認知心理学の知見では,“いまはこういう状態である”という初期状態を,それとは異なった別の“〜したい状態”(目標状態)に転換したいとき,その初期状態が“解決を要する状態”つまり“問題”となる。
言い換えると,眼前の状態を“問題”とするかどうかは,目標状態をもっているかどうかによるということにほかならない。つまり目標がなければ,初期状態に問題は存在しない,ということを意味する。
ここから3つのことが言えるだろう。
第1は,問題とは,所与ではなく,当該の状態を問題と感ずる人にとってのみ存在するという意味で,「私的である」ということである。だから共通な問題が“ある”のではなく,私的な問題が共通な問題に“なる”あるいは共通な問題に“する”にすぎない。
第2は,目標状態の中身を,いわゆる“目標”のほかに,例えば達成すべき課題水準,維持すべき水準,保持すべき正常状態,守るべき基準といったものに敷延して考えていくと,目標状態とは,自分に負荷している目的意識からくるものであり,それがあるからこそ現状に対して“問題”を感じさせるのだと言えるだろう。だから関心や興味があれば問題を感じるというのは誤解にすぎない。関心や興味が目的意識への端緒になるから,そのような錯覚を生むだけで,関心があってもそこから自分の目標を明確化していなければ,現状との“解決すべき”ギャップは鮮明でなく,ぼんやりした不安や不満といった情緒にとどまるだけだろう。
更に第3に,目標と関わる心理状態を,「〜したい」(欲求)状態だけでなく,他に「〜しなくてはいけない」(使命・役割)「〜する必要がある」(役割)「〜すべきだ」(義務)「〜したほうがよい」(希望)といったものまで想定してみると,それは,初期状態を認知する人が,そこでどういう立場(視点)で状況に向き合っているかが鮮明になってくる。逆に言えば,どういう心理状態が目標を持たせるかがはっきりしてくる。
よく問題意識という便利な言葉を多用するが,問題意識があるから問題が見えるのではない。問題が見える立場と意識があるから問題意識というものがあるように見えるだけだ。肝心なのは,どういう状態だと目標と総称できるものを持てるか,ということにほかならない。これだけが大事なことだ。
以上から言えることは,目標もなく,問題の見方や解決法をいくら仕入れても,多分問題が見えてくることはないだろう,ということだ。大切なのは問題の見え方だ。だが,見え方には無自覚的なことが多く,だから,例えば「問題意識が強い」「弱い」というような言い方をしてしまう。そしてどうやったら問題意識を強化できるか,という逆立ちした発想になってしまう。問題意識とは,問題が見えやすい状態にいるということにすぎない。問題意識は教化できないが,問題の見えやすい状態を強化することはできるのである。それには目標をはっきりさせることなのだ。
「問題を解くとき,ひとりで解くよりも,グループで解くほうが問題をたくさん解くが,このようなグループの経験は,その後のひとりで問題を解く力を向上させない」と言われる。立花隆も,ひとりで解ける作業過程をわざわざ何人かに分割してやらせているにすぎないと,同じような趣旨で問題解決訓練に批判的なことを述べていた。
それは,問題を与えられた(あるいは解くことを強制された)箱庭的状況が,はじめから問題とその解答があることが前提としてしまっていることがあるからにほかならない。現実には何が問題かは自明ではないし,それを問題とすべきかどうかでさえ一義的ではない。現にわれわれは,「問題外」「問題にならない」「問題にする必要もない」と,問題にすることを切り捨てることが多いし,逆に問題にもならないことを問題視して失笑されることも少なからず経験したはずだ。単に知識・経験がなくて未知なだけで,誰にとっても問題にもならないことを問題にしたり,見当違いのところに首を突っ込んでいるだけだったり,錯覚や幻想や勘違いは両手に余る程あるはずだ。まして今や問題がはっきりしないだけではなく,何が解答かさえ,あるいは解答があるかどうかさえわからないことが多いのである。
とすれば何を目標とし,目標とどう関わるから,何が問題となるかという,“問題”へ私的な関わり方を省略したのでは,“問題”そのもののもつ個人的な側面を欠いた奇麗事になってしまうのである。確かに協働することで,自分と違った視点の取り組み方から刺激や気付きを受けることがないとは言えないが,それは各自が自分の問題への関わりについて経験を積んだ後にこそ意味があるのである。
熟達者は,問題の情報に含まれる既知の組み合わせによって,新しい知識を見いだせるような関係式(文脈)を考えて新しい知識を求め,それと既知とを組み合わせていく,という前向きの方法で問題を解くのに対して,素人は,まず問題情報から最終的に求める未知を見いだし,次にその未知を求めるのに適当な関係式を記憶から捜しだし,それに頼って最終的未知を求めるのに必要な何らかの下位目標を見つけだし,それを求めるのに必要な関係式をさがす,という後向きの方法で解く,とされる。その違いは,熟達者は,例えばチェスだと,50,000〜100,000のパターン化された知識ユニット(碁でいえば石と石の意味ある関係図式)をもっていて,問題の中から解決への手掛かりとなる意味ある図式(情報)を見付け出しやすいのに,素人はバラバラの断片的知識しかないため,意味のある情報を見付け出しにくいことによる,とされている。
そうした関係づけられた知識が問題を見えやすくするということにほかならない。知識に差があるとしても(それは時間をかけて身につければいい),今の状況を既知の類似パターンに置き換え,状況に合わせて持っている知識を転換したり,組み合わせたりしながら,問題を既知化していくアプローチは学べるはずである。それは集団ではできない個人の認知プロセスなのである。
情報化時代は,問題の解き方がわからないだけではなく,問題の意味そのものがわからない問題が増える。それはコードの解読をするような定量的情報よりは,モードの解説やコードの文脈を読み取る定性的情報の方がより重要化になるからにほかならない。
情報は,一般に「不確実性を減少するもの」という意味で考えられている。そこでは,どこかにそういう価値ある情報があるものだという考え方が前提にされている。どこかにある情報を手に入れれば,正解が解けるというように,だ。しかし,ある価値が前提になっていた時代は終わっている。何が価値か何に意味があるかは不透明であり,正解はどこにもないとなれば,情報そのものから意味や価値を発見することがより重要になってくる。つまり,情報は単に「不確実性を減少する」ためにどこかから収集・集計してくればいいものではなく,「新たに見付け出す(出現してくる)」ものになったのである。
それは,別の言い方をすれば,記号に概念(意味されるもの)を結びつけることにほかならない。記号と意味との出会いは全くの偶然でしかなく,そこで見付けた意味に価値があるのではない。価値は,同時に現れた前後に結びあっている他の記号との間に形成されるにすぎない。その文脈をどう読むかが情報の発見にほかならない。
それは問題についてもいえる。今日目標そのもの(あるいは現状そのものすら)が曖昧で,問題そのものが不明確なことが少なくない。とすれば,問題はただ意味を解けばいいのではなく,意味を創り出さ(発見し)なくてはならないのである。
解く問題にとっては,どう解くかの手続きを発見するにすぎない。例はまずいが,パズルを解くのと似ている。しかし創る問題は,価値と意味を見付けなければならない。それは目標そのものの発見といっていい。何を目標とするか,それにどう関わっているかにこそ,その人にとっての当該問題の意味と価値があるのだから。
だが意味が発見できれば,その曖昧な問題は解く問題に転換する。あるいは3択4択といった選択問題に転換すれば,解く問題に変換する。問題の創出とは,解ける問題にどう転換するかということをも意味している。
それには,事態を次のように組み替えてみることが有効になるだろう。
@特徴の抽出・組み合わせによる知っている型はめ(知覚的な型はめ,関係構造の型はめ,文脈はめ)
A経験的な文脈(状況・雰囲気)による解釈(つじつま)あわせ(文脈の異同比較による新しい文脈にあてはめる)
B同型性の認知(構成要素を知っている世界へ対応させてみる)
C縮小世界の再構成(ミニチュア化して全体の関係をつかむ)
D極限への拡大(極端な状態を想定することで状況の境界を想定する)
E視点の移動・転換(見る位置を変えることでパースペクティブを変える)
F立場の転換(主客を変えることで見えるものを転換してみる)
G視野の拡大・拡張(局所のアップ,細部の拡大によって景観を変貌させる)
Hストーリーの創造(全く別の時空の中で自由に展開させてみることで,制約条件を解き放す)
問題の発見とは,過去の(既知の)知識の組み替えにほかならない。どうすればそれがしやすくなるかが発想法にほかならない。それは,過去の経験・知識をどうつかえば現状の意味をとらえることができるかの工夫にほかならない。
組み替えという場合,型はめや要素の組み合わせで新しい意味を再構成する場合と,新しい文脈の中に並べることで新しい意味を発見する場合の2つのパターンがあるが,いずれも,現在の自分の視点と視野を変換することによってしか難しい。
そのための方法は,列挙したが,それを整理すると,「視点の移動」「文脈の変換」「発想域(次元)の拡張」「ストーリー(起承転結)の構成」の4つになるだろう。
視点の移動には,
視覚の視点(視点)
観念の視点(観点)
の2つがある。いわば知覚的な視点と思考の視点ということができる。
前者は,視角の変換,視野の転換・転倒などを含めた,まさにものを見る視点の移動・変動であり,接近したり遠ざかったり,分離したり統合したり,逆に見たり反対側から見たり,上下前後左右から見たり,横から見たり縦から見たり,といった視点を移動させていくことで,ものの見え方を変えていこうというものだ。
視点ということから見れば,拡大とは視点の接近であり,縮小とは視点の後退である。分離とは視点の分散であり,統合とは視点の集約ということになる。視点の移動は移動に伴って物理的に見え方を変えてしまおうということにほかならない。
われわれは,通常透視画法(一点を視点としての遠近法でみた画像)のような特定の視点から見た対象像でものをとらえていると考えがちであるが,われわれは一方の視点から見ている対象の別の局面についても,それが見えていないだけでどうなっているかを経験から知っていることが多い。例えば,立方体を描くとき,見えない側面をよく点線で描くように,別の局面の見え方を想像していることが多い。つまり,1つの視点からの対象を見ているときでさえ,その形が全体像の1局面であること,全体を見渡す途中の像であることを承知して見ているのである。
視点の移動は,いろいろな局面に直面させることでそうしたさまざまな視覚像の経験を呼びさますことになるはずである。
観点というのは,対象に意味(あるいは価値=機能)が固定されてしまっている場合が多い。例えば挟みは切るものと固定した結合ができてしまい,それ以外の視点でみなくなっている。それを,対象を変容(質)させるような,伸ばしてみる・縮めてみる,軽くしてみる・重くしてみる,薄くしてみる・厚くしてみる,といった転倒した視点や,代用・応用・転用といった敢えて異なる価値(意味)を見付け出させる視点に移動することで,見え方を転換させようとすることにほかならない。オズーボーンのチェックリストは多く視点の移動の範疇に入るはずである。
また立場の転換も,視点を相手に置くという意味では,視点の移動の中に含めることができる。それは見る視点を移動することで,相手の立場に“なる”,相手の視野が自分のものに“なる”,相手の気持が自分のものに“なる”といった“なる”視点への転換とよぶことができる。
ものの見え方とは,ものの像の違いではなく,ものを視る視点の違いにほかならない。視点を変えることで,おのずと像が異なって見えてくること,それが視点の移動の意図である。それならば,対象そのものの状況・条件を組み替えてれば,視点を転換させ新たな意味が見えてくるはずである。それが文脈の転換にほかならない。
例えば,「馬鹿やろう」という言葉も,男同士の睨み合った状況と男女の睦言では全く違ってくる。文脈を変えることで,異なった価値と意味が見えてくることを意図しているといっていい。文脈崩しには次のチェックリストが有効になる。
◇主体を変える
これはどの視点から見るかということの転換でもある。相手から見たらどうなるか,例えば売る側でなく買う側(顧客側)からみたらどう意味が変わるかということでもあるし,更に掘り下げれば,何も人間の視点である必要はない。例えば細胞レベルでみたらどうなるのか,原子のレベルでみたらどうなるのか,でもいいし,逆に宇宙規模で考えてもいいし,神の視点で俯瞰してもいい。
◇対象を変える
対象を固定する必要はない。別の相手だと違う状況になるかもしれない。人間の感情が状況を見えにくくすることは多い。また対象を不動のものと見ることで,状況を固定的にしてしまっていることも少なくない。
◇時間軸を変える
これはまず,過去−現在−未来という時間を変えてみること。今でなく明日とすると見えやすくなることも多い。時間軸を直線とみなさなければ,映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の世界は成り立たないように,時間軸の設定が,文脈を変えるのである。
◇空間軸を変える
ここ・そこ・あそこ・どこの転換である。場所だけではない。方向も位置(前後左右上下)も,内外も,遠近も,表裏もある。特にわれわれの対象識知は,上下を固定してみる姿に慣れており,逆さにするととたんに識知力が落ちることが知られている。逆に言えば空間軸を転倒するだけで,馴れた文脈が異質化することを意味する。
◇理由(目的)を変える
前提としている価値・意味・基準・規範・目的・論理・感覚・感情を変えてみる。目的を下げただけで事態が急変することも少なくないはずだ。それにこだわらなくてはならないとしている自分の価値そのものを前提としないだけでも,違った見え方をするはずである。
◇方法(やり方=手段)を変える
機能を変えて代用品を使う,スタイルを変えてみる,拡大したり縮小してみる,統合したり分離してみる,手順を変えて順逆を転倒してみる,人を変えてみる,仲間を変えてみる,担当をかえてみる,不必要な部分を削除してみる,優先順位を変えてみる,下位目標を変えてみる,といったことがある。
◇水準(レベル・ウエイト)を変える
どれだけという評価基準を変えること。手段−目的を転倒することで,最終目標を先送りしたり,逆に前倒ししたりして,手段=下位目標で目標達成としたり,目標=下位目標とすることで目標水準をあげたりすることになる。また全体−部分−要素の構成を変えてみることは,目標を過小化したり逆に目標を過大化したりすることになる。
視点の移動が見る位置によって見え方を変え,文脈崩しが状況を変容させることで見え方を変えたとすれば,通常だと自分が絶対発想しそうもない領域まで,自分の発想を拡張させてみる機会の設定が,仕事に関係ないとか日常生活に不用ということで,自分の境界外に埋もれていた,あるいは放置されていた発想領域へと発想のキャパシティを拡張することになるはずである。それはただ外に新しい意味を見付けるだけでなく,自分の内にも新しい可能性を見付けることになり,それが一層発想閾を拡大することになるはずである。そこでは,目的−手段の連続性や全体−部分−要素といった既知のつなげ方(既知のパースペクティブ)をいったん括弧に入れることが必要となる。そういう見え方をする自分の視点を括弧に入れることである。
発想領域を拡張していく手近なものは“連想”である。これには,「意味的(論理的)なつながり」を広げていくものと,「イメージ的(感覚的)なつながり」で広げていくものとがある。
意味的なものは,知識や経験で連想していくもので,言葉や概念,社会的通念が仲立ちとなっていく。感覚的なものは,音,香り,形態(図形),手触り,といった五感や知覚,感性が仲立ちとなるが,そこにはものの大小,軽重,長短,拡大・縮小,膨張・収縮,遠近,といったイメージの異同も仲立ちとなる。イメージ的なものには,空間的なものだけでなく,成長・孵化・脱皮といった時間的な変化・変質をも含めていい。
連想はその中に,類似・類比・類推を含めて,ただ同質・同形だけでなく,対比的なものへもつながりを同心円のように広げていくが,それに対して,例えば,比喩はその典型だが,ただ類似性だけでイメージの連環の拡張と意味を膨らませていくことが可能である。比喩の場合,隣接性と相似性(類似性)の二つがある。前者は,「馬」に「走る」をつなげるのに対して,後者は,「馬」に「牛」を連想していく。
確かに連想や類似性の連環によって,発想の枠は拡張していく面はあるが,これだけでは平面的で,同一レベルを尻取りゲームのように広げただけでしかない。それは結局自分のもともともっていた発想閾の限界を超えていないからという面もあるが,それ以上に,その連想のつながり方が,既知の文脈や意味のつながりからみつけたきたのだから,もともとの文脈や意味の脈絡を引きずっているからにほかならない。
だから問題は,発想したものやそういう発想そのものに意味があるのではなく,1つ1つはバラバラで点でしかない発想を全く別のパースペクティブ(一定視点からの遠近法)に入れて整理し直してみることが重要なのである。
その整理の仕方の,ポイントは,関連別やテーマ別,大小別,遠近別,優先度別という既知の意味での整理を排除することである。それはまとめることを前提としているから,どうしても整合性をつけようして,多数決で整理することになる。どうしても入り切らないものを捨てるか無理やり当て嵌めるかする。それではもともとの文脈と違いのない整序になるだけだ。むしろ入り切らないで残るデータの方から文脈を見付け,それに多数派を位置付づけ直してみるべきだ。多数決で見つかる意味では二番煎じにすぎない。
カードに書き散らした発想を整理するとき,大体は系統的な遠近法でまとめようとする。それが時系列であれ,因果系列であれ,親近度であれ,どのみち既存の意味に集約するしかない。それでは意味がない。まとめることが目的化しては,多数決になるだけだ。どうしてもはみ出すデータの方に,既存の系列には収まり切れない新しい意味が出現しているかもしれないのである。
問題の意味が見えなくなるのも,“いま”“ここ”という制約の中で整合性のある説明(つじつま)を考えようとしているからのことが少なくない。思い切ってそういう制約を捨てた状況設定でストーリーを推測・想像してみるというのも有効である。文脈を換えると意味が変わる。異なる文脈に置くことで,別の意味が見えてくることも多い。
場面設定(いつ,どこで)と役柄(誰と誰が)から話の流れをとにかくでっちあげてみる。それはありうる(ありえた)可能性の再構成という意味をもっている。「やりたい(やりたかった)こと」「なりたい(なりたかった)こと」「あのときこうすればよかったこと」の復権である。それは選択肢として気付かず捨ててきたものの復元でもある。そういう目で見直すと,過去の成功例ではなく,失敗例が蘇ってくるかもしれない。
文脈崩しで触れたチェックリストが,ストーリーの切口として使えるはずである。
◇主体を変える 自分がやらなかったらどうなるか,自分が別の人格だったらどうなるか,上司や仲間がもっと助けてくれたらどうなるか,別の人だとどうするだろうか,上司ならどうするだろうか,別の会社だったらどうだろうか,誰ならいいのか
◇対象を変える あの人でなかったらどうか,あの人だったらどうか,別のイメージの客を考えたらどうなるか,誰にしたらいいのか
◇時間軸を変える 昨日だったらうまくいったのではないか,今ならうまくいくのではないか,明日ならどうなるか,1ヵ月後ならどう変わるか,1年後ならどうなるか,3年後ならどうか,いつならいいのか
◇空間軸を変える あそこでなければどうか,どこでもいいのならどうか,別の状況だったらどうか,状況の配置が変わっていたらどうなのか,どこならいいのか
◇理由を変える 全くフリーハンドだとしたらどうか,何の価値もないのだとしたらどうか,目的が違っていたとしたらどうか,どういう理由ならうまくいくのか,このままほっておいたらどうなるか
◇やり方を変えてる いままで捨てられてきたものを再現してみる,問題外としてきたことをやり直してみる,失敗したやり方を再現してみる
過去に捨てたり,過去には有益でなかった発想がいまあるいは明日なら有効であるということは多い。結局人間の発想のキャパシティは限界があり,そうそう突飛なことを思い付くことはない。いつか発想していたことを,別の文脈に刺激されて思い出すということも少なくない。とすれば,自分の過去をどう蘇らせるかということは存外重要である。その意味でも,“いま”という特定の文脈だけに合わせようとすることは,それ以外の可能性を捨てることに等しいというべきだろう。
僅かな情報からストーリーを描くということは,結局自分の経験・知識から見えるものを想定してみることにすぎない。そう考えれば,問題の見え方とは,問題を表現してみることにほかならない。既知のものをどう組み合わせて見えやすくするか,その表現力が問題へのアクセス力に差異を生むことになる。だが問題は,それをどういう位置からみているかだ。
図と地,信号(情報)とノイズ,目標と手段,部分と全体,どういう言い方をしても同じだが,われわれは自分のパースペクティブにおいて必ず差異をつけている。それがものを見分ける根拠でもあり,またものを一色でしか見られない発想閾を狭めている理由でもある。図をみわけるのは,その中に自分の既知の図形を見分けるからだ。それを支えているのは,目標であり,知識であり,経験にほかならない。だから,新しい問題に出会ったとき,それを既知化することは,一種矛盾したものを孕んでいる。結局自分の知っているもので類推することは,自分の知っている範囲を出られない,というように。
だから,視点の移動には,視点の位置を変えることだけでなく,焦点の移動(アップにしたり,無限大にしたり)もまた含まれている。図ではなく地に焦点を当てることで,信号がノイズになり,ノイズが信号になる。この転倒は意味だけでなく,価値を転倒する。そこまでいかなくても,信号の識閾を拡張する。情報が,どこかにあるものを探すのでなく,新たな意味を見付けるもの(発見するもの)になるとは,そういうことにほかならない。曖昧さが重要視されるとはそういうことにほかならない。
目標と手段についても同じことがいえる。下位目標が上位目標の手段となる,目標−手段の連鎖は,1ステップずつ解決していけば目標に到達できる,という信念に基づく。それは原因−結果の連鎖と相関している。原因があれば結果がある,というのはすべては曖昧なところなく論理づけられるとする決定論にすぎない。いま情報の意味が変わったというのは,情報の一義的な意味ではなく多義的なものを受け入れなければ意味がつかめないからにほかならない。それは原因は特定できないということだ。とすれば結果も特定できない。目標は曖昧で,下位目標が最終目標の方が問題がよく発見できることもありうるということだ。
これを敷衍してみると,情報は受信するだけのものではないということがいえるはずである。もし信号とノイズの境界が曖昧であるとすれば,発信者にとって多義的でなかったメッセージが受信者には多義的で脈絡の見えないものであること,あるいはその逆が生じえるし,現に生じている。ある定まったコードを受信し,それをコードブックで解読するだけではもはや情報は読めない。それをマイナスと見るかプラスとみるかで,問題が見えるかどうかがきまる。脈絡も意味も曖昧ということは,新たな意味を見付けられるチャンスなのだ。その意味で,第2回に否定した集団的問題解決の効果を再確認すべきだろう。つまり,いま問題の新たな意味を見付けるのが,人と人のコミュニケーションの中においてだ,という意味では重要だ,と。むろんそこでは,人によってパースペクティブが異なり,そこで整序される見え方も違っているということが前提となる。
世の中の発想論ではたいてい,「頭のサビを落とす」「頭を柔らかくする」ということをキャッチフレーズにしている。
まず疑問なのは,そんなに簡単に,頭が柔らかくできるのか,ということだ。それより何より,何十年も生きて来たいい大人に向かって,今までの考え方を捨てろと言う。それにムッとしたことはないだろうか?
「冗談言うな,オレは長年こうやって仕事をしてきたんだぞ」と。
こう感じている自分の反感の方が正しいのではないか,と内心思いながら,そんなことを言っているから「頭が固いのだ」と言われそうで,これまでずっと言い出しそびれてきた,ということはないか。
なぜ「頭の錆」や「柔らかさ」が問題になるのだろうか。サビとか固いとは何のことなのか?錆ついて回らなくなったギア,グリスの固まったベアリング,あるいはショートして堂々めぐりする回路,といったイメージだろうか。しかしクイズやパズルといった「頭の体操」なんかで,頭の滑りがよくなったり思考が柔らかくなったりするものか。問題なのは,創造性ではないのか。パズルを解くことに長ずることで,優れた創造性を発揮したものを寡聞にして知らない。多分,クイズマニアのように,「手慣れたパズルの解き方」に習熟するだけではないか……。
なぜなら,たいていのクイズやパズルには答えがある。そういうのを,発想とは言わない,と信ずるからだ。
わたしは,頭にサビなんてないと思っている。断言してもいいが,頭の柔らかさと発想力とは関係ない。少なくとも,パズルやクイズの出来不出来と発想力とは何の関係もない。小器用にクイズをこなす小才よりも,不器用なほどに考え込む物分かりの悪さのほうがずっと大切なのだ。
敢えて言えば,頭のサビこそが,わたしたちの個性にほかならない。その人が生きる中で身につけた知識と経験のもたらす思考の慣性にほかならない。まあ,惰性に近いかもしれない面があるのは認めるとしても。
しかし,それも含めたものが,その人なりのこの時代と社会での生き方なのであり,ものの見方なのである。これを個性と呼ぶほかはないのだ。問題は,個性があるかどうかが大事なのではない(個性は十人いれば十の個性があるのであって、そのこと自体に意味も価値もない)のと同様,サビがあるかどうかが問題なのではないのだ。サビは生きて来た証にすぎない。頭の固さと評されるものも,良かれ悪しかれ,その人らしさにすぎない。大事なのは,そのサビや固さを価値あるものにできるかどうか,つまり自分のもっている知識・経験を使いこなせるかどうかなのだ。その使い方に発想力のある人とない人とに差がでる。
問題は,その使いこなし方だ。ここでも従来の発想論に不満がある。「常識は捨てなくてはいけない」「当たり前を疑ってみろ」と強調しながら,それをどうやったらいいのか,についてはどこにも具体化されていなかったことだ。
正直,わたしは,比較的クイズやゲーム感覚の頭の体操が苦手である(決して嫌いではないが)。そのためでもないが,どこかでクイズやゲームをうさん臭く感じてきた。それでいながら,一方では自分が不得手なことをずっと気にかけてもきた。しかし,多くの発想の書は,それをもって発想力診断テストとしているところがある。では,パズル発想が苦手なら,発想力はないのか?
しかし,あるとき気づいたのだ。確かに見かけはパズルは,アクロバットのような頭の回転を要求するが,そこで求めているのは手先の器用さのような頭の使い方の器用さにすぎないのではないのか?それがいわゆる発想力と何の関係があるのか?むしろそういう器用さは,手品と同様,見かけの転換だけで,本当の意味の発想の転換とは関係ないのではないのか?と。そして,人に手品の如き発想を強いるとしたら,その発想の手引の方が間違っているのではないか,と。
そういう“コペルニクス的発想転換”(?)をした以上,別の理屈を立てなくてはならない。そういう場合,わたしのような真面目さだけが取柄の(ということは何の取柄もないに等しい)手合いが言訳とするのは,往々にして,「発明は99%の努力(パースピレーション=汗)と1%のインスピレーション」というエジソンの努力神話しかない,と相場は決まっている。しかし,本当にそれだけで可能なのかどうか。
ともかく,そうした思い付きをきっかけに,いわゆる“天才”のひらめきを,自分のような凡才の汗と努力だけを担保に可能にする方法はないか,という,言わば虫のいい願望から始まった,その結論については,「アイデアづくりの基本スキル」をみていただくことにして,その背景となった考え方だけ述べておきたい。
むろん古来,多くの創造性研究の端緒もそうした問題意識にある。
古くは,いわゆるレトリック研究そのものが,能弁家の弁論技術を体系化するところから始まっている。
既に,キケロが「能弁家たちが自然におこなってきた」ものを研究したものについて,「技術から能弁が生まれたのではなく,能弁から技術が生まれた」と皮肉を言っていると,紹介しておられる佐藤信夫氏は,そういうレトリックの技術体系は,「天才が自在におこなう操作とおなじことを,凡人が不器用な努力によっておこなうと仮定すればどうなるか」という問題の立て方をしているが,それは,「天才が巨大な問題を一挙に解決して到達したのとおなじ地点へたどりつくために,律義者は,その一個の問題を大変な数の小階段に分割し,分岐点ごとに考え込む」(まるで,コンピータのモデルと同じ)というものとなる。しかし,その模型は,間違っていると,氏は指摘されている(『レトリックの消息』)。
「天才的作業を仮説的凡人のモデルによって説明している装置は,じつは装置のほうが虚構的なのであった。才能ある人間が(人間はみな装置よりも才能がある)飛躍するのではなく,それを飛躍として説明する理論のほうが幻想的に律義なのだ」と。
模型として設計している装置そのものが,虚構の「天才」モデルに対比して普通の人間を現実以上に律義(つまり間抜け,ということだ)に設定している。しかも,その前提に立って,天才の能弁(あるいは美文)を,どうすれば凡人にも可能にできるか,と設問し,虚構の「天才」の一瞬の一またぎをステップに分割して,それを愚直なまでに一歩ずつ辿ることで,それに肉薄できる,とした誤てるモデルにすぎない,というわけである。なぜなら,人間はそのモデルのように間抜けではないからなのだ,というわけである。
前述の「アイデアづくりの基本スキル」も,実はレトリック研究と同じく,凡人の律義さだけを担保に,汗と努力だけで天才の「飛躍」を図ろうとしているが,まさに人間が「モデル」のように間抜けでないからこそ,それを正当化する理由があるのである。
つまり,普通の人でも,「装置よりも才能がある」からこそ,実は発想が問題となるのである。そういう飛躍とは,慣れから来ているといっていい。われわれはレトリックでも,発想でも,愚直なまでに分解されるほどの手順を一々意識しなくても,一瞬のうちに比喩を使うし理解する。しかし,それは慣性として使い理解しているにすぎない。発想にとってはそれこそが桎梏にほかならない。モデルの,律義に分割したステップを辿らせることによって,いつもの自分の手慣れた一またぎそのものを異化すること,それがこのモデルの効果にほかならない。
それに,「仮説的凡人のモデル」に問題があったとすれば,そういう愚直なモデルを創ったことにあるのではなく,それを唯一の見習うべき手本,つまり正解と見なしてしまったことにあるのではあるまいか。しかし,正解が1つなら,ただそのままなぞればいいだけであって,そこに一人ひとりの工夫の余地はないし,そんなところに創造性などはない。
ここにあるのは,あくまで,1つのモデルでしかないのだ。それを通して,自分の発想プロセスを異質化すべき装置にすぎない。習字の手習用の手本のように,それをなぞること自体に意味があるのではなく,丁度ストップモーションにかけたゴルフスィングのように,自分が意識せずにしてきた発想プロセスを,1コマずつに分解された動作として客観的に分析してみればいいのだ。そこから自分との類似性を見つけるか異質性を感じるか,それとも自分の長所に気づくか欠点に気づくか,あるいは目指すべき目標を見つけるかは,本人次第だ。何にでも運勢占いのように託宣を戴かなくては気がおさまらないという発想をまず捨てなくてはならない。モデルは,模範解答ではなく,それを通して自分なりに新しい発想のパースペクティブ(視野)を得るべきものであって,それは他人によってではなく,自分自身によって見つけるべきものなのだ。
ちょうど宮本武蔵の『五輪書』は,天才武蔵でなくては会得できないが,千葉周作の奥義は,素人が,確実に身に付けられる教本だというのに似ている。
わたしは,だから,“ブレークスルー”とは,そういう意味でも,自分流の壁の破り方にほかならない,と思っている。ブレークスルーとは,自分の既成の発想の“変成”と考えている。問題解決で言えば,問題形成まで,である(既知を破って未知を創り直すところまで)。目標の発見・形成が目指すべきものなのだ。だから,“発想”のブレークスルーなのだ。
われわれは,爾来とかく突貫工事には慣れている。それは,誤解を恐れずに言えば,問題を解決することに長けている,ということだ。しかしその特技が効くのは,目標が明確なときだけだ。いま,われわれに必要なのは目標そのものの形成なのだ。何をしたらいいのか,何を目指したらいいのか,という最も根本的なことを発見しなくてはならない時代なのだ。だから,同じく“ブレークスルー”とは言いながら,ナドラーの『ブレークスルー思考』とは,全く問題意識を異にする。
といって,美文作成のためのレトリック体系のように,ブーレークスルーの教則本ではないから,ここあるのは,回答例のひとつにすぎない。われわれは,結局既知の枠の中で収まってしまう思考の慣性を,一度スローモーションのようにコマ毎に分割し,自覚的に1つ1つ踏み破ってみなければならない。そのためのモデルにほかならない。それを辿ってみることによって,自分なりにどこをどう直せばいいのか,その工夫のためのツールは用意したつもりである。むろん,これだけが正解では決してないし,正解だと主張もしないが。
確かに,アインシュタインがブレインストーミングをやっている姿を想像できないが,といって彼は独自のブレークスルーの仕方をもっていなかったとか,それに無自覚にやっていたと考えるべきではない。方法論のない研究などありはしない。彼もまた,自覚的にやっていたはずだ。それが何かは,外目には,多くブラックボックスとなっているだけのことだ。それをわれわれなりに,自分で創り上げなくてはならない。
創造性や発想力を問題にするとき強調されるのは,《視点の転換》とか《発想の転換》である。そのためにどうしたら発想や視点が転換できるか,パズルを使ってみたり,ゲーム感覚の「頭の体操」を試みたりする。しかし,強調したいのは,
視点(見方)を変えるのではなく,見えるもの(見え方)を変えること
である。つまり,見慣れた見方や使い慣れた発想や視点が問題なら,
見慣れた見方
使い慣れた発想や視点
がしにくい条件をつくってしまえばいいではないか,ということである。見ているものをひっくりかえせば,視点は逆立ちせざるをえない。
たとえば,下のような図形があるとする。
見方によっては,これは立方体を一方から見たものにも,正方形の穴が開いているとも見える。しかし,どうやっても,これが正方形に見えてしまって,それ以外の見方がしにくいのだとしよう。
そのとき,そういう固定観念をやめなくてはいけない,既成概念は崩さなくてはいけない,などといくら言ってみたところで仕方ないのだ。
むしろ,この図が正方形には見えないようにしてしまえばいいのではあるまいか。そういう仕掛けがつくれればいいわけだ。その方法としては,
第一には,見る位置をいろいろ強制する。一番いいのは,裏側へむりやり引っ張っていくとか,高いところへ連れていくとかだが,その代わりに,これは凸部を上から見たところだとしたらどうか,凹部を上から見たところとしたらどうかなどという別の視角を強制する方法がある。
第二には,この図をやぶったり,伸ばしたり,細かくバラバラにしてしまったりと,正方形には見えないように変形してしまう方法がある。
第三には,これは口という字を拡大したものだ、あるいは日という字を書く途中だ,または四畳半の部屋の間取り図だ,というように,この図の意味を限定したり,変えてしまったりする方法がある。
第四には,これは紙に書いた図ではなく地面に引いた線とか,ゴム膜の上に書いたものだとしたらどうか,昼間ではなく夜見えているのだとしたらどうか,あるいは洞穴で遠くに見えたものだとしたらどうか等々というように,この図から受ける常識的なイメージに,別の条件を設定し直してみる方法がある。
こうして一種強制的に,いつもの見方がしにくくすることによって,見方を変えざるをえなくすることができるのではないか,ということである。
わたしは、まず、こうした見え方を変えるための方法を《バラバラ化》と名付けている。そのためのチェックリストは,「創造的発想とは」に,実例を示した。
見る側の視点を変えさせるためにバラバラにしたものは、それだけでもいろいろな刺激を与えるが、アイデアなり発想としてまとめていくには、そのままでは思いつきにとどまることが多い。それをまとめたのが,前述の,「アイデアづくりの基本スキル」であり,「4つの発想スキルの使い方」である。
時実利彦氏は,考えるとは,「受けとめた情報に対して,反射的・紋切り型に反応する,いわゆる短絡反応的な精神活動ではない。設定した問題の解決,たてた目標の実現や達成のために,過去のいろいろな経験や現在えた知識をいろいろ組みあわせながら,新しい心の内容にまとめあげてゆく精神活動である。すなわち,思いをめぐらし(連想,想像,推理),考え(思考,工夫),そして決断する(判断)ということである」(『人間であること』)と定義している。
しかし,これだけでは,精神活動の中身を分類して,考えることの中身には,こういう種類のものがあると整理しているだけあって,それぞれの仕組みがどうなっていて,どうしてそのように考えることができるのかまで踏み込んでいないため,考えるとはどういうことをすることなのかが見えてこないように思えるのだ。それをもう少し突っ込んでみなくてはならない。
われわれがモノを考えるという活動は,通常は行動のように外部からは伺えないほどに内面化されているが,初めからそうなのではない。この内面化のプロセスを明らかにすることで,思考の発達のステップを明らにすることができる。こうした点から,思考の仕組みを明らかにしたのが,J.ピアジェである。それによれば,思考発達は,
感覚運動的知能の段階(0〜2歳)
前操作的思考の段階(2〜6,7歳)
具体的な操作的思考の段階(6,7〜11,2歳)
形式的な操作的思考の段階(11,2歳〜14,5歳で成人に近づく)
の4段階を取るとした。年齢は個人差も時代差もあるので目安にすぎないが,このステップの順序は,その中間に様々なレベルの移行ゾーンを持ちながらも,変わらないとされている。
感覚運動的知能とは,五感や動作を通して外部との関係を体得していく時期と考えることができる。ここでは,「対象物の不変性」つまり,そこに見えるものは,布で覆われようと遮られようとある,ということを知っていく段階だということができる。この時期を通して,われわれは自分が動くと見え方が変わること,自分が動けば近くなり遠ざかれば小さくなることを,暗黙のうちに身につけていくのではなかろうか。これによって,乳児のときに喜んだ「いないいない,ばあ」には反応しなくなる。そこにあるものが見えなくなっても,そこにあることがわかっていれば,再び現れたことに面白がったり驚いたりはしないからだ。
この時期の末には,例えば,手の平のコインを乗せ,それを布団の下に入れて隠し,空の手を見せると,子供はそこにコインがないとわかると,すぐに布団を剥がす行動をとる,ということをピアジェは実験している。既に子供は,目に見えないところ(布団のした)でモノが移って(隠され)も,それを追跡していくことができる。このとき,初歩的な推論をしているのである。ただし,子供は言葉ではなく,感覚運動的な活動(行動)によってそれを確認していくりのである。
前操作的思考とは,表象的思考,つまり実物ではなく実物のイメージを描くことができること,言葉を使ってモノやコトを表現できることを意味する。それは,運動感覚的活動の内面化といっていい(一々行動で示さなくても,前述の例なら,言葉でその推測を説明できるようになっている)。それは,ままごと遊びで,はっぱを札とみなしたり,ごっこ遊びなどで,シンボルを自由に扱えるようになっているところに典型的に見いだすことができる。そこでは,そこに母親がいなくても,母親を表象しながら,母親のつもりになって,その行動をなぞることができる。感覚運動的活動では,その場やそのモノに依存していたのにそれなしで,既に頭の中だけで,活動することができるようになっていることを意味する。それは描画,工作といったことができるようになったり,言葉によっての表現も可能となる段階である。
ただし,まだ言葉は内面化されていないから,遊んでいるとき,誰に話しかけるというのでもなく独り言をしゃべっている。
4歳女の子「この木にはね,おサルが上るのよ。おサルさんかわいいね,すうっと登ってすうっとおりるのよ」
4歳男の子「ハイウェーだぞ。メルセデスベンツが走るんだぞ,大きいんだぞ」
お互いに誰かと話し合っているわけでないし,人に聞かれているというつもりもない。ただ自分で自分が考えていることをどんどんことばにして,それを刺激にしてまたしゃべっている。これを思考プロセスそのものが外面化しているとみることもできるだろう(相良守次編『学習と思考』)。
ここでピアジェが操作的といっているのは,言葉や記号を操作して思考できることを意味する。数を数えるのに指やモノで数えるのではなく,数字を操作することができること,あるいはスズメ>鳥>動物>生物といった類(クラス)の関係を頭の中で概念的に理解できること等々,われわれ成人が難なくこなしている思考における,抽象的概念的な働きを意味している。したがって,この段階では,イメージや表象はまだモノやコトといった具体的なものを媒介にしないと不十分なのであり,まだ知覚イメージ(知覚的図柄)に左右されてしまう。
例えば,同じ量でも,右の方が多いと答える。また一方から他方へ移すと,見かけに左右されて,量が変わったと判断する。高さと全体量の関係といった操作的思考ができていないから,視覚的な同値性が見られないと,同値と認めないのである。
具体的操作思考の段階では,具体的な事物についての概念ができ,モノを見たり扱っている限り,論理的な思考が働かせられるようになる。したがって分類や配列ができ,ここでは操作的思考として,スズメ>鳥>動物>生物といった類(クラス)の関係の分類や前述のコップの見かけに左右されたりせずに,全体量の同一性を理解できるようになる。
しかし,例えば5歳の子に水を入れたコップと穴の開いた50円玉を見せて,
「このお金を入れたら,浮くか,沈むか」
と聞くと,
「沈む」と答えた。その理由を聞くと,しばらく50円玉を見詰めて,
「穴が開いているから」と答えた。で,次に穴の開いていない50円玉を取り出して,同様の質問をすると,
「沈む」
「穴が開いていないから」と答える。奇妙な理屈だが,金属でできたものの沈む知覚経験が強く印象づけられていて,それに左右されているということができる。しかし,理由は説明できないのに,言語的概念を手に入れた8歳の子供になると,同じ質問をされると,「お金=鉄みたいなものは沈む,木の棒=木でできているもの浮く」という反応をする。重い軽いという概念で区別している。ただしまだそれは法則的な整理ができていないから,「鉄でできている船は浮くではないか」と問うと,「船の形にすると皆浮く」という形で答える。それに答えるためには,ものごとを統合的に説明し,仮説から演繹的に推論する論理体系を学ばなくてはならない。
またこの段階になると,通常は独り言は少なくなって,「………ここはうんと………」(ぶつぶつ口の中で言っているけれども,あまり聞き取れない),というように,独り言が次第に聞き取れなくなっていく。それは,自分のためにしゃべっているのであって,別に文脈が整っている必要がないからであり,それだけ,自分の内的会話と人とのコミュニケーション(社会的会話)とが分離していくということでもある。こうして言語が内面化されていく(相良等・前掲書)。
次いで,形式的操作思考の段階では,具体的事物がなくても,頭の中で論理操作ができるようになる。とくに前段階でできなかった,「もし,こうなったらこうなる」といった形で推理できる,仮説演繹的な思考ができるようになる。既に成人の思考の段階にある,ということができる。いわば人間としての思考の枠組ができあがるのである。
しかし,こうした論理的思考は,いわばそれまでの感覚運動的知能,表象的思考,形式的思考と,順次,言語だけでなく,動作・行動や知覚イメージ,映像を内面化してきたその積み重ねの結果として形成されているということを忘れてはならない。「操作とは,内面化された活動である」というのは,そのことであり,われわれの中には,感覚運動的活動がひょいと外面へ現れることがあるのだ。例えば,ゴルフのスイングを想定するとき,肱の恰好や腰の据わり方を,思わず躯を動かしながら,あれこれ考えている。これは,自分の躯の動きが頭の中にしまわれている(内面化されている)ものが顕在化したと考えられる。また,ソロバン上手が暗算に際して,そろばんがなくても,頭にそろばんのイメージをつかまえられる(イメージの内面化)し,同時に思わず右手で空を弾くような仕草をする(動作の内面化)。これらは,内面化された動作が,一瞬外へ滲み出た例ということができる。あくまで,操作的思考は,「内面化された活動」だというのは,そういうことを意味している。
その面で,特に付け加えておく必要があるのは,動作の内面化には重要な問題が含まれているという点である。「いないいない,ばあ」には反応しなくなる時期を通して,われわれは対象への距離と位置を学んでいく。それは,見え方が変わっても対象が存在しつづけること,しかし見え方は見方によって変わりうること,即ち,視点の問題である。そこから,「そもそも立体という考えは,人間が動けるから存在するわけです。もしたとえば私が植物としてこの場所に立っていただけだとしたら,つまり私が生まれてこのかたいままで全然移動していないとすると,私には立体という観念はないわけだ。立体は,自分と立体との間に相対的な運動が可能で,物体を上下,左右,前後から見ることができて,はじめてわかる」(森政弘)と,言えるのである。
感覚運動的知能を手に入れたとき,われわれきは,同時にどこから見たらどう見え方が変わる(見方を変えると見え方が変わる)か,ということをもつかんだということだ。それが,実はイメージを左右する重要な問題であることは,繰り返すまでもないだろう。と同時に,見ることに視点をもつことが,いかに根深くに関わっているかを示してもいるのである。
以上,4段階のステップを踏んで,思考を獲得していくことになるが,それは,
@動作,行為およびそれらの内面化した過程(現実の見え方=視覚)
A知覚,経験およびその内面化したイメージ(心象としての見え方=イメージ)
B言語およびその内面化した象徴過程
C現実の因果関係の内面化した法則的論理
と,整理することができる(相良等・前掲書)。
大人になると,操作的思考つまり言語と論理による思考だけが目につくが,それしか使わないのではない。前述したように,論理的思考は,感覚運動的知能,表象的思考,形式的思考と,順次,言語だけでなく,動作・行動や知覚イメージ,映像を内面化してきたその積み重ねの結果として形成されているのである。このすべての思考が,われわれの中で層となっていると考えなくてはならない。モノを考えるとき,われわれは,以上の4つの軸すべてを組み合わせているのであって,この4軸は思考形成のプロセスであると同時に,思考力の4つの要因でもあるとみなすことができる(丁度,マズローの欲求5段階説で,生理的欲求→安全欲求→所属の欲求→承認の欲求→自己実現の欲求の5つの欲求が,欲求の順位のステップであると同時に併存する欲求のレベルを示すものであるように)。
それは下図のように構造化することができるだろう。
現実の関係性の内面化=論理的思考 |
言語,記号などの内面化=言語的思考 |
知覚,経験の内面化=表象(イメージ)的思考 |
動作,行動の内面化=感覚運動的思考 |
これは,別の言い方をすると,初期には個別具体的であったものが,言葉や理屈を通して,どんどんまとめた抽象化・一般化したものに昇華していくということでもある。それが知識を得るということになるのだろう。
これをわれわれの日常レベルでの思考の仕方からみると,それらは,どういう形でわれわれの中に蓄積(記憶)され,それを,そのつどどういうふうに取り出しているかという視点から考えてみることができる。ひとつの考え方は,
・エピソード記憶(個人的な過去の出来事,想い出のシーンが,そのときどきの状況と脈絡をもって蓄積されているモノやコトのエピソード)
・意味記憶(いままで学んだ知識や論理の蓄積)
・手続記憶(自転車に乗れる,機械が操作できるといった技能の蓄積)
といった分類となり,手順→意味→エピソードの順に下位システムを形成しているとされている(E.タルビング)が,誤解を恐れずに,この記憶の階層を前述の4層に当て嵌めて,強引に単純な図式にしてしまえば,
といったふうに層をなしているというふうにみることができる。つまり,われわれの感覚運動活動やイメージは,個別の想い出に支えられ,彩られているのである。しかし,各層は多少の交ざり合いはあっても,それぞれがバラバラのネットワークとなっていて,意味を辿っても必ずしもそのエピソードにつながるとはいえない。
エピソード記憶は,特定の時期に限定された独特の時間的な組織化になっていて,何かの薫りからある想い出が浮かんだり,ある感情(悔しさや怒り)によって,ふいに昔の恥ずかしい体験が思い出されたりする(ポップアップ現象)。ある言葉から,一瞬の出来事がイメージされたりということもある。あるいは意識しないで独自の言葉や色への嗜好が現れているということがある。その意味で,エピソード記憶の多くは無意識状態にあるとみなされる。といっても,無意識というのは,ここからここまでというように,絶対的な領域として確定しているものではなく,あるときは意識化されても,別のときには意識の外にあったりする相対的なものであり,固定された場所(フロイトが表現した“潜在意識”や“意識の底”“意識の下”というのはあくまで比喩である)として実体的にとらえるべきではなく,「常にあたかも(as
if)」(ユング)としてしか説明できない,そのときどきの意識にのぼらないものを,無意識とみなせばよい。
論理や意味を考えているときには,直接には個別の体験とは接続しにくいが,無意識で独特の意味(ニュアンス)を見ているかもしれない。あるいは,自分では論理的でも,その根拠にしているのは,法則を納得させる個別の体験が強力に作用しているのかもしれない。モノの見方に個別のエピソードからの情緒的歪みがあることに気づかないでいるかもしれない。ある意味で,エピソード記憶は,ネットワーク全体に浸潤していて,エピソード記憶は意味記憶で意味づけられ,意味記憶はエピソード記憶エピソードで感情的に色付けられているが,そのことにわれわれは自覚的でないから,独自の彩りには気づいていないし,またその個別の根茎となっているエピソードを意識していないだけなのだ。エピソード記憶は,知識や意味的なつながりを追いかけている中からは見えてこない。それには自覚していないからだ。にもかわらず,一種キイワード(あるいはキイとなる偏光眼鏡)のようなものに出会うと,一瞬のうちに回路が変わり,独特のエピソード記憶と接続してしまう(ある恰好をしたとたんに,小学校のときの忘れていた光景とつながる,というように),極めて近いところにある。
このように,エピソード記憶のほとんどは,ときとところによって浮かんだり沈んだりしているものであり,無意識のネットワークなのである。しかし,その人としての独自性は,個人としての経験の蓄積であるエピソード記憶の中にこそあるのだから,ここにこそ,良くも悪くも,その人のオリジナリティがあると考えるべきではあるまいか。これこそが,本来の自分の知識・経験(あるいは個人的経験に彩られた知識)であり,たとえ常識や定石にとらわれたものであったにしろ,その独自の彩りの中に,発想のオリジナリティの基盤がある。われわれはこれ以外に独自のものをもっていないのだから,独自のエピソードに彩られた知識や経験,イメージ,感覚を,どう生かすか,どう引き出すかが重要なのだ。
既に述べたように,思考は,
・現実の関係性の内面化=論理的思考
・言語,記号などの内面化=言語的思考
・知覚,経験の内面化=表象(イメージ)的思考
・動作,行動の内面化=感覚運動的思考
の4つの軸がある。そのうち,感覚運動的思考や表象思考は,われわれには大きな働きをしている。とりわけ子供では,成人と異なり,モノの名前や意味を知らない分,モノを説明したり考えたりするとき,モノの動きで表現(ブーンと飛んでいる仕草)したり,モノを生き物で,コトガラを別のモノで喩えたり(踏石を亀と見立てたり,湿疹をサイダーの泡と喩えたり)する。これが成人なら,簡潔にモノやコトの名前を言ってしまって終わることになる。しかしその底で,言葉の実体を,そういう具体的な体験が支えているし,イメージも内面化した知覚・経験が支えていることは,成人も変わりはしない。それが,子供に限らず,成人にとっても知覚上の錯覚に満ちている理由である。例えば,下図のようなものを示されると,右の矢の方が長いと感じたり(ミューラーリヤーの錯視),
出典;種村季弘・高柳篤『だまし絵』(河出文庫)
また,前述のように,細いコップに入ったものの方が量が多いと直観的には錯覚したりするのも,成人してからも一瞬の錯覚に陥る。しかし,それは,マイナスとのみ考えるべきではなく,例えば下図のように,
背後を想定できるのも,このイメージの働きのせいである。しかしそのために,下図のような対象では錯覚を生ずることになる(@は,ネッカーの立方体,Aは,R.ペンローズの,「考えられない図形」,いわゆる“悪魔のフォーク”)。
@
A
出典;種村季弘・高柳篤『だまし絵』(河出文庫)
@では,奥行を示す稜線が前景となったり,前出の図の点線のように後背に引っ込んで見えたりする。これは,知覚経験から,われわれが背後の状態を既に知っているからにほかならない。しかし,逆に“悪魔のフォーク”で混乱するのは,その知覚経験の当て嵌めが効かないからにほかならない。
われわれにおいて,こうした知覚経験が,子供のように単なる図柄の差で判断するほど単純ではないが,全体的に把握する上で,非常に大きな力をもっている。例えば,
adgacgaegabga□
という文字系列を解くのに,コンピュータは不得意だが,われわれは,一瞬のうちに,パターンを見つけ,agは繰り返されており,実質的には,
dceb□
の文字系列を解けばいいのだということに気づける。そして,それは,例えば,
の渦巻きのようなイメージを浮かべることで,文字の列の特色をつかむことができるし,cとd,bとeが向き合った反射の関係とイメージしたりもできる(相良・前掲書)。その意味で,この直感とでもいうべきものは,イメージを想定することで全体像をつかまえやすくすることは事実である。
確かにこうした映像的な思考,つまりいわゆる右脳的思考は,コンピュータの最も不得意とするものであり,全体的な判別,認知という経験に即したわれわれにとっては利点というべきものではあるが,それがいわゆる右脳論以来過大評価されすぎているように思われてならない。空間情報の処理を右脳がやっているという常識化した見解に対して,全体をつかむイメージの形成には左脳が大きく関与しているとする実験結果も少ないがあるし,知識の枠組が全体を一括して把握するのを助けるとする,後述のハンソンの指摘もある。こうした視覚イメージを内部記憶によって総合するためには,左脳の機能が大きく作用するというのは,また当然考えられる反論なのである。
むしろ,大事なのは,右左で脳の機能を2分する発想自体が問題なのである。われわれがイメージを浮かべているとき,脳の活動部位は,右左といった単純な区分ではきかないくらい,後頭葉,前頭葉,下部側頭葉,頭頂葉,全体にわたっている,といわれる。しかも,イメージは受動的に画像を思い描くというようなものだけではなく,能動的に(先を読むというように)働かせており,その意味では常識的な左脳の「枠組」や「パラダイム」「予期図式」のようなものをもって,予測的予期的に描いてみせるという面ももっていることを見逃せないのである。「知っているものを見る」「見たいもの(しか)見えない」「見たいものをみようとする」というのは,こうした知覚イメージもまた,われわれにとって習得されたものだからだ。その意味では,直感もまた,一種の思考の慣性といっていいのである。
イメージが強調される反面で,われわれの言葉や文脈による表現が敵役とされてきた。それは正しいのだろうか?
確かに,われわれがほとんど言葉,つまり意味や文脈で物事を考えたり,あるいは概念でモノを考えているため,「知っている」というとき,大体「その意味を知っている」「学んだ」「読んだり聞いたり知ったりした」ということである。その意味によってモノを見ている。更に,現実を,学んだ知識・経験(因果関係や法則)によって,ものごとを推理したり,類推したり,演繹したりする(こうすれば,こうなる。こういうときは,こうなるはずだ)。これが知識の力といっていい。こうなるのが当たり前,というわけだ。そしてその多くが,新しい発想の妨げとなってくるとされるのは,こうしたモノの見方がモノの見え方を決めてしまうからにほかならない。だから,そうした知識が問題だ,というのは意味がない。妨げているのは,知識ではなく,知識がこしらえる上げている枠組だからである。
例えば,われわれは言葉の意味と文脈,論理でものを判断することに慣れ過ぎている,というより,それが科学的であるということを身に染みてしまっている,という点である。そのことがモノを別の角度(幻想や情緒で彩られたファンタジー)から見る,つまり別の視野をつかむのに妨げとなってくる,というわけである。
その例として,P.ゴールドバーグ『直観術』(工作舎)におもしろい小話が出ている。
ある心理学者は,ノミに「跳べ」といったら跳べるように訓練した。
試みにノミの足を1本取ってみたが,まだノミは命令に従って跳べた。
2本とっても,3本取っても命令に従って,跳びつづけた。
やがて全部の足をとってしまったら,ノミは跳ばなくなった。
そこで,この学者は,次の結論を出した。
「足を全て失ったノミは聴覚をなくす」
ある意味で論理的に推測していくときの戯画である。陥り易いマイナスを極端にひょうげんすればこうなるだろう。ある情報を理屈だけで考えると自分の手慣れたこじつけ解釈になりがちだ,というわけである。
あるいは,3段論法でこういうばかげた結論を導くことはないか。例えば,
すべてのおもちゃはディスカウントで売れる
すべてのディスカウントは利益が低い
すべてのおもちゃは利益が低い
これをどうみたらいいのだろうか。もののとらえ方として,何が問題だろうか?思いつく限り,アトランダムに挙げてみれば,
@すべてのとか,いくらかのとか,なにも〜ないといった言葉で結論づけられると容認しやすくなる。そういう言葉で表現されると,事実と受け止める傾向が強い。例えば,「この例(データ,現象等)では」「もしそうだとすれば」という条件を消してしまう。
A確率として読んでいる。確率はありうる正解の1つにすぎないのに,正解=1つとするために,帰納のもっともらしさの危険性がもっと高くなる。
B結論を否定してみていない(利益率の高いおもちゃはないのか)。逆はないのか,違う例はないのか,と想定してみない。
Cすべてのおもちゃ販売=ディスカウント販売(ディスカウントのみ)と変換して読んでしまっている。少数事例(あるいは特筆例)を一般化し,すべてに敷衍してしまっている。“たまたま”を“そもそも”と読み変えてしまう。
D特定モデルで納得している。そういえば某に,某にもは当て嵌まると,勝手に当て嵌まるものだけを思い起こして,それだけで小世界を形成してしまう。
E意識的にそういうことはありうると考えてしまっている。先入観に合致するとそこから抜け出せない。
F仮説形成において,それと矛盾する否定的な情報の獲得と使用が下手。負の情報を探そうとしない。合うものを探そうとして,合わないものを探そうとしない。
等々。言語=論理的思考の陥りやすい傾向を,このように整理できるかもしれない。これは,われわれの思考が,わたしたちが知っていることあるいは知っていると思うことに則して推論しようとする,抜きがたい傾向があるからにほかならない。知識の枠組のもつステレオタイプ性を証拠立ててくれている。こうした過ちを防ぐには,一般には,
@合理化しないこと=それでは既知のつじつまにあわせるだけ
A理屈にあわないことをあわないままにする
B矛盾は矛盾のままにする
C否定的なものはそのまま受け入れてみる
D結論を急がない
E意味や論理だけでなく,感覚,イメージ,動き,経験も含めて考えてみる
ということを意識的にすることが必要になる,と言われている。むろん,この分析自体にそれほどの誤りはない。実地に当たってみればすぐわかることだ。問題なのは,だから知識ではなく,イメージによる直観を使った方がいいのだ,ということが強調される点だ。実際に自分の経験ではどうなの?自分のイメージはどうなのか?しかし,それは本当だろうか?
例えば,単純な例を出してみる。車の運転で,車幅が自分の躯のように感じて,車の動き=体感になって,自在に動かせるようになる。しかし,その慣れによって形成された枠組によって,われわれは大きな錯誤を犯すこともまた多いのだ。例えば,下図のように,
道路の行方を経験から,点線のように読み込んでしまうことがままある。そのイメージで運転していくと,カーブに差しかかったとたん,ヘヤピンカーブなのに慌ててハンドルを切るという目にあったことも少なくないはずだ。
前述したように,言葉や論理の形成のバックにあるのは,感覚論理的思考であり,イメージの思考であり,「思考を特徴づけている構造は,言語的事実よりも一層深い活動と感覚運動的メカニズムの中に,その根をのばしている」(ピアジェ)のであって,運動感覚的ないしイメージによって形成された思考の構造によって,既に言葉や論理の思考の受け皿が作られている。論理的思考を支えているのは言語的思考であり,それを支えているのが知覚イメージであり,それを左右するのが感覚運動思考なのであって,4つのパターンすべてが層を成していると考えるべきだと前述したのはそういう意味である。ただ,成人になれば意味や理屈の判断という形をとることが多くなるというだけのことなのだ。
だから,イメージや感覚が大人の常識の枠組を外しやすいというのは誤解にすぎない。むしろ,イメージや感覚の枠組があるから,言葉や論理の制約を強化するといったほうがより正確なのである。そのいずれもが,ともかくわれわれの知識と経験の蓄積の上に形成されてきたものであり,モノを見る「枠組」として制約となっている,という意味では,同列だということなのだ。
われわれの知識のネットワークは,基本的には,論理的組織ではなく,世界が私たちの経験の中で総合されるあり方を反映している。記憶は,ほとんどの場合実在の写しではなく,実在をもっともらしく再構成したものであり,典型的な事態に対する強調がつきまとっているのだ,ということが大事であり,その意味では,イメージや感覚こそが最も歪んでいるのかもしれないのだ。感覚やイメージが過大評価されるのと同様,知識を過小評価することに意味があるはずはないのである。
問題なのは,右脳と左脳の機能区分を,効能の区分と同一視したところにある。どちらか一方が錯覚や錯誤に加担しているなどということはないのだ。“あれかこれか”は,脳機能においてもない。両者相俟って,われわれの発想を制約しているということを見失うと,ブレークスルーを,誤った感受性や感覚の強化にのみ走らせることになる。感覚だけを評価したり,知識のみを強化したりすることを,本書で取り上げることはない。よくも悪くも,われわれの発想に窓枠を嵌め,それが一方でパターンを直観させ,他方で発想を制約もするのは,われわれの形成・蓄積してきた思考の4軸そのものの結果なのである。
グルーピング直したり,再構成した情報から何かを読み取ろうとする場合,その組み合わせから常識的に,あるいは論理的に推測できる範囲で組み立てたのでは,既知の枠組を再現してしまう可能性が大きい。ちょうどプラモデルの場合のように,わかっている輪郭をなぞってしまうからである。それを避けるには,部分の組み合わせからのアナロジーを通して,別の輪郭,構造へと飛躍させていくことが必要である。そのアナロジーから見立てられたものが,初めの常識や理屈を飛躍できればできるほど,新しい構造と輪郭を発見できるはずである。
グルーピングを通して,どういう関係づけが見えたろうか。例えば,グループA,B,C,Dと分けていくことによって,全体の位置関係がわかってくる,AとBとのクラス差(包含関係)が見えてくる,あるいはぼんやりと,全体の輪郭Xらしきものが感じられる,ということがある。いまここで必要なのは,こうしたグループ間の構造,つまり全体としての新しい“つながり"=“新しい関係性の発見”なのである。これが,新しい組み合わせのもたらすパースペクティブにほかならない。その意味で,バラバラ化が“既知のパースペクティブを崩す”ことであり,情報の括り直しが“未知のパースペクティブの発見”であるなら,このプロセスは,“新しいパースペクティブの形成”にほかならない。
この新しい関係を見つける方法として,まず考えられるのが,《しらみ潰しの発見型》である。別に大袈裟なものではなく,われわれが通常試行錯誤しながらやっているやり方であり,グループ化した情報群同士のありうる組み合わせパターンを,逐次検証しながら,組み合わせ1つずつについて,しらみ潰しに,1つ1つ試しては消去して,新しい組み替えを見つけ出していこうとすることだ。この典型例は,チャールズ・ヤン氏が,形態分析法で示した組み合わせ方法がある(『ビジネス思考学』)。
そこでは,ある機能区分別に,そのサブグループ群すべての組み合わせの可能性を探るために,各機能毎にサブグループの(標題)カードを並べ,スライド式に順次ずらして,各組み合わせを検討している例を示している(アイデアづくりのスキル「組み合わせ」を参照)。
当然この組み合わせはその掛け合わせ要因の数が増えれば増えるほど,爆発的になり,場合によっては,とうてい時間的に許容されえない。この爆発的な組み合わせを避けるためには,別の方法が必要となる。それが《アナロジーによる仮説型》なのである。
これは,グルーピングで得た全体の関係性のイメージから,何かになぞらえられる(見立てられる)アナロジーを発見し,それを仮説として,個々の組み合わせパターンを類推して導き出すのである。
情報群の組み合わせからのアナロジーを見つけ,それの構造と輪郭から新たな組み合わせの可能性を見つけ,それを仮説として,個々の要素間の関係を検証していくことになる。しかし重要なことは,与えられた情報の組み合わせパターンを探り出すのではなく,創り出すことなのである。似ているからアナロジーを見るのではなく,アナロジーを見るから似ているものが発見されるのでなければならない。そうでなくては,既知の類似性を当てはめているだけだ。異質な両者にアナロジーを創り出すから,両者に新しい関係性が発見される。関係のあるものを見つけることではなく,両者の間に敢えて関係性を創り出すこと,それが,新しい組み合わせ発見の意味でなくてはならない。
しかし,発見型(ありうる関係のしらみ潰しにする)と仮説型(アナロジーによる新しい関係の発見)は,全く別ものであろうか。例えば,要素間のつながりが見えることで,新しい枠組が見つかることがあると同時に,新しい枠組を創り出すことでも要素間に新しい関係を見つけられる。つまり,両者は別々の作業ではなく,仮説が発見を促進するし(こうだとすれば,こう見えるはずだ),またしらみ潰しの組み合わせが仮説を発見しやすく(こういう組み合わせなら似たものはないか,何か関係したものはないか)もするのである。しらみ潰し式が絶対に非能率とはいえないのである。
先の図式化した関係を使って,この問題を整理すれば,次のようになるだろう。
見え方を変える→とらえ方が変わる→仮説が変わる
↑
↓
↓
見え方が変わる←とらえ方を変える←仮説を変える
つまり,見え方の変化は,とらえ方の変化に,そしてわれわれのとらえ方の枠組=図式を変える,という,「見え方を変える→とらえ方が変わる→仮説が変わる」の流れは,いわばしらみ潰しに,新しい組み合わせを試みるという見え方の側からとらえ方を変えるという発見型である。逆に,「仮説を変える(見つける)→とらえ方を変える→見え方が変わる」が,仮説型に当たる。ただ,しらみ潰しの作業を通して,仮説の発見ができれば(丁度天才がそうであるように,図式がひらめけば),新しいパースペクティブを手に入れやすいかもしれない。
ここで言うグループ間の関係づけという意味には,
第1に,因果関係,対立関係,順序関係,補完関係,位置関係,配置関係,組み合わせ,組成,時間的連鎖,といった《文脈》あるいは《脈絡》といった平面的関係,
第2には,全体・部分関係,包含関係,密度,優劣,優先順位,内外,骨組,階層,システムといった《構造》といった階層的関係,
の2つがある。つまり,われわれは,グループ化によって部分集合に括ることを通して,ただ平面的な分類をしていくのが目的ではないのである。われわれが見つけたい関係は,
《文脈》 水平的な関係
《構造》 垂直的な関係
の2つなのである。建物で喩えるなら,柱,床,壁,窓,屋根,といった部分の相互関係だけではなく,何階建てなのか,位置の上下は,奥行は,前後は,といった,部分間のクラス,役割・機能関係をもつかまなくてはならない。その意味では,むしろ“新しい関係性の発見”というよりは,新しく構成し直すこと,つまり,“新しい構成の発見”というべきものなのである。
この“新しい構成の発見”は,グループ化していく過程で浮かび上がってきた関係の,新しい“文脈"と“構造"をはっきりさせるために,それから見ればより新しい構造が見えてくるような,新しい仮説を形成することなのだ。それによって,より“新しい関係”が見え,かつ新しい文脈が整理できるような,仮説である。それが,グループ間に「習慣的に相互に矛盾しあう」「交錯点」を発見し,1つの脈絡にすることにほかならない。
そうした「特異点」を見つけることが,グループ間に整合性をもたせる“構図の形成”であり,その構図によって,グループ同士をひとつに括れる,あるいはひとつにつなげる枠組を形成することである。これは,“共通性の発見”と変わらない。違いがあるとすれば,共通性の発見では,並べた両者の間に,類似性と関係性を見つければよかったが,ここでは,グループ化のもたらした図式と対比すべきものは隠されている。それと似ている,または関係のある“何か”を見つけ出し,それとの対比によって,図式の構図をよりはっきりさせていこうというところにある。
当然この“何か”は,グループ化の中で大まかにつかまれた構図との(類似性と関係性によって)アナロジーを見つけ,それを媒介として,グループ間の構図,あるいは全体の構成,枠組をつかもうというのである。その意味で,新しい構成(隠された枠組)を発見するとは,“アナロジーの発見”なのである。
つまり,共通性発見作業の中でつかんだ関係を,何かのアナロジーとして見ることができれば,そこから関係の中に新しく(例えば,見つかっていない関係とか全体の輪郭とか)見えてくるもの(仮説)があるはずである。これを仮説として検証することで,関係を新しく構成し直すことができるのである。
新しい構成の発見に導くアナロジーをどうやって手に入れたらいいのか?ゴードンは,『シネクティクス』の中で,アナロジーの手法を,
・擬人的類比(personal
analogy)
・直接的類比(direct
analogy)
・象徴的類比(symbolic
analogy)
・空想的類比(fantasy
analogy)
の4つ挙げている。直接的類比は,対象としているモノを見慣れた実例に置き換え,類似点を列挙していこうとするものであり,擬人的類比は,対象としているテーマになりきることで,その機構や働きのアイデアを探るという,いわゆる擬人法であり,象徴的類比は,ゴードンの取り上げている例では,インドの魔術師の使う伸び縮みする綱のもつイメージを手掛かりに連想していこうとするものであり,空想的類比は,潜在的な願望のままに,自由にアイデアをふくらませていこうとするものであるが,いずれも,その区別はわかっても,それをどう使いこなし着想に結びつけるかの方法論は具体化されていない。もちろん,擬人法や空想は,アナロジーの手掛かりとして重要であるのは,後述する通りであるが,こういうアナロジーの分類だけではアナロジー発見の手掛かりとはなりにくい。
むしろ,大事なのは,アナロジーの発想の仕組み(アナロジーの見方)であり,類似性と関係性というアナロジーの構造(アナロジーの見え方)をはっきりさせることだ。
では,アナロジーはどんな構造をしているのか,その共通した仕組みをまずはっきりさせておかなくてはならない。前述したように,アナロジーの中身は,関係性と類似性であるから,その違いから,アナロジーと概括されるものを,以下のように2つにわけることができる。
・類似性に基づくアナロジーを,「類比」
・関係性に基づくアナロジーを,「類推」
既に類似性と関係性で触れたように,前者は,内容の異質なモノやコトの中に形式的な相似(形・性質など),全体的な類似を見つけだすのに対して,後者は,両者の間の関係(因果・部分全体など)を見つけ出す。関係性に基づくアナロジー=類推を整理すると,
・構成要素の関係性からの類推
・関係から見えてくる全体構造の類推
の2つのタイプがある(類似性に基づくアナロジー=類比は,後で触れるように,類推の特殊型なのである)。
第1は,典型的には,独立した2つの対象間の構成要素の対比によって,下図のように,既知のBの要素間(β1β2)の関係(b12)がわかっており,Tの要素(τ1)とBの要素(β1)とが対応し,BとTの要素間の関係(b12とt12)が対応しているとき,それとの類推から,Tにおいてもτ2があるに違いない,と推測していく。
この場合,要素の類推だけでなく,関係そのもの(b12,t12)の類推でもいいし,またこの場合,性質が1つであれば類比となる。この意味からみれば,類似性に基づく類比は,対比する両者の比較項目を1として括ったときに成立する,特殊なアナロジーなのである。
Β
T
さらに,関係性に基づくアナロジーの場合は,厳密に言えば,B→Tの全体同士,β1→τ1,β2→τ2,……βn→τnの要素間の1対1の対応関係と,Bとその構成要素β1,β2,……βn,Tとその構成要素τ1,τ2,……τnといった関係,とは異なる関係性をもっている。前者を,水平関係,後者を垂直関係,と呼ぶこともできる。例えば,原子と太陽系の比較で言えば,核と太陽,電子と惑星といった1対1の関係とは別に,原子構造→電子・核,太陽系→惑星・太陽の間には,全体・部分乃至因果関係を見ることができる。あるいは,次の例で言えば,
→水平関係 |
垂直関係↓ |
《人間》
|
《魚》 |
《鳥》 |
手 |
鰭 |
翼 |
肺 |
鰓 |
肺 |
毛 |
鱗 |
羽毛 |
出典;M.ヘッセ著『科学・モデル・アナロジー』(培風館)
と,対比した場合,水平関係(の1対1の関係)では類似性が見られ,垂直関係(の全体と構成要素の関係)では全体・部分の関係がみられる。当然,比べる両者の間に,水平関係の対応があれば,ある程度まで垂直関係が類推できることになる。
《類似性による空間の再構成》
《類推による世界の再構成》
出典;右図は,佐伯胖著『イメージ化による知識と学習』(東洋館出版社),左図は,ルーメルハート著『人間の情報処理』(サイエンス社)
また,ここでは2次元での関係の比較をしているが,これが3次元での関係あってもいいし,コトを考えるとき,時間経過を考えることも当然ありうるのである。
例えば,3次元空間に,部分集合の間の親疎を,距離をもとに位置づけて,各部分集合は「m次元の類似性空間内に,それぞれ一個の点として表現できる」とし,それらの関係は,座標の中に,それぞれの間の方向と距離で表現されるとしてみたり(ルーメルハート),「韓国の産業構造は,
数年前のわが国の産業構造である」といった類推や比喩表現を,「部分空間」との“ずれ”(平行とは限らない)によって形成された「空間」に,元の空間の関係を“転移"(置き換え)することで推測していくものとして,表現しようとする考え方(佐伯胖)等々がある(上図)。
いずれも,各要素間の関係を,座標軸上の距離(奥行や幅)や方向をもってプロットしようとするもので,上述したところに奥行の関係を加えただけで,基本的には同じである。
類似性は,内容の異質なモノやコトの中に形式的な相似(形・性質など),全体的な類似を見つけだすのに対して,関係性は,両者の間の関係(因果・部分全体など)を見つけ出すものであり。その関係性に基づくアナロジー=類推には,,
・構成要素の関係性からの類推
・関係から見えてくる全体構造の類推
の2つのタイプがあり,前者について,前回触れた。引き続き,後者について述べていくこととしたい。
第2は,その要素ではなく,独立しているBとTとの間の関係から,それを図とする地を類推することになる。一つは,両者の位置関係自体から,
両者が,包含関係だったり,全体・部分関係だったり,一部重なっていたり,という全体としての関係づけの発見であり,いまひとつは,
BとT自体が,両者を要素とする別の枠組の内部の組成関係である,という関係づけを見つけ出す場合である。これは,隠されているフレームを,両者間の構造から,類推していくことになる。この場合,BとTの内部の要素間の関係が,第一のような対応関係になっていることがあってもかまわない。こういう両者の関係は,対等とは限らず,例えば,BがTの部分(あるいはその逆)という関係であることも,当然ありうる。
アナロジーは,類似性→関係性へとより文脈化,構造化していく。これは,次のように,
類比 → 類推 → 推論
《類似性》 →《関係性》 →《論理性》
形
因果 法則性
外観 対立 帰納性
色
位置 演繹性
性質
順序 つじつま
構造
補完 原理
仕組み 配置 原則
組成 全体・部分 理論
配置 類・種
数学
と整理できるだろう。アナロジーは橋渡し役となって,推理という論理的な脈絡へとつなげていくことになるといってもいい。たとえば,
破線の部分は,全体としての□という形がわかれば容易になる。既知の□をアナロジーとすることで,破線の部分を補完するのは,ある意味では推理にほかならない。これが,関係性であっても同様だ。始めに類似性があり,続いて関係性のアナロジーが来るという順序は便宜的なものにすぎない。
メロディーを聞いたとき,われわれが,別に関係性(音符の関係)ではなく,ひと連なりのまとまった節として聞き取っているのと同様,いずれが先ということはない。しかし,いまここで問題にしているのは,組み合わせの《文脈》と《構造》をつかむことである。
その意味では,関係からアナロジーに気づくことも,形からアナロジーに気づくこともあるかもしれないが,前者のときには全体の輪郭を対比するためには全体の類似性を,後者のときには,構成,組成を比較するために関係性を,やはり洗い出さなくてはならない。
- アナロジーをモノで表わせばモデル,コトバで表わせば比喩
類似性を手掛かりに,鳥をアナロジーとすることによって,コウモリを理解しようとするとき,われわれがよくするのは,モデルをつくることだ。あるいは写真や図解もその一種だ。そして,それを言葉で表現しようとすると,「夜飛ぶ鳥,こうもり」といった比喩を使うことになる。
いわば,アナロジーによる発想は,われわれが自分たちの思い描いているものを,一種の〜,〜を例に取れば,〜というように,といった具体像で表そうとするときの方法であり,それは2つの方法で具体化することができる。
1つは,言語による表現である“比喩”(アナロジーのコトバ化)
もう1つは,モノ・コトによる表現である“モデル”(アナロジーのモノ・コト化)
である。
ただ,断っておけば,アナロジー→モデル・比喩という順序を固定的に考えているわけではない。アナロジー思考があるから,比喩やモデルが可能なのではない。確かに,関係にアナロジーの認知がなくては,それを喩えたりモデルとしたりすることはできないが,逆にAをBに喩えるから,その間に類似性を認識できることがあるし,モデル化することで,より類推が深化することもある。逆に類比が的確でなければ,比喩やモデルが間の抜けたものになることもある。
むしろ,3者は相互補完的であって,アナロジーの発見がモデル・比喩を研ぎ澄ましたものにするし,モデル・比喩の発見が新しい類比を形成することになる。
では,アナロジーの表現スタイルであるモデル・比喩はどんな関係をもっているのか。アナロジーの基本的な枠組はどうなっているのかを,以下整理しておきたい。
アナロジーによる発想は,われわれが自分たちの思い描いているものを,一種の〜,〜を例に取れば,〜というように,といった具体像で表そうとするときの方法であり,それは,
1つは,言語による表現である“比喩”(アナロジーのコトバ化)
もう1つは,モノ・コトによる表現である“モデル”(アナロジーのモノ・コト化)
という,2つの方法で具体化することができる,と述べた。以下,それぞれについて,具体的に詳細に考えてみたい。
アナロジーの流れが,類似→関係→論理であるように,その表現スタイルであるモデルにも,類似→関係→論理の段階がある。モデルの表現レベルに合わせて整理すると,
・スケール(比例尺)モデル
・アナログ(類推)モデル
・理論モデル
と,アナロジーの流れと,対応している。スケール(比例尺)モデルは,類似性であり,アナログ(類推)モデルは関係であり,理論モデルは論理性である。
スケール(比例尺)モデルは,実物モデル,いわゆる,木型(モック・アップ)と呼ばれる,材質や媒体は違うが原寸大のものから,プラモデルや船舶模型,微生物の拡大図,スローモーション撮影,社会過程のシミュレーション等の,現物の縮小・拡大したものまである。これは,大きすぎるもの,小さすぎるものを,われわれに見えやすいレベルに合わせることであり,それによって,いわばどう見えるか,どう働くか,どんな仕組みか,どんな法則で動くか,を“モノ化した類似性”として,つかみやすくできる。当然必ずしも現物そのままではなく,むしろ,その特性の一部との同一性を模倣するかたちになる(その意味では相似的)。木型は形のみを真似て材質や機構は捨てているし,縮小(拡大)模型は大きさを犠牲にして,働きや機構を真似る。
アナログ(類推)モデルは,対象となるモノ・コトの基本構造や仕組みを表現したり,それを理解しやすくするために,“喩え”として創り出すもの。この場合も,サイズや媒体は同一である必要はなく,その仕組みや構造,機能を表現するために,別の関係(構造)を見立てる。例えば,水素原子を太陽系に見立てたり,電気回路を水流に見立てたりする(下図)のが,科学ではよくみられるが,両者の関係性によってアナロジーが立てられ,《構造》を発見するのに最も適している。これは“モノ化した関係性”と呼ぶことができる。
《水素原子のモデル》 《電子回路と水流モデル》
[原子構造] [太陽系システム] [水流モデル] [電子回路]
原子核 太陽 単位時間に流れる水量 電流
電子 惑星 水圧 電圧
電子の公転 惑星の公転 細い管 抵抗
太い管 回線
出典;M.ヘッセ著『科学・モデル・アナロジー』(培風館),山梨正明著『比喩と理解』(東大出版会)
理論モデルは,やはり関係性のモノ化であるが,形あるものとして実在化するよりは,関係性の実体化として,数学的モデルと理論モデルの2つにわけられる。
前者はいうまでもなく,数式や論理式という記号化によって,関係性そのものの機能と構造を表現する。そのいい例が,市川亀久彌氏の等価変換理論の“等価方程式”である。
出典;市川亀久彌『創造性の科学』(日本放送出版協会)
V iという適当な観点によって,Aο,Bτという既知の事象が,共通項сεによって等式が成立する,あるいは,既知であるAοという事象にviという適当な観点を導入することによって,Σaを廃棄し,新たなΣbを加えることで,AοからBτへと等価変換したことを意味している。つまり,両者を同じもとの見なす(同定する)観点によって,異なる両者を等号で結びつけられる新しいパースペクティブが開けることを,表現したのである。
理論モデルは,仮説を単純化した図式で表現する概念モデル(例えば,時空の虫食い穴によるタイムマシンモデル,あるいは素粒子が点ではなく広がりをもつとする,下図の超ひも理論のヒモモデル)やもっとイメージ豊かに構想された仮想的モデル(例えば,今日のコンピュータの出発点となった,記号で作動する装置を想定したチューリング機械モデル)がある。
出典;F・D・ピート『超ひも理論入門上下』(講談社),松田・二間瀬『時間の本質』(講談社)
われわれに重要なのは,モデルは,情報ビジュアル化のもっていたと同様に,アナロジーをよりビジュアルにしているだけに,具体的イメージが描け,思考を展開していく「案内人」としては最適であり,これを枠組として,新しい見え方が探りやすいという点なのである。
比喩とは,ある対象を別の“何か”に喩えて表現することである。通常言葉の“あや”と言われる。その意味やイメージをそれによってずらしたり,広げたり,重層化させたりすることで,新しい“何か”を発見させることになる(あるいは新しい発見によってそう表現する)。これもアナロジーの構造と同様で,比喩には,直喩,隠喩,換喩,提喩といった種類があるが,直喩,隠喩が《類似性》の言語表現,換喩,提喩が《関係性》の言語表現となる。
1,直喩
直喩は,直接的に類似性を表現する。多くは,「〜のように」「みたいな」「まるで」「あたかも」「〜そっくり」「たとえば」「〜似ている」「〜と同じ」「〜と違わない」「〜そのもの」という言葉を伴う。従って,両者は直接的に対比され,類似性を示される。それによって,比較されたAとBは疑似的にイコールとされる。それは,
対比された両者が重ね合わせられることを意味する。ただし,全体としての類似と部分的な性格とか構造とか状態だけが重ね合わせられる場合もある。ただ,「コウモリは鳥に似ている」「昆虫の羽根は鳥の翼に似ている」等々,既知の類似性を基に「AとBが似ている」と比較しただけでは直喩にならない。「課長は岩みたいだ」「あの頭はやかんのようだ」といった,異質性の中に「特異点」を発見し,新たな「類似」が見い出されていなくてはならない。
2,隠喩
隠喩も,あるものを別の“何か”の類似性で喩えて表現するものだが,直喩と異なり,媒介する「ようだ」といった指標をもたない(そこで,直喩の明喩に対して,隠喩を暗喩と呼ぶ)。したがって,対比するAとBは,直喩のように,類比されるだけではなく,対立する二項は,別の全体の関係の中に包括される,と考えられる。AとBの類似性を並べるとき,
@ A
B
出典;佐藤信夫『レトリックの消息』(白水社)
@のようにAとBが重なる直喩と同じものもある(「雪のような肌」と「雪の肌」)が,Aとなると,先に挙げたハーヴェイの「心臓のポンプ」を想定すればいい,このとき「心臓」と「ポンプ」は両者を包括する枠組のなかにある。Bは,一般的な隠喩であり,「獅子王」とか「狐のこころ」といったとき対比する一部の特徴を取り出して表現している。
この隠喩は,日本的には,「見立て」(あるいは(〜として見なす)と言うことができる。こうすることで,ある意味を別の言葉で表現するという隠喩の構造は,単なる言語の意味表現の技術(レトリック)だけでなく,広くわれわれのモノを見る姿勢として,「ある現実を別の現実を通して見る見方」(ラマニシャイン)とみることができる。それは,AとBという別々のものの中に対立を包含する別の視点をもつことと見なすことができる。これが,アナロジーをどう使うかのヒントでもある。即ち,何か別のモノ・コトをもってくることは,問題としている対象(われわれにとっては,グループ化した情報群)を“新たな構成”から見る視点を手に入れることになる。
3,換喩と提喩
換喩と提喩は,あるものを表現するのに,別のものをもってするという点では共通しているが,直喩,隠喩とは異なり,その表現が両者の“関係”を表している(“言葉による関係性”の表現)という共通した性格をもっている。両者の表現する《関係性》は,換喩が表現する《関係性》が,空間的な隣接性・近接性,共存性,時間的な前後関係,因果関係等の距離関係(文脈)であり,提喩が表現する《関係性》が,全体と部分,類と種の包含(クラス)関係(構造)となっているが,この違いは,換喩で一括できるほどの微妙な違いでしかない。
換喩の表す関係は,「王冠」で「王様」,「丼」で丼もの,詰め襟で学生,白バイで交通警察,「黒」「白」で囲碁の対局者,ピカソでピカソの作品等々に代置して,相手との関係を表現することができる。そうした関係を挙げると,
・容器−中身
・材料−製品
・目的−手段
・主体−付属物
・作者−作品
・メーカー−製品
・原料−製品
・産地−産物
・体の部分−感情
等々,がある。いわば,その特徴は,類縁や近接性によって,代理,代用,代置をする,それが表現として《関係》を表すことになる。
一方,提喩となると,その代置関係が,「青い目」で外人,白髪で老人,花で桜,大師で弘法大師,太閤で秀吉,といった代表性が強まる。この関係としては,
・部分と全体
・種と類
・集団−成員
等がある。ただ注意すべきは,全体部分といったとき,
木→幹,枝,葉,根……
木→ポプラ,桜,柏,柳,松,杉……
では,前者は分解であり,後者はクラス(分類)を意味している。前者は換喩,後者が提喩になる。
4,比喩による推論
この《関係性》表現が,われわれに意味があるのは,こうした部分や関連のある一部によって,全体を推測したり,関連のあるものとの間で《文脈》や《構造》を推測したりすることである。対象となっているものとの類縁関係やその包含関係によって,その枠組を推定したり逆に構成部分を予測したりすることで,われわれは,隣接するものとの関係や欠けているものの輪郭や全体像の修復や補完をすることができるのである。これは,すでに推理にほかならない。
こうした比喩の構造をまとめてみれば,
[類似性] [関係性] [推論]
《直喩・隠喩》→《換喩・提喩》→《推理》
となるだろう。われわれは,“まとまり"としての類似性をきっかけに,似た問題を探すことができる。そして更にその中の《文脈》と《構造》の対比を通して,未知のものを既知の枠組の中で整理することができる。しかし,最も重要なことは,ひとつの見方にこだわるのを,比喩を通した発見によって,全く別の《文脈》と《構造》を見つけ出せるという,いわば見え方の転換にあるといっていいのである。
“新しい構成発見”の手掛かりとして,以上のアナロジー・モデル・比喩をどう活用するかを考えるためには,この3者の,補完関係を整理しておかなくてはならない。
[類似性] → [関係性]→[論理性]
直喩・隠喩→換喩・提喩→推理 (比喩)
類比→ 類推
→推論 (アナロジー)
スケールモデル →類推モデル →理論モデル
(モデル)
アナロジー・モデル・比喩の関係を,誤解を恐れず,簡略化すれば,上のようになる。「〜として見る」がアナロジーであるなら,それを比喩的に言えば,“意味的仮託”あるいは“意味の置き換え”であり,“価値的仮託”あるいは“価値の置き換え”である。モデル的に言えば,“イメージ的仮託”あるいは“イメージの置き換え”であり,“形態的(立体的)仮託”あるいは“形態の置き換え”である。仮託あるいは置き換えること(仮にそれにことよせる,という意味では,代理や代置でもある)で,ある“ずれ”や“飛躍”が生ずる。だから,それを通すことによって,別の見え方を発見しやすくなるということなのだ。なぜなら,前述したように,われわれの意味的ネットワークの底には,無意識のネットワークがあり,意味や知識で分類された整理をはみ出した見え方を誘い出すには,このずれが大きいほどいいのだ。
われわれが,アナロジーを使うのは,自分たちがテーマをもっていて,それをよりうまく表現するためでも,言いたいことをモデルによって新しい関係の中で表現してより的確に伝えるためでもない。大事なことは,われわれは,自分たちの関係づけた情報群に《意味》と《構図》を発見したいのだ。つまり「それがもっているはずの(隠れた)テーマ」を見つけたいのだ。そのために,アナロジーを下絵や隠し絵,あるいは手本にして,それをトレースすることで,隠されていたものを炙り出したいのだ,ということを忘れてはならない。
創造性のステップで言われる“あたため”というものがあるとすれば,この“下絵”の発見のための時間にほかならない。どういう下絵が,新しい見え方をもたらすのか,「そうか,そういう見方をすればいいのか」と気づく発見的認識をもたらす隠し絵を,アナロジーを使って見つけ出さなくてはならない。そのための時間が必要なのだ(アナロジーを通してモノを見ることを図
式化したのが,別図である)。
アナロジーを通じて(媒介にして)別の見え方をつかむという意味では,その媒介が言葉なら別の意味に,モデルなら別のモノ・コト(空間表現)に,似ていれば類似性が,つながれば関係性が,それぞれ見つかるはずである。では,そうしたアナロジーを見つけ出すにはどうしたらいいのか。
その鍵については,前述した通り,ゴードンが幾つかを,類比タイプを分類している。それをもう少し整理し直すと,考え方として,2つになる。
第1は,アナロジー(あるいは比喩表現,モデル表現)着眼点の整理である。どういう視点に立てば(どんな見方をすれば)どんなアナロジーが見えやすい(どんなアナロジーとなる)か,われわれの視点(見方)別にリストアップしておくアプローチである。ゴードンの挙げた擬人的類比,空想的類比はここに含まれる(アナロジーの見方チェックリスト参照)。
第2は,見えているものから想定できる(炙り出せる)アナロジーの基本パターンをチェックリスト化することである。それは,アナロジーの類似性,関係性の構図をできるかぎりリストアップし,それと対比することで,強制的にこちらの目にスクリーンをかけ,アナロジーを発見しやすくしようとするものである(アナロジーのパターンとなる,かくかくの見え方はないか等々)。これによって,見えているものの背後に隠されているアナロジー可能態を次々洗ってみることができる。ゴードンの挙げた直接的類比,象徴的類比は,ありうるアナロジーの構図(パターン)の1つと考えることができる(アナロジーの見え方チェックリスト参照)。
ここまでに,共通性の発見→グループ化→共通性の発見……によって,より上位グループ化し,アナロジーを通して,そのグループ間の関係づけをつかみ,最終的にグループ群の構造を把握し,アナロジーという眼鏡によって,新しい見え方が展け,新しい構成を造形することを可能にすることを述べてきた。新しい構造がつかめることで,情報の編集作業は最終段階になる。
例えば,Aを,Bというアナロジーとして見ることで,新たに見えてくる(分かる)コト(X)には,2つのタイプがあるはずである。
即ち,第1は,類似性として見えてくるものには,次のようなものがある。
A(の要素関係)は,B(の要素関係)を通して,Xの形に見える。
A(の要素関係)は,B(の要素関係)を引き合いに出すことで,Xの機能に見える。
A(の要素関係)は,B(の要素関係)として見ることで,Xの構造が見える。
A(の要素関係)は,B(の要素関係)をスクリーンとすることで,Xの大きさを推定できる。
A(の要素関係)は,B(の要素関係)をトレースすることで,Xの組成を推定できる,等々。
そして第2は,関係性として見えてくるものには,次のようなものがある。
A(の要素関係)は,B(の要素関係)を通して,Xの(要素)関係が見える。
A(の要素関係)は,B(の要素関係)を通して,Xの全体像(フレーム)が見える。
A(の要素関係)は,B(の要素関係)をなぞることで,Xの包含(全体・部分)関係が見える。
A(の要素関係)は,B(の要素関係)を写すことで,相互(因果・序列)関係が見える。
A(の要素関係)は,B(の要素関係)を通して,隠れて(欠けて)いた関係が見える。
A(の要素関係)は,B(の要素関係)を通して,全体の枠組を補修することができる,等々。
われわれは,自分の知っているものを通して(なぞって)しか,未知のものを理解できない。例えば,「コウモリ」が未知とすれば,既知の鳥を通して,推し量るしかないのである。そこで,鳥の構造,器官,機能を通して,コウモリのそれを推測していく,これがアナロジーである。この異同を通して,単独でコウモリを見ていたのとは違う見え方を手に入れる。ボーアが太陽系のアナロジーによって原子構造に新しい見方を示した(これはモデル)ことや,田中角栄を太閤秀吉に見立てることで彼の何かがよく見えてくること(これは比喩)も,同じくアナロジー「を通す」ことによって見えたことなのである。
仮に,そこで新しい組み合わせが見えたとすれば,それを新しい構成についての仮説として,細部の組み合わせが説明できるかどうかを,演繹していけばいいのである(もし〜と同じ組成で見たらどうか,同じ構造として見たらどう見えてくるか,等々)。それが情報の新しい見え方(解釈)を可能とするとき,アナロジーは,新しい意味と背景を見る,偏光レンズのような役割を果したのである。
アナロジーによって,新しいパースペクティブが見えてくる例は,科学的発見には枚挙しきれないほどあるが,例えば,地球が回っているとしたコペルニクスによって,宇宙の見え方が変わったように,17世紀に心臓をポンプと見立てたW.ハーヴェイによって,機械に喩えられる心臓が発見されている。それまで,静脈弁も発見されていたのに,「静脈は心臓へ向かってのみ流れ,動脈は心臓から出てゆく方向でのみ流れる」ことが見えなかった。ちょうど,宇宙の見方をアリストテレス以来の宇宙像でしか見なかったように(ハーヴェイ『動物の心臓ならびに血液の運動に関する解剖学的研究』岩波文庫)。
ではなぜ,ハーヴェイには,その搏動によって血液循環をさせる心臓が見えたのか。なぜ機械に喩えられる心臓の機能と構造が見えたのか。それは,毎日の無数の解剖によって得た情報の見え方を,その時代の知識の文脈による区分や分類で整理するのではなく,その見え方自身によって,新しく括り直そうとしたところにあった。
無数の生物,心臓をもたないミミズ,カイメンから心臓をもつカタツムリ,貝,ザリガニ,蛙,魚,哺乳類,鳥に至るまで心臓を解剖し,観察し続けて,動脈を切断すれば「半時間以内に全血量が全身」から出てしまうこと,あるいは動脈を心臓近くで「結紮する」と動脈が空になること,こうして「まずはじめに心房が収縮し,その収縮の間に血液が心室へと送り出される」「心室は充満し,心室は収縮して搏動し,血液を動脈に送り出す」と集約し,この心臓の働きが,「他の器官に先んじて発現」し,動物を1つの全体として作り上げる「一種の機械である」と見たのだ。“ポンプ”という言葉を使わないまでも,「収縮によって血液を動脈の中に押し出し」て循環させる心臓の働きを見たとき,比喩としてのポンプを見ているのである(ラマニシャイン)。それによって,その機能と構造に新しい見え方が生まれてくる。
こうしてつかまえた仮説を通して,どういう見え方ができ,新しい構成のし直しができるかを, 繰り返し検証しなくてはならない。そうやって,部分集合間の新しい関係づけを創り出すことによって,最終的に新しいシステムを形成することになる(これを図にしてみると,別図のようになる)。
情報を括り直してアイデアを創り出すのに,アナロジーを媒体にしている,構成し直し型の創造性技法の代表的なものとしては,
・アナロジーによる発想の拡散→収束をシステマティックに体系化していくプロセスをモデル化した,NM法
・一見関係ないものを類比によって結びつけていく,類比的発想モデルの代表的なものとして, シネクティクス
が挙げられる。この他,一般にはブレストの変形や発散型に分類されるものに,
・構成要素に分解し,その要素別のコンポーネント(構成要因)を洗い出し,要素間にコンポーネントの最適組み合わせを図っていく,形態分析法
・欠点(希望点)を改善のアイデア集約の鍵としてまとめていくものとして,欠点(希望点)列挙法
・属性(機能・形態・素材,あるいは機能区分)に分解して,それぞれごとに改革・改善・変更のアイデアをまとめていく,属性列挙法
がある。ただ,最終的なアイデア集約を,単に現状の枠組の範囲内ですます(改善)か,それとも枠組そのものを壊すようなものにしていくかを左右するのは,既知の枠の中でまとめるか,それを別にアナロジー等でずらしていくかにある。その点で言えば,後者の3技法は,こういうものだと先入観をもって取り組まないほうがいいだろう。
それに対して,シネクティクスとNM法は,アナロジーを使っている点が,特色である。シネクティクスは,ゴードンの開発した技法であり,この「シネクティクス」は,ギリシャ語の「無関係な要因を1つの意味あるものに統合する」という意味で,その触媒としてアナロジーを活用しようというものである。NM法はこのシネクティクスをヒントに開発された技法である。このいずれもが,誤解を恐れずに言えば,KJ法等によって情報を括り直していくプロセスの先に,そのまま論理的あるいは常識的に共通項を括ったのでは,「異質な組み合わせ」になりにくいので,アナロジーという別の枠組を下敷にすることで,特異な組み合わせを探り,アイデアを発想しようとする。そのアナロジーの使い方の違いでいろいろな技法がありうるということになる。
例えば,NM法をよりわかりやすいステップにしたNM−T法では,@課題設定→Aキイワード設定→Bアナロジー発想(キイワードから見立てられるアナロジーへと転化する)→Cアナロジーのバックグラウンドの洗い出し(アナロジーのイメージを媒介に構造や形態などをビジュアルに表現する)→Dアイデアの集約(そのビジュアルなイメージを仲介として課題解決のアイデアを洗い出す)→E解決策(アイデアの分類整理),といったステップをとる。確かに,一見すると,Bのステップでのアナロジー発想が中核のように見えるが,実は,発想プロセス全体で見れば,一番重要なのは,最後に個々のアイデアをどう組み合わせるかであり,その青写真としてどうアナロジーを使うかなのである。
問題は,どちらのアナロジーを重視するにしろ,アナロジーはどうすれば発想できるのか,ただの類比と類推と推理とはどう違うのか,あるいはモデルと比喩とはどう違うのか等々については,どの技法もあまり深入りしていないため,ほとんど前述したゴードンのアナロジー分類やその考え方を踏襲しているようなのである。しかし,そのシネクティクスの場合は,グループ討議でこうやって出てくるアナロジーを使えばいいと例示してはいるが,それ以上にそのアナロジーがどうすれば発想できるかまでは踏み込んでいない。そのため,アナロジーを展開するためには個々の経験的なひらめきに頼るしかない部分が残るのが,難点なのである。
確かにアナロジーは,アイデア着眼や連想の手段として活用するだけならともかく,最適組み合わせの青写真として活用するためには,発想全体の中でアナロジーの位置づけをより明確にし,どういうプロセスがアナロジー発見をもたらすのかをはっきりさせておかないと,アナロジーは単なる発想転換の技術程度の受け止め方しかされなくなってしまう。アナロジーは,最終的な発想の構造と文脈を決定する,発想の要なのに,である。
アナロジーについては,ここを御覧下さい。
アナロジーの見つけ方については,ここをご覧下さい。
アナロジーの見方チェックリスト,アナロジーの見え方チェックリスト参照下さい。