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コトバ辞典


書く


言葉を覚えるということは,ある種俯瞰する視点を手に入れたことを意味する。それは,ユンギアンが言うように,そのときから,空を飛ぶ夢を見るというのは,その象徴といってもいい。

例えば,目の前の石くれを,石という言葉で置き換えることで,多くの石のひとつに,それはなった。

しかし,そのことで,石と目の前の石とは,ギャップが生まれる。置き換えて失ったのは,自分にとってのかけがえのないニュアンスといってもいい。

表現にそんなものはいらないという考え方もあるだろうが,そぎ落としてはいけないものをそぎしか落としてしまっているかもしれないのだ。

言葉のスピードの20〜30倍で,意識は流れている,といわれる。それは,言語化できるのは,意識の1/20〜30ということだ。そのとき自分が考えていたこと,思っていたことの1/20〜30しか拾い上げられない。その余は,落ちていく。

書くということを考えると,

ひとつは,自分の思いを言葉にしようとする,

いまひとつは,言葉が次の言葉をつなげていく,

の二面がある。もちろん,何か書きたい思いがあって書きはじめる。しかし,言語化した瞬間,言語の意味の範囲から,思考が流れ始める。その時,すでに,ずれがはじまっている。

虚実皮膜

というのは,何も虚構を作っている時だけとは限らない。

日記を書いたことのある人ならお分かりのはずだが,自分の出来事を書いているはずなのに,その出来事自体は変わらないのに,そのニュアンスが書き方によって,変わっていくことがある。それは,言葉の作用に他ならない。

もちろん嘘ではない。嘘ではないが,そのときのコトを正確に写しているのとは少しずれる。

ひとつは,言葉の持つ俯瞰性から,視点が変わる,

ということはもちろんある。しかし,言葉に感情が籠ると,それほどの感情でなかったはずなのに,感情が煽られてしまうことがある。

つまり,いまひとつは,言葉が,勝手に言葉を紡ぎ出す。

つまりは,どっちにしろ,言葉が,見える世界を変える,ということになる。このことを,虚実皮膜というのではないか。

虚実皮膜については,近松門左衛門は,

http://www.kotono8.com/2004/06/27chikamatsu.html

によると,こう言っている。

芸というものは,実と虚との皮膜(ひにく)の間にあるものだ。

なるほど,今の世では事実をよく写しているのを好むため,家老は実際の家老の身振りや口調を写すけれども,だからといって実際の大名の家老などが立役者のように顔に紅おしろいを塗ることがあるだろうか。また,実際の家老は顔を飾らないからといって,立役者がむしゃむしゃとひげの生えたまま,頭ははげたまま舞台へ出て芸をすれば,楽しいものになるだろうか。

皮膜の間というのはここにある。虚にして虚にあらず,実にして実にあらず。この間になぐさみがあるものなのだ。

と。これは,真実らしく見せるために,黒澤明が,『七人の侍』のラストシーンで,墨汁の雨を降らしたことと似ているが,どうも不遜ながら,そこに,虚実の皮膜があるのではなく,

コトを写そうとすると,

言葉であれば,すでに,丸めるほかなく,映像であれば,自然光ではなく反射板や照明を使わなくてはきちんと撮れないように,表現自体が,現実ではなくなる,ということの方が大きい。

それは,自分の想いを語っていても,その思いは,言語のレベルで,言語に連なって,語られていく。語られていくにつれて,思いの原形質の質感ともニュアンスとも,ずれていく。

そのずれの感覚がないと,描いたものだけで,すべてを判断する。

書くというのは,いわば,すべての情報がそうであるように,フレームワークの中に入れることだと言ってもいい。

そのことは,「言葉の構造と情報の構造」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/prod0924.htm#%E8%A8%80%E8%91%89%E3%81%AE%E6%A7%8B%E9%80%A0%E3%81%A8%E6%83%85%E5%A0%B1%E3%81%AE%E6%A7%8B%E9%80%A0)で触れたが,書くということの持つ,宿命といっていい。しかし,そのことに自覚的な人は少ないかもしれない。

書くということは,書いた瞬間から,現実から乖離する。しかし,書いたものからしか,視界は拓けないのも事実なのだ。

私の言語の限界が私の世界の限界を意味する,

とヴィトゲンシュタインが言ったように,書かなければ始まらないのだから。

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異和


「異和」と書いたが,普通は,「違和」と書く。ただ,なぜか,この言葉が気になる。

僕の記憶に間違いがなければ,吉本隆明は,『初期ノート』から,「異和」を使っていて,編者の川上春雄が,それに「まま」とルビを振っていた記憶がある。

吉本は,若い頃から,癖なのか,意識してなのか,「違和」ではなく,「異和」を使い,最後まで使いとおした。その意図は,もう確かめようはないが,

異和



違和

では,ニュアンスが違うのではないか。

「違」は,違う,悖る,背く,去る,遠ざかる,といった意味で,

違法,違憲,違反,違背,等々,

といったように,基準や定め,掟に背くというニュアンスが強い。

「異」は,異なる,違う,他と異なる,といった意味で,

異常,異心,異形,異郷,異見,異才,異能,異性,異名,異物,異腹,異邦,異変等々,

異質さというか,他から際立つというニュアンスがある。

「違う」は,平面的なのに,

「異う」は,立体的な感じがする。

あえて推測すれば,「違和」は,波立ちなのに,「異和」は,屹立,巍巍とした山並みの感じである。突出しているといってもいい。だから,「異和」の方が,違和の感覚が際立つ。

まあこれだけの話なのだが,自分の感覚を言語に置き換えるとき,ありきたりの言葉では,うまく言い尽くせない感じがすることがある。なにせ,思いの方が,言語の20〜30倍のスピードで走り去っていくのだ。そのときその感覚を捉えそこなうと,すぐ思いと言葉がずれていく。

類語辞典を引いても,それは平面的な連想だから,ただ言い換えているだけで,言いたいことを,的確に表現する言葉を探すときには,あまり役に立たない。

それなら,いっそのこと,アナロジーかメタファーか,の方がなんとなくニュアンスが伝わる。

情報(http://ppnetwork.c.ooco.jp/prod0924.htm#%E8%A8%80%E8%91%89%E3%81%AE%E6%A7%8B%E9%80%A0%E3%81%A8%E6%83%85%E5%A0%B1%E3%81%AE%E6%A7%8B%E9%80%A0)には,

コード変換できる言語化可能なコード情報



コード変換できない雰囲気とか文脈といったモード情報

とがあるというが,まさにその通りで,デジタルとアナログと置き換えてもいい。アナログとは,まさにアナロジーといってもいいので,メタファーやアナロジーが伝えやすいのは当然だろう。

それは思いを絵にしたり,ビジュアルにしたりするのに近いかもしれない。

ところがビジュアルにすると,そこで,また少しずれる。

ヴィトゲンシュタインではないが,

およそ言いうることは言い得語りえないことについては沈黙しなければならない,

のか。それには,少し異和がある。

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諦める


諦めるは,

思いきる,
仕方がないと断念したり,悪い状態を受け入れたりする,
それまで続いていたものを終わりにすること,

といった意味が辞書にある。しかし,この「諦める」は,「明らむ」の,「明るくなる」という意味以外の,

物事を見きわめる,
物事が明らかになる,
確かめられる,

という意味からきているという。

ということは,諦めると決めたとき,どっちにしろ,(それが正確かどうかは別にして)自分なりに見積もっている,ということになる。

多く,諦めるとき,

自分を小さく見積もり,相手(対象)を大きく見積もる,

諦めないときは, 

自分の力量を大きく見積もり,相手(対象)を小さく見積もる,

と言えそうだが,実は,相手がどうあろうと,自分がどうあろうと,自分の続けたい意志,思いを捨て兼ねたというのが近い。

いい例かどうかわからないが,二年ほど前,初マラソンで,青梅マラソンにチャレンジしたことがある。始めてたぶん三ヵ月か四ヵ月で,正直無謀とは思ったが,とにかく走り出した。ただ,後ろからなので,スタート地点に立つまでに,15分か20分を要した。で,まあうしろのほうから,のろのろ走ったのだが,15キロ手前で,あと10分と言われたのだが,折り返しが目前のところで,右手に15キロの関門が見え,折り返しから,そこまで,2,300mくらい,その時点で鐘が鳴っていて,無理と諦めてしまった。足が痛いのが,その後押しをした。

しかし,だ。途中でリタイアしたことより,15キロまで走って,そこで時間切れと言われたのならまだしも,その手前で,断念したことを,今もずっと悔いている。

つまり,そこで諦めたのだが,その見積もりは,残りの距離に比して,脚を引きずるようにしていた,自分の残り体力を対比して断念したことが,早まった諦めだと,ずっと尾を引いている。

潔さというのは,ある意味,自分を捨てることなのではないか,という気がしてならない。

あるところで,池田屋で新選組に襲撃され,割腹した宮部鼎蔵を,

池田屋で逃れられるものを逃れず,あっさり諦めるような潔さを,士道と呼ばぬ,

といった人がいる。僕も同感である。そこで逃げずに割腹するのは潔いかもしれぬ,しかし,それは,おのれを安く見積もりすぎではないか。おのれの志と,思いは,それほど安っぽいものなのか,と思う。

多く士道を,

暴虎馮河し死して悔いなき者,

と勘違いしている向きがある。僕は士道とは,腕(ぷし)ではなく,心だと思う。思いだと思う。志だと思う。

そこであっさり投げ出す程度の志なのか,

ということだ。あるいは,西郷の言ったとされる,

命もいらず,名もいらず,官位も金もいらぬ人は,始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは,艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり,

も,『論語』の孔子の言葉とは微妙にずれる。子曰く,

暴虎馮河し,死して悔いなき者は,吾与にせざるなり。必ずや事に臨みて懼れ,謀を好みて成さん者なり,

と。必ずや事に臨みて懼れ,

その実現のために,おのれの命を安売りしないもののことだ。臥薪嘗胆といってもいい。

僕のマラソンはさほどの志ではないが,

諦めてはいけないことを諦めた,
諦めるべきでないところで諦めた,

という悔いがある。志があるなら,地を這っても,赤恥をかいても,生きのびねばならない。

死生,命あり,

である。おのれの天命を自ら断つのは,非命である。

おのれの命を安く見積もってはいけない,それはおのれの想いを貶め,おのれ自身を卑しめることだ,まして,それを士道とは呼んではならない。

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思い込み

思い込みと,思い入れとは微妙に違う。

思い入れは,よほどのことがないと,自分に思い入れすることはない。相手か,言葉が,考えか,ともかくそれに思いを致す。芝居で言う,「思い入れたっぷり」というのは,役柄に入れ込むのであって,自分ではない。

しかし思い込みは,思いの力点が,自分側にある。自分の信念,自分の観察,自分の思いを,信じて疑わない。

思い入れは,仮託,託すといっていい。思い込みは,固執,あるいはこだわりといっていい。

だから,思い入れは,代理なのかもしれない。自分でできない思いを,誰かに託す,誰かに事寄せて,その実現を期待する。その分,自分への執着はすくないかもしれない。

思い込みは,逆だ。誰かに託すなどということは真逆だ。あくまで我執,あるいは自分の思いへの執着だ。その分,自分を過大に信じている,と言えるのかもしれない。

恋に思い入れはない。あるのは思い込みだ。

是非善悪は,ここで入れていない。

思い込みのない仕事はない。そのとき,その仕事に思いが託されている。その仕事に強い思い入れがなければ,自分の動機づけにはならない。しかし,そこに,思い込みがなければ,執念がなければ,単なる憧れに終わる。

一念岩をも通す,

の一念とは,思い込みでしかない。

よく言えば,思い入れは,信頼やファンとかになるし,思い込みは,確信や信念になる。

悪く言えば,思い入れは,執心となり,思い込みは,執念になる。

たとえば,

思いが入らない,

思いが込もらない,

と,否定形にしてみると,もう少し違いがはっきり見える。

思いが入らない,あるいは,思いが入れられない,は信じられないことを指す。仮託する相手(もの)への拠りどころが自分の中にない,ということを意味する。あるいは,自分の中に,そのことへの思いが薄い,力が入らない,というふうにも言える。

思いが込もらない,あるいは,思いが込められない,は相手や何かに,というふうに言えなくもないが,自分の,とつけると,自分の中に,そのことへの強い思いがない,というふうに見える。

あるいは,時間軸で見ると,未来にあるのが,思い入れで,過去からいまにあるのが,思い込みという言い方もできる。

いずれにしたって,自分の中の思いだ。外へ託すか,自分に託すか,その境界線はそんなにはっきりしているわけではない。

僕は人への思い入れはない。むしろ,思い込みがある。人に対しても,自分の思いのこもり方が強すぎる。それは,仮託ではない。

だから,自分の思うに任せないと,

投げ出すか,

腹を立てる,

厄介な思い込みよりは,思い入れの方がいい。はじめから,託しているのだから,叶わぬのは,別におのれのせいではない。

しかしそれでは人生はおのれの人生ではない。

自分(の思い)に執着し,自分(の思い)に執心する。それでいい。なにも,遠慮はいらない。ひとさまが,代わりに,僕に人生を担ってくれるわけではないのだから。

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仮説


仮説と言えば聞こえはいいが,予想,予測,期待,先入観,言ってしまえば,まあ,妄想に近い。どんな立派な仮説でも,検証されるまでは妄想。他は推して知るべし…。

アインシュタインの仮説も,一時光より早いものがあると大騒ぎになった。まあ,観察誤差ということで落ち着いたと記憶しているが,ことほど左様に,アインシュタインの相対性理論すら,まだ仮説だと聞くと,まあ確かなものは,それほどこの世にはないと,安心する。

脳科学者に,「仮説脳」だか「予測脳」だか「予想脳」ということを言っておられた方がいらっしゃったが,あけすけに言えば,「先入観」とも言える。われわれは日常的に仮説あるいは予測しては検証する,を繰り返している。

多く,

こうかもしれない,

こうなったらいい,

こうなってほしい,

という願望だか期待をもって生きる。それは,仮説ではない。といって,

こうすれば,こうなる,

こうなっているのだから,こういうことだ,

というのは,筋というか,蓋然的な流れというか,あくまで事実(の動き)の予測に過ぎない。

仮説は,固く言えば,

仮の説明概念,

ぶっちゃけ,

仮にそう言っておこう,そう考えておこう,そう見ておこう,

ということだ。そういう眼鏡で見ると,そう見える,というだけのことだ。

これを,

事実

としてしまうと,本当の妄想,もう病気になる。

しかし,ストーカーもそうだが,ある意味,期待と仮説は,混同されやすい。そうした方が安らかになれるからだ。

期待というのは,「そうなってほしい」という自分のイメージを現実にかぶせる(と凹凸は見えにくくなる)。

仮説というのは,「そう考える」といまとは別の未来がストップモーションのように映し出される(気がする)。

微妙だが,事実が裏切るかどうかで,どちらも,検証されるというか,結果を突きつけられる。

期待は,自分のトンネルビジョンだから,かぶせ直しは効かない。しかし仮説は,「そう」を別に置き換えればいい。

思うに,どうせ仮説をたてるなら,妄想なのだから,とがっているほうがいい。尖っている方が,現実との葛藤が大きく,読み直し自体が面白くなる。尖っていないと,現実の重みに圧倒されて,すり減り,丸まって,当たり前の読解になっていく。

いまどき少子化などというのは仮説でも何でもない。

しかし何十年後日本人が絶滅する,と言えば,とまあ少しは尖っている。どうせ現実の鑢ですり減らされる尖りなら,もっと尖った方がいい。たとえば,少子化が徹底すれば,

労働力を大々的に受け入れるほかない。そうなれば,いまの看護師受け入れのように,日本語条件なんぞ言っていられない。なんせ,介護を必要とする老人があふれかえるのだから。となると,英語,中国語,朝鮮語,ベトナム語等々が飛び交うだろう。

それって,徹底すると,どうなるのだろう。

ときに,妄想は,悲観的に見えるかもしれない。しかし,悲観の裏には楽観が張り付いている。

それば,ひょっとすると昔大陸から大挙渡来人が来たのに匹敵する巨大な変革のエネルギーになるかもしれない。

まあ,自分はこの世にはいないが…。

参考文献;
仮説づくり;http://ppnetwork.c.ooco.jp/prod0926.htm#%E4%BB%AE%E8%AA%AC%E3%82%92%E3%81%A4%E3%81%8F%E3%82%8B

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選択


あの野村克也氏が,

女を取るか野球を取るか

と迫られて,女を取ったと,ご自分の逸話を語っていたのを覚えている。それが,あのサッチーなのだが,その是非はともかく,そういう決断をするというのが,僕にはわかる。両方という選択肢はない。それほどの岐路が,確かに人生になくはない。

恋は思案の外

という言い方をするが,いろいろ経緯はあったろうが。結果としてシンプソン夫人を取って国王の位を捨てたエドワード八世の例もある。

棄てても悔いのない決断というのがあるのかどうかは知らない。

もともと決断とは,何かを捨てることだ。そう決定した瞬間,捨ててよかったと自分で思うほかないが,しかし,それは決断のその一瞬で決まるのではなく,その後の生き方で決まるのではないか。

しかし一瞬,ロジックも理性も消えるときがある。それが右脳か左脳かというのは意味がなく,ジル・ボルト・テイラーも言っているように(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-6.htm#%E5%8F%B3%E8%84%B3%E5%B7%A6%E8%84%B3),

わたしはたしかに,右脳マインドが生命を包みこむ際の態度,柔軟さ,熱意が大好きですが,左脳マインドも実は驚きに満ちていることを知っています。なにしろわたしは,10年に近い歳月をかけて,左脳の性格を回復させようと努力したのですから。左脳の仕事は,右脳がもっている全エネルギーを受け取り,右脳がもっている現在の全情報を受け取り,右脳が感じているすばらしい可能性のすべてを受け取る責任を担い,それを実行可能な形にすること…。

なので,それをコントロールすることはできる。それをするかしないかも,脳が選択している。

ジル・ボルト・テイラーは,コントロールのコツをこう言っている。

わたしは,反応能力を,「感覚系を通って入ってくるあらゆる刺激に対してどう反応するかを選ぶ能力」と定義します。自発的に引き起こされる(感情を司る)大脳辺縁系のプログラムが存在しますが,このプログラムの一つが誘発されて,化学物質が体内に満ちわたり,そして血液からその痕跡が消えるまで,すべてが90秒以内に終わります。

通常無意識で反応しているのを意識的に,90秒を目安に,自分で選択できる。例えば,90秒過ぎても怒りが続いていたとしたら,それはそれが機能するよう自分数が選択し続けているだけのことだ,というわけだ。

それは,好きとか嫌いという感情についても言えることで,それを選択している。あるいは,理性もまた,それをよしとコントロールしないことを選択している,ということになる。

というかその感情の奔流に流されるのを,よしとした,流されていいと思った,ということだ。

そういえば,映画『卒業』のベンジャミンとエレインは,どうなったのだろうか。それぞれは,どういう生き方をしたのか。その決断を,後から悔いることはなかったのか。いやずっとそれを悔いるような生き方をしたのか,それともそれを忘れてしまうような生き方をしたのか。

一瞬の感情で決断するということは,考えて考えた末決断することと,僕には,それほど差があるとは思えない。結果として,見えない未来は,最後は直感で決めるしかないからだ。

だから,たぶん決断の可否は,その一瞬ではなく,その結果どう生きたかなのではないか。あるいは,逆に,それを機に生き方を劇的に切り替えたかどうか,というべきかもしれない。

思えば,どんな決断も,一つの契機なので,その一瞬に見えた(はずの)シーンというかステージに乗り切れたかどうかなのかもしれない。

そのためにこそ決断したはずなのだから。

僕自身も,それに近い選択をした。しかし,悔いとか振り返るとかはほとんどない。なぜなら,その一瞬がなければスタートしない人生のステージに乗ったからこそ,いまの自分があるからだ。いまの自分は,よかれあしかれ,それがあるから,ある。

参考文献;
ジル・ボルト・テイラー『奇跡の脳』(新潮文庫)

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遺伝子


かつて,神田橋條治さんが,

ボクは,精神療法の目標は自己実現であり自己実現とは遺伝子の開花である,と考えています。「鵜は鵜のように,烏は烏のように」がボクの治療方針のセントラル・ドグマです。

と書いていた。遺伝子学の堀田さんは,

遺伝子で決めている範囲を逸脱することはできない。それは厳然たる真理だと思います。ただし,遺伝子が決めている範囲をすべて使っているかというと,実はほとんど使っていないとおもうんですよ。僕だって,もし優れた指導者に出会えれば,全然違う才能を発揮して,…いたかもしれません。そういう才能を発揮するような環境にいなければ,その才能が有ることも知らずに死んでいくわけです。(中略)自分が遺伝的にもらった才能というのは,自分が思っているよりはるかに広い。それを開拓するのが,学習するということです。

というふうに語っている。つまりは,遺伝子で決定論的に決まるのではなく,非決定論的な柔軟性がある,それは少し丸めた言い方をすると,どんな生き方をするかでその開花は変わる,といってもいい。

ところで,ハエのゲノム(一組の染色体)には,約一万五千の遺伝子があり,ヒトの遺伝子は三万程度で,その差が小さいように感じるが,一個の遺伝子を変えただけで大きなことが起きるのだから,数千個も変われば,全然違うものになる。しかし,

ひとつの幹に沿って生物が進化していって,最後に無脊椎と脊椎の二つの枝に分かれたんです。それもたかだか四億〜五億年前のことで,四〇億年近い生命の歴史を考えれば,別れてからの時間が全体の10パーセントなら,90パーセントは同じだということになります。

その意味では,ヒトとヒトの間の差は,平均0.1%,ゲノムとして0.1%の変動,チンパンジーとは1%の違い。10倍違う。わずか1%の差でも,

ヒトとヒトの間の距離の10倍くらいのところにチンパンジーがいるというようなイメージです。

こう空間的に示されると,不思議とイメージが鮮明になる。それもそのはずで,

脳の視角野といわれる部分は,実際に物体を見たときに働いている領域なんですが,イメージしただけでも同じように活動する…。

ことに起因している。

言語については,小さい時にある段階までに一番適応しやすい年齢があり,自然に言語を学んでいくが,

脳は,聞こえているものが言語なのか雑音なのかわかっています。赤ん坊がちゃんと言葉がわかるようになるということは,たくさんの聞こえている音の中から言葉を抽出して取り入れている…。

という。ここで不思議なのは,手話もそれと同じ自然言語なのだということだ。

アメリカの研究では,手話を第一言語として使っていたろうあ者が左脳のトラブルで手話失語になることを報告しています。

つまり,手話も赤ちゃんが自然に第一言語として覚え,手話を使っているときの脳を調べると,完全に左脳優位であるという。

ここから想像できることは,言語化する方法が何であれ,抽象化する作業は左脳が担う。必然的に,脳の機能としては同じだということだ。

では,そういう人間の脳とコンピュータを比較して,何がわかるのか。人がコンピュータをつくるので,コンピュータは人を超えられない,そういう常識は正しいのか。

たとえば,将棋のコンピュータでは,従来の,手をしらみつぶしに計算して,最も良い手を残すというやり方から,

最初に可能な手を絞り込んでしまうのです。つまり,手持ちのデータを使って,いくつかの手はありえないということで,落としてしまう。絞った手に関して深く読んで見込があるかどうかを判定して,その中で一番良いのを残すという方法を取っています。

という。「将棋のコンピュータは,捨て方を人間が教えてやった時点で,創造性に一歩近づいた」のだという。

この背後にあるのは,堀田さんの,

天才とは,ものを捨てる能力の高いひとじゃないか,…いろいろな可能性を考えるスピードが速くて,しかも,その可能性の中で,適切なものだけ残して,不適切なものを捨てる。

という考え方と照らしてみるとき,一歩人に近づいている。たとえば,

コンピュータが意志をもてるか,というのは本質的な問題です。「意志」とは,自分が自分に対して命令を出すことでしょう。…それら簡単にできます。つまり,コンピュータがある命令を別の命令で呼べばいいわけです。それは「サブルーチン」というプログラムの基本としてよく知られています。(中略)人間の脳もまさにそうなっているのでしょう。下位の命令は,脚を動かしなさい,…という「運動野」の命令なんですが,その上位の前頭葉のニューロンは,その命令に対してさらに命令を出す役割をしているのです。

本書でも言っているが,人間と同じものをつくっても仕方がない。何をするためのものなのか,というツールとして徹底するのか,人の代替をつくろうとするのか,そういう選択が現実的になってきた時代にいる,ということが実感である。

参考文献;
堀田凱樹・酒井邦嘉『遺伝子・脳・言語』(中公新書)
神田橋條治『技を育む』(中山書店)

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言葉と振る舞いの乖離


いってみると,「言っていること」と「やっていること」とに落差がある,ということだ。リスポンシビリティというのは,有言実行だと訳した人がいるが,単なる結果責任ではない。それを言うことをやる,しかも日常的に実践できるということの積み重ねでなくてはならない。

これは,

言語コミュニケーションと非言語コミュニケーションの乖離かもしれないし,
本音と建て前の隙間かもしれないし,
マニュアルの理想と現実かもしれないし,
ビジョンと現場の乖離かもしれないし,
方針と現状とのギャップかもしれないし,
命令期待と遂行実態の差かもしれないし,

さまざまのところで現れるが,そのギャップがあることが問題なのではなく,それをギャップと感じないこと,そのギャップに気づかないことが問題なのだ。

先日,ドトールのある店に入ったところで,後ろの席で,コーヒーカップだか,トレイだかを落としてしまったらしく,店内にけたたましい音が響き渡った。すぐ店員が駆けつけて,「お怪我はなかったですか?」と声を掛けた。そこまではどの店でもやると思われるかもしれない。しかし,僕はスタバで,自分が粗相をし,コーヒーを落としてしまった。幸い割れなかったが,テーブルと床が汚れてしまった。店員が駆けつけてきて,何か声を掛けてくれたが,それはドトールのそれではなかった。で,仏頂面をして,モップで床を拭いた。その間,僕はそばで,立ち尽くし,なんだか立たされた生徒のように,居場所をなくし,早々に店を出た。言葉と態度が全く乖離している見本のようなものだ。明らかに,ドトールの勝ちである。このことを,僕はあちこちで吹聴している。

どんなに丁寧に,マニュアル通りに声掛けしてもらっても,それでこちらの体がほぐれるのではない。相手の態度だということだ。

「たまたま」を「そもそも」としている,と言われるかもしれない。それは,視点が違う。一度不快な思いをさせられたら,たぶん二度とその店にはいかない。客の心とはそういうものだ。かつて松屋で不快な思いをし,そのことに抗議の手紙も出したが,以来,決して松屋には行かない。

客が粗相をしたら,普通それだけで委縮し,居場所がなくなる,という客の心理がわかっていない。その時,いつもの馬鹿丁寧で,サービス満点の対応らしいものが,どんな実態なのかの化けの皮がはがれる。

あるいは,宅急便で,キャリーバックを送った。旅先のホテルでそれを開こうとしたら,キャリーの脚がもげていることに気づいた。しかし,当日ではなく,荷造りし直す時なので,三日後であった。まあ,仕方ないと諦めて,その状態のまま家へ送り返した。それが届いた時,担当の配達の人が,そのことを指摘した。それは,往復便だったこともあり,宅急便の責任というニュアンスであった。こちらは,脚が見つかるとも思えないので,いいですと断ってしまったが,これが言行一致というものだ(後日サムソナイトは保証があると後で,買い直すときに聞かされたが,「遅いよ」捨ててしまった後だ)。

それを,センゲ氏は,信奉理論と使用理論という表現で説明する(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-6.htm#%E8%87%AA%E5%B7%B1%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%83%BC)。

口で言っていることと実際の行動との乖離をとらえることだ。たとえば,私が人は基本的に信頼できるという見解(信奉)理論を公言しているとしよう。ところが,絶対に友人にお金を貸さず,油断なく全財産を守っていたらどうだろうか。これはどう見ても,使用理論,つまり深層にあるメンタル・モデルと信奉理論が食い違っている。

そして,こう付言する。

だから,信奉理論と使用理論との乖離に直面したとき発すべき第一の問いは,「私は信奉理論を本当に大切にしているのか?」「それは本当に自分のビジョンの一部なのか?」である。信奉理論に対する揺るぎない決意がないのなら,その乖離は現実ビジョンの間の緊張を表しているのではなく,現実と(おそらく人の眼を気にして)推進する考え方との間の緊張なのだ。

もちろんここで問題にしているのは,当該の店員ではない。その人にそういう振る舞いをさせているスタバそのもののビジョンと現実との乖離であり,その現実化に問題があるということだ。それは,ビジョンの敗北である。どんな立派な看板も,一瞬で潰える。

僕の知り合いで,弁当屋の社長がいた。一旦食中毒を出して廃業に追い込まれた。いったん失敗したら,後は,会社を畳むところまで行くしかない,そういう厳しいぎりぎりの修羅場にいる,という緊張感がない。

サービスとは,それを受ける側にとって,一回限りの一期一会で,そこで得た印象がすべてなのだ。言い訳無用,モノのように修復できない。

まあ,センゲ流に言うと,たまたまの事例から一般化する「抽象化の飛躍」を犯しているかもしれないが。

参考文献;
ピーター・M・センゲ『学習する組織』(英治出版)

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修羅場


修羅場は,ふつう「しゅらば」と読むが,辞書によると,「しゅらじょう」とある。そして,「阿修羅王が帝釈天と闘う場所」とある。そこから転じて,血なまぐさい戦乱,激しい闘争の場所の意味になる。

しかしここで言う意味は,自分自身の限界との戦いの意味だ。

最近自分のキーワードになっていて,それを切り口にして,いろいろ考える傾向がある。

僕のイメージでは,自分の限界を超えないと対処できない事態にどれだけ,意識的に対応し,クリアしてきたかということだ。自分の知識と経験,スキルでは到底切り抜けられないような事態に,正面からぶつかって,それを潜り抜けたか,ということだ。そういうシチュエーションを経ていない人は,どこかに,

事態を甘く見るというか,
自分のキャパを甘く見るというか,
人の苦労がわからないというか,
自分の役割が見えないというか,
そこで自分のなすべき何かがみえないというか,
一緒にやるには何かが足りないというか,

人として信の置けない感じがある。

修羅場というシチュエーションで起きているのは,自分というものの限界線,境界線,あるいは閾値を超えていく,というか超えない突破できないところに置かれているということだ。あるいは,それは自分の伸び白一杯一杯まで引っ張りに引っ張って,なんとかかんとか自分を拡大しきらなければ,その事態を乗り切れない。出来るとか,出来ないなどを,口にもできないし,そんなことを言い訳にもできない事態という意味でもある。言い方は大袈裟だが,不安と恐怖で,悪夢にうなされ,はっと目覚める。そんなことを繰り返し,長いトンネルの向こうに,自力で抜けられる,光明が見える。その時,一つステージが上がっているはずだ。

必死で自分の容量以上のタスクをこなすためには,自分の知らないことを必死でインプットしなくてはならない。知らない,出来ないことを,人に聞きながら,教えを乞いながらでも,やらなくてはならない。だってそれが自分のやらなくてはならないことだからだ。それを天命と呼ぶか,役割と呼ぶか,使命と呼ぶか,タスクと呼ぶか,役目と呼ぶかはどうでもいい。それを逃げられない自分の仕事と思い定めたら,やりきるしかない。それを,責任を取るというのだと思う。

そこでは,
自分との格闘がある。
自分の心との格闘がある。
自分の技量との格闘がある。
自分の器量との格闘がある。
自分の技術との格闘がある。
自分の無知との格闘がある。
自分の生き方との格闘がある。
自分の思想との格闘がある。
自分の弱さとの格闘がある。
自分の根性との格闘がある。
自分の気力との格闘がある。

アップアップ状態でも,そこから逃げ出せず,そこに踏みとどまり,為すべきことを必死でする,そういうことだ。

その経験を経ていないと,自分の資質のままにこなしてきたので,自分の限界というものがわからない。だから,

それが自分の能力の限界なのか
それが自分の経験不足なのか,
それが自分のスキル不足なのか,
それが自分の知識不足なのか,

という見方をする。そうではない。自分自身のトータルの限界なのだ。だが,そこで耐えてそれを何とかしようとはしないで,やり直します,出直します,という。そうではない,いま,そのできない状態の自分のまま,限界までやりきってしまわなければ,同じことを繰り返すということが,わからない。

だから,他責(これはおれには合わない)となるか自責(おれはだめだ)になる。そのどっちでもない。言い方は酷だが,今まで何も自分を酷使しなかった「つけ」だということだ。

大口をただけるほど,修羅場をくぐったと言えるかどうかわからないが,そのつど必死で自分の限界を超えてきたことは事実だ。その瞬間の格闘を過ぎると,いつの間にか次のステージに立っている。その時見える世界が変わる,そういう体験を何度かした。

振り返ると,そのプロセスは,フロー体験に近い。気づくと何時間もたっている,ということが何度もあった。それは決して楽しいばかりの時間ではない。修羅場体験にとっては,楽しいかどうかは,どうでもいい価値観に思える。

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自分の場・場の自分


人は一人では生きていけない。人とのかかわりの中で生きる。人との結節点として生きる。しかし,ひととの関係とは,場に他ならない。

清水博さんは,「『生きている』ことと『生きていく』こととは,まったく異なることです。…〈いのち〉の居場所がなければ,生きるものは,「生きている」ことはできても,「生きていく」ことはできません。」という。

ではいのちの居場所とは何か。サッカーの例を挙げている。

サッカーの選手たちが,サッカー場という居場所に自分で自分の役割を位置づけることができるようになると,はじめて立派にチームプレーをすることができる。これと同じように,いきものも自分なりの役割を自分で〈いのち〉の居場所に位置づけることができて,はじめて〈いのちの〉与贈循環をうまく実行できる。

与贈循環とは,生きものがまず〈いのち〉を,〈いのち〉の居場所に贈って,次に今度は逆に,その居場所から〈いのち〉を贈られる。これが繰り返されるのが,〈いのち〉の循環,という。

これを生命と考えず,チームに入った状態を考える。その場に入って,自分の居場所を見つけるまでに,チームから学んだり教えられたりしながら,チーム自体の居場所を知り,その目的を知り,その意味を知り,そこでの自分のいる意味を知って,はじめて自分がそこで何をするかが見えてくる。そう考えれば,我々はいつもこれを繰り返している。それを僕は,「ポジショニング」と呼んできた。

場に位置づけられていることが存在existenceを獲得しているという事であり,これと活(はたら)きや意味に結びつかない物理的存在presenceとは違う。

自分の「ポジショニング」がわからない人は,自分の役割どころか,何をするためにそこにいるのかが,わからないので,チーム内で主体的に仕事に関わり,仕事を創り出していくことができない。それではチームの石ころ,つまり邪魔者にしかなれない。

これを細胞レベルで,説明すると,こうなるようだ。

人間でも,他の動物でも,胞胚の細胞たちは,胞胚という〈いのち〉の居場所全体のなかのどのような位置(ポジション)に自分がいるかを知っていて,その位置にしたがって,たとえば,自分が将来,手になるか,心臓になるか,脳になるかというように自分の役割を決めて,その位置にふさわしい細胞に変わっていく。…胞胚の手術をして細胞の位置を取り替えっこすると,取り替えられた細胞は,それぞれ新しい位置にふさわしい役割を発見して変わっていく。

細胞は,その働く場を得なければ,居場所がなく,居場所があってはじめて,どうなるかが決まっていく。清水さんは,これを,「生命の二重存在性」と呼び,次の様に説明する。

その第一は,生命という活(はたら)きは自己の存在を自己表現,あるいは自己創出する活(はたら)きであるために,場に位置づけられなければ生き物は一つの決まった形(表現形)を取れないということである。そしてその表現形は,局在的生命と遍在的生命のあいだの創出的循環のために,一定の状態に留まることができない…。生命の自己表現性とは,生命は場に位置づけられた存在をその場へ表現するかたちで活(はたら)いているということである。生命はそれ自身をそれの上へ表現する「場的界面現象」(場的境界の生成現象)であるといえる。生きものは,その存在を場に表現するから場においてコミュニケーションができるのである。

これを清水さんは,ふたつのモデルで説明されている。

ひとつは「自己の卵モデル」

@自己は卵のように局在的性質をもつ「黄身」(局在的自己)と遍在的性質をもつ「白身」(遍在的自己)の二領域構造をもっている。黄身の働きは大脳新皮質,白身の働きは身体の活(はたら)きに相当する。
A黄身には中核があり,そこには自己表現のルールが存在している。もって生まれた性格に加えて,人生のなかで獲得した体験がルール化されている。黄身と白身は決して混ざらないが,両者の相互誘導合致によって,黄身の活(はたら)きが白身に移る。逆もあり,白身が黄身を変えることもある。
B場所における人間は「器」に割って入れられた卵に相当する。白身はできる限り空間的に広がろうとする。器に広がった白身が「場」に相当する。他方,黄身は場のどこかに適切な位置に広がらず局在しようとする。
C人間の集まりの状態は,一つの「器」に多くの卵を割って入れた状態に相当する。器の中では,黄身は互いに分かれて局在するが,白身は空間的に広がって互いに接触する。そして互いに混じり合って,一つの全体的な秩序状態(コヒーレント状態)を生成(自己組織)する。このコヒーレント状態の生成によって,複数の黄身のあいだでの場の共有(空間的な場の共有も含む)がおきる。そして集団には,多くの「我」(独立した卵)という意志器に代わって,「われわれ」(白身を共有した卵)という意識が生まれる。
D白身が広がった範囲が場である。したがって器は,白身の広がりである場の活(はたら)きを通して。黄身(狭義の自己=自分)に「自己全体の存在範囲」(自分が今存在している生活世界の範囲)を示す活(はたら)きをする。そして黄身は,示された生活世界に存在するための適切な位置を発見する。
E個(黄身)の合計が全体ではない。器が,その内部に広がるコヒーレントな白身の場を通じて,黄身に全体性を与える役割をしている。現実の生活世界では,いつもはじめから器が用意されているとは限らない。実際は,器はそのつど生成され,またその器の形態は器における人間の活(はたら)きによって変化していく(実際,空間的に広がった白身の境界が器の形であるという考え方もある)全体は,卵が広がろうとする活(はたら)きと,器を外から限定しようとするちからとがある。
F内側からの力は自己拡張の本能的欲望から生まれるが,外側からの力は遍在的な生命が様々な生命を包摂しようとする活(はたら)きによって生まれる。両者のバランスが場の形成作用となる。

場そのものの変化を動態的に考えるために提唱されたのが,もう一つのモデル,即興劇モデル。

卵モデルの黄身に相当するものが,「役者」であり,器が「舞台」の境界で,その器の中に広がる白身に相当するのが,「舞台」であり,「観客」として遍在する生命がある,という関係性で見ることができる。即興モデルでは場は即興的に演じられるドラマの舞台ということになる。そして場所(卵の入った器が置かれているところ)が役者,舞台,観客が存在する「劇場」に相当する。役者は観客の共感を呼ぶドラマ(活(はたら)き)を演じることが必要になる。

場の変化をドラマ的時間に位置づける自己(局在的自己,自己中心的領域,黄身)とその自己(黄身)の演技をドラマ的空間に位置づける場としての自己(遍在的自己,場的領域,白身)の二つが相互誘導合致の過程で交互に循環的に活動することによってドラマが進行する。

舞台とは,意識の野であり,観客の活(はたら)きは意識の野を含めて,その外に広がる無意識の活(はたら)きでもある。それは,

局在的自己(黄身)は遍在的自己としての場(白身)に対してつぎの変化を繰り返しながら自己表現を(循環的に)つくりだしている。すなわち,場を受け入れる,自己を場に位置づける,場における自己の存在を自己表現をする。この時場の束縛から踏み出して新しい自己表現を創出しようとする。他方,場がおこなう変化は,局在的自己の自己表現(部分的表現)を包み込む全体的表現を生成し,局在的自己の新しい自己表現を待つ,の繰り返しである。

局在的自己(黄身)の重要な性質として,それが場(白身)に位置づけられて存在しているときには,その自己の存在を身体によって場に自己表現するという性質がある。場に位置づけられた自己は,「顔のある個」であり,その存在は個物的である。場において自己表現がなされる結果,場が変化する。場が変化すると,新しい位置づけが必要となる。そのことによって新しい自己表現がなされ,場がさらに変化することになる。

この時必要なのは,現在存在していない未来の舞台(場)を創造することだ,と清水さんは言う。場の外に立ってどのように見るかを考えなければ,未来は見えない。

場は人間の意識がつくり出す空間であり,要素サイクルに伴って絶えず生成と消滅を繰り返している。場の大きな変化は意識の野の変化であり,場(意識)の外からやってくる。場の未来は観客の活(はたら)きを至って外側から訪れるのである。

場には,三種類ある,と清水さんは言う。

ひとつは,生活の場。リアルタイムにドラマを演じている場だ。その場で,どんな選択肢を取るかを日々決断し,選択している。それをさせているのが,人生の場。自己(局在的自己,黄身)は,その内部に様々な生活の舞台における体験を記憶し,その体験を人生の場で編纂し,自己の歴史ドラマの中に位置づけている。だから,人間は自分が作った人生という歴史ドラマの筋に基づいて容易に判断を下すことができる。もうひとつが生死の場。個としての生命が確実に死ぬことを前提としている場である。それは,局在的な生命の生と死で一つの状態になっている場であり,局在的な生と死が生と死で一つの状態になっている場でもある。

石原吉郎の詩がある。

死はそれほどにも出発である
死は全ての主題のはじまりであり
生は私には逆向きにしかはじまらない
死を<背後>にするとき
生ははじめて私にはじまる
死を背後にすることによって
私は永遠に生きる
私が生をさかのぼることによって
死ははじめて
生き生きと死になるのだ(「死」)

未来から見るとはこういうことなのかもしれない。

ともかく,いくつかの卵の白身が互いに混じり合って,コヒーレントな状態状態(共時的な状態)をつくっているとき,黄身の相互関係も,「我と汝」(個が互いに向き合う関係)となったり,「我々」(互いに同じ側に立つ関係)となったりする。それは,黄身の自己中心的な活(はたら)きが白身による吸引力(同一化力)より大きいか小さいかで決まる。

白身と黄身の関係には,慣れが起きる。そこに閉塞状況が生まれる,と清水さんは指摘する。マンネリ状態である。それには,次のどれかが起きている。

@舞台の上に自分の現在の現在の状態を位置づけられない
A最初に設定した目標の位置が誤っている
B自分の位置と目標の位置との間の空間が複雑であるために,目標に近づけない

どうだろう。いささか狭い気がする。目標というより,目的や意味が見いだせないか,見誤っているか,ではないのか。目的が見えないから,目標が位置づけられず,自分の位置が見えない。

でもいずれにしろ,その瞬間,

もしこの位置づけができないときには,即興劇の舞台の上には存在していないことになるから,舞台から外れて個人になっていることを意味している。

これを機に,舞台を外から見る,という視点の転換がいるのかもしれない。

舞台づくりとは,出会いの場づくりのことであり,舞台では,様々な役者が演じる多様な演技を受け入れて一つに統合し,それを一つの即興劇としてイメージする想像力が必要になる。この即興劇を舞台設計から考えていく知的な活(はたら)き,つまり構想力が必要である,という。それには,

パトス(情)を共有すること,即ち共感の場づくりから始めることが必要である。と同時に,それを一時的な昂揚にとどめないために,ロゴスを共有することが必要である,と。

その意味と目的の共有であり,そのための道筋を描くことができていなくてはならない。つまり,

実践の論理には,まず実現したい夢が必要である。…夢を具体化しようとし続けることから未来に関するイメージが次第に明確になり,やがて具体的な目的として共有できるようになる。夢のある明確な目標を共有し,それを実現するための舞台を想定することから変革のイメージが生まれ,そのイメージをビジョンにすることから戦略が生まれてくる。戦略が生まれてくるためには,イメージに具体的な携帯電話を与えなくてはならない。

だから情と論理がいる,ということである。

しかし,実際に場づくりをしようとしてみると,人と人との袖振り合う感覚で接点ができ,お互いが場を意識しあうというところまでは割と広がる。しかし詰めてみると,実はそれぞれの「夢」自体が,微妙な齟齬があり,その差は意識すればするほど大きくなっていく。結果として共通の夢を具体化するところまでいけないことが多い。場づくりは,そうたやすくはないことに気づく。そこまでの処方箋はどこにもない。

ただ人との接点の中で,白身が接することで場ができ,そこで黄身にも影響が出る。だから,その場を永久と考えるよりは,あっては別かれ,別れてはまた会うのの中で,自分の居場所となる場所がつれていくのではないか,と考えることもできる。そういう場をいくつも,多層に,多面に持つことが,その人の黄身を豊かにしていく。命のポジショニングは,その人にしか見えない。それでいいのかもしれない。そんな気がし始めている。

参考文献;
清水博『コペルニクスの鏡』(平凡社)
清水博『場の思想』(東京大学出版会)

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「したいこと」と「しなければならないこと」


昨今どういうわけか,「しなくてはならないこと」を口にすると,「したいこと」を言えと言われることがある。それがよくわからない。バランスの問題ではない。

人には,「やらねばならぬこと」「やりたいこと」「やれること」の三つがある。しかし,やらねばならぬことをしないものに,やりたいことは実現できるかもしれないが,人として,全く信をおかない。そういう人をいっぱい見てきた。

僕は「しなくてはならないこと」が,たとえちっぽけな雑用でも,それをするのが自分の役割だと思ったら全力でやる。そうしない人間を腹の底から軽蔑する。それを僕がしなければ,他の人がしなくてはならない。「しなくてはならないこと」は,誰にとっても「しなくてはならないこと」だからだ。

もう一つ思っているのは,「したいこと」を言う人は,多く修羅場をくぐっていないように見える(失礼!)。自分の伸び白いっぱいにやっても,まだとても届かない中,でも逃げ出さず,やり遂げるという意味だ。それは他人にとっては修羅場ではない。当人にとってのみ,修羅場だ。そんなことで迷っているのか,そんなところで手間取っているのか,そういう目で見る先輩は少なくない。それだけの仕事をこなせる人から見たら,出来の悪い人間のもたつきは,いらだつだろう。ましてチームなら,レベルの落ちているところがチーム全体の足を引っ張っている。

そういう中で,自分が「しなくてはならないこと」を,なんなくこなしていける人間にしていく。「こなしていける」ところが重要で,そこで立ち止まれば,単なるベテランで終わる。そこで自足せず,さらに自分の伸び白を引っ張り,広げていく。それがなければ,こなしに自足したただのベテランだ。

ときに,「したいこと」を言う人が,「しなければならないこと」を逃げている逃げ口上に聞こえることがある。あるいは,「しなければならないこと」を回避するための言い訳にしているように聞こえることがある。僕の僻目かもしれない。しかし,そう聞こえる状況にいて,そう聞き取ったのだということは確かだ。人の忖度など知ったことではない,という言い方もある。しかし,いったん信頼を失ったら,それを取り戻すには数百倍いることを骨身にしみて知っている。

閑話休題。

ところで,人の能力は,知識(知っている)×技能(できる)×意欲(その気になる)×発想(何とかする)の総量だと思っている(これに体力だの感力だのがいるかもしれないが)。ここで発想が重要で,これは未知の,未経験の事態を,文字通り「何とかする」ことによって,自分の伸び白を広げていく。そういう修羅場の経験も必要だという意味で,能力を伸ばすには,きっかけとしては一番重要だと思っている。

もし「したいこと」というなら,「しなければならないこと」を潜り抜けていなければ,単なる願望以上にはそれはならない。それだけの度量と器量と技量と力量は,黙って勉強するだけではつかないからだ。

イチロー語録は,なかなかイチローが端倪すべからざる人物だということを示しているが,たとえば,

小さいことを積み重ねるのが,とんでもないところへ行くただひとつの道だと思っています。

今自分にできること。頑張ればできそうなこと。そういうことを積み重ねていかないと遠くの目標は近づいてこない。

練習で100%自分を作らないと,打席に立つことは出来ません。自分の形を見付けておかないと,どん底まで突き落とされます。

「たのしんでやれ」とよく言われますが,ぼくにはその意味がわかりません。

毎日,力は振り絞っていますよ。余力を残そうとしていたら問題。

どんな難しいプレーも当然にやってのける。これがプロであり,僕はそれに伴う努力を人に見せるつもりはありません。

努力せずに何かできるようになる人のことを天才というのなら,僕はそうじゃない。努力した結果,何かができるようになる人のことを天才というのなら,僕はそうだと思う。努力できるのも才能という。

等々をみると,テレビの番組で,「好きなことをやっているが,ちっとも楽しくない。」というイチローの言葉を思い出す。「したいこと」を忘れてはいけない。しかし,それを実現するためには,そのために日々しなくてはならないことを,歯を食いしばってやらなければ,「小さな積み重ね」ひとつクリアできないだろう。

僕は,古いタイプの人間なので,「やりたいこと」のために,いま目の前で,人として「やらなければならないこと」を見逃したり,その立場でやらねばならぬことを放置したり,否でも応でも「やらなくてはならないこと」を全力でやり遂げようとしない人を信じない。

そして,なお,したいことを選ぶのなら,その自分の「しなくてはならないこと」を放棄してもなお,それは「する」に値するのか,を考えに考えた末にしか,「したいこと」は現実味を帯びない。仮に,現実に見えても,まだふわついた仮のものでしかない,と信じている。当然すべての責は,それを選択した自分にのしかかる。毀誉褒貶などという話ではない。その世界で二度と生きていけないというくらいのこともあり得る。そういう覚悟があるのなら,贅言は無用だ。

それは資格を取ったり,お勉強で得られるものではない。

苦しいことの先に,新しいなにかが見つかると信じています。

自分自身が何をしたいのかを,忘れてはいけません。

というイチローの言葉は,それを前提に見るとき一層輝く。

選択理論によれば,「前に出ること」を選択したから,ポジティブな感情と思考になる。ポジティブになったら,前向きになるのではない。過去にとらわれず,立ち止まらず,前へ進もうとする選択肢を取ったから,ポジティブな思考になる。

「やりたいこと」の方を選択するから,やりたいことが図に見え,やらねばならぬことが地になる。逆に,(その立場と役割にあるのに)「やらねばならぬこと」に向き合わず,「やりたいこと」を選択したとき,やらねばならぬことには二度と出会うことはないだろう。そういう人とは,一緒に何かをしたくはない。

だからと言って,地が消えるわけではない。考えようでは,「したいこと」と「しなくてはならないこと」は,地と図の関係なのかもしれない。「したいこと」を実現しようとすれば,いずれ,そのためにクリアしなくてはならない「しなくてはならないこと」にぶつかることになる。しかし自分にとって「したく」もない「しなければならないこと」に比べれば,それに立ち向かうのは容易だという言い方もできる。

しかし,だ。僕はそうは思わない。

「したくないこと」であろうが,
「できないこと」であろうが,
「したこともないこと」であろうが,

しなければならないとなった,そのときに,それを自分のキャパと技量を超えてチャレンジし,それをなんとかかんとかクリアした経験がなければ,自分の伸び白を極限まで引っ張り,拡大しなければならない「そのとき」の経験が,その伸び切った自分のキャパの感覚がないから,たぶんできる範囲のキャパが狭い。いや,ぎりぎりまで拡大するというその感覚自体がない。

なぜなら,「やらなければならないこと」は,逃げ道なくやらなくとはならないが,「やりたいこと」は,所詮自分の裁量内,その狭い範囲でしか,精一杯やらないという,気ままが許される。いや,許す。それをしない意志は,イチローレベルでないとない。

年寄りのたわごとだが,やりたくなくても,やったことがなくても,しゃにむにやらなければならないことを,必死でやりとおした経験がなければ,その経験の持つ意味は分からない,ということだ。

昨日ある場で,「こつこつ習慣化のすすめ」を聴く機会があったが,まさに「やりたいこと」をやるために,「やらなくてはならないこと」というハードルが出てくる。それをどう日常的にクリアするかだ。これは,また別途ブログでまとめたい。

参考文献;
ウイリアム・グラッサー『選択理論』(アチーブメント出版)

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「落ち込む」のを選択した


グラッサーは,ある日妻に突然去られて,落ち込むクライアントに,

奥さんが家を出てから,あなたは家にいて座ったままで,仕事に行かないという選択をしているわけですね

そして,

今日ここにくる選択をしましたよね。

と。ここに選択理論の中核がある(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-6.htm#%E9%81%B8%E6%8A%9E)。

彼は,自分の感じているみじめさを選んでいる。

すべては,自分が選択したということ,そしてその選択には意味がある,ということである。こういう場合,多くの古臭いセラピストは,感情を問題にするだろう。もっと古臭いセラピストは,過去に原因を探ろうとするだろう。しかしすでにE・F・ロフタフたちが明らかにしたように,記憶はうそをつく。書き換えられる。おおくの幼児虐待の記憶,性的虐待の記憶は,セラピストの問いによって,つくられた物語であることは明らかにされた。

過去はいまの状況がつくる物語に過ぎない。生い立ちや母子関係に原因を探っても,現状は動かせない。今落ち込んでいるのは,過去のせいではなく,いまの自分だからだ。感情を探ることも,あまり意味がない。感情は,たとえば,脳卒中で倒れた脳科学者テイラーが,

わたしは,反応能力を,「感覚系を通って入ってくるあらゆる刺激に対してどう反応するかを選ぶ能力」と定義します。自発的に引き起こされる(感情を司る)大脳辺縁系のプログラムが存在しますが,このプログラムの一つが誘発されて,化学物質が体内に満ちわたり,そして血液からその痕跡が消えるまで,すべてが90秒以内に終わります。

脳の化学的・生理的反応は90秒で終わるのである。

通常無意識で反応しているのを意識的に,90秒を目安に,自分で選択できるということです。例えば,90秒過ぎても怒りが続いていたとしたら,それはそれが機能するよう自分が選択し続けているだけのことだ,というわけです。

つまり,その感情を選択しているのである。なのに,その感情を取り出し注目すれば,ますますその感情にのめり込むことを選択し続けるだけだ。あるいはその感情と自慰しているに等しい。

そこから抜け出すには,3つの選択肢しかない,とグラッサーは言う。

@自分の求めているものを変える
A自分のしていることを変える
B両方を変える

上記のクライアントの例に即せば,

@妻への要求を変える
A妻に対して行っていることを変える

となる。そして,グラッサーは,

落ち込みを選択するということは,落ち込みがどれほど長引いても,精神病ではない。すべての行動と同様,これも選択なのだ。歩いたり,話したりするような直接の選択ではないが,全行動の概念を理解すれば,全ての感情は,快感であれ,苦痛であれ,間接的な選択であることがわかってくる。

として,全行動をこう説明する。

私の辞書によると,行動とは,体を動かし,何かをすることである。…選択理論の観点から言うと,体の動かし方が重要である。体を動かす方法には四つの不可分の要素がある。第一に行為。行動について考えるときに,ほとんどの人が歩く,話す,食べる,などの行為を考える。第二に思考。私たちはいつも何かを考えている。第三の要素は感情。私たちが行動するとき,いつも何かを感じている。第四は生理反応。何かをしているときにいつも生理反応が伴っている。例えば,心臓の鼓動,肺の呼吸,脳の働きに関係のある神経化学物質の変化。

行動するときこの四つが同時に機能している。そして,

あなたが全行動を選択するとき,常に四つの構成要素すべてが関与しているが,直接コントロールできるのは行為と思考だけである。

先のクライアントが選択したのは,落ち込の行為と思考なのである。そして,これを選択することで,他の選択肢を無意識で抑圧していることになる。

第一は,怒りである。落ち込むことで,相手への怒りが抑制されている。
第二は,人にお願いせずに,援助を求める方法になっている。
第三は,したいこと,恐れていることをしない言い訳にしている。

落ち込み,引き籠らせることで,激しい怒りに駆られて,妻を探し出し,強引に連れ戻そうとしたり,自暴自棄の行動を取ったりという他の選択肢をしないようにさせたということができる。

このバックボーにあるのは,人をコントロールすることではなく,自分をコントロールするという視点,自分の責任のとれることを自分でする,という視点だ。

何事でも自分にしてもらいことは,ほかの人にもそのようにしなさい。(マタイ伝)

孔子も同じことを言っている。

子貢問いて曰く,一言にして以って身を終うるまでこれを行うべき者ありや。子曰く,それ恕か。己の欲せざる所を人に施す勿れ。

記憶が不確かだが,ミルトン・エリクソンが,オネショの子に,あえて「今日はオネショをする日」と決めさせたことがあったと思う。それは,オネショが外的なものではなく,自分でコントロールできるものだということを,体得させていくことだったように思うが,それと同じことだ。

だとすると,まずは落ち込むことで,より悪い事態になるのを防ごうとする選択をしたのだ,とみなすと,次にすることは,自分自身の中で,

次に何をするつもりですか,

と問いかける。そこには,

@自分の求めているものを変える
A自分のしていることを変える
B両方を変える

の選択肢がある。何かをする,いつものやり方を変える,いつもと違う肯定的なことをする等々。ソリューションフォーカスト・アプローチの,

もしうまくいっていないのであれば,何でもいいから,(いつもと)違うことをせよ,

という原則が生きるかもしれない。グラッサーは言う。

私たちは,相と所属,力,自由,そして楽しみという四つの心理的欲求を満足させるように遺伝子によってプログラムされていると,私は信じている。すべての行動は選択時点では最善の選択であり,四つの欲求を満たすためのものである。

参考文献;
ウイリアム・グラッサー『選択理論』(アチーブメント出版)
ロバート・ウォボルディング『リアリティ・セラピー』(アチーブメント出版)
E・F・ロフタフ&K・ケッチャム『抑圧された記憶の神話』(誠信書房)
E・F・ロフタフ『目撃者の証言』(誠信書房)
ジル・ボルト・テイラー『奇跡の脳』(新潮文庫)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)

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神業


昔読んだ時代小説(というか剣豪小説というべきか)の世界で,決闘のシーンというか,果たし合いのシーンというので,印象に残っているのは,第一は,中里介山の『大菩薩峠』で,詳しいことは覚えていないが,土方歳三率いる新徴組の手練れが,清川八郎を襲撃しようとして,襲うべき駕籠を間違え,乗っていた島田虎之助に襲いかかり,結局島田一人に十数人の使い手全員が倒され,土方も翻弄される,すさまじい戦いシーンがあった。そのやりとりの迫力は,ずっと記憶に残っている。襲撃の一隊に加わった主人公,机龍之介は呆然,手をつかねて立ち尽くしていた,と記憶している。

ついでながら,第二に,指を折るのは,吉川英治の『宮本武蔵』で,確か武蔵が,柳生石州斎の屋敷に紛れ込み,柳生の四天王と,刃を交えるシーンであった。その気迫と,立ち会う面々との間合いは,一瞬で決着する吉岡兄弟との立ち会いも,一条下がり松のシーンも,般若坂の決闘も,かすむほどの緊迫したものだと記憶している。

ついでに思い出したのは,何の映画だったか覚えていないが,果たし合いの後,相手が,「急所を外した」というセリフを言った時,会場から失笑が漏れたことがあった。そういう神業を,ほとんどの人が知らないというか,小説の中のことと思っているらしい,とその時感じたものだ。

僕自身も,別にそういう神業に出会った経験はないが,技量を極めたときに,どんな状態になるかぐらいの想像力はある。難波走りと同様,かつての日本人の体の使い方は,明治以降の体育教育及び軍隊教練で,正座も含めて,創り出されてしまい,それが普通のように思ってしまっている。日本人本来の体の使い方,及びそんな日本人の知っていた身体を見失ってしまっているので,それを探るよすがもない。

甲野善紀氏は,江戸時代の剣客で,夢想願流の松林左馬助無雲のエピソードを紹介している。

ある夏の夕方,蛍見物に川べりを門弟とともに散歩していた無雲を,門人の一人が川へいきなり突き飛ばした。無雲は突き飛ばされたなりフワリと川を飛び越え,しかも,突き飛ばした門人も気づかぬ間に,その門人の佩刀を抜き取っていた…。

それは遠い江戸時代の話ではなく,現代の武道家にもいる,という。たとえば,柔術家の黒田泰治師範は,警察の道場で,寝転んだまま力士五人に体中を押さえさせ,よもやと思っていたら,あっという間に,いとも簡単に起き上ってみせた…。

あるいは,親戚男谷信友の弟子筋の島田虎之助の元で修業した勝海舟が,幕末の剣豪白井亨についてこんなことを語っている。

此人の剣法は,大袈裟に云えば一種の神通力を具えていたよ。彼が白刃を揮うて武場にたつや,凛然たるあり,神然たるあり,迚も犯す可からざるの神気,刀尖より迸りて,真に不可思議なものであったよ。己れらは迚も真正面には立てなかった。己れも是非此境に達せんと欲して,一所懸命になって修行したけれども,惜乎,到底其奥には達しなかったよ。己れは不審に堪えず,此事を白井に話すと,白井は聞流して笑いながら,それは御身が多少剣法の心得があるから,私の刃先を恐ろしく感ずるのだ。無我無心の人には平気なものだ。其処が所詮剣法の極意の存在する処だと言われた。己れは其ことを聞いて,そぞろ恐れ心が生じて,中々及ばぬと悟ったよ。

その白井は,平和時の武術を晴天の雨具にたとえ,なるべく目立たぬことを心掛けるように説いたという。

雨でもないのに,これみよがしに剣術家然として歩くのは,晴れているのに雨具をつけて歩くようなもので,人々の顰蹙をかうだけだ,と。

また坂本龍馬を斬ったという今井信郎は,北辰一刀流の皆伝,榊原健吉から直心影流を学んだが,片手打ちという我流の実践剣法で,ひと打ちで相手を倒したらしいが,その彼が,こう言っている。

免許とか,目録とかという人達を斬るのは素人を斬るよりははるかに容易,剣術なぞ習わない方が安全,と。

追い込まれた人が,窮鼠猫を噛む状態の予想外の膂力とスピードの方が,対応できないということらしい。つまり,並みのプロと格段のプロとの違いは,そんな心構えにあるらしい。

言ってみると,剣術というのは,一定の枠組みの中で想定された枠内でやっているということなのかもしれない。そういう通常の剣法に対して,いわゆる「相ぬけ」を究極の形として目指した異色の剣法が,「無住心剣術」という。頂点は,相打ちではなく,相ぬけという。

剣術の勝負は,勝か負けるか,相打ちになるか,そうでなければ意識的に引き分けるか以外ない武術の鉄則を超え,お互いが打てない,打たれない状態で,たとえば,一雲と巨雲の師匠と弟子では,一方は太刀を頭上に,一方は太刀を肩の上にかざして,互いにすらすらと歩み寄り,いよいよの間合いに入ってから,互いに見合って,「ニコッ」とわらってやめた,という。しかし他流には負けたことがない,という。

「他流を畜生心によるもの」と開祖夕雲がいう, 「無住心剣術」の稽古法は,片手打ちで,特有の絹布や木綿でくるんだ竹刀で,ひたすら相手に向かって真っすぐ入り,相手の眉間へ引き上げて落とす,相打ちから入る。

よく当たるものはよくはずれ,よくはずるるものはよく当たる,

という言葉があり,相手はこっちの姿をみて打ち込んでくるが,こちらは敵を敵として認識せず,敵の気からはずれて出ていくため,意識的に打ち込むものほどはずれてしまい,こちらは相手の気筋を外してでるため,相手には不意に目の前にあらわれるように感ずるらしい。

心にとかくの作為があって勝負に臨めば,勝負にとらわれて,足がなかなか進まず,立ちが相手に届かない,

ともいう。いわば,「常の気のまま」を尊重する流儀のようで,相手を打つも自分が相手を打つというよりも,自然の法則(天理の自然)が自分の体を通して行われた,という理法のようだが,その太刀の威力は,すさまじく,竹刀打ちを兜で受けたものが,吐血したというほどのものだ。従って,無敗の剣とも言われる。

双方に戦う気があれば,相抜けにはならず,相打ちになる。

それで思い出したのが,69連勝でストップした横綱の双葉山が「未だ木鶏たりえず」といったとされる「木鶏」である。「荘子」にこういう逸話がある。

紀子という鶏を育てる名人に鶏の要請を依頼する。王は,10日ほど経過した時点で仕上がり具合について下問する。すると紀渻子は,「まだ空威張りして闘争心があるからいけません」と答える。更に10日ほど経過して再度王が下問すると「まだいけません。他の闘鶏の声や姿を見ただけでいきり立ってしまいます」と答える。更に10日経過したが「目を怒らせて己の強さを誇示しているから話になりません」と答える。さらに10日経過して王が下問すると「もう良いでしょう。他の闘鶏が鳴いても,全く相手にしません。まるで木鶏のように泰然自若としています。その徳の前に,かなう闘鶏はいないでしょう」と答えた。

いわば,この心境である。これを,こういっている。

当流に奇妙不思議な教えや修行法があるのではなく,人々がほんらいもっている天心を日々常に養い育て,私心を払い,意識を洗い捨てるからである。人々がみな,幼児の頃にはもっていながら,成長するにつれて,いつの間にかなくしてしまった一物(本来の天心)が,次第に立ち戻ってきて,肉体に再び宿ってくるそうなれば,命がけの場でも自然と霊妙な働きが生まれて,自由に敵をあしらう。

老子の

知る者は言わず,
言うものは知らず

をふと思い出す。この剣法は,江戸中期門人一万人と言われながら,ついに,いまに伝わらない。

ところで,小林秀雄は,武蔵について言及し, 

彼(武蔵)は,青年期の六十余回の決闘を顧み,三十歳を過ぎて,次の様に悟ったと言っている。「兵法至極にして勝にはあらず,おのずから道の器用ありて,天理を離れざる故か」と。ここに現れている二つの考え,勝つという事と,器用という事,これが武蔵の思想の精髄をなしているので,彼はこの二つの考えを極めて,遂に尋常の意味からは遥かに遠いものを摑んだ様に思われます。器用とは,無論,器用不器用の器用であり,当時だって決して高級な言葉ではない,器用は小手先の事であって,物の道理は心にある。太刀は器用に使うが,兵法の理を知らぬ。そういう通念の馬鹿馬鹿しさを,彼は自分の経験によって悟った。相手が切られたのは,まさしく自分の小手先によってである。目的を遂行したものは,自分の心ではない。自分の腕の驚くべき器用である。自分の心は遂に子の器用を追う事が出来なかった。器用が元である。目的の遂行からものを考えないから,全てが転倒してしまうのだ。兵法は,観念のうちにはない。有効な行為の中にある。(中略)必要なのは,子の器用という侮辱された考えの解放だ。器用というものに含まれた理外の理を極める事が,武蔵の所謂「実の道」であったと思う。

そしてこうまとめている。

思想の道も,諸職諸芸の一つであり,従って未知の器用というものがある,という事です。兵法至極にして勝つにはあらず,というのは思想至極にして勝にはあらずという事だ。精神の状態に関していかに精しくても,それは思想とはいえぬ,思想とは一つの行為である。勝つ行為だ,という事です。一人に勝つとは,千人万人に勝つという事であり,それは要するに,己に勝つという事である。武蔵は,そういう考えを次のような特色ある語法で言っています。「善人をもつ事に勝ち,人数をつかうことに勝ち,身を正しく行うことに勝ち,民を養う事に勝ち,世に例法を行う事に勝つ」,即ち人生観を持つ事に勝つ,という事になりましょう。

「未知の器用」とは神業といっていい。そこまで,技量を極限まで極める。「相ぬけ」もまたそれだ。技は,結局身体が覚える。しかし,それは伝わらない。その人に体現されたものだからだ。五輪書を百回読んでも,技にはならぬ。

僕は,これを修羅場をくぐるという。つまり,技量の極北へ行くために,血みどろの努力がいる。イチローは,それを,

小さいことを積み重ねるのが,とんでもないところへ行くただひとつの道だと思っています,

という。結局,

知る者は言わず,
言うものは知らず

なのだ。

参考文献;
甲野善紀『古武術の発見』(光文社文庫)
甲野善紀『剣の精神誌』(新曜社)

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サムライとヤクザ


かつてもいまも,僕は,サムライを美化する連中を嫌いである。侍は,基本,社会の寄生虫である。穀つぶしである。ヤクザも同様だ。自閉し自己完結した世界に閉じこもり,それを完結させるために独自のしきたりと風儀を必要とする。

昔,博徒に仮託して,こう語らせたことがある。

「あっしはね,こう申し上げては失礼ながら,お武家様なんぞは,あっしら博徒同様,この世には必要のない,無職渡世ではないかと思いやすね,百姓衆にとっても,職人にとっても,ましてや商人にとっては,お武家さまなんぞは無用のものですよ,何かを生み出すわけではなし,ただ何の因果か上にたって威張ってお指図される。でも,その無用の方々がいなかったら,どれだけお百姓衆の肩の荷が軽くなることか,
 お侍方は,仁とか義とか,仰ってますが,それは上に乗っかっておられる言い訳に聞こえます。理をこねくっておられる。いい迷惑です。いっそ,そこをのいてくれっていいたいですよ。あっしらにも,あるんですよ,仲間内の仁義ってやつが,杯かわした親分への忠,お互いの島への義ってやつですよ。でも,こんなのは,住んでいる人を無視して,勝手にあっしらが囲っただけですよ,これも似てるでしょ,お武家様のやり口に,まあ,真似たんでしょうがね。無職渡世は無職渡世なりに理屈がいるんですよ」

その通りなのだ。新渡戸稲造は,『武士道』で,こう書いた。

武士道精神がいかにすべての社会階級に浸透したかは,男達として知られたる特定階級の人物,平民主義の天成の頭領の発達によっても知られる。彼らは剛毅の男子であって,その頭の頂より足の爪先に至るまで豪快なる男児の力をもって力強くあった。平民の権利の代言者かつ保護者として,彼らはおのおの数百千の乾児(こぶん)を有し,これらの乾児は武士が大名に対したると同じ流儀に,喜んで「肢体と生命,身体,財産および地上の名誉」を捧げて,彼らに奉仕した。過激短気の市井の徒たるべき阻止力を構成した。

この愚かな文を読むだけで,『武士道』を読む気をなくすだろう。この「男達」を「暴力団」「ヤクザ」と置き換えればよい。第一,大正時代から,警察は,ヤクザを「暴力団」と措定し,その取締りを計っていることは,国立公文書館に当たれば,わかる。暴力団が男達(おとこだて)なんぞといわれたら,みかじめ料を拒んだがために殺されかけた人は何と言うか。

暴力団は勝手に,お互いの間で縄張りという自己の勢力範囲を設定し,縄張り内で風俗営業等の営業を行いあるいは行おうとしている者に対し,その営業を認める対価あるいはその用心棒代的な意味で,挨拶料,ショバ代,守料など様々な名目で金品を要求する。この要求に応じた者にこれを月々支払わせるが,これをみかじめ料と呼ぶらしい。

ともすれば,任侠道を表看板にし,暴力を武器としたアウトサイダーたちの反社会的行動であり,利権争いに過ぎない。任侠道などは,武士道同様,ないからこそ,あるいはすたれたからこそ,言挙げしなくてはならなかったまでだ。それが自己防衛というか,自分存在証明に他ならない。でなければ,存在する必要がないのだから。

ところで,明治期,『武士道』の英文が出た直後,こういう書評が出た。新渡戸が薩摩藩の若者が薩摩琵琶を奏でるのを「優美」と称賛したのに対して,

薩摩琵琶と関係の親密な『賤のおだまき』は之を何とか評せん。元禄文学などに一つの題目となれる最も忌まわしき武士の猥褻は,余りに詩的に武士道を謳歌する者をして調子に乗らざらしむる車の歯止めなるべし。

薩摩藩でとりわけ男色の習俗が顕著で,その事実を伝えず,美化するだけでは表面的だ,と言っている。ことほどさように,実は,実体としての武士とは別の世界を,虚構の世界を描いている,そう考えるほかない代物なのだ。

氏家幹人は,こうまとめている。

戦乱の世が終わり,武将が大名に昇華して,徳川体制に組み込まれた。その過程で,戦士の作法であった男道はすたれ,治者あるいは役人の心得である武士道へと様変わりする。爾来,武士は総じて非武闘化し,代わって,武家屋敷側が傭兵のように雇った,供回り,駕籠かきに委託した。次第に彼らは武士を軽視し,武家も彼らの命知らずの行動に危機感を抱きながら,ある種賞嘆の感情を抱くようになる。

結局平和ボケし,堕落した武士に変わって,馬鹿な男伊達を競う連中が出てきて,それがヤクザの精神の(いわゆる任侠の)淵源になっているだけだ。

幕末の開明的官僚,川路左衛門尉聖謨は,その一人。こう日記に書いている。

上かたの盗賊は,死するといふことはしりながら網のかかるまで先甘美軽暖の事によを過ごすか,百年生て乞人たらむよりは盗人と成てわかくして被殺かましといふかこときもの共にて,入墨後の盗なと少しもおしつつますみないふ也,死をみる如帰に人とは不思議也。

この畏怖の念に,すでに武士と盗人,ヤクザと区分けすることの無意味さが現れている。

結局大事なことは,もっともらしい看板や二本差しではなく,人としてどうなのか,ということが問われているだけだ。それに,任侠だの侍だの男だてなどの限定をする必要はない。

子曰く,暴虎憑河し,死して悔いなき者は,吾与(とも)にせざるなり,

である。

これでも三河武士の末裔だが,それでも,サムライであることを野放図に賛美する輩が信じられない。

参考文献;
氏家幹人『サムライとヤクザ』(ちくま文庫)

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リーダーシップの源泉


ジョセフ・ジャウォースキーは,こう言う。

数年にわたるリーダーシップ・フォーラムでの経験から,私は,人々の中には一体感を経験したい,自分より大きなものの役に立ちたいという強い欲求があることがわかってきた。そんなふうに役立つことが人間である意味だということも理解し始めた。だからこそ,個々のメンバーよりももっと大きなものと結びつき,一つの意識として行動するチームの一員であるという経験は,人々の人生においてたぐいまれな瞬間として光彩を放つことになるのだ。

それを場ができると呼んでもいい。その時,リーダーシップのあり方も変化している。ジャウォースキーは,リーダーシップを,四段階に分けた。

第一段階 自分が中心になるリーダー
この段階では,メンバーを大切にすることができない,信念がなく,自分の意思のほかは何にも左右されない未熟な段階。その時その時で変わる可能性があり,誠実さに欠ける。
第二段階 一定の水準に達しつつあるリーダー
メンバーを大切にする程度にまで成熟している。この段階にあるリーダーにとっては,安定性が大きな価値を持つ。彼らは公正さと礼儀とメンバーに対する敬意を大切にし,必ず組織の目標を達成する。この段階になると,性向は,メンバーとともに,そしてメンバーを通して成し遂げられる。
第三段階 サーバント・リーダー
帰属意識の範囲を広げ,あらゆる人を受け入れる。第三段階のリーダーは自分の権力を使ってメンバーの役に立ったり,メンバーを成長させたりする。この段階のリーダーは「強い達成欲求」を示すが,組織のメンバーや社会の誰かを犠牲にすることはない。
第四段階 新生のリーダー
昨今の山積する課題に対しては,サーバント・リーダーシップだけでは十分ではなく,サーバント・リーダーの特徴と価値観を持っているが,全体的なレベルが一段上がる。そして目を見張るような働きをし,業績を上げるその中心には,暗黙知を使う力がある。第四段階のリーダーは,宇宙には目に見えない知性があって,私たちを導き,創り出すべき未来に対して準備させてくれると確信している。

いまの場を,いまのチームを,より大きな広がりの中で,全体の中で,位置づけなおす,ということは,意味を変えることかもしれない。意味が変わると,現実の見え方が変わり,行動の意味も変わる。

ジャウォースキーは,最終的に4つの原理にまとめる。

@宇宙には開かれた,出現する性質がある。
一連のシンプルな構成要素が,新しい性質を持った新しい統一体として,自己組織化という,より高いレベルで突然ふたたび現れることがある。そうした出現する性質について原因も理由も見つけることはできないが,何度も経験するうちに,宇宙が無限の可能性を提供してくれることがわかる。
A宇宙は,分割されていない全体性の世界である。物質世界も意識も両方ともが,分割されていない同じ全体の部分なのだ。
存在の全体は,空間と時間それぞれの断片―一つの物であれ,考えであれ,出来事であれ―の中に包まれている。そのため,宇宙にあるあらゆるものは,人間の意思やあり方を含め,ほかのあらゆるものに影響を及ぼす。なぜなら,あらゆるものは同じ完全なる全体の部分だからである。
B宇宙には,無限の可能性を持つ創造的な源泉がある。
この源泉と結びつくと,新たな現実―発見,創造,再生,変革―が出現する。私たちと源泉は宇宙が徐々に明らかになる中でパートナーになるのである。
C自己実現と愛(すなわち宇宙で最も強力なエネルギー)への規律ある道を歩むという選択をすることによって,その道では,数千年にわたって育まれてきた,いにしえの考えや,瞑想の実践や,豊かな自然の営みに直接触れる事から,さまざまな教えを受けることになる。

本物のリーダーシップとは,出現する場をうまく使って,新たな現実を生み出す技術だという。そして,あらわれることになっているものは,何を成し遂げるかを決めたときに初めて現れる。だから,自分の中から現れようとするものに,この世界の存在の過程に,耳を傾ける。世界によって支持してもらうためでなく,世界が望むとおりに世界を実現するために。

では,どうすればいいのか。マイケル・ポラニーは,そのプロセスをこうまとめている,という。

@ふとした折に,それとなく示される
 発見のプロセスは,見出されるべき問題がふとした折にそれとなく示されて,おぼろげに始まる。それは心の奥から沸き起こるぼんやりした声,すなわち「明確に言い表すことのできない衝動」であり,その衝動の中で,ほかの人が存在していることに気づきさえしない問題を感じ取ることになる。
A宇宙の意思によってヒューリスティックな情熱が引き起こされる
 最初に起きるぼんやりした暗示は,発見者によって,探究しようという固い決意へと変わる。これは使命,すなわち宇宙の意思によって突き動かされるヒューリスティックな情熱,自分自身より大きなものに身をゆだねるという行為へと進化する。
B身をゆだねること,奉仕する気持ち
 発見者は,現れようとしているものにいっそう近づくために,自分の現在の知から離れようとする。
C精力的に理解を深める人として内在する
 発見者は労苦を重ねることによって,心が整い,自分ではコントロールできない源泉から真実を受け取れるようになると信じて行動する。
D一歩下がることと突然のひらめき―恩寵
 探求は静かに時が流れたのちに終わりを迎える。ふいに恵治がって問題の解決策がもたらされる。
E試してみることと確認
 こうした勝利の閃光によってもたらされるものは,普通の解決策ではなく,まだ試していない方法に思い当ったにすぎない。

まさに,U理論のステップの,Uの谷の底の,「内在ひらめき」プロセスで,源泉とどう意思疎通するか,だ。

@全体を見渡す力 他の視点からの見方に,つまり別の現実があり得ることに心が開く。
Aメタファーの魔法 目の前の課題について認識される状況を,不可能と思われる状況から無可能な状況に変える。
B共鳴の役割 もともと別々だった二人の私が,共有される私になり,現実に対する認識や解釈を変えられるようになる。
C不確かさに身をゆだねる 不確定性とともに流れる。現実が望むように現実に現れさせる。
D概念的相補性についての論証 原子スケールでの波動・粒子の二重性が相補的であるように,その現実をその現実が望むように明らかにしなくてはならない。意識と源泉も相補的,相互重なりあって経験を生む。
E心のセルフマネジメント 心を鍛えるツールを使う。

ボームは,その人がたゆまぬ個人的鍛錬をするならば,人の肉体は,予期せぬ大量の情報の入り口になる,といっている。

ここでは,三つを挙げている。
ひとつは,世界はひらかれ,可能性にあふれていると考えることで,心のあり方が可能性へシフトする
いまひとつは,内面を鍛える。瞑想,観想,自然の中で過ごす等々
そして,即座に行動する勇気

結局,神秘的な「啓示」や個人的な瞑想的なものに丸められてしまっているのが気にいらない。それが大事だということは認めるにしても。

監訳者金井壽宏は,こうまとめる。

出現する未来を感じて,それを現実のものにしていく。そのような力が,ビジョンに向かって,人々を巻き込み,そのビジョンを実際に現実のものにしていくというリーダーシップの基盤にある。こうしたジャウォースキーのリーダーシップ論が通常のリーダーシップ論と大きく異なる点は,その一種の神秘的な性質にある。つながり合う人々の「出現する未来」への想いが強ければ,偶然も味方となり,いろいろな流れが絶妙のタイミングと組み合わせで合流する局面がある,とジャウォースキーは示唆している。

「源泉(ソース)」とは,ボームの言葉では,「内蔵秩序」である。リーダーシップ,チームワークがうまくいくとき,ひとつの意識として行動しているという感覚をもたらすものであり,個々のメンバーよりももっと「大きなもの」に結びついているという感覚をもたらすもの,と言えよう。

ボームの言う内蔵秩序というのは,境界や単独の存在を離れ,全体論や相互のつながりを指す。「非分離の分離」という。たとえば,音楽に夢中になっているとき,それを直接経験している。フロー状態もそれだ。バラバラでありながら,一つの感覚を同時に持つというのは,確かにまれだがある。

結局リーダーシップを,また特殊なものに還元しているとしか思えない。こんなことをしているうちに社会は動く。人は飢え死にする。リーダーシップをどこかカリスマ性へ戻そうとしているようにしか見えない。だとすれば,矛盾と腹立ちを覚えるだけだ。

参考文献;
ジョセフ・ジャウォースキー『源泉』(金井壽宏監訳 英治出版)
デヴィッド・ボーム『ダイアローグ』(金井真弓訳 英治出版)
マイケル・ポラニー『暗黙知の次元』(佐藤 敬三訳 紀伊國屋書店)

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齟齬をなくす


コミュニケーションにおけるわかりやすさとは,教科書風に言えば,次のようになる,らしい。

わかりやすさとは,相手に,賛成反対は別として,話し手が何をいっているかがいかに明確に伝わるかを意味している。それには,ふたつの切り口で整理する必要がある,とされる。

●必要なマインド,態度
 ・相手の立場を配慮する姿勢があること
 ・自分の理念,ポリシーが明確であること
 ・礼儀あるいは誠意があること
 ・情熱,熱意があること
 ・わかりやすい言葉遣いであること
 ・視野狭窄ではない広い視点をもっていること
 ・これしかないという思い込みがなく,選択肢のある,柔軟なものの考えができること
 ・情報収集,論拠がきちんとしていること
 ・自分のリズムだけでなく,相手との間合い,リズムにも配慮できること
 ・オープンマインとで,質問,疑問にも即応できること
 ・自己コントロールできていること

●内容と表現の工夫
 ・前後関係あるいは文脈を確認する 話の前後関係,背景,文脈の共有化がはかられている
 ・メッセージの主旨明快 5W1Hで,内容が筋道の通り,すっきりしていること
 ・一貫性 シーケンシャルな話の流れが,一筋明確で,たどりなおせる
 ・簡潔性 盛りだくさんにならず,負荷のかからない簡単明晰な短い言葉遣い。箇条書き,要約がある
 ・論理性 ロジカルであることの利点は,再現性,なぞることによる共有のしやすさにある

で,さらに,コミュニケーションにおけるわかりやすさの4要素とされるものがある。

@明快さあるいは簡潔さ〜伝わりやすさの工夫は,ポイントを最初に示す。言いたいことは3つ。
A共有性あるいはたどり直せる〜ロジカルである、筋がとおっている。後から検証できる
B理解しやすいあるいは把握しやすい〜構造として示す。図解して全体像を示す。
C言葉のやさしさあるいは独特の言い回しがない〜組織内や自分しか使わない言葉を使っていないか。

しかしこんな理想的なマインドと姿勢で,教科書通り表現できるなら,誰も,世の中これ程悩んだりはしまい。もうすこし自分流儀で,簡便なやり方を,実践的に考えてみたい。

そもそもコミュニケーションは自分の伝えたことではなく,相手に伝わったことが,伝えたことである,といわれる。まずは,相手に聞く姿勢になってもらうための準備作業がいる。それをセットアップというが,それを土俵をつくるというが,それが出来た上で,ではどうするか。

たとえば,何かを伝えたいのだとする。その場合,原則は三つだと思っている。

@自分が何を言おうとしているかが明確であること《指示内容の明確さ》(指示内容の明確性)
Aわたしはそう考える,わたしはそう思う,《発言主体を明確にする》(「私」の発言であることの表現)
B相手はどう受け止めているのか,《フィードバックをえる》(相手の「着信状態」を確認する)

まずは,雑談の場でなければ,誰かに言葉を発するのは,みずからの意思をキチンと伝えるためであることが多い。いくら内容が明確でも,意思のない言葉に力はない。意思の力とは,自己確信である。そしてそれが相手にどう伝わっているかを確かめつつ発信することができる必要がある。

そのためには,最低限,考えながら話さないこと。できれば,「言いたいことは,3つ」というように,最初に言いたいことを言い切ってしまって話し始める。ということは,事前に何を言いたいかが自分の中で整理できていなくてはならない。特に重要なことを伝えようとする時は。

信頼のバックボーンは,言葉である。といって怒りも腹立ちもなくすことはできない。なまじ「バカヤロー」と言いたい気持ちを隠すよりも,「ぼくは,バカヤローといいたい気分だ」「そう大声で怒鳴られると萎縮してしまいます」と,感情を言葉にするのも悪くない。これは前に触れた。感情的になるのと,感情を表現するのとは違う。

少なくとも,感情を言葉として表現することで,@自分の感情との間合いが取れる,A相手の感情とも距離を取れる。感情のやり取りを感情のぶつかりあいでなく,言葉によるコミュニケーションの土俵ができるような気がする。それがとっさの反応で怒ってしまうと,まあ身も蓋もなくなるのだが。

世の中に正解があると思うから,誰かの名を借りたりしたくなる。しかし正解はないとなれば,「僕は〜と思う」と言うことで,仮に「〜」が間違っていても,主観の器に乗っている以上,僕の意見に過ぎない。そういう責任の取り方はしなくてはいけない。リスボンシビリティとは「有言実行」と訳すと言った人がいたが,言ったことに責任を取るとはそういうことだ。

それでも,言えばいいというものではない。大事なのは,内容や「私」の主観的な発信が,独りよがりにならず,相手に伝わっているかどうかを確かめられるのがいい。自分の言うことに対して,相手がどんな身振り,手振り,感情,言葉等々から,相手がどう受け止め,どう感じ,どう理解してくれているかを推し量ることができることである。

とはいえ,こういうところに名人芸はいらない。出来るなら,フィードバックを,言葉でもらうのが一番いい。伝わったことをストレートに返してもらいにくければ,「どう思った?」「どう感じた?」と,感想でも,印象でもいい。それで初めて,同じ土俵で,そのことについて語れるだろう。

口頭のメッセージは歩留り25%と言われる。どっちにしたって歩留りは悪い。それなら,それが30%になったら御の字ではないか。

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30秒ルール


ミーティングとか話し合いというのが,大事には違いないが,別の視点からそれを考えてみたい。

たとえば,チームのコミュニケーションといった場合,それには,いくつかのレベルがある。

たとえば,他部門や上位部門を含めた組織内のタテ,ヨコのコミュニケーションのレベルや仕組みがあることが前提になるが,チーム内には3つのコミュニケーションのレベルがあると思う。

@チーム全体としてのコミュニケーション
 チームは何をするためにあるのか,そのために何をするのかという,目的や方向性を確認し,そのために,ひとりひとりが何をするのかを確認し,すりあわせ,フォローしていくレベルである。
A業務遂行レベルでのコミュニケーション
 仕事を現実に遂行していく上で,上司とメンバー,メンバー同士,場合によっては,他チームや上位者とのコミュニケーションを,日々,年度を通してしていくレベルである。たとえば,チームのおかれている状況認識の刷り合わせ,正確な情報の共有,問題意識の共有,ノウハウ,知識・経験の共有化。そのために報連相,ミーティング,打ち合わせ等々。
B個々のメンバー同士の一対一のコミュニケーション
 必ずしもインフォーマルだけではなく,仕事の上でも,私的に問題意識を交換したり,雑談したりするコミュニケーションのレベルである。たとえば,日頃からキャッチボールの機会を確保し,問題意識をすりあわせられる。懇親,親睦の他,何気ない会話のできる職場の雰囲気づくり等々。

チームのリーダーにとって,チーム全体のコミュニケーションと業務遂行レベルのコミュニケーションがなくては,チームとして機能しない。もちろん,雑談や喫煙ケージでの会話というのは重要ではあるが,チームとしてのコミュニケーションの土俵があってこそ意味がある。

その意味で,リーダーと部下全体,リーダーと部下ひとりひとり,部下同士のコミュニケーションをするための,お互いが何について話しているかを共有できている場,それを土俵と呼ぶとすると,それにはふたつある。

●上司と部下,先輩と後輩,同僚同士といった,役割に基づくコミュニケーションの状況(機会)づくり。
●そのつど,その場その場の,私的コミュニケーションの場づくり。

コミュニケーションのレベルと関連づけると,前者が,チームレベルや業務遂行レベル,後者が一対一レベルにあたる。チームレベルや業務遂行レベルでのコミュニケーションがなければチームとならない。しかしチームメンバーひとりひとりが何をしているのか,何を考えているのか,何を思っているのかを知らなくては,ひとりひとりの仕事をただ足しただけの集団になる。もちろん,ふたつの土俵が別々に必要というわけではない。一緒に役割を果たすこともあるし,別々に設定しなくてはならないこともある。ただ,チームには,この両輪のコミュニケーションが必要なのである。

つまり,コミュニケーションの機会はさまざまあるが,そのつど何のためにそれをするのかという目的意識を明確にもち,それを相手にも伝えなければ,単なる情報のやり取りで終わる。当然ミーティングの目的と立ち話の目的は違う。

しかし,一番効果のあるのは,意図のない会話を,意図を持ってやることだと思う。

それは,日々何気ない立ち話をすること,それをどう意識的なコミュニケーションの手段にするかだ。

例えば,上司が,日に何度も,「どう?うまくいってる?」とか,「必要があったらいってね?」などと声をかける,とする。そうすれば,初めはうるさく感じても,少なくとも,上司が自分を気にかけてくれていることだけは伝わる。ある調査では,部下との接触頻度が3回以上接触あると,親しみを感じるというデータもある。

それを,いわば,相手との土俵づくりのきっかけにするのである。後は,日に何度か,立ち話で,情報交換ができるようになればいい。形式ばった報連相とは別に,私的に報連相を重ねられるようになるだろう。信号待ちの30秒程度の立ち話でも,積み重ねることで,十分相手とジョハリの窓でいうパブリックを広げることはできるのである。

立ち話のいいところは,相手が身構えをするいとまがないうちに,話をするところだ。この場合,土俵を考える必要がない,というところだ。一緒に話をするためのセットアップのようなものがないと,話したけど聞いていないということが起きる。しかし立ち話というか,すれ違いざまの会話は,そもそもそういうことを必要としない,ある意味,世間話程度,声掛けの延長だと思っていればいい。だから,相手も,身構えを捨ててくれる(かもしれない)。

ザイアンスの法則ではないが,単純接触効果というのも,馬鹿にはならない。その意味で,すれ違いざまに,「どう?」と声をかける。信号待ちの30秒でも相当の会話はできるのではないか。

そんなことを考えていたら,グラッサーがこんなことを書いていた。

余りにも多くの教師や上司は,生徒や部下に対して,温かく,友好的に,そして支援的に接することがどれほど必要であるか分かっていない。これは手間のかかることではない。一日に数分,相手を注目するだけで,すばらしい効果があらわれる。
まさにそれを行動で示すだけだ。

参考文献;
ウイリアム・グラッサー『選択理論』(アチーブメント出版)

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「ぶれない軸」幻想


人は文脈に依存して生きている。またさまざまな役割を使い分けて生きている。軸とは何かがよく分かっていないが,ぶれないということをよしとする考え方には賛成できない。返って,生きにくいというか,適応性のなさを露呈しそうな気がする。

そう思っていたら,西垣さんが,小説家の平野敬一郎の『私とは何か』を引用しながら,こんなことを書いていた。

個人とは「西洋文化に独特のもの」であり,それをもたらしたのは「キリスト教(一神教)の信仰」と「論理学」だと平野はいう。一たる神に対しては,終始,一貫性のある「本当の自分」が向きあわなくてはならない。また,論理的にカテゴリーをわけていくと,動物があり,人間があり,国民があり,男女があり,ついに最小単位として一つの肉体をもつ「個人」ということになる。(中略)
個人のかわりに平野が主張するのは「分人」だ。「一人の人間は『わけられないindividual』存在ではなく,複数に『わけられるdividual』存在である。だからこそ,たった一つの『本当の自分』,首尾一貫した『ブレない』本来の自己などというものは存在しない」と,平野は言い切る。

人との関係の中で人は生きている。人とのリンクの結節点として生きる。とすれば,相手に応じて,親になり,子になり,友になり,部下になり,上司になり,客になり,サプライヤーになり,と変わっていく。その中でいる自分でしかありえない。頭で考えた自分ではなく,そういう生きた関係の中にいる自分こそが自分であり,その振れ幅分だけ,自分の多様性と柔軟性がある。

クライアントの前のコーチとしての自分と,子の前の親としての自分が,軸がぶれなかったとしたら,その人は人間ではない。そのぶれる幅が自分でわかっていること,意識できていることは大事かもしれないが,終始一貫,変わらないとしたら,たぶん適応障害を起こしているはずだ。

ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)価値観
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)姿勢
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)自信
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)ものの見方
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)愛情
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)コミュニケーションスタイル
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)夢一直線
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)目的
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)ゴール
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)確信
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)生き方
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)好み
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)生活スタイル
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)生活基盤
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)生活環境
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)人間関係
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)友情
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)体形
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)自己認識
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)エネルギー
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)熱意
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)方向性
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)リーダーシップ
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)ミッション
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)戦略
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)強み
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)性格
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)目利き
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)感性
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)眼力
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)批判力

等々と挙げてみると,変わらないのがいいとされるものもあるかもしれない。しかし,あえて言うと,人は変化し,成長する。成長したステージにいてもなお,まだ,前のミッションに拘泥するとしたら,それはそれで自分の使命を見失っているということになりかねない。

また自分のシチュエーションも,おかれる位置も,時々刻々変化し続けているはずである。

人は成長し,変化する。変化とは,

前の自分より大きくなること,
自分を脱ぎ捨てて脱皮すること,
以前の自分を置き残して前へ行くこと,

つまり,以前の自分の軸とは変わっていなくてはおかしい。軸がぶれないとは,成長していないということの証,頑迷固陋の証,固定観念に執着する証なのかもしれないのだ。

あるいは,ぶれるから人間なのではないか。様々な人と会い,様々なシチュエーションにもまれ,ああでもないこうでもないと迷う。ぶれる,振れる。だから人間で,その振れる幅の分だけその人の経験が大きく,閾値が高いと言えるのではないか。軸がぶれないという喩えは,機械にはいいが,人には適さない。

参考文献;
西垣通『集合知とは何か』(中公新書)
平野敬一郎『私とは何か』(講談社現代新書)

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期待はコントロールできない


期待は,自分で望めない。相手が勝手に期待し,無期待外れを起こす。これが困る。

ネットを見たら,期待をこう整理していた。

●「将来・理想などにかかわる期待」として,希望・願い・願望・希望的観測・予感・与望(を担う)・心待ち(にする) ・心づもり等々
●「儲け・利得などにかかわる期待」として,思惑・甘いユメ・そら頼み・目算・夢想・見込み・当て・予期する・取らぬタヌキの皮算用・思い入れ 等々
●「(良好な進展・好都合の返事などが)期待できる」として,手ごたえ・脈がある・望みがある・楽観できる・成算がある・(効果が)見込める・現実味を帯びる・確かな感触を得る・霧が晴れる 等々
●「(成長・活躍などが)期待できる」として,見どころのある・(末)頼もしい・成長株・有望株・新進気鋭・前途洋々・大器晩成の〜等々
●「期待を持たせる」として,気を持たせる・相手の気持ちを)くすぐる・思わせぶりな態度・空手形を振り出す・リップサービス等々

と上げていた。ここにあるには,こうあるべきだ,こうなるはずと,思い込んでいることを指す。まあ,それが自分に関わることなら,自分がそのつけを払い,めげたり,自己嫌悪に陥るだけなので実害は,他には及ばない。

しかしよく言うのは,ひとに,(多くは,子供や部下や,といった目下の者に)「期待しているよ!」と,まあ本人は,励ましのつもりか,本心で信じているかは別として,そういわれた側は,相手が親や上司だった場合,プレッシャーを感じる。

よく言われるように,本人の望まないアドバイスは,説得(あるいは陰に命令)という。つまりは,「こうしろ」といっているようにしか聞こえない,と。

それをもじれば,本人の求めていない期待は,単なる負担であり,プレッシャーでしかない。つまりは,「当然できるものと思っているよ」「当然やるはずだよな」「やってくれなくてはな」「やれ」と言っているようにしか聞こえない。

なぜこんなことが起きるのか。

もともと期待は,期待する側が,勝手に自分の思いを相手に託して,相手の像を作り上げているからだ。その像は,期待される側とすりあわされてはいない。期待する以上,

自分が相手に何を求めていて,
そして相手にはそれをする力がある(あるいは,ここでそれにチャレンジするには,いい機会だ)
同じ状況に自分もある(あるいは,ぼくも同じチャレンジの場だ)

等々と,期待している側が,自分の思っていることを伝えなくては,その期待されている側には,相手の思い入れに反駁したり,反論したり,軌道修正を加える機会が持たれないまま,期待の負荷を背負わされて,挙句の果てに,結果だけで,勝手に期待外れを起こされても困るのだ。

期待というのは,両者の立場の相違が最も出るものだと思っている。上司と部下,親と子,いずれも,心底相手ができると思っている場合も,そう思っていることをきちんと伝えなければ,「できない」「でるはずない」(と思い込んでいる)自分にとっては,期待はただの重荷でしかない。肝心のことを言わないで,期待の空手形を振り出されると,それだけで,不渡りにしそうで,相手への信頼や尊敬や敬愛の気持ちがあればあるほど,その期待を重荷に感じ,「何とかしなくては」「何かとか応えなくては」と,プレッシャーに押しつぶされる。

この時,相手に,自分が心の底から信じていて,「仮に今回できなくても,次への大きなステップになるはずだと信じている」とまで,言葉にして伝えていれば,プレッシャーではなく,自尊感情と自分への自信が,期待に応える力を発揮させるかもしれない。そこで必要なのは,コーチングでいう承認であり,認知なのではないか (http://ppnetwork.c.ooco.jp/prod06431.htm#%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%81%AE%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB)。

確かに,事実としての「できていること」を承認することも大事だが,特に,その人の持っている可能性や潜在力を強く指摘し顕在化させる認知も重要になる。

そういう両者のコミュニケーションの場として(http://ppnetwork.c.ooco.jp/prod06461.htm#%E8%81%B7%E5%A0%B4%E3%81%A7%E5%8A%B9%E6%9E%9C%E7%9A%84%E3%81%AA%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%82%92%E3%81%A9%E3%81%86%E5%AE%9F%E8%B7%B5%E3%81%99%E3%82%8C%E3%81%B0%E3%81%84%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%8B%E2%85%A0),

ジョハリの窓を念頭に置くといいと,いつも思っている。自分の認めていることと相手の認めていることをすりあわせた「パブリック」づくりを日々意識していれば,期待へのプレッシャーも期待外れも起きないですむはずだ。

期待は所詮,一方的な思い入れで,期待されている側はコントロールできない。

「こうあるべきだ」
「するべきだ」
「せねばならぬ」
「こうならなければ」
「こうなるはずだ」
「するのが当然だ」
「する必要がある」

と思っていても,それが自分にとって当たり前でも,相手にとっては寝耳に水かもしれない。それを忘れると,期待外れから,両者の齟齬は拡大する一方になる。

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待つことについて


ずっと何かを待っている,ということはないか。ゴドーを待ちながら,というのを観た時,自分が待っているのが,神でも人でもなく,単なる僥倖のような気がして,待つのをやめようと思った記憶がある。

爾来,というかもともとというべきか,待つのが嫌いである。並ぶことも嫌いである。むしろ,並んでいるような店は避ける。評判や世評に乗せられるのを潔しとしない。それは,自分の判断の放棄である。そういう好奇心は,他力の好奇心である。自分の感覚と感性で,失敗しながら,探っていく。

意味なく行列をつくる。意味なく,待つ。診察を待つ,ラーメン屋で待つ。入場を待つ。有名店で並ぶ。死ぬのを待つ。その間も時間は過ぎていく。

確か秋元康は,人生は,電話に差し込んだままのテレフォンカードと同じだと言った。話をしようとしまいと,度数はどんどん減っていく。定められた寿命がどのくらいなのか,確か落語の『死神』で,自分のろうそくを見るというのがあった。ネットで見ると,こう紹介されている。


何かにつけて金に縁が無く、子供に名前をつける費用すら事欠いている主人公がふと「俺についてるのは貧乏神じゃなくて死神だ」と言うと、何と本物の死神が現れてしまう。仰天する男に死神は「お前に死神の姿が見えるようになる呪いをかけてやる。もし、死神が病人の枕元に座っていたらそいつは駄目。反対に足元に座っていたら助かるから、呪文を唱えて追い払え」と言い、医者になるようアドバイスを与えて消えた。

ある良家の跡取り娘の病を治したことで、医者として有名になった男だが『悪銭身に付かず』ですぐ貧乏に逆戻り。おまけに病人を見れば死神はいつも枕元に・・・とあっという間に以前と変わらぬ状況になってしまう。困っているとさる大店からご隠居の治療を頼まれた。行ってみると死神は枕元にいるが、三千両の現金に目がくらんだ男は死神が居眠りしている間に布団を半回転させ、死神が足元に来たところで呪文を唱えてたたき出してしまう。

大金をもらい、大喜びで家路を急ぐ男は途中で死神に捕まり大量のロウソクが揺らめく洞窟へと案内された。訊くとみんな人間の寿命だという。「じゃあ俺は?」と訊く男に、死神は今にも消えそうなろうそくを指差した。曰く「お前は金に目がくらみ、自分の寿命をご隠居に売り渡したんだ」。ろうそくが消えればその人は死ぬ、パニックになった男は死神から渡されたロウソクを寿命に継ぎ足そうとするが……。


ろうそくの火は,燃え続けている。休む間もなく,限界まで燃え続けて,いずれ消える。その間,無駄に何かを待つなら,それはテレフォンカードと同じことだ。まずは,自分から迎えに行かなくてはならない。何を?未来の自分を,だろう。あるいは,ジョセフ・ジャウォースキーの「出現する未来」に倣うなら,出現する自分と言ってもいい。

いまの自分を,いま,ここに置き残して,一刻一刻と前へ出る。自分を時に刻み付けて,ひとつらなりに流れとなって,次の自分にたどり着く。あるいは,ヤドカリが自分の将来の住み処を,大きめの貝殻に託すように,大きめの自分にたどり着く。

一期にして
ついに会わず
膝を置き
手を置き
目礼して ついに
会わざるもの(「一期」)

とは,ひょっとすると,相手との邂逅ではなく,自分との邂逅なのかもしれない。自分に出会い,そこから,また別れて,新たな自分に出会う。エンカウンターとは,自分と仮設の時間と空間で出会う。しかし,その場を難れると,元の木阿弥になるのは,それが自分の姿勢にまで,マインドセット化されていないからだ。

私は私に耐えない
それゆえ私を置き去りに
する
私は 私に耐えない それゆえ
瞬間へ私を置き去りにする
だが私を置きすてる
その背後で
ひっそりと面をあげる
その面を(「置き去り」)

これは,逃げただけだ。その自分も含めて,自分として受け入れなければ,たぶん背後霊のように付きまとわれるだろう。そこには前進はなく,一歩前進二歩後退が続くだけだ。

生きるとは,そうやって,自分の位置を変えていくことだ。

生きるとは 位置を見つけること あるいは 位置を踏み出すこと そして 位置をつくりだすこと 出なくてはならない。

だからこそ,最後にどういう位置にいて,どこに立つかが問われる。

かぎりなく
はこびつづけてきた
位置のようなものを
ふかい吐息のように
そこへおろした
石が 当然
置かれねばならぬ(「墓」)

最後にどういう位置にいるのかも,自分で決めなくてはならない。自分の物語のエンディングをどうするか,それがHappy ending にしろ,Sad endingかBad endingかは知らないが,それは自分で決められる。そこから,また新しい物語が始まる。

私はほとんどうかつであった
生の終わりがそのままに
死のはじまりであることに
死もまた持続する
過程であることに
死もまた
未来をもつことに(「はじまる」)

だから,待つのはやめる。並ぶのもやめる。それは他力にゆだねることだ。自分の時間をいつも自分のコントロールできるところに置いておこう!

参考文献;
石原吉郎『石原吉郎全詩集』(花神社)
ジョセフ・ジャウォースキー『源泉』(英治出版)

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横井小楠T


横井小楠については,概略は,

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E4%BA%95%E5%B0%8F%E6%A5%A0

で知っていただくとして,「今までに恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠と西郷南洲とだ」と勝海舟は「氷川清話」で述べていることから紹介しておきたい。さらに「横井の思想を西郷の手で行われたら敵うものはあるまい」とも述べている。妹婿の佐久間象山ではなく,小楠を挙げているところが海舟らしい。

坂本龍馬の船中八策も由利公正(三岡八郎)の五箇条の御誓文も,元は横井小楠にある。坂本の師匠勝海舟とは,肝胆相照らす間柄で,坂本も勝の使いで何度も,熊本に蟄居中の小楠をたずねている。由利は,小楠が越前に招聘された折,立てた殖産興業策に触発され,横井から財政学を学び,藩札発行と専売制を結合した殖産興業政策で窮乏した藩財政を再建する。

その由利と龍馬は気が合い,2度目の福井来訪時,早朝から深夜まで延々日本の将来を語り合ったという。背後の小楠の思想が,生かされている。明治新政府に召されたのも故なしとしないが,ために暗殺されることになった。

ついでながら,横井小楠については,松浦玲『横井小楠』(筑摩学芸文庫)を読んでほしい。本文の倍の注が,この本自体のもつ,通常の伝記ものとは異なる破格の熱が伝わってくる。因みに,松浦の『勝海舟』もいい。海舟全集を編集しただけに,細部がよく見えている。それに『坂本龍馬』もある。

小楠は実践家なので,学問も,政治としての実践論になっている。ここでは,小楠の思想をふれるには力量不足なので,その講義の一端と,自分の好きな詩を紹介してお茶を濁す。一回でまとめようと思ったが,長くなりすぎたので,二回にわける。

学問の学び方が,実にユニーク。実学と称されただけのことはある。

学の義如何,我が心上に就いて理解すべし。朱註に委細備われとも其の註によりて理解すればすなわち,朱子の奴隷にして,学の真意を知らず。後世学者と言えば,書を読み文を作る者を指していうようなれども,古えを考えれば,決して左様な義にてはなし。堯舜以来孔夫子の時にも何ぞ曾て当節のごとき幾多の書あらんや。且つまた古来の聖賢読書にのみ精を励みたまうことも曾て聞かず。すなわち古人の所謂学なるもの果たして如何と見れば,全く吾が方寸の修行なり。良心を拡充し,日用事物の上にて功を用いれば,総て学に非ざるはなし。父子兄弟夫婦の間より,君に事え友に交わり,賢に親づき衆を愛するなり。百工伎芸農商の者と話しあい,山河草木鳥獣に至るまで其の事に即して其の理を解し,其の上に書を読みて古人の事歴成法を考え,義理の究まりなきを知り,孜々として止まず,吾が心をして日々霊活ならしむる,是れ則ち学問にして修行なり。堯舜も一生修行したまいしなり。古来聖賢の学なるもの是れをすてて何にあらんや。後世の学者日用の上に学なくして唯書について理会す,是れ古人の学ぶところを学ぶに非らずして,所謂古人の奴隷という者なり。いま朱子を学ばんと思いなば,朱子の学ぶところ如何と思うべし。左なくして朱子の書につくときは全く朱子の奴隷なり。たとえば,詩を作るもの杜甫を学ばんと思いなば,杜甫の学ぶところ如何と考え,漢魏六朝までさかのぼって可なり。且つまた尋常の人にて一通り道理を聞きては合点すれども,唯一場の説話となり践履の実なきは口耳三寸の学とやいわん。学者の通患なり。故に学に志すものは至極の道理と思いなば,尺進あって寸退すべからず。是れ眞の修行なり。

「朱註に委細備われとも其の註によりて理解すればすなわち,朱子の奴隷にして,学の真意を知らず」とは厳しい。誰それの解釈や解説を読んだのでは,その奴隷と言い切っている。
「後世の学者日用の上に学なくして唯書について理会す,是れ古人の学ぶところを学ぶに非らずして,所謂古人の奴隷という者なり。いま朱子を学ばんと思いなば,朱子の学ぶところ如何と思うべし。左なくして朱子の書につくときは全く朱子の奴隷なり」とも言う。これと同じことを,王陽明も『伝習禄』の中で触れていた。つながるのかもしれない。

彼は講義中にメモを取ることを禁じた。それは,小楠の言うことをそのまま書き取ったのでは,小楠の奴隷になるだけだ。その都度,自問自答しつつ,考えることを求める。

学ぶとは,書物や講学の上だけで修行することではない。書物の上ばかりで物事を会得しょうとしていては,その奴隷になるだけだ。日用の事物の上で心を活用し,どう工夫すれば実現できるのかを考える,そのまま書きとめるのではなく,おのれの中で,なるほどこのことか,と合点するよう心がけるが肝要だ。合点が得られたときは,世間窮通得失栄辱などの外欲の一切を度外視し,舜何人か,沼山何人かの思いが脱然としておこる,この学問にはまりこみ,日用実用の上でどう力行するかを工夫する,その修行なのだ,という。小楠の奴隷になのではなく,おのれの合点を得て,世の中に,おのれの工夫を実現せよ,それには日々,一刻一刻が,そのときだと心得よ,という趣旨であった。

「且つまた古来の聖賢読書にのみ精を励みたまうことも曾て聞かず。すなわち古人の所謂学なるもの果たして如何と見れば,全く吾が方寸の修行なり。良心を拡充し,日用事物の上にて功を用いれば,総て学に非ざるはなし」とは,実践家らしい。

 朋有り(これは論語の「朋有り,遠方より来る」云々を指す),この義は学問の味を覚え,修行の心盛んなれば,吾がほうより有徳の人と聞かば,遠近親疎の差別なく,親しみ近づきて話し合えば,自然と彼方よりも打ち解けて親しむ,是れ感応の理なり。此の朋の字は学者に限らず,誰にてもあれ其の長を取りて学ぶときは世人皆吾が朋友なり。憧々として往来するの謂いにあらず今一際広めていえば,幕府より米利堅に遣わされし使節を米人厚くあしらいし其の交情の深さにても考え思うべし。是れ感応の理なり。此の義を推せば,日本に限らず世界中皆吾が朋友なり。

日本に限らず世界中皆吾が朋友なり。この言,二人の甥を龍馬に託して洋行させる折送った,有名な送別の詩

堯舜孔子の道を明らかにし
西洋器械の術を尽くさば
なんぞ富国に止まらん
なんぞ強兵に止まらん
大義を四海に布かんのみ

の満々たる楽観主義を思わせる。和魂洋才などという縮んだ諭吉の思想とは全く違う。「大義」と言っているところがポイントだ。「大義」を第二次大戦下のおためごかしのスローガンと同じにしてはならない。堯瞬の理想主義を高々と掲げてはばからない。彼には,国権主義とは無縁なのだ。だから楽観主義という。この高らかな楽観主義は,暗殺で,ついに政策に反映されることはなかった。この精神は,五箇条の御誓文の精神と通底している。因みに,五箇条とは,以下のものだ。

一,広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ 
一,上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一,官武一途庶民ニ至ルマデ各其ノ志ヲ遂ゲ,人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス 
一,知識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

長所短所についても,面白いことを言っている。

長所短所といっても,右と左というようにはっきり区別されたものならば,そういうやり方もあろうが,長所短所はつながりあっていて,しっかり区別はつかない。たとえば,火は燃えるが故に種々利用されるが,その長に任せて制するところがなければ,家も宝も焼き尽くしてときには人の命もそこなうことになる。水も物を潤す性あるものの溢れるときは害をなす。これ長に短あるところ,物みなそうである。人にありても進取的な人は退き守るに短なるがために,手前に過を取ることがあり,退守的な人は進み取るに短なるために機を失することが多い。

横井の「堯舜孔子の道を明らかにし」という楽天主義について,渡辺京二は,神風連の生みの親,林櫻園と対比して,こう批判している。

国民攘夷戦争(幕末の攘夷熱のときに決戦を唱えた)の主張から全人間界の出来事の放棄(晩年厭世的になり神事に専念するようになる)にいたる櫻園の思想的道すじは,彼がヨーロッパ文明の圧倒的な侵蝕力を鋭く感知し,この異種文明との出会いがわが国の伝統的文明を運命的に脅かさずにはいないことを見抜いていたところから,生まれたもののように見える。たとえば開国論者横井小楠には,「堯舜孔子の道を明らかにし/西洋器械の術を尽くさば/なんぞ富国に止まらん/なんぞ強兵に止まらん/大義を四海に布かんのみ」という有名な詩があるが,櫻園にいわせればこれはとほうもない誇大妄想というものであったろう。ヨーロッパ文明との接触はそれから「器械の術」だけをいただけばいいようなものではなく,小楠にとっての「大義」すなわち「堯舜孔子の道」を必然的に崩壊させずにすまぬことであることを,彼はおそら洞察していた。

しかしこれは本人の言うように,「深読み」に過ぎない。楽天家とは,小楠へのほめ言葉に過ぎない。

所詮シニカルな現実主義者は,神の世界に逃避し,途方もない楽天家は,最後まで現実的であった。シニカルな評論家が,自分の血を流すことは,決してない。櫻園は畳の上で往生し,小楠は,京都の寺町丸太町の路上で襲撃され,小刀の刃が刃こぼれするほど敵と戦い,首を刈られた。
僕はシニカルな現実主義者を信じない。恐らく評論家でしかない。それを擁護するものもまた評論家でしかないのだ,と経験則から学んでいる。

参考文献; 
野口宗親『横井小楠漢詩文全釈』(熊本出版文化会館)
山崎正董『横井小楠』(明治書院)
松浦玲『横井小楠』(ちくま学芸文庫)
渡辺京二『神風連とその時代』(洋泉社)

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横井小楠U


僕の好きな小楠の言葉は,これだ。

本当の小人,姦人というのは百人にひとりもいない。その他は皆人としてたりないところがあるにすぎない。それをすぐ小人,姦人とけなし,よいところをみてやらず,欠点のみ責めるのは,その責めているほうこそが小人なのだと思い知らねばならぬ。小人をもって小人を責むるということです。

「小人をもって小人を責むる」とは,痛い。子曰く,君子は諸(これ)を己に求め,小人は諸(これ)を人に求む,と。おのれを知らないのと,相手を知らないのとは,丁度裏表ということか。そして,こう言う。

人材には、上中下とある。高い節操、篤行があり、才智が深く、道理を外さず臨機応変に対処できるものが上材、才識が秀で英邁豪俊ではあるが、行いを慎んだり、大事を取れぬものは中材、諄諄としてしきたり墨守し、智力で臨機応変に対応できぬものは下材、下材ではものの役に立てぬ。上材は、百世に一人現れるもので、中材の異能のものこそが役に立てるものだ。いまはその中材の抜擢すら慣例にとらわれていて、登用される道が閉ざされているが、この混迷の時代、中材こそが有用な人材になりうる,と。

こうした人材観の背景にあるのは,

人は三段階あると知るべし。天は太古から今日に至るまで不易の一天である。人は天中の一小天で、我より以上の前人、我以後の後人とこの三段の人を合わせて一天の全体をなす。故に我より前人は我前生の天工を享けて我に譲れり。我これを継いで我後人に譲る。後人これを継いでそのまた後人に譲る。前生今生後生の三段あれども皆我天中の子にしてこの三人あって天帝の命を果たすものだ。孔子は堯舜を祖述し、周公などの前聖を継いで、後世のための学を開く。しかしこれを孔子のみにとどめてはならない。人と生まれては、人々皆天に事(つか)える職分である。身形は我一生の仮託、身形は変々生々してこの道は往古以来今日まで一致している。故に天に事えるよりのほか何ぞ利害禍福栄辱死生の欲に迷ふことあろうか,

という,天を意識し,連綿と続く歴史の一端を担っているという自覚だ。先人の背に乗って,後世へとつないでいく。その眼から見れば,異国を「夷狄」と呼ぶ攘夷の風潮が,小楠には相対化される。

中国にとって我国が東夷とよばれたように、みずからを中華とみなさねば、そうは呼べない。では、彼らにとって、われらはどう見えるのか、大洋を押し渡ってきた彼らにとって、われらはちっぽけな島国でしかない。彼らにとって、われらこそが夷狄かもしれない。では、なぜ国を開くのか、国を開くことで、一国の中で堅持された仕組みは崩れる。いま起きていることは、いままでこの国を動かしてきた偉い人たちが、この事態に対処できない周章狼狽ぶりをさらけ出し、国の政事を果たしていけぬことを世間に知らしめたにすぎない。

道は天地の道なり。わが国の、外国のということはないのだ。道のある所は外夷といえども中国なり。無道になるならば、我国支那といえどもすなわち夷なり。初めより中国といい夷ということはない。国学者流の見識は大いに狂っている。だから、支那と我国とは愚かな国になってしまった。亜墨利加などはよく日本のことを熟視し、決して無理非道なことをなさず、ただわれらを諭して漸漸に国を開くの了簡と見えた。猖獗なるものは下人どもだけだ。ここで日本に仁義の大道を起さなくてはならない、強国になるのであってはならない。強あれば必ず弱あり、この道を明らかにして世界の世話やきにならにはならねばならぬ。一発で一万も二万も戦死するというようになることは必ずとめさせねばならぬ。そこで我日本は印度になるか、世界第一等の仁義の国になるか、この二筋のうちしか選択肢はない。

そして異国との対応のあり方を,こう説く。常に,天が意識されている。

天地仁義の大道を貫く条理に基づかねばならぬ。すなわち、有道の国は通信を許し、無道の国は拒絶するのふたつだ。天地には道理がある。この道理をもって説諭すれば、夷狄禽獣も従う。

応接の最下等は、彼の威権に屈して和議を唱えるもの。これは話にならない。結局幕府はこれを取った。次策は、理非を分かたず一切異国を拒否して戦争をしようとするもの。これが攘夷派の主張だ。長州が通告なく通過する艦船を砲撃したのはこれだ。これは天地自然の道理を知らないから、長州がそうなったように、必ず破れる。第三策は、しばらく屈して和し、士気を張ってから戦おうというもの。水戸派の主張だ。これは彼我の国情をよく知っているようだが、実は天下の大義に暗い。一旦和してしまえば、天下の人心怠惰にながれ、士気がふるいたつことなど覚束ない。最上の策は、必戦の覚悟を固め、国を挙げて材傑の人を集め政体を改革することである。天下の人心に大義のあることを知らせ、士気を一新することである。我は戦闘必死を旨とし、天地の大義を奉じて彼に応接する道こそが、義にかなうはずだ。

この第三策は,勝海舟の考えでもあった。家茂も慶喜も,幕閣もこ,徳川幕府という体制の維持に汲々として,国としての覚悟を決断しなかった。小楠は大政奉還を聞いて,松平春嶽に,こう建策している。

第一に、議事院を建てられるべきこと。上院は公武御一席、下院は広く天下の人材を御挙用のこと。第二に、皇国政府相立った上は、金穀の用度一日もなくてはすまぬ。勘定局を建てられ、五百万両くらいの紙幣をつくり、皇国政府の官印を押し通用するようにすべきこと。第三に、一万石につき百石の拠出を求め、新政府の収入とすること。第四に、刑法局を建てられるべきこと。第五に、海軍局を兵庫に建てられるべきこと。関東諸侯の軍艦を集め、十万石以上の大名から高に応じて人数を定めて兵士を出さしめ、西洋より航海師ならびに指揮官を乞い、伝習させる。第六に、兵庫開港期限が迫っている。国体名分改正の第一歩なれば、旧来の条約中適中せざるを一々改正し公共正大百年不易の条約を正むべし。第七に、外国は交易、商法の学があり、世界物産の有無を調べ、物価の高低を明らかにして広く万国に通商している。そうした熟練に対して、我国は拙劣であり、大人と子供のようなものだ。彼らが大奸をなす所以である。十余年来交易において我国大損たるは明らかである。これより外国に乗り出すにあたっては、まず魯、英、佛、墨、蘭に日本商館を建て、内治においては、商社を建て、兵庫港であれば、五畿内、四国、南海道は、大名ばかりでなく、小人百姓も共望によってその社に容れ、同心して共に舟を仕立てて乗り出し交易すべし。

小楠の中の,ありうべき国家像は,この後,さらにブラッシュアップし,実践される機会が与えられないまま,潰えた。しかしここにあるのは,清潔感だ。義であり,天であり,という言い方を今風に変えれば,絶対に譲れぬ価値を見据えているといっていい。それは徹底している。

その小楠に,こういう詩がある。小楠の判断の一端を知ることができる。

彼を是とし又此を非とすれば
是非一方に偏す
姑(しばら)く是非の心を置け
心虚なれば即ち天を見る

心虚なれば即ち天を見る
天理万物和す
紛々たる閑是非
一笑逝波に付さん

衆言は正義を恐れ
正義は衆言を憎む
之を要するに名と利
別に天理の存する在り

是非の二者択一ではない視点をいつも持つ,小楠はしたたかな政治顧問であった。小楠が,松平春嶽のブレーンであった時,最も松平春嶽が輝いていた。その間,藩レベルで,こうすれば民が肥え,結果として藩が豊かになるという殖産政策を実施した。なかなか端倪すべからざるコンサルタントでもある。ついに国レベルで,実践する機会に恵まれないまま殺された。

酒席に,肥後勤王派の襲撃を受けた折,士道に悖る行為があったとして,知行召し上げ士席剥奪の処分を受け,熊本郊外の沼山津に逼塞していた時,こう読んだ。

心事分明にして疑う所無く
四時佳(か)興(きょう)坐(そぞろ)に卮(さかずき)を傾く
此の生一局既に収め了(おわ)り
忘却す人間(じんかん)の喜と悲とを

なかなかどうして,こんな達観した御仁ではない。この間,井上毅と対話した(というより喧嘩別れした対談)で,こういっていた。「凡そ我が心の理は六合に亘りて通ぜざることはなく,我が惻怛の誠は宇宙間のこと皆是れにひびかざるはなき者」と,昂揚した言い方をしていた。まだまだ意気軒昂であった。

人君なんすれぞ天職なる
天に代わりて百姓を治ればなり
天徳の人に非らざるよりは
何を以って天命に愜(かなわ)ん
堯の舜を巽(えら)ぶ所以
是れ真に大聖たり
迂儒此の理に暗く
之を以って聖人病めりとなす
嗟乎血統論
是れ豈天理に順ならんや

と,あの時代に言い切れる人はそうはいまい。いまでも,なかなか難しい。だから「廃帝論」を論じたとして,暗殺者をかばう論調が高まり,危うく暗殺者が英雄になるところだった。これは将軍継嗣問題で,一橋慶喜か紀州の慶福かで対立している時に読んだとされている。

あえて深読みすれば,血統による世襲は天下を私物化することだ。天命をうけた天徳の人が天下のために政事をするのではなく,君主の血統を維持するために国天下があるかのごとくになる。開幕以来天下のためにする政事これなく,ことごとく徳川氏のため,また諸侯はおのが国のためになされている。これを逆転しなくてはならない。君子のために国があるのではなく,国を治めるために君主がある。政事の役に立たないなら,君主は取り替えなければならない,そう読める。

嗟乎血統論/是れ豈天理に順ならんや,こう言い切れる人こそ,真の民主主義者に他ならない。いまの日本は,二代目三代目だらけ,またそれをよしとする風潮がある。その踏襲主義で,自由闊達な風土の国々に太刀打ちできようか。

二人の甥を坂本龍馬に託して洋行させる折,送ったもうひとつの送別の詩,

心に逆らうこと有るも
人を尤(とが)むること勿れ
人を尤むれば徳を損ず
為さんと欲する処るも
心に正(あて)にする勿れ
心に正にすれば事を破る
君子の道は身を脩むるに在り

に彼の心意気がある。おのれを律することなきは,彼の眼中にはない。

参考文献;
野口宗親『横井小楠漢詩文全釈』(熊本出版文化会館)
山崎正董『横井小楠』(明治書院)
松浦玲『横井小楠』(ちくま学芸文庫)
松浦玲編『佐久間象山・横井小楠』(中央公論社)

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ありたくない自分リスト


自分はこうはありたくない,こうは見られたくない,という自分イメージというのは,いわば自分の価値の映し鏡なのかもしれない。僕だったら,こうなる。

自分が下品だと思いたくない
自分が愚かだとは思いたくない
自分が間抜けとは思いたくない
自分が下劣だとは思いたくない
自分が卑しいとは思いたくない
自分が嫌らしいとは思いたくない
自分が愚図とは思いたくない
自分が下卑ているとは思いたくない
自分が汚いとは思いたくない
自分が野卑だと思いたくない
自分が夜郎自大とは思いたくない
自分がみすぼらしいとは思いたくない
自分が無様だと思いたくない
自分がうざいと思いたくない
自分が不細工と思いたくない
自分が野暮とは思いたくない
自分がめめしいと思いたくない
自分が浅ましいと思いたくない
自分が痛ましいとは思いたくない
自分が老耄と思いたくない
自分がぼけとは思いたくない
自分がみっともないと思いたくない
自分がじたばたしてると思いたくない
自分を軽躁と思いたくない
自分が狼狽していると思いたくない
自分が悄然としていると思いたくない
自分が傲岸不遜と思いたくない
自分が弱腰と思いたくない
自分が軟弱とは思いたくない
自分がいい加減と思いたくない
自分が場当たり的と思いたくない
自分が無為無策とは思いたくない
自分が手ぬるいとは思いたくない
自分が粗忽とは思いたくない
自分が投げやりとは思いたくない
自分が疎漏とは思いたくない
自分がお調子者とは思いたくない
自分が軽率とは思いたくない
自分が無分別とは思いたくない
自分が軽薄とは思いたくない
自分が無責任とは思いたくない
自分が不謹慎とは思いたくない
自分がこせこせしているとは思いたくない
自分が不実とは思いたくない
自分が不埒とは思いたくない
自分がだらしないとは思いたくない
自分が放逸とは思いたくない
自分が自分勝手とは思いたくない
自分が出放題とは思いたくない
自分がちゃらんぽらんとは思いたくない
自分が気まぐれとは思いたくない
自分が卑怯とは思いたくない
自分が卑屈とは思いたくない
自分が因循姑息とは思いたくない
自分が風馬牛とは思いたくない
自分が無愛想とは思いたくない
自分がそっけないと思いたくない
自分が意地悪とは思いたくない
自分がこころないとは思いたくない
自分が薄情とは思いたくない
自分が残忍とは思いたくない
自分が因業とは思いたくない
自分が傲慢無礼とは思いたくない
自分が狭量とは思いたくない
自分が横柄とは思いたくない
自分が尊大とは思いたくない
自分が高慢とは思いたくない
自分が居丈高とは思いたくない
自分が不遜とは思いたくない
自分が高飛車とは思いたくない
自分が官僚的とは思いたくない
自分が権柄づくとは思いたくない
自分が気障とは思いたくない
自分が猪口才とは思いたくない
自分が見栄っ張りとは思いたくない
自分がぶしつけとは思いたくない
自分が非礼とは思いたくない
自分が傍若無人とは思いたくない
自分が不作法とは思いたくない
自分が偏頗だとは思いたくない
自分が陰湿とは思いたくない
自分が粗暴とは思いたくない
自分が狡猾とは思いたくない
自分が厚顔無恥とは思いたくない
自分が陋劣とは思いたくない
自分がしみったれとは思いたくない
自分が破廉恥とは思いたくない
自分が悪辣とは思いたくない
自分がみみっちいとは思いたくない
自分が吝嗇とは思いたくない
自分が強欲とは思いたくない
自分が固陋とは思いたくない
自分が依怙地とは思いたくない
自分が優柔不断とは思いたくない
自分が意気地なしとは思いたくない
自分が癇癖とは思いたくない
自分が無粋とは思いたくない
自分が無能とは思いたくない
自分があざといとは思いたくない
自分が猿知恵とは思いたくない
自分が浅薄とは思いたくない
自分が短慮とは思いたくない
自分が鈍感とは思いたくない
自分が付け焼刃とは思いたくない
自分が半可通とは思いたくない
自分が非常識とは思いたくない
自分が拙劣とは思いたくない
自分は胡散臭いとは思いたくない

正確にいえば,直観は事後に正しい。したがってわれわれはやすやすと自らを騙して,自分は知っている以上に知り,知っている以上に知っていたと思い込む,という。つまり,

ほとんどの人は,自分自身を実際よりは高く評価している,

そうだ。さてどうか。

まあ,しかし,どのみち自分でしかない。その振り幅が大きいほど,自分ののりしろが大きいと考えることだ。

参考文献;
デヴィッド・G・マイヤーズ『直観を科学する』(麗澤大学出版会)

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ありたい自分リスト


ありたくたくない自分リストについては,取り上げた。では,ありたい自分,なりたい自分,望ましい自分のリストを挙げてみるとどうなるか。はじめは,認めたくない自分リストの裏返しになるだけではないかと思ったが,必ずしもそうではない。ちょっと違う。その微妙に違うところが面白い。

認めたくないのは,自分の嫌な部分,そういう部分が自分に少しでもあるのではないか,そういうのは嫌だと,他山の石で,人のふるまい,ありようからリストを挙げている。

しかし,ありたい自分,なりたい自分,望ましい自分,あったらいい自分は,理想ではないが,そうはなれないだろうという諦めがある。だから,第一級とか上品とか,偉大といった,トップクラスのことを望まない。ちょっとつましく,もう少し背伸びすればなれそうなところを挙げる。

そう考えると,微妙にすれ違っている。そこがまた意外であった。

しかもリストは,相互に微妙に矛盾する。勇敢さと臆病さを共存させる。それは,そうなりたい自分と,そんなことはどうでもいいと反理想に開き直る自分とに割れる。その幅が自分なのだろう。

さて,そこで,ランダムに,思いつくままに…,ありたい自分,なりたい自分,望ましい自分,そうなればいいだろう自分を,リストアップしてみた。ありたい自分,なりたい自分,望ましい自分,そうなれればいいだろう自分は,また,そう認めてほしい,そう思われたい自分でもあるようだ。さっそくながら……。


自分は剛直な人でありたい
自分は果断な人でありたい
自分は勇敢な人でありたい
自分繊細な人でありたい
自分は本物の人でありたい
自分は清潔な人でありたい
自分は風格ある人でありたい
自分は渋い人でありたい
自分は気韻ある人でありたい
自分は切れ味ある人でありたい
自分は詩趣ある人でありたい
自分は枯淡な人でありたい
自分は孤高の人でありたい
自分は独特の人でありたい
自分はユニークな人でありたい
自分はオリジナルな人でありたい
自分は傍系の人でありたい
自分は異端の人でありたい
自分は飄逸な人でありたい
自分は平々凡々な人でありたい
自分は勇往邁進の人でありたい
自分は尖る人でありたい
自分は透徹した人でありたい
自分はお洒落な人でありたい
自分は洒脱な人でありたい