前回,物の見方を“バラバラ化”するひとつの方法として, @視点を変える Aカタチを変える B意味を変える C条件を変える の4つを挙げ,その「変える」の意味は,それを意識してみるということだ,と述べた。たとえば,「視点を意識してみる」とは,「〜と見た」とき,「いま自分は,どういう視点・立場からみたのか」と振り返ってみるということだ。そのとき,会社の立場で見たのだとすれば,それ以外の,父親として見たらどうなるか,客の立場で見たらどうなるか等々,無意識にとっている視点を意識し,「では,別の視点ならどうなるか」と,改めて別の視点を取ってみることで,意識的な多角化の出発点とすることができる。 しかし,ここには,ほんの少し嘘が入っている。正確には,嘘というより,一種の後知恵が入っている。 正確な記憶ではないが,ある生物学者が,こんなことを書いていたのを目にしたことがある。彼は,ある高山に生息する蜂の研究をしていた。生態が余り知られていないため,研究室で生育してみることを考えたが,一度目は,冬を越せずに全滅した,次の年,気温が問題だったのではないかということで,その高山の温度に近い気温に一定に保ってみたが,やはり全滅した。翌年も,より厳密な温度管理をしてみたが,やはり全滅した。失敗を繰返したあるとき,その学者は,「もしや,と気づいた」そうである。つまり,高山の温度に一定にするといっても,捕まえたときの夏の温度を保ったが,「もしかすると,夏は夏の,冬は厳冬の温度が必要なのではないか」というわけだ。そこで,一年間の温度変化を調べ,そのサイクルに合わせた気温変化を実現したところ,翌年孵化に成功した,という。 そこで,問題は,「ハット気づいた」というところだ。まさか,学術論文に,「はっと気づいた」とは書けず,もっともらしい仮説を記述したが,実態はこんなものだった,といった趣旨だった。 大事なのは,この「はっと気づいた」瞬間ではない。その前段階で,頭はフル回転している。まず,一定の温度に保ってはどうかと着想している。いわば,一定温度維持仮説を立て蛸とになる。が,それが失敗して,自分たちの行動側の瑕疵ではないかと疑い,温度管理不徹底仮説を試し,それでもだめだった。そこには暗黙のうちに,蜂を捕獲したときの気温でなくてはならないという先入観があったことになる。で,想像するに,無意識で,山の気温そのものに目を向けたのではあるまいか。そうすると,山であれ,地上であれ,気温が一定ということはありえない。すごしやすい気温を保つのは人間だけなのだ。生物学者の体験が,温度を山の一年の変化に合わせればいい,つまり気温の高い夏と寒い冬の両方が必要なのではないかという,通年気温変化仮説とでもいうべきものにたどりつくことになる。とまあ,これは,そう想像してみただけのことかもしれないが。 ここから我田引水するつもりはない。ここで,大事なことは,結論には,そのプロセスは見えないということだ。論文の結論からは,そういう発想にたどりつくプロセスは隠されている,ということだ。それは,上記のバラバラ化の4つの視点についてもいえるということだ。これは,筆者の発想プロセスのメタ化には違いないが,そういう結論からだけでは,プロセスがブラックボックス化されている。そして,本当に必要なのは,そのブラックボックスになっている部分そのものだ,ということだ。 たとえば,発想技法には無数の種類があるし,チェックリストも多くのものが紹介されている。上述の4つの切り口も,一種のチェックリストといっていいが,たとえば,この4つにしても,いわば,結論に過ぎない。技法は,いわば,自分の思考プロセスの方法化,あるいはメタ化なのだが,メタの部分から,どうやってそういうものが生まれたのか,どういう必然性で,そういうものにまとまったのかは,ブラックボックスになっている。実は,発想で重要なのは,というよりは,自分の発想力を高めようとするとき,最も参考になるのは,そのプロセスそのものだ。 しかし,どの技法も,プロセスを語ることは少ない。エジソンは,99%の汗と1%のインスピレーションといったが, その汗とは,プロセスのことだ。 それは,人によって異なるが,僭越ながら,小生は,そのプロセスの鍵は,対あるいは対で考えることにあると考えている。対とは,「たとえば,前から見てこう見えた,とすると,その反対,後から見たらどうなるか」「オレの視点ではなく,オマエの視点ならどうなるか」等々。それを図にするのはむずかしいが,あえて図解してみるなら,下図のようになる。 前から見る後から見る,右横から見る左横から見る,大人の視点子供の視点,親の視点子供の視点,役所の立場住人の立場,窓口の効率申込者の便利,売上高と利益,止める便利走る効果,外す便利止める効率,開く便利閉める便利等々,対として常識に考えられるものは,当然いくつか浮かぶが,対はあるものではなく対にして考えて見ることだから,「緑と青」でもいいし,「イエスとノーではなく,ちょっと賛成と大いに賛成」でもいいし,プリンターとコピーでもいいし,スキャナーとカメラでもいい。対は,いわば,「ああでもないこうでもない」と考えあぐねる,ためつ眇めつする,といった思考の悪戦苦闘プロセスそのものの筋道を言っているだけだ。「岡潔氏の「たて横斜め十文字」というのも,エジソンの「99%の汗」も,このプロセスを差しているといっていいのだ。この対に似たものを,一人一人が見つけることが,その人にとっての発想スキルなのだといっていい。 |
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