書評22


仮名文学の濫觴

高田祐彦訳注『新版古今和歌集』を読む。

漢詩から和歌へと立ち戻ろうとする、いわば脱唐風の流れと、仮名の誕生とによって、仮名による文学表現の嚆矢ともいうべきものとして位置づけられる。漢字を真名というのに対して、かなを仮名と当てた意図については、高橋睦郎『漢詩百首』で触れたが、それは、

日本人は中国から文字の読み書きを教わると同時に、花鳥風月を賞でることも学んだ。花に関してはとくに梅を愛することを学んだが、そのうち自前の花が欲しくなり桜を賞でるようになった、

と、唐風のものから、日本的な物へとシフトしていくその頂点のところに、

古今和歌集、

があると考えると、本歌集に、

真名序、

仮名序、

がある意味も見えてくる。仮名序の

花に鳴く鶯、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして、天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をもやはらげ、たけき武士の心をもなぐさむるは歌なり、

という紀貫之の昂った言い方も、何か納得ができる気がする。本歌集は、基本、

万葉集に入らぬ古き歌、みづからのをも奉らしめたまひてなむ、それが中にも、梅をかざすよりはじめて、ほととぎすを聞き、紅葉を折り、雪を見るにいたるまで、また、鶴亀につけて君を思ひ、人をも祝ひ、秋萩夏草を見て妻を恋ひ、逢坂山に至りて手向けを祈り、あるは春夏秋冬にも入らぬくさぐさの歌をなむえらばせたまひける、

として、

すべて千歌、二十巻、名づけて古今和歌集といふ、

とするが、正確には、

二十巻、1100首、

このうち、四季が、

六巻、

恋が、

五巻、

その他、

賀、
哀傷歌、
雜歌、
物名、

等々となる。

1100首のうち、勝手読みで、約一割、111首を、自分の好みを選び出してみた。巧拙を判断するよりは、心に響いたものということになる。

雪のうちに春は来にけり鶯のこほれる涙今やとくらむ(よみ人知らず)
春立てば花とや見らむ白雪のかかれる枝に鶯の鳴く(素性法師)
心ざしふかくそめてしをりければ消えあへぬ雪の花と見ゆらむ(よみ人知らず)
霞立ち木(こ)の芽もはるの雪降れば花なき里も花ぞ散りける(紀貫之)
春来(き)ぬと人はいへども鶯の鳴かぬかぎりはあらじとぞ思ふ(壬生忠岑)
春の着る霞の衣ぬきをうすみ山風にこそ乱るべらなれ(在原行平)
人はいさ心もしらずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける(紀貫之)
梅が香を袖にうつしてとどめてば春は過ぐとも形見ならまし(よみ人知らず)
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし(在原業平)
見わたせば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける(素性法師)
春霞たなびく山の桜花うつろはむとや色かはりゆく(よみ人知らず)
一目見し君もや来ると桜花けふは待ち見て散らば散らなむ(紀貫之)
ひさかたの光のどけき春の日に静心なく花の散るらむ(紀友則)
春の色のいたりいたらぬ里はあらじ咲ける咲かざる花の見ゆらむ(よみ人知らず)
春ごとに花のさかりはありなめどあひ見むことは命なりけり(仝上)
花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに(小野小町)
濡れつつぞしひて折りつる年のうちに春はいくかもあらじと思へば(在原業平)
桜花散らば散らなむ散らずとてふるさと人の来ても見なくに(惟喬親王)
夏の夜のふすかとすればほととぎす鳴くひと声に明くるしののめ(紀貫之)
夏と秋とゆきかふ空のかよひぢはかたへ涼しき風や吹くらむ(凡河内躬恒)
秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる(藤原敏行)
けふよりは今来む年のきのふをぞいつしかとのみ待ちわたるべき(壬生忠岑)
木の間よりもりくる月の影見れば心づくしの秋は来にけり(よみ人知らず)
月見ればちぢにものこそかなしけれわが身一つの秋にはあらねど(大江千里)
秋風に声をほにあげて来る舟は天(あま)の門(と)わたる雁にぞありける(藤原菅根)
憂きことを思ひつらねてかりがねの鳴きこそわたれ秋の夜な夜な(凡河内躬恒)
女郎花(をみなへし)秋の野風にうちなびき心一つを誰に寄すらむ(左大臣)
なに人か来てぬぎかけし藤袴来る秋ごとに野辺をにほはす(藤原敏行)
白露の色は一つをいかにして秋の木の葉をちぢにそむらむ(仝上)
紅葉せぬときはの山は吹く風の音にや秋をききわたるらむ(紀淑望)
月草に衣はすらむ朝露にぬれてののちはうつろひぬとも(よみ人知らず)
露ながら折りてかざさむ菊の花老いせぬ秋の久しかるべく(紀友則)
秋風にあへず散りぬるもみぢ葉のゆくへ定めぬわれぞかなしき(よみ人知らず)
吹く風の色のちくさに見えつるは秋の木の葉の散ればなりけり(仝上)
ちはやぶる神代もきかず竜田川韓紅に水くくるとは(在原業平)
竜田姫たむくる神のあればこそ秋の木の葉のぬさと散るらめ(兼覧王)
夕月夜(ゆうづくよ)をぐらの山に鳴く鹿の声のうちにや秋は暮るらむ(紀貫之)
大空の月の光しきよければ影見し水ぞまづこほりける(よみ人知らず)
雪降れば冬ごもりせる草も木も春に知られぬ花ぞ咲きける(紀貫之)
冬ながら空より花の散りくるは雲のあなたは春にやあるらむ(清原深養父)
花の色は雪にまじりて見えずとも香をだににほへ人の知るべく(小野篁)
きのふといひけふとくらしてあすか川流れて早き月日なりけり(春道列樹)
立ち別れいなばの山の峰に生(お)ふるまつとし聞かば今帰り來む(在原行平)
思へども身にしわけねば目に見えぬ心を君にたくへてぞやる(伊香子淳行)
白雲こなたかなたに立ちわかれ心をぬさとくだく旅かな(良岑秀崇)
別れてふことは色にもあらなくに心にしみてわびしかるらむ(紀貫之)
別れをば山の桜にまかせてむとめむとめじは花のまにまに(幽仙法師)
むすぶ手のしづくににごる山の井のあかでも人に別れぬるかな(紀貫之)
(手にむすぶ水にやどれる月影のあるかなきかのよにこそありけれ(拾遺集 紀貫之)
天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも(安倍仲麿)
名にしおはばいざこととはむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと(在原業平)
北へ行く雁ぞ鳴くなる連れて來(こ)し数は足らでぞ帰るべらなる(よみ人知らず)
このたびは幣(ぬさ)もとりあへず手向山紅葉の錦神のまにまに(菅原道真)
あしひきの山立ち離れ行く雲のやどりさだめぬ世にこそありけれ(小野滋蔭)
秋はきぬ今や籬(まがき)のきりぎりす夜な夜な鳴かむ風の寒さに(よみ人知らず)
散りぬればのちは芥(あくた)になる花を思ひ知らずもまどふてふかな(僧正遍照)
うばたまの夢になにかはなぐさまむうつつにだにもあかぬ心を(清原深養父)
花の色はただひとさかり濃けれども返す返すぞ露は染めける(高向利春)
あぢきなし嘆なつめそ憂きことにあひくる身をば捨てぬものから(兵衛)
花の中目にあくやとて分けゆけば心ぞともに散りぬべらなる(僧正聖宝)
遇ふことは雲居はるかになる神の音に聞きつつ恋ひわたるかな(紀貫之)
つれもなき人をやねたく白露のおくとは嘆き寝とはしのばむ(よみ人知らず)
わが恋はむなしき空にみちぬらし思ひやれどもゆく方もなし(仝上)
人知れず思へば苦し紅(くれなゐ)の末摘花の色にいでなむ(仝上)
秋の野の尾花にまじり咲く花の色にや恋ひむあふよしをなみ(仝上)
思ふにはしのぶることぞまけにける色には出でじと思ひしものを(仝上)
思ふとも恋ふともあはむものなれやゆふ手もたゆくとくる下紐(仝上)
人を思ふ心はわれにあらねばや身のまどふだに知られざるらむ(仝上)
篝火(かがりび)にあらぬわが身のなぞもかく涙の川に浮きて燃ゆらむ(仝上)
秋の田の穂の上をてらすいなづまの光のまにも我やわするる(仝上)
思ひつつ寝(ぬ)ればや人の見えつらむ夢と知りせばさめざらましを(小野小町)
うたたねに恋しき人を見てしより夢てふものはたのみそめてき(仝上)
おろかなる涙ぞ袖に玉はなす我はせきあへずたぎつ瀬なれば(仝上)
わが恋は深山がくれの草なれやしげさまされど知る人のなき(小野美材)
わりなくも寝てもさめても恋しきか心をいづちやらば忘れむ(よみ人知らず)
露ならぬ心を花に置きそめて風吹くごとにもの思ひぞつく(紀貫之)
命にもまさりて惜しくもあるものは見はてぬ夢のさむるなりけり(壬生忠岑)
わが恋はゆくへも知らずはてもなし遇ふを限りと思ふばかりぞ(凡河内躬恒)
起きもせず寝もせで夜を明かしては春のものとてながめくらしつ(在原業平)
よるべなみ身をこそ遠くへだてつれ心は君が影となりにき(よみ人知らず)
いたづらに行きては来ぬるものゆゑに見まくほしさにいざなはれつつ(仝上)
あはぬ夜の降る白雪とつもりなばわれさへともに消(け)ぬべきものを(仝上)
あふことのなぎさにし寄る波なればうらみてのみぞ立ち帰りける(在原元方)
しののめのほがらほがらと明けゆけばおのがきぬぎぬなるぞかなしき(よみ人知らず)
君や來(こ)し我や行きけむ思ほえず夢かうつつか寝てかさめてか(仝上)
むばたまの闇のうつつはさだかなる夢にいくらもまさらざりけり(仝上)
君てへば見まれ見ずまれ富士の嶺(ね)のめづらしげなく燃ゆるわが恋(藤原忠行)
かずかずに思ひ思はず問ひがたみ身を知る雨は降りぞまされる(在原業平)
須磨の海人(あま)の塩焼く煙風をいたみ思はぬ方にたなびきにけり(よみ人知らず)
いつはりのなき世なりせばいかばかり人の言の葉うれしからまし(仝上)
陸奥(みちのく)のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れむと思ふわれならなくに(河原左大臣)
千々の色にうつろふらめど知らなくに心し秋のもみぢならねば(よみ人知らず)
色もなき心を人に染めしよりうつろはむとは思ほえなくに(紀貫之)
月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして(在原業平)
今はとてわが身時雨に降りぬれば言の葉さへにうつろひにけり(小野小町)
われのみや世を鶯となきわびむ人の心の花と散りなば(よみ人知らず)
うきながら消(け)ぬる泡ともなりななむながれてとだにたのまれぬ身は(紀友則)
流れては妹背の山の中に落つる吉野の川のよしや世の中(よみ人知らず)
寝ても見ゆ寝でも見えけりおほかたはうつせみの世ぞ夢にはありける(紀友則)
なき人の宿にかよはばほととぎすかけて音にのみなくと告げなむ(よみ人知らず)
ついにゆく道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを(在原業平)
天つ津風雲の通ひ路吹きとぢよをとめの姿しばしとどめむ(良岑宗貞)
今こそあれわれも昔は男山さかゆく時もありこしものを(よみ人知らず)
白雪の八重降りしけるかへる山かへるがへるも老いにけるかな(在原棟簗)
かくしつつ世をやつくさむ高砂の尾上に立てる松ならなくに(よみ人知らず)
都までひびきかよへるからこと(唐琴)は波の緒すげて風ぞひきける(真静法師)
わびぬれば身をうき草の根を絶えてさそう水あらば去(い)なんとぞ思ふ(小野小町)
あはれてふことこそうたて世の中を思ひ離れぬほだしなりけれ(よみ人知らず)
世の中は夢かうつつかうつつとも夢とも知らずありてなければ(仝上)
秋霧の晴れて曇れば女郎花花の姿ぞ見え隠れする(よみ人知らず)
人にあはむつきのなきには思ひおきて胸走り火に心焼けをり(小野小町)
心こそ心をはかる心なれ心のあたはこころなりけり(よみ人知らず)

古今和歌集の特徴は、

事物にせよ、心にせよ、それをそのまま見つめるのではなく、変化や因果関係から捉えるところに古今和歌集の真骨頂がある(編者)、

とする。ある意味で、仮名という自分たちの文字という、表現手段を得て、それを自在に使いまわしている、という感がある。

確かに、技巧的で、作為的な歌が目立つが、ある意味、それは、喩や見立て、掛詞、助詞、枕詞を駆使した、文学的な表現の工夫と見るべきだろう。言葉をこのように巧みに操っていると見れば、それなりの自立した、現実とは次元を異にした表現空間を描き出す、表現のレベルと見ることが出来る。

たとえば、

都までひびきかよへるからこと(唐琴)は波の緒すげて風ぞひきける(真静法師)
こきちらす滝の白玉拾いおきて世の憂きのときの涙にぞかる(在原行平)

というように、

からことという地名を唐琴と見立て、その琴に波が弦として張られ、風が引き鳴らす、

とか、

滝の飛沫を白玉に見立て、木や枝に見立てた滝からしごき落とされて、散らばる、

とかと、現実を映すのではなく、幻想の世界を、二重写しに描き出している。子規の、

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

と比較してみれば、表現の奥行きは圧倒的に古今和歌集がまさる。子規の句の是非云々というよりは、古今和歌集の表現手法をいっている。その折り重なった、あるいは折り畳んだイメージの重なりの奥行きは、技巧的であろうとなかろうと、歌の(意味ではなく、表現空間の)深みを、間違いなく表出していることは確かである。

落ちたぎつ滝の水上年つもり老いにけらしな黒き筋なし(忠岑)、

のような、明らかな失敗の仮託もあるにしても、

表現の世界、

の自立を目指したという意図ははっきりしている。つまり、

何を表現するか、

ではなく、

どう表現するか、

の工夫である。だから、

見立て(アナロジー)

喩、

掛詞、

縁語、

を駆使して、一つの言葉に幾つもの意味やイメージを折り畳んでいる。

心あてに折らばや折らむ初霜のおきまどはせる白菊の花(凡河内躬恒)、

を、子規は、

一文半文のねうちも無之駄歌、

と酷評し(「歌よみに与ふる書」)、

嘘の趣向、
初霜が置いた位で白菊が見えなくなる気遣無之候、

とまで言った。虚実皮膜の説で言うなら、

実寄りでなくてはいけない、

と言っているだけだ。

虚に寄れば、どこまでも遠くへ行っていい。

柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺、

は、悪く言えば、実在の、

法隆寺、

を知らなければ、その意味は過半は消えるだろう。

表現の世界の自立、

ということをいうなら、

現実世界を媒介にしながら、唐詩の世界から離脱し、和風の文学表現を工夫した、

ことばによってそれを突き抜けた次元に、もう一つの世界を現出させた(編者)、

という実験の数々ということが出来るのではないか。この文学表現の工夫が、この後の、

日記、物語の仮名散文へとつながる(編者)、

という指摘は重要である。

正岡子規(高浜虚子編)『子規句集』については触れた。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)

日本的感性のモデル

前野直彬注解『唐詩選』を読む。

唐詩選は、

五言古詩14首、
七言古詩32種、
五言律詩7首、
五言背律40首、
七言律詩73首、
五言絶句74首、
七言絶句165首、

の、計465首を選んでいる。しかし、

偽書、

とされる。編者の、

李攀竜、

ではなく、彼の名を騙った真っ赤な偽物、とされる。にもかかわらず、日本では、江戸時代の、

荻生徂徠、

の評価によって、中国では、

寺子屋の教科書、

にまで墜ちた本書が、

門人に詩を教える際の教科書、

とされ、中国にない大流行をし、

唐詩、

ひいては中国詩への入門書としての役割を果たしている(前野直彬・解題)とある。そこで、漢詩の門外漢なので、自分の琴線に触れた、ほんの断片、フレーズを、注解者の訓み下し文で、拾い上げてみた。

高橋睦郎『漢詩百首』で触れたことだが、漢詩を通して、日本人的といわれる感性が育てられてきたところがある。その意味では、育てられた(日本的)感性から選んだ、(その感性の)祖型探索のきらいがなくもない。


孤生易爲感(孤生 感を為し易く)
失路少所宜(失路 宜しき所を少(か)く)
索寞竟何事(索莫 竟(つい)に何をか事とせん)
徘徊祇自知(徘徊 祇(た)だ自(みず)から知るのみ)
誰爲後來者(誰か後来の者と為(な)り)
當與此心期(当(まさ)に此の心と期すべき)(柳宗元・南礀中題)


杪冬正三五(杪冬(びょうとう 十二月) 正に三五)
日月遙相望(日月遥かに相望む)
肅肅過潁上(粛粛として潁上(えいじょう)を過ぎれば)
朧朧辨少陽(朧朧として夕陽(せきよう)を弁ず)(崔曙・早發交崖山還太室作)


洛陽城東桃李花(洛陽城東 桃李(とうり)の花)
飛來飛去落誰家(飛び来たり飛び去って誰(た)が家にか落(お)つる)
洛陽女兒好顏色(洛陽の女児 顔色好し)
行逢落花長歎息(行くゆく落花に逢(お)うて長歎息(ちょうたんそく)す)
今年花落顏色改(今年(こんねん)花落ちて顔色改まり)
明年花開復誰在(明年(みょうねん)花開くも復(ま)た誰(たれ)か在(あ)る)
已見松柏摧爲薪(已(すで)に見る 松柏摧(くだ)けて薪(たきぎ)と為(な)るを)
更聞桑田變成海(更に聞く 桑田(そうでん)の変じて海と成るを)
古人無復洛城東(古人復(ま)た洛城の東に無く)
今人還對落花風(今人(こんじん)還(ま)た対す 落花の風)
年年歳歳花相似(年年歳歳 花相似たり)
歳歳年年人不同(歳歳年年 人同じからず)
寄言全盛紅顏子(言(げん)を寄(よ)す 全盛の紅顔の子)
應憐半死白頭翁(応(まさ)に憐むべし 半死の白頭翁(はくとうおう))(劉廷芝・代悲白頭翁)


今年人日空相憶(今年(こんねん)の人日(じんじつ) 空しく相憶(おも)う)
明年人日知何處(明年(みょうねん)の人日(じんじつ) 知(し)んぬ何(いず)れの処(ところ)ぞ)
一臥東山三十春(一たび東山に臥して三十春(しゅん))
豈知書劍老風塵(豈(あに)知らんや 書剣の風塵に老いんとは)(高適・人日寄杜二拾遺)


今年花似去年好(今年(こんねん)の花は去年(きょねん)に似て好(よ)し)
去年人到今年老(去年の人は今年に到たりて老ゆ)
始知人老不如花(初めて知る 人は老いて花に如かざるを)
可惜落花君莫掃(惜おしむ可し 落花 君掃(はら)うこと莫(な)かれ)(岑参・韋員外家花樹歌


江天一色無繊塵(江天一色 繊塵無く)
皎皎空中孤月輪(皎皎として空中に月輪孤なり)
江畔何人初見月(江畔 何人か初めて月を見し)
江月何年初照人(江月 何年か初めて人人を照らせる)
人生代代無窮已(人生代代 窮已(きゅうい)する無く)
江月年年祇相似(江月年年 祇(た)だ相似(あいに)たり)
不知江月待何人(知らず 江月(こうげつ) 何人をか待つ)
但見長江送流水(但(た)だ見る 長江の流水を送るを)
(中略)
江水流春去欲盡(江水 春を流して去って盡きんと欲し)
江潭落月復西斜(江潭の落月 復た西斜せり)
斜月沈沈蔵海霧(斜月沈沈として海霧に蔵(かく)る)
楬石瀟湘無限路(楬石(かっせき) 瀟湘(しょうしょう) 無限の路(みち))
不知乗月幾人帰(知らず 月に乗じて幾人か帰る)
落月揺情満江樹(落月 情を揺るがして江樹に満つ)(張若虚・春江花月夜)


且論三萬六千是(且(しば)らく論ぜん 三萬六千の是なるを)
寧知四十九年非(寧(いずく)んぞ知らん 四十九年の非なるを)
古来名利若浮雲(古来 名利は浮雲(ふうん)の若(ごと)く)
人生倚伏信難分(人生の倚伏(いふく)信(まこと)に分ち難く)
(中略)
相顧百齢皆有待(相顧みるに百齢皆待つ有り)
居然萬化咸應改(居然として萬化咸(みな)應(まさ)に改(あらた)まるべし)
(中略)
春去春來苦自馳(春去り春來るも苦(ねんご)ろに自(みずか)ら馳せ)
争名争利徒爾為(名を争い利を争って徒らに爾為(しかな)す)(駱賓王・帝京篇)


樹樹皆秋色(樹樹(じゅじゅ) 皆秋色)
山山惟落暉(山山(さんさん) 惟(た)だ落暉)(王績・野望)


雲霞出海曙(雲霞 海を出でて曙(あ)け)
梅柳渡江春(梅柳 江(こう)を渡り春なり)
淑氣催黄鳥(淑氣 黄鳥(こうちょう ウグイス)を催(うなが)し)
晴光轉緑蘋(晴光 緑蘋(りょくひん)に轉ず)(杜審言・和晋陵陸丞早春遊望)


暫将弓竝曲(暫(しばら)く弓と竝(とも)に曲りしも)
翻與扇倶團(翻(かえり)て扇と倶(とも)に團(まど)かなり)
露濯清輝苦(露は清輝(せいき)を濯(あら)いて苦(さ)え)
風飄素影寒(風は素影(そえい)を飄(ひるがえ)して寒し)(杜審言・和晋陵陸丞早春遊望)


往来皆此路(往来 皆此の路なるに)
生死不同歸(生死 歸るを同(とも)にせず)(張説(ちょうえつ)・還至端州駅前与高六別処)


升沈應已定(升沈 應(まさ)に已(すで)に定まれるべし)
不必問君平(君平に問うを必せじ)(李白・送友人入燭)


八月湖水平(八月 湖水平かなり)
涵虛混太清(虛を涵(ひた)して太清(たせい)に混ず)(孟浩然・臨洞庭上張丞相)


白髪老闔磨i白髪 闔(かんじ)に老い)
青雲在目前(青雲 目前に在り)(高適・酔後贈張九旭)


竹批雙耳峻(竹批(そ)ぎて雙耳峻(さか)しく)
風入四蹄輕(風入りて四蹄輕(かろ)し)
所向無空闊(向かう所空闊(くうかつ)無し)
真堪託死生(真に死生を託すに堪えたり)(杜甫・房兵曹胡馬)


飄飄何所似(飄飄(ひょうひょう) 何の似たる所ぞ)
天地一沙鷗(天地の一沙鷗)(杜甫・旅夜書懷)


清晨入古寺(清晨 古寺(こじ)に入(い)れば)
初日照高林(初日 高林(こうりん)を照らす)
竹徑通幽處(竹徑 幽處(ゆうしょ)に通じ)
禪房花木深(禪房 花木深し)
山光悦鳥性(山光 鳥の性(さが)を悦(よろこ)ばしめ)
潭影空人心(潭影 人の心を空しゅうす)
萬籟此倶寂(萬籟(ばんらい) 此(ここ)に倶に寂(じゃく)たり)
惟聞鐘聲音(惟だ鐘聲の音を聞くのみ)(常建・破山寺後禅院)


山色遠含空(山色 遠く空を含む)
蒼茫澤國東(蒼茫たり 澤國の東)
海明先見日(海は明けて先ず日を見る)
江白迴聞風(江は白くして迴(はる)かに風を聞く)
鳥道高原去(鳥道 高原に去り)
人烟小徑通(人烟 小徑(しょうけい)通ず)(張祜・題松汀駅)


路自中峰上(路(みち)は中峰(ちゅうほう)自(よ)り上り)
盤囘出薜蘿(盤囘して薜蘿(へいら)を出ず)
到江呉地盡(江に到りて呉地盡き)
隔岸越山多(岸を隔てて越山多し)
古木叢青靄(古木 青靄(せいあい)に叢(むらが)り)
遥天浸白波(遥天(ようてん) 白波を浸す)(釋処黙・聖果寺)


巻幔天河入(幔(とばり)を巻けば天河入り)
開窓月露微(窓を開けば月露微(び)なり)
小池殘暑退(小池(しょうち) 残暑退き)
高樹早涼歸(高樹(こうじゅ) 早涼(そうりょう)帰る)(沈佺期(ちんせんき)・酬蘇員外味道夏晩寓直省中見贈)


萬壑樹聲満(萬壑(まんがく) 樹聲満ち)
千崖秋気高(千崖(せんがい) 秋気高し)
浮舟出郡郭(浮舟 郡郭出で)
別酒寄江濤(別酒 江濤に寄す)
良會不復久(良會 復(ま)た久しからず)
此生何太勞(此生 何ぞ太(はなは)だ勞する)
窮愁但有骨(窮愁 但(た)だ骨のみ有りて)
群盗尚如毛(群盗 尚お毛の如し)
吾舅惜分手(吾舅(きゅう) 手を分つを惜しみ)
使君寒贈袍(使君(しくん) 寒に袍(ほう)を贈る)
沙頭暮黄鶴(沙頭 暮(くれ)の黄鶴(こうかく))
失侶亦哀號(侶を失いて亦た哀號(あいごう)す)(杜甫・王閬(おうろう)州筵奉酬十一舅惜別之作)


世路雖多梗(世路 梗(ふさ)ぐこと多しと雖も)
吾生亦有涯(吾生 亦涯(かぎ)り有り)
此身醒復醉(此身 醒め復た醉う)
乗興卽為家(興に乗じては即ち家と為さん)(杜甫・春歸)


白波吹粉壁(白波(はくは) 粉壁(ふんぺき)を吹き)
青嶂雕梁挿(青嶂(せいしょう) 雕梁(ちょうりょう)に挿(さしはさ)む)
直訝杉松冷(直(た)だ訝(いぶか)る 杉松(さんしょう)の冷やかなるを)
兼疑菱荇香(兼ねて疑う 菱荇(りょうこう)の香るを)
雪雲虚點綴(雪雲(せつうん) 虚しく點綴(てんてつ)し)
沙草得微茫(沙草(さそう) 微茫(びぼう)たるを得たり)
嶺雁随毫末(嶺雁(れいがん)は毫末(ごうまつ)に随い)
川霓飲練光(川霓(せんげい)は練光(れんこう)を飲む)
霏紅洲蕊亂(紅を霏(ち)らせば洲蕊(しゅうずい)は亂れ)
拂黛石蘿長(黛(たい)を払えば石蘿(せきら)は長し)(杜甫・奉観嚴鄭公庁事岷山沲江画図十韻)


亭高出鳥外(亭高くして鳥外に出で)
客到與雲斉(客到れば雲と斉(ひと)し)
樹點千家小(樹(き)は点じて千家小さく)
天圍萬嶺低(天は囲みて万嶺低し)
残虹挂陜北(残虹 陜北(せんぼく)に挂(かか)り)
急雨過關西(急雨 関西を過(よぎ)る)(岑參・早秋与諸子登虢州西亭観眺)


昔人已乗白雲去(昔人(せきじん)已に白雲に乗じて去り)
此地空余黄鶴楼(此の地空しく余す 黄鶴楼)
黄鶴一去不復返(黄鶴(こうかく)一たび去って復た返らず)
白雲千載空悠悠(白雲千載 空しく悠悠たり)
晴川歴歴漢陽樹(晴川(せいせん)歴歴たり漢陽の樹)
芳草萋萋鸚鵡洲(芳草(ほうそう)萋萋(せいせい)たり鸚鵡(おうむ)洲)
日暮郷関何処是(日暮(にちぼ) 郷関 何れの処か是なる)
煙波江上使人愁(煙波(えんぱ) 江上 人をして愁(うれ)えしむ)(崔(さいこう)・黄鶴楼)


高館張燈酒復清(高館燈を張り 酒復た清し)
夜鐘残月雁歸聲(夜鐘(やしょう)残月 雁歸る聲)
只言啼鳥堪求侶(只だ言う 啼鳥(ていちょう)の侶(とも)を求むるに堪えたりと)
無那春風欲送行(那(いか)んともする無し 春風の行(こう)を送らんと欲するを)(高適・夜別韋司士得城字)


到來函谷愁中月(到り来たれば 函谷 愁中(しゅうちゅう)の月)
歸去磻谿夢裏山(帰り去らば 磻谿(はんけい) 夢裏(むり)の山)
簾前春色應須惜(簾前(れんぜん)の春色 応(まさ)に須(すべか)らく惜しむべし)
世上浮名好是閨i世上の浮名(ふめい) 好く是れ(かん)なり)(岑參・暮春虢(かく)州東亭送李司馬歸扶風別廬)


年年喜見山長在(年年喜んで見る 山の長(つね)に在るを)
日日悲看水獨流(日日(にちにち)悲しんで看る 水の獨り流るるを)(王昌齢・万歳楼)


玉露凋傷楓樹林(玉露凋傷(ちょうしょう)す楓樹(ふうじゅ)の林)
巫山巫峽氣蕭森(巫山巫峽 氣 蕭森(しょうしん))
江間波浪兼天湧(江間の波浪 天を兼ねて湧き)
塞上風雲接地陰(塞上の風雲 地に接して陰る)
叢菊兩開他日涙(叢菊(そうきく)兩(ふた)たび開く 他日の涙)
孤舟一繋故園心(孤舟一(ひと)えにに繋ぐ 故園の心)
寒衣處處催刀尺(寒衣 處處 刀尺(とうせき)を催(うなが)す)
白帝城高急暮砧(白帝 城高くして暮砧(ぼてい)急(きゅう)なり)(杜甫・秋興)


吹笛秋山風月C(笛を吹く 秋山 風月の清きに)
誰家功作斷腸聲(誰家(たれ)か功みに作(な)す 断腸の声)
風飄律呂相和切(風は律呂(りつりょ)を飄(ひるがえ)して相和(あいわ)すること切に)
月傍關山幾処明(月は関山に傍(そ)うて幾処(いくしょ)か明らかなる)
胡騎中宵堪北走(胡騎(こき) 中宵(ちゅうしょう) 北走するに堪(た)えたり)
武陵一曲想南征(武陵(ぶりょう)の一曲 南征(なんせい)を想う)
故園楊柳今揺落(故園の楊柳(ようりゅう) 今揺落(ようらく)す)
何得愁中卻盡生(何ぞ愁中(しゅうちゅう)に卻(かえ)って尽(ことごと)く生ずるを得し)(杜甫・吹笛)


歳暮陰陽催短景(歳暮(さいぼ) 陰陽(いんよう) 短景(たんけい)を催し)
天涯霜雪霽寒宵(天涯(てんがい)の霜雪(そうせつ) 寒宵(かんしょう)に霽(は)る)
五更鼓角聲悲壯(五更の鼓角(こかく) 声悲壮)
三峽星河影動搖(三峡の星河(せいか) 影動揺)(杜甫・閣夜)


楚王宮北正黄昏(楚王宮北(そおうきゅうほく) 正に黄昏(こうこん))
白帝城西過雨痕(白帝城西(はくていじょうせい) 過雨(かう)の痕)
返照入江翻石壁(返照(はんしょう)は江(こう)に入(い)って石壁に翻(ひるがえ)り)
歸雲擁樹失山村(帰雲(きうん)は樹(き)を擁して山村(さんそん)を失う)(杜甫・反照)


風急天高猿嘯哀(風は急に天は高くして猿嘯(えんしょう)哀(かな)し)
渚清沙白鳥飛廻(渚は清く沙(すな)は白くして鳥飛び廻(めぐ)る)
無邊落木蕭蕭下(無辺の落木(らくぼく) 蕭蕭(しょうしょう)として下(お)ち)
不盡長江滾滾來(不尽(ふじん)の長江 滾滾(こんこん)として来(きた)る)(杜甫・登高)


夾水蒼山路向東(水を夾(さしはさ)む蒼山 路(みち)東に向い)
東南山豁大河通(東南 山豁(ひら)けて大河通ず)
寒樹依微遠天外(寒樹依微(いび)たり 遠天(えんてん)の外)
夕陽明滅亂流中(夕陽(せきよう)明滅す 亂流の中)
孤村幾歳臨伊岸(孤村幾歳(いくとせ)か伊岸(いがん)に臨む)
一雁初晴下朔風(一雁初めて晴れて朔風(さくふう)に下る)
爲報洛橋遊宦侶(爲(ため)に報ぜよ 洛橋(らくきにょう)遊宦(ゆうかん)の侶(とも))
扁舟不繫與心同(扁舟繫がず 心と同じ)(韋応物・自鞏洛舟行入黄河即事寄府県僚友)


東風吹雨過青山(東風 雨を吹いて青山を過ぐ)
郤望千門草色閑(郤(かえ)って千門を望めば草色閑(かん)なり)
家在夢中何日到(家は夢中在って何(いず)れの日にか到らん)
春來江上幾人還(春は江上に来たって幾人か還(かえ)る)
川原繚繞浮雲外(川原(せんげん)繚繞(りょうじょう)たり 浮雲(ふうん)の外)
宮闕參差落照間(宮闕參差(しんし)たり 落照(らくしょう)の間(かん))
誰念爲儒逢世難(誰か念(おも)わん儒と為(な)りて世難(せいなん)に遇い)
獨將衰鬢客秦關(獨り衰鬢(すいびん)を將(もっ)て秦關に客(かく)たらんとは)(蘆綸・長安春望)


宿昔青雲志(宿昔(しゅくせき) 青雲の志)
蹉跎白髪年(蹉跎(さた)たり 白髪の年)
誰知明鏡裏(誰か知らん 明鏡の裏)
形影自相憐(形影(けいえい) 自ら相憐まんとは)(張九齢・照鏡見白髪)


春眠不覺曉(春眠 暁を覚えず)
處處聞啼鳥(処々に啼鳥(ていちょう)を聞く)
夜來風雨聲(夜来 風の声)
花落知多少(花落つること知んぬ多少ぞ)(孟浩然・春暁)


渭水東流去(渭水東流し去る)
何時到雍州(何れの時か雍州に到らん)
憑添兩行淚(憑(たの)むらくは両行の涙を添え)
寄向故園流(寄せて故園に向かって流さんことを)(岑参・見渭水思秦川)


白日依山盡(白日 山に依って尽き)
黄河入海流(黄河 海に入って流る)
欲窮千里目(千里の目を窮(きわ)めんと欲し)
更上一層樓(更に上る 一層の楼)(王之渙・登鸛鵲樓)


終南陰嶺秀(終南 陰嶺秀(ひい)で)
積雪浮雲端(積雪 雲端に浮かぶ)
林表明霽色(林表(りんぴょう) 霽色(せいしょく)明らかに)
城中増暮寒(城中 暮寒(ぼかん)を増す)(祖詠・終南望余雪)


故園眇何處(故園 眇(びょう)として何処(いずこ)ぞ)
歸思方悠哉(帰思(きし) 方(まさ)に悠(ゆう)なるかな)
淮南秋雨夜(淮南(わいなん) 秋雨(しゅうう)の夜)
高齋聞雁來(高斎(こうさい) 雁の来(きた)るを聞く)(韋応物・聞雁)


返照入閭巷(返照(はんしょう) 閭巷(りょこう)に入(い)る)
憂來誰共語(憂え来たるも 誰(たれ)と共にか語らん)
古道少人行(古道 人の行くこと少(まれ)に)
秋風動禾黍(秋風 禾黍(かしょ)を動かす)(耿湋(こうい)・秋日)


何處秋風至(何処(いずく)よりか秋風至る)
蕭蕭送雁羣(蕭蕭(しょうしょう)として雁群(がんぐん)を送る)
朝來入庭樹(朝来(ちょうらい) 庭樹(ていじゅ)に入るを)
孤客最先聞(孤客(こかく) 最も先んじて聞く)(劉禹錫・秋風引)


醉別江樓橘柚香(酔うて江楼(こうろう)に別れんとすれば橘柚(きつゆう)香る)
江風引雨入舟涼(江風(こうふう)雨を引き 舟に入(い)って涼し)
憶君遙在湘山月(君を憶(おも)うて遥かに湘山(しょうざん)の月に在り)
愁聽清猿夢裏長(愁(うれ)えて聴かん 清猿(せいえん)の夢裏(むり)に長きを)(王昌齢・送別魏二)


千里黃雲白日曛(千里の黄雲(こううん) 白日曛(あわ)し)
北風吹雁雪紛紛(北風(ほくふう) 雁を吹いて雪紛紛(ふんぷん))
莫愁前路無知己(愁うる莫(な)かれ 前路 知己無きを)
天下誰人不識君(天下 誰人(たれびと)か君を識(し)らざらん)(高適・別董大)


宜陽城下草萋萋(宜陽(ぎよう)城下 草萋萋(せいせい))
澗水東流復向西(澗水(かんすい)東流(とうりゅう)し復た西に向う)
芳樹無人花自落(芳樹(ほうじゅ)人無く花自ずから落ち)
春山一路鳥空啼(春山(しゅんざん)一路 鳥空しく啼(な)く)(李華・春行寄興)


江春不肯畱行客(江春(こうしゅん)は肯(あえ)て行客(こうかく)を留(とど)めず)
草色送馬蹄(草色(そうしょく)青青(せいせい)として馬蹄(ばてい)を送る)(劉長卿・送李判官之潤州行営)


楚雲滄海思無窮(楚雲(そうん)滄海(そうかい) 思い窮(きわ)まらず)
數家砧杵秋山下(数家(すうか)の砧杵(ちんしょ) 秋山(しゅうざん)の下(もと))
一郡荊榛寒雨中(一郡の荊榛(けいしん) 寒雨(かんう)の中(うち))(韋応物・登楼寄王卿)


月落烏啼霜滿天(月落ち烏啼いて 霜天に満つ)
江楓漁火對愁眠(江楓(こうふう) 漁火(ぎょか) 愁眠(しゅうみん)に対す)
姑蘇城外寒山寺(姑蘇城外 寒山寺)
夜半鐘聲到客船(夜半の鐘声 客船(かくせん)に到る)(張継・楓橋夜泊)


亭亭孤月照行舟(亭亭(ていてい)たる孤月 行舟(こうしゅう)を照らし)
寂寂長江萬里流(寂寂(せきせき)たる長江 万里に流る)
郷里國不知何處是(郷国(きょうこく)は知らず 何処(いずく)にか是(これ)なる)
雲山漫漫使人愁(雲山(うんざん)漫漫 人をして愁えしむ)(張祜・胡渭州)


h樹西風枕簟秋(h樹(きじゅ)の西風(せいふう) 枕簟(ちんてん)秋なり)
楚雲湘水憶同遊(楚雲(そうん) 湘水(しょうすい) 同遊(どうゆう)を憶(おも)う)
高歌一曲掩明鏡(高歌(こうか)一曲 明鏡(めいきょう)を掩(おお)う)
昨日少年今白頭(昨日(さくじつ)の少年 今は白頭(はくとう))(許渾・秋思)


草遮囘磴絕鳴鸞(草は囘磴(かいとう)を遮って鳴鸞(めいらん)を絶つ)
雲樹深深碧殿寒(雲樹(うんじゅ)深深(しんしん)として碧殿(へきでん)寒し)
明月自來還自去(明月(めいげつ)自(おの)ずから来たり還(ま)た自から去る)
更無人倚玉欄干(更に人の玉欄干(ぎょくらんかん)に倚(よ)る無し)(崔魯・華清宮)


無定河邊暮笛聲(無定河(むていか)辺 暮笛(ぼてき)の声)
赫連臺畔旅人情(赫連台(かくれんだい)畔(はん) 旅人(りょじん)の情)
函關歸路千餘里(函関(かんかん)の帰路 千余里)
一夕秋風白髮生(一夕(いっせき) 秋風(しゅうふう) 白髪(はくはつ)生ず)(陳祐・雑詩)


孤城夕對戍樓閑(孤城 夕べに戍楼(じゅろう)に対して閑しず)かなり)
廻合冥萬仞山(廻合(かいごう)す 青冥(せいめい) 万仞(ばんじん)の山)
明鏡不須生白髮(明鏡 須(ま)たず 白髪生ぜしを)
風沙自解老紅顏(風沙(ふうさ) 自(みずか)ら解(かい)す 紅顔(こうがん)老ゆるを)(王烈・塞上曲二)


秋染棠梨葉半紅(秋は棠梨(とうり)を染めて葉は半ば紅 (くれない)に)
荊州東望草平空(荊州 東に望めば 草は空に平らかなり)
誰知孤宦天涯意(誰か知らん 天涯(てんがい)に孤宦(こかん)たるの意)
微雨瀟瀟古驛中(微雨(びう)瀟瀟(しょうしょう)たり 古駅(こえき)の中(うち))(王周・宿疎陂駅)


高橋睦郎(『漢詩百首』)はいう、

「日本語は、固有の大和言葉と外来の漢語・欧米語から成っている。とくに漢語の来歴は古く、大和言葉と分かちがたく、外来語と意識することがないまでに日本語の血肉となっている。」

と。例えば、敗戦時に多くの日本人の脳裏に浮かんだのは、

国破れて山河在り

という杜甫の漢詩の一行だったのではないか、という。この、

国破山河在
城春草木深

を、千数百年前のわれわれの祖先が、送り仮名や返り点を付けることで、日本語で読もうとした。そして、

国破れて山河在り
城春にして草木深し

と読んだ。だから、

「この驚異的な、あえていえばアクロバティックナ発明によって、漢詩という外国の詩はなかば日本の歌に、いや、ほとんど日本の歌になった。」

と。漢語を自家薬籠中のものとすることで、

「自分たち固有の文芸や詩歌を豊かにしていったわけです。…たとえば明治維新に欧米の文明を受け入れて自分のものにしたのも、かつて漢字を通して中国の文明を受け入れて血肉化した経験があったからでしょう。ついでにいえば、現在中国で使われている漢字熟語60パーセントが明治維新に欧米語を受け入れるに当たって日本人が作った和製漢語だとききました。」

というところへ至る。漢字へのそういう意識が、真名としての漢字に対して、漢字を借りることで作り出した、

かな、

を、

仮名

と呼ぶところに現れている。

「日本人は中国から文字の読み書きを教わると同時に、花鳥風月を賞でることも学んだ。花に関してはとくに梅を愛することを学んだが、そのうち自前の花が欲しくなり桜を賞でるようになった。梅に較べて桜は花期が短いので、いきおいはかなさの感覚が養われる。その成果が漢詩にも現れた典型」

として、島田忠臣の、

宿昔は猶し枯木のごとかりしに
迎晨一半紅
国香異(け)しこと有るを知り
凡樹同じきことなきを見たり(桜花を惜しむ)

を挙げる。これは、同時代の、

世のなかにたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

と歌う在原業平と同じ感性・心性の表現になっている、と。その意味では、血肉化した漢詩のマインドで、選んだ漢詩は、一種先祖返りなのかもしれない。

漢詩については、下定雅弘『精選 漢詩集』でも触れた。

参考文献;
前野直彬注解『唐詩選(全三冊)』(岩波文庫)

逆立ちしたヘーゲル

ミシェル・フーコー(渡辺一民・佐々木明訳)『言葉と物―人文科学の考古学』を読む。

何年も前に読み通した後、また取り出して読みだしたが、正直のところ、わからない部分が多いので、書評という域には達しないだろうが、感想を記しておきたい。

本書は、ラスト、

「人間は、われわれの思考の考古学によってその日付の新しさが容易に示されるような発明にすぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ。
もしもこうした配置が、あらわれた以上消えつつあるものだとすれば、われわれはその可能性くらいは予感できるにしても、さしあたってなおその形態も約束も認識していない何らかの出来事によって、それが一八世紀の曲がり角で古典主義的思考の地盤がそうなったようにくつがえされるとすれば─そのときにこそ賭けてもいい、人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろうと。」

と記して終わる。この、

人間、

とは、もちろん、

人類、

の謂いではなく、

「博物学が生物学となり、富の分析が経済学となり、なかんずく言語についての反省が文献学となり、存在と表象がそこに共通の場を見出したあの古典主義時代の《言説》が消えたとき、こうした考古学的変動の深層における運動のなかで、人間は、知にとっての客体であるとともに認識する主体でもある、その両義的立場をもってあらわれる。」

とあるように、いわば、概念としての、

人間、

である。はじめて、知の地平に、そういう形で登場した、

人間、

が、知の地平から、

消える、

と言っているのである。ではその先に、

何が來るのか、

は、フーコーは、

精神分析、
文化人類学、
言語学、

を、人間諸科学の、

三つの軸、

と述べるにとどめ、本書では述べていない。ただ、

「人間が『有限なもの』であり、ありうべきあらゆる言葉の頂点にいたるとき、人間が到達するのは彼自身の中心ではなく、彼を制限するところのものの縁、すなわち、死がさまよい、思考が消滅し、起源の約束が無際限に後退していくあの領域にである。」

と述べ、それは、

「自分が神を殺したのだと告示するのは、そうやってみずからの言語、みずからの思考、みずからの笑いをすでに死んだ神の空間におきつつ、また、神を殺し、みずからの実存がこの虐殺の自由と決定をつつんでいる、そのようなものとしてみずからを示す、最後の人間なのではあるまいか? こうして、最後の人間は、神の死よりも古いと同時に若いものとなる。彼は神を殺したのだから、みずからの有限性の責任をとらなければならぬのは彼自身であろう。しかし、彼が話し思考し実存するのは神の死のなかにおいてであるから、その虐殺そのものも死ぬことを余儀なくされる。新しい神々、おなじ神々が未来の大洋をふくらませている。人間は消滅しようとしているのだ。」

「十九世紀全体を通じて、哲学の終焉ときたるべき文化の約束は、たぶん、有限性の思考および知における人間の出現とまったく一体をなすものにほかなるまい。今日、哲学がいまなお終焉にむかいつつあるという事実と、おそらくは哲学のなかで、だがさらにそれ以上に哲学のそとでそれに対抗して、文学においても、形式的反省においても、言語の問題が提起されているという事実は、たぶん、人間が消滅しつつあるということを証明しているのにほかなるまい。」

等々にみられる言い方に、かつて、ロラン・バルト(沢崎浩平訳『S/Z』)で、

「誰がしゃべっているのか。(中略)ディスクールが、というよりも、言語活動が語っている」

という問いと重なり、フーコーが、

「……自分が自分の言語の総体に、秘かですべてを語り得る神のように、住まってはいないことを学ぶ。自分のかたわらに、語りかける言語、しかも彼がその主人ではないような言語が、あるということを発見するのだ。それは努力し、挫折し、黙ってしまう言語、彼がもはや動かすことのできない言語である。彼自身がかつて語った言語、しかも今では彼から分離して、ますます沈黙する空間の中を自転する言語なのだ。そしてとりわけ、彼は自分が語るまさにその瞬間に、自分がつねに自分の言語の内部に同じような仕方で居を構えているわけではないということを発見するのであり、そして哲学する主体……の占める場所に、一つの空虚が穿たれ、そして無数の語る主体がそこで結び合わされては解きほぐされ、組み合わさっては排斥し合うということを発見するのだ。」(豊崎光一訳『外の思考』)

と書いていることと重なる。ぼくの、勝手な見方だが、

人間の死、

とはこういうことを言うのだろう。

本書全体の印象からいうと、僕には、

逆立ちしたヘーゲル(の精神現象学)、

と感じたのだ。ヘーゲル(樫山欽四郎訳)『精神現象学』については触れたが、

意識の経験の学、

と名づけられているように、

意識(感覚的確信→知覚→悟性)→自己意識→理性→精神(精神→宗教→絶対知)、

と、意識の成長プロセスを辿っていく。

「最初に、すなわち、直接的に我々の対象となる知は、それ自身直接的な知、直接的なものまたは存在するものの知にほかならない。われわれもやはり直接的な、つまり受けいれる態度をとるべきであって、現われてくる知を少しも変えてはならないし、把握から概念把握を引き離しておかなくてはならない。」(樫山訳『精神現象学』)

の「感覚的確信」からはじまり、

「精神のこの最後の形態は絶対知である。それは、自らの完全で真なる内容に、同時に自己という形式を与え、このことによって、その概念を実現すると共に、かく実現することにおいて、自己の概念のうちに止まる精神である。これは精神の形態において自らを知る精神である。言いかえれば、概念把握する知である。真理は、自体的に確信と完全に等しいだけでなく、自己自身の確信であるという形態をももっている。言いかえれば、真理は定在となっている、すなわち、知る精神にとって、自己自身の知であるという形式をとっている。(中略)すなわち精神は、意識にとって定在の場に、対象性の形式に、本質そのものであるところのものに、すなわち概念に、なったのである。この定在の場において意識に現われる精神、或はこの場合同じことであるが、意識によってこの場に生み出された精神、これが学である。」(仝上)

と、「絶対知」へと至るのである。そのラストは、

「精神の完成は、精神が何であるかを、つまり精神の実在を完全に知ることであるから、この知は精神が自分のなかに行くことであり、そのとき精神は自らの定在を捨て、自らの精神を思い出に委ねるのである。精神は、自己のなかに行っているとき、自己意識の夜に沈んでいるが、その消えた定在はその中に保存されている。この廃棄された定在、かつての定在ではあるが、知から新しく生まれた定在は新しい定在であり、新しい精神形態である。この新しい形態のなかで、この直接的な姿でまた無邪気に初めからやり直すべきであり、そこからまた成長していかなければならない。」(仝上)

しかし、本書は、「エピステーメー(知識)の考古学」と言っているように、

知に対する知、

知のメタレベルの推移をたどりつつ、最終的に、

人間主義、

を超えようとする。逆に言うと、ヘーゲルが、

精神、

から、意識のピラミッドをたどったように、フーコーは、

人間主義の否定、

の地点から、知を逆算していったと見える。しかし、僕は、これが、

構造主義、

と言うものなら、

構造主義、

の名のもとに、人間主義を吹き払った跡に、

荒野、

だけが残ったとしか思えない。現実の課題には背を向けていたとされるフーコーが見ていたものが何なのかは別として、フーコーの拓いたのは、

知の荒野、

なのではないか、という個人的な印象を強く持つ。単なる妄言なのかもしれないが。

最後に、ベラスケス『ラス・メニーナス』について、木村泰司『謎解き西洋絵画』でも触れたことだが、フーコーは、

「われわれは絵を見つめ、絵の中の画家は画家で我々を凝視する。」

という位置関係をしめし、さらに、

「画家が眼をれわれのほうに向けているのは、われわれが絵のモチーフの場所にいるからにほかならない。」

と書く。そして、画家とモデルとみえない描かれつつある絵との関係を、「潜在的な三角形」として、

「その頂点―可視的な唯一の点―に芸術家の眼、底辺の一方にモデルのいる不可視の場所、他方に、裏がえしにされた画布のうえにきっと素描されているに違いない形象がある」

と、その、いま描かれつつある絵を描いているその瞬間を、絵にしている、というこの絵を観ている鑑賞者も、

「鑑賞者をその視線の場に置いた瞬間に、画家の眼は鑑賞者をとらえてむりに絵のなかへ連れこみ、特権的であると同時に強制的な場所を指示したうえで、輝く可視的な形相を彼から先どりし、それを裏がえしにされた画布の近づき得ぬ表面に投射するのである。だから鑑賞者は、画家にとっては可視的だが、自分に取っては決定的に不可視的な像におきかえられてしまう。」

モデルと、同じ立ち位置に立つことで、鑑賞者は、絵の中の画家のモデルになっているかのような位置にいるのである。さらに、こう書く、

「オランダ絵画では、鏡が二重化の役割をはたすという伝統がある。つまり鏡は、絵のなかにひとたびあたえられたものを、変様され、縮小されたわめられた非現実の空間の内部で反復するわけだ。(中略)同じアトリエ、同じ画家、同じ画布が、鏡のなかに同一の空間にしたがってならべられることを期待するであろう。それは完全に模造となるはずなのである。」

そして、

「鏡のなかに映しだされているもの、それこそ、画面のあらゆる人物が視線をまっすぐに伸ばし凝視しているものにほかならない。つまり、画家のモデルとなっている人物をも含めるまで画面が手前に、すなわち、もっと下の方へ延長されれば見ることのできるはずのものなのである。けれども、それはまた、画面が画家とアトリエを見せるところで止まっているのであるから、絵が絵である限り、…絵の外部にあるものでもある。…思いがけず鏡が誰にも知られず、画家(仕事中の画家という、その表象された客観的実在性における画家)の見つめている諸形象ばかりか、画家(線や色が画面においてあの物質的実在性における画家)を見つめている諸形象をも、きらめかせている。」

絵画空間の外の、この絵を描く画家と、この絵のなかで国王夫妻を描いている画家のモデルたる、国王夫妻と、この絵の鑑賞者の立つ位置との三重の関係、それはまた、絵の中の人々が意識し、目を向けている位置でもある、

「描かれている瞬間のモデルの視線、場面を見つめている観賞者の視線、そしてその絵(表象されている絵ではなく、われわれのまえにあって、われわれがそれについて語っているところの絵)を創作している瞬間の画家の視線が、正確に重なりあう」

その位置は、画家ベラスケスの設定した、

描かれるべきものと向き合う仮設の画家、

である。ここでは、あくまで、

「古典主義時代における表象関係の表象のようなもの」

を語る材料にしているのだが、

描くことを描く、

という現代的なモチーフとして見ることもできる気がした。

なお、ミシェル・フーコーについては、『〈知への意志〉講義』、『主体の解釈学』については触れた。

参考文献;
ミシェル・フーコー(渡辺一民・佐々木明訳)『言葉と物―人文科学の考古学』(新潮社)

日本人の時間感覚

橋本万平『日本の時刻制度』を読む。

本書は、物理学者である著者が、

「国文学とか国史学の方面において、欠く事のできない知識である」

はずの、

「日本における時刻制度の変遷が、殆どわかっておらない」

ということを知って、二十年余、

「余暇を利用して研究し」

た成果が、本書である。初版が出て(1966)、本増補版が出たとき(1978年)でもなお、本書以外の時刻制度に関する著作がない、と「後書き」で歎いているのが現状で、過去の文献上にある「刻限」が正確に現代時刻に置き換えられない、ということは、実は史料の正確な読みが出来ない、ということなのである。

著者が引いている事例は、その深刻さを示している。たとえば、

花山天皇の落飾、退位、

の日付を、「扶桑略記」は、

寛和二年六月二十二日庚申夜半、

「日本紀略」は、

六月二十三日庚申今暁丑刻、

とあることで、どちらかの論争があったらしいのだが、著者は、

「その時代の時刻制度に関する知識がなかった」

ための論争とし、

「当時は日附の境界、即ち日附変更の時刻が寅の刻即ち現在の午前三時であった。従って現行時刻法で、本日の午前零時から午前三時までは、当時の時刻法によると前日に属していたのである。それで花山天皇が皇居を抜出された丑の刻――御前一時から午前三時――は前日であるから、二十二日の夜半と書いた訳で、決して誤りではない。然るに後代、その様な日附変更時刻が使用されないようになると、その用法が全く忘れられてしまい、午前零時を一日の境とする時代では、その時を二十二日の夜半と書いたのでは理解ができないので、その時代の日時表現法に従って二十三日の暁と書き直したのである。」

と結論づける。

時刻が庶民にまで浸透したのは江戸時代だが、それでも赤穂浪士の討ち入り時刻に、ばらつきがある。三宅観瀾「報讐録」では、

夜四更、

と、丑の刻、午前二時とし、宝井其角の手紙では、

丑みつ頃、

としているのに対し、当事者である、原惣右衛門の報告では、

寅の上刻、

と、午前四時とし、小野寺十内の手紙でも、

七つ過ぎ、

とするなど、二時間もの差がついていることについて、著者は、

「江戸中期における時刻表現法は三種類が実用化されていた」

とする。ひとつは、

一昼夜を等分して時刻を定めた、

定時法、

で、現代の時刻法と同じ系列である。いま一つは、

太陽の出入時を、時刻を定める標準とした、

不定時法、

で、最も普通に世間で使用されていたものは、不定時法の、

時の鐘の数に因ったものである。次にそれを十二支にあてはめて、子・丑・寅……で表す、

のだが、

そのあてはめ方に二通り、

あり、たとえば、

「世俗では時の鐘を九つ打つ時を、子の時の始めと考えたが、正式の時の呼称では、九つは子の中刻に当たり、半時、即ち現代時法で約一時間の差」

があり、しかも、民間の時の鐘は、江戸中に数えるほどしかない。

「義士が聞き、上野介が聞き、後に調書を書いた吉良家の隣家の旗本たちが聞いたのも」

本所の鐘で、それによって、

「夜半九つの鐘を合図に行動を起こし」、

定置候三箇所(人々心得之覚書)、

に集合し、吉良家へ向かったのは、

次の八つの鐘、

と考え、

「討ち入ったのが、八つ時から一時間程度の、八つ半と見るのが妥当」

と推測し、当事者である原惣右衛門の、

寅の上刻、

が正確で、

八つ半から七つ、

つまり、

午前三時から四時までの間、

で、

大体三時半、

と推測してみせる。

それにしても、時の鐘にしても、少しずつばらつき、結構アバウトな時間感覚であったことに驚く。多分、日本語が状況依存型であり、その場にいる人と共有できれば良しとした感覚の延長上にあるのだろうと思う。

だとしても、時刻のもとになる暦自体、唐の時代の宣明暦を823年もそのまま使い続けるという無頓着な日本人が、明治以降、時間に厳密になったのは、どういうことなのだろうと不思議でならない。

なお、古代、夜の時間は、

ユウベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、

という区分をし、昼の時間帯は、

アサ→ヒル→ユウ、

と区分したが、こうした時間感覚については、「あさぼらけ」、「あかつき」、「あさまだき」、「あした」、「」、「ひる」、「ゆふ」、「ゆうまぐれ」、「逢魔が時」、「たそがれ」、「」、「深更(しんこう)」、「五更」、「初夜」、「夜半」で触れた。

参考文献;
橋本万平『日本の時刻制度』(塙書房)

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