ミシェル・フーコー(渡辺一民・佐々木明訳)『言葉と物―人文科学の考古学』を読む。
何年も前に読み通した後、また取り出して読みだしたが、正直のところ、わからない部分が多いので、書評という域には達しないだろうが、感想を記しておきたい。
本書は、ラスト、
「人間は、われわれの思考の考古学によってその日付の新しさが容易に示されるような発明にすぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ。
もしもこうした配置が、あらわれた以上消えつつあるものだとすれば、われわれはその可能性くらいは予感できるにしても、さしあたってなおその形態も約束も認識していない何らかの出来事によって、それが一八世紀の曲がり角で古典主義的思考の地盤がそうなったようにくつがえされるとすれば─そのときにこそ賭けてもいい、人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろうと。」
と記して終わる。この、
人間、
とは、もちろん、
人類、
の謂いではなく、
「博物学が生物学となり、富の分析が経済学となり、なかんずく言語についての反省が文献学となり、存在と表象がそこに共通の場を見出したあの古典主義時代の《言説》が消えたとき、こうした考古学的変動の深層における運動のなかで、人間は、知にとっての客体であるとともに認識する主体でもある、その両義的立場をもってあらわれる。」
とあるように、いわば、概念としての、
人間、
である。はじめて、知の地平に、そういう形で登場した、
人間、
が、知の地平から、
消える、
と言っているのである。ではその先に、
何が來るのか、
は、フーコーは、
精神分析、
文化人類学、
言語学、
を、人間諸科学の、
三つの軸、
と述べるにとどめ、本書では述べていない。ただ、
「人間が『有限なもの』であり、ありうべきあらゆる言葉の頂点にいたるとき、人間が到達するのは彼自身の中心ではなく、彼を制限するところのものの縁、すなわち、死がさまよい、思考が消滅し、起源の約束が無際限に後退していくあの領域にである。」
と述べ、それは、
「自分が神を殺したのだと告示するのは、そうやってみずからの言語、みずからの思考、みずからの笑いをすでに死んだ神の空間におきつつ、また、神を殺し、みずからの実存がこの虐殺の自由と決定をつつんでいる、そのようなものとしてみずからを示す、最後の人間なのではあるまいか? こうして、最後の人間は、神の死よりも古いと同時に若いものとなる。彼は神を殺したのだから、みずからの有限性の責任をとらなければならぬのは彼自身であろう。しかし、彼が話し思考し実存するのは神の死のなかにおいてであるから、その虐殺そのものも死ぬことを余儀なくされる。新しい神々、おなじ神々が未来の大洋をふくらませている。人間は消滅しようとしているのだ。」
「十九世紀全体を通じて、哲学の終焉ときたるべき文化の約束は、たぶん、有限性の思考および知における人間の出現とまったく一体をなすものにほかなるまい。今日、哲学がいまなお終焉にむかいつつあるという事実と、おそらくは哲学のなかで、だがさらにそれ以上に哲学のそとでそれに対抗して、文学においても、形式的反省においても、言語の問題が提起されているという事実は、たぶん、人間が消滅しつつあるということを証明しているのにほかなるまい。」
等々にみられる言い方に、かつて、ロラン・バルト(沢崎浩平訳『S/Z』)で、
「誰がしゃべっているのか。(中略)ディスクールが、というよりも、言語活動が語っている」
という問いと重なり、フーコーが、
「……自分が自分の言語の総体に、秘かですべてを語り得る神のように、住まってはいないことを学ぶ。自分のかたわらに、語りかける言語、しかも彼がその主人ではないような言語が、あるということを発見するのだ。それは努力し、挫折し、黙ってしまう言語、彼がもはや動かすことのできない言語である。彼自身がかつて語った言語、しかも今では彼から分離して、ますます沈黙する空間の中を自転する言語なのだ。そしてとりわけ、彼は自分が語るまさにその瞬間に、自分がつねに自分の言語の内部に同じような仕方で居を構えているわけではないということを発見するのであり、そして哲学する主体……の占める場所に、一つの空虚が穿たれ、そして無数の語る主体がそこで結び合わされては解きほぐされ、組み合わさっては排斥し合うということを発見するのだ。」(豊崎光一訳『外の思考』)
と書いていることと重なる。ぼくの、勝手な見方だが、
人間の死、
とはこういうことを言うのだろう。
本書全体の印象からいうと、僕には、
逆立ちしたヘーゲル(の精神現象学)、
と感じたのだ。ヘーゲル(樫山欽四郎訳)『精神現象学』については触れたが、
意識の経験の学、
と名づけられているように、
意識(感覚的確信→知覚→悟性)→自己意識→理性→精神(精神→宗教→絶対知)、
と、意識の成長プロセスを辿っていく。
「最初に、すなわち、直接的に我々の対象となる知は、それ自身直接的な知、直接的なものまたは存在するものの知にほかならない。われわれもやはり直接的な、つまり受けいれる態度をとるべきであって、現われてくる知を少しも変えてはならないし、把握から概念把握を引き離しておかなくてはならない。」(樫山訳『精神現象学』)
の「感覚的確信」からはじまり、
「精神のこの最後の形態は絶対知である。それは、自らの完全で真なる内容に、同時に自己という形式を与え、このことによって、その概念を実現すると共に、かく実現することにおいて、自己の概念のうちに止まる精神である。これは精神の形態において自らを知る精神である。言いかえれば、概念把握する知である。真理は、自体的に確信と完全に等しいだけでなく、自己自身の確信であるという形態をももっている。言いかえれば、真理は定在となっている、すなわち、知る精神にとって、自己自身の知であるという形式をとっている。(中略)すなわち精神は、意識にとって定在の場に、対象性の形式に、本質そのものであるところのものに、すなわち概念に、なったのである。この定在の場において意識に現われる精神、或はこの場合同じことであるが、意識によってこの場に生み出された精神、これが学である。」(仝上)
と、「絶対知」へと至るのである。そのラストは、
「精神の完成は、精神が何であるかを、つまり精神の実在を完全に知ることであるから、この知は精神が自分のなかに行くことであり、そのとき精神は自らの定在を捨て、自らの精神を思い出に委ねるのである。精神は、自己のなかに行っているとき、自己意識の夜に沈んでいるが、その消えた定在はその中に保存されている。この廃棄された定在、かつての定在ではあるが、知から新しく生まれた定在は新しい定在であり、新しい精神形態である。この新しい形態のなかで、この直接的な姿でまた無邪気に初めからやり直すべきであり、そこからまた成長していかなければならない。」(仝上)
しかし、本書は、「エピステーメー(知識)の考古学」と言っているように、
知に対する知、
知のメタレベルの推移をたどりつつ、最終的に、
人間主義、
を超えようとする。逆に言うと、ヘーゲルが、
精神、
から、意識のピラミッドをたどったように、フーコーは、
人間主義の否定、
の地点から、知を逆算していったと見える。しかし、僕は、これが、
構造主義、
と言うものなら、
構造主義、
の名のもとに、人間主義を吹き払った跡に、
荒野、
だけが残ったとしか思えない。現実の課題には背を向けていたとされるフーコーが見ていたものが何なのかは別として、フーコーの拓いたのは、
知の荒野、
なのではないか、という個人的な印象を強く持つ。単なる妄言なのかもしれないが。
最後に、ベラスケス『ラス・メニーナス』について、木村泰司『謎解き西洋絵画』でも触れたことだが、フーコーは、
「われわれは絵を見つめ、絵の中の画家は画家で我々を凝視する。」
という位置関係をしめし、さらに、
「画家が眼をれわれのほうに向けているのは、われわれが絵のモチーフの場所にいるからにほかならない。」
と書く。そして、画家とモデルとみえない描かれつつある絵との関係を、「潜在的な三角形」として、
「その頂点―可視的な唯一の点―に芸術家の眼、底辺の一方にモデルのいる不可視の場所、他方に、裏がえしにされた画布のうえにきっと素描されているに違いない形象がある」
と、その、いま描かれつつある絵を描いているその瞬間を、絵にしている、というこの絵を観ている鑑賞者も、
「鑑賞者をその視線の場に置いた瞬間に、画家の眼は鑑賞者をとらえてむりに絵のなかへ連れこみ、特権的であると同時に強制的な場所を指示したうえで、輝く可視的な形相を彼から先どりし、それを裏がえしにされた画布の近づき得ぬ表面に投射するのである。だから鑑賞者は、画家にとっては可視的だが、自分に取っては決定的に不可視的な像におきかえられてしまう。」
モデルと、同じ立ち位置に立つことで、鑑賞者は、絵の中の画家のモデルになっているかのような位置にいるのである。さらに、こう書く、
「オランダ絵画では、鏡が二重化の役割をはたすという伝統がある。つまり鏡は、絵のなかにひとたびあたえられたものを、変様され、縮小されたわめられた非現実の空間の内部で反復するわけだ。(中略)同じアトリエ、同じ画家、同じ画布が、鏡のなかに同一の空間にしたがってならべられることを期待するであろう。それは完全に模造となるはずなのである。」
そして、
「鏡のなかに映しだされているもの、それこそ、画面のあらゆる人物が視線をまっすぐに伸ばし凝視しているものにほかならない。つまり、画家のモデルとなっている人物をも含めるまで画面が手前に、すなわち、もっと下の方へ延長されれば見ることのできるはずのものなのである。けれども、それはまた、画面が画家とアトリエを見せるところで止まっているのであるから、絵が絵である限り、…絵の外部にあるものでもある。…思いがけず鏡が誰にも知られず、画家(仕事中の画家という、その表象された客観的実在性における画家)の見つめている諸形象ばかりか、画家(線や色が画面においてあの物質的実在性における画家)を見つめている諸形象をも、きらめかせている。」
絵画空間の外の、この絵を描く画家と、この絵のなかで国王夫妻を描いている画家のモデルたる、国王夫妻と、この絵の鑑賞者の立つ位置との三重の関係、それはまた、絵の中の人々が意識し、目を向けている位置でもある、
「描かれている瞬間のモデルの視線、場面を見つめている観賞者の視線、そしてその絵(表象されている絵ではなく、われわれのまえにあって、われわれがそれについて語っているところの絵)を創作している瞬間の画家の視線が、正確に重なりあう」
その位置は、画家ベラスケスの設定した、
描かれるべきものと向き合う仮設の画家、
である。ここでは、あくまで、
「古典主義時代における表象関係の表象のようなもの」
を語る材料にしているのだが、
描くことを描く、
という現代的なモチーフとして見ることもできる気がした。
なお、ミシェル・フーコーについては、『〈知への意志〉講義』、『主体の解釈学』については触れた。
参考文献;
ミシェル・フーコー(渡辺一民・佐々木明訳)『言葉と物―人文科学の考古学』(新潮社) |