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コトバ辞典

なおざり


なおざりは,

等閑

を当てる。 

あまり注意をはらわないさま,いいかげんにしておくさま。本気でないさま。おろそか。かりそめ。
ほどほどで、あっさりしているさま。

http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/162782/m0u/

には,「なおざり」と「ないがしろ」について,

「『学業をなおざり(ないがしろ)にする』のように、いいかげんにする意では相通じて用いられる。『なおざり』は、きちんとすべきことを手を抜いていいかげんにするさまをいう。『なおざりに聞き流す』『なおざりにできない問題』。『ないがしろ』は大切にすべきものを粗略に扱う、また無視するさまをいう。『親をないがしろにする』のように用いる。類似の語の『ゆるがせ』は『なおざり』と同じく、手を抜いておろそかにするさま。『一刻もゆるがせにできない』のように用いる。

とある。「ゆるがせ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba1.htm#%E3%82%86%E3%82%8B%E3%81%8C%E3%81%9B)については触れた。

「なおざり」の語源は,二説あるらしい。

ひとつは,ぱりそのまま)ゾ+アリ」で,なおもそのままであるという意。いい加減である,おろそかにするの強調。

と,

いまひとつは,そのまま)+サリ(避り・去り)」で,何もしないでもとのままで避けている意。おろそかにする気持ちを表す。

由来語源辞典は,

http://gogen-allguide.com/na/naozari.html

「『なお』は,以前の状態が引き続いている状態を示す副詞『なお(猶)』,『ざり』は係助詞『そ』に動詞がついた『あり』の『ぞあり』であろう。『ざり』を『さり(避・去)』で,手を打たず放っておく意味との見方もあるが,副詞の『なお』にその意味が含まれているため,『ぞあり』と考える方がよい。なおざりは,『たいして気にとめない』が原義で,転じて,『本気でない』『おろそかにする』という意味になった。漢字『等閑』は,同義の漢語『とうかん』を当てたものである。」

と,前説をとる。『大言海』は,

「直(なお)タダぞありの約と云う。等は待つ也。閑は離也,。隙也」

と,独自説を立てる。それにしても,なおざりに似た語が,

おざなり,

なおざり,

おろそか,

ないがしろ,

等々とある。

http://squab.no-ip.com/wiki/167

に,こんなのが,載っていた。

「漢字で書くと、等閑と御座成り。『なおざり』はよく注意を払わないことで対応がおろそかになること。『おざなり』は意識して中途半端、いい加減にやっつけること。
いいかげんにして軽く済ませるのが『おざなり』、いいかげんにして避けて放置するのが『なおざり』。物事の達成の要不要自体をおろそかにするのが『なおざり』、達成には真摯な態度で接してはいるもののその質を問わないいい加減さは『おざなり』。」

と。結果は同じでも,放置されるよりは,少しでも進む方がいいか,それくらいなら放置されていた方がましとするか,何だか,究極の選択。

「おざなり」は,

「お+座+なり(そのまま)」

が語源で,その場を取り繕うだけのいい加減な処置,という意味。

「ないがしろ」は,「蔑ろ」と当てるが,

「無き+が+しろ(代・材料・対象)」

で,他人の目を気にしない気ままの意。転じて,あってもなかったように軽く扱う,意。『大言海』は,

無きが代(しろ)の音便,

と簡潔。

眼中に人なきこと,あなどり,軽んずること

と,意味を載せる。『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/na/naigashiro.html

は,

「『無きが代(しろ)』がイ音便化された語。『代(しろ)』は『身代金』にも使われるように,『代わりとなるもの』を意味する。『代』が無いということは,『代用の必要すらないに等しい』という意味である。つまり,人がないようなものとして扱うことの意から,軽視したり無視をすること」

とある。それ自体が,なおざりやおざなりにはそのままつながらないが,他人の目を気にせず,いい加減にしたり,だらしなくしたりする,ということになるのだろう。で,

「しどけないさま,むぞうさなさま」

という意味になる。それにしても,なぜ「蔑」の字を当てるのだろう。「蔑」は,

「大きな目の上に逆さまつ毛がはえたさまに『戈』(刃物)を添えて,傷つけてただれた目を表した。よく見えないことから,転じて,眼にも留めないという意に用いる」

とあるから,実に「ないがしろ」にぴったりだ。

それにしても,こうした言葉の使い分けが,もう出来なくなっている。この微妙な言葉のニュアンス差がわからなくなっている,ということは,それを表現する必要がなくなったということで,その分,機微に疎くなってきているのではないか。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

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古文真宝

小説を読んでいて,

「古文真宝な顔」

とあった。どんな顔なのか。

古文真宝とは,辞書(『広辞苑』)等々によると,

先秦以後宋までの詩文の選集。宋の黄堅編といわれる。前集10巻は漢から南宋までの古体詩,後集10巻は戦国時代末から北宋までの古文の模範とするものを集めたもの。各時代の様々な文体の古詩や名文を収め,簡便に学習することができたため,初学者必読の書とされて来た。日本には室町時代のはじめごろに伝来した。五山文学で著名な学僧たちの間より広まり,江戸時代には注釈書が多く出された,

とあり,さらに,

(古文を収めて難解であることから転じて)まじめくさって,かたくるしいこと,また,頑固な人,

とある。

まじめくさる,

かたくるしい,

はわかるが,かたくるしい,と

頑固,

になるのか?それは意味が少し違いはしまいか,というのがそもそもの疑問。

『古文真宝』は,

「前集,後集,それぞれ詩形別,文体別に分類,編集している。もともと塾などの教科書としてつくられたものであるが,各時代の代表的な詩文を多く収めてあるので,主として唐,宋時代の文を集めた『文章軌範』とともに,元,明にかけて広く流行した。」

とあるので,まあ,テキストということになる。

『大言海』には,こうある。

「書名を固くるしき意に用いるに,延喜式という語あり,経書を青表紙という類」

として,

固くるしく,真面目くさりたる意に言う語,

と意味を載せる。そして出典として,『卜養狂歌集』から,

「或る人,蓮を絵にかきて,ダテなるまことに前書きして,歌詠みてくれるという,もとより,ダテは白蓮の,まことに難しき古文真宝を,蓮は淤泥の中より出で,泥に染まらず,花の君主なりと云々」

あるいは,『武道伝来記』より,

「隈なき月に,よもすがらの大踊り,余念なく眺めしとき,常は,古文真宝に構えし男も,云々」

として,古文真宝とは,

日本の俗語に,初心に,かたい男をいう,

とある。やはり,辞書(『広辞苑』)のいう,

まじめくさって,かたくるしいこと,

が,

また,頑固な人,

となるのには少し飛躍がある気がする。

堅苦しいの語源は,

「堅い(うちとけない)+苦しい」

で,うちとけず,しかつめらしく,窮屈,という意味になる。「固」と「堅」を当てるが,どう違うのだろう。

「固」は,

「古」がかたくひからびた頭蓋骨を描いた象形文字なので,「囗(かこい)」を加えて,「周囲からかっちりと囲まれて,動きの取れないこと」という意味になる。だから,

しっかり安定して動きも変わりもしない,

という意味になる。

「堅」の,「臤」は,臣下のように体を緊張させてこわばる動作を示す。「土」ヲコを得て,かたく締まって,こわしたり,形を変えたりできないこと,という意味で,

しまってかたい,
こちこちにかたい,

という意味を持つ。因みに,「硬」は,「更」が,「丙(ぴんとはる)+攴(動詞記号)」で,かたくぴんとはること。「石」をくわえて,石のように固く張りつめること。で,意味は,

しんがかたい,
真が張りすぎて動きが取れない,

という詞意味だが,「強硬」「硬直」とは使うが,しかし,「硬くるしい」とは,あまり使わないようだ。材質というかそれ自体の硬い柔らかいを指しているようで,この辺りの微妙な使い分けは,よく分からない。

話を戻すと,かたくるしいが,

ただ材質のことだけではなく,囗や土を加えて,身動きできない,というニュアンスがある。だとすると,結果として,

頑な

に通じるのかもしれない。「頑な」は,

「カタ(偏る)+クナ(くねる,曲がる)」

で,曲がって偏る意から来ているらしい。偏屈,ひねくれ,になるが,しかし「頑」の字は,「元」が,人の形の頭のところを印をつけた形を描いた象形文字で,丸い頭のこと。「元」が,「はじめ」の意で用いるようになったため,元の原義は,これに「頁(あたま)」をそえた「頑」の字で表すようになった。「丸い頭」の意から転じて,融通のきかない古臭い頭の意になった。

「かたくな」に,「頑な」と当てたことで,曲がっているというよりも,融通がきかないという意味が強まったのではないかと想像される。「頑」の字には,「頑健」「頑丈」のように,がっしりしている意味もあるのだから。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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うたたね

うたたねは,

転(た)寝,

と当てる。辞書(『広辞苑』)には,

「寝るつもりでなく横になっているうちに眠ること」

と,意味が載っている。語源は,

「ウトウト+ネ(寝)」で,床に入らずうとうとすること,

という意味と,いまひとつ,

「ウツツ(現)+ネ(寝)」で,仮寝,仮眠,

の意の二説がある。「うつつ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E3%81%86%E3%81%A4%E3%81%A4)については 触れたが,うつつは,本来,

現実,

のことなのに,『古今集』に「夢かうつつか」「うつつとも夢とも」等々と使われるうちに,夢と現の区別のつかない状態,

夢見心地

を指すようになった,とされる。だから,

夢とも現実ともはっきりしない状態。夢見心地。夢心地,

という意味で使われるようになって以後のことということになる。『古語辞典』をみると,

うとうとと寝ること,仮眠,

とあるので,語源的には,こちらの方なのだろうと思うが,『大言海』は,

仮寝,

の字を当てて,

現寝(うつつね)の転。たぶて,つぶて(礫),あつみ,あたみ(熱海)

と,例によって転訛の例をあげつつ,現寝を取る。で,

寝るとはなしに寝ること,

と意味を挙げる。『語源由来辞典』,

http://gogen-allguide.com/u/utatane.html

は, 

「小野小町の歌に,『うたた寝に 恋しき人を 見てしより 恋てふものは たのみそめてき』とあるように,古くから使われている語で,正確な語源は未詳」

としながら,こう書く。

「漢字で『転寝』と書くが,『転た(うたた)』という副詞は,『どんどん進行して甚だしくなるさま』を意味し,『うたた寝』の「うたた」とは意味がかけ離れているため,語源とは考えにくい。また,『夢うつつ』などとつかわれる『うつつ(現)』が語源で,『現(うつつ)寝』が変化したとも考えられるが,『うつつ』が『夢心地』の意味をもつのは後世のことであるため,使われはじめた時代を考えると不自然な説である」

と。しかし,僕は,

転寝



転(うた)た

との「転た」関係が不意に気になる。「転た」は,辞書(『広辞苑』)には,

うたて

と同根とある。「転(うた)て」は,

ウタタの転。物事が移り進んでいよいよ甚だしくなってゆくさま,それに対して嫌だと思いながら,諦めて眺めている意を含む,

とある。で,「転た」は,

ある状態がずんずん進行して一層はなはだしくなるさま,いよいよ,ますます,
程度がはなはだしく進んで,常と違うさま,甚だしく,異常に,
程度が進んで変わりやすいさま,また何となく心動くさま,そぞろに,

と意味があり,三者の意味が微妙に違う。その違いは,副詞としての意味,

いよいよ,
甚だしい,
そぞろに,

の三者に現れている。『大言海』は,「うたた」は,「うたて」の転とするが,「うたて」には,

転(うつ)りて,の略転。うつつね,うたたね,うつかた,うたかた,

と,例によって例示しつつ,「うつりて」の転とする。で,意味は,辞書(『広辞苑』)とは微妙に異なる。

物事,異様に転(うつ)り進みて,甚だしく(あさましく感ずる意を含む)
常ならず,奇(あや)しく,うたた,
かたはらいたく,笑止に,
つれなく,なさけなく,

と。『古語辞典』には,転のほかに,



の字も当てている。で,

うたうたの約。ウタは歌のうた,疑いのうたと同根。自分の気持ちを真直ぐに表現する意。副詞としては,事態が真直ぐに進み,度合いが甚だしいさま。「うたたあり」の形でも使い,後に「うたて」と転じる,

とあり,「うたて」は,平安時代には多くは「うたてあり」の形で使い,

事態の進行を諦めの気持ちで眺める意,

とある。語源はともかく,意に染まぬ進行に,

不愉快,
いたたまれない,
嫌で気に染まない,

といった気持を言外に表している。どんどんとか,甚だしい,という副詞的な背後の,

どうにもならない,

という気持ちがある。その意味では,「転(轉)」の字が,

丸く回転する,

という意味で,「うたた」にこの字を当てた言外のニュアンスがよく伝わる。その意味で,僕には,

転寝

に,この「転」をあてたのも意味があり,

(眠気が)どうにも止まらない諦め,

という方が,語源的に最後に残る,「うとうと寝」よりは,言葉の奥行を感じるのだが。

因みに,「居眠り」は,

「座ったり、腰かけたりしたまま、または他の動作をしながら思わず眠ること」

で,「うたた寝」は,

「寝床に入らないで、眠気に負けてその場で思わず眠ってしまうこと」

だそうだが,転寝の方が範囲が広い。居眠りも,転寝の意味の外延に入ってしまうようだ。

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しくじり

しくじりというのは,

しくじること,

で,「しくじる」の連用形(名詞化)だが,

縮尻

という字を当てているのを,古い時代小説を読んでいて見かけた。かつては,結構いい加減に当て字をしていたところがあるので,いちいちとがめだてるのはどうかと思ったが,調べてみたがわからない。

http://kotobakai.seesaa.net/article/96457160.html

に,同じように気にした方が,

「井上ひさし『イヌの仇討』(文春文庫1992.4.10)のp83に、「縮尻(しくじ)る」という表記が出てきた。これは初めて見るように思ったが、井上ひさし氏のことであるから、何もなしでいきなりこんな字は使わないであろうと思ったので、まず、杉本つとむ『あて字用例辞典』(雄山閣)を見たが載っていない。次に、『遊字典』を見ると有った。」

と書いている。

「しくじる」は, 

やりそこなう。失敗する。
過失などのために勤め先や仕事などを失う。

といった意味になるが,語源は,

「シ(為)+崩れる」の音韻変化,している仕事が途中で崩れる,の意。

と,

「「シ(為)+挫ける」で,仕事の途中で挫けてしまう,の意。

の二説があるようである。『大言海』は,

「為挫(しくじ)くるの略か」

と,後者を語源として取っている。それにしても,「縮尻」の字を当てて,尻を縮ませる,あるいは尻を縮める,とするには何となく意味がありそうな気がする。

「縮」の字は, 

つくりの「宿」の原字が,「人+囲みの中に∧印(ちぢんではいったさま)」の会意文字で,狭いスペース(□印であらわされるふとん)の中に,二人の人が縮こまって寝ること。「宿」は,それに「宀(屋根)」を加えた字で,狭いところに縮んで泊まる意味を含む。また「伸(のびる)」や「信(のびる)」の反対で進行や発散をやめて止まる意に転じている。それに「糸」を加えた,「縮」は,ひもをぎゅっとしめて縮めること,

という意味になる。わが国で,「縮」を,織物の一つの,強く撚った糸で織った縮じわのあるちぢみに当てたのは,なかなか含意がある。

「縮」は,だから,

ちぢむ,ぎゅっとひきしめる,ちいさくちぢこまる,ひきしまる,

といった意味になる。

「尻」は,

「九」が,手のひどく曲がった姿で,曲がりくねった末端の意を含む。「尻」は,「尸(しり)+九」で,人体の末端の奥まった穴のあるしりのこと,

で,しりのほかに,

尽き果てるところ,

という意味がある。わが国では,

物の末端,また事柄の後始末,
計算の締めくくり,

といった,メタファに広げて使われ,

目尻,
とか,
帳尻,

といった使い方をする。辞書(『広辞苑』)では,お尻の意味の他に,

「もの」の尻に当たる部分,器物の下部,底面,地につく部分

とか,

続くものの後方の部分として,後部,末,

とか,

長いものの先の部分,太刀・器物の先端・末端,
長く後ろに引いた衣服の裾,
道・川などの終るところ,
物事の結果,また余波,
包み隠した事柄
(尾羽を用いることから)矢羽の数え方,

等々まで,広がって使っていることを示している。だから,尻にまつわる言葉は数が多い。

尻が温まる,
尻が重い
尻が軽い,
尻が据わる

等々。これについては,「うしろ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba1.htm#%E3%81%86%E3%81%97%E3%82%8D) で書いたように,「しり」は,

「み(身)」の古形「む」と「しり」(後・尻)の古形「しろ」の結合した「ムシロ」の訛ったもの,

とあるように,「うしろ」の古形で,しかも,「後」の字と「尻」の字を使い分けていたようなのである。僕は,

「尻」は,物事の付けのように,一つ一つの振る舞い(しくじり)を指し,「後」は,それ自体がその人の在りよう(の落ち度)を示す振る舞いに敷衍される使い方が多い気がする。「尻」の字と「後」の字が与える印象から来ているのかもしれない。

と書いた。その意味で言うと,「縮尻」は,

物事の付けをきちんと取れなかった,
きちんと帳尻を合わせられなかった,

というニュアンスなのではないか。その意味では,

ミスする
ヘマをする
ドジる
ポカをやる

というよりは,しくじりは少し重い。

仕損ずる
手抜かりをする
不手際をやらかす
失態を演じる
不始末を起こす

という感じではあるまいか。結果として,

味噌をつける,

ということになる。まあ,

下手をうつ,

という言い方があっているか。

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ひがむ

「ひがむ」という言葉が引っかかって,調べ出した。余り奥行はないだろうと,多寡をくくって始めた。

字は,

僻む

と当てる。辞書(『広辞苑』)は,

ねじける,ひねくれる,特に,物事を素直に受け取らず,自分に不利であると歪めて考える,

とあり,他動詞だと,

ひがむようにする,曲げる,曲げて受け取る,

という意味になる。これで終わりのはずである。念のため,ネットで意味を確かめると,

物事を素直に受け取らないで、曲げて考える。自分が不利なようにゆがめて考える。
ゆがんだ考え方をする。考え方がまちがっている。
物の見方がかたよっている。偏屈な考え方をする。ひねくれる。
正常な状態ではなくなる。もうろくする。
ことさらに事実とちがわせる。ゆがめる。

と,よりニュアンス差を言語化して,詳細になる。

語源を調べると,

「ヒガ(僻・ゆがみ・曲り)+ム(動詞化)」

で,ものの見方が曲がっていること,心がねじけていること,を言う,とあり,連用形の「ひがみ」も,同源の名詞,とある。では,「僻」という字は,どうか。まず,「辟」は,

「人+辛(はり)+口」の会意文字,

で,人体を横に裂く刑罰。それに「人」を加えて,

中心から横にそれて片隅に片寄ること,

という意味になる。で,もともと,

かたよる,中心からそれる,
ひがむ,心が脇にそれて偏る,
ひねくれる,

という意味を持っている。で,和語「ひがむ」に当てた,ということになる。あるいは,「僻」がはいって,「ひがむ」という心の機微にわたる表現を得たのかもしれない,と憶測するが,『大言海』は,

「僻(ひが)」を活用す,拉(ひし)げ屈(かが)むの意,

とある。『古語辞典』には,「僻み」について,

判断力や能力の不足・偏りや先入観による間違いをする意,

と注記して,最初に,

物の見方が片寄る,

を挙げる。たぶんこれがニュートラルな意味で,それが,思いや気持ちの偏りになると,

すねる,

になり,それが,極端になれば,

正気をなくす,

となり,それが常態になれば,

耄碌する,

になる,とみると,現実のずれから,心や,意識のずれへとメタファがシフトしていくのがよくわかる。そういう目で見るのを,

僻目,

といい,そういう人を,

僻者,

となる。

似た語は,

いじける(「おじける」の音韻変化。寒さや恐れのために心身ともに元気がなくなること)
ひねくれる(「ヒネ(捻る)+くる(繰る)」で,よじれ曲がる意)
すねる(古語,拗ねる(曲がる)で,不平や不満を素直に表明しないで,わざと逆らった態度をとる意)
ねじれる(捩じれる,ねじった状態で,ねじける,ねじくれると同源)

といったところだが,歪んだ位置からものを見るのは,すねるやいじけるとは少しニュアンスが違う気がする。僻むに関わるのは,

僻目,
僻見,
僻者,

だが,

先入観
先入主
色眼鏡
成心

があるから,結果として,というか,傍からみると,

偏見
億見
謬見

に見えるということになる。歳とともに,それと教えてくれる人は少なくなる。

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甚助

 

初見は,

甚助侍,

という言い回しであった。僕は,林崎甚助のことかと思ったが,まったく無関係であった。因みに,林崎甚助は,

「戦国時代から江戸時代前期にかけての剣客、武芸者。居合(抜刀術)の始祖とされる。旧名、浅野民治丸。名字は林崎、通称は甚助、本姓は源、諱は重信。生年は天文17年(1548年)とも。林崎甚助が開いた流派は、神夢想林崎流、林崎流、林崎夢想流などと呼ばれるが、甚助自身が生前にこの流派名を名乗ったわけではない。この他に神夢想林崎流から分かれた多くの流派(無双直伝英信流、民弥流、水鴎流、関口流など)の系譜では初代となっており、江戸期以降、林崎甚助に教受された弟子たちの業を見聞きした武芸者や修行者が独自に居合を創作する例もあるなど非常に強い影響力を及ぼしている。」

というのだが,僕の記憶は,白戸三平の『忍者武芸帳』に出てきた林崎甚助であった。

閑話休題。

甚助とは,辞書(『広辞苑』)によると,

「情が深く嫉妬深い性質,またそういう性質の男」

とあり,

甚助を起こす,

という言い回しがあり,

嫉妬する,
焼きもちを焼く,

という意味になる。『大言海』には,

「助は,雲助,三助,などと同趣なる擬人語」

とあり,

男女の間の嫉妬,焼き餅,

と意味を載せる。しかし,「助」をつけたところを見ると,男のそれを暗に指している気配である。

甚助は,また,

腎助

とも表記するらしい。甚助は,

「腎張り」を人名のように表した語,

と注記して,

情欲が強く、嫉妬深い性質。また、そういう男,

を指す。腎張りは,もっと直截的である。

好色なこと。多淫なこと。また、その人,

とあり,要は,そういう男の嫉妬を甚助というらしいのである。

で,念のため,「甚」を調べると,

甚だしい
とか
あることに深入りしている,

という意味だが,「甚」の字の「匹」は,

ペアをなしてくっつく,

意で,「男女の性交」を示すらしい。「匹」の字は,もとは,

「厂(たれた布)+ふたつの筋」

で,もとは,「匸」印を含まず,

布ふた織りを並べて垂らしたさまで,ひと織りが二丈の長さだから,四丈で一匹となる。二つの物を並べてペアとなす意であった。そこから,ご多分に漏れず,アナロジカルな意味に敷衍化された,ということになる。

で,「甚」は,

「甘(うまい物)+匹(いろごと)」

で,食道楽や色事に深入りすること,を指す。「腎」は,五臓の一つで,血液を清めて尿を排出する働きをする器官だが,

漢方医学では,副腎をも含めて「腎」といい,精力を蓄えて身体をひきしめる器官,

とし,「腎」の字の,「臣」は,

下二伏せてうつむいた目を描いた象形文字で,身を固くこわばらせて平伏する

という意で,「臥」(ふせる)や「臨」(下を見るに)含まれている。「腎」の上は,

「臣(うつぶせた目)+又(手,動詞の記号)」で,

伏せた臣下のように体をかたくすること,「堅(かっちりとかたい)」の原字,

で,それに「肉」を加えて,

精力を蓄えてからだをがっちりとひきしめる内蔵,

という意味になる。

こう考えると,腎助と言うも,甚助と言うも,いずれも,「腎」「甚」の漢字の意味を十分踏まえている,というところがさすがと言うべきだろう。

甚助を起こす,つまり,嫉妬の類語は,

焼き餅
岡焼き,
法界悋気,
修羅を燃やす,
角を生やす,

等々あるが,勝手なイメージで言うと,「角を生やす」(角を出す)は,女性だと思うが,男の悋気も馬鹿にはならない。嫉妬は,競争相手に対する嫉妬深いねたみの感情であり,悋気で言うと,例の秀吉の糟糠の妻おねが悋気し,信長にたしなめられた手紙が残っている。


「なかんつく、それのみめふり、かたちまて、いつそやみまいらせ候折ふしよりハ、十の物廿ほともみあけ候、藤きちらうれん\/ふそくのむね申のよし、こん五たうたんくせ事候か、いつかたをあひたつね候とも、それさまほとのハ、又二たひかのはげねすみあひもとめかたきあひた、これよりいこハ、みもちをようくわいになし、いかにもかみさまなりにおも\/しく、りんきなとにたち入候てハ、しかるへからす候、」

とあり,「最後に、羽柴に拝見こひねがふ」と追而書が加えられていた。

焼き餅は,「焼き+餅」で,食べた後胸が焼かれた感じがするところから言うらしいが,わざわざ「男の焼き餅は云々」というところを見ると,本来は女性のを指したのではあるまいか。

岡焼きは,傍焼きとも当てるが,「岡」は,「かたわら」の意があるからで,「自分と関係のない男女が仲良くしているの見て、はたからヤキモチを焼くこと」であり,法界悋気は,「法界」は「法界」は自分とは何の関係もない他人の意で,「自分に無関係な人のことに嫉妬すること。また、他人の恋をねたむこと」で,「おかやき」とほぼ同義。

修羅を燃やすは,阿修羅は嫉妬・執着の心が強いところから,激しく嫉妬する。激しく恨み怒る,で表現からしても,一番強い妬心かもしれない。

こまかく探ると,微妙な意味の違いがあるのかもしれない。甚助から遠いところへ来てしまった。

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冷やかし

 

小三治師匠の『お茶汲み』のまくらに,冷やかしの謂れが出てくる。俗説と思いきや,そうでもないのである。

まくらでの話は,大略こんな感じである。

吉原近辺で作られていた,浅草紙という粗悪な紙がある。いまでいう再生紙で,漉きなおすために,紙を水に浸しておく。ふやけるまでに時間がかかるので,その間吉原をひとまわりしてくる。するとちょうど紙がひやける,そんなことで冷やかす,という。

同じことは,お決まりで,志ん生も,噺の中で,

「近くに紙すき場があり、紙屋の職人が古紙を水に浸して、紙の冷やける間一回り廻ろう、ってんで冷やかしという名前がついたんですな」

と言っていた,という。

浅草紙というのは,

古紙・ぼろきれなどを材料にして漉(す)き返した下等の紙。落とし紙や鼻紙などに用いる。元禄年間(1688〜1704)に浅草の山谷辺りで多く製造されたところからいう,

とある。

http://www.gakken.co.jp/kagakusouken/spread/oedo/02/haiken.html

によると,

「落とし紙(トイレットペーパー)などに使われていた浅草紙は、江戸時代の庶民に親しまれていた安価な漉き返し紙。かえってそのためか、現存するものはとても珍しい。製造方法は、墨が付いた古紙を水に浸し、叩いてくだき、漉く程度の、非常に簡単なもの。良く見ると文字が書かれたままの紙片や、人の髪の毛なども混じっている。」

とある。有名な漉き返し紙には、江戸の「浅草紙」、京の「西洞院紙」、大坂の「湊紙」などがあったらしい。そのプロセスは,

http://www.gakken.co.jp/kagakusouken/spread/oedo/02/kaisetsu2.html

に詳しい。こう調べると,どうも単なるネタとは思えない。辞書では,「ひやかし」は,

冷やかし
とか
素見

と当て,意味としては,

相手が困ったり恥ずかしがったりするような冗談を言うこと。からかうこと。 
買う気がないのに値段をきいたり品定めしたりすること。また,その人。
遊里で,登楼せず張り見世の遊女を見て歩いてからかったり品定めしたりすること。また,その人。素見。

とある。ところが,語源を見ると,「ひやかし」は,二説ある。

「冷やす+かす(他人に及ぶようにする)」で,小人の売ろうとする熱意を冷やすように,買う気なく歩きまわる意で,類語に,ちゃかす,おどかす,せかすなどがある,

「紙の原料をひやす間に歩きまわること」で,江戸の紙職人が,紙の原料をひやかしているうちに,吉原を見て遊女をからかったり,目の保養をしたりしていたのが起源,

としつつ,『語源辞典』は,後者は,

「近世の作り話」

とし,「特殊な職人の遊里言葉と庶民の言葉と合理性が薄い」と断じている。しかし,『大言海』は,「ひやかす」を,

「ひゆるの他動,ふやくる,ふやかすの類」

として,「冷くるようにする。ひやす,漬くる」の意味の,次に,こう書く。

「東京の俗語に,素見(すけん)す,ぞめく,そそる」

と書いた後,こう付け加えている。

「もと浅草,山谷辺りにの紙漉業の者,紙料の水に冷(ひや)くる間,北里に遊べる隠語に起こると云ふ」

と。そして,『嬉遊笑覧』(九 娼妓)から引用している。

「素見,ぞめき,万葉に,驂(そめき),沙石集に,世間公私のぞめきなど見えて,古語なり,云々。今はそそるとも,ひやかすとも云へり,云々。或る人云,むかし,山谷には,すきかへしの紙を製する者多く,それが方言に,紙のたねを水に漬けおき,そのひやくる迄に,郭中のにぎわひを見物して帰るより出たる詞といへり」

と。億説かもしれないが,それが面白いので,人々の口に乗ったに違いない。二説の語源のうち,多少胡散臭くても,紙漉きのひまに,郭を素見していた,という方が,ストーリーがあって,もっともらしい。

因みに,「ひやかし」を枕にした『お茶汲み』は,

http://rakugonobutai.web.fc2.com/30otyakumi/otyakumi.html

こんなあらすじ。

「吉原の安大国(やすだいこく)という店に初会で上がった男を見た田毎(たごと)という女郎がいきなり悲鳴を上げた。聞けば、駆け落ちをした男の病気を治そうと、金のためにこんな世界に身を沈めたが男は死んでしまったという身の上。その男とそっくりだったので思わず声を上げたのだという。年季があけたら一緒になりたいと泣くのを見ると、目のふちにさっきまで無かった泣きぼくろが出来ている。湯飲みのお茶を目になすっていたので茶殻が付いたのだ。
『いやあ、面白かった』という話を聞いた男、その店に出掛けて行くと、女を見たとたんに悲鳴を上げ、駆け落ちをした女が身を売ってくれたが、病気で死んでしまった……と女のお株を奪ってしまう。
『どうか年季があけたら一緒になっておくれ……おい、どこへ行くんだい』
『ちょっとお待ち。今お茶を入れてあげるから』」

と話が落ちる。

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野暮天

 

野暮天については,「野暮天」

http://ppnetwork.seesaa.net/article/406147111.html

でも書いたが,先だって,春風亭栄枝師匠の『蜀山人』を聴いていて,

野暮天は,谷保(かつては「やぼ」と訓んだらしい)の天神のことだ,とあった。眉唾だと思っていたが,まんざらそうとも言い切れない。大田蜀山人(南畝)が,

神ならば 出雲の国に行くべきに 目白で開帳 やぼのてんじん,

と狂歌に詠んだことから,「野暮天」または「野暮」の語を生んだ,伝えるのである。

野暮天は,

やぼてん

と訓むが,ある辞書にはこうある。

仏教の「…天」に擬したもので、「天」は程度の高い意を表すという,

と注記して,

たいそうやぼなこと。また、その人,

とあり,

やぼすけ,

とも言う,と。きわめて野暮なこと,つまり,野暮のきわめつき。天は,

高いところ

を指し,脳天,天井と使うのと同じとある。「天」の字は,これも前に書いた気がするが,

大の字に立った人間の頭の上部の高く平らかな部分を一印で示したもの,もと巓(テン いただき)と同じ。頭上高く広がる大空をテンという,高く平らかに広がる意を含む,

と,『漢字源』にはある。その意味では,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9_(%E4%BB%8F%E6%95%99)

でいう「天」になぞらえている,という説も当たらずと言えども,遠からず,なのかもしれない。

なお,「やぼ」は(野暮と当てるのは当て字),

世情に通ぜず,人情の機微をわきまえないこと,特に遊里の事情に通じないこと,また,その人,無粋,無骨。

で,それが広く敷衍されて,

洗練されていないこと,風雅の心のないこと,無風流,

となる。この反対が粋(いき,すい)となる。無粋の骨頂のような自分が,この辺りに深入りするのを避けて,話を戻す。

『語源由来辞典』(http://gogen-allguide.com/ya/yabo.html)には,

「東京都国立市の谷保天満宮の名から,『野暮』や『野暮天』という言葉ができたとする説もある。しかし狂歌師の太田蜀山人が『野暮』と『谷保』を掛け,『神ならば 出雲の国に行くべきに 目白で開帳 やぼのてんじん』と訓んだことから,そのような説が生まれたもので,それ以前から『野暮』という言葉が存在していたため,『野暮』の語源と『谷保天満宮』は無関係である。」

とある。だいたい,この狂歌が成り立つには,「野暮」という言葉がもともとあったから,「やぼ」で,「野暮」と「谷保」を懸けられたのだから,「谷保天」が「野暮天」の語源というところは確からしいのではないか。

野暮は,『古語辞典』をみると,

野暮,
野夫,
野火,

に当てられている。野暮については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/406147111.html

で書いたので,重なるかもしれないが,

「野夫」の転。藪者の略。世情に通じない者を言う。
「谷保天神」の略。付会のようだ。
雅楽の笙の17の管のうち「也亡」の二管は吹いても音が出ない。その「也亡」が語源。融通のきかない人間を指す。

「谷保天神」は,「やぼ」がなければ成り立たないので,他の二説ということになるが,『大言海』は,

野夫の音転と云夫。又藪者(やぶもの)の転略。藪澤の人,田舎者の意と云ふ。通,粋の反,

と,「野夫」を取る。別に,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%9A%AE

に,

「奥の細道で、『野夫(田舎者事であり『野夫』は『やぶ』とも読む)といへども、さすがに情け知らぬにはあらず』と読まれている。このように『いき』の一つとされる『情け』の反対語と関連付けられており、語源の可能性もあるが定かとはなっていない。」

ともあるらしいが,どうやら,一般には世情,特に,遊郭に不案内を指す,というところのようだ。

「地方出身の侍は,落語や川柳などで浅黄裏と呼ばれ,江戸っ子からは野暮の代表ともされた」。

とある。いわれないことだが,首都に住んでいるだけで,優越感を示すのは,それこそ,虎の威を借る狐で,僕には,そいつらの方が,よほど,

野暮,
野暮天,

に見える。いまだと,

「野暮という形容は、派手な服装、金銭への執着、くどくどしい説明などについて用いられる。また、(機能美までに至らない)非実用的で表面的な見栄えの重視、ブランドへの無批判な信仰と依存も野暮といえる。」

と言えるらしいので,まあ,都鄙よりは,個人だろう。

ところで,谷保天神(天満宮)(やぼてんまんぐう)は,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E4%BF%9D%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE

によると, 

「社伝によると、903年(延喜3年)に菅原道真の三男・道武が、父を祀る廟を建てたことに始まるという。この神社は東日本最古の天満宮であり、亀戸天神社・湯島天満宮と合わせて関東三大天神と呼ばれる。」

と由緒のある神社で,谷保は,

「南武鉄道(JR南武線)が谷保駅の駅名を『やほ』としたため、地名の『谷保』までも『やほ』と言うようになってしまったが、本来の読み方は『やぼ』である。」

という。こういう所業を,

野暮,

というのである。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

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鞠躬如

 

鞠躬如は,

きっきゅうじょ

と読む。辞書(『広辞苑』)には,

「如」は語調を調えるために添えた語,

とあって,

身を屈めてかしこまるさま,

という意味とある。あるいは,別の辞書には,

身をかがめて、つつしみかしこまるさま,

とあり,使い方として,

鞠躬如(恐怖・不安の表現)
鞠躬如(緊張の表現)

の二例が載っていたりする。僕の記憶では,確か,『論語』に,その言い回しが載っていた記憶があり,調べると,「郷党篇」に,こうある。

「公門(こうもん)に入るときは,鞠躬如として容(い)れられざるが如くす。立つに門に中(ちゅう)せず。行くに閾を履(ふ)まず。位(くらい)を過ぐれば,色勃如(ぼつじょ)たり,足躩如(かくじょ)たり。其の言うこと足らざる者に似たり。斉(し=もすそ)を摂(かか)げて堂に升(のぼ)るに,鞠躬如たり。気を屏(おさ)めて息せざる者に似たり。出でて一等(いっとう)を降(くだ)れば,顔色(がんしょく)を逞(はな)って怡怡如(いいじょ)たり。階を沒(つく)して趨(はし)り進むときは,翼如(かくじょ)たり。其の位に復(かえ)るときは,踧踖如(しゅくせきじょ)たり。

貝塚訳では,

孔子が宮廷の御門にはいられるときは、体をまるくかがめて,まるで狭い門をやっと潜り抜けるようになさる。門内では主君の通り道である中央部には決して立たれない。門の敷居を踏まず,跨ぎこされる。広場に入って,儀式のとき主君が決まって坐られる場所を通り過ぎるときは,主君がそこにおられるかのように顔色は改まり,歩き方はためらってゆるく,ことばすくなになられる。御用で,衣の裾を持ち上げて,宮廷の階段を堂上に昇られるときは,身体を丸くかがめられ,息を吐くのをとめて,まるで呼吸しないかのようにされる。堂から退出して階段を一段おりられると,顔つきはぼれてのびのびとされる。階段をおりきると,少し身をかがめて小走りにするすると進まれる。もとの主君の座席のそばにもどられると,またうやうやしくなさる。

となる。貝塚注では,「鞠躬如たり」について,

「ふつうからだを鞠のように丸く曲げることだとされている。これに対して,廬文弨は『鞠躬』という熟語として,恐れ慎む形容だとしている。このほうがよさそうである。恐れ慎むのが原義だとしても,ここでは恐れ慎むのあまり,体をすくめて門に入り込むことを言っているのであるから,身を屈めてと意訳した。」

と注記しているので,鞠躬如が,いまは熟語になっているが,かつてはそうではなかったことを忍ばせる。あるいは,『論語』辺りが出典なのかもしれない。ここには,「如」を加えた言葉が,連発している。
色勃如たり(緊張した顔色),
足躩如たり(小刻みに歩く),
怡怡如たり(なごやかに),
翼如たり(翼を拡げた鳥の様にのびのびと),
踧踖如たり(恭しい態度),

等々。しかし,「郷党篇」には,孔子の言行の記録(例の作法)との紹介の要素があり,

恂恂如(じゅんじゅんじょ) 恭慎のさま。口をもぐもぐさせてよくしゃべれない
侃侃如(かんかんじょ) 和楽のさま(古注)。ビシビシと話す(新注)
ァァ如(ぎんぎんじょ) 中正のさま(古注)。和やかに論争する(新注)
踧踖如(しゅくせきじょ) 教敬のさま
與與如(よよじょ) しずしずと進む

等々と出てくる。こう見ると,「如」は,単なる語調ではないのではないか。

「如」は,

ごとし,
〜のようだ,
〜と同じくらい,

と使われるが,「口+女」で,もとは,

しなやかに,という柔和にしたがう,

という意味。しかし一般には,

若とともに近くもなく,遠くもないものを指す指示詞に当てる,

とある。さらに,

「A是B」は,AはとりもなおさずBだの意で,近称の是を用い,「A如B」(AはほぼBに同じ,似ている)という不即不離の意を示すには中称の如を用いる。仮定の条件を示す「如(もし)」も,現場にないものを指す活きの一用法である,

とある。まあ,いまふうに言うと,直喩である。直喩は,前にも書いたが,

直接的に類似性,

を表現する。多くは,「〜のように」「みたいな」「まるで」「あたかも」「〜そっくり」「たとえば」「〜似ている」「〜と同じ」「〜と違わない」「〜そのもの」という言葉を伴う。従って,両者は直接的に対比され,類似性を示される。それによって,比較されたAとBは疑似的にイコールとされる。ただし,全体としての類似と部分的な性格とか構造とか状態だけが重ね合わせられる場合もある。その意味で,鞠躬如が,

鞠のように丸く曲げること,

と,僭越ながら,貝塚注にあったのは意味があるのではないか。

ところで,「鞠躬」を調べていて,『三国志』に,

「鞠躬尽瘁」(きっきゅうじんすい)

と言い回しがあるのを知った。諸葛孔明が、五丈原での決戦に向かうに先立ち,蜀帝劉禅に提出した,所謂,

「後出師の表」

の最後の文句に,

「臣鞠躬尽瘁、死而後已」(臣、鞠躬して尽瘁し、死して後已む)

とある。ここでは,「如」なしに,「鞠躬」が「身を低くしてかしこまる」意で使われている。「〜のような」なしで,人口に膾炙する時代になっている,という証のようなものである。

参考文献;
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
http://lunyu.lightswitch.jp/?eid=11#01

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小細工

小細工というのは,

こまごまと手先を使った細工。また、その細工物。

と言う,そのものずばりの意味もあるが,それをメタファとした(というと細工物師に失礼だが),

その場かぎりの策略。つまらない計略

という意味がある。ズバリ言うと,

内容の浅はかな策略,愚策

ということになる。

似たものに,小手先というのがある。小手先というのは,

手の先の方。手先,

という意味もあるが,それを使った,

ちょっとした機転。小才(こさい)

という意味がある。「小手先が利く」と言った言い回しをする。そこには,

手の先でするような,ちょっとした技能や才覚,

と言うニュアンスで,

軽いものとして皮肉をこめて用いられることも多い,

とされる。そこからさらに転じて,

その場しのぎで、将来を見通した深い考えのないこと,

といった意味にまで外延を延ばしている。

元来が,小細工や小手先の「小」は,「小癪」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba1.htm#%E5%B0%8F%E7%99%AA) でも述べたが,接頭語で,

物の数・形が小さい意(小石,小家,小船,小島,小人数等々),
ものの程度の少ない意(小雨,小太り,小高い,小上がり,小商い,小足,小当たり等々),
年が若い,幼い意(小冠者,小童,小犬等々),
身分・地の低い意(小侍,小法師等々),
数量が足りないが,それに近い意(小一時間,小一年,小一里等々),
半分の意(小半斤,小なから等々)
体を動かす意の句に冠して,ちょっとした動作であることを示す意(小耳,小腰,小手等々)

といった,多寡や程度の少ない意の他に,

未熟なものに対する軽蔑の意,軽んじ侮る意(小倅,小わっば等々),
形容の語句に対して,その状態がちょっと気に触ったり,心に引っかかったりする意(小賢し,小面憎し,小気味いい,小奇麗等々),
言うに言われない何となく,の意。またその状態を憎む意(小奇麗,こざっぱり,小汚い,小うるさい,)。
語調を調える(夕焼け小焼け,おお寒小寒等々)

といった意味がある。もともと,「小」と付いたところで,「嘲り」や「からかい」の意味合いがつきまとっているらしいのである。

漢字の「小」は,象形文字で,

中心の「|」線の両脇に点々をつけ,棒を削って小さく細く削ぐさまを描いたもの,

と,される。だから,

小さい,

という意味と同時に,

小さいと思う,
価値の詰まらないものとして軽んずる,

という意味がもともと含まれている。だから,

小人,
とか
群小,
とか
卑小,

という言い方をする(当然自分を謙遜しても言う「小社」等々)。そこには,『孟子』にある,

太山に登りて,天下を小とす,

というような,「小天下」という,小さく見る,という意味の,いい意味の使い方もあるが,多くは,

小才,
小利口,
小器用
小芝居
小理窟
小賢し
小器量
小商売

と,「小」をつけて,侮る。しかし,不思議だが,「小天下」というような,例えば,

小天才
小秀才
小明晰
小智恵
小努力
小勤勉
小気概

等々という言い方は,なかなかしない。侮るには,自分が天下を見下す程度の気概がなくてはできないのだから。そう考えると,

何に「小」をつけるか,

で,その人の度量が見える。といっても,かつての何某都知事のように,

小役人,
木端役人,

と言いつつ,それ以下だった人物もあるので,口先だけではわからない。

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テキトー

適当(てきとう)は,

ある条件・目的・要求などに、うまくあてはまること。かなっていること。ふさわしいこと。また、そのさま。
程度などが、ほどよいこと。また、そのさま。
やり方などが、いいかげんであること。また、そのさま。悪い意味で用いられる。

といった意味になる。たぶん,本来は,

「適(かなう)+当(あてはまる)」

で,

ちょうど良い程度,

の意の形容動詞,とされ,近世以後の造語とされる。本来の「かなう」という意味では,むしろ,

適切,

が使われて,昨今,適当は,

テキトー,

と表現されたりして,いい加減の代名詞になっている。『語感辞典』では,適切は,
まさにそれにふさわしい,

という意味で,

「適当」以上にぴったりと合う感じがある,

とまで言い切る。

適当は,『古語辞典』にはなく,『大言海』は,「てきたう(適當)」として,

良く程にあたること,あてはまること,てつけ,相当,

という意味が載っている。「てつけ」が気になるが,それ以上の説明はない。「てつけ」を引くと,「てつけきん(手付金)」の略とある。「手付金」をみると,

「物を買ふべしと約したる証に,先ず其の値の中の若干分を払ひ置く金子。これを払ふを,打つと云ふ。」

とある。もし,(ここからは推測だが),手付金を(払うのを)「適当」と読んだとすると,当該価格にぴったりを手付にするわけではないから,ギャップがあるし,その金額にも幅がある。ここから,適当の,適切の意味から「テキトー」へとスライドしていく余地があったのではないか,と憶測する。

ちょうど,いい加減が,「好い加減」の,

良いほどあい,適当,

という意味から,「いい加減」の,辞書(『広辞苑』)に言う,

情理を尽くさないこと,徹底しないこと,深く考えず,無責任なこと,

というより,

ぞんざい,
投げやり,
ちゃらんぽらん,

へと,意味をスライドしていくのと,見合っている感じである。本来,「好い加減」は,

「いい(好い)+加減」

で,

良い状態,
加減が良い状態,

であったものが,転じて,

一貫性や明確性を欠いて,行き当たりばったりな態度,

になったとされる(『語源辞典』)。漢字の「適」は,

「啇」が啻の変形で,ひとつにまとめる,まっすぐいっぽんになった,という意を含むみ,「辶(足の動作)」をくわえて,真っ直ぐに一筋にまともに向かう,

という意味になり,「当(當)」は,「田+尚」で,

田畑の売買や替地をする際,それに相当する他の地の面積をぴたりと引き当てて,取引をすること,

という意味で,さらに,枠組みがぴったりと当てはまる意から,

当然そうなるはず,という気持ちを表す言葉となった,とある。

その意味では,手付金とは,意味がずれすぎているが,本来の意味の外延に入らないわけではない。しかし,本来の全額の一部しか払わない,という意味を敷衍していくと,

ピタリ,
とか
かなう,

とは随分ずれている。億説だが,

目的や要求に沿って払うべきところを,一部の手付で,約束の履行の予約をする,

という意味では,ある意味,アバウトで,信用取引に違いない。あるいは,それを違えるひともでてくるということもあるだろう。そんなところから,

「適当にやる」
「適当に済ませる」

等々というニュアンスが出たのかもしれない。その意味で,

「テキトー」

とカタカナで表記すると,一層よりテキトー度が高まる気がしてならない。「徹底的」を「テッテテキ」と言い表したのはつげ義春であったが,適当を,

テキトー

と,表現することで,ギャグる感覚が顕現される感じになるのは,カタカナのもつ,ちょっと外れた感から来ているのかもしれない。同じ意味でも,単なる,

ちゃらんぽらん,
投げやり,

と言うよりは,相手のいい加減さが,より伝わってきそうだ。

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その場

そ(其)の場とは,辞書(『広辞苑』)には,

ある物事があったところ,その場面,
その席上,即座,

という意味が載っていて,

その場限り(その場だけで後に関係のないこと),
その場ぎり(仝上),
その場凌ぎ(その場を取り繕って切り抜けること),
その場逃れ(その場限りの取り繕い,一時遁れ),

等々,総じて,糊塗,言い抜け,間に合わせ,誤魔化し,と言った,あまりいい意味で使われていない。

「将来的なことを考えずに、その時だけをうまく切り抜けるために何かを行うことにいう。『逃れ』と『しのぎ(=耐えること)』の相違があるが、実際には、かなり近い意味で用いられる。」

という説明があった。

その場をかわす,逃げ出すため,という心理(という受身)
か,
その場を「言い抜ける」「切り抜ける」「捌く」という心理(という積極的)
か,

の違いはあっても,その場でことに向き合うためではなく,その場でごまかそうとしていることに変りはなく,本人にとっては,結構大違いかもしれないが,その場に立ち会っている相手方からすれば,どっちだって変らず,その場をテキトーにごまかそうとしているのに違いはない。

似た言葉に,

当座逃れ,
当座しのぎ,
一時逃れ,
一時しのぎ,
一寸延ばし
一寸逃れ

というのがあり,

その場,
当座,
一時,
一寸,

と使い訳はあっても,結局,肝心要の,

その場,

を逃げることしか考えていない,ということなのだろう。だから,「一時」いやいや「一寸」,つまり,そのいっとき,一瞬,だけを切り抜けようとする,と見えるのだろう。「当座」は,「その場」が,より限定されている。

居合わせている座,その場,その席上,
その場ですぐ,即座,即刻,

という意味で,確か,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/409638012.html

にあったと思うが,嘘を見抜くには,相手の予行演習を崩す,その場で即答させるのが効く,とあったと思う。だから,相手に余裕であしらう暇を与えないと,本音が露呈せざるを得ない,

その場,

をつくることが必要なのだろう。「場」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E5%A0%B4)については触れたが,「場」という字は,

昜(よう)は,「日+T(高く上がる印)+彡(さん 飾りや模様をあらわす記号 影・彩・形などに使われる)」で,太陽が彩美しく昇るさま。「土」を加えて,日光のあたる高めの開けた地」

を指す。だから,漢字の「場」は,

広く開けた地,
平面より一段高く開けた地,
人の集まる広いところ,

を指すが,わが国では,

その物事が行われている所,時間,場合,

を限定する。だから,芝居の「場」という使い方につながる。その意味では,

「その場」

には,肝心要の,大事な,

そのとき,その場,

というニュアンスがある気がする。大袈裟に言えば,

そこで,どうそれに立ち向かうか,どういう対処をするか,

で,その人そのものの在りようが問われるような,

正念場,

というか,

切所,

なのではないか。だから, 

「あとのことは考えずに、その場だけをとりつくろうこと。また、そうした態度・口実。一時しのぎ。」

と何とか取り繕う,と本人が思っているのと,周囲が見ている眼とは違っている。

間に合わせ,
応急処置,

ですむことと済まないことがある。

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つぎほ

 

つぎほは,

接穂
あるいは,
継(ぎ)穂

と当てる。元来は,

接ぎ木のとき、台木に接ぐ枝など。義枝。

のことで,春の季語らしい。探してみると,

垣越にものうちかたる接木哉 蕪村
とか
雑巾をはやかけらるるつぎ木哉 一茶
とか
椿から李も咲かぬ接木かな 子規

等々,結構句がある。その接穂は,

「接ぎ木を行なう際、接がれる方の木を台木、接ぐ方の木を接ぎ穂と呼ぶ。」

ので,

「接ぎ木は、挿し木や取り木と同じく有用植物を枝単位で栄養生殖させる方法である。他の方法と根本的に異なるのは、目的とする植物の枝から根を出させるのではなく、別の植物の根の上に目的の植物の枝をつなぐことである。接ぎ穂と台木は近縁な方が定着しやすいが、実際には同種ではない組合せもよく使われる。うまくいけばつないだ部分で互いの組織が癒合し、一見は一つの植物のような姿で成長する。勿論実際にはこの接触させた位置より上は目的の植物の枝から生長したものであり、それより下は台木の植物のものであり、遺伝的に異なっている。但しまれにこれらが混じり合ってキメラや、更に遺伝子のやりとりが行われることもある。」

等々と説明される。

話が飛ぶが,確か,ソメイヨシノは,

「ソメイヨシノのゲノム構成はヘテロ接合性が高く、ソメイヨシノに結実した種子では同じゲノム構成の品種にはならない。各地にある樹はすべて人の手で接木(つぎき)などで増やしたものである。
自家不和合性が強い品種である。よってソメイヨシノ同士では結実の可能性に劣り、結果純粋にソメイヨシノを両親とする種子が発芽に至ることはない。このためソメイヨシノの純粋な子孫はありえない。不稔性ではなく、結実は見られる。ソメイヨシノ以外のサクラとの間で交配することは可能であり、実をつけその種子が発芽することもある。これはソメイヨシノとは別品種になる。」

のだそうで,

「明治初年に樹齢100年に達するソメイヨシノが小石川植物園に植えられていたという記録や、染井村の植木屋の記録にソメイヨシノを作出したという記録が発見されたことから、岩崎文雄らは染井村での作出を唱えている。この植木屋の記録により、1720-1735年ごろ、当地の伊藤伊兵衛政武が人工交配・育成したとの推定もある。これによって、現在では染井村起源という可能性が有力である。
現在ではさまざまな遺伝子解析により、ソメイヨシノはクローンであること、日本固有種のオオシマザクラとエドヒガンが最初の親であることが判明」

していて,ソメイヨシノの起源として,

ソメイヨシノ = (オオシマザクラ×ヤマザクラ) × エドヒガン

と推測されているらしい。つまりは,ソメイヨシノは全くの自然から生まれたものではないらしいのである。だから,各地にある樹はすべて人の手で接木などで増やしたものということになる。

閑話休題。

という次第で,接穂という言葉は本来,植木のそれを指しているが,そのメタファから, 

いったんとぎれた話を続けようとするときのきっかけ。つぎは。

という意味に敷衍され,

「話の接穂を失う」

というような使われ方をしている。「つぎは」は,

継ぎ端,

とあて,「話などをつぐべききっかけ」という意味で,接穂と同義。「端(は)」は,

端末,

の意で,「ハシ,ハタ,ハシタ」と同語源とされ,

山のハに陽が沈む,
とか
残ったハ数は切り捨て,

と言った使われ方をする。

はた
とか
へり

という意味でいい。「軒端(のきば)」「言端(ことは)」(言葉の端っこ,口先だけの表現が言葉の語源)等々。

「端」という字は,「立+耑」で,「耑」は,

布の端が揃って一印の両側に垂れたさまを描いた象形文字,

で,「立」を加えて,左右揃えてきちんと立つ,という意味になる。そこから,正しい,とか,整っているといった意味に広がる。

また,閑話休題。

で,「接穂」は,どう「接ぎ木」のメタファから考えると,単に話をつなぐという意味ではなく,本来は,きちんとその本題を受けとめてつなぐ,という意味なのではないか。

たとえば,連歌や連句の,

つけ句,

がその接穂の付け方を象徴しているように思える。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~RENKU/nmn17.htm

等々によると,

今日も浮世の晩鐘を聞く 

の前句に対する付け方として,

つくづくと木枕のかどまはしゐて

湯あがりの簾にちかき草の花

門松の雪も静かに年くれて

飛ぶ鳥の影もかすかに雲ちぎれ

五月雨の美濃恋しくも旅に居て

等々の付句を例にしている。付けられ方で,前句の意味が変わる。それで思い出した。

コミュニケーションというのは,

相手がどう応えるかで話し手の意味が決まる,
相手の反応で,何が伝わったかが決まる,
あるいは,
こちらの伝えたいことではなく,伝わったことが伝えたことなのである,

という原則がある。話の接穂には,なかなか含意が深い。

椿から李も咲かぬ接木かな 子規

参考文献;
http://haikai.jp/sikimoku/kmr_tuke.html
http://www.h2.dion.ne.jp/~taki99/zanoshikata.htm
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
簡野道明『字源』(角川書店)

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悪びれる

悪びれるは,

悪怯れる

とも書く。辞書(『広辞苑』)によると,

多く下に打消しの語を伴って

とあり,

気おくれがして卑屈な様子をする,
未練がましく,ふるまう,
わろびる,

とある。因みに,『大言海』は,

物言いかねて,何となく屈す,また醜き状となる,
臆して醜くなる,
醜態,

とあり,『保元物語』「為朝最期事」より,

「かやうに随分勇士共は,わろびれて進みえず」

と引用する。本来は,どうやら,相手の,

臆した,
みっともない,

様子を指していたらしい。しかし,昨今は,否定形を伴って,

悪びれない,
悪びれた様子もない,
悪びれる風もない,
悪びれもしない,

といったふうに,その様子を非難する方に転じている。悪びれる【わるびれる】の例文(使い方)として,

まったく悪びれた様子がない(謝らない・謝罪しないの表現・描写・類語)
悪びれた感情になる(恐怖・不安の表現)
悪びれる(恥ずかしいの表現)

といった使い方がある,とされるが,

まったく悪びれた様子がない,

という意味で,本来謝罪しなくてはならない状況にあるにもかかわらず,

謝らない
謝罪しない,

ことを非難する言い回しが多い。要は,

恥を恥とも思わないでいるさま,
とか,
やったことを反省するそぶりもない,

という意味で,

ふてぶてしい,
とか,
いけしゃあしゃあ,

といった含意の表現なのである。類語で言うと,

恥じる様子もない
厚かましい
厚顔無恥
鉄面皮
ふてぶてしい
面の皮が厚い

といった,何がしか悖る行為をしておきながら,

しれっとしている
あっけらかんとしている
ケロリとしている

というのが,「悪びれない」の意味の外延だが,厚顔,厚かましいには,単に,

鈍感,

というだけではない,人として,どうなのか,という咎めが入っている。それは,

倫理,

といっていい,それは,

人として,どう生きるか,
人として,どうあるべきか,

といったものに背くにもかかわらず,それに何の痛痒も感じないらしい無神経さを咎めている。しかし,咎める側と本人のギャップが大きいことに,昨今つくづく思い至る。

愧ずべきことと,
恥ずべきことと,

一向に思っていないらしいのである。こういうのを,

荒廃,

と呼ぶ。いまその坂道を転がり落ちているが,そう思わない連中にとっては,

馬の面にしょんべんなのだろう。

だから,よく,

おめおめと,

と,こちらには思えるところに,平然と立っていて,悪びれるところがない。

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破天荒

破天荒というと,

型破り,

といったニュアンスで受け止めていたが,辞書(『広辞苑』)には,

「天荒」とは天地未開の時の混沌としたさまで,これを破り拓く意,

と注記があって,

いままで誰もしなかったことをすること,

という意味で,

前代未聞,
未曾有,

と同義とある。そういえば,だいぶ前に,国語辞典『大辞林』(小学館)編集部が,

「間違った意味で使われる言葉ランキング」

を示していた(http://www.excite.co.jp/News/bit/E1382004566055.html)が,その四位に破天荒があり,本来と異なる,

豪快で大胆不敵なようす,

という意味で使っていて,さらに,文化庁が発表した平成20年度「国語に関する世論調査」でも,「彼の人生は破天荒だった」を,

本来の意味とされる「だれも成し得なかったことをすること」で使う人が16.9パーセント,
本来の意味ではない「豪快で大胆な様子」で使う人が64.2パーセント,

という逆転した結果が出ているそうで,本来の,「だれも成し得なかったことをすること」に比べると,随分と矮小化されてしまったようだ。『語源辞典』では,中国由来の二説が載っており,

ひとつは,「天荒(天智混沌の未開のさま)を破る」という『広辞苑』説で,今までになかったことをする,意。
いまひとつは,「天荒(科挙にずっと落第してばかり)を破る」で,前代未聞の意。

とある。しかし,素人ながら,後者は,破天荒のイメージとしては小さすぎる気がする。

ウィキペディアは,しかし,この説を取る。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%B4%E5%A4%A9%E8%8D%92

「中国・宋代の説話集『北夢瑣言』の記述に由来する。
中国の唐代、王朝成立から100年以上経た後も、荊州(現在の湖北省)から官吏登用試験である科挙の合格者が出ず、世の人はこの状況を『天荒』と称した。天荒とは本来『未開の地』もしくは『凶作などで雑草の生い茂る様』を言う。やがて劉蛻(りゅうぜい)という人物が荊州から初めて科挙に合格すると、人々は『天荒を破った』と言った故事に由来する。旧説には、天地未開の混沌した状態(天荒)を破り開く意がある。」

と出ている。語源由来辞典も,

http://gogen-allguide.com/ha/hatenkou.html

「『天荒』は未開の荒れ地の意。唐の時代、官吏登用試験の合格者が1名も出なかった荊州は人々から『天荒』といわれていたが、劉蛻 (りゅうぜい) が初めて合格して『天荒を破った』といわれたという、『唐摭言』『北夢瑣言』の故事から。」

と同じ故事が由来としている。しかし,旧説に,

「天地未開の混沌した状態(天荒)を破り開く意がある。」

とあるように,元々「天荒」という言葉の,

天地未開の混沌した状態,

という意味が先にあり,そのメタファとして,「荊州は『天荒』」と言われたのだから,話は逆ではあるまいか。それに,科挙(くらい)といっては,お叱りを受けるかもしれないが,それに初めて合格したのを,

天荒を破る,

というのは大袈裟ではないか。他の地域ではどんどん合格者を出しているのに,遅ればせに受かった程度で,

破天荒,

とは,大騒ぎしまい。やった,と小さくガッツポーズを取る程度でないと,それこそ,とっくに大量の合格者を出している他の地域の笑いものではあるまいか。むしろ,

嚆矢
とか
濫觴
とか
嚆矢濫觴

といった,はじまりの意に近いのではないか。

「嚆矢(こうし)」はかぶら矢(戦端を開く合図)の意。
「濫觴(らんしょう)」は大きな川もその始まりは觴さかずきに溢あふれるほどのわずかな流れである意。

いずれも,発祥を示しはしても,「破天荒」のニュアンスとは違う。確かに,

前代未聞,
とか
未曾有,

に近いが,これは,どちらかというと,人よりは,ことやもの,つまり,出来事や物事のことを指すニュアンスではないか。前代未聞は,

「今までに一度も聞いたことがないこと。非常に珍しいこと、程度のはなはだしいこと」

だし,未曾有は,

未だ曾て有らず,

そのままで,本来,仏の功徳の尊さや神秘などを称賛,というから,ありがたしに近い。しかし,やはり,

今まで一度もなかったこと。きわめて珍しいこと,

という意味に転じている。

やはり,破天荒は,破天荒,他に,

天荒を破る,

意の言葉は見当たらない。しかし,『大言海』がとどめを刺す。

「天荒は天地未聞の混沌悠久なる状態,即ち之を破る意。下文の劉蛻の故事より起こる」

と。そして,

「官吏の登用試験に落第したるを天荒と云ひ,及第したるを破天荒と云ふ。宋の孫光憲の北宋瑣言に『挙人落第曰天荒,故及第者謂之破天荒』とあり」

とし,「此の語,今は前代未聞,未曾有などの意に用いらる。甚だしく変じたるものなり。」とある。

ということは,事態は逆で,「天荒」という言葉はあったが,それには,科挙合格という意味があって,それを破る,合格を,破天荒と言った,と。とすると,

誰も無しえなかったこと,

が結構矮小化される。その意味では,前代未聞でも,大袈裟すぎるのかもしれない。もちろん,科挙合格が大変なことであると分かっていたとしても。

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どんでん返し

 

どんでん返しは,

正反対にひっくり返すこと。転じて,話・形勢・立場などが逆転すること。
「強盗 (がんどう) 返し」に同じ。

とある。強盗返しは,

歌舞伎で、大道具を90度後ろへ倒し、底面を垂直に立てて次の場面に転換させること。また、その仕掛け。どんでん返し。箱天神 (はこてんじん) 。

とある。強盗返しの別の説明では,

「箱天神ともいう。家体あるいは丸物の第一場面の道具がそのまま背後に転倒してその道具の下部に仕込まれた道具が現れ、次の場面になる方法。」

人が龕灯のロウソクのように常に見えていることから。強盗返しというということになる。語源由来辞典,

http://gogen-allguide.com/to/dondengaeshi.html

によると,

「近世,歌舞伎の舞台で大道具を90度後ろへ倒し,底面を立てて,次の場面に転換することや,その装置を『どんでん返し』といったことに由来する。歌舞伎の『どんでん返し』は,中が自在に回転する仕掛けの『強盗提灯(がんどうちょうちん)』に似ていることから,元々は『強盗(がんどう)返し』と呼ばれていた。『がんどう返し』が『どんでん返し』に転じたのは,『どんでんどんでん』という鳴物の音からか,大道具を倒す時の音からと言われている」

とある。ちなみに,強盗提灯とは,

「銅板・ブリキ板などで釣鐘形の枠を作り、中に自由に回転できるろうそく立てを取り付けた提灯。光が正面だけを照らすので、持つ人の顔は見えない。忍び提灯。龕灯(がんどう)。」

のこと。通常,龕灯(がんどう)と呼ばれる。龕灯は,

「江戸時代に発明された携帯用ランプの一種。正面のみを照らし、持ち主を照らさないため強盗が家に押し入る際に使ったとか、目明かしが強盗の捜索に使ったとも言われ、『強盗提灯(がんどうちょうちん)』と呼ばれた。金属製、または木製で桶状の外観をしており、内側には二軸ジンバルにより2本の鉄輪が回転し、内側の鉄輪の中央にロウソクが固定されており、龕灯をいかなる方向に振り回してもロウソクは常に垂直に立って火が消えないような工夫がなされている。」

http://www.hokusetsu-ikimono.com/kenkyu/syakai/mukashi-dougu/parts/kaichyudentou/gandou-02.JPG

写真を見ると,真直ぐに立ったろうそくが,二つの輪の回転でどのような向きになってもまっすぐ立つようにくふうされている。その由来は,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B7%E7%9B%97%E8%BF%94

に詳しいが,

「演劇を行う施設では演劇空間の時空を自在に演出するために外部からの光を遮蔽することが多く、舞台上の照明は一般的には内部照明によってのみ操作する。このため、舞台照明を一瞬だけ消すことで真っ暗闇を実現することが可能となり、この暗転の中で演劇者は衣装を着替えて次の演技の所定の位置に着き、舞台道具は強盗返の仕掛けを用いることで、場所や季節の切り替わり等のシーンの切り替え等を舞台と客席の間の幕を上げ下げをすることなく、観客の目の前で短時間で行うことが可能となる。」

とあり,

「強盗返は横から見ると床と壁が一体化したアルファベットの大文字の「L」の形をしており、床面に置かれた什器備品等の多くは底面である床に固定されている。歌舞伎では一体化した床面と壁面を備品と共に後ろ側に倒すことで、今までは床に見えていた底面部分の裏側に隠れていた壁面が観客の目の前に現れる。この時、歌舞伎では前述の大太鼓の音が「どんでんどんでん」と鳴り響く。」

後に部隊が回る回転式が登場するが,その場合,強盗返と区別するために,盆廻し(ぼんまわし)と呼ぶそうである。

どんでん返しには,

忍者屋敷の扉のからくり。

の意味もあるが,こういう由来を見ると,どうやら比較的新しい言い回しだということがわかる。

ところで,強盗は,現在ふつう,

ごうとう

と訓む。それを,

がんどう

と訓むのは,

唐音

らしい。『古語辞典』には,がんどう(強盗)で載る。辞書(『広辞苑』)によると,古くは,

ごうどう,

と訓んだらしいし,日葡辞典では,

がうだう,

と訓んだらしいので,がうだう,がんどう,ごうどう,ごうとう,という転訛なのだろうか。『大言海』は,

「がんだう」を「がうだう」の転,

とある。『古語辞典』の「がんだう」の項には,強盗返し,強盗提灯のほかに,

強盗(がんだう)打つ 強盗に入る
がんだうづきん(強盗頭巾) 頭・顔全体を包み隠し、目だけを出すようにした頭巾。苧(からむし)頭巾。目ばかり頭巾。ごうとうずきん。

が載っている。「ごうとう」より「がんどう」のほうが,およそ強面でなくなる語感があるが。

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天眼

天眼は,