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スキル辞典10

  • コンセプチュアル・スキル

コンセプチュアル・スキルを考えることは,能力とスキルの違いを考える格好の材料である。
能力というと,たとえば,
能力=知識(知っている)×技能(できる)×意欲(その気になる)×発想(何とかする)
ということになる。これに,
体験(やったことがある)×気力(がんばれる)×体力(やり切れる)
を加えてもいい。ここでは,スキルは,
技能(できる)
つまり,努力すれば身につくもの,という意味である。あるいは,知識というなら,G・ライルの言う,
Knowing that(そのことについて知っている)

Knowing how(どうやるかを知っている)
でいうところの,
Knowing how
つまり,やり方と言っていい。しかし,世の中は,どうもスキルと能力(一般)とを混同している。スキルにこだわるのは,スキルとは,
「手腕。技量。また,訓練によって得られる,特殊な技能や技術。」
と定義される。つまり,訓練によって得られるのである。得られる結果は(人によって)巧拙があっても,得られなくてはならない。ところが,である。
たとえば,ずいぶん昔,佐野勝男氏らが,ハーバード大学のロバート・カッツを紹介した(佐野勝男・槇田仁・関本昌秀『管理能力の発見と評価』。記憶では,これが嚆矢だと思うが,今日独り歩きしている)が,そこで,
「管理技能について,カッツは三つの基本的技能をあげている。テクニカル・スキル(techical Skill),ヒューマン・スキル(human Skill),コンセプチュアル・スキル(Concrptual Skill)である。」
で,それぞれを,こう説明している。
「テクニカル・スキルはとは各職能分野における仕事の方法,手続等に関する知識・技能である。」
「ヒューマン・スキルとは,集団メンバーと上手に相互作用し,チーム・ワークを盛り立てていく技能である。上役,同僚とうまく接し,部下を上手に使い,組織の能率をたかめる,いわゆるヒューマン・リレーションの技能のようなものである。」
「コンセプチュアル・スキルとは,ものごとの全体的な関係を洞察し,論理的な思考を働かせ,創造性を発揮していく。」
とここで,佐野勝男氏等は,「技能」という言葉にこだわっている。そして,このスキルを図示した有名な,
https://img.jinjibu.jp/updir/kiji/YWK12-1023-management_skill0101.gif
について,この図式は,「この考え方をデイビズが図式化した」と断り(つまりカッツが描いたのではない),
「カッツはこれらの三つの技能は,総て訓練によって開発できる能力であると考えている」
と言いながら,
「テクニカル・スキルは別として,他の二つの技能については先天的なものを考慮はなければならない。」
と付言している。こう付言する根拠は,あるレベル以上でなければならないと,(佐野氏等が)勝手に解釈したせいだと思うが,カッツは,あくまで,(結果の)巧拙は問わず訓練できる,と考えたということを忘れてはならない。
ところが,多くは,
テクニカル・スキル(業務遂行能力)
ヒューマン・スキル(対人関係能力)
コンセプチュアル・スキル(概念化能力)
と,いつの間にか,カッツが「スキル」と言っているものを,「能力」に置き換えて訳してしまっている。技能とは,
「あることを行うための技術的な能力。うでまえ。」
である。能力一般に還元してしまっては,カッツの言っている意味が変わる。そのことに無頓着だから,定義内容まで変わっていく。その代表が,コンセプチュアル・スキルである。たとえば,こんなふうに説明される。
「コンセプチュアル・スキルは概念化能力とも言われ,抽象的な考えや物事の大枠を理解する力を指す。具体的には論理思考力,問題解決力,応用力などが挙げられる。」
「ヒューマン・スキルは対人関係能力とも言われ,職務を遂行していく上で他者との良好な関係を築く力を指す。具体的には相手の話をきちんと聞いて理解するヒアリング,話し合いのなかで自分の意見を主張するネゴシエーション,自分の考えを的確に,論理的に伝えるプレゼンテーション,さらにはリーダーシップやァシリテーション,コーチング,交渉力,調整力などが挙げられる。」
「業務を遂行する上で必要な知識やスキル。これは職務遂行能力とも言われ,その職務を遂行する上で必要となる専門的な知識や,業務処理能力が挙げられる。」
つまり,能力に置き換えたことで,特に,コンセプチュアル・スキルの,大事なポイントが,すり替わってしまっている。流通している考え方では,コンセプチュアル・スキルとは,具体的に,
問題解決力

論理思考力
と挙がるが,これは,テクニカル・スキルでしかない。そんなことを言うために,コンセプチュアル・スキルとして,カッツがわざわざ概念化したのではあるまい。ここでは,佐野勝男氏等の定義が正しい。つまり,
「ものごとの全体的な関係を洞察し,論理的な思考を働かせ,創造性を発揮」
なのであって,「論理思考力」は所詮,コンセプチュアル・スキルを実現するための手段に過ぎない。大事なのは,
「ものごとの全体的な関係を洞察」
することだ。僕は,これを,
目利き力
とか
俯瞰力
と呼ぶ。その視野によって,
意味づけること
ができる。上位になるほど求められるのは,
概念化
ではない。
意味づける
あるいは
意味の発見
である。それが新しく,革新的であればあるほど,説明したり,展開したりするのに,論理的思考力や問題解決力(というテクニカル・スキル)が要る(この作業が概念化で,概念化も手段である),というだけである。
しかし,大事なことは,こういうコンセプチュアル・スキルのような,ものの見方というか思考スタイルもまた,スキルだと,カッツが考えたということだ。そこに,佐野勝男氏等のように「先天性を」考えてしまうと,どうそれを育成したり,訓練するかは,ほぼ思考の埒外,つまり不可能になってしまう。スキルと考えるから,
どういうことを学び,
どういうトレーニングをして,
何を体験させ,
どういう知見をえさせば,
これが可能になるか,という思考が可能になる。だれでもが学習すれば車の運転のようにできるようになる,そのためにどうすればいいかを,具体的な訓練手段にブレークダウンしていく。これが論理的思考だ。論理的思考が手段というのはこういう意味だ。論理的思考があっても,そもそもの俯瞰力がなければ,下らぬMECE(Mutually Exclusive and Collectively Exhaustive )のような,役にも立たない細部に血道を上げることになる。
だから,能力と言わず,誰もが身につけられるスキルということで,
ではどうすればそれを身につけることが出来るか,
というKnowing howを突き詰めていく。これを論理的に突き詰め,開発していく,これこそが,
コンセプチュアル・スキル
に他ならない。だから,上位者になればなるほど必要になる。

参考文献;佐野勝男・槇田仁・関本昌秀『管理能力の発見と評価』(日本経営出版会)

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  • 怒りを表現する

感情的になることと感情を表現することとは違う。怒ることと怒りを伝えることとは違うのである。それに関連するスキルとしては,アサーティブについては,すでにスキル2で触れた。また,話すスキルとも関連する。

怒りを感じたとき,どう怒りをコントロールするかという話になるのだろうか。たとえば,論理療法でいうように,イラショナルビリーフがあるからだと。たしかにそれもあるかもしれない。だが,怒りがその人の価値にかかわることだとしたら,それをコントロールすることは,その人の何かを矯めることになる。

確かに激昂した状態で,冷静な判断は下せないし、瞬間のさらにその一瞬の一瞬に集約されたような尖がった状態になっていて,すさまじい視野狭窄に陥っている。トンネルビジョンの状態になっているときの,そこからの抜け出し方は,一瞬立ち止まれるかどうかにかかっている。その瞬間,選択肢が生れる。

このまま行くか,

立ち止まり続けるか,

戻るか,

選択肢が絶えず3つ以上生まれるとき,すでに発想に余裕が出る。

頭の中の,意識の流れは言語化のスピードの20倍から30倍なのだという。さまざまな思いや妄想が次々と流れそれを言語にしようとするとき,その思いに適合する言葉を瞬時に探し当てて,コトバにして口から出す。ところが,怒りの瞬間は,感情が最優先で流れるので,言葉も短絡化する。しかし,思い出すと,言葉を口に出す寸前,必ず,コンマ何秒かの間がある。ほんの一瞬どうするかを迷う束の間がある。その間が,たぶん,立ち止まる最後の機会になる。

何度も怒りで失敗してきた人は,この間合いはよくわかるはずである。長く,自分の怒りを恥じたり,そのたびに悔いる自分を蔑んできたはずだ。

怒りを前にして,相手の反応は3つに分かれる。

同じ土俵で,怒りの度合いを張り合う。この場合,よく野生のオス同士が負けじと張り合うのに似ている。

いまひとつは,すさまじい鎧を着飾って,それで対抗する。手段は,いろいろあるが,まあ馬耳東風と流されるのが、ますます怒りを煽る。

最後は,土俵を下りて去る。とりあえずは頭を下げても,心の中で舌を出しているのが、よく見える。

怒りそのものは悪いことではない。怒りを抑えることも大事だが,怒るべきときに怒らないことのほうが,人間的ではな。そのときに怒らなくてどうするという瞬間もある。自分にしろ,誰か身近な人にしろ,あるいは赤の他人でも,理不尽なことに出会ったとき,それに屈することなく,怒りを挙げることは必要ではないか。怒っている,ということは大事なのだ。

ただし,怒ることと怒っていることを伝えることは別だ。ではどう伝えるのか、もちろん,アサーティブなアプローチも悪くない。しかしもっとストレートな伝え方もあるはずである。

で,こういうやり方もある。

怒っているとしよう。その時,「俺は怒っている」と伝えても,その怒りの大きさは,伝わらないだろう。その瞬間の冷静さが相手に伝わるだけだから,多少日頃の人間関係を意識させることにはなるかもしれないが,怒っているインパクトと,その怒りの大きさは伝わらない。で,

「おれは,いま,

馬鹿野郎!(ここは,怒りの大きさに合わせて大声を出してもいい)

と,言いたい気分なんだ」

と言ってみる。相手の瞬間の驚愕の表情と,そのあとのほっとした表情の落差をひそかに楽しむ。これなら、まだコミュニケーションの土俵に乗っている。

コトバにしなければ,こちらの感情は伝わらない。しかし,怒ってはダメだとすれば,怒っている,という状態を,メタ化するしかない。それが言語化だからだ。
 

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  • 会話のずれに気づく

発話の意味は,受け手の反応によって明らかになる。

それは,自分が喋ったことがどう受け取られたかという意味でもあるが,そうシャツチョコばらなくても,その受け取られ方で,話し始められた会話の意味が変わっていく,と考えてもいい。それが,実は会話の楽しみなのかもしれない。受け手は,話し手の会話の中から,自分が刺激を受けた部分に焦点を当てるから,当然少しずつ話の焦点がずれるが,極端な場合は,受け手の体験や記憶の中の話に移行してしまうかもしれない。

伝達という意味で言えば,口頭のメッセージは歩留り25%という説があるくらいで,基本的には,全部を聞くようにはできていないのだろう。だからもともと会話では,意識しないと,自然と自分に引き寄せてしか,相手の話を聞けない。というより,それが聞くことの常態なのだろう。だから,あえて,傾聴といわないと,丸ごと相手の話が入ってこないのだろう。

脳は活発に働き続けている。会話してもしなくても,関係なく想念は走り回っている。そこにちょっとした刺激が,外部から入ると,一瞬でひらめくが,それは,その前に,意識的無意識的に考え続けていた結果に過ぎない。その意味で,人は自分で話しながら,自分で発見したり気づいたりする。よくコーチングではオートクラインなどというが,発話する時,発話の2〜30倍のスピードの想念から,言葉にして,口から言語として語りだす。それまでのプロセスは,自分の思いをどう言葉にするかの方に注意が向いている。しかし発話した瞬間,こんどは自分の喋った言葉を耳から,情報として聞く。それが,外からの人の言葉と同様に,脳への刺激となり,気づきをもたらす。ブレインストーミングが効果があるのは,相手の発言の意味内容全体よりは,そこから受け止めた刺激としての情報に,たぶん意味がある。その門前で,批判してしまったら,ゲートを入る情報が少なくなる,そんな意味だ。

会話の微妙なずれ,ということで井上光晴を思い出して,探してみたが,うまく例題になるものが見つからない。
適当に拾い出してみた。

「酔ったな」彼はいった。
「酔ってなんかいないわ。事実をいっているだけよ」
「何が事実だ。森次のことを,いつおれが一枚看板にした。森次のことを,いつおれが売り物にした。森次のことをいうのは,あいつが可哀そうだからだ。いつ,おれが自分の性根をうしなった」
「森次さんが可哀そうなのは,いまはじまったことじゃないじゃないの,はじめからだ」
「ごまかすなよ」
「私が何をごまかしてるの」
「ごまかしてるよ。君は自分のことは何もいわないじゃないか」
「変ないいがかりはよしてよ。私が何をいわないっていうの,何を隠しているっていうの」
「君は隠しているよ」
「ほら,それがあなたの得意の論法よ。自分が危くなると,逆に相手に短刀をつきつけるんだから」
「短刀をつきつけられるようなことがあるのか」
「なにをいってるの。言葉だけのりくつはやめてよ」(『地の群れ』)

ただ単純にページからランダムに引き出しただけだが,普通の会話のずれと微妙な乖離が見事に出ている。会話の名手という気がしている。人は,自分のことを考えている,だから自分の引っかかったところに食いつく。そしてそこで会話が変わっていく,ということが如実にわかる。

この会話のずれは,お互いの思いのずれになり,思いのずれは,少しずつ行き違い,隔絶を広げていく。こんな時,話せば話すほど,ずれは大きくなる。

相手のずれに気づければ,その人の関心か,あるいはその人としての注意の向きがみえる,かもしれない。たぶん受け止めるということが必要なのは,そのことを拾い上げることなのではないか,という気がしてくる。そこに,意識していないかもしれない,関心や価値があるはずだから。

それは,相手は,自分の話をどれくらい聞く姿勢になっているかの指標でもある。口頭のメッセージは,歩留り25%といわれる。相手が,自分に関心のあるところだけに喰い付いて,話を展開していけば,論旨は思わぬ方向にずれかねない。気づいたところで話を戻さなくてはならない。

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  • 笑顔効果を生むユーモア

    「絶望の反対は,なにか?」
    普通に考えると,希望ということになる。だが,ある女性歌手は,
    「絶望の反対は,ユーモアではないか。」
    と答えたという。辞書では,
    「上品なオシャレや諧謔」
    「社会生活における不要な緊迫を和らげるのに役立つ,婉曲表現によるおかしみ。」
    とあるそうだ。(『希望のつくり方』)

    コトバ的には「希望」が妥当なのだろうが,その伝でいくと,絶望の底から,ふっと引き上げられる,その瞬間の感情に焦点を当てると,滲むような笑顔が浮かぶきっかけになるもの,と受け止めてもいいのだろう。望みのなくなった時,ふと笑いを誘われて,そこから立ち上がるきっかけをつかむ。そんな藁しべなのかもしれない。それを,表情側に焦点を当てれば,ユーモアに誘われて引き出された笑顔ということになるのではないか。

    箸を横にして口にくわえると,そこに浮かぶ表情筋の使い方は笑顔に似ているそうだ。そして笑顔に似た表情をつくると,ドーパミン系の神経活動が変化するといわれている,という。ドーパミンは脳の快楽に関係した神経伝達物質で,楽しいから笑顔を作るというより,笑顔をつくると,楽しくなる機能を脳はもっているらしい。しかも,実験では,笑顔になると,楽しいものを見つける能力が高まるのだという。つまりは,悲しみやネガティブではなく,面白さや楽しさに目が向く。

    逆に恐怖や嫌悪の表情の実験では,恐怖の表情をつくると,それだけで視野が広がり,眼球の動きが早まり,遠くの標的をとらえられるようになり,嫌悪の表情をつくると,逆に視野が狭くなり,知覚が低下したという。つまり,この実験で,恐怖への準備は恐怖の感情ではなく,恐怖の表情をつくることで,スイッチがはいるらしい。これを顔面のフィードバック効果というそうだが,笑い顔をつくるだけで,プラスのフィードバック効果が心にあるというのは頷けよう。

    そう考えると,ユーモアが,絶望の反対,あるいは絶望を抜け出すきっかけになる,というのもまんざら嘘とは言えない。というか,確かにいいセンスだ。ひょっとしたら,本当に絶望した経験のある人なのかもしれない。

    たとえば,われわれは,相手のしぐさをまねる性向があり,相手の笑顔をみたら,自分もその表情を真似るらしい。すると笑顔の効果で自分の感情が楽しくなる。ということは,笑いの場,笑いを生み出す場にいるのがいいのではないか。

    例えば,寄席。ただし吉本喜劇はだめだと思う。あのわざとらしい,あざとい笑いの強制は,自然に生み出す笑いとは似ても似つかない。あそこからは,絶望感が深まるものしか生まれない気がする。なんというのだろう,思わずつられてにこりとしてしまう,そういう笑いを引き出すものでなくてはいけないのではないか。例えば,古いかもしれないが,ひげダンス。欽ちゃん走り。あるいはパントマイム。寄席ならそんなのがいっぱいありそうだ。吉本新喜劇よりは松竹新喜劇(ちょっと古すぎか!)。

    なぜそう思うかというと,こういう例がある。

    脳卒中によって左半球の運動皮質が破壊され,顔の右半分がマヒしている患者の場合,患者の口元は正常に動いている側に引っ張られてしまう傾向がある。患者に口を開け,歯を見せるように言うと,その傾向は一層際立つ。

    ところが,患者が滑稽な話に反応して自発的に微笑んだり高笑いすると,まったく違ったことが起きる。笑いは正常で,顔の両側がまっとうに動き,表情は自然で,その人間がマヒにかかる前に見せていた笑いと変わらない。これは情動と関係する一連の動きをコントロールしているものが,随意的な動きをコントロールしているものと同じではないことからきているらしい。

    もし笑いが,心に楽しさの灯をともすのなら,わざとらしく笑うよりは,自然な笑い,湧き上がる笑いによる効果のほうがいい,まあ個人的にはそう思うのだ。

    これをもう少し敷衍するなら,いつも笑いのある場は,楽しさいっぱいだろう。そして,そういう場には発想が豊かに違いない。なぜなら,発想力とは選択肢がいっぱいあることであり,それにはユーモアが重要なキーワードなのだ。しかめ面した顔からは,トンネルビジョンに入り込んだどん底の苦しさしかない。そこには選択肢は少ない。

    参考文献;池谷裕二『脳には妙なクセがある』(扶桑社),アントニオ・R・ダマシオ『生存する脳』(講談社),玄田有史『希望のつくり方』(岩波新書)

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  • 質問を効果的に使うための土俵づくり

質問については,コーチング的な意味と位置づけについては,例えば,次のようなことが言えるし,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod06432.htm

またコーチング的対応とそうでないやり取りとの違いは,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod064301.htm

とまとめることができる。

でも,もう少し先を考えておく。

たとえば,「コーチングのスキルは,注意を向けることに尽きる」(ジョセフ・オコナー&アンドレア・ラゲス『NLPでコーチング』)という言い方もあるし,「注意を向けるだけで,心はつながる。それが欠けていては,共感は生まれようがない」(ダニエル・ゴールマン『SQ 生きかたの知能指数』)ともいう。

ゴールマンは,注意を向けるということについて,さらに,

「相手に注意力を集中するほど,相手の内面を鋭敏に感じ取ることができる。より迅速に,より微妙な信号まで,より曖昧な状況においても,感じ取ることができる。逆に,ストレスが大きければ,それだけ相手に対する共感力は落ちる」

「このような特別の結びつきにはつねに3つの要素が伴うことを,ローゼンタール(ハーバード大学教授)は発見した。お互いに対する心の傾注,肯定的な感情の共有,そして非言語的動作の同調性,である。この三要素がそろったとき,ラポールが生まれる。お互いに対する心の傾注は,第一の重要な要素だ。2人の人間が互いに相手の言動にきちんと注意を向けるとき,そこには互いに対する関心が生まれ,2人の集中力がひとつになって知覚が結びつく。お互いが注意を向け合う状態になると,感情を共有しやすくなる」

ともいう。それを,私は,共通の土俵という言い方をする。土俵というと,「戦う場」のイメージが強いので,共通の場でも,フィールドでも,舞台でも構わないが,ともかく,一緒の地平に立っているということが大事なのだ。

「流行のハウツー本に書かれている内容とは反対で,意図的に腕の組み方や姿勢を真似て相手に調子を合わせても,それ自体でラポールが高まるわけではないのだ」という。これは,その通りだと思う。この背後には,

「ドイツ語の『Einfühlung』は,1909年に初めて英語に訳され,「empathy(共感)」という新造語として伝わったが,このドイツ語を文字通りに訳すならば,『〜の中へ感じる』であって,他者の感情を内的に模倣することを示している。『empathy』という訳語を作ったセオドア・リップスは,『サーカスで綱渡りをする芸人を見ているとき,私は自分が彼の内側に入ったような気持ちになる』と述べている。他者の感情を自分自身の身体で経験するような感覚だ。そして,そういうことは確かに起こる。神経科学者たちは,ミラーニューロンの働きが活発な人ほど共感も強い,と指摘している。」

なのだと,例のミラーニューロンまで挙げている。しかし,こんなことよりなにより,土俵にのるようにすればいい。一番いいのは,相手の土俵にのることだ。

たとえば,部下に,「バカヤロー」と,その失策やミスを頭ごなしに叱るのは,正解を自分が持っているところから,自分の土俵で言っている。これを,

「自分で振り返って,俺はなんて馬鹿なことをやってるんだって,思うことない?」

と問いかければ,部下は自分自身の中で,答えを見つけなくてはならないだろう。質問は,質問されたものが,自分の中に答えを見つけようとすることなら,問う側から,相こ手に考えてほしいことを,命ずることなく,探させることになる。

「お前は,あほか!」

というよりは,

「お前さんは,自分で振り返って,おれはあほか,と思うことない?」

と問いかけたほうがいい。ただし,その問いに答えられないようなタイプもいる。正真正銘の考えないタイプの場合は,噛んで含めるように,小さなステップを,ひとつひとつ,叱りながら導くしかない。しかしその場合でも,相手に,なぜ自分が相手を叱っているか,の思いをきちんと伝えなくてはいけない。基本的に,

口に出さないことは伝わらない。

と私は思っているので,たとえば,「今ここで,これをきちんと覚えておかないと,ここで働く戦力とはみなされないぞ。」というように。

で,このことは,単に,叱るとか指導といったことだけではなく,アイデアや発想のおいても,必要だと思っている。これについては,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/view51.htm

でもふれたが,一緒につくりあげていく,というのは,一緒の土俵に乗らない限りできないことなのだ。

【注】ミラーニューロンは,相手の動作を見ただけで活性化する。ミラーニューロンの多くは,運動前野にある。実際の会話や動作,運動を起こそうとする意図まで含めて,運動にかかわる神経を支配する部分のそばにあることで,他人の動作を見ただけで,自分の脳内で同じ動作を起こす部分が即座に活性化する。人間のミラーニューロンには,物まね以外にも,意図を読み取る,相手の行動から社会的願意を推論する,感情を読み取るなどの働きがあり,共感性の神経科学的な根拠となっている。

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  • ひらめきと発想の脳機能

直感とひらめきの違いについて,池谷祐二さんはこんなことを言っている。

ひらめきは思いついた後に,その答えの理由を言語化できる。直感は,本人にも理由がわからない確信。ただなんとなくとしか言いようがないあいまいな感覚。根拠は明確ではないが,その答えの正しさが漠然と確信できる。しかし「直感は意外と正しい」という。ヤマ勘や思い付きではない。そして,ひらめきを,知的な推論,直感を動物的な勘,ひらめきは,陳述的,直感は,非陳述的,と説明する。

直感は,線条体や小脳が関与するが,ひらめきには,脳の働きとして,理詰めで正答が導ける場合と,相手の出方を推測しながら,判断しなければならない場合があり,同じひらめき型では,まったく脳の使い方が異なるようだ。ただ,ひらめいた瞬間,脳の広範囲が活性化すると言われている。それについては,ここでは触れられていないが,直感の時とは,少し違う気がする。直感は,パターンで感じ取る,という気がする。将棋や囲碁のプロが,蓄積した経験の中から,直感する場合,なぜかは説明できないが,それが結論として動かないことに変わりはない。

ではアイデアがひらめくときはどうなのか。

グレアム・ウォーラスによれば,着想の王道は,
@ 課題に直面する
A 課題を放置することを決断する
B 休止期間を置く
C 解決策をふと思いつく
だそうだが,特にBの熟成期間が重要らしい。ある実験では,課題を長い時間起きて考えていた人より,睡眠をとった人のほうが,成績が良いという結果が出ているらしい。特にREM睡眠と呼ばれる,浅い眠りの多い人ほど好成績だったという。

こうしたステップでは,ジェームズ・ヤングの『アイデアのつくり方』が最近では有名だが,そこでは,

第一段階 資料集め
第二段階 集めた資料の加工  【ここまでが準備】
第三段階 孵化段階      【孵化(あたため)】
第四段階 アイデアの誕生   【啓示(ひらめき)】
第五段階 アイデアの具体化  【検証】

とある。たぶん,AとBが孵化プロセスにあたる。

ヴァン・ファンジェの定義以来,創造性とは既存の要素の新しい組み合わせとされており(川喜多二郎氏は,これを,「本来ばらばらで異質なものを結びつけ,秩序付ける」といった),その組み合わせを見つけた時,脳内の各所とのリンクというかたちで出現するのではないか。そのための準備期間がいる。今まで考えられていたものごとのつながりを崩して,新しいつながりを見つけるには,ある種の視点転換がいるのだ。

それは,数学者の岡潔さんが,タテヨコナナメ十文字,考えに考えて考えつめて,それでだめなら寝てしまえ,といっていたのと符合するのではないか。ただ,この眼目は,ただ熟成すればいいのではなく,その前の段階で,脳をフルに使いこんで,考えつめたプロセスがあってこそ,寝てしまうことで,その間,トンネルビジョンに陥っていた着想を,違う視点から考えるきっかけになる,というところではないかと思う。

そこで,睡眠ということが,かぎになる。

睡眠中の脳の活動については,まだ決定的な答えは出ていないようだが,睡眠の役割の一つは,「記憶の整序と固定化」にあるといわれる。実際,レミニセンス現象と呼ばれる睡眠効果が実験で確かめられている。たとえば,ある訓練をして,12時間後,やってみると,平均50%に低下するのだが,その後7時間睡眠をとると,前日の訓練直後の成績に戻る,という。

睡眠でも,浅い眠りの時は,海馬がシータ波という脳波を出し,情報の脳内再生を行っている。逆に深い眠りの時は,大脳皮質がデルタ波を出し,記憶として保存する作業を行っている,とされる。ということは,深い眠りの時に,効果的にデルタ波をだせば物覚えが良くなるということが実験で確かめられている。

ここで問題は海馬である。記憶の再生ということは,その前につめに詰めたことを,もう一度違う形で再生していることを意味する。自分の経験では,すごく緊張する,新しい場,たとえばワークショップに初参加したような夜,すさまじく刺激的な夢を見た,という経験をしたことがある。夢は記憶の再整理ともいわれるが,このプロセスで,意識的に眺めていたものを,俯瞰したり,別の文脈(夢は多くそんな,まったく別のシチュエーションで展開されるケースが多いように感じる)に置かれることで,着想につながることがあるのではないか,という気がする。

一端思いついた脳内の着想や問題意識は,無意識の中で,ずっと続いていく。そして,ふと,何か関係ないものの中で,たとえば人との会話や読んでいる本の中から,刺激を受けて,ふいに着想することがある。これは,メモをとりつづけていると,同じ傾向の発想が断続的に思いついていく,そしてそれが少しずつ発展しているのに気づく。その意味では,休止とは,そこにのめりこむことから,一旦離れる,ということも含んでいるのかもしれない。

参考文献;池谷祐二『脳には奇妙なクセがある』(扶桑社

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  • 承認の効果

一般に,承認(アクノレッジメント)については,

「a statement or action which recognizes that something exists or true」

そこに存在していることに気づいていると表明したり振る舞いで表すこと,とされている。つまり,相手の存在を認め,更に相手に現れている違いや変化,成長や成果にいち早く気づき,それを相手に伝えることである。

承認という場合,ほめることと同じではないし,評価ではなく,事実を伝えること,とされている。事実として,相手が何をどう達成したのか,どう変化したのか,を言葉にして伝えることだとされる。

例えば,ザックリと,「よくできたね」と伝えるのではなく,どこどこが,以前に比べてどれくらい成長したかを,事実として伝えることを意味する。それを伝えられた側は,その承認された事実がほんの些細な成長であっても,それをきちんと見てくれている,ということによって自己肯定感を高め,相手への信頼を強くする効果があるように思える。

承認の伝え方としては,次の3つのタイプがあるとされる。
@ YOUメッセージ 「あなたは○○だね」というように,これは,見えている事実を,「あなたは,」と客観的に伝えることになる。
A メッセージ 「あなたが○○したことは,わたしにこんな影響があった」というように,私にはそう感じられた,そう見えたというように,主観として,相手に伝える伝え方である。
B WEメッセージ 「あなたが○○したことは,わたしたちにこんな影響があった」と,これはIメッセージの「われわれ」版ということになる。ただ伝えているのが,私なので,私の主観である側面が入るかもしれない。

以上が公式の承認の考え方だが,これを,他の他者認知,たとえばほめる,あがめる等々とどう区別するのかを試論として整理したのが,


である。ここで問題になるのは,賞賛とは違うとして,認知や敬意とどう違うかだ。

まず,「認知」とは,CTI系で主として使うが,クライアントがある特定の行動を起こしたり,ある特定の目標を達成したりする過程で発揮したその人の強みや良さに気づき,それを本人に伝えること。自分の本当の姿をコーチがみてくれている,知ってくれていると感じられるようにするためのスキル。単に相手の行動を表面的に誉めたり,評価するのではなく,コーチとして感知した相手がどんな人なのか,その人自身が気づいている以上のリソースや力,価値観などを伝えること,とされる(『コーチングバイブル』)。

ただ主観的には,それはあくまで,こちら側の受け止めなので,事実というよりは,Iメッセージとしての承認に近いような気がする。

次は,ブリーフセラピー,特にソリューション・フォーカスト・アプローチでいう,「コンプリメント(敬意)」との違いだ。

「コンプリメント」とは,ねぎらうこと,敬意を表すること。あくまでクライアントの言葉や行動にもとづいた事実に根ざしていなくてはならない。直接的なコンプリメントと間接的なコンプリメントがある。直接的なコンプリメントは,肯定的評価(「それはすごいですね,よくやれましたね」)と肯定的反応(「わあ,すごい!」)がある。間接的コンプリメントは肯定的な質問である。@望まして結果について更に「どうやってそれをやったんですか」と質問する,A関係を通して,「それを聞いたらお子さんはどう反応するでしょうね」と,肯定的なものを暗示する質問,B何が最善かはクライアントがわかっていることを暗示する,「どうしてそれをしたらいいとわかったんですか」と質問する(『解決のための面接技法』)。

コンプリメントは,比較的承認と似て,事実を伝えること,に力点がある。承認と敬意(コンプリメント)は,何を伝えるかについては結構重なっている。ただ,それはYOUメッセージについてであって,Iメッセージで伝えようとすると,すべては「わたしには〜だ」の,主観を伝える中に入ってくるような気がする。

日本語の構造から考えると,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0924.htm

でのべたように,基本は,「辞」につつまれれば,すべてはIメッセージになりうるので,逆に言うと,客観的事実を伝えているのだと,強調するためには,「あなたは,」あるいは「誰々さんは,」とはっきり言う必要があるのかもしれない。

では,フィードバックとはどう違うのだろうか。この言葉自体は,大砲の砲弾の着地点の修正という意味だと言われるが,サイバネティクス的に言えば,システム外の情報をシステム内への取り込むことで,自分の動き,自分の認識の軌道修正を図るところにあるのだから,伝える側が,「あなたは,○○です」と返すことで,自分の自己認識や自己イメージ,自分の振る舞い,言動を軌道修正したり位置確認をしたりすることになる。

その意味で言えば,フィードバックは,相手が自己認識を確認したり修正ができるように返す,ということができる。承認は,こちらの受け止めた相手認識を伝えるので,そのことによって,軌道修正することは同じだが,基本は,プラス要因を伝えることが多いので,自尊感情,自己肯定感を刺激し,自分のプラス要素を広げていくのに有効なのではないか,という気がする。

ただ,この承認にしろ,フィードバックにしろ,両者に信頼関係という土台のないところでは機能しないので,ひょっとすると,承認の大前提は,相手を信頼し,相手を受け止め,丸ごと受容してくれるという環境を設定すること自体が,相手への承認になっているのであり,その上にこそ,事実にしろ主観にしろ,承認を伝えていくことに一層効果があると言えるだろう。

とすると,笑顔や頷き,感嘆といった返し自体も,その雰囲気づくりには有効ということになる。あるいは,そもそも相手に好奇心をむけて,聞く姿勢そのものが,相手を承認している,と言えるはずである。そういえば,ジョセフ・オコナーは,コーチングのスキルは,注意を向けることに尽きる,と言っていた。

ところで,コンプリメントの直接コンプリメントと間接コンプリメントとの関連で言えば,承認にも,直接伝える以外に,間接の承認があり得るのではないか。

つまり,そこに存在していることに気づいていると表明したり振る舞いで表すこと,相手の存在を認め,更に相手に現れている違いや変化,成長や成果にいち早く気づき,それを相手に伝える,というアクノレッジメントには,直接そのことを伝えることの他に,相手の変化や成長を前提にして,
「なぜそんなことができたんですか」
「どうしてそんなことをしようと思ったんですか」
と,その先を相手に質問する方法があるはずである。仮に,それを間接的なアクノレッジメントと呼んでおくと,そういう効果のある質問は肯定質問を呼ばれ、下記のような例が挙げられる。この質問をする場合,質問する側に,そのことが既に相手ができている,という承認を前提にしており,そのことは相手にも伝わる。

間接的なアクノレッジメントのための肯定質問例
1. どうやって(そんなことが)できたんですか
2. 何がきっかけでそうしようと思ったのですか
3. それができたわけを教えてください。
4. あなたにそんな力があると,どこで気づいたんですか
5. どうしてそんなことが可能になったんですか

6. どんな幸運がそれを可能にさせたんですか
7. どういうふうにそれがうまくいったのですか
8. 何がうまくいったのですか
9. そうしたらいいとどうしてわかったんですか
10. (それをしたことで)何が変わりましたか

11. (なしとげた後)何から変わったとわかりましたか
12. どんな学びがありましたか
13. そこから何がえられましたか
14. そこからさらに学べそうなことは何ですか
15. そこで役に立ったことは何ですか
 
16. 誰(何)か助けになったものはありますか
17. どんことをやってそれができたんですか
18. いまからもっともっとできそうなことは何ですか
19. どうやってそんな心境になれたんですか
20. そんな状況なのにどうしてそれが可能だったんですか

肯定質問も,コンプリメントのように,もう少し整理できるのかもしれないが,こう見ると,実はコーチングらしいポジティブ質問は,そのまま承認の意味を持つ可能性があると言ってもいい。そして,承認された側は,自己肯定を許容されて,自己イメージが膨らみ,自分の中に隠れていた自分の可能性や潜勢力を拾い上げていくエネルギーを受け取ることになる。どっちにしても,承認は,コーチングの強力な武器なのである。いや,あるいは,コーチングという舞台そのものが,承認するためにあるのかもしれない,という気がしている。

参考文献;インスー・キム・バーグ他『解決のための面接技法(第三版)』(金剛出版),ヘンリー・キムジーハウス他『コーチング・バイブル(第三版)』(東洋経済新報社)

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  • マインドセットの切り替え

発想をスキルから考えるのもいいし,人とのキャッチボールから考えるのもいい。例のブレインストーミングストーミングは,いわば,アイデアや発想を自己完結しないためのいい仕組みだ。ブレストについては,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod083.htm

を見ておいてほしいが,そのほか,コミュニケーションにかかわるチェックリストは,次のように結構ある。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod064.htm
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0640.htm
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod06400.htm

基本的に,アイデアや発想に,否定やネガティブはないのだから,このブレスト4条件は,マインドセットの基本中の基本だろう。確か,カーネギーも『人を動かす』で言っていた気がする。
「二人の人がいて,いつも意見が一致するなら,ひとりはいらない」
と。人はそれぞれ違う。しかしその違いは,微細かもしれない。アイデアで大事なのは,その微細にこだわることでもある。アイデアを考えるのは,議論するのではない。勝ち負けでもない。正否でもない。カーネギーの言う,「議論に負けても意見を変えない」というその個を大事にしつつ,しかし,人は一方で,使い慣れた脳しか使わない,機能的固着に陥っている。自己完結は,絶対タブーなのだ。

そのほかに,考えられるのは,3つあるように思う。

第一は,どうしても外に答えを探そうとすることだ。答えは自分たちの中にある。というより,徹頭徹尾自分たちの中で考えなくては,発想とは言わない。自分たちのリソースを使い尽くす。たとえば,「正方形がいくつあるか」という設問がある。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod021.htm

この出典では,正解が巻末にあった。こういうのをパズルという。たとえば,
ためらわず,こういう人がいる。
 「ラインの交差したところは正方形ではないか」
 それに,どう反応されるだろうか。「そんなばかな」「それは禁じ手だ」「そんなことがOKなら……」
 こういう自由に考える人が必ずいる。こういう意表をつく発想は,大概はそれを押しつぶすか,面白いジョークとして聞き流されて,まともに相手にされない。こういう発想があるから,自己完結してはいけないのだ。キャッチボールする意味がある。

第二は,アイデアに正しい間違いはないということだ。こういう質問がある。「部下に,何かいいアイデアはないか,あったらどんどん出してくれ,というのだが,なかなか出てこない,出てきてもありきたりでつまらないものばかりだ,部下の発想力をアップするいい方法はないか」と。
これに,二つの疑問が浮かぶ。まず,アイデアは完成型でなくてはいけないという誤解がある。アイデアづくりとは,端緒の思いつきをキャッチボールで深めていくものであり,完成品が出てくるものではない。一緒にまとめ上げていく共同作業のおもしろさを管理職は気づいていない。いまひとつは「ありきたり」と思っているのはトップだけかもしれない,ということだ。自己完結している限り,それに気づけない。

むしろ,こう考えるべきだ。くだらないアイデアはない。くだらないといった瞬間,そのアイデアは生かされることなく,消えていく。例えば,くだらないと思ったら,こう聞いてみる。「わかった,もしこのアイデアが実現できたら,何が起こる,あるいはどういうことができるようになる」と。部下は何か言うだろう。そしたら,「その目的を実現するのに,ほかにどんなアイデアが考えるだろう」と,一緒に洗い出していく。どんなアイデアも,完結品ではない。一緒に完成していくプロセスが大事なのではないか。

第三は,まずできるかどうかを考えない。どうなったらベストかを考える。われわれは大体できることを少しずつ積み上げていく。その意味で失敗はないが,突出もできない。ダイソンがあの掃除機を提案した時,どの家電メーカーも見向きもしなかった。我々は扇風機を五枚羽,十枚羽と積み上げて,そよ風を作り出す。しかしダイソンは羽根のない扇風機をつくる。失敗しないために,「できること」を積み上げていっても,「こうなったらいい」「こういうのがあればいい」という発想から,どこまで実現可能か,どうやったら実現できるかを考えるタイプには永遠に追いつけない。

そもそも発想とは,どうしたら実現できるかを考えることであって,できることを積み上げることではない。むしろ,できない(と思われている)ことを,できる (と思える) ようにすることだと信じている。

だから,個人的には,多機能は発想とは言わない,と思っている。組み合わせることは多機能で代替してはならない。なぜなら機能をつけたして働かせるのではなく,機能を加えないで同等の働きをさせるにはどうしたらいいかを考えることが,発想だと思うからである。

川喜田二郎氏の「本来ばらばらで異質なものを意味あるようにむすびつけ,秩序づける」という創造性の定義をかみしめなくてはならない。つなぎ合わせただけではだめなのだ(それは多機能)。つなぎ合わせた時,まったく別の意味が見える。その時,機能は足したのではなく,一つになってしまう,あるいはなくなってしまう,そういうことを考えるのが,発想の面白さなのではないか。

参考文献;エドガー・ハーディ『「2+2」を5にする発想』(上出洋介訳 講談社)

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  • 共感とブレインストーミングの関係

ブレインストーミングストーミングは,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod083.htm

にあるように,4原則があるが,その中の第一条に,「メンバーの発言への批判禁止」というのがある。

「批判」は,既存の価値や知見での評価である。アーサー・C・クラークも言っている。「権威ある科学者が何かが可能と言うとき,それはほとんど正しい。しかし,何かが不可能と言うとき,それは多分間違っている」と。批判しないということは,自分の価値判断や感情,準拠枠を脇に置くことだ。そのことで,相手の声や意見が入りやすくなる。

こちらの枠組みを外すことで,シャッターが開く,そのことで相手の話が入りやすくなり,共通点見つけやすくなる。さらに相手の土俵で受けとめられれば,共感につながるのではないか。

ロジャースは,共感について,

「クライアントの私的世界をそれが自分自身の世界であるかのように感じとり,しかも『あたかも……のごとく』という性質(“as if”quality)を決して失わない−これが共感なのであって,これこそがセラピーの本質的なものであると思われる。クライアントの怒り,恐れ,あるいは混乱を,あたかも自分自身のものであるかのように感じ,しかもその中に自分自身の怒り,恐れ,混乱を巻き込ませていないということ」

が条件であると書いている。あたかも,自分のそれであるように受け取る。しかも自分の感情を混乱させるような巻き込まれのない状態で,ということです。それには訓練がいる,と書いている。

ここでは,日常的に,あるいは生活面で共感「的」であるとはどういうことなのか,を考えてみたい。

カーネギーは,「議論に負けても意見を変えない」と名言を吐いている。勝ち負けになるのは,どちらかが正しいと思っているからだ。所詮どちらも,自分の知識と経験からきた『仮説』に過ぎないと思えるかどうかだ。

この背景にあるのは,どこかに正解や正しい答えがあり,それが自説だと思い込むからだ。アインシュタインの理論ですら,仮説にすぎない。ついこの間,敗れたの破れないのと,大騒ぎになっていた。

では,仮説だとすれば,どうすればいいのか。どちらもが,自分の土俵から相手を見るのではなく,共通のテーマを,両者の頭上に置いて,それを見ている構図,を取ることではないか。これを神田橋條治さんは,二者関係から,三項関係へと呼んでいた。

こういうことだ。話し相手が部下や後輩だとして,どうしても部下のしたこと,部下の発言,部下の失敗,部下の報連相等々となると,「どうして君はそうしたの」と,上位者や先輩として,部下に話を聞く姿勢となる。それでは,どうしても部下側は,聞いてもらう立場であり,言い訳する立場になる。そういう会話のスタイルをしている限り,話をしにくいし,聞きにくい。そこで,部下の「したこと」,「発言」「報連相」「成果」そのものを,ちょうど提出された企画書を前にして,一緒に企画そのものを検討するように,部下と一緒に「したこと」,「発言」「報連相」「成果」「テーマ」を,上位者と下位者が一緒になって眺めている関係がほしい。二者関係から,そういう三角形の関係にすること。そうすることで,聞く側も,部下という属人性を話して検討しやすくなる。その位置関係は,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod064301.htm

で触れておいたので,その構図を見てほしい。コーチング的な質問で,それを表示すると,次のようになる。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod06432.htm

いわば,お互いがそれぞれの土俵から見るか,相手の土俵で一緒に考えるか,土俵を頭上に描くか,の違いになる。そのとき,マインドとしては,ブレインストーミングをするのと同じだ。つまり,批判しない,ということだ。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/view51.htm

アイデアを考えるときも,事情は同じだ。結局,自分の土俵,つまり立場,考え方,価値観からものを言うということは,相手にそれに従えと言っているのと同じことだ。そうでないなら,両者イーブンで,そこから共通の答えを探していく作業ができる。それなら,あたかも同じとみなすことはなく,同じものを見つけ出していけるのではないか。

もっと行けば,まずは相手に○を付けてしまう。フェイスブックで,「いいね!」するつもりで,相手にOKをだす。OKした以上,話を聞かざるを得ない。自分にそう課すのも一つの手かもしれない。

カーネギーは,「議論したり反駁したりしているうちには相手に勝つようなこともあるだろう。しかそれはし空しい勝利だ。相手の好意は絶対にかちえないのだから。」と言っていた。といって意見の対立はある。そんなときは,

意見の不一致を歓迎せよ−二人の人がいていつも意見が一致するなら,そのうちの一人はいなくてもいい人間だ。

を忘れないことだ。
 

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  • 場が場になる仕掛け

ただ相互にキャッチボールしているだけでは場が場として動き出さない。どんな瞬間なのか,と言われると,どうも場と一体になったり,場と距離を感じたりしながら,その場が目指しているものを,なんとなく感じ取って,それに沿っていく。あるいは場の方向を先取りしたり,導いたりする感覚のあることもある。

例えば,研修などで,あるいはワークショップという場で,そこにいる自分になじめない,その場になじめない自分から,やがてその場の中にいる自分を認め,その場にどうかかわるかを考え,さらに,その場を動かそう,あるいはその場の動きに寄与するようにかかわるようになり,やがて,一瞬だが,場の動きと一体になった感じがする。それを一人一人が体験していく中で,それぞれなりに,場の中での自分の居場所を見つけていく。

清水博先生は,こんなことを言っていました。

「自己は二重構造をもっていることがわかります。一つは自己中心的に(自他分離的に)ものを見たり,決定をしたりしている自己(自己中心的自己),もう一つはその自己を場所の中に置いて,場所と自他分離しない状態で超越的に見ている自己(場所中心的自己)です。私はこの構造のことを,自己の二活動領域とか活動中心と呼んできました。即興劇では,場所中心的自己がドラマのシナリオをつくり,自己中心的自己がそのシナリオに沿った演技(自己表現)をしていくと考えられます。
 わかりやすく言うと,自己中心的自己は場所の中に存在している個物(ストーリーの中で守護として表現されるさまざまな個物,名詞)を対象として,自他分離的に捉えたり,表現したりする働きをもつています。また場所中心的自己はその主語の場所の中における状況を述語するのです。その結果ドラマのシナリオの中では,自己の二活動領域が一緒に働いて,『個物的な主語について述語する』という形式が与えられるのです。」(『生命知としての場の論理』)

宮本武蔵の真剣勝負に臨むときの心構えが例に出されていますが,「相手を対象化して正確に捉える『見の目』と,場所の中に置いて超越的に捉える『観の目』をもって敵を見る」といいます。そこまでいかなくても,グループの中に入った時,似たようなことをしていることに気づきます。

C・オットー・シャーマー氏は,「グループが針の穴を抜ける」という言い方をしていました。その瞬間は,「いつでも時間の流れがゆるやかになり,周囲を取り巻く空間が開かれていくように思う。我々は自分たちの言葉やしぐさ,思考を通して微細な存在の力が輝くのを感じた。未来の存在が見守っていて,我々に注意を向けているようだった。」「グループや組織の関係者が,異なる場から見たり感じたりするようになるのは,この地点」なのだ,という。「未来の領域と直接つながり,その未来の領域が伝える(触発)するやり方で行動できるようになる。」これを,プレゼンシングという。未来の可能性からものを見,出現する未来から自己にかかわっていく動きのことだ,という。 (『U理論』)

そこでは,
まずグループのメンバー間に強いつながりが感じられる。
次に,人々の間に真の存在の力が感じられる。
このレベルのつながりを経験すると,いつまでも続く微細な深い絆ができる。
という。しかし,そのグループへ入るには,それなりの覚悟と手放す作業がいる。「そのたびに敷居を超える」感じだという。

「サークルへ入るときは,まるで死んでしまいそうな感じになります。だから,その感じに気づいたら受け入れることにしています。境界を超えるときは,死ぬときはこういう風に感じるに違いない,というような感覚です。」
「全員が境界を超えると,私たちの状態は変わり,集合的な存在を得ます。私たちは新しい存在,『サークルという生命体』の存在を得ます。私の経験では,境界を超えないことには『サークルという生命体』は経験できません。そのあと,その『サークルとしての生命体』は一個人としての私を超えます。もはや個人としての私はほとんど問題にならないのです。けれど,逆説的ですが,同時に個人としての私もはっきりしてくるのです。」

まさに,自己中心的自己と場所中心的自己が,その場で一体化している感じです。なかなかそういう機会をえられないのは,ひとつは,そこへ入る覚悟をする時に,自分が何か手放すことを拒んでいるためだし, その場でも,自分を場の中に立たせず,分離したままでいようとしていたせいではないか,と気づかせられます。

『場を保持する』ために,その場で必要なのは,場を保持するための,三つの聞く力だという。

第一は,無条件に立ち会うこと。
「立ち会うこと,つまりここで話している保持することの特質は,個人がサークルの源(ソース)と同一化することです。」
「一人ひとりの何かを見る目,感じる心,聴く耳が,もう個人のものではなくなるのです。ですから,予測を状況に重ねてみることはほとんどありません。生命がその瞬間に起こすことに対して自分たちを開くこと以外の意図はほとんどありません。ただ感受性があるだけで,何の企てやもくろみもありません。判断をせず,ありのままを祝福して受け入れる精神だけです。」

第二は,無条件の愛で水平に開くこと。
「部屋のエネルギーの焦点は頭から心臓のあたりに降りてきます。というのは,ふつうその入り口は誰かの心が本当に開いたときに,そしてもちろん領域の存在が感じとられたときに生じるからです。エネルギーの場は降りていくほかないのです。」
「個人的ではない愛には祝福があります。その愛は個人を超越しているということです。個人の人格は関係ありません。私たちは集団としてこの個人を超越した場のレベルを,ただ保持できているだけだと私は思っています。」

第三は,どこ注意を向けるか。
「私たちには真の自己を見るという合意があります。私たちの中の誰かがどんなことをしようと,ほかのひとはその人がしくじったとは考えません。そういう風には考えないと決めているのです。その行為の意図は本来の自己にあるのです。人のためにしてあげられるもっとも素晴らしいことの一つは,その人の本来の自己を見つめることです。私がそれを見ることを通して,その人はもっとも自分自身を生きられるようになる。」

そのとき,「私は大きな人物になったようなに感じます。私自身の存在が充実していく感じがします。」と。

これはあるいはコーチングという場の目指すもののような気がします。そういう場で,「たくさんのことが見えるようになり,もっと多くの自分を経験する」のであり,その場でなければ出会えない,何かがある,というような。

そういえば,そういった場の中の自己なしには,人間は存在しえない,社会的な存在であり,場所的状況を切り離して,自分を語るのは,「自己言及の病理」と清水先生は言っておられました。

参考文献;清水博『生命知としての場の論理』(中公新書),C・オットー・シャーマー『U理論』(英知出版)

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  • 企と画の微妙な関係

 企画の「企」の字は,「人」と「止」と分解されます。「止」は,踵を意味し,「企」は,「足をつま先立て,遠くを望む」の意味とされます。いわば「くわだて」です。「画」は,はかりごと,あるいは「うまくいくよう前もってたくらむ」の意味です。いってみれば,プランニングです。企画とは,「現状より少し先の完成状態」を実現するためのプランを立てることになります。この「現状より少し先の完成状態」が,いわば企画で実現したい理想やアイデアといわれるものに当たるでしょう。

ここから大事なことがふたつ言えます。
 @アイデアだけでは企画にはならない,それをどうすれば実現できるかの具体策,つまり「画」を伴ってはじめて企画になる,ということです。
 A現にいま起きている,何をすべきかが明確なことは,企画の対象ではなく,いますぐ対応のアクションをとるべき事柄だ,ということです。いま起きていることは,企画の対象ではないとは,こういうことです。たとえば,いま窓ガラスが割れたとします。すると,誰なら,いつまでに,いくらでやるか,とすぐに動き出します。割れたガラスを見ながら,このガラスを修繕するためにどういう企画をたてるかなどと考える人はいません。「何をすべきか」がわかっているとはこういうことです。しかし,このときの対応にはわかれるはずです。

 第1は,その当該の問題を解決するだけで,「よかった,よかった」と終えてしまうタイプ。次にガラスが割れるまで,何も考えないでしょう。ここからは,発生する問題の処理に追われるだけで,企画は生まれません。
 第2は,「何で,こう簡単に割れてしまったのか。確か2ヵ月前にも割れた」と考え,「割れにくいガラスにするにはどうしたらいいか」,「割れる前にその前兆をわかるようにするにはどうしたらいいか」「割れても罅ですむようなものにするにはどうしたらいいか」等々と考え始めるタイプ。このとき,企画の端緒にたっています。ただ,それが自分の裁量でできることなら,企画をたてるまでもなく,すぐに自分が着手すればいいことです。もし自分の裁量を超えているなら,相手が上司かお客さんかは別として,その人を動かすために,あるいは説得するために,企画が必要になります。時間もコストも,相手に権限があるからです。その人に動いてもいいと思わすためには,説得できるだけの意味と成果が示せなくてはなりません。これが,現実に企画というものを必要とする一瞬です。ここでいうのは企画書ではなく企画です。口頭で説明するだけでも,相手を動かせるからです。

 そうすると,相手からみた場合,企画には,次の3点が不可欠となるはずです。

@何のためにそれを解決(実現)しようとしているのか。企画は目的ではない。何のためにそれをたてようとしているか,それを実現することにどんな意味があるのか。意味のないことに手を貸す人はいないのです。
A企画にどんな新しさがあるのか。わざわざ金と手間をかけてやる以上,いままでさんざんやったことではいみがない。何か新しいこと,何か新しい切り口が必要だ。それは,やることの意味にも通ずることでしょう。
B企画を実現するプランは具体化されているか。どんなリソースを使って,どういう手順で,いつまでに達成できるのか,実現するためのシナリオは明確か。「画」がなければ企画ではないのです。「画」は,「それは無理だ」への,企画するものの説得材料なのです。「画」がなければ,単なる思いつきにすぎないのです。

 しかし企画力と企画を立てる力とはイコールでしょうか。確かにAとBは企画を立てる力といえるでしょう。解決プランニング力である。けれども「これを何とかすべきだ」「こういうことを実現したい」と感じなければ,そもそも企画はスタートしないのではないでしょうか。それが@の背景にあるものになるはずです。これを問題意識と呼ぶとしましょう。
このままでいいのか,何とかならないか,という思いである。この強さは,明確な目標(こうしたいという期待値)と目的(それをするのは何のためか)が明確であることと比例する。だからこそ,この思いを企画にする必要がある,企画にすべきだ,と感じる。これは,問う力といっていいはずです。これこそが多分企画力でしょう。

こう考えると,企画力は特別なスキルではないのではないかという気がします。仕事をするとき,常にいまのままでいいのか,どうしたらより新たなものにしていくか,を考えていく姿勢が求められています。その問題意識が自分の裁量内でできることなら,やるかやらないかが問題となります。しかしそれが裁量を超えたとき,その問題意識を実現するために企画が必要になる。周囲を巻き込まなくては実現できないからです。これは別の言葉で言うと,リーダーシップの問題でもあるはずです。リーダーシップとは,己の裁量を超えたとき,そのおのれの仕事への思いを実現しようとするために,周囲を,上位を巻き込もうとするスキルである。そのとき,企画は,おのれの思いを明示する旗となります。この旗がなくては,リーダーシップが自分のものになりません。これを実現するために,人を巻き込むのであって,旗なしのリーダーシップは,単なる役割行動に過ぎません。

企画の「企」は,「人」と「止」であり,人が爪先立って遠くを見ることだという意味は,企画力とは,仕事をするものにとって,その仕事にどれだけ未来を見ているかを測る基準でもあるということです。実は企画を立てる力は,それを実現するための手段スキルに過ぎないのです。

ところで,問う力は,近似の言葉に置き換えるとクリティカル・シンキングに該当します。問う力を考えるとき,『知覚と発見』(N・R・ハンソン,紀伊國屋書店)を挙げないわけにはいきません。新科学哲学派のクーンと並ぶハンソンの遺稿ですが,問う力とは何かを考えるための必読書であると信じて疑いません。とりわけ,上巻は,何が当たり前として見逃させるのか,どう先入観を崩すか,ものの見方を変えにくくさせるのは何か,等々が丹念に分析されているのです。

清水博さんは,「創造の始まりは自己が解くべき問題を自己が発見すること」と言っていますが,それは,「これまで(自分のいる場所で)その見方をすることに大きな意義があることに誰も気づいていなかったところに,初めて意義を発見すること」といっています。まさに,だから新しく,だからそれを解決することに意味があるのだということになるはずです。

参考文献;N・R・ハンソン『知覚と発見』(紀伊國屋書店),清水博『生命知としての場の論理』(中公新書)

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  • 自分を開くことが対話の道を開く

自分を開く以上,そのことで,人と深くつながりたい,と考えているはずだ。そのことを少し深めてみたい。そして,その究極,人との対話にどうつなげていくかが,その目的になる。

他の人間そのものに自己を向け,自己の中に世界を受け取る。わたしの存在によって受け入れられ,全実存の圧縮の中に,わたしと向かい合って生きる存在の他者性のみが,わたしに永遠の輝きをもたらすのである。存在のすべてをあげて,相互に語り合い,<なんじはそれなり>というときのみ,彼らの間に現存の住み家が存在するのである。(ブーバー『対話』)

これから,

一人の人をほんとうに愛するとは,すべての人を愛することであり,世界を愛し,生命を愛することである。誰かに「あなたを愛している」と言うことができるなら,「あなたを通して,すべての人を,世界を,私自信を愛している」と言えるはずだ。(フロム『愛するということ』)

が,ちょうと裏返しのように対になっている。「そこにいるあなた」を,他にかけがえのないものとして意識することを通して,そのひとのいる世界を受け取る。それは,裏返せば,その人を愛することを通して,その人がここにいること,あるいはその人がこうして,いま,ここにいる世界をまるごと受け入れることに通じる。その人とともにその人のいる世界を受け入れることだ。

もちろん,これは「愛」について言っている。しかし「愛する」もの同士の関係は,実は相互に相手をどう受け入れるか,という関係性の典型的なあり方を示しているが,特殊な関係ではないような気がする。

アダム・カヘンはこう言っている。

私たちは,すべてのステークホルダーの人間性と自分自身の人間性に目を向け,耳を傾け,心を開き,受け入れない限り,人間の複雑な問題に対する創造的な解決策を生み出すことはできません。創造性を発揮するには,私たちの自己のすべてを必要とします。私たちの思考,感情,人格,経歴,欲望,そして魂を必要とするのです。固定された事実や考えを理性的に聞くのでは十分ではありません。相手が自分の可能性や彼らの置かれている状況の中に存在する可能性に気づくことを促すような聴き方をする必要があります。この種の聴き方は相手の横で感情を共有する,いわゆる「同情」ではありません。彼らの内側から分かち合う「共感」なのです。このような聴き方は,既存の異なる考えに目を向けることを可能にするだけでなく,新しい考えを生み出すことを可能にしてくれます。

そしてこのとき,聴き方について,オットー・シャーマーの4つの聴き方を紹介している。

@ダウンローディング(Downloading) これは,『U理論』で紹介されていたものだが,自分のストーリーの中から聞いているというもので,いつもの自分の言い方,聴き方から離れないやり方である。自分の言っていることや聞いていることが単なるストーリーでしかないことに気づいていず,他人のストーリーには耳を貸さない。自分のストーリーを支持するストーリーだけを聞き取る。

Aディベーティング(debating)  討論という聴き方。このとき,討論会や法廷の審判のように,外側から互いの話や考えを聞いている。

ダウンローディングやディベーティングをしているときは,既存の考えや現実を提示し,再生しているだけで,何も新しいものを生まない,と,アダム・カヘンはいっている。

Bリフレクティング・ダイアローグ(reflective dialogue)  内省的な対話。自分自身の声を内省的に聴き,他の人の話を共感的に聴く。主観的に「内側から」聴く。

Cジェネレーティブ・ダイアローグ(generative dialogue) 自分や他人の話を内側から聴くばかりではなく,「システム全体」から聴く。

BCが,世界の紛争当事者との間で,どんな対話をしたのかは,著書を見てもらうことにして,コーチングとの類比を感じました。当然聴くというテーマなのだから,当たり前といえば当たり前だが。

コーアクティブ・コーチングでは,傾聴を3レベルに分けている。

レベル1 内的傾聴 意識の矛先は自分自身。つまり自分の内側の声。自分の考えや意見,判断,感情,身体感覚に意識が向く状態で,クライアントにふさわしい傾聴レベルとする。

レベル2 集中的傾聴 コーチの意識は,レーザー光線のように,クライアントに向いており,すべての注意がクライアントに注がれている。恋人同士の関係性をアナロジーとして使っている。

レベル3 一つのことに焦点を当てるのではなく,自分の周りのあらゆるものごとに意識の焦点を向ける。

つまり,傾聴のレベルでは,少なくとも,自分が「開かれ」ており,「愛」の関係に近く,自分だけではなく,相手および相手の世界に対しても開かれていなくてはならない。


対話について,物理学者デヴィッド・ボームは,こう書いている。

対話では,人を納得させることや説得することは要求されない。「納得させる(convince)」という言葉は,勝つことを意味している。「説得する(persuade)」という語も同様である。それは「口当たりのいい(suave)」や「甘い(sweet)」と語源が同じだ。時として,人は甘い言葉を用いて説得しようとしたり,強い言葉を使って相手を納得させようとしたりする。だが,どちらも同じことであり,両方とも適切とは言えない。相手を説得したり,納得させたりすることには何の意味もないのだ。そうした行動はコヒーレントな(一貫性のある)ものでも,筋の通ったものでもない。もし,何かが正しいのであれば,それについて説得する必要はないだろう。

そして,こういう。

概して,自分の意見を正当化している人は,深刻になっていないと言っていい。自分にとって不愉快な何かをひそかに避けようとする場合も,同様である。(中略)
だが,対話では深刻にならねばならない。さもなければ対話ではない−私がこの言葉を使っている意味での対話とは言えないのだ。フロイトが口蓋の癌に侵されたときの話をしよう。フロイトのもとへやってきて,心理学におけるある点について話したがった人がいた。そのひとはこう言った。「たぶん,話などしないほうがいいのでしょうね。あなたはこれほど深刻な癌に侵されているのですから。こんなことについてはお話したくないかもしれませんね」。フロイトは答えた。「この癌は命にかかわるかもしれないが,深刻ではないよ」。言うまでもなく,フロイトにとっては単に多数の細胞が増殖しているだけのことだったのだ。社会で起きていることの大半はこんな表現で言い表せるだろう−それは命にかかわるかもしれないが,深刻なものではない,と。

対話は,そのように,相手に対して,自分を開くことなのだ。その時,自分が開いた分,相手も開く。平田オリザは,対話と会話を,

会話とは,複数の人が互いに話すこと。またその話。
対話とは,向かい合って話し合うこと。またその話。

とし,

会話は,価値観や生活習慣の近い親しいもの同士のおしゃべり
対話は,あまり親しくないもの同士の,価値観や情報の交換

とした。この区別を,中原淳・長岡健は,雑談,議論と対比して,

雑談とは,自由なムードの中で,戯れのおしゃべり
対話とは,自由なムードの中で,真剣な話し合い
議論とは,緊迫したムードの中で,真剣な話し合い

とした。この「真剣」が,ボームの言うように,おのれの身を削るような,深刻さをもっている,という意味で受け止めていい。ただし議論と違うのは,納得や説得ではない,ということだ。雑談には,たとえば,喫煙ゲージの中が濃密な会話になっているように,結構重要なことは雑談で話される。

ところで,カーネギーの『人を動かす』に,

議論に負けてもその人の意見は変わらない。

とある。対話のイメージは,ブレインストーミングでのアイデアを出していくのと同じだ。批判せず,自由に,相乗りして,たくさん。

そのとき意見は,仮説と考えて,共通の認識を作っていくプロセスは,ブレストのマインドだと考えていい。たとえば,会話だって,こういわれる。

(自分の)発話の意味は受け手の反応によって明らかになる。

後続する会話によって先行する会話の意味が組み替えられていく。

ここに,対話の面白さがあるはずなのだ。話すことで,その話の中身が,相手の当てる光によって,少し意味を変える。それは,発話したことの中身が,自分が意識しない,幅と奥行きを持っているということなのだ。だから,自分の意味だけに固執すれば,その豊かな意味の世界は閉ざされてしまう。

ボームは,ある深刻な対話のことを,こう書いている。

彼らは互いに説得したかどうかよりも,話し合えたことの方が重要だ。何か違うものを生み出すためには,それぞれの見解を捨てなければならないと,きづいたのかもしれない。愛を好む人がいれば憎しみを好む人がいたとか,疑り深くて慎重でいささか皮肉屋であることを好む人がいたとかといった事実は重要ではない。実のところ,一皮むけば,誰もがみな同じだったのである。どちらの側も頑なに自分の見解にしがみついていたからだ。したがって,その見解に妥協の余地を見出すことが,鍵となる返歌だった。

「開く」の重要性がここにある。閉じていた方が安心というのは,自足しそのままにとどまることを望んでいることになる。

対話で理解が深まるのは,他者のことだけではありません。他者を理解すると同時に,自分自身についての理解を深めることができるのです。「対話」の効果とは何かを考える時,これはとても大切なことですが,「対話」の中で自己の理解を語り,他者の理解と対比することで,自分自身の考え方や立場を振り返るのです。つまり,「対話」は,自己内省の機会ともなるのです。(中原淳・長岡健『ダイアローグ』)

さらに,ミードの例を引いて,こういう。

ミードによれば,自己とは「本質的に社会構造であり,社会経験の中から生じる」存在と理解することができます。もし,世の中に自分一人しか存在しないなら,そもそも「自分らしさ」なんて意識する必要がありません。自分以外の他者がいるから,「他者の目」には自分がどう映っているかを考え始めるのです。つまり,「自分らしさに気づく」とは,他者の目に映る自己イメージ―自己に関する首尾一貫した物語―を自分自身でつくり上げていくということです。人は「自分のイメージ」「自分の物語」を自分だけでつくることができるわけではありません。他者への語りかけ,他者のまなざし,他者の言葉を通して「自分の物語」をつくり,ときには編み直すのが人間なのです。

人とのやりとりを通して,自分が耳にしたこと,人との対比の中で気づいたことを通して,気づきが生まれる。

気づきを積み重ねていくことが,「自己像を紡ぎ出す」=「自己理解を深める」ということです。だから,自己理解を深めるには,ひとりであれこれと思い巡らすだけでなく,「対話」を通じて,自分の考え方や価値観を他者に語ることが効果的なのです。

対話は,結果として,自分の物語を語ることを通して,それぞれが自己理解を深めると同時に,二人,ないし三人,その場の対話相手と一緒に,きったく新しいストーリーを作り出していく場でもある。つまり,

人は「対話」の中で,物事を意味づけ,自分たちの生きている世界を理解可能なものとしています。人が物事を意味づけるときに,独りでそれに向かっているのではありません。相互理解を深めていくには,単に「客観的事実(知識・情報・データ等々)そのもの」を知っているだけでなく,「客観的事実に対する意味」を創造・共有していくことも重要となるのです。特に,個々人の経験や思いについてストーリーモードで積極的に語り合うことで,自己理解と他者理解が相乗的に深められ,新たな視点や気づきが生まれてくる…

そういえば,ドラッカーは,情報とは,データに意味と目的を加えたものである,と言っていたが,一人ひとりが,「客観的事実に対する意味」を語る,それをどう受け止めて,それからどうなったかと,「自分の考え方や価値観を他者に語る」ということは,客観的な何某の知識・事実ではなく,自分の側で起きている主観的な世界を語ることになる。「語る」ということ,それを「ストーリーモード」と呼んでいるが,それは自分を対象として,自分の物語を語ることになる。

参考文献;
アダム・カヘン『手ごわい問題は対話で解決する』(ヒューマンバリュー),中原淳・長岡健『ダイアローグ』(ダイヤモンド社),デヴィッド・ボーム『ダイアローグ』(英治出版),平田オリザ『わかりあえないことから』(講談社現代新書)

 

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  • チェックリストをつくる4つのパターン

チェックリストには,いろんなタイプがある。学問的なものでないという前提だが,いいままで,いろいろ試しに作ってみたのが,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod063.htm

ここにある。この程度のものは,そんなにつくることは難しくない。というか,こういうものをコツコツ作り上げていくのが大好きなのだ。管見によればだが,チェックリストは,おおよそ4つのタイプに分かれるように思う。

第一は,いわゆる,チェックして総数を数えて,全体の傾向や,自分の特徴をつかんでいくタイプ。これが一番多いし,バリエーションが出しやすい。

例えば,コミュニケーション力では,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod06394.htm

リーダーシップでは,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0630.htm

アイデア力では,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0639.htm

というようなものが作れる。要は,気になる項目をリストアップしていけばいい。思いつくままでもいいし,そういうたぐいの本を取り出して,必要なチェック項目になりそうなものをリストアップしていけばいい。

例えば,良寛に,「戒語」というのがある。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod065.htm

これは,何種類もある戒語を集めて,整理しただけだ。それでも,人との付き合いでの嫌なコトリストになっている。これなどは,良寛が,ただ無作為に,思いつくまま嫌われるリスト(嫌いな振る舞いリスト)を列挙しただけのものだ。これも,全体の過不足を見ながら,洗練すれば,きちんとした「人に嫌われない付き合い方リスト」にできる。

第二は,傾向や必要項目をリストアップするもの。

コミュニケーションタブーをリストアップするか,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod064.htm

前に挙げたが,コミュニケーション力として必要なものを,俯瞰して,聞く力,伝える力,自己開示力,感情コントロール力,人と関わる力,モニタリング力といったように整理してみると,もっともらしくなる。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod06394.htm

あるいは,オズボーンのチェックリストに代表される,いわゆる発想チェックリストもこれにはいる。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0831.htm

この場合は,ただリストを上げただけではなく,発想に寄与する項目をリストしなくてはならないので,何でもいいというわけにはいかないが,5W1Hのように通常使われているものなども,経験則から絞られたとみることができる。

第三は,専門の心理テストほどにトライや結果を厳選していないが,ある程度の傾向値が出せるもの。エゴグラムも,正式なものではないが,つくろうと思えば作れる。ただし,学問的ではないので,目安程度のものだ。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod06422.htm

第四は,マネジメント力とか管理能力のような,もう少し全体像を見ようとするもの。

例えば,管理能力全体を行動レベルに落として,チェックリスト化したものとしては,
管理者の行動分析例を取れば,「チーム方針策定」「メンバーの目標統合」「仕事の進捗管理」「リーダーシップ強化」「活力ある職場づくりのマネジメント」「業務を通しての部下指導」と,管理場面に応じて作っていくことになる。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0622.htm

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod06220.htm

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod06221.htm

あるいは,管理者の部下指導力に特化してチェックリスト化しようとすると,管理者の日常行動,マネジメントスタイルそのものが,部下への仕事の価値観,業務遂行で何を重視するかを教えていくことになる。その面から,管理行動をチェックしてみると,あらゆる機会が部下指導につながるはずである,という仮説のものとに,チェックリスト化を試みている。管理者の行動分析例の部下育成側面だけにピンポイント化したいると言える。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/view56.htm

こういうと,口幅ったいが,どんなものでも,とりあえずチェックリストはできるが,
@ まずは,目的を限定すること。たとえば,コーチングスキルというように。
A 次は,それに必要なアクション,あるいはマインド,あるいは姿勢,身構え等々をブレークダウンする。この場合,たとえば,何か目安になるものがあると,漏れを見つけやすい。5W1H,ヒトモノカネ,あるいはPDCA等々。
B 最後は,それを整理して必要なものにし,仕えるかどうかは,試してみる期間がいるだろう。

以下は,発想力アップのためのマイ・チェックリストづくりの手順を書いたものだが,これは他にも応用できるはずである。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/view40.htm

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/view41.htm

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/view42.htm

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/view43.htm

本当は,目的によって違うが,発想という観点なら,2つか3つが使いやすいチェックリストだと思う。そのあたりも,目的から最小限のものをつくることがベストだ。
自分は,対,ということと,目的対比を念頭に置く。どつぼにはまっているときは,選択肢を失っている。その時の救いの「藁しべ」のつもりだ。

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  • コミュニケーションの齟齬を減らすちょっとした流儀

コミュニケーションで言えば,良寛には,「戒語」といわれる戒めがいくつかあるが,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod065.htm

これは,いわばしゃべり方や振る舞いを言う。つまりコミュニケーション・タブー集だ。ここでは,それよりは,コミュニケーション齟齬をなくすためにどうしたらいいか,そのためのちょっとした工夫に触れたい。言ってみれば,できている人にとっては,ありきたりで,当たり前のことなのかもしれないが。

例えば,職場やチームで,コミュニケーションがとれているとは,どうなっていたらコミュニケーションがとれていることなのだろうか。

コミュニケーションが必要なのは,役割を割り振って,あとは蛸壺にはいってひとりひとりが背負い込んで黙々と仕事をする職場にしないためだろう。そういう職場は,チームにはなっていない。単なる個人商店の集まりにすぎない。あるいは組織として仕事をしていない。

仮に組織やチームの目指すものをどう分担するかがわかっていたとしても,チームではないのではないか。チームで仕事をするとは,一人で仕事を抱え込まず,他人にも仕事をかかえこまさない仕事の仕方のことだと考えている。そこではどんな仕事も,自分一人でやっているのではないという了解がとれている,些細な問題もチームに上げ,チームで解決すべきことはチームで解決しようとし,上位部署もまきこんで解決すべきことは上司を介してより上位にあげていく。そのときもし自分のやるべきことをチームにあげたとすれば,「それは君の仕事だ」と,本人につき返すことができるのが,チームなのではないか。そういうコミュニケーションがとれていてはじめて,チームの要件としてのコミュニケーションがとれているといえるのではないか。と,まあ考えている。

いきなりそこまでは無理として,とりあえず,ぎくしゃくしたコミュニケーションではない,あるいはせめてコミュニケーションの齟齬がない,言った・聞いてない,頼んだ,頼まれてない,という消耗なやり取りを減らすにはどうしたらいいのか。

まず,第一は,コミュニケーションの開始に手続きがいるのではないか。あるいは手続きがわかれば,せめて歩留りはよくなるのではないか。
コミュニケーションは自分の話したことではなく,相手に伝わったことが,自分の話したことである,と言われる。仮に自分が10話したとしても,相手に2しか届いていなければ,私の話したことは,2だということだ。そうなれば,相手にできるだけ届くようにする必要がある。

そのために,まずは,相手に聞く姿勢になってもらう必要がある。何かをしながら,聞くのではなく,こちらを向いて,自分の話を聞く身構えになってもらわなくてはならない。
そのためには準備作業がいるはずである。話し手と聞き手の両者が,共通の何かについて話す・聞く関係をとっているという,仮にそれを土俵と呼ぶとすると,同じ土俵に立っていることを意識してもらわなくてはならない。同じ,話す・聞く関係性を意識して初めて,聞くのが始まると考えなくてはならない。
たとえば,一対一の対話なら,
「いまちょっといい?」
「いま,5分いい?」
「ちょっと話がしたいのだが,いい?」
「いま手が離せる?」
等々と,聞くところからはじまるだろう。

相手が都合が悪いと言えば,
「何分後ならいい?」
「後でまた声かけてみるから,その時よろしくお願いします」
等々とやり取りするかもしれない。ミーティングなら,事前の日程調整からはじまるだろう。

なぜこんなことにこだわるかというと,人は仕事しながら,聞いているときは,こちらが話している途中から,意識しだすかもしれない。あるいはうわの空で聞き流すかもしれない。だって,何かしているときは,そちらに意識が向いている,聞こえる声に意識が向くまでは,タイムラグがある。

仮に,いいと言っても,こちらに向き直ってくれるまでは,意識は,途中の作業の方に向いているかもしれないのだ。

そこで第二に,共通の土俵にのっていなければ,歩留りは悪いはずである。口頭のメッセージの歩留まりは25%という説がある。ましてや,何かをしながらでは,もっと歩留りが悪いはずだ。

どのレベルのコミュニケーションでも,相互の間で,お互いに「どういうテーマ(話題)」を話しているかについて共通認識ができていなければ,すれ違いざまの挨拶にすぎない。共通に何について話しているという土俵がないところでは,コミュニケーションは成立しないとかんがえるべきだろう。仮にコミュニケーションしても,「言った,言わない」が必ず起きる。あるいは頼みごとなら,とんでもないことが実行されたりする。

一対一なら,「ちょっといい」といい,相手が向き直ったら,「何々について話したい」のだが,いいかと,確認することになるし。ミーティングなら,アジェンダの周知になるだろう。ミーティングでやることが,一対一のコミュニケーションでもひつようなのだろう。

そこで,少なくとも,何かについて,一緒に話している認識はできる。しかしそれでOKかというと,そうでもない。人は,聞きながら,勝手な解釈をする癖がある。例えば,前にもふれたが,記憶には,

・意味記憶(知っている Knowには,Knowing ThatとKnowing Howがある)
・エピソード記憶(覚えている rememberは,いつ,どこでが,記憶された個人的経験,自伝的記憶と重なる)
・手続き記憶(できる skillは,認知的なもの,感覚・運動的なもの,生活上の慣習等々の処理プロセスの記憶)

がある。意味は同じでも,まったく違うイメージを各自が自分のエピソード記憶から当てはめているかもしれない。
そのために,伝え方にも工夫がいるかもしれない。たとえば,

・一時にたくさんのことを伝えない,
・簡潔に,言いたいことは三つ,1つは何々,2つは何々,3つは何々,と明確にする,
・簡潔な刷り物(メモ)を一緒にする。そうすると,歩留りが50%を超えるという説がある,
・大事なことを繰り返す,
・できるだけ,誤解を生まないような具体的な表現で,具体例を添える,

等々が考えられる。

第三は,伝わったことが話したことなのだから,相手に何が伝わったかの確認がなくては会話は終了していない。
 相手にどう受けとめられたかを確認するためにも,相手からのフィードバックなくては,会話は終わらない。どう受け止めたか,復唱,再現,リピート,感想,意見等々,相手に応じたフィードバックをもらうことで,伝わったことが確認できる。

第四は,指示や依頼についても,終わった後のフィードバックがいる。
 「終わったら,声をかけてね」
「終わったら,連絡ください」
「終わったら,どうなったか知りたいので,面倒でしょうが,一報ください」
ということを一言加える。あるいは,これをルールや慣習にしてしまえれば,楽になる。

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  • 提案の効果

コーチングのテキストには,提案について,

提案とは,新しい視点を提起要することです。提案と,「指示・命令」は違います。「提案」は,あくまで彼ら(クライアントを指す)が自分の責任で行動を選択することを促します。言い換えれば,「YESかNO」の選択権は常に相手にあるという立場に立って伝えるのが,「提案」です。

とある。CTI流だと,「YES,NO,逆提案」となる。逆提案が入っている分だけ,対等という感覚が強まると言ってもいい。

提案というのは,指示命令とは違う,という。しかし,望まれていないアドバイスは,命令に聞こえる。「俺の言うことをきけ」と。だから,提案も同じだ。望まれていない「提案」は,YESと言えというふうにしか聞こえないかもしれない。

人は,自分が選択したと思えなければ,強制されたと感じる。ではどうすれば,強制と感じないで,自分の選択と感じられるのか。

第一は,その選択肢の選定プロセスに,相手も一緒に加わり,そのどちらかに選ぶのがベストと感じることができている場合だ。つまり,一緒に提案の中身を,つくりかあげていくプロセスがあることだ。

第二は,選択できる,ということだ。提案が,ひとつではなく,いくつかあり,その中から,自分が自主的に選んだと感じられることだ。

その場合,二者択一では選択と言わない。「YESかNO」を迫っているのと変わらない。選択できる,という意識が持てるのは,最低限3つがいる。あまり多くなると,選べなくなる,ということをよく言うが,せめて3つの中から選べるのがいい。

その理由は,

@当然第一に述べたように,これっきゃないところから,諾否のみを求められるのは,押し付けられているという感覚が強い。特に,心理的に上位と感じている人からのそれは,強制のニュアンスがどうしても出る。コーチングではそれはないと思われるかもしれないが,そう思っているコーチは思い上がっている。クライアントには,潜在的に,「コーチに嫌われたくない」「コーチによく思われたい」という心理があり,それが強迫性をもつ。

A二つだと,二者択一,つまりあれかこれか,から選ぶことになる。これだと実際やってみるとわかるが,心理状態は諾否に近い。

B三つの良いところは,二つある。少なくとも選んだ感はある。いま一つは,人は上中下とあった場合,大概真ん中を選ぶ傾向がある。従って,相手に選んでほしいものがある時,本命をそこに置くと,割と選ぶ傾向が高まる。

その意味で,提案者にとっても,選択者にとっても,3つの選択肢は,好感度が高い。できるなら,提案する以上,相手に選んでほしいし,また相手に選んだと思ってもらいたい。

ソリューション・フォーカスト・アプローチでは,クライアントに提案(Suggestion)を行う。その場合,
行動提案(クライアントに何かするように求める)

観察提案(生活の中で解決作りに役立ちそうな部分に注意を払うように求める)
とがある。いずれを出すかは,面接中に集められた情報を基にするが,その場合注目すべきは,

「初回面接の終了時までに,ほとんど例外なく,臨床家とクライアントは共同作業によって,クライアントの望みを明確にできる。…提案を決めるために最も重要なことは,クライアントが何か違いを求めているかどうかに注目することである。」

とし,解決したい問題があり,自分が何とかしなくてはいけないと考えている状況では行動提案,問題に気づきながらも自分を解決の一部であると考えていない場合は,観察提案,といった選択基準を提起している

どうやら,提案は,協働作業として,おのずとそれをすることが自分にとって不可欠と思える状況というか,文脈をつくって,一緒にそこへたどり着くのがいいのではないか,と思えてくる。

ただ,さらに付け加えると,僕は提案は,受ける,受けない,逆提案という選択肢の中で,ただ並べるのではなく,クライアントの想定外の提案がいいと思っている。しかもそれがコーチとクライアントの協働関係の中で,必然的に飛躍が起こりうる,というようなものでなくてはならない。

ただ価値に合うとか,大きな主題に合うというコーチの理屈ではなく,それをやってみることが,いまの自分にとって必要なんだと思わせるものだ。

僕はその流れは忘れたが,絶対やりたくないものを列挙し,その中から,何かにチャレンジするという提案を,コーチから受けた記憶があるが,それは自分が変化とかチャレンジということを言ってきた文脈から出た提案であった。その文脈に納得し,その文脈に乗って,コーチとともに,やりたくないことを列挙し,その中から,選択していく。それも自分でも想定外のことを選び,チャレンジする。

それを断ったら,チャレンジという自分のやろうとすること自体が口先三寸になる。そういう文脈であった。

そう,だから,提案は,それだけが突出しても,提案ではなく,指示命令にしかクライアントには聞こえない。一連のコーチングという協働関係の中から,コーチもクライアントも,ともにそういうことだよな,と納得できる提案が,ぽろりと落ちる,しかも想定外に,そういうものなのだと思う。

参考文献;インスー・キム・バーグ他『解決のための面接技法【第三版】』(金剛出版)
 

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  • 承認の先に目指すこと

一般に,承認(アクノレッジメント)については,

「a statement or action which recognizes that something exists or true」

そこに存在していることに気づいていると表明したり振る舞いで表すこと,とされている。つまり,相手の存在を認め,更に相手に現れている違いや変化,成長や成果にいち早く気づき,それを相手に伝えることである,とした。

茂木健一郎さんは,

脳内報酬物質を放出させるきっかけになる外部からの刺激のうち,最も強力なものは,他人からの承認である。何かをやって,それを周囲から認められたり,褒められたりしたときに,そのことが脳内のドーパミンをはじめとする報酬物質を放出させるのである。その結果,強化学習が成立することになる。脳は,「他人にほめられるように」変化していくのである。

厳密に言うと,ほめると承認は違う。その微妙な差も,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod06431.htm

で触れた。承認には,そのありようの承認と,そのふるまいの承認がある。しかし,もう一つ突っ込むと,ありようの承認につながらなくては,口先のリップサービスになる。その意味では,すでに,認知に近い。つまり,ある特定の行動を起こしたり,ある特定の目標を達成したりする過程で発揮したその人の強みや良さを本人に伝えること。相手がどんな人なのか,その人自身が気づいている以上のリソースや力,価値観などを伝えることである。

ある意味でその人の遺伝子の可能性に気づくきっかけになる。それをリソースの最大化と呼んでもいい。

しかし視点を変えると,ひとは承認されるために生きているのではない。認知されなくても,おのれ自身で自分を認めなくては,次へは進めない。次のハードルへはチャレンジできない。

自分の中に,自分を動機づけ,自分をけしかけて,駆けさせる何かを持っているかどうかが,鍵なのではないか。その人にとっては,承認は,引き金になるかもしれない。あるいは落ち込んでいる自分を励ます機会になるかもしれない。

しかし順序はあくまで,自分の中にチャレンジするエネルギーがなくてはならない。

では,そのエネルギーは何か?

あるいは,自分を前へ進めさせるものは何か?

子曰く,如之何(いかん),如之何(いかん)と曰わざる者は,吾は如之何(いかん)ともする末(な)きのみ。

と。つまりは「問い」がある。問うべき何かが自分の中にある。

人には,「己の為にする」(自己の向上を志す)心があってこそ,はじめて「己に克つ」ことができ,己に克つことができるからこそ,己を成すことができる。そのために学ぶ。

克己心というが,ここで言うのは,おのれ自身の糧とするために,前へ出る。それを,自分の中にある,自分本来の仏性を生かして,おのれを完成する。見性成仏ともいう。すべてのひとがおのずから『箇箇円成』し,大なるは大を成し,小なるは小を成し,外に求めずとも,いっさいが自己に具足している。

神田橋條治さん流に言うと,遺伝子を開花させる。ただし鵜は鵜に,鷹は鷹に。見性をそうとれば,自分の中にある可能性を最大化する,「己の為にする」とはそのことだ。

それを成長欲求と呼んでもいいし,自己探検と呼んでもいい。そこに目的はない。おのれの「のびしろ」を楽しむそういうマインドが必要なだけだ。「のびしろ」は,いっぱいになると,またのびる,その繰り返しの中で,自分がどこまでの可能性をもっているのかをわくわくしながら追いかける。それが生きる楽しさなのかもしれない。

あるいは,もうひとつ踏み込むと,変身欲求,あるいは変身願望でもいい。もっと違う自分に出会えるのではないか。自分はこんなんじゃない,こんな程度ではないという,自分への期待かもしれない。

それは,ほんのちいさなことを認められる。「自分はそうなんだ」と自己認知を変えるきっかけがあればいい。自分は気づいていないが,人からはそれがその人の「凄い」点と認められるだけで,自分を見る目が変わるかもしれない。ダメだダメだ,と自分を貶め続けていたのに,その自分に厳しいところがいいと言われた瞬間,当たり前にやっている自分の行為が,自分のリソースに見えてくる。特徴に見えてくる。その「見え方」の変化する瞬間を持てたかもてないかが大きな違いになる。

人は自分のいいところに気付けると,自分の見え方が変わり,自分の見方が変わる。自分にとって当たり前のことが,人にとっては当たり前ではない。その人それぞれの当り前でないところが,その人のその人たる所以なのだろう。

承認は,その意味で,ひとつのきっかけ,その先へ行く大事な突破口なのかもしれない。

参考文献;茂木健一郎『思考の補助線』(ちくま新書),貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫),王陽明『伝習禄』(溝口雄三訳 中公クラシックス)
 

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  • リソースから考える

たとえば,以下の図を見て,何に見えるかをやってみる。もちろん正解はない。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0200.htm

人の想像力は,たいしたもので,円に直径が描かれているだけなのに,球に見たり,円筒に見たり,半分開きかけたカップ麺にみたりと様々だが,同じものを見ていても,同じように見えているとは限らない。その見え方に,その人のオリジナリティがある。たとえば,中に,円ではなく,直径の方に眼を向ける。すると,スイカといったときに,その線が気になる。皿といった時も,その線が気になる。別に正解はないので,なんと見てもいいが,人は,全体に丸める癖があるが,丸めることに抵抗する人がいる。この場合,人より,少しだけ,細かいところが気になるわけだ。

つまり,人は誰でも,自分独自の具体性のレベルを持っている。つまり,

人は同じものを見ていても,同じように見えているとは限らない。

それは,人のリソースからきている。それを意識すると,他人との具体性の差を発想の違いとして使うことができる。それぞれのレベルを左右するものにはいくつかあるが,一例を挙げると,

●記憶というリソースを考えると,一般に,人の記憶は,

 ・意味記憶(知っている Knowには,Knowing ThatとKnowing Howがある)
 ・エピソード記憶(覚えている rememberは,いつ,どこでが記憶された個人的経験)
 ・手続き記憶(できる skillは,認知的なもの,感覚・運動的なもの,生活上の慣習等々の処理プロセスの記憶)

 といわれる(この他,記憶には感覚記憶,無意識的記憶,短期記憶,ワーキングメモリー等々がある)が,なかでもその人の独自性を示すのは,エピソード記憶である。これは自伝的記憶と重なるが,その人の生きてきた軌跡そのものである。発想の独自性は,これに負うことが多い。アナロジーは,ほぼエピソード記憶に起因する。

意味レベルでは同じでも,一つの言葉にまったく別の光景を見ている場合もある。コミュニケーション・ギャップが生ずるのは,こういう場合が多い。言葉の意味を理解することと,自分なりに腑に落ちることとはギャップがある。その人の生きてきた自伝的部分が,他の人とは異なっている,ということだ。しかし発想という面で言えば,人と違う,おのれだけの独自の何かがそこにあると言えるのかもしれない。

以前メールで,「思惑」という言葉を使ったら,知人が激怒した。その言葉自体に,文脈を離れて反応したのは,意味レベルではなく,その人の体験,まあエピソード記憶から出来した何らかの感情反応に違いない。履歴を張り付けて,返信したら,本人は落ち着きを取り戻したが。これも,そういう例だ。

感覚というリソースで言うと,感覚面でも,その人特有のリアリティの差があらわれる。NLP(Neuro-Linguistic Programming 神経言語プログラミング)では,ひとは,特有の優位感覚をもっているという。

 ・視覚優位(Visual ビジュアル) 外部に向って見る場合にも,内部の心象を描く場合にも用いる。
 ・聴覚優位(Auditory オーディトリー) 外の音にも,内の音にも用いる。
 ・触運動覚優位(Kinesthetic キネステティック) 体感覚(触覚・味覚・嗅覚)。外側にも内側にも向く。

 たとえば,ビジュアル感覚に優れている人には,同じものを見ていても,詳細な部分に目が向いたりする。円に直径の,直径に眼が向いた人は,そうなのかもしれない。しかし,それは,人のもっている感覚の中にあえて優劣をつけてみただけで,ものに応じて,シチュエーションによって,あるいは一緒にいる人によって,その強弱が違うので,僕はあまり信じていない。すべての感覚を持っていて,たまにそれの強弱が出るだけだと考えていい。優位を大げさに言うと,勘違いを起こす。

時々思うが,「具体性」というのは,人によって違う。それぞれ自分にとっての当たり前をもっている。たとえば,上司が「具体的に言え」と言うとき,上司が,とんでもない「くそリアリスト」だと,詳細なディテールを求めている。部下が,超アバウトだと,本人がどれだけ具体的に語っても,上司の具体性には届かないだろう。

あるいは,一言で,「上から」といったときも,上は,二階からなのか,木の上からなのか,屋上からなのか,高層ビルの上からなのか,人によって一瞬思い浮かぶレベルは違っている。それがその人の当り前だから。

しかしその当たり前は,意識的に動かすことができる。ただし,それに気づけば,の話だ。たとえば,東京タワーの上から,飛行機の上から,人工衛星の上から,月から等々。そのことによって,具体性のレベルを変えていける。

因みに,具体的かどうかの原則は,次の3点。

 ・他にないたったひとつの「もの」や「こと」であるかどうか
 ・心の中に,気持ちや感情を動かすイメージが浮ぶかどうか
 ・特定の何かをそこから連想させる力があるかどうか

具体的にするための4つのアプローチは, 具体例で考えることである。

 ●具体例で考える〜具体のレベルを下げる
 ●強制,あるいは見たいように見る〜見える側を変える
 ●シリーズ化する〜連想による横展開
 ●5W1H、あるいはストーリーを描く〜ピンポイントにする

であり,これで,自分のリアリティ感のレベルを確かめることができる。

しかし,それは自分自身で自己完結して閉ざしている限り,それはなかなか気づけない。人との違いに気づいて初めて,自分の独自性に気づく。

リソースといわれているものを,ちょっと自分なりに,整理してみると,こんな感じになる。

たとえば,問題と接するときの,インターフェースにあたるのが,その人の感度である。どんな問題にアプローチするのか,何を拾い,何を捨てるのか,どこに注意を払うのか,何に気をとめるのか,のポイントとなるものだ。それは,内のリソースと外のリソースに分けて,大まかに,仮説的にわけてみる。

●内的リソース
問題への感度には,その人のもつアンテナとその人のフィルターのふたつの側面から考えなくてはならない。それを内的リソース(資源)とよぶなら,その感度を上げるには,アンテナの感度をあげることと,フィルターを活用することだ。フィルターはよく固定観念とか先入観と呼び習わされている。それはその人の知識と経験と気質のすべて,その人のもつ内的リソースそのものである。

・アンテナ アンテナは,問題意識と呼んでおく。これは,いまその人のいる状況,たとえば,どんな仕事をしているか,チームとしてどんな課題やテーマを追っているか,どんなことに興味や関心をもっているか,どんなニーズや動機をもっているか,といった,その人のいる文脈によって規制されている。

・フィルター フィルターは,そのひとが培ってきた内的なものの特質,これまでの経験,知識,技能,あるいはもう少し体質的な気質や性格といった,いわばその人のパーソナルな特質にかかわるものだ。
大きく分けると,

・知性フィルター
・感性フィルター
・感覚フィルター

にわけられる。知性フィルターは,その人の知識,経験であり,自分のもつ意味や価値を通してものを見る。しかしその関心を選んだのは,その人の感性か感覚かに起因しているかもしれない。誰かに影響を受けたとしても,その影響を受け止める感性,感覚が作用する。感性,感覚は生得的ではあるが,感性の多くは生きる中で身につけてきた。喜怒哀楽や好悪を通して見ることとなる。多くはマイナス的に受け止められるが,むしろそれを自分の特徴として受け止める姿勢がいる。感覚は遺伝子に起因するので,自分の特徴がわかりやすいが,自分にとって当たり前だから,気づきにくい。しかしそれが,外部リソースを生かす鍵になる。

●外的リソース 
内的にもっているものだけでは,どうしても限界がある。そんなときに,外部の頭脳を使うことになる。有識者の見解を求めたりするのはその一つだが,チーム内,組織内での情報交換や意見交換,つまりはキャッチボールを通して,別のリソースを手に入れるということが重要になる。たとえばブレーンストーミングのように,人とのキャッチボールを通して,相手のリソースを借りて,自分にないアンテナやフィルターを手に入れる。キャッチボールをする効果は,異なるリソースに出会うことで,自分にとって当たり前すぎて,自分の中で気づかなかった,あるいは埋もれていた新たな独特さを発見することにある。

人との違いは,ほんのわずかだと僕は思っている。そのわずかな差異を広げ,深堀りして初めて,その違いが人の目に明らかになる。思い込みでも,思い上がりでも構わない。まず,人との違いに着目してみることだ。そこからしかオリジナリティは生まれない。いつまでも,ひと様のやっていることを探す,外へ答えを探すだけでは,それは見つからない。まず,違いを大袈裟に言葉にして,外に出したみることだ,と信じている。

人はすべてオリジナルであり,人はすべて個性的だ。自分にとって当たり前は,人にとって当たり前ではない。それに気づければいい。

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  • 箇条書効果

箇条書きにすることは,たとえば,何々について言えることは,
@
A
B
という具合である。そして,重宝なことに,いくつという枠を決めると,その数だけ,ひねり出してしまうことができる。言うべきことが,見えてくる。

たとえば,文章に欠かせないことは,五つである,と言い切ったとすると,

@一文のセンテンスで,輻輳させず,言いたいことをシンプルに言い切る
Aカンマをある程度多めに入れる。
B「です調」か「である調」か「だ調」か,レベルを統一する
C主語を明確にする
D過去形か現在形かの区別は意識的にする

等々である。別にここで言い切ったことが正しいかどうかではない。そう言い切ることで,伝えたいことの枠が決まる。人は枠なしで,ぼんやりものを考えない。同様に,読み手に取っても,書き手の枠組み,いわば窓枠がはっきりした方が,そこから見ている視界がはっきりする。

たとえば,大事なことは,三つです。と先に宣言されると,頭に入りやすいという。口頭のメッセージは25%の歩留りと言われる。しかし,こうやって堰を作ってもらうと,シーケンシャルに流れていく話題が,区切れ,分節化することで,記憶にとどめやすくなる。これも箇条書きの一種といっていい。

当然枠を替えれば見える世界が変わる。たとえば,いまの文章に欠かせない五箇条を別の切り口で書けば,

@語り手は誰か
A語られている世界は何処か
B語られているひと(びと)は誰か
C語られている時間はいつか
D語り手はどこにいるのか

という風にも書ける。

ただこういうことで得られるわかりやすさは,決めつけと近似で,わかりやすくするために,何かを犠牲にしていることがある。そこを考え始めると,そう簡単に箇条書きが「わかりやすい」とのみは言い切れない。

別の視点で考えると,箇条書きにするということは,ある次元を網羅することになる。それは,次のサイトにあるような,ロジカル・シンキングでいう, 

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0951.htm

ロジカルツリーには,縦につながる筋を通すことと横のつながりのもれなくすることの二つがあるが,箇条書きで書いているのは,横のつながりだけなので,縦の筋から次元を変えれば,別の箇条書きの項目が生まれてくる。この延長線上に,チェックリストがある,といってもいい。

たとえば,コミュニケーション力を,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod06394.htm

と,まとめた場合,

聞く力/伝える力/自己開示力/感情コントロール力/人と関わる力/モニタリング力,

とわけるのが,ロジカルツリーで言う縦の筋の第一段階とすると,この各項目が決まれば,その下へブレークダウンした具体的項目を考えることになる。これが横のつながりになる。

だから,箇条書きで書くということは,次元を設定しさえすれば,それを次元を上へあげていくことも,下へ下げていくことも,次元さえ分かっていれば,レベルを変えて書くことができる,ということになる。もっとも,人の脳は,丸めるのが得意なので,上へ丸めるのに比べると,ブレークダウンはずいぶん不得手ではあるが。

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  • プレゼンテーションの基本的スタンス

プレゼンテーションの基本は,

@プレゼンテーションはプレゼントであるということ。
Aプレゼントには,自分自身も含まれること。
Bそのための自分らしさの自己表現とは何かを意識すること。

といわれる。

@については,常々,「プレゼンテーションは,手渡しすること」と考えていて,自分のわくわくする気持ちであったり,自分の思いであったり,をそのまま手渡しすることと思っていた。しかし,それに「プレゼント」というラベルを付けた瞬間,相手から喜ばれる,という視点がものすごく重みをもってくる。ただ自分の側の思いではなく,相手の側の思いを見届けなくては,望まれていない「毛糸の襟巻」のように,ただこっちの込めている思いの丈が重い分,相手には不気味なだけのものになる。

Aについては,プレゼンテーションのスキルやツールなどは二の次で,まずは自分が相手に,そのプレゼントを好感をもって受け取ってもらえる人間でいるのかどうかが,重要になる。たとえば,第一印象は,数秒で決するのに,その印象は3年引きずる,という。しかし,ある知り合いの女性曰く,「最初の印象が悪い人こそ,知り合うと,好きになる」と。ということは,雲に隠されている太陽のように,もっているものが,最初から輝き出ていれば,無駄な3年の期間がなく,初めから親しい関係を楽しめたはずなのである。その意味で,自分という人間のプラス面をどう押し出すか,どう隠したり,出し惜しみしたりせず,表現するかが重要になる。

Bは,その意味でプレゼンテーションは,自己表現そのものだということになる。それは単に小手先のリクルート用の笑顔や問答ではなく,自分をどう開示していくか,そのためには,どういう自分なのかを知り,それをより強化するために,どんなトレーニングをしたらいいのかを考える必要がある。ここで,トレーニングというのは,大袈裟なことではなく,日々の中でちょっと取り組む程度を意味している。

その他には,

●根本的に,「できない」と言っている部分ではなく,出来ている部分にまず焦点を当てるということ,
●ひとからのフィードバックから,主観的に感じていることと人が受け止めていることとのギャップに気づくこと,
●何かがうまくいかないと,ひとまとめ「できない」に丸めてしまって,それに「私は」を付して,「私はできない」とまとめてしまうことが多い。そうではなく,できない部分を具体的にブレークダウしていくことで,何が出来ればいいのかがみえるようになるということ,
●相手を「見る」を意識することと,相手に「見られる」を意識すること。受動的にそこにいるのか,主体的にそこにいるのかが,「見られる」に意識が向くのか,「見る」に向くのかの差になる。自分が好んでそこにいるのなら,自分が「見る」を意識的にするだけで,目の力も姿勢も変化するということ,
●緊張や上がるということは,まだ「やれること」と「やること」の間にギャップがあり,この両者が一致するまでトレーニングしたのかとか,そこまで場数を踏んだのかとか,などと考えると,それに到達していないだけのここと,

等々がランダムに思い浮かぶ。自分を信頼しなければ,相手を信頼できないし,その場全体とも親和性が生まれるはずはない。その意味では,自分を信ずるところまで,自分なりに準備もし,心身を整えて,その上で,相手を自分の方から「見る」こと。それによって,相手が見え,場が見え,自分がどう関われば,プレゼントになるかが見える,ということになる。

プレゼンテーションのシナリオのつくり方としては,

「かきくけこ」「PREP法」

がある(鈴木安子氏の創案)。

「かきくけこ」法

(@過去 Aきっかけ B苦労話 C結果 Dこれから)

「PREP法」

(@Point AReason BExample CPoint )

等々がある。

自分でプレゼンテーションをする場合,その人の振る舞いから出る手や顔の表情の方が強く,しゃべっていた中身は,メラビアンの法則ではないが,よほど強いインパクトのあるフレーズか,面白い例えでなければ残らない。


なぜなら,プレゼンテーションは,確かに,ある意味プレゼントだが,プレゼンテーションは,自分の思いや気持ちや感動を,そのまま手渡しできたら,成功なのだ。

それは,あるいは,こういうことではないか。

プレゼンテーションは,プレゼンスなのだ,と。

話し手,というかプレゼンターそのもののプレゼンスだというのは,プレゼンテーションの可否が結果としてプレゼンスをもたらすというのではなく,逆で,

話し手のプレゼンスがプレゼンテーションの可否をきめる,

と。その意味では,準備そのものは,当該のプレゼンテーションの準備そのものではなく,そのプレゼンテーションに関わる人の,それ以前の日常での,

仕事の仕方,

在り方,

生き方,

振る舞い,

というものの結果として,プレゼンテーションの可否が決まるのではないか,ということなのだ。考えてみれば,われわれは話し手の話を聞きながら,その人そのものを見ている。その人の,

言葉



パワーポイント

ではなく,その人自身を見ている。その人の立ち方,姿勢,表情,仕草,振る舞い,喋り方を見ている。ひょっとすると,それで話の中身を評価してしまっているかもしれない。だとすると,準備以前に,プレゼンテーションの準備は終わっている,ということになる。

そんなことを言うと身も蓋もないが,

ひょっとすると,プレゼンテーションは,

自分という存在を表現する場,

なのかもしれない。伝える中身よりは,その人を通して伝わってくるものに耳(心)を開く。

その意味で,プレゼンテーションの是非がその人のプレゼンスを高めるのは当たり前で,プレゼンテーションは,その人のプレゼンスの結果に他ならないからだ。
 

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  • 役割をどう自覚するか

われわれが,

この社会で他人に出会うとき,彼/彼女が自分にとってなんであるかを問われれば,何らかの答えを返すことができる。その答えは,たとえば〈妻〉であったり,〈友人〉であったり,ときには見知らぬ「他人」であったりするだろう。社会的世界において私たちが他社に与えるこの規定を,「役割」

と呼ぶ。仮に,ある人を固有名詞で呼ぶとすると,

そこには固有名で呼ぶことを可能とする関係が前提にされているばかりでなく,私自身も自分がこの他者を固有名で呼ぶことのできる関係をもっていることを知っている。

ということは,われわれは,日常的に役割存在である。

行為者は,ある役割関係を前提に,すなわちすでに存在する相互作用過程のなかで,ある役割を担う他者を見出し,対応する役割を担う行為者として,他者に対する関係好意を行う,

要は,何らかの役割なしには,この世の中に存在しえない,ということらしい。

社会的世界は先ず役割を担う個人の集合として,役割世界として,

存在している。たとえば,

他者が意味をもって,すなわち役割存在として私の世界に現れるとき,私はこの意味において反照される。

相手を上司として認識することは,自分がその部下であると認識する。しかし,それは,確定したものなのか。たとえば,ストーカーが,

相手を私の恋人

と認識したとき,相手は私の恋人になるわけではない。その瞬間,相手が私をストーカーと認識した時,私の認識には関係なく,私はストーカーという役割に転ずる。

そこは,

コミュニケーションを通して他者と共有する間主観的な役割世界,

を持ち合えなければ,妄想と現実(どちらが妄想かは,実はわからない)のすれ違いになり,どちらにとっても何も生まないことになる。なぜなら,

行為者は,役割関係のネットワークのなかで役割行為を遂行することによって,この関係のネットワークと自分自身とを生産・再生産する。この役割関係や役割行為のあり方は多種多様であり,それ自体が何らかの重層的・複合的な関係において構造化されている。その最も…基層にあるのは,人間は社会のなかでのみ個別化されうる存在である…普遍的な依存と貢献の関係である。私たちが役割関係のなかで行為し,自己実現するときの最終的な根拠は,行為者がそのなかで行為能力を備えた個人として生成するこの普遍的な相互連関にある,

からである。一方的では役割は生じない。

両者の相互作用の結果

としてしか共有されない。それは,上司(リーダーと置き換えてもいい)として君臨しても,上司として認知されないことはありうるということに他ならない。

主体は,他者との相互作用において,自己にとっての意味に応じて他者に役割を割り当て,その役割と相即的に対応する自己の役割を獲得する。つまり,相互作用は,すべて役割関係なのである。

相互作用があるときのみ,役割関係が相互で認識される,と言い換えてもいい。

相互作用を関係性と呼びかえると,その人のポジションに応じて,関係性が変わり,自分の役割が変わる。だからこそ,ポジショニングというのが,役割を考えるときに,大事になる。役割関係というのは,その瞬間,相互に責務(責任と言い換えてもいい)が生まれてくる。それに伴って,

役割期待

が生まれる。期待はコントロールできないが,期待を自覚はできる。それに応えていくことが,信頼や評価につながる。

しかしである。この関係性自体が,自分とはかけ離れていくことが多い。つまり,

一度社会化された人間は,おそらくすべてが潜在的な〈自己自身への反逆者〉

となる可能性がある。しかしそれは相互関係のなかでは,多く許されない。

主観的に選ばれたアイデンティティは,個人の意識のなかでのみその〈真の自我〉として客観化されるにすぎない幻想的なアイデンティティとなる。人間は常にかなえられない目的達成の夢をもつ,

と。関係性が,桎梏になることもある。というより,関係性の向こうに(関係性を抜けた)自分自身のありようを探したがる。

自分探し,

はそれだが,結局別の関係性の中にまた結びつけられるしかない。蒸発が,そうであるように。

で思う。いま,ここでの関係性の中で,

自分のありようを示せないものに,

示せる場所はない。人は関係性の結節点そのものとしてし生きられない,社会的動物であり,逆に,そこでこそ,自分が発揮できるのだから。

参考文献;栗岡幹英『役割行為の社会学』(世界思想社),P・L・バーガー=T・ルックマン『日常世界の構成』(新曜社)
 

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  • 直感の是と非

直観というと,パターンに認識で,将棋の羽生善治を思い出すが,通常直観とはあまりいい意味では使われないらしい。

例えば,マイヤーズは,こういう例を出す。

一枚の紙を100回折ると,その厚さはどのくらいになるか?

多くの直観は間違う。マイヤーズはこういう。

我々の直観は,たいてい間違いを犯す。紙の厚さが0.1ミリだとすると,折るたびに前の厚さの倍になって,100回折り畳んだ後の厚さは地球と太陽との間の距離の800兆倍になるだろう。

しかし,我々は直観で判断していることが多い。たとえば, 

ヘッドホンをして,片方の耳で朗読を聞き,朗読のテキストと照合しながら,もう片方から音楽が聞こえている。意識して聞いているわけではないが,その音楽の間に,以前聞いたことのある音楽を挿入しておく。で,どちらが好きかを問われると,聞いたことのある方と,答えるらしい。意識的にはわからないことを好き嫌いの選考では,明らかにできる。

物体写真や顔写真を200ミリ秒見ただけで,ひとは直ちに良し悪しを判断する。対人関係では,最初の10秒で直観的に判断してしまう。

ザイアンスの法則と言われるのは,単純接触効果だ。よく知っているものほど好きになる。見慣れたものに近づき,見慣れないものを警戒する。

他者を観察するとき,素早くわれわれは何らかの判断を下す。そして後になってそのとっさの感情に理屈づけする。われわれはものを感じている時,なぜそう感じるかがわかっているわけではない。その感情の理由を探ると,もっともらしい間違った要因に目を向けることになる。意識しないでやった理由を,左脳は間違った解釈をする,という。

では,直観というのは記憶と同じなのか。記憶には,潜在記憶(手続き型記憶)と顕在記憶(陳述型記憶)という分け方もできるし,もう少し細かく,手続き記憶,意味記憶,エピソード記憶とわけることができる。意識化しないで,働くという面で言えば,手続き記憶とエピソード記憶が,直観,あるいは勘に機能しているということができる。

パターン認識を使う,将棋のような何十通りの手筋を思い描く場合とは違い,通常我々の直観は,あてずっぽうか思い込みのことが多い。盤面という限られた世界ではなく,複雑な人間関係や心理については,手筋は無数なのだ。

たとえば,自分の将来について,直観する場合,失敗する。

感情の持続時間を予測する場合は,失敗する。失恋した後の,選挙に敗れた後の,試合に勝った後の,侮辱された後の,感情の持続時間を間違って予測している,という。ネガティブな出来事に注目すれば,それ以外のあらゆることを軽視してしまい,みじめさはずっと続くと予測する。しかし,自分が注目しているものは,自分が思っているほど重要ではない。また自分の将来の行動についても,直観は間違える。自分の将来行動の予測よりは,他人の行動予測の方が当たる,という。

人の行動を解釈するとき,その置かれている状況を過小評価し,その人の内的要因を過大評価する。しかし自分の行動を評価するときは,これと逆に考える。自分が不機嫌なのはその日が不愉快だからで,他人が不機嫌なのは,その人が不愉快な気質だからだ。

関連ないことにパターン化する。たとえば,子供の無い夫婦は養子をもらうと妊娠する可能性が高くなる。目立つところに注目するために,パターンとして意識化されやすくなる。

しかし,直観のつけが自分にくるだけなら,別にたいしたことではない。そういう直観が試されるのは,象徴的には,心理臨床場面だ。

マイヤーズによると,セラピストは,自分の直観に味方する,という。しかし研究者たちは,直観と統計的予測とが競合した場合(たとえば面接者による生徒の学力予測と,成績や適性得点に基づいた客観評価とが食い違うような場合),たいてい客観的評価によって決定する,という。統計的予測が必ずしも正確ではないにもかかわらず。

臨床心理的直観は,過った関連付けや後知恵のバイアス,信念の根強さ,自己成就的診断などの弱みが現れている,とマイヤーズはいう。

心理臨床のクライアントの行動がそのセラピストの理論としばしば一致している,と言われる。

あなたの気持ちがそうならば
あなたの求めるものがそうなる。
自分の望むものをあなたは見つけるだろう。

自分の見たがっている関連性を見ようとし,それを後知恵で補強する。自分の理論や仮説を見てしまう。自分が正しいと思う質問をする等々。

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  • 考えるというのは自分で答えを出すこと

考えるというのは,自分で答えを出すことだ。自分だけの答えを出す。もちろん一人の頭で考えることだけを意味しないが,主体になって,答えを出そうとする。それが考えることだ,と僕は思う。

それは,問いから始まり,答えに至る。

如之何(いかん),如之何と曰わざる者は,吾如之何ともする未(な)きのみ。

と孔子の言う通,問答(自己問答だけではないが)が考えるの原点かと思う。

社会構成主義的に言うと,それは,関係性の反映,つまり,僕が人との関係の中で培ってきたものになるだろうが,個人的には,正解がどこかにあるかどうかは別に,場合によっては,現実に最適性あるいは妥当性を求め,場合によっては,自分にとって最も理にかなうことを,場合によっては,ぎりぎりの我慢できる限界を,それぞれ自分なりに求めていくプロセス,というふうに言えると思う。

時実利彦氏は,考えるとは,

受けとめた情報に対して,反射的・紋切り型に反応する,いわゆる短絡反応的な精神活動ではない。設定した問題の解決,たてた目標の実現や達成のために,過去のいろいろな経験や現在えた知識をいろいろ組みあわせながら,新しい心の内容にまとめあげてゆく精神活動である。すなわち,思いをめぐらし(連想,想像,推理),考え(思考,工夫),そして決断する(判断)ということである(『人間であること』)

と定義している。辞書的に言うと,

1知識や経験などに基づいて,筋道を立てて頭を働かせる。たとえば,判断する。結論を導き出す。予測する。予想する。想像する。意図する。決意する。
2 関係する事柄や事情について,あれこれと思いをめぐらす。
3 工夫する。工夫してつくり出す。
4 問いただして事実を明らかにする。取り調べて罰する。
5 占う。占いの結果を判断・解釈する。

となる。「考」という字の持つ意味は,

考える
調べる
試みる
永らえる
叩く
問う
正す
比べ測る,
究める
し遂げる

となるから,ほぼその範囲に入る。そういうプロセスを積み重ねることで,自分にとっての知識やノウハウになっていく。

野中郁次郎氏が,知識とは,

思いの客観化プロセス,

と言われた。「思い」を,「問い」と置き換えてもいい。なんなら,問題意識と置き換えれば,もっともらしくなる。そうやって自ら問い,その答えを考えた結果が,おのれの知識になっていく。

人間が考えるという,この思考活動の内面プロセス自体を明らかにしたのは,スイスの心理学者J.ピアジェであるが,

たとえば3,4歳の子供が遊んでいると,誰に話しかけるというのでもなく独り言をしゃべっている。
4歳女の子「この木にはね,おサルが上るのよ。おサルさんかわいいね,すうっと登ってすうっとおりるのよ」
4歳男の子「ハイウェーだぞ。メルセデスベンツが走るんだぞ,大きいんだぞ」
お互いに誰かと話し合っているわけでないし,人に聞かれているというつもりもない。ただ自分で自分が考えていることをどんどんことばにして,それを刺激にしてまたしゃべっている。これをピアジェは自己中心的言語と名付けた。

これは,思考プロセスそのものが外面化しているとみることができる。成長につれて,通常は独り言は少なくなって,
独り言が次第に聞き取れなくなっていく。それは,自分のためにしゃべっているのであって,別に文脈が整っている必要がないからであり,自分の内的会話と人とのコミュニケーション(社会的会話)とが分離していくということでもある。こうして言語が内面化されていく。すっかり内面化された言語を内語という。

これが考えるという内面的プロセスなら,考えるとは,自己対話と言い換えてもいい。

成人でも,非常に集中したとき,無意識でものを考えながら独り言をいって,自分で思考を方向づけたり,自分を励ましたりしいることがある。そして実はそれは言語だけでなく,たとえばそろばんが上手になると,そろばんをはじく仕草をしたり,頭にイメージを浮かべて暗算したりするように,動作や映像もまた内面化される。

こうした内面化した思考プロセスには,

@動作,行為およびそれらの内面化した過程
A知覚,経験およびその内面化したイメージ
B言語およびその内面化した象徴過程
C現実の因果関係の内面化した法則的論理

の4つがあるとされているが,これは成長のプロセスであると同時に,成人においては層をなしているとみなすことができる。だから,モノを考えるとき,われわれは,以上の4つのパターンを組み合わせているということができる。

動作,行為の感覚で考える,というのは,動作や行為の経験が内面化されている。いわば,動作や行為との対話と言い換えてもいい。必ずしも,自分のそれとは限らず,人の,プロのそれと対話するということもありうる。

動作を想像するとき,思わず躯を動かすということがあるのも,そのためである。ゴルフのスイングを想定するとき,肱の恰好や腰の据わり方を,思わず躯を動かしながら,あれこれ考えている。これは,自分の躯の動きが頭の中にしまわれている(内面化されている)というふうに考えられると同時に,しかし自分が頭で考えるほどに躯は動いてはくれないという事態も生ずる。

イメージで考えるというのは,知覚・経験の内面化したイメージがあり,これも,自分の記憶との対話だけではなく,見た映像や写真というものとの対話も含まれる。それで内側を見たり,裏面を想像したりする。それは映像化された知覚経験の蓄積といったもの,いわばビジュアルなものとのつきあわせである。こうした映像的な思考,あるいはパターン化した思考は,直観につながっているように思う。

言葉で考えるというのは,言葉,つまり意味や文脈で物事を考えたり,判断したりする。成人のわれわれはほとんど言葉,あるいは概念でモノを考えているといっていい。「知っている」というとき,大体「その意味を知っている」といわれるが,もっている言葉で現実を見る眼が変わる。違った意味に見える,ということである。同時に,ソシュールの言うように,言葉は(現実とは関わりなく,あるいは切れても)言葉だけとリンクしながら,そのつながりの流れ自体で意味を創り出すことがある。

理屈・論理で考えるというのは,現実を因果関係や法則で判断する。学んだ知識・経験によって,ものごとを推理したり,類推したり,演繹したりする(こうすれば,こうなる。こういうときは,こうなるはずだ)。これが知識の力といっていい。こうなるのが当たり前,というわけだ。ロジカル・シンキングのロジックツリーがどれだけ整合性があり,論理の筋が整っていても,現実にマッチしないことがあるように,言葉以上に,論理のみの筋道だけで,ロジックが出来上がっていく。

こういう思考のプロセスを積み重ねて,ものを考える枠組が形成される。それには,次の四つがある,とされる。

@自分はどういうときにどうするタイプの人間かという自己(の可能性,傾向の)についての自画像
Aある状況ではこういうことがおき,こういうふうになるであろうという,行動や出来事の連鎖についての経験知
Bかくかくの状況・立場ではこういう役割や行動が期待されているという状況への認知イメージ
C人間はこういう性格と傾向があるといった経験知
Dこうなればこうなるだろう,あるいはこうなればこういう結果になるだろうといった,因果関係の図式の認知

つまり,モノを考えるということは,こういう自分なりの思考の枠組みができているということにほかならない。これによって,その人なりのモノの見え方,見えるものが決まってくる。

しかしである。それは,

こうした思考の枠組が,

世界を安定し,扱いやすいものにし,
私たちに突然襲いがちな予想外の出来事の数を減らし,
生活に生ずる目新しい出来事を飼い慣らし,
新しいものを既知のものに結びつけようとする

ということにほかならない。そうなれば,通常よく知っているタイプの目印となる特徴に注目し,頭の中にいつも持っているステレオタイプによって残りを満たす。それは考えるとは言わない。

自己完結した思考回路は,堂々巡りをするか都合のいい解釈しかしなくなる。それを夜郎自大という。例えば,フィリップ・ゴールドバーグ『直感術』におもしろい小話が出ている。

ある心理学者は,ノミに「跳べ」といったら跳べるように訓練した。
試みにノミの足を1本取ってみたが,まだノミは命令に従って跳べた。
2本とっても,3本取っても命令に従って,跳びつづけた。
やがて全部の足をとってしまったら,ノミは跳ばなくなった。
そこで,この学者は,次の結論を出した。
「足を全て失ったノミは聴覚をなくす」

ここに考えるということの自己完結さ,というか自己閉鎖した思考の滑稽さがあらわになっている。

僕は考えるというのは,独り言が出発点であったように,自己対話なのだと思う。しかし,本来,自己対話は,その人が生きている現実という文脈の上で成り立っている。ということは,自己完結した,閉鎖的な自己対話はほとんど病気である。生きているということは,人が現実と関わり,人と関わり,情報と関わり,メディアと関わり等々,その都度,さまざまなレベルで対話しつづけているということである。その対話があるからこそ,自己対話を豊かにする。

ミハイル・バフチンは,こんなことを言っている。

人びとは対話を通して,意味の中に生まれてくる

と,つまり,会話は,先行する発話によって意味の中に産み落とされる,それは二人の関係のなかでの会話で決まる。
言葉の意味は,新しい(関係という)コンテクストの中におかれるたびに微妙に変化し新しい言葉がつくり出される。

だから,考えるということは,生きるということが,現実との,人との,情報との,メディアとの,他国との対話である限り,その対話というか,その関係性を反映する限り,自己対話の対話相手(視点と呼び換えてもいい)は増え続け,多様化し,多声化して,成長し続けるはずである。しかし,自己完結した閉鎖的な自己対話は,妄想か空想に陥るしかない。

参考文献;時実利彦『人間であること』(岩波新書),相良守次編『学習と思考』(大日本図書),フィリップ・ゴールドバーグ『直感術』(工作舎),J.キャンベル『柔らかい頭』(青土社)

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  • 共感できる(Empathizing)脳とシステム(Systemizing)脳がある

バロン=コーエンは,共感できる(Empathizing)脳とシステム(Systemizing)脳があるという説を提案しているという。

共感とは,他人が何を感じ,何を考えているかを知り,それに適切に反応することをいう。共感できる脳は相手の感情や心の状態を知って心を動かす活きをすると仮定されるので,心の理論が働くことに通じる,という。

心の理論(theory of mind)というのは,ひとはそれぞれ自分の心を持っていてそれにもとづいて行動していることができることを言う。つまり,

心の理論が理解できるようになると,自分の心と他人の心は違うことがわかるので,自分と他人とは,感情,意思,考えなどが違うことがわかる。大体四歳くらいで理解できるようなる(一歳でもできるという指摘もある)らしい。

これが社会を形成してきた人の共通の特徴とされている。

一方システム化に優れた脳は,システムを分析したり検討することが得意で,システムの隠れた法則に気づいたり,新しいシステムを創り出す傾向を持つ。心の理論とは縁遠いことになる,という。

バロン=コーエンは,二つの脳について,

E(共感できる脳)とS(システム脳)について,

EがSよりまさるEタイプ,SがまさるSタイプ,バランスの取れているBタイプに分けたが,95%はBタイプであるとしている。そして極端に人間関係が苦手なアスペルガー症候群の人をSタイプとした。

しかし,それを立証する生物学的マーカーは見つかっていない。むしろ,高橋惠子氏は,

個性と障害の線引きは簡単ではない。ある社会的ルールを知らないことが本人を苦しめたり,不利にする,(中略)個性を尊重し個性を活かすことが…根本原則である,

という。所詮仮説でしかないもので,人を類別し,人を理解した気になることは,浅薄だろう。

仮説というのは,所詮,仮の説明概念である。それを持ってみると,現実がよく説明できる。あくまで,仮にそう説明するとわかりやすいというだけだ。当然別の眼鏡を掛ければ別のものの見え方がする。

ロジャーズは,(これもたびたび引用するが)共感について,

「あくまで……のごとく」という性質(“as if” quality)を決してうしなわない

で,クライアントの私的世界をそれが自分の世界であるかのように感じとる,ことだと言っている。ロジャーズには,それは錯覚かもしれないし,思い過ごしかもしれないし,思い込みかもしれないことを,よく自覚していた。

それを失ったら,単なるきめつけに過ぎない。右脳左脳で切り分ける俗説もこれに似ている。

人の認知形式,思考形式には,

「論理・実証モード(Paradigmatic Mode)」



ストーリーモード(Narrative Mode)」

がある(ジェロム・ブルナー)があるとされている。

前者はロジカル・シンキングのように,物事の是非を論証していく。後者は,出来事と出来事の意味とつながりを見ようとする。

ドナルド・A・ノーマンは,これについて,こう言っている。

物語には,形式的な解決手段が置き去りにしてしまう要素を的確に捉えてくれる素晴らしい能力がある。論理は一般化しようとする。結論を特定の文脈から切り離したり,主観的な感情に左右されないようにしようとするのである。物語は文脈を捉え,感情を捉える。論理は一般化し,物語は特殊化する。論理を使えば,文脈に依存しない凡庸な結論を導き出すことができる。物語を使えば,個人的な視点でその結論が関係者にどんなインパクトを与えるか理解できるのである。物語が論理より優れているわけではない。また,論理が物語りより優れているわけでもない。二つは別のものなのだ。各々が別の観点を採用しているだけである。」(『人を賢くする道具』)

要は,ストーリーモードは,論理モードで一般化され,文脈を切り離してしまう思考パターンを補完し,具象で裏打ちすることになる。

だから,共感できる(Empathizing)脳とシステム(Systemizing)脳は相互に補完し合っていることになる。95%から外れた人を,個性と見ることが出来なければ,所詮個性などどこにもない。

僕は個性は,百人いれば,百個の個性があると思っている。

問題は,人と同じ尺度だけで測っているから,それが見えない。百個違う尺度がいるのだ。それだけのことだ。

そしてこれが理解できない人は,

ブレインストーミング

の意味が永久にわからないだろう。

百個の個性とは,百個の異質さなのだ。それが前提でなければ,ブレインストーミングなど活かせっこないし,

キャッチボール

によって生み出される,異質な何かなど見えはしない。そこにあるのは,創造性のとば口なのだ。

参考文献;高橋惠子『絆の構造』(講談社現代新書),H・カーシェンバウム&V・L・ヘンダーソン編『ロジャーズ選集』(誠信書房),ドナルド・A・ノーマン『人を賢くする道具』(新曜社)
 

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  • 発想に否定はない

発想に否定はない。

発想にダメ出しはない。

発想に批判はない。

ブレインストーミングに批判がないのは,当たり前で,「ダメ出し」では基本的に,発想できない。「ダメ」ではなく,どうすれば「ダメでなくできるか」「可能になるか」を考える,それが発想だからだ。

当然ネガティブはない。

川喜田二郎氏は,創造性をこう定義した。

本来ばらばらで異質なものを意味あるようにむすびつけ,秩序づける。

異質なものを組み合わせて,そこに意味を見つければいい。

いや,意味さえ見つかれば,何でもつなげていい,ということだ。それに良い悪いも,正しい間違いもない。どれだけ新しい意味があるように組み合わせられたか,なのだ。

くだらないなどと言ってはいけない。客観的に見て,どんなにくだらなかろうと,それはアイデアを練り込んでいく端緒に過ぎない。出発点に過ぎない。そのくだらない(と見える)アイデアが練り込みのきっかけを作ってくれるのだ。

ある管理職曰く,

部下に何かいいアイデアはないかと言ったら,出てきたアイデアがどれもこれもありきたりで…

と。この発言がばかげている理由はふたつある。

第一は,「ありきたり」と言っているのは,その管理職だけかもしれない。自分にはありきたりに見えているというだけのことかもしれないということに,いささかも,本人は思いが至っていないことだ。

第二は,アイデアは完成品が出てくるものと思っていることだ。それなら,あんたはいらない。部下から出たすばらしいアイデアを拾い上げるだけなら,はっきり言ってマネジメントはいらない。

大事なことは,アイデアを自己完結しないことだ。

アイデア自身に閉じ込めない,

自分だけに閉じ込めない,

となると,そこに初めて,一緒になって完成させていくという,プロセスが出てくる。そこでマネジメントが生きる。そこ以外にマネジメントをいかす場所などない。

いいアイデアはないか,

と部下に指示したのは,マネジメントでも何でもない。そんなものは,ただ権力を笠にきて,命じているだけだ。

基本,アイデアにくだらないものはない。

くだらないと決めつけている固定観念(これを機能的固着という)があるだけだ。くだらないかどうかは,まだわからない。ただアイデアを練り込んでいく端緒に過ぎない。それを素材に,どう練り込んでいくか,そこにこそマネジメントの神髄がある。

一緒に練り込むプロセスで,

自分の目指すことがより部下に伝わるかもしれない,

自分自身も,そのプロセスで自分の目指すことと部下の受け止めていることのギャップに気づくかもしれない。

部下の発想スタイルが見えてくるかもしれない。

アイデアを考え出すということはどういうことかを学ぶプロセスになるかもしれない。

そうやって一緒に完成させていくプロセス以外に良いアイデアにしていく王道はない。

アイデアを創り込んでいく鍵は,自己完結させないことだ。

自分の中だけ,

そのアイデアの中だけ,

に。ひらめく一瞬,0.1秒,脳の広い範囲が活性化する,という。それと同じだ。どう多様な人と人とのリンクの中で,それに違う光をあてられるか。

一見くだらないと思えたものが,人と人のキャッチボールの中で思わぬものになっていく,

それが発想というものの神髄だ。そうすることがアイデアの練り込みであり,発想というものだ。

そうなれば,どんな(くだらないと思える)アイデアにも無駄はない。

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  • 軸のもち方

かつては,I型とかT型といった,専門性の軸の取り方を言ったものだが,昨今はどういうのか知らない。そんな高尚な話ではない。

専門は,

ひとつではだめ,

ふたつなくては,

食べていけない。というニュアンスのことを聞いたことがある。たとえば,セミナー講師としていくなら,二つ以上の得意分野を持て,と言ったニュアンスだと思う。

それは逆である。

まず絶対得意分野をつくれ,

それは誰かの真似ではなく,また誰かの代弁でもライセンスでも,誰かの受け売りでも,免許皆伝でもなく,オリジナルなものを創りだすこと。それがコアになって,次々と関連する分野が,隣接して広がっていく。

自分でしかできない代替の聞かない軸に,それが溶けて滲んでいくように広がっていく,イメージだ。

その境界を立てるのは自分なので,すこしでも違う隣接分野は,一本の軸として立てていく。そうすることで,軸がいくつか立つ。本来,軸はあるものではなく,軸として創っていくものだ。

そうしていくつもの軸というか,得意分野というか,専門分野というかは知らないが,近接領域にか細い軸がびっしり立ち並ぶ。その場合,同じIでも,一本はか細くても,五本も六本も束ねると,野太い柱になっている。しかも,近接しているので,相互が絡みついてリンクしあっていく,というか絡み合わざるを得ない。

前野隆司氏は,∇(ナブラ)型になれという。


T型人間とは,Tの縦の棒のように,何かひとつ専門について狭く深く知るとともに,横の棒のように世の中一般の常識を広く浅く身に附けよ,という意味だ。(中略)T型人間の問題点は…縦棒と横棒を,か弱い「点」でしかつながっていない二つの要素と捉えることだ。T字型の部品があったとしたら,継ぎ目のところが最も折れやすいことが知られている。

では,∇型人間とは何か。ナブラとは,ヘブライ語の竪琴に由来する。

要するに,専門性と一般性が,Tとは違って,強固にぎっしりとつながっている,という意味だ。

つまり,専門性が,世の中のさまざまな考え方とリンクがつながっていて,Tの横棒と縦棒のさまざまなか所が,相互につながり合っている,

Tの縦の上の任意の点と横の棒の任意の点を直線でつなぐ,という操作を繰り返した場合,次第にTは,塗りつぶされた∇に近づいて行くはずだ。

∇型人間とは,専門と世界のつながりを多様な意味で理解し実践する人間のことだ。

という。専門性という縦軸に,横軸の一般性にコイルが絡みつくように幾重にもまきつくイメージだ。

あるいは,別の言い方をすると,専門性が,脳の機能的固着に陥らないために,さまざまな視点で,それを俯瞰したり,異質なものとリンクさせたり,組み合わせたり,ということが自在にできるということではないか。

川喜多二郎氏が,創造性とは,

本来ばらばらで異質なものを意味あるように結びつけ,秩序づけることだ,

と定義したところと考え合わせると,専門性という固定した視点を相対化して,相互に関連づける視点を持てることといっていい。それには,∇もTもない。自由にメタ化し,俯瞰する視点が不可欠だ。

そのとき,軸は,仮に拠って立つ基点でしかない。つまり,いつでもそれを離れて,自在に別の基点から測れなくてはならない。

それが自由な発想という意味だ。

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  • どうなったらいいかという解決状態から考える

問題解決は,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod09600.htm

という枠組みを考える。大事なのは,問題に焦点をあてないことだ。人は,何を期待値(達成値あるいはあるべき姿)とするかによって,問題は違う。問題に焦点をあてるのではなく,

どうなったら問題解決したことになるのか,

に焦点をあてる。

何を問題にするか,

ではなく,

なぜ問題にするか,

と言い換えてもいい。

「問題」はいつも誰かの目を通してのみ問題となる。どこかに「問題がある」のではなく,誰かが「問題にする」ことによって「問題になる」。

だから,誰かにとっての「問題」は,僕の「問題」とは限らない。その人にとって「問題」と思えても,他の人にとっては何でもないこともありえる。もし,誰の目から見ても「問題」なら,実行する,つまり誰が,いつ,どういう解決をするか,だけが問題となる。

問題とする基準,たとえば達成すべき目標,維持すべき水準,保持すべき正常状態,守るべき基準等々,何と言ってもいいが,要は,その人にとって,「どうなったら解決したことになるか」は,ひとりひとり微妙に違う。

それぞれの,「どうなったら解決したことになるか」には,それぞれの理想状態(なりたい状態,ありたい状態),目標状態(やりたい状態),満足状態,期待状態,あるいは価値や意味等々からきている。それが簡単にすり合わせられるとは思わないが,問題をあげつらっているよりは,一致点(逆に不一致)は明確にしやすい。

どうなったら問題解決したことになるのか,

をよく,期待値という表現にしておく。

そうしたすりあわせ,期待する成果,本音の解決状態を正直に出し合うことで,はじめて相手の問題が自分にとって明確になる。もちろんそれを共有するかどうかは別の問題だが。

つまり,問題に焦点をあてるというのは,相手が何に対して問題にしているかがわからない手探り状態で,現象に振り回されるのに似ている。何を基準にしているかがわからなければ,一緒に問題解決しようにも,向いている方向も目線も違う。

だから,未達とか未完了に焦点をあてるより,お互いの目指す解決状態(完了状態)から考えたほうがいいのだ。

たとえば,遅刻を問題にして,

どうしたら遅刻をなくせるか,

なぜ遅刻するのか,

と原因究明を話し合う,という非生産的で暗い話より,

どうしたら遅刻したくない職場(朝起きたら生きたくて仕方のない楽しい職場)にするにはどうしたらいいか,

朝目覚めたらわくわくして早く出勤したくなるようなそんな職場にするにはどうしたらいいか,

を話した方が,はるかに面白いし,わくわくする。それは働くこと,生きることについての,それぞれの価値や意味を確認することになるからだ。

それを話していることで,遅刻問題は消えて行く,というより,そんなことを問題にしていること自体がばかばかしくなる。

これがソリューション・トークだ。問題に焦点をあてるのがプロブレム・トークなら,はるかにソリューション・トークの方が建設的だ。

チームで問題解決をしようとするなら,原因を探るより,目指す解決状態を共有化し,そのために何をするかを話し合った方がはるかに前に進む。

妥協や未完了がいいと思わないのは,それがプロブレム・トークだからだ。

問題をいくら挙げても,挙げ尽くせることはない。もぐら叩きをいくらしても,本質には届かない。

未完了や妥協を取り上げることで,生き方の象徴にしたいのだろう。しかしダメ出しは自分で腐るほどしている。必要なのはダメ出しではない。ダメ出しから,自分のリソースを見つけることはできない。

発想に否定(ダメ)出しはない。逆に言うと,否定(ダメ)出しからは発想は生まれない。生まれても現状の延長線上から脱せない。

そんな程度の発想なら,たぶん,いつか思い浮かぶ程度のコトだ。

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  • 能力の要になるもの

能力は,

知識(知っている)×技能(できる)×意欲(その気になる)×発想(何とかする),

である,と考えている。これに,

気力(がんばる)

体力(やれる)

努力(つづける)

を加えてもいいが,大した影響はない。大事なのは,発想だっと思っている。

何とかしなければならないレベルの,いままでの知識と経験では解けないことに,立ち向かって初めて,自分が,

何を知らないのか,

何ができないのか,

に気づく。それが第一。第二に,そこで初めて,自分の頭で(知識と経験は受け取ったものだ),

どうしたら解けるかを考える。

発想を経ない経験は,結局,

出来る範囲でやる,

か,

出来ないことに目を背ける,

ことでしか,クリアできない。それは,能力のキャパを増大するチャンスをみすみす潰すことになる。

発想といっても,持っている,

知識と経験の函数,

だから,マジックのようなことができるわけではない。しかし,持っている知識の組み合わせやつなぎ方を変えるだけで,新しいアイデアやモノの見方に気づけることが多い(もちろん,自分にとって)。

ひらめく瞬間に,

脳内の広範囲が活性化する,

と言われる。それは,いままでのリンクとは全く別のつながり方によって,自分にとっての,

アッハ体験

ができる,と言うことだ。そういう経験を積み重ねることが,考える,自分の頭で考えるということだと,僕は思っている。

それを別の言い方をすると,

編集,

という作業になる。情報も知識も,編集することで,様相を変える。例えば,前にも挙げたことがあるが,映画のモンタージュ手法を例にとってみる。

「一秒間に二四コマ」の映画フィルムは,それ自体は静止している一コマ毎の画像に,人間や物体が分解されたものである。この一コマ一コマのフィルムの断片群には,クローズアップ(大写し),ロングショット(遠写),バスト(半身),フル(全身)等々,ショットもサイズも異にした画像が写されている。それぞれの画像は,一眼レフのネガフィルムと同様,部分的・非連続的である。ひとつひとつの画像は,その対象をどう分析しどうとらえようとしたかという,監督のものの見方を表している。それらを構成し直す(モンタージュ)のが映画の編集である。つなぎ変え,並べ換えることによって,画像が新しい見え方をもたらすことになる。

たとえば,陳腐な例だが,

たとえば,男女の会話の場面で,男の怒鳴っているカットにつなげて,女性のうなだれているカットを接続すると,一カットずつの意味とは別に男に怒鳴られている女性というシーンになる。しかし,この両者のつなぎ方を変え,仏壇のカットを間に入れると,怒鳴っている男は想い出のシーンに変わり,それを思い出しているのが女性というシーンに変わってしまう。あるいはアップした男の怒った表情に,しおたれた花のカットを挿入すれば,うなだれている女性をそう受け止めている男の心象というふうに変わる。その後に薄ら笑いを浮かべた女性のアップをつなげれば,男の思い込みとは食い違った現実を際立たせることになる,