素な庭園は、広大な敷地を持つ寺院などではなく、敷地の限られた都市部の町屋において発達したと考えられる。こうした町屋では間口のほとんどを店舗にとられていたため、『通り庭』と呼ばれる細長い庭園が発達していたが、さらに茶室へと繋がる通路、『路地』が別に作られるようになった。」
とある。まさに,「ろぢ」のもつ,小径と道筋のふたつの意味が含意されていることがわかる。やはり,ろじは,路地である。
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店仕舞いというのは,開店というか,店を張るよりもはるかに難しいと思う。店仕舞いは,例えば,僕には経験はないが,定年退職とは違う。転職の退職とも違う,と思う。後始末ということではないのだ。
そのことについては,し残したことについて,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/392762774.html
で触れた。しかし,これとも少し違う。
昔コーヒーショップをやっていた時,居抜きで買ってくれる物好きがいたおかげで,投資分は返ってこないまでも,かろうじて赤字にならないで,店を閉めた。その店仕舞いでも,なじみ客との関係は,けりのつけようのないものがある。
まして二十年以上も店を張っていると,はいさようならとはいかない,という面はある。たとえば,スケジュールは,再来年まで決まっていく,とすると,一年半以上前までに決めなくてはならないという面がある。
しかしここで言いたいのは,それでもない。ここで店仕舞いするというのは,
どう見切るか,
ということだ。昔,知り合いの講師が,客先で仕事中倒れて,そのまま帰らぬ人になったと聞いたことがある。そうならないところでどう見切りをつけるか,である。
自分の出来る,やりたいという思いを,どこでなだめ,断念させるか,ということだ。
単に健康のことだけを言っているのではない。
店
というのは,語源は,「見せ」。ミセともタナ(棚)とも言う。「广(ゲン,家)」に「占」(テン,ものを置く)が中国語源。
しかし,仕舞うは,確かに,「シマウ」で,片づける,収納する,の意だが,
仕舞
は,素(装束をつけない)+舞
なのだという。つまり,
仮面や衣装なしの舞い,
ということになる。いやいや,なかなか意味深である。
素
とは,「しろ」であり「もと」であり,「はじめ」である。意味としては,
撚糸にする前の基の繊維,蚕から引き出した絹の原糸
とか,
模様や染色を加えない生地のままの,白い布
等々,下地とか地のままとか生地とか元素といった意味合いが強い。
横道にそれるようだが,それで思い出した,大塩平八郎,いわゆる大塩中斎は,諱を後素と言った。これは,『論語』の,
絵の事は素(しろ)きを後にす,
から来ているという。このとき,この孔子の言葉を受けて,子夏が,
礼は後なるか,
と言い,孔子に,
始めて与(とも)に詩を言うべし,
と褒められた,とある。古注では,
絵とは文(あや),つまり模様を刺繍することで,すべて五彩の色糸をぬいとりした最後にその色の境に白糸で縁取ると,五彩の模様がはっきりと浮き出す,
と解すると,貝塚茂樹注にはある。しかし新注では,
絵の事は素(しろ)より後にす,
と読み,絵は白い素地の上に様々の絵の具で彩色する,そのように人間生活も生来の美質の上に礼等の教養を加えることによって完成する,と解する。どちらが正しいかは知らないが,朱熹の注釈は少しお為ごかしに過ぎる気がする。
しかし大塩の諱の由来は,新注によった,とみられるらしい。
ま,読みの是非はともかく,新注では,素地,というものに教養で上塗りする,その上塗りの仕上げ次第というように読める。あるいは,古注でも,仕舞いの仕方,というか仕上げが重要,ということになる。しかし,
素舞
の「素」というのは,その仕上げた「素」をいうのか,生地の「素」を言うのだろうか。
上塗りの最たるものは,社会的役割だ。
人は,社会的役割を降りても,おのれをやめるわけにはいかない。いつ,衣装と仮面を脱ぐか,というふうに考えると,この問いに焦点が当たる。
おのれの人生の舞台,
を降りることはないが,役割は降りる。そこで「素」が,結局問われる。。
社会的役割については,前にも触れた気がするが,
社会的役割は,もっぱら他者の期待にもとづく意味でも,もっぱら自己の認定に基づく意味でもなく,両者の相互作用の結果として多かれ少なかれ共有される,
したがって,
主体は,他者との相互作用において,自己にとっての意味に応じて他者に役割を割り当て,その役割と相即的に対応する自己の役割を獲得する,つまり,相互作用は,すべて役割関係なのである,
という。ぶっちゃけて言えば,
お互いが関係する中でしか役割は生まれない。つまり,役割を降りるとは,
お互いの作り出していた関係
から離脱するということだ。
結局,上塗りしたメッキの剥げた
素地
というか,化粧ののらなかった
地肌
というか,後は,その素で舞うほかはない。最後は,おのが素地次第,と言えなくもない。
しかし,思うに,素地は,昔のままの素地であるはずはない。化粧やけ,というか,白粉やけで,素地自体が変色しているかもしれない。仮面も長くかぶりつづければ,痕がつく。そのことに気づいていないかも知れない。
だから,(おのれを)見損なう。
結局,その意味も含めて,仕舞いでしかないのだろう。
参考文献;
栗岡幹英『役割行為の社会学』(世界思想社)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
宮城公子『大塩平八郎』(ぺりかん社)
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天下御免の向う傷,
と言ってピンとくる人は,ほぼ同年代といっていい。しかし,この場合の,
御免
と
ごめんなさいの
ご免
が同義とは到底信じがたい。語源的には,
御+免
で,
免ずる(免許,免職)の尊敬語
とある。「お許しを」の尊敬語となる。しかし,語義は,
@免許の尊敬語。お上のおゆるし。「天下御免」はそれ。
A免官・免職の尊敬語。お役御免。
B容赦・朱免の尊敬語。転じて,謝罪(ごめんなさい),訪問(ごめんください),辞去(ごめん蒙る)
C希望しないこと,嫌なこと。何々は御免だ。
と微妙に違う。
思うに,本来は,対手に対して,
許可
をもらうということであったはずが,その尊敬語としてのニュアンスが,立場の上下関係に転じて,というか,あるいは,へりくだって,
お許しをいただけますか
と言うニュアンスに転じたといっていい。
だから,本来は,
免じていただけますか,
という風韻,というか味わいだったような気がする。
それが,文脈によって,
お尋ねしたいのですが,お許しいただけますか
が玄関口や店先での,
ご免ください
であり,
ここで失礼したいのですが,お許しいただけますか,
が,辞去や退席の,
御免蒙ります(ごめんなすって)
となり,
それだけはご勘弁いただきたい,
が,
御免蒙る,
となった。もともとどんな言葉も,文脈依存だから,英語はよくわからないが,
God bless you!
もそういう転調の一種だろうが,日本語は,とくに文脈に依存して,
左様なる次第ですので,ここでお別れします,
が
さようなら,
になり,
ここで,
になり,
じゃあ,
になり,
では,
になる。そこにる人にのみに,「じゃあ」のニュアンスは伝わる。そこには,その場にいる人同士の,互いの関係性の
ぬくもり,
というのがあるはずだからである。
その意味では,丁寧語と言うのは,
文脈によっては,場違いと言うか,場の雰囲気を壊すこともある。
その意味では,
ご免なさい,
よりは,
ご免,
の方がいいし,
悪い,
のほうがもっといいこともある。あるいは,
ご免あそばせ,
の方がいい場合もある…か?
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
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たとえば,熱い思いとか,思いの深さというときの,
熱いとか深いは,「思い」というものを熱せられた何か,あるいは深い淵になぞらえなければ,表現できない。しかし思いはカタチのあるモノではない。まあ,
喩え,
あるいは
比喩
なのだが,何気なく使うこれは,何なのだろう,とあらためて整理し直してみたくなった。比喩については,アナロジーを中心において考えると分かりやすい。
アナロジー(Analogy)は,analogueつまり,類似物から来ているはずだから,「知る」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E7%9F%A5%E3%82%8B)
で触れたように,
当該の何かを理解するのに,それと似た(あるいはそれと関係ありそうな)別の何かを媒介にして,
〜として見る
ことである。言ってみるとパターン認識である。昔から,
問う、如何なるか是れ、「近く思う」。曰く類を以って推(お)す
と言われているのと同じである。いわば,アナロジーというのは,自分の既知のものから,
異質な分野との対比を通して,
推測することといっていい。
W・J・J・ゴードンは,『シネクティクス』の中で,アナロジーの手法を,
・擬人的類比(personal analogy)
・直接的類比(direct analogy)
・象徴的類比(symbolic analogy)
・空想的類比(fantasy analogy)
の4つ挙げている。
直接的類比は,対象としているモノを見慣れた実例に置き換え,類似点を列挙していこうとするもの
であり,
擬人的類比は,対象としているテーマになりきることで,その機構や働きのアイデアを探るという,いわゆる擬人法
であり,
象徴的類比は,ゴードンの取り上げている例では,インドの魔術師の使う伸び縮みする綱のもつイメージを手掛かりに連想していこうとする
ものであり,
空想的類比は,潜在的な願望のままに,自由にアイデアをふくらませていこうとするもの
である。
いずれも,やろうとしていることは,比較する両者に,
共通点
を見つけようとすることに尽きる。どういう共通項を見つけるかが,鍵になるが,僕は,両者に,
関係性
と
類似性
をどう見つけるか,に尽きるのではないか,と仮説をたてている。。
前にも触れたことがあるが,それを鍵に分類していくとすると,
・類似性に基づくアナロジーを,「類比」
・関係性に基づくアナロジーを,「類推」
に整理できるのではないか。
前者は,内容の異質なモノやコトの中に形式的な相似(形・性質など),全体的な類似を見つけだす
のに対して,
後者は,両者の間の関係(因果・部分全体など)を見つけ出す。
詳細は,「発見的認識」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/view22.htm#Critique%20Back%20Number%2020)
に譲るとして,メタファーとの関係に踏み込めば,たとえば,類似性を手掛かりに,鳥をアナロジーとすることによって,コウモリを理解しようとするとき,われわれがよくするのは,モデルをつくることだ。あるいは写真や図解もその一種だ。そして,それを言葉で表現しようとすると,「夜飛ぶ鳥,こうもり」といった比喩を使うことになる。
いわば,アナロジーによる発想は,われわれが自分たちの思い描いているものを,
一種の〜,
〜を例に取れば,
〜というように,
といった具体像で表そうとするときの方法であり,それは2つの方法で具体化することができる。
1つは,言語による表現である“比喩”(アナロジーのコトバ化)
もう1つは,モノ・コトによる表現である“モデル”(アナロジーのモノ・コト化)
である。
ただ,断っておけば,アナロジー→モデル・比喩という順序を固定的に考えているわけではない。
アナロジー思考があるから,比喩やモデルが可能なのではない。確かに,関係にアナロジーの認知がなくては,それを喩えたりモデルとしたりすることはできないが,逆にAをBに喩えるから,その間に類似性を認識できることがあるし,モデル化することで,より類推が深化することもある。逆に類比が的確でなければ,比喩やモデルが間の抜けたものになることもあるからである。
むしろ,3者は相互補完的であって,アナロジーの発見がモデル・比喩を研ぎ澄ましたものにするし,モデル・比喩の発見が新しい類比を形成することになる。
ただ,すくなくとも,比喩が使えるには,それに見立てたものとの間のアナロジーが認知できていなくてはならない。
モデルについて挙げれば,詳しくは省くが,
・スケール(比例尺)モデル
・アナログ(類推)モデル
・理論モデル
とあるが,比喩は,
ある対象を別の“何か”に喩えて表現することである。通常言葉の“あや”と言われる。その意味やイメージをそれによってずらしたり,広げたり,重層化させたりすることで,新しい“何か”を発見させることになる(あるいは新しい発見によってそう表現する)。
これもアナロジーの構造と同様で,比喩には,
直喩(simile),
隠喩(metaphor),
換喩(metonymy),
提喩(synocdoche)
といった種類があるが,類似性と関係性に対応させるなら,
直喩,隠喩が《類似性》の言語表現,
換喩,提喩が《関係性》の言語表現<
となる。
直喩
は,直接的に類似性を表現する。多くは,「〜のように」「みたいな」「まるで」「あたかも」「〜そっくり」「たとえば」「〜似ている」「〜と同じ」「〜と違わない」「〜そのもの」という言葉を伴う。
従って,両者は直接的に対比され,類似性を示される。それによって,比較されたAとBは疑似的にイコールとされる。ただし,全体としての類似と部分的な性格とか構造とか状態だけが重ね合わせられる場合もある。
とはいえ,「コウモリは鳥に似ている」「昆虫の羽根は鳥の翼に似ている」等々,既知の類似性を基に「AとBが似ている」と比較しただけでは直喩にならない。「課長は岩みたいだ」「あの頭はやかんのようだ」といった,異質性の中に「特異点」を発見し,新たな「類似」が見い出されていなくては,いい喩えとは言えない気がする。。
隠喩
も,あるものを別の“何か”の類似性で喩えて表現するものだが,直喩と異なり,媒介する「ようだ」といった指標をもたない(そこで,直喩の明喩に対して,隠喩を暗喩と呼ぶ)。
したがって,対比するAとBは,直喩のように,類比されるだけではなく,対立する二項は,別の全体の関係の中に包括される,と考えられる。AとBの類似性を並べるとき,
@AとBが重なる直喩と同じものもある(「雪のような肌」と「雪の肌」)
A「心臓」と「ポンプ」を比較するとき,両者を包括する枠組のなかにある
B一般的な隠喩であり,「獅子王」とか「狐のこころ」といったとき対比する一部の特徴を取り出して表現している。
この隠喩は,日本的には,「見立て」(あるいは(〜として見なす)と言うことができる。こうすることで,ある意味を別の言葉で表現するという隠喩の構造は,単なる言語の意味表現の技術(レトリック)だけでなく,広くわれわれのモノを見る姿勢として,「ある現実を別の現実を通して見る見方」(ラマニシャイン)とみることができる。
それは,AとBという別々のものの中に対立を包含する別の視点(メタ・ポジション)をもつことと見なすことができる。これが,アナロジーをどう使うかのヒントにもなる。即ち,何か別のモノ・コトをもってくることは,問題としている対象を“新たな構成”から見る視点を手に入れることになる。
換喩と提喩
は,あるものを表現するのに,別のものをもってするという点では共通しているが,直喩,隠喩とは異なり,その表現が両者の“関係”を表している(“言葉による関係性"の表現)という共通した性格をもっている。
両者の表現する《関係性》は,
換喩が表現する《関係性》が,空間的な隣接性・近接性,共存性,時間的な前後関係,因果関係等の距離関係(文脈)
であり,
提喩が表現する《関係性》が,全体と部分,類と種の包含(クラス)関係(構造)
となっているが,この違いは,換喩で一括できるほどの微妙な違いでしかない。
換喩の表す関係は,「王冠」で「王様」,「丼」で丼もの,詰め襟で学生,白バイで交通警察,「黒」「白」で囲碁の対局者,ピカソでピカソの作品等々に代置して,相手との関係を表現することができる。そうした関係を挙げると,
・容器−中身 たとえば,銚子で酒,鍋で鍋物,丼で丼物
・材料−製品 アルコールで酒
・目的−手段 赤ヘルで広島カープ
・主体−付属物 王冠で王様
・作者−作品 ピカソでピカソの絵
・メーカー−製品 味の素でAJINOMOTO
・産地−産物 灘で清酒
・体の部分−感情 頭にくるで怒り
等々,がある。いわば,その特徴は,類縁や近接性によって,代理,代用,代置をする,それが表現として《関係》を表すことになる。
一方,提喩となると,その代置関係が,「青い目」で外人,白髪で老人,花で桜,大師で弘法大師,太閤で秀吉,といった代表性が強まる。この関係としては,
・部分と全体 手が足りないで人手
・種と類 太閤で秀吉,小町で美人
・集団−成員 セロテープでセロハンテープ
等々がある。ただ注意すべきは,全体・部分といったとき,
木→幹,枝,葉,根……
木→ポプラ,桜,柏,柳,松,杉……
では,前者は分解であり,後者はクラス(分類)を意味している。前者は換喩,後者が提喩になる。
この《関係性》表現が,われわれに意味があるのは,こうした部分や関連のある一部によって,全体を推測したり,関連のあるものとの間で《文脈》や《構造》を推測したりすることである。
対象となっているものとの類縁関係やその包含関係によって,その枠組を推定したり逆に構成部分を予測したりすることで,われわれは,隣接するものとの関係や欠けているものの輪郭や全体像の修復や補完をすることができるのである。これは,すでに推理にほかならない。
こうした比喩の構造をまとめてみれば,
[類似性] [関係性] [推論]
《直喩・隠喩》→《換喩・提喩》→《推理》
となるだろう。われわれは,“まとまり"としての類似性をきっかけに,似た問題を探すことができる。そして更にその中の《文脈》と《構造》の対比を通して,未知のものを既知の枠組の中で整理することができる。しかし,最も重要なことは,ひとつの見方にこだわるのを,比喩を通した発見によって,全く別の《文脈》と《構造》を見つけ出せるという,いわば見え方の転換にあるといっていいのである。
こう考えると,
アナロジー・モデル・比喩
は別のものではないこの三者の,補完関係は次のように整理できるだろう。
[類似性]→[関係性]→[論理性]
直喩・隠喩→換喩・提喩→推理 (比喩)
類比→類推→推論 (アナロジー)
スケールモデル →類推モデル →理論モデル(モデル)
「〜として見る」がアナロジーであるなら,それを比喩的に言えば,
“意味的仮託"あるいは“意味の置き換え"であり,“価値的仮託"あるいは“価値の置き換え”
である。モデル的に言えば,
“イメージ的仮託"あるいは“イメージの置き換え”
であり,
“形態的(立体的)仮託"あるいは“形態の置き換え”
である。仮託あるいは置き換えること(仮にそれにことよせる,という意味では,代理や代置でもある)で,ある“ずれ”や飛躍"が生ずる。だから,それを通すことによって,別の見え方を発見しやすくなるということなのだ。なぜなら,われわれの意味的ネットワークの底には,無意識のネットワークがあり,意味や知識で分類された整理をはみ出した見え方を誘い出すには,このずれが大きいほどいいのだ。
として,冒頭の話に戻すと,
思いが深い,
というのは,いい喩えなのだろうか。そんなことは勝手なことで,深きかろうと浅かろうと,その思いをかけられる側にとっては,何の関係もない。思いの大きさを言うのだとしたら,いい喩えではない。惰性の表現であって,異質さを対比していないから。
参考文献;
W・J・J・ゴードン『シネクティクス』(ラティス社)
佐藤信夫『レトリックの消息』(白水社)
上へ
「
嫉妬」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E5%AB%89%E5%A6%AC)については触れたことがある。
僕は,嫉妬というのは,
その立場に成り代われなかった,そこに自分がいたらよかったというそのポジションに自分がいない,どうあがいてもそこにいられないということに対する,
悔しさといっていい。
しかしそもそもそこには自分は立てないことは気づいている。気づいているから,なお悔しい。
自分は,その方向を向いていないのに,その方向にいたいと思う,その矛盾が嫉妬を生む。
羨むというのは,穏やかだが,それは,距離があるからだ。遠い向こうを見ているからだ。その距離が感情を生々しくしない。生臭くしない。
嫉妬は,その距離が微妙だ。その位置にいられそうな,一つ間違うとそこにいたかもしれない,そうなれたかもしれないのにそうなりそこなった,そんな間合いが,悔しさというか,身もだえするような生なまましい悔しさを感じさせる。
もう少し広げると,
そのときそこにはいられない,
という,切歯扼腕,の思いである。それは,歳とともに募る。たとえば,十年後,二十年後と考えたとき,それは切実に,切なさとして,感じる不在感である。自分が,
そのとき,
その場,
その時代,
その状況,
にはいない,いることができないと分かっているからなお募る,一種承服しがたい焦燥感に近い。
嫉妬について,専門的には,
嫉妬とは,自分にとって重要な人,ものが他者に奪われる不安,恐怖により引き起こされる感情。怒り,悲しみ,恐れ,苦痛の感情が含まれる。英語の jealousy
は嫉妬と訳され、envy は妬みと訳される。
この二つはは心理学用語としては区別される。妬みは,他者が持っている属性や関係を自らも所有したいという欲求を指し,関係の喪失に対する恐れの感情がない点で嫉妬と異なる。
という,と心理学辞典にはある。
とすると,羨望か,いや。そうではない。
羨望は,嫉妬と違い,独占ではなく,称賛が交じる,とある。
専門家に,素人が逆らうのも何かと思うが,どうもそれは専門家の固定観念(機能的固着ともいう)ではないか,と思う。
二者関係にこだわり過ぎている。
嫉妬という感情(?)は,もう少し,自分のありように深く根ざしている気がしてならない。
自分が,そこにいられない,
その人との関係,そのものとの関係,そのときとの関係,その場との関係,
等々,必ずしも人とは限らない。
その時代に居合わせなかったこと,
そのときに居合わせられなかったこと,
への,(その場にいたいからこその)その場にいたら,という強い思いからの口惜しさだってある。
いま僕の中にあるのは,その思いだ。
その場にいたらどうかというと,たんなる目撃者になれない,というだけのことかもしれない。
ずいぶん昔,学生時代,その思いがあった。
その場にいたい,
という焦燥感で,そこへ駆けつけたことがあった。それは,同時代であり,そのとき,その場にいられる,という幸運のせいでもある。
そう,そういう僥倖は,同時代にいなければ,得難いのだ。
同時代に生きていられない,
という悔しさかもしれない。誤解してほしくないが,オリンピックなどではない。僕は,東京オリンピックは,二度目の幻(のオリンピック)に終わるのではないか,という強い危惧を懐いている。
参考文献;
中島義明他『心理学辞典』(有斐閣)等々。
上へ
品位とか品格とか品性という使われ方をする,
品について,調べていると,
音自体で,
ヒン(漢)
ホン(呉)
しな[訓]
と分かれ,たぶん伝来(当然時代も違うが)によって,由来が異なるらしい。当然意味が少しずつ違う。
語源では,中国語源では,
器物を並べる
で,品物の意味とある。
当然,品にちなんで,
物や人の質によって分けた等級
等級をつける
ということが派生する。「ほん」と呼ぶのは,仏典かららしく,等級以外に,
仏典の中の編や章
という意味がある。
品位,品格,気品,下品,上品,人品
というのは,言ってみれば,人を品物に見立てて,その等級づけをしている,というに近い。品評である。
しかし,それは誰が評価するのか。身分社会なら,位階の高いのが,上品,と一応は言えることになる。
下賤だの下卑だのというのは,下に見てそう言う。しかし,仏教でいう,
ほん
は,極楽往生する者の能力や性質などをに分ける語。上中下の等級に分け,さらにそれぞれを上中下に分ける,という。
九品
くほんである。しかし,それを,理不尽ではないかと思うのは誰もがそうで,
九品皆凡といい,一切衆生は本質的にみな迷える存在であると捉えた浄土宗の流れは,必然で,その果てに,親鸞の,
善人尚もて往生をとぐいわんや悪人をや
は,僕には,往生の位階を破壊したアナーキズムに見える。信心深いとか,篤いから救われる云々は,こちらの計らいなのであって,絶対他力の前には,意味をなさない。ただ,計らいを捨てて,
他力には義なきを義とす,
である。清澤満之が,
天命を安んじて人事尽くす,
と言った言葉がそれを示す。
人事を尽くして天命を待つ
で,どこかに驕りがある。我欲がある。しかし,
天命を安んじて人事尽くす,
には, 丸ごと受け入れている感じがある。
そう見れば,氏や育ちは,言い訳にしかすぎず,品は,
いまの生き方そのもの
を指す,というしかない気がする。それは,
いま,ここに,生かされてある
おのれを受け容れて,立っている,という気構えではないか,という気がする。
そこが,なかなか。
上へ
ことばというのは,『大言海』には,
口にあらわるる意なるべし。ことのは,とも,口のは,ともいう
とある。しかし,語源的には,三説あるらしい。
@コト(言)+ハ(葉)で,言の葉が語源とする,紀貫之の『古今集』の序で述べている説
Aコト(言・事未分化)+葉(茂らせる)が語源。事柄を口に出し茂らせる意
Bコト(言・事)+ハ(端)が語源で,事柄の一端を口に出すのが言葉,という説
しかし,「ことば」を,漢和辞典でひくと,
舌
言
語
詞
辭(辞)
と出る。ことばを,いろいろな漢字に当てたらしいのである。そのつど,どの字に当てるかで,そこに見えて(見ようとして)いた世界が違うはずである。
確かに,中国語では,それぞれ意味に差がある。
舌は,口に在り,言う所以,とあるので,それとの関連だろう。弁舌,饒舌,舌戦など。
言は,辛(切れ目をつける刃物)+口で,口をふさいでもぐもぐいうことを,音・諳といい,はっきりかどめをつけて発音することを言と言う。彦(げん)は,かどめのついた顔,岸(がん)はかどだったきし,で同系。
語は,交差して話し合うこと,
詞は,言+司(つなぐ)で,次々とつないで一連の文句を作る小さい単位,単語や単語のつながりを言う。嗣(後を継ぐ小さい子)と同系。
辭(辞)は,乱れた糸をさばくさま+辛(罪人に入れ墨をする刃物)の意で,法廷で罪を論じて,乱れを捌く言葉を指す。詞と同系。
合わせて「言う」との使い分けで言うと,
言う・謂うは,ほぼ同じで,言うは,口に思うところを口に述べる。謂う,人に対して言う,あるいはその人を評する時も,これを使う。
曰う・云うは,ほぼ同じ。ただ,云うは,意が軽く,曰うは,意が重い。
とある。
言葉は,それを使うことで見える世界が違う,あるいはそれによって(相手に)見させようとする世界があるのだとしたら,
こと(言)
ですんでいたものに,あえて,
ことば(言葉)
と,「は」をつけるには意味があったのではないか,という気がしてならない。
端
が端緒とするならそこに謙譲というか,謙遜が込められている,というのが正しいかもしれない。
かつては,言霊というほど,事と言とは一体化していた。言は事を引きずっていた。いわゆる言霊とは,一般的に言われるように,
人から出た言葉が現実に何らかの影響を及ぼす,
ということだけではないようである。そこにあるのは,畏れである。
神意
があって,初めて
言葉がその霊力を発揮する,
神意の込められた言が,霊力を持つのである。有象無象の言ではない。そこにあるのは,神への畏れである。そういう類の「言」であったとすると,それとは別の言は,
端くれ
である。そういう意味ではないか。
特に,事とのつながりの強い象形文字の漢字ではなく,かな,を指していると想像するのは,無理筋ではないだろう。
しかし紀貫之が,『古今集』の仮名序で,
やまとうたは,人の心を種として,万の言の葉とぞなれりける 世の中にある人,ことわざ繁きものなれば,心に思ふ事を,見るもの聞くものにつけて,言ひ出せるなり 花に鳴く鶯,水に住む蛙の声を聞けば,生きとし生きるもの,いづれか歌をよまざりける 力をも入れずして天地を動かし,目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ,男女のなかをもやはらげ,猛き武士の心をも慰むるは,歌なり
と書くとき,そこには,ひそかな矜持がある。神の霊力からも「事」からも解放された,
(ひら)かな
という文字の,たかが,
端くれ
の言の葉への自信である。
それは,やまとことばが,自分を表現できる文字を持ったことへの高らかな宣言にも見える。
もっとも,この序は,『詩経』の大序の,
天地を動かし,鬼神を感ぜしむるは,詩より近きは莫し,
からのパクリらしいのだが,まさに,そこにこそ,やまとことばが獲得した表現世界がある,というべきである。
言(=事)
からの離脱であり,
借り物の万葉仮名
からの自立でもある。
それは,漢字のもつ,象形文字ならではの,重い意味と事のくびきからの自由でもある。そこではじめて,やまとことばの表現の世界が,広がったのである。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
上へ
発心とは,
菩提心を起こすこと,
とある。そこから,あることをしようと,思い立つこと,
発意
とある。
発心などと殊勝な気を起こしたこともないし,何かそんな大げさな決意をした覚えもない。確かに,何かを心願することはあるが,さほどの重みがない。
生来の怠け者だから,なかなか,思い立って,などという健気で殊勝な心根の持ち合わせがないせいかもしれない。
なりゆきの中に,流されていることが多い。
たまたま,
行掛り,
成り行き,
でそういう羽目に陥ることが多い。だから,道草のつもりが,そこが本道になってしまう。だからといって,そのことを恨む気はない。そこで状況を引き受け切れれば,おのが器量,それを受けきれず敗北の憂き目にあっても,やはりおのが器量のなせるわざに過ぎない。
状況を創り出すというより,状況に巻き込まれて,
否応なく,それを乗り切ることを迫られる,ということが多い。そんなわけだから,時代にさからう羽目になることも多々ある。
そのせいか,大体が,大袈裟な物言いをしたがらない。自己防衛というか,あらかじめ,言い訳を立てておくというところがないわけではないが,それ以上に,そういうことを為遂げる人間とは,自分をあまり信じていなかったし,信じていないせいに違いない。
為遂げるもなにも,それを為遂げても,一文の得どころか,それをクリアしなくては生き切れない,そんなシチュエーションだから,当たり前と言えば当たり前だ。
種田山頭火の
春が来た水音の行けるところまで
という感じ,いや,というより,
分け入つても分け入つても青い山
というほうが近い,という感じなのである。たぶん,
志す
ものがあるから,
思い立つ
のではないか。たまたま巻き込まれたのでは,志すも,発心も,あったものではない。
発心
という以上,何かそこに,スタートラインのような,明確に区切りがあるに違いない。振り返れば,あそこだった,あの時だった,というような。
しかし,少なくとも,僕の場合,
気づくと始めざるを得ない,
というのに近い。周りが迫るのである。しかし別の見方をするなら,
選んで,そういう場に立っている,
ということが言えなくもない。なぜなら,拒んでもいいし,逃げても,避けてもいいのに,そうしないで,
受けている,
からだ。場が,状況が,迫るものを,かっこよく言えば,
引き受ける,
あるいは引き受けざるを得ないと思い込む,のが正しい。避けるのは,できない,と自分に思い込ませている。あるいは,言い聞かせている,のかもしれない。
で,それに立ち向かうことになる。
いつもいつもではないが,そういう矢面に立つことを,選んでいる。言い方を変えれば,発心はしていなくても,そのシチュエーションになったら,
引き受ける,
ということを,知らぬ間に決めている,というのかもしれない。しかし,たまには,
自分でシチュエーションを創り出す,
ということをしてみたい…,が,まあ,おのが性分には似合わないけれど。
上へ
沈黙については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/393712202.html
を含め,何度か書いた。たぶん,
沈黙,
寡黙,
緘黙,
という言葉が好きなのだが,ついつい,いつも,
黙っていても
考えているのだ
俺が物言わぬからといって
壁と間違えるな
という,壺井繁治の詩を思い浮かべてしまうが,しかしこれは,黙っていると言いつつ,妙に,というかやたらと饒舌なことに気づく。言い訳がましい。
石原吉郎にこんな一節がある。
詩における言葉はいわば沈黙を語るためのことば,沈黙するためのことばであるといってもいいと思います。もっとも語りにくいもの,もっとも耐えがたいものを語ろうとする衝動が,ことばにこのような不幸な機能を課したと考えることができます。
例えば,
一期にして
ついに会わず
膝を置き
手を置き
目礼して ついに
会わざるもの(「一期」)
のほうが,寡黙だ。ここには何も語ろうとしない姿勢がある。
黙とは,内心の言葉を主体とし,自己が自己と問答することです。自分が心の中で自分に言葉を発し,問いかけることがまず根底にあるんです,
と吉本隆明が言っていたが,それは,沈思黙考だ。自己対話であって,それ自体,すでに言葉になっていないが,喋っている。沈黙は,それとはわずかに違う。
単純な意味での外側への働きかけという姿勢は,私にはないかもしれません。ただ,最終的に沈黙することはできない。なにをいってもだめだけれど,最終的に沈黙することはできないというぎりぎりの所で,私は詩を書いてきたと思うし,これからも書いていくしかないとい思うわけです。
とも石原は言っているので,ヴィトゲンシュタインの言う,
およそ言いうることは言い得,語りえないことについては沈黙しなければならない,
のぎりぎりの瀬戸際ということになる。そこには,心の中で考えていたことが,思わず声に漏れる,ということとも違う。
石原は,こうも言う。
ひとつの情念が,いまも私をとらえる。それは寂寥である。孤独ではない。やがては思想化されることを避けられない孤独ではなく,実は思想そのもののひとつのやすらぎであるような寂寥である。私自身の失語状態が進行の限界に達したとき,私ははじめてこの荒涼とした寂寥に行きあたった。
例えば,
いわれなく座に
耐えることではない
非礼のひとすじがあれば
礼を絶って
膝を立てることだ
膝は そのためにある
そろえた指先も
そのためにある(「控え」)
沈黙は,お喋りや言葉の対語ではない。対ではない。バランスは,はるかに沈黙が重い。あるいは贅言百万と匹敵する。
もちろん,沈黙は,ただ
しゃべらないこと
でもないし,よくセラピーやコーチングで言うような,
沈黙もまた一つのノンバーバルな言語,
というのでもない。沈黙は,ただ沈黙なのだ。黙っているのとは違うのだ。。
言葉にならないありようそのものを,何とか言葉にしょうとする,その突き抜けるように結晶していく,結晶化の臨界点のようなものだ。それは,思考という理性的なものとも,感情や感覚ともちょっと違うのだろう。
非礼であると承知のまま
地に直立した
一本の幹だ(「非礼」)
例は悪いが,
たとえば,種田山頭火の,
いつもつながれてほえるほかない犬です
や
何が何やらみんな咲いてゐる
は自由な一節のように見えて,実は完結している。俳句という一つの世界像の中で,完結している。俳句というものがなければ,ただの未完のつぶやきでしかなくても,俳句として語りだされている以上,完結している。完結した世界が目に見えてくる。完結した短句の中に,凄い饒舌がある。言葉があふれ出る。
しかし,石原にはそれがない。漏れ出たものは,一節でしかない。
そう。沈黙とは,ありようなのだ。言葉と対等のレベルではない。
おれひとりで呼吸する
おれひとりで
まにあっている
世界のちいさな天秤の
その巨きな受け皿へ
おれの呼吸を
そっとのせる(「呼吸」)
思想のやすらぎである寂寥,
としてのありようが見える,気がする。
沈黙は,黙っていることではなく,言葉による表現を拒否したありようなのかもしれない。でなくば,言葉による表現の出来ない限界を示している。だからそこから漏れ出る言葉は,ありようそのものの滴としか言いようはない,のではないか。
上へ
場を読む
というのが苦手なのだが,もっと苦手なのは,
場に合わせる
ことだ。しかし,場とは,そもそも何を指すのか。語源的には,
マ(間・土間・庭)
の音韻変化によるという。
「
間」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E9%96%93%EF%BC%88%E3%81%BE%EF%BC%89)については触れた。時間的,空間的な意味を持つといっていい。
場は,辞書的には,
@物事が起こったり行われたりしている広いところ。「机を置く場」「場を取る」「場をふさぐ」
A物事の行われる時機,局面。場合。「場数」「場馴れ」
B物事を行うために設けた場所。また,機会。「改まった場」「公の場」「場を踏む」「場を外す」
C物事が行われている時の,その時々の状況や雰囲気。「場を取り繕う」「場がしらける」「場の雰囲気」「場を弁える」
D(「その場で」の形で)すぐその時。その席上。即座。 「その場で答える」「その場で捕らえる」
E芝居・映画などの場面。シーン。 「殿中刃傷の場」 「二幕三場」
F花札・トランプなどで,札を積み重ねたり捨てたりしてゲームが行われる場所。 「場の札」
G取引所で,売買取引を行う場所。立会場。「 場が立つ」
H〔field〕 空間,または時空の各点上で与えられた量のこと。数学的には空間,または時空間の関数のこと。電磁気学での電場,磁場は身近な例。
I各部分が相互につながりをもった全体構造として動物や人間に作用し,その知覚や行動の仕方・様式などを規定している力として考えられた状況。
等々,多様である。ただ,推測するに,どうやら,場ということを言ったとき,ただ意味のない場所やニュートラルな場所を意味していないらしいのに気づく。
「場」が,
神を祭るために掃き清めたる場,
という意味を本来持っていて,
庭
と同義ということから見ると,自分にとって大事な場所,場面,局面,時機を指しているに違いない。
どこでもいい場,
ありきたりの場,
ではなく,ほかならぬ,
その場,
でなくてはならない。それは,人によって意味が違うかもしれないが,
正念場であったり,
見せ場であったり,
修羅場であったり,
するのは,その場の意味を,自分が分かっているからに他ならない。だから,
場を弁える,
というのは,たとえば,場の側から,あるいは周囲から,
場違い,
と言われるような意味ではなく,おのれにとっての意味こそが大事なのだ。その大事さを自分が承知しているかどうかだ。同じように,
場を読む
というのも,空気を読むというような,同調圧力や雰囲気を壊さない,という意味ではなく,自分にとっての,
その場,
がもつ意味でなくてはならない。
だから,
立場,
足場,
持ち場,
職場,
仕事場,
の場の意味が生きる。あくまで,自分にとって,かけがえのない,
その場,
であるということだ。それが示しているのは,
ピンポイント
のこともあるが,
エリアやフィールド
を指すこともあり,もっと広く,
時代状況
を指すこともある。それは,自分にとっての,あるいは自分が生きる上での,
そのとき,その場,
の持つ意味と重なってくる。だから,
場数,
場馴れ,
は,単なる経験数を指すのではない。必要不可欠な「場」を踏んでいる,ということを指す。
果たして,その意味で,場を踏んだと言えるのかどうか,いささか心もとなくなった。
上へ
切ない,などという心境は,加齢とともに,心臓が鈍磨し,感じなくなって久しい。なかなかナイーブな気持ちに思う。
意味的には,ともかく,語源的には,
切+ない(甚だしい)
で,心が切れるほどの思い,とある。
だから,語義的には,
@悲しさや恋しさで、胸がしめつけられるようである。やりきれない。やるせない。
Aからだが苦しい。
B身動きがとれない。どうしようもない。
とある。まあ,
苦しい,
辛い,
やるせない,
たまらない,
やりきれない,
悩ましい,
憂い,
が類語にある。しかし,
苦しい,
辛い,
とはちょっと隔たり,
悩ましい,
たまらない
憂い,
ともちょっと違和感がある。ここからは,ちょっと勝手な妄想に近いが,どこか,嫉妬に似ている,と感じている。「嫉妬」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E5%AB%89%E5%A6%AC)で触れたことがあるが,嫉妬というのは,
その立場に成り代われなかった,そこに自分がいたらよかったというそのポジションに自分がいない,どうあがいてもそこにいられないということに対する悔しさといっていい。しかしそもそもそこには自分は立てないことは気づいている。気づいているから,なお悔しい。嫉妬は,その距離が微妙だ。その位置にいられそうな,一つ間違うとそこにいたかもしれない,そうなれたかもしれないのにそうなりそこなった,そんな間合いが,悔しさというか,身もだえするような生なまましい悔しさを感じさせる。
切なさは,それに似ている。というか,その悔しさとダブる。
だから,憧憬とは違う。憧れほど遠くはない。近いのだ,近いが,その同じところにいない,しかも到底届かない,と思い知っている歯がゆさがある。
ザ・フォーク・クルセダーズが,イムジン河が発売自粛にされたため,急遽つくられたといういわくつきの,「悲しくてやりきれない」は,サトーハチローの詩だ。
胸にしみる 空のかがやき
今日も遠く眺め 涙を流す
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
このやるせないモヤモヤを
誰かに告げようか
白い雲は 流れ流れて
今日も夢はもつれ わびしくゆれる
悲しくて悲しくて
とてもやりきれない
このかぎりないむなしさの
すくいはないだろか
切なさとやるせなさとやりきれなさが,重なるところに,この詩がある。それは,ひょっとすると,若さではないのかもしれない。若いということは,また無限の(と思えるほどの)時間がある(ようにみえる)。だから,その切なさは,ひょっとすると,自己陶酔かもしれない。自己悲哀かもしれない。しかし,心のどこかに時間を頼んで,まだいけるという希望の影が兆す(気がする)。
しかし歳とともに,その距離は埋まらないことを,身に染みて悟るようになる。
四十五十にして聞こゆること無くんば,斯亦畏るるに足らざるのみ,
である。だから,切なさは,二重である。
距離は遥かに遠のき,
しかも,
おのれに残された時間がすり減っている,
まあ,切なさとは,この歯がゆさではないか。
上へ
ことの重大さも弁えず,なんとなく勢いで言ってしまって,周囲を震動させる,ということが,若いときにはある。
思い当ることが三つある。ひとつは,かつて勤め人時代,
人事に対する批判を公言した,
たぶん,直感的に理不尽だと思ったからだ。詳細はともかく,大阪へ責任者として行ったものが,半年足らずで更迭された。そのことを言ったのであるが,それがトップの虎の尾だったらしい。つけは,自分に何倍にもなって返ってきた。
それが若気の至り,というものなのかもしれない。僕は,勢いをわるいとは思わない。それを受け止めきれぬ度量のなさの方を,いまなら嘲笑う。わずかのことにビビる,器量の小さいのが,多い。
いまひとつは,まあ,色恋沙汰だから,口にするほどのことはないが,思ったことを口にすればいいというものではない。それで,周囲が巻き込まれ,大騒動になる,ということもある。
目の前のことしか見えていないから,そのことの及ぶ影響などまつたく視野に入っていない。
いまひとつは,父の死後,二十六の時,母たちを呼び寄せたとき,他の選択肢があったわけではないが,そのことの重みと,その結果について,ほとんど何も考えなかった。是非を言っても仕方がないが,モノが見えないという意味では,典型的だ。
本当は逆で,
事に敏にして,言に謹む,
でなくてはならないが,若さというより,性癖で,まず走り出す。しかし走り出すだけでなく,口も走る。それが勢いなのは,ある年齢までかもしれない。
歳とともに,分別臭くなって,もっともらしい口吻で,紛らすようになった。要は臆病になっただけだ。
弁えるは,
ワキ(分・別)+マフ(行う)
で,物事を弁別,どうすべきか心得る,という意味になる。それに,
つぐなう,弁償する,
の意味がついてくるところが面白い。まあ,思うに,そのことの代償の大きさを見極める目利きという意味を含んでいる,と考えていい。
見切る,
というのは,
最後まで見る,
見定める,
見きわめる,
という意味があるが,視界の広さと言いうより,
射程,
の長さといっていい。迂闊なことに,粗忽者には,
眼前,
しか見えない。それが単なる目くらましかもしれなくても,それに翻弄されてしまう。よく言えば,
直情,
だが,悪く言えば,
軽忽,
である。
人にして遠き慮りなければ,必ず近き憂いあり,
である。だから,見切るの意味が,
最後まで見届けて見きわめる,
ではなく,軽忽に,
見限る,
あるいは,
見切りをつけてしまう,
に近くなる。それは,
目を切る,
に近い。それは,見たつもり,なのである。
射程が,はなはだしく,短い。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
上へ
暇だな,と思ったとき,では暇ってなんだ,と疑問がわいた。
ひまは,
暇,
閑,
隙,
の字を当てる。「すき」との差はあまりない。同じ字を当てる。語源的には,
ヒ(すいたところ)+マ(すきま)
とあり,空間的なヒマから時間的なヒマへと変化した,という。ただ,中国語では,
暇
は,隠れた価値をもつ時間という意味で,
日+瑕(未加工の玉)
という。国語辞典的には,
@物と物とのあいだの透いたところ
A継続する時間や状態の途切れた間
B仲の悪いこと
C仕事のない間,手すき
D都合の良い時機,機会
E何かをするのにかかる時間,手間
F雇用,主従,夫婦などの関係を絶つこと
G一時的に休むこと,休暇
H(多く「おいとまする」の形で用いる)別れて去ること。また、そのあいさつ。辞去。
I喪に服すること。またそのために出仕しない期間
Jある物事をするのに空けることのできる時間
等々がある。隙間については,「ニッチ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%81)
で触れたが,
空いた時間というのは,ある意味ニュートラルなのだが,そこに,隙間としての意味を加えると,
切り離す,
別れる,
喪,
と言った意味にもなるし,
好機,
手間,
余裕,
にもなる。本来ニュートラルなのだから,
ヒマが明こうが,
ヒマを潰そうが,
ヒマを出そうが,
ヒマを欠こうが,
ヒマを取ろうが,
ヒマを盗もうが,
ヒマに飽かそうが,
ヒマをやろうが,
それ自体に是非も可否もないはずだか,その隙間に,こっちから,あるいは,相手から,意味つげされると,その隙間自体が意味を持ってくる。
ヒマを見て,
ヒマな折に,
ヒマを弄んでもいいはずなのである。しかし,「マ」,つまり,
間(ま)
ととらえると,プラスのというか,積極的な意味になる。これについては,「間」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E9%96%93%EF%BC%88%E3%81%BE%EF%BC%89)
で触れたし,これを,
間合い,
と更に意味づけすると,もっとその「ヒ+マ」の意味が変わる。「間合い」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E9%96%93%E5%90%88%E3%81%84)についても触れた。隙間の距離を,
隔てととるか,
距離ととるか,
間ととるか,
で,こちら側の見る位置が違う気がする。間の中に即自的にいるか,対自的にいるか,間を対象化するか…。
自分との間
か
人との間
か
自分の振る舞いとの間
か,あるいは,
自分の人生との間
か…,
こんな文章を見かけた。
「生きがい」をもとめるという動機の観点から注目すべきは,人とは生き甲斐や意味を求めるいきものだという人生観は人が空洞や空虚であることを前提としており,どれほど独創的で価値の高い自己実現であろうとも,生きがいや自己充実とは空虚のひとつの防衛手段であり,生きるための意味を求めるのは無意味の防衛であり,人生の目標も目標喪失の自己防衛だというわけなのです。
こういう言い方もある。本来,たかだか百年足らずという人生の,一瞬の光芒を,闇と闇の隙間,と呼んでもいい。
しかし,その当事者としては,意味のない時間とは思いたくないから,一生かけて,意味を見つけようとする。
それも,本来ニュートラルなヒマのひとつに過ぎない。
といっても,自分とっては,
日+瑕
なヒマではある。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
北山修『意味としての心』(みすず書房)
上へ
持っている言葉によって,見える世界が違う。
と,ヴィトゲンシュタインが言ったと思い込んでいるが,見当たらない。あるいは,
私の言語の限界が私の世界の限界を意味する
をそう読み替えたのかもしれない。いずれにしても,持っている言葉が,
その人の世界
を限る。
確か,僕の理解では,敗戦に対する思想的な決着として,和辻哲郎は『鎖国』を書いた。鎖国とは,
鎖された国の状態
を指すのではなく,
国を鎖す行動
を意味すると,わざわざ断っていた。その中で,象徴的に,
視圏
という言葉を使っていたように思う。視線の射程を指す。見える視界の違い,である。われわれはいま,その深刻な反省を忘れて,同じく,
国を鎖す行動
をとろうとする為政者に引っ張られて,いつか来た道を歩かされようとしている気がしてならない。相変わらず,
視圏
が,狭く,短く,自己完結している。むしろ,閉鎖的で,自己肥大ですらある。夜郎自大のことである。その言葉で,見てほしい視界があった,といってもいい。
ところで,ランボーの詩(「母音」)に,
Aは黒,Eは白,Iは赤,Uは緑,Oは青,
というフレーズがある。さらに,『地獄の季節』には,
俺は母音の色を発明した。――Aは黒、Eは白、Iは赤、Oは青、Uは緑。――俺は子音それぞれの形態と運動とを整調した、しかも、本然の律動によって、幾時かはあらゆる感覚に通ずる詩的言辞も発明しようとひそかに希うところがあったのだ。俺は翻訳を保留した。(「錯亂U」)
とある。たまに,文字に色が見える人があるようだから,ランボーもそうなのかもしれない。「青」「緑」という,そのとき彼の見ていた色がどういう緑色,青色だったかまでは,確かめようはない。
直前の青と
直後のみどりは
衝撃のようにうつくしい
不幸の巨きさへ
そのはげしさで
つりあうように(石原吉郎「不幸」)
あおは,
蒼,青,藍,碧,
とある。「あお」は,
アオカ(明らか)
が語源であろうとされている。だから,藍から藍,緑までを,「あお」と呼んだ。
みどりは,
緑,碧,翠,
とあてる。「みどり」は,
「水+トオル(通・透)」
を語源とする説があり,「緑」をあてる。ミズミズしさ,をミドリと言ったとする。だから,ミドリの黒髪,みずみずしいミドリゴ,若葉の透き通るようなミドリ等々と使われる。
いまひとつ,「カワセミの古語,ソニドリ,ソミドリ」から来たという説もある。
古代日本には,アオ,クロ,シロ,アオしか色名がなかったとされるので,「アオ」の中に,含まれてしまう。「みどり」という語が登場するのは平安時代になってからである,といわれる。
海は断念において青く
空は応答において青い
いかなる放棄を経て
たどりついた青さにせよ
いわれなき寛容において
えらばれた色彩は
すでに不用意である
むしろ色彩へは耳を
紺青のよどみとなる
ふかい安堵へは
耳を(「耳を」)
このとき,青であって,蒼でも,藍でも,碧でもない。そのことに意味がある。とすれば,使う文字によって,見てほしい視界がある,といっていい。「異和」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba4.htm#%E7%95%B0%E5%92%8C)
でも書いたが,吉本隆明が,違和ではなく,
異和
と表現するには,その言葉の向こうに,見てほしい世界があるからなのではないか。
言葉を選べは,藍と蒼と青と碧では,見える色が違う。
しかし,為政者は,ひとつの言葉で,丸めて言う。例えば,戦後,自衛という言葉を弄びつづけて,とうとう閾値をこえるところまで来た。かつて,防衛線という言葉を弄んで,中国に侵略し続け,ついに対米戦に踏み出したのを思い出す。気をつけないと,見ている世界が違う。
上へ
どつぼ,
土壺ともかく。これについては, 「寝る」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E5%AF%9D%E3%82%8B)で触れたが,どつぼは,
深く落ち込んだ状態や最悪な状況を意味し,そういった状況になるという意味の「どつぼに嵌まる(はまる)」といった形で使われることが多い。どつぼはもともと関西エリアで肥溜め(肥溜めは野にあることから野壷ともいい,それが音的に崩れたものか?)のことをいうが,一般には1970年代末辺りからよく使われるようになる,
と説明される。僕のイメージでは,探し物をしている状態がそれに近い。
あったはず,というかあると思ったところになかったりすると,あとは,どこにあるかわからない。外で忘れたり落とした感覚はなく,間違いなく部屋の中にあるはずなのに,どこを探しても見つからない。だから,一度探した鞄を,再度洗いざらい探す羽目になる。そういうときは,同じところを,何度も何度も探す。要は,
堂々巡りに陥っている,
のである。それが,である。探し物だけではないかもしれないが,諦めて,出かけて帰宅すると,見たはずの所を少しずれて,あっけなく見つかったりする。死角があるらしい,というか,視野狭窄に陥っているので,そこが,
見ていても見えていない,
ということが起きる。陥っている状態から言えば,
どつぼ,
だが,ものを見る側からというと,
視野狭窄,
あるいは,
トンネルビジョン,
といっていい。どん底,切羽詰る,という心理状態に陥っているが,それは,視野狭窄に陥っているせいだと言い換えてもいい。
窮すれば即ち変じ,変ずれば即ち通ず,
とも言う。逆に言えば,変じさせればいい,ということになる。それは,ものの見方が一番手っ取り早い。
前にも書いたが,トンネルビジョンに陥っているとき,視野狭窄の自分には気づけない。自分がトンネルに入り込んでいること自体を気づかない。それに気づけるのは,その自分を別の視点から,見ることができたときだ。そのために一番いい方法は,あえて,距離を取ることだ。それには,
時間的な距離化
と
空間的な距離化
の二つがある。その場から離れるか,時間を置くか,だが,それを意識的にするには,
立ち止まる,
ことだと思う。探し物の例で言うなら,いったん探し続ける動作をやめる(なんか,すぐ見つかりそうなときほど,やめられないが)。そうすると,選択肢が生まれる。
このまま続けるか,
ここでいったん止めるか,
思案し続けるか,
等々。発想とは,
選択肢を生み出せること
というなら,選択肢が出たことで,自分に距離を置ける。自分に距離が置けると,存外,すぐに見つかることとが多い。
捜し続けている自分の嵌ってしまった状態,
をどつぼといっても言い。とすれば,その自分の状態,あるいは自分の心理,自分の感情に距離を置いて,
おいおい,嵌ってるぜ,
という余裕が出れば,距離が持てたのと似ている。
見方を変えることは,見え方を変える方が手っ取り早い。
見え方を変えるとは,見る位置の移動である。
大きくなるとは見る位置を近づけること,小さくなるとは遠ざけること,逆にするとはひっくり返すことだ。位置を動かせるわれわれの想像力を駆使して,見えているものを変えてみることで,見え方を変える。見え方を変えることで,いままでの自分の見方が動くはずである。
しかしそれをするためには,対象を見ている自分の位置にいる限り,それに気づきにくい。それが可能になるのは,見ている自分を見ることによってである。
つまり,見る自分を突き放して,ものと自分に固着した視点を相対化することだ。そうしなければ,他の視点があることには気づきにくい。
メタ化
である。メタ・ポジションをとる。
自分自身を含め,自分の見方,考え方,感じ方,経験,知識・スキル等々を対象化することだ。それは,
「みる」をみる
ことだ。「みる」を意識しない限り,何をみているかはわかるが,どう「み(てい)る」か,どこから「み(てい)る」か,みる自分自身は気づけないからだ。
そのためには,いったん立ち止まって,自分を,自分の位置を,自分のしていることを,自分のやり方を振り返らなくてはならない。
たとえば,言葉にする,言語化する,図解する,というのもその方法のひとつになる。
おれはどつぼにはまっている,
という独り言でもいい。
それをするためには,対象化する必要があるからだ。つまり,象徴的な言い方をすれば,
「みる」をみる,
ということになる。
さて,おのれは,いまどういう状態にあるのか,
まあ,立ち止まってみるか。しかし,ずっと立ち止まっていないか?そろそろ動いた方がいい。思案しても,事態は変わらない。。。。。
上へ
立つの語源は,「タテにする」「地上にタツ」らしい。立つ,建つ,起つ,発つ,は中国語源に従うとある。これと別系統で,「タツ」というのが,裁つ,絶つ,断つ,とある。これは,タチ切ル,のタチから来ているらしい。
では,立つの意味は,というと,これが凄い。広辞苑(電子辞書版)をベースにいくつか加えると…。
1事物が上方に運動を起こしてはっきりと姿をあらわす
@雲・煙・霧などがたちのぼる 「霧が立つ」
A月・虹などが高く現れる 「月が立つ」
B新しい月・季節がくる 「春が立つ」
C波・風などがおこる 「風が立つ」
2物事があらわになる,はっきりあらわれる
@高く響く 「声が立つ」
A人に知れ渡る 「名が立つ」「目立つ」
Bはっきり示される 「値が立つ」「押し立てる」「打ち立てる」
3作用が激しくなる
@湯がわきたぎる 「湯が立つ」
A激しくなる 「腹が立つ」
B起こる,生ずる 「不思議立つ」
C切れる 「切り立つ」
4(「発つ」「起つ」)ある場所にあった物がそこから目立って動く
@たてに身を起こす 起き立つ」
A毛などが逆立つ 「逆立つ」
B身を起こしてそこを離れる 「座を立つ」
Cまかる,退出する 「承りて立ちぬ」
D出発する 「京を立つ」「早立ち」「旅立ち」
E鳥が飛び去る 「飛び立つ」
F勇気をもってことを起こす
5ものが一定の,たてに真っ直ぐになってある
@足などで体がまっすぐに支えられている 「火中に立つ」
A草木などがまっすく生えている 「電信柱がたつ」
Bとげ・屋などがたつ 「矢が立つ」
C丈の高いものが位置を占めている 「山が立つ」
Dとどまる,たたずむ 「辻に立つ」
E地位を占める 「先頭に立つ」「優位に立つ」「苦境に立つ」
F要な役目・地位につく 「教壇に立つ」「選挙に立つ」
G位に即(つ)く,位に昇る 「后に立たせ給う」
H戸,ふすま,扉などが閉ざされている 「襖が立つ」
I突き出た形のものができる 「霜柱が立つ」「角が立つ」
J目的をもってある場所に身を置く 「街頭に立つ」
6(建つ)事物が新たに設けられる
@建造物が造られる 「家が立つ」「銅像が立つ」
A初めて設けられる 「市が立つ」
7物事が立派に成り立つ
@用にたえる 「役に立つ」「御用に立つ」
Aそこなわれずに保たれる 「「男が立つ」
Bやっていける 「暮らしが立つ」
C道理・筋道が通る 「理屈が立つ」「見通しが立つ」
Dはたらきが優れている 「筆が立つ」「弁が立つ」
E目標などが定まる。 予定が立つ」「計画が立つ」
F割り算で商が成り立つ 「六を二で割ると三が立つ」
8物がたもたれた末に変わって無くなっていく
@炭火・油などが燃え尽きる 「蝋燭の立つ」
A(経つ)時が経過する 「月日が立つ」「一年が立つ」
9他の動詞について,その行為が表立っていることをあらわす
「思い立つ」「いきり立つ」「はやり立つ」「急き立つ」「競い立つ」「気負い立つ」「勇み立つ」「力み立つ」「奮い立つ」
すっごく単純に言うと,具体的に横たわっているものを「立てる」,という意味が抽象度が上がっても,そのままの意味を保っている,というと大雑把すぎるか。
もともと坐っている状態が,常態だったのだから,
立つ,
ということはそれだけで目立つことだったのに違いない。そこに,
ただ立ち上がる,
という意味以上に,
隠れていたものが表面に出る,
むっくり持ち上がる,
と同時に,それが周りを驚かす,
変化をもたらす,
には違いがない。
立つ,
には特別な意味が,やはりある。
引き立つ,
思い立つ,
気が立つ,
心が立つ,
感情が立つ,
あるいは,
忠義立て
隠し立て
心立て
という使い方もある。伊達も「取り立て」のタテから来ているという説もある。そう思って,振り返ると,腹が立つ,というように,立つが後ろに付くだけではなく,
立ち会い,立ち至る,立ち売り,立ち往生,立ち返る立ち並ぶ立ち枯れ,立ち遅れ,立ち働く,立ち腐れ,立ち遅れ,立ち竦む,立ち騒ぐ,立ち直る,立ち退き,立ち通す,立ち回り,立ち向かう,立ち行く,立ち入り,立ち戻る,立ち切る,立ち居振る舞い,立ち代り,立ち消え,立ち聞き,立ち稽古,立ち込み,立ち姿,立ちどころに,立ち退き,立ちはだかる,立て替え,建て替え,立ち水,立ち塞がる,立待の月,立て板,立て付け,立て直し…。
「立つ」ことが目立つ,ある特別のことだというニュアンスが,接頭語としての「立ち」に波及している。しかし,
立場,立木,立つ瀬,建前,立て方,立ち衆,立行司,立て唄,立女形,立て作者,立ち役…,
と見ると,「立つ」には,特別な意味がある。詳しく調べたわけではないので,素人考えだが,「立つ」ことが,際立って重要で,満座が坐っている中で,立つことがどれほどの勇気がいることで,目立つことかと思い描くなら,「立つ」には,いい意味でも,悪い意味でも,目立つ,中心に立つ,という意味が込められている。
今日,立つこと,立っていることが当たり前になったとき,
立つ,
と同じような効果のある,振る舞いはなんであろうか。かつて,
立つ,
とは,
(おのれが)やる,
ということを主張するに等しかったとすれば,それと同じことは,いま,
よほど目立つことでなれければ,
誰にも気づかれぬことになる。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
『広辞苑(第五版)』(電子辞書)(岩波書店)
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