ガブリエル・ガルシア=マルケス(鼓直訳)『百年の孤独』を読む。
語り手に特徴がある。その語りは、
日常的な現実と非日常的な幻想の混在、
にあり、
幽霊、
も、
幻想、
も、
空想、
も、
奇跡、
も、
現実と地続きに、並列に扱われている。これを、
魔術的リアリズム、
と呼ぶらしいが、この語りの手法自体は、別に新しいことではない。かつての語り物では、
人、
も、
物の怪、
も、
幽霊、
も、
妖怪、
も、
併存しているのが当たり前であった。このことで思い出すのは、中上健次が、『奇蹟』について、その手法を、
「どんなふうに突っ走ったかというと、語りもの文芸を導入するという方向にです。読者は現代人だから当然、語りものに慣れていませんよね。もう忘れてしまっている。それでも強引に、文章をたわめてでも突っ走っていくというのをやってみた。」(渡部直己氏との対談)
と語っている語り物の特徴である。それについては、『古井由吉・その文体と語りの構造』で触れたが、
中上氏の『奇蹟』は、『地の果て至上の時』の〈物語の物語〉である。それは、モンの語りのパースペクティブに収斂した『地の果て至上の時』の語りをさらに相対化させた、語りの「辞」の相対化を徹底させたものとなっている。『地の果て至上の時』では、語りの語りというモンの語り(のパースペクティブ)に一元化することで、語りの奥行(という物語のカタチ)を駆使し、語りを重層化、多層化したのだとすれば、『奇蹟』では、同じように、見かけ上はトモノオジ(の幻覚)の語りに収斂していくような、語りの射程は、しかし、その奥行をどこまでたどっても、いつのまにかはぐらかされ、その代わりに、語りの奥行(という深度)の違う語りのすべてを、洗いざらい棚卸しするようにさらけ出し、そのすべてを横並びにしてみせたのである。(中略)
語り手によって語られることとの奥行のすべてが、語り手のパースペクティブから解き放されることによって、語られることのすべてが同列に展開され、それは一見、語りのパースペクティブそのものの解体に見える。確かに、語りの深度の違いが鞣され、彩りの違う語りが並列にされて、かえって物語に内包する(零記号化したはずの)語り手が解き放たれ、別々の語りが並んだように見える。しかし語り手が向き合う(語る)ものが変われば、語りのパースペクティブは変わる。ここにあるのは、語り手が、入子の語りの深度をひとつの“とき”に収斂する語りではなく、(零記号化した語り手たちの語る)入子の語りすべてが併置される語りに向き合っている、語る“いま”も、語られる“あのとき”“そのとき”も眼前に一斉に店開きする、新たな語りのパースペクティブなのである。
そこにあるのは、ただ、
過去、
も、
現在、
も、
未来、
も、
ひとしなみに、同列に並べられている世界であり、それは、
あのとき、
も、
そのとき、
も、
あそこ、
も、
そこ、
も、
いまここ、
に、
語り手の眼前に現前している語りである。それは、
心の中、
も、
心の外、
も、
また同列であり、当たり前ながら、
うつつ、
も、
ゆめ、
も、
幻想、
も、
空想、
も、
差別なく並ぶ世界であり、当然、
生きている人間、
も、
死者
も、
幽霊、
も、
同列であり、
怪異、
も、
不思議、
も、
自然現象、
も、
同列である。そうみれば、本作の、百年に渡る、
ほぼ同心円のような経時的な流れ、
の中で、全てが同列に語られているのは、その語り口からの当然の帰結である。どこかで読んだ記憶があるが、この語り口(「祖母の語り口」と言っていたような)が、一気に書き上げるきっかけになった、と。その意味で、この語り口にこそ、本作の特徴があるのだろう。
ただ、そうしたことによる、精緻な、全てを並立にするリアリティは、面白いのだが、時に、不思議なことに、眠気を誘う。名前が似たような名前であることだけでなく、同心円でつづく、似たバリエーションの逸話の積み重ねに、既視感があり、本作の中で、ウルスラが、
時間というものはぐるぐる回っている、
と、言っているように、同心円の、いや螺旋状に、似たエピソード(出来事は似ていないが、ブエンディア一族の特徴的なありよう、生き様のバリエーション)が一層眠気を誘う。これは、此方の事情なのかもしれないが、ふと、30年以上前に読んだ、それと対比される、
マリオ バルガス=リョサ『世界終末戦争』、
を思い出した(マリオ
バルガス=リョサは、ガルシア=マルケス、コルタサル、フェンテスと共に、〈マフィア〉として括られる中南米作家のひとり)。これは、ブラジルに実際にあった、
カヌードスの反乱、
を描いたものだが、こちらは、
いくつもの場面を並行させつつ、様々な人間が登場する、
という、『百年の孤独』とは異なり、時間的には経時的だが、
空間的な広がり、
のある、スケールの大きな作品だ。個人的な好みの問題かもしれない。しかし、『サンクチュアリ』で触れたことだが、
「新聞の切り抜き(『ニュース映画』)・作者の意識の流れ(『カメラの目』)・登場人物たちそれぞれのドラマで、20世紀初頭の『アメリカ合衆国』を、虚実織り交ぜて、実験的手法で、眺望したもの」
とされ、ちょうど、1930年代のアメリカを俯瞰したものになっている、
ドス・パソス(ジョン・ロデリーゴ・ドス・パソス(John Roderigo Dos
Passos)『U・S・A』、
や、
フォークナー作品、
のように、
同時進行の中に、様々な場面を並行させて、広く、物語を展開させていく手法、
に魅力を感じているせいかもしれない。日本の作家でいうと、フォークナーの影響を受け、
『虚構のクレーン』
『死者の時』
『地の群れ』
等々の、
井上光晴、
がいる。
『書かれざる一章』(大岡昇平他編『政治と文学(全集現代文学の発見第4巻)』)、
『ガダルカナル戦詩集』(大岡昇平他編『青春の屈折下(全集現代文学の発見第15巻)』)、
については、触れたことがある。
参考文献;
ガブリエル・ガルシア=マルケス(鼓直訳)『百年の孤独』(新潮文庫)
マリオ バルガス=リョサ(旦敬介訳)『世界終末戦争』(新潮社)
ドス・パソス(並河亮訳)『U・S・A』(改造社) |