発想のテキストで,こんな図を見かけたことはないか。その本は,こう問い掛けている。「正方形はいくつあるか」と。
エドガー・ハーディ『「2+2」を5にする発想』(上出洋介訳 講談社) 大概,答は,巻末に,とか何とか書いてあり,そこを見ると,「30」としている。しかし,こういう発想の本は,間違っている。答がひとつなら,それは,知識に過ぎない。知識なら,学べば手に入れられる。あるいは,知っている人に聞けば直ぐ手に入る。あるいは,先達が必ずどこかにいる,ということだ。それは,これまでの日本的な,「後進国」(「先進国」と目される欧米をモデルにすればいい)の発想だ(かつては唐や隋,漢,明の中国であり,いまはそれが欧米になっているだけだ)。 しかし,発想にとっては,知識を得れば得るほど,逆に不自由になりかねない。なぜなら,それはそのまま,「○○ではそうなっていない」「◇◇ではこうやっている」(アメリカや欧米諸国をいれればいい)という,発想停止の材料になるだけだ。発想には正答はない。 第一,この世の中で,答がひとつのものなどはない。幾何でいえば,ユークリッドの世界では,正解でも,非ユークリッドの世界では,答は別になるように,条件をつけるしかない。逆にいえば,条件設定の数だけ,答があっていいのである。 たとえば,上図でいえば,通常は,30を思いつくのも難渋する。しかし,それは,このラインに象られたカタチに惑わされるからだ。たとえば,こういう人がいる。 「ラインの交差したところは正方形ではないか」 それに,どう反応されるるだろうか。 「そんなばな」 「それは禁じ手」だ」 「そんなことがOKなら……」 実は,こういう自由に考える人が,必ずいる。学生時代でも,クラスでよく,こういう意表をつく発想をする仲間がいなかったろうか。大概は,それを押しつぶすか,無視してこなかったろうか。こういう発想を,生かすも殺すも,聞き手側の“聞く耳”次第なのだ。つまり,こういう発想をする人がいるから,キャッチボールに効果があるのだ。問題は,それを生かす耳を,聞く側が持っているかどうかだ。 聞く耳があれば,そうかこの枠組みにこだわらなくてもいいのか,それなら,立体と考えればいい,あるいは,シートが重なっているのを上から見ていると考えてもいい,格子状のものと考えてもいい等々,次々と制約を破るのは,それに反応した自分の脳内の発想に聞く耳を持っているということだ。 たとえば,前に,“キャッチボール”のイメージとして,Mのポストイット開発 を例として挙げた。シルバー の問いに,フライが,自分の経験の中から,ポストイットを発想した。この発想は,シルバーではない。フライが自分の中から,答を見つけたのだということだ。いつも書籍に挟む付箋に不便を感じていた フライ自身が,その活用方法を見つけ出したのだ。 上図の例もそうだが,発案ないし問題意識を提供した人のほうが,発想としては,あるいはアイデア力としてはすぐれていたかもしれない。しかし,大事なのは,それだけなら,個人の枠組みを出られないということだ。それだけでは,ひとつの面白いアイデアにとどまるところを,拡大し,広げていけるのは,それに聞く耳をもったキャッチボール相手だということなのだ。 発想を妨げるとは,人のせいではない。発想は,自分の中に答を見つけることだ。つまり,発想を妨げているのは,キャッチボール効果を妨げている自分自身の中にこそある。 |
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