たとえば,欠点列挙法という発想技法がある。一例として,そのステップを以下に拾い出してみる。 1,取り上げるテーマ決める。 2,モノやコトの欠点を洗い出し,ポストイットに書き出していく。 3,ポストイットを並べながら,共通点を発見し,グループ化し,グループ毎にタイトルをつけていく。 4,各グループ毎に,何を問題にするか(何を欠点とするのか)を,課題として抽出する。 5,各グループ毎に,その課題がどうしてそういうことが起こるのか,発生理由を具体的に列挙していく。 8,発生理由をクリアするにはどうしたらいいか,解決策を検討する。 しかし,このステップのとおりにすすめていけば,アイデアが出るというものではない。肝心の個人の脳内の働きは,ブラックボックスになっている。 「欠点を洗い出す」というのは,一見,何ということもなさそうだ。ただ,欠点を洗い出せばいいのか,と。しかし,そう簡単ではない。たとえば,「欠点」とは何を意味するのか,問題点や弱点,不平不満,願望とどう違うのか。実は,欠点とは何かと考えること,頭の中で,欠点を多角的に考えること自体が,既に,多角的にものを見ることだし,それが,ステップの文言と対話することでもある。技法は,書かれていることのままに進めば,自動的にアイデアがところてんのように押出されてくる魔法ではないのだ。 「欠点」は,出発点は,「不」の字(不便,不満,不都合,不具合など),「悪」の字(調子が悪い,具合が悪い),「欠」の字(欠けている,欠点),「無」の字(無い,無理,無駄)が手がかりになる。しかし,単に不都合な点を列挙するものと決めつけるのは,先入観となる。「〜がほしい」「〜してくれない」といった“わがまま"“願望"も,潜在的な需要にちがいない。「ジャーポットが歩いてこない」「呼んでも答えない」といったとほうもない“わがまま”こそ「欠点」なのだと思いついたら,既に成功なのではあるまいか。 更に重要なのは,《欠点》を,どれだけ多角的に,通常では見えにくい“問題”まで洗い出せるか,である。健常者である自分のいつもの視点(立場)のまま見るのではなく,身体の不自由な人にとってはどうか,子供ならどうか,外国人ならどうか,女性なら何が問題か,老人にとっては何が不便なのか,左手使いにとってはどこが使いつらいだろうか等々,意識的にいつもと別の視点(立場)から欠点を洗い出したい。まさに,対の発想そのものだ。どんなに発想力の豊な人でも,素手で発想が生まれるはずはない。「ああでもない,こうでもない」とひとつのことを,ためつ眇めつする努力を続けるしかない。エジソンの「99%の汗と1%のインスピレーション」とは,このことを意味している。 たとえば,テーマひとつでもそうだ。たとえば,神戸の震災で活躍した「仮設住宅」というテーマを取上げたとする。そのまま欠点を挙げて,その全てをクリアしようとすれば,間違いなく,「自分の住んでいる家より立派ではないか」ということになりかねない。仮設住宅というテーマだから,そうなるのではない。取上げたテーマは,自己完結したモノかも知れないが,モノは単体で存在しているのではない。仮設住宅の目的を無視して,その問題だけを,その単体のモノの中だけですべて解決しようとすることが,矛盾を引起す。ここで問題になっているのは,前回問題にした「対」で考えるということなのだ。 モノそのものの中で解決していいことと,別の社会や制度・システムや政治で解決すべきこととは別だ。仮設住宅は,あくまで一時凌ぎでしかない。一時的な問題解決のために解決すべきことに限定しないと,欠点を解決すること自体が目的化する。このとき必要なのは,この解決は,何のためか,それはどこまですべきかという,相対化したものの見方だ。同じことは,たとえば,「自転車」の欠点解決でもいえる。たとえば,「ペダルをこぐのがつらい」というのを解決した「ヤマハのパスのような補助動力」は自転車だが,「モーターをつけたらいいじゃないか」という結論を出したとなると,「それではオートバイじゃないか」と,大恥をかくことになる。ここでも,テーマを相対化してみる視点がいる。 そもそも創造性や発想力というのは,目的ではない。たとえば,「創造性とは新しい何かを考え出すこと」だとする。では,「新しいこと」が仕事の中で目的となるのか,新しくさえあればいいのか。そうではない。何をするために,新しいことが必要か,によって,新しくても評価されないことはありうる。
こうした発想技法を,ブレーンストーミングで,すすめるのは別に研修手法だからではない。既に述べたように,キャッチボールが発想を異質化するすぐれた技法だからに他ならない。 同じことは,何の問題もなさそうな「グループ化し,グループ毎にタイトルをつける」ところにもある。たとえば,ユニットバスの欠点を列挙していって,「バス部分」「トイレ部分」という括り方をしたとする。そうすると,バス部分をもう少し広くしたい,といった程度の部分修正案しか出まい。それでは,トイレの流す部分を湯船にできないか,風呂の湯を流す水として使えないか,といった発想はしにくくなる。くくり方ひとつでも,いつもとは別の視点はないか,誰の視点から見たらいいのか,といった対の視点が不可欠なのだ。 |
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