旅の文化研究所編『絵図に見る伊勢参り』読む。
本書は、寛政九年(1797)に刊行された『伊勢参宮名所図会』を読み解きながら、江戸時代の伊勢参りの実像に迫っている。『伊勢参宮名所図会』は、
「一八世紀初頭からの伊勢参宮案内記の伝統を承けて刊行された」
もので、
「多様であった参宮の経路を代表的なふたつに集約し、その道中の場所が担う歴史を絵図とともに詳細に詳述した点で、それまでの類書とは一線を画していた。この本の出現によって、伊勢神宮は実に豊富なイメージと共に統一された。」
とあるほどの強い影響力を持った。「豪農の暮らし」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/482424187.html?1626028105)でも触れたが、上総國望陀群大谷村(現千葉県君津市)の、戸数56軒の小村の豪農は、嘉永二年(1849)、安政六年(1859)と、伊勢、西国金毘羅詣での旅をしていた。凡そ五十余日の旅である。江戸時代、
一生に一度の伊勢参り、
とされ、年間100万人、宝永二年(1705)の「おかげ参り」流行の時は、362万人もの参詣者があったとされる(本居宣長『玉勝間』)。『伊勢参宮名所図会』のような本が、手引きともなり誘因にもなったと推測される。
背景には、社会・経済的な安定と、例えば、伊勢講のような仕組みがある。「講」は、
「講費を分担して積み立て、……伊勢までの往復の旅費と伊勢で神楽奉納を行う祈祷料となる。そして、それは代参者によって運用される。代参者は、何人かずつが輪番制で毎年変わっていくので、何年かに一度は講員がもれなく行ける」
というものであった。こうした参詣者側の条件とは別に、「庶民の旅」を発達させた要因に、
街道と宿場の整備、
が、参勤交代の制度と合わせて、幕府主導で国家事業として進められ、
(旅の)安全性、
という装置が、
「望みうる最良の水準が確保された」
ことが一つ、いまひとつ、
制度系、
の要因として、
手形の一般化、
がある。
「いわゆる道中手形であるが、庶民の場合は往来手形。それが檀那寺や氏神神社から、つまり僧侶や神主から発行されるようになった。(中略)それは、旅の利便をはかるある種の合理性をももって自然に発生し、広まった習慣であった。街道と諸設備が整備されたとはいっても、徒歩行である。それなりに難行であることに変わりはない。不慮の事故のなかで、もっとも厄介なのは死亡である。その場合も、檀那寺の手形があれば、もよりの寺で(宗旨を問わず)密葬してくれることになるのである。」
庶民の伊勢参りを支えたのは、
御師(伊勢では、オンシ)、
の存在である。本来神職であっが、神人の性格をなくして商人化する。
「神宮との組織的な関係を断絶し、それぞれに独立した『口入れ神主』と化し……、全国的に師檀(御師と檀家)関係を組織化して、参宮者の旅を万端斡旋する……。御師の数は、……江戸中期には600から700家ぐらい……いた、と類推できる。各御師は、すでにカスミともいう檀那場を決めていた。カスミの内にある家を檀家とか檀那という。安永六年(1777)の『私祈祷檀家帳』には、国別の信者数が掲げてある。それを総計すると約419万戸である。御師を通じて集計した数字であるから多少の誇張もあるだろうが、それにしても驚くべき数字である。日本全体の七〜八割に相当するであろうか。」
そうした組織化された檀家を相手に、
「御師の第一の商業活動は、毎年一度、檀家に『大神宮』と銘された神札(大麻ともいう)を配布することであった。大麻は、檀家が伊勢に参って天下泰平、五穀豊穣の祈願をすべきところを、御師がすでに代行して祈願したものとする証印である。(中略)
大麻に次ぐ御師の第二の商品は、音物(いんもつ)であった。いわゆる伊勢みやげである。杉原紙・鳥子紙・油煙(炭)・帯・櫛・海苔・茶・伊勢暦など、……こうしたみやげは、当初は商品として売買されたのではなく、多額の初穂(祈祷料)を出してくれた人への添えもの(答礼)だった。」
こうして檀家との結びつきを強めた御師の大きな収入源は、
「伊勢に参宮する檀家の人たちに宿を提供することであった。御師の家に泊まる檀家は、御供料(神饌料)・神楽料・神馬料を払うのが習わしであった。」
いずれも伊勢神宮とは関係がない。しかし、参宮に訪れた、
「檀家の人たちに対しては、下へも置かない接待に徹した。檀家の一行が宮川を渡ってくると、年配の手代が慇懃に出迎える。御師の家の門前に着くと、ただちに入浴をすすめる。そして一行が髭を剃り、髪を結いなおし、用意された羽二重の着物にあらためて座敷に落ち着いたとき、主人が出てきてうやうやしく挨拶をし、遠路の労をねぎらう。そのあと食事となる。これまた鯛に鮑に海老に灘の生一本などの二の膳、三の膳。」
こうした大盤振る舞いの「宣伝効果」をも意識した御師は、
元祖旅行総合業、
であるが、それだけでなく、
「庶民の旅の手続き上の難儀を代行するだけでなく、伊勢においては旅館業やみやげもの店も兼ね、祈祷神楽も行う。無論檀家と講社の管理は万全で、講費の管理まで代行」
する、伊勢参宮の綜合サービス業でもあった。
前述の「豪農の暮らし」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/482424187.html?1626028105)でも、名主を引退して伊勢の旅に出た「八郎兵衛」は、山田に入ると、御師の小林太夫方に到着するが、
未六月廿三日四ツ時小林太夫様え着仕候、
と旅日記に書いていた。
さて、伊勢に入り、斎宮村から、宮川の渡しのある小俣の途中の上野村に、かつて明野の原とよばれた野があり、東明星、中明星、新明星と呼ばれるところには茶屋があり、繁盛していた、という。
「明星の茶屋化粧(ば)けといふおんなども」
と(大馬金蔵『伊勢参宮道中記』)、茶の女でありながら、遊女まがいのなりをして、接客していたらししい、とある。
中川原は宮川の渡しの東に位置し、山田町の入口にある。ここに、片旅籠茶屋と呼ばれる施設があり、御師の手代が参詣人を出迎える場所になっていた。左側で挨拶しているのが御師の手代。家族と思しい参詣人を出迎えている。
絵図の外宮は、三枚セットの俯瞰図になっていて、今は入れない玉串御門前まで参拝し、その参拝の様子も、土座礼(チベットの五体投地、中国や韓国の膝突礼に通じる)であることが面白い。
この図の添え書きに、
「天子の御参宮ハ持統帝聖武帝五白川帝」
とあり、天皇の参宮が定例化したのが明治以後のことだとわかる。
御師の館で執行する神楽は、宮中の「御神楽(みかぐら)」に対し、
里神楽、
である。祈願主の料物(神楽料)に応じて、大々神楽、大神楽、小神楽の区別があり、それによって、
「楽人(男性)、舞人(女性)の人数が決まる、とある。神主は御師が務める。
「間の山(あいのやま)」は、外宮と内宮の間にある山を言う。坂道で、妙見町の東にある坂と、東古市町を挟んだ先の牛谷という坂も、間の山と呼ばれ、この坂に挟まれたのが、古市の遊郭になる。
間の山には、参詣者に錢を乞う芸人や女乞食が多く集まった、とある。全体の人の流れと逆方向に、右端に、御師と手代が描かれている。古市まで参詣客を送り届けた帰りか、とある。
内宮と外宮の間にある遊郭。古市の人家342軒、妓楼が70軒、遊女は1000人を超えたという。下の方に羽織を着た御師の手代が坐っている。遊郭の案内役も務めた、とある。
伊勢参宮大神宮にもちょっとより、
という川柳がある。俗に、
往きの精進、帰りに観音ご開帳、
といった。遊郭で遊ぶのは定番であった。遊郭での伊勢音頭がショーのように演じられるようになり、その遊び方が定着すると、女性客も遊郭に訪れた、とある。
内宮の絵図も三点セット。名称と本文を突き合わせて行けば、参詣の順路が分ると掛けになっていた。
『伊勢参宮名所図会』は、五巻六冊、付録一巻二冊の絵入り大本にもかかわらず、評判がよかったらしく、享和二年(1802)、嘉永元年(1848)にも刊行された、という。見ているだけで、その歴史と背景が分り、旅心を誘われたことは疑いない。
参考文献;
旅の文化研究所編『絵図に見る伊勢参り』(河出書房新社)
『伊勢参宮名所図会』(https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/MieMu/82944046631.htm)
山本光正『幕末農民生活誌』(同成社) |