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書評16


渡邊敏夫『暦のすべて―その歴史と文化』読む。

「暦」とは、

日を数える、

ものであり、

時の流れを数える

ものである。そして、その

時の流れを数える方法、

を、

暦法、

という。そして、その、

暦法に基づいて推算して、将来予知される公の時令を記したもの、

が、

暦書、

である。孟子のいう、

天之高也、星辰之遠也、苟求其故、千歳之日至、可坐而致也(天の高き、星辰の遠き、苟も其の故(こ)を求めば、千歳の日至(にっし 冬至)も、坐(い)ながらにして致(し 知)るべきなり)、

とはそのことを言っている。

「暦法というものは人類の生活に必要な自然の周期日・月・年を、いかに調節して日を数えるかにある。時の流れを区切る周期には、天文学的に日・月・年があるが、生活に密接な関係ある日とは、昼夜の交替する太陽日であり、太陰の満ち欠けの周期である朔望月は29.530589日、季節の循環する太陽年(回帰年)は365.24220日である。
暦法の原理は、これら三種の整数的関係にない周期を適当に組み合わせて、簡単で季節に遅速を生じない、社会生活に便利な暦を造ることにある。」

そして、

「暦法に必要な朔望月・太陽年は一日の整数倍にないために、これを調節することに問題があり、その調節の仕方によって、多種多様な暦法が生まれてくる」

ことになる。最初に発生した暦法は、

太陰の朔望だけによって日を数える太陰暦法、

である。しかし、

「太陰の運行だけに基礎を置く太陰暦法では、太陽による季節の循環する太陽年よりは、約11日ほど短いから、太陰暦法で日を数えていると、この暦の日付は、我々の太陽暦とは季節がだんだんずれていく。(中略)太陰暦法にしたがって日を数え、季節を合わしていくためには、太陰の運行に太陽の運行を考慮にいれなければならない。朔望月と太陽年とは整数的関係にないから、これをいかに調節していくか……この調節の仕方によって、太陰太陽暦法には、数多くの暦法がうまれてくる」

ことになる。

「太陽年と朔望月の比は12.36827であるから、十二箇月の太陰年と十三箇月の太陰年を適当に組み合わせて、この端数をなくしていけばよいわけである。(中略)この比の小数部分を近似する分数として、1/2、1/3、3/8、4/11、7/19、123/334、……を得る。(中略)7/19のものは、十九太陽年に七回の閏月を挿入して、十三箇月の一太陰暦年を七回置くもので、これを十九年七閏法といっている。西紀前433年、ギリシャのメトン(Meton)の発見にかかるもので、メトン法とも呼ばれる。中国では章法と呼んでいる。19太陽年(6939.6018日)は235朔望月(12月×12+13月×7=235付 6939.6884日)にほぼ等しい。」

しかし、

「太陰の運行をまったく計算に入れないならば、残るものは太陽の運行だけに基づく太陽暦法である。一太陽年は365.24220日で、この端数を切り捨てて、暦年として365日の一年を長く用いていると、1500年で約一年の狂いを生ずる。」

これを調節するためには、

「太陽年の端数は近似的に1/4、7/29、8/33、31/128、101/417、……の分数で近似的に表される。最初の1/4は四年に一回一日の閏日を付け加えて、一暦年を366日とすることで、一年の平均の長さを365.25日とする。」

これが、

ユリウス暦、

である。しかし、

「ユリウス暦の一年の長さは365.25日であるが、実際の太陽年はこれより11分14秒短い。したがって、ユリウス暦法に従って閏日を置いていると、百年で18時間余り、一千年で8日近くの相違をきたす」

ことになる。で、ユリウス暦の置閏法を改めて、

「西暦紀元年数が四で割り切れる年を閏年とする。ただし百で割った商が四で割り切れない年は平年とする。閏日は2月28日の翌日に挿入する。」

という、

グレゴリー暦が登場する。

「この置閏法によると、グレゴリー暦法の一年の平均は、(365日×303+366日×97)÷400=365.2425日となり、太陽年との差は、0.0003012日となり、百年について0.03日、一万年で三日となる。」

長く中国暦を使い続け、宣明暦は、貞観四年(862)から貞享元年(1684)の改暦まで、823年も、古い暦法を使い続けるという日本の鈍感さは、特筆に値するが、それが、

「暦道・天文道が世襲制になり、中国暦を鵜吞みにするだけで、暦學に関心が薄かった」

ことが理由とすると、もはや唖然とするほかはない。にもかかわらず、というか、それ故にこそというか、なじんだ、太陰太陽暦法を太陽暦法に改暦した時、農村では、評判が悪かったという。そもそも、季節感のもとになる、

「二十四節気は太陽の運行によって季節を調節するために設けられたもので、太陰太陽暦の旧暦時代には必要であったが、現在の太陽暦によれば、毎年一日ぐらいの相違はあっても、一定しているので、何の不自由もないのである。」

本多利明が、

月輪が晦日になく、満月が十五日にありても耕作の助にも何にもならぬことに、年々新頒暦を作りだす、

と旧暦を批判していた通り、

太陽暦なら年々新頒暦を計算して出す必要はない、

のである。ましてや、暦注の日々の吉凶には、ほとんど何の根拠もないのである。

参考文献;
渡邊敏夫『暦のすべて―その歴史と文化』(雄山閣)
小林勝人訳注『孟子』(岩波文庫)
内田正男『暦と日本人』(雄山閣)

惣国一揆

和田裕弘『天正伊賀の乱―信長を本気にさせた伊賀衆の意地』を読む

 


「天正伊賀の乱」と呼ばれるものは、

天正七年(1579)年九月、北畠信雄が父信長に無断で伊賀に侵攻して大敗した第一次、

と、

天正九年(1581)年九月、信雄を総大将に、四方から大軍を侵攻させ、伊賀を焦土と化した第二次、

と、

天正十年(1582)年六月、本能寺の変に乗じて伊賀党の残党が蜂起した第三次、

と、三回あった、とされる。

信雄の大敗に烈火の如く怒った信長は、信雄に譴責状を認め、

三郎左衛門(柘植保重)をはじめ討死の儀、言語道断の曲事の次第に候、まことにその覚悟においては、親子の旧離許容すべからず候、

と叱責した。信長、信忠はじめ織田軍は、謀叛した荒木村重の有岡城攻囲の只中での、無謀な侵攻で、

他国の陣、あい遁るるによりて、

とあるように、上方出兵を回避するために、手近な伊賀侵攻をしたと、殊の外激怒した。

伊賀国は、

守護領国制が発達せず、在地領主がそのまま各地の小土豪となって割拠し、堡を築いたり、溝や土塁を廻らした居宅をもち、いわゆる国衆として、相互に均衡を保ちながら連合支配をおこなっていた、

とされ、

他国では見られないような階層の者までが城館を築いていた、

とあり、その数、

六十六、とも四十八

ともいわれる。その地侍、土豪、國衆が結束して、自ら、

惣国、

を名乗り、

伊賀惣国、

を結成し、敵を国内に入れないために、

惣国一揆掟、

という掟書を作成した。曰く、

他国より当国へ入るにおいては、惣国一味同心に防がるべく候こと、
国の者どもとりしきり候間、虎口(こぐち)より注進仕るにおいては、里々鐘を鳴らし、時刻を移さず、在陣あるべく候、しからば兵粮・矢楯を持たせられ、一途の間、虎口をくつろがざるように陣を張らるべく候こと、
上は五十、下は拾七をかぎり在陣あるべく候、

等々とあるように、

自己の力で虎口を守って、敵を国内に入れない、

とした。伊賀国内には、

六百を超える城砦群が確認、

されており、これが、油断して侵攻した信雄勢を大敗させた背景になる。

これは、例えば、加賀の、

百姓の持ちたる国、

山城の、

山城国一揆、

とも重なる。しかし、第二次侵攻で壊滅させられた、

国衆は、

ある意味、

「巨視的には古い荘園制度を最終的に一掃し、新しい封建国家をつくり出そうとする戦国大名の動きが、その総仕上げの段階に入ったことを物語っているという点で、我が国の歴史の画期をなす」

という位置づけ(新井孝重『黒田悪党たちの中世史』)、さらに、

「微視的に見ると、まさにこのことのゆえに、地域の個性として長い生命を維持してきた民衆自治があえなく押し潰され、終焉を迎えたということを顕著にあらわしてもいた」

という評価(仝上)とつながる。

中野等『太閤検地−秀吉が目指した国のかたち』http://ppnetwork.seesaa.net/article/470611023.htmlで触れたことだが、後年、佐々成政を切腹に追い込んだ、

肥後一揆、

は、ある意味では、信長政権に立ち向かった伊賀惣国と似て、秀吉政権の領国支配への、肥後の国衆たちの反乱と見ることができる。しかし、こうした地ならしによって、

「兵農分離」ではなく「士農分離」

と言われるように、

中世以来の、地侍、土豪という所有地を持った侍の在り方の解体、士・農の分離を意味する。在地に残った地侍。土豪は、百姓となることを意味した。

土地を失った伊賀者は、たとえば、天正十二年(1584)の薬師寺の記録に、

七条郷の寺院に、白昼。伊賀者が盗人に入ったが、搦め取られて引き渡された、

とあり、処刑されるべきところを、唐招提寺の長老の尽力で助命され、

タフサ(たぶさ)ヲキリハナシ了(おわんぬ)、

と、髻(もとどり)の切り落としで済まされた。

「落ちぶれた伊賀衆の成れの果てであった。もっとも忍びの者であれば、『盗人』は本業の一つであったともいえよう」

とはなかなか手厳しい。

参考文献;
和田裕弘『天正伊賀の乱―信長を本気にさせた伊賀衆の意地』(中公新書)

旅と網目

ロラン バルト『旧修辞学』を読む。

本書は、「修辞学」の歴史に当たる、

旅、

と、

その分類にあたる、

網目、

とからなる。著者は、

古典時代の「修辞学」について、年代記的、体系的な見通しを与えてくれるような本か教科書があったら、

この著作は必要ではなかった、と述べている。それは、

まだ存在しないテクスト、

つまり、いままだない、

新「修辞学」、

を発想の始原としている、という。つまり、その新しいテクストに迫る一つの方法として、

テクストが何から発し、何に抗してみずからを探求してきているかを知ることであり、したがって、エクリチュールの新しい記号論と、何世紀もの間、「修辞学」と呼ばれてきた文学言語の古い実践と対決させること、

そのために、

予備的作業として、

本書のような、「修辞学」の便覧を必要とした、というのである。たしかに、修辞学の、

調査結果を簡単にまとめ、いくつかの術語と分類のおさらいをした程度の……知識をまとめただけのテクスト、

ではあるが、著者自身が、

この古い修辞学体系の力と精緻さ、ある種の命題の現代性に興奮し、感嘆しなかったというわけではない、

と書いているように、この整理とまとめは、凡百の要約とは趣を異にし、訳者が、

項目の選択、配列、整理等に、いかにもバルトらしい新鮮な解釈がみてとれる。……現代的視点で学ぶことのできる、

修辞学の歴史と体系になっている、と評するように、素人から見ても、随所にはっとさせる記述がある。修辞学の年代記風の「旅」とされた「修辞学史」の最後で、著者は、こうまとめている。

それは、知性と洞察力にとって魅惑的な対象であり、1つの文明が、その広大な領域全体を挙げて、権力の道具であり、歴史的闘争の場であるみずからの言語活動を分類するため、つまりそれを考えるために創出した壮大な体系である。その対象をそれが展開した多様な歴史の中に正しく置き戻せば、それを読むことは実に興味深いものである。しかし、それはまた、イデオロギー的対象であり、それに取って代わったあの《別物》の隆起によってイデオロギーに堕し、今日、必要不可欠な批判的距離をとることを余儀なくさせているものである、

と。しかし、修辞学は、

アリストテレス(そこから、修辞学は発した)といわゆる大衆文化との間に一種の根強い一致点がある、

ところが面白い。

アリストテレスの「修辞学」は、とりわけ、立証の、推論の、近似的三段論法(エンテューメーマ)の修辞学である。それは、意識的に程度を落とし、《公衆》の、つまり、常識の、世論のレベルに適用された論理学である。文学作品にまで範囲を広げれば(それが本来の姿ではなかったが)、それは作品の美学よりも、公衆の美学を含むことになるであろう。だから、それは、(中略)あらゆる(歴史的)差異を考慮に入れるならば、われわれの時代の大衆文化と称せられるものにうまく適合するであろう。その大衆文化では、アリストテレス的な《真実らしいこと》、つまり、《公衆が可能だと思うこと》が支配しているのである。

そのアリストテレス的な、

意識的に公衆の《心理》に従う良識の修辞学、

は、

あたかも、ルネッサンス以来、哲学として、また、論理学としては死に、ロマン主義以来、美学としては死んだアリストテレス主義が、格下げされ、拡散し、不分明になった状態で、西欧社会の文化的実践―民主主義を通じて、《最大多数》の、多数決原理の、世論のイデオロギーに基づいた実践―の中で、生きのびてきたかのようだ。あらゆる点で、一種のアリストテレスの通俗版が、なおも、歴史を貫く西欧の一つのタイプを、endoxa(通念に適う)の文明である(われわれの文明)を定義しているといえる。アリストテレス(詩学、論理学、修辞学)が、《マスコミュニケーション》によって送られる、説話的、弁論的、論証的、全言語活動に、(《真実らしさ》の概念を初めとする)完全な分析用格子を提供しているという明白な事実、彼が、応用科学を定義し得る、メタ言語の理想的な同質性を体現しているという明白な事実からも、どうして眼をそむけることができようか。だから、民主主義の体制では、アリストテレス主義は最良の文化社会学となるのであろう。

と。修辞学が本来持っていたのは、

真実らしくない可能なことよりも、可能でない真実らしいこと、

つまり、

現実に可能なことでも、世論という集団的検閲によって拒否されるならば、それを語るよりは、たとえ科学的に不可能であっても、公衆が可能だと思うことを語る、

ための、

技術、

なのである、と。

個人的には、

推論、

における、

演繹、

帰納、

が面白く、

実例は修辞学的な帰納である、特殊から別の特殊へと外に現われない普遍的なものの鎖に従って進むのである、1つの対象から種へと遡り、その種から新たな対象へと下るのである。

とあり、それは、

説得的な類似であり、類比による論証である。

とある。この幅は、

現実的なもの、

虚構的なもの、

があり、実例から喩、寓話までの幅がある。

他方、演繹は、

真実らしさ、あるいは、しるしに基づいた三段論法、

とされる。それは、

説得はできるが、証明はできない、

ものとされ、

蓋然的なこと、つまり、公衆が考えていることから出発する、もっぱら公衆と調子をあわせて(誰それと調子を合わせるというように)展開された修辞学的な三段論法である。それはもっぱら分析のためになされる抽象的演繹とは逆に、みせるという観点から(それは、いわば、見るに耐える見世物なのだ)、提出される、具体的な価値をもった演繹である。

ここに、どうも修辞学のもつ原点があるようなのである。

参考文献;
ロラン・バルト(沢崎浩平訳)『旧修辞学』(みすず書房)

未来の萌芽

クーリエ・ジャポン編『変貌する未来―世界企業14社の次期戦略』を読む。

本書は、「クーリエ・ジャポン」に掲載された記事から、「ビッグテックはどこに向かうか」というテーマで、

フェイスブック、
グーグル、
アマゾン、
マイクロソフト、アップル、

を、「新しい潮流」というテーマで、

スペースX、
ネットフリックス、
ショッピファイ、
リヴィアン、
ビオンテック、

を、「国際企業が見る世界」というテーマで、

トタル、
パランティア、
TSMC、
アリババ、
シリコンバレー(クリーンテック2.0)、

と、

CAFAM(ガファム)をはじめ、宇宙、エンタメ、モビリティ、医療、エネルギーなど多岐にわたる分野の、レガシー企業から新興企業まで、

を取り上げたものを収録している。

「はじめに」で、本書のテーマは、

世界企業、

であるとしている。この中に、日本企業は入っていない。世界的な新たな潮流からは完全に置き去りになっているという象徴のように感じる。

味の薄いインタヴューもあるので、全てが突っ込み十分とはいかないが、この中で、面白かったのは、「反アマゾン同盟」と名づけられている、eコマースの、

ショップ・フライ、

であり、新型コロナワクチンを開発した、トルコ系ドイツ人科学者夫妻が起業した、

ビオンテック、

であり、CIA、クレディ・スイス、エアバス等々がそのソフトウエアを利用する、データ分析の、

パランティア、

であり、ファブレス企業の受託先として、半導体受託生産で独り勝ちする、

TSMC(台湾積体電路製造)、

である。まさに、唯一という独自性で、その存在価値を高めていると言っていい。

フェイスブックのザッカバーグのように、

コミュニケーションとテクノロジーを交差させること、

を重視し、

「たとえば大脳皮質の視角野では、感情や人間同士の関係性を読み取っています。あなたの眉毛が1ミリ動けば、僕は新たな感情を捉えてすぐに気づきます。ぼくの息づかいが変われば、あなたも同じように気づくでしょう。……「ミラーニューロン」…はいま起きていることに関心を寄せながら、周囲の人々を感情移入しようとするものです。
 でもそういう役割を果たすテクノロジーはまだありません。……僕が改善したいのは、まさにそこなんです。」

と、VR(仮想現実)は未来のテレビ、AR(拡張現実)は未来の形態として、人と人を近づけることを目指すのもあれば、

AI、

を軸に、ネットとつなぐ自動運転、スマートホーム等々を連携するグーグル、さらに、

AIファースト、

を掲げ、「ビッグAI」とともに、

スモールAI、

にも着目するマイクロソフト等々のCAFAMの技術的な未来像よりは、スペースXの、イーロン・マスク(テスラのCEOでもある)の、

小惑星の衝突や疫病の流行といった有事に備え、火星にコロニーを建設したい、

と本気で考え、民間ではじめて宇宙船の打ち上げに成功した例が、いろいろな意味で興味深い。それに対比されるのが、相次いで個人的な宇宙旅行を実現した、

米アマゾン創業者のジェフ・ベゾス、
ヴァージン・グループ創業者のリチャード・ブランソン、

は、

ヨーロッパが大洪水に見舞われ、北米では記録的な酷暑になるなど、気候変動が原因と思われる自然災害に多くの人が苦しむ中、先を競うように宇宙旅行をする億万長者に対して、否定的な声も少なくない、

とされるhttps://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2021/08/post-96826.php。金持ちには金持ちとして為すべきことがある、というのは、ある意味、

ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)、

の伝統である、

身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務がある、

という欧米社会における基本的な道徳観である。だから、ベゾスに対しては、

「いずれはロボットに置き換えられる運命の従業員たちが、トイレ休憩さえとれずにペットボトルで用を足している間に、せっせと富をため込んでいる腹立たしいほどの大富豪」

との評(深夜テレビ番組の司会者、スティーヴン・コルベア)が出るのである。

参考文献;
クーリエ・ジャポン編『変貌する未来―世界企業14社の次期戦略』(講談社現代新書)

列島のカミ

佐藤弘夫『日本人と神』を読む。

本書は、

日本列島における聖なるものの発見と変貌、

という問題意識から、従来の「神仏習合」などといったような、

「日本列島の宗教現象を説明するためにしばしば用いられてきたこれらの視座や概念の有効性を改めて問い直す」

と同時に、

「『土着の』『固有の』という形容詞で語られてきた日本の神についても、その常識を根底から揺さぶる」

とし、

「決して研究成果を反芻する概説書ではない。新書という限られた紙数と制約のあるスタイルのなかで、どこまでもアカデミックな挑戦を追求する知的冒険の書」

と宣言し、

「『神』『仏』『神仏習合』などの既存のキーワードを必須のアイテムとして用いることなく、各時代の聖なるものに直接アプローチすることを試み」

であり、

「既存の宗教史の叙述方法を革新しようとする、新たな精神史の試み」

だとする、意欲的な

知的冒険の書、

を目ざす。

本書は、まず、冒頭、東北の三つの霊場、

川倉地蔵堂(津軽)、
白狐山光星寺(庄内)、
羽黒山(出羽)、

を紹介し、こう書くことから始める。

「これらの施設は、寺院と神社という違いはあっても、いずれも神の領域を示すシンボルである鳥居によって聖別されていた。これは一般的には『神仏習合』という日本固有の現象として説明される。(中略)だが、……一応は寺院のジャンルに分類される川倉地蔵堂と光星寺も、その実態を詳しくみていけば、そこに展開している死者供養の光景はとうてい『仏教』『寺院』という範疇に収まりきるものではなかった。逆に神社とみなされている羽黒山は、その核心部分に神が最も忌み嫌うはずの濃厚な死の世界を抱え込んでいるのである。
 川倉地蔵堂も光星寺も羽黒山も、その内部に死者の居場所をもっている。それが聖域としての不可欠の要素をなしている。その死者の世界を核として、神道とも仏教とも容易に区別しがたく、名状しがたい空間が立ち上がっている。そして、そのいずれの施設についても、領域が鳥居によって聖別されているのである。」

そして、この聖性の根源に切り込むための方法として、

「神仏習合という視座がまったく無力である」

とする。むしろ、

「それぞれの所にある宗教的な諸要素を神道的なものと仏教的なものに腑分けしていっても、どちらにも収まりきれないものがあまりにも多い。『神仏習合』といった途端に、指の間から乾いた砂がこぼれ落ちていくように、聖性の核心をなすもっとも大事なものが抜け落ちてしまう。」

と。そして、こう書く。

「いま求められているのは、日本列島に実在する神とも仏とも取れないものを、既存の概念や方法を用いて安易に分類したり説明したりすることではない。『死者が集まるモリの山』といった俗説に、安易に寄りかかることでもない。鳥居のなかに籠められている『聖なるもの』=『カミ』(以下、日本の『神』と区別するために、『聖なるもの』の意味で使用するときは『カミ』と表記する)の正体を、どこまでも実態に即して追究し、解明していくための新たな方法と独自の視座の構築なのである。」

既存の説との対比はあまりされていないので、不案内のものには、そんなものか、と思うところも多々あるが、個人的に驚いたのは、

大神神社(おおみわじんじゃ)、

に代表されるような、三輪山を御神体とする、

「山麓から山を遥拝するという形態や一木一草に神が宿るという発想は、室町時代以降に一般化するものであり、神観念としても祭祀の作法としても比較的新しいあり方」

とする考えである。では「より古い神祭り」はどういうものだったのか。

「祭祀遺跡は20ヵ所以上が確認されているが、山中の磐座にも祭祀の形跡が残されているが、多くは山を仰ぎ見る場所に設定されている。規模の大きい建物の跡は見つかっていないことから、祭りのときだけ使用された臨時の施設であったと考えられる。(中略)もっとも関心を惹くのは、恒常的な祭祀の場所が定められていなかった点である。山そのものを崇拝の対象とするのであれば、いまの拝殿の地のように最適な地点を祭祀の場と定めて、そこで定期的な祭りを行えば済むはずである。」

そこで著者は、弥生時代に描かれた、

カミを祀るシャーマン(巫女)の姿、
祭祀の場と思われる高床式の建物や、カミの依代を思わせる樹木、

等々の絵から、卑弥呼に代表されるような、カミと人との間を取り持つシャーマンの役割が重視されるようになり、

「祭祀の場にカミを招いてその意思を聞き、終了後に帰っていただく方式が典型的な神祭りの形態」

となって、三輪山でも、

「山を仰ぐことのできる場所に祭祀遺跡が点在している。固定したスポットから山を拝むのではなく、山が見える所にそのつど祭場を設け、山からカミを呼び寄せていたことがわかる。祭祀の場所はカミの依代となる磐座や樹木のある地が選ばれた。祭りの場に集まった人々は、シャーマンを通じてカミの声を聞いた。」

とみる。

「『古事記』『日本書紀』『風土記』などの現存する最古の文献類を繙いても、山を清浄な地とする記述はあるが、それを聖なる祭祀の対象とみなす記述は皆無である。(中略)山は神の棲む場所であっても、神ではなかった。」

とし、「わたしたちは神信仰にかかわる常識や俗説をいったん投げ捨て」て、「改めて史料に即して」考えてみる必要がある、と説く。確かに、

田の神、

を考えても、神は、田植えの時期だけ、

田と里、田と家を往復する(日本昔話事典)、

ところに、あるいは、古式のカミ迎えが残っているのかもしれない。

山を神体と見る、

神体山の信仰、

が成り立つためには、

カミの抽象化、

を経なくては生まれず、

「中世において、時代の思潮を踏まえて新たに形成された理論」

だと、著者は述べる。それは、中世における、いわゆる「神道」というものの形成と関わるのかもしれない、と思う。

著者は、「あとがき」で、

「わが国の人文学の学問の大勢は、海外の研究成果をいち早く紹介して、その方法を列島に適用するという形態をとっている。わたしたちは国外で作られたルールに従って試合を行う、プレイヤーとしての地位をなかなか抜け出せないままでいる。いま必要なものは、ルール作りそのものに積極的に関わっていこうとする強い意志である。」

と述べている。日本の神についての、神道学・日本史学・宗教学・民俗学・日本思想史学などの研究の蓄積はみとめつつも、

「学問研究の国際化が進むいま、その成果を海外に開いていく努力が求められている。そのためには日本人にしか通用しない常識を前提として、閉じられた国内の学界で議論するだけでは不十分である。日本の神研究は、国境を超えてだれにでも理解してもらえるような、より汎用性の高いフォーマットへの転換が求められている。」

だから、本書は、

「閉じられたアカデミズムの世界を超えて、広くこの問題に関心を抱く一般読者と共有することを目指す」

ものであり、

「本書で展開する私説のほとんどすべては、現在の学界で認知されるに至っていない」

ものとし、先入観にとらわれず、

「従来の常識や定説と、本書に展開されているわたしの説のどちらがより説得力をもっているか」

判断してほしい、と読者に求めている。この私説に対する是非の判断を、読者もまた求められている、その意味でまさに、読者にとっても、

知的冒険の書、

なのである。

参考文献;
佐藤弘夫『日本人と神』(講談社現代新書)

一世風靡

山根貞男『東映任侠映画120本斬り』読む。


「東映任侠映画の始まりは一般的に1963年の『人生劇場 飛車角』とされる」

らしいが、本書では、『人生劇場 飛車角』以降、120本を紹介している。個人的には、転機は、1973年の、

仁義なき戦い、

で、

任侠路線から、……実録路線、

へと移っていくと記憶している。

僕自身は、「任侠映画」にそんなに思い入れがあるわけではないが、同時代に、20代を過ごしただけに、記憶の端々に、この映画の残像がある。

唐十郎の状況劇場、
寺山修司の天井桟敷、
土方巽の暗黒舞踏、

も同時代だし、そのポスターで、

横尾忠則、

もいた。その時代の独特の雰囲気は、ラストの斬り込みシーンで、拍手と歓声が上がった異様な雰囲気であったことだけは覚えている。

この時代の映画館の特殊な雰囲気は、蜷川幸雄演出(清水邦夫作)の、

「タンゴ・冬の終わりに」(僕の観たのは、平幹二朗・松本典子・名取裕子という出演者だった)、

の冒頭シーンで、映画の隆盛期を象徴するように、興奮し、熱狂する館内の観客の盛り上りを演じさせた場面が、その時代の雰囲気をうまく醸し出していた。

そんな映画館の中で、作家の、

井上光晴、

を見かけたこともあった。

それは、ちょうど、昭和35年(1960)から、同48年(1973)の石油ショックまでの、

日本の急激な経済成長、

の時期と重なるのである(64年は東京オリンピックの年である)。

確か三島由紀夫が、1968年の、

『博奕打ち 総長賭博』(ばくちうち そうちょうとばく)、

を評して、

これは何の誇張もなしに「名画」だと思った、

と述べ、ギリシャ悲劇にも通じる構成と絶賛したのは、記憶に残っている。

映画史的な整理はともかくとして、当時、

全共闘の学生たちが任侠映画の隆盛を支えた、

とする説が根強くあった。しかし、著者は、評論家の権藤晋の、

「新宿東映のオールナイトは、いつも殺伐としていた。殺気だってもいた。みなサンダル履きか、下駄履きかであった。革靴でやってくるのは数えるほどだった。なぜなら、仕事を終えてから、着替えずにそのまま駆けつけるからだ。製本屋の残業を終えたら、一目散に映画館にむかうのだ。歌舞伎町裏の飲食街の若者たちも、店を閉めると同時に下駄を鳴らして走るのだ。新宿東映は、零細工場、飲食店で働く20歳前後の若者ばかりではない。12時をすぎれば、派手な女性たちがつめかけていた。彼女たちの存在を無視しては、ヤクザ映画は語れない、とわたしは思う。男と連れ添ってやってくる女性も多かったが、女性だけが二、三人の徒党を組んでやってくることもあった。女性観客は全体の二割から三割に達していただろう。それは、ヤクザ映画のほかのもう一本が梅宮辰夫の『夜の歌謡シリーズ』であったからだろうか。」

を引用して、異論を立てる。さらに、権藤は、

「わたしは……マスコミや識者による事実の捏造が気になるのである。新宿東映のオールナイトにはせ参じたのは、周辺の工場で働くアンチャンか、飲食街で働くアンチャン、ネエチャンたちであった。彼らが、観客全体の九割を占めていたのだ。全共闘がいたのかどうかは知らない。が、それ以外の観客は一割にもみたなかったはずである。」

ともいう。「たまたまをそもそも」としている部分がないわけではないとは思うが、

高度経済成長初期の真っ只中で多大なファンを集めた、

任侠映画は、

「中枢の作品群でいえば、明治、大正、昭和初期と時代設定は変わっても、物語の大筋はほぼ同じで、着流し姿の男が仁義を命より重んじて、非道を重ねる悪玉と闘う。そんな映画を、1964年の東海道新幹線開通と東京オリンピック開催に象徴される時代相のなかに置くと、アナクロニズムに見えるかもしれないが、それは微妙に決定的に違う。オールナイト上映の『殺伐としていた』熱気からして、むしろ任侠映画の反時代性こそが、経済成長の波の底であくせくと働く人々にとっては魅力的なものであったと思われる。『若年労働者』『九割を占めたアンチャンやネエチャン』の日々の鬱屈は、着流し姿の主人公のストイシズムと、反転した形でぴたりと照応している。そうした反時代性と学生運動の反体制的な情念とは、通じ合うところがあったとしても、別の位相に属する。」

という説明は一応筋が通る。ただ、ある全共闘のリーダーの部屋には『少年サンデー』と『少年マガジン』しかなかったという都市伝説とを考え合わせると、意外に両者は地続きなのではないか、という気はするのだが。

既に、そうした映画の隆盛は遠くに去り、それを支えた世代も、ほぼ古希をすぎている。日本全体の高齢化と衰弱は、いろんなところに垣間見えるが、こんなに映画も、映画館も盛り上がった時代もあったのだと、久しぶりに思い出した。

参考文献;
山根貞男『東映任侠映画120本斬り』(ちくま新書)

宇宙の常識

高水裕一『宇宙人と出会う前に読む本―全宇宙で共通の教養を身につけよう』を読む。

本書は、仮構の、

惑星際宇宙ステーション、

という場で、地球人として、

宇宙に通用する常識とは何か、

を、

あなたはどこから来たのですか?
あなたは何からできていますか?
あなたたちの太陽はいくつですか?
あなたは力をいくつ知っていますか?
宇宙の破壊者を知っていますか?
宇宙の創造者を知っています?
宇宙最古の文書を知っていますか?
あなたは左右対称ですか?
数のなりたちを知っていますか?
宇宙人の孤独を知っていますか?
エネルギーは何を使っていますか?

という11の設問に応えながら、今日の最新の宇宙物理学の知見を確認していくことになる。

「『日本』という一国の中だけの価値観にとらわれていると『世界』が想像できないのと同じように、『地球』の価値観にとらわれていると『宇宙』ではどう答えればよいかが想像できないのです。」

と、著者が「プロローグ」で書くように、いわば、

地球の常識は宇宙の非常識、

を確認させられることになる。

しかし、もちろん、現実には、

星同士の距離、

がネックとなり、たとえば、お隣とされる、

「ケンタウルス座の星に達するまでにも4万年はかかると予想され、そのころまでに人類が生存しているかどうか、まったくわかりません。」

という状態である。仮にすぐ返事を返したとしても、往復8万年要する。だから、

「おそらく、銀河系内の文明の数をいくら方程式(銀河系内の地球系が交信可能な文明を割り出すドレイクの方程式)から算出しても意味はないのです。『星どうしがあまりにも離れている』という現実を『文明の寿命』を延ばすことでよほど補えないかぎり、宇宙人はお互いに、あまりにも孤独なのです。」

というのが結論のようではあるのだが。

宇宙から見た「地球」について、その見え方は、どの位置から見ているかによって異なるが、たとえば、

「ケンタウルス座α星には『リギル・ケンタウルス』という別名があり、『リギル』はアラビア語で『足』を意味します。星座図によればケンタウルスは向こうを向いて立っているので、左足の爪先に対応します。右足の爪先はケンタウルス座β星です。」

太陽は、どちらかの足の踵に位置する、という。また、別の位置からは、太陽は、しし座にあり、太陽はライオンのお尻に位置していて、著者は、

ライオンのうんち、

と呼んでいる。その位置を別の視点から見ると、太陽もまた、

「10光年ほどの範囲なら、近くの恒星と一緒の星座」

に加えられる、ということになるらしいのである。

地球から考えると、

太陽は一つ、月も一つ、

ということになるが、

「惑星にとっての『太陽』が1個であることは、まったく普通ではありません。すべての恒星の少なくとも半数以上は『連星』と呼ばれる、2個の星の組み合わせで存在している」

のである。しかも、連星には、三重連星、五重連星もあり、

「地球からさそり座方向に約5000光年離れたところにある、さそり座ν(ニュー)星が七重連星」

であることがわかっている、という。

更に、太陽系でも、水星と金星はゼロだが、衛星が1個しかないのは、地球だけで、他は、

火星は2個、
木星は72個、
土星は53個、
天王星は27個、
海王星は14個、

と衛星を持ち、太陽系の中でも、地球は異質なのである。

同じ宇宙物理学でも、外からの視点を入れることで、どう説明するかが問われ、改めて知識を別角度から眺める必要性を求められる。これは結構新鮮である。

ところで、いま月は少しずつ(毎年約4p)地球から遠ざかっている。

角運動量の輸送、

といわれる現象で、月と地球の自転速度が近づいていく、という。かつては、地球一回の自転が24時間ではなく、もっと短かった。

「恐竜がいた時代(約2億5200万年〜約6600万年)には23時間、まだ誕生したばかりのマグマの海のような原子地球では、…3時間しかなかった。現在の月は、(中略)一日の長さが少しずつ長くなっていく。何億年もすれば25時間、26時間となる。……100億年後に、同期化による速度移動が完了して地球と月の回転速度が同じになると、1日はなんと約1200時間になる。…このとき、月はまだ地球の周囲をゆっくり回っていて、地球の自転速度とほぼ同じになる。つまり1ヵ月=1日となり、1年はわずか7日程度になってしまう。」

と。

本書には、「あなたの宇宙偏差値」をチェックするチェックリストが載っている。たとえば、第1問から、

天の川銀河の直径は約10万光年あり、その中に約1000億個の恒星がある、
太陽は天の川銀河の中心から端までのほぼ真ん中に位置している、
太陽から最も近い恒星はケンタウルス座α星の中のプロキシマ・ケンタウリ星で、太陽から約4.2光年である。

等々と、50問ある。ある意味、宇宙物理学の常識チェックになっている。

参考文献;
高水裕一『宇宙人と出会う前に読む本―全宇宙で共通の教養を身につけよう』(ブルーバックス)

物のそかどを申す方

今福匡『「東国の雄」上杉景勝―謙信の後継者、屈すれども滅びず』読む。

上杉景勝は、謙信の甥である(姉の子)。どちらかというと、確か大河ドラマ『天地人』でも、主役が直江兼続であったように、目立たぬ、地味な存在である。司馬遼太郎は、

「私は、上杉景勝という人物を、謙信や直江兼続の華やかさよりも好きであるかもしれない。」

と書いている(『街道をゆく』「羽州街道」)、とか。謙信を、

家祖、

景勝を、

藩祖、

としているらしいが、とかく、地味である。上田家中の丸田友輔『北越耆談』(1661)には、

「景勝は、素性詞寡く、一代笑顔見たる者なし。常に刀・脇差に手を懸けて居らる。或時に、常々手馴れて飼ひ給ひける猿、景勝の脱ぎて措き給ひける頭巾を取り、樹の上へ昇り坐して、彼頭巾を蒙り、手を扠(あざ)へて、座席の景勝へ向ひて点頭(うなず)きたるを見て、莞爾と咲ひ給ひたるを、近習の者共、始めてみたるとなり」

とあり、他にも、

「上杉家の行列は景勝の輿のまわりは言うにおよばず、全員無言で咳払いひとつせず、足音ばかりが響いていた」

とか、

「(行列が)川を渡る折、供の人数が多すぎて船が沈みかけた際、景勝が杖を振り上げると、皆々川中へ飛び込んだ、

とか、

「景勝が前線視察に回ると、兵たちは皆見咎められるのではないかと竹楯の外へ出たという。当然、敵の矢弾にさらされることになるが、兵たちにとっては敵よりも自分たちの主人のほうが恐ろしかったためだという。」

等々、

「士卒共、景勝を恐るること此の如し」

とか伝わる。石田三成は前田利家に、

「彼方ハチトおもくちなる」

と伝えたという。「おもくち(重口)」とは、

「口がかたくて軽々しく話したりしない意であるが、口下手という意味合いもある」

と、著者は書く。さらに、三成は、後に関ヶ原合戦直前の手紙で、真田父子に景勝との連携を託し、その際、景勝について、

「国のならひにて景勝様は物のそかどを申す方であるから、物やわらかに彼方の気に入られるように伝えてください」

と助言している。この意味について、著者は、

「これに近いのが『麁(そ)に入り細に入る』という言い回しだろう。全体的な輪郭から細部に至るまで、という意味だが、「麁」「粗」=概要、あらまし、「角」「廉」=肝要な部分という意味合いに照らして、ほぼ同義と言える」

と解釈し、三成は、

「景勝が物事の大まかな把握かつ核心的な部分にこだわる人だから、順序だてて丁寧に説明することが大事だ」

と記している、と見る。三成は、それを、

国のならひ、

つまり、

上杉家の家風、

とみている。「豊臣政権で取次を担ってきた三成ならでは」の見識とみることができる。

とすると、景勝は、無口ではあっても、

物の本質にこだわる、

気質だということになる。だからこそ、関ヶ原の合戦後、減封処分となった折、

「今度、会津を転じて米沢へ移る。武運の衰運今に於いては驚くべきに非ず」

と、兼続に言ったとされる言葉は、

「権力闘争に敗れたことを自覚していた」

ことを意味している。

この後、大坂冬の陣では、

鴫野(しぎの)、

に陣を張り、冬の陣最大の激戦、鴫野・今福の戦いでは、

「上杉景勝は『紺地ニ日之丸』の御旗を立てさせ、床机に腰掛けたまま明け方より晩まで、少しも動かなかったという。景勝本陣の周囲には、左備えに本庄重長、右備えに百騎衆・五十騎衆、後備えに兼続および嫡男平八郎景明が布陣していた。」

といい、朝から午後四時までにおよんだ戦いで、

「紺地日の丸と『昆』字の旗二本、浅黄の扇の馬印を押し立て、景勝は物具(武装)もせず青竹を杖にして床机に座し、左右に控えた兵たちは鑓を横たえひざまずき、前方見据えたまま、しずまりかえっていた」

と、丹羽長重が目撃している(常山紀談)。しかし、戦勝後、巡検に来た家康、秀忠に対し、

「陣所をきれいに清掃させた上で、『大将軍仕寄御巡見の古実(慣わし)』として総鉄炮を釣瓶撃ちに城へ放たせた。家康は感心し、鴫野合戦の功をねぎらった。景勝は『童の喧嘩みたいなもので、別に骨折りというほどのことはございません』と答えたという。」(武辺咄聞書)

このとき、景勝六十歳。同世代の戦国大名の多くはほぼ家督を譲っており、

戦国大名の当主は、徳川家康、伊達政宗、

くらいである。この言葉に、戦国を生き残った武将の矜持をみる。

参考文献;
今福匡『「東国の雄」上杉景勝―謙信の後継者、屈すれども滅びず』(角川新書)

四万年の古層

藤尾慎一郎『日本の先史時代―旧石器・縄文・弥生・古墳時代を読みなおす』読む。

「先史時代」とは、

文字資料が全くない時代、

を指す。本書は、

旧石器時代から縄文時代、弥生時代、古墳時代、

までを、

先史時代、

として扱っている。本書のキーワードは、

移行期、

という考え方にある。ひとくくりに、

弥生時代、

といっても、日本で最初に水田稲作を始めたのは、

「佐賀から福岡にかけての玄界灘沿岸地域の人々」

であるが、

「水田稲作が北海道と沖縄を除く九州・四国・本州全体で始まるまでに、700年近い歳月がかかっている」

とされる。しかも、東北部のように、いったん始めた水田耕作を、「気候変動によって」やめてしまい、

「南下してきた続縄文文化圏にはいる」

地域さえある。こうした700年(室町時代から現代までの時間に相当する)の、

「どこで縄文時代と弥生時代の線引きを行うのか」

が難しい。つまり、

「新しい時代のはじまりを出現・成立におくにせよ、普及・定着におくにせよ、時代を特徴づけるもっとも重要な指標がある程度広まって定着するまでに、一定の時間を要する」

のである。この期間を、

移行期(あるいは過渡期)、

と呼ぶ。この期間は、

「やがて終わることになる時代の要素と、現れ始めた次の時代の要素の両方が見られることが多く、かつどちらかの要素も圧倒的ではないという特徴がある。」

される。この期間を表現するのに、地域的な、

ぼかし、

つまり、

文化圏と文化圏の境の地域圏、

という、

地理的な中間様相、

を表現するもの(藤本強)と、時間的な、

エピ、

つまり、たとえば、「縄文的な要素も弥生的な要素も併せ持った時期」を、

エピ縄文、

というような、

過渡的様相、

を表現するもの(林謙作)とがある。本書は、日本列島の変遷を、

北の文化、
中の文化、
南の文化、

と三つの文化圏にわける考え方(藤本強)の、

中の文化、

を中心に扱っている。それでも、前述のように700年という時間差がある。日本列島は、

旧石器時代後期、

から始まり、列島に人が現れたのは、

3万7000年前、

そこから、

2万4000年前から1万8000年前の間、

は最寒冷期、

「大地は凍てつき、海水面は現在より120メートル余りも下がっていた。そのため、当時の日本列島は現在の姿とはかなり大きく異なっており、古北海道半島、古本州島、古琉球島という大きく三つの地域的単位からなっていた」

とされる。さらに、土器の出現するのが1万6000年前、

「この1万6000年前から、ほとんどの考古学者が縄文時代と認める1万1700年前までを、旧石器時代から縄文時代にかけての移行期」

とされる。これだけで、歴史時代の倍を超える。

「縄文時代のはじまりは、九州南部で『縄文化』が始まった1万5000年前〜1万4500年前、隆線文土器が出現した段階にすべきというのが筆者の考えである。(中略)縄文化の波は、2000年あまりかけて東進・北上する。この時期こそ移行期」

に当たる。本州・四国・九州における縄文から弥生への移行期は、

「九州北部で灌漑式水田稲作が始まる前十世紀後半に起こる。」

とされるが、中部地域では、500年あまりも、

アワ・キビの栽培の段階が続く、

のである。だから、これと、「九州北部における水田耕作開始後の500年」と「同じ文化段階とみなすことが本当に可能なのか」という疑問が出てくるのは当然である。それに対して、

「弥生文化は、農耕が単に文化要素の一つに留まることなく、いくつかの文化要素が農耕文化的色彩を帯びて互いに緊密に連鎖的に影響し合いながら、全体として農耕文化を形成しているという『農耕文化複合』の概念で理解すべき」

との説もある(設楽博己)。著者は、

「移行期の期間は西日本が前十世紀後半から前七世紀までの約300年、伊勢湾沿岸地域は前六世紀頃までの約400年、そしてもっとも長いのが中部・関東南部地方の約500年である。」

とし、この期間は、

縄文晩期文化、

とみなす。そして、

「二世紀中ごろ……を起点、……三世紀中ごろ……を終点として、弥生時代から古墳時代への移行期」

とみなす、とする。そこで現われてくるのが、

「100メートル以下の墳丘墓の登場と墳頂祭祀のはじまり」

である。古墳時代は、

三世紀中ごろ、

から始まる。

それにしても、昔習った縄文時代、弥生時代とは比べ物にならない、多様で変化に富んだ、長期間の、しかも地域差の大きい時代様相に驚かされる。

そう考えると、歴史時代を括っている(奈良時代、平安時代といった)「時代」区分に比べて、

紀元前三万年から四、五世紀の古墳時代まで、

という長大な時間を、中国文献などがあるので、歴史時代に入る古墳時代を別とすれば、

旧石器時代、
縄文時代、
弥生時代、

という数千年、数万年を一つの時代に括るのは無理があるのではないか、という気がしてならない。

参考文献;
藤尾慎一郎『日本の先史時代―旧石器・縄文・弥生・古墳時代を読みなおす』(中公新書)

国衆真田氏のサバイバル

丸島和洋『真田四代と信繁』を読む。

本書の扱う「真田家」は、戦国大名・武田家に属した小さな「国衆(くにしゅう)」(在地領主)から出発した。本書では、

幸綱―信綱―昌幸―信之

の真田四代を追う。その意図を、「はじめに」で、

「真田家は、信繁の祖父幸綱の代に武田家に属した国衆であった。ところが、武田家が織田信長に滅ぼされてしまったため、信繁の父昌幸は真田家を保護してくれる戦国大名を求めて諸大名(徳川家康、上杉景勝、北条氏直)のもとを渡り歩き、最終的に豊臣秀吉に従う。
 天下人となった豊臣秀吉は、今までと異なり、国衆という自治領主を認めない方針をとった。だから従来の国衆は、@自治権を剝奪されて大名の家臣になるか、A改易されるかに分かれた。真田家は幸運にも、秀吉から独立大名として認められ、江戸時代を通じて大名として存続していくことになる。つまり国衆とは、戦国時代独自の存在なのである。
 だから真田氏の歴史を追うことは、戦国時代そのものを考えることにつながる。」

と述べ、

国衆としての真田家を確立した幸綱・信綱、

から、

近世大名としての礎を築く昌幸・信之(信幸)、

までを見ていく、と。それは、

「幸綱の活動がわかるようになる1540年頃から、松代藩祖となった信之が没する1658年までの約100年」

が対象になる。しかし、

「実は武田時代のことしかわかっていない」

という。ようやく近年、

「豊臣秀吉に従うまでの動向があきらかになった」

が、

「豊臣大名となって以降、江戸時代初期の真田家ついては、数えるほどしか研究がない」

中での、本書は、現在進行形での成果、ということになる。

しかし『甲陽軍鑑』で、

(曾禰昌世・三枝昌貞と並んで)信玄の両眼、

と称され、

「信玄自身がその場に行かなくても、自分で見てきたかのように、状況分析の材料を報告すると讃えられている」

一方で、秀吉からは、

表裏比興者(ひょうりひきょうのもの)、

と評され、

裏表のある信頼できない人物、

と見なされてもいた、

真田昌幸、

が一番面白い。信濃の小県(ちいさがた)真田郷の国衆から、豊臣大名として列し、

昌幸の上田領3万8000石、
信幸の沼田領2万7000石、

を領し、さらに、豊臣秀吉の馬廻役となった、

信繁の1万9000石、

が加わるまでになっているのである。

特に武田家滅亡後の、生き残りをかけた、北条、上杉、徳川と、帰属先を変えつつ、対上杉の拠点として、徳川家に上田城を築城させ、対徳川の拠点としての上田城改修を上杉に行わせ、自ら、その城主におさまっていく経緯は、小さな国衆が、大きな戦国大名を手玉に取っているようで、痛快でもある。しかも徳川・北条間の和睦で、もめにもめた真田の沼田領問題では、秀吉の「沼田裁決」で、

沼田領の三分の一が真田領、
沼田領の三分の二が、北条領、

と決したのに、真田領に組み入れられた名胡桃城への北条の出兵が、小田原攻めのきっかけとなるなど、この地域での昌幸は、いわば台風の目になっていた。

昌幸についで面白いのは、やはり、俗に、

幸村、

と呼ばれる、

信繁の、大坂城合戦での活躍だろう。しかし、名にし負う、

真田丸、

は、

「真田丸築城は、信繁の発案ではなく、諸将の談合によって定められ、結果的に信繁が指名された」

とする説があり(北川遺書記)、

「信繁は手勢が少なすぎて守り切れないと北川次郎兵衛に相談し、後藤基次か明石全登の支援を仰ぎたいと申し出た。しかし次郎兵衛は、せっかく『真田が丸』と名付けるのだから、手勢が少なくとも自力で守るべきだと宥めた」

という。それを裏付けて、

「後藤基次が遊軍になったために信繁がはいった」

と記し(大阪御陣覚書)、真田方の軍記でも、

「出丸を受取」

とあり(真武内伝)、にもかかわらず、大阪冬の陣有数の攻防戦として、徳川方に相当の損害を与えたのだから、なかなか興味深い。

参考文献;
丸島和洋『真田四代と信繁』(平凡社新書)

πの計算史

柳谷晃『円周率πの世界―数学を進化させた「魅惑の数」のすべて』読む。

円周率πとは、

円周の長さと円の直径の比、

である。例の、

3.1415926……、

と続く、おなじみの数である。しかし、

「πが正確にいくつなのかを計算すること自体がきわめて難しいのです。古代文明の人たちも、そのことを熟知していて、πに近い値、すなわち近似値を懸命に計算していました。」

πが正確に理解されたのは、

πは無理数である、

と証明され、

πは代数的ではない、

ことが明らかにされ、ようやく、1982年、リンデマンが、

πは超越数、

であることが照明して初めて、πというものが明確になったとされる。超越数(ちょうえつすう)とは、

代数的数でない複素数、すなわちどの有理係数の代数方程式の解にもならない複素数、

とされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E8%B6%8A%E6%95%B0が、本書では、ウォリスの言葉を引いている。

「分数ではなく、通常の方程式の根になる無理数でも虚数でもなく、何か別な表現が必要だ」

と。それが、

n次方程式の根にならない、

超越数、

ということになる。これによって、古代から続く、三つの作図問題の一つとされる、

円積問題、

与えられた円と同じ面積をもつ正方形の辺の長さを作図する、言い換えると、√πの作図をする、

ということは不可能であることが、結論づけられることになる。この問題を解決するのに、2200年の歳月を要した、とはそのまま数学の歴史そのものの成果ということになる。

2019年、グーグルに努める日本人が、πの値を、

31兆4000億桁まで計算して世界記録を更新、

したという。しかし、

「誰が、これほどの精密なπの近似値を使いうるのか」

というほどの数値だが、かほどに

「円周率という数値が私たち人類を魅了してきたか」

という証のようなものである。本書は、そんな「π」との格闘の歴史を辿る。

πの近似値の出し方としては、アルキメデスの方法が有名である。

「最初に、正六角形の周りの長さを円周の近似値として使います。この時の円周率の近似値は3で、正六角形の一辺が、その外接円の半径であることからわかります。(中略)正六角形から頂点を2倍にして、正12角形をつくります。さらに、正24角形、正48角形と頂点の数を増やしていきます。アルキメデスは正96角形まで計算しました」

と。この500年後の中国・魏の数学者、劉徽(りゅうき)は、

正192角形、

まで計算し、

正192角形の面積:314+64/625、

さらに、等比級数の計算方法を使って、

314+4/25、

という値を求めていた。「これらの数字をすべて100で割ると、円周率の近似値になり」、小数に直すと、

3.1416、

となる。さらに、今日われわれの使う、

円周率、

という言葉を使っている『隋書』に載る祖沖之は、πの値を、

3.1415926<π<3.1415927

と示した。この計算を得るためには、

正24576角形、

の辺の長さを計算しなくてはならない、とわかっている。これに近い値を出すには、1573年のオットーまで待たねばならない。つまり、祖沖之の計算力は、ヨーロッパの1000年先を行っていた、ということになる。

もちろんこれは、アルキメデスの発想の延長線上にあるので、この発想を脱するためには、ニュートンと、ライプニッツの微分・積分の登場を待たねばならない。

参考文献;
柳谷晃『円周率πの世界―数学を進化させた「魅惑の数」のすべて』(ブルーバックス)

幕府再興の夢

鈴木由美『中先代の乱―北条時行、鎌倉幕府再興の夢』を読む。

「中先代(なかせんだい)」とは、

北条氏を「先代」、
足利氏を「当御代(とうみだい)」、

と呼び、

「その中間にあたる時行を『中先代』と称したと考えられる」

とされる。「時行(ときゆき・ときつら)」とは、最後の執権、

北条高時、

の次男である。

正慶(しょうきょう)二年(元弘三年 1333)五月鎌倉幕府が滅亡時、高時の遺児、

万寿(邦時 九歳)、
亀寿(時行 五歳)、

は、それぞれ伯父(母の兄)五大院宗繁、高時被官諏訪盛高によって逃げのびたが、兄邦時は、宗繁に密告されて新田義貞によって殺された。時行は、二年後、建武二年(1335)六月、諏訪頼重・時継らに奉じられて、信濃で挙兵、総勢五万もの大軍となり、足利一族の護鎌倉将軍府の軍を、武蔵女影原(おなかげはら)、小手指ヶ原(こてさしがはら)、武蔵国府で撃破、武蔵井出沢(いでのさわ)で、足利直義を破ると、七月、鎌倉に攻め入った。

中先代の乱、

である。

建武政権期(鎌倉幕府滅亡の正慶二年(元弘三年 1333年)5月22日から後醍醐天皇が吉野に南朝を開いた延元元年(建武三年 1336年)12月まで)に各地で反乱がおきたが、特に足利尊氏が建武政権離脱までに起きた反乱は全国にわたり、全26件、うち北条与党の反乱は半部を占める。時行の鎌倉攻めのように、大きな勢力となった背景には、

「全国的な規模で建武政権に対しての不満が存在していた」

ためであり、

「地方の武士がその地域に縁の薄い北条氏を担いででも反乱を起こしたのは、現状を打破するためであり、それだけ現状が耐え難かったのであろう。」

だから「中先代の乱」では、あれほどの大勢力に膨れ上がった。しかし、僅か20日間ほどで、東上した尊氏に敗れてしまう。それなのに、「中先代」などと、

「なぜ鎌倉幕府の執権『先代』北条氏と室町幕府を開いた『当御代』足利氏と同列に置かれたのだろうか。」

著者は、こうその理由を挙げる。

「源頼朝の幕府開創以来150年にわたって武家政権が置かれた鎌倉という土地は、鎌倉幕府滅亡後も、足利氏を含めた武士にとって特別なものであった。それはこの法律の制定をもって室町幕府の開創といわれている『建武式目』に、鎌倉は、『武家にとっては、もっとも縁起が良い土地というべきである』と謳われていることからも明らかである。時行が『先代』の北条氏・『当御代』の足利氏と同質と見なされたのは、時行が短期間であっても源頼朝以来、武家政権が置かれていた鎌倉の地を占領することができたからであろう。」

と。しかし、この理由づけには、ちょっと納得できない。

総勢五万余で東下した足利尊氏は、19日には鎌倉を奪還し、時行は、

廿日先代、

と言われたという。その後、尊氏は後醍醐天皇の帰京命令に従わず、12月に、両者は決裂する。尊氏は、持明院統の光厳上皇の院宣を手に入れ、結果として、

武家の棟梁、

として、建武政権への不満を吸収していくことになる。

「尊氏も、中先代の乱を鎮圧した実力で鎌倉を占領したことにより、周囲が尊氏を武家政権の首長として認識し、『将軍家』とよばれることになった」

し、それが、

「足利氏が北条氏と同様の武家政権の指導者、『先代』の次の『当御代』と呼ばれるようになった契機も同じであっただろう。」

と著者は言うが、そうだろうか。「当御代」と呼んでいるのは、ニュートラルな言い方ではなく、その表現からみて、室町幕府側から見ている。その御代から見て、北条の「先代」だけにしないのは、意味があるのではないか。ただ鎌倉占拠だけではなく、尊氏の鎌倉攻めが、建武政権から離脱する重大な契機になったからではないか。その意味で、「当代」(当御代と敬っている)の「室町政権」当事者から見て、

中先代、

と敢えて言ったのではないか、という気がしてならない。

ところで、その時行は、延元二年(建武四年、1337年)、義良親王を奉じて奥州から上洛する北畠顕家軍に参加している。つまり、南朝方に加わっている。この理屈がよく分からないが、時行はまだ九歳、周囲で支える者たちの思いなのだろう。それは、

足利憎し、

である。その理屈を、

「鎌倉時代の足利氏は、将軍に仕える御家人であった。(中略)足利氏は北条氏の家来ではないが、北条氏の側には、得宗が足利氏の嫡子の烏帽子親となって名前の一字を与え、北条氏の娘を嫁がせるなどして、足利氏を優遇してきたという意識があったのではないか。
 事実、尊氏の初名『高氏』の『高』は得宗北条高時から名の一字を賜ったものであり、……彼の妻も執権赤橋守時の妹登子であった。その足利氏が自家を裏切ったことこそが、時行や北条一族にとって何よりもゆるせなかったのではないだろうか。
 直接鎌倉を攻め、幕府を滅ぼした新田義貞に対しても、後醍醐天皇の命令に従ったのだから憤りは持たなかった、と述べたように、この後、時行は新田義貞の子義興・義宗と行動をともにしている。」

とある。しかし、「北条」も「足利」も、御家人としては同列である。足利は北条の家臣ではない。

「譜代の家臣であれば主人とともに死ぬもの」

という武家社会の通念は当てはまらないのではないか。しかし、時行は、南朝方として戦いつづけ、正平七年(文和元年 1352年)捉えられ、処刑される。享年25、幕府滅亡後20年、時行と行動を共にしてきた、

長崎駿河四郎、
工藤二郎、

得宗被官の二人も共に処刑された。

「一族再興のための戦いにその大部分を費やした生涯は、鎌倉幕府が滅びてから20年を迎える日の二日前に閉じた」

とある。

参考文献;
鈴木由美『中先代の乱―北条時行、鎌倉幕府再興の夢』(中公新書)

骨肉の争い

亀田俊和『観応の擾乱―室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』を読む。


「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」は、

「室町幕府初代将軍足利尊氏および執事高師直と、尊氏弟で幕政を主導していた弟直義(ただよし)が対立し、初期室町幕府が分裂して戦った全国規模の戦乱」

である。この内戦は、

「観応元年(1350)10月、尊氏が不仲であった実子足垣が直冬(ただふゆ)を討伐するために九州に向けて出陣した隙を突いて、直冬の叔父にして養父でもあった直義が京都を脱出したことから始まる」

とされ、直義軍が圧勝し、観応二年(北朝正平五年 1351)二月、師直一族が惨殺されたことで、「観応の擾乱」の

第一幕、

が終わる。両者の講和は、五ヵ月で破綻、同七月末、直義が京都を脱出して、北陸へ向かったことで、

第二幕、

が始まり、翌正平七年(観応三年 1352)二月に直義が死去したことで、狭義の「観応の擾乱」は集結する。しかし、この後も、文和三年(1353)五月、直冬が京都を目指し、翌四年三月、尊氏は直冬を撃退した。

この間も、観応二年(1351)十月の、正平一統(しょうへいいっとう)と呼ぶ、南朝に統一された僅か四ヶ月を除き、南北朝の争いは続いているし、直冬撃退後も、たとえば、尊氏死後、

「康安元年(1361)十二月、南朝は四度目の京都奪還を果たす。だがこのときも南朝軍の主力となったのは失脚した前幕府執事細川清氏であったし、占領もごく短期間で終わった。そしてこれが最後の入京となった。観応の擾乱のような、幕府の存亡をかける規模の戦いは終息した」

とある。この後、40年も南北朝内乱が続くが、それほど戦乱を長引かせたのは、直義が一時南朝方についたように、

「幕府では、権力抗争に敗北すると南朝方に転じる武将が続出」

したことにあり、直義は、その先例になった、との指摘は重要だろう。

南北朝の対立は、措くとして、この「観応の擾乱」は、正直、

わけが分からない内乱、

である。それぞれ中核となる尊氏派、直義派の武将がいるが、多くは、彼方になびき此方になびき、定まらない。両者の対立すら、その理由がはっきり分からない。著者は、

実に奇怪な内乱、

と呼ぶ。

「四条畷の戦いで難敵楠木正行に勝利し、室町幕府の覇権確立に絶大な貢献を果たした執事高師直が、わずか一年半後に執事を罷免されて失脚する。だがその直後に数万騎の軍勢を率いて主君の足利尊氏邸を包囲し、逆に政敵の三条殿足利直義を引退に追い込む。
 ところがその一年あまり後に、直義が宿敵の南朝と手を結ぶという奇策に出る。今度は尊氏―師直を裏切って直義に寝返る武将が続出、尊氏軍は敗北して高一族は誅殺される。
 だがそのわずか五ヵ月後には何もしていないのに直義が失脚して北陸から関東へ没落し、今度は直義に造反して尊氏に帰参する武将が相次いで、尊氏が勝利する。そして、その後も南朝(主力は旧直義派)との激戦がしばらくはほぼ毎年繰り返されるのである。
 短期間で形勢が極端に変動し、地滑り的な離合集散が続く印象である。このような戦乱は、日本史上でも類を見ないのではないか。」

この離合集散はなぜ起きるのか。両者の支持層には、

「明確な……違いなど存在せず、両派は基本的に同質であった。否、そんな党派対立など存在しなかった。明確な派閥が形成されはじめるのは、どんなに早く見積もっても貞和四年(1348)正月の四条畷の戦い以降であった。そして一部の武将を除いて、その構成も最後まで流動的であった」

というのが著者の見方である。では、何が原因か。

「そもそも観応の擾乱の直接的はじまりは、尊氏と師直が九州の直冬を討伐するために出陣したことであった。史料に乏しい難点はあるが、尊氏の実子で有能であるにもかかわらず、なぜか異常に忌み嫌って排除し続ける尊氏に反発が集まった事情は確かにあったと思われる。畠山国清が直義派に転じたのも、その要素が大きいと推定している……。そして、そんな尊氏の意を承けて、嫡子義詮(よしあきら)を次期将軍にするために全力で献身していた師直に対して批判が集中したのではないか。」

と著者は述べる。確かに、「観応の擾乱」は、

直冬にはじまり、直冬に終わった、

ところはある。しかし、おのれの利害にならぬことで、各地の武将が、おのれの戦力を投入するだろうか。そうすることが、何らかの利害につながるからではないのか。むしろ、原因は、

「尊氏―師直が行使する恩賞充行(あておこない)や守護職補任から漏れ、不満を抱いた武士たちが三条殿直義に接近しつつあるところに、足利直冬の処遇問題が複雑に絡んで勃発した」

とする方がすっきりする。それは、建武の中興が、武士たちの反発を招いたのと同じであり、後に、直義が失脚するのも、同じ轍である。しかし、尊氏が、

「私の恩恵で立身を遂げ、分国を賜って大勢の従者を持つ者たち」

が、自分の敵であると認識していたということは、尊氏によって利益を得ていても猶不満を抱いていたものが、対立の勝馬に乗って、

「そもそも擾乱第一幕で直義派に所属した守護たちは、桃井直常・石塔頼房・上杉憲顕などを除いて、大半が直義優勢が明確になってからその旗幟を鮮明にした者ばかりである。」

とあるように、さらなる恩賞にあずからんと、右に左にと雪崩を打ったということのように見える。

切取強盗武士の習い、

とはよく言ったものである。

参考文献;
亀田俊和『観応の擾乱―室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』(中公新書)

外の目

ロラン・バルト『物語の構造分析』を読む。

本書の目玉は、巻頭の、

物語の構造分析序説、

なのだろう。だから、

「物語の構造分析には、言語学そのものを基礎モデルとして与えるのが理にかなっているようにみえる。」

という一文に着目した。しかし、物語作品を、

機能のレベル、
行為のレベル、
ディスクール(物語言説)のレベル、

の記述レベルに分解していく、というのを見た瞬間、期待外れだということに気づいた。物語の、

物語るとはどういうことか、

という、全体構造の把握抜きに、細部にわたる発想は、細分化された部分をいくらかき集めても全体には至らないという、当たり前のことを想うだけだ。大事なことは、

「(物語のなかで)語っている者は、(実人生において)書いている者ではなくて、書いている者は、存在する者ではないのだ。」

ということを書くのではなく、その構造自体を具体化することだ。しかし、それがなされることはない。「序説」にそれがないことは、著者の視野に、

物を語る、

ことと、

物語を語る、

こととのアナロジーの中に、文学の構造のすべてがあることが入ることはない、と見えた。日本語と文学の語りについては、「語りのパースペクティブ」http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic1-1.htmで触れたことがある。

ただ、唯一、文楽にいての、

エクリチュールの教え、

には、著者の意図とは別の大きな刺激を受けた。

「文楽は、切り離された三つのエクリチュールを実践し、見せ物の三つの場面で同時に読みとらせる。つまり、操り人形と、人形遣いと、叫び手であり、実現される所作と、実現する所作と、発生の所作である。」

とある。これは、文楽が、

三業(さんぎょう)、

といわれる、

太夫(浄瑠璃語りのこと。1人で物語を語る)
三味線(太棹の三味線を使う)、
人形遣い(主遣い(おもづかい)が首(かしら)と右手、左遣いが左手、足遣いが脚を操作する、三人遣い)、

で成り立成り立つ三位一体の演芸であることを言っているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%A5%BDhttps://www.bunraku.or.jp/about/と思われるが、誤解を恐れずに言うなら、

人形(役者)、
しぐさ(人形遣い)、
台詞(太夫)、
ト書き(太夫)、
音楽(三味線・太夫)、

と分けられる。つまり、本来、役者がやることを、

人形、
人形遣い、
台詞、

に分担し、

役者が身振り手振りのしぐさをし、台詞を言う、

という一連の動作が分解、提示されているのである。しかも、「台詞」は、義太夫の語りが、

詞(ことば)、
地合(じあい)、
節(ふし)、

と分かれ、

台詞(詞)、

から、

物語の情景や説明(地合)、

さらに、

バックグラウンドミュージック(節)、

にまで分解されるhttps://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc26/tayu/shikumi2.html。つまり、

演ずるとは、どういうことかを、演じている、

あるいは、

芝居をする、とはどういうことかを、芝居している、

という、

メタ演技、
メタ芝居、

になっているのである。著者は、こう説明する。

「文楽は、声に平衡錘りをつける。あるいはもっと適切には、声を背進させる。つまり、所作による背進である。所作は二重である。操り人形のレベルにあっては、情動的なレベルであり……、人形遣いのレベルにあっては、他動的な所作である。われわれの劇芸術においては、俳優は行動するふりをするが、彼の行為は常に所作にすぎない。舞台の上には、ただ芝居があるだけであるが、しかし芝居であることを恥じている芝居である。文楽はといえば、行為を所作から切り離す(これが文楽の定義である)。文楽は所作を示し、行為を見えるままにしておく。文楽は芸術と労働を同時に並べて見せ、そのどちらにもエクリチュールを残しておく。」

これは、

演技を形作っていくプロセスを見える化している、

ともいえる。知っている人には当然のことかもしれない、浅学な自分には、ちょっと刺激的であった。

参考文献;
ロラン・バルト(花輪光訳)『物語の構造分析』(みすず書房)

詞と辞

三浦つとむ『日本語はどういう言語か』読む。

著者は、冒頭で、四つの設問をし、本書全体への問題意識としている。
第一は、絵画や写真は客体的表現と主体的表現という対立した二つの表現の切り離すことのできない統一体としてあるが、言語はこの二種類の表現はどういう形をとって現れているか。
第二は、絵画で表現するのに、写生的な立場と地図的な立場(鳥瞰)とがあるが、言語ではこのような立場の違いがどういう形をとって現れているか。
第三は、現実の世界の中でのことと語り手の主観の中でのこととを、言語ではどのような形で表しているか。
第四は、夢の中で夢を見るような、二重化した観念の世界を、言語はどのような形で露わはているのか。

それは、そのまま著者の、あるいは著者が強く意識し、それを敷衍している時枝誠記氏の言語論の内容になっていくのである。

語りのパースペクティブ」http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic1-1.htmで触れたことだが、僕なりの著者の理解、つまりは、時枝誠記氏の言語論の理解は、次のように整理できる。

時枝誠記氏は、日本語は、

と図示した(この図示の仕方自体、三浦つとむ氏の案出したものだ)表現における、「た」や「ない」は、「表現される事柄に対する話手の立場の表現」(時枝誠記『日本文法口語篇』)、つまり話者の立場からの表現であることを示す「辞」とし、「桜の花が咲く」の部分を、「表現される事物、事柄の客体的概念的表現」(時枝、前掲書)である「詞」とした。つまり、

「(詞)は、話し手が対象を概念としてとらえて表現した語です。「山」「川」「犬」「走る」などがそれであり、また主観的な感情や意志などであっても、それが話し手の対象として与えられたものであれば「悲しみ」「よろこび」「要求」「懇願」などと表現します。これに対して、(辞)は、話し手のもっている主観的な感情や意志そのものを、客体として扱うことなく直接に表現した語です。」(『日本語はどういう言語か』)

そして、終止形等のように、「認識としては存在するが表現において省略されている」(三浦、前掲書)場合の、

の「網線」部分は、「言語形式零という意味」(三浦、前掲書)で、零記号(ゼロ記号と表記する)と呼んでいる。いずれにおいても、

が、日本語の表現構造になっており、辞において初めて、そこで語られていることと話者との関係が明示されることになる。即ち、

第一に、辞によって、話者の主体的表現が明示される。語られていることとどういう関係にあるのか、それにどういう感慨をもっているのか、賛成なのか、否定なのか等々。
第二に、辞によって、語っている場所が示される。目の前にしてなのか、想い出か、どこで語っているのかが示される。それによって、〃いつ〃語っているのかという、語っているものの〃とき〃と同時に、語られているものの〃とき〃も示すことになる。
さらに第三に重要なことは、辞の〃とき〃にある話者は、詞を語るとき、一旦詞の〃とき〃〃ところ〃に観念的に移動して、それを現前化させ、それを入子として辞によって包みこんでいる、という点である。

三浦つとむ氏の的確な指摘によれば、

「われわれは、生活の必要から、直接与えられている対象を問題にするだけでなく、想像によって、直接与えられていない視野のかなたの世界をとりあげたり、過去の世界や未来の世界について考えたりしています。直接与えられている対象に対するわれわれの位置や置かれている立場と同じような状態が、やはりそれらの想像の世界にあっても存在するわけです。観念的に二重化し、あるいは二重化した世界がさらに二重化するといった入子型の世界の中を、われわれは観念的な自己分裂によって分裂した自分になり、現実の自分としては動かなくてもあちらこちらに行ったり帰ったりしているのです。昨日私が「雨がふる」という予測を立てたのに、今朝はふらなかつたとすれば、現在の私は
        予想の否定 過去
雨がふら なくあっ た
というかたちで、予想が否定されたという過去の事実を回想します。言語に表現すれば簡単な、いくつかの語のつながりのうしろに、実は……三重の世界(昨日予想した雨のふっている〃とき〃と今朝のそれを否定する天候を確認した〃とき〃とそれを語っている〃いま〃=引用者)と、その世界の中へ観念的に行ったり帰ったりする分裂した自分の主体的な動きとがかくれています。」(三浦、前掲書)

つまり、話者にとって、語っている〃いま〃からみた過去の〃とき〃も、それを語っている瞬間には、その〃とき〃を現前化し、その上で、それを語っている〃いま〃に立ち戻って、否定しているということを意味している。入子になっているのは、語られている事態であると同時に、語っている〃とき〃の中にある語られている〃とき〃に他ならない。
これを、別の表現をすれば、次のように言えるだろう。

「日本語は、話し手の内部に生起するイメージを、次々に繋げていく。そういうイメージは、それが現実のイメージであれ、想像の世界のものであれ、話し手の内部では常に発話の時点で実在感をもっている。話し手が過去の体験を語るときも、このイメージは話し手の内部では発話の時点で蘇っている。」(熊倉千之『日本人の表現力と個性』)

重要なことは、主体的表現、客体的な表現といっても、いずれも、「話し手の認識」(三浦、前掲書)を示しているということだ。例えば、

という表現の示しているのは、「桜の花が咲いてい」る状態は過去のことであり(〃いま〃は咲いていない)、それが「てい」(る)のは「た」(過去であった)で示され、語っている〃とき〃とは別の〃とき〃であることが表現されている。そして「なァ」で、語っている〃いま〃、そのことを懐かしむか惜しむか、ともかく感慨をもって思い出している、ということである。この表現のプロセスは、
@「桜の花が咲いてい」ない状態である〃いま〃にあって、
A話者は、「桜の花の咲いてい」る〃とき〃を思い出し、〃そのとき〃にいるかのように現前化し、
B「た」によって時間的隔たりを〃いま〃へと戻して、C「なァ」と、〃いま〃そのことを慨嘆している、
という構造になる。
ここで大事なことは、辞において、語られていることとの時間的隔たりが示されるが、語られている〃とき〃においては、〃そのとき〃ではなく、〃いま〃としてそれを見ていることを、〃いま〃語っているということである。だから、語っている〃いま〃からみると、語られている〃いま〃を入子としているということになる。しかし、これが、

と、辞がゼロ記号となっている場合は、外側の辞による覆いがない状態、つまり入子の語りの部分が剥き出しになった状態と言っていい。辞としての、〃いま〃での話者の感嘆を取っただけなのに、こうしてみると、前者と比べて、明らかに〃とき〃の感じが重大な変化を受けていることがわかるはずである。つまり、前者では明らかに〃いま〃から話者が語っているということがはっきりしているのに、後者ではそれがはっきりしなくなっている。

そのため第一に、〃いま〃という辞を取ることで、〃いま〃の中に入子となっていた〃とき〃が剥き出しとなる(〃いま〃の直前、つまり完了を表すということもあるが、「なァ」の〃とき〃よりは過去)。そのことによって、「なァ」でははっきりしていた〃いま〃からの時間的距離(つまり時制)が曖昧化する。前出の例で言えば、「咲いていた」のが、〃そのとき〃であったのに、(〃いま〃からみた〃そのとき〃ではなく)〃いま〃であるかのように受け取れる。だから、「咲いていた」のが、過去というよりは、完了状態を現しているニュアンスが強まっている。
それは、@「た」が辞の位置にあることになる。つまり、「た」という主体的表現は、話者の語っている〃いま〃となる。Aそのため「花が咲いてい」る〃とき〃とそれを語っている〃とき〃との関係が新たなものになっているからにほかならない。
その結果、第二には、そのことによって、「なァ」では、「なァ」と慨嘆していた話者の主体的表現であったものが、その表現を囲んでいた辞(つまり、□)が取られることで、あたかも客観的(事実)の表現(客観的に起こっている(ある)ことの表現)であるかのように変わってしまう。だから、「咲いている」のが、〃いま〃「既に(もう)」咲いている現実を表現しているように変わっていく。
しかし、「た」は過去ないし完了を示す辞ではなかったか?そうならば、「た」に立って語るとは、「なァ」の有無に関わらず、その語っている〃とき〃からの過去であることを示しているはずではないのか。

だが、日本語の過去あるいは完了の助動詞「た」は、

 「起源的には接續助詞「て」に、動詞「あり」の結合した「たり」であるから、意味の上から云つても、助動詞ではなく、存在或は状態を表はす詞である。……このやうな「てあり」の「あり」が、次第に辭に轉成して用ゐられるやうになると、存在、状態の表現から、事柄に對する話手の確認判斷を表はすやうになる。」(時枝、前掲書)

とあるように、「過去及び完了と云へば、客觀的な事柄の状態の表現のやうに受取られるが、この助動詞の本質は右のやうな話手の立場の表現」(同)であり、むしろ、判断を示していると見たほうがよく、その場合、問題なのは、それが〃そのとき〃の判断なのか、〃いま〃の判断なのか、が混然としている点なのだ。なぜなら、〃いま〃からみて〃そのとき〃「咲いて」いたという過去についての表現なのか、それとも〃そのとき〃見たとき、既に「咲いて」いたという状態の完結(完了)を示すものなのか、は判然と区別はできないからだ。
この「た」の意味は、次のように変えてみると一層はっきりする。

つまり「た」という判断が、〃いま〃からみた過去だったということを敢えて表現するためには、こうしなくてはならないということだ。ということは、「桜の花が咲いて」いる状態を指摘しているのを語っているのが、〃いつ〃のことなのかを示す機能を「た」はもっていないということにほかならない。つまり、「た」は、語っている〃とき〃を隠されている。終止形のゼロ記号の状態にあるのと同じなのである。だから、「なァ」という〃いま〃を示す辞を失うことで、「た」は過去としてのニュアンスを失い、「(〃いま〃の)判断」なのか「(〃そのとき〃)既に」なのかの区別が曖昧化してしまっている、ということができるだろう。
しかし、同じゼロ記号でも、前述の、

と、

では、異なっている。後者は、主体的判断そのものがゼロ記号化されているのに対して、前者は、判断の〃とき〃がゼロ記号化され、「た」という判断が〃いま〃であるかのように語られている。
つまり、後者では、「桜の花が咲く」とは、主体的な時間に関わった表現ではなく、一般的に「桜の花(というものは)咲く(ものだ)」という概念的意味か、あるいは桜の花が咲いている(事実の)状態を客観的に表現しているかの意味に変わる。
それに対して、前者では、「た」が残ることによって、主体的表現は残されており、ただそれが〃いま〃なのか〃そのとき〃なのかが曖昧化され、〃そのとき〃=〃いま〃として表現されている、ということになる。
このことから、敷衍すれば、ゼロ記号化によって、

話者のいる〃とき〃を隠し、全く客観的表現を装うこともできるし、
起きている出来事(あるいはそれへの主体的表現=辞)を同時進行にドキュメントしている擬制もとれる、

という、二つの機能をもつことになる、といえるのである。

だが、問題はここからである。これが話し言葉であるならこれで問題は終わる。しかし、そう書かれているのだとするとどうなるのか。そう書いたのはいつなのか?
もし、書いたのが〃いま〃だとすれば、図のように書き改められることになる。

つまり、@「桜の花が咲いてい」ない状態である〃いま〃にあって、A話者は、「桜の花の咲いてい」る〃とき〃を思い出し、〃そのとき〃にいるかのように現前化し、B「た」によって時間的隔たりを〃いま〃へと戻して、C「なァ」と、〃いま〃そのことを慨嘆している、Dというように、書き手が書いている〃いま〃にいて、語っているということになる。これがこの語りを語っている本人であれば語り手となるが、それが別の誰かの語りを〃いま〃写したのだとすれば、ゼロ記号の箇所は「と、言う」ということになる。それが語っている〃いま〃より前となれば、「と言う+た(言った)」となる。

ここに明らかになっているのは、語られていることの入子の奥行と、語るものの視点の奥行、つまり認識構造の奥行にほかならないということだ。そしてこのことは、入子の深度に応じた認識の深度になっているというように、入子の奥行が、語るものの認識構造の奥行と対になっているということだ。多くの場合、書かれたものの外郭の□がゼロ記号化していることを意識しないでいる。しかしそれでは、「話し手の認識」の構造をつかんだことにはならない。
以下、特別に指摘しない限り、「語る」〃いま〃とは、そう語り手が書かれた〃とき〃にいて語っていることだとみなしている。
さて、次の場合はどう考えたらいいか。

「と言った」とあることが、語る=書く〃とき〃を示していると考えると、本来の構文から考えれば、話者の辞は、入子になった話者の「〜でしょう」と「言っ」たことを現前化している。しかし、話者はここまで語ったとき、入子となった話者の語っている「桜の花が咲いてる」という事態自体をも現前化しているのである。
つまり、話者が「た」という辞で括ったとき、まず「〜でしょう」と推測した時点での語りを入子として、「桜の花が咲」く状態を想定し(”そのとき〃の発話の状態に〃なり〃)、その上で、それが〃いま〃からみた過去(完了なら直前)だったとまとめていることになる。
更にそこから敷衍すれば、入子になった話者は、「桜の花が咲いている」事態を現前化した上で、それを推測している。その推測を〃そのとき〃聞いたことを、〃いま〃示すことで、話者は、その推測によって縛られていることを示している。〃そのとき〃推測したが今は違うのか、その推測通りになったのか、それともその推測で違う事態がもたらされたのか、いずれにしても、入子の話者の見たものに〃いま〃見られている。だからこそ、それを語った話者は、「でしょう」という推測を「言っ」たことを語ることで、実は、入子の話者の見ているものをも見ている、といえるのである。例えば、

を例に取って考えれば、もっとわかりやすいはずである。ここで、語っている「た」に立った語るものは、その桜を現前化しつつ、その桜にも見られているのにほかならない。語っている〃いま〃から〃そのとき〃を見るとき、その過去の〃とき〃が〃いま〃を照らしている(「た」を完了とみなせば、完了前つまり「咲く」前の〃とき〃が〃いま〃を照らす)。〃そのとき〃は咲いていたが、〃いま〃は咲いていない(完了なら、〃そのとき〃は咲いていなかったが、〃いま〃は咲いている)、というように。そしてそのことによって、〃いま〃は〃そのとき〃に比較して語られている。でなければ、桜の咲いていたことを〃いま〃思い出して語る必要は語り手にはなかったはずなのだ。
だから重要なことは、こうした日本語の語りの構造を考えたとき、実は、語る→語られるは、入子構造になることで、語るものの一方通行ではないということなのだ。
このことは同様に、次のようにゼロ記号化されていても事態は変わらないはずである。

ところが、ゼロ記号化されることで、「でしょう」と推測しているのは、〃いま〃である擬制をとる(前述の入子の部分が剥き出しになった状態)。「でしょう」と推測する相手の「言う」のを語っている話者は、その場で、「『〜でしょう』」と言う」のを見ている形になる。表現上は、現前化されているのは相手の「言う」事態でしかない。つまり話者は、「と『言う』」のを見ているだけで、「桜の花が咲いてる」のは語られたのをそのまま語っているだけだ。
その場での感慨にしろ、過去の想い出にしろ、あるいは推測にしろ、そうした主観の表現を省略したとき、一見表現されたものは、そのとき話者がそれを同時的に見ているという擬制的な客観描写にみえることによって、話者のパースペクティブは、「言う」ことにしかとどかなくなるということである。ゼロ記号によって、しかし、話者の〃いま〃は消えても、むろん話者の存在までが消えてしまう訳ではない。
つまり辞は、いわば、

「観念的に二重化し、あるいは二重化した世界がさらに二重化するといった入子型の世界の中を、われわれは観念的な自己分裂によって分裂した自分になり、現実の自分としては動かなくてもあちらこちらに行ったり帰ったりしている」(三浦、前掲書)

自由を保証しているということができる。それは、詞を主体的な表現で包むとは、観念的世界であるということを表示していることでもあるということを意味する。たとえば、

「語られているもの(詞)」語っているもの(辞)、

と、カギカッコにいれてみると、会話の文言が「語り手」のそれてあるように、「語られているもの(詞)」は、「語っているもの(辞)」の「」に入れられたのと同様、詞と辞の境界を空間的に示してみれば、話者の位置は、「」を境にして、時間的空間的に隔てられている。しかし観念的には、時間的隔たりにすぎない。過去について思い出すとき、語られているもの(こと)の〃とき〃と〃ところ〃にいるような実感をもっても、語られているのは時間的に前のことだ。また、推測ないし想像によって、〃いま〃の別のところにいる誰かについて、そこにいるつもりになることもできる。それが「観念的な自己分裂」にほかならない。しかし辞があるかぎり、それとの隔たりは明示される。
ところが、ゼロ記号のときは、辞が消え、「語られているもの」の〃とき〃が剥き出しとなることで、〃とき〃も〃ところ〃も明示なく変わってしまう。〃そのとき〃であったものが、〃いま〃であるかの擬制をとる。
それは、辞が表記されていないだけ、話者(話者のいる〃とき〃)を隠して、いかにも客観的事実(同時的現実)を表現しているように見えるというのにすぎない。話者そのものが消えることではなく、その背後に、確かに話者がいるのに違いはないのである。

今回、再度読み直してみて、1つ忘れていたことは、応答詞で、

「応答詞では、話し手はいつも相手の言葉を理解しようと努力しており相手の立場に立っているのですから、表現に先立ってその立場は二重化しています」

とし、たとえば、「うん」と肯った場合、

「肯定のときは、二重化した相手の立場において肯定」

するので、下図のような構造になる。

「いや」と、否定した時は、

「否定のときは、その相手の立場と違った立場に移って行って否定」

するので、下図のような構造になる。

主体が、相手の言っている「こと」(詞)に同意しているか、相手の言っていること(辞)を否定しているかの、主体の観念的な動きの違いを、明確に示すことができる。

この「詞」と「辞」の構造は、実に応用範囲が広く、物語論や小説論にも使えることを実感している。改めて、その言語論、というよりも、言葉を使うときの認識構造の分析に、強烈な刺激を受けた。

参考文献;
三浦つとむ『日本語はどういう言語か』(季節社)
時枝誠記『日本文法 口語篇』(岩波全書)

苛斂誅求

児玉幸多『近世農民生活史』読む。

本書は、当初、

江戸時代の農民生活、

であったが、再刊にあたって、書肆が変わり、「近世農民生活史」となったものだ。歴史的経緯よりは、江戸時代を通して、一貫した、幕藩体制下での農民生活を、

租税制制、
行政制度、
農民の統制、

と、

「農民が働くのは自分自身のためではない。それが封建時代の特徴であった。農民は領主のために、年貢生産のために働くのであって、その生活はその必要な限度に限定される。衣食住その他に関する制限禁止が行われた」

制度的な面に、ほとんどの紙面を割いている。

「農民の生活は、大土地所有者である封建領主およびその家臣らの、全国民の一割ぐらいに相当する人々を支えるために営まれていた。」

のであり、その象徴的な法令は、

「熊本藩で出した法令の中に、百姓は大小によらず牛馬を持たなくてはならない。田畑の耕作にも肥料を取るためにも、年貢の輸送にも必要な牛馬を持つことができない者に対しては、給人より気を付けてやり、また女子などを持っている百姓で、家内仕事に手の足りる者は、その女子を質奉公にでも出して牛馬を持たせる料簡が肝要である、と言っている。質奉公はいうまでもなく身売りすることである。耕作に必要とあれば牛馬に代えて最愛の娘を売ることさえ強要しているのである。」

であり、この法令の出た文化時代(1804〜18)と対比して、

「天和二年(1682)の同藩民の人口39万4985人、寛政四年(1792)に53万2174人、同十年53万5543人と増加してきたのが、文化五年(1808)には51万2575人と減少したのに対して、牛馬は天和二年に3万5159頭、寛政四年には6万527頭、文化五年には9万1209頭と激増し、ほとんど一戸に一頭平均を有するに至っている。」

とされるのである。要は、百姓は、武家の食い扶持を稼ぐ手段と見なされている、いうことになる。

それにしても、江戸時代は、菊池勇夫『近世の飢饉』http://ppnetwork.seesaa.net/article/462848761.htmlで触れたように、飢饉の連続で、

「飢饉の年には木の根・草の根を掘り起こし、犬猫牛馬を食い、人の死骸を食い、生きている人を殺して食い、何万何十万という餓死者を出したときでさえも、武士には餓死する者がなかった」

のである。天保の飢饉に、

「新庄藩でも多くの飢人が出て城下町へ行って乞食をする者が多かったが、町家では与えるものもなくなり、ただ追い払うのみで、冷飯の残りや冷汁を与えたのは家中の士ばかり」

だったとあるし、享保十七年(1732)虫害による四国・中国・西国大飢饉のときに、

「福岡藩で大阪から買い求めたり幕府からの融通によって救助のため支出した米は、計13万6千石余であったが、その内訳は家中諸士の翌秋までの扶助米6万石、江戸屋敷家中諸士へ2万3千石、在々町々浦々の至極貧窮の飢人に麦作のできるまでの救として5万3千石で、六割以上は藩士の救済にあてられていた」

とある。

となると、当然租税の取り立ては厳しいものになる。嚴しい貢米検査を経て、とにもかくにも納入できればともかく、未進者、つまり未納者は、悲惨な目に遭った。

「皆済まで庄屋またはそれに代るべき者を人質として抑留するという所もあり、小倉藩では手永手代(大庄屋管轄区域)手代(代官配下)が出張して取り調べ、未進者が数日の延期を願い出て方頭(ほうず 組頭)以下組合(五人組)の者が保証すれば帰宅を許し、さもなければ手錠をかけて庄屋役宅に監禁する。その間に親類組合仲間にて融通がつけば放免されるが、永年未進が続けばそれを償却することは不可能になり、ついに本人が逃走すなわち欠落するようになる。」

あるいは、年貢を未進した場合には、籠舎されるのが普通であったが、

「金沢藩ではまず手鎖をかけて取り逃がさないようにして、のちに禁牢の処分をしている。熊本藩では在中の会所に堀を掘って水をたたえ、中央に柱を立て、未進百姓をそれに縛りつけて苛責した。」

とまである。当人が欠落すれば、その咎が残された組の者、庄屋にも及ぶことになるが、こうした苛斂誅求をみると、かつて、その過酷な取り立てで、島原一揆につながったとされる、島原藩の未進米の過酷な取り立ての、たとえば、

「碩翁聞伝へしハ、丑(うし)(寛永十四年)の秋嶋原領内甚損毛(そんもう)ニて、年貢未進多き故に、代官取立るといへ共、はかく敷不納、(中略)家老の隠居田中宗甫(むねすけ)と云者申けるハ、……自身村々を廻り、水牢を弥強く仕懸、未進の穿鑿を致しける故、……口ノ津村大百姓与三左衛門と云者、未進米三拾俵計りあるをはけしく取立しにより、しはらく指延給り候得と達てことはり申けれとも、宗甫曽て聞いれす、却て与三左衛門か媳を捕へ、水牢に入る、其女懐胎にて殊に産月に中りしかハ、其段を断り、夫を水牢に入かへ給はり候様に願ひけれとも、承引なく懐胎故にこそ幸ひニ思ひ、水牢に入たり、それを難義に思はゝ、未進を納むへしと責む、与三左衛門家財ハ先達て悉く御卸し漸々農具計り残したりしかハ、力なく居たる所に、彼女水牢のうちにて産を悩苦して死す」(嶋原一揆談話)、

という仮借のない取り立てと、ほんの紙一重に過ぎないことを思い知らされる。さらに、本年貢(本途物成)以外の、小物成、運上、冥加等々の様々な雑税は、久留米藩の承応三年(1654)の、郡中蔵入方から納めるものを、

「豊前の内裏まで送り迎え、そのほか領分中の使人足二万二千人、同じく荷物千百疋、縄三千束、藁千七百駄、すぐり藁一万頭、すさ藁五十駄、とまかや三千把、ふきかや千二百駄、小麦藁五百駄、むしろ千九百枚、畳こも千七百枚、竹釘三石、箸七千膳、草ぼうき百七十本、白辛子一石三斗、黒胡麻八斗、芥子八斗、葱冬花二斗五升、いばらの花二斗五升、蓮芋のくき千本、まこも五月節句之用十五把、はゑもぐさ八斗、もみぐさ一斗、ゑもぎ三把、しょうぶ三把、わらしべ五把、色付煤五石、蓮葉三十枚、かうり根粉二斗、土筆五斗、せり五十把、栗芋五斗、ぬか七十俵、明俵二千俵、真藤十六把、しゅろの皮千五百枚、たにし二斗、大根千五百本、牛蒡五十本、鳥の羽二万五千羽、あら芋二十貫目、はい木あさから百五十本、あさのみ五合、なたまめ五百、たぶのみ二石、よくいにん二斗」

とあり、ふと島原藩の苛斂誅求の見本のような、

「百姓共は毎年、米・大麦・小麦を以て一般租税を払ったが、その上更に二つの布Nono又は籠Cangaを納めねばならなかった。更に、煙草の木一本につき、冥加(冥加金)としてその葉の半分を取られたが、これは常に極上で最大の葉が選ばれた。もし上記の規定の品物のそろわぬ場合には、殿に対し二様の賦課を受けねばならなかった。即ち茄子一本に対し実を何箇という類の割り当てのものと、各家ごとに年貢外の何物かを納むべきものとである。しかし、調べの役人が何物も取り上げるものがないと見た時には、山に入って塩釜にたく薪を切らせた。憐れなる農民の血をしぼって、大名の増収を計るのに汲々たる様は、斯くの如くであった。」(ドアルテ・コレア・天草島原一揆報告書)。

という取り立てを思い出した。結局程度問題に思えてくる。幕末、林子平は、各藩の窮乏の原因を、

「藩主と家老が不學無術であれば国家(藩)は貧乏する。貧乏すれば領国中川除普請がおろそかになり、年々夏秋の小洪水にも押し切られ、田畑は水押になって永荒の地が年々に生ずる。これが貧乏の上に収納の不足になる第一である。また橋々の普請もおろそかになり年々の小洪水に落橋する。それゆえ領内数多の橋を一年に二三度ずつも普請をし、そのたびごとに大橋は人夫三四万、小橋は四五千も使役して、その過半は錢で納めさせるので百姓の力が不足して、天候は凶年でなくても田畑は不毛である。これが収納不足になる第二である。この二つのために百姓は苦労して、いつとなく農業を務めぬようになり、貧乏にもなり、あるいは欠落して他国に移る者もあり、あるいは農を捨てて商人に成る者もあり、郡村の人口は減少して田畑はいよいよ荒廃する。これが収納不足になる第三である。収納が不足になれば藩庫が窮乏するので、毛見と称して姦吏を派遣して年貢を責めはた(徴)る。責めはたられれば百姓は姦吏に贈賄して上作をも下作と披露して年貢の減少を計る。これが収納不足になる第四であって、この四つの不納のために藩庫はますます窮して家中諸士の封禄を借り上げるに至るのである。」

としている。結局、倹約によって出るを押さえるか、増税によって入るを増やすかしか手立てのない体制下では、しわ寄せは、いずれにしても、下層へと押し付けられるしかない。

幕藩体制下での農民の生活は、しかし、小前を別にすると、租税の賦課率が同じなのだから、大百姓には有利であり、また都市の商工業者は課税されない。その租税制度は改められることはなく、貧富の格差は拡大しつづけ、そのまま制度そのものの矛盾として、幕末へと至ることになる。

幕藩体制下の農民、ないし農村社会のありようについては、
藤野保『新訂幕藩体制史の研究』http://ppnetwork.seesaa.net/article/470099727.html
渡邊忠司『近世社会と百姓成立』http://ppnetwork.seesaa.net/article/464612794.html
菊池勇夫『近世の飢饉』http://ppnetwork.seesaa.net/article/462848761.html
深谷克己『百姓一揆の歴史的構造』http://ppnetwork.seesaa.net/article/474047471.html
水林彪『封建制の再編と日本的社会の確立』http://ppnetwork.seesaa.net/article/467085403.html
速水融『江戸の農民生活史』http://ppnetwork.seesaa.net/article/482114881.html?1624300693
山本光正『幕末農民生活誌』http://ppnetwork.seesaa.net/article/482424187.html
成松佐恵子『名主文書にみる江戸時代の農村の暮らし』http://ppnetwork.seesaa.net/article/482868152.html?1628622396、でそれぞれ触れた。

参考文献;
児玉幸多『近世農民生活史』(吉川弘文館)

兵略あっての忍び

平山優『戦国の忍び』を読む。

本書は、史料に出てくるかぎりで、

「Ninja」でも、「忍者」でもない、戦国の「忍の者」(本書では、「忍び」で統一)の実像を可能な限り追い駆けてみたい」

とし、

「Ninja」や「忍者」が駆使する、忍術や武器については、まったく言及していない。当時の史料には、まったく登場せず、検討の仕様がないからである、

としている(はじめに)。その意味では、実戦の中で、どんな使われ方をし、どんな戦い方をしているかに中心がある。

「忍び」の類をまとめたものは江戸時代以降で、代表的なものは、『武家名目抄(ぶけみょうもくしょう)』(1806)と、江戸時代も後期になってからである。そこでは、

他の項目と同じく、忍びについて、様々な文献をもとに考察が記されている、

が、そこでは、

忍目付、
忍物見 又称芝見、カマリ物見、
物聞(ものきき) 又称聞物役、耳聞、外聞聞次、
遠聞(とおぎき)、
訴入、
忍者 又称間者、諜者、
透波(すっぱ)、

等々がある。「忍者」については、こう説明している。

按ずるに、忍者はいはゆる間諜なり、故に或いは間者といひ、又諜者とよぶ、さて其役する所は、他邦に潜行して敵の形勢を察し、或いは仮に敵中に随従して間隙を窺ひ、其余敵城に入て火を放ち、又刺客となりて人を殺すなとやうの事、大かたこの忍かいたす所なり、物聞、忍目付なといふも多くはこれか所役の一端なるへし、もとより正しき識掌にあらされは、其人のしな定まれることもなし、庶士の列なるもあり、足軽同心又は乱波、透波の者もありしとみゆ、京師に近き所にては、伊賀国又は江洲甲賀の地は、地侍多き所なりけれは、応仁以後には各党を立てて、日夜戦争をし、竄賊、強盗をもなせしより、おのつから間諜の術に長するもの多くいてきしかは、大名諸家、彼地侍をやしない置て、忍の役に従はしむる事の常となりてより、伊賀者・甲賀者とよはるるもの諸国にひろこりぬ、これ鉄炮組には多く、根来者を用ふるたくひなり、

とある。戦国時代が終わってから二百年も経っての見解なので、相当に割り引く必要はあるが、本書は、史料に登る用語を丹念に追いかけていく。ただ、

草、
草調儀、
伏、
伏勢、
伏調儀、
野臥、
かまり、

等々を史料を基に追って行くのはいいが、果たして、たとえば、

草、

かまり、

とを厳密に区別しているのか、それてもかなり雑な使い方なのかは、同一史料で、両者を厳密に比較していないので、分からない。「忍」http://ppnetwork.seesaa.net/article/416745079.htmlで触れたことだが、

乱波(らっぱ)
透波(出波)(すっぱ)
突波(とっぱ)

と呼ばれたり、


とか

とか
かまり

と呼ばれたりするが、確か、三田村鳶魚が、

「乱波・出波は、少人数、数人あるいは一人でやる場合と、集団で用いる場合は、少し様子がちがう。普通の忍びは、戦時でないときに使うのだが、戦時は『覆』といって、これはだいぶ人数が多い。多ければ千人もに千人もになるし、少なくとも二三百人ぐらいはある。」

と言っていた。山蔭に隠して、不意を襲うので、「むらかまり」「里かまり」「すてかまり」等々と呼ぶという。少人数を隠す場合、「伏」とも呼ぶ。「草」とも言うなど、

乱波(らっぱ)、
透波(出波)(すっぱ)、
突波(とっぱ)、

は、どちらかというと、

忍び、

がその行動と同時に、その人を指すのに対して、

草、
草調儀、
伏、
伏勢、
伏調儀、
野臥、
かまり、

は、作戦行動(兵略)を指しているように思われる。たとえば、草の活動について、

奥州の軍(いくさ)言葉に草調儀などがある。草調儀とは、自分の領地から多領に忍びに軍勢を派遣することをいう。その軍勢の多少により、一の草、二の草、三の草がある。一の草である歩兵を、敵城の近所に夜のうちに忍ばせることを「草を入れる」という。それから良い場所を見つけて、隠れていることを「草に臥す」という。夜が明けたら、往来に出る者を一の草で討ち取ることを「草を起こす」という。敵地の者が草の侵入を知り、一の草を討とうとして、逃げるところを追いかけたならば、二、三の草が立ち上がって戦う。また、自分の領地に草が入ったことを知ったならば、人数を遣わして、二、三の草がいるところを遮り、残った人数で一の草を捜して討ち取る、

とある(政宗記)。これはもうゲリラ戦といっていい。

それにしても、折口信夫が、

透波・乱波は諸国を遍歴した盗人で、一部は戦国大名や豪族の傭兵となり、腕貸しを行った。透波・乱波は団体的なもので、親分・子分の関係がある。一方、それから落伍して、単独となった者を、すりと呼んだ。山伏も法力によって、戦国大名などに仕えることもあった。山伏の中には逃亡者・落伍者・亡命者などが交じり、武力を持つ者もいて、この点でも、透波・乱波と近い存在である(ごろつきの話)、

と書いたり、

これ常に忍の役するものの名称にして一種の賤人なり。ただ忍(しのび)とのみよべる中には庶士の内より役せらるるもあれど、透波とよばるる種類は大かた野武士強盗などの中よりよび出されて扶持せらるるものなり。されば間者(間諜)かまり夜討などには殊に便あるが故に、戦国のならひ、大名諸家何れもこれを養置しとみゆ。…(透波、乱波)の名儀は当時の諺に動静ととのはず首尾符合はせざるものをすつはといひ、事の騒がしく穏やかならぬをらつはといひしより起これるなるべし(武家名目抄)

と書いたりしたために、「忍び」は、通常の侍とは別の、

盗人、

等々の人間を雇ったとする説に偏り過ぎでいないか。

そもそもが、足軽自体が、飢饉と戦乱の中、稼ぎに出てきた農民なのであることは、「足軽」http://ppnetwork.seesaa.net/article/462895514.htmlで触れたし、その背景については、藤木久志『雑兵たちの戦場』http://ppnetwork.seesaa.net/article/463652420.htmlでも触れた。いわゆる、

乱取り、

がある。その中心になる、

雑兵、

は、

身分の低い兵卒をいう。戦国大名の軍隊は、かりに百人の兵士がいても、騎馬姿の武士はせいぜい十人足らずであった。あとの九十人余りは雑兵(ぞうひょう)と呼んで、次の三種類の人々からなっていた。
@武士に奉公して、悴者(かせもの)とか若党(わかとう)・足軽などと呼ばれる、主人と共に戦う侍。
A武士の下で、中間(ちゅうげん)・小者(こもの)・荒子(あらしこ)などと呼ばれる、戦場で主人を補(たす)けて馬を引き槍を持つ下人(げにん)。
B夫(ぶ)・夫丸(ぶまる)などと呼ばれる、村々から駆り出されて物を運ぶ百姓(人夫)たちである、

とされ(藤木久志『雑兵たちの戦場』)、雑兵の中には、

侍(若党、悴者は名字を持つ)

武家の奉公人(下人)、

動員された百姓、

が混在している。さらに、

草・夜わざ、かようの義は、悪党その外、はしり立つもの、

といわれる、いわゆる、

スッパ、ラッパ、

もまた雑兵に入る。この者たちは、いずれも、

戦場でどうにか食いつないでいた、

のである(仝上)。となると、なにも、

盗人、
と、
乱取りする雑兵、

との区別はつかない。そういう時代なのではないか、戦国時代は。

それともう一つ、

城乗っ取り、

を、忍びの専売特許にし過ぎる。それは、平和の時代、軍のなかった江戸時代の常識に左右され過ぎているからではないか。現に、『太平記』には、笠置山に三千余で籠城する後醍醐天皇の城を、

備中国住人陶山字藤三郎、小宮山次郎以下五十余人、

が、夜の城に潜入し、

ここの役所に火を懸けては、かしこに時の声を揚げ、かしこ時を作っては、ここの櫓に火を懸くる。四方八方走り廻って、その勢山中に充満したるやうに聞こえければ、陣々を堅めたる官軍ども、城中に敵大勢攻め入つたりと心得て、物具を脱ぎ捨て、弓矢をかなぐり捨て、崖、堀と云はず、倒れふためいてぞ落ち行ける、

と、落城させている。つまりは、兵略なのであって、その手先の人々の才覚・能力を嵩上げして考えるべきではない。

あるいは、同じく『太平記』に、

結城(駿河守)が若党に、物部郡司とて世に勝れたる兵あり。これに手番(てつか)ふ者三人、かねてより、敵もし夜討せば、敵の引つ帰さんに紛れて赤坂城へ入り、和田(正氏)、楠(正儀)に打ち違へて死ぬるか、しからずんば城に火を懸けて焼き落とすか、

と待ち構えていた。四人は、予想通り和田が兵三百で夜討したのに紛れて、まんまと赤坂城に入り込む。しかし、夜討の後は、

立ち勝(すぐ)り居勝(いすぐ)り、

といって、

陣中に敵が侵入したときに、前もって決めておいた合図に従って立ったり座ったりして、行動の一致しない敵を見つけ出す方法、

があり、これによって四人は捕らえられる。この潜入者炙り出し法も、著者は、「忍び」の手法に挙げていたが、敵の夜襲も、それに紛れ込むのも、別に特別「しのび」の専売特許ではない。あくまで、兵法、兵略の一つに過ぎない。

情報収集としても、島原一揆の折、原城に忍び込んだ伊賀者は、相手の言葉が分からず、何の役にも立たず、発見されて、這う這うの体で、逃げてきている。戦国期、全国に敵味方で散らばった「しのび」仲間同士(たとえば伊賀者同士)なら使えた情報交換が役に立たなかった、ということでもあったらしいが、結局、「しのび」も、

兵略、

の一つに過ぎない。兵略なしに、

忍び、
も、
忍び作戦、

もないのではないか。つまり、当たり前のことだが、

忍びあっての兵略、

ではなく、

兵略あっての忍び、

なのである。

「忍」http://ppnetwork.seesaa.net/article/416745079.htmlについては、触れた。また、忍びの「かまり」「くさ」等の活動については、盛本昌広『境界争いと戦国諜報戦』http://ppnetwork.seesaa.net/article/396352544.htmlで触れた。また、和田裕弘『天正伊賀の乱』http://ppnetwork.seesaa.net/article/483008903.htmlで、伊賀衆の末路については触れた。

参考文献;
平山優『戦国の忍び』(角川新書)
三田村鳶魚『江戸の盗賊 鳶魚江戸ばなし』(Kindle版)
笹間良作『日本戦陣作法事典』(柏書房)
盛本昌広『境界争いと戦国諜報戦』(歴史新書y)

応仁の乱大和篇

呉座勇一『応仁の乱―戦国時代を生んだ大乱』を読む。

本書は、興福寺僧による、

『経覚私要鈔(きょうがくしようしょう)』

『大乗院寺社雑事記(だいじょういんじしゃぞうじき)』

というふたつの日記を中心に、応仁の乱の、

入口(嘉吉の変)と出口(明応の変)だけでなく中味の検証、

をするという。その意味で、日記の筆者である、

経覚(きょうがく)、

尋尊(じんそん)、

という奈良に居住する者の視点で応仁の乱をながめているところがある。確かに、

応仁の乱が勃発した要因は複数あるが、直接の引き金になったのは畠山氏の家督争いである。それは将軍足利義政が畠山問題の解決を通じて内乱を終わらせようと努力していたことからも明らかである。
そして畠山氏の家督争いがこじれにこじれたのは、義政の無定見だけが原因ではない。弥三郎・政長(まさなが)兄弟を一貫して支援し、義就(よしひろ)に徹底的に抗戦した成身院光宣(じょうしんいんこうせん)・筒井順永(つついじゅんえい)の存在が大きい。軍事的に弱体だった政長は筒井氏の援助がなければ、義就に対抗することは不可能だったはずで、その意味で、「光宣こそが大乱を招いた張本人」という尋尊の評価は的を射たものである、

にしても、あまりにも大和の局地戦に紙面を割きすぎているのではないか。そのために、隔靴掻痒、外から眺めている者たちの視点から一向に出ない恨みがある。発火点は、畠山の家督争いにしても、全国規模で11年にもわたって、戦争が続くには、発端は発端として、様々な要因が絡み合っていたはずだ。

斯波氏の後継者問題、
将軍義政の後継者問題、
赤松の再興問題、
伊勢貞親ら側近衆との確執、

等々、様々要因の中で、本来連携していた、

細川・山名、

が対立に転じ、

御霊合戦、

で、義就・政長の合戦に、山名が加担したことで、細川勝元と決定的な対立に至った。この間の経緯が、大和から、遠眼鏡で見るような経緯の説明は、細部はともかく、乱全体の動きを、結局外側からしか説明できていない気がしてならない。だから、

応仁の乱、

というタイトルではなく、

興福寺の応仁の乱、
とか、
大和の応仁の乱、

というのがふさわしいのではないか。

大和では長い間、筒井派と越智派が争っており、勝者が敗者の所領を奪うことは見慣れた光景だった。だが、あくまで興福寺に仕える大和の衆徒・国民間での所領移動であり、形式的には興福寺の影響力は維持された、

という中で、応仁の乱で、

大和はどう変化したのか、

とか、

中世興福寺は大和国人の領主的成長を阻んだかもしれないが、一方で大和国の戦争被害を減らした、

というのなら、それは、

どのようにプラスマイナスがあり、

応仁の乱の中で、

どのような変化があったのか、

とか、

応仁の乱そのものではなく、大和の国人たち(その多くは興福寺の衆徒たち)の「応仁の乱」そのものを細密に描けばよかったのではないか。

そうすれば、乱後に、

明応六年(1497)…九月末〜十月初頭に筒井ら「牢人」が奈良に復帰し、古市・越智らは敗走した。文明九年(1477)に畠山義就によって蹴散らされた筒井氏が20年ぶりに復権したのである。
奈良を制圧した筒井は興福寺に対し「大和で戦費の調達や陣夫の動員は行わない」と誓い、越智家栄(おちいえひで)の度重なる物資徴発に苦しめられてきた尋尊を喜ばしている、

という記述が、後の戦国大名・筒井順慶(じゅんけい)へつながるのではないか。

参考文献;
呉座勇一『応仁の乱―戦国時代を生んだ大乱』(中公新書)

素材としての説話

中島悦次校注『宇治拾遺物語』読む。

本書の底本は、旧宮内省図書寮所蔵の写本で、

う地の大納言の物語、

と記されている、とある(本書解説)。序に、

世に宇治大納言物語といふ物ありき。此大納言は隆国という人なり、

とあり、

平等院一切経蔵の南の山ぎはに南泉房といふ所、

にこもって、

往来の者、上中下をいはず呼び集め、昔物語をせさせて、我はうちにそひふして、語るにしたがひて、大きなる双紙に書かれけり、

と、

十四帖、(諸本に十五帖とある)

になったとある。この由来に拠れば、

少なくとも十二世紀頃、

には存在した、と目される(解説)。そして、その本は失われている。

序には、後段、

後にさかしき人々かきいれたるあひだ、物語おほくなれり。大納言より後の事かき入れたる本もあるにこそ、

とあり、

これは恐らく、今日の今昔物語の事かと考えられる、

とある(仝上)。

『宇治拾遺物語』は、古く、『今昔物語』と同一視されたり、混同されたりしてきた。たとえば、

今昔物語十五帖大門ニ在之(多聞院日記)、

は、明らかに『宇治拾遺物語』を指している。

『宇治拾遺物語』は、

宇治大納言物語の拾遺、

の意で、作者自身なのか、他の人なのかは分からないが、

建暦二年(1212)から承久三年(1221)までの或る時期に作られたが、(中略)大体十二世紀終わり頃に一先ず成り、少なくとも健保三年(1215)以後・仁治三年(1242)以後の二回は加筆、

された『宇治大納言物語』の後、

さる程に、いまの世に又物かたりかきいれたる、いできたれり。大納言の物語にもれたるをひろひあつめ、又其後の事など書きつめたるなるべし。名を宇治拾遺の物語といふ。宇治にのこれるをひろふと付けたるにや、又、侍従を拾遺(侍従の唐名)といへば、宇治拾遺物語といへるか、

と、後世の「序」の書き手は推測している。その作者は不明である。

しかし、『宇治拾遺物語』は、『今昔物語』が、

各話の書き出しを「今ハ昔」、結びを「トナム語リ伝ヘタルトヤ」、

と統一しているのに比べて、書き出しも、

今は昔、
これも今は昔、
昔、
これも昔、
この近くの事なるべし、

または、

うちつけに書き出す、

等々様々で、結びも統一性はない。

変化を与え、内容も各話が自由な連想のままに随筆風に雜纂され、丁度徒然草を見るように、次々目さきの変化を追うて一冊が読了されるように配慮されている作者の用意が伺われる、

とし(校注者解説)、

中世の説話文学中の白眉

と評している(仝上)。評価はともかくとして、芥川龍之介が、

地獄変、
鼻、
芋粥、
竜、

と、これを題材に小説化したほどには、人の機微を突いたものがあったものとは思う。たとえば、

鼻長き僧の事、

は、

昔、池の尾に善珍内供(ぜんちんないぐ)といふ僧住みける。真言などよく習ひて年久しく行ひて貴(たふと)かりければ、世の人々さまざまの祈りをせさせければ、身の徳ゆたかにて、堂も僧房も少しも荒れたる所なし。仏供、御灯(みとう)なども絶えず、折節(をりふし)の僧膳(そうぜん)、寺の講演しげく行はせければ、寺中の僧房に隙(ひま)なく僧も住み賑ひけり。湯屋(ゆや)には湯沸かさぬ日なく、浴(あ)みののしりけり。またそのあたりには小家(こいへ)なども多く出(い)で来(き)て、里も賑ひけり。さて、この内供(ないぐ)は鼻長かりけり。五六寸ばかりなりければ、頤(おとがひ)より下りてぞ見えける。色は赤紫にて、大柑子(おほかうじ)の膚(はだ)のやうに粒(つぶ)立ちてふくれたり。痒(かゆ)がる事限りなし。

とはじまり、

粥をすする程に、この童、鼻をひんとて側(そば)ざまに向きて鼻をひる程に、手震へて鼻もたげの木揺(ゆる)ぎて、鼻外(はづ)れて粥の中へふたりとうち入れつ。内供が顔にも童の顔にも粥とばしりて、一物(ひともの)かかりぬ。内供大(おほ)きに腹立ちて、頭、顔にかかりたる粥を紙にてのごひつつ、「おのれはまがまがしかりける心持ちたる者かな。心なしの乞児(かたゐ)とはおのれがやうなる者をいふぞかし、

と、鼻を粥に落とすという出来事が中心なのに、芥川の、



は、

禅智内供の鼻と云えば、池尾で知らない者はない。長さは五六寸あって上唇の上から顋の下まで下っている。形は元も先も同じように太い。云わば細長い腸詰のような物が、ぶらりと顔のまん中からぶら下っているのである。

とはじまり、長い鼻を小さくした後、原文では、

提(ひさげ)に湯をかへらかして、折敷(をしき)を鼻さし入るばかりゑり通して、火の炎の顔に当らぬやうにして、その折敷の穴より鼻をさし出でて、提の湯にさし入れて、よくよくゆでて引き上げたれば、色は濃き紫色なり。それを側(そば)ざまに臥(ふ)せて、下に物をあてて人に踏ますれば、粒立ちたる孔(あな)ごとに煙のやうなる物出づ。それをいたく踏めば、白き虫の孔(あな)ごとにさし出るを、毛抜きにて抜けば、四分ばかりなる白き虫を孔ごとに取り出だす。その跡は孔だにあきて見ゆ。それをまた同じ湯に入れて、さらめかし沸かすに、ゆづれば鼻小さくしぼみあがりて、ただの人の鼻のやうになりぬ、

とある工程を、

内供の用を兼ねて、京へ上った弟子の僧が、知己(しるべ)の医者から長い鼻を短くする法を教わって来た、

という、

湯で鼻を茹ゆでて、その鼻を人に踏ませると云う、

そのプロセスを延々と膨らませて描き、さらに、

ただの人の鼻のやうになりぬ。また二三日になれば、先のごとくに大きになりぬ、

としかないくだりを、その短くなっている間の「二、三日」を膨らませ、鼻が短くなった後、本人は、

それから一晩寝てあくる日早く眼がさめると内供はまず、第一に、自分の鼻を撫でて見た。鼻は依然として短い。内供はそこで、幾年にもなく、法華経書写の功を積んだ時のような、のびのびした気分になった、

のだが、

所が二三日たつ中に、内供は意外な事実を発見した。それは折から、用事があって、池の尾の寺を訪れた侍が、前よりも一層可笑しそうな顔をして、話も碌々せずに、じろじろ内供の鼻ばかり眺めていた事である。それのみならず、かつて、内供の鼻を粥の中へ落した事のある中童子(ちゅうどうじ)なぞは、講堂の外で内供と行きちがった時に、始めは、下を向いて可笑しさをこらえていたが、とうとうこらえ兼ねたと見えて、一度にふっと吹き出してしまった、

等々、却って笑いものになったことに、「今はむげにいやしくなりさがれる人の、さかえたる昔をしのぶがごとく」ふさぎこんでしまうのである、

という話にふくらませ、鼻がもとへ戻ったことに、

内供は慌てて鼻へ手をやった。手にさわるものは、昨夜ゆうべの短い鼻ではない。上唇の上から顋の下まで、五六寸あまりもぶら下っている、昔の長い鼻である。内供は鼻が一夜の中に、また元の通り長くなったのを知った。そうしてそれと同時に、鼻が短くなった時と同じような、はればれした心もちが、どこからともなく帰って来るのを感じた。
 ――こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない。
 内供は心の中でこう自分に囁いた。長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら。

と、安堵し、

人間の心には互に矛盾した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。少し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸に陥おとしいれて見たいような気にさえなる。そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くような事になる、

と述懐する心理的葛藤に変えている。

申し訳ないが、単なる、

長い鼻の僧の振舞い、

という状態表現を、その鼻故の葛藤という、

価値表現、

へ変えた(データに意味と目的を加えたもの、つまり価値を加えたものを情報化という)のだが、その手腕や、作品としての評価はともかく、僧の人柄も変わってしまい、素材の笑い話を、人の心のうたてなる反応という価値観へと変えた。その是非はさておくとして、僕には、素材の僧の、食事の時鼻を持っていた、

粥をすする程に、この童、鼻をひんとて側(そば)ざまに向きて鼻をひる程に、手震へて鼻もたげの木揺(ゆる)ぎて、鼻外(はづ)れて粥の中へふたりとうち入れつ。内供が顔にも童の顔にも粥とばしりて一物(ひともの)かかりぬ、

という事態に、

内供大(おほ)きに腹立ちて、頭、顔にかかりたる粥を紙にてのごひつつ、「おのれはまがまがしかりける心持ちたる者かな。心なしの乞児(かたゐ)とはおのれがやうなる者をいふぞかし。我ならぬやごとなき人の御鼻にもこそ参れ、それにはやくやはせんずる。うたてなりける心なしの痴者(しれもの)かな。おのれ、立て立て、

とて、追い立てる内供に、中大童子(ちゆうだいどうじ)が、

世の人の、かかる鼻持ちたるがおはしまさばこそ鼻もたげにも参らめ、をこの事のたまへる御坊かな」といひければ、弟子どもは物の後ろに逃げ退(の)きてぞ笑ひける、

と言い返している両者の対等なやり取りの方が、よほど今風に思える。

参考文献;
中島悦次校注『宇治拾遺物語』(角川文庫)

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