書評23


局外者

M・フーコー( 中村 雄二郎訳)『知の考古学』を読む。

とてもフーコーを論じ、構造主義を云々ずるだけの知識がないので、これを読んで起った自分の中の反応を書き留めておく。あくまで、憶説、妄説である。

言葉と物』で、フーコーが、

「……自分が自分の言語の総体に、秘かですべてを語り得る神のように、住まってはいないことを学ぶ。自分のかたわらに、語りかける言語、しかも彼がその主人ではないような言語が、あるということを発見するのだ。それは努力し、挫折し、黙ってしまう言語、彼がもはや動かすことのできない言語である。彼自身がかつて語った言語、しかも今では彼から分離して、ますます沈黙する空間の中を自転する言語なのだ。そしてとりわけ、彼は自分が語るまさにその瞬間に、自分がつねに自分の言語の内部に同じような仕方で居を構えているわけではないということを発見するのであり、そして哲学する主体……の占める場所に、一つの空虚が穿たれ、そして無数の語る主体がそこで結び合わされては解きほぐされ、組み合わさっては排斥し合うということを発見するのだ。」(豊崎光一訳『外の思考』)

と書いていることを引用したことがあるが、本書の結論のところの、自己対話の中で、

語る主体をなしですまそうとつとめた、

との指摘に対して、

語る主体への照合を保留したとしても、それは、すべての語る主体によって同一の重要なのは、反対に、さまざまな差異がなにから成り立つのか、一つの同じ言説=実践の内部で、人々が異なった対象について語り、対立する意見をもち、矛盾した選択をすることがどうして起こりえたか、を示すことであった。また、言説=実践のあれこれが相互に区別されるのはどのような点によるのか、示すことでもあった。要するに、私が欲したのは語る主体の問題を排除することではなく、言説の多様性のなかで語る主体がもちえたさまざまな位置と機能を明確にすることであった。

と答えている。構造主義の、

歴史と文化を相対化する、

ということと、

語る主体を相対化する、

こととは、一対のように、僕には見える。

歴史主義、

を否定することと、

非中心化、

とは一対である。

歴史主義、

とは、

救済史、

とつながり(救済史については、K・レーヴィット『世界と世界史』、R・K・ブルトマン『歴史と終末論』、O・クルマン『キリストと時』で触れた)、主体を、

歴史の中において、

歴史の中から見ることではないか。それに対して、

考古学、

というとき、過去の文化、著作、思想を、

遺跡、
遺物、

として、主体としての著者を、

歴史の外から、

あるいは、

歴史の終着点から、

見るということにつながるのではないか。それは、歴史の、

局外者、

となり、

歴史に責任をとらない、

ということでもある。それは、

救済史、

になぞらえるなら、

究極の時点(たとえば、最後の審判)、

から、過去を振り返るに等しくはないか。それは、

神の視点、

に近い、というと、言い過ぎだろうか。確かに、

歴史主義、

は、『世界と世界史』で触れたように、

救済史、

つまり、

神的な始りから神的な終わり、

を、

約束からその実現(最後の審判)への前進、

とみなしたことが、

ヘーゲルの世界精神の現実化、

という、

キリスト教的信仰の世俗化をもたらし(ヘーゲル『精神現象学』については触れた)、それが、マルクスの、

史的唯物論、

という終末論の世俗化を理論化に至らしめた(マルクス『経済学批判』、『資本論』については触れた)。しかし、こうした、

何かを目指している歴史、

という考え方の、

歴史主義、

は根深く、

「人間は歴史的に制約されているのみならず、根本的に歴史的に存在する――つまり人間は徹頭徹尾時間的な存在だからである。歴史的な意識と伝達の可能性は、ハイデッゲルによれば、人間的実存――それの時間性がもっとも決定的に表現されるのは、それが死を予想して実在している、あるいは『終わりに向かう存在』である、という事実においてである――の総体的かつ徹底的な歴史性に存する。」

とするハイデッガーですら、

「存在そのものは『存在の生起』であり、その真理は真理の生起であり、歴史的な出現と隠伏はそれぞれ、そのさどの決定的な瞬間に変化する『現前』と『不在』である」

と(ハイデガーについては『形而上学入門』、『存在と時間』で触れた)、言ってみれば、時間軸を短くし、終末を、「存在の運命」の瞬間に貶めただけのように見える。

確かに、歴史主義は、

「もろもろの理念、神、道徳律、理性の権威、進歩、支配者の幸福、文化、文明などがその建設的な力を失い、無価値」(レーヴィット)

なのかもしれないが、逆に言うなら、

歴史の外から、

ではなく、現在進行形の、

歴史の中から、

歴史に身をゆだねている、

からこそ、その、

歴史の責任を自ら負う、

ということをも意味したはずだ。しかし、

構造主義、

は、少なくとも、フーコーのそれは、

歴史を外から、

言い換えると、

歴史の終着点から、

見ている。だからこそ、

考古学、

というのではないか。それかあらぬか、僕には、構造主義の後、

ポスト構造主義、

は、ぺんぺん草も生えない、不毛の地になっているとしか見えない。なぜなら、

歴史の終着点から総括してしまった跡、

には、何もないからではないか。

こんな感想を懐いた読後である。

なお、ミシェル・フーコーについては、、『〈知への意志〉講義』、『主体の解釈学』、『言葉と物―人文科学の考古学』については触れた。

参考文献;
M・フーコー( 中村 雄二郎訳)『知の考古学』(河出書房新社)

語り口

ガブリエル・ガルシア=マルケス(鼓直訳)『百年の孤独』を読む。

語り手に特徴がある。その語りは、

日常的な現実と非日常的な幻想の混在、

にあり、

幽霊、
も、
幻想、
も、
空想、
も、
奇跡、
も、

現実と地続きに、並列に扱われている。これを、

魔術的リアリズム、

と呼ぶらしいが、この語りの手法自体は、別に新しいことではない。かつての語り物では、

人、
も、
物の怪、
も、
幽霊、
も、
妖怪、
も、

併存しているのが当たり前であった。このことで思い出すのは、中上健次が、『奇蹟』について、その手法を、

「どんなふうに突っ走ったかというと、語りもの文芸を導入するという方向にです。読者は現代人だから当然、語りものに慣れていませんよね。もう忘れてしまっている。それでも強引に、文章をたわめてでも突っ走っていくというのをやってみた。」(渡部直己氏との対談)

と語っている語り物の特徴である。それについては、『古井由吉・その文体と語りの構造』で触れたが、

 中上氏の『奇蹟』は、『地の果て至上の時』の〈物語の物語〉である。それは、モンの語りのパースペクティブに収斂した『地の果て至上の時』の語りをさらに相対化させた、語りの「辞」の相対化を徹底させたものとなっている。『地の果て至上の時』では、語りの語りというモンの語り(のパースペクティブ)に一元化することで、語りの奥行(という物語のカタチ)を駆使し、語りを重層化、多層化したのだとすれば、『奇蹟』では、同じように、見かけ上はトモノオジ(の幻覚)の語りに収斂していくような、語りの射程は、しかし、その奥行をどこまでたどっても、いつのまにかはぐらかされ、その代わりに、語りの奥行(という深度)の違う語りのすべてを、洗いざらい棚卸しするようにさらけ出し、そのすべてを横並びにしてみせたのである。(中略)
 語り手によって語られることとの奥行のすべてが、語り手のパースペクティブから解き放されることによって、語られることのすべてが同列に展開され、それは一見、語りのパースペクティブそのものの解体に見える。確かに、語りの深度の違いが鞣され、彩りの違う語りが並列にされて、かえって物語に内包する(零記号化したはずの)語り手が解き放たれ、別々の語りが並んだように見える。しかし語り手が向き合う(語る)ものが変われば、語りのパースペクティブは変わる。ここにあるのは、語り手が、入子の語りの深度をひとつの“とき”に収斂する語りではなく、(零記号化した語り手たちの語る)入子の語りすべてが併置される語りに向き合っている、語る“いま”も、語られる“あのとき”“そのとき”も眼前に一斉に店開きする、新たな語りのパースペクティブなのである。

そこにあるのは、ただ、

過去、
も、
現在、
も、
未来、
も、

ひとしなみに、同列に並べられている世界であり、それは、

あのとき、
も、
そのとき、
も、
あそこ、
も、
そこ、
も、

いまここ、

に、

語り手の眼前に現前している語りである。それは、

心の中、
も、
心の外、
も、

また同列であり、当たり前ながら、

うつつ、
も、
ゆめ、
も、
幻想、
も、
空想、
も、

差別なく並ぶ世界であり、当然、

生きている人間、
も、
死者
も、
幽霊、
も、

同列であり、

怪異、
も、
不思議、
も、
自然現象、
も、

同列である。そうみれば、本作の、百年に渡る、

ほぼ同心円のような経時的な流れ、

の中で、全てが同列に語られているのは、その語り口からの当然の帰結である。どこかで読んだ記憶があるが、この語り口(「祖母の語り口」と言っていたような)が、一気に書き上げるきっかけになった、と。その意味で、この語り口にこそ、本作の特徴があるのだろう。

ただ、そうしたことによる、精緻な、全てを並立にするリアリティは、面白いのだが、時に、不思議なことに、眠気を誘う。名前が似たような名前であることだけでなく、同心円でつづく、似たバリエーションの逸話の積み重ねに、既視感があり、本作の中で、ウルスラが、

時間というものはぐるぐる回っている、

と、言っているように、同心円の、いや螺旋状に、似たエピソード(出来事は似ていないが、ブエンディア一族の特徴的なありよう、生き様のバリエーション)が一層眠気を誘う。これは、此方の事情なのかもしれないが、ふと、30年以上前に読んだ、それと対比される、

マリオ バルガス=リョサ『世界終末戦争』、

を思い出した(マリオ バルガス=リョサは、ガルシア=マルケス、コルタサル、フェンテスと共に、〈マフィア〉として括られる中南米作家のひとり)。これは、ブラジルに実際にあった、

カヌードスの反乱、

を描いたものだが、こちらは、

いくつもの場面を並行させつつ、様々な人間が登場する、

という、『百年の孤独』とは異なり、時間的には経時的だが、

空間的な広がり、

のある、スケールの大きな作品だ。個人的な好みの問題かもしれない。しかし、『サンクチュアリ』で触れたことだが、

「新聞の切り抜き(『ニュース映画』)・作者の意識の流れ(『カメラの目』)・登場人物たちそれぞれのドラマで、20世紀初頭の『アメリカ合衆国』を、虚実織り交ぜて、実験的手法で、眺望したもの」

とされ、ちょうど、1930年代のアメリカを俯瞰したものになっている、

ドス・パソス(ジョン・ロデリーゴ・ドス・パソス(John Roderigo Dos Passos)『U・S・A』、

や、

フォークナー作品、

のように、

同時進行の中に、様々な場面を並行させて、広く、物語を展開させていく手法、

に魅力を感じているせいかもしれない。日本の作家でいうと、フォークナーの影響を受け、

『虚構のクレーン』
『死者の時』
『地の群れ』

等々の、

井上光晴、

がいる。

書かれざる一章』(大岡昇平他編『政治と文学(全集現代文学の発見第4巻)』)、
ガダルカナル戦詩集』(大岡昇平他編『青春の屈折下(全集現代文学の発見第15巻)』)、

については、触れたことがある。
 

参考文献;
ガブリエル・ガルシア=マルケス(鼓直訳)『百年の孤独』(新潮文庫)
マリオ バルガス=リョサ(旦敬介訳)『世界終末戦争』(新潮社)
ドス・パソス(並河亮訳)『U・S・A』(改造社)

メタ歌

久保田淳訳注『新古今和歌集』を読む。


「斯の集の体たるや、先万葉集の中を抽き、更に七代集の外を拾ふ。深く索めて微長も遺すこと無く、広く求めて片善も必ず挙げたり。」

と、「序」で言うとおり、万葉集をはじめ、古今集から千載集までの七勅撰集のすぐれた歌1980句を選んでいる。しかも、

「和歌という形式の枠内で古典の伝統によって洗練された大和言葉の微妙な組み合わせにより、現実をはるかに超えた美の世界を実現しようと努めた」(久保田淳・解説)

という独自の文学観に基づき、その方法も、

「『古今』『後撰』『拾遺』の三代のすぐれた歌の語句を大胆に取り込んだり、『源氏物語』や『狭衣物語』などの作り物語のある場面を利用したり、『白氏文集』や『和漢朗詠集』などの漢詩文の佳句から発想・表現を借りたりした」(仝上)

という独特の物だ。その典型的なものは、

すぐれた古歌や詩の語句、発想、趣向などを意識的に取り入れる表現技巧、

である、後世に、

本歌取り、

というようになり、中世の歌論書では、

本歌とす、
本歌をとる、
本歌にとる、

などの形で見える修辞法で、新古今集の時代に最も隆盛した。たとえば、

苦しくも降りくる雨か三輪が崎佐野のわたりに家もあらなくに(万葉集)、

を本歌として、

駒とめて袖打払ふ蔭もなし佐野のわたりの雪の夕暮(藤原定家)

と詠うのが一例になるが、

古くからある有名な歌や、自分が好きな歌、オマージュしたい歌などを「本歌」として、その中の1句もしくは2句を取り入れて新しく歌を詠む、

という手法https://tanka-textbook.com/honkadori/で、定家は、『近代秀歌』、『詠歌之大概(えいがのたいがい)』において、本歌取りの原則的な事柄について、

句の置き所を変えないならば2句まで、句の置き所を変えるならば2句と更に3、4文字まで本歌を下敷きにするのがいい、そして、枕詞や序詞の入った本歌については、あまりに有名な名句という評ではないならば初2句までそのまま本歌取りに用いてもいいが、本歌と主題を合致させるのは避けなくてはいけない、本歌のネタ元として三代集と『伊勢物語』と『三十六人家集』のみを採用し、昨今の詩からは引っぱらないようにするのがいい、

としたhttps://jtanka.com/tankadaigaku/archives/23。その基本は、

〔1〕本歌の字句はできるだけ置き場所を変えて借用し、字数は二句以上3、4字までとする。
〔2〕本歌が四季の歌ならば、新作は恋・雑(ぞう)の歌というふうに主題を変え、また趣向を変えて取ることが望ましい。
〔3〕格別な名句や同時代人の歌は避ける、

などである(日本大百科全書)。ある意味で、

メタ化された歌、
メタ和歌、

といってよく、

現実を詠うのではなく、詠われた世界や感覚・情緒をベースに更に詠う、

という、

作品世界の多重化・多層化、

の狙いがある。それは、言わば、

虚構の歌世界、

である。たとえば、

明けぬるか川瀬の霧の絶え間より遠方(をちかた)人の袖の見ゆるは(後拾遺・源経信母)、

を本歌として、

川霧といふことを、

という詞書で、

あけぼのや川瀬の波の高瀬舟くだすか人の袖の秋霧(左衛門督通光)

という歌は、

曙、浅瀬に立つ波は高く、高瀬舟に棹さして川を下すのだろうか、舟人の袖がちらりと秋霧の絶え間から見えるよ、

と注釈される(久保田淳訳注『新古今和歌集』)が、明らかに、本歌を知っていてこそ、この歌の情景の奥行きが見える。もちろん、『袋草紙』に、

麓をば宇治の川霧立ちこめて雲居に見ゆる朝日山かな(権大納言公実)、

の歌は、公実自身が

川霧の麓をこめて立ちぬれば空にぞ秋の山は見えける(拾遺・清原深養父)、

を盗んだと語ったとあるように、ある意味、本歌取りと盗作とは微妙な差なのだが、それは、言語世界が自立していればこそ生じることだともいえる。『新古今和歌集』は、言語作品が、ここまで自立した世界を目ざしている、というと言い過ぎだろうか。その分、それは嘘だろう、と言いたくなるような、空々しい世界や、情緒が透けて見えてしまうこともある。いくつか上げて見ると、たとえば、面白い工夫と見えるのは、

色見えでうつろふものは世の中の人の心の花にぞありける(古今集・小野小町)、

を本歌とした、

さりともと待ちし月日ぞうつりゆく心の花の色にまかせて(式子内親王)

で、主体的な心の変化に置き換えているところが工夫だが、

黒髪の乱れも知らずうち臥せばまづ掻きやりし人ぞ戀しき(和泉式部)

を本歌とした、

掻きやりしその黒髪の筋ごとにうち臥すほどは面影ぞ立つ(定家)

は、それをおのが心のメタファに置き換えて、本歌の直截的な表現よりも屈折している。

しかし、虚構的であることで、

霜こおる袖にも影は残りけり露よりなれし有明の月(右衛門督通具)
ながめつつ幾度袖に曇るらむ時雨にふくる有明の月(藤原家隆)
晴れ曇る影を都に先立ててしぐると告ぐる山の端の月(源具親)

などは、かなり仮想的というか、作りものめいていると言えるし、

知られじなおなじ袖には通ふともたが夕暮れと頼む秋風(家隆)
物思はでただおほかたの露にだに濡るれば濡るる秋の袂を(有家朝臣)
みるめ刈る潟やいづくぞ棹さしてわれに教へよ海人の釣舟(業平朝臣)

などは、技巧的というよりは作為的に過ぎる気がするし、

難波人いかなる江にか朽ちはてむ逢ふことなみに身をつくしつつ(摂政太政大臣)
梶を絶え由良の湊に寄る舟のたよりも知らぬ沖つ潮風(摂政太政大臣)
しるべせよ跡なき波に漕ぐ舟のゆくへも知らぬ八重の潮風(式子内親王)
まばらなる柴の庵に旅寝して時雨に濡るる小夜衣かな(後白河院)
なびかじな海人の藻塩火たきそめてけぶりは空にくゆりわぶとも(藤原定家朝臣)

等々は、技巧的というよりも、ちょっと嘘っぽい。

といった新古今和歌集の特徴を拾ったというよりは、自分の心に何かさざ波を立てた歌を、勝手に拾ってみたのは、次の130首ほどになる。

風まぜに雪は降りつつしかすがに霞たなびき春は來にけり(読人知らず)
春の夜の夢の浮橋とだえして峰に別るる横雲の空(定家)
大空は梅のにほひに霞みつつ曇りもはてぬ春の夜の月(仝上)
梅の花にほひをうつす袖の上に軒もる月の影ぞあらそふ(仝上)
梅の花たが袖ふれしにほひぞと春や昔の月に問はばや(右衛門督通具)
照りもせず曇りもはてぬ春の夜のおぼろ月夜にしくものぞなき(大江千里)
あさみどり花もひとつに霞みつつおぼろに見ゆる春の夜の月(菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ))
帰る雁今はの心有明に月と花との名こそ惜しけれ(摂政太政大臣(良経))
つくづくと春のながめのさびしきはしのぶに伝ふ軒の玉水(大僧正行慶)
春風の霞吹きとく絶えまより乱れてなびく青柳の糸(殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ))
青柳の糸に玉ぬく白露の知らず幾代の春か経ぬらむ(藤原有家)
花の色にあまぎる霞立ちまよひ空さへにほふ山桜かな(権大納言長家)
ももしきの大宮人はいとまあれや桜かざしてけふも暮らしつ(赤人)
花にあかぬ歎きはいつもせしかどもけふの今宵に似る時はなし(在原業平朝臣)
散り散らずおぼつかなきは春霞たなびく山の桜なりけり(祝部成仲)
山里の春の夕暮れ来て見れば入相の鐘に花ぞ散りける(能因法師)、
花さそふなごりを雲に吹きとめてしばしはにほへ春の山風(藤原雅経)
吉野山花のふるさと跡絶えてむなしき枝に春風ぞ吹く(摂政太政大臣)
たがたにかあすは残さむ山桜こぼれてにほへけふの形見に(清原元輔)
柴の戸にさすや日影のなごりなく春暮れかかる山の端の雲(宮内卿)
春過ぎて夏来にけらし白たへの衣干すてふ天の香具山(持統天皇)
声はして雲路にむせぶほととぎす涙やそそく宵の村雨(式子内親王)
ほととぎす深き峰より出でにけり外山の裾に声の落ち来る(西行法師)
あふち(楝)咲くそともの木蔭露おちてさみだれ晴るる風渡るなり(前大納言忠良)
さみだれの雲間の月の晴れゆくをしばし待ちけるほととぎすかな(二条院讃岐)
帰り来ぬ昔を今と思ひ寝の夢の枕ににほふたちばな(式子内親王)
たちばなの花散る軒のしのぶ草昔をかけて露ぞこぼるる(前大納言忠良)
たちばなのにほふあたりのうたた寝は夢も昔の袖の香ぞする(皇太后宮大夫俊成女)
いさり火の昔の光ほの見えて蘆屋の里に飛ぶ蛍かな(摂政太政大臣)
窓近き竹の葉すさぶ風の音にいとどみじかきうたた寝の夢(式子内親王)
窓近きいささ群竹(むらたけ)風吹けば秋におどろく夏の夜の夢(春宮大夫公継)
むすぶ手に影乱れゆく山の井のあかでも月のかたぶきにける(前大僧正慈円)
夕立の雲もとまらぬ夏の日のかたぶく山にひぐらしの声(式子内親王)
いづちとか夜は蛍ののぼるらむ行く方知らぬ草の枕に(壬生忠見)
白露のなさけ置きける言の葉やほのぼの見えし夕顔の花(前太政大臣)
たそかれの軒端の萩にともすればほに出でぬ秋ぞ下に言問ふ(式子内親王)
この寝(ね)ぬる夜のまに秋は来にけらし朝けの風のきのふにも似ぬ(藤原季通朝臣)
おしなべてものを思はぬ人にさへ心をつくる秋の初風(西行法師)
うたたねの朝けの袖にかはるなりならす扇の秋の初風(式子内親王)
手もたゆくならす扇のおきどころ忘るばかりに秋風ぞ吹く(相模)
薄霧の籬の花の朝じめり秋は夕べとたれかいひけむ(清輔朝臣)
心なき身にもあはれはしられけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ(西行)
見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ(定家)
深草の里の月影さびしさも住みこしままの野べの秋風(右衛門督通具)
月影の澄みわたるかな天の原雲吹き払ふ夜はのあらしに(大納言経信)
秋風にたなびく雲の絶え間よりもれいづる月の影のさやけさ(左京大夫顕輔)
行く末は空もひとつの武蔵野に草の原より出づる月影(摂政太政大臣)
過ぎてゆく秋の形見にさを鹿のおのが鳴く音もをしくやあるらむ(権大納言長家)
秋来れば朝けの風の手を寒み山田の引板(ひた)をまかせてぞ聞く(前中納言匡房)
ふけにけり山の端近く月さえて十市の里に衣打つ声(式子内親王)
ひとめ見し野辺のけしきはうら枯れて露のよすがに宿る月かな(寂蓮法師)
秋の夜は衣さむしろ重ねても月の光にしくものぞなき(大納言経信)
あけぼのや川瀬の波の高瀬舟くだすか人の袖の秋霧(左衛門督通光)
村雲や雁の羽風に晴れぬらむ声聞く空に澄める月影(朝恵法師)
いつのまにもみぢしぬらむ山桜きのふか花の散るを惜しみし(中務卿具平親王)
柞(ははそ)原しづくも色や変るらむ杜の下草秋ふけにけり(摂政太政大臣)
時わかぬ波さへ色にいづみ川柞(ははそ)の杜(もり)にあらし吹くらし(定家朝臣)
おきあかす秋の別れの袖の露霜こそ結べ冬や来ぬらむ(皇太后宮大夫俊成)
月を待つ高嶺の雲は晴れにけり心あるべき初時雨かな(西行法師)
柴の戸に入日の影はさしながらいかにしぐるる山辺なるらむ(清輔朝臣)
世の中になほもふるかなしぐれつつ雲間の月のいでやと思へど(和泉式部)
秋の色を払ひはててや久方の月の桂にこがらしの風(雅経)
風寒み木の葉晴れゆく夜な夜なに残るくまなき庭の月影(式子(しょくし)内親王)
霜枯れはそことも見えぬ草の原誰に問はまし秋のなごりを(皇太后宮大夫俊成)
津の国の難波の春は夢なれや蘆の枯葉に風渡るなり(西行法師)
さびしさに堪へたる人のまたもあれな庵(いほり)並べむ冬の山里(西行法師)
かつ氷りかつは砕くる山川の岩間にむせぶ暁の声(皇太后宮大夫俊成)
見るままに冬は來にけり鴨のゐる入り江の汀(みぎは)薄ごほりつつ(式子内親王)
白波に羽うちかはし浜千鳥かなしき声は夜の一声(重之)
さ夜千鳥声こそ近く鳴海潟(なるみがた)かたぶく月に潮や満つらむ(正三位季能)
風さゆるとしまが磯の群(むら)千鳥立ちゐは波の心なりけり(正三位季経)
降りそむる今朝だに人の待たれつる深山の里の雪の夕ぐれ(寂連法師)
おのづからいはぬを慕ふ人やあるとやすらふほどに年の暮れぬる(西行法師)
數ふれば年の残りもなかりけり老いぬるばかりかなしきはなし(和泉式部)
けふごとにけふやかぎりと惜しめどもまたも今年に逢ひにけるかな(皇太后宮大夫俊成)
あはれなりわが身のはてやあさ緑つひには野辺の霞と思へば(小野小町)
たれもみな花の都に散りはててひとりしぐるる秋の山里(左京大夫顕輔)
なれし秋のふけし夜床はそれながら心の底の夢ぞかなしき(大納言実家)
朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて枯野のすすき形見とぞ見る(西行法師)
物思へば色なき風もなかりけり身にしむ秋の心ならひに(皇太后宮大夫俊成)
けふ来ずば見でややままし山里のもみぢも人も常ならぬ世に(前大納言公任)
思へ君燃えしけぶりにまがひなでたちおくれたる春の霞を(源三位)
夜もすがら昔のことを見つるかな語るやうつつありし世や夢(大江匡衡朝臣)
あらざらむのち偲べとや袖の香を花橘にとどめおきけむ(祝部成仲)
あるはなくなきは数添ふ世の中にあはれいづれの日まで歎かむ(小野小町)
暮ぬまの身をば思はで人の世のあはれを知るぞかつははかなき(紫式部)
思ひ出でば同じ空とは月を見よほどは雲居にめぐり遭ふまだ(後三条院)
人をなほ恨みつべしや都鳥ありやとだにも問ふを聞かねば(女御徽子女王(きしにょおう))
み山路に今朝や出でつる旅人の笠白妙に雪積もりつつ(大納言経信)
袖にしも月かかれとは契りおかず涙は知るや宇津の山越え(鴨長明)
年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山(西行法師)
年を経て思ふ心のしるしにぞ空もたよりの風は吹きける(藤原高光)
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする(式子内親王)
忘れてはうち歎かるる夕べかなわれのみ知りて過ぐる月日を(式子内親王)
わが恋はいはぬばかりぞ難波なる蘆のしの屋の下にこそ焚け(小弁)
わが恋は荒磯の海の風をいたみしきりに寄する波のまもなし(伊勢)
しるべせよ跡なき波に漕ぐ舟のゆくへも知らぬ八重の潮風(式子内親王)
なびかじな海人の藻塩火たきそめてけぶりは空にくゆりわぶとも(藤原定家朝臣)
数ならぬ心のとがになしはてじ知らせてこそは身をも恨みめ(西行法師)
ながめわびそれとはなしにものぞ思ふ雲のはたての夕暮れの空(左衛門督通光)
くれなゐに涙の色のなりゆくをいくしほ(入)までと君に問はばや(道因法師)
覚めてのち夢なりけりと思ふにも逢ふはなごりのをしくやはあらぬ(後徳大寺左大臣)
身にそへるその面影も消えななむ夢なりけりと忘るばかりに(摂政太政大臣)
なき名のみ立田の山に立つ雲のゆくへも知らぬながめをぞする(権中納言俊忠)
逢ふことのむなしき空の浮雲は身を知る雨のたよりなりけり(惟明親王)
思ふには忍ぶることぞ負けにける逢ふにしかへばさもあらばあれ(業平朝臣)
夕暮れに命かけたるかげろふのありやあらずや問ふもはかなし(読人しらず)
君来(こ)むといひし夜ごとに過ぎぬれば頼まぬものの恋ひつつぞ経(ふ)る(読人しらず)
つらしとは思ふものから伏柴(ふししば)のしばしもこりぬ心なりけり(左衛門督家通)
恋ひ死なむ命はなほも惜しきかなおなじ世にあるかひはなけれど(刑部卿頼輔)
言の葉のうつろふだにもあるものをいとど時雨のふりまさるらむ(伊勢)
くまもなき折しも人を思ひ出でて心と月をやつしつるかな(西行法師)
いくめぐり空ゆく月も隔てきぬ契りし中はよその浮雲(左衛門督通光)
今はただ心のほかに聞くものを知らずがほなる荻の上風(式子内親王)
草枕結び定めむ方(かた)知らずならはぬ野辺の夢の通ひ路(雅経)
さりともと待ちし月日ぞうつりゆく心の花の色にまかせて(式子内親王)
掻きやりしその黒髪の筋ごとにうち臥すほどは面影ぞ立つ(定家)
夢かとよ見し面影も契しも忘れずながらうつつならねば(皇太后宮大夫俊成女)
いかにしていかにこの世にありへ(経)ばかしばしもものを思はざるべき(和泉式部)
梅の花香をのみ袖にとどめおきてわが思ふ人は訪れもせぬ(業平朝臣)
雲居より遠山鳥の鳴きてゆく声ほのかなる恋もするかな(凡河内躬恒)
人ならば思ふ心をいひてましよしやさこそはしづのをだまき(藤原惟成)
見てもまたまたも見まくのほしかりし花の盛りは過ぎやしぬらむ(藤原高光)
思ひきや別れし秋にめぐり逢ひてまたもこの世の月を見むとは(皇太后宮大夫俊成)
ながめして過ぎにし方を思ふまに峰より峰に月は移りぬ(入道親王覚性)
老いぬともまたも逢はむとゆく年に涙の玉を手向けつるかな(皇太后宮大夫俊成)
一筋に馴れなばさてもすぎの庵(いほ)によなよな変る風の音かな(右衛門督通具)
命さへあらば見つべき身のはてを偲ばむひとのなきぞかなしき(和泉式部)
數ならぬ身をも心の持ちがほにうかれてはまた帰り来にけり(西行法師)
おろかなる心の引くにまかせてもさてさはいかにつひの思ひは(西行法師)
憂きながらあればある世にふる里の夢をうつつにさましかねても(読人しらず)
ささがにの空にすがくもおなじことまたき宿にも幾代かは経む(僧正遍照)
数ならぬ身を何ゆゑに恨みけむとてもかくても過ぐしける世を(大僧正行尊)
願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月の頃(西行法師)
世の中はとてもかくても同じこと宮も藁屋もはてしなければ(蟬丸)
夢や夢現や夢とわかぬかないかなる世にか覺めむとすらむ(赤染衞門)
闇リれて心のそらにすむ月は西の山辺や近くなるらむ(西行法師)
 

なお『古今和歌集』については触れた。

参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)

異化

稲垣足穂『稲垣足穂作品集』を読む。

 

武家の実像

武士生活研究会編『図録近世武士生活史入門事典』を読む。

 

 

スペクトラム

小林憲正『生命と非生命のあいだ 地球で「奇跡」は起きたのか』を読む。

 

 

 

 
 

 

 
 

 

 

 
 

 

 

 
 

 

 

 

 
 

 

 

 

 
 

 

 

 

 

 
 

 

 

 

 
 

 

 

 

 
 

 

 

 

 
 

 

 

 

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