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コトバ辞典


いふ


「いふ(う)」は、

言う、
云う、
謂う、
曰う、
道う、

等々と当てる。「言」(漢音ゲン、呉音ゴン)は、

「会意。『辛(きれめをつける刃物)+口』で、口をふさいで、もぐもぐいうことを音(オン)・諳(アン)といい、はっきりかどめをつけて発音することを言という」

とある(漢字源)。漢字は、使い分けられていて、

「言」「謂」の二字は、義略々同じ。
「言」は、心に思ふ所を、口に述ぶるなり。言論・言説などと熟す、
「謂」は、報也、告也と註す。人に対して言ふなり。「子謂顔淵曰」の如し。又、人に対して言ふにあらずして、其の人を評して言ふにも用ふ。「子謂子賎」の如し。又、謂は、おもへらくとも訓む。心に思ふことは、必ず口にあらはるればなり、
「曰」「云」の二字は、義略々同じ。正字通にも「云與曰、音別義同、凡経史、曰通作云」とあり。但し、云は、意稍重し。云の字、文の終におきて誰氏云との如く結ぶことあり。これは誰が此の如く云へりとの意なり。かかる所に、曰の字を用ふることなし、
「道」は言と同じ、ただ言は多く実用にして重く、道は虚用にして軽し、孟子に、「道性善、言必称堯舜」また「非先王之法言、不敢道」の如し、

と明確である(字源)。

「言ふ」は、

必ずしも伝達を目的とはせず言葉や音声を発する表出作用をいう、

とあるが(広辞苑)、

「『言う』は『独り言を言う』『言うに言われない』のように、相手の有無にかかわらず言葉を口にする意で用いるほかに、『日本という国』『こういうようにやればうまく行くというわけだ』など引用的表現にまで及ぶ。」

と幅広く使われる。

「話す」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba7.htm#%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%99で、言葉を口に出す,という言い回しの,「言う」「話す」「申す」「述ぶ」「宣る」「告ぐ」についてで触れているが、岩波古語辞典は「言ふ」を、

「声を出し,言葉を口にする意。類義語カタリ(語)は,事件の成り行きを始めから終わりまで順序立てて話す意。ノリ(告)は,タブーに触れることを公然と口にすることで,占いの結果や名などについて用いる。ツグ(告)は,中に人を置いて言う語。マヲシ(申)は,支配者に向かって実情を打ち明ける意」

とし、「めし」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E3%82%81%E3%81%97触れたように、「めし」の古名「いい(ひ)」(飯)は、

イフ(言ふ)と同根、

であり「言ふ」は、

口に出し、言葉にする意、

だけではなく、さらに、

食(い)ふ、

とも同根で、

口にする意でもある(仝上)。日本語源広辞典は、「言う」は,

「『イ(息)+プ(唇音)』です。イ+フゥ,イフ,イウとなった語」

とし,『日本語の深層』では,

「『イ』音の最初の動詞は『イ(生)ク』(現代語の『生きる』)です。名詞『イキ(息)』と同根(同じ語源)とされ,『イケ花』『イケ簀』などと姻戚関係があります。(中略)おそらく/i/音が,…自然界で現象が『モノ』として発現する瞬間に関わる大事な意味を持っているので,この『イ』を語頭にもつやまとことばがたくさんあるのでしょう。『イノチ(命=息の勢い)』『イノリ(斎告り)』などにも,また「い(言)ふ」にもかかわって意味を持ちます。」

とあり,あるいは,息ではなく,「言葉」が発語された瞬間の重要性をそこに込めているのかもしれない。

「いま」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba5.htm#%E3%81%84%E3%81%BEで触れたように,「イ」は,

「『イ』は口を横に引いて発音し,舌の位置がほかの四つの母音よりも相対的に前にくるので,一番鋭く響きますし,時間的にも口の緊張が長く続かない,自然に短い音なので,『イマ』という『瞬間』を表現できるのです。」

とある(仝上)。「いう」の「い」の意味は深い。

ちなみに、「息」は、

生くと同根(岩波古語辞典・日本釈名)、
イはイデ(出)、キはヒキ(引)から(和句解)、
イキ(生気)の義(言元梯・日本語原学=林甕臣)、
イは気息を意味する原語(日本古語大辞典=松岡静雄)、

と、生きると関わり、「生く」は、

息と同根(岩波古語辞典)
イキ(息)の活用(大言海・国語溯原=大矢徹・日本語源=賀茂百樹)、
イキク(息来)の義(日本語原学=林甕臣)、

等々、「息」「生き」とつながる。

食ふ、
言ふ、
イヒ(飯)、

とつながるのは当然のように思える。なお、

「いきる」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba14.htm#%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B
「かたる」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba7.htm#%E3%81%8B%E3%81%9F%E3%82%8B
「はなす」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba7.htm#%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%99

については、それぞれ触れた。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
熊倉千之『日本語の深層』(筑摩書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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さるまた


「さるまた」は、もう死語かもしれない。たしか、松本零士の漫画(『男おいどん』だったか)に「サルマタケ」というのが出てきたが、あれは70年代、それ以降聞かない。

「さるまた」は、

猿股、
申又、

と当てる。広辞苑には、

男子が用いる腰や股をおおうももひき。さるももひき、西洋褌、

とあるが、

ぱっち、

とも呼ぶ。僕の記憶では、漫画で、「サルマタ」と呼んでいたのは、

トランクス型の下着のパンツ、

であった。どうやら、「さるまた」は、

短い股引、

を指していたものらしい。

「19世紀頃の欧米の主な下着であったユニオンスーツから派生し、日本に導入された。大正時代以降、褌と並ぶ男性用下着であった。」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%BF%E8%82%A1

「ユニオンスーツ」は、上下がセットになった下着で、は腕や足までカバーできるものもあり、どちらかというと全身タイツのような外見であったhttps://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1805/22/news136.htmlらしい。胸から股間のあたりまでボタンが並んでおり、前部分が開閉できた(仝上)、とある。さらに、

「一体型の下着であったユニオンスーツが1910年代に上下に分離化され、第一次世界大戦前頃(1914年)よりショートパンツ化されたことで、日本に出現したのは大正期以降ではないかと推測される」

ともある(仝上)。とすると、「さるまた」は、近代以降のものということになる。しかし、「さるまた」は、

猿股引(さるももひき)、

ともある。大言海は、「さるまた」は、

猿股引の、股を股(また)と読みたるなり、

とする。江戸語大辞典も、「猿股引」は、

膝下一、二寸の長さの股引、

とある。とすると、「股引」は、

猿股引の略、

ともある(広辞苑)ので、「さるまた」は、

股引(ももひき)、

と重なる。「股引」は、

両の股を通してはく狭い筒状の下ばき、

で、

ももはばき(股脛巾)、

ともいい大言海)、

股着(またはき)の転なるべし、脚絆に対して、股まではく、

とある(仝上)。脚絆は、脛に着け、小幅の長い布を巻き付けて紐で留める。

こうみると、確かに「さるまた」は、西洋由来かもしれないが、その土壌になる「股引」があったことになる。しかし、その「股引」自体、

ポルトガルから伝わったカルサオ(カルサンとも)が原形、

とされるが。

「さるまた」は、猿股引の略とする以外、

生地は薄茶色のメリヤス地、

で、そのため「さるまた」の「さる」は、

サラシ(晒)のサル(衣食住語源辞典=吉田金彦)、

という説もあるが、

京都や山梨県北都留郡では下部の短い猿股をキャルマタ、ケエロマタ(蛙股)といっており、それがサルマタと聞こえた(おしゃれ語源抄=坂部甲次郎)、
マタシャレという袴の一種を逆さに言ったという説(世界大百科事典)、

等々という説もある(日本語源大辞典)。しかし、股引からきて、猿股へつながった流れから見ると、

猿股引の略、

でいいのではあるまいか。「股引」は、

「江戸時代,職人がはんてん(半纒),腹掛けと組み合わせて仕事着とした。紺木綿の無地に浅葱(あさぎ)木綿の裏をつけ袷(あわせ)仕立てにしたが,夏用には白木綿や縦縞の単(ひとえ)もあった。すねにぴったりと細身に作るのを〈いなせ〉(粋)とし,極端なものは竹の皮をあてて踵(かかと)をすべらせなければはけないほど細く仕立てた。後ろで打ち合わせてつけ紐で結ぶのが特徴で,腰の屈伸が自由で機能的な仕事着である」

とあり(世界大百科事典)、さらに、

「脚の膨らみにあわせるように、後ろに曲線裁ちの襠(まち)が入っている。腰を包む引回しに特徴があり、裁着(たっつけ)、もんぺなどと構成を異にする。」

ともある(仝上)。

「江戸時代には武家、町人ともこれを用い、江戸末期になると、半纏(はんてん)、腹掛け、ももひき姿は職人の制服のようになり、昭和初期まで続いた。ももひきの生地(きじ)は盲縞(めくらじま)の木綿、商人は千草色、浅葱(あさぎ)色などで、武家用のは小紋柄(がら)であった。」

ともある(日本大百科全書)。

「股引」は、

股脛巾(ももはばき)の変化した語、

とされる(貞丈雑記)が、上述したように、安土桃山時代にポルトガルから伝わったカルサオ(カルサンとも)と呼ばれる衣服が原形とされる。これが日本の伝統的ボトムスであり、下着としても使われた。腰から踝まで、やや密着して覆い、腰の部分は紐で締めるようになっているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%A1%E5%BC%95。江戸時代には鯉口シャツ(ダボシャツとも)や、「どんぶり」と呼ばれる腹掛けと共に職人の作業服となり、農作業[や山仕事などにも広く使われた(仝上)。

この変形に、

半股引(はんだこ)、

と称する、膝上までのハーフパンツに似た形のものがある。祭りなどで着るものである。

これが、

ステテコ、

の原型であるが、「ステテコ」は、

パッチ、

と呼ばれるものとつながる。「パッチ」という言葉は、18世紀頃には日本語として定着していた。

「京阪と江戸ではその呼び方に違いがある。京阪では素材を問わず足首まである丈の長いものをパッチ、旅行に用いる膝下ぐらいのものをモモヒキといい、江戸では(宝暦ごろから流行し始め)チリメン絹でできたものをパッチ、木綿ものは長さにかかわらずモモヒキと呼んだ。短いモモヒキは半モモヒキ(=半タコ)、または猿股引(さるももひき)と呼んで区別する事もある。パッチは一般にゆるやかに仕立てられ、モモヒキは細めに作られた。」

とあるhttp://www.steteco.com/archives/history.html。また、

「筏師(いかだし)の間では極端に細いももひきが好まれ、これを川並(かわなみ)といった。はくときに竹または紙をくるぶしにあててはくほどの細さであった。これに対して五分だるみ、一寸だるみのものもあり、これを象ももひきといった。火消(ひけし)の者は江戸では釘(くぎ)抜きつなぎ、上方(かみがた)ではだんだら模様を用いた。」

ともある(日本大百科全書)。

つまり、「股引」から、「パッチ」「ステテコ」「半タコ」と経て、「さるまた」「トランクス」と変じてきたことになり、原形は、「股引」ということになる。その原型は、カルサオ(カルサン)である。

「ステテコ」は、着物や袴の下に穿く下着として、明治以降の日本の近代化に伴い全国的に普及したが、

1880年頃、初代(本当は3代目)三遊亭圓遊が「捨ててこ、捨ててこ」と言いながら、着物の裾をまくり踊る芸「ステテコ踊り」の際に着物の裾から見えていた下着であったためとする説、

着用時に下に穿いた下着の丈が長く、裾から下が邪魔であったため裾から下を捨ててしまえでステテコと呼ばれるようになった説、

等々に語源があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%86%E3%82%B3、といわれているが、圓遊のはいていたのは、「パッチ」らしく、ステテコ踊りなので、

ステテコパッチ、

と呼ばれ、略して、

ステテコ、

になった(上方語源辞典=前田勇)、ともある。こちらのほうだろう。

「ぱっち」は、朝鮮語由来とされ、

朝鮮語ba-jiは男性がはくズボン状の服、

とある(日本語源大辞典)。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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何れ菖蒲


「何れ菖蒲」は、

何れ菖蒲か杜若、
菖蒲と杜若、

とも言う。

いずれあやめかかきつばた、

とは、

どちらもすぐれていて、選択に迷うことのたとえ、

とされるが、この諺の出典は、平安時代末期に『源三位(げんざんみ)』と称された源頼政の、

五月雨に沢べのまこも水たえていずれあやめと引きぞわづらふ、

という歌に由来する。それは、

「頼政がぬえ退治の賞として菖蒲前(あやめのまえ)という美女を賜るとき、十二人の美女の中から見つけ出すようにいわれて詠んだとされる」

という『太平記』の話に基づく(故事ことわざ辞典)。

「あやめ」は、

菖蒲、

と当てる。「菖蒲」は、

ショウブ、

と訓ませると、「あやめ」は、

しょうぶの古称、

である。これは、あやめとは、葉の形が似るだけでまったくの別種(サトイモ科ショウブ属)。五月の節句に用いる「しょうぶ湯」の「ショウブ」。武芸の上達を願う「尚武」、戦に勝つ「勝武」に通じることかららしい。これは、

「晩秋から冬期にかけて地上部が枯れてから、採取した根茎のひげ根を除いて水洗いし、日干しにしたものが生薬の「ショウブコン(菖蒲根)」です。ショウブコンは特有の芳香があり、味は苦くやや風味がある精油を含みます。その水浸剤は皮膚真菌に対し有効であると言われています。また、採取後1年以上経過したものの煎剤は芳香性健胃薬、去痰、止瀉薬、腹痛、下痢、てんかんに用いられます」

とあるhttps://www.pharm.or.jp/flowers/post_7.htmlように、薬草で、

和名は同属のセキショウ(漢名・石菖)の音読みで、古く誤って菖蒲に当てられたらしい(仝上)。本来、「菖」(ショウ)は、

「会意兼形声。『艸+音符昌(ショウ あざやか、さかん)』で、勢いがさかんで、あざやかに花咲く植物」

の意で、「菖蒲」の意。「ショウブ」は、「白菖」という。「蒲」(漢音ホ、呉音ブ)は、

「会意兼形声。『艸+音符浦(みずぎわ、水際に迫る)』」

で、「がま」の意。「あやめ」は、だから、「ショウブ」の古称として、

文目草の義、

とし(大言海)、

「和歌に、あやめ草 文目(あやめ)も知らぬ、など、序として詠まる、葉に体縦理(たてすぢ)幷行せり。アヤメとのみ云ふは、下略なり」

とする。しかし、岩波古語辞典は、

菖蒲草、

と当て、

「漢女(あやめ)の姿のたおやかさに似る花の意。文目草の意と見るのは誤り」

とし、

「平安時代の歌では、『あやめも知らぬ』『あやなき身』の序詞として使われ、また、『刈り』と同音の『仮り』、『根』と同音を持つ『ねたし』などを導く」

とする。いずれとも決めがたいが、「ショウブ」の別名として、

「端午の節句の軒に並べることに因んだノキアヤメ(軒菖蒲)、古名のアヤメグサ(菖蒲草)、オニゼキショウ(鬼石菖)などがあります。(中略)中国名は白菖蒲といいます。」

とあるhttps://www.pharm.or.jp/flowers/post_7.htmlので、

菖蒲草、

と当てる方に与しておく。

同じ「菖蒲」を当てるためややこしいが、「あやめ」は、アヤメ科アヤメ属。「ショウブ」と区別するため、

はなあやめ、

と呼んだ。「あやめ」が、

はなあやめ、

の意と、

ショウブの古名、

の意と重なるため、どちらの語源を言っているのかが、曖昧になる。たとえば、「ショウブ」は、

「葉はハナショウブに似ており、左右から扁平で中央脈が高く、基部は左右に抱き合うように2列に並び、芳香がある」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%83%96
「葉にはアヤメのような扁平な剣状(単面葉)で、中央にはっきりした中肋(ちゅうろく)があります。」https://www.pharm.or.jp/flowers/post_7.html

という葉の特徴から、

葉脈に着目して、その文目の義(名言通・古今要覧稿・大言海)、
アヤベ(漢部)の輸入した草だからか(日本古語大辞典=松岡静雄)、
アヤメ(漢女)草の義(和訓栞)、

は、「ショウブ」(古名あやめ)を言っていると思われ、

アヤはあざやか、メは見える意。他の草より甚だうるわしく鮮やかに見える(日本釈名)、

は、どちらともとれる。「あやはあざやかなり、めはみゆるなり、たの草よりあざやかにみゆるなり」の記述からすると、花の意のようである。

菖蒲の冠をした女が蛇になったという天竺の伝説から、蛇の異名であるアヤメを花の意とする(古今集注)、
アハヤと思いめでる花の意から(本朝辞源=宇田甘冥)、

は、「はなあやめ」のことを言っているらしい。決め手はないが、しかし、

花弁の基部に筋目模様があることから、「文目(あやめ)」の意、

とされるのが自然なのではないか。

日本語の語源は、例によって、

「紫または白色の上品な様子をアデヤカナルミエ(貴やかなる見え)といった。見え[m(i)e]が縮約されてアヤメになった」

とするのは、いかがなものだろう。

さらにややこしいのは、

はなしょうぶ(花菖蒲)、

と呼ばれている、水辺に咲く植物。これも、アヤメ科アヤメ属。「ハナショウブ(花菖蒲)」は、

葉が菖蒲に似ていて花を咲かせるから、

そう呼ぶ。アヤメ類の総称としてハナショウブをアヤメと呼ぶことも多いのも、アヤメ科アヤメ属だからまちがいではないものの、輪をかけてややこしい。ハナショウブは、

ノハナショウブ、

の園芸種で、花の色は、白、桃、紫、青、黄など多数あり、絞りや覆輪などとの組み合わせを含めると5,000種類あるといわれている。

その系統を大別するとhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%83%96

品種数が豊富な江戸系、
室内鑑賞向きに発展してきた伊勢系と肥後系、
原種の特徴を強く残す長井古種、

の4系統に分類でき、他にも海外、特にアメリカでも育種が進んでいる外国系がある(仝上)、とか。

「カキツバタ」は、

燕子花、
杜若、

と当て、やはりアヤメ科アヤメ属である。借りた漢字、「燕子花」はキンポウゲ科ヒエンソウ属、「杜若」はツユクサ科のヤブミョウガを指す。ヤブミョウガは漢名(「とじゃく」と読む)であったが、カキツバタと混同されたものらしい(仝上、語源由来辞典、日本語源大辞典)。

ふるく奈良時代は、

かきつはた、

と清音であった、とされる(岩波古語辞典)

「カキツバタ」は、

書付花(掻付花 かきつけばな)の変化したもので、昔は、その汁で布を染めたところからいう、

とするのが通説らしい。「汁を布に下書きするのに使った」(日本語源広辞典)ところからきているが、「音変化が考えにくい」(語源由来辞典、日本語源大辞典)と異論もあるが。

万葉集は、

垣津幡、

と当てている。

垣下に咲く花(東雅)、
カキツバタ(垣端)の義(本朝辞源=宇田甘冥)、

も的外れではないかもしれない。

「カキツバタ」は、江戸時代の前半にはすでに多くの品種が成立していたが、江戸時代後半にはハナショウブが非常に発展して、カキツバタはあまり注目されなくなったらしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%AD%E3%83%84%E3%83%90%E3%82%BF

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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三日


「三日」は、

さんじつ、
みか、
みっか、

等々と訓ませる。

みっか、

は、

みかの音便、

であり、本来は、

みか、

と訓んだらしい。万葉集に、

月たちて ただ三日(みか)づきの 眉ねかき け長く戀ひし 君にあへるかも」

とある「みかづき」の「みか」である。

「三日」は、「みっか」と訓むと、

日の数三つ。また、連続したその期間、
暦の月の三番目の日。また特に、正月三日、
漠然と、わずかな期間、

という意味だが、「みか」と訓むと、

三つの日数。みっか、
月の第三の日。みっか、
結婚後第三日目。三日(みか)の餅(もちい)(「三日の夜、御かはらけ取りて」(宇津保)、
誕生後第三日目。また、その日の祝い(「御うぶやしなひ、三日は例のただ、宮の御わたくし事にて」(源氏)、

と(大辞林・広辞苑)、特殊に、

三日(みか)の餅(もちい)、
産養(うぶやしない)の、第三夜(五夜、七夜、九夜と行われる)、

の意味で使われる。

さんじつ、

と訓ませると、

みっか。特に、正月の元日・2日・3日、
江戸時代の毎月の式日で、朔日(ついたち)、15日、28日の称。諸大名・旗本などは、この日麻裃(かみしも)で総登城した、

と(大辞林・広辞苑)、さらに特殊な意味である。

それにしても、「三日」というのは、特別な意味が持たされ、

わずか数日、

ながら、その数日で、

三日先さき知れば長者、

と先見の明の喩えにされ、

三日見ぬ間(ま)の桜、

は、変化の激しい喩えとされ、

三日にあげず、

は、

間をおかない意味で使われる。

漢字「三」(サン)の字は、

「指事。三本の横線で三を示す。また、参加の参と通じていて、いくつもまじること。また杉(サン)・衫(サン)などの音符彡(サン)の原形で、いくつも並んで紋様を成すの意味を含む」

とある(漢字源)。ちなみに、

「日本では、奈良時代にはサムと音訳し、三位(サンミ)・三線(サムセン)といった。三郎(サブロウ)のサブはその転音である」

とか(仝上)。

「三」には、「みっつ」という意味と「三番目」という意味の他に、

三三五五、

というように、

いくども、
たびたび、
再三

の意味があるが、

三易、
三戒、
三行、
三諫、
三鑑、
三儀、
三光、
三思、

等々三でまとめる言葉は無数にある(字源)。「三」で、すべてを言いつくしているという含意なのかもしれない。

「三日」には、

三日天下、

のように、短いという含意と、

三思、

のように、すべてという含意の他に、

三々九度、

というように使われるものがある。これは、

「三三九度は婚礼の中で、夫婦および両家の魂の共有・共通化をはかる儀式である。日本の共食信仰に基づく。また、古代中国の陰陽に由来する儀式で、陽の数である三や九が用いられた」

という意味があるらしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%B8%89%E4%B9%9D%E5%BA%A6。この背景には、「懐石料理」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E6%87%90%E7%9F%B3%E6%96%99%E7%90%86で触れた、本膳料理の、

式三献(さんこん、さんごん http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E4%B8%89%E7%8C%AE)、

の、

中世以降の酒宴の礼法。一献・二献・三献と酒肴(しゅこう)の膳を三度変え、そのたびに大・中・小の杯で1杯ずつ繰り返し、9杯の酒をすすめるもの、

という作法がある(デジタル大辞泉)。ここでも、「三」である。

「易の基本観念は陰陽の二爻であり(爻とは効(なら)い交わるの意。天地の現象に効って互いに交わり、また他に変ずるの意)、これを重ねること三にして、乾、兌、離、震、巽、坎、艮、坤の八卦を成す。」

とあり(易経)、卦は爻と呼ばれる記号を三つ組み合わた三爻によりできる。たとえば、

「乾坤をもって父母とし、…一陽二陰の卦を男子、一陰二陽の卦を女子」

とする。八卦は、

「三爻を以って成るのは、陰陽の変によって天地人三才の道を包尽せんとす易の根本思想にのっとり、三才の道ここに備わらざるなきをしめしている」

とある(仝上)。「三」という数値は、ただ「三つ」ではなく、その意味で天地人の「すべて」をも含意している。

とすると、

三日相見(まみ)えざれぱ旧時の看を為すことなかれ、

とか、

士別れて三日まさに刮目して相俟つべし、

の三日とは、以後の長い年月すべてを含めている。たかが三日、されど三日である。

三日先知れば長者、

なのである。

参考文献;
高田真治・後藤基巳訳『易経』(岩波文庫)
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)

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羊羹


「羊羹」は、一般には小豆を主体とした餡を型(羊羹舟)に流し込み寒天で固めた和菓子で、寒天の添加量が多くしっかりとした固さの、

煉羊羹(ねりようかん)、

と、寒天が少なく柔らかい、

水羊羹(みずようかん)、

があり、寒天で固めるのではなく、小麦粉や葛粉を加えて蒸し固める製法もあり、これは、

蒸し羊羹、

と呼ばれる。単に「羊羹」という場合、煉羊羹を指すhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8A%E7%BE%B9、とある。

しかし、「羹」(漢音コウ、呉音キョウ、唐音カン)は、

あつもの、

の意で、

「会意。『羔(丸煮した子羊)+美』」

とあり、

肉と野菜を入れて煮た吸い物、

である。大言海は、

「カンは支那音羹(キャング)なるべきか。或は羹(カク)の音轉か(庚申(カウシン)、かんしん。甲乙(カフオツ)、かんおつ。冠(カウブリ)、かんむり。馨(カウバシ)、かんばし)。支那にて羊羹と云ふは、戦国策、中山策に、『中山君饗都士大夫、云々、羊羹不遍』とあり、羊肉のあつものなれば、固より當らず、是れは羊肝糕にて(糕は餅なり)、羹、糕同音なれば、通はせ用ゐたるまなり(羹を糕の意とし菓子の名とすと云ふ)。羊肝とは其形色、羊の肝に相似たれば云ふ。牛皮糖の如し」

とする。牛皮糖とは、求肥(ぎゅうひ)のことである。もともとは「羊羹」は、

「読んで字のごとく羊の羹(あつもの)、つまりは羊の肉を煮たスープの類であった。南北朝時代に北魏の捕虜になった毛脩之が『羊羹』を作ったところ太武帝が喜んだという記事が宋書に見えるが、これは本来の意味の羊のスープであったと思われる。冷めることで肉のゼラチンによって固まり、自然に煮凝りの状態となる。『羹』の通常の音(漢音)は『こう(かう)』で、『かん』は唐音」

であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8A%E7%BE%B9

羹に懲りて膾を吹く、

という諺の「羹」である。

「羹とは、古くから使われている熱い汁物という意味の言葉で、のちに精進料理が発展して『植物性』の材料を使った汁物をさすようになりました。また、植物に対して『動物性』の熱い汁物を『臛(かく)』といい、2つに分けて用いました。」

ともあるhttps://nimono.oisiiryouri.com/atsumono-gogen-yurai/。「あつもの」で引くと、

臛(カク 肉のあつもの)、
懏(セン 臛の少ないもの)、

と載る(字源)。

「羊肝糕(ようかんこう)は紅豆白糖を以て剤となす。牛皮糖は糯粉糖(じゅふんとう)を以て超して滷(こ)して餅となすべし」

と中国の『金門歳節』にあるという(たべもの語源辞典)。

「羊肝は羊の肝で、糕(こう)は餻(こう)と同字、むし餅の類である。紅豆は赤小豆で白糖は白砂糖である。これは羊の肝の色をした赤小豆と白砂糖でつくったむしもちのようなもの」

である(仝上)、とある。唐書に、

「洛陽の人家、重陽に羊肝餅をつくる」

とある由で、唐代には、九月九日の重陽に羊肝餅をたべたのである(仝上)。

鎌倉・室町時代に、禅宗文化渡来とともに、日本に伝わった。しかし、

「獣肉食を喜ばない日本では、羊の肝ではいけない。そこで中国にある『羊羹』という料理名を用いた」(仝上)

が、その謂われには、諸説ある。

「羊肝こうが日本に伝来した際、『肝』と『羹』の音が似ていたことから混同され。『羊羹』の文字が使われるようになった。」(語源由来辞典)
「羊肝糕の糕と羹は同音であるから羊羹とした」(たべもの語源辞典)、
「羹は糕と同音なる糕というべきものも誤りて羹とかけり」(嬉遊笑覧)、

しかし、

「カンは唐音」(広辞苑)、

という説もあり、「カウ(コウ)」→「カン」の転音はあるのだろうか。さらに、獣を不潔とするので字を改めたとしても、「羊の字を変えなかったのは、どうしてだろうか」(たべもの語源辞典)、という疑問は残る。

「中国で羊の丸煮をいう羊羹に似せて作ったところから(たべもの語源抄=坂部甲次郎)、

という説が、あながち無理筋ではなく見えてくる。「羊羹」の初出は室町時代に書かれた『庭訓往来』の「点心」に、

羊羹・砂糖羊羹・筍羊羹・猪羊羹、

の名が挙がっている(たべもの語源辞典)。

「初期の羊羹は、小豆を小麦粉または葛粉と混ぜて作る蒸し羊羹であった。蒸し羊羹からは、芋羊羹やういろうが派生している。また、当時は砂糖が国産でできなかったために大変貴重であり、一般的な羊羹の味付けには甘葛などが用いられることが多く、砂糖を用いた羊羹は特に「砂糖羊羹」と称していた。だが、17世紀以後琉球王国や奄美群島などで黒砂糖の生産が開始されて薩摩藩によって日本本土に持ち込まれると、砂糖が用いられるのが一般的になり、甘葛を用いる製法は廃れていった」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8A%E7%BE%B9

煉羊羹が最初に作られたのは、京都で、天正十七年(1589)で鶴屋(岡本善右衛門)が、

「テングサ(寒天の原料)・粗糖・小豆あんを用いて炊き上げる煉羊羹を開発し豊臣秀吉に献上した」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8A%E7%BE%B9、たべもの語源辞典)。寛永三年(1626)に金沢で遠州流茶人金物屋忠左衛門が煉羊羹をつくり、宝暦年間(1751~64)に、

「(加賀藩の)十代藩主重教の江戸出府に従って、本郷の加賀下屋敷赤門に近い日影町に店を構え、『藤むら』の屋号で、ユリ羊羹など二七種つくりだす(たべもの語源辞典)。

江戸時代は煉羊羹全盛時代であり、江戸本郷の藤村羊羹をはじめ、多くの名舗が現われた

寛政の初めころ(1792)には、日本橋通一丁目横町字式部小路で売り出された「喜太郎羊羹」は評判となり、天保六年(1835)の『江戸名物詩初篇』には、鈴木越後、金沢丹後の羊羹が載っている(仝上)し、江戸後期の『嬉遊笑覧』には、

「茶の湯の口取に煉羊羹うばたまなどは紅粉や志津磨始て製す寛政の頃よりなり」

と載る(たべもの語源辞典)。煉羊羹の全盛になると、一方、

「初期の製法の羊羹(蒸し羊羹)は、安価な下物(煉羊羹の半値)になり、その一部は丁稚羊羹と称したものもある。また、料理菓子として、煉羊羹を半煉り状にした製法の羊羹もつくられ、後に水分を多くした水羊羹がつくられるようになり、御節料理として、冬の時季に食された」

ともあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8A%E7%BE%B9

ちなみに、羊羹を一棹、二棹と数えるのは、

「寒天を加えられたものを船型の箱に流し込んで凝結させ、これを細長く切るからで、江戸でも、大阪でもこれを棹物とよんだ」

ことによる(たべもの語源辞典)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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湯葉


「湯葉」については、「豆腐」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E8%B1%86%E8%85%90に触れた時、

「豆腐」は、中国名をそのまま日本訓みしたもの。白壁に似ているので、女房詞で、

おかべ、

ともいう。豆腐をつくるときの皮は、老婆の皺に似ているので、

うば、

と言い、転じて、

ゆば(湯婆)、

と言い、豆腐の粕を、

きらず、

というのは、庖丁を用いなくても刻んだから、という。

おから、

である(たべもの語源辞典)、と書いた。しかし、

うば→ゆば、

の転訛とは限らないようだ。少し補足しておきたい。

「湯葉」は、言うまでもなく、

「豆乳を加熱した時、ラムスデン現象によって液面に形成される膜」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%86%E3%81%B0、竹串などを使って引き上げる。精進料理の材料である。ラムスデン現象とは、

「牛乳を電子レンジや鍋で温めたりする事により表面に膜が張る現象である。これは成分中のタンパク質(β-ラクトグロブリン)と脂肪が表面近くの水分の蒸発により熱変性することによって起こる。豆乳でできる膜は湯葉と呼ぶ。」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%87%E3%83%B3%E7%8F%BE%E8%B1%A1

「湯葉」は、

湯波、
油皮、
湯婆、


等々とも当てる。また、

イトヤキ、
豆腐皮(とうふかわ)、

とも呼ぶ(たべもの語源辞典)。中国では、

豆腐皮、
腐皮、

と書く(仝上)。中国では、

「シート状に干した「腐皮」(フーピー)と、棒状に絞ってから干した「腐竹」(フーチュー)が多く、日本の湯葉のような巻いた形状で市販されることはまれである。結んだ状態の「腐皮結」(フーピージエ)は中国でも作られている。」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%86%E3%81%B0

はじめ、

うば、

と呼ばれ、

姥(うば)、

の字を当てたり、

豆腐の皮(うば)、

とも称した(たべもの語源辞典)。

豆腐との最大の差は製造方法である。

「豆腐はにがり等の凝固剤を使用して、大豆の植物性蛋白質を凝固(塩析)させたものであり、ゆばは凝固剤を使用せず、加熱により大豆の蛋白質が熱凝固したものである。凝固剤を使用しないため、大豆から製造できる量は豆腐の約10分の1程度と少ない」

とある(仝上)。日本の「湯葉」は、

「約1200年前に最澄が中国から仏教・茶・ゆばを持ち帰ったのが初めといわれ、日本最初のゆばは、滋賀県大津市に位置する比叡山の天台宗総本山の延暦寺に伝わり、比叡山麓の坂本…に童歌『山の坊さん何食うて暮らす、ゆばの付け焼き、定心房』として唄われたことが歴史的な記録に残っている。」

とある(仝上)。

「日本で最初にゆばの伝わった比叡山麗の京都や近江、古社寺の多い大和、そして日光、身延といった古くからの門前町が産地として有名で、京都と大和、身延では『湯葉』、日光では『湯波』と表記する。」

薄膜を竹の串で掬い上げ、くしごと棚にかけるが、

「日光湯波は、細い棚にかけ、二枚に分かれた湯波の裏表をつけて一枚に仕上げる。京湯葉は、くしで上げて棚にかけるとき、幅のある棚に渡して一枚を二枚に分ける。だから、二枚に切ったときトイ(戸樋)の部分ができ、この湯葉のトイを京では売っている。日光には折れ目に残るトイの部分がない。日光湯波は厚みが京湯葉の倍はある」

という(たべもの語源辞典)。京湯葉は一枚なのに、日光の/湯波は二枚重ねということになる。身延では湯葉を何枚も重ねて固めた「角ゆば」も作られているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%86%E3%81%B0、とか。

さて、「ゆば」の語源であるが、大言海(日本語源広辞典)は、

うば(豆腐皮)の転(ゆだる、うだる。ゆでる、うでると同趣)、

とするが、「豆腐皮」をなぜ「うば」と訓ませたかの説明がない(たべもの語源辞典)。もちろん、

姥(うば)の訛りであり、黄色く皺のある様が姥の面皮に似ていることからそう言われるようになった、

というのは単なる語呂合わせの俗説。ほかに、

豆腐の上物の略のトウフノウハをさらに略したウバの転か(骨董集・上方語源辞典=前田勇)、
湯張の義(語簏)、
上端の意味で「上(うは)」から変化して「うば」となり、『ゆば』になった(語源由来辞典)、

等々あるが、その製造プロセスから見れば、

ウハ→ウバ、

の転訛とみるのが自然であるようだ。山東京伝『骨董集』が、

「ユバの本名はウバである。(中略)『異制庭訓往来』に、豆腐上物とあるのが本名だろう。豆腐をつくるとき上に浮かぶ皮であるからといったので、それを略して豆腐のウハバといい、音便には文字を濁ってウバといった。ウバとユバとウとユと横にかよへば、甚だしい誤りではない」

といった(たべもの語源辞典)、とある。『うば』が『ゆば』と呼ばれるようになったのは18世紀の終わり頃という(語源由来辞典)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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いざよい


「いざよい」は、

十六夜、

と当てると、

十六夜の月、

の意である。

十三夜月(十三日月)

小望月(十四日月)

満月(十五日月、望月)

十六夜月(十六日月、既望)

立待月(十七日月)

居待月(十八日月)

寝待月(十九日月、臥待月)

更待月(二十日月)

下弦の月(二十三夜月)

と続く、陰暦十六日月である。

満月よりも遅く、ためらうようにでてくるのでいう、

とある(広辞苑)。

月の出を早くと待っても、月が猶予うという気持ちから、

ともある(岩波古語辞典)。大言海は、

日没より少し後れて出づるに因りて、躊躇(いさよ)ふと云ふなり。イサヨフは、唯、やすらふの意の語なれど、特に此の月に云ふなり。…和訓栞、いさよひ『ヨヒを、青に通ハシ云ふ也』。十七夜の月を立待の月と云ひ、十八夜の月をゐまち(居待)の月と云ふ、

とする。「いさよふ」とあるのは、「いざよう(ふ)」が、

上代ではイサヨイと清音。鎌倉時代以後イザヨイと濁音。

であることによる(岩波古語辞典)。「十六夜月」も、

いさよひ、

と清音であった。「いざよふ」は、

(波・雲・月・心などが)ぐずぐずして早く進まない、動かず停滞している、

という意味である(仝上)が、「いさよふ」の語源を、岩波古語辞典は、

イサはイサ(否)・イサカヒ(諍)・イサヒ(叱)と同根。全身を抑制する意。ヨヒはタダヨヒ(漂)のヨヒに同じ、

とし、大言海は、

不知(いさ)の活用にて、否(イナ)の義に移り、否みて進まぬ意にてもあらむか。ヨフは、揺(うご)きて定まらぬ意の、助動詞の如きもの、タダヨフ(漂蕩)、モコヨフ(蜿蜒)の類、

とし、微妙に違う。「よひ」は、

ただよひ、
かがよひ、
もごよひ、

などの「よひ」で、動揺し、揺曳する意(岩波古語辞典)として、「いさ」は、

否、
不知、

と当て、

「イサカヒ・イサチ・イサヒ・イサメ(禁)・イサヨヒなどと同根。相手に対する拒否・抑制の気持ちを表す」

とあり(仝上)、相手の言葉に対して、

さあ、いさ知らない、
さあ、いさわからない、

という使い方をしたり、「いや」「いやなに」「ええと」など、相手をはぐらかしたりするのに使う(岩波古語辞典)、とある。これだと、月が、

はぐらかしている、

という含意になる。どちらとも決めかねるが、個人的には、「はぐらかす」よりは、「出しぶる」意味の方がいいような気がする。

日本語源大辞典は、

「いさ」は感動詞「いさ」と同根。「よふ」は「ただよふ(漂)」などの「よふ」か、

とする。「いさ」は、

さあ、

と人を誘うときや、自分が思い立った時、

の言葉だが(岩波古語辞典)、通常、

いざ、

と濁る。大言海は、

率、
去来、

と当て、

イは、発語、サは誘う声の、ささ(さあさあ)の、サなり。いざいざと重ねても云ふ。…発語を冠するによりて濁る。伊弉諾尊、誘ふのイザ、是なり。率の字は、ひきゐるにて、誘引する意。開花天皇の春日率川宮も、古事記には、伊邪川(いざかはの)宮とあり、

とする。そして、「いさ」(不知)と「いざ」(率)と混ずべからず、としている(大言海)。やはり、感嘆詞は、無理があるかもしれない。

因みに、「いざ」に、

去来、

と当てるのは、「帰去来」からきている。帰去来は、

かへんなむいざ、

と訓ませるが、

訓点の語、帰りなむ、いざの音便。仮名ナムは、完了の助動詞。來(ライ)の字にイザを充(あ)つ。來(ライ)は、助語にて、助語審象に『來者、誘而啓之之辞』など見ゆ(字典に『來、呼也』、周禮、春官『大祝來瞽』。來たれの義より、イザの意となる)。帰去来と云ふ熟語の訓点なれば、イザが語の下にあるなり。史記、帰去来辞(ききょらいのことば)、など夙(はや)くより教科書なれば、此訓語、普遍なりしと見えて、古くより上略して、去来の二字を、イザに充て用ゐられたり、

とある(大言海)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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「蓮」(はす)の地下茎は、

蓮根(れんこん)、

という。ハスの花と睡蓮を指して、

蓮華(れんげ)、

といい、仏教とともに伝来し古くから使われた。「蓮」は、

芙蓉(ふよう)、
水華(すいか)、
渓客(けいきゃく)、
君子花(くんしか)、
水宮仙子(かいきゅうせんし)、
不語仙(ふごせん)、

といった中国名があるが、

草芙蓉(くさふよう)、
露堪草(つゆたえぐさ)、
ツマナシキグサ、
ツレナシグサ、
水堪草(ミズタエグサ)、

等々の名もあり、古名には、

水の花、
池見草(いけみぐさ)、
水芙蓉(すいふよう、みずふよう)、

等々の異称をもつ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%B9、たべもの語源辞典)。日本での古名は、

はちす、

で、花托の形状を蜂の巣に見立てた、

蜂巣、

の意である(岩波古語辞典)。「はす(蓮)」は、

ハチスの転訛、

とされる(仝上)。

「ハスの実の入っている花托には孔がたくさんあって、そこに実が収まっているのだが、その形がハチの巣によく似ている」(たべもの語源辞典)

ためである。ただ、

「『色葉字類抄』の『荷 ハチス 俗ハス』の記述から、平安後期にはハチスが正しく、ハスは俗語意識されていたことがわかる」

とあり(日本語源大辞典)、「ハチス」が正式な名であった。

和名抄には、

蓮子、波知須乃美、

本草和名には、

藕實、波知須乃美、

とある(大言海)。

「蓮」(レン)の字は、

「会意兼形声。『艸+音符連(レン 連なる)』。株がつらなって生えているからいう」

とある(漢字源)。漢字では「蓮」の他に、

荷、
藕、

とも当てる。「荷」(漢音カ、呉音ガ)は、

「会意兼形声。『艸+音符何(人が直角に、荷物をのせたさま)』で、茎の先端に直角に乗ったような形をしているハスの葉のこと。になうの意は、もと何と書かれたが、何が疑問詞に使われたため、荷がになう意に用いられるようになった」

とあり、「荷」が「ハス」の総称。「藕」(グウ、漢音ゴウ、呉音グ)は、

「会意兼形声。『艸+耒+音符禺(グ ならぶ、似た物)』。同じ形をした根茎が次々と並ぶ植物」

とあり、はすの根の意である。

「茎の上にT型に乗った形で花や葉がつく。実を蓮(レン)といい、根を藕(グウ)といい、ともに食用にする」

とある(漢字源)。で、

蓮根、

という言葉は、和製語である。

日本国内においては、考古学資料として大賀ハスの例があり、2,000年以上前の縄文時代に既にあった、

とする説もあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%B3。万葉時代、

はちす葉はかくこそ有るもの意吉麻呂(おきまろ)が家なるものは芋(うら)のはにあらし、

という歌があり、わが家の蓮は芋の葉のようだと謙遜し、主人のものをほめているhttp://www.pref.nara.jp/45517.htm。『常陸国風土記』(718年)には、

「神世に天より流れ来し水沼なり、生ふる所の蓮根、味いとことにして、甘美きこと、他所に絶れたり、病有る者、この蓮を食へば早く差えて験あり」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%B3。『延喜式』(927年)には、蓮の根がでてくる、らしい(たべもの語源辞典)。

「ハスの花は紅と白がある。紅花の蓮根は俗に『みはす』といい、大きいが粘りが少ない。白花の蓮根は通常『もちはす』と称して、小さいが粘りが多くおいしい。関東地方のハスは品質が優れている。九州地方は大きいものを産するが、味はやや劣る。そこでその大きな穴に芥子を詰めた『芥子蓮根』などが創作された」

とある(たべもの語源辞典)。

ハスには薬効がある。

「切ったハスが空気に触れて黒くなるのは、鉄分とタンニンによるのだが、このタンニンが止血作用を持っている。このしぼり汁には咳止めの効果もある。鉄分は貧血の人に良く、しぼり汁はカリウムが多いから血圧の上昇を予防する。食塩などのナトリウムの多い物をとったとき、カリウムがその排泄を促すことになる。ビタミンCが多いことも高血圧の予防になる」

と(仝上)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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法被と半纏


「法被」と「半纏」については、「取締り」http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-4.htm#%E5%8F%96%E7%B7%A0%E3%82%8Aで、三田村鳶魚『捕物の話 鳶魚江戸ばなし』に触れたことがある。

捕物出役に出かけていく際、当番与力一人が,同心一人を連れて出役する。継上下(つぎかみしも)で出勤している(のちには,羽織袴に変るが)与力は,着流しに着かえ,帯の上に胴締めをし,両刀をさし,手拭いで後ろ鉢巻をし,白木綿の襷にジンジン端折り(着物の背縫いの裾の少し上をつまんで,帯の後ろの結び目の下に挟み込む)する。槍を中間に持たせ,若党二人に草履取り一人を従えているが、

「供に出る槍持は,共襟の半纏に結びっきり帯で,草履取は,勝色(かちいろ)無地の法被に,綿を心にした梵天帯を締める。供の法被は勝色で,背中に大きな紋の一つ就いたのを着ている。」

「同心は羽織袴ででておりますが,麻の裏のついた鎖帷子を着込み,その上へ芝居の四天(歌舞伎の捕手)の着るような半纏を着ます。それから股引,これもずっと引き上げて穿けるようになっています。」

という身なりである。さらに,小手・脛当,長脇差一本(普段は両刀だが,捕物時は刃引きの刀一本),鎖の入った鉢巻きに,白木綿の襷,足拵え,という格好になる。供に,物持ちがつき,紺無地の法被に,めくら縞(紺無地)か,千草(緑がかった淡い青)の股引きを穿く。

この記述から見える、与力の供の、

草履取が法被、
槍持が半纏、
同心が半纏、
同心の供の物持ちが法被、

という、法被と半纏が着分けの原則が全く分からない。

法被は、

半被、

とも当て、半纏は、

袢天、
半纏、
絆纏、

とも当てる。

「法被」(ハッピ)は、元々、

ハフヒ(法被)の音便、

とある(大言海、岩波古語辞典)。

禅家で椅子の背にかける布、

を指した。禅林象器箋に、

法被、覆裏椅子之被也、

とある。それが、

もと武家にて、隷卒(しもべ)の表衣に着する羽織の如きもの。家の標など染付く。今一般に、職人などこれを用ゐる。しるしばんてん、カンバン、

という意味をももつようになる、とする(大言海)。しかし、どうも「羽織の如きもの」に当てる「法被」は、当て字で、禅家の「椅子の背にかける」ものとは別物ではないか、と思われる。

「法被」の前史は、肩衣(かたぎぬ)であり、「法被」は、その変形らしい。

最も原始的な服として、肩から前身(まえみ)と後身(うしろみ)とを覆い、前は垂領(たりくび)に引き合わす上半身衣を、ふるくから肩衣と呼んで一般に使用され、『万葉集』にも、木綿(ゆう)肩衣・布肩衣の名称がみえている。朝廷においては、大嘗会の儀の出納の小忌衣(おみごろも)にその俤を存する他、もっぱら下層の者に用いられた。
 そしてまたこの両脇を縫い塞いだものを手無しとも胴衣(どうぎ)とも称して、もっぱら労働の用とし、肩衣は主として小袖などの上にはおって、上着として用いた(有職故実図典)、とある。

室町時代末期になると、世も乱れ、室町幕府も衰微し、恒例の行事、儀式は行えず、服装も簡略化し、もっぱら

一重革紐のいわゆる素襖(すおう)、

で用を足すようになる。しかし、袖の大形なのは行動に不便なため、時に応じては内側に深く折りたたんだが、なお面倒であることから、ついに袖付より切り離して、再び原始の形に戻り、その形象が似ていることから、

半臂(はんぴ)、

といい、

法被、

とも書いた(仝上)、とある。禅宗のいう、

法被、

とは別由来であり、別物である、と考えていい。やがて、それが、元の肩衣に復し、略式礼装として登場し、戦国武士に好んで用いられ、肩衣は、徳川時代武家の正装とされるに至る(仝上)。

この「半臂(はんぴ)」といい「法被」といったものが、江戸時代の武家社会で、今日の「法被」として出現することになる。

「武士が家紋を大きく染め抜いた羽織を着用したことが法被の始まりのようです。当時は衿(えり)を返して着用していたようですが、江戸時代の末期になり、庶民に広がると衿を返さないで着るようになった」

とあるhttps://kyo-ya.net/hanten/%E5%8D%8A%E7%BA%8F%E3%81%A8%E6%B3%95%E8%A2%AB%E3%81%AE%E9%81%95%E3%81%84/のは、少し説明をはしょりすぎのようである。

上述の三田村鳶魚の話にあるように、上級武士(たとえば与力)は羽織袴を着る。「羽織」は、

「安土桃山時代から戦国武将に戦場での防寒着として鎧の上から陣羽織が着用されるようになり、便利であったためかすぐに日常でも着用されるようになった。この頃は『羽織』という名称ではなく『胴服』といわれていた。服装の順位としては将軍へのお目見えの時に使う直垂・大紋・素襖、士分の制服ともいえる裃より下にランクされる物で、普段着の扱いであった。」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BD%E7%B9%94

あるいは憶説かもしれないが、陣羽織は、袖がなく、肩衣の脇を縫い閉じたものとほとんど変わらない。肩衣ではなく、陣羽織から、法被が再登場したと見えなくはない。

羽織は、室町時代後期頃から用いられたが、現在のような形の、

丈の短い、防寒・礼装などの目的から、長着・小袖の上にはおって着る、

形の羽織が一般的になったのは近世に入ってからである(仝上)。動詞「はおる」の連用形が名詞化したもので、羽織は当て字、とある(仝上)。

で、主人が、

羽織、

着用なのに対して、

仲間(ちゅうげん)や下級武士が着用したのが、

法被、

ということになる。羽織の代用という感じである。

家紋などを染め抜いたものを武家が着用し始めたのが起源、

とあるhttp://www.so-bien.com/kimono/syurui/happi.html。本来の「法被」は、

襟を返して着用、

し、まさに羽織のように、

胸紐つきの単(ひとえ)だった、

ようであるhttps://www.hanten.jp/koeblog/diary/honzome/happihanten/。それを職人や町火消なども着用するようになった。しかし、幕府から一般庶民に羽織禁止令が出たため、襟を返す羽織や法被の代わりに、

襟を返さないで着用する法被、

が庶民の間で普及したhttps://www.hanten.jp/koeblog/diary/honzome/happihanten/。つまり、

襟を折り返すのが羽織、
襟を返さないのが法被、

と区別し、さらに袖も、

羽織は袂(たもと)袖、
法被は筒袖、

と区別しhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%A2%E7%BA%8F

襟や背中に屋号や家紋を染め抜いた、襟を返さない法被、

が、

印半纏、

と呼ばれるようになる。ここに、「半纏」と「法被」が重なる要因がある。

「半纏」は、

袷(あわせ)、

であったhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%A2%AB

由来は、「法被」とは異なり、語源は、

袖の丈が半分程しかないことから「半丁(はんてん)」となづけ、この「半」に「纏う(まとう)」の字を足して、「半纏」と書く(仝上)、
ふつうの袖の半分の幅であることから、袖のある衣服と袖なしとの間の意でいうハンテ(半手)の音便(筆の御霊)、
長さがふつうの着物の半分であることから(木綿以前=柳田國男)、

等々とされる。大言海は、

羽織に似て、…半襟など掛け、胸紐を用ゐず、賤人の用なり、ヌノカタギヌ、

とする(大言海)。「賤人の用なり」というのは、

「江戸時代、とくに18世紀頃から庶民の間で着用されるようになった。主に職人や店員など都市部の肉体労働者の作業着として戦後まで広く使用され、労働者階級を示す『半纏着(の者)』という語があった。種類については袖の形による広袖袢纏、角袖袢纏、筒袖袢纏、デザインの面では定紋や屋号などを染めつけた印袢纏などがある。印半纏は雇い人に支給されたり、出入りの職人などに祝儀に与えられることも多く、職人階級では正装として通用し、俗に窮屈羽織とも呼ばれた。」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%A2%E7%BA%8Fところからきている。それと今日使う、「半纏」つまり、綿入りのそれは、

「袷(あわせ、表地と裏地の二重)にしてその間に綿を入れたもので、衿は黒繻子をかけたものが一般的である。主に室内用の防寒着として用いられ、男性・女性に限らず着用される。」

という(仝上)ところから、同じ「袢纏」と称してもまったく違う用途の発祥とみられ(仝上)、「半纏」は、

実は江戸時代では庶民の間で着用されるようになった防寒着のこと、

とする説もあるhttps://kyo-ya.net/hanten/%E5%8D%8A%E7%BA%8F%E3%81%A8%E6%B3%95%E8%A2%AB%E3%81%AE%E9%81%95%E3%81%84/。実のところ、半纏の由来ははっきりしていない。

それにしても、半纏と法被の違いは、なんだろう。たとえば、「法被」を引くと、

しるしばんてん、

と載り、「半纏」を引くと、

印半纏の略、

と載り、ほとんど、法被と半纏の区別がつかなくなっている。

「法被が生まれたのは江戸時代初期の頃でした。法被は(中略)元々は羽織のひとつとして、家紋などを染め抜いたものを武家が着用し始めたのが起源とされています。その見た目は当時の一般庶民の間でも格好良いと憧れを抱く存在であったようですが、当時の身分制度の維持を図るために、身分相応以上の服装をしてはいけないという法令があり、武家よりも下の身分の者にはこの法被の着用は許されておりませんでした。
そこで作成されたのが安い袢纏です。
当時の法被は羽織と同様、襟を返すものでしたが、半纏は襟を返さず、またその法令に触れないような木綿などの素材で作られました。そのため法被の中には広袖のもの存在しますが、半纏にはそれがないのもそういった理由からのようです。そしてその袢纏は次第に庶民の生活に深く密着した普段着や作業着となっていったのです。」

という説明https://www.gfmd2008.org/infomation/tigai.htmlが、比較的推移を正確に描いている感じである。こう見ると、襟を着返さない法被が、もともとあった防寒用の半纏と重なって、印半纏になったのかもしれない。

「袢纏は逆に庶民・町民・職人を中心に日常生活で着用された。江戸時代に一般庶民は羽織禁止令が出たため、襟を返す羽織(当時の法被も襟を返して着用)の代わりに法被が形を変え、その末端で袢纏との混同が始まったようだ。」

というhttps://www.hanten.jp/koeblog/diary/honzome/happihanten/のも、そのあたりの経緯を憶測させる。

上述の、鳶魚の説明の与力、同心の出役の出で立ちで、与力の供の、

槍持が共襟の半纏に結びっきり帯,
草履取が勝色(かちいろ)無地の法被に,綿を心にした梵天帯、背中に大きな紋、

であり、同心も、

羽織袴に,麻の裏のついた鎖帷子の上へ芝居の四天(歌舞伎の捕手)の着るような半纏、

を着ている。つまり、半纏も、法被も、ともに、武家の供の者、あるいは足軽級(同心は足軽)の武士が着ていた、とされるのは、あるいは、すでに、半纏と法被の混同が始まった後のことのように思われる。

上述のように、法被は、

「広袖もしくは筒袖で、腰~膝丈の上着で、襟を羽織のように折り返して着ます。もともとは武家の仲間や大店の下僕、職人などが、主の紋や屋号のついたものを着用しました。」

が、幕府の禁制前は、襟を返して(折って)着ていた。

「羽織禁止令が出たため、庶民は衿を返す羽織や法被の代わりに、『衿を返さないで着用する法被』を着るようになりました。それは『印半纏』とも呼ばれ、江戸の人々の生活に根付いていきました。」

とあるhttps://kyo-ya.net/hanten/%E5%8D%8A%E7%BA%8F%E3%81%A8%E6%B3%95%E8%A2%AB%E3%81%AE%E9%81%95%E3%81%84/

しかし、敢えて勘ぐるなら、町人が、

法被、

ではなく、

半纏、

だというために、

印半纏、

と呼んだのかもしれない。半纏は、

「羽織に似るが、実生活向きに簡略化されて、腋に襠(マチ)がなく、丈もやや短めで胸紐をつけて、襟も折り返さないで、着る」

とある(日本語源大辞典)のは、そんな傍証に見えてくる。

法被、半纏の区別は曖昧になっているので、たとえば、

「防寒用の『綿入り半纏』『どてら』と、襟や背中に屋号や家紋を染め抜いた『印半纏』は、基本的にまったく違う用途と文化があり、『法被=印半纏』というのが、現在の一般的な見解のようです。当社で製作している半纏は、いわゆる「法被」であり、「印半纏」です。」

と言い切るところもあるhttps://www.hanten.jp/koeblog/diary/honzome/happihanten/

参考文献;
鈴木敬三『有職故実図典』(吉川弘文館)

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ういろう


「ういろう」は、

外郎、

と当てる。

「ういろう」というと、歌舞伎の外郎売りの、

親方と申すは、お立ち合いの内に御存知のお方もござりましょうが、お江戸を発って二十里上方、相州小田原、一色町をお過ぎなされて、青物町を登りへお出でなさるれば、欄干橋虎屋藤右衛門、只今は剃髪致して、円斎と名乗りまする。元朝(がんちょう)より大晦日(おおつごもり)まで、御手に入れまする此の薬は、昔、ちんの国の唐人、外郎(ういろう)という人、わが朝(ちょう)へ来たり、帝へ参内の折から、此の薬を深く籠め置き、用ゆる時は一粒(いちりゅう)ずつ、冠(かぶり)の隙間より取り出だす。依って其の名を帝より、透頂香(とうちんこう)と賜わる。即ち文字には、頂(いただき)、透(す)く、香(にお)いと書きて、とうちんこうと申す云々、

と続くセリフを思い出すが、これは、享保3年(1718)江戸森田座の「若緑勢曽我 (わかみどりいきおいそが) 」で二世市川団十郎が初演。外郎売りが妙薬の由来や効能を雄弁に述べる。

しかし、「ういろう」には、

外郎薬、

外郎餅、

と、薬と菓子の二つがある。また、「ういろう」を売る「外郎売り」の略の意でもある。

ういろう、

は、唐音らしく、たとえば、

元の人、礼部 (れいほう) 員外郎 (いんがいろう) 陳宗敬が、応安(1368~1375)年中、日本に渡来し、博多に住んで創薬した薬。その子 陳宗奇は京都西洞院に移って外郎家と称し、透頂香 (とうちんこう) の名で売り出し、のち、小田原に伝えられ、江戸時代に評判をとる。痰の妙薬で、口臭を消すのにも用いる、

という薬の意味と、

菓子の名。米の粉・砂糖・葛粉などを混ぜて蒸したもの。元は黒砂糖を使い、色が透頂香に似る。山口・名古屋の名産、ういろうもち、

とある(広辞苑、デジタル大辞泉)。

戦国時代の1504年(永正元年)には、本家4代目の祖田の子とされる宇野定治(定春)を家祖として外郎家の分家(小田原外郎家)が成立し、北条早雲の招きで小田原でも、ういろうの製造販売業を営むようになった。小田原外郎家の当主は代々、宇野藤右衛門を名乗った、とあり、

「1539年(天文8年)に宇野藤右衛門は北条氏綱から河越城郊外の今成郷を与えられ、『小田原衆所領役帳』にも今成にて200貫465文を与えられた馬廻衆の格式で記載されるなど、小田原外郎家は後北条家から所領を与えられて御用商人としての役割を果たしたとみられている。後北条家滅亡後は、豊臣家、江戸幕府においても保護がなされ、苗字帯刀が許された。なお、京都外郎家は現在は断絶している」

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E3%81%84%E3%82%8D%E3%81%86_(%E8%96%AC%E5%93%81。外郎は、いまも、外郎家が経営する薬局で市販されているhttp://www.uirou.co.jp/kashi1.html

なお、歌舞伎十八番の一つ外郎売りは、

「曾我五郎時致がういろう売りに身をやつして薬の効能を言い立てるものである。これは二代目市川團十郎が薬の世話になったお礼として創作したもので、外郎家が薬の行商をしたことは一度もない」

という(仝上)。「外郎薬」の由来には、別説もある。

「大覚禅師(鎌倉、建長寺の始祖)が宋から来朝したとき、この薬を伝えたとも、大覚禅師に随行して宋からきた官人が京都に止まって、この薬を売り始め、宋音で外郎の『外』を『ウイ』と発音したのに始まる」

と(たべもの語源辞典)。

なお、「透頂香 」の「とうちん」は宋音、らしい。

この、

ういろう餅、

の由来が、透頂香と重なるらしいのである。たとえば、

「陳外郎の子孫である外郎家がもてなしに使った菓子も評判となり「外郎」として広まったのだとか。また、外郎薬の口直しに用いた菓子だったからとか、薬の形や色に似た菓子だったから、「外郎」と呼ぶようになった、ともいわれています。」https://shokuiku-daijiten.com/mame/mame-802/

「陳外郎の子孫である外郎家がもてなしに使った菓子も評判となり「外郎」として広まったのだとか。また、外郎薬の口直しに用いた菓子だったからとか、薬の形や色に似た菓子だったから、「外郎」と呼ぶようになった、ともいわれています。」https://shokuiku-daijiten.com/mame/mame-802/

等々、ただ外郎薬に色が似ていただけでなく、外郎家とつなげ「菓子のういろうの名の由来については、この外郎家が製法を伝えたため」とする説さえある。

しかし、他方、

「ういろうもちの現在の製法は、室町時代に、周防山口の秋津次郎作が考えた」http://gogen-allguide.com/u/uirou.html
「美濃の高須に平屋と云へる外郎屋ありしが、当地袋町五丁目の餅屋水谷文蔵は、之と親戚なるを以て、其製法の秘を得、元治元年、試験的に売り始め、普通餅の製造の余業とせり、其後間もなく外郎発売を主としたり」(名古屋市史)、

等々、「ういろう」の名産地での創作の説がある。その「餅文総本店」のホームページには、

「名古屋に伝わったのは、尾張の御用商人だった初代の餅屋文蔵が二代目藩主徳川光友の知恵袋として仕えた明の国出身で書、医学、菓子の知識が深かった陳元贇から製法を教わったのが始まり」

とあるhttp://www.mochibun.co.jp/。この「陳元贇」が「外郎薬」の陳とつながるかどうかははっきりしない。しかし、

「天和二年(1682)八月来朝した朝鮮通信使饗応の献立の中に『外郎餅』がある」

とある(たべもの語源辞典)。山口・名古屋・広島・糸崎・小郡など、に外郎に似たものがある。無理に「外郎薬」の由来とつなげず、

「これが菓子の名になったのは、昔、『たん切り』という餅菓子があって、この『外郎』というたん切りの妙薬と色も形も似ていたからである」

とする(たべもの語源辞典)のが無難のようである。ただ、銀の粒の「外郎」薬からは、「ういろうもち」とどこが似ているのかは、ちょっとわからない。『東海道中膝栗毛』で主人公の喜多八が菓子のういろうと勘違いして薬のういろうを買い、袋を開けると小さな粒で、それを食べてしまって苦い顔をする場面、ここでは明らかに銀の粒のようである。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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よね


「米」は、

こめ、

と訓むが、漢字では、

ベイ(漢音)、
マイ(呉音)、

と訓み、共に日本語でも、

米価・米穀・米作・米飯等々、

外米・玄米・産米・新米・精米・洗米・白米・飯米・禄米等々、
と、

それぞれ訓む。また「米」は、

よね、
めめ、

とも訓む。「めめ」は、

女房詞、

で(岩波古語辞典辞典)、

めを重ねたる語、

で(大言海)、「こめ」を言い換えたものに思われる。では、

よね、

と訓むのは何か。

米沢、
米山、
米子、

等々、「よね」とつながる地名も多い。

こめhttp://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba8.htm#%E3%81%93%E3%82%81で触れたように、

「契沖は,脱穀したものがコメ,更に精白したものがヨネではないかとしている(『随筆・円珠庵雑記』)。しかし,中古・中世の文献によると,漢文訓読および和文的な作品でヨネが多く,説話や故実書,キリシタン文献などでコメを用いている。これはヨネが雅語的・文章語的性格を有したのに対して,コメが実用語的・口頭語的な性格が強かったからではないかと解釈される。方言でヨネの類がほとんど見当たらないのも,話し言葉では早くからコメが用いられていたことを意味する。」

とあり(日本語源大辞典)、「こめ」と「よね」は、並立して使われた来たらしい。

「稲(しね)の死ねに通ふのを忌みて、吉(よ)ねと云ふなりと云ふ。葦(悪)をよし(善)と云ふが如し」

とある(大言海)。これだけだとわからないが、「しね」を引くと、

「天爾波(てにをは)のシニ、稲の約まりたるが付きたる語か」

とあり(仝上)、

熟語にのみ用ゐる(大言海)、
他の語の下につくときに使う(岩波古語辞典)、

とある。たとえば、

十握稲穂(トツカシネノホ 顕宗即位前紀)、
和稲荒稲(ニギシネアラシネ 大忌祭祝詞)、
御稲(みしね)つく女(おみな)(神楽歌)

等々(大言海、岩波古語辞典)。用例から見ると、ふるく、

シネ、

と訓んでいたらしい。その流れで、

雅語的・文章語、

の文脈では、

よね、

と訓ませたもののように見える。

他の語源説を見ると、

ヨキタネ(嘉種)の義(東雅)、
ヨキイネ(美稲・味稲)の中略(類聚名物考・和訓集説)、
ヨキネ(良米)の義(名言通)、

等々、「良い」と関わらせる説が多い。他に、

ヨネ(世根)の義(柴門和語類集・折口学への招待=高橋正秀)、
ヨはヨハヒ(齢)のヨ。ネは根の義(国語の語根とその分類=大島正健)、
ユミ(小子)の義。コメ(米)に通ず(言元梯)、
イナホザネ(稲穂実)の義(日本語原学=林甕臣)、
イトノベ(糸延)の反(名語記)、
ヤナグヒ(箶簶)と同源のヤナから(続上代特殊仮名音義=森重敏)、

等々があるが、「ヨネ」の語呂合わせにしか見えない。それなら、

イナ(稲)の母音交替形ヨナの転(岩波古語辞典)、

の方が筋が通る。「いな」は、「いね」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba8.htm#%E3%81%84%E3%81%ADで触れたように、

イネの古形、

である。憶説だが、

イナ→イネ→ヨナ→ヨネ、

という転訛ではあるまいか。「よな」の訓みの古さから考えても、あり得ると思うがどうだろう。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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うどん


「うどん」は、

饂飩、

と当てる。

うんどんの転、

とある(岩波古語辞典)。つまり、

饂飩、

の音読みである。

「饂は温なるに、飩の食偏に連れて、連字改偏旁せしなり、輻湊を輻輳、爛漫を爛熳とする類」

とある(大言海)。

「奈良時代に渡来した唐菓子に『混沌』というものがある。『混沌』は物事のけじめがつなかいさまをいうが、小麦粉の皮に餡(肉や糖蜜など)を包んで煮たもの(丸いワンタンのようなもの)で、丸めた団子はくるくるして端がないことから『こんとん』とよばれた。たべものなので食偏に改めて『餛飩』と書いた。熱いたべものなので『温飩』と書くようにもなり、これが、また食偏に変わって『饂飩』になった」

ということである(たべもの語源辞典)。

「丸い形のものだったので、それを切って細くしたとき、切麦(切麺とも書く)というよび名も生まれた。…熱したものを『あつむぎ』、冷やしたのを『ひやむぎ』とよんだ。オントン(温飩)がウントン(饂飩)になって、室町時代に。ウドンというよび名が使われ始めた。しかし江戸時代になっても、ウンドンというよび名がウドンとともに用いられていた」

とある(仝上)。

ちなみに、切麦を温かくして食べる「温麦」と冷やして食べる「冷麦」は総じてうどんと呼ばれてきたが、

「細い物などは『冷麦』『素麺』と分けて称することが一般的ではあるが、乾麺に関して太さによる規定がある以外は厳密な規定はなく、細い麺であっても『稲庭うどん』の例も存在し、厚みの薄い麺も基準を満たせば、乾麺については『きしめん、ひもかわ』と称してよいと規定があり、これらもうどんの一種類に含まれる」

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E3%81%A9%E3%82%93

「うどん」発祥については、

奈良時代に遣唐使によって中国から渡来した小麦粉の餡入りの団子菓子「混飩(こんとん)」に起源を求める説。青木正児の「饂飩の歴史」によれば、ワンタンに相当する中国語は「餛飩」(コントン)と書き、またこれを「餫飩」(ウントン、コントン)とも書き、これが同じ読み方の「温飩」(ウントン)という表記になり、これが「饂飩」(ウドン)となったとする(仝上)、

上記の説以外にも、

平安時代に空海が唐から饂飩を四国に伝えて讃岐うどんが誕生したという説、
平安時代の989年、一条天皇が春日大社へ詣でた際に「はくたく」を食べたという「小右記」の記述から、発祥は奈良とする説、
仁治2年(1241年)に中国から帰国した円爾(聖一国師)が製粉の技術を持ち帰り、「饂飩・蕎麦・饅頭」などの粉物食文化を広めたとする説(承天寺(福岡市、円爾建立)境内には「饂飩蕎麦発祥之地」と記された石碑がある)、
中国から渡来した切り麦が日本で独自に進化したものであるという説(奥村彪生によれば、麵を加熱して付け汁で食するものは中国には無く、日本の平安時代の文献にあるコントンは肉の餡を小麦の皮で包んだもので、うどんとは別ものであり、うどんを表現する表記の文献初出は南北朝時代の「ウトム」であるとする)、

等々がある(仝上)。特に、日本発祥かどうかは別に、

「小麦粉の皮に餡を包んだワンタンのようなものと、そば状の『うどん』とは、まったく別種のたべものなので、渡来したとき、初めからこの二つは別々のものとしてはいってきたのではないかと考える」

とする説(たべもの語源辞典)もある。だから、

こんとん(混沌)→おんとん(温飩)→うんどん(饂飩)→うどん(饂飩)、

の変化とは別系統の、

索餅(さくべい)→麦縄(むぎなわ)→切麦→うどん、

という流れがある、とする説がある。それによると、

「西アジアから伝わった小麦文化は、中国で麺の原型となる食べものに変化します。中国で『麺(ミエン)』というのは、もともとは小麦粉のことを指し、日本でいう『麺』にあたるものは『麺条(ミエンテイアオ)』と呼ばれていました。小麦を加工した食品には他に『餅』がありますが、これは日本の『もち』ではなく『ピン』といって、その後登場する麺の原型となった食べものです。」

「『餅(ピン)』には、練った小麦粉を現在の饅頭や焼売のように蒸した『蒸餅(ツエピン)』、パンや煎餅のように焼いた『焼餅(サオピン)』、小麦粉に『みょうばん』や『かんすい』などの添加物を加えて棒状にねじって油で揚げた『油餅(イウピン)』、スープの中に入れてゆでた『湯餅(タンピン)』の4種類があります。この4種類の中で、「ゆでる」という調理法が現在の「麺」に発展していくのです。」

https://www.tablemark.co.jp/udon/udon-univ/lecture01/index.htmlし、餅(ピン)が「うどん」に変化していく、とする。

まず、「索餅(さくべい)」という、中国最古の麺と呼ばれる、小麦粉と米粉を混ぜて塩水で練り、縄状にねじった太い麺がある。

「日本でも奈良時代にはたくさんの「索餅」が作れていたようです。小麦粉の大量生産のために大型の回転式臼を使用していたといわれ、東大寺境内の古井戸からは臼の破片が発見されています。また平安時代には、長寿祈願の食べものとして宮中でも供応されていたといわれています。」(仝上)

清の時代に書かれた書物には、

「『索餅は水引餅(すいいんべい)のことである』と書かれています。「水引餅」とは、紐状にした麺を水につけてから人差し指と親指ではさみ、もみながらニラの葉のように薄く手延べしたものを指します。これをスープに入れてゆでて食べる」

らしく、うどんの直接の原型とみられている(仝上)。

太い縄状にねじった太い「索餅(さくべい)」の次に現れるのは、それを細く伸ばした、「麦縄(むぎなわ)」になる。

「『索餅』の『索』という漢字には『縄』という意味があり、『麦縄(むぎなわ)』という文字は『索餅』の直訳で、同じ食べものを指します。」

そして、「切麦」となる。

「小麦粉を水でこねて細く切った『切麦』という、うどんの原型が登場します。中国では小麦粉を使わずに麺がグルテン化しない素材(米、そば、緑豆等)を、円筒形の筒から直接湯の中に入れてゆでる食べ方があります。さらに中国の麺作りの進化の過程で、包丁で麺を切り出す方法が生まれます。宗の時代にはこれを『切麺(チェミェン)』と呼び、『切麦』のルーツといわれています。」

という流れで見るhttps://www.tablemark.co.jp/udon/udon-univ/lecture01/index.htmlと、やはり、ワンタン状の

こんとん(混沌)→おんとん(温飩)→うんどん(饂飩)→うどん(饂飩)、

というの変化には無理があり、別系統の、

索餅(さくべい)→麦縄(むぎなわ)→切麦→うどん、

という、

太い縄状にねじった太い麺(索餅)→細く伸ばした麺(麦縄)→切麦(うどん)、

の方が自然に思われる。

なお今日では、「うどん」はとうがらしだが、江戸時代中期までは、薬味はコショウで、必ず梅干しが添えられていた。江戸時代後期にトウガラシ栽培が軌道に乗るに連れ、その地位を奪われることになる(たべもの語源辞典、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E3%81%A9%E3%82%93)。

「そば」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba5.htm#%E3%81%9D%E3%81%B0
「蕎麦切」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E8%95%8E%E9%BA%A6%E5%88%87

についてはすでに、それぞれ触れたが、由来から見ると、歴史的には蕎麦(蕎麦切り)よりうどんの方が古い、ということになる。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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へぼ


「へぼ」は、

へた、わざのまずいこと、またそのひと、
野菜・果物などのできのわるいもの、

という意味が載る(広辞苑)。大言海は、

つたなきこと、へっぽこ、平凡、
転じて、野菜などの出来損じたるもの、

と載る。しかし、

へた、
とか
技の拙さ、

の意は、

へぼ将棋、
へぼな絵、

という言い方で、相手の拙さをあざける含意がある。しかし、そこから転じても、

へぼキュウリ、

というような、

できそこない、

の意になるだろうか。

大言海も広辞苑も、「へぼ」を、

平凡の略、

とする。

技が拙いこと、

は、意味としてかろうじて「平凡」に掠るが、しかし、それが、

できそこない、

の意に点ずるとは到底思えない。しかし、語源由来辞典も、

「平凡の略 という。主に俗語を集めた江戸末期の国語辞典『俚言集覧(りげんしゅうらん)』には、『 へぼ、下濁、下手をヘボと云う』とある。へぼいは、へぼが形容詞化されたもの。」

と、やはり、

平凡、

とする。日本語源広辞典は、二説挙げ、平凡の略の他に、

「へ(浅薄)+ボ(男)」

で、

つまらない男、

の意とする。しかし、それでも、それが、

技の拙さ、

には、つながらないし、まして、

できそこない、

には、つながる気が、あまりしない。

「へぼ」は、岩波古語辞典には載らないが、江戸語大辞典辞典には、

屁坊の短呼か、

と載る。

拙劣、
下手、
無力、

の意である。江戸語大辞典には、

へぼ隠居(無力の隠居)、
へぼ学者(学力の乏しい学者)、
へぼ拳(下手な拳、またその打ち手)、
へぼ将棋、
へぼ浄瑠璃、
へぼ太夫(へたくそな浄瑠璃語り)、
へぼ役者(へたくそな芝居役者、地位の低い芝居役者)、
へぼ流(技の拙劣なるを一流派の如く言いなした戯言)、

と、拙い意味で使う例が載る。野菜については、

へぼ瓜、

が載るが、

蔓の末端に生った瓜、最も貧弱な売り、

と載る。どうみても、「へぼ」は、

平凡、

ではなく、

その技倆をあざけり、揶揄している。だから、

へぼ瓜、

は、

出来損ない、

というよりは、

使い物にならない、

という含意がある。そこから、

へぼ茄子、

と意味が転化するのは筋が通る。問題は、「へぼ」というとき、

平凡、

などと云う貶め方ではないことだ。

へぼくた(朽)、

という言い方が載る。

「へぼ」の強調語、

で、

下手くそ、

と「くそ」を付けたのと似ている。語源が、

屁坊、

かどうかは別に、

へぼ役者、

とあざけった時、それは、

かなりの程度に下手糞だと言っているのである。少なくとも、

平凡、

でないことは確かである。

ここからは憶説であるが、「へぼ」に似た言葉で、

へっぽこ、

という言葉がある。

技倆の劣った者、役に立たない者をののしっていう、

という意味で、「へぼ」と重なる。

へっぽこ役者
と、
へぼ役者、

は同義である。

屁っぽこ、

とあてる(江戸語大辞典)。

へっぽこ(heppoko)→へぼ(hebo)

の転訛ではあるまいか。「屁坊」の「屁」は、ののしり、あざけりの意を込める。

へっぴり(屁放)役者、

といえば、

放屁するしか芸のない役者、

の意である。「へっぽこ」「へぼ」には、そこまでの嘲りはないが。

参考文献;
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

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へなちょこ


「へなちょこ」は、

埴猪口、

と当てたりする。

未熟なもの、取るに足らないものをあざけって言う語、

とある。いくつか説がある。

ヘンナオトコ(変な男)はヘナチョコとなり、未熟者をあざけっていう(日本語の語源)、
弱小な様をいう語で、ヘナはヘナヘナ、チョコはチョコリの意(上方語源辞典=前田勇)、
「へな」とは「埴土(へなつち)」(粘土を多く含んだ土で、壁などを塗るのに使われる)のこと。「へなちょこ」とは、へなつちで作った猪口、つまり出来の悪い猪口(デジタル大辞泉)。
ヘナチョコ(埴猪口)の義、明治十四五年の頃、山田風外、野崎左文等四五人、神田明神の境内なる開花樓にて酒宴す。其席にて使用せる盃は、内部に於多福、外部に鬼面の楽焼にて、面白ぎものなりき。これは酒を入るれば、ジウジウと音して、酒を吸ひ、ブクブク泡立つ土製の猪口なり。衆呼びてヘナ猪口と云ひしとぞ(大言海)、

等々。ふつうに意味から考えれば、「へな」は、

へなへな、

が思い浮かび、「ちょこ」は、

猪口才、

の「猪口」が思い当たる。ちょこざいhttp://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba1.htm#%E3%81%A1%E3%82%87%E3%81%93%E3%81%96%E3%81%84で触れたように、猪口才の語源は、

「ちょこっとした(少ない・軽少な)+才能」

「ちょこ(猪口)+才(才能)」

の二説があるが、「ちょこ」は、「ちょこちょこ」とか「ちょこまか」とか「ちょこっと」といったときに使う、「ちょこ」であり、つまりは、小さいを意味する。

小才、

は、まだ気が利くが、

小利口、

はちょっと、気に障る。

猪口才、

は、もっと目障りになる、という感じであろうか。それに「へなへな」の「へな」がついて、

小才の役に立たなさ、

を言っている、ともとれる。あるいは、おっちょこちょいhttp://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba6.htm#%E3%81%8A%E3%81%A3%E3%81%A1%E3%82%87%E3%81%93%E3%81%A1%E3%82%87%E3%81%84で触れた、「ちょこまか」の「ちょこ」としても、「すこし」「ちいさい」意である。

しかし、「埴猪口」は自分の造語だという人がいる。明治時代の新聞記者で狂歌師でもあった、

野崎左文(のざきさぶん)、

である。野崎左文『私の見た明治文壇』「昔の銀座と新橋芸者」に、

「其頃新橋ではいろいろな流行語があつた、挟み言葉やツの字言葉も用ひられ『アラよござい』『シンだねへ』『十銭頂戴』其外いくらもあつたやうだが今急には思ひ出されぬ、今日でも用ひられて居る唯の事を『ロハ』一円を『円助』半円を『半助』秘密を発く事を『スツパヌキ』劣等又は粗悪を意味する『ヘナチヨコ』などは盛んに唱へられたものだが、此ヘナチヨコといふのは実は私共の作つた新語で、それは明治十三四年の夏風雅新誌の山田風外翁と私等四五人が同年神田明神に開業した今の開花楼に登つて一酌を催した時、銘々の膳に附けて出した盃は内部がお多福、外部が鬼の面で、その鬼の角と顎とが糸底代りになつて居る楽焼風の気取つたものであつた、是は面白い盃だ先づ一杯を試みやうと女中に酒を注がせると、こは如何にジウジウと音がしてブクブクと泡が立ち酒が盃の中に吸込まれた、イヤ是れは見掛けに寄らぬ劣等な品物だ、ヘナ土製の猪口だから以来ヘナチヨコと呼ぶべしだと呵々大笑したのが始まりで、爾来外見ばかり立派で実質の之に伴はないものを総てヘナチヨと称して居たのが忽ち新橋の花柳界に伝はり終に一般の流行言葉となつたのである」

とあるhttp://www.kikuchi2.com/mzasshi/hena.html、という。また、同氏の「ヘナチヨコの由来」では、

「(『集古』の)前号の『猪尾助の由来』といふ記事を読んでふと思ひ出した儘茲にヘナチヨコの由来を白状する、それは明治十四五年の夏の事で当時風雅新誌の社主であつた山田風外氏とおのれ等四五人で同年神田明神に開業した今の開花楼に登つて一酌を催した、其時銘々の膳に附けて出した盃は内部がお多福外側が鬼の面になつて居る楽焼風の気取つたものであつた、是れは面白い盃だ先づ一杯を試みやうと女中に酒を注がせるとこは如何にジウジウと音がしてブクブクと泡が立つた、イヤ是れは見掛によらぬ劣等な品物だヘナ土製の猪口だからヘナチヨコと呼ぶべしだと呵々大笑したのが抑もの始まりで、それから以後外見ばかり立派で実質の之に伴はぬものを総てヘナチヨと呼びヘナチヨコ料理屋、ヘナチヨコ芸者、ヘナチヨコ芝居などゝ盛んに此の新語を用ひたのが忽ち新橋の花柳界に伝はり又落語家円遊などが高座で饒舌るやうになつた為め終に東京一般の流行言葉となつたのである、云々」

と述べる(仝上)、という。

文脈から見れば、

ヘナ土製の猪口だからナチヨコ、

と呼ぶ、としたのだが、この背景には、「へなへな」の「へな」という言葉を、意識して掛けたかどうかは別として、同座の面々に意識されていたことは確かなのではないか、という気がする。でなければ、

へな土製だからへな猪口、

では当たり前すぎて、

呵々大笑、

とはなるまい。

「へなへな」は、

力を加えると曲がったりしなったりして弱弱しい様子、
頼り甲斐なく弱弱しい様子、

という意味で、江戸時代から見られる(擬音語・擬態語辞典)。

鮪売り根津へへなへなかつぎ込み(誹風柳多留)、

という句もある。この言葉の含意があってこそ、

へなちょこ、

は駄洒落となったのではあるまいか。とすると、「へなちょこ」は、

へな土製の猪口、

という意味で尽きるようだ。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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卯の花


「卯の花」は、

卯の花の 匂う垣根に
時鳥(ホトトギス) 早も来鳴きて
忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ

という童謡でお馴染みの、

うつぎ、

の別名であり、「うつぎ」は、「うづき」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba10.htm#%E3%81%86%E3%81%A5%E3%81%8Dで触れたように、

空木、

の意味で、茎が中空であることからの命名であるとされる。しかし、異説もあり、

ウ(兎)の毛のような白い花が咲くから(名語記・本朝辞源=宇田甘冥)、

ともある(日本語源大辞典)。陰暦四月の、

「卯月」は、

卯の花月、

とも呼ばれ、「卯月」の由来は「うつき」とする説があるほどである。ただ、「卯の花」説は、他の月の命名との一貫性が損なわれる気がするので、ちょっと難点があるが。

また「卯の花」は、

おから、

の別名でもある。さらに、

襲(かさね)の色目、

の意ともされる。「色目」とは、

十二単などにおける色の組み合わせ、

をいい、

衣を表裏に重ねるもの(合わせ色目、重色目)、
複数の衣を重ねるもの(襲色目)、
経糸と緯糸の違いによるもの(織り色目)、

等々があるhttp://www.kariginu.jp/kikata/kasane-irome.htm。その代表的なものは表裏に重ねる、

襲の色目(かさねのいろめ)、

がある。

卯の花襲(かさね)、

とは、

は女房装束の袿(うちき、うちぎ)の重ねに用いられた襲色目に、四月薄衣に着る色のひとつとしてあるhttp://www.kariginu.jp/kikata/5-2.htm、山科流では、表は白、裏は萌黄(もえぎ)。四五月にもちいる、という(広辞苑)。

当時の絹は非常に薄く裏地の色が表によく透けるため、独特の美しい色調が現れる。襲色目は、http://www.kariginu.jp/kikata/5-2.htmに詳しい。

「おから」を、「卯の花」と呼ぶのは、

「絞りかすの意味。茶殻の『がら』などと同源の『から』に丁寧語の『御』をつけたもので、女房言葉のひとつ。『から』の語は空(から)に通じるとして忌避され、縁起を担いで様々な呼び名に言い換えされる。白いことから卯の花(うのはな、主に関東)、包丁で切らずに食べられるところから雪花菜(きらず、主に関西、東北)などと呼ばれる。『おから』自体も『雪花菜』の字をあてる。寄席芸人の世界でも『おから』が空の客席を連想させるとして嫌われ、炒り付けるように料理することから『おおいり』(大入り)と言い換えていた」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%8B%E3%82%89

「おからのカラ(空)をきらって、ウ(得)の花としたという説もあるが、これは良くない。ウは『憂』に掛けたりすることが多い」

と一蹴したたべもの語源辞典は、

「雪花菜というのも、雪の白いことで、雪見菜は白い花、卯の花も白い花である。白い卯の花をおから(白い色が似ている)と見立てたのが正しい」

と言う。ひねくらず、卯の花に見立てた心持でいいのかもしれない。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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ツワブキ


「ツワブキ」は、

石蕗、
艶蕗、
槖吾、

等々と当てる。「槖吾」は、「つわ」とも訓み、

ツワブキの別名、

とある。ただ、

中国語の『橐吾』はキク科メタカラコウ属、

の別の植物であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%83%AF%E3%83%96%E3%82%AD

石蕗、
艶蕗、

共に、「蕗」の字を当てているのは、

葉に光沢のある艶があり、フキ(蕗)の葉のように見えることから、
キ(蕗)のように見える葉が厚いことから、

等々と語源説に絡んで、「蕗」とのつながりがあるせいである。

葉柄を食用にし、葉・葉柄を民間療法で打撲・やけどなどに用いる(仝上)。漢字では、

石蕗、

と書くが、

「これも『石』と『蕗』のことで、『ツワ(石)』の由来は、自生地が海岸や浜辺の岩の上や崖や海辺の林など岩や石の間に生えることにちなんでいる。また、『フキ(蕗)』の由来は、『フフキ(布布岐)』と呼んでいたフキ(蕗)に対して、我が国最古の本草書。医学の事典として薬名を記した書物で、動植物、鉱物などを載せている『本草和名』では、漢名の『款苳(カントウ)』をあて、『和名抄』では『蕗』の漢字をあてた。ところが、日本のフキ(蕗)と同じ植物は、中国では『蜂斗菜(ホウトサイ)』と書き、『款苳・蕗』のどちらも、誤用であったことが、分かっているが、『和名抄』の「蕗」の漢字の用法が現在に定着している。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%83%AF%E3%83%96%E3%82%AD、誤用のままきているようだ。「蕗」(漢音ロ、呉音ル)は、薬草の、

カンゾウ(甘草)、

を指す、とある(漢字源)。なお、津和野(つわの)の地名は、

「石蕗の野(ツワの多く生えるところ)」が由来、

という(仝上)。

「ツワブキ」は、

「つやのある大きな葉を持っており、毎年秋から冬に、キクに似た黄色い花をまとめて咲かせる。そのため『石蕗の花(つわのはな)』は、日本では初冬(立冬〔11月8日ごろ〕から大雪の前日〔12月7日〕ごろまで)の季語となっている」

とある(仝上)ように、艶のある葉が特徴である。

そのため、「ツワブキ」の語源は、諸説あるが、大言海は、

艶葉蕗の義にて、葉に光沢あるを以て云ふかと云ふ、

とする。

他に、

ツワ(固い・強い)+蕗、と、硬くて食べられないから(日本語源広辞典)、
アツハブキ(厚葉蕗)の義(日本語原学=林甕臣)、
テルハフキ(光葉蕗)の義(言元梯)、
ツハはツキハ(貼葉)の義か(名言通)、

等々の諸説がある。

ツヤハブキ(艶葉蕗)→ツハブキ→ツワブキ(石蕗)、
アツハブキ(厚葉蕗)→ツハブキ→ツワブキ(石蕗)、
ツハブキ(津葉蕗)→ツワブキ(石蕗)、

等々の転訛は、いずれも、フキ(蕗)に似ている、どの個所を採るかで、説が分かれている。ほかにも、

フキ(蕗)のように見える葉が厚いことから「となった説、自生地が海岸なことから「ツハブキ(津葉蕗)」が転訛して「ツワブキ(石蕗)」となった説など諸説がある。どれと確定する材料がない。

なお、「ツワブキ」は、

「鹿児島県や沖縄県を中心に西日本の一部地域ではフキと同じように葉柄を食用としており、特に奄美大島などの奄美料理では塩蔵した骨付き豚肉とともに煮る年越しの料理『うゎんふねぃやせぅ』の具に欠かせず、沖縄県でも豚骨とともに煮物にして食べる。フキを原料にした煮物、佃煮と同様に『キャラブキ』と呼ばれることもある」

というhttps://plumkiw948.at.webry.info/200910/article_41.html

「蕗」は、項を改める。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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フキ


「フキ」は、

蕗、
苳、
款冬、
菜蕗、

等々と当てる。しかし、「ツハブキ」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E3%83%84%E3%83%AF%E3%83%96%E3%82%ADで触れたように、

「『フキ(蕗)』の由来は、『フフキ(布布岐)』と呼んでいたフキ(蕗)に対して、我が国最古の本草書。医学の事典として薬名を記した書物で、動植物、鉱物などを載せている『本草和名』では、漢名の『款苳(カントウ)』をあて、『和名抄』では『蕗』の漢字をあてた。ところが、日本のフキ(蕗)と同じ植物は、中国では『蜂斗菜(ホウトサイ)』と書き、『款苳・蕗』のどちらも、誤用であったことが、分かっているが、『和名抄』の「蕗」の漢字の用法が現在に定着している。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%83%AF%E3%83%96%E3%82%AD、誤用であり、「蕗」(漢音ロ、呉音ル)は、薬草の、

カンゾウ(甘草)、

を指す、とある(漢字源)。「苳」(トウ)は、

苣苳(きょとう)は冬に生える草の名、

とある(仝上)。「款冬」(カントウ)は、

ツワブキ、

の別名ともする。

「款は、たたくで、寒い冬に凍った氷を叩き割って出てくるという意」

である(たべもの語源辞典)。「フキ」の原産地は、

樺太・千島、

で、早くから日本に伝搬した(仝上)。2mほどにも伸びる秋田蕗(アキタブキ)は、大きく、

馬に乗った人に下からさしかける傘にもできる、

が(仝上)、

「巨大な蕗は倍数体によるものである。特に寒冷地では牧草地で大繁殖する。家畜が食べないので畜産農家からは嫌われている」

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%AD

「昔の人は、葉・花・根を煎じて、その汁を飲んで健胃剤とし、解熱剤・下虫剤にもなった。葉をもんで傷口に付けると早く治る。葉のしぼり汁は血止めになり、根のしぼり汁も傷を治す。毒虫に刺されたときは、葉をもんでつける。日陰乾しにして、これを一日約10gずつ煎じて飲むと、鎮咳・袪痰・喘息・肺疾の薬になった」

ともある(たべもの語源辞典)。また、茎を醤油でキャラ色になるまで煮しめた「きゃらぶき」の「キャラ」は、

「梵語で、香木の名、キャラ色とは濃い茶色」

である(仝上)、とか。

「フキ」は、『本草和名』『和名抄』で知られるように、古名は、

フフキ、

である(日本語源大辞典)。したがって、

フユキ(冬黄)の中略。冬に黄色の花が咲くところから(和句解・日本釈名・滑稽雑談)、
ハヒロクキ(葉広茎)、ヒロハグキ(広葉茎)の義(日本語原学=林甕臣)、
ふきの葉は大きく少しの風でも揺れることから、『ハフキ(葉吹き)』『フフキ(風吹き)』の意、
用便の後、おしりを拭く紙の代わりに蕗の葉を使用したことから、『拭き』が語源
ふきははが大きく、傘などに用いたことから、『葺く』の変化、

等々という説は、古名「フフキ」とつながらないので、間違いとみられる。

では「フフキ」はどこから来たか。

(芽が)フユフキ(冬吹き)草・フフキ(古名)・フキ(蕗)、

と、転嫁させた説(日本語の語源)は、

「フフキ以前にフユフキクサという称があったのかどうか」

と疑問とする(たべもの語源辞典)。この他に、

「フフキ(含む)」で、含んでいる草。菫・茎・葉、などを含んでいる草の意、
「フフケルのフフキ」。花がふんわりとほぐれて開く意、

とする(日本語源広辞典)説もあるが、たべもの語源辞典は、

「フキは、大きな葉の植物なので、風に吹かれるとその葉が揺れる。風は見えないが葉が揺れる。その見えないものを植物に感じて、その植物と風とからフキフキとよんだ。そのキが省略されてフフキとなった」

とする。ちょっとロマンチックすぎるが、この説に肩入れしておく。他に、

「葉茎を折ると、皮が糸状の筋を引くので古名を『布布岐』」

というのもあるhttps://plumkiw948.at.webry.info/201002/article_12.html

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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萱草


「萱草」は、

かんぞう(くわんざう)、
かぞう、
けんぞう、

とも訓むが、

わすれぐさ、

とも訓ませる。

立原道造の『萱草に寄す』は、そう訓ませる。

夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには

夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう(のちのおもひに)

「萱草」は、

ユリ科ワスレグサ属植物の総称、

「日当たりのよい、やや湿った地に生える。葉は二列に叢生し、広線形。夏、花茎を出し、紅・橙だいだい・黄色のユリに似た花を数輪開く。若葉は食用になる。日本に自生する種にノカンゾウ・ヤブカンゾウ・キスゲ・ニッコウキスゲなどがある」

と(大辞林)、とある。

花を一日だけ開く、

ために、

忘れ草、

と呼ばれるらしい。萱草の「古名」である(大言海)。で、

諼草、

とも当てる。和名抄に、

「萱草、一名、忘憂、和須禮久佐、俗云、如環藻二音」

とある。

「忘れ草」は、

ヤブカンゾウの別称、

ともある。

身に着けると物思いを忘れるという、

ともある(広辞苑)。

忘れ草我が下紐に付けたれど醜(しこ)の醜草(しこぐさ)言(こと)にしありけり(万葉集 大伴家持)

という歌がある。忘れようと、身に着けてみたけれど、言葉だけか、と嘆いている。従妹で将来の妻、坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)に贈った歌、とある。これは、

「万葉集に『萱草(わすれぐさ)吾が紐に付く香具山の古(ふ)りにし里を忘れむがため(大伴旅人)』とあり、昔、萱草を着物の下紐につけておくと、苦しみや悲しみを一切忘れてしまうという俗信があった。『今昔物語』には、父親に死なれた悲しみを忘れるために萱草を植える兄と、親を慕う気持ちを忘れないようにと柴苑を植える弟の説話がみえる」

ということに由来する(日本語源大辞典)。

ちなみに、「紫苑」(しおん)は、

「漢名の紫苑の音読みから名前が付けられており、ジュウゴヤソウの別名もある。花言葉は『君の事を忘れない』・『遠方にある人を思う』。」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%AA%E3%83%B3_(%E6%A4%8D%E7%89%A9)

大言海には、「忘れ草」は、

「詩経、衞風、伯兮篇、集傳『諼草(けんそう)、食之令人忘憂』とあるを、文字読に因りて作れる語ならむ」

とある。「諼草」を、「わすれぐさ」と訓ませたということらしい。日本語源大辞典には、

「中国では、この花を見て憂いを忘れるという故事があることから(牧野新日本植物図鑑)」

とある。

ところで、「わすれなぐさ」は、

勿忘草、
忘れな草、

と当てるが、ムラサキ科ワスレナグサ属の別種。

「わすれなぐさ」は、

英名forget-me-not、
独名das Vergißmeinnicht、

の訳語(園芸植物名の由来=中村浩)。ただ、

「牧野富太郎は『「私を忘るなよ」の意味であるからラワスルナグサと呼ぶ方がよい』と主張している」

由である(日本語源大辞典)。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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ふきのとう


「フキノトウ」は、

蕗の薹、

と当てる。

早春、蕗の根茎から葉に先立って出る若い花軸、

を言う。かつては、

蕗の姑(しゅうとめ)、
とも、
蕗の祖父(ぢい)、

とも言った(岩波古語辞典)。

ふきのしうとめ 大和の方言にて、フキノトウを云ふ、
ふきのぢい 河内の方言にて、フキノトウ、本草、款冬花を云ふ、

とある(俚言集覧)。

「シュウトメのメは芽の意味も含んでいる。フキノシュウトメは、蕗の薹が老いたものをさしている。これは食べると苦みがあるところから、姑は嫁に対して苦いものだという意でよんだ」

とある(たべもの語源辞典)。別に、

款冬花(かんとうか)、
鑽凍、

ともいう、とある(大言海)。地方によってさまざまに呼び、

九州(筑紫地方)では、カンドーまたはカンロ、
広島向島でも、カンドーまたはカンロ、
信州上田付近では、フキノネブカ、
越後秋山では、サシミ、
奈良吉野地方では、シュートメバナ、
秋田・青森・岩手・宮城登米地方では、バッカイ、
庄内・南部・岩手九戸地方・秋田由利地方では、バンカイ、
和歌山日高地方では、フキノシュート、
千葉印旛地方では、フキノメ、
岡山北木島地方では、フキノミ、
長野南佐久地方、岐阜では、フキボボ、

等々、その他、

フーキノトント、
フキノオバサン、
フイノオジゴ、
フキノジイ、

等々とも呼ばれる(仝上)。

蕾の状態で採取され、天ぷらや煮物・味噌汁・ふきのとう味噌に調理して食べられる。「フキノトウ」は、

「苦みが健胃に効き、痰を消し咳を治すという。苦いものは、油で揚げると、苦みが取れる」

とある(たべもの語源辞典)。

「フキノトウ」は、というより「蕗」は、

「雌雄異花で、オスの花は淡黄色、メスの花は白色。雄の茎の肉は厚くおいしいが、メスの茎は薄くまずいといわれる。だが、鱗状の苞に包まれている間は区別なく、何れも食用となる」

という(仝上)。

「フキノトウ」の「トウ」は、

「臺の字音のタイの音便と云ふ。或いは塔かと云ふ(俚言集覧に、季瓊日録を引きて、布直垂地紫紋桐塔と見えたり)。又、頭(たう)と云ふせつもあり」

と(大言海)、所説がある。日本語源広辞典は、

蕗の地下茎から伸びて出てくる花茎を塔と見た、

と「塔」説を採る。

形がタウ(塔)の九輪に似ているところから(言葉の根しらべの=鈴木潔子)、

も「塔」説である。しかしたべもの語源辞典は、


「フキノトともいうが、薹はタイとよむので、その字音が転じてトウになったという説がある。野菜類の花茎の立ち出たものをトウというのであるが、苞に包まれたところ、その相重なるさまをいうとの説が良い」

と、「薹」の字音の転訛説を採る。その出現の仕形から見ても、妥当に思える。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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ワカメ


「ワカメ」は、

若布、
和布、
稚和布、

等々と当てる。漢名は、

裙帯菜、
石蓴(かため)、
海葱、
稚海藻、

また、古くは、

にぎめ、

と呼んだ。「にぎめ」は、

和布、

とあてる。褐藻綱コンブ目チガイソ科の海藻である。

「ワカメは乾燥が容易で、軽く運搬も容易であったこともあり、先史から日本で広く食べられていたことが確認されている。縄文時代の遺跡からは、ワカメを含む海藻の植物遺存体が見つかっており、この時代から食されていたことが明らかになっている。」

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%AB%E3%83%A1、古くから食べられてきた。

大言海は、

ワカキメの略、又、ワケメの轉かとも云ふ。荒布に対する名、

とし、古名は、

にぎめ(和布)、

とする。

「荒布」(あらめ)は、

和布(にぎめ)に対して、皺の粗きを云ふ、

とする。「荒布」は、

コンブ目 レッソニア科アラメ属に属する褐色の褐藻、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%A1

「古くは大宝律令や正倉院の文書にも登場し、現在でも薬品原料、肥料、食料品などとして用いられている。」

とある(仝上)。

黒菜、

ともいい(大言海)、和名抄に、

滑海藻、俗用荒布、阿良女、

とある。大言海は、「藻」の項で、

海布(め)と通ず、

とし、「め(海布)」の項で、

芽の義かと云ふ、或は云ふ、藻の轉。

とし、「布の字を用ゐること」について、「昆布」の項で、

「蝦夷(アイヌ)の語、Kombuの音訳字なり、夷布(えびすめ)と云ふも、それなり。海藻類に、荒布(あらめ)、若布(わかめ)、搗布(かちす)など、布の字を用ゐるも、昆布より移れるならむ。(中略)コブと云ふは、コンブの約なり」

とする。

「和語では古くは、藻類の『も』に対し、食用の海草一般を『め』と呼んでいた」

とする説もあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%AB%E3%83%A1が、「め(海布)」は、

海藻(め)、

とも当てる。「め(海布)」は、「も(藻)」と通ず、ということになる。岩波古語辞典も、「め(海布)」は、

も(藻)の転か、

としている。この「め(海布)」は、

芽、

であり、「芽」は、

目と同根、

である(岩波古語辞典)。

「わかめ」は、大言海の言うように、

ワカキメの略、

ワケメ、

の二説に分かれるが、「若(わか)」は、

動詞ワク(分)の派生形(語源辞典・形容詞篇=吉田金彦)、

という説もある。となれば、「ワカキメ」と「ワケメ」は区別せず、

「わかめの『め』は、海藻の総称『メ(海布)』のことで、『モ(藻)』に通じる語。わかめの『わか』は、羽状に分裂した姿から、新生であることを表す『ワカ(若)』や、分かれ出た意味の『ワカ(分)』である。つまり新しく分かれ出た海布という意味から、『わかめ』と呼ばれるようになったものと考えられる。」

とする(語源由来辞典)こともできる。

「マコンブとワカメと比較すると、マコンブには周囲にさけめはない。ワカメは深い切り込みがあり、…分けめが甚だしいから、ワカメの名はこのワケメからで、しかも、メと海布の称であるからワカメとなると考えられる。しかしワカメの古名和布(にぎめ)であることを考えると、昆布や荒布に比してワカメは、柔らかい海藻であることが特徴であった。それで柔らかい海布(め)というのでニギメとなったものである。それが羽状に分裂しているという形の上から、ワカメとなり、文字はニギメの意から『若』を用いるようになったものである。また、ニギメの若いものを賞味したからワカメともよんだ」

とある(たべもの語源辞典)ところからも、

「わか」は、

「分」

「若」

「和」(にき、荒の対)
と、

三重の意味が重なっている、ということになる。

和海藻(にぎめ)、

とも呼ばれたわけである。ただ、延喜式で、

海藻(にぎめ)・稚海藻(わきかめ)また和布(わかめ)・海藻(にぎめ)、

と併記されているように、

ニギメ、

ワカメ

が別になっている。

「古くは、海藻の総称である『メ』に、新生であることを表す『ワカ』という美称を冠したもので、特定の海藻をさす名称ではなかった可能性もある。中世になって現在のように特定の海藻の名称として載せられるにいたったと考えられる。『節用集』諸本や、『温故知新書』(1484)等に『和布』の訓として、また『運歩色葉集』(1547~8)等に『若和布』の訓として見え、『日葡辞書』にも『vacame(ワカメ)』とある」

とある(日本語源大辞典)。江戸時代になっても、料理本に、

カジメ、

として、

ワカメの意と思われるものがある(たべもの語源辞典)、という。

ところで、

「万葉集には『和可米』『稚海藻』(いずれも訓は『わかめ』)の他、『和海藻』(『にぎめ』、やわらかいワカメのこと)が見られる。他に、万葉集に頻出する『玉藻(たまも)』も、歌によってはワカメを指すかも知れない」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%AB%E3%83%A1。たとえば、「石見の海の角の浦」とはじまる人麻呂の長歌に、

「和多津(にきたづ)の 荒磯(ありそ)の上に か青なる 玉藻奥(おき)つ藻 朝はふる 風こそ寄せめ 夕はふる 浪こそ来(き)寄せ…」

とある「か青なる玉藻」は、

真っ青な海藻はアオノリの類、

らしい(たべもの語源辞典)。

奥津島荒磯の玉藻潮干満(ひみ)ちて隠らいゆかば念(おも)ほえむかも、

とあり、潮が満ちて海水に隠れるという意で、そんな浅瀬に「和布」はない(仝上)。

うつせみの生命を惜しみ浪に濡れ伊良虞の島の玉藻刈り食む、

の「玉藻」は、

「浪にぬれてあるから、深いところの海藻であろう。若布をとっているかんじがする」

とある(仝上)。

磯に立ち沖辺を見れば海藻刈舟(めかりぶね)海人榜ぎ出(づ)らし鴨翔る見ゆ

の、「海藻刈(めかり)船」は、

ワカメとり、

である(仝上)。

なお、「芽」については「目」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba8.htm#%E3%82%81で触れた。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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コンブ


「コンブ」については、「わかめ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/472818173.html?1577306789で、「布の字を用ゐること」について、大言海が、「昆布」を、

「蝦夷(アイヌ)の語、Kombuの音訳字なり、夷布(えびすめ)と云ふも、それなり。海藻類に、荒布(あらめ)、若布(わかめ)、搗布(かちす)など、布の字を用ゐるも、昆布より移れるならむ。支那の本草に、昆布を挙げたり、然れども、東海に生ず、とあれば、此方より移りたるなるべし。コブと云ふは、コンブの約なり(勘解由(カンゲユ)、かげゆ。見参(ゲンザン)、げざん)」

としている、と触れた。岩波古語辞典も、

アイヌ語kombu、

とするなど、アイヌ語由来とする説がある。『続日本紀』に、

「霊亀元年十月『蝦夷、須賀君古麻比留等言、先祖以来貢献昆布、常採此地、年時不闕、云々、請於閉村、便達郡家、同於百姓、共率親族、永不闕貢』(熟蝦夷(にぎえみし)なり。陸奥、牡鹿郡邊の地ならむ、金華山以北には、昆布あり、今の陸中の閉伊郡とは懸隔セリ)」

とあり、アイヌと関わることは確かである。倭名抄には、

「本草云、昆布、生東海、和名比呂米、一名、衣比須女」

とあり、字類抄には、

「昆布、エビスメ、ヒロメ、コブ」

とある。本草和名には

「昆布、一名綸布(かんぽ)。和名比呂女、一名衣比須女」

ともあり、古くは、

ヒロメ(広布)、
エビスメ、

等々と呼んだ。

「ひろめ」は幅の広いことに(すなわち広布)、「えびすめ」は蝦夷の地から来たことに(すなわち夷布)由来する、

と考えられるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%96

「メ(布)」というのは、

「海藻類が布のように幅広であるところからいわれた。アラメ(荒布)・ワカメ(若布)というように、海藻にはメという名が付いた」

ということのようである(たべもの語源辞典)。

この「広布」を、

音読みした「こうぶ」からコンブになった、

とする説もある(仝上)。「コンブ」というようになったのは、平安朝の頃からで、

「『色葉字類抄』(1177-81年)に『コンフ』、『伊呂波字類抄』に『コフ』という訓が確認できる」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%96

「コンブ」の語源は、上記のように、アイヌ説があるが、漢名「昆布」の音読みであるとする説もある(和訓栞他)。

「漢名自体は、日本ではすでに正倉院文書や『続日本紀』(797年)に確認でき、さらに古くは中国の本草書『呉普本草』(3世紀前半)にまで遡ることができる。李時珍の『本草綱目』(1596年)には次のようにある。
 考えてみると、『呉普本草』には『綸布、またの名を昆布』とある。ならば、『爾雅』で言われている『綸(という発音で呼ばれているもの)は綸に似ている。これは東海にある』というものは昆布のことである。『綸』の発音は『関 (gūan)』で、『青糸の綬(ひも)』を意味するが、訛って『昆(kūn)』となった。」

というものである(仝上)。しかし、

「中国でいう『昆布』は、文献によってさまざまに記述されており、実際にはどの海藻を指していたのか同定が難しい。たとえば陳藏器は『昆布は南海で産出し、その葉は手のようで、大きさは薄(ススキ)や葦ほど、赤紫色をしている。その葉の細いものが海藻である』と記しており、アラメ、カジメ、ワカメ、クロメといったものを想起させる。昆布は、少なくとも当時は、東海(東シナ海)でも南海(南シナ海)でも採れるものではなかった。また、李時珍も掌禹錫(11世紀)に倣い、『昆布』と『海帯』(後者は、現代中国語で昆布を指す)を別種のものとして記述している」

とある(仝上)。字源を見ても、「昆布」は、

海藻の名、狭きものを海帯と云ふ、

としかない。本草には、

高麗如捲麻、黄黒色、柔韌可食、今海苔紫菜皆似綸、恐即是也

とあり、

「『爾雅』(紀元前3世紀〜2世紀ころ)には、『綸似綸、組似組、東海有之。』「綸(という発音で呼ばれているもの)は綸に似ている。組(という発音で呼ばれているもの)は組に似ている。これは東海にある」と書かれており、『呉普本草』(3世紀前半〜中葉)には綸布の別名が昆布であるとする。また、陶弘景(456-536年)は、『昆布』が食べられることを記している。ただし、前述のように、この『昆布』が日本で言う昆布と同じものなのかは定かでない。」

ともあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%96。東海にあるという以上、昆布は、どうも中国では採れない。その意味で、

「縄文時代の末期、中国の江南地方から船上生活をしながら日本にやって来た人々が、昆布を食用としたり、大陸との交易や支配者への献上品としていたのではないかと言われています。昆布という名の由来は、はっきりしませんが、アイヌ人がコンプと呼び、これが中国に入って、再び外来語として日本に逆輸入されたと言われています」

という説https://kombu.or.jp/power/history.htmlが現実味を帯びる気がする。たべもの語源辞典は、

「中国の『呉晋本草』に、『綸布(かんぽ)一名昆布』とある…。綸は、リンまたカンとよみ、糸である。青色のひもという意味もある。このキカンポが訛って昆布(コンポ)となった」

という説を採っているが、その元が、アイヌ語かもしれないのである。

「鎌倉中期以降になると、昆布の交易船が北海道の松前と本州の間を、盛んに行き交うようになりました。昆布が庶民の口に入るようになったのは、そのころからです。海上交通がさかんになった江戸時代には、北前船を使い、下関から瀬戸内海を通る西廻り航路で、直接、商業の中心地である『天下の台所』大阪まで運ばれるようになりました。昆布を運んだ航路の総称を『こんぶロード』と言います。こんぶロードは江戸、九州、琉球王国(沖縄県)、清(中国)へとのびていきました。特に、琉球王国は薩摩藩(鹿児島県)と清とのこんぶ貿易の中継地として、重要な役割を果たしました。」

とありhttps://kombu.or.jp/power/history.html、中国は昆布の輸入国なのである。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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つとに


「つとに」は、

夙に、

と当てる。「夙」(漢音シュク、呉音スク)は、

「会意。もと『月+両手で働くしるし』で、月の出る夜も急いで夜なべをすることを示す」

とあり、「粛」と同系で、緊張して手早く働くこと、また、速と同系で早いの意ともあり、「むかしから」「早くから」という意と、「朝早く」という意(夜と対)と、「はやい」「時間が早い」の意とがある。つまり、

以前から、

という意と、

朝早く、

という意と、

(時間が)早い、

という意と、微妙な違いがある。「夙」を当てた和語「つとに」も、

朝早く、早朝、
と。
以前から、

の二つの意がある(広辞苑)。しかし、岩波古語辞典は、

朝早く、

の意しか載せない。辞典を見ると、

朝早く、早朝に、

の意の用例は、

「一には早(ツトニ)聚落に入ること得じ」(四分律行事鈔平安初期点)、
「つとに起き、遅く臥 (ふ) して」〈雨月物語・吉備津の釜〉、
「つとに行く雁の鳴く音(ね)は我がごとく物思へかも声の悲しき」(万葉集)、

等々であり(精選版日本国語大辞典、大辞林、デジタル大辞泉)、万葉集は、「朝」に「つと」と訓をしたりする。

早くから、ずっと以前から、

の意の用例は、

「人夙(ツト)に事業に志を立つべし」(中村正直訳・西国立志編)

と、明治以後である。これだけで即断するのは、難があるが、

早くから、

の意は、後世になって加わった意味ではなかろうか。

岩波古語辞典は、「つとに」の語源を、

「ツトはツトメテ(朝)・ツトメ(勤)のツト。朝早い意」

としている。岩波古語辞典は、「つとめ」(勤め・務め)について、

「ツトニ(夙)のツトと同根。早朝から事を行う意」

とし、「つとめて」については、

「ツトは夙の意。早朝の意から翌朝の意となった」

としている。「あした」http://ppnetwork.seesaa.net/article/447333561.htmlで触れたように、

「上代には昼を中心とした時間の言い方と、夜を中心にした時間の言い方とがあり、アシタは夜を中心にした時間区分のユフベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタの最後の部分の名。昼の時間区分の最初の名であるアサと同じ実際上は時間を指した。ただ『夜が明けて』という気持ちが常についている点でアサと相違する。夜が中心であるから、夜中に何か事があっての明けの朝という意に多く使う。従ってアルクアシタ(翌朝)ということが多く、そこから中世以後に、アシタは明日の意味へと変化しはじめた。」

「あした」が早朝の意からあくる朝の意となったのと重なっている。

大言海は、

「初時(ハット)にの略、字鏡に『暾、日初出時也』」

としている。同趣旨である。

字類抄にも、

「夙、つと、つとめて、早旦也」

とある。日本語源広辞典は、

ツト(早朝)+に(副詞化)、

とする。他に、

ツトはツトメテの義(和句解・日本釈名)、
ツトはツトメ(勤)の略(万葉集類林・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子・日本語源=賀茂百樹)、
ツトはハツトキ(初時)の上下略(和訓栞言葉の根しらべの=鈴木潔子)、
ツトは日出の意の韓語ツタと同語(日本古語大辞典=松岡静雄)、

等々、「つとに」がもともと、

早朝、

の意しかなかったことを思わせる。

夙に、

と当てることで、「夙」の持つ意味をもたせたとみるのが妥当のようである。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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とみに


「とみに」は、

頓に、

と当てる。

急に、にわかに、
しきりに、

と、ちょっと違う意味を持つ。

古くは下に否定を伴う場合が多い、

とある(広辞苑)ので、例えば、古くは、

とみに物語のたまはで、

というような使い方をした。今日の「全然」が、

全然わからない、

と否定を伴ったのが、今日、

全然同感です、

と、

まったく、非常に、

という意味に変じたのと似ていのかもしれない。

岩波古語辞典には、

「トニニの転。多くの場合、下に打消しを伴って使われる。そのうち消された行動は、実は即座に成し遂げられることが予想・期待される」

とあり、それが、

その人人にはとみに知らせじ、有様にぞしたがはん(源氏)、

のように、「急に」の意であり、それが、

打消しの意を含む語を修飾して、

とみにはるけきわたりにて(足が遠のいて)、白雲ばかりありしかば(かげろふ)、

というように、「ばったり」「とんと」という意味で使われる、とある。

「しきりに」という意味は、ここにはない。

「頓」(トン)は、

「会意兼形声。屯(トン・チェン)は、草の芽が出ようとして。ずっしりと地中に根を張るさま。頓は『頁(あたま)+音符屯』で、ずしんと重く頭を地に付けること」

とある(漢字源)。頓首というように、ぬかずく意、整頓というように、止まる意、頓足というように、とんと急に動く意、頓死というように、急にという意、と様々な意味があるが、「急に」の意味で「頓に」と当てたのは、なかなかの慧眼である。

「とにに」の転とする「とにに」とは、

にわかに、

の意だが、

トニは「頓(トン)」の字音tonに母音iを添えてtoniとしたもの、

とある。つまり、どうも、漢語「頓」の字音を和語化したものということになる。とすると、「とみに」は、漢語由来、ということになる。

しかし、大言海は、「とみ」の転とする。「とみ」は、

疾、
頓、

と当て、

速(と)みの義、

であり、無(な)み、可(べ)み、と同じとする。しかし日本語源広辞典は、

字音ton+母音i、

とし、

「とみ(疾・急)+ミ」説は、疑問、

と否定している。

トミ(速・疾)の義(伊勢物語古意・古事記伝・国語の語根とその分類=大島正健・日本釈名)、

似たものに、

トシ(急)の義(言元梯)、

等々あるが、

「語源については『とし(疾)』の語幹に接尾語『み』の付いたものとする説もあるが、『土佐日記』に見られる『とに』などの形から、『頓』の字音の変化したものと考えられる」

とする(日本語源大辞典)のが大勢のようである。土佐日記には、

「風波(かぜなみ)、とにやむべくもあらず」

とある。

「とに」は「頓」の字音「とん」の「ん」を「に」と表記したもの、

とあり(大辞林)、

とん→とに→とみに、

と転訛したものとみられる。

「時間的に間がおけないさま。また、間をおかないさま。急。にわか。さっそく。『とみの』の形で連体修飾語として、また、『とみに』の形で副詞的に用いることが多く、現代ではもっぱら『とみに』の形で用いられる。」

とあり(精選版日本国語大辞典)、「とみに」の語感から、本来、

急に、

の意味が、否定を伴わなくなり、

とんと、

の意から、

国運がとみに衰える、
老眼がとみに衰える

というように、

しきりに、

の意味が派生したものかもしれない。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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らくがん


「らくがん」は、

落雁、

と当てる。本来の意味は、

空から舞い下る雁、

の意であり、秋の季語である。

大言海には、

雁の列をなして、地に下らむとすること、

とあり、杜甫の晩行口號の、

落雁浮寒水、饑烏集戍樓、

を引く。また、「落雁」には、

米などから作った澱粉質の粉に水飴や砂糖を混ぜて着色し、型に押して乾燥させた干菓子、

の意味もある。大言海は、

「支那の軟落甘(ナンラクカン)の和製のものと云ふ。乾菓子に、初めは黒胡麻を加へ、それが斑点をなすこと、落雁の如くありしかば名ありと」

と、その由来を解く。日本語源広辞典も、

「軟落甘」の軟を取り「落甘」としたもの、

とし、やはり、

「黒ごまをいれたのを、落ちる雁に見立てたもの」

とする。嬉遊笑覧にも、

中国菓子に軟落甘(なんらくかん)というものが明朝にあったと『朱子談綺(だんき)』(1708)にあり、その軟を略して落甘といったものがやがて落雁と書くことになった」

とある(たべもの語源辞典)、とか(ただ軟落甘とは、どのような菓子かはわかっていない)。

しかし、「落雁」には、

近江八景の「堅田の落雁」

にちなんでつけられた、とする説があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%85%AB%E6%99%AF

因みに、近江八景とは、

石山秋月・石山寺、
勢多(瀬田)夕照(せきしょう)・瀬田の唐橋、
粟津晴嵐・粟津原、
矢橋帰帆・矢橋、
三井晩鐘・三井寺(園城寺)、
唐崎夜雨・唐崎神社、
堅田落雁・浮御堂、
比良暮雪・比良山系、

だとかhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%85%AB%E6%99%AFに詳しい)

しかし、たべもの語源辞典は、

「一説に、もと近江八幡の平砂の落雁より出た名であり、白い砕き米に黒胡麻を点々とかき入れたのが雁に似ているからであり、形は昔州浜のさまにしたが種々の形ができたと『類聚名物考』にある。この説は、落軟甘という菓子が日本に渡ると、中国平沙の落雁を近江八景の一つ堅田落雁にこじつけて、白い砕き米に黒胡麻の散っているのを、いかにも堅田の浮身堂に向っての落雁らしくみせ、足利末期の茶道の盛んな時代であったからこれが喜ばれた」

と一蹴している。「平砂の落雁」とは、中国山水画の伝統的な画題である「瀟湘八景(しょうしょうはっけい)」の一に、「平沙落雁(へいさらくがん)」があり、秋の干潟に雁の群れが舞い降りる様子が描かれる。「近江八景」が「瀟湘八景」を真似たということである。

別の説もある(以下、たべもの語源辞典)。一つは、

「後小松天皇のとき、本願寺の第五祖綽如(とうにょ)上人が北陸巡遊の折、ある人が菓子一折を献じた。それが白い上に黒胡麻が散っているので、雪の上に雁が落ちてくるのに似ているとて落雁と名づけられ、当時上人からこれを天皇に奉ったところ、大変おほめのことばを賜ったということが遠近に伝わり流行菓子になった」

とする綽如上人命名説。更に他に、

「足利時代の文明年間(1469~87)のころ山城国壬生に坂口治郎というひとがいた。菓子づくりの才があって、時の後土御門天皇に献じてほめられたほどである。その子の二代目は応仁の乱の兵乱を避け、本願寺の蓮如上人に従って北国に入り、福井県吉崎に住んだが、明応年間(1492~1501)には富山県礪波郡井波に移り、(中略)天正九年(1581)以来…商人となり製菓を業とした。たまたま文禄年間(1592~96)のころ有栖川宮の命によって後陽成天皇に菓子を献じたところ、非常な御満悦で『白山の雪より高き菓子の名は四方の千里に落つる雁かな』という御歌を賜った。この菓子はうるち米を熬(い)って砂糖を混ぜ、正方形にして表面に胡麻を散らしたものであった」

という御歌から来たとする説(語理語源=寺西五郎)である。しかし、このときすでに京には落雁という菓子があったというので、菓子屋の由来書のようなもので、権威づけただけのものとみられる。

また、

「加賀名物御所落雁は茶匠の小堀遠州が意匠下ものを後水尾天皇のとき国主の小松中納言利常から献上したところ、長方形の白い地に胡麻が散っているさまを田面に落ちた雁に似てるとて落雁と勅銘を賜ったので、とくに御所の二字を冠して御所落雁と命名した」

さらには、

「表面には型模様があるが、裏面は無地なので『裏淋しい』を『浦淋しい』に通わせて、秋の浦辺を連想し、秋の空を飛んでいる雁の寂しげなことを考えて『落雁』と名づけた」

等々の六説がある、とする(たべもの語源辞典)。しかし、この他にも、

鳥の餌にもできるところから(和漢三才図絵)、

というのもある。しかし、どう考えても、菓子屋の由来書ではないかと思われる説が多く、そのコアとなる発想は、

初めは黒胡麻を加え、それが斑点になっている様を落雁に見立てたもの(類聚名物考・たべもの語源抄=坂部甲太郎)、

というものでしかない。中国由来が、さまざまに工夫されたものとみるのがいいのではないか。

落雁の製法には、

①すでに蒸して乾燥させた米(糒(ほしい、干飯))の粉を用い、これに水飴や砂糖を加えて練り型にはめた後、ホイロで乾燥させたもの、
②加熱していない米の粉を用いて、上記同様に水飴を加え成型し、セイロで蒸し上げた後、ホイロで乾燥させたもの、

二通りあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%BD%E9%9B%81、らしい。

しかし、

「近松や西鶴の作品では魅力的な歌詞として登場するが、現在のものとはやや違い、『御前菓子秘伝抄』(1718)には、干飯を煎り、砂糖蜜で固めたものとあるので、いわゆる『おこし』に近かったものと思われる」

とある(日本語源大辞典)。

通常は、上記の①は落雁、②は白雪糕(白雪羹)(はくせつこう。関西地方では「はくせんこ」とも)と呼ばれるものである(仝上)。

「加熱処理済の粉を砂糖で固めた日持ちのよい落雁が普及すると、熱処理していない米粉を成形して蒸す白雪糕(はくせきこう)が廃れ始めた。『和漢三才図絵』は、白雪糕といいながら、その実、落雁の製法と同じものがあることを指摘している。結局、本来の製法の白雪糕は消えてしまったが、名前だけは残り、現在でも西日本には落雁の類をハクセッコー、ハクセンコーと呼ぶ地方がある」

とある(日本語源大辞典)。その製法は、

「明時代の中国における軟落甘に基づく。これは小麦粉・米粉を水飴や脂肪で練り固めて乾燥させた菓子で、西~中央アジアに由来するといわれ、元時代に中国に伝来した」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%BD%E9%9B%81以上、「落雁」は、「軟落甘」の和製化ということである。

「糒(ほしい)を煎って粉にしたものを『落雁粉』とか『イラコ』とよんだ。落雁粉でつくった落雁の普及したのは享保(1716~36)である。(中略)炒種(いりだね)に砂糖・水飴などを加え、各種の形にほりつけた木型を水に塗らして、木べらで型に詰め込み、木型の型の一端をたたいてゆるめる。竹簀の上に型を裏返して移しあげ、ほいろにのせ、徐々に乾かす」

のである(たべもの語源辞典)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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「雁」は、

カリ、

と訓ませて、和語である。

ガン、

と訓ませると、漢音である。

鴈、

とも当て、略して

厂、

とも書す(大言海)、とある。

「上代には『カリ』と呼ばれていたが、室町時代頃から『ガン』が現れた。次第に一般名として扱われるようになり、現代では『ガン』が正式名、『カリ』が異名という扱いをされるようになった」

とある(語源由来辞典)。実際、「雁」は、

「カモ目カモ科ガン亜科の水鳥のうち、カモより大きくハクチョウより小さい一群の総称」

とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%81)、日本ではマガン、カリガネ、ヒシクイなどが生息している(仝上)。

ヒシクイ(菱喰)は、鳥綱カモ目カモ科マガン属に分類され、

カリガネ(雁金)は、鳥綱カモ目カモ科マガン属に分類され、

マガン(真雁)は、鳥綱カモ目カモ科マガン属に分類される。

「雁」(漢音ガン、呉音ゲン)は、

「会意兼形声。厂(ガン)は、かぎ形、直角になったことをあらわす。雁は『隹(とり)+音符厂』。きちんと直角に並んで飛ぶ鳥で、規則正しいことから、人間の礼物に用いられる」

とある(漢字源)。雁行という言葉があるように、カギ型の列を組んで飛ぶ。

古くは、「かり」と訓んでいたが、これは、

「カは、鳴く声、リは添えたる辞」

とある(大言海)。さらに、接尾「り」について、

「ラ、レ、ロに通ず。語の末につけて云ふ助辞」

としている。同類として、「からす(鴉)」は、

「カは鳴く声、ラは添えたる語、」

とし(「からす」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba10.htm#%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%82%B9で触れたように、必ずしも鳴き声説ではないが)、「けり(鳧)」もまた、鳴き声+「ら」とする(大言海)。で、

「万葉集『すばたまの 夜渡る雁は おぼほしく 幾夜を歴てか 己が名を告(の)る』、風俗歌、彼乃行(かのゆく)『彼の行くば、加利か鵠(くぐひ)か、加利ならば、名告(なのり)ぞせまし』、後撰集…雁『ゆきかへり、ここもかしこも旅なれや、來る秋ごとに、かりかりと鳴く』」

と、鳴き声とする例を挙げる。「かり」の異名、

かりがね、

は、

雁之音(ね)の義、音(ね)は声なり、

とするように、「かりがね」は、鳴き声から採られている。それが転じて、

雁の異名、

となっている。だから、

「雁の声は寂しいもの。聞くと悲しく感じるものと考えられた。『かりがね』が後に雁の異名となったのは、鳴き声が雁を象徴するほど特徴があるものだったからであろう」

ということになる(日本語源大辞典)。実際、大言海以外、岩波古語辞典も採り、

カリカリと鳴く声から(滑稽雑誌所引和訓義解・可成三註・風俗歌考・類聚名物考・雅語音声考・擁書漫筆・俚言集覧・言元梯・名言通・松屋筆記・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子・国語溯原=大矢徹)、

と多くが、声説である。しかし、日本語源広辞典は、

中国語「雁」(ガン、カン)が、kanがkariに変化、

とするし、

ガンの転呼(日本古語大辞典=松岡静雄・日本語の発想=白石大二)、

と、「ガンの転訛」とする説がある(日本語源大辞典)。そのほか、

カヘリの中略。春は北へ帰るところから(日本釈名・東雅・柴門和語類集・本朝辞源=宇田甘冥)、
秋来て春帰るので、仮に宿ることからカリ(仮)の義(和句解)、
カは水に棲む鳥を呼ぶ語(東雅)
軽く飛ぶということからカロシ(軽)の意か(万葉代匠記・円珠庵雑記)、

等々「かり」という音に合わせてたてられた説もある。しかし、

「『かへり』の説は上略や下略ではなく中略で、鳴き声の説に比べると説得力に欠け、『カ』を水に棲む鳥とするせつはカリの『り』について触れていない。『ガン』の転呼とする説も上代に『雁』を『ガン』と訓んだ例はなく、『カリ』が一般的であったことが考慮されていないことから、鳴き声の説が妥当と考えられる」

というところ(語源由来辞典)が妥当なのではあるまいか。また、「ガン」の転訛も、

「上代には『カリ』と呼ばれていたが、室町時代頃から『ガン』が現れた。次第に一般名として扱われるようになり、現代では『ガン』が正式名、『カリ』が異名という扱いをされるようになった」

ということ(仝上)から、

ガン→カリ→ガン、

では不自然である。「ガン」という訓み方が広まったのは、

「語勢を強くするために漢語『雁』の勢力が増したとする説と、鳴き声からとする説があるが、漢語『雁』の説が有力とされる。ただし、『カリ』の語源はカリガネの鳴き声に由来し、そのカリガネが減少し、『ガンガン』と鳴くマガンやヒシクイの増加によって、和語内でガンの鳴き声を受けたとの見方もある」

とある(仝上)。「ガン」も鳴き声に由来するとするのは、

「声ならむ。朝鮮語に、キロオギと云ふ」

とする大言海がある。「カリ」が鳴き声なら、「ガン」も鳴き声から由来したと見た方がいいように思える。

マガンの鳴き声https://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/detail/1491.html

を聞いても、正直はっきりわからない。ただし、

「万葉集では60余首と多く詠まれているが、数多くの群れで生活し、その鳴き声や飛ぶ姿(雁行)に特徴があり、よく目立つところから、身近な鳥として見られていたのだろう。(中略)かりがねと詠っているのが多いが、これは今のカリガネではなく、雁の鳴き声のことを言っているようだ」

とあるhttp://okamoto-n.sakura.ne.jp/manyohkatyoh/tori/magan/magan.htmlし、

「日本ではガンは古くから狩猟の対象とされ、食用として賞味されるほか、文学作品のなかにも多く現れて親しまれているが、雁(がん)とあるのはかならずしも限られた鳥の名称ではなく、鴨(かも)類としての総括的な名称であったらしい。「かり」とも「かりがね」ともよぶが、これは空を渡る際の声が印象的であったことから、「雁(かり)が音」が転じて雁そのものの名称になったと思われる」

ともある(日本大百科全書)ので、「そのカリガネが減少し、『ガンガン』と鳴くマガンやヒシクイの増加によって、和語内でガンの鳴き声を受けたとの見方もある」というのは、穿ちすぎかもしれない。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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かる


「かる」は、

狩る、

と当てるだけではなく、

刈る、
駆る、

等々とも当てる。「狩る」は、

紅葉狩り、

の「狩る」である。

「紅葉狩り」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba4.htm#%E7%B4%85%E8%91%89%E7%8B%A9%E3%82%8Aで触れたように、紅葉狩りは、

山野に紅葉を尋ねて鑑賞すること、観楓、

とある(広辞苑)。「狩り」は、岩波古語辞典、大言海には、

「駆りと同根」

とあるので、「追い立てる」という意味があり、本来は、

鳥獣を追い立てて獲る、

で、『大言海』では、

弓矢、鳥銃などにて、鳥獣を採り、打捕ること、

転じて、

魚など漁(いさ)り、又薬草、茸など、探りて採ること、

更に転じて、

野山に入りて、花など、探りて観ること

という意味がある。広辞苑には、

薬草・松茸・蛍・桜・紅葉などを尋ね捜し、採集、または鑑賞すること、

と、載る。いまは、紅葉狩りの他は、

ぶどう狩り、
いちご狩り、
蛍狩り、
茸狩り、
薬狩り、

等々と言った言葉に残っているが、

狩猟採集、

と対で言っていたのには意味があるらしい。

かつては、桜にも、

桜狩り、

と言ったようで、『方丈記』に、

「桜を狩り、もみじをもとめ」

という一説があり、藤原定家の和歌に、

桜狩り 霞の下に今日くれぬ 一夜宿かせ 春お山もり

という歌があるらしく(岩波古語辞典)、春の『花見』ことを『桜狩り』といっていたこともあるようだ。今では「紅葉狩り」以外に、「眺める意味」としてはあまり使われない。桜を狩る(折る)ことは、いつの間にか風習として禁止されたのも大きいかもしれない。ただ、「狩り」というのは、

「平安時代には実際に紅葉した木の枝を手折り(狩り)、手のひらにのせて鑑賞する、という鑑賞方法。」

だったとされ、その意味では、紅葉だけは、「狩り」を可能にしたのが大きいのかもしれない。

梅にも、現在でも、梅狩りという言葉があるようだが、これは、梅の実を狩ることで、文字通り収穫である。

この「狩り」と当てる「かり」と、

刈、
苅、

と当てる「かる」とは、どうも使い分けられているようである。「狩り」は、上述のように、岩波古語辞典は、

駆ると同根、

で、

鳥獣を追い立てて取る、
花や草木をさがし求める、

意であるとする。日本語源広辞典も、同趣旨で、

動植物を収穫するで、動物を追い立ててトル、狩る、駆る、と、植物をカルと同源と考える、

としている。多少のニュアンスの差はあるが、

獣をカル(駆)意(名言通)、
何でもカリモトムル(駈覓)意から(雅言考)、
カイリ(鹿射)の約(言元梯)、

等々、狩猟の意にちなむものが多い。もちろん、

カはカクルか。リはトリ(取)か(和句解)、
獅子をカリといい、獅子は百獣を食うところから猟の意に転じたもの(和語私臆鈔)、

という異説はあるが。他方、

刈、
苅、

と当てる「かり」は、

稲、茅(かや)、薦(こも)など、刈り取ること、

の意で、万葉集に、

三島江の、入江の薦を、苅にこそ、吾れをば君は、思ひたりけり、

とあり、古くから使われる(大言海)。岩波古語辞典には、

(草木や毛など、伸び茂っているものを)根元を残して切ること、

の意とあり、やはり万葉集に、

少女(をとめ)らに行相(ゆきあひ)の早稲(わせ)をかる時になりにけらしも萩(はぎ)の花咲く、

と使われている。どうやら、「刈る」は、

切り離す、

意であり、日本語源広辞典は、

離る、狩る、涸る、と同源、

とする。確かに、

離(か)る、は、

切るるの義、

とあり(大言海)、「刈る」は、

切る、伐(こ)るに通ず、

とある(大言海)。「伐(こ)る」は、名義抄に、

「伐、キル・コル」

とあるので同義と見ていい。ただ、岩波古語辞典には、

「(離るは)空間的・心理的に、密接な関係にある相手が疎遠になり、関係が絶える意。多く歌に使われ、『枯れ』と掛詞になる場合が多い」

と、メタファとして使われるとし、万葉集に、

珠に貫く楝(あふち)を家に植ゑたらば山ほととぎす離れず来るかも

とある。

「枯(涸・乾)る」は、

「カラ(涸)と同根。水気がなくなってものの機能が弱り、正常に働かずに死ぬ意。類義語ヒ(干)は水分が自然に蒸発する意だけで、機能を問題にしない」

とあり、万葉集に、

耳無(みみなし)の池し恨めし吾妹子が来つつ潜(かづ)らば水は涸れなむ、

とある。こう見ると、

刈ればそのまま枯れるという意から、カル(枯)に通じる(和句解)、

涸る、

離る、

はつながるし、

刈る、

ともつながるが、

狩る、

とは少し離れすぎている。あくまで、「刈る」は、

キル(切)、

であり、「狩る」は、

駆る、

のようである。両者、状況依存の文脈では、会話の当事者にとって、間違いようのない言葉であった、と思われる。文字化に伴って、漢字を当て分ける必要ができた。と思われる。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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よもぎ


「よもぎ」は、

蓬、
艾、

と当てる。

もちぐさ、
繕草(つくろいぐさ)、
蓬蒿(ほうこう)、

ともいう。成長した葉は、灸の、

もぐさ、

とする(広辞苑)。「よもぎ」で漢字を引くと、

蓬、
艾、
蒿、
萩、
苹、
蕭、
薛、

が出る。「よもぎ」の漢字表記について、

「現在日本において、ヨモギは漢字で『蓬』と書くのが一般的だが、中国語でヨモギは『艾』あるいは『艾蒿』である。(中略)艾は日本で「もぐさ」と訓じる。もぐさはヨモギから作られるから、そのこと自体は何ら問題ではない。だが、蓬をヨモギとするのは誤りである、という説が現在では一般的のようだ。」

とあるhttp://square.umin.ac.jp/mayanagi/students/03/kamiya.htm

「艾」(ガイ、呉音ゲイ)は、

「会意兼形声。『艸+音符乂(ガイ、ゲ ハサミで刈り取る)』」

とあり、よもぎ、もぐさの意である(漢字源)。字源には、

よもぎ(醫草)、

と載る。「蒿」(コウ)は、

「会意兼形声。『艸+音符(高く伸びる、乾いて白い))』」

とあり(漢字源)、よもぎ、くさよもぎ、艾の一種、

とある(字源)。「蓬」(漢音ホウ、呉音ブ)は、

「会意兼形声。『艸+音符逢(△型にであう)』で、穂が三角形になった草」

とあり(漢字源)、

「よもぎ(艾)の一種」

とある(字源)。「萩」(漢音シュウ、呉音シュ)は、

「会意兼形声。『艸+音符秋』で、秋の草」

とあり、日本では「はぎ」に当てる。

よもぎ、くさよもぎ(蕭)の一種、

とある(字源)「蕭」(ショウ)は、

「会意兼形声。『艸+音符肅(ショウ 細く引き締まる)』」

とあり(漢字源)、

よもぎ(艾蒿)、

の意とある(字源)。「苹」(漢音ヘイ、呉音ビョウ)は、

「会意兼形声。平は、屮型のうきくさが水面に平らに浮かんだ姿を描いた象形文字。苹は『艸+音符平(ヘイ)』で、平らのもとの意味をあらわす」

とある(漢字源)。浮草のようであるが、

よもぎ、蒿の一種、

ともある(字源)。「薛」(漢音セツ、呉音セチ)は、

「会意。『艸+阜の字の上部(つみかさねる)+辛(刃物で切る)』。束ね重ねて着るよもぎをありらわす」

とあり(漢字源)、

かわらよもぎ(仝上)、
よもぎ(蒿)(字源)、

とあり、「よもぎ」のようである。どうやら、「艾」「蒿」「艾蒿」が、本来の「よもぎ」の漢字のようである。たべもの語源辞典には、こうある。

「蒿(かう)もヨモギで、艾の一種。苹(へい)またはビョウとよむが、これもヨモギで、蒿の一種、蕭(ショウ)もヨモギで、蒿と同じである。漢名には、蒿艾(コウガイ)、蕭艾(シュウガイ)、指艾(シガイ)、荻蒿(テキコウ)、氷台、夏台、福徳草、肚裏屏風など」

がある、と。しかし、

字類抄「蓬、よもぎ」

とあるように、「蓬」の字を当ててきた。

和名「よもぎ」は、古く、

させもぐさ、
つくろひぐさ、
えもぎ、
させも、

等々といった(たべもの語源辞典)。「させもぐさ」は、

さしもぐさ(指焼草・指艾)の転(岩波古語辞典)、
サセモグサと云ふは、音轉なり(現身、うつせみ)、サセモとのみ云ふは、下略なり(菰筵、薦)(大言海)、

である。「さしもぐさ」は、

「夫木抄『指燃草』、注燃草の義、注(さ)すとは、点火(ひつ)くること(灸をすうるを、灸をさすと云ふ…)、モは燃(も)すの語根、燈(とも)すの、カモなり、此のモグサは、即ち艾(もぐさ)にて、灸治する料とす。」

とある(大言海)。

大言海は、「よもぎ」を、

艾、
蓬、

の当てる漢字で二項別に立てている。「よもぎ(艾)」は、

「善燃草(よもぎ)の義」

とし、

「草の名。山野に自生す。茎、直立して白く、高さ四五尺、葉は分かれて五尖をなし、面、深緑にして、背に白毛あり。若葉は餅に和して食ふべし(餅草の名もあり)。秋、葉の間に穂を出して、細花を開く。實、累々として枝に盈つ。草の背の白毛を採りて、艾(もぐさ)に製し、又印肉を作る料ともす。やきくさ。やいぐさ。倭名抄『蓬、一名蓽、艾也。與毛木』、本草和名『艾葉、一名醫草、與毛岐』」

と記す。ほぼ、「よもぎ」の意である。しかし、「よもぎ(蓬)」の項では、

「葉は、柳に似て、微毛あり、故に、ヤナギヨモギの名もあり。夏の初、茎を出すこと一二尺、茎の梢に、枝を分かちて、十數の花、集まりつく。形、キツネアザミの花に似て、小さくして淡黄なり。後に絮(わた)となりた飛ぶ。ウタヨモギ。字類抄『蓬、ヨモキ』」

とする。「もぐさ」にする「よもぎ(艾)」と「くさもち」にする「よもぎ(蓬)」とは別、という意味なのだろうか。

日本では一般的な「よもぎ」は、

 ヨモギArtemisia princes Pamp.〔分布〕本州・四国・九州・小笠原・朝鮮
 ニシヨモギArtemisia indica Willd.〔分布〕本州(関東地方以西)・九州・琉球・台湾・中国・東南アジア・印度
 オオヨモギArtemisia montana (Nakai) Pamp.〔分布〕本州(近畿地方以北)・北海道・樺太・南千島

の三種というhttp://square.umin.ac.jp/mayanagi/students/03/kamiya.htm。日本だけでも30種あるが、この3種は植物学の分類上かなり近縁の種で、

「日本全国で一般に『ヨモギ』と呼ばれている植物はこの3種のうちいずれかということになろう。」

というし、

「別名は、春に若芽を摘んで餅に入れることからモチグサ(餅草)とよく呼ばれていて、また葉裏の毛を集めて灸に用いることから、ヤイトグサの別名でも呼ばれている。ほかに、地方によりエモギ、サシモグサ(さしも草)、サセモグサ、サセモ、タレハグサ(垂れ葉草)、モグサ、ヤキクサ(焼き草)、ヤイグサ(焼い草)の方言名がある」

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%A2%E3%82%AE、一般には、区別しているようには見えない。しかし、大言海が、是非は判断できないが、「くさもち」につかう「よもぎ」と「もぐさ」の「よもぎ」を分けているのには意味がある。

「蓬(よもぎ)は、葉は柳に似て微毛があるのでヤナギヨモギと呼ばれる。淡黄の小さい花をつけ、後に絮(わた)になって飛ぶ。ウタヨモギともいい、艾(よもぎ)とは違った植物である」

とある(たべもの語源辞典)。大言海の見識である。

さて和語「よもぎ」の語源であるが、大言海が、「よもぎ(艾)」に、

善燃草(よもぎ)の義、

としたように、

ヨ(弥)+モ(萌)+キ(草)(日本語源広辞典)

か、あるいは、

ヨクモエクサ(佳萌草)の義(日本語原学=林甕臣)、
弥茂く生える草の意(日本語源=賀茂百樹)、
ヨモギ(常世萌)の義(柴門和語類集)、

の二つが多い。語源由来辞典は、

「よもぎの『よ』は『ますます』を意味する『いや・いよ(弥)』、もしくは『よく(善)』の意味。『も』は『萌える』か『燃える』の意味で、『ぎ(き)』は茎のある立ち草の意味。つまりよもぎの語源は『いよいよ萌え茂った草』か、『よく燃える草』の意味からである」

とまとめている。この他に、

よく繁殖し四方に広がることから「四方草」と書いてヨモギと読ませる、

という説(よく繁殖し四方に広がることから「四方草」と書いてヨモギと読ませる)もあるが、「萌」「燃」には、盛んに生えるという意味がある。岩波古語辞典には、

「平安中期以後には、『むぐら』『あさぢ』などと共に、代表的な雑草として、荒廃した家の描写に使われることが多い」

とあるが、万葉集の家持の長歌には、

玉桙(たまほこ)の道に出で立ち、岩根(いわね)踏み、山越え、野行き、都辺(みやこへ)に参ゐし我が背を、あらたまの年行き返り、月重ね、見ぬ日さまねみ、恋ふるそら、安くしあらねば、霍公鳥(ほととぎす)、来鳴く五月のあやめぐさ、余母疑(よもぎ)かづらき、酒みづき、遊びなぐれど、射水川(いみづかは)、雪消(げ)溢(はふ)りて、行く水の、いや増しにのみ、…

とあり、必ずしも、荒んだという意味はない。その意味で、「よく茂る」という意味は悪い意味ではない。しかし、古名、

さしもぐさ(指燃草)、

が、艾(もぐさ)に火をつける意味だとすると、

ヨリモヤシキ(捻燃生)の義、灸に用いるところから。生は草の意(名言通)、

という、「もぐさ」と絡める説も無視できない気がする。

「モグサはモエグサ(燃草)の意である。サシモグサのサシは灸をすえるの意である」

とある(たべもの語源辞典)。「よもぎ」の名も、古名「さしもぐさ」の由来との連続性を採りたい。

「よもぎ」は、

餅草、

ともいう。草餅の材料にするからである。しかし、昔は、ハハコグサを用いた。

平安朝の『文徳実録』(八七九年)に、

野有草、俗名母子草、二月始生、茎葉白脆、毎属三月三日、婦女採之、蒸擣以為餻、伝為歳事。

とありhttp://square.umin.ac.jp/mayanagi/students/03/kamiya.htm、ハハコグサを搗き入れた餅で、

母子餅、

と呼んだ。

ははこぐさ、

は、

ホウコグサ、
モチヨモギ、

といい、漢名は鼠麹草(そきくそう)、春の七草のひとつで御行(ごぎょう、おぎょう)である。

参考文献;
神谷正太「東アジアにおけるヨモギ利用文化の研究」(http://square.umin.ac.jp/mayanagi/students/03/kamiya.htm
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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よもすがら


「よもすがら」は、

夜もすがら、
終夜、

等々と当てる。

日暮れから夜明けまで、
夜通し、

の意味である。

夢ぢにも露やおくらむよもすがらかよへる袖のひちてかわかぬ、

という歌もある(古今集)。

「夜」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba5.htm#%E5%A4%9Cで触れたように、上代には、昼を中心にした時間の言い方と、夜を中心とした時間の言い方とがあり、

昼を中心にした時間の区分、アサ→ヒル→ユフ、
夜を中心にした時間の区分、ユフベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、

と、呼び方が分けられている(岩波古語辞典)。前者がヒル、後者がヨル、ということになる。つまり、夜の時間区分は、

ユフベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、

となる。

「夜もすがら」の「すがら」は、「しな、すがり、すがら」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba1.htm#%E3%81%97%E3%81%AA%EF%BC%8C%E3%81%99%E3%81%8C%E3%82%8A%EF%BC%8C%E3%81%99%E3%81%8C%E3%82%89で触れたように、道すがら、の「すがら」、

途切れることなくずっと、

という時間経過を示していて、

名月や池をめぐりと夜もすがら、

で、それが空間的に転用されと、

道すがら、

になったと、考えられる、大言海は、「よもすがら」を、

夜も盡(すがら)の意、ひねもすの対、

とする。「ひねもす」は、「ひねもす」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba6.htm#%E3%81%B2%E3%81%AD%E3%82%82%E3%81%99で触れたように、

終日、

と当て、

朝から晩まで、
一日中、

という意味で、

ひもすがら、

とも言う。まさに、

アサ→ヒル→ユフ、

の昼間を指す。日本語の語源は、

「ヨモスガラ(夜も過がら。終夜)に対してヒルモスガラ(昼も過がら。終日)といった。その省略形のヒルモス(昼も過)は、『ル』が子音交替(rn)をとげてヒヌモスになり、さらに母音交替(ue)をとげてヒネモス(終日)になった。〈ヒネモスに見ともあくべき浦にあらなくに(見あきるような海ではない)〉(万葉)。
 ヒネモスはさらに『ネ』が子音交替(um)をとげてヒメモス(終日)になった。〈中門のわきに、ヒメモスにかがみゐたりつる〉(宇治拾遺)。」

と解している。

「ひもすがら」「よもすがら」の「すがら」は、副詞と接尾語の二用があり、岩波古語辞典は、副詞は、

「スギ(過)と同根」

として、

途切れることなくずっと、

という意味とし、接尾語は、

「時間的連続が空間的にも使われるようになったもの」

として、

…の間中ずっと、
…の途中で、

という意味とする(岩波古語辞典)。しかし大言海は、「すがら」を、語源を異にする二項を別々に立て、いずれも接尾語として、ひとつは、

「スガは、盡(すぐ)るより転ず」

とし、意味は、

盡(すぎ)るるまで、通して、

とし、いまひとつは、

「直従(すぐから)の約か」

として、

ながら、ついでに、そのままに、

の意味とする。これだと、「よもすがら」は、

夜通し、

ではなく、

夜のついでに、

の意味になる。デジタル大辞泉は、

[名](多く「に」を伴って副詞的に用いる)始めから終わりまでとぎれることがないこと。
[接尾]名詞などに付く。
1 始めから終わりまで、…の間ずっと、などの意を表す。「夜もすがら」
2 何かをするその途中で、…のついでに、などの意を表す。「道すがら」
3 そのものだけで、ほかに付属しているものがないという意を表す。…のまま。「身すがら」

とし、広辞苑が同じ解釈である。

「一説に、スガは『過ぐ』と同源、ラは状態を表す接尾語という」

と注記して、名詞として、

(多く『に』をともなって、副詞的に用いる)始めから終わりまで、途切れることなく通すこと、

接尾語として、

(名詞につく)始めから終わりまでの意を表す(「夜すがら虫の音をのみぞ鳴く」)、
ついでにの意を表す(「みちすがら遊びものども参る」)、
そのままの意を表す(「親もなし叔父持たず、身すがらの太兵衛と名をとった男」)、

と挙げる。どうやら、「過ぎ」が原意とすると、時間経過の、

通して、

の意味と同時に、動作の並行の意味を含み、

…しながら、

という意味があり、それは、

ついでに、

の意味にずれやすい。しかし、

身すがら、

は、『大言海』の言うように、「過ぎ」ではなく、由来の違う、

直従(すぐから)の約、

なのではないか。その意味は、だから、『大言海』が、両方載せるように、

ながら、

の意味と、

ついでに、

の意味と、

そのままに、

の意味が重なり、ダブってしまった。

「すがら」の意味の幅は、上記のようだが、「よもすがら」は、用例から見ても、

夜通し、

の、

途切れることなくずっと、

の意味とみられる。語源も、

夜も+スガラ(過ら)で、夜の間ずっとの意(日本語源広辞典)、
ヨモスグサラ(夜亦直更)の義(日本語原学=林甕臣)、
ヨモツギアル(夜次有)の義(名言通)、
ヨモスカラ(夜過間)の義(言元梯)、
夜の去り果てるの義(名語記)、

等々と、夜通しの含意とみられる。しかし、「すがら」の意味の幅から見れば、

時間的な流れ、

の意と共に、

夜もすがら一人み山の真木の葉にくもるもすめる有明の月(新古今和歌集)

と、

通して、

の意味と同時に、動作の並行の意味を含み、

…しながら、

の含意があるとみると、意味が深みを増す気がするのは、気のせいだろうか。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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ユリ


「ユリ」は、

百合、

と当てる。「ユリ」は、「百合」の他に、

山丹(ひめゆり)、
巻丹(おにゆり)、
車山丹(くるまゆり)、

という表現がある(三才図絵図)、らしい(たべもの語源辞典)。また、「ユリ」の異称には、

倒仙、
中達、
重箱、
摩羅、
中庭、
蒜脳藷(さんのうしょ)、
サヨリ(小百合)、
ササヨリ(笹百合)、
ムギクワイ(麦慈姑)、

等々がある(仝上)、らしい。

「ユリ」の鱗茎を食用とし、

百合根、

と呼ぶ。食用とするのは、日本・中国・蒙古で、西洋は食べない(たべもの語源辞典)らしい。

「ユリの鱗茎は無皮鱗茎のため乾燥、高温、過湿などに弱いが、皮がないので食用とする際はそのまま食用と出来る。茶碗蒸しなどに入れて食されることが多い。 漢語では『玉簪花根』と称し、薬種とする」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%AA%E6%A0%B9

漢名「百合」は、

球根の鱗片が数多く重なっている意のなである(仝上)、とある。ヤマユリを別名、

料理ユリ、

と呼ぶのは、鱗片が大きく、苦みが少ないから、とある(仝上)。

「オニユリ・コオニユリ・スカシユリ・ハカタユリとその系統のユリが食用として喜ばれる」

ともある(仝上)。

「ユリ」の古名は、

佐韋(さい)、

という(大言海)、とあるが、古事記に、

ユリの本名は佐韋(さい)草、

とある(たべもの語源辞典)。

ヒメユリとヤマユリ、

が「サイ」と呼ばれたらしい(仝上)。

「ユリ」は、

さゆり、
くさふかゆり、
ひめゆり、

等々と、たとえば、

涼しやと風のたよりをたづぬれば繁みになびく野辺のさゆり葉(式子内親王集)
道の辺の草深百合の花笑みに笑まししからに妻と言ふべしや(万葉集)
夏の野の繁みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものぞ(大伴坂上郎女)

等々、歌に詠まれる(岩波古語辞典)。

「ユリ」の語源は、

「揺り」の意か、

とする説がある(広辞苑)。

風に吹かれて 花がゆらゆらすることから『ユリ(揺り)』の意味とする(語源由来辞典)、
花が大きく茎は細く風に揺れるところからユルの義(和句解・和訓栞・大言海・日本語源=賀茂百樹)、
茎高く花大きくてゆするところから、ユスリの略(日本釈名・滑稽雑誌所引和訓義解)、

も、類似の趣旨である。ほかに、

ヤヘククリネ(八重括根)の義(日本語原学=林甕臣)、
花が傾くことからユルミ(緩み)の義(名言通)、
鱗茎が寄り重なることからヨリ(寄り)の義、
姿が玉に似ているところからイクルリ(生瑠璃)の略、
ヨロシキ花が、ロシの縮約でヨリになり、ユリまたユルになったとする説、
万葉集に「筑波ねのサユルの花の」とあるサユル、これがユリに転音とた、

等々、諸説ある(たべもの語源辞典、日本語源大辞典)。

別に、朝鮮語経由とする説が、

韓語からか(東雅・大言海)、
朝鮮語nariの転(植物和名語源新考=深津正)、

とある。朝鮮語では、一般のユリは、カイナリと呼んでいる(たべもの語源辞典)、という。この説について、

「最も古い説では、ユリ族の一般名称である朝鮮語の『nani』が転じたとする説がある。『揺り』などの『日本語・語源辞典』に由来する説は『nari』の説よりもかなり遅いことから、『nari』に由来することが忘れられ、日本語に語源を求めたのではないかという見方がある反面、音韻変化が不自然との見方もあり、この説も正しいとは言い切れない」

とする(語源由来辞典)見方もある。確かに、

nari→yuri

の転訛は、少し不自然ではある。日本語の語源は、独自に、

「ウルハシキ(麗しき)花の語は、ウルの部分がユル(百合。上代東国方言)になった。筑波ねのサユル(小百合)の花の(万葉集)。さらにユリ(百合)に転音した」

とする。

どれかと決めかねるが、「揺り」はどうだろう。揺れるのは「ユリ」だけではない。決め手はないので、定説がないというところだろうか。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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蒲焼


「蒲焼」は、

ウナギ、ハモ、ドジョウ、アナゴなどを骨を取り、串に刺すなどして、蒸して、たれを付けながら焼いた料理、

であり、

関西では蒸さないで素焼きにしたものに、たれをつける、

とある(日本語源大辞典、広辞苑)。

「うなぎ」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%81%86%E3%81%AA%E3%81%8Eについては、すでに触れた。

「うなぎは、古名『むなぎ』が転じた 語で、『万葉集』などには『むなぎ』とある。 むなぎの語源は諸説あるが、『む』は『身』を、『なぎ』は『長し(長い)』の『なが』からとする説が有力とされる。この説では、『あなご』の『なご』とも語幹が共通する」

とあり(語源由来辞典)、

「①奈良・平安時代は『むなぎ』で、『万葉-十六・三八五三』『新撰字鏡』『和名抄』などに見られる。②『万葉-十六・三八五三』の家持歌に『石麻呂にわれ申す夏痩に良しといふ物ぞ武奈伎(むなぎ)取りめせ』があった、古来鰻が栄養価の高い食品とされたことがわかる。これ以降、伝統的な和歌に詠まれることはなく、俳諧狂言などに、庶民の食生活を描く素材として取り上げられる。③調理法としては、室町時代に酢(すし)や蒲焼きが行われるようになり、これらを『宇治丸』と称した。夏の土用の丑の日に鰻を食する習慣は、江戸時代の文化年間に始まったという。」

とあり(日本語源大辞典)、

「『時代別国語大辞典-上代編』では、ムナギのナギについて、琉球語のナギ・ノーガ(虹・蛇の意)と同じであるとする説を紹介している。」

ともある(仝上)。どうやら、

「『む』は『身』を、『なぎ』は『長し(長い)』の『なが』からとする説」

が有力で、

「『あなご』の『なご』とも語幹が共通する」

し(日本語の語源)、音韻変化から、

「ムナガキ(身長き)魚は、ガキ[g(ak)i]の縮約でムナギ(万葉集に武奈伎)に転音し、『ム』の子音[m]の脱落で、ウナギ(鰻)になった。」

としていた。

ウナギは新石器時代頃の遺跡から発見された魚の骨の中にウナギのものも含まれており、先史時代からウナギが食べられていたとされるが、調理方法は定かではない、という。『万葉集』には、大伴家持の、

痩(や)す痩すも 生けらばあらむを 将(はた)やはた  (むなぎ)を漁(と)ると 河に流れな
石麻呂(いしまろ)に 吾れもの申す 夏痩せに よしといふものぞ 鰻(むなぎ)とり食(め)せ

という和歌が二首収められているhttp://www5e.biglobe.ne.jp/~narara/newpage%2016-3853%20%203854.htmlが、夏痩せ対策にウナギを食していたものの、美味しい食べ物ではなかった、らしい。

蒲焼が登場する以前のうなぎの食べ方は、ぶつ切りにしたウナギ、あるいは小さめのウナギを丸々1匹串に刺し、焼いて味噌や酢をつけるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E7%84%BC、というものだったらしい。

大草家料理書(室町時代)には、

「丸にて炙りて、後に切る也」

とある(大言海)。どうやらここから、

「ウナギの口から尾まで竹串を指し通して塩焼きにした。この形が、蒲の穂に似ているので、蒲焼きといったものの転訛」

という説(たべもの語源辞典、広辞苑)が、有力とされる。大言海は、

「蒲鉾焼の略、形も、黒褐(こげちゃ)色なるも、似たり」

とするのは、「丸にて炙りて、後に切」った後の形をいっているのだろうか。

その色・形が樺皮に似ているから(雍州府志・本朝世事談綺)、
焼いている香りが早く伝わることからついたカバヤキ(香疾)の義(骨董集・本朝世事談綺)、

は、「蒲」の説明と、ウナギを捌かずそのまま串刺しする調理法とのつながりが解けていない気がする。江戸初期の黒川道祐(『雍州府志』)、江戸中期の菊岡沾涼(『本朝世事談綺』)が樺(カバノキ)の皮説を採っていて、「蒲穂」説を採っている、橘守部『俗語考』、喜田川守貞『守貞謾稿』、久松祐之『近世事物考』等々が。いずれも、江戸後期なのは気になるが、

「江戸時代の前半までは、蒲焼きは『うなぎの丸焼きのぶつ切りを串にさしたもの』で、塩焼きや味噌焼きにして食べるもので、その『姿形』が『蒲(がま)の穂』に似ており、その蒲(がま)が蒲(かば)に代わり『蒲焼き』とよばれた。また、そうした食べ物は、下賤の食べ物として、武士やそれなりの家の人間は食べなかった。」

というところで落着させておくhttps://www.wikiwand.com/ja/%E8%92%B2%E7%84%BC

「ウナギが、多くの庶民の口に入り始めたのは、元禄期(1688-1707年)に流通しつつあった濃口醤油の『掛け焼き』からのようである。現在の鰻の蒲焼に近いものが元禄時代から享保時代に出てくる。」

「うなぎの蒲焼きの初出は、正保年間(1640年代)に書かれた『料理物語』である。また、上方(関西)で刊行された堀江林鴻著の『好色産毛(こうしょくうぶげ)』(元禄時代 1688-1707)という本には、京都四条河原の夕涼みの画に、「うなぎさきうり/同かばやき」と記した行灯を置いた露店が描かれているという。」

「享保13年(1728年)に出版された『料理網目調味抄』の中に、醤油や酒を使ったウナギ串が記されており、味は現在の味に近かったとされている。」

そうである(仝上)。

ちなみに、ウナギの蒲焼は、

屋台で売られていた蒲焼は一串16文、
料理茶屋で食べれば一皿200文、

であったhttp://www.eonet.ne.jp/~shoyu/mametisiki/reference-16.html。担ぎ売りや屋台では、そばと同じで一串16文なのである。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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かがみもち


「かがみもち」は、

鏡餅、

と当てる。

平たく円形の鏡のように作った餅。大小二個重ね、正月に神仏に供え、または吉例の時などに用いる。

とあり(広辞苑)、古くは、

餅鏡(もちひかがみ)、

といい、

かがみ、
おそなえ、
おかざり、
円餅、
もちい、
ぐそくもちい、

ともいう(仝上)、とある。「もち」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%82%82%E3%81%A1で触れたように、「もち」は、古くは。

モチイヒ、

といい、「もち」は、

「『モチイヒ』の略で『モチヒ』とよばれていた。鎌倉時代に入ってもモチヒの形が見られるが、平安時代中期にはハ行転呼の現象により、既に『モチヰ』の形をとっていたと思われる。②鎌倉時代にはヰとイの混乱が生じており、『モチイ』は末尾の母音連続を約して『モチ』となった。③室町時代の辞書類を見ると、モチ・モチイ両方の形をのせているものが多い。」

とある(日本語源大辞典)。

円鏡との関係からか、

円鏡の形に似ているのでいう、

とする説(岩波古語辞典)が、他にも多く、

大きさと形が鏡に似た餅(日本語源広辞典)、
形が鏡に似ているから(滑稽雑談・本朝世事談綺・物類称呼・歴世女装考)、
鏡餅は、丸く平らで鏡の形に似ていることからこの名がついた。 現代の鏡は四角いもの が多いが、古くは円形で祭具として用いられ、特別な霊力を持つものと考えられていた。 現在でも神社の御神体として、円形の鏡が祭られている(語源由来辞典)、

等々多数派である。しかし大言海は、

元旦の歯固(はがため)のモチヒカガミを略して、カガミと云ひしに、再び、下に、モチを添えたる語ならむ」

とする。

もちかがみ→かがみ→かがみもち、

ということらしい。源氏物語には「歯固めの祝ひして、餅鏡をさへ取り寄せて」32.の一節があることによるのかもしれない。鏡餅が現在のような形で供えられるようになったのは、家に床の間が作られるようになった室町時代以降であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1%E9%A4%85、とされる。

しかし、餅鏡、鏡餅のいずれにせよ、

鏡、

の円に準えたものに違いはない。かつての銅鏡を考えるまでもなく、鏡は円であった。

日本においては、

「鏡は神道の信仰の対象となっている。日本神話に登場するものとしては、三種の神器の一つの八咫鏡や日像鏡・日矛鏡などがあり、鏡を神体として社に祀っていることがある。
平安時代以降、鏡面に仏像を線彫りにして信仰礼拝の対象とした「鏡像」(きょうぞう)が盛んに製作され、これは後に銅板に半肉彫りの彫像を取り付けた「懸仏」(かけぼとけ)に発展した」

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%85%E9%8F%A1、鏡は神体であったり、神代、神器として、信仰の対象であった。鏡餅にしろ、鏡餅にしろ、

「昔の鏡の形に似ていることによる。昔の鏡は青銅製の丸形で、神事などに用いられるものであった。三種の神器の一つ、八咫鏡を形取ったものとも言われる。また、三種の神器の他の二つ、八尺瓊勾玉に見立てた物が橙(ダイダイ)、天叢雲剣に見立てた物が串柿である」

とされhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1%E9%A4%85

「穀物神である「年神(歳神)」への供え物であり、『年神(歳神)』の依り代である」(仝上)。

なお、和漢三才図会(1712年)には、

「天武天皇4年からの習俗として、『しとき餅』の項に『御鏡是也』と解説された祭餅の図がある。これは、稗や黍餅のことで、稗(きび)団子の類。古人は黍や稗を多用したが、江戸時代には鏡に似せて糯米で円形に作るため、俗に御鏡と呼ばれた」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1%E9%A4%85、とか。

鏡餅飾りを神棚、具足、床の間、鏡箱と信仰するところや愛好する具に供えることが流行したのは江戸時代、

という(たべもの語源辞典)。

「鏡餅の上置きとして、ダイダイ・コンブ・クシガキなどを載せ、関西では櫛型に切った豆腐を載せた」

とある(仝上)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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かがみびらき


「かがみびらき」は、

鏡開き、

と当てるが、

鏡割り(かがみわり)、

ともいう。

「『開き』は『割る』の忌み詞」

とある(広辞苑)。

「正月に神(年神)や仏に供えた鏡餅を下げて食べる、日本の年中行事である。神仏に感謝し、無病息災などを祈って、供えられた餅を頂き、汁粉・雑煮、かき餅(あられ)などで食される。」

ものであるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1%E9%96%8B%E3%81%8Dが、鏡餅は割って祝う。

「武士は斬(きる)という言葉を忌み、刃を入れずに引掻くので、これをかき餅とよんだ。」

とある(たべもの語源辞典)。江戸時代、

「新年の吉日に商家では蔵開きの行事をしたが、武家において新年の11日(もと20日)に行われる行事で鎧などの具足に供えた具足餅を下げて雑煮などにして食し『刃柄(はつか)』を祝うとした行事。また、女性が鏡台に供えた鏡餅を開くことを「初顔」を祝うといった」

でもある。

鏡餅は、

「武家では正月に鎧や兜の前に鏡餅を供えたことから、…具足餅と呼ばれた。女子は鏡台の前に供えた」

からである(語源由来辞典)。

江戸語大辞典には、

「正月十一日に鏡餅を下げて雑煮・汁粉などに作って祝う行事。もと武家で男子は具足、女子は鏡台に供えた鏡餅を下ろして祝ったのが、一般の風習となったもの」

とある。鏡餅を供えることは、室町時代から、という(語源由来辞典)。

江戸城では、重箱に詰めた餅と餡が大奥にも贈られ、汁粉などにして食べた、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1%E9%96%8B%E3%81%8D

なお、「鏡開き」には、

祝宴などで菰(こも)を巻き付けた酒樽(菰樽という)の蓋を木槌で割って開封すること、

を言うこともある。

鏡抜き、

ともいうが、これは、

酒屋では酒樽の上蓋のことを鏡と呼んでいた、

ことに由来するという。

「酒屋では、酒樽の上蓋のことを鏡と呼んでいました。古くから日本酒は、神事を営む際に神酒として供えられ、祈願が済むと参列者でお酒を酌み交わし、祈願の成就を願うことが習慣となっています。神酒が樽で供えられた時には樽の鏡を開いて酒を振る舞います。」

とあるhttps://www.gekkeikan.co.jp/enjoy/qa/sake/sake06.html。ただ、鏡抜きと呼び、

「『鏡開き』と呼ぶのは誤りだという説もある」

ともあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1%E9%96%8B%E3%81%8D。確かに、

「祝い事などで『酒だるのふたを開ける』ことは、『鏡を抜く』というのが本来の言い方です。『鏡開き』は、もともとは『鏡もちを下げる』正月行事を指します。『酒だる』については、放送ではできるだけ『鏡開き』を使わないで、具体的に『四斗(しと)だるを開ける』などと言いかえるようにしています。」

としているとあるhttp://web.archive.org/web/20050318085349/http://www.nhk.or.jp/bunken/research/kotoba/kotoba_qq_01010101.html。しかし、酒造メーカーのホームページには、

「鏡開きの由来については、定かではありませんが、昔、武士が出陣の際に、味方の気持ちを鼓舞しようと、振舞酒として酒樽を割ったことから来ていると言われています。清酒の樽のふたを、古くから、まるくて平らな形から「鏡」と呼んでおり、そんなことから、 樽のふたを割って、酒をみんなで飲み交わすことを『鏡開き』と呼んでいます。
同じく丸い形で『鏡』の名を持つものに『鏡餅』があり、新年に一年の健康を願って、鏡餅を食べることも『鏡開き』といいます。また、『鏡』は昔から魂が宿る大切なものとされていましたので、『割る』ということをきらい、 鏡餅も清酒の樽も『鏡』を『開く』と表現しています。」

とあり、確かに、行為としては「抜く」だが、「開く」の方が、

「樽の中のお酒ですが、“よろこび”ごとに欠かせないお酒の語源も一説には“栄える”から“栄え水(さかえみず)”の名が起こり、のちに“さかえ”から“さけ”となったと言われています。 運を開き、栄える酒をわかちあう『鏡開き』は“よろこび”の場面に欠かせません。」

とある(仝上)ことからも、相応しい気がする。

なお「酒」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba8.htm#%E9%85%92で触れたように、「さけ」の語源は諸説あるが、酒の古名は「き」であり、「さけ」の「け」は、「き」の音韻変化のようである。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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かがみ


「かがみ」は、

鏡、
鑑、
鑒、

等々と当てる。「鑑」と当てるのは、映す鏡のメタファで、

手本、
模範、

という意味の時に当てる。「鏡」(呉音キョウ、漢音ケイ)は、

「会意兼形声。竟は、楽章のさかいめ、くぎりめをあらわす。境の原字。鏡は『金+音符竟』。銅を磨いて、明暗のさかいめをはっきりうつしだすかがみ」

とある(漢字源)。「鑑(鑒)」(漢音カン、呉音ケン)は、

「会意兼形声。監は『伏し目+人+皿に水を入れたさま』の会意文字で、水のかがみの上に顔をうつすことをあらわす。のち青銅をみがいたかがみを用いるようになったので、金へんを添え、鑑の字となった。鑑は『金+監』」

とある(仝上)。

「昔は水かがみを用い、盆に水を入れ、上からからだを伏せて顔をうつした。春秋時代からのちは、青銅の麺らを平らに磨いて姿をうつした」

ともあるので、あるいは、「鑑(鑒)」の方が、古い「かがみ」を意味しているのかもしれない。字源には、「鏡」を、

銅、又は玻璃にて作る、

とある(玻璃はガラスの異称)ので、「鏡」は、銅鏡以降のものを意味する。

鏡は、弥生初期に銅鏡が、中国・朝鮮から伝来した。とされる。古代、鏡は、祭祀道具であり、権力を象徴する財宝でもあった(日本昔話事典)。

「天孫降臨では天照大御神は『此の宝鏡(八咫鏡)を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。与に床を同くし殿を共にして、斎鏡をすべし』(この鏡を私だと思って大切にしなさい)との神勅を出していることから、古代から日本人は鏡を神聖なものと扱っていたと思われる。」

のであるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1。弥生中期、

「北部九州では、甕棺墓に前漢鏡が副葬されるようになった。銅鏡は宝器として珍重され、後期になって副葬され始めるようになった後漢鏡は、不老長寿への祈りを込めた文が鋳出され、その鏡を持った人は長寿や子孫の繁栄が約されるというものだった」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%85%E9%8F%A1し、古墳時代、

「邪馬台国の女王卑弥呼が魏の王より銅鏡(この時代を研究する考古学者にとっては、「鏡」という語はすなわち内行花文鏡、三角縁神獣鏡などの銅鏡を意味する)を贈られた故事がある。これは、彼女がシャーマン的な支配者であったことと結びつける研究も多い。鏡は神道や皇室では、三種の神器のひとつが八咫鏡であり、神社では神体として鏡を奉っているものが多数存在する。」

というほど、鏡は神聖視されてきた。長く鏡は貴重品で、一般化するのは、江戸期に、水銀をかぶせた鏡が量産化されてからのことであり、ガラス製は近世末期になってからとなる(日本昔話事典)。

さて、「かがみ」の語源である。

「カガはカゲ(影)の古形。影見の意」(岩波古語辞典)

とする説が有力らしい。「かげ(影・陰・蔭)」は、

「古形カガの転。カガヨヒ・カグツチのカガ・カグと同根。光によってできる像。明暗ともにいう」

ともある(仝上)。「かぐつち(迦具土・火神)」は、

「カグはカガヨヒノカガと同根。光のちらちらする意」

であり、「かがよひ」は、

ガキロヒと同根、

で、

静止したものがキラキラと光って揺れる、

意である。「かぎろひ」の「ヒ」は「火」の意で、

揺れて光る意、

とある(仝上)。不安定な水鑑や銅鏡の映し出す映像を思い描くとき、この説は魅力がある。

カゲミ(影見)の義(志不可起・類聚名物考・百草露・言元梯・名言通・和訓栞)、

と、主張する説は多い(日本語の語源も)。

カゲマミ(影真見)の約轉(和訓集説)、

も同趣であろうか。

しかし、大言海は、

「赫見(かがみ)の義。鑑の初は、日神の御光を模して造れると伝ふ、古語拾遺に、八咫鏡に『鋳日像(ヒノミカタ)之鏡、(神代紀に同じ)初度所鋳不合意』。大倭本紀(釈紀所引)に、此御鏡を天懸(アマカカス)神となづくとあり、天赫(あまかがはす)なり」

と、かがやく(赫・輝)を採る。だが、この説明は、神話に基づいていて、今一つ説得力を欠く。しかし、日本語源広辞典も、

「カガ(眩い・輝く意)+ミ(見るもの)、

とする。

カガミ(赫見・炫見)の義(古事記傳・箋注和名抄・和訓栞)、

と、この説を採るものも少なくないが

不安定な揺らめく影を見ている銅鏡は、

かぎろひ、
かぐつち、

の「かが」「かぐ」と重なるとみる説の方が、説得力がある。銅鏡の鈍い輝きは、

かがやく、

という語感とはちょっと違う気がしてならない。ただ、

かが(爀爀)、

を、

影(かげ)と通ず、

としている(大言海)ところを見ると、

かがやく、
かがよふ、
かがり(篝)、

の語根として、結局、同じことを言っていることになるが。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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トリ


「トリ」は、「とり」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba10.htm#%E3%81%A8%E3%82%8Aで取り上げた「鳥」ではなく、

取り、

と当てる、

寄席で、最後に出演する者、

の意である。これをメタファに、

最後に上映または演ずる呼び物や番組、又それを演ずる人、

の意に広げて使われる(広辞苑)。「寄席」は、

「講談・落語・浪曲・萬歳(から漫才)・過去に於いての義太夫(特に女義太夫)、などの技芸(演芸)を観客に見せる興行小屋」

であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%84%E5%B8%AD

「始まりは18世紀中頃で、演目は浄瑠璃、小唄、講談、手妻(手品)などで、寛政年間(18世紀後半)以後、落語が主流となった。場所が常設小屋になったのは文化年間(19世紀初頭)ごろからで、天保の改革で数が制限されたが、安政年間(19世紀後半)には約400軒と急増した)」

とあり(仝上)、古いのは講談らしい。寄席の起源は、

「一般的には江戸初期に神社や寺院の境内の一部を借りて、現在の講談に近い話を聞かせる催し物が開かれていたもの(講釈場)である。ただ、これは不定期に催されるものであったようである。これが原型となって、初めて専門的な寄席が開かれたのは、寛政10年(1798年)に江戸下谷にある下谷神社の境内で初代・三笑亭可楽によって開かれたものとされ、当神社には現在の定席四席による寄席発祥の石碑がある。当初は『寄せ場(よせば)』と呼ばれ、後に寄席と呼ばれるようになった。」(仝上)

「トリ」とは、

興行の一番最後に出る芸人。主任ともいわれる、

と落語芸術協会のホームページhttps://www.geikyo.com/beginner/dictionary_detail.html#toriには載る。だから、

「主任格であることから『トリ』には『主任』が当てられていた」

ともある(語源由来辞典)。

「トリ」は、

真打、

の意ともある(広辞苑)。で、日本語源大辞典には、

主任格の真打は当夜の収入を全部取り、芸人たちに分けていたところから取り語りまたは真ヲ取ルの略(すらんぐ=暉峻康隆)、

と載る。日本語源広辞典も、「トリ」は、

取り前、

の意とし、

寄席で、一晩の収入を、会場費と真打の取り前とに、分けて取ります。これがトリです。不入りの時、自腹を切って出演費の面倒を見ます。そこで、真打の俗称となりました、

とする。「トリ」は、真打の意である。トリを取れるから真打というわけである。江戸語大辞典には、

真を打つ、

と載り、

眞は心、中心の意。一座の中心になって最後に出演する。打つは。演ずる、興行する意、

と載る。あるいは、

落語、講談などの一座の主任、またはその格式ある者をさす、

とある。「心打」と当てたりするが、「心」の意の、

真ん中、中心、

の意のようである。ただ別に、「真を打つ」は、

「昔、夜の寄席での高座の明かりはすべてロウソクでした。寄席で最後の演者が落語を終える時に、明かりのロウソクの火を消すためにロウソクの芯を切り落としていた様子から真打と伝えられています。つまり、真打とは高座で主任(トリ)を勤めることができる実力のある噺家のことを指します。落語の修業の成果を自分の師匠だけでなく数多くの落語関係者に認められ、たくさんのご贔屓さんができた結果、真打となることが許されます。」

ともあるhttps://allabout.co.jp/gm/gc/207013/

ローソク云々の是非はともかく、「真打」は、不入りなら、自腹で賄うだけの力量があるからこそ、

トリをとる、

ことができる、ということなのだろう。

「真打」は、今日、

前座→二ツ目→真打、

と、落語家の資格制度のような意味合いになっているが、本来は、

トリ、

と同義で使われていたようである。前出の落語芸術協会には、「真打」は、

落語家の位。真打ちになると寄席で主任になれる。また、弟子を取ることもできる、

とある。確かに資格としての「真打」を言っている。

「この語は、天保(1830‐44)ごろから使用されるようになった。現在は、前座、二ツ目、真打と昇進するが、大正時代までは、二つ目の古参で真打目前の者を三つ目、準真打と称した」

とある(世界大百科事典)。

なお、寄席の舞台を、

高座、

と呼ぶが、

「もとは仏教語で、釈尊(しゃくそん)が成道(じょうどう)したという金剛宝座をかたどり、説教のときに一般席より高く設けた台。これが話芸の世界に導入され、落語や講談など寄席芸を演ずる者が座る台をいうようになった。文化四年(1807)講釈師の初代伊東燕晋(えんしん)が(徳川家康の偉業を読む尊厳を理由にした出願を寺社奉行が許可し)畳1枚(三尺×六尺)の大きさの固定した高座をつくったが、文化・文政(1804‐30)ごろの初期の寄席は高座がないのが普通で、小さな壇がある程度だった。天保(1830‐44)ごろから、間口9尺(約2.7m)から2間(約3.6m)、奥行9尺ぐらいの高座ができ、明治以後現在までの大きな寄席では、間口3、4間となった。」

とある(日本大百科全書、世界大百科事典、http://www.rakugo.or.jp/kouza-kamishimo.html)。

因みに、前座は、

仏教における前座(まえざ)説教、

が語源。二ツ目は、

前座と真打の間。前座に続き、二番目に高座に上がるため、

そう呼ばれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%BD%E8%AA%9E%E5%AE%B6、とか。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

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ちょろまかす


「ちょろまかす」は、

①一時のがれのうそを言って、その場をごまかす。言いまぎらわしたり、だましたりする(浮世草子・好色盛衰記(1688)「ちょろまかすといふ時花(はやり)言葉も是おかし。西南ふたつの色所より、役者・末社のいひ出して、一座の興にもなるぞかし。罪にならざる当座の偽を、まぎらかすといへる替詞と聞えたり」)、
②人の目をごまかして物を盗む。かすめ取る。ごまかし取る(浮世草子・西鶴置土産(1693)「むかし残りてさもしき心にて紙一枚、ちょろまかすといふ事なし」)、
③女をだまして肉体関係を結ぶ。女をたらす。女を誘惑する(浄瑠璃・猿丸太夫鹿巻毫(1736)「沢といふ妼、大宮司のねそ殿がいつの間にやらちょろまかし、腹がれこさ」)、

という意味がある、とされる(精選版日本国語大辞典)。いずれも江戸期の言葉らしいが、今日③の意味は使われていないようだ。江戸語大辞典には載るが、広辞苑、大辞林、デジタル大辞泉等々には、①②の意味しか載らないし、大言海にも、載らない。栄花咄(貞享)に、

「ちョろまかすと云ふ流行詞、云々、罪にならざる当座の偽を、まぎらかすといへる替詞と聞えたり」

とある(大言海)。江戸時代の流行語であるらしい。

「ちょろまかす」の語源については、ネット上は、二説が溢れている。たとえば、

「一つ目は「好色一代男」で知られる江戸時代の大坂の浮世草子・人形浄瑠璃作者、また俳諧師であった井原西鶴の著作『好色盛衰記』に『ちょろまかす』が当時の流行言葉として紹介されているところから。その由来は『ちょろりと誤魔化す事』と書かれているとか。
もう一つの説は、同じ江戸時代の伝馬船、…『ちょき船』と呼ばれていたそうですが、それよりも小型で速い船を『ちょろ』と呼んでいた。『ちょろ』を負かすほど素早く動く様を『ちょろ負かす』と言い表し、さらにそこから『素早く動いて相手に悟られない』という意味になった」https://www.yuraimemo.com/4381/

「1688(元禄元)年に書かれた井原西鶴の『好色盛衰記』の中には《ちょろまかすと言ふ流行言葉も是れおかし》と、はっきりと流行語だと書かれていたりします。ここで井原西鶴はこの言葉の語源を『ちょろまかすとは、チョロリとごまかす事』と書いています。
別の説も存在します。江戸時代に荷物などを運搬する船のことを《伝馬船》と呼んでいて、それの小型の船の事を《猪牙》船と呼んでいたのです。この猪牙船は一人乗りでその軽量なことからかなりのスピードが出せたのです。しかし、それより小型でスピードの出る船と言うのも存在していて、それの事を《ちょろ》と呼んでいたらしいのです。そんなムチャクチャ早いスピードを出す《ちょろ》を負かしてしまうほど素早く動くことを《ちょろ負かす》と言うようになり、次第に素早い動きで相手に悟られないように行動することを《ちょろまかす》と言うようになったという説があります。」http://www.tisen.jp/tisenwiki/?%A4%C1%A4%E7%A4%ED%A4%DE%A4%AB%A4%B9

「(1)『ちょろい』と、『ごまかす』『だまかす』などの『まかす』が組み合わさった造語という説があります。本来、『ごまかす』『だまかす』から『まかす』だけを取り出すのは文法的には間違いなのですが、…要するに、〈ちょろちょろっとごまかす〉〈ちょろっとだます〉という意味合いのことばをつくったということです。
(2)江戸時代に、荷物の運送に使われた『猪牙船(ちょきぶね)』というかなり小さな船がありました。小回りがきいて、船足も速い船で、『ちょろちょろ』と走り回っていたので『ちょろ』とも呼ばれたそうです。その『ちょろ船』よりももっと素早くという意味合いで〈ちょろを負かす〉くらいに〈すばやくごまかす〉ということで『ちょろまかす』という言い方ができた、という説です。」https://mobility-8074.at.webry.info/201605/article_1.html

西鶴の「ちょろりと誤魔化す事」というのはともかく、「ちょろ船」という説は、ちょっと信じがたい。「ちょろ船」は、

ちょろ、

ともいい、

船脚の早い猪牙舟の呼称、東海地方以西でいう、

とあり(広辞苑)、猪牙船と同じ意である。大言海は、「猪牙舟」の項で、

「ちョきは櫓の音の形容。…ちョろと云ふ小舟もこれならむと云ふ。或は云ふ、長吉と云ふ者、作り始む、故に長吉船とも云へりと。或は、形、猪牙に似たれば云ふと云ふは、皆、付会なり、猪牙と云ふ湯桶訓あるべくもあらず」

とする。

猪牙舟は、

「往時、専ら江戸、山谷通(さんやがよひ)に用ゐたり。進むこと至りてはやければなり。されど甚だしく動揺せり。櫓を二挺立てて漕ぎたるは更に早し、因りて舟を二挺立てとも云ひ、此舟に屋根を付けたたるを、キリギリスと云ひき。舟揺れて二挺の櫓の、キリキリと鳴る故なり」

と説明する(大言海)。「山谷通」とは、「江戸初期に荒川の氾濫を防ぐため、箕輪(三ノ輪)から大川(隅田川)への出入口である今戸まで造られた」山谷堀(さんやぼり)を、

「江戸時代には、新吉原遊郭への水上路として、隅田川から遊郭入口の大門近くまで猪牙舟が遊客を乗せて行き来し、吉原通い」

を言ったhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E8%B0%B7%E5%A0%80

となると、西鶴が紹介した「ちょろりと誤魔化す事」が有力となる。

擬態語チョロ+ごまかす(日本語源広辞典)、
擬態語チョロ+接尾語めかす、
擬態語チョロ+まぎらかす(上方語源辞典=前田勇)、
形容詞チョロイを動詞化したもの。チョロイは擬態語チョロチョロから(すらんぐ=暉峻康隆)、

と、その語源説には、いくつかある。

「擬態語チョロ+接尾語まかす」について、

「擬態語『ちょろ』に接尾語『めかす』が付いたのなら『ちょろめかす』となるはずであるが、中近世には、だますを意味する語として『まぎらかす』『たるまかす』『だまかす』『ごまかす』など『…かす』『…まかす』の形をとるものが多く、恐らく、この形への類推によって『ちょろまかす』の形が生じたものと思われる」

と、「まかす」からの変化を説明する説もある(日本語源大辞典、精選版日本国語大辞典)。

「『まかす』は、『ごまかす』や『だまかす』など『だます』という意味あいのある言葉との連想で加えられた接尾語ではないかとされている。」

という説明が的を射ているのかもしれない(笑える国語辞典)。

「ちょろ」は、

ちょろちょろ、
ちょろり、
ちょろと、

等々、もとは、

液体が少し流れ出る、

様をいう擬態のように思われる。それが、

小動物などが素早く小刻みに動く様子、
素早く行動する様子、

の意味になる。「ちょろり」には、ただ素早いだけではなく、

特に、相手に気づかれないうちに、相手からとがめられる前に、ほんのちょっとの間をうまく利用はするニュアンスを伴うことがある、

とある(擬音語・擬態語辞典)。これが、「ちょろい」「ちょろまかす」に共通するようである。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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ちょんぼ


「ちょんぼ」は、

うっかりして犯した失敗やミス、

とあるが、どこか、

ズルをする、

という含意があるような気がする。大辞林には、

麻雀用語。あがりの牌を間違えること、

とあり、

マージャンのツォーホー(錯和)から、

ともあり(精選版 日本国語大辞典)、

故意ではなく、杜撰さ、

を指しているように見える。僕は麻雀を知らないので、よくわからないが、「錯和」は、こういうことらしい。麻雀は、

「文字や柄の描かれた牌を集め、牌の特定の組み合わせによって『役』を作ることで勝敗を付けるゲームです。この『役』が完成された状態を「和了」(あがり)といい、「和了」で一旦勝敗が決します。ところが「役」が揃っていないのに誤って『和了』を宣言してしまうことを『錯和』あるいは『冲和』(ちょんぼ)と言います。『錯』は『錯覚』の『錯』、『冲』は『冲虚』という言葉もありますが『虚』と同じように『むなしい』という意味です。間違って『和了』したから『錯和』、成立しない『和了』ということで『冲和』です。」

とあるのがわかりやすいhttps://www.alc.co.jp/jpn/article/faq/04/120.html。これが転じて誤って何かをすることを「ちょんぼ」というようになったようである。なお、

「『錯和』は中国語で「ツァホウ:cuohuo」、『冲和』は「チョンフォウ:chonghuo]ですから『ちょんぼ』はより音の近い『冲和』のなまったものである」

と推測している(仝上)。

因みに、列子に

冲和之気(ちゅうわのき)、

という言葉がある。

沖和之気、

とも当てる(沖と冲は同義)。「冲」は虚しい意もあるが、柔らかいという意もあり、

天地の間にある調和されて穏やかな気のこと。「沖和」はやすらかなこと、
陰と陽が交わるところにあるものとされ、人間そのものを言い表す言葉、

とあるhttps://yoji.jitenon.jp/yojig/3068.html

元へ戻すと、麻雀の反則行為では、麻雀におけるルール違反、いわゆる、

チョンボ、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E9%9B%80%E3%81%AE%E5%8F%8D%E5%89%87%E8%A1%8C%E7%82%BA。あくまで、ミスであり、牌を隠す・すりかえるなど、故意の重大なルール違反は反則行為ではなく、

不正行為(イカサマ)、

と区別する(仝上)、ともある。

麻雀で反則行為を行った場合には罰則(ペナルティ)を科される。「罰符(ばっぷ)」というのは、

「重大な反則に対して科せられる罰則で、反則者が対戦相手3人に対して罰符と呼ばれる一定の点数を支払ったうえで、通常は元の局をやり直す。主として局の続行が不可能となるような反則に対して適用される。このような重大な反則を特にチョンボという」

とある(仝上)。チョンボがあった場合、

「チョンボした者が罰符の支払い(多くは満貫払い)をしたあと、『ノーゲーム・ノーカウントとしてその局をやりなおす』のが一般的である。その局に出されたリーチ棒などの供託点は出した者に戻り、積み棒は積まずに局をやり直す。親も移動しない」

とある(仝上)。僕は麻雀をやらないので、よくわかっていないが、

「発覚せずに次の局に移行した場合は、後で発覚したとしても罰則を適用しないのが一般的である」
「和了(あがり)と同時に発生した場合は和了が優先となり、チョンボは不問となる」

ともある(仝上)。故意か単なるミスかは、微妙なところがある気がする。

「ちょんぼ」は、元来、上記のように、

「『間違った和了』の意味であり、和了の条件を満たしていないにも関わらず和了を宣言したような場合(誤ロンあるいは誤ツモ)をチョンボと呼んだ」

が(仝上)、罰符が適用される反則行為にとどまらず、麻雀における反則行為全般についてチョンボと呼ぶ場合があり、それが転じて、

不注意による失敗をチョンボ、

というようになった、とみられる(仝上)。1970年代後期に、うっかりミスや間違いのことを「ちょんぼ」というようになり、また一部では万引きという意味でも使われる(日本語俗語辞典)、という。意味が、故意にシフトしたようである。もともと微妙にそんな含意があったのかもしれない。

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しょぼい


「しょぼい」は、

勢いがない、さえない、ぱっとしない、みすぼらしい、

といった意味である(大辞林)が、どちらかというと、

貧乏臭い、

という含意がある気がする。ほぼ、

ちんけ、

と同義ではないか。「ちんけ」は、

さいころばくちで1の目を『ちん』ということから、

貧相な様、器量の小さいさま、

の意で使う(広辞苑)、とあるが、

程度の低いさま、
あるいは、
最低であるさま、

の意味が強い(精選版日本国語大辞典)。

「しょぼい」は、擬態語から来たとみる。たとえば、

しおしお、
しょぼしょぼ、
しょんぼり、

等々。「しおしお(しほしほ・しをしを)」は,「すごずご」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba8.htm#%E3%81%99%E3%81%94%E3%81%99%E3%81%94で触れたように、

萎萎,

と当てる例もあるが,

しとしとと濡れるさま,涙・雨などについていう,

とあり,どうやらその状態表現が転じて,というか,その状態をメタファに,

悲しくさびしそうなさま,悄然,

あるいは、

しかられたり、うち負かされて元気がなく、しおれている様子、

に意味を広げていったと見える。当然,

しおたれる(塩垂れる・潮垂れる),

という言葉が類推される。「塩垂れる」は,『広辞苑』には,

塩水に濡れて雫が垂れる,
転じて,涙で袖が濡れる,

さらに意味が転じて,

元気がない様子になる,

という意味になる、とあるが,『岩波古語辞典』には,

雫が垂れる,ぐっしょり濡れる,
涙にくれる,
みすぼらしい様子になる,貧相に元気のない様子になる,

の意味を載せる。「塩(潮)」は当て字ではないか。「しおたれる」に似た「しおれる」について,『日本語源広辞典』は,

「シホル(生気を失う)の下二段口語化」

とある。「しほる」は,

しをる,

であり,『岩波古語辞典』には,

「植物が雪や風に押されて,たわみ,うなだれる意」

とある。『大言海』は,

「撓ひ折る意か,或いは荒折(さびを)るるの約かと云ふ」

とある。つまり,

しおれた,

という状態表現なのである。このあたりが「しおしお」の由来と思われる。『擬音語・擬態語辞典』には,

「『源氏物語』の『しほしほと泣き給ふ』の『しほしほ』は,涙に濡れる様子を,江戸時代の女房詞『しほしほ』は涙の意を表した。室町末期の『日葡辞書』の『しをしを』には,『人が力をおとしたり,意気消沈したりして萎れるさま』とある。
 『しおしお』は,草木などが生気を失う意を表す『しをれる』の『しを』と関係がある。」

とし,「すごすご」「しょぼしょぼ」と「しおしお」を対比して,

「『しおしお』は元気なくしおれるような様子を表すのに対して,『しょぼしょぼ』は元気なく寂しそうで,しぼむような様子。『すごすご』は,目的が達成できず元気なくその場を立ち去る様子を表す。」

としている。

「しょぼしょぼ」「しょんぼり」、あるいは「しょぼん」は、「しおしお」の類義語になる。

「しょんぼり」は,

気落ちして沈んでいる様子,

だが,『日本語源広辞典』によると,

「しょぼしょぼ(擬態語)+り(副詞化)」

とあるし,『大言海』にも,

「ションボは,ショボショボの,ショボの音便化」

ともある。つまりは,「しょんぼり」は,「しょぼしょぼ」から転化した語ということになる。「しょぼしょぼ」は、

雨が弱々しく陰気に降り続けること(古くは「そぼそぼ」と言った),
木や髪,髭がまばらに生えていて,みすぼらしい様子,
疲労・眠気・涙・まぶしさ・心労・老化などのために,目を見開いていられず,力なくまばたきをする様子,
体力や気力が衰えて,弱々しく哀れな様子,

という意味がある(擬音語・擬態語辞典)が、この派生語の,

しょぼん,
しょんぼり,

と比較すると,

「『しょぼん』は,『しょぼしょぼ』よりも急に,勢いや元気をなくす様子,『しょんぼり』は『しょぼしょぼ』よりもはっきりと気持ちのおちこみが外側に現われている様子」

なのだという(仝上)。

雨が弱々しく陰気に降り続けること、

を、江戸時代「しょぼしょぼ雨」といい、

疲労・眠気・涙・まぶしさ・心労・老化などのために,目を見開いていられず,力なくまばたきをする様子、

を、やはり「しょぼしょぼ目」といった、とある(仝上)。「しょぼい」は、この、

しょぼ、

を形容詞化したものとみられる。

しょぼつく、
しょぼくれる、
しょぼたれる、

はいずれも、

侘しく、寂しげ、

な含意がある。「しょぼい」は、

悄然,

の価値表現がこめられている気がする。

江戸語大辞典に、

しょぼくない、

という言葉が載る。誤植でなければ、

塩垂れたさま、転じて、老衰したさま、また、気力のないさま、しょぼしょぼしたさま、

の意が載る。「しょぼい」には、

しおしおとした、

含意もある。

参考文献;
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)

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ちょっかい


「ちょっかい」は、

ちょっかいをかける、
ちょっかいを出す、

といった言い回しをする。

曲がって委縮した手、

という意味が、室町末期の日葡辞書に載る(精選版日本国語大辞典には「曲がり縮んだ手。また、指が曲がって動かない手」(日葡辞書)と載る)。で、前後は不明ながら、

相手の腕や手をののしって言う語、

という意味があり、

猫などが前の片足で物を掻き寄せること、

という意味があり、その状態表現をメタファに、

横合いから干渉すること、

という意味がある(広辞苑)。

相手の腕や手をののしって言う語、

という意味は、

手、特に手首から先の部分を卑しめていう語、

ともある(大辞林)。意味の先後がよくわからないが、江戸語大辞典には、

手、腕、
手首から先、手首、転じて三味線の撥を持つ手、撥はばき、
ちょっかいを出すの略、

とあるので、どうやら、元々手、腕を指したものらしい。用例としては、

「ちょっかいの廻る長(だけ)」(天明三年・絵本見立仮譬尽)、

が載る(仝上)。ただ、日葡辞書の掲載から見ると、もともと、

曲がり縮んだ手。また、指が曲がって動かない手、

を指していたものかもしれない。

「己このちょっかいにて色々の悪戯をまつり」(1702頃浄瑠璃・信田小太郎)
「わが-を俺が懐中ふところへつつ込む間には」(歌舞伎・男伊達初買曽我)

等々の用例(精選版日本国語大辞典、大辞林)を見ると、ニュートラルな言葉ではなく、

腕、手、手先を卑しめていう語、であるのだから。

更に価値表現を加えると、

手首から先、

の意から転じて、

撥さばき、

の意となる。

「ちょっかいが動いてくると猫で張り 木賀」(文化三年・柳多留)

「能廻るちょっかいならば土佐ぶしをさあひき給へ猫の皮にて」(狂歌・若葉集(1783))

等々という用例がある(精選版日本国語大辞典、江戸語大辞典)が、それと、

「ちょっかいにたつ名ぞ惜(をし)き猫の夢〈友吉〉」(俳諧・洛陽集(1680))

という用例の、

猫が前の片足で物をかきよせるような動作をする、

意とは、「ちょっかい」の意味に、揶揄のニュアンスが加わっている。猫の動作を指す意味は、後のことかもしれない。その猫の動作から、

ちょっかいを出す、

という言葉遣いが派生したものと想像する。

「ちょっかいを出す」は、

脇から干渉や手出しをする、
おせっかいをする、

意があり、その派生で、

たわむれに異性に手を出す。特に、男がたわむれ心で女性に言い寄る、

意を持つ。「ちょっかいをかける」もほぼ同義である。

「未だ爪を隠さぬ新造猫より化けそうな年増猫まで、みなちょっかいを出して客をひきかかんと欲す」(洒落本・猫謝羅子)、

では、猫の振る舞いと異性へのそれとが意味が重なり合っているように思える。

「ちょっかい」は、何から出て来たのか。江戸語大辞典は、

ちょっ掻きのイ音便かとも、手出しの訛りかとも、

と二説挙げている。日本語源広辞典は、

ちょっかき(猫が手を出してちょっと掻く)、

を取る。しかし、「ちょっかい」のもつ、日葡辞書の意味、

曲がり縮んだ手。また、指が曲がって動かない手、

は、説明できない。大言海は、

一能掻(イチヨクカイ)の義か、

とするか、少し苦しくないか。

猫の仕草から、「ちょっかい」が出た、とすると、

ちょっかき→ちょっかい、

の転訛は、確かに説明できる。しかし、それより前、日葡辞書にのせる「ちょっかい」の意味の説明がつかない。

三味線は、成立は15世紀から16世紀にかけてとされ、戦国時代に琉球(現在の沖縄県)から伝来した。

「琉球貿易により堺に宮廷音楽や三線がもたらされ、短期間の内に三味線へと改良された。現存する豊臣秀吉が淀殿のために作らせた三味線『淀』は、華奢なもののすでに基本的に現在の三味線とほとんど変わらない形状をしている。伝来楽器としての三線は当道座の盲人音楽家によって手が加えられたとされ、三線が義爪を使って弾奏していたのを改め彼らが専門としていた『平曲(平家琵琶)』の撥を援用したのもそのあらわれである。彼らは琵琶の音色の持つ渋さや重厚感、劇的表現力などを、どちらかといえば軽妙な音色を持つ三味線に加えるために様々な工夫を施したと思われる。」

とある。ここからは憶説だが、

指が曲がって動かない手、

は、撥さばきの手つきと重ならなくもない。

腕、手、手先を卑しめていう語、

が、転じて、

撥さばき、

の意となる経路と、

猫の仕草、

が転じて、

手出しする、

意となる流れとは、別経路なのかもしれない。

「古くは、腕や手、特に手先を卑しめていう言葉として『ちょっかい』が用いられており、1603年の『日葡辞書』には、『歪み曲がってちぢかんだ手』とある」

意味と、

「ネコが物を掻き寄せる動きから、余計な手出しをすることを『ちょっきかい』と言うようになり、口を出すなど側から干渉する意味、さらに異性に言い寄る意味で使われるようになった」

意味の広がり(語源由来辞典)とは、乖離がありすぎる気がする。「撥さばき」の意では、今日ほとんど使われないが。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

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初夢


「初夢」は、

元旦の夜に見る夢、又、正月二日の夜に見る夢、
古くは、節分の夜から立春の明け方に見る夢、

とある(広辞苑)。

元旦の夜、

正月二日の夜、

では違い過ぎる。普通は、今日、

二日の夜、

ではないかと思うのだが、

「現代では、『元日、または2日の夜に見る夢』とか『新年最初に見る夢』とされていますが、実は諸説ありました。昔は立春を正月としていたため、『節分の夜から立春の朝』までに見る夢を初夢と呼びました。やがて、暦が変わると『大晦日の夜』に見る夢ということになり、その後大晦日は年神様をお迎えするために眠らない習慣が定着すると『元日の夜』に見る夢ということになりました。さらに1月2日が物事をはじめる日であるという考えから、『2日の夜に見る夢』も一般的になっていきました。」

とあるhttp://www.i-nekko.jp/nenchugyoji/oshougatsu/hatsuyume/

つまり、

節分の夜から立春の朝に見る夢

大晦日の夜に見る夢

元日の夜に見る夢

二日の夜に見る夢

と変遷してきたことになる。鎌倉時代の山家集に、

「年くれぬ 春来べしとは 思ひ寝む まさしく見えて かなふ初夢」

とある。ここでは、節分から立春の夜に見る夢を初夢としている。この時代は、初夢に限らず、立春を新年の始まりと考えることが多かったからhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%9D%E5%A4%A2、としている。

「暦上の元日を新年の始まりと考えるようになったが、単純に、大晦日から元日の夜に見る夢が必ずしも初夢とはならず、江戸時代には『大晦日から元日』『元日から2日』『2日から3日』の3つの説が現れた。『元日から2日』は、大晦日から元日にかけての夜は眠らない風習ができたことが理由とされる。『2日から3日』の由来ははっきりしないが、書初めや初商いなど多くの新年の行事が2日に行われるようになったのに影響されたためとも言われる。江戸時代後期には『2日から3日』が主流となったが、明治の改暦後は、『元日から2日』とする人が多くなった」

ともある(仝上)。江戸語大辞典では、既に、

正月二日の夜の夢、

という意味に変わっており、嬉遊笑覧には、

「いつにても節分の夜のを初夢とするなり、今江戸にて元旦をおきて二日の夜とするものは其故をしらず、晦日は民間には事繁く大かたは寐るものなし、この故に元旦の夜はいたくこうじていぬめれば、さるまじなひ事などは麁略にしたるよりの事にや」

とある(仝上)。面白いことに、大言海は、

元旦の夜の夢、

とし、

今は、正月二日の夜の夢とし、寶船の絵を枕の下に敷くことあり、若し悪夢を見るときは、其絵を水に流すとぞ、

とする。寛文年間の、佐夜中山集には、元旦として、

門松は今朝の初夢合はせ哉、

の句を載せる。大みそかの夜の夢を「初夢」としているようである。考えれば、もともと、

節分の夜から立春の朝までに見る夢を初夢、

といったのなら、

大晦日の夜から元日の朝に見る夢を初夢、

という方が、二日の夜よりは、自然なはずなのだが。

ところで、初夢は縁起良いものとして、

一富士二鷹三茄子、

と言われる。これは、

「江戸時代に最も古い富士講組織の一つがあった『駒込富士神社』の周辺に鷹匠屋敷(現在の駒込病院)があり、駒込茄子が名産であったため、当時の縁起物として『駒込は一富士二鷹三茄子』と川柳に詠まれた」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%9D%E5%A4%A2。この先は、所説あり、俚言集覧によると、

四扇五煙草六座頭、

としている(初夢については、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%9D%E5%A4%A2に詳しい)。

因みに、「節分(せつぶん、せちぶん)」は、

「各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日のこと。節分とは『季節を分ける』ことも意味している。江戸時代以降は特に立春(毎年2月4日ごろ)の前日を指す場合が多い。」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%80%E5%88%86。本来、季節の移り変わる時、つまり、

立春、
立夏、
立秋、
立冬、

を指したが、

特に立春の前日の称、

を言うようになり、この日の夕暮、柊の枝に鰯の頭を刺したものを戸口に立てて、鬼打豆をまいた(広辞苑)、とある。

「(旧暦)では、立春に最も近い新月を元日とし、月(太陰)の満ち欠けを基準(月切)にした元日(旧正月)と、太陽黄経を基準(節切)にした立春は、ともに新年ととらえられていた。したがって、旧暦12月末日(大晦日)と立春前日の節分は、ともに年越しの日と意識されていたことになる。」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%80%E5%88%86。元旦は、旧暦で言うと、

朔、

つまり、

新月、

を言い、2020年で言うと、

1月25日、

が正月となる。立春は、

立春(りっしゅん)は、

二十四節気の第一、

で、2020年で言うと、

2月4日、

に当たる。立春と元旦は、年によってずれ、旧正月より早く立春が来るのを、

年内立春、

旧正月より後に来るのを、

新年立春、

というらしいhttps://jpnculture.net/kyushogatsu-risshun/。なお、正月と立春が重なる時が30年に一度くらいにあるらしく、それを、

朔旦立春、

という、とある(仝上)。新古今に、年内立春を詠んだ、

年のうちに 春は來にけり 一年(ひととせ)を去年(こぞ)とやいはむ 今年とやいはむ(在原元方)

という歌があり、(一月一日から節分まで)の一年を去年と言おうか、今年と言おうか、歌っている。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

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かがやく


「かがやく」は、

まばゆいほどきらめく。きらきら光る、光を放つ、

という意味をメタファにして、

生き生きとして明るさがあふれる、

意になったり、

名誉や名声を得て華々しい状態にある、

という意になったり、逆に価値表現が変わり、

(眩しい意から)。照れる、顔を赤くして恥ずかしがる、

意になったりする(岩波古語辞典、広辞苑、goo辞書)。「かがやく」には、

輝く、
耀く、
赫く、
曜く、
光く、
曄く、
煌く、
喗く、
焜く、
煌く、

等々、大漢和辞典には、34字も当て分ける漢字が載る。漢字は、「かがやく」のそれぞれが細かく分かれている。たとえば、

「赫」(漢音カク、呉音キャク)は、

「赤は『大+火』の会意文字で、火が燃え上がる時のあかあかとした色を示す。赫は『赤+赤』で、あかあかとほてるさまをあらわす」

と、燃え上がる火のかがやきを示し、「輝」(漢音キ、呉音ケ)は、

「会意兼形声。軍は丸く円陣を描いた軍営。輝は『光+音符軍』で、光の中心を丸くとりまいた光」

と、火の外を丸く取り巻いて光るさまを示し、「光」(コウ)は、

「会意。人が頭上に火を載せた姿を示す。四方に発散するの意を含む」

で、光りかがやく様を示し、「曜」(ヨウ)は、

「会意兼形声。翟は、きじが高く目立って尾羽を立てること。曜はそれを音符とし、日を加えた字で、光が目立って高くかがやくこと」

で、光が高く目立って輝くことを示し、「燿」(ヨウ)は、

「会意兼形声。翟は高く上がる意を含む。燿はそれを音符とし、光りを加えた字」

で、光が高く照り輝くことを示し、「喗」(キ)は、

「会意兼形声。『日+音符軍』。軍は丸く取り巻く意を含む。喗は、光源から丸く輪をなして四方に広がる光」

で、四方に広がる光を示し、「曄」(ヨウ)は、

「会意。『日+華(はなやか)』。はなやかにかがやくこと。炎はその語尾が転じた語で、曄と同系。また『白+華』の字でも書き表す」

で、赤々と、はなやかに輝く意を示し、「焜」(漢音コン、呉音ゴン)は、

「会意兼形声。『非+音符昆(もやもやとしてまるい)』」

で、光がまるい輪になってほんのりと輝く意を示し、「煌」(漢音コウ、呉音オウ)は、

「会意兼形声。皇は『自(はな)+音符王』かりらなり、偉大な鼻祖(開祖)のこと。大きく広がるの意を含む。煌は『火+音符抗皇』で、光が大きく広がること」

で、光が四方に大きく広がり明るいさまを示し、「燿」(ヨウ)は、

「会意兼形声。翟は『羽+隹(鳥)』の会意文字で、きじが尾羽を目立つように掲げること。擢(テキ 高く抜き揚げること)の原字。燿はそれを音符とし、火を加えた字で、火の光が高く目立ってかがやくこと」

で、高くかがやく火の光を示す(以上漢字源)。

ある意味、和語「かがやく」は、そのすべてを含めているといってもいい。そうなると、

鏡、

との関連が思い浮かぶ。しかし、「鏡」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E3%81%8B%E3%81%8C%E3%81%BFで触れたように、「かがみ」の語源は、

「カガはカゲ(影)の古形。影見の意」(岩波古語辞典)

が有力とされた。「かがみ」は「かげ(影・陰・蔭)」は、

「古形カガの転。カガヨヒ・カグツチのカガ・カグと同根。光によってできる像。明暗ともにいう」

ともある(仝上)。「かぐつち(迦具土・火神)」は、

「カグはカガヨヒノカガと同根。光のちらちらする意」

であり、「かがよひ」は、

ガキロヒと同根、

で、

静止したものがキラキラと光って揺れる、

意である。「かぎろひ」の「ヒ」は「火」の意で、

揺れて光る意、

とある(仝上)。不安定な水鑑や銅鏡の映し出す映像を思い描くとき、この説は魅力がある、と考えた。確かに、「かがやく」と関連させて、

「赫見(かがみ)の義。鑑の初は、日神の御光を模して造れると伝ふ、古語拾遺に、八咫鏡に『鋳日像(ヒノミカタ)之鏡、(神代紀に同じ)初度所鋳不合意』。大倭本紀(釈紀所引)に、此御鏡を天懸(アマカカス)神となづくとあり、天赫(あまかがはす)なり」(大言海)

とする説があった。しかし、

かが(爀爀)、

を、

影(かげ)と通ず、

としている(大言海)ところを見ると、

かがやく、
かがよふ、
かがり(篝)、

の語根として、結局、「かげ(影)」も「かが(爀)」も同じことを言っていることになる。しかし「かがやく」は、近世前期まで、

カカヤキ、

と清音であった、とされる。とすると、「かがみ」との関連をすてて、

かかやく、

と清音の語源を考えるべきだろう。しかし、大言海は、

カガは、赫(かが)、ヤクは、メクに似て、発動する意。あざやく(鮮)、すみやく(速)、

と、鏡と同源の「赫」を採る。日本語源広辞典も、

カガ・カガヤ(眩しい・ギラギラ)+く(動詞化)、

同趣の説を採る。更に、他の語源説も、

カクエキ(赫奕)の転(秉穂録)、
カガサヤクの約言(万葉考)、

と「赫」とつなげる説が多い。

清音であることをのぞくと、やはり「かがみ」とのつながりが気になるが、濁点が落ちていた理由がつかめぬ限り、確定はつかない。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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おこし


「おこし」は、

粔籹、
興し、

と当てる。

糯米や粟などを蒸した後、乾かして炒ったものを水飴と砂糖で固めた菓子、

である(広辞苑)。胡麻・豆・胡桃・落花生・海苔などを加える、とある(仝上)。しかし、現在、

関東系の糒 (ほしいい) を水飴と砂糖で練り,箱に入れてさまし拍子木形に切ったもの、
と,
関西系の糒をひいた小米糒を飴と砂糖で練り,岩のように固くしたもの、

の二種がある(ブリタニカ国際大百科事典)、ともある。糒(ほしいい)とは、

米を一度煮たり蒸したうえで、天日に干した飯。乾(干)飯とも書き、「ほしい」「かれい(い)」、

である(日本大百科全書)。

米や麦を煎って膨らませることを、

おこす、

という、とある(たべもの語源辞典)。これが謂れのようである。大言海も、「興米」と当て、

オコシは、炒りて脹れおこしならむ、

とする。ただ、雍州(ようしゆう)府志(1684)は,

「炒った米を水あめで固く練ったところから引きおこして,板状,あるいは球状にするのでこの名があるとし,京都では二口屋(ふたくちや),虎屋のものがよい」

といっている(世界大百科事典)、とする説もある。

「おこし」は、古く、

おこしごめ、

と呼び,

興米、

と書いた(仝上)。

遣唐使によって輸入された唐菓子が原形、

とされている。『和名類聚抄』(和名抄)が、

粔籹(きよじよ)、

の字を当て、「おこしごめ」と訓ませ(日本大百科全書)、

「は蜜(みつ)をもって米に和し、煎(い)りて作る」

と製法を残しているが、糯米(もちごめ)を蒸し、乾燥させてから、炒(い)っておこし種をつくり、水飴(みずあめ)と砂糖で固めるという今日の製法とさして変わらない、古い原型を残している。

煎って膨らむことから、上述のように、「興米」の漢字も用いられ、『延喜式』には神前に供えられた記録も残されており、賞味する貴族がこぼれた破片を払う姿から、

粰𥹷

とも呼ばれた、とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%93%E3%81%97

ただ、本来の粔籹は、李時珍の《本草綱目》によると、いまの「かりん糖」に近いものだったようである(世界大百科事典)、とある。

「おこし」は、長く、

おこしごめ、

と言われてきた。鎌倉時代中期の古今著聞集には、

「法性寺(ほっしょうじ)殿(関白藤原忠通(ただみち))、元三(がんざん)(正月1日)に、皇嘉門院(こうかもんいん)(藤原聖子。忠通の長女で崇徳(すとく)后)へまひらせ給(たまい)たりけるに、御くだ物(菓子)をまひらせられたりけるに、をこしごめをとらせ給て、まいるよしして、御口のほどにあてて、にぎりくだかせ給たりければ、御うへのきぬ(正装の上着)のうへに、ばらばらとちりかかりけるを、うちはらはせ給たりける、いみじくなん侍(はべり)ける」

とある。まさに「粰𥹷」である。南北朝時代末期から室町時代前期の成立の『庭訓往来』も、室町時代から近世初期の成立の『猫の草子』も、江戸時代初期の料理書『料理物語』も「おこし米」を使っているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%93%E3%81%97#cite_note-tousyouzi-3

江戸時代初期には庶民の菓子となっているが、『料理物語』に、

「よくいにん(ハトムギの種子)をよく乾かし、引割米のごとくにし」

とあるように、素材もハトムギやアワなどの安価なものが使われた。

雑兵はおこしのような飯を食い(宝暦10年(1760)「川柳評万句合」)

の句がある。このおこしは、ばらつきやすい、いわゆる、

田舎おこし、

の類で、これに対し、大坂の「津の清(つのせい)」が

粟(あわ)おこし、

を改良した

岩おこし、

は、火加減に妙を得た堅固な歯ざわりで評判をとった。今日では大阪の岩おこしをはじめ、東京・浅草の雷おこし、福岡の博多(はかた)おこしなど、名物おこしの数は多い。そして、ほとんどのおこしが適度の堅さを保つ菓子となった(日本大百科全書)、とある。

江戸で「おこし」を売り始めたのは、美濃国地知の知行所に五十石を領していた徳之山五兵衛だという(たべもの語源辞典)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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小倉


「小倉」は、

京都市右京区の小倉山付近一帯の古称、

であるが、

小倉餡 (あん) の略、

であり、

小倉汁粉の略、

である。「小倉汁粉」は、

小倉餡で作った汁粉、

である。ふつう、

こしあんを用いたものを御膳汁粉(関西では「汁粉」)、
皮をとらぬ粒あんのものを田舎汁粉(関西では「ぜんざい」)、
砂糖煮のアズキ粒をこしあんに加えたものを小倉汁粉、

と呼ぶ、とある(世界大百科事典)。この辺の微妙な違いはよくわからないが、「餡」は、

「つぶあん(粒餡)」小豆をなるべく皮を破らないよう裏ごし等をせず豆の形を残した餡。柔らかく煮上げて渋を切り、その生餡に甘味を加えて練り上げる。
「つぶしあん(つぶし餡)」小豆を潰すものの豆の種皮は取り除かないもの。
「こしあん(漉し餡)」小豆を潰し布等で裏ごしして豆の種皮を取り除いたもの。
「小倉あん」つぶし餡やこし餡に蜜で煮て漬けた大納言を加えて加工したもの。煮崩れしにくい大納言種の小豆の粒餡と粒の小さい普通小豆のこし餡を混ぜたものが本来の小倉餡であるが、近年では粒餡の事を小倉餡と言う場合も見受けられる。

と分けるらしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%A1。このほか、

「つぶあんの小豆のつぶをつぶして皮を取り除かないものをつぶしあんといいます。見た目がよく似ているので、このつぶしあんのことを小倉あんと呼ぶことがありますが、本来はまったく別ものです」

ともあるhttps://zexy-kitchen.net/columns/314

ただ、「小倉汁粉」の説明が

小倉餡でつくった汁粉、

であるのはいいとして、微妙に違うのはどういうことか。たとえば、

「小倉餡で作った汁粉。または白餡の汁粉の中に、蜜煮にしたあずきや隠元豆を粒のまま入れたもの」(精選版日本国語大辞典)
「みつ煮にしたあずきをあとから加えるなどして、あずきの粒の形が残るように作った汁粉。田舎汁粉をいうこともある」(和・洋・中・エスニック 世界の料理がわかる辞典)

等々。しかし、小倉餡は、

「漉餡に皮を切らないように蜜煮した大納言小豆を混ぜたもの」

である。この「小倉」は、

「809年頃に空海が中国から持ち帰った小豆の種子を、現在の京都市右京区嵯峨小倉山近辺で栽培し、和三郎という菓子職人が砂糖を加え煮つめて餡を作り御所に献上したのが発祥とされる」

という説があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%A1が、

小倉山峯のもみじば心あらば今ひとたびのみゆきまたなん(藤原忠平)

にちなんで、粒餡を紅葉に縁のある鹿の子模様に見立てて、「今ひとたびのみゆき待つ」と美味をたたえたもの、とする説もある(たべもの語源辞典)。

ただ、小倉餡といえば大納言である。

「その後、小豆の栽培地が(嵯峨小倉山近辺から)丹波地方などに移り品種改良も進んで古来の小豆『小倉大納言』は亀岡でわずかに残るだけとなっていたが、近年になって嵯峨小倉山の畑で栽培も行われるようになった。二尊院境内に『小倉餡発祥之地』の碑がある」

という経緯も無視できまい。

「小倉あんの味のポイントとなる大納言は、この小倉山周辺で取れる品質のいいものが最適とされていました。小倉山で取れた大納言を使った餡だから、小倉あんというわけです。」

https://zexy-kitchen.net/columns/314。ただ、単に地名由来というより、

「餡は、蜜煮にした大納言小豆をこしあんに混ぜて『鹿の子』に見立てた」

という見方(日本語源広辞典)も、なかなか捨てがたい。小倉山という大納言の産地と、鹿の子に見立てたとの、共に背景にある、と見たい気がする。

因みに、「餡」(漢音カン、唐音アン、呉音ゲン)は、

「会意兼形声。臽(カン)は、おしこめる、くぼめて中に入れるの意。餡はそれを音符とし、食を加えた」

とあり、中国の唐音が語源と見られる。

饅頭などの中に入れる、甘いものや野菜など、

の意だが、「餡かけ」のように使い方は、わが国だけのようである。

「『餡』はもともと詰め物の意であり、『字彙』では餅の中の肉餡を指すとしている。日本へは聖徳太子の時代に中国から伝来したとされ、中国菓子で用いられる肉餡がその原形となっていると考えられている。小豆を用いた小豆餡が開発されたのは鎌倉時代であるとされる」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%A1。大言海が、

「禅家にて小豆に変へたるならむ」

としているのは、このことであろう。

なお、小倉餡から小倉は小豆となったためか、小豆を使ったとき、広く、

あずきを使う料理やお菓子の総称、

となり、

小倉羹(小倉餡のようにつくった中に煮た寒天をまぜ、粒の小豆を入れて固める)、
小倉玉子(まんじゅうを卵のようにつくって煮小豆を詰める)、
小倉田楽(油揚の一方を切って煮小豆を詰めて付け焼きにする)、

のように、小豆が加えられると、その名がついている(たべもの語源辞典)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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おのれ


「おのれ」は、「二人称」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba5.htm#%E4%BA%8C%E4%BA%BA%E7%A7%B0で触れたように、

オノ(己)+レ(接尾語)

で,「レ」は,「ワレ(我)」や「カレ(彼)」の「それ(其れ)」の「レ」と同じである(大言海、岩波古語辞典)。

「おのれ」は、名詞で、

自分自身,

を指すが,代名詞に転ずると,

一人称、

で、自分自身を指すが、卑下していうことが多い、

とある(岩波古語辞典)。さらに、二人称に転じ、

目下の相手、または相手をののしっていう、

意になる。室町末期の日葡辞書には、

ヲノレメ、

と載る。大言海には、

汝のおのれと云ふより転じて、対称の代名詞にも用ゐる、

とある。さらに副詞に転じ、

ひとりでに、自然に、おのずから、

の意となる(これは、「おのずからとみずから」http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-4.htm#%E3%81%8A%E3%81%AE%E3%81%9A%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%A8%E3%81%BF%E3%81%9A%E3%81%8B%E3%82%89で触れた)。

更に転じて、

おのれ、なんのこれしき、

とか、

おのれ、よくも騙したな、

というように、

物事に対してみずから励ますときや、怒りや悔しさを表す感嘆詞としても使われる。

「おのれ」を、

オノ+レ、

とする、この「オノ(己)」は、また、「おのれ」と同様、一人称の、

であり、二人称の、

おまえ、

の意であり、

驚きあやしんでいう感嘆詞、

としても使う。万葉集に、

針袋取り上げ前に置きかへさばおのともおのや裏も継ぎたり

とも詠われる(岩波古語辞典)。この「おの」は、

アナ(己)の母音交替形、

とし、

感嘆詞アナの母音交替形、

とする説(岩波古語辞典)は、「アナ(己)」は、「あながち」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba4.htm#%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%8C%E3%81%A1で触れたように、

アナ(オノレの変化)+勝ち、

であり、

オノ(己)の母音交替形。アナガチのアナに同じ。日本書紀神代巻に「大己貴」を「於褒婀娜武智(おほあなむち)」と訓注しており、「己」をアナと訓む。母音アが脱落するとナ(汝)になる、

とし、同じ二人称「うぬ」は、

オノの轉、

とする。しかし、大言海は、「うぬ」を、

オノレの略轉、

とする(日本語の語源も同じ)。「うぬ」は、「おのれ」「おの」とほぼ同じ意で、

自分自身、
二人称。相手をののしっていう語、
相手の言葉や態度に憤慨したときに発する語(「うぬ、失敬なやつだ」)、

と意味が重なる。「おのれ」が、「オノ+レ」なら、

onore→unu、

よりは、

ono→unu、

と「o→u」転換と見ていいのではないか。貶め度が高まる。「うぬぼれ(己惚れ)」の「うぬ」である。

一人称「おの」は、

おれ、
おら、

一人称「うぬ(己)」は、

うら、

にも転じる。「おら」は、

おのれ→おのら→おいら→おら、

と転じたと大言海はする。「おら」は、一人称で、

自分自身、

を指し、仲間や目下の者とざっくばらんに話す時に用いられる。「俺」「己」「乃公」などと当てる。

男性が用いるぞんざいな言い方の語であるが,近世江戸語では町人の女性も用いた、

とある(大辞林)。さらに、二人称として、

下位の者に対して,また相手をののしる時に用いる、

とあり、「爾」「儞」と当てる。

上代から中古へかけてはもっぱら二人称として用いられた。中世以降,一人称として用いられるようになり,特に近世以降は一人称の語として一般化した。これは貴賤男女の別なく用いられたが,近世末期以降は,女性には一般に用いられなくなった、

ともある(仝上)。

二人称「おのれ(汝)」は、

おどれ、
おんどれ,
おんどりゃあ,

と、さまざまに転訛しつつ、より罵り度を上げていく。「おどれ」「おんどれ」は、

河内言葉。やれ言うたんはおんどれやないかい。「われ」と同様、威嚇語としても使う。西日本では「おどれ」「おどりゃあ」「おんどりゃあ」が多い、

とある(大阪弁)。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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われ


「われ」は、「おのれ」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E3%81%8A%E3%81%AE%E3%82%8Cと似た意味の転化をしている。「われ」は、

我、
吾、
余、
予、

等々と当て、一人称の、

自分自身を指す、

言葉で、

おのれ、
あれ、
わたくし、

の意であるが、中世以後、その人自身の意で、

自分、

そして、二人称に転じて、相手を呼ぶ、

「われは又いづかたよりいづ方へおはする人ぞ」(百座法談聞書)

というように、

そなた、

を指し、後世、相手を卑しめて、

「いつわれがおれに酒をくれたぞ」(狂言・乞聟)

と、

なんじ、
なれ、

の意で使われることが多い、とある(大言海・岩波古語辞典・広辞苑)。

一人称「われ」は、古く、

わ、

といい、

「埴生坂わが立ちみれば」(記紀歌謡)
「しきたへの衣手離(か)れて玉藻なす靡きか寝(ね)らむわを待ちがてに」(万葉集)

と使われたが、平安時代には、「わが」という形以外にはほとんど使われなくなった(岩波古語辞典)、とある。この「わ」も、一人称とともに二人称に使われ、

「おのれ(汝)は何事を言ふぞ、わが主の大納言を高家に思ふか」(宇治拾遺)

と、

親しんで、また相手を卑しめ軽んじて呼ぶ語としてつかい、それを接頭語に、やはり、

「わおきなの年こそ聞かまほしけれ」(大鏡)

と、親愛、または軽侮の意で、

わ(我)君、
わ(我)殿、
わ主(ぬし)、

等々と使う(岩波古語辞典)。この「われ」の意は、

あれ(吾)、

とも使うが、これは、

「ワレ(ware)の語頭wが脱落した形か。平安時代以後はほとんどつかわれず、僅かに慣用句の中に残存する」

とある(岩波古語辞典)。これと、同じ意の、

あ(吾、我)、

との関係はどうなっているのだろう。大言海は、

「漢語我(ア)と暗合、朝鮮語の古語にも、アと云ふとぞ」

と、中国語由来をほのめかしているが、岩波古語辞典は、

「アは、すでに奈良時代から類義語ワ(我)よりも例が少なく、用法も狭い。平安時代になると、『あが』という形をいくつか残すだけで、アは主格や目的格などの場合には使われない。アとワとは、『あが衣(ころも)』『わが衣(きぬ)』などと、似た対象にも使ったが、アは、多くの場合、『あが君』『あが主(ぬし)』など親密感を示したい相手に対して使い、ワは『わが大君』『わが父母』など改まった気持ちで向かう相手に冠する語。転じて、軽蔑の意も表す」

としている。「われ」の転訛「あれ」は「あ」とは、由来を異にする言葉のようである。

「われ」は、

本語は、ワなり、レは添えたる語。…吾(あ)れ、彼(か)れ、誰(た)れも同趣。漢語ウリ(我)」

とある(大言海)。「おのれ」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E3%81%8A%E3%81%AE%E3%82%8Cで触れた、

オノ(己)+レ(接尾語)

と同じである。「れ」は、「ら」の項に、

「代名詞を承けて、場所・方向の意を表す」

とある(岩波古語辞典)。

いはた野に宿りする君家人のいずらと我を問はばいかに言わむ(万葉集)、

のように「ら」になったり、

かれ、
われ、
それ、

と「れ」となったりする。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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こそあど


「こそあど」は、代名詞の、

これ(此)・それ(其)・あれ(彼)・どれ(何)、

を指し、事物、

これ・それ・あれ・どれ、

方角、

こちら(此方)・そちら(其方)・あちら(彼方)・どちら(何方)(こっち・そっち・あっち・どっち)、

場所、

ここ(此処)・そこ(其処)・あそこ(彼処)・どこ(何処)、

と、話し手との関係によって近称・中称・遠称・不定称に分類され、代名詞以外も、形容動詞、

こんな・そんな・あんな・どんな、

副詞、

こう・そう・ああ・どう、

連体詞、

この・その・あの・どの、

等々がそれぞれ、

「こ」系で近称を、
「そ」系で中称を、
「あ」系で遠称を、
「ど」系で不定称を、

と、指示系列に整理されている。これを佐久間鼎(かなえ)は、

〈こそあど〉の体系、

と呼んだ(日本大百科全書)、とされる。この、近称とか遠称は、単に空間的・時間的な距離が問題なのではなく、

「こ」は話し手の勢力圏にあること、
「そ」は聞き手の勢力圏にあること、
「あ」は両者の勢力圏の外にあること、

を示すものとされ、心理的・感情的な価値表現を含めている。距離にも、たとえば、

視界に入っているかどうか、
上の方にあるか下の方にあるか、
上流か下流か、山の上か麓かなど地理的な情報、
近づいているか遠ざかっているか、横切るのかなどの動きの情報、

等々も使い分けられるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%87%E7%A4%BA%E8%AA%9E、とある。

「これ」は、

是、
之、
此、

と当てるが、

コ(此)+接辞レ、

で、「かれ」「あれ」「それ」「だれ」「いずれ」どれ」皆同じ組立てになる(大言海)。「ラ」は、

「おのれ」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E3%81%8A%E3%81%AE%E3%82%8C
「われ」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E3%82%8F%E3%82%8C

で触れたように、「代名詞を承けて、場所・方向の意をあらわす」接尾語である。「これ」は、

「かれ」「あれ」と対、とある(岩波古語辞典)が、本来的には、

こ(此)、

で、

空間的・時間的心理的的に話し手に近いものを指す(仝上)。「か(彼)」「そ(其)」に対す(大言海)。

「それ」は、

ソ(其)+接辞レ、

で、「ソ(其)」は、

代名詞シと同根、

とある(岩波古語辞典)。万葉集に、

老人(おい)も女(おみな)童児(わらは)もシが願ふ心(こころ)足(だら)ひに撫で給ひ治め給はば

とあり、

「ソは、ソで終止する用法があるが、シには終止の用法はない。シは下に連体助詞ガを従えるが、ノを従えることはない」

とある(岩波古語辞典)。

「あれ」は、

彼、

と当てる。

あ(彼)+助辞レ、

これの対、

だが、「あ」は、用例が少なく、主として「あは」の形で使われた。

雲立つ山をアはとこそ見れ(大和)

この古形は、「か」で、「あれ」は、

「奈良・平安時代に多く使われた遠称の代名詞カレの轉。話し手に属さない遠い、また不明の、明示すべからざる物事・所・時・人などを指す。平安中期に会話に使われ始め、中世に、次第にカレに取って代わった。後世、意外の気持ちを表明する感動詞にも使う」

とある(岩波古語辞典)。「カレ」は文語として残ったようである(仝上)。日本語源大辞典は、このことを詳しく、「かれ」は、

「①三人称(他称)の代名詞として上代から存在するが用例は少なく、事物・人ともに指示した。『かれ』も含めてカのつく指示語は、コの付く指示語から分化したものといわれる。②上代では、アの付く指示語はみえないが、遠称の『かれ』をはじめカの付く指示語はわずかながら見られ、平安時代になると例がかなり多くなる。この時期、『これ』と『かれ』が対偶的に用いられた例が多くみられる。③カの付く指示語は、平安時代に成立したア系の指示語に、中世以後は次第に取って変わられてゆき、『かれ』も近世では文語調の代名詞としてやや堅苦しい表現のみに用いられ、口語としては使用されなかった。④明治以後、西欧語の三人称男性代名詞の訳語として、口頭語に用いられるようになった。明治以前は、人を指示する場合、男女を問わなかったが、明治以降に同じく訳語として定着していった『彼女』との間で、次第に男女の使い分けをするようになったと考えられる」

とする。

カレ→アレ→カレ、

と先祖返りしたが、性別を持たないわが国の言葉に、性別というものをもたらしたことになる。

ただ、「かれ」について、日本語の語源は、

「カル(離る)の連用形カレ(離れ)が遠称代名詞のカレ(彼)・カ(彼)になったが、[k]を落としてアレ(彼)・ア(彼)になった。また、カレシトコロ(離れし処)の省略形のカシコ(彼処)はアシコ・アソコに転音した。カノカタ(彼の方)の縮約形のカナタ(彼方)はアナタに転音した。」

と音韻から分解して見せている。接尾語「レ」は、今日まったく意味が辿れないが、語原を探ると、

カル(離る)→カレ(離れ)→アレ→ア、

となるとしているので、「これ」「それ」の「れ」も、元々は、何か(たとえば、「こる」「そる」といったような)動詞の意味をもっていた可能性はある。しかし、日本語の語源も、「かれ」以外は、辿れていない。あるいは、大野晋の言うとおり、二音節語までは分析が可能だが、ヤマトコトバの一音一音に個々の意味を割り付けようとする所謂「音義説」には限界があり、日本語の音の結合の仕方についての考え方をまったく変えなければならなくなる、としている(日本語をさかのぼる)所以かもしれない。

「どれ」は、その日本語の語源が、

イズレ(何れ)→どれ、

という転訛を示しているように、

イズレの転(岩波古語辞典)、
イズレのイが省かれて、ヅがドに転じたるなり(大言海)、

とある。「どれ」も、

ど(何)+レ

であるが、「ど(何)」は、

アドのアが脱落した形、

汝(な)をドかも為(し)しむ(万葉集)、

とする(岩波古語辞典)説と、

イヅレのヅの転(大言海)、

とに分かれる。

イヅレ→イドレ→ドレ、

と転じた(小学館古語大辞典、日本語源広辞典)ともあり、「あど」は、岩波古語辞典も載せておらず、こちらの方が分がある。

「こそあど」を探ってみると、和語が文字を持たないからこそ、話し手からの距離が、明確に示される必要があったことが、よくわかってくる気がする。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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ごまめの歯ぎしり


「ごまめの歯ぎしり」とは、

力のない者が、いたずらに苛立ったり悔しがったりすることのたとえ、

であるが、

鰯(いわし)はもともと弱い魚であるが、その上からからに干されているのだから、何もできないという意味であるhttps://imidas.jp/proverb/detail/X-02-C-10-7-0002.html

鱓(ごまめ)の歯軋りは、そんな弱い魚が歯軋りしてくやしがっている様子を言い、くやしがってもどうにもならないという意味である。ゴマメをよく見ると、目を見開き、歯をくいしばって歯ぎしりしているようにも見える(笑える国語辞典)、

等々とある。似た諺に、

家鴨(あひる)の木登り、
蟷螂の斧、

がある。「ごまめ」は、

鱓、
古女、
五万米、
五真米、

等々と当てる。

小形のカタクチイワシ(片口鰯)の乾燥品、

で、

田作、または田作り(たづくり、たつくり)、

と同一視されるが、正確には、

ごまめは田作りと同じものとして扱われているが、本来、田作りよりやや小さいものを『ごまめ』と呼んでいた、

ともある(語源由来辞典)。確かに、

小型のカタクチイワシの素干し(百科事典マイペディア)、
片口鰯(かたくちいわし)の幼魚を干したもの(由来・語源辞典)、

とある。大言海は、

鯷(ひしこ)、

としている。「鯷」(ひしこ)は、

ひしこいわし、

で、

カタクチイワシの別名、

とあるが、大言海は、「ひしこいわし」は、

鰯に似て小さく、別種なり。背は蒼黒にして、腹部は白く、度朝四寸許り、…賤民の食とす。鮮なるは味好し。多くは乾してタツクリとなす、一名セグロイワシ、

としている。主として、主として関東地方で呼んでいるらしい。多くは、カタクチイワシの別名、とするが、厳密には違うようだ。毛吹草(正保)に、

「干小鰯(ほしこいわし)、世にこれをゴマメ、又コトノバラと云ふ」(ホシコはヒシコの轉音)、

とある(大言海)。たべもの語源辞典は、

「(田作りより)小さいものを塩をつけずに干したしろぼしを『ごまめ』といい、また『ひしこ』ともいう。『ひしこ』は『ほしこ』(干小鰯)の『ほ』と『ひ』は通音なので、『ほしこ』が『ひしこ』になった。『ひしこ鰯』というのは、イワシの生魚の名称であるが、ほしこにするイワシというので名づけられた。それで、ひしこイワシを略して、ひしこと呼ぶ場合は、生魚のことになる。干したものは『ごまめ』という。」

と、説いている。

「ごまめ」は、小さく、弱い者の代名詞で、

ごまめの魚(とと)交じり、
ごまめでも御頭つき、

等々と諺に使われる。

田作(たづくり)、

といったのは、

昔イワシが肥料とされたため(百科事典マイペディア)、
ほしか(干鰯)同様に田畑の肥料にしたため(世界大百科事典)、
イワシは田畑の肥料として使われたことから(笑える国語辞典)、

等々とする説が多いが、

「農夫が田植のときには、最も多くこれを御馳走として。田植の祝肴として用いる」

ため(たべもの語源辞典)のようである。豊年満作を祈って農民が食べ出したというのが正確である。

「ごまめ」は、女房詞では、

ことのはら、

といった。これは、

小殿原(ことのばら)、

で,小さな殿方たちというしゃれた隠語(世界大百科事典)であるらしい。尾頭付きという意味であろうか。

「小形のカタクチイワシを水洗後、莚の上にばらまき、1日数回転がしながら干し上げる。油が少なく、体表面が銀白色に輝き、頭や尾がとれず、形が崩れていないものが良品。油焼けしたり、油のにじみ出たものは不良品である」

とされる(日本大百科全書)。

大言海は、「ごまめ」を、

「ごまめ鰯(和漢三才図絵)と云ふが、成語なり。ゴマメは細羣(こまむれ)の約にて、清音なるを、祝賀の供に、御健全(ごまめ)に言寄せて、濁音となれるならむ。春盤(ホウライ)に、小殿儕(コトのバラ)と云ふは、小さくて積むこと多き子の意なるべく、数子を、賀肴とすると、同意なるべし。田作(たつくり)と云ふは、田の肥料(こやし)とするに就きての名にて、亦、祝賀の意あり。合類節用集(元禄)『気形門、韶陽魚(コトノバラ)』(左訓「ゴマメ」)、韶陽魚は海鷂魚にて、大、小、甚だ異なり、箋注和名抄『韶陽魚、古米、下総本、古下、有萬字』、名義抄『韶陽魚、コメ、コマメ』、本草和名『鱓、魚甲、古女、一名、衣比』、常に、ゴマメに、鱓の字を用ゐるは、此の誤用なり」

とする。「ごまめ」は、

こまむれ(細小群)のむれをちぢめてめといった、

とたべもの語源辞典もいう。語源由来辞典も、

「ごまめは『こまむれ(細群)』の『むれ』が略されたもので、古くは『こまめ』と呼ばれた。『こ』が『ご』と濁音化されたのは、体が丈夫なことを意味する『まめ』(忠実)に接頭語の『ご(御)』が付いた『ごまめ(御忠実)』に言い寄せたものと思われる。」

同趣の説である。「ごまめ」は、田作りとも呼ばれるように、

「田畑の豊穣や子孫繁栄の象徴としてもありがたがられている。つまり、『縁起がいいから』」

と(笑える国語辞典)、縁起物として正月のおせち料理、祝い肴として欠かせないものとされている。しかし、それには、

「昔、天皇が貧乏になられて、頭つき一尾と献立にあっても魚を求められない時代に、頭つきの魚で一番安いゴマメ一尾を皿にのせて飾ったという故事より、お目出度い儀式に用いられる魚となった」

という異説もある(たべもの語源辞典)。

なお、「いわし」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba11.htm#%E3%82%A4%E3%83%AF%E3%82%B7については、すでに触れた。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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まめ


「まめ」は、

忠実、

と当てる、

まめによく働くね、

の「まめ」である。当てた字の通り、

まごころがあること、まじめ、誠意、本気、

という意味である(伊勢物語「心もまめならざれば」)が、

労苦をいとわずよく勤め、働くこと(「まめに働く」)、

生活の役に立つこと、実用的(大和物語「車にてまめなるものさまざまにもてきたり」)、

の意味がある(広辞苑)が、今日は、「まめに働く」という意味がほとんどのようである。「誠実」の意味から、「勤勉」の意は広がるが、「実用的」の意味は、少し乖離がある。岩波古語辞典には、

(浮ついたところがなく)誠実、実直、まじめ(古今集「まめなれど何ぞは良けく刈るかやの乱れてあれど悪しけくもなし」)、
忠実(書紀「此の神また忠誠(まめ)ならず」)、
(趣味的・装飾的でなく)実用的(今鏡「まめなる物など乞ひ給ひて、車に積みて」)、
(身体が)達者、丈夫(方丈記「心、身の苦しみを知れれば、苦しむときは休めつ、まめなれば使ふ」)、

と意味が載る。この「実用的」の意味なら、「実直」「誠実」の意味の外延に入りそうである。「達者」は、「勤勉」とつながりそうである。

江戸語大辞典には、「まめ」には、

忠実、勤勉、息災、健康、

の意味しか載らない。こまめに働く人の意の、

まめじん(忠実人)、

言い回しが載っている。

岩波古語辞典には、この語源として、

マメヤカ・マメダチ・マメマメシなどのマメ。実意・誠意のある意。マ(真)とメ(目)の複合語か、

とある。「まめだち」は、

まじめな考え方、ふるまい(源氏「この君の、いたうまめだちすぎて」)、
まじめな顔をする(遊仙窟「いつはりて色を収め、まめだちて曰はく」)、

の意であり、「まめまめし」は、

いかにも本気である(枕草子「思ふ人の、人にほめらるるはいみじう嬉しきなど、まめまめしう宣うふもをかし」)、
まったく実用的である(源氏「花散里なども、をかしきさまのはさるものにて、まめまめしきすぢを思し寄らぬ事なし」)、

の意であり、「まめやか」は、

実意をもっているように感じられるさま、「まめ」よりはやや度合いのゆるい場合に使う、

とあり、

(浮気ではなく)誠実なさま(源氏「大方の人がらまめやかに、あだめきたる所なくおはすれば」)、
本当であること(源氏「まめやかには、おぼし知るところもあらむかし」)、
本格的であること(源氏「雪いたう降りてまめやかに積りにけり」)、
実用向き(源氏「をかしきやうにも、まめやかなるさまにも心寄せつかうまつり給ふ」)、

と、「まめ」の意味をなぞっている。

大言海は、

真実(まみ)の転かと云ふ、

とするが、意外とこれに類する説は多く、

マミ(真実)の転(名語記)、
マミアエ(真実肖)の義(日本語原学=林甕臣)、
真実の義(言葉の根しらべの=鈴木潔子・国語の語根とその分類=大島正健・日本語源=賀茂百樹)、
マミ(正身)の義(言元梯)、

等々。更に、「真」の字に関連させて、

真の義か(古今集注・俚言集覧)、
マは真の義、メはヘに通じ、フリの義(三部仮名鈔言釈)、
ミ(実)の転マ(真)から生じた語(国語溯原=大矢徹)、

という説もある。その他、

マジメの略(関秘録)、
マジメ(真面目)→マメ(忠実)(日本語の語源)、

とする説もある。意味から見ると、

マジメ→マメ、

はあり得るが、断定しかねる。日本語源広辞典は、

ママ(随)の音韻変化、

とするが、

上長の意のママニ随行することから、

との説明は、少し、「まめ」の用例から外れている。意味から考えると、

マジメ(majime)→マメ(mame)

と少数音節の脱落(日本語の語源)の例と見るのが、今のところ妥当かもしれない。似た例は、

ナツゴシ(夏越し)の祓い→ナゴシ(名越)の祓い、
おもしろい→おもろい、
のりこと(宣り詞)→のりと(祝詞)、
やっこ(家つ子)→やっこ(奴)、

等々、脱落例は多い(日本語の語源)。

参考文献;
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)

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「豆」は、

荳、
菽、

等々とも当てる。「豆」(漢音トウ、呉音ズ)は、

「象形。たかつきを描いたもので、じっとひとところに立つ意を含む。たかつきの形をした豆の意に転用された」

とあり(漢字源)、

大豆(中国では、黄豆)、
小豆(中国では、紅豆)、
緑豆(もやしにされる)、

の意とある(仝上)。

莢の中の種の称、

ともある(字源)。「菽」(シュク)は、

「会意兼形声。『艸+音符叔(シュク 小さい、小粒)』。小粒の実の意から、豆の総称」

とあり(漢字源)、「菽(シュク)は大豆である」(たべもの語源辞典)、とある。豆=菽であり、荳は、豆の俗字、とある(字源)。

まめに働く、

の「まめ」は、「まめ」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E3%81%BE%E3%82%81で触れたように、

忠実、

と当てる。「豆」は、

マメ科に属する植物のうち、ダイズ、アズキ、ソラマメ、エンドウなど、実を食用とするものの総称、またその実、

とある(広辞苑)。ただ特に、

大豆、

をいう(和名抄)、らしい。

大豆は、中国が古代にわたって来たとも、日本と中国に自生していたツルマメが原種である、とされる(たべもの語源辞典)。ツルマメは、

ノマメ、

とも呼ばれる。

古代、現住していた人たちは、ダイズを主食としていた、という(仝上)。後期弥生遺跡には栽培していたことが分かっている(仝上)。

「まめ」の語源としては、

マルミ(丸味)・マロミ(円実)の義(日本釈名・滑稽雑誌所引和訓義解・東雅・名言通・柴門和語類集・言葉の根しらべの=鈴木潔子・日本古語大辞典=松岡静雄・国語の語根とその分類=大島正健・日本語原学=林甕臣・大言海・広辞苑)、

が大勢を占める。沖縄では、

マミ、

といい、

マル(マロ)→マミ→マメ、

といった転訛ということになる。

丸い実から芽を出すから、マ(丸)メ(芽)(語源辞典・形容詞篇=吉田金彦)、

モニタリング説といっていい。その他に、

旨き+実の意(日本語の語源・日本語源広辞典・語源由来辞典)、

がある。

uma+mi→mami→mame、

とする(仝上)。その他、

外皮に実 がはめられていることから「実填め(みはめ)」の短縮(語源由来辞典)、
マミ(馬子)の義(言元梯)、
マグレツク(塗付)などのマグ、マミル(塗)などのマミから、搦みつく、まとわりつくの意の動詞マムを推定し、その未然形ママからか(続上代特殊仮名音義=森重敏)、

等々。ひねくり廻すのは、語音に合わせようとしている感じで、如何かと思う。単純に、

まるい、

の印象から、というのでいいのではあるまいか。

「まめ」は、

オオマメ、

と呼ばれた。それを音読したのが、

ダイズ(大豆)、

である。

「あずき」は、

小豆、

と当てるが、大言海は、

赤小豆、

と当て、

「醫心方『赤小豆(あかつき)』、成形図説(文化)『赤小豆(あずき)、赤粒木(あかつぶき)』などの義にや。キは草の義を表し、ハギ、ススキ、フフキ(蕗)等の語成分で、またキザスの語根」

とするが、

アは赤を意味し、ツキ・ツキが溶けることを意味し、他の豆より調理時間が短いことを意味していた、地方用語でアズ・アヅとは崩れやすいという意味であり、そこから煮崩れしやすいアズキと名付けられた(日本釈名・柴門和語類集)、
アは小の義、ツキはツムキと同語で、角がある意(東雅)、
アは赤、ツキはツク(搗)か。臼でついて用いることを吉とし、またもちなどにつくる故からか(和句解)、
アツキ(赤粒草)の義(言元梯)、
アカツキ(赤着)の義(名言通・日本語原学=林甕臣)、
豆木の湯桶読みツキか(日本語源=賀茂百樹)、
アヂケ(味饌)の転。うまい食物の意(和訓栞後編・日本古語大辞典=松岡静雄)、
イツキ(斎)から出た語か(語源大辞典=堀井令以知)、
アイヌ語でantukiという。アイヌ語が日本語に入ってきてアヅキとなったか、逆に日本語がアイヌ語に入ったか、両様の解釈が可能(外来語の話=新村出)、
朝鮮語pqt-ki(小豆)からか(植物和名語源新考=深津正)、
中国からdugという音が実物のアズキとともに日本に伝えられ、dugiとなり、清音化し、接頭語アが加わった(語源辞典・植物篇=吉田金彦)、
「本草和名(ホンゾウワミョウ)」(平安時代)には「赤小豆」を阿加阿都岐(アカアツキ)と記述しており、後にアズキとなった、

と諸説ありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%BA%E3%82%AD、日本語源大辞典)、日本語源広辞典は、

アヅ(味)+キ(重なり)で、味を引き立てるものの意、

とする。

しかし、「小豆」も、古く縄文遺跡から発掘されているほか、古事記に、

殺されたオオゲツヒメの鼻から小豆が生じたとする、

し、万葉集にも、

あづきなく 何の狂言(たはこと) 今さらに 童言(わらはごと)する 老人(おいひと)にして、

と、「あづきなく」(不当に)の「あづき」に「小豆」の漢字を当てており、奈良時代からあった(仝上)、と思われる。とするなら、知られていた「豆」、つまり、

大豆、

と区別して、

赤小豆(あかあづき)、

としたことは確からしく思えるが、どう訓み、どう転訛して「あづき」→「あずき」となったかは、はっきりしない。大言海の、すすき、フキの「キ」から、

アカツブキ→アカツキ→アヅキ、

といったふうな転訛が最もあり得るように思える。

「そらまめ」は、

蚕豆、
空豆、

と当てるが、慶長年間(1596~1615)に中国から渡来したが、「蚕豆」と当てるのは、

莢の形が成熟したサヤの形にているからとも、養蚕の時節に、成熟するから、

ともいい(たべもの語源辞典)、

「空豆」と当てるのは、

その実が空に向かってつくからである(大言海、仝上)、とされる。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)

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あじけない


「あじけない」は、

味気ない、

と当てるが、

味気、

は当て字である。今日は、

味気ない世の中、
味気ない仕事、

というように、

面白くない、
つまらない、

という意味で使うが、「あじけない」は、もともと、

あぢきない、
あぢきなし、

と表記した。岩波古語辞典には、

アヅキナシの転。漢文の「無道」「無状」の訓にあてられ、秩序にはずれてひどい状態が原義。他人の行為を規範にはずれていると批判したり、相手に道理を説いてたしなめたりする意。間投詞的にも使う。また、自分自身の行動や心の動きが常軌を逸しているのに自分で規制できないことを自嘲したり、男女関係の不調について失望・絶望の気持ちを表す、

とある。

人の行為が倫理を逸脱して、どうにもならないほどひどい、無礼である(日本書紀「素戔嗚尊の為行(ふるまひ)甚だ無状(あぢきな)し」)

おろかしくひどい、しかしどうにもならない(三宝絵「碁はこれ日を送る戯なれど勝ち負けのいとなみの無端(あぢきな)し」)

(間投詞的に)なんとおっしゃる、いけません、とんでもない(「源氏物語あぢけなし。(姫君を)見奉らざらんことは胸痛かりぬべけれど、つひにこの御ため、よかるべからざらんことをこそ思はめ」)、

自分あるいは相手の対手の行為が常識に外れているので、苦々しい、なさけない(一条摂政集「あぢけなや戀てふ山は茂くとも人の入るにや我がまどふべき」)、

(運命的なものとして)苦しいがどうにもできない、仕方がない(かげろふ日記「すべて世にふることかひなくて゜あぢけなきここち、いとする頃なり」)

(漢文訓読の用法から副詞的に)思いがけず、わけもなく(源氏物語「あぢけなく見奉るわが顔にも移りくるやうに愛敬はにほひ散りて」)、

といった意味の転換がある(岩波古語辞典)。価値表現の中に、次第に対象から自分の感情表現に転じていくさまが見て取れる。

味気ない、

と当てたときは、

やるせない

なさけない

面白くない

と、ほぼ感情表現が、相手との関係への感情から、自身の感情へと転じているように思える(広辞苑)。今日は、「おもしろくない」意でしか使わない。

「あずき」について触れた「豆」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E8%B1%86で引いたように、万葉集に、

小豆無し何の狂言(たはこと)今さらに童言(わらはごと)する老人(おいひと)にして、
面形(おもかた)の忘れ瓶(へ)あらばあづきなく男(をとこ)じものや恋ひつつ居(を)らむ、
中々に黙然(もだ)もあらましを小豆無く相見初めても吾れは戀ふるか、

等々と、「あづきなし」に「小豆」を当てている。しかし、

日本書紀の「無道」「無状」にあてた古訓や古辞書の訓みは「あぢきなし」で、平安時代以降は「あぢきなし」に一本化した。現代語の「あじけない」は、この語がさらに転じたもの、

とある(日本語源大辞典)。つまり、

あづきなし→あぢきなし→あじけなし(い)、

と転訛したものということになる。大言海が、「あぢきなし」に、

無状、

と当てているのは、ある意味原則にのっとっている。

その大言海は、「あぢきなし」について、

「アは、発語、あ附(づき)なしの義(あ清(さやか)、あ遍(まね)し、あ諄(くど)し)。橘守部の湖月抄別記、あぢきなう、アヂキナク『阿は、歎息の発語、都岐(つき)は、ヲリツキナシなどの都岐にて、只、ツキナシとも云ふ』。をりつきなし、即ち遠慮なしの意となる。」

とする。「をりつきなし」は岩波古語辞典、大言に載らないので、たしかめようがないが、「遠慮なし」の意味では、岩波古語辞典の言う、「無状」に宛てた当初の意味とは、ずれるのではあるまいか。

日本語源広辞典は、「あぢきなし」を、

ああ+つきなし(似つかわしくない)、

と、

自分で自分が嫌になる、転じて、相手が無道で手に負えない、仕方がない意になる、

とするが、これだと、主体の感情表現から、相手の価値表現へと転じたことになり、岩波古語辞典の主張とは真逆になる。となると、当初、「あづきなし(小豆無し)」は、

自分の感情表現、

情けない、

であった言葉が、

無状、無道、

に当てることで、

無礼である、
遠慮がない、

という、相手に対する価値表現に広がったことになる。つまり、

小豆無し、

を、

あづきなし、

と当てた言葉は万葉集にあった意味は、日本書紀が、

無道、
無状、

を、

あぢきなし、

と訓ませたとき、当初の「あづきなし」の意味ではない語意に変えたのかもしれない。

(あぢきなしと)アヅキナシとどちらが古いかは簡単に決めにくい(時代別国語大辞典-上代編)、

というのは、これを指しているのかもしれない。とすると、今日、

味気なし、

と、主体の感情表現になって、

面白くない、
なさけない、

という意味で使うのは、先祖返り、なのかもしれない。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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汁粉


今日「汁粉」は、

小豆の餡を水でのばして汁として砂糖を加えて煮、中に餅または白玉などを入れたもの、

とある(広辞苑)。漉(こ)し餡と粒餡のものがあり、つぶし餡を用いたものを、

田舎汁粉、

あるいは、

小倉汁粉、

とも呼び、関西では、これを、

ぜんざい、

と呼ぶ。「小倉汁粉」は「小倉」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E5%B0%8F%E5%80%89で触れたが、こしあんに砂糖煮の赤小豆を入れたものである。「ぜんざい」は、関東では、汁気のない餡そのものを呼ぶが、関西では、

亀山または金時、

と呼ぶ。

また、漉し餡をもちいたものを、

御前汁粉、

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%81%E7%B2%89。これは、関西でも「おしるこ」である。

「汁粉」は、

汁子、

とも当てる。

汁粉の語源は餡汁粉(子)餅で、その略が汁粉ともいわれるが、本来は汁の中に入れる実を汁の子、汁子と称した、

とされる(日本大百科全書)からである。大言海にも、

汁の實を子と云ふ、

とある。嬉遊笑覧(文政13年(1830))にも、

「今は赤小豆(あずき)の粉をゆるく汁にしたるを汁粉といえども昔はさにあらず。すべてこといふは汁の實なり」

とある(日本語源大辞典)、という。

芋の子もくふやしるこのもち月夜(寛永発句帳)、

という、満月の夜に芋の子の汁の實(しるこ)を食べたという名月の句がある(たべもの語源辞典)。寛永(1624~1644)の「しるこ」とは、「汁の実」だったらしい。汁粉が庶民の食物となるのは明和年間(1764~1772)以降とみられ、『明和誌』に、

「近頃(ちかごろ)汁粉見世にて商う」

と記され、『守貞漫稿(もりさだまんこう)』(1853年)には汁粉の種類も数品用意されていたとある。振売りの汁粉屋はそれ以前から往来していたが、値は夜鷹(よたか)そば並みの、

1杯16文、

であった。天秤(てんびん)の前後に荷箱をかけ、赤行灯(あんどん)をつるした職人の売り声は、「白玉ァおしるこゥ」「お正月やァ(餅入りの意)おしるこゥ」であった。多くは夜売りで、行灯に正月屋と書き込む汁粉屋が多かったことから、正月屋ともよばれた(日本大百科全書)、という。

ただ、「汁粉」の語源説には、異説もあり、

アズキの生餡(なまあん)(水を切った生餡は粉をこねた状態である)を水に溶くから汁粉とする説(日本大百科全書)
餡汁に入れる実の餅という意のシルコモチのモチが省略されたもの(暮らしのことば語源辞典)、
叡山から京へ出る道に、俗にシルタニゴエと称する泥濘甚だしいところがあり、それに似ているところから(類聚名物考)、
コはあずき餡をいう。汁にしたあずき粉の意(於路加於比)、
本来は餡の汁の中に子(実)として餅を入れるので餡汁子餅であり、略して汁子、転じて汁粉になった(和菓子の系譜)、

等々。しかし、

芋の子もくふやしるこのもち月夜、

は、芋の実を指している。汁の子(實)、でいいのではあるまいか。寛永12年(1635年)の『料理物語』には、

「後段(宴会の後に出される間食で、うどんやそうめん、饅頭などが含まれる)の欄に、『すすりだんご』と称される物が載っている。これはもち米6に対しうるち米4で作った団子を小豆の粉の汁で煮込み、塩味を付けたものであり、その上から白砂糖を天盛りにした一種の汁物である。当初は甘い物ではなく、塩味で調理されており、肴として用いられる事もあった。鳥取県・島根県東部での雑煮における汁粉も、元来はこうした塩味の料理であったと考えられる。」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%81%E7%B2%89。すすり団子は、

すすり団子は甘味として食べたのではなく、お酒を楽しむ際の肴(さかな)、

だった、とある(古典料理の研究、http://yurakucho.today/sweets/p9700/)。

関西で言う「ぜんざい」は、

一条兼良(1402~1481年)の『尺素往来』に、

「新年の善哉(ぜんざい)は修正の祝着」

とあり(たべもの語源辞典)、同年代頃の一休禅師も、

「善哉此汁(ぜんざいこのしる)」

と言った、とあるhttps://atsushino1.com/5039.html

「年の初めに餅を食う喜び(仏語で善哉)」

とある(たべもの語源辞典)が、「善哉」は、

「元仏教語で、『すばらしい』を意味するサンスクリット語『sadhu』の漢訳。仏典では、仏が弟子の言葉に賛成・賞賛の意を表すときに、『それで良い』『実に良い』といった意味で用いられる」

とある(語源由来辞典)。「汁粉」が「善哉」と呼ばれるいわれは、「ぜんざいもち」の項で、大言海は、

或る人、始めて、小豆の汁に餅を入れて、一休禅師に供したるに、一休、賞して、善哉此汁と云ひしを名とすなど、云ひ伝ふ、

とあるが、異説もあり、

出雲地方の神事「神在祭」で振る舞われた「神在餅」を由来とする説である。「神在餅」の「じんざい」が訛り、「ぜんざい」へと変化した、

とする(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9C%E3%82%93%E3%81%96%E3%81%84、梅村載筆、私可多咄)説があり、松江藩の地誌『雲陽誌(うんようし)』佐陀大社の項に

此祭日俚民白餅を小豆にて煮家ことに食これを神在餅といふ出雲の国にはしまる世間せんさい餅といふはあやまりなり」とあります。その他、いくつかの古文献にも「神在餅」についての記述があるところから当社は「ぜんざい発祥の地」であるといわれています、

とあるとか(仝上)。あるいは、

あずき餅の餡を任意に湯で薄めてたべるところから、ジザイモチ(自在餅)の義(月曜通信=柳田國男)、

もある。しかし、各地に「ぜんざい」はあり、嚆矢が、

関西、

のようである。

「年の初めに餅を祝うよろこびであった。善哉餅といって、小豆を煮て餅を入れた食べ方が考えられ、関西で『ぜんざい』という名称が登場してくる」

とある(たべもの語源辞典)。それが、

「しる状の様子から、関東へは『しるこ』というよび方で伝わった」

とある(日本語源大辞典)。

当初は、「しるこ」と「ぜんざい」の区別は明確ではなかったが、

「近世後期には関東・関西それぞれにおける区別が確立し、関東では、汁気のあるものを『しるこ』、汁気が少なく餡にちかいものを『ぜんざい』とよぶ。関西では、汁気のあるもののうち、漉し餡のものを『しるこ』、つぶし餡のものを『ぜんざい』とよびわけ、汁気の少ないものを『亀山』とよぶ」

ことに落ち着く(仝上)。『守貞漫稿』は、

京坂では小豆を皮のまま黒砂糖を加えて丸餅を煮るのを善哉という。江戸では小豆の皮をとり、白砂糖の下級品或は黒砂糖を加えて切餅を煮るのを汁粉という。京坂でも小豆の皮をとったものは汁粉、または漉し餡の善哉という。江戸では善哉に似たものをつぶし餡という。また漉し餡に粒の小豆をまぜたものをいなか汁粉という、

とまとめているhttp://www.kabuki-za.com/syoku/2/no30.html

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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「柱」は、

材を垂直に立てて建築物の支え(ささえ)とするもの、

の意である。

真木柱(まけばしら)、讃めて造れる、殿(との)のごと、いませ母刀自(ははとじ)、面(おめ)変(か)はりせず

と、万葉集にもある。「真木柱」は、

まきばしらの轉、

で、「真木(まき)」は、

槙、
柀、

とも当て、「マ」は接頭語で、

檜・杉・松・槙など、硬くて建築に適する木、

をいい、「真木柱」は、

檜・杉り立派な柱。宮殿、貴族の邸などに用いる、

とある(岩波古語辞典)。「柱」の、

上の荷重を支える材、

の意をメタファに、

頼りになる人、

の意で、

一家の柱、
計画の柱、

等々と使う。その意からか、

この三柱の神は、

などと、神・霊などを数えるのにも用いたりする。また「柱」は、図書用語で、

洋装本で、版面の周辺の余白に印刷した見出し。
和装本で、各丁の折り目に当たる所に記した書名・巻数・標題など。版心、柱刻、

の意でもある。

また「柱」は、

ヂ(ジ)、

と訓むと、琴柱(ことじ)のように、

琴などの弦楽器の弦をのせる駒、

の意となり、

チュウ、

と訓ますと、琴柱(ことじ)の意もあるが、

数学用語で、柱面もしくは柱体(ちゆうたい)のこと、

となる。

さて、「柱」の語源である。岩波古語辞典は、

「立って本体を支えるもの、ハシ(箸)と同根」

とする。どうであろうか。「箸」は、

古くは、一条のものを折り曲げて、その両端で挟んだ、

とある(日本昔話事典)。

食事のあとなどで、神慮を祈願し、箸をだいちにさすと芽をだし、大木になったという箸杉や箸立て松の伝説が各地にある、

とあり、「柱」とつながりそうだが、そもそも、

大嘗祭などでは(一条の者を折り曲げた)形式の箸を神前に供える、

とあり(仝上)、どうも「柱」とはつながらない気がする。

大言海は、

ハシは屋根と地との間(ハシ)にある物の意、ラは助辞、

とする。「間(ハシ)」は、辞書には載らないが、日本語源広辞典も、

ハシ(間)+ラ、

を採り、

屋根と地のハシ(間)に立てるものをいいます、

とする(この説を採るものは多く、古事記傳・雅言考・国語の語根とその分類=大島正健・日本語源=賀茂百樹等々)。また、

ハシラ(間等)の義(言元梯)、

も同趣である。ほかに、「橋」「梯」の「はし」とからめて、

橋渡しとなるもの、二所間の媒介物としてのハシ(橋・階・梯)諸語と同じ原義(時代別国語大辞典-上代編)、
梯座の義(和訓栞)、

もあるが、橋・階・梯と柱とは違いを区別していたのではあるまいか。その他、

ハシルシ(端記)の義(名言通)、
家のアシであるところから、ハシはアシの義。ラは助辞(日本釈名)、
ハリシロ(張代)の義(日本語原学=林甕臣)、
ハシラズ(葉不知)の義(和句解・百草露・柴門和語類集)、
ハは永久の義、シラはシルシ(標)の義(古史通)、
バザラ(待日羅)の転で、堅固不壊の意(和語私臆鈔)、

等々あるが、どうだろう。意味だけで言うなら、確かに、

橋・階・梯、

も、

はしだて、

というとき、

梯立て、

と当て、

梯子を立てかける、

意であり、

樹梯(階)、
橋立、

とも当て、

立った梯子、

の意でもあり、捨てがたいが、

「宮城を造営する際、君主が世界を支配するために天(神)と繋がる中心点が重要であるとして太極殿を建てた。当時を模して建てたものの代表的なものに、平安神宮外拝殿がある。太極(中心点)が、万物の根源、陰陽の根源とつながるものと考えられ、万物には当然のごとく神が宿ることから、そこに建てる重要な柱を太極柱と呼ぶことになる。」

もあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B1のだから、やはり、天地の、

ハシ(間)+ラ、

ということなのではないか。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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大黒柱


「柱」は、「柱」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E6%9F%B1で触れたように、

材を垂直に立てて建築物の支え(ささえ)としたもの、

だが、用途、場所、役割によって呼び名が異なる。例えば、

床の間に使う装飾的な柱を床柱、門を支えるものを門柱、
塀を支える柱を控柱、
大壁を真壁に見せかけるための付け柱、

等々https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B1。家の中心となるような太い柱は、

大黒柱、

と呼ばれるが、

大極柱、

とも当てる(仝上)。ただ、大言海は、

大國柱か。古事記、二祖国生「行廻逢是天之御柱」、神代紀「國中之柱、云々、國柱」とあり、大極柱は牽強なるべし、

とし、

大國柱、

とあてている。しかし、

「宮城を造営する際、君主が世界を支配するために天(神)と繋がる中心点が重要であるとして太極殿を建てた。当時を模して建てたものの代表的なものに、平安神宮外拝殿がある。 太極(中心点)が、万物の根源、陰陽の根源とつながるものと考えられ、万物には当然のごとく神が宿ることから、そこに建てる重要な柱を太極柱と呼ぶことになる」

ともあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B1ので、まさに、その目的、位置などによって名を変えているようである。で、

「地方によっては、大国主の神をお祀りすることから大黒柱ともいい、太い柱を大黒柱と一概にいうわけではない」

ともある(仝上)。

しかし、「大黒柱」は、

家の中央にあって、最初に立てる柱、

であるので、

建初(たてぞめ)柱、

ともいう、とある(広辞苑)。あるいは、神社などでは、

心(しん)の御柱(みはしら)、

という(大言海)。

「日本の神が、木や柱を依り代(よりしろ)とするため、神が依り憑く神籬(ひもろぎ)としている」

故であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B1

しかし、次第に、広く、民家の、

土間と床上部の間の境にある太い柱(広辞苑)、
家の上がり端の中央、土間・表・内の三合に立つ一番太い柱(岩波古語辞典)、
家の中央に立つる甚だ太き柱(大言海)、
土間と床上との境目の中央にある最も太い柱(ブリタニカ国際大百科事典)、
土間と座敷の境の中央に立てる。上棟の時に最初に立てる柱とする所もある(百科事典マイペディア)、
土間と居室部分の境目の中央にあって,他の柱より特に太い柱を指す(世界大百科事典)、
土間と床上部分との境の中央の柱、田の字型間取りの場合、中央の交差点に建つ柱をいう(日本大百科全書)、

等々を指すようになり、言い方は多少違うが、

土間と座敷の境に立つ柱、

のようである。

此の柱より棟梁始む、

ものらしい(大言海)。別に、

役柱、
中柱、
亭主柱、

等々と呼ばれる。それをメタファに、

家や組織の中心になって支えている人、

を、

一家の大黒柱、

などという(仝上)。しかし、

古くは構造上も重要な意味をもったと考えられるが,現在は長柱ではなく,棟(むね)にも達しない場合が多い。家の象徴とされ,正月の繭玉を飾るのもこの柱である、

とあり(百科事典マイペディア)、ほぼ象徴的なものに変わっている。

「大黒柱」の語源は、上記からも、

朝堂院の正殿「大極殿(だいこくでん・だいごくでん)」の柱を「大極殿柱」ということから『大極柱』になった、
室町時代から恵比寿大黒の大黒様は富を司る神様として祀られていたため、大黒天にちなみ『大黒柱』となった、
国の中の柱という意味の『大国柱』の『大国』が転化し、『大黒柱』になった、

等々とする説ある(語源由来辞典)。

三代実録に「元慶二年始竪大極殿柱」とあるので、

大極柱、

とする説(類聚名物考)、

この柱をもとに棟梁を定めるところから、タイキョクハシラ(太極柱)の義(東牖子・言元梯)、

とする説が目に付くが、決め手はない。ただ、

太極、

は、『易経』の、

易に太極あり、これ両儀を生じ、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず。八卦は吉凶を定め、吉凶は大業を生ず、

に由来し、

万物の根源であり、ここから陰陽の二元が生ずる、

という意味がある。中国由来の太極殿(だいごくでん・だいぎょくでん)の意味とも重なり、最もあり得るが、後の付会ということもあって、定めがたい。

「大黒」は、

大黒天、

の意であるが、大黒天は、

マハーカーラ(摩訶迦羅)、

ヒンドゥー教のシヴァ神の異名であり、これが仏教に取り入れられたものであり、

鬼人を降伏させる守護神、戦闘神として、忿怒の相であらわされていた(日本昔話事典)。

それが中国では、

厨房の神、

として寺々に祀られていた。わが国には、この系統を継いで、平安時代初期より天台宗の寺院を中心に厨房に祀られるようになる(仝上)。その姿は、

頭巾をかぶり、小槌を握って大袋を背負い、足下に米俵を踏んで福徳円満の相、

となっている。中世以降、語音の共通から、

大国主神、

と習合がなされた(仝上)。

「大黒の『だいこく』が大国に通じるため、古くから神道の神である大国主と混同され、習合して、当初は破壊と豊穣の神として信仰される。後に豊穣の面が残り、七福神の一柱の大黒様として知られる食物・財福を司る神となった。室町時代以降は『大国主命(おおくにぬしのみこと)』の民族的信仰と習合されて、微笑の相が加えられ、さらに江戸時代になると米俵に乗るといった現在よく知られる像容となった。現在においては一般には米俵に乗り福袋と打出の小槌を持った微笑の長者形で表される。」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%BB%92%E5%A4%A9

七福神に加えられ、大黒信仰が広まったのは、大黒舞と呼ばれる門付け芸人たちが、正月に大黒の姿にやつして祝言を述べ歩くとともに、家々にお札や大黒像や面を配り、家々に大黒が単独で祀られるようになった、とある(日本昔話事典)ところからも、中世以降であることを考えると、やはり、

大黒柱、

と当てたのは、後のことと思われる。だから由来は、

中心の柱、

という意味の、

太極柱、

かと思われる。ただ、民間での建築として、

大黒柱、

を立てたとき、建てた側の意識は、

太極、

だったのか、

大黒天、

だったのかは、ちょっと定めがたいが、

福、竈、飲食を司る大黒天を、家屋を支える最も重要な柱、

としていた可能性は大きいのである(日本語源広辞典)。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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でんぶ


「でんぶ」は、

田麩、

とあてる。「おぼろ」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba6.htm#%E3%81%8A%E3%81%BC%E3%82%8Dで「でんぶ」に触れたが、「おぼろ」と似た「そぼろ」との区別を曖昧なままにしたので、ここでは、「そぼろ」「おぼろ」と対比しつつ、「でんぶ」の語源を考えてみる。

広辞苑は、「おぼろ」を引くと、「でんぶ」が載り、大言海、精選版日本国語大辞典、大辞林は、「おぼろ」を引くと、「そぼろ」が載り、同一視しているものが異なる。ある意味、三者は似ているのだろうが、たとえば、「おぼろ」と「てどんぶ」を区別して、

「『おぼろ』と『でんぶ』は、まるで別物です。おぼろというのは、海老(大抵は芝海老)、を、生のまますりつぶし、砂糖、酒、醤油、などで味付けし、鍋の中で手早くかき混ぜながら火を通したものです。海老の代わりに卵の黄身を使うと、黄身おぼろになります。
でんぶというのは、火を通した白身魚の身をほぐし、水にさらして脂抜きをし、蛋白繊維だけを取り出し、これを加熱しながら甘~く味付けしたものです。
おぼろは、ほんのり甘く、しっとりしていて、口の中で溶けますが、でんぶは、シャリシャリして、かなり甘く、口の中で溶けるということはありません。」

とするhttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1410632719ものがあるかと思うと、

「そぼろと似ているものに、魚などをゆでて、すり鉢ですり、甘く味をつけた『でんぶ』がある。これは『おぼろ』ともいわれ、『そぼろ』は『おぼろ』より少し粒が粗いので、『粗ぼろ(そぼろ)』と呼ばれる」

とかhttps://www.lettuceclub.net/recipe/dictionary-cook/218/

「より細かくほぐしたそぼろをおぼろ(朧)という。おぼろの例として田麩(でんぶ)がある」

とかhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9D%E3%81%BC%E3%82%8D、「でんぶ」と「おぼろ」を同一視し、より粗いものを「そぼろ」としているものもある。三者の区別は程度問題ということになるのだろうか。

「そぼろ」は、

「現在の乱切りを細かくしたようなそぼろ切りという切り方によってつくられたものである。『おぼろ』より粗めのものをいい、『粗おぼろ』が『そぼろ』に転じたという。そぼろには、魚肉を蒸して細かく砕いて乾燥したものというような意味もある。」

とある(たべもの語源辞典)。「乱切り」とは、不規則な形に切る切り方です。形は違っても大きさをそろえることがポイントらしい。「そぼろ豆腐」というのは、豆腐を蒸して細かく砕いたものをいう(仝上)、らしい。

「そぼろは、牛や豚や鶏の挽肉、魚肉やエビをゆでてほぐしたもの、溶き卵などを、そのままあるいは調味して、汁気がなくなりぱらぱらになるまで炒った食品。そのまま米飯にのせたり、ある種の寿司や弁当の材料として使用される。また、鶏肉のそぼろをダイコンやカボチャの煮物に用いたものはそぼろ煮と呼ばれる。より細かくほぐしたそぼろをおぼろ(朧)という。おぼろの例として田麩(でんぶ)がある。ちなみに、おぼろ昆布(薄く削った昆布)、おぼろ豆腐(固まりかけの豆腐)、おぼろ饅頭(皮を剥いた饅頭)のおぼろは、このおぼろではない。 芝海老のおぼろは伝統的な江戸前寿司には欠かせない種のひとつであり、寿司屋の玉子焼の原料としても用いられる」

ともありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9D%E3%81%BC%E3%82%8D

粗おぼろ→そぼろ、

と砕き方の荒いものを言う、ということらしい。

「おぼろ」は、

「タイ・エビ・スズキ・ヒラメなどの肉をすりつぶして、味醂・塩を少し加えて煮詰め、ボロボロにほぐして食紅で色をつけたものをいう」

とあり(たべもの語源辞典)、「おぼろ豆腐」は、豆腐を湯煮にして葛餡をかけたものである(仝上)。「おぼろ」の語源については、触れたhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/444759095.html

「でんぶ」は、

「タイ・ヒラメ・カレイなどの白身の魚や、またカツオでもつくる。タイのでんぶを作るには、蒸籠で蒸してから、水を入れた桶の中に取り上げ、骨皮などを取り除いて、精肉だけを移し、両手で揉んで布袋に入れて水を絞り、火に乾かす。これを『もみだい』という。これに味醂・醤油を加えて、煮あげ、火の上で乾かす」

とある(たべもの語源辞典)。あるいは、

「日本の田麩は魚肉を使うことが多い。三枚におろした魚をゆで、骨や皮を取り除いた後、圧搾して水気をしぼってから焙炉にかけてもみくだき、擂り鉢で軽くすりほぐす。その後、鍋に移して、酒・みりん・砂糖・塩で調味し煎りあげる。鯛などの白身魚を使用したものに食紅を加えて薄紅色に色付けすることもある。薄紅色のものは、その色から『桜でんぶ』と呼ばれる」

ともあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E9%BA%A9

「古くは、『田夫煮物』のことをいい、汁気のないように煎りつけたものであるが、次に砂糖を加え、醤油・酒などで煮るようになった」

とある(たべもの語源辞典)。あるいは製法は、今日とは異なったのかもしれない。

面倒なことに、「でんぶ」は、

「江戸前寿司の店ではおぼろと称するほか、一部では力煮(ちからに)ともいうし、北海道の一部の地域などでは、単にそぼろと呼ぶ場合がある」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E9%BA%A9し、

おぼろでんぶ、

という名で、市場に出回っているものすらある。が、三者は、今日、作り方が、確かに違う。

「そぼろ」は、

魚肉やエビをゆでてほぐし、味を付けながら、汁けがなくなるまで炒ったもの、

「おぼろ」は、

肉をすりつぶして、味醂・塩を少し加えて煮詰め、ボロボロにほぐしたもの、

「でんぶ」は、

蒸籠で蒸してから、骨皮などを取り除いて、手で揉んで布袋に入れて水を絞り、火に乾かすもの、

である。「でんぶ」は、

食感はシャリシャリ、

しているのであり、どうして、「おぼろ」「そぼろ」と同一視されるのかはわからない。ただ、今日の製法で、

まず「そぼろ」にする工程がある(以下、http://www.japanfoodnews.co.jp/tsukudani/debu1.htmによる)。

1・茹でる、2・蒸し篭で蒸す方法、3・焙る方の方法、のいずれかの工程を経た身の小骨、皮などを丹念に除きます。2の工程の場合は水でさらして脂肪を取り去り、圧搾して水分を除いたのちに肉を砕きよく揉み解して繊維状にします。

ついで、この「生そぼろ」から、「でんぶ」にしていく。

生ソボロをを釜に入れ、調味料(一般的に水飴、砂糖、醤油を主としてそれぞれの作り手の塩梅があります)をよく攪拌しながら煎りつけます。炊き上げたものを素早く冷風台に広げて、固まらないように揉みほごしして出来上がりです。

このプロセスで言うと、「そぼろ」「おぼろ」「でんぶ」は、一連のプロセスのどこで、製品化するかの違いのように見える。

ところで、「でんぶ」の語源である。

「古今料理集」(江戸期寛文・延宝年間(1670~1674))には、

「田夫は 色々をなべに入て酒をひたひたにさしてあまみの付程にとっくと煮て、其汁をよくしため〈略〉汁のなきやうに煎付て用る事也」

とあるhttps://japanknowledge.com/articles/kotobajapan/entry.html?entryid=2601とあり、「料理綱目調味抄」(享保十五年(1730))に、

都春錦(としゅんきん)はでんぶなり、

とあり(たべもの語源辞典)、

ぞくにいふ田夫は、この略なり、

とある由で、「都春錦」は「でんぶ」の高級品だったらしい。しかし天明期には消えてしまったらしい。「でんぶ」を、

田夫、

と当てたのは、

「その切り方が、材料を大小不揃いで、わざと、めった切りにして、不手際に見えるように仕掛けて用いるので」

という(仝上)。「田夫」は、

農夫、
または
田舎者、

の意である。

田舎臭い、
洗練されていない、
野暮であること、

といった意味にもなる。

魚をバラバラにしてしまう、

のが不風流というので、

田夫、

と称した(たべもの語源辞典)。

その製品の本質から、

田麩、

とあてたのは、なかなかな見識と、たべもの語源辞典は評した。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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朝ぼらけ


「朝ぼらけ」は、

太陽が地平線上にまだ昇っていない時、
朝がほんのり明けてくる頃、
空の薄明かりが朗らかに見える頃、

等々の意である(広辞苑、大辞林)。夜明けの意で、

ありあけ、
あかつき、
しののめ、
あさまだき,
あけぼの、

等々類語は多い。

「ありあけ」は,

月がまだありながら,夜か明けてくるころ,

だから,かなり幅があるが,

陰暦十五日以後の,特に,二十日以後という限定された時期の夜明けを指すが,かなり幅広い。

「あかつき」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba14.htm#%E3%81%82%E3%81%8B%E3%81%A4%E3%81%8Dは,上代は,

あかとき(明時),

で,中古以後,

あかつき,

となり,今日に至っている。もともと,古代の夜の時間を,

ユウベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ,

という区分した中の「あかつき」(因みに,ヒルは,アサ→ヒル→ユウ)で,

「夜が明けようとして,まだ暗いうち」

を指し(岩波古語辞典),

「ヨヒに女の家に通って来て泊まった男が,女の許を離れて自分の家へ帰る刻限。夜の白んでくるころはアケボノという」

とする(仝上)が,

「明ける一歩手前の頃をいう『しののめ』,空が薄明るくなる頃をいう『あけぼの』が,中古にできたため,次第にそれらと混同されるようになった」

とある(日本語源大辞典)。

「しののめ」は,

東雲,

と当て,

「一説に,『め』は原始的住居の明り取りの役目を果たしていた網代様(あじろよう)の粗い編み目のことで,篠竹を材料として作られた『め』が『篠の目』と呼ばれた。これが明り取りそのものの意となり,転じて夜明けの薄明かり,さらに夜明けそのものの意になったとする」

と注記して,

東の空がわずかに明るくなる頃。明け方,あかつき。あけぼの、

の意で,転じて,

「明け方に,東の空にたなびく雲」

の意とある(『広辞苑』)。また、

「万葉集に、『小竹之眼』『細竹目』と表記されて、『偲ぶ』『人には忍び』にかかる、語意未詳の『しののめ』がみられる。これを、篠竹を簾状に編んだものと考え、この編目が明かり取りの用をなしたところから、夜明けの意に転じたと見る説もある」

ともあり(日本語源大辞典)、

篠の目が明かり取りそのものの意となり、転じて夜明けの薄明かり、夜明け、

の意となった(語源由来辞典)、とする見方はあり得る。

「ありあけ」は,

月がまだありながら,夜か明けてくるころ,

だから,かなり幅があるが,

陰暦十五日以後の,特に,二十日以後という限定された時期の夜明けを指すが,かなり幅広い。

「あさまだき」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba5.htm#%E6%9C%9D%E3%81%BE%E3%81%A0%E3%81%8Dは,すでに触れたように,

「マダ(未)・マダシ(未)と同根か」

とあり(岩波古語辞典),

「早くも,時もいたらないのに」

という意味が載る。どうも何かの基準からみて,ということは,夜明けを基点として,まだそこに至らないのに,既にうっすらと明けてきた,という含意のように見受けられる。

「朝+マダキ(まだその時期が来ないうちに)」(日本語源広辞典)

で,未明を指す,とあるので,極端に言うと,まだ日が昇ってこないうちに,早々と明るくなってきた,というニュアンスであろうか。大言海には,

「マダキは,急ぐの意の,マダク(噪急)の連用形」

とあり,「またぐ」は,

「俟ち撃つ,待ち取る,などの待ち受くる意の,待つ,の延か」

とあり,

「期(とき)をまちわびて急ぐ」

意とあるので,夜明けはまだか,まだか,と待ちわびているのに,朝はまだ来ない,

という意になる。

「あげぼの」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba6.htm#%E3%81%82%E3%81%91%E3%81%BC%E3%81%AEは,「あけぼの」の「ほの」は「ほのかの」「ほの」で,

「ボノはホノカのホノと同根」

とある(岩波古語辞典)。「仄か」とは,

「光・色・音・様子などが,薄っすらとわずかに現れるさま。その背後に大きな,厚い,濃い確かなものの存在が感じられる場合にいう。」

のだという。また、

「『あけ(明)』と『ほの(ぼの)』の語構成。『ほのぼのあけ(仄々明け)』とも言うように、『ほの』は『ほのぼの』『ほのか』などと同源で、夜が明け始め、東の空がほのかに明るんでくる状態が『あけぼの』である。 古くは、暁の終わり頃や、朝ぼらけの少し前の時間をいった」

ともある(語源由来辞典)。どうやら,

「夜明けの空が明るんできた時。夜がほのぼのと明け始めるころ」

で,「あさぼらけ」と同義とある。

「あさぼらけ」は、

「夜がほんのりと明けて、物がほのかに見える状態」

とある(岩波古語辞典)。大言海に、

世の中を何に譬へむ旦開(あさびらき)漕ぎにし舟の跡無きが如(ごと)

という万葉集の歌が、拾遺集で、「朝ぼらけ」としている、とある。ちょうど朝が開く瞬間という意になる。しかし、日本語の語源は,

「アサノホノアケ(朝仄明け)は,ノア(n[o]a)の縮約でアサホナケになり,『ナ』が子音交替(nr)をとげてアサボラケ(朝朗け)になった。『朝,ほのぼのと明るくなったころ…』の意である。『ボ』が母韻交替をとげて朝開きになった」

と、大言海と真逆である。しかし、時間軸を考えると、

アサビラキ→アサボラケ、

なのではないか。

アサビラキ(朝開)の転。アケボノと混じた語(類聚名物考・俚言集覧・大言海)、
アサビラケの転(仙覚抄・日本釈名・柴門和語類集)、

とアサビラケ説に対し、

朝ホロ明けの約(岩波古語辞典)、
朝ホノアケの約(和訓栞)、

と、朝ホロ明け説があるが、これだと、ほぼ「あけぼの」と重なる。

「『あけぼの』と並んで(「あさぼらけ」は)夜が明ける時分の視覚的な明るさを表す語である。『あけぼの』が平安時代に散文語で、中世には和歌にも用いられるようになるが、『枕草子』春はあけぼの以降春との結びつきが多いのに対し、『あさぼらけ』は主に和歌に用いられ、秋冬と結びつくことが多い。『あさぼらけ』の方が、『あけぼの』よりやや明るいという説もあるが、判然としない」

とある(日本語源大辞典)。さて、

あさまだき,
ありあけ、
あかつき、
しののめ、
あけぼの、
あさぼらけ、

の順序はどうなのだろう。

「あさまだき」は、

「マダ(未)・マダシ(未)と同根か」

とあり(岩波古語辞典),

「早くも,時もいたらないのに」

という意味が載る。夜明けに至らないのに,既にうっすらと明けてきた,という含意のように見受けられる。だから、

あさまだき→あかつき・ありあけ、

となろうか。「ありあけ」は,

月がまだありながら,夜か明けてくるころ,

だから,かなり幅があるが,「あかつき」も、

「夜が明けようとして,まだ暗いうち」

と広く、たとえば、「あけぼの」と比べ,

「『曙』は明るんできたとき。『暁』は、古くは、まだ暗いううら明け方にかけてのことで、『曙』より時間の幅が広い」

とあるhttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1145636881。とすると,古代の、

アカツキ→アシタ,

の時間幅全体を「あかつき」「ありあけ」とみると,その時間幅を,細かく分けると,

しののめ,
あさまだき,
あけぼの,
あさぼらけ,

の順序が問題になる。「あさぼらけ」には異説はあるが、

「夜のほのぼのと明けるころ。夜明け方。『あけぼの』より少し明るくなったころをいうか。」(デジタル大辞泉)、
「『あさぼらけ』の方が『あけぼの』よりやや明るいと見る説もあるが判然としない(精選版日本国語大辞典)、

とあるので、

あけぼの→あさぼらけ、

とみると、『東雲』の位置だけが問題になる。

『日本語の語源』がは「しののめ」について,

「イヌ(寝ぬ。下二)は,『寝る』の古語である。その名詞形を用いて,寝ている目をイネノメ(寝ねの目)といったのが,イナノメに転音し,寝た眼は朝になると開くことから『明く』にかかる枕詞になった。『イナノメのとばとしての明け行きにけり船出せむ妹』(万葉)。
名詞化したイナノメは歌ことばとしての音調を整えるため,子音[∫]を添加してシナノメになり,母音交替(ao)をとげて,シノノメに変化した。(中略)ちなみに,イネノメ・イナノメ・シノノメの転化には,[e] [a] [o]の母音交替が認められる。」

と,「篠竹」説を斥けている。そうみると,「目を開けた」時を指しているとすると,「しののめ」が、

しののめ→あけぼの→あさぼらけ,

なのか,

あけぼの→あさぼらけ→しののめ,

なのかの区別は難しいが,一応,いずれにしても,人が気付いた後の夜明け時の順序なのだから,

しののめ→あけぼの→あさぼらけ,

を,暫定的な順序としてみたhttp://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba6.htm#%E3%81%82%E3%81%91%E3%81%BC%E3%81%AE。しかし、「しののめ」「あけぼの」「あさぼらけ」は、ほとんど時間差はわずかのように思える。

参考文献;
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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あずき粥


「あずき」については、「豆」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E8%B1%86触れた。「小豆粥(あずきがゆ)」は、

小豆をこめにまぜて炊いた粥、

の意(広辞苑)で、小正月を祝って神に供え、人も祝ってこれを食べた。ために、

十五日粥、

とも、

また、望(もち)の日(陰暦十五日、満月の日)の節供なので、

望粥(もちがゆ)、

ともいう(たべもの語源辞典)。一年の邪気を払うものとして食べ、

さくらがゆ、

ともいう(仝上)。粥に小豆を加えたのは、

赤は陽の色で、小豆の粥は、この赤い色を食べて、冬の陰気を陽徳で消させる、

という意がある(仝上)とされるが、

「小豆を入れて煮た粥。普通の白粥と違って赤く染まるので、その色に呪力を認め、屋移りや旅立ちに災異除(よ)けとして用いられた」

ともあり(日本大百科全書)、

「小豆が持つ赤色と稲作民族における呪術が結び付けられて、古くから祭祀の場において小豆が用いられてきた。日本の南北朝時代に書かれた『拾芥抄』には中国の伝説として、蚕の精が正月の半ばに糜(粥)を作って自分を祀れば100倍の蚕が得られるという託宣を残したことに由来するという話が載せられている。
中国においては、古くは冬至の際に小豆粥が食せられた。後にこの風習が発達して12月8日には米と小豆ほか複数の穀物や木の実を入れた「臘八粥」(ろうはちがゆ)というものが食せられ、六朝時代の中国南部では1月15日に豆粥が食せられた(『荊楚歳時記』)。これが日本に伝わって1月15日すなわち小正月の朝に小豆粥を食するようになったと考えられている」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%B1%86%E7%B2%A5、中国由来である。

正月十五日に小豆粥をつくって天狗を祀り、これを食べれば疫病にかからないという中国の俗信からきた、

ともある(たべもの語源辞典)。漢名では、

紅調粥、

というとか(たべもの語源辞典)。『公事根源』によると、宇多天皇の寛平年中(889~98)から始まる、

とあるという(たべもの語源辞典)。

『延喜式』によれば、

「小正月には宮中において米・小豆・粟・胡麻・黍・稗・葟子(ムツオレグサ)の『七種粥』が食せられ、一般官人には米に小豆を入れたより簡素な『御粥』が振舞われている。これは七種粥が小豆粥に他の穀物を入れることで成立したものによるとする見方がある」

とあり、紀貫之の『土佐日記』にも、

承平7年(935年)の1月15日(小正月)の朝に「あづきがゆ」を食した、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%B1%86%E7%B2%A5

多く餅(粥柱)を入れる、

ともある。粥柱は、

粥杖(かゆづえ)、

とも呼ぶ。小正月の粥に入れる餅(もち)をそう呼ぶ(広辞苑)が、これは、江戸時代からで、

「15日すなわち『望(もち)の日』の粥という語が転じて「餅(の日)」の粥と解せられ、小豆粥に餅を入れて食べる風習も行われるようになった」

とある(仝上)。今日でも地方においては正月や田植、新築祝い、大師講などの際に小豆粥や小豆雑煮で祝う風習のある地方が存在する、という(仝上)。江戸語大辞典には、

邪気を払う効があるとて、正月十五日に食べる。また、転宅・新居落成の祝いにもこれを食べる、

とあり、広がっていることがわかる。

新しい雨の音聞くあづきがゆ、

という「新居」の川柳がある(江戸語大辞典)。

小豆粥の炊き上がり方で豊凶を占う、

ともある(広辞苑)。それを、

粥占、

という。粥占は、

かゆうら、
かいうら、
よねうら、

とも呼び、粥を用いて1年の吉凶を占う年占であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%A5%E5%8D%A0。毎年、日本各地の神社で祭礼として行われる。多くは小正月に神にあずき粥を献ずるときに行われ、

「1月15日(もしくは2月15日)に丼大の碗にアズキや塩を入れた粥を大盛りに盛り付け、神前に供える『粥炊き』『粥入れ』を行なう。数週間から約2ヶ月経ってから、神前に供えられた粥を取り出す『粥開き』を行ない、粥についたカビを神社総代や氏子総代が中心となって何人かの氏子が、神社に伝わる『御粥面図』や口伝を基に判別し、カビの色やついた場所(粥のどこについたかで地域・季節・方角などを区別して占う)、生え具合で占う。儀礼の終わった粥は、付近の井堰や川に流す。占いの結果は氏子同士が話し合って決め、そのプロセスは氏子以外の者でも自由に見ることが出来る場合が多い」

とある(仝上)。

因みに、「小正月」は、正月15日の行事であるが、

14日から16日までの3日間、または、14日の日没から15日の日没まで、または、望(満月)の日、または、元日から15日までの15日間、

ともされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%AD%A3%E6%9C%88。元日(または元日から1月7日まで)を大正月と呼ぶのに対してこのように呼び、正月の終わりとも位置づけられ、

小年(こどし)、
二番正月、
若年、
女正月(おんなしょうがつ)、
花正月、
返り正月、
戻り正月、

等々と呼ぶ地方もある(仝上)、とか。中国式の太陰太陽暦が導入される以前、望の日を月初としていたことの名残りと考えられている。古くはこの小正月までが松の内だった(この日まで門松を飾った)が、江戸時代に徳川幕府の命により1月7日の大正月までとされたが、関東地方以外には広まらなかったらしい(仝上)。

小正月の行事に、左義長」(どんど焼き)があるが、これは項を改める。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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左義長


「左義長」は、

三毬杖、
三毬打、

とも当てる、

どんど焼き、

のことである。別に、

とんど(歳徳)、
どんど、
どんどん焼き、
どんと焼き、
さいと焼き、
おんべ焼き、
ほっけんぎょう、
ほちじょ、
おにび、

等々の名で呼ばれる。「左義長」といえば、信長公記の天正九年、正月八日に、

御馬廻、御爆竹致用意頭巾装束致結構、思々の出立に而十五日に可罷出之旨、御触有。江州衆へ被仰付、御爆竹申付人数、北方東一番仕次第、平野土佐、多賀新左衛門、後藤喜三郎、蒲生忠三郎、京極小法師、山崎源太左衛門、山岡孫太郎、小河孫一郎、南方の次第、山岡対馬、池田孫次郎、久徳左近、永田刑部少輔、青地千代寿、阿閉淡路守、進
藤山城守。以上
御馬場入御先へ御小性衆、其次を信長公、黒き南蛮笠をめし、御眉をめされ、赤き色の御ほうこうをめされ、唐錦之御そばつぎ、虎皮之御行騰。蘆毛之御馬すぐれたる早馬飛鳥の如く也。関東祗侯之矢代勝介と申馬乗、是にも御馬乗りさせられ、近衛殿、伊勢兵庫頭。御一家の御衆、北畠中将信雄、織田上野守信兼、織田三七信孝、織田源五、織田七兵衛信澄。此外、歴々、美々敷御出立、思々の頭巾装束結構にて、早馬十騎・廿騎宛乗させられ、後には、爆竹に火を付け、はやし申、御馬共懸けさせられ、其後、町へ乗り出だし、御馬被納見物成群集、御結構之次第、貴賎驚耳目申也、

とあり、後の京都御馬揃えの先駆けのようなことをやっていた。

「左義長」は、

毬杖(ぎっちょう)を三つ立てたから、

という(広辞苑)、

小正月の火祭りの行事。宮中では、正月15日と18日に(御書初めの)吉書(きっしょ)を焼く儀式、清涼殿の東庭で、青竹を束ね立て、これに扇子・短冊・吉書などを添え、謡いはやしつつ焼いた、

とある(仝上)。吉書は、

年始・改元・代始・政始・任始など新規の開始の際に吉日を選んで奏聞する文書、

である(仝上)。

『徒然草』にも、

「さぎちょうは正月に打たる毬杖を真言院より神泉苑へ出して焼きあぐるなり」

とある。民間では、

「1月14日の夜または1月15日の朝に、刈り取り跡の残る田などに長い竹を3、4本組んで立て、そこにその年飾った門松や注連飾り、書き初めで書いた物を持ち寄って焼く。その火で焼いた餅(三色団子、ヤマボウシの枝に刺した団子等地域によって違いがある)を食べる、また、注連飾りなどの灰を持ち帰り自宅の周囲にまくとその年の病を除くと言われている」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A6%E7%BE%A9%E9%95%B7

この起源は、

「平安時代の宮中行事に求めるもの。当時の貴族の正月遊びに『毬杖(ぎっちょう)』という杖で毬をホッケーのように打ち合うもの(『打毬』)」があり(仝上)、

打毬の楽で破損した毬杖を集めて焼いたのが三毬杖・三木張・三毬打の語源、

としhttp://www5d.biglobe.ne.jp/~him8man/S-history.html、平安時代の文書に「三毬打」または「三毬杖」としてみられるが、これは、

「3本の竹や棒を結わえて三脚に立てたことに由来するといわれている。火の上に三脚を立てそこで食物を調理したものと考えられている。」

とある(日本大百科全書)。しかし、大言海は、「三毬杖」に、

さんぎちゃう、
さんぎっちゃう、

と訓ませている。そして、「毬杖」(ぎっちゃう)で、

槌型の杖に、彩糸を絡ひたるもの。これ古へ、遊戯などなどに用ひて、木製の毬を打つとぞ、

とある。つまり、この、

毬杖を三本立てたれば、

三毬杖、

と呼んだということになる(大言海)。それが竹に代わったのである。

小正月(1月15日)に宮中で、

「山科家などから進献された葉竹を束ねたものを清涼殿東庭にたて、そのうえに扇子、短冊、天皇の吉書などを結び付け、陰陽師に謡い囃して焼かせ、天覧に供された。『故実拾要』によれば、まず烏帽子、素襖を着た陰陽師大黒が庭の中央に立って囃をし、ついで上下を着た大黒2人が笹の枝に白紙を切り下げたのを持ち、立ち向かって囃をし、ついで鬼の面をかぶった童子1人が金銀で左巻に画いた短い棒を持って舞い、ついで面をかぶり赤い頭をかぶった童子2人が大鼓を持って舞い、ついで金の立烏帽子に大口袴を着て小さい鞨鼓を前に懸け、打ち鳴らしながら舞い、また半上下を着たものが笛、小鼓で打ち囃す。毬杖(ぎっちょう)3本を結ぶことから『三毬杖(さぎちょう)』と呼ばれた」

とある(仝上)。これも中国由来で、

正月を迎えて災いを除くため、爆竹を鳴らす風習、

が渡来したものとされる(日本大百科全書)。

左義長、

は近世以降の当て字であるが、

「仏教と道教との優劣を試みるため、仏教の書を左に、道教の書を右において焼いたところ、仏教の書が残り、左の義長ぜり(優れている)という『訳経図記』にある故事からという俗説(『徒然草寿命院抄』)がよく知られている」

によるらしい(日本語源大辞典)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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しのぶ


「しのぶ」は、

偲ぶ、

と当てると、

過ぎ去ったこと、離れている人のことなどをひそかに思い慕う(万葉集「わが妻も絵にかきとらむ暇(いづま)もが旅ゆく我は見つつしのはむ」)、
心惹かれて(みえないところなどに)思いをはせる(「人柄がしのばれる」)、
賞美する(万葉集「あしひきの山下ひかげ髪(かづら)ける上にやさらに梅をしのはむ」)、

といった意味になる(四段活用。広辞苑、岩波古語辞典)。「賞美する」意味は、今日あまり使わない。「しのぶ」は、

忍ぶ、
隠ぶ、

とあてると、

こらえる、我慢する(万葉集「わが背子が抓(つね)みし多手見つつしのびかねつも」)、
秘密にする、かくす(源氏「しのぶるやうこそはと、あながちにも問ひて給はず」)、
(自動詞的に)人目を避ける、かくれる(源氏「惟光の朝臣例のしのぶる通はいつとなくいろひ仕うまつるひとなれば」)

とある(上二段活用。仝上)。例によって、「しのぶ」を漢字で当て分けて、意味を使い分けているかと思ったが、

偲ぶ、

は、上の用例からもわかるように、

奈良時代はシノフと清音、

とあり(仝上)、「しのぶ」と「しのふ」は別の言葉であった。しかし、「忍ぶ」は、

意味の類似から、平安時代以後、四段活用の偲ぶと混同、

し、

こらえる、我慢する(平中物語「こと局に人あまた見ゆるを、えしのばで言ひやる」「不便を忍ぶ」)、
表立たないようにする、人目を避ける(拾遺「しのばむにしのばれぬべき恋ならばつらきにつけてやみもしなまし」)、

とある(広辞苑)。大辞林には、

「本来は四段活用の『しのふ(偲)』で、上二段活用の『しのぶ(忍)』とは全くの別語であったが、亡き人・別れた人のことを静かに思い浮かべることと、そのつらさをじっとこらえる(忍ぶ)こととが相通じ、また語形も平安時代にはともに『しのぶ』となったために、両語は交錯し、いずれも四段(五段)と上二段の両方の活用をするようになった」

ともある。「忍ぶ」と「偲ぶ」は別語であったものが、まじりあったのである。音韻的にも、「しのび」(忍)の「の」は、上代特殊仮名遣の、

nö、

であり、「しのふ」(偲)の「の」は、

no、

であり(岩波古語辞典)、別語である。

漢字「忍」(漢音ニナ、呉音ジン)は、

「会意兼形声。刃(ニン、ジン)は、刀のはのあるほうを、ヽ印で示した指事文字で、粘り強く鍛えた刀のは、忍は『心+音符刃』で、粘り強くこらえる心」

とある(漢字源)「忍耐」「堅忍不抜」のように、「つらいことをしのぶ」意であるが、わが国のように「人目を忍ぶ」という、

人目を避ける、
人に目立たないように物事をする、

という意はなく、ましてや、忍者の意の、

しのび、

の意はない。「偲」(漢音し、呉音サイ)は、

「会意兼形声。『人+音符思(こまやか)』」

で、「切々偲々」というように、「うまずやすまず努力する」意や、「其人美且偲」のように「思慮が行き届いている」意であるが、わが国のように、「人を思慕する」意はない。

大言海は、「忍ぶ」は、

しぬぶの転、

とする。そして、「偲ぶ」は、

思ぶ、

とも当て、

しぬぶの転、

とし、

心に忍びて、忘れぬ意、

とする。さらに、この「しぬぶ」に、

愛ぶ、

と当て、愛でる意とし、

しぬぶ(偲)と通ず、

とする。さらに、「しのぶ(忍)」に、

隠ぶ、

と当て、

忍びてあらわざる意、

とする。「しのぶ(偲)」が「シノフ」から濁音化した後、「しのぶ(忍)」とほぼ重なっていく流れは、これでよくわかるが、両者の語源ははっきりしない。

「偲ぶ」は、

誄(しのびごと)、

に淵源するのではないか。「しのびごと」は、

しのひこと、

とも言い、

日本古代以来、貴人の死を哀悼し、生前の功績・徳行をたたえ、追憶する弔辞。誄詞(るいじ)とも呼ばれる。大王(天皇)には殯宮で奏され、功臣の棺前にも賜ったものである、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%84

「『偲ふ(偲ぶ)』は『忍ぶ』とは別の語であり、『賞美する』・『おもひ慕う・懐かしむ』という意味で、『しのひこと』とは、寿詞(よごと)に通じるものであった。」

ともある(仝上)。日本書紀に、

「天皇、病(みやまひ)弥留(おも)りて、大殿に崩(かむあが)りましぬ。是の時に、殯宮(もがりのみや)を広瀬(ひろせ、大和国広瀬郡、現在の北葛城郡広陵町付近)に起(た)つ。馬子宿禰大臣(うまこのすくねのおほおみ)、刀(たち)を佩きて誄(しのびこと)たてまつる」

とある(仝上)。「偲ぶ」の含意は、ここからきているとみていい。大言海は、「誄」を、

思事(しのびごと)の義。多くは、貴人の死に、せしるが如し、

とする。思いを遣ることである。ちなみに、寿詞(よごと)とは、

「賀詞とも書く。祝賀の意を述べる朗読文。祝詞 (のりと) と同じく言霊信仰から発するが,祝詞と異なり,臣下から天皇に奏上し,天皇の長寿と治世の繁栄を祝福する善言,吉言と解される。また各民族の祖の王権への従属の伝承が語られることがあるので,単なる祝言ではなく,従属の誓詞としての性格をも含んでいる。」

とある(ブリタニカ国際大百科事典)。

他方、「忍ぶ」の語源は、

しのぶれど色に出でにけりわが恋(こひ)はものや思ふと人の問ふまで(拾遺集・平兼盛)

のそれだが、日本語源大辞典は、「忍ぶ」は、

気持ちを抑える、痛切な感情を表さないようにする、
動作を目立たないようにする、

が「忍ぶ」の本来の意味で、

我慢する、忍耐する、

は、漢字「忍」を当てたせいで、

「感情をおさえてじっとこらえるところからの転義ともかんがえられるが、外部からの働きかけに耐える意味は、和語『しのぶ』には本来なかった。『しのぶ』が漢字『忍』の訓として定着したことで、漢語『忍』の意味が和語『しのぶ』の意味に浸透していき、次第に我慢という意味が色濃くなっていったと考えられる」

という。是非を判断はできないが、活用が、四段に転じたのとつながるのかもしれない。

この「忍ぶ」の語源もはっきりしない。

息を殺して音のしないようにする動作をいうところから、シノム(息呑)の義(言元梯・日本語原学=林甕臣)、
石の内にある火のように心を外にあらわさないことをいうところから、シノヒはイシノヒ(石火)の略(和訓栞)、
シは柔軟の義。力を受けてこれを支えることをいう。ひそかに匿す意の古語シナムに通じる(国語の語根とその分類=大島正健)、
抵抗の義のシナフのシナと同源(続上代特殊仮名音義=森重敏)、
シノグ(凌)の転(柴門和語類集)、
シノギオヨプ(凌及)の略(雅言考)、
外にあらわさず、シタ(内)にする意から(日本語源=賀茂百樹)、

等々、語源説は諸説あるが、ひねくり廻さないものとして、

シナム、

が面白い。

匿む、

と当て、

包み隠す、

意であり、

隠(しす)ばするの意、

とある(大言海)。

隠すの古語、

とあり(仝上)、

しなぶ、

ともいう、とある。「忍ぶ」に近い言葉に思えるが、確言はしがたい。

ところで、

陸奥(みちのく)のしのぶもぢずり誰(たれ)ゆゑに 乱れそめにしわれならなくに(古今集・河原左大臣)

にある、「しのぶもじずり」(忍捩摺)とは、

忍摺(しのぶずり)の模様が乱れているからとも、捩れ乱れた模様のある石に布をあてて摺ったからともいう、

とあり(岩波古語辞典)、

しのぶずり、

に同じとある。「しのぶずり」(忍摺)とは、

忍草の葉・茎を布に擦り付けて、捩れたような模様をつけたものをいう、

とある(仝上)。

模様の乱れた形状から、しのぶもじずりともいう、

ともある(精選版日本国語大辞典)。「忍草」とは、

しのぶ(忍)、

であり、

「堪え忍ぶ」性質が強いためと言われる、

といわれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%8E%E3%83%96

古くから栽培された。特に棕櫚皮などを丸く固めたものにシノブを這わせ、紐で吊るせるようにしたものをシノブ玉と呼び、軒下などに吊り下げて鑑賞した(つりしのぶまたは釣りしのぶ。夏の季語)、

とある(仝上)。

「行くさきの忍ひ草にもなるやとて露のかたみにおかんとぞ思ふ」(歌仙家集本元輔集)、
「わがやどのしのぶぐさおふるいたまあらみふるはるさめのもりやしぬらん」(古今集・紀貫之」

等々、歌が多いが、

偲種、

と当て、

思い慕う原因となるもの、心ひかれる思いのたね、

の意となり、ここでは、

忍ぶ、

は、ほとんど、

偲ぶ、

と同義で使われている。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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「梁」は、

はり、

と訓むが、

うつばり、

とも訓む。「はり」は、

うつばりの略、

とある(大言海)。「うつばり」は、

平安時代まではウツハリと清音、ウツ(内)ハリ(張)の意、

とある(岩波古語辞典)。大言海にも、「うつばり」は、

ウチバリ、

ともいう、とあり、

内張(ウチバリ)の転にて、屋根内にて柱頭に張り渡すものの意か、

とし、

ウツアシ、
ウチアシ、

ともいう、とある。

「梁」は、

上部の重みを支えるため、あるいは、柱を固定するために、柱上に架する水平材、

とある(広辞苑)。「桁」(けた)と区別して、

棟と直角にかけたもの、

を、

梁、

と呼ぶ、ともある。で、「桁」は、

建造物において柱間に架ける水平部材、

をいうが、

短辺方向に渡された横架材、

を「梁」といい、

梁と直交する長辺に渡される部材、

を「桁」というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%81_(%E5%BB%BA%E7%AF%89)、とあり、

建物の桁行方向(長辺方向)に架ける水平方向の部材が、「桁(軒桁)」です。なお、妻方向に架ける水平部材を「梁」といいます、

とあるhttp://kentiku-kouzou.jp/kouzoukeisan-keta.html

「梁」には、

棟木と直行する方向に横に渡して、建物の上から荷重を支える部材、小屋梁(こやばり)、
柱と柱で支えられている、大梁(おおばり)
大梁に支えられている、小梁(こばり)
床を支える、床梁(ゆかばり)
二階の床下の梁や胴差しの隅のところに斜めに入れて、地震等による建物の変形を防ぐ部材床や小屋組に設ける、火打梁(ひうちばり)

等々がある、というhttps://allabout.co.jp/gm/gc/468049/が、大言海の言う、

家の柱の上に、棟と打違ひに亙し、棟を負ひ、屋根を支ふる材、

つまり、

棟木を受ける木、

であり、

横木の総称で、特に棟と直角に渡すものをいう、

ともある(日本語源広辞典)。小屋梁は、

小屋組の最下部に水平に配した材、

であり、小屋組は、

小屋組は家の屋根を支え受けるために組み立てた骨組、

である(広辞苑)。昔から、

大黒柱が立つと、棟梁が始まる、

という。建物の棟(むね)と梁(はり)である。ついでに、床板を支えている梁が、

床梁、

で、それを支える梁が、

大梁、

小梁、

であり、

「柱に床の荷重を伝える為に大梁は柱と柱の間にかけられます。(必ず梁間の小さい方へ掛け渡す)そうすると集中的に大梁に荷重が掛かるので、大梁の上の直角方向へ小梁を一間間隔で取り付けると床の荷重を均等に大梁へ伝えられるようになります。簡単に言うと、床の荷重→小梁→大梁→柱→土台といった感じです。」

とあるhttps://unchiku.kkf.co.jp/archives/487

ところで、漢字「梁」(漢音リョウ、呉音ロウ)は、

「会意。もと『水+両側に刃のついた刀のかたち』からなる会意文字。のちさらに木を加えた。左右の両岸に支柱を立てて、その上に掛けた木の橋である。両岸にわたるからリョウといい、両と同系」

とある(漢字源)。つまり、「梁」は、左右の両岸に支柱を立ててその上にかけた木の橋、の意である。橋梁(きょうりょう)の意である。建物の場合は

家うち(内)ということで内張り(内張)となり、梁(はり)となった、

とあるhttps://allabout.co.jp/gm/gc/468049/

柱の上に張り渡す、

という意から、

柱の上に内から張って棟を受けることからウツバリ(内張)の義(国語の語根とその分類=大島正健)、
家の中をはることから(俚言集覧)、

と、どの説も、

張り、

と関連付けている。

なお、「柱」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E6%9F%B1)、「桁」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E3%81%91%E3%81%9F)については触れた。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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饅頭


「饅頭」は、

マンジュウ、

と訓むと、

小麦粉・そば粉・上新粉などを練った生地で餡(あん)を包み、蒸すか焼くかした菓子、

を指す(大辞林)が、

マントウ、

と訓むと、

小麦粉を水で練った生地を老麺(ラオミエン)と呼ばれる発酵種を用いて発酵させ、丸めて蒸した国の蒸しパン、

を指す(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A5%85%E9%A0%AD_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD、世界の料理がわかる辞典)を指し、

包子(パオズ)に対し、中に何も入れないものをいう、

とある(デジタル大辞泉)。中国料理の点心の一種になる。

日本では、「饅頭」を、

饅重、
万頭、
蛮頭、
曼頭、

とも当てる。

日本の饅頭の起源には二つの系統があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A5%85%E9%A0%AD、とある。ひとつは、

「臨済宗の僧龍山徳見が1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)に帰朝した際、その俗弟子として随伴してきた林浄因が伝えたとするものである。当初林は禅宗のお茶と食べる菓子として饅頭を用いる事を考えたものの、従来の饅頭は肉を入れるため、代わりに小豆を入れた饅頭を考案されたと言われている。その後、奈良の漢國神社の近くに住居して塩瀬という店を立てたことから、漢國神社内の林神社と呼ばれる饅頭の神社で、菓祖神として祀られている」

とあり、もうひとつの系統は、

「1241年(仁治2年)に南宋に渡り学を修めた円爾が福岡の博多でその製法を伝えたと言われる。円爾は辻堂(つじのどう)に臨済宗・承天寺を創建し博多の西、荒津山一帯を托鉢に回っていた際、いつも親切にしてくれていた茶屋の主人に饅頭の作り方を伝授したと言われる。このときに茶屋の主人に書いて与えた『御饅頭所』という看板が、今では東京・赤坂の虎屋黒川にある。奈良に伝わった饅頭はふくらし粉を使う『薬饅頭』で、博多の方は甘酒を使う『酒饅頭』とされる」

とあるが、大言海は、

「元代の音、暦應四年、元人、林浄因建仁寺第三十五世、徳見龍山禅師に従ひて帰化し、南都にて作り始むと」

とし、語源由来辞典も、

「1349年に宋から渡来した林浄因(りんじょういん)が奈良でつくった、『奈良饅頭』が始まりといわれる」

とし、

「南都の饅頭屋宗二は、先祖は唐人なり、日本に饅頭といふ物を将来せし開山なり」

と、江戸前期の見聞愚案記にもある。たべもの語源辞典もまた、前者を採り、

「南北朝時代の初期興国年間(1340~46)、京都建仁寺の三五世徳見龍山禅師が、留学を終えて元から帰朝するとき、林和靖の末裔林浄因という者を連れて帰国した。この人が日本に帰化して奈良に住み、妻をめとって饅頭屋を開き、初めて奈良饅頭をつくった。浄因五世の孫に饅頭屋宗二(林逸)という。『源氏物語林逸抄』、饅頭屋本と呼ばれる『節用集』はこの人の著作である。宗二の孫紹伴は、菓子の研究に明に渡り、数年して帰ると、一時、三河國塩瀬村に住んでいたが、京に出て烏丸通りで饅頭をつくった。これが塩瀬饅頭である。(中略)紹伴は時の将軍足利義政に饅頭を献じたところ、将軍から『日本第一饅頭所』の看板を賜ったとされている」

とある。林和靖は、中国北宋の詩人林逋、没後に北宋の第4代皇帝仁宗により和靖先生の諡を贈られたため、林和靖とも呼ばれる、とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E9%80%8B。塩瀬饅頭は、今日も、塩瀬総本家としてあるhttps://www.shiose.co.jp/user_data/about_history.php

室町時代の「七十一番職人歌合」の十八番「まんぢう賣」に、

「うりつくす、たいたう餅や、まんぢうの、聲ほのかなる、夕月夜かな」

とあり、同五十七番「調菜」に、

「いかにせむこしきにむさる饅頭の思ひふくれて人の恋しき、さたうまんぢう、いづれもよくむして候」

とある。この当時、

砂糖饅頭、

菜饅頭、

があったことがわかる(たべもの語源辞典、大言海)。

「後者は現在の肉まんに近い物と考えられているが、仏教の影響もあって、近在以前の日本ではもっぱら野菜が餡として用いられた。仏教寺院ではいわゆる点心(ここでは軽食や夜食)の一種類とみなされ、軽食として用いられていた」

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A5%85%E9%A0%AD

「米飯や麺類が主食として存在し、とくに麺類(うどん、そば、素麺など)が早くから軽食として存在した一般社会では、製法の煩雑さなどからほとんど定着せず、甘い饅頭や麺類のように菜饅頭を専門の業者が製造する事もなかった。ただ、寺院における食事の記録には記載されている事が多く、江戸時代に入っても『豆腐百珍』に「菜饅頭」として製法が記載されている事から、寺院等では軽食として長い間食べられていたようである」

とも(仝上)。「大草殿より相伝之聞書」に、

「箸をもって食べ、汁を吸って」

と、「まんぢう」の食べ方が載っているとか(たべもの語源辞典)で、食事のお菜として食べていたらしい。

野菜餡の饅頭は人気が悪く、いつか滅び、饅頭と言えば、餡饅頭になったが、砂糖は、

「日本には奈良時代に鑑真によって伝えられたとされている。中国においては唐の太宗の時代に西方から精糖技術が伝来されたことにより、持ち運びが簡便になったためとも言われている。当初は輸入でしかもたらされない貴重品であり医薬品として扱われていた。精糖技術が伝播する以前の中国では、砂糖はシロップ状の糖蜜の形で使用されていた。
 平安時代後期には本草和名に見られるようにある程度製糖の知識も普及し、お菓子や贈答品の一種として扱われるようにもなっていた。室町時代には幾つもの文献に砂糖羊羹、砂糖饅頭、砂糖飴、砂糖餅といった砂糖を使った和菓子が見られるようになってくる。名に『砂糖』と付くことからも、調味料としての砂糖は当時としては珍しい物だということがわかる」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%82%E7%B3%96

ため、代わりに、

甘茶、

を用いた餡を作った(たべもの語源辞典)。「甘茶」は、灌仏会(花祭り)の際に仏像に注ぎかけるものとして古くから用いられたが、

「甘味成分としてフィロズルチンとイソフィロズルチンを含み、その甘さはショ糖の400あるいは600 - 800倍、サッカリンの約2倍」

とされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%98%E8%8C%B6

「『源氏物語』にある椿餅というのは甘茶を用いたもの」

であるとされる(たべもの語源辞典)。

「饅頭」は、中国の「マントォウ(man-tóu)」(北京語)に由来する。中国では、中身のあるものを、

パオツー(包子 pao-tzŭ)、

饅頭類を、

タオツー(餡子 táo-tzŭ)、

と呼ぶ(仝上)。饅頭の、

「饅は、小麦餅の類をいい、頭は、頭期(第一期)、頭等(第一等)、頭号(第一号)、頭妻は初めての妻となるように、最初の意があり、饅頭とは、宴会の最初に出る小麦餅であった。宴会の最初に出るものが主役の料理になっていた中国であるから、饅頭は重要なたべものであった」

とある。もっとも今日では、中国料理では、饅頭は最後に出すようになったらしいが(仝上)。

この「饅頭」の起源は、北宋時代の『事物紀原』に、

「3世紀の中国三国時代の蜀の宰相・諸葛亮が、南征の帰途に、川の氾濫を沈めるための人身御供として生きた人間の首を切り落として川に沈めるという風習を改めさせようと思い、小麦粉で練った皮に羊や豚の肉を詰めて、それを人間の頭に見立てて川に投げ込んだところ、川の氾濫が静まったという。これが饅頭の起源とされている。」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A5%85%E9%A0%AD_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD

孔明のつくったのは、肉入蛮頭である。「蛮」(マン)は野蛮人という意味があり、同音の「饅」にしたというものである(たべもの語源辞典)。他にも、

インドにマンタ―という麦粉を牛乳で練って丸くした菓子があり、それが中国に入ってマントーとなった、
曼頭と書かれたのは、曼とは皮膚のキメがこまかくつやつやしている意であり、食べ物なので、饅の字に改めた、

といった説もある(仝上)し、

「『事物紀原』などの説が後の明代に書かれた説話『三国志演義』に収録され広く知られるようになったため、その内容を解説されることが多い。『七類修稿』では中華思想で南方の異民族を南蛮と呼ぶので、蛮人の頭を意味する『蛮頭』が語源であるとする。『因話録』では『神をだまし、本物の頭だと信じ込ませる』ことから『瞞頭』(繁体字: 瞞頭; 簡体字: 瞒头; ピン音: mán tóu、発音は同じマントウ)と最初呼ばれたという。その後、饅頭を川に投げ入れるのがもったいないので祭壇に祭った後で食べるようになり、当初は頭の形を模して大きかった饅頭が段々小さくなっていったと言われている。」

とあるが、結局流布したのは、孔明起源のようである。

この「マントウ」が、「マンジュウ」に転訛したのは、どういう経緯か。

「頭は、トウまたはヅであって、ヂュウとは訓まない」

のである(たべもの語源辞典)。一説に、

ヂウは唐音(国語の中に於ける漢語の研究=山田孝雄)、

もあるが、

「現在中国では頭トォウとよまれている。これは饅頭をマントォウとよみ、また、頭をヅとよんで、マンツといったものが、日本に入ってから訛って、マンジュウとなったものであろう」

という(たべもの語源辞典)、のが妥当なのかもしれない。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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松風


「松風」は、

しょうふう、

とも訓むが、

まつかぜ、

とも訓ませる。いずれも、

松の木に吹く風、またはその音、

つまり、

松の梢にあたって音をたてさせるように吹く風、

をいい(たべもの語源辞典)、

松籟(しょうらい)、
松韻(しょういん)、
松濤(しょうとう)、

ともいうが、「まつかぜ」と訓ませた場合、そのほか、それに準えて、

茶の湯で、釜の湯のたぎる湯相の音、

を、

まつかぜの音、

という。さらに、

小麦粉に砂糖・水飴を加えてまぜ、水で溶きのばし、鉄板で上から強く焼いて、罌粟粒を散らしつけた干菓子、

にも、

まつかぜ、

の名を付ける。また、

まつかぜ、

と訓ませ、

能の演目、世阿弥(ぜあみ)改作。「わくらはに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつ侘ぶと答へよ」という在原行平の歌を主軸に、行平を恋慕する二人の海女(あま)の姉妹、松風と村雨の情熱を、夢幻能の構成で幽玄に脚色する、

の意であったりする。ここでは、干菓子の、

松風、

である。菓子の「松風」は、

味噌松風(みそまつかぜ)、

とも呼ばれ、

小麦粉・砂糖・水あめ・白みそなどを混ぜ合わせ、上になる面にけしの実やごまなどを散らし、天火などで焼いたもの。カステラのようにスポンジ状に作って切り分けるもの、せんべいのような薄い板状のものなどがある、

とある(世界の料理がわかる辞典)。

裏には何もつけないので、「浦さびし」の意から名づけた、

という(大辞林)が、名物を名乗る店ごとに、由来が異なるが、古いのは、京都の亀谷陸奥で、

「応永二八年(1421)の開業で、織田信長が石山本願寺の地を手に入れようとして顕如上人に断られると、六万の大軍で取り囲んだ。この籠城の上人に家臣の大塚治右衛門春近が松風を献じた、十一年にわたり法城を護り、やがて信長と和した上人が京都六条の下間少進の邸に宿ったとき、邸内の古松『かたろう松』に吹きわたる松風を聞いて、『わすれては波のおとかとおもふなりまくらに近き庭の松風』と詠まれ、籠城の時に食べた菓子に松風という名をつけた」

とある(たべもの語源辞典)。同社のホームページにも、

「元亀元年(西暦1570年)に始まり、11年間続いた織田信長と石山本願寺(現在の大阪城の地) の合戦のさなか、当家三代目大塚治右衛門春近が創製した品が兵糧の代わりとなり、 信長と和睦の後に顕如上人が、
わすれては波のおとかとおもうなり まくらにちかき庭の松風
と、京都六条下間(しもつま)邸にて詠まれた歌から銘を賜り、 これが『松風』のはじまりだと伝わっています」

と載せるhttp://kameyamutsu.jp/products/matukaze.html。同社では、

「小麦粉、砂糖、麦芽飴そして白味噌を混ぜ合せて自然発酵させて出来上がった生地を 直径約45.5cmの一文字鍋に流し込み、表面にケシの実を振りかけて焼き上げて大きな丸状の 松風が出来上がります」

と紹介している(仝上)。初めは、

「名もなき菓子であったが、松風という名がつき、次第に改良されて今日の名菓になった。今の『六条松風』と同じものである」

とある(たべもの語源辞典)。亀谷陸奥には、

「石山合戦の折に兵糧として考案された『松風』は、文禄(西暦1592~1595年)の頃『六條松風」と呼ばれ、 本願寺門信徒の間で大変親しまれていました。この『六條松風』を偲び、往時の味を求め、辿り着いたのが『西六條寺内松風』です」

とあるhttp://kameyamutsu.jp/products/6jyoumatu.html

たとえば、岐阜の郷士牧野右衛門が、宝暦三年(1752)につくった「松風」は、

「稲葉山の松風から名を付けたというが、これは、在原行平の『立ち別れいなばの山の峯に生ふるまつとしきかば今かへり來む』の歌にあるいなば山は、因幡の山だが、同名の(岐阜の)いなば山ということからである」

と、あれこれ後発組は理屈をこねているが、

江戸後期の田宮仲宣の随筆「東牖子(とうゆうし)」(1803年)には、

「干菓子の松風は、初京都より制し出し、或御方へ御銘を乞奉りしに御覧有て、まつ風と号(なづけ)給ふ。其心は表に火のつよくこげあと、泡立し跡、けしをふりなどし、いろいろのあやあれど、うらはぬめりとして模様なし。うらさびしきと義によりて松風とはなづけ給へりとかや」

とある(たべもの語源辞典)。

「松風」「浦」「寂し」が縁語などとして慣用的に用いられることから、「浦」と「裏」を掛けたもの。京都で作られはじめ、表は焼き色が濃く、けしの実を振って趣があるが、裏は模様もなく「うら寂しい」ので名づけたという、

という(世界の料理がわかる辞典)のは、その故である。たべもの語源辞典は、

「松風というたべものは、表にケシの実をふるとか、にぎやかに化粧してあるが、裏には何も細工をしない。裏が淋しいを浦さびしとして、浦とは、海岸・海辺であるから、浦さびしき風情を考えると、松があってそこに風が吹いて、音を立てる。浦のさびしさは、松風によるものと思えば、松風とよんだのは天晴れである」

と評している。

「松風」という名のつくのは、

松風鶉団子、
松風鱚(キス)、
松風玉子、
松風豆腐、
松風長芋、
松風麩、
松風焼き、

等々あるが、いずれも、

「表側を飾って裏側には手を加えない淋しい感じのするもの」

である(たべもの語源辞典)。

たとえば、「松風焼き」は、

「肉のすり身やひき肉に卵などのつなぎと調味料を混ぜて型に入れ、和菓子の『松風』のように上になる面にけしの実やごまなどを散らし、天火などで焼いた料理。普通、鶏ひき肉で作り、おせちにも用いる。『松風』と略す。鶏のものは『鳥松風』ともいう」

とある(世界の料理がわかる辞典)ように、

和菓子の松風のような見た目をした料理、

である。おせち料理の一つになっているが、黒豆や紅白の蒲鉾、栗きんとんや海老等々は、それぞれに健康長寿だったり金運だったり、子だくさんだったりと縁起に良い意味が込められている、が、松風焼きは、雨や風に耐えて寿命が長いおめでたい松の木に因み、裏には何もない状態から、

裏には何もない、隠し事のない正直な生き方が出来るように、

という意味があるとされているhttps://kikuichi.hamazo.tv/e7719078.html、とか。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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猫にマタタビ


猫にマタタビ(木天蓼)、

という。

猫に木天蓼お女郎に小判、

とか、

猫に木天蓼女郎衆に小判犬に握り飯走って来い、

と続いたりする。

猫に木天蓼泣く子に乳房、
猫に木天蓼犬に伏苓(フクリョウ サルノコシカケ科のキノコ)、

ともいう。似た意味で、

牛の子に味噌、

ともいう。

大好物のたとえ、

としていう。

「ネコ科の動物トラ・ヒョウなどが喜ぶのは、茎・葉・実の中にあるマタタビラクトン・アクチニジンという成分が、ネコなどの大脳や延髄を麻痺させるからである。雄猫は非常に喜ぶが、コネコ雌猫は、雄猫ほどは喜ばない」

という(たべもの語源辞典)。

「マタタビ」は、

木天蓼、

と当てるが、

藤天蓼、

とも書き、

キマタタビ、

ともいう。

「この若葉を食用にするが、タデ(蓼)のように辛い。サルナシ科の蔓性の落葉灌木なので、木天蓼と書いた。雌雄別株で六、七月頃五弁の白い花が咲き夏になると三センチくらいのナツメのような実がなる。花か梅花に似ているので夏梅とか夏椿とも称する。秋、実は熟すると黄色になり、辛味があるが、熟した実はうまい」

とある(たべもの語源辞典)。

と当てるが、「もくてんりょう」と訓み、漢方で、

中風やリュウマチの薬、

として、

マタタビの果実を乾燥させたもの、をいう。

「マタタビは民間的に神経痛やリウマチに応用され、薬用としては一般には『またたび酒』としての利用がよく知られています。市販品の瓶の中に入っている原材料を見ますと、薬用部位が果実であることがわかります。「またたび酒」には砲弾型をした正常な果実が使用されますが、乾燥して市販されているのはタマカの仲間の刺傷によりゴツゴツとした虫こぶとなった果実です。わが国ではこれを『木天蓼実』、『木天実』、あるいは単に『木天蓼』と言って薬用に供していますが、実は中国では蔓性の茎(昨今は枝と葉)を薬用にしてきました。」

とあるが、中国では、違うらしい。

「木天蓼が本草書に初めて記載されたのは唐代の『新修本草』で、『味辛温小毒有り。積聚(臓腑中に気が停滞集結して散らない病態)、風労(感冒による衰弱)、虚冷(虚して冷えること)を主(つかさど)り、苗藤を切って酒に浸すか或いは醸して酒にして服すると大いに効果がある』とあり、薬用酒を造る部位は茎であるとあります。ただ果実に関しては、『大棗のようで定まった形がなく、茄子のような種子をもち、味が辛くて姜や蓼に当てる』と記載があり、生姜やタデの代用食にされていたようで、味が辛いことから薬用としても『天蓼子は身体を温め、風湿を除くのに使う』と同じ唐代の『薬性論』に茎と良く似た薬効が記載されています。わが国でもっぱら果実を薬用にするのはこうした薬効の類似性と見た目の良さに依っているのかも知れませんが、虫えい(虫瘤)が好まれるようになった理由は定かではありません。あるいは虫えいの方が単に水分が少なくて保存性に勝っていたからなのかも知れません。」

https://www.uchidawakanyaku.co.jp/tamatebako/shoyaku_s.html?page=071、中国とわが国では、薬用にした部位が異なっているようである。ちなみに、「虫えい(虫癭)」とは、

虫こぶ(虫瘤)

の意で、

植物組織が異常な発達を起こしてできるこぶ状の突起のこと、

であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%AB%E3%81%93%E3%81%B6。葉や細枝、花や果実などにも見られるとある。

さて、「マタタビ」は、古名は、

ワタタビ(蒟醤)、

きんま(蒟醤)、

であり、一名、

萆発(ひはつ)、

であり、

木蓼、
天蓼、
辛椿、

いずれも「またたび」である、とある(たべもの語源辞典)。「マタタビ」は、

ワタタビの転、

である(仝上、大言海)。古くは『本草和名』(918年)に、

和多々比(わたたひ)、

『延喜式』(927年)に、

和太太備(わたたび)、

の名で見えるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%BF%E3%82%BF%E3%83%93、とある。

「疲れた旅人がマタタビの実を食べたところ、再び旅を続けることが出来るようになった」ことから「復(また)旅」と名づけられたというのは、俗説である。

長い実と平たい実と二つなることから、「マタツミ」の転訛(日本釈名・滑稽雑誌所引和訓義解)、
アイヌ語の、「マタタンプ(マタは冬、タンプは亀の甲の意味)」が転じた(秋田の方言で、「マタタンブ」という。「ワタタビ」も、「マタタンプ」の転)(牧野新日本植物図鑑、語源由来辞典)、
和製漢語の天蓼、アマ(ヤマ)+タデ(蓼)に、接尾語ビ(ヒリヒリ辛味)の音韻変化(日本語源広辞典)、

等々諸説あり、

アイヌ語の「マタタムブ」からきたというのが、現在最も有力な説のようである、

としhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%BF%E3%82%BF%E3%83%93

「『牧野新日本植物図鑑』によるとアイヌ語で、『マタ』は『冬』、『タムブ』は『亀の甲』の意味で、虫えいを意味するとされる。一方で、『植物和名の研究』(深津正)や『分類アイヌ語辞典』(知里真志保)によると『タムブ』は苞(つと)の意味であるとする」

とある(仝上)。しかし、たべもの語源辞典は、

「(ワタタビの)ワは、本物でないもの、偽のものという意味で、タタは蓼、ビはミがなまったものである。女房ことばにタデの辛い葉の汁をタタミジル(蓼水汁)と呼んでいる。古くはタデをタタといった。ワタタミ(偽蓼実)がワタタビ・マタタビとなった」

としている。アイヌ語を採らなくても、「木天蓼」と「蓼」を使っている以上、蓼との関連があると思うのが自然ではないか。似た説に、

ワルタダレミ(悪爛実)の転。ワルはワサビのワと同じ。タダレはタデ(蓼)と同じ(名言通)、

もあるが、「蓼」の語源説に、

爛れの意にて、口舌辛きより云ふ、

とある(大言海)。ならば、「タダレ」でなく「タデ」でよいのではないか。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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蓼食う虫


「蓼食う虫」は、

蓼食う虫も好き好き、

ともいう。どうも、

蓼食う虫は辛きを知らず、

は、

蓼虫不辛(りょうちゅうぼうしん)、

ともいい、大言海には、

孔叢子(くぞうし)、蓼蟲賦「是蟲幼長、斯蓼不為辛」
白氏長慶集、自詠「食蓼蟲不知苦是苦」

が挙げられているが(叢子は魏晋の頃の偽書とされるし、白氏は唐の人であるので)、

邊城使心悲、昔吾親更之
冰雪截肌膚、風飄無止期、
百裏不見人、草木誰當遲、
登城望亭燧、翩翩飛戌旗、
行者不顧反、出門與家辭、
子弟多俘虜、哭泣無己時
天下盡樂土、何為久留茲、
蓼虫不知辛、去来勿與諮、

という王粲の詩「七哀詩」の一節、

蓼虫不知辛、

が出典ではないか、とみなされる。

人の好みはそれぞれで、一概には言えない、

という意味であるが、

人の好き好き笑う者馬鹿、
面面の楊貴妃、
割れ鍋に綴じ蓋、

等々も似た意味になる。ちなみに、王粲は、

中国後漢末期の文学者・学者・政治家。字は仲宣。曹操から招かれて丞相掾となり、関内侯の爵位を授けられた。後に軍謀祭酒へ昇進した。建安18年(213年)、曹操が魏公になると侍中に任命された。王粲は博学多識であり、曹操が儀礼制度を制定するときは、必ず王粲が主催した。建安22年(217年)、41歳で病死した。

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E7%B2%B2。「七哀詩」は代表作の一つ。

南宋時代の「鶴林玉露」には、

氷蚕は寒さを知らず、火鼠は厚さを知らず、蓼蟲は苦さを知らず、蛆虫は臭さをしらず、

とある(語源由来辞典)、とか。

「蓼」(リョウ)は、

会意兼形声。翏(リョウ)は、ばらばらに離れる意を含む。蓼はそれを音符に艸を加えた字で、細い葉がバラバラに生えた草、

とある(漢字源)。「たで」の意である。

タデ(蓼)は、

タデ科イヌタデ属の総称

であるが、狭義にはサナエタデ節の、

ヤナギタデ(柳蓼)、

を意味するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%87、とあり、本来の「タデ」はこの種で、「蓼食う虫」の蓼もこの種であるらしい(仝上、語源由来辞典)。

ヤナギタデは、別名、

マタデ、
ホンタデ、

といい、

カシコグサ(蓼草)、

ともいう(たべもの語源辞典)。

石龍、
苦菜、
辛菜、
紅草、
葒草、
天蓼、

とも書く(仝上)。

「特有の香りと辛味を持ち、香辛料として薬味や刺身のつまなどに用いられる。野生の紅タデがもっとも辛く、栽培種の青タデは辛さが少ない」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%87

「茎葉ともに赤みを帯び、葉の形が丸いものは、柔らかで辛味が強く、葉の厚いものは辛味は辛味は少ない」

とある(たべもの語源辞典)。かつて、武士はその宅にタデを多く植えてもっぱら飯の菜にした、という。松平伊豆守も武士の宅には蓼を多く植えるべきだと訓(おし)えている、とか(仝上)。

さて、「たで」の語源であるが、

二葉のときから辛味をもってでるところから、タテ(持出)の義(柴門和語類集)、
葉の色がホテル(火照)からタテ(たべもの語源辞典)、
病を絶つところの草というのでタデとなった(仝上)、
シタアジアレ(舌味荒)という意からタデとなった(仝上)、
トカタケ(咎闌)の転訛(仝上)、
十勝のアイヌ語で「蓼」をダンテという(北海道あいぬ方言語彙集成=吉田巌)、

と、諸説あるが、たべもの語源辞典は、

「『ダデ食う虫も好き好き』ということわざがあるように、これを噛むと口中がタダレルほど辛いというタダレ(爛れ)がタデとなったというのが良い」

とし、大言海も、

爛れの意にて、口舌に辛きより云ふと云ふ、

と同説を採る。

タダアレ(直荒)→タダレ(爛れ)→タデ(蓼)の変化(語源辞典・植物篇=吉田金彦)、

も同じである。この感覚が語源とするのでよさそうである。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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ぺけ


「最下位の意味の『ぺけ』(中略)も使うが、ふだんは最下位の意味では『びり』を使うことが多い。(東京女子大学教授の)篠崎(晃一)氏によれば『びり』は東日本に多い言い方ではあるが、全国に広がっていて共通語に近いという。ちなみに西日本では『どべ』が優勢だそうだ」

とあるhttps://japanknowledge.com/articles/blognihongo/entry.html?entryid=110が、

「ぺけ」は、

どべ、
びり、

とは異なり、

×、

の意が強い気がする。「×」は、

かける、

の意もあるが、

ばつ、
ぺけ、
ばってん、

と訓むことが多い(一般的には関東ではバツ、関西ではペケと読む傾向がある)。また、「ぺけ」は、「びり」の、

一番下の順位。最下位の者、

を表す東京での言い方として、

「かけっこでペケだった」

というように使い、他方関西では、「×」のしるしを、

「ぺけをつける」

というように表現する、とある(大辞林)。

ところで、江戸語大辞典には、「ぺけ」は、

マレー語ベッギ(pergi)の訛り。横浜の居留地で外国商社の売買手合わせが破談になることをいうにはじまる、

とある。

だめ、
ばか、

の意とある。

「少しぺけさね。ト新助を見て嘲笑ふ」(万延元年・縮屋新助)

という用例が載る。大言海は、

馬來語。ベッギ(pergi)より出づと云ふ説、

と並べて、

支那語「プコ」(不可)の転訛なりと云ふ説、

の二説を挙げ、

されど、前説を是とすべし(新村出の説)、

と、マレー語説を採り、

「かんじんの間にあはねへじゃ、ペケだとだらふし」(文久「滑稽道中膝車」)、

の用例を載せつつ、

「元治元年刊の、横濱みやげ、巻末附載の異国言葉語彙表に、『きにいらぬ、ものをすてる、人をかいす、じゃまになる、うりかひはたん(商談破裂)に、ペケの語をあてたり』」

とある、とする。これで決まりのようだが、多く、

中国語のbuke不可から、
と、
マレー語のpergiで「あっちへ行け」の意から、

の二説が並立している。広辞苑も、日本語源広辞典も、由来・語源辞典も、二説併記する。

日本語源大辞典も、

マレー語pergiの転訛(外来語の話=新村出・大言海・ことばの事典=日置昌一・上方語源辞典=前田勇)、
中国語「不可(puko)」の訛(ことばの事典=日置昌一・すらんぐ=暉峻康隆・外来語辞典=楳垣実後)、

と各語源説の主張者を整理している。

ところで、隠語大辞典は、「ぺけ」に、

不可、

を当て、

①支那語不可の訛、よからぬこと。悪しきこと。「ぽこぺん」。
②不可。不成立。破談。悪い。などの意。不可の支那音の訛りとも、又馬来語Pergiの転化なりともいふ。横浜神戸辺の商業用語としては、買主(主に外国商館)が商品買取りの談合を中止し受渡しを拒絶する事を云ひ、その商品を「ペケ品」などといふ。
③駄目だといふこと。支那語のぽこぺんから転訛したもの。
④駄目だといふこと。
⑤マレイ語のpergiの転じたものであるといはれ、又和蘭人が馬鹿をBakaと記したのを英人がペケと誤読したのだといふ説もある。明治初年横浜の居留地から起つた言葉である。可からずといふ意で、愚案、失敗、拒絶、不採用、軽い排斥等の意味がある。
⑥マライ語のPergiの転訛したもので、不可、不成立、破談など駄目なることに広く用いられる。

と、諸説を併記するhttps://www.weblio.jp/content/%E3%81%BA%E3%81%91。「ぽこぺん」は、

中国語で「元値に足りない」の意味から、

話にならない、

という意で、

「ポコペンは兵隊シナ語と呼ばれている言葉の一種であり、日清戦争の時代に既に使われていた言葉でもある。語源は清朝時代の中国語の『不彀本』(元値に足らずの意)が有力である。森鴎外の『うた日記』の中には『不彀本(ぷうこおぴえん) 很貴(へんくい)と 値(ね)をあらそひて さわぐ聲(こゑ)』とある (很貴は『とても高い』の意)」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%B3%E3%83%9A%E3%83%B3。「ペケ」と似た意味で、

取るに足らない、くだらない、だめ、

という意味で使われる(これが転じて、屋外で行う遊びの一種「缶けり」や、それに似た遊びをポコペンと呼ぶ場合がある)。

「大阪弁」は、「ぺけ」「ぺけぽん」を、

「『×』印。たすき印。不可、悪しの意。江戸時代末期に外国商社との破談で使われはじめた。近畿、東海、山陽、北四国での表現。土佐、甲信、関東、南奥羽で「ばつ」、北陸、北奥羽、紀伊、安芸、九州で『かけ』『かける』、山陰で『しめ』、出雲で『じぃもんじ』、津軽で『えっきす』などという」

とあるhttps://www.weblio.jp/content/%E3%83%9A%E3%82%B1?edc=OSAKA。仮名垣魯文の「安愚楽鍋」(1871‐72)に、

「相談のできかかったきゃくにペケにされたり」

とあるように、この言葉は、どうやら、幕末開国以後に起こったようである。どちらとも決めがたいが、大言海に載る、

横濱みやげ、巻末附載の異国言葉語彙表、

を見る限り、マレー語『由来・語源辞典』見ていいのではないか。中国との交易は江戸時代を通して続いていたのだから、不可説は、後の付会に思える。

「一外交官の見た明治維新」(アーネスト・サトウ)」には、

(当時の横浜居留民が商用のために一種の私生児的な言葉を案出していて)中でも、マレー語の駄目(ペケ)peggi、破毀(サランバン)は大きな役をつとめ、

とある由http://e2jin.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/71-1a75.htmlで、peggiはpergiと思えるので、マレー語由来の傍証にもなりそうである(仝上)。

なお、「びり」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba8.htm#%E3%81%B3%E3%82%8Aについては、触れたことがある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

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求肥


「求肥」は、

こねた白玉粉(または餅粉)を蒸し、砂糖・水飴を加え、火にかけて練りかためた菓子、

で、柔らかく弾力がある。

「蒸したもち米を搗くことで粘りを出す餅に対し、求肥は粉にしたもち米に水と砂糖を足して火にかけて練ることで粘りを出す。生地粉に対して大量の砂糖や水飴が使用されているため(白玉粉または餅粉1に対して砂糖2、水飴1の配合が多い)、糖のもつ保水性により製造してから時間が経過しても柔らかく、食べる際の加熱調理が不要である。」

ともあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%82%E8%82%A5。求肥の作り方には、

・水練り 白玉粉やもち粉に水を加えて練り上げ、次に、砂糖や水あめをプラスします。その後、加熱をしながら練っていく製法です。しっかりと練り上げることで、滑らかな食感になり、柔らかな仕上がりになります。
・茹で練り 白玉粉やもち粉をしっかり練ります。1度茹でた後に、砂糖や水あめを加えて、さらに練る製法です。
・蒸し練り 白玉粉やもち粉を1度蒸した後に、砂糖などを加えて、更に練る作り方です。水練りに比べて日持ちしやすいのが特徴、

とあるhttps://wagashi-season.com/%E6%B1%82%E8%82%A5/

「求肥」は、

求肥飴、
求肥糖、
明糖、

ともいう。もともと「求肥」は、

牛皮、

と当てた。中国から渡来したが、

牛脾、

と書き、

祭祀に用いられていたものが、牛のなめし皮のように柔らかいところから、

牛皮、

と書かれた(たべもの語源辞典)。あるいは、

昔の求肥はもち米の玄米で作られていたため浅黒く、牛の皮をなめしたように柔らかいことからの名、

とある(語源由来辞典)し、

昔は黒砂糖や赤砂糖を用いたので色が汚らしく牛皮と呼ばれ、御所ことばでは「うし」とも書かれた、

ともある(たべもの語源辞典)。だから、

牛皮、
牛肥、
牛皮飴、

と書かれた、とある(仝上)。ただ、

中国の類似の菓子で、砂糖に澱粉を加えて煮て作る飴が「牛皮糖」と呼ばれることから、日本への伝来当時は牛皮であった、

とする説もある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%82%E8%82%A5)。書言字考節用集(1717年)に、

「牛脾飴(俗作)求肥、蓋牛脾、支那祭祀所用者、今制据焉」

とある(大言海)。志のぶ草に、

「求肥飴、初メテ唐より渡りし時には、牛皮と、銘有りしを、院の聞こし召しあげられし時、字を書きかふべしとの命有りて、改め給ふ」

とある(大言海)。

飴は脾腹を肥やすという意味から求肥とした、

と(たべもの語源辞典)、いう。ただ、

牛皮を求肥と書き換えたのは上杉家で、軍用食料品として保存がきくので求肥と命名した、

という説もある(仝上)。同諏のことは、

「江戸時代では上杉家が、軍用食糧品として保存が効くので、牛皮を求肥と命名したともいわれ、このころはくず粉・わらび粉・玉砂糖を 餅米粉に入れて火にかけてねり水飴を混ぜて冷やしたものだったそうです」

とあるhttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1317673943

「寛永年間(1624~44)に上使(幕府から武臣を禁廷の上す)出雲の松平越中守直政が求肥飴を召されて、江戸に変えられてから、この菓子を尋ねられたが、そのころ江戸に求肥を作る者がなかった。そこで京都から中島浄雲という京都菓子司を呼んで求肥をつくらせた。この子孫が丸屋播磨の店名で継承したので、求肥屋と称した」

とある(仝上)。

なお、江戸時代の初期には、

「葛粉・蕨粉・玉砂糖の三味を糯米粉に入れて火にかけて煉り、さらに水飴を混ぜて煉って冷ましてから菱型に切った。糯米を主材料にしたので求肥餅とよばれたが、次第に餅より飴に発達して文化・文政(1804~30)のころにはその技術は最高となり、加工品もできた。餡を求肥で包んだものは、羽二重餅といった」

という(仝上)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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寺納豆


「納豆」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E7%B4%8D%E8%B1%86については触れたが、その由来に、

寺納豆に起り、納所の僧の豆の義かと云ふ、

という説がある。大言海自身、「いかがか」と疑問符を付けているが、「寺納豆」とは、

寺院で製造する納豆、歳暮に檀家へ贈る、

とされ(広辞苑)、この名がある、という。「納豆」という言葉は、

「平安中期の『新猿楽記』の中で『精進物、春、塩辛納豆』とあるのが初見で、この『猿楽記』がベストセラーになったことにより、納豆という記され方が広まったとされる」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%8D%E8%B1%86

「納豆は精進料理として主に禅寺の納所(なっしょ、寺院の倉庫)で作られた食品で、これが名前の由来という説が『本朝食鑑』(1697年刊)という書物に載っている。納所に勤めていた僧侶が納豆作りをしていたので、納所の字をとって『納豆』になったという。ただし、『本朝食鑑』では、禅の伝来以前に『新猿楽記』に名があることから寺社起源説には疑問符をつけている」

大言海の疑問符は、この故と思われる。しかし、

「この納豆の名称は、『納所豆』が納豆になったという説がある。納所(なっしょ)というのは、寺院の給食関係までを含めた事務を執る部署で、この納所で給食用に製造した大豆加工品が、納所豆といわれ、それが納豆になったというのである」

とある(たべもの語源辞典)し、

「僧侶が寺院で出納事務を行う『納所(なっしょ)』で作られ、豆を桶 や壷に納めて貯蔵したため、こう呼ばれるようになったとする説が有力とされている。『なっ』は呉音『なふ』が転じた『なっ』で、『とう』は漢音『とう』からの和製漢語である」

ともある(語源由来辞典)。遣隋使、遣唐使また留学生、留学僧などによって中国からもたらされたもので、

「寺院や宮廷貴族の間で珍重され、当時の国分寺などでも作られたので、鎌倉・室町時代には、広く用いられ、大徳寺の大徳寺納豆や浜松の名産になっている『浜納豆』がその名残である」

とある(たべもの語源辞典)。当時の文化の最先端である寺院で主として作っていた、というのでいいのかもしれない。

ただ、「寺納豆」と呼ばれるものは、今日の「納豆」、つまり、

糸引き納豆、

とは別種で、

塩辛納豆、
浜納豆、
大徳寺納豆、
唐納豆、

等々とも呼ばれる。

大豆を蒸煮して、煎った小麦粉を加えて発酵させ、食塩水につけ、さらに香辛料を加えて長期間乾燥させた粒状の納豆。味噌に似た風味がある。

とある(精選版日本国語大辞典)。

「豆腐と同じように、中国から製法が伝わったものである。中国では、納豆を『鼓(し)』といった。これは後漢時代の文献に現れている。日本に伝わったのは古く平安時代の『和名鈔』に和名クキ(久喜)としてある。鼓をクキとよんだ。中国の鼓には、淡鼓、塩鼓がある。淡鼓が、日本の苞納豆(糸引き納豆)にあたり、塩鼓が日本の浜名納豆・寺納豆・大徳寺納豆の類である」(たべもの語源辞典)

とある(日本語源大辞典)。これは、

「茶菓子としても利休以下多くの茶人に愛され、京菓子の中には餡の中にこの納豆をしのばせたものもある」

とか(仝上)。

「糸引納豆が登場したのは中世以降のことであり、それ以前の定義で「納豆」とは、麹菌を使って発酵させた後に乾燥・熟成させたものであった。製法も風味も味噌や醤(ひしお)に近い」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%8D%E8%B1%86

ただ、この「くき」と呼ばれたものは、

「奈良時代頃に醤の一種として伝来したのではないかとされ、つまり元来の納豆は調味料の一種であった。古い史料では『久喜』(くき)の名で言及されているが、平安時代には「納豆」という名でも呼ばれるようになった。なお、『塩豉』のほかに『淡豉』という名のものがあったらしいが、これは平安時代以降姿を消している」

ためhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%8D%E8%B1%86、今日「寺納豆」として残っているものは、室町時代、

「北宋や南宋に渡航した僧たちが塩辛納豆を持ち帰り、再度国内に紹介した。寺院内でも盛んに生産したことから、これらは寺納豆とも呼ばれるようになった。こうした伝統を持つものが今でも京都の大徳寺(大徳寺納豆)、天龍寺、一休寺や浜松の大福寺などで作り続けられており、名物として親しまれている。このうち浜松地方で作られる塩辛納豆は浜納豆の名称で販売されている」

とあるところ(仝上)から見ると、かつて「くき」と呼ばれていたものの流れの直系ではなく、あるいは、再度輸入されたもの、ということになる。

室町期になると納豆,唐(から)納豆と呼ばれ,のちには寺院でつくることが多かったため寺納豆ともいった、

とある(世界大百科事典)。この頃、「糸引き納豆」は、

「室町中期になると、公家の日記などに登場する(『大上臈御名之事』に『まめなっとう、いと』)、『御湯殿上日記・享禄二年一二月九日』に『いとひき』などの例があり、女房詞で『いと』『いとひき』と呼ばれていた。当時の生産地が近江であることなどを考え合わせると、近畿で創出された可能性も高い」

とあり(日本語源大辞典)、糸引納豆が広く知られるところとなり、日常食として消費されるようになるとともに、「納豆」という言葉もまず糸引納豆を意味するように変化していった。で、区別するために、「寺納豆」「唐納豆」という名が付いた、とみられる。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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「寺」は、

寺院、

の意であるが、特に、

三井寺、

つまり、

園城寺、

を指す、とある(広辞苑、岩波古語辞典、大言海)。他に、寺銭、寺子屋の略でも使うが、「寺」(漢音シ、呉音ジ)は、

「会意兼形声。「寸(て)+音符之(足で進む)」。手足を動かして働くこと。侍(はべる)や接待の待の原字。転じて雑用をつかさどる役所のこと。また漢代に西域から来た僧を鴻臚寺(コウロジ)という接待所に泊めたため、のち寺を仏寺の意に用いるようになった」

とある(漢字源)。同様、

「本来、中国漢代においては、外国の使節を接待するための役所(現代でいう外務省)であったが、後漢の明帝の時にインドから訪れた2人の僧侶を鴻臚寺(こうろじ)という役所に泊まらせ、その後、この僧侶達のために白馬寺を建てさせ、住まわせたことが、中国仏教寺院の始まりである」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E9%99%A2

また、日本では、薬師、大師、不動尊は、

寺、

で、大社、稲荷、神宮、八幡、天神は、

神社、

を指す(仝上)、ということになる。

寺院の建造物は、

礼拝(らいはい)の対象を祀る「堂塔」

と、

僧衆が居住する「僧坊」

とに、区分される。「堂塔」は、釈迦もしくは仏陀の墓を指すので、祖形は、

土饅頭型、

であったが、中国などで堂塔となり、その様式が日本に入ってきて、三重塔・五重塔・七重塔などが立てられた。「僧坊」は、インドではヴィハーラと名づけられて、僧侶が宿泊する場所であり、釈迦在世の時代から寄進された土地を指したが、中国に入ると僧坊が建設されることが多くなり、堂塔が併設された(仝上)。

「寺」の語源は、広辞苑は、

パーリ語thera(長老)、
または、
朝鮮語chyöl(礼拝所)、

とし、大言海も、

刹(セツ)の字の朝鮮語の、chyöl(礼拝の義)の転訛とも云ひ、又、巴利(パアリ)語の、thera(長老の義)の轉とも云ふ。寺(ジ)の字は梵語vihāra(毘訶羅)の漢譯。寺はもと宮司の名なりしが、摩騰、法蘭、初めて支那に來りし時、鴻臚寺と云ふ役所に館せしめしより、僧居を指して一般に寺と云ふに至れり。

とする。「刹」(サツ、セツは慣用)は、名刹(めいさつ)、古刹(こさつ)(刹那はせつなと訓む)は、

仏教徒が寄進する旗柱、

の意で、転じて、

寺、

の意。大言海には、

梵語刺瑟胝(yaṣṭi)の瑟胝の音譯字。表相の義にして、旗幢(ハタボコ)の意となり、それを、寺の標識に建て置くに因りて、寺の事となれるなり。万葉集「婆羅門の、作れる小田を、喫(は)む鳥、瞼腫(マナブク)れて、旗幢(ハタボコ)に居り」とあるは、奈良の大安寺の婆羅門僧正が、寺田を作れるを、鳥、来たりて啄めるが、説法を聞きて、懺悔して泣く意の詠也と云ふ、

とある。「刹」は、

棒・旗竿、
あるいは、
塔の心柱、

の意。仏堂の前に宝珠火炎形をつけた竿を立て寺の標幟(ひょうじ)としたところからいう(デジタル大辞泉)、ともあるが、仏塔の中心となる柱、塔の心柱(しんばしら)の意では、日本書紀・推古元年正月一六日に、

「仏の舎利を以て法興寺の刹(セツ)の柱(はしら)の礎(つみし)の中に置く」

とある(精選版日本国語大辞典)。

寺院では仏堂の前に標幟として旗竿を立てる風があった、

ところから、

塔の心柱、

の意へシフトしたものらしい。仏教伝来のプロセスで、

朝鮮語チョル(chyöl)、

から転化したのか、それとも、パーリ語、つまり、

南伝上座部仏教の経典(『パーリ語経典』)で主に使用される言語、

の、

thera

から来たか、いずれかだと思われる。音から見ると、パーリ語だが、意味から見れば、朝鮮語に与したくなる。その他、

荘厳に照り輝くところからテラス(照)の略(和句解・日本釈名・塩尻・和語私臆鈔・言元梯・和訓栞)、

その他の異説もあるが、

朝鮮語チョル(chyöl)、

パーリ語thera、

だろう。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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寺銭


「寺銭」とは、

てらせん、

あるいは、

てらぜに、

とも訓み、

ばくちや花札などで、その場所の借賃として、出来高の幾分かを貸元または席主に支払うもの、

の意(広辞苑)で、正確には、

博奕場(ばくちば)を開く貸元の収入になる金。その日の賭金(かけきん)総額中の幾分かを寺銭

とし(百科事典マイペディア)、

さいころ丁半賭博の賭場では,勝った客が取得する金額の5%を寺銭とし,2個のさいころがゾロ目といって同じ目になったときだけ,10%の寺銭をとった、

とか(世界大百科事典)、

寺銭は勝ったほうからとるが、賭(か)け金の四分が原則で、ほかに、六の目がそろったときは1割、二つの目がそろったとき、または丁で2、4、6、半で7の目数が出たときだけとる、

などいろいろな方法が行われている(日本大百科全書)が、

賭博の勝負毎にその縄張の親分に奉る口銭で、これは普通中盆が集め寺箱に納めて親分に届けるものである、

とある(隠語大辞典)。「中盆」(なかぼん)というのは、

盆の中央丁の側に座し賭金の賭け合せの指図、賭金の受渡及寺銭の徴集を為す役、

を指し、

胴元の助成者。賭場の議事進行係ともいうべきもので賭博運行には絶大の権力をもつている。振子が壷を振つて伏せるのは中盆の号令による。又寺銭を集めて寺箱を親分の代理に保管するのも中盆である、

とある(仝上)。「胴元」とは、

賭博の開帳者、

で、

寺銭をとる者、

であるが、

胴親、
胴取、

ともいう。

賭博の胴即ち壷皿の権利を持つてゐる親分の意、

である(仝上)。「寺銭」は、

寺金(てらきん)、

とも、単に、

てら、

ともいう(広辞苑)、とある。江戸語大辞典の言うように、

賭博開帳者の徴収する口銭、

つまり、

手数料、

である。「寺銭」の語源は、

江戸時代に寺社の境内を賭博を行う場として選び、賭博による儲けの幾らかを寺社に寄進していたことからこう呼ばれるようになったという

説が多いhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E9%8A%AD。寺社の敷地内は寺社奉行の管轄であり、違法な賭博が開催されても町奉行による捜査・検挙が困難だったからだ(仝上)、というのである。

江戸時代に取締りがゆるやかだった寺社奉行支配下の寺社の境内に,仮設の賭博場をつくり,賽銭勘定場と称し,手数料のもうけを寺へ寄進する形式をとったことに由来するという。のちに一般の賭博場でも寺銭というようになった。関西ではカスリともいう、

ともある(世界大百科事典)。別に、

寺銭は、その賭博場を縄張りとする親分が開帳したときの名称で、他人の縄張りを借りて開帳したときは「かすり」といい、親分が隠居したのち新しい親分から隠居料として利益の何割かを受け取るのを「こく取り」という、

ともある(日本大百科全書)。この方が正確であろうか。

確かに、

寺銭という名称は江戸時代につくられたもので、その由来については、寺で賭博を開帳したから、寺の建立費にあてたから、

などといわれる(仝上)が、どうもこういう語源が、理屈ばっているときは当てにならない。寺でやっているから、寺銭というのは、いかがなものだろう。

江戸語大辞典は、

寺は照の意で、灯を照らす料金の意、

とする。あるいは、

盆の上を白い布で覆うところから、褞袍(どてら)のてらと同じく、布をてらといい、盆茣蓙(ござ)の上の手数料という意味でてら銭といったとする、

説がある(日本大百科全書)。他にも、

ドテラ(温)、テテラ(褌)などのテラと同義で、布や布団の意味である、

としているものがあるhttp://www.usamimi.info/~kintuba/zingi/zingidic-ta.html

しかし、隠語として、「てら」の意は、

火ノコトヲ云フ、
燈火ノコトヲ云フ、

とあり(隠語大事典)、さらに、「テラ」を、

宿ノ主人ノコトヲ云フ、

というのもある(仝上)。どれもそれらしく思えるが、「寺銭」は、

博徒の親分が賭場を開帳した節、そのバクチ場に集まってきた多くの人々を保護する代償として、客人の利益の内から、頭をはねるその銭のこと、

であり、

昔は賭博場の灯火代として「照銭」を集めたのがいつか寺銭となったもの、

とある(仝上)のを採りたい。江戸語大辞典の説である。

「てら」は「照す」の意にて接尾語、接頭語として諸種の言葉を作る。例へば「てらあがる」と云へば「日が上る」との意にて「たかてら」と云へば、「提灯」のことである、

ともある(仝上)のである。この「てら」からきているのではあるまいか。

参考文献;
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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ねむい


「ねむい」は、

眠い、

と当てる。形容詞である。「ねむい」は、

ねむりたい気持ちである、
ねむたい、

という主観表現の意味と同時に、

眠りたくなっている状況、

という状態表現の意である。「ねむい」の同義語、

ねむたい、

は、古く、

ねぶたし、

であり、

「ねぶ(眠)りいた(甚)し」の変化した語、

とある(学研全訳古語辞典、岩波古語辞典)。とすると、

ねぶたし→ねむたし→ねむし、

と転訛したとも考えられるが、もうひとつ、憶説だが、「むむい」の文語、

ねむし、

は、

ねむりたし、

が、

ねむし、

に転訛したのではないかという気もする。「たし」は、

鎌倉時代に入ってから多く文献に現れ、希求の意を表す、

とあり、動詞の連用形につく、とある(岩波古語辞典)。そして、

「まほし」と同様に、話し手の希望を表すだけでなく、客観的に第三者の希望をも表すことができる、

とある。

ところで、「ねむる」(眠る・寝る・睡る)自体、

ねぶるの転、

であり、かつて、

ねぶる、

であった。

この「ねぶる」(寝る・眠る)は、

寝経るの転かと云ふ、いかがか、

と大言海は、いささか疑問符を付けている。日本語源広辞典は、

ネブル(寝+経る)、寝た後次第に時間がたつ意、

と共に、

ネニブル(寝+鈍る)、寐た後、いつしか感覚が鈍くなる意、

を挙げる。語源は、理屈だっているものは大概、語呂合わせと決まっている。「いつしか感覚が鈍くなる」というのは、いかがなものだろうか。この他、

ネフル(寝振)の義か(和句解)、
ネム得るの意。ネは収まり静まる意(国語本義)、
夢の国に遊ぶ意のネミ(寝見)を活用させた語(日本古語大辞典=松岡静雄)、

があるが、

寝経る、

が順当か。ところで、「ねる」の、

ね、

自体が、

寝、

と当て、

横になる、
臥す、
寝る、

といった意味であり、これは、

ぬ、

ともいい、

つれもなく人をやねたく白露の起くとは歎き寝(ぬ)とは忍ばむ(古今集)、

という用例がある(大言海)。さらに、

なし(寝し)、

の「な(寝)」ともいい、

寝(ね)の尊敬語、

とあり(岩波古語辞典)、

門に立ち夕占(ゆふけ)問ひつつ吾(あ)を待つとな(寝)しすらむ妹(いも)を逢ひて早見む(万葉集)、

という用例がある。さらに、

いぬ(寝ぬ)、

の「い」も、

寝、

と当て、

イは睡眠、ヌは横になる意(岩波古語辞典)、
寝(イ)を寐(ス)る意(大言海)、

と解釈が分かれるが、「い」は「寝」の意であり、

大原の古りにし里に妹をおきて我寝(い)ねかねつ夢に見えこそ(万葉集)、

という用例がある。

つまり、「ねる」の「ね」は、

い、
ぬ、
な、

と転訛をしつつ、「ね」に落ち着いたと見える。確かに、「ね」と「ぬ」「な」は、転訛しやすいと考えると、古形は、

い(寝)、

ではないかと思ったが、「い」と「ね」は使い分けられていたらしいのである。「い(寝)」は、

人間の生理的な睡眠。類義語ネ(寝)は体を横たえること。ネブル(眠)は時・所・形にかまわずする居眠り、

とあり(岩波古語辞典)、

朝寝(あさい)、熟寝(うまい)、安寝(やすい)などの熟語になるか「い(寝)をぬ(寝)」「い(寝)も寝ず」など句として使っている、

とある(仝上)。

股(もも)長にイは寝(な)さむを(記紀歌謡)、
妹を思ひイ(寐)の寝らえぬに秋の野にさを鹿鳴きつ妻思ひかねて(万葉集)、

いつの間にか、

い(寝)、眠る、
ね(寝)、横になる、

の区別は消えてしまったらしい。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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寝耳に水


「寝耳に水」は、

寝耳に水の入(い)る如し、

ともいう。

寝ている耳に水を注がれるような、思いがけない出来事、また不意の知らせを聞いて驚くたとえ、

の意である(故事ことわざの辞典)。別に、

寝耳に擂粉木、
寝耳にすっぽん、

という言い方もする(仝上)。多少の異同はあるが、

水の音が聞こえる説、
寝ている時に耳に水が入る説、

の二つがあるhttps://career-picks.com/business-yougo/nemiminimizu/。日本語源広辞典は、

睡眠中に、突然大水だという知らせに、びっくりする意、
と、
睡眠中に耳に洪水が襲ってきて、びっくりする意、

と、少しニュアンスが違い、洪水そのものを指している。語源由来辞典は、

寝耳に水の「水」は、洪水などの濁流音で、「耳」は「耳にする」など、聞こえる意味で使 われる「耳」である。 治水が完全でなかった頃は、よく川の水が氾濫した。それが寝ている時であれば、なおさら驚くことになり、「寝耳に水」となった、

とする。となると、

大水だ、

という知らせなのか、

大水の音、

なのか、

洪水そのもの、

なのかということだが、

元来は、眠っている時に耳に水音が聞こえてくることをいったが、のち、水が実際に耳に入ると解されるようになった、

とある(故事ことわざの辞典)ので、水音の方かもしれない。

眠っているうちに、大水が出てその流れの大きな音を耳にしたときのようだという意味であった。それが不意の事態にあわてふためくことに使われていくうちに、聞こえる意の「耳に入る」が、実際に耳の中に水が入ると受けとられるようになり、「寝耳にすりこ木」のような表現も現われたと考えられる。「吾吟我集」例なども耳に水が入るという理解にもとづいている、

と(精選版日本国語大辞典)、

寝耳に擂粉木、
寝耳にすっぽん、

という言い方自体が、耳に水が入る解釈から、作り出された言い回しと見ることができる。

ところで、

寝耳、

自体が、

眠っている時の耳、

を指し(広辞苑、岩波古語辞典)、

夜一夜、ののしりおこなひ明かすに、寝も入らざりつるを、後夜などはてて、すこしうちやすみたる寝耳に、その寺の仏の御経を、いとあらあらしう、たふとくうち出でよみたるにぞ、いとわざとたふとくしもあらず、修行者だちたる法師の、蓑うちしきたるなどがよむななりと、ふとうちおどろかれて、あはれにきこゆ(枕草子)

という用例もあるが、大言海は、踏み込んで、

夜眠れる間に、聲の耳に聞ゆること、夢うつつに聞くこと、

ととる。「寝耳」の用例も、ただ、

眠って入るる時の耳、

ではなく、

夢うつつに聞こえること、

の意と見ていい。

中納言はうちやすみたまへるネミミニ、聞きておどろきながら(宇津保物語)

と同じである。さらに、

寝耳に入(い)る、

という言い方もある。

眠っているときに耳に聞こえる、

という意であり(岩波古語辞典)、

盗人よと、言ふ声寝耳に入り(西鶴・桜陰比事)

と使われるが、この意が転じて、

思いがけず手に入る、

意となって(広辞苑)、

百銭ころりとに耳に入るぞ(浄瑠璃・椀久末松山)、

と使われたりする。

寝耳に水、

はこの延長線上の展開と考えれば、寝耳に入る、

物音、
聲、

と考えるのが順当であろう。「寝耳に水」について、

眠れる中に、洪水、俄に到れるが如き、不意なること、

とするのが、的確かもしれない。

「寝耳」は、字面からは、耳そのものが眠っていて何の音も聞いていないと解釈することもできそうだが、残念ながら耳は、目のように蓋を閉じられないので眠ることができない。したがって「寝耳」は、人が眠っているときも、声や音を聞いている耳と考えるのが妥当、

という(笑える国語辞典)のが常識的だろう。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

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どんぶり


「どんぶり」を引くと、擬音語の、

大きくて重みのある物が、水中に落ちる音、

の意で、

どぶん、
どぼん、

と同義の意味が載る(広辞苑)。もっとも、「どぶん」は、

水中に飛び散る感じ、

で、「どぼん」は、

水中に深く潜り込む感じ、

と微妙に違うが(擬音語・擬態語辞典)。さらに、「どんぶり」は、

丼、

と当てて、三つの意味が載る。一つは、

どんぶり鉢、

の意で、

深い厚手の陶製の鉢、

の意で、二つ目の意味は、

更紗、緞子などでつくった、金などを入れる大きな袋、

の意。

懐中用の大きな袋。江戸時代、若い遊び人が好んで用いた、

とある。

「ゑぞにしきで大どんぶりをこしらへてこよう」(黄表紙・悦贔屓蝦夷押領)、

といった用例がある。三つめは、

職人などが着ける腹がけの前かくし、金などを入れる、

の意である(広辞苑)。

当てられた「丼」(漢音セイ、呉音ショウ)は、

「会意文字。『井(四角い井戸のわく)+・印(清い水のたまったさま)』で、清らかな水をあらわす。青(すみきってあおい)の下部に含まれる。ただし、のちには、井戸の清水を示す丼は井と書かれるようになった。枠を示す井(ケイ)は、かたちを変えて形・型にふくまれる」

とあり(漢字源)、井戸の意で、「丼」に、どんぶり鉢や、腹がけの丼などの意で使うのは、わが国だけである。いつごろから使われ出したかは、はっきりしないが、「丼」は、

「もともとは『井』の異体字として使われていたものらしい」

とあるhttps://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000175771が、集韻に、「丼」を、

投物井中聲、

とあり、もともと、

井戸に物を投げ入れた音、

の意がある。これは「どんぶり」の語源ともかかわってくる。

「どんぶり鉢」の意の「どんぶり」の語源は、基本的に二つある。ひとつは、

物を深い水中に投げ入れる音、ドボン、ドブンの転訛。深い水の意から転じてどんな料理でも入る、深くて大きい投企の食器、

であり、いまひとつは、

上方の婦女子の番袋(雑多な物入)の転訛が、ダンブクロで、これにならって、何でも入る大きな鉢をダンブリ鉢、丼鉢といいはじめた、

とするものである(日本語源広辞典)。

前者の擬音説は、

「丼 寛文ごろの江戸で、ケンドンヤの名で、盛切りのめし、そば、うどんを売る店があった。客に突けんどんに盛切りのたべものを出したから、慳貪(けんどん)の名が付けられたという。盛切りの鉢をケンドン振りの鉢といったのが、上略してドンブリ鉢となり、ドンブリとなった。丼の字は、井戸の中に小石を落とすとドンブリと音がする意で作られた」

とあり(堀井令以知『語源大辞典』)、たべもの語源辞典も、

「元禄時代の二十年ほど前、寛文(1661~73)ころ江戸に、けんどん屋という名称で、盛切りのめし・そば切・うどんなどを売る店ができ、繁盛した。当時の流行歌に『八文もりのけんどんや』(見頓屋)というような文句がみえる。けんどん屋という名称は、盛切り一杯のたべものを出すことが、客に対して,突けんどん(慳貪)だということから、名づけられた。けんどん屋が盛切り一杯にした器、つまり鉢を『けんどん振りの鉢』と呼んだ。鉢は皿よりも深くて、すぼんでおり、瓶よりよりも口の開いた器の名称である。けんどんぶりの鉢が、どんぶり鉢と呼ばれ、鉢を略して、どんぶりとなった。丼という字は、中国文字であるが、井戸の中に小石を落とすとドフリと音がするということから、この字をどんぶりとよんだ」

とする。しかし、語源由来辞典は、

「丼の語源は、江戸時代、一杯盛り切りの飲食物を出す店を『慳貪屋(けんどんや)』と 言い、そこで使う鉢が『慳貪振り鉢(けんどんぶりばち)』と呼ばれていた事から、それが略され『どんぶり鉢』になったといわれる。 慳貪とは『けちで欲深い』という意味で、慳貪屋で出されるものは『慳貪めし』や『慳貪そば』と呼ばれ、それを運ぶものは『慳貪箱』といった。八丈島で『どんぶり鉢』を『けんどん』と言い、この名残と考えられている」

としつつ、

「しかし、江戸時代、更紗や緞子などでつくった大きな袋も『どんぶり』と呼ばれている。そのことから、『慳貪振り鉢』の略ではなく、物を無造作に放り込むさまを表したもので、『どぶん』『どぼん』と同じ、物が水中に落ちる擬音語の『どんぶり』とも関係すると考えられる」

と後者の「袋」説を採る。同様に、

「駄荷袋(だにぷくろ)がなまった語の、だんぶくろからきた」

とする説https://wajikan.com/note/donburi/もある。しかし、

「天保(1830~44)ころには『けんどん』という食べ物はなくなっていたが、天明(1781~89)の頃には、鼻紙袋という携帯用の入れ物の名称としてどんぶりという名が用いられた。さらに、胴巻とか腰掛けについているかくしも、どんぶりとよばれるようになった」

とあるので、「どんぶり」という言葉だけが、残ったとみている(たべもの語源辞典)。で、

「安房では、居(すえ)風呂のことを『どんぶり』というし、越中地方では財布のことをどんぶりといい、中国地方では130~40石積の商人船をどんぶりとよんでいたが、いずれもいれもの(容器)と関係がある」

とし(仝上)、どんぶり鉢が、口が広くて何でも入るから、袋や財布の名になり、風呂はドブンとはゐる音からきて、商人船も、入れるほうからきている(仝上)のではないか、とする。大言海も、「どんぶり」は、

居(すえ)風呂の称、

とし、

出雲にて、風呂屋をドンブリ屋と云ふ、

とする。この説の時代考証が正しいのなら、

けんどんぶりばち→どんぶり鉢→どんぶり、

の転訛が、

口が広くて何でも入るから、

という意味から、他のものにも名づけられた、ということになる。他方、袋の意の、「どんぶり」は、

「だんぶくろ」を言い変えたものと云ふが、さていかがか」(江戸語大辞典)、
「だんぶくろの転訛と云ふ」(大言海)、
「商人の前掛けについたポケットを意味する『どんぶり』は、駄荷袋(だにぶくろ)の訛り」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BC%E9%89%A2

等々とあり、「だんぶくろ」からきている「どんぶり」は、「どんぶり鉢」の「どんぶり」とは由来を異にするのではないか。

「だんぶくろ」は、

段袋、
駄袋、

と当て、

駄荷袋の音便、

である(広辞苑)。しかも、その意は、

布製の大袋、信玄袋に似た、荷物袋、
幕末、様式訓練のとき兵が用いたズボン。袴を改良したもので、幅が広く、ゆったりしている、

とある(仝上)。

江戸語大辞典は、

段袋を連想させるのでいう、

として、

上部は腰板の袴と同じく、下部は股引のように筒になったもの、

とし、守貞謾稿には、

「本名不詳、俗にだんぶくろ、或いはとびこみ袴など云、文久元年の頃、江戸新に講術所を建つ、此所へ出て習兵の士用之、同三年始之未だ正名備わらず、多くは舶来の紺ごろふくりんにて作之、云々」

とある。幕末のズボンの意の「だんぶくろ」は別にして、

だんぶくろ→どんぶり、

と結果として、

丼、

を当てはめたためややこしいが、「どんぶり鉢」の「どんぶり」とは別系統と考えるのが妥当に思える。しかし、

口が広くて何でも入る、

という意で、両者は、今日、ほぼ重なってしまったのではあるまいか。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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どんぶり勘定


「どんぶり勘定」は、

予算を立てたり決算をしたりせず、手元にある金にまかせて支払いをすること、またそれに似た、大まかな会計、

の意とあり(広辞苑)、この「どんぶり」は、「どんぶり鉢」の「どんぶり」ではなく、「どんぶり」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E3%81%A9%E3%82%93%E3%81%B6%E3%82%8Aで触れた、

更紗・緞子などでつくった、金などを入れる大きな袋の意、



職人などの着ける腹かけの前かくし、金などを入れた意、

からきている、とする。

「どんぶり烟草入りに落とし木綿、手拭長にもふきたらず」(耳袋)

の用例だけでは、いずれとも決めかねるが、大言海は、「どんぶり」の項で、

職人の腹掛の前に附けたるかくし。即ち、布帛もて、小長方形にて一方口なる袋を作り、金子、紙何となくいれおくもの、

の用例としているので、腹かけの「かくし」、つまりポケットを採っている。つまり、

職人の腹かけの隠しの別名を、何でも入れておくのでドンブリといいました。その丼+勘定が語源で、大雑把な金の出し入れをすることを言います、

とする(日本語源広辞典、語源由来辞典)のや、

昔の職人が前掛けの腹の部分についていたポケット(どんぶり)から金を出し入れしていたところからきた言葉、

とする(笑える国語辞典)のが、ひとつの考え方である。他方、

「丼」は江戸時代に、お金や小物を入れて懐に持ち歩いていた大きめの袋のことで、この袋にお金を入れて、無造作に出し入れしたことから「丼勘定」という言葉が生まれたとされる、

とする(由来・語源辞典)のが、もう一つの考え方である。

しかし、どんぶりhttp://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E3%81%A9%E3%82%93%E3%81%B6%E3%82%8Aで触れたように、この袋の意の「どんぶり」は、

「だんぶくろ」を言い変えたものと云ふが、さていかがか」(江戸語大辞典)、
「だんぶくろの転訛と云ふ」(大言海)、
「商人の前掛けについたポケットを意味する『どんぶり』は、駄荷袋(だにぶくろ)の訛り」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BC%E9%89%A2) 、

等々とあり、「だんぶくろ」からきている。「だんぶくろ」は、

段袋、
駄袋、

と当て、

駄荷袋の音便、

である(広辞苑)。しかも、その意は、

布製の大袋、信玄袋に似た、荷物袋、

である。その袋から、

腹かけのかくし、

を、「どんぶり」と呼んだものと思われるが、「どんぶり勘定」の語感からすると、職人の腹かけの隠し、から無造作に出し入れするイメージの方があっている気がする。

ちなみに、腹掛けは、

胸当て付きの短いエプロンのような形状で、背中部分は覆われておらず、紐を背中で交差させることによって体に密着させる。腹部には『どんぶり』と呼ばれる大きなポケットが付いており、腹掛けそのものをどんぶりと呼ぶこともある。古くは火消し、大工、商人などが着用していた。素肌の上にそのまま着用することもあれば、着物の上から着用することもある、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%85%B9%E6%8E%9B%E3%81%91が、

小児用と職人用がある、

とあり(江戸語大辞典)、

かみなりをまねて腹掛やつとさせ(明和二年)、

という句もある(柳多留)

地域によって、

どんぶり、
寸胴、
前掛け、

等々の呼び名があり、子供用は、

正方形の布を斜めに使い、紐をつけて、首、腰の部分で結ぶようにした、

とある(仝上)。

腹掛けは鎧の腹当と似た形状をしており、やはり背中で紐を交差させている。腹当は、

胸部と腹部を覆う胴鎧に小型の草摺を前と左右に3間垂らした形状で、着用者の胴体の前面及び側面腹部のみ保護する構造となっている。軽量で着脱は容易であるが、防御力は低い。のちに腹当の胴体を防御する部分が背部まで延長し、腹巻に発展していったと考えられている。鎌倉時代ごろに、主に下級兵卒用の鎧として発生したとみられ、室町時代の後半には軽武装として広く使われるようになった、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%85%B9%E5%BD%93。腹掛けの出自は、腹当かもしれない。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
笠間良彦『図説日本甲冑武具事典』(柏書房)

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どら焼


「どら焼」は、

銅鑼焼、

と当てたりする、

小麦粉・卵・砂糖を原料とした銅鑼形に焼いた皮二枚の間に粒餡を挟んだ和菓子、

のことである(広辞苑)。その形が「銅鑼」に似ていることから名付けられたが、 関西では奈良の三笠山に見立てて、

三笠、
三笠山、

とも呼ばれる(語源由来辞典)。

「どら焼」の由来には、

「文治三年(1187)源九郎義経が奥州へ逃れたとき、武蔵坊弁慶は手傷を負って、武蔵野の一民家で療養していたが、出立のさい銅鑼と手紙を残していった。その銅鑼で焼いたのが、『どら焼』の伝説的起源」

という俗説がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A9%E3%82%89%E7%84%BC%E3%81%8D、たべもの語源辞典)。もちろん、この説は

「鎌倉時代に小豆餡が出来たと言われることから、1189年に死んだとされる武蔵坊弁慶との関わりは矛盾する」

とことわる(仝上)までもなく、伝説である。

饂飩粉を水にこねて、圓片とし、焼きて表裏二枚の中に餡を包みたるもの。銀つば(金鍔焼の類)の変なり。形を小さくしたるを金鍔と云ひ、四方を焼き、好き餡を用ゐたるを、ミメヨリと云ふ。見目り心の意ならむ、

と大言海にあり、これは、文化・文政(1804~30)期が「きんつば」の全盛期で、文化年間の末、浅草馬通に「おかめのきんつば」という店から「みめより」という四角な「きんつば」を売り出し、「みめより心」という俚謡から、外見より中身の良さということで評判をとった(たべもの語源辞典)、ということを指す。

江戸語大辞典は、「どらやき」について、

初め金鍔と称したが、その称は後に銅鑼焼の小型のものに変わった、

とし、

きんつば焼どら焼のうへをゆき(安永四年(1774)「当世爰かしこ」)、

と載せる。というのも、

「寛永年間(1624~44)に江戸麹町三丁目に『助惣焼』が始まる。助惣の元祖は大木元左治兵衛といい、餅にも屋号にも『助惣』の名を付けたという。この助惣の『どら焼』は、麩の焼を丸く紙のように薄く焼き、餡を真ん中に入れ四角にたたんだものであった」

とあり(たべもの語源辞典)、この助惣焼が、

麩の焼、
また、
銅鑼焼、

なのである。このどら焼きは、

「皮を一枚だけ用い、端の部分を折りたたんだため四角く、片面の中央はあんこがむき出しであった」

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A9%E3%82%89%E7%84%BC%E3%81%8D。まさに、現在のきんつばに似ている。

嬉遊笑覧(1830)は、

「雍州府志ニ、焼餅ハ米ノ粉ニ煉餡ヲ包ミ、ヤキ鍋ニテ焼タル、其形ヲモテ銀鐔(ぎんつば)ト云トアリ、今ノどら焼ハ、又、金鐔ヤキトモ云フ、コレ麩ノ焼ト銀鐔ト取マゼテ作リタルモノナリ、どら焼トハ形、金鼓(こんぐ)ニ似タル故、鉦(どら)ト名ヅケシハ、形ノ大キナルヲ云ヒシガ、今ハ形、小クナリテ金鐔ト呼ナリ」

と書いている(仝上、大言海)。助惣のどら焼は四角であったが、明治初年、日本橋大伝馬町の梅花亭の盛田清が、

丸型の新どら焼をつくった。銅鑼の形をした菓子で、餡に天ぷらの衣をつけるようにして皮を焼いた、

とある(仝上)。これは、

鶏卵に砂糖を加えてよくかき混ぜ、小麦粉に膨張剤を加えたものをふるい込んで、水でどろどろに溶き、種汁をつくる。この種汁を平鍋(ひらなべ)に円型にたらし、焼き目がついたら裏返して小豆(あずき)のつぶし餡(あん)をのせ、別に用意した同形の焼き皮をかぶせ(中略)、青えんどうのつぶし餡を用いるのが特徴

とある(日本大百科全書)。現在の「どら焼」は、

編笠焼、

という焼菓子で、上野黒門町に大正三年(1914)に開店した「うさぎや」が始祖である(たべもの語源辞典)。

「どら焼」が小さくなって、「きんつば」になったのか、「きんつば」が「どら焼」の元祖なのか、はっきりしないが、最初の「どら焼」が、薄い皮の、「きんつば」に紛らわしいものだったことは確かである。

現在の「きんつば(金鍔)」は、

寒天を用いて粒餡を四角く固めたものの各面に、小麦粉を水でゆるく溶いた生地を付けながら、熱した銅板上で一面ずつ焼いてつくる「角きんつば」であるが、本来のきんつばは、小麦粉を水でこねて薄く伸ばした生地で餡を包み、その名の通り日本刀のつばのように円く平らな円型に形を整え、油を引いた平鍋で両面と側面を焼いたものである、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8D%E3%82%93%E3%81%A4%E3%81%B0

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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きんつば


「きんつば」は、

金鍔、

と当て、

鍍金(きんめっき)した鍔、
あるいは、
金で装飾した刀の鍔、

の意であるが、

近世、若衆、野郎の好んで用いたもので伊達とされた、

とある(広辞苑)。「野郎」については触れたhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/431378141.html。その金鍔の形状に似ているから名づけられた、

きんつば焼きの略称、

で、和菓子のひとつである。どら焼http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E3%81%A9%E3%82%89%E7%84%BCで触れたように、「きんつば」が「どら焼」の元祖であるとも言われるし、逆に、「きんつば」がどら焼きに変じた、とも言われるように、どら焼きと深くつながる和菓子である。

現在よく見られるのは、

「寒天を用いて粒餡を四角く固めたものの各面に、小麦粉を水でゆるく溶いた生地を付けながら、熱した銅板上で一面ずつ焼いてつくる『角きんつば』であるが、本来のきんつばは、小麦粉を水でこねて薄く伸ばした生地で餡を包み、その名の通り日本刀のつばのように円く平らな円型に形を整え、油を引いた平鍋で両面と側面を焼いたものである」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8D%E3%82%93%E3%81%A4%E3%81%B0ように、

日本刀のつばのように円く平らな円型、

である。「どら焼」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E3%81%A9%E3%82%89%E7%84%BCで触れたように、嬉遊笑覧(1830)は、

「雍州府志ニ、焼餅ハ米ノ粉ニ煉餡ヲ包ミ、ヤキ鍋ニテ焼タル、其形ヲモテ銀鐔(ぎんつば)ト云トアリ、今ノどら焼ハ、又、金鐔ヤキトモ云フ、コレ麩ノ焼ト銀鐔トト取マゼテ作リタルモノナリ、どら焼トハ形、金鼓(こんぐ)ニ似タル故、鉦(どら)ト名ヅケシハ、形ノ大キナルヲ云ヒシガ、今ハ形、小クナリテ金鐔ト呼ナリ」

と(仝上、大言海)、

銅鑼の形に似たどら焼→小さくなって→金鐔、

と主張している(たべもの語源辞典)。しかし、「きんつば」には、元があり、

「天和・貞享年間(1681~88)にうるち米粉の皮で赤小豆の餡を包んで焼いたものが京都に現れた」

とある(たべもの語源辞典)。これが、

ぎんつば(銀鍔)、

であり、

後のきんつば(金鍔)の元祖、

とある(仝上)。「銀鍔」は、

銀でつくった刀の鍔、

である。「銀鍔焼」は、

粳米の粉を練って小豆餡を包み、油をひいた金属板の上で焼いたもの、

とある(広辞苑)。うるち米の粉というのが鍵で、後に、享保年間(1716~36)に江戸に移り、

「銀よりも金のほうが景気が良い」との理由、

からhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8D%E3%82%93%E3%81%A4%E3%81%B0か、

あるいは、

銀貨主体の上方に対して金貨主体の江戸では銀より金ということになった、

からhttp://www.seifun.or.jp/wadai/hukei/huukei-15_11.htmlか、

銀鍔は周りに米の粉をまぶして焼いたので焼き色がつきにくかったことから銀鍔でしたが、江戸では小麦粉を水溶きにして、それをまぶして焼いたため、若干焦げ色がつき、金色にみえたこと、

からhttps://www.wagashi.or.jp/monogatari/shiru/yurai/か、

名前が「きんつば」に変わり、

皮が米粉から小麦粉、

に変わる(たべもの語源辞典)。

水でこねた小麦粉を薄く伸ばして小豆餡を包み、刀の鍔のように円く平たくし、油を引いた鉄板の上で焼いた、

とある(広辞苑)。文化・文政(1804~30)期が「きんつば」の全盛期で、文化年間の末、浅草馬通に「おかめのきんつば」という店から「みめより」という四角な「きんつば」を売り出し、「みめより心」という俚謡から、外見より中身の良さということで評判をとった(たべもの語源辞典)、という。吉原土手付近や日本橋魚河岸付近に屋台店が出されて人気を博したと言われているが、

日本橋魚河岸(旧地)で屋台店で金鍔焼を売っていたのが、今の榮太楼の元祖、

とある(仝上)。

銅鑼焼と金鍔焼は似ており、

どら焼が時代がたつにつれて小さくなったものがきんつば、

という説があるのは、「どら焼」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E3%81%A9%E3%82%89%E7%84%BCで触れたように、「どら焼」は、

「寛永年間(1624~44)に江戸麹町三丁目に『助惣焼』が始まる。助惣の元祖は大木元左治兵衛といい、餅にも屋号にも『助惣』の名を付けたという。この助惣の『どら焼』は、麩の焼を丸く紙のように薄く焼き、餡を真ん中に入れ四角にたたんだものであった」

とあり(仝上)、この助惣焼が、

麩の焼、
また、
銅鑼焼、

と呼ばれたからである。「きんつば」の名は、

刀の鍔に大きさが似ていた、

からで、当初の「どら焼」と、麩と小麦粉と素材は違うが、

四角にたたむ、

のは同じである。やはり、

銅鑼焼(麩の焼)、

の小さくなったものという見方はあり得るが、「どら焼」が素材と形を変えたように、「きんつば」は、形はともかく、大きさも、素材も変わり、別のものとして登場したと見た方がよさそうである。

さすが武士の子金鍔を食いたがり(柳多留)

と江戸川柳にあるhttp://www.seifun.or.jp/wadai/hukei/huukei-15_11.html、とか。

刀の鍔(つば)のように丸形に焼かれたものから、角形の六方焼ききんつばに変えたのは、本高砂屋らしく、そのホームページには、

本高砂屋が売り出すまでは、きんつばは丸形であった。そもそもは刀の鍔に似ていることから名前がついた菓子で、表面に指で押して模様をつけ、鍔に見立てたものだった。この江戸きんつばを、一度に多く焼けるように改良を加え、四角の高砂きんつばとして売り出したのが、創業者杉田太吉である、

とあるhttps://www.hontaka.jp/archives/story/08.html

なお、「きんつば」の祖型は、中国らしい。

「三輪山から発掘された唐菓子の模型に『つば』というのがあるが、これは刀の鍔である。刀の鍔の形の菓子をつくるというヒントは、唐菓子からということも考えられる」

とある(たべもの語源辞典)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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すさぶ


「すさぶ」は、

荒ぶ、
進ぶ、
遊ぶ、

と当てる。「荒」「進」「遊」の漢字は、「すさぶ」の持つ意味の幅を当て分けたように見える。

「すさぶ」は、

すさむ、

ともいう。「すさむ」も、

荒む、
進む、
遊む、

と当てる。「すさむ」と「すさぶ」のどちらが先かは判然とせず、「すさむ」は、

すさぶの転、

とする(岩波古語辞典)のと、

すさむの音韻変化、

とする(日本語源広辞典)のと、分かれる。「すさぶ」は、

おのずと湧いてくる勢いの赴くままにふるまう意。また、気の向くままに何かをする意。奈良時代には上二段活用、平安時代から多く四段活用、

とある(岩波古語辞典、広辞苑)。意味の幅は、

勢いのままに盛んに~する、勢いのままに荒れる(「朝露に咲きすさびたるつき草の日くたつなへに、消(け)ぬべく思ほゆ」万葉集)、
気の向くままに~する、興にまかせて~する(「もろともに物など参る。いとはかなげにすさびて」源氏)、
もてあそぶ(「窓近き竹の葉すさぶ風の音にいとど短きうたた寝の夢」新古今)
勢いのままに進みはてて衰える(「雲間なく降りもすさびぬ五月雨筑摩の沼の水草なみよる」堀河百首)

といった感じだが(岩波古語辞典)、古い、「すさぶ」(上二段)は、

荒、
進、

と当て、

動き出す(動作の発作)、
その方へのみ頻りに進む、
荒るる、
迷い耽る(酒食にすさぶ)、

の意とし(大言海)、「すさぶ」「すさむ」の用途の幅について、

進、
荒、

と当てる「すさぶ」(四段)は、

愈々、進む、
荒(すさ)び行きて闌(すが)るる、衰え止む、

とし、

遊、

と当てる「すさぶ」(四段)は、

心に入れず、何となく、はかなく物はす、遊び慰む、

の意とし、

進、
荒、

と当てる「すさむ」(四段)は、

愈々進む、甚だしくなり行く、
迷い耽る、

の意とし、

進、
荒、

と当てる「すさむ」(下二段、他動詞)は、

荒ましめ、闌(すが)れしむ、棄つ、

意であり、

賞、
翫、

と当てる「すさむ」(下二段)は、

心の荒みに賞翫ス、遊(すさび)のものとす、


意とし(以上、大言海)、「すさぶ」「すさむ」が活用などを変えつつも、そんなに意味を変えていないことがわかる。

大言海は、「すさぶ」を、

進み荒(さ)ぶるの約、

とするが、

おのずと湧いてくる勢いの赴くままにふるまう、

意とするなら、元々は、

すすむ、

の意に、

愈々進む、

の意を持たせたのではあるまいか、とすると、日本語源広辞典のいうように、

すすむ→すさむ→すさぶ、

と音韻変化した、という見方も頷けてくる。

「すすむ」について、

ススは、ススシキホヒ・ススノミのススと同根。おのずと湧いてくる勢いに乗って進行・行動する意、

とする考え(岩波古語辞典)が、「すさぶ」の、

おのずと湧いてくる勢いの赴くままにふるまう、

意とほぼ重なるのである。ちなみに、「すすしきほひ」は、

すすし競ひ(「すすし競ひ 相よばひ しける時は 焼太刀の」万葉集)、

と当て、

進んで競り合う、

意であり(岩波古語辞典)、「すすのみ」は、

荒れ狂う、

意で、勢いのままに動く意、とある(仝上)。「すさぶ」は、「すすむ」の意が強まり、別語へと変化したもの、とみられる。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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すはま


「すはま」

洲浜、
州浜、

等々と当て、

州が海へ突き出た浜辺、

を指す(岩波古語辞典)。これだと、「洲浜」の含意が伝わらないが、

洲が大きくなり、海岸線に曲線的な出入りのある浜辺、

だと(広辞苑)、よりイメージができる。さらに、

洲浜は河口にできた三角洲など、水辺にできる島形の洲をいう。いわゆる河と海などの接するところで、曲面の入り組んだ洲の様子を表す 言葉である。水の流れでいろんな姿に変わる、それを柔軟なフォルムで捉えたまるみをおびたラインが特徴、

とあるhttp://www.harimaya.com/kamon/column/suhama.html。なお、

洲浜形、

とは、

海上に浮かぶ島が干潮のとき砂洲を三方にあらわした姿のこと、

である。

「すはま」は、

すさき、

ともいい、陸地になりたるを、

片洲、

といい、また、

泉水の称、

でもある(大言海)。「泉水」とは、

山水、
前水、

とも当て(岩波古語辞典)、

庭に築山をし、泉水を掘り作ること、池を泉水(センスイ)と云ふは山水(サンスイ)より移りたるなるべし、池は泉には限らず、

とあり(大言海)、

仮山水(かさんすい)、

ともある(仝上)。池とは限らずとは、

泉水を作るに、松を植うべき所に岩を立て、池を掘り水をまかすべき地には山を築(つ)き、眺望をなすが如くに、

とある(無名抄)、意味である。これも自然を模し、象っている。ここまでくると、

枯山水、

である。

「洲浜」という浜辺の風景が日本人に好まれたのは、

波がよせては返す、優しい音。その中に小さな小島が連なる、

という日本の風景http://kyoto-wagasi.com/teiban/suhama.htmlのイメージのようである。

この洲の出入りのある「柔軟なフォルム」を図案化した意匠に、

洲浜紋、

である。代表的なのは、

洲浜、

だが、その他に、

違洲浜、
割洲浜、
洲浜木瓜、
花洲浜、
中陰洲浜、
三つ盛洲浜、

等々種々ある。

また「洲浜」のイメージをかたどった、

洲浜台、

の意味で、略して、「洲浜」という。

洲浜の形に似せて作れる物の台、

とあり(大言海)、

これに岩木・花鳥・瑞祥のものなど種々の景物を設けたもの、もと、饗宴の飾り物としたが、のち正月の蓬莱・婚姻儀式の島台として肴を盛るのに用いた、

とある(広辞苑)。

「洲浜台」を、

島台もこれなり、

と(大言海)の言う「島台」とは、

州浜形、

とも言い、略して、

しま、

ともいい、

洲浜(すはま)形の台に松竹梅を立て、足元に鶴亀、翁と媼の人形などを飾る置物で古来より不老不死の仙山として信仰される蓬莱山を写し、慶事の祝儀として用いられてきたものだ。特に近世以降は「婚礼」の席に欠かせない調度品として飾られてきたものだという、

とありhttps://karuchibe.jp/read/4476/、貞丈雑記に、

洲濱形に、臺の板を作る、海中の島のすその、海へさし出たる形なるを、洲濱と云ふなり、されば島形とも、洲濱形とも云ふ、其上に肴を盛る也、飾のには、岩木、花鳥などを置く也、

とあり、松屋筆記にも、

島臺は、蓬莱島の造物の臺なれば、サ(島臺と)云ふ也、洲濱など同物成り、

とある(大言海)。ただ、守貞謾稿には、

蓬莱、貴人の宴には、唯、臨時風流に製之、今も貴人の家には、蓬莱の島臺と云、島臺と云は、洲濱形の臺を云也、……今俗は、島臺と、蓬莱は二物とし、島臺は婚席の飾とし、蓬莱は、正月の具とし、其製も別也」

と、蓬莱と島臺が別扱いになっている経緯を欠いている。

この「洲浜」に準えた和菓子がある。

黄粉と米の粉とを和して、竹の皮に包みて蒸し、竪に數條の渠(すじ)を押しつけ、解きて輪切にし、縁(へり)、凹凸形をなしたるもの、

である(大言海)。まわりがでこぼこしている形が、

すはま、

のイメージである(たべもの語源辞典)。

京都の松壽軒が、弘安年間(1278~1288)に、有職の「洲浜臺」の形からとって、初めて州浜を作った、

とある(仝上)。なお、

今日では、京都の御洲浜司植村義次のものが、1657年(明暦3)以来の仕法を伝え、もっとも古いのれんである、

とある(日本大百科全書)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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けた


「けた」は、

桁、

と当てる。

建物・橋などで柱・橋脚などの上に横に渡して上部の構造体をささえる横架材、

である(大辞林)。建物では、

垂木を受ける材、

橋では、

橋の方向に横たえた受材。

とある(広辞苑)。それに準えて、

そろばんの珠を貫く縦棒、

をさす(広辞苑)が、横材を「桁」というのだから、大言海の言うように、

横にある木の称を誤れるか、

とみられる。そろばんに準えてであろうか(大辞林には、「数値をある進法に従い、アラビア記数法に準じて表記したときの、各数字の並びの位置」とあるが)、

數の位、位どり、

を意味し、日本語源広辞典は、

重要なタマ(珠)を支えています。違った心棒にタマを入れるとケタチガイ(桁違い)となります、

とする。これが転じて、

規模、

の意で使う(仝上)。その他、

ほげた(帆桁)、

とあり(日葡辞書)、

桁網(けたあみ)、

の「けた」も、いずれも横架材をさす(精選版日本国語大辞典)。

「梁」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E6%A2%81で触れたように、「桁」は、

建造物において柱間に架ける水平部材、

であり、

短辺方向に渡された横架材、

の「梁」に対して、

梁と直交する長辺に渡される部材、

を「桁」というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%81_(%E5%BB%BA%E7%AF%89)

桁の種類には、

軒桁 屋根小屋の垂木を受ける水平部材。小屋梁、柱と接合される。
ささら桁 階段の段部を受ける部材のこと。一般的な階段をつくるには、ささら桁が必要。
側桁 ささら桁の1つ。横からみても、ささらの板しかみえない。

等々があるhttp://kentiku-kouzou.jp/kouzoukeisan-keta.html、とか。

さて、「けた」の語源であるが、日本語源広辞典は、

架ケ+板の音韻変化、
交わす板、方板の約、

の二説を挙げ、大言海は、後者の、

方(ケタ)の義、縦横に打交(ウチチガ)ふる異、

とする。「桁」の梁と打交い、棟木と打交う、を指す。

「方(ケタ)」は、

角(かど)と通づるか、

とあり(大言海)、岩波古語辞典は、「けだ」とし、

方、
角、

と当て、

四角、
真向い、

の意、とある。「桁」の位置から考えると、妥当ではないか。その他、

両辺にあるところから、カタ(偏)の義(名言通)、
カタ(肩)の転(東雅・和語私臆鈔)、
ケト(衣所・衣架)の義(言元梯)、
カケカワスの略(日本釈名)、
ケはツケの上略、タは板の義か(和句解)、

の諸説は、いかがなものか。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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茶坊主


「茶坊主」というのは、

室町から江戸時代、武家に仕えて茶の湯を司った剃髪の者、

とある(広辞苑)。

茶職、
茶道坊主、
数寄屋坊主(御数寄屋坊主)、
茶屋坊主、

ともいう。二代目松林伯圓の創作による講談「天保六花撰(てんぽうろっかせん)」、後に河竹黙阿弥が歌舞伎化し『天衣紛上野初花』でも、登場する河内山宗俊は、

御数寄屋坊主、

であった。強請たかりを生業にする、実在した強請りの茶坊主・河内山宗春がモデルとされる、とかhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%BF%9D%E5%85%AD%E8%8A%B1%E6%92%B0

「御数寄屋坊主」が、多く、政治に口を挟んだことから、

権力者におもねる物をののしって言う語、

として、

茶坊主、

という。

権力者の威を借りて威張る者が多かったところからいう、

ともある(デジタル大辞泉)。虎の威を借りる何とか、である。

証言者http://ppnetwork.seesaa.net/article/471529860.htmlで触れたが、埴谷雄高が、『近代文学』に掲載予定の原民喜『夏の花』のGHQの事前検閲をめぐって、こう証言している。

「GHQといったって内閣も検閲もアメリカ人が読むわけじゃないんだよ。GHQの下には日本人の事実上の検閲係がいて、それで、読んだあと、こんな原子爆弾のことを書いたらとうていだめだって、返されちゃった。日本人が日本の作品を『自己規制』してるんだよ。アメリカの占領方針をすっかり自分が体しているつもりになっているんだが、日本人は茶坊主型が実に多いんだよ。あとで問題が起きたとき責任が自分にかからないように、これはアメリカの占領方針に反するだろうと、できるだけ拡大解釈して、ほんとに小さなことでもチェックして、これはだめだと返してくる。そして、上のアメリカ人に尤もらしく報告するんだな。仮に、日本がアメリカを占領して、アメリカの新聞や雑誌を検閲するためにアメリカ人を使ったとしても、その使われたアメリカ人が、占領軍の方針を勝手に忖度し拡大解釈して『上官の日本人の気にいられる報告』ばかりこれほど出そうとはおそらくしないと思うな。おれは、権力者に対する茶坊主ぶりでは、日本人は世界のベストテンのなかにはいると思っているよ」

ここで言う茶坊主とは、権力者におもねることを指す。茶坊主は、

「職務上、城中のあらゆる場所に出入りし、主君のほか重要人物らと接触する機会が多く、情報に通じて言動一つで側近の栄達や失脚などの人事はもとより政治体制すらも左右することもあったことから、出自や格を超えて重要視、時には畏怖される存在となることもあった」。

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6%E5%9D%8A%E4%B8%BB、転じて現代は、

権力者に取り入り出世や保身を図る者の例え、

として、侮蔑的に扱われることが多い(仝上)、とある。

「茶坊主」というのは、江戸幕府の役職であり、

「将軍や大名の周囲で、茶の湯の手配や給仕、来訪者の案内接待をはじめ、城中のあらゆる雑用に従事した。刀を帯びず、また剃髪していたため『坊主』と呼ばれているが、僧ではなく武士階級に属する」

のであり、御数寄屋坊主のトップは、若年寄配下の、

御数寄屋坊主頭、

であり、御目見得(将軍に目通りできる)である。百五十俵高に御四季施代が支給されるが、諸侯からの付届けがあり、内証は豊かである、といわれる(江戸幕府役職集成)。定員は三名、とされる。その下に、

御数寄屋坊主与頭、

が六、七人おり、その下に、

御数寄屋坊主、

が四十人ほどいる。御数寄屋坊主は、御譜代准席で、持高勤めであるが、二、三十俵である、とされる(仝上)。

「初期には同朋衆などから取り立てられていたが、後には武家の子弟で、年少より厳格な礼儀作法や必要な教養を仕込まれた者を登用するようになった」

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6%E5%9D%8A%E4%B8%BB

「禅僧が茶の湯の作法や茶道具の目ききをしたのが初め」(ブリタニカ国際大百科事典)
「栄西の《喫茶養生記》にみられるように、茶は僧院でねむけさましに用いられたので、武家が茶をたしなみ、茶道として成り立つようになってから後でも、茶儀は遁世(とんせい)者の役とみなされ、その世話をする事も人も〈お茶道〉といった」(世界大百科事典)

といった由来からのようである。

因みに、同朋衆(どうぼうしゅう)は、

室町時代以降将軍の近くで雑務や芸能にあたった人々のこと、

であるが、江戸幕府の役職では、若年寄配下の役職で、御同朋頭(四名)の下に、百俵十人扶持の、

御同朋、

が十人くらいおり、その下に、

奥坊主、
表坊主、
御用部屋坊主、
御土圭役坊主、

等々が属する。同朋頭は、二百石で、名はすべて、何姓何阿弥、と付くことになっていて、

「老中の執務室である御用部屋に入るときは、若年寄・奥右筆組頭以外は、同朋頭を通す決まりであった。同朋頭は征夷大将軍、老中、若年寄の用事を担当し、それ以外の坊主衆は大名の世話をする。同朋頭は若年寄の配下にあった。同朋頭は老中、若年寄、勘定奉行など、要職給仕につくところから、機密文書を目にする機会も多く、情報通になった。将軍の外出時は先駆けすることもあり、身分は低くとも権威を持っていた」

とあるhttps://enpedia.rxy.jp/wiki/%E5%9D%8A%E4%B8%BB%E8%A1%86。その要員は、

「本丸の奥坊主が100人、表坊主が200人ともされ、諸大名家でも江戸城ほどではないが、おいていた」

とされる(百科事典マイペディア)。どちらかというと、茶坊主より、同朋衆の方が、権力の機微に近いように思われるが、

「たとえば《信長公記》に〈茶道は宗易也〉とあるのは、その日の接待役が千宗易(利休)であったことを示す。茶坊主というのも茶の湯坊主の意味である」

と(世界大百科事典)。あるように、近侍するのは茶坊主である。御同朋頭に属するので、指揮系統は異なるが、奥坊主、表坊主も、

「剃髪(ていはつ)、僧衣で、茶室、茶席を管理し、登城した大名などを案内し、弁当、茶などをすすめ、その衣服、刀剣の世話をさせた」

とある(仝上)。200人いたという表坊主は、

「江戸城中に登城した大名や諸役人の接待や給仕の役割がある。剃髪、僧衣で茶室・茶席を管理する。登城した大名を案内し、弁当・茶などを世話し大名の衣服や刀剣の世話をさせる。諸役人から報酬を得ており、収入は多かった。20俵2人扶持、御役金23両。御譜代准席。現代でいうお茶汲みに近い」

とありhttps://enpedia.rxy.jp/wiki/%E5%9D%8A%E4%B8%BB%E8%A1%86

「付届けが悪いと、大名は難渋する事があるので、付届けをして表坊主の気受けをよくする」

という(江戸幕府役職集成)。

約100人いたという奥坊主は、二十俵二人扶持で、

「将軍の御座所の中奥にいて茶室を管理し、奥の雑役をする役割。要人の秘書役を務め、権勢があったという」

とある(仝上)。御用部屋坊主は、

「老中、若年寄の給仕をするから、政治の機密を仄聞するので、闇番、御留守居は、この係と親密にしていないと御役が務まらないので、諸方からの付届けで生活は大変楽であった」

とある(仝上)。御土圭(とけい)役坊主は、御土圭間坊主ともいい、

御土圭(とけい)の間に詰めて、殿中の時間を正確にする掛かり、

である(仝上)。

こうみると、同朋衆、御数寄屋坊主、いずれも、

僧体の者、

であり、将軍をはじめ大名や諸役人に殿中において茶を勧めたところをみると、

茶坊主、

という言い方では、厳密な意味の、

御数寄屋坊主、

のみを指すのではなく、

法体姿・剃髪で世話役などの雑事に従事した人、

つまり、

坊主衆、

をひっくるめて言っていた可能性はあるように思われる。

参考文献;
笠間良彦『江戸幕府役職集成』(雄山閣)

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坊主


「坊主」は、

房主、

とも当てる。「房主」は、

ぼうしゅ、

とも訓ませた(日本大百科全書)。

一坊の主僧、

つまり、

寺の住職、

を指し、広く、

僧侶一般、

をも指すようになり、剃髪している姿から、

髪を剃っている頭、その人、
あるいは、
剥げていること、

をも指すようになる。

腕白坊主、

というような子供(男の子)を指すのは、江戸語大辞典に、

坊主頭の略、

とあるように、頭を刈っているせいかもしれない。同じく、

三日坊主、
てるてる坊主、

等々というときに使うのは、「てるてるぼうず」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba10.htm#%E3%81%A6%E3%82%8B%E3%81%A6%E3%82%8B%E5%9D%8A%E4%B8%BBで触れたように、

てり雛・てり法師・てりてり坊主・てるてる・てるてる法師・てるてる坊主・てれてれ法師、

という異称があり、

法師→坊主、

と転じた可能性がある。「坊」は、

区画された街、

を指し、

坊門、
京坊、

等々と使うが、都城制の一区画、

四町四方の称、

とある(広辞苑)。その条坊から、「坊主」の語源を見る説がある。

「坊」は奈良時代・平安時代の都城制で区画された一部のことで、四面を大路に囲まれた言った言葉である。平安京で四町四方を「坊」と称したのも、この「坊」に由来する。のちに、「坊」は大寺院に所属する小さな寺院をさすようになり、寺院内の一坊の主人・寺坊の住職を「坊主」というようになり、室町以降、「一坊の主人」の意味が転じて、一般僧侶の俗称になった(語源由来辞典)。

しかし、ちょっといかがであろうか。インドでは、

仏教の修行者たちが集まって共同生活している場所をヴィハーラ (vihara) と呼んでいましたが、これを漢訳する時に、〈僧院として区画された所〉 ということから「僧坊」と訳されました。

とあるhttps://mobility-8074.at.webry.info/201702/article_5.html。ヴィハーラは、

寺院(じいん、梵、巴: vihāra)、

を指すhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E9%99%A2

「寺」の由来については、「寺」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E5%AF%BAで触れたが、

仏教の出家者が起居し、修行を行う施設、

である。で、

僧坊、
とか、
寺坊、

は、

寺院内において僧侶が生活を送る居住空間及びその建物自体、

を指すhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%83%A7%E6%88%BF、とある。

インドのヴィハーラの中の、一人ひとりの修行者が生活する小さな舎あるいは一室をラヤナ (layana) またはクティー (kuti) といいましたが、これは「房舎」とか「房」と漢訳されました。

とあるhttps://mobility-8074.at.webry.info/201702/article_5.htmlのはその意味かと思われる。

古代日本の寺院伽藍の構造においては全体の北側の区域に講堂を南側として、東室(ひがしむろ)・北室(きたむろ)・西室(にしむろ)の3棟の僧房を設置した。これを三面僧房(さんめんそうぼう)と呼んだ、

とある(仝上)が、

平安時代に台頭した天台宗や真言宗では巨大な僧房は設置されず、既存の宗派(南都六宗)でも私僧房である子院を建てる高僧が登場した。また、僧房でも高僧が1人で房を独占したり、仏堂や御影堂に改装されるようになり、鎌倉時代から室町時代にかけて本来の機能を喪失していった、

とあり(仝上)、この私僧房には、

○○房(○○坊)という個別の名(房号・坊号)がつけられるようになり、大寺院に付属する子院や塔頭の名となるようになった(京都寂光寺の本因坊など)。一方で、私僧房は寺院における寺務所・住僧の住まい(庫裏)となり、大寺院の僧房でその寺の寺務を取り仕切る僧房は本坊(ほんぼう)と称されるようになった、

ある(仝上)。この、

僧房の主、

が、

房主、

つまり、

坊主、

の由来ではあるまいか。日本語源広辞典は、

僧房+主、

としている。僧侶の意である、

法師、

は、特定の房(坊)を持つ「坊主」に対して、

自らの坊(僧房)を持たない僧侶、

を指した。しかし、本来、「法師」は、

法(のり)の師、

つまり、

仏教の師、

を意味する。

本来、法師とは仏教、及び仏教の教義が説かれている経典に詳しく、人の師となるほどの学識・経験を備えた僧侶に対する敬称。戒律に詳しい僧侶を律師、禅定修行に長けた者を禅師と呼称する事と同様、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E5%B8%AB。それが、日本では、中世以降、

琵琶法師、
一寸法師、
起き上がり小法師、
影法師、
つくつくぼうし、

等々どうも軽んじられるに至っている。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

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甘茶


「甘茶(あまちゃ)」は、

アジサイ科の落葉低木のアジサイ(学名:Hydrangea macrophylla)の変種である。 ガクアジサイ(Hydrangea macrophylla f. normalis)に良く似ている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%98%E8%8C%B6。というより、

ヤマアジサイ、

に似ているが、この「アマチャ」は、

学名:Hydrangea macrophylla var. thunbergii、

とある(仝上)。しかし、これを、

学名 Hydrangea macrophylla subsp.serrata、

ユキノシタ科の落葉低木、

とするものもある(大辞林、植物名辞典、広辞苑)。

「甘茶」は、葉に甘味の成分(フィロズルチン)が含まれ、この葉を乾燥・発酵させると、「甘茶」がでる(植物図鑑)ので、

その若い葉を蒸して揉み、乾燥させたもの、およびそれを煎じて作った飲料のこと、

も指す(仝上)。ウリ科のつる性多年草であるアマチャヅルの葉または全草を使った茶も甘茶ということもあるが、「アマチャ」を使った甘茶が本来の甘茶である、ともある(仝上)。また、

灌仏会(花祭り)の際に仏像に注ぎかけるものとして古くから用いられた。これは、釈迦の生誕時に八大竜王がこれを祝って産湯に甘露を注いだという故事によるものである、

ともある(仝上)が、別に、

アマチャ・アマチャヅルの葉を蒸してもみ、乾燥したものを煎(せん)じた飲料。黄褐色で甘みが強く、食品の甘味料ともする。四月八日の灌仏会(かんぶつえ)に釈迦像にかけ、また、飲む、

とある(大辞林、広辞苑)。こちらは、灌仏会に使うのは、

アマチャヅル、

より採ったもの、とする(仝上)。

「アマチャヅル」(甘茶蔓、Gynostemma pentaphyllum)は、

ウリ科アマチャヅル属に属する多年生のツル性の植物、

あるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%85%E3%83%AB

どれも「甘茶」といったらしいが、

この茶をつくる植物はいくつかある、

という(たべもの語源辞典)。

ひとつは、

アマヅル、
アマヅラ、

と呼ばれ、別名、

ツタ、
ナツヅタ、

その幹から液を採って煮詰めて甘味料をつくった、

とある。ツル性の植物で、甘い液の出るツルがその名になった(たべもの語源辞典)。今日、

アマヅル、

別に、

男葡萄、

の名のある、

ブドウ科ブドウ属、学名Vitis saccharifera、

https://matsue-hana.com/hana/otokobudou.html、「アマヅラ」とも呼ばれた古くからある「アマヅル」とは別のようで、

一般的にはブドウ科のツル性植物(ツタ(蔦)など)のことを指しているといわれる。一方で、アマチャヅルのことを指すという説もあり、どの植物かは明かではない、

とあり、どの植物を指すかはっきりしないhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%85%E3%83%A9

「アマヅル」が、ツタと呼ばれたのは、

ツタフ(伝)、

という意からのようで(たべもの語源辞典)、

「アマヅラ(甘葛)は、春若芽の出る前にそのツルを取って煎じ詰めた用いた(甘葛煎)」

とある(仝上)。

今ひとつは、冒頭に挙げた、ヤマアジサイ(あるいはガクアジサイ)に似た、

ユキノシタ科の落葉低木、

で、

コアマチャ、

とも呼ばれるものがある(仝上)。これを、

アマチャ、

といい、

その葉を乾かすと甘くなるので、甘茶をつくった。漢名で土常山(どじょうざん)と称するのがこれであり、アマチャの木という。虎耳草(こじそう)の葉から甘茶をつくると書いたものがあるが、虎耳草はユキノシタの漢名である。コマチャが虎耳草科なので虎耳草としたのであろう」

とある(仝上)。

三つめは、前述のウリ科の、

アマチャヅル、

である。

ツルアマチャ、
アマカヅラ、

ともいい、

夏から秋にかけて新芽をとって蒸してからよく揉み、青汁をとり除いてから乾燥させる。黄褐色で甘みが強く、香りがよいので、飲料とした、

とある(仝上)。

「甘茶」は、

アーウマシがつまってアマ(甘)シという言葉となった、

といわれ、「甘茶」とは、

うまい茶、

の意だと、たべもの語源辞典はいう。しかし、大言海は、

甘葛煎(あまづらせん)、是れなるべし、

とする。「甘茶」を、

甘葛(あまづら)、

とみなした故だろう。しかし、「甘茶」について、

土常山の葉を摘み取りて、蒸し揉みて、青汁を去り、干して茶に製す、

という説明は、「アマチャ(子アマチャ)」の説明であり、ちょっと矛盾がある。ここでは、

「うまし」

に与しておく。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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はし


「はし」は、

橋、
箸、
端、
梯、
嘴、
階、

と当て分ける。この他に、柱http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E6%9F%B1で触れたように、「柱」の語源として、大言海は、

ハシは屋根と地との間(ハシ)にある物の意、ラは助辞、

とし、日本語源広辞典も、

ハシ(間)+ラ、

を採り、

屋根と地のハシ(間)に立てるものをいいます、

とする。この説を採るものは多く、古事記傳・雅言考・国語の語根とその分類=大島正健・日本語源=賀茂百樹等々)、

ハシラ(間等)の義(言元梯)、

も同趣である、と述べたが、

間(正確には、「閒」。「間」は俗字)、

も、「はし」と訓ませた。「柱」の語源でも、「橋」「梯」の「はし」とからめて、

橋渡しとなるもの、二所間の媒介物としてのハシ(橋・階・梯)諸語と同じ原義(時代別国語大辞典-上代編)、
梯座の義(和訓栞)、

という説もあるほど、どうやら、

橋、
箸、
端、
梯、
嘴、
階、
閒(間)、

は、語源として深くつながっている、とみられる。言うまでもなく、

「橋」は、通行のために、川や湖・谷・道路などの両側を結んでかけわたした構築物、
「箸」は、食べ物を挟み取って食べるのに用いる、一対の棒。木・竹・象牙などで作る、
「端」は、物事の起こり、はじめ。へり、ふち、さき、きわ、はじ。切れ端。間、
「梯」は、はしご。高い所へ登るための道具。二本の長い材に足掛かりとなる横木を何本もとりつけたもの、
「階」は、階段。きざはし、
「嘴」は、くちばし、
「閒」は、二つのものにはさまれた部分、時間・距離の隔たり、関係、物事の中間、

等々という意味である。

「端」は、縁、辺端、といった意味だが、

端、

を、

は、

とも訓ませる。

「奥」「中」の対、周辺部・辺縁部の意、転じて、価値の低い、重要でない位置や部分、

と、周辺の状態表現が価値表現へと転じているのだが、

間、

の意味もあり、万葉集には、

まつろはず 立ち向ひしも 露霜の 消(け)なば消(け)ぬべく 行く鳥の争う端に渡會(わたらい)の、斎の宮ゆ 神風(かむかぜ)に い吹き惑はし(柿本人麻呂)

くもり夜の、迷へる閒に、朝もよし、城上(きのえ)の道ゆ、つのさはふ、磐余(いわれ)を見つつ、

の例があり、「はし」に「閒」と「端」を使っているし、古事記には、

閒人(はしびと)穴太部王、

という例もあり、

端、

閒、

は、「縁」の意と「間」の意で使っていたように思われる。だから、大言海は、「橋」を、

彼岸と此岸との閒(はし)に架せるより云ふ、

とする。国語大辞典も、

両岸のハシ(間)をわたすもであるところから、ワタシの略転、早く渡れるところからハヤシ(早)の中略、両岸のハジメ(初)からハジメ(初)へ通ずるものであるところから、

とあるhttp://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/isibasi/hasi_k.html。さらに、「はし」は、

現在”橋”と書くが、古くは”間”と書いていたことが多かった。もともと、ものとものとを結ぶ”あいだ”の意味から、その両端部の”はし”をも意味するようになった、

ともある(仝上)。「はし(閒)」とする説は多く、

両岸のハシ(間)にわたすものであるところから(東雅・万葉集類林・和語私臆鈔・雅言考・言元梯・和訓栞・国語の語根とその分類=大島正健・日本語源=賀茂百樹)、

この他、

ハザマ(狭間)・ハサム(挟)等と同源か。ハシラ(柱)・ハシ(端)とも関係するか(時代別国語大辞典)、
ハシラ(柱)の下略(和句解)、
ハシ(端)の義(名言通・言葉の根しらべの=鈴木潔子)、
橋は「端」と同源。「端」の意味から「間(あいだ)」の意味も持ち、両岸の間(はし)に渡す もの、離れた端と端を結ぶものの意味から(語源由来辞典)、

あるいは、日本語源広辞典のように、

ハシ(間)です。隔たったある地点の閒(ハシ)に渡すもの、の意です。高さのハシ、階、梯、谷や川を隔てた地点のハシ、橋、食べ物と口とのハシ、箸、いずれもハシ(閒)を渡したり、往復するものです、

と、「橋」と「箸」「梯」「階」ともすべてつなげる説まである。「柱」もまた、

天と地のハシ(閒)、

であった。これから考えれば、母船から陸に荷物を運ぶ「はしけ(艀)」も、

沖合と波止場とのハシ(閒)、

の意味と重なるだろう。

保田與重郎も、

「橋も箸も梯(はしご)も、すべてはしであるが、二つのものを結びつけるはしを平面の上のゆききとし、又同時に上下のゆききとすることはさして妥協の説ではない。(中略)神代の日の我国には数多(あまた)の天の浮橋があり、人々が頻りと天上と地上を往還したといふやうな、古い時代の説が反って今の私を感興させるのである。水上は虚空と同じとのべたのも旧説である。『神代には天に昇降(のぼりくだ)る橋ここかしこにぞありけむ』と述べて、はしの語源を教へたのは他ならぬ本居宣長であつた。此岸を彼岸をつなぐ橋は、まことに水上あるものか虚空にあるものか。」

と(日本の橋)、橋と梯子をつなげていた。

梯、
階、

の「はし」は、

ハシ(橋)と同源(東雅・大言海)、
ハシ(端)の意(名言通)、
ハシ(閒)の義(言葉の根しらべの=鈴木潔子・大言海)、

と、ほぼ「橋」とつながり、たぶん、「柱」ともつながる。

「箸」については、箸http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E7%AE%B8で触れたことがあるが、

「はしご」や「きざはし」などの「はし」、食べ物 を挟む「箸」も同源である、

と見る見方ももちろんある(日本語源広辞典、語源由来辞典)。例えば、

食と口との間を渡すものであるところからハシ(閒)の義(俗語考・言葉の根しらべの=鈴木潔子・国語の語根とその分類=大島正健・大言海・日本語源=賀茂百樹)、
食を口へ渡すものであるところからハシ(橋)の義(和句解・言元梯・和訓栞)、

しかし、大言海が、

食と口との閒(ハシ)を渡す意と云ふ、
或いは、
竹の端(ハシ)と端(ハシ)とにて挟めば云ふか、

と二説挙げたように、

ハサミ(挟)の義(名言通)、
ハサム(挟)と同語源(古代日本語文法の成立の研究=山口佳紀む)、
竹の端と端で挟むところからハシ(端)の義(東雅・言葉の根しらべの=鈴木潔子)、

と「挟む」と絡める説はある。ただ、「はさむ(挟)」の語源を見ると、

ハサは閒の義。二物の間に押さえ持つ意(国語の語根とその分類=大島正健)、
ハは間の義。端にセバメ(狭)寄せる意(日本語源=賀茂百樹)、

と、「閒」の「ハシ」に戻ってくる。どうやら、これも、

閒、

の意で、「橋」「梯」「階」とつながるようである。

しかし、「嘴」の「ハシ」は、少し難しい。大言海は、

くちばし(嘴・喙)と同じ、

とし、「くちばし」は、

口端(くちばし)の義、

とする。岩波古語辞典も同じく、

ハシ(端)と同根、

とする。他も、

ハ(端)から出た語(国語の語根とその分類=大島正健)、

と、「ハシ(端)」見る説が大勢である。ただ、「箸」を、

ハシ(嘴)の転義(日本釈名)、
古くは、一本の棒を折り曲げ、ピンセットのように挟んで使うもので、鳥の嘴に似た形であった ことから、「嘴(はし・くちばし)」が語源(語源由来辞典)、

ということはあり得るので、結局、

橋、
箸、
端、
梯、
嘴、
階、
閒(間)、

は、すべてが同系につながってくるようである。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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ワサビ


「ワサビ」は、

山葵、

と当てるが、古くは、

山薑、

とも当てた(「薑」は、しょうが、はじかみ)、

アブラナ科ワサビ属の多年草、

で、

日本原産の隠花植物、

である(たべもの語源辞典)。山間の渓流に自生するものを、

沢山葵、
水山葵、

と呼び、栽培するものを、

畑山葵、
陸(おか)山葵、

漢名を、

沙羅菔、

等々という、とある(仝上)。異名は、

カラキネ、
アルクサ、
ヤマアオイ、

である(仝上)。

「ワサビ」は、

飛鳥時代の遺跡である飛鳥京跡苑池遺構(現・奈良県明日香村)から出土した木簡に「委佐俾三升(わさびさんしょう)」と書かれていた、

とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%B5%E3%83%93、等々)、最古の資料となるが、庭園で野菜や薬草が栽培されていた可能性を示す発見で、単なる遊覧の場でなく、薬草園の性格を持っていた可能性が高いhttps://www.kinjirushi.co.jp/wasabi/history/、ともある。さらに、奈良時代の地誌『播磨風土記』では、

山薑、

と書いて「わさび」と読ませており(語源由来辞典)、また、日本最古の律令集の『延喜式』の中にも、「ワサビ」が、

「山薑」と記載され、京の都近くの若狭、越前、丹後、但馬、因幡の国々から、税として収められていたことがわかっています、

とあるhttps://www.kinjirushi.co.jp/wasabi/history/。平安時代の『本草和名』は、

和佐比、

と記し、同じく平安時代の『和名類聚抄』も和佐比と記し、

山葵、

の漢字を当てた。「和佐比」に、

山葵、

の字を当てたのは、『本草和名』からのようである。

「フタバアオイは一株にかならず二葉が出るので名づけた。カモアオイは京都加茂神社の祭礼にこのアオイを用いるからついた名で、徳川家の紋章はこれに基づいたものである。ワサビは、加茂葵に葉が似てその根の形と味が生姜に似ているので山葵・山姜(イヌハジカミ)とも称した。葵をワサビとするのは当て字である」

とある(たべもの語源辞典)。

さて、古く、「山薑」と書いて「わさび」と読ませており、「葵」を語源とする説は、

ワサアフヒ(早葵)の義(和句解・日本語源広辞典)、

等々も含めあり得ないとすると、「ワサビ」の語源であるが、大言海の、

悪障疼(わるさはひびく)の略、辛き意、

がある。似たものに、

ワサはワシル(走)でツンと辛さが鼻に走ることから。ビはミ(実)の転(ミからビ=前川文夫)、
ハナセメ(鼻迫)の約轉(言元梯)、

等々あり、たべもの語源辞典も、

ワサビのワサは早いことで、ビはひびくことである。辛さが早くひびくこと、

としているし、それに似たものに、

ワサヒビナがつまってワサビナになり、さらに略されたもの、ワサは早生、ヒビナはひりひりと辛い葉の意(植物和名の語源=深津正)、

がある。どれとも判別はつかないが、いずれも、辛さには堪えた様である。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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望蜀


「望蜀」(ぼうしょく)は、後漢書(岑彭(しんぽう)伝)に、

人苦不知足、既平隴復望蜀

とあるのに由来する。

ひとつの望みをとげてさらに上を望むこと、
たるを知らないこと、

の意とされる(広辞苑)。

隴を得て蜀を望む、
望蜀の願、

という言い方もする。「隴(ろう)」は、

中国の地名。甘粛省南部、隴山の西の称、

蜀は、

今の四川省、

とされる。後漢書には、

帝……勅彭書曰、両城若下、便可将兵南撃蜀虜、人苦不知足、既平隴、復望蜀。毎一發兵、頭鬚為白

とある(大言海)。李白も、古風詩で、

物苦不知足、得隴又望蜀

と書くほど知られた逸話だ。

千石取れば万石羨む、
思う事一つ叶えばまた一つ、

も似た意味である。光武帝は、

王莽による簒奪後の新末後漢初に混乱を統一し、漢王朝の再興として後漢王朝を建てた。廟号は世祖。諡号の光武帝は漢朝を中興したことより「光」、禍乱を平定したことより「武」の文字が採用された、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%AD%A6%E5%B8%9D。「隴を得て蜀を望む」の他にも、

志有る者は事竟に成る」、
柔よく剛を制す、

などの言葉を残している(仝上)。一度滅亡した王朝の復興を旗印として天下統一に成功した数少ない君主とされるが、「漢委奴国王」の金印を倭の奴国の使節にあたえた皇帝としても知られる(仝上)。

この逸話は、他にも、隴の地方を手に入れ、さらに蜀を攻めようとしたとき、曹操が司馬懿(しばい 仲達)に答えた言葉としても知られる。

晋書(しんじょ)』宣帝紀には、司馬懿は益州(えきしゅう)(=蜀)を狙うべきだと曹操に進言した。それに対して曹操が、

人苦不知足、既平隴復望蜀、

と言い、その進言に従わなかった、という。この曹操の言葉は、光武帝の言葉を借りている。ただ、光武帝は、

わたしは隴を平定したうえに、さらに蜀の地を望むのである。ただ戦をするたびに、髪の毛が白くなる、

と歎きつつ、蜀を討つことを命じているのに対して、曹操は、戒めとして言ってる。

司馬懿は、魏において功績を立て続けて大権を握り、西晋の礎を築いた。字は仲達(ちゅうたつ)。西晋が建てられると、廟号を高祖、諡号を宣帝と追号された。『三国志』では司馬宣王と表記されている。曹操は、司馬懿に対して「司馬懿は誰かに仕えるような男ではない」と常に警戒していたとされる、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E6%87%BF

参考文献;
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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ワラビ


「ワラビ」は、

蕨、

と当てる。和名抄、本草和名、字鏡、いずれも、

和良比、

と訓ませているが、古名は、

ヤマネグサ、
イワネグサ、
イワシロ、
ホドロ、

とある(たべもの語源辞典)。異名に、

ムラサキノリ、
ワラ(女房ことば)、
紫の塵、

地域でさまざまに呼び名がある。たとえば、

土佐方言でシドケ、伊勢でヨメノサイ、和歌山県日高地方でホツロ、壱岐・香川三豊地方・長崎でワラビナ、沖縄でヘゴ、

等々(仝上)。漢名は、

蕨萁菜・米蕨草・龍頭菜・山菜・烏昧(うまい)・月爾(げつじ)・莽芽(もろが)・金桜芽(きんおうが)・拳頭菜(けんとうさい)・小児拳・倒掛草(とうけいそう)・拳菜・龜脚菜、

等々(仝上)。

「蕨」(漢音ケツ、呉音コチ)は、

会意兼形声。「艸+音符厥(ケツ ちぢんで曲がる)」。若芽がちぢんでまるくまがったわらび、

を指す(漢字源)。早春、地中の根茎からこぶし状に巻いた新芽をだす、これを意味しているが、わが国では、

さわらび(早蕨)、

という。「ワラビ」は、

シダ類の代表的な名として流用され、たとえばイヌワラビ、クマワラビ、コウヤワラビなどがある。また、アイヌ語でもワラビを「ワランビ」「ワルンベ」などと呼称しており、日本語由来の言葉と考えられている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%A9%E3%83%93

春から初夏にまだ葉の開いてない若芽(葉)を採取しスプラウトとして食用にするほか、根茎から取れるデンプンを「ワラビ粉」として利用するが、毒性があるため生のままでは食用にできない。伝統的な調理方法として、熱湯(特に木灰、重曹を含む熱湯)を使ったあく抜きや塩漬けによる無毒化が行われる、

とある(仝上)。あく抜きには、

灰汁を用いたりするが、アザミの葉をワラビ一把(わ)に二、三枚加えて茹でるとアクが抜ける、

と出羽山中の伝えにある(たべもの語源辞典)、とか。

「ワラビ」の語源には、さまざまな説がある。

ハルミ(春味)の転(和語私臆鈔)、
色が焼いたワラビ(藁火)に似ているから(和句解)・日本語源広辞典、
ワラノヒ(曲平伸)の略で、形がワラ(藁火)に似ているところから(柴門和語類集・日本語源広辞典)、
ワラハテフリ(童手振)の義(名言通)、
ネネリヤカメグキ(撓々芽茎)の義(日本語原学=林甕臣)、
ワ(曲)ラ(接辞)ヒ(秀)という語構成の語(語源辞典・植物篇=吉田金彦)、
ワラ(茎)メ(芽)の転呼(日本古語大辞典=松岡静雄)、
童+ビ(拳)。握りこぶしに似ているので(日本語源広辞典)、
早春の芽出しの早いことをワラヒ(笑)とみて、それが訛ったもの、
ワラビの芽の部分が三本に分裂して、その一本は茎となって伸びたのち、さらに三本の芽に分かれと、分裂を繰り返すので、ワカレメ(別れ芽)草と呼ばれていたから、ワカの縮約形のワレメはレの転訛でワラメ、さらにメの転訛でワラミ、ワラビと転訛した(日本語の語源)、
ワラビのワラを散(わら)と考えて、ワラビがその芽の散(わら)くるから、
散芽(わらめ)の転、
散風(わらぶる)の転、
ワラビのワラはカラ(茎)に通ずるので、カラ(茎)メ(芽)から転じた、
蕨の字と蹶(ケイ、ケツ)の字と似ていることからワラビの芽生えの形が鼈(すっぼん)の足ににているから、

等々(日本語源大辞典、たべもの語源辞典)。

「ワラビ」の「ビ」は、ビ→ミ、と転じて、

実、

とし(ミからビ=前川文夫)、

あちこちに散らばって出るから散(わら)という、

とし、

ワラミ→ワラビ、

ではないかとするのはたべもの語源辞典である。

どれかという根拠はないが、ワセビの生態から見ると、日本語の語源の、

芽の部分が三本に分裂しており、その中の一本は茎となって伸びたのち、さらに三本の芽に分かれ、再三、分裂を繰り返してゆくので、ワカレメ(別れ芽)草と呼ばれていたと推測される。ワカ[w(ak)a]の縮約形のワレメは、レの母交(母韻交替)[ea]でワラメになり、さらにメの母交(母音交替)[ei]でワラミ・ワラビと転訛した、

とする、

ワカレメ→ワラメ→ワラミ→ワラビ、

と転訛するとする説は、たべもの語源辞典は「いかがか」と疑問を呈したが、

あちこちに散らばって出るから散(わら)、

という説よりは、僕には生態的にも、感覚的にもよくわかる気がする。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)

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ゼンマイ


「ゼンマイ」は、

薇、
紫萁、

と当てる(広辞苑、大言海)。あるいは、ゼンマイの地下茎が狗の背骨に似ているとかで、

狗脊(くせい)、

と書いても、

ゼンマイ、

と訓ませるとある(たべもの語源辞典)が、俚言集覧には、

狗脊は別物なり、

とあり、さらに、牧野富太郎に言わせると、「ゼンマイ」に、

薇(び)、

と当てるのも、

薇はスズメノエンドウ(マメ科)の名、

というので、誤りとある由だが、一般には「ゼンマイ」に、「薇」を当てている(仝上)。

「ゼンマイ」は、

新芽が平面上の螺旋形(渦巻き形)になる。その表面には綿毛が被さっている。スプラウトとして食用にするには根元を折り、表面の綿毛を取り去り、小葉をちぎって軸だけにし、ゆでてあく抜きし天日に干す。干しあがるまでに何度も手揉みをして柔らかくし、黒い縮緬状の状態で保存する。 天日で干したものを「赤干し」と呼び、松葉などの焚き火の煙で燻したものを「青干し」と呼ぶ、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%82%A4

「ゼンマイ」の語源は、

新芽の渦巻から、平面の上の渦巻になっている形状のもの総じてぜんまいと称する、

ということhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%82%A4から、これを語源とする説が多い。たとえば、大言海は、

其芽、銭の大きさに巻けば錢巻(ぜにまき)の音便、

とする。あるいは、

小児のにぎりこぶしに似ているので、漢語で拳菜の名がある(日本語の語源)、
線+巻くの変化、渦巻きの形をしているから(日本語源広辞典)、

等々は、新芽の渦巻きからきていると見ていい。その他に、

シジメマキ(縮芽巻)の義(日本語原学=林甕臣)、
嫩芽が錢の形をして回転しているから錢舞が、ゼンマイになった、

等々もある。ただ、

機械のゼンマイに形が似ているから(名言通)、

とする説は、発条(ぜんまい)が「ゼンマイ」より先にあったことになるので、この逆で、発条(ぜんまい)が、

その形がゼンマイ(薇)の形に似ているから、繊巻あるいは漸巻(ぜんまい)、

とする説(嬉遊笑覧)から見て、薇と発条は前後が逆だろう。

たべもの語源辞典は、独自に、

「ゼンマイには、細いもの、綿のようなものがあって、それが綿の代用になり織物にされたり、手毬のシンになったりする。ここがゼンマイの特色で、もう一つの特徴は、巻いているということなので、繊巻と書かれた。それがゼンマイと転訛したものであろう。繊巻の繊はセンとよみ、巻は国訓マクで、センマク、これがゼンマイと転じた」

とする。嬉遊笑覧も、

繊巻、

と当てていたし、ゼンマイの綿毛を使った織物もある。

東北地方では、(中略)ゼンマイの新芽を採取した後、食用の茎と綿毛を分離するが、その綿毛を集めておいてゴミを取り除き、天日でよく乾燥させておく。夏頃に90度程度で蒸し上げ、それを乾燥させ、真綿や水鳥の羽毛を混ぜ合わせて糸を紡ぐ。縦糸・横糸のどちらかに綿糸や絹糸を用い、もう一方に前述の混合糸を使って布を織る。ゼンマイの布は保温性や防水性に富み、また防虫・防カビ効果もある。

とあるしhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%82%A4

ぜんまい綿、

として、

ゼンマイの綿毛を綿として使うゼンマイの綿。手まりや布団に使われる、

ともある(仝上)。ここは、

センマク(繊巻)→ゼンマイ、

の転訛説を採っておく。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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あすか


「あすか」は、

飛鳥、
明日香、

と当てる。

「あすか」に、

飛鳥、

と当てるのは、「あすか」にかかる枕詞、

飛ぶ鳥の、

の表記をそのまま使ったもの、とされる(岩波古語辞典)。似た例は、

日下、

があり、これは「草香/草香」の枕詞が、

日の下の、

であったことから、とされる(仝上)。「飛ぶ鳥の」と枕詞を持つ歌は、

飛ぶ鳥の、明日香の里を、置きて去(い)なば、君があたりは、見えずかもあらむ(元明天皇)、
飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 石橋渡し 下つ瀬に 打橋渡す……(柿本人麻呂)、

等々、万葉集にはたくさんある。

日本語の語源は、その「飛ぶ鳥の」の由来について、

「アスカ〈明日香、飛鳥〉の里は、推古天皇から文武天皇までおよそ百年間にわたる皇都の所在地で、(中略)政権のお膝元に住み富をたくわえて、なに不足ない生活をしていた都人たちは、トミタル(富み足る)明日香といって恵まれた生活を謳歌していた。『ミ』以下が隣接母韻間の母交(母韻交替)[iu]・[ao]・[ui]をとげるとトムトリ・トブトリ(飛ぶ鳥)に転音し、ここに明日香の枕詞が生まれた。
 枕詞の『飛鳥』の文字は『明日香』の地名表記の代用となり、両地名が併用されているうちに、やがて『明日香』にアスカの訓読が発生した。
 トミタル(富み足る)が『ミ』を落とすとトダルになって『豊かに栄える』という意味の用語になった。〈天つひつぎを知らしめすトダル天の御巣なして〉(古事記)」

とする。是非はともかく、

トミタル→トムトリ→トブトリ、

と転訛したとするものである。しかし、大言海は、「飛ぶ鳥の」の項で、

鳥のイスカの古名は、アスカなるべく、それに掛けて云へるならむ、

とする。天武紀を引き、

十五年七月、改元曰朱鳥元年、仍名宮曰飛鳥浄御原宮トアリ、此朱鳥ニ因ミテ、飛鳥ト云ヒシガ、其意ハ唯鳥ノ事ナリ、後ニハ、用ヰ馴レテ、飛鳥ノ字ヲ、直ニあすかト読ムニ至ル、

とする。「いすか」(鶍、交喙)は、スズメくらいの大きさの渡り鳥、秋に日本に渡来する。嘴が交叉しているのが特徴。しかし、「いすか」の古名が、

アスカ、

とはどこにも載らないので確かめようがない。ただ、「いすか」の派生語、

いすかし(佷し・很し)、

は、

いすかのようだ、

の意で(岩波古語辞典)、

心と人があわない、
心がねじけている、

という意味で使う。嘴が交叉しているためだろうか、神武紀に、

長髄彦…稟性、愎佷(イスカシマニモトリテ)不可教以天人之際、

とある例も、あまりいい意味では使っていない。こういう含意のある言葉を「あすか」の語源とする「イスカ」説はどうであろうか。他にも、「飛鳥」については、

大和のトブトリ(飛鳥)郷のアスカはしばしば皇居の知となったので、飛鳥とかいて、アスカと訓むようになった、とする説(日本古語大辞典=松岡静雄)、
アと仰ぎ見ればスカスカと羽音のするところから、飛鳥ヲアスカと云ふ(本朝辞源=宇田甘冥)、

等々がある。「とぶとり」郷という地名に少し違和感はある。むしろ、

アスカの地に鳥類が多く生息しているからだと思われる、

という説(飛鳥・歴史と風土を歩く)の方が、「あすか」の枕詞として「飛ぶ鳥」が使われた所以に近いかもしれない。

では「あすか」の語源はどうであろうか。

スカはシキ(磯城)。キ(城)は柵壁その他の防備物で四辺を取囲んだ一郭の血をいう古語。朝鮮語にも同語がある(日鮮同祖論=金沢庄三郎)
アは接頭語。スカはスカ(住処)。住処は集落の意で、そこから転じて地名になった(日本古語大辞典=松岡静雄・世界大百科事典)、
スカ(スガ)=浄地にアの接頭語がついたもの(日本大百科全書)、
安宿の朝鮮音アンスクから転訛(てんか)した(古代地名語源辞典)、
ア+スカ(洲処)。飛鳥川の砂洲地帯だから(日本語源広辞典)、

等々諸説あるが、決め手はない。ただ、

洲処、

を当てる、「すか」は、

海岸の砂丘、小高いところ、

の意として、中部以東の地名に多いとある(岩波古語辞典)。大和の「あすか」は、

本来は天香久山の南、橘寺・岡寺に至る間の低い丘陵に囲まれた小範囲をさし、中央を飛鳥川が流れる、

地域を指し(世界大百科事典)、古代には、

飛鳥川の東岸をいい、すでに弥生(やよい)文化の遺物も認められるが、灰褐色、黄褐色土壌群に開発が進んだのは5世紀後半以来であった。これには北方系の乾田農法の技術が用いられたとみられ、この開発をさらに推し進めたのは蘇我(そが)氏を中心とする人々であった。以後、飛鳥川の流域一帯が、古代統一国家形成の主舞台となった、

とある(日本大百科全書)。広い意味の、

住処、

よりは、

すか(洲処)、

がふさわしいのではないか、という気がする。「こそあど」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473304970.htmlで触れたように、「あ」は、

彼、

と当て、「遠称」であり、彼の地、といった含意であるが、別に、「あ」は、

吾、
我、

と当て、一人称の他に、接頭語として、

相手を親しんで呼ぶときに冠する語、転じて、軽蔑の意も表す、

とある(岩波古語辞典)。時代的な考証ができていないので、あくまで憶説だが、それなら、

ア+スカ(洲処)、

は意味がある。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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うらむ


「うらむ」は、

恨む、
怨む、
憾む、

と当て分ける。「恨」(漢音コン、呉音ゴン)は、

「会意兼形声。艮(コン)は、『目+匕(ナイフ)』からなり、ナイフを突き刺して、目の縁に入れ墨をし、いつまでも痕を残すこと。恨は、『心+音符艮』で、じっと心中に傷跡を残し、根に持つこと」

とあり(漢字源)、「恨む」といういつまでも心に根を残す意であり、「怨恨」と使うように、「怨」と類似であるが、「恨」には、

恨むらくはいまだ何人なるかを知らず(恨未知何人)、

というように、「憾む」と当てるのに似た、「残念ながら」の意でも副詞として使う。「怨」(漢音エン、呉音オン)は、

「会意兼形声。上部の字(エン)は、人が二人からだをまげて小さくまるくかがんださま。怨はそれを音符とし、心を加えた字で、心が押し曲げられてかがんだ感じ、いじめられて発散できない残念な気持ちのこと」

とある(仝上)。「うらむ」「無念さ」という意味である。「憾」(漢音カン、呉音ゴン)は、

「会意兼形声。感は『心+音符咸(カン)』の会意兼形声文字で、心に強くショックを受けること。憾は『心+音符感』で、残念な感じが強いショックとして心に残ること」

とある(仝上)。「うらむ」「しまったと強く感じる」意だが、

人猶憾む所有り(人猶有所憾)、

というように(中庸)、確かに「残念」「物足りない」の含意が強い。

「怨」、「恨」、「憾」の使い分けは、

「怨」は、恩の反なり、恙(うらむ)也、恨也と註す。叔齊不念舊悪、怨是用希、
「恨」は、わが心に残りて怨の深きなり。史記「王朔謂李廣曰、将軍自念、豈嘗有所恨乎、廣曰、羌降者八百餘人、吾詐而盡殺之、至今大恨」、
「憾」は、恨に同じくやや輕し。孟子「養生喪死、無憾、王道之始也」

とある(字源)。

さて、「うらむ」は、

「古くは上二段に活用し、江戸時代には四段活用となった。まれに上一段も」(広辞苑)
「奈良時代では上一段活用で、平安時代になってから上二段活用に転じたものであろう。なお、近世以降は四段に活用する」(岩波古語辞典)

とし、

「他からの仕打ちを不当と思いながら、その気持ちをはかりかね、また仕返しもできず、忘れずに心にかけている意」

とある(広辞苑)。岩波古語辞典は、同趣旨ながら、

「相手の仕打ちに不満を持ちながら、表立ってやり返せず、いつまでも執着して、じっとと相手の本心や出方をうかがっている意。転じて、その心を行為にあらわす意。類義語ゑんず(怨)は、不満をすぐ口に出し、行動で示す場合が多い」

とする。で、万葉集は、

逢はずとも我は恨みじこの枕我と思ひてまきてさ寝ませ、

と、

いつまでも不満に思って忘れない、
相手の気持ちを不満に思いながら忍ぶ、

という意味で使われることが多い。平安期になると、

褻(な)るる身をうらむるよりは松島のあまの衣にたちやかへまし(源氏)、

と上二段に変ずるが、 意味はそんなに変わらないが、同じ、

「小君をお前にふせて、よろづにうらみ、かつは語らひ給ふ」(源氏)、

だと、恨み言を言う意味になる。それが、

「入道相国朝家をうらみ奉るべき事必定と聞こえしかば」(平家)、

となると、

無念を晴らす、
仕返しをする、

意となる。残念の意は、「憾む」と書き分けるのが、今は当たり前だが、

憾むらくは、
恨むらくは、

と当てているので、必ずしも、「怨」、「恨」、「憾」を使い分けていたわけではなさそうである。

「うらむ」の語源は、

心(うら)見るの転、

とする(大言海・岩波古語辞典)。

「ウラミのミは、miであった。従って、ウラミの語源はウラ(心の中)ミル(見る)と思われる」

とする(岩波古語辞典)。

「うらなう」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba8.htm#%E3%81%86%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%86で触れたように、「うら(占)」は、

「事の心(うら)の意」

とする(大言海)。「心(うら)」は、

「裏の義。外面にあらはれず、至り深き所、下心、心裏、心中の意」

とある。「うら」は、

裏、
心、

と当て、

「平安時代までは『うへ(表面)』の対。院政期以後、次第に『おもて』の対。表に伴って当然存在する見えない部分」

すある(岩波古語辞典)。

したがって、「かお」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba7.htm#%E3%81%8B%E3%81%8Aの項でも触れたように、「うら(心・裏・裡)」は、

「顔のオモテに対して、ウラは、中身つまり心を示します」

とし、

「ウラサビシ、ウラメシ、ウラガナシ、ウラブレル等の語をつくります。ウチウラという語もあります。後、表面や前面と反する面を、ウラ(裏面)ということが多くなった語です」

としている(日本語源広辞典)。「うらむ」は、

相手の心のうちをはかりかね、心の中で悶々とする、

というか原意であったと考えられる。なお、

「うら」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba12.htm#%E3%81%86%E3%82%89
「こころ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba8.htm#%E3%81%93%E3%81%93%E3%82%8D

については、触れた。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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五平餅


「五平餅」は、

御幣餅、
五兵衛餅、

とも表記する。

中部地方の山間部(長野県木曽・伊那地方、岐阜県東濃・飛騨地方、富山県南部、愛知県奥三河地方、静岡県北遠・駿河地方に伝わる郷土料理。粒が残る程度に半搗きにした粳米(うるちまい)飯にタレをつけ、串焼きにしたものである、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%B9%B3%E9%A4%85。「餅」といっているが、

粳米(うるちまい)飯を半搗き、

にしたものである。美濃地方で、

狗賓餅(ぐひんもち)、

と称して天狗に供えるのも五平餅とおなじである(たべもの語源辞典)。

五平餅の形は、代表的なものとしては、

御幣、
わらじ、
小判、
丸、
団子、
棒、

等々いろいろあるhttp://www.toyota-go-hey.jp/history/aji.html。また、

タレのベースに醤油を使うか味噌を使うか、ゴマとクルミを使うかエゴマを使うかは地域による。エゴマをベースに醤油と砂糖で仕上げるのは木曽地方中北部から飛騨地方にかけての特徴である。クルミを使っていた地方では近年は入手しやすいピーナツをクルミの代わりに使うこともある、

と(仝上)。

長野県南部または美濃山間部に伝わる郷土食で、新穀を感謝して造られる、

とある(日本語源大辞典)ので、

神に捧げる「御幣」の形をしていることからこの名がついた、

と考えられる。その由来については、

宮大工の棟梁の五平が、毎日弁当に決まって握り飯に味噌を塗り、焚火に炙って食べたのが始まり、
屋根葺き職人の五平が、板の切れはしにご飯を塗り固め、その上に味噌を付けて食べたから、
日本武尊が東征のとき幣束の形にして神に供えたのを里人に分かち与えた、
尊の従者五平が焼いたのが始まり、

等々(たべもの語源辞典・日本語源広辞典・日本語源大辞典)諸説あるが、

五平の名を採った、

というのは俗説とする(日本語源広辞典)のが妥当だろう。

御幣(ごへい・おんべい・おんべ)は、

白色または金銀、五色の紙を幣串にはさんだもの。神霊が宿り、示現する依代 (よりしろ) として神に供えられた、

とされる(ブリタニカ国際大百科事典)。

幣帛(へいはく)の一種で、2本の紙垂(しで)を竹または木の幣串に挟んだものである。幣束(へいそく)、幣(ぬさ)ともいう。(中略)「幣」は麻(麻布)、「帛」は絹(白絹、絹布)を意味する。両者は捧げ物の代表的な事物であることから、本来、「幣帛」で神々への捧げ物の「総称」を意味する。
「幣帛」は「充座」(みてぐら)、「礼代」(いやじり)ともいう。「幣帛」は、広義では神饌(食物)も含むが、狭義では神饌に対する特に布類を指す。布類では麻布が主流なので、主に「幣」の字が用いられることになる。現物の代わりに「幣帛料」として捧げられる金銭を「金幣」という。
「御幣」とは、神々への捧げ物を意味し、貴重な品を示す「幣」(へい)に、尊称の「御」(ご)を付けたものである。

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%B9%A3。長く、神々に対し、貴重な品々、「幣帛」を捧げてきたが、それは、

稲(米)、酒(みき、酒造技術)、塩、魚などの神饌(みけ)の他、鉄製の武器(刀剣類)や農工具(=製鉄・鍛造技術)・器・玉(=宝飾加工技術)・鏡(=鋳造・研磨技術)・衣類・布類(=養蚕・製糸・織布技術)、

等々で、これらの品々は、神々の霊魂が宿る依り代、神々の象徴でもあった。それが、奈良時代後半から平安時代前期にかけて、幣帛は特に布類を指すようになる(仝上)、とある。「五平餅」は、そうした供えた「幣帛」の一つとみられる(仝上)。

串に物を挟み、または刺して神を祀るのは日本の古い風習である、

から(たべもの語源辞典)、

御幣餅、

と呼んだとみて間違いはなさそうである。

山小屋でこの餅の焼き立てを山の神に供えるとされ、その形が神さまの御幣のようであるから御幣餅と呼んだものを、五平と当て字で書き、五平という人が作り始めたといったような伝説を考え出したものであろう」

とする(仝上)のが妥当のようである。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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あたら


「あたら」は、

可惜、
惜、

と当てる。「可惜」は当て字のように思えるが、

アタラ(可惜)シの語幹。感動詞的に独立して、また連体詞的に名詞に冠してもちいる、

とあり(ただ、連体詞的な使い方は平安時代に入ってから使われたようだ)、

惜しくも、
もったいないことに、
惜しむべき、

の意であり(広辞苑)、

立派なものが、その価値相当に扱われないことを惜しむ意、

とある(岩波古語辞典)。「あたら」が促音化して、

あったら、

とも使い、

可惜口(あったら)、

という言い回しがあり、

口に風を入れたるばかりの結果となれること、

の意(大言海)で、

可惜口に風ひかす、

とも言い、

せっかく言い出したのに効果がない、
言いたる言が徒事(あだこと)となる、

意で、転じて、

無駄口をたたく、

の意となる(広辞苑)。

可惜(あたら)物、

という言い回しもあり、

せっかくのものを、
もったいないものだ、

という意味になる(広辞苑)。

「あたら」は、

玉匣(くしげ)明けまくも惜しアタラ夜を衣手(ころもで)離(か)れて独りかも寝む、

と、古く万葉集にも使われる。「あたら」の語源は、

あたらし(可惜)の語幹(広辞苑・岩波古語辞典・大言海)、

とする以外に、

「当たら」の意で、そのものに相当する、値する、の意から転じて、立派な、すぐれた、の意味を持つ語。さりらに、その価値相当に扱われていないとするところから、惜しくも、残念なことにの意で用いられるようになった(角川古語辞典)、

等々があるが、日本語源大辞典は、

「あたら」と「あたらし」の先後関係は不明だが、語源説としては、(「当たら」が)有力視されている、

としている。

その「あたらし」は、

惜し、

と当て、大言海は、

アタは、傷(イタ)と通づるか(諫む、あさむ)、

とするが、岩波古語辞典は、

アタリ(当)と同根。アタリ(当)・アタラシの関係は、ユク(行)・ユカシ(奥に行きたい、奥ゆかしい)と同じ。対象を傍から見て、立派だ、すばらしいと思い、それがその立派さに相当する状態にあればよいのにと思う気持ちを言う。平安時代以後アタラシ(新)と混同が起こり、アタラシは亡びて、アタラシが新の意をもっぱら表すようになった。類義語ヲシ(惜)は自分の手の中にあるものの失われるのを哀惜する意、

とし、

新の意になると、アタラシのアクセントばアタラシ(新)と同じ平平平平となり、可惜の意のアタラの上上上とは異なっている、

とする(岩波古語辞典)。同趣旨は、他にも、

「田の畔を放ち、溝を埋むるは、地をあたらしとこそ、我がなせの命、かくしつらめ」(古事記)はスサノオの乱暴を、姉君のアマテラスオオミカミが擁護して言う場面で、「田の畔を放ったり、溝を埋めたりするのは、土地がもったいないというので、弟はこんなことをしたのでしょう」と言う意味である。「あたらし」の語源は「あたる」という動詞だろうと阪倉篤義氏(日本語の語源)は推測する。「いたむ~いたまし」、「つつむ~つつまし」と同じ機制から生じたというわけである。「あたる」とは、「的が当たる」というように、的中するとか、適合するとか、合致するとかいう事態を指して言う言葉である。それ故、「あたらし」には、適合すべきだという意味が基層としてあり、そこから、適合すべきなのにそうでないのは残念だ、惜しいことだとする意味合いが生じた、

とあるhttp://blog2.hix05.com/2012/10/post-64.html

この「あたらし」の、

可惜(あたら)し→新(あたら)し、

という意味の転について、大言海は、

日本釈名(元禄)「惜(あたら)しは、惜しむ也、古き物は、惜しむに足らず、新しき物は惜しむべし、少年の光陰惜しむべきが如し」(節文、朗詠集「踏花同惜少年春」)。惜(あたら)しが、新しに通づるは、可愛(うつく)しく思ふより、美麗(うつく)しに転じ、親愛(うるは)しに転ずるなど同齢り。この語奈良朝以前は、アラタシにて、アタラシは、平安朝以後なりとする説あれど(アラタシといふ語。多くは見当たらず)、同時に両立してありしなり、ウツクシ、うるはし、是なり、

と説く。しかし、「あらたし」は、

あらた(新)の形容詞形、

つまり、

あらたを活用、

したもので、

平安時代以後、アタラシ(可惜)と混同を起こしたらしく、アタラシという形に変わった。ただし、可惜の意のアタラシと新の意のアタラシとのアクセントば別で、アタラシ(新)の第一アクセントは、アラタ(新)の第一アクセントと一致していた、

とある(岩波古語辞典)。つまり、口語では、

あたらし(可惜)、

あたらし(新)、

とは区別されていたが、書き言葉の中では区別がつかなくなっていった、ということなのだろうか。日本語源大辞典は、

アラタシからアタラシへの変化は、音韻転倒の典型的な例として引かれることが多いが、変化の説明はなお考慮すべき点がある。まず、アクセントのうえでは区別できるものの、「惜しい」の意の形容詞「アタラシ」と同形となり、一種の同音衝突となる点をどのように考えるかが問題となる。さらに、同根の類語アラタナリ・アラタムとの類似が薄まるために起こりにくくなるはずの変化が、どうして起こり得たかを明確にする必要がある、

と、述べている。確かに、

あらた(新)なり、
あら(新)た、

はそのまま生きているのである。

ところで、「あたらし」(可惜)の語源は、「あたら」(可惜)と同様、先後関係があいまいなので、

あたら(可惜)の形容詞化(古代日本語文法の成立の研究=山口佳紀)、

もあるが、

「当たる」から派生した語で、物や人が、その立派さに相当するようにしたいの意(万葉集=日本古典文学大系)、

という説もあり得るだろう。

因みに、

可惜身命(あたらしんみょう)、

という言い回しがある。

不惜身命、

の対義語。不惜身命から派生して生まれた言葉とされている。

不惜身命、

は、

仏法のためには身命をも惜しまざるべし、

という意であるが、

可惜身命、

は、

身体や生命を大切にする、

という意である。『法華経』の「不惜身命」を借りて、「可惜」の、

今のままでは惜しい、または大切なものや良いものが相応しい扱いをされていないことを惜しむ、

意を使っての造語である。

仏法のために身命を賭す、

という意の不惜身命とは真逆である。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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不惜身命


「不惜身命」は、

ふしゃくしんみょう、

と訓む。法華経・譬喩品にある語で、

仏道を修めるためには、あえてみずからの身命をもかえりみないこと、

また、

その心構えや態度のこと、

である(故事ことわざの辞典)。現在では、広く、

自身の立てた目標や目的を達成するため、命や体を惜しまず全力で事に当たる、

という意味に変化しており、確か貴乃花が大関昇進に当たって、この言葉をそんな意味で使った。

法華経・譬喩品には、

若人精進、常修慈心、不惜身命、乃可為説(若し人精進し、常に慈心を修め、身命を惜しまざれば、乃ち為に説くべし)、

とあり、法華経・勧持品には、

読誦此経 持説書写 種種供養 不惜身命 爾時衆中 五百阿羅漢(この経を読誦し、持ち、説き、書写して、種種に供養し、身命をも惜しまざるべし)、

とありhttp://www.shiga-miidera.or.jp/doctrine/be/122.htm、また、法華経・如来寿量品にも、

一心欲見佛 不自惜身命 時我及衆僧 倶出霊鷲山(一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜しまざれば、時にわれ及び衆僧は、倶に霊鷲山に出ずるなり)、

とある(仝上)。さらに、日蓮遺文・御義口伝にも、

第二不惜身命の事、御義口伝に云く、身とは色法、命とは心法也。事理の不惜身命之有り、法華の行者田畠等を奪るるは理の不惜身命也。命根を断たるるを事の不惜身命と云ふ也、

とある(故事ことわざの辞典)。また、浄土宗の観経疏・散善義にある、善導が深心釈に、

一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して依行せよ、

とありhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%8D%E6%83%9C%E8%BA%AB%E5%91%BD、となると、

不顧身命、

も同義と理解されている(仝上)。

ところで、道元の正法眼蔵には、

ここに為法捨身あり、為身捨法あり。不惜身命なり、但惜身命なり。法のために法をすつるのみにあらず、心のために法をすつる威儀あり。捨は無量なること、わするべからず、

とあるhttps://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%C9%D4%C0%CB%BF%C8%CC%BF、とか。この、

但惜身命(たんじゃくしんみょう)、

は、ある意味、「あたら」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E3%81%82%E3%81%9F%E3%82%89で触れた、

可惜身命、

と似た意味で、

身命を惜しむ、

意である。しかし、

不惜身命なり、但惜身命なり、

とあるのは、

漢字の意味をそのまま解釈すれば「ただ、身体や命は惜しいものだ」となります。つまり、「不惜身命なり、但惜身命なり」とは、身体や命は大切なもので、無駄にすべきものではない、ということを理解しているからこそ、仏のために身体や命も惜しまないことが大切だと考えられる、と解釈できます、

とあるhttp://stevengerrard.hatenablog.com/entry/20110416/1334442460が、この、

但惜身命、

を、

「但」は「但し」、

ではないhttp://www3.ic-net.or.jp/~yaguchi/houwa/husyaku.htm

「不惜身命なり」と、ここでいったん打ち切る。但しという具合につながないで、全く新たに、「但惜身命なり」と受けるのです。そうでないと、この一句の真の意味はまったくわからなくなります。不惜の道と、但惜の道とが互いに、人生最高のあり方として、しっかりと同時現成している、

と解している(仝上)。とすると、たぶん、

不惜身命、

と対に考え出された、

可惜身命、

もまた、ただ、

身命を惜しむ、

意ではないはずである。

可惜(あたら)、

が、

今のままでは惜しい、または大切なものや良いものが相応しい扱いをされていないことを惜しむ、

意とするなら、そういう大事な身命を惜しむことが片方にあり、にもかかわらず、その大事なかけがえのないものを、仏法修行に賭する、というのに、意味があるのだろう。道元の、

ここに為法捨身あり、為身捨法あり。不惜身命なり、但惜身命なり。法のために法をすつるのみにあらず、心のために法をすつる威儀あり。捨は無量なること、わするべからず、

を見る限り、

法のために身命を惜しまない面、
と、
ただ身命を惜しんで修行する面、

という二義性https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%C9%D4%C0%CB%BF%C8%CC%BFを示しており、一般論化して解釈するのではなく、あくまで仏法修行を言っているだけで、

法のために命を惜しまず、
しかし、
命を惜しんで修行する、

という解釈になるのだろう(仝上)。ただ、別の解釈もあるらしく、

仏法を体得して、むしろ身命を大切にして、ながく人々のために法を説き広めることを、

但惜身命、

ともいうhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%8D%E6%83%9C%E8%BA%AB%E5%91%BD、とある。となると、道元の、

不惜身命なり、但惜身命なり、

とは、対ではなく、因果であり、

不惜身命なり→但惜身命なり、

の境地に達することになる。この解釈の方が個人的には納得いくが、道元の趣旨からは離れていく。

参考文献;
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)

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落花生


「落花生」は、漢名である。

らっかせい、

と訓むが、

らっかしょう、

が正しいのだとある(たべもの語源辞典)。大言海には、

らくくわしゃう、

で載る。

オニマメ、
南京豆、
唐豆、
南蛮豆、

等々とも呼ぶ。

宝永年間(1704~11)に中国南京から渡来した、

ためである(地錦抄附録)、という(仝上)。ために、

唐人豆、
異人豆、

等々とも呼ぶ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AB%E3%82%BB%E3%82%A4、仝上)。ただ延宝三年(1675)刊の黒川道祐の『遠碧軒記』に、

「落花生と云ものあなたより渡る。松の子の類なり。相云ふ、この花の露が地へ落て、その所へ此実なると云伝ふ。日本にて種もはゆるなり、近来渡る博愛心鑒に有と云」

とあるので、延宝以前に渡来した可能性もある(仝上)、とある。他に、

元禄(1688~1704)の末、中国商人が長崎に伝えたが地上で開花して地中で結実する不思議な植物なのであまり広まらなかった、

ともある(近代世事談)、という(たべもの語源辞典)。

「落花生」は、

草丈は25-50cm。夏に黄色の花を咲かせる。花が咲く前に自家受粉する。受粉後、数日経つと子房柄(子房と花托との間の部分)が(長柄状に)下方に伸びて地中に潜り込み、子房の部分が膨らんで地中で結実する、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AB%E3%82%BB%E3%82%A4。漢名が、

落花生、

である所以で、

落下松、
落下参、
長生果、
地豆、

等々の漢名もある(たべもの語源辞典)。

松・参・長生は、いずれも栄養価の高いことを示したものである、

ともある(仝上)。

原産地は南アメリカ大陸である。最も古い出土品は、ペルーのリマ近郊にある紀元前2500年前の遺跡から出土した大量のラッカセイの殻である。また、紀元前850年頃のモチェ文化の墳墓にあった副葬品にラッカセイが含まれていることから、ラッカセイが生活の中で重要な位置を占めていたことが分かる、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AB%E3%82%BB%E3%82%A4。その後、ヨーロッパにも紹介されたが、気候もあまり適さないことから、ヨーロッパでの栽培はあまり行われなかった、とある(仝上)。日本には、東アジア経由で伝来した。ただ、現在の日本での栽培種はこの南京豆ではなく、

明治七年(1874)勧業寮がアメリカのカリフォルニア州から種子を輸入したもの、

が現在の落花生の起源である(たべもの語源辞典)。

因みに、落花生とピーナッツは同じものであるが、

日本では主に皮の付いたものを「落花生」と呼び、皮をむいて味付けしたものを「ピーナッツ」と呼ぶことが多い、

とある(語源由来辞典)。「ピーナッツ」、

は英語peanutsに由来し、peaはえんどう豆の意、nutsはnut(木の実)の複数形、

である(由来・語源辞典)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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和三盆


「和三盆」は、

唐三盆、

に対して言う。

三盆、

は、

粒子の細かい上等の砂糖、

を言い、

黒砂糖をまろやかにしたような独特の風味を持ち、淡い黄色をしており、細やかな粒子と口溶けの良さが特徴、

でありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E4%B8%89%E7%9B%86、その特徴は、いまの機械式製糖に比して、

ほんのちょっとだけ蜜が残っている。また脱塩処理を挟んでいないこともあってカリウム等ミネラル成分を多く含んでいる。このことからグラニュー糖や上白糖には無い「風味」が特徴。見た目はほんのり色が付いているが、カソナード(粗糖)のようなはっきりした茶色ではなく、クリーム色の淡い色合いである(精白度でいえば「グラニュー糖>和三盆>粗糖」という形になる)、

とあるhttps://dic.nicovideo.jp/a/%E5%92%8C%E4%B8%89%E7%9B%86

「三盆」は、はじめ中国から輸入していたのを、享保(1716~36)頃から日本で製したので、唐三盆に対して、

和三盆、

という(広辞苑)。「三盆」は、

三盆白、
三盆糖、

とも言い、

上白糖(じょうはくとう)、

をいうこともあるように、

伝統的製法により特別に精製を繰り返した上等な砂糖、

である。

和製の三盆白、

とある(大言海)。「三盆」は、

しろした(白下)を圧して、滓を滴らせ、手にて練り、貯へてなる、

とあり、重修本草綱目啓蒙(享和廿二年)には、

舶来白沙糖の上品を、三盆白と云ふ、

とある(仝上)。

糖霜、

ともいう、とある(仝上)。ちなみに「白下」とは、

白砂糖の下地の意、

で、

甘藷の……茎を…搾りて、蠣灰(カキバイ 牡蠣の殻を焼いてつくった石灰)を加へて煎煉す、其液(シル)を白下糖と云ふ(此儘にても用をなす)、これを壓し搾り、精を取りて、再び製煉して、固まらす、色、赭黄(黄色がかった 褐色)なり、

とある(大言海)。

当時、日本では薩摩の黒糖しかなく、徳川吉宗が享保の改革において全国にサトウキビの栽培を奨励し、高松藩が これに呼応、その後、阿波の国(徳島)でも栽培されるようになりました。 これが日本の砂糖「和三盆」栽培のはじまりと言われています、

とありhttps://www.otoemon.com/select-ingredients/sugar-wasanbon-01/、現在和三盆糖が作られているのは、徳島県、香川県のみである。原材料の竹糖が栽培されているのが、徳島県と香川県の県境にある阿讃山脈の南側と北側にあたるため、とある(仝上)。ただ、尾張名所圖會(天保)の知多郡には、

三盆砂糖、享保の末、原田某、造り始めし由、

とあるので、各地で試みられていたものとみられる。現に、

白砂糖の製造に成功した時期でいえば阿波讃岐はそこまで早いほうではなく、すでに1750年代には尾張国(愛知県知多半島)や長門国(山口県下関)などで覆土法による製糖が行われていた記録がある、

とあるhttps://dic.nicovideo.jp/a/%E5%92%8C%E4%B8%89%E7%9B%86。積極的に砂糖製造を推進した幕府は、寛政9年に『砂糖製作記』本まで出したが、その中で、幕府が推進していた砂糖製造法は、

植木鉢のように底に穴が開けられた容器「瓦漏とうろ」の中に、まずその穴を塞いだ上でさとうきびジュースを煮詰めた濃縮糖液を入れて結晶化を待ち、その後穴の塞ぎを取り除き、非結晶分である黒い蜜(モラセス)を重力によって下に落とすという第一の分蜜法を採るものであった、

とあり、その後に、

「瓦漏」の中で半固化している砂糖の塊の上部に、水分を含んだ土を乗せて第二の分蜜を施す、

ことを行うが、これを、

覆土法、

といったhttps://www.alic.go.jp/joho-s/joho07_000650.html、とある。最近の知見で、覆土の効果には、

土に含まれる水分の滴下によって、結晶の周りに存在している黒い蜜を洗い流す他に、覆土が乾いた時に、毛管現象によって覆土側に蜜が上昇して分蜜もされるという、

ことが確認されている(仝上)、らしい。

因みに、「竹糖」とは、砂糖黍のことであるが、

温帯での生育に適した竹糖は、イネ科「シネンセ種(S.sinense)」に属し、熱帯地方で一般的に栽培されるサトウキビのオフィシナルム種(S.officinarum)とは異なる栽培種である、

とされhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E4%B8%89%E7%9B%86

収穫期で背丈は2mほどと低く、太さも大人の人差し指ほどしか無く、他地方で一般的に作られている砂糖黍とかなり外観が異なっています。通常の砂糖黍より細いので、地元では「細黍」と呼ばれています、

とあるhttp://www.wasanbon.co.jp/wasanbon/chikutou.html。この移植は、

宝暦年間に高松五代藩主松平頼恭(よりたか)公の命により、医者”池田玄丈”が砂糖作りの研究を始め、弟子の医者”向山周慶”が後を継ぎ、砂糖キビの栽培及び製糖法の研究を進めておりました。しかし、なかなか成果が上がらず苦労していました。ある日、四国遍路の途中病にかかり行き倒れになっている人を見つけ家に連れて帰り、”向山周慶”が治療をして助けました。この人は薩摩の奄美大島の人で、”関良介”と云い、砂糖作りをしたことがあるというので、”向山周慶”は是非砂糖作りを手伝って欲しいと頼みました。そして、助けられた恩に報いるために、”関良介”は命の恩人の頼みを聞き入れ、藩外へ持ち出し禁止のサトウキビを讃岐地方で育て、まず黒糖を作ることに成功しました、

とあるhttp://www.baikodo.com/wasanbou/history/index.htmlが、これは伝説で、上述のように、

徳川吉宗が享保の改革において全国にサトウキビの栽培を奨励すると、高松藩が特産物創生と財源確保を目的としてこれに呼応した。その後、徳島藩でもサトウキビが育てられるようになり、領内各地で栽培できるまでなった、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E4%B8%89%E7%9B%86、例のサツマイモが、吉宗によって、

飢饉の際の救荒作物として西日本では知られていた甘藷(現在のサツマイモ)の栽培を(青木)昆陽に命じ、小石川薬園(小石川植物園)と下総国千葉郡馬加村(現在の千葉市花見川区幕張)と上総国山辺郡不動堂村(現在の千葉県山武郡九十九里町)とで試作させている。この結果、享保の大飢饉以降、関東地方や離島においてサツマイモの栽培が普及し、天明の大飢饉では多くの人々の命を救ったと評される、

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E6%98%86%E9%99%BDのと同一の幕府の政策であったようだ。

さて、「和三盆」の由来であるが、大言海は、

始めて齎せる支那人の官の、三品なるより呼べりと云ふ、

とする(俚言集覧・上方語源辞典=前田勇)。他に、

中国で、もと土製の鉢を盆といった。砂糖を精白するとき、この盆を三つ使ったか、または三度作業を繰り返すかしたところからか。「礼記」に、蚕糸を紡ぐ際に諸侯の夫人が儀式的に三度手を盆にすることをいう「三盆手」という言葉があるが、これと関係あるか(国語學叢録=新村出)、

という説がある。しかし、今日「和三盆」を製造している各社のホームページには、

三盆の語源は諸説あり、正確な由来は定かではないのですが、よく知られた説では、当初の製法が「お盆の上で三日間研いでいた」「お盆の上で三回研いでいた」などに由来すると言われております、

とかhttps://www.otoemon.com/select-ingredients/sugar-wasanbon-01/

元々は「三盆糖」と呼ばれていました。この「三盆」の由来は各説あってはっきりしません。三盆糖の出荷港が香川の三本松であったからと言う説や、扱う中国の役人が三品の位であったからとかの説もあります。
しかし中でも一番もっともらしいのが、「盆の上で三回研ぐ」と言う理由によるものでしょう。精製の技法が広まり三盆糖としての製造が始まったおり、最初は専用の研ぎ台は無く、手元にあった盆の上で研いだと言います。また白い砂糖の無かった当時、三回ほど研いだら概ね精製された砂糖として目され出荷した様です、

とかhttp://wasanbon.co.jp/origin/index.html

研糟 (盆)の上で三度研ぐためと云われています、

とかhttp://www.baikodo.com/wasanbou/history/index.html

概ね、

盆の上で砂糖を三度「研ぐ」という日本で工夫された独自の精糖工程から来たもの、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E4%B8%89%E7%9B%86、製造過程の特徴からきているとしている。それは、

(さとうきびの)搾り汁を煮詰めて濃縮し、褐色で半流動体状の「白下糖(しろしたとう)」を作る。この白下糖を布袋に入れ、圧搾して糖みつを絞り出し、袋に残った白下糖に水を加えて練る「研(と)ぎ」という作業を行う。再び布袋に入れて圧搾、研ぎという工程を数度繰り返し、最後に1週間ほど乾燥する、

という(日本の郷土料理がわかる辞典)プロセスであるが、具体的には、たとえば、

讃岐・ばいこう堂http://www.baikodo.com/wasanbou/process/index.html
阿波・岡田製糖所http://wasanbon.co.jp/method/index.html

等々をみるとわかる。必ずしも、「三度」ではないので、少し疑念はあるが、

「三盆手」という言葉かある、

という新村説は気になるものの、一応、現在の定説になっている、

三度「研ぐ」、

という製造プロセス由来に与しておく。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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