三浦つとむ『日本語はどういう言語か』読む。
著者は、冒頭で、四つの設問をし、本書全体への問題意識としている。
第一は、絵画や写真は客体的表現と主体的表現という対立した二つの表現の切り離すことのできない統一体としてあるが、言語はこの二種類の表現はどういう形をとって現れているか。
第二は、絵画で表現するのに、写生的な立場と地図的な立場(鳥瞰)とがあるが、言語ではこのような立場の違いがどういう形をとって現れているか。
第三は、現実の世界の中でのことと語り手の主観の中でのこととを、言語ではどのような形で表しているか。
第四は、夢の中で夢を見るような、二重化した観念の世界を、言語はどのような形で露わはているのか。
それは、そのまま著者の、あるいは著者が強く意識し、それを敷衍している時枝誠記氏の言語論の内容になっていくのである。
語りのパースペクティブ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic1-1.htm)で触れたことだが、僕なりの著者の理解、つまりは、時枝誠記氏の言語論の理解は、次のように整理できる。
時枝誠記氏は、日本語は、
と図示した(この図示の仕方自体、三浦つとむ氏の案出したものだ)表現における、「た」や「ない」は、「表現される事柄に対する話手の立場の表現」(時枝誠記『日本文法口語篇』)、つまり話者の立場からの表現であることを示す「辞」とし、「桜の花が咲く」の部分を、「表現される事物、事柄の客体的概念的表現」(時枝、前掲書)である「詞」とした。つまり、
「(詞)は、話し手が対象を概念としてとらえて表現した語です。「山」「川」「犬」「走る」などがそれであり、また主観的な感情や意志などであっても、それが話し手の対象として与えられたものであれば「悲しみ」「よろこび」「要求」「懇願」などと表現します。これに対して、(辞)は、話し手のもっている主観的な感情や意志そのものを、客体として扱うことなく直接に表現した語です。」(『日本語はどういう言語か』)
そして、終止形等のように、「認識としては存在するが表現において省略されている」(三浦、前掲書)場合の、
の「網線」部分は、「言語形式零という意味」(三浦、前掲書)で、零記号(ゼロ記号と表記する)と呼んでいる。いずれにおいても、
が、日本語の表現構造になっており、辞において初めて、そこで語られていることと話者との関係が明示されることになる。即ち、
第一に、辞によって、話者の主体的表現が明示される。語られていることとどういう関係にあるのか、それにどういう感慨をもっているのか、賛成なのか、否定なのか等々。
第二に、辞によって、語っている場所が示される。目の前にしてなのか、想い出か、どこで語っているのかが示される。それによって、〃いつ〃語っているのかという、語っているものの〃とき〃と同時に、語られているものの〃とき〃も示すことになる。
さらに第三に重要なことは、辞の〃とき〃にある話者は、詞を語るとき、一旦詞の〃とき〃〃ところ〃に観念的に移動して、それを現前化させ、それを入子として辞によって包みこんでいる、という点である。
三浦つとむ氏の的確な指摘によれば、
「われわれは、生活の必要から、直接与えられている対象を問題にするだけでなく、想像によって、直接与えられていない視野のかなたの世界をとりあげたり、過去の世界や未来の世界について考えたりしています。直接与えられている対象に対するわれわれの位置や置かれている立場と同じような状態が、やはりそれらの想像の世界にあっても存在するわけです。観念的に二重化し、あるいは二重化した世界がさらに二重化するといった入子型の世界の中を、われわれは観念的な自己分裂によって分裂した自分になり、現実の自分としては動かなくてもあちらこちらに行ったり帰ったりしているのです。昨日私が「雨がふる」という予測を立てたのに、今朝はふらなかつたとすれば、現在の私は
予想の否定
過去
雨がふら なくあっ た
というかたちで、予想が否定されたという過去の事実を回想します。言語に表現すれば簡単な、いくつかの語のつながりのうしろに、実は……三重の世界(昨日予想した雨のふっている〃とき〃と今朝のそれを否定する天候を確認した〃とき〃とそれを語っている〃いま〃=引用者)と、その世界の中へ観念的に行ったり帰ったりする分裂した自分の主体的な動きとがかくれています。」(三浦、前掲書)
つまり、話者にとって、語っている〃いま〃からみた過去の〃とき〃も、それを語っている瞬間には、その〃とき〃を現前化し、その上で、それを語っている〃いま〃に立ち戻って、否定しているということを意味している。入子になっているのは、語られている事態であると同時に、語っている〃とき〃の中にある語られている〃とき〃に他ならない。
これを、別の表現をすれば、次のように言えるだろう。
「日本語は、話し手の内部に生起するイメージを、次々に繋げていく。そういうイメージは、それが現実のイメージであれ、想像の世界のものであれ、話し手の内部では常に発話の時点で実在感をもっている。話し手が過去の体験を語るときも、このイメージは話し手の内部では発話の時点で蘇っている。」(熊倉千之『日本人の表現力と個性』)
重要なことは、主体的表現、客体的な表現といっても、いずれも、「話し手の認識」(三浦、前掲書)を示しているということだ。例えば、
という表現の示しているのは、「桜の花が咲いてい」る状態は過去のことであり(〃いま〃は咲いていない)、それが「てい」(る)のは「た」(過去であった)で示され、語っている〃とき〃とは別の〃とき〃であることが表現されている。そして「なァ」で、語っている〃いま〃、そのことを懐かしむか惜しむか、ともかく感慨をもって思い出している、ということである。この表現のプロセスは、
@「桜の花が咲いてい」ない状態である〃いま〃にあって、
A話者は、「桜の花の咲いてい」る〃とき〃を思い出し、〃そのとき〃にいるかのように現前化し、
B「た」によって時間的隔たりを〃いま〃へと戻して、C「なァ」と、〃いま〃そのことを慨嘆している、
という構造になる。
ここで大事なことは、辞において、語られていることとの時間的隔たりが示されるが、語られている〃とき〃においては、〃そのとき〃ではなく、〃いま〃としてそれを見ていることを、〃いま〃語っているということである。だから、語っている〃いま〃からみると、語られている〃いま〃を入子としているということになる。しかし、これが、
と、辞がゼロ記号となっている場合は、外側の辞による覆いがない状態、つまり入子の語りの部分が剥き出しになった状態と言っていい。辞としての、〃いま〃での話者の感嘆を取っただけなのに、こうしてみると、前者と比べて、明らかに〃とき〃の感じが重大な変化を受けていることがわかるはずである。つまり、前者では明らかに〃いま〃から話者が語っているということがはっきりしているのに、後者ではそれがはっきりしなくなっている。
そのため第一に、〃いま〃という辞を取ることで、〃いま〃の中に入子となっていた〃とき〃が剥き出しとなる(〃いま〃の直前、つまり完了を表すということもあるが、「なァ」の〃とき〃よりは過去)。そのことによって、「なァ」でははっきりしていた〃いま〃からの時間的距離(つまり時制)が曖昧化する。前出の例で言えば、「咲いていた」のが、〃そのとき〃であったのに、(〃いま〃からみた〃そのとき〃ではなく)〃いま〃であるかのように受け取れる。だから、「咲いていた」のが、過去というよりは、完了状態を現しているニュアンスが強まっている。
それは、@「た」が辞の位置にあることになる。つまり、「た」という主体的表現は、話者の語っている〃いま〃となる。Aそのため「花が咲いてい」る〃とき〃とそれを語っている〃とき〃との関係が新たなものになっているからにほかならない。
その結果、第二には、そのことによって、「なァ」では、「なァ」と慨嘆していた話者の主体的表現であったものが、その表現を囲んでいた辞(つまり、□)が取られることで、あたかも客観的(事実)の表現(客観的に起こっている(ある)ことの表現)であるかのように変わってしまう。だから、「咲いている」のが、〃いま〃「既に(もう)」咲いている現実を表現しているように変わっていく。
しかし、「た」は過去ないし完了を示す辞ではなかったか?そうならば、「た」に立って語るとは、「なァ」の有無に関わらず、その語っている〃とき〃からの過去であることを示しているはずではないのか。
だが、日本語の過去あるいは完了の助動詞「た」は、
「起源的には接續助詞「て」に、動詞「あり」の結合した「たり」であるから、意味の上から云つても、助動詞ではなく、存在或は状態を表はす詞である。……このやうな「てあり」の「あり」が、次第に辭に轉成して用ゐられるやうになると、存在、状態の表現から、事柄に對する話手の確認判斷を表はすやうになる。」(時枝、前掲書)
とあるように、「過去及び完了と云へば、客觀的な事柄の状態の表現のやうに受取られるが、この助動詞の本質は右のやうな話手の立場の表現」(同)であり、むしろ、判断を示していると見たほうがよく、その場合、問題なのは、それが〃そのとき〃の判断なのか、〃いま〃の判断なのか、が混然としている点なのだ。なぜなら、〃いま〃からみて〃そのとき〃「咲いて」いたという過去についての表現なのか、それとも〃そのとき〃見たとき、既に「咲いて」いたという状態の完結(完了)を示すものなのか、は判然と区別はできないからだ。
この「た」の意味は、次のように変えてみると一層はっきりする。
つまり「た」という判断が、〃いま〃からみた過去だったということを敢えて表現するためには、こうしなくてはならないということだ。ということは、「桜の花が咲いて」いる状態を指摘しているのを語っているのが、〃いつ〃のことなのかを示す機能を「た」はもっていないということにほかならない。つまり、「た」は、語っている〃とき〃を隠されている。終止形のゼロ記号の状態にあるのと同じなのである。だから、「なァ」という〃いま〃を示す辞を失うことで、「た」は過去としてのニュアンスを失い、「(〃いま〃の)判断」なのか「(〃そのとき〃)既に」なのかの区別が曖昧化してしまっている、ということができるだろう。
しかし、同じゼロ記号でも、前述の、
と、
では、異なっている。後者は、主体的判断そのものがゼロ記号化されているのに対して、前者は、判断の〃とき〃がゼロ記号化され、「た」という判断が〃いま〃であるかのように語られている。
つまり、後者では、「桜の花が咲く」とは、主体的な時間に関わった表現ではなく、一般的に「桜の花(というものは)咲く(ものだ)」という概念的意味か、あるいは桜の花が咲いている(事実の)状態を客観的に表現しているかの意味に変わる。
それに対して、前者では、「た」が残ることによって、主体的表現は残されており、ただそれが〃いま〃なのか〃そのとき〃なのかが曖昧化され、〃そのとき〃=〃いま〃として表現されている、ということになる。
このことから、敷衍すれば、ゼロ記号化によって、
話者のいる〃とき〃を隠し、全く客観的表現を装うこともできるし、
起きている出来事(あるいはそれへの主体的表現=辞)を同時進行にドキュメントしている擬制もとれる、
という、二つの機能をもつことになる、といえるのである。
だが、問題はここからである。これが話し言葉であるならこれで問題は終わる。しかし、そう書かれているのだとするとどうなるのか。そう書いたのはいつなのか?
もし、書いたのが〃いま〃だとすれば、図のように書き改められることになる。
つまり、@「桜の花が咲いてい」ない状態である〃いま〃にあって、A話者は、「桜の花の咲いてい」る〃とき〃を思い出し、〃そのとき〃にいるかのように現前化し、B「た」によって時間的隔たりを〃いま〃へと戻して、C「なァ」と、〃いま〃そのことを慨嘆している、Dというように、書き手が書いている〃いま〃にいて、語っているということになる。これがこの語りを語っている本人であれば語り手となるが、それが別の誰かの語りを〃いま〃写したのだとすれば、ゼロ記号の箇所は「と、言う」ということになる。それが語っている〃いま〃より前となれば、「と言う+た(言った)」となる。
ここに明らかになっているのは、語られていることの入子の奥行と、語るものの視点の奥行、つまり認識構造の奥行にほかならないということだ。そしてこのことは、入子の深度に応じた認識の深度になっているというように、入子の奥行が、語るものの認識構造の奥行と対になっているということだ。多くの場合、書かれたものの外郭の□がゼロ記号化していることを意識しないでいる。しかしそれでは、「話し手の認識」の構造をつかんだことにはならない。
以下、特別に指摘しない限り、「語る」〃いま〃とは、そう語り手が書かれた〃とき〃にいて語っていることだとみなしている。
さて、次の場合はどう考えたらいいか。
「と言った」とあることが、語る=書く〃とき〃を示していると考えると、本来の構文から考えれば、話者の辞は、入子になった話者の「〜でしょう」と「言っ」たことを現前化している。しかし、話者はここまで語ったとき、入子となった話者の語っている「桜の花が咲いてる」という事態自体をも現前化しているのである。
つまり、話者が「た」という辞で括ったとき、まず「〜でしょう」と推測した時点での語りを入子として、「桜の花が咲」く状態を想定し(”そのとき〃の発話の状態に〃なり〃)、その上で、それが〃いま〃からみた過去(完了なら直前)だったとまとめていることになる。
更にそこから敷衍すれば、入子になった話者は、「桜の花が咲いている」事態を現前化した上で、それを推測している。その推測を〃そのとき〃聞いたことを、〃いま〃示すことで、話者は、その推測によって縛られていることを示している。〃そのとき〃推測したが今は違うのか、その推測通りになったのか、それともその推測で違う事態がもたらされたのか、いずれにしても、入子の話者の見たものに〃いま〃見られている。だからこそ、それを語った話者は、「でしょう」という推測を「言っ」たことを語ることで、実は、入子の話者の見ているものをも見ている、といえるのである。例えば、
を例に取って考えれば、もっとわかりやすいはずである。ここで、語っている「た」に立った語るものは、その桜を現前化しつつ、その桜にも見られているのにほかならない。語っている〃いま〃から〃そのとき〃を見るとき、その過去の〃とき〃が〃いま〃を照らしている(「た」を完了とみなせば、完了前つまり「咲く」前の〃とき〃が〃いま〃を照らす)。〃そのとき〃は咲いていたが、〃いま〃は咲いていない(完了なら、〃そのとき〃は咲いていなかったが、〃いま〃は咲いている)、というように。そしてそのことによって、〃いま〃は〃そのとき〃に比較して語られている。でなければ、桜の咲いていたことを〃いま〃思い出して語る必要は語り手にはなかったはずなのだ。
だから重要なことは、こうした日本語の語りの構造を考えたとき、実は、語る→語られるは、入子構造になることで、語るものの一方通行ではないということなのだ。
このことは同様に、次のようにゼロ記号化されていても事態は変わらないはずである。
ところが、ゼロ記号化されることで、「でしょう」と推測しているのは、〃いま〃である擬制をとる(前述の入子の部分が剥き出しになった状態)。「でしょう」と推測する相手の「言う」のを語っている話者は、その場で、「『〜でしょう』」と言う」のを見ている形になる。表現上は、現前化されているのは相手の「言う」事態でしかない。つまり話者は、「と『言う』」のを見ているだけで、「桜の花が咲いてる」のは語られたのをそのまま語っているだけだ。
その場での感慨にしろ、過去の想い出にしろ、あるいは推測にしろ、そうした主観の表現を省略したとき、一見表現されたものは、そのとき話者がそれを同時的に見ているという擬制的な客観描写にみえることによって、話者のパースペクティブは、「言う」ことにしかとどかなくなるということである。ゼロ記号によって、しかし、話者の〃いま〃は消えても、むろん話者の存在までが消えてしまう訳ではない。
つまり辞は、いわば、
「観念的に二重化し、あるいは二重化した世界がさらに二重化するといった入子型の世界の中を、われわれは観念的な自己分裂によって分裂した自分になり、現実の自分としては動かなくてもあちらこちらに行ったり帰ったりしている」(三浦、前掲書)
自由を保証しているということができる。それは、詞を主体的な表現で包むとは、観念的世界であるということを表示していることでもあるということを意味する。たとえば、
「語られているもの(詞)」語っているもの(辞)、
と、カギカッコにいれてみると、会話の文言が「語り手」のそれてあるように、「語られているもの(詞)」は、「語っているもの(辞)」の「」に入れられたのと同様、詞と辞の境界を空間的に示してみれば、話者の位置は、「」を境にして、時間的空間的に隔てられている。しかし観念的には、時間的隔たりにすぎない。過去について思い出すとき、語られているもの(こと)の〃とき〃と〃ところ〃にいるような実感をもっても、語られているのは時間的に前のことだ。また、推測ないし想像によって、〃いま〃の別のところにいる誰かについて、そこにいるつもりになることもできる。それが「観念的な自己分裂」にほかならない。しかし辞があるかぎり、それとの隔たりは明示される。
ところが、ゼロ記号のときは、辞が消え、「語られているもの」の〃とき〃が剥き出しとなることで、〃とき〃も〃ところ〃も明示なく変わってしまう。〃そのとき〃であったものが、〃いま〃であるかの擬制をとる。
それは、辞が表記されていないだけ、話者(話者のいる〃とき〃)を隠して、いかにも客観的事実(同時的現実)を表現しているように見えるというのにすぎない。話者そのものが消えることではなく、その背後に、確かに話者がいるのに違いはないのである。
今回、再度読み直してみて、1つ忘れていたことは、応答詞で、
「応答詞では、話し手はいつも相手の言葉を理解しようと努力しており相手の立場に立っているのですから、表現に先立ってその立場は二重化しています」
とし、たとえば、「うん」と肯った場合、
「肯定のときは、二重化した相手の立場において肯定」
するので、下図のような構造になる。
「いや」と、否定した時は、
「否定のときは、その相手の立場と違った立場に移って行って否定」
するので、下図のような構造になる。
主体が、相手の言っている「こと」(詞)に同意しているか、相手の言っていること(辞)を否定しているかの、主体の観念的な動きの違いを、明確に示すことができる。
この「詞」と「辞」の構造は、実に応用範囲が広く、物語論や小説論にも使えることを実感している。改めて、その言語論、というよりも、言葉を使うときの認識構造の分析に、強烈な刺激を受けた。
参考文献;
三浦つとむ『日本語はどういう言語か』(季節社)
時枝誠記『日本文法 口語篇』(岩波全書) |