伸びしろは,
伸び代
と書く。「代」は,
くいの形を描いた象形文字,弋(よく)に人を加えたもの,
で,
同じポストに入るべき者が互いに違いに入れ替わること,
という意味になる。そのせいか,
代々(だいだい)
とか
代々(よよ)
といったり,
世代
交代
代理
という使い方をする。「しろ」という意味の使い方は,本来の漢字の字義にはない,わが国のみに通用する「訓義」という。しかし,「代(しろ)」を見ると,
その物の代わりとして償う金銭や物品,「代金」「代価」
というほかに,
何かのために取っておく部分,糊代,縫代,
田または他の一区画,田代,
田地の丈量単位(稲一束を収穫する免責を一代)
とある。僕の持っている『広辞苑』には,
伸びしろ
は出ていない(最新版には載っているらしい)が,その意味は,
@金属などが折り曲げられる際に発生する伸び。また,その長さ。
A転じて,組織や人間が発展・成長してゆく可能性の大きさをいう。
とあって,「伸び代」とあてるらしい。そこから敷衍したのだろうが,
「伸び代の『代(しろ)』は,のり代,縫い代などと同様に,ある用途や作業のための余分に取ってある部分のことをいう。そこから『伸び代』とは,新しい会社や若い人について,発展したり成長したりする余地,可能性を意味している。」
という説明がなされるものがある。しかし,それはおかしい。糊代も,縫代も,あらかじめ予想された余裕,というかハンドルのアソビのようなもので,それも織り込み済みなのであって,
「伸びる余地」
という意味に使うのは,意味が違うのではないか。では,上記の,
「金属などが折り曲げられる際に発生する伸び。また,その長さ。」
は,どうなのか。調べると,
「金属加工では,金属を曲げ加工しました時,局部的に金属が延びます。これを一般的に伸び代,ひき代,曲げ代(いろいろな呼び名があります)と言います。」
という使われ方で,こちらの方が,
「伸び代」
の本来の意味に近いに違いない,という気がしてくる。で,調べると,
「材料としての金属は、曲げやプレスなど力を与えて変形させる加工をした場合に伸びるという性質がある。そのため加工前の材料を切り出す際に、後々の伸びを考慮して若干小さいサイズを用意するということが行われる。その「伸びを考慮する」ことを『伸び代を〜』と表現したようである。
しかし、どういう加工の際に伸びがどれほどかの見極めは経験に負うところが多く、『伸び代が云々』が業界の外の人には正確に伝わっていなかったようである。そのため、『何かすると伸びて余分が』ぐらいのキーワードが変形し、現在の『伸びるために必要な余分』という意味になってしまったらしい。」(http://muzinagiku.exblog.jp/17707635/)
とあって,ようやく納得がいく。本来,「期待値」という意味ではなく,どう伸び代を読んでサイズを用意するか,という作業員のノウハウにわたる部分だったのだろう。
本来は,たとえば,こんなふうに使われている。
「曲げ加工後の曲げ角にはR形状が形成され,その結果,材料に伸びが発生します。曲げ加工前の展開長から曲げ加工後の仕上がり寸法A,Bを引いた値を「両伸び」といい,その両伸びの1/2の値を片伸びといいます。伸びしろは,材料属性(板厚・材料定数など),金型属性(ダイV
幅・ダイ肩R・パンチ先端R),加工属性(ボトミング・コイニング)に影響を受けます。」
で,ここから言うと,「伸び代」というのは,
将来性とかポテンシャル
という意味ではなく,
「あると嬉しいもの」ではなく,「あることを読む必要のある職人的な勘が求められ,要求されるもの」
なのである。当然,類語として挙げられる(ネットでも類語として挙げられていた),
期待値,成長の余地,潜在能力,隠れた能力,
等々という意味を本来持っていたものではないのである。
むしろ,その意味で言うなら,注目したいのは,医学の現場で使われているらしい,
予備能
という言葉である。これは,
脳や臓器の機能の予備能力,
を指すらしい。手術などに耐えられるかとか,部分切除した残りの臓器が機能を果たせるか,といった意味で使われ,こちらのほうが,ポテンシャルの意味で使われる,「伸びしろ」に近いのかもしれない。
では,伸びしろに,「代」を当てるのはどうかというと,「代」が,
何かのためのあらかじめとっておく,
という意味からすると,金属の延びる部分をあらかじめ読んでおく,という意味での,
伸び代
なら,それでいいが,
伸びる余地
とか
ポテンシャル
の意味では,
「何かのために取っておく部分」としての糊代の意味とも,縫代の意味ともフィットしないのだから,
「代」
の字を当てては,的外れになるのではないか。不遜ながら,では,「しろ」に当てられる字は,というと,
「素」
「白」
の字がある。
素
とは,「しろ」であり「もと」であり,「はじめ」である。意味としては,
撚糸にする前の基の繊維,蚕から引き出した絹の原糸
とか,
模様や染色を加えない生地のままの,白い布
等々,下地とか地のままとか生地とか元素といった意味合いが強い。このことは,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/401709935.html
で触れたが,『論語』の,
絵の事は素(しろ)きを後にす,
でいう「素」である。これは,古注では,
絵とは文(あや),つまり模様を刺繍することで,すべて五彩の色糸をぬいとりした最後にその色の境に白糸で縁取ると,五彩の模様がはっきりと浮き出す,
と解すると,貝塚茂樹注にはある。しかし新注では,
絵の事は素(しろ)より後にす,
と読み,絵は白い素地の上に様々の絵の具で彩色する,そのように人間生活も生来の美質の上に礼等の教養を加えることによって完成する,と解するらしい。
どちらも,「白」に通ずる。白は,
どんぐりの形状を描いた象形文字。下の部分は実の台座,上半は,その実。柏科の木の実の白い中味を示す,
という。その意味では,
なにもない
という意味,
何色にもそまっていない,
という意味の「白」からすると,
伸び代
より,
伸び白
と書きたい気がしてならない。で,ときどき勝手に,そう当て字しているのだが。
参考文献;藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社),貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
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「創造の始まりは自己が解くべき問題を発見することであって,何かの答を発見することではない」
とは清水博氏の,いつも引く言葉だが,「問」の,
門は二枚の扉を閉じて中を隠す姿を描いた象形文字
という。そこから,
隠してわからない,
という意や
わからないところを知る出入りする入口,
という意を含む,という。「問」は,
口+門
で,
わからないことを口で探り出す
という意味になる。「神意を尋ねる」という意味も含むようだ。「とふ」は,
「問+フ」
で,訪問した家の戸口に立って,人の安否を尋ねる意。その意味で,「訪う」とほぼ重なる。
「訪」の「方」は,
両側に柄の張り出たすきを描いた象形文字。左右に貼りだす意。「言+方」で,右に左にたずね歩きまわる意。
判らないことを尋ねまわる,ということと,問うこととは,ほぼ重なるようだ。
しかしここでは,「当たり前としていることを」改めて問うという意味で考えたい。清水氏は,こうも言っている。
「自分が解くべき問題を自己が発見するとはどういうことでしょうか。それは,『これまで(自己のいる場所で)その見方をすることにおおきな意義があることを誰も気づいていなかったところに,初めて意義を発見する』ということです。」
と。これを情報の視点から見れば,グレゴリー・ベイトソンの言う,
「情報の1ビットとは,(受け手にとって)一個の差異(ちがい)を生む差異である(のちの出来事に違いを生むあらゆる違い)。そうした差異が回路内を次々と変換しながら伝わっていくもの,それが観念(アイデア)の基本形である。情報とは,(付け加えるなにかではなく)選択肢のあるものを排除するなにかである。」
平坦な地にわずかな図を見つけること,と言っていい。それは,別の視界がひられることにほかならない。
思うのだが,騙されないためには,
なぜ,それはなぜ,それはなぜ,
と,ある点に焦点を合わせて,三回なぜと問うといいらしいが,それは,自分が,ついつい当たり前と思ってしまうことについて,強制的に,というか,機械的に,
なぜを三回繰り返す,
あるいは,
何があったのか(起こったのか)
どうしてそうなったのか
と問いかけてもいいが,そう問いかけることで,答えがあってもなくても,その答えを,自分の中で想定する,というように,人間の脳はなっているらしいのである。
もちろん,主体的に問いが生まれるにこしたことはないが,仮に主体的に問いがない場合,機械的でも問いを出した方がいいと思うのは,たとえば,
なぜ,
と問うことで,平坦で,何の疑問の漣もない景色に,「なぜ」と問うた瞬間に,理由か,目的か,意味か,を探す目になる。当たり前にしか見えなかった視界を見る見方が変わり,それが見え方を変える効果がある,と思うからである。
情報でも書いたが,情報には,
「コード情報」と「モード情報」
がある。言い換えると,情報は,本来は,ことば(数値も含めたコード情報)と状況・文脈(ニュアンスのあるモード情報)がセットになっているはずである。言語化されるには,その人が受けとめた場面や出来事を意味に置き換えなくては言語化されない。つまり,それが丸めるということである。丸められることで,コード情報が本来持っていた文脈,つまりモード情報から切られ,情報は自己完結する。
しかし,その言語を受けとめたものは,その人の記憶(リソース)に基づいて受けとめる。あるいは理解する。その意味の背後に,その人のエピソード記憶や手続き記憶に基づいてイメージを描く。つまり,受け手なりにモード情報と紐づけなくては理解できないからだ。情報を,
・時間的(いつ)
・空間的(どこ)
・主体的(誰)
に紐づけなくては,(コード)情報の自己完結した意味に引きずられる,ということになる。その情報を読むということは,その意味の筋をたどって意味として納得するのではなく,“そのとき”,“そこ”に限定し直すということが,いわゆる腑に落ちるということなのだと思う。本来情報は文脈依存だからである。しかし,情報は,それが持つ文脈から切り離され,コードだけで提示される。読むとは,そのカットされた文脈を想定することでなくてはならない。それが紐づけである。
逆に言うと,その紐づけの仕方のひとつが,疑問なのである。疑問は,その人の知識・経験から考えて,
そうならないはずなのにそうなっているのはなぜか,
という問いかけなのだ。人のもつリソースは,記憶である。記憶には,
・意味記憶(知っている Knowには,Knowing
ThatとKnowing
Howがある)
・エピソード記憶(覚えている
rememberは,いつ,どこでが記憶された個人的経験)
・手続き記憶(できる
skillは,認知的なもの,感覚・運動的なもの,生活上の慣習等々の処理プロセスの記憶)
がある,とされている。もちろん,この他,記憶には感覚記憶,無意識的記憶,短期記憶,ワーキングメモリー等々があるが,なかでもその人の独自性を示すのは,エピソード記憶であると思う。これは自伝的記憶と重なるが,その人の生きてきた軌跡そのものである。意味レベルでは,誰が言っても同じだが,その言っている言葉の背後にある景色は,人によって違う。疑問は,意味レベルの疑問でなければ,その人の体験に基づく,エピソード記憶からくる。
その記憶のもつ,モード情報とつなげて,異和感を感じているのである。
問いのない読みは,「情報」の意味に絡み取られて,発信者に籠絡されることである。
横井小楠が,
学の義如何,我が心上に就いて理解すべし。朱註に委細備われとも其の註によりて理解すればすなわち,朱子の奴隷にして,学の真意を知らず。
というのは,その意味でもある。
参考文献;藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社),清水博『生命知としての場の論理』(中公新書),グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学』(思索社),金子郁容『ネットワーキングへの招待』(中公新書)
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-
スピリチュアルとは,自分は何のためにここにいるかを考える思考
(日本語で)スピリチュアルというと,どうも,スピリチュアリティ(spirituality,霊性)と同じ意味で,
「霊魂や神などの超自然的存在との見えないつながりを信じる,または感じることに基づく,思想や実践の総称」
という意味に使われがちである。しかし,平木典子先生は,こう言われたのである。
「最近,カウンセリングにおいて,スピリチュアリティ(Spirituality)という言葉を導入するようになった」
と。あるいは,強く意識する,というニュアンスだったが,それに強い印象を受けた。それは,そもそもカウンセリングという言葉の発祥にかかわる。カウンセリングという言葉は,パーソンズが,
「Vocational guidance」
のなかで使ったのが嚆矢なのだが,これが従来「職業指導」と訳されてきた。そう訳されてしまうと,そもそもパーソンズが,vocationalという言葉を使った意図が消えてしまうらしいのである。ここには,単に職を見つける,就職ガイダンスではなく,
天職
というニュアンスがあり,
個人と仕事のマッチング
というときに,アセスメントを総合して個人と仕事の適合をはかる場合の「仕事」には,callで言うのと同じ,天職というニュアンスがあり,天職とのマッチングなのである。で,カウンセリングで,スピリチュアルが重視されるようになったのは,スピリチュアリティの,その本来の意味,
「何のために生きているか,を考えようとする頭の働き」(平木典子)
が,カウンセリングにおいても重要だという再認識にある。言い換えれば,生きていることの,
意味,
や
目的,
を考えるということである。生きている意味,あるいは,
何をするためにそこにいるのか,
である。あるいは,価値でも,使命でも,天命でも,役割でもいい。V・E・フランクルは,それを問い続けていた。
人生が何を自分にしてくれるか,ではなく,自分が人生にどう応えるかだ,
といい,人間が実現できる価値は
創造価値,体験価値,態度価値,
だと提唱した。
創造価値とは,人間が行動したり何かを作ったりすることで実現される価値である。仕事をしたり,芸術作品を創作したりすることがこれに当たる。
体験価値とは,人間が何かを体験することで実現される価値である。芸術を鑑賞したり,自然の美しさを体験したり,あるいは人を愛したりすることでこの価値は実現される。
態度価値とは,人間が運命を受け止める態度によって実現される価値である。
フランクルの,『夜と霧』を読むと,最後まで生き残るのは,
自分が生きる意味,
を意識している人々であった。僕は,最初に旧版で読んだとき,それを「クリエイティブであること」と受け止めていたが,あながち的外れではなかった気がしている。フランクルは,
「なぜ生きるかを知っている者は,どのように生きることにも耐えられる」
と,そして必要なのは,
「生きる意味についての問いを百八十度転換することだ。わたしたちが生きていることから何を期待するかではなく,むしろ,ひたすらいきることがわたしたちから何を期待しているかが問題なのだ,」
と。それは,
何をするために自分はいるのか,
何をするために自分は生きているのか,
を意識しているということでもある。それを考えることこそが,
スピリチュアリティ
であるということだ。それを,
旗を立てる,
という言い方をしている。自分の仕事に,自分の人生に,
何をするためにそこにいるのか,
という問い自体を立てる,と言い換えてもいい。
それは,
自分が生きやすければそれでいい,
ではなく,自分ができることが,(たった独りであろうと)誰かのためになる,その意味なのに違いない(『不思議の国のアリス』はルイス・キャロルが三人の少女のために書いたと言われる)。それが,マズローの言う,自己実現の意味のはずである。それは,
天
であり
天命
である。何度も書いたが,天には,三つの意味があり,一つは,天の与えた使命,
五十にして天命を知る
である。いまひとつは,天寿と言う場合のように,「死生命有」の寿命である。
そして,いまひとつ,
姑(しばら)く是非の心を置け,心虚なれば即ち天を見る(横井小楠)
で言う天は,「天理」だ(もう一つ加えるとすると「天道」か)。
だから,人事を尽くして天命をまつは,神田橋條治流に,
天命を信じて人事を尽くす,
清澤満之は,それを,
天命を安んじて人事尽くす,
と言った。結局そこに行き着く。
参考文献;
ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』(みすず書房)
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ニッチ時間,つまり隙間時間のことだ。
隙間時間の使い方の上手い人は,並行処理のうまい人だと思う。
シーケンシャル処理の人は,ひとつコトが終わらないと,次の案件処理に行かない。それだとすごく能率が悪い。ひょっとすると,単なる段取りの力というか,頭の中の設計プランの問題なのかもしれないが,頭の中で,並行処理する案件を想定しながら,案件ごとではなく,案件の中の具体的な作業レベルで,処理を設計しているかどうかの問題のような気がする。
WBS(Work Breakdown
Structure)というのがあるが,そこまで厳密ではないが,頭の中で,案件のおおよその仕事のプロセスを作業段階に分解する。そうすると,一緒にできるものがある。
ただ,各案件の,ちょうどPERT (Program Evaluation and Review Technique
)で言う,クリティカルパスのようなものは,別扱いをせざるを得ない。段取りながら,それをあぶりだすという方がいい。
よく段取り8分,
という言い方をするが,前もっての作業をプランするとか,作業設計をするというのとは,ちょっと違うのだ,と僕は思っている。クリティカルパスをあぶりだすというのは,そこが,その人が,難所ということでもある。だとすれば,本来のクリティカルパスの意味とはまったく違う使い方かもしれないが,それに先に取りかからなくてはならない。順逆が,ひっくり返っても,そういう作業想定をする,ということが,段取りの意味だと思っている。
問題解決の鍵は,
誰を(どのレベル)を動かさくては解決できない問題か,
ということが見きわめられることだ,と僕は思っているが,それとよく似ている。問題解決案をロジカルと言うか,ロジカル・シンキングで創作しても,現実は動かない。
おれは聞いていない,
の一言で,いっさいが潰えることがある。問題解決がロジカル・シンキングなどと言っているうちは,自分の裁量範囲内の問題しか解決したことのない人か,よほどの僥倖に恵まれた人だ。
ここでの問題の瀬踏みと言うか,目利きも,
段取りに通じる。
「情報化社会とは,重工業を中心とした世界からコンピュータを中心とした情報通信機器によるネットワーク化した社会」と言う言い方をすることがあるが,いまの話が,工業が情報によってあらたな結び付きの中に入るというのに似ていると言うと,大袈裟か。
工業化,つまり機械化は,
□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□
という線形の工程で表現できる。その各工程ABCは,高度化しても,
A□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□
B□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□
C□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□
と,各工程は短縮できても,A+B+C…の総和にしかならない。しかし,情報化では,
┌A□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□
X┼B□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□
└C□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□
1コンピュータシステムXにおいて,ABCの工程を同時処理することができる(もちろんフレキシブルに工程を組み合わせられる)。それは,更に集積すれば,いくつものXをZによって,いくつものZを,Yがというように,同時処理の集積度は高っていく。
大袈裟な例だが,段取りができるというのは,こういうことだ。まあ,要は,メタ化ということだ,とも言える。
だから,細切れの仕事を,案件のシーケンシャルなフローとは別立てて,処理できる。
僕は,よくそういうのを,デスク脇に,ポストイットで貼っていた。
この細かな,とは限らないが,ニッチな案件処理,そういう未決案件示す,ポストイットを片づけて一掃するのが,けっこう楽しみであった。あんまり,思考しなくてもいい(だけとは言えないが)のが,一種の息抜きであった。
そのせいかもしれないが,ニッチ時間の処理のうまい人は,仕事の並行処理が出来る人だ,と思っている。それは,しかし,仕事が効率的かどうか,スピーディかどうかとは,必ずしもイコールではないように思う。
参考文献;吉本隆明『ハイ・イメージ論T』(福武書店)
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- ノウハウは,Knowing
howだが,Knowing that化されなければ,知にならない
何かを学んだとき,うろ覚えたが,確か,8時間後には,その,
1/2〜1/3
を忘れる,と言われる。たしか,エビングハウスの忘却曲線というやつだ,調べ直すと,
「20分後には42%を忘却し,58%を保持していた。
1時間後には56%を忘却し,44%を保持していた。
1日後には74%を忘却し,26%を保持していた。
1週間後(7日間後)には77%を忘却し,23%を保持していた。
1ヶ月後(30日間後)には79%を忘却し,21%を保持していた。」
とある。聞いたり,体験したりする直後から忘れていく,というらしい。しかし,僕は,これをあまり信じていない。忘れているのではなく,脳のなかに貯蔵された記憶とアクセスがしにくくなる,ということだと思っている。まあ,俗説に,死の直前,
一生分が,フィルムのラッシュのように,目の前を流れていく,
というのをどこかで信じているせいかもしれない。しかし,アクセスできないというのは,知らないのとほとんど変わらない。その意味では,学んだことを,使ってみることで,脳のリンクが強化される,というのは,正しいようだ。少なくとも,
学んだり,体験しただけでは,自分のスキルやノウハウにはならない,
というのは正しいようだ。その意味では,一度立ち止まって,
何を学んだのか,
何を経験したのか,
を振り返っておくことは,重要なのだと思う。その振り返り,というのは,
自分のもっている知識や経験とすり合わせて,それとつなぎ直す,
という作業なのではないか。自分のもっている知のネットワーク,体験のネットワークの中につなぎこむ,ということだ。それは,
得た知識
と
やってみた体験
と,自分の知識・経験とを,メタ・ポジションから見る視点をもつということなのかもしれない。
知には,G・ライルの言うように,
Knowing how
と
Knowing that
があるのだが,体験したことをつなぎ直すというのは,
どうやったのか,
どう学んだのか,
というKnowing
howを,
Knowing that化
することに他ならない。王陽明は,
抑々知っているという以上,それは必ず行いに現れるものだ。知っていながら行わないというのは,要するに知らないということだ。
と言うが,そもそも,
Knowing that
と
Knowing how
を別と考えることが間違っている,というに等しい。陽明の,
知といえばすでにそこには行が含まれており,行とだけいえばすでに知が含まれている…,
というのもその趣旨だ。
知は行の始(もと),行は知の成(じつげん)
とはその意味だ。あるいは,知は自己目的ではない,と言い換えてもいい。
行のための知でもなく,知のための行でもない。
元来は,
そのことをよくしようと求めるから学といい,その惑いを解こうと求めるから問といい,その理に通じようと求めるから思といい,その考察を精にしようと求める上から弁といい,その実際を履行しようと求める上から行という…,
ものなのではないか。それは,『中庸』の,
博くこれを学び,審らかにこれを問い,謹みてこれを思い,明らかにこれを弁じ,篤くこれを行う。学ばざることあれば,これを学びて能くせざれば措かざるなり。問わざることあれば,これを問いて知らざれば措かざるなり。思わざることあれば,これを思いて得ざれば措かざるなり。弁ぜざることあれば,これを弁じて明らかならざれば措かざるなり。行わざることあれば,これを行いて篤からざれば措かざるなり。
から来ているし,元をたどれば,『論語』の,
子夏曰く,博く学びて篤く志り,切に問いて近くに思う,
につながる。そもそもかつての知は,実践のための知であった。
行えない,
行わない,
のは知ではないのである。いわゆる,
修身斉家治国平天下
である。つまり,
古えの明徳を天下に明らかにせんと欲する者は先ずその国を治む。その国を治めんと欲する者は先ずその家を斉(ととの)う。その家を斉えんと欲する者は先ずその実を脩む。その身を脩めんと欲する者はまずその心を正す。その心を正さんと欲する者は先ずその意を誠にす。その意を誠に千と欲する者はその知を到(きわ)む。知を到むるは物に格(いた)るに在り。物に格りて后知至(きわま)る。知至まりて后意誠なり。意誠にして后心正し。心正しくして后身脩まる。身脩まりて后家斉う。家斉いて后国治まる。国治まりて后天下平らかなり。
いやはや,ノウハウ(Knowing
how)抜きの知(Knowing
that)はないのである。
それにしても,そもそもしかるべからざる人間が上にいて組織が治まろうはずはない。その現状を見るとき,大塩平八郎を思い出さざるをえない。
知の破綻は,自己完結によってもたらされる。現実との格闘抜きの自己完結があり得ないところで,自己完結させれば,知は細る。
大塩平八郎が,「此節米価弥高直ニ相成,大坂之奉行并諸役人とも,万物一体の仁を忘れ,得手勝手の政道をいたし」と,一揆の檄文に書かざるを得なかったのは,おのれの「万物一体の仁」の思想に反してでも,そこに閑居して見過ごせない「惻隠の情」に従ったとみるべきだ。そして,現今の為政者も,天保当時の幕閣と比べても劣らない体たらくである。
とすれば,ノウハウとは,ただ知の自己完結ではない。「民を視ること傷めるが如し」という思想を実践することを手ばなして,「万物一体」を称えることは出来ないという,(大塩が体現した)最後の倫理が見える気がする。それもまたKnowing
thatである。
参考文献;溝口雄三訳注『伝習録』(中公クラシクス),貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫),金谷治訳注『大学・中庸』(岩波文庫)
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昔から粗忽者というはいる。軽率と言い換えてもいい。しかし,多くは愛敬と見た方がいいようである。粗忽とは,辞書的には,
@あわただしいこと。あわただしくことを行うこと。
A軽はずみなこと。そそっかしいこと。また,そのさま。軽率。
B不注意なために引き起こしたあやまち。そそう。
C唐突でぶしつけなこと。失礼なこと。また,そのさま。
とある。ここにないが,もうひとつ,早飲み込みというのがある。早合点,である。軽はずみに含まれる,と言えば言えるが,分かったつもりで動いて,結果,その後処理にバタバタする,という奴である。行動自体は同じことになる。
「粗忽」の語源では,
「粗(あらい)+忽(うっかりする)」
で,そそっかしい,というニュアンスが強い。因果をたどると,
あわただしい,
というか,
気持ちがせかせかして落ち着きがない,
というか,まあ,
せっかち
に起因している,というように見える。で,結果として,
軽はずみになったり,
不躾になったり,
ということになる。語感的には,
不注意による過ち,
そういうことの多い性格,
となるが,たぶん,一種のトンネルビジョンに陥っている,ということだ。何か一点に気を取られて,あるいは思い込んで,たとえば,忘れ物でも,なくしものでもいいが,そのことが視野を蓋って,モノが見えなくなり,あわてる,ということになる。
バタバタするのは,
所要時間の見積もりが,実時間より長く見積もっていたか,
実時間の見積もりが,所要時間よりも短く見積もっていたか,
いずれにしても,実時間不足と思い込んでいるか,実時間不足に陥るかの差はあっても,その時点では(時間がないと),焦っていることに変わりはない。
落ち着け,
という声がかかるのは意味があって,トンネルビジョンから,つまり,そういう心理的どつぼから抜け出すには,
距離を置く,
しかなく,それにはまずは,立ち止まるしかない。それが,
時間的にか
空間的にか,
は別にして,距離を置く第一歩だからだ。
落ち着く,
というのは,
「オチ(おさまる)+ツク(安定する)」
で,おさまる,しずまる,という意味になる。それは,
その場に立ち止まる,
まずは,止まって居つく,
というニュアンスがある。そう考えると,粗忽の類語とされる,
そそっかしい,
軽々しい,
はまだしも,
上っ調子,
おっちょこちょい,
軽はずみ,
軽率,
と「粗忽」とは少しニュアンスが違う。ましてや,
軽佻浮薄,
無分別,
盲目的,
とはかなりの隔たりがある。結果として,軽率な振る舞いになるにしても,上っ調子や,おっちょこちょいなのではなく,何かに捉われ,執着してしまう結果の,
不注意な行動,
ということになる。外見は,変らないにしても,内心の葛藤は,かなりの差がある。単に何も考えず,軽はずみに,というよりは,考えているうちに,何かにとらわれ,逆に,執着し,考え込んだ結果のバタバタになる。そのせいか,
忽
には,
うっかりしているまに,
こころがうつろなさま,
というニュアンスがあり,
勿(ブツ)
は,吹き流しがゆらゆらして,はっきりと見えないさまをえがいた象形文字で,
「心+勿」
は,心がそこに存在しないまま,見過ごしていることを,示す。同じく,心ここにあらずでも,どこかに,まだ救いがあるのである。
参考文献;増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房),日本中村明『日本語語感の辞典』(岩波書店)
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-
躾とは,行儀であり,礼儀であるが,まだ仕付けられただけである。完成させるのは,おのれ自身の日々の生き方による
躾は,犬猫の躾と同じで,立ち居振る舞いの規制であるが,それを社会的に広げれば,礼あるいは礼儀である。お行儀が悪い,といわれれば,それは,ある意味,躾と礼儀作法の両方を含んでいる感じである。
躾は,
礼儀作法を身につけること。
縫い目を正しく整えるために仮に縫い付けること。
行儀は,
立ち居振る舞いの作法のほか,修行・実践に関する規則,という仏教の儀式上の意味もある。
礼儀は,
社会生活の秩序を保つために人が守るべき行動様式,敬意を表す作法。
とある。敢えて言えば,ベン図ふうに図解するなら,躾の円の外側に,行儀の円,その外に,礼儀の円が同心円に重なっているとも見えるが,礼儀を身につけさせることを躾けと言う,という言い方もできる。
仮縫いの躾があるから,まともな縫い付け,つまり社会的なありよう,対人関係のあり方,振る舞いができるようになる,
ということもできる。躾について,
人間または家畜の子供または大人が,人間社会・集団の規範,規律や礼儀作法など慣習に合った立ち振る舞い(規範の内面化)ができるように,訓練すること。概念的には伝統的な子供への誉め方や罰し方も含む。
という説明もある。その意味では,社会的人間としてのありようを整えるという意味がある。他の,群れで暮らす動物にも,その躾はあるようだから。
交通ルールと同じで,社会的に関わる以上,相互に当たり前とする了解事項がある。それを前提にして動いているから,それを外されると,基本的なかかわりがぐちゃぐちゃになる。
躾は,
「シ(為・仕)+付けるの連用形」。
で,「仕付く」とは,
馴れている
身についている
という意味で,「仮に糸で縫い押さえておく」という「躾(仕付け)」の意味は,なかなか意味深である。つまり,躾けられただけでは,まだ仮免許なのである。あとは,おのれが日々身につけて,
おのれの立ち居振る舞い
として完成させていく。それが,躾,つまり,
身の美,
礼儀なのではないか。礼の人,孔子(因みに孟子は,義の人らしい)は,
命を知らざれば,以て君子と為すなすことなきなり。礼を知らざれば,以て立つことなきなり。言を知らざれば,以て人を知ることなきなり。
という。人として,「立つことなき」とはなかなか厳しい。これを逆さにすれば,
君子博く文を学びて,これを約するに礼を以てすれば,亦以て畔(そむ)かざるべし。
とも。躾は,「仕付け」に過ぎず,学ばなければ,おのれのものにならない。それは,意味を知る,ということなのではないか。意味とは,目的である。目的とは,志である。
志は気を師(率)いるものなり。気は体を充(統)ぶるものなり。夫れ志至れば,気はこれに次ぐ。故に曰く,其の志を持(守)りて,其の気を暴(害)うこと無れ。…志壱(専)らなれば気を動かし,気壱らなれば則ち志をおごかせばなり。
と,孟子は言う。孔子は,別の言い方をする。
名正しからざれば則ち言順(したが)わず,言順わざれば則ち事成らず,事成らざれば則ち礼楽興らず,礼楽興らざれば則ち刑罰中(あ)たらず,刑罰中らざれば則ち民手足を措く所なし。故に君子これに名づくれば必ず言うべきなり。これを言えば必ず行うべきなり。
名すなわち名目,あるいは名分といってもいい。目的である。個人にとっては,志である。行き当たりばったりの言に信用がないのは,今日の日本を見ればわかる。名目なく,言なく,礼なき国が,立つところがあるはずはない。
礼を為して敬せず,
とは,礼なきに等しい。いやいや,人ではない。
人にして仁ならずんば,礼を如何せん。
である。仁とは,
子曰く,人を愛す。
あるいは,孟子曰く,
惻隠の心
である。
ヒト皆人に忍びざるの心有り。
の心映えである。
惻隠の心無きは,人に非ざるなり。辞譲の心無きは,人に非ざるなり。是非の心無きは,人に非ざるなり。惻隠の心は仁の端(はじめ)なり。羞恥の心は,義の端なり。辞譲の心は,礼の端なり。是非の心は,智の端なり。
惻隠の情なき人は,人ではない。人でない為政者は,為政者の資格がない。それは,そもそも躾られていない人である。仕付けられていない人にかぎって,多く,他人には多くを求める。
匹夫も志を奪うべからざるなり,
等々は,仕付けられていない人の耳に届くことはない。
参考文献;小林勝人訳注『孟子』(岩波文庫),貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
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窮して通じたためしはない。「易は窮すれば則ち変じ,変ずれば則ち通ず」である。大事なものが抜けている
「窮すれば通ず」は,
行き詰まってどうにもならないところまで来てしまうと,案外活路がひらかれて何とかなるものである,
という意味だとされる。『折たく柴の記』にも,
「窮して通ずとこそ題易にも見え侍れ」
とあるらしい。ここが,日本的な極楽とんぼで,窮したら,ただ窮するに決まっている。ずいぶん昔,棋士の呉清源さんが新聞のインタビューで,「日本では『窮すれば通ず』が諺になっているが,本来は『窮即変,変即通』で『変ず』が抜けている」という指摘をしておられたそうだか,そう言いたくなるのはよくわかる。
原文は,『易経』に,
易窮則変 変則通
通則久
とあるそうだ。つまり,「易は窮すれば則ち変じ,変ずれば則ち通ず,通ずれば則ち久し」であり,ただ,
「変ず」
が抜けているだけではない,「変じ」と「変ずれば」が抜けている。つまり「変ず」がなければ,窮したまま,ということになる。しかも,「易は」の主語があって,「窮すれば通ず」というような「窮したおのれ」の慰めにはならない,ということらしいのだ。
思うに,「変化」に意味があるのではないか,ただ行き詰まったところで,何かが変ずる,というような僥倖がふりかかるなどということではないはずである。
「易とは天地と準う。故に能く天地の道を弥綸(びりん もれなく包み込む)す。」
「易とは象であり,象とは像すなわち物の姿に像(かたど)るという意味である。また彖(たん 卦辞)とは,その卦(か)の全体の意義を総括する材料という意味であり,それぞれ爻(こう)は天下の万物の動きに効(なら)う(爻=効)変化を示す。だらかこそ卦や爻によって吉凶が生じ,微妙な悔・吝も明らかになるのである。」
とある。そして,
「その中に示された道はしばしば変化し,変動して一箇所に停止することはなく,六虚すなわち卦中の六爻にあまねく流通し,絶えず上り下って常住することなく,陰陽剛柔互いに入れかわって,これを一定不変の法則としてとらまえることは困難であり,ただただ変化流転する動きのままにあるよりほかはない。
ともある。だからこその,
臨機応変
なのであり,誰もが,その「変ずる」に出会えるわけではないのである。
「天下の賾(錯綜,入り組んで見分けがたい複雑さ)を究め尽くしたものは卦の中に示され,天下の動(変動,変化きわまりない動き)を鼓舞するものは卦爻の辞の中に示され,陰陽の変化に即して適宜これを裁ちきって融通性を発揮させることはいわゆる変の中に示され,これを推し進めてその場その場の具体的な処理を講ずることはいわゆる通の中に示され,神妙の働きを尽くしてその理法を明らかにするのは,それを利用する物の資質如何によるのであり,暗黙の中に益の道を成就し,言わず語らずして誠信の実効をあげ得るのは,その人の徳行如何によるのである。」
と。結局は,
「一陽一陰これを道と謂う。これを継ぐものは善なり。これを成すものは性なり。仁者はこれを見て仁と謂い,知者はこれを見てこれを知と謂い,百姓は日に用いて知らず。故に君子の道は鮮(すくな)し。」
となる。だれにでも,「変」が生じ,「通じる」わけではない。
上面を撫ぜただけで言うのは,おこがましいが,
「変化とは進退の象」
とある。つまり,たとえば,どつぼにはまって,二進も三進もいかなくなったとき,前へ前へと同じことを繰り返すと,それはますます深みにはまるだけである。立ち止まる,ということが,変化を生むことがある。何かに憑かれたような一途な執着が,剥がれ落ちる,それだけで見え方が変わることは起きる。
ソリューション・フォーカスト・アプローチに,
もしうまく行っているなら,変えようとするな
もし一度やってうまく行ったなら,またそれをせよ
もしうまく行っていないのであれば,(なんでもいいから)違うことをせよ,
という3ルールがある。これも同じことだ,変化を起こしたくないなら,そのまま続ければいい。しかし,変えたいなら,何でもいい,いままでとは違うことをせよ,である。
易には直接関係ないが,そこから,類推するのは,発想である。行き詰まって,思いつめた頭を,たとえば,「や〜めた」と解き放った瞬間,視界が開けることが,たまにある。
よくひらめきの三上(馬上,厠上,枕上)と言うが,何もなくて,ただ寝ていたら,いいアイデアが浮かぶなどということは,三年寝太郎ではあるまいし,ありえないのである。数学者の岡潔氏が,
縦横斜め十文字,考えて考えて考えた末に,それでもだめなら寝てしまえ,
といった趣旨のことを言っておられた由だが,「寝てしまえ」だけとっても,ひらめきの条件にはならない。似たことは,よくアイデアとか創造性が,
既存の要素の組み合わせ
というが,では組み合わせたら,何かいいアイデアが生まれるのか,というとそんなことはない。その辺りは,さすが(NM法の)中山正和氏で,
情報を集めて,加工して,孵化して,
といわれる流れを,
@方向づけする(問題意識の言語化)
A情報を集める
B情報の切断
C組み合わせ
と分解した。まず大事なのは,問題意識とされる。問題意識とは,
第一信号系の条件反射である
から,それを第二信号系の言語によって「意志的に『方向づける』」と言っている。実は,多く忘れられているが,自分の関心につながらないところではアンテナ感度は鈍る。鈍った感度で情報が集まるわけはない。問題意識の言語化は,
アンテナの指向性
を高める操作なのである。これなしの,ステップは,本気でアイデアを考えたことのない人の説だろう。
もう一つ重要なのは,「情報の切断」である。情報については,
すでに,
skill事典10
で触れた。情報は,基本的に自己完結している。
自己完結しているというのは,論旨,意味づけられている,ということである。だから,論旨,というか因果関係といってもいいが,それを切断する。
われわれがひらめいたとき,
脳の広範囲が活性化する,
と言われている。発想は,ただの情報の組み合わせではない。自分の中にあるリソース,
意味記憶,
エピソード記憶,
手続き記憶,
とリンクすることで,情報がリンクしあい,今まで見えなかった意味が,パースペクティブが開く。忘れられているが,発想はそもそも主体的な作業ということである。そのためには,「切断」がなければ,デジャヴな発想に留まる。その意味で,最初の問題意識の言語化か,ここと関わる。発想は,その広げた風呂敷以上にはいかないのである。
ま,というように,「変化」が生まれるには,ただ窮したり,ただ寝ていても,「産むが安し」とはいかない。ブラックボックスの部分を見ないで,慰めにするのは,自堕落の始まりである。
参考文献;高田真治・後藤基巳訳注『易経』(岩波文庫),中山正和『発想の論理』(中公新書)
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機を観る,期を観る,幾を観るの,違いは,情報感度である
「機」と「期」の「幾」違い。
「幾」:ごくわずか,兆し,機微
「機」:物事の仕組みのツボ・勘所
「期」:約束された時,時が熟し満ちる
「幾と機と期を観る」とは,ごくわずかな変化の兆しを察し,それを動かす勘所に焦点を合わせたら,後は時が熟するのを待つことが大切です。
とされる。それが,物事を成し遂げるために必要なことだ,と。
まず,「幾」。
幺+幺(細い糸,わずか)+戈(ほこ)+人
の会意文字(既成の象形文字または指事文字を組み合わせて作られた漢字)。
人の首にもうわずか戈の刃が届きそうなさま
を意味し,もう少し,わずか,細かい,という意味を含む。もうわずかの幅をともなうことから,はしたの数(いくつ)を意味するようになった,という。そのため「幾」の意味は,
いくつ,いくばく。九以下のはしたの数を示す。(「幾人」「幾何(いくばく)」「幾年(いくとせ)」)
近い(幾百里)
ほとんど,もう少し(幾亡国)
こまかい兆し(「知幾」)
庶幾(こいねがわくば)
になる。「幾」と対比されるのが,「殆」。「殆」は,
あやうい,
という意味だが,
「歹(死ぬ)+台(鋤を用いて働いたり,口でものを言ったりして,人が動作することを示す)」
で,これ以上作為すれば死に至ること,動けば危ないさまをあらわすので,「幾」に近い,ほとんど,という意味があるが,その場合は,
(八,九分,という意味だが)危ない場合に使うようだ。
「幾」に「木」の加わった,「機」は,
「木+幾」で,木製の仕掛けの細かな部品。わずかな接触で噛み合う装置のこと。
という意味になる。だから,意味は,
はたおり機(「機杼」)
部品の組み立てでできた複雑なしかけ(「機械」)
ものごとの細かいしくみ(「機構」「枢機」)
きざし(「機会」「投機」)
人にわからないこまかい事柄(「機密」)
勘の良さや細かな心の動き(「機転」「機知」)
となる。では,「期」はどうか。
「期」の字の,「其」は,四角い箕を描いた象形文字。四角くきちんとした,の意を含む。箕の原字。
で,「期」は,
「月+其」で,月が,上弦→満月→下弦→朔を経て,きちんと戻り,太陽が,春分→夏至→秋分→冬至を経て正しく元の位置に戻ること,
を意味する。したがって,「期」の意味は,
取り決めた日時(「期間」)
予定する,必ずそうなると目当てを付ける(「期待」「期する」)
一定の時と所を約束して会う(「期会」)
一ヵ月,または一年
等々となる。
こう考えると,幾→機→期と,時間間隔が延びる,ということになる。ただ,『易経』に,
子曰く,幾を知るはそれ神か。君子は上交して諂わず,下交して瀆(けが)れず,それ幾を知れるか。幾は動の微かにして,吉のまず見(あら)われるものなり。君主は幾を見て作(た)ち,日を終うるを俟たず。
とある。兆しを見て,直ちに機と判別する,ということか。それは,日々の心構えになっているという意味なのだろう。
機に臨み変に応ずる
というが,「機」に臨む前に,「幾」に,兆しに気づいて即応できる構えができていなければ,対応できない。「危機」も「逸機」も,その意味では,結果であって,
「逸『幾』」の結果,「逸機」と「危機」になる。
「機根」という言葉があるらしいが,「気根」とも当てる。
仏教の教えを聞いて修業しうる素質
気力,根気
といった意味だが,「気」と「機」が交換しうる,というのが面白い。「気」は,
「万物は五行に還元せられ,五行は陰陽に還元せられ,陰陽は太極に,太極は無極に還元せられる」
という宇宙観の背景にあるのが,「気」となる。「気配」の「気」であり,「幾」にも通じる。その意味で,機と期と幾は,気に通じている,と言えなくもない。
「生とは気の集結であり,死とは気の解散」
とまで広げると,意味がなくなる。
情報とは差異である。
人の気づかぬ差異を,「幾」と言い換えてもいい。それは,問題意識と置き換えてもいいかもしれない。問題意識とは,問題に着眼するのではない,常に,
こうなっているはず(という目指す)状態
を常態と見なしているから,その差異に目ざとい。それは,目標意識というよりは,目的意識の鮮明であるかどうかの差であるのだろう。
参考文献;簡野道明『字源』(角川書店),藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社),高田真治・後藤基巳訳注『易経』(岩波文庫)
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問いは,質問者側から訊けば,尋問になる。相手側にどう立つかが,答えやすさを引き出す。
問いのことである。人は,問われたことについて,答えを自分の中に探し出そうとする,という。その意味で,質問は意味があるが,つくづく思ったのだが,問いは,聴き手側から出てくるのではない,ということだ
質問については,
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod06432.htm
で構造化したが,質問を,共感性ということに即して考えるなら,問いは,話し手自身の中から吹き出てくる。
それにあわせて,話し手のペース,つまり思考スタイルに即することについては,マイペースと呼ぶ。もう少し踏み込むなら,話し手の沈黙を,沈黙として意識したら,それは話し手の沈黙ではなく,聴き手の(感じ取っている)沈黙,外から見ている沈黙である。その沈黙の受け取り方で,聴き手側のポジションが見えてくる。寄り添うとか,共感性などという言葉は,その瞬間意味をなさない。話し手のペース,息遣いそのものに即している,あるいはそばにいるなら,話し手の黙っている時間は,
話し手と一緒に答を自分の中に探している時間であり,
それを言語化する,どういう言葉にしたら,きちんと表現できるかを考えている時間であり,
何だろうと考えている時間であり,
等々,沈黙ではないのである。黙っている時間は,
黙っていても
考えているのだ
俺が物言わぬからといって
壁と間違えるな(壺井繁治)
黙っている本人にとって,沈黙ではない。言葉の20,30倍のスピードで意識が流れている,そのさ中にいるのだ。
吉本隆明の言う,
沈黙とは,内心の言葉を主体とし,自己が自己と問答することです。自分が心の中で自分に言葉を発し,問いかけることがまず根底にあるんです。
という通りなのだ。沈黙を沈黙と感じたら,聴き手としての自分は,相手をメタ・ポジションから見ていないまでも,距離を置いて眺めている証拠である。そばに立っているなら,あるいは,共感しているなら,その沈黙は,待つ時間ではなく,一緒に考えている時間である。当然,沈黙を感じるなどということはない。待つとか待たないとか,考えている本人が感じるはずはないのだ。
僕は,沈黙への感じ方が,自分が話し手のどこにいるのか,その距離を測る目安だと思っている。
それが,話し手の自己対話の中に紛れ込むことだとすると,沈黙は喧しい自己対話の最中のはずなのだ。
相手近くに,共感して立っているかどうかの目安は,第一には,沈黙への距離だと思うが,もう一つは,問い,質問だと思う。
質問は,聴き手の中から生まれてくるのではなく,話し手の話の中から,問いが生まれてくる,ということに,いまさらだが,気づいた。問いは,話し手の自己対話の中から,吹き出しのように,生まれてくる。それが,聴き手側から出てきたとすると,
それは何ですか,
そのことをどう思いますか,
という類の質問になる,しかし,話し手自身から出てくると,
そのことは,何なんだろうね,
そのことをどう思ったらいいんだろう,
となる。問いは,自問なのだとすれば,質問ではない。
「質」は,
「斤」+「斤」+「貝」
と分解できる。「斤」は,
重さを計る錘に用いた斧,
で,「斤」ふたつとは,
重さが等しいことを意味する。「貝」は,
割れ目のある子安貝,または二枚貝,
を示す。古代には貝を交易の貨幣にもちいたので,財貨を意味する。で,「質」は,
Aの財貨と匹敵するだけの中身の詰まったBの財貨
を表す。名目に匹敵する中味がつまっていることから,実質,抵当の意味になる。
「問」は,前にも書いたが,
「門」+「口」
で,「門」は,
二枚の扉を閉じて中を隠す姿を描く象形文字,
で,隠してわからない意やわからないところを知るために出入りする入口の意。「問」は,
分からないことを,口で探り出す,
という意味になる。その意味では,「問い質す」というときの,「質す」は,かなり意味が重たい。その中身の真価の是非,有無を尋ねている。
だから,質問というより,疑問,あるいは,問いかけ,ひょっとすると否定疑問なのかもしれない。自分に向かって,問い質す奴はあまりいない。
それって,どういう意味だろう。
それを考えるには,どうしたらいいのだろう。
なぜそれが出来ないと思うのだろう。
それって,妙じゃないか。
自分への問いかけは,おのれ自身の未知の扉をおとない,それを開けて,解き明かすような,おのずと湧き出てくるもののはずだ。そうでない問いは,話し手ではなく,聴き手の中から出ている。そういう問いをつかみたいと思っている。それも,相手に寄り添えているかどうかの目安のはずである。
参考文献;藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
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共感性とは,相手の事実認識も,価値観もそのまま,あたかも相手自身であるかのように受け入れることだ
記録映画「鋼鉄のシャッター」は,
「北アイルランド紛争は,カトリックの人びととプロテスタントの人びとの何世紀にも亘る憎しみの歴史でもあった。
1969年の発砲事件に始まる宗教的対立は,首都ベルファストを全面的都市ゲリラ戦にエスカレートさせていった。
紛争が泥沼化している1972年,何らかの解決の糸口を見つけるべく,ロジャーズらはプロテスタント4名,カトリック4名,英国陸軍退役大佐1名と,3日間に亘るエンカウンター・グループを持つことになった。
この時の映像記録が『鋼鉄のシャッター』である。」
である。この映画を通して,
エンカウンター・グループによって,対立するグループの人たちの会話を重ねていく中で,一つの場ができていく,のを目撃する。ちょうどベン図で喩えると,
まったく離れ離れの円
で,それぞれが,一方的に会話していたのが,憎しみや反撥や怒りを媒介にして,円が重なって,
一つの場ができていく,
というのを目の当たりにした。それは,具体的にはそのビデオを観ていただくしかないが,そこでの,ロジャーズの,参加者の一人が使った,
「鋼鉄のシャッター」
というメタファーを駆使しつつ,「鉄のカーテン」という言い替えもしたが,互いの心の前の抑制と防御のシャッターを開けて,奥にある,生々しい,むき出しの憎しみと悲しみと怒りを投げ出す場を創り出していく,ファシリテーションの端倪すべからざる技にも,目を瞠る。
それ以上に,共感性というものについて,いまさらながら,ちょっとした衝撃を受けた。
まず平木典子先生のレジュメを借りて,おさらいをしておく。このエンカウンター・グループの背景にある,ロジャーズの,
セラピーにおける「必要にして十分な条件」
の意味は,確認しておくと,
@畏敬の念(caring,prizing) クライエントへの無条件の肯定的蓮侶と関心
A邪気のなさ(genuiness) セラピストの自己一致む,ありのままの自分を受け入れ,脅かされず,クライエントの体験に開かれている
B共感性(empathy) 相手の内面的枠組みを “あたかも”その個人で“あるかのように”,情緒的要素や意味を正確に理解すること
とあり,特に共感過程については,五つの過程がある。
@相手の私的な世界に入る過程
A相手が感じる意味について敏感になる過程
B一時的に相手のなかに生きる過程
C気づいたことを相手に伝える過程
D気づいたことを相手に問う過程
とある。しかし,このプロセスで,もっとも大事なことは,
「言語化しなくては共感は伝わらない」
ということだ。僕は,よく,
「言葉にしないことは決して伝わらない」
と言っているが,まさに,共感性のキーワードは言葉なのだ。ロジャーズが,「鋼鉄のシャッター」という参加者のメタファーを駆使して,その言葉の引き出すイメージを媒体に,ベン図の円を重ねていったが,それは,そのことを言語化したからなのだ。このことが,気づいたひとつだ。
ミラーは,共感性を,
「臨床家との出会いを求めざるを得ないクライエントの状況をわかったうえで,思いやりのある理解を示すこと。話していることに注意を向け,経験を理解しようとし,分かち合う」
と述べているこの言外に,言語化があることを見落としてはならない。結局,ミラーたちが書いていたが,セラピーの効果は,
クライエントのもつ資質 40%
セラピスト・クライエント関係 30%
セラピー技法 15%
プラシーボ効果 15%
であり,セラピーを受けること自体のもつ心理的効果,つまりプラシーボ効果と加えると,55%が,クライエント自身のリソースによる,と言っていい。それを,神田橋條治さん流に,
遺伝子のもつ可能性の開花
と呼び換えてもいい。そこで,僕は,『鋼鉄のシャツター』でのグループの変化,ベン図ふうに喩えると,
両者の円が重なる場,
ができるのに,共感性が左右したと思うのだが,今回発見したのは,従来のように,
事柄にとらわれず,感情の動き,
に着目することではなく,というかそれももちろん大事なのだが,ヒトの感情を動かすのは,その人の考え方を受け入れてもらった,という思いからだ,ということだ。『鋼鉄のシャツター』でのやり取りの中で,いまさらながら,強く衝撃を受けたのは,
相手の言っている考え,あるいは,その考えに基づいて描写する体験的事実,
をそのまま,受け止めること。賛否は脇に置いて,相手が語った事実,相手にとっての経験を,
そういう経験をしたんだ,
そういう感情にかられたんだ,
そういう目にあったのだ,
ということを受け止め,認めること,ここに共感性のもう一つの鍵がある,と気づいた。受け止めるとは,相手の,
相手自身の思い入れによって受け止められた事実(現象学的な事実と言い換えてもいい),あるいは事実経過,そのときの感情,考え方を,
“あたかも”その個人で“あるかのように”
一緒に見,感じ,考える,ということだ。その,
(相手の私的な)事実をそのまま受け入れる,
とは,相手の体験したことを,そのまま,
承認する
ことに他ならない。それは,あえて言えば,事柄であってもいい,ということだ。その事柄は,その人の目を通してみた体験に他ならない。そういうふうに見えた,感じた,考えた,そう価値を意識した等々,すべて,
受け止めること,
それが「共感する」ということである,ということだ。
「同意はできなくとも共感はできる」
とは,まさにこのことだ。
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マイペースは,話すペースのことであり,言語化のスピードであり,思考スタイルのことだ
人は人のペースで話す。それは,その人の思考の流れ,あるいは,考えるスピードとも関係する。また,当たり前のことを言うようだが,クライアントが,自分のペースで話すようにする,ということをどう守るか,というか,どう尊重するか,というのは,何も,コーチングやカウンセリングといった,援助関係に関わるだけのことではないのではないか。
言ってみると,基本的に,
聴く,
というのは,相手のペースに沿うということだ。当たり前すぎて,何をいまさら,と言われそうだが,そもそも,
共感性,
というのが,相手の見ていること,感じていること,考えていることを,あたかも自分自身のように,受け止めるということだ。そこには,
テンポ
というか
ペース
も,当然含まれる。
よく,楽しくしゃべらせるだけではだめだということを聞くが,
聴くというのは,本質的に,相手のペースを見届けるというか,見守るということなのかもしれない。
言語のスピードの20〜30倍で意識の流れがあるというが,それを言語化するのが得手の人とそうではない人がいる。
僕がテンポやスピードを見守る,というとき,もちろんしゃべるスピード,テンポもあるが,思いや感じ,気づきを,言語に置き換えなくては,相手には伝わらない。その言語化のするスピードを指している。
言語化のスピードは,頭の働き,と言いうよりも考えるスピードと合っている。速いスピードほど頭がいいとか,切れるとか,ということととは全く関係ない。単なる早飲み込み,早とちりということもある。むしろ,言語化に当たって,思いをどう適切な言葉に当てはめるかで,伝わる中身にずれが生まれる。そのずれにこだわるタイプかどうか,ということだ。それが,
思考スタイル
なのだと思う。そのスタイルに是非も優劣もない。問題は,その言語化のペースをキチン化と見守れるか,ということに尽きる。沈黙のなかには,そういう意味も含む。ただ,
どう応えようか,と思案していること
と,
どういう意味だったのだろうと,相手の質問や返答に拘泥していること
と
どういう言葉,言い回しにしたら,的確に思いが伝わるかを考えていること
とは,
かなり違う。
発話の意味は,受け手の反応によって明らかになる,
と言われる。つまり,
継続する会話によって,先行する会話の意味が組み替えられる,
のである。どう応えるかは,そのまま文脈を変え,意味自体を変えるかもしれないのである。そこまでを含めて,相手のテンポを見守る,という意味を込めている。
それでなくても,聞き取れる語彙数は,話す語彙数よりはるかに多い。つまり,相手が話す先から,聞き取れているという状態が,常態なのだ。
ベイトソンは,
コミュニケーションを決めているのは,送り手ではなく,受け手である,
という。その答を待たなくては,会話の文脈は成立しない。なぜなら,
「大切なのは変化を起こすことではなく,会話のための空間を広げることである。治療における変化とは,対話を通じて新しい物語を作ることを意味する。そして対話が進むにつれ,まったく新しい物語,『それまで語られることのなかった』ストーリーが,相互の協力によって創造される。」(H・アンダーソン&H・グーリシャン「クライアントこそ専門家である」)
つまり,現実の見え方を変えていくことである。新しい言葉をえることで,
視界が変る,
のであれば,その言葉を聴きとらなくてはならない。社会構成主義ふうに言うなら,
・現実は人々の間で言語(会話)を通して構成される。
・人は他者との会話によってはぐくまれる物語的アイデンティティのなかで,そして,それを通して生きる。「自己」は常に変化し続けており,セラピストの技能とはこのプロセスに参加する能力を意味する。
となる。現実は,その人の(物語の)中にしかない,だからそれはその人の頭をのぞくしかない。共感性,つまり,
相手の内面的枠組みを
“あたかも”その個人で“あるかのように”,情緒的要素や意味を正確に理解すること,
が聴くことに不可欠なのは,考えれば当たり前である。
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直感は,聴き手の側に起こることではなく,話し手の中で起こったかのような直感に意味がある
直感は,感じたことを,ただ伝えるだけでは,内からの思いつきなのか,相手の話に沿ったそれなのかの区別がつかない。
聴く
ということの奥行に立ち止まると,「聴(聽)」の,「聽」の字の右側は,
悳
とも書き,真っ直ぐなこと。耳の下の「王(テイ)」は人が真っ直ぐに立ったさま。「耳+悳」で,真っ直ぐに耳を向けて聞き取ること,を意味する。
しかし,どうしたら,まっすぐ聞き取ることになるのか,
どう聴くのか,
何を聴くのか,
どこを聴くのか,
なぜ聴くのか,
その聴き方に,こちらのありようそのものが,炙り出される。会話は,
聴き手がどう返すか,
で,話し手が何を話したかが決まる。話し手は,その返し方で,話した中味をずらしていく。それは,どう応答するか,で決まる。その応答の仕方は,どう返したら,
きちんと聴いてもらえた,
と感じるのだろう。繰り返しではないし,承認でもないし,要約でもないし,そういう返し方のスタイルではないような気がする。聴いてもらえたと感じてもらうことが,本当に聴いていることになるとは限らない。
話し手にとって,聴き手の声の位置,聞え方も関係あるかもしれない。遠くから返事しているように聞えているのか,すぐそばにいるように聞こえるのか,近いといっても,どの位置にいてくれる感覚が,聴くということなのだろう。
目の前か,
横に立っているのか,
すぐ耳元に立っているのか,
支えるように背後にいるのか,
どの位置が,話し手とって,聴いてもらえている,という感覚になるのだろう。それは,返し方とも,応答とも関係ない,聴き手のポジションに関係あるのかもしれない。
ここで,聴き方を問題にしているのは,直感を考えるにあたって,それが,聴き方と深くつながっている気がしているからだ。
話し手は,自分と対話しつつ,話をする。それは,言語化すること自体が,自己対話に他ならないからだ。それを思考スタイルと言ってもいいし,考えるスピードと言ってもいいし,話すペースといってもいい。
直感は,その自己対話そのものの中から,生じたかのような気づきでなくてはならない,と思う。とすると,そのためには,話し手のスピードと同じような思考スタイルと,言語化スピードに,自分がなっていなくてはならない。それは,
共感性,
と同じ基盤,でなくてはならない。エリクソンが,
相手の枠組みであること,
といったことと同じである。それは,
そうそう,それって,こういうことではないの,
そう感じているのは,○○だからではないのか,
と,つぶやくような直感は,そのまま,
問いかけ
そのものと似てくる。それは,自己対話が,堂々巡りではなく,渦巻きのように,螺旋を描いて,深まっていかなくてはならない。そういう問いでなければならないし,そういう直感でなくてはならない。それは,話し手自身が語っていることの,
名づけ
であり,
言語化,
であり,
喩え,
であり,
メタファー,
であり,
見立て,
であるような,カタチにして示す,そういう直感であるし,話し手自身が探りあぐねている突破口を,既にあるもののようにして,そこに描き出すものでなくてはならない。
第三者の視点ではなく,自問自答のメタ・ポジションである。そこから外れてしまえば,単なる岡目八目の,お節介に過ぎない。
やはり,そのカギは,聴き方そのものの中にある,と感じるのである。
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「なってございます」「してございます」という言い方,気になって仕方ない
店員が,陳列の商品について,客に,
「〜になってございます」
と言っているのが耳に聞こえた。そう言えば,当事者として,店員から言われたことがある。テレビでも,似た言い回しをしていた。そういうことを教育するものがいるに違いない。
敬語・謙譲語の常識では,
〜になっています。
か,
〜になっております,
というのが,たぶん,普通の言い回しではないか。
「〜になってございます」は,
「〜になって」
を,
「〜にさせていただいて」
とすれば,自然と,「おります」となったのではないか。敬語や,謙譲語は,相手との関係を反映している。万事が,フランクで,日常と非日常の区別がなくなった社会を反映しているのだから,別に取り立てて,取って付けたような丁寧語を使わなくても,
「〜になっています」
ですむものを,どこの誰が教えいるのか知らないが,とんでもない無知をかえってさらけだしているようにしか見えない。
「ございます」というのは,
「御座+あり+マス」
で,gojaariから,aとjが抜けてゴザイとなり,丁寧語のマスが加わったもの,とされている。
ござる
も関連語だが,これは,
「御座+す」(おわす),「御座+ある」(ござる)
で,「おわす」の当て字,「御座す」を,字音で読み,動詞化の「アル」を付けたのが語源とされる。「御座」は,
「座」の尊敬語。貴人の席。
を指し,そこから,「いらっしゃること」をも指す。たとえば,「この処に御座をなされ」というように。だから,「茣蓙」は,イグサで編んだ敷物だが,もともと
「御+座+むしろ」のムシロを略したもので,「蓙(ござ)」を当てる。
「になって」
と,「その状態に成ってある」ことを,さらに,「御座います」と重ねているので,
「〜になってございます」
は,
「〜になってなっています」
と言っているに等しい。しかも,自分の「している状態」に敬語を使っている形になる。丁寧も,度が過ぎると,馬鹿丁寧で,
慇懃無礼
に近いのではないか。前にも書いたが,「座」は,「坐」が,人二人+土」で,人々が地上に坐って,頭が高低で凸凹するさまを示していて,
「广+坐」
で,家の中で人の坐る場所であり,それに「御」をつけて,敬っている。
その意味では,
「〜してございます。」
という言い回しも,考えようによっては,自分の動作を敬うカタチになっており,何だか,客に対して丁寧に行っているつもりが,そうしている自分に敬語をつけていることになり,一層客を馬鹿にしている言葉遣いに聞こえる。
自分の使いなれない言葉でも,語感的に異和感があるかどうかはわかるのではあるまいか。言われた通りに言っているなら,それはロボットであり,その先に来る図は,とても恐ろしい。自分で感じ,考えることをやめたら,何でもしかねないのではないか。言われたら,何でも,その通りにするのだろうか?
参考文献;増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
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自分なりに,ひとつの問い,
「考える」とはどういうことか,
を得たとする。問いを得るとは,自分なりに(新しい)答えを探す,ということである。どこかに答があるのではなく,自分なりに答を見つける,ということである。
確か,野中郁次郎氏は,
知識とは思いの客観化プロセス,
という言い方をされた。その思いとは,外にではなく,自分の中にあるものである。それを,
疑問
と呼んでもいいし,
問題意識
と呼んでもいいし,
問い
と呼んでもいい。あるいは,アインシュタインは,ニュートンの万有引力の法則に欠陥を見つけ,
重力はどういう仕組みで働くのか,
太陽はどうやって一億五千万キロの本質的に空っぽの空間を超えて,地球に影響をあたえているのか,
という「愚問」とも思える疑問を懐いた。10年考え続け,アインシュタインの場の方程式を考え出した,と言われている。ここから類推すると,考えるとは,少し独断的な言い方になるが,
自分なりに疑問に感じたことを,自分なりに突き詰め,答えを出すこと,
なのだと思う。そのとき,僕は,ひらめくのと同様,
視界が開く,
という感覚がある,と思っている。大袈裟な言い方をすると,自分の見つけた答によって,(自分にとって)新しい知の地平が開く,という感覚である。吉本隆明の言う,「知ることは,超えることの前提である」というのはこういうことではないか。もちろん,その答は,まだ仮説にすぎない。それは,検証されない限り,妄想と変わらない。だから,考えるというのは,内省のように自己完結することではない。自閉された思考は,妄想と地続きの恐れがある。
疑問から始まる,ということは,
当たり前にしない,
ということでもある。敢えて言えば,疑いを持ってみる,といってもいい。仮説は,基本,その疑問の言語化からしかスタートしない。それが,思考の方向をつけていく。ランダムに思考を掘り下げるわけではない。
仮説については,
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0926.htm
で触れた。疑問から仮説化し,検証するプロセスが,自分が「知」を獲得していくプロセスなのではあるまいか。だからこそ,「思いの客観化プロセス」なのである。横井小楠が,学ぶとは,
「我が心上に就いて理解すべし。朱註に委細備われとも其の註によりて理解すればすなわち,朱子の奴隷にして,学の真意を知らず。」
というのもその意味である。「書を読み文を作る」だけでは,考えることではない。
「書物の上ばかりで物事を会得しょうとしていては,その奴隷になるだけだ。日用の事物の上で心を活用し,どう工夫すれば実現できるのかを考える,そのまま書きとめるのではなく,おのれの中で,なるほどこのことか,と合点するよう心がけるが肝要だ。合点が得られたときは,世間窮通得失栄辱などの外欲の一切を度外視し,舜何人か,小楠何人かの思いが脱然としておこる,」
と言っているのである。ただし,そこまでは妄想である。その得心を,
「日用の事物の上で心を活用し,どう工夫すれば実現できるのか」
を考える,僕はこれが検証,あるいは試行することなのだと思う。ただ,行動だけを言っていない。僕は,思考も立派な行動だと思っているので,掘り下げ,考え詰めてはじめて,視界が開く,それは,解決策であると言い換えてもいい。
かつて考えるということについては,
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/view07.htm
で整理したことがあるが,時実利彦氏は,考えるとは,
「受けとめた情報に対して,反射的・紋切り型に反応する,いわゆる短絡反応的な精神活動ではない。設定した問題の解決,たてた目標の実現や達成のために,過去のいろいろな経験や現在えた知識をいろいろ組みあわせながら,新しい心の内容にまとめあげてゆく精神活動である。すなわち,思いをめぐらし(連想,想像,推理),考え(思考,工夫),そして決断する(判断)ということである」(『人間であること』)
と定義している。これは,思考プロセスは,反応することではなく,意識内部を経た対応することだ,と言っているだけである。だから,意識が対応するとは,具体的にどういうことかは,捨象されている。
たてた目標を実現するために過去の知識と経験を組み合わせ,まとめる,
とは,どうすることなのか,である。端緒は私的な「思い」からしか始まらない。その私的な思いを客観化して初めて,人と共有可能になる(あるいはひとと議論し研鑽できる)。それが「知」である。
語源的に言うと,「カンガエ(ヘ)」は,
「カ(ありか,すみか)+向かう(両者を向い合せる)」で,事柄に対して二つを向い合せる,
という説と,
「勘+がふ」で,中国音の勘(あれこれと思いめぐらす)を動詞化した,
という説とがある。「かんがへ」は,事実,古語辞典では,「考へ」と「勘へ」と「検へ」とを当てている。そして,
調べただして,考え罰を与える
占いの結果を取り調べて,解釈する
比較考量する
の意味がある。しかし「カンガヘ」は,「カムガヘ」の転訛したものとしている。で,「カムガヘ」を見ると,この古語辞典では,上記の説1の方を取っていて,
古くは,カムカヘ。カはアリカ,スミカのカ。所・点の意。ムカヘは,両者を向き合わせる意。二つの物事をつきあわせて,その合否を調べて,ただす意,としている。意味は,
事実の真偽をしらべ,ただす
調べただして罰する
あれこれ思いはかる
という意味としている。これは,「考える」の一側面でしかないのではないか。だから,哲学研究者はいても,わが国には哲学者,思想家がすくないのではないか,と茶々を入れたくなる。
ふと,カムカヘは,カム(神)ムカヘ(迎へ)ではないのか,という疑問がわく。「ムカヘ」(迎へ)には,呼び寄せる,招くという意味がある。神託を受けることが,考えることだったのではないか,という疑問がわく(熊本の神風連はそうやって行動を決めていたらしい)。妄想である。
中国語の「考」は,腰の曲がった老人の意。これを考えるに用いるのは,攷(コウ)に当てた用法。「攷」は,「丂」(コウ)は曲がりくねった形,「丂」+「攴」(動詞記号)で,まがりくねりつつ奥まで突き詰めること,という意味になる。だから,「考」は,
あれこれと突き詰める
思いめぐらした末に出た意見,またはその論文
遠くまで,終りまで進む
という意味になる。さらに,「勘」は,「甚+力」だが,「甚」は,「甘(おいしい)+匹(いろごと)」の会意文字。食や色事の道楽に深入りする意。「深い」と同系なので,「勘」は,奥深くまで徹底して突き詰める意味になる。意味も,
かんがえる
奥深く突き詰める
となる。しかし,日本語の「カンガヘ」に当てた途端,「比較考量」「調べただす」「託宣の解釈」というニュアンスが出てくる気がするのは,僻目であろうか。ま,しかし,こういうことを云々するのは比較衡量しているだけで,考える,には当たらないのかもしれない。
参考文献;増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房),大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
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もてなしとは,心映えである。吹聴することではもちろんない
ブログ更新しました。おもてなしは,「表裏がない」という都市伝説があるらしいが,それはためにする議論に過ぎない。「御もてなし」であって,「もてなし」に「表」を当てるべき余地はない。こういう場合は,往々にして,意図が隠されている。そういうのを「振る舞い」というらしい。
おもてなし
とさんざん吹聴されたが,そう喧伝する類いものではない。
「もてなし」は,語源的には,
「持て+成す」
で,取り持って行動すること,こころを込めて客を大事にして御馳走すること,という。しかし,
取り持って行動する
ことが,どうして,
御馳走
という意味になるのかが,見えない。『古語辞典』によると,「もてなし」は,
モテは接頭語,相手の状態をそのまま大切に保ちながら,それに対して意図的に働きかけて処置する,
という意,とあり,その意味として,
物に手を加えず,あるままに生かして使う。相手をいためないように大事に扱う
相手に対していろいろ面倒をみる
物事に対処する,ものごとを処置する
接待する,馳走する
扱う,見せかける
という意味で,その他に,
とりなす,
世話する,引き立てる
もてはやす
そぶりをする,
といった意味もある。どうやら,
相手を大事にする,
という意図があり(その場合の相手は「人」とは限らない),それに対して,こちら側の姿勢次第で,
面倒を見たり,
引き立てたり,
御馳走したり,
となる。その意味では,御馳走は,もてなしの一部に過ぎない。類語は,
御馳走
ふるまい
饗応(供応)
といった感じになる。「馳走」は,
「チ(馳せる)+走(はしる)」
で,駆け回って心を尽くす,
という意味で,駆け回って,奔走することという意味合いが強く,ここでも,直接的な酒食による供応は,その対応の一つに過ぎない(あれこれ相手のための奔走することも「馳走」といった)。
ふるまいは,語源的には,
「振るひ+舞う」
で,鳥が羽を動かして飛び回る,意で,どちらかというと,人目に立つ行動,という意味が強く,
人目につくような勝手な行動をする,思いのままの挙動をする,
ある心づもりをもって身を処する,
用意し身構えて行動する,
という意味が最初に来て,最後に,
人をもてなす,御馳走する,
が加わる。「大盤振る舞い」という言い方がある。元来は,「椀飯振舞」と当てて,
江戸時代,一家の主人が正月などに親類縁者を招いて御馳走をふるまったこと,
を意味し,目立つというか,忙しく供応する,という振る舞いに焦点が当たっていなくもない。
「饗応」も,
響きが声に応ずるように,人の意を体してすぐさま行動を起こすこと,
という意味である。『古語辞典』でも,
相手をもてなすこと
相手の気に入るように調子を合わせること
とあり,酒宴の意味は,派生的のようである。ただ,「饗」の字には,
「郷+食」
だが,「郷」の字の原字は,「卿」で,「ごちそう(皀)の両側に人がひざまずいて向かい合ったさま」を示す会意文字。「郷」は,「邑+卿の略体」で,向かい合ったむらざと,「饗」は,「食+郷」で,向かい合って食事をすること,という意味がある。「供」の字も当てるが,「共」は,「□印(あるもの)+両手」の会意文字で,供の原字。□印で示されたあるものを左右の両手で,うやうやしくささげるさまを示す,捧げる動作は,両手を同時に動かすため,共は,共にの意味に転じた,という。
こう見ると,「もてなし」とその類語も,酒食でもてなしたり,御馳走を供する,というよりは,
相手への姿勢,
を指している。その場合,「おもてなし」とは,
客に対して心のこもった待遇や歓待やサービスをすること,
ではなく,それはただの一面に過ぎず,あるのは,
相手を大事にする,
という心映えだったのではないか,と思う。その心映えは,
ハレ
だけで示されるものではない。そういう心映えはなく,原義通りの,ただの,
振る舞い,
つまり,
外面だけの目立つ行為,
にしか見えない。心ばえについては,すでで書いた。
参考文献;大野晋・佐竹
昭広・
前田金五郎編『古語辞典
補訂版』(岩波書店),増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
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心ばえとは,光らせるものてせはなく,おのずと内から輝きだすものである
心ばえは,心映えとも,心延えとも書く。いい響きの言葉だ。
辞書には,こうある。
「映え」はもと「延へ」で,外に伸ばすこと。つまり,心のはたらきを外におしおよぼしていくこと。そこから,ある対象を気づかう「思いやり」や,性格が外に表れた「気立て」の意となる。特に,心の持ち方が良い場合だけにいう。
そのほかに,
「おもむき」「風情」「事の次第」「気立て」「心遣い」「おもむき」「心だて」
といった意味もあるらしい。心の状態が,外へ広がっている,写し出されている,というニュアンスなのだろうか。まずも悪い意味で使われることはなさそうだ。
「心映え」の「映え」の,「映える」は,栄えるという意味で,
光を映して,美しく輝く。その結果目立つ,というニュアンスになる。「化粧映え」につながる。
「心延え」の「延え」の,「延える」は,敷きのばす,という意味で,
「進む」「伸びる」「及ぶ」「展きのぶる」,というニュアンスになる。蔓延の,蔓がはい延びる,につながる。
ここからは,妄想になるが,
心ばえ
といっても,
心映え
と書くのと,
心延え
と書くのでは,少しニュアンスが変わる。
上記にもあったように,心延えと書くと,
その人の心が外へ広がり,延びていく状態をさし,
心映え
と書くと,「映」が,映る,月光が水に映る,反映する,のように,心の輝きが,外に照り映えていく状態になる。
似ていると言えば似ているが,
おのずから照りだす,
心映え
がいい。それが,その人の,
ありようからきている,
なら,なおいい。僕個人は,
周りへの影響のニュアンスの,
心延え
よりは,何か一人輝きだしている,
心映え
がいい。まあ,そういう生き方をしてみたい,と思う。つい,何か言葉でそれを言い出してしまう。しかしそこには,我執がある。何かすることで目立とうとする自分がいる。それは,心映えが悪い。
そのありよう自体が,おのずと輝く,
はえは,
栄え
とも書く。その在り方自体が,誉れであるような,
そういう生き方,あり方をしてみたいものだ。
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- 能力には,コンピタンスとアビリティの2種類がある。
才能
という言葉には,ついうなだれる。才能は,
才あり,能あること,
才幹
ともいう。と,『大言海』は,にべもない。『広辞苑』は,
才知と能力。ある個人の一定の素質。または訓練によって得られた能力,
とある。語源は,『広辞苑』の言う通り,
「才(才知)+能(能力)」
で,理解して処理する頭と能力の意味。どうも,才能は,音楽,スポーツ,学問などの領域で,
「訓練によって将来優れた能力を発揮すると期待される素質的な能力」
を指して使われているが,心理学的専門用語として確立された概念ではない,と『心理学辞典』では,言っている。
ある場合は,生得的なものとして,
ある場合には,その人とそれを取り巻く環境との相互作用を指し,
ある場合には育成するべき可塑性のあるものを指す,
と様々な意味合いで使われている。
才知,
というと,
物事をうまく行なう,頭の働き,
という意味が強い。どちらかというと,才知と知性では,ちょっと意味が変わるかもしれないが,「知」としては,G・ライルの,
Knowing that(そのことについて知っている)
と
Knowing how(そのやり方を知っている)
という意味合いでいいのではないか。ただ知っているだけではなく,そのことをどうやるかが,わかっていなければ,知っていることにはならない。横井小楠が,学ぶとは,
「書物の上ばかりで物事を会得しょうとしていては,その奴隷になるだけだ。日用の事物の上で心を活用し,どう工夫すれば実現できるのかを考える」
ことだといったのは,そういう意味だ。能力というのは,一般的に言って,
どれほどできるかできないかという力,
のことをいうらしいが,その場合,できるという,その「何」が,が問題になる。ぼくは,アージリスの言った,
ンピタンス
と
アビリティ
の定義を思い出す。コンピタンスとは,
それぞれの人がおかれた状況において,期待される役割を把握して,それを遂行してその期待に応えていける能力,
であり,ある意味,役割期待を自覚して,そのために何をしたらいいかを考え実行していける力であり,その先に,いわゆるコンピテンシーが形成される。つまり,それは,
自分がそこで“何をすべき”かを自覚し,その状況の中で,求められる要請や目的達成への意図を主体的に受け止め,自らの果たすべきことをどうすれば実行できるかを実施して,アウトプットとしての成果につなげていける総合的な実行力,
である。アビリティとは,
英語ができる,文章力がある等々といった個別の単位能力,
を指す。どうも,多く,能力を言うとき,後者を指しているのではあるまいか。それは,Knowing
howでしかなく,やれることの意味と目的がわかっている(Knowing that)のでなければ,知っていることにはならない。
能力=知識(知っている)×技能(できる)×意欲(その気になる)×発想(何とかする)
と(僕が)言うとき,知っているには,Knowing howの(メタ化である)Knowing that を含めている。
たとえば,
「情報処理能力や作動記憶容量といった概念は,どの活動においても,共通に必要とされる情報処理の側面に注目」
したもので,一般に言う,知能に該当する,という説明がある。その場合,自分の中に後天的に蓄えられた,経験と知識であるリソース,
意味記憶,
エピソード記憶,
手続き記憶,
の多寡ではないのではあるまいか。
思うのだが,同じ知識を蓄えても,それをさっさと自己流の行動(問題解決)に応用していく,すばしっこさは,生得のものではなかろうか。どんなに熱心に練習しても(それ自体が素質なのだが),誰もがイチローにはなれない。だから,神田橋條治さんが,
自己実現とは遺伝子の開花である,
という言葉が意味を持つ。
「鵜は鵜のように,烏は烏のように」
とその言葉は続く。鳶は鳶であり,鷹は鷹である,鳶は鷹にはならない。アヒルに交じっても「醜いアヒルの子」は白鳥になったように。そうなると,
「自分が鵜なのか,鷹なのか」を見極めること
こそが,勉強であり,修行である。遺伝子の持つ可能性を,開花させるも,蕾のまま萎れさせるのも,おのれ自身である。
しかし,残念ながら,(確か岸田秀さんの言葉だったと思うが)「人は,幻想をもつ」,そこが人の人である所以ではある。
参考文献;神田橋條治『技を育む』(中山書店),中島義明他編『心理学辞典』(有斐閣),宮城音弥編『心理学小辞典』(岩波書店)
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目利きとは,スキルの
メタ・ポジション
なのだと思う。スキルについてはすでに触れた。
カッツの管理技能の三つの基本的技能に,
テクニカル・スキル(techical Skill),
ヒューマン・スキル(human Skill),
コンセプチュアル・スキル(Concrptual Skill)
がある(前に書いたことと重なる)が,カッツは,
テクニカル・スキルはとは各職能分野における仕事の方法,手続等に関する知識・技能である。
ヒューマン・スキルとは,集団メンバーと上手に相互作用し,チーム・ワークを盛り立てていく技能である。上役,同僚とうまく接し,部下を上手に使い,組織の能率をたかめる,いわゆるヒューマン・リレーションの技能のようなものである。
コンセプチュアル・スキルとは,ものごとの全体的な関係を洞察し,論理的な思考を働かせ,創造性を発揮していく。
とそれぞれを説明するが,
https://img.jinjibu.jp/updir/kiji/YWK12-1023-management_skill0101.gif
と図示されるように,上位に行けばいくほど,テクニカル・スキルは,ウエイトが小さくなる。自分で操作したり,実施するというよりは,管理に回るからだ。その場合,とりわけ必要なのは,
目利き,
ではなかろうか。丸投げや放任でない限り,本当にできているかどうかを,見抜けなくてはならない。だから,
コンセプチュアル・スキル
のウエイトが高まる。佐野勝男氏等の定義では,コンセプチュアル・スキルは,
「ものごとの全体的な関係を洞察し,論理的な思考を働かせ,創造性を発揮」
なのであって,
「ものごとの全体的な関係を洞察」
が鍵になる,と思う。これを,
目利き力
とか
俯瞰力
と呼ぶべきものだ。その視野によって,そのことの,その出来事の,そのものの,
意味づけができる,
ことでなくてはならない。これこそが,と上位者に求められる。
目利きとは,
目+きき(試して調べる,意のキクの連用形)
で,良否を見分けることを言う。キクは,
「耳にもっとも強く響く音(キン・キ)+く」の耳に強く作用する意,
と,
「キ(生きる力)+ク」で,キを活用して現象を強く認識する意,
の二説がある。本来は,
刀剣,書画,器物などの真偽,好悪を見分けること,またはその人,
という意味になる(『大言海』)。
「聞き」は,
感覚で音弥声を感じ取る,
が元の意味で,
味を試す,
の聞き酒の聞くや,
効果がある,
の利くは,後の転用。要は,
鑑識眼
審美眼
具眼の士
見巧者
ということになる。ここからは,まったくの想像だが,対象をきちんと聞き分けるとき,
見立て
や
準える,
のと似た思考方法を取っているのではないか。何かになぞらえるとき,全体の類似性もあるが,AとBを比較し,それぞれの下にツリー状にぶら下がる下位概念,まあ特徴を対比している。真贋でも真偽でも,対比する時,AとB,それぞれの下にツリー状にぶら下がる特徴というか,あるべき印というか,具わるべき要因,を比較しているはずである。その意味では,自分の中にある,
対比するものの引き出し
と同時に,
ツリーの下にぶら下がる特徴(要因)の,更に下(の下の下の…)にぶら下げられる微細に渡る特徴,ー
が多いほど,比較対象の細部を見ていくことになる。その意味では,ものを見るポジションが,
大まかな全体像から,
微細な細部にわたるまで,
遠近自在にできることが,
メタ・ポジション
と一言で言いながら,目利きの力の奥行なのだろう。それは,知識ではなく,
Knowing how
の
Knowing that
を幅広く,奥行深く持っていなくてはならない。
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改めて,(ビジネス)スキルをピックアップしてみているところだが,
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/skill.htm
そこで考えたのは,能力というのと,スキルというのとの違いである。
能力というと,たとえば,例の如く,
能力=知識(知っている)×技能(できる)×意欲(その気になる)×発想(何とかする)
ということになる。これに,
体験(やったことがある)×気力(がんばれる)×体力(やり切れる)
を加えてもいい。ここでは,スキルは,
技能(できる)
つまり,努力すれば身につくもの,という意味である。
あるいは,知識というなら,G・ライルの言う,
Knowing that(そのことについて知っている)
と
Knowing how(どうやるかを知っている)
でいうところの,
Knowing how
つまり,やり方と言っていい。
しかし,世の中は,スキルと能力(一般)とを混同している。スキルにこだわるのは,スキルとは,
「手腕。技量。また,訓練によって得られる,特殊な技能や技術。」
と定義される。つまり,訓練によって得られるのである。得られる結果は(人によって)巧拙があっても,得られなくてはならない。ところが,である。
たとえば,ずいぶん昔,佐野勝男氏らが,ハーバード大学のロバート・カッツを紹介した(佐野勝男・槇田仁・関本昌秀『管理能力の発見と評価』。記憶では,これが嚆矢だと思うが,今日独り歩きしている)が,そこで,
「管理技能について,カッツは三つの基本的技能をあげている。テクニカル・スキル(techical Skill),ヒューマン・スキル(human
Skill),コンセプチュアル・スキル(Concrptual Skill)である。
で,それぞれを,こう説明している。
「テクニカル・スキルはとは各職能分野における仕事の方法,手続等に関する知識・技能である。」
「ヒューマン・スキルとは,集団メンバーと上手に相互作用し,チーム・ワークを盛り立てていく技能である。上役,同僚とうまく接し,部下を上手に使い,組織の能率をたかめる,いわゆるヒューマン・リレーションの技能のようなものである。」
「コンセプチュアル・スキルとは,ものごとの全体的な関係を洞察し,論理的な思考を働かせ,創造性を発揮していく。」
ここで,佐野勝男氏等は,「技能」という言葉にこだわっている。そして,このスキルを図示した有名な,
https://img.jinjibu.jp/updir/kiji/YWK12-1023-management_skill0101.gif
について,この図式は,「この考え方をデイビズが図式化した」と断り(つまりカッツが描いたのではない),
「カッツはこれらの三つの技能は,総て訓練によって開発できる能力であると考えている」
と言いながら,
「テクニカル・スキルは別として,他の二つの技能については先天的なものを考慮はなければならない。」
と付言している。こう付言する根拠は,あるレベル以上でなければならないと,(佐野氏等が)勝手に解釈したせいだと思うが,カッツは,あくまで,(結果の)巧拙は問わず訓練できる,と考えたということを忘れてはならない。
ところが,多くは,次のように,
テクニカル・スキル(業務遂行能力)
ヒューマン・スキル(対人関係能力)
コンセプチュアル・スキル(概念化能力)
と,いつの間にか,カッツが「スキル」と言っているものを,「能力」に置き換えて訳してしまっている。技能とは,
「あることを行うための技術的な能力。うでまえ。」
である。能力一般に還元してしまっては,カッツの言っている意味が変わる。そのことに無頓着だから,定義内容まで変わっていく。
「コンセプチュアル・スキルは概念化能力とも言われ,抽象的な考えや物事の大枠を理解する力を指す。具体的には論理思考力,問題解決力,応用力などが挙げられる。」
「ヒューマン・スキルは対人関係能力とも言われ,職務を遂行していく上で他者との良好な関係を築く力を指す。具体的には相手の話をきちんと聞いて理解するヒアリング,話し合いのなかで自分の意見を主張するネゴシエーション,自分の考えを的確に,論理的に伝えるプレゼンテーション,さらにはリーダーシップやァシリテーション,コーチング,交渉力,調整力などが挙げられる。」
「業務を遂行する上で必要な知識やスキル。これは職務遂行能力とも言われ,その職務を遂行する上で必要となる専門的な知識や,業務処理能力が挙げられる。」
つまり,能力に置き換えたことで,特に,コンセプチュアル・スキルの,大事なポイントが,すり替わってしまっている。流通している考え方では,コンセプチュアル・スキルとは,具体的に,
問題解決力
や
論理思考力
と挙がるが,これは,テクニカル・スキルでしかない。そんなことを言うために,コンセプチュアル・スキルとして,カッツがわざわざ概念化したのではあるまい。ここでは,佐野勝男氏等の定義が正しい。つまり,
「ものごとの全体的な関係を洞察し,論理的な思考を働かせ,創造性を発揮」
なのであって,「論理思考力」は所詮,コンセプチュアル・スキルを実現するための手段に過ぎない。大事なのは,
「ものごとの全体的な関係を洞察」
することだ。僕は,これを,
目利き力
とか
俯瞰力
と呼ぶ。その視野によって,
意味づけること
ができる。上位になるほど求められるのは,
概念化
ではない。
意味づける
あるいは
意味の発見
である。それが新しく,革新的であればあるほど,説明したり,展開したりするのに,論理的思考力や問題解決力(というテクニカル・スキル)が要る(この作業が概念化で,概念化も手段である),というだけである。
しかし,大事なことは,こういうコンセプチュアル・スキルのような,ものの見方というか思考スタイルもまた,スキルだと,カッツが考えたということだ。そこに,佐野勝男氏等のように「先天性を」考えてしまうと,どうそれを育成したり,訓練するかは,ほぼ思考の埒外,つまり不可能になってしまう。スキルと考えるから,
どういうことを学び,
どういうトレーニングをして,
何を体験させ,
どういう知見をえさせば,
これが可能になるか,という思考が可能になる。こういう論理的な詰めは,こう考えると,その前提からして,日米格差がある。
それで思い出したが,第二次世界大戦での,戦闘機の設計思想そのものに,こういう思考の差が現れている。たとえば,
天才パイロットを前提に極限まで軽量化したゼロ戦(後ろに回られたら防げない)
と
普通の(徴兵された)パイロットをも守る防弾装備を強化したF6Fヘルキャット(ともかく兵員を守る)
との差と言っていい。だれでもが学習すれば車の運転のようにできるようになる,そのためにどうすればいいかを,具体的な訓練手段にブレークダウンしていく。これが論理的思考だ。論理的思考が手段というのはこういう意味だ。論理的思考があっても,そもそもの俯瞰力がなければ,下らぬMECE(Mutually
Exclusive and Collectively Exhaustive )のような,役にも立たない細部に血道を上げることになる。
だから,能力と言わず,誰もが身につけられるスキルということで,
ではどうすればそれを身につけることが出来るか,
というKnowing howを突き詰めていく。これを論理的に突き詰め,開発していく,これこそが,
コンセプチュアル・スキル
に他ならない。だから,上位者になればなるほど必要になる。こういうコンセプチュアル・スキルが不足しているから,研修スキルも,研修理論も,いつも,アメリカからの輸入に頼る羽目に陥る。
参考文献;佐野勝男・槇田仁・関本昌秀『管理能力の発見と評価』(日本経営出版会)
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都市伝説のように,マザーテレサが言ったとされているらしい言葉は,
思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。
実は,は出典不明で,
Be careful of your thoughts, for your thoughts become your words; Be careful
of your words, for your words become your deeds; Be careful of your deeds,
for your deeds become your habits; Be careful of your habits; for your
habits become your character; Be careful of your character, for your
character becomes your destiny.
というのが原文らしい。僕は,まったく違うものを読んでいて,ああこの人が言ったのか,と知ったことがあるが,それを探したが見つからなかった。ただ,僕には,これは,マザー・テレサの発言ではないように思えている。僕には,マザーテレサが,こういう言いようをするとは思えない。
人はしばしば
不合理で、非論理的で、自己中心的です。
それでも許しなさい。
あるいは,
あなたは、
あなたであればいい。
あるいは,
私たちは、大きいことはできません。
小さなことを
大きな愛をもって行うだけです。
あるいは,
日本人はインドのことよりも,
日本の貧しい人々への配慮を優先して考えるべきです。
愛はまず身近なところから始まります。
等々が彼女の言いようである。こういうことを言う人が,上記のような言い方をするとは,ちょっと信じがたいだけだから,たいして,根拠はない。ただ,どんな性格でも,どんな習慣でも,テレサは,許す,と思えるのだ。どうも,ネットで見つけた,同類の,
性格は顔に出る。
生活は体型に出る。
本音は仕草に出る。
感情は声に出る。
センスは服に出る。
美意識は爪に出る。
清潔感は髪に出る。
落ち着きのなさは足に出る。
と言う類のものの言い方は,彼女には似合わない,と感じた。なぜなら,
天の声を聞く人の言葉,
とはとは思えないからだ。彼女は,真っ直ぐ地軸の上に立ち天の声に耳をかたむける姿勢を持っている。それなら,違う言い方をするだろう。だから,
まず、その人のなかにある
美しいものを見るようにしています
この人のなかで一番素晴らしいものはなんだろう?
するとかならず美しいところが見つかって
私はその人を愛することが
できるようになります。
こう言い方をするだろう。のっけからつまらぬ回り道をしてしまった。僕は,
身を正すことは,
姿勢を正すことであり,
姿勢を正すことは,
心を正すことであり,
心を正すことは,
耳を正すことだ,
とありきたりのことに気づいたということを言いたいだけなのだ。
先日ある人と話していて,途中で,おのれの姿勢に気づいて,思わず坐りなおした。そうしたら,実にすっきりと,相手の言っていることが,耳にどく気がしたのだ。そして,その瞬間,(相手は起業のことを話していたのだが),
あなたのお客さんが待っている,
ということを直感で思い,(僕の性分では決して口にしない類のことを)口にした。瞬間に,へつらいの気持ちや,おだての気持ちがわいたのではない。素直に,そう感じだのだ。
あるいは,別の機会に,相手の話を聞いていて,自覚して,姿勢をただした,その瞬間,
コラボ,
ということを感じて,口に出した。相手が自分の特徴を気づくには,誰かと一緒に何かを協業してみると,自分の差別性に気づく,と言うのは,後知恵で言ったまでだが,その前に直感したのは,脈絡なく感じたものだ。
直感はともかく,すくっとした姿勢でいるということは,
周囲に立つ,
という意味でもある。立つ,というのは,
「大(ひと)+一線(地面)」
で,両足を揃えてたったさまを示す。両足や両手を揃えた安定という意味を持つ。それは,椅子に座ってもできる。座面一杯に尻を置き,背筋を伸ばすことで,立つのと同じように,地軸に連なる感覚がある。
姿勢を正して,屹立というのは,言いすぎだが,きちんと向き合うことで,相手にもその姿勢は見える。相手にも,
はっきり(こちらの)姿が目立つ,
ということでもある。姿勢というのは,
「姿(すがた)+勢(いきおい・ありさま)」
である。少なくとも,
構え,
である。
「姿」の「次」は,「二(そろえる)+欠(かがんださま)」の会意文字。人がかがんでそそくさと,ものを揃えるさま,という意。「姿」は,「女」を加えて,女性がそそくさと身づくろいをして,身なりを調える,あるいは,ぜんたいをざっとつくろっただけで,むやみに手を加えないそのままの様子,という意。
「勢」の字の「上部は,園芸の芸(藝)の原字で,「木+土+人が両手を伸ばす形」の会意文字。人が木を土に植え,よい形に整えるさま。「勢」は,それに「力」を合わせて,力を加えて,強制し,他のものを程よい形に整える,という意。転じて,自分ではどうにもならない,外からの勢い,という意になる。
どうも,姿勢と言うのは,ずっとある不動の格好とか,佇まい,と言うのではなく,
居ずまいを正す,
というような,意識して,身を正す,という意味が本義のように思えてくる。それは,
意識して作るもの,
というか,
意識して正す,
ものなのだろう。
耳を正す,
という言い方があるかどうかは知らないが,聴く姿勢を取るということは,
居ずまいを正す,
姿勢がいる,ということなのだろう。その意味では,言葉の向こうに,
その人の姿勢,
あるいは。大袈裟に言えば,生き方が出ているはずなのである。
そのことを感じたのは,横井小楠が,暗殺の理由にされた『天道覚明論』において,天皇制廃止論を唱えた,とされた経緯である。しかし,これが明らかな偽書であることを,僕は,言っていることではなく,その文章が,他人事して正論を吐いているところに,見た。
すべてを,我が分内のこととして引き受け,その一切を背負う(という小楠のいつもの)覚悟が,あの文書のどこにもないのである。他人事として語るのならばその人格、思いはいらない。たとえば,小楠はこう言う。
人心の知覚は無限の広さをもち,この知覚を広げれば全世界のこと全てが心に入ってくる。この心の知覚こそ則ち思うであり,思って筋を会得すれば,世界中の物事の理は自分のものになる,
そういう小楠にとって,世界はおのれの内からみている。その世界を、おのれが引き受けるべきものとして、おのれの全力をこめ、誠心を貫く責任をもって。そういう覚悟のみじんもない文章は,心のない文章である。
参考文献;増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房),藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
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カリスマ(Charisma)とは,
預言者・呪術師・英雄などに見られる超人的・超自然的な才能、能力のこと。または、それらの能力を持った人。
人々を率いて、時代に大きな変革をもたらす力、またはそれを持った人。
(超自然的な能力を持っているかのように)人を惹きつける魅力、またはそれを持っている人。
といった意味だが,辞書(『広辞苑』)には,
「(神の賜物の意)超人間的・非日時用的な資質。英雄・預言者などに見られる。カリスマ的資質をもつものと,それに帰依するものとの結合を,マックス・ウェーバーはカリスマ的支配と呼び,指導者による支配類型の一つとした。」
とある。まあ,僕には縁のないことだが,ときに,これをリーダーシップに持ち込むヒトがいるために,話がややこしくなる。しかし,
リーダーにカリスマ性はあるが,リーダーシップにカリスマ性はない。
なぜなら,リーダーシップは,
スキル,
だからである。ことの巧拙,出来不出来,成熟未熟はあるとしても,だ。
M・ウェーバーは
カリスマ的支配
合法的支配
伝統的支配
という支配の三類型として構想した,という。 カリスマ的支配とは,
「『特定の人物の非日常的な能力に対する信仰』によって成立している支配で、その正当性は、カリスマ的な人物の『呪術力に対する信仰、あるいは啓示力や英雄性に対する崇拝』に基づく。そして『これらの信仰の源は、奇跡あるいは勝利および他の成功によって、すなわち、信従者へ福祉をもたらすことによって、そのカリスマ的な能力を実証することにある』。
カリスマ的支配は、偉大な政治家・軍人・預言者・宗教的教祖など、政治や宗教の領域における支配者・指導者に対して用いられ、被支配者・被指導者は支配者・指導者のカリスマ的資質に絶大の信頼を置いて服従・帰依するのである。政治的カリスマでは『軍事カリスマ』と『雄弁カリスマ』が、宗教的カリスマでは『預言カリスマ』と『呪術カリスマ』が歴史上重要である。」
と,ウィキペディアにはある。
ここからは,妄想だが,そういうカリスマ性は,その心理的な影響下にある人間に対しては,強い支配性,指導性をもつが,その支配圏外の人間には,そのカリスマ性は及ばない。それは,リーダーではあるが,リーダーシップではない。もちろんその強いリーダー性が,他へ強い影響を与え,結果としてリーダーシップを発揮することがあるかもしれないが,それは,リーダーシップの本質ではない。
リーダーシップとリーダーシップとを分けることについては,リーダーシップで触れたし,リーダーシップとは何かという本質に関わることは,
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0650.htm
で整理したので,あるいは,繰り返しになるかもしれないが,リーダーシップは,
文脈依存,
だということが一番強い。あるいは,
状況依存,
と言い換えてもいい。いつでもどこでも,共通したリーダーシップがあるのではない。その面で言えば,
リーダー像
は,普遍的かもしれないが,リーダーシップは違う。
リーダーは,チームや組織,集団のパフォーマンスを上げることだ。しかし,リーダーシップはそれとは別だ。その人が,ヒラであろうと,チームリーダーであろうと,役員であろうと,トップであろうと,決して自己完結せず,その問題,その目的を実現するために,必要な人に働きかけ,その人のサポートを得て,それを実現していくことは必要である。そのとき,
リーダーシップ
がいる。それを,
「リーダーシップとは,トップに限らず組織成員すべてが,いま自分が何かをしなければならないと思ったときに(それを覚悟という),みずから旗(何のためかという意味と目的)を掲げ,周囲に働きかけていくことでなくてはならない。その旗が上位者を含めた組織成員に共有化され,組織全体を動かしたとき,その旗は組織の旗になるのであり,リーダーシップにふさわしい地位や立場があるわけではない,ましてやリーダーシップにふさわしいパーソナリティがあるわけではないのである。でなければ,だれも,人を動かせない。このままではいけない,何とかしなくてはならないという思いがひとり自分だけのものではないと確信し,それが組織成員のものとなりさえすれば,リーダーシップである,と考えるところから,リーダーシップを詰めて行かなくては意味がない。」
という言い方をした。これに尽きると,思う。ここに,カリスマ性を入れたければ入れてもいいが,それは本質ではない。
たとえば,ヤマト運輸の二代目社長・小倉昌男氏は,「宅配便の規制緩和を巡り、ヤマト運輸が旧運輸省(現・国土交通省)、旧郵政省(現・日本郵政グループ)と対立した際、企業のトップとして先頭に立ち、官僚を相手に時には過激なまでの意見交換をし…理不尽な要求に毅然として」立ち向かったが,これこそが,トップのリーダーシップである。
要は,トップであれ,平であれ,その人が置かれているシチュエーション,つまり文脈の中で,
自分が何をするためにそこにいるのか,
そのために自分がすべきことは何か,
にどう考えるかに,その人のリーダーシップは依存している,と思う。その文脈の中で,
本当に解決すべきことを,解決できる人を巻き込んで,解決しようとしたかどうか,
がリーダーシップの根幹なのだ。その是非は,その人の文脈の中でしかわからない。だからこそ,そこで,自分が,
何をするためにそこにいるのか,
いま自分がしなくてはならないことは何か,
そのために誰を動かせばいいか,
を本人がわかっているかどうか,
その上で,
いま,自分がすべきことを実現するために,どの人に,どう働きかければいいのか,
をはかっていけるかどうかが,問われている。それができるかどうかは,一般論で語っている限り見えてこない。
実は,これは,アージリスの言う能力と深くかかわる。アージリスは,能力に,
コンピタンス
と
アビリティ
があるとした。コンピタンスとは,
それぞれの人がおかれた状況において,期待される役割を把握して,それを遂行してその期待に応えていける能力,
であり,ある意味,役割期待を自覚して,そのために何をしたらいいかを考え実行していける力であり,その先に,いわゆるコンピテンシーが形成される。つまり,それは,
自分がそこで“何をすべき”かを自覚し,その状況の中で,求められる要請や目的達成への意図を主体的に受け止め,自らの果たすべきことをどうすれば実行できるかを実施して,アウトプットとしての成果につなげていける総合的な実行力,
である。アビリティとは,
英語ができる,文章力がある等々といった個別の単位能力,
を指す。これが,仕事をする能力とするなら,リーダーシップは,コンピタンスの延長線上にある。つまり,
裁量を超えても為さねばならないことがあると思ったら,そのために事態を動かせる人を動かして,事を為そうとする,
ということである。これ以外にリーダーシップはない。
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