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書評15


伊勢参り

旅の文化研究所編『絵図に見る伊勢参り』読む。

本書は、寛政九年(1797)に刊行された『伊勢参宮名所図会』を読み解きながら、江戸時代の伊勢参りの実像に迫っている。『伊勢参宮名所図会』は、

「一八世紀初頭からの伊勢参宮案内記の伝統を承けて刊行された」

もので、

「多様であった参宮の経路を代表的なふたつに集約し、その道中の場所が担う歴史を絵図とともに詳細に詳述した点で、それまでの類書とは一線を画していた。この本の出現によって、伊勢神宮は実に豊富なイメージと共に統一された。」

とあるほどの強い影響力を持った。「豪農の暮らし」
http://ppnetwork.seesaa.net/article/482424187.html?1626028105でも触れたが、上総國望陀群大谷村(現千葉県君津市)の、戸数56軒の小村の豪農は、嘉永二年(1849)、安政六年(1859)と、伊勢、西国金毘羅詣での旅をしていた。凡そ五十余日の旅である。江戸時代、

一生に一度の伊勢参り、

とされ、年間100万人、宝永二年(1705)の「おかげ参り」流行の時は、362万人もの参詣者があったとされる(本居宣長『玉勝間』)。『伊勢参宮名所図会』のような本が、手引きともなり誘因にもなったと推測される。

背景には、社会・経済的な安定と、例えば、伊勢講のような仕組みがある。「講」は、

「講費を分担して積み立て、……伊勢までの往復の旅費と伊勢で神楽奉納を行う祈祷料となる。そして、それは代参者によって運用される。代参者は、何人かずつが輪番制で毎年変わっていくので、何年かに一度は講員がもれなく行ける」

というものであった。こうした参詣者側の条件とは別に、「庶民の旅」を発達させた要因に、

街道と宿場の整備、

が、参勤交代の制度と合わせて、幕府主導で国家事業として進められ、

(旅の)安全性、

という装置が、

「望みうる最良の水準が確保された」

ことが一つ、いまひとつ、

制度系、

の要因として、

手形の一般化、

がある。

「いわゆる道中手形であるが、庶民の場合は往来手形。それが檀那寺や氏神神社から、つまり僧侶や神主から発行されるようになった。(中略)それは、旅の利便をはかるある種の合理性をももって自然に発生し、広まった習慣であった。街道と諸設備が整備されたとはいっても、徒歩行である。それなりに難行であることに変わりはない。不慮の事故のなかで、もっとも厄介なのは死亡である。その場合も、檀那寺の手形があれば、もよりの寺で(宗旨を問わず)密葬してくれることになるのである。」

庶民の伊勢参りを支えたのは、

御師(伊勢では、オンシ)、

の存在である。本来神職であっが、神人の性格をなくして商人化する。

「神宮との組織的な関係を断絶し、それぞれに独立した『口入れ神主』と化し……、全国的に師檀(御師と檀家)関係を組織化して、参宮者の旅を万端斡旋する……。御師の数は、……江戸中期には600から700家ぐらい……いた、と類推できる。各御師は、すでにカスミともいう檀那場を決めていた。カスミの内にある家を檀家とか檀那という。安永六年(1777)の『私祈祷檀家帳』には、国別の信者数が掲げてある。それを総計すると約419万戸である。御師を通じて集計した数字であるから多少の誇張もあるだろうが、それにしても驚くべき数字である。日本全体の七〜八割に相当するであろうか。」

そうした組織化された檀家を相手に、

「御師の第一の商業活動は、毎年一度、檀家に『大神宮』と銘された神札(大麻ともいう)を配布することであった。大麻は、檀家が伊勢に参って天下泰平、五穀豊穣の祈願をすべきところを、御師がすでに代行して祈願したものとする証印である。(中略)
大麻に次ぐ御師の第二の商品は、音物(いんもつ)であった。いわゆる伊勢みやげである。杉原紙・鳥子紙・油煙(炭)・帯・櫛・海苔・茶・伊勢暦など、……こうしたみやげは、当初は商品として売買されたのではなく、多額の初穂(祈祷料)を出してくれた人への添えもの(答礼)だった。」

こうして檀家との結びつきを強めた御師の大きな収入源は、

「伊勢に参宮する檀家の人たちに宿を提供することであった。御師の家に泊まる檀家は、御供料(神饌料)・神楽料・神馬料を払うのが習わしであった。」

いずれも伊勢神宮とは関係がない。しかし、参宮に訪れた、

「檀家の人たちに対しては、下へも置かない接待に徹した。檀家の一行が宮川を渡ってくると、年配の手代が慇懃に出迎える。御師の家の門前に着くと、ただちに入浴をすすめる。そして一行が髭を剃り、髪を結いなおし、用意された羽二重の着物にあらためて座敷に落ち着いたとき、主人が出てきてうやうやしく挨拶をし、遠路の労をねぎらう。そのあと食事となる。これまた鯛に鮑に海老に灘の生一本などの二の膳、三の膳。」

こうした大盤振る舞いの「宣伝効果」をも意識した御師は、

元祖旅行総合業、

であるが、それだけでなく、

「庶民の旅の手続き上の難儀を代行するだけでなく、伊勢においては旅館業やみやげもの店も兼ね、祈祷神楽も行う。無論檀家と講社の管理は万全で、講費の管理まで代行」

する、伊勢参宮の綜合サービス業でもあった。

前述の「豪農の暮らし」
http://ppnetwork.seesaa.net/article/482424187.html?1626028105でも、名主を引退して伊勢の旅に出た「八郎兵衛」は、山田に入ると、御師の小林太夫方に到着するが、

未六月廿三日四ツ時小林太夫様え着仕候、

と旅日記に書いていた。

さて、伊勢に入り、斎宮村から、宮川の渡しのある小俣の途中の上野村に、かつて明野の原とよばれた野があり、東明星、中明星、新明星と呼ばれるところには茶屋があり、繁盛していた、という。

「明星の茶屋化粧(ば)けといふおんなども」

と(大馬金蔵『伊勢参宮道中記』)、茶の女でありながら、遊女まがいのなりをして、接客していたらししい、とある。

 
(明星(伊勢街道の風景) https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/MieMu/82944046631.htmより)

中川原は宮川の渡しの東に位置し、山田町の入口にある。ここに、片旅籠茶屋と呼ばれる施設があり、御師の手代が参詣人を出迎える場所になっていた。左側で挨拶しているのが御師の手代。家族と思しい参詣人を出迎えている。

 
(中川原(御師の手代の出迎え) https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/MieMu/82944046631.htmより)

絵図の外宮は、三枚セットの俯瞰図になっていて、今は入れない玉串御門前まで参拝し、その参拝の様子も、土座礼(チベットの五体投地、中国や韓国の膝突礼に通じる)であることが面白い。

この図の添え書きに、

「天子の御参宮ハ持統帝聖武帝五白川帝」

とあり、天皇の参宮が定例化したのが明治以後のことだとわかる。
 

 
(外宮宮中之図(其の二) https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/MieMu/82944046631.htmより)
 

御師の館で執行する神楽は、宮中の「御神楽(みかぐら)」に対し、

里神楽、

である。祈願主の料物(神楽料)に応じて、大々神楽、大神楽、小神楽の区別があり、それによって、

「楽人(男性)、舞人(女性)の人数が決まる、とある。神主は御師が務める。

 
(「神楽の様子」 https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/MieMu/82944046631.htmより)

「間の山(あいのやま)」は、外宮と内宮の間にある山を言う。坂道で、妙見町の東にある坂と、東古市町を挟んだ先の牛谷という坂も、間の山と呼ばれ、この坂に挟まれたのが、古市の遊郭になる。

間の山には、参詣者に錢を乞う芸人や女乞食が多く集まった、とある。全体の人の流れと逆方向に、右端に、御師と手代が描かれている。古市まで参詣客を送り届けた帰りか、とある。

 

内宮と外宮の間にある遊郭。古市の人家342軒、妓楼が70軒、遊女は1000人を超えたという。下の方に羽織を着た御師の手代が坐っている。遊郭の案内役も務めた、とある。

伊勢参宮大神宮にもちょっとより、

という川柳がある。俗に、

往きの精進、帰りに観音ご開帳、

といった。遊郭で遊ぶのは定番であった。遊郭での伊勢音頭がショーのように演じられるようになり、その遊び方が定着すると、女性客も遊郭に訪れた、とある。
 

 

内宮の絵図も三点セット。名称と本文を突き合わせて行けば、参詣の順路が分ると掛けになっていた。
 

 

『伊勢参宮名所図会』は、五巻六冊、付録一巻二冊の絵入り大本にもかかわらず、評判がよかったらしく、享和二年(1802)、嘉永元年(1848)にも刊行された、という。見ているだけで、その歴史と背景が分り、旅心を誘われたことは疑いない。

参考文献;
旅の文化研究所編『絵図に見る伊勢参り』(河出書房新社)
『伊勢参宮名所図会』https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/MieMu/82944046631.htm
山本光正『幕末農民生活誌』(同成社)

下剋上

黒田基樹『下剋上』読む。

本書は、著者によると、

「戦国大名家でみられた、家臣が主君に取って代わるという典型的な下剋上を中心に、主要な下剋上の事例について取り上げたものである。そしてそのことを通じて、戦国時代に広範に見られた、下克上の性格と特徴を明らかにするとともに、それが生み出されていき、さらにはそれが封じ込められていく、いわば戦国時代を生み出し、終焉へと向かわせた社会状況の変化とその要因を見いだそうとしたもの」

とある。取り上げているのは、

主家山内上杉家の上杉顕定に反旗を翻した、上杉家家宰である長尾景春、
伊豆国主の堀越公方足利家を滅亡させて伊豆国主となった伊勢宗瑞(北条早雲)、
斯波家の重臣でありながら越前で主家から自立し、越前国主になった朝確孝景、
京極家の出雲守護代から、実質出雲支配を果たした尼子経久、
父子二代で、美濃を土岐家から簒奪した斎藤利政(道三)、
大内義隆の家宰から反乱を起こし、義隆・義尊節を殺害した陶晴賢、
細川家家臣から自立し、足利将軍をも追放して天下(京畿)を支配した三好長慶、
足利義昭を追放し天下を統治しようとした織田信長、
主家織田家を凌駕し、屈服させ天下人になった羽柴秀吉、
主家豊臣秀頼を滅ぼし、天下人となった徳川家康、

である。

今日当たり前に使っている、

下剋上、

という言葉は、「中世から当時の史料や軍記物語で使用されているが」、

実際の使用例は少ない、

という。

「主に公家の日記や寺社の文書にわずかにみえるにすぎず、そこでは百姓が領主の支配内容に異論を示したり、身分の下位の者が上位の者を紛争の際に殺害した行為などについて表現している」

のであり、それは、

「身分が下位にあったにもかかわらず、実力によって身分上昇を果たす」、

成り出者、

を指し、それを、

身上がり(身分上昇)、

と、批判している文脈で表現されている。それは、

身分秩序の再編、

の中で、

「家臣が主君を排除する行為だけではなく、百姓が領主支配に抵抗したり、下位の者が上位の者を殺害したり、あるいは分家が本家に取って代わったり、身分の下位の者が上位者を追い越して出世していく」

等々、意味する範囲は広い。共通しているのは、

「下位の者が、主体性を以て、実力を発揮して、上位の者の権力を制限したり、それを排除したりすること」

である。

しかし意外なことに、明智光秀のような、

主殺し、

の例は少なく、陶晴賢でも、主家一族の晴秀を立てているし、多くは、尼子経久、斎藤利政、織田信長等々のように、追放するにとどめている。それは、

「主君の一族を擁した主家家臣によって反撃され、滅亡」

させられるからである。

「主殺しの場合、それだけでは主家家中の同意を獲得することは難しく、反対勢力の反撃を受けるリスクが高かった」

のである。

しかし、信長が「天下人」の地位を確立したころには、戦国大名が淘汰され、

「奥羽では伊達・最上・南部、関東では北条・佐竹・里美、中部では武田・徳川、北陸では上杉、中国では毛利、四国では長宗我部、九州では大友・島津・竜造寺」

等々となり、

「もはや家臣がとって代わる下剋上はみられなくなっている。」

それは、

「個々の戦国大名家の領国の広範化、その継続性により、戦国大名家としての枠組みが確固たるものなっていた」

ため、

「戦国大名家を主宰する当主家とその分身である一門衆の地位が確立したため、まずは一門衆による当主交替、一門衆による当主への対抗という方法がとられ、もはや家臣による下克上の余地はなくなっていた」

からである。つまり、それは、新たな身分秩序が確立した、という意味になる。そして、次は、全国の秩序確立としての、

天下人による戦国大名家の従属化や討滅、

による新たな全国秩序となり、

「服属した戦国大名は、もはやそれ以前のような完全な自立的国家ではなくなり、統一政権の『惣無事』論理によって戦争権を制御された存在に変化」

していく。

豊臣政権→徳川政権、

の政治秩序形成は、官位を手段として、

「大名家の政治的地位は、政権からあたえられた官位によって表現される」

ことになっていく。そして、

「大名家の家政をめぐる内部紛争が生じたとしても、それはあくまでも内紛として処理され、自力による解決で終わらせることはできず、最終的に政権の処理によって決着」

されることになる。

このことは逆にいうと、いわゆる「下剋上」というものが、戦国時代特有の、

自力救済、

の手段の一環として遂行された、ということを意味しているように思える。しかし、秩序が確立してしまうと、その余地はなくなってしまった、ということに他ならない。

戦国の終りとは、土豪だけでなく、百姓・町人の、

自力救済、

の剥奪でもある。

村や町の「自力救済」については、
「小さな共和国」http://ppnetwork.seesaa.net/article/468838227.html
「自力救済」http://ppnetwork.seesaa.net/article/467902604.html
で触れた。

参考文献;
黒田基樹『下剋上』(講談社現代新書)
仁木宏『戦国時代、村と町のかたち』(山川出版社)

 

oT化の中で

桑島浩彰・川端 由美『日本車は生き残れるか』読む。

自動車産業変化のキーワードは、

CASE、

とされる。

コネクテッド(connected)、
自動化(autonomous)、
シェアリング(shared)、
電動化(electric)、

の頭文字をとったものだ(世界的にはACESの方が使われるらしいが)。

ポイントは、

コネクテッド、

だと思う。家電業界が凋落したのと同じく、

ネットにつながった自動車、

の時代、

膨大な数のサービス(モビリティサービス)、

が生まれる。自動車は、

IoT(Internet of Things)、

の「oT」つまり、

ネットにつながったモノ、

になる。だから、

「IT業界の巨人たちが自動車産業にこぞって進出しようとしている」

のである。欧米・中国の自動車企業は、

「必死になって変わろうとしているし、ライバルとの提携・合併や優良資産・部門の売却など大胆な動きを貪欲に行っている。」

それに対して、日本企業の動きは鈍い。

欧米・中国のダイナミックな変化の努力をつぶさに描きつつ、対する日本の現状を描いていく。象徴的だと思うのは、たとえば、日産について、

「日産は、CASEのAやEの部分では最先端の技術を持ち、世界の自動車メーカーと互角以上に戦っているように見える。だが、誤解を恐れずにいえば、個々の要素技術には秀でていても、それらの技術を組み合わせて魅力ある商品としてパッケージした開発までできているか、という視点から考えるとやはり懸念は残る。」

という言及と、

「アメリカの家電・IT見本市であるCESや欧米のモーターショウに足を運ぶと、日本と海外の自動車関連企業の展示に大きな差があることに気づく。日本勢の展示は自社製品、つまり自分の会社のモノや技術がいかに優れているかを示す展示が多い。一方、日本勢以外、特に欧米勢のプレイヤーは『世界観』に関する展示や発表が多い。コネクテッドや自動運転など、新しい技術を用いることで、どのように人々の乗車体験や生活を変えていくのか、そのビジョンや具体的なユースケース(事例)が増えている。自動車を製造する『自動車』産業の展示から、自動車を使ったソリューション、モビリティ産業のビジョンの展示にシフトしているのだ。」

あるいは、

「日本のメーカーの方々と話をすると、『いま、最も注目する技術を教えてほしい』『将来的に勝てる技術は何か』という類の質問をいただくことが多い。あるいは、特定の技術を起点に将来の事業を描こうとする、いわゆる『ロードマップ信仰』のような例も多々ある。日本の技術力は高いし、一人一人のエンジニアは優秀だ。だが、そういう質問をすること自体が『技術』『モノづくり』の視点から自分の仕事を考えているように思える。求められるのは、自社の技術よりも、顧客価値の起点、すなわち社会的な課題や必要とされているニーズから、既存の技術をつなげて、サービスやそれを後押しする技術を創造する力なのだ。」

等々という指摘をみると、完全にネット時代に取り残された「モノづくり大国」という二十世紀的な世界に留まったままの姿が浮かぶ。それは、家電業界でみた姿とダブる。

著者は、

「日本の自動車産業は崩壊しない。ただし戦いのルールは大きく変化する。そして、新しいルールに適応できた企業だけが生き残ることができる。」

として、日本の自動車産業が克服すべき弱点を、

モノづくり信仰、
垂直統合へのこだわり、
自前主義、
電気・材料・IT系エンジニアの軽視、
形の見えないもの(ソフトウエア・サービス)にお金は払えない、

を挙げた。ソフト優位の時代は、もうはるか前から、既に「95時代」から考えても二十年以上たっている。しかも、ネット時代に、日本のパソコンメーカー、家電メーカーが、単なるハコモノ屋、部品屋として屈服していった姿を見ているのに、未だにこの体たらくである。

「デジタルの時代、コネクテッドの時代には、データをオープンに管理し、他社との連携を行うことでデータを共有し、適宜フィードバックを行うことで、よりユーザーが使いやすいプラットフォームに改良し、エコシステム全体の価値を高めていく――というビジネスモデルが一般化する。自動車産業にとっては、そのひとつの形態がコネクテッドになった時代のモビリティサービスなのだ。」

という現状の中、著者たちは、生き残りの有無を明言していないが、ネット時代に何週もの周回遅れのわが国の未来は、かなり厳しい、という言外の危惧を感じ取った。

なお、次世代テクノロジーの趨勢については、

山本康正『次のテクノロジーで世界はどう変わるのか』
http://ppnetwork.seesaa.net/article/481602237.html

家電メーカーの凋落については、

大西康之『東芝解体−電機メーカーが消える日』
http://ppnetwork.seesaa.net/article/450728442.html

で、それぞれ触れた。「モノづくり」に拘泥する日本の製造業は、ネット環境の中で、ほとんど現在の地位を保つのは難しい。今回、それが、モノづくりの頂点、自動車にも及ぶ。

IoTの、oTとなったとき、つまり、

ネットにつながったモノ、

になったとき、

「日本がグローバルに優位性を持っている領域は非常に少ない」

とは、自動車だけではなく、すべての製造業に及ぶ。すでに、家電メーカーの凋落が、それを証している。

参考文献;
桑島浩彰・川端 由美『日本車は生き残れるか』(講談社現代新書)

自力救済

神田千里『戦国乱世を生きる力』を読む。

戦国時代を象徴するキーワードは、土一揆、一向一揆、國一揆の、

一揆、

であり、その、

一味同心、

であり、その拠って立つ、

自力救済、
自検断(じけんだん)

である。その中心にいるのは、

地下人(じげにん)、

と呼ばれる一般民衆であり、その象徴的存在が、

足軽、

である(「足軽」http://ppnetwork.seesaa.net/article/462895514.htmlについては触れた)。

戦国乱世といわれた十五世紀半ばから十六世紀末までの150年間は、

「ほとんど毎年のように不作、飢饉、疫病の流行、ないしその原因となるような旱魃、風水害、地震など災害があり、例外は10年に満たない。」

とされる。こうした災害を生き延びるには、

「村を立て稼ぎに行くこと、ことに大名などに従軍して戦場で稼ぐこと」

であった。こうした中で、

「生きのびるためにはまた、集団の規律に従わなくてはならなかった。当時の村も町も住民たちが組織をつくり自治を行っていた。権威を失墜させた『御上(おかみ)』が少しもあてにならず、日常の治安さえ守ってくれない時代としては……頼れるものは自分たちの力のみ、だから当時の民衆の多くは生まれながらに自治の担い手であった。」

自治とは、

「自分自身の所属する集団の力を結集してすべてを仕切ることである。平たくいえば自分の命を含めていっさいを委ねる自前の親分を創り出すことである。」

とある。象徴的なのは、

土一揆(つちいっき)、

である。たとえば、寛正三年(1462)に京都を襲った土一揆では、

「大将の蓮田兵衛のもとに東福寺門前・宇賀辻子・南禅寺門前になどの寺領、伏見・竹田など京都の南の村から、あるいは遠く丹波国須智村から、さらに法苑寺など寺院内部から三々五々結集して徳政一揆が蜂起した」

のであり、それは、足軽集団が、

「文明三年正月ごろ、遍照心院領の住民で足軽大将の馬切衛門五郎というものが京都の八条で足軽の募集をおこなった。」

という形成過程と類似しており、

「足軽集団と土一揆とはきわめてよく似た方法で結成」

された、臨時のプロジェクトチームのようなのである。

「大義名分の中味はそれぞれに異なっていても、土倉・酒屋からの略奪という目的、大義名分(土一揆は「徳政」、足軽は「兵粮米確保」)をふりかざしての略奪という行動形態」

では、土一揆も足軽も類似しており、対する土倉を初めとする町衆も、

「明応四年(1495)の土一揆蜂起の折には、土倉の軍勢や町人たちが土一揆と戦っている。両者の合戦で、当初、土一揆の優勢が伝えられ、必ず徳政が行われるとまで噂されたが、その後、土倉の軍勢が優位にたち、もはや徳政はない、との噂が流れた。土倉をはじめとする京都住民の軍勢が情勢を大きく左右するようになっていたのである。」

と、やはり自衛行動をとる。このことは、守護や大名に対する国衆も同じような自衛行動をとる。たとえば、山城国一揆では、国衆が守護代が各荘園から「年貢・諸公事物」などから五分の一を徴収するために入部しようとしたところ、国衆の面々は、

「向日神社で談合を行い『五分の一』を支払う代償に『当郡(乙訓郡)を国持』に、つまり国人ら自らの管轄とし、守護代の入部を謝絶することに決定」

したのである。それは、

「『国』の秩序を維持すべき守護家が内部抗争に明け暮れ、その動員した軍隊が『国』の寺院や民家を放火し襲撃し、『国』の住民が甚大な被害をこうむることはみずから解決すべき『惣国の大義』であった」

と。それは村々にとっても同じであった。

「むろん彼らの一揆蜂起は、自分自身の利害に基づいたものである。自分たちの利益になると思えば領国の大名にも忠義を尽くす。反対に謀叛のほうが利益になると思えば、今川氏真を見限り徳川家康に味方した遠江住民のようにする。自分たちの安全保障にとって、より利益となるほうについて武力行使をするのである。」

戦国大名の存在理由は、

「何より戦乱、災害に対処する危機管理能力」

であるのは、彼らが、領民を守ってくれる力があるかどうかが、敵国からの略奪、簒奪から身を守れるかどうかがかかっているからである。

戦国大名は、

家来として臣従する領内の武士たちの団結した総意に擁立されて、権力の座についており、

それを、

一揆結合による推戴、

とされる。たとえば、島津友久ら嶋津一族が連署した、

一揆契約状、

には、

談合の時心中を残さず述べるべきである、

という一項があるが、それは蓮如の、

わが心中をば同行のなかで打ち出しておけ、

という言葉にも通じ、さらにそれは、信長の勝家宛ての条書の、

信長の命令を必ず聞く覚悟が大事である。だからといって納得できない命令にへつらって従うようなことをしてはならない。納得できない場合は申し出よ、聞き届け、それにしたがうであろう、

という言葉にもつながる、

一味同前、

という、共通した時代精神のようである。

一味同心、

とは、

揆を一(いつ)にする、

という一揆の、

「通常の手段では対処することのできない困難にぶつかったときに、この『一味同心』の団結によって対処した。」

とされる。それは、村人や土一揆だけではなく、一向一揆にも、国人にも、通底する時代精神であったことが分る。

本書は、戦国時代を、

地下人、

の側から、どう身を守り、どう生き抜いていったかを、従来の戦国武将の視点からではなく描いたところに新しさがある。共通する自立した、

自力救済、

のマインドを描いている。その意味で、

「乱世の芯の主役は戦乱のなかを逃げまどった民衆である、とすら思えてくる。彼らの一人一人が、何かめざましい働きをした、ということはないが、めざましい働きをした戦国大名や一揆、そして天下人を動かしたのは、彼ら民衆ではなかろうか。織田信長や豊臣秀吉、あるいは武田信玄や上杉謙信がいかに偉大だったかを考える以上に、民衆が偉大な彼らにいかに無言の圧力を加えていたかを考える必要があるように思われる。」

という言葉は、戦国時代の、民衆から、村衆・町衆・国衆と、

それぞれの自力救済という層の上に乗った戦国大名、

という実態を考えるとき、重みがある。

参考文献;
神田千里『戦国乱世を生きる力』(ちくま学芸文庫)

過大な負担に疲弊

成松佐恵子『名主文書にみる江戸時代の農村の暮らし』を読む。

本書は、二本松藩十万石の福島県安達郡南杉田村(現二本松市)の安斎家に伝わる文書類(地方文書 人別帳・検地帳・御用留等々)を通して、江戸中後期の農村の状況や人々の暮らしぶりを、

「ミクロな視点からとらえること」

を目的としている。江戸時代の名主役は、

「幕藩体制の末端に位置して命令系統の一翼を担い、それを村に触れて支配が円滑に行われるよう秩序を守る立場にあった。地方(じかた)支配を担当する郡奉行や代官は、…名主が存在することでその役目を果たし得たともいえる。名主は村の実情に通じ、村民の日常生活に立ち入って世話をし、一方年貢諸役の納入は、たとえ人口の減少や凶作が著しい場合でも村請として名主の肩にかかったきた……。」

ある意味、幕藩体制の矛盾が先鋭に現われるところといってもいい。

安達郡杉田村は、

二本松城へ一里という地に位置、

し、

石高3070石、

と大村であったことから、

「杉田川により北杉田・南杉田に分離され、さらに各々が街道に面しているかどうかで町と在の二手合(てあい 配下の意味で使われる)に分けられ、それぞれを一人の名主が支配していた。」

とある。南杉田村は、

東西30町、南北25町、

宝永二年(1705)の検地によると、総反別は、

田 88町8反6畝歩、
畑 97町9反28歩、

石高は、

1487石6斗8升、

とある。年貢の他、街道沿いは、道普請、宿駅の夫役等々があり、その他、大豆と油荏(あぶらえ えごまのこと)の上納が、それぞれ、

1石9斗(代米1.6石)、
2石e斗(同1.4石)、

割りつけられ、さらに、

夫錢(ぶせん 参勤交代の夫役の賃金を金納したもの)7貫54文、
真綿役専錢(真綿の上納を金納に代えたもの)10貫3文、
糠藁代(馬の飼料代)3両と錢887文、
山手役・木葉役(薪や柴、木の葉採取税)2両2分と錢700文、

等々四十朱以上の小物成(雜年貢)があった。この地は、郡山から、本宮、二本松、福島へと続く奥州街道沿いであり、

馬継ぎ、

が課され、月の半分を南北で請け負い、

「江戸へ向かう上り15日が北杉田、下り15日を南杉田が負担」

した。馬継ぎの必要がない場合は、

助郷、

として、人馬を提供した。

「白河以北の奥州街道は、北の南部・仙台のような大藩秋田・米沢など出羽国の諸藩を中心に江戸との往復に利用された」

が、さらに、

「松前の御鷹方関係の幕吏や、江戸後期以降となると蝦夷地をとりまく複雑化に伴って、視察を目的とした役人の往来も増え、同街道を通行する頻度や輸送量は増加の一途をたどった。」

とある。それは村方の負担の増大を意味した。各宿場には問屋場が設置され、

「人馬継立を行って人と物の輸送を管理していたが、交通量の増大に伴い各駅は難渋し、周辺の農村にその不足分を割り当て助郷を命じたことから、村々の疲弊を招く結果となった。」

南杉田村では、安永四(1775)年町在両名主が願い出て、

救籾、

の無利子拝借が翌年認められたが、これは、

籾を10ヵ年賦無利子拝借、

であり、

「それを貸し付け、利子を宿駅の維持費にあて、10年後に借籾を返納する」

というもの。農村の負担はそれだけではない。

「各藩とも、いわゆる士身分に属するものだけでは御供廻りや藩士の雑用を巻かないきれず、民間からかなりの数の奉公人を雇い入れている」

が、二本松藩では、それを、

家中奉公、

と呼び、

「石高に応じて各村に人数を割り当て、宛山人と称して徴集し、領内町村の諸役のひとつとなっていた。」

しかし、

「藩から下付される給金はいわゆる在奉公に比して少額であったことからそれを望む者が少なく、各村では補助金を出さざるを得なくなる。これを与内金と呼んでいる。当初は村が処理していたが、やがて代官の官吏へとかわり、村民税のような形で賦課が義務づけられるになる。」

何のことはない、租税が増しただけだ。疲弊する村々での、口減らしとしての、

間引き、
堕胎、

に、藩側も、人口減は、藩そのものの存続にかかわるとして、二本松藩では、

赤子養育手当、

を、延享二(1745)年より設けているのが注目される。

13歳以下の子が三人いて、4子目に1ヵ年米3俵、
6歳以下の子が3人いて、3子目に1ヵ年米1俵、

というもの。今日の児童手当とは異なり、三子目とか四子目と、数が増えること自体を目途としているのが露骨すぎるのだが。

ところで、同じ歴史人口学的なアプローチで人別帳から農民生活の実態に迫った速水融『江戸の農民生活史』については、「農民生活の実態」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482114881.htmlで触れた。

また、幕藩体制下の農民、ないし農村社会のありようについては、
藤野保『新訂幕藩体制史の研究―権力構造の確立と展開』http://ppnetwork.seesaa.net/article/470099727.html
渡邊忠司『近世社会と百姓成立』http://ppnetwork.seesaa.net/article/464612794.html
菊池勇夫『近世の飢饉』http://ppnetwork.seesaa.net/article/462848761.html
深谷克己『百姓一揆の歴史的構造』http://ppnetwork.seesaa.net/article/474047471.html
水林彪『封建制の再編と日本的社会の確立』http://ppnetwork.seesaa.net/article/467085403.html
速水融『江戸の農民生活史』http://ppnetwork.seesaa.net/article/482114881.html?1624300693
山本光正『幕末農民生活誌』http://ppnetwork.seesaa.net/article/482424187.html
でそれぞれ触れた。

参考文献;
成松佐恵子『名主文書にみる江戸時代の農村の暮らし』(雄山閣)

進化としての「死」

小林武彦『生物はなぜ死ぬのか』読む。

本書は、

そもそもなんで生き物は死ぬのか? 

について、生物学の視点から考えていこうとしている。結論は、

死は生命の連続性の原動力、

つまり、

「生き物にとって死とは、進化、つまり『変化』と『選択』を実現するためにあります。『死ぬ』ことで生物は誕生し、進化し、生き残ってくることができたのです。」

ということになる。たとえば、

「化学反応で何かの物質ができたとします。そこで反応が止まったら、単なる塊です。それが壊れてまた同じようなものを作り、さらに同じことを何度も繰り返すことで多様さが生まれてきます。やがて自ら複製が可能な塊ができるようになり、その中でより効率良く複製できるものが主流となり、その延長線上に『生物』がいるのです。生き物が生まれるのは偶然ですが、死ぬのは必然なのです。壊れないと次ができません。」

というように。そのキーワードとして、本書で繰り返し出てくるのは、

ターンオーバー、

である。

turn over、

生まれ変わり、

である。言い換えると、

作っては分解して作り変えるリサイクル、

である、と著者は言う。

全ては常に生まれ変わり、入れ替わっていく、

これこそが、

進化、

であり、

遺伝子の変化と絶滅(=死)による選択が、……多様性を支えている、

のである。それを、

変化と選択、

というキーワードで著者は、生物絶滅を例に挙げる。

「現存している生き物は、DNAを遺伝物質としてタンパク質を合成するといったシステムが共通しているので、元となったオリジナルの細胞は1つだと考えられます。」

とある。つまり、

「最初はたった1つの細胞が、偶然、地球に誕生した」

ところから、今日の地上の多様な生き物へとつながったと考えられている。たとえば、著者は、

「その最初に誕生した1つの細胞(生物)の周りには、たくさんの『試作品』的な細胞(のようなもの)がありました。それらの試作品は、惜しいところで細胞にはなれませんでしたが、もしかしたら別の環境では細胞として成立したかもしれません。原始の細胞は、徐々に存在領域を広げていき、その中で効率よく増えるものが『選択』的に生き残り、また、『変化』が起こり、いろんな細胞ができ、さらにその中で効率よく増えるものが生き残る。この『変化と選択』が繰り返されてきました。」

と推測する。多細胞生物が誕生した10億年前から、五回、生物の、

大量絶滅、

が起きており、現在人間に起因する、

大絶滅、

が進行中といわれる。恐竜の絶滅で哺乳類の時代になったように、現在の絶滅の時代にも、数百万年もかかる変化の中で、

「新しい地球環境に適応した新種が現れて、地球の新しい秩序ができあがっていく」

が、そこに人類が生き残れるかどうかはわからない。それもまた、

変化と選択、

の一つに過ぎない。

「地球全体で見れば、全ての生物は、ターンオーバーし、生と死が繰り返されて進化し続けています。生まれてきた以上、私たちは次の世代のために死ななければならないのです。」

という言葉に、生き物を俯瞰してみたとき、長いスパンの中で、

死があるからこそ、変化があり、進化がある、

と思い知るのである。

参考文献;
小林武彦『生物はなぜ死ぬのか』(講談社現代新書)

信長像

和田裕弘『信長公記―戦国覇者の一級史料』を読む。

いわゆる『信長公記』は、

「牛一の自筆本、写本を含めて数多くの伝本が伝わっている。『信長公記』の一部に相当する短編や残闕本などを含めると七十本以上が確認されている。」

という。『信長公記』は、

「足利義昭を奉じて上洛の師を起こした永楽十一年(1568)から、本能寺の変で斃れる天正十年(1582)までの十五年間を、一年一冊(一帖)ずつまとめた『本編』と、これに上洛以前のことを記した『首巻』を伴ったものとの二種類」

に大別される。

しかし、自筆本は、

建勲神社所蔵『信長公記』(建勲本) 本編のみ。信長の弟長益(有楽斎)系の織田家旧蔵、
池田家文庫所蔵『信長記』(池田本) 本編のみ。池田輝政が牛一に求めて入手、
『太田牛一旧記』(旧記) 大坂本願寺との戦いが中心、
『永禄十一年紀』 巻一に相当する部分のみ、

の四本とされる。短編には、

『信長公記』の中から、ある出来事だけを抜き出したと思われるもの、
「本編」が部分的に伝わっているもの、
「首巻」(上洛以前)だけのもの、

等々が確認されているが、短編としては、『永禄十一年紀』の他、

「安土城のことを記した『安土御天主之次第』、本願寺の大坂退去を記した『新門跡大坂退散之次第』などが確認されている。」

が、

「もともと短編として完成していたものを『信長公記』に組み込んだと思われる」

ものもあり、また、

「重要な出来事や牛一が直接見聞したものは短編としてまとめていた可能性もある。確認されていないが、『信長公記』の記述から推測すると、天正七年(1579)に信長は京都屋敷(二条御新造)を誠仁(正親町天皇皇太子)一家に譲ったが、その顛末を記したものや、天正三年の長篠の戦いをまとめたものなどが想定される。これらは『信長公記』とは違う書名で伝わっている可能性もある」

とあり、『信長公記』をめぐっては、まだまだ今後に残された課題は多い。

メモ魔として知られる牛一は、たとえば、信長の最後について、

「信長初めには御弓を取り合い、二・三つ遊ばし候えば、何れも時刻到来候て、御弓の弦切れ、その後御鑓にて御戦いなされ、御肘に鑓疵を被られ引き退き、この時までおそばに女ども付きそいて居り申し候を、女は苦しからず、急ぎ罷り出よと仰せられ、追い出させられ、すでに御殿に火を懸け焼け来たり候。御姿をお見せあるまじきとおぼしめされ候か、殿中奥深く入り給い、内よりお南戸の口を引き立て、情けなくお腹めされ候。女どもこの時まで居り申し候て様躰見申し候」(池田本)

とあるのも、逃れてきた女房衆から取材したことが分る。さらに『信長公記』の伝本の中には、肘の疵は鑓疵ではなく、鉄炮疵と改めてあるもの、手にしていたのは鑓ではなく、長刀としているものもあり、情報を得て書き換えた可能性がある。

太田牛一は、

「(尾張国)春日井郡山田庄のうちの天台宗の成願寺に育ったという。信長の弓衆として仕え、のち信長の重臣丹羽長秀の与力に転じた。」

と、信長の近くに従い、自身の『信長公記』奥書に、

「故意に削除したものはない。また、創作もしていない。もし、これが嘘なら天罰を受けるだろう」

と記し、他の軍記ものとは一線を画した信頼性の高さがある、とされる。だから、著者は、

「信長を敬愛し、その臣下であったことを誇りとした太田牛一が、もし『信長公記』を著していなかったら、今日、われわれが思い描く信長像は、奥行きのないもっと平板なものだったと思わざるを得ない。とくに信長の前半生は、残された史料も少なく、まとまった史料としては『信長公記』しかないといっても過言ではない。」

と書いた。

その意味で多くのエピソードは、かなり知られているが、僕は本書で、信長に対しての反応が、

斎藤道三、

武田信玄、

がほとんど同じだったと書いたのが面白い。ひとつは、有名な道三と信長の初対面の場面で、湯漬けを食し、盃を交わした折、

附子(五倍子)を噛みたる風情にて、またやがて参会すべしと申し、

帰国の途に就いたが、

お見送り候、その時、美濃衆の鑓は短く、こなたの鑓は長く控え立ち候て参り候を、道三見申し候て、興を醒ましたる有様にて、有無を申さず罷り帰り候、

とあり、帰路、側近の猪子兵介(高就)が、

何と見申し候ても上総介はたわけにて候、

と言ったのに対して、

されば無念なることに候。山城が子供、たわけが門外に馬を繋ぐべきこと、案の内にて候、

と予言した。猪子は、後に信長側近として仕え、本能寺で信長に殉じた。

いまひとつは、武田信玄が、尾張の天永寺の天沢という天台宗の師僧が甲斐を通過時対面し、信長のことを聞いた折、

五倍子を噛みたる体、

だったと記す。牛一は同じ天台宗の僧として天沢と面識があった。

五倍子を噛んだような苦り切った様子、

の「五倍子(ごばいし)」とは、

付子(ふし)、

とも言う。

ヌルデ、

の別称だが、

ヌルデの若芽や若葉などにアブラムシが寄生してできる虫癭(ちゅうえい)(虫こぶ)、殻にタンニンを多量に含み薬用として用いられるほか、染織やインク製造に用いられる、

とある(デジタル大辞泉)。昔は、この粉を歯を黒く染めるのにも用いた(広辞苑)。タンニンは、

口に入れると強い渋味を感じさせる、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%8B%E3%83%B3ので、

苦い、
とか、
苦々しい、

という含意になる。「苦々しい」とは、

心の中で、そのことをおもしろくなく感じる、
非常に不愉快だ、
たまらなくいやだ、

という意味になる(精選版日本国語大辞典)。それは、

嫌悪、

というより、

口に合わない、違和感、

というか、

自分の価値に反しているが、言い知れぬ脅威、

を感じる、という含意だろうか。道三の言葉を見る限り、信長への脅威が感じられているように見える。

参考文献;
和田裕弘『信長公記―戦国覇者の一級史料』(中公新書)

女軍

長尾剛『女武者の日本史』を読む。

女軍、

は、

めのいくさ、
めいくさ、

と訓ませ、

女子の兵士・軍隊の意、

の意ともされるが、一説に、

男軍(おのいくさ)・女軍(めのいくさ)

は、

追手(おうて 大手)・搦手(からめて)、

の意で、

敵軍の後側に攻めかかる軍隊、

を、

女軍とする、

とする(精選版 日本国語大辞典)。

又女坂(めさか)に女軍(メノいくさ)を置き、男坂に男軍を置き(日本書紀)、

とあるのはそれであるが、『夏山雑談』(1741)は、

神武紀に、男軍(をいくさ)女軍(メイクサ)とあるは、正兵奇兵にて、追手搦手のことにや、

と解釈している。これは、

男浪(おなみ)、

に対して、

女浪(めなみ)、

というのと同じような使い方で、この説はあり得ると思う。本書は、表題に、

女武者、

とあるように、

女軍、

を、「女武者」の意として使っている。それにしても、

「我が国では、女軍という『戦う女性』が、古くから存在していた」

というのは、どうなのだろう。前述、

又女坂(めさか)に女軍(メノいくさ)を置き、男坂に男軍を置き(日本書紀)、

を文字通り、

女軍部隊、

の意と解釈しているが、果たしてそれでいいのかどうか、疑問である。それに、

神功皇后、
樟媛、
上毛野形名の妻、
薩摩比売、

等々は、どちらかというと積極的というよりは、夫の死や夫に代わって、という意味が強く、どうも、

女武者、

といっていいのかどうか。

巴御前、
坂額御前、

は確かに女武者であったと認めていい。それ以降、たとえば、南北争乱期の、

山名勢猛からず、七、八百騎か、そのうち女騎多し(園大暦)、

とあるように、戦国期になると、女性武者が目立つ。確かに、村上水軍の、

鶴姫、

上野隆徳の妻の、

鶴姫、

は、実際に戦闘に加わっている。しかしこれも、攻め立てられ防戦の中でのことで、初めから積極的に戦闘員として組み入れられていたというわけではない。

富田信高の妻(安濃津城)、
甲斐姫(忍城)、
立花ァ千代(立花城)、
お田鶴(曳馬城)、
妙林尼(鶴崎城)、

等々も、籠城戦や父や夫の代わりに戦いの場に臨んだ例に過ぎない。

新徴組の女剣士の中沢琴、
会津婦女隊の中野竹子、
会津若松城のスナイパー山本八重、

は、しかし、積極的に戦に赴いたと言えばいえるが、中沢を除けば、籠城戦故の参戦という面がある。

本書が言うように、「女武者」としての、

女軍、

が例として皆無とは言わないが、その概念を広げ過ぎ、明治以後の、

自由民権の福田英子、
実践女学院の下田歌子、
東京女子医学専門学校の吉岡弥生、

までいくと、「女軍」の概念は、ぐずぐずになってしまっている。

信長公記にも、高遠城攻めにおいて、

諏訪藤右衛門女房、刀を抜き放ち、切ってまわり、比類なき活き前代未聞の次第なり、

とあるように、絶体絶命の籠城戦では、女性もまた戦力として働く、というのは別に戦国期までは当たり前だったのではないか。それを取り立てて、

女軍、

として言挙げしようとすると、無理が出てくる。

三田村鳶魚『武家の生活』http://ppnetwork.seesaa.net/article/445487389.htmlで、「武士道」について、

「武士が切腹をするということには、二通りの意味がある。その一つは、自分の犯した罪科とか過失とかに対して、自ら悔い償うためには、屠腹するということであり、今一つは、申し付けられて、その罪を償うということである。そして、そのいずれにしても、切腹は自滅を意味する。(中略)切腹は、…武士に対する処決の一特典にしか過ぎないのである。ただ自らその罪に対する自責上、切腹して相果てるというその精神だけは武士道に咲いた一つの華と言ってもよいが、武士道の真髄ではあり得ない。」

したがって、他人の忖度とは無縁である。しかし、では、これが男だけか、と言えばそうではない。吉宗の時代、松平(浅野)安芸守吉長の夫人、つまり、

「御内室は、加賀宰相綱紀卿の御息女也、生得武勇の心ある女性にて、乗馬打物に達し、殊に長刀鍛錬の聞えあり、召仕はるゝ女まで皆々勇気たくましく、殊に一騎当千の女ともいうべし」

という女性だったが、安芸守吉長が、吉原に通い、

「三浦屋四郎右衛門抱えの太夫花紫、同孫三郎抱えの格子歌野を落籍させて、屋敷へ引き取られました。その上に、芝神明前の陰間を二人までも請け出されました。(中略)請け出された遊女二人、陰間二人を、御帰国の節は、お供に召し連れられることにきめられました。(中略)こうなっては、夫人も、重ねて強諌なさらなければ済まない、と思し召したものか、外君に御対面なされ、大名が遊興のあまり、遊び者を請け出さるることも、あるまじき次第とはいわれまじけれども、永々の道中を国許まで召し連れらるることは、世間の耳目といい、殊には幕府への聞えもいかがなれば、これだけは何分にもお取止めなさるように、と切に進言されました。吉長は、この進言が大不機嫌であったという。」

結局夫人の諫言を聞き入れず、

「遊女・陰間が美々しい行装で、お供する」

ことになって、夫人は、

「お居間に夜闌くるまで燈火あかあかと照して、御弟加賀中将へのお文細々とお認めなされ、五十一歳を一期として、腹一文字に掻き切りて」

割腹するのである。その間のことを、鳶魚は、こう書く。

「武士の家では、自由恋愛などいうことはなく、それは不義者で成敗されます。決して、好いたの惚れたのという話はない。勿論、生理上必至なものとして婚姻するのではありません。夫婦は生活を愉楽するためではない。人道を行うために夫婦になったので、それはその家門を維持し、かつ繁昌させるため、当面に親を安んじ、子を育て、九族を和し、家風を揚げ、家名を輝かせる大切な戮力なのです。(中略)恋愛から出来た夫婦でなく、義理が仕立てた夫婦であった。互いにその一分を尊重する。それを蹂躍することは、他身を踏み潰すのでなく、自身を破毀するのだと思っておりました。吉長夫人前田氏も、外君の内行について、至当な進言が棄たるようになった時、婦道が立たなくなります。もし特別な秘密があってのこととしても、何とか夫人からの進言の出ぬように打ち開けられないにもせよ、相応な工夫がなければなりません。一旦進言が出ますと、一般に至当と見られることだけに、是非とも聴納されなければなりません。悋気とか嫉妬とか、そんなこととは違う。一身一己からのことでない。天下に公然たる婦道を行うのです。夫婦の間に局限した事柄ではありません。人間を維持する道義です。至当なことさえ聞かれない。それでは婦道が行えないとすれば、この頃しばしば承る面子などということとも違う。妻の一分が立たないとは倫理がすたること、女に生れて妻となる、夫にはなれない、そこに動かし難いものがあって、妻としてなすべきその職事は、天に受けた私ならぬ務めなのです。これを真ッ正直に考える、それを少し考え、あるいは全く考えない、時世の人は、少し考える者よりも、全く考えない者の方がはるかに多かったのです。」

つまり、「おのが一分」を立てる、という意味では、男も女もなかった、というのである。とすれば、攻めたてられた籠城戦で、一分を立てるために、おのれの身を捨てて戦うのは、別に同じ船にのったものとして当然のことと考えると、

女軍、

などという概念で、事々しく取り上げること自体が、無意味に思えてならない。

参考文献;
長尾剛『女武者の日本史』(朝日新書)
三田村鳶魚『武家の生活』(Kindle版)

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