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書評14


中国を定む

佐藤信弥『戦争の中国古代史』読む。


「中国古代史は、様々な勢力間の戦争を通じた『中国』形成史と見ることができる。」

と、著者は「まえがき」で述べる。本書は、

「甲骨文など同時代の文字資料に軍事に関する記録が現れはじめる殷代から漢王朝成立までの戦争を見ていくことで、この『中国』形成」

を見ていく、と。

『史記』五帝本紀のいう三皇五帝の神話時代である新石器時代から、本書は始まるが、それは、

黄河中・下流域、

である。戦争の痕跡とみられる、骨鏃の食い込んだ骨が発見されるのは、紀元前4300〜2800年、さらに、紀元前3000〜2500年頃の廟底溝第二期文化期から紀元前2500〜1750年の中原龍山文化の間に、鏃(やじり)は、

「軽くて遠くまで飛ぶことを重視したものから、重くて深く突き刺さるものへ」

と、画期が現れる。龍山文化期の陶寺遺跡は、

尭の都、

とする説もあり、

城壁に囲まれた集落、

が出現する。青銅器の武器が現われてくるのは、

夏王朝の王都、

と推定されている二里頭(にりとう)遺跡(前1600〜1300)からで、殷前期の二里岡(にりこう)文化(前1600〜1300)に属する、

殷代初期の都城、

と目されている偃師(えんし)商城は、殷の湯王が二里頭文化を滅ぼした際の拠点と見なされている。夏と目される「二里頭王朝」から代わった殷の「二里岡文化」は、

青銅器文化で、その影響は、その勢力圏とされる、

漢中盆地、
江漢地区、
四川盆地、

に及んでいる。殷王朝の直轄地は、

王畿、

と呼ばれ、その外に、

方国(ほうこく)、

と総称される、殷にとっての外国がある。敵対する国もあれば服属する国もある。その方国の一つであった、

周、

が、

牧野(ぼくや)の戦い(前1000年代後半)、

で殷を破る。

西周(前1000年代後半〜771)、

の成立である。詩経に、

牧野洋洋たり、
檀車(だんしゃ)煌煌たり、
駟騵(しげん)彭彭たり、

とある。駟騵(四頭立ての戦車)が勝敗を分けた。「中国」の初出は、二代武王の言葉を引いた三代成王の、

余其れ茲の中国に宅し、

という言葉に初めて登場する。ここでは狭い範囲で、殷の拠点のあった河南省北部の首都圏、つまり、

殷王朝の王畿、

を指す。西周の滅亡が紀元前771年、周が東遷するのが紀元前700年代半ば、770以降を東周というが、この前半が、

春秋時代、

後半が、

戦国時代、

である。これ以降、王朝と戎夷など外部勢力との闘いから、諸侯同士の内戦になっていく。所謂、

群雄割拠、

である。春秋時代は、

斉の桓公、
宋の襄公、
秦の穆公、
晉の文公、
楚の荘王、

等々の、

春秋の五覇、

戦国時代は、

韓・魏・趙・燕・斉・楚・秦、



戦国の七雄、

の時代である。春秋時代は、孫武の時代であり、戦国時代は戦国策、孫臏、孟子の時代である。春秋と戦国の違いは、

「春秋は覇者が周王の権威のもとで諸侯に対する指導権を握った時代だが、戦国になると、諸侯は周王の権威を無視して自ら王号を称するようになった」

とされる。そして、紀元前256年周が滅ぶ。七雄中最強となった秦は、

「赧王(たんおう)の死によって周王朝が断絶した際に、秦の昭襄王は周よりその権威の象徴とも言うべき九鼎を接収し」

単独で秦に立ち向かえる国がなくなり、秦王政は、紀元前230年に、

「韓を攻めて王を捕らえたのを皮切りに、趙、魏、楚、燕、斉と次々に攻め滅ぼしていく」

この前230年、秦王政の十七年が、秦による、

統一戦争、

のはじまり、とみなされる。所謂コミックの『キングダム』の世界である。

『史記』が、

「十余年にして蒙恬死し、諸侯、秦に畔(そむ)き、中国擾乱す」

とする、秦三代目の混乱の中、

王侯将相寧(いず)くんぞ種有らんや、

という陳勝の言葉通り、庶民の劉邦が、下剋上を制した、

統一帝国、

を指して、

中国、

と呼び、

「是の時漢初めて中国を定む」

と、

秦・漢統一帝国の領域、

を指して「中国」と呼んだ。西周の時代、殷王朝の王畿をさした「中国」が八百年経て、膨張した広大な領域を指すに至っている。著者は、

「様々な勢力間による戦争を通じて『中国』が膨張していき、最終的に『草原帝国』を統一した匈奴との戦いを通じてその範囲が定まって」

いったとする。その象徴は、

万里の長城、

である。それまでは、戦国の各国が敵対勢力の侵攻を阻むために築いていたものだが、秦は趙・燕の築いていた長城を利用して、胡への対処として築かれていった。それは「中国」の外を意識したものである。

漢は、

「草原帝国」との戦いを経て「中国」の形を形成していった。(中略)現代中国に「敵国」があるとすれば、それは一体どういう存在なのだろうか? 中国は何を求めて戦っているのだろうか?」

という掉尾のまとめは、今日の膨張中国への、なかなかな皮肉である。

参考文献;
佐藤信弥『戦争の中国古代史』(講談社現代新書)

講義するドラッカー

リック・ワルツマン編『ドラッカーの講義(1943-1989)~マネジメント・経済・未来について話そう』、『ドラッカーの講義(1991-2003) ~マネジメント・経済・未来について話そう』を読む。

 

本書は、1943年から2003年までの、60年にわたる間の31回の講義をまとめたものだ。

訳者「あとがき」には、

「隠れていたドラッカーがあらわれた。」

というのが、本書を一言で言い表すものだ、と述べている。しかし、編者が「はじめに」でいうような、

「ドラッカーのバリトンのような声」

は、紙面では無理としても、あるいは、

「あらかじめ用意した講義用のノートにはまったく目もくれません。ときおり話をやめて自分の考えをまとめるその姿は、まるで大量の情報をダウンロードしているコンピューターさながら、再び元の話に戻ると、ダウンロードした事実や数字を織り込みながら時節を展開する」

様子は見えないにしても、

「ドラッカーの話はまさに変幻自在、実にさまざまな話題が飛び出します。原価会計の話がいつのまにか脱線してメソポタミアの都市国家の話になったかと思えば、高等教育や医療の歴史の紹介に移っています。どういうわけか、最後にはそうした話題を上手にまとめ上げてしまうのです。」

というドラッカーの講義の片鱗は、窺えなくもない、といった程度に、講義は印刷媒体用に、整理され過ぎているため、ドラッカーの講義の魅力は、紙面からは、感じ取れないのが残念である。もう少し、講義のままに、文字起こしすべきではなかったか、という気がしないでもない。

これと対比されるのが、『Harvard Business Review』誌に寄稿した33本の論文を完全収録した、

『P・F・ドラッカー経営論』(ダイヤモンド社、2006年)、

である。1950年から2004年までの論文を集約している。少なくとも、これを通読すれば、ほぼドラッカーの全てがわかる。しかし、残念ながら、本書は、講義ということもあるのか、全部を読んでも、ドラッカーの全体像はつかみにくい憾みがある。

それでも、ドラッカーの先見性を示す見事な話は結構ある。たとえば、

知識社会の到来、

と、そこでの、

知識労働者、

のありようについて語っているのは、

「今の私たちに見えているアメリカの教育の将来像」(1971年)、

で、

「学習は生涯続くものだと考えるようになります。最も大切な学習、つまり最も重要な本物の教育は、成人向けの生涯教育なのです」

と語り、ただし、

「ここで言う成人とは、既定の高等教育を受け、仕事や人生で際立った業績を上げ、成功を収めているひとのことです。」

とする。ここで言う、

生涯学習、

は、カルチャーセンターに通うレベルの意味では、もちろんない。それには、テクノロジーの急速な進歩に対応するという意味がある。しかし、それだけではない。たとえば、ドラッカーの上級経営講座で、

「どれくらいの頻度で学校にやって来るのか聞いてみました。すると、『少なくとも二年に一度ですね。変化についていくためには。三年か四年に一度は学校で基本を勉強し直さないと、取り残されてしまいますから』という答えが返ってきました。」(1999年「学ぶことから教えることへ」)、

とあり、しかもそれはハイテク業界ではなく、自動車業界、航空幾業界、工作機業界なのだとある。これはすべての業界に当てはまる。当然、

「ひとりひとりはスペシャリストになる必要があります。ただし、知識にはもうひとつ、奇妙な特質があります。それは、重要な新しい進歩はスペシャリストの専門分野から生れるのではない、という特質です。そうした進歩は、外部からもたらされるのです。」(1989年「知識の講義U」)、

だから、

「基礎となる専門領域を維持しながら、その一方では外部で起こっているイノベーションの意味も的確に把握しなければならない」

のである。その上で、ドラッカーは、

「自分自身の居場所がわかっていますか」(1992年)、
「自分自身を経営する」(1999年)、

で、人類史上初めて、

「私たちは自分自身を経営する責任を負わされているのです」

と喝破し、だからこそ、これから必要なのは、学校の時期に、

「どのようにして学べばいいのかを学ばなければならない」

と(「教えることから学ぶことへ」)、指摘したのである。それは、ひとりひとりが

起業家、

とまでいかなくとも、

個人事業主、

の感覚がいるということである。これは、技術の大変革時代の今日こそ、まさに必要なことで、「メガトレンドの行方」http://ppnetwork.seesaa.net/article/481602237.html?1621535438で触れたように(山本康正『次のテクノロジーで世界はどう変わるのか』)、

「『大学を卒業したら、もう勉強は無意味』という、30年以上前の昭和の時代の考え方から頭を切り替えよう」

と、主張していたが、まさに30年以上前に、ドラッカーは、

生涯学習、

を提唱していたことが分る。

この時のドラッカーの、

自主独立のスペシャリスト、

は、

「アイデンティティ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/436220288.htmlで触れた、

人生コースの個別化、

と重なるのである(マーク・L・サビカス『キャリア・カウンセリング理論』)。サビカスは、

「学校を卒業して就職すること、あるいは仕事から次の仕事に移動することは、会社に依存するというよりは、個人に依存する度合いが大きくなっています。」

とし、

「いまでもフルタイム雇用が主要な仕事の形態であり、長期のキャリアも存在しているが、階層体系的な組織が壊れつつあるのに続いて、臨時の仕事やパートタイムの仕事がますます常態化しつつある。デジタル革命によって、組織はマーケット状況に合わせてより小さく、よりスマートに、より機敏になることが要求されている。」

「組織は、標準的な仕事に非標準的な契約を混入させている。仕事は消えていないが、雇用数は減らすという手法によって、プロジェクトの開始と共に始り、製品の完成と共に終了する契約に変えることによって、雇用形態が変化している。」

「組織の中核で働いている労働者にとってさえ、確実で予測できるキャリアの筋道は消えつつある。確立された路線、伝統的な筋書きは消えつつある。今日の多くの労働者は、安定した雇用に基礎を持つ堅実な生活を発展させるのではなく、生涯を通じた学習を通じて、あるいは誰かが言ったように『生きるための学習』を通じて、柔軟性のある能力を維持していかなくてはならない。安定した生活条件のなかで計画を立ててキャリアを発展させるのではなく、変化しつつある環境の中で、可能性を見いだしながら、キャリアをうまく管理していかなくてはならない。」

それは、仕事が非標準化され、そのことによって、人生も、非標準化され、

「それぞれが行う仕事によって自分の安定した居場所をこの世の中に見出すことができなくなっている」。こういう時代に必要なのは、

「企業の提供する物語を生きるのではなく、自分自身のストーリーの著者になり、ポストモダン世界における転職の舵を自分で取らなければならない。」

であり、

人生コースの個別化、

が必要とする。それは、

自分の居場所、

は自分で見つける(1992年「自分の居場所がわかっていますか」)ことであり、

自分自身を経営する、

ということなのである(1999年「自分自身を経営する」)。

参考文献;
リック・ワルツマン編(宮本喜一訳)『ドラッカーの講義(1943-1989)~マネジメント・経済・未来について話そう』、『ドラッカーの講義(1991-2003)~マネジメント・経済・未来について話そう』(アチーブメント出版)、
ハーバート・ビジネス・レビュー編『P・F・ドラッカー経営論』(ダイヤモンド社、2006年)
マーク・L・サビカス『キャリア・カウンセリング理論』(福村出版)
山本康正『次のテクノロジーで世界はどう変わるのか』(講談社現代新書)

邪馬臺国の滅亡

若井敏明『謎の九州王権』読む。

本書は、邪馬臺国とつながる倭国の系譜が、「ヤマト王権」によって滅ぼされるまでを描く。当然、邪馬臺国は、

九州説を前提、

とする。僕も、口幅ったいようだが、

畿内説、

はあり得ないと思っている。ヤマトの王権に続く大和朝廷は、

邪馬臺国、
も、
卑弥呼、

も承知しておらず、中国の史書によってはじめて知った気配である。畿内に邪馬臺国があったとしたら、それはおかしい。村井康彦『出雲と大和』http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163142.htmlでも触れたように、

『魏志倭人伝』で知られた倭の女王卑弥呼の名が、『古事記』にも『日本書紀』にも全く出てこないこと、

しかも、『日本書紀』の著者たちは、中国の史書で卑弥呼の内容も存在も知っていながら、にもかかわらず名を出さなかった、

等々から、卑弥呼が大和朝廷とは無縁の存在である。従って、邪馬台国は大和朝廷とはつながらないのだと思う。

著者の、

九州王権、

は、「邪馬壹国」論で著名な古田武彦氏の、

九州王朝、

と重なるが、その違いを、

「古田氏は、邪馬臺国(氏の主張では邪馬壹国)が九州にあったことと、『三国志』の『魏書』東夷傳倭人の条(『魏志』倭人伝)以降の中国史書に見える倭には連続性が認められることを主な根拠として、九州を領土とする王朝が弥生時代初期から七世紀末まで存在したとする。
しかし、中国・朝鮮の史料にみえる倭がすべて九州王朝を指すというのは、無理があるのではないか。私は『広開土王碑』に見える倭や、いわゆる倭の五王(讃・珍・済・興・武)はヤマト王権を指すと考えている。」

とし、

「ヤマト王権に支配されるまで九州に存在した王権」、

を、

九州王権、

と呼ぶ。日本の史料では、ヤマト王権は、

三世紀後半から四世紀、

にかけての、

崇神・垂仁・景行天皇の時代、

つまり、

大王(おおきみ)の時代、

に列島統一の過程にあり、

「崇神天皇の時代に、東は北陸から東海、北は丹後、西は吉備が支配地となり、その後、出雲も支配に屈した。垂仁天皇の時代に但馬の勢力を降したヤマト王権は、いよいよ九州地方に本格的な進出をくわだてる。」

『日本書紀』と『風土記』によれば、「景行天皇自身による親征」は、

四世紀前半、

と著者は推定する。つまり、

「日本の史料では、ヤマト王権と九州勢力の接触は四世紀にならないとみとめられない」

のである。

「三世紀に九州諸国を統括していた倭王・卑弥呼の都である邪馬台国は畿内の大和ではなく、九州に所在したと確信する所以である」

と。

景行天皇の九州遠征は、最初は、四世紀初頭、

「南部九州の襲(そ)国(鹿児島県霧島市・曽於市あたりか)に至る時期である。この頃、九州では、(卑弥呼の宗女)
壹与(臺与とも)の時代はすでに終わっていたと思われる。」

このときは、東部北部を除く九州を支配下に置き、

国造を、

宇佐、豊、国東、日田、日向、大隅、薩摩、火、阿蘇、葦分(葦北)、天草、

に置く。そして、「『ヤマトタケル』と呼ばれた小碓皇子(おうすのみこ)の皇子、成務天皇のあとを継ぎ即位した仲哀天皇」が、遠征を開始するが、

(一に云く)天皇、みずから熊襲を伐(う)ちて、賊の矢にあたりて崩ず(書紀)、

と、九州王権側の、

羽白熊鷲(はしろくまわし)、

と戦って敗死し、代わった神功(じんぐう)皇后は、

層増岐野(そそきの)、

で羽白熊鷲(はしろくまわし)斃し(福岡県朝倉郡筑前町)、本拠地、山門(福岡県みやま市)に入る。『日本書紀』仲哀九年(367)三月丙申条に、

転じて山門県に至り、則ち土蜘蛛・田油津媛(たぶら(ゆ)つひめ)を誅す。時に田油津媛の兄、夏羽(なつは)、軍を興して迎え来る。然るに其の妹の誅されたるを聞きて逃ぐ、

とある。著者は、これを、

邪馬臺国の滅亡、

と見る。

卑弥呼→壹与……→田油津媛、

と続く女王の系統と見ることになる。たしかに、この、

田油津媛と、兄夏羽、

は、魏志・倭人伝の、卑弥呼のくだりの、

夫婿無く、男弟あり、佐けて国を治む、

の、

卑弥呼―弟、

を類推させる。あとは、考古学的な検証がまたれるが、百年たっても、天皇陵の検証はされそうもない。この国は、自国の歴史すら偽装しても憚らないらしい。

参考文献;
若井敏明『謎の九州王権』(祥伝社新書)

 

内戦史

倉本一宏『内戦の日本古代史〜邪馬台国から武士の誕生まで』を読む。

サブタイトルにあるように、本書では、

弥生時代から中世成立期にかけて、およそ850年間の、

邪馬台国時代の、倭国の狗奴国・邪馬臺国戦から、ヤマト王権の国内統一戦以降、壬申の乱、蝦夷征討、天慶の乱、前九年・後三年の役、と武士が台頭してくるまで、を追っていく。

同じ著者が手掛けた、日本の対外戦を取り扱った、

『戦争の日本古代史−好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』http://ppnetwork.seesaa.net/article/451581100.htmlで触れたように、前近代の日本、及び倭国は、対外戦争の極めて少ない国であった。倭寇や元寇などは別として、

四世紀末から五世紀初頭にかけての対高句麗戦、七世紀後半の白村江の戦い、秀吉の半島侵攻、

のみである。一方、国内戦も、

「実は日本は内戦もきわめて少なく、その規模も中国やヨーロッパ、イスラム社会と比較すると、小さなもの」

であった(「はじめに」)。

「古代最大の内戦であった壬申の乱も、動員された兵力は『日本書紀』が語るような大規模のものではなかったはずであるし、天慶の乱で最後まで平将門に付き従った兵はごくわずか、保元の乱で平清盛が動かした兵は三百名ほどであった(戦闘自体はで死んだ者は一人もいなかったという指摘もある)。」

のであり、

「もちろん、個々の合戦の現場における実態は苛烈なものであり、犠牲になった多くの人」

はいるにしても、海外から見ると、

「日本史の平和さについて感心(かつ感動)している」

と。しかも、特徴的なのは、

「王権そのものに対して戦争をしかけた例は、ほとんどない」

ことである。それは、

「日本に国家というものが成立したとき、中国のような易姓革命を否定して世襲を支配の根拠とした王権を作ったため、王権を倒そうとする勢力もついに登場せず、王権側も易姓革命に対応するための武力を用意していなかった」

ことと、加えて、臣下のものたちも、例えば、長く権力を握った藤原氏も、

「天孫降臨神話で天照大神の孫にあたる瓊瓊杵尊に随伴したとする天児屋命(あめのこやねのみこと)を始祖として設定」

しており、権力を強めても、自ら王権を樹立しようともしなかった。それは、平氏や源氏も、天皇家から分かれた士族であったため、

「王権を武力によって滅ぼして新たな王権を作ることよりも、女(むすめ)を天皇家に入れて所生の皇子を次の天皇に立て、自らは外戚として権力を振るうという、藤原氏と同じ方策をめざした。」

これは。

「古代王権が確立した神話に基づく王権を否定し、新たな支配の根拠を作り上げるよりも」

はるかに簡便で効果的な方法、

であった、と(仝上)。

こんな国内戦が、他国のように、

異民族との殲滅戦、

が起こるはずはない。ために、

「国家側の『追討』も、ほとんどは和平・懐柔路線を主体とした外交交渉が主たるもので、大規模な戦闘はほとんど行われなかった」

とする。国内統一戦の象徴、

日本武尊伝承、

をみても、殆どが、

だまし討ち、

で、こうした物語の造形は、

「地方勢力が完全に武力で倭王権に屈服したわけではないことへの配慮、また実際に武力による征伐ではなく、外交交渉によって倭王権と同盟関係を結んだことの反映ではないかと考えられる。」

と著者は想定する。こうした流れは、「征夷」といわれる、坂上田村麻呂の対蝦夷戦でも同じで、

「ほとんどが軍事力行使をともなわない制圧」

であった、とする。その象徴が、岩手県に伝わる「鬼ごっこ」である。

「それは鬼が縄をもって子どもたちを追いかけ、捕まえると腰を縄で結ぶ。捕まった子どもは鬼の手先となり、一緒に他の子どもを追いかける。そして多数となった鬼の集団が最後の子どもを囲んで捕まえるまで、この遊びはつづくのである。何とその遊びは『ちんじゅふ』と呼ばれていた。最初の鬼こそ、田村麻呂だったのである。」

陸奥按察使・陸奥守兼鎮守将軍である坂上田村麻呂に由来していることは明らかである。

こうした戦いが転機を迎えるのは、源頼義・義家による前九年・後三年の役である。

安倍貞任を滅ぼした厨川柵の戦いで、捕らえた貞任側の藤原経清を、

苦痛を延ばすために鈍刀で少しずつ首を斬る、

とか、安倍一族を滅亡させるのに加勢し、出羽・陸奥を手中に収めた清原武則氏の後継者をめぐる内紛に介入した源義家は、金沢柵の戦いで、兵糧攻めにし、女子供をも皆殺しにし、捕らえた清原武衡を、

兵の道では降人を漢代に扱うのが古今の例、

とする嘆願を無視し、斬首にしたうえ、

戦いの最中、矢倉から、

「頼義は安倍貞任を討ち果たすことができず、名簿を捧げて清原武則に臣従し、貞任を打ち破ることができた。汝(なれ 義家)は相伝の家人でありながら大恩ある主君(家衡)を攻め立てているから、天道の責めを蒙るにちがいない」

と悪口を浴びせた藤原千任を捕らえると、義家は、

「金ばさみで歯を突き破って舌を引き出し、これを切らせた。千任を縛り上げて木の枝に吊り下げ、足を地に着かないほどにして、その足の下に、武衡の首を置いた。千任は力尽き、足を下げて、主人武衡の首を踏んでしまった」

という、「古代国家ではありえない」残虐さ、嗜虐性を示す。これが武家の棟梁といわれる源義家である。

切取強盗武士の習い、

とはよく言ったもので、豊田武『武士団と村落』http://ppnetwork.seesaa.net/article/461149238.htmlで触れたように、

「在地領主の開発した私領、とくに本領は、『名字地』と呼ばれ、領主の『本宅』が置かれ、『本宅』を安堵された惣領が一族の中核となって、武力をもち、武士団を形成した。中小名主層の中には、領主の郎等となり、領主の一族とともにその戦力を構成した。武士の中に、荘官・官人級の大領主と名主出身の中小領主の二階層が生まれたのも、このころからである。武門の棟梁と呼ばれるような豪族は、荘官や在庁官人の中でもっとも勢を振るったものであった。」

要は、国土を私的により多く簒奪したものが武家の棟梁なのである。その意味で、著者が、いまだに、

尚武の気風、

を貴ぶ意味が分からないと嘆くのには、同感である。

参考文献;
倉本一宏『内戦の日本古代史〜邪馬台国から武士の誕生まで』(講談社現代新書)

メガトレンドの行方

山本康正『次のテクノロジーで世界はどう変わるのか』読む。

キャッチコピーに、

ハーバード大学院理学修士+38歳ベンチャー投資家にして元グーグル+京大特任准教授が描くテクノロジー基礎、

とある。そして、2年後のビジネスは、

AI(人工知能)+5G+クラウドのトライアングル、

を中心として進む、と提唱する。ここまでは、たぶん予想の範囲だろう。しかし、その中心に居るのは、アメリカの、

FAAN+M G(フェイスブック・アマゾン・アップル・ネットフリックス・グーブル+マイクロソフト)、

であり、それを猛追するのは、中国の、

BATH(バイドゥ・アリババ・テンセント・ファーウェィ)、

であり、日本は蚊帳の外どころか、生き残れるかどうか危ういと聞くと、薄々予感はしていたものの、脱力感が強い。確か、ソフトバンクの孫正義氏が、

「現在世界に300億円以上の価値がある未上場のAI関連企業が670社あるが、半分がアメリカ、半分の半分が中国。日本はなんと3社なんです」、

と指摘し、

「ハイテクジャパンと言われてたのが、完全に後ろのほうをついて行っている。なんとしても日本の政府、経済界、危機感を持っていますぐ取り組まなきゃいけない」

と訴えていたのを思い出す。

モノづくり日本、

などと20世紀的なことを言っている為政者では、この急激に進化する世界の潮流に乗れるはずはない。

著者は、近未来に起こるメガトレンドを、

データがすべての価値の源泉になる、
あらゆる企業がサービス業になる、
全てのデバイスが箱になる、
大企業の優位性が失われる、
収益はどこからえてもOKで、業界の壁が消える、
職種という概念がなくなる、
経済学が変わっていく、

と7つ上げている。ハードよりソフト、ソフトより、ネットの時代である。主導権は、ネット→ソフト→ハードウエアの順位となっている。レンタルビデオショップからスタートした、

ネットフリックス、

が、動画配信サービスの巨大帝国となり、いまや、自前の映画やドラマを作り、その予算が一兆円というと、ハリウッドすら、ネット動画配信サービスが凌駕する時代が来ている。となれば、もはやテレビは蚊帳の外になる。

数周遅れの、

モノづくり、

にこだわるということは、単なる部品屋になるということである。今日、既に多くの日本メーカーはiPhoneの部品屋になっているが、これが日本の趨勢ということになるのかどうか。

しかし、たとえば、アマゾンが、

カメラ付きの冷蔵庫モニター、

の特許を取っており、

「モニターが常に360度監視し、あらゆる食材のデータをとっていく。画素数が上がれば冷蔵庫の隅々の食材が何かを正確に特定できるので、ヌケ、モレがなくなり、食材の販売チャンスを逸することがなくなる。」

といって、アマゾンは、アレサ対応の電子レンジや冷蔵庫を開発・販売しているが、冷蔵庫を製造販売で稼ぐつもりはなく、あるいは、格安で冷蔵庫を提供し、別の分野で儲けようとするかもしれない。グーグルの無料メールサービスと同じである。そうなれば、家電メーカーは存在できない。同じことは、ベッドでも起こる。

「横になった回数、寝返りを打った回数、寝る位置、寝る姿勢など、睡眠中の全てのデータを集めることができる。」

そして、そのベッドを格安で提供する。そういう時代である。モノづくりでは生き残れない。

グーグルは世界中の図書館の本を1ページ単位でスキャンしている、

という。いま、ネットを制する者は、

データを制する者、

になりつつあることを承知しているからだ。中国の強みは、是非は別として、

「13億人という膨大な国内人口に加えて、プライバシーという概念がないに等しい」

ことだ。たとえば、AIの性能は、

データの量と優れたアルゴリズムの掛け算できまる、

という。データの価値に気づいている中国が、

「アメリカを超えるようなAIを持つのも時間の問題」

という。

新しいテクノロジーが開く未来に、著者が楽天的なのは当然としても、

「それでもテクノロジーは前に進めるべきだ。倫理は大事だが、後で考えればいいこともある。それよりも追いつけなくなったときのほうが致命的である。反対意見はあるだろうが、私はその立場をとる。」

には、ノイマンを思い出す。

高橋昌一郎『フォン・ノイマンの哲学』http://ppnetwork.seesaa.net/article/480483995.htmlで触れたように、非人道的な原子爆弾開発について、

われわれが生きている世界に責任を持つ必要はない、

と断言した。ノイマンの思想の根柢にあるのは、科学で可能なことは徹底的に突き詰めるべきだという「科学優先主義」、目的のためならどんな非人道的兵器でも許されるという「非人道主義」である。

ノイマンはこう言ったとされている。

我々が今作っているのは怪物で、それは歴史を変える力を持っている!……それでも私は、やり遂げなくてはならない。軍事的な理由だけでもだが、科学者として科学的に可能だとわかっていることは、やり遂げなくてはならない。それがどんなに恐ろしいことだとしてもだ。これははじまりにすぎない、

と。いまその恐ろしさは、制御不能なまでに拡散している。歯止めなきテクノロジー礼賛、利潤追求には、ちょっとたじろぐところがある。

参考文献;
山本康正『次のテクノロジーで世界はどう変わるのか』(講談社現代新書)

天下の意味

渡邊大門『清須会議〜秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』読む。

信長横死後の織田家のありようを決めた「清須会議」で主導権を握った秀吉は、その後、

「(神戸)信孝、(柴田)勝家を葬り去り、小牧・長久手の戦いで(北畠)信雄・徳川家康を屈服させた」

とされる秀吉の天下取りの流れを、一次史料を中心に検証する、というのが本書の意図である。そして、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、四国・九州征伐を経て、奥州仕置までを、本書は取り上げる。

人口に膾炙している俗説を修正しつつ書かれているが、今日、ほぼ知られていることが多い。その中で、

天下、

という意味が、どう変わっていくかが、秀吉の変化とともに面白い。

周知のように、信長は、

天下布武、

の朱印を使ったことが知られているが、今日、この天下は、

日本全国、

の意味ではないことが、明確にされている。天下布武に、

全国統一、

の意味はないのである。この時代における、

天下、

は、

将軍が支配する畿内、

を示し、それが共通認識であった。信長の天下の意味は、

@地理的空間においては、京都を中心とする世界、
A足利義昭や織田信長など、特定の個人を離れた存在、
B大名の直轄する「国」とは区別される、将軍の管轄領域、
C広く注目を集め、「輿論」を形成する公的な場、

に集約される、という。もし信長の「天下布武」が、「全国統一」を意味するなら、その朱印の押された手紙を受け取った大名にしてみれば、宣戦布告の意味になる。そんなことをわざわざするとは考えられない。信長の意識では、

畿内平定、

が一義的にあった、と見られる、という。しかし、いつ、

天下=全国統一、

になったのか。

秀吉の事跡をみていくと、天正十一年(1583)年から大坂城築城工事を始めるが、全国の大名に動員をかけ、一日五万人の人夫が工事に携わった、とされる。後に、家康の天下普請そのものである。このとき、秀吉は、

天下人、

を意識していた、と著者は言う。しかし、まだ、秀吉は、山城を中心とした、

畿内、

を掌握していたにとどまる。「天下」もその範囲である。

そして小牧・長久手の戦いを、越後・上杉、北関東・佐竹との友好関係によって北条を牽制し、

「秀吉は、局地戦での勝敗よりも、信雄・家康包囲網を形成し……包囲網はじわじわとボディブローのように利いて」

結局、

「実質的に悪条件を吞まざるを得なかった信雄・家康連合軍の敗北」

により、秀吉は、

従三位・権大納言に叙任任官、

される。この後、秀吉は、

官位の斡旋、

をし、信雄に、

正三位・権大納言、

を叙位・任官させる。まだ天下は、

畿内に留まる、

ものの、秀吉は、

天下人、

を意識し、天正十三年(1585)に、

関白、

に就任し、

豊臣、

という姓を賜る。この頃、秀吉は、足利将軍が用いた、

御内書(おないしょ)、

という書式を使用するようになる。「御内書」は、

「発給者の意思を示す直状形式の文書で、家臣の添状とセットになる。書止文言は、『也』で終わることが多く、『恐々謹言』のような丁寧なもので結ばれていない。尊大な形式の文書である。受け取った相手は、添状を書いた家臣に返事を送り、秀吉への披露をねがうことになる」

もので、

「御内書で出陣を依頼し、書止文言が『也』で終わる場合は、『出陣しろ、以上』というイメージ」

になり、その立場を優位に置き始め、同時期、文書中に、

「自敬表現を用いるようになる。」

自分に敬語を使うのである。後に家康も、これを真似る。

この時期、真田昌幸と徳川家康が対立、

上田城合戦、

で、徳川側は大敗する。この過程で、昌幸への書状で、秀吉は、

天下に対し事を構えている、

とし、家康討伐の旨を伝える。このとき、

天下=秀吉、

であった。結局家康は屈服し、上洛、臣従することになるが、まだ奥州、九州は臣従していないものの、ほぼ、この時点で、秀吉にとって、天下は、

日本全国、

になっている。これに伴って、全国の大名に、自分の、

「羽柴」氏、

や、下賜された姓、

「豊臣」姓、

を諸大名に与え始めると同時に、

官位による大名の序列化、

を図り、

序列の視覚化、

を行い、

「秀吉一門や有力な大名が一斉に公家成(くげなり)」、

をしていく。秀吉は、

「抽象的な意味での武家社会のトップである征夷大将軍よりも、関白・太政大臣という公家社会の頂点に位置し、公家のシステムを換骨奪胎して創出した、独自の武家官位制」

を作り上げていく。このシステムは、徳川時代にも踏襲される。

天正十六年(1588)に、島津義久に発給した書状に、

天下、

が用いられているが、この時、天下は、

日本全国、

を指す。これを嚆矢として、江戸初期には、

「天下は京都や畿内を意味しなくなり、日本全国を指す」

ようになる。

つまり、「天下」は、実質的な全国制覇に伴って、その範囲が広がり、自分自身を、その意味で、

天下人、

と意識するようになっていく、ということになる。

ちなみに、一般に、今日、

清須会議、

と言われているが、当時の史料には、そういう呼称はなく、その嚆矢は、中村孝也著『日本近世史』(大正六年(1917)刊)とされる。

参考文献;
渡邊大門『清須会議〜秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)

ジェノサイド

田中克彦『ことばは国家を超える―日本語、ウラル・アルタイ語、ツラン主義』読む。

本書は、

「ウラル・アルタイ研究から長い間離れていたことのもうしわけであり、ふたたびその入口にたちもどった今の感慨と心情から書いたもの」

とある(あとがき)ように、日本語の起源をめぐる、

ウラル・アルタイ説、

の歴史を辿り直す。その闊達な文章は読みやすいせいか、ウラル・アルタイ語に関わる系譜についての研究そのものよりも、それにかかわる人たちの人間模様がとりわけ面白かった。

日本語は、

膠着語、

と言われる。それは、

複数を表すのに「タチ、ラ、ドモ」のような語尾、

をつけたり、動詞だと、例えば、「飛ぶ」なら、「tob」という語幹に、

tob anai(飛ばない)、
tob imasu(飛びます)、
tob eba(飛べば)、
tob ô(飛ぼう)、

というように、「くっつけたり、又自由にとりはずしができる」タイプの言語とされる(ドイツの言語学者、ヴィルヘルム・フォン・フンボルトによって提唱された)。それが、

ウラル・アルタイ語、

に共通する特徴で、日本語が、ウラル・アルタイ語と共通に持つ14の特色というのがある。それは、

・語順に子音が連続することを避ける(だから日本語にはstr-(たとえばストライキ)のように子音が三つも重なって発音されることがない)、
・語頭にr音がこない、
・母音調和が存在する(上代特殊仮名遣いの甲類・乙類の違い)、
・冠詞が存在しない、
・文法的カテゴリーにおける性がない、
・動詞の活用変化の仕方(屈折(たとえば、see―saw―seen)がなく一律に膠着法による、
・(動詞につく)語尾の接辞が多い、
・代名詞の変化(日本語はテニオハの接尾による)、
・(前置詞ではなく)後置詞の存在、
・「モツ」という言葉がなく、(……に〜がある)という異なる用法をとる、
・形容詞の奪格(〜より)を用いる、
・疑問詞が文のあとにくる、
・接続詞の用例が少ない、
・言葉の順序(「限定詞」+「被限定詞」)及び、「目的格」+「動詞」の語順、

というものである。これをめぐっては、さまざまに論じられてきたが、

インド・ヨーロッパ語、

の祖語を探っていくような、

「『誰も一度も見たことがない祖語』を想像する」

という考え方に、著者は、言語は、

系統的類似よりは、類型的な共通性によってグループを成す、

という立場から、こう指摘している。

「アルタイ語は、たとえばツラン低地からアルタイ山地にかけての広い地域で遊牧民の諸言語が接触し合って、共通の類型的特徴をもつアルタイ諸語として形成されたのかもしれず、またそれがウラル諸語と長期のコンタクトをもったかもしれない。このようにして形成された諸言語を印欧比較言語学で行われたように、単一の祖語から分化したと考え、stoffliche Übereinstimmung(語彙や文法的道具などの実質的な一致〉を求めようとするのは誤った想像であって、止めた方がいいかもしれない。」

言語を、ダーウィンの進化系統樹に準えるのは、そもそもその仮定そのものが検証されなくてはならないのではないか。

ただ、僕は素人ながら、言語は、語彙や音韻や、発音だけではなく、

文章の構造、

あるいは、

語る構造、

を比較すべきだと思う。例えば、国語学者の時枝誠記氏は、日本語では、
 

における、「た」や「ない」は、「表現される事柄に対する話手の立場の表現」(時枝誠記『日本文法口語篇』)、つまり話者の立場からの表現であることを示す「辞」とし、「桜の花が咲く」の部分を、「表現される事物、事柄の客体的概念的表現」(時枝、前掲書)である「詞」とした。つまり、

「(詞)は、話し手が対象を概念としてとらえて表現した語です。「山」「川」「犬」「走る」などがそれであり、また主観的な感情や意志などであっても、それが話し手の対象として与えられたものであれば「悲しみ」「よろこび」「要求」「懇願」などと表現します。これに対して、(辞)は、話し手のもっている主観的な感情や意志そのものを、客体として扱うことなく直接に表現した語です」(三浦つとむ『日本語はどういう言語か』)。

つまり「辞」において初めて、そこで語られていることと話者との関係が明示されることになる。即ち、

 第一に、辞によって、話者の主体的表現が明示される。語られていることとどういう関係にあるのか、それにどういう感慨をもっているのか、賛成なのか、否定なのか等々。
 第二に、辞によって、語っている場所が示される。目の前にしてなのか、想い出か、どこで語っているのかが示される。それによって、〃いつ〃語っているのかという、語っているものの〃とき〃と同時に、語られているものの〃とき〃も示すことになる。
 さらに第三に重要なことは、辞の〃とき〃にある話者は、詞を語るとき、一旦詞の〃とき〃〃ところ〃に観念的に移動して、それを現前化させ、それを入子として辞によって包みこんでいる、という点である。三浦つとむ氏の的確な指摘によれば、

「われわれは、生活の必要から、直接与えられている対象を問題にするだけでなく、想像によって、直接与えられていない視野のかなたの世界をとりあげたり、過去の世界や未来の世界について考えたりしています。直接与えられている対象に対するわれわれの位置や置かれている立場と同じような状態が、やはりそれらの想像の世界にあっても存在するわけです。観念的に二重化し、あるいは二重化した世界がさらに二重化するといった入子型の世界の中を、われわれは観念的な自己分裂によって分裂した自分になり、現実の自分としては動かなくてもあちらこちらに行ったり帰ったりしているのです。昨日私が「雨がふる」という予測を立てたのに、今朝はふらなかつたとすれば、現在の私は
       予想の否定 過去
雨がふら なくあっ た
 というかたちで、予想が否定されたという過去の事実を回想します。言語に表現すれば簡単な、いくつかの語のつながりのうしろに、実は……三重の世界(昨日予想した雨のふっている〃とき〃と今朝のそれを否定する天候を確認した〃とき〃とそれを語っている〃いま〃=引用者)と、その世界の中へ観念的に行ったり帰ったりする分裂した自分の主体的な動きとがかくれています。」(三浦、前掲書)

 つまり、話者にとって、語っている〃いま〃からみた過去の〃とき〃も、それを語っている瞬間には、その〃とき〃を現前化し、その上で、それを語っている〃いま〃に立ち戻って、否定しているということを意味している。入子になっているのは、語られている事態であると同時に、語っている〃とき〃の中にある語られている〃とき〃に他ならない。つまり、「話し手の認識」(三浦、前掲書)を多層的に示しているのである。

 これを、

「日本語は、話し手の内部に生起するイメージを、次々に繋げていく。そういうイメージは、それが現実のイメージであれ、想像の世界のものであれ、話し手の内部では常に発話の時点で実在感をもっている。話し手が過去の体験を語るときも、このイメージは話し手の内部では発話の時点で蘇っている。」(熊倉千之『日本人の表現力と個性』)

という言い方もできる。

こういう「語られていること」の構造の特色をも、比較しなければ、表面的な類比だけでは、生きた言葉の特徴を比較したことにはならないのではないか。そうした言及は、あまり見られなかったことが、疑問である。

ところで、本書のタイトルは、

ことばは国境を超える、

である。しかし、国家によって、たとえば、中国が、ウイグルや内モンゴルでやっているような、

言語を消滅させる政策、

によって、かつて日本が、アイヌ人に日本語教育を強いて、アイヌ語を絶滅させたように、いま、

言語のジェノサイド、

を行われている。著者は、こう書く。これは、

「ウイグル語やモンゴル語のように非文明語は、―いずれもアルタイ語だ! ―ウイグル人、モンゴル人本人にとっても迷惑な言語だから、なるべく早く、こんな劣った言語はやめて漢語(シナ語)に入れ替えたほうが本人たちのしあわせになるのだという信念があるのかもしれない。「脳の中のことばの入れかえ」―これは200年ほど前のフランス革命時代にフランス人たちが考えたことの再現だ」

とし、1794年の国民公会でバーレルが、

「我々は、政府も、風俗も革命した。さらに言語も革命しよう。連邦主義と迷信は低地ブルトン語を話す。亡命者と共和国への憎悪はドイツ語を話す。反革命はイタリア語を話す。狂信者はバスク語を話す」

と、「おくれたヤバンな民族のことばは誤った思想のタネであり、これをやめさせて文明語に入れ替えれば、その民族にとってもいいことだ」という優越思想の反映である。問題なのは、

「これはチョムスキーの言語観とも食い違っていない。人間はすべて、普遍文法を身につけて生まれているから、どんな言語でもとりかえられる。かれらの身につけたできの悪い母語を、りっぱな文明語と入れ替える」

と、しかも、

「日本にも同様な考えを抱く人は決して少なくないかもしれない。私の言語学はこのような単純な考えを抱く人たちとの思想的なたたかいだ」

と。

「人間の考え方、さらには考える力は言語に依存するのみならず、言語によって限定される」

という、ウィトゲンシュタインは、

「人は持っている言葉で見える世界が違う」

といった、民族の言葉を絶滅させることは、

民族の文化、

の絶滅であり、それは、

民族そのものの、

を、消滅させることである。まさに、いま中国のしていることは、

ジェノサイド、

そのものである。

参考文献;
田中克彦『ことばは国家を超える―日本語、ウラル・アルタイ語、ツラン主義』(ちくま新書)
時枝誠記『国語學原論』(岩波書店)
三浦つとむ『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫)
「言葉の構造と情報の構造」http://ppnetwork.c.ooco.jp/prod0924.htm

一人一名

尾脇秀和『氏名の誕生〜江戸時代の名前はなぜ消えたのか』読む。

本書では、

「日本人の人名の歴史を、古代から語り始めることをあえてしない。江戸時代の『名前』を出発点として、その時代における人名の常識がどんなもので、それがいかなる経緯で変化し、どのように今の『氏名』が生まれたか―。それを語りたいのである。」

とし、そのために、

「まず江戸時代の人々が無意識のうちに受容・共有していた、その時代の人名の常識」

から始め、それが王政復古により、朝廷の常識とする人名への人名の「王政復古」を強制される中での混乱を通して、結局、今日の「氏名」へと落ち着くまでの経緯を描く。

その混乱の収斂のありさまも滑稽だが、江戸時代の名前の常識は、改めて独自の世界だと驚かされる。

今日、

氏名、
あるいは、
姓名、

という呼び方で意味しているのは、例えば、

横浜太郎、

なら、

氏(あるいは姓)が、横浜
名が、太郎、

というのが、常識である。しかし、これは、明治五年五月七日の、

太政官布告、

で、

従来通称・名乗、両様用来候輩、自今一名たるへき事、

と、

一人一名、

とする旨の布告以降のことなのである。つまり、逆にいうと、江戸時代は、例えば、武士だと、

苗字+通称、

と、

本姓+名乗、

の両名を持っていた。それを、著者は、

壱人両名、

と呼ぶ。

苗字は、江戸時代、

苗氏、
名字、

等々と表記し、これを、

姓、
とか、
氏、

と呼んでいた。通称は、

遠山金四郎、

の、金四郎のような、下の名前で、

名、
とか、
名前、

と呼ばれた。この通称には、

@大和守とか図書頭というような正式の官名、
A主膳、監物、主計などの、疑似官名(江戸時代は官名を僭称できなくなっている)、
B熊蔵、新右衛門、平八郎などの一般的な通称、

の三種がある。しかし、大名・旗本などを中心に、

本姓(姓)、

というものがあり、

源、
とか、
藤原、
とか、

の「姓」を持つ。名乗は、

実名、
諱、
名、

とも呼ばれたが、通常、

「日常世界では使わないし、その機能も有していない」

ものだが、

本姓+名乗、

という、自身の系譜を表現する「姓名」として設定しておく必要があった。通常は使わなくても、

「正式な官名を名前とする大名と一部の旗本には、人生で一度くらい必要になる」

設定であった、とある。

しかし、この時、朝廷は別の常識、古代以来の官制に基づく、常識を持っていた。たとえば、

山部+宿禰+赤人、

というように、

氏(本姓)+姓(=尸 かばね)+名(実名)、

で表記される。つまり、

姓+実名、

こそが、その人の個人の名とするのである。官位は、あくまで、この姓に対して与えられる。

この朝廷の常識が、王政復古で復活されようとして、維新の五年間大混乱になるが、徴兵制導入とともに、

「『国家』が『国民』個人を一元的に管理・把握する」

必要があり、

明治八年二月、名字強制令、

で、全国民に「氏名」強制されることになる。これ以降、

苗字+名、

という「氏名」が常識になる。

「『苗字』の血縁的な意味とか、それを名乗る正当性とか、そんなものに、『国家』は何の関心もない。『国家』にとっての『氏名』とは、『国民』管理のための道具でしかない」

ものになったのである。この上に立って、

戸籍法、

が成立し、

「初回の徴兵は徴兵対象者の80%が徴兵を逃れた」という、

徴兵制、

の厳格化が可能となったのである。


 

(近代氏名の成り立ち 本書より)


著者が言うように、

「歴史上『名前(苗字+通称)』と『姓名(姓+実名)』、そして明治五年以降の『氏名』という三種類が存在」

したことになるのである。その認識も、今日ほとんど共有されていないが。

参考文献;
尾脇秀和『氏名の誕生〜江戸時代の名前はなぜ消えたのか』(ちくま新書)

自由民権・社会主義・民本主義

林茂『近代日本の思想家たち―中江兆民・幸徳秋水・吉野作造』を読む。

本書は、

「近代日本における民主主義の側に立つ政治思想の歴史を、とくに三人の人物をとりあげることによって、あとづけてみたいと考えた」(あとがき)

との意図で書かれている。それは、

「近代日本における思想一般ではない。また、政治思想一般でもない」(仝上)

ものである。取り上げたのは、

中江兆民、
幸徳秋水、
吉野作造、

の三人である。生年は、中江兆民は、

弘化元年(1847)、

幸徳秋水は、

明治四年(1871)、

吉野作造が、

明治十一年(1878)、

であり、吉野作造の生まれたころ、

「中江兆民は自由民権論の先達の一人としてすでに一部の人々に知られていた。幸徳秋水は土佐で少年の日をすごしていた。」

というのが、時代における三者の位置関係になる。

この百五十年の間、

「日本は三たび民主主義思想の先例を受けた。初めには自由民権運動の形で、つぎは大正の民本主義として、さらに太平洋の敗戦後における、「民主化」として」、

と著者は「はじめに」で語る。しかし、列強の脅威の中での開国・維新後の民権運動と、敗戦による「民主化」は、共に外圧の中での、いわば他力によるものだ。唯一、大正の普通選挙運動そのものが、日本で、ただひとつ、

国民自身の手で勝ち取ったもの、

のように僕は思う。その意味で、「普通選挙運動」に至る民主主義思想の流れを見ることは、「与えられた」民主主義が、ほぼ形骸化し、衰弱している今日、とりわけ意味があるように思えてならない。

兆民中江篤介(とくすけ)は、

東洋のルソー、

と呼ばれ、自由民権運動の最大の指導者であった。『三酔人経綸問答』で、こう言っている。

「政治の本旨は、国民の意嚮に循由し、国民の知識に適当し、国民をして安靖の楽を保ちて、福利の利を獲しむるにある。もしにわかに国民の意嚮にしたがわず知識に適しない制度を用いるときは、国民の安靖の楽と福祉の利とは得られない。
 専制から立憲に、立憲から民主にと進むのはまさに政治の発展する順序である。専制政治から一足飛びに民主政治に入るというようなことは、けっしてその順序ではない。」

と。著者は、兆民の、

「その胸奥において、理論的には、共和制を支持しつつ、当時の日本の段階において、実現されるべきものはイギリスに類する立憲君主制であるとしていたと見るのがあたるであろう。」

と位置づける。国会開設運動に力を入れ、早くから普通選挙論者であった兆民は、

輿論の代表の場としての国会の地位、

を重視した。

「そうして、政党や議員をその背後から擁護し、声援するものとして、輿論、一般人による輿論の地位を大きく位置づけたのであった。輿論は彼にあっては、『第二の君主』であった。それは『第一の』というのをはばかって言ったものとしか受けとれない。」

やがて、政党政治家に愛想をつかすことになっても、

人民への愛情と輿論の重視信頼、

は変わらなかった。

秋水幸徳傳次郎は、兆民最大の弟子である。秋水の名は、中江兆民から与えられた。秋水は、こう書いている。

「小生は幼年の頃より、最も急進なる、最も過激なる、最も極端なる非軍備主義、非国家主義、無政府主義の書を愛読致候。此書や欧米文書の翻訳には無之、純乎たる我東洋人の著述にして、而して東洋人多数の尊敬措かざる所に候。即ち、老子、荘子の書、釈迦の経典にて候」

と。著者は、社会主義者となった秋水の素地を、

「変革する時代とその中で没落していく階級、自由民権思想とその運動の洗礼、とりわけその理論的指導者の一人であった中江兆民との深い接触、儒教的教養、これがその素地であった。彼はみずから儒教から社会主義に入ったとしたこともある。」

と記す。当初、三申小泉策太郎が言うように、

衆議院議員、

になる志を持ち、犬養毅、谷干城ら政治家とも接触し、議会主義政策を取って、

普通選挙、

実施も主張した。しかし徐々に社会主義にシフト、安倍磯雄らと社会民主党を結成し、『平民新聞』発禁に関連して、編集人として責任を問われ、投獄されるが、それについて、著者は、秋水は、

「『マルクス派の社会主義者』として入獄したが、『過激なる無政府主義者』となった出獄した」

と評する。出獄後、渡米するが、帰国後、「余が思想の変化」と題して、

「普通選挙や議会政策では真個の社会的革命を成遂げることは到底出来ぬ、社会主義の目的を達するには、一に団結せる労働者の直接行動(デレクトアクシヨン)に依る外はない。」

と主張し、

普通選挙による議会制民主主義、

による変革から、

直接行動、

による変革へと舵を切る。だが、三年後、大逆事件に連座して、逮捕され、半年後処刑された。今日、この事件自体が、

国家によるフレームアップ、

ということが明らかにされているが、秋水自身、手紙の中で、無政府主義者の革命運動とは、

「唯来らんとする革命に参加して応分の力を致すべき思想智識を養成し、能力を訓練する総ての運動」

と言っており、著者は、こう述べる。

「直接行動が議会を経ないからといって、それは議会をあてにしないということであって、直接行動なら何でもやるというのではない。」

にもかかわらず、

「検事や予審判事たちは、彼秋水の話に『暴力革命』という名目をつけ、『決死の士』などという言葉を考え出し、『無政府主義の革命は皇室をなくすことである。幸徳の計画は暴力で革命を行ふのである。故に、これにくみしたものは大逆罪を行はうとしたものにちがひない』という三段論法をとった」

と。証拠ではなく、でっちあげた「計画」を、予断で裁いたといっても過言ではない。

吉野作造は、生涯、東京帝国大学教授を辞した後も、講師として大学で教鞭をとり続けた。その業績は、

国内の政治、並びに社会問題、

だけではなく、

明治文化史(『明治文化全集』30巻の刊行に尽力)、
中国問題(清国政府に招かれて北洋法政学堂の共感などを務めた)、
欧米の政局問題(イギリス、ドイツ、フランス等に留学している)、

がある。しかし彼を有名にしたのは、「憲政の本義を説いて其有終の美を済(な)すの途を論ず」をはじめとする一連の論文で、

民本主義、

を説き、「その実現が日本における立憲政治を達成する所以である」ことを主張したことである。それは、

「近代政治にあっては、……いわゆる輿論を実質的に創成するものは少数の哲人であるが、これを形式的に確定するものは民衆である。この点において、近代政治の理想とするところは絶対的民衆主義とは相容れない。一般民衆それ自身がただちにすべての問題の決定者たる能力を完全に備えているとするような説明は、とうてい承認しうるところではない。実際の運用から見ても、今日の民衆はつねに少数専門の指導者を必要とし、いわゆる指導者はまた民衆とふだんの接触を保つことによって、ますます自分の聡明をみがいている。ようするに、民衆は指導者によって教育され、指導者は民衆によって鍛錬される。近代政治の理想は最高最善の政治的価値のできるだけ多くの社会的実現を保障するところにある。その数ある特徴のうち、最もいちじるしいものは民衆の意向を重んずるという点にある。」

とし、その意味で、これを、

民本主義、

と呼んだ。そのための制度として、下院における、

普通選挙の実現、
と、
政党内閣制の樹立、

を主張した。しかし、この民本主義は、

「主権が人民に在ることを否定するものであった。すなわち、リンカーンの『人民・人民による・人民のための政治』という語のうち、『人民の』を認めないものであった。」

中江兆民の「輿論」観と比べても、遥かに後退している観を否めない。にもかかわらず、官憲の圧迫、迫害を受け、憲兵の機関紙では、「デモクラシー」自体も標的にされ、吉野作造も「根を絶やし」とするほど名指しされた。

吉野作造は、『中央公論』を舞台に20年にわたって、政治を論じ続けた。実践家というよりは、思想家