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方法としての語り手


 書くことのなかに語り手を招きいれ、語る時や場所をうちわくとして設定しながら、(中略)自身は語るものでなく、書かれた存在であるのに、内容上は〃語り〃をもつという、矛盾する在り方を特徴として物語文学は成立する。(藤井貞和『物語の起源』)

 文学の描写はすべて一つの眺めである。あたかも記述者が描写する前に窓際に立つのは、よくみるためではなく、みるものを窓枠そのものによって作り上げるためであるようだ。窓が景色を作るのだ。(R・バルト、沢崎浩平訳『S/Z』)

 『地の果て至上の時』は『枯木灘』の〈物語の物語〉である。

 「岬」では「彼」に向き合い、『枯木灘』では「秋幸」(及びその家族や路地という世界)と向き合っていた語り手は、『地の果て至上の時』では、「モン姐さん(の語り)」(あるいは〈語り手〉としてのモン姐さん)と向き合っている。その語りは、

秋幸
モン 
語り手

 となっているが、たとえば、

 秋幸がさらにその傾斜地を訪れたのはモンの知っている限りでは三日後、雨が降り出し、急に気温が下った時だった。
 モンはそうやって秋幸が浜村龍造の過去を訊きに傾斜地をたずね、美恵が不安でしょうがないからと同じ場所にでかけたのは、何かの力の引き合わせのような気がした。
 モンは秋幸の行動だけでなく心の動きも一部始終分かっていると思った。

 というように、語り手が、モンを語る(向き合う)ときは、語り手の「辞」は零記号化(認識としては存在するが、表現としては顕在化されない「辞」をこう呼ぶ。 「網」 は零記号を意味する)し、

 秋幸はモンの後に浜村龍造がいるのを気づいていた。それをモンに訊ねるととりつくろいもせずに浜村龍造にたのまれて来たと白状した。わしの大事な息子の一人を殺したんじゃから、その息子の代りもせんならん義務もあると言っていた、と伝えた。浜村龍造は或る時こうモンに言った。一人減ったぐらいで亡びるものかよ。

 というように、秋幸を語る(向き合う)ときは、たとえばこの場合だと、一見、秋幸がモンを語っているようにみえるが、実は、

モンは、……  秋幸 
モン 
語り手

 となっているのであり、モンの語りの「辞」が(むろん語り手の「辞」も)零記号化している。語り手は、モンの語りと向き合っているのだから、『千年の愉楽』のオリュウノオバの語り同様、この語り全体は、モンのもとに集約された数々の噂を形にした、モンの語ることであって、その虚実はモンにのみ負っている。中上氏はこう言っていた。

 モンは、浜村龍造と秋幸の成り行きを見守り、作品の中では語りの役割をし、噂を小説世界につなげる役をしているんです。(高橋敏夫氏とのインタヴュー)

 たとえば、秋幸が、自分について、

 何も言いたくなかった。二十九の人より優れて大男の者に、自分が母フサの私生児として生れた事、実父は人に忌み嫌われ悪辣の限りをつくし仕舞には恩のある佐倉まで殺しつけ火して成り上ったと噂のある浜村龍造で、他に分っているだけでも二人の女に子供をつくった、と言わしても嘘になる。秋幸はひとりごちる。腹違いの妹を姦した、その腹違いの五つ下に出来た弟を石で打ち殺したと今眼に見えるその二十九の大男に言わせてみたい気がした。二十六の時そうする事が何事かであるように思ってさと子を連れて浜村龍造に会い、おまえの子をもう一人のおまえの子が姦したと言ってみて、浜村龍造に薄笑いを浮かべられ、「かまん、かまん。白痴の子が生れようがどうしようが、そのためにも先祖が出て来た有馬に土地を用意しとる」と言われた時のように、何を言っても、ただ自分の若気のための分別のなさ、思慮の足りなさに今は見える。三年間刑務所で過ごしてみて、やってしまった事を人に言う事は二十九の男がする事ではなく、やった事はやった事だと認めるしか道はないと肝に銘じた。

 と物語ったのに対して、浜村龍造は、こう語り直す。

 浜村龍造は並んで腰かけた秋幸を見てポケットから手帖を取り出した。手帖を開け、中にはさんだ二葉の写真を一人で見てから黙ったまま手帖ごと秋幸に渡した。
 一つは秋幸だけがセーターを着て写した五歳の頃のもので、秋幸にもその写真には見覚えがあった。後の一葉は色あせたどこを見ても見覚えのないものだったし、さらに見れば見るほど、人が言い、秋幸が記憶した事実と違っている事に気づいた。真ん中に腕を組んで立ったのは秋幸らしかったし、左横に立ってかすかに笑を浮かべているのは紛れもなくまだ充分に若いフサだった。秋幸の背に手を当て右横に立ったのは人を射ぬくような昏い眼をした若い浜村龍造だった。秋幸が三つの時だという。 「これが俺かい?俺じゃなしに友一じゃろ」と言うと、「何を言うとるんじゃ」とつぶやく。
 「話が違うのう。俺が三つの時じゃったら、刑務所から出て来て俺と母親に追い返されたはずじゃ」
 「そうは言うた。フサも秋幸もそうじゃった。じゃがこれは別の日じゃ」
 浜村龍造は秋幸から写真を受け取って眺め、「どうじゃこの悪党面は。いばりくさって、自分より強いもんは他におらんという顔して」と指で顔をはじいた。「これがお前の正体じゃ。この三人が立っとるとこ、どこの草むらじゃと思う?俺が最初に買うた土地じゃ。はじめてこの地球の上に公に浜村龍造と登記した土地じゃが、俺がそこへ家を建てるのを途中でやめたのも、こんな土地など持っとってもクソにもならんと売りとばしたのもこいつのせいじゃよ。必死になって立っとる男、ヤクザ者での。茨の龍という名前はこの一帯でひとかどの者じゃったら知らん者がなかったはずが、殊勝に律義に思いつめて切手ほどの土地持って更生しようとしとるんじゃ」

 ここでは、浜村龍造も、『枯木灘』のように、虚実取り混ぜて、ただ語られるもの(噂されるもの)であるだけでなく、みずからも語る(「幾つも噂があり蝿の王だと悪罵を投げかけられる当人が他人の噂をする」)ものであり、秋幸もまた、みずから物語り(噂し)ながら、また物語られる(「蝿の王の血を引く者として路地の中で噂に取り囲まれ」る)ものとなっている。語り語られる語りの構造は、図式化して対比してみるなら、たとえば、龍造が、

  龍造
秋幸 
モン
語り手

 と、秋幸(や鉄男やさと子やモン等々)によって噂されるだけでなく、秋幸もまた、

  秋幸
龍造 
モン
語り手

 と、龍造(やモンやユキや徹や良一や美恵や鉄男等々)によって噂されるものとなっているのである。それは、ひとつの事柄も多様なパースペクティブで語られるということだ。「岬」や『枯木灘』では(基本的に)一つのパースペクティブしかなかった物語(噂)が、無数の焦点(パンフォーカス)をもち、その数だけ輻射される物語は、二重三重に噂(という物語)を問い直している形になる。

 しかも、そのすべての噂(物語)は、モンの語りのパースペクティブに収斂し、配置し直される。一旦あるパースペクティブで噂さ(物語ら)れたことは、次に別のパースペクティブの噂(物語られたこと)と差し替えられ(語り直され)、それはまた別の噂(物語られたこと)によって別のところに焦点が当てられ、そのすべてはモンのパースペクティブに整序される。

 たとえば、噂はこんなふうに紹介される。

 十和田屋の一人娘、番頭と渋々結婚した紀子が三歳になる男の子を連れて家を出たという噂はモンの耳に大分たってから入って来た。その噂より先に秋幸が紀子と三歳になる男の子を連れ、フサの元を訪れたと、ユキが誰彼なしに話してまわった。水の信心の老婆らはフサが誰なのか、竹原がどういう家なのか分らないまま、さと子の兄の秋幸と、土地に元からある名前だけは通った十和田屋の娘に興味をひかれるのか、フサがユキに語り、ユキが虚実つきまぜて語った事をまるで自分が実際に見ていたようにモンに教えた。

 こうした噂は、つづいて、モンによって、こう整序され、物語られる。

 秋幸は路地の草むらの方から寝苦しくてぐずる子供の声を聴き、ひたひたと歩いて近寄った。丁度路地を囲ったあって無きが如くの鉄線の柵の脇に誰かがぐずる子を抱えてしゃがんでいた。それが紀子と三歳の男の子だと分るのにものの五秒もかからなかったが、路地の枯れた草むらを前にして、秋幸はかつての自分と母親のフサに出会わしたように言いしれぬ衝撃を受け、ぐずる子をあやす事も忘れて途方に暮れて夜の暗闇に子をかかえたまま沈んでいこうとしているようにしゃがんだままの紀子をみつめ、立ちつくした。秋幸が近寄ると紀子は暗闇の淵から這い上るように顔を上げた。紀子は眠り切れないまま眠っている子を抱えたまま立ちあがった。子を放り出して秋幸にすがりつきたいと思ったが、紀子は「ほら、本当のお父さんよ」と子をゆさぶって起こしにかかり、近寄る秋幸の顔が自分とその子の裏切りをせめているようで怖く、黙って子を差し出した。秋幸は女という性の手前勝手に身震いして怒りながら眠った子を抱きとめ、肩にもたせかけ、擦り寄った紀子の髪を撫ぜ、頬を撫ぜる。
 秋幸は紀子とその子を連れて、竹原の家へ行き、寝入っていたフサを起こした。灯りを落した玄関先に立ったフサに、刑務所から戻ってから人の嫁になっていた紀子と関係が出来ていた事、秋幸の子を連れて決心して紀子が家を出た事を話した。フサは口をかたく結び、そうやって人のそしりを受けて耐えてきたというように身をそらして立っていた。フサが秋幸を見ているのか、大きな体の背にかくれるように立った紀子とその子を見ているのか分らなかった。外で犬が吠えていた。雨戸を通して池の水音が微かに聴こえていた。不意にフサは腕を前に突き出した。長い間物を言わなかったようにしゃがれ声で「行け」と言い、さらに指を外に向って突き出し振った。フサはその一言以外声を出さなかった。

 これが、「噂を小説世界につなげる」ことの意味にほかならない。だがこれも、美恵(の語りを語ること)によって、さらに修正される。

 「秋幸はどこそへ行く。どこへ行たんか分らんけど、どこそへ行く。母さんに、アメリカでもブラジルでも、サンジエゴでも行けと、子供つれて行た時、追い出されたはずやさか」

 これとても、義父か母から聞いた、美恵の物語ることにすぎない。しかし、こうして、噂は多層化し、それ自体が語りの奥行を膨らませていく。

 むろん、ことの真偽などこの場合二次的な問題だ。ここでは、噂を噂すること(〈物語の物語〉)が問題にすぎない。一旦語られた(噂された)ことは、またあらゆる角度で語り(噂し)直される。そうすることで、ひとつの事柄が、多焦点に、さまざまなパースペクティブで語られる、物語の厚み、奥行にこそ意味がある。

 中上氏は、こう述べていた。

 モンのようにもっぱら語り手にまわり、一歩しりぞいた位置から、いつでもどこへでも侵入できる人物を登場させました。
 こうしておけば仮にこの『地の果て至上の時』の二十年後の世界を描く場合にも、モンがこう語ったと別の誰かが語った、という視点を導き入れることで、今度の作品自体の意味を変容させることができる、と思いました。(小島信夫氏との対談
)

 たとえば、語り手が、「秋幸は路地の裏山を思い出した。」と語るのと、

秋幸は路地の裏山を思い出し  
語り手

 (零記号化した)モンが、

秋幸は路地の裏山を思い出し   
モン 
語り手

 と、語るのとでは、本来は一緒ではない。前者は、話者(語り手)が直接語っているとするなら、後者は、モンが語っているのを語っている。たとえ語りの「辞」が零記号化され、前者の語りと似ようと、語り手は、秋幸を語るモンの語りを語っているにすぎない。その語りの中身は、あくまで「語りの語り」にすぎない。それは、『千年の愉楽』で、オリュウノオバの語り(に向き合い、それ)を語る語り手の役割と同じなのだ。それは、言わば噂の噂として、語っている。だから、作品全体が、巫女の託宣と同じ物にすぎないのだ。

 仮に、語り手が向き合っているのが、モンの語りと秋幸の語りの両方にだとしても、モンの語りと秋幸の語りの双方が相対化され、

  秋幸
モン
  秋幸
 語り手

 と、パースペクティブの唯一性を失うことに変わりはない。この意味からみれば、「いつでもどこでも侵入できる人物」としてのモンは、秋幸の語りの唯一性を相対化する役割を担っているとみることができる。それは、モンの語りに収斂することで、語られたことの確かさを徹底的に相対化させたということである。モンのみが語られたことを支えている。それは、モンが崩れれば、すべてのモンの語り、モンの語りの語りである、この『地の果て至上の時』という物語(の物語)そのものが崩壊する、ということを意味している。それがまた、まぎれもなく、物語(の語りの奥行)が本来もっていた形にほかなるまい。

 『奇蹟』は、『地の果て至上の時』の〈物語の物語〉である。

 それは、モンの語りのパースペクティブに収斂した『地の果て至上の時』の語りをさらに相対化させた、語りの「辞」の相対化を徹底させたものとなっている。

 どこから見ても巨大な魚の上顎の部分の見えた。その湾に向かって広がったチガヤやハマボウフウの草叢の中を背を丸めて歩いていくと、いつも妙な悲しみに襲われる。トモノオジはその妙な悲しみが、巨大な魚の上顎に打ち当たる潮音に由来するのだと信じ、両手で耳を塞ぐのだった。指に擦り傷や斬り傷がついているせいか、齢を取って自然にまがり節くれだったためか、それとも端から両の手で両の耳を完全に塞ぐのをあきらめてそうなったのか、指と指の隙間から漏れ聴こえる潮音はいっそう響き籠り、トモノオジの妙な悲しみはいや増しに増す。
 トモノオジは体に広がる悲しみを、幻覚の種のようなものだと思っていた。日が魚の上顎の先にある岩に当たり水晶のように光らせる頃から、湾面が葡萄の汁をたらしたように染まる夕暮れまで、ほとんど日がな一日、震えながら幻覚の中にいた。幻覚があらわれ、ある時ふと正気にもどり、また幻覚に身も心も吸い込まれてゆく。

 こう語り始められたとき、語り手が向き合っている(語ろうとしている)のは、現のトモノオジかトモノオジの思い出か、あるいはトモノオジの幻想のはずである。だから、

 トモノオジにふっと正気が訪れたのは、若衆が精神病院の裏のフェンスを抜けた時だった。トモノオジは起きあがり、若衆に声を掛けた。若衆はフェンスの外に立って振り返った。
 「タイチノアニが殺されとったんじゃ」 若衆は、何を伝えてもアル中で精神病院に強制入院させられているトモノオジに伝わらない、とあきらめきったようにつぶやく。トモノオジは一瞬、巨大な魚が吐き出す真紅の潮を想い浮かべ、その魚と自分が急に二つに引き離されるような気になりながら、「タイチが殺されたんじゃて」と声を出す。 

 と、正気に戻ったトモノオジに向き合っていても、あるいは、

 「みんな似たりよったりじゃったさか」そう言った途端に後の声が出ない。あわててオリュウノオバはトモノオジの頭上にしゃがんで顔をのぞき込み、トモノオジが一尾の巨大な魚に変身しながら深海に堕ちるので、あわてて息を吸おうと口を開閉させているのを見て、「また中毒かよ?」とつぶやく。
 トモノオジは首を振る。しかし深海に堕ち込み一尾の大きな魚、名前を与えればクエ、に変身したトモノオジの体は頭と首がないので、不覚にも体全体がビクンと跳ねてしまうのだった。クエに変身したトモノオジはとりあえず深海のゆるやかな流れの中に身を置き、遠い水面からのぞき込む豆粒ほどのオリュウノオバに、口を開閉させて、四人の小魚は路地の三朋輩には一口で呑み込んでもものたりないようなものだった、とへらず口をたたき、そしてふと、タイチが犯した決定的な過ちを思いだし、「覚えとるこ?」と訊いた。

 と、トモノオジの見る幻覚そのものを語って(向き合って)いても、あるいは、

 トモノオジは思い出す。
 路地の三朋輩それぞれ、齢端もいかないひ若い衆を陰になり日向になって庇ったのも、荒くれ者らしか出入り出来ない博奕場や闘鶏場に引き連れたのも、タイチがまぎれもない中本の一統の徴を持つ子で、この子こそ、他の一統の者らが及びもつかないような神仏にもまさる力を持ち、路地の三朋輩が出来なかった事をやると確信したからだった。後年、いっぱしの若い衆になった時、人に恥じる事のないよう極道者の立ち居振舞いを見せておく。

 と、トモノオジの想い出を語って(向き合って)いても、あるいは、

 その日は不思議な事つづきだった。病棟で錯乱した同室の男がアルミの食器で窓枠を叩き続けるのを見ていて、トモノオジは窓の外にオリュウノオバが立ち自分に手招きしているのに気づいた。幻覚のさめたトモノオジは、はるか昔にオリュウノオバは死んだはずだ、それに律義者で信心深いオリュウノオバが馬喰、博奕打ち、極道、そのあげくがアル中の自分のような半端者に、柔らかい路地の女のように笑みをつくり手招きするはずがないと思うが、立って窓に寄った。オリュウノオバはトモノオジに「元気かよ?」と声を掛け、トモノオジがとまどっていると、「来てみいま」といつものように三輪崎の湾の全貌が見える精神病院の裏に来いと言う。トモノオジはそれも幻覚なのだろうと思い、同室の男に外に老婆が立っているのが見えるかと問いただそうとするが、男はアルミの食器で窓枠を叩くのに忙しくて取りあわない。

 と、幻覚と覚醒の入り交じった状態を語って(向き合って)いても、図解してみれば、

  トモノオジの幻想(想い出)
トモノオジ
語り手

 と、いずれもトモノオジ(の幻覚)に向き合うという語りから外れているわけではあるまい(トモノオジとトモノオジの幻想(想い出)が逆であってもよい)。しかも、

 タイチの訃報が精神病院にもたらされた時から、トモノオジの幻覚にオリュウノオバが現れ続け、姿を消すことなくいつまでも三輪崎の精神病院にいた。

 のだから、オリュウノオバを語ることも、オリュウノオバの想い出を語ることも、トモノオジ(の幻覚)の見る(語る)ものであるはずなのに、

 「トモよい」オリュウノオバは急いたように名を呼んだ。
 「吾背はオバの言う事を聴かんのか?吾背を一から十まで覚えとるの、このオバじゃぞ」
 トモノオジは混乱する。トモノオジは眼をつむり、頭を振り、それからはっきりと自分は幻覚の中にいるのだと気づいたように、「一から十まで何を知ろに」と鼻で吹く。
 「オバは死んだんじゃがい。このトモは生きとる。イバラの留やヒデの事なら、あれらもう死んどるさか一から十まで知っとろが、何で死んだ者にまだ生きとる者の一から十まで分かる?」
 言い込めてやったと得意顔のトモノオジをオリュウノオバは哀れむような眼で見る。黙ったまま、湾が見える外に出ろ、と手招きする。

 では、トモノオジが、まるで現に、オリュウノオバと向き合っているのを語っているのに、逆に、

 ……床に臥し、開いた仏壇をぼんやり眺め、かすむ眼で若衆の誰かが持ち込んだそれ自体ぼけた礼如さんの写真を見つめてうつらうつらしながらオリュウノオバはすでにその時、トモノオジが三輪崎の精神病院に収容される事も、そこでタイチの訃報を耳にし、生きながら或る時はクエの身になり或る時はイルカの身に転生しながらタイチ誕生からその死まで思い出したどり、アル中の頭におぼつかぬ事をオリュウノオバに問うて質している今をも思い出している。
 オリュウノオバは床に臥したまま魂を蝶に変え、わずかに開いた障子戸の隙間からするりと身を滑らせて外に出、明るい日射しの中を風に乗ってただ茫々と過ぎた時の波のうねりを楽しむように舞い、陸に打ち上げられて苦しい息を継ぐイルカの身のトモノオジの傍に来て、「トモよい」と声を掛ける。

 では、夢うつつのオリュウノオバが、夢か現か曖昧なまま、トモノオジ(の幻覚)を語って(向き合って)いるように語られる。ひとつのとらえ方は、語り手が、トモノオジにも、オリュウノオバにも向き合って語っている、と考えることだが、たとえば、高橋源一郎氏は、それを含め、三つの可能性を挙げた(全集十巻解説)。「トモノオジとオリュウノオバがする物語」か、「物語の一切は、精神をやられてトモノオジの幻覚である」か、「オリュウノオバはタイチたちの『物語』を語る第一の、かつ唯一の語り手だった。そして、トモノオジもまたオリュウノオバによって語られる登場人物の一人に過ぎなかった」か、と。このいずれかが正しいのではなく、すべてが正しい。中上氏自身は、こう述べていた。

 『奇蹟』の場合、どんなふうに突っ走ったかというと、語りもの文芸を導入するという方向にです。読者は現代人だから当然、語りものに慣れていませんよね。もう忘れてしまっている。それでも強引に、文章をたわめてでも突っ走っていくというのをやってみた。(渡部直己氏との対談)

 前出した二つの語りは、正確には、それぞれ、こう描き直さなくてはならないはずだ。

タイチ〜 オリュウノオバ 
トモノオジ 
オリュウノオバ
語り手

 

 タイチ〜 トモノオジ 
オリュウノオバ 
トモノオジ 
語り手

 そして、タイチを語るときは、そのときを〃いま〃として語るために、それを語るトモノオジ(オリュウノオバ)も、それを語るオリュウノオバ(トモノオジ)も、それを語るトモノオジも、それを語る語り手も、語りの「辞」を零記号化しているのにすぎない。だから、同じくタイチを語っても、あるときは、

 オリュウノオバはタイチの焦れる気持ちを分かっていた。というのも、周りにタイチが何人若衆を集めようと、刻々と時間が経つに従って路地の三朋輩の元の縄張りはカドタのマサルとヒガシのキーやんの勢力下に腑分けされていくのだった。タイチらがまだ路地の三朋輩の片割れシャモのトモキがいるとすごんでも、自分らが三朋輩の直系だと言ってみても、齡端のいかないチンピラらがゴロ巻いているとしか町の者も他の土地のヤクザらも思わず、タイチが十六の齡になる頃は、タイチを中心にした中本の若衆、その周囲の十人ばかりの若衆らは、ただの喧嘩好きの不良グループのような扱いを受けている。

 と、オリュウノオバが、『千年の愉楽』のように語っている。しかし、他方では、

 トモノオジはタイチが他の三人を圧さえてしまう事になる理由をすべて分かっていた。路地の三朋輩が権勢をふるう世が世であれば、ワルはワルらしくものを考え振る舞うというイクオは、何の臆する事もなく女が腰から落ちる色男のワルとして齡下のオトトらを圧さえるが、いまだ後見人を自任するとはいえ誰も言う事を聞く者のいない凋落した三朋輩の片割れシャモのトモキことトモノオジでは、色男のワルのイクオより生真面目なタイチの方が通りがよい。ひいては齡嵩の三人を圧さえてしまう。

 と、トモノオジの語りにもなる。しかも、いずれもが、

 そもそも路地の高貴にして澱んだ中本の血のタイチをトモノオジが想い浮かべ、あの時はああだった、この時はかくかくしかじかだったと神仏の由緒をなぞるように、三輪崎の精神病院で、幻覚とも現実ともつかぬ相貌のオリュウノオバ相手に日がな一日来る日も来る日も語るのは、アル中のトモノオジの深い嘆き以外なにものでもなかった。

 と、語り手が打ち明ける通りなのだ。このとき、トモノオジの現に向き合う語りも、幻覚に向き合う語りも、想い出に向き合う語りも、また現のオリュウノオバに向き合う語りも、幻覚のオリュウノオバに向き合う語りも、想い出のオリュウノオバに向き合う語りも、更にそれぞれの中で向き合われる(語られる)タイチもイクオも、いずれの語りも区別のつかないまま、すべて、語り手の前に、時を失って、並列に向き合われている(語られている)。

 この語りの自在さは、『地の果て至上の時』で、モンの語りによって手に入れた、いつでもどこでも侵入できるモンを登場させることで、「モンがこう語ったと別の誰かが語ったという視点を導きいれることで作品自体の意味を変容」させることができる語りの延長線上にある。

 時枝誠記氏の「詞」と「辞」になぞらえるなら、風呂敷構造の日本語では、辞において初めて、そこで語られていることと話者との関係が明示されることになる。

 第一に、辞によって、話者の主体的立場が表現される。

 第二に、辞によって、語っている〃とき〃が示される。

 第三に、辞の〃とき〃にある話者は、詞を語るとき、一旦詞の〃とき〃と〃ところ〃に観念的に移動して、それを現前化させ、それを入子として辞によって包みこんでいる。

 大事なことは、辞において、語られていることとの時間的隔たりが示されるが、語られている〃とき〃においては、〃そのとき〃ではなく、〃いま〃としてそれを見ていることを、〃いま〃語っていることになる。

 その意味で言えば、語られている〃とき〃に立っている限り、そこで語られていることが、入子の語りとして現在形で語られているのか、「辞」の省略された零記号化した語りなのか、語っている〃いま〃客観的事実を述べているのかを区別することはできない。

 だから、ときにトモノオジの想い出となり、ときにオリュウノオバの現となり、ときにオリュウノオバの想い出となり、ときにタイチやイクオを目の当たりに語る『奇蹟』の語りは、常に現前にして語っている〃いま〃だけが語り出される。

 時折思い出したように、トモノオジの現状を示す(それも、必ずしも現とは限らない)以外、語り手の「辞」は徹底的に零記号化されており、しかも、トモノオジの幻覚の中でも、トモノオジの想い出の中でも、オリュウノオバの想い出の中でも、どの語りも、語っている〃とき〃(つまりトモノオジの幻覚の〃いま〃、オリュウノオバの思い出している〃いま〃等々の「辞」)も零記号化されていて、オリュウノオバの現なのか想い出なのか、トモノオジの想い出なのか幻覚なのか、それともトモノオジが見る幻覚の中のオリュウノオバの語りなのかははっきりしない。

 その語りの構造を図解してみるなら、次のように、各語りは、それぞれの語りの「辞」が、徹底して零記号化されることによって、

 

   タイチ
オリュウノオバ
トモノオジ
トモノオジの幻覚
語り手

 タイチを語るオリュウノオバ、タイチを語るトモノオジ、オリュウノオバを語るトモノオジ、トモノオジを語るオリュウノオバ等々、それぞれが零記号化した「語り手」(『千年の愉楽』のオリュウノオバと同じ)になって語っている。それは、語り手から見ると、どの語りの「辞」をも飛び越えて、次のように、

タイチ
オリュウノオバ
トモノオジ
トモノオジの幻覚
語り手

 それぞれの語りの語っている(語られている)どれとも、直接向き合うことになる。

 このことが意味するのは、徹底的にモンの主観に彩られた語りであった『地の果て至上の時』に比べて、『奇蹟』は、トモノオジの現に戻しても、それ自体が曖昧な幻覚でしかないかもしれないという、朦朧とした、収斂する焦点のない語り(のパースペクティブ)なのである。だから、一方では、アル中のトモノオジの現か夢か曖昧な混濁、いまひとつは現(生きている)か夢(トモノオジの幻覚)かはっきりしないオリュウノオバ、そのすべてもトモノオジの幻覚にすぎないのかもしれない、という曖昧さ(あるいは混沌)自体と、語り手は向き合って(語って)いる。

 本来、「辞」は、それによって、語っていることを主観的な彩りに変えることを意味している。しかし、それは語るものと語られるものとの境界が明確なときでしかない。いま、語りは、語り出している〃とき〃そのものまで消失しかねない茫漠とした霧に包まれ、ふいに霧の中から現前化するのは、たえず〃いま〃〃ここ〃としてなのだ。『地の果て至上の時』では、語りの語りというモンの語り(のパースペクティブ)に一元化することで、語りの奥行(という物語のカタチ)を駆使し、語りを重層化、多層化したのだとすれば、『奇蹟』では、同じように、見かけ上はトモノオジ(の幻覚)の語りに収斂していくような、語りの射程は、しかし、その奥行をどこまでたどっても、いつのまにかはぐらかされ、その代わりに、語りの奥行(という深度)の違う語りのすべてを、洗いざらい棚卸しするようにさらけ出し、そのすべてを横並びにしてみせたのである。こうした、「物語」の語りの奥行と幅を自在に使いこなしてみせる手際こそ、中上氏の言う「語りもの文芸を導入」の意味にほかなるまい。

 語り手によって語られることとの奥行のすべてが、語り手のパースペクティブから解き放されることによって、語られることのすべてが同列に展開され、それは一見、語りのパースペクティブそのものの解体に見える。確かに、語りの深度の違いが鞣され、彩りの違う語りが並列にされて、かえって物語に内包する(零記号化したはずの)語り手が解き放たれ、別々の語りが並んだように見える。しかし語り手が向き合う(語る)ものが変われば、語りのパースペクティブは変わる。ここにあるのは、語り手が、入子の語りの深度をひとつの〃とき〃に収斂する語りではなく、(零記号化した語り手たちの語る)入子の語りすべてが併置される語りに向き合っている、語る〃いま〃も、語られる〃あのとき〃〃そのとき〃も眼前に一斉に店開きする、新たな語りのパースペクティブなのである。

 中上健次氏が『奇蹟』において、物語を舞台に展開したこうした方法上の試みを、既に古井由吉氏は、それより二年前、「眉雨」で、「私」の語りを舞台に試みている。

 「眉雨」は次のように始まる。

 この夜、凶なきか。日の暮れに鳥の叫ぶ、数声殷きあり。深更に魘さるるか。あやふきことあるか。
 独り言がほのかにも韻文がかった日には、それこそ用心したほうがよい。降り降った世でも、あれは呪や縛やの方面を含むものらしい。相手は尋常の者と限らぬとか。そんな物にあずかる了見もない徒だろうと、仮にも呪文めいたものを口に唱えれば、応答はなくとも、身が身から離れる。人は言葉から漸次、狂うおそれはある。
 そう戒めるのも大袈裟な話で、私は夕刻から家を出て、蛇のくねるのに似た、往年の流れの跡と聞く道路を、最寄りの電鉄の駅へ向かっていた。

 この語り出しは、語りのパースペクティブに、微妙な位相差をつけつつ、三層の入子になっている。すなわち、まず、「この夜、凶なきか。日の暮れに鳥の叫ぶ、数声殷きあり。深更に魘さるるか。あやふきことあるか。」と、独り言の中の「鳥の叫ぶ」〃とき〃が、次いで「独り言がほのかにも韻文がかった日には、それこそ用心したほうがよい」と、内心自らを戒めている〃とき〃が、更に「そう戒めるのも大袈裟な話で」と思いながら、「最寄りの電鉄の駅へ向かってい」る〃とき〃が、更に正確を期するなら、そういう自分を語っている〃とき〃が、そこに語られていなくてはならないはずである。

 それぞれを図示すれば、次のように、独り言の中の「鳥の叫ぶ」〃とき〃=A、その独り言を「用心したほうがよい」と、自らを戒めている〃とき〃=B、戒めを「大袈裟な話」と思いながら「最寄りの電鉄の駅へ向かってい」る〃とき〃=C、となる。

 

 

「私」 

 C 


語り手

書き手

 そして、実は、そういう自分を語っている〃とき〃が、零記号化されている(図では「  =D」)ために、あたかも、歩きながら語っているかのように、「駅へ向かって」歩いている〃とき〃=それを語っている〃とき〃という見せかけになっている。


 ところで、ダグラス・R・ホフスタッター氏は、こういうことを述べていた。

 入れ子になったお話とか映画とちょうど同じように、あらゆる種類の「現実性のレベル」がある。映画の中の映画から飛び出たとき、ちょっとの間現実世界に戻ったかのように感じるが、実はまだ最高の現実よりひとつ下のレベルにいるのである。同じように、空想の中の空想から飛び出たとき、それまでにくらべ「より現実的な」世界にいるわけであるが、まだ最高の現実よりひとつ下のレベルにいるのである。

 ところで映画館の中の「禁煙」の掲示は、映画の登場人物には適用されない−映画では、現実世界から空想世界への持ち込みは起こらない。しかし命題計算では、現実から空想への持ち込みがありうる。さらに、空想世界からその中の空想への持ち込みもある。このことは次の規則によって形式化される。

持ち込み規則 空想の中で、ひとつ高いレベルの「現実」の定理を持ち込んで使用することができる。

 これは、「禁煙」の掲示がすべての観客だけでなく映画の俳優全員にも適用されるようなものであるが、これをくり返せば、何層にも重なった奥深い映画のどの登場人物にも適用されることになる!(野崎昭弘・はやしはじめ・柳瀬尚紀訳『ゲーデル、エッシャー、バッハ』)

 そして、「現実性のレベル」の入子構造を、次のような論理式で表現して見せた。

 [                       押し込み

 P                 外側の空想の前提

 〔             押し込む

  Q           内側の空想の前提

  P           Pの内側への持ち込み

  〈P∧Q〉        結合

  〕     内側の空想から飛び出す,外側の空想に戻る

  〈Q⊃〈P∧Q〉〉      空想規則

]        外側の空想から飛び出す,現実へ戻る!

   〈P⊃〈Q⊃〈P∧Q〉〉〉      空想規則

 「持ち込み」のアイデアは、「零記号化」による〃そのとき〃への〃いま〃の侵入(つまり、〃そのとき〃=〃いま〃)と考えてみると、この式全体が、零記号化のプロセスを微分していると見なせるのではないか……云々と、あれこれ着想が広がるが、ここでは、「現実性のレベル」とは、語りの入子領域にほかならないことを確認するだけにして、そのレベル表現スタイルだけを借用して、先にすすめたい。

 この論理式になぞらえて、入子の語りのそれぞれの領域を括ってみるなら、語られている〃世界〃は、次のように、《 》[ ]等で、それぞれ閉じ合った、日本語の構造で言う「詞」の部分毎に、境界線を括ることができる。因に、【 】は書き手の語っている〃とき〃との境界線、つまり作品としての領域と見なす。

 【

 《

  [

   〈  この夜、凶なきか。……

    〉  ……あやふきことあるか。

   ]   独り言がほのかにも……漸次、狂うおそれはある。

      そう戒めるのも大袈裟な話で、

(》)

 

 こういう図解をすることで、「鳥の叫ぶ」〃とき〃(〈 〉)を入子とし、更に「独り言がほのかにも……」と、「戒める」心の動き([ ])も更に入子として、初めて「そう戒めるのも大袈裟な……」と、「電鉄の駅へ向かっ」た〃とき〃(《 》)があることを表現できる(「《」の閉じる相手「》」を括弧つきにしたのは、これが零記号化されているため、以下でみるように、どこで閉じるかが明確になっていないためにほかならない。以下においても、一々断らないが、括弧つきの場合、そういう意味で使っている)

 こうみれば、そう戒めている〃とき〃、つまり私が「夕方から家を出」た〃とき〃を〃いま〃として(つまり零記号化して)、その一瞬の奥行を現前化していることになる。

 つまり、前述したように、「この夜、凶なきか」を入子にして、「独り言がほのかにも……」と「そう戒めるもの大袈裟な……」には、確かに時間差はあまりないが、「そう戒めるのも」からの件りは、「夕方から家を出」た〃とき〃の「私」の述懐ということになる。そのとき語りは、歩いている〃いま〃の共時的な一瞬を貫いた語りということになる。

 しかしそうではなく、この三者を「私」の意識の時系列に沿った、継起的な語りとみることもできる。そうなると「この夜、凶なきか」と「独り言がほのかにも……」と「そう戒めるもの大袈裟な……」には、歩いている〃とき〃から遡った、微妙なタイムラグがあることになる。

 冒頭の語りのつづきを、もう少しみてみる。「最寄りの電鉄の駅へ向かっていた。」に続いて、「この夜と言うほどの一夜ではない。日没が夜の重さに続くような暮しでもない。鳥は町でもけっこう鳴いている。……車はたそがれると、赤糸のものから見えにくくなるという。どの程度、目から失せるものか。」までは、語りの視線を辿るのは難しくなく、「そう戒めるのも大袈裟な話で、」からつづく語りが、そのまま同じレベルで、「車はたそがれると、……目から失せるものか。」まで続いている、とみえる。問題は、その後だ。

 空には雲が垂れて東からさらに押し出し、雨も近い風の中で、人の胸から頭の高さに薄明りが漂っていた。顔ばかりが浮いて、足もとも暗いような。何人かが寄れば顔が一様の白さを付けて、いちいち事ありげな物腰がまつわり、声は抑えぎみに、眉は思わしげに遠くをうかがう、そんな刻限だ。何事もない。ただ、雲が刻々地へ傾きかかり、熱っぽい色が天にふくらんで、頭がかすかに痛む。奥歯が、腹が疼きかける。たがいに、悪い噂を引き寄せあう。毒々しい言葉を尽したあげくに、どの話にも禍々しさが足らず、もどかしい息の下で声も詰まり、何事もないとつぶやいて目は殺気立ち、あらぬ方を睨み据える。結局はだらけた声を掛けあって散り、雨もまもなく軒を叩き、宵の残りを家の者たちと過して、為ることもなくなり寝床に入るわけだが。
 夜中に、天井へ目をひらく。雨は止んでいる。とうに止んでいた。風の走る音もない。しかし空気が肌に粘り、奥歯から後頭部のほうへまた、降りだし前の雲の動きを思わせる、疼きがある。わずかに赤味が差す。

 これをまた前述のように閉鎖しあった領域によって区別してみる([ ]〈 〉間に、レベル差を設けているのは、とりあえずにすぎない。ただ、( )は、〈 〉の入子になっており、〈 〉は、[ ]の入子となっており、[ ]は、《 》の入子になっていることを意味している)

  《     そう戒めるのも大袈裟な話で、……足もとも暗いような。

   [   何人かがよれば顔が……

    ]    思わしげに遠くをうかがう、

          そんな時刻だ。……奥歯が、腹が疼きかける。

   [   たがいに、悪い噂を……

    ]  ……寝床に入るわけだが。

  (》)

 素直に読めば、「空には雲が垂れて東からさらに押し出し、……顔ばかりが浮いて、足もとも暗いような。」という薄明りの描写は、その前の述懐に続いているとみていいが、もっと厳密に見れば、「顔ばかりが浮いて、足もとも暗いような。」自体は、薄明かりの比喩となっている、とみることもできる。

   《     そう戒めるのも大袈裟な話で、……薄明かりが漂っていた。

   [   顔ばかり浮いて、足もとも暗いような。

    〈  何人かがよれば顔が……

    思わしげに遠くをうかがう、

   (])   

        そんな時刻だ。何事もない。

  (》)

 どちらにしても、次の、「何人かが寄れば顔が一様の白さを付けて、いちいち事ありげな物腰がまつわり、声は抑えぎみに、眉は思わしげに遠くをうかがう、」は、「薄明り」の漂う、「顔ばかりが浮いて、足もとも暗い」「そんな時刻」を具体化させた比喩、その「見えにく」い時刻がそれによって鮮明に浮かびあがる。

 そして「何事もない」時刻だが、「ただ、雲が刻々地へ傾きかかり、熱っぽい色が天にふくらんで、頭がかすかに痛む。奥歯が、腹が疼きかける」と、「薄明り」のいま、「刻々」傾きかかる雲の重みに反応して、「頭がかすかに痛む。奥歯が、腹が疼」く体感が語られる。そして、 その体感が、「たがいに、悪い噂を引き寄せあう。」という比喩を再び引き出す。それは、少し前の「何人かが寄れば……」の喩えに照応して、同じレベルで、そんな雨模様の黄昏どきの体感が呼び起こす重苦しい鬱陶しさを、やはり比喩として語っている。

 ここは更に仔細に見れば、たとえば、「何人かが寄れば顔が一様の白さを付けて、……そんな刻限だ。」という節自体が、

 《

  [

〈    何人かが寄れば、……いちいち事ありげな物腰がまつわり、

  (    声は抑えぎみに、眉は思わしげ

  ) に遠くをうかがう、

()    

 (])

  そんな刻限だ。何事もない。

()

 と、焦点深度の違いが見えてくる。あるいは、その後の、「ただ、雲が刻々地へ傾きかかり、……奥歯が、腹が疼きかける。」も同様で、

 《      雲が刻々地へ傾きかかり、熱っぽい色が天にふくらんで、

  [    頭がかすかに痛む。奥歯が、腹

   が疼きかける。

()

 と、節毎に、語りの奥行を区別できるが、ここではこれ以上踏み込まず、この先をみてみると、問題なのは、ここまで、「疼く」体感を、(零記号化された)〃いま〃(つまり「駅へ向かった」夕刻)の「私」と同一の語りのレベルと見なしてきたが、果たしてそれでいいのか、という点だ。

 とすると、この入子になった語りは、(零記号化された)〃いま〃(つまり「駅へ向かった」夕刻)の「私」の語りのパースペクティブの入子となった、「私」の感覚を、共時的に具体化したものと見なすことになる。しかし、どうもそうとばかりは言い切れないのである。たとえば、

 《     空には雲が垂れて東から……

      ……薄明りが漂っていた。

 [     顔ばかりが浮いて、足もとも暗

 ]    いような。

  何人かが寄れば顔が一様の……

   〉   思わしげに遠くをうかがう、

そんな時刻だ。何事もない。…

 ]    ……奥歯が、腹が疼きかける。

    〈 たがいに、悪い噂を、……

   〉   ……寝床に入るわけだが。

 と、「顔ばかりが浮いて、足もとも暗いような。」と「そんな時刻だ。何事もない。……奥歯が、腹が疼きかける。」が同じレベルで、また「何人かが寄れば顔が一様の……思わしげに遠くをうかがう、」と「たがいに、悪い噂を、……」とが同じレベルで、それぞれ「薄明かり」を喩えている、とみることができる。

 あるいは、「そんな時刻だ。何事もない。……頭がかすかに痛む。奥歯が、腹が疼きかける。」を含めて、「たがいに、悪い噂を、……」まで、「顔ばかりが浮いて、足もとも暗いような。」と同列の、薄明りを具体化した、入子になった語りとみることもできる。とすると、語りの位相は、

 《     空には雲が垂れて東から……

    薄明かりが漂っていた。

  [    顔ばかりが浮いて、……

 ] 思わしげに遠くをうかがう、

 [ そんな時刻だ。何事もない。…

 ] ……奥歯が、腹が疼きかける。

  [ たがいに、悪い噂を、……

   ]  ……寝床に入るわけだが。

  ()

 と、継起的な語りとして、並列性を強めて(「並列」というと、ただそこに列をなして並んでいるというニュアンスだけであるが、それに時間性・空間性を加わえて、同時に同位置にというニュアンスを含めようとすると、「併置」という言葉が相応しい。以下、「並列」という表現をしているときも、多少、後者の意味合いを滲ませている)、対等に互いに引っ張り合っているようにもみえる。というより、各節毎で、あるいはセンテンス毎に、語りのパースペクティブが、どの語りなのかを曖昧にしている、と言えるのである。だから、次の、

 夜中に、天井へ目をひらく。雨は止んでいる。とうに止んでいた。風の走る音もない。しかし空気が肌に粘り、奥歯から後頭部のほうへまた、降りだし前の雲の動きを思わせる、疼きがある。わずかに赤味が差す。

 という語りの位相も曖昧になる。「為ることもなくなり寝床にはいるわけだが。」につづいて、そのまま、その「夜中に、」なのか、だとすれば、「雨はやんでいる」というのは、「雨もまもなく軒を叩き」の「雨がやん」だことになる。それとも雨模様の黄昏に外出した帰宅後の、その「夜中に、」なのか。それなら、その後雨になり、その「雨がやん」だことになる。どちらとも確定できない。後者なら、むろん(零記号化された)〃いま〃の「私」のパースペクティブだ。しかし前者なら、むしろ「たがいに、悪い噂を引き寄せあう。」のもっている語りのレベル、そうした雨模様の夕刻の雰囲気を表そうとする比喩のつづきとみるべきだろう。

 しかし、どちらかに無理に収斂させてしまうことはできない。むしろ、()()で示したように、「辞」が曖昧になって、語りの遠近法が暈け、その暈しが、ふたつの意味を二重映しにしたまま、この節全体に多様な意味が滲み出す、とみたほうがいいのかもしれない。意味への差異(あるいは差し替え)の重なりが、かえって次節を引き出しやすくする、というように。

 たとえば、「赤系のものから見えにくくな」り、「人の胸から頭の高さに」漂う「薄明り」の中、「刻々地へ傾きかか」る雲の「熱っぽい色が天にふくら」むのに感応して、「頭がかすかに痛む。奥歯が、腹が疼きかける」と、この三層の語りの重なり合った先で、初めて「降りだし前の雲の動きを思わせる、疼きがある。わずかに赤味が差す。」が生きる。「疼きがある。赤味が差す。」には、塗り重なった語りのイメージが染みとおっている。そうした幾重にも重ね塗りした語りによって初めて、

    雲の中には目がある。目が、見おろしている。

 を炙り出せる、というように。

 「雲の中には目がある。目が、見おろしている。」は、確かに想い出の中のものだ。「小児の頃に、……仰いだ」(あるいはそう夢みた)とき見たものだ。しかし、語り手の描写レベルの語りなのか、「夜中に、天井へ目をひら」いた「私」に見えたものなのか、それとも「小児の頃に」仰いだときのものを思い出しているのか、はだぶって見えてくる。飽和した雨雲の一点、雨を降らせる力を収斂させる焦点に差した赤味が、〃そのとき〃と〃いま〃と〃いつも〃とを串刺しにした〃とき〃に、目を思わせるものとして見えてくる。

 それによって、つづく「何者か、雲のうねりに、……」も、「小児の頃」の想い出なのか、〃いま〃の「私」の感覚なのか、語り手の描写なのか、が茫洋としていく。それは、幼児期の想い出が、〃いま〃の体感を誘い出すのであり、逆に〃いま〃の体感が、幼児期の感覚を引き出すのでもあり、それが「私」の語りを彩って、描写に反響している、というようにみることができる。つまり、「私」のパースペクティブが曖昧化しているために、それぞれの節は独立に、互いの差異だけを際立たせながら、想い出の〃とき〃と〃いま〃とが浸透しあって、現在の雲への感応と想い出の雲への感応とが重なってしまっている。だから、その感応は、

 何者か、雲のうねりに、うつ伏せに乗っている。身は雲につつまれて幾塊りにもわたり、雲と沸き返り地へ傾き傾きかかり、目は流れない。いや、むしろ眉だ。目はひたすら内へ澄んで、眉にほのかな、表情がある。何事か、忌まわしい行為を待っている。憎みながら促している。女人の眉だ。そのさらにおもむろな翳りのすすみにつれて、太い雲が苦しんで、襞の奥から熱いものを滲ませる。そのうちに天頂は紫に飽和して、風に吹かれる草の穂先も、見あげる者の手の甲も夕闇の中で照り、顔は白く、また沈黙があり、地の遠く、薄明のまだ差すあたりから、長く叫びがあがり、眉がそむけぎみに、ひそめられ、目が雲中に失せて、雨が落ちはじめる。

 と、「何者か、雲のうねりに、うつ伏せに乗っている。」では、「私」は、雲の重さを見上げている。だが、「身は雲につつまれて幾塊りにもわたり、雲と沸き返り地へ傾き傾きかかり、」は、雲の中に見立てた「何者か」を見ているのではなく、その「何者か」そのもののとなって、いわば「雲」の側にいる。「身は雲につつまれ」た体感で、「雲と沸き返り地へ傾き傾きかかり、」は、「雲のうねりに、うつ伏せに乗っている」感覚なのである。見ている視線と「私」に見られている視線とが、二重になっている。しかし、「、」で、一転「目は流れない。」と、雲の目を見ている視線に変わっている。

 言ってみれば、ただ雨の、いまにも落ちてきそうな一瞬の雲の翳りの変転を、ストップモーションにして描いた一節にすぎない。しかし、この中に、「見る」私(と「見る」私を語る「私」)は、その雲の中に、「雲のうねりに、うつ伏せに乗っている」何者か、目、「何事か、忌まわしい行為を待っている。憎みながら促している」女人の眉、「苦しんで」いる太い雲、「紫に飽和し」た天頂、「薄明のまだ差すあたりから」あがった叫び、そむけられた眉、「雲中に失せ」た目、「落ちはじめ」た雨、とさまざまの変化するものを見いだし、そのすべてを見つつ、そのすべてを見られる側でも感じつつ、激しく視点を行き来させる。

 見るものである「私」が、雲の視点へと転じることで見られるものになる。見られるものである雲は、見るものへと転じる。「私」という視点のみから見れば、〃見る側〃から〃見られる側〃へと変じる。その点から見れば、雲の視点は、「私」の視点の入子となっている。その入子が、しかし、一方通行ではなく、転々と入れ代わり、見るものと見られるものとは、どちらがどちらの入子とも定かでなくなっていくようにみえる。

 それが、〃そのとき〃の自分の感受性で、雲の目を現前しながら、同時に、雲の重みに疼いている〃いま〃の感覚の現前化である。「太い雲が苦しんで」いるのを、雲になって受けとめているのは、〃そのとき〃の「私」であると同時に、〃いま〃雲の重みに疼きを抱えている「私」でもある。雲の目を感受している〃いま〃の「私」が、雲を体感していた〃そのとき〃の「私」の体感をとらえている。〃いま〃の「私」自身がその感覚に揺り動かされている。そして、そのすべてが語りの射程の中に収まっている……と。

 だが、そうだろうか。それなら、「雨が落ちはじめる」のは〃いつ〃なのか。想い出の中の〃とき〃なのか、「夜中に、天井へ目をひら」いている〃とき〃なのか、「降りだし前の雲の動きを思わせる、疼き」に耳を澄ましている〃とき〃なのか。それとも、《私》の過去の経験からの、こういう〃とき〃もありうる、という描写なのか。その三つがだぶっているのだとしたら、これを語っているのは、どこからなのか。


 この語りは、古井氏の初期作品「木曜日に」を彷彿させるものがある。たとえば、木目との感応である。

 ……と、木目が動きはじめた。木質の中に固く封じこめられて、もう生命のなごりもない乾からびた節の中から、奇妙なリズムにのって、ふくよかな木目がつぎつぎと生まれてくる。数かぎりない同心円が若々しくひしめきあって輪をひろげ、やがて成長しきると、うっとりと身をくねらせて板戸の表面を流れ、見つめる私の目を眠気の中に誘いこんだ。ところがそのうちに無数の木目のひとつがふと細かく波立つと、後からつづく木目たちがつぎつぎに躓いて波立ち、波頭に波頭が重なりあい、全体がひとつのうねりとなって段々に傾き、やがて不気味な触手のように板戸の中をくねり上がり、柔らかな木質をぎりぎりと締めつけた。

 しかし、ここでは語りのパースペクティブは明確なのだ。確かに、木目を見ていた「私」がいつのまにか木目そのものに辷り込み、木目そのものになって、木目の側から語っているが、木目に感応しているのは木目を見ていた「私」だけでなく、それを思い出している「私」も、さらに手紙を書きあぐねている「私」を語っている(語り手としての)「私」もなのであり、その視線の奥行は語りから失われることはない。「眉雨」が「木曜日に」と決定的に異なっているのはそこだ。

 「私」は、〃いま〃雲の体感を感じながら、同時にそれが〃そのとき〃の体感でもあり、〃そのとき〃の雲の目になりながら、同時に〃いま〃の雲の目で自分を見ている。〃いま〃も〃そのとき〃も、同時に「私」の中にある。しかしその視点を徐々に辿っていく視線は朧で、「私」のパースペクティブが希薄になっているのである。

 〃いま〃の「私」の体感の向こうに、〃そのとき〃の「私」の体感が入子となり、さらにその向こうに〃そのとき〃雲の体感が入子になっているのなら、見ているのは〃いま〃の「私」だ。しかしそれを語っている語り手が見ているとしたら、〃いま〃の「私」を揺り動かしているのは語り手の体感の方であり、その体感が「私」に想い出を引き出させたことになる。それなら、「木曜日に」のように、結果として語り手まで揺り動かしているのではない。すでに揺り動かされた語り手の視線で語っているとみなければならない。

 つまり、この体感が、語り手の体感なのか、語られている「夕刻」での体感なのか、あるいは思い出されている「小児」の〃とき〃の体感なのか、は暈されている。語り手は、どの体感を語ろうとしているのか。夕刻の「私」のそれか、小児のときの体感なのか、それとも語り手の手元に〃いま〃ある体感なのか。そこが曖昧なのは、逆に言えば、語り手の語る視点がどこにあるのか、いつの〃とき〃を語っているのかが暈されているからにほかならない。いつのまにか、「夕刻から家を出」た「私」を語っていた視線が、入子のパースペクティブの中に紛れ込んでしまったのである。

 「夕刻」に出掛けた「私」の(零記号化された)〃いま〃の語りの入子となった「何者か、雲のうねりに、……」の節が、「目が雲中に失せて、雨が落ちはじめる。」と、どの語りのレベルに落ち着くのかが曖昧なままに、それ以上に語り手との距離の測れない、次の「−虹、空に掛かる、」という語りへと紛れてしまうのである。

 これは、〃いま〃の〃とき〃が零記号化されたところから端を発している。そのために、「《」の語りは閉じられないまま、[ ]の語りに入り、それも閉じられないまま、次に〈 〉の語りに入る……、といった具合なのである。その各々は、入子の語りとして、絶えず、〃いま〃なのだが、それは、〃いま〃そのものの語りなのか、あるいは〃そのとき〃を〃いま〃として語っているのかは、ついに闡明にはならないのだ。

 

 さらに、つづいて転じた、

 −虹、空に掛かる、あれを朝方に見たことはないか。

 −さて、朝焼けのひどいのなら。人を起そうかと思ったほどでしたけど、この世の終りではあるまいし。

 という、男女の会話と思わせる語りの位相は、位置づけがさらに難しい。前述の図式をつづけてみると、

 【

  《      

  (略)

 [   雲の中には目がある。……見おろしている。

   〈  何者か、雲のうねりに、……

    〉  目が雲中に失せて、雨が落ちはじめる。

 (]) 

 [   −虹、空に掛かる、あれを朝方に見たことはないか。

 ]   ……やっぱり、雨になるのかね、と。知りませんよ。

 (》)

 と、便宜的に整理できるが、この語りは、いくつかに位置づけ直せるのである。

 まずひとつは、

 《

     そう咎めるのも大袈裟な話……

  [   雲の中に目がある。……

   ]   目が雲中に失せて、雨が落ちはじめる。

()

 《    −虹、空に掛かる、あれを朝方に見たことはないか。

 》    ……やっぱり雨になるのかね、と。知りませんよ。

 と、「そう戒めるのも大袈裟な話で、……」と同じレベルの(零記号化された)「私」の語りと見なすか、それとも、

 《

     そう咎めるのも大袈裟な話……

[    雲の中に目がある。……

]    目が雲中に失せて、雨が落ちはじめる。

[    −虹、空に掛かる、あれを朝方に見たことはないか。

]    ……やっぱり雨になるのかね、と。知りませんよ。

 ()

 と、「雲の中に目がある」と同じ「私」の語りの入子となっている語りと見なすか、あるいは、

 《

     そう咎めるのも大袈裟な話……

[    雲の中に目がある。……

]    目が雲中に失せて、雨が落ちはじめる。

 〈   −虹、空に掛かる、あれを朝方に見たことはないか。

  〉   ……やっぱり雨になるのかね、と。知りませんよ。

 ()

 と、「私」の語りの入子となっている「雲の中には目がある……」の入子になっている語り(たとえば、「何者か、雲のうねりに」をそう見なせば、それと同列に)と見なすか、それとも、

 《

 [   雲の中には目がある。……見おろしている。

  〈  何者か、雲のうねりに、……

   〉  目が雲中に失せて、雨が落ちはじめる。

    −虹、空に掛かる、あれを朝方に見たことはないか。

     ……やっぱり、雨になるのかね、と。知りませんよ。

 (]) 

()

 と、その「何者か、雲のうねりに」という雲との感応の語りの入子となっている語りと見なすか、の違いといっていい。つまり「私」を対象化したとみるか、「私」が入子にした語りのパースペクティブの中に、会話を対象化したとみるかの違いである。

 しかし、である。まったく別の見方もできる。零記号化されているために見えにくくなっているが、本来「私」は、語っている〃あるとき〃(それを先に、「私」が語っている〃いま〃と表現した)から、夕刻の自分を対象化して語っている。それが零記号化によって、歩きつつ語っている擬制を取っている。一応これが語り手であるが、ここで、夕刻の「私」を語っているのとは独立に、この会話を語っているとしたらどうなるか、である。

 たとえば、この節の始めに挙げた図になぞらえて、

 

 

D 

 
書き手

 と、それを語っている「私」という語り手レベルの違いと見なせばどうなるか。つまり、零記号化されていたDの〃とき〃からのレベル差ではなく、Cの語り手を語る語り手が零記号化から復帰してきた、とでも言えばいいか。

 それは、「私」について語ってきた語り手とは別の、その語り手では語れない語り、たとえば自身が対象となるレベル、「私」についての語りとはまったく別の、他人についての語りのレベルが並列で(併置されて)語られるためには、そうした語り手を語るもう一人の語り手を必要とするように、それまで語り手と読んできた《語るもの》自体が《語られるもの》に変わることにほかならない(ここでも、その語り手の〃とき〃は零記号化されているために、〃そのとき〃が〃いま〃である擬制の中で語られている)。すると、

 [

 

  

     そう咎めるのも大袈裟な話……、

    [ 雲の中に目がある。……

目が雲中に失せて、雨が落ちはじめる。

   ()

  ()

    【 −虹、空に掛かる、あれを朝方に見たことはないか。

       ……やっぱり雨になるのかね、と。知りませんよ。

  ()

 ]

 と、語りの枠組そのものが変更になったことを意味する。単に、語り手の語り手が登場するだけではすまず、語りの世界そのものにも変更を促すことになる。それは、作品のパースペクティブの視点が後退したこと、「私」を語る語り手を語る語り手を必要とするということにほかならない。つまり、前述のレベルの語りが、語り手が自分について語っているのだとすれば、こっちは、語り手が、一方で「私」と一人称で語るものについて語るのと同時に、他方で別の人称で語るものも語るということと同じことだ。それは、語られている作品の限界がどんどん手前へと広がっていくことになる。語りの入子が、語りの遠近法の消失点を先へ先へと前進させるのに対比すれば、ちょうどカメラで覗いた世界で、視点を先へ先へと接近させると、(顕微鏡の視点のように)世界がどんどん微視的に極限されていくのに対して、視点を限りなく後退させると、(宇宙からの視点のように)世界が無限大に拡大するのに似ている、と言えるだろう。つまりは、語るものと語られるものの関係が、こうしてより(奥行だけでなく)間口を広げたということになる……。

 しかし、ここで問題にしたいのは、そういうことを強弁したいのではなく、「私」の語りのパースペクティブが、そう解釈できるほど、渺としているということにほかならない。だから「私」の語りの入子となっているのなら、本来共時的な語り、語っているものの〃とき〃に呑まれるはずの時間が、「私」を語ると同じレベルでの語りである時系列的な語りとも取れるくらいに、まるで並列的に、「私」の語りの中で並んでいるようにみえることの方が重要である。いや、それどころか、「私」の語りとすら、並列(併置)になっているとさえ言えることなのだ。だから、素直にみて、

 《

    そう戒めるのも大袈裟な話……

       (中略)

 [  雲の中に目がある。……

  ]  目が雲中に失せて、雨が落ちはじめる。

 [  −虹、空に掛かる、あれを朝方に見たことはないか。

  ]  ……やっぱり雨になるのかね、と。知りませんよ。

   ()

 と、語り手にとっては、そのすべてが同列であり、パースペクティブが明確でなく、その分いくつかの視点をだぶらせて、見え方がぶれ、それがかえって、夢と現とがわかちがたい幻覚的なものになっていく、と見なすべきなのかもしれない。

 この男女の会話の語りの位置が、曖昧であるため、この会話自体も、パースペクティブのはっきりしない、両者が微妙な齟齬をもったまま、噛み合っているのかいないのか、それでも一周遅れのように顔を合わせながら、どこか共振しつつ、螺旋を描いて展開していく。


 この会話には、幾つかの不可解なところがある。

 もしこの会話の当事者を男女とすると、この二人は、朝焼けのとき一緒にいたのか、いたのだとすると、

 −……雨戸を閉めて振り向いたら、目をくらまされた真暗闇の中に、戸の隙間から光が洩れていたんでしょうね、三方から皺々の顔が、こちらへ首をもたげて、赤く染まっていた。大きな目をひらいているの。昨夜まで自分も死ぬようなことを言っていたのが、あたしを気味悪そうに見て、雨になるのかね、そうたずねるの。

 という「たずねた」のは誰か。男か三人の「女たち」のうちの一人なのか。同様に、

 −女たちの目がおずおずと、こちらに集まってました。つい眠ってしまったのを、咎められた気がしたのかしら。あたしの意向を、うかがうみたいな声でした。

 のはどちらなのか。もし男だとしたら、「つい眠ってしまったのを、咎められた気がしたのかしら。あたしの意向を、うかがうみたいな声でした。」と、まるで女たちの尋ねたみたいに言うのはどう考えたらいいのか。もし女たちの一人としたら、男が「あなたの顔も、赤く焼けていた」と答えたのはどういうことか。

 それとも、そもそもこの会話は男と女ではなく、女とその女三人のうちのだれかなのか。いや、そうすると会話のはじめのやりとりと合わなくなってくる。あるいは、土砂降りのとき、一緒にいたのは男なのか、「ついてないな」と「天を仰いで手放しに滅入」ったのは男なのか、しかし男だとすると朝焼けのときに、「うかがうみたいな声」で尋ねたのは誰なのだ……。

 もう、これくらいでいいだろう。現のこととして一貫して見ていくと、合わなくなってくるということにほかならない。ここには会話の中に、女か男のいずれかが、現のパースペクティブとは異質の幻のパースペクティブを語り出してしまっており、それが区別されていないために、齟齬を生んでいると見なすべきなのだ。

 その転調のひとつを、「二階の雨戸……」という答え方にみることができる。会話の始めでは、

 −虹、空に掛かる、あれを朝方に見たことはないか。
 −さて、朝焼けのひどいのなら。人を起そうかと思ったほどでしたけど、この世の終りではあるまいし。
 −眠っていなかったんだな。
 −眠っていたんでしょうね。話しかけられて答えては、時間がひとまとまりずつ飛んで、人の顔も変わっていきましたから。自分も起されるまで眠ってしまおうかと、窓辺に出たんです。膝が固くなっていた。目の隅に掛った髪を、ひとすじつまんだら、白いんですよ。その白髪までが、赤く染まって。

 と、女はついと窓辺に立った気配なのに、後段では「二階」に変じている、と見なすべきだ。女には、そのとき、三人の女が見えたのだ。その三人は、女の来歴の中で生きている。姉妹かもしれないし、叔母かもしれない。そんなことはどうでもいい。その存在がある場面は、「小物が押しこまれて」いて、「衣装部屋にもなってい」る二階の部屋でなければならない。「自分も死ぬようなことをいっていた」〃とき〃が、女の語りのパースペクティブの中に、入子となって語り出されてしまっている。男は、多分それを知っている。女と一緒に女の語る幻のパースペクティブを見ている。いやまったく知らないのかもしれないが、結果としてその食い違いに合っている。おのずと合うことで、食い違いは綻びを見せていない。

 −……西のほうまで赤かった。日の暮れまでひとりで寝過したのかと思ったほどでした。朝の空気を吸おうとして、二階の雨戸を細くあけたそのとたんに。
 −部屋にいろいろ小物が押しこまれてました。衣装部屋にもなっていて、物と物の間を分けて、女たちが三人、小さく丸まって眠ってました。空が赤すぎるので自分でも気が引けて、雨戸を閉めて振り向いたら、目をくらまされた真暗闇の中に、戸の隙間から光が洩れていたんでしょうね、三方から皺々の顔が、こちらへ首をもたげて、赤く染まっていた。大きな目をひらいているの。昨夜まで自分も死ぬようなことを言っていたのが、あたしを気味悪そうに見て、雨になるのかね、そうたずねるの。
 −あなたの顔も、赤く焼けていた。
 −雨戸を閉めた上に、空のほうへ、背を向けていたんですよ。
 −輪郭が、赤く縁取られていた。
 −女たちの目がおずおずと、こちらに集まってました。つい眠ってしまったのを、咎められた気がしたのかしら。あたしの意向を、うかがうみたいな声でした。やっぱり、雨になるのかね、と。知りませんよ。

 「あなたの顔も、赤く焼けていた。」「輪郭が、赤く縁取られていた。」と男が打つ相槌は、男が女の幻のパースペクティブに寄り添いながら、等しく〃そのとき〃を〃いま〃として、眺めあっている。そのとき、二人のパースペクティブは、両者の視線のスポットライトによって、同じく〃そのとき〃を照らし出しているようにみえる。 あるいはそうではなく、この微妙な重なり合いとずれは、どこか泥んだ男女の会話の絶妙の呼吸にもみえる。お互いは別々のパースペクティブを眺めている。相手の言葉にお互いが自分のパースペクティブしか見ず、それぞれまったく別のものを見ている。その分だけ会話としては、微妙にずれる、一歩遅れる。そのずれた分が、しかし不思議と一巡りして、また追いつき、絶妙に噛み合ってくる。そんな男女の関係の陰翳をうまく、隠喩的に現前している、とみるべきかもしれない。

 だがそれは、単なる比喩ではなく、幻と現と夢と想い出という異なるパースペクティブが奥から二重にも三重にもに透けてくる透かし彫りのように、語りの陰翳となっているからなのである。そこに、『奇蹟』のトモノオジの幻覚の語りと重なるものが見える。

 

 

 全編この調子で分解していられないが、「眉雨」の語りには、「私」のパースペクティブと並列(併置)なのか、入子なのか曖昧のまま、全体のパースペクティブを整序する視点をもっていない。一見「私」の語りでスタートしながら、誰の語りなのかが朧気になっていく。とすれば、入子とは何に対しての入子なのか、そのパースペクティブを収斂していく視点はどこなのか、が見極めにくいのも当り前なのである。《語るもの》と《語られるもの》の関係は、初めから暈されている。

 入子とは、ある視点からのパースペクティブが、別の視点からのパースペクティブの点景となることにほかならない。つまり、「私」が語っていることは、別の〃とき〃の「私」(あるいは別人の〃とき〃)の想い出の表象でしかなく、それ自体また、別の〃とき〃からの想い出にすぎないというように、である。つまり、入子の語りは、その意味で共時的である。時間の横割りである。一義的に見える〃そのとき〃の向こうに、深い奥行を語ることである。だが、このとき「私」の視点が曖昧になるということは、それぞれの〃そのとき〃が収斂していく〃とき〃を失って、独立していくということにほかならない。

 また入子とは、あるパースペクティブに対する差異化である。あるいは差異化とは、ちょうど「木曜日に」で、「私」の記憶のパースペクティブを女友達の記憶のパースペクティブに差し替えたように、あるパースペクティブに別のパースペクティブを見ることにほかならない。入子の視点が曖昧化した後に残るのは、入子関係において示されたパースペクティブ間の差異化の関係だけである。つまり、それは独立した〃とき〃が、お互いの語りを差異化しつつ、相互に差し替え可能なパースペクティブとして、継起的に並んでいくことになる。

 もちろん語るものがいないのではない。しかし、それぞれを語る「私」は、それを語っている〃とき〃にいるのか、語られている〃とき〃にいるのか。たとえば、夕刻の「私」について語っている〃とき〃にいるのか、語られた夕刻の〃とき〃にいるのか。語りの視点は、入子になっても入子のパースペクティブに移動しているようにも、移動していないようにもみえる。〃あのとき〃の「私」の語りと〃そのとき〃の「私」の語りが、語る「私」の〃いま〃と併置しているのに、同時に暈のように、語る〃いま〃が二重写しになって透けてくる。入子が解かれても、それぞれの語りの〃とき〃に〃いま〃がだぶってくるからにほかならない。まるで、見ている夢と、見られている夢とが視点を別々に並列(併置)になっているに等しい。それに向き合う語り手がいるのである。

 まさに、こういう語りこそ、

   
 
 

 という、零記号化して「辞」をもたない語りを重ねた語り、あるいは、それぞれの〃とき〃にそれぞれ(の〃とき〃)に(語る「私」に)語られる「私」(に向き合う語り)なのである。

 この複雑な入子の暈が、パースペクティブの色合いを錯綜させ、節と節だけでなく、センテンスとセンテンス、もっと言えば、語句と語句においてすら、その輻輳の反映を見い出すことになるのである。つまり、全体から細部まで、入子の寄木細工になっている。細部の細部まで、びっしりと寄木になった、どこをどう切っても、視点を変えるとさまざまに浮き上がる隠絵のような入子構造になっている。それが「眉雨」のイメージの輻輳を増幅させているのは確かである。

 

 

 「眉雨」で、「私」に語り出されたはずの語りが、入子になった語りの一人歩きを前にして、「私」へと収斂させる手綱を失い、「私」は《語られるもの》と同列に、いや、《語られるもの》の背後へと退いてしまっているようにみえる。それは、まるで、

 ……自分が自分の言語の総体に、秘かですべてを語り得る神のように、住まってはいないことを学ぶ。自分のかたわらに、語りかける言語、しかも彼がその主人ではないような言語が、あるということを発見するのだ。それは努力し、挫折し、黙ってしまう言語、彼がもはや動かすことのできない言語である。彼自身がかつて語った言語、しかも今では彼から分離して、ますます沈黙する空間の中を自転する言語なのだ。そしてとりわけ、彼は自分が語るまさにその瞬間に、自分がつねに自分の言語の内部に同じような仕方で居を構えているわけではないということを発見するのであり、そして哲学する主体……の占める場所に、一つの空虚が穿たれ、そして無数の語る主体がそこで結び合わされては解きほぐされ、組み合わさっては排斥し合うということを発見するのだ。(M・フーコー、豊崎光一訳『外の思考』)

 という言葉を思わせる。それは、「私」というひとつのパースペクティブへと収斂させる語り、とはまさに逆の、「私」はまさに語った瞬間から、その自らの言葉に独立され、それに《語られるもの》へと転換してしまうかのようなのである。その結果、多層化した入子の差異が互いに共鳴しあいながら並列(併置)に、夢と現の境界線が朧に、《語るもの》と《語られるもの》との関係を錯綜させて、語られている位相を二重映し三重映しに、輪郭の滲み合った曖昧さへと変えてしまっている。

 こうして、《語るもの》と《語られるもの》とが並列(併置)になるとは、私が語ることも、私に語られたことも、位相差を顕在化せず、そういう語りによって、語るとはどういうことかを語っている、といっていいのだ。つまり、語るとは、語られたものに語られる(差し替えられる)ことなのだ、と。

 そう言えば、初期の「先導獣の話」では、「私」は「先導獣」について語りながら、しかし、いつのまにか、その私自身が、先導獣になってしまっている皮肉な巡り合わせが語られていた。一見傍観者の如く、「私」は安全なところから先導獣について語り始めながら、最終的には、語ってきた私自身が、自分が語った《語られたこと》全体から、逆に語られてしまったのであった。

 そしてある夕方、静かなノックがして、蒼白い雨の午後の光りの中に、あの先輩が幽霊のように立った。この人までがやって来るとは驚きだった。どうせ、皆が行ったからには自分も行かなくてはなるまい、と思って来たのだろう。それでは、彼もまた皆と同様に、私の武勇伝について軽口を叩くのだろうかと、私はいくらか眉をひそめるような気持になった。ところが彼は私に近寄るや、「困ったことになりましたねえ……」と言ってベッドのそばの椅子に腰を下ろし、それからもう一度、「ほんとうに、君、困ったことにね……」とつぶやくと、まるで自分自身のことのように頭を抱えこんでしまい、夏至にまもない雨の日が室の内側からようやく暮れはじめた頃になっても、まだ黙って坐りついていた。

 このとき、それまで「大人しい分別に従って」「自分をいつまでも幼く物狂わしいままに保っている」《先導獣》に「私」が擬してきたはずの先輩に、虚脱してデモに巻き込まれた「私」自身が、逆に、「あまりにもいたいけな自我感に耽っ」た《先導獣》そのものとして同情されており、これによって、「私」の《先導獣》についての語り全体、つまりは作品全体が、《先導獣》の暗喩となってしまっているのである。

 つまり、《見るもの》であった「私」は、《見られるもの》であったはずの先輩に、自分の貼ったレッテルを貼り返されたに等しい。そのことによって、「私」が《先導獣》になってしまったのであり、結局「私」が自分の外に《見ていたもの》は、自分自身であり、それは自分自身の投影でしかなかった、ということなのである。

 それは、自分のパースペクティブの入子にしていた、もう一つの幻のパースペクティブということになる。いや、そうではない。逆なのである。語られたものとは「私」の見たものであり、語る「私」はまた、語られたものに「見られるもの」である。とすれば、「私」のパースペクティブが、「私」の幻の投影でしかないとすれば、「私」のパースペクティブ自体、もともと、その幻のパースペクティブに、逆に入子にされていた、というべきかもしれないのだ。かように、語る「私」のパースペクティブ全体が、語られている〃とき〃にいる「私」によって、転倒されてしまったのである。

 《語る》「私」が、《語られるもの》によって、逆に《語られるもの》になる、それは、《語られるもの》を語ることによって、自らを《語られる》ことになること、いま「眉雨」で、この転倒が、細部に亙るまで相互に、徹底的に果たされているのである。

 それは、「私」が、語られるものにとってかわられること、しかも、その語られるものの層が解き放たれ、並列にバラバラになっている。それは「私」のパースペクティブの解体であると同時に、「私」を語る「私」の解体でもある。ちょうど「語り手」のパースペクティブが解体されることを通して、内包する語り手が解体されたのと同じである。そのとき、語り手そのものは消滅するのではない。とすれば、語り手は何に向き合うのか。

 

 

 中上氏は、「夢の力」でこう書いていた。

 新聞記事がことごとく怪異譚や説話に見えてくるのは、私が小説にあまりに病みすぎて現実感が希薄になっているせいかもしれない。

 今朝の新聞に、連れ込み宿の風呂の中で死んでいた女の記事が載っている。五十四歳の保険外交員、中年の男と一緒である。遺体解剖の結果、酒を飲んで泥酔して風呂に入り、寝込んで、溺死した、とある。こんな事は誰にでも起り得る。男の驚きようはどんなだったろう、と思う。小説家である私は、連れ込み宿の蒲団の中に寝入った男に、保険の勧誘の具合や別れた亭主との生活を話し、鼻歌をうたいながら脂肪のついた肌を洗い、ぬるい湯につかっている女を想像する。「もう、寝ちゃったの、どうしようもないねえ」女はそう言い、タオルで首筋をこする。湯舟のへりに体をもたせかけて腕をかけ、たるんだ乳房が湯の中で白くなっているのを見つめている。黒い乳首が、開かぬままに死んだ花の蕾に見える。「寝ちゃったのかあ」欠伸をしながら女は言う。「男ってしようがないねえ」

 夢の力は、私に小説を書かせる。小説にかりたてる。

 ここで、注目したいのは、中上氏の「夢の力」の力技のことではない。

 秘密とは他でもない、謡曲のことごとくに出典があり、謡曲が〈物語の物語〉という構造をとっている事だ、という事である。たぶん私と同じように書かれてある物を前にしてうなっていたのである。

        (「短編小説としての能」)

 でいう〈物語の物語〉、「新聞記事」という物語を物語る、中上氏の〈物語の物語〉のことにほかならない。

 言うまでもなく、われわれが受け取るどんな情報も、既に、一定のパースペクティブで切り取られたものだ。そもそも、一定のパースペクティブがあるからこそ、意味が見える。あるいは、どんなもののとらえ方も、必ず私的なパースペクティブをもっている。ものをとらえるとは、意味のあるパースペクティブを見つけることだからだ。

 誤解を恐れず断ずれば、私的パースペクティブでとらえることを、「語る」と言い切っていい。とするなら、「語る」とは、世界を再構成するということだ。それは、「現実」を、自分の視界の中で配置し直すことでなくてはならない。あるいは、「見るとか聞くとかいった起点がある。それを、時間、場所を変え、見ていなかった人、聞いていなかった人などに説明することが、カタルというのにふさわしい行為」(藤井貞和『物語文学成立史』)なら、〃いま〃〃ここ〃で、〃そのとき〃や〃そこ〃での「こと」を言葉で伝えること自体に、語りが含まれるかのもしれない。いずれにしろ、語りは、もともと(語るべき)ことに向き合い、それを伝えることだ。向き合うものが、物(モノ)にしろ、体験(コト)にしろ、伝聞(コトバ)にしろ、「モノガタリはモノのカタリあるいはモノに就いてのカタリだとして、何かのカタリ、何かに就いての、何でものカタリ、何でもに就いてのカタリということになる。カタリではあるが、何でも、あるいは何でもに就いての、さまざまなカタリがモノガタリであ」(同『物語の起源』)るなら、「新聞記事」にしろ、伝え聞いた「事実」にしろ、いずれも、物語なのであり、中上氏は、新聞記事の記者の描いた物語を前に、もうひとつの物語を描いて見せたのである。

 考えてみれば、物語の語り手は、もともと一行ごとに幻に向き合い、その一瞬に、過去から未来までが紡ぎ出される。その瞬間を想像するなら、こうなっているのではないか。

 何事か、陰惨なことが為されつつある。人を震わすことが起りつつある。
 あるいは、すでに為された、すでに起った。
 過去が未来へ押し出そうとする。そして何事もない、何事のあった覚えもない。ただ現在が逼迫する。
 逆もあるだろう。現在をいやが上にも逼迫させることによって、過去を招き寄せる。なかった過去まで寄せて、濃い覚えに煮つめる。そして未来へ繋ぐ。一寸先も知れぬ未来を、過去の熟知に融合させようとする。

     (古井由吉「眉雨」)

 その一瞬、現在〃ただいま〃に、過去についての現在、現在についての現在、未来についての現在が、集中する。眼前に、なかった原因があったかのように、結果を招き寄せる形で、語られていくのはその瞬間からだ。古井氏は、その切迫した、語り出しそのものの一瞬を、拡大鏡にかけ、ストップモーションの〃いま〃として、現前化してみせた。

 その語り手のいる一瞬の〃とき〃に、ありもしない現在過去未来が集約され、顕われる。そういう〃とき〃に向き合うとき、語り手になる(語り手がいるのではなく語り手になる)。いや、そういうように向き合う視線で、初めて語り手の前に、語られるべき一瞬が収斂する。

 ここで、逆転が起きている。語るべきことがあるから「物語る」のではない。物語る語り手となることで、「物語」が見えてくる。中上氏の言う、「夢の力」とはこのことでなくてはならない。

 

 

 ところで、折口信夫氏は、こんなことを言っている。

 呪言の中に既に、地と詞との區別が出來て來て、其詞の部分が最神秘的に考へられる様になつて行つた。すべては、神が發言したと考へられた呪言の中に、副演者の身ぶりが更に、科白を發生させたのである。さうすると、呪言の中に、眞に重要な部分として、劇的舞踊者の發する此短い詞が考へられる様になる。此部分は抒情的の色彩が濃くなつて行く。其につれて呪言の本來の部分は、次第に「地の文」化して、敍事氣分は愈深くなり、三人稱發想は益加つて行く。かうして出來たことばの部分は、多く神の眞言と信じられる處から、呪言中の重要箇處・秘密文句と考へられる。

  (「國文學の發生(第四稿)」)

 これは、図式化すると、当初神自身が独白しているのだから、

(こと)

 となる。

 つまり、「呪言は、一度あつて過ぎたる歴史ではなく、常に現實感を起し易い形を採つて見たので、まれびと神の一人稱−三人稱風の見方だが、形式だけは神の自敍傳體−現在時法(寧、無時法)の詞章であつたものと思はれる。」(前掲・第四稿)。しかし、一人称の神の語とは言え、実は巫女に憑依するかたちで、巫女の身体を借りて、神が語っているのだから、これは、

(こと  神  
巫女

 となる。

 巫女自身、神に身体を貸しているのだから、自分の声と神の声の区別はない。このとき、巫女は、自らが語っていることを顕在化させず(零記号化し)、自らを神そのものとして、一人称で語っている。ここでは、巫女は神の語と向き合うことはない。

 しかし、それが儀式化すると、巫女が前面に出、神の語の伝え手になることによって、神の発話は間接話法に変わる。つまり、

(こと)    
巫女

 このとき、巫女は神の語あるいは神自身と向き合うことになる。つまり、巫女は神(あるいは神の語)の語り手となる。「其につれて呪言の本來の部分は、次第に『地の文』化」していく。

 だから、この場合は、ふたつの形が考えられる。ひとつは、巫女が「私は……」と語っているときであり、

「私」は……   「私」  
 
巫女

 巫女は、神の独白と向き合っている。「私は……」と語っていても、その「私」は神の語であり、「私」=神となって(神を演じて)、神の語を語る。いまひとつは、「神は……」と語っている場合で、

神は……
巫女

 既に、ここでは、神は語られるものとなる。つまり、「『地の文』化」は、神の語自体を間接表現に変え、神自体をも語ろうとしているのである。

 呪言の「詞」を、どんどん地の文に加えるなら、詞はますます細っていく。このとき「地」は、神の言葉を語る者になっている。しかし、このものをも語ろうとするなら、

詞  地  
語り手

 という、語り手を必要とするだろう。巫女の例で言えば、神(=私)がこう言ったと語る巫女を語る語り手を必要とする。

 

「私」は……   「私」
 
巫女  
語り手

 この間の事情が、次の折口氏の言わんとするところにつながるのである。

 義經記及び曾我物語は、此ら盲巫覡の幻想の口頭に現れ始めた物語で、元は、定本のなかつたものと見てよい。此二つの物語の主人公の、若くして冤屈の最期を遂げた靈氣懴悔念佛の意味から出たもので、其物語られる詞は、義經や、曾我兄弟の自ら告げたものであるから、邪氣・怨靈・執念の、其等若武家には及ばぬものを、直ちに退散させるものとの信仰もあつたのであらう。
 生靈・死靈の區別の明らかでない古代に、謠ひ物のとはず語りから得る實感は、語り手を曲中の人物と考へる癖が傳つて居た。後には主人公自身でなく、其親近の人の、始めて語つた物であり、同時に目前に現れて物語つてゐると言ふ錯覺が起つた。即、義經記では生き殘つた常陸房海尊、曾我物語では虎御前と考へたらしい。最初の語り手からうけついだ形が轉じて、生き存へた人の目撃談、とりも直さず、其神に仕へる巫覡が傳宣する姿に移して考へる様になつたのだ。
(前掲・第四稿」)

 ここに語り手の射程のすべてがある。

 まず、「盲巫覡の幻想の口頭に現れ始めた物語」は、巫女(語り手)の「辞」が零記号化し、神の独白と向き合って語るのと同じである。「義經や、曾我兄弟の自ら告げた」カタチで、「語り手を曲中の人物」つまり「主人公自身」として、

「私」は……   「私」
主人公  
語り手

 「神」を「主人公」と置き換え、(語り手が)主人公の独白に向き合い、それを語ることになり、「巫女」の神(の語)語りの変形と見なすことができる。

 その語り手が、「みずから告げ」る者として語る主人公自体に向き合って、その語りをも語ろうとするとき、それは擬人化するなら、「生き存へた人」の語りとなろう。景清が琵琶法師となって、みずからの参戦した源平合戦を語ったという伝承のように、生き残った「其親近の人」、常陸房海尊や虎御前が語る場合、目の前で「物語つてゐる」ような「錯覺」が起きるのは、いまの「語り手」が、

  主人公
目撃者
語り手

 と、零記号化しているためにほかならない。語りは、語ろうとすることとの向き合い方で、語るべきことが変わっていく、この語りの射程こそ、語りのカタチ(=制度)にほかならず、これを擬制化することで、語りはその奥行を方法として、表現の奥行とすることができるはずだ。「物語文学は、……語り手をなかに据えて語るように書く」(藤井・前掲書)。とは、ここでは、内包する語り手と、その語りの奥行を、どこまで抱え込むかにほかならない。

 しかしこの物語のもつ語りの奥行は、語りのパースペクティブが解体されることによって、内包する様々な語り手の異質さがあらわとなり、深度の異なる語りの多様性が剥き出しにされることになった。『奇蹟』の語りはその多様な語りの全振幅に向き合っている。

 『奇蹟』のこの達成は、「眉雨」が、語りの主体としての「私」という羈絆を解き放ったからこそ可能だったのではなかろうか。


 「私」を語るとき、「私」は「私」から剥離する。「私」は語られることによって「私」から剥がれる。「私」を語るとは、語られる「私」を語る「私」から引き離すことであり、語る「私」が語られる「私」から剥がされることである。つまり、「私」を語るためには、「私」と向き合う語り手を必要とする。語り手が、「私」から剥がした「私」に向き合うのである。ただ単に「私は……」と語り出すだけなら、それは、独り言、つぶやきにすぎない。必要なのは、「私は……」と語り出す「私」に向き合う(語る)こと(自らの独語に向き合う語り)だ。「私」を語るとは、そういうことでなくてはならない。

 たとえば、土着化した『さんせう大夫』の『お岩木様一代記』では、イタコが語り手として、みずから安寿を一人称で語る(岩崎武夫『続さんせう大夫』)が、このとき、語り手=イタコは、「私は……」と一人称で語る安寿を演じている。それは、神の独語を語る巫女と同じである。しかしもしここでイタコ(=語り手)が、「安寿(=私)の独話」ではなく、イタコ(=語り手)自身の「私」を語り出したとするなら、イタコはその「私」自身と向き合っていることになるはずである。

 が、こうして、語り手が「私は……」と語り出した場合、

「私」は……   「私」  
語り手

「私」は…… 「私」  
主人公  
語り手

 語り手に語られている「私」が語り手の向き合っている自分自身なのか、語り手の語り出した(誰か、たとえば「安寿」の)一人称の「私」なのか、の区別は(語り手の「辞」が零記号化されればなおさら)しにくいはずだ。しかし戯画化した言い方をするなら、語られる「私」側(語り手の「辞」に包まれた入子部分)から見ると、それが誰から発話されたのであれ、

「私」は……  

「私」

 「私」は、既に「私」に語られており、その「私」が誰か(「私」は誰から剥がれてきたのか、あるいは語り手が向き合っているのは誰か)を決める(必要がある)のは、その(「私は……」と語る)「私」に向き合う(語る)語り手にほかならない。もともと、語り手が「私は……」と語り出した(その「私」に向き合った)瞬間、実は、その「私」は、語り手の「私」(あるいは一人称で語る「主人公」の「私」)から剥離していく。語られる「私」を、語る「私」から剥ぐことで、それを語る(それに向き合う)ことができるはずだ。 この言い方は逆立ちしているように見える。何に向き合うかを決めるのは語り手ではなく作家(あるいは、ここでの文脈から言えばイタコをしている女性)自身のはずである。その向き合う視線によって語り手となり、語るべき「私」が見えてくるはずではないのか。だが、作家が自分について「私は……」と語り出したのが、独語でない限り、作家自身の「私」に向き合うものを必要とする。

「私」は……   「私」  
作家  
作家自身を語る語り手

 つまり、「私は……」と語り出した作家自身が、その「私」に向き合う語り手(「作家の『私』を語る語り手」)に語られるものになる。自分に向き合う語り手をもたずに、作家の「私」を語ることはできない。「作家の『私』に向き合う語り手」によって、作家の「私」から剥がれ、語られる「私」になる。つまり、語り手に語られる(向き合われる)とき、「作家の『私』」は語られるものになる。語られるもの(「私」)に向き合うことで「私」は語り手(語るもの)になり、語り手に向き合われることで(「私」は)語られるものになる。「私」は語り手になることで(剥離した)「私」に向き合い、(剥離した)「私」に向き合うことで、「私」を語ることができる。

 むろん、それは語る(向き合う)「私」(=語り手)側の一方通行ではない。「自分が見る、自分を見る、見られた自分は見られることによって変わるわけです。見た自分は、見たことによって、また変わる」(古井由吉・『「私」という白道』)。語ることで語る(=語り手)側も変わり、語られることで語られる側も変わる。それによって、語る(=語り手)側もまた変わらざるをえない。

 だから、主人公(の「私」)に向き合おうが、自分自身(の「私」)に向き合おうが、その語りの主体は語り手(のパースペクティブ)にこそある。そのとき、語り手の向き合う「私」が、作家の(「私」から剥離した)「私」であろうが、

「私」は…… 「私」  
作家  
作家の「私」を語る語り手

 語り手(あるいは巫女)自身の(「私」から剥離した)「私」であろうが、

「私」は……   「私」  
巫女  
巫女の「私」を語る語り手

 語り手の立てた(主人公=安寿の「私」から剥離した)「私」であろうが、

「私」は…… 「私」
主人公
語り手

 (「私」に向き合う=「私」を語るという)語りのパースペクティブにおいては差がない。

 これが、ある意味では「私」を語る語りのパースペクティブの奥行であり、そのパースペクティブが明確である限り、誰から剥がれたかは明白である。逆に言えば、この奥行が、《「私」を語る》語りの深度であり、語りのパースペクティブがバラバラになったとき、併置された「語られる『私』」の語りの彩りの差は、それが語り返す「語るもの」の差なのであり、「眉雨」は、「私」を語ることのもつ、ということは「語る」ことの深度と、「語られる『私』」の振幅を最大限に活用したと言えるのである。

 

 

 零記号の重畳化によって、語られる「詞」は、「私」という語り手の〃とき〃の統制から解き放たれる。それは、語り手の語っている〃とき〃の重要性を鞣すことだ。〃いま〃と〃そのとき〃と〃かのとき〃(の「私」)との違いはなくなり、語りにおける主体の意味そのものを変質させることになる。

 むろん、それは語りのパースペクティブをバラバラにすることであって、語りの奥行そのものがなくなることではない。

 「私」が「私」を客観する時の、その主体も「私」ですね。客体としての「私」があって、主体としての「私」がある。客体としての「私」を分解していけば、当然、主体としての「私」も分解しなくてはならない。主体としての「私」がアルキメデスの支点みたいな、系からはずれた所にいるわけではないんで、自分を分析していくぶんだけ、分析していく自分もやはり変質していく。ひょっとして「私」というのは、ある程度以上は客観できないもの、分解できない何ものかなのかもしれない。しかし「私」を分解していくというのも近代の文学においては宿命みたいなもので、「私」を描く以上は分解に向かう。その時、主体としての「私」はどこにあるのか。(中略)この「私」をどう限定するか。「私」を超えるものにどういう態度をとるか。それによって現代の文体は決まってくると思うんです。

          (『ムージル観念のエロス』)

 語りのパースペクティブの解体とは、《語るもの》と《語られるもの》との距離によって語りの奥行を測るのではなく、《語られるもの》の寄せ木細工の中に、時間的空間的制約を脱した、無限の語りの幅と奥行を可能とすることであり、そのすべてを語るためには、《語るもの》を視点とした《語られるもの》の布置ではない、新たなパースペクティブの支点を創出することを意味するはずである。

 なぜなら、「語り手になる」のが、語られるべきものに向き合うときだとすれば、語る支点(視点)は、語られたパースペクティブの入子化に向き合ったときと、語られたパースペクティブの並列(併置)化に向き合ったときでは、その支点(視点)の取り方は異ならざるをえないはずだからだ。

 それを、強いて図式的に比較してみるなら、扇状の視界が,ひとつの視点から内側に入子のように重なっている語りに対して,いくつもの視点からの視界が,いくつもの扇を多少重なり合いながら,並列に並んでいる語りの違いといえる。

 それは、入子のパースペクティブが語っている〃とき〃の一点に収斂して、語りの奥行がその一瞬に共時化される語りの構造であるのに対して、語りの支点(およびそれを語る語り手)のそれぞれが、別々の〃とき〃にバラバラに並列(併置)される語りの構造である。そこでは、語り手の〃いま〃というひとつの支点ではなく、(内包される様々な語り手の)多元化された語りのレベルを束ねる新しい語りの支点を必要とするはずである。

 バラバラに解き放たれた、深度の異なる語りのパースペクティブに向き合う(語る)ことによって、一点に集約される語りはなし崩しにされ、新たな語りの束ね、それは、いままでの確からしかった中心の「私」からのパースペクティブの逸脱、ずれあるいは、そうした逸脱、ずれ自体とも向き合う(語る)ことであり、そういう語られることの多様性、いや《語る》《語られる》ということ自体が既に不要の、そういう寄せ木細工のようなパースペクティブにどう向き合う(語る)か、あるいはそういうバラバラで他焦点のパースペクティブをどう創り出す(語り出す)かという、新しい《語り》への向き合い方について、とは、そういう語り方、語られ方についてであるが、「眉雨」の解き放った、語りの新たなパースペクティブに、『奇蹟』は、内包する異質な語り手を一気に解き放ち、その輻輳する語りという、異なる方向から、もうひとつの解答を出したのである。「眉雨」が、「私」の語りの、幻と夢と想い出といまとが重なり合う重層性を、『奇蹟』はトモノオジの語りの、現と想い出と幻との入子細工の多義性を、それによって現前化してみせたのである。

 


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