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眉雨論


 

 その画面から、カメラ・マンのグレッグ・トーランドの開発したパン・フォーカス(全焦点)を連想する。つまり、一言にしていえば、おそろしく焦点深度がふかいのである。 花田清輝『室町小説集』

 

T

 「眉雨」は次のように始まる。

 この夜、凶なきか。日の暮れに鳥の叫ぶ、数声殷きあり。深更に魘さるるか。あやふきことあるか。

 独り言がほのかにも韻文がかった日には、それこそ用心したほうがよい。降り降った世でも、あれは呪や縛やの方面を含むものらしい。相手は尋常の者と限らぬとか。そんな物にあずかる了見もない徒だろうと、仮にも呪文めいたものを口に唱えれば、応答はなくとも、身が身から離れる。人は言葉から漸次、狂うおそれはある。

 そう戒めるのも大袈裟な話で、私は夕刻から家を出て、蛇のくねるのに似た、往年の流れの跡と聞く道路を、最寄りの電鉄の駅へ向かっていた。

 「この夜、凶なきか。日の暮れに鳥の叫ぶ、数声殷きあり。深更に魘さるるか。あやふきことあるか。」と、ここまでで、ひとつの表現空間(少し大袈裟な言い方だが、ひとつの閉じられた表現領域、それ自体で語り手とのパースペクティブを示しているといった意味で使っている)があり、「独り言が」から一転して、「独り言がほのかにも韻文がかった日には、それこそ用心したほうがよい。」と、語り手の語っている〃とき〃へと戻ってくる。これは処女作「木曜日に」以来、古井作品の典型にほかならない。

 この語りの構造を図示してみる(【 】は作品としての空間、《 》[ ]は、それぞれ閉じ合うことで、ひとつのまとまった表現空間を示す)と、

 《

  [

   〈  この夜、凶なきか。……

    〉  ……あやふきことあるか。

   ]   独り言がほのかにも……漸次、狂うおそれはある。

 

      そう戒めるのも大袈裟な話で、 (》)

 と、「この夜、凶なきか。……」という呟き(〈 〉)を入子とした、「独り言がほのかにも……」と、内心で「戒める」心の動き([ ])をも更に入子として、初めて「そう戒めるのも大袈裟な……」という「私」の語り(《 》)があるとみなすことができる。

 そうみれば、垂直にその三層の語りが同時にある。そう戒めている〃とき〃、つまり私が「夕方から家を出」た〃とき〃を〃いま〃として、その一瞬の奥行を現前化している。だから、「この夜、凶なきか」を入子にして、「独り言がほのかにも……」と「そう戒めるもの大袈裟な……」には、時間差はない。そして「そう戒めるのも」からの件りは、〃そのとき〃の歩きながら「私」の述懐ということになる。

 しかしそうではなく、この三者を「私」の経時的な語りとみることもできる。そうなると「この夜、凶なきか」と「独り言がほのかにも……」と「そう戒めるもの大袈裟な……」には、〃そのとき〃より遡る、微妙なタイムラグがあることになる。

 どちらにしても、語られていることに大差はなさそうである。しかし、にも拘わらず、この語りが意識的であるとすれば、つまり、どちらとも取り得る語りにしているとすればどうなるか。このことを確かめることが、同時に「眉雨」を論ずることになるはずである。

 冒頭の語りのつづきを、もう少しみてみる。「最寄りの電鉄の駅へ向かっていた。」に続いて、「この夜と言うほどの一夜ではない。日没が夜の重さに続くような暮しでもない。鳥は町でもけっこう鳴いている。……車はたそがれると、赤糸のものから見えにくくなるという。どの程度、目から失せるものか。」までは、語りの視線を辿るのは難しくなく、「そう戒めるのも大袈裟な話で、」からつづく語りが、そのまま同じレベルで、「車はたそがれると、……目から失せるものか。」まで続いている。問題は、その後だ。

 空には雲が垂れて東からさらに押し出し、雨も近い風の中で、人の胸から頭の高さに薄明りが漂っていた。顔ばかりが浮いて、足もとも暗いような。何人かが寄れば顔が一様の白さを付けて、いちいち事ありげな物腰がまつわり、声は抑えぎみに、眉は思わしげに遠くをうかがう、そんな刻限だ。何事もない。ただ、雲が刻々地へ傾きかかり、熱っぽい色が天にふくらんで、頭がかすかに痛む。奥歯が、腹が疼きかける。たがいに、悪い噂を引き寄せあう。毒々しい言葉を尽したあげくに、どの話にも禍々しさが足らず、もどかしい息の下で声も詰まり、何事もないとつぶやいて目は殺気立ち、あらぬ方を睨み据える。結局はだらけた声を掛けあって散り、雨もまもなく軒を叩き、宵の残りを家の者たちと過して、為ることもなくなり寝床に入るわけだが。

 夜中に、天井へ目をひらく。雨は止んでいる。とうに止んでいた。風の走る音もない。しかし空気が肌に粘り、奥歯から後頭部のほうへまた、降りだし前の雲の動きを思わせる、疼きがある。わずかに赤味が差す。

 これをまた表現領域を区別してみる(各[ ]〈 〉間に、レベル差を設けているのは、とりあえずにすぎない。ただ、( )は、〈 〉の入子になっており、〈 〉は、[ ]の入子となっており、[ ]は、《 》の入子になっていることを意味させている)と、

 《     そう戒めるのも大袈裟な話で、……足もとも暗いような。

 

  [   何人かがよれば顔が……

   ]    思わしげに遠くをうかがう。

 

      そんな時刻だ。……奥歯が、腹が疼きかける。

 

  [   たがいに、悪い噂を……

   ]  寝床に入るわけだが。

(》)

 素直に読めば、「空には雲が垂れて東からさらに押し出し、……顔ばかりが浮いて、足もとも暗いような。」という薄明りの描写は、その前の述懐に続いているとみていいが、もっと厳密に見れば、「顔ばかりが浮いて、足もとも暗いような。」自体が、薄明かりの比喩となっている、とみることもできる。

 どちらにしても、次の、「何人かが寄れば顔が一様の白さを付けて、いちいち事ありげな物腰がまつわり、声は抑えぎみに、眉は思わしげに遠くをうかがう、」は、「薄明り」の漂う、「顔ばかりが浮いて、足もとも暗い」「そんな時刻」を具体化させた比喩、その「見えにく」い時刻がそれによって鮮明に浮かびあがる。

 そして「何事もない」時刻だが、「ただ、雲が刻々地へ傾きかかり、熱っぽい色が天にふくらんで、頭がかすかに痛む。奥歯が、腹が疼きかける」と、「薄明り」のいま、「刻々」傾きかかる雲の重みに反応して、「頭がかすかに痛む。奥歯が、腹が疼」く体感が語られる。そして、 その体感が、「たがいに、悪い噂を引き寄せあう。」という比喩を再び引き出す。それは、少し前の「何人かが寄れば……」の喩えに照応して、同じレベルで、そんな雨模様の黄昏どきの体感が呼び起こす重苦しい憂鬱さを、やはり比喩として語っている。

 ここは更に子細に見れば、たとえば、「何人かが寄れば顔が一様の白さを付けて、……そんな刻限だ。」という節自体が、

〈     何人かが寄れば、……いちいち事ありげな物腰がまつわり、

 (    声は抑えぎみに、

  ) 眉は思わしげに遠くをうかがう、

〉     そんな刻限だ。

 と、焦点深度の違いが見えてくる。あるいは、その後の、「雲が刻々地へ傾きかかり、……奥歯が、腹が疼きかける。」も同様で、

〈     雲が刻々地へ傾きかかり、熱っぽい色が天にふくらんで、

 (    頭がかすかに痛む。奥歯が、

  ) 腹が疼きかける。

(〉)

 と、更に、節毎に、語りの奥行を区別できるが、ここではこれ以上踏み込まず、この先をみてみると、問題なのは、ここでは、「疼く」体感を、〃いま〃(つまり出掛けた夕刻)の「私」と同一の語りのものとみなしているが、果たしてそれでいいのか、という点だ。 とすると、この入子になった語りは、〃いま〃の「私」の語りのパースペクティブの入子となった、「私」の感覚を、共時的に具体化したものとみなすことができる。しかし、そうとばかりは言えないのである。たとえば、

《     空には雲が垂れて東から……薄明りが漂っていた。

 [     顔ばかりが浮いて、

 ]    足もとも暗いような。

 〈 何人かが寄れば顔が一様の……

   〉   思わしげに遠くをうかがう、

[ そんな時刻だ。何事もない。

  ]    奥歯が、腹が疼きかける。

〈 たがいに、悪い噂を、……

   〉  寝床に入るわけだが。

 と、「顔ばかりが浮いて、足もとも暗いような。」と「そんな時刻だ。何事もない。……奥歯が、腹が疼きかける。」が同じレベルで、また「何人かが寄れば顔が一様の…… 思わしげに遠くをうかがう、」と「たがいに、悪い噂を、……」とが同じレベルで、それぞれ「薄明かり」を喩えている、とみることができる。

 あるいは、「そんな時刻だ。何事もない。……頭がかすかに痛む。奥歯が、腹が疼きかける。」を含めて、「たがいに、悪い噂を、……」まで、「顔ばかりが浮いて、足もとも暗いような。」と同列の、薄明りを具体化した、入子になった語りとみることもできる。とすると、語りの位相は、

《     空には雲が垂れて東から…… 薄明かりが漂っていた。

 [    顔ばかりが浮いて、

 ] 思わしげに遠くをうかがう、

 [ そんな時刻だ。何事もない。

 ] 奥歯が、腹が疼きかける。

 [ たがいに、悪い噂を、……

 ]  寝床に入るわけだが。

(》)

 と、経時的な語りとして、並列性を強め、対等に互いに引っ張り合っているようにもみえる。というより、各節毎で、あるいはセンテンス毎に、語りのパースペクティブが、どの語りなのかを曖昧にしている、といえるのである。だから、つぎの、

 夜中に、天井へ目をひらく。雨は止んでいる。とうに止んでいた。風の走る音もない。しかし空気が肌に粘り、奥歯から後頭部のほうへまた、降りだし前の雲の動きを思わせる、疼きがある。わずかに赤味が差す。

 という語りの位相も曖昧になる。「為ることもなくなり寝床にはいるわけだが」につづいて、そのまま、その「夜中に、」なのか、だとすれば、「雨はやんでいる」というのは、「雨もまもなく軒を叩き」の「雨がやん」だことになる。それとも雨模様の黄昏に外出した帰宅後の、その「夜中に、」なのか。それなら、その後雨になり、その「雨がやん」だことになる。どちらとも確定できない。後者なら、むろん〃いま〃の「私」のパースペクティブだ。しかし前者なら、むしろ「たがいに、悪い噂を引き寄せあう。」のもっている語りのレベル、そうした雨模様の夕刻の雰囲気を表そうという比喩のつづきとみるべきだろう。

 しかし、どちらかに無理に収斂させてしまうことはできない。むしろ、その遠近法を曖昧に、ふたつの意味を二重映しにしたまま、その暈しが、この節全体に多様な意味を炙り出している、とみたほうがいいのかもしれない。その意味への差異化が次節を引き出しやすくする、と。

 たとえば、「赤系のものから見えにくくな」り、「人の胸から頭の高さに」漂う「薄明り」の中、「刻々地へ傾きかか」る雲の「熱っぽい色が天にふくら」むのに感応して、「頭がかすかに痛む。奥歯が、腹が疼きかける」と、この三層の語りの重なり合った先で、初めて「降りだし前の雲の動きを思わせる、疼きがある。わずかに赤味が差す。」が生きる。「疼きがある。赤味が差す。」には、塗り重なった語りのイメージが染みとおっている。そうした幾重にも重ね塗りした語りによって初めて、

 雲の中には目がある。目が、見おろしている。

 を炙り出せる。「雲の中には目がある。目が、見おろしている。」は、確かに想い出の中のものだ。「小児の頃に、……仰いだ」とき見たものだ。しかし、語り手の描写レベルの語りなのか、「夜中に、天井へ目をひら」いた「私」に見えたものなのか、それとも「小児の頃に」仰いだときのものを思い出しているのかがだぶって見えてくる。飽和した雨雲の一点、雨を降らせる力を収斂させる焦点に差した赤味が、〃そのとき〃と〃いま〃と〃いつも〃とを集約させた〃とき〃に、目を思わせるものとして見えてくる。

 それによって、つづく「何者か、雲のうねりに、……」も、「小児の頃」の想い出なのか、〃いま〃の「私」の感覚なのか、語り手の描写なのか、が茫洋としていく。それは、幼児期の想い出が、〃いま〃の体感を誘い出すのであり、逆に〃いま〃の体感が、幼児期の感覚を引き出すのでもあり、それが《私》の語りを彩って、描写に反響している、というようにみることができる。つまり、「私」のパースペクティブが曖昧化しているために、それぞれの節は独立に、互いの差異だけを際立たせながら、想い出と〃いま〃とが浸透してしまい、現在の雲への感応と想い出の雲への感応とが重なってしまっている。だから、その感応は、

何者か、雲のうねりに、うつ伏せに乗っている。身は雲につつまれて幾塊りにもわたり、雲と沸き返り地へ傾き傾きかかり、目は流れない。いや、むしろ眉だ。目はひたすら内へ澄んで、眉にほのかな、表情がある。何事か、忌まわしい行為を待っている。憎みながら促している。女人の眉だ。そのさらにおもむろな翳りのすすみにつれて、太い雲が苦しんで、襞の奥から熱いものを滲ませる。そのうちに天頂は紫に飽和して、風に吹かれる草の穂先も、見あげる者の手の甲も夕闇の中で照り、顔は白く、また沈黙があり、地の遠く、薄明のまだ差すあたりから、長く叫びがあがり、眉がそむけぎみに、ひそめられ、目が雲中に失せて、雨が落ちはじめる。

 と、「何者か、雲のうねりに、うつ伏せに乗っている」というとき、「私」は、雲の重さを見上げている。だが、「身は雲につつまれて幾塊りにもわたり、」は、見ているのではなく、雲になっている。その体感で、「雲と沸き返り地へ傾き傾きかかり、」は、雲になって見ている視線と「私」に見られている視線とが、二重になっている。「、」で、しかし雲の目を見ている視線に変わっている。

 「眉だ」と見ている視線が、「目はひたすら内へ澄んで、眉にほのかな、表情がある」と見ているはずなのに、ついと、「何事か、忌まわしい行為を待っている。憎みながら促している」と、また雲となって、見られているものの視線に変じている。

 見るものである「私」は、雲の視点へと転じることで見られるものになる。見られるものである雲は、見るものへと転じる。「私」という視点のみから見れば、〃見る視点〃から〃成る視点〃へと変じている。その点から見れば、雲の視点は、「私」の視点の入子となっている。その入子が、しかし、一方通行ではなく、転々と入れ代わり、見るものと見られるものとは、どちらがどちらの入子ともなくなっていくようにみえる。

 それが、〃そのとき〃の自分の感受性で、雲の目を現前しながら、同時に、雲の重みに疼いている〃いま〃の感覚の現前化である。「太い雲が苦しんで」いるのを、雲になって受けとめているのは、〃そのとき〃の「私」であると同時に、〃いま〃雲の重みに疼きを抱えている「私」でもある。雲の目を感受している〃いま〃の「私」が、雲を体感していた〃そのとき〃の「私」の体感を捕えている。〃いま〃の「私」自身がその感覚に揺り動かされている。そして、それは語りの射程の中に収まっている……と。

 だが、そうだろうか。それなら、「雨が落ちはじめる」のは〃いつ〃なのか。想い出の中の〃とき〃か、「夜中に、天井へ目をひら」いている〃とき〃、「降りだし前の雲の動きを思わせる、疼き」に耳を澄ましている〃とき〃なのか。それとも、《私》の過去の経験からの、こういうときありうる描写なのか。その三つがだぶっているのだとしたら、これを語っているのは、どこからなのか。


 この語りは、「木曜日に」を彷彿させるものがある。たとえば、

と、木目が動きはじめた。木質の中に固く封じこめられて、もう生命のなごりもない乾からびた節の中から、奇妙なリズムにのって、ふくよかな木目がつぎつぎと生まれてくる。数かぎりない同心円が若々しくひしめきあって輪をひろげ、やがて成長しきると、うっとりと身をくねらせて板戸の表面を流れ、見つめる私の目を眠気の中に誘いこんだ。ところがそのうちに無数の木目のひとつがふと細かく波立つと、後からつづく木目たちがつぎつぎに躓いて波立ち、波頭に波頭が重なりあい、全体がひとつのうねりとなって段々に傾き、やがて不気味な触手のように板戸の中をくねり上がり、柔らかな木質をぎりぎりと締めつけた。(中略)いまや木目たちはたがいに息をひそめあい、微妙な均衡を保っていた。

 しかし、ここでは語りのパースペクティブは明確なのだ。確かに、木目を見ていた「私」がいつのまにか木目そのものに入り込み、木目そのものになって語っているが、木目に感応しているのは木目を見ていた「私」だけでなく、それを思い出している「私」も、さらに手紙を書きあぐねている「私」を語っている(語り手としての「私」)もなのであり、その視線の奥行は語りから失われることはない。

 「眉雨」と「木曜日に」が決定的に異なっているのは、見ているものの見られているものへの視線の流れが明確な入子を辿れないことだ。見ているものがどれで、見られているものがどれなのか、初めから曖昧にされていることだ。

 「私」は、〃いま〃雲の体感を感じながら、同時にそれが〃そのとき〃の体感でもあり、〃そのとき〃の雲の目に成りながら、同時に〃いま〃の雲の目で自分を見ている。〃いま〃も〃そのとき〃も、同時に「私」の中にある。しかしその視点を徐々に辿っていく視線は朧で、「私」のパースペクティブが希薄になっているのである。

 〃いま〃の「私」の体感の向こうに、〃そのとき〃の「私」の体感が入子となり、さらにその向こうに〃そのとき〃雲の体感が入子になっているのなら、見ているのは〃いま〃の「私」だ。しかしそれを語っている語り手が見ているとしたら、〃いま〃の「私」を揺り動かしているのは語り手の体感の方であり、その体感が「私」に想い出を引き出させたことになる。それなら、「木曜日に」のように、結果として語り手まで揺り動かしているのではない。既に揺り動かされた語り手の視線で語っているとみなければならない。

 つまり、この体感が、語り手の体感なのか、語られている「夕刻」での体感なのか、あるいは思い出されている「小児」の〃とき〃の体感なのか、は暈されている。語り手は、どの体感を語ろうとしているのか。夕刻の「私」のそれか、小児のときの体感なのか、それとも語り手の手元に〃いま〃ある体感なのか。そこが曖昧なのは、逆に言えば、語り手の語る視点がどこにあるのか、いつの〃とき〃を語っているのかが暈されているからにほかならない。いつの間にか、「夕刻から家を出」た「私」を語っていた視線が、入子のパースペクティブの中に紛れ込んでしまったのである。

 一見「夕刻」に出掛けた「私」の語りの入子となった「何者か、雲のうねりに、……」の節が、「目が雲中に失せて、雨が落ちはじめる。」と、どの語りのレベルに落ち着くのかが曖昧なままに、それ以上に語り手との距離の測れない「−虹、空に掛かる、」次の語りへと紛れてしまうのである。

U

 だから、つづいて転じた、

 −虹、空に掛かる、あれを朝方に見たことはないか。

 −さて、朝焼けのひどいのなら。人を起そうかと思ったほどでしたけど、この世の終りではあるまいし。

 と、男女の会話と思わせる語りの位相が問題となる。前述の図式をつづけてみると、

 《      

  (略)

  [   雲の中には目がある。……見おろしている。

   〈  何者か、雲のうねりに、

    〉  目が雲中に失せて、雨が落ちはじめる。

 (]) 

  [   −虹、空にかかる、あれを朝方に見たことはないか。

   ]   ……やっぱり、雨になるのかね、と。知りませんよ。

(》)

 と、便宜的に整理できるが、この語りは、いくつかに位置づけできるのである。

 まずひとつは、

     そう咎めるのも大袈裟な話で、

 [   雲の中に目がある。

  ]   目が雲中に失せて、雨が落ちはじめる。

(》)

《    −虹、空にかかる。

》 やっぱり雨になるのかね、と。知りませんよ。

 と、「そう戒めるのも大袈裟な話で、……」と同じレベルの「私」の語りとみなすか、それとも、

     そう咎めるのも大袈裟な話で、

[   雲の中に目がある。

 ] 目が雲中に失せて、雨が落ちはじめる。

[   −虹、空にかかる。

 ]   やっぱり雨になるのかね、と。知りませんよ。

(》)

 と、「雲の中に目がある」と同じ「私」の語りの入子となっている語りとみなすか、あるいは、

     そう咎めるのも大袈裟な話で、

[   雲の中に目がある。

] 目が雲中に失せて、雨が落ちはじめる。

 〈  −虹、空にかかる。

  〉 やっぱり雨になるのかね、と。知りませんよ。

(》)

 と、「私」の語りの入子となっている「雲の中には目がある……」の入子になっている語り(たとえば、「何者か、雲のうねりに」をそうみなせば、それと同列に)とみなすか、それとも、

 [   雲の中には目がある。……見おろしている。

  〈  何者か、雲のうねりに、

   〉  目が雲中に失せて、雨が落ちはじめる。

    ( −虹、空にかかる、あれを朝方に見たことはないか。

     ) ……やっぱり、雨になるのかね、と。知りませんよ。

(]) 

(》)

 と、その「何者か、雲のうねりに」という雲との感応の語りの入子となっている語りとみなすか、の違いといっていい。つまり「私」を対象化したとみるか、「私」が入子にした語りのパースペクティブの中に、会話を対象化したとみるかの違いである。

 しかし、である。まったく別の見方もできる。「私」は、語っている〃あるとき〃(それを先に、「私」が語っている〃とき〃と表現した)から、夕刻の自分を対象化して語っている。それが一応語り手であるが、夕刻の「私」を語っているのと独立に、これを語ったとしたらどうなるか、である。それは、前節で触れた語り手による語りとは全く別である。たとえば前述の四者の違いなどは、所詮語られた「私」の語りのレベル差を問題にしているにすぎない。だが、もし、その「私」を語ってる語り手レベルとの違いとみなせばどうなるか。

 《私》について語ってきた語り手とは別の、その語り手では語れない語り、たとえば自身が対象となるレベル、あるいは《私》についての語りとはまったく別の、他人についての語りのレベルが並列で語られるためには、そうした語り手を語るもう一人の語り手を必要とすることになる。それまで語り手と読んできた〃語るもの〃自体が〃語られるもの〃に変わることにほかならない。すると、

  【

   《

     そう咎めるのも大袈裟な話で、

    [ 雲の中に目がある。

] 目が雲中に失せて、雨が落ちはじめる。

  (】)

【 −虹、空にかかる。

  】 やっぱり雨になるのかね、と。知りませんよ。

 と、語りの枠組そのものが変更になったことを意味する。違いは、作品のパースペクティブの視点が後退したこと、「私」を語る語り手を語る語り手を必要とするということにほかならない。つまり、前述のレベルの語りが、語り手が自分について語っているのだとすれば、こっちは、語り手が、一方で「私」と一人称で語るものについて語るのと同時に、他方で別の人称で語るものも語るということと同じことだ。それは、語られている作品の限界がどんどん手前へと広がっていくことになる。語りの入子が、語りの遠近法の消失点を先へ先へと前進させるのに対比すれば、ちょうどカメラで覗いた世界で、視点を前へ前へと接近させると、(顕微鏡の視点のように)世界がどんどん微視的に極限されていくのに対して、視点を限りなく後退させると、(宇宙からの視点のように)世界が無限大に拡大するのに似ている、と言えるだろう。つまりは、語るものと語られるものの関係が、こうしてより(奥行でなく)間口を広げたということになる。

 ここで問題にしたいのは、そういう作品のパースペクティブなのだということを強弁したいのではなく、「私」の語りのパースペクティブが、そう解釈できるほど、渺としているということにほかならない。だから「私」の語りの入子となっているのなら、本来共時的な語り、語っているものの〃とき〃に呑まれるはずの時間が、「私」を語ると同じレベルでの語りである経時的な語りとも取れるくらいに、まるで並列的に、「私」の語りの中で並んでいるようにみえることの方が重要である。いや、それどころか、「私」の語りとすら、並列になっているとさえ言えることが、留意すべきことなのだ。

 だから、素直にみて、

    独り言がほのかにも韻文がかった

(中略)

 [  雲の中に目がある。

  ]  目が雲中に失せて、雨が落ちはじめる。

 [  −虹、空にかかる。

  ]  やっぱり雨になるのかね、と。知りませんよ。

(》)

 と、語り手にとっては、そのすべてが同列であり、パースペクティブが明確でなく、その分いくつかの視点をだぶらせて、見え方がぶれ、それがかえって、夢と現とをわかちがたい幻覚的なものになっていく、とみなすべきかもしれない。

 

 この男女の会話の語りの位置が、曖昧であるため、この会話自体も、パースペクティブのはっきりしない、両者が微妙な齟齬をもったまま、噛み合っているのかいないのか、それでも一周遅れのように顔を合わせながら、どこか共振しながら、螺旋を描いて展開していく。

 この会話には、幾つかの不可解なところがある。

 もしこの会話の当事者を男女とすると、この二人は、朝焼けのとき一緒にいたのか、いたのだとすると、「振り向いたら、目をくらまされた真暗闇の中に、戸の隙間から光が洩れていたんでしょうね、三方から皺々の顔が、こちらへ首をもたげて、赤く染まっていた。大きな目をひらいているの。昨夜まで自分も死ぬようなことを言っていたのが、あたしを気味悪そうに見て、雨になるのかね、そうたずねるの」という「たずねた」のは誰か。男か三人の女のうちの一人なのか。

 同様に、「女たちの目がおずおずと、こちらに集まってました。つい眠ってしまったのを、咎められた気がしたのかしら。あたしの意向を、うかがうみたいな声でした」のはどちらなのか。もし男だとしたら、「つい眠ってしまったのを、咎められた気がしたのかしら。あたしの意向を、うかがうみたいな声でした」と、まるで女たちの尋ねたみたいに言うのはどう考えたらいいのか。もし女たちの一人としたら、男が「あなたの顔も、赤く焼けていた」と答えたのはどういうことか。

 それとも、そもそもこの会話は男と女ではなく、女とその女三人のうちのだれかなのか。いや、そうすると会話のはじめのやりとりと合わなくなってくる。あるいは、土砂降りのとき、一緒にいたのは男なのか、「ついてないな」と「天を仰いで手放しに滅入」ったのは男なのか、しかし男だとすると朝焼けのときに、「うかがうみたいな声」で尋ねたのは誰なのだ……。

 もうこれくらいでいいだろう。現のことと一貫して見ていくと、合わなくなっているということにほかならない。つまり、ここには会話の中に、女か男かいずれかが、現とは別の幻のパースペクティブを語り出してしまっており、それが区別されていないために、齟齬を生んでいると見なすべきなのだ。

 その転調のひとつを、「二階の雨戸……」という答え方にみることができる。

 会話の始めでは、

 −虹、空に掛かる、あれを朝方に見たことはないか。

 −さて、朝焼けのひどいのなら。人を起そうかと思ったほどでしたけど、この世の終りではあるまいし。

 −眠っていなかったんだな。

 −眠っていたんでしょうね。話しかけられて答えては、時間がひとまとまりずつ飛んで、人の顔も変わっていきましたから。自分も起されるまで眠ってしまおうかと、窓辺に出たんです。膝が固くなっていた。目の隅に掛った髪を、ひとすじつまんだら、白いんですよ。その白髪までが、赤く染まって。

 と、女はついと窓辺に立った気配なのに、後段では「二階」に変じている、と見なすべきだ。女には、そのとき、三人の女が見えたのだ。その三人は、女の来歴の中で生きている。姉妹かもしれないし、叔母かもしれない。そんなことはどうでもいい。その存在がある場面は、「小物が押しこまれて」いて、「衣装部屋にもなってい」る二階の部屋でなければならない。「自分も死ぬようなことをいっていた」〃とき〃が、女の語りのパースペクティブの中に、入子となって語り出されてしまっている。男は、多分それを知っている。いや知らないかもしれないが、結果としてその食い違いに合っている。おのずと合うことで、食い違いは綻びを見せない。

−……西のほうまで赤かった。日の暮れまでひとりで寝過したのかと思ったほどでした。朝の空気を吸おうとして、二階の雨戸を細くあけたそのとたんに。

−部屋にいろいろ小物が押しこまれてました。衣装部屋にもなっていて、物と物の間を分けて、女たちが三人、小さく丸まって眠ってました。空が赤すぎるので自分でも気が引けて、雨戸を閉めて振り向いたら、目をくらまされた真暗闇の中に、戸の隙間から光が洩れていたんでしょうね、三方から皺々の顔が、こちらへ首をもたげて、赤く染まっていた。大きな目をひらいているの。昨夜まで自分も死ぬようなことを言っていたのが、あたしを気味悪そうに見て、雨になるのかね、そうたずねるの。

 −あなたの顔も、赤く焼けていた。 −雨戸を閉めた上に、空のほうへ、背を向けていたんですよ。

 −輪郭が、赤く縁取られていた。

 −女たちの目がおずおずと、こちらに集まってました。つい眠ってしまったのを、咎められた気がしたのかしら。あたしの意向を、うかがうみたいな声でした。やっぱり、雨になるのかね、と。知りませんよ。

 どこか泥んだ男女の会話の絶妙の呼吸にも見える。お互いが、相手の言葉に自分のパースペクティブを見て、それぞれ違うものを見ている。その分だけ会話としては、微妙にずれる、一歩遅れる。そのずれた分が、しかし不思議と一巡りしてからまた、追い付き、噛み合ってくる。そんな男女の関係の陰影をうまく、隠喩的に現前している、とみるべきだろう。

 だが、こうした陰影は、ただ比喩的なものではなく、この会話自体を語るパースペクティブが明晰ではなく、その分違う視点から見えるものが透けて浮き出てくることになる、語りの陰影でもあるはずである。

V

 これに対比できるのは、「哀原」である。「哀原」では、かろうじて、その視線の全貌を説明し、語りの複雑な位相を余すところなく示している。

 死病にとりつかれた友人の七日間の失踪を語る語り手たる「私」が、自分の目、友人の目、そしてその間受け入れていた女性の目、で友人の全体像を語り尽そうとする。そこでは、「私」の語りは三段階の射程をもっている。

 まず「私」は、これを語っている〃とき〃(つまり、それを語り手のいる〃とき〃と考える)から、直接〃そのとき〃の会話を語る。この直接話法(この語りを、便宜的にこう呼んでおく)として対象化したとき、友人の語りとそれを聞く「私」を、次のように「私」のパースペクティブで、

 自分があの七日間に何をしたか、覚えがないとは、俺は言わんよ。今は細かいことを思い出せないが、だからと言って、責任を逃れはせんよ。女のところへ逃げて、また女房のところへ逃げてきた、どちらかを疎んだその分だけ、どちらかに惹かれる、ということではないんだ。

 友人の、「私」への語りかけとして現前される。このとき「私」の語りは、それを聞いていた「私」と同時に、友人の語りを、語る友人になって、友人の語りを現前化させている。だが「私」は、〃そのとき〃友人が「私」に向けた語りの面を見ているだけで、その語りの向う側を見ているわけではない。あくまで「私」に向かって語りかけている語りそのものを、〃そのとき〃の「私」のパースペクティブによって見ているにすぎないから、その制約の中でその口調と意味を対象化しているだけだ。

 一方、「私」による、次のような友人の対象化は、

 厄年というのはあるもんだね、と友人はそんなことをつぶやく。危険な話題に私は尻ごみしかけるが、相手の回復者の口調はやはり破れていない。人さまざまなのだろうがね、と友人はことわってから、ぽつりぽつり話し出す。

 と、友人の話を、語っている「私」の〃いま〃整理した、間接話法(この語りを便宜的にこう呼んでおく)による語りは、友人の語りの口調をかなり残しているか、友人の語りの視線を残しているか、あるいは全くその意味だけを残しているか、という差異はあるが、その語りが、語っている「私」のいる〃とき〃からの俯瞰した視線によって対象化され、語りそのものを引き写すのではなく、語られている意味・内容を一旦「私」によって要約ないし整理されているとみなすことができる。だから、友人は、「私」が語っている〃いま〃にいる。だからその友人は、語っている「私」のパースペクティブで制約されていることになる。

 だから「私」は、どれだけ「私」を対象化しても、結局「私」の視線からは出られない。「私」のパースペクティブの中から出られない。とすれば、「私」は「私」のいないところについての現前化を語り出すことはできない。

 直接話法では、語られている〃そのとき〃の「私」の目線で制約されていたとすれば、間接話法では、語っている〃いま〃の「私」の目線に制約されている、ということができる。そして重要なことは、〃そのとき〃のいずれにも、「私」はいる、ということだ。それに対して、

 夜だった。いや、夜ではなく、日没の始まる時刻で、低く覆う暗雲に紫色の熱がこもり、天と地の間には蒼白い沼のような明るさしか漂っていないのに、手の甲がうっすらと赤く染まり、血管を太く浮き立たせていた。凶器、のようなものを死物狂いに握りしめていた感触が、ゆるく開いて脇へ垂らした右の掌のこわばりに残っていた。

 では、友人の語りの中の〃そのとき〃には、「私」はいない。いない〃とき〃について、「私」は語っている。そこには、「私」の視線だけが見た未知のパースペクティブがある。友人の語ったことの向こうに、見えないものを見た、〃不在〃を語るパースペクティブがある。「私」の視線だけが現前化させたパースペクティブがある。そのとき「私」は、友人の語りの向う側を、ちょうど作品の語り手が作品に向かうように、向き合っていた、ということができる。あえて言えば、友人の七日間について物語る語り手の位置に「私」はいた、そしてその位置から、「私」の感覚で、人形遊びで子供の想像力に命を吹き込まれる人形のように、友人の話を蘇らせたということができる。

 この三つの語りの射程が見届けているのは、三つの語りの層である。

 まず第一は、語っている〃いま〃から、どこまで視線の射程が届いているか、という語りの深度が見届けられている。その深度によって、つまりは「私」の視線の浸透度によって、さまざまな語りの次元が層をなすことになる。

 「私」と女性(あるいは友人)が語り合っている〃とき〃の対象化、直接話法の語りであり、次は、ここでは時間的な距りはなくなってはいるが、「私」が彼女(あるいは友人)の語りそのものを対象化し、その語りを彼女の視線を残したまま「私」の語っている〃とき〃から語り直している、間接話法の語りであり、そして、女性の語りの中の、友人と一緒の、二年前、一年前、七日間の〃とき〃を現前化する語りであり、そして更に女性の語りが引き出した、友人の妹と関わる〃とき〃を現前化する語りである。

 第二は、第一の語りの視点によって必然的にもたらされるものだが、「私」が語っている〃とき〃に対して、どれだけ時間の層を遡っていくかが見届けられる。女性の話を聞いている〃とき〃、彼女が語る友人との出会いの〃とき〃、友人を保護していた七日間の〃とき〃、友人が語る思い出の中の〃とき〃と、「私」の視線は、その時間の層を貫いている。 第三は、その〃とき〃を遡っていくときのパースペクティブの多層性(あるいは視点の転換)。そこに現前する視界の重層性である。たとえば、「私」は彼女が語るパースペクティブの中の友人との〃とき〃の中で、友人が語ったパースペクティブの中の妹を、見届けるというように。

 たとえば、女性の語りの中に、友人の語りが現前化するところをみてみよう。

 それには二つの違った視点の語りが入っている。一つは、

 お前、死んではいなかったんだな、こんなところで暮らしていたのか、俺は十何年間苦しみにくるしんだぞ、と彼は彼女の肩を掴んで泣き出した。実際にもう一人の女がすっと入って来たような、そんな戦慄が部屋中にみなぎった。彼女は十幾つも年上の男の広い背中を夢中でさすりながら、この人は狂っている、と底なしの不安の中へ吸いこまれかけたが、狂って来たからにはあたしのものだ、とはじめて湧き上がってきた独占欲に支えられた。

 女性の語りの向う側に、彼女が「私」に語っていた〃とき〃ではなく、その語りの中の〃とき〃が現前する。「私」がいるのは、彼女の話を聞いている〃そのとき〃でしかないのに、「私」は、その話の語り手となって、友人が彼女のアパートにやってきた〃そのとき〃に滑り込み、彼女の視線になって、彼女のパースペクティブで、〃そのとき〃を現前させている。「私」の語りは、彼女の視点で見る〃そのとき〃のパースペクティブを入子にしている。

 もう一つの、入子になっている友人の語りは、

 或る日、兄は妹をいきなり川へ突き落とした。妹はさすがに恨めしげな目で兄を見つめた。しかしやはり声は立てず、すこしもがけば岸に届くのに、立てば胸ぐらいの深さなのに、流れに仰向けに身をゆだねたまま、なにやらぶつぶつ唇を動かす顔がやがて波に浮き沈みしはじめた。兄は仰天して岸を二、三間も走り、足場の良いところへ先回りして、流れてくる身体を引っぱりあげた。

 と、そこは、「私」のいる場所でも、女性が友人に耳を傾けていた場所でもない。まして「私」が女性の眼差しに添って語っているのでもない。彼女に語った友人の追憶話の中の〃そのとき〃を現前させ、友人の視線に沿って眺め、友人の感情に即して妹を見ているのである。

 時間の層としてみれば、「私」の語る〃とき〃、彼女の話を聞いている〃とき〃、彼女が友人の話を聞いている〃とき〃、更に友人が妹を川へ突き落とした〃とき〃が、一瞬の中に現前していることになる。

 また、語りの構造から見ると、「私」の語りのパースペクティブの中に、女性の語りがあり、その中に、更に友人の語りがあり、その中にさらに友人の過去のパースペクティブが入子になっている、ということになる。

 「哀原」では、その語りのすべては、「私」との距離によってのみ、語っている「私」のパースペクティブの中に整序されていく。その遠近法だけによって、共時の〃とき〃につながれている。

 こうみると、「眉雨」では、冒頭からの語りは、「私」のパースペクティブと並列なのか、入子なのか曖昧のまま、「哀原」の「私」のような、全体のパースペクティブを整序する視点をもっていないのである。一見「私」の語りでスタートしながら、誰の語りなのかが朧気になっていく。とすれば、入子とは何に対しての入子なのか。そのパースペクティブを収斂していく視点はどこなのか、が見極めにくいのである。それは、《語るもの》と《語られるもの》の関係が、初めから暈されているということでもある。

 入子とは、ある視点からのパースペクティブが、別の視点からのパースペクティブの点景となることにほかならない。つまり、「私」が語っていることは、別の〃とき〃の「私」(あるいは別人の〃とき〃も)の思い出の表象でしかなく、それ自体また、別の〃とき〃からの想い出にすぎないというように、である。つまり、入子は、その意味で共時的である。時間の横割りである。一義的に見える〃そのとき〃の向こうに、奥行を語ることである。だが、そのとき「私」の視点が曖昧になるということは、それぞれの〃そのとき〃が収斂していく〃とき〃をうしなって、独立していくということにほかならない。

 また入子とは、あるパースペクティブに対する差異化である。あるいは差異化とは、あるパースペクティブに入子のパースペクティブを見ることにほかならない。入子の視点が曖昧化した後に残るのは、入子関係において示されたパースペクティブ間の差異化の関係だけである。つまり、それは独立した〃とき〃が通時的に並んでいくことになる。


 「私」のパースペクティブが暈されていると言ったが、たとえば、「空には雲が垂れて東からさらに押し出し、雨も近い風の中で、人の胸から頭の高さに薄明りが漂っていた。……」の節は、並べてみると、

「雨も近い風の中で、人の胸から頭の高さに薄明りが漂っていた。」

「顔ばかりが浮いて、足もとも暗いような。」「何人かが寄れば顔が一様の白さを付けて、いちいち事ありげな物腰がまつわり、声は抑えぎみに、眉は思わしげに遠くをうかがう。」

「雲が刻々地へ傾きかかり、熱っぽい色が天にふくらんで、」

「頭がかすかに痛む。奥歯が、腹が疼きかける。」

「たがいに、悪い噂を引き寄せあう。毒々しい言葉を尽したあげくに、……宵の残りを家の者たちと過して、為ることもなくなり寝床に入る……」

「夜中に、天井へ目をひらく。……わずかに赤味が差す。」

「雲の中には目がある。……」

「小児の頃に、……夢の中のことだったかもしれない」

「何者か、雨雲の寄せる暮れ方、……眉がそむけぎみに、ひそめられ、目が雲中に失せて、雨が落ちはじめる。」

 前述したように、それぞれは何らかの形で入子の関係にある。しかしパースペクティブが希薄化されると、残るのは、相互の差異だけだ。確かに、入子になることで、ひとつの時刻の奥行を感覚的に現前している。こうしたパースペクティブの入子が、〃そのとき〃の共時的な語りに奥行を増す。しかしそれをひとつに整序する「私」のパースペクティブ、つまりそれぞれ語られていることと「私」が語っている〃とき〃、あるいは語るものとしての「私」からの距離が、不鮮明になっていれば、互いに共鳴しあい重なり合いながら、〃とき〃の流れをつくっていく(それがこの場合、語りのリズムともなっている)。

 もちろん語るものがいないのではない。しかし、それぞれを語る「私」は、それを語っている〃とき〃にいるのか、語られている〃とき〃にいるのか。夕刻の「私」について語っている〃とき〃にいるのか、語られた夕刻の〃とき〃にいるのか。「哀原」でははっきりしていたその語りの視点は、入子になっても入子のパースペクティブに移動しているようにもいないようにもみえる。二重写しになっているのは、入子になっても語りの〃とき〃がだぶっているからにほかならない。それは夢を見ながら見られているという、夢を見ている視点と見られている視点が重なっているのに等しい。しかも、その遠近法を暈しているために、見ている夢と、見られている夢とが視点を別々に並列になっていくということに等しい。

 しかも、この複雑な入子は、節と節だけでなく、センテンスとセンテンス、もっと言えば、語句と語句においてすら見いだすことができるのである。つまり、全体から細部まで、入子の寄木細工になっている。どこを切っても、細部の細部まで、びっしりと寄木になった、どこをどう切っても、視点を変えるとさまざまに浮き上がる隠絵のような入子構造になっている。それが「眉雨」を分かりにくい作品にしている。と同時に、それがイメージの輻輳を増幅させているのも確かである。

W

 さて続いて、語りは、「晴れた日に街を歩くうちに、」と、『眉雨』では唯一、転換点を示す語句をきっかけに、冒頭と同様、「私」の語りのレベルに戻るように見える。

(《)

      晴れた日に街を歩くうちに、………虚像には違いないが、

  [   黒々と林立する幹の影も伸び、

   ]   ……艶かしく、こちらを眺めていた。

 》    いきなり呻いて、……渇いた舌の上にひろげた。

 ここの構造は、トイレに入っての夢想までは、比較的見易い。その語りは、「清浄な厠の内の、青いタイルを張った側面の壁に、腰掛けた便器の上から、うなだれた首をよじ向けると、」から、そう語っている〃とき〃の時間軸が曖昧に、次のように夢想へと辷り込んでいく。

 清浄な厠の内の、青いタイルを張った側面の壁に、腰掛けた便器の上から、うなだれた首をよじ向けると、細かい葉と、そして枝が浮んで次第に密に繁り、眼球の内の刺激から来る虚像には違いないが、黒々と林立する幹の影も伸び、壁にそって見あげるにつれ、一斉に生い育って鬱蒼とした森林となり、厠はおろか建物全体を覆いこみ、その外までひろがった。樹冠の間にのぞく空はほの白く、日没過ぎか、それとも払暁か、雨が落ちはじめた。

 すでにここからは別の〃とき〃が現前している。別の〃とき〃と〃ところ〃に立った、「私」の語りの入子となった語りということができる。

 「細かい葉と、そして枝が浮んで次第に密に繁り、」までは、まだ「私」の語りであり、そこから、「眼球の内の刺激から来る虚像には違いないが、」で、「、」を軸として、表現空間が一変し、「私」に入子にされた語りへと辷り込んでいく。いや、「私」は〃そのとき〃の中に立って語っている。

思わず、地につけていた額を起して、前方を見た。稜線の上に、雨空を負って、白裝束の人が立ち、木の枝を片手に掲げて、こちらを眺めていた。敵側の陵だ。 (中略)遥かな唸りに似た、衆の声が渡ってきた。謡っていた。一斉に低く謡い出して、節には束ねられずに、長くうねり流れる。陰気におごそかに、何者かの到来の先を払うように、地を粛ませながら、行く先、触れる先から、同じ唸りを誘い出す。

 (中略)唸りが満ちきって、つかのまの静止の中からいまや細い音のあがる予感が顫えかかり、矢先を奪い取って地に押えこもうと、いよいよ最後の力を澄ませて、目をつぶり口をひらき、正面を仰いだその時、唸りの中心から、血を吐く女の絶叫が天へ昇り、男たちの鯨波と女たちの悲鳴がひとつに湧き起り、それに促されて叫びはさらに数声、弥高に継がれて、甲の極みで太い呻きを喉にふくんで跡切れた。(中略)

 この、往古の戦の真っ只中における、両者の拮抗する対峙の背景には、ちょうど、次の文章がそのイメージの意味を、女の眉の呪力についても、鮮明にしてくれるはずだ。

 自然の啓示を知るには耳目の聡明を必要とするが、自然にはたらきかけ、あるいは他者に呪的な力を及ぼす行為として、目の呪力が重要であった。見は人の上に大きな目をかく。視るという視覚的な行為以上に、対者との交渉をもつ意味を含んでいる。(略) 対者との霊的な交渉をもつ行為が「みる」であるが、邪霊を祓うのには呪眼を用いた。(略)眼は……、呪眼を意味する字のようである。

 眼の呪力を強めるために、ときに目の上に媚飾を加えることがある。媚はシャーマン的な巫女であった。(略)媚女は異族との戦いのとき、つねに先頭に立った。的に呪詛をかけるためである。勝敗は、両軍の媚女の呪力の優劣にかかっていた。(略)

 戦いに勝った場合、相手の呪力を殺ぐことが、何よりも必要であった。敵の媚女は戈にかけて殺された。 (白川静『漢字』)

 しかし、そういう直截的な意味を超えて、そこには、《見るもの》と《見られるもの》の関係を隠喩しているように思える。つづく文章で、

 枝振りもまだやさしい若木の、幹のぎりぎりの高さに、縛めどころを藤蔓で幾重にも括られて、胸から上は樹冠の内に入り、左右に伸びて繋がれた細腕も繁る枝に紛らわしく、頭はがっくりと落ちかけた途中で、髪を枝に絡み取られたか、あらかじめ結ばれたか、やや深くうつむくほどに留められ、天頂には瑞々しい葉のついた小枝をかざして、雨に叩かれ化粧をほどこされたように白く締まった額の下に、目は隠れているが、眉が苦悶と、そしてなにやら羞恥の色をふくんで艶かしく、こちらを眺めていた。

 とあり、相手の呪力を払うために装われた眉飾は死後もその効力をもち、絶対的に《見られるもの》と化した死者が、逆にその呪力のある眉によって、逆に《見るもの》を見返し、《見るもの》へと逆転している。

 この眉の視力が、《見るもの》と《見られるもの》の逆転の隠喩となっている。つまり、通常は、相手の巫女を架けることで、相手の呪力を殺ぐ。しかし、味方の女を架けることへと変更することで、ついにその女の眉の呪力が相手を押え込んでしまう、と逆転させた。いやしかし、それを見ているものは、自分が《見るもの》であるとしか自覚しない。眉が逆におのれを《見るもの》に転換しているとは気づかない。だから、殺した女の呪力をどう殺ぐのか、とは考えない。そのために、死者の眉は、いつまでも気づかれないまま、永遠に《見られるもの》が究極の一点から見返す《見るもの》の視点へと転倒する、というようにも見なすことができる。

 これが、雲の目に女人の眉を見た、いやその眉に見られた、見るものと見られるものの関係が行き着いた極北にほかならない。

 この「私」の夢想として、入子となった世界自体が、さらにいくつもの細かな入子を重ねて、独特のリズムで、見えないものを見る入子を重ねている。

 たとえば、「太鼓の音が聞えていた」から始まって、聞く視点から、「もう久しく打ち鳴らしている」と耳を傾けていたのが、いつか、

物に憑かれて打ちまくってきたのが、いまではともすればとろとろと、まどろむような緩慢さになりかけては、はっと鞭打たれてまた狂おしく打ち続ける。それでも、まもなく力尽きて頽れそうな疲れの色はあらわで、遠方を威嚇する音の裏に、我身の、命を訴える声が混った。女らしい。まわりに大勢の男が集まって見守り、狂い抜くよう、凶器を地に衝いて責めている。

 と、いつか太鼓をたたく者へと身を寄せて、そのものとなって聞いている。いわば、「物に憑かれて打ちまくってきたのが、いまではともすればとろとろと、まどろむような緩慢さになりかけては、はっと鞭打たれて……」は、聞いている自分の見ている、入子となった幻である。厠の中での夢想が、だから、更に幾つもの入子を呑みながら、差異の漣を打つようにつながっていく。

 何事か、陰惨なことが為されつつある。人を震わすことが起りつつある。

 あるいは、すでに為された、すでに起った。

 過去が未来へ押し出そうとする。そして何事もない、何事のあった覚えもない。ただ現在が逼迫する。

 逆もあるだろう。現在をいやが上にも逼迫させることによって、過去を招き寄せる。なかった過去まで寄せて、濃い覚えに煮つめる。そして未来へ繋ぐ。

 ないはずの原因が、身内に既知のものとして見えると、ありえない結果が見えてくる。そのようにして、「太鼓の音が聞こえ」「敵方の麓」が見え、大勢の男に責められて太鼓を打つ「女」が見え、「役として」それに耳を傾け、耳ひとつで敵の来襲を「聞き奪って、阻止」しようとする自分が見える。それが、「見えるはずもない姿を、見て」しまう。

思わず、地につけていた額を起して、前方を見た。稜線の上に、雨空を負って、白裝束の人が立ち、木の枝を片手に掲げて、こちらを眺めていた。

 それは、恐怖が見たのではなく、一瞬に追い立てられる切迫感が、ありもしない過去を招き、ないはずの恐怖を身内に既知のものとして覚えさせ、ありもしない視界を与える。いずれもが幻でありながら、現なのだ。見ていたはずの幻に、いま逆に見入られている。見られているから、見える。見られていると感じるから、一層「見えるはずもない姿」が見えてくる。

やがてその脇にもう一人立ち、また二人左右に加わり、林の中から続々と現われて、白裝束が男ともつかず女ともつかず、長い台状の陵の上に一列、何百人と並んで、背後の木の枝に登る者もあり、揃って静かに、見つめるでもなく、まして睨むでもなく、ゆるやかにひらいた目を、瞬きはせずに、眉はややひそめて、それぞれ正面遠くへ遣ると、視線はこちら側の陵上をあまねく差し、さらにそれを超えて森林の梢にも張りつめ、いっとき雨の止んだ白さの中で、さらに垂れる黒雲のように、草の穂の上にまで力を掛けてきた。

 だから、この先は、幻の入子となったもうひとつの幻とみることもできる。「大勢の像に、目の内を侵された」という、ありえない原因によって招き寄せられた結果なのだ。「二度と面」をあげないまま、見た未来なのだ、と。だから、

ふわりと頭があがり、目は伏せたまま、からだが起きた。痺れた足が地を踏みしめて立ち、強くうつむきこんで、耳から先に、最後の迎撃に向かう戦慄につつまれて、森林の中を登り出した。やがて陵上にただひとり身を晒し、窪地に満ちて寄せる大きな唸りの、その中心とおぼしき方角に向かって、首を刎ねられる贄のかたちに跪いて頭を垂れ、渾身の精を耳へ傾けた。

 のも、「敵の衆の望むその前で、このひろびろと流れる唸りを、一身に聞き取って見せる」のも、敵が「ここを先途と声を深める」のも同じことだ。「唸りは幾波も重ねて急になり、満ちに満ちきって内に轟き、その天井からもうひとつ、細い音となって溢れようとするその瞬間、その細みから、唸りの全体を抱きこんで前へ頽れ、耳を立てたまま息絶える」。唸りは外にあるのではなく、内にある。内にあるはずの唸りが外で広がり、満ちる。もう内にあるとも、外に聞こえているとも、区別はつかない。

 だから、「我に返って」とは、幻の中の幻と考えていい。

目は隠れているが、眉が苦悶と、そしてなにやら羞恥の色をふくんで艶かしく、こちらを眺めていた。

 のは、自分が見たものであると同時に、自分が引き寄せたものでもある。見るものは見られるものになるとは、そういうことだ。

 この語りで、「私」のパースペクティブが滲まないのは、トイレの中の「私」→夢想の森の中の「私」、という入子の遠近法が明瞭だからにほかならない。しかし、語り手はこういう遠近法が描けるのに、あえてそれをしていないのだということも、ここから読み取るべきなのだ。

X

 さて、しかし、この

(《)

      晴れた日に街を歩くうちに、………虚像には違いないが、

  [   黒々と林立する幹の影も伸び、

   ]   ……艶かしく、こちらを眺めていた。

 》    いきなり呻いて、……渇いた舌の上にひろげた。

 という語りの後が問題になる。つづく「目というものがあるのに、男と女がよくもこう、肌を馴染ませていられるものだ。」という語りの位置づけが曖昧なのだ。

 まず考えられるのは、

《      晴れた日に街を歩くうちに、

》       ……渇いた舌の上にひろげた。

《      目というものがあるのに、

》       腰をまた寄せながら、改まった声でたずねた。

 と、前節と同列になっているとみることだ。それは当然、冒頭の語りとも同列ということになる。あるいは、

《      晴れた日に街を歩くうちに、

》       ……渇いた舌の上にひろげた。

 [     目というものがあるのに、

  ]      腰をまた寄せながら、改まった声でたずねた。

 と、前節の語りの入子になっているとみる。あるいは、この入子になった語り全体が、

《      

 [    この夜、凶なきか。……

  ]    ……あやふきことあるか。

》     独り言がほのかにも……

 [     晴れた日に街を歩くうちに、

  ]      ……渇いた舌の上にひろげた。

  〈    目というものがあるのに、

   〉    腰をまた寄せながら、改まった声でたずねた。

(》)

 と、冒頭の語りの入子となっている、つまり、冒頭の語りが、「晴れた日に街を歩くうちに」の節を入子とし、更に「目というものがあるのに」という節をその入子にしている、とみることもできる。

 ともかく、「目というものがあるのに」が、「その夜中に、ひとりひそかに、その味をまた、渇いた舌の上にひろげた」という「私」の語りと並列している、もしくはその入子となっている、とみなすか、あるいは、

  [   −虹、空にかかる、あれを朝方に見たことはないか。

   ]   ……やっぱり、雨になるのかね、と。知りませんよ。

 でみたと同様に、直接語り手が語っているとみなすか、つまり、語っている「私」(語り手)が語っていることなのか、その「私」に語られている「私」が語っていることなのか、ということなのである。しかも、同じ語られた「私」でも、冒頭にみたように、〃いつ〃の述懐かによって、その語りのレベルは変わるし、区別もつけにくい。「夕刻から家を出」た「私」、あるいは「その夜中に、ひとりひそかに」考えている「私」が〃そのとき〃考えたのか、それより前に考えていたことなのか、更に〃そのとき〃の「私」について語っている語り手の直接の述懐なのか、語りの〃とき〃が曖昧な以上、区別のしようはない。これは、語り手が「私」と自分を語っているとみるべきか、語り手が「私」と一人称で語る者について語っているのか、の微妙な区別にほかならない。

 どの語りとみるかで、たとえば冒頭の「私」の入子とみなせば、すべては〃夕刻〃の一時の奥行を語っている共時的な語りとみなせるように、〃いつ〃の時点の語りなのかによって、その語りの共時の範囲と、それと経時的に語られているものとの流れが明らかになるはずである。

 しかし、語られている「私」も、入子のパースペクティブに対しては、俯瞰した視点を手に入れる(だから、語るものと語られるものの入子の視点が逆転するのであるが)のだから、そのとき「私」は語り手の語りに限りなく近づく。しかしその区別がつくのは、それが語り手のパースペクティブからの位相差がはっきりさせられているときだ。それが暈されているとき、語り手が、語っている〃とき〃と語られている〃とき〃との区別がつきにくくなる。並列になっているのと見分けはつきにくい。

 「目というものがあるのに、」という、この節の書き出しがそうであるなら、以下の語りがどう位置づけられるかは、もっと曖昧である。たとえば、

 《      目というものがあるのに、男と女がよくもこう、…… 

   [    肌がざわめいて、その苦しさから、……

   [    男の腕の中で、女の顔が変貌する。

   [    人中を行く。怪しげな目つきでもない。

        (以下略)

 と並列に(「目というものが……」という書き出しも並列としてもいい)みなしても、あるいは、

 《      目というものがあるのに、男と女がよくもこう、……

  〔     肌がざわめいて、その苦しさから、……

   [    男の腕の中で、女の顔が変貌する。

    〈   人中を行く。怪しげな目つきでもない。

     ( 誰も見ていない室の中で男ひとり、さらりさらりと、

(以下略)

 と、次々と前節に対する入子として語られているとみることもできる。

 つまりこの「目というものがあるのに」という語りの全体も、作品全体に対して、またその細部もブロックに対して、相互にモザイクのように入り組んだ語りになっていると考えることができる。

 だが、それは意図的であると、考えるべきだ。前半まででもそうであったが、それ以上に、そういう位相の異なる表現が、どのパースペクティブなのか曖昧化されることで、共時性なのか経時的なのか暈され、〃いつ〃なのかもぼんやりし、語っている「私」も語られている「私」も区別をなくし、どこからが現のことで、どこからが夢のことなのかも並列に、どちらとも取れるように語られた全体も、現とも夢ともつかぬ茫洋とした雰囲気を語り出す。ちょうど夢を見つつ、夢に見られているのを、夢の中で見ているように。そのために、とりわけ後半は、〃とき〃の曖昧な幻想の趣を呈していくのだ、と。

Y

 さて、死者の閉じられた目が、眉によって、逆に《見るもの》に変わるという、イメージは、『杳子』の《見るもの(=彼)》が《見られるもの(=杳子)》を見ることを通して、自身を見ることにもなり、ついにはまた杳子に《見られるもの》にもなるという、男女の関係に重なる。

 あるいは、「敵の女、味方の女」という言葉から、直接か間接か、男と女の、《見るもの》と《見られるもの》の距りを、いや、距離があるから見ようとする関係の由来を、次々と現前化してみせる。「目というものがあ」っても見えない齟齬の由来、を。その語りは、「目というものがある」のに、「男と女が……肌を馴染ませていられる」男女の、「一身の情念」ではない、「融け」ないもの、「降ろした瞼の裏に」差しているものが、次々と差異化されていく。そこに語りのテンポがうまれている。

「お互いどこの、馬の骨とまでは言わないが、血の流れの者とも、ほんとうのところはまず正体不明に近い」

「素性はそれで一応踏まえたとしても、愛撫の最中にも間遠に反復される、なにがなしけうとい、日頃の本人にも似つかぬ、目つき眉つきひとつの、由来の探りようもない」

「不倶戴天の間なのかもしれない」

「血を流しあった、その血をそれぞれに引いた。此処で会ったが、肌を合わせたが百年目の」

 ここまでは、前述したように、確かに、語り手か語り手に語られた「私」かの別はともかく、「私」の語りとなっている。しかし、更に具体的に、

ほんの二代ばかり前の、世にありきたりの浮き沈み、それぞれ独特な、あらわな体質を持った家と家が争ったあげくに、一方が他方を追いつめて、叩きのめすかたちになり、没落した側の家財が大道に投げられた、日のあるうちは表を歩けぬ辱かしめを家の女の身に受けた、世をはかなんだ家人がいて多少の呪いの言葉を遺した、あるいは親の一生を台なしにした色恋の相手の、背つき腰つき、後暗くて図太い姿を、幼少の頃垣間見た。

 と、語られて、いつの間にか視線が転じていく。「垣間見」たと語られたとき、それは「私」ではない。つづく「或る体質の臭いを、本人は忘れていても、あるいは記憶以前のことでも、肌は受け継いで覚えている」のは、「私」ではない、「私」の語りが女性の語りを入子にしている。だから、

人中にあって偶然、身も知らぬ人間として近寄られただけでも、身をそむける。腰は逃げながら、目は濃い光を溜て、すれ違う瞬間、眺めやる。

 その「眺める」のは、「私」ではなく、女性の相手への呟きであり、

そんな臭いにつゆ気がついていない様子の、人柄はまんざら悪そうでもない、安閑とした醜さを。この一瞥で相手の目を、自身の醜さにたいして、昏ましてやると言わんばかりに。その臭いを知らずに、仔細らしく暮らすがいい。その臭いをひろげて、物を食べるがいい、心優しく潤むがいい、人を抱くがいい、と。由来の知れない呪詛を。

 同時に、その視線はその向こうに、

 同じ臭いが、密室の薄暗がりの中で、間近から覆いかぶさる。同じ肌をざらついたこの肌に、いっそ自分から引き寄せる。目をつぶると、安心して物を食べる唇が見える。人を抱く、幼児の口もとまでが、よそに浮ぶ。嫌悪の中へそろそろと身を漬して、これが馴染むということか、幾度でも馴れずに繰り返される、と頭の隅でしらじらと得心する。その嫌悪が、何も知らぬ相手を迎えて、無残な媚態を取っている……

 「のも、ありありと見」るのだ。それを見ているのは、「何も知らぬ相手を迎えて、無残な媚態を取っている」と、そこまでを見るのは、眉の視力をもつ女性にほかならない。前節で「私」の夢想の中で、その「私」をも眺める眉の目にほかならない。それこそが男女の齟齬の由来まで見届けられる。そうでなくても、そこにあるのは、女はそのことに気づいていて、男は「何も知らぬ」ものであるらしい、両者の食い違いが語られている。

 だとすれば、語り手の語りの入子とも、いや、巫女の眉を夢想した「夜中に、ひとりひそかに、……舌の上にひろげた」「私」の語りの入子とも、いずれの視線とも見えながら、その実その視線が見えていないものまで語られながら、語っていることになる。そうした視線を背後にだぶらせながら、この語りは、「私」のパースペクティブの羈絆を外れている。

 そして「ありありと見える」のは、「何も知らぬ相手を迎えて、無残な媚態を取っている」ことだけではない。つづく、

 肌がざわめいて、その苦しさから、ときたま夢の中で触れておぞけだつ人の肌よりも、いっそ知らない肌へ寄り添っていく。どこかでわずかに、そむけながら。そのそむけどころからまた、慄えが湧きあがって、肌を追いこんで、全身が恥もなげにうねりはじめ、それを逃げて、つぶった目の内に集まるものがある。深くなり、飽和して、満ち足りたような、怨みに静まる。唇は人をはずれて宙へあずけられる。やがて、遠くを眺める、目をつぶったきり眉で眺める。

 もまた、「ありあり」見えている。その視線の向こうに、「眉で眺める」ものが更に顕われる。

高いところに、女のからだが架けられている。たった一人のはずの悶えを敵方の目に晒された屈辱から、それでも人の安堵を訝る笑みの影が口もとに滴る。もう何も見ていない。見られていることも知らない。目の精気を封じられたその眉がしかし、断末のなごりの引くにつれてきわやかに、艶いて浮きあがる。一方的に眺められながら、眺める者たちの目の内に一方的に押し入り、夏の日に冬の夜、長い時をかけて、心を昏ましていく。

 とすれば、「眺める者たちの目の内に一方的に押し入」る昏ます女が、語っている。つまり、

《    目というものがあるのに、……幼少の頃垣間見た……。

 [   ある体質の臭いを、……眺めやる。

  〈 そんな臭いにつゆ気づいていない

   〉 ……由来の知れない呪詛を。

  〈 同じ臭いが、密室の薄暗がり

   〉  無残な媚態を取っている

    のも、ありありと見える。

  〈 肌がざわめいて、……

   〉  目をつぶったきり眉で眺める。

   ( 高いところに、女の……

    ) 心を昏ませていく。

(]) 

 と《  》の語りが、前節の入子か同列かは別にして、[  ]の中が、女の視点に転調し、女が自分が相手を昏ませていくのを見ている。しかし、そうではなく、「ありありと見える」のは、「無残な媚態を取っている」のがであって、そこで入子となった語りは閉じ、それと同列に、「肌がざわめいて……」という語りが、「目というものがあるのに」という語りの入子として、始まるとみることもできる。

《    目というものがあるのに、……幼少の頃垣間見た……。

 [   ある体質の臭いを、……眺めやる。

  〈 そんな臭いにつゆ気づいていない

   〉 ……由来の知れない呪詛を。

  〈 同じ臭いが、密室の薄暗がり

   〉  無残な媚態を取っている

  ] のも、ありありと見える。

  [  肌がざわめいて、……

     目をつぶったきり眉で眺める。

  〈  高いところに、女の……

   〉  心を昏ませていく。

(]) 

 もちろん、もっと別の見方もできる。たとえば、「目というものがあるのに」から「ありありみえる」が、前節で語った女の眉、そもそも死者の眉の見るものだとしたらどうするのか。語り手にしろ「夜中に、ひとりひそかに」思い描いたにしろ、「私」の語りの入子となった、眉の視力の見たものだとしたらどうなるか。「垣間見」たのも女の視線であり、その入子となっているのも女の視線だ。「肌がざわめいて」からも同じく一貫した女の語りとなる、というように。

 しかし、いずれにしたところで、語りのパースペクティブが整序されているわけではないから、そのいずれもをだぶらせながら語られている。

 ともかく、現前する光景が、男の視点なのか、女の視点なのか、パースペクティブが整序されていない分、各節も一層紛らわしい語りとなる。たとえば、「肌がざわめいて、」以降は、男女の絡みなのに、たとえば、

  [  肌がざわめいて、……

     目をつぶったきり眉で眺める。

  〈  高いところに、女の……

   〉  心を昏ませていく。

(]) 

 をとっても、「肌がざわめいて、……眉で眺める」が男の視点か女の視点なのか、あるいはその語りがいずれにしろ、その入子となっている「高いところに、女の……心を昏ませていく」は、どっちの視点からの語りなのか、それがどの視点から語られているかだけでなく、男女いずれの語りを入子にしているかすら、曖昧になっていて、抱かれている女のパースペクティブなのか、抱いている男のパースペクティブなのかは不確かなものになっていく。いや、そう見れば、「私」の語りに欺かれて、うかうかと前提にしたが、前節の「私」の夢想の中で、「額を土に埋めて、両手に草の根を握りしめて」敵の太鼓を聞いていたのは、「私」自身だったのか、あるいは当方の巫女に成った視点だったのか覚束ない。そのパースペクティブが、誰のものなのか薄闇に紛れているために、《見るもの》も《見られるもの》も、どちらがどちらと一方的に確定しえなくなっているということにほかならない。

 「高いところに、……心を昏ましていく」の語りのパースペクティブが、男のものであるなら、「眉で眺める」女の背後に、究極の《見るもの》である「架けられた女」を幻視している、いや視られているのを幻視している。その眉に昏まされているのは男だ。だから、「高いところに、女のからだが架けられている」以下は、男のパースペクティブが入子にしたパースペクティブということになる。 またこの語りが女のパースペクティブであるなら、「眉で眺める」自分のパースペクティブの向こうに、どこまでも男を見返す女の眉の呪力の幻を見ていることになる。それは、昏ます女の呪力の行方を見届ける視線になる。とすれば、女の語りの中に、女自身が思い描く自身の眉の呪力への期待を幻視していることになる。

 いずれにしても、男はすでに、女の目を閉じた眉の向こうに、架けられたまま、見つめ返す眉の女を見ている。それは見ている自分が見られているということに等しい。昏ます女の眉を見ることで眉に昏まされ、その眉になって昏まされた男を見、その男になって昏ます女の眉を見ることで昏まされている。その視点の目まぐるしい転換が、《見るもの》と《見られるもの》である男と女の関係そのものでもある。

 そう見れば、つづく「男の腕の中で、女の顔が変貌する」という語りは、「肌がざわめいて……」と同位相ではなく、「心を昏ましていく」果てに見えた、昏まされた男が見たのか、昏ます女が見たのか、どっちか見たのかはないまぜの、もうひとつの入子の語りとも見なせる。そしてそこに、

 眉がほどけて、暗い箱の底に蔵められた面が、浮き立ちながら遠のく。

 と見えた幻は、女のその一瞬に、〃いま〃から遠のいていく恍惚の隠喩と見ても、昏まされた男の期待、いや女の願望、いずれの見たものともいえず、昏ます、昏まされたそれぞれの、さらに入子となったパースペクティブとみるべきなのかもしれない。

わずかの間のことで、男のからだの怯えに感応して、女はまた眉を寄せて男の背に縋る。あらためて肌を馴染ませて息を吐くその顔には、額の曠さのほかに、いましがたの面の、影もない。しかし怯えの走る直前に箱の底をぬっとのぞきこんで、もうひとつ深く見入ろうとした、目のほうが男の興奮の、はずれあたりに、過ぎずに掛かった。

 だから、「わずかの間のこと」なのは、男の幻視の時間なのか、女の幻覚の時間なのかは、茫洋としている。しかし、男が、その束の間を再現しようとしてもついに二度見ることのできない瞬時は、現には見れないものをあえてもう一度見たい願望の目となって、背後に掛かっているとみなすよりは、そういう男の願望を、「はずれあたりに」掛かっている儚い願望も含めて、俯瞰するように、冷やかに見ている女のパースペクティブと見るべきなのかもしれない。

 ともかく、そのいずれのパースペクティブとも見え、どちらにしても、現からいつのまにか辷り込んだ、現と夢の狭間に、「私」の語りの入子となった語りが、いまその両者のパースペクティブを拮抗させるように現前させている、とみなすことができる。

 一段と熱心に女を抱きながら、まだ眺めている。責められる女の顔を両の腕にゆるく庇い取って訝り見まもるこの目と、離れたところから、目の分身か、失せた面を女の顔に探るでもなく、物にふと惹かれて視線を遣りその上に焦点を結びきるその寸前の、実際に物を見つめるよりも迫った目つきだ。しかも見ていない。視線が射し出しかけては押し返される。 まるで物陰からうかがいかけて、その瞬間の我が目の強さに、自縛されたように。それでも、なにげなく振り向いてじわっと惹かれる時の、苦しげな眉は留めている。そのままやがて立ちあがり、戸外へ出ていったようだ。窓の下で女のけたたましく笑う声がしていた。

 「責められる女の顔を両の腕にゆるく庇い取って訝り見まもるこの目」と「目の分身」とは、視力の射程の長さにほかならない。現の女を見守る目と、昏ます女を見遣る目との。いやそういう男の視線の射程を見届けている女の視線でもありうる。いずれのパースペクティブからもかく見える現と幻の狭間の、両者の互いにないまぜとなったパースペクティブと見ることができる。

 男が、「失せた面を女の顔に探るでもなく、物にふと惹かれて視線を遣りその上に焦点を結びきるその寸前の、実際に物を見つめるよりも迫った目つき」をしていたとすれば、それはすでに昏まされた目だ。その失った一瞬の面差しを、諦めきれず期待する目だ。その目が、

そのままやがて立ちあがり、戸外へ出ていったようだ。窓の下で女のけたたましく笑う声がしていた。

 と、実際に女が立ち去っていく幻を見る。その一瞬で、男のパースペクティブは女のそれを入子にして辷り込んでいく。「そのまま」とは、「苦しげな眉は留め」たまま、女が立ち去っていく気配に耳を澄ましている。「そのまま……」の一節を転換軸として、ふいに男のパースペクティブから、女のパースペクティブへと転換する。

 だが、女のパースペクティブで見れば、逆に、「苦しげな眉は留め」たまま、すっと立ち去りながら、男が耳を澄ましているのを思い遣っていることになる。そのパースペクティブでみれば、転換なしに次へつづく。

 人中を行く。怪しげな目つきでもない。大勢の人間が往来する。無数の目がそれぞれ濃い光を溜てひしめいている。(中略)ガラス張りのレストランの中で、満席に近い客たちがうつむきこんで物を喰っている。物を眺めながら喰っている。おのずと集中する視点の力に、物ではなくて、目のほうがすくむことはないのか。ひたむきに眺める目を端から眺める、その目をまた端から眺める、その戦慄の反復の延長線上の果てに、恐怖が極まって、木に架けられて目を落す姿はないか。もはや何も見ないその眉が逆の道をたどってはるばると、昏冥の気を人の心に送り越す。

 いずれにしても、ここでは、男の、「責められる女の顔」を見まもる目を、「物にふと惹かれて視線を遣りその上に焦点を結びきるその寸前の、実際に物を見つめるよりも迫った目つき」で、「離れたところから」見る、その視力の射程を、比喩のように、別のパースペクティブで語ってみせているのにほかならない。

 「おのずと集中する視点の力に、物ではなくて、目のほうがすくむ」眼差しを、まさに「離れたところから、目の分身」となって、「ひたむきに眺める目を端から眺める」その目をまた端から眺める。その見るものとしての眼差しの極北は、件の「架けられた女」の眉にほかならない。

 これが女の視線か男の視線かは決め付けられない重層化した語りとなっているが、いずれがいずれの目を「離れたところから」見る目となるにしても、「物を見つめるよりも迫った目つき」を見る目を見る目の果てから、「逆の道をたど」ることのできる眉に突き当たり、その目が見返される。その眉の「昏冥の気を人の心に送り越す」視力をもっているのは女の視力なのであり、昏まされるのは男なのだということを語っている。

 物を眺めるのを見る目、それをまた見る目とは、行き着く果ては、すべてに見られながら、そのすべてを押し返す、永遠に見返す者、「木に架けられた」眉にほかならない。いくら男が「実際に物を見つめるよりも迫った目つき」で眺めても、昏ませる女の目に突き当たるほかない。

 だから、その「女の顔が変貌」のを見守る男の眼差しの行方を見届けた語りの行き着くのは、すでに昏ます女の眉の目、つまり「黒雲の赤く割れる」顫にほかならない。

《     男の腕の中で、女の顔が……

      苦しげな眉は留めている。

 [    そのままやがて立ち上がり、

  ] けたたましく笑う声がしていた。

  (   人中を行く。怪しげな目つきでもない。

   ) 昏迷の気を人の心に送り越す。

》      男の腕の中で、……顫をふくませる。

 とみると、はるばると反復辿った視線の果てに見た眉は、いま目を閉じた女の眉に重なる。送り返された昏迷は、そこから男を昏ませる。目を閉じた眉の呪力が、女に俯瞰する目を与えている。外界に閉ざされた視力こそが、現ではなく見るべきものを見させる。見ているはずの男は、ついにその、「木に架けられて目を落す姿」から見返されつづける。その呪力は、《見るもの》を見返しつづけ、《見られるもの》にしていく。その呪力が送り返されつづける。ついに、男はその呪力から逃れることはできない。

その瞼がちらちらと、いまにも黒雲が赤く割れるような、顫えをふくませる。

 とみえた女の瞼は、「目はひたすら内へ澄んで、……何事か、忌まわしい行為を、……憎しみながら促している」雲の目でもある。雲に目を見たとき、既に女の目に捕えられているに等しい、とここまできてはっきりしてくる。そして雲の目が見返したものとして、男女の会話が入子とされたように、瞼は、同じように男女の会話に似た行き違いを入子とし、恐らく〃雲の中の目〃というものが孕んでいただろうイメージの原形質にふれる。

[   男の腕の中で、……黒雲が赤く割れるような、顫えをふくませる。

 〈  誰も見ていない室の中で……

  〉   黒い塊り……の底から……赤のまさる色がゆらめきはじめる。

  ( 高架線の駅に、台状に送られて

   )  地に添ってひろげるよう。

女が目をひらいた。

(])

 この[ ]〈 〉( )という節は、「男の腕の中で……」で始まる語りが折り重なるように、まず、お互いの視線の果てに、まるで「昏冥の気」を送り届けるような女の閉じた瞼に、雲の目を感じるところへ行き着く男女の眼差しから、男女の行き違いそのものの比喩のような語りを入子とし、その二人の、離れ離れなのにひとすじにつながったように互いの気配に耳を澄ませていた、夢想の中の巫女との関係のように、「闇よりもひとつ黒い塊りが湧き立って、……その底から紫の、次第に赤のまさる色がゆらめ」くのを眺めさせる。その雲が、「何者かの来襲をやや間近に感じ取った」群れの目のような高架線の駅の人影の視線を背後から「見おろしている」。

 それは、女の瞼の視力の背後に、男女一般の、あるいは巫女として集団を支配する呪力のもたらすものを、入子として示しているに等しい。「男の腕の中で、女の顔が変貌する……瞼がちらちらと、いまにも黒雲が赤く割れるような、顫えをふくませる」。その顫えは、次の男女が「無言のうちに誘いあ」ってみる方角に見た、「黒い塊が湧き立って、……その底から紫の、次第に赤のまさる色がゆらめきはじめる」に重なり、それが、昏まされた衆の眼差しを背後から、「すでに赤く染まった黒雲が立ち昇り、……悶える雲の渦の中心から」、見おろしている「艶めいた眉」にだぶる。瞼の背後に見えるものが、入子になっている。

 それにつれて、不乱に睨む衆の内にも、昏冥の気が差してくる。同じ昏冥昏冥が年来、雨を降らせ、草木を育て、穀物を稔らせ、女たちの胎をも和らげたのが、いまでは老若男女を亡びに委ね渡す。恐怖に飽和した者たちの血を疼かせ、さらに深い昏冥をみずから求めて、麓の林の中にうずくまり敵の寄せる、味方の睨む、両者の熱狂を一身に感じ受けて静かに悶える女を、恐怖の祭りに架けさせる。老成した男たちの、穏やかに皺ばんだ勁い手が、うなだれる女を庇って陵の上へ導き、天に地におごそかな礼を尽し、おののく女体の、縛めどころをやさしく、荒い蔓で幾重にも巻きあげる。目をつぶるよう、雲となり雨となり草木となり、地に平らかな、母胎となるよう、蒼ざめた耳もとへ祝福をささやき。

 目をつぶりつづけるよう、悶えをやすらかに、地に添ってひろげるよう。

 こんな呪力を、女の瞼に見た、いや、見させられた。それが「離れたところから」「実際に物を見つめるより迫った目つき」の行き着いた果てということになる。その昏まされた目に、あるいは昏ます眉が、ご託宣をを告げるように、「女が目を開」く。

Z

 男と女のパースペクティブがないまぜになった語りが入子としている、男女の会話に似た、男女の視力の齟齬は、女の眉と見つめ合う男の眼差しの差を彷彿とさせる。

 男の視線は、物に焦点を合わせた、所詮鋭い知覚にすぎない。そこに凶悪の色が差そうと、《見られるもの》を脅かしても、それに共振れすることはなく、ひたすら見たいものをみようとするだけだ。それが自身を傷つけるものとして返って来るかもしれないことにに気づかない。

 誰も見ていない室の中で男ひとり、さらりさらりと、書類を繰っている。手がぴたりと止まり、斜めから注がれる目が、光を一箇所に集める。傍らにもう一部の書類が開かれ、免れて息を凝らしている。と、同じ光がすっとその上に移される。その間際に、凶悪の色が差す。

 だが、女の目は、同じくきりきりと張り詰めた眼差しで、《見られるもの》を強張らせても、その《見られるもの》の強張る視線を感じ取る。その一瞬《見られるもの》となり、「追いつめられた目」となって、返って《見るもの》としての強さを炙り出してくる。それは、「物から物へ粘」る、眉の視線にほかならない。

 誰も見ていない室の中で女がひとり、箪笥の抽斗の内をのぞいている。十年二十年来のことのように、思案している。ひとつの衣裳に目が注がれるあいだ、ほかの衣裳たちは張りつめて待つ。視線が移ると、見られた衣裳はすくみ、ほかの衣裳たちはざわめいて、喘ぎかけた息をまた呑む。やがて女は動かなくなり、どの物を見るともなく、首すじから肩へ背へ、今の時も知らぬ放心がひろがり、物たちはひそかに息を抜くうちに、ふいに背後から呼ばれたように、追いつめられた目が箪笥の前から振り返り、何事もない室の内を隅々まで、濃い訝りをこめて物から物へ粘りつつ見渡す。

 だが、にも拘らず、その両者は見つめ合う。洩れた独り言に、「先の声への答えのような、独り言」によって、件の男女の会話のように、「背を向けあっ」た「遠くへ抜けるはずの視線」が、不思議と噛み合う。「ひとすじに繋が」った視線は、それぞれ別々に、雲の眉を望む。それぞれ別々のところから、それぞれ別の思惑から、眉を見ている。

 これは、

 [    人中を行く。怪しげな目つきでもない。……男の腕の中で、

……顫をふくませる。

  (   誰も見ていない室の中で男がひとり、さらりさらりと、

   )   目をつぶりつづけるよう、悶えをやすらかに、地に添ってひろげるよう。

  (])

 と、[ ]の入子となっているとみると、はっきりする。つまり視線の射程を、言い換えているにすぎない。

両者の目が、無言のうちに誘いあったふうに窓の外へ揃って向けられ、(中略)眉間がいかめしげになり、夜の更けた家々のひろがりの果てから、乱雲の興りに紛らわしい、闇よりもひとつ黒い塊が湧き立って、みるみる上空に押しあげ、その底から紫の、次第に赤のまさる色がゆらめきはじめる。

 つまり、「物を見つめる」目と、それをそれ以上に「迫った目つき」で見る目と、さらにそれを見る目と、その果てで突き当たり、それに見つめられるのは眉、つまりは雲にほかならない。その眉から見返す視野に、昏まされた目に、往古の巫女の呪力をまつ昏まされた衆の熱狂が見える。通底音のように、太鼓の音が聞こえてくる。責め立てられて太鼓を打つ女が仄の見える。祈りが聞こえる。

目をつぶるよう、雲となり雨となり草木となり、地に平らかな、母胎となるよう、蒼ざめた耳もとへ祝福をささやき。

 目をつぶりつづけるよう、悶えをやすらかに、地に添ってひろげるよう。

 瞼がそう見返す。そう見返されたのを見る。それが、託宣を告げるように女の目を開かせる。

 この、往古を二重写しにしながら、パースペクティブを転換していく語りのスピードは早い。入子を差異化しながら、どこから男から女のパースペクティブに転ずるのか、あるいはいつから逆転したのかは、明確ではない。その閾を越えてまた戻る境界線は滲み、暈し合い、ただ往古の眉を底から炙り出しながら、《見るもの》と《見られるもの》の転換を、繰り返し現前してみせる。

 

 女が目をひらいた。

 −待って、このまま。

 そうつぶやいて、膝に力をこめ男の動きを封じ、こころもち反って下腹を深く押しつけ、腕はゆるめて片手の指先で男の右肩のうしろをさらにさらに戒めながら、それと反対の側へわずかに傾けてゆるく見ひらいた目に、遠くへ心を遣る翳がかかり、眉がほどけて、脇腹から膝の内から細かい波が走った。

 これは、当然、前の、

 [    人中を行く。怪しげな目つきでもない。……男の腕の中で、

……顫をふくませる。

  (   誰も見ていない室の中で男がひとり、さらりさらりと、

   )   目をつぶりつづけるよう、悶えをやすらかに、地に添ってひろげるよう。

  ]    女が目を開いた。……

 となり、「男の腕の中で、……顫をふくませる。」を受けている。

 男が見ているのは、むろん女の生理的な反応だけではない。書類を見る目だけではない。それを「離れたところから」見る目ももっている。「今までにも幾度か、同じ静止が挿まった。そのつどあらたに、昔、家の内の、人の耳を憚って片隅へ急いで身を横たえあった、そんなありもせぬ暗い部屋の、黴と息のにおいまで思い出させる反復感が降りてくる」のを感じている。しかしそこまでだ。僅かに女の口走る言葉の端々から、渺に伺い知れるだけだ。女の目に映っているらしいパースペクティブの端々が、僅かに窺えるだけだ。

 ある時は、人が来てます、とそらおそろしげにつぶやいて芯のたじろがぬ、それと同じ声音で、辛夷が咲いている、と女は目をひらいた。枯れた谷の、向う岸の高いところにいっぱい咲いている、恐いほどたくさんあるけれど、だけど林じゃない、と言った。一本ずつ、山の奥でひとりきり、誰にも見られないで、咲き狂っている、ひとりきり、誰にも聞かせない唄をうたっている、と言った。白い蝶が枝から舞いかけては風にちぎられそうになって止まる、止まっては舞いかける、唄う声が細く高くあがるにつれて数がふえていく、魂をしっかりここにつないでいないと、谷の空へ一斉に舞いあがる、と言った。

 女は、ここに、「どこの馬の骨」と語ってきた男女の由来の違いをすら見ている。眉がそこまで見届けている。

 その微妙な男女の心象のずれは、

 [  −虹、空にかかる、あれを朝方に見たことはないか。

 ]  ……やっぱり、雨になるのかね、と。知りませんよ。

 という語りに顕われた会話の行き違いと似ている。その齟齬が、

 −来たわ、放さないで。

 膝のわななきも止んで、胎の奥からさわさわと、細い声がさざめいた。それを追って女の背の真下から、地のうねりが突きあげ、剥き出しの鉄骨の音が建物中に軋みわたり、からんからんと、鉄索の振れて壁を打つ音が建物から建物へ響きかわした。揺りもどしが来て、あちこちで女の短い悲鳴に男の唸りが覆いかぶさり、車の警笛がしばらく躁いで、鯨波に似たざわめきが遠くへひろがって地平に紛れた。

 という最後の語りに如実に顕われている。件の「反復」しか見ない男の向こうに、女は大地の気配を感じ分けている。それは、「雲となり、雨となり草木となり、地に平らかな母胎」となるよう目を閉じている、とする前節に反響するだけでなく、「鴉が鳴いてる」光景に、冒頭の「この夜、凶泣きか。日の暮れに鳥の叫ぶ、数声殷きあり」の反響を聞き分けられるし、この呟きの実現をみることができる。あるいは「この夜、」と呟いていたのは「私」だが、その意味の先を見ていたのは、女なのだともみえる。

 やがて揺れがおさまると、女は牀にうつむけに返り、添って腹這いになった男の腕を肩越しに乳房へまわさせて、男の胸の下に背をひそませ、肌が一変して熱く、乱れた枕に頤を埋め、畳を見つめて、 −虹が出ているような、静かさですね。

 腰をまた寄せながら、改まった声でたずねた。

 女の「虹の出ているような、静けさですね」は、一巡して、「虹」を見たことはないか、と問う男への回答のように聞こえてくる。もし地震がなければ、「虹……」は男からは、女の睦言に似た反復に聞こえただけだ。女は、男女の由来を、無意識に背負った往古以来の呪力を見ている。

 「私」は語りながら、眉に見通されている。語ったおのれを見返す眉の視線に語られているのを語っている。暈されている視線の射程は、ここまで届いているということにほかならない。

[

 こうして、「私」に語り出されたはずの語りは、いつのまにか入子になった語りの一人歩きを前にして、「私」へと収斂させるたずなを失い、「私」は《語られるもの》と同列に、背後へと退いてしまっているようにみえる。それは、まるで、

 ……自分が自分の言語の総体に、秘かですべてを語り得る神のように、住まってはいないことを学ぶ。自分のかたわらに、語りかける言語、しかも彼がその主人ではないような言語が、あるということを発見するのだ。それは努力し、挫折し、黙ってしまう言語、彼がもはや動かすことのできない言語である。彼自身がかつて語った言語、しかも今では彼から分離して、ますます沈黙する空間の中を自転する言語なのだ。そしてとりわけ、彼は自分が語るまさにその瞬間に、自分がつねに自分の言語の内部に同じような仕方で居を構えているわけではないということを発見するのであり、そして哲学する主体……の占める場所に、一つの空虚が穿たれ、そして無数の語る主体がそこで結び合わされては解きほぐされ、組み合わさっては排斥し合うということを発見するのだ。

  (M・フーコー、豊崎光一訳『外の思考』)

 という言葉を思わせる。それは、「私」というひとつのパースペクティブへと収斂させる語り、とはまさに逆の、「私」はまさに語った瞬間から、その自らのことばに独立され、それに《語られるもの》へと転換してしまうかのようなのである。

 各語りは、どういうパースペクティブに収められるのか、たとえば「私」の独り言と「目というものがあるのに」という述懐さえ、語っている〃いま〃との距離が明白ではない。言い換えれば入子になった語りの行方、位相の異なる語りの距りは、誰のパースペクティブなのかはっきりせず、その結果、多層化した入子の差異が互いに共鳴しあいながら並列に、現と夢の境界線が朧に、《語るもの》と《語られるもの》との関係を錯綜させて、語られている位相を二重映し三重映しの輪郭の滲み合った曖昧さへと変えてしまっている。だが、それを見届ける視線を見失っていると考えるのは間違っている。語りの涯まで届く視線は、暈されているにすぎないのだ。

 《語るもの》と《語られるもの》とが並立するとき、私が語ることも、私に語られたことも、位相差を顕在化せず、そういう語りによって、語るとはどういうことかを語っている、といっていいのだ。そして、語るとは、語られたものに語られることなのだ、と。

 そう言えば、初期の「先導獣の話」では、「私」は先導獣について語りながら、しかし語っている私自身が、先導獣になってしまっている皮肉な巡り合わせが語られていた。一見エッセイのように、語る主体が安全なところから語り出しながら、いつの間にか、語っている全体から自分を語られてしまっていた。いま、「眉雨」で、その転倒へ、螺旋のように一巡して、回帰してきたように見える。

 だが、語り手とはもともと一行ごとに、幻に向き合い、その一瞬に、過去から未来が紡ぎだされる。その語りの瞬間を、『眉雨』はこう書き留めていたではないか。

 何事か、陰惨なことが為されつつある。人を震わすことが起りつつある。

 あるいは、すでに為された、すでに起った。

 過去が未来へ押し出そうとする。そして何事もない、何事のあった覚えもない。ただ現在が逼迫する。

 逆もあるだろう。現在をいやが上にも逼迫させることによって、過去を招き寄せる。なかった過去まで寄せて、濃い覚えに煮つめる。そして未来へ繋ぐ。一寸先も知れぬ未来を、過去の熟知に融合させようとする。

 その一瞬、現在に三つの時が収斂する。つまり、過去についての現在、現在についての現在、未来についての現在が集中する。眼前に、なかった原因があったかのように、結果を招き寄せる形で、語られていくのはその瞬間からだ。古井氏は、「眉雨」の中で、その切迫した、語り出しそのものの一瞬を拡大鏡にかけたように現前化してみせている。

 その語り手のいる一瞬の〃とき〃に、ありもしない現在過去未来が集約され、顕われる。そういう〃とき〃に向き合うとき、語り手になる。いや、そういうように向き合う視線によって、語り手の前に、一瞬が収斂する。その語り手をも視野に収める語り手があれば、語り手の〃いま〃は語られるものへと変じ、その語られるものが視野に収めていたパースペクティブは、遠近法の消失点を後退させていよいよ遠のき、一方で語り手は無限に作家へと接近し、語り手と語られるものとの距離は広がる。

 語り手のいる〃とき〃と〃ところ〃は、作家と語り手の語り出すものとの間にある。語り手は、私小説家の「私」(一瞬の〃とき〃は限りなく作家の「私」へと収斂する)と語り手としての「私」(一瞬の〃とき〃に顕われる、ありもしない現在過去未来と向き合う)との間、《語ること》と《語られること》との間、《語るものが語ること》(=語られること)とそれを《語ること》との間、あるいは《語るものが語ることを語ること》(=語られること)とそれを《語ること》との間……、つまり作家の「私」と作品との間の、幾層にも亙る無限の〃とき〃の懸隔にある。

 しかし、その視点を暈すとき、その語りは、一瞬の〃とき〃からの演繹する語りのパースペクティブをもたない私小説に背中合わせで似ていく。似ていくとは、語り手が「私」と自分を語ることと、語り手が「私」という一人称で語るものを語る、との狭間に立つことにほかならない。一方で限りなく作家の「私」に近づく、他方で限りなく遠ざかれる、「私」の現と夢との領域への語りのフリーハンドが広がったのである。

 そういえば、バタイユについて語るフーコーは、まるで古井のことを語っているようではないか。

……の作品はこの分裂を、言葉のさまざまに異なる水準への絶えざる移行によって、言葉を口にしたばかりの〈私〉、もうすでに言葉を繰りひろげたり言葉の中に腰を据える用意ができている〈私〉に対する組織的な断絶によって、はるかにまざまざと示しているのだ−時間における断絶(「私はこれを書いていた」とか、さらに、「私が後もどりして、またこの道を行くなら」)、言葉とそれを語る人とのあいだの距たりにおける断絶(日記、手帖、詩、短編、省察、論証的言説など)、思考し書く主権性に内部的な断絶(著述、無署名の文章、自分の著述に寄せる序文、付加したノートなど)。そして、哲学する主体のこの消滅の中核をこそ、哲学的言語は迷路の中でのように前進してゆくのであり、それも主体をふたたび見出すためにではなくて、その喪失を(しかもその言語によって)限界に至るまで、ということはその実体が現出する、だがすでに失われ、全面的にみずからの外に拡がって、絶対的空虚に至るほどに自己を空虚にされて現出するあの開口に至るまで、経験するためなのだ……。

          (フーコー・前掲書)

 それは、「山躁賦」で、旅をする「私」とその「私」を語る「私」、あるいはその向こうに夢幻を見る「私」と夢幻の中の「私」は、区別されることなく、並列され、そうすることで語りの領域は格段に広がっていったが、そのパースペクティブが曖昧化することによって、『仮往生伝試文』では、宙吊りされた「私」をよそに現前する「さまざまに異なる水準」の語りによって、語りの奥行が広げられた。ちょうど「眉雨」はその中間にある。

 小説というものにしつらえられた垣根は問い直さなくてはならない。語りのパースペクティブの喪失とは、確からしかった語りの主体そのものの崩壊、一点に集約される視点の解体そのものを、どう語るかという課題への、ひとつの解答のようにみえる。


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