「さるまた」は、もう死語かもしれない。たしか、松本零士の漫画(『男おいどん』だったか)に「サルマタケ」というのが出てきたが、あれは70年代、それ以降聞かない。 「さるまた」は、 猿股、 申又、 と当てる。広辞苑には、 男子が用いる腰や股をおおうももひき。さるももひき、西洋褌、 とあるが、 ぱっち、 とも呼ぶ。僕の記憶では、漫画で、「サルマタ」と呼んでいたのは、 トランクス型の下着のパンツ、 であった。どうやら、「さるまた」は、 短い股引、 を指していたものらしい。 「19世紀頃の欧米の主な下着であったユニオンスーツから派生し、日本に導入された。大正時代以降、褌と並ぶ男性用下着であった。」 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%BF%E8%82%A1)。 「ユニオンスーツ」は、上下がセットになった下着で、は腕や足までカバーできるものもあり、どちらかというと全身タイツのような外見であった(https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1805/22/news136.html)らしい。胸から股間のあたりまでボタンが並んでおり、前部分が開閉できた(仝上)、とある。さらに、 「一体型の下着であったユニオンスーツが1910年代に上下に分離化され、第一次世界大戦前頃(1914年)よりショートパンツ化されたことで、日本に出現したのは大正期以降ではないかと推測される」 ともある(仝上)。とすると、「さるまた」は、近代以降のものということになる。しかし、「さるまた」は、 猿股引(さるももひき)、 ともある。大言海は、「さるまた」は、 猿股引の、股を股(また)と読みたるなり、 とする。江戸語大辞典も、「猿股引」は、 膝下一、二寸の長さの股引、 とある。とすると、「股引」は、 猿股引の略、 ともある(広辞苑)ので、「さるまた」は、 股引(ももひき)、 と重なる。「股引」は、 両の股を通してはく狭い筒状の下ばき、 で、 ももはばき(股脛巾)、 ともいい大言海)、 股着(またはき)の転なるべし、脚絆に対して、股まではく、 とある(仝上)。脚絆は、脛に着け、小幅の長い布を巻き付けて紐で留める。 こうみると、確かに「さるまた」は、西洋由来かもしれないが、その土壌になる「股引」があったことになる。しかし、その「股引」自体、 ポルトガルから伝わったカルサオ(カルサンとも)が原形、 とされるが。 「さるまた」は、猿股引の略とする以外、 生地は薄茶色のメリヤス地、 で、そのため「さるまた」の「さる」は、 サラシ(晒)のサル(衣食住語源辞典=吉田金彦)、 という説もあるが、 京都や山梨県北都留郡では下部の短い猿股をキャルマタ、ケエロマタ(蛙股)といっており、それがサルマタと聞こえた(おしゃれ語源抄=坂部甲次郎)、 マタシャレという袴の一種を逆さに言ったという説(世界大百科事典)、 等々という説もある(日本語源大辞典)。しかし、股引からきて、猿股へつながった流れから見ると、 猿股引の略、 でいいのではあるまいか。「股引」は、 「江戸時代,職人がはんてん(半纒),腹掛けと組み合わせて仕事着とした。紺木綿の無地に浅葱(あさぎ)木綿の裏をつけ袷(あわせ)仕立てにしたが,夏用には白木綿や縦縞の単(ひとえ)もあった。すねにぴったりと細身に作るのを〈いなせ〉(粋)とし,極端なものは竹の皮をあてて踵(かかと)をすべらせなければはけないほど細く仕立てた。後ろで打ち合わせてつけ紐で結ぶのが特徴で,腰の屈伸が自由で機能的な仕事着である」 とあり(世界大百科事典)、さらに、 「脚の膨らみにあわせるように、後ろに曲線裁ちの襠(まち)が入っている。腰を包む引回しに特徴があり、裁着(たっつけ)、もんぺなどと構成を異にする。」 ともある(仝上)。 「江戸時代には武家、町人ともこれを用い、江戸末期になると、半纏(はんてん)、腹掛け、ももひき姿は職人の制服のようになり、昭和初期まで続いた。ももひきの生地(きじ)は盲縞(めくらじま)の木綿、商人は千草色、浅葱(あさぎ)色などで、武家用のは小紋柄(がら)であった。」 ともある(日本大百科全書)。 「股引」は、 股脛巾(ももはばき)の変化した語、 とされる(貞丈雑記)が、上述したように、安土桃山時代にポルトガルから伝わったカルサオ(カルサンとも)と呼ばれる衣服が原形とされる。これが日本の伝統的ボトムスであり、下着としても使われた。腰から踝まで、やや密着して覆い、腰の部分は紐で締めるようになっている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%A1%E5%BC%95)。江戸時代には鯉口シャツ(ダボシャツとも)や、「どんぶり」と呼ばれる腹掛けと共に職人の作業服となり、農作業[や山仕事などにも広く使われた(仝上)。 この変形に、 半股引(はんだこ)、 と称する、膝上までのハーフパンツに似た形のものがある。祭りなどで着るものである。 これが、 ステテコ、 の原型であるが、「ステテコ」は、 パッチ、 と呼ばれるものとつながる。「パッチ」という言葉は、18世紀頃には日本語として定着していた。 「京阪と江戸ではその呼び方に違いがある。京阪では素材を問わず足首まである丈の長いものをパッチ、旅行に用いる膝下ぐらいのものをモモヒキといい、江戸では(宝暦ごろから流行し始め)チリメン絹でできたものをパッチ、木綿ものは長さにかかわらずモモヒキと呼んだ。短いモモヒキは半モモヒキ(=半タコ)、または猿股引(さるももひき)と呼んで区別する事もある。パッチは一般にゆるやかに仕立てられ、モモヒキは細めに作られた。」 とある(http://www.steteco.com/archives/history.html)。また、 「筏師(いかだし)の間では極端に細いももひきが好まれ、これを川並(かわなみ)といった。はくときに竹または紙をくるぶしにあててはくほどの細さであった。これに対して五分だるみ、一寸だるみのものもあり、これを象ももひきといった。火消(ひけし)の者は江戸では釘(くぎ)抜きつなぎ、上方(かみがた)ではだんだら模様を用いた。」 ともある(日本大百科全書)。 つまり、「股引」から、「パッチ」「ステテコ」「半タコ」と経て、「さるまた」「トランクス」と変じてきたことになり、原形は、「股引」ということになる。その原型は、カルサオ(カルサン)である。 「ステテコ」は、着物や袴の下に穿く下着として、明治以降の日本の近代化に伴い全国的に普及したが、 1880年頃、初代(本当は3代目)三遊亭圓遊が「捨ててこ、捨ててこ」と言いながら、着物の裾をまくり踊る芸「ステテコ踊り」の際に着物の裾から見えていた下着であったためとする説、 着用時に下に穿いた下着の丈が長く、裾から下が邪魔であったため裾から下を捨ててしまえでステテコと呼ばれるようになった説、 等々に語源がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%86%E3%82%B3)、といわれているが、圓遊のはいていたのは、「パッチ」らしく、ステテコ踊りなので、 ステテコパッチ、 と呼ばれ、略して、 ステテコ、 になった(上方語源辞典=前田勇)、ともある。こちらのほうだろう。 「ぱっち」は、朝鮮語由来とされ、 朝鮮語ba-jiは男性がはくズボン状の服、 とある(日本語源大辞典)。 参考文献; 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「何れ菖蒲」は、 何れ菖蒲か杜若、 菖蒲と杜若、 とも言う。 いずれあやめかかきつばた、 とは、 どちらもすぐれていて、選択に迷うことのたとえ、 とされるが、この諺の出典は、平安時代末期に『源三位(げんざんみ)』と称された源頼政の、 五月雨に沢べのまこも水たえていずれあやめと引きぞわづらふ、 という歌に由来する。それは、 「頼政がぬえ退治の賞として菖蒲前(あやめのまえ)という美女を賜るとき、十二人の美女の中から見つけ出すようにいわれて詠んだとされる」 という『太平記』の話に基づく(故事ことわざ辞典)。 「あやめ」は、 菖蒲、 と当てる。「菖蒲」は、 ショウブ、 と訓ませると、「あやめ」は、 しょうぶの古称、 である。これは、あやめとは、葉の形が似るだけでまったくの別種(サトイモ科ショウブ属)。五月の節句に用いる「しょうぶ湯」の「ショウブ」。武芸の上達を願う「尚武」、戦に勝つ「勝武」に通じることかららしい。これは、 「晩秋から冬期にかけて地上部が枯れてから、採取した根茎のひげ根を除いて水洗いし、日干しにしたものが生薬の「ショウブコン(菖蒲根)」です。ショウブコンは特有の芳香があり、味は苦くやや風味がある精油を含みます。その水浸剤は皮膚真菌に対し有効であると言われています。また、採取後1年以上経過したものの煎剤は芳香性健胃薬、去痰、止瀉薬、腹痛、下痢、てんかんに用いられます」 とある(https://www.pharm.or.jp/flowers/post_7.html)ように、薬草で、 和名は同属のセキショウ(漢名・石菖)の音読みで、古く誤って菖蒲に当てられたらしい(仝上)。本来、「菖」(ショウ)は、 「会意兼形声。『艸+音符昌(ショウ あざやか、さかん)』で、勢いがさかんで、あざやかに花咲く植物」 の意で、「菖蒲」の意。「ショウブ」は、「白菖」という。「蒲」(漢音ホ、呉音ブ)は、 「会意兼形声。『艸+音符浦(みずぎわ、水際に迫る)』」 で、「がま」の意。「あやめ」は、だから、「ショウブ」の古称として、 文目草の義、 とし(大言海)、 「和歌に、あやめ草 文目(あやめ)も知らぬ、など、序として詠まる、葉に体縦理(たてすぢ)幷行せり。アヤメとのみ云ふは、下略なり」 とする。しかし、岩波古語辞典は、 菖蒲草、 と当て、 「漢女(あやめ)の姿のたおやかさに似る花の意。文目草の意と見るのは誤り」 とし、 「平安時代の歌では、『あやめも知らぬ』『あやなき身』の序詞として使われ、また、『刈り』と同音の『仮り』、『根』と同音を持つ『ねたし』などを導く」 とする。いずれとも決めがたいが、「ショウブ」の別名として、 「端午の節句の軒に並べることに因んだノキアヤメ(軒菖蒲)、古名のアヤメグサ(菖蒲草)、オニゼキショウ(鬼石菖)などがあります。(中略)中国名は白菖蒲といいます。」 とある(https://www.pharm.or.jp/flowers/post_7.html)ので、 菖蒲草、 と当てる方に与しておく。 同じ「菖蒲」を当てるためややこしいが、「あやめ」は、アヤメ科アヤメ属。「ショウブ」と区別するため、 はなあやめ、 と呼んだ。「あやめ」が、 はなあやめ、 の意と、 ショウブの古名、 の意と重なるため、どちらの語源を言っているのかが、曖昧になる。たとえば、「ショウブ」は、 「葉はハナショウブに似ており、左右から扁平で中央脈が高く、基部は左右に抱き合うように2列に並び、芳香がある」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%83%96) 「葉にはアヤメのような扁平な剣状(単面葉)で、中央にはっきりした中肋(ちゅうろく)があります。」(https://www.pharm.or.jp/flowers/post_7.html) という葉の特徴から、 葉脈に着目して、その文目の義(名言通・古今要覧稿・大言海)、 アヤベ(漢部)の輸入した草だからか(日本古語大辞典=松岡静雄)、 アヤメ(漢女)草の義(和訓栞)、 は、「ショウブ」(古名あやめ)を言っていると思われ、 アヤはあざやか、メは見える意。他の草より甚だうるわしく鮮やかに見える(日本釈名)、 は、どちらともとれる。「あやはあざやかなり、めはみゆるなり、たの草よりあざやかにみゆるなり」の記述からすると、花の意のようである。 菖蒲の冠をした女が蛇になったという天竺の伝説から、蛇の異名であるアヤメを花の意とする(古今集注)、 アハヤと思いめでる花の意から(本朝辞源=宇田甘冥)、 は、「はなあやめ」のことを言っているらしい。決め手はないが、しかし、 花弁の基部に筋目模様があることから、「文目(あやめ)」の意、 とされるのが自然なのではないか。 日本語の語源は、例によって、 「紫または白色の上品な様子をアデヤカナルミエ(貴やかなる見え)といった。見え[m(i)e]が縮約されてアヤメになった」 とするのは、いかがなものだろう。 さらにややこしいのは、 はなしょうぶ(花菖蒲)、 と呼ばれている、水辺に咲く植物。これも、アヤメ科アヤメ属。「ハナショウブ(花菖蒲)」は、 葉が菖蒲に似ていて花を咲かせるから、 そう呼ぶ。アヤメ類の総称としてハナショウブをアヤメと呼ぶことも多いのも、アヤメ科アヤメ属だからまちがいではないものの、輪をかけてややこしい。ハナショウブは、 ノハナショウブ、 の園芸種で、花の色は、白、桃、紫、青、黄など多数あり、絞りや覆輪などとの組み合わせを含めると5,000種類あるといわれている。 その系統を大別すると(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%83%96)、 品種数が豊富な江戸系、 室内鑑賞向きに発展してきた伊勢系と肥後系、 原種の特徴を強く残す長井古種、 の4系統に分類でき、他にも海外、特にアメリカでも育種が進んでいる外国系がある(仝上)、とか。 「カキツバタ」は、 燕子花、 杜若、 と当て、やはりアヤメ科アヤメ属である。借りた漢字、「燕子花」はキンポウゲ科ヒエンソウ属、「杜若」はツユクサ科のヤブミョウガを指す。ヤブミョウガは漢名(「とじゃく」と読む)であったが、カキツバタと混同されたものらしい(仝上、語源由来辞典、日本語源大辞典)。 ふるく奈良時代は、 かきつはた、 と清音であった、とされる(岩波古語辞典) 「カキツバタ」は、 書付花(掻付花 かきつけばな)の変化したもので、昔は、その汁で布を染めたところからいう、 とするのが通説らしい。「汁を布に下書きするのに使った」(日本語源広辞典)ところからきているが、「音変化が考えにくい」(語源由来辞典、日本語源大辞典)と異論もあるが。 万葉集は、 垣津幡、 と当てている。 垣下に咲く花(東雅)、 カキツバタ(垣端)の義(本朝辞源=宇田甘冥)、 も的外れではないかもしれない。 「カキツバタ」は、江戸時代の前半にはすでに多くの品種が成立していたが、江戸時代後半にはハナショウブが非常に発展して、カキツバタはあまり注目されなくなったらしい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%AD%E3%83%84%E3%83%90%E3%82%BF)。 参考文献; 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
「羊羹」は、一般には小豆を主体とした餡を型(羊羹舟)に流し込み寒天で固めた和菓子で、寒天の添加量が多くしっかりとした固さの、 煉羊羹(ねりようかん)、 と、寒天が少なく柔らかい、 水羊羹(みずようかん)、 があり、寒天で固めるのではなく、小麦粉や葛粉を加えて蒸し固める製法もあり、これは、 蒸し羊羹、 と呼ばれる。単に「羊羹」という場合、煉羊羹を指す(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8A%E7%BE%B9)、とある。 しかし、「羹」(漢音コウ、呉音キョウ、唐音カン)は、 あつもの、 の意で、 「会意。『羔(丸煮した子羊)+美』」 とあり、 肉と野菜を入れて煮た吸い物、 である。大言海は、 「カンは支那音羹(キャング)なるべきか。或は羹(カク)の音轉か(庚申(カウシン)、かんしん。甲乙(カフオツ)、かんおつ。冠(カウブリ)、かんむり。馨(カウバシ)、かんばし)。支那にて羊羹と云ふは、戦国策、中山策に、『中山君饗都士大夫、云々、羊羹不遍』とあり、羊肉のあつものなれば、固より當らず、是れは羊肝糕にて(糕は餅なり)、羹、糕同音なれば、通はせ用ゐたるまなり(羹を糕の意とし菓子の名とすと云ふ)。羊肝とは其形色、羊の肝に相似たれば云ふ。牛皮糖の如し」 とする。牛皮糖とは、求肥(ぎゅうひ)のことである。もともとは「羊羹」は、 「読んで字のごとく羊の羹(あつもの)、つまりは羊の肉を煮たスープの類であった。南北朝時代に北魏の捕虜になった毛脩之が『羊羹』を作ったところ太武帝が喜んだという記事が宋書に見えるが、これは本来の意味の羊のスープであったと思われる。冷めることで肉のゼラチンによって固まり、自然に煮凝りの状態となる。『羹』の通常の音(漢音)は『こう(かう)』で、『かん』は唐音」 である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8A%E7%BE%B9)。 羹に懲りて膾を吹く、 という諺の「羹」である。 「羹とは、古くから使われている熱い汁物という意味の言葉で、のちに精進料理が発展して『植物性』の材料を使った汁物をさすようになりました。また、植物に対して『動物性』の熱い汁物を『臛(かく)』といい、2つに分けて用いました。」 ともある(https://nimono.oisiiryouri.com/atsumono-gogen-yurai/)。「あつもの」で引くと、 臛(カク 肉のあつもの)、 懏(セン 臛の少ないもの)、 と載る(字源)。 「羊肝糕(ようかんこう)は紅豆白糖を以て剤となす。牛皮糖は糯粉糖(じゅふんとう)を以て超して滷(こ)して餅となすべし」 と中国の『金門歳節』にあるという(たべもの語源辞典)。 「羊肝は羊の肝で、糕(こう)は餻(こう)と同字、むし餅の類である。紅豆は赤小豆で白糖は白砂糖である。これは羊の肝の色をした赤小豆と白砂糖でつくったむしもちのようなもの」 である(仝上)、とある。唐書に、 「洛陽の人家、重陽に羊肝餅をつくる」 とある由で、唐代には、九月九日の重陽に羊肝餅をたべたのである(仝上)。 鎌倉・室町時代に、禅宗文化渡来とともに、日本に伝わった。しかし、 「獣肉食を喜ばない日本では、羊の肝ではいけない。そこで中国にある『羊羹』という料理名を用いた」(仝上) が、その謂われには、諸説ある。 「羊肝こうが日本に伝来した際、『肝』と『羹』の音が似ていたことから混同され。『羊羹』の文字が使われるようになった。」(語源由来辞典) 「羊肝糕の糕と羹は同音であるから羊羹とした」(たべもの語源辞典)、 「羹は糕と同音なる糕というべきものも誤りて羹とかけり」(嬉遊笑覧)、 しかし、 「カンは唐音」(広辞苑)、 という説もあり、「カウ(コウ)」→「カン」の転音はあるのだろうか。さらに、獣を不潔とするので字を改めたとしても、「羊の字を変えなかったのは、どうしてだろうか」(たべもの語源辞典)、という疑問は残る。 「中国で羊の丸煮をいう羊羹に似せて作ったところから(たべもの語源抄=坂部甲次郎)、 という説が、あながち無理筋ではなく見えてくる。「羊羹」の初出は室町時代に書かれた『庭訓往来』の「点心」に、 羊羹・砂糖羊羹・筍羊羹・猪羊羹、 の名が挙がっている(たべもの語源辞典)。 「初期の羊羹は、小豆を小麦粉または葛粉と混ぜて作る蒸し羊羹であった。蒸し羊羹からは、芋羊羹やういろうが派生している。また、当時は砂糖が国産でできなかったために大変貴重であり、一般的な羊羹の味付けには甘葛などが用いられることが多く、砂糖を用いた羊羹は特に「砂糖羊羹」と称していた。だが、17世紀以後琉球王国や奄美群島などで黒砂糖の生産が開始されて薩摩藩によって日本本土に持ち込まれると、砂糖が用いられるのが一般的になり、甘葛を用いる製法は廃れていった」 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8A%E7%BE%B9)。 煉羊羹が最初に作られたのは、京都で、天正十七年(1589)で鶴屋(岡本善右衛門)が、 「テングサ(寒天の原料)・粗糖・小豆あんを用いて炊き上げる煉羊羹を開発し豊臣秀吉に献上した」 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8A%E7%BE%B9、たべもの語源辞典)。寛永三年(1626)に金沢で遠州流茶人金物屋忠左衛門が煉羊羹をつくり、宝暦年間(1751〜64)に、 「(加賀藩の)十代藩主重教の江戸出府に従って、本郷の加賀下屋敷赤門に近い日影町に店を構え、『藤むら』の屋号で、ユリ羊羹など二七種つくりだす(たべもの語源辞典)。 江戸時代は煉羊羹全盛時代であり、江戸本郷の藤村羊羹をはじめ、多くの名舗が現われた 寛政の初めころ(1792)には、日本橋通一丁目横町字式部小路で売り出された「喜太郎羊羹」は評判となり、天保六年(1835)の『江戸名物詩初篇』には、鈴木越後、金沢丹後の羊羹が載っている(仝上)し、江戸後期の『嬉遊笑覧』には、 「茶の湯の口取に煉羊羹うばたまなどは紅粉や志津磨始て製す寛政の頃よりなり」 と載る(たべもの語源辞典)。煉羊羹の全盛になると、一方、 「初期の製法の羊羹(蒸し羊羹)は、安価な下物(煉羊羹の半値)になり、その一部は丁稚羊羹と称したものもある。また、料理菓子として、煉羊羹を半煉り状にした製法の羊羹もつくられ、後に水分を多くした水羊羹がつくられるようになり、御節料理として、冬の時季に食された」 ともある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8A%E7%BE%B9)。 ちなみに、羊羹を一棹、二棹と数えるのは、 「寒天を加えられたものを船型の箱に流し込んで凝結させ、これを細長く切るからで、江戸でも、大阪でもこれを棹物とよんだ」 ことによる(たべもの語源辞典)。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 「湯葉」については、「豆腐」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E8%B1%86%E8%85%90)に触れた時、 「豆腐」は、中国名をそのまま日本訓みしたもの。白壁に似ているので、女房詞で、 おかべ、 ともいう。豆腐をつくるときの皮は、老婆の皺に似ているので、 うば、 と言い、転じて、 ゆば(湯婆)、 と言い、豆腐の粕を、 きらず、 というのは、庖丁を用いなくても刻んだから、という。 おから、 である(たべもの語源辞典)、と書いた。しかし、 うば→ゆば、 の転訛とは限らないようだ。少し補足しておきたい。 「湯葉」は、言うまでもなく、 「豆乳を加熱した時、ラムスデン現象によって液面に形成される膜」 で(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%86%E3%81%B0)、竹串などを使って引き上げる。精進料理の材料である。ラムスデン現象とは、 「牛乳を電子レンジや鍋で温めたりする事により表面に膜が張る現象である。これは成分中のタンパク質(β-ラクトグロブリン)と脂肪が表面近くの水分の蒸発により熱変性することによって起こる。豆乳でできる膜は湯葉と呼ぶ。」 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%87%E3%83%B3%E7%8F%BE%E8%B1%A1)。 「湯葉」は、 湯波、 油皮、 湯婆、 等々とも当てる。また、 イトヤキ、 豆腐皮(とうふかわ)、 とも呼ぶ(たべもの語源辞典)。中国では、 豆腐皮、 腐皮、 と書く(仝上)。中国では、 「シート状に干した「腐皮」(フーピー)と、棒状に絞ってから干した「腐竹」(フーチュー)が多く、日本の湯葉のような巻いた形状で市販されることはまれである。結んだ状態の「腐皮結」(フーピージエ)は中国でも作られている。」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%86%E3%81%B0) はじめ、 うば、 と呼ばれ、 姥(うば)、 の字を当てたり、 豆腐の皮(うば)、 とも称した(たべもの語源辞典)。 豆腐との最大の差は製造方法である。 「豆腐はにがり等の凝固剤を使用して、大豆の植物性蛋白質を凝固(塩析)させたものであり、ゆばは凝固剤を使用せず、加熱により大豆の蛋白質が熱凝固したものである。凝固剤を使用しないため、大豆から製造できる量は豆腐の約10分の1程度と少ない」 とある(仝上)。日本の「湯葉」は、 「約1200年前に最澄が中国から仏教・茶・ゆばを持ち帰ったのが初めといわれ、日本最初のゆばは、滋賀県大津市に位置する比叡山の天台宗総本山の延暦寺に伝わり、比叡山麓の坂本…に童歌『山の坊さん何食うて暮らす、ゆばの付け焼き、定心房』として唄われたことが歴史的な記録に残っている。」 とある(仝上)。 「日本で最初にゆばの伝わった比叡山麗の京都や近江、古社寺の多い大和、そして日光、身延といった古くからの門前町が産地として有名で、京都と大和、身延では『湯葉』、日光では『湯波』と表記する。」 薄膜を竹の串で掬い上げ、くしごと棚にかけるが、 「日光湯波は、細い棚にかけ、二枚に分かれた湯波の裏表をつけて一枚に仕上げる。京湯葉は、くしで上げて棚にかけるとき、幅のある棚に渡して一枚を二枚に分ける。だから、二枚に切ったときトイ(戸樋)の部分ができ、この湯葉のトイを京では売っている。日光には折れ目に残るトイの部分がない。日光湯波は厚みが京湯葉の倍はある」 という(たべもの語源辞典)。京湯葉は一枚なのに、日光の/湯波は二枚重ねということになる。身延では湯葉を何枚も重ねて固めた「角ゆば」も作られている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%86%E3%81%B0)、とか。 さて、「ゆば」の語源であるが、大言海(日本語源広辞典)は、 うば(豆腐皮)の転(ゆだる、うだる。ゆでる、うでると同趣)、 とするが、「豆腐皮」をなぜ「うば」と訓ませたかの説明がない(たべもの語源辞典)。もちろん、 姥(うば)の訛りであり、黄色く皺のある様が姥の面皮に似ていることからそう言われるようになった、 というのは単なる語呂合わせの俗説。ほかに、 豆腐の上物の略のトウフノウハをさらに略したウバの転か(骨董集・上方語源辞典=前田勇)、 湯張の義(語簏)、 上端の意味で「上(うは)」から変化して「うば」となり、『ゆば』になった(語源由来辞典)、 等々あるが、その製造プロセスから見れば、 ウハ→ウバ、 の転訛とみるのが自然であるようだ。山東京伝『骨董集』が、 「ユバの本名はウバである。(中略)『異制庭訓往来』に、豆腐上物とあるのが本名だろう。豆腐をつくるとき上に浮かぶ皮であるからといったので、それを略して豆腐のウハバといい、音便には文字を濁ってウバといった。ウバとユバとウとユと横にかよへば、甚だしい誤りではない」 といった(たべもの語源辞典)、とある。『うば』が『ゆば』と呼ばれるようになったのは18世紀の終わり頃という(語源由来辞典)。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 「いざよい」は、 十六夜、 と当てると、 十六夜の月、 の意である。 十三夜月(十三日月) ↓ 小望月(十四日月) ↓ 満月(十五日月、望月) ↓ 十六夜月(十六日月、既望) ↓ 立待月(十七日月) ↓ 居待月(十八日月) ↓ 寝待月(十九日月、臥待月) ↓ 更待月(二十日月) ↓ 下弦の月(二十三夜月) と続く、陰暦十六日月である。 満月よりも遅く、ためらうようにでてくるのでいう、 とある(広辞苑)。 月の出を早くと待っても、月が猶予うという気持ちから、 ともある(岩波古語辞典)。大言海は、 日没より少し後れて出づるに因りて、躊躇(いさよ)ふと云ふなり。イサヨフは、唯、やすらふの意の語なれど、特に此の月に云ふなり。…和訓栞、いさよひ『ヨヒを、青に通ハシ云ふ也』。十七夜の月を立待の月と云ひ、十八夜の月をゐまち(居待)の月と云ふ、 とする。「いさよふ」とあるのは、「いざよう(ふ)」が、 上代ではイサヨイと清音。鎌倉時代以後イザヨイと濁音。 であることによる(岩波古語辞典)。「十六夜月」も、 いさよひ、 と清音であった。「いざよふ」は、 (波・雲・月・心などが)ぐずぐずして早く進まない、動かず停滞している、 という意味である(仝上)が、「いさよふ」の語源を、岩波古語辞典は、 イサはイサ(否)・イサカヒ(諍)・イサヒ(叱)と同根。全身を抑制する意。ヨヒはタダヨヒ(漂)のヨヒに同じ、 とし、大言海は、 不知(いさ)の活用にて、否(イナ)の義に移り、否みて進まぬ意にてもあらむか。ヨフは、揺(うご)きて定まらぬ意の、助動詞の如きもの、タダヨフ(漂蕩)、モコヨフ(蜿蜒)の類、 とし、微妙に違う。「よひ」は、 ただよひ、 かがよひ、 もごよひ、 などの「よひ」で、動揺し、揺曳する意(岩波古語辞典)として、「いさ」は、 否、 不知、 と当て、 「イサカヒ・イサチ・イサヒ・イサメ(禁)・イサヨヒなどと同根。相手に対する拒否・抑制の気持ちを表す」 とあり(仝上)、相手の言葉に対して、 さあ、いさ知らない、 さあ、いさわからない、 という使い方をしたり、「いや」「いやなに」「ええと」など、相手をはぐらかしたりするのに使う(岩波古語辞典)、とある。これだと、月が、 はぐらかしている、 という含意になる。どちらとも決めかねるが、個人的には、「はぐらかす」よりは、「出しぶる」意味の方がいいような気がする。 日本語源大辞典は、 「いさ」は感動詞「いさ」と同根。「よふ」は「ただよふ(漂)」などの「よふ」か、 とする。「いさ」は、 さあ、 と人を誘うときや、自分が思い立った時、 の言葉だが(岩波古語辞典)、通常、 いざ、 と濁る。大言海は、 率、 去来、 と当て、 イは、発語、サは誘う声の、ささ(さあさあ)の、サなり。いざいざと重ねても云ふ。…発語を冠するによりて濁る。伊弉諾尊、誘ふのイザ、是なり。率の字は、ひきゐるにて、誘引する意。開花天皇の春日率川宮も、古事記には、伊邪川(いざかはの)宮とあり、 とする。そして、「いさ」(不知)と「いざ」(率)と混ずべからず、としている(大言海)。やはり、感嘆詞は、無理があるかもしれない。 因みに、「いざ」に、 去来、 と当てるのは、「帰去来」からきている。帰去来は、 かへんなむいざ、 と訓ませるが、 訓点の語、帰りなむ、いざの音便。仮名ナムは、完了の助動詞。來(ライ)の字にイザを充(あ)つ。來(ライ)は、助語にて、助語審象に『來者、誘而啓之之辞』など見ゆ(字典に『來、呼也』、周禮、春官『大祝來瞽』。來たれの義より、イザの意となる)。帰去来と云ふ熟語の訓点なれば、イザが語の下にあるなり。史記、帰去来辞(ききょらいのことば)、など夙(はや)くより教科書なれば、此訓語、普遍なりしと見えて、古くより上略して、去来の二字を、イザに充て用ゐられたり、 とある(大言海)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 「蓮」(はす)の地下茎は、 蓮根(れんこん)、 という。ハスの花と睡蓮を指して、 蓮華(れんげ)、 といい、仏教とともに伝来し古くから使われた。「蓮」は、 芙蓉(ふよう)、 水華(すいか)、 渓客(けいきゃく)、 君子花(くんしか)、 水宮仙子(かいきゅうせんし)、 不語仙(ふごせん)、 といった中国名があるが、 草芙蓉(くさふよう)、 露堪草(つゆたえぐさ)、 ツマナシキグサ、 ツレナシグサ、 水堪草(ミズタエグサ)、 等々の名もあり、古名には、 水の花、 池見草(いけみぐさ)、 水芙蓉(すいふよう、みずふよう)、 等々の異称をもつ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%B9、たべもの語源辞典)。日本での古名は、 はちす、 で、花托の形状を蜂の巣に見立てた、 蜂巣、 の意である(岩波古語辞典)。「はす(蓮)」は、 ハチスの転訛、 とされる(仝上)。 「ハスの実の入っている花托には孔がたくさんあって、そこに実が収まっているのだが、その形がハチの巣によく似ている」(たべもの語源辞典) ためである。ただ、 「『色葉字類抄』の『荷 ハチス 俗ハス』の記述から、平安後期にはハチスが正しく、ハスは俗語意識されていたことがわかる」 とあり(日本語源大辞典)、「ハチス」が正式な名であった。 和名抄には、 蓮子、波知須乃美、 本草和名には、 藕實、波知須乃美、 とある(大言海)。 「蓮」(レン)の字は、 「会意兼形声。『艸+音符連(レン 連なる)』。株がつらなって生えているからいう」 とある(漢字源)。漢字では「蓮」の他に、 荷、 藕、 とも当てる。「荷」(漢音カ、呉音ガ)は、 「会意兼形声。『艸+音符何(人が直角に、荷物をのせたさま)』で、茎の先端に直角に乗ったような形をしているハスの葉のこと。になうの意は、もと何と書かれたが、何が疑問詞に使われたため、荷がになう意に用いられるようになった」 とあり、「荷」が「ハス」の総称。「藕」(グウ、漢音ゴウ、呉音グ)は、 「会意兼形声。『艸+耒+音符禺(グ ならぶ、似た物)』。同じ形をした根茎が次々と並ぶ植物」 とあり、はすの根の意である。 「茎の上にT型に乗った形で花や葉がつく。実を蓮(レン)といい、根を藕(グウ)といい、ともに食用にする」 とある(漢字源)。で、 蓮根、 という言葉は、和製語である。 日本国内においては、考古学資料として大賀ハスの例があり、2,000年以上前の縄文時代に既にあった、 とする説もある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%B3)。万葉時代、 はちす葉はかくこそ有るもの意吉麻呂(おきまろ)が家なるものは芋(うら)のはにあらし、 という歌があり、わが家の蓮は芋の葉のようだと謙遜し、主人のものをほめている(http://www.pref.nara.jp/45517.htm)。『常陸国風土記』(718年)には、 「神世に天より流れ来し水沼なり、生ふる所の蓮根、味いとことにして、甘美きこと、他所に絶れたり、病有る者、この蓮を食へば早く差えて験あり」 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%B3)。『延喜式』(927年)には、蓮の根がでてくる、らしい(たべもの語源辞典)。 「ハスの花は紅と白がある。紅花の蓮根は俗に『みはす』といい、大きいが粘りが少ない。白花の蓮根は通常『もちはす』と称して、小さいが粘りが多くおいしい。関東地方のハスは品質が優れている。九州地方は大きいものを産するが、味はやや劣る。そこでその大きな穴に芥子を詰めた『芥子蓮根』などが創作された」 とある(たべもの語源辞典)。 ハスには薬効がある。 「切ったハスが空気に触れて黒くなるのは、鉄分とタンニンによるのだが、このタンニンが止血作用を持っている。このしぼり汁には咳止めの効果もある。鉄分は貧血の人に良く、しぼり汁はカリウムが多いから血圧の上昇を予防する。食塩などのナトリウムの多い物をとったとき、カリウムがその排泄を促すことになる。ビタミンCが多いことも高血圧の予防になる」 と(仝上)。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「法被」と「半纏」については、「取締り」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-4.htm#%E5%8F%96%E7%B7%A0%E3%82%8A)で、三田村鳶魚『捕物の話 鳶魚江戸ばなし』に触れたことがある。 捕物出役に出かけていく際、当番与力一人が,同心一人を連れて出役する。継上下(つぎかみしも)で出勤している(のちには,羽織袴に変るが)与力は,着流しに着かえ,帯の上に胴締めをし,両刀をさし,手拭いで後ろ鉢巻をし,白木綿の襷にジンジン端折り(着物の背縫いの裾の少し上をつまんで,帯の後ろの結び目の下に挟み込む)する。槍を中間に持たせ,若党二人に草履取り一人を従えているが、 「供に出る槍持は,共襟の半纏に結びっきり帯で,草履取は,勝色(かちいろ)無地の法被に,綿を心にした梵天帯を締める。供の法被は勝色で,背中に大きな紋の一つ就いたのを着ている。」 「同心は羽織袴ででておりますが,麻の裏のついた鎖帷子を着込み,その上へ芝居の四天(歌舞伎の捕手)の着るような半纏を着ます。それから股引,これもずっと引き上げて穿けるようになっています。」 という身なりである。さらに,小手・脛当,長脇差一本(普段は両刀だが,捕物時は刃引きの刀一本),鎖の入った鉢巻きに,白木綿の襷,足拵え,という格好になる。供に,物持ちがつき,紺無地の法被に,めくら縞(紺無地)か,千草(緑がかった淡い青)の股引きを穿く。 この記述から見える、与力の供の、 草履取が法被、 槍持が半纏、 同心が半纏、 同心の供の物持ちが法被、 という、法被と半纏が着分けの原則が全く分からない。 法被は、 半被、 とも当て、半纏は、 袢天、 半纏、 絆纏、 とも当てる。 「法被」(ハッピ)は、元々、 ハフヒ(法被)の音便、 とある(大言海、岩波古語辞典)。 禅家で椅子の背にかける布、 を指した。禅林象器箋に、 法被、覆裏椅子之被也、 とある。それが、 もと武家にて、隷卒(しもべ)の表衣に着する羽織の如きもの。家の標など染付く。今一般に、職人などこれを用ゐる。しるしばんてん、カンバン、 という意味をももつようになる、とする(大言海)。しかし、どうも「羽織の如きもの」に当てる「法被」は、当て字で、禅家の「椅子の背にかける」ものとは別物ではないか、と思われる。 「法被」の前史は、肩衣(かたぎぬ)であり、「法被」は、その変形らしい。
最も原始的な服として、肩から前身(まえみ)と後身(うしろみ)とを覆い、前は垂領(たりくび)に引き合わす上半身衣を、ふるくから肩衣と呼んで一般に使用され、『万葉集』にも、木綿(ゆう)肩衣・布肩衣の名称がみえている。朝廷においては、大嘗会の儀の出納の小忌衣(おみごろも)にその俤を存する他、もっぱら下層の者に用いられた。
上述の、鳶魚の説明の与力、同心の出役の出で立ちで、与力の供の、 「ういろう」は、 外郎、 と当てる。 「ういろう」というと、歌舞伎の外郎売りの、 親方と申すは、お立ち合いの内に御存知のお方もござりましょうが、お江戸を発って二十里上方、相州小田原、一色町をお過ぎなされて、青物町を登りへお出でなさるれば、欄干橋虎屋藤右衛門、只今は剃髪致して、円斎と名乗りまする。元朝(がんちょう)より大晦日(おおつごもり)まで、御手に入れまする此の薬は、昔、ちんの国の唐人、外郎(ういろう)という人、わが朝(ちょう)へ来たり、帝へ参内の折から、此の薬を深く籠め置き、用ゆる時は一粒(いちりゅう)ずつ、冠(かぶり)の隙間より取り出だす。依って其の名を帝より、透頂香(とうちんこう)と賜わる。即ち文字には、頂(いただき)、透(す)く、香(にお)いと書きて、とうちんこうと申す云々、 と続くセリフを思い出すが、これは、享保3年(1718)江戸森田座の「若緑勢曽我 (わかみどりいきおいそが) 」で二世市川団十郎が初演。外郎売りが妙薬の由来や効能を雄弁に述べる。 しかし、「ういろう」には、 外郎薬、 と 外郎餅、 と、薬と菓子の二つがある。また、「ういろう」を売る「外郎売り」の略の意でもある。 ういろう、 は、唐音らしく、たとえば、 元の人、礼部 (れいほう) 員外郎 (いんがいろう) 陳宗敬が、応安(1368〜1375)年中、日本に渡来し、博多に住んで創薬した薬。その子 陳宗奇は京都西洞院に移って外郎家と称し、透頂香 (とうちんこう) の名で売り出し、のち、小田原に伝えられ、江戸時代に評判をとる。痰の妙薬で、口臭を消すのにも用いる、 という薬の意味と、 菓子の名。米の粉・砂糖・葛粉などを混ぜて蒸したもの。元は黒砂糖を使い、色が透頂香に似る。山口・名古屋の名産、ういろうもち、 とある(広辞苑、デジタル大辞泉)。 戦国時代の1504年(永正元年)には、本家4代目の祖田の子とされる宇野定治(定春)を家祖として外郎家の分家(小田原外郎家)が成立し、北条早雲の招きで小田原でも、ういろうの製造販売業を営むようになった。小田原外郎家の当主は代々、宇野藤右衛門を名乗った、とあり、 「1539年(天文8年)に宇野藤右衛門は北条氏綱から河越城郊外の今成郷を与えられ、『小田原衆所領役帳』にも今成にて200貫465文を与えられた馬廻衆の格式で記載されるなど、小田原外郎家は後北条家から所領を与えられて御用商人としての役割を果たしたとみられている。後北条家滅亡後は、豊臣家、江戸幕府においても保護がなされ、苗字帯刀が許された。なお、京都外郎家は現在は断絶している」 という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E3%81%84%E3%82%8D%E3%81%86_(%E8%96%AC%E5%93%81)。外郎は、いまも、外郎家が経営する薬局で市販されている |