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「砂糖」の原料の一つ、サトウキビの原産地は現在のニューギニア周辺の島々だとされるが、「砂糖」は インドが起源だとされ、英語名 Sugar は、サンスクリット語の Sarkara(砂粒の意味)が語源だとも云われ、それがインドで最初に作られたとする根拠となっています。ニューギニア原産のサトウキビが、いつ頃インドに伝わったかは、定かではありませんが、紀元前の古い仏典に砂糖(薬品として)に関する記述があるそうなので、かなり時代を遡ることは確かです、 とある(http://www.in-ava.com/satou.html)。大言海の記述がおもしろい。 梵語sarkara(甘藷、沙糖、仏語sucre、独語Zucker、英語sugar、甘精saccharine)の首音を取りて、支那にて、庶と音訳し、味の甘きを以て、漢語の糖(あめ)の字を添へて、庶糖と熟語にしたる、梵漢雙擧の語なり(閩部疏に、飴蔗と見え、又、甘蔗(かんしや)と云ふ、共に、雙擧なり)。後に草なるに因りて、蔗とし、其形の、沙(すな)の如くなる意に寄せて、沙糖とし、又、沙の俗字なる、砂と記すなり、今習慣により、俗字を用ゐる、 と。本草和名(延喜)に、 沙糖、甘庶汁作之、唐、 とある。説文には、 唐、飴なり、 とあり、塵袋(弘安)には、 沙唐は、唐のあめ也、 とあり、本草綱目「沙糖」には、 笮甘蔗汁、煎成紫色、李時珍云、法出西域、唐太宗、始遣人傳其法入中国、 とある(大言海)。李時珍とは、中国・明の医師で本草学者。中国本草学の集大成とも呼ぶべき「本草綱目」等々を著した(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%99%82%E7%8F%8D)。宋の陸游の「老学庵筆記」によると、中国でも古くは砂糖はなく、唐の太宗のとき外国から伝えられた、とある(日本語源大辞典)。 甘庶、 あるいは、 甘蔗、 は、 カンショ、 カンシャ、 と訓み、 さとうきび(砂糖黍)の漢名、 である。 砂糖は奈良時代に鑑真によって日本伝えられたとされている。鑑真東征傳には、 奈良朝、天平勝寶六年、唐僧鑑真、来朝す、其本國を發はする時、舶齎の數百品を載す、其中に蔗鎕等五百餘斤、甘蔗八十束(太宗より百余年後なり)、 とある(大言海)。 当初は輸入でしかもたらされない貴重品であり医薬品として扱われていたが、平安時代後期には本草和名に見られるようにある程度製糖の知識も普及し、お菓子や贈答品の一種として扱われるようにもなっていた。室町時代には幾つもの文献に砂糖羊羹、砂糖饅頭、砂糖飴、砂糖餅といった砂糖を使った和菓子が見られるようになってくる。名に「砂糖」と付くことからも、調味料としての砂糖は当時としては珍しい物だった、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%82%E7%B3%96)。 日本国内で砂糖が作られるようになったのは、1453年沖縄の長嶺陵正によってからだと思われる。その後、「農業全書」(1696)、「和漢三才図絵」(1713)等により甘蔗の栽培と製糖法が紹介され、1727年には将軍吉宗により、琉球国から(平賀源内の「物類品隲」(ぶつるいひんしつ)の記述では薩摩から)甘蔗苗が求められ、本州・九州で栽培・製糖がおこなわれるようになって、やがて民間へも普及するようになった、 という(日本語源大辞典)。この経緯は、「和三盆」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E5%92%8C%E4%B8%89%E7%9B%86)でも触れたように、 金銀流出の原因のひとつとなっていた砂糖輸入を減らすために江戸時代の将軍徳川吉宗が琉球からサトウキビをとりよせて江戸城内で栽培させ、サトウキビの栽培を奨励して砂糖の国産化をもくろんだ。また、殖産興業を目指す各藩も価格の高い砂糖に着目し、自領内で栽培を奨励した。とくに高松藩主松平頼恭がサトウキビ栽培を奨励し、天保期には国産白砂糖流通量の6割を占めるまでになった、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%82%E7%B3%96)。ちなみに、長嶺陵正は、 長嶺按司陵正、 といい、長嶺グスク(城跡)の案内によると、 尚金福王の時代(1450〜53)に中国に渡り、砂糖製造法を習い受け、ハー帰国後龍気宇国内に製糖法を教え広めた、 とされた(https://ja.monumen.to/spots/7447)、という。 ところで、砂糖は製糖の過程によって、 糖蜜分を含む分蜜糖(ラニュー糖、上白糖等々)、 と 糖蜜分を分離した含蜜糖(黒砂糖、メープルシュガー、パームシュガー等々)、 に分けられる。日常使用されているのは、ほとんどが分蜜糖であるが、和三盆は、黒糖と共に、 含蜜糖に分類、 する説(http://sanuki-hiyori.jugem.jp/?eid=6)と、 分蜜糖に入れる、 説がある(https://taberugo.net/1090)が、和三盆の特徴は、 粉砂糖に近いきめ細やかさを持ち、微量の糖蜜が残っていることから淡く黄色がかった白さとなる、 ので、含蜜糖に入れるのが妥当に思えるが、微妙のようである。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 「爪楊枝」は、 小楊枝(こようじ)、 ともいうが、「楊枝(ようし)」は漢語である。隋書(眞臘傳)に、 毎旦澡洗、以楊枝浄歯、讀誦経呪、又澡灑乃食、食罷還用楊枝浄歯、又讀誦経、 とあるように、「楊枝」は、奈良時代、仏教とともに伝来した、とされる。 仏教では、僧侶が常に身につけておくべきその第1に楊枝が出てきます、 とあり(http://www.cleardent.co.jp/siryou/index2.html)、 歯木、 と呼ばれ、 お釈迦様(紀元前500年頃)が、弟子たちにこの歯木で歯を清潔にすることを教えたのが始まり、 とされており(http://www.sanshu-ind.co.jp/youji-gogenn1.htm)、もともと 仏家(ぶっか・ぶっけ)では浴室で身体を清浄にする七物の一つ、 とされており(岩波古語辞典)、 七つの物を用ゐるといふは…こまやかなる灰と楊枝と帷(かたびら)となり(三宝絵詞)、 とある(仝上)。で(日本語源大辞典)、 中国において楊柳(ようりゅう)でつくられたことからきている。この漢語が現物とともに日本に渡来し、そのまま「ようじ」と音読され普及した、 のである(日本大百科全書)。 平安時代中期の分類体辞典『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』にすでに楊枝の名称がみえ、……10世紀なかばに藤原師輔(もろすけ)が記した『九条殿遺誡(くじょうどのいかい)』には、子孫に与える訓戒として、毎朝楊枝を使えといっているので、少なくとも貴族社会には普及していた。大きさについて室町時代中期の辞書『嚢鈔(あいのうしょう)』は、「三寸(約9センチメートル)ヲ最小トシ、一尺二寸(約36センチメートル)ヲ最大トス」と記し、現在の妻楊枝よりもかなり長いものであった、 とある(仝上)。これは、 ヤナギの枝を細長く削り、先をとがらせたもの、 で、 本来は歯ブラシのように使用する、 もので、 楊柳の枝に呪術的な意味があり、病を治し、歯痛を止める効果があるとされたために、楊枝がつくられたと考えられる、 とある(日本語源大辞典)が、 鎮痛解熱剤としてもちいられる「アスピリン」という物質がヤナギ科の植物に含まれていることから、噛むことは虫歯の痛みにきく、 という説(語源由来辞典)もあり、もしそうなら、実用的でもあった。 庶民の間に普及したのは、江戸初期(1624〜1704年)で、柳や黒文字の木の一端を木槌で叩き、針を並列した器具で梳いて繊維状にした、 総(ふさ)楊枝、 房楊枝、 が生まれ(https://www.dent-kng.or.jp/museum/ja/hanohaku02/)た。房楊枝の考案は、京都の郊外の猿屋が商品として売り出した、とされる(仝上)。で、小さいものは、 小楊枝、 爪楊枝、 と呼び、歯磨き用と区別した。「つまようじ」を、 黒文字、 と呼ぶのは、黒文字の木で作られた楊枝を指して言ったからだが、柳の他、 杉、竹なども用いられたが、江戸時代には特に黒文字を皮をつけたまま楊枝としたものが貴ばれた。大きさも三寸から六寸以上のものもあり様々であったが、中世後期には尖端を削ってとがらせた小さなものが作られ、ふさ楊枝などの大きなものに対して爪楊枝、小楊枝と呼ばれることになった、 とある(日本語源大辞典)。なお、 使用後には折って使い捨てにしないと悪いことが起こる、 という俗信があったらしい(仝上)。 「爪楊枝」とあてている「つま」については、「つまようじ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba6.htm#%E3%81%A4%E3%81%BE%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%98)で触れたことと重なるが、「つま」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba6.htm#%E3%81%A4%E3%81%BE)で触れたように、 「端(ツマ)、ツマ(妻・夫)と同じ」 で、「端」は、 「物の本体の脇の方、はしの意。ツマ(妻・夫)、ツマ(褄)、ツマ(爪)と同じ」 で、その意は、「つま(妻・夫)」を見ると解(げ)せる。 「結婚にあたって、本家の端(つま)に妻屋を立てて住む者の意」 つまりは、「妻」も、「端」につながり、「つま(褄)」も、 「着物のツマ(端)の意」 「つま(端)」につながる、とする説と、もう一方、「つま(端)」は、 「詰間(つめま)の略。間は家なり、家の詰の意」 で(大言海)、「間」とは、 「家の柱と柱との中間(アヒダ)」 の意味がある。さらに、「つま(妻・夫)」も、 「連身(つれみ)の略転、物二つ相並ぶに云ふ」 とあり(仝上)、さらに、「つま(褄)」も、 「二つ相対するものに云ふ。」 とし(仝上)、「つま(妻・夫)」の語意に同じ」とする説がある。これと関わる言葉に、 爪櫛(つまぐし)、 というのがあり、それは、 歯の目の細かい櫛、 の意だが、 ツマ(爪)は櫛の歯が密で、閧ェ迫っている意(古事記伝)、 という解釈もある(日本語源大辞典)。 つまり、「つま」には、 はし(端)説、 と あいだ説、 があるのである。その意味で、「つまようじ」の「つま」を、「爪」としていいかどうかは疑問がある。 妻楊枝、 と当てているものもあるが、これも「つま」の由来から考えると、間違いではない。日本語源広辞典は、「つま」を、 説1は、『ツマ(物の一端)』が語源で、端、縁、軒端、の意です、 説2は、『ツレ(連)+マ(身)』で、後世のツレアイです。お互いの配偶者を呼びます。男女いずれにも使います。上代には、夫も妻も、ツマと言っています、 と二説挙げるように、つまようじ」の「つま」が、 はし、 と 関係(間)、 と、「端」の意味に、(歯の)「間」という意味が陰翳のように付きまとっているという気がしてならない。どちらと決めない陰翳が、面白いのかもしれない。 ところで、最近の楊枝の、「こけし」様のものは、 つまようじは、もともとノコギリで切断して生産されていました。ところが、このような作り方だと精度が悪く、切断面が必ずざらざらした状態になってしまい、ケバだってしまいました。 そこで今度はグラインダー(砥石)で切断するようになりましたが、そうするとケバ立たなくなったものの、摩擦で黒く焦げてしまうようになりました。そこで、この黒い焦げ目を逆手に取り、ごまかすために、オマケのみぞをつけて「こけし」に見立てて装飾したのがそのはじまりだったようです。 切断のついでにミゾをつけるので、特別なコストはかからず、しかも綺麗に仕上がるため業者としては、都合がよく、以後日本のつまようじにはこけしが装飾されるようになりました。 とある(https://mag.japaaan.com/archives/94846)。 参考文献; 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 「なます」は、 膾、 鱠、 と当てる。「膾」(漢音カイ、呉音ケ)は、 会意兼形声。會とは「あわせるしるし+増の略体」の会意文字で、あわせて増やす意を含む。膾は「肉+音符會(カイ)」。會(会)と同系の言葉で、赤や白の肉を細く切り、それを彩りよく取り合わせた刺身、 の意であり、「さしみ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba8.htm#%E3%81%95%E3%81%97%E3%81%BF)で触れたように、「刺身」は、 「指身・指味・差味・刺躬また魚軒とも書く。生魚の肉を細かく切ったものを古くは鱠(なます)とよんでいた」 のである(たべもの語源辞典)。倭名抄には、 鱠、奈萬須、細切肉也、 とある。 「膾」は、「生肉」で、「鱠」は、「魚肉」、 漢字の「膾」は、肉を細かく刻んであわせた刺身を表す字なので、「月(肉)」が用いられている。その後魚肉使うようになり、魚偏の「鱠」が用いられるようになった、 ということである(語源由来辞典)。万葉集に、 我れは死ぬべし大君に我れは仕(つか)へむ我が角は御笠(みかさ)のはやし我が耳は御墨(みすみ)の坩(つぼ)我が目らは真澄の鏡我が爪はみ弓の弓弭(ゆはず)我が毛らは御筆はやし我が皮は御箱の皮に我が肉(しし)は御膾(みなます)はやし我が肝も御膾(みなます)はやし我が眩(みげ)は御塩(みしお)のはやし老いたる奴(やつこ)我が身一つに七重(ななへ)花咲く八重(やへ)花咲くと、 と長歌(乞食者の詠)があり(https://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/e/21e888f916a3b5e3bb97772b67e3a1b6)、「みなますはやし」は、 御鱠料、 と当て、 魚介や動物の肉を薄く切り、塩でしめて食す料理、 を意味する。上記歌は、鹿の立場から「わが肉は御鱠はやしわが肝も御鱠はやし」と詠い、 鹿の様々な部位が天皇のために利用されることを喜び「大君にわれは仕へむ」と詠んでいて、禽獣にも奉仕される天皇を言祝ぐ内容となっている、 とある(http://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/detail.do?class_name=col_dsg&data_id=68905)。「乞食者の詠」の「乞食者」とは、 寿詞を唱えて食物を請う芸能集団であるが、この歌は、宮中への鹿肉献上の際に詠われたかといわれる、 とある(仝上)。 今日、わが国で「なます」は、 大根・人参などを細かく切って酢で和えた食べ物、 を指すが、わが国だけの使い方のようである。広辞苑に、 魚貝や獣などの生肉を細かく切ったもの、 薄く切った魚貝を酢に浸した食品、 大根・人参を細かく刻み、三杯酢・胡麻酢・味噌酢などで和えた料理、 の意味が載るのは、わが国での「なます」の意味の変遷である。 野菜や果物だけで作ったものは「精進なます」と呼ばれ、魚介類を入れないことや、本来の漢字が「膾」であることから、「精進膾」と表記される、 とある(語源由来辞典)のは、「膾」の本来の意味から区別のためと思われる。初めは、 魚貝や獣などの生肉を細かく切ったもの、 で、日本書紀・景行紀に、 白蛤(うむぎ)為膾而進之、 とあり、やがて魚の「なます」が多くつくられるようになり、 鱠、 が多く用いられるようになり、室町時代の「下学集」には、 膾は魚を調すること、 とある。さらに、 平安時代後期に魚肉と野菜を細かく刻んであえた物を指す言葉に変わり、日本独自の発展を遂げていきます、 とあり(https://gurusuguri.com/special/season/osechi/spcu-1511_06/?__ngt__=TT106662437005ac1e4ae86fHWmjI-luNTto7lmsW0WpJQ)、その頃のなますは、煎り酒という日本酒に鰹節や梅干しを加えて煮詰めた調味料を用いて作られていた、(仝上)とある。 江戸時代まで「膾」は膳におけるメインディッシュとしての扱いを受けており、膳の中央より向こう側に置かれることから「向付」(むこうづけ)と呼ばれるようになった、 ともある(仝上)。これは、 なますが元々は魚肉を使用して作られていたことが背景にあるため、 だったからといわれる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%86%BE)。長く「鱠」と当てたが、 精進なます、 のときには、 膾、 の字を用いるようになった(たべもの語源辞典)、ともある。 大言海は、 生切(なますき)の略か、 とするが、これまでの経緯をみると、 肉は「しし」とよむ。生肉を細かに切ったものが、なますなので、ナマシシとよんだ。生肉をナマシシ(生宍、宍(しし)肉の古字)ともいった。このナマシシがナマスになった、 とする(たべもの語源辞典)が妥当に思われる。 ナマシ(生肉)の転呼(日本古語大辞典=松岡静雄)、 ナマは生、スはシ(肉)の転(小学館古語大辞典)、 も同趣である。 ナマス(生酢)の義(日本語源広辞典・東雅・和語私臆鈔・和訓栞)、 という説は、 酢を用いるようになったのは室町時代である。鱠の字は平安時代から盛んに用いられており、後付けということになる。 「それにしても、「なます」をめぐる諺は多い。たとえば、 羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く、 人口に膾炙(かいしゃ)する、 膾に斬る、 膾に叩く、 等々。 なお、「あつもの」については、「羊羹」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E7%BE%8A%E7%BE%B9)で触れた。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 「あらい」は、 洗い、 と当てる。 洗い膾、 のことである。「膾」は、「なます」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E3%81%AA%E3%81%BE%E3%81%99)で触れたように、 ナマシシ(生肉)、 の意で、古くは 生魚の肉を細かく切ったもの、 を膾(なます)と呼んでいた(たべもの語源辞典)からである。「洗い」と当てるのは、 コイ、フナなどの川魚、スズキ、ヒラメ、鯛、アジなど白身の魚等々 を下ろし、 そぎづくりや糸つくりなど薄切りにし、流水やぬるま湯で身の脂肪分や臭みを洗い流した後、冷水(氷水)にさらし漬けて身を引き締めて(身は、縮まり、ちりりと「はぜる」。)から水気を切って提供する、 からである(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%97%E3%81%84)。カニの刺身をさっと湯引きしたものを洗いと呼ぶ地方もある(仝上)、とか。 洗鱸(あらいすずき)、 洗鯉、 等々といい、「洗鱸」には、 古酒に醤油、鰹節、塩などを加えて煮詰めた煎酒と称する酒を添える、 とある(たべもの語源辞典)。 氷塊を添えて供する、 ので、夏の料理として喜ばれる(たべもの語源辞典)。タイ、スズキ・コイの他、 フッコ、クロダイ・コチ・ボラ、 等々が使われ、 つまには、青ジソの葉を刻んだもの、穂ジソなどを添え、ワサビ醤油で食べる、 とあり、淡水魚には、酢味噌か芥子酢味噌がよい、 とある(たべもの語源辞典)。 ところで「あらう」に当てた、「洗」(セン、漢音セイ、呉音サイ)は、 会意兼形声。先は「足+人」の会意文字で、人間の足先を示す。跣(セン はだしの爪先)の原字で、指の間に細い隙間が空いて離れている意を含む。洗は「水+音符洗」で、細い隙間に水を通すこと、 とあり(漢字源)、「あらう」というよりは、「すすぐ」という含意があるが、「洗濯」の「濯」(漢音タク、呉音ダク)は、 会意兼形声。翟(テキ)は「羽+隹(とり)」の会意文字で、キジが尾羽を高く抜きたてたさま。濯はそれを音符とし、水を加えた字で、水中につけた物をさっと抜きあげてあらうこと、 で、「あらう」意だが、じゃぶじゃぶとあらう、という含意になる。「あらい」に、「洗」を当てたのは頷ける。 「あらふ」について、大言海は、 新(あら)を活用せしむ(荒(ありら)、あらぶ)。新たにする義(浚ふも、更にする義ならむ)。或は、和訓栞に、拂ふと音義通是りと云ふ(頒(あが)つ、はがつ。溢る、はふる)、汚れを除き去る義となるか、 とする。日本語源広辞典も、 アラ(更・新)+う、 と、似た説を立てる。意味的には、あっているが、理が先立つときは、往々にして、後付け解釈の気がして、ちょっと納得しがたい。「あら」は、 生(あ)るの名詞形、アレの転(曝(さ)れぼふ、さらばふ。荒らぶ、あれぶ。賓客(まれびと)、まらびと)、新たと云ふ語も、生立(あれたち)なるべし、生まれ出でたる意、 とあり、「生(あ)る」は、 生(な)るに通ずと云ふ(豈(あに)、何(なに)。などか、あどか)、新たに生(な)る意、 と(大言海)、理屈はますます合うのだが、他は、 ハラフ(払)から(和訓栞、和句解、日本語原学=林甕臣)、 と、「払う」とする説だから、確かに、「更・新」説が、とは思えるのだが。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
「落首」は、 らくしゅ、 と訓むが、 おちくび、 とも訓ますらしい(デジタル大辞泉)。「落書」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba5.htm#%E8%90%BD%E6%9B%B8)で触れた、 落書(らくしょ)、 の一種で、 一首、 の意で、 諷刺、嘲弄、批判の意をこめたむ匿名の戯歌、政道批判の手段としてしばしば行われた、 とある(広辞苑)。たとえば、 花よりも団子の京とぞなりにける 今日もいしいし明日もいしいし(醒睡笑)、 は、永禄十二(1569)年二月、織田信長は将軍となった足利義昭の新御所(室町邸)の築造を開始、京都の町衆をその石垣普請に徴発し、巨石の藤戸石を義昭邸に数日間かけて運ばせた。これはその際、毎日石を引きずって運ぶ音がうるさかったことから、あるいたずら者が書いた落首という。「いしいし」とは女房言葉で「団子」を意味する、 とある(http://www.m-network.com/sengoku/uta/uta01.html)。江戸時代なら、これは狂歌だが、 白河の清きに魚の住みかねて もとの濁りの田沼戀しき、 がある。白河とは寛政の改革を主導した松平定信を指し、田沼意次の時代を懐かしんでいる。 「落首」は、 ラクショ(落書)の訛か、 落書の一首の意、 の二説がある(大言海)が、「落書」という言葉があり、あえて、 落首、 という以上、 詩歌の形式によるものは,とくに〈落首(らくしゆ)〉といいならわしてきている、 ともある(世界大百科事典)ので、 ラク(落書)+シュ(短歌)、 と見ていいのではないかと思う。「落書」は、 落文(おとしぶみ)、 とも言い、というより、 「おとしぶみ」の漢字表記「落書」を音読したもの、 であり(精選版日本国語大辞典)、「おとしぶみ」は、 現(あらは)に言い難き事を、誰が仕業としられぬやふに、文書にして、路などに遺(のこ)しおく、 とある(大言海)ので、「落書」は文章、「落首」は詩歌、と言えそうだが、「落書」自体に、 時事や人事などを批評・諷刺あるいは告発する匿名の詩歌や文書、 とある(岩波古語辞典)ので、「落首」は、「落書」の範疇に入るのだろう。 「落首」は、 平安時代から江戸時代にかけて流行した表現手法の一つである、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%BD%E9%A6%96)、 公共の場所、特に人の集まりやすい辻や河原などに立て札を立て、主に世相を風刺した狂歌を匿名で公開する。封建制度においては言論の自由というものは存在せず、政治や君主に対する批判は極めて危険性の高い行為だったが、匿名での公開によって、読み書きができる者なら誰でも自由に言論活動を展開することができた、 とある(仝上)。 「落書」は、 らくしょ、 と訓むが、 らくがき、 と訓むと、 楽書、 とも当てる、 壁・塀などにするいたずら書き、 の意に取ることが多い。 落書(らくしょ)を文字読して、意を轉ず、 とある(大言海)ように、「落書(らくしょ)」とは異なり、 嘲弄、罵詈の語、又は畫などを書き散らす、 意が強い。「落書」は、歴史的には以下のように二つの意味をもつ、とある(日本大百科全書)。ひとつは、 養老律(ようろうりつ)の編目の一つである「闘訟律(とうしょうりつ)」に「匿名の書を投げて罪人を告発する者は徒(ず)二年」とあるように、落書は本来犯罪人を告発する投書をさすものであった。平安から室町時代にかけての寺社では、犯罪者を決める無記名投票が制度化しており、とくにそのなかで起請(きしょう)の形式をとったものを落書起請といった、 とあり、いまひとつは、 時局の風刺や権力者を批判、嘲笑(ちょうしょう)した匿名の文章や詩歌。……衆人の注目しやすい場所での貼(は)り紙、捨て文、投書によって、間接的に人々に噂(うわさ)を流布させることをねらったもので、政治の動揺期に数多くみられ、公然と政治を批判することのできない民衆の憤りの発露としてつくられた、 ものを指す(仝上)。この嚆矢は、 平安時代の初期には既に貴族階級の間で既に広まっており、確執のある官僚同士の昇任や栄転をめぐる政争道具として用いられていた。9世紀ごろの嵯峨天皇の時代の落書「無悪善」は小野篁が「悪(さが=嵯峨天皇)無くば善(よ=世)かなりまし」と解読したことで世間一般に知られる事となった、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%BD%E6%9B%B8)、これを、 匿名の投書で他人の罪状を告発するシステムとしても機能、 させ、 中世以降の荘園支配・管理に積極的に落書が活用されるようになり、領内犯罪者の摘発に大きな効果をあげた。鎌倉時代に入るとこのシステムは次第に制度化され、虚偽の無いことを神仏に誓わせる「落書起請」とあわせて強制的に実施されるようになった、 ものらしい(仝上)。 1310年、法隆寺で盗難事件が発生した際には、付近の17もの村を対象に落書を実施。その結果、600余通もの落書が集まり、最終的に2名の僧侶が盗人と決定した。いわば犯人を決める住民投票である。寺側は、この落書を非難し、2人の僧に犯人を捜させた結果、後に真犯人を捕まえた、 とある(仝上)。 「落書」で有名なのは、建武の新政当時の混沌とした世相を風刺した、「二条河原(にじょうがわら)の落書」で、 此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀(にせ)綸旨 召人 早馬 虚騒動(そらさわぎ) 生頸 還俗 自由(まま)出家 俄大名 迷者 安堵 恩賞 虚軍(そらいくさ) 本領ハナルヽ訴訟人 文書入タル細葛(ほそつづら) 追従(ついしょう) 讒人(ざんにん) 禅律僧 下克上スル成出者(なりづもの) とはじまり、88節にわたる長文である。歴史の教科書にも載るが、専門家の間でも、 最高傑作と評価される落書の一つ、 とされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E6%B2%B3%E5%8E%9F%E3%81%AE%E8%90%BD%E6%9B%B8)らしい。 今日でいうと、「落書き」とされるのかもしれないが、正体不明の覆面アーティスト、バクシーであろうか。 彼が残す作品には、反資本主義・反権力など社会風刺的なメッセージや強い願いが込められ、見る人々を魅了すると同時に、私たちの生活に警鐘を鳴らしいています、 とある(https://media.thisisgallery.com/20188939)。「落書」の系譜である。 参考文献; 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「ラッキョウ」は、 辣韮、 薤、 辣韭、 等々と当てる。別名、 オオニラ、 オオミラ、 サトニラ、 ヤマムラサキ、 タマムラサキ、 とある(たべもの語源辞典)。古く、「薤」を、オオニラ、「韮」をコニラと称したが、オオニラはラッキョウ、コニラはニラである、とある(仝上)。漢名は、 火葱(かそう)、 菜芝(さしい)、 白華、 守宅、 家芝、 白薤(はくきょ)、 葷菜(ぐんさい)、 鴻薈(こうかい)、 等々とある(仝上)。 ニンニク、 ネギ、 ヒル、 ニラ、 と共に、 五葷(くん)のひとつとされる(仝上)。「葷(クン)」(「艸+音符軍(なかにこもる、むれる)」)は、 ねぎ、にら、などにおいの強い菜、また味の辛い菜、 の意味である。 ユリ科ネギ属の多年草。中国、ヒマラヤ地方の原産。白色または紫色を帯びた白色の鱗茎を食用とする。中国で紀元前3世紀以前から栽培され、日本へは9世紀までには中国から伝来し、ナメミラ、オホミラなどとよばれ、古くは薬用に、江戸時代ころには野菜として全国的に普及した。 とある(日本大百科全書)。「ラッキョウ」の名は、 中国名の一つ辣韮(らっきゅう)に由来するが、平安時代はニラ(美良(みら))に対応して於保美良(おほみら)(大ニラ)とよばれた。ニンニク、ニラ、ネギ、ショウガとともに五葷(くん)の一つとされ、禅寺では「不許葷酒(くんしゅ)入山門」と、持ち込みを嫌った、 とある(仝上)。 辣韮、 薤、 辣韭、 と「ラッキョウ」に当てる、「辣」(漢音ラツ、呉音ラチ)は、 会意兼形声。「辛+音符刺(ラツ さすようにいたむ)の略体、 で(漢字源)、「ぴりりとからい」意。「韮(韭)」(キュウ)は、 象形。地上に、にらが生え出た姿を描いたもの、 とある(仝上)。「にら」の意である。「薤」(漢音カイ、呉音ゲ)は、 会意文字。「艸+歹(死人の骨)+韮(にら)」、 で(仝上)、「にら」の意だが、「らっきょう」の意である。で、中国語、 辣韮(韭)、 の音、 ラッキュウの転、 が、 ラッキョウ、 である(大言海)。 鱗茎(りんけい)は狭卵形で、葉を束生する。葉は細長く約20センチメートル、断面が五角である。秋に葉の枯れた鱗茎から50センチメートル余りの花茎を出し、先端に美しい紫色の小花を球状につける。しかし種子はできない。古い鱗茎には数個の新しい鱗茎ができて繁殖する。冬を越して初夏に鱗茎が成熟して休眠に入るので、このころに掘り上げて収穫する、 とある(日本大百科全書)が、秋咲く紫小花は。ニラ(韮)より大きい、とある(大言海)、たべもの語源辞典)。ニラについてはすでに触れた(http://ppnetwork.seesaa.net/article/461598032.html)。 タマムラサキ、 ヤマムラサキ、 の名は、この花からきている(たべもの語源辞典)。 ラッキョウは品種が少なく、 ラクダ、 と 八ツ房、 の二種しかなく、新品種の、 玉ラッキョウ、 が花ラッキョウ(両端(ハナ)を切るからそう呼ぶ)の原料になる(仝上)、らしい。ちなみに、 ギョウジャニンニク、 と呼ばれるものは、 深山に生えるものを修行中の行者が食用にすることで名づけられたが、ラッキョウとは別物で、漢名は、 茖葱、 とある(仝上)。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 「利休煮」の「利休」は、千利休を指すが、利休が作ったものではない。「利久煮」の他にも、 利休蒸、 利休焼、 利休和、 利休蒲鉾、 利休善哉、 利休煎餅、 利休醤(びしお)、 等々利休の名の付くものは多いが、利休考案のものはひとつもない(たべもの語源辞典)、らしい。 「利休煮」は、 魚貝を醤油・味醂・砂糖味で煮詰め、白ごまを煎ったものを振りつけたもの、 とある(仝上)。 利休焼、 利休和、 なども胡麻を用い、 料理法で利休の名の付くものは、胡麻を使ったものが多い、 ともある(仝上)。で、 利休煮、 は、胡麻を加えたから名づけられた、と見られている。 「利休好みだろうとか、利休にふさわしかろうということで利休の名をつけたものである。初めは利休なら喜ぶだろうと考えてつけた利休煮が、胡麻を使ったものを利休焼、利休蒲鉾などと呼び始めると、利休とは胡麻のことだというようなことになり、胡麻を使えば利休となづけられるようになった」 とあり(仝上)、それは、 千利休が取り入れた精進料理には胡麻豆腐、胡麻和えなど、胡麻を使ったものが多いことから(利休の死後)、利休が愛したであろう料理として、「利休」の名がつけられた、 と考えられる(https://www.shinsei-ip.ne.jp/rikyu/concept.html)、ともある。 だから、和食用語では、 利休、 を使わず、 利久、 を使い、 通常はゴマを使った料理の名称、 で(https://temaeitamae.jp/top/t2/kj/99992_K/05.html)、 ごま煮、 南部煮、 ともいう(世界の料理がわかる辞典)、とある。これは、 南部せんべいで知られる南部地方(南部氏の旧領地である岩手県と青森県にまたがる地域)が胡麻の産地であることから名がつけられています、 とある(https://nimono.oisiiryouri.com/rikyuuni-gogen-yurai/)。 なお、「ごま」については、「ごまをする」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba13.htm#%E3%81%94%E3%81%BE%E3%82%92%E3%81%99%E3%82%8B)で触れた。 利休ではなく「利久」と表記するのは、 休の文字が商売を行う人々にとって忌み言葉だからだと云われる、 とある。「利休」にあやかったのだろうが、後世の人々が「利休好み」として考案したものが殆どで、 「利久煮」や「利久焼き」「利久玉子」のほか、汁の「利久仕立て」、ゴマ(又は揚げ油が胡麻)衣の「利久揚げ」、切り胡麻を振って蒸す「利久蒸し」、菓子では「利久まんじゅう」など、質素を旨とした利休が汁の実にしそうな「利久切り」という切り方もあれば、懐石箸の名称も「利久箸」という。 とある(仝上)。「利休好み(ごのみ)」とは、 利休の好んだ作法・道具・色彩、利休箸・利休鼠の類、 とあり(広辞苑)、広く、 茶人風、 を指す。「利久焼(りきゅうやき)」は、 材料に胡麻(ごま)をまぶしつけた焼き物や仕上げに練りごまを塗ってあぶる料理の名称、 である(https://kondate.oisiiryouri.com/japanese-food-rikyuuyaki/)。 この他、「利休」の名の付くものには、質素を旨とした利休が汁の実にしそうな 利久切り、 という切り方もあれば、懐石箸の名称も、 利久箸、 という(https://temaeitamae.jp/top/t2/kj/99992_K/05.html)。「利休箸」は、 杉で作った、両端を細く削った箸。千利休が用いたのでこの名があるとされる。利休は客を招く日の朝に自ら杉材の箸の両端を細く削り出してその芳香をもてなしとしたと伝えられる。懐石に用いるが、一般にあらたまったもてなしや祝儀の膳にも用いる。元来は杉材のものをいった とある(食器・調理器具がわかる辞典について)。一応、 千利休考案、 とされ、 中央部をやや太く、割れ目に溝を加工して、両端を細かく削り、面を取った”中平両細”の両口箸、 が特徴で、 八寸利久箸(21cm)、 九寸利久箸(24cm)、 がある(http://web1.kcn.jp/hasikumi/syurui.html)、とか。 「懐石料理」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E6%87%90%E7%9F%B3%E6%96%99%E7%90%86)については前に触れた。 この他、色彩にも、江戸時代に考えられた、 利休色、 利休鼠、 利休茶、 というのがあり、それぞれの色は文献によって多少のばらつきがある、 利休色…灰みを帯びた黄緑色(抹茶色よりも彩度の低い渋い色) 利休茶…やや緑みを帯びた茶色 利休鼠…やや緑みを帯びた灰色 とされるが、それぞれの説明は、バラバラで、利休色(りきゅういろ)は、 緑色を帯びた灰色(広辞苑)、 緑みのある茶色(https://washimo-web.jp/Report/Mag-Rikyunezu.htm)、 緑みの茶色(色名がわかる辞典)、 黒みがかった緑色(デジタル大辞泉)、 暗い灰緑色(大辞林)、 緑色を帯びた灰色(日本国語大辞典精選版)、 等々と色々であるが、今は、たとえば、 Webカラー値・#8F8667 RGB・143 / 134 / 103 などと決まっている。 「利休鼠」は、色としては、 りきゅうねず、 というらしいが、これも、 利休色の鼠色を帯びたもの(広辞苑)、 緑みを帯びた鼠色(https://washimo-web.jp/Report/Mag-Rikyunezu.htm)、 緑みの灰色(色名がわかる辞典)、 利休色といわれる灰色がかった黄緑色に、鼠色が加わったもの(日本大百科全書)、 等々と説明されるが、現在は、たとえば、 Webカラー値・#888E7E、RGB・136, 142, 126、 などと決められている。 この「利休鼠」は、北原白秋作詞の「城ヶ島の雨」で、 雨はふるふる城ヶ島の磯に 利休鼠の雨がふる で歌われている。 「利休茶」も、 利休色の茶がかったもの(広辞苑)、 色あせた挽き茶のような緑がかった薄茶色(https://irocore.com/rikyucha/)、 等々と説明されるが、 Webカラー値・#98906e、RGB・152、144、110、 と決められている。 また、「利休下駄」というものもあるが、 日和下駄の一種で、木地のままで薄い歯を入れたもの、 とある(広辞苑)が、「雪駄」も、 千利休が水を打った露地で履くためや、下駄では積雪時に歯の間に雪が詰まるため考案したとも、利休と交流のあった茶人丿貫の意匠によるものともいわれている。主に茶人や風流人が用いるものとされた、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%AA%E9%A7%84)、利休の名はつかないが、利休ゆかりである。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 「菓子」は、 木の実・果物の意、 であり(岩波古語辞典)、「菓」(カ)は、 会意兼形声。「艸+音符果(丸い木の実)」 で、「果」と同義。食料とされる果物、木の実の意である。「おかし」の意味で使うのは、わが国だけである。 「菓子」は、 木菓子、 ともいった(日本食生活史)。 古代の日本人は稲、粟、稗などを主食とし、狩猟や漁撈などによってタンパク質を得ていたが、そのほかにも空腹を感じると野生の木の実や果物をとって食していたと考えられ、これが間食としての菓子のはじまりであろうと考えられている、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E8%8F%93%E5%AD%90#%E6%AD%B4%E5%8F%B2)。 平安期になると、広く、 間食の品、 を、 くだもの、 とよんだ(仝上)。今日の意味の菓子は、 唐菓子(からかし)、 唐菓(果)子(からくだもの) とよんだ(仝上)、とある。 奈良時代から平安時代にかけて中国から穀類を粉にして加工する製法の食品が伝わり、これが唐菓子と呼ばれるようになる。果実とは全く異なる加工された食品ではあるが、嗜好品としては果実同様であるとして「くだもの」と分類されたのではないかとも考えられている。なお、加工食品としての菓子が伝来して以降、果物については「水菓子」と呼んで区別するようになった、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%93%E5%AD%90)。 「木菓子」と呼ばれたものは、 橘・柚子・搗(カチ)栗・扁栗・焼栗・削栗・干柿・熟柿・梨・梅・李・石榴・枇杷・唐桃・蜜瓜(アマウリ すいす・まくわうり)・覆盆子(イチゴ)・棗・椎・杼(トチ)・柏の実・松の実・枝豆・芋・蓮・蒟蒻、 等々があり(仝上)、平安期、木菓子は、 「病人が食欲がなくなったときには、蜜柑の一種である柑子(こうじ)さえもたべられなくなったとたとえられるほど好まれた」 と、源氏物語にも、 「月ごろ悩ませたまへる御心地に、御行なひを時の間もたゆませたまはずせさせたまふ積もりの、いとどいたう くづほれさせたまふに、このころとなりては、柑子などをだに、触れさせたまはずなりにたれば、頼みどころなくならせたまひにたることと、泣き嘆く人びと多かり。 とある(薄雲)。 初めは生のまま食べていたが、次第に保存のため乾燥させたり、灰汁を抜いた木の実の粉で粥状のものを作ったり、あるいは丸めて団子状したりするようになり、現代の団子や餅の原型となるものが作られるようになっていった、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E8%8F%93%E5%AD%90#%E6%AD%B4%E5%8F%B2)。 記紀には、 垂仁天皇の命で田道間守が不老不死の理想郷に赴き、10年の探索の末に非時具香菓(ときじくのかくのみ、橘の実とされる)を持ち帰ったと記されており、これによって果子(果物)は菓子の最初とされ、田道間守は菓祖神とされている、 とある(仝上)。「唐菓子」は、古く、 文武天皇の治世の704年には、遣唐使の粟田真人によって、唐から唐果子(からくだもの)8種と果餅14種の唐菓子が日本にもたらされた。この中には油で揚げて作るものもあり、これはそれまでの日本にはなかった菓子の製法であった。これらの菓子は祭神用として尊ばれ、現在でも熱田神宮や春日大社、八坂神社などの神餞としてその形を残している、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E8%8F%93%E5%AD%90#%E6%AD%B4%E5%8F%B2)が、それより古く、 古墳時代末期の古墳から高坏(たかつき)に盛られた唐菓子を模った(かたどった)土製品が出土している、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E8%8F%93%E5%AD%90)。この果実・木の実とその加工品を、 くだもの(果子・菓子) と記述していたことが、嗜好品を菓子と記述する由来になった、と思われる(仝上)。 「唐菓子」は、はじめは、植物の菓子に似せて、 糯米(もちまい)の粉・小麦粉・大豆・小豆などでつくり、酢・塩・胡麻または甘葛汁(あまづら)を加えて唐の粉製の品に倣って作り、油で揚げたもの、 らしく(日本食生活史)、名前も、異国風に、 梅枝(バイシ 米の粉を水で練り、ゆでて梅の枝のように成形し、油で揚げたもの)、 桃枝(とうし 梅枝と同様に作り、桃の枝のように成形し、桃の実に似せたものをそくい糊でつけた)、 餲餬(かっこ 小麦粉をこねて蝎虫(蚕)の形とし、焼くか蒸したもの)、 桂心(けいしん 餅で樹木の形をつくり、その枝の先に花になぞらえて肉桂の粉をつけたもの)、 黏臍(てんせい 小麦粉をこねてくぼみをつけて臍に似せ、油で調理したもの)、 饆饠(ひら 米、アワ、キビなどの粉を薄く成形して焼いた、煎餅のようなもの)、 鎚子(ついし 米の粉を弾丸状に里芋の形にして煮たもの)、 団喜(だんき 緑豆、米の粉、蒸し餅、ケシ、乾燥レンゲなどを練った団子、甘葛を塗って食べた)、 等々があり(倭名類聚抄、日本食生活史)、以上の八種は、 八種唐菓子(やくさからがし)、 と呼ばれ、 これは特別の行事・神仏事用の加工食品と言える。これらは日常的に作られていなかったようで、製法が詳細に記述された文献がある、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E8%8F%93%E5%AD%90)。なお、団喜は、 歓喜団(かんぎだん・かんきだん)、 ともいい、 現存する清浄歓喜団は、小麦粉の生地で小豆餡を茶巾状に包み胡麻油で揚げたものとなっている、 とある(仝上)。 ちなみに、アマヅラ(甘葛)は、甘味料のひとつである。 一般的にはブドウ科のツル性植物(ツタ(蔦)など)のことを指しているといわれる。一方で、アマチャヅルのことを指すという説もあり、どの植物かは明かではない、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%85%E3%83%A9)。このことは、 「甘茶」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E7%94%98%E8%8C%B6)、 で触れた。この他に、 餛飩(麦の粉を団子の様にして肉を挟んで煮たもの。どこにも端がないので名づける。今日の肉饅頭のようなもの)、 餅餤(ヘイタン 餅の中に鳥の卵や野菜を入れて四角に切ったもの)、 餢飳(フト 伏菟 油で揚げた餅)、 環餅(マガリモチ 糯米の粉をこねて細くひねって輪のようにし、胡麻の油で揚げたもの。輪のように曲がるので)、 結果(カクナワ 緒を結んだ形にしたもので、油で揚げる)、 捻頭(ムギカタ 小麦粉で作り油で揚げたもの、頭の部分がひねってある)、 索餅(ムギナワ さくべいともいい、麦の粉を固めて捻じり、縄のようにしたもの、冷そうめんの類)、 粉熟(フンズク ふずくともいう、米・麦・大豆・胡麻の五穀を粉にして餅をつくり、ゆであまずらをかけて竹の筒に詰め、押し出して切ったもの、小豆の摺り汁を用いた)、 餺飥(ホウトウ やまいもをすりおろし、米の粉を混ぜてよく練って、めん棒で平たくし、幅を細く切って、豆の汁にひたして食べた。ほうとうは、今日も残っている)、 煎餅(センベイ 小麦粉で固めたものを油で揚げた)、 粔籹(アシゴメ 糯米を火で煎って密で固め、竹の筒などにつき込んで押し出す、今日のオコシと似ている)、 等々がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E8%8F%93%E5%AD%90、日本食生活史)。 室町時代になると、公家や僧侶が今日の昼食に当たる中間食を取るようになる。かれらは、この間食品を、 点心、 茶子(ちゃのこ)、 菓子、 にわけた(日本食生活史)、という。 「点心」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E7%82%B9%E5%BF%83)についてはすでに触れたが、輕空腹をみたすためのもので、食べる方に重点が置かれ、「尺素往来(せきそおうらい)」には、 点心の菜を数多くすることを元弘様と称して、当世では物笑いである、 と指摘しているとかで(仝上)、元弘(1331〜33)年間から、点心が流行していたらしい。点心として好まれたのは、 羊羹、 饅頭、 麺類、 豆腐、 等々であるが、いずれも精進物である。饅頭の食べ方について、 饅頭の食やう。一つ取て押しわりて、なから(中央)をば、残たる饅頭の上に置き、なからを食ふべし。さて残たるを食いたくば食ふべし。苦しからず候。年寄たる人は、丸ながらも食ふべし、 とある(宗五大草紙)とか(仝上)。 「茶子」は、 茶請、 で、唐菓子ではなく、点心の後に食べる淡白な量の少ないものを指し、喫茶に重きを置いた。前述の「尺素往来」は、「茶子」として、 麩指物、 零余子指(のかこざし)、 炙麩、 豆腐上物(あげもの)、 油炙(いり)、 唐納豆、 挫栗(かちぐり)、 干松茸、 結昆布、 泥和布(ぬため)、 出雲苔(のり)、 胡桃、 串柿、 干棗、 鳥芋(くわい)、 興米(おこしごめ)、 等々を挙げている。 「菓子」は、くだものの意で、今日の、 水菓子、 で、食後に出された。 蜜柑、 林檎、 枇杷、 石榴、 桃、 杏子(あんず)、 柿、 桃、 等々。 やがて、 茶道とともに発達した点心は京都でさらに発展し、練り羊羹や餅菓子、半生菓子から打物の干菓子まで、工芸的趣向をこらしたものになり京菓子として隆盛を極めた、 が、 江戸時代も後期になると、京菓子に対抗して江戸文化により育まれた上菓子が隆盛を見せる。また、白砂糖は上菓子のみに用いるといった制限を逆手にとり、駄菓子と言われる黒砂糖を用いた雑菓子類も大きく発展した、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%93%E5%AD%90)。 文化・文政期(1804〜30年)になると、……和声の黒砂糖が作られ、これが菓子に使用されるようになる。(中略)江戸時代の菓子は従来の自然菓子などではなく、すべて加工菓子を指して呼び、代用食であった。お茶の子といって江戸では毎朝売りに来るものがあり、それを買って朝飯の代用にする者も多かった、 とある(日本食生活史)。ここで「茶の子」とは「茶請け」、つまり、 茶を飲むときに食べる菓子又はその代用品、 の意である(江戸語大辞典)。菓子の種類は、 蒸菓子。 練菓子、 干菓子、 等々であるが、砂糖が普及したため、 饅頭、 団子、 煎餅、 餅類、 等々に、特殊なものが作られるようになる(日本食生活史)。この時期の、 羊羹(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E7%BE%8A%E7%BE%B9)、饅頭(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E9%A5%85%E9%A0%AD)、きんつば(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E3%81%8D%E3%82%93%E3%81%A4%E3%81%B0)、どらやき(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E3%81%A9%E3%82%89%E7%84%BC)、落雁(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E3%82%89%E3%81%8F%E3%81%8C%E3%82%93)、おこし(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E3%81%8A%E3%81%93%E3%81%97)、 等々についてはそれぞれ触れたし、 和三盆(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E5%92%8C%E4%B8%89%E7%9B%86)、砂糖(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E7%A0%82%E7%B3%96)、 についても触れたし、「餡」については、 小倉(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E5%B0%8F%E5%80%89)、汁粉(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E6%B1%81%E7%B2%89)、 でそれぞれ触れた。 参考文献 渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館) 「水菓子」は、 果物、 の意である。「果」(カ)は、「菓」と同義、 象形。木の上に丸い実がなったさまを描いたもので、丸い木の実、 とある(漢字源)。果物、木の実の意である。名義抄は、 果、コノミ・クダモノ、 としている(岩波古語辞典)。 水分の多い菓子という意で、果物を食用にするときのみずもの・果実・こだね・このみなどが同じ意味に用いられる、 とあり(たべもの語源辞典)、 乾(ヒ)菓子、餅菓子に対す、 とあり(大言海)、 蒸菓子・干菓子などの人造菓子に対する、 とある(たべもの語源辞典)。果物を茶うけとして用いる場合に、 水菓子、 といった(仝上)。このことは、「菓子」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E8%8F%93%E5%AD%90)で触れたように、室町以降のことで、 蜜柑、 林檎、 枇杷、 石榴、 桃、 杏子(あんず)、 柿、 桃、 等々が用いられた。果実は、 菓実、 とも当て、京阪では、これを、 くだもの、 と訓ませ、江戸では、 水がし、 といった(たべもの語源辞典)、とある。 菓子(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E8%8F%93%E5%AD%90)で触れたように、「菓子」とは果物のことを言ったが、和名類聚鈔に、承平(931〜38)年間の菓物(くだもの)類を、 石榴、 梨子、 檎子(ヤマナシ)、 柑子(カムシ)、 木蓮(イタヒ)、 獮猴桃(シラクチ)、 榛子(ハシバミ)、 栗子、 杭子(ササクリ)、 椎子(シヒ)、 櫟子(イチヒ)、 榧子(カベ)、 松子(マツノミ)、 胡頽子(グミ)、 鸚実(ウクヒスノキノミ)、 杏子(カラモモ)、 㮈子(カラナシ)、 林檎(リウコウ)、 湯梅(ヤマモモ)、 桃子、 冬桃(俗に霜桃)、 李子(スモモ)、 麦李(サモモ)、 李桃(ツバキモモ)、 棗、 橘、 橙(アヘタチバナ)、 柚(ユ)、 梅、 柿、 鹿心柿(ヤマガキ)、 杼(トチ)、 枇杷、 椋子(ムク)、 等々。他に、苽類(くさくだもの)を、 瓜、 瓣(ウリノサネ)、 青瓜(アヲウリ)、 斑瓜(マダラウリ)、 白瓜、 黄瓜(キウリ)、 熟瓜(ホゾチ)、 寒瓜、 冬瓜(カモウリ)、 胡瓜(ソバウリ、キウリ)、 茄子、 郁子(ムベ)、 蔔子(アケビ)、 蓮子(ハチスノミ) 覆盆子(イチゴ)、 等々挙げる。では、 果物、 と当てた和語「くだもの」は何から来たのか。岩波古語辞典は、 木(ク)の物の意。ダは連体助詞ナの転。ケダモノ(毛だ物・獣)の類、 とし、日本語源広辞典も、似ていて、 ク(木)+ダ(の)+もの、 とする。 大言海は、 木種物(こだねもの)の略轉と云ふ(かたねなし、結政(カタナシ)。金兄(かねのえ)、庚(かのえ))、或は、木之物の轉(黄金(こがね)、くがね。熱海(あつみ)、アタミ。礫(たぶて)、つぶて)。之(つ)を濁るは、己之自(おのづから))。獣(けだもの)も、毛之物なり。ナリクダモノと云ふは、唐菓子(からくだもの 菓子)を単にクダモノとも云へば、それに別ちて、木に成るクダモノと云ふなり(成山椒(なるはじかみ)、成瓢(なりひさご))、乾菓子に対して水菓子と云ふ、同じ、 と回りくどいが、 木之物、 を採る。「菓子」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E8%8F%93%E5%AD%90)で触れたように、平安期、 菓子は果実の意であり、これを「木菓子」といったが、この時代になると、間食の品をクダモノとによんだ、 のであり(日本食生活史)、だから、 木之物、 が妥当かもしれない。それは、 平安期には木の実に限らず、草の実や芋、蓮根などもさし、更に植物性の食品に限定されず酒肴など副産物や間食まで意味した。これは「木だ物」という語原意識が希薄になっていたこと、現実に酒肴や間食に用いるのが植物性のものである場合が多かったことなどが原因と考えられる、 とある(日本語源大辞典)。もっぱら果実の意で「くだもの」を用いるのは、江戸中期頃のようである(仝上)。 参考文献 渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館) 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 「干菓子」は、 乾菓子、 とも当てる。和菓子の区分では、 水分の少ない菓子、 を言い、 生菓子、 に対して言う。 押し物(落雁(らくがん)の類)、 掛け物(金平糖の類)、 焼き物(煎餅(せんべい)の類)、 等々を言い、 茶の湯では原則として薄茶に用いる、 とある(大辞林)。干菓子は、その製法で、 打ちもの みじん粉などの粉類に砂糖を混ぜ、蜜などを加えたのち木型に入れて押し固めたのち、打ち出して仕上げる。落雁など、 押しもの 打ちものに用いる素材に練り餡などを加え、木枠などに押し付けて仕上げたもの。干菓子に属するが、打ちものより水分量が多い。志ほがま、村雨など、 掛けもの 炒り豆などに砂糖液などを掛けたもの。おこし、五家宝など、 飴もの 砂糖、水飴などを原料とし、煮詰めてから冷却して固めたもの。飴玉、有平糖、おきな飴など、 焼きもの 焼いて作る。平鍋(鉄板)や焼き型を使う平鍋ものと、天火などを使うものとに大別される。干菓子には煎餅、南蛮菓子のボーロなど、 揚げもの 油で揚げて作る(油菓類)。干菓子では揚げ煎餅、新生あられ、揚げ豆、揚げ芋、かりんとうなど、 と分けられるらしい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E8%8F%93%E5%AD%90)。 日本では縄文時代において、栗の実を粉状にしたものを固めて焼いたと見られる独自のクッキーが食べられていた、 らしい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%93%E5%AD%90)が、古代の日本では果実や木の実などを総称して、 くだもの、 と呼んでいたことは、「菓子」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E8%8F%93%E5%AD%90)で触れた。やがて、砂糖を用いた菓子が登場すると、それらは、 水菓子、 として分化されることになる(たべもの語源辞典)。室町時代でも、果実を、 木菓子、 時菓子、 と言い(仝上)、厨事類記には、 干菓子(からくだもの)。松実、柏実、石榴、干棗、 とあるらしい(仝上)。 文武天皇の治世の704年には、遣唐使の粟田真人によって、唐から唐果子(からくだもの)8種と果餅14種の唐菓子が日本にもたらされた。この中には油で揚げて作るものもあり、これはそれまでの日本にはなかった菓子の製法であった、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E8%8F%93%E5%AD%90)が、唐菓子八種については、「菓子」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E8%8F%93%E5%AD%90)で触れたように、 梅枝(バイシ 米の粉を水で練り、ゆでて梅の枝のように成形し、油で揚げたもの)、 桃枝(とうし 梅枝と同様に作り、桃の枝のように成形し、桃の実に似せたものをそくい糊でつけた)、 餲餬(かっこ 小麦粉をこねて蝎虫(蚕)の形とし、焼くか蒸したもの)、 桂心(けいしん 餅で樹木の形をつくり、その枝の先に花になぞらえて肉桂の粉をつけたもの)、 黏臍(てんせい 小麦粉をこねてくぼみをつけて臍に似せ、油で調理したもの)、 饆饠(ひら 米、アワ、キビなどの粉を薄く成形して焼いた、煎餅のようなもの)、 鎚子(ついし 米の粉を弾丸状に里芋の形にして煮たもの)、 団喜(だんき 緑豆、米の粉、蒸し餅、ケシ、乾燥レンゲなどを練った団子、甘葛を塗って食べた)、 等々があり(倭名類聚抄、日本食生活史)、その他、 餛飩(麦の粉を団子の様にして肉を挟んで煮たもの。どこにも端がないので名づける。今日の肉饅頭のようなもの)、 餅餤(ヘイタン 餅の中に鳥の卵や野菜を入れて四角に切ったもの)、 餢飳(フト 伏菟 油で揚げた餅)、 環餅(マガリモチ 糯米の粉をこねて細くひねって輪のようにし、胡麻の油で揚げたもの。輪のように曲がるので)、 結果(カクナワ 緒を結んだ形にしたもので、油で揚げる)、 捻頭(ムギカタ 小麦粉で作り油で揚げたもの、頭の部分がひねってある)、 索餅(ムギナワ さくべいともいい、麦の粉を固めて捻じり、縄のようにしたもの、冷そうめんの類)、 粉熟(フンズク ふずくともいう、米・麦・大豆・胡麻の五穀を粉にして餅をつくり、ゆであまずらをかけて竹の筒に詰め、押し出して切ったもの、小豆の摺り汁を用いた)、 餺飥(ホウトウ やまいもをすりおろし、米の粉を混ぜてよく練って、めん棒で平たくし、幅を細く切って、豆の汁にひたして食べた。ほうとうは、今日も残っている)、 煎餅(センベイ 小麦粉で固めたものを油で揚げた)、 粔籹(アシゴメ 糯米を火で煎って密で固め、竹の筒などにつき込んで押し出す、今日のオコシと似ている)、 等々がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E8%8F%93%E5%AD%90、日本食生活史)ことも触れた。この中に、後の、煎餅の始原となる、 煎餅、 おこしの始原になる、 粔籹、 もある。 たべもの語源辞典には、「干菓子」は、本朝世事談綺(江戸中期、1733年)には、 白雪糕(はくせっこう)で製するもので、中古は、アルヘイ糖、コンペイ糖の類をいった、 とある(たべもの語源辞典)。 アルヘイ糖は、 有平糖、 と当て、 砂糖を煮て作られた飴の一種 である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E5%B9%B3%E7%B3%96)、コンペイ糖は、 金平糖、 と当て、 砂糖と下味のついた水分を原料に、表面に凹凸状の突起(角状)をもつ小球形の菓子、 であり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%B9%B3%E7%B3%96)、いずれも、ポルトガルより伝わった南蛮菓子である。 ちなみに「白雪糕」とは、「落雁」()で触れたが、 精白した粳米(うるちまい)粉と糯米(もちごめ)粉を等分にあわせ、これに白砂糖と少量の水を加えて十分にもみ、木箱にふるい落として、ならしてから軽く押して3、4時間置いたのち、取り出して短冊(たんざく)形あるいは算木形に切る。本来はハスの実の粉末を入れた、 とあり(日本大百科全書)、 落雁の一種、 とある。どうもこれと同じ原料だと、本朝世事談綺はみなしたらしい。しかし、 金平糖、 有平糖、 を干菓子とみる見方があったことにはなる。 今日のような砂糖を使った菓子が作られるようになるのは、宝暦(1751〜64)以後からのことで、 餅菓子、 蒸菓子、 と対称された、 干菓子、 の名は、宝暦以後からとされる(たべもの語源辞典)。反故染(越智為久)には、 干菓子、せんべい・松風・ぽうろ・霜柱の類。上々の菓子にて、本菓子屋もの成しが、宝暦の頃より辻売りの十枚六文に位を落とす、 とある(たべもの語源辞典)、とか。 今日の干菓子は、 和菓子の中で水分をほとんど含まない乾燥度の高い菓子、 を指し(仝上)、 落雁・塩がまの類、 おこしや五家宝(ごかぼう)の類、 煎餅や瓦煎餅、松風の類、 金平糖やかりんとうや豆ねじのような駄菓子類、 が干菓子になる(たべもの語源辞典)、とある。 文化五年(1808)に、 京都の吉田源助が中国の雲片からヒントを得て干菓子をつくったのが始まり、 ともある(仝上)。 なお、 煎餅(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba14.htm#%E7%85%8E%E9%A4%85)、 松風(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E6%9D%BE%E9%A2%A8)、 落雁(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E3%82%89%E3%81%8F%E3%81%8C%E3%82%93)、 おこし(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E3%81%8A%E3%81%93%E3%81%97)、 和三盆(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E5%92%8C%E4%B8%89%E7%9B%86)、 については、すでに触れた。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 「三献(さんこん)」は、 さんごん、 とも訓み、 式三献、 とも言う。 正式な饗応の膳で、酒肴を出し三つの盃で一杯ずつ飲ませて膳を下げることを一献といい、それを三回繰り返すこと、 とある(広辞苑)。 一献二献三献と、肴を三度変えた膳で、その都度酒を三杯ずつ飲ませるもてなし方、 ともある(岩波古語辞典)。 一献・二献・三献と酒肴(しゅこう)の膳を三度変え、そのたびに大・中・小の杯で1杯ずつ繰り返し、9杯の酒をすすめるもの、 という説明(デジタル大辞泉)の方が具体的である。今日の、 駆けつけ三杯、 もここから由来している、とされる(故事ことわざの辞典)。室町時代に「式三献」の語が用いられるようになった(世界の料理がわかる辞典)とあり、 平安後期以来,公家文化の影響を受けながら武家社会の中で育成された室町時代の酒宴には一定の形式が作られていた、 という(室町期における公家・武家衆の酒宴)、 室町時代以後,武家社会の礼法の固定化が進むに伴って整えられた饗膳(きようぜん)形式、 である(世界大百科事典)。室町時代にはすでに種々の伝統に分かれ、 伊勢流、 小笠原流、 等々諸家の流派があった、とされる。今日の、 三々九度の盃、 は、これに始まる。「献」(コン)は、 獻(ケン)の呉音、コン(權(ケン)、ゴン)、たてまつるにて、盃をさすの敬語。獻酬、 とある(大言海)。四季草(伊勢貞丈)には、 肴、酒を出し、三杯勧めて、膳、戻り入る、是れ、一こんなり、幾こん勧むるも、皆同じことなり、 とある。 「三々九度」は、 出陣・帰陣・祝言などの際の献杯の礼。三つの組の盃で三度ずつ三回酒杯を献酬すること、 と説明がある(広辞苑)が、伊勢流の「宗五大草紙」には、「三々九度の儀」について、 一ツ盃にて三度ヅツ三ツにて、三々九度入るなり。総別盃一ツの時、もちと祝言がましき時は、盃に入る時、そと二度入て三度めに酒を入、二度めに、そと二度入て三度めに酒を入れ、さて三度めに、又そと二度入て三度めに酒を入て、三々九度の数を如此あわするものなり。三さか つきは盃一ツにて三度ツツ入るとおほゆへし(三酒盃酌事) とある、とか(仝上)。つまり、盃に酒を注ぎ入れるさいには,銚子を盃に2回ほどそっと当、3回目に酒を注ぎ入れる。これが初献の作法。第二献・第三献も同じ手順で酒を盃に注ぎ入れる。これが、 三酒盃酌の方式、 であり(仝上)、いわゆる、 三献の儀、 となる。小笠原流の礼道では、その膳は、 引渡といって昆布・勝栗・のしが一台、梅干・水母(くらげ)・生薑(しょうが)・塩が一台、次に打躬(うちみ)といって鯛・生姜・塩が一台、鯣(するめ)・生姜・数の子・塩・塩引が一台、さらに腸煎(わたいり)といって水母(くらげ)・梅干・鯛が一台、鯣・生姜・鯛・塩辛が一台、 で、これを、 式三献、 といった(日本食生活史)、とある。室町将軍の御成記や武家故実書によれば、 式三献は主殿(寝殿)で行われ、その後、会所に移り、ここで改めて初献から三献までの三献が出された後、五の膳もしくは七の膳までが据えられる膳部となり、さらに四献以下の献部となることがわかる。主殿での式三献と会所に席を移しての初献から三献までの三献とは、全く別のものである。式三献では、初献に海月・梅干・打鮑、二献に鯉のうちみ(刺身)、三献にはわたいり(腸煎り〜鯉の内臓の味噌煎り煮)が出されることが通例であるが、これらには箸をつけず、実際に食されることはない、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%86%B3%E6%96%99%E7%90%86)、将軍義晴祇園会見物のために、下津屋三郎左衛門方へ立寄ったときの献立は、 初献 鳥、ざうに、五しゆ、 二献 ひや麦、御そへ物、なまとり、 三献 きそく金、こざし、たい、くらげ、 とある(祇園会御見物御成記)し、同じ義輝が、三好義長邸に行ったときは、 初献 龜のから、 二献 のし鮑・つべた貝・鯛、 三献 するめ・たこ・醤煎(ひしおいり)、 の献立という(三好筑前守義長朝臣亭之御成之記)。式三献の酒肴は実際に食べてはならない仕来りになっていたらしいが、実際食べられないものもある。 なお、「かちぐり」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E3%82%AB%E3%83%81%E3%82%B0%E3%83%AA)については触れた。 参考文献; 渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館) 加藤百一「室町期における公家・武家衆の酒宴」(https://www.jstage.jst.go.jp/article/jbrewsocjapan1988/98/10/98_10_716/_pdf) 「粥」は、 糜、 とも当てる。「粥」(シュク、シク)は、 会意。原字は鬻で、粥は祖の略体。「弓二つ(かこう姿)+米+鬲(煮なべ)」。米をなべにいれて、こぼれないようにかこって(容器に蓋をして)熟するまで米を煮ることをあらわす、 とある(漢字源)。「水をたくさん入れて米を軟らかく煮た」おかゆの意である。「糜」(漢音ビ、呉音ミ)は、 会意兼形声。「米+音符磨(マ 粉々につぶす)」の略体」、 とあり、やはり「おかゆ」の意である。 「粥」は、 米を鍋で炊いたもの、 で、 食湯(かゆ)、 ともいった(たべもの語源辞典)。 固(堅)粥(かたかゆ)と汁粥(しるかゆ)の総称、特に汁粥、 の意とある(広辞苑)。固粥は、今日の飯の意である(たべもの語源辞典)。これに対して、 強飯(こわめし/こわいひ)、 というのは、 米を甑(こしき)で蒸したもの、 を指す(岩波古語辞典)。「甑(こしき)」は、 米などを蒸すのに使う器、瓦製で丸く、其処に蒸気を通ずる穴がある。のちに、蒸籠にあたる、 とある(広辞苑)。播磨風土記に、 阜(おか)の形も甑・箕・竈どもに似たり、 とある(仝上)、とある。 江戸時代までは米を蒸して飯にしたものを強飯といい、水を加えて柔らかく煮たもの、すなわち炊(かし)ぎ飯を弱飯(ひめ)または姫飯(ひめいい)といっていた。炊飯が一般化するようになってからは、これをご飯(はん)または飯(めし)といい、反対に糯米(もちごめ)を蒸したものを強飯またはおこわというようになった。米を蒸すのが通常の加熱法であった時代には、糯米でも粳米(うるちまい)でも強飯といったが、炊く方法が一般的になってからは蒸したものだけを強飯というようになり、さらに糯米を蒸さずに炊いたものを炊きおこわといっている。 とある(日本大百科全書)。つまり、「姫飯」は、「固粥」、現在の普通の飯になる。蒸したる強飯に対して、姫飯といったものである。 ただ、汁粥・固粥、姫粥・強糜、は、少しずつ時代によって微妙に異なる使われ方をしている。 弥生時代、米を栽培し始めるが、この時は、 脱穀後の米の調理は、…玄米のママに食用にした。それも粥にしてすすったのではないかと想像される。弥生式土器には小鉢・碗・杯(皿)があるし、登呂からは木匙が発見されている、 とある(日本食生活史)。七草粥は、この頃の古制を伝えている(仝上)、とみられる。 弥生時代の終わりになると、甑(こしき)が用いられる。 3世紀から4世紀にかけて朝鮮半島を伝い、日本にも伝来した、 と見られ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%91)、 甕(かめ)に似た器の底に1つ、あるいは2つ以上の穴をあけ、これを湯沸しの上に重ね、穴を通って上る湯気によって穀物を蒸す仕組みとなっているもの。弥生時代以来使われるようになり,平安時代以降は木製の桶や曲げ物の甑が普通となって,江戸時代からのせいろうに引継がれた、 とある(ブリタニカ国際大百科事典)。 内に麻布のような粗織の布をしき、洗った米を入れてかたく蓋をし、湯をたぎらせた壺に重ねて仕掛ける。下から火をたくと、壺の湯はさかんに湯気をあげ、湯気は甕底の穴をとおって米を蒸す、 のである(日本食生活史)。奈良時代になると、正倉院文書に、 粥・饘(かたがゆ)、 の文字がみられる、という(日本食生活史)。「饘」は、 甑で蒸したもので、強いので強飯(こわいい)とよんだ…。(中略)単に飯(いい)という場合は強飯をいうのであるが、まれには固粥をさすこともあった、 とある(仝上)。しかし、 蒸さないで煮たものが粥である。庶民の日常食は粥の場合が多かったのであろう。これには、汁粥(しるがゆ)と固粥(かたがゆ)の二つがあり、汁粥は水気が多く、後世でいう粥にあたる水気の少ないのが固粥である。粥には米・赤小豆・粟・そば・いも・大根などを材料にし、それぞれ白粥・赤小豆粥とよばれた、 という(仝上)。 平安時代になると、土器から陶器で米が煮るようになり、これを、 粥、 といい、今日の粥は、 湯(ゆ)、 と呼ばれた、とある(たべもの語源辞典)。平安後期の「江家(ごうけ)次第」には、 固粥は高く盛られて箸を立てることが見えている。固粥は姫飯ともいわれ、後世の飯(いい)であると思われる。飯や粥には米だけのものではなく、粟飯(あわい)・黍飯(きびい)もあった。貴族は汁粥を多く食べていたようであるが、平安末期になると正規の食事でも固粥(飯)を用いた、 とある(日本食生活史)。固粥よりも、水の量が多く、柔らかく炊いたものが、 粥、 で、後世の粥に当たる。 粥には白粥・いも粥・栗粥などがある。白粥は米だけで何も入れてない粥である。いも粥はやまいもを薄く切って米とともに炊き、時に甘葛煎(あまかずら)を入れてたくこともある。大饗(おおあえ)のときにそなえて貴族の食べるものである。小豆粥は米に小豆を入れ塩を加えて煮たもの。栗を入れてたいたものが栗粥である。さらに魚・貝・海藻などを入れて炊く粥もあった、 とある(仝上)。鎌倉時代は、平安時代を受け継ぎ、蒸した強飯が多かったようである。 米を精白して使うことは公家階級のわずかな人々の間に行われた程度であった。それも今日の半白米ぐらいである。玄米食は武家や庶民の間に用いられ、一般的であった。今日の飯と粥に当たる姫飯(固粥)と水粥(汁粥)とは僧侶が用い…たが、鎌倉末期になり、禅宗の食風がひろまると強飯は少なくなり強飯は少なくなり、…今日の習慣にように姫飯を常食とする傾向になった、 とある(仝上)。鉄製の鍋釜ができるのは、室町以降だが、ようやく、 固粥を飯と言い、汁粥を粥、 というようになる(たべもの語源辞典)。だから、 強飯に湯や水をつけて食べる湯飯(湯漬)、水飯(水漬)も用いられる、 ようになる(日本食生活史)。湯飯は、今日の、 茶漬飯、 に近いものであり、饗応の際に用いられた。姫飯を前もって洗って椀にもって本膳に出し、二の膳に出された湯をそれにかけて食べたものである、 とある(仝上)。江戸時代になると、粥はかえって贅沢な、 茶粥、 が用いられるようになる。京・大阪では、 「富豪の家にても朝は新たに茶粥を焚いて食ふと言ふ。味噌汁を食ふことは中食のこととす。此故に土地のものは朝飯を炊き、汁を煮ることを聞いて笑ふもの多し」(浪花の風)というふうでかえって朝飯をたくことを冷笑していた。また江戸から京都へ遊んだものは、この茶粥は倹約のために食べるものだと考えることもあった。たとえば元治元年の石川明徳著の「京都土産」には「粥を食すれば米は過半し益あり」と述べている。だが淀屋辰五郎の好みの食物は茶粥であって、米は摂津米の上等、茶は宇治の上等の煎茶、奈良特製の奈良漬をそえたものであった、 とある(仝上)。 どうやら、粥は、最後は嗜好品にまで格上げされたらしい。 さて、「かゆ」の語源である。日本語源広辞典は、二説挙げる。 説1は、「カ(食)+ユ(ゆるやか)」で、水を多く入れて軟らかく煮た意、 説2は、「カ(加)+ユ(湯)」で、湯を加えた食物の意、重湯、固湯、葛湯などに対する言葉、 しかし、「粥」自体が「食湯」「湯」と呼ばれていたこと、また重湯、固湯、葛湯などに対する言葉、ということは、これが語源ではないことを示す。粥は、湯を加えたものではない、それでは湯漬け、である。説2はいかがであろうか。 大言海は、 食湯(けゆ)の転か、濃湯(こゆ)の転訛か、 とする。この他に、 カシギユ(炊湯)の転(和句解・日本釈名・名言通・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子・音幻論=幸田露伴)、 もある。しかし、「粥」の歴史を見れば、米の調理法の流れの中で、強飯・姫飯、固粥・汁粥、と他の調理法との対比の中で、意味を少しずつずらしながら今日に至っている。そういう背景抜きで、単独で考えるのは意味がないと思う。その意味で、たべもの語源辞典の説明が説得力がある。 カユは、ケユ(食湯)カ、コユ(濃湯)などからカユと変わったという説がある。また、加湯ともいう。炊湯(かしゆ)であるとか、炊き湯・かしぐ湯ともいう。堅湯が姫湯とよばれ、それが飯といわれて、汁湯が粥となり、飯と粥になる。粥は湯(ゆ)のことだが、飯が「いい」「めし」とよばれ、この飯を炊く水の量を多くして炊いたものが粥である。水を多く加えた意味と「炊いた」つまり「かしいた」という意味と両方を含んで、湯(ゆ)に「か」音を添えて「かゆ」とよんだのは、「いい」とか「めし」に対する呼び方として、「ゆ」よりも「かゆ」のほうがよかったからである。もともとカユはユだけで通用したものであった。 なお、「あずき粥」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E3%81%82%E3%81%9A%E3%81%8D%E7%B2%A5)については触れた。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館) 「七草粥」は、 七種粥、 とも当てる。正月七日に、春の七草を入れて炊いた粥の意だが、 菜粥、 ともいう。岩波古語辞典には、 七種の節句(七日の節句)の日に邪気を払い万病を除くために、羹として食した、 とあり、大言海にも、 羹として食ふ、万病を除くと云ふ。後世七日の朝に(六日の夜)タウトタウトノトリと云ふ語を唱へ言(ごと)して,此七草を打ちはやし、粥に炊きて食ひ、七種粥と云ふ、 とあるので、当初は、粥ではなく、 羹(あつもの)、 であったらしい。「羊羹」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E7%BE%8A%E7%BE%B9)で触れたように、「羹」は、 「古くから使われている熱い汁物という意味の言葉で、のちに精進料理が発展して『植物性』の材料を使った汁物をさすようになりました。また、植物に対して『動物性』の熱い汁物を『臛(かく)』といい、2つに分けて用いました。」 とある(https://nimono.oisiiryouri.com/atsumono-gogen-yurai/)。「あつもの」で引くと、 臛(カク 肉のあつもの)、 懏(セン 臛の少ないもの)、 と載る(字源)。当初は、粥ではなく、汁物にして食していたことになる。 「七草粥」は、もうひとつ、 正月15日に、米・粟・稗・黍・小豆など、7種りのものを入れて炊いた粥、 の意もあり(広辞苑)、後に、 小豆粥、 になったとある。大言海には、 古へ、正月十五日に、米、大豆、赤小豆、粟など七種の穀菜を雑へ煮て、七種(シチシュ)の粥と云へり、是も、今は変じて、小豆粥となる、 とあり、たべもの語源辞典にも、 七種粥、 には、 正月七日の七種の菜を入れた汁粥、 と 正月十五日の七種のものを入れて炊いて固粥、 とがあり、 米・粟・黍子・稗子・篁子(ミノ かずのこぐさの異名)・胡麻子・小豆・大角豆(ささげ)・薯蕷(じょうよ とろろ)その他これに類したもの七種を入れたが、後には、小豆粥になった、 とある。「汁粥」「固粥」については、「粥」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E7%B2%A5)で触れたように、固粥は、今日の飯の意である。「小豆粥」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E3%81%82%E3%81%9A%E3%81%8D%E7%B2%A5)についても触れた。 中国には、六世紀初めの荊楚歳時記に、 正月七日を人日となす。七種の菜をもって羹をつくる、 とあり、中国の「七種菜羹」が日本に伝来したものとみられる。「人日」とは、 人を占う日、 で(語源由来辞典)、七種の菜を温かい汁物にして食し邪気を避ける習慣があった、 とある(仝上)。それが伝わり、 わが国でも、少なくとも平安時代初期には、無病長寿を願って若菜をとって食べることが、貴族や女房たちの間で行われていた。ただ、七草粥にするようになったのは、室町時代以降だといわれる、 とある(日本大百科全書)。偽書とされる「四季物語」には、 「七種のみくさ集むること人日菜羹を和すれば一歳の病患を逃るると申ためし古き文に侍るとかや」 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E8%8D%89)。なお、平安時代の後期の文献に、 「君がため 夜越しにつめる 七草の なづなの花を 見てしのびませ」の歌があるとされるので、七草を摘むという風習は平安時代には既にあったと考えられます、 とある(http://www.geocities.jp/tama9midorijii/ptop/kogop/kohakobe.html)。 七草については、 せり・なずな・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろ と決め、 七種の若菜を初めて禁裏に参らせたのは寛平年中(889〜98)である(七草粥の起こりを宇多天皇寛平戌と死正月七日とする)、 とし(たべもの語源辞典)。 七種を羹として食べたが、まず産土神や祖霊に供えた、 とある(仝上)。なお、七日は、 五節句の一つ、 であるが、五節句は、1年に5回ある季節の節目の日(節日)で、1月7日(人日)、3月3日(上巳 じょうし)、5月5日(端午)、7月7日(七夕)、9月9日(重陽)を指す。 この羹が後に、粥になるが、七種粥は、 足利氏の家風に始まるとの説、 と 足利時代から粥になったとする説、 があるが、いずれにしても、粥になったのは、室町以降である。 「すずしろ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba13.htm#%E3%81%99%E3%81%9A%E3%81%97%E3%82%8D)で触れたように、 『延喜式』には餅がゆ(望がゆ)という名称で「七種粥」が登場し、かゆに入れていたのは米・粟・黍(きび)・稗(ひえ)・みの・胡麻・小豆の七種の穀物で、これとは別に一般官人には、米に小豆を入れただけの「御粥」が振舞われていた。この餅がゆは毎年1月15日に行われ、これを食すれば邪気を払えると考えられていた。なお、餅がゆの由来については不明な点が多いが、『小野宮年中行事』には弘仁主水式に既に記載されていたと記され、宇多天皇は自らが寛平年間に民間の風習を取り入れて宮中に導入したと記している(『宇多天皇宸記』寛平2年2月30日条)。この風習は『土佐日記』・『枕草子』にも登場する。 その後、旧暦の正月(現在の1月〜2月初旬ころ)に採れる野菜を入れるようになったが、その種類は諸説あり、また地方によっても異なっていた、 という記述(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E8%8D%89)をみると、15日の「もち粥」が、7日の「七草粥」に転じたように見えるが、この両者の関係ははっきりしない。 「七草」は、今日、 芹(せり)・薺(なずな)・御形(ごぎょう)・繁縷(はこべら)・仏の座(ほとけのざ 田平子)・菘(すずな)・蘿蔔(すずしろ)、 とされているが、 現在の7種は、1362年頃に書かれた『河海抄(かかいしょう)』(四辻善成による『源氏物語』の注釈書)の「芹、なづな、御行、はくべら、仏座、すずな、すずしろ、これぞ七種」が初見とされる(ただし、歌の作者は不詳とされている)。これらは水田雑草ないし畑に出現するものばかりであり、今日における七種類の定義は日本の米作文化が遠因となっている、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E8%8D%89)。 後には、この七種をそろえることが難しい場合、 なずな、をのみ用い、又、後には、アブラナの葉を用いる、 とあり(大言海)、手に入る物をいくつか、白粥・雑炊に入れることが行われた(たべもの語源辞典)、とある。 七草の薬効については、 芹(せり) 香りがよく、食欲が増進、 御形(ごぎょう) 草餅の元祖。風邪予防や解熱に効果がある、 薺(なずな) 冬の貴重な野菜で、若苗を食用にする、 繁縷(はこべら) 目によいビタミンAが豊富で、腹痛の薬にもなった、 仏の座(ほとけのざ) タンポポに似ていて、食物繊維が豊富、 菘(すずな) ビタミンが豊富/、 蘿蔔(すずしろ) 消化を助け、風邪の予防にもなる、 とある(https://allabout.co.jp/gm/gc/220737/)。七草のうち、 「すずしろ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba13.htm#%E3%81%99%E3%81%9A%E3%81%97%E3%82%8D)、 「すずな」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba13.htm#%E3%81%99%E3%81%9A%E3%81%AA)、 「ほとけのざ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba13.htm#%E3%83%9B%E3%83%88%E3%82%B1%E3%83%8E%E3%82%B6)、 「なずな」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba13.htm#%E3%81%AA%E3%81%9A%E3%81%AA)、 「はこべ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba13.htm#%E3%81%AF%E3%81%93%E3%81%B9)、 については、既に触れた。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 「ははこぐさ」は、 母子草、 と当てる。 ヒキヨモギ、 とも言う、春の七草のひとつ、 ごぎょう(御形)、 のことである。 春の七草については、「七草粥」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E4%B8%83%E8%8D%89%E7%B2%A5)で触れたし、
「すずしろ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba13.htm#%E3%81%99%E3%81%9A%E3%81%97%E3%82%8D)、 四辻善成が、「源氏物語」の注釈書「河海抄(かかいしょう)」の中で、平安時代の「若菜まいる」の中で、 薺(なずな)、繁縷(はこへら)、芹(せり)、菁(すずな)、御形(ごぎょう)、須々代(すずしろ)、佛座(ほとけのざ)、 の七種の野菜・野草を挙げたのが、七種の嚆矢とされている(http://chusan.info/kobore3/46nanakusa.htm)。その一つである。 春の七草については、「七草粥」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E4%B8%83%E8%8D%89%E7%B2%A5)で触れたし、 「ごぎょう」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E3%81%AF%E3%81%AF%E3%81%93%E3%81%90%E3%81%95)、 「すずしろ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba13.htm#%E3%81%99%E3%81%9A%E3%81%97%E3%82%8D)、 「すずな」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba13.htm#%E3%81%99%E3%81%9A%E3%81%AA)、 「ほとけのざ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba13.htm#%E3%83%9B%E3%83%88%E3%82%B1%E3%83%8E%E3%82%B6)、 「なずな」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba13.htm#%E3%81%AA%E3%81%9A%E3%81%AA)、 「はこべ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba13.htm#%E3%81%AF%E3%81%93%E3%81%B9)、
でも触れた。 「餅」(漢音ヘイ、呉音ヒョウ)は、「もち」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%82%82%E3%81%A1)で触れたように、 「『食+音符并(ヘイ 表面を平らにならす)』で,表面が薄く平らである意を含む」 で,中国では, 小麦粉などをこねて焼いてつくった丸くて平たい食品, 「月餅」の「餅」である。「もち米などをむして,ついてつくった食品」に当てるのは,我が国だけである。 餻、 餈、 も「モチ」のことである(たべもの語源辞典)、とある。「餻」(コウ)は、「糕」とも書き、 餌(ジ)、 と同じであり、 もち、だんご(粉餅)、 の意である。「餈」(シ)は、 むちもち、もち米をむして搗きたるもち(稲餅)、 とある(字源)。江戸中期の「塩尻」(天野信景)には、 「餅は小麦の粉にして作るものなり、餈の字は糯(もちごめ)を炊き爛してこれを擣(つ)くものなれば今の餅也、餻の字も餅と訓す、此は粳(うるしね)にて作る物なり」 とあり、江戸後期の「嬉遊笑覧」(喜多村信節)にも、 「餅は小麦だんごなり、それより転じてつくねたる物を糯といへり。だんごは餻字、もちは餈字なり。漢土にて十五夜に月餅とて小麦にて製することあり、よりて『和訓栞』に餅をもちひと訓は望飯(もちいひ)なりといへるは非なり、『和名鈔』に「糯をもちのよねと云るは米の黏(ねば)る者をいへり、是もちの義なり。故にここには餻にまれ餈にまれもちと云ひ餅字を通はし用ゆ」 とある(たべもの語源辞典)、という。つまり、「餅」が小麦粉で作ったものであることをわかっていて、日本の糯米でつくるモチとは異なるが、借字として「餅」の字を使った、ということである。古くは、 モチヒ、 といったことは、「モチ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%82%82%E3%81%A1)で触れ、その語源については触れた。 中華文明圏において、「餅(ピン)」は主に小麦粉から作る麺などの粉料理(麺餅(中国語版))全般を指す。焼餅、湯餅(饂飩・雲呑・餃子の原型)、蒸餅(焼売・饅頭の原型)、油餅などに分類され、小麦以外の稗、粟、コメなどの粉から作るものは「餌(アル)」と呼んで区別があった。「餌」を蒸した「餻(カオ)」、小さいものを「円(ユワン)」、他の食材を包んだ「団(トワン)」、日本で知られる飯粒を搗いたいわゆる餅は「餈(ツー)」と呼んだという、 ともある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%85)。日本はこの「餈」に相当するものが「餅」に発展した、ということのようである(仝上)。 餅の記述では、『豊後国風土記』(8世紀前半)に、 富者が余った米で餅を作り、その餅を弓矢の的として用いて、米を粗末に扱った。的となった餅は白鳥(白色の鳥全般の意)となり飛び去り、その後、富者の田畑は荒廃し、家は没落したとされる、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%85)、あるいはその村は不作になった(日本食生活史)、ともある。古来、日本で白鳥を穀物の精霊として見る信仰があった事を物語っている(仝上)、との見方もある。ただ、奈良時代には、農民が餅を食べる余裕はなく、貴族の菓子類であったとみられる(仝上)。この時代唐からの食品加工技術の輸入によって、 新たに澱粉性の加工菓子も作られるようになった。加工菓子は副食よりも主食とする方が多く、それは餅といってよいものであった、 とある(仝上)。正倉院文書には、 大豆餅(まめもち)・小豆餅(あかあずきもち) 豆を搗き込んだ豆餅、 煎餅(いりもち) 麦粉を練り固めて胡麻油で煎ったもので、センベイと音読した、 環餅(まがりもち) 米や麦粉を蜜や飴にまぜて固めて油で揚げた、 膏糫(おこしごめ) 蜜を米にまぶして煎ってつくった、 捻餅(むぎかた) 胡麻油で煎った、 浮餾餅(おこしごめ) 飴を使ってつくった、 索餅(むぎなわ/さくべい) 小麦粉をねり、塩を入れて固めて、うどん状にしたもの、 等々が載り(仝上)、『延喜式』は、 塩・醤・未醤で味付けした索餅(さくべい)、 米粉で作る粉熟(ふんずく)、 などが記されている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%85)。この時点では、唐風に、小麦粉の「餅」、米粉の「餈」と、そのまま使っていたことがわかる。 10世紀中頃の「和名類聚抄」に、「毛知比=モチイ」とあり、モチイイ(長持ちする飯=イイ)から簡略されているが(仝上)、「大鏡」(11世紀末成立)に、 醍醐天皇(9世紀末から10世紀初め)の皇子が誕生してから50日目のお祝いとして、「五十日(いか)のお祝いの餅」を出され、「誕生五十日の祝いに、赤子(公成)の口に餅を含ませた、 とあり、 貴族男性の結婚後は3日連続して妻の家に通い、「三日の餅(みかのもちい)」の儀式を行い、婚儀にも餅が食された、 とある(仝上)「餅」が、糯米の「もち」なのか小麦粉の「餅」や米粉の「餈」なのかがはっきりしない。たとえば、平安時代、 十月の亥の日に餅を食べて無事を祝った、 とされるが、この「餅」は、 大豆・小豆・大角豆・胡麻・栗・柿・糖でつくった、 と「掌中記」に見えている(日本食生活史)、とあるので、「もち」ではないようなのである。しかし、正倉院文庫にあった、 大豆餅(まめもち)・小豆餅(あずきもち)・胡麻餅、 延喜式にある、 粢(しとぎ)・雑餅、 源氏物語にある、 椿餅、 等々を見ると、 糯米の他に、粳米・小麦・大豆・小豆・胡麻・栗・黍などを入れて、それぞれの名をつけた餅をつくっていた、 のであり(仝上)、 小豆の粉・栗の粉・胡麻などの色粉をふりかけたり、糖(あめ)で甘みをつけた米だけでつくられたものもあった、 とあるので、ちょうど、「餈」から「もち」への過渡にあったのかもしれない。ただ、すでに、鏡餅が、 正月の元旦から三日間の歯固(はがため)の義式(歯に堪えるものをたべて齢を固める祝い事)、 に用いられているし、鏡餅(または餅鏡)を(刃物を入れるのを嫌って)手で欠いた掻餅(かきもち)も登場しているし、三月三日にも五月五日にも草餅をつくって神に供えているほか、蹴鞠の時に携行した椿餅(餅を椿の葉で包んだ)もある。平安期に、「もち」が登場していたことは、確かである。「かがみもち」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E3%81%8B%E3%81%8C%E3%81%BF%E3%82%82%E3%81%A1)で触れたことであるが。 餅には、 粉餅、 と 搗餅、 があり、粉餅には、 粽(ちまき)、 があり、粽は、 糯米の粉を湯でこねて笹か真菰で巻いて蒸したもの、 であるが、内裏の粽は、 粳米を粉にして大きく固め、これを煮て水をのぞいて臼でつき、笹の葉で巻き、また煮てつくった。また粳米を水で何度も洗い、、粉にして絹ふるいでふるい、水でこねって少し固めにし、すこしずつ取って平たく固め、蒸籠にならべ、よく蒸し、蒸し上げたらとりあげてよくつき、粽のかたちにまるめて笹の葉などで固くしめて巻いて作った、 とある(仝上)。 はっきり今日の「もち」とわかるのは室町期である。15世紀はじめの「海人藻芥(あまのもくず)」に、 内裏仙洞には一切の食物の異名を付て被召事也、(中略)飯を供御、酒は九献、餅はカチン(家鎮)、 と呼ばれたとある。「カチン」は、 搗飯(からいい)と呼ばれ、搗いた餅、 とみられる(仝上)。 三月三日の草餅、 五月五日の粽、柏餅、 は中世になってからであり、 雑煮、 は江戸時代になってからである。この時代になって、 正月の鏡餅、雑煮餅、 三月上巳の草餅、菱餅、 五月五日の粽、 十月亥の日の亥の子餅、 等々年中行事に欠かせないものになっていく(仝上)。 参考文献; 渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館) 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 「ちまき」は、 粽、 と当てるが、 糉、 が本字のようである。 後漢(2世紀)の『説文解字』は、「粽」の本字「糉」の字義を「蘆葉裹米也」(蘆(あし)の葉で米を包む也)と記している。この字の旁には「集める」という意味があり、米を寄せ集めたものがちまきという事になる。「粽」は旁を同音の簡単な部品に置き換えた略字である、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A1%E3%81%BE%E3%81%8D)。南宋期の呉均の「續齊諧記」には、 今世五月五日作糉餅幷帯五色絲及練葉皆泪羅(べきら)之遺風 とある(字源、大言海)。それは、 屈原以五月五日投泪羅、 によるのだ(大言海)、という。中国の伝説では、 楚の…屈原が、汨羅江(べきらこう)で入水自殺した後、民衆が弔いのためのほか、魚が屈原の亡骸を食らって傷つけないよう、魚に米の飯を食べさせるため、端午の節句の日(端午節)にササの葉で包んだ米の飯を川に投げ入れた、 ことが起源とされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A1%E3%81%BE%E3%81%8D)。 人々は屈原の死を悲しみ、命日の5月5日には供物を投げて供養しましたが、供物は屈原のもとに届く前に悪い龍に盗まれてしまいます。そこで供物のもち米を、龍が苦手だという楝樹(れんじゅ)の葉で包み、邪気を払う五色(赤・青・黄・白・黒)の糸で縛ってから川へ投げたところ、無事に屈原のもとへ届くようになったということです、 ともある(http://www.i-nekko.jp/gyoujishoku/haru/kashiwa/)。この五色の糸は、 子供が無事に育つようにとの魔よけの意味を込め、鯉のぼりの吹流しの色となっています、 ともあ(仝上)。このため、中国などで端午の節句に食べる習慣がある。しかし、 2000年あまり前の戦国時代には出現していたと考えられる。西晋(3世紀)の周処は『周処風土記』に「仲夏端午、烹鶩角黍。」(夏の端午の節句に鶩角黍を調理する)と記しており、粽のことと考えられる、 ともある(仝上)。 「ちまき」は、 もち米やうるち米、米粉などで作った餅、もしくはもち米を、三角形(または円錐形)に作り、ササなどの「ちまきの葉」で包み、イグサなどで縛った食品。葉ごと蒸したり茹でて加熱し、その葉を剥いて食べる、 もので(仝上)、承平年間(931〜938年)編纂の『倭名類聚鈔』和名抄には、 和名 知萬木、 とあり(岩波古語辞典)、平安初期には、粽が食べられていたらしい(日本食生活史)が、 五月五日の粽や柏餅は中世から、 のようである(仝上)。「餅」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E9%A4%85)で触れたが、平安時代の内裏の粽は、 「粳米を粉にして大きく固め、これを煮て水をのぞいて臼でつき、笹の葉で巻き、また煮てつくった。また粳米を水で何度も洗い、、粉にして絹ふるいでふるい、水でこねって少し固めにし、すこしずつ取って平たく固め、蒸籠にならべ、よく蒸し、蒸し上げたらとりあげてよくつき、粽のかたちにまるめて笹の葉などで固くしめて巻いて作った。白米一升で粽が四・五ほど丁できた」(内裏粽) とある(仝上)。「ちまき」に、 茅巻、 と当てるのは、 古く、茅(ちがや)の葉で巻いたところからであり(たべもの語源辞典・大言海)、 後に真菰の葉にて包む、 とある(大言海)。伊勢物語には、 人のもとより飾り粽 おこせたりける返事に、菖蒲(しょうぶ)刈り 君は沼にぞまどひける 我は野に出でてかるぞわびしき、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A1%E3%81%BE%E3%81%8D)、昔は菖蒲の葉も用いたようである。同じ伊勢物語に、 かざりちまきをおこせたりけるかへりごとに、 とあるが、鎌倉時代の伊勢物語の注釈書「智顕抄」に、 かざりちまきと云ふは、菖蒲の根をきざみて、しゃうぶの葉の若きを割りて、其の中に入れて結び、本に色色なる意とにてまきて、時の花の、うつくしきなでしこ、あづさゐ、しもつけ、あふひ(葵)、しゃうびの花をもちて飾りたるを云ふ、 とある(大言海)。「ちまき」は、 竜の形に巻いた。蘆竹葉・菰の葉で米を包んで、灰汁で煮た。ちまきの形が蛇に似ているところから、これを食べると毒虫の難を避け、また毒虫を殺すこともできる、 といった(たべもの語源辞典)。屈原の故事が日本に伝わったもので、安倍晴明は、 これをねじ切って食べれば悪鬼を降伏させることになる、 と説いたという(仝上)。 「ちまき」は、 茅+巻、 に由来する(大言海・日本語源広辞典・語源由来辞典・たべもの語源辞典等々)とみていいようだ。漢名は、 糉、 角黍、 とある(たべもの語源辞典)。 ちなみに、江戸時代(1697年)刊行された本草書『本朝食鑑』には、 ・蒸らした米をつき、餅にしてマコモの葉で包んでイグサで縛り、湯で煮たもの。クチナシの汁で餅を染める場合もある。 ・うるち米の団子を笹の葉で包んだもの。御所粽(ごしょちまき)、内裏粽(だいりちまき)とも呼ぶ。 ・もち米の餅をワラで包んだ餡粽(あんちまき)。 ・サザンカの根を焼いて作った灰汁でもち米を湿らせ、これを原料に餅を作りワラで包んだ物。朝比奈粽(あさひなちまき)と呼ばれ、駿河国朝比奈の名物というが、これはもう作られていない。 の、4種のちまきが紹介されている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A1%E3%81%BE%E3%81%8D)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館) 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 「柏餅」は、 しんこ(新粉・糝粉)の餅に餡を包みて、又、枯らしたる柏の葉を二つ折りにして、包みて蒸したるもの、 である(大言海)。「しんこ」は、 新米の粉の意か、 とあり(大言海)、 粳米の粉を、水に捏ねて、蒸して、餅の如くしたるものの称、 とある(大言海)。 粉餈、 糕、 とも当てる。「糕」「餈」は、「餅」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E9%A4%85)で触れたように、「餻」(コウ)は、 だんご(粉餅)、 つまり、 小麦以外の稗、粟、コメなどの粉から作り、蒸したもの、 「餈」(シ)は、 もち米をむして搗きたるもち(稲餅)、 を指す。 「柏」の葉の代わりに、 サルトリイバラ(山帰去)の葉、 を用いたりする(たべもの語源辞典)、とある。 「柏」の葉を使うのは、 新芽が出なければ古い葉が落ちないものなので、家系が絶えないという縁起から、 である、という(仝上)。「柏餅」のの中に入れる餡は、こし餡、つぶ餡、味噌餡などがあるが、 柏の葉を外表に巻いているものは、小豆あん、中表(裏を外向け)に巻いているものは、味噌あん、 と分けている(http://www.i-nekko.jp/gyoujishoku/haru/kashiwa/)、らしい。 「柏餅」は、平安頃から食べられたようだが、五月五日の供えとして定着したのは、中世以降らしい(日本食生活史)が、 現在のような柏餅ができたのは、徳川九代将軍家重、十代将軍家治のころ、宝暦年間(1751〜64)と思われ、コ月の節句に柏餅を食べるようになったのは江戸時代に入ってから、 とある(たべもの語源辞典)。それが、 参勤交代で日本全国に行き渡ったと考えられているが、1930年代ごろまではカシワの葉を用いた柏餅は関東が中心であった。カシワの葉でくるむものが生まれるより前にサルトリイバラなどの葉で包む餅が存在し、カシワの自生が少ない地域ではこれが柏餅として普及していた、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%8F%E9%A4%85)。ただ、 柏餅が広まり始めたといわれている江戸時代には「味噌餡」や「塩餡」が主流だった、 ともある(http://www.nikkyo-create.co.jp/food_and_health_column/column_backnumber/column0015)。 もともと柏の葉で食べ物を包むというのは昔から行われていて、 古代に飯を盛るのに木の葉を縫い合わせたものの上にのせた。それを「かしは」とよぶ。すなわち「炊ぎ葉」(かしはぎ)である、 とある(たべもの語源辞典)。「膳」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E8%86%B3)で触れたように、「膳」を、 カシハデ、 と訓ませ、 供膳、 饗膳、 の意であるが、 饗膳を司る人、 の意にも使う(漢字源)。「かしわで(膳・膳夫)」は、 古代、カシワの葉を食器に用いたところから、 いう(デジタル大辞泉)が、 中世、寺院で食膳調理のことをつかさどった職制、 に転じ、 供膳、 饗膳、 の意となる。「かしはで」は、 膳部、 と当てると、 大和朝廷の品部(しなべ)で、律令制では宮内省の大膳職・内膳司に所属し、朝廷・天皇の食事を調製を指揮した下級官人、 である(広辞苑)。 たべものを盛る葉には、ツバキ・サクラ・カキ・タチバナ・ササなどがあるが、代表的なのがカシワであった、 (仝上)のであり、 カシワの葉に糯米(昔は糯米を飯としていた)を入れて蒸したのは、古代のたべものの姿を現している、 ともいえるのである(仝上)。ただ、江戸文化を反映して全国に広がった柏餅に対し、 伝統を重んじる京文化圏では粽が伝承され、今でも関東では柏餅、関西では粽が親しまれています、 とある(http://www.i-nekko.jp/gyoujishoku/haru/kashiwa/)。 ちなみに、「柏」の字は、 本来はヒノキ科の針葉樹コノテガシワを指す漢字で、コノテガシワは柏餅に使う葉とは全く異なる。柏餅に用いるブナ科のカシワには、厳密には「槲」の字を使うのが正しい、 らしい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%8F%E9%A4%85)。「柏(栢)」(漢音ハク、呉音ヒャク)は、 会意兼形声。白の原字はどんぐり状の小さい実の形を描いた象形文字。柏は「木+音符白」。円く小さい実のなる木、 とあり(漢字源)、「ひのき」「このでかしわなど、ひのき類の常緑樹の総称」である。わが国では、 かしわ、ブナ科の落葉高木、 に当てる。「槲」(漢音コク、呉音ゴク)は、 会意兼形声。「木+音符斛(コク ます、ます型)」で、実が、ます型の台座の上にのった姿をした木」 で(仝上)、「かしわ」「ブナ科の落葉高木」の意である。 くぬぎに似て、葉が大きいので、おおばくぬぎともいう、 とある(仝上)。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 「柏」は、 槲、 栢、 とも当てる。葉は食物を包むため、 モチガシワ、 炊葉(かいば)、 とも言う(広辞苑)。 誤りて、「ははそ」ともいう、 とある(仝上)。大言海は、 轉じて、は(ほ)うそ、 とする。「柏餅」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E6%9F%8F%E9%A4%85)で触れたことと重なるが、「柏(栢)」(漢音ハク、呉音ヒャク)は、 会意兼形声。白の原字はどんぐり状の小さい実の形を描いた象形文字。柏は「木+音符白」。円く小さい実のなる木、 とあり(漢字源)、「ひのき」「このてかしわなど、ひのき類の常緑樹の総称」である。わが国では、 かしわ、ブナ科の落葉高木、 に当てる。「槲」(漢音コク、呉音ゴク)は、 会意兼形声。「木+音符斛(コク ます、ます型)」で、実が、ます型の台座の上にのった姿をした木」 で(仝上)、「かしわ」「ブナ科の落葉高木」の意である。 くぬぎに似て、葉が大きいので、おおばくぬぎともいう、 とある。本来は、 柏(栢)、 ではなく、 槲、 の字である。 漢字では「柏」と書くことが多いが、漢字の語源から言うと、柏の字の旁の「白」は色の「しろ」ではなく、球果(松かさ状の果実)をかたどった象形文字で、「柏」はヒノキ科およびスギ科のさまざまな針葉樹を意味する。コノテガシワのこと、あるいはシダレイトスギ、いぶき・さわら・あすなろなど、松以外の針葉樹の総称である、 とおりである(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%83%AF)。現代中国語ではヒノキ科を柏科という、ともある(仝上)。 倭名抄には、 櫟、柏、加之波、 としている(大言海)。広辞苑には、 柏(ハク)、 を、 ヒノキ・サワラ・コノテガシワなど常緑樹を古来「かしわ」と訓みならわす、 とある。万葉集にも、 秋柏(あきかしは)潤和川辺(うるわかはへ)の細竹目(しののめ)の人には忍び君にあへなく、 と歌われている。 「かしわ」には、樹木の葉の意味の他に、 食物や酒を盛った木の葉、また、食器、 の意がある。 多くカシワの葉を使ったからいう、 とある(広辞苑)。 大御酒のかしはを握(と)らしめて、 と古事記にある。 くぼて(葉碗) ひらで(葉盤)、 等々がこれに当たる。「くぼて」は、 窪手、 とも当て、 柏の葉などを幾枚も合わせ、竹のひごなどでさし綴って、中央を窪んだ形に作ったもの、 で、その対が、 ひらで(葉盤)、 で、 枚手、 とも当て、 数枚の柏の葉を併せて作った皿、 をいう(岩波古語辞典)。 仁徳紀に、 葉、此れをば箇始婆(かしは)といふ、 とある。で、「葉」を、 かしわ、 とも訓ます。 さて、「かしわ」の語源は何か。大言海は、「食器」の「かしわ」は、 堅し葉の約(雄略紀七年八月「堅磐、此云柯陀之波」)、葉の厚く堅きを擇びて用ゐる意なり、 とし、「木の葉」の「かしわ」は、 かしは木の略(本草和名「槲、加之波岐)、かしはは(「葉」と訓んだかしはの)語なり、此樹葉、しなやかにして、食を盛るに最も好ければ、その名を専らにせしならむ、天治字鏡「槲、万加志波」 とする。 「かしわ」の葉を使ったから、その葉で作った食器を「かしわ」といったのか、 あるいは、 その葉で作った食器を「かしわ」といったから、その葉を「かしわ」といったのか、 両者は深くつながる。 たとえば、木の葉「かしわ」の語原を、 上古、食物を盛ったり、覆ったりするのに用いた葉をカシキ(炊葉)といい、これに多く柏を用いたから(東雅・古事記伝・松屋筆記)、 ケシキハ(食敷葉)の義(茅窓漫録奥・日本語原学=林甕臣)、 飯食の器に用いたから、またその形を誉めていうクハシハ(麗葉)の義(天野政徳随筆・碩鼠漫筆)、 神膳の御食を盛る葉であるところからいうカシコ葉の略(関秘録)、 食物を盛った木の葉(食敷葉・炊葉)(日本語源広辞典) とするのは、 その葉で作った食器を「かしわ」といったから、その葉を「かしわ」といった、 とする説である。逆に、 食物を盛る古習からカシハ(炊葉)の義(国語学通論=金沢庄三郎)、 カシハ(槲・柏)の葉に食物を盛ったから(類聚名物考・本朝辞源=宇田甘冥)、 ケシキハ(食敷盤)の義(言元梯)、 とするのは、 「かしわ」の葉を使ったから、その葉で作った食器を「かしわ」といった、 とする説である。 カタシハ(堅葉)の義(関秘録・雅言考・言元梯・和訓栞・本朝辞源=宇田甘冥)、 も、その堅さは、用途を意識していたとするなら、「食器」として使ったから、そのはを「かしわ」といったに入るだろう。 もし、葉の命名が先なら、 風にあたるとかしがましい音を立てる葉の意(和句解)、 カシは「角」の別音katが転じたもので、きれこみがあってかとかどしいこと。ハは「牙」の別音haで、葉の義(日本語原学=与謝野寛)、 という説もあるが、何れが先かは、判別不能ながら、 「かしわ」の葉を使ったから、その葉で作った食器を「かしわ」といったのか、 か、 その葉で作った食器を「かしわ」といったから、その葉を「かしわ」といったのか、 か、いずれかになるのではないか。 膳、 を、 かしわで、 と訓ますのは、 柏を食器に用いたから、 であることは、「膳」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E8%86%B3)で触れた。また、「かしわ」の木は、 柏木、 と書くが、 柏木は葉守の神が宿るという伝説から、皇居を守る兵衛、および衛門、 の意でもある(岩波古語辞典)。「葉守の神」とは、 樹木を守護すると云ふ神、 である(大言海)。「兵衛」(ひょうえ)とは、 律令制で、兵衛府に属し、宮門の守衛・宮内の宿直・行幸の供奉などにあたった武官。左右兵衛府に四〇〇人ずつ分属し、宮門の守衛・宮内の宿直・行幸の供奉など、天皇の身辺を護衛する親衛隊としての役割を果たした、 とあり(大辞林)、和名を、 つわもののとねり、 という。因みに、 黄鶏、 と当てる、「かしわ」は、 柏の葉の色に似ているのでいう、 のだが、本来は、 鶏肉、 を指すのではなく、 羽毛が茶色の鶏、またはその肉、 の意。特に雌鶏の肉を美味としたが、天保(1830〜44)以降、鶏肉の総称に変化した(日本語源大辞典)、とある。 参考文献; 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
「にこごり」は、 煮凝、 と当てる。 にこり、 とも訓み、 煮凍、 とも当てる(たべもの語源辞典)。 ゼラチン質の多い魚や肉などの煮汁が冷えてゼリー状に固まったもの。この煮汁がゲル化する性質を利用して、煮込んだ材料ごと冷し固めた料理のことも指す、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%AE%E3%81%93%E3%81%94%E3%82%8A)、地域によって、 こごり、 こうごり、 こんごり、 等々とも呼ばれる(仝上)。 中国には古くから、ヒツジの背肉や内臓などを煮つめた羊糕(ヤンカオ)という料理がある。これは健康増進食の目的があり、2000年余の昔から用いていた記録がある、 とある(日本大百科全書)。日本霊異記に、 鯉を煮て寒凝(こごら)す、 とあるように,コイ,フナなどを煮て寒気で凍らせることは古くから行われ,貢納品ともなった(世界大百科事典)。 魚などを切って煮たものが冷えて固まることを、 コゴリ(氷凝)、 といい、煮たものがこごったものを、 煮こごり、 とよんだ(たべもの語源辞典)、とある。どうやら、もともとは、 調理の段階で生まれた副産物、 が、転じて一つの料理となった(https://dic.nicovideo.jp/a/%E7%85%AE%E3%81%93%E3%81%94%E3%82%8A)、とみられる。 要は、「煮凝」は、 ニ(煮る)+コゴリ(凝るの連用形)、 である。「こごる」は、 凝る、 凍る、 と当てる。岩波古語辞典は、 こごゆ(凍ゆ)、 こごす(凝し)、 と同根とする。「こごる」は、 固まって堅くなる、 凍って固くなる、 意だが、「こごゆ」は、 寒さで体の各部分が固くなる、 意であり、「こごす」は、 凝り固まっている、 意である。大言海は、「こごる」を、 凍(こ)い凝るの義(和訓栞)、凍(こ)い凍(こ)ゆ、こごゆもある、 とし、やはり、 凍る、 とつなげている。さらに、「こゆ(凍ゆ)」は、 凝ると通ずるなるべし、寒さに凝結するなり、名詞形にこい(凍ゆの名詞形)と云ひ、凍い凍ゆと重なりつづまれば、コゴユとなる、 とある。「こごゆ(凍ゆ)」は、 凍い凍ゆと重ねて意を強めたる語、 とする。だから、「こごる」を、大言海は、 凍い凝る、 と、凍って固まったさまとする。「凍る」に違いはないが、「煮凝」の「こごり」は、 凍い凝る、 の感じが合う気がする。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
「台所」とは、 煮炊きその他、食物を調理する室、 の意だが、 厨(くりや)、 勝手、 厨房、 炊事場、 とも言う。「勝手」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba10.htm#%E5%8B%9D%E6%89%8B)については触れた。で、その、 調理する室、 の意から転じて、 金銭のやりくり、またその内情、 の意となった。「台所」は、 台盤所の略称、 とされる。「台盤所」は、 宮中や貴族の邸で、台盤を扱う女房の詰所、宮中では清涼殿の西庇(にしびさし)にあったという、台盤を置いてあって膳立をするところであるのでこのように称した、 とある(日本食生活史、岩波古語辞典)が、正確には、 「台盤所」は平安時代からあったが、「台所」と称してよぶようになるのは、中世以降かと思われる。当初、内裏や仙洞に加え、摂関家ににあって女房などが詰めていて飲食する部屋だったのが、中世になると、武家の間にも広まり、広く料理する場所をさすようになって、一般化した、 とある(日本語源大辞典)ように、どうやらキッチンではなく、ダイニングだったらしい。で、 近世以降は、庶民の間にも浸透して金銭のやりくりなどの派生義も生じ、近代以降は、類義語の「厨」「勝手」を退けて定着するに至った、 とある(仝上)。 「台盤」は、 だいばん、 と訓むが、 ダイハン、 とも訓ます。 平安時代の宮廷,貴族の飲食調度の一つで,節会,大饗などに用いた。「だいはん,ばんだい」ともいう。食物を盛った盤(皿)を載せる木製の机状の台。長さが約240cmの大台盤(長台盤,2人以上用),約120cmの小台盤(切台盤,1人用)などがあり,ともに幅は約1m,高さは約45cmぐらい。朱・黒漆塗で,上面は幅広い縁がつき中が低い、 とある(ブリタニカ国際大百科事典)。 「台盤所」は、 敬称の御を付けると人を表し、そこを統括する人、すなわち貴人の奥方をさしたが、それが略された「御台所」「御台」という語も中世以降に生まれた、 とある(日本語源大辞典)。平安時代の中頃までは、 三位以上の公卿の正室はみな「北政所」と呼ばれていた。しかし時代が下るとこれが格式化して、「北政所」は宣旨をもって贈られる称号となり、しかもその対象は摂政または関白の正室のみに限られるようになった。すると三位以上の公卿でも大臣や大将の正室には、必然的に別の呼び名が使われるようになる。これが御台盤所、またこれを略した台盤所(だいばんどころ)や御台(みだい)で、院政時代以降の文献にこれが散見する、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%8F%B0%E6%89%80)、 藤原師実の正室・源麗子は、師実が大臣だった頃(内大臣→左近衛大将→右大臣→左大臣)には「大盤所」(御台盤所)と呼ばれていたが、承保2年(1075年) 師実に関白宣下があって以降は「北の政所」(北政所)と呼ばれており、御台盤所と北政所の用法に明確な違いが見て取れる。 とある(仝上)が、 鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の妻である北条政子が「御台所」と称され、以降歴代の将軍正室の呼称となる。のちの室町幕府・江戸幕府の将軍夫人も御台所と称された、 とある(仝上)。 因みに、 日本語で「台所」を意味する言葉には、ほかに「厨(くりや)」「勝手(かって)」「厨房(ちゅうぼう)」「炊事場(すいじば)」などがあるが、「厨房」「炊事場」は中国語をほぼそのまま持ってきただけの語であり、どうやら日本人はその部屋を意地でも「調理するところ」とは呼びたくなかったようである、 とする説(笑える国語辞典)もある。たしかに、「くりや」は和語だが、 炊事 厨房、 は漢語であり、「厨房」は、 厨庖、 とも当てる。「厨」「庖」も、 台所、 の意であり、 庖廚(ほうちゅう)、 ともいい、「廚」は「厨」の異体字である。「厨」(漢音チュウ、呉音ズ、ジュウ)は、 形声。尌(ジュ)が音を表す。物を出し入れする戸棚や部屋、 とあり、「庖」(漢音ホウ、呉音ビョウ)は、 会意兼形声。包(ホウ)は、外から包む意を含む。庖は「广(いえ)+音符包」で、食物を包んで保存する場所の意、 とある(漢字源)。 なお、「厨」(くりや)については、項を改める。 参考文献; 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
「精進料理」とは、 精進物のみを用いた料理、 であり(広辞苑)、 腥(なまぐさ)料理の対、 ともある(大言海)。「精進物」とは、 生臭物の対、 つまり、 材料に魚肉を用いず、野菜・海藻の類を用いた食べ物、 である(岩波古語辞典)。「精進」とは、 懈怠の対、 であり、 六波羅蜜の一つ、 であり、 善法の実践に怠りなく励むこと、 である(仝上)。「波羅蜜」とは、 サンスクリット語のパーラミターpāramitāの音写、 仏教において仏になるために菩薩が行う修行のこと、 であり、六波羅蜜とは、 布施波羅蜜 施しという完全な徳、 持戒波羅蜜 戒律を守るという完全な徳、 忍辱波羅蜜 忍耐という完全な徳、 精進波羅蜜 努力を行うという完全な徳、 禅定波羅蜜 精神統一という完全な徳、 般若波羅蜜 仏教の究極目的である悟りの智慧という完全な徳、 とされる(ブリタニカ国際大百科事典)。「精進」は、 (身を清めて、心を謹んで仏道修行の)努力をする、 という意で、その実践方法として、 美食を戒めて粗食をする、 ことである(たべもの語源辞典)。日本に伝わると、 イモヒ、 と訓んだ(仝上)。「いもひ」とは、 忌マヒの転、 で、 精進潔斎(しょうじんけっさい)、 さらに、物忌みの食事、 斎食、 の意である(岩波古語辞典)。つまり「精進」は、 仏事・神事などを控えて、心身のけがれを清めるための忌みの生活、 の意となる。この背景は、 日本には古来から、人畜の死や出血、出産など異常な生理状態を指して不浄、穢れとした概念があった。これが結びついて俗間では消極的な理解となり、服喪のための物忌みなどでその浄化の実践のために衣服、食事を通じて身心を清めること、俗縁を断ち切って清浄にし、仏門の生活を送ることもいうようになった、 ということがある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%BE%E9%80%B2)。で、食事においても、 仏教で殺生を禁じたことから魚、鳥、獣など動物性の食事を取ることや、酒を断ち、五葷(ごくん)と呼ばれる煩悩を刺激する臭いの強い野菜(ネギ類など)も避け、また調理に使う火も普段の家族で使うものとは別の清浄な火を使うなど、細部に渡って慎みとして徹底された、 ということがあり(仝上)、「精進」とは、 魚鳥獣肉など、生臭物を断つこと、 の意となる。物忌みでは中陰などのように期間を定め、それが過ぎることを、 精進上げ(精進明け)、 食事を含めて通常の生活に戻すことを、 精進落とし、 と言った(仝上)。で、 精進する人は、美食、肉食せぬ意より、転じて、膳部に菜蔬のみ、用いること、 を「精進」というようになった(大言海)。 素膳、 ともいう(仝上)、とある。「中陰」(ちゅういん)とは、「中有」(ちゅう)ともいい、 死者が今生と後生の中間にいるためantarā(中間の)bhava(生存状態)、 をいい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%99%B0)、この期間を、 49日とする説から,この期間中に浮遊している亡霊に,幸福な次生を得させるために,7日ごとに読経,法要を営む風が生じた(百科事典マイペディア)。 「精進」は、 ショウジン、 と訓むが、古くは、 ソウジ、 ショウジ、 ソウジン、 とも訓んだ(広辞苑)。神道では、 精進を「そうじ」と読んで物忌と同意に用いる、 ともある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%BE%E9%80%B2)。 物忌みの意味の流れとは別に、中世末の日葡辞書には、 一所懸命努力する、 の意で、 ユミャウ(勇猛)シャウジンノココロ、 と載る。本来の「精進」の意である。 鎌倉時代以降の禅宗の流入によって、精進料理が広まったが、 平安時代までの日本料理は魚鳥を用いる反面、味が薄く調理後に調味料を用いて各自調製するなど、未発達な部分も多かった。それに比べて禅宗の精進料理は、菜食であるが、味がしっかりとしており、身体を酷使して塩分を欲する武士や庶民にも満足のいく濃度の味付けがなされていた。味噌やすり鉢といった調味料や調理器具、あるいは根菜類の煮しめといった調理技法は、日本料理そのものに取り入れられることになる。また、豆腐、氷(高野)豆腐(凍豆腐)、コンニャク、浜納豆(塩辛納豆ともいう)、ひじきといった食材も、精進料理の必須材料として持ち込まれたと考えられる。調理の心得として心から喜んで調理する喜心や自己より他人のための老心や冷静に調理の大心を重視している、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%BE%E9%80%B2%E6%96%99%E7%90%86)、料理は、 甘い辛い酸っぱい苦い塩辛いの五味や生調理煮る焼く揚げる蒸すの五法を重視して、赤色の豆・米麦白色・黄色根菜類・緑野菜果物・きのこ海藻の黒色など五色を調理の基本としている、 とある(仝上)。室町前期頃の「庭訓往来」には、 斎(とき)の汁には豆腐汁・辛汁・豆腐糟・とろろ汁・竹の子汁、 があり、さらに、 大根を細かに切ったもの、黒煮ノ蕗・煮染ノ牛蒡・昆布・青海苔・若布(ワカメ)・酢漬の茗荷・ゆで茄子・胡瓜の甘漬・納豆・煎豆・豌豆・薊・薺(なずな)・芹・酒煮の松茸、 等々の料理が用いられた(日本食生活史)、とある。精進料理は材料が淡泊であるから、 その味を向上させるためには、だしにかつお節を用いてもよいとしたこともあるが、原則としては植物性のものだけとなっているために、主たる調味源としてはシイタケ、昆布を用いている。ごま油、卵は用いてよいものとされ、酒も重要な調味料とされている。酒のもつうま味、コハク酸の味を利用しようと考えるためであろう。みりんができたのは江戸後期とみられているが、これも利用されている、 とあり(日本大百科全書)、『料理物語』(1643年(寛永20))のなかには、 「だし酒は、かつおに塩ちと入れ、新酒にて一あわ二あわせんじ、こしさましてよし」「精進のだしはかんぴょう、昆布(焼きても入れる)、干したで、糯米(もちごめ)(袋に入れる)、干しかぶら、干しだいこん右の中取合せてよし」 と、精進料理のだしについての解説がある(仝上)。 精進料理の一つに、「点心」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E7%82%B9%E5%BF%83)がある。寺院では、 茶子(ちゃのこ)、 ともいい、 禅僧の間食、 である。点心には、 木菓子、 と 唐菓子、 の二種があり、「木菓子」は、果実であり、 柑子・ほそじ・栗・柿、 等々を利用し、「唐菓子」には、前代からあった、 餢飳(フト 伏菟 油で揚げた餅)、 環餅(マガリモチ 糯米の粉をこねて細くひねって輪のようにし、胡麻の油で揚げたもの。輪のように曲がるので)、 煎餅(センベイ 小麦粉で固めたものを油で揚げた)、 索餅(ムギナワ さくべいともいい、麦の粉を固めて捻じり、縄のようにしたもの、冷そうめんの類)、 粢(シトギ 米又は糯米で作った餅) 焼餅、 粽、 等々があるとされる(日本食生活史)。「粽」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E3%81%A1%E3%81%BE%E3%81%8D)については触れた。 なお、曹洞宗では、 料理すること、食事を取ることは特に重要視されている。道元が帰国後書いたのが、『典座教訓』(てんぞきょうくん)と『赴粥飯法』(ふしゅくはんぽう)で、ここから永平寺流の精進料理が生まれたという。永平寺では料理を支度することが重要な修行のひとつ、 とされている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%BE%E9%80%B2%E6%96%99%E7%90%86)。また、「精進料理」は、日本的な精進料理の他に、 普茶料理、 があるが、項を改める。 なお、「懐石料理」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E6%87%90%E7%9F%B3%E6%96%99%E7%90%86)については、すでに触れた。 参考文献; 渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館) 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 「精進料理」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E7%B2%BE%E9%80%B2%E6%96%99%E7%90%86)については触れたが、「普茶料理」も「精進料理」である。「普茶」は、 フチャ、 と訓むが、 フサ、 とも訓ます。 広く一般大衆に茶を饗すること、 とある(広辞苑)が、厳密には、 黄檗宗(おうばくしゅう)で、法会の後などに茶を一般の人に供すること、 である(デジタル大辞泉)。 禅宗で茶礼という儀式を行い、全山の人が集まってお茶を飲みながら意見の交換をするところから生まれた言葉である、 ともある(たべもの語源辞典)。「普茶」とは、 茶を普(あまね)くする、 意である。黄檗清規に、 常住設普茶、言普及一衆也、 とあり、禅林象器箋に、 點茶、普及一衆、故曰普茶、 とある(大言海)。「普茶」は、はじめ、 赴茶、 と書いたが(日本食生活史)、 寺院で僧たちが柝(ひょうしぎ)の音を聞いて茶の馳走に赴いたから、 とある(たべもの語源辞典)。 「普茶料理」は、 普茶が終わって出した料理、 をいうらしい。 法要や仏事の終了後に僧侶や檀家が一堂に会し、供えられた季節の野菜や、乾物や豆、特に大豆を調理し、幼長男女の別なく食卓を囲み煎茶や抹茶などと楽しむ食事、 である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E8%8C%B6%E6%96%99%E7%90%86)。ために、「普茶」は、 黄檗宗の寺で供される精進料理。また、料理店がだすそれを模した料理、 の意でもある。 ちなみに、「黄檗宗」は、日本の三禅宗のうち、 江戸時代に始まった一宗派、 で、 江戸時代初期に来日した隠元隆g(1592〜1673)を開祖とし、本山は隠元の開いた黄檗山(おうばくさん)萬福寺、 である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%AA%97%E5%AE%97)。三大禅宗とは、 臨済宗、 曹洞宗、 黄檗宗、 である。隠元は、 中国式の禅文化を日本に伝えるとともに、インゲンマメ、孟宗竹、スイカ、レンコンなど、さまざまな品を日本へもたらした。その時一緒に伝わった当時の「素菜」(スーツァイ、いわゆる中国式の精進料理)が普茶料理である、 とあり(仝上)、日本の精進料理は、鎌倉時代の禅宗と共にはじまったが、「普茶料理」は、 中国風、 なのである。 (萬福寺は)代々中国からの帰化僧が山主となったので中国風が興った、 とある(たべもの語源辞典)。 この山(寺)の山主は代々中国の帰化僧で、料理も中国のものが伝えられ、その料理はいまでも、黄檗の普茶(ふちゃ)料理として知られている。本来、中国の精進料理は植物性材料を用いても一見動物の形態、ものによっては味までそれに似たものをつくりだすのが特色である。鶏の焼いたり煮たりした形、コイの丸揚げらしくつくったものなどがある。日本の普茶料理にもこの技法は取り入れられ、とり団子、ウナギの蒲焼(かばや)き、マグロの刺身などの擬製料理もみられる。日本では、ナスのしぎ焼き、こんにゃくのすっぽん煮のように動物性の名称を用いた精進料理もある、 ともある(日本大百科全書)。しかし、 慶長(1596〜1615)ころ、すでに長崎には、唐寺が建立されたので、ここで普茶を饗することが行われた。長崎の唐風寺院には、元和元年(1615)に興福寺、寛永五年(1628)に福済寺、翌六年に崇福寺ができ、これを長崎の三福寺と称した、 とあるので、「普茶」自体は既にあったようである。 承応三年(1654)七月に中国から名僧隠元禅師が来日、寛文元年(1661)山城宇治に黄檗山万福寺を創立した。普茶料理は黄檗宗とともに広められたので、一名黄檗料理とも言った、 とある(たべもの語源辞典)。「普茶料理」は、 卓袱(しっぽく)料理の精進なるもの、 ともある(大言海)。料理山家集(1802)には、 普茶と卓袱と類したものなるが、普茶は精進にいひ全て油をもって佳味とす。卓袱は魚類を以って調じ、仕様も常の会席などと別に変りたる事なしといへども、蛮名を仮てすれば、式と器の好とに、心を付ける事肝要なり、 とあり、油を使うことが普茶の特徴らしく、それで、 精進の卓袱料理、 といわれる(たべもの語源辞典)らしい。「卓袱料理」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E5%8D%93%E8%A2%B1)については既に触れた。 基本的に一つの長方形の座卓(卓袱台)を4人で囲み、一品ずつの大皿料理を分け合って食べる、スタイル(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E8%8C%B6%E6%96%99%E7%90%86)は卓袱料理と同じである。 明和(1764〜72)頃の「卓袱会席趣向帳」「普茶料理抄」などには、一皿一皿に四人分の料理が盛ってあるのを取り廻して、ひとつの卓に四人が向かい合って座っている図が載っている。 料理においても中国風のものが多く、巻繊(野菜や乾物の煮物や餡かけ)・油糍(下味をつけた野菜などを唐揚げにしたものや雲片(野菜の切れ端を炒め、葛寄せにしたもの)・擬製料理(肉や魚に擬した「もどき」料理。麻腐、すなわち胡麻豆腐も白身魚の刺身に擬した「もどき」料理である)などがある。炒めや揚げといった中国風の調理技術には胡麻油が用いられ、日本では未発達であった油脂利用を広めた、 とある(仝上)。この食事法は、「卓袱台」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E3%81%A1%E3%82%83%E3%81%B6%E3%81%A0%E3%81%84)で触れたように、「卓袱料理」とともに、それまでの日本の食事風景を変える、 ちゃぶ台、 につながり、 がんもどき、 や 精進揚、 が家庭料理に普及するのに影響が大きかった(たべもの語源辞典)。 今、普茶料理として八品を、 雲片(ウンペン 野菜を油でいため、葛煮にする)、 油糍(ユジ 味付け精進揚)、 澄汁(スメ 薄味の汁もの)、 醃菜(エンツァイ 香物)、 笋羹(シュンカン 生菜煮菜の盛り合わせ)、 麻腐(マフ 胡麻豆腐)、 羹杯(カンパイ ひたし物)、 味噌煮(味噌汁)、 と定められている(たべもの語源辞典)、とある。それまでの、豆腐や納豆、野菜、豆、海藻主体の精進料理とはかなり異なることがわかる。 なお、「会席料理」については「懐石料理」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E6%87%90%E7%9F%B3%E6%96%99%E7%90%86)で触れた。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館) 「屯食」(とんじき・とじき)は、 強飯(こはいひ)を握りかためて卵型にしたもの、平安時代、禁中または帰陣の饗宴の際、庭上に台などを出し、並べて、下臈(げろう)などに賜ったもの、 とあり(岩波古語辞典、広辞苑)、 公家で、握り飯の称、 ともある(広辞苑)。江戸中期の「安斎随筆」に、 屯食、トンシキとよむ、是ニギリメシの事なり、 屯食の屯はあつむるなり、食をにぎりあつめたるなり、トンシキとよむ、下臈の者に賜る食なり、 と載る(広辞苑、大言海)。江戸後期の「松屋筆記」にも、 屯はあつむると訓字也、食はいひ也、飯を屯(あつめ)たる義にて、今のにぎり飯の事を云ふ、公家にては今もにぎりめしをとんじきと云へり、 とある(仝上)。 「屯」は集まるという意味で、100具も200具も並べ立てることによる名であるという、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%AF%E9%A3%9F)。宇治左大臣藤原頼長の日記「台記」春日詣の条には、 屯食十五具、裹飯(柏の葉で包んだ飯)五百具、 とあり、 室町初期の『源氏物語』の注釈書「河海抄」によれば、「貞丈雑記」によれば、 強飯を握り固めて鶏卵形にしたもの、 とある(仝上)。ただ、古くは饗宴のことを屯食といい、平安中期の儀式書「北山抄」の皇太子加元服儀の条の屯食の注には、 盛屯食と荒屯食との2種ある、 とある。江戸中期の類聚名物考」には、 盛屯食は木型などで打抜いたもの、荒屯食は型なしに盛つたものか、 とある。江戸中期の「玉函叢説」には、 嫁取りのときに用いる二重の台の下台のないものが古画巻の酒宴の座に見え、しかもその名を伝えないがおそらくこれが屯食であろう、 という(仝上)。どうも、 強飯(こはいひ)を握りかためて卵型にしたもの、 の意から、江戸時代には、 握り飯、 の意に変化してしまったらしい。ただ、 宮中で種々の催しのあるときは、大勢の下級の者には弁当のようなものを賜った。これを屯食といって、強飯をまるくにぎりかためて、器に盛ったもの、 とある(日本食生活史)ので、やはり、もともと今日の握り飯の感覚で食されたもののようである。源氏物語にも、 屯食五十具、 埦飯など世の常のやうに、 と見える。「椀飯」(おうばん)とは、 朝臣が参内したときに、多勢のものに殿上や台盤所や滝口などでもてなす食物、 で、 釜で煮た飯を埦(わん)に盛りつけたもの、 である(仝上)。屯食同様、立ち働く役人の弁当のようなものである。 ちなみに、「強飯(こはいひ)」は、「粥」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E7%B2%A5)で触れたように、 江戸時代までは米を蒸して飯にしたものを強飯といい、水を加えて柔らかく煮たもの、すなわち炊(かし)ぎ飯を弱飯(ひめ)または姫飯(ひめいい)といっていた。炊飯が一般化するようになってからは、これをご飯(はん)または飯(めし)といい、反対に糯米(もちごめ)を蒸したものを強飯またはおこわというようになった。米を蒸すのが通常の加熱法であった時代には、糯米でも粳米(うるちまい)でも強飯といったが、炊く方法が一般的になってからは蒸したものだけを強飯というようになり、さらに糯米を蒸さずに炊いたものを炊きおこわといっている。 である(日本大百科全書)。また「下臈」は、 上臈の対、 で、ここでは、 下人、 下衆(ゲス)、 を指す。 下郎、 とも当てる。 「屯食」は、武士の時代になると、戦陣食となる。兵糧としては、 玄米(手拭で包み水にぬらして地に埋め、その上で火を焚いて飯をつくったので、黒米飯という)、 糒(ほしいい)、 焼米、 の他、 焼いた握り飯を竹の皮や木の葉に包み、袋に入れたものを携行した、 とある(仝上)。 戦陣食を経て、江戸時代は、旅の携行食として、 屯食、 を、 飯を握って固めたもの、 として言うようになる(仝上)。 「屯食」の由来について、資治通鑑・唐高宗紀の注に、 中頓者謂中道有城有糧、可以頓食也、置食之所曰頓、 をひき、大言海、 即ち、頓食は昼食なり、省きて屯食書す、 とする。昼食をとる習慣のない時代だから、 弁当、 というのが妥当なのだろう。 「握り飯」は、 弥生時代後期の遺跡である杉谷チャノバタケ遺跡(石川県鹿島郡鹿西町、現・中能登町)でおにぎりと思われる米粒の塊が炭化したものが出土、 あるいは、 北金目塚越遺跡(神奈川県平塚市)からも、おにぎり状に固まった炭化米が発見、 等々あるが、この当時の炊飯方法は、 米と一緒に加熱した水を、沸騰して吹きこぼれたら土器をすぐに傾けて捨て、さらに加熱して米の水分を飛ばした後、土器を横倒しにして上部の米にも火を通す湯取り法の一種である(湯を捨てた直後は上部の米にはまだ芯が残っている)、 とされる。この方法では、 飯は粘り気が少なく、おにぎりにするのは難しい、 とされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%AB%E3%81%8E%E3%82%8A)。やはり、おにぎりの直接の起源は、 平安時代の「屯食」(とんじき)、 となるらしい。江戸時代に入ると公家社会では現在のおにぎりのことを「屯食」と呼ぶようになったのには、鎌倉以降、うるち米が使われるようになったことが大きい。 ところで、「握り飯」は、 むすび、 とは違う、とする説があり、 通説では西日本は「おにぎり」、東日本は「おむすび」、 とされる(仝上)。それについては、 おにぎりは形を問わないが、おむすびは三角型という説。 おにぎりが三角型で、おむすびは俵型という説。 米を握り固めた状態がおにぎりで、おにぎりをわらで巻いて運搬しやすくした状態がおむすび説。 丸形で海苔(しめった海苔)が全面を覆うのがおにぎり、三角で乾いたパリパリの海苔が一部を取り巻くのがおむすびという説。 三角の握り飯を「おむすび」というのは造化の三神に由来するとの説[注 3]。 おにぎりの呼び名は江戸時代からの呼び方でおむすびの呼び名はそれ以前からの古くからの呼び名。 東日本でおにぎり、西日本でおむすびと別名でよんでいたのが混交したという説 握り飯またはおにぎりの方が歴史が古く、その女房言葉もしくは丁寧語としておむすびといったという説 昔の日本人は山を神格化し、その神の力を授かるために米を山型(神の形)にかたどったのが握り飯を三角形に作った由来との説、 等々諸説あるらしい(仝上)。 参考文献; 渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「辛夷(コブシ)」は、 拳、 とも当てる。 モクレン科モクレン属の落葉広葉樹の高木、 である。漢名は、 日本辛夷(にほんしんい)、 日本では「辛夷」という漢字を当てて「コブシ」と読むが、これは花のつぼみを乾燥させた生薬名が辛夷(しんい)であるためである、 とされ、中国の辛夷は、 ハクモクレン(白木蓮)、 もしくは モクレン(木蓮)、 のことを指し、 コブシの漢名とするのは誤りとされている、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%96%E3%82%B7)。白居易の詩、 北村尋古柏、南宅訪辛夷 の「辛夷」は、モクレンということになる。 「辛夷」は別名、 ヤマアララギ、 コブシハジカミ、 ともよばれ、アイヌでは、 オマウクシニ、 オプケニ、 と呼ばれる(仝上)、とある。この花が咲くころに田打ちを始めることから別名、 田打ち桜、 ともいう(由来・語源辞典)、らしい。 「木蓮(モクレン)」は、 木蘭、 とも当てる。中国では、 紫玉蘭、 と表記するが、 辛夷、木筆、望春、女郎花、 とも呼ばれる、 モクレン目モクレン科モクレン属の落葉低木、 であり、花が紫色であることから、 シモクレン(紫木蓮)、 の別名もある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%B3)。 ハネズ、 モクレンゲ、 とも呼ばれる(仝上)。 昔は「木蘭(もくらん)」と呼ばれていたこともあるが、これは花がランに似ていることに由来する。今日では、ランよりもハスの花に似ているとして「木蓮(もくれん)」と呼ばれるようになった、 とある(仝上)。中国南西部(雲南省、四川省)が原産地である。 英語圏に紹介された際に、Japanese magnolia と呼ばれたため、日本が原産国だと誤解されている、 とある(仝上)。 和名「コブシ」の由来について、大言海は、 コブシハジカミの下略む、とある。「コブシハジカミ」は、 莟(つぼみ)の形、拳の如く、實を食用とするに、味辛きこと、山椒(はじかみ)の如き義、 とする。「山椒」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E5%B1%B1%E6%A4%92)については、触れた。倭名抄にも、 辛夷、其子可噉之、古不之波之加美(生薑、蜀椒、山葵、芥などと列挙したり、實を食物に添えへて食ひしなり)、 とある。また、本草、陶注に、 辛夷、形如桃子、小時、気辛香、 とある(仝上)。 定説がないが、 つぼみが開く前、開花の様子が小さな子どもの握りこぶしのように見える、 のか、 つぼみの形を握りこぶしに見立てた、 か、 果実(集合果)の形がでこぼこしていて、(子どもの)握りこぶしに見立てた、 のか、いずれも、 拳の形、 に由来するらしい。自分の目に見る限り、 果実(集合果)の形、 が、まさに、 握りこぶし、 に見えたのだが。 因みに、(ハク)モクレンとコブシの違いは、 白木蓮(ハクモクレン) 自生地:中国 花びらの枚数:9枚(咢を含める) 花びらの形:肉厚な花びら 花の向き:上向き コブシ 自生地;日本 花びらの枚数:6枚 花びらの形:薄い花びら 花の向き:上向きや横向き、斜めなど様々 とか(https://lovegreen.net/flower/p136919/)。 参考文献; 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「とっくり」は、 徳利、 と当てる。 とくりの音便、 である。 酒を入れる容器、 である。かつては、 瓶子(へいし/へいじ)、 というものがあった。 口が小さく下ほど脹れている土器、 である(日本食生活史)。今日では、 ふたの付いた、白色の素焼きまたは陶器製で神酒(みき)を神前に供えるのに用いる、 ものに残っている(食器・調理器具がわかる辞典)。 古代の出土品に瓶(へい)とよぶ須恵器(すえき)があり、奈良時代にペルシアの影響を受けた唐から舶来した胡瓶(こへい)があり、いずれも瓶の上部が鳥首になっているのが特徴で、金銅製、陶製で三彩を施釉(せゆう)したもの、ガラス製がみられる。平安時代には木製挽物(ひきもの)仕上げで白鑞(びゃくろう)(錫(すず)と鉛の合金)蒔絵で桐竹鳳凰(きりたけほうおう)を描く瓶子(重文)が、奈良市・手向山(たむけやま)神社に残る。中世には木地挽物に朱漆や黒漆を塗り、漆絵を描いた瓶子が盛んにつくられた。しかし、鎌倉後半期に瀬戸中心に焼成、施釉の陶器が盛んとなった、 とある(日本大百科全書)。 「瓶子」が形から見ても、徳利の先祖であることは明らかであるが、酒器には、 銚子(さしなべ・さすなべ・てうし)、 があった。 長柄と注ぎ口のある鍋、 で、吊るしかけて酒などを温めるのに用いた。ただ、大言海(広辞苑も)は、「銚子」の、 てうし、 と訓むものと、「銚子」の、 さすなべ、 さしなべ、 と訓むものとは区別しており、「銚子」(てうし)は、 古へ銚子(サスナベ)を小さく造り、柄を付けたるもの。金類にて作る。長き柄あれば、柄なき提子(ひさげ)に対して、長柄の銚子とも云ふ。注口の両方にあるを両口(モロクチ)と云ひ、一方なるを片口といふ、 とし(両口は諸口(もろぐち)ともいう)、「銚子」(さすなべ)は、 鍋の類。提梁(つる)あり、注口ありて、汁など煮て、他の器に注ぐもの、今云ふ。鉉鍋(つるなべ)、燗鍋なるべし。後に酒を盛りて、盃に注ぐ銚子(ちょうし)と云ふもの、用を変じたるならね、 とする。「銚子」の「銚」は、 もともと〈鍋〉の意で,《和名抄》は銚子を〈さしなべ〉〈さすなべ〉と読んでいる、 とある(世界大百科事典)。 「提子」(ひさげ)も酒を注ぐ器で、 銚子、 の一種であるが、 片口につるをつけ、蓋(ふた)をつけない、 もので、 銚子(ちょうし)の酒が減ったとき、提子の酒を移し替えるのを、室町時代に「加え銚子」とよんだ、 とある(日本大百科全書)が、 樽から取り出した酒は、「提子」(ひさげ)と呼ぶ上部に取っ手のついた器に移し、「銚子」の酒が足りなくなると酒を加えて補充します。そのため「提子」は「くわえ」とも呼ばれ、銚子の補助的な容器でした。桃山時代(16世紀末)には、蓋(ふた)付きの提子があらわれました、 とある(https://www.gekkeikan.co.jp/enjoy/culture/vessel/vessel01.html)。そして、 提子は湯や汁用などにも使われましたが、特に酒用の提子を江戸時代前期から「銚子」と呼び、直接、盃に注ぐようになりました。天保年間(1830〜1844年頃)には、鉄や錫・木製に加え陶製のものが使われはじめました。同じ頃、磁器の使用が広まると、カラフルな色絵や染付けを施した磁製の銚子もよく使われるようになりました、 とある(仝上)。とすると、本来、役割の違う、 銚子、 と 提子、 が、酒を注ぐという役割から、「銚子」に一本化したことになる。 柄をつけた長柄銚子の「銚子」(さしなべ)は、 平安時代から使用され,のちおもに儀式用となり,神前結婚式,屠蘇(とそ)器などに使用、 の形で残る(百科事典マイペディア)が、 神社の儀式で使用される銚子は、木製朱塗松竹梅蒔絵付銚子、錫銚子、長柄銚子などに松竹梅金銀水引を装着したものが一般的である、 ともある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%9A%E5%AD%90)。今日、祝言の三々九度の盃に注ぐものと同じである。 「銚子」は、もともと、 中国の注ぎ口と取手のある加熱器具、 で、 蓋付きで、生薬を煎じて湯液を作る時、湯を沸かす時に使われた、 ものである。「薬缶」の始祖と思われる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%84%E3%81%8B%E3%82%93)。 「瓶子」から変化したと思われる「徳利」は、鎌倉時代頃までは瓶子が使われていたが、注ぎ口が小さく酒を注ぐに不便な事から、次第に徳利に代わっていった、といわれる。 室町時代にはすでに「とくり」という呼び名がありました。二升、三升もの「大徳利」 が、酒だけでなく醤油や酢など液体や穀物の運搬、貯蔵に用いられていました、 とあり(https://www.gekkeikan.co.jp/enjoy/culture/vessel/vessel01.html)、 江戸時代には一〜二合程度の小さな徳利が普及しはじめ、徳利から直接盃に注いで飲むようになりました。それが明治時代以降には、小型の「燗徳利」のことを、酒を注ぐという同じ機能から「銚子」とも呼ばれるようになったのです、 とある(仝上)。つまり、 瓶子→徳利→銚子、 の流れと、 銚子/提子→銚子、 と、本来別な「さしなべ」の「銚子」と「てうし」の「銚子」も含め、結局、徳利も、銚子も、こんにちなべて「銚子」に一本化したらしい。
ところで、「徳利」の語源は、 「薬缶」は、 薬罐、 薬鑵、 とも当てる。 湯沸かしに用いられる、主に土瓶形の道具、 である。 漢字「缶」と「罐」は使い分けられているらしい。 「缶」(カン(クワン)、漢音フウ、呉音フ)は、 象形。まるく腹がふくれて、中に包み込むような形をした土器を描いたもの。広く土器をあらわす、 「罐」(カン(クワン)、漢音フウ、呉音フ)は、 形声。右のつくりが音を表す、 とし(漢字源)、「缶」は、 腹部がまるくふくれた土器、 まるくふくれた瓦製の打楽器、 を指し、「罐」は、 水をくむ器、つるべ、 ものを貯蔵するまるい器、 金属製の円筒状の入れ物、 金属製の湯沸かし器、 といった意味になる。「缶」を当てて、常用漢字では、罐の音と意味に用いる(仝上)、とある。要は、「缶」のもとの意味ではなく、「罐」の意味の金属製の容器の意で用いている、ということになる。 「鑵」(カン)は、罐と同じ意味でつかい、 薬罐、 薬鑵、 と使う。「罐」「缶」は、 ほとぎ(古くは「ほとき」)、 とも訓ませ、 酒や水などを入れた、同が太く口の小さい土器、 の意で、「缶」の本来の意味に合わせて当てていた、と思われる。「ほとぎ」は、後に、 湯殿で産湯に用いた甕、 の意に転ずる。漢字の「缶(ほとぎ)偏」に生きている。 「薬缶」の発祥は、中国の注ぎ口と取っ手のある生薬用の加熱器具である、 銚子(ちょうし)、 である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%9A%E5%AD%90)。「銚子」は、別名、 薬缶、 薬銚、 沙銚、 入り口は大きく、蓋付きで、生薬を煎じて湯液を作る時、湯を沸かす時に使われた。陶器のものは、 沙銚、 茶を淹れるものは、 茶銚、 とも呼ばれた(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%84%E3%81%8B%E3%82%93)。酒器となった「銚子」については、「徳利」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474699082.html?1587495610)で触れた。日本語の「やかん」は、 漢方薬を煎じるために使用されていた薬鑵(やくくわん)が変化したものとされ、漢字では「薬缶」と表記されるようになった、 とあり(仝上)、「薬缶」を、 ヤククワン→ヤククワン→ヤクワン→ヤッカン→ヤカン、 と転化して来たもの、ということになる。日葡辞書には、「薬缶」は、 今では湯を沸かす、ある種の深鍋の意で用いられている、 とあり、中世末には既に湯を沸かす道具として用いられていたようである(語源由来辞典)が、銅製のものなどが多かったらしい、とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%84%E3%81%8B%E3%82%93)。 また、茶の湯釜に注ぎ口と鉉(つる)を付けたものは鉄薬鑵(てつやかん)と称されており、その後「薬鑵釜」や「手取り釜」と称され、さらに「鉄瓶」と名付けられるようになったといわれている(仝上)、とある。 「急須」は、 茶葉を入れ、湯をさして煎じだすのに用いる、小さな土瓶、 であり、 茶出し、 きびしょ(急焼、急尾焼)、 ともいう。 もとは、 もと中国で、酒の燗 (かん) をした注ぎ口のある小鍋、 とあり(広辞苑・大辞林)、中国からの伝来である。 「急須」という呼び名は、 「急須」は中国・呉(蘇州地方)の方言で酒を温める器、 「急焼・急尾焼」は福建の方言で湯を沸かす器、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A5%E9%A0%88)。「きびす」は、 取っ手の付いた小型の急須、 とする方言に残る(全国方言辞典)ようだが、語源は 酒器の急焼、急火焼(きびしょう)、 だとする説もある(http://www.yamaderakk.co.jp/kyuusu1.html)。 「須」(漢音シュ、呉音ス)は、 会意。もと、あごひげの垂れた老人を描いた象形文字。のち「彡(ひげ)+頁(あたま)」で、しっとりしたひげのこと。柔らかくしめって、きびきびと動かぬ意から、しぶる、じっとたってまつの意となり、他者を頼りにして期待する、必要としてまちうける意となった。需も同じ経過をたどって、必需の意となり、須と通用する、 とあり、「須」は、「もちいる」「もとめる」意があり、 急須(キュウシュ)、 は、 差し迫って必要とする、 という意で、 日本では、 急いで湯を沸かすキュウスの意、 で使われる(漢字源)、とある。ただ、「急須」は、字源には、 酒の燗をする小さな鍋、 の意で載り、三餘贅筆に、 呉人呼暖酒器為急須、急須者以其應急而用也、 と載る(字源・大言海)。 「急須・急焼」といった横手の湯沸しを、茶を出す道具に転用したのは宝暦6年(1756年)、高芙蓉による、 とあるが(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A5%E9%A0%88)、江戸初期、 涼炉とボーフラが輸入されていました。ボーフラ(湯沸し)が急須と兼用されていた……。涼炉とかボーフラは、煎茶の道具になる前は、中国ではコンロ、酒器だったと思われます。日本の急須は、ボーフラから進化したので横手のものが多くなったと考えられます、 ともあり(http://www.yamaderakk.co.jp/kyuusu1.html)、 日本独自の横手急須は、本来、中国で湯沸しとして用いられていたものを、茶をいれる道具に転用したもの、 とされる(仝上)。とすると、 「急須」は中国・呉(蘇州地方)の方言で酒を温める器、 「急焼・急尾焼」は福建の方言で湯を沸かす器、 という見方が正しければ、「急須」という名は、 酒を温める呉の「急須」、 から、形は、 福建の方言で湯を沸かす器「急焼」、 からきた、ということになる。となると、「きゅうす」が、 きゅうしょう(急焼)→きびしょう→きゅうす、 と転訛したとする(仝上)のは、考え過ぎで、「急須」の中国音、 きゅうしゅ→きゅうす、 と転訛した、と見るのでいいと思われる。 因みに、「ボーフラ」とは、 湯沸かし道具の一つで、土瓶の一種、 煎茶道の流派によっては、 保夫良、 保宇夫良、 湯缶、 湯瓶、 湯沸、 等々という。 見た目は急須に似ているが、胴が張り出しまるまるとしているのが特徴である。また、直接火に掛ける道具のため、材質は素焼きの陶器であり磁器製はない。大別して、 上手式:持ち手が上についている物、 横手式:持ち手が横について射る物、 に分けられる。上手式は大型の物が多く瓶掛(小型火鉢)に、横手式は涼炉に合わせることが多い、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%A9)。「涼炉(りょうろ)」は、 煎茶道で使用する湯を沸かす道具の一つ、 で、 焜炉、 茶炉、 風炉、 とも言われる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%BC%E7%82%89)。 元々は中国で茶の野点用に野外で火をおこすために考えられた携帯湯沸かし器、 であり、 仕組みは七輪と全く同じである。正面に風を送り込むための穴「風門」、上部に炭を入れ、ボーフラを載せる穴「火袋」がある。外見は、四角形や六角柱形など様々だが、円筒形がよく好まれている、 とある(仝上)。 「艫舳」は、 ともへ、 と訓まし、 舟の「とも」と「へさき」、 の意だが、 「舳艫」とひっくり返し、 じくろ、 と訓んでも、 舟の「へさき」と「とも」、 の意である。 舳艫千里、 舳艫相銜(あいふく)む、 と、 多くの船が続いて進む様、 をいう言い方がある。「艫」「舳」ともに、「とも」と「へ(さき)」の両義を持っている。 「艫(舮)」(漢音ロ、呉音ル)は、 会意兼形声。「舟+音符盧(つぼ型のくぼみ)」。くぼんだ船尾が原義で、船首とするのは誤用、 とある(漢字源)が、「とも」の意と共に、「へ(さき)」の意味でも使われる。しかも、「舳」(漢音チク、呉音ジク)も、 会意兼形声。由(ユウ)は、つぼの上端から油や酒を抽出するさま。舳は「舟+音符由」で、抽出されたように船首に抜き出たへさき。船の後尾とするのは誤り、 とあり(仝上)、本来「へ(さき)」の意であるのに、船尾の意の「とも」の意でも使う。漢字の「艫」「舳」そのものが、「とも」と「へ(さき)」の意で使うので、大言海も、 (中国の)諸字書に、舳艫首尾の解、相反するもの多し、倭名抄に、「艫を、度毛と訓じ、舳を閉(ヘ)と訓ず、字鑑に、艫を戸(ト)と訓じ、舳を止毛と訓ず、霊異記、訓釈も、舳をトモとせり、今倭名抄に拠る、 としているように、それを当てはめた和語も、「艫」を、 とも、 と、 へさき、 と訓み、「舳」も、 とも、 と、 へさき、 と訓ませた。ただ、和語「とも」と「へ(さき)」は、それぞれに、 艫、 舳、 と当てるのだが。ちなみに、「倭名抄」には、 船前頭、謂之舳、舟頭制水處也、和語云閉、船後頭謂之艫、舟後制櫂也、和語云、度毛、 とある。 さて、和語「へ」ないし「へさき」の語源は何か、もともと、古語で、 へ、 と言っていたものに、「さき」をつけたのだから、 重語、 である。ちなみに、「重言(じゅうげん、じゅうごん)」は、 馬から落馬する、 のような、同じ意味の語を重ねる表現であるが、 びっくり仰天、 むやみやたら、 好き好んで、 のように語呂のよさを重視する言い回しはある。 多くは誤用と見なされるが、意味を強調したり語調を整えるため、あるいは理解を確実にさせるために、修辞技法として用いられる場合もある、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E8%A8%80)。「へ」のような一音語は、多く安定が悪いので、同義の「先」を付けたように思う。 「へ」の語源は、 へ(方)の義(名言通)、 ヘサキ(方先)の義か(国語の語根とその分類=大島正健・大言海)、 サキヘ(先方)の義(大言海)、 ホ(末)の義(言元梯)、 ヨハ(夜半)、ニハ(水面)のハの転。「ハ」は、時間的・空間的に遂行する方向量を意味する名詞(続上代特殊仮名音義=森重敏)、 朝鮮語pai(舟)と同源か(岩波古語辞典)、 と諸説あるが、 辺、 端、 方、 と当てる「へ」ではないか、と思う。「へ」について、大言海は、 端方(ハシヘ)の意、 とするが、岩波古語辞典は、 もっとも古くは「おき(沖)」に対して、身近な海浜の意。また、奥深い所に対して、端(はし)・境界となる所。或るものの付近。またイズヘ(何方)・ユクヘ(行方)など行く先・方面・方向の意に使われ、移行の動作を示す動詞と共に用いられて助詞「へ」へと発展した、 とある、行く先・方面・方向の意の「へ」である。 「とも」は、 船尾が船首に従うものであるところからトモ(供・従者)の義(箋注和名抄・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子・国語の語根とその分類=大島正健・大言海)、 共の義(名言通)、 アトモ(後)の上略(柴門和語類集)、 トコモト(床本)の反(名語記)、 等々、「伴う」とか、「供」と見るものが多い。船首についていく、という意味である。「とも」は、 供、 伴、 と当て、 後に従う義(和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子)、 アトムレの約で、人の後にむれ行く義(和訓集説)、 後に連れる者なので、あとをおもうの義か(和句解)、 等々あり、 友、 ともつながる言葉で、「伴う」「供」の意味の「トモ」とみてよさそうである。 参考文献; 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 「鞆(とも)」は、 弓を射る時、左の肘にまきつける丸い皮製の具。弦のあたるのを防ぎ、真建が立って、高い音を出すようにしたもの、 とある(岩波古語辞典)。古語では、 ほむた、 ほむだ、 といい、「鞆」を当てるが、「鞆」という字は国字である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9E%86)。 万葉集に、 ますらをの鞆の音すなりもののふの大臣楯(おほまへつきみたて)立つらしも(元明天皇) の歌もある。大言海には、 形圓く、革にて作り、巴の字の象を書き、革緒にて約す、 とあり、 音を以っ威す、 とし、音は、 鳴鏑(ナリカブラ)の如きものなり、 と、ある。「鳴鏑」は、 矢の先端につける発音用具。木,鹿角,牛角,青銅などで蕪(かぶら)の形につくり,中空にして周囲に数個の小孔をうがったもの。矢につけて発射すると,気孔から風がはいって鳴る。鳴鏑のみを矢につけて用いることもあるが,鏃の根もとに,その茎(なかご)を貫通してつけることが多い、 とある(世界大百科事典)。和名抄には、「鞆」は、 止毛(とも)、在臂避弦具也、 とある。臂だけでなく、 訓(くしろ)、 という、 古代の日本の装飾品で腕輪の一種、 をしており、それにあたるのをもさけた、ともある(仝上)。「くしろ」は、 吾妹子(わぎもこ)は 釧(くしろ)にあらなむ左手の我が奥の手にまきて去(い)なまし、 と、歌にあるように(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%A7)、左手首に巻くのが一般的だったと考えられている。 ただ、「鞆」は、遺物や記録にはあるが、中世以降使われないため、その使用法に諸説が生まれた、とある(図説日本甲冑武具事典)。 記紀に、持統天皇七年(693)に、官人も武器・武具を用意すべき旨の詔にも、「鞆」を必ず一枚供える規定があり、さらに、和銅九年(708)にも、上記の元明天皇の歌、 丈夫之鞆乃音為奈利物部乃大臣楯立良思母(ますらおのとものおとすなりもののふのおほまえつきみたてたつらしも)、 にも「鞆」があり、翌年の蝦夷征伐の演練に際し鞆を用いていたことを示す、とある(図説日本合戦武具事典)。しかし、古代日本では用いられていたが、中世ごろには実用では用いられなくなっており、武官の儀礼用となった、とされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9E%86)。 年中行事絵巻(原本は保元2〜治承3 (1157〜79)年頃成立)には、射手が左手外側に「鞆」をしている。ために、 弓返りして弦が当たるのを防ぐ、 という説が生まれた。ただ、弓返りしただけでは、 「鞆の音すなり」という程の音は出ない、 とする(図説日本合戦武具事典)。また、 矢を放したとき弦が腕を擦るのを防ぐ、 ために内側につけるという説がある。 しかし、そのためには、 弓の握り方が拳の入り過ぎの場合に腕の内側をする、いわゆる「拙射の一癖」の折にこそ必要で、大きく膨らんだ「鞆」では射るのに不便となる(仝上)。 貞丈雑記(江戸時代後期の有職故実書)には、 鞆に二品あり、武用の鞆と、伊勢神宝の鞆と二品なり、武用の鞆は熊の皮にて作り(毛は裏の方にあるなり)腕を通す所は牛の革にて手を付て、紫の組紐を付くるなり、又神宝の鞆は鹿の皮にて縫ひて胡粉をぬりて墨を以て絵を書くなり、委細は延喜式と云ふ書に見えたり、 とあり、 実用の鞆は熊の皮を牛の革紐で腕に巻き、 神宝の鞆は鹿の皮を縫う、 ということで、実践のものは、皮を腕に膜だけで、神宝の鞆は誇張された形になっている、ということになる(仝上)。しかし、次第に実践では、 籠手、 をつけ、 鞢(ゆがけ)、 を付けるようになって、「鞆」は不要になった、ということのようである。「籠手」(小手、甲手、篭手)は、 戦闘時に上腕部から手の甲までを守るための防具、 であり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%A0%E6%89%8B)、 鞢(ゆがけ/ゆみかけ 弓懸・弽・韘)は、 弓を射るときに、手指が痛まないように用いる革製の手袋。左右一対になっているものを諸(もろ)ゆがけ、右手にだけ着けるものを的ゆがけ、右手の拇指(おやゆび)以下三指だけに着けるものを四掛(よつかけ)、 という(精選版日本国語大辞典)。 さて、「とも」の語原であるが、大言海は、 手面(たおも)の約、 あるいは、 音物(おともの)の約略、 あるいは、 止弦(とめを)の約、 と三説挙げる。使用方法すらはっきりしないので、語原の由来は定めがたいが、 大伴氏の祖が造ったためか(和訓栞)、 弓弦の鳴る音ポムから(言元梯)、 は検証の仕様がない。個人的には、 動詞タム(矯・鞣)の未然形タメの轉(続上代特殊仮名音義=森重敏)、 が気になる。「たむ」は、「ためる」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E3%81%9F%E3%82%81%E3%82%8B)で触れたように、岩波古語辞典は、 タム(廻)と同根, とある。大言海は, 撓む, 意とし, くねり廻る, とする。この「たむ」は, 廻む, 訛む, とも当てる。 ぐるっとまわる, 意の他に, 歪んだ発音をする, つまり, 訛る, 意もある。「たむ」は,漢字で当て分けているが,結局, 無理にもとの形を変える, 意である。「鞆」は、弓を引いて撓めて矢を放つ、その時の必需品だったのではないか、と。また、「鞆」の古名、 ほむた、 ほむだ、 については、日本書紀に、 上古の時の俗、鞆を号(い)ひて褒武多と謂ふ、 とあるのみで、語源についてはわからないが、似た音で、 ほむき(穂向き)、 ほむけ(穂向け)、 という、 穂を一方になびかせること、 という意の言葉かある(岩波古語辞典)。関連があるかどうかはわからないが。なお、弓と矢については、 「弓矢」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba7.htm#%E5%BC%93%E7%9F%A2)、 で触れた。 参考文献; 笠間良彦『図説日本合戦武具事典』(柏書房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 「ともゑ(え)」は、 巴、 と当てる。 コンマあるいは勾玉のような形をした日本の伝統的な文様、 で、 巴を使った紋の総称。巴紋(ともえもん)ともいう。家紋や神紋・寺紋等の紋としても用いられ、太鼓、軒丸瓦などにも描かれる、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%B4)。 「巴」(漢音ハ、呉音ヘ)は、 象形。もと、人の腹ばいになった姿を描いたもので、爬(ハ 腹ばいになる)の原字。平らに開く、平らな面を押し当てるなどの意を含む、 とある(漢字源)。「平らに腹ばいになる」という意で、「爬」と同じなので、「巴爬」(はらばいにはう大蛇)といった使い方をする。 わが国では、「ともゑ」は、 もと、射手のひじにつけた鞆のこと、のち、水のうずをまいてからみあった形をかたどった模様をいい、陰陽和合のしるしとなる、 ともある(仝上)。この意で用いるのはわが国だけである。 このため、「ともゑ」に、 鞆絵、 とも当てる。「鞆」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba7.htm#%E5%BC%93%E7%9F%A2)を図案化した紋様だから、そう当てる(広辞苑)とある。大言海にも、 形圓く、革にて作り、巴の字の象を書き、革緒にて約す、 とあり、 昔巴の表面にこの文様を描いたのでいう、 ともある(岩波古語辞典)。 確かに、「本朝軍器考」には、神器としての「鞆」に、「巴」の柄の絵が描かれているが、「鞆」で触れたように、貞丈雑記(江戸時代後期の有職故実書)には、 鞆に二品あり、武用の鞆と、伊勢神宝の鞆と二品なり、武用の鞆は熊の皮にて作り(毛は裏の方にあるなり)腕を通す所は牛の革にて手を付て、紫の組紐を付くるなり、又神宝の鞆は鹿の皮にて縫ひて胡粉をぬりて墨を以て絵を書くなり、委細は延喜式と云ふ書に見えたり、 とあり、 実用の鞆は熊の皮を牛の革紐で腕に巻き、 神宝の鞆は鹿の皮を縫う、 ということで、実践の者は、皮を腕に膜だけで、神宝の鞆は誇張された形になっている、ということになる(仝上)。とすると、「鞆」に「巴」を描いたのは、実践に使わなくなった後、神器となって以降描かれたものかもしれない。となると、「ともゑ」の語源を、 鞆絵、 とするのは、後世のことということになる可能性がある。 弓具のトモ(鞆)に形が似ているところからトモエ(鞆絵)の義(俚言集覧・松屋筆記・和訓栞・日本語源=賀茂百樹)、 説は、多数派なのだが、腕輪はどうみても、「ともゑ」の形には見えない。 湧き出てめぐり流れる水の姿を渦巻型に紋様化したもの、 であるなら(岩波古語辞典)、よくわかるが、それが「鞆」の形とされたのはよくわからない。 後漢の説文(せつもん 説文解字)に、 巴食象蛇、 とあり、三巴記には、 閬苑白水、東南流、曲折三廻如巴字、故名三巴、 とあり、 水の廻るが巴の字の如き意、 とし(以上大言海)、 古へ、鞆の面に畫きたる文(アヤ)、水中より沸きて外へ旋(めぐ)る象、即ち、巴の字を象をなす、 とする(仝上)。源平盛衰記に、 巻上の絲、鞆繪畫きたる筆の軸やと囃す也、 とあるので、「鞆」に「巴」の絵を描いたということはあるかもしれないが、とするならなおさら、「ともゑ」の由来は、何か別の「まじない」のようなものがある気がする。 出雲風土記には、 國形如畫鞆、 とあるが、「ともゑ」とはない。敢えて憶測をたくましくすれば、 湧き出てめぐり流れる水、 にエネルギーを感じて描いたというようなことなのかもしれない。少なくとも、「ともゑ」は、 鞆の形、 ではなく、 鞆に描いた紋様、 のことであり、「ともえ」自体の語原の説明にはなっていない。しかし、 トモは友または共、ヱは繪で、三相ともなった繪の義(日本釈名)、 トモヱ(倶得)の義で、三物の玅用を倶に得た形をいう(柴門和語類集)、 トモヱ(蚪文絵)の義(言元梯) 玉絵の転(和語私臆鈔)、 と、他説もいま一つ説得力を欠く。ただ、 勾玉を図案化したものである、 という説(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%B4)は、少し気になる。祭祀にも用いられたと言われる「勾玉」に矢が当たることを祈る意味が込められていた、というのはありえるのだから。 水に関する模様であることから、平安末期の建物に葺かれた軒丸瓦などに火災除けとして、巴紋を施した。後には特に武神である八幡神の神紋として巴紋(特に三つ巴)が用いられるようになり、さらには他の神社でも巴紋が神紋として用いられるようになった、 とあるが(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%B4)、しかし、いまのところ、 曲折三廻如巴字、 と沸く水の渦形を、「巴」の字に当てはめたが、和語「ともゑ」の語源はわからない、というしかないだろう。 さて、「ともゑ」を一つないし三つ円形に配したものを、その数によって、 一つ巴(ひとつどもえ)、 二つ巴(ふたつどもえ)、 三つ巴(みつどもえ)、 等々というが、「三つ巴」は、 巴を三つ組み合わせて尾を同方向にめぐらしたもの、 を指し、その意から、 三者が絡み合って対立すること、 の意で、 三つ巴の争い、 などというように使うようになった。
なお、家紋では、巻き方の向きに左右の別があるようだ。
「独楽」は、孟子に、 獨樂樂、與人樂樂、孰樂、 とあるように、 独りで楽しむ、 意だが、 児童の玩具、コマ、 の意もある(字源)。しかし、 「獨楽」は古代中国で「コマ」を意味する漢字として使われていたということです。その後中国では「獨楽(ドゥーラー)」の類音である「陀螺(トゥオルオ)」が「コマ」を意味する漢字として使われるようになるとともに、「獨楽」はコマを意味する漢字としては死語となり消滅したものと考えます、 とある(http://www.tokorozawa.saitama.med.or.jp/machida/komanogogenn.htm)。ただ、「陀螺」は、 (ひもで巻いたり、むちでしごいて回す)こま、ぶちごま. の意(https://cjjc.weblio.jp/content/%E9%99%80%E8%9E%BA)とあり、「獨樂」は、 こま、こまつぶり、 とある(https://cjjc.weblio.jp/content/%E7%8B%AC%E6%A5%BD)ので、消滅したかどうかははっきりしない。 「独楽」には、 ひねりゴマ(軸を指で捻る事で回すもの)、 ぶちゴマ(不精ゴマ、叩きゴマ、鞭ゴマとも 鞭のようなもので叩いて回すもの)、 投げゴマ(紐巻きゴマとも 胴体部分に螺旋状に紐を巻き付け、独楽本体を放り投げることで回すもの)、 がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E6%A5%BD)。 ぶちゴマは、ヨーロッパではむしろこちらの方がなじまれているらしいが、日本にはなじみが薄い。しかし、 6世紀ころにぶちゴマのような木製の出土品があるが、確実にぶちゴマだとは言い切れない。また、平城京跡や奈良県藤原宮跡などからも7 - 10世紀ごろのものと思われる独楽、または独楽型の木製品が出土している。平安時代ごろにはすでに大陸から伝わっており、独楽を使って遊んでいたと言う記録がある。これもぶちゴマであったらしい、 とある(仝上)。どうやら、伝来らしいが、そのため、大言海は、 コマは、高麗の軍兵歌舞興楽楽をなす、此の楽を、日本紀に、コマと訓ぜり(外来語辞典)、其技の廻轉するより轉じて玩具の称となれり、 とある。この時代は高句麗(高麗(こま)と呼んでいた)は、紀元前1世紀頃〜668年、この間に渡来したということになる。日本語源広辞典も、 高麗(こま)が語源、 とし、二説挙げる。 説1は、高麗の軍兵のしていた身体を回転させる舞に由来して、回転する遊び道具をコマといった、 説2は、高麗から伝えられたから、 とする。で、 和語「こま」は、「こま」の古名、 こまつぶりの略、 とする(広辞苑)。倭名抄には、 弁色立成云々、獨樂、有孔者也、古末都玖利(こまつくり)、 とあり、その箋注本には、 都无求里(つむくり)、 とあるが、大鏡には、 こまつぶり、 とある。 高麗経由で日本に渡来したらしい。円形の意のツブリに、高麗から伝来したことを示すコマを冠したコマツブリが、下略されてコマとなったと考えるのが穏当か、 とある(日本語源大辞典)。 「ツブ」は、「かたつむり」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba11.htm#%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%83%84%E3%83%A0%E3%83%AA)で触れたように、 粒・丸、 と当て、 「つぶし(腿)・ツブリ・ツブラ(円)・ツブサニと同根」 とあり、「ツブリ(頭)」は、 「ツブ(粒)と同根」 とある。「ツビ」(粒)ともいい、「つぶ(螺)」は、 ツビ、 とも言い、「つぶら」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba13.htm#%E3%81%A4%E3%81%B6%E3%82%89)で触れたように、「つぶら」の「ツブ」は、 粒、 と関わり、「ツブ」は、 ツブラ(円)、 と関わる。「粒」は、 円いもの、 と重なり、「粒」「丸」「円」「螺」は、ほぼ同じと見なしたらしいのである。 参考文献; 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「齣」は、 コマ、 と訓む。「齣」(漢音シュツ、呉音スチ)は(字源は、シャクと訓ませる)、 会意文字。「齒(並んだもの)+句(くぎれ)」 とある(漢字源)。「齒」(シ)は、 会意兼形声。古くは、口の中の歯を描いた象形文字。のち、これに音符の止を加えた。「前齒の形+音符止(とめる)」。物を噛みとめる前歯、 である。「句」(ク)は、 会意文字。「乚型+Ꞁ型+口」。かぎ形で小さく囲ったことば、つまり、一区切りの文句を示す。区切りの区(狭い枠)と縁の近い言葉、 である(仝上)。で、中国語「齣」は、 戯曲や芝居の場面を数える言葉、 の意である。ただ、和語では、「齣」を、 セキ、 とも訓ませたり(デジタル大辞泉)、 セツ、 と訓ませたり(大言海)する。大辞林は、 セキ、 セツ、 の両方を載せる。中国語「齣」の字音の訛りである。さらには、「齣」を、 クサリ、 と訓ませると、 一齣(ひとくさり 一闋とも当てる)、 は、 音曲・遊芸・公団・物語などの段落、 つまり、 一つの区切り、 の意で使う。中国語「齣」の意味を広げているのである。 一齣、 は、 イック、 イッセキ、 とも訓ます。通常、 ヒトコマ、 と訓むが、もともと、中国語の、 一齣、 という言い方は、 一幕、 一場、 と同義である(漢字源)。ただ、日本語では、 幕、 場、 場面、 シーン、 カット、 を、次のように使い分けているらしい(小学館・類語例解辞典)。 「幕」「場」は、 一つの劇の中での場面による区切り。幕が開いてから閉じるまでを一つの「幕」とする。その「幕」の中で、同一の場面で演じられる部分を一つの「場」と呼ぶ、 「シーン」は、 「ほほえましいシーン」のように、情景、光景の意でも用いられる、 「カット」は、 映画などの撮影で、いったん写し始めてから写し終わるまでの一場面、 「場面」は、 「場」「シーン」「カット」に比べ、最も一般的な使い方をする。一シーン、一カット、一場、一幕は場面に置き換えられるという意味だろうか。 さて、中国語「齣」を、 セツ、 セキ、 と訓むのは、字音の転訛でいいと思うが、「齣」を当てた、 クサリ、 は、 鎖の義、 とある(大言海)。「鎖(くさり)」は、 部分部分がつながりあって一続きのものとなる、 意味では、「一齣」と意味が重なる。 コマ、 は、 「小間(こま)」の意か、 とある(広辞苑)。 クマ(区切り)の音韻変化、 とする(日本語源広辞典)説がいいように思うが、「クマ」はどの辞書にも載らないので確かめようがない。 「齣(こま)」の意味は、中国語の「齣」に倣うが、 (写真用語)ロールフィルム・映画フィルムの一画面(一秒に24齣)、 転じて、ある場面、局面、 授業・講義などの時間割、 とある(広辞苑)。これが正しいとすると、「齣」に「こま」と当てたのは比較的新しい時期、ということになる。 江戸時代は、 小説や戯曲の区切り・段落、節、章、 の意味で、 セツ、 ないし、 セキ、 と、漢字の字音を訛った言い方をしていたらしい(デジタル大辞泉)のである。たとえば、人情本・春色梅児誉美(1832‐33)には、 「そは第二十四齣(セキ)にいたりて満尾の段」 とある。 また漫画で、 四コマ漫画、 一コマ漫画 というのは、映画のコマ割りに準えたものだと考えられる。そう考えると、「コマ」は、 小間、 のもつ、 小さな部屋、 の意ではなく、 合間小間(あいまこま 合間を強めて言う)、 という言い方をする(広辞苑)、 短い時間。ちょっとの間、 という意味なら、 一コマ、 の「コマ」はあり得るのかもしれない。たとえば、映画フィルムでは、1秒あたりサイレント時代は16コマ、トーキーでは24コマが使われているが、その1枚の映像を記録する一区画(英語ではフレームというらしい)を指しているのだとすると、 短い時間、 というのは、なかなか意味深に見える。 参考文献; 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 「瓢箪から駒」とは、 瓢箪から駒が出る、 とも言い、 意外なところから意外なものが現れることのたとえ、 として言われる。 ふざけ半分の事柄が事実として実現してしまうことなどにいう、 とある(広辞苑)。そこから広く、 瓢箪から駒も出でず、 という言い方で、 道理の上から、あるはずのないことのたとえ、 としても(仝上)、たとえば、 山の芋鰻にならず、ひゃうたんからこまのとびでぬ世の中に、 と使われる。 「瓢箪」については「瓢箪鯰」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E7%93%A2%E7%AE%AA%E9%AF%B0)で触れた。 「駒」は、 馬の子、小さい馬、 の意で。和名抄に、 駒、和名、古馬、馬子也、 とある。それが転じて、 馬、特に乗用の馬、 の意となる。 馬と同義になってからは、歌語として使われることが多い、 とある(広辞苑)。たとえば、 足(あ)の音せずゆかむこまもが葛飾の、真間(まま)の継橋(つぎはし)、やまず通(かよ)はむ(万葉集)、 というように。更に、転じて、「駒」は、 双六に用いる具、象牙・水牛角で円形に造り盤上に運行させる、 から、 将棋のコマ、 の意になり、そのメタファでか、 駒をそろえる、 というように、 自分の手中にあって、意志のままに動かせる人や物、 の意で使い、さらに、 三味線などの弦楽器で、弦を支え、その振動を胴に伝えるために、弦と胴の間に挟むもの、 の意となり、 駒をかう、 というように、 物の間にさし入れる小さな木片、 をも指すようになる。 「駒」(ク)は、 会意兼形声。「馬+音符句(小さく曲がる、ちいさくまとまる)」 で、 身体の小さな馬、二歳馬、 を意味する。 駒馬、 という言い方がある。だから、馬の総称以降の、将棋の駒等々の意味は、わが国だけの使い方である(漢字源・字源)が、 漢語に棋馬(キバ)、馬子(バシ)と云ふに因る、 とある(大言海)。ただ、「棋」(漢音キ、呉音ゴ・ギ)は、 棊、 とも書き、将棋のこま、の意もあるが、「碁石」の意味もある。 棊局、 棊子、 棊敵、 棊盤、 等々、何れも「碁」を指す。また、三味線などの弦を支えるのに、 駒、 というのは、 弦の乗るもの、 というところから来た(大言海)、と見られる。 和語「こま」は、で、 コウマ(子馬)の約、 という語源説が出る(岩波古語辞典・日本語の語源・大言海)。 大言海は、「小馬(コマ)」は、 古名に、いばふみみのもの、応神天皇の御代に、百済國より大馬(おほま、約めてうま)の渡り氏しに対して、小馬と呼び、旧名は滅びたりとおぼし、神代紀の駒(コマ)、古事記の御馬(ミマ)の旁訓は、追記なり、 とし、 我が国、神代よりありし、一種の体格、矮小なる馬、果下馬(クワカバ)とも云う、 とする。「果下馬(クワカバ)」とは、いわゆる、 ポニー、 のことで、 朝鮮の済州島にて、カカバと云う、イバフミミノモノ、また小馬、 とする(大言海)。つまり、「こま」とは、 子馬、 であって、 小馬、 ではない、ということを強調している。なぜなら、「こま」の語源には、 「小+馬」の音韻変化、 とする説(日本語源広辞典)もあるからである。ただ、「高麗」と関わらせる説、 貢馬のうちで最もはすぐれていたコマ(高麗)渡りの馬を称していたのが一般化したもの(宮廷儀礼の民俗学的考察=折口信夫)、 は、「駒」の「こ」が上代特殊仮名遣いで甲類であるのに対して、「高麗」の「こ」は乙類であるので、誤りとされる(日本語源大辞典)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 「辟易」(へきえき)は、今日、 うんざりすること、 閉口すること、 という意味で使うが、本来は、 「辟」は避ける、「易」は変える。避けて路を変える、 意で、 驚き恐れて立ち退くこと、 で、ある意味慌てて立ち退くという状態表現であったものが、そこから、 勢いに押されて尻込みすること、 たじろぐこと、 の意と、価値表現に転じ、それが、 閉口すること、 という心理表現に変わった、というように見て取れる。 「辟」(漢音ヘク、呉音ヒャク)は、 会意文字。「人+辛(体罰を加える刃物)+口」で、人の処刑を命じ、平伏させる君主をあらわす。また、人体を刃物で引き裂く刑罰を表すとも解される。ヘキの音は、平らに横に開く意を含む、 とあり(漢字源)、「人を平伏させて治めるひと・君主」(辟公)、「罪・体を横裂きにする刑罰」、「さける、よける」「よこしま」といった意味がある。 「易」(漢音エキ、呉音ヤク)は、 会意文字。「やもり+彡印(もよう)」で、蜥蜴(セキエキ)の蜴の原字。もと、たいらにへばりつくやもりの特色に名づけたことば。また伝逓の逓(次々に横に伝わる)にあて、AからBにと、横に次々と変わっていくのを易という、 とあり(仝上)、「次々と入れ替わる、かわる」「やすい(難の反)」いった意味がある。論語の、 少年易老学難成、 である。 「辟易」は、史記の、 人馬倶驚 辟易数里、 からきている。文字通りに解釈すれば、 横に避け身体を低めて退避すること、数里、 ということになる(仝上)。垓下(がいか)の戦いで形勢不利となった項羽軍は、漢軍の包囲を突破して東城に至った。そのとき、従う者はわずか28騎となっていた。追ってきた漢軍は数千人で、軍を4つに分け、四面を幾重にも囲む漢軍に向かわせた。項羽自らが大呼して敵陣に馳せ下ると、漢軍はみな風になびく草のようにひれ伏し、ついに敵の一将を斬った。このとき赤泉侯が漢軍の騎将として項羽を追ってきたが、項羽が目を怒らせて怒鳴りつけると、赤泉侯は人馬もろとも驚き、数里も後ずさりしてしまった、 という史記・項羽本紀の垓下(がいか)の戦いの故事による。「辟易」は、 (項羽に)恐れをなして後ずさった、 ということだろう。漢書・項籍伝の注に、 辟易、謂開張而、易其本處、 にあるとかで(大言海)、ただ後ずさるだけではなく、左右にも逃げ広がって、道を開けた、という意味のようである。 項羽は、 姓は項、名は籍、字が羽、 一般には項羽で知られる。秦に対する造反軍の中核となり秦を滅ぼし、一時“西楚の覇王”(在位紀元前206年〜紀元前202年)と号した。その後、天下を劉邦と争い(楚漢戦争)、次第に劣勢となって敗死した。 垓下の戦い、 では、有名な、 四面楚歌、 の故事もあり、虞美人に送った、 力は山を抜き気は世を蓋う、 時利あらず、騅逝かず、 騅の逝かざるを奈何にす可き、 虞や、虞や、若を奈何んせん、 が垓下の歌と史記にある。ここでの、 抜山蓋世、 も故事として残る。 参考文献; https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9E%93%E4%B8%8B%E3%81%AE%E6%AD%8C https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%85%E7%B1%8D 「ほしい(ひ)」は、 糒、 と当てるが、 糇、 とも当て、字鏡(鎌倉時代の字書)に、 糇、乾飯也、加禮伊比、又、保志比、 とある。また、 糗、 とも当てる(岩波古語辞典)。下学集(室町時代の国語辞典)には、 糒、糗、ホシヒ、 とある(仝上)。 「糒」(漢音ヒ、呉音ビ)は、 会意兼形声。「米+音符備(ヒ そなえとしてとっておく)の略体」 とある(漢字源)。 米を干して保存できるようにしたもの、旅行の携行食、や軍隊の糧食とした、 のである(仝上)。 乾飯、 乾糧、 とも言う。 「糗」は、 ハッタイ、 とも訓ます。「はったい」は、 麨、 とも当て、 麦・米、特に大麦の新穀を煎(い)って焦がし、碾(ひ)いて粉にしたもの、 はったい粉、 麦こがし、 香煎(こうせん)、 の意である(広辞苑)。 「ほいい」は、 ホシイヒ、 の略である。「日本書紀」允恭紀7年12月壬戌(みずのえいぬ)に、 乃経七日伏於庭中、與飲食而不飡、密(しのび)に懐中(ふつころ)の糒を食(くら)ふ、 とある(大言海)。天皇の命令で派遣された中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)が、拒み続ける衣通郎姫(そとおしのいらつめ)を召すため、庭先に伏して懐中の糒を食べながら衣通郎姫の受諾をじっと待ったというくだりである。 「糒」は、 炊いた飯を水で軽くさらし天日で乾燥させた食品で、古くは炊き過ぎた米を保存するためにも利用された。また、米以外にも粟や黍の糒も存在していた、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A1%E5%8C%96%E7%B1%B3)、伊勢物語の「東下り」の段で、 三河の国、八橋といふ所にいたりぬ。そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ、八橋といひける。その沢のほとりの木の陰に下り居て、餉(かれいひ)食ひけり。その沢に、かきつばたいとおもしろく咲きたり。それを見て、ある人のいはく、 かきつばたといふ五文字を、句の上に据ゑて、旅の心を詠め といひければよめる。 から衣着つつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ と詠めりければ、みな人、餉(かれい)の上に涙落として、ほとびにけり。 と、涙をこぼしてふやけてしまった旨が書かれているが、米を煎ったものには、 煸米(やきごめ) と 糒、 がある(日本食生活史)、とある。煸米は、 モミのまま煎って殻をとったもの、 糒は、 糯米・粟・黍などを蒸して陽に干したもの、 とある(仝上)。これが本来の「糒」に思われる。「粥」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E7%B2%A5)で触れたように、当時、米は甑で蒸して食べていたためである、と思われる。「糒」は、 餌袋(エブクロ)に入れて塩・若布をそえ、携行し、旅先でこれに湯水をいれてふやかしやわらかくして食べた、 のである(仝上)。 なお「餉」(カレイ)は、 乾飯、 とも当て、 カレイヒ、 の約である。古くから、携行食糧として使ってきたので、「餉(カレイ)」は、 広く携行食糧、 をも意味する。 「ほしい」に、「糒」の漢字が使われるようになったのは鎌倉時代からで、それ以前は、 干し飯(ほしめし・ほしいい)、 とも呼ばれていた(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A1%E5%8C%96%E7%B1%B3)、とある。 そのまま水といっしょに食べたり、あるいは水を加えて炒めたり、茹でて戻したり、粉末にしてあられや落雁などの菓子の材料にも用いられた。和菓子材料の道明寺粉も餅米の糒である。また仙台糒のように地域の特産品として作られたりもしていた、 とある(仝上)。「弁当」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/471815294.html)でも、このことは触れた。なお、 「落雁」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E3%82%89%E3%81%8F%E3%81%8C%E3%82%93)、 「あられ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E3%81%82%E3%82%89%E3%82%8C)、 「おこし」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E3%81%8A%E3%81%93%E3%81%97)、 についてはそれぞれ触れた。この古く、 糒(ほしい・ほしいい)、 乾飯(ほしい・ほしいい)、 餉(かれい・かれいい)、 と呼ばれる保存食・非常食は、現代のアルファ化米と似ている。 天日干しなどの方法により緩やかに乾燥されているので、乾燥後の糊化度については現代のそれとの差がある可能性はある、 が、似た効能が考えられる。アルファ化米とは、 炊飯または蒸煮(じょうしゃ)などの加水加熱によって米の澱粉をアルファ化(糊化)させたのち、乾燥処理によってその糊化の状態を固定させた乾燥米飯のことである。加水加熱により糊化した米澱粉は、放熱とともに徐々に再ベータ化(老化)し食味が劣化するが、アルファ化米はこの老化が起こる前に何らかの方法で乾燥処理を施した米飯である。アルファ化米は熱湯や冷水を注入することで飯へ復元し可食の状態、となり、アルファ米とも呼ばれる、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A1%E5%8C%96%E7%B1%B3)。いにしへの人の知恵である。 古代の兵士食として、「凡(およ)ソ兵士ハ人別ニ糒六斗、塩二升備ヘヨ」(軍防令兵士備糒(びひ)条)とある。六斗は30日分の食料にあたる、 という(日本大百科全書)。保存性においては、倉庫令では稲・穀・粟の保存期間を9年、その他雑穀を2年定めて規定しているのに対して、糒は20年とされている。この20年間という保存期間が伊勢神宮の式年遷宮の根拠になったという説もある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A1%E5%8C%96%E7%B1%B3)。 更に蝦夷征討に関連して780年に坂東諸国と能登・越中・越後の各国に対して糒3万斛の調達を命じている。この他にも『延喜式』には、新嘗祭の供御料や最勝王経斎会の供養料として大膳職で作られた糯糒・粟糒が支出される規定がある(仝上)。 携行食としての「糒」の便利さは江戸時代でも、おむすびと共に利用されている(日本食生活史)。なお「おむすび」にいては「屯食」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474663277.html?1587323047)で触れた。「糒」は、 江戸時代には旅人が持って行き、旅館に泊まればそれを煮て飯にしてもらい、お菜を持参した。したがって薪代だけを払えば飯代はそれですむ、 のである(日本食生活史)。 参考文献; 渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館) 大槻文彦『大言海』(冨山房)
「奉書焼」とは、 魚介類や野菜・きのこ類などの材料に薄塩をして奉書紙に包んで蒸し焼きにした料理。香りづけに松葉やゆずの輪切りなどをのせることもある。島根の郷土料理、すずきの奉書焼きが知られる、 とある(世界の料理がわかる辞典)。 島根の郷土料理、スズキの奉書焼は、宍道湖でとれるスズキが、有名で、淡水のためとある(たべもの語源辞典)。藩政時代、宍道湖畔の漁師たちが、真冬の湖上でとれたばかりのスズキを熱い灰の中に入れて蒸し焼きにして食べていたものを、時の藩主不昧公(松平治郷)が、この荒っぽい丸焼きを賞味してみたいといわれたのを、いくら何でも灰まみれでは畏れおおいと奉書紙に包んで灰に埋めて焼いて差し上げたところ、大変喜ばれた、という(仝上)。ために、それ以来、 不昧公料理、 といわれ、維新まで、「お止め料理」とされてきた、という。 その由来をみても、奉書で包むことが「パイ包み焼きのような、味を引き出すため、又は相乗効果を狙った手段」とは言えず、したがって「飾りの類」と考えるべきであろう、 ともある(https://temaeitamae.jp/top/t2/kj/9992_K/01.html)。現在ではスズキに限らず様々魚介を使い、野菜・きのこ類や栗、銀杏、輪切り柚子などを加えてオーブンで焼いたりする。また、焼きだけではなく他の調理法を使うこともあり、「奉書巻き」という献立名もある。揚げたものは「奉書揚げ」である(仝上)、とある。 「奉書」(ほうしょ)とは、 主人の意を受けて従者が下達する文書。天皇の意を受けた場合は綸旨(りんじ)、上皇の場合は院宣(いんぜん)、親王の場合は令旨(りょうじ)、三位以上の場合は御教書(みぎょうしょ)、 である。 古文書の一種。高位者がその意思・命令などを特定者に伝える際に、家臣などの下位者に1度その内容を口頭などによって伝えて、下位者が自己の名義でその旨を記した文書を作成して伝達の対象者である特定者に対して発給する形式を取ったもの、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%89%E6%9B%B8)のがわかりやすい。平安時代中期以後こうした文書が見られる、という。差出者の意思と一致する直筆の書状、 直札(じきさつ)、 に対して言う。ちなみに、直札は、 直状(じきじょう)、 あるいは、 直書(じきしょ)、 ともいうが、 高貴な身分である差出人本人が直に署判・署名を行って差し出す書札様(しょさつよう)文書(もんじょ)、 である。「家臣」が代理して差し出す奉書(ほうしょ)や本文ではない副状(そえじょう 添状)に対して用いる。 鎌倉幕府では執権・連署は奉書が原則であったが、室町期、征夷大将軍の御判(ごはんの)御教書(みぎょうしょ 将軍自身の花押もしくは自署を加える直状形式)をはじめ、幕府・守護職が出す多くの公文書が直札形式となった。戦国大名・武将の文書もほとんど直札形式となった(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E6%9C%AD)。家臣による「副状」を添付するのが典型とされる。 なお、「書札様文書」(しょさつようもんじょ)は、 (書札および書札様)文書を作成する際に守らなければならない儀礼(形式)と故実(こじつ)(作法)を指す。その様式は、はじめに要件等の本文、本文の終わる次行に日付、日付の下に差出書(さしだしがき)、日付の次行上段に充名書という構成を基本にしている。 「奉書紙」(ほうしょし、ほうしょがみ)は、 もともとは原料を楮とする和紙である楮紙のうち、白土などを混ぜて漉きあげたもので、日本の歴史上、奉書などの古文書で使用されたので、 奉書、 とも略す。 「奉書紙」の言葉がはじめて登場する史料は戦国時代後期に興福寺大乗院の門跡であった尋憲が著した『尋憲記』元亀四(1573)年正月27日条の「奉書かみ」を越前で買い求めたという記事であり、このことから一般に奉書紙は江戸時代のものとされる、 が(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%89%E6%9B%B8%E7%B4%99)、奉書紙の言葉はなくても、中世の古文書で使われた料紙の多くは奉書紙の系統に属すると考えられる、とある(仝上)。大言海には、 檀紙の、肌、美にして、皺なきもの、楮皮の精製なるに、米粉を加へ、のりのき(又、ねりのきとも云ふ、山地に多き、ユキノシタ科の落葉灌木)の液を糊として、厚く製す。純白なり。多く奉書に用ゐたればこの名あり。大奉書紙、中奉書紙、小奉書紙あり。越前の丹羽郡の産を上品とす。略して、ほうしょ、又、略延して、ほうしょう、 とある。書言字考節用集に、 越前所産紙、堅硬純白、以堪充其用(ホウショをさす)、故謂之奉書紙、 とあり、日本山海名物圖繪には、 越前奉書紙、奉書、餘國よりも出れども、越前に及ぶものなし。越前奉書、其品多し、 とある(仝上)。「檀紙」(だんし)とは、 古く、みちのくがみ、まゆみのかみ。紙の一種。上品なるもの。古へ、檀(マユミ)にて製せりとぞ、今は、楮なり。厚くして白し、面に細かき皺文(しぼ)あるを、高檀紙(又は鷹檀紙)と云ふ、 とある(仝上)、 ちなみに、「奉書焼」を家庭で作るには、 500〜600gのスズキのウロコ・エラをとって、腸(わた)は胃だけとりのぞき、きれいに洗う。奉書紙を2〜3枚水でぬらして、スズキを包む。焙烙か天火にいれて蒸し焼きにする。熱すぎると紙が焦げるし、低すぎると水気が出ておいしくない。煮返して醤油にもみじおろしを付けて食べる、 とある(たべもの語源辞典)。この調理法だと、はらわたが特にうまいので、胃以外をとらないようにして焼く、とある(仝上)。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「しぼ」は、 皺、 と当てる。 縮(ちぢみ)・縮緬(ちりめん)などの織物の表面に表れた細かい凹凸。また、皮革や紙につけたしわ、 の意であるが、特定的に、 烏帽子(えぼし)の表面に作られたしわ、 を指す。その「しぼ」は、 さび、 とも言う。 「皺」(慣音シュウ、漢音スウ、呉音シュ)は、 会意兼形声。「皮+音符芻(スウ まぐさをぐっと引き締める、縮む)」、 であり、「しわ」や「表面が縮む」意である。 「しぼ」は、語源を記すものが少ないが、大言海は、 搾りの語根、 とし、 烏帽子(えぼし)の肌に作り為す皺の称、 とある。更に、 粗きを大しぼと云ひ、密なるを、小しぼなどと云ふ、 とある。烏帽子については後述するとして、「しぼ」の語源であるが、「皺」と当てた「しわ」はどうかというと、 萎れたるものの儀、 とある(大言海)。他に、 萎縮の意のシワムから(類聚名物考)、 というのがある。 シオルなどと同源、 ともある(日本語源広辞典)。つまり、その形から、 しぼむ(萎)、 しおる(萎)、 とつながる。「しぼむ」は、 シフ(廃)に通ず(大言海)、 シは緊縮の義をもつ語根(国語の語根とその分類=大島正健)、 シはシハ(皺)、ホムはクホム(窪)か(和句解)、 等々があるが、日本語源広辞典は、 シボ(縮み皺)+る、 とする。「しぼ」は、大言海の、 しぼる(絞る・搾る)、 というよりは、 しぼむ、 しおる、 の、しぼんだ状態表現からきていると見たほうがいいのではあるまいか。 皺がよる、 という状態表現を言い表す、 しわむ(皺む)、 という言葉があるが、 皺を活用した語、 であり(大言海)、 しわむ(撓む)、 という言葉は、 たわむ、 意もあるが、 しをる、 しなふ、 意で、 しおる(萎)の転、 とある(大言海)。 この「しぼ」を烏帽子に特定して用いたのは、もともと「烏帽子」は、 烏塗(くろぬり)の帽子、 の意であり、羅・紗などで袋型に作り、薄く漆をひして張りをもたせたものなので、 烏帽子全体が、柔らかであるために皺が生じた、 からである(有職故実図典)。 後に、 皺の名残を形式化して、ことさらに皺を立てて漆で塗り固め、これを「さび」と呼んで、その大小により、「大さび」「小さび」「柳さび」、 などというようになって、 さび(皺)烏帽子、 といったので、なおさら「しぼ」が代名詞となった(仝上)。 このように形式化した烏帽子を、 立烏帽子(たてえぼし)、 といい、天子・摂関家以下の公卿の平常服である直衣(ナホシ 直(ただ)の服、つまり平常服の意、宿衣(とのいぎぬ)である衣冠の対)の烏帽子とされた(仝上)。 この立烏帽子が、 風に吹かれて折れた形状をそのまま固定して形式化したもの、 を、 風折(かざおり)烏帽子、 という。狩衣(かりぎぬ 野外遊猟に際して用いた衣)には、立烏帽子の他に、風折烏帽子を用いた。 この風折烏帽子よりさらに細かく折ったものを、 折烏帽子、 といい、武士が好んで用いたので、 侍烏帽子、 とも言う。直垂(ひたたれ 水干と同様袴の下に着籠めて着用した)に用いた。直垂は、武士にとって鎧の下に着るのに都合がよかったので用いるようになり、室町時代には礼服に準ずるようになる(仝上)。 「さび」は、 さぶ(荒)の名詞形、 とあり(大言海)、 秋や深き月の光もさびえぼし頭の上に影の成ぬる(七十一番職人歌合)、 とあり、 きらめきえぼし、 に対し、 荒びたるゐならむ、 とある(大言海)。 古びて趣の出た、 という含意であろうか。昔、学帽を、わざと古びさせたのと似たマインドであるようだ。 今日では、 シボ加工、 という表面処理のひとつとして、物理的にシワ模様(シボ)をつける。「シボ加工」は、 金属やプラスチックなどの素材の表面に細かい凹凸の模様(パターン)を付けて質感を表現する加工法 のことである(IT用語辞典バイナリ)が、いわゆる「梨地」や、細かく擦った跡のような筋目を入れる「ヘアライン加工」なども、シボ加工の一種となる。 参考文献; 鈴木敬三『有職故実図典』(吉川弘文館) 大槻文彦『大言海』(冨山房)
「最中(もなか)」は、 眞中と通ず、 とある(大言海)。 物事の真ん中、中央、 の意である。 モはマ(眞)の母音交替形、 である(岩波古語辞典)。源順(みなもとのしたごう)の歌に、 池の面に照る月なみを数ふれば今宵ぞ秋のもなかなりける(拾遺和歌集)、 とある「最中」とは、 最中の月、 の意で、 陰暦十五夜の月(中秋の名月)、 を指す。 「最中」は、 中心、 の意から、 最中の月、 の意にも使われ、さらに、意を転じて、 まっさかり、 最中(最中)、 の意となる。室町末期の日葡辞書には、 タタカヒノモナカ、 と載る。「最中」を、 サイチュウ、 と訓むのは、「最中(モナカ)」の字の音読である。おそらく、「最中(もなか)」が、 まっさかり、 の意に転じて以降のことと思われる。これが、和菓子の、 最中(もなか)、 に転じたのは、きっかけは、上記の、 源順の歌を知っていた公家たちが、宮中で行われた月見の宴において白くて丸い餅菓子が出されたのを見て、会話の中で「もなかの月」という言葉が出たことから、そのまま菓子の名前として定着したという由来がある、 とされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E4%B8%AD)。 中秋の名月を象徴する丸い菓子なら何でもよい、 ということになる(たべもの語源辞典)。 江戸時代に考案された最中の原型も、この話に基づいて生み出したといわれ、菓子の名前も話そのままに「最中の月」と命名された(仝上)らしく、 万治・寛文(1658〜73)にころから竹村鷺庵のつくった茶の湯の口取菓子に「最中の月」があった、 が(たべもの語源辞典)、これは、 巻煎餅、 らしい。 最中の原型は、もち米の粉に水を入れてこねたものを蒸し、薄く延ばして円形に切りそろえたものを焼き仕上げに砂糖(当時は水飴や糖蜜)をかけた、半生菓子のうすやき(クレープ状の物)が時代を経て次第に現代でいう小型のソースせんべいに似た干菓子に変遷したものである、 といわれている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E4%B8%AD)。 天明七年(1787)版『七十五日』に「巻せんべい 最中の月 新よし原 竹むら伊勢」とあるから、鷺庵の子孫が、巻煎餅を最中の月と称して売っていたことがわかる、 とある(仝上)。また、式亭三馬の『浮世床』(文化八年(1811))に、 振売りの菓子屋が唄う口上に「最中まんぢう」とある。まん中に餡の入った丸い饅頭、 とみられる(仝上)。その後、 最中月、 という名で、餡入り菓子がつくられるが、 現在の最中の皮、 がつくられるのは、明治になってからである(仝上)、とある。「最中」の皮は、 焦種(こがしだね)、 である(仝上)。 皮の部分は、元が菓子だったことから特別に「皮種」と称されている、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E4%B8%AD)。 皮種で餡を挟んだ最中が、やがて全国的に広められていき、現在では各地で色々な種類の最中が銘菓として売り出されている(仝上)が、東京で最中の老舗は、 空也もなか、 で、上野山下に創業したのが、明治一七年(1884)とある(仝上)。和菓子「最中」の名は、 巻煎餅→丸い餡入り饅頭、 を経て、今日の「最中」に落ち着いたことになる。 なお「煎餅」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba14.htm#%E7%85%8E%E9%A4%85)については、触れた。 参考文献; 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「ゆず」は、 柚子、 と当てるが、「柚子」(ユズ)が日本語になったもの。「柚子」は、 柚の木の果実、 の意である(たべもの語源辞典)。だから、 柚、 とも当てる。 ユズの故郷は、中国の揚子江上流が原産といわれています。 わが国には唐の時代に北京地方から朝鮮半島を経て渡来したといわれていますが、日本にも古くから山口・徳島県に野生のユズが散在する。 また、奈良時代にはすでに、薬用や食酢としての利用を目的として、栽培されていたことが記録に残っています、 とある(https://www.kanazawa-market.or.jp/Homepage/mame/seika_yuzu.html)が、中井猛之博士によって日本の柚子の原産地が発見された。 山口県阿武郡川上村字遠谷金山の森林地帯で同村大浴(おおえき)の絶壁上に群生しており、これは野生化ではないというので、昭和十六年(1941)に天然記念物に指定された、 とある(たべもの語源辞典)。つまり、これによれば、輸入ではなく、古くから自生していた、ということになる。もとは、何かと共に渡ってきたにしても。 また、 柚の実、 ともいう。またの名を、 鬼橘(おにたちばな)、 ともいう(仝上)。倭名抄には、 柚、由、似橙而酢、 とある。室町末期の日葡辞書に、 「ユノス(「柚の酢)」の意味、 とあるのは、似た意味だろう。語源説に、 柚+酢、 という説がある(たべもの語源辞典、日本語源広辞典)のはそのせいだが、 ユノス→ユズ、 は、少し付会がすぎるのではないか。韓国で、 柚子(ユジャ)、 といい、 柚(ユ)の實(ズ)→柚子(ユウヅィ)→ユズ、 とする説もある(語源由来辞典、https://hananokotoba.com/yuzu/)が、「子」(呉漢音シ、唐音ス)から見て、強いて言うなら、 ユス→ユズ、 ではあるまいか。もともと、 ゆ、 ないし、 ゆう、 と呼んでいた。その「柚(ゆ)」の「子」である。「柚」の、 實を柚子、柚の實、 という(大言海)だけのことではあるまいか。 それに、「菓子」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E8%8F%93%E5%AD%90)で触れたように、「菓子」は、「くだもの」の意であったし、「くだもの」は「水菓子」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E6%B0%B4%E8%8F%93%E5%AD%90)で触れたように、 梨子、 檎子(ヤマナシ)、 柑子(カムシ)、 栗子、 杏子(カラモモ)、 㮈子(カラナシ)、 桃子、 等々、「子」を付けて果実・実の意を表していた。 桃栗三年、柿八年、柚は九年でなりかかり、 という言い方があり(仝上)、あるいは、別に、 桃栗三年柿八年、ユズの大馬鹿十八年、 とまでいう(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%82%BA)。成長が遅いのである。 日本では古くから、 いず、 ゆのす、 といった呼び方があった、ともある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%82%BA)。 「柚」(呉音ユ、漢音ユウ)は、 会意兼形声。「木+音符由(抽 絞り出す、汁をしぼる)」 とあり(漢字源)、「ゆず」の意だが、 今は「ザボン」のこと、 とあるが(仝上)、 今の中国語で柚や柚子はブンタンを指している、 ともある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%82%BA)。「ブンタン」は、 標準和名はザボン(朱欒、香欒、謝文)。ザンボア、ボンタン、ジャボンとも呼ばれる、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%B3)。いま、「ゆず」は、 蟹橙、 香橙、 と表記する(https://www.kudamononavi.com/zukan/kousan/yuzu、たべもの語源辞典)らしい。 日本では古くから、 「いず」、「ゆのす」といった呼び方があった、 ともある(仝上)。「ゆず」は、 家近くに植えることを忌み、その木ですりこぎをつくると化けるといったそうだが、これは榊を人家に植えるのを忌むのと同じことで、凡人には高すぎた神異の木と尊んではばかったのではないか、 とある(たべもの語源辞典)。 芭蕉の「嵯峨日記」(宝暦三年(1753)刊)に、 柚の花やむかししのばん料理の間 とある(仝上)。 柚の花・いずの花・花柚・花柚子などとよんで、花は強い香りがあるので料理に用いられた、 とある(仝上)。寛政七年(1795)の「秉穂録(へきすいろく)」に、 ゆずの緑色なるをへぎて、盃に泛ぶるを、安芸の人、鴨頭とよぶとぞ、 とある(仝上)。中国地方でユズをコウトウというのは、この鴨頭のことである。青い柚子をへぎ切りにして浮かんださまが鴨の頭に似ているからで、香頭と書くべきものをしゃれて鴨頭と当てたのである。鴨をただしくはコウとはよまない、 とある(仝上)。「鴨」は、漢音オウ、呉音ヨウである。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「冷汗三斗」は、 れいかんさんと、 と訓ませる。 冷や汗がたくさんでること、非常に恥ずかしいこと、また、あとで振り返って非常におそろしくなること、 の意である(広辞苑)。「三斗」は、 量の多いことを誇張していったもの、 である。「三斗」は、容量を表す。「一斗」は約18リットルです。つまり、「三斗」は約54リットルになる。 「冷汗」は、 ひやあせ、 とも訓む。 甚だ恥じ、恐れ、または気を使うときや緊張した時に出る冷たい汗、 である(仝上)。同義で、 冷水三斗(れいすいさんと)、 と言うのはこのためである。。「怖かった」ときに出るのは、こちらの方かもしれない。 汗は、皮膚にある汗腺という器官から出てくるが、汗腺には、 「エクリン腺」と「アポクリン腺」の二種類があり、それぞれに汗の性質や汗を出す仕組みが異なります。 エクリン腺は全身のほとんどに分布しています。主に体温調節のために汗を出す汗腺で、分泌される汗は無味無臭です。 一方、アポクリン腺はカラダの限られた部分にあり、特にワキの下に多く分布。独立して皮膚に開口しているエクリン腺と異なり、毛根に開口部があります。 アポクリン腺から出る汗は白く濁っていて、脂質やタンパク質などニオイのもととなる成分を多く含んでいます。もともとはフェロモンの役割をはたしていたともいわれています、 とあり(https://www.kao.co.jp/8x4/lab/article02/)、 物理的な熱による温熱性発汗と、感情的なストレスによる精神性発汗である。概して、感情による発汗は手の平、足の裏、腋、および場合により額に限られるが、物理的な熱による発汗は全身に起きる、 のとある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%97)が、より詳しく、汗をかく3つの要因には、 温熱性、 精神性、 味覚性、 があり(https://www.kao.co.jp/8x4/lab/article02/)、温熱性発汗は、 暑いときや運動をしたときに体温調節のためにかく汗。暑い時に激しい運動を行うと、1時間に2リットルほどの汗をかく。汗をかく部位:手のひら、足の裏を除く全身、汗腺の種類:エクリン腺、 精神性発汗は、 ストレスや緊張など精神的な刺激によりかく汗。人前に出て緊張したとき、驚いたときに出る汗で、「手に汗をかく」「冷や汗をかく」等々。といった言葉に関係するもの。汗をかく部位:ワキ、手のひら、足の裏など局所的、汗腺の種類:エクリン腺、アポクリン腺、 味覚性発汗は、 辛いものやすっぱいものを食べたときにかく汗。汗をかく部位:特に額や鼻など、汗腺の種類:エクリン腺、 とある(以上、https://www.kao.co.jp/8x4/lab/article02/による)。 それにしても、「冷汗三斗」で量の多いことを表す、「三」は、なかなか面白い言葉である。 「三日」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E4%B8%89%E6%97%A5)で触れたように、漢字「三」(サン)は、 「指事。三本の横線で三を示す。また、参加の参と通じていて、いくつもまじること。また杉(サン)・衫(サン)などの音符彡(サン)の原形で、いくつも並んで紋様を成すの意味を含む」 とある(漢字源)。ちなみに、 「日本では、奈良時代にはサムと音訳し、三位(サンミ)・三線(サムセン)といった。三郎(サブロウ)のサブはその転音である」 とか(仝上)。 「三」には、「みっつ」という意味と「三番目」という意味の他に、 三三五五、 というように、 いくども、 たびたび、 再三 の意味があるが、 三易、 三戒、 三行、 三諫、 三鑑、 三儀、 三光、 三思、 等々三でまとめる言葉は無数にある(字源)。「三」で、すべてを言いつくしているという含意なのかもしれない。 「易の基本観念は陰陽の二爻であり(爻とは効(なら)い交わるの意。天地の現象に効って互いに交わり、また他に変ずるの意)、これを重ねること三にして、乾、兌、離、震、巽、坎、艮、坤の八卦を成す。」 とあり(易経)、卦は爻と呼ばれる記号を三つ組み合わせた三爻によりできる。たとえば、 「乾坤をもって父母とし、…一陽二陰の卦を男子、一陰二陽の卦を女子」 とする。八卦は、 「三爻を以って成るのは、陰陽の変によって天地人三才の道を包尽せんとす易の根本思想にのっとり、三才の道ここに備わらざるなきをしめしている」 とある(仝上)。「三」という数値は、ただ「三つ」ではなく、その意味で天地人の「すべて」をも含意している。「三斗」をその含意で見ると、「斗」という量も無限大に膨らむ気がするのは、ぼくだけであろうか。 ちなみに、「冷汗三斗」の類義語には、 汗顔無地(かんがんむち) その場から逃げ出したいほどに恥ずかしいこと、 顔厚忸怩(がんこうじくじ) 恥ずかしいと深く感じること、 冷水三斗(れいすいさんと)、 があり、対義語には、 厚顔無恥 厚かましく、恥知らずなようす、 無恥厚顔 「厚顔無恥」と同義、 寡廉鮮恥(かれんせんち) 心が清らかでなく恥知らずなこと、 がある(https://gimon-sukkiri.jp/reikansanto/)、とか。 参考文献; 高田真治・後藤基巳訳『易経』(岩波文庫) 「最後屁」は、 最後っ屁、 とも書く。また、 鼬の最後っ屁、 とも言う。 鼬などが追い詰められてくるしさのあまり放つ甚だしい悪臭、 の意だが、転じて、 窮余の一策、 つまり、 切羽詰まった時などに、非常手段に訴えて難を逃れようとすること、 でもあるが、 最後に醜態を演じる、 意でもある。江戸中期の和訓栞に、 鼬の最後屁といふ諺は、本草に畏狗、逐之急便撒屁数十、満室悪臭不可嚮と見えたり、刊本、此語を闕きたり、 とある。古来鼬は、 妖怪視され、様々な怪異を起こすものといわれていた。江戸時代の百科辞典『和漢三才図会』によれば、イタチの群れは火災を引き起こすとあり、イタチの鳴き声は不吉の前触れともされている。新潟県ではイタチの群れの騒いでいる音を、6人で臼を搗く音に似ているとして「鼬の六人搗き」と呼び、家が衰える、または栄える前兆という。人がこの音を追って行くと、音は止まるという。またキツネやタヌキと同様に化けるともいわれ、東北地方や中部地方に伝わる妖怪・入道坊主はイタチの化けたものとされているほか、大入道や小坊主に化けるという、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%81)。鳥山石燕の妖怪画集『画図百鬼夜行』に、 「鼬」と題した絵が描かれているが、読みは「いたち」ではなく「てん」であり、イタチが数百歳を経て魔力を持つ妖怪となったものがテンとされている。画図では数匹のテンが梯子上に絡み合って火柱を成しており、このような姿に絡み合ったテンが家のそばに現れると、その家は火災に遭うとして恐れられていた、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%81)。ちなみに、テンは、 貂、黄鼬、 と当て、 哺乳綱ネコ目(食肉目)イヌ亜目 イタチ科テン属に分類、 日本には、 ホンドテン、ツシマテン、 が生息する(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%B3)、鼬は、 鼬鼠、 とも当て、 ネコ目(食肉目) イヌ亜目 クマ下目 イタチ科 イタチ属に含まれる哺乳類の総称、 で、日本には、 ニホンイタチ、コイタチ、イイズナ、オコジョ 等々が棲息する(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%81)。 ところで「屁」は、平安中期の字書、倭名類聚鈔(和名抄)に、 屁、倍比流(ヘヒル)、下部出気也、 あり、 おなら、 の意(岩波古語辞典)だが、それが転じて、 屁の河童(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E5%B1%81%E3%81%AE%E6%B2%B3%E7%AB%A5)、 屁でもない、 屁の理屈、 屁とも思わぬ。 屁も引っ掛けぬ、 屁の突っぱり(にもならない) といった、 値打ちのないもの、 役に立たないもの、 の喩えとして使われる。変な話だが、「屁」と「おなら」とは区別される。「屁」は、 ひる、 といい、「おなら」は、 する、 という(江戸語大辞典)。これは、両者の語源と関わる。 「屁」は、大言海は、 放屁(ハウヒ)の音を名とす、沖縄にて、ヒイ、 とある。確かに、その説を採るものはある(箋注和名抄)が、漢字「屁」(ヒ)は、 会意兼形声。比は「人+人」の会意文字で、狭いすき間を残して二つのものが並ぶ意を含む。屁は「尸(しり)+音符比」で、しりの両壁の並んだ狭いすきまからもれでるへ、 の意である(漢字源)。僕は、「屁」の漢字音「ヒ」の転訛、 ヒ→ヘ、 ではないか、と思う(俚言集覧・語簏)。ちなみに大言海は、「屁」を、 轉矢氣(テンシキ)、 とも言うとする。「轉矢氣」とは、他の辞書に載らないが、大言海は、「轉矢氣」の、 矢を失とするは誤り、 とし、 放屁、 の意で、 矢氣、 とも言う、とする。もっとも、他にも「屁」の語源説はあり、 フエ(笛)の反(名語記)、 ヒリネ(放音)の義(日本語原学=林甕臣)、 ヒルの転(雅言考・名言通)、 ハフ(放)の義(言元梯)、 等々あるが、いかがなものか。 「おなら」は、 ナラは鳴るの義、 とあり(大言海)、 ナラシ(鳴)のオが付いたもの(楢の落葉物語・猫も杓子も=楳垣実・江戸語大辞典)、 ということで、音からきている 参考文献; 前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「五里霧中(ごりむちゅう)」は、文字通り、 五里の間に立ち込める霧、 の意で、 五里にわたる深い霧の中にいる、 という意から、、 現在の状態がわからず、見通しや方針のまったく立たない、 ということの喩えとして使われる。さらに、 こころが迷って考えの定まらない、 意にも使う(広辞苑)。 五里霧中に迷う、 ともいう(故事ことわざの辞典) 暗中模索、 霧煙模糊、 等々が同義語になる。 後漢書・張楷(ちょうかい)伝に、 性好道術、能作五里霧。時關西人裴優亦能爲三里霧。自以、不如楷。從學之。楷避不肯見、 とある(https://kanbun.info/koji/gori.html)。張楷は、 能く五里の霧を作(な)す、 というので、 五里四方を霧に包む道術、 を使ったらしい。それにしても、 能く五里の霧を作(な)す、 が出典にしても、これを、 五里霧中、 の、 五里にわたる深い霧の中にいる、 という状態表現から、 現在の状態がわからず、見通しや方針のまったく立たない、 や こころが迷って考えの定まらない、 の意の価値表現に展開して使った人がいるはずだが、それは伝わらない。張楷は、 字は公超、嚴氏春秋、古文尚書に通ず、門徒は常に百人たり、 とある。 賓客之を慕ふ、父が党の夙儒(しゅくじゅ)自ずから、偕(とも)に門を造る。 車馬街に填ち、徒従の止まる所無く、黄門及び貴戚の家、皆な舎を巷次(こうじ)に起す、以て過客往来の利を候(うかが)ふ。 楷、其の此の如きを疾(にく)み、輒(すなは)ち徒(しりぞき)て之を避く。 家貧にして以て業を為す無く、常に驢車(ろしゃ)に乗り県に至りて薬を売り、食を給するに足らば、輒(すなは)ち郷里に還る。 司隸、茂才に挙ぐ、長陵の令に除せらる、官に至らず。 弘農の山中に隠居す、学者之に随ひ、居る所に市を成す、後に華陰山の南に遂に公超市有り。 五府連に辟(へ、)され、賢良方正に挙げらる、就かず、 とあり(http://www.kokin.rr-livelife.net/classic/classic_oriental/classic_oriental_244.html#note_g_56)、更に、 漢安元年(142)、順帝特に詔を下して河南尹に告げて曰く、 故(もと)の長陵の令、張楷は行に原憲(げんけん)を慕ひ、操は夷、斉に擬(なぞら)ふ、貴を軽しとし賤を楽しみ、跡を幽藪(ゆうそう)に竄(かく)し、高志確然にして、独り群俗を抜く。 前に比(しきり)に徴命するも、盤桓(ばんかん)として未だ至らず、将に主たる者の常に於いて翫習(がんしゅう)し、賢を優す、其れをして進めて難からしむるに足らざらんか。 郡時に禮を以て発せしめ遣はせよ、と。 楷、復た疾を告げて到らず、 と、順帝が張楷を原憲の風ある人物とみなして、河南尹に命じて召し出させたにもかかわらず、病と称して行かなかった。 時に関西の人裴優、亦た能く三里霧を為す、自ずから楷に如かざるを以て、之に従学せんとす、楷、避けて肯(あへ)て見せず。 桓帝即位す、優、遂に霧を作なして賊を行ふ、事覚あらはれて考せられ、楷を引きて言ふ、術を従学すと。 張楷は、 五里霧を作す、 が、 三里霧を為す、 裴優は、それを使って盗賊行為を行った。 発覚すると、裴優は「張楷に道術を教わった」と供述し、ために張楷は、連座し、 楷、坐して廷尉の詔獄(しょうごく)に繋がる、二年を積む、恒(つね)に経籍を諷誦(ふうしょう)し、尚書の注を作す。 後に事の験無きを以て、原(ゆるさ)れ家に還る。 建和三年(149)、詔が下され安車を備へ禮して之を聘へいす、辞するに篤疾(とくしつ)を以て行かず。 年七十、家に於いて終はる、 とある(仝上)。恬淡とした人物だったらしいが、人に見せびらかすことのない人なのに、 五里霧を作す、 とは、誰が見たのだろう、とふと疑問に思う。張楷のもとに行って学ぼうとした裴優を避けて会おうとしなかったために、裴優の罪に連座した。 「五里夢中」は誤字とあるが、そう書く人がいるのだろうか。「夢中」では、迷う意ではなく、熱中の意に転じるような気がする。 因みに、「里」は、 現在の中国では500m、日本では約3.9km、 だが、里は、 元々は古代中国の周代における面積の単位であり、300歩四方の面積を表していた。のちにこの1辺の長さが距離の単位となった。周・漢の1歩は1.3m余りであったと推定され、したがって1里の長さは400mほどであった、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8C)ので、「五里」は、 二キロ程、 になる。 参考文献; 尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)
「青柳」は、 あお(を)やぎ、 と訓んで、本来、 春先に芽吹き始めた柳、 の意(岩波古語辞典)であり、 あをやなぎ、 のことである。大言海に、 あをやなぎと云ふが本語なれど、多くは、おをやぎと云う、 とある。さらに、それを名にした、 催馬楽の曲名、 とある(仝上)。源氏物語に、 兵部卿の宮あをやぎをりかへしおもしろくうたひ給ふ、 とある。「催馬楽」とは、 平安時代初期、庶民のあいだで歌われた民謡や風俗歌の歌詞に、外来の楽器を伴奏楽器として用い、新しい旋律の掛け合い、音楽を発足させたもの、 で(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%AC%E9%A6%AC%E6%A5%BD)、 もともと一般庶民のあいだで歌われていた歌謡であることから、特に旋律は定まっていなかったが、貴族により雅楽風に編曲され、「大歌」として宮廷に取り入れられて雅楽器の伴奏で歌われるようになると宮廷音楽として流行した、 とある(仝上)。 笏拍子(しやくびようし)・和琴(わごん)・笛・篳篥(ひちりき)・笙(しよう)・箏(そう)・琵琶(びわ)、 等々で伴奏し(大辞林)、 平安中期から室町期まで宮中賢所で神楽のときうたわれた、 らしい(仝上)。「あをやぎ(青柳)」は、 青柳を 片糸によりて や おけや 鶯の おけや 鶯の 縫うという笠は おけや 梅の花笠や とある(http://false.la.coocan.jp/garden/kuden/saibara1.html)。さらに、 地歌筝曲、端唄・小唄にも、 青柳 というものがあるらしい(広辞苑)。また、「青柳」を、 あおやなぎ、 と訓ませて、 襲(かさね)の色目、 にその名のものがある(広辞苑)。 表は青、裏は薄青、また表裏ともの濃青、春着用(山科家色目抄)、 ともある。「卯の花」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E5%8D%AF%E3%81%AE%E8%8A%B1)で触れたように、「色目」とは、 十二単などにおける色の組み合わせ、 をいい、 衣を表裏に重ねるもの(合わせ色目、重色目)、 複数の衣を重ねるもの(襲色目)、 経糸と緯糸の違いによるもの(織色目)、 等々がある(http://www.kariginu.jp/kikata/kasane-irome.htm)。その代表的なものは表裏に重ねる、 合わせ色目、 がある。「青柳(あおやなぎ)」という名で、 山科家色目説、 として、表が濃緑、裏が薄緑の、春用のものとされる。 しかし、今日、 青柳(あおやぎ)、 というと、 バカガイの身、 の俗称として通用している。しかし岩波古語辞典、大言海には、「青柳」では載らない。 関東地方でバカガイをアオヤギというのは、「千葉県市原市青柳」で多く採れたので、商品名としてバカガイを避けたもの、 とある(日本語源広辞典)。「青柳」の名は、 「馬鹿貝」とも解せるものを寿司ネタとして供したり、品書きに表したりすることを嫌った江戸時代の江戸前寿司の職人が、当時の江戸周辺地域におけるバカガイの一大集積地(一手に集めて出荷する場所)であった上総国市原郡青柳(千葉県市原市青柳二丁目)の地名に代表させて、これを雅称として呼び代えたのが始まりである、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%AB%E3%82%AC%E3%82%A4)。すしネタに使われたのが発祥である。だから、「青柳」と呼ぶのは、 貝殻を取り除いた軟体部位全体を指す語 を指し(仝上)、「貝」の名ではない。寿司の種としては、 青柳、 と呼んだことが、全国的にも広く認知されることになった(仝上)。 「バカガイ」は、 破家蛤、 馬珂蛤。 バカ貝、 馬鹿貝、 馬珂貝、 とも記し(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%AB%E3%82%AC%E3%82%A4、日本語源大辞典)。 ミナトガイ、 とも言い、地方によっては、 ウバガイ、 とも呼ばれる(たべもの語源辞典)。本朝食鑑(元禄10年(1697年)刊)に、 馬鹿蛤、波加加比、 とある(大言海)。和漢三才図絵(正徳2年(1712年)成立)には、 馬鹿貝、状類蚶(あかがい)、而淡白、肉類蚶淡赤、其味靭不可食、凡人称頑愚不見用、曰馬鹿此肉亦然、故名、 とある(仝上)。 料理に使うのは舌(足)の部分が多く、他は砂が多いのであまり用いない、 という(仝上)。 色の赤いのが雌、白っぽいのが雄、 である(仝上)。 「バカガイ」の語源には、 外見はハマグリに似ているものの、貝殻が薄く壊れやすいことから「破家貝」として名付けられたとする説、 いつも貝の口をあけてオレンジ色をした斧足(ふそく、筋肉による足)を出している姿が、あたかも口を開けて舌を出している「馬鹿」な者のように見えたとする説、 一度に大量に漁獲されることがあるので、「『バカ』に(「非常に、凄く」の意)多く獲れる貝」の意でその名が付いたとの説、 たくさん獲れた地域の名「馬加(まくわり)」(現在の幕張)を「バカ」と音読みし、「バカ貝」と呼ばれるようになったとする説、 馬鹿がハマグリと勘違いして喜ぶ様から馬鹿が喜ぶ貝という意味であるとする説、 蓋を閉じずに陸に打ち上げられて鳥に食べられてしまうことなどの行動から「バカ貝」と呼ばれるようになったとする説、 頻繁に場所を変える「場替え貝」から来ているとする説、 等々ある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%AB%E3%82%AC%E3%82%A4)が、大言海は、 殻より舌を出し居るより云へるか、或は云ふ、安房に赤貝の如くにして、此貝に似たるものに、ウマカヒ(旨貝)と云ふあり、その約まれるかと、 とする。たべもの語源辞典も、 馬鹿が舌を出しているのに見立てて、この名がつけられた、 としている。いずれにしても、その生態の振舞い、恰好がおろかに見えるとする説が多いようである。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「六道の辻」は、 六道の巷(ちまた)、 とも言う。 六道へ行くという辻、 の意である。「辻」は、 道路が十文字に交叉しているところ、 つまり、 四辻、 の意であるが、また、 道筋、 道端、 巷、 の意でもある。「ちまた」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba13.htm#%E3%81%A1%E3%81%BE%E3%81%9F)は、 「道 (ち) 股 (また) 」の意、 であり、 道の分かれるところ、 分れ道、 の意である。 「六道」(ろくどう、りくどう)とは、梵語で、 gatiは、 「行くこと」「道」 が原意で、「道」「趣」と漢訳される(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%81%93)、とある。 仏教において、衆生がその業の結果として輪廻転生する六種の世界(あるいは境涯)のこと、 であり、 六趣、 六界、 ともいう(仝上)。「六道」は、 天道(てんどう、天上道、天界道とも) 天人が住まう世界である。 人間道(にんげんどう) 人間が住む世界である。唯一自力で仏教に出会え、解脱し仏になりうる世界、 修羅道(しゅらどう) 阿修羅の住まう世界である。修羅は終始戦い、争うとされる、 畜生道(ちくしょうどう) 畜生の世界である。自力で仏の教えを得ることの出来ない、救いの少ない世界、 餓鬼道(がきどう) 餓鬼の世界である。食べ物を口に入れようとすると火となってしまい餓えと渇きに悩まされる、 地獄道(じごくどう) 罪を償わせるための世界である、 であり、このうち、 天道、人間道、修羅道を三善趣(三善道)、 といい、 畜生道、餓鬼道、地獄道を三悪趣(三悪道)、 という(仝上)らしい。この六つの世界のいずれかに、 死後その人の生前の業(ごふ)に従って赴き住まねばならない、 のである(岩波古語辞典)。つまり「六道の辻」とは、 死者が六道へ別れゆく分岐点、 なのである。また、 死後の世界を六道とするところから、墓地を六道原というところがあり、京都東山の鳥辺野葬場の入口も、 六道の辻、 という(世界大百科事典)。六道原の入口や六道の辻には地蔵菩薩または六地蔵がまつられているが、これは地蔵を六道能化(のうけ)といって、六道全部の救済者とするからである。「六道能化」とは、 六道の辻で死者を能く教化する、 意で、特に、地蔵菩薩を指す、 地蔵菩薩の異称、 でもある(岩波古語辞典)。 通称「六道さん」と呼ばれる、 六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ、ろくどうちんこうじ)、 の付近が「六道の辻」であるとされるのは、この寺の所在地付近が、 平安京の火葬地であった鳥部野(鳥辺野)の入口にあたり、現世と他界の境、 にあたると考えられるからである。 ところで、「辻」の字は、国字である。 辻は達の省、或は云ふ、十字街の十に之繞(シンネウ)せるとなり、 とある(大言海)。作字である。 和語「つじ」は、 つむじ、 ともいう(広辞苑)。つまり、 旋毛(つむじ)と通ず、 なのである(大言海)。 ツムジの転、 ともある(岩波古語辞典)。逆に、「旋毛(つむじ)」も、 つじ、 と訓む。「つむじ」は、 ツムはくるくる廻るサマ、ジは風。アラシ、ハヤチ、コチのシ・チと同じ、 とある(仝上)。「し」は、 風・息、 と当て、 あらし(嵐)・つむじ(旋風)・しまき(風巻)、 と複合語になった形でのみ使われ、 風の古名、 とあり(大言海)、転じて、 方角、 の意となり、 西風(にし)、 と使われる(岩波古語辞典)。「ち(風)」は、 し(風)の転、 とあり(大言海)、やはり 東風(こち)・速風(はやて)・疾風(はやて)、 と、複合語としてのみ使われる(仝上)。こうみると、 ツムジ→ツジ、 と転訛したとみていいが、 「下総本和名抄」に「俗用辻字〈都无之〉未詳」とあり、「斯道文庫本願経四分律平安初期点」に「巷陌の四衢道の頭(ツムシ)」とあるように、「つむじ」の変化したものとされる。その「つむじ」は頭髪のつむじ(旋毛)と関係するとみられるが、十字路ははやくから「つじ」が一般的となっていたと思われる、 とある(日本語源大辞典)。「都无之(つむじ)」は、「独楽」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E7%8B%AC%E6%A5%BD)で触れた、倭名抄箋注本にある、 都无求里(つむくり)、 とつながる。「つじ」の古名「つむじ」の「つむ」は、「つぶ」に通じるのである。 「つぶ」は、「かたつむり」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba11.htm#%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%83%84%E3%83%A0%E3%83%AA)で触れたように、 粒・丸、 と当て、 「つぶし(腿)・ツブリ・ツブラ(円)・ツブサニと同根」 とあり、「ツブリ(頭)」は、 「ツブ(粒)と同根」 とある。「ツビ」(粒)ともいい、「つぶ(螺)」は、 ツビ、 とも言い、「つぶら」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba13.htm#%E3%81%A4%E3%81%B6%E3%82%89)で触れたように、「つぶら」の「ツブ」は、 粒、 と関わり、「ツブ」は、 ツブラ(円)、 と関わる。「粒」は、 円いもの、 と重なり、「粒」「丸」「円」「螺」は、ほぼ同じと見なしたらしいのである。 しかし、「かたつむり」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba11.htm#%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%83%84%E3%83%A0%E3%83%AA)でみたように、「つぶり」の「つぶ」を「粒」ではなく、「つむり」の「つむ」を、「おつむ」「つむり」の「つむ」(頭)ともみられ、 かたつむり→かたつぶり、 と転訛したとも言えるし、あるいは、「つぶ」を「つぶ(螺)」とみれば、粒と同じく、 かたつぶり→かたつむり、 となるのである。カタツムリを、別名マイマイなどという。マイマイとは、渦巻きのこと、ツブ、ツブロはニシ(螺)だから、巻貝のこと、と考えていくと、 「つじ」の古名「つむじ」の「つむ」は、 頭、 の意でもあるが、やはり、 つむじ(旋毛)、 とも つむじ(旋風)、 ともつながり、 渦巻く、 と関わると思われる。そういえば、四つ辻は、よく、 旋風風、 が起きる。「旋風風」は、 辻風(つじかぜ)、 と呼ばれるのである。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 「追分」は、 道の左右に分かれるところ、 分岐点、 の意で、各地に地名としてたくさん残る。たとえば、 新宿追分、 は、 甲州街道から青梅街道の分岐。内藤新宿の西端、 に当たる。 信濃追分、 は、 中山道と北国街道(北国脇往還)の分岐、 そこに設けられた宿場が、 追分宿、 である。 草津追分、 は、 東海道と中山道の分岐、 であり、そこに設けられたのが、 草津宿、 といった具合で、道の分岐点ごとにある。 「六道の辻」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E5%85%AD%E9%81%93%E3%81%AE%E8%BE%BB)で触れたように、「辻」は、 道路が十字形に交叉しているところ、 であるが、 六道の辻、 というが、 かの六道の追分にて(御伽草子・強盗鬼神) 六道の追分、 という言い方もするらしい(岩波古語辞典)。しかし、国字「辻」は、 辻は達の省、或は云ふ、十字街の十に之繞(シンネウ)せるとなり、 とあるように、あくまで、 十字路、 である。「辶」(しんにゅう)は、 「しにょう(しんねう)」の転、 であるが、 足の動作、 を意味する(漢字源)。基本は、「辻」は、分岐点でも、十字路を意味し、「追分」は、 二岐、 の意であるようである。正確には、単なる二岐ではなく、 幹線街道(本街道)から支線街道(枝線街道)への分岐点、 をいい(日本大百科全書)、そこに宿場町が発達することになる。 「追分」の語源は、 もとは牛馬を追い、分ける場所を意味したが、そこから街道の分岐点も意味するようになった、 という説がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%BD%E5%88%86)。大言海も、 駄馬、駄牛を、左右に追分くる意かと、 とする。日本語源広辞典も、 追い+分け、 とし、 街道の分かれ道で牛馬を追い分れた所、 とある。この対が、道が合流する点という意味の、 落合、 出合、 である。この地名も多い(仝上)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「ぞめき」は、 騒き、 と当てる。古くは、 そめき、 と、清音だったらしい(広辞苑)。 さわぐこと、 うかれさわぐこと、特に遊び人などが遊郭をひやかし騒ぎ歩くこと、 という意味である。「冷やかし」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba1.htm#%E5%86%B7%E3%82%84%E3%81%8B%E3%81%97)で触れたように、嬉遊笑覧(文政十三年(1830)刊)に、 「素見、ぞめき、万葉に、驂(そめき)、沙石集に、世間公私のぞめきなど見えて、古語なり、云々。今はそそるとも、ひやかすとも云へり、云々。或る人云、むかし、山谷には、すきかへしの紙を製する者多く、それが方言に、紙のたねを水に漬けおき、そのひやくる迄に、郭中のにぎわひを見物して帰るより出たる詞といへり」 とあるので、「ひやかす」の項で、大言海は, ひゆるの他動,ふやくる,ふやかすの類、 として, 冷くるようにする。ひやす,漬くる、 の意味の次に, 東京の俗語に,素見(すけん)す,ぞめく,そそる、 とある。どうも、ほぼ「ぞめく(そめく)」は、 ひやかす、 と同義だったようである。 当時のぞめきは、思ふ友を誘ひ、ここへ渡り、かしこへさしかけ、ざわつき廻る貌(かたち)を云ふ也、 とある(色道大鏡)。大言海は、「ぞめき」は、 素見、ひやかし、 の意とある。物類称呼(安永四年(1775)刊)に、 遊客の、曲廓に至るを、京都にて騒(ぞめき)と云ひ、江戸にてそそりと云ふ、 とある(大言海)。それが今日、阿波おどりのリズムを ぞめき、 と称しているという。 阿波おどりでは「ぞめきのリズムに合わせて踊る」というように、いわゆる阿波おどりのお囃子のことを「ぞめき」と呼びます。 ぞめき以外に阿波おどりで演奏される代表的なお囃子としては「阿波よしこの」「吉野川」「祖谷の粉ひき唄」「阿波の麦打ち唄」などがありますが、阿波おどりのお囃子を総称して「ぞめき」と呼んでおり、これには確かな定義がある訳でもありません。 それだけに、連によって様々な「ぞめき」が存在します。 とある(https://nansuiren.com/zomeki.html)。これはどちらかというと、「ぞめき」の、 浮かれ騒ぐ、 意からきていると見ていい。 男は尻ぱしょりの浴衣がけに手ぬぐい頰かぶり,足袋はだし,女は片肩脱ぎの浴衣を裾からげに着て赤い蹴出しを見せ鳥追笠をかぶり,白手甲,白脚絆,白足袋,黒の利休下駄をはき,数十人単位の連(れん)を作り街道を流し踊り歩く。これを〈ぞめき〉という、 ともある(世界大百科事典)。「ぞめき」にもスタイルがあるらしい。 「ぞめき」は、 「ぞめく」の連用形名詞、 だが、「ぞめく」も、 ざわざわと騒ぐ、 (遊里や盛り場を)騒いで浮かれ歩く、 という意(岩波古語辞典)だが、江戸語大辞典には、 わいわいしゃべったり唄ったりしながら歩く、遊里や露店などを見物して回る、口々にわめいて冷かす、 が主たる意味で、 わいわい言う、 が従の意味になっているように見える。 この「ぞめく」、ふるくは、 そめく、 は、 さめくの転、 とある(大言海)。そして、 そそめくに同じ、 急ぎ騒ぐ、 意とする。「そそめく」は、 騒騒(さわさわ)する、そよめく、そめく、 の意が載る(大言海)。 ソソはソソキ(噪)・ソソノカシ(唆)のソソと同根、 とある。また、 そそく、 という言葉がある。 ソソクは、燥急(そそ)くの儀、いすすくの上略轉、 とある(大言海)。「いすすく」(倉皇)は、 うすすく、 ともいい、 そわそわする、 意である。また、「ソソク」の、 ソソは擬態語、そわそわ・せかせか・ざわざわなどの意。クは擬音語・擬態語を承けて動詞をつくる接尾語。カガキク(輝く)・ワナナク(震)のクと同じ。ソソク(注)とは別音、別語、 ともあり、 そそく→そそめく→そめく、 といった転訛のように思われる。「そめく」のもととなる擬態語は、 ざわざわ、 かと思われるがちであるが、どうも、 そわそわ、 の意の、 そそ、 のようである。 そそ→そそく→そそめく→そめく、 といった風な。この「そそ」は、せわしいさまの、 そそくさ、 という擬態語に生きている。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房)
「ぐずぐず」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E3%81%90%E3%81%9A%E3%81%90%E3%81%9A)「のろのろ」「もたもた」「もごもご」
は、その行動・態度の、のろさ具合を指し、価値表現がより際立っている。「ぐずぐず」は触れたので、「のろのろ」「もたもた」「もごもご」などについて触れていく。
「竹輪」は、 魚肉のすり身を竹などの棒に巻きつけて整形後に加熱した加工食品であり、魚肉練り製品の一つである。中心の棒を抜くと筒状になり、竹の切り口に似ているためこの名が付いた、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E8%BC%AA)が、「竹輪」は、 竹輪蒲鉾の略、 である(大言海、たべもの語源辞典)。「蒲鉾」は、 蒲の穂、 の意である。つまり、 蒲鉾子の義、 である。 稲穂子(いなほこ)と云ふ語もあり、コとは、大葉子(車前草)、いちびこ(蓬蔂 苺の別称)、いささこ(魦 いさざの古名)など、意味なく物につく語なり、 とある(大言海)が、単なる愛称というよりは、菓子や桃子、栗子のように、蒲の子の意味であったと見られなくもない。 「蒲」は、 カマ、 と呼び、 ガマの古名、 とある(岩波古語辞典)。名語記に、 蒲、加末(かま)、草名、似藺可以為蓆也、 とある。そのためか、大言海には、 組(くみ)の轉にて…組みて蓆とすべきものの意と思はる、菰も、組の轉にて、同語根ならむ。かまばこ(蒲鉾)、かばやき(蒲焼)は、相通ず、 とある。 「かま」が「がま」と濁ったのは、 菰(こも)をまこも(真菰)と云ふが如く、蒲も、マガマなどと云ひしを、上略せし語か、或いは蟹をガニ、蛙(かへる)をガヘルと訛る類か、清音の蝦蟇(かま)をガマと云ふ、同趣、 とする(大言海)。その理由はともかく、 「新撰字鏡」「十巻本和名抄」「観智院本名義抄」「文明本節用集」などでは「カマ」と清音であり、「かます(叺)」「かまぼこ(蒲鉾)」のように、複合語の場合、現在でも清音をとどめている。しかし、「運歩色葉集」「日葡辞書」などで濁音表記されておりの、中世末から近世にかけて、「ガマ」と濁音化したと考えられる、 とある(日本語源大辞典) 蒲の穂の「蒲鉾」が、 魚肉のすり身を竹などの棒に巻きつけて整形後に加熱した加工食品、 になったのは、 蒲の実の鉾に似たるように、魚のすり身を木につけて、蒲の鉾を模せる歟(名語記)、 とあるように、「蒲鉾」の名は、 親指の太さくらいの丸竹のまわりに、魚肉のすり身を厚保さ四分(1.2センチ)ばかりに丸くつけ、竹とともに湯煮して、揚げ、竹を抜いて用いた、 からである(たべもの語源辞典)。大言海には、 鯛、鱧、鮫などの肉を、敲き擂りて、鹽、酒などを加へて泥(デイ)とし、竹串を心とし、円く長く塗りつけて、炙りたるもの。形、色、蒲槌(かまぼこ)の如くなれば、名としたり、 とある。蒲槌(ほつい)とは蒲の穂のことである。これを意識して、形作ったか、結果として蒲の穂に似たかは、はっきりしないが、 蒲鉾、 つまり、蒲の穂に似ているから、「蒲鉾」となった。 室町時代に、すり身を竹に塗りつけて焼き、儀式に用いたのが始まり、 とある(日本語源大辞典)。その後江戸時代、竹輪蒲鉾とは別に、 板付蒲鉾、 がつくられるようになる。 板付蒲鉾が蒲鉾になると、竹輪蒲鉾は、竹輪という別な食品になってしまった、 とある(たべもの語源辞典)。もとは、いずれも、 蒲鉾、 であが、中央にさした竹を抜いて、きったきりくちが竹の輪に似ているので、 竹輪、 と別にされた。明治時代以前は、 白身魚自体が高価な食材であったため、蒲鉾や竹輪は高級品、 という扱いであった(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E8%BC%AA)、とある。 ちなみに、「はんぺん」は、 竹輪蒲鉾を縦二つに切って平らにしたもの、 で、それを、 半片(ハンペン)、 と呼んだものである(たべもの語源辞典)。 「蒲焼」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E8%92%B2%E7%84%BC)は、江戸初期まで、「うなぎの丸焼きのぶつ切りを串にさしたもの」で、塩焼きや味噌焼きにして食べるもので、その「姿形」が「蒲(がま)の穂」に似ており、その蒲(がま)が蒲(かば)に代わり「蒲焼き」とよばれた。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「茶」(通音チャ、唐音サ、漢音タ、呉音ジャ)の字は、 会意兼形声。もと「艸+音符余(のばす、くつろぐ)」。舒(くつろぐ)と同系で、もと緊張を解いてからだをのばす効果のある植物。味はほろ苦いことから、苦茶(クト)ともいった。のち、一画を減らして茶とかくようになった、 とある(漢字源)。「ちゃ」と訓むのは、中国語の字音である。当たり前だが、 朝鮮半島でも「チャ」と発音しますし、ロシア語やチェコ語やアラビア語の「チャイ」も、中国の「チャ」が語源です。一方、欧米では「tea(ティー)」と言い……、ドイツ語では「テー」、フランス語では「テ」です。これも中国語が語源なのです、 とある(https://onoen.jp/column/column_97.html)。「茶」は中国発祥なのである。その「茶」を、 『茶経』には「茶」「檟(カ)」「蔎(セツ)」「茗(メイ)」「荈(セン)」の5種の名が挙げられているが、他に当て字もあって、それらも合わせると10種以上の字が使われていた。「茗」に関しては、現代中国語でも茶を総称する「茗茶」という言い方が残っている、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6)。 「チャ」の訓みについて、 タ(茶)は、拗音化して「チャ」になった。子音交替[ts]をとげるときには「サ」になった、 と音韻変化を説くものもある(日本語の語源)が、慣用的に、 チャ、 と発音するものが、日本語化したとみていいのではあるまいか。 日本人は、中国音チャを、大和言葉のように日常語として使っています。茶を点てるは、抹茶を泡立てる意です。茶の子は、茶菓子のことです。色彩の「茶色」も、同語源で、「茶を煎じた色」が語源、 とある(日本語源広辞典)。 「茶(ちゃ)」は、 チャノキの葉や茎を加工して作られる、 が(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6)、それは、 ツバキ科の常緑低木で、中国南部(四川・雲南・貴州)の霧の多い山岳地方の原産、 とされる。ただ、 日本にも原生していた、 とある(たべもの語源辞典)。 「茶」の初出は、天平元年(729)に、 本朝聖武帝天平元年 召百人僧於内裡 而被講般若 第二日 有行茶之儀(茶経詳説) とあり、聖武天皇が、 百人の僧を内裏に召して般若経を講せしめた折、行茶(ぎょうちゃ)と称して茶を賜った、 という(仝上)。「行茶」の儀とは, お茶を行じること、 であり(http://unsui.net/gyoucha/)、 人に茶を進める、 ことである(http://www2u.biglobe.ne.jp/gln/88/8831/883102.htm)。 お茶を飲むことも大切な修行の一つである、 という意味が込められている(http://unsui.net/gyoucha/)、とある。 引茶(ひきちゃ)の儀、 とも言われる(http://www2u.biglobe.ne.jp/gln/88/8831/883102.htm)、とある。 すでに、この時期、「茶」が渡来していたことになる。ただ、 天平時代に中国から渡ってきた茶は、磚茶(たんちゃ/だんちゃ)で、磚(たん)という中国の煉瓦のような形をしていて、削って用いた、 とある(たべもの語源辞典)ので、これもそうかもしれない。 その後、延暦二四年(805)に、最澄が唐から帰朝の折も、大同元年(806)の、空海帰朝の折も、茶の種をもってきた(仝上)、とされる。弘仁六年(815)、嵯峨天皇は、 畿内・近江・丹波・播磨等に茶を植えさせた、 とある(日本後紀)。この年、近江行幸の際、崇福寺の大僧都永忠が茶を煎じて天皇に奉ったとある(類聚國史)し、弘仁年間(810〜824)の『文華秀麗集』の「錦部彦公光上上人山院ニ題スル詩」に、「緑茗を酌(く)む」とあり、既にこの時期、喫茶がおこなわれていたことがわかる(仝上)。この時期、茶は、 薬、 として好まれていた(日本食生活史)が、平安末期には、奈良時代から続いていた貴族や僧侶の間で行われていた喫茶が途絶え(仝上)、鎌倉時代になって、また復活する。 栄西が宋に二度留学し、そのいずれかの折に茶の実を持ち帰って、筑前の背振山に植えた。その実のあまりを明惠(高弁)がもらって、山城國栂尾(とがのお)に植えた。これが栂尾の茶の起こりであると伝えられている。また宇治にも植えたので、宇治茶の起源となった、といわれている、 とある(仝上)。栄西は、『喫茶養生記』をあらわし、中国の製茶法を伝え、 茶の葉を朝つんで、これをあぶり、あぶる棚には紙をしき、その紙が焦げないように火であぶり、竹葉をもってかたく口を封じた瓶にいれてたくわえる、 と述べ(仝上)、さらに茶を喫する法についても、 一寸四方ほどの匙に二、三匙茶を入れて、極熱の湯で飲む、 としている(仝上)。「吾妻鏡」にあるように、栄西は、実朝が二日酔いでなやんでいたとき、茶を差し上げた、とあるように、やがて喫茶は、上下一般に流行するようになるが、あくまで妙薬として受け入れられていった、と思われる。鎌倉末期にも、茶の会が行われているが、元弘三年(1332)の『花園院御記』には、 近臣らが喫茶の勝負をやるのに賭け物を出して、茶の味の識別をして当てる会をしている、 との記述があり、この茶会は、 茶味の識別を争う、 ものであったが、茶の産地も増え、鎌倉末期には喫茶の風が僧侶・公家・武家から、庶民にまで広がっていく(仝上)。その主体が、武家に移るとともに、南北時代、新興大名層の間に、 茶寄合(闘茶会)、 という賭け事の茶会へと引き継がれていく。東山時代になって、足利義政が、 東山の東求堂(とうぐどう)に四畳半で茶の湯を友とした、 ように、書院での心静かに威儀をただして喫茶為る風に簡素化されたものが生まれ、これが、 村田珠光、 の「茶道」の確立につながっていく。それは、 一休宗純に参禅して体得した禅の精神と「下々の茶」つまり庶民の茶の風儀とを総合した茶道、 という、 庶民風の茶の湯、 を創り上げる(仝上)。珠光の茶は、利休の談話筆記と伝わる『南坊録』に、 四畳半座敷は珠光の作事なり、真の座敷とて鳥子紙の白張は杉板のふちなし天井、小板ぶき宝形造、一間床なり、(中略)書院の飾物は置かれ候へども、物數なども略ありしなり、 とある。武野紹鴎、千利休と、これを日本的な「茶の湯」が大成されていく。茶は、 中国、 朝鮮、 にもあるが、 茶の湯、 は、 静寂枯淡の趣をもつ、禅的な人生観がこの趣味の中にとりいれられ、 まったく日本独自のものとなった(仝上)。珠光・紹鴎・利休の、 わび・さび、 については、「わび・さび」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E3%82%8F%E3%81%B3%E3%83%BB%E3%81%95%E3%81%B3)で触れた。 なお、茶道については、 「茶道」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/406853639.html?1589162318)、 「茶の湯」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/396593854.html)、 「古田織部」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-3.htm#%E5%8F%A4%E7%94%B0%E7%B9%94%E9%83%A8_)、 茶事については、 「茶事」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/405435166.html)、 「点前」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E7%82%B9%E5%89%8D)、 茶道具については、 「茶道具」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163135.html)、 で、それぞれ触れた。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館) 「茶飯」は、 米の調理法の一種、 だが、 葉茶の煎じ汁で炊いた飯、塩で味を付ける、 ものと、 醤油と酒とを混ぜて炊いた飯、 の二種がある(広辞苑)。前者は、 研いだ米に、煎茶やほうじ茶(茶葉ではなく、淹れた茶を水の替わりに用いる)を加えて炊き上げたもの。または、白飯が炊き上がったところで、塩と抹茶を混ぜたもの、 で、奈良の郷土料理、 「茶飯」は、 米の調理法の一種、 だが、 葉茶の煎じ汁で炊いた飯、塩で味を付ける、 ものと、 醤油と酒とを混ぜて炊いた飯、 の二種がある(広辞苑)。前者は、 研いだ米に、煎茶やほうじ茶(茶葉ではなく、淹れた茶を水の替わりに用いる)を加えて炊き上げたもの。または、白飯が炊き上がったところで、塩と抹茶を混ぜたもの、 で、奈良の郷土料理、 奈良茶飯、 が有名である。奈良茶飯は、 茶を煎じた湯に塩を少し加えて炊いた飯…に大豆・小豆・栗などを加えた、 とある(たべもの語源辞典)。後者は、 研いだ米に、醤油と出汁などを加えて炊き上げたもの。東京では主におでん屋で供され、おでん用の茶飯の素も市販されている、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6%E9%A3%AF)、きがらちゃ(黄枯茶)色をしているので、 きがらちゃめし(黄枯茶飯/黄唐茶飯)、 といい(たべもの語源辞典)、また、 さくらめし(桜飯)、 味付飯、 醤油飯、 ともいう(広辞苑)。遠州地方(浜松市周辺)では、 さくらご飯、 と呼ばれている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6%E9%A3%AF)、とある。なお、これに、牛蒡や蒟蒻を炊き込んだ、 加薬飯(かやくめし)、 は、大阪で多くつくられた(日本食生活史)、とある。「加薬飯」は、 かやくごはん、 ともいうが、 五目飯、 ともいう。 要は、「茶飯」には、 茶を用いた茶飯、 と、 炊きあがりが茶色である茶飯、 とがあり(仝上)、たべもの語源辞典によると、茶飯には、 鹽を加えて茶の煎じ汁で炊いたもの、 鹽と酒を入れて炊いた飯に粉にした煎茶を混ぜるもの、 茶の入らない醤油味の飯、 普通の飯に熱い吸地(煮出汁と醤油と塩)を掛けたもの、 飯に吸地をかけ、晩茶を軽く振り込んだもの、 等々作り方は各種あるが、共通項は、 黄枯茶(きがらちゃ)色をした飯、 ということらしい。 奈良茶飯は、 少量の米に炒った大豆や小豆、焼いた栗、粟など保存の利く穀物や季節の野菜を加え、塩や醤油で味付けした煎茶やほうじ茶で炊き込んだもので、しじみの味噌汁が付くこともある。 元来は奈良の興福寺や東大寺などの僧坊において寺領から納められる、当時としては貴重な茶を用いて食べていたのが始まりとされる。本来は再煎(二番煎じ以降)の茶で炊いた飯を濃く出した初煎(一番煎じ)に浸したものだった、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E8%8C%B6%E9%A3%AF)。江戸時代初期の『料理物語』には、 茶を袋に入れて小豆とともに煎じ、更に大豆と米を炒った物を混ぜて山椒や塩で味付けして炊いた飯を指すと記され、更に人によってはササゲ・クワイ・焼栗なども混ぜたという。現在も香川県の郷土料理となっている茶米飯は、米と大豆を炒ってものを少々の塩を入れた番茶で炊いて作られており、『料理物語』に記された奈良茶飯と同系統の料理であるとみられる、 とある(仝上)。江戸時代前期(明暦の大火以降)に、江戸市中に現れた浅草金竜山の奈良茶飯の店から始まった、と言われている(仝上)。これは、 奈良茶飯に、豆腐汁、煮染、煮豆を添えた、 もの(たべもの語源辞典)、あるいは、 奈良茶飯に汁と菜をつけて供され、菜には豆腐のあんかけがよく出された、 ともあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E8%8C%B6%E9%A3%AF)、江戸後期の『守貞漫稿』には、 明暦の大火(1657年)のあと、金竜山(守貞は金竜山を浅草寺ではなく待乳山聖天としているが両説あり)の門前の茶屋が茶飯に豆腐汁、煮しめ、煮豆などを添えたものを奈良茶と称して出したのが最初で、金竜山の奈良茶を食べに行こうと江戸中から人が集まるほど人気となり、『西鶴置土産』(1693年)にも登場した、 とある(仝上)。現在の定食の原形と言える(仝上)。『西鶴置土産』には、 近き頃金竜山の茶屋に、一人五分宛奈良茶を仕出しけるに、器物の奇麗さ色々調へ、さりとは末々のものの勝手の好き事となり、中々上方に斯る自由なかりき、 とある(日本食生活史)。天和(1681〜84)の頃には、 浅草並木町にもでき、いずれも料理茶屋の初めとなった。それから諸所にできたが、川崎大師前の亀屋・万年堂などが有名、 とあり(仝上)、さらに、 夜十時過ぎに茶飯と餡掛豆腐を売る茶飯売りが出た、 ともあり(たべもの語源辞典)、これは京阪には見られなかった。これにより、奈良茶飯は、畿内よりもむしろ江戸の食として広まっていった、とみられる(仝上)。文化2年(1805)の『茶漬原御膳合戦』には、 茶漬見世は、……大森の里人の思い付きで、上白米を飯にたき、茶もいいものを選んで、しがらきや葦久保などに縁のある海道茶漬の見世を開いた。最初は一軒だったのが次第に増えて二十何軒かになった。そのうちにおちゃだけではなく、奈良漬、座禅豆、梅干しなどを付けて食わせるようになった、 とある(日本食生活史)。別系統の茶飯屋かもしれないが、一膳飯屋であったことがわかる。 今日、 おでん茶飯、 とおでんに茶飯がつきものになった(たべもの語源辞典)が、これは、 桜飯、 醤油味で具のない炊き込みご飯。研いだ米に醤油、塩、酒、味醂、出汁などを加え炊き上げたもの、 である。これが、 黄枯(きがら)茶飯、 の代名詞である。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館) 「団子」は、 穀類の粉を水でこねて小さく丸めて蒸し、または茹でたもの、 の意(広辞苑)である。今日「だんご」の呼称が定着しているが、地方によっては、 だんす(陸奥、東北地方など)、 あんぶ(新潟県など)、 おまる(滋賀県・四国地方など)、 おまり(御鞠 伊勢)、 おまる(月見団子 群馬地方)、 等々様々な呼称がある。女房詞(ことば)で団子のことを、 いしいし、 といったが、これは「美(い)し」を重ねた語で、おいしいものの意であり、各地の方言にもある(日本大百科全書)。「団子」は、 古くは焼団子や団子汁の形で主食の代用品として食せられ、材料も粒食が出来ない砕米や屑米や粃、雑穀の場合は大麦・小麦・粟・キビ・ヒエ・ソバ・トウモロコシ・小豆・サツマイモ・栃の実などを挽割あるいは製粉したものを用いて団子を作った。今日でも地方によっては小麦粉や黍(きび)粉などで作った米以外の団子を見ることが可能である、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E5%AD%90)。今日の感覚では、嗜好的な役割が強いが、 かつては常食として、主食副食の代わりをつとめた。団子そのものを食べるほか、団子汁にもする。また餅と同様に、彼岸、葬式、祭りなど、いろいろな物日(モノビ 祝い事や祭りなどが行われる日)や折り目につくられた、 とある(日本昔話事典)。たとえば、 正月の二十日(はつか)団子、春秋の彼岸団子、春の花見団子、秋の月見団子、死者の枕頭(ちんとう)や墓前に供えた枕(まくら)団子などがある。このうち彼岸や仏生会(ぶっしょうえ)などにはよもぎ団子がつくられた。名刹の門前土産に草団子を多くみかけるのは、そうした慣習の名残である、 ともある(日本大百科全書)。そのせいか、 団子浄土(良い爺さんが団子を追って地中の異郷に至り幸福を得る)、 団子婿(婿にもらう団子)、 等々昔話では団子は不可欠で、餅の例は少ない。桃太郎の話でも、黍団子であった(日本昔話事典)。ただ、 団子と餅、 の違いについては、 餅はめでたいときに、団子は仏事などにとする所もあるが、この傾向は全国的ではない、 とあり(日本大百科全書)、 米の粒のまま蒸して搗いたものをモチ(餅)、 粉をこねて丸めたものをダンゴ(団子)、 といった(たべもの語源辞典)、とする説もあるが、 「団子は粉から作るが、餅は粒を蒸してから作る」「団子はうるち米の粉を使うが、餅は餅米を使う」「餅は祝儀に用い、団子は仏事に用いる」など様々な謂れがあるが、粉から用いる餅料理(柏餅・桜餅)の存在や、餅米を使う団子、うるち米で餅を作れる調理機器の出現、更にはハレの日の儀式に団子を用いる地方、団子と餅を同一呼称で用いたり団子を餅の一種扱いにしたりする地方もあり、両者を明確に区別する定義を定めるのは困難である、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E5%AD%90)。もともと、「餅」自体が、 「餅」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E9%A4%85)、 「もち」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%82%82%E3%81%A1)、 で触れたように、「餅」(漢音ヘイ、呉音ヒョウ)は、中国では, 小麦粉などをこねて焼いてつくった丸くて平たい食品, つまり、「月餅」の「餅」である。「もち米などをむして,ついてつくった食品」に「餅」を当てるのは,我が国だけである。 餻、 餈、 も「モチ」のことである(たべもの語源辞典)。「餻」(コウ)は、「糕」とも書き、 餌(ジ)、 と同じであり、 もち、だんご(粉餅)、 の意である。「餈」(シ)は、 むちもち、もち米をむして搗きたるもち(稲餅)、 とある(字源)。江戸中期の「塩尻」(天野信景)には、 「餅は小麦の粉にして作るものなり、餈の字は糯(もちごめ)を炊き爛してこれを擣(つ)くものなれば今の餅也、餻の字も餅と訓す、此は粳(うるしね)にて作る物なり」 とあり、江戸後期の「嬉遊笑覧」(喜多村信節)にも、 「餅は小麦だんごなり、それより転じてつくねたる物を糯といへり。だんごは餻字、もちは餈字なり。漢土にて十五夜に月餅とて小麦にて製することあり、よりて『和訓栞』に餅をもちひと訓は望飯(もちいひ)なりといへるは非なり、『和名鈔』に「糯をもちのよねと云るは米の黏(ねば)る者をいへり、是もちの義なり。故にここには餻にまれ餈にまれもちと云ひ餅字を通はし用ゆ」 とある(たべもの語源辞典)。つまり、「餅」が本来、小麦粉で作ったものであることをわかっていて、日本の糯米でつくるモチの借字として「餅」の字を使った、という経緯があり、結構あいまいではあった。 ところで、「団子」の「団」は、 ダン、 は、音読み、「子」の、 ゴ、 は、訓読み、の重箱読みである。和語の雰囲気であるが、大言海は、 団喜(ダンキ)の轉、 を採り、 團粉(ダンゴ)は、形の團(マロ)き故に號(ナヅ)けしと云ふ説は非なり、 とする。他に、 字典に、團は、聚也、集也と云ひ、米麦の粉の、ねり團(あつめ)し故、だんごと云ふ(愚雑俎)、 形が丸いところから(瓦礫雑考・木綿以前の事=柳田國夫)、 があるが、 団喜(だんぎ)に由来し、粉を使うことから「団粉」となり、小さいものであることから「団子」に変化した、 とするのが通説(語源由来辞典)とする。しかし、この変化は、いささか疑わしくないか。 「団喜」は、「菓子」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E8%8F%93%E5%AD%90)で触れたように、遣唐使が中国から持ち帰った八種の唐菓子、 八種唐菓子(やくさからがし)、 と呼ばれる、 梅枝(バイシ 米の粉を水で練り、ゆでて梅の枝のように成形し、油で揚げたもの)、 桃枝(とうし 梅枝と同様に作り、桃の枝のように成形し、桃の実に似せたものをそくい糊でつけた)、 餲餬(かっこ 小麦粉をこねて蝎虫(蚕)の形とし、焼くか蒸したもの)、 桂心(けいしん 餅で樹木の形をつくり、その枝の先に花になぞらえて肉桂の粉をつけたもの)、 黏臍(てんせい 小麦粉をこねてくぼみをつけて臍に似せ、油で調理したもの)、 饆饠(ひら 米、アワ、キビなどの粉を薄く成形して焼いた、煎餅のようなもの)、 鎚子(ついし 米の粉を弾丸状に里芋の形にして煮たもの)、 団喜(だんき 緑豆、米の粉、蒸し餅、ケシ、乾燥レンゲなどを練った団子、甘葛を塗って食べた)、 のひとつ(倭名類聚抄、日本食生活史)で、はじめは、植物の菓子に似せて、 糯米(もちまい)の粉・小麦粉・大豆・小豆などでつくり、酢・塩・胡麻または甘葛汁(あまづら)を加えて唐の粉製の品に倣って作り、油で揚げたもの、 である(日本食生活史)。団喜は、 歓喜団(かんぎだん・かんきだん)、 ともいい、 現存する清浄歓喜団は、小麦粉の生地で小豆餡を茶巾状に包み胡麻油で揚げたものとなっている、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E8%8F%93%E5%AD%90)。確かに、文政13年(1830)刊の『嬉遊笑覧』に、 団喜は俗にだんごといふものの形にて餡を包めるなり、 とある。 しかし、 中国の北宋末の汴京(ベンケイ)の風俗歌考を写した「東京夢華録」の、夜店や市街で売っている食べ物の記録に「団子」が見え、これが日本に伝えられた可能性がある、 とある(日本語源大辞典)。「団子」を、 ダンス、 と訓むのは、「子」の唐音でもあるし、 ダンシ→ダンス、 という転訛かもしれない。「団喜」起源ときめつけるのは、少し早計かもしれない。。室町末期の筆写本「伊京集」には、 ダンゴ、 ダンス、 の両形がみられる。室町末期の「日葡辞書」には、 ダンゴ、 しか載らないが、近世になってダンゴが優勢になっても、ダンシが残っている、とある(仝上)。 柳田國男は、 団子は、神饌の1つでもある粢(しとぎ)を丸くしたものが原型とされる。熱を用いた調理法でなく、穀物を水に浸して柔らかくして搗(つ)き、一定の形に整えて神前に供した古代の粢が団子の由来とされる、 という説を立てる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E5%AD%90)。粢(しとぎ)とは、 日本古代の米食法の一種、水に浸した米を原料にさまざまな形に固めたものを呼び、現在は丸めたものが代表的である。別名で「しとぎもち」と言い、中に豆などの具を詰めた「豆粢」や、米以外にヒエや栗を食材にした「ヒエ粢」「粟粢」など複数ある。地方によっては日常的に食べる食事であり、団子だけでなく餅にも先行する食べ物と考えられている、 とされる(仝上)。平安時代末から鎌倉時代末にかけての、日本最古の料理書『厨事類記』には、 歓喜団(団喜)は「粢(しとぎ)のようにしとねて、おし平めて(中略)良き油をこくせんじて入べし、秘説云、油に入れば、火のつきてもゆるがきゆる也(後略)」と説明し、粢のようにまずは調理し、後半は油に入れ揚げ仕上げる料理となっている、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E5%AD%90)、粢に似せて作る『厨事類記』の歓喜団(団喜)は今日の団子に近いとも言われる(仝上)が、この説明は、「団喜」と「粢」とが、別系統ということを表しているように見える。 仮に、「団子」の原型が、 粢(しとぎ)、 としても、それに「団子」と名づけたのは、どこから来たかが、問題になる。 米の粒のまま蒸して搗いたものをモチ(餅)とよび、粉をこねて丸めたものをダンゴ(団子)といった。団粉(だんご)とも書くが、この字のほうが意味をなしている。団はあつめるという意で、粉をあつめてつくるから団粉といった。団喜の転という説もあるが、団子となったのは、団粉とあるべきものが、子と愛称をもちいるようになったものであろう、 とする説(たべもの語源辞典)が、もっとも説得力がある。中国から「団子」(ダンシ)という名前が入ってきたのかもしれないが、少なくとも「粢」という「しとぎもち」が元々あったことを考えると、 団喜(だんき)→団子(だんご)、 という転訛は考えにくい。「団子」の唐音、 ダンス→(団子)→ダンゴ、 と、重箱読みに転訛したというほうが納得がいく気がする。 さて、「団子」は、中世になると、大永四年(1524)の『宗長手記』には、駿河名物の山名物十だんごの記述があり、 必ず十ずつ杓子にすくわせる、 とあり、串刺しではないが、室町時代には、 竹の串にさした団子、 が登場し、金蓮寺の『浄阿上人絵巻』には、二個ずつさしてある、とある(たべもの語源辞典)。 中世まではもっぱら貴族や僧侶の点心として食されたが、近世になると、都会を中心に庶民の軽食としてもてはやされ、団子を売る店や、行商人も多く、各地で名物団子が生まれた、 とされ(日本語源大辞典)、寛永年間(1624〜1644)の『毛吹草(けふきぐさ)』には、 京都の七条編笠(あみがさ)団子、御手洗(みたらし)団子、稲荷(いなり)染団子、 摂津(大阪府)の住吉御祓(おはらい)団子、 近江(滋賀県)の柳団子、 があり、享保三年(1727)の『槐記』に、 青串に黄白赤と三つさしてある、 とあり、明和(1764〜72)には、 お龜団子、 みたらし団子、 安永六年(1777)には、蜀山人の『半日閑話』に、 浅草門跡前の家号むさしや桃太郎から、日本一の黍団子が発売された、 と載り、天明七年(1787)刊の『江戸町中喰物(くいもの)重宝記』には、 さらしな団子、 おかめ団子、 よしの団子、 と、天明年間(1781〜89)には、 米つき団子、 笹団子、 さらしな団子、 吉野団子、 難波団子、 しの原団子、 さねもり団子、 景勝団子、 大和団子、 が見え、天明三年(1783)に、 柴又の草団子、 文政年間(1818〜30)には、 喜八団子、 があり、 根岸の里芋坂で売られたむ団子は後に羽二重団子とよばれ、今につながる名物になった、 とある(たべもの語源辞典・日本大百科全書)。 ただ気になるのは、以上の庶民の間で広まっていく団子の系譜とは別に、 農村では、古来団子は雑穀やくず米の食べ方の一つ、 であった。米飯の代わりに、昭和の初めまで食べられてきた団子がある。この流れに、 五平餅、 があり、これも、「餅」といっているが、五平餅(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E4%BA%94%E5%B9%B3%E9%A4%85)で触れたように、 粳米(うるちまい)飯を半搗き、 にしたものであるので、団子の系譜である。五平餅の形には、 御幣、 わらじ、 小判、 丸、 団子、 棒、 等々いろいろあるのである。あるいは、貴族、僧侶から広まっていった、 団子、 と、 農村で代用食として食べられた、 団子、 とは、まったく系譜を異にしているのかもしれない。前者は、あるいは、 中国由来(の団子・団喜)、 後者は、 日本在来(の粢、しとぎもち)、 からそれぞれ広がっていって、「団子」という名に統一されていったのかもしれない。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 「みたらし団子」は、 御手洗団子、 と当てたりする。「みたらし団子」は、 竹串に米粉で製した数個の団子を刺し、砂糖醤油の葛餡をかけた串団子(焼き団子)、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BF%E3%81%9F%E3%82%89%E3%81%97%E5%9B%A3%E5%AD%90)。この由来を、 御手洗詣での時、京都下賀茂神社糺(ただす)の森で売ったのが最初、 とする(広辞苑)。たべもの語源辞典は、 昔は、毎年六月一九日または二十日から晦日まで、京都市左京区の賀茂御祖(みおや)神社(下鴨神社)に参詣して境内の御手洗川に脚をひたし、無病息災を祈った。これを御手洗参りとか御手洗会(え)といったが、納涼をかねた遊びであったから、糺(ただす)の涼みとも称した。境内には茶店が並んで酒食を供したが、ここで御手洗団子を売っていた、 とする。「御手洗川」は、神社近くにながれている川で、参拝者はここで手を清め、口をすずいだ(仝上)。大言海には、 團子、毎年六月晦日、社司(賀茂)於御手洗河修祓、其前日自十九日、京師男女参詣、掬社外之井水而祓暑穢、又林關ン茶店賣飲食、其中小粉團、毎五箇以青竹串貫之、……是云御手洗團子、 を引く(雍州府志)。たべもの語源辞典も、 竹串に小粒の団子を五つさして、醤油で付け焼きしたもの、 と、五個とする。 「団子」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E5%9B%A3%E5%AD%90)については触れた。「御手洗」は、 みたらし、 と訓ませるが、 神社の社頭にあって、参詣者が手や口を浄めるところ、 の意である。上記の、 御手洗川、 御手洗祭り、 御手洗詣、 の略の意もあるが、それも、「御手洗」の、 手や口を浄める、 からきている。「御手洗」は、 みたらい、 とも訓ませる。大言海は、 タラシは手洗水(てあらひし)の約、ミは神前なるに就き、尊称を加えたるならむ、 とする。「し(水)」は、 水(スイ)の音の約、水良玉(シラタマ)、水長鳥(シナガドリ)、シがらみ、シずく、シたたる、シむの類例、 とする(大言海) ミタラシ(水垂)の義か。また御垂の義か(類聚名物考)、 も類似の説。たべもの語源辞典も、 シは水(スイ)の音の約である。「しずく」とか「したたる」のシと同じで、水の意である、(中略)ミは尊称である。タラシはテアラヒシ(手洗水)の約である。御手洗水(ミテアラヒスイ)と御をつけたとき、スイがシになり、テアがタとなって、ミタラシとヒを略していい、また、ミタラヒとスイを略したようによぶのは、ヒシが一つになって、ヒとかシといわれたものである、 とし、御手洗を、参拝者が口や手を浄める場所として、 ミタライ(ヒ)を御手洗と解して、ミタラシは御手洗ハシと説いたものがある。ハシ(端)とするならば、場所を意味することになる、ミタラシのシをハシとする説には、反対である、 と異議を唱えている。「しずく」の「し」であり、「御手洗(みたらし)」の「し」は、水でいいのではあるまいか。 江戸後期の『嬉遊笑覧』には、 鉄砲の玉、 数珠の粒、 そろばんの玉、 と称しているし、寛文(1661〜73)の『狂歌咄』には、 細い竹に刺して土塗り爐に立ち並べて五十本串立てた、 とある(たべもの語源辞典)。下鴨神社の神饌菓子の御手洗団子は、 上新粉(白米の粉)でつくった直径二センチほどの白団子を十本の細い竹に刺してある。竹は扇の骨のように十本に割いてあり、その一本に団子が五つずつさしてあるから五十個ある。この五つは、いちばん先がやや大きくて、二番目との間が少しあいている。この団子は厄除けが目的である。一つ目は頭で、下の四つが手足・体である。人形をかたどった団子を神前に供えてお祈りをし、それを家に持ち帰り、醤油をつけ、火に炙って食べると厄除けになる。これが昔の団子で、堅くなったものを食べたのである。今は、始めから醤油を付けて火にあぶったものを売っている、 とある(仝上)。ただ、異説があり、 境内(糺の森)にある御手洗池(みたらしのいけ)の水泡を模して、この団子がつくられた、 とされ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BF%E3%81%9F%E3%82%89%E3%81%97%E5%9B%A3%E5%AD%90)、 鎌倉時代から建武政権期、後醍醐天皇が行幸の際、御手洗池(みたらしいけ)で水を掬おうとしたところ、1つ大きな泡が出、続いて4つの泡が出てきた逸話による説がある。この泡を模して、串の先に1つ・やや間をあけた4つの団子を差して、その水泡が湧いた様を表している(仝上)、 下鴨神社の糾の森に井上の社というお宮があるが、その前に清水が湧き出ている。この手洗いの池の水が、まず一つ湧き出て、つぎに四つ続けて出る。そのさまをとって、団子を、一つと四つに分けてつけたという。団子は、熊笹に包んで、扇形にしてあった。古くは、北野社頭の茶店でも売っていた(たべもの語源辞典)、 とあり、五個の団子の、一つ目とそれ以下の区別も、別の根拠となる。しかし、水泡由来よりは、厄除けの意味の方が、五平餅(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474063861.html)がそうであったように、神饌団子の由来としては、いいように感じる。 もっとも、 関東では団子が4個の方が多い。これは四文銭ができたことによるとする説が有力である(団子1個が1文。四文銭で団子1串)、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BF%E3%81%9F%E3%82%89%E3%81%97%E5%9B%A3%E5%AD%90)。 飛騨高山にも、 御手洗団子、 というものがあるが、これは、 下鴨神社糺の森で売られていた御手洗団子が、高山に伝わった、 ものとされる。ただ、 みだらし、 と濁る(たべもの語源辞典)。なお、精進料理の台引(お土産用の膳)で、御手洗団子、というのは、クワイや山の芋を小さい団子にして一串に五つ刺したものをいうが、これは御手洗団子をまねたものである(仝上)。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 「しずく」は、 水や液体がしたたりおちる粒、 の意である(広辞苑)。 雫、 滴、 と当てる。「雫」(漢音ダ、呉音ナ)は、 会意。「雨+下(おちる)」。中国でもこの字を使うが、雫の意味に用いる場合は、国字、 とある(漢字源)。 曲線をえがいてしたたるさま、 の意だが、 しずく、 では用いない、らしい。「滴」(漢音テキ、呉音チャク)は、 会意兼形声。啇は、啻(一つにまとまる)の変形した字。滴はもと「水+音符啇(テキ)」。しずくはひと所に水が集まり、たまったときぽとりと垂れる。ひと所にまとまる意を含んだ言葉である、 とある(仝上)。「したたる」「ひと所に集まったしずくが垂れ落ちる」意である。漢字には、他に、 零、 涓、 瀝、 等々も、「しずく」の意味がある。「零」(漢音レイ、呉音リョウ)は、 会意兼形声。令は、清らかなお告げのことで、清らかで冷たい意を含む。零は「雨+音符令」で、清らかなしずくのこと。また「雨+〇印三つ(水玉)」とも書く(霝)。小さな水玉のことから、小さい意となった、 とあり(仝上)、「清らかな水玉」の意、「おちる」「欠けて小さい」意がある。「涓」(ケン)は、 会意兼形声。右側の字(エン・ケン)は、丸く体をひねるぼうふら。涓はそれを音符とし、水を加えた字で、細くひねる意を含む、 とある(仝上)。「しずく」の意もあるが、ちょろちょろと流れる水、の意である。「瀝」(漢音レキ、呉音リャク)は、 会意兼形声。歴の上部はもと「厂(やね)+禾(いね)二つ」の会意文字で、稲をつらねて納屋にならべたさま。歴は、それに止(足)を加え、つぎつぎとつづいて各地を歩くこと。いずれもじゅずつなぎに続く意を含む。瀝は「水+音符歴」で、水のしずくがじゅずつなぎに続いて垂れること、 とある(仝上)。「しずくが続いて垂れる」意である。 「しずく(しづく)」は、 シヅム(沈)・シヅカ(静)のシヅと同根、、 で、「しづく」の、 シヅは、下に沈んで、安定しているさま、 とある(岩波古語辞典)。 沈む意、 とする(大言海)のも同趣旨と思える。「静か」について、 「沈む、鎮む」と同語源、ジスは、静か、閑か、シズマル、シズマリカエル、シズメル、シズシズなど、多くの語を作り出しています、 とする(日本語源広辞典)のも、同じ流れである。しかし、 垂(し)づ、 という動詞がある。 したたり落ちる、 意の、 垂(し)づるの他動詞形、 であり、 垂らす、 しだれさせる、 意である。 組みの緒しでて宮路通はむ(拾遺・神楽)、 という用例があるように、名詞形は、注連縄や玉串、祓串、御幣などにつけて垂らす、 垂・紙垂・四手(しで)、 である(岩波古語辞典)。「し(垂)づ」の連用形から名詞化した。
「垂(し)づる」のシヅは、やはり 「したたる」は、 滴る、瀝る、 等々と当てる。「しずく」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E3%81%97%E3%81%9A%E3%81%8F)で触れたように、「滴」(漢音テキ、呉音チャク)は、 会意兼形声。啇は、啻(一つにまとまる)の変形した字。滴はもと「水+音符啇(テキ)」。しずくはひと所に水が集まり、たまったときぽとりと垂れる。ひと所にまとまる意を含んだ言葉である、 とある(漢字源)。「したたる」「ひと所に集まったしずくが垂れ落ちる」意である。「瀝」(漢音レキ、呉音リャク)は、 会意兼形声。歴の上部はもと「厂(やね)+禾(いね)二つ」の会意文字で、稲をつらねて納屋にならべたさま。歴は、それに止(足)を加え、つぎつぎとつづいて各地を歩くこと。いずれもじゅずつなぎに続く意を含む。瀝は「水+音符歴」で、水のしずくがじゅずつなぎに続いて垂れること、 とある(仝上)。「したたる」「しずくが続いて垂れる」意である。同じく、「しずく」の意をもつ、「零」(漢音レイ、呉音リョウ)、「涓」(ケン)を当てないのは、原意をくみ取っていたと見ることが出来る。 「したたる」は、 下垂るの意、 とされる(広辞苑・大言海他)。 近世中期ごろまでシタダルと濁音、シタはシタム(湑・釃)のシタと同根、 とある(岩波古語辞典)。「したむ」は、 しずくをしたたらす、特に酒などを漉したり、一滴も残さず絞り出したりするのにいう、 とある(仝上)。 したみ酒、 という言葉があり、 枡やじょうごからしたたって溜まった酒、 の意で、 転じて、飲み残しや燗(かん)ざましの酒、 の意となる(精選版日本国語大辞典)、とあり、 したみ、 とも言う(仝上)。この「したむ」は、酒の例から見ても、確かに、 下(した)の活用、 とある(大言海)のが納得いくが、 シタ(下垂)ムの義(日本語源=賀茂百樹)、 液をシタ(下)に垂らす義(国語の語根とその分類=大島正健)、 と、「したたる」と絡ませる説がある。 「したたる」は、本来、 水などがしずくとなって垂れ落ちる、 意である。「したむ」は、それを、 酒に特化した用例、 とみられるのかもしれない。ただ、「しずく」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E3%81%97%E3%81%9A%E3%81%8F)で触れたように、「下枝」を、 シヅエ、 と呼ぶように、「下」を、 シヅ、 と呼ぶ可能性があり、とするなら、「しず(づ)く」の「しづ」は、垂れる意の、 しづ(垂)、 と関わるけれども、 しづ(垂)+垂る、 では重複するし、「しづ」を、 下の活用、 とするなら、「したたる」は、 しづ(下)+垂る、 となり、 「下がる」+「垂れる」 と、下垂る語源説だと、どこか重複感があるような気がしてならない。確かに、 下+垂る、 と考えるのが、無難なのだろうが。 ところで、「したたる」の意味に、 緑したたる候、 というように、 美しさやみずみずしさがあふれるほどである、 の意味に使われるが、さらに、それをメタファに、 水もしたたるいい男、 といった使い方をするのは、岩波古語辞典、大言海には載らず、結構最近になって使われる用例のようである。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 「有平糖」は、 アルヘイトウ、 とも、 アリヘイトウ、 と訓ます。 阿留平糖、 金花糖、 氷糸糖、 窩糸糖、 とも呼ばれる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E5%B9%B3%E7%B3%96)。略して、 アルヘイ、 アリヘイ、 とも言う(広辞苑)。 「アルヘイ」は、 ポルトガル語alfeloa(砂糖菓子の意)、 で、 砂糖に水飴(みずあめ)を加えて煮詰め、冷やして引き伸ばしたり彩色したりした菓子、 で、棒状のもののほか、花・果物の形に細工して飾り菓子にする(デジタル大辞泉)。「アルヘイ糖」が、「重語」(大言海)、というのはその通りである。「有平糖」と一緒に入った「金平糖」は、 ポルトガル語のコンフェイトconfeitoの転訛(てんか)といわれる。ケシ粒を心にして砂糖液をかけてかわかし(古くはゴマを使用),加熱しさらに糖液をかけて作る。心に吸収された糖分が加熱によって吹き出すので周囲にとがった角ができ,その形が不思議がられて珍重された、 ものである(百科事典マイペディア)。「金平糖」「有平糖」ともに、安土桃山時代にポルトガルより伝わった南蛮菓子である。天文十八年(1549)、鹿児島に上陸した、フランシスコ・ザヴィエルが、持ち込んだ中に、 カスティラ、 ボウル、 カルメイル、 アルヘイトウ 等々があった、とされる(たべもの語源辞典)。その後、寛永十五年(1638)の『日野資勝卿記』に、「あるへいとう」の記述があるので、鹿児島上陸の七、八十年後には京都で食べられていた、ということになる(仝上)。元禄十三年(1700)に、日光輪王寺門跡弁法親王が柳沢吉保に招待の御礼に「あるへいとう」を贈っている(仝上)、とあるが、まだこの時期は、「あるへいとう」は珍しいものであった。 「干菓子」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E5%B9%B2%E8%8F%93%E5%AD%90)で触れたように、本朝世事談綺(江戸中期、1733年)に、 白雪糕(はくせっこう)で製するもので、中古は、アルヘイ糖、コンペイ糖の類をいった、 とあり(たべもの語源辞典)、「干菓子」とみなしていたらしい。 「白雪糕」とは、「落雁」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E3%82%89%E3%81%8F%E3%81%8C%E3%82%93)で触れたが、 精白した粳米(うるちまい)粉と糯米(もちごめ)粉を等分にあわせ、これに白砂糖と少量の水を加えて十分にもみ、木箱にふるい落として、ならしてから軽く押して3、4時間置いたのち、取り出して短冊(たんざく)形あるいは算木形に切る。本来はハスの実の粉末を入れた、 とあり(日本大百科全書)、 落雁の一種、 とある。どうもこれと同じ原料だと、本朝世事談綺はみなしており、 金平糖、 有平糖、 を干菓子とみていたらしい。砂糖を使った菓子が作られるようになるのは、宝暦(1751〜64)以後からのことで、 「有平糖」は、 初期の頃は、クルミのように筋がつけられた丸い形をしていたが、徐々に細工が細かくなり、文化・文政期(1804〜1830年)には有平細工(アルヘイ細工)として最盛期を迎えた。棒状や板状にのばしたり、空気を入れてふくらませたり、型に流し込んだり、といった洋菓子の飴細工にも共通した技法が用いられる。江戸時代、上野にあった菓商、金沢丹後の店の有平細工は、飴細工による花の見事さに蝶が本物の花と間違えるほどとされた、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E5%B9%B3%E7%B3%96)。また、 有平糖は茶道の菓子として用いられることが多く、季節ごとに彩色をほどこし、細工をこらしたものが見られる。縁日などで行われている即興的な飴細工とは異なるものである、 とあり、技巧が進化し高価なものとなってしまった有平糖を、見た目よりも味を重視して廉価にしたものとして、 榮太樓本店の「梅ぼ志飴」、 村岡総本舗の「あるへいと」、 などがある(仝上)、ともある。江戸末期の守貞謾稿には、 アルヘイは、専ら、種々の形を手造りにするもの多し、然るに、近年、京阪にて、鎔形にするものあり、白砂糖を練り、鎔形を以て焼き而後に、筆刷毛等にて彩を施し、濃鮒、独活、蓮根等を製す、眞物の如し、號けて金花糖と云ふ、嘉永に至り、江戸にも傳へ製す、 とある(大言海)。 ようやく、元禄から三十年くらいたって、一般の人々の口に入るようになる。吉宗の時代、 まづいもの好きなをかしに公方さまあるへい捨てて松風にする、 という狂歌がある。「松風」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E6%9D%BE%E9%A2%A8)は、表にケシなどを振った菓子。裏には何もつけないので、「浦さびし」の意から名づけた。 松風というたべものは、表にケシの実をふるとか、にぎやかに化粧してあるが、裏には何も細工をしない。裏が淋しいを浦さびしとして、浦とは、海岸・海辺であるから、浦さびしき風情を考えると、松があってそこに風が吹いて、音を立てる。浦のさびしさは、松風によるものと思えば、松風とよんだのは天晴れである、 とたべもの語源辞典は評していた。「あるへいとう」がうまいものとして既に親しまれていたことがわかる(仝上)。 享保三年(1718)の『古今名物御前菓子秘伝抄』に、その製法を、 上々氷砂糖一返(いっぺん)洗ひ捨て、砂糖一斤に水一、二升入れ、砂糖の溶け申す程煎じ、絹にてこし、其後煎じつめ、匙にて少しすくひ、水に冷し、うすく伸ばしぱりぱりと折れ申す時、平銅鍋に胡桃の油を塗り、その中へうつし、鍋こしに水に冷し、手につき申さぬ程にさまし、その後成る程引伸ばし候へば白くなり申候を小さく切り、いろいろに作るなり、 と記されている(日本大百科全書)が、『和漢三才図会(1715)』には、 円形で胡桃のような筋のある菓子、 と説明され、単純な形状であった。いろいろに細工され、紅白黄緑に彩色されて妍(けん)を競うようになるのは、文化・文政年間(1804〜1830)以降である(仝上)。 因みに、有平糖と飴の違いは、 材料中の砂糖と水飴の比率、 で、 砂糖の結晶化を抑制する効果や保湿効果があり、滑らかな口当たりが有ることから、現在市販されている飴の多くは、水飴を主原料としたものが多いのに対して、有平糖は砂糖の結晶化を防止し飴細工に必要となる、粘土を確保するだけの量しか水飴を使用しません。有平糖の主原料はあくまでも砂糖となっている部分が、一般的な飴と有平糖の違いだと言われています、 ということだとか(https://i-k-i.jp/16122)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
「今川焼」は、 銅板に銅の輪型をのせ、水で溶いた小麦粉を注ぎ、中に餡をいれて焼いた菓子、今は輪の代わりに多数の円形のくぼみをもつ銅の焼型を用いる、 もののことで、大言海には、 銅の版に、胡麻の油を延(こ)き、銅の輪を載せ、うどん粉を水に溶かしたるを注ぎ入れ、餡を包み、打ち返して炙(や)きたるもの、 と載る。この方が当時の作りの方がよくわかる。 江戸時代中期の安永年間(1772〜1780)、江戸市内の名主今川善右衛門が架橋した今川橋付近の店で、桶狭間合戦にもじり「今川焼き」として宣伝・発売し評判となった、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E7%84%BC%E3%81%8D)。あるいは、 神田の今川橋埋立地にあった露店が売り出した焼き菓子が由来ではないか、 とされている(https://dic.nicovideo.jp/a/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E7%84%BC%E3%81%8D)のが正確かもしれない。他に、 駿河国などを治めた守護大名・戦国大名、今川氏の家紋である二つ引両(引両紋)を由来とする説、 もあるらしいが、江戸時代の文献にはそのような記述は見受けられないらしい。今川橋は、 天和年間(1681年-1684年)に神田の名主であった今川善右衛門が竜閑川(神田堀)に掛けた橋で、今川橋埋立地は1869年(明治2年)に神田今川町、翌年に川を境にして神田西今川町・神田東今川町に分けられた。竜閑川は1950年(昭和25年)には全て埋立られてしまい、また西今川町は1935年(昭和10年)、東今川町は1965年(昭和40年)に消え、現在は鍛冶町一丁目、内神田三丁目(旧・鎌倉町)、岩本町一丁目のそれぞれ一部となってしまっているが、今川橋の名は交差点名として現在も残っている、 とある(仝上)。江戸語大辞典には、 はま千鳥禿(かむろ)があどなき噺合手も……今川焼の児僕(こぞう)とはなんなりぬ(天明四年・浮世の四時) と載る。 後に、(大型の)小判状をした型を使用したものが全国各地に大判焼き(おおばんやき)として広がった。その名称は、「今川焼」という名称は全国各地に広がっているが、 二重焼き(広島県)、 大判焼き(東北や東海地方、ま四国地方など)、 小判焼き(西日本)、 巴焼き、 義士焼き、 太鼓饅(太鼓饅頭、太鼓焼き 西日本各地、)、 太閤焼き、 回転焼き(回転饅頭 大阪市、堺市、九州・山口地方など)、 文化焼き、 大正焼き、 復興焼き、 自由焼き、 夫婦まんじゅう(フーマン)、 御座候(兵庫県、大阪府など全国各地)、 おやき(北海道、青森県、茨城県西部など)、 等々(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E7%84%BC%E3%81%8D、語源由来辞典)、形状や地域、店により他にもさまざまな呼び名がつけられて普及した(仝上)。その他にも、 浅草焼(青森県)、あじまん(山形県ほか)、甘太郎焼(埼玉県、千葉県、神奈川県、茨城県、群馬県)、画廊まんじゅう(静岡市清水区)、御紋焼(奈良県天理市)、しばらく(滋賀県長浜市)、じまんやき(富士アイス系列)、人工衛星饅頭(兵庫県神戸市)、ずぼら焼き(兵庫県神戸市)、太郎焼(埼玉県川口市・越谷市、福島県会津若松市ほか)、天輪焼(三重県松阪市)、七越焼き(三重県松阪市)、花見焼き(埼玉県蕨市)、日切焼(愛媛県松山市)、びっくり饅頭(広島県呉市)、ヒット焼き(愛媛県新居浜市)、武家まん(愛媛県新居浜市)、横綱まんじゅう(岡山県津山市)、蜂楽饅頭(熊本県熊本市、鹿児島県、福岡県)、あづま焼(静岡県浜松市・磐田市)、きんつば(千葉県・福島県・新潟県)、 等々という名のものもある(仝上)。日本の植民地支配の影響で、台湾では、 車輪餅(チャールンビン)、 韓国では、 オバントク/オバントック、 という名で食べられているらしい(仝上)。 地域・店舗によっては、 カスタード、抹茶あん、チョコレート、 などの中身があり、単純に言えば、「今川焼」は、 鯛焼きが鯛の形ではなく、丸く分厚くなったようなお菓子、 である(https://dic.nicovideo.jp/a/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E7%84%BC%E3%81%8D)。現に、「鯛焼き」は、 現在も麻布十番商店街にお店を構える浪花家総本店さんが「今川焼きが売れないから縁起のいい鯛の型にしてみよう」と閃き販売を開始、その後飛ぶように売れたことから広まっていった、 とある(https://uzurea.net/about-name-of-imagawayaki/)。 参考文献; 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「今出川豆腐」は、 豆腐を醤油と酒で薄味に煮、しょうが・わさびを添えた料理、 とある(広辞苑)。別に、 豆腐を昆布のだし汁・酒・しょうゆで薄味に煮て、おろししょうが・わさび・かつお節・いったくるみなどを添えた料理(世界の料理がわかる辞典)、 四角に切った豆腐を酒・醬油の薄味で煮て、おろし生姜しようがや花がつおなどをそえた料理(デジタル大辞泉) 豆腐をコンブとともに酒、しょうゆで味をつけて煮、おろしショウガ、ワサビ、花かつお、ときにはクルミをあしらって食べる。京都今出川産の豆腐を使用したことに由来する(精選版日本国語大辞典)、 等々ともある。本筋は変わっていないようだが、微妙に細部が違う。その細部が鍵のように思われる。 天明二年(1782)出版の豆腐百珍(とうふひゃくちん)は、100種の豆腐料理の調理方法を解説している。そこでは、 豆腐料理を六段階に分類・評価、 している(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%86%E8%85%90%E7%99%BE%E7%8F%8D)、とされる。つまり、 尋常品:どこの家庭でも常に料理するもの。木の芽田楽、飛竜頭など26品、 通品:調理法が容易かつ一般に知られているもの。料理法は書くまでもないとして、品名だけが列挙されている。やっこ豆腐、焼き豆腐など10品、 佳品:風味が尋常品にやや優れ、見た目の形のきれいな料理の類。なじみ豆腐、今出川豆腐など20品、 奇品:ひときわ変わったもので、人の意表をついた料理。蜆もどき、玲瓏豆腐など19品、 妙品:少し奇品に優るもの。形、味ともに備わったもの。光悦豆腐、阿漕豆腐など18品、 絶品:さらに妙品に優るもの。ただ珍しさ、盛りつけのきれいさにとらわれることなく、ひたすら豆腐の持ち味を知り得るもの。湯やっこ、鞍馬豆腐など7品、 で、その詳細は別に譲る(http://www.toyama-smenet.or.jp/~tohfu/tofuhyakutin.html)が、「今出川とうふ」は、佳品の一品として、 昆布をしき鰹脯(かつほ)のだし汁と酒しほとにて烹ぬく也 中ほどより醤油さし烹調(ハウテウ)しかくし葛をひき碗へよそひてみ胡桃(くるみ)の碎きをふる也、 と載る(仝上)。「酒しほ」とあるのは、 調味用に使う酒のこと。酒だけを使う場合と、少量の塩を入れる場合があります、 とあり(http://www.chinjuh.mydns.jp/cgi-bin/blog_wdp/diary.cgi?mode=comment&no=1112)、 「かくし葛をひく」は、 材料に葛粉をはたいて茹でることで葛のコーティングを作ること。つるんとした食感になる。水で溶いた葛粉を汁にいれ加熱することでとろみをつけることの意味があるのですが、ここでは後者の意味にとって、なおかつ「隠し」なのでごく薄く、とろみと感じない程度、 とある(仝上)。要は、 昆布を鍋に敷き、 酒とかつおだしで豆腐を煮、 途中で醤油をさし味加減をし、 葛を少し入れ、 椀によそい、 砕いたクルミの実をふりかけ、 というプロセスになる(http://www.toyama-smenet.or.jp/~tohfu/tofuhyakutin.html)。たべもの語源辞典には、 豆腐を一切盛に切って、両方から面をとって、串二本を用い、焦げないように焼く。この焼いた豆腐は湯水で洗ってはいけない。洗えば水を含んで良くない。……つぎに松前昆布を洗って、ひきさき、鍋の底に敷いて、この焼いた豆腐を幾重にも平たく並べ、酒をたくさん入れ、上に松前昆布を蓋のようにおおい、内蓋をして、また本蓋をする。炭火にかけて、静かによく煮る。酒の気も抜け、膳部を出そうというときに、醤油をさして味加減をする。盛って出すときも、蓋をした昆布は取らずに、昆布の下から盛って出す。……酒は十分たくさん入れた方がよい。かつおぶしのだしは少し入れ、酒に混ぜてもよい。だしを多く入れてはいけない。上置きはわさびばかりである、 と、 豆腐大きさ二寸(六センチ)四方、厚さ三、四分(0.9〜1.2センチ)に切って、面を取って、焼き、かつおぶし一節、酒一升、醤油を杓子に三杯入れ、昆布を鍋底に敷いて、炭火で(二時間くらい)煮て、味加減する、 と、当時の二種の料理法を紹介している。 「今出川豆腐」の命名のいわれには、 今出川というのは京都の地名でしょうか。今出川の料亭か屋台の名物料理といったところかと思います、 とか(http://www.chinjuh.mydns.jp/cgi-bin/blog_wdp/diary.cgi?mode=comment&no=1112)、 昔、菊亭前大納言が関東に御下向なされたとき御馳走が何日も続いた。そのうちにこの豆腐料理をこしらえて勧めた。大変喜ばれ、たびたび所望された。そしてこれは何という料理かとお尋ねになると、ただ、豆腐の煮ものですと答えたところ、名がないのは残念だ、今出川とでもいったらよかろうと笑われたので、そう名付けた、 とか(延享二年(1745)「伝演味玄集」跋文)があるらしいが、菊亭膳大納言の関東下向は、享保(1716〜36)か、それ以前であること、この料理は関東で作られたものであり京都の今出川とは無縁であることから、今出川家とは関係なく、今出川豆腐を使用したからでもない、とたべもの語源辞典は一蹴する。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 「桜餅」は、 小麦粉・白玉粉を練って薄く焼いた皮(紅白二種ある)に、餡を入れて、塩漬けの桜の葉で包んだ菓子。もとは、小麦粉の皮に餡を入れ、塩漬けの桜の葉で包んで、蒸籠で蒸したもの。桜時に江戸長命寺で売り出したのに始まる、 とあり(広辞苑)、 紅皮には白餡を包み、白皮には並餡を包む、 とある(たべもの語源辞典)。 関西風は、蒸した道明寺粉を用いて作る、 とある(広辞苑)。道明寺粉(どうみょうじこ)は、水に浸し蒸したもち米を干して粗めにひいたものである。 「桜餅」と呼ばれる餅菓子には、 関東風、 と 関西風、 がある、らしい。関東風は、関東以外では、 長命寺餅、 とも呼ばれることもあるが、関東で長命寺餅と呼ぶことは少なく、 長命寺の桜餅、 と称した場合、向島の、 長命寺桜もち(https://sakura-mochi.com/info/kodawari.php)、 を意味する(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E9%A4%85)。関西風は、 道明寺餅、 または略して、 道明寺(どうみょうじ)、 ともいう。関東及び一部の地域以外では、関東風の桜餅を見ることはほとんどなく、単に「桜餅」といえばこの道明寺餅のことを指す。 古文書に表れる「桜餅」は、南方熊楠によれば、 天和三年(1683年)である。大田南畝の著「一話一言」に登場する京菓子司、桔梗屋の河内大掾が菓子目録に載せたという。天和三年には桔梗屋菓子目録が出版され、また京菓子司・桔梗屋の河内大掾が江戸に店舗を構えた。これは蒸菓子であり、後の世の桜餅とは別物のようである。昔の作り方では、餅を桜の葉で包み、蒸籠で蒸すやり方がある、 とあり、さらに、 男重宝記(元禄六年、1693年)に「桜」とあるところに桜の五弁の花びらを模した桜餅の図が載っていて、その傍らに「中へあん入れる」と記されている、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E9%A4%85)。これより後だと思われるが、元禄四年(1691)に、下総から長命寺の門番になった山本新六という者が、享保年間(1716〜36)八代将軍吉宗が墨田川の堤に桜を植えて遊覧地になると、この桜の葉を利用して桜餅をこしらえて売り始めた(たべもの語源辞典)。 長命寺門内、山本屋新六、初めて売り出せり、 と、大言海にある。江戸名物詩には、長命寺桜餅として、 幟は高し長命寺邊の家、下戸爭買(ヒフ)三月頃、此節業平吾妻橋遊(せば)、不吟都鳥吟桜餅、 と載る(大言海)。文政十三年(1830)の嬉遊笑覧には、 近年隅田川長命寺の内にて櫻の葉を貯へ置て櫻餅とて柏餅のやうに葛粉にて作るはしめハ粳米にて製りしがやがてかくかへたり と、柏餅のように粳米で製していたものを、葛粉に替えたらしい。大言海には、その製法が、 葛粉に砂糖を加へ、水にて溶き、銅鍋に胡麻油を敷きたる上にて、薄く焼き成したるにて、赤小豆餡(あづきあん)を包み、その表裏を、又、鹽漬の櫻の葉に熱湯を注ぎたるもの二枚にて包み、蒸籠にて蒸して、成る、葉に、香気あり、 とある。文政八年(1825)の、曲亭馬琴他編『兎園小説』の中で、屋代弘賢が、 去年甲申一年の仕込高、桜葉漬込卅壱樽、但し一樽に凡そ二万五千枚程入、葉数〆七拾七万五千枚なり、但し餅一に葉弐枚宛なり、此餅数〆卅八万七千五百、一つの価四文宛、此代〆壱千五百五拾貫文なり、金に直して二百廿ヒ両壱分弐朱と四百五拾文、但六貫八百文の相場、此内五拾両砂糖代を引き、年中平均して一日の売高四貫三百五文三分宛なり と書いている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E9%A4%85)。桜餅一つの売値四文は、推定で米の価格から換算した場合は約63円らしい(仝上)。 ちなみに、墨田川東岸、向島長命寺は、天台宗で遍照院といい、常泉寺と称したが、寛永(1624〜44)の末、三代将軍家光が鷹狩りにきて、急に腹痛を起こし、この寺に休息し、寺の井戸水を一杯汲んで家光が飲んだところ、腹痛が治ったというので、この井戸に、「長明水」と名づけたところから、長命寺と称するようになった、という(たべもの語源辞典)。 浪華百事談(明治二十八年頃成立)によると、桜餅は、 天保の頃までは、浪花に於いて製せる家なく、北堀江高台橋の東の方浜の家に、土佐屋何某と云へる菓子司ありて、その家に製したるが始めなり、衆人めづらしとて求むること多し、もっともその製佳品にて、冬季はかたくりの粉の水にてときし物をうすくやき、中に白小豆の餡を入れて包み、その上を桜の葉にて挟み、夏秋には吉野葛にて、 とある(たべもの語源辞典)、とか。ただ、 もち米でできた昔からの桜餅が、古くから伝わる和菓子の流れに合って各地に広まっている、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E9%A4%85)、同じように道明寺粉で作った餅を椿葉で挟む椿餅があるので、桜の葉で包むこと自体が新しいのであって、道明寺粉で作ること自体は特別の創意ではないらしい。 これが道明寺桜餅なのかどうかははっきりしないが、関西の道明寺「桜餅」が、後発ながら、「桜餅」の代名詞になった。 因みに、「道明寺」は、尼寺である。「ほしい」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E3%81%BB%E3%81%97%E3%81%84)で触れたが、道明寺も、 糒(ほしい 干飯)の一種、 で、保存食として使われ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%98%8E%E5%AF%BA%E7%B2%89)、 糯米を水に浸し、吸水した後水を切り、古くは、釜の上にせいろを置いて、下から火をたいて蒸した。その蒸し上がった物を天日にさらして乾燥させて、干飯(ほしいい・ほしい)として保存した(仝上)。作り出したのは、 道明寺の尼僧、 で、 道明寺糒、 として有名になって、 道明寺、 といえば、糒のこととなった(たべもの語源辞典)。この道明寺糒を碾いて粉にしたものが道明寺粉である。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「あられ酒」は、 霰酒、 と当てる。 みぞれ酒、 ともいう。 奈良名産の混成酒、蒸米と米の麹とを入れた味醂、麹が霰のように浮いて見えるのでいう、 とある(岩波古語辞典)が、 糯米(もちごめ)の麹または霰餅を入れて密封し、熟成させた混成酒(広辞苑)、 あられ餅を、焼酎につけて干すことを数回繰り返してから、味醂の中に入れて密封・熟成させた酒(デジタル大辞泉)、 糯米の粕、溶化せずして交(まじ)る(大言海)、 ともあり、結局、酒のなかに、 糯米の麹、 か、 あられ餅、 か、 を浮かしたもの、 ということになるが、 奈良特産のみりんの名。白いかすが混じっているのを、あられに見立てていう(精選版日本国語大辞典)、 もろみが白く残るのでこの名がある(世界大百科事典)、 ということなのではないか。もろみ(醪・諸味)とは、醤油・酒などを作るために醸造した液体の中に入っている、原料が発酵した柔らかい固形物のことである。とすると、敢えて、浮くようにして、妙趣を出そうとした、ということもあるかもしれない。たべもの語源辞典は、 小さく砕いたかき餅を焼酎につけては引き上げて乾かし、これを繰り返して霰をつくり、味醂に入れて密封醸成させた、 という説と、 酒の中に糯米の糀(こうじ)を浮かべたもの、のし餅をつくってから、細かく刻んで焼酎につけ、乾燥することを繰り返し、霰をつくり、酒に加える、 の二説あるとする。どちらも、自然に出た浮遊物ではなく、意識的に「あられ」を浮かべた、ということになる。その由来は、 慶長年間(1596〜1615)に、奈良在住の町医者糸屋宗仙(一説には酒造家浅田某という)が、猿沢の池面にあられが降るようすを見て創案したという。製法は、のし餅を細かく刻み、それを焼酎に浸し漬けては乾燥させ、これを繰り返してできるあられ様のものを酒に加える、 とある(日本大百科全書・たべもの語源辞典)。ただ、たべもの語源辞典は、その時期を、 寛永年間(1624〜44)、 とし、 猿沢池畔の酒造家浅田某が、池の水に霰が落ちて浮遊するのを見て思いつき、それを真似て作った酒に、霰酒という名を付け、明正天皇に献じた、 とする別説も載せる。明正天皇は、元和九年(1624)〜元禄九年(1696)の在位なので、寛永年間ということになる。しかし、多聞院日記の天正三年(1575)一二月一八日に、 十後よりあられ酒樽一つ可二調下一之由被二申上一了、 とあり、あるいは、「あられ酒」は、その由来よりもっと古くからあった可能性はぬぐえない(精選版日本国語大辞典)。その「あられ」は、 糯米の粕、溶化せずして交(まじ)る、 であったのではないか。それに「あられ」を意識的に混ぜた手柄はあるにしても。 現在も奈良で売られている「南都霰酒(あられ酒)」は、 かき餅、またはもち米を薄く伸ばしてからあられのように切ったものを、焼酎に漬けては引き上げて日に干し、これを数回くり返した後、上みりんとともに瓶に入れ、密封して20日ほど熟成させたもの、 とある(http://www.kitora.com/harusika-araresake.htm)。その由来には、 起源は慶長時代(1610ごろ)の師走半ば、漢方医絲屋宗仙という人が春日大社へ参詣の帰路、猿沢池の水面に俄(にわか)に降ってきた霰(あられ)がポツポツと落ちて沈んで行く様子を見て、この面白さを風流人であった彼は、医師の立場からも、百薬の長である酒に、この風情を生かせないものかと工夫したのが始まりであるという説が伝えられえています、 とある(http://nara-shokubunka.jp/yamato/16-02.html)、とか。 「あられ」が文献に名が見られるのは江戸時代のはじめごろからであるが,日本料理ではこまかいさいの目に切ったものをあられと呼んだらしく(世界大百科事典)、のし餅や海鼠(なまこ)餅を切って作ったので,井原西鶴の「武道伝来記」(1687)には、 搔餅(かきもち),霰餅(あられ)をきざみゐしが、 という表現が見られる(仝上)、とある。「犬子集」(寛永)に、 玉よりもさけになしたき霰かな、 という句があり(大言海)、 爐びらきや 雪中庵のあられ酒(蕪村)、 旬のゑらぶみぞれふる夜のあられ酒(其角)、 の句もあり、「あられ酒」は、冬の季語である。 「あられ酒」は、みりん酒の一種なので、料理用のイメージが強いが、江戸時代の人々は薬用として、また高級な甘美酒として愛飲していたらしく、みりんと焼酎を混ぜたものを、上方では「柳陰(やなぎかげ)」、江戸では「本直し」と呼び、井戸で冷やして暑気払いとして飲む習慣があった(https://nara.jr-central.co.jp/kankou/article/0179)、という。 なお、米菓の「あられ」については、「煎餅」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba14.htm#%E7%85%8E%E9%A4%85)で触れた。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「あられ」は、 霰、 と当てる。「霰」(漢呉音セン、慣用サン)は、「あられ」の意だが、白い賽の目状のもの、あるいは餅菓子のあられ餅の意で使うのは、わが国だけである。 「あられ」は、 水滴が付着して凍り、白色不透明の氷の小塊となって地上に降るもの、 の意である(広辞苑)。今日、「あられ」は、 雲から降る直径5mm未満の氷粒、 とされ、 5mm以上のものは雹(ひょう)、 として区別される(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%B0)が、違いは大きさだけである。古くは、「雹」をも含めて、「あられ」といった(広辞苑)。また、 凍雨、 を含めて、あられと総称することもある(仝上)、らしい。 「あられ」は、 雪あられ、 氷あられ、 に区別され、「雪あられ」は、 雪の周りに水滴がついたもので白色不透明。気温が0度付近の時に発生しやすく、 「氷あられ」は、 白色半透明および不透明の氷の粒。発生原理は雹と同じで、積乱雲内で発生する。ともに地面に落下すると、パタパタと音を立てる、 とされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%B0)。単にあられと言った場合、雪あられをさすこともある(仝上)。 「あられ」は、 散(あら)くの語根を重ねて、あらあら、あららの約轉なるべし、 とするのが大言海、 あられとは、散(アラレ)なり、迸り散るの義なるべし、日本紀に、散の字、読みて、アラケと云ふが如き、是れなり(東雅)、 も同趣。日本語源広辞典の、 アラ(粗)+レ(接尾語)、 も関連する。「散(あら)く(」は、 疎く、 とも当て(岩波古語辞典)、 粗(アラ)を活用せしむ、疎疎(アララ)になる意、 とあり(大言海)、 散(あら)ぶ、 という語もある。「あら(粗・疎)」は、 こまか(濃・密)の対、 で、 アラアラ(略・粗)・アラク(粗)・アライミ(粗忌)・アラキ(粗棺)などのアラ。物がバラバラで、粗略・粗大である意を表す。母音交替によってオロと転じ、オロカ・オロソカの形で使われる、 とある(岩波古語辞典)。ただ、蛇足ながら、 荒、 と当てる「あら」は、 にき・ニコ(和)の対、 で、 アラカネ(鉄)・アラタマ(璞)・アラト(磺)ノアラで、物が生硬・剛堅で、烈しい、 意を表し、「粗」と当てる「あら」とは起源は別であったが、後に、「荒」一字で両義を意味するようになった(岩波古語辞典)、とある。 小さい粒状の氷塊がパラパラと降るさまは、確かに、 粗、 あるいは、 あらあら、 の感じである。 なお、あられ餅(霰餅)の「あられ」については、「煎餅」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba14.htm#%E7%85%8E%E9%A4%85)で触れた。 参考文献; 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 「霜を履(ふ)んで堅氷至る」は、 堅き氷は霜を踏むより至る、 ともいう。 霜を見て氷を知る、 という言い方もあり、 葉落ちて天下の秋を知る、 と似た意味になる。 「霜を履んで堅氷至る」は、 霜が降りる時期になれば、やがて厚い氷が張る寒い冬がやってくる。少しでも災いの兆候が現れれば、やがて大きな災難がやってくることにいう、 とある(広辞苑)。物事には前兆がある、という喩えに使われる。また、 前兆を見たら、次に来るものに対してあらかじめ備えよ、 という意でもある(故事ことわざの辞典)。易経・坤が出典である。 霜を履みて堅氷とは、陰のはじめて凝るなり、その道を馴致すれば、堅氷に至るなり、 とある(易経) (初六は)陰気の初めて生ずる時、その勢いはなお微弱であるが、放置すればやがて強勢になるから、早くにこれを警戒せねばならぬ。たとえば初めて霜を履む季節ともなれば、やがて堅い氷の張る時がやって来ることを予想すべきである、 と説く(仝上)。易は、 陰陽、 の二爻(こう)であり、これを重ねること三にして、 乾、兌(だ)、離、震、巽(そん)、坎(かん)、艮(ごん)、坤(こん)、 の八卦をなす、とある(易経)。爻とは効(なら)い交わる意。天地の現象に効って互いに交わり、また他に変ずるの意味、とある(仝上)。八卦を、自然現象に配当すれば、 天、沢(たく)、火(か)、雷、風、水、山、地、 となり、性情に当てれば、 健(健やかに強く)、説(えつ よろこび)、麗(付く)、動、入、陥、止、順、 となる(仝上)。 易に太極あり、これ両義を生ず、両義は四象を生じ、四象は八卦を生ず、 とあり、陰陽二爻から、八卦を組み合わせて、六十四卦三百八十四爻をもって、あらゆる一切の事物の現象の性体及びその作用をみようとする。そこには、天地の理から、神明の情、一身の修養、処世の要諦まで余すところなく含んでいるのだという(仝上)。 陰陽は無限の変化、 である。その変化作用を説こうとする。 一陰一陽、これを道と謂う、 と。陰となり陽となり、また陽となり陰となる無限の変化の原理を取り出して、その実相を説明するのである。 易は天地と準う。故に能く天地の道を弥綸(びりん もれなく包み込む)す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す、この故に幽明の故を知る。始めを原(たず)ね終わりに返る、故に死生の説を知る、 とある。 霜を履んで堅氷至る、 もまたそうした卦のひとつである。 「霜」は、「露」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E9%9C%B2)で触れたことと重なるが、 霜は露の発生と同様,地表面が冷却することででき,その付近の温度が 0℃以下のときに霜となる。このとき気温は地表から 1.5mの高さではかっているため,気温が 3〜4℃でも,地表面付近は 0℃以下となり霜ができる場合がある、 とある(ブリタニカ国際大百科事典)。 木の枝や地表より高いところにできる霜を樹霜といい,窓ガラスの内側にできる霜を窓霜(霜華)という、 ともある(仝上)。霜の形は、 雪の結晶と同じく六方晶系である。代表的なものには針状、羽毛状、樹枝状、板状、柱状、コップ状などがあるが、形のはっきりしない無定形のものが多い、 ともある(日本大百科全書)。これをメタファに、 かしらに霜をいただく、 というように白髪をいうこともある。これは、 霜毛、 というように「霜のように白い」という漢字の意味や、 星霜、 という漢字の含意から来たのかもしれない。 「霜」(漢音ソウ、呉音ショウ)は、 会意兼形声。「雨+音符相(縦に向かい合う・別々に並び立つ)」。霜柱が縦に並び立つことに着目したもの、 とある(漢字源)ように、「霜」の字は、どうやら、「霜柱」から作られたもののようであるが、別説は、 形声文字です(雨+相)。「天の雲から水滴がしたたり落ちる」象形と「大地を覆う木の象形と人の目の象形」(「木の姿を見る」の意味だが、ここでは、「喪(ソウ)」に通じ(同じ読みを持つ「喪」と同じ意味を持つようになって)、「失う」の意味)から、万物を枯らし見失わせる「しも」を意味する「霜」という漢字が成り立ちました、 とある(https://okjiten.jp/kanji1974.html)。個人的には、霜柱から来たとするのがいい気がする。確かに予兆と考えると、霜の気がしないでもないが、 霜を履んで堅氷至る、 は、霜柱にこそふさわしい気がするが、如何であろうか。 参考文献; 尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館) 高田真治・後藤基巳訳『易経』(岩波文庫) 「雲居(くもゐ)」は、 雲井、 とも当てる。 「居」は居座る意、 なので、 「井」は当て字、 とある(広辞苑)。 「雲居」は、 雲が居るほど高いところ、 すなわち、 大空、 の意であり、「雲の居る」ところは、すなわち、 雲、 の意ともなり、たとえば、 雲居隠り、 雲居路、 の「雲居」は、ほぼ「雲」の意であるが、さらに、それが比喩的に、 遠くまたは高くてはるかに離れているところ、 の意となり、 雲の上、 の意で、 宮中、皇居、 を意味する。万葉集の、 神の御面(みおも)と継ぎ来る那珂の港ゆ船浮けて我が漕ぎ来れば時つ風雲居に吹くに沖見ればとゐ波立ち辺(へ)見れば……、 は、「空」の意である。同じ、 雲居なる海山越えてい行きなば我れは恋ひむな後は逢ひぬとも は、「はるかに離れた」という意になり、古事記の、 はしけやし我家(わぎへ)への方よ雲居立ち来も、 は、「雲」の意であり、「南殿の花を見てよみ侍りける」とある、 春ごとの花に心はそめ置きつ雲居の櫻我を忘るな(玉葉)、 は、「宮中」を指す。 大言海は、「雲居」を、 雲の集(ゐ)るところの義(仙覚抄)、即ち、中空(なかぞら)の意、万葉集、「三船の山に、居雲(ゐるくも)の」或は、雲揺(くもゆり)の約(地震を、なゐと云ふも、根揺(ねゆり)の約)、雲の漂うところの意、 と説く。「ゐ」は、 居、 坐、 と当て、 立ちの対、すわる意、類義語ヲル(居)は、居る動作を持続し続ける意で、自己の動作ならば卑下謙遜、他人の動作ならば蔑視の意が籠っている、 とある(岩波古語辞典)が、 琴頭(ことがみ)に來ゐる影姫珠ならばわが欲る珠のあはび白珠、 とある「ゐる」は、 (雲・霞・人・舟などが)動かずに同じ場所にじっとしている、 という意(岩波古語辞典)で、ニュートラルに思える。 集(ゐ)る(仙覚抄)、 雲揺(くもゆり)の約(大言海)、 とするまでもなく(日本語源大辞典)、 雲の居(ゐ)る場所、 でよさそうである。 なお「雲」については、「くもる」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba10.htm#%E3%81%8F%E3%82%82%E3%82%8B)で触れた。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) |
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