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コトバ辞典


時間感覚


時間感覚は,歳と共に早くなる。

空間は双方向なのに,時間は一方通行で,逆転はない。それについて,こんな記述があった。

「虚数の時間を,数学的に,空間の一つの次元(方向)と同じものに当たると考えると,かつて時間は存在しなくて(それゆえ因果律はなくて),四つの次元を持つ四次元空間が存在しており,その四次元空間のうつの一つの次元が,何らかの理由で変質し,それがやがて私たちの知る実数の時間になった(それゆえ因果律のある時間になった)のかもしれない。」

と,まあ,しかし逆転はないので,時間が一方通行である事実に変わりはない。

ほとんどの生物は,24時間サイクルの体内時計を持っている。生理時計である。サーカディアンリズム,

おおよそ一日のリズム

である。人間(をはじめ,哺乳類)だと,視床下部の視交叉上核が,主要な役割を果たしている,という。地球上生物は,動植物から単細胞生物まで,地球の昼夜の24時間サイクルに適応した生理リズムを創り出してきた。

しかし,人間の場合,意識というか,自身を対象化している対自がある。その心理的な時間がまたある。その心理的時間が,生理的時間,物理的理的とは別に,人に違う時間感覚を与える。たとえば,夢中になっていると,時のたつのを忘れて,もうこんなに経ったのか,と感じるように。

ジャネの法則

というのがあるそうである。、19世紀のフランスの哲学者ポール・ジャネが発案し,甥の心理学者ピエール・ジャネの著書において紹介された法則である。

@人間は,生理的に興奮して体温が上がるほど,心理的には時間の流れを「遅く(長く)」感じる

興奮して体温が上がると体内時計が早くなり,脳内の酸化新陳代謝の速度も速くなるから,生理的には同じ時間でも,心理的には「遅く(長く)」感じるものらしい。それは,平静だと,逆に,心理的には早く感じる,ということになる。

A人間は生理的には同じ時間でも,時間の経過に注意を向ければ向けるほど,心理的には時間の経過を「遅く(長く)」感じる。

早く過ぎてくれればいいと思うときほど,時間はなかなか過ぎて行ってくれない,というのはよくある。

B人間には生理的に同じ時間でも,時間の経過中に起きる出来事が多いほど,心理的には時間の流れを「遅く(長く)」感じる。

ここから,逆に,

加齢にともなう時間感覚が想定できる。つまり,なぜ,歳をとると,時間の流れを早く感じるのか,と。

生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢の逆数に比例する(年齢に反比例する)

というのである。

その人が自分の人生で経験してきた「時間の長短」(年齢差)によるからである。

つまり,同じ一年でも,五歳の子にとっては,1/5だが,80歳の人間にとっては,1/80だからである,ということになる。

しかし寿命時間は,一律である。

心拍数の周期(心周期)は,体重の1/4乗に比例する,

人は,一分間に約60回,心周期は1秒,ハツカネズミは600回,心周期は0.1秒。つまり,

体重が十六倍になれば心周期は二倍になる,

さらに,寿命も,

体重の1/4乗に比例する,

という。で,心周期も寿命も,それぞれ体重の1/4乗に比例するので,

寿命を心周期で割ると,すべての哺乳類は,

15億回,

という数値になる。心臓が15億回鼓動すると,寿命が尽きる,というわけである。さらに,寿命を呼吸の周期で割ると,

3億回,

つまり,すべての哺乳類は,3億回呼吸をすると,寿命が尽きることになる。ずいぶん昔,『ゾウの時間ネズミの時間』(本川達雄)で読んだはずだと思うが,すっかり忘れていたが,

心拍数
呼吸数

は,どの生物も皆,それぞれのサイズにあった,同じ長さの時間を生きる,ということになる。それは,細胞の分裂の限度(DNAの末端にあるテロメアは分裂ごとに短くなり,半分になると分裂を停止する),つまり,細胞再生しないとき,と一致しているのであろう。

ならば,どれだけ,

長い,

と感じる時間を生きるか,ということになるのだろう。それを,

心の時間

というのだろう。それを,人間の心の中だけにある,

宇宙の時間,

とハイデガーは呼んだそうだ。そこでは,


相対性原理の物理的時間の制約

を免れているのである。

参考文献;
岸根卓郎『量子論から解き明かす「心の世界」と「あの世」 』(PHP)

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決めつけ


「決めつけ」は,

極めつけ,

とも当てる。

咎める
とか
呵(しか)る
とか
叱責

という意味がある。辞書によっては,

厳しく叱りつける
一方的に断定する

と,ただ咎めるだけではなく,叱る側に,価値基準というか,判断要素というものがあって,それに基づいて,一方的に断罪する,というニュアンスである。

場合によっては,

勝手な判断,独断,

に近い。その判断基準に焦点を当てると,

思い込み,
偏見,
固定(既成)観念,
先入観(見),

ということになり,その是非は,

断定,
裁定,

であって,それ以外の考慮の余地はない,ということになる。決めつけられた側には,取り付く島のない状態となる。もし,会話の最中にそう相手から言われたら,たぶん,途中から相手は,耳を閉ざし,そうではない,ちがう,という自己対話に陥るのではないか。

同じ「きめつけ」でも,

「決め」という字を当てると,思い込んでいる部分に焦点が当たり,

「極め」に当てると,その限定された狭い先入主に焦点が当たる,

という気がする。。

「決」の字を構成する,「夬(かい)」は,

「コ印+又(手)+指一本」

の会意文字で,手の指一本をコ型に曲げ,物に引っ掻けるさま,またコ型に抉るさま。「抉」の原字。で,「決」は,

「水+夬」

で,水によって堤防がコ型に抉られること,がっぽりと切れることから,決定の意に転じた。だから,「決」は,

川の水が川の包をコ型にえぐっって切る(「決壊」)
ズバリ切ることから,きっぱり決める(「断(切る)」が判断の意に転じたのと同じ)

という意味がある。

「極」を構成する「亟(きょく)」は,

上下二線の間に人を描いて頭上から足先の端までの間を示し,それに人間の動作を示す口と又(手)とを加え,体の端から端までを緊張させて動作することを顕わす。「亟」は,たるまない,すぐに等々の意味を含む。

「極」は,

「木+亟」

で,端から端まで張ったしん柱,

の意。そう考えると,「決め」は,抉るような厳しさを示し,「極め」は,逃げ場のない感じになる。

自分が決めつけられたことがあるので,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163096.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/391125143.html

決めつけられると,追い詰められてしまうところがある。人は,多面的,多様な側面を持っているので,省みれば,なにがしか当たっていなくもない。だから,余計始末が悪い。

たとえば,運動したい,という人に,

運動しないと何が困るんですか,

という問いは,場合によっては,相手に,決めつけ感を与えるらしい。それは,運動していないことを咎めているふうでもあるし,その話題を出したこと自体を咎めているふうでもあるし,別にどうでもいいじゃないかと言っているふうにも聞こえる,つまり,その問いは,「運動」についての,聴き手側の先入観で,決めつけた問いになっている。

運動しないことで,何も困らないように思えるのですが,
とか,
(相手が主婦なら)主婦の人っていつも駆けずり回っているという印象があるんですが,

といったこちらの思考というか,発想の元そのものを洗いざらいオープンにすることで,問いの言葉の印象が変わるのではあるまいか。

言葉は,何かを丸めている。

問いも,考えている何かを前提にしなければ,出てこない。とすれば,問いには,問う側が,その問いを生み出した自分の思考の流れそのものをも含めてさらけださないと,相手の思考の文脈にはピタリ入らないことがある。

すべて,決めつけは,決めつけている前提をオープンにしなければ,決めつけられた側は,争えないのである。

「君はやる気がないのかね」

と決めつけられても,相手にそう見えていることは,こちらからはコントロールのしようがない。しかし,

「いつも遅刻しているから,僕には,君がやる気がないように見える」

と言われれば,争う余地が出てくる。論旨の因果の破綻や,事実が争える。

決めつけを避けることは出来ない。人は,自分の思考回路からしか結論は出せないから。しかし,相手に決めつけを争う余地を残さなくては,ただ意味なく追い詰めているだけだ。

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徹底的


徹底的,

という言葉を,随分昔,

テッテ的,

と言い換えるギャグ(というか風刺)があった。つげ義春が『ねじ式』で使っていた記憶がある。そういう雰囲気があった時代が確かにあった。いまや,ドイツの公共放送ZDFが,日本政府と原子力産業を「情報隠蔽と改竄の常習犯」と報ずる時代だ。テッテ的とは程遠い。

だから,先日来日した独のメルケル首相が安倍首相に,慰安婦問題は過去を踏まえてきちんと解決をと何度も言ったそうだが,安倍首相は,最後に「内政干渉だ」と怒り出した,という。そういう国とそういう時代に,わが国のありようは,この何年かですっかり変わってしまった。「八紘一宇」が,この国の国会で,堂々賛美されるところにまで,今日来てしまった。

さて,徹底とは,

其処まで貫き通ること,
残る隈なく行き届くこと,
ある一つの思想・態度を貫くこと,

という意味だ。そのほかに,

蘊奥に達すること,

という意味もあるようだ(『大言海』)。

徹底は,日本語源にはない。中国由来,

「徹(とどく・とおる)+底」

が語源。中途半端ではなく,どこまでも押し通す。それは,どうも日本流儀では,かつても今もない,らしい。

それで思い出した。肥後の神風連(しんぷうれん)太田黒伴雄(大野鉄兵衛)の師となる(同じ勤皇党の川上彦斎にとっても師となる),原道館・林櫻園は,

兵は怒りなり,

と言い,攘夷論の盛んであった時期,

国を焼き尽くしてでも、夷狄と徹底的に戦うべきだ,

と主張した。攘夷論に,そこまでの覚悟を持った主張はなかった。それは,

「我国太平久しく、軍備廃頽し、軍器の利鈍、彼我比較にならない。戦わば敗を取るのは必至だ、しかし上下心力を一にし、百敗挫けず、防御の術を尽くせば、彼皆海路遼遠、地理に熟せざるの客兵である。かつ何をもって巨大の軍費を支えん。遠からずして、彼より和を講ずるは明々白白の勢いではないか。もし、一度彼が兵鋒を頓挫すれば、我国威は雷霆の如く、西洋に奮うべし。」

その戦いを通してしか、おのれの日本人としての背骨は通らない,その背骨なくして,世界に伍していくことはできない,という趣旨であった。そこにあるのは,完膚なきまでに,旧弊を灰燼に帰せしめる,という荒療治だ。こうした徹底論は,妥協派というか,現実派の前に,狂気として葬りさられる。言うところの,

焦土灰燼に天佑あり,

は,所詮妄想に過ぎない,と言えば言える。しかし,何かを貫徹しなくては,新たな地平は開かない。

櫻園の対極にあるのは,同時代の,同じ肥後の実学党と呼ばれた,横井小楠である。

日本に限らず世界中皆吾が朋友なり。

と言い,二人の甥を龍馬に託して洋行させる折送った,有名な送別の詩,

堯舜孔子の道を明らかにし
西洋器械の術を尽くさば
なんぞ富国に止まらん
なんぞ強兵に止まらん
大義を四海に布かんのみ

に,小楠の思いの丈がある。僕はこの徹底した楽天主義が好きだ。これを,「とほうもない誇大妄想」(渡辺京二)という評言もある。しかしこれはこれで,現実的な処方箋は立つし,また小楠なら立てたであろう。

衆言は正義を恐れ
正義は衆言を憎む
之を要するに名と利
別に天理の存する在り,

小楠と櫻園とは,ちょうど真反対に振り切れる立ち位置だが,何れの立ち位置も,いまだかって日本はとったことは一度もない。

昨今の,過去と遂に(というか踏ん切り悪く)訣別できず,過去の亡霊を復活させているありようを見ると,絶望に駆られる。

「徹底ということは,底に徹することであるが,その『底』というものは,自己の限界であることは明白である。」

とは,悲惨を悲惨として,敗北を敗北として,焦土を焦土として,徹底的に受け入れることだ。それが本来の米百俵,

「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」

の精神のはずだ。

しかしわれわれは,230万人の戦死者(その150万人は餓死者)の他,2,000万以上のアジアの人々の戦争犠牲者を出したことについて,遂に主体的に,徹底して向き合うことはなかった。別にドイツが素晴らしいとは言わない。他国は,どうでもいい。是非はともかく,70年もたって,いまだ戦後処理が終わっていない(と他国に揶揄される),この体たらくは何だろう。関係国とのすべての交渉が終わっていない,という政治的未処理の
継続に70年もかかっていて,その処理を終える意志が全く見えないことに,呆れるばかりである。対米関係でも,この国土が電波,空域,原子力のすべてに対米従属状態(占領下とはあえて言わないが,しかしアメリカの許諾抜きでは自由に意思決定できない状態)であること自体,いまだ戦後処理は完了していない。その意味では,敗戦処理はほとんど終わっていない。しかし終わっていないことにすら,気づいていない,というか,認めていない。

ドイツのように,領土に固執するのをやめることが是,と言っているのではない。それは交渉事だ。しかし,主体的に,本気で戦後を処理し尽くす覚悟を,為政者も,われわれ国民も,しなかったし,しようとしていないし,多分することはないだろう,ということだ。決断とは,

何かを捨てることだ,

それは,金や物や土地とは限らない。おのれの面子を捨てることもある。しかし,

面子を捨てる,

ことは,

矜持を捨てる,

ことではない。おのれの体面を守ることで,かえって矜持を捨てていることに気づいていない。

どうやらわれわれは,徹底という言葉を,自国のことばとして,持っていないということだ,と思う。言葉は,自分たちの現実を丸めるところから生まれる。和語として,遂にそういう言葉を持たなかった。なぜなら,そういう振る舞いをしてこなかったし,していないから,それをあらわす言葉がない(のではないか)。

言葉は,その人の振る舞いを表す。

参考文献;
渡辺京二『神風連とその時代』(洋泉社)

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蜻蛉返り


「蜻蛉返り」というのは,

(トンボが勢いよく飛びながら,急に向きをうしろにかえることから)
空中で体を上下一回転させること,宙返り
歌舞伎で,役者が舞台で手をつかず宙返りすること,筋斗(とんぼ)返り
目的地に着いてすぐ引き返すこと

という意味がある(『広辞苑』)。もともと,

トンボリ・トンボ返り

で,返りは,空中で身をひるがえす擬態語,つまり掌をつかずに宙返りすること,とある。

歌舞伎の立ち回りには,

千鳥・大回り・むなぎば・腹ぎば・横ぎば・ぎば・入鹿腰・ひともかえり・二ツがえり・つづけがえり・逆立・杉立・そくび落とし・胸がえり・手這・猿がえり・あとがえり・重ねがえり・飛越・ほくそがえり・死人がえり・かわむき・水車・一ツとこがえり・仕ぬき

等々とある。「ぎば」というのは,宙返りのことである,そうな。

「中通り(ちゅうどおり)の役者は,『蜻蛉返り』ということを,必ず知っている…。」

と鳶魚先生はおっしゃる。ちなみに,中通りとは,名題役者(看板役者)の下,その下が下回りということになるらしい。名題下とか,相中(あいちゅう),下立役(したたちやく)とか,名題の下の役者を階級化したのは明治以降らしい。その区別は,正直よくわからない。

で,「蜻蛉返り」という名のいわれは,

「進んで来た位置で,そのまま後ろへ退ることが出来るのは蜻蛉だけで,その他の動物にはない,そこから起こったものだという。」

この説明がリアルである。実際に蜻蛉を見慣れたものだけが,その本当の意味が分かる。単に「身をひるがえす」ではわからない具体的なイメージが浮かぶ。つまり,「蜻蛉返り」の表現には,それぞれを受けとめた人それぞれに,

エピソード記憶

として,そのトンボの具体的な姿が,あったのである。

しかし,歌舞伎の立ち回りとなると,立役が主役とおもいきや,鳶魚曰く,

「主役となる者よりも,蜻蛉返りの方が見せものなので,それが,舞台の変化,局面の転換とでもいいますか,そういう方に効能があったのみならず,またすこぶる舞台面を賑やかすものでもあったのです。」

とある。主役だけで芝居は出来ない。そういう立役を,名題以下の中から抜擢する仕組みを捨てた今日の,血脈だよりの歌舞伎界の貧困化は,当然と言えば言える。

さすがに鳶魚は,その始まりを調べていて,享保十七年(1732)の新浄瑠璃『壇浦兜軍記』に,捕物場面で,「真逆様に,でんぐり返り」とあり,さらに,延享二年(1745)の『夏祭浪花鑑』には,「とんぼう返り仕やらふ」とあるとして,人形が蜻蛉返りをやっていた,と伝えている。

これが歌舞伎になると,

「蜻蛉返りをする者を,『トッタリ』というのは『捕えたり』ということで,むろん捕物の話ですが,これらの言葉は,人間のする芝居に発生したものでなく,人形芝居から起こったのではないか,という疑いがある。」

として,そのことに詳しい伊原青々園(せいせいえん)という人の説明を紹介している。

「自分の考えでは,能の方に『仏倒れ』といって,はずみをつけないで,体がそのまま,そこに倒れるという仕方がある。これはたしかにトンボの一種である。その次は人形の方で,『太閤記』の鈴木孫一が,腹を切ると蜻蛉返りをする。これは人形では死の苦悶などという,こまかい表情ができないから,ああいう倒れ方をしてそれを見せる。」

と言っている。さらに,どうも,この軽業のような所作が歌舞伎に入ったのには,「阿国歌舞伎以来,あらゆる見せ物から,面白いことは皆歌舞伎に取り入れているので,蜻蛉返りもそのころからあったものじゃないかと思われる。」と付け加えている。中国の芝居の影響もあるかもしれないと断ったうえで,さらに,

「『劇場年鑑』などをみましても,天明二年(1782)から立ち回りに後ろ返りをはじめたと,書いてあります天文(1736)以来は,弥弥人形芝居の方で,いろいろな仕出しの多かったときですから,…蜻蛉返りは,人間がやるには相当な稽古を要するけれども,人形ならば簡単に行われる…。」

と,推測している。

思うのだが,この宙返りに,

蜻蛉返り

と名付けたセンスに,驚く。

鼠返し,

というのは,そのままズバリだし,

燕返し,

というのは,確か宮本武蔵に敗れた,佐々木小次郎が得意とした剣技だったが,これも,

ツバメの素早く身をひるがえして飛ぶ様子

から,身を反転させること,あるいは,

ある方向に振った刀の刃先を急激に反転させる技,

に名づけた,蜻蛉返しと似た命名だ。これには,

柔道の足技の一つで,相手の足払いを瞬間的に足払いで返す早技,

というのもあり,麻雀のいかさまにも,

隙を見て牌山と手牌をすべて入れ替えてしまう技

に燕返しというのがあるらしいが,まあ,剣技から来た流用に過ぎまい。それにしても,燕返しの方が,ひらりひらりの感覚は,ピタリだと思うが,すでに,その言葉が剣技として広まっていたせいで,その名は使えなかったのだろうか。

参考文献;
三田村鳶魚『捕物の話 鳶魚江戸ばなし』(Kindle版)

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目の前を妨げるものの喩えとして,



という言い方をする。目の前を遮る,あるいは,おのれの超えられない境界の喩えとして使う。

壁を,辞書で引くと,

家の四方を囲い,また室と室の隔てとするもの。ことに塗壁,すなわち下地をわたし,木舞(こまい)をかき,土を塗って作ったものを言う,

とあり,その他に,

(壁を「塗る」と「寝(ぬ)る」とをかけて)夢。
(女房詞,白壁に似ているところから)豆腐,おかべ,
登山で,直立した岩壁,
障壁,障害物
吉原の女郎屋の張見世(はりみせ)の末席(壁際),新造女郎が坐った,
近世後期,江戸で野暮,無粋を言った,

と並ぶ(『広辞苑』)。まあ,正真正銘の壁から,ものの喩えに移っていくのがよくわかる。

壁と見る,

というのは,野暮と見なす,つまりは軽蔑する意だが,

壁に馬を乗りかける,

というのは,無理押しを指す。この言い方がなかなか粋である。

閑話休題。

ここでは,

壁に突き当たる,

を言いたいために,遠回りした。何せ,障害というか,押しても引いても,動かない,まさに,二進も三進もいかない状態である。しかし,壁を無視すれば,問題と同じで,なかったことで過ごせないわけではない。

「かべ」というのは,語源に,

「カ(処)+ヘ(隔)」,場所の隔ての意味

「カキ(垣)+へ(隔)」,建物の周りや内部の仕切りの意

の二説があるらしい。漢字の「壁」の原字は,

「辟」

で,薄く平らに磨いた玉,表面が平らで,薄いという意味を含んでいる。で,「土+辟」は,

薄くて,平らなかべ,

の意らしい。「牆(しょう)」が,家の外を取り巻くながい「へい」で,それに対して薄く衝立式のを「かべ」を言ったらしい。それがのちに,家の内外の平らな「かべ」を言うようになった,という。ちなみに,「牆」を調べると,「爿+嗇」で,「爿(しょう)」は,「木を両分せし形,片の対」とある。「檣」は,「麥+作物をとり入れる納屋」からなり,収穫物を取れ入れる納屋を示す。「牆」は,納屋や蔵の周りに作った細長いへいをしめす,という。

壁というのは,

スランプ
とも
凹む
とも
落ち込む

というのとも,違う気がする。凹むや落ち込むについては,「凹む」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E5%87%B9%E3%82%80),「心が折れる」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E5%BF%83%E3%81%8C%E6%8A%98%E3%82%8C%E3%82%8B),「落ち込む」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E8%90%BD%E3%81%A1%E8%BE%BC%E3%82%80) 等々何度か触れた。スランプは,誰かの台詞ではないが,一流のスキルや技量の持ち主がなる,一時的な不調,不振なので,僕のようなものには,あまり関係がないが,いずれも,内的な要因である。つまり,心理的にか,技術的にか,ペースダウンの状態である。しかし,壁というのは,主観的なものであることは同じだが,

いまの自分にとって大きな障害,ハードル,

がある,と感じていることだ。多く,才能や技量という内的なものが,外の障害に跳ね付けられて,そう感じるという意味では,実は,いまの自分の力量にとっては,階段を昇るようには,越えられないハードルと感じている,ということだ。仮に,外からの手助けがあるとしても,そのステージの力量が満たなければ,また別の壁にぶつかるだろう。

壁は,何かにチャレンジしなければなく,ただの見晴るかす視界があるだけだ。何かにチャレンジしようとするものにだけ,そこに壁が見える。しかし,結局,それは,外に在るのではなく,

自分の内の限界意識,

が作り出す,影に過ぎない。しかし,その限界意識は,主観的に,作り出しているものではない。具体的に次のステージに上れないという事実が突きつける壁である。自覚的なものであると同時に,現実的なものでもある。たとえば,才能,というとき,それは,主観的だが,その差は,歴然として,客観的に在る。世の中は,多く,ステージごとに住み分けているから,同じプロフェッショナルと言いながら,あるステージからは相手にされないプロだってある。そのとき,差は,主観的ではなく,客観的にある。

ただ,思うのだが,その自分が直面している限界を,顕微鏡で見るか,遠眼鏡でみるかによって,壁の見え方が変わる。「どつぼ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E3%81%A9%E3%81%A4%E3%81%BC) で書いたように,どつぼにはまった状態と同じく,その嵌りきった凹みというか,壁そのものと真正面に向き合った立ち位置から,距離を取って,「窮すれば通ず」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E7%AA%AE%E3%81%99%E3%82%8C%E3%81%B0%E9%80%9A%E3%81%9A) で書いたことと重なるが,自分を俯瞰できる立ち位置に立てられれば,その壁の見え方も変わるかもしれない。

ただ,それは壁がなくなったわけではない。壁があるという事実を消すわけではないので,その突破口が,というより,

迂回路,

というべきか,まだチャレンジする経路が見える,というだけのことに過ぎない。

それを慰めとするか,諦めとするか,元気づけとするかは,その先どうするかの決断次第,ということに尽きる。

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狷介


狷介とは,

頑固で自分の信じるところを固く守り,他人に心を開こうとしないこと。またそのさま。片意地。

と,一般の意味。『広辞苑』をみると,

「『狷』は,頑固,「介」は堅いこと。現在は多く悪い意味で使う,

と断りがあって,「固く自分の意志を守って人と妥協しないこと」という意味を書いている。確かに,狷介は,あまりいい意味には使わず,どちらかというと,とげとげしたと取り付く島のないイメージがある。しかし,『大言海』には,

「人の,おのれが分を守りて,不義をせざること,介は,精神の堅固にして抜くべからざること」

とあり,「人の性質に,頑なに志を執りて,情を容れず,聊かなる,不義,不正をも敢えてせざること」と,どちらかというと,志操堅固の意味が強い。

「狷」の字は,

「小回りしてせかせかとはしる犬,また小さく枠を構えて,その外へでないこと」

という原意があるようで,性急とか,片意地とか,鋭い,といったどちらかというといい意味を持たない。まあ,

心が狭い,

というニュアンスである。「介」の字は,

「人+八印(両脇にわかれる)」

で,両側に分かれること,とある。さらに,両側に分かれることは,両側から中の物を守ることでもあり,中に介在して両側を取り持つことでもある,という。だから,

はさむ(「介意」)
仲立ちをする(「仲介」)
助ける(「介助」「介護」)
両側から挟んで身を守るよろい(「介冑」)
鎧や殻のように固い(「耿介」耿)
両脇から孤立するさま,転じて大きい(「介立」)
ひとつ(「一介=一个」「一介」)

という意味になる。どちらかというと,挟んで仲立ちする意味なのに,「狷」と一緒になると,「堅い」とか「孤立」の意味が滲んでくるようである。『論語』の,

中行を得てこれを与にせずんば,必ずや狂狷か,狂者は進みて取り,狷者は為さざる所有るなり,

でいう「狷」は,

潔癖で強情な偏人,

と,貝塚茂樹注にある。中庸をベストとする孔子には,

中庸の徳たる,それ至れるかな,

という言葉がある。中庸とは,

偏らず常に変わらないこと,

とある。不偏不倚で過不及のないこと,

ともある。語源的には,「中(なかほど)+庸(かたよらない)」で,

物事の中ぐらいの節度を守る

ともある。

「中」とは,

もともと,旗竿を枠の真ん中に突き通した姿を描いたもので,真ん中の意。「突き通す」の意味があることを忘れてはいけないようだ。だから,

「決して過不及の中間をとりさえすればよいという意味ではない。」

ではないので,中途半端や足して2で割るというものではないようだ。そんな意なら埒もないことで,わざわざ言うに値しないだろう。

「庸」の字は,棒を手に持って突き通すこと。「通」と同じく,通用する,普通のという意を含む,とある。「通」の,「用」は,「卜(棒)+長方形の板」の会意文字で,「棒を板に通したことを示す会意文字。これに人を加えた「甬(よう)」は,人が足でとんとんと地板を踏み通すこと。「辶(足の動作)+甬」で,途中でつっかえ止まらず,とんと突き通ること,という意。

こうみると,実は,中庸は,それほど簡単ではない。貫き通す真ん中の位置が,常に通用するとはかぎらない,それでもそれを貫くから,

一以て貫く,

となるのだろう。現実と妥協しながら,生きていく人から見れば,それが時に頑なで頑迷固陋に見えるはずである。

四文字熟語の,

狷介固陋(かたくなに自分の意志を守って,人のことを受け入れないさま)

狷介孤高(自分の意志をかたくなに守って,他と協調しないさま)

というのも,その辺りの微妙なニュアンスを含んでする。僕には,儒学者・横井小楠の,

彼を是とし又此を非とすれば
是非一方に偏す
姑(しばら)く是非の心を置け
心虚なれば即ち天を見る

心虚なれば即ち天を見る
天理万物和す
紛々たる閑是非
一笑逝波に付さん

等々の詩は,そういう含意を持って,是非の二者択一ではない視点をいつも持つことを言っている。だから,勤皇派からは佐幕派に見え,佐幕派からは,勤皇派に見える。

人の生きるや直し

というのは,そういう貫いた軌跡を指しているに違いない。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
野口宗親『横井小楠漢詩文全釈』(熊本出版文化会館)

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きいたふう


「きいたふう」は,

利いた風

と当てるか,

聞いた風

と当てるかで違う(『広辞苑』)。同じく,

「きいたふうなことを言う」

でも,

「利いた風」なら,

気が利いていること,

になるし,

「聞いた風」なら,

いかにも物事に通じているように気取ること,
知ったかぶりで生意気なこと,

つまり,

なま聞き,半可通,

になる。しかし,どうも,どちらに当てても,

さも知っているような小生意気な様子,

を指して使う,とある(『語感の辞典』)。「風」が,そのニュアンスだから,「気が利いている」風であり,「知っている」風なのだろう。

ただ『語感の辞典』には,「古めかしく」とあり,

大学生にも通用しなくなった,

とある。昨今大学生は,知性のモデルではなく,病だれの「知性」の方だから,大学生が使わないからと言って,世間一般とは言い難い。むしろ「大学生にも」ではなく,「大学生には」なのではないか。

閑話休題。

語源的にも,

「利いた(ためした,物事に通じている)+風(様子)」

とあり,

わかりもしないのに,わかったような生意気な態度をする様子,

とある。

子曰く,道を聴きて塗(みち)に徳は,徳をこれ棄つるなり,

というのがとっさに浮かぶ。

衒う

というのがこれに当たるのだろう。「衒う」は,

(「照らふ」の意)かがやくようにする,見せびらかす,

という意味になる。「衒」の,「玄」は,

細くて見えにくい糸をあらわす,

といい,よく見えない,曖昧であるという意をもつ。「衒」は,「行+玄」で,

相手の目をごまかして,真相が見えないようにする行いのこと,

とある。だから,意識して,そうしている,という意味では,

すかす
とか
虚飾
とか
見栄
とか
体裁ぶる

とかに近い。顔や身なりを装うのと,知性を装うのとの違いに過ぎない。

類語は,

見識張る

というのが近いが,

曲学阿世

となると,追従にシフトしているので,若干ずれる。

管を以て天を窺う
とか
小知を以て大道を窺う

となると,井の中の蛙で,自覚していないから,さらにずれる。

おのれの分,

ということを意識する。つまり,

分け与えられた性質,地位,身のほど,力量,

の意味だ。天分,性分,分際,身分,分相応,という使い方をする,「分」である。「分」の字は,

「八印(左右にわかれる)+刀」

で,二つに分ける,意。

何と分けたのか,
何から別れたのか,

を考えるとき,知とは,世界から別れたことだ。しかし,見えている世界は,その別れ方,つまり,距離の取り方で異なる。同じく,全体の部分である,といっても,地上に立つのと,月から地球を見るのとは違う。

分を弁える,

とは,そういう意味だと思う。その距離が見えているかどうかが,聞いた風かどうかの別れ道なのだと思う。

由(子路)よ,汝に知ることを誨(おし)えんか。知れるを知るとなし,知らざるを知らざるとせよ。これ知るなり。

である。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
中村明『日本語語感の辞典』(岩波書店)

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得たり賢し


最近は,あまり使うのをきかないが,

得たり賢し,

という言い回しがある。辞書(『広辞苑』)には,

「物事がうまくいって得意になったときに発する語。しめた,これはありがたい」

といった意味になる。

「多く『と』を伴って副詞的に用いる」とあり,「『得たり賢し』と,云々」という言い方になるのだろう。

物事が自分の思いどおりになったときの喜びの気持ちを表す語,

ともあり,「得たり賢しとばかり攻めたてる」と言った使い方になる。しかし,

「動詞ウ(得)の連用形に助動詞タリが付いた形,感動的に使う」

と言われる,

得たり,

自体が,

うまくいった,しめた,

という意味なので,「賢し」は,言葉のリズムとして付けたしたという感じなのではないか。

得たりおう,

とも言うが,

得たりやおう,

が,「心得て受け止める時,またうまく仕遂げたときなどに発する語」で,

上手くいったぞ,

という意味で,「得たりやおうと立ち上がる」と言った使い方をする。

得たりや応う,

と表記するようだから,応答し合う,えいえいおう,に似た使い方なのか,と想像してしまう。

『古語辞典』には,

「エタリに感動の助詞ヤと感動詞のオウの続いた形」

として,

「得たりやおうとて,十騎の兵,轡を並べて懸けたり」

という例文が出ている。『大言海』は,

「おうは,唯(お)の延,やと共に,感動詞なり」

として,

「手ごたえして,はたと中(あた)る,えたりやおうと,矢さけびをこそしてんげれ」

という例文を載せる。その言葉がもつ,場面というかニュアンスが伝わってくる。

因みに,

えいえいおう,

は,

「『えいえい』という大将の掛け声に呼応して軍勢一同が『あう(オオ)』と声を合わせ、これを三度行なったという。『えいえい』は前進激励の『鋭』、『おう』はそれに応じる『応』の意であるという。」

あるいは,

「大将が三度弓杖(ゆんづえ)で地面を叩き、『えい、えい、えい』と三声の鬨をあげ、家来が声を合わせ、『応(おー)』と応える」

ともある。この場合も,「えいえい」自体が,

力を入れた時発する声,

とある。弓を引いたり,力をいれたりするとき,「えい」という声を発する,それである。その他に,

呼びかける声,

とあり,「えいえい」と掛けて,「おう」と応えることで,鬨の声になる。これは,

武家の作法,

とされており,

「勝凱をつくることは、軍神を送り返し、奉る声なり」

とあるように,戦勝祈願と戦勝御礼の意味があるようだ。「えいえいおう」も,

「『訓閲集』の表記では、『えい』も『おう』も異なり、『曳(大将が用いるエイ)』『叡(諸卒が用いるエイ)』『王』の字を用いており、また、軍神を勧請する際、『曳叡王(えいえいおう)』と記し、大将が『曳』と発した後に、諸卒が『叡王』とあげるとしており、声に関しては、『初め低く、末高く張り揚げる』と記している」

とあるなど,まあ,一種の

験担ぎ,

の色合いがある。

鬨を合わせる
鬨の声を挙げる

という言い回しがあるが,軍勢が揃って大声で「おう」と叫ぶことを指す。ある意味結束と士気を鼓舞するためにするので,

出陣時,
攻撃開始時,
敵が鬨を挙げた時(それに応じて),
戦勝の時,
凱旋の時,

等々にする。作法だから,流派によって多少の差異があるらしい。こんなことまでも,何々流と,何でも,個人ベースの相伝の秘儀にしてしまう,日本的と言えば日本的な兵法になるのだろう。

参考文献;
笹間良彦『図説 日本戦陣作法事典』(柏出版)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E3%81%A1%E9%AC%A8

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かたなし


かたなしは,

伊達男もかたなしだね,

等々とつかう。しかし,かたなしは,同じ,

形無し

と当てても,

跡かたがないこと,形跡が残っていないこと
さんざんなこと,面目を失うこと
形無し銭(文字がつぶれた見えないようになった銭)の略

というほかに,形容詞としての使い方があり,

容貌が醜い,汚い
形跡が残っていない

という使い方があり,『古語辞典』にあるのは,前者の使い方例だ(記憶では,前者の使い方に「陋無し」を当てていた例がある。「陋)は狭いとか粗末という意味。乚+丙は,足さえ左右に開けない狭さの意。阝は,「阜」で,土盛り)。

語源をみると,

形無しは,

「カタ(形)+無し」

で,みじめな様子,本来の姿が損なわれてすっかりだめになること,という意味らしい。

この辺りは,原意は,

何かの調子に本来の形を損なったさま,

だったのだろう。それに毀誉褒貶の価値観がはいると,

面目を失う,

になり,美醜の価値感がはいると,

みっともない,
みにくい,

となる,というような。

漢字の「形」という字は,

左側は,もともと井(ケイ)で,四角いかたを示す象形文字。「彡」は,指事文字。

飾りや模様を表す記号として,彩・影・形等々の字に使われている。で,「形」は,

「井+彡」で,いろいろな模様をなす枠取りや型のこと。

異説に,「幵(そろえる,たいら)+彡(刷毛で刷く)」というのがあり,その場合,

美しい線で象られたものの形態,

となる。「型」の字は,「刑+土」で,

刑は,「井(四角い枠)+刂」で,小刀で枠の形を刻む意を持つ。「刂」は,刀で,そう言えば,「創」の字は,

鋳造するとき,できた後,刀で鋳型に切れ目を入れる

意だと,どこかで聴いた記憶がある。左側は,「形」と同じで,井の変形。「耕」の「井」と同じで,畑に枠の筋目を入れる=たがやす意味。「刑+土」は,

砂や粘土で作った鋳型のこと,

という。その「型」からきているのか,日本語の「かた」は,

カタ(堅・固)

で,土を固めて乾かし,カタを取ったのが,語源。だから,

カタ
カタチ
カタメル
イガタ

のカタも同源。平面的なカタより,立体的なカタのことを指すらしい。となると,わかりやすい。そのかたちが崩れていれば,形無しである。

こう見ると,どちらにしろ,きちんとカタのあるもの,形の整った姿勢,振る舞い,評判の人が,そのカタチを崩し,見る影もなく,尾羽打ち枯らす状態を指す。

「尾羽打ち枯らす」という言い方は,鷹の,尾羽が損じてみすぼらしくなること,を指しているから,烏や雀には使えないのと同様,「かたなし」も,もともと形のない人には使えない,ということになる。。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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よし


よしなしごと,

の「よし」である。「よしなし(由無し)」は,

手掛かりがない
関係がない
根拠が薄い
くだらない
つまらない

といった意味であるが,「〜という由で」「〜された由で」という言い方をする,「由」は,古語辞典では,

「『寄(よし)』と同根。物の本質や根本に近寄せ,関係づけるものの意。つまり,口実,かこつけ,てがかり,伝聞した事情・体裁などの意。類語『故(ゆゑ』は,ものごとの本質的・根本的な深い原因・理由・事情・由来の意。」

と,ことわりがある。どうも,「由」と「故」の違いが判らない。それは,後で確かめるとして,まず,「由(よし)」は,

口実・かこつけ
わけ・理由
てがかり
伝えられた事情
趣旨
(平安女流文学で,「ゆゑ」と区別して)二流以下の血統,またその人の風情・趣向・教養・人品
体裁。格好

といった意味になる。語源的にも,

「寄す」の名詞形

とされ,ものごとの拠り所とされる事柄,由緒の意とされる。ついでに,「寄し」はというと,

「由と同根」

とあって,

統治者としてゆだねる,まかす,
近寄らせる,
関係があると(世間で)噂する

とある。そういえば,「何々の由」というとき,少しく,風聞のニュアンスを含めている。明確であれば,「何々の故」という言い方をしそうだ。では,「ゆゑ」は,というと,

「本質的・根本的な深い理由・原因・由来の意。平安女流文学では,由緒正しいこと,一流の血統であること,またその人に見られる一流の風情・趣味・教養などをいい,二流のものはよし(由・縁)といって区別した」

ということわりがあり,

重大な深い理由,確かな原因
正しい由緒
一流の血筋
一流の趣味・嗜好
一流の風情・雅趣

と意味が並ぶ。話は違うが,今日の意味での血筋とは違う。血筋たるべく,血の滲むような教養と修業を積む。

豊臣秀頼は,その血筋たるべく努力を重ね。今日残る墨跡に,その「ゆゑ」が明白に残る。ここで言う,一流とは,ただの血筋ではない。血筋だけを誇る手合いの体たらくは,今日日々目撃させられ,世界の笑いものになっている。ここで血統とは,その血統であれば,それなりの教養と修業を積む機会が与えられたであろう,という前提である。それが身分社会というものらしい。ちょっと話は違うが,八丁堀同心というと,『必殺仕事人』の中村主水を思い浮かべるが,八丁堀組屋敷内に道場があったぐらい,日々必要な鍛錬を怠らない。怠れば,その役にふさわしくない,と見なされる。それは致仕せざるを得ないことを意味する。身分社会とは,その身分に安住し,のほほんとしていることではない。ピンからキリまで,その役目にある限り,果たさねばならない責務がある。それを果たすべく,努力を怠らない。だから,江戸時代,主君が主君の任を果たさなければ,家臣が押し込め(「主君押込」),無理やり隠居させた例すらある。

ここで「ゆゑ」というのは,そういう重みがある。ゆゑを「一流」とするにはそれなりの所以があるのである。因みに,「ゆえん」とは,

故ニナリがつまって,ユエンナリとして使われ,ついでユエンだけが独立して使われるようになった,

とある。そうすると,所以もまた,確たる例証,根拠なく,使うと,語の定義からすると,誤用になるのかもしれない。

ついでに,「縁」を調べると,

因果の法則の直接的原因を助けて結果を生じさせる間接的原因としての補助的条件。またこの二つの原因を合わせて,因とも縁ともいう。

なるほど,直接的原因ではないから,「由」と類縁なのか。

縁は異なもの味なもの

という「縁」は直接的な結縁ではないが,男女をつなげる不思議な因縁とは,なかなか微妙である。

「よしなし」も,ただつまらない,という意味ではなさそうである。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

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やさしい


やさしい,

は,

優しい
とも
易しい
とも
恥しい

とも当てる。語源は,

「痩さし」

である。「身も痩せるような恥ずかしい思い」である。

慎みがあって殊勝だ,

という意味らしい。転じて,

思いやりがあって,心遣いがある,意となり,さらに転じて,

わかりやすい,
扱いやすい,
処理しやすい,
たやすい,

と変化してきた,とある。『古語辞典』にも,

(人々の見る目が気になって)身も痩せ細る思いがする意,

が転じて,遠慮がちに,つつましく気を使う意,またそうした細やかな気遣いをつつましく気をつかう,意。

とあり,

身も細るようだ,肩身が狭い
恥ずかしい,面目ない,
気を遣ってつつましい,遠慮がちで控えめである

ときてから,やっと,

優美である
心憎い,
健気である
優雅である
温かく思いやり深い
平易である,

と意味が続く。その意味で,優しさとは,人に対しての気遣いではなく,そこに居ること自体を遠慮する,憚る気遣いという感じが強い。

漢字の「優」の字はどうかというと, 「人+憂」の,

「憂」の,原字は,人がしずしずとしなやかなしぐさをするさまをえがいた象形文字。「憂」は,それに心を添えた会意文字で,心が沈んだしなやかな姿を示す。で,「優」は,

しなやかにゆるゆるとふるまう俳優の姿,

の意で,

しなやかなしぐさを示す人(「俳優」)
やさしい(「優毅」)
しなやかなさま(「優美」)
すぐれている(「優秀」)
ゆたか(「優裕」)

といった意味を持つ。どうも,「優」には,

それを演ずる,

というニュアンスがある。そのせいか,「人+憂」には,

仮面をつけて舞う人

という意味があったという説もあるのである。つまり,本来,

俳優(わざおぎ)

であり,最も近い類語「情け」は,

「ナス(作・為)+ケ(見た目,接尾語)

で,

心遣いが目に見えるさま,

なのである。だから,ある意味,

人に対して,場に対して,心を砕く,

という意識なのではないか。それは,人に対する気遣いではなく,自分自身に対する意識,自分自身の中かから出ている意識,

なのではあるまいか。だから,

人に対する優しさは,

人を気づかうことではあるが,もともと自分をワンダウンさせて,気遣いを見せるふるまいである。それ(そういう自分の気づかうふるまい)が,ある程度相手に見えなければ,その下手に出ている,つまり,相手を上げていることが,相手に見えなければ,意味がない。だからこそ,それが度をこせば,

偽善

にもなる。だからこそ,それを「情けない」と感ずる。「情けない」とは,

思いやりがない,
無愛想である,
武骨である,
あさましい,
ふがいない,

という意味である。おそらく,身分社会を反映しているのだと思う。場を弁える,とは,多分そういうことだったのではなかろうか。

それにしても,この「やさしい」の変化の,内の憚る気持ちが,外に気遣いとなり,その見易さが,易しさへと変るというところに,人の哀しみがにじみ出ている気がしないでもない。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
竹内整一『「おのずから」と「みずから」』(春秋社)

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面白い


「面白い」(興味が感じられるという意味)の語源は,

「オモ(面)+白い」

で,顔面が白くなるのが語源とするの,がある。もう一つ説があって,

「面+著し」

で,顔の前がパッと明るくなる,という意味,という説がある。で,

「面白いは当て字という説や,どうも胡散臭いというので,教科書では,仮名書きにされていますが,これは語源に従った正しい書き方です。心に強く感じて,パッと顔の前が明るくなるような感情を,オモシロイというわけですから,面白いと書いて,合理的な表記です。」

と,補足説明がある。ネットの語源説明では,

「『面』は目の前を意味し,『白い』は明るくてはっきりしていることを意味した。そこから目の前が明るくなるような状態をさすようになり,目の前にある景色や美しさを指すようになった。さらに転じて,『楽しい』や『心地よい』等々の意味を持つようになり,明るい感情を表す言葉として使われるようになった。」

とあり,

「火を囲んで話をしていたところ,面白い話になると皆が一斉に顔を上げ,火に照らされた顔は白く浮かび上がったところからなどといった説」

を,俗説として退けている。しかし,そうだろうか。

『古語辞典』には,「面白し」について,

「オモは面,正面,面前の意。シロシは白し。明るい光景とか明るいものを見て,目の前がパッと開ける意。また気分の晴れ晴れとする意。それが音楽・遊興などの快さというようにひろまり,文芸・装飾その他に対する知的感興を一般に表すようになった。」

とある。

目の前がパッと明るくなる感じ,

というのは,

目の前がパッと開けた感じ,

でもある。それは,何も景色だけとは限らない,何かを見て,一瞬に世界が開く感じは,同じである。あるいは,何か思いついて,ひらめいた一瞬も視界が開いた感じがある。その意味で,囲炉裏で面白い話を聞いて,パッと眼前が開いた感じがしてもおかしくはない。

能の起源は,天の岩戸に引き籠った天照大御神の御心を捉えんとして,奏した神楽が,「申楽のはじめ」とされるそうだが,

「遊芸に愛で給ひて,大神岩戸を開かせ給ひし時,諸神の面,ことごとくあざやかに見て初めしを以て,『面白』と名付初められしなり。」

という,申楽起源に絡んだ「面白」語源説まである(『風姿花伝』)そうだから,日の前で,火に照らされてではないにしろ,パッと視界が開いた時に見せる表情そのものは,俗説とばかりはいえないだろう。

能芸論では,「面白し」を,

@岩戸前にて神に奏した神楽の遊びが納受されたときに起きた言葉であること
Aそれは「闇黒」から「明白」への開放・転換の形容語であること,
Bそれは,「うれし心」「歓喜」「微笑」といったものを内在させていること,
C表現としての「面白し」は,「闇黒」から「明白」へ,「うれし心」への契機を知的に捉えなおしたものであること,

とまとめて,

「面白とは,一点付けたる時の名也」
「明白となるは花,一点付けたるは面白なり」

という説もあるらしい。「一点付けたる」とは,点を一つ打つの意で,「事態を知的・客観的に捉えなおす」という意味らしい。よく分からないで言うのもなんだが,たとえば,書画を眺めていて,何か足りない気がして,点を付け足した,そうしたら面白い,となった,そんな感じであろうか。この段階では,それを「面白し」と言い得る,知的レベル,までに昇華されている,というべきか。

俗人には,ちょっと近づきがたいが,そのせいか,本来の「面白し」の意味は,

(景色や風物が明るくて)心が晴れ晴れするようだ
(気持ちが解放されて)快く楽しい
心惹かれる,感興がわく,

と,やはり知的である。一方,現代の「面白い」にも,『広辞苑』には,

(一説に,目の前が明るくなる感じを表すのが原義で,もと,美しい景色を形容する語)目の前が広々と開ける感じ

と,説明があって,

@気持ちが晴れるようだ,愉快である,たのしい,
A心が惹かれるさま,興趣がある,趣向がある,
B一風変わっている,滑稽だ,
C思い通りでこのましい(主に打消しの語をともなって,「面白くない」)

と,確かに「愉快系」にシフトしているが,しかし笑っているとき,我々の頭の中には,ひらめいたのと,似たことが起こっているのではないか。特に,落語の落ちや下げ,ジョークによって,とんでもないものがつながれ,むすびつけられたとき,一種視界が開く感覚がある。ああ,そうか,というように。それは,何かがひらめいた瞬間そっくりである。

それこそが,面白い,の真骨頂である。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
竹内整一『「おのずから」と「みずから」』(春秋社)

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もてなし


おもてなし

とさんざん吹聴されたが,そう口にしている連中に,(国民への)もてなしごころは持ち合わせはないらしい。まあ,そういうのを外面がいい,という。

「もてなし」は,語源的には,

「持て+成す」

で,取り持って行動すること,こころを込めて客を大事にして御馳走すること,という。しかし,

取り持って行動する

ことが,どうして,

御馳走

という意味になるのかが,見えない。『古語辞典』によると,「もてなし」は,

モテは接頭語,相手の状態をそのまま大切に保ちながら,それに対して意図的に働きかけて処置する,

という意,とあり,その意味として,

物に手を加えず,あるままに生かして使う。相手をいためないように大事に扱う
相手に対していろいろ面倒をみる
物事に対処する,ものごとを処置する
接待する,馳走する
扱う,見せかける

という意味で,その他に,

とりなす,
世話する,引き立てる
もてはやす
そぶりをする,

といった意味もある。どうやら,

相手を大事にする,

という意図があり(その場合の相手は「人」とは限らない),それに対して,こちら側の姿勢次第で,

面倒を見たり,
引き立てたり,
御馳走したり,

となる。その意味では,御馳走は,もてなしの一部に過ぎない。類語は,

御馳走
ふるまい
饗応(供応)

といった感じになる。「馳走」は,

「チ(馳せる)+走(はしる)」

で,駆け回って心を尽くす,

という意味で,駆け回って,奔走するという意味合いが強く,ここでも,直接的な酒食による供応は,その対応の一つに過ぎない。

ふるまいは,語源的には,

「振るひ+舞う」

で,鳥が羽を動かして飛び回る,意で,どちらかというと,人目に立つ行動,という意味が強く,

人目につくような勝手な行動をする,思いのままの挙動をする,
ある心づもりをもって身を処する,
用意し身構えて行動する,

という意味が最初に来て,最後に,

人をもてなす,御馳走する,

が加わる。「大盤振る舞い」という言い方がある。元来は,「椀飯振舞」と当てて,

江戸時代,一家の主人が正月などに親類縁者を招いて御馳走をふるまったこと,

を意味し,目立つというか,忙しく供応する,という振る舞いに焦点が当たっていなくもない。

「饗応」も,

響きが声に応ずるように,人の意を体してすぐさま行動を起こすこと,

という意味である。『古語辞典』でも,

相手をもてなすこと
相手の気に入るように調子を合わせること

とあり,酒宴の意味は,派生的のようである。ただ,「饗」の字には,

「郷+食」

だが,「郷」の字の原字は,「卿」で,「ごちそう(皀)の両側に人がひざまずいて向かい合ったさま」を示す会意文字。「郷」は,「邑+卿の略体」で,向かい合ったむらざと,「饗」は,「食+郷」で,向かい合って食事をすること,という意味がある。「供」の字も当てるが,「共」は,「□印(あるもの)+両手」の会意文字で,供の原字。□印で示されたあるものを左右の両手で,うやうやしくささげるさまを示す,捧げる動作は,両手を同時に動かすため,共は,共にの意味に転じた,という。

こう見ると,「もてなし」とその類語も,酒食でもてなしたり,御馳走を供する,というよりは,

相手への姿勢,

を指している。その場合,「おもてなし」とは,

客に対して心のこもった待遇や歓待やサービスをすること,

ではなく,それはただの一面に過ぎず,あるのは,

相手を大事にする,

という心映えだったのではないか,と思う。その心映えは,

ハレ

だけで示されるものではない。日々,民をいたぶり,玩ぶ心に,そういう心映えはなく,原義通りの,ただの,

振る舞い,

つまり,

外面だけの目立つ行為,

にしか見えない。「心映え」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E5%BF%83%E3%81%B0%E3%81%88)については書いた。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

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うつつ


「うつつ」は,



と当てる。意味は,

(死んだ状態に対して)現実に生きている状態。現存。
(夢や虚構に対して)目覚めている状態,この世に現に存在しているもの。現実。
気が確かな状態。意識の正常な状態。正気。「―に返る」
(「夢うつつ」「夢かうつつか」と言うところから誤って)夢とも現実ともはっきりしない状態。夢見心地。夢心地。

といった意味になる。「うつつ」の語源は,諸説あるらしいが,手元の辞書には,

ウツシ(顕)の語幹のウツを重ねた

「ウツ(現実)+ウツ(現実)」

の約で,目覚める意,とある。しかし,「うつうつ」を辞書(『広辞苑』)で引くと,

半ば覚め,半ば眠っているさま,うとうと,うつらうつら,

とある。どうも,

夢うつつ,

が,本来,

夢と現実,

の意味なのに,

夢か現実か区別しがたいこと,

と誤用(?)とされているのは,『古今集』に「夢かうつつか」「うつつとも夢とも」等々と使われるうちに,夢と現の区別のつかない状態,

夢見心地

を指すようになった,とされる。ただ,ある辞書(『日本語 語感の辞典』)には,

「夢心地」や「夢見心地」が夢のような現実の意識を指すのに対して,この語は,実際に夢である可能性を否定しない,

とある。まあ,夢と現の曖昧な状態,という意味では,

うつつを抜かす,

の,「夢中になる」「心を奪われる」という意味で使われているのにつながるのかもしれない。「現」という意味の「うつつ」なら,現実にいる,という意味になるはずなのに,

夢うつつをぬかす,

の「夢」が抜けた状態で使われている。

ところで,「うつつ」には,「うつつ」の「うつ」が,

移る,

と同根,とする説があって,「現実感覚の移る」を「写る」「映る」と絡める説まである。間接的な情報なので,ここからは,妄説の類になるが,「移」は,

「禾(いね)+多」

で,もともと,稲の穂が風に吹かれて横へ横へなびくこと,横へずれる,という意をもつらしい。まあ,考えれば,現実は,流れる川に喩えられる。

うつせみ,

の「うつ」でもある。本来,

現身(うつしみ)

とする説もある。この世に生きている人間,の意味である。それが,音韻変化したこともあるが,元来生きている人,この世,という意味しか持っていなかったものが,平安時代以降(『万葉集』の「うつせみ」を「空蝉」つまり),

蝉の抜け殻

の意味と解するようになったので,はかなさ,無上のニュアンスをもつようになった,とされる。というよりは,この時代の終末思想,末世思想が,「うつせみ」に「空蝉」とあてさせたのだろう。その辺りが,「夢うつつ」を,夢見心地に変じさせた時代背景に見える。

なんとなく,うつつが夢とセットに浮かび,「うつつ」そのものが不確かで,移り行くものにみえている時代を映している。いま,では,現は,確かなのか。

「放射能と共に生きる」

「(放射能に汚染されていても)食べて応援」

「(何でもかんでも,デモも政権批判も,人質救出失敗の検証することも)テロ」

等々とテレビでいい,新聞で喧伝する,そのリアリティさのなさはどうか。一体どちらが,夢うつつなのか,と言いたくなる。日本社会は,いつまで,花見を続けているつもりなのか。足元の危機に迂闊すぎる。

「ありてなければ」

という言葉がある。

あるものはかならずなくなる,
いまあるものはほんとうにあるのか,ゆめかまぼろしか,

という意味だが,その状態に,いまわれわれはいるのか。その自己完結した世界観は,現代の,「うつつ」の中では,存在し得ない。にもかかわらず,夢うつつでいるのは,愚か,でしかない。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
竹内整一『「おのずから」と「みずから」』(春秋社)

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ぼんやり


ぼんやり

というのは,

物の形や色などがはっきりせず、ぼやけて見えるさま。
事柄の内容などがはっきりしないさま。意識,記憶がかすんでいるさま。
元気がなく、気持ちが集中しないさま。
気がきかず、間が抜けているさま。

といった意味がある。少なくとも,驚きのあまり言葉を失った様子の,

呆然,茫然自失,唖然,肝をつぶす,言葉がでない,言葉を失った,放心状態,ポカン,

や, 脳に血液が十分通わないことが原因で、自然に起きた意識喪失としての,

失心,卒倒,失神,人事不省,気絶,

といった類のこととは別のことだ。日常生活は普通にしているが,

ぼさっと,
ついつい,
ついうっかり,
うかうかと,
ふと,
ぼーっとして,
思わず,
漫然,
取り留めない,
何となく,

といった,注意不足というか,気を抜く,というのに近い。結果として,注意力散漫,気の弛み,緊張感の欠如,精神の弛緩で,うかうかと何かを引き起こす。そのときになって,はっとする,というか,

不覚

を悟る,ということになる。古語辞典には,

うかと,

というのが載っていて,ほぼうっかりと同義で,気づかずにいる状態,の意味としている。

語源的には,「ぼんやり」は,

「ボヤ+リ」

で,ボヤっとしたの語幹。ボヤに,リが加わり,音韻変化で,撥音化し,

ボ+n+ヤ+リ

となったもの,とされる。転じて,間抜けで気がきかない,という意味になった,とある。いわば,

ぼやっとした,意識が焦点の合わない状態,

にあるということに近い(それを対象側で言えば,ぼやけていることになる)。意識して,何かをしていない,ということだ。そうなれば,周囲への目配り,気配りがおろそかになる。よく,遠くから見知った顔に気づくが,相手は,すれ違っても,こちらに気づかない,ということがある(当然逆もある)。それは,

意識が内向き,

になっていて,心の中の何かにとらわれている,ということでもある。多く,ぼんやり,とはそういう状態ではないか。それは,不用心に身をさらしている,ということになる。心ここに在らず,というほどのことではないが,だから,

うっかり,
うかうか,

なのだ。なんとなく,

迂闊

に似ている。迂闊は,中国語の,

迂(曲がりくねって遠い)+闊(打・搗)

で,事情が遠い,意。日本語では,注意力が足りずうっかりする,意。しかし,辞書には,語源の,

回り遠くて,実情に当てはまらない,迂遠の意味,

のほかに,

大まかで気のおおきいこと,

意味もあるようだ。細かなことを気にしない(気にならない),ということだ。「迂」の字は,

回りくどくて実際的でない,
ものごとに疎く実際的でない,

という意味がある。

「辶+于」の「辶」は「辵(ちゃく)」で,

はしる,たたずむ

という意味。「于」は,指事文字(形をもたない抽象的な、ようす・動作・状態などを、象徴的に表そうとした字)で,

息が喉につかえて,わあ,ああと漏れ出すさま,

を示す。直進せず,曲がる意を含む。

「闊は,「門+活」「活」は,水が勢いよく流れること。ゆとりがあって,つかえない,意。「寛(ゆとりがある)」の語尾が縮まった形,という。だから,

ひろびろしている,
はるかとおい,
ゆるい,

という意味になる。両者合わせて,

遠くて,実際的でない,

というか,(意識の)ピントが合わない(からぼんやり見える),という意味に取れる。

ぼんやりしている,迂闊に過ごす,というのは,身の回りを見過ごす,ということに近い。それは,

見れども見えず,聞けども聞こえず,

つまり,

心焉(ここ)に在らざれぱ,視れども見えず,聴けども聞こえず,食らえども其の味を知らず,此れを,身を脩むるはその心を正すに在り,と謂う。

である。それは意識状態というよりも,是非の判断状態といってもいい。簡単に付和雷同するときは,ほぼぼんやり,と言っていい。

ぼんやり

は,自滅の始まりである。おのれに迫る危機に疎い,ということでもある。それを

うつけ

という。「うつけ」というのは,

中がうつろになっている,
ぼんやりしていること,またはそういう人,

という意味である。「うつける」から来ている。

中がうつろになっている,

とは,ぼんやりそのままを言い当てている。

参考文献;
金谷治訳注『大学・中庸』(岩波文庫)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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お蔭様


「お陰様」という言葉の意味は,感謝だが,「 感謝」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E6%84%9F%E8%AC%9D)については触れた。

お蔭(陰)様は,辞書的には,

(多く「おかげさまで」の形で)他人から受けた助力や親切に対して感謝の意をこめていう語。
上記をさらに敬っていう語。「すべて神様のお蔭と感謝する」 

ということで,日本語の語感では,

よいことがあったとき,そういう結果をもたらしたものに感謝の気持ちを述べる言葉,

となる。「様」を取った,お蔭(陰)は,しかし,微妙に違う。

神仏からのお助け,加護,人から受けた恩恵,力添え
(善悪にかかわらず)ある人や物事がもたらす結果,影響,

となり,そのときに手を貸してもらった助力や加護への,

恩や恩義,

そのものを指している。語源的には,「お蔭」は,

「御+かげ(陰,蔭)」

で,他人から受ける恵み,擁護のことをいう。本来は,神さまの加護である。ある意味,

恩や支援をメタファーでオブラートに包む,

特有の言い方になる。でも,

お蔭様で,

とは言うが,神さま以外に,

ご加護をもちまして,
とか,
ご恩をもちまして,

と言う(ことは少ないが,言うとする)と,少し重すぎるし,直截すぎる。

ご厚情をもちまして,
とか
ご厚恩によりまして,

という言い方と比べると,「蔭」のイメージが大きい。庇護,加護のイメージを与える。が,

お蔭様で,

と言うのと,

ありがとう,

と言うのとも(最近ありがとうございますの意味が軽くなっているとは言え),少し違う気がする。

ありがとう,は,

有り難い,

から来ている。有り勝ち,ではなく,めったにない,ありそうもない,からこそ,ありがたい。しかし,

お蔭様

と言うとき,その助力,庇護,加護,が影(あるいは「庇護」の庇)のように,助けてくれたというニュアンスがあると同時に,しかし,「恩」の中身は,ぼかしている。その意味では,「ありがとう」よりは,相手の力を借りた,と言う言外のニュアンスが強い。

だからと言って,本当に助力した人に対する言い方としては,曖昧で,こちらのプライドを残した言い方になる。そのニュアンスが気になる。

類語としては,

恩や恩義

を意識しているのだが,

お力添えいただきありがとうございました,

という具体的な言い方には,遥かに及ばない,こちら側の曖昧化している言い回しが,本当に力をその人から借りたのだとしたら,透けて見えるに違いない。

お蔭参りという言い方が,お蔭のもつ意味を端的に示している。お蔭参りは,「御蔭をもちまして」と,伊勢神宮へ参詣することだが,多く江戸時代,それは身分社会の軛を脱する口実に使われたようだ。それについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163467.html

で触れた。ま,お蔭様,と言うのは,その程度の,曖昧で,儀礼的な挨拶のニュアンスがある,ということなのかもしれない。

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場打て


場打て,

という言葉が,岡本綺堂の小説を読んでいたら出てきた。昨今はあまり耳慣れないが,

その場の空気や様子に圧倒されて気後れのすること。

という意味らしく,

「少しも場打てのした容子もなく、すらりと立って」(里見ク『多情仏心』)
「こんな古風な爺さんとは殆んど出会つた事がないのだから,最初から多少場打ての気味で辟易して居た所へ」(夏目漱石『吾輩は猫である』)
「弁舌さわやか場打てせず」

といった用例が出ている。ただし,用例は,明治,大正期の作家までのようだ。ニュアンスとして,「あがる」の意味より少し強い感じがある。

(人前で)その場の晴れがましい雰囲気に気おくれがすること。

という説明もあるところから見ると,どうやら,その場が,

特別の場

であるらしい。綺堂の小説では,司法試験の試験会場であった。しかし,その語源が,調べた限りではわからない。古語辞典では,

その場のありさまに心打たれておじけるること
場おじ
気後れすること

とあり,「大いに心を苦しめ場打てして思ひけるは」という用例が出ている。現代の辞典では,手元の『広辞苑』には出ているが,他の辞典には出ていないのもある。

「場おじ」

という言いようなら,その場に,その雰囲気に,怖気づいたという意味では,よく分かる。「場打て」の,「打て」が鍵かも知れない。で,「打」は,と調べると,

「丁」は,もと釘の頭を示す,□印であった。直角にうちつける意を含む。

「手+丁」

で,とんとんうつ動作を表す。そこから,

うつ。直角にうち当てるまともにたたく
自分の所有とする
動詞のうえについて,〜する意。「打掃」「打畳」
〜から
ダース

という意味で,関係ないかもしれないが,「打掃」「打畳」の使い方が,

打ち払う,
打ちのめす
打ち続く

と動作を強める使い方の「打ち」につながっているのではないか,と勝手に想像した。その意味の,「打ち」は,

その意を強める,

のほかに,

瞬間的な動作であることを示す,

として,「打ち見る」のような用例があった。

閑話休題。

漢字の「打つ」ではなく,日本語の「うつ」の語源を調べると,

「手の力で強く打撃する」

からきているらしい。ウツは,アツ,ブツ,などのウ,アの語幹と関連し,

畠を打つ,太鼓を打つ,刃物を打つ,振り仮名を打つ,首を打つ,心を打つ,水を打つ,碁を打つ,舌鼓を打つ,蕎麦を打つ,非の打ちどころがない,網を打つ,芝居を打つ,手を打つ,布を打つ,博奕を打つ,

等々とものすごく幅広い使われ方がある。ためしに辞書で「打つ」を引くと,用例の多さに圧倒される。「手を使う」ものがほとんど入っているという感じである。これは,「打」を当ててはいるが,漢字の「打」の意味を超えている気がする。むしろ,喩え的に,幅広く応用した感じである(広く「あることを行う」にまで転じている)。蛇足ながら,「水を撒く」よりは,「水を打つ」の言葉のもつニュアンスを大事にした気がしてならない。そういう意味で用例が広がったのではないか。

ただ「打つ」に,

強い感動を与える

という意味で,「胸を打つ」「心を打つ」という使い方があり,この場合「打たれる」(「討」「撃」「射」は当てない)という受身の言い方で,

打撃を受ける,
押しつぶされる,
負ける
誓約を破って罰を受ける
気を呑まれる
気圧される,

等々の意味があり,「場打て」の意味としては,

場に気おされて,おじける,押し潰される,

ということにつながってくる。その意味では,類語として,

力む,強がる,気合い負け,気が引ける,気圧される,ステージ・フライト,場臆れする,上がる,

等々とあるが,

場臆れする
ステージフライト
舞台負け

というか,

その場に呑まれる,

と言うのが一番ぴたりとくる感じである。

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かたじけない


「 謝る」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E8%AC%9D%E3%82%8B)については触れた。改めて,違う角度で考えようとしたとき,「かたじけない」という言葉が気になった。

かたじけない,

は,

忝い
とも
辱い

とも当てる。いささか古い言い回しで,昨今こんな大時代な言い方をする人はいないだろう。語源は,

「カタジケ(緊張・おそれ)+なし(甚だし)」

で,ありがたい,おそれおおい,という意味になる。

漢字の語源では,

「辱」は,