固定観念ということをよく,安易に使うが,固定観念とは,その人の知識と経験そのものを差す。知識と経験とは,その人の生きてきた人生そのものといってもいい。固定観念を捨てるとは,大概常識とイコールと受止め,捨てるべきものと考えがちである。冗談ではない。そのひとがもっている知識と経験を捨てるとは,その人の人生そのものを捨てることだ。はっきり言うが,自分の人生と取り替えるに値する発想などというものはない!それは間違っている。何が,か。固定観念を捨てることで発想が得られるという発想が,である。固定観念を捨てれば,発想が生まれるというなら,捨ててみればいい。ラッキョの皮むきである。何もなくなるのがおちだ。 発想とは,その人の知識と経験の函数である。問題なのは,発想を知識と同じレベルで,何か新しいことを蓄えようとする発想だ。問題なのは蓄えているものが間違っているのではない。蓄えているものの使い方だ。もともと蓄えているもの以上に発想は出ない。固定観念となってしまっているのは,自分の知識と経験の使い方に問題があるからなのだ。 人の脳ニューロンは,100億以上あるといわれているが,まず胎児のとき,妊娠20週で大量に死滅していく,といわれている。更に20歳を過ぎると,1日何十万個と死んでいくとされている。その原因は,他のニューロンとの間にシナプス(ニューロンとニューロンの接続部分)を形成できなかったためと考えられている。人間の脳のこうした回路網(ニューロンによるネットワーク)は,10の14乗にも及ぶシナプスがある。入力信号の伝達に使われたシナプスは強化され,使われないシナプスは弱体化し消えていく。この回路網は,人間の知識と経験によって形成されるのである。固定観念とは,絶えず使い,いつも使っている入力信号(使い慣れた知識,いつもの仕事等々)によって強化された回路網に他ならない。 たとえば,下図は,老婆に見えたり,若い女性に見えたりするが(この際,どっちに見えようと大した問題ではない),この絵を,『老婆』にしか見えないように描き換えた絵を先に見せられると,その後下図を見ると,100%の人が,この絵から,老婆しか見えなくなる。逆に,『若い女性』にしか見えないように描き換えた絵を先に見せられると,その後下図を見ると,100%の人が,この絵から,若い女性しか見えなくなる。つまり,先に見た経験によって,強化された回路を通して,ものを見てしまっているのである。しかし,それは,森からサバンナに出て行った,二足歩行の人類にとって,その強化された知識こそが,他の獰猛な野獣から身を守る武器だったのである。 種村・高柳『だまし絵』(河出文庫) 下図も,同じである。二列目の絵を,左から右へ見ていただく。ずっと男の顔である。三列目の絵を,左から右へ見ていただく。女の絵である。一番右の絵は同じであり,一列目の絵がそれである。最初に,強化された回路で見るとき,それが,自分のものの見方を決定してしまう,ということをここで確認すればいい。だから,人間は固定観念の固まりだと嘆くのはナンセンスだ。それが,自分の持っている知識と経験だ,ということに過ぎない。それは,発想にとって邪魔でも踏み台でもない。つまりプラスでもマイナスでもない。ただの前提に過ぎない。 種村・高柳『だまし絵』(河出文庫) だから,発想は,一人の思考の枠組みでは限界があるのであり,キャッチボールの持つ重要性があるのだということを,ここで確認すればいいのだ。またそうした知識と経験をどう使いこなすかという視点でみたとき,発想スキルをところてんを押出すような便利なツールと見なす安易な発想からはまぬがれることができるはずなのだ。 |
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