◇プロジェクトチームの進捗停滞に端を発した,意見対立とそれが出身母体に伝聞し,そこからの反対意見が生じることによって,チームメンバーがばらばらになり,チーム自体の存在に危機が生じる,
そこでどうチームを結束させていくか,リーダーシップが問われる。プロジェクトそのものを問い直し,チームとしてのまとまりを再構築していくリーダーシップとは何かが問われている。
プロジェクトチームの要件としては,
●何のためのチームなのかが明確で,何をするためのチームなのか,チームの存在理由と意味が明確であること
●チームとして到達すべき目標が明確で,共有化されていること
●目標達成のために,役割分担がはかられ,相互の役割が機能的に統合されていること
等々があげられる。つまり,チームの存在意義となすべきタスクが明確であり,それをするための役割分担がきちんととれている。だからこそ,お互いをつなぐつながり方ができあがっていく,といえるのである。
では,チームメンバーからみると,どういうときにまとまり,どういうときにまとまりが損なわれるのか。
@チームが組織内での位置づけが高いと認識されているとまとまる。
Aチームの目指す目標が魅力的なとき,チームに魅力を感じる。逆に目標達成が不可能になったり,大きな障害を突破できないと感ずると結束力が弱まる。
Bチームの意思決定にメンバーの参画度が高いとき,まとまりは高くなる。
Cチーム内で重視されていると感ずるメンバーはチームに魅力を感じる。
Dメンバー相互の協働関係が強ければ,チームに魅力を感じ,対立関係が強まると結束力が弱まる。
Eチームの価値(そのチームに所属していれば有益,誇り等々)があると感じられると魅力を感じる。
等々といわれる。これを左右できるのはリーダーのリーダーシップしかない。
チームの活力を高めるには,どれだけメンバーが共有できる目的をもてるかである。そのために,リーダー自身も,確信をもってチームの目指すもの(目的)を指し示すことができなければならない。
何のためにそれをするのか(目的意識)に魅力があり,そのために何をしたらいいか(目標意識)が共有化され,どういう役割を果たせばいいのか(役割意識)が分担され,何をチェックしたらいいのか(評価基準)が一致できていれば,チームメンバーがひとつの目的実現のために一体となって取り組むことができるはずであり,それは,チーム全体のやる気の根源となるはずである。
しかしそれは,組織やチームの視点に過ぎない。チームの活力が何のために必要なのかによって変わるはずである。たとえば,大まかに3つの面から考えてみることができる。
第一は,チーム自体のパフォーマンスにとって。チーム自体の維持と向上から,活力がなくてどうして,結果を挙げられるだろう。それがなくて,チームの存在意義はない。
第二は,リーダー自身のパフォーマンスにとって。チームに活力がないとは,リーダーが何かを求めても,メンバーからは何の反応も,前向きの行動も生まれず,ただ言われたことを仕方なくやっている,ということになる。それではリーダー自身にとっても,その一つ一つの仕事にも,自分自身の存在にも,意味も達成感も見出すことはできない。
第三は,メンバー自身のパフォーマンスにとって。メンバーが,自分がそこにいて,働くことに意義を感じられること,特に自分がそこで有用とされ,そこでの成果に寄与できているという有効感や,そこで働くことで自分自身のやりたいことを実現できるという効力感がもてなければ,そこですごす時間は単なる義務感でしかない。
リーダーは,どうしてもチームへの貢献を求めがちだ。ともすると,リーダーはチーム目的と一体化してしまっているからだ。チームとしての「しなくてはならないこと (環境要因)」「できること(内部要因)」「したいこと(意思)」と,リーダー自身の「しなくてはならないこと(環境要因)」「できること(内部要因)」「したいこと(意思)」とがイコールとしてしまっている。もちろん,それを否定する気はないが,その範囲にとどまる限り,個人商店主的リーダーシップであって,そのチームの存在意味も限定されたものであるし,そうしたリーダーシップは,メンバーにとってメンバー自身の活力を減らすストレス要因そのものにもなる。
本当は,まずリーダー自身が本当に,そこで自分自身を活性化できているのか,と自問しなくてはならない。心から充実し日々生き生きとしているのかどうか。気づかずにやらねばならないこと(それも自分のそれではなく組織のそれ)とリーダーとして役割から来るやりたいことが重なって,本人はそれが自分のやりたいことと勘違いし,迷惑にもそれをメンバーに強要していることはないのか。問題なのは組織と一体化していることではなく,リーダー自身がそれに気づかず,あたかも自分の意思であるかのごとく思い込んでいることだ。そこでは,ただ「なすべきこと」を要求するだけのリーダーシップしかない。それはリーダーシップではなく,ボスという肩書きに頼っているに過ぎない。
たとえば,活力というのをイメージとして言うなら,チームメンバーひとりひとりが,自分自身の責任でなすべきことをわきまえ,その達成のためにチームメンバーと助け合いながら,組織としてのパフォーマンスをあげるように努力するプロセスということができる。そのときメンバー自身もまた自分自身の本音と意思に向き合い,何をしたいのか,それは今ここでできているのかを考え,チームにもオープンに話せる雰囲気がなくてはならない。それがなければ,表面上は活発な意見交換がなされても,それは組織として「なすべきこと」についてのみであって,ひとりひとりの「やりたいこと」を諦めるか,はじめから考慮に入れていないか,そもそも意識していないか,のいずれかでしかない。それを方向づけていくのがリーダーシップそのものなら,リーダー自身が自分の本心と本音と意思に,きちんと向き合っていなくてはならない。でなくては,結局その活力は,メンバーのためのものではなく,組織とリーダーのためのものでしかない。それは真の活力とは言えない。
一般的に,
@リーダーシップはトップのものである,
Aリーダーシップはパーソナリティである,
Bリーダーシップは対人影響力である,
といった常識がある。しかし,リーダーシップは,トップに限らず組織構成員すべてが,いま自分が何かをしなければならないと思ったとき,みずからの旗を掲げ,周囲に働きかけていくことではないか。その旗が上位者を含めたメンバーに共有化され,チーム全体を動かしたとき,その旗はチームの旗になる。そのリーダーシップにふさわしいパーソナリティがあるわけではない。何とかしなくてはならないという思いがひとり自分だけのものではないと確信し,それがチームメンバーのものとできれば,リーダーシップなのである。そこに必要なのは,自分自身への確信である。それは自分を動かすものだ。それが人を動かす。リーダーシップは他人への影響力である前に,自分への影響力である。「お前がやらなくて誰がやるのか」「自分がやるしかない」「自分はこれを何として実現したいのだ」と,みずからを動かせるものが,自分の中になければ,人は動かない。それが旗の意味であり,旗の実現効果であり,そこに共に夢を見られることだ。
だから,リーダーシップに必要なのは,@周囲を巻き込める夢の旗を掲げられること,A夢の実現プランニングを設計できること,B現実と夢とを秤にかけるクリティカルさがあること,である。「こうすべきだ」だけでは人は乗らない。それが単なる夢物語でも人は乗らない。夢と現実味をかね合わせて,たえず点検していける精神こそが,求められるリーダーシップである。
自薦他薦で「リーダーになる」ことは可能だが,メンバーにリーダーと認知されない限りリーダーではありえない。リーダーと認められなければ,仮に旗を掲げても,誰もついていかない。いまリーダーであるからといって,いつまでもリーダーでありつづけられない。常にメンバーから問われているのは,(あなたは)「何のために(何を実現するために)リーダーとして存在しているのか」である。その答は,リーダーである限り,自分で出さなくてはならない。その答が出せなくなったとき,リーダー失格である。
もちろん「リーダーである」ことは目的ではない。あくまでチームの目的を達成することが目的である。それにはたえず「チームの目的は何か」を明確にさせなくてはならないだろう。リーダーは,一方では,自分は「何のために(何を達成するために),リーダーとしているのか」「(目的を達成するために)リーダーとして,何をしなくてはならないのか」「(目標を達成するために)リーダーとして,どういうやり方をすべきなのか」等々と絶えず自問しつづけなくてはならない。しかしそれだけに自己完結させればチーム維持そのものが目的化してしまうだろう。だから他方では,果してこのチームはまだ存在する理由を,持ちつづけているのかどうか,チームの使命そのものへの問い直しもまたリーダーにしかできないことである。
チームにビジョンが必要なのは,チームは何をするために存在しているのかというリーダーの問いへの答えが,ビジョンであり,旗印であるからである。旗を鮮明に掲げ続けられるかどうかは,リーダーがチームの目的とどれだけ格闘したかの結果であり,そこにこそリーダーシップが必要なのである。そのビジョンが,それを実現するために何をすべきかを,メンバーに考えさせる値打ちがあるかどうかをリーダーは問われているのである。
●プロジェクトのコンセプトが明確である
・顧客が明確であるか。つまりユーザーは特定されているのか。
・製品・サービスが明確か。つまり何が解決さるのか,あるいは何が実現されるのか。
・差別性が明確か。つまり何が違うのかがはっきりしているのか,他にない何があるのか,等々。
●支援するトップと支援するミドルマネジメントが不可欠である
成功した開発プロジェクトの第一要因は,「トップの理解と励まし」である。このトップが,社長であることもあるし,研究開発部門のトップの場合もある。最初は少数のトップの支援でも,その人の影響力で多数のトップのコンセンサスをとりえるからなのである。幸運にも,社長がそのテーマに強い関心をもっている場合もあるかもしれないが,トップの関心をひきつける努力はプロジェクトチーム,特にリーダーのトップへの関わり方にある。仮に名目上であれ,実質的であれ,最終意思決定権者が,ほっておいてもプロジェクトに関心をもち,強くバックアップしてくれるというのは他人任せにすぎる。みずから,どうすれば,強い関心と支援をもらえるか,チームメンバーとともにアイデアをしぼらなければならない。
そのとき忘れてならないのは,プロジェクトに関心をもってくれる,ミドルをみつけることである。それでなくても,新規のプロジェクトは既存の事業にとって強力なライバルになりうるし,また自部署から有力な人材を割かれていたりもするので,利害に反することが多く,ともすれば足を引っ張られる。そんなとき,ミドルクラスに,理解者と支援者を見つけることは,実質的なプロジェクト運営にとって,協力な援護射撃になる。
●目標が明確であり,責任がはっきりしている
プロジェクト成功要因で多いのは,「目標が明確,テーマが明確」「責任が明確」である。テーマが明瞭で,限定されており,期限が明確で,予算の裏づけがあることで,チームにやる気を起こさせる。それが自社にとって重要な課題であるほど,トップの関心も高く,達成にやりがいが高くなる。
●リーダーが優れ,メンバーが優れた異種混合チームであること
成功要因に多いのは,「チームリーダーが優秀」「メンバーの質と量」「チームワークがいい」である。リーダーにとって,メンバーは所与だが,与えられたリソースをどう有効に機能させて,ひとりひとりの力を引き出し,チームワークを高めていくかは,リーダーのリーダーシップそのものである。
●情報収集力がある
・外部情報,特に基盤技術の情報,特許情報,その他消費動向,市場情報など,ニーズに適応する情報,他社情報
・内部情報,異種の知識や情報の交換
・その他非公式の情報源,人的情報源のネットワーク
意外に,情報の多くは,社内やチーム内にあることがある。それが特定の誰かに秘匿されていることがある。それは待っていても見つからない。チーム側から働きかけていく。人を介して探していくことになる。その協力関係づくりも,バックアップを得るための手段になるはずである。
●関係部門との協力関係をつくっている
結局社内のコンセンサスをどうとるかが,プロジェクトの成果を実践していくときに問われる。しかしそれはプロジェクト推進中から関係部門との調整,協力関係をどうとってきたかにかかっている。
トップの関心や関係部署のバックアップは,実は,チームメンバーのやる気や元気につながるのである。関係部門から,どんな意見であれ,コンタクトがあったということは,そことまだ協力関係ができていないということである。そこでどうきちんと考え方を示し,バックアップしてもらう関係にするかが重要である。重点関係部門をピックアップして,そのことを,チームメンバーときちんと協議し,それぞれの役割を分担しながら,対応策をとっておく必要がある。
●チームメンバーにとっての動機づけと達成感がある
個々のメンバーにとって,このプロジェクトに参加することが社内的にどうとらえられているかということと関係があるが,誇りであったり,それ自体に名誉であったりという動機づけと,これに参加していくこと自体が,自分のキャリアにとって意味があると感じられることである。それは与えられるものではない。周囲に認知されることを通してえられるはずである。チーム内に自己完結させず,周囲への働きかけることを通して承認と認知が得られていくはずである。
●チーム内の円滑なコミュニケーションがとれている
情報の共有化,問題意識のすりあわせ,ざっくばらんな会話が保証されている。チームワークのよさと関連するが,ミーティングのような制度化されたコミュニケーションだけでなく,日常のさりげない会話やすりあわせがふんだんに行われていることが必要である。それはリーダーから働きかけていける。「なにかあった」「僕のサポートできることはない」「何かあったら聞かせてね」等々。
●スケジュール管理が十分行われていること
スケジュールの計画と進捗管理がきちんとできていること。これは,コミュニケーションの機会や場があることと関連があるが,マイルストーンごとの中間報告やチェックが厳密に行われていることで,やりなおしや後戻り,停滞を最小化する。中間報告は,当然関係部署との関係強化にも機能するはずである。
●自分たちのやっていることへの確信と意味づけを見失わない
いま問われているのは,プロジェクトチームの存在意味だ。このチームは何をするために存在しているのかが揺らいでいる。再度このチームで何をしようとしているのか,そのために,いまメンバーに何が問われているのかを,再確認しなくてはならない。
チームの凝集度(力)を高めるのには,どれだけメンバーが目的意識を共有化できるかである。そのために,リーダーは,確信をもって,何のために自分たちのチームがあり,チームの仕事があるのかを指し示すことができなければならない。末吉リーダーは,見失いかけているチームの存在意味を問い直さなくてはならない。それは,次の点であろう。
・プロジェクトの目指す製品開発の将来像,つまり,チームメンバー内で,自分たちの新製品が,市場で,どんな位置づけになるか,の共通理解ができているかどうか。当社にとっての重要度,市場での価値,競争相手との競合関係についての共通認識があるかどうか。
・プロジェクトの会社でのポジショニング,会社内でどんな位置づけになっているか。どんな意味があるかによって,このプロジェクトに参加することの,それぞれの参画意識,動機づけにかかわってくる。
この2点が,チーム内では揺らいでいる。自分たちがやっていることの意味づけの再確認が不可欠である。
●ゴールの明示と進捗プロセスの共有
いま,プロジェクトは二者択一の前で立ち往生している。しかし必要なのは,事態を俯瞰する視点である。たとえば,本当にこの二案しかないのか,この技術使用のためのサブノウハウの開発が必要なのに,その技術が当社には不足しているというのは,どれくらい確かめられているのか等々という問題提起を,チーム内で自己完結させず,広く組織内外で情報収集をしてみる。
それは,チームにとっては,チームを挙げて問題解決に取り組むことになり,さらに,関係部署,関係する人々に協力を求めることで,プロジェクトに巻き込み,組織を挙げて,自分たちの問題として,チームをバックアップする雰囲気を醸成していくことができる。そのためには,同時に,関係部署にメンバーだけでなく,チームリーダー自身が積極的に話し合い,たとえば,内製化をするためのリソースやノウハウを組織内外に探る手助けを等々,協力を求めるアプローチが不可欠である。チームとしてのこの作業に取り組むことが,いまの進捗状況を自分のものとして把握し,プラス・マイナスの手ごたえをつかむ機会になっていく。
●チームに何で貢献するかの再確信
いまチームの直面している問題に,どう分担して取り組むか,その中で,いままでの役割分担と貢献の仕方とは別の分担,別の貢献の仕方が見えてくる。それは,プロジェクトのステージが,別の段階に達したことになるはずである。その体験を通して,「自分の有効感・有能感と自己決定感」(自分がやった結果できた・役立ったという満足感)を味わう機会がふえ,自分の成長になることが,チームの一員としての意味につながり,新たな自己評価を下せるようになることは,チームのメンバーにとっても重要なはずなのだ。
●共に戦っているフィールドの共有化
担当したことを,共通の場でフィードバックしあう。それは,特定の部署の抵抗といったマイナス面との戦いではなく,プロジェクトを意味あらしめ,その存在意義を高めるために,一緒に問題や障害と戦っていく,そのことがチームの一体感をつくりあげていくはずである。そういうフィールドは,情報交換と問題のすりあわせの機会を意識的につくりだし,その中で,情報と問題を共有し,チームとして打開し,解決していく中で,強まっていくはずだ。そのフィールドを,維持し続ける努力こそが,リーダーに求められている。(完)
リーダーシップについては,「リーダーシップとは何か」「リーダーシップ論」「リーダーシップに必要な5つのこと【1】・【2】」を参照してください。
参考文献;大江建『なぜ新規事業は成功しないのか』(日本経済新聞社 1998)・河野豊弘『新製品開発戦略』(ダイヤモンド社 1987)
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チェックリストの各項目とキャッチボールすることで,発想技法を刺激とするという効果が考えられるが,それは,いわば,自分自身(の知識・経験)にキャッチボールを仕掛けて,それを刺激し,既成概念になっているものの見方を崩そうとする試みである。チェックリスト項目との対話が,脳のネットワークに新しい回路をつなげたり,回路が再生したりする手がかりにはなるからである。
当然,ブレインストーミングも,こうした刺激の一種として,自分の中に,異質な発見をする,あるいは自分を異質化して発見を促す機会とすることで,より有効に使える事を意味する。カーネギーの,
「2人がいて,ふたりとも同じ意見なら,1人はいなくてもいい人間だ」(『人を動かす』)
ということの持つ意味でもある。
そのことを少し掘り下げておきたい。
ここで,“キャッチボール”と言っていることには明確なイメージがある。それは,例の3Mのポストイット開発をめぐる逸話で
ある。周知のように,シルバーという人が,接着剤を開発していて,貼ってもすぐ剥がれてしまうものを創り出し
た。彼はそれを「失敗」とはみなさず,社内の技術者に,この特性を生かした使い道を考えてくれないかと主張し続けたのです。その中に,いつも書籍に挟む付箋に不便を感じていたフライが,その使用方法として,ポストイットを発想した。この,いわば自分の問題意識をぶつけることで,新しい何かを発見することにつながる,やりとりを,キャッチボールと呼びたい。
出典;マッハ『感覚の分析』(法大出版局)
上図は,マッハの自画像である。ブロッホは,自著の中で,こう紹介している。
寝椅子に横たわるかれが,彼自身にどうみえるかを示している。マッハはこの奇妙なデッサンを,「自己観察による私」と名づけた。(中略)マッハは,こういう姿である―ふさふさした髭は巨きな肩の突端になびき,肩から首へとうつるべきあたりからさきは,そのまま白紙となっており,下方にむかってはグロテスクなまでに短縮された遠近法で,胴,肢,足と順次つづいている。(エルンスト・プロッホ『異化』片岡・種村・船戸訳,現代思潮社)
いろいろな解釈は可能だが,ここでは,いわば,個人の視界の狭さと発想の限界のアナロジーと見なすことができる。とすると,どうすれば,それが破れるかだ。ツールを使っての,たとえば,チェックリストとのキャッチボールも,そうした個人の限界の埒内であれば,おのずと限界がある。
そこで,人とのキャッチボールの原則として使えるのが,有名な,ブレインストーミングである。
これは,オズボーンの開発したもの。ブレイン(脳)のストーム(嵐)という精神錯乱を意味する。他人のもっている異質性を生かして,異質さを見つけ出す効果を上げるのが狙いである。しかし,発見は,自分の中でする。常に,「答えは自分の中にある」。
人に教えてもらったものは,知識でしかない。知識は,既にあるものだ。あるものを知るだけのことだ。発想とは,今あるものに,新しい光を当てるものだ。見方であったり,見え方であったり,隠された部分であったり,知られていなかったものであったり。しかし,答えは,自分の中にある。
ブレインストーミングの原則
1,メンバーの発言への批判禁止
出されたアイデアへの批判は最後まで控える。批判をしないことで,心の「制約」「妨げ」 が排除される(タブーの除去)。
「批判」は,往々にして,既存の価値や知見での評価である。アーサー・C・クラークも言っている。「権威ある科学者が何かが可能と言うとき,それはほとんど正しい。しかし,何かが不可能と言うとき,それは多分間違っている」と。アイデアへの批判はカッコに入れる。ダメと思ったら,ダメと言う代わりに,ダメでないアイデアをぶつけること。
2,自由奔放な発言
突拍子もないもの,奇抜なもの,風変わりなもの,乱暴なものほどよい。自由奔放な雰囲気が各自の「自制」の構えが消える(自由な雰囲気を保証)。
3,質より量
新しい何かを創り出そうとしているのに,何が質が高くて,何が質が低いかがわかっているはずはない。もし質の評価があるとすれば,既存の価値観であり,それはある意味では先入観にすぎない。いま必要なのは,どんな制約にも,どんな知識にも“とらわれず”に,自由に,何でも,発想すること。量は,多ければ多いほどいい。多いほど発想への刺激となり,すぐれたものが見つかるチャンスがふえる。発言回数も多いほどよい(発言機会の保証)。
4,他人の発言への相乗りOK
自分の見方の限定された視界を崩すためには,異質な角度からの他人の発想に刺激され,「そういう見方があるのか」「それを,こういうふうにすれば,もっとよくなるのではないか」と,相手の発想を借りながら,あるいはそれ(の一部)と組み合わせながら,よりいいアイデアにつなげようと,ともかくアイデアと遊ぶ
こと(チームとしての生産)。
5,自己激励と相互激励の雰囲気で
メンバーは違いに影響しあい刺激しあう。ひとりが何かひらめいたとき,まわりはいいアイデアが出るようアドバイスや励まして,盛り上げていく。《アイデアは,心の中にあるだけではだめ,表現されてはじめて,誤りも正せるし,新しい意味や可能性がつけ加えられる》 |
大事なことは,ブレストも目的ではない。キャッチボールも目的ではない。キャッチボールを通して,自分の中に,発見を促すことだ。「そうだった!」「そんなことがあった」「そう見ていいのか。とすれば,こうも考えられる」等々,自分の中で,当たり前としてきたこと,当たり前として見逃してきたこと,知っているつもりで疑いもしなかったことに,光を当てて,あるいは光の当て方を変えて,違った側面を見つけること。
それは,言い換えれば,自分自身を異質化することだ。自分とは,自分の知識,経験,スキル,ノウハウを異質化することだ。自分では気づかなかったその価値を,発見することだ。そのために,キャッチボールする。相手が異質な,気づきもしなかったことを言ってくれることで,埋もれていた自分の回路を蘇らせる。そのとき,キャッチボールは,自分の発想のツールとなるのである。
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基本は、誰かのせりふではないが、「焦らず」「腐らず」「諦めず」です。粘り強く追いかけることですが、具体化すれば、次の7条件となります。
1.まてよ、と立ち止まる
立ち止まるためには,3つの原則があります。
@知っていることをあてはめない
A答えはひとつではない
Bキャッチボールしてみる
特に、「知っていること」を当てはめないで補足したキャッチフレーズ、
・疑え、つじつまの合うことだけで結論を急ぐな
・裏を読め、見えていることだけで結論を急ぐな
・先を見ろ、いまという一点だけで結論を急ぐな
でしょうか。つい惰性で考えてしまう流れを断ち切るには、とにかく一歩立ち止まってみることが大切です。
2.具体化してみる
数を出すための原則は4つです。
@具体的に考える
A強制的に、あるいは見たいように見る
Bシリーズ化する
C5W1Hあるいはストーリーを描く
それは、「それを具体的に言うと?」「それを具体的に言うと?」「それを……」の繰り返しです。具体化に限界はありません。
3.あともう少し
「これで十分」「ここまでやったんだから」「ここまでやったんだから」「もう、これが限界」と感じたときです。エジソンはこんなことを言っています。エジソン曰く、「ここまでやったんだからもう無理だ、とやめてしまう人が多い。本当に実りあるのはそこからなのに」。1%のインスピレーションと99%の汗でいう、99%の汗とは、ここからのことにほかなりません。
数を出すときの、20と2、000の違いを述べましたが、とほうもない数、常識を超えた量というのは一種の飛躍のばねです。タテ・ヨコ・ナナメ・十文字に、徹底的に、とにかく諦めず、持続する。「この程度で、まあ、いいか」と考えないということです。
アインシュタインは、「何ヵ月も何年も考えて考え抜く。九十九回は失敗しても、百回目に正答を得るかも知れない」と言っています。
4.まだまだの楽観性
アイデア豊な人は深刻にならない、とはこのことでしょう。コップ半分の水を見て、「もう半分」と悲観的に考えるのと、「まだ半分」と楽観的に考えるのとでは、そこで終わりモードになっているか、まだこれからと考えているか、大きな差があります。
5.ダメモトの開き直り
ある意味で、せっぱ詰まっても、どうにかなると思う開き直りが必要です。駄目とわかることだって、収穫の一つという位の気持がゆとりを呼ぶ。宋の詩人、欧陽修が言ったとされる「三上説」、つまり、馬上、枕上、厠上はいずれも、日常から離れて寛いだ状態だ。こういうときにいい発想が生まれるとしたのもうなずける話です。現代風に言えば、車中、トイレの中(そう言えば、昨今洋風となり、皆考える人になっている)、寝室の中、それに風呂の中(アルキメデスの例もある)、といったところだろうか。3B(BUS、BATH、BED)という言い方もあります。
6.引っ返す勇気
出直す、繰り返す、一からやり直す、全部ひっくりかえす、ご破算にする、といった気持を捨ててはなりません。それは、自分の中の批評力なのです。途中から間違ったまま、あるいは手順を間違えた、飛ばしたとき、「まあ、いいか」「仕方ない」と妥協せず、初めからやり直す、確かかどうか再度繰り返すという作業を厭わない、という姿勢は発想にとってとって無駄になるかもしれませんが、不可欠です。
7.ばかばかしいという評価をしない
バカバカしい、くだらないという評価は、大体常識でしています。常識の判断で事がすむなら、もともと発想の必要性などありません。むしろ、常識の嘲笑する、不真面目、悪ふざけ、遊び、馬鹿ばかしさ、くだらなさの中に、宝石がある。無理、無茶、無謀、無駄、無縁、無意味、無効、無用。こういったいかにも非効率・非経済な、世の秀才が鼻先でせせら笑うようなものを、めげずに取り組むことも大切なのです。
遊びっぽい、ばかばかしい、くだらないと思いがちの人は、発想についての、次の点を再チェックしてほしいと思います。
@いままでやってきた常識を超えたものを考えなくてはならない→だから発想が必要なのではないですか。それは常識からはばかげて見えるかもしれません。
Aくだらない、ばかばかしいという思いはどこから来たのでしょう→どれが価値ありどれが無価値かの判断がつくなら、「何とかする」必要はなかったはずです。
B無茶、無理、無駄、無謀という評価は考えたことがないからにすぎません→「どうすれば可能になるか」を考えてみる価値だけがあるのであって、何ももしないうちから評価するのはやらない言訳、やるのを恐れている逃げ向上にすぎません。
Cそんなに簡単にできるのなら、「何とかする」とは言えません。→とにかく、とことん粘ってみること。エジソンの言う99%の汗とは、このことにほかなりません。
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発想マインドチェック
設問項目 |
該当する |
枝葉末節にとらわれず、中心点は何かを見極める |
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職場以外にも、仲間や人とのつながりが多い |
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事態や現象に振りまわされず骨組みや構造をつかむようにする |
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もっと別の見方はないか、別のやり方はないか、別の立場はないかと考える |
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自分にしかできない、自分だからできる、ということがあると思っている |
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知らないことにぶつかっても、自分の知っていることから類推して何とかしようとする |
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ものごとを一面から見ないように、いろいろ対比して考えるようにしている |
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5W1Hを意識して、いつも目的や目標から考えようとする |
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複雑な問題や厄介なことでもすぐに白旗を挙げるのはしゃくだと、ひとりでも粘るほうだ |
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いつも新しいことに目を向けているし、新しいことを考えるのが好きだ |
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自分の専門分野以外でも新しい動きには目を配っている |
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局面や細部から目を離し、できるだけ大局的に、長いスパンで考えようとする |
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取引先や業務関連以外に、異分野の人や地域の人と一緒に何かに取り組んだ経験がある |
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疑問やわからないことは、周りや知人に、かまわず聞きまくる |
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どんなにせっぱ詰まってもまだ何とかなるという自信がある |
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何が確定したことで何がまだ確定していないことなのかを明確にするようにしている |
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もう少し、あともうちょっとやってみようという粘りには自信がある |
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ものごとを広い視野(パースペクティブ)の中で置き直して考える傾向がある |
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もう他にないかと、他の視点、他の分野、他の条件等々アイデアをひねくりまわすところがある |
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現場や現物・現状に当り、具体例で考えるようにしている |
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本を読む機会は多くないが、コラムとか囲み記事とか、人の目にしない細かいところに目が向く |
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メモ魔、記録魔である |
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発想の量と数には自信がある |
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どうすれば人と違うかを考えるところがある |
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あまり正解にはこだわらず、自分なりのアイデアを突詰めるほうだ |
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人と発想やアイデアについてキャッチボールする相手がいる |
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原因を納得できるまでさかのぼるところがある |
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人とはザックバランに雑談する |
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ものごとをざっくりと考えず、わかるところまで要素や要因、部分に分解して考える |
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考えやアイデアを「いい・わるい」「すき・嫌い」といった評価で切り捨てるところはない |
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チェックの数 |
傾向 |
〜1 |
根っからの消極派です |
2〜5 |
かなりの殻の強さです。殻は自己防御でしかありません |
6〜10 |
ちょっと新しいことに臆病ですが、結局チャレンジする方でしょう |
11〜15 |
ちょっと臆病に、しかし新しいことを覗き見たい口です |
16〜20 |
発想には強いほうです |
21〜24 |
ちっとやそっとのことではめげないマインドの持ち主です |
25〜 |
すばらしい発想マインドです |
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これは、どれだけいろんな人を知っているか、です。典型的な異質人とは、同僚、同期、同級生以外の、異なる性、異なる年齢、異なる職業あるいは、異なるレベル、異なる経歴、異なる役割を想定しています。キャッチボールの効果が上がるかどうかのポイントとなります。
幕末、若い浪士が、坂本竜馬に、
「大事なものは何か」と聞いたところ、「刀」と答えたそうです。
何年かして竜馬と再開した、若者が、意気揚揚と刀を差していると、竜馬は、
「まだそんなものを差しているのか、君は遅れている」
と、リボルバーのピストルを示しました。さらに何年か後、若者が、再開した竜馬にピストルを示すと、
「何と時代おくれだ、これからはこういうものの時代だ」と、万国公法の本を示した、というのです。
ここに何を読み取っても自由ですが、若者の立場から見たとき、竜馬という異質人に会うたびに、変わっていく姿がみえてきます。ここでの“異質人”とは、若者にとっての坂本竜馬です。
異質化 |
チェック項目 |
異質人との接触
|
この1年で新しい知り合いが何人できたか |
異なる年齢の友人・知人が何人いるか |
異なる職業の友人・知人が何人いるか |
この1週間に何人の人と会ったか |
この1週間に何人の新しい(未知の)人と会ったか |
(業務の関係者でなく)異業種の人をどれだけ知っているか |
電話一本で情報を得られる人が何人いるか |
学生時代の友人と何人つきあっているか |
- 異質状況(文脈・環境)との接触〜どれだけいろんな状況を知っているか
異質状況とは、仕事場以外の場所、家庭以外の場所、行きつけ(なじみ)以外の場所を想定しています。いつも同じ時間に、同じ車両に乗って、同じ職場の人と昼を食べ、夜は飲むというのでは、頭の回路が固まってしまいます。
異質化 |
チェック項目 |
状況の異質化 |
自宅への帰り道(アクセスルート)をどれだけ知っているか |
自宅までのルートの一部でも歩いて見たことはあるか |
自宅への通勤経路で途中下車したことのない駅はどれだけあるか |
1年に何度旅行するか |
この1週間、特別違った経験があったか |
人に薦められるおいしいレストランを何軒知っているか |
人に薦められるおいしいコーヒーショップを何軒知っているか |
VIPを案内できるようなレストランを知っているか |
インプットの異質化とは、必ずしもインプットするものの変更のみを意味していません。漫画+新聞+週刊誌、雑誌+漫画+週刊誌、専門書+原書+タイムでも何でもいいのです。活字をやめて映像、漫画をやめて活字、車をやめて歩く、というそのパターンを変えることも大切ですが、自分のインプットするときの目線も振り返ってください。いつもとは違うところに焦点を当ててみる、目の付け所を変える、ということです、たとえば、新聞で言うなら、3行記事、囲み、コラムに、目を向ける、ということです。ただし、会社で、業務で読む場合も含めていいのですが、身銭を切っている場合のみに限定して考えてみてください。それが個人の努力だからです。
異質化 |
チェック項目 |
インプットの異質化 |
この1ヵ月に何冊本(雑誌)を読んだか |
知りたいことを探索する手段をネット以外に複数もっている |
必要情報をどこで調べたらいいか、手段情報を持っている |
専門以外に自分の土壌を広げる努力をしている |
この1ヵ月に観た映画はあるか(テレビ放映も含め) |
いまどんな展覧会が開催されているか知っているか |
この1ヵ月に見た何回イベント美術展に行ったか |
いまの仕事とは直接関係ない資格や分野の研究や勉強をしている |
仕事でも個人的な生活態度でも、それまでの手慣れた手順、ステップを変えてみる、やり方をかえてみます。たとえば、こうなったときには、こうすればこうなるといういつものやり方をかえて、「こうしなかったらどうなるか」を試みてみるのです。
異質化 |
チェック項目 |
やり方の異質化 |
使っているツールすべてが壊れても代替手段を工夫できる |
トラブルや緊急事態には平時のルールを無視して最善策を考える |
失敗したに保身を捨てて修復にあたれる |
新規に仕事を始めるとき従来のやり方にはこだわらない |
代替手段(迂回路)をいくつももっている |
リスクを心配するより新しいやり方の面白さに惹かれる |
仕事の仕方の代替手段(迂回路)をいくつもっている |
いつもとは違うやり方をそれとなく試み、別の可能性や代替方法を探っている |
多く、誤った自己イメージが、自分の発想を閉ざしたり、タブーを作ったりするのです。発想力アップには、新たな自分の再確認、再発見、自分の別の側面を知るということが結構重要です。ユング曰く「生きてこなかった反面」に自覚的であることです。
たとえば、
・いまの自分は数ある選択肢のうちのひとつにすぎない。が、それを選んだのは自分だ。
・既知の自分とは異質の自分、ありえた自分、なりたい自分、可能性の自分、夢の自分
・自分は一色ではない。一直線に過去から未来へつながっているのではない。
・常に何かを選択したとき、そこで断念(捨てた)生き方があるはずである。
常にそうならなかった自分があり、そういうさまざまな可能性の選択肢の中に今があるのです(ありえたさまざまな分岐点、そしてこのいまの一瞬もまた、未来からみるとそういう分岐点でありうるのです)。
自分を異質化するというのは、いまの自分が知っている自分だけではなく、自分の見落としている自分、見たくないと思っている自分をも受けとめ、そのすべてを自分の可能性として信ずることです。今の自分に一番影響を与えているのは、過去の自分なのです。
@今の自分の異質化
いまの自分を、ピンポイントのいま、ここだけで考えるのは、一面的です。自分の可能性をもう少し幅広い視点でチェックしてみたいものです。
異質化 |
チェック項目 |
いまの自分の異質化 |
3年前とまったく変わったところはどこか |
十年前とまったく変わったところはどこか |
いま熱中していることはないか |
いま一番関心のあることは何か |
いまいやでいやでたまらないことは何か |
今自分は誰に一番影響を与えているか |
今自分は誰から一番影響を受けているか |
いまの自分を変えるとしたら、何をするか |
A明日の自分の異質化
いまの延長線上に自分をおかず、遠近法を変えてみる。会社・仕事の延長線だけでなく、別の自分の側面(趣味、好きなこと、やりたいこと)に焦点を当てて、自分を点検してみます。それが重要なのは、仕事の足以外に、もう1本、立脚点を持てることなのです。
異質化 |
チェック項目 |
明日の自分の異質化 |
自分の夢は実現できていると思うか |
やりたいことがやれていると思うか |
未来は今の延長にあると思うか |
十年後の自分を予想したことがあるか |
十年後のいまの仕事の変化について考えたことはあるか |
誰にとって、将来自分が一番影響を与える人になるだろうか |
誰が、将来の自分が一番影響を受ける人だろうか |
明日の自分を変えるためにいま何を一番すべきだろうか |
B昨日の自分の異質化
ありえた自分の可能性(自分が選択してきた岐路を振り返ってみる)は、単なる「あのときこうしていたら、こうしならったら」という愚痴ではなく、自分の可能性としてチェックしてみよう。ハイデガーは言っています。人間というのは絶えず可能性として、まだ現実になっていない何かを残している、不断の未完成なのだ、と。
異質化 |
チェック項目 |
昨日の自分の異質化 |
小さいとき何になりたいと思っていたか |
小さいとき何に熱中していたか |
昔からずっと熱中していることはあるか |
いまはもうできないがあの頃得意だったことがあるか |
あのころこうしていたらなあと思うことはあるか |
自分に一番影響を与えた人は誰か |
自分が一番影響を与えた人は誰か |
いまの自分に一番影響を与えたのはどういうことだったか |
問題意識と一言でいっても、その中身は、その人が何を問題と思うかで、違ってきます。
@理想との乖離を問題だと思うか(理想との差を問題にする)
A立てた目標や基準の未達や逸脱を問題と思うか(目標未達を問題にする)
B不足や不満を問題と思うか(欲求や満足の満たされないことを問題にする)
C価値や判断の基準からの逸脱を問題だと思うか(価値や意味との距離を問題にする)
のいずれかです。
「問題」というのは、たとえば、何に目をつけるか、目の付け所と言い換えると分かりやすいはずです。当然、誰にとっても問題と思えることもありますし、その人にとって「問題」と思えても、他の人にとっては何でもないということもあります。
何を「問題」にするかは、人によって違います。その問題意識の差が、人の発想の差になるのです。同じ図を見ていても、そこに何を見るのか、あるいは何に目をつけるかはその人の問題意識の違いです。
図は、問題意識を図解したものです。他の人にとっては問題と思えることが、問題に見えないということがありえます。
同じように現状に向き合っても、何に疑問、不満、不都合、不便、願望、夢を感じるかは違うということは、人によって、どこが発想の起点、原動力になるかは異なるということです。それが発想の個性とするなら、まずは、ご自分の問題意識のタイプを確認するところからはじめなくてはなりません。
- 発想の原動力・自分の問題意識のタイプをチェックする
問題意識のタイプ |
チェック項目 |
該当の有無 |
T・希望・願望・理想の「ワガママ発想」
ありたい/やりたい/なりたい/ほしい
|
@やりたいと思っていること(もの)がある |
|
A試したいと思っているもの(こと)がある |
|
Bほしいと思っているもの(こと)がある |
|
Cできたらいいなと思っていることがある |
|
Dあるといいなと思っているもの(こと)がある |
|
Eなれたらいいなと思っていること(もの)がある |
|
Fできたら面白いと思っていること(もの) がある |
|
Gあったら役立つと思っているもの(こと)がある |
|
Hこうなったらいいと思っているもの(こと)がある |
|
Iわかるといいと思っているもの(こと)がある |
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J行けたら良いなと思っていることがある |
|
K変われたらいいなと思っていること(もの)がある |
|
L知りたいと思っていること(もの)がある |
|
M持ちたいと思っていること(もの)がある |
|
N乗りたいと思っていること(もの)がある |
|
U・水準(目標)の未達・逸脱の「イライラ発想」
できない/やらない/やれない/及ばない
|
@やりたいのにできなくてイライラしていること(もの)がある |
|
Aあるといいのにないために腹の立っていること(もの)
がある |
|
B気にはなっているが当面の仕事と関係ないのでやっていないこと(もの)がある |
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Cやめなくてはいけないと思っているのに誰も気にしていないのでイライラしていること(もの)がある |
|
Dずっと放置してきたのでどうってことはないと誰も見向きもしないこと(もの)があるので、気になっている |
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Eやらなくちゃいけないのにできないためにモヤモヤしていること(もの)がある |
|
Fしなくてはいけないと思いながら手付かずになってヤキモキしていること(もの)がある |
|
Gああしたいこうしたいと思っているのに何もできずキリキリしていること(もの)がある |
|
Hついつい先送りにしてしまっていること(もの)がある |
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Iやらなくてはいけないがどうせ駄目と諦めているもの(こと)がある |
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J誰かがやるだろうと手をつけていないこと(もの)はないか |
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Kこのままではまずいと思いながら放ってあってハラハラしていること(もの)がある |
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L何とかしなくてはと思ってもどうしていいか分からないお手上げのこと(もの)がある |
|
Mいろいろ手を尽くしてみたがまったく効果のあがらないこと(もの)がある |
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N解決するたびに別のところから新たに問題が出て一向解決しないこと(もの)がある |
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V・欠点・不都合・無駄の「マイナス発想」
足りない/まずい/欠けている/
|
@足りないと思っているもの(こと)がある |
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Aないことが不満なこと(もの)がある |
|
B欠けていると思っているもの(こと)がある |
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C不平なもの(こと)がある |
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D使いにくいと思っているもの(こと)がある |
|
Eすぐ故障してしまうと思っていること(もの)がある |
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F無駄だ(必要ない)と思っていること(もの)がある |
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G無理だと思っていること(もの)がある |
|
H不便だと思っているもの(こと)がある |
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I役立たないと思っていること(もの)がある |
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J不安に思っていること(もの)がある |
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K不満に思っていること(もの)がある |
|
L不充分だと思っていること(もの)がある |
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M未完だと思っていること(もの)がある |
|
N未熟だと思っていること(もの)がある |
|
W・自慢・自信・誇りの「プラス発想」
いける/やれる/どこにもない
|
@自分にはひとに誇れること(もの)がある |
|
A自分にはひとに自慢できること(もの)がある |
|
Bひとより優れていると思っていること(もの)がある |
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Cどこにも(誰にも)ないと思っていること(もの)がある |
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D自分の中で大事にしていること(もの)明確である |
|
E自分にとって何が値打ちがあるかいつも明確である |
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F自分には役立つもの(こと)・貢献できるもの(こと)がある |
|
G自分には得意の分野(領域)がある |
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Hひとにはない、ちょっと珍しいこと(もの)をもっている |
|
I自分には、ひとにない、ちょっと楽しいこと(もの)がある |
|
J自分には、ひとにはない、面白いこと(もの)がある |
|
K誰も気づいていない、自分が初めてのもの(こと)がある |
|
L自分は最近話題になったこと(もの)がある |
|
M自分は、新しい(古い)こと(もの)をもっている |
|
N自分は、わくわくするようなこと(もの)をもっている |
|
各タイプ毎に、10以上になるのがあれば、それがあなたの問題意識のタイプと考えられます。10以上のものが2以上あった場合は、暫定的にレ点数多いものを、ご自分のタイプと仮定し、後で、次点のものと対比しながら、修正してみてください。いずれも、10に届かない場合は、その中で、レ点数の多いものを、一応ご自分の傾向値とお考えください。
評価項目の得点 |
傾向 |
T・希望・願望・理想の「ワガママ発想」が高い |
理想を設定ないし強く意識し、現状とのギャップに強く問題意識を感じる傾向 |
U・水準(理想)の未達・逸脱の「イライラ発想」 |
現状の達成水準や基準に意識が向き、それへの未達・逸脱に問題意識を感じる傾向 |
V・欠点・不都合・無駄の「マイナス発想」が高い |
現状の問題点、不便、苛立ちを強く意識するために、日常的に不平や不満をエネルギー源にしている |
W・自慢・自信・誇りの「プラス発想」が高い |
自分の内部エネルギーが高く、他者や現状よりも、自分の中から価値や問題意識を発する |
あなたが、どこに強く問題意識をもつかのタイプをチェックしました。
発想は、現状を何とか変えたいと思うところから必要になるのですが、その出発点は、何について何とか変えたいと思うかです。それが、
Tは理想の実現、
Uは未達の回復、
Vは問題点の改善、
Wは内部価値の実現
それぞれに、強い意識があるということです。「問題」は、自分が問題にしない限り、自分にとって解決し、何とかしなくてはならない「課題」になることはありません。発想のスキルやツールが自分にとって不可欠となるのは、その後です。
その意味で、まずご自分の中に、何に問題を感じやすいのか、何を問題視するのか、どこに引っかかるのか、何に目を奪われるのか等々を、傾向として確認しておかなくてはなりません。それが、ご自分の発想のスタートラインだからです。
どれかひとつにならず、バラけた場合は、それぞれに応分の関心を示す傾向があるということです。悪く言うと気が多いと言うことですが、発想の幅が多岐にわたる可能性があるとも言えます。それを長所にするも短所にするのもご自身です。その中でも、相対的に数の多いものに、注目してみてください。
発想するとき使えるのは、自分の頭の中にあるものだけです。発想スキルを自分のものにするとは、自分の体と頭に、いつでも使えるカタチで自分流にしておくということです。
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-
発想の足枷とは
-
チェック項目
-
下記の設問で、該当する場合は、レ印でチェックを入れてください。
設問項目 |
該当する |
嫌いな人の新しいアイデアや新規企画には、つい色眼鏡で評価してしまう |
|
現状を批判したり、問題をあげつらうより、自分の責任と役割を全うすべきと思う |
|
未知の分野や不得意分野のことになると、とたんに頭が真っ白になってまう |
|
知らないことややったことのないことにぶつかったとき、つい尻込みしてしまう |
|
人のアイデアのアラや欠点が良く目につき、つい批判的な物言いをしてしまう |
|
疑問や問題を感じても、忙しさに取り紛れて、見過ごしにしてしまうことが多い |
|
自分にすべきことは明確であり、何が何でもそれを完遂するしかないと思っている |
|
いつも、人はどうしているのだろうか、どういうやり方をするのか、と気になる |
|
新しいことをするときには、自分のやり方で良いのかと心配になってくる |
|
間違いや失敗を恐れて、新しい取り組みややり方より手馴れた方法を選ぶ |
|
ずっと同じ職場で同じ仕事に携わり、自分の得意分野が限定されている |
|
会社関係、職場関係以外の人間関係が少なく、地域とのつきあいも少ない |
|
取引先や業務関連以外に、異分野や地域の人と一緒に何かに取り組んだ経験はない |
|
人が変わった行動や目立つ発言をすると、批判的に見てしまう |
|
新しい知識や技術について関心はあるが、勉強する機会がない |
|
この何年も展覧会、コンサート、劇場に出かけたことがない |
|
特に瑕疵や支障もないのに、いままでの仕事のやり方を変える必要はないと思う |
|
上司に提言や提案する苦労をするくらいなら、体に汗して駆けずり回るほうがいい |
|
いつも社内や上司、周囲の評価や評判を気にかけている |
|
自分なりの考え方や仕事の仕方を、周りや上司に働きかけるのは面倒だと思う |
|
マンガや週刊誌、雑誌以外にあまり本を読む機会はない |
|
新たなチャレンジよりも、現在の仕事でやるべきことができていないのが気になる |
|
目前の山積みの仕事に忙殺される日々で、その仕事に疑問を感じるゆとりがない |
|
いままでのやり方については、人に負けないスピードと処理能力があると自負する |
|
新しい考えややり方に拒絶反応を示すことがある |
|
自分と合わないと感じると、その人を避けたり話をしない傾向が強い |
|
困難や難しいことに取り組むのはできれば避けたいと思う |
|
自分は人知れずコツコツと地道に努力する縁の下の力持ちが似合っている |
|
いまのやり方を改善しなくてはならなくなると負担が増える気がする |
|
権威やお墨付きに弱い |
|
- 評価方法
チェックの数 |
傾向 |
〜1 |
すばらしいチャレンジング精神です |
2〜5 |
十分チャレンジングな性向です。更に一歩を踏み出してください |
6〜10 |
ちょっと新しいことに臆病ですが、結局チャレンジする方でしょう |
11〜15 |
少し新しいことに引っ込み思案です。自分を信じて踏み出すチャンスです |
16〜20 |
かなりの殻の強さです。殻は現状への防御でしかありません |
21〜24 |
いまに必死です。でもその裏に新しさへの自己防衛が強く働いています |
25〜 |
新しさを歯牙にもかけない現状踏ん張り派です。明日は大丈夫ですか? |
- チェック項目
- 下記の設問で、該当する場合は、レ印でチェックを入れてください。
種類 |
設問項目 |
該当の有無 |
A |
@正解はひとつしかないと思っている |
|
A仕事の遂行にはルールは重要であり、従うべきだ |
|
B自分に創造性はないと思っている |
|
C考えや主張は論理的で筋道が通っていなくてはならない |
|
D現実的な考えがもっとも尊ばれる |
|
E遊びや遊び心は仕事には無用である |
|
F専門外のことに口を出すべきではない |
|
Gばかげたことやふざけたことを考えるべきではない |
|
B |
@間違えたり、失敗することを恐れている |
|
A秩序を重視し、曖昧さを許さない |
|
B発想より判断することを好む |
|
C緊張を緩め、ゆっくり暖めながら考えることが苦手である |
|
D熱中し過ぎ、早く成功しようとやりすぎることがある |
|
E興味を引かず、やってみようともしないことがある |
|
F想像力やイメージが苦手である |
|
G想像力のコントロールがきかなくなり、奔放になることがある |
|
C |
@初めのアイデアに飛び付き、それに満足してしまう |
|
A早まった結論に飛び付いて、はやとちりしてしまう |
|
B早く結論を出そうと焦る |
|
C意欲過剰での空回りするところがある |
|
D入れ込みすぎて堂々巡りに陥る |
|
E効率にとらわれて、近視眼的結論に陥る |
|
F黒か白か(あれかこれか)割り切りたがる |
|
G慣れを引きずる |
|
D |
@誰からも評価を得ようとする |
|
A自分のアイデアをベストと見なし、次善策を認めない |
|
Bリスクにためらい、決断を先延ばしにする |
|
C批判に弱い |
|
D採択か否決かの二者択一で考える |
|
Eミーティングで結論を得ようとする |
|
F他人の意見に耳をかさない |
|
G権威やお墨付きを求める |
|
このチェックリスト作成に当っては、R.V.イーク、城山三郎訳『頭にガツンと一撃』(新潮文庫)、J.L.アダムス、恩田彰訳『創造的思考の技術』(ダイヤモンド社)、E.ロードセップ、豊田晃訳『発想力を伸ばす』(創元社)を参考にしました。
Aは、発想に対する先入観
Bは、発想プロセスでの苦手意識あるいはおそれ度
Cは、発想プロセスのつまずきやすい傾向
Dは、アイデア実現への制約あるいは非発想的姿勢
をそれぞれチェックしていただきました。いずれも、発想の成功や飛躍の足を引っ張る、制約要因となっています。
チェックの数 |
傾向 |
すべてが5以上 |
発想する自由を自分で規制しています。もっと心を開いてみてください |
5以上が半分以上 |
全体に発想への固定観念が強いと見ます。もっと気楽に |
全体に3、4 |
弱いながらご自分を抑える傾向が見られます。何が抑えさせるのでしょうか? |
1部が5以上、他は2、3 |
高い部分が、ご自分の規制の強いところです。そこが発想の弱点です |
特定のところが3〜4 |
その部分に、こだわりあるいはおそれが強いようです。そこが発想のネックです |
すべてが2以下 |
すばらしい発想遊び度です |
-
自己規制をどう外すか
固定観念ということをよく,安易に使うが,固定観念とは,その人の知識と経験そのものを差す。知識と経験とは,その人の生きてきた人生そのものといってもいい。固定観念を捨てるとは,大概常識とイコールと受止め,捨てるべきものと考えがちである。冗談ではない。そのひとがもっている知識と経験を捨てるとは,その人の人生そのものを捨てることだ。はっきり言うが,自分の人生と取り替えるに値する発想などというものはない!それは間違っている。何が,か。固定観念を捨てることで発想が得られるという発想が,である。固定観念を捨てれば,発想が生まれるというなら,捨ててみればいい。ラッキョの皮むきである。何もなくなるのがおちだ。
発想とは,その人の知識と経験の函数である。問題なのは,発想を知識と同じレベルで,何か新しいことを蓄えようとする発想だ。問題なのは蓄えているものが間違っているのではない。蓄えているものの使い方だ。もともと蓄えているもの以上に発想は出ない。固定観念となってしまっているのは,自分の知識と経験の使い方に問題があるからなのだ。
人の脳ニューロンは,100億以上あるといわれているが,まず胎児のとき,妊娠20週で大量に死滅していく,といわれている。更に20歳を過ぎると,1日何十万個と死んでいくとされている。その原因は,他のニューロンとの間にシナプス(ニューロンとニューロンの接続部分)を形成できなかったためと考えられている。人間の脳のこうした回路網(ニューロンによるネットワーク)は,10の14乗にも及ぶシナプスがある。入力信号の伝達に使われたシナプスは強化され,使われないシナプスは弱体化し消えていく。この回路網は,人間の知識と経験によって形成されるのである。固定観念とは,絶えず使い,いつも使っている入力信号(使い慣れた知識,いつもの仕事等々)によって強化された回路網に他ならない。
たとえば,下図は,老婆に見えたり,若い女性に見えたりするが(この際,どっちに見えようと大した問題ではない),この絵を,『老婆』にしか見えないように描き換えた絵を先に見せられると,その後下図を見ると,100%の人が,この絵から,老婆しか見えなくなる。逆に,『若い女性』にしか見えないように描き換えた絵を先に見せられると,その後下図を見ると,100%の人が,この絵から,若い女性しか見えなくなる。つまり,先に見た経験によって,強化された回路を通して,ものを見てしまっているのである。しかし,それは,森からサバンナに出て行った,二足歩行の人類にとって,その強化された知識こそが,他の獰猛な野獣から身を守る武器だったのである。
種村・高柳『だまし絵』(河出文庫)
下図も,同じである。二列目の絵を,左から右へ見ていただく。ずっと男の顔である。三列目の絵を,左から右へ見ていただく。女の絵である。一番右の絵は同じであり,一列目の絵がそれである。最初に,強化された回路で見るとき,それが,自分のものの見方を決定してしまう,ということをここで確認すればいい。だから,人間は固定観念の固まりだと嘆くのはナンセンスだ。それが,自分の持っている知識と経験だ,ということに過ぎない。それは,発想にとって邪魔でも踏み台でもない。つまりプラスでもマイナスでもない。ただの前提に過ぎない。
種村・高柳『だまし絵』(河出文庫)
だから,発想は,一人の思考の枠組みでは限界があるのであり,キャッチボールの持つ重要性があるのだということを,ここで確認すればいいのだ。またそうした知識と経験をどう使いこなすかという視点でみたとき,発想スキルをところてんを押出すような便利なツールと見なす安易な発想からはまぬがれることができるはずなのだ。
キャッチボールについては,ここを。
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情報を集めようとするとき,@知らない何かを確かめるためか,A決断や決定をするときの不確定要素を減らそうとするためか,B新たな何かを見つけたり創り出したりしようとするためか,いずれかの意図がある。いずれにしても,わわれわれが情報を集めるのは,何らかの不確実性を減らすそうというときである。
では,その情報とは何か。金子郁容は,情報の要件を,こう整理した。
・情報の発信者と受信者がいること
・伝えられるべき何らかの意味(内容)をもっていること
・受け手に伝わるスタイル(様式・形態)で表現されていること
常に発信者と受信者が明確とは限らないが,流通している情報には,特有の形式にのって意味が伝えられるということである。その形式は,一般的には定量的情報と定性的情報という言い方になるが,金子郁容にならうと,コード情報とモード情報となる。コード情報は0と1のデジタル化のようにコード化できる情報であり,定量情報はこれに含まれる。モード情報は,雰囲気,気分,空気,感情,世の中の動き,流行等々文脈(コンテキスト)に制約された情報である。マイケル・クライトンが大事にすると言ったのは,ネット情報ではなく直接人から聞く話であるが,これは究極のモード情報になる。
ところで,シャノンは,情報の不確実性を減らすために必要な量の情報を,次のように定義した。情報量I,得られる可能性のあるメッセージ数Mとするとき,
I=log2M あるいは言い換えると,M=2I
つまり,「イエス」「ノー」のいずれかの選択だけが存在するとき,そのメッセージで1ビットの情報が得られる。言い換えると,情報1ビットは,2通りの可能性からの選択を示す。それは,情報量を1ビット増やすと不確実性が半分になることを意味する(ベイトソンは,選択肢のあるものを排除するものと呼んだ)。「イエス」「ノー」1回の選択で,一つの疑問が解けていく(不確実性が減る)。これを20回繰り返すと,220,つまり1,048,576分の1に不確実性が減っていく。
情報量をあるメッセージを言い当てるために尋ねなくてはならない「イエス」「ノー」の質問数に等しい。と考えると,情報収集とは,どこかにあるものを集めるのではなく,こちらが問いを立てて探索していくことでなくてはならない。探しているものの焦点を絞るために,意味のある質問をして,具体化,特定化し絞り込んでいくのである。この流れを手順化してみると次のようになる。
@目的を明確化する。何のために収集しようとしているのかを明確化する。A目標(求める成果)を絞り込む。目的にとって必要な情報にはどんなものがあるかを明確にする。B必要情報の条件づけをする。求める情報を明確にするには,情報の条件づけをしておく必要がある。目的達成に絶対欠かせない条件と,不可欠ではないが目的達成にとってより望ましい効果を与えるであろう条件に整理しておく。C求める情報を的確な設問に置き換える。こちらに必要な情報が明確になっても,ピンポイントでそれにぶつかるとは限らない。求める情報が的確な応答として返ってくるように,具体的な設問に置き換えていかなくてはならない。その設問づくりが,Aで洗い出した必要情報の分解・細分化(つまり特定化)をしていくことになる。D求める情報の探索方法,場所・相手を具体化する。「誰にどんなやり方で,何処で,どんなデーターベースで,探索したらいいか」を列挙する。直接情報源やそれにアクセスする方法が見つからない場合は,それについて知っている人ないしそれについて探索できる情報源といった手段情報で代替する。
シャノンが言った情報量は,あくまでコード情報についてだが,何かを確かめる,たとえば知識の不足を補うという意味でなら,上記の問いかけ手順で十分だ。しかし意志決定や発見,創造のための情報収集の場合,ただ問いを立てて絞り込んだところで,得られるのは既にわかっていることではないだろうか。未知の状況の解明や未知の発見をしようとするとき,それでは意味がないかもしれない。
実は,コード情報もモード情報も,情報は基本的に人が介することで,向きが与えられると考えていい。目撃情報の発信者と受け手で構造化すると,次のように図解できる。
つまり,発信者が情報にパースペクティブ(私的視点からのものの見方)を与えるのである。発信された「事実」は私的パースペクティブに包装されているのである。コード情報でもモード情報でも,それは変わらない。情報は丸められるのである。ドラッカーは,「情報とはデータに意味と目的を加えたものである。データを情報に転換するには知識が必要である」と言ったが,それは,情報に,既知の知識で向きを加えることと考えていい。そんなとき,不確実性を減らすために,イエス,ノーで収斂しても,あまり意味がないかもしれない。情報の向きを暴く,あるいは向きを崩す問いが必要になるのではあるまいか。
ここにあるのは,情報の向きを変えるための,収集する側の意図的な試みがある。あえていえば,仮説がいるのである。端緒となる情報は,「幼い息子がホウレン草を食べるたびにご褒美としてアイスクリームを与える母親がいる。」だけである。それにベイトソンは,@からBまでの問いをたてた。つまり仮説を立てたのである。しかもこの仮説は,「母と子の行動に関するコンテキストに関わる情報」を集めるために,立てているのである(『精神の生態学』)。
研修の手法に,インシデントプロセスがある。与えられたインシデント(出来事)から,その出来事の幅と奥行を想定しながら,必要な情報を収集・分析して,その問題解決をはかっていくものである。その情報の収集の仕方には,当事者に質問をしていくもの,シート化された情報を収集するもの等々があるが,要は,事態の全体像をつかみながら,その解決のためにどういう情報が必要かを考えて,情報を収集し,解決プランを立てていく。
このとき,情報の“向き”が問題になる。たとえば,関連する情報を聞き出したとする。その情報をつなぎ合わせれば,おそらく一定の文脈が見えるはずである。で,「よしわかった!」と,結論を出せば,金田一探偵に笑われる磯川警部の安直推理になる。ここにあるのは,情報提供者のもたらした「情報の向き」に沿って推論した,いわばお膳立て通りの結論にすぎないからだ。未熟な指揮官にとって恐ろしいのは,集まった「情報が互いに支持を保証し,あるいはその信頼度を増大」しあって「心に描かれた情報図が鮮やかに彩色される」ことだと指摘していたのは,クラウゼヴィッツであった(『戦争論』)。情報の向きが揃ったときは,それを疑うにはよほどの判断力がいる。
その意味では,向きとは文脈(コンテクスト)と呼んでもいい。もっともらしい見える文脈に代わる,他のありえる文脈の選択肢をどれだけ浮かび上がらせられるか。誤解を恐れず断言するなら,必要なのは新しい現実(状況)を発見することである。情報探索とは,そのために,意識的に問いを立てることなのである(選択肢がたくさん考えられることを発想力とも呼ぶ)。もし,こうなったらどうなのか,もし,こうしなかったらどうなのか,もし,これがなかったらどうなのか……。単に「なぜ」「どうして」と分からないことを問うだけではない。いまないなにかを仮定(あるいは仮設)することである。それには,私がバラバラ化と呼ぶ切り口が使えるはずである。とりわけ,とき,どこ,だれといった条件をどう変えていくかが鍵になるはずである。
@視点(立場)を変える いまの位置・立場そのままでなく,相手の立場,他人の視点,子供の視点,外国人の視点,過去からの視点,未来からの視点,上下前後左右,表裏等々
A見かけ(外観)を変える 見えている形・大きさ・構造のままに見ない,大きくしたり小さくしたり,分けたり合わせたり,伸ばしたり縮めたり,早くしたり遅くしたり,前後上下を変えたり等々
B意味(価値)を変える 分かっている常識・知識のままに見ない,別の意味,裏の意味,逆の価値,具体化したり抽象化したり,まとめたりわけたり,喩えたり等々
C条件(状況)を変える 「いま」「ここ」だけでのピンポイントでなく,5年後,10年後,100年後,1000年後あるいは5年前,10年前,100年前,1000年前等々 |
新たな文脈をみつけるとは,それは,いまあるものを当たり前とせず,ああでもない,こうでもないと,現状に問いかけることである。これが,情報のもっている“向き”,情報の提供者の丸めた“向き”,情報の発信者がつくりだした“向き”,情報の仲介者・報告者がいじくり直した情報の“向き”
,あるいは世の中の通念としての“向き”に流されないための,自分で情報の“向き”を発見するための方法なのである(これがおそらく情報収集の成果のはずである)。既にお気づきかもしれないが,これは問題意識そのものである。そしてこれは,仕事のできる人間の,仕事の仕方そのものでもあるはずである。
あわせて「情報探索のスキル」「情報分析のスキル」「情報力とは何か」「アクセス情報への基本スタンス」「情報の“向き”をつくる」を参照ください。
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われわれが,見ているモノが何かを見分けるには,二つのアプローチを取っている,とされている。つまり,
@対象の部分や要素をつなぎ合わせて,ひとまとまりに束ねていくプロセス
A全体を知っている何かに当てはめてひとまとまりに見分けるプロセス
である。
次の図をみてほしい。
@コンテクストの中におかれた部分要素 Aコンテクストから切り離された部分要素
出典;ハンフリー&リドック『見えているのに見えない?』(新曜社)
右の各部分が何かは,ジグソーパズルのように,各部分をひとつずつ,対応させながら,つなげていかなくてはならない。しかし,もし左の全体図がわかれば,各部分が顔の一部であることはすぐ見分けられるはずである。この二つの認知の仕方は違うのである。
脳に脳溢血等で障害を生じた人は,川に浮いているものを見て,水鳥と答えたという。実際は川に落ちた犬だったのである。動いているものが見えただけで,見えている部分を統合しても何かがわからなかったのである。そこで,水にいる動物→水鳥と推測したのにすぎない。こうした症例は,失認症といわれる。
この症状では,モノは見えている。写生をさせてみれば,正確に細部まで描ける。が,描いたモノが何かがわからない。文字の綴りはひとつひとつ音読できる。しかし単語としてまとまるとその意味がわからない。向こうから人が来るのは見えている。しかしそれが自分の妻であることが見分けられない。見分けられないのは,記憶の中の妻の顔と目の前の顔とをつなげられなかったからだ。部分を束ねてくることと全体をひとまとまりに見分けることとが切れているのである。ものは見えているのにそれが何かが見えない(ハンフリーズ&リドック『見えているのに見えない?』)。
われわれは,見ているものが何かを見分けるプロセスを,意識することはない。おそらく一瞬の間に,見えているものが何かを見分けている。これを,敢えて分解すると次のようになるのではないか。
@対象の部分を拾い集める。どっちを向いているか。色はどうか。影はどうか。どのくらいの大きさか。線はどうなっているか。角は鋭いが鈍いか。位置は,キメは等々。
A各部分をつなぎ合わせて,ひとまとまりにする。どれが背景なのか,どれが見ているものの輪郭なのか,区別がつけられる。
Bひとまとまりになったものの輪郭がまとまる。どうも人間の顔のようだ,というように。
Cその方向を決める。前向きなのか,横向きなのか。その向きによって,自分がそれにどういう位置関係にあるかがわかる。
D記憶にある情報と照合される。それと符合することによって,それが何かを見分ける。
われわれは,このプロセスを一瞬の内にまたぎ越しているが,実感から言うと,部分は,何かの一部として意識したときの方がよくわかる。前述の顔のように,全体が顔とわかっていれば,部分のつながり方がわかるのである。
部分を束ねることと全体を見分けることは,どちらか一方だけが働くということでない。もうひとつ図を見てほしい(「全体と部分の矛盾」参照)。
部分の構成要素は果物だが,全体は顔と見分けることができる。果物をどんなものと取り替えても,この位置関係が大体似ていれば,顔と見分ける。部分を見分けることと全体の構図を見分けることとは独立しているのである。福笑いでも,かなり位置関係が変わっても,顔という全体でやっているから,顔に見えるのに似ていなくもない。これが,特定の誰かを見分けるとなると,そうはいかない。それが妻であるかどうかは,この図のように,目と鼻と口があればいというわけにはいかない。目の大きさ,目の左右の微妙な違い,鼻の位置,目と鼻の位置関係等が決定的に重要である(ハンフリーズ&リドック・前掲書)。
この違いは,次のように分解して見ると,よくわかるように思う。まず,
@部分間の関係がつかまれる。それが,
A記憶の中の顔のパターンと照合される。この果物間の関係が崩れない限り,顔という構図が変わらない。しかし,もし,
Bこの関係に,あの目鼻立ちは誰かに似ていると,特定のつながり関係がつかまれると,
Cその関係が,再び記憶と照合され,アジャコングとかタイガーマスクと符合すれば,そう特定される。
Dその特定の目鼻立ちの関係をもった顔として見分けられる。そうなると,もう果物は取り替えはきかなくなる。そう見分けられると,部分は個別的に見えていくのである。
これは,モンタージュ写真をつくるときに似ている。目撃した犯人の顔の記憶と照合しながら,バラバラの目,鼻,口の間に特別なつながりをつけようとしているのである。
われわれが,バラバラにしたことは,前述の顔の要素をバラバラに切り離したのと同じ状態である。すると,このバラバラのものに,一方では,ひとつひとつつながりをつけなくてはならないが,他方では,そのつながりから何か照合できる構図を見つけ出し,それと照合しなくてはならない。つまり,集約していくには,
@部分をひとつひとつつなぎあわせて束ねていく
A部分の配置と照合できる,全体としての構図を見つける
の二つのアプローチがあるのである。
せっかくバラバラにしたのに,元のモノと照合してしまったのでは何にもならない。照合すべきものを見つけてくるには,何か工夫が必要である。
◆まず,部分を束ね直す
部分を束ねていくというプロセスを取り入れたものが,有名なKJ法である。これは,
@情報を部分に切断する(つまりバラバラにする)
Aバラバラのものをつなげる(グルーピング)
B各グループを更に大きなグループにまとめる(グループに階層をつける)
Cグループ間の関係を見つける(グループ間の構造化)
D全体像を表現
と,整理できる(北川敏男『情報学の論理』)。@〜Bは,「部分を束ねる」プロセス,CDは全体の構図を見つけるプロセスである。
@〜Bでグループの間に「関係」見つけたとしても,その延長線上に集約すれば,どうも元々のものからそれほど変わりばえのしないものになりそうである。そこで,それを飛躍させるためには,CDでは,別の発想をすべきではないか。つまり,その関係から単純に見えるものではなく,予想外のところから全体像をもってくることはできないか?その全体像に照合すると,全く違った様相で,各グループの関係が見えている,というように。その鍵は,アナロジーにある。
◆全体をひとまとめに見分ける鍵はアナロジー
アナロジーというのは,一般に,類比とか類推と言われる。“何か”に見立てる,“何か”として見る,“何か”になぞらえる,あるいは,〜のような,というのも同じである。要するに,対象を似ている別の何かと見なすことである。そうすることでより一層そのものがよくわかることがある。人間の脳は,コンピュータにたとえることで,情報処理としての働きがよく見えてくる。理論を建築物に喩えると,その骨格が弱いとか,土台が曖昧とか,そのことによって理論が見やすくなる。原子核の周りを電子が回っているという構造は,太陽系に見立てることで,核と電子の関係がよく見える。
たとえば,いま手元にあるマジックインキを例にとって,似ている(あるいは関係がある)何かにアナロジーを立ててみれば,
マジックインキの仕組みに(それと似た,関係のある)アルコールランプの仕組みを見る
マジックインキの構造に(それと似た,関係のある)ボールペンの構造を見る
マジックインキの組成に(それと似た,関係のある)石油ストーブの組成を見る
マジックインキの機能に(それと似た,関係のある)万年筆の機能を見る
マジックインキの形状に(それと似た,関係のある)ジッポのライターの形状を見る
マジックインキを(それと似た,関係のある)絵の具チューブで喩える
マジックインキに(それと似た,関係のある)シャチハタネームの意味をもって言う
等々となる。あまりうまい見立て方でないかもしれないが,こうすることでマジックインキにビジュアルなイメージを描きやすくなるはずである。マジックインキに部分的な特徴,あるいは全体的印象等々をピックアップする。それに《似たところ》《関係あるところ》のあるモノを取り上げ,それと疑似的にイコールと見ることである。むろんそのものでないし,全ての構造と機構が一対一で対応している同一のものでもない。人間の脳の例で言えば,情報処理としての機構のみをピックアップして,そこでイコールとしているにすぎない。
しかし,アナロジーによって,そこに新しいものが見えてくる。たとえば,マジックインキに筆記用具以外の,石油ストーブやライターを見立てたとき,マジックインキのもつ機能に広い見え方が可能になる。アナロジーに期待するのは,そういう飛躍したものを照合することによって,バラバラにしたものの間に,新しい関係が見えてくることである。
『発想できる仕掛けをつくる1』『発想できる仕掛けをつくる2』
『アナロジーの見つけ方』
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頭が錆ついては発想できない,だから正しい発想法を身につけなくてはならない,というのは,どうも思い違いではあるまいか。そこで頭の体操をしたり,創造性技法を学んだりするのも,悪いことではないが,その前に大事なことを見逃してはならない。そもそも発想というのは,自分のもっている“サビ”からしか生まれはしない。自分の“サビ”こそが,その人の個性であり,そこにしか発想の素はない。問題は,それをどう活性化できるかなのだ,という点を。
「頭のサビを落としたい」「頭を柔らかくしたい」「柔軟な考え方ができない」というのが,創造性訓練に参加する人の動機のようである。なぜなら「手慣れたやり方やものの考え方から出られない」からだと言う。そこで「一生懸命勉強して発想力豊かになりたい」というのが,大方の参加者の口にすることなのである。これが創造性についての思い違いなのだ。
なぜ「頭の錆」や「柔らかさ」が問題になるのだろうか。この“サビ”とか“固い”とは何のことなのか?錆ついて回らなくなったギア,グリスの固まったベアリング,あるいはショートして堂々めぐりする回路,といったイメージなのだろうか。
そう感じるのは,自分たちが身につけた知識と経験では問題が解けなくなったからなのか,あるいはいままでのやり方では壁が破れなくなったからなのだろうか?しかし,どうもそこまで深刻のようではないのだ。なぜなら,もしそこまで追い詰められていたら,訓練している暇に必死で解き方を考えた方がいいし,そうすれば,昔の人の「窮スレバ即チ変ジ,変ズレバ即チ通ズ」ではないが,何とか光明が見えてくるものだ。それこそが発想の神髄なのだ。
そこまで深刻ではないとすると,何となく自分のやり方・考え方(知識・経験)が古くなった,時代遅れになった,と自分でも感じるし,人からも言われている。あるいはどうも人の意見を聞かなくなって,頑迷に自説を押し通そうとする。あるいは自分の身につけた価値観で,いつもワンパターンのことばかり言っている。自分の過去のこと(たいした成功談でもないが)をとかく自慢したがる。酒を飲むと愚痴っぽくなり,くどくどと同じ小言を言う。いつも仕事のことしか考えない(といって別に新しい企画や仕事の改革というよりは人間関係や上司の悪口),たまに口を開くと野球か競馬かゴルフのスィングのことばかり,等々ということはないか。しかしこれは発想の問題というよりは老化の問題ではあるまいか。老化防止と発想力とを混同しているところはないか。
そこまでいかないまでも,何となく自分のいままでのやり方では通用しなくなっていると感じているのだとしても,それはそれまでの自分を捨てればすむことではあるまい。深刻な事態でないとすると,このままではいけないという危機意識なのだろう。そう感じている人なら,少なくとも人並み以上に仕事をし,それなりに仕事の仕方に自負もあるのではあるまいか?それを無下に無駄,無用,あってはならないものとして脱ぎ捨てるべきものなのだろうか。第一,何十年と生きてきた人の考え方や見方が,そんなに簡単に柔らかくなったり,変えたりできるものなのかどうか。
こうした思い違いが生まれてくるには,理由があるようなのだ。それを推測してみるに,まず第一に,どうもこうした誤解の背後には,発想とはクイズやパズルといった「頭の体操」のようなもので,頭をもみほぐさないといけない,というイメージがあるからではあるまいか。しかしパズルを解くことに長ずることで,優れた創造性を発揮するのだろうか。はっきり言って,答えはノーである。なぜなら,「手慣れたやり方やものの考え方から出られない」から発想力が必要だと感じたのなら,パズルであれ何であれ,「解き方に慣れる」とは,また別の「手慣れた方法」を習得するにすぎないからだ。
いま1つは,正しい発想法や創造性技法を身につけさえすれば,それが発想転換装置となって,トコロテンのように発想が押し出されてくる,といった思い込みがあるのかもしれない。まさかそこまでではないにしても,自分のものの考え方は間違っているに違いない,どこかに「正しい発想の仕方」というものがあるのではないか,と発想法に正解を求めているのではあるまいか。しかし正解があるなら,それは発想ではなく,知識の習得にすぎない。暗記でも何でもして覚えさえすればすむ。しかし「正しい」発想法を「学ぶ」ということは,また別の手慣れたやり方を身につけるだけではないか。
結論を先に言えば,頭にサビなんてないし,固い頭もないと思っている。問題なのは,そういうふうにしか自分のことを考えられない思い込みの堅さの方なのだ。はっきり言って,頭の柔らかさと発想とは全く関係はない。少なくとも,パズルやクイズの出来不出来と発想力とは何の関係もない。
敢えて言えば,頭の“サビ”と思われるモノこそが,その人の個性にほかならない。その人が生きる中で身につけた知識と経験のもたらす思考の慣性(あるいは惰性)にほかならない。それは,その人なりの生き方なのであり,ものの見方なのである。これを個性と呼ぶほかはないのだ。問題は,個性があるかどうかが大事なのではない(個性は十人いれば十の個性があるのであって,そのこと自体に意味も価値もない)のと同様,サビがあるかどうかが問題なのではないのだ。サビは生きて来た証にすぎない。頭の固さと評されるものも,良かれ悪しかれ,その人らしさにすぎない。大事なのは,そのサビや固さを価値あるものにできるかどうか,つまり自分のもっている知識・経験を使いこなせるかどうかなのだ。その使い方に発想力のある人とない人とに差がでる。学習するとすれば,その使い方にほかならない。
発想とは,自分のもっているサビやコダワリ(つまり知識・経験)を捨てることからは生まれはしない。それをベースにして,ずらす,あるいは組み替えることだ,ととりあえずここでは言うにとどめよう。自分の頭を柔らかくすることは難しくても,結果として頭が柔らかくなることは可能なのだ。少なくとも,自分の頭のサビを大事にしないところからは発想は生まれないことだけは言っておかなくてはならない。自分のもっているもののキャパシティ(容量)を超えて,手品のように発想が生み出されると期待することはできないのだ,と。
ところで,創造性の問題を考えるとき,いつも思い浮かぶのは,梅棹忠夫氏が1960年代に指摘された,次のような言葉である。
つまり,後発先進国であるわが国の場合,「創造をやっているよりは,イミテーションをやったほうが,はるかに効率がたかいし現実的であったわけです。だからといって,今後もそのほうが効率がたかいであろうということはかならずしもいっておれないあらたな条件がはじまってきた。創造性を発揮することがより有効であるということになれば,それが発揮されるのがあたりまえで,問題はそういう状況に身をおくかどうかです。」(『情報論ノート』),と。
「そういう状況に身をおくかどうか」とは,“創造性を引き受けるかどうか”ということにほかならない。もうお手軽な物真似ではなく困難ではあっても創造をしようと,と思い決めることだ。しかし,70〜80年代を通して,われわれは自分たちのおかれているこの“状況”を自覚して困難を「引き受けた」だろうか?残念ながら,そうではなかった。いい材料が,いま盛んに問われている知的所有権である。
ともすると,われわれが主張するのは,次のような意見だ。例えば,90年代を通して,日米の知的所有権を巡る確執では,「(ロータリーエンジン量産化に成功したのは日本だけだという例を上げながら)もともと技術とはモノを作ることである。だから技術の優劣はでき上がったものを見ればはっきりする。『よそで考えた原理を取り入れただけだ』と言ってみても,アイデアだけでモノを作れなければ,技術があるとは言えないのだ」(唐津一,日経ビジネス1991.12.16)といったような発言が,企業の現場を知っている人ほど強く主張された。
これはこれで必ずしも間違ってはいないと思う。しかし,当時も,ひょっとするといまも,知的所有権をめぐる,アメリカ側の問題の立て方とは微妙なズレがある。
このズレは,次のように理解するとわかりやすいのではないか。例えば,液晶の開発に当たって,「適当な温度変化や電圧によって分子配列の規則性が変化し,それによって色調や光の透過性が変わる」という原理の発見を重視するのか,それともその発見を低コストで歩留りの高い液晶材質の最適組み合わせを発見することで量産化した技術力を重視するのかの違い,あるいは電球の例で言えば,「溶解熱の高い発光体」というフィラメントの発明か,その発光体材料として竹の炭を使ったほうがいいかタングステンを使うほうがいいかの発見との違い,ということである。特許をめぐる日米の制度的な違いや特許の適用範囲の広狭の差として表面化しているように見える問題の本質は,創造性についてどこに評価のウエイトをおくかの差のように思われてならないのである。
ある意味では,創造性の範囲を限定的に考えるかどうか,つまり発明や発想をピンポイント,つまり個々人の寄与を強く意識するかどうかなのではあるまいか。だからこそ,その適用範囲を幅広く保護しようとする。その立場からみれば,日本側は創造性という領域を(その応用範囲にまで)広く認めようとしているのに,逆に特許の適用範囲は(アイデアだけで幅広く網をかけられてはかなわないと),限定的にとらえようとしている。それは,そもそもの発想を軽視しているとしか見えないだろう。どっちが正しいかどうかではなく,何が問題となっているかを重視すれば,そう見える。
現に,液晶の開発競争のとき日本企業がやったのは,まさに材質組み合わせをしらみ潰しする徹底した試行錯誤ではなかったか。それは既に液晶についての発見があったからできたことではなかったか?そして,いま知的所有権として,問われているのはこの発想部分なのだと考えなくてはならない。ある意味で,梅棹氏が指摘した「引き受ける」べき状況の中身とは,いまそういうものなのではあるまいか。
両者の対立を整理すれば,どこまで創造性というものの範囲を含めるか,なのである。少々極論すれば,着想の部分なのかその実現化プロセスまで含めるかなのである。前者は,何が分かっていない(あるいは解くべき)問題なのかを明確化し,その問題を解ける形に組み替えることであり,後者は,それをどうやれば実現できるか,どうやれば解決できるか,という実現の仕方の問題になる。
つまり,先の液晶の例でいえば,「適当な温度変化や電圧によって分子配列の規則性が変化し,それによって色調や光の透過性が変わる」という発想の解明が前者であり,その発想を低コストで歩留りの高い液晶材質の最適組み合わせを発見し,どうすればより効率よい量産化ができるかを実現していくことが後者である。ある意味では,前者はアイデア発想(構想)プロセス,後者はそれを実現していく過程,あるいは前者を目標の形成過程,後者は目標の実現過程と言ってもいいし,別の言い方をすれば,前者が創造(発想)過程,後者が問題解決過程ということになる
どちらが重要かを言い争うことに意味はない。両者が相俟って初めて創造性は実現できるのだから。しかし,われわれが遅れを取っているのは前者であり,いまわれわれが引き受けなくてはいけない創造性とは,この部分にほかならない。
では,この意味の発想はどうしたら生み出せるのか。創造性についての代表的な定義は,
@創造者とは,既存の要素から,彼にとっては新しい組み合わせを達成する人である,
A創造とは,この新しい組み合わせである,
B創造するとは,既存の要素を新しく組み合わせることにすぎない,
つまり,既存の要素(見慣れたもの)から新しい組み合わせ(見慣れないもの)を創り出すこと,とされる(E.ヴァン・ファンジェ『創造性の開発』)。言い換えれば,異質な組み合わせによって,知っているもの(見慣れたもの)を知らないもの(見慣れぬもの)にすること,と言うことができる(逆に,知らないものを知っているものにするのは,知識の習得ということになる)。しかしいくら既知の要素を組み合わせるからといっても,組み合わせさえすれば創造的なものが生み出せるわけではない。
この「組み合わせ」を,アーサー・ケストラーは,習慣的には相互に矛盾して連結しそうにない2つの見地(モノの見方)を常識的な脈絡(合理的なつながり)で結びつけるのではなく,常識的には考え方や価値観の上で,均衡がとれそうもないないところに「不安定な平衡状態」を見つけることだとしている(『創造活動の理論』)。「組み合わせ」は,単なる寄せ集めではなく,常識的には接合点の見つけられない「異質」なものに「交錯点」を見つけ出すことなのである。そういう特異点を発見すること,逆に言えば,そうして組み合わせたものが異質なものになりうる「つながり」を見つけることなのである。それはどうやったら可能なのか?
わかりやすい例は,映画のモンタージュ手法である。「1秒間に24コマ」の映画フィルムは,それ自体は静止している1コマ毎の画像に,人間や物体が分解さたものであり,この1コマ1コマのフィルムの断片群は,クローズアップ(大写し),ロングショット(遠写),バスト(半身),フル(全身)等々,ショットもサイズも異にしており,部分的・非連続的な認識−分析された認識−を表している。それら分析された認識を構成(モンタージュ)し直すことによって新しい認識がえられることになる。
例えば,男女の会話の場面で,男の怒鳴っているカットにつなげて,女性のうなだれているカットを接続すると,1カットずつの意味とは別に男に怒鳴られている女性というシーンになる。しかし,この両者のつなぎ方を変え,仏壇のカットを間に入れると,怒鳴っている男は想い出のシーンに変わり,それを思い出しているのが女性というシーンに変わってしまう。あるいはアップした男の怒った表情に,しおたれた花のカットを挿入すれば,うなだれている女性をそう受け止めている男の心象というふうに変わる。その後に薄ら笑いを浮かべた女性のアップをつなげれば,男の思い込みとは食い違った現実を際立たせることになる。
少々陳腐なつなぎ方を例示しすぎたかもしれないが,ともかくこうした組み合わせによって見え方が変わること,だからそれが異質な組み合わせであればあるほど新しい見え方が生まれてくるところに創造性があり,それによって開けてくる「新しい認識」こそ,創造性がもたらす新しい視界(パースペクティブ)にほかならない。
それは,例えばニュートンの例を考えてみると,よりはっきりするだろう。常識的には,ニュートンは万有引力の法則を発見したということになる。しかし,ニュートンが著書『プリンキピア』でしたことは,既に既知である,ガリレオ,デカルトによって完成された“慣性の法則”や,太陽と惑星の距離の二乗に反比例する引力が働いているという,ケプラーやフックによって発見された法則を,統合する(組み合わせる)ことを通して,天体を含めたすべての力学的運動の新しいパースペクティブ(見方)を創り上げたところにある(だから,フックは,ニュートンの万有引力の法則について,抗議したといわれている)。つまり,既知の法則を組み合わせることで,全体として新しい見方(パースペクティブ)を提示したのだ,と言っていいのである。ここに創造力の鍵がある。
◆自分の知っていることだけを見ている
組み合わせることは誰にでも可能であるが,そこから新しいパースペクティブをもたらすような組み合わせを発見するのは容易ではない。前述のモンタージュだって,それが新奇であるよりはステレオタイプな心象表現になってしまうことの方が圧倒的に多いのだ。それは,われわれが身につけた知識・経験によって,常識的な枠組を作り上げてしまっているからにほかならない。
これについて,N.R.ハンソンは次のような問題提起をしている(『知覚と発見』)。つまり,20世紀のわれわれと13世紀の人々とは,日々巡る太陽に同じものを見ているのだろうか?と。そしてこう問う,なぜ,同じ空を見ていて,ケプラーは,地球が回っていると見,ティコ・ブラーエは,太陽が回っていると見るのか?あるいは,同じく木から林檎が落ちるのを見て,ニュートンは万有引力を見,他人にはそうは見えないのか?と。
そしてハンソンは,“見る”とは,次の図を,
出典;N.R.ハンソン『知覚と発見』(紀伊国屋書店)
木によじ登っている熊“として見る” (seeing
as)ことであり,それは,90度回転したら,次のような様子が現れるだろう“ことを見る”(seeing
that)のである,と言う。
出典;N.R.ハンソン・前掲書
つまり,われわれは対象に自分の知識・経験を見ている。あるいは知識でつけた文脈 (意味のつながり)を見ている。20世紀の我々は,「宇宙空間の適当な位置から見れば,地球が太陽の回りに軌道を描い」(ハンソン)ていると(知っていることを)見ている。13世紀の科学者は,太陽が地球の回りに描く軌道(プトレマイオスの天動説)を見ている。見ているのは知識なのだ。対象に意味や関係を見るときも同じことだ。因果関係を見るとは,こうなればこうなるだろうという,自分の知っている関係を見ているし,仮説としてこうしてみれば,こうなるのではないか,と見るのも,また知識の関数として見ているのだということができる。
これが,アインシュタインの言う「われわれに刷り込まれたモノの見方の集合体」なのであるが,ことは単に個人的な習慣的思考,思考の慣れの問題だけでなく,生きている時代や社会の歴史的・文化的な思考の枠組(パラダイム)でもある。その“見る癖”は,われわれが,いまの時代を生きることを通して形成された (あるいは伝承された),時代のもつモノの見方の集合体なのだ,ということができる。
『問題意識を育てる』を参照してください。
◆知っているものに見える,知っているものしか見ない
こうした“癖”がある種の予断や先入観になることについて,数々の心理実験があるが,古典的なものとして,ブルーナーとポストマンの次のような実験が有名である。即ち,観察者に数秒間トランプのエース・カードの配列(1列4枚の3列)を見せ,その中に何枚のスペードのエースがあったかをたずねるものである。ほとんどの観察者は3枚と答えるが,実際には5枚あるのである。ただしそのうちの2枚は“赤い”スペードのエースになっている。だれもがスペードは黒と思い込んでいるので,赤いカードはハートかダイヤとの見込み判別してしまうのである。
あるいは,心理学のテキストによく出てくる例では,天井から2本の紐がぶら下がっており,1本をもつともう1本の紐が届かないようになっている。周囲には椅子とハンマーがおかれている。どうやってもう1本に手を届かせられるかを考えさせようとすると, 10分以内に解ける人は39%しかいないという。ハンマーは釘を打つものと見なしているために,それを錘りに振子にするという発想が出てこないのである。
あるいは別の例では,机の上に画鋲が入った箱とローソクがあり,このローソクをドアに立てろという課題を与えられる。ほとんどの人が解けないという。画鋲が一杯だと,箱=容器という発想にとらわれていて,箱を空けて鋲でドアに止め,そこにローソクを立てる,ということに思い至らない,とされる。
われわれは知っているということによって,それを知っているものを見てしまう(知識・経験のアテハメ)だけではなく,知っているものとして見てしまう(つじつま合わせ),知っているものと見てしまう(錯覚),知っているものに見えてしまう(幻覚)等々,知識・経験 (知っていること)がそれ以外に見ることを妨げている。この“こだわり”は,
執着心(自分の見方=考え方にこだわる),
固定化(経験的に身につけた価値観,区別,分類でしか見れない),
中心化(観念や感情のある1点,焦点から目が離せない),
といった,ある意味で自分の正解(多くそれは時代のもつ正解)への固執だ。われわれは,知っているものを見る,といったのはゲーテだが,もっと言えば ,「知っていることが見える」からこそ,「知っていることしか見ない」ことが起こる。“見る癖”とは,知っていること(知識)によってつけられた折り目で皺の寄ったモノの見方なのである。頭のサビとか固さと言いたくなるのはこのことだ。しかし,これも自分の知識・経験でしかないのだ。
◆制約を崩す手掛かり
こだわりとは,正解への固執だから,ある意味では,こうしてはいけない,こうすることはできない,こうしなくてはいけない,それをは許されていない,それはまずい,と自分でタブーを設定することだ。だからといって,それをやめるのは簡単ではないが,そういうこだわりができなくする仕掛をつくることはできる。次の図は,発想のテキストによく出題される問題だ。
「4つの直線で一筆で9点を通過させて下さい」という。教科書的な正解は下図になる。
その心は,9点を結ぶ正方形という枠の中で考えるからいけない,と枠づけられた発想の例として取り上げられる。しかし,こういう正解の仕方にこそ問題がある。
ラッセル・L・エイコフは,これを宿題に出された自分の娘に,別図のように紙を折れば解けることを示した。
ところが,翌日娘が教室でその回答を発表すると,教師は「そういうことはできない」と,その回答を拒絶したのである。娘が「折ってはいけないとは聞いていない」と言っても,「問題の説明が,どうであったとしてもどうしてもそれはできない」と突っぱねるばかりだった,という。エイコフは,こう言う。「問題に対する解を見つけることではなく,先生の知っている,そしてあたかも先生がその解を自分で見つけたかのごときふりができる」解を見つけさせるやり方によって,教師自身が「自分で思い込んでいる制約条件のために」問題が解けていないのだ,と (『問題解決のアート』)。こういうのが,正解へのこだわりなのである。
エイコフの考え方を更に進めたのは,読者からのさまざまなアイデアを紹介している,ジェイムズ・L・アダムスである (『創造的思考の技術』)
例えば,エイコフ流の折るという発想を徹底して,縦の3点が互いに接触するほどに紙を折り曲げ,次にその3列の点を,横1列に並ぶように紙を折り曲げていく。すると1本の線で通る。また9点を描いたページを切り取り筒状に丸めれば,それを周回する線は1本ですむ。また,9点を巨大化すればどうか。ほんの少し,例えば活字の2倍位の大きさにしただけで,縦3点を斜めにかすめさせれば,3本で引けるはずだ。その逆に,9点を点ほどに極小化すれば,一筆で塗り潰せる。もっと極小な点なら,ペン先の1滴でも9点を通るだろう。その9点が地球規模の大きな球面におかれているとすれば,どうか。地表の9点など極細の1線で一回りできるだろう。もっと原始的に考えるなら,紙に描かれた9点を,焼鳥の串でも鉛筆でも,1点ずつ順繰りに手繰って貫いても,1本で通るはずだ。
エイコフやアダムスが試みているのは,与えられた課題を解くには,頭の中でどこかで習ったことはなかったか,知っていることはないかと記憶を探る(正解を探る)前に,課題の方の条件,位置,状況,外観,形状,意味等を変えてみるということだ。9点が課題の視覚条件よりも小さければどうか,大きかったらどうか,2次元平面という条件を変えて,筒にしたり,くしゃくしゃにしたらどうか等々,知っているから見慣れた見え方しかできないなら,見慣れた見え方ができないように対象を動かしてみたらどうかということだ。
どうしてもいまあるカタチや条件でなくてはいけないと思ってしまうなら,どんな発明も生まれはしなかったろう。それを違った見方(不都合,不便,不愉快等々)で見えたものだけに,違った見え方がもたらされた。そういう見方ができないなら,そういう見方をせざるをえないように,条件やカタチの方を変えてみればいいのだ。そうするだけで,見慣れた見え方は変わり,課題が別の意味,外観を見せ始めるのである。先に述べた,問題を解ける形に組み替えるとは,こういうことなのだ。
「考えるとはどういうことか
「続・考えるとはどういうことか
「続々・考えるとはどういうことか
参照
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コンセプトづくりについては,既に触れたが,コンセプトをつくる意図は,テーマの持つ概念,常識的意味を再構成するのが,スクランブル法によって,テーマをあえて要素分解する意味である。その作業の中で,自分たちの目指す意図を,焦点化し,明確化することになる。それを図解すると,下図のようになろう。
【コンセプトづくりの狙い】
たとえば,スクランブル法に基づいて,下記のように,コンセプトを仮定したとして,
コンセプトを具体化するとき,コンセプトの何が不可欠なのか,何が無くなったら,コンセプトとしての実質を失うのか,コンセプトの核の部分を見失わないことである。
既にコンセプトづくりのプロセスで必要な条件・要素を洗い出しているから,見落としをチェックし,追加・修正しながら,コンセプトづくりで洗い出した「条件」「要素」「要因」を,「機能」「手段」に置き換えていくことになる。
たとえば,
モノなら,それに必要な「機能」「性能」「材質」等となり,
コトなら,それに必要な「働き」「作用」「役割」等となり,
ヒトなら,それに必要な「役割」「職能」等となり,
チエなら,それに必要な「能力」「知識」「スキル」「技術」「性格」等となり,
等々となる。
【「うまいラーメン店」をテーマとしたコンセプト例】
以下に,順次企画アイデアをまとめていく進め方を展開するが,この全体のパースペクティブは,下図のように要約できる。つまり,コンセプトをつくるのに使った,コンセプトの条件をどう生かして,コンセプトを実現するかが,企画アイデアのまとめ方のポイントとなる。
【テーマからコンセプトへ,コンセプトから企画アイデアへの基本的流れ】
第一に,まず大事なことは,コンセプトのねらいを外さないことだ。
コンセプトの条件を手段に置きかえるとき,一般的に,ラーメン屋ならこういうものが必要のはず等々で追加すると,単に網羅的な条件選択になるおそれがある。必要なのは,
・何が企画の中心なのかの再確認。何が欠けたらコンセプトの意味が変わるのか
・そのためにどういう仕掛け,仕組みが必要なのか。そのための基準は何か
の視点でである。絞り込んだ条件を実現手段のなかにどう織り込むかが必要になる。
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実現手段を具体的に煮詰める〜すぐ着手できるところまで絞り込む
実現手段を具体的に煮詰めるとは,すぐ具体的行動に着手できるところまで絞り込むことである。そのためには,“スクランブル法”の結果を活かすのが便利である。
たとえば,ラーメン屋の“コンセプト”を,その具体像を検討する中で,「人が並ぶ店」から絞って,「面白がって人が並ぶ店」と限定したとする。そのコンセプトを実現するために必要な“手段”を煮詰めるには,“スクランブル法”で集約した9つの必要条件を使えばいいのである。これは,コンセプト実現に何が重要かのウエイトづけを終えているのである。これをもとにすれば,
@“条件”を,実現手段に置きかえる
A見落としている手段を追加する
ことで,後は,手段をどんどん具体的に洗い出していけばいいのである。
洗い出した手段のうち,どの手段を取り,どの手段を捨てるかで,コンセプト「面白がって人が並ぶ店」をどれだけ実現できるかが変わる。
何が企画の中心(核)かの絞込み(それがないと企画のコンセプトが生きないものは何か)
洗い出した手段のうち,どの手段を取り,どの手段を捨てるかで,コンセプト「並ぶのがおもしろい店」をどれだけ実現できるかが変わる。その場合,取捨の基準は,次の2つである。
●“絶対条件”(何がなくてはコンセプトにならないか)
●“希望条件”(コンセプトの価値をつくるのに何がほしいか)
具体的に,落とし込む(ブレークダウン)するにあたっては,コンセプトを対比しながら,次のように進めていく。
@まず,メインになるものは何かを考えてみる。つまり優先順位の高いもの,コアとなるものは何かを考える
A不要ないし,劣位順位にあたると思われるものを,他の条件の手段として残せないかを考える
B他の条件を,自分の手段とすることでイメージがクリアになるものが,中核となるもの候補と考えられる
Cある程度中核となるものを決めたら,それを更に具体的な手段に落としてみる
D手段を具体化しながら,自分たちが,何をしようとしているのかを明確な像に絞り込んでいく
E何をする,何をつくる(モノ,システム,サービス,イベント,ソフト,仕組み,場面・場所等々)か“ 完成像”を具象化していく。プロファイルでの完成像が原型となる。
機能・手段を,できるだけ具体的な手立てにまで落とす。最終的に,個別の「何を」「どうする」にまで具体化されるほど手段を細分化していく。それは,すぐに「何から着手すればいいか」「何をどうするか」がわかる,具体的な行動レベルを特定することである。この流れは,そのまま必要なものを,何を,どこで,どういう順序で,どのくらいで調達するかの段取りのステップにつながるはずである。たとえば,「醤油味」を具体化して,どういう味にする→「薄口」→「〜メーカーの何々」と特定化していくと,何をどこで調達するかが特定されるということが選定しやすいはずである。
ブレイクダウンした手段をすべて使うのではない。そのどれとどれを一体化するか,どれを省くか,どれとどれを組み合わせるか等々,この目安は「コンセプト」である。あくまで,コンセプト実現の手段を洗い出しているのだから,コンセプトのイメージを羅針盤に,どういう組み合わせがコンセプトにふさわしいか,構成要素とその実現手段の最適化を図るため,手段を大胆に取捨選択し,組み合わせる。
●「選択」とはウエイトづけること
●「最適組み合わせ」とは注力する焦点を絞ること
でなくてはならない。この場合,次の3つを最終案に絞っていく「原則」としたい。
@ 総花化するな!目玉を作れ!
多機能化とは,何でもあるが,他に抜きん出たもの(=目玉となるもの)が何もないということにほかならない。何かを選択するとは,何かを捨てることである。たとえば,問題や欠点を解決しようとして陥りやすいのは,「〜がない」から「〜をつける」という発想だ。これは本質的な解決ではない。エレベータの待ち時間を短くするのはハードとしてのエレベータを増設するだけでなく,長く感じさせない工夫もあれば,運行ソフトの工夫もある。それをハードや多機能でカバーしてきたモノづくりの発想転換が必要となる。
Aハコやカタチを作ることにこだわるな!
雑木林をそのままにする,野っ原をそのままにする,森をそのまま残す,古い町並みをそのまま活かす,等々どうすれば「何も作らない」「何も手を加えない」「何もない空間を残す」ことができるか,ということも企画たりうる。ハコづくりやモノづくりだからといって,何かをカタチにすることとは限らない。空間の使い道,空き(何もない)そのものをどう作るかということも含まれる。何も創らないという創造もある。
B企画しようとするな!
いかにも「企画」らしい,もっともらしい「企画」を疑うことだ。既にどこかにあるもの,誰かの成功したものにとらわれてはつまらない。何か「企画」らしいカタチにしないと気がすまないのは既に先入観だ。冒険や挑戦には失敗はある。少なくとも,そこそこ成功するようにまとめようまとめようとするのは,「企画」の目的,何を解決したいと思ったのか,という初心を忘れている。もちろん,だからと言って,ペーパープランでいいということではない。それは別の問題だが,広大な野っ原を残すだけのことだって,それで当初の「問題意識」が解決されるなら,立派な企画となる。
アイデアとは要素(手段)の組み合わせの発見である。アイデアづくりのポイントは,自分の知識と経験の枠組みをどう崩し,いままでの知識の整理棚をシャッフルできるかどうかにかかっている。発想というのは,結局,自分の“ 知識と経験の函数”であり,もっていないものを生み出すのではない。とすれば,既存の知識と経験から,どうすれば新しい枠組みや組み合わせが見つけられるか,つまり,自分の手持ちの駒である知識と経験を最大限に活かすにはどうすればいいか,そこにアイデアづくりの仕掛けがある。
アイデアづくりの4つのスキルの詳細については,ここを見てほしいが,アイデアづくりの基本スキルは,次の4つである。
「分ける」
「グルーピングする」
「組み合わせる」
「アナロジー(類比/類推する)」 |
● 「分ける」は,分解してみる,細分化してみる,新たに分けてみる,分け方を変えてみる等々で,新しい
カタチ(つながり)を見つける
● 「グルーピングする」は,くくり直す,束ね方を変える,一緒にしていたものを除く,区分の基準を変え
る,一緒でないものを一緒にする,強制的につなげ変える等々で,新しいカタチ(つながり)を見つける
●「組み合わせる」は,異質の分野のもの,異なるレベルのもの組み合わせる,新たに組み替える等々で,
新しいカタチ(つながり)を見つける
●「アナロジー(類比/類推する) 」は,似たもの,異分野の例になぞらえる,参照にする等々で,新しいカ
タチ(つながり,構造,組成,仕組み等々)を見つける。パターン認識。
たとえば,痛くない注射針←蚊,カッターナイフ←板チョコ,シュレッダー←製麺機等々
《アイデアづくりの4原則の使用例》
コンセプト実現手段を具体化する流れは 「分ける」に当たる。具体化が足らなければ更に落とす。それを,(コンセプトを基準に)束ね直し(「グルーピング」に当たる),更にはいくつかを「組み合わせ」,場合によっては他の事例(「客の並ぶ店」の例でいえば,ファミリーレストランの例や生そば屋の例),行列をつくるという意味ではゲームの新作発売,アイスクリーム等々も参照にしながらアイデアにつなげていく。
たとえば,
・自分で麺をうち,麺をつくり,店秘伝のたれでつゆを使える,ラーメン店,
・醤油味でも,産地別の味が注文できる,マイ醤油味ラーメン店(味噌でもできる)
・トッピングを,定食屋やおばんざい屋のように,自分で選択できるラーメン店
・新作発表を定期的にし,その新作をパッケージ販売するラーメン店
・麺のゆで具合を,讃岐うどんのように,自分でできるラーメン店
・麺を自分でゆでて,自分で具を選択して載せていくラーメン店
等々,アイデアのベースとなる具体化ができていればいるほど,アイデアにつなげやすくなる。
最終的に何を選択するか,できるかできないか等々を考える前に,まずは,選択できるアイデアの数を増やすこと。いいアイデアを出すコツは,いかに多くにアイデアを出すかなのである。
アイデアをまとめるとき,アイデアを総花的に羅列するのでなく,コンセプトの意図を実現できる,コンセプト実現に寄与できる,他とは違う何か,という視点から,
・特色ある(売りになる)
・目玉となる
アイデアをどう絞っていくかが重要になってくる。
従来と違う組み合わせ,異業種の行列の例を参考にする,別のものと組み合わせてみる等々の発想を試みる,何かを引き立てるには,何をどれだけ捨てるか,も鍵になるはずである。ひとつひとつはありふれて特色がなくても,いまあるものをなくすだけでも変わるし,いくつかをくっつけたり,組み合わせることでもガラリと様相が変わる。
【アイデアチェックシート】
アイデアチェックシート |
@アイデアの内容と特徴
|
Aコンセプトへの寄与度;コンセプトの何を,どう実現できているか
|
Bどんなメリット・効果があるか
・どんな満足があるか
・どんなメリットがあるか
|
Cマーケティング
・市場の成長性
・ユーザー像
・市場は新しい分野か
|
D技術上の問題
・予想されるネック
・解決のメド |
@アイデアの内容・特徴
アイデアをきちんと書き出してみること。説明できないようなら,練り直しである。
Aコンセプトへの寄与
そのアイデアによって,どうコンセプトが実現できるのかを,きちんと検証しておかなくてはなりません。
Bメリット・効用
大事なことは,
誰に,どんな効果があるか,
誰に,どんな満足を与えられるか
誰に,どんな喜び,楽しさを与えられるか
が明確であることです。誰にも使えるというのは,えてして誰も使わないものです。
Cマーケティングイメージ
具体的に商品にしたとき,それは自社の市場やチャンネルに合致しているのかどうかをチェックします。どんなにそれ自体優れていても,自社イメージに合わなければ,逆効果となることだってあります。
新規市場に出るのだとすれば,そのリスクに見合う魅力がなくてはなりません。それが成長性や将来性です。
D技術上の課題
多くは,実際にやり始めて出てくるものが多いのですが,新規であればあるほど,目途の立たない壁があるものですが,よほどのことがなければ,クリアできない壁はないと思います。技術の壁は絶対できありません。
コンセプトづくりのために使った条件を,洗い出し,何がコンセプト実現に優先するかで,絞込み,それをブレークダウンした。それが下図であった。これを発展させていく。
何がコンセプト実現に有効か,後はアイデアを練っていくプロセスである。これを図解すると,次のようになる。
@機能分解した上で,機能を統一するものを考える
◇分けただけでなく,ヒントはあるが,そのままでは単なる寄せ集め,多機能に過ぎない。それをひとつで機能させて,何かできないかを考える。それで初めてインパクトがある。
Aありきたりでなく,自分がわくわくするものを考える
ただ,淡々とわけたり,括ったり,という作業をするだけではアイデアは面白くない。自分自身がわくわくするものでなければひとを
わくわくさせることはできかない。そのためには,先に何ができ,何ができないかで考えるのでなく,できるできないを括弧にいれて,自分のやりたいこと,自分のほしいことを考える。
Bいきなり具体的手段や方法を考えない
いきなり,あまりにも具体的な答えらしい手段が出できたり,思いついたときは,いったん括弧に入れたほうがいい。それは,二つの理由がある。
第一は,その手段と,端緒の条件との間にステップ(距離)がありすぎること。それ自体が悪くはないが,その具体的手段が,本当に,その条件実現にどんな貢献をするのかを,検討するつながりがみえない。それでは,単に思いつきで考えたアイデアと変わらなくなってしまう。
第二は,その思いついた手段群を束ね直して見る必要がある。その手段の狙いを改めて考えることで,その意図や狙いから見て,抜けているものを見つけ出す効果がある。
アイデアづくりについては,発想トレーニング,アイデアづくりの基本スキルを参照ください。
企画づくりの全体像については,『企画の立て方・作り方』をご覧ください。
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かつて,生物学者の日高敏隆氏が,こんなことを言っていたことがあります。
若い頃,高山に生息するマツノキハバチという蜂の研究をしていました。ある年に大量発生したり,わずかな数に激減したりするのですが,生態が余り知られていないため,研究室で生育してみることにしました。中央アルプスの二千五百メートル付近で幼虫を捕まえ,一度目は,常識的な昆虫の飼育温度25度に設定したが,3日で全滅した,次の年,気温が問題だったのではないかと気づき,高山の温度に近い気温に保ってみましたが,やはり全滅してしまいました。昆虫生理学者に調べてもらっても,病気ではないという。翌年はっと気づいたそうです。高山の温度に一定にするといっても,捕まえたときの夏の温度を保ったが,「もしかすると,夏は夏の,冬は厳冬の温度が必要なのではないか」と。そこで,一年間の温度変化を調べ,そのサイクルに合わせた気温変化を実現してみたところ,翌年孵化に成功した,というのです。
そこで,問題は,「はっと気づいた」というところです。まさか,学術論文に,「はっと気づいた」とは書けず,温度計測記録をもとに「1日のうちに高温低温の周期が必要」と結論づけたそうです。
ここで,われわれは,問題を見つけたりその解決を思いついたりしたことを人に語って,共感ないし納得してもらうのと共通する場面に出会っているのです。
業務の中で,問題を発見したときどうするのでしょうか?職場やチームのメンバーに,自分と同じように問題だと感じてもらい,一緒に解決行動をとってもらうには,それなりの問題のとらえ方と問題の整理が必要です。たとえば,「あのトラブルはほっておいてはいけない」と感じたとしても,なぜほっておいてはいけないのか,何故そう思ったのかをきちんと説明できなくてはなりません。更にいえば,そもそもそれをトラブルと感じてくれないかもしれないのです。それを,他の誰にとっても問題だと感じ,共有化してもらわなくてはなりません。組織で仕事をする以上,自分の関心やテーマを実現するには,上司やチームの仲間を動かし,共通の課題として取り組んでもらうほかはありません。
実は,ここに,科学的思考と論理的思考の,一人一人にとっての必要性と出会っているのです。
それが科学的かどうかの目安は,観測可能性です。実務に即していえば,再現できることと検証できること,です。もちろん目に見えることを意味しません。過去は復元できませんが,事件の現場検証のように,その状況と事実が共有化できればいいのです。そのとき必要なのが,データと論理による説得力です。
われわれが,問題と出会っているとき,ではどう問題をつかまえればいいのでしょうか。
それを自分がどの位置から見ているのか,
それはいつ始まって,いつまで続いているのか,
それはどういう場所(位置)で起こって,どんな広がりがあるのか |
を意識しなくてはなりません。これを整理すると,
・問題の空間化(広がり度) どことどこで起きたのか
・問題の時間化(奥行度) いつからいつまでに起きたのか
・問題のパースペクティブ化(観察者からの距離と遠近法) 誰が,どう体験したのか
の三点になります。筆者は,これを問題の構造と呼んでいます。
問題の空間化は,問題の起きている場所のポジショニングです。ポジションとは,人と仕事の系となっている組織の中での,位置・役割関係を意味しますが,その組織の外(部と考えれば他部門,組織と考えれば他社等々)との関係の中で,更にもっと広く同業他社,業界の中等々,社会的な広がりの中に位置づけることも含まれます。その中で,「どこで,誰(と誰)が,何をした(しなかった)から,どうなった(ならなかった)」と問題がとらえられることになります。
問題のパースペクティブ化とは,問題の観察者からの距離です。私(あるいは,当事者)の位置が問題です。問題に対する「私」の視点あるいは視角です。問題の当事者なのか,解決当事者なのか,傍観者なのか,評価者の立場なのか,意思決定の立場なのか等々。
ここで問題なのは,この問題の解決当事者となりえる(なる気がある,なれないが火中の栗を拾う気がある等々)かどうかなのです。
以上の,問題の空間化,問題のパースペクティブ化に時間軸を加えてみるのが,問題の時間化です。過去→現在なら,「どうなったか(どうしたか)」であり,現在→未来なら,「どうなるか(どうするか)」となります。「私」の位置は,その経過の中で,変わっていくはずです。問題は継時的に変わっていきます。時間感覚抜きの,停止した解決策は,意味がないのです。もし距離が近ければ,問題の変化に関われますが,遠ければ,どうしようもありません。
出会った問題は,チームメンバーや上司に報告しなくてはなりません。業務に関わる問題であれば,尚更です。そのとき,情報の構造が問題となってきます。
たとえば,事件を報道した新聞記事を考えてみます。その記事は,事実かどうかを問うことは意味がありません。事実は,ありますが,それを目撃した人は事実全部を把握できるのではなく,自分の把握できる範囲で,認識するのです。そのときその観察位置が問題になるのです。取調官はまた自分の理解できる範囲で理解し,記者は自分の理解に基づいた判断で記事を書くのです。
ですから,情報は,次のような構造をしているのです。
・発信者(目撃者)による主観(発信者に理解された範囲で意味付けられた情報)
・記者(伝聞者)による主観(記者に咀嚼された範囲でまとめられた情報)
・受信者(読み手)による主観(読み手にわかる範囲で意味を読み込まれた情報)
の3重の偏りがあるということです。もちろんその偏りを限りなくゼロに近づけることはできます。そのために,目撃者と受信者が,共通の問題認識の土表に立っている必要が出てくるのです。そこで,科学性と論理性が必要になるのです。つまり,自分の問題をどう正確に伝えて,同じ土俵に乗ってもらうか,そのために科学的思考を必要とするのです。
@演繹的思考と帰納的思考
科学的とされる方法論の代表に,演繹的推論と帰納的推論があります。定められた前提条件から結論を導くのが演繹的推論であり,個々の事例から一般的な知識を導くのが帰納的推論です。
演繹的推測の典型は,数学の定理の証明のように,前提を立てて結論を導き出すタイプですが,野矢茂樹氏は,意味に関わる推論として,たとえば,
「ペンギンは哺乳類じゃないよ,だってあれ,鳥だもの」
を例に,「鳥」という言葉の意味の中に,哺乳類ではないという意味が含まれていること,もし事実に関わる推論なら,翼のある哺乳類を探さなくてはならないが,仮に翼があっても哺乳類としての特色を持っていれば,鳥ではありえないこと,それが「鳥」という言葉に含まれている意味だということを指摘しています。(1)
数学の定理もまた,定理の意味に含まれていることを前提に展開していくことになります。上述の,日高氏の話の中で,「常識的な昆虫の飼育温度25度に設定した」というのも,演繹的推測の例といっていいでしょう。演繹的な推測の場合,「それゆえに」と,結論付けられることになります。
野矢氏の練習問題に,「イリオモテヤマネコは天然記念物だ。だからむやみに捕獲したら罰せられる」「あの福引はもう1等は出ない。だってさっき一本しかない1等が出ちゃったからね」は演繹的推論だが,「いままで宝くじを買ったが当ったためしがない。どうせまた外れる」「下腹の右の方が痛い。盲腸かな」は,違うといっています。
この違いの基本は,前提としていることの中に,後段の結論を導くに足る意味が含まれているかどうかです。
だから,演繹的推理は,前提→論証→結論,の流れが,一本の論理的流れになっていなくてはならないのです。そこに,飛躍があるとすると,推測が入ってくることになります。ここで必要となるのが,帰納的推測なのです。
帰納的推論では,個々の事実,出来事から,一般的な結論を導き出すことになりますが,
@具体的な事実やデータを集め,
A何らかの共通点を見つけ,グループ化して,
Bそれをもとに全体を説明できる仮説を立て,
Cそれを検証する,
という流れで推測していきます。そこには演繹のような意味的連続性はないので,ある種の飛躍が伴うことになります。そのとき,この推測の信頼性を確実にするには,
@データや事実の正確さや適切さ
Aデータや事実の数,
B全体を説明できる適切な一般化
C反証を立ててみても,それを崩せる推測の正当性,
といったものが必要です。われわれは,ともすると,「たまたま」を「そもそも」と言いやすい傾向にあります。「たまたま入ったファミリーレストランの,たまたま食べたある料理がまずかったのかもしれないのに,そもそもファミレスは,安いけどまずいものだ」と決めつけがちです。それを正当化するには,データや事実の数を増やし,なおかつ,「まずくないファミレスはない」ことを検証しておかなくてはなりません。
フィリップ・ゴールドバーグは,こんな例を紹介しています。
ある心理学者がノミを「とべ!」と言ったら跳ねるように訓練した。試みに,ノミの足を一本取ったところ,ノミはまだ命令にしたがってとぶことができた。そこでさらに一本ずつ足を取っていったが,ノミはまだとぶことができた。やがて足を一本もなくしてしまったノミは命令してもとばなくなってしまった。それをみた学者は,こう結論づけた。「足をすべて失ったノミは聴覚をなくす」と。(2)
ここにあるのは,帰納的推測の持つ的外れな飛躍の見本です。ノミの「足を順次」とっていっても,とべという指示にしたがったというのも,足がなくなったことで「命令がきこえなくなった」というのも,足=耳というのも,ひとつひとつ架空の一般化のもとにうちたてられています。しかし,前提となっている,「とべと命じたらとぶノミ」という一般化自体が崩れてしまえば,この全体の論証の枠組みは崩れ去ります。
帰納的推測は,集められた事実に基づきますから,それが間違っている,あるいは検証不能なら,その結論は再現不能です。更に,その事実に基づいて結論づけられたものも,結論としての的をはずしていることになります。
しかし,この結論を笑い飛ばすことはできますが,このプロセスを笑い飛ばすことはなかなかできにくいものがあります。ここには,われわれがものを考えようとするときの展開の仕方の一例が現れているからです。
たとえば,先の日高氏の論証の流れは,
@「はっと気づいた」前段階で,まず,一定の温度に保ってはどうかと着想しています。いわば,一定温度維持仮説を立てる,
A次に,自分たちの管理の瑕疵ではないかと疑い,温度管理不徹底仮説を試す,
B更に,温度を山の一年の変化に合わせればいい,つまり気温の高い夏と寒い冬の両方が必要なのではないかという,通年気温変化仮説にたどりつく,
となります。
ノミの帰納推測との違いはどこにあるのでしょうか?誰がやっても,確かめられるところです。事実ではなく思いこみの世界に入ってしまえば,それを崩すことはできません。多くの人を納得させる事実とデータのない推測は科学的思考ではありません。
Aフロー型思考と構造型思考〜因果関係の判断
問題(P)というのは,P=f (c1,c2,c3,c4……cn)と,いくつかの原因(cause)の組み合わせの関数と表現できます。
ひとつの問題に寄与している(と思われる)原因を洗い出し,その相互関係の中から,特定できる因果関係を抽出していくわけですが,それには,
@関連事実を集める
A通常との変化チェックする
B仮定してみる……経験・原則・公理で仮説を立てて,事実で確認する
等々がありますが,ここで,帰納的推測(@A)や演繹的推測(B)がなされることになります。科学的思考の実践編です。
原因追求の仕方には,フローで考えることとツリーで考えることが可能です。
@フロー型
たとえば,廊下で滑って転んだ→バナナの皮が転がっていた→ゴミを捨てたものが落とした→といったように,時系列の流れになることが多いと思います。しかし現実には,このように単線の因果の流れにはなりません。たとえば,
転んだ人間は遅刻しそうで走っていた→寝坊した→前夜深夜まで残業した→
廊下は老朽化していてワックスで表面をごまかしている→今朝塗り替えたばかり→
という複々線の因果が平行して流れていることが多いのです。これを見逃すと,ノミの仮説を笑えなくなります。
Aツリー型(たとえば5WHY)
これは,上記の平行した因果の流れを同時的に分析するのと同時に,それを構造化して,より細分化していくことになります。その問題の原因と考えられるものは何と何と何か,その原因の原因と考えられるものは何と何と何か,その原因の原因と考えられるものは……と「なぜ」を連発して(たとえば,5Whyはひとつに5ずつ原因を絞り出します),どんどん原因を個別化,特定化していきます。
この利点は,原因が特定されることで,「何をすればいいか」まで,解決のアクションに直結させるところにあります。
分析シート例
気をつけないといけないのは,原因分析のような森の中に踏み込んだとき,因果関係を目的化するおそれがあることです。それを避けるには,
@何のために原因究明が必要なのか,
Aそれによって何を実現したいのか,
Bどういう成果が得られればいいのか
といった問題解決の目的や目標を見失わないことです。たえず,図のような,全体像を意識するシートの中で,分析することです。
あくまで,科学的思考も原因分析も,問題解決の手段なのです。われわれは実務の世界にいます。製品をつくって売る,システムを作って売る,サービスを提供する,娯楽や楽しさを提供する等々,スタイルやカタチは変わっても,問題なのは,科学的であるかどうかではありません。提供する製品やサービスがユーザーにとって必要なものだったのかどうか,あるいは,ユーザーが本当に求めていることは何なのかを,つかむことです。われわれに発生する問題のほとんどは,誰が真の受益者か,誰のためにそうしているのか,を見失ったところで起きています。それを正し,何をすればいいかをつかもうとしつづけること,そのことを確かめ,検証し,確信を持つためにこそ,科学的思考が必要なのです。
最後に,本当にその推測なり思考が正しいかどうかが問題になります。それは,当初の問題を論理的に整理できていることが必要です。たとえば,目的手段分析という考え方があります。これは目的のためにどういう手段があればいいのか、その手段のためにどういう手段があればいいのか、その手段のためにどういう手段があればいいのか………、と手段をブレークダウンすることによって、具体化していくものです。これが、モノ(商品)やコト(システム、制度等)の場合は、機能や働きの目的機能分析になります。
一見むずかしそうですが、われわわれが、日常の意思決定で使っていることです。たとえば、下図のように、明日の旅行に必要なものは何か、という目的を考え、そのために何が必要となるかを列挙していき、その列挙したもので十分かをチェックする、という場合と、考え方は同じです。
この目的→手段を,目的を結果に,手段を原因に置き換えれば,結果→原因の連鎖として組み直すことができます。そして,その原因群で,本当にそういう結果をもたらすのか,たとえば,ノミの足すべてを切る→聞こえていて飛べないの因果の流れを推測するのに,何が不足しているのかを洗い出す作業,この検証がなくては,科学的思考も科学ごっこに終わるだけなのです。(完)
「問題意識と気づきの共有化」については,ここをご覧ください。
ロジカルシンキングについては,ここをご覧ください
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