ホーム 全体の概観 侃侃諤諤 Idea Board 発想トレーニング skill辞典 マネジメント コトバの辞典 文芸評論


スキル辞典10

  • コンセプチュアル・スキル

コンセプチュアル・スキルを考えることは,能力とスキルの違いを考える格好の材料である。
能力というと,たとえば,
能力=知識(知っている)×技能(できる)×意欲(その気になる)×発想(何とかする)
ということになる。これに,
体験(やったことがある)×気力(がんばれる)×体力(やり切れる)
を加えてもいい。ここでは,スキルは,
技能(できる)
つまり,努力すれば身につくもの,という意味である。あるいは,知識というなら,G・ライルの言う,
Knowing that(そのことについて知っている)

Knowing how(どうやるかを知っている)
でいうところの,
Knowing how
つまり,やり方と言っていい。しかし,世の中は,どうもスキルと能力(一般)とを混同している。スキルにこだわるのは,スキルとは,
「手腕。技量。また,訓練によって得られる,特殊な技能や技術。」
と定義される。つまり,訓練によって得られるのである。得られる結果は(人によって)巧拙があっても,得られなくてはならない。ところが,である。
たとえば,ずいぶん昔,佐野勝男氏らが,ハーバード大学のロバート・カッツを紹介した(佐野勝男・槇田仁・関本昌秀『管理能力の発見と評価』。記憶では,これが嚆矢だと思うが,今日独り歩きしている)が,そこで,
「管理技能について,カッツは三つの基本的技能をあげている。テクニカル・スキル(techical Skill),ヒューマン・スキル(human Skill),コンセプチュアル・スキル(Concrptual Skill)である。」
で,それぞれを,こう説明している。
「テクニカル・スキルはとは各職能分野における仕事の方法,手続等に関する知識・技能である。」
「ヒューマン・スキルとは,集団メンバーと上手に相互作用し,チーム・ワークを盛り立てていく技能である。上役,同僚とうまく接し,部下を上手に使い,組織の能率をたかめる,いわゆるヒューマン・リレーションの技能のようなものである。」
「コンセプチュアル・スキルとは,ものごとの全体的な関係を洞察し,論理的な思考を働かせ,創造性を発揮していく。」
とここで,佐野勝男氏等は,「技能」という言葉にこだわっている。そして,このスキルを図示した有名な,
https://img.jinjibu.jp/updir/kiji/YWK12-1023-management_skill0101.gif
について,この図式は,「この考え方をデイビズが図式化した」と断り(つまりカッツが描いたのではない),
「カッツはこれらの三つの技能は,総て訓練によって開発できる能力であると考えている」
と言いながら,
「テクニカル・スキルは別として,他の二つの技能については先天的なものを考慮はなければならない。」
と付言している。こう付言する根拠は,あるレベル以上でなければならないと,(佐野氏等が)勝手に解釈したせいだと思うが,カッツは,あくまで,(結果の)巧拙は問わず訓練できる,と考えたということを忘れてはならない。
ところが,多くは,
テクニカル・スキル(業務遂行能力)
ヒューマン・スキル(対人関係能力)
コンセプチュアル・スキル(概念化能力)
と,いつの間にか,カッツが「スキル」と言っているものを,「能力」に置き換えて訳してしまっている。技能とは,
「あることを行うための技術的な能力。うでまえ。」
である。能力一般に還元してしまっては,カッツの言っている意味が変わる。そのことに無頓着だから,定義内容まで変わっていく。その代表が,コンセプチュアル・スキルである。たとえば,こんなふうに説明される。
「コンセプチュアル・スキルは概念化能力とも言われ,抽象的な考えや物事の大枠を理解する力を指す。具体的には論理思考力,問題解決力,応用力などが挙げられる。」
「ヒューマン・スキルは対人関係能力とも言われ,職務を遂行していく上で他者との良好な関係を築く力を指す。具体的には相手の話をきちんと聞いて理解するヒアリング,話し合いのなかで自分の意見を主張するネゴシエーション,自分の考えを的確に,論理的に伝えるプレゼンテーション,さらにはリーダーシップやァシリテーション,コーチング,交渉力,調整力などが挙げられる。」
「業務を遂行する上で必要な知識やスキル。これは職務遂行能力とも言われ,その職務を遂行する上で必要となる専門的な知識や,業務処理能力が挙げられる。」
つまり,能力に置き換えたことで,特に,コンセプチュアル・スキルの,大事なポイントが,すり替わってしまっている。流通している考え方では,コンセプチュアル・スキルとは,具体的に,
問題解決力

論理思考力
と挙がるが,これは,テクニカル・スキルでしかない。そんなことを言うために,コンセプチュアル・スキルとして,カッツがわざわざ概念化したのではあるまい。ここでは,佐野勝男氏等の定義が正しい。つまり,
「ものごとの全体的な関係を洞察し,論理的な思考を働かせ,創造性を発揮」
なのであって,「論理思考力」は所詮,コンセプチュアル・スキルを実現するための手段に過ぎない。大事なのは,
「ものごとの全体的な関係を洞察」
することだ。僕は,これを,
目利き力
とか
俯瞰力
と呼ぶ。その視野によって,
意味づけること
ができる。上位になるほど求められるのは,
概念化
ではない。
意味づける
あるいは
意味の発見
である。それが新しく,革新的であればあるほど,説明したり,展開したりするのに,論理的思考力や問題解決力(というテクニカル・スキル)が要る(この作業が概念化で,概念化も手段である),というだけである。
しかし,大事なことは,こういうコンセプチュアル・スキルのような,ものの見方というか思考スタイルもまた,スキルだと,カッツが考えたということだ。そこに,佐野勝男氏等のように「先天性を」考えてしまうと,どうそれを育成したり,訓練するかは,ほぼ思考の埒外,つまり不可能になってしまう。スキルと考えるから,
どういうことを学び,
どういうトレーニングをして,
何を体験させ,
どういう知見をえさせば,
これが可能になるか,という思考が可能になる。だれでもが学習すれば車の運転のようにできるようになる,そのためにどうすればいいかを,具体的な訓練手段にブレークダウンしていく。これが論理的思考だ。論理的思考が手段というのはこういう意味だ。論理的思考があっても,そもそもの俯瞰力がなければ,下らぬMECE(Mutually Exclusive and Collectively Exhaustive )のような,役にも立たない細部に血道を上げることになる。
だから,能力と言わず,誰もが身につけられるスキルということで,
ではどうすればそれを身につけることが出来るか,
というKnowing howを突き詰めていく。これを論理的に突き詰め,開発していく,これこそが,
コンセプチュアル・スキル
に他ならない。だから,上位者になればなるほど必要になる。

参考文献;佐野勝男・槇田仁・関本昌秀『管理能力の発見と評価』(日本経営出版会)

上へ

目次へ


  • 怒りを表現する

感情的になることと感情を表現することとは違う。怒ることと怒りを伝えることとは違うのである。それに関連するスキルとしては,アサーティブについては,すでにスキル2で触れた。また,話すスキルとも関連する。

怒りを感じたとき,どう怒りをコントロールするかという話になるのだろうか。たとえば,論理療法でいうように,イラショナルビリーフがあるからだと。たしかにそれもあるかもしれない。だが,怒りがその人の価値にかかわることだとしたら,それをコントロールすることは,その人の何かを矯めることになる。

確かに激昂した状態で,冷静な判断は下せないし、瞬間のさらにその一瞬の一瞬に集約されたような尖がった状態になっていて,すさまじい視野狭窄に陥っている。トンネルビジョンの状態になっているときの,そこからの抜け出し方は,一瞬立ち止まれるかどうかにかかっている。その瞬間,選択肢が生れる。

このまま行くか,

立ち止まり続けるか,

戻るか,

選択肢が絶えず3つ以上生まれるとき,すでに発想に余裕が出る。

頭の中の,意識の流れは言語化のスピードの20倍から30倍なのだという。さまざまな思いや妄想が次々と流れそれを言語にしようとするとき,その思いに適合する言葉を瞬時に探し当てて,コトバにして口から出す。ところが,怒りの瞬間は,感情が最優先で流れるので,言葉も短絡化する。しかし,思い出すと,言葉を口に出す寸前,必ず,コンマ何秒かの間がある。ほんの一瞬どうするかを迷う束の間がある。その間が,たぶん,立ち止まる最後の機会になる。

何度も怒りで失敗してきた人は,この間合いはよくわかるはずである。長く,自分の怒りを恥じたり,そのたびに悔いる自分を蔑んできたはずだ。

怒りを前にして,相手の反応は3つに分かれる。

同じ土俵で,怒りの度合いを張り合う。この場合,よく野生のオス同士が負けじと張り合うのに似ている。

いまひとつは,すさまじい鎧を着飾って,それで対抗する。手段は,いろいろあるが,まあ馬耳東風と流されるのが、ますます怒りを煽る。

最後は,土俵を下りて去る。とりあえずは頭を下げても,心の中で舌を出しているのが、よく見える。

怒りそのものは悪いことではない。怒りを抑えることも大事だが,怒るべきときに怒らないことのほうが,人間的ではな。そのときに怒らなくてどうするという瞬間もある。自分にしろ,誰か身近な人にしろ,あるいは赤の他人でも,理不尽なことに出会ったとき,それに屈することなく,怒りを挙げることは必要ではないか。怒っている,ということは大事なのだ。

ただし,怒ることと怒っていることを伝えることは別だ。ではどう伝えるのか、もちろん,アサーティブなアプローチも悪くない。しかしもっとストレートな伝え方もあるはずである。

で,こういうやり方もある。

怒っているとしよう。その時,「俺は怒っている」と伝えても,その怒りの大きさは,伝わらないだろう。その瞬間の冷静さが相手に伝わるだけだから,多少日頃の人間関係を意識させることにはなるかもしれないが,怒っているインパクトと,その怒りの大きさは伝わらない。で,

「おれは,いま,

馬鹿野郎!(ここは,怒りの大きさに合わせて大声を出してもいい)

と,言いたい気分なんだ」

と言ってみる。相手の瞬間の驚愕の表情と,そのあとのほっとした表情の落差をひそかに楽しむ。これなら、まだコミュニケーションの土俵に乗っている。

コトバにしなければ,こちらの感情は伝わらない。しかし,怒ってはダメだとすれば,怒っている,という状態を,メタ化するしかない。それが言語化だからだ。
 

上へ

目次へ


  • 会話のずれに気づく

発話の意味は,受け手の反応によって明らかになる。

それは,自分が喋ったことがどう受け取られたかという意味でもあるが,そうシャツチョコばらなくても,その受け取られ方で,話し始められた会話の意味が変わっていく,と考えてもいい。それが,実は会話の楽しみなのかもしれない。受け手は,話し手の会話の中から,自分が刺激を受けた部分に焦点を当てるから,当然少しずつ話の焦点がずれるが,極端な場合は,受け手の体験や記憶の中の話に移行してしまうかもしれない。

伝達という意味で言えば,口頭のメッセージは歩留り25%という説があるくらいで,基本的には,全部を聞くようにはできていないのだろう。だからもともと会話では,意識しないと,自然と自分に引き寄せてしか,相手の話を聞けない。というより,それが聞くことの常態なのだろう。だから,あえて,傾聴といわないと,丸ごと相手の話が入ってこないのだろう。

脳は活発に働き続けている。会話してもしなくても,関係なく想念は走り回っている。そこにちょっとした刺激が,外部から入ると,一瞬でひらめくが,それは,その前に,意識的無意識的に考え続けていた結果に過ぎない。その意味で,人は自分で話しながら,自分で発見したり気づいたりする。よくコーチングではオートクラインなどというが,発話する時,発話の2〜30倍のスピードの想念から,言葉にして,口から言語として語りだす。それまでのプロセスは,自分の思いをどう言葉にするかの方に注意が向いている。しかし発話した瞬間,こんどは自分の喋った言葉を耳から,情報として聞く。それが,外からの人の言葉と同様に,脳への刺激となり,気づきをもたらす。ブレインストーミングが効果があるのは,相手の発言の意味内容全体よりは,そこから受け止めた刺激としての情報に,たぶん意味がある。その門前で,批判してしまったら,ゲートを入る情報が少なくなる,そんな意味だ。

会話の微妙なずれ,ということで井上光晴を思い出して,探してみたが,うまく例題になるものが見つからない。
適当に拾い出してみた。

「酔ったな」彼はいった。
「酔ってなんかいないわ。事実をいっているだけよ」
「何が事実だ。森次のことを,いつおれが一枚看板にした。森次のことを,いつおれが売り物にした。森次のことをいうのは,あいつが可哀そうだからだ。いつ,おれが自分の性根をうしなった」
「森次さんが可哀そうなのは,いまはじまったことじゃないじゃないの,はじめからだ」
「ごまかすなよ」
「私が何をごまかしてるの」
「ごまかしてるよ。君は自分のことは何もいわないじゃないか」
「変ないいがかりはよしてよ。私が何をいわないっていうの,何を隠しているっていうの」
「君は隠しているよ」
「ほら,それがあなたの得意の論法よ。自分が危くなると,逆に相手に短刀をつきつけるんだから」
「短刀をつきつけられるようなことがあるのか」
「なにをいってるの。言葉だけのりくつはやめてよ」(『地の群れ』)

ただ単純にページからランダムに引き出しただけだが,普通の会話のずれと微妙な乖離が見事に出ている。会話の名手という気がしている。人は,自分のことを考えている,だから自分の引っかかったところに食いつく。そしてそこで会話が変わっていく,ということが如実にわかる。

この会話のずれは,お互いの思いのずれになり,思いのずれは,少しずつ行き違い,隔絶を広げていく。こんな時,話せば話すほど,ずれは大きくなる。

相手のずれに気づければ,その人の関心か,あるいはその人としての注意の向きがみえる,かもしれない。たぶん受け止めるということが必要なのは,そのことを拾い上げることなのではないか,という気がしてくる。そこに,意識していないかもしれない,関心や価値があるはずだから。

それは,相手は,自分の話をどれくらい聞く姿勢になっているかの指標でもある。口頭のメッセージは,歩留り25%といわれる。相手が,自分に関心のあるところだけに喰い付いて,話を展開していけば,論旨は思わぬ方向にずれかねない。気づいたところで話を戻さなくてはならない。

上へ

目次へ


  • 笑顔効果を生むユーモア

    「絶望の反対は,なにか?」
    普通に考えると,希望ということになる。だが,ある女性歌手は,
    「絶望の反対は,ユーモアではないか。」
    と答えたという。辞書では,
    「上品なオシャレや諧謔」
    「社会生活における不要な緊迫を和らげるのに役立つ,婉曲表現によるおかしみ。」
    とあるそうだ。(『希望のつくり方』)

    コトバ的には「希望」が妥当なのだろうが,その伝でいくと,絶望の底から,ふっと引き上げられる,その瞬間の感情に焦点を当てると,滲むような笑顔が浮かぶきっかけになるもの,と受け止めてもいいのだろう。望みのなくなった時,ふと笑いを誘われて,そこから立ち上がるきっかけをつかむ。そんな藁しべなのかもしれない。それを,表情側に焦点を当てれば,ユーモアに誘われて引き出された笑顔ということになるのではないか。

    箸を横にして口にくわえると,そこに浮かぶ表情筋の使い方は笑顔に似ているそうだ。そして笑顔に似た表情をつくると,ドーパミン系の神経活動が変化するといわれている,という。ドーパミンは脳の快楽に関係した神経伝達物質で,楽しいから笑顔を作るというより,笑顔をつくると,楽しくなる機能を脳はもっているらしい。しかも,実験では,笑顔になると,楽しいものを見つける能力が高まるのだという。つまりは,悲しみやネガティブではなく,面白さや楽しさに目が向く。

    逆に恐怖や嫌悪の表情の実験では,恐怖の表情をつくると,それだけで視野が広がり,眼球の動きが早まり,遠くの標的をとらえられるようになり,嫌悪の表情をつくると,逆に視野が狭くなり,知覚が低下したという。つまり,この実験で,恐怖への準備は恐怖の感情ではなく,恐怖の表情をつくることで,スイッチがはいるらしい。これを顔面のフィードバック効果というそうだが,笑い顔をつくるだけで,プラスのフィードバック効果が心にあるというのは頷けよう。

    そう考えると,ユーモアが,絶望の反対,あるいは絶望を抜け出すきっかけになる,というのもまんざら嘘とは言えない。というか,確かにいいセンスだ。ひょっとしたら,本当に絶望した経験のある人なのかもしれない。

    たとえば,われわれは,相手のしぐさをまねる性向があり,相手の笑顔をみたら,自分もその表情を真似るらしい。すると笑顔の効果で自分の感情が楽しくなる。ということは,笑いの場,笑いを生み出す場にいるのがいいのではないか。

    例えば,寄席。ただし吉本喜劇はだめだと思う。あのわざとらしい,あざとい笑いの強制は,自然に生み出す笑いとは似ても似つかない。あそこからは,絶望感が深まるものしか生まれない気がする。なんというのだろう,思わずつられてにこりとしてしまう,そういう笑いを引き出すものでなくてはいけないのではないか。例えば,古いかもしれないが,ひげダンス。欽ちゃん走り。あるいはパントマイム。寄席ならそんなのがいっぱいありそうだ。吉本新喜劇よりは松竹新喜劇(ちょっと古すぎか!)。

    なぜそう思うかというと,こういう例がある。

    脳卒中によって左半球の運動皮質が破壊され,顔の右半分がマヒしている患者の場合,患者の口元は正常に動いている側に引っ張られてしまう傾向がある。患者に口を開け,歯を見せるように言うと,その傾向は一層際立つ。

    ところが,患者が滑稽な話に反応して自発的に微笑んだり高笑いすると,まったく違ったことが起きる。笑いは正常で,顔の両側がまっとうに動き,表情は自然で,その人間がマヒにかかる前に見せていた笑いと変わらない。これは情動と関係する一連の動きをコントロールしているものが,随意的な動きをコントロールしているものと同じではないことからきているらしい。

    もし笑いが,心に楽しさの灯をともすのなら,わざとらしく笑うよりは,自然な笑い,湧き上がる笑いによる効果のほうがいい,まあ個人的にはそう思うのだ。

    これをもう少し敷衍するなら,いつも笑いのある場は,楽しさいっぱいだろう。そして,そういう場には発想が豊かに違いない。なぜなら,発想力とは選択肢がいっぱいあることであり,それにはユーモアが重要なキーワードなのだ。しかめ面した顔からは,トンネルビジョンに入り込んだどん底の苦しさしかない。そこには選択肢は少ない。

    参考文献;池谷裕二『脳には妙なクセがある』(扶桑社),アントニオ・R・ダマシオ『生存する脳』(講談社),玄田有史『希望のつくり方』(岩波新書)

上へ

目次へ


  • 質問を効果的に使うための土俵づくり

質問については,コーチング的な意味と位置づけについては,例えば,次のようなことが言えるし,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod06432.htm

またコーチング的対応とそうでないやり取りとの違いは,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod064301.htm

とまとめることができる。

でも,もう少し先を考えておく。

たとえば,「コーチングのスキルは,注意を向けることに尽きる」(ジョセフ・オコナー&アンドレア・ラゲス『NLPでコーチング』)という言い方もあるし,「注意を向けるだけで,心はつながる。それが欠けていては,共感は生まれようがない」(ダニエル・ゴールマン『SQ 生きかたの知能指数』)ともいう。

ゴールマンは,注意を向けるということについて,さらに,

「相手に注意力を集中するほど,相手の内面を鋭敏に感じ取ることができる。より迅速に,より微妙な信号まで,より曖昧な状況においても,感じ取ることができる。逆に,ストレスが大きければ,それだけ相手に対する共感力は落ちる」

「このような特別の結びつきにはつねに3つの要素が伴うことを,ローゼンタール(ハーバード大学教授)は発見した。お互いに対する心の傾注,肯定的な感情の共有,そして非言語的動作の同調性,である。この三要素がそろったとき,ラポールが生まれる。お互いに対する心の傾注は,第一の重要な要素だ。2人の人間が互いに相手の言動にきちんと注意を向けるとき,そこには互いに対する関心が生まれ,2人の集中力がひとつになって知覚が結びつく。お互いが注意を向け合う状態になると,感情を共有しやすくなる」

ともいう。それを,私は,共通の土俵という言い方をする。土俵というと,「戦う場」のイメージが強いので,共通の場でも,フィールドでも,舞台でも構わないが,ともかく,一緒の地平に立っているということが大事なのだ。

「流行のハウツー本に書かれている内容とは反対で,意図的に腕の組み方や姿勢を真似て相手に調子を合わせても,それ自体でラポールが高まるわけではないのだ」という。これは,その通りだと思う。この背後には,

「ドイツ語の『Einfühlung』は,1909年に初めて英語に訳され,「empathy(共感)」という新造語として伝わったが,このドイツ語を文字通りに訳すならば,『〜の中へ感じる』であって,他者の感情を内的に模倣することを示している。『empathy』という訳語を作ったセオドア・リップスは,『サーカスで綱渡りをする芸人を見ているとき,私は自分が彼の内側に入ったような気持ちになる』と述べている。他者の感情を自分自身の身体で経験するような感覚だ。そして,そういうことは確かに起こる。神経科学者たちは,ミラーニューロンの働きが活発な人ほど共感も強い,と指摘している。」

なのだと,例のミラーニューロンまで挙げている。しかし,こんなことよりなにより,土俵にのるようにすればいい。一番いいのは,相手の土俵にのることだ。

たとえば,部下に,「バカヤロー」と,その失策やミスを頭ごなしに叱るのは,正解を自分が持っているところから,自分の土俵で言っている。これを,

「自分で振り返って,俺はなんて馬鹿なことをやってるんだって,思うことない?」

と問いかければ,部下は自分自身の中で,答えを見つけなくてはならないだろう。質問は,質問されたものが,自分の中に答えを見つけようとすることなら,問う側から,相こ手に考えてほしいことを,命ずることなく,探させることになる。

「お前は,あほか!」

というよりは,

「お前さんは,自分で振り返って,おれはあほか,と思うことない?」

と問いかけたほうがいい。ただし,その問いに答えられないようなタイプもいる。正真正銘の考えないタイプの場合は,噛んで含めるように,小さなステップを,ひとつひとつ,叱りながら導くしかない。しかしその場合でも,相手に,なぜ自分が相手を叱っているか,の思いをきちんと伝えなくてはいけない。基本的に,

口に出さないことは伝わらない。

と私は思っているので,たとえば,「今ここで,これをきちんと覚えておかないと,ここで働く戦力とはみなされないぞ。」というように。

で,このことは,単に,叱るとか指導といったことだけではなく,アイデアや発想のおいても,必要だと思っている。これについては,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/view51.htm

でもふれたが,一緒につくりあげていく,というのは,一緒の土俵に乗らない限りできないことなのだ。

【注】ミラーニューロンは,相手の動作を見ただけで活性化する。ミラーニューロンの多くは,運動前野にある。実際の会話や動作,運動を起こそうとする意図まで含めて,運動にかかわる神経を支配する部分のそばにあることで,他人の動作を見ただけで,自分の脳内で同じ動作を起こす部分が即座に活性化する。人間のミラーニューロンには,物まね以外にも,意図を読み取る,相手の行動から社会的願意を推論する,感情を読み取るなどの働きがあり,共感性の神経科学的な根拠となっている。

上へ

目次へ


  • ひらめきと発想の脳機能

直感とひらめきの違いについて,池谷祐二さんはこんなことを言っている。

ひらめきは思いついた後に,その答えの理由を言語化できる。直感は,本人にも理由がわからない確信。ただなんとなくとしか言いようがないあいまいな感覚。根拠は明確ではないが,その答えの正しさが漠然と確信できる。しかし「直感は意外と正しい」という。ヤマ勘や思い付きではない。そして,ひらめきを,知的な推論,直感を動物的な勘,ひらめきは,陳述的,直感は,非陳述的,と説明する。

直感は,線条体や小脳が関与するが,ひらめきには,脳の働きとして,理詰めで正答が導ける場合と,相手の出方を推測しながら,判断しなければならない場合があり,同じひらめき型では,まったく脳の使い方が異なるようだ。ただ,ひらめいた瞬間,脳の広範囲が活性化すると言われている。それについては,ここでは触れられていないが,直感の時とは,少し違う気がする。直感は,パターンで感じ取る,という気がする。将棋や囲碁のプロが,蓄積した経験の中から,直感する場合,なぜかは説明できないが,それが結論として動かないことに変わりはない。

ではアイデアがひらめくときはどうなのか。

グレアム・ウォーラスによれば,着想の王道は,
@ 課題に直面する
A 課題を放置することを決断する
B 休止期間を置く
C 解決策をふと思いつく
だそうだが,特にBの熟成期間が重要らしい。ある実験では,課題を長い時間起きて考えていた人より,睡眠をとった人のほうが,成績が良いという結果が出ているらしい。特にREM睡眠と呼ばれる,浅い眠りの多い人ほど好成績だったという。

こうしたステップでは,ジェームズ・ヤングの『アイデアのつくり方』が最近では有名だが,そこでは,

第一段階 資料集め
第二段階 集めた資料の加工  【ここまでが準備】
第三段階 孵化段階      【孵化(あたため)】
第四段階 アイデアの誕生   【啓示(ひらめき)】
第五段階 アイデアの具体化  【検証】

とある。たぶん,AとBが孵化プロセスにあたる。

ヴァン・ファンジェの定義以来,創造性とは既存の要素の新しい組み合わせとされており(川喜多二郎氏は,これを,「本来ばらばらで異質なものを結びつけ,秩序付ける」といった),その組み合わせを見つけた時,脳内の各所とのリンクというかたちで出現するのではないか。そのための準備期間がいる。今まで考えられていたものごとのつながりを崩して,新しいつながりを見つけるには,ある種の視点転換がいるのだ。

それは,数学者の岡潔さんが,タテヨコナナメ十文字,考えに考えて考えつめて,それでだめなら寝てしまえ,といっていたのと符合するのではないか。ただ,この眼目は,ただ熟成すればいいのではなく,その前の段階で,脳をフルに使いこんで,考えつめたプロセスがあってこそ,寝てしまうことで,その間,トンネルビジョンに陥っていた着想を,違う視点から考えるきっかけになる,というところではないかと思う。

そこで,睡眠ということが,かぎになる。

睡眠中の脳の活動については,まだ決定的な答えは出ていないようだが,睡眠の役割の一つは,「記憶の整序と固定化」にあるといわれる。実際,レミニセンス現象と呼ばれる睡眠効果が実験で確かめられている。たとえば,ある訓練をして,12時間後,やってみると,平均50%に低下するのだが,その後7時間睡眠をとると,前日の訓練直後の成績に戻る,という。

睡眠でも,浅い眠りの時は,海馬がシータ波という脳波を出し,情報の脳内再生を行っている。逆に深い眠りの時は,大脳皮質がデルタ波を出し,記憶として保存する作業を行っている,とされる。ということは,深い眠りの時に,効果的にデルタ波をだせば物覚えが良くなるということが実験で確かめられている。

ここで問題は海馬である。記憶の再生ということは,その前につめに詰めたことを,もう一度違う形で再生していることを意味する。自分の経験では,すごく緊張する,新しい場,たとえばワークショップに初参加したような夜,すさまじく刺激的な夢を見た,という経験をしたことがある。夢は記憶の再整理ともいわれるが,このプロセスで,意識的に眺めていたものを,俯瞰したり,別の文脈(夢は多くそんな,まったく別のシチュエーションで展開されるケースが多いように感じる)に置かれることで,着想につながることがあるのではないか,という気がする。

一端思いついた脳内の着想や問題意識は,無意識の中で,ずっと続いていく。そして,ふと,何か関係ないものの中で,たとえば人との会話や読んでいる本の中から,刺激を受けて,ふいに着想することがある。これは,メモをとりつづけていると,同じ傾向の発想が断続的に思いついていく,そしてそれが少しずつ発展しているのに気づく。その意味では,休止とは,そこにのめりこむことから,一旦離れる,ということも含んでいるのかもしれない。

参考文献;池谷祐二『脳には奇妙なクセがある』(扶桑社

上へ

目次へ


  • 承認の効果

一般に,承認(アクノレッジメント)については,

「a statement or action which recognizes that something exists or true」

そこに存在していることに気づいていると表明したり振る舞いで表すこと,とされている。つまり,相手の存在を認め,更に相手に現れている違いや変化,成長や成果にいち早く気づき,それを相手に伝えることである。

承認という場合,ほめることと同じではないし,評価ではなく,事実を伝えること,とされている。事実として,相手が何をどう達成したのか,どう変化したのか,を言葉にして伝えることだとされる。

例えば,ザックリと,「よくできたね」と伝えるのではなく,どこどこが,以前に比べてどれくらい成長したかを,事実として伝えることを意味する。それを伝えられた側は,その承認された事実がほんの些細な成長であっても,それをきちんと見てくれている,ということによって自己肯定感を高め,相手への信頼を強くする効果があるように思える。

承認の伝え方としては,次の3つのタイプがあるとされる。
@ YOUメッセージ 「あなたは○○だね」というように,これは,見えている事実を,「あなたは,」と客観的に伝えることになる。
A メッセージ 「あなたが○○したことは,わたしにこんな影響があった」というように,私にはそう感じられた,そう見えたというように,主観として,相手に伝える伝え方である。
B WEメッセージ 「あなたが○○したことは,わたしたちにこんな影響があった」と,これはIメッセージの「われわれ」版ということになる。ただ伝えているのが,私なので,私の主観である側面が入るかもしれない。

以上が公式の承認の考え方だが,これを,他の他者認知,たとえばほめる,あがめる等々とどう区別するのかを試論として整理したのが,


である。ここで問題になるのは,賞賛とは違うとして,認知や敬意とどう違うかだ。

まず,「認知」とは,CTI系で主として使うが,クライアントがある特定の行動を起こしたり,ある特定の目標を達成したりする過程で発揮したその人の強みや良さに気づき,それを本人に伝えること。自分の本当の姿をコーチがみてくれている,知ってくれていると感じられるようにするためのスキル。単に相手の行動を表面的に誉めたり,評価するのではなく,コーチとして感知した相手がどんな人なのか,その人自身が気づいている以上のリソースや力,価値観などを伝えること,とされる(『コーチングバイブル』)。

ただ主観的には,それはあくまで,こちら側の受け止めなので,事実というよりは,Iメッセージとしての承認に近いような気がする。

次は,ブリーフセラピー,特にソリューション・フォーカスト・アプローチでいう,「コンプリメント(敬意)」との違いだ。

「コンプリメント」とは,ねぎらうこと,敬意を表すること。あくまでクライアントの言葉や行動にもとづいた事実に根ざしていなくてはならない。直接的なコンプリメントと間接的なコンプリメントがある。直接的なコンプリメントは,肯定的評価(「それはすごいですね,よくやれましたね」)と肯定的反応(「わあ,すごい!」)がある。間接的コンプリメントは肯定的な質問である。@望まして結果について更に「どうやってそれをやったんですか」と質問する,A関係を通して,「それを聞いたらお子さんはどう反応するでしょうね」と,肯定的なものを暗示する質問,B何が最善かはクライアントがわかっていることを暗示する,「どうしてそれをしたらいいとわかったんですか」と質問する(『解決のための面接技法』)。

コンプリメントは,比較的承認と似て,事実を伝えること,に力点がある。承認と敬意(コンプリメント)は,何を伝えるかについては結構重なっている。ただ,それはYOUメッセージについてであって,Iメッセージで伝えようとすると,すべては「わたしには〜だ」の,主観を伝える中に入ってくるような気がする。

日本語の構造から考えると,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0924.htm

でのべたように,基本は,「辞」につつまれれば,すべてはIメッセージになりうるので,逆に言うと,客観的事実を伝えているのだと,強調するためには,「あなたは,」あるいは「誰々さんは,」とはっきり言う必要があるのかもしれない。

では,フィードバックとはどう違うのだろうか。この言葉自体は,大砲の砲弾の着地点の修正という意味だと言われるが,サイバネティクス的に言えば,システム外の情報をシステム内への取り込むことで,自分の動き,自分の認識の軌道修正を図るところにあるのだから,伝える側が,「あなたは,○○です」と返すことで,自分の自己認識や自己イメージ,自分の振る舞い,言動を軌道修正したり位置確認をしたりすることになる。

その意味で言えば,フィードバックは,相手が自己認識を確認したり修正ができるように返す,ということができる。承認は,こちらの受け止めた相手認識を伝えるので,そのことによって,軌道修正することは同じだが,基本は,プラス要因を伝えることが多いので,自尊感情,自己肯定感を刺激し,自分のプラス要素を広げていくのに有効なのではないか,という気がする。

ただ,この承認にしろ,フィードバックにしろ,両者に信頼関係という土台のないところでは機能しないので,ひょっとすると,承認の大前提は,相手を信頼し,相手を受け止め,丸ごと受容してくれるという環境を設定すること自体が,相手への承認になっているのであり,その上にこそ,事実にしろ主観にしろ,承認を伝えていくことに一層効果があると言えるだろう。

とすると,笑顔や頷き,感嘆といった返し自体も,その雰囲気づくりには有効ということになる。あるいは,そもそも相手に好奇心をむけて,聞く姿勢そのものが,相手を承認している,と言えるはずである。そういえば,ジョセフ・オコナーは,コーチングのスキルは,注意を向けることに尽きる,と言っていた。

ところで,コンプリメントの直接コンプリメントと間接コンプリメントとの関連で言えば,承認にも,直接伝える以外に,間接の承認があり得るのではないか。

つまり,そこに存在していることに気づいていると表明したり振る舞いで表すこと,相手の存在を認め,更に相手に現れている違いや変化,成長や成果にいち早く気づき,それを相手に伝える,というアクノレッジメントには,直接そのことを伝えることの他に,相手の変化や成長を前提にして,
「なぜそんなことができたんですか」
「どうしてそんなことをしようと思ったんですか」
と,その先を相手に質問する方法があるはずである。仮に,それを間接的なアクノレッジメントと呼んでおくと,そういう効果のある質問は肯定質問を呼ばれ、下記のような例が挙げられる。この質問をする場合,質問する側に,そのことが既に相手ができている,という承認を前提にしており,そのことは相手にも伝わる。

間接的なアクノレッジメントのための肯定質問例
1. どうやって(そんなことが)できたんですか
2. 何がきっかけでそうしようと思ったのですか
3. それができたわけを教えてください。
4. あなたにそんな力があると,どこで気づいたんですか
5. どうしてそんなことが可能になったんですか

6. どんな幸運がそれを可能にさせたんですか
7. どういうふうにそれがうまくいったのですか
8. 何がうまくいったのですか
9. そうしたらいいとどうしてわかったんですか
10. (それをしたことで)何が変わりましたか

11. (なしとげた後)何から変わったとわかりましたか
12. どんな学びがありましたか
13. そこから何がえられましたか
14. そこからさらに学べそうなことは何ですか
15. そこで役に立ったことは何ですか
 
16. 誰(何)か助けになったものはありますか
17. どんことをやってそれができたんですか
18. いまからもっともっとできそうなことは何ですか
19. どうやってそんな心境になれたんですか
20. そんな状況なのにどうしてそれが可能だったんですか

肯定質問も,コンプリメントのように,もう少し整理できるのかもしれないが,こう見ると,実はコーチングらしいポジティブ質問は,そのまま承認の意味を持つ可能性があると言ってもいい。そして,承認された側は,自己肯定を許容されて,自己イメージが膨らみ,自分の中に隠れていた自分の可能性や潜勢力を拾い上げていくエネルギーを受け取ることになる。どっちにしても,承認は,コーチングの強力な武器なのである。いや,あるいは,コーチングという舞台そのものが,承認するためにあるのかもしれない,という気がしている。

参考文献;インスー・キム・バーグ他『解決のための面接技法(第三版)』(金剛出版),ヘンリー・キムジーハウス他『コーチング・バイブル(第三版)』(東洋経済新報社)

上へ

目次へ


  • マインドセットの切り替え

発想をスキルから考えるのもいいし,人とのキャッチボールから考えるのもいい。例のブレインストーミングストーミングは,いわば,アイデアや発想を自己完結しないためのいい仕組みだ。ブレストについては,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod083.htm

を見ておいてほしいが,そのほか,コミュニケーションにかかわるチェックリストは,次のように結構ある。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod064.htm
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0640.htm
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod06400.htm

基本的に,アイデアや発想に,否定やネガティブはないのだから,このブレスト4条件は,マインドセットの基本中の基本だろう。確か,カーネギーも『人を動かす』で言っていた気がする。
「二人の人がいて,いつも意見が一致するなら,ひとりはいらない」
と。人はそれぞれ違う。しかしその違いは,微細かもしれない。アイデアで大事なのは,その微細にこだわることでもある。アイデアを考えるのは,議論するのではない。勝ち負けでもない。正否でもない。カーネギーの言う,「議論に負けても意見を変えない」というその個を大事にしつつ,しかし,人は一方で,使い慣れた脳しか使わない,機能的固着に陥っている。自己完結は,絶対タブーなのだ。

そのほかに,考えられるのは,3つあるように思う。

第一は,どうしても外に答えを探そうとすることだ。答えは自分たちの中にある。というより,徹頭徹尾自分たちの中で考えなくては,発想とは言わない。自分たちのリソースを使い尽くす。たとえば,「正方形がいくつあるか」という設問がある。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod021.htm

この出典では,正解が巻末にあった。こういうのをパズルという。たとえば,
ためらわず,こういう人がいる。
 「ラインの交差したところは正方形ではないか」
 それに,どう反応されるだろうか。「そんなばかな」「それは禁じ手だ」「そんなことがOKなら……」
 こういう自由に考える人が必ずいる。こういう意表をつく発想は,大概はそれを押しつぶすか,面白いジョークとして聞き流されて,まともに相手にされない。こういう発想があるから,自己完結してはいけないのだ。キャッチボールする意味がある。

第二は,アイデアに正しい間違いはないということだ。こういう質問がある。「部下に,何かいいアイデアはないか,あったらどんどん出してくれ,というのだが,なかなか出てこない,出てきてもありきたりでつまらないものばかりだ,部下の発想力をアップするいい方法はないか」と。
これに,二つの疑問が浮かぶ。まず,アイデアは完成型でなくてはいけないという誤解がある。アイデアづくりとは,端緒の思いつきをキャッチボールで深めていくものであり,完成品が出てくるものではない。一緒にまとめ上げていく共同作業のおもしろさを管理職は気づいていない。いまひとつは「ありきたり」と思っているのはトップだけかもしれない,ということだ。自己完結している限り,それに気づけない。

むしろ,こう考えるべきだ。くだらないアイデアはない。くだらないといった瞬間,そのアイデアは生かされることなく,消えていく。例えば,くだらないと思ったら,こう聞いてみる。「わかった,もしこのアイデアが実現できたら,何が起こる,あるいはどういうことができるようになる」と。部下は何か言うだろう。そしたら,「その目的を実現するのに,ほかにどんなアイデアが考えるだろう」と,一緒に洗い出していく。どんなアイデアも,完結品ではない。一緒に完成していくプロセスが大事なのではないか。

第三は,まずできるかどうかを考えない。どうなったらベストかを考える。われわれは大体できることを少しずつ積み上げていく。その意味で失敗はないが,突出もできない。ダイソンがあの掃除機を提案した時,どの家電メーカーも見向きもしなかった。我々は扇風機を五枚羽,十枚羽と積み上げて,そよ風を作り出す。しかしダイソンは羽根のない扇風機をつくる。失敗しないために,「できること」を積み上げていっても,「こうなったらいい」「こういうのがあればいい」という発想から,どこまで実現可能か,どうやったら実現できるかを考えるタイプには永遠に追いつけない。

そもそも発想とは,どうしたら実現できるかを考えることであって,できることを積み上げることではない。むしろ,できない(と思われている)ことを,できる (と思える) ようにすることだと信じている。

だから,個人的には,多機能は発想とは言わない,と思っている。組み合わせることは多機能で代替してはならない。なぜなら機能をつけたして働かせるのではなく,機能を加えないで同等の働きをさせるにはどうしたらいいかを考えることが,発想だと思うからである。

川喜田二郎氏の「本来ばらばらで異質なものを意味あるようにむすびつけ,秩序づける」という創造性の定義をかみしめなくてはならない。つなぎ合わせただけではだめなのだ(それは多機能)。つなぎ合わせた時,まったく別の意味が見える。その時,機能は足したのではなく,一つになってしまう,あるいはなくなってしまう,そういうことを考えるのが,発想の面白さなのではないか。

参考文献;エドガー・ハーディ『「2+2」を5にする発想』(上出洋介訳 講談社)

上へ

目次へ


  • 共感とブレインストーミングの関係

ブレインストーミングストーミングは,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod083.htm

にあるように,4原則があるが,その中の第一条に,「メンバーの発言への批判禁止」というのがある。

「批判」は,既存の価値や知見での評価である。アーサー・C・クラークも言っている。「権威ある科学者が何かが可能と言うとき,それはほとんど正しい。しかし,何かが不可能と言うとき,それは多分間違っている」と。批判しないということは,自分の価値判断や感情,準拠枠を脇に置くことだ。そのことで,相手の声や意見が入りやすくなる。

こちらの枠組みを外すことで,シャッターが開く,そのことで相手の話が入りやすくなり,共通点見つけやすくなる。さらに相手の土俵で受けとめられれば,共感につながるのではないか。

ロジャースは,共感について,

「クライアントの私的世界をそれが自分自身の世界であるかのように感じとり,しかも『あたかも……のごとく』という性質(“as if”quality)を決して失わない−これが共感なのであって,これこそがセラピーの本質的なものであると思われる。クライアントの怒り,恐れ,あるいは混乱を,あたかも自分自身のものであるかのように感じ,しかもその中に自分自身の怒り,恐れ,混乱を巻き込ませていないということ」

が条件であると書いている。あたかも,自分のそれであるように受け取る。しかも自分の感情を混乱させるような巻き込まれのない状態で,ということです。それには訓練がいる,と書いている。

ここでは,日常的に,あるいは生活面で共感「的」であるとはどういうことなのか,を考えてみたい。

カーネギーは,「議論に負けても意見を変えない」と名言を吐いている。勝ち負けになるのは,どちらかが正しいと思っているからだ。所詮どちらも,自分の知識と経験からきた『仮説』に過ぎないと思えるかどうかだ。

この背景にあるのは,どこかに正解や正しい答えがあり,それが自説だと思い込むからだ。アインシュタインの理論ですら,仮説にすぎない。ついこの間,敗れたの破れないのと,大騒ぎになっていた。

では,仮説だとすれば,どうすればいいのか。どちらもが,自分の土俵から相手を見るのではなく,共通のテーマを,両者の頭上に置いて,それを見ている構図,を取ることではないか。これを神田橋條治さんは,二者関係から,三項関係へと呼んでいた。

こういうことだ。話し相手が部下や後輩だとして,どうしても部下のしたこと,部下の発言,部下の失敗,部下の報連相等々となると,「どうして君はそうしたの」と,上位者や先輩として,部下に話を聞く姿勢となる。それでは,どうしても部下側は,聞いてもらう立場であり,言い訳する立場になる。そういう会話のスタイルをしている限り,話をしにくいし,聞きにくい。そこで,部下の「したこと」,「発言」「報連相」「成果」そのものを,ちょうど提出された企画書を前にして,一緒に企画そのものを検討するように,部下と一緒に「したこと」,「発言」「報連相」「成果」「テーマ」を,上位者と下位者が一緒になって眺めている関係がほしい。二者関係から,そういう三角形の関係にすること。そうすることで,聞く側も,部下という属人性を話して検討しやすくなる。その位置関係は,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod064301.htm

で触れておいたので,その構図を見てほしい。コーチング的な質問で,それを表示すると,次のようになる。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod06432.htm

いわば,お互いがそれぞれの土俵から見るか,相手の土俵で一緒に考えるか,土俵を頭上に描くか,の違いになる。そのとき,マインドとしては,ブレインストーミングをするのと同じだ。つまり,批判しない,ということだ。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/view51.htm

アイデアを考えるときも,事情は同じだ。結局,自分の土俵,つまり立場,考え方,価値観からものを言うということは,相手にそれに従えと言っているのと同じことだ。そうでないなら,両者イーブンで,そこから共通の答えを探していく作業ができる。それなら,あたかも同じとみなすことはなく,同じものを見つけ出していけるのではないか。

もっと行けば,まずは相手に○を付けてしまう。フェイスブックで,「いいね!」するつもりで,相手にOKをだす。OKした以上,話を聞かざるを得ない。自分にそう課すのも一つの手かもしれない。

カーネギーは,「議論したり反駁したりしているうちには相手に勝つようなこともあるだろう。しかそれはし空しい勝利だ。相手の好意は絶対にかちえないのだから。」と言っていた。といって意見の対立はある。そんなときは,

意見の不一致を歓迎せよ−二人の人がいていつも意見が一致するなら,そのうちの一人はいなくてもいい人間だ。

を忘れないことだ。
 

上へ

目次へ


  • 場が場になる仕掛け

ただ相互にキャッチボールしているだけでは場が場として動き出さない。どんな瞬間なのか,と言われると,どうも場と一体になったり,場と距離を感じたりしながら,その場が目指しているものを,なんとなく感じ取って,それに沿っていく。あるいは場の方向を先取りしたり,導いたりする感覚のあることもある。

例えば,研修などで,あるいはワークショップという場で,そこにいる自分になじめない,その場になじめない自分から,やがてその場の中にいる自分を認め,その場にどうかかわるかを考え,さらに,その場を動かそう,あるいはその場の動きに寄与するようにかかわるようになり,やがて,一瞬だが,場の動きと一体になった感じがする。それを一人一人が体験していく中で,それぞれなりに,場の中での自分の居場所を見つけていく。

清水博先生は,こんなことを言っていました。

「自己は二重構造をもっていることがわかります。一つは自己中心的に(自他分離的に)ものを見たり,決定をしたりしている自己(自己中心的自己),もう一つはその自己を場所の中に置いて,場所と自他分離しない状態で超越的に見ている自己(場所中心的自己)です。私はこの構造のことを,自己の二活動領域とか活動中心と呼んできました。即興劇では,場所中心的自己がドラマのシナリオをつくり,自己中心的自己がそのシナリオに沿った演技(自己表現)をしていくと考えられます。
 わかりやすく言うと,自己中心的自己は場所の中に存在している個物(ストーリーの中で守護として表現されるさまざまな個物,名詞)を対象として,自他分離的に捉えたり,表現したりする働きをもつています。また場所中心的自己はその主語の場所の中における状況を述語するのです。その結果ドラマのシナリオの中では,自己の二活動領域が一緒に働いて,『個物的な主語について述語する』という形式が与えられるのです。」(『生命知としての場の論理』)

宮本武蔵の真剣勝負に臨むときの心構えが例に出されていますが,「相手を対象化して正確に捉える『見の目』と,場所の中に置いて超越的に捉える『観の目』をもって敵を見る」といいます。そこまでいかなくても,グループの中に入った時,似たようなことをしていることに気づきます。

C・オットー・シャーマー氏は,「グループが針の穴を抜ける」という言い方をしていました。その瞬間は,「いつでも時間の流れがゆるやかになり,周囲を取り巻く空間が開かれていくように思う。我々は自分たちの言葉やしぐさ,思考を通して微細な存在の力が輝くのを感じた。未来の存在が見守っていて,我々に注意を向けているようだった。」「グループや組織の関係者が,異なる場から見たり感じたりするようになるのは,この地点」なのだ,という。「未来の領域と直接つながり,その未来の領域が伝える(触発)するやり方で行動できるようになる。」これを,プレゼンシングという。未来の可能性からものを見,出現する未来から自己にかかわっていく動きのことだ,という。 (『U理論』)

そこでは,
まずグループのメンバー間に強いつながりが感じられる。
次に,人々の間に真の存在の力が感じられる。
このレベルのつながりを経験すると,いつまでも続く微細な深い絆ができる。
という。しかし,そのグループへ入るには,それなりの覚悟と手放す作業がいる。「そのたびに敷居を超える」感じだという。

「サークルへ入るときは,まるで死んでしまいそうな感じになります。だから,その感じに気づいたら受け入れることにしています。境界を超えるときは,死ぬときはこういう風に感じるに違いない,というような感覚です。」
「全員が境界を超えると,私たちの状態は変わり,集合的な存在を得ます。私たちは新しい存在,『サークルという生命体』の存在を得ます。私の経験では,境界を超えないことには『サークルという生命体』は経験できません。そのあと,その『サークルとしての生命体』は一個人としての私を超えます。もはや個人としての私はほとんど問題にならないのです。けれど,逆説的ですが,同時に個人としての私もはっきりしてくるのです。」

まさに,自己中心的自己と場所中心的自己が,その場で一体化している感じです。なかなかそういう機会をえられないのは,ひとつは,そこへ入る覚悟をする時に,自分が何か手放すことを拒んでいるためだし, その場でも,自分を場の中に立たせず,分離したままでいようとしていたせいではないか,と気づかせられます。

『場を保持する』ために,その場で必要なのは,場を保持するための,三つの聞く力だという。

第一は,無条件に立ち会うこと。
「立ち会うこと,つまりここで話している保持することの特質は,個人がサークルの源(ソース)と同一化することです。」
「一人ひとりの何かを見る目,感じる心,聴く耳が,もう個人のものではなくなるのです。ですから,予測を状況に重ねてみることはほとんどありません。生命がその瞬間に起こすことに対して自分たちを開くこと以外の意図はほとんどありません。ただ感受性があるだけで,何の企てやもくろみもありません。判断をせず,ありのままを祝福して受け入れる精神だけです。」

第二は,無条件の愛で水平に開くこと。
「部屋のエネルギーの焦点は頭から心臓のあたりに降りてきます。というのは,ふつうその入り口は誰かの心が本当に開いたときに,そしてもちろん領域の存在が感じとられたときに生じるからです。エネルギーの場は降りていくほかないのです。」
「個人的ではない愛には祝福があります。その愛は個人を超越しているということです。個人の人格は関係ありません。私たちは集団としてこの個人を超越した場のレベルを,ただ保持できているだけだと私は思っています。」

第三は,どこ注意を向けるか。
「私たちには真の自己を見るという合意があります。私たちの中の誰かがどんなことをしようと,ほかのひとはその人がしくじったとは考えません。そういう風には考えないと決めているのです。その行為の意図は本来の自己にあるのです。人のためにしてあげられるもっとも素晴らしいことの一つは,その人の本来の自己を見つめることです。私がそれを見ることを通して,その人はもっとも自分自身を生きられるようになる。」

そのとき,「私は大きな人物になったようなに感じます。私自身の存在が充実していく感じがします。」と。

これはあるいはコーチングという場の目指すもののような気がします。そういう場で,「たくさんのことが見えるようになり,もっと多くの自分を経験する」のであり,その場でなければ出会えない,何かがある,というような。

そういえば,そういった場の中の自己なしには,人間は存在しえない,社会的な存在であり,場所的状況を切り離して,自分を語るのは,「自己言及の病理」と清水先生は言っておられました。

参考文献;清水博『生命知としての場の論理』(中公新書),C・オットー・シャーマー『U理論』(英知出版)

上へ

目次へ


  • 企と画の微妙な関係

 企画の「企」の字は,「人」と「止」と分解されます。「止」は,踵を意味し,「企」は,「足をつま先立て,遠くを望む」の意味とされます。いわば「くわだて」です。「画」は,はかりごと,あるいは「うまくいくよう前もってたくらむ」の意味です。いってみれば,プランニングです。企画とは,「現状より少し先の完成状態」を実現するためのプランを立てることになります。この「現状より少し先の完成状態」が,いわば企画で実現したい理想やアイデアといわれるものに当たるでしょう。

ここから大事なことがふたつ言えます。
 @アイデアだけでは企画にはならない,それをどうすれば実現できるかの具体策,つまり「画」を伴ってはじめて企画になる,ということです。
 A現にいま起きている,何をすべきかが明確なことは,企画の対象ではなく,いますぐ対応のアクションをとるべき事柄だ,ということです。いま起きていることは,企画の対象ではないとは,こういうことです。たとえば,いま窓ガラスが割れたとします。すると,誰なら,いつまでに,いくらでやるか,とすぐに動き出します。割れたガラスを見ながら,このガラスを修繕するためにどういう企画をたてるかなどと考える人はいません。「何をすべきか」がわかっているとはこういうことです。しかし,このときの対応にはわかれるはずです。

 第1は,その当該の問題を解決するだけで,「よかった,よかった」と終えてしまうタイプ。次にガラスが割れるまで,何も考えないでしょう。ここからは,発生する問題の処理に追われるだけで,企画は生まれません。
 第2は,「何で,こう簡単に割れてしまったのか。確か2ヵ月前にも割れた」と考え,「割れにくいガラスにするにはどうしたらいいか」,「割れる前にその前兆をわかるようにするにはどうしたらいいか」「割れても罅ですむようなものにするにはどうしたらいいか」等々と考え始めるタイプ。このとき,企画の端緒にたっています。ただ,それが自分の裁量でできることなら,企画をたてるまでもなく,すぐに自分が着手すればいいことです。もし自分の裁量を超えているなら,相手が上司かお客さんかは別として,その人を動かすために,あるいは説得するために,企画が必要になります。時間もコストも,相手に権限があるからです。その人に動いてもいいと思わすためには,説得できるだけの意味と成果が示せなくてはなりません。これが,現実に企画というものを必要とする一瞬です。ここでいうのは企画書ではなく企画です。口頭で説明するだけでも,相手を動かせるからです。

 そうすると,相手からみた場合,企画には,次の3点が不可欠となるはずです。

@何のためにそれを解決(実現)しようとしているのか。企画は目的ではない。何のためにそれをたてようとしているか,それを実現することにどんな意味があるのか。意味のないことに手を貸す人はいないのです。
A企画にどんな新しさがあるのか。わざわざ金と手間をかけてやる以上,いままでさんざんやったことではいみがない。何か新しいこと,何か新しい切り口が必要だ。それは,やることの意味にも通ずることでしょう。
B企画を実現するプランは具体化されているか。どんなリソースを使って,どういう手順で,いつまでに達成できるのか,実現するためのシナリオは明確か。「画」がなければ企画ではないのです。「画」は,「それは無理だ」への,企画するものの説得材料なのです。「画」がなければ,単なる思いつきにすぎないのです。

 しかし企画力と企画を立てる力とはイコールでしょうか。確かにAとBは企画を立てる力といえるでしょう。解決プランニング力である。けれども「これを何とかすべきだ」「こういうことを実現したい」と感じなければ,そもそも企画はスタートしないのではないでしょうか。それが@の背景にあるものになるはずです。これを問題意識と呼ぶとしましょう。
このままでいいのか,何とかならないか,という思いである。この強さは,明確な目標(こうしたいという期待値)と目的(それをするのは何のためか)が明確であることと比例する。だからこそ,この思いを企画にする必要がある,企画にすべきだ,と感じる。これは,問う力といっていいはずです。これこそが多分企画力でしょう。

こう考えると,企画力は特別なスキルではないのではないかという気がします。仕事をするとき,常にいまのままでいいのか,どうしたらより新たなものにしていくか,を考えていく姿勢が求められています。その問題意識が自分の裁量内でできることなら,やるかやらないかが問題となります。しかしそれが裁量を超えたとき,その問題意識を実現するために企画が必要になる。周囲を巻き込まなくては実現できないからです。これは別の言葉で言うと,リーダーシップの問題でもあるはずです。リーダーシップとは,己の裁量を超えたとき,そのおのれの仕事への思いを実現しようとするために,周囲を,上位を巻き込もうとするスキルである。そのとき,企画は,おのれの思いを明示する旗となります。この旗がなくては,リーダーシップが自分のものになりません。これを実現するために,人を巻き込むのであって,旗なしのリーダーシップは,単なる役割行動に過ぎません。

企画の「企」は,「人」と「止」であり,人が爪先立って遠くを見ることだという意味は,企画力とは,仕事をするものにとって,その仕事にどれだけ未来を見ているかを測る基準でもあるということです。実は企画を立てる力は,それを実現するための手段スキルに過ぎないのです。

ところで,問う力は,近似の言葉に置き換えるとクリティカル・シンキングに該当します。問う力を考えるとき,『知覚と発見』(N・R・ハンソン,紀伊國屋書店)を挙げないわけにはいきません。新科学哲学派のクーンと並ぶハンソンの遺稿ですが,問う力とは何かを考えるための必読書であると信じて疑いません。とりわけ,上巻は,何が当たり前として見逃させるのか,どう先入観を崩すか,ものの見方を変えにくくさせるのは何か,等々が丹念に分析されているのです。

清水博さんは,「創造の始まりは自己が解くべき問題を自己が発見すること」と言っていますが,それは,「これまで(自分のいる場所で)その見方をすることに大きな意義があることに誰も気づいていなかったところに,初めて意義を発見すること」といっています。まさに,だから新しく,だからそれを解決することに意味があるのだということになるはずです。

参考文献;N・R・ハンソン『知覚と発見』(紀伊國屋書店),清水博『生命知としての場の論理』(中公新書)

上へ

目次へ


  • 自分を開くことが対話の道を開く

自分を開く以上,そのことで,人と深くつながりたい,と考えているはずだ。そのことを少し深めてみたい。そして,その究極,人との対話にどうつなげていくかが,その目的になる。

他の人間そのものに自己を向け,自己の中に世界を受け取る。わたしの存在によって受け入れられ,全実存の圧縮の中に,わたしと向かい合って生きる存在の他者性のみが,わたしに永遠の輝きをもたらすのである。存在のすべてをあげて,相互に語り合い,<なんじはそれなり>というときのみ,彼らの間に現存の住み家が存在するのである。(ブーバー『対話』)

これから,

一人の人をほんとうに愛するとは,すべての人を愛することであり,世界を愛し,生命を愛することである。誰かに「あなたを愛している」と言うことができるなら,「あなたを通して,すべての人を,世界を,私自信を愛している」と言えるはずだ。(フロム『愛するということ』)

が,ちょうと裏返しのように対になっている。「そこにいるあなた」を,他にかけがえのないものとして意識することを通して,そのひとのいる世界を受け取る。それは,裏返せば,その人を愛することを通して,その人がここにいること,あるいはその人がこうして,いま,ここにいる世界をまるごと受け入れることに通じる。その人とともにその人のいる世界を受け入れることだ。

もちろん,これは「愛」について言っている。しかし「愛する」もの同士の関係は,実は相互に相手をどう受け入れるか,という関係性の典型的なあり方を示しているが,特殊な関係ではないような気がする。

アダム・カヘンはこう言っている。

私たちは,すべてのステークホルダーの人間性と自分自身の人間性に目を向け,耳を傾け,心を開き,受け入れない限り,人間の複雑な問題に対する創造的な解決策を生み出すことはできません。創造性を発揮するには,私たちの自己のすべてを必要とします。私たちの思考,感情,人格,経歴,欲望,そして魂を必要とするのです。固定された事実や考えを理性的に聞くのでは十分ではありません。相手が自分の可能性や彼らの置かれている状況の中に存在する可能性に気づくことを促すような聴き方をする必要があります。この種の聴き方は相手の横で感情を共有する,いわゆる「同情」ではありません。彼らの内側から分かち合う「共感」なのです。このような聴き方は,既存の異なる考えに目を向けることを可能にするだけでなく,新しい考えを生み出すことを可能にしてくれます。

そしてこのとき,聴き方について,オットー・シャーマーの4つの聴き方を紹介している。

@ダウンローディング(Downloading) これは,『U理論』で紹介されていたものだが,自分のストーリーの中から聞いているというもので,いつもの自分の言い方,聴き方から離れないやり方である。自分の言っていることや聞いていることが単なるストーリーでしかないことに気づいていず,他人のストーリーには耳を貸さない。自分のストーリーを支持するストーリーだけを聞き取る。

Aディベーティング(debating)  討論という聴き方。このとき,討論会や法廷の審判のように,外側から互いの話や考えを聞いている。

ダウンローディングやディベーティングをしているときは,既存の考えや現実を提示し,再生しているだけで,何も新しいものを生まない,と,アダム・カヘンはいっている。

Bリフレクティング・ダイアローグ(reflective dialogue)  内省的な対話。自分自身の声を内省的に聴き,他の人の話を共感的に聴く。主観的に「内側から」聴く。

Cジェネレーティブ・ダイアローグ(generative dialogue) 自分や他人の話を内側から聴くばかりではなく,「システム全体」から聴く。

BCが,世界の紛争当事者との間で,どんな対話をしたのかは,著書を見てもらうことにして,コーチングとの類比を感じました。当然聴くというテーマなのだから,当たり前といえば当たり前だが。

コーアクティブ・コーチングでは,傾聴を3レベルに分けている。

レベル1 内的傾聴 意識の矛先は自分自身。つまり自分の内側の声。自分の考えや意見,判断,感情,身体感覚に意識が向く状態で,クライアントにふさわしい傾聴レベルとする。

レベル2 集中的傾聴 コーチの意識は,レーザー光線のように,クライアントに向いており,すべての注意がクライアントに注がれている。恋人同士の関係性をアナロジーとして使っている。

レベル3 一つのことに焦点を当てるのではなく,自分の周りのあらゆるものごとに意識の焦点を向ける。

つまり,傾聴のレベルでは,少なくとも,自分が「開かれ」ており,「愛」の関係に近く,自分だけではなく,相手および相手の世界に対しても開かれていなくてはならない。


対話について,物理学者デヴィッド・ボームは,こう書いている。

対話では,人を納得させることや説得することは要求されない。「納得させる(convince)」という言葉は,勝つことを意味している。「説得する(persuade)」という語も同様である。それは「口当たりのいい(suave)」や「甘い(sweet)」と語源が同じだ。時として,人は甘い言葉を用いて説得しようとしたり,強い言葉を使って相手を納得させようとしたりする。だが,どちらも同じことであり,両方とも適切とは言えない。相手を説得したり,納得させたりすることには何の意味もないのだ。そうした行動はコヒーレントな(一貫性のある)ものでも,筋の通ったものでもない。もし,何かが正しいのであれば,それについて説得する必要はないだろう。

そして,こういう。

概して,自分の意見を正当化している人は,深刻になっていないと言っていい。自分にとって不愉快な何かをひそかに避けようとする場合も,同様である。(中略)
だが,対話では深刻にならねばならない。さもなければ対話ではない−私がこの言葉を使っている意味での対話とは言えないのだ。フロイトが口蓋の癌に侵されたときの話をしよう。フロイトのもとへやってきて,心理学におけるある点について話したがった人がいた。そのひとはこう言った。「たぶん,話などしないほうがいいのでしょうね。あなたはこれほど深刻な癌に侵されているのですから。こんなことについてはお話したくないかもしれませんね」。フロイトは答えた。「この癌は命にかかわるかもしれないが,深刻ではないよ」。言うまでもなく,フロイトにとっては単に多数の細胞が増殖しているだけのことだったのだ。社会で起きていることの大半はこんな表現で言い表せるだろう−それは命にかかわるかもしれないが,深刻なものではない,と。

対話は,そのように,相手に対して,自分を開くことなのだ。その時,自分が開いた分,相手も開く。平田オリザは,対話と会話を,

会話とは,複数の人が互いに話すこと。またその話。
対話とは,向かい合って話し合うこと。またその話。

とし,

会話は,価値観や生活習慣の近い親しいもの同士のおしゃべり
対話は,あまり親しくないもの同士の,価値観や情報の交換

とした。この区別を,中原淳・長岡健は,雑談,議論と対比して,

雑談とは,自由なムードの中で,戯れのおしゃべり
対話とは,自由なムードの中で,真剣な話し合い
議論とは,緊迫したムードの中で,真剣な話し合い

とした。この「真剣」が,ボームの言うように,おのれの身を削るような,深刻さをもっている,という意味で受け止めていい。ただし議論と違うのは,納得や説得ではない,ということだ。雑談には,たとえば,喫煙ゲージの中が濃密な会話になっているように,結構重要なことは雑談で話される。

ところで,カーネギーの『人を動かす』に,

議論に負けてもその人の意見は変わらない。

とある。対話のイメージは,ブレインストーミングでのアイデアを出していくのと同じだ。批判せず,自由に,相乗りして,たくさん。

そのとき意見は,仮説と考えて,共通の認識を作っていくプロセスは,ブレストのマインドだと考えていい。たとえば,会話だって,こういわれる。

(自分の)発話の意味は受け手の反応によって明らかになる。

後続する会話によって先行する会話の意味が組み替えられていく。

ここに,対話の面白さがあるはずなのだ。話すことで,その話の中身が,相手の当てる光によって,少し意味を変える。それは,発話したことの中身が,自分が意識しない,幅と奥行きを持っているということなのだ。だから,自分の意味だけに固執すれば,その豊かな意味の世界は閉ざされてしまう。

ボームは,ある深刻な対話のことを,こう書いている。

彼らは互いに説得したかどうかよりも,話し合えたことの方が重要だ。何か違うものを生み出すためには,それぞれの見解を捨てなければならないと,きづいたのかもしれない。愛を好む人がいれば憎しみを好む人がいたとか,疑り深くて慎重でいささか皮肉屋であることを好む人がいたとかといった事実は重要ではない。実のところ,一皮むけば,誰もがみな同じだったのである。どちらの側も頑なに自分の見解にしがみついていたからだ。したがって,その見解に妥協の余地を見出すことが,鍵となる返歌だった。

「開く」の重要性がここにある。閉じていた方が安心というのは,自足しそのままにとどまることを望んでいることになる。

対話で理解が深まるのは,他者のことだけではありません。他者を理解すると同時に,自分自身についての理解を深めることができるのです。「対話」の効果とは何かを考える時,これはとても大切なことですが,「対話」の中で自己の理解を語り,他者の理解と対比することで,自分自身の考え方や立場を振り返るのです。つまり,「対話」は,自己内省の機会ともなるのです。(中原淳・長岡健『ダイアローグ』)

さらに,ミードの例を引いて,こういう。

ミードによれば,自己とは「本質的に社会構造であり,社会経験の中から生じる」存在と理解することができます。もし,世の中に自分一人しか存在しないなら,そもそも「自分らしさ」なんて意識する必要がありません。自分以外の他者がいるから,「他者の目」には自分がどう映っているかを考え始めるのです。つまり,「自分らしさに気づく」とは,他者の目に映る自己イメージ―自己に関する首尾一貫した物語―を自分自身でつくり上げていくということです。人は「自分のイメージ」「自分の物語」を自分だけでつくることができるわけではありません。他者への語りかけ,他者のまなざし,他者の言葉を通して「自分の物語」をつくり,ときには編み直すのが人間なのです。

人とのやりとりを通して,自分が耳にしたこと,人との対比の中で気づいたことを通して,気づきが生まれる。

気づきを積み重ねていくことが,「自己像を紡ぎ出す」=「自己理解を深める」ということです。だから,自己理解を深めるには,ひとりであれこれと思い巡らすだけでなく,「対話」を通じて,自分の考え方や価値観を他者に語ることが効果的なのです。

対話は,結果として,自分の物語を語ることを通して,それぞれが自己理解を深めると同時に,二人,ないし三人,その場の対話相手と一緒に,きったく新しいストーリーを作り出していく場でもある。つまり,

人は「対話」の中で,物事を意味づけ,自分たちの生きている世界を理解可能なものとしています。人が物事を意味づけるときに,独りでそれに向かっているのではありません。相互理解を深めていくには,単に「客観的事実(知識・情報・データ等々)そのもの」を知っているだけでなく,「客観的事実に対する意味」を創造・共有していくことも重要となるのです。特に,個々人の経験や思いについてストーリーモードで積極的に語り合うことで,自己理解と他者理解が相乗的に深められ,新たな視点や気づきが生まれてくる…

そういえば,ドラッカーは,情報とは,データに意味と目的を加えたものである,と言っていたが,一人ひとりが,「客観的事実に対する意味」を語る,それをどう受け止めて,それからどうなったかと,「自分の考え方や価値観を他者に語る」ということは,客観的な何某の知識・事実ではなく,自分の側で起きている主観的な世界を語ることになる。「語る」ということ,それを「ストーリーモード」と呼んでいるが,それは自分を対象として,自分の物語を語ることになる。

参考文献;
アダム・カヘン『手ごわい問題は対話で解決する』(ヒューマンバリュー),中原淳・長岡健『ダイアローグ』(ダイヤモンド社),デヴィッド・ボーム『ダイアローグ』(英治出版),平田オリザ『わかりあえないことから』(講談社現代新書)

 

上へ

目次へ


  • チェックリストをつくる4つのパターン

チェックリストには,いろんなタイプがある。学問的なものでないという前提だが,いいままで,いろいろ試しに作ってみたのが,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod063.htm

ここにある。この程度のものは,そんなにつくることは難しくない。というか,こういうものをコツコツ作り上げていくのが大好きなのだ。管見によればだが,チェックリストは,おおよそ4つのタイプに分かれるように思う。

第一は,いわゆる,チェックして総数を数えて,全体の傾向や,自分の特徴をつかんでいくタイプ。これが一番多いし,バリエーションが出しやすい。

例えば,コミュニケーション力では,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod06394.htm

リーダーシップでは,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0630.htm

アイデア力では,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0639.htm

というようなものが作れる。要は,気になる項目をリストアップしていけばいい。思いつくままでもいいし,そういうたぐいの本を取り出して,必要なチェック項目になりそうなものをリストアップしていけばいい。

例えば,良寛に,「戒語」というのがある。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod065.htm

これは,何種類もある戒語を集めて,整理しただけだ。それでも,人との付き合いでの嫌なコトリストになっている。これなどは,良寛が,ただ無作為に,思いつくまま嫌われるリスト(嫌いな振る舞いリスト)を列挙しただけのものだ。これも,全体の過不足を見ながら,洗練すれば,きちんとした「人に嫌われない付き合い方リスト」にできる。

第二は,傾向や必要項目をリストアップするもの。

コミュニケーションタブーをリストアップするか,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod064.htm

前に挙げたが,コミュニケーション力として必要なものを,俯瞰して,聞く力,伝える力,自己開示力,感情コントロール力,人と関わる力,モニタリング力といったように整理してみると,もっともらしくなる。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod06394.htm

あるいは,オズボーンのチェックリストに代表される,いわゆる発想チェックリストもこれにはいる。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0831.htm

この場合は,ただリストを上げただけではなく,発想に寄与する項目をリストしなくてはならないので,何でもいいというわけにはいかないが,5W1Hのように通常使われているものなども,経験則から絞られたとみることができる。

第三は,専門の心理テストほどにトライや結果を厳選していないが,ある程度の傾向値が出せるもの。エゴグラムも,正式なものではないが,つくろうと思えば作れる。ただし,学問的ではないので,目安程度のものだ。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod06422.htm

第四は,マネジメント力とか管理能力のような,もう少し全体像を見ようとするもの。

例えば,管理能力全体を行動レベルに落として,チェックリスト化したものとしては,
管理者の行動分析例を取れば,「チーム方針策定」「メンバーの目標統合」「仕事の進捗管理」「リーダーシップ強化」「活力ある職場づくりのマネジメント」「業務を通しての部下指導」と,管理場面に応じて作っていくことになる。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0622.htm

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod06220.htm

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod06221.htm

あるいは,管理者の部下指導力に特化してチェックリスト化しようとすると,管理者の日常行動,マネジメントスタイルそのものが,部下への仕事の価値観,業務遂行で何を重視するかを教えていくことになる。その面から,管理行動をチェックしてみると,あらゆる機会が部下指導につながるはずである,という仮説のものとに,チェックリスト化を試みている。管理者の行動分析例の部下育成側面だけにピンポイント化したいると言える。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/view56.htm

こういうと,口幅ったいが,どんなものでも,とりあえずチェックリストはできるが,
@ まずは,目的を限定すること。たとえば,コーチングスキルというように。
A 次は,それに必要なアクション,あるいはマインド,あるいは姿勢,身構え等々をブレークダウンする。この場合,たとえば,何か目安になるものがあると,漏れを見つけやすい。5W1H,ヒトモノカネ,あるいはPDCA等々。
B 最後は,それを整理して必要なものにし,仕えるかどうかは,試してみる期間がいるだろう。

以下は,発想力アップのためのマイ・チェックリストづくりの手順を書いたものだが,これは他にも応用できるはずである。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/view40.htm

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/view41.htm

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/view42.htm

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/view43.htm

本当は,目的によって違うが,発想という観点なら,2つか3つが使いやすいチェックリストだと思う。そのあたりも,目的から最小限のものをつくることがベストだ。
自分は,対,ということと,目的対比を念頭に置く。どつぼにはまっているときは,選択肢を失っている。その時の救いの「藁しべ」のつもりだ。

上へ

目次へ


  • コミュニケーションの齟齬を減らすちょっとした流儀

コミュニケーションで言えば,良寛には,「戒語」といわれる戒めがいくつかあるが,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod065.htm

これは,いわばしゃべり方や振る舞いを言う。つまりコミュニケーション・タブー集だ。ここでは,それよりは,コミュニケーション齟齬をなくすためにどうしたらいいか,そのためのちょっとした工夫に触れたい。言ってみれば,できている人にとっては,ありきたりで,当たり前のことなのかもしれないが。

例えば,職場やチームで,コミュニケーションがとれているとは,どうなっていたらコミュニケーションがとれていることなのだろうか。

コミュニケーションが必要なのは,役割を割り振って,あとは蛸壺にはいってひとりひとりが背負い込んで黙々と仕事をする職場にしないためだろう。そういう職場は,チームにはなっていない。単なる個人商店の集まりにすぎない。あるいは組織として仕事をしていない。

仮に組織やチームの目指すものをどう分担するかがわかっていたとしても,チームではないのではないか。チームで仕事をするとは,一人で仕事を抱え込まず,他人にも仕事をかかえこまさない仕事の仕方のことだと考えている。そこではどんな仕事も,自分一人でやっているのではないという了解がとれている,些細な問題もチームに上げ,チームで解決すべきことはチームで解決しようとし,上位部署もまきこんで解決すべきことは上司を介してより上位にあげていく。そのときもし自分のやるべきことをチームにあげたとすれば,「それは君の仕事だ」と,本人につき返すことができるのが,チームなのではないか。そういうコミュニケーションがとれていてはじめて,チームの要件としてのコミュニケーションがとれているといえるのではないか。と,まあ考えている。

いきなりそこまでは無理として,とりあえず,ぎくしゃくしたコミュニケーションではない,あるいはせめてコミュニケーションの齟齬がない,言った・聞いてない,頼んだ,頼まれてない,という消耗なやり取りを減らすにはどうしたらいいのか。

まず,第一は,コミュニケーションの開始に手続きがいるのではないか。あるいは手続きがわかれば,せめて歩留りはよくなるのではないか。
コミュニケーションは自分の話したことではなく,相手に伝わったことが,自分の話したことである,と言われる。仮に自分が10話したとしても,相手に2しか届いていなければ,私の話したことは,2だということだ。そうなれば,相手にできるだけ届くようにする必要がある。

そのために,まずは,相手に聞く姿勢になってもらう必要がある。何かをしながら,聞くのではなく,こちらを向いて,自分の話を聞く身構えになってもらわなくてはならない。
そのためには準備作業がいるはずである。話し手と聞き手の両者が,共通の何かについて話す・聞く関係をとっているという,仮にそれを土俵と呼ぶとすると,同じ土俵に立っていることを意識してもらわなくてはならない。同じ,話す・聞く関係性を意識して初めて,聞くのが始まると考えなくてはならない。
たとえば,一対一の対話なら,
「いまちょっといい?」
「いま,5分いい?」
「ちょっと話がしたいのだが,いい?」
「いま手が離せる?」
等々と,聞くところからはじまるだろう。

相手が都合が悪いと言えば,
「何分後ならいい?」
「後でまた声かけてみるから,その時よろしくお願いします」
等々とやり取りするかもしれない。ミーティングなら,事前の日程調整からはじまるだろう。

なぜこんなことにこだわるかというと,人は仕事しながら,聞いているときは,こちらが話している途中から,意識しだすかもしれない。あるいはうわの空で聞き流すかもしれない。だって,何かしているときは,そちらに意識が向いている,聞こえる声に意識が向くまでは,タイムラグがある。

仮に,いいと言っても,こちらに向き直ってくれるまでは,意識は,途中の作業の方に向いているかもしれないのだ。

そこで第二に,共通の土俵にのっていなければ,歩留りは悪いはずである。口頭のメッセージの歩留まりは25%という説がある。ましてや,何かをしながらでは,もっと歩留りが悪いはずだ。

どのレベルのコミュニケーションでも,相互の間で,お互いに「どういうテーマ(話題)」を話しているかについて共通認識ができていなければ,すれ違いざまの挨拶にすぎない。共通に何について話しているという土俵がないところでは,コミュニケーションは成立しないとかんがえるべきだろう。仮にコミュニケーションしても,「言った,言わない」が必ず起きる。あるいは頼みごとなら,とんでもないことが実行されたりする。

一対一なら,「ちょっといい」といい,相手が向き直ったら,「何々について話したい」のだが,いいかと,確認することになるし。ミーティングなら,アジェンダの周知になるだろう。ミーティングでやることが,一対一のコミュニケーションでもひつようなのだろう。

そこで,少なくとも,何かについて,一緒に話している認識はできる。しかしそれでOKかというと,そうでもない。人は,聞きながら,勝手な解釈をする癖がある。例えば,前にもふれたが,記憶には,

・意味記憶(知っている Knowには,Knowing ThatとKnowing Howがある)
・エピソード記憶(覚えている rememberは,いつ,どこでが,記憶された個人的経験,自伝的記憶と重なる)
・手続き記憶(できる skillは,認知的なもの,感覚・運動的なもの,生活上の慣習等々の処理プロセスの記憶)

がある。意味は同じでも,まったく違うイメージを各自が自分のエピソード記憶から当てはめているかもしれない。
そのために,伝え方にも工夫がいるかもしれない。たとえば,

・一時にたくさんのことを伝えない,
・簡潔に,言いたいことは三つ,1つは何々,2つは何々,3つは何々,と明確にする,
・簡潔な刷り物(メモ)を一緒にする。そうすると,歩留りが50%を超えるという説がある,
・大事なことを繰り返す,
・できるだけ,誤解を生まないような具体的な表現で,具体例を添える,

等々が考えられる。

第三は,伝わったことが話したことなのだから,相手に何が伝わったかの確認がなくては会話は終了していない。
 相手にどう受けとめられたかを確認するためにも,相手からのフィードバックなくては,会話は終わらない。どう受け止めたか,復唱,再現,リピート,感想,意見等々,相手に応じたフィードバックをもらうことで,伝わったことが確認できる。

第四は,指示や依頼についても,終わった後のフィードバックがいる。
 「終わったら,声をかけてね」
「終わったら,連絡ください」
「終わったら,どうなったか知りたいので,面倒でしょうが,一報ください」
ということを一言加える。あるいは,これをルールや慣習にしてしまえれば,楽になる。

上へ

目次へ


  • 提案の効果

コーチングのテキストには,提案について,

提案とは,新しい視点を提起要することです。提案と,「指示・命令」は違います。「提案」は,あくまで彼ら(クライアントを指す)が自分の責任で行動を選択することを促します。言い換えれば,「YESかNO」の選択権は常に相手にあるという立場に立って伝えるのが,「提案」です。

とある。CTI流だと,「YES,NO,逆提案」となる。逆提案が入っている分だけ,対等という感覚が強まると言ってもいい。

提案というのは,指示命令とは違う,という。しかし,望まれていないアドバイスは,命令に聞こえる。「俺の言うことをきけ」と。だから,提案も同じだ。望まれていない「提案」は,YESと言えというふうにしか聞こえないかもしれない。

人は,自分が選択したと思えなければ,強制されたと感じる。ではどうすれば,強制と感じないで,自分の選択と感じられるのか。

第一は,その選択肢の選定プロセスに,相手も一緒に加わり,そのどちらかに選ぶのがベストと感じることができている場合だ。つまり,一緒に提案の中身を,つくりかあげていくプロセスがあることだ。

第二は,選択できる,ということだ。提案が,ひとつではなく,いくつかあり,その中から,自分が自主的に選んだと感じられることだ。

その場合,二者択一では選択と言わない。「YESかNO」を迫っているのと変わらない。選択できる,という意識が持てるのは,最低限3つがいる。あまり多くなると,選べなくなる,ということをよく言うが,せめて3つの中から選べるのがいい。

その理由は,

@当然第一に述べたように,これっきゃないところから,諾否のみを求められるのは,押し付けられているという感覚が強い。特に,心理的に上位と感じている人からのそれは,強制のニュアンスがどうしても出る。コーチングではそれはないと思われるかもしれないが,そう思っているコーチは思い上がっている。クライアントには,潜在的に,「コーチに嫌われたくない」「コーチによく思われたい」という心理があり,それが強迫性をもつ。

A二つだと,二者択一,つまりあれかこれか,から選ぶことになる。これだと実際やってみるとわかるが,心理状態は諾否に近い。

B三つの良いところは,二つある。少なくとも選んだ感はある。いま一つは,人は上中下とあった場合,大概真ん中を選ぶ傾向がある。従って,相手に選んでほしいものがある時,本命をそこに置くと,割と選ぶ傾向が高まる。

その意味で,提案者にとっても,選択者にとっても,3つの選択肢は,好感度が高い。できるなら,提案する以上,相手に選んでほしいし,また相手に選んだと思ってもらいたい。

ソリューション・フォーカスト・アプローチでは,クライアントに提案(Suggestion)を行う。その場合,
行動提案(クライアントに何かするように求める)

観察提案(生活の中で解決作りに役立ちそうな部分に注意を払うように求める)
とがある。いずれを出すかは,面接中に集められた情報を基にするが,その場合注目すべきは,

「初回面接の終了時までに,ほとんど例外なく,臨床家とクライアントは共同作業によって,クライアントの望みを明確にできる。…提案を決めるために最も重要なことは,クライアントが何か違いを求めているかどうかに注目することである。」

とし,解決したい問題があり,自分が何とかしなくてはいけないと考えている状況では行動提案,問題に気づきながらも自分を解決の一部であると考えていない場合は,観察提案,といった選択基準を提起している

どうやら,提案は,協働作業として,おのずとそれをすることが自分にとって不可欠と思える状況というか,文脈をつくって,一緒にそこへたどり着くのがいいのではないか,と思えてくる。

ただ,さらに付け加えると,僕は提案は,受ける,受けない,逆提案という選択肢の中で,ただ並べるのではなく,クライアントの想定外の提案がいいと思っている。しかもそれがコーチとクライアントの協働関係の中で,必然的に飛躍が起こりうる,というようなものでなくてはならない。

ただ価値に合うとか,大きな主題に合うというコーチの理屈ではなく,それをやってみることが,いまの自分にとって必要なんだと思わせるものだ。

僕はその流れは忘れたが,絶対やりたくないものを列挙し,その中から,何かにチャレンジするという提案を,コーチから受けた記憶があるが,それは自分が変化とかチャレンジということを言ってきた文脈から出た提案であった。その文脈に納得し,その文脈に乗って,コーチとともに,やりたくないことを列挙し,その中から,選択していく。それも自分でも想定外のことを選び,チャレンジする。

それを断ったら,チャレンジという自分のやろうとすること自体が口先三寸になる。そういう文脈であった。

そう,だから,提案は,それだけが突出しても,提案ではなく,指示命令にしかクライアントには聞こえない。一連のコーチングという協働関係の中から,コーチもクライアントも,ともにそういうことだよな,と納得できる提案が,ぽろりと落ちる,しかも想定外に,そういうものなのだと思う。

参考文献;インスー・キム・バーグ他『解決のための面接技法【第三版】』(金剛出版)
 

上へ

目次へ


  • 承認の先に目指すこと

一般に,承認(アクノレッジメント)については,

「a statement or action which recognizes that something exists or true」

そこに存在していることに気づいていると表明したり振る舞いで表すこと,とされている。つまり,相手の存在を認め,更に相手に現れている違いや変化,成長や成果にいち早く気づき,それを相手に伝えることである,とした。

茂木健一郎さんは,

脳内報酬物質を放出させるきっかけになる外部からの刺激のうち,最も強力なものは,他人からの承認である。何かをやって,それを周囲から認められたり,褒められたりしたときに,そのことが脳内のドーパミンをはじめとする報酬物質を放出させるのである。その結果,強化学習が成立することになる。脳は,「他人にほめられるように」変化していくのである。

厳密に言うと,ほめると承認は違う。その微妙な差も,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod06431.htm

で触れた。承認には,そのありようの承認と,そのふるまいの承認がある。しかし,もう一つ突っ込むと,ありようの承認につながらなくては,口先のリップサービスになる。その意味では,すでに,認知に近い。つまり,ある特定の行動を起こしたり,ある特定の目標を達成したりする過程で発揮したその人の強みや良さを本人に伝えること。相手がどんな人なのか,その人自身が気づいている以上のリソースや力,価値観などを伝えることである。

ある意味でその人の遺伝子の可能性に気づくきっかけになる。それをリソースの最大化と呼んでもいい。

しかし視点を変えると,ひとは承認されるために生きているのではない。認知されなくても,おのれ自身で自分を認めなくては,次へは進めない。次のハードルへはチャレンジできない。

自分の中に,自分を動機づけ,自分をけしかけて,駆けさせる何かを持っているかどうかが,鍵なのではないか。その人にとっては,承認は,引き金になるかもしれない。あるいは落ち込んでいる自分を励ます機会になるかもしれない。

しかし順序はあくまで,自分の中にチャレンジするエネルギーがなくてはならない。

では,そのエネルギーは何か?

あるいは,自分を前へ進めさせるものは何か?

子曰く,如之何(いかん),如之何(いかん)と曰わざる者は,吾は如之何(いかん)ともする末(な)きのみ。

と。つまりは「問い」がある。問うべき何かが自分の中にある。

人には,「己の為にする」(自己の向上を志す)心があってこそ,はじめて「己に克つ」ことができ,己に克つことができるからこそ,己を成すことができる。そのために学ぶ。

克己心というが,ここで言うのは,おのれ自身の糧とするために,前へ出る。それを,自分の中にある,自分本来の仏性を生かして,おのれを完成する。見性成仏ともいう。すべてのひとがおのずから『箇箇円成』し,大なるは大を成し,小なるは小を成し,外に求めずとも,いっさいが自己に具足している。

神田橋條治さん流に言うと,遺伝子を開花させる。ただし鵜は鵜に,鷹は鷹に。見性をそうとれば,自分の中にある可能性を最大化する,「己の為にする」とはそのことだ。

それを成長欲求と呼んでもいいし,自己探検と呼んでもいい。そこに目的はない。おのれの「のびしろ」を楽しむそういうマインドが必要なだけだ。「のびしろ」は,いっぱいになると,またのびる,その繰り返しの中で,自分がどこまでの可能性をもっているのかをわくわくしながら追いかける。それが生きる楽しさなのかもしれない。

あるいは,もうひとつ踏み込むと,変身欲求,あるいは変身願望でもいい。もっと違う自分に出会えるのではないか。自分はこんなんじゃない,こんな程度ではないという,自分への期待かもしれない。

それは,ほんのちいさなことを認められる。「自分はそうなんだ」と自己認知を変えるきっかけがあればいい。自分は気づいていないが,人からはそれがその人の「凄い」点と認められるだけで,自分を見る目が変わるかもしれない。ダメだダメだ,と自分を貶め続けていたのに,その自分に厳しいところがいいと言われた瞬間,当たり前にやっている自分の行為が,自分のリソースに見えてくる。特徴に見えてくる。その「見え方」の変化する瞬間を持てたかもてないかが大きな違いになる。

人は自分のいいところに気付けると,自分の見え方が変わり,自分の見方が変わる。自分にとって当たり前のことが,人にとっては当たり前ではない。その人それぞれの当り前でないところが,その人のその人たる所以なのだろう。

承認は,その意味で,ひとつのきっかけ,その先へ行く大事な突破口なのかもしれない。

参考文献;茂木健一郎『思考の補助線』(ちくま新書),貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫),王陽明『伝習禄』(溝口雄三訳 中公クラシックス)
 

上へ

目次へ


  • リソースから考える

たとえば,以下の図を見て,何に見えるかをやってみる。もちろん正解はない。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0200.htm

人の想像力は,たいしたもので,円に直径が描かれているだけなのに,球に見たり,円筒に見たり,半分開きかけたカップ麺にみたりと様々だが,同じものを見ていても,同じように見えているとは限らない。その見え方に,その人のオリジナリティがある。たとえば,中に,円ではなく,直径の方に眼を向ける。すると,スイカといったときに,その線が気になる。皿といった時も,その線が気になる。別に正解はないので,なんと見てもいいが,人は,全体に丸める癖があるが,丸めることに抵抗する人がいる。この場合,人より,少しだけ,細かいところが気になるわけだ。

つまり,人は誰でも,自分独自の具体性のレベルを持っている。つまり,

人は同じものを見ていても,同じように見えているとは限らない。

それは,人のリソースからきている。それを意識すると,他人との具体性の差を発想の違いとして使うことができる。それぞれのレベルを左右するものにはいくつかあるが,一例を挙げると,

●記憶というリソースを考えると,一般に,人の記憶は,

 ・意味記憶(知っている Knowには,Knowing ThatとKnowing Howがある)
 ・エピソード記憶(覚えている rememberは,いつ,どこでが記憶された個人的経験)
 ・手続き記憶(できる skillは,認知的なもの,感覚・運動的なもの,生活上の慣習等々の処理プロセスの記憶)

 といわれる(この他,記憶には感覚記憶,無意識的記憶,短期記憶,ワーキングメモリー等々がある)が,なかでもその人の独自性を示すのは,エピソード記憶である。これは自伝的記憶と重なるが,その人の生きてきた軌跡そのものである。発想の独自性は,これに負うことが多い。アナロジーは,ほぼエピソード記憶に起因する。

意味レベルでは同じでも,一つの言葉にまったく別の光景を見ている場合もある。コミュニケーション・ギャップが生ずるのは,こういう場合が多い。言葉の意味を理解することと,自分なりに腑に落ちることとはギャップがある。その人の生きてきた自伝的部分が,他の人とは異なっている,ということだ。しかし発想という面で言えば,人と違う,おのれだけの独自の何かがそこにあると言えるのかもしれない。

以前メールで,「思惑」という言葉を使ったら,知人が激怒した。その言葉自体に,文脈を離れて反応したのは,意味レベルではなく,その人の体験,まあエピソード記憶から出来した何らかの感情反応に違いない。履歴を張り付けて,返信したら,本人は落ち着きを取り戻したが。これも,そういう例だ。

感覚というリソースで言うと,感覚面でも,その人特有のリアリティの差があらわれる。NLP(Neuro-Linguistic Programming 神経言語プログラミング)では,ひとは,特有の優位感覚をもっているという。

 ・視覚優位(Visual ビジュアル) 外部に向って見る場合にも,内部の心象を描く場合にも用いる。
 ・聴覚優位(Auditory オーディトリー) 外の音にも,内の音にも用いる。
 ・触運動覚優位(Kinesthetic キネステティック) 体感覚(触覚・味覚・嗅覚)。外側にも内側にも向く。

 たとえば,ビジュアル感覚に優れている人には,同じものを見ていても,詳細な部分に目が向いたりする。円に直径の,直径に眼が向いた人は,そうなのかもしれない。しかし,それは,人のもっている感覚の中にあえて優劣をつけてみただけで,ものに応じて,シチュエーションによって,あるいは一緒にいる人によって,その強弱が違うので,僕はあまり信じていない。すべての感覚を持っていて,たまにそれの強弱が出るだけだと考えていい。優位を大げさに言うと,勘違いを起こす。

時々思うが,「具体性」というのは,人によって違う。それぞれ自分にとっての当たり前をもっている。たとえば,上司が「具体的に言え」と言うとき,上司が,とんでもない「くそリアリスト」だと,詳細なディテールを求めている。部下が,超アバウトだと,本人がどれだけ具体的に語っても,上司の具体性には届かないだろう。

あるいは,一言で,「上から」といったときも,上は,二階からなのか,木の上からなのか,屋上からなのか,高層ビルの上からなのか,人によって一瞬思い浮かぶレベルは違っている。それがその人の当り前だから。

しかしその当たり前は,意識的に動かすことができる。ただし,それに気づけば,の話だ。たとえば,東京タワーの上から,飛行機の上から,人工衛星の上から,月から等々。そのことによって,具体性のレベルを変えていける。

因みに,具体的かどうかの原則は,次の3点。

 ・他にないたったひとつの「もの」や「こと」であるかどうか
 ・心の中に,気持ちや感情を動かすイメージが浮ぶかどうか
 ・特定の何かをそこから連想させる力があるかどうか

具体的にするための4つのアプローチは, 具体例で考えることである。

 ●具体例で考える〜具体のレベルを下げる
 ●強制,あるいは見たいように見る〜見える側を変える
 ●シリーズ化する〜連想による横展開
 ●5W1H、あるいはストーリーを描く〜ピンポイントにする

であり,これで,自分のリアリティ感のレベルを確かめることができる。

しかし,それは自分自身で自己完結して閉ざしている限り,それはなかなか気づけない。人との違いに気づいて初めて,自分の独自性に気づく。

リソースといわれているものを,ちょっと自分なりに,整理してみると,こんな感じになる。

たとえば,問題と接するときの,インターフェースにあたるのが,その人の感度である。どんな問題にアプローチするのか,何を拾い,何を捨てるのか,どこに注意を払うのか,何に気をとめるのか,のポイントとなるものだ。それは,内のリソースと外のリソースに分けて,大まかに,仮説的にわけてみる。

●内的リソース
問題への感度には,その人のもつアンテナとその人のフィルターのふたつの側面から考えなくてはならない。それを内的リソース(資源)とよぶなら,その感度を上げるには,アンテナの感度をあげることと,フィルターを活用することだ。フィルターはよく固定観念とか先入観と呼び習わされている。それはその人の知識と経験と気質のすべて,その人のもつ内的リソースそのものである。

・アンテナ アンテナは,問題意識と呼んでおく。これは,いまその人のいる状況,たとえば,どんな仕事をしているか,チームとしてどんな課題やテーマを追っているか,どんなことに興味や関心をもっているか,どんなニーズや動機をもっているか,といった,その人のいる文脈によって規制されている。

・フィルター フィルターは,そのひとが培ってきた内的なものの特質,これまでの経験,知識,技能,あるいはもう少し体質的な気質や性格といった,いわばその人のパーソナルな特質にかかわるものだ。
大きく分けると,

・知性フィルター
・感性フィルター
・感覚フィルター

にわけられる。知性フィルターは,その人の知識,経験であり,自分のもつ意味や価値を通してものを見る。しかしその関心を選んだのは,その人の感性か感覚かに起因しているかもしれない。誰かに影響を受けたとしても,その影響を受け止める感性,感覚が作用する。感性,感覚は生得的ではあるが,感性の多くは生きる中で身につけてきた。喜怒哀楽や好悪を通して見ることとなる。多くはマイナス的に受け止められるが,むしろそれを自分の特徴として受け止める姿勢がいる。感覚は遺伝子に起因するので,自分の特徴がわかりやすいが,自分にとって当たり前だから,気づきにくい。しかしそれが,外部リソースを生かす鍵になる。

●外的リソース 
内的にもっているものだけでは,どうしても限界がある。そんなときに,外部の頭脳を使うことになる。有識者の見解を求めたりするのはその一つだが,チーム内,組織内での情報交換や意見交換,つまりはキャッチボールを通して,別のリソースを手に入れるということが重要になる。たとえばブレーンストーミングのように,人とのキャッチボールを通して,相手のリソースを借りて,自分にないアンテナやフィルターを手に入れる。キャッチボールをする効果は,異なるリソースに出会うことで,自分にとって当たり前すぎて,自分の中で気づかなかった,あるいは埋もれていた新たな独特さを発見することにある。

人との違いは,ほんのわずかだと僕は思っている。そのわずかな差異を広げ,深堀りして初めて,その違いが人の目に明らかになる。思い込みでも,思い上がりでも構わない。まず,人との違いに着目してみることだ。そこからしかオリジナリティは生まれない。いつまでも,ひと様のやっていることを探す,外へ答えを探すだけでは,それは見つからない。まず,違いを大袈裟に言葉にして,外に出したみることだ,と信じている。

人はすべてオリジナルであり,人はすべて個性的だ。自分にとって当たり前は,人にとって当たり前ではない。それに気づければいい。

上へ

目次へ


  • 箇条書効果

箇条書きにすることは,たとえば,何々について言えることは,
@
A
B
という具合である。そして,重宝なことに,いくつという枠を決めると,その数だけ,ひねり出してしまうことができる。言うべきことが,見えてくる。

たとえば,文章に欠かせないことは,五つである,と言い切ったとすると,

@一文のセンテンスで,輻輳させず,言いたいことをシンプルに言い切る
Aカンマをある程度多めに入れる。
B「です調」か「である調」か「だ調」か,レベルを統一する
C主語を明確にする
D過去形か現在形かの区別は意識的にする

等々である。別にここで言い切ったことが正しいかどうかではない。そう言い切ることで,伝えたいことの枠が決まる。人は枠なしで,ぼんやりものを考えない。同様に,読み手に取っても,書き手の枠組み,いわば窓枠がはっきりした方が,そこから見ている視界がはっきりする。

たとえば,大事なことは,三つです。と先に宣言されると,頭に入りやすいという。口頭のメッセージは25%の歩留りと言われる。しかし,こうやって堰を作ってもらうと,シーケンシャルに流れていく話題が,区切れ,分節化することで,記憶にとどめやすくなる。これも箇条書きの一種といっていい。

当然枠を替えれば見える世界が変わる。たとえば,いまの文章に欠かせない五箇条を別の切り口で書けば,

@語り手は誰か
A語られている世界は何処か
B語られているひと(びと)は誰か
C語られている時間はいつか
D語り手はどこにいるのか

という風にも書ける。

ただこういうことで得られるわかりやすさは,決めつけと近似で,わかりやすくするために,何かを犠牲にしていることがある。そこを考え始めると,そう簡単に箇条書きが「わかりやすい」とのみは言い切れない。

別の視点で考えると,箇条書きにするということは,ある次元を網羅することになる。それは,次のサイトにあるような,ロジカル・シンキングでいう, 

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0951.htm

ロジカルツリーには,縦につながる筋を通すことと横のつながりのもれなくすることの二つがあるが,箇条書きで書いているのは,横のつながりだけなので,縦の筋から次元を変えれば,別の箇条書きの項目が生まれてくる。この延長線上に,チェックリストがある,といってもいい。

たとえば,コミュニケーション力を,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod06394.htm

と,まとめた場合,

聞く力/伝える力/自己開示力/感情コントロール力/人と関わる力/モニタリング力,

とわけるのが,ロジカルツリーで言う縦の筋の第一段階とすると,この各項目が決まれば,その下へブレークダウンした具体的項目を考えることになる。これが横のつながりになる。

だから,箇条書きで書くということは,次元を設定しさえすれば,それを次元を上へあげていくことも,下へ下げていくことも,次元さえ分かっていれば,レベルを変えて書くことができる,ということになる。もっとも,人の脳は,丸めるのが得意なので,上へ丸めるのに比べると,ブレークダウンはずいぶん不得手ではあるが。

上へ

目次へ


  • プレゼンテーションの基本的スタンス

プレゼンテーションの基本は,

@プレゼンテーションはプレゼントであるということ。
Aプレゼントには,自分自身も含まれること。
Bそのための自分らしさの自己表現とは何かを意識すること。

といわれる。

@については,常々,「プレゼンテーションは,手渡しすること」と考えていて,自分のわくわくする気持ちであったり,自分の思いであったり,をそのまま手渡しすることと思っていた。しかし,それに「プレゼント」というラベルを付けた瞬間,相手から喜ばれる,という視点がものすごく重みをもってくる。ただ自分の側の思いではなく,相手の側の思いを見届けなくては,望まれていない「毛糸の襟巻」のように,ただこっちの込めている思いの丈が重い分,相手には不気味なだけのものになる。

Aについては,プレゼンテーションのスキルやツールなどは二の次で,まずは自分が相手に,そのプレゼントを好感をもって受け取ってもらえる人間でいるのかどうかが,重要になる。たとえば,第一印象は,数秒で決するのに,その印象は3年引きずる,という。しかし,ある知り合いの女性曰く,「最初の印象が悪い人こそ,知り合うと,好きになる」と。ということは,雲に隠されている太陽のように,もっているものが,最初から輝き出ていれば,無駄な3年の期間がなく,初めから親しい関係を楽しめたはずなのである。その意味で,自分という人間のプラス面をどう押し出すか,どう隠したり,出し惜しみしたりせず,表現するかが重要になる。

Bは,その意味でプレゼンテーションは,自己表現そのものだということになる。それは単に小手先のリクルート用の笑顔や問答ではなく,自分をどう開示していくか,そのためには,どういう自分なのかを知り,それをより強化するために,どんなトレーニングをしたらいいのかを考える必要がある。ここで,トレーニングというのは,大袈裟なことではなく,日々の中でちょっと取り組む程度を意味している。

その他には,

●根本的に,「できない」と言っている部分ではなく,出来ている部分にまず焦点を当てるということ,
●ひとからのフィードバックから,主観的に感じていることと人が受け止めていることとのギャップに気づくこと,
●何かがうまくいかないと,ひとまとめ「できない」に丸めてしまって,それに「私は」を付して,「私はできない」とまとめてしまうことが多い。そうではなく,できない部分を具体的にブレークダウしていくことで,何が出来ればいいのかがみえるようになるということ,
●相手を「見る」を意識することと,相手に「見られる」を意識すること。受動的にそこにいるのか,主体的にそこにいるのかが,「見られる」に意識が向くのか,「見る」に向くのかの差になる。自分が好んでそこにいるのなら,自分が「見る」を意識的にするだけで,目の力も姿勢も変化するということ,
●緊張や上がるということは,まだ「やれること」と「やること」の間にギャップがあり,この両者が一致するまでトレーニングしたのかとか,そこまで場数を踏んだのかとか,などと考えると,それに到達していないだけのここと,

等々がランダムに思い浮かぶ。自分を信頼しなければ,相手を信頼できないし,その場全体とも親和性が生まれるはずはない。その意味では,自分を信ずるところまで,自分なりに準備もし,心身を整えて,その上で,相手を自分の方から「見る」こと。それによって,相手が見え,場が見え,自分がどう関われば,プレゼントになるかが見える,ということになる。

プレゼンテーションのシナリオのつくり方としては,

「かきくけこ」「PREP法」

がある(鈴木安子氏の創案)。

「かきくけこ」法

(@過去 Aきっかけ B苦労話 C結果 Dこれから)

「PREP法」

(@Point AReason BExample CPoint )

等々がある。

自分でプレゼンテーションをする場合,その人の振る舞いから出る手や顔の表情の方が強く,しゃべっていた中身は,メラビアンの法則ではないが,よほど強いインパクトのあるフレーズか,面白い例えでなければ残らない。


なぜなら,プレゼンテーションは,確かに,ある意味プレゼントだが,プレゼンテーションは,自分の思いや気持ちや感動を,そのまま手渡しできたら,成功なのだ。

それは,あるいは,こういうことではないか。

プレゼンテーションは,プレゼンスなのだ,と。

話し手,というかプレゼンターそのもののプレゼンスだというのは,プレゼンテーションの可否が結果としてプレゼンスをもたらすというのではなく,逆で,

話し手のプレゼンスがプレゼンテーションの可否をきめる,

と。その意味では,準備そのものは,当該のプレゼンテーションの準備そのものではなく,そのプレゼンテーションに関わる人の,それ以前の日常での,

仕事の仕方,

在り方,

生き方,

振る舞い,

というものの結果として,プレゼンテーションの可否が決まるのではないか,ということなのだ。考えてみれば,われわれは話し手の話を聞きながら,その人そのものを見ている。その人の,

言葉



パワーポイント

ではなく,その人自身を見ている。その人の立ち方,姿勢,表情,仕草,振る舞い,喋り方を見ている。ひょっとすると,それで話の中身を評価してしまっているかもしれない。だとすると,準備以前に,プレゼンテーションの準備は終わっている,ということになる。

そんなことを言うと身も蓋もないが,

ひょっとすると,プレゼンテーションは,

自分という存在を表現する場,

なのかもしれない。伝える中身よりは,その人を通して伝わってくるものに耳(心)を開く。

その意味で,プレゼンテーションの是非がその人のプレゼンスを高めるのは当たり前で,プレゼンテーションは,その人のプレゼンスの結果に他ならないからだ。
 

上へ

目次へ


  • 役割をどう自覚するか

われわれが,

この社会で他人に出会うとき,彼/彼女が自分にとってなんであるかを問われれば,何らかの答えを返すことができる。その答えは,たとえば〈妻〉であったり,〈友人〉であったり,ときには見知らぬ「他人」であったりするだろう。社会的世界において私たちが他社に与えるこの規定を,「役割」

と呼ぶ。仮に,ある人を固有名詞で呼ぶとすると,

そこには固有名で呼ぶことを可能とする関係が前提にされているばかりでなく,私自身も自分がこの他者を固有名で呼ぶことのできる関係をもっていることを知っている。

ということは,われわれは,日常的に役割存在である。

行為者は,ある役割関係を前提に,すなわちすでに存在する相互作用過程のなかで,ある役割を担う他者を見出し,対応する役割を担う行為者として,他者に対する関係好意を行う,

要は,何らかの役割なしには,この世の中に存在しえない,ということらしい。

社会的世界は先ず役割を担う個人の集合として,役割世界として,

存在している。たとえば,

他者が意味をもって,すなわち役割存在として私の世界に現れるとき,私はこの意味において反照される。

相手を上司として認識することは,自分がその部下であると認識する。しかし,それは,確定したものなのか。たとえば,ストーカーが,

相手を私の恋人

と認識したとき,相手は私の恋人になるわけではない。その瞬間,相手が私をストーカーと認識した時,私の認識には関係なく,私はストーカーという役割に転ずる。

そこは,

コミュニケーションを通して他者と共有する間主観的な役割世界,

を持ち合えなければ,妄想と現実(どちらが妄想かは,実はわからない)のすれ違いになり,どちらにとっても何も生まないことになる。なぜなら,

行為者は,役割関係のネットワークのなかで役割行為を遂行することによって,この関係のネットワークと自分自身とを生産・再生産する。この役割関係や役割行為のあり方は多種多様であり,それ自体が何らかの重層的・複合的な関係において構造化されている。その最も…基層にあるのは,人間は社会のなかでのみ個別化されうる存在である…普遍的な依存と貢献の関係である。私たちが役割関係のなかで行為し,自己実現するときの最終的な根拠は,行為者がそのなかで行為能力を備えた個人として生成するこの普遍的な相互連関にある,

からである。一方的では役割は生じない。

両者の相互作用の結果

としてしか共有されない。それは,上司(リーダーと置き換えてもいい)として君臨しても,上司として認知されないことはありうるということに他ならない。

主体は,他者との相互作用において,自己にとっての意味に応じて他者に役割を割り当て,その役割と相即的に対応する自己の役割を獲得する。つまり,相互作用は,すべて役割関係なのである。

相互作用があるときのみ,役割関係が相互で認識される,と言い換えてもいい。

相互作用を関係性と呼びかえると,その人のポジションに応じて,関係性が変わり,自分の役割が変わる。だからこそ,ポジショニングというのが,役割を考えるときに,大事になる。役割関係というのは,その瞬間,相互に責務(責任と言い換えてもいい)が生まれてくる。それに伴って,

役割期待

が生まれる。期待はコントロールできないが,期待を自覚はできる。それに応えていくことが,信頼や評価につながる。

しかしである。この関係性自体が,自分とはかけ離れていくことが多い。つまり,

一度社会化された人間は,おそらくすべてが潜在的な〈自己自身への反逆者〉

となる可能性がある。しかしそれは相互関係のなかでは,多く許されない。

主観的に選ばれたアイデンティティは,個人の意識のなかでのみその〈真の自我〉として客観化されるにすぎない幻想的なアイデンティティとなる。人間は常にかなえられない目的達成の夢をもつ,

と。関係性が,桎梏になることもある。というより,関係性の向こうに(関係性を抜けた)自分自身のありようを探したがる。

自分探し,

はそれだが,結局別の関係性の中にまた結びつけられるしかない。蒸発が,そうであるように。

で思う。いま,ここでの関係性の中で,

自分のありようを示せないものに,

示せる場所はない。人は関係性の結節点そのものとしてし生きられない,社会的動物であり,逆に,そこでこそ,自分が発揮できるのだから。

参考文献;栗岡幹英『役割行為の社会学』(世界思想社),P・L・バーガー=T・ルックマン『日常世界の構成』(新曜社)
 

上へ

目次へ


  • 直感の是と非

直観というと,パターンに認識で,将棋の羽生善治を思い出すが,通常直観とはあまりいい意味では使われないらしい。

例えば,マイヤーズは,こういう例を出す。

一枚の紙を100回折ると,その厚さはどのくらいになるか?

多くの直観は間違う。マイヤーズはこういう。

我々の直観は,たいてい間違いを犯す。紙の厚さが0.1ミリだとすると,折るたびに前の厚さの倍になって,100回折り畳んだ後の厚さは地球と太陽との間の距離の800兆倍になるだろう。

しかし,我々は直観で判断していることが多い。たとえば, 

ヘッドホンをして,片方の耳で朗読を聞き,朗読のテキストと照合しながら,もう片方から音楽が聞こえている。意識して聞いているわけではないが,その音楽の間に,以前聞いたことのある音楽を挿入しておく。で,どちらが好きかを問われると,聞いたことのある方と,答えるらしい。意識的にはわからないことを好き嫌いの選考では,明らかにできる。

物体写真や顔写真を200ミリ秒見ただけで,ひとは直ちに良し悪しを判断する。対人関係では,最初の10秒で直観的に判断してしまう。

ザイアンスの法則と言われるのは,単純接触効果だ。よく知っているものほど好きになる。見慣れたものに近づき,見慣れないものを警戒する。

他者を観察するとき,素早くわれわれは何らかの判断を下す。そして後になってそのとっさの感情に理屈づけする。われわれはものを感じている時,なぜそう感じるかがわかっているわけではない。その感情の理由を探ると,もっともらしい間違った要因に目を向けることになる。意識しないでやった理由を,左脳は間違った解釈をする,という。

では,直観というのは記憶と同じなのか。記憶には,潜在記憶(手続き型記憶)と顕在記憶(陳述型記憶)という分け方もできるし,もう少し細かく,手続き記憶,意味記憶,エピソード記憶とわけることができる。意識化しないで,働くという面で言えば,手続き記憶とエピソード記憶が,直観,あるいは勘に機能しているということができる。

パターン認識を使う,将棋のような何十通りの手筋を思い描く場合とは違い,通常我々の直観は,あてずっぽうか思い込みのことが多い。盤面という限られた世界ではなく,複雑な人間関係や心理については,手筋は無数なのだ。

たとえば,自分の将来について,直観する場合,失敗する。

感情の持続時間を予測する場合は,失敗する。失恋した後の,選挙に敗れた後の,試合に勝った後の,侮辱された後の,感情の持続時間を間違って予測している,という。ネガティブな出来事に注目すれば,それ以外のあらゆることを軽視してしまい,みじめさはずっと続くと予測する。しかし,自分が注目しているものは,自分が思っているほど重要ではない。また自分の将来の行動についても,直観は間違える。自分の将来行動の予測よりは,他人の行動予測の方が当たる,という。

人の行動を解釈するとき,その置かれている状況を過小評価し,その人の内的要因を過大評価する。しかし自分の行動を評価するときは,これと逆に考える。自分が不機嫌なのはその日が不愉快だからで,他人が不機嫌なのは,その人が不愉快な気質だからだ。

関連ないことにパターン化する。たとえば,子供の無い夫婦は養子をもらうと妊娠する可能性が高くなる。目立つところに注目するために,パターンとして意識化されやすくなる。

しかし,直観のつけが自分にくるだけなら,別にたいしたことではない。そういう直観が試されるのは,象徴的には,心理臨床場面だ。

マイヤーズによると,セラピストは,自分の直観に味方する,という。しかし研究者たちは,直観と統計的予測とが競合した場合(たとえば面接者による生徒の学力予測と,成績や適性得点に基づいた客観評価とが食い違うような場合),たいてい客観的評価によって決定する,という。統計的予測が必ずしも正確ではないにもかかわらず。

臨床心理的直観は,過った関連付けや後知恵のバイアス,信念の根強さ,自己成就的診断などの弱みが現れている,とマイヤーズはいう。

心理臨床のクライアントの行動がそのセラピストの理論としばしば一致している,と言われる。

あなたの気持ちがそうならば
あなたの求めるものがそうなる。
自分の望むものをあなたは見つけるだろう。

自分の見たがっている関連性を見ようとし,それを後知恵で補強する。自分の理論や仮説を見てしまう。自分が正しいと思う質問をする等々。

上へ

目次へ


  • 考えるというのは自分で答えを出すこと

考えるというのは,自分で答えを出すことだ。自分だけの答えを出す。もちろん一人の頭で考えることだけを意味しないが,主体になって,答えを出そうとする。それが考えることだ,と僕は思う。

それは,問いから始まり,答えに至る。

如之何(いかん),如之何と曰わざる者は,吾如之何ともする未(な)きのみ。

と孔子の言う通,問答(自己問答だけではないが)が考えるの原点かと思う。

社会構成主義的に言うと,それは,関係性の反映,つまり,僕が人との関係の中で培ってきたものになるだろうが,個人的には,正解がどこかにあるかどうかは別に,場合によっては,現実に最適性あるいは妥当性を求め,場合によっては,自分にとって最も理にかなうことを,場合によっては,ぎりぎりの我慢できる限界を,それぞれ自分なりに求めていくプロセス,というふうに言えると思う。

時実利彦氏は,考えるとは,

受けとめた情報に対して,反射的・紋切り型に反応する,いわゆる短絡反応的な精神活動ではない。設定した問題の解決,たてた目標の実現や達成のために,過去のいろいろな経験や現在えた知識をいろいろ組みあわせながら,新しい心の内容にまとめあげてゆく精神活動である。すなわち,思いをめぐらし(連想,想像,推理),考え(思考,工夫),そして決断する(判断)ということである(『人間であること』)

と定義している。辞書的に言うと,

1知識や経験などに基づいて,筋道を立てて頭を働かせる。たとえば,判断する。結論を導き出す。予測する。予想する。想像する。意図する。決意する。
2 関係する事柄や事情について,あれこれと思いをめぐらす。
3 工夫する。工夫してつくり出す。
4 問いただして事実を明らかにする。取り調べて罰する。
5 占う。占いの結果を判断・解釈する。

となる。「考」という字の持つ意味は,

考える
調べる
試みる
永らえる
叩く
問う
正す
比べ測る,
究める
し遂げる

となるから,ほぼその範囲に入る。そういうプロセスを積み重ねることで,自分にとっての知識やノウハウになっていく。

野中郁次郎氏が,知識とは,

思いの客観化プロセス,

と言われた。「思い」を,「問い」と置き換えてもいい。なんなら,問題意識と置き換えれば,もっともらしくなる。そうやって自ら問い,その答えを考えた結果が,おのれの知識になっていく。

人間が考えるという,この思考活動の内面プロセス自体を明らかにしたのは,スイスの心理学者J.ピアジェであるが,

たとえば3,4歳の子供が遊んでいると,誰に話しかけるというのでもなく独り言をしゃべっている。
4歳女の子「この木にはね,おサルが上るのよ。おサルさんかわいいね,すうっと登ってすうっとおりるのよ」
4歳男の子「ハイウェーだぞ。メルセデスベンツが走るんだぞ,大きいんだぞ」
お互いに誰かと話し合っているわけでないし,人に聞かれているというつもりもない。ただ自分で自分が考えていることをどんどんことばにして,それを刺激にしてまたしゃべっている。これをピアジェは自己中心的言語と名付けた。

これは,思考プロセスそのものが外面化しているとみることができる。成長につれて,通常は独り言は少なくなって,
独り言が次第に聞き取れなくなっていく。それは,自分のためにしゃべっているのであって,別に文脈が整っている必要がないからであり,自分の内的会話と人とのコミュニケーション(社会的会話)とが分離していくということでもある。こうして言語が内面化されていく。すっかり内面化された言語を内語という。

これが考えるという内面的プロセスなら,考えるとは,自己対話と言い換えてもいい。

成人でも,非常に集中したとき,無意識でものを考えながら独り言をいって,自分で思考を方向づけたり,自分を励ましたりしいることがある。そして実はそれは言語だけでなく,たとえばそろばんが上手になると,そろばんをはじく仕草をしたり,頭にイメージを浮かべて暗算したりするように,動作や映像もまた内面化される。

こうした内面化した思考プロセスには,

@動作,行為およびそれらの内面化した過程
A知覚,経験およびその内面化したイメージ
B言語およびその内面化した象徴過程
C現実の因果関係の内面化した法則的論理

の4つがあるとされているが,これは成長のプロセスであると同時に,成人においては層をなしているとみなすことができる。だから,モノを考えるとき,われわれは,以上の4つのパターンを組み合わせているということができる。

動作,行為の感覚で考える,というのは,動作や行為の経験が内面化されている。いわば,動作や行為との対話と言い換えてもいい。必ずしも,自分のそれとは限らず,人の,プロのそれと対話するということもありうる。

動作を想像するとき,思わず躯を動かすということがあるのも,そのためである。ゴルフのスイングを想定するとき,肱の恰好や腰の据わり方を,思わず躯を動かしながら,あれこれ考えている。これは,自分の躯の動きが頭の中にしまわれている(内面化されている)というふうに考えられると同時に,しかし自分が頭で考えるほどに躯は動いてはくれないという事態も生ずる。

イメージで考えるというのは,知覚・経験の内面化したイメージがあり,これも,自分の記憶との対話だけではなく,見た映像や写真というものとの対話も含まれる。それで内側を見たり,裏面を想像したりする。それは映像化された知覚経験の蓄積といったもの,いわばビジュアルなものとのつきあわせである。こうした映像的な思考,あるいはパターン化した思考は,直観につながっているように思う。

言葉で考えるというのは,言葉,つまり意味や文脈で物事を考えたり,判断したりする。成人のわれわれはほとんど言葉,あるいは概念でモノを考えているといっていい。「知っている」というとき,大体「その意味を知っている」といわれるが,もっている言葉で現実を見る眼が変わる。違った意味に見える,ということである。同時に,ソシュールの言うように,言葉は(現実とは関わりなく,あるいは切れても)言葉だけとリンクしながら,そのつながりの流れ自体で意味を創り出すことがある。

理屈・論理で考えるというのは,現実を因果関係や法則で判断する。学んだ知識・経験によって,ものごとを推理したり,類推したり,演繹したりする(こうすれば,こうなる。こういうときは,こうなるはずだ)。これが知識の力といっていい。こうなるのが当たり前,というわけだ。ロジカル・シンキングのロジックツリーがどれだけ整合性があり,論理の筋が整っていても,現実にマッチしないことがあるように,言葉以上に,論理のみの筋道だけで,ロジックが出来上がっていく。

こういう思考のプロセスを積み重ねて,ものを考える枠組が形成される。それには,次の四つがある,とされる。

@自分はどういうときにどうするタイプの人間かという自己(の可能性,傾向の)についての自画像
Aある状況ではこういうことがおき,こういうふうになるであろうという,行動や出来事の連鎖についての経験知
Bかくかくの状況・立場ではこういう役割や行動が期待されているという状況への認知イメージ
C人間はこういう性格と傾向があるといった経験知
Dこうなればこうなるだろう,あるいはこうなればこういう結果になるだろうといった,因果関係の図式の認知

つまり,モノを考えるということは,こういう自分なりの思考の枠組みができているということにほかならない。これによって,その人なりのモノの見え方,見えるものが決まってくる。

しかしである。それは,

こうした思考の枠組が,

世界を安定し,扱いやすいものにし,
私たちに突然襲いがちな予想外の出来事の数を減らし,
生活に生ずる目新しい出来事を飼い慣らし,
新しいものを既知のものに結びつけようとする

ということにほかならない。そうなれば,通常よく知っているタイプの目印となる特徴に注目し,頭の中にいつも持っているステレオタイプによって残りを満たす。それは考えるとは言わない。

自己完結した思考回路は,堂々巡りをするか都合のいい解釈しかしなくなる。それを夜郎自大という。例えば,フィリップ・ゴールドバーグ『直感術』におもしろい小話が出ている。

ある心理学者は,ノミに「跳べ」といったら跳べるように訓練した。
試みにノミの足を1本取ってみたが,まだノミは命令に従って跳べた。
2本とっても,3本取っても命令に従って,跳びつづけた。
やがて全部の足をとってしまったら,ノミは跳ばなくなった。
そこで,この学者は,次の結論を出した。
「足を全て失ったノミは聴覚をなくす」

ここに考えるということの自己完結さ,というか自己閉鎖した思考の滑稽さがあらわになっている。

僕は考えるというのは,独り言が出発点であったように,自己対話なのだと思う。しかし,本来,自己対話は,その人が生きている現実という文脈の上で成り立っている。ということは,自己完結した,閉鎖的な自己対話はほとんど病気である。生きているということは,人が現実と関わり,人と関わり,情報と関わり,メディアと関わり等々,その都度,さまざまなレベルで対話しつづけているということである。その対話があるからこそ,自己対話を豊かにする。

ミハイル・バフチンは,こんなことを言っている。

人びとは対話を通して,意味の中に生まれてくる

と,つまり,会話は,先行する発話によって意味の中に産み落とされる,それは二人の関係のなかでの会話で決まる。
言葉の意味は,新しい(関係という)コンテクストの中におかれるたびに微妙に変化し新しい言葉がつくり出される。

だから,考えるということは,生きるということが,現実との,人との,情報との,メディアとの,他国との対話である限り,その対話というか,その関係性を反映する限り,自己対話の対話相手(視点と呼び換えてもいい)は増え続け,多様化し,多声化して,成長し続けるはずである。しかし,自己完結した閉鎖的な自己対話は,妄想か空想に陥るしかない。

参考文献;時実利彦『人間であること』(岩波新書),相良守次編『学習と思考』(大日本図書),フィリップ・ゴールドバーグ『直感術』(工作舎),J.キャンベル『柔らかい頭』(青土社)

上へ

目次へ


  • 共感できる(Empathizing)脳とシステム(Systemizing)脳がある

バロン=コーエンは,共感できる(Empathizing)脳とシステム(Systemizing)脳があるという説を提案しているという。

共感とは,他人が何を感じ,何を考えているかを知り,それに適切に反応することをいう。共感できる脳は相手の感情や心の状態を知って心を動かす活きをすると仮定されるので,心の理論が働くことに通じる,という。

心の理論(theory of mind)というのは,ひとはそれぞれ自分の心を持っていてそれにもとづいて行動していることができることを言う。つまり,

心の理論が理解できるようになると,自分の心と他人の心は違うことがわかるので,自分と他人とは,感情,意思,考えなどが違うことがわかる。大体四歳くらいで理解できるようなる(一歳でもできるという指摘もある)らしい。

これが社会を形成してきた人の共通の特徴とされている。

一方システム化に優れた脳は,システムを分析したり検討することが得意で,システムの隠れた法則に気づいたり,新しいシステムを創り出す傾向を持つ。心の理論とは縁遠いことになる,という。

バロン=コーエンは,二つの脳について,

E(共感できる脳)とS(システム脳)について,

EがSよりまさるEタイプ,SがまさるSタイプ,バランスの取れているBタイプに分けたが,95%はBタイプであるとしている。そして極端に人間関係が苦手なアスペルガー症候群の人をSタイプとした。

しかし,それを立証する生物学的マーカーは見つかっていない。むしろ,高橋惠子氏は,

個性と障害の線引きは簡単ではない。ある社会的ルールを知らないことが本人を苦しめたり,不利にする,(中略)個性を尊重し個性を活かすことが…根本原則である,

という。所詮仮説でしかないもので,人を類別し,人を理解した気になることは,浅薄だろう。

仮説というのは,所詮,仮の説明概念である。それを持ってみると,現実がよく説明できる。あくまで,仮にそう説明するとわかりやすいというだけだ。当然別の眼鏡を掛ければ別のものの見え方がする。

ロジャーズは,(これもたびたび引用するが)共感について,

「あくまで……のごとく」という性質(“as if” quality)を決してうしなわない

で,クライアントの私的世界をそれが自分の世界であるかのように感じとる,ことだと言っている。ロジャーズには,それは錯覚かもしれないし,思い過ごしかもしれないし,思い込みかもしれないことを,よく自覚していた。

それを失ったら,単なるきめつけに過ぎない。右脳左脳で切り分ける俗説もこれに似ている。

人の認知形式,思考形式には,

「論理・実証モード(Paradigmatic Mode)」



ストーリーモード(Narrative Mode)」

がある(ジェロム・ブルナー)があるとされている。

前者はロジカル・シンキングのように,物事の是非を論証していく。後者は,出来事と出来事の意味とつながりを見ようとする。

ドナルド・A・ノーマンは,これについて,こう言っている。

物語には,形式的な解決手段が置き去りにしてしまう要素を的確に捉えてくれる素晴らしい能力がある。論理は一般化しようとする。結論を特定の文脈から切り離したり,主観的な感情に左右されないようにしようとするのである。物語は文脈を捉え,感情を捉える。論理は一般化し,物語は特殊化する。論理を使えば,文脈に依存しない凡庸な結論を導き出すことができる。物語を使えば,個人的な視点でその結論が関係者にどんなインパクトを与えるか理解できるのである。物語が論理より優れているわけではない。また,論理が物語りより優れているわけでもない。二つは別のものなのだ。各々が別の観点を採用しているだけである。」(『人を賢くする道具』)

要は,ストーリーモードは,論理モードで一般化され,文脈を切り離してしまう思考パターンを補完し,具象で裏打ちすることになる。

だから,共感できる(Empathizing)脳とシステム(Systemizing)脳は相互に補完し合っていることになる。95%から外れた人を,個性と見ることが出来なければ,所詮個性などどこにもない。

僕は個性は,百人いれば,百個の個性があると思っている。

問題は,人と同じ尺度だけで測っているから,それが見えない。百個違う尺度がいるのだ。それだけのことだ。

そしてこれが理解できない人は,

ブレインストーミング

の意味が永久にわからないだろう。

百個の個性とは,百個の異質さなのだ。それが前提でなければ,ブレインストーミングなど活かせっこないし,

キャッチボール

によって生み出される,異質な何かなど見えはしない。そこにあるのは,創造性のとば口なのだ。

参考文献;高橋惠子『絆の構造』(講談社現代新書),H・カーシェンバウム&V・L・ヘンダーソン編『ロジャーズ選集』(誠信書房),ドナルド・A・ノーマン『人を賢くする道具』(新曜社)
 

上へ

目次へ


  • 発想に否定はない

発想に否定はない。

発想にダメ出しはない。

発想に批判はない。

ブレインストーミングに批判がないのは,当たり前で,「ダメ出し」では基本的に,発想できない。「ダメ」ではなく,どうすれば「ダメでなくできるか」「可能になるか」を考える,それが発想だからだ。

当然ネガティブはない。

川喜田二郎氏は,創造性をこう定義した。

本来ばらばらで異質なものを意味あるようにむすびつけ,秩序づける。

異質なものを組み合わせて,そこに意味を見つければいい。

いや,意味さえ見つかれば,何でもつなげていい,ということだ。それに良い悪いも,正しい間違いもない。どれだけ新しい意味があるように組み合わせられたか,なのだ。

くだらないなどと言ってはいけない。客観的に見て,どんなにくだらなかろうと,それはアイデアを練り込んでいく端緒に過ぎない。出発点に過ぎない。そのくだらない(と見える)アイデアが練り込みのきっかけを作ってくれるのだ。

ある管理職曰く,

部下に何かいいアイデアはないかと言ったら,出てきたアイデアがどれもこれもありきたりで…

と。この発言がばかげている理由はふたつある。

第一は,「ありきたり」と言っているのは,その管理職だけかもしれない。自分にはありきたりに見えているというだけのことかもしれないということに,いささかも,本人は思いが至っていないことだ。

第二は,アイデアは完成品が出てくるものと思っていることだ。それなら,あんたはいらない。部下から出たすばらしいアイデアを拾い上げるだけなら,はっきり言ってマネジメントはいらない。

大事なことは,アイデアを自己完結しないことだ。

アイデア自身に閉じ込めない,

自分だけに閉じ込めない,

となると,そこに初めて,一緒になって完成させていくという,プロセスが出てくる。そこでマネジメントが生きる。そこ以外にマネジメントをいかす場所などない。

いいアイデアはないか,

と部下に指示したのは,マネジメントでも何でもない。そんなものは,ただ権力を笠にきて,命じているだけだ。

基本,アイデアにくだらないものはない。

くだらないと決めつけている固定観念(これを機能的固着という)があるだけだ。くだらないかどうかは,まだわからない。ただアイデアを練り込んでいく端緒に過ぎない。それを素材に,どう練り込んでいくか,そこにこそマネジメントの神髄がある。

一緒に練り込むプロセスで,

自分の目指すことがより部下に伝わるかもしれない,

自分自身も,そのプロセスで自分の目指すことと部下の受け止めていることのギャップに気づくかもしれない。

部下の発想スタイルが見えてくるかもしれない。

アイデアを考え出すということはどういうことかを学ぶプロセスになるかもしれない。

そうやって一緒に完成させていくプロセス以外に良いアイデアにしていく王道はない。

アイデアを創り込んでいく鍵は,自己完結させないことだ。

自分の中だけ,

そのアイデアの中だけ,

に。ひらめく一瞬,0.1秒,脳の広い範囲が活性化する,という。それと同じだ。どう多様な人と人とのリンクの中で,それに違う光をあてられるか。

一見くだらないと思えたものが,人と人のキャッチボールの中で思わぬものになっていく,

それが発想というものの神髄だ。そうすることがアイデアの練り込みであり,発想というものだ。

そうなれば,どんな(くだらないと思える)アイデアにも無駄はない。

上へ

目次へ


  • 軸のもち方

かつては,I型とかT型といった,専門性の軸の取り方を言ったものだが,昨今はどういうのか知らない。そんな高尚な話ではない。

専門は,

ひとつではだめ,

ふたつなくては,

食べていけない。というニュアンスのことを聞いたことがある。たとえば,セミナー講師としていくなら,二つ以上の得意分野を持て,と言ったニュアンスだと思う。

それは逆である。

まず絶対得意分野をつくれ,

それは誰かの真似ではなく,また誰かの代弁でもライセンスでも,誰かの受け売りでも,免許皆伝でもなく,オリジナルなものを創りだすこと。それがコアになって,次々と関連する分野が,隣接して広がっていく。

自分でしかできない代替の聞かない軸に,それが溶けて滲んでいくように広がっていく,イメージだ。

その境界を立てるのは自分なので,すこしでも違う隣接分野は,一本の軸として立てていく。そうすることで,軸がいくつか立つ。本来,軸はあるものではなく,軸として創っていくものだ。

そうしていくつもの軸というか,得意分野というか,専門分野というかは知らないが,近接領域にか細い軸がびっしり立ち並ぶ。その場合,同じIでも,一本はか細くても,五本も六本も束ねると,野太い柱になっている。しかも,近接しているので,相互が絡みついてリンクしあっていく,というか絡み合わざるを得ない。

前野隆司氏は,∇(ナブラ)型になれという。


T型人間とは,Tの縦の棒のように,何かひとつ専門について狭く深く知るとともに,横の棒のように世の中一般の常識を広く浅く身に附けよ,という意味だ。(中略)T型人間の問題点は…縦棒と横棒を,か弱い「点」でしかつながっていない二つの要素と捉えることだ。T字型の部品があったとしたら,継ぎ目のところが最も折れやすいことが知られている。

では,∇型人間とは何か。ナブラとは,ヘブライ語の竪琴に由来する。

要するに,専門性と一般性が,Tとは違って,強固にぎっしりとつながっている,という意味だ。

つまり,専門性が,世の中のさまざまな考え方とリンクがつながっていて,Tの横棒と縦棒のさまざまなか所が,相互につながり合っている,

Tの縦の上の任意の点と横の棒の任意の点を直線でつなぐ,という操作を繰り返した場合,次第にTは,塗りつぶされた∇に近づいて行くはずだ。

∇型人間とは,専門と世界のつながりを多様な意味で理解し実践する人間のことだ。

という。専門性という縦軸に,横軸の一般性にコイルが絡みつくように幾重にもまきつくイメージだ。

あるいは,別の言い方をすると,専門性が,脳の機能的固着に陥らないために,さまざまな視点で,それを俯瞰したり,異質なものとリンクさせたり,組み合わせたり,ということが自在にできるということではないか。

川喜多二郎氏が,創造性とは,

本来ばらばらで異質なものを意味あるように結びつけ,秩序づけることだ,

と定義したところと考え合わせると,専門性という固定した視点を相対化して,相互に関連づける視点を持てることといっていい。それには,∇もTもない。自由にメタ化し,俯瞰する視点が不可欠だ。

そのとき,軸は,仮に拠って立つ基点でしかない。つまり,いつでもそれを離れて,自在に別の基点から測れなくてはならない。

それが自由な発想という意味だ。

上へ

目次へ


  • どうなったらいいかという解決状態から考える

問題解決は,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod09600.htm

という枠組みを考える。大事なのは,問題に焦点をあてないことだ。人は,何を期待値(達成値あるいはあるべき姿)とするかによって,問題は違う。問題に焦点をあてるのではなく,

どうなったら問題解決したことになるのか,

に焦点をあてる。

何を問題にするか,

ではなく,

なぜ問題にするか,

と言い換えてもいい。

「問題」はいつも誰かの目を通してのみ問題となる。どこかに「問題がある」のではなく,誰かが「問題にする」ことによって「問題になる」。

だから,誰かにとっての「問題」は,僕の「問題」とは限らない。その人にとって「問題」と思えても,他の人にとっては何でもないこともありえる。もし,誰の目から見ても「問題」なら,実行する,つまり誰が,いつ,どういう解決をするか,だけが問題となる。

問題とする基準,たとえば達成すべき目標,維持すべき水準,保持すべき正常状態,守るべき基準等々,何と言ってもいいが,要は,その人にとって,「どうなったら解決したことになるか」は,ひとりひとり微妙に違う。

それぞれの,「どうなったら解決したことになるか」には,それぞれの理想状態(なりたい状態,ありたい状態),目標状態(やりたい状態),満足状態,期待状態,あるいは価値や意味等々からきている。それが簡単にすり合わせられるとは思わないが,問題をあげつらっているよりは,一致点(逆に不一致)は明確にしやすい。

どうなったら問題解決したことになるのか,

をよく,期待値という表現にしておく。

そうしたすりあわせ,期待する成果,本音の解決状態を正直に出し合うことで,はじめて相手の問題が自分にとって明確になる。もちろんそれを共有するかどうかは別の問題だが。

つまり,問題に焦点をあてるというのは,相手が何に対して問題にしているかがわからない手探り状態で,現象に振り回されるのに似ている。何を基準にしているかがわからなければ,一緒に問題解決しようにも,向いている方向も目線も違う。

だから,未達とか未完了に焦点をあてるより,お互いの目指す解決状態(完了状態)から考えたほうがいいのだ。

たとえば,遅刻を問題にして,

どうしたら遅刻をなくせるか,

なぜ遅刻するのか,

と原因究明を話し合う,という非生産的で暗い話より,

どうしたら遅刻したくない職場(朝起きたら生きたくて仕方のない楽しい職場)にするにはどうしたらいいか,

朝目覚めたらわくわくして早く出勤したくなるようなそんな職場にするにはどうしたらいいか,

を話した方が,はるかに面白いし,わくわくする。それは働くこと,生きることについての,それぞれの価値や意味を確認することになるからだ。

それを話していることで,遅刻問題は消えて行く,というより,そんなことを問題にしていること自体がばかばかしくなる。

これがソリューション・トークだ。問題に焦点をあてるのがプロブレム・トークなら,はるかにソリューション・トークの方が建設的だ。

チームで問題解決をしようとするなら,原因を探るより,目指す解決状態を共有化し,そのために何をするかを話し合った方がはるかに前に進む。

妥協や未完了がいいと思わないのは,それがプロブレム・トークだからだ。

問題をいくら挙げても,挙げ尽くせることはない。もぐら叩きをいくらしても,本質には届かない。

未完了や妥協を取り上げることで,生き方の象徴にしたいのだろう。しかしダメ出しは自分で腐るほどしている。必要なのはダメ出しではない。ダメ出しから,自分のリソースを見つけることはできない。

発想に否定(ダメ)出しはない。逆に言うと,否定(ダメ)出しからは発想は生まれない。生まれても現状の延長線上から脱せない。

そんな程度の発想なら,たぶん,いつか思い浮かぶ程度のコトだ。

上へ

目次へ


  • 能力の要になるもの

能力は,

知識(知っている)×技能(できる)×意欲(その気になる)×発想(何とかする),

である,と考えている。これに,

気力(がんばる)

体力(やれる)

努力(つづける)

を加えてもいいが,大した影響はない。大事なのは,発想だっと思っている。

何とかしなければならないレベルの,いままでの知識と経験では解けないことに,立ち向かって初めて,自分が,

何を知らないのか,

何ができないのか,

に気づく。それが第一。第二に,そこで初めて,自分の頭で(知識と経験は受け取ったものだ),

どうしたら解けるかを考える。

発想を経ない経験は,結局,

出来る範囲でやる,

か,

出来ないことに目を背ける,

ことでしか,クリアできない。それは,能力のキャパを増大するチャンスをみすみす潰すことになる。

発想といっても,持っている,

知識と経験の函数,

だから,マジックのようなことができるわけではない。しかし,持っている知識の組み合わせやつなぎ方を変えるだけで,新しいアイデアやモノの見方に気づけることが多い(もちろん,自分にとって)。

ひらめく瞬間に,

脳内の広範囲が活性化する,

と言われる。それは,いままでのリンクとは全く別のつながり方によって,自分にとっての,

アッハ体験

ができる,と言うことだ。そういう経験を積み重ねることが,考える,自分の頭で考えるということだと,僕は思っている。

それを別の言い方をすると,

編集,

という作業になる。情報も知識も,編集することで,様相を変える。例えば,前にも挙げたことがあるが,映画のモンタージュ手法を例にとってみる。

「一秒間に二四コマ」の映画フィルムは,それ自体は静止している一コマ毎の画像に,人間や物体が分解されたものである。この一コマ一コマのフィルムの断片群には,クローズアップ(大写し),ロングショット(遠写),バスト(半身),フル(全身)等々,ショットもサイズも異にした画像が写されている。それぞれの画像は,一眼レフのネガフィルムと同様,部分的・非連続的である。ひとつひとつの画像は,その対象をどう分析しどうとらえようとしたかという,監督のものの見方を表している。それらを構成し直す(モンタージュ)のが映画の編集である。つなぎ変え,並べ換えることによって,画像が新しい見え方をもたらすことになる。

たとえば,陳腐な例だが,

たとえば,男女の会話の場面で,男の怒鳴っているカットにつなげて,女性のうなだれているカットを接続すると,一カットずつの意味とは別に男に怒鳴られている女性というシーンになる。しかし,この両者のつなぎ方を変え,仏壇のカットを間に入れると,怒鳴っている男は想い出のシーンに変わり,それを思い出しているのが女性というシーンに変わってしまう。あるいはアップした男の怒った表情に,しおたれた花のカットを挿入すれば,うなだれている女性をそう受け止めている男の心象というふうに変わる。その後に薄ら笑いを浮かべた女性のアップをつなげれば,男の思い込みとは食い違った現実を際立たせることになる,

等々。

アイデアも,編集という意味では,似てると言える。たとえば,創造性についての代表的な定義は,E・ヴァン・ファンジェの,

@創造者とは,既存の要素から,彼にとっては新しい組み合わせを達成する人である,
A創造とは,この新しい組み合わせである,
B創造するとは,既存の要素を新しく組み合わせることにすぎない,

である。要するに,既存の要素(見慣れたもの)から新しい組み合わせ(見慣れないもの)を創り出すことである
であるが,川喜田二郎は,わかりやすく,

本来ばらばらで異質なものを意味あるようにむすびつけ,秩序づける(新しい意味があるように組み合わせる)

ことである,

と定義している。

いずれも,言い換えれば,異質な組み合わせによって,知っているもの(見慣れたもの)を知らないもの(見慣れぬもの)にすることである。あるいは,新しい意味づけを見つけることである。

この「組み合わせ」を,アーサー・ケストラーは,

互に矛盾する二つの見地(モノの見方)に,常識的にはとうてい均衡がとれそうもないないところで「不安定な平衡状態」を見つけることだ,

と言う。つまりは,単なる寄せ集めではなく,常識的には接合点の見つけられない「異質」なものに「交錯点」を見つけ出すのである。そこにつながりを見つけることなのである。

発想を別の言い方をすると,

選択肢,

である。さらに突っ込むと,

(できるだけ)沢山の選択肢が出せる,

ということになるのではないか。当然,組み合わせの選択肢は,自己完結では限界がある。人とのキャッチボールによる,異質な選択肢を加味することが,不可欠となる。

どこまでも,コミュニケーション抜きで能力は広がらないようにできている。

参考文献;E・ヴァン・ファンジェ『創造性の開発』(岩波書店),瓜生忠夫『新版モンタージュ考』(時事通信社)

上へ

目次へ


  • 強みとは何か

強みとは,

頼んで力とするもの,頼りになる点

という。「強」は「强」とも書く。これは,

「弘」+「虫」で,「彊」(強い弓)を音が共通であるため音を仮借した,

または,

「弘」は弓の弦をはずした様で,ひいては弓の弦を意味し,虫からとった強い弦を意味する。

さらには,

「弘」は「彊」(キョウ)の略体で,「虫」をつけ甲虫の硬い頭部等を意味した,

もうひとつ,

○+虫+彊の略字体で,がっしりした殻をかぶった甲虫。彊に通じて,堅く丈夫な意,

等々諸説ある。いずれにしても,

「彊」に通ずるとしている。「彊」は,

がっちりと堅く丈夫な弓の意。「彊」の,



は,田の間にくっきりと一線で境界を付けることを示し,堅く張ってけじめの明らかな意を含む,とする。

強い弓→頼りになるもの,といった意味だろうか。

昨今,強みを生かすって,散々に言われる。しかしどうなんだろう,と僕は疑問である。いまさら,強みを確かめるっていうのは,どうも可能性(蓋然性か)を言っているだけだ。歳のせいかも知れないが,今まで生きてきた中で,たぶん,意識的,無意識的に,おのれの強みを生かしてきたはずじゃないか,それに名づけをするだけでは,と懐疑的である。まあ,好みの問題に過ぎないかもしれない。

ピーター・F・ドラッカーは,

あらゆる知識労働者に三つのことを聞かなければならない。
1.強みは何か,どのような強みを発揮してくれるかである。
2.何を期待してよいか,いつまでに結果を出してくれるかである。
3.そのためにはどのような情報が必要か,どのような情報を出してくれるかである。

ということを言っていた。僕には,こちらの強みのほうが気になる。その強みとは,別の言い方をすると,仕事をするとき,それが未知のことであっても,未体験のことであっても,

自分にできるカタチに置き換える

ということをする。言い換えると,自分のフィールドに持ち込んで,そこで言い換える。その,

できるカタチ
とか
自分のフィールド

というのが,ここで言う,強みなのだろうと思う。そう考えてみると,弱みを克服するというのは,無駄な努力に見える。むしろ,強みのフィールドを広げることで,

自分のできるカタチに置き換える

ことのできる,キャパシティというか,容量というものを広げることの方が,実践的である。軸のもち方でも書いたが,かつて,軸足は多いほどいい,と言われていた。

軸足

とは,専門領域というか,専門とするテーマ,といったような意味だったと思うが,それも,

得意技

と言い換えてもいい。一つしかそれがなければ,置き換えのパターンは限られる。しかし,二つあれば,四倍になる。三つあれば,九倍になる,と思っている。ビジネスの場では,

問われて,自分なりの答えが,出せなければ,

おしまいではないまでも,そこにいない(も同然の)ものと見なされる。それが間違っていても,劣っていても,自分なりの答えを出さなくてはならない。それが考えることだが,しかし,むしろ発想力だと思う。

発想というのは,

何とかすること,

である。知識や経験を当てはめただけでは,答えは出せない。出せないところに,何とか,自分なりのアイデアをだす。その経験の積み重ねがないと,やったことのないテーマには,挑めない。しかし,一度,それについて考え,自分なりの答えを出したこと自体が,何とかする経験となり,

自分にできるカタチに置き換える,

という経験を積んだことになる。それ自体が,自分の領域を広げたことになる。

答は,自分の中にしかない,

というが,しかし,発想とは,

自分の知識と経験の函数

でしかない。知らないことはわからないし,経験したことのないことは出来ない。しかし,それで終わるなら,強みは出来ない。知らないことを,

わかっていることで置き換え,

経験したことのないことを,

やったことで置き換えられる

から,強みになるのである。

上へ

目次へ


  • 未知の体験を自分のでくきるカタチに置き換える

たとえば,まったく未経験というわけではないが,必ずしも習熟しているわけでもないようなことを,引き受けることになったとき,たとえば,

いままでとはちょっと違う種類の仕事が舞い込んできたとき,

やれる,

という感覚があるのは,どういう根拠なのだろう。

できると思うのは,ただの錯覚かもしれない。しかし,その

できる感

が,錯覚ではなく,なにがしか根拠があるのと,錯覚(過信とも,思い上がりとも呼んでいいが)との差は何だろう。

まったく同じことなら,たとえ規模が大きくなろうが,単に運営上の問題に過ぎない。しかし,微妙にテーマや課題がずれている。にもかかわらず,その瞬間に,自分の中に,何か具体的なイメージのようなものがわく(ような気がする)。そのときは,

できる

気がする。逆に,明らかにずれているというか,ベン図ふうに言うと,自分の円と依頼の(想定する)円とか,かけ離れていれば,まず,やれるとは感じない。

無理

と思うのと,

できる

と思うのとの境界線は,そこだろう。しかし,別の言い方をすると,

できそう,

できるかも,

できる,

との差は,

できる

できると思う

の差といっていい。その差は,ベン図の円の重なり具合の差なのだろうか。

できる気がするとき,それは,根拠というような確かなものではない。自分の経験とスキルと知識を,過半はみだしたものなのに,何か,類推が効くところがある,と言ったらいいのか。

類推,

とは中国語で,

類比+推理

を言う。類似のものに基づいて,他を推し量る,という意味になる。

まったく同じではないが,似たような仕事をしたことがあり,その経験とノウハウを当てはめると,何とかやれる,

そんな感覚か。あるいは,小さなスケールで経験したことがあるが,その何十倍ものスケールということになると,そのまま当てはまらない隙間がある。それでも,その経験からなんとなくやり方とか構成が読める,というイメージか。しかし,

そのままやれるわけではないので,その隙間というか,その未知の部分が,不安をもたらす。

昔から,仕事というのは,

自分のやれるカタチに置き換える,

ということだ。それを自責化と呼ぶ。その意味では,未知で未経験なのは,

やれるカタチに置き換えのきかない部分が大きく残るときなのだと言い換えてもいい。

若い頃なら,怖いもの見たさで,まあ,失敗するのも経験と言えるが,ある程度のキャリアを積むと,なかなかそうはいかない。だから,逆に怖さはない。失ったところで影響は知れているからだ。

むしろ,自分の中の問題の方が大きい。

できると思うのだが,その根拠が見当たらないとき,結局,

できること

できそうなこと

との隙間を埋めるのは,ある種の経験でしかない。人の能力は,

知識(知っている)×技能(できる)×意欲(その気になる)×発想(何とかする)

だと思うが,問題は,

何とかした経験が,

何とかなる,

の背景に必要なのだろう。まあ,そのときの,

悪戦苦闘

の経験といっても言い。

知識には,

Knowing that(そのことについて知っている)

Knowing how(どうやるかを知っている)

とがいるが,Knowing howは,やった数で決まる。そして,未知の領域を埋めるのは,単なる過去の経験ではなく,過去の,未知と未経験を,

何とかした経験,

でしかない。それもまた,

Knowing how

なのかもしれない。

上へ

目次へ


  • 視点が変わるとパースペクティブが変わる

おのれの視界は,自分ではその広さ,狭さには,気づかない。自分の視点も,自分では気づけない。視点に気づくには,メタポジションがなければ,気づけない。視覚は,見えているものについては気づけても,それが,上からなのか,横からなのかという視点には,気づけない。気づいているとすると,おのれのイマジネーションによって,無意識にメタ化しているにすぎない,と思う。あるいは経験から,推測しているにすぎない。視点を変えるをここでは,視界側から考える。

意識していないが,人は特有の自分の見方を持っている。それは価値観であったり,生まれつきの見る位置であったり,こだわりであったり,暗黙の前提であったり,慣れであったり,なんとなく制約を考慮していたり,気づかず固定した位置でみている。しかし,その自分の癖というか,特性については,メタ化しなければ気づけない。

メタ化して,それを自分でチェックすることで,それに気づけるし,逆にいえば,それを意識できれば,変えることもできる。見方だけは,意識しないと変えられない。特定の見方をとっていることを気づかない限り,変えることはできない。

上から見ていると,気づいて初めて,それ以外の視点があることに気づける。いってみれば,見方を「変える」ためには,それを意識してみる必要がある。

例えば,「価値を変える」には,「〜と見た」とき,「いま自分は,どういう価値観・感情から見たのか」と振り返ってみることでしか気づけない。そのときの,善悪なのか美醜なのか喜怒なのかを意識して初めて,それ以外の価値観で見たらどうなるか,に意識が向く。無意識でしていた見方を意識し,「では,別の見方ならどうなるか」と,改めて別の見方を取ることができる。

見え方を変えるのは,ある意味,見る位置の移動である。

大きくなるとは見る位置を近づけること,
小さくなるとは遠ざけること,
逆にするとはひっくり返すこと,あるいは自分が逆立ちすること,

等々に違いない。

我々のイマジネーションは,(頭の中で)位置を自在に回転できる。位置を動かせるわれわれの想像力を駆使して,見えているものを変えてみることで,見え方を変えられる。

見え方を変えることで,いままでの自分の見方が動くはずである。

見えているものが動かせるなら,その動いた見え方によって,こちらの見方が影響を受ける。だから,みえているものを,分解したり,くっつけたり,束ねたり,回転させたり,によって,見方を動かすることができる。しかしそれをするためには,(モニターで3D画面を操作するのでないかぎり)対象を見ている自分の位置を動かさない限り,気づきにくい,というかたぶん気づけない。それが可能にするのは,メタ化という言い方をしたが,言い換えると,

「見ている自分を見る」こと

によってである。

それは,見る自分を突き放して,ものと自分の間で固着した視点を相対化することだ。そうすることで,他の視点があることには気づける。それは,自分自身を含め,自分の見方,考え方,感じ方,経験,知識・スキル等々をも対象化することも含まれる。

それを,

「見る」を見る

と呼ぶ。「見る」を意識しない限り,何を見ているかはわかるが,どう「見(てい)る」か,どこから「見(てい)る」か,見る自分自身は気づけないからだ。見ているものと,見ている自分,を見る自分を対象化することで,全体が見える。

ちょうど,コーチングでいう,

レベル1(自分に矢印)
レベル2(相手に矢印)
レベル3(両者に矢印)

という意識の向け方と同じことだ。

対象化するためには,いったん立ち止まって,自分を,自分の位置を,自分のしていることを,自分のやり方を振り返らなくてはならない。たとえば,

言葉にする,

図解する,

録音する,

録画する,

というのもその方法のひとつになる。

たとえば,どつぼにはまって,トンネルビジョンに陥っているとき,その真っ最中は,視野狭窄の自分には気づけない。自分がトンネルに入り込んでいること自体を気づかない。それに気づけるのは,その自分を別の視点から,見ることができたときだ。岡潔は,

タテヨコナナメ十文字,考えて考えて,それでもだめなら寝てしまえ,

といったようなことを言っていた。

それは,どつぼにはまっている状態も同じことだ。寝ることで,一旦,その事態および,その事態にはまっている自分から距離を置くことができる(もっとも寝るには,情報の整理期間を置くという脳の効果もあるのだろうが…)。

探し物をしているときは,それに似ている。同じ場所を何度もひっくり返す。しかし,その状態でいくら探し続けても,発見はない。その事態自体から,自分を引きはがすしかない。それには,

距離を取ること,

に尽きる。距離には,

時間的,

空間的,

とがある。一旦,部屋を出てしまうことだ。あるいは,時間を置いて再度探すことだ。

こうした距離の取り方は,他にもある。

他人に仮託してみる,

というのもあるが,あえて,自分の視点(視野狭窄に陥っている)を捨てて,意識的に,別の視点を取れる,あるいは取る状況を作ることだ。

「見る」を見る,

の別バージョンに変わりはない。

あるところで,こういう言い方をされた。

われわれは,「問題」はわかっている,しかしその問題の解き方がわからない,

のだ,と。だから発想スキルが必要なのだ,と。

しかし,だ。そこまでやって解けないなら,問題の設定の仕方そのものが間違っている,と考えた方がいいのではないか。視野狭窄,違う言い方をすると,視野が限られている。

あるいは,こう言ってもいい。

問題との距離の取り方が間違っているのではないか,

と。そう考えると,そういう距離の取り方,というか逆にいえば,視界の決め方(限り方)を整理してみると,たとえば,こういうふうに四つにわけてみることができる。それぞれは,問いの立て方を変えることで,視野をメタ化できる。

1.「問い」(問題)の設定を変える その「問い」(問題)の立て方がものを見えにくくしているのではないか

●問いの立て方を変える 問題そのものを設定し直す,別の問いはないか,問題そのものが間違っていないか,新たな疑問はないか,見逃した疑問はないか
●目的を変える 別の意味に変える,別の意義はないか,別の目的にする,意味づけを変える,意図を変える
●制約をゼロにする 時間と金を無制限にする,別の制約に変える,人の制約を無視する
●根拠を見直す その前提は正しいか,前提を見直す,前提を捨てる,こだわりを捨てる,価値を見直す,大切としてきたことを見直す

2.視点(位置)を変える−その視点(立脚点)が見え方を制約しているのではないか

●位置(立場)を変える 立場を変える,他人の視点・子供の視点・外国人の視点・過去からの視点・未来からの視点になってみる,機能を変える,一体になる・分離する,目のつけどころを変える,情報を変える等々
●見かけ(外観)を変える 形・大きさ・構造・性質を変える,状態・あり方を変える,動きを変える,順序・配置を変える,仕組みを変える,関係・リンクを変える,似たものに変える,現れ方・消え方を変える等々
●意味(価値)を変える まとめる(一般化する),具体化する,言い替える,対比する別,価値を逆転する,区切りを変える,連想する,喩える,感情を変える等々
●条件(状況)を変える 理由・目的を変える,目標・主題を変える,対象を変える,主体を変える,場所を変える,時(代)を変える,手順を変える,水準を変える,前提を変える,未来から見る,過去から見る等々

3.枠組み(窓枠)を変える−その視界が見える世界を限定していのではないか

●全体像から見直す 全体像を変える 広がりを変える,別の世界のなかに置き直す,位置づけ直す
●設計変更する 出発点を変える,ゴールを変える,要員を変える,仕様を変える,組成を変える
●準拠を変える 別の準拠枠を設定してみる,よりどころを見直す,前提を変える,制約を消す(変える)
●リセットする すべてをやり直す,リソースを見直す,ゼロにする,チャラにする,なかったことにする

4.やり方(方法)を変える−その経験とノウハウ(経験のメタ化)が方法を狭めているのではないか

●本当に可能性は残っていないか まだやれるというには何が必要か,何があれば可能になるか,どういうやり方ができれば可能になるか,何がわかれば可能になるか, 
●まだやり残していることはないか 他にやっていないことはないか,まだ試していないことはないか,まだやって見たいことはないか,ばかげていると捨てたことはないか,限界を決めつけていないか, 
●プロセスを変える まだたどりなおしていないことはないか,別の選択肢はないか,分岐点の見逃しはないか,捨てていいプロセスはないか,経過を無視する,逆にたどる,資源の再点検,見落としはないか
●手段を変える 試していないことはないか,異業種で使えるものはないか,捨てた手段に再チャレンジする


自分の対象との距離の取り方は,違う言い方をすると,個性と言ってもいい。

ならば,その千差万別を生かすのは,自己完結しないで,人とキャッチボールしてみるのが一番なのかもしれない。それ自体が,メタ化になっているのだから…。

上へ

目次へ


  • 仮説とは思いの客観化プロセス

野中 郁次郎氏の言葉(知識は思いの客観化プロセス)をもじると,仮説を立てるというのは,

おのれの思いの客観化プロセス,

であると思うが,検証されるまでは,妄想に過ぎない。しかし,だからと言って,

集めた情報から読み取った結論,

数字の統計処理から結論づけられた数値,

は仮説とは呼ばない。そんなものは,誰がやっても同じ結論になる。誰が読んでも同じ結論になるようなものを仮説とは呼ばない。誰も読み取らないような意味をそこから読み取るから,仮説として立てる意味がある。その根拠は,甚だ主観的なものだ。

あれ?

何これ?

どうして?

何か変?

そういう自分の直観である。それは,ある仕事に携わって,あるいは担当して,三年以上たっていれば,当然,

当たり前感,

当然そうなるはず,

順調感,

といったビジネス上で,円滑というか順調というか,そういう当たり前感がある,その当たり前感に,わずかな違和感を覚えたとしたら,そこに何かがある,そう考えるのが当たり前である。ベイトソンは,

情報の1ビットとは,(受け手にとって)一個の差異(ちがい)を生む差異である(のちの出来事に違いを生むあらゆる違い)。そうした差異が回路内を次々と変換しながら伝わっていくもの,それが観念(アイデア)の基本形である。

と書いた。言い換えると,

情報とは差異である,

ということだ。つまり,人と同じところを読んだって人と同じことしか出ない,ということだ。とすれば,

人とは違うところ,

人が当たり前とするところで,わずかに感じた違和感,

を大事にする。数値でも同じだ。

何か気になること,

引っかかるところ,

があるはずだ。たとえば,何某が,4.0となっていたとする。その.0と丸めたところに着目しなくてはならない。

4.00

なのか,

4.04

なのか,

4.001

なのかによっては意味が違う。そういう微妙な差異にこだわる。統計処理された結果だけを云々するのは,仮説を立てようとする人間のすることではない。統計処理されたとき,意図的か無意識的か,数値を丸める。その丸められたところに,意味があるかもしれないのである。結果だけからものを推測するのは,誰にでもできる。仮説をわざわざ立てるのは,そこではない,人の着目しないところを着目する。

ピーター・F・ドラッカーは,

情報とは,データに意味と目的を加えたものである。データを情報に転換するには,知識が必要である,

といった。それは,違う言い方をすると,我々が目にする情報は,

意味と目的によって,鉛筆が舐められている,

ということだ。意図したかどうかではない。情報とは,基本,そうやって主観的に整合性を取らなければ,情報にはならない。

その意味で,仮説を立てるものは,

情報の読者,

になってはならない。あくまで,別の視角,別のメタ・ポジションから,情報を俯瞰する観点を持たなければ,読者となり,情報発信者の丸めた(整合性をもたせた)情報を,意図通り読む羽目になる。そのカギは,おのれの問題意識,もっとはっきり言うと,

疑いの目,

しかない。たしかに,

疑う,

疑問をもつ,

というのはメタ・ポジションではある。それには違いないが,しかし,それが狭い管から見ていることに変わりはない(「管見」とは言い得て妙)。

だから,人によって,着眼が違うのである。そこから出る結論は,情報分析(に限らないが)は,

自己完結してはならない,

ということになる。

自分の中からだけからは,自分なりのゆがんだトンネルビジョンしか得られない。他人というもう一つのメタ・ポジションが必要なのである。

参考文献;P・F・ドラッカー『経営論』(ダイヤモンド社),グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学』(思索社)

上へ

目次へ


  • 見立て

見立ては,語源は,

見+立て

で,

決める,
つまり,
見て,善し悪しを決める,

という意味てある。たとえば,

母の見立ての帯
とか
医者の見立て

といったように。しかし,語義を辞書で引くと,意味は,

送別,見送り,

見てよしあしを決めること。また,見て物を選定すること。 

とあり,その中には,

選定,鑑定
(医者の)診断。 
遊客が合い方の遊女を選ぶこと

がある。たとえば,

伝統的に,自分の目で見てから選ぶことを「見立て」と言った。 江戸時代,呉服などを自分の目で見て選ぶことも「見立て」と言った。また,伝統的に,医者が病人を見て(診て),あらかじめ定められたどの分類に当てはまっているのか選ぶことも「見立て」と言う。つまり現代では「診断」と呼ばれている。

しかし,以上のそのほかに,

なぞらえること

という意味がある。ここでの関心は,この意味の「見立て」である。たとえば,芸術表現の一技法として,

和歌・俳諧・歌舞伎・戯作などで,ある物を別のものと仮にみなして表現すること。なぞらえること。

その意味の流れから,見立てには,

趣向。思いつき。考え。

という意味が出てくる。究極,見立ての面白さ,その趣向を競う,という意図か。

なぞらえるは,

なぞるの未然形継続反復のフが加わった「ナゾラフ」の下一段活用

とある。

異なるものを共通点があるものと見立てること

とある。見立てとなぞらえるが同義反復になっている。

なぞらえるは,

準える
准える
擬える

と漢字を当てる。

「擬」は,本物に似せて作ったものや事柄。「手+疑(まねる・なぞらえる)」
「准」は,準の俗字。法律用語。水野平らかさを基準とする
「準」は,水準器。水平を基準とする。下にたまった水の水面を基準として高低を揃えることを示す。

落語の沢庵を卵焼きに「見立て」るのは,ほぼ「準える」だが,これは,

アナロジー

あるいは

メタファー

と言い替えられる。基本的には,アナロジー(ここでは,「見立て」とほぼ同じ意味で使っているが)には,

「〜と見る」見方,
「〜にする」仕方,
「〜になる」なり方,

の3つがある,と考えている。

●「〜と見る」は,

見えているものを何かと同一視することである。芝生を緑の絨毯,群衆の逃散を蜘蛛の子といった,何かを別のモノやコトと見る,何かに別のモノをダブらせることである。これは視線の変換である。たとえば,それにあたるのは,

つもり/ごっこ/仕立てる/喩える(例える)/引用(代用・転用・兼用・併用・応用)/代理・代表/つなげる(並べる)

メタファーはここに含まれる。メタファーについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163573.html

で触れた。メタファーつまり,隠喩は,

あるものを別の“何か”の類似性で喩えて表現するものだが,直喩と異なり,媒介する「ようだ」といった指標をもたない(そこで,直喩の明喩に対して,隠喩を暗喩と呼ぶ)。したがって,対比するAとBは,直喩のように,類比されるだけではなく,対立する二項は,別の全体の関係の中に包括される, 

と考えられる。たとえば,

わたしの耳は
貝の殻
海の響きを懐かしむ
(ジャン・コクトー「わたしの耳は貝の殻」)

では,耳と貝は,対立しつつ,共通項を持つ別の同一グループの一員とみる視点がなければ,対比がそもそも成り立たない。まあ,「〜と見る(みなす)」見立ての一種には違いない。

●「〜にする」は,

一方を他方と同じにすることである。そう見えるようにする,そう見えるように変える,そう見えるように置き換える。これには,同じ大きさ(サイズ,嵩,規模,長さ,広がりの似たもので比較してみる),同じ重さ(重量で似たものを対比してみる),同じ格好/同じ形状,同じ性質,同じ次元等々といった,ミニチュア,模型,箱庭,プラモデルといったものが当てはまる。これは対象の変換である。たとえば,それにあたるのは,

模型(モデル)/かたどる(カタチにする)/なぞる(写す)/触媒(媒介)/補う(補足)/伸縮/集散(離合)/増減/開閉/置き換え(回転,転倒,裏返し)/ずらす(スライド)

等々である。

●「〜になる」は,

見る側,する側から,される側に代わることである。そういう立場になる,その役割を引き受ける,そのモノになる,その場に立つ,といった身振り,ジェスチャー,声帯模写,形態模写等が当てはまる。ゴードンの擬人的類比,空想的類比はこれに当たる。自分の変換である。

この3つの見立ては,随所で使われている。

芸術の分野では,「見立て」は,対象を他のものになぞらえて表現することである。別の言い方をすると,何かを表現したい時に,それをそのまま描くのではなく,他の何かを示すことによって表現することである。例えば,和歌,俳諧,戯作文学,歌舞伎などで用いられている。

日本庭園ではしばしば(あるいはほとんどの場合)なんらかの「見立て」の技法が用いられている。たとえば枯山水では,白砂や小石(の文様)が「水の流れ」に見立てられる。

落語では,扇子や手拭いだけを用いて様々な情景を表すが,これも一種の見立てである。たとえば扇子を閉じた状態で,ある時はこれを煙管に見立て,煙管として使ってみせ,又あるときはこれを箸に見立て,蕎麦をすすってみせる。あるいは箱庭といって,小さな,あまり深くない箱の中に,小さな木や人形のほか,橋や船などの景観を構成する様々な要素のミニチュアを配して,庭園や名勝など絵画的な光景を模擬的に造り,楽しむものがある。江戸時代後半から明治時代にかけて流行した。類したものに,盆景,盆栽がある。

盆栽は,周知のとおりだが,盆景というのは,お盆の上に土や砂,石,苔や草木などを配置して自然の景色をつくり,それを鑑賞する。盆景は庭園,盆栽,生け花と同様に,自然の美を立体的に写実,表現しようとする立体造形芸術である。盆景は,盆石,盆庭,盆山などと呼ばれる芸術だが,形として表現されたのは,日本では鎌倉時代の絵巻物に出てくるのが最初である。 金閣寺,銀閣寺の庭園をつくる時に浅い木箱にその原型をつくったと言われており,これが箱庭の始まりとも伝えられている。

茶の湯でも,見立てがある。千利休は,独自のすぐれた美意識によって,本来茶の湯の道具でなかった品々を茶の湯の道具として「見立て」て,茶の湯の世界に取り込む工夫をした。たとえば,水筒として使われていた瓢箪を花入として用いたり,船に乗るために出入りする潜り口を茶室のにじり口に採り入れた等々。

落語の「長屋の花見」で,沢庵を卵焼きに見立てるなど,われわれは,手持ちのものを,見たいものに見立てて,独自の空間を創り出してきたと言っていい。考えてみれば,かつて,

ウォークマン

は,いつでもどこでもオーディオルームに見立てたと考えることも出来る。見立ては,発想の原点だが,昨今,

いま・ここにないもの

も,手軽に手に入る時代,容易に手に入らないからこそ,手に入った,

つもり

で得られる,想像力の豊かさを失ったのかもしれない。それは,創造力を失い,クリエイティビティ欠如の一因でもある気がしてならない。

参考文献;増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

上へ

目次へ


  • 視点をめぐる多角的視点

コーチングでも視点を大事にする。いわばものの見方だからである。たとえば,CTIというコーチングの団体の基礎コースのテキストには,「視点転換のスキル」について,こうある。

「視点転換のスキル」とは,クライアントが自ら置かれている状況を別の視点からとらえることで,異なる選択肢が見つけられるようにサポートするためのスキルです。ちなみに,視点を変えるということは,コーチがクライアントから得たデータに異なる解釈を与えることを意味し,通常は否定的にそのデータを解釈している相手に対し,肯定的な解釈を提示することで,相手は新たな可能性を見出すことができるのです。たとえば,あるクライアントが,非常に激しいマーケットで権限の強いポジションの候補者になりながら一歩及ばず,そのポジションを逃したとしましょう。そのクライアントは落ち込み,自分の仕事能力に自信を失っています。この状況に視点転換を使うならば,「それほど競争の激しいマーケットで候補にあがったということは,あなたの経験と知識がそれだけ素晴らしいということなのです」となります。

しかしこの例では,視点の転換というより,ものの見方を示唆してしまっている。これは視点をクライアント自身に変えさせるための質問を使う方が効果的に思える。たとえば,「それほど競争の激しいマーケットで候補にあがったということについて,同僚や部下はどう見ているでしょう」という方が,クライアントの視点そのものを変えることになる。視点転換を,その結果えられるものではなく,転換そのもので得られるものに,力点を置くべきだと思う。

ところで,別のコーチング団体のCTPテキスト(2004年当時のもの)では,こうある。

コーチには,クライアントが,今の状態は自分が起こしたものであり,これから望む未来も自分でつくっていくことが可能だという立場に立つよう促すスキルが求められます。そして,そのためには相手に多面的な視点を与えることが役に立ちます。

多面的という言い方は,視点そのものというより,視点から見えるものに力点を移している。しかし,視点がクライアントのものの見方を変えるのだとすれば,「選択肢」という言い方のほうが妥当な気がする。

続いて,そのために,

@責任を引き寄せる たとえそれが望ましくないようなものであっても,今ある状況や起こっている問題は自分が作り出したものであるということを,クライアントに自覚させることです。(コーチング大好きな人からは顰蹙を買うだろうが,あえて言えば,大きなお世話,こういう上から目線が,ときどき鼻につく。もしそれに敏感でなければ,鼻につくコーチになるはずだ。いまの多くのセラピストは,こういう言い方をしない。もう少しセンシティビティが必要だろう。)
A枠を替える クライアントは,ときに,自分の置かれている状況を,ある特定の枠組みに当てはめ,身動きができなくなってしまうことがあります。その状況を,飛躍へのチャンスという捉え方に変換できたとしたら,その後の行動は大きく変わってきます。「枠を替える」とは,クライアントがゴールに向かうことを妨げている,物事に対する見方(枠)を取り替え,相手に新しい視点を与え,行動への動機づけを行うことです。
B支柱を外す クライアントの基本的な考え方や解釈,仮説,コミュニケーション・スタイル,優先順位について,それが機能していないことを指摘し,取り除く手伝いをすることです。
Cバージョンアップする クライアントの行動を決めている基本的な考え方や解釈を点検し,その幅を広げたり,新しいものに変えたりする機会とする。
D自分の体験を伝える コーチはすでにそれを試していることが必要です(これは変!クライアントから何が出てくるのかわからないのに,何をためすの?こういうおこがまし差が,時に鼻につく)
E提案する 相手に新しい視点を提案する。イエス・ノーの選択権は相手にある。CTIでは,イエス・ノー・逆提案の三択を提案する。この方が選択肢として正しい。
Fリクエストする コーチが望んでいることをストレートに相手に伝えることです。その人がまだ試していない,その人の可能性を引き出す,その人が無意識につくっている枠の外へ連れ出す狙いがある。

さて,こう見てくると,視点そのものについては,あまり深入りしていないように思える。それは,自分の視点について考えるよりは,「〜という視点で見たらどう見えます」「それをあえて好きだと思ったら,どうなります」のように,別の視点をコーチ側から提起することで,別の視界を開かせることで,おのずと気づきを得られるようにするところに,力点があるからだと思われる。

ここでは,視点そのものについて,もう少し突っ込んでまとめてみた。

人は意識していないが,自分の見方を持っていると思っている。それは価値観であったり,生まれつきの見る位置であったり,こだわりであったり,暗黙の前提であったり,慣れであったり,なんとなく制約を考慮していたり,気づかず固定した位置でみていたりする。それを自分でチェックすることで,変えることができる。ただし,見方だけは,意識しないと変えられない。特定の見方をとっていることを気づかない限り,変えることはできない。

つまり,「変える」とは,それを意識してみるという意味なのである。例えば,「価値を変える」とは,「〜と見た」とき,「いま自分は,どういう価値観・感情から見たのか」と振り返ってみるということである。そのとき,善悪なのか美醜なのか喜怒なのかをチェックし,それ以外の,価値観で見たらどうなるか,無意識の見方を意識し,「では,別の見方ならどうなるか」と,改めて別の見方を取ってみる“きっかけ”にするのである。

@[みる」をみる−見る自分の対象化
視点を変えるというのは,視界(パースペクティブ)を変えるためにそうするのです。それを「見え方を変える」ということができる。見え方を変えることで,見ているものの印象が変わる。視点,たとえば具体的には,見る位置の移動することで,見え方が変わるからである。

その意味で考えると,われわれの想像力は,見る位置を動かせる。頭の中で,モデルを回転させたり,拡大縮小したりできるが,たとえば,現実的に,見る位置を近づければ,対象は大きくなるし,遠ざければ小さくなるはずだし,ひっくり返せば,逆さまに見ることになる。見えているものを変えてみることで,見え方を変えることができる。見え方を変えることで,いままでの自分の見方が動くはずである。

しかしそれをするためには,対象を見ている自分の位置にいる限り,それに気づきにくい。なぜなら,見ているもの,対象の方に意識の焦点があっているからだ。

それが可能になるのは,「見ている自分」を「見る」ことによってだけである。つまり,見る自分を突き放して,ものと自分に固着した視点を相対化することなのである。そうしなければ,他の視点があることには気づきにくい。だから,コーチングの質問で,「ほかの視点は?」と聞いたり,「○○の視点で見たらどう見えますか?」というのが効果的になる。

これをメタ化と呼ぶ。自分自身を含め,自分の見方,考え方,感じ方,経験,知識・スキル等々を対象化することである。それは,「『見る』を見る」ことだ,といえるだろう。「見る自分」を意識しない限り,何を見ているかに意識の焦点が向かっており,どう「み(てい)る」か,どこから「み(てい)る」かは,「見る自分」自身は気づけないのだ。

何かを対象化するためには,いったん立ち止まって,自分を,自分の位置を,自分のしていることを,自分のやり方を振り返らなくてはならない。たとえば,言葉にする,言語化する,図解する,というのもその方法のひとつになる。それをするためには,対象化する必要があるからである。つまり,象徴的な言い方をすれば,「『見る』を見る」ということになる,というのはその意味なのである。

たとえば,「どつぼ」にはまって,トンネルビジョンに陥っているとき,視野狭窄の自分には気づけない。自分がトンネルに入り込んでいること自体を気づけない。それに気づけるのは,その自分を別の視点から,見ることができたときだけだ。そのとき,初めて,止まる,前進し続ける,戻る,横へ行く等々の選択肢が見えてくる。つまり,視点を意識するとは,他の選択肢を意識できるようになる,ということなのである。なぜなら,見ているものではなく,見ている「見る」が対象になっているからである。

もう一つ,「どつぼ」を脱出する方法がある。あえて,自分の視点(視野狭窄に陥っている)を捨てて,意識的に,他人に仮託してみることだ,たとえば,上司,トップ,先輩,家族等々,具体的なイメージのわく視点を想定して立ってみる。それ以外に自分の視点の狭窄に気づきにくい。これしかないと思いこんでいる自分の状態では,それ以外にあることには気づきにくい。だから,それを,「みる」をみると呼んでいる。「他には」の視点バージョンといってもいい。これも,コーチングでよくやる質問です。「○○さんなら,どういうでしょう?」等々。

A「『見る』を見る」ための4原則〜メタ化によってものの見方を相対化する

では,A 「『見る』を見る」ための視点として,どんなものがあるのか。4つほど例示をしてみた。

@「問い」(問題)の設定を変える−その「問い」(問題)の立て方がものを見えにくくしていないか
 ●問いの立て方を変える 問題そのものを設定し直す,別の問いはないか,問題そのものが間違っていないか,新たな疑問はないか,見逃した疑問はないか
 ●目的を変える 別の意味に変える,別の意義はないか,別の目的にする,意味づけを変える,意図を変える
 ●制約をゼロにする 時間と金を無制限にする,別の制約に変える,人の制約を無視する
 ●根拠を見直す その前提は正しいか,前提を見直す,前提を捨てる,こだわりを捨てる,価値を見直す,大切としてきたことを見直す

A視点(位置)を変える−その視点(立脚点)が見え方を制約していないか
●位置(立場)を変える 立場を変える,他人の視点・子供の視点・外国人の視点・過去からの視点・未来からの視点になってみる,機能を変える,一体になる・分離する,目のつけどころを変える,情報を変える等々
●見かけ(外観)を変える 形・大きさ・構造・性質を変える,状態・あり方を変える,動きを変える,順序・配置を変える,仕組みを変える,関係・リンクを変える,似たものに変える,現れ方・消え方を変える等々
●意味(価値)を変える まとめる(一般化する),具体化する,言い替える,対比する別,価値を逆転する,区切りを変える,連想する,喩える,感情を変える等々
●条件(状況)を変える 理由・目的を変える,目標・主題を変える,対象を変える,主体を変える,場所を変える,時(代)を変える,手順を変える,水準を変える,前提を変える,未来から見る,過去から見る等々

B枠組み(窓枠)を変える−その視界が見える世界を限定していないか
 ●全体像から見直す 全体像を変える 広がりを変える,別の世界のなかに置き直す,位置づけ直す
 ●設計変更する 出発点を変える,ゴールを変える,要員を変える,仕様を変える,組成を変える
●準拠を変える 別の準拠枠を設定してみる,よりどころを見直す,前提を変える,制約を消す(変える)
 ●リセットする すべてをやり直す,リソースを見直す,ゼロにする,チャラにする,なかったことにする

Cやり方(方法)を変える−その経験とノウハウ(経験のメタ化)が方法を狭めていないか
●本当に可能性は残っていないか まだやれるというには何が必要か,何があれば可能になるか,どういうやり方ができれば可能になるか,何がわかれば可能になるか, 
●まだやり残していることはないか 他にやっていないことはないか,まだ試していないことはないか,まだやって見たいことはないか,ばかげていると捨てたことはないか,限界を決めつけていないか, 
●プロセスを変える まだたどりなおしていないことはないか,別の選択肢はないか,分岐点の見逃しはないか,捨てていいプロセスはないか,経過を無視する,逆にたどる,資源の再点検,見落としはないか
●手段を変える 試していないことはないか,異業種で使えるものはないか,捨てた手段に再チャレンジする


実は,初めは視点については,視点の位置をどう変えるかのみを念頭に置いていたので,Aだけしか考えていなかったが,あるメーカーで,こんなことを言われた。「問題」はわかっている。しかし解き方がわからない,と。

しかし,思ったのである。もし問題がわかっていて,どうしても解き方がわからないのだとしたら,自分が「どつぼ」にはまっていると思うべきではないか。とすると,わかっていると思い込んでいる「問題」の設定そのものを見直す必要があるのではないか。本当にそれが問題なのか,と。そこから,考えを進めて,上記の4つの視点を整理してみた。ポイントは,見ることを制約すると思われるものを,少し広げて検討しようとしたところだと思います。

しかし,まだ仮説です。仮説ということは,僕自身の機能的固着(固定観念)から脱していないところがあるのではないか,ということです。絶えずそういう問題意識を持ち続ける必要がある。すべては仮説ですから,正解ではないということなのである。

上へ

目次へ


  • 情報とは

情報を考えるとき,おおよその定義は,

@情報を量としてみようとするときの定義。シャノンやウィーナーに代表されるような,情報のコード化につながる定義である。
A生物に関わる情報の定義。たとえば,生命体の外界の刺激や視界に写っているものについて,生命体がどう受け止めるか。アフォーダンスとしてみるように,そこに有用か危険かの意味を見出すことになる。
B社会的なコミュニケーションに関わる情報の定義。この場合,データから言語情報まで含まれるので,コード化された情報から,状況に拘束されたモード情報まで,多様なものがある。

の三つに分けられる。しかし,個人的には,以下の三つを重視している。

●情報とは,「伝達された(る)何らかの意味」である。そのためには,3つの要件がある。情報の発信者と受信者がいること,伝えられるべき何らかの意味(内容)をもっていること,受け手に伝わるスタイル(様式・形態)で表現されていること。
コード化できる情報を「コード情報」と呼び,コードでは表しにくいもの,その雰囲気,やり方,流儀,身振り,態度,香り,調子,感じなど,より複雑に修飾された情報を「モード情報」と呼ぶ。(金子郁容『ネットワーキングへの招待』)

●情報とは,データに意味と目的を加えたものである。データを情報に転換するには,知識が必要である。(ピーター・F・ドラッカー『経営論』)

●情報の1ビットとは,(受け手にとって)一個の差異(ちがい)を生む差異である(のちの出来事に違いを生むあらゆる違い)。そうした差異が回路内を次々と変換しながら伝わっていくもの,それが観念(アイデア)の基本形である。
情報とは,(付け加えるなにかではなく)選択肢のあるものを排除するなにかである。(グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学』)

そこから,情報の基本構造について,
・情報には,「コード情報」と「モード情報」がある。(金子郁容)
・情報とは,データに意味と目的を加えたものである。(ドラッカー)
をベースに考えるようにしている。その上で,「差異」に着眼する。人と同じところではなく,違っているところを見きわめる。。

では,情報の基本性格をどうとらえるか。

・自己完結している 抽象レベル(言語レベル)に丸められて,それの文脈・状況から分離されている
・言語化しないと情報にならない 情報は向き(意味づけ)を与えられている,というか向きが与えられなければ情報にはならない

そう考えると,情報は,ことば(数値も含めたコード情報)と状況・文脈(ニュアンスのあるモード情報)がセットになっている必要がある。言語化されるには,その人が受けとめた場面や出来事を意味に置き換えなくては言語化されない。しかしその言語を受けとめたものは,その人の記憶(リソース)に基づいて受けとめる。その意味の背後に,その人のエピソード記憶や手続き記憶に基づいてイメージを描く必要がある。情報を,

・時間的(いつ)
・空間的(どこ)
・主体的(誰)

に紐づけなくては,情報の自己完結した意味に引きずられる,ということになる。その情報を読むということは,,“そのとき”,“そこ”に限定し直すということなのである。本来情報は文脈依存だからである。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0923.htm

でも触れたが,コード情報であれ,モード情報であれ,情報になるためには,発信者によって向きが与えられる。向きがなければ情報にならない。どんな場合も,出来事だけでは情報にはならない。その情報を発信してはじめて情報になる。そのとき,情報は,その人がどういう位置にいて,どんな経験と知識をもっているかによって,情報は,再構成される。つまり,“情報”は発信者のパースペクティブ(私的視点からのものの見方)をもっている。発信された「事実」は私的パースペクティブに包装されている(事実は判断という覆いの入子になっている)。逆に言えば,私的な向きがなければ,情報にはならない。

たとえば新聞記事情報を単純構造にして考えると,

・発信者(目撃者)による主観(発信者に理解された範囲で意味づけられた情報)
・報告者(伝聞者=記述者)による主観(記述者に理解された範囲で意味をまとめられた報告情報)
・受信者(読み手)による主観(読み手に理解された範囲で意味を読み込まれた情報)

となる。しかも,もう少し突っ込むと,その入れ子の構造自体が,

発信者
報告者
受信者

それぞれが,時間的,空間的に限定され,しかもそれぞれの主体の持つ知識・経験に限界づけられている。三重の,それぞれの発信者が,自覚しないで,それぞれのいる文脈に依存して,偏りを与えている,ということができる。

さて,ここからだが,情報自体の偏りが自覚できたとしても,自分自身の偏りは,なかなか自覚できない。

だから,情報は,二つの意味で,

自己完結してはならない,

と思う。

第一は,情報自体が完結しているのだから,単体で自己完結させない,

第二は,読み手である自分自身で自己完結させない,

ということだ。情報の読みは,ある意味で情報の編集である。編集,つまりアイデアを発想する原則は,

自己完結させない,

である。これは,情報にも当然当てはまる。

上へ

目次へ


  • アイデア力は脳の筋力

もう二十年以上,1日1アイデアを続けている。実に下らない思いつきばかりだが,そのくだらなさが,なにごとも当たり前にしない目につながると信じている。数年前までは,1日2アイデアであったが,とうとう音をあげて,1日1アイデアに,ハードルを下げた。当初は,忸怩たるものがあったが,いまは,1日1アイデアでも,悪戦苦闘している。

アイデアをつくるについてはすでに触れたが,基本的には,アイデアづくりの構造は,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod02100.htm

と考えている。基本的には,

本来バラバラで異質なものを意味あるように結びつける,

のを創造性と言った川喜多二郎の言は正しい。しかし,もっと踏み込むと,

どんなものでもつなげることで新しい意味づけをしさえすればいい,

あるいは,

新しい意味が見つけられるなら何と何を結びつけてもいい,

と読み替えてもいい。となると,

結びつけ,

に意味があるのではなく,

意味づけ,

の方にウエイトがかかる。本来バラバラの物を意味あるようにつなげること,と。これは,

情報の編集,

である。それは,ひらめきの,脳の反応に似ている。ひらめいた瞬間,

脳の広範囲が活性化する,

つまり,いつもとは別のものとつながり,意味に気づく。言い換えると,

いろんなものとリンクさせる力

である。これを僕は,脳の筋力と呼ぶ。

脚力も膂力も腕力も,日々鍛えなくてはすぐに衰えていく。それと同じで,

脳の筋力,

も,日々鍛えなくては,ありきたりの,当たり前に見てしまう。アイデアは,

当たり前と見ない,

ことからしか始まらない。例えば,コンビニが込む。当たり前か?切符の販売機に並ぶ。当たり前か?天気が急変する。当たり前か?アホな政治家が,おのれの思想信条を国是にしようとしている。当たり前か?名字が選べない。当たり前か?

当たり前とすれば,何も問題視しないということだ。いまのまま甘受するということだ。

それは,何も考えないのと同じだ。アイデアは,いまの当たり前をどう崩すか,どう変えるか,どうしたら自分たちのためになるようにするか,を考えることだ。

その意味で,筋力を鍛えることは,生き残る力を,蓄えることだ。アウシュビッツで生き残ったのは,

未来に自分がいる意味を見つけた人たちだ,

フランクルは言う。

(ニーチェの格言)「なぜ生きるかを知っている者は,どのように生きることにも耐える」
したがって被収容者には,彼らがいきる「なぜ」を,生きる目的を,ことあるこどに意識させ,現在のありようの悲惨な「どのように」に,つまり収容所生活のおぞましさに精神的に耐え,抵抗できるようにしてやらなければならない。

生きることへの期待から,生きていることが自分たちに期待し,何をなさせようとしているかへ,180℃変えさせた,そこに自分の未来を見つけること,それが生きている意味だと,フランクルは言っているのだが,

自分が生きていることに意味を見つけたものにとって,どう生きるかは,どんな苦難の中でもどうやって生き延びるかを考えることでもあった。それが,

創造性,

に他ならない。

それは,いまのありようを,甘受せず,何としても生き残ろうとする,執念だ,

それを支えるのが,アイデアに他ならない。それは,人を出し抜くことでも,人を陥れることでもない。

フランクルの『夜と霧』で読み取った,勝手な教訓は,

創造性,

こそが生き残る鍵だということだ。どうすれば,

生き延びる創意と工夫を考え出すか,

それは,創造性というか,アイデアの,原基だと,つくづく思う。

発想力については,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/view06.htm

かつてこう考えた。基本は今も変わらない。

参考文献;V・E・フランクル『夜と霧 新版』(みすず書房)

上へ

目次へ


  • 同じ情報源でどうする

ラッシュ時に乗り合わせると,まあ相変わらず(昔に比べるとかなり減ったが),右も左も,日経新聞を広げている。これじゃ,日経の主張に感染するんじゃないか。それとも皆が読んでいる情報源だと安心するんだろうか。同じ情報源でも,そこから読み取るものは,その人次第ということは確かにある。かつてのクレムリンウォッチャは,普通に発信されている情報から,現況の微細な変化を読み取ったと言われているのだから。

まあ,そういう例もあるには違いないが,誰もが読んでいるものなら,誰かに聞けばいいのであって,わざわざ一緒になって,それを読む必要はないと思う。電車内で新聞を読むこと自体を否定はしないが,どうせなら,人とは違うものを読んだらどうか,と思ってしまう。へそ曲がりのせいかもしれない。

情報とは,というと,たとえば,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod05111.htm

で挙げたように,クロード・シヤノンの,

「あるメッセージに含まれている情報の不確実性を減らすために必要な量の情報をシャノンは,次のように定義した。情報量I,得られる可能性のあるメッセージ数Mとするとき,I=log2M あるいは言い換えると,M=2I 。情報量を1単位ふやす毎に,不確実性は半分になる。つまりMはI回の二者択一の結果,発生確率1/2での等分割のI回の繰り返しとして表現できる。」

とか,N.ウィーナーの,

「情報とはわれわれが,外界に適応しようと行動し,またその調整行動の結果を外界から感知する際に,われわれが外界と交換するものの内容である。情報を受けとり利用してゆくことによってこそ,われわれは環境の予知しえぬ変転に対して自己を調節してゆき,そういう環境のなかで効果的に生きてゆくのである。」

を採りたがるかもしれないが,ぼくには,金子郁容の

「情報とは,『伝達された(る)何らかの意味』である。そのためには,3つの要件がある。情報の発信者と受信者がいること,伝えられるべき何らかの意味(内容)をもっていること,受け手に伝わるスタイル(様式・形態)で表現されていること。」

「コード化できる情報を『コード情報』と呼び,コードでは表しにくいもの,その雰囲気,やり方,流儀,身振り,態度,香り,調子,感じなど,より複雑に修飾された情報を『モード情報』と呼ぶ。」

や,ピーター・F・ドラッカーの,

「情報とは,データに意味と目的を加えたものである。データを情報に転換するには,知識が必要である。」

や,グレゴリー・ベイトソンの,

「情報の1ビットとは,(受け手にとって)一個の差異(ちがい)を生む差異である(のちの出来事に違いを生むあらゆる違い)。そうした差異が回路内を次々と変換しながら伝わっていくもの,それが観念(アイデア)の基本形である。
 情報とは,(付け加えるなにかではなく)選択肢のあるものを排除するなにかである。」

等々が要である。ここから要約すると,

・情報には,「コード情報」と「モード情報」がある。(金子郁容)
・情報とは,データに意味と目的を加えたものである。(ドラッカー)

ということであり,さらに,

・情報とは差異である(ベイトソン)

ということだ。ということは,コード化できる,

コード情報

ではなく,コード化できない,

モード情報

こそが大事ではないかという思いにつながる。それは,言い換えると,

いま
ここ

(で得られるもの)が大事ということになる。いま,ここの変化は,いま,ここにいるものにしかわからない。その瞬間にしか得られない,という意味だ。それは,コード情報では決して得られない。

ある意味,新聞情報は,

・自己完結している→文脈・状況から分離されている
・言語化しないと情報にならない→情報は向き(意味づけ)を与えられている
・丸められている→抽象化されている

ものでしかない。そこからよほどの読解力があるならともかく,そこにある情報を読んだところで,皆と同じ程度,あるいは記事の書き手の送っている情報以上は読み取れないのではないか。

本来,情報は,

ことば(数値も含めたコード情報)と状況・文脈(ニュアンスのあるモード情報)がセットになっている。しかし,言語化されるには,その人が受けとめた場面や出来事を意味に置き換えなくては言語化されない。

その意味で,すでに丸められ,意味づけられてしまっている。

どんな場合も,出来事だけでは情報にはならない。その情報を発信してはじめて情報になる。そのとき,情報は,その人がどういう位置にいて,どんな経験と知識をもっているかによって,情報は,再構成される。つまり,コード情報であれ,モード情報であれ,情報になるためには,発信者によって向きが与えられる。向きがなければ情報にならない。

つまり,情報(報告/記事)には3つの偏りがある。

・発信者(目撃者)による主観(発信者に理解された範囲で意味づけられた情報)
・報告者(伝聞者=記述者)による主観(記述者に理解された範囲で意味をまとめられた報告情報)
・受信者(読み手)による主観(読み手に理解された範囲で意味を読み込まれた情報)

その言語を受けとめるのは,その人の記憶(リソース)に基づいて受けとめる。その意味の背後に,その人のエピソード記憶,手続き記憶に基づいて,つまりは体験に基づいてイメージを描く。読み手は,そのコード情報を,自分のモード情報で具体化し,読み直す。

その意味では,モード情報をどれだけ持っているかが,情報の読みを変える。とすれば,新聞を読んでいる暇に,車内を見まわし,いま,ここでしか取れない情報を感じ取った方がいい。

女性のファッションかもしれないし,
女子高生の生態かもしれないし,
車内の中吊り広告かもしれないし,
車内の年齢構成かもしれないし,
車窓に移る沿線の変化かも知れないし,
車窓の季節の変化かもしれないし,

等々,その蓄積が,コード情報の読みを深めるような気がしている。新聞情報に振り回されない独自の視点が必要だが,それは,コード化できる意味ベースでは決してないと思っている。

参考文献;金子郁容『ネットワーキングへの招待』(中公新書),P・F・ドラッカー『経営論』(ダイヤモンド社),グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学』(思索社)

上へ

目次へ


  • 人との距離感

人との間合いがよく見えないことがある。こちらが距離を置くと,相手も距離を置く。しかし,こちらが間を詰めると,相手が両手で突っ張るように見えた時には,それ以上踏み込む気がなくなる。

人との関係の難しさはいくつになっても変わらない。

これは立ち会いと同じだと思う。本来真剣勝負なのだ。宮本武蔵は言う。

敵をうつ拍子に,一拍子といって,彼我ともに太刀の届くほどの位置を取り,敵の心組みができない前に,自分の身も動かさず,心も動かさず,すばやく一気に打つ拍子である。敵が,太刀を引こう,外そう,打とうなどという心組みが決まらないうちに打つ拍子,これが一拍子である,

という。武蔵の本を見ると(剣の心得がないので勝手読みだが)意外と間合い外しをやる。

敵よりも素早く,構える間もなく,敵の懐に入り込んで,敵に全身を寄せてしまうという,秋猴の身という技もある。あるいは,敵のまぎわに入り込み,体ごと敵にぶつかる,というのもある。また,相手に身を密着させて離れない,漆膠という身の置き方もある。

こういう間合い崩しは,ふつう腰が引けたり,手だけで接近したりする。その恐怖をかなぐり捨てて,敵に飛び込むというのは,おそらく,相手は想定していない。そういう間合い崩しは,小手先の技とは異なり,全身でぶつかる,というのに近い。

人との間合いで,妨げになるのは,身をかばう防衛心なのかもしれない。庇うことが,かえって,距離を遠ざける。

多敵のくらいというのがある。一人で大勢と対峙する場合,全体を見てしまう。しかし,

どの敵が先に,どの敵が後にかかってくるか,その気配を見抜いて,先にかかってくるものとまず戦う,

という。結局,一対一なのだ,と言っている。

同じ趣旨のことを,宗矩も言っていて,

立ち会うやいなや,一念にかけてきびしく切ってかかり,先の太刀を入れんとかかる,

と,先んじて打ち込むことを言っているが,もう少し踏み込んで,

一太刀打って,打ったぞと思うと,その打ったと思う心がそのままそこに留まる…。打ったところを,心が元に戻らないため,一瞬,心が空白状態になり二の太刀を敵に打たれて,先手を取ったことが無になる,

と。これを,心を返す,という。

心を返すとは,一太刀打ったら,打ったところに心を置かず,すぐに心を戻して敵の気色をみよ,という。

機先を制したと,得意になっていたら,敵は,そのことに敵愾心をもやし,かえって厳しく対応してくる,それが油断である。

病とは,心の留まることをいう。仏法ではこれを執着といって,もっとも嫌う。心が一か所に執着してとどまれば,見るところを見外して,意外な負けをとる。

心は,形のないことは虚空のようであるが,一心はこの身の主人であり,すべてのわざをすることはみな心に源がある。その心が動いてはたらくことは,心の営みである。心の動かないのは空である。空の動くのは心である。空が動いて,心となって手足へ作用する。立ちをにぎった(相手の)拳の動かぬときに素早く打つので,空を打てという…。

いわば,この場合,相手の太刀を捧げた手の動かないところは,心が働いていない,つまり隙である。そこを打て,という。

まてまて,立ち会いの話に転じてしまったが,人との関係の話であった。

たぶん,心が何かに固着して動かないから,相手が見えないのだろう。心を返す,自分の立つ位置に常に戻す,それがいわば平常心というものではないか,というところに落ち着くが,何の解決にもなっていない…か。

宗矩の師,沢庵は,

人ごとの身の中に神あり,

といっている。それと関わるが,宗矩は,神妙剣について,こう言う。

神(しん)内に在りて妙(みょう)外に顕る。…たとえば一本の木に,内に木の神ある故に,花咲き匂い,みどり立ち,枝葉しげる也。これを妙という。木の神は,木をくだきても,これぞ神とて目にみえねども,神なくば花緑も外にはあらわるまじく也。人の神も,身をさきても,これぞ神とて目には見えねども,内に神あるによりて,様々のわざをなす也。神妙剣の座に神をすえるゆえに,様々の妙が手足にあらわれて,軍(いくさ)に花をさかす也。神は心の為には主人也。神が内にありて,心を外へつかう也。此の心また気をめしつかう也。気をめしつかい,神の為に外にかける,此の心が一か所に逗留すれば,用がかくる也。然るによりて,心を一か所にとどめぬようにするのが肝要,

と。心を止める,つまり執着しないこと,に尽きるのかもしれない。

別の言い方をすれば,

軽やかに,

ということになる。

参考文献;宮本武蔵『五輪書』(講談社),柳生宗矩『兵法家伝書』(岩波文庫)

上へ

目次へ


  • 固定観念という色眼鏡

色眼鏡とは,

色つきガラスを用いた眼鏡

のことであり,そこから転じて,

先入観

感情に支配された観察

という意味になる。しかし,僕は必ずしもマイナスには受け止めていない。

人間の心は,もの見るときのクセで,折り目がつき,皺がつくものである,

とはアインシュタインの言である。アインシュタインは,

常識とは16歳までにわれわれの心に刷り込まれたモノの見方の集合体,

とも言う。同じことは,

われわれは,知っていることを見る,

とゲーテは言った。これを,ノーウッド・R・ハンソンは,

〜として見る

と言った。「〜として」が色眼鏡に当たる。トーマス・クーンは,それを,

パラダイム

と名づけた。普通に言えば,

既成概念
とか
先入観

となるが,脳の働きから言えば,

機能的固着

である。だから,SF作家のアーサー・C・クラークは,

権威ある科学者が何かが可能と言うとき,それはほとんど正しい。しかし,何かが不可能と言うとき,それは多分間違っている,

と言ったのである。しかし,それは,その人の知識と経験そのものなのである。発想とは,

知識と経験の函数

という。自分の頭の中にないことは使えない。だから,

知っているものとして,

見る。

その例として,認知心理学の教科書に必ず出ているのは,こういうのがある。

天井から2本のロープがぶら下がっており,1本をもつともう1本の紐が届かない距離にぶら下がっています。周囲におかれている椅子とハンマーを使って,2本のロープをつなげられるかどうかを考えさせる。

これを,10分以内に解ける人は39%しかいない。ハンマーの機能,椅子の役割を知識として持っているために,

ハンマー(もちろん椅子でもいいが)をおもり代わりにロープにぶら下げて,振子にして手元に引き寄せる,

ということを思いつくのに,タイムラグがあるのである。しかし,である。振り子の原理を知っていなければ,そのことは絶対に思いつけないのである。つまり,発想は,

知識と経験の函数

だからである。だから,発想力では,

スキル

がよく云々され,いろいろな発想が発案されたが,実は,(それをやっている僕が言うのもなんだが)それはあまり役に立たない。知識と経験の函数ということは,個人が手に入れられる知識と経験には限界があるからである。だから,自己完結した,

発想スキル

よりは,人とのキャッチボールが重要であり,未だに,ブレインストーミングが使われる所以である。しかし,よく聞くのは,ブレインストーミングは,拡散するだけで,何もまとまらない,という指摘だ。

この指摘が勘違いしているのは,ブレインストーミングで,アイデアがまとめられる,というか,アイデアへと収斂できる,と思っていることだ。たぶん,そんなことはオズボーンも言っていない。アイデアを煮詰め,練り込むのは,結局個人の作業になるほかない。ただ,ブレインストーミングで必要なのは,自己完結を破る,つまり,自己撞着する自己対話の視点を変え,別の視点からものを見られるようにする,

刺激

としての機能なのだ。だから,よくやられているように,ミーティングスタイルでブレインストーミングをやっても,当たり前だが,拡散するだけだ。当然だ,ブレインストーミングには,収束の機能は持たされていない。だから,ブレインストーミングは,個を発信点として,放射線状にブレインストーミングするのが,一番効果的なのである。つまり,基本的に,集まる必要はない。

ブレインストーミングの効果は,個が持つ色眼鏡,つまり,

脳の機能的固着

を打ち崩すところにある。ひらめいた瞬間に,

脳の広い範囲が活性化する,

と言われているのが,象徴的である。いつも使い慣れた部位ではないところに刺激を与え,詰まっていた発想に,まったく違うところから光をあて,異質なリンクが生まれること,これこそが,

色眼鏡

が消えた瞬間である。

参考文献;高沢公信『発想力を鍛える』(産能大),N・R・アンダーソン『認知心理学概論』(誠信書房)

上へ

目次へ


  • 自分を測る

自分とは何かということを考えた時わかりやすいのは,混雑した電車で肩が触れたの,押したのといってもめている人を見た時だ。

たぶん自分でもあるが,たとえば,スマホを見ている,新聞を見ている,本を読んでいるというとき,無意識で暗黙のバリアを張っている。別に体の輪郭そのままではないが,それに近いところで,自分というものと人との境界線を引いている。それは,距離的に測れるものではないが,肌そのものでも,衣服そのものでもなく,それから何センチか何ミリかの隔たりを置いている。別に物理的にこれだけと明確ではないが,触れられたくない距離といっていい。

だから,不意に押されると,自分のテリトリーを侵略されたような感触がある。いきなりだからいけないのか,直接触れたからいけないのかはわからないが,その不快感はよくわかる。

といって,押しくらまんじゅう状態の時が不快でないのかというと,不快だが,その時は,境界線が,(あきらめてか,現状追認かは別にして)ずっと後退していて,顔がくっつかなければよしとする状態になっているので,そういう侵略されたという認識はない。

周りにかまわず化粧するのは,その境界線が,本人にとって強固で,透明の(でないかもしれないが)バリアの中で,完全に内向きの視線の中で,居座っている。この場合も,押されたり,接触したりされると,同じ反応をするはずである(怖くてやっていないと言うか,見たくないので遠ざかるが)。

この境界線は,心理学者の言う社会的距離のことではない。

エドワード・ホールが,人間の対人距離意識について,

・密接距離 (intimate distance) - 15 〜 45 cm。愛撫,格闘,慰め,保護の意識をもつ距離。
・個人的距離 (personal space) - 45 cm 〜 1.2 m。相手の気持ちを察しながら,個人的関心や関係を話し合うことができる距離。
・社会的距離 (social distance) - 1.2 m 〜 3.6 m。秘書や応接係が客と応対する距離,あるいは,人前でも自分の仕事に集中できる距離。
・公衆距離 (public distance) - 3.6 m 以上。公演会の場合など,公衆との間にとる距離。

と分けているが,これは他人を意識している状態というか,人との距離を意識している状態で,自分が何となく自分という境界線を引いている状態とは少し違うような気がする。

人との距離というか,他者との距離と言うので強烈なのは,多田富雄さんが,免疫系が,自己と非自己を区別している,といったことだろう。

自分というもののイメージが根本から崩れた,という印象なのだ。

例えば,

免疫とは,ヒトや動物などが持つ,体内に入り込んだ「自分とは異なる異物」(非自己)を排除する,生体の恒常性維持機構の一つである,

とある。極端な話,不意に押された時の不快感や怒りは,免疫反応の延長線上にある自分以外の異物の排除行動なのてある。

免疫系は,外部からやってくる病原菌やウィルスに抵抗する担い手として抗体をつくる。これが自己である。非自己がなければ,自己もつくれない。

他者がいなければ自己は認識できない。あるいは,自分がどのあたりに境界線を引いているかは,意識できない。

多田さんは,こう書いている。

免疫は,病原性の微生物のみならず,あらゆる『自己でないもの』から『自己』を区別し,個体のアイデンティティを決定する。還元主義的生命科学がしばしば見失っている,個体の生命というものを理解するひとつの入り口である,

と。免疫システムを,自分の無意識の境界線と置き換える。それは,相手によって使い分けるのだろうか。そこが,社会的距離と重なるところである。

親疎は,つまり親和性と反撥性によって,自分が拡大するわけではない。

自分というのを物理的な領域だけで考えると,狭小になる。たとえば,DVや性的被害者は,その瞬間を,自分から剥離してしまうことで,事態を自分から遠ざけていく,という。

そう,人の持っている想像,空想,妄想の領域は,物理的な障壁がない。だから,電車の中で,突然奇声を発したり,独り言を言ったり,一人口論をしたりしている人は,ひょっとすると,物理的境界の埒外にいるのかもしれない。

免疫というシステムは,先見性のない細胞群をまずつくりだし,その一揃いを温存することによって,逆に,未知のいかなるものが入ってきても対処しうる広い反応性を,すなわち先見性をつくりだしている,

という。未知の者への対応は,人は,そういうイマジネーションの世界を設定し,そこへのめり込むことでやっているのか?

いやそれは,どうも違うように思う。

それは,一種の自傷行為に近い。

免疫系は,生体を重層的な防御体制で守る,という。まずは,物理的な障壁で,細菌やウイルスが生体に侵入するのを防ぐ。 病原体がこの障壁を突破して体内に侵入したとき,自然免疫(先天性免疫)がそれを感知して排除する。 病原体が自然免疫も逃れたら脊椎動物は第3階層の防御反応をする。これが獲得免疫であり,一度感染源に接触することで自然免疫によって発動される。 この機構は,病原体が排除された後も免疫記憶として残り,次いで,同一(あるいは似通った)の病原体に遭遇する度に強化される。

社会的距離は,その防御階層といってもいいのかもしれない。そして,最後は,内なる世界へ逃避して,接触をみない。

と,ここまで考えてみて,どうもこういう見方は,自分としいうものを狭くしているのではないか,という気がしてくる。

清水博さんが,こう言っている。

生命という活(はたら)きは自己の存在を自己表現,あるいは自己創出する活(はたら)きであるために,場に位置づけられなければ生き物は一つの決まった形(表現形)を取れないということである。そしてその表現形は,局在的生命と遍在的生命のあいだの創出的循環のために,一定の状態に留まることができない…。生命の自己表現性とは,生命は場に位置づけられた存在をその場へ表現するかたちで活(はたら)いているということである。生命はそれ自身をそれの上へ表現する「場的界面現象」(場的境界の生成現象)であるといえる。生きものは,その存在を場に表現するから場においてコミュニケーションができるのである。

場なしに,自己は存在しない。「自己の卵モデル」では,繰り返しになるが,こう説明される。

@自己は卵のように局在的性質をもつ「黄身」(局在的自己)と遍在的性質をもつ「白身」(遍在的自己)の二領域構造をもっている。黄身の働きは大脳新皮質,白身の働きは身体の活(はたら)きに相当する。
A黄身には中核があり,そこには自己表現のルールが存在している。もって生まれた性格に加えて,人生のなかで獲得した体験がルール化されている。黄身と白身は決して混ざらないが,両者の相互誘導合致によって,黄身の活(はたら)きが白身に移る。逆もあり,白身が黄身を変えることもある。
B場所における人間は「器」に割って入れられた卵に相当する。白身はできる限り空間的に広がろうとする。器に広がった白身が「場」に相当する。他方,黄身は場のどこかに適切な位置に広がらず局在しようとする。
C人間の集まりの状態は,一つの「器」に多くの卵を割って入れた状態に相当する。器の中では,黄身は互いに分かれて局在するが,白身は空間的に広がって互いに接触する。そして互いに混じり合って,一つの全体的な秩序状態(コヒーレント状態)を生成(自己組織)する。このコヒーレント状態の生成によって,複数の黄身のあいだでの場の共有(空間的な場の共有も含む)がおきる。そして集団には,多くの「我」(独立した卵)という意志器に代わって,「われわれ」(白身を共有した卵)という意識が生まれる。
D白身が広がった範囲が場である。したがって器は,白身の広がりである場の活(はたら)きを通して。黄身(狭義の自己=自分)に「自己全体の存在範囲」(自分が今存在している生活世界の範囲)を示す活(はたら)きをする。そして黄身は,示された生活世界に存在するための適切な位置を発見する。

ある意味,接触しあった白身を,社会的距離と捉えた瞬間,自分との隔てに変わる。そうではない,そこにこそ,自分が自分である場なのだと捉えると,それは,自分の外延に変わる。

それは,確かに,電車の中では無理かもしれないが,そう考えた瞬間,人が自己完結している限り,防御力が劣る理由が見える。人の防御力は,体内のほかにもうひとつ,自分の外に,人との接点に,接触しあった白身のつくり出す「場」があるということを,ついつい忘れてしまう。

人は社会的動物なのだ。

参考文献;多田 富雄『免疫の意味論 』(青土社),清水博『コペルニクスの鏡』(平凡社),清水博『場の思想』(東京大学出版会)

上へ

目次へ


  • 当事者意識と自分ごととは別物である

ひとごとは,

他人事

と書く。

昨今自分のことを,ひとごとのように語る印象がある。しかし,それは,自分を対象化して,客観的に語っているようには見えない。そうではなく,自分を,

自分

というように,おのれをちょっと脇に置いて語っている,という感じなのである。主体としてのおのれではなく,ラベルとしてのおのれ,のように見える。それを感じたのは,

「親」

という言い方だ。

おやじ
とか
おふくろ

という言い方には,関係性がある。そう言った瞬間,そこに,

自分との関係性

が表現される。「くそ」がついたり「ばか」がついたりすれば,そこに自分の思いが入っているのがはっきり見える。しかし,

「親」

というとき,自分は,家族の関係から出たところから見ている。穿ちすぎかもしれないが,少なくとも,そういう言い方をするようになったのは,いつからだろうか。それは,家族そのものが,

賄いつきの下宿屋

のようになったのを反映しているのではないか,と僕は勘ぐっている。そこにあるのは,家族関係について,

ひとごと

であるという印象である。

では,ひとごとの反対は何か。どうも,そういう言葉があるかどうか知らないが,

じぶんごと(自分事)

というしかない。最近社員教育の分野でそういう言い方をしているらしいので避けたいが,「わたくし事」だと,公けに対する私になる。で,

わがこと(我が事)

という言い方もある。ま,しかし,いま使われているのに倣うとして,では,

じぶんごと

は,当事者と同じか。どうやら,最近の使われ方は,「自分ごと化」というような言い方をしているところを見ると,当事者意識を指しているらしい。しかし,これははっきり言って間違っている。

当事者の反対は,

第三者
ないし
局外者

である。当事者というのは,関係性を示している。というか,社会的役割の中で言われている。つまり,社会的役割については,前にも触れた気がするが,

「社会的役割は,もっぱら他者の期待にもとづく意味でも,もっぱら自己の認定に基づく意味でもなく,両者の相互作用の結果として多かれ少なかれ共有される。」

したがって,

「主体は,他者との相互作用において,自己にとっての意味に応じて他者に役割を割り当て,その役割と相即的に対応する自己の役割を獲得する,つまり,相互作用は,すべて役割関係なのである。」

という。ぶっちゃけて言えば,

お互いが関係する中でしか役割は生まれない。つまり,当事者意識は,

お互いの作り出していた関係

を主体的に自覚する,ということだ。だから,そこから離脱ないし,離れることを,

第三者
ないし
局外者

ということになる。ということは,ひとごとに対するじぶんごとという使い方は,当事者意識とは無関係である。

ここでいう,

ひとごと

じぶんごと

というのは,他者との関係ではなく,自分自身のありようを,自分のこととして認識するということだ。これができて初めて,役割を担うに足り,その役割の当事者たることを求められる。それ以前に,

自分の人生の舞台

を,自分が主役として生きる,あるいはそれを覚悟する,ということが,じぶんごとにほかならない。それは,

自分のいのち,
自分の家族,
自分の生活,
自分の時間,
自分の未来,

等々を自分自身との関係として,内から捉えることを意味する。それができなければ,

自分の人生そのもの

いや

自分の命そのもの

すら,ひとごとで考えているのかもしれない。それは,地に足ついていない,というより,ふわふわと実感のない生き方というのがあっているのかもしれない。いや,ありていにいえば,

自分として生きていない,

ということにほかならない。自分として生きるとは,

自分の意思

自分の感情

自分の思い

自分の振る舞い

自分の考え

をもって日々生きるということだ。

実感がない,
リアリティ感がない,

ということを聞くが,それは,日々,この現実の中で,

問題にぶつかり,何とかそれをやり繰りし,
感情的な葛藤を逃げずに向き合い,

悪戦苦闘しながら生きているということをしていないということだ。それは,悩んだり,怒ったり,泣いたり,わめいたり,興奮したりする,という自分の時間と空間の中で,日々を過ごすということだ。

それがなければ,たとえば,何かあれば親にすがり,何かあればそれに背を向け,葛藤から逃げていれば,自分にすら実体感がないのではないか。ましてや,自分の人生というものが見えないのではないか。それは生きていない,ということだ。なにも,日々生き甲斐で生き生きしている人生を指していない。そんなものがあると思って,日々の坦々とした平凡な生活に背を向けて,自分という狭い世界に閉じこもっているから,感情も,思いも,あいまいで,ふやふやなのではないか。

そこで一番失われるのは,想像力である。その人が生きている中身に応じてしかイマジネーションを生き生き描けない。だから,他人の痛みも,哀しみも,ほとんどひとごとにしか感じられない。

明日は我が身

他山の石


所詮対岸の火事としか見なければ,

戦争

ホームレス

貧困

難民

被曝


いずれはおのが身に降りかかるとは,想像もできない。本人が想像しようとしまいと,リアル世界の中にいる以上,火の粉はふりかかる。そのときになってからでは遅い。

参考文献;栗岡幹英『役割行為の社会学』(世界思想社)

上へ

目次へ


  • 役割意識が自分を成長させる

@役割を主体的に創っていく

 「役割」は与えられるものではなく,主体的に創り出していくものである。自分の役割はチーム全体の任務を遂行するための機能のひとつであるが,役割認識には,
 ・上位者,他部門からの部門責任者としての役割期待
 ・自分自身がチームをどうしたいのかという役割意識
 ・部下からのリーダーとしての役割期待 
等々の側面がある。その中で,自ら担った役割成果の結果として認められるものでもある。その意味で,
 「全社・他部門から要請されているアウトプット」
 「自分がこうしたいという主体的なアウトプット」
 「部下から期待されているアウトプット」
等々を果した結果として,その役割が周囲に認知されることになる。その中身を確定していくのは,自分がそれにどうかかわろうとするかという自分の姿勢であり,どうかかわったかという自分の職務遂行の結果である。自分の役割はこれこれと限定すれば,周囲は「それだけ」の人としか見ないだけだ。また自分でそれ以上と思い上がっても,仕事の状況,メンバーの期待,外部(顧客)の要求を受け止められなければ,機能を果たすことはできない。


A組織全体を頭に入れていなくてはならない


組織全体を頭に入れ,それを遂行するためにどういう機能をもつべきか,それはどんな業務の形になり,どなん分担で,どんな仕組みと能力が必要なのか,について自分なりの構想がなくてはならない。部門の「目標」を,単に上位者の「方針」「目標」の垂れ流しにする副主幹は自分の役割の放棄である。目的とその手段との徹底したキャッチボールが必要である。

B自己成長の視点をもつこと

自分はどんな仕事をしたいのか,どういうキャリア形成をしたいのかの視点から役割を考えることが必要である。自分の役割を狭く限定することは,「課題」を(自分の解決すべきこととして)すくい上げる視野を狭くする。自分自身に自己成長の視点のない管理者に,部下の自己成長を促す説得力がない。当然,組織目標=個人目標はありえない。組織としての目標達成を目指すこと(役割意識)が,同時に個人としての(こうしたいという)成長目標になるようにするのは,上位者の育成責任であると同時に,本人のどうなりたいか,どうしたいかという自己成長の意思が不可欠である。自分にその視点がなければ,部下に「しなくてはならない」ことだけを要求することになる。

【組織目標(しなくてはならないこと)と個人目標(したいこと)の接点】

上へ

目次へ


  • 自分の役割と位置づけを確認することの6つの意味〜組織でのポジショニングをどうはかるか

自分がいまやっている仕事が組織のどこにどうつながり,それがどう組織に貢献しているのかをはかる目安を自分なりに持っている必要がある。その方法と意味づけは次の6つである。

  • 上司の旗とのリンクを確認することで組織全体の方向性を意識する

全体とどうつながっているかは,上司の旗とのリンクを通して確認する。全体と自分がズレているのではなく,上司がズレていることもある。それを上位者との間ではかることで,上司とのキャッチボールの機会にできる。旗を立てるについては,すでに触れた。

  • 自分のチームの旗を立てる

    自分自身が担っている仕事の意味を自覚し,それを実現するために、チームは何をすべきかを明確にすることがまず前提となる。これが,旗を立てるといっている意味である。それは,チーム構成員を巻き込むための目印であり、場合によっては,この旗の故にこそ上位者に動いてもらわなければならない,大義名分ともなる。もし,チーム全体に関わる方向性や上位チームとのかかわりについてあまり目が向いていないとすると,管理者としての視野が,個人の業務遂行ベース,個別の部下にしか向いていないということを意味している。部下とのコミュニケーションはもちろん大事だ。しかしチーム内で明らかになった問題を解決するのに,上位者を動かさなければならない。そのとき,それがチームの旗にどう関わり,それが上位者とどう関わるかといった視点がなければ,上位者は動かない。管理者として最も真価が問われるときだ。

 

  • 自分の旗の明確化を通して,部下の旗とのリンクを意識する

自分の旗が明確になることは, 部下にとって,自分の旗を立てやすくなることを意味する。部下の旗の明確化を通して,自分自身の旗を鏡を見るように確認することになる。

自分の立てたチームの旗に、担当としてどういう旗を立てて,チームの旗に貢献するかを考えるのが、プレイングマネジャーの,プレイヤーとしての仕事だ。マネジャーは、チームの旗と同時に、それにどう貢献するか、自分の担当の旗も立てる。

  • 旗のリンクを通して,仕事の守備範囲を確認する

自分がどう上司とリンクし,組織全体とリンクしているか考えることは,自分および自分のチームがやっている仕事がどう組織とリンクしているかを考えることであり,ある意味で,自分が何をしなくてはいけないかの確認だけではなくて,何をすることが,周囲から見て当たり前のレベルなのか,という自分たちの守備範囲を考えることになる。それは自分にとって,何が裁量の内なのかを考えることであり,リーダーシップを考える前提となる。


  • 旗を立てる とはどういうことか〜仕事の,自分の,チームの,問題の意味づけができる

◇旗をたてるとは,自分が何をすべきかを自分なりに明確にする作業である。それは,自分のチームでのポジショニングをはかることであり,ひいては組織でのポジショニングを意識することにつながる。

◇それは,自分自身の意味づけ,自分の仕事の意味づけ,自分のチームの意味づけを考えることであり,それが,チームとの関わり,上司との関わり,他のチームとの関わり,組織全体とのかかわりを考え,自分の役割を主体的に考えることになる。それが,旗を立てることの効果になる。たとえば,目的や目標を共有化するということは,自分の立場,役割としてそれをどういう形で受け止めていく かを考えることになる。それが,自分の旗を上司の旗とリンクさせ,組織の旗とつなげていくことになる。

◇大事なことは,自分及び自分のチームの目標ではなく,その目標を達成することで,自分及び自分のチームの所属する上位チームの目標(自分の目標にとっては目的)にどういう形でリンクしているのかを意識することである。それが自分の目標の意味づけであり,チームの仕事の意味づけとなる。

上へ

目次へ


  • プレイングマネジャーのあるべき役割行動とは何か

◇プレイングマネジャーとは何か。プレーヤーの部分に視点を置くと,単なる先輩になる。マネジャーの部分に視点を置くと,チーム全体をマネジメントする役割になる。しかしそもそもなぜ自分がそこにいるのか,何をするためにそこにいるのかが,わかっていないと,そのつど主義に陥る。プレイングマネジャーとしてその役割を達成するとは何をすることなのかを明確にしてみたい。


  • プレイング・マネジャーは何のために存在しているのか

まずは,自分自身が担っている仕事の意味を自覚し,それを実現するために,チームは何をすべきかを明確にすることがなにより前提となる。そのためには,所属している上位部門をあずかる上位者が,何を目指し,何をしようとしているかが,つかめていなくてはならない。その上で,その達成に貢献するために,チームとして,何に重点を置くのか,何をすべきなのかを明確にする。これが,チームの旗である。それは,チーム構成員を巻き込む目印であり,場合によっては,この旗の故にこそ上位者に動いてもらわなければならない,大義名分ともなる。プレイングマネジャーには,チーム全体に関わる方向性や上位チームとのかかわりに目が向いていないようにみえる。管理者としての視野が,個人の業務遂行ベース,個別の部下にしか向いていない。まずは,チームの目的,チームの役割をきちんと共有するところからはじめなくてはならない。そうでなければ,チームは,マネジャーも含めて,メンバーが同列に集って仕事をしているにすぎないことになる。

  • プレイングマネジャーは何をするためにいるのか〜主体的に役割を作り上げる

 いまある役割を当たり前のように前提にするのではなく,組織の中で何を達成するために,自分がそこにいるのか。そのために何をすべきなのかの確認が必要である。また,公式の管理機能だけが役割ではない。それを果すだけなら,自分でなくても誰でもいい。自分は,目的達成のために何をすべきかを,主体的に考える中で,役割をつくりあげていく。これを旗と呼ぶ。

多忙さとは関係なく,どれだけ「目的意識」を失わないかにかかっている。それ(その仕事)は「何のために(目的)するのか」,その目的からみて,目標・手段は適切か,あるいは「その目的は今も重要か,もっと別の目的(何のために)を創れないか」等々の,問いを続ける姿勢である。その役割は固定ではない。それなら,誰が担当者になっても同じになる。自分の役割に主体的に格闘し,何をウエイトを置くか,を決めていく。

  • それぞれが自分の仕事の役割を明確にする

 チームの旗が明確になることによって, 部下ひとりひとりが,自分が何をすべきかという旗が立てやすくなる。担当としてどういう旗を立てれば,チームの旗に貢献できるのかと,メンバーひとりひとりが,自分の役割を主体的に受けとめなおすことができるのである。

それは,メンバーひとりひとりが,チームの中での自分の意味づけ,自分の仕事の意味づけを考えることによって,自分とチームとの関わり,自分と上司との関わり,自分の仕事と他のチームメンバーとの関わり,自分たちのチームの仕事と上位チームの仕事とのかかわり,更には組織全体とのかかわりを考えていくことなのである。それが,自分の立場,役割として,自分のチームの目標を達成することが,自分や自分のチームの所属する上位チームの目標(チームの目標からみると目的)にどうリンクしていくかを意識することである。つまり,旗をたてるとは,自分および自分のチームが何をすべきかを自分なりに明確にする作業なのである。それは,自分のチームでのポジショニングをはかり,ひいては組織でのポジショニングを意識することにつながるのである。


  • プレイングマネジャーとして,おのれ自身の仕事の旗を立てる

 プレイングマネジャーが,自分の立てたチームの旗に,担当としてどういう旗を立てて,チームの旗に貢献するかを考えるのが,プレイヤーとしてプレイングマネジャーとしての仕事だ。プレイングマネジャーはチームの旗と同時に,それにどう貢献するか,メンバーひとり一人と同様に,自分の担当の旗も立てる。

  • 各自の役割・業務・目標がチーム全体とリンクづけられている

現在の自分の役割,組織の業務分担から自分の目標を見るのと同時に,目標の意味づけから自分のポジションを整理して見ると,下図のようなイメージ図になる。そこでは,日々の仕事が組織全体とどうリンクしているかを再確認できている。この状態こそが,チームがチームとして一体化している状態なのである。


  • 補佐役を育てる

たとえば,チーム内のベテランを補佐役として育てることで,自分のプレーヤーの部分以外の,マネジメント部分のサポートが得られる。逆に言うと,ベテランにゆだねる役割を明確にすることで,チーフとしての自分のしなくてはならないことも明確になっていく。たとえば,部下を育てるニーズには3つある。

 @部下の担当している仕事のレベルアップ〜担当している部分自体の幅と質のアップ

 A部下が本来求められている役割にふさわしい担当業務領域の拡大〜その役割ならもっとやってほしい期待される力量

 B近い将来求められる役割にふさわしい業務領域への浸透〜これからはもっとこういうことをになえるようになってほしい期待値

 @は,今担当している業務の質量をレベルアップするための必要点である。通常これを部下育成の必要点と考えるが,これは現状の業務遂行を前提にしているにすぎない。本来は,そのキャリアと職位から考えると,もっと幅広い役割が期待されていることを自分で受け止められれば,周囲の求める期待にふさわしい役割を実現するには何をしなくてはいけないかが,おのずと本人に見えてくるし,もしそこに手がついていなければ,それにふさわしいスキルと知識と経験を積まなくてはならない,と自分で気づくし取り組むはずである。それがAである。しかしそれは@の視点に立っている限り決して出てこないのである。更に近い将来,組織の中であるいはキャリア上たとえば後継者として,求められる役割が高まり,それにふさわしい業務遂行ができるように,いまから少しずつスキルと知識と経験を積まなくてはならないと気づくこと,それがBである。必要なのは,チームの目的を実現するために,自分のポジションでは何をすべきかを,いつも,主体的に考えられる力である。それには,まずAができること,それを未来のキャリア形成へ延長させることでBが見えてくることになる。

  • 自分の旗をたてさせてみる〜自分への確信の根拠

●現在の役割を確認する

それには,自分のやっている仕事を列挙してみることだ。

●周囲の期待,上司の期待からみて,自分の役割を考えてみる

 ・自分と上位との関係の中で,自分がどういうかかわり方をするのか

 ・自分が周囲からどういうことを期待されているのか

 という中で,自分に求められている役割は何か。

●自分がどうしたいのか,どうなりたいのか,どうあるといいのか,を考える

自分がこれからどういう役割行動をになっていきたいのか(自分は何をするためにそこにいる人なのか)を考えることを通して,自分にとってのその役割の意味を見直すことになる。

●自分の役割に旗印(キャッチフレーズ)をつける

上記@ABを受けて,改めて自分の役割を明確化し,その役割に自分の旗(自分のキャッチフレーズ)を考える。その上で,その旗から見て,現状やっていることの中で,抜けていることはないかを考える。自分の仕事に旗をたてるということは,自分をチームの中,あるいは上位組織の中で,どういう位置にいるのか,その中でなにをするためにいるのか,役割を主体的に考えることになるはずである。

 このことを,大沢チーフはチーム全体の視点から,プレーヤーとしてではなく,マネジャーとして支えていかなくてはならない。それは,大沢チーフ自身の旗のありようが,自分が上司との間で,どう期待を主体的に受けとめ,自分自身のなすべきことを定めているかが逆に照射される。大沢チーフの旗が明確になっていなければ,小森の旗は明確にしようがないのである。

新任管理者の部下指導力チェックリスト上司を動かすチームリーダーのリーダーシップ職場のコミュニケーションを円滑にするにはどうすればいいかプロジェクトチームを成功させる部下をどう叱るかも,を 参照。

上へ

目次へ


  • 管理者としてどんな行動をとるべきか

  • おのおののチェック項目は,管理行動のチェックリストであると同時に,企業として求める管理者像からのテーマ抽出も可能だし,前述のようにコンピテンシーとして,管理者の能力要件からも可能であり,それぞれを具体化する方法として考えることも可能である。


管理者のチーム方針策定行動チェックリスト

目標を達成するためのチームとしてのすすむべき道筋をどう示すか,また管理者の自分の考え方,判断基準を明示することでもある。

目的実現のための手段

その手段実現のための手段

その手段実現のための手段例

当社の理念、ビジョン、今年度の方針をわきまえた上で、上位方針とのすりあわせをきちんと行う


 

 

 

トップの発言や方針説明などに注意し、トップの問題意識の動向をつかむようにしている
 

●上位者や他部門、他チームとの「情報交換」を心がけている
●トップのその時々の発言をきちんとフォローしている

自チームに対する要求や、期待を意識し、目標や方針として具体化する


 

●年度方針に関する「上位者」とのすりあわせを十分に行っている
●「チーム内資源=人・物・金・情報」をどうするか、問題意識をもっている
●メンバーそれぞれに、チームとしての、また「リーダーとしての期待」をきちんと伝えている

他部門との連携を意識して、幅広い視野から自チームの位置や役割をチェックしている

●「他部門との共同目標」が具体化されている
●私的にも他部門や社外に「ネットワーク」をもっている

現状をどう改革すべきか、という問題意識をもち、その視点からチーム運営をするという、リーダーとしての考え方を徹底させている



 

 

 

 

より先々を見通した、自チームのあり方、方向性を示している

 

●チームの業務内容や取り扱い商品の位置づけ、自チームの役割について、どう変わるのか、どう変えなくてはいけないのか、自分なりの考え方や見通しがある
●事業環境、競業他社の動きについて、メンバーと情報交換を図る

自チームの現状についての課題や制約を解決するにはどうすべきかを考えている

 

●自分の考えている、チームの解決すべき課題や制約を、積極的にメンバーに問題提起する姿勢がある
解決すべき課題を「具体化」するように、一人ひとりと話し合っている
●一人ひとりの仕事から生まれる「問題意識を聴く」耳を持っている

自分の問題意識をメンバーとすりあわせ、チームの方向性を共有化する努力をしている

 

●自分の考えや判断、見通しを積極的に語り、どうしたらいいかを、「メンバーと共有化」する努力をしている●メンバーや同僚と「世の中の動き」「トップ方針」について話す機会がある
●メンバー一人ひとりの考え方を理解するために、あらゆる機会を利用している

リーダーとして、今年度の達成目標を明確に示し、それを「達成するための方針」をきちんと説明する


 

 

 

 

 

 

 

今年度何を重視し、そのために何を、なぜ達成すべきなのかを具体的に示す

 

 

●自分たちが、何を目指すのかを、明確に語ることができる
●方針を明示するにあたっては、「メンバーに納得」してもらう努力をする
●チームとして、また各自として、何がクリアしなくてはならない課題なのかをきちんと詰めている
●「各人が今年度果たすべき役割」が、全体との関連できちんと確認している
●チームの課題相互の関連性についても明確にしている

チーム方針を実現するために、各人に何に重点を置くかを策定させている

 

 

●各人の業務遂行における「目的意識」が徹底させている
各人の目標設定にリーダーの方針が反映され、「ウエイトづけ」されている
●各人の本年度の「重点方針を実現するための具体策」を検討してある
●重点課題の「価値判断を明示」している
●仕事の細部にまで、その価値判断で「優先順位」をつけている

方針は現状打破、革新の実現を目指し、どうすればそれが可能となるかを検討している


 

●常に、どうすれば可能になるか、「前向きに取り組む姿勢」を自ら示している
●各人のプランの達成可能性を「すりあわせ」ている
●「リスク対策」を検討するように努力している
●常に「メンバー一人一人の創意工夫」を引き出せるよう、各自のアイデアが全体として試せたり、評価できる機会を設けている

今年度方針の次年度への意味、中長期的展望、そのためのステップアップの道筋をきちんと語っている

 

 

 

 

メンバーに、自分の長期ビジョン、意思をきちんと語る努力をしている

 

●自チームの「将来像」を語ることができる
●「チームのレベルアップ」の方向性を示している
●メンバーの一人ひとりにも、「長期の視点、自己成長の視点」を求めている

何に重点を置き、それは前年とのつながりはどうなっていて、次期にどうするつもりなのかについても、きちんと説明する
 

●「前年との違い」、何を重視するかがメンバーに明示されている
●メンバー一人ひとりに、次期にどうつなげるのか,そのために今期何をすることが重要なのかを、自分なりの方針を立ててもらう

同業他社や業界の動きに目配りしつつ、たえず方向や方針がこれでいいのかをチェックしている


 

●顧客先・仕事先での変化についても、メンバーの情報を「チーム全体で共有化」するようにしている
●日々の「報連相」を、情報集約と情報「共有化のツール」として生かしている
●「社会の変化、食生活」の変化に注意を払い、メンバーと情報交換をしている


管理者のメンバーとの目標統合行動チェックリスト

メンバーの目標を,組織の目標と統合させ,その目標を達成することにより,組織もメンバーも成長することを目指す。

必要管理行動

管理行動実現のための手段

管理行動達成のための具体的行動例

チームの管理者として「良い目標」が成果を決する重要性を理解している 管理者として、メンバーに対して、目標の重要度、ウエイトづけを明確にする ●上位者への目標設定レベルの確認、統合をはかっている
●今年の「重点施策」が明示されている
各人の目標設定のために、チーム、グループ全体、部門全体のばらつきを少なくする ●管理者間で、目標設定レベルの確認・統合を図っている
●グループ、チーム、支店全体レベルでのばらつきを小さくしている
各目標がどう全体に寄与し、成果につながるかの視点からチェックする ●「全体の達成目標を意識」して、各人の目標設定を具体化してい
●「全体との方針の連鎖」を意識している
 目標設定に当たっては,上下左右との関連性を意識し,適切な設定をしようとしている 目標の設定に当っては、その目標が業績と成果につながり、各人の育成にもなるように、意識している ●「目標・評価マニュアル」を理解し、その実践を心がけている
●目標を統合するための面談に備え、日常的にきちんとデータや資料を用意している
●本人が努力しないと達成できないレベルの目標を設定する
●目標内容が、改善や革新など、いままでなしえなかったプラスの成果をもたらすチャレンジングな課題となるようにしている
●各人の目標設定に「チームとしての重点課題」が反映させている
メンバーの目標を組織目標と統合するための面談の重要性を理解し、意思のすりあわせに時間を割いている ●個々の目標が、全体としてチームの目標に統合され、全社の目標達成につなげるように、メンバーとの個別の面談に時間を割いている
●面談には、時間と場所をきちんと確保し、ゆっくりと話し合うようにしてい
●面談では、威圧的になったり、強制する雰囲気にならないよう、席の取り方や言葉づかいに十分気をつけている
●すりあわせに当っては、説明をきちんと裏づけられるデータや資料をもとにしてすすめるようにしている
●メンバーの言い分や主張には十分耳を傾けるようにしている
●メンバーと上位者との目標設定の前提条件、立脚点の違いがないかの確認、すりあわせに心がけている
●チーム目標の意味・狙いの説明をし、各人の「目標との関わりをつける」ようにしている
●チャレンジ目標と「業務とのバランス」をきちんと話し合っている
●上位者としての期待や励ましをきちんと言葉として表す
●各人の「成長目標」を、上位者とオープンに確認している
●目標は、成果が評価しやすいように、できるだけ数量化、具体化している
●優先度、重要度、緊急度についても確認し、リスクやトラブルへの対処についても共有化を図っている
●各人が達成できるように管理者として「サポートする仕掛けを組み込」むようにしている
育成的視点から、メンバーの業務分担や仕事の割り当てを見直すようにしている ●「前年実績や前年を踏襲せず」、改めて分担を見直すようにしている
●各自の能力、資質を見極め、やや高いレベルの仕事を担当させるようにしている
●ベテランと若手を組ませて、「ベテランに育成役割」を与えるようにしている
●メンバーの主要担当業務の「遂行レベルをきちんと把握」している
目標達成のプロセスの重要性を意識して、ひとりひとりの状況をフォローし、たえずすりあわせられる機会を設けている 目標設定時との状況変化がないか、設定目標の修正の必要性がないかを常にフォローしている ●事前に立てていた、状況変化時の対応策の是非をたえずチェックしている
●状況変化について、きちんと報連相がなされるように、チーム全体で共通認識をもっている
●各自の進捗状況を、日々の話し合いや会話でつかむように心がけている
●目標達成プロセスにおける、個々の成長、レベルアップには、きちんと言葉で本人に伝える
一人一人の成長をはかれるように、基本的には自己コントロールにウエイトをおいて、たえずプロセスをフォローするようにしている ●自己コントロールしながら、目標達成をはかれるようなチームの雰囲気がある
●自分で決定し、自分で事態を打開することで成長の機会とできるように、仕事の仕方や方法の改善のヒントの助言や情報提供を心がけている
●何を、どこまで処理できるか、「トラブル処理の責任・権限」の確認をしている
業務遂行上で問題が生じたときは、上位者、チームとしての支援やサポートの仕組みを作ってある ●緊急時、トラブル時に、相互でのサポートができるようにしている
●上位者やチームメンバーからの、情報提供だけでなく、予算措置や実行の支援についても、タイミングとケースに応じた基準を設けている
●「形式ばらない常日頃の話し合いの場」を設けている
達成度の測定や達成結果の評価に当っては納得性と継続性を重視している 達成度の評価は、きちんと事実と数値にもとづいてする ●何ができ、何ができなかったか、の評価はデータと資料をきちんと把握した上でする
●どのくらいのレベルのことが達成できたのか、事実と裏づけられる資料に基づいてきちんと説明する
●メンバーの自己評価をきちんと聞き、その根拠となる事実と資料を正確に把握するようにする
●チーム目標全体の達成度、個人の目標の困難度、外部要因、上位者やチームの協力度、本人の努力度を対比しながら、公正な評価をするようにしている
評価結果の合意をはかるようにきちんとした話し合いの場を設ける ●評価の食い違いを、その根拠となる事実、データに基づいてすりあわせる
●未達の原因を、目標の高さ、困難度、達成方法、本人のレベル・能力をきちんと分析し、確認している
●本人の成長、努力についてはきちんと評価し、次につながるように励ますようにしている
●「何が不足しているか」を、本人と具体的に話し合い、能力不足は「アップのための機会」を作るようにしている
●遂行上の問題は、その「原因をすりあわせ、次期の課題」の中に織り込んでいく
次へのステップを長い成長プロセスの中に位置づけて検討する ●「何をしたいか」「どうなりたいのか」をあらためてすりあわせる
●次期が長期プロセスのどこにあり、自ステップのために何が必要で、何をすべきかを決める
●前期課題をどう次期目標につなげるかのすりあわせを入念にする
●チーム側からの要望、期待を改めて明確にする

管理者の仕事の進捗管理行動チェックリスト

立てた目標もプランも,管理者の日々のフォローなくしては完結しない。進捗管理は,管理者にとって,方針徹底の場であり ,メンバーの考え方,仕事の進め方の理解の場であり,相互ですりあわせを図る場でもある。こうした日々のフォローが,目標達成と同時に,メンバー育成の機会であり,チーム力アップとして ,次につながる。

必要な管理行動

管理行動実現のための手段

管理者としての具体的行動例

期初のプランニングをきちんと見る 年間の主要業務日程との関連が明確になっている ●予算策定等の社内業務日程が確認されている
●社内の業務日程が、メンバーのそれぞれの年間業務スケジュールに落としこまれている
●お得意様との業務日程があらかじめ明確になっている
●お客様との業務日程に対するメンバーの役割・行動が明確になっている
遂行上のKFS(Key Factor For  Success)を確認している ●進捗上の重点ポイントの絞り込みと、優先順位を確認している
●遂行上の決定的局面、重要事態をどう切りぬけるかをすりあわせている
●計画遂行に不可欠の「手段、手順に抜かりがないかを検討」させている
●遂行上の「役割分担は明確」にしている
●その遅延、障害要因が「隠れていないかをチェック」している
●障害が発生したらどうするか「予め対応策」を練っておく
チーム方針を十分意識しているかをチェックする ●チームの重点課題、優先事項の把握を確認する
●チーム方針に影響する「進捗上の変化」をきちんとチームで共有化する仕組みを設けている
それは目標達成に十分な計画立案になっているかをチェックしている ●計画の実現可能性やマイナス要因をきちんとチェックする
●計画遂行上の「支障が出たときの早期対応、早期報告」を予め定めている
●各人の「責任権限、直接の報告先、決裁先も明確」になっている
●必要に応じた「軌道修正は任せている」
計画遂行がうまく行くようにさまざまな工夫をしている 計画遂行の方向、軌道のずれが生じないように、上位者、関連部署との進捗状況の情報交換を怠らない ●「全社的な進捗状況」はきちんとフィードバックしている
●「他部署からの成功事例」をメンバーに提供する努力をしている
●「チームに有利な情報」を少しでも早くつかむために努力し、メンバーに伝えている
仕事の指示は5W2Hで明確にするようにしている ●指示に伴う「責任・権限はその場で確認」する
●指示内容の確認のために、「質問しながら、内容理解と遂行のレベル合わせ」を行う
●アウトプットとして「期待する成果を具体的に求め」、確認する
●報連相の「タイミングを予め」決めておく
●遂行中の「中間報告のタイミング」を決めておく
●「完了の報告の仕方」を決めておく
チームワークとコミュニケーションの円滑化の工夫をし、メンバーのやる気を引き出す努力をしている ●「機会があるごと」に、目標や方針の共有化とベクトル合わせをはかって、「チーム全体を盛り上げる努力」をしている
●チーム全体の進捗を効率化したり「改善するための話し合い」や「成功している事例」情報の交換の場を設けている
●「他チームや社内他部署、社外の情報を収集・把握」し、互いに、チームにフィードバックし合っている
●「互いの連携のあり方」についても、きちんと確認をとる
●それぞれが行う「改善や工夫をする姿勢を積極的」に評価する
●メンバー一人ひとりの「達成度を励まし、成長を誉めたり」し、それをチーム全体で共有化している
●一人ひとりに、自分が「何を評価し期待しているか」を伝えている
●一人ひとりの「努力を細かく見、評価し」、そのことをきちんと伝えている
●細かな「ミスや失敗は」、きちんと注意し、「次に生かせるよう」にする
●「個人的な相談」にもいつでも、応じるようにしている
●職場以外での私的なつきあい、懇親の機会も設けている
プロセスでの仕事の仕方、進め方についてきちんとチェックし、メンバー一人ひとりの進捗状況をきちんと把握し、フォローするようにしている ●定期的な報連相を確実に励行するようにしている
●報告や連絡の機会を利用してさまざまな「アドバイスや意識的な質問」をして、相手の状況をつかむようにしている
●気になる相手には、「私的にもコミュニケーション」をはかるようにしている
●問題やトラブルが発生したら、直ぐに報告させるようにしている
●問題点や間違いに気づいたら、直ぐに指摘し、直させる
期中の計画進捗状況をチェックする仕組みを決めている 上位者との状況確認、報連相を怠らない ●自チームの進捗状況をきちんと把握し「定期的に上位者へ報告」している
●「状況変化はすばやく全員」に伝えるようにしている
●チーム方針を動かしたり、部門全体に影響するような、「大きな情勢変化、顧客情報」を素早く上へ上げるようにする
チーム全体で進捗状況を確認しあえる場がある ●スケジュールの「短縮、効率化の工夫」を常時行っている
●重複や「非効率を排除するための調整」を心がけている
●取引先や競合他社の情報を交換するようにしている
メンバーの仕事の進捗を妨げるトラブルについては、チームとして、あるいは管理者自身として、解決する道筋をつける ●メンバーが成果を出しやすいように、「関連部門、他チームとの折衝」は心がけている
●状況変化への対応には積極的に支援するようにしている
●率先してトラブル解決のための行動を起こす
●予期せぬ「重大問題の発生には応急対策」を直ぐに講じ、対処するようにする
●「失敗やミスへのサポート、アドバイス」を心がけている
●問題発生時の対応、連絡方法を決めておく
計画からの逸脱、目標未達には、チーム全体で軌道修正をはかる ●要因となっている「障害除去にチーム全体で対応策」を練り、対策を立てる
●計画水準に「未達となった場合」、それに代わる、あるいはそれに「代替できるプラン」を立てる
●チームメンバー「個別の問題にも、サポート態勢」が取れないかを工夫する
遂行結果のチェックとフィードバック チームの目標達成度はきちんと評価する ●「評価基準をきちんと設け」、メンバーにも明示している
●メンバーの自己評価についてもきちんと受けとめる
●欠点だけをあげつらうのでなく、長所についてもきちんと見て、伝える
●「チームワークの問題点、改善点を具体的」に話し合うようにしている
●「遂行プロセスでの外的要因(追い風、逆風)」もきちんと見る
●「自分の計画遂行責任」についても、オープンにメンバーに話す
メンバー一人ひとりの結果をきちんとフォローし、フィードバックする場を設けている ●一人ひとりの「遂行プロセスを細かく分析」し、どこがよく、どこが悪いかを具体的指摘し、「評価」を伝える
●「次へとつながるように各人へ長所・弱点」をきちんと伝える
●欠けている能力を伸ばすためにどうすべきかをアドバイスする
●意欲づけるための励ましの言葉を忘れない
●「次にはどうしたらいいか」、をきちんと話し合う場を設けている
チーム結果をきちんと上位者に報告し、チーム状況の理解を求める努力をしている ●チームの置かれている外的状況、チーム内の戦力状況の理解を得る努力をしている
●チーム戦力の、個々のレベルアップ見通しについてもきちんと報告できる
●今後の業績の見通し、勝算についても、きちんと状況説明ができる

管理者のリーダーシップ強化行動チェックリスト

チームを動かすのは,メンバー一人ひとりの力を束ねて,ひとつの方向にリードしていくリーダーシップである。そのためには,たとえば,マネジリアル・グリッドの9・9型(課題解決志向型)のリーダーシップと実践力が求められる。

必要な管理行動

管理者行動実現のための手段

管理者としての具体的行動例

チームの方向、目標をたえず明確に示す 自らに求められるリーダーシップ像、役割期待を自覚している ●率先して課題解決のできるリーダーシップの実践を心がけている
●リーダーシップ行動に必要な要望性、共感性、通意性、信頼性をよりレベルアップするよう心がけている
トップ方針のブレイクダウンがきちんとできている ●定期的に「上位者とのベクトル合わせ」を怠らない
●トップの考え、方針を「メンバーにきちんとブレイクダウン」している
●日常の話し合いやコミュニケーションにおいては、「判断基準のすりあわせ」をはかっている
メンバーと共有化するに足る目標をどう設定するかに心を砕き、その目標の意味やなぜそれを目指すべきなのかをメンバーに積極的に説明する ●チームの「戦力把握」がきちんとできている
●チーム運営の「判断基準の機軸がぶれない」
●チームとして「自分が何を目指しているか」についても、きちんと語っている
●チームメンバーに、「自チームの役割、使命」について、積極的に自分の考えを伝えようとしている
●なぜそれを目指すのか、「一人ひとりの役割、仕事との関わり」を、メンバーととことん話し合う
●反対意見にもきちんと耳を傾ける
●チーム「メンバーの意向」を常に汲み取る努力をしている
●メンバー一人ひとりと、「何をすべきか」を話し合っている
●チーム内の「要望、意思もきちんと掌握」ができている
●チームとしての価値からずれた行為にはきちんと「叱責や軌道修正」を求める
上に向かって、自チームの業務から、自分の考えを提案・提言できる ●必要なら自チームの目標なり、役割、日程で、きちんと「提案や提言ができる」
●自チームでできる「改善、業務革新への取り組み」は、積極的に行う
●メンバーのもたらす「情報をきちんと判断し、意思決定に活かせる」
●「左右とのコミュニケーション」を怠らず、情報の交換、共有化につとめている
●「事業環境の変化、顧客情報にアンテナ」を張り、ウォッチしている
チーム目標の達成に全力をあげる

 

どう目標を達成するか、プランと達成見通しをきちんと立てる ●目標達成の「プランニングは徹底的に具体化」し、「手順、ステップを明確化」するようにしている
●遂行上、結果を左右すると思われる重大なポイントについては、「徹底的に分析」している
●「リスクの予防策を具体的に検討」している
●「トラブル発生時の最優先事項」は、チーム内で決め、徹底している
●一人ひとりの「達成プラン」を、全体との関連できちんと「分析、修正」させるようにしている
●「不足能力、戦力の手当て」を、チーム内でどうサポートし合うかを、きちんと話し合っている
目標達成のために何をすべきかを全力で考え実践する ●たえず、「何が是で何が非かの、チームとしての判断基準」のすりあわせを怠らない
●「後継者育成も考慮」して、メンバー中から、積極的にリーダーシップを発揮させる場を与えている
●期中での途中経過、進捗状況、目標達成のメド等々はオープンにし、メンバーの「フランクな意見交換が可能」にしている
●「指示は5W2H」で具体的にするようにしている
●「プラン変更や、改善アイデア」は、メンバーから積極的に集める
●メンバーに、自分から「積極的に問題意識をぶつける」し、メンバーからの「批判、問題意識も評価」して、直ちに取り上げる
●メンバーの「PDCAへのきめこまかなフォローとサポート」を怠らない
●「仔細な問題でも、見逃さず、全員で原因を分析」し、つぶしていく
●メンバーから出た「具申、提案は、オープンに議論」する
●ほめたり、しかったりする、タイミングとやり方がうまい
●どんな「難局でも諦めず、周知を集めて乗り切る努力」を捨てない
●「どんな意見」でも、試すに足るものは「取り上げて試みる」
●自分の問題や不都合にも「謙虚に聴く耳」を持っている
未達や計画との齟齬が生じたら、軌道修正をためらわず、自らの責任で迅速な意思決定をする ●必要なら、「上位者に積極的な主張」をする
●「他部署への協力要請、折衝」は、自ら取り組む
●いったん決めた「プランでも、撤回したり軌道修正」することをためらわない
●決めた決定内容は、「オープンに、なぜそう決めたか」もきちんと説明する
●メンバー間の葛藤の処理がうまい
結果責任はすべて自分にあると考えている どんなにメンバーの反対があっても決定すべきことは、断固として、メンバーを説得する ●情報収集と事態の把握が的確である
●確信と情報に裏打ちされた説得力がある
●メンバーをその気にさせたり、やる気をおこさせるのがうまい
いいと判断したら、メンバーの提案、企画も即取り入れ、実行する ●提案に的確な批判をし、問題点や改善点への助言が的を射ている
●実行するための手順や実行のための根回しがうまい
必要なら途中のプラン変更をためらわない ●状況変化に対する感度が鋭い
●難しい事態の打開に当っては、自ら率先して立ち向かう
●自らの「ミスを修正したり、訂正したりすることをためらわない」
結果の未達については、すべての責任を負う ●なぜそうなったかの「原因分析を徹底」する
●次期には同じ失敗を繰り返さないためにどうするか、全員の知恵を集め,具体策が立つまで徹底的に詰める
自分自身の生き方、仕事の仕方について、自分なりの価値観、信念を持っている 自分自身について目標をもっている ●自分のキャリア目標を定めている
●いったん決めた目標は「ぎりぎりまで諦めず貫徹」しつづけようとする
●スキルや能力アップの目標達成のために日々努力している
常に新たなことにチャレンジしようとしている ●自分の専門性を磨く努力を怠らない
●業務の開拓や仕事の仕方の改善を行っている
●常に未経験の分野にも挑戦する姿勢がある
時代の変化の中で、自分の価値観、考え方が妥当なのかどうかチェックしている ●たえず自省し、自分に厳しい
●時代の変化を敏感に、若手の意見にもきちんと耳を傾ける

活力ある職場づくりマネジメント行動チェックリスト

集団の活力を向上させるマネジメント・リーダーシップ機能はどうあるべきか

必要な管理行動

管理者行動実現のための手段

管理者としての具体的行動例

職場のめざすべき姿を明確にしている どういうことを目指しているのかを明確にしている ●上位者と、会社の理念、ビジョンについてのすりあわせをはかり、自分の方針についても理解を得ている
●チームとしての目的、目標を共有化し、価値を共通にしていくため、たえず「方針をメンバーとすりあわせ」ている
●メンバーの仕事を進める上での意味と確信になっているよう、チームの目指すものについて、管理者として自身をもって提示できる
自分たちが会社の発展に寄与していると感じさせるようにする

●メンバー一人ひとりに「参画の機会」を積極的に与えるようにしている
●チーム目標設定にメンバーの意向や意欲を反映させている
●メンバーからの提案や提言は,いいと思ったら積極的に上に上げる

たえずお互いのレベルアップをはかる

●一人一人に自らを高め、向上させるための機会を設けている
●各自が、「もっと良いものを」「もっといい仕事を」と要求しあい、チームの仕事の質、人間としての質をレベルアップしようとしている

いままでのやり方を当たり前とせず、たえずより上を目指した組織風土づくりをしている 効率化、スピードアップのための工夫を絶えずしている

●メンバーのアイデアや発想が「チーム全体の革新や改善」に反映される
●自らのコストを意識して、効率化をはかっている
●時間はコストであることを意識し、すべてに速くを心がけている
●いつも、どうすれば「スピードアップするかの工夫」をしている

仕事の中に、「ヤッタ!」と感じられる雰囲気づくりを目指す

●失敗をおそれず、自分のアイデアを試すチャンスを与えている
●緊張を楽しむゆとりを、意識的に醸成している
●絶えずチーム目標にチャレンジする課題を織り込んでいる
●積極的な起業家精神、実験精神を奨励している

メンバーからの信頼を得るように努力している ●メンバーが、一人一人を大切にしてくれている、各自の成長と生活の向上を考えてくれていると感じてもらえるような心配りをしている
●各自の成長目標を明確にし、それを実現できるよう、メンバーの意思や意欲をきちんと聞き取っている
自己革新につとめている ●自分自身の能力向上とスキルアップに余念がない
●会社提供の研修機会だけでなく、自発的な自己啓発もサポートしている
●他社や異業種との情報交換や交流の機会を積極的に作っている
チーム内のコミュニケーションの機会がフォーマル、インフォーマルに設けられ、それぞれの意見がチームに反映するようにしている 自らのトップダウンによるリーダーシップを心がける

●メンバーからのボトムアップの機会を増やし、その実現にも力を貸す
●メンバーの意見を吸い上げながら、同時に自らのリーダーシップでチーム一丸となって引っ張っていくようにしている

チーム内がフランクな雰囲気にある

●どんな「意見も自由に言える」
●どんな工夫も、目標達成のために自主判断で試みることができる
●提案や発案をすることを奨励している

チーム全体で盛り上がりをはかろうとしている

●チームに関わる、全社、他チーム、他部署の情報は共有化されている
●各自の仕事の進め方、やり方に自由度を高め、それぞれの自由な発想を活かせる領域を広げるようにしている


業務を通しての部下指導行動チェックリスト

メンバーを育てることは,管理者者の仕事である。ヒト・モノ・カネ・チエ・情報という管理者の使える資源の中で,ヒト資源は,管理者の努力で強化しアップできる。その意味で,戦力をレベルアップすることは,管理者の最も重要な仕事そのものである。しかも,仕事を通じてメンバーを育てることが,管理者に求められる。

必要な管理行動

管理行動実現のための手段

管理者としての具体的行動例

指導方針(あるべき姿)は明確である チームの人的資源のあり方としてどうしたいかが明確にしている ●「どういうメンバーにしたい」かが明確である
●「チームとして、どういうメンバー」となるべきか、常に話し合われている
メンバーの一人ひとりをどういう状態にしたいのかを明確にしている ●一人ひとりの「人柄、特徴、知識・能力、仕事の現状、将来の希望」等々をきちんとつかんでいる
●一人ひとりに、「仕事で求めるレベル、質を明示」している
●「不足している能力、スキル」をきちんと伝えている
●本人には、「自己啓発として何をするのかを主体的にプランニング」させ、できるだけその機会を与えるようにしている
日常の仕事を通しての指導・助言の重要性を理解し、その機会を逃さない ●職場で仕事の指導・アドバイスすることは、どういう仕事の仕方、仕事の進め方が最適かを教える機会であることを理解している
●ミスや逸脱に対する注意や叱責の場を、メンバーの成長する機会として、活用する
●ちょっとした成果や 仕事のレベルアップ等々を通して、積極的にほめるようにしている
系統だった育成をはかるために、長期の視点でプランニングする ●各メンバーの中・長期的なキャリアプランに基づいた育成をしようとしている
●自己申告やそのための面談の機会を通して,キャリアプランを検討している
●メンバーとの面談には,
30分以上の時間をとっている
●各自の家族や,私的な状況にも目配りして,プランづくりの相談に乗っている
育成方法と育成プランをきちんと立てて、日常的にOJTを実践している 指導の期待値(どうしたいか)を明確にし、管理者として、自らも、部下に指導できるだけの基本知識・スキルをレベルアップするよう心がけている

 

●「仕事ができるとはどういうことか」について、絶えずチーム内で話し合う機会がある
●各人の目指すべき成長目標、育成ポイントは明確にしている
●社内ルールや就業規則をきちんと理解し、管理者として必要な基準とポイントを押さえている
●レベルアップのために、管理者自身が積極的に自己啓発の機会を活用する
どう指導するかを具体的にプランニングして、実施計画(アクションプラン)を作成している ●一人ひとりの「育成プランの実行計画」を立てている
●自分の「プランはメンバーと話し合い、共有化」するようにしている
●一人ひとりの「事情に応じて、どう働きかけるか、どんなチャンスを設定」してやるか、を工夫している
●後輩ないし新人を「育てたことも実績」として評価する
OJT実践の具体的な手法を理解し、日常的に、業務上のあらゆる場が部下育成の機会ととらえ、OJTを実践している ●ビジネスパーソンとしての基本(文書の書き方、報告の仕方、ビジネスマナー、しつけ等々)は、そのつどきちんとただすようにしている
●「意識的に仕事を与えたり、割り振ったり」してチャレンジの機会を与えている
●「意識的に代行や、代役」をさせている
●メンバーを「意識的に仕事先に同行」させたりする
●会議や上位者との「打ち合わせに意識的にメンバーを同席」させる
●「意識的に上位の仕事や企画、開発といった新しい仕事」を指示するようにしている
●メンバーからの「企画や提案は、できるだけ具体化」できるようにしていく
●仕事の「アドバイスをするときは育成機会という意識」をしている
●「意識的にメンバーとの報連相の場」を育成・指導の機会としている
●メンバーの「質問にはきちんと答えている」
●メンバーに「意識的に質問したり、疑問」を振ったりしている
●メンバーの迷いには、「自主的に解決するためのヒント」を与えるようにしている
●業務遂行に必要な情報は、「チーム全体で共有化し、いつでも利用したり、質問」したりできるようにしている
●チーム全員が、「相互に育成し合う雰囲気」がある
●「ノウハウや経験を個人に偏在させず」チームで共有化する雰囲気をつくっている
●その「分野でのベテランが必ず後輩を同席ないし同行する」機会を設ける
指導を通してつかんだ、メンバーの些細な行動や状況の変化やトラブル発生の兆候を見逃さず、即対応するようにしている ●メンバーからフランクに相談したり、情報交換したりしやすいように、「肩肘張らない話し合いの場」を設けている
●メンバーの「行き詰まり、停滞を見逃さず」アドバイスしたりサポートするようにしている
●メンバーの行動や対応に変化を感じたら、そのままに放置せず、声をかけたり、話し合うようにする
指導結果はフィードバックしている どうなったのか、また今後どうするかを、きちんと評価している ●一人ひとりについて、「成長度を評価」する
●成長したところを「きちんと誉め、評価」する
●成長目標「未達については、その原因」をきちんと話し合うようにしている
成長プランのステップをすりあわせ、現時点での位置を確認している ●長期的に、各自の成長目標をすりあわせ、そのために、今期何ができ、来期何をするかを確認する
●次への「ステップを話し合う場」を必ず設けている
今後の成長、レベルアップのための啓発機会、学習機会を与えるようにしている ●自己啓発についてのアドバイスを与えている
●研修機会についての情報を提供する
●自発的な教育意欲をどう支援するかを話し合っている

上へ

目次へ


  • 日本語の構造から考える

  • 日本語の構造から考える

 周知のとおり,時枝誠記氏は,日本語の表現構造を,「風呂敷型統一形式」と名づけそれを次のように図解された

    

この日本語の表現形式を,氏は,話し手が対象の客観(客体)的な表現を主観(主体)的な表現が包む,「入子型構造」と呼んだ。たとえば,「桜の花が咲いた」という構文を図解するなら,

 

 ここでの「た」(あるいは,否定の「桜の花が咲かない」の「ない」)が,「表現される事柄に対する話手の立場の表現」,つまり話者の主体的立場を表現することである“辞”であり,「桜の花が咲い」の部分が,「表現される事物,事柄の客体的概念的表現」である“詞”なのである。このとき,「桜の花が咲いている」状態が,あくまで,「た」と表現した話し手の主観でしかないことを,この文章(あるいは会話の言葉)が示していることになる。

しかし,では,次のような場合は,どうなるのか?

 

 これを,時枝誠記氏は,「認識としては存在するが表現において省略されている」灰色部分を,「零記号」と呼んだ。“辞”で,“詞”は,あくまで話者が向き合ったもの(話者の私的額縁でとらえたもの)でしかないことを示しているが,零記号化で,“詞”だけが,額縁抜きで剥き出されることになる。

 つまり,この「入子型」表現構造によって,話し手と話し手の語っていることとの関係が明らかにされることになる。

 @“辞”によって,話し手の主体的表現が明示されることになる。語られていることと話し手の関係,それへの思い,どんな感情,どんな賛否の気持ちなのか等々。

 A“辞”によって,語っている場所が示される。目の前にしてなのか,心象風景なのか,語っているのがどこなのかが示される。それによって, “どこで”だけでなく,実は“いつ”語っているかも示される。話し手の語っている“とき”と話し手によって語られていることがいつなのか,という“とき”も示される。

 B“辞”のときにある話し手は,詞を語るとき,詞の“とき”“ところ”に移動して,それを“いま”のように語る。話し手にとって,語っている“いま”からみた過去のことも,語っている瞬間には,そのときを“いま”として語り,その後,“辞”に立ち戻ることで,語られることとの時制が明らかになる。

 少し長いが,次の指摘が,われわれの表現の現実をよく示していよう。

 「われわれは,生活の必要から,直接与えられている対象を問題にするだけでなく,直接与えられていない視野のかなたの世界をとりあげたり,過去の世界や未来の世界について考えたりしています。直接与えられている対象に対するわれわれの位置や置かれている立場と同じような状態が,やはりそれらの想像の世界にあっても存在するわけです。(中略)昨日私が『雨がふる』という予測を立てたのに,今朝はふらなかったとすれば,現在の私は,

 雨がふら−なくあっ

       予測の否定 過去

 というかたちで,予想が否定されたという過去の事実を回想します。言語に表現すれば,簡単な,いくつかの語のつながりのうしろに,実は……三重の世界(昨日予想した雨のふっている“とき”,今朝それを否定する天候を確認した“とき”,それを語っている“とき”=引用者)と,その世界の中へ観念的に行ったり帰ったりする分裂した自分の主体的な動きとがかくれています」(三浦つとむ『日本語とはどういう言語か』)

 話し手にとって,語っている“とき”からみた過去の“とき”も,それを語っている瞬間には,その“とき”を,あたかも目の前にしているかのように語り,やがて語っている“とき”へと戻ってくる。入子になっているのは,語られている事態であると同時に語っている“とき”の中に何重にも入子になっている“とき”でもある。

 たとえば,次の場合,

 「桜の花が咲いてい」る状態が,過去のことであり(いまは咲いていない)ことを示している。それが「咲いてい」(る)のは「た」(過去)であったことが示されている。大事なことは,“辞”においてしか,話し手が語っている“とき”と語られていることの“とき”との時間的(場所的)な隔たりは示されない,ということなのだ。

つまり,“辞”においてはじめて,言葉に向きが生ずる。少し敷衍すると,情報にはじめて“向き”が見えるということだ。そこには,語られている情報の“向き”と語っている話し手の“向き”の,二つの意味がある。ところが,それが,先に述べたように,

 と,もし零記号化されていたらどうなるか

 このとき,情報は“向き”を失っている。正確には,隠されている。“辞”が隠れることによって,“辞”の覆いがなくなり,入子の部分が剥き出しになった格好になる。その結果,いつ語られているかか曖昧化されている。そのために,

  1. 語られていた“とき”からの時間的隔たりが曖昧となる。つまりいつのことなのかがはっきりしなくなる。

  2. そのことによって,表現を囲んでいた主観的な額縁(パースペクティブ)が消え,あたかも客観的(事実)の表現であるかのように変わってしまう。

 つまり,語られたことと話し手との関係が消え,誰がそう語ったのか,いつ語ったのかは隠れ,あたかも「桜の花が咲く」事実を客観的に表現しているようにも,あるいは「桜の花(というのは)咲く(ものだ)」といった概念的意味を表現しているようにも,表現,つまり情報が変わってしまったのである。

 このとき,今日流通する情報の多くに向き合うときの,われわれの問題点と出会っていることになる。つまり,情報と向き合うとき,何に留意すべきかが,ここに示されているのである。


  • 書くことの意味

繰り返しになるがが,時枝誠記が,日本語での,

「『桜の花が咲か』ない」

「『桜の花が咲い』た」

における,

「た」

「ない」

は,

「表現される事柄に対する話手の立場の表現」

つまり話者の立場からの表現であることを示す「辞」とし,「桜の花が咲く」の部分を,

「表現される事物,事柄の客体的概念的表現」

である「詞」とした。

要は,辞において初めて,そこで語られていることと話者との関係が明示されることになる。即ち,

第一に,辞によって,話者の主体的表現が明示される。語られていることとどういう関係にあるのか,それにどういう感慨をもっているのか,賛成なのか,否定なのか等々。

第二に,辞によって,語っている場所が示される。目の前にしてなのか,想い出か,どこで語っているのか等々が示される。それによって,いつ語っているのかという,語っているもののときと同時に,語られているもののときも示すことになる。

さらに第三に重要なことは,辞のときにある話者は,詞を語るとき,一旦詞のときところに観念的に移動して,それを現前化させ,それを入子として辞によって包みこんでいる,という点である。

これを,三浦つとむが,上記に引用したように,確な指摘によれば,

「昨日私が「雨がふる」という予測を立てたのに,今朝はふらなかったとすれば,現在の私は
        予想の否定 過去
  雨がふら  なくあっ    た
というかたちで,予想が否定されたという過去の事実を回想します。言語に表現すれば簡単な,いくつかの語のつながりのうしろに,実は……三重の世界(昨日予想した雨のふっているときと今朝のそれを否定する天候を確認したときとそれを語っているいま=引用者)と,その世界の中へ観念的に行ったり帰ったりする分裂した自分の主体的な動きとがかくれています。」

という,アクロバチックな構造表現になる。

昨日雨が降らなかった,

というわずかな一文に,

「昨日まだ雨が降らない」とき

「『(明日は)雨が降るだろう』と予想した雨のふっている(だろう明日の状態の想像の中にいる)」とき

「今朝のそれを否定する天候を確認した」とき

「それを語っている」とき

「それについて書いている」とき

とが多層に渡って埋め込まれている,ということができる。こういう日本語では,そのつど,語り手は,

「雨の降っていない」とき

「雨の降っている想像の未来」のとき

「雨が降っていない」翌日のとき

そう語っているとき

そう書いているとき

という多重の時間を,一瞬で飛んでいるのである。そのことを意識しないと,時制は使いこなせない。

ヴァインリヒは,語りの時制について次のように指摘している。

「われわれが語るときには,その発話の場から出て,別の世界,過去ないし虚構の世界へ移る。それが過去のことであれば,何時のことであるかを示すのが望ましく,そのため物語の時制と一緒に……正確な時の表示が見られる。」

と言う。日本語が論理的でないとかと言う人は,日本語をよく知らないのだ。我々はそれほど無意識で,時制を使いこなしている。つまり,

話者にとって,語っているいまからみた過去のときも,それを語っている瞬間には,そのときを現前化し,その上で,それを語っているいまに立ち戻っているということを意味している。

こうやって多層に入子になっているのは,語られている事態であると同時に,語っているときの中にある語られているときなのである。

これを書くための手法として,整理するとすると,ケース・ライティングで書いたように,起こっている問題を構造化し,

「通常問題の構造化というと,『問題と原因の因果関係』といったことになります。しかし,それでは,問題が,自分の外のことにしかなりません。問題と感じるのも,それを問題にするのも自分である以上,主体側のパースペクティブ抜きに,問題の構造化はありえません。したがって,

 @問題の空間化(ひろがり)
 A問題の時間化(時系列)
 B問題のパースペクティブ化(誰にとって,誰からの)

の3つなくして,構造化はありえません。」

というとき,問題を構造化するのは,

問題を自分の問題とすること,

言い換えると,

その問題場面に,当事者として,登場することを想定して,問題を捉えること,

ということになる。わかりにくいが,時制と同様,自分がその問題の場面のときに,飛ばない限り,当事者として問題は捉えられないということを言っていたのである。だから,鍵になるのは,

パースペクティブ

となる。

物語の形で語られている以上,語り手が,かく語っているにすきない。つまり,

「その事実を描いている,あるいは目撃しているのが誰で,どこからそれを見ているのか,のパースペクティブが明確であることです。その位置に応じて,事実は違って見える(事実はひとつなどと子供のようなたわごとを言う人は,ケースライティングどころか,マネジメントの資格もありません)し,当然,問題も違って見えるのです。

語っている『私』が,その問題を見ていることなのか
語っている『私』が,その問題を目撃した人からの伝聞を語っているのか
語っている『私』が,その問題を目撃した人からの伝聞を語った人から聞いたことなのか
語っている『私』が,その問題の当事者なのか
語っている『私』が,その問題の当事者の同僚なのか

ひとつの問題でも,それぞれの立場によって,違ってきます。それは,意識しているかどうかは別にしても,その人にとって,見えている事実が異なっているからにほかなりません。」

これは,そのまま時制と場所

いつ,どこで

につながることになる。

起きた出来事の時と場所
それを見たときのときと場所
それを聞いたときのときと場所
それを語っているときと場所

等々,つまり,それに向き合う主体も,その時制を遡らなくては,全体は見えないということになる。

ケースも物語と同じなので,

既に終わったところで語られている

というか

語られ始めたところで止まっている。

その時間を遡ることが,その全体像を辿り直すことが,自分の問題として,語り直すことなのである。問題を主体化するとは,そこなのである。

時間軸を通すことで,初めて,未来像(どうなるか)が視界に見え,

どうしたらよかったのか
(どうしなかったらよかったのか)

そこからまた別の解決物語が始まることになる。

これは,歴史を語るのも同じである。多様な物語,つまり多様なパースペクティブを捨てたとき,歴史物語はシンプルになるが,豊かさは失われ,虚構度が高まる。そんな歴史物語は使い物にならない。

参考文献;時枝誠記『日本文法口語篇』(岩波書店),三浦つとむ『日本語とはどういう言語か』(講談社),ハラルト・ヴァインリヒ『時制論』(紀伊國屋書店)
 

上へ

目次へ


  • 喩えとアナロジーとメタファー

たとえば,熱い思いとか,思いの深さというときの,

熱いとか深いは,「思い」というものを熱せられた何か,あるいは深い淵になぞらえなければ,表現できない。しかし思いはカタチのあるモノではない。まあ,

喩え,
あるいは
比喩

なのだが,何気なく使うこれは,何なのだろう,とあらためて整理し直してみたくなった。比喩については,アナロジーを中心において考えると分かりやすい。

アナロジー(Analogy)は,analogueつまり,類似物から来ているはずだから,当該の何かを理解するのに,それと似た(あるいはそれと関係ありそうな)別の何かを媒介にして,

〜として見る

ことである。言ってみるとパターン認識である。昔から,

問う、如何なるか是れ、「近く思う」。曰く類を以って推(お)す

と言われているのと同じである。いわば,アナロジーというのは,自分の既知のものから,

異質な分野との対比を通して,

推測することといっていい。

W・J・J・ゴードンは,『シネクティクス』の中で,アナロジーの手法を,

・擬人的類比(personal analogy)
・直接的類比(direct analogy)
・象徴的類比(symbolic analogy)
・空想的類比(fantasy analogy)

の4つ挙げている。

直接的類比は,対象としているモノを見慣れた実例に置き換え,類似点を列挙していこうとするもの

であり,

擬人的類比は,対象としているテーマになりきることで,その機構や働きのアイデアを探るという,いわゆる擬人法

であり,

象徴的類比は,ゴードンの取り上げている例では,インドの魔術師の使う伸び縮みする綱のもつイメージを手掛かりに連想していこうとする

ものであり,

空想的類比は,潜在的な願望のままに,自由にアイデアをふくらませていこうとするもの

である。

いずれも,やろうとしていることは,比較する両者に,

共通点

を見つけようとすることに尽きる。どういう共通項を見つけるかが,鍵になるが,僕は,両者に,

関係性

類似性

をどう見つけるか,に尽きるのではないか,と仮説をたてている。。

前にも触れたことがあるが,それを鍵に分類していくとすると,

・類似性に基づくアナロジーを,「類比」
・関係性に基づくアナロジーを,「類推」

に整理できるのではないか。

前者は,内容の異質なモノやコトの中に形式的な相似(形・性質など),全体的な類似を見つけだす

のに対して,

後者は,両者の間の関係(因果・部分全体など)を見つけ出す。

詳細は,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/view24.htm

に譲るとして,メタファーとの関係に踏み込めば,たとえば,類似性を手掛かりに,鳥をアナロジーとすることによって,コウモリを理解しようとするとき,われわれがよくするのは,モデルをつくることだ。あるいは写真や図解もその一種だ。そして,それを言葉で表現しようとすると,「夜飛ぶ鳥,こうもり」といった比喩を使うことになる。

いわば,アナロジーによる発想は,われわれが自分たちの思い描いているものを,

一種の〜,
〜を例に取れば,
〜というように,

といった具体像で表そうとするときの方法であり,それは2つの方法で具体化することができる。

1つは,言語による表現である“比喩”(アナロジーのコトバ化)
もう1つは,モノ・コトによる表現である“モデル”(アナロジーのモノ・コト化)

である。

ただ,断っておけば,アナロジー→モデル・比喩という順序を固定的に考えているわけではない。

アナロジー思考があるから,比喩やモデルが可能なのではない。確かに,関係にアナロジーの認知がなくては,それを喩えたりモデルとしたりすることはできないが,逆にAをBに喩えるから,その間に類似性を認識できることがあるし,モデル化することで,より類推が深化することもある。逆に類比が的確でなければ,比喩やモデルが間の抜けたものになることもあるからである。

むしろ,3者は相互補完的であって,アナロジーの発見がモデル・比喩を研ぎ澄ましたものにするし,モデル・比喩の発見が新しい類比を形成することになる。

ただ,すくなくとも,比喩が使えるには,それに見立てたものとの間のアナロジーが認知できていなくてはならない。

モデルについて挙げれば,詳しくは省くが,

・スケール(比例尺)モデル
・アナログ(類推)モデル
・理論モデル

とあるが,比喩は,

ある対象を別の“何か”に喩えて表現することである。通常言葉の“あや”と言われる。その意味やイメージをそれによってずらしたり,広げたり,重層化させたりすることで,新しい“何か”を発見させることになる(あるいは新しい発見によってそう表現する)。

これもアナロジーの構造と同様で,比喩には,

直喩(simile),
隠喩(metaphor),
換喩(metonymy),
提喩(synocdoche)

といった種類があるが,類似性と関係性に対応させるなら,

直喩,隠喩が《類似性》の言語表現,
換喩,提喩が《関係性》の言語表現<

となる。

直喩

は,直接的に類似性を表現する。多くは,「〜のように」「みたいな」「まるで」「あたかも」「〜そっくり」「たとえば」「〜似ている」「〜と同じ」「〜と違わない」「〜そのもの」という言葉を伴う。

従って,両者は直接的に対比され,類似性を示される。それによって,比較されたAとBは疑似的にイコールとされる。ただし,全体としての類似と部分的な性格とか構造とか状態だけが重ね合わせられる場合もある。

とはいえ,「コウモリは鳥に似ている」「昆虫の羽根は鳥の翼に似ている」等々,既知の類似性を基に「AとBが似ている」と比較しただけでは直喩にならない。「課長は岩みたいだ」「あの頭はやかんのようだ」といった,異質性の中に「特異点」を発見し,新たな「類似」が見い出されていなくては,いい喩えとは言えない気がする。。

隠喩

も,あるものを別の“何か”の類似性で喩えて表現するものだが,直喩と異なり,媒介する「ようだ」といった指標をもたない(そこで,直喩の明喩に対して,隠喩を暗喩と呼ぶ)。

したがって,対比するAとBは,直喩のように,類比されるだけではなく,対立する二項は,別の全体の関係の中に包括される,と考えられる。AとBの類似性を並べるとき,

@AとBが重なる直喩と同じものもある(「雪のような肌」と「雪の肌」)
A「心臓」と「ポンプ」を比較するとき,両者を包括する枠組のなかにある
B一般的な隠喩であり,「獅子王」とか「狐のこころ」といったとき対比する一部の特徴を取り出して表現している。

この隠喩は,日本的には,「見立て」(あるいは(〜として見なす)と言うことができる。こうすることで,ある意味を別の言葉で表現するという隠喩の構造は,単なる言語の意味表現の技術(レトリック)だけでなく,広くわれわれのモノを見る姿勢として,「ある現実を別の現実を通して見る見方」(ラマニシャイン)とみることができる。

それは,AとBという別々のものの中に対立を包含する別の視点(メタ・ポジション)をもつことと見なすことができる。これが,アナロジーをどう使うかのヒントにもなる。即ち,何か別のモノ・コトをもってくることは,問題としている対象を“新たな構成”から見る視点を手に入れることになる。

換喩と提喩

は,あるものを表現するのに,別のものをもってするという点では共通しているが,直喩,隠喩とは異なり,その表現が両者の“関係”を表している(“言葉による関係性"の表現)という共通した性格をもっている。

両者の表現する《関係性》は,

換喩が表現する《関係性》が,空間的な隣接性・近接性,共存性,時間的な前後関係,因果関係等の距離関係(文脈)

であり,

提喩が表現する《関係性》が,全体と部分,類と種の包含(クラス)関係(構造)

となっているが,この違いは,換喩で一括できるほどの微妙な違いでしかない。

換喩の表す関係は,「王冠」で「王様」,「丼」で丼もの,詰め襟で学生,白バイで交通警察,「黒」「白」で囲碁の対局者,ピカソでピカソの作品等々に代置して,相手との関係を表現することができる。そうした関係を挙げると,

・容器−中身 たとえば,銚子で酒,鍋で鍋物,丼で丼物
・材料−製品 アルコールで酒
・目的−手段 赤ヘルで広島カープ
・主体−付属物 王冠で王様
・作者−作品 ピカソでピカソの絵
・メーカー−製品 味の素でAJINOMOTO
・産地−産物 灘で清酒
・体の部分−感情 頭にくるで怒り

等々,がある。いわば,その特徴は,類縁や近接性によって,代理,代用,代置をする,それが表現として《関係》を表すことになる。

一方,提喩となると,その代置関係が,「青い目」で外人,白髪で老人,花で桜,大師で弘法大師,太閤で秀吉,といった代表性が強まる。この関係としては,

・部分と全体 手が足りないで人手
・種と類 太閤で秀吉,小町で美人
・集団−成員 セロテープでセロハンテープ

等々がある。ただ注意すべきは,全体・部分といったとき,

木→幹,枝,葉,根……
木→ポプラ,桜,柏,柳,松,杉……

では,前者は分解であり,後者はクラス(分類)を意味している。前者は換喩,後者が提喩になる。

この《関係性》表現が,われわれに意味があるのは,こうした部分や関連のある一部によって,全体を推測したり,関連のあるものとの間で《文脈》や《構造》を推測したりすることである。

対象となっているものとの類縁関係やその包含関係によって,その枠組を推定したり逆に構成部分を予測したりすることで,われわれは,隣接するものとの関係や欠けているものの輪郭や全体像の修復や補完をすることができるのである。これは,すでに推理にほかならない。

こうした比喩の構造をまとめてみれば,

  [類似性]   [関係性]  [推論]
 《直喩・隠喩》→《換喩・提喩》→《推理》

となるだろう。われわれは,“まとまり"としての類似性をきっかけに,似た問題を探すことができる。そして更にその中の《文脈》と《構造》の対比を通して,未知のものを既知の枠組の中で整理することができる。しかし,最も重要なことは,ひとつの見方にこだわるのを,比喩を通した発見によって,全く別の《文脈》と《構造》を見つけ出せるという,いわば見え方の転換にあるといっていいのである。

こう考えると,

アナロジー・モデル・比喩

は別のものではないこの三者の,補完関係は次のように整理できるだろう。

[類似性]→[関係性]→[論理性]

直喩・隠喩→換喩・提喩→推理 (比喩)
類比→類推→推論 (アナロジー)
スケールモデル →類推モデル →理論モデル(モデル)

「〜として見る」がアナロジーであるなら,それを比喩的に言えば,

“意味的仮託"あるいは“意味の置き換え"であり,“価値的仮託"あるいは“価値の置き換え”

である。モデル的に言えば,

“イメージ的仮託"あるいは“イメージの置き換え”

であり,

“形態的(立体的)仮託"あるいは“形態の置き換え”

である。仮託あるいは置き換えること(仮にそれにことよせる,という意味では,代理や代置でもある)で,ある“ずれ”や飛躍"が生ずる。だから,それを通すことによって,別の見え方を発見しやすくなるということなのだ。なぜなら,われわれの意味的ネットワークの底には,無意識のネットワークがあり,意味や知識で分類された整理をはみ出した見え方を誘い出すには,このずれが大きいほどいいのだ。

として,冒頭の話に戻すと,

思いが深い,

というのは,いい喩えなのだろうか。そんなことは勝手なことで,深きかろうと浅かろうと,その思いをかけられる側にとっては,何の関係もない。思いの大きさを言うのだとしたら,いい喩えではない。惰性の表現であって,異質さを対比していないから。

参考文献;W・J・J・ゴードン『シネクティクス』(ラティス社),佐藤信夫『レトリックの消息』(白水社)

上へ

目次へ


  • 自分を物語ることの意味

フランクルが,人は誰も自分の語りたい物語をもっている,と言っていたが,というのも,物語るエピソードそのものが,かけがえのないその人の人生の時間そのものだからと思えてならない。それは,その人と,それを共体験した人とでしか共有できない。

いや,一緒に体験したところで,それはその人の体験で,自分の体験ではない。所詮,人の見ている現実は,その人だけのもので,その色合いも,肌合いも,心映えも,光景も,一緒に居ても,同じではない。人は,同じものを見ていても,同じように見えているとは限らない。にもかかわらず,共体験したものでしか,思い出は共有できない。まあ,そこに,写真だの,コトバだのがあり,物語もまたその一つなのかもしれない。

人の認知形式,思考形式には,「論理・実証モード(Paradigmatic Mode)」と「ストーリーモード(Narrative Mode)」がある(ジェロム・ブルナー)があるとされている。前者はロジカル・シンキングのように,物事の是非を論証していく。後者は,出来事と出来事の意味とつながりを見ようとする。

ドナルド・A・ノーマンは,これについて,こう言っている。

「物語には,形式的な解決手段が置き去りにしてしまう要素を的確に捉えてくれる素晴らしい能力がある。論理は一般化しようとする。結論を特定の文脈から切り離したり,主観的な感情に左右されないようにしようとするのである。物語は文脈を捉え,感情を捉える。論理は一般化し,物語は特殊化する。論理を使えば,文脈に依存しない凡庸な結論を導き出すことができる。物語を使えば,個人的な視点でその結論が関係者にどんなインパクトを与えるか理解できるのである。物語が論理より優れているわけではない。また,論理が物語りより優れているわけでもない。二つは別のものなのだ。各々が別の観点を採用しているだけである。」(『人を賢くする道具』)

要は,ストーリーモードは,論理モードで一般化され,文脈を切り離してしまう思考パターンを補完し,具象で裏打ちすることになる。

エドワード・ソーンダイクは,人間が物語を記述するための抽象的ルール体系を頭の中に持っていると仮定し,それを物語文法と呼んだ。たとえば,

設定
テーマ
プロット
解決

の項目に従って,

誰が,いつ,どこで,どのような事件に巻き込まれて,どんなトライアルを行い,どういう結果が生まれたのか,

を把握しようとする。そして,実験の結果,物語の提示が,物語文法の順序と一致しているほうが,文章の記憶や理解が促進されることを発見した。物語性を持たせた方が,記憶する事項のつながりが記憶にとどまりやすい。

さらに,ロジャー・C・シャンクと,ロバート・P・エイベルソンは,人の会話を理解するコンピュータシステムを開発する中で,人間の知識は,ステレオタイプ化された状況とそれに伴う習慣化された行動とのセットからなる「劇の台本のような物語」として表現されているとして,それを「スクリプト」と呼んだ。

面白いことだが,ひとつの物語を記憶から引き出すと,別の物語(あるいはエピソードといった方がいいかもしれない)が,例えば,たった一つのシーンから,別のシーンにリンクして,思い出の連なりが思い起こされてくる。そうやって,自分の中にある,メインのストーリーは別に,様々なスピンアウトした物語が,紡ぎ出せる。

その意味で,自分の物語を語り直す,あるいは語ることで,自分の人生に違う光が当たり,そこから,未来に別の岐路が開く。語ることで,その道とつながる,という気がしてならない。

ナラティブセラピーで悲嘆の起因を延々とした物語で紡ぎ出し,いまの自分を貶めているドミナントストーリーに対して,別のオルタナティブストーリーを導き出すことで,自分への信頼を取り戻そうとするというのは,だから,故なきことではない。

参考文献;中原淳・長岡健『ダイアローグ』(ダイヤモンド社)

上へ

目次へ


  • コミュニケーション齟齬をなくす

コミュニケーションにおけるわかりやすさとは,教科書風に言えば,次のようになる,らしい。

わかりやすさとは,相手に,賛成反対は別として,話し手が何をいっているかがいかに明確に伝わるかを意味している。

それには,ふたつの切り口で整理する必要がある,とされる。

●必要なマインド,態度
 ・相手の立場を配慮する姿勢があること
 ・自分の理念,ポリシーが明確であること
 ・礼儀あるいは誠意があること
 ・情熱,熱意があること
 ・わかりやすい言葉遣いであること
 ・視野狭窄ではない広い視点をもっていること
 ・これしかないという思い込みがなく,選択肢のある,柔軟なものの考えができること
 ・情報収集,論拠がきちんとしていること
 ・自分のリズムだけでなく,相手との間合い,リズムにも配慮できること
 ・オープンマインとで,質問,疑問にも即応できること
 ・自己コントロールできていること

●内容と表現の工夫
 ・前後関係あるいは文脈を確認する 話の前後関係,背景,文脈の共有化がはかられている
 ・メッセージの主旨明快 5W1Hで,内容が筋道の通り,すっきりしていること
 ・一貫性 シーケンシャルな話の流れが,一筋明確で,たどりなおせる
 ・簡潔性 盛りだくさんにならず,負荷のかからない簡単明晰な短い言葉遣い。箇条書き,要約がある
 ・論理性 ロジカルであることの利点は,再現性,なぞることによる共有のしやすさにある

で,さらに,コミュニケーションにおけるわかりやすさの4要素とされるものがある。

@明快さあるいは簡潔さ〜伝わりやすさの工夫は,ポイントを最初に示す。言いたいことは3つ。
A共有性あるいはたどり直せる〜ロジカルである、筋がとおっている。後から検証できる
B理解しやすいあるいは把握しやすい〜構造として示す。図解して全体像を示す。
C言葉のやさしさあるいは独特の言い回しがない〜組織内や自分しか使わない言葉を使っていないか。

しかしこんな理想的なマインドと姿勢で,教科書通り表現できるなら,誰も,世の中これ程悩んだりはしまい。もうすこし自分流儀で,簡便なやり方を,実践的に考えてみたい。

そもそもコミュニケーションは自分の伝えたことではなく,相手に伝わったことが,伝えたことである,といわれる。まずは,相手に聞く姿勢になってもらうための準備作業がいる。それをセットアップというが,それについては,コミュニケーション・ルールコミュニケーションの土俵で触れたので,その土俵が出来た上で,ではどうするかを考えてみたい。

たとえば,何かを伝えたいのだとする。その場合,原則は三つだと思っている。

@自分が何を言おうとしているかが明確であること《指示内容の明確さ》(指示内容の明確性)
Aわたしはそう考える,わたしはそう思う,《発言主体を明確にする》(「私」の発言であることの表現)
B相手はどう受け止めているのか,《フィードバックをえる》(相手の「着信状態」を確認する)

まずは,雑談の場でなければ,誰かに言葉を発するのは,みずからの意思をキチンと伝えるためであることが多い。いくら内容が明確でも,意思のない言葉に力はない。意思の力とは,自己確信である。そしてそれが相手にどう伝わっているかを確かめつつ発信することができる必要がある。

そのためには,最低限,考えながら話さないこと。できれば,「言いたいことは,3つ」というように,最初に言いたいことを言い切ってしまって話し始める。ということは,事前に何を言いたいかが自分の中で整理できていなくてはならない。特に重要なことを伝えようとする時は。

信頼のバックボーンは,言葉である。といって怒りも腹立ちもなくすことはできない。なまじ「バカヤロー」と言いたい気持ちを隠すよりも,「ぼくは,バカヤローといいたい気分だ」「そう大声で怒鳴られると萎縮してしまいます」と,感情を言葉にするのも悪くない。これは前に触れた。感情的になるのと,感情を表現するのとは違う。

少なくとも,感情を言葉として表現することで,@自分の感情との間合いが取れる,A相手の感情とも距離を取れる。感情のやり取りを感情のぶつかりあいでなく,言葉によるコミュニケーションの土俵ができるような気がする。それがとっさの反応で怒ってしまうと,まあ身も蓋もなくなるのだが。

世の中に正解があると思うから,誰かの名を借りたりしたくなる。しかし正解はないとなれば,「僕は〜と思う」と言うことで,仮に「〜」が間違っていても,主観の器に乗っている以上,僕の意見に過ぎない。そういう責任の取り方はしなくてはいけない。リスボンシビリティとは「有言実行」と訳すと言った人がいたが,言ったことに責任を取るとはそういうことだ。

それでも,言えばいいというものではない。大事なのは,内容や「私」の主観的な発信が,独りよがりにならず,相手に伝わっているかどうかを確かめられるのがいい。自分の言うことに対して,相手がどんな身振り,手振り,感情,言葉等々から,相手がどう受け止め,どう感じ,どう理解してくれているかを推し量ることができることである。

とはいえ,こういうところに名人芸はいらない。出来るなら,フィードバックを,言葉でもらうのが一番いい。伝わったことをストレートに返してもらいにくければ,「どう思った?」「どう感じた?」と,感想でも,印象でもいい。それで初めて,同じ土俵で,そのことについて語れるだろう。

口頭のメッセージは歩留り25%と言われる。どっちにしたって歩留りは悪い。それなら,それが30%になったら御の字ではないか。

上へ

目次へ


  • すいませんとありがとうの距離

つい言ってしまわないか。

すみません

と。大概曖昧だ。謝る意思を示すときは,

ごめんなさい,

と言う。しかし,すいませんは,ちょっとニュアンスを濁す感じがある。

すむ,

は,

住む,済む,澄む,清む,棲む,栖む,

と当てる。

すみませんは,語源的には,僕の見たものでは,

「澄み+ません」で,謝罪,感謝,依頼などで,「済みません」と書くので,「完了しない」とされることが多いが,違うのだという。

スミは,澄むが語源。かきまわした泥水が,時間経過とともに沈殿して清らかに澄んでくる。同じように,澄むはずの心が,澄まないのが,済みません,の語源,

なのだそうだ。

人から恩義を受けて,心がかき回され,いつまでも心の中が済まない,安定しない状態,

これが済みません,なのだという。

そう受け止めると,北山修氏が,こう書いていたのが,よく分かる。

「済みません」は,周辺や相手の状態がなかなかすまないという状況とともに,「御迷惑おかけして」「ご面倒をおかけして」と,相手にかけた迷惑が自分の心のなかで澄まない,落ち着かない,乱れている,という感覚や自体も捉えています。つまり,周りに濁りや乱れ,騒ぎを生じさせたことについて「すまない」と言い,相手だけではなく自分も内的にすんでいないことを進んで認め,謝罪の言葉としているわけです。それは対話の相手に向けられた謝罪であると同時に,澄んでいることを最高の規範のひとつとして共有する周りや周囲,つまり共同体に対し,自らのすんでいないという,浄化の不十分さを謹んで申し上げているのです。

そう考えると,あいまいさの中に,自分の側の落ち着かなさをも含めているということになる。その段階で,

謝罪,

の責任の所在を,相手にも分有させようとしている,と取れなくもない。

これを英語に訳そうとすると(確かではないが),

○感謝。 Thank you very much

○お詫び。I am sorry.   
     Excuse me

ネットで見ると,もっと細かく分けているのもある。

1相手の立場に関係なく使える表現(通常の表現)I'm sorry.
2「本当に申し訳ございません」と述べる時(通常の表現)I'm very sorry.
3「残念ながら,〜です」という表現(丁寧な表現)Unfortunately, 〜.
4会議に遅れる場合(丁寧な表現)Please excuse my lateness.
5たいへん地位の高い人に謝罪の意を述べる場合(丁寧な表現)A thousand apologies.
6「恐縮ですが,〜です」という表現(やや丁寧な表現)I'm afraid 〜.
7「ご理解お願いいたします」という言い回し(やや丁寧な表現)We hope you understand.
8ウェートレスがお客さんの注文を間違えた場合(やや丁寧な表現)I'm terribly sorry.
9本当に罪悪感を感じて謝る場合(やや丁寧な表現)I can't apologize enough.

まあ,ここまで細かに分けなくても,感謝と謝罪が,含まれているのでいいのだが,それだけの含意を,

すいません,

の一言ですませてしまうということは,

謝るのでも,

詫びるのでも,

礼を言うのでも,

ない,結局両者の文脈に強く依存していて,その微妙なニュアンスを,文脈まかせにする,

すいません,

なのだと思う。最近,僕が似たような便利な言葉で,多用しているのは,

恐縮です,

という言い方だ。これも,「すいません」よりは少し軽い,

ちょっとした感謝,

ちょっとしたお詫び,

ちょっとした謙譲,

を含めている。便利だが,本当に詫びなくて話せない時に,

ごめんんなさい,

が言えないということは,本当にお礼を言わなくてはならない,言いたいときに,

ありがとうございます,

が言えない,ということのような気がする。なんとなく,文脈に流して(相手のせいかも,という余韻を残す狡さがある),その場を切り抜けるような方便ではないか,という気がしないでもない。

言葉は,その人の姿勢を示す,もう少し,はっきり言うと,

生き方を示す,

曖昧で玉虫色の言い回しで切り抜ける,というのは,そういう生き方をしていく,と言っている,というか言わず語りに現れてしまっているようで,ちょっと気色悪い。

自分が,

というIメッセージというのは,

自分の責任で発する,という意味があるはずで,

主語を明確にするのと同様,

意味の明晰,明瞭な言い方をすべきなのだ,とつくづく思う。自省,自戒を込めて。

参考文献;北山修『意味としての心』(みすず書房),増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)


詫びるのでも感謝でも,すいません,というあいまいさで,免責なのか,回避なのか曖昧にするのがなぜ悪いかというのは,

ありがとう,

という言葉の意味から考えるとよくわか。よよく考えれば,アメリカ映画でもドラマでも,

Thank you.

を必ず口にするのと同じで,口癖になると,まあ,言い方は悪いが,心が籠っていなくても,口だけは出る。

Thank

は感謝する,という意味のようだが,

ありがとう,

は,

有り難い,

から来ている。

有り勝ち

ではなく,

めったにない,

ありそうもない,

からこそ,ありがたいのではないか。だから,

礼の意味で,

忝(かたじけな)い,

に通じる。かたじけないは,

面目ない,

恥ずかし,

からきていて,だからこそ,その好意が,

身に染みる,

となる。

そこからかどうか,

有り難い,



在り難い,

と書けば,在りえない,珍しい,につながり,

めっそうもない,

もったいない,

恐れ多い,

尊い,

に通じていくのかもしれない。有り難いだけでも,なかなか考えさせられる。

こう考えると,当たり前のことに,

ありがとう,

といちいち言うのは,いかがかとも思うが,有り難く感じて謝意を表する,という感謝の表現で,無駄はないのだろう。要は,

お蔭様,

ということにつながる。まあ,大袈裟に言うと,

生かされてある,

ことへの,感謝ということになる。リーダーシップの要件でも,

・「どこへ」「何のために」「何を目指して」という旗を明確にできること,

・必要な人々にその意味をきちんと伝えていく力があること,

・めざすことを一緒にやっていくための土俵(協働関係)をつくれること,

・協力してくれた相手,サポートしてくれた人々への感謝と承認を怠らないこと(「お陰様で」)

を挙げている。「ありがとう」ではなく,「すいません」では,謝意は伝わらないだろう。

「お陰様で」

と言えるかどうかである。これがなければ,リーダーシップは,画竜点睛を欠くのである。

上へ

目次へ


スキル事典150

リーダーシップとは


  • リーダーシップの要件とは何か

 まず,リーダーシップにある3つの常識,

 @リーダーシップはトップのものである,

 Aリーダーシップはパーソナリティである,

 Bリーダーシップは対人影響力である,

を点検し直してみる必要がある。リーダーシップとは,トップに限らず組織成員すべてが,いま自分が何かをしなければならないと思ったとき,みずからの旗を掲げ,周囲に働きかけていくことでなくてはならない。その旗が上位者を含めた組織成員に共有化され,組織全体を動かしたとき,その旗は組織の旗になるのであり,リーダーシップにふさわしい地位や立場があるわけではない,ましてやリーダーシップにふさわしいパーソナリティがあるわけではないのである。でなければ,だれも,人を動かせない。このままではいけない,何とかしなくてはならないという思いがひとり自分だけのものではないと確信し,それが組織成員のものとなりさえすれば,リーダーシップである,と考えるところから,リーダーシップを詰めて行かなくては意味がない。

そこに必要なのは,自分自身への確信である。それは自分を動かすものだ。それが人を動かす。リーダーシップは他人への影響力である前に,自分への影響力である。「お前がやらなくて誰がやるのか」「自分がやるしかない」と,みずからを当事者として動かせるものが,自分の中になければ,人は動かない。それが旗の意味であり,旗の実現効果であり,そこに共に夢を見られることだ。だから,リーダーシップには,新たなつの常識が必要となる。

@周囲を巻き込める夢の旗を掲げられること,

A夢の実現プランニングを設計できること,

B現実と夢とを秤にかけるクリティカルさがあること,

である。「こうすべきだ」だけでは人は乗らない。それが単なる夢物語でも人は乗らない。夢と現実味をかね合わせて,絶えず点検していける精神こそが,求められるリーダーシップである。それは,パーソナリティでも地位でもパワーでもなく,スキルであることを意味している。

 だから,リーダーとリーダーシップは区別したい。リーダーは,役割行動であり,リーダーシップはポジションに関係なく,その問題やタスクを解決するために必要と考えたら,自らが買って出る,あるいは誰かの委託を受けて,その解決に必要な周囲の人々を巻き込み,引っ張っていくことである。多く,リーダーとリーダーシップを混同している。つまり,トップにはトップの,平には平のリーダーシップが求められる。リーダーシップはその人の役割遂行に応じて,必要な手段なのである。職位が上のほうに行けばいくほど,リーダーシップがないことが目立ち,下へ行くほど,リーダーシップがあることが目立つ。上に行けばいくほど,リーダーシップを発揮しやすい条件と裁量を与えられているから,あるのが当たり前だから,ないことが目立つのである。

 リーダーシップが,トップや上位者にのみ求められているというのは勘違いである。職位が上のほうに行けばいくほど,リーダーシップがないことが目立ち,下へ行くほど,リーダーシップがあることが目立つ。上に行けばいくほど,リーダーシップを発揮しやすい条件と裁量を与えられているから,あるのが当たり前だから,ないことが目立つのである。トップにはトップのリーダーシップか求められるのであり,平には平のリーダーシップが求められる。常識とは異なり,リーダーシップはその人の役割遂行に必要な手段に過ぎない。 つまり,リーダーシップには,

 役割としてのリーダーシップ(リーダーのリーダーシップ)

 個人としてのリーダーシップ(メンバーのリーダーシップ)

 の二つがあり,立場が異なろうとも,いずれにも共通して言えることは,必要なのは,その人が自分の役割を責任を持って達成しようとするとき,自分の裁量内でやっている限り,その仕事は完結しないということである。そのとき,自分の裁量を超えて,人に働きかけ,巻き込んででも,それを達成しなくてはならないときがくる。それが結果としてリーダーシップであるに過ぎない。必要なのは,自分は何をするためにそこにいるのか,そのために何をしなくてはならないのかを,自分の頭で考えられるかどうかだ。それを仕事の旗と呼ぶ。それは ,メンバーとして,平のときから自ら考え続けていなくては,リーダーシップがあって当然という立場になったとき,リーダーシップがないことが目立つことになるだけなのである。


  • リーダーシップの機能と効果

リーダーシップとは,字義通りに言えば,リードするスキル,リードとは,周囲を引っ張っていくことであり,そのために周囲を巻き込んでいくことである。つまり,目標を達成しようとするときにどれだけ人を巻き込む力があるか,である。そのとき必要なのは,「どこへ」「何のために」「何を目指して」という旗が明示ざれているかどうかなのだ。それは,リーダーという立場から見れば,組織やチームは何のために存在するのか,その目的からみて目標・手段は適切か,あるいはその目的はいまも重要か,もっと別の目的を創れないか等々と,問い続ける姿勢である。その答えがビジョンであり,旗幟となる。旗幟を鮮明に掲げ続けられるかどうかは,リーダーが組織の目的とどれだけ格闘したかの結果であり,そこにこそリーダーシップが必要なのである。そのとき,リーダーシップは,リーダーである(状態を保つ)ためのスキルとなる。戦略・戦術を語るのはその後である。

リーダーが,リーダーとしての立場と役割とは何かを自問しながら,何を目指すことが組織の未来を決することになるのかと,組織の目的と格闘し,その方向と行く末を描き出していくからこそ,下位者一人一人もまた順次,それを実現するために何をしたらいいか,それぞれの役割の目的と格闘しながら,主体的に考えていくことができる。そういう組織が硬直化するはずはない。その責は,ひとえにリーダーシップの硬直化そのものにある。

  • リーダーシップの基本機能〜なすべきことは何か

リーダーとしての役割とリーダーシップの違いは,メンバーからくる。リーダーとして,メンバーの役割期待の範囲,つまりリーダーとして,やって当然と考えるようなことは,リーダーとしての役割の範囲内であって,リーダーシップとはいわない。リーダーシップがあると思うのは,メンバーであって,リーダー自身がそういっているときは,そういわざるをえないか,リーダーシップの何かがわかっていないか,のいずれかである。リーダーシップは,メンバーの期待に応えてはじめて,認知される。

リーダーシップに必要なのは,周囲を引っ張り,周囲を巻き込んでいくに足る力があるか,である。そのとき必要なのは,

・「どこへ」「何のために」「何を目指して」という旗を明確にできること,

・必要な人々にその意味をきちんと伝えていく力があること,

・めざすことを一緒にやっていくための土俵(協働関係)をつくれること,

・協力してくれた相手,サポートしてくれた人々への感謝と承認を怠らないこと(「お陰様で」)

の4点だ。そのためには,次の3つの機能が必要になる。

@旗を立てる機能(指示機能)〜向かうべき方向と目標を提示する

 何のために(目的),何をするか(目標),どこへ向うのか等々自分たちの目的/目標をきちんと掲げ,明示すること。トップ方針のブレークダウン(自部署,自チームとして,何のために,何をすべきか),目標の明確化と達成への実行計画の立案,等々“戦略”に関わること

A巻き込む機能(盛り上げ機能)〜目標に向けてチームを奮い立たせる

立てた“旗”をどう実現(達成)するかの手段として,目的達成のために,チームとしての活力を維持・向上させるために,必要なことはすべてが対象となる。どうメンバーをまとめ,集団としての力を盛り上げていくかを工夫し,実践する。場合によっては上位者だけでなく,チーム外のキーマンも巻き込む。コミュニケーションの円滑化,協働体制づくり,メンバーの指導・育成,職場風土づくりその他日常の細々としたチーム運営の“戦術”に関わること

Bやりきる仕組みづくり機能(仕掛けづくり機能)〜達成するためにさまざまな仕掛けを工夫する

 目指す旗を確実に達成するために必要な仕組みや仕掛けをつくり,環境や条件整備をして,旗の実現をお膳立てをする。一人一人に自主的に取り組ませるための仕組み,業務分担の見直しや調整,チーム全体が足並みが揃う仕掛け,障害物を取り除く工夫,途中経過や進捗状況を共有化する仕組みづくり等々。

 


  • リーダーシップ発揮に必要なこと

@リーダーシップは,自分(ひとり)では(裁量を超えていて)解決できないこと,あるいは解決してはいけないことを解決するために,解決できる(権限のある,スキルのある)人を動かして, 一緒に解決しようとしていくことである。

Aリーダーシップが本当の必要なのは,自分のポジションより上や横を動かそうとするときだ。そのとき必要なのは,

・「何のために」「何を目指して」という,意味づけの旗が明示されていること

・必要な人々に,その意味をきちんと伝えていく力があること

B上や横を巻き込むためには,仮に自分の現場で起きたことだとして,それを現場レベルだけでは解決できない,あるいは解決してはいけないから,相手に動いてもらいたいと,相手に認めてもらうために, 

 @それが組織全体,あるいは相手にとって,動く必要のあることを納得させるものであること

 Aそれが,自分の役割遂行上,重要な問題であり,相手が必要があると納得させるものであること

 をきちんと伝えなくてはならない。そのためには,

 ・自分自身の組織での位置づけ,自分のチームや仕事の意味づけができていること(自分の旗との関係づけ)

 ・起きている問題の奥行きや広がりを押さえ,そのことのもたらす意味づけがきちんとできていること(問題の意味づけ)

 が必要である。


  • リーダーシップ発揮のプロセスで重要なこと

@自分たちのやっていることへの確信と意味づけ〜目的を見失わない

チームの凝集度(力)を高めるのには,どれだけメンバーが目的意識を共有化できるかである。そのために,リーダーは,確信をもって,何のために自分たちのチームがあり,チームの仕事があるのかを指し示すことができなければならない。それがチームメンバーに,日々の仕事の意義(目標達成のためになすこと)への確信となる。

Aゴールの明示とプロセスのフィードバック〜方向性の共有と進捗への確信

 メンバーに必要なのは,時々刻々の目標への進捗状況,いま自分たちに何を期待しているのか,現在までの自分たちの仕事ぶりをどう考えているのかというフィードバックである。いま目標達成プロセスのどの辺りなのか,残りはどのくらいなのか,達成のメドはどうなのか,いままでのやり方でいいのか等々,各自のゴールへの途上,方向の明示と頻繁なフィードバックである。ポイントは,方向性の明示,道が間違っていないことへの確認である。

Bチームメンバーとしての自分の有効感・有能感〜チームに貢献できていることの確信

 メンバーに,「自分の有効感・有能感と自己決定感」(自分がやった結果できた・役立ったという満足感)を味わわせていくことで,自分がチームの一員として戦力となっているという確信がほしい。。そのためには,肯定的な自己評価を下せるような,フィードバックや励まし,承認・積極的な期待の表現が不可欠である。

C部下への効果的な情報の提示〜情報の共有

 各自の業績の途中経過をフィードバックする。フィードバックは頻繁に,明確な形で行う。各自の業績上の問題や,その人が責任を負っている問題解決に役立つバックアップ情報を提供する。


自分自身が担っている仕事の意味を自覚し,それを実現するために何をすべきかを明確にする(これを「“旗”を立てる」と呼ぶ)ことがまず前提となる。それを実行するためには,いかにして,関係者を巻きこみ,説得し,その旗を共通の旗としてもらい,共に実現するようにしていかなくてはならない。ここにこそリーダーシップが求められる。

その人が自分の役割を責任を持って達成しようとするとき,自分の裁量内でやっている限り,その仕事は完結しない。ときに自分の裁量を超えて,人に働きかけ,巻き込んででも,それを達成しなくてはならないときがくる。それが結果としてリーダーシップであるに過ぎない。必要なのは,自分は何をするためにそこにいるのか,そのために何をしなくてはならないのかを,自分の頭で考えられるかどうかだ。それを仕事の旗と呼ぶ。それは平のときから自ら考え続けていなくては,リーダーシップがあって当然という立場になったとき,リーダーシップがないことが目立つだけである。

  • 旗を立てることの効果〜仕事の,自分の,チームの,問題の意味づけができる

◇自分がいまやっている仕事が組織のどこにどうつながり,それがどう組織に貢献しているのかをはかる目安を自分なりに持っている必要がある。旗を立てることの効果とは,そのための方法であり,自分の意味づけ,自分の仕事の意味づけでもあるのである。

@上司の旗とのリンクを確認することで組織全体の方向性を意識する

 全体とどうつながっているかは,上司の旗とのリンクを通して確認する。全体と自分がズレているのではなく,上司がズレていることもある。それを上位者との間ではかることで,上司とのキャッチボールの機会にできる。

A自分のチームの旗を立てる

自分自身が担っている仕事の意味を自覚し,それを実現するために,チームは何をすべきかを明確にすることがまず前提となる。これが,旗を立てるといっている意味である。それは,チーム構成員を巻き込むための目印であり,場合によっては,この旗の故にこそ上位者に動いてもらわなければならない,大義名分ともなる。もし,チーム全体に関わる方向性や上位チームとのかかわりについてあまり目が向いていないとすると,リーダーとしての視野が,個人の業務遂行ベース,個別の部下にしか向いていないということを意味している。部下とのコミュニケーションはもちろん大事だ。しかしチーム内で明らかになった問題を解決するのに,上位者を動かさなければならない。そのとき,それがチームの旗にどう関わり,それが上位者とどう関わるかといった視点がなければ,上位者は動かない。リーダーとして最も真価が問われるときだ。

B自分の旗の明確化を通して,部下の旗とのリンクを意識する

 自分の旗が明確になることは, 部下にとって,自分の旗を立てやすくなることを意味する。部下の旗の明確化を通して,自分自身の旗を鏡を見るように確認することになる。

Cおのれ自身の仕事の旗を立てる

 自分の立てたチームの旗に,担当としてどういう旗を立てて,チームの旗に貢献するかを考えるのが,リーダーのプレイヤーとしての仕事だ。リーダーはチームの旗と同時に,それにどう貢献するか,自分の担当の旗も立てる。

D旗のリンクを通して,仕事の守備範囲を確認する

 自分がどう上司とリンクし,組織全体とリンクしているか考えることは,自分および自分のチームがやっている仕事がどう組織とリンクしているかを考えることであり,ある意味で,自分が何をしなくてはいけないかの確認だけではなくて,何をすることが,周囲から見て当たり前のレベルなのか,という自分たちの守備範囲を考えることになる。それは自分にとって,何が裁量の内なのかを考えることであり,リーダーシップを考える前提となる。

E旗をたてることで自分やチームの仕事を組織にリンクさせる

◇旗をたてるとは,自分が何をすべきかを自分なりに明確にする作業である。それは,自分のチームでのポジショニングをはかることであり,ひいては組織でのポジショニングを意識することにつながる。

◇それは,自分自身の意味づけ,自分の仕事の意味づけ,自分のチームの意味づけを考えることであり,それが,チームとの関わり,上司との関わり,他のチームとの関わり,組織全体とのかかわりを考え,自分の役割を主体的に考えることになる。それが,旗を立てることの効果になる。たとえば,目的や目標を共有化するということは,自分の立場,役割としてそれをどういう形で受け止めていく かを考えることになる。それが,自分の旗を上司の旗とリンクさせ,組織の旗とつなげていくことになる。

◇大事なことは,自分及び自分のチームの目標ではなく,その目標を達成することで,自分及び自分のチームの所属する上位チームの目標(自分の目標にとっては目的)にどういう形でリンクしているのかを意識することである。それが自分の目標の意味づけであり,チームの仕事の意味づけとなる。

  • 自分の役割・業務と目標をリンクづけることの効果〜すべてに意味のつながりが見える

◇現在の自分の役割,組織の業務分担から自分の目標を見るのと同時に,目標の意味づけから自分のポジションを整理して見る。そのことで,日々の仕事が組織全体とどうリンクしているかを再確認する。


  • リーダーシップを必要とするとき〜仕事を完結させようとするとき自分の裁量内に収まらない

◇リーダーシップは,実践のスキルでなくてはならない。その人が自分の役割を責任持って達成しようとするとき,自分の裁量内でやっている限り,その仕事は完結しない。ときに自分の裁量を超えて,人に働きかけ,巻き込んででも,それを達成しなくてはならないときがくる。それがリーダーシップを自分が必要になるときである。必要なのは,自分は何をするためにそこにいるのか,そのために何をしなくてはならないのかを,自分の頭で考えられるかどうかだ。それを仕事の旗と呼ぶ。それは平のときから自ら考え続けていなくては,リーダーシップがあって当然という立場になったとき,リーダーシップがないことが目立つだけなのである。

 @自分の仕事を自己完結しないで,その完成を目指すとき,より上位を巻きこんでいかざるを得ない

  必要なのは,その仕事を真に完結するのはどういうことか,その目的達成にはなにをしなければならないか,を考えていることだ。自分の裁量を超えても完結を目指すとき,上位者や周囲を巻き込まざるを得ない。そのとき,明確な旗が不可欠となる。それは上位者の指示を正そうとすることも含まれる。

 Aかかえている問題が大きく深いとき,より上位者を巻き込まざるを得ない

  その解決すべき問題が,自分を超え,部署をまたぎ,広がるほど,より幅広く巻きこんでいかざるを得ない。

 B自分の仕事にリーダーシップを発揮しようとしないものに,リーダーシップは担えない

  組織の中で,自分のしたいことを実現しようとかするなら,上位者を動かさざるを得ないはずである

 Cチーム内に,自分以外にチームをまとめていけるものが見当たらないとき,その役を引き受けざるを得ない

別に勝手に「しょっている」のとは違う。自分が経験と知識,キャリアから見て,リーダー役を買わなくてはならないと自覚し,チームをまとめて,チームの目標達成のために何をしたらいいかをチームメンバーと一緒になって考えていこうとするとき,そのとき,役割としてのリーダーを担い,チームをリーダーとなってまとめ,引っ張っていこうとしていることになる。この場合,メンバーがそれを受け入れ,それを支えようとしてくれている限り,独りよがりではなく,チームメンバーは彼にリーダーシップがあるというだろう。

 

 

大事なことは,次の2つである。

 @その案件,問題の広がりや影響の大きさをどれだけわかっているか〜何をどこまで動かさなくてはならないのか

ただ,リーダーシップは発揮しなくてはならないものと考えるべきものではない。大事なことは,そのことをどう伝えるかで,上司から見ると,自分を動かそうとしている(自分に指図している)ととられる恐れがあることをわかっていることだ。何か考えておいてくれるように頼むのと、こうすべきだと働きかけるのとでは意味が違う。

Aそれをすることの意味がどれだけわかっているか〜自分にとって,上司にとって,組織にとって。

       自分の裁量を 超えたことについては,決定は上位者にある。しかしそれを促すにしろ,しないにしろ,必要な情報,現場の事実は,きちんと伝えなくてはならないそれが報告である。

結局,自分の取り上げている問題の大きさ,案件の広がりが判断できれば,それを動かすために,何を,どこを,誰を動かさなくてはならないかが,分かるはずである。リーダーシップは現実を動かし,変化をもたらすために使うものであり,使わなくてはならないものだ。


  • 部下も自分の旗を立てることで組織の中でのポジショニングを明確にできる

そのポジションの役割は固定ではない。それなら,誰が担当者になっても同じになる。一人一人が,自分の役割に主体的に格闘し,何をウエイトを置くか,を決めていく中で,メンバー間のキャッチボールが活きる。


  • リーダーシップを支える根拠〜自己認知能力こそが根拠

    • ジョハリの窓〜自分自身の「私」と人にとっての「私」

      “ジョハリの窓”は,ジョセフ・ラフトとハリー・インガムのファーストネームからつけられた。自己理解の仕方として,

        ・自分にわかっている自分/自分にわかっていない自分

        ・他人にわかっている部分/他人にわかっていない部分

        の4つの窓に分けてみようとするものである。

    • ジョハリの窓による自己確認〜自分自身の発見

4つの窓を図式化したのが下図である。

 

パブリック

@(自由の世界)

自分が知っている自分

他人が知っている自分

 

ブラインド

A(盲目の世界)

自分が知らない自分

他人は知っている自分

 

 

プライベイト

B(秘密の世界)

自分が秘密にしている自分

他人は知らない自分

 

 

アンノウン

C(未知の世界)

自分の知らない自分

他人も知らない自分

@パブリックな部分(開放した領域) 行動・感情及び動機について,自分がよく知っていて,他人にも知られている部分。ここでは,「自分は……の人間である」と思っているし,他人もそう認めている。自他共に認めている自分の姿がある。ここでは,自分の考えや言動は容易に相手に通ずる。他人とのコミュニケーションもよく通ずる。

Aブラインドな部分(気づかない部分) 行動・感情及び動機について,他人からは見られ,知られているが,自分自身ではまだ知らない部分。ここでは,自分だけが自分のことを気づいていない。たとえば,周りは皆その欠点を認めているのに,自分だけがその欠点に気づいていない。自分が自分に盲目になっている。

Bプライベイトな部分(隠した部分)  行動・感情及び動機について,自分自身はよく知っているが,他人には意識的に隠している部分。ここでは,自分だけが胸に秘めていて,他人に知らせていない自分の姿がある。

C未知の部分(わからない領域)  行動・感情及び動機について,自分も知らないし,他人にも知られていない領域。ここには,自分も他人も気づいていない自分の姿がある。 ABCの世界では,コミュニケーションは通じない。

自己表明 プライベイト領域を縮小して,パブリックの領域を拡大することである。自分が何を目指し,何をしようとしているかを,メンバーに表明し,明示することによって,プライベイトな部分が小さくなる。

フィードバック 自分の行動がメンバーやチームリーダーからどう受け止められているかをフィードバックしてもらい,自分の知らない部分,気づいていない部分を受けいれることによって,ブラインドの部分を減らし,自己認知,自己イメージを広げることである。いわば“聞く耳”である。

必要なのは,常に,相手に合わせて,パブリックをつくる,あるいは広げる努力である。それが,相手とのコミュニケーション・チャンネルをつくるということである。(リーダーシップに必要な5つのこと【2】の,パブリックをつくるを参照。)

上へ

目次へ

ページトップへ


目次 9 10 11

ホーム 全体の概観 侃侃諤諤 Idea Board 発想トレーニング skill辞典 マネジメント コトバの辞典 文芸評論

ご質問・お問い合わせ,あるいは,ご意見,ご要望等々をお寄せ戴く場合は,sugi.toshihiko@gmail.com宛,電子メールをお送り下さい。
Copy Right (C);2024-2025 P&Pネットワーク 高沢公信 All Right Reserved