ここでは,連想もしくは,シリーズ化することについて,考えてみる。 連想というのは, サッカー→中田→セリエA→イタリア→ローマ→パルマ といった,いわば,思いつきの連鎖反応といっていい。これ自体も,発想に無効とはいわないが,発想は,もっと意識的で,何とかする作業だとすると,何が出てくるか,その日の風向き次第,気分次第というわけで,このままでは,使えない。そこで,もう少し意識的にやろうとすると, 連続して考えていくという意味で,「〜シリーズ」等とよく冗談で言う,“シリーズ化”を意識的にすることによってモノの見方を,多角化することができるはずだ。 たとえば,物の見方で,「見方シリーズ」として, 上から見たものか, 下から見たものか, ヨコから見たものか, 前から見たものか, 後ろから見たものか, 裏から見たものか, 等々と,強制的に変えてみるだけで,いくつもの見え方ができるはずである。更にそれに,モノの形を, 何かに似ていないか 何かと関係するところはないか 分割すると別のものにならないか と,幾つかの切口でシリーズ化していってみる。特に,「分割すると別のものにならないか」は,必ずしもモノやコトだけではなく,時間の分断も加わる。それは,モノやコトの変化として表現できる。 例えば,何かが加わる瞬間,何かが分裂する瞬間,何かが加わろうとしている直前,何かが抜け落ちた直後,といったように。そうすると,知っているもの経時的な変化を表象できるようになる。その幅も明日や昨日,1年や十年に広げたり,“ここ”でなく“どこか”に場所を移したり,ひとを替えたり,と条件を掛け合わせていくと,もっともっと違った見え方になる。そうやって,爆発的に異質化化が増えていくはずである。 これについては,「情報異質化の効果」を参照下さい。
次のような図で,更に,同じように「何に見えるか」を繰り返すと(関連図については,ここを見て下さい), 出典;P.エヴァンス&G.ディーハン『創造性を拓く』(早川書房) “シリーズ化”を活用すれば,いろいろな展開を示すことが可能となってくる。 例えば,皿の上に乗っている果物と思いつくと,皿の上シリーズとして, 「皿の上のリンゴ4つ」 等々と,果物を次々羅列できるし,上に乗っているものを,果物や卵(それも鶉からダチョウまで)からごま,塩粒といった極小化することも,あるいは,巨大化して遊園地の回転カップへと連想していける。 更に,テーブルの上へと転想すれば, 「テーブルの上のコップ」 等々と「テーブルシリーズ」として,更に食器をいろいろ置き換え,鍋や釜,更に果物や球,に置き換えられる。 皿やテーブルを,「土管」や「井戸」「池」と変えて,「土管シリーズ」「井戸シリーズ」「池シリーズ」と考えると,「土管にのぞくケーブル」「土管にのぞく水道管・下水管」や「井戸に浮かんだ果物シリーズ」として,スイカや瓜等々になるし,「池に浮いたシリーズ」にすれば, 「池に浮いた空き缶4つ」 等々,そこに浮かんでいるいろいろなモノに変えられるし,井戸や池を湖に海に宇宙へと広げていけば,4つの丸は島や惑星になるし,口の中と見立てれば,「口の中シリーズ」として,歯や飴玉とみなすこともできる。更に,中の円を凸部ではなく,凹部と見なせば,ボタン穴や車のホイールへと広がる。しかも,そこまでの発想が上からの視点と自覚していれば,同じものを下から見る(それは引っくり返したのと同じ)と,「脚シリーズ」として, 「丸テーブルの脚」 等々,机・テーブルから4足動物,更には,(麦藁帽子のようなアダムスキー型)UFOの脚といった別のシリーズへ発展させられる。それに,ヒト・場所・トキといろいろ当てはめていけば,ある意味で無数の発想が出せるはずだ。
この意味は,次のように判断できるだろう。 これは,連想の多重化,多層化と同じであり,無意識のネットワークに接続していく,最も優れた方法(しかも気楽にできる)だと思っている。シリーズ化でやっている極小化したり極大化したりする見え方の変え方は,発想の基本姿勢なのである。 |
ご質問・お問い合わせ,あるいは,ご意見,ご要望等々をお寄せ戴く場合は,sugi.toshihiko@gmail.com宛,電子メールをお送り下さい。 |