「はらをくくる」は, 「ほらをふく」は, 法螺を吹く, である。 法螺吹き, とも言う。昨今の我が国のトップは,うそつきで,うそつきと,法螺吹きとは違う。 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1046093990 に, 「『嘘をつく』のは、本当のことを言えない理由があって、それをごまかすために『本当ではないこと』を言うことです。つまり、聞き手に、事実に反する情報を与えることが目的です。 『ほらを吹く』のは、自分の話で相手をもっと驚かせたい、感心させたい、という目的で『大げさな話』『想像で膨らませた話』をすることです。(そのために、事実に反する内容も当然含まれます)この話は、話者自身についての話題で、聞き手の『関心をひく』ことが目的です。事実を隠すのが目的ではありません。」 あったことをなかったかのごとく,喋った記録も改竄することをウソつき,という。 「法螺」は,『広辞苑』にこうある。 法螺貝に同じ, 大言を吐くこと,またその話。虚言。 儲けが予想外に多いこと,僥倖, 最後の意味は,あまり使わないが,『広辞苑』には,『日本永代蔵』から, 「これを思ふに法螺なる金銀まうくる故なり」 を引く。ともかく,「法螺」で,ほぼ, 法螺を吹く, と同義と見える。『江戸語大辞典』の「法螺」の項には, 「山崩れの原因は,深山幽谷に年久しく埋もれていた法螺貝が,精気を得て土中を飛び出して天上する(海中に入るとも)からで,一夜にして地形に大変化が起こり,跡に大きな洞穴を生じるという俗説」 とあり, 法螺の天上, とも言うらしい。これも,今日使われない。『大言海』は,「法螺」の他に, 寶螺, とも当て, 「字の音の約。或は,中の洞なる意か。又は,聲のホガラカなる意かとも云ふ。」とある。 そもそも「法螺貝」は, 「大型の巻貝の殻頂を切り,吹き口をつけて吹奏するホルン属の楽器。世界各地でおもに信号,合図に用いる。法螺は梵語で śaṅkaといい,釈迦の説法が遠く響くことをたとえるもので,仏教では諸神を呼ぶための法具とされている。日本へは入唐の僧により密教儀式の法具として請来されたが,合戦での信号など仏教以外の場でも用いられた。修験道では行者のもつ主要な 12の道具のうちの一つであり,もとは山嶽修行の際,悪獣を避けるために用いた。」(『ブリタニカ国際大百科事典』) で,正確には,「貝」は, 「フジツガイ科の巻き貝。日本産の巻き貝では最大で、殻高30センチ以上になる。貝殻は紡錘形で厚く、殻口が広い。表面は黄褐色の地に黒褐色などの半月斑が並び、光沢がある。ヒトデ類を餌とする。紀伊半島以南の暖海に広く分布。肉は食用。ほら。」(『デジタル大辞泉』) という(「法螺貝」は,「吹螺」「梭尾螺」とも当てる)。 『日本語源広辞典』には, 「ホラ(中のうつろな)+貝」 を取るが,『日本語源大辞典』は, 「(法螺の)字音ホウラの略か。法螺貝の中がホラ(洞)で,それがカラ(空)であるのを貝の殻と結びつけたか。法螺貝を吹き鳴らすことが,大言壮語と結ばれた(語源大辞典=堀井令以知)」 としている。『日本語の語源』は, 「〈かくあさましきソラゴト(空言。虚言)〉(竹取)の省略形のソラ(空)はホラ(噓)・ハラ(鹿児島方言)に転音・転義した。『嘘を吐(つ)く』ことを『ホラを吹く』というのは山伏のホラ(法螺)貝と見たからである。」 「法螺を吹く」の「ほら」が,音から来たというのも一つだが, http://dic.nicovideo.jp/a/%E6%B3%95%E8%9E%BA%E8%B2%9D の言う, 「日本では嘘つことや大げさに言う人のことを『ほら吹き』と呼ぶ。これは法螺貝が由来となっている。法螺貝は見た目以上に大きな音が出る。そこで予想以上に大儲けすることを『ほら』と呼び、大げさに表現することも『ほらを吹く』と表現するようになった。」 というのも,妙に説得力がある。しかし,ひょっとすると,素人が吹いても,スースーと空気音しか出せない,(音の出ない)空吹きに(実のないという)皮肉な含意を持たせているのではないか,という気がしないでもない。『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/ho/horafuki.html は,「ホラ吹き」の項で, 「ホラ吹きの『ホラ』は漢字で『法螺』と書き,法螺貝に細工をした吹奏楽器のこと。そこから,予想外に大儲けをすることを『 ほら』と言うようになり,さらに大袈裟なことを言うことを『法螺を吹く』と言い、そのような 人を『ホラ吹き』と呼ぶようになった。」 とある。とすると, ほら→予想外の大きな音→予想外の大儲け→大袈裟な物言い, と転じたということになるが,ちょっとしっくりこない。意味の変化が大きすぎる。『江戸語大辞典』には, 法螺の貝の盃, が載る。 飲んだ後で,ブウブウ言うしゃれ, とある。いずれも,『日本永代蔵』の引用となる, 「これを思ふに法螺なる金銀まうくる故なり」 とは,法外の意味をもたせた西鶴の洒落だったのではないか,という気がする。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 田井信之『日本語の語源』(角川書店)
「おたんちん」は,
「ちんたら」は, やる気なく,のろのろと事を行うさま, の意(『広辞苑』)で,何となく,擬態語の感じがある。しかも,「ちんたら」の「たら」は, ぐうたら あほんだら, あほたれ, ばかたれ, 等々の「たれ」「たら」「だら」とつながる,どこか相手を貶める含意がある。『実用日本語表現辞典』は, 「のろのろと行動するさま、動作が緩慢でだらけている様子、などを意味する表現。怠慢な様子を咎める際などに用いる場合が多い表現」 としている。手元の語源辞典には載らないが,『隠語大辞典』は, 「漢字で書けば、さしづめ“珍不足”(ちんたらず)か。そう、男性のチンが足りんから、ないない同士でアヘアヘする。俗にレズビアンというやつ。」 としているので,通常使う意味ではなく,あくまで,隠語としての意味となる。『日本語俗語辞典』 http://zokugo-dict.com/17ti/chintara.htm は, 「ちんたらとはダラダラしたさまを表す言葉で、そういったさまを目上の者が注意・罵る際に使われる。最近では自戒・自己の反省の際にも使われる。ちんたらは状況を表す副詞である。動詞として使用する場合は『ちんたらする』となる(否定形の『ちんたらするな』という形で使われることが多い)。ちなみにこの場合も『日曜はちんたらしちゃった』といったような、単に状況・行動を表す言葉としては使われない。」 としている。言葉の含意をよく言い当てている。 この「ちんたら」について,多く語源とするのは,焼酎蒸留から来ているという説だ。たとえば, http://www.lance2.net/gogen/z529.html は, 「『ちんたら』の語源は鹿児島の蒸留所と関係があるんだけど、昔、焼酎を蒸留する時に鹿児島では『チンタラ蒸留機』っていう機械が使われていたんだ。この機械で蒸留する際に中にある鉄釜が煮立って『チン、チン』という音が勢いよく聞こえたんだって。でもこの勢いに反して実際に機械から出てくる焼酎は『タラ〜、タラ〜』というゆっくりしたペースだったんだよね。だから焼酎を作るのにすごく時間がかかったんだよね。そんな様子からのんびりしてのろまな様子を『ちんたら』っていうようになったんだ。」 あるいは, https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1316125278 は, 「チンタラの語源は旧式の蒸留機、チンタラ蒸留機に由来するんだって。焼酎のことを地元では、『そつ』、または、『しょちゅ』と呼びます。デンプンが糖化した残り粕やアルコール化されなかった糖質・その他を含むドロドロしたもろみを蒸溜します。そのもろみのアルコール度数が低いので、熱を加えるのです。蒸溜し流れ出てくる蒸気を、冷やし液化したものが、焼酎となります。その蒸溜最初に出てくる液体を『はつだれ』と言い、 垂れ出る様は、日頃大酒飲みが晩酌でグビグビ飲む量とは対照的に、ぽたりポタリと僅かなのです。」 あるいは, http://marukikouhou.seesaa.net/article/161035165.html 「『ちんたら』の語源をご存知でしょうか?『焼酎』です。蒸留機から、焼酎が落ちてくる様が『ちんたら、ちんたら』と落ちてきます。やがて、この蒸留機自体を『ちんたら』と呼ぶようになりましたが、『のろのろしている様』を 『ちんたら』と言うようになりました。日本に蒸留酒が伝わったのが、15世紀初頭、蒸留装置が伝わったのが16世紀といいますから、時は、室町時代。鹿児島県で発見された木片に、焼酎と言う文字があります。室町時代1559年のものです。室町時代には、焼酎が親しまれていたことになります。当時は、米が主流で、日本にはまだ、サツマイモは伝わっていませんでした。芋焼酎など、色々な種類が出回るようになるのは、江戸時代になってから。『ちんたら』の言葉も、この頃から、使われるようになったのでしょう。」 あるいは, https://soudan1.biglobe.ne.jp/qa2615465.html 「さて私は、鹿児島出身です。(私の実家は、代々鹿児島です。)確かにチンタラは、鹿児島が語源だと思うし、その語源先もチンタラ蒸留器から来た語源だと思います。では、そのチンタラ蒸留器がチンと音がしたからチン○○に蒸留器と命名されたのでしょうか?それは違うと認識してます。私は、亡くなった母や叔母にチンタラの語源を50年近く前に聞いて知ってます。それは最初、『チィチィすんな!(遅々すんな!)→チィンチィンすんな!→チンチンすんな!→(意味)遅く迂路迂路するな!』に成ったのです。だから、チンタラ蒸留器も出口から『遅く迂路迂路』出る上、時にタラタラ(ダラダラと同じ=気だるく遅い様を表します。)出る事からチンタラ(遅く、迂路迂路、気だるい様)で出て来る蒸留器と呼ばれているのです。つまり、「日が暮れるぐらい遅い。」って事です。ただ、昔の人は、殆どが小学校出か中学校程度の語学しかなく、カタカナが多く使われていたようです。尚、昔(明治から昭和にかけて)は、その家の男子が軍に行ったりしているので、その家の母と長女が主に醸造酒を作って身内に振舞っていたようです。だから、旧家(本家)には、多くがチンタラ蒸留器を個人所有していたようです。」 あるいは,「天の川酒造」という会社のフェイスブックでも, https://www.facebook.com/amanokawashuzo/photos/a.215848695203454.47987.180553758732948/337789063009416/?type=3 「ちんたら」の語源として, 「それは焼酎ができる様子からと云われています。モロミを鉄釜に入れ、沸騰させると鉄釜が「チンチン」と音がし、蒸留された焼酎は、つぼ(かめ)の中へ『タラタラ』と少しずつ落ち、この作業の長い、その様を表しているのが『ちんたら』なんです!」 極め付きは, http://www.kurochu.jp/yurai2.htm に, 「『南島雑話』に描かれている蒸留器に『ちんたら蒸留器』と呼ばれているものがあります。鉄釜が熱くなると『ちんちん』と音がし、鉄釜で熱せられた焼酎は気体となって樽へ立ち上り、冷めると液化して樽に付き、筒の中を『たらたら』と流れ出ていきます。ゆっくりダラダラやる様を「ちんたら」と表現する事もありますが、これが語源になっているのかもしれません。(あくまでも推測ですが)」 とある。この「あくまでも推測ですが」とあるのが正確で,僕は実態は,逆だと思っている。「ちんたら」という言葉があって, ちんたら蒸留器, と名づけたのではないか。「ちんたら」という言葉は,新しい,と思う。あくまで億説だが,この語感は,現代的なのではないか。 そこで気になるのが, ぐうたら あほんだら, あほたれ, ばかたれ, との関連。「ぐうたら」は,語源が比較的はっきりしている。『日本語源広辞典』には, 「近世『ぐずぐずして気力のない男』を擬人化した『愚太郎兵衛』です。」 とある。『大言海』は,「ぐうたらべゑ」のみ載り, 「愚を擬人して,愚太郎兵衛の訛なるべし。愚鈍なるものを十六兵衛と云ふも百文に十六文足らずと云ふなり」 とある。『江戸語大辞典』には,「ぐうたら」「ぐうたらべえ」の両方載るが, 「ぐうたらなこと・者を擬人化した語」 とある以上,「ぐうたら」という言葉が,先にあったのではないか。とすると,「ぐうたら」は, 愚+たら, と考えられる。 阿呆+たら, と同じく,「たら」は,接尾語ということになる。「あほだら」は, あほたれ, あほんだれ, とも言う。『広辞苑』は, 阿呆垂れ, とあてている。「たれ(垂れ)」を引くと, 「(名詞の下に付けて)人を悪く言う意を表す語」 とある。 洟垂れ, くそたれ, という言い方もする。「あほんだれ」の「だれ」,「あほんだら」の「だら」は,「たれ」の転訛と見ることができる。 『日本語俗語辞典』 http://zokugo-dict.com/01a/ahondara.htm は,「あほんだら」の項で, 「あほんだらとはアホの語意を強めた言葉『あほだら』が崩れたもので、目下の者を罵る際や敵意のある者を威嚇する際に使われる。主に関西で使われる言葉だが、『アホ』を気軽に使う関西圏においても、あほんだらは怒りを込めた強い言葉であるため、使用には注意が必要である(口調が同じであれば、アホ→あほんだら→ドアホの順で語感の荒さが増す)。」 とある。この「だら」の語源について,『全国アホ・バカ分布考』(松本修)は, 「『だら』の語源は『足らず』である」 と推測している由ですが,それはうがち過ぎでしないか。そして,この「たれ」は,あるいは,助動詞「だ」の変形なのかもしれない,と思えてくる。 「だら」は, 完了の助動詞「た」(文語は「たり」)の仮定形, ではないかとする説がある。それだと,たとえば, https://www.weblio.jp/content/%E3%81%A0%E3%82%89 で,各地のさまざまな「だら」の使い方や隠語を示しているが, 〜だろう, という意味が, ばか, という意味に転じていたりする例がある。「あほたれ」は,あるいは, あほとちがうか, という含意が,そのまま,皮肉というか逆説表現になる,ということはある。「たれ」「だら」「たら」は,そんな由来なのではないか,と思えてくる。 参考文献; http://www.kurochu.jp/yurai2.htm 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 「いちょう(イチョウ)」は, 銀杏, 公孫樹, 鴨脚樹, と当てる。旧仮名では,「いちやう」だが, 「イテフの仮名を慣用するのは『一葉』にあてたからで,語源的には『鴨脚』の近世中国語ヤーチャオより転訛したもの。一説に,『銀杏』の唐音の転」 と,『広辞苑』にはある。『大言海』は, 鴨脚子, 銀杏樹, と当てて, 「鴨脚(アフキャク)の字の,支那,宋代の音なり。現在の支那音は,広東にて,イチャオ,揚子江北にて,ヤチャオなり。鴨は,我が邦の漢音,アフ,呉音,エフなれば,エ,イ,ヤの轉なり。此の樹の實なる銀杏(ギンチャウ)を,ギンナンと云ふ。即ち宋音なり。脚(キャク)を,チャと云ふは,我が國の明応年中に成れる林逸郎節用集(饅頭屋本)の雑用部に『行脚』『アンヂャ』と旁訓せり。林氏は,宋代に帰化せる者の家なり(沖縄にて,脚半〔きゃはん〕),支那,浙江省邊にては,キャなりと思わる。鴨脚子は,我が國に野生なし。植物の博士,三好學の談に,巨大なるものにても,樹齢六七百年に過ぎずとあり,七百年前鎌倉時代に,禅僧,日本,支那の間に,仕切に往復せり,其頃,支那は,宋代なり,禅僧,銀杏を携へ来たりて,植えつけたるに起これりと思はる。又,明の本草綱目に,鴨脚子とあり,子の字無かるべからず。子は,唯,物と云はむが如し(椅子,冊子,胴鉢子)子を略しては,唯,蹼(みづかき)の義となる。我が邦にても,イチャウの木と云はば,成語となるべし。此樹を,漢名に,公孫樹とも云ふ。」 と,『鴨脚』説を取る。ただし,『大言海』らしく,「鴨脚子」の「子」をとったら, 蹼(みづかき)の義, としているが,多くは,「子」を省いている。 『日本語源広辞典』も,やはり,「子」を省いているが, 「中国語『鴨脚 ヤーチャオ』 説をとる。『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/i/ityou.html も,やはり,「子」抜きだが,『鴨脚』説を取って,こう書く。 「葉がカモの水掻きに似ていることから,中国では『鴨脚』といわれ,『イチャオ』『ヤチャオ』『ヤーチャオ』『ヤーチャウ』などと発音された。これが日本に入り,『イーチャウ』を経て,『イチョウ』になった。『銀杏』を唐音で,『インチャウ』といい,『イキャウ』となって『イチョウ』になったとする説もあるが,説明の取り間違いによるものである。歴史的仮名遣いは『いてふ』とされてきたが,これは葉の散るさまが蝶に似ていることから『寝たる蝶(いたるちょう)』の意味で『イチョウ』になったとする説や,『一葉(いちえふ)』を語源とする説が定説となっていたことによるもので,これらの説か否定された今日では『いちゃう』が歴史的仮名遣いとなっている。漢字の『銀杏』は実の形がアンズに似て殻が銀白であることに由来し,『公孫樹』は植樹した後,孫の代になって実が食べられるという意味によるもので,共に中国から。」 また,『由来・語源辞典』 http://yain.jp/i/%E9%8A%80%E6%9D%8F は,「銀杏( いちょう)」として, 「一説に、葉が鴨の脚に似ていることから、中国では『鴨脚(アフキャク)』といい、明時代に日本からの留学僧がそれを『ヤーチャウ』と聞き、『イーチャウ』、さらに『イチャウ』となまって伝えられたとされる。漢字の『銀杏』は、実の形がアンズに似て殻が銀白であることに由来する。また、『公孫樹』とも当てて書くが、もとは漢名で、人(公)が植えてから孫の代になって実がなり、食べられるようになるという意味。」 と,『鴨脚』説を取る。しかし,『岩波古語辞典』は,「いちゃう」に, 銀杏, を当てて, 「室町時代以後に字書類などに見え,イチャウと振仮名がある。『銀杏』の宋時代の発音インチャウの訛がイチャウとなったものであろう。『いてふ』と書くのは,語源を『一葉(いちえふ)』と考えたからで,イチエフがつまってイテフとなる。『鴨脚』とも書くので,その唐音ヤチャオの転と見る説もあるが,疑わしい。」 と,『鴨脚』の音転訛説を一蹴している。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%A6#cite_note-10 は, 「中国語で、葉の形をアヒルの足に見立てて 中国語: 鴨脚(拼音: yājiǎo イアチァオ)と呼ぶので、そこから転じたとする説があるが、定かではない。」 とし,その注記に, 「ただし中国語の j 音(の一部)は18世紀以前には g 音であった(すなわち『脚』は「キァオ」であった)ことが知られており、名の借用がそれ以降であったとするなら、イチョウの移入時期との間には齟齬がある。また、現在の中国語では『鴨脚樹』の名はかなり稀。中国語版ウィキペディアの記事银杏(拼音: yìnxìng)では、中国語における古称は『银果』、現在の名称は『白果』(ベトナム語「bạch quả」の語源)、『银杏』(朝鮮語『은행』および日本語『ぎんなん』の語源)、別名『公孫樹』、イチョウの実は『银杏果』となっているが、『鴨脚』という表記には全く触れていない。」 とある。因みに,「イチョウの移入時期との間には齟齬がある」とは, 「欧陽脩が『欧陽文忠公集』に書き記した珍しい果実のエピソードが、確実性の高い最古の記録と見られる。それは現在の中国安徽省宣城市付近に自生していたものが、11世紀初めに当時の北宋王朝の都があった開封に植栽され、広まったとする説が有力とされる。その後、仏教寺院などに盛んに植えられ、日本にも薬種として伝来したと見られるが、年代には諸説ある。果実・種子として銀杏(イチャウ)が記載される確実な記録は、室町時代(15世紀)後期の『新撰類聚往来』以降で、鶴岡八幡宮の大銀杏や、新安海底遺物(1323年に当時の元の寧波から日本の博多に航行中に沈没した難破船)からの発見については疑問もある。」 ということで,音の由来の肝心の音が合わない,ということだ。 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%84%E3%81%A1%E3%82%87%E3%81%86 は,『日本国語大辞典』よりとして, 銀杏の唐宋音「インキョウ」より。(黒川春村『碩鼠漫筆』) 「杏」の唐宋音は「アン」であり、「キョウ」は慣用音。唐宋音の推定音はIPA: /iənɦiəŋ/。 鴨脚(オウキャク)の唐宋音、推定音はIPA: /iakiau/。入宋、入元した僧が「イーキャウ、イーキョウ」と言っていたものを「イーチョウ」等と聞き取った。(『大言海』、新村出『東亜語源志』 現在の有力説) 「一葉(イチヨウ)」より(貝原益軒『日本釈名』・『大和本草』) 葉が蝶に似ることから(松永貞徳『和句解』) と諸説を載せるし,『日本語源広辞典』もほぼ重なるが, 銀杏を唐音でインキャウといい,これがインキャウとなり。さらに訛ってイチャウとなった(碩鼠漫筆) が,現在の中国語の古称「银果」が,今日も続いていること,中国語では「鴨脚樹」の名はかなり稀ということ等々から見ても,妥当なのではないか。『岩波古語辞典』の説に軍配を挙げたい。 ただ,「鴨脚」説に,考えられる一つの可能性があるとすると, 古い時代の「鴨脚」という言い方が,本国ではすたれたが,辺境の地の日本にのみ残ったということだ。しかし,とするなら,ベトナムなどの他の周辺国にも残っていなくてはならないが。『大言海』のいう,「鴨脚子」の「子」が落ちているのも,残存した言葉と見なすと,理解できなくもない。それは,記録上の室町時代より前に(『大言海』のいう鎌倉時代に),日本に入ってきたということが前提で,だが。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
「むくげ」は, 木槿, 槿, とあてる。 蓮(はちす), 木蓮(きはちす), 槿花(きんか), とも言う。芭蕉の『野ざらし紀行』にある, 道のべの木槿は馬に喰はれけり, が,記憶に残る。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%82%AF%E3%82%B2 に, 「ムクゲ(木槿、学名: Hibiscus syriacus)はアオイ科フヨウ属の落葉樹。別名ハチス、もくげ。庭木として広く植栽されるほか、夏の茶花としても欠かせない花である。和名は、『むくげ』。『槿』一字でも『むくげ』と読むが、中国語の木槿(ムーチン)と書いて『むくげ』と読むことが多い。また、『類聚名義抄』には『木波知須(きはちす)』と記載されており、木波知須や、単に波知須(はちす)とも呼ばれる。『万葉集』では、秋の七草のひとつとして登場する朝貌(あさがお)がムクゲのことを指しているという説もあるが、定かではない。白の一重花に中心が赤い底紅種は、千宗旦が好んだことから、『宗丹木槿(そうたんむくげ)』とも呼ばれる。 中国語では『木槿/木槿』(ムーチン)、韓国語では『무궁화』(無窮花; ムグンファ)、木槿;モックンという。英語の慣用名称の rose of Sharon はヘブライ語で書かれた旧約聖書の雅歌にある「シャロンのばら」に相当する英語から取られている。」 とある。 しかし,同時に, 「初期の華道書である「仙伝抄(1536年)」では、ムクゲはボケ、ヤマブキ、カンゾウなどとともに『禁花(基本的には用いるべきではない花))とされ、『替花伝秘書(1661年)』『古今茶道全書(1693年)』でも『きらひ物』『嫌花』として名が挙がっている。ほか『立花初心抄(1677年)』『華道全書(1685年)』『立華道知辺大成(1688年)』では『一向立まじき物』『一向立べからざる物』としてムクゲの使用を忌んでいる。『池坊専応口伝(1542年)』『立花正道集(1684年)』『立花便覧(1695年)』などではいずれも祝儀の席では避けるべき花として紹介されているが、『立花正道集』では『水際につかふ草木』の項にも挙げられており、『抛入花伝書(1684年)』『立華指南(1688年)』などでは具体的な水揚げの方法が記述され禁花としての扱いはなくなっている。天文年間(1736-1741)の『抛入岸之波』や『生花百競(1769年)』では垂撥に活けた絵図が掲載される一方で、1767年の『抛入花薄』では禁花としての扱いが復活するなど、時代、流派などによりその扱いは流動的であった。江戸中期以降は一般的な花材となり、様々な生け花、一輪挿し、さらには、枝のまたの部分をコミに使用して、生け花の形状を整えるのに使われてきた。茶道においては茶人千宗旦がムクゲを好んだこともあり、花のはかなさが一期一会の茶道の精神にも合致するとされ、現代ではもっとも代表的な夏の茶花となっている。」 ともあり,その扱いの変化はおもしろい。 『日本大百科全書(ニッポニカ)』によると, 「ムクゲは古代の中国では舜(しゅん)とよばれた。朝開き、夕しぼむ花の短さから、瞬時の花としてとらえられたのである。『時経(じきょう)』には、女性の顔を『舜華』と例えた記述がある。白楽天も一日花を『槿花(きんか)一日自為栄』と歌った。一方、朝鮮では、一つの花は短命であるが、夏から秋に次々と長く咲き続けるので、無窮花(ムグンファ)と愛(め)でた。朝鮮の名も、朝、鮮やかに咲くムクゲに由来するとの説がある。ムクゲは木槿の転訛(てんか)とされるが、朝鮮語のムグンファ語源説もある。日本では平安時代から記録が残り、『和名抄(わみょうしょう)』は木槿の和名として木波知春(きはちす)をあげている。これは『木の蓮(はちす)』の意味である。『万葉集』の山上憶良(やまのうえのおくら)の秋の7種に出る朝顔をムクゲとする見解は江戸時代からあるが、『野に咲きたる花を詠める』と憶良は断っているので、栽培植物のムクゲは当てはめにくい。初期のいけ花ではムクゲは嫌われた。『仙伝抄(せんでんしょう)』(1536)には『禁花の事、むくげ」、『替花伝秘書(かわりはなでんひしょ)』(1661)にも「きらい物の事」に木槿と出る。『立華正道集(りっかせいどうしゅう)』(1684)では、『祝儀に嫌(きらふ)べき物の事』と『水際につかふ草木の事』の両方にムクゲの名があり、以後立花(りっか)、茶花に広く使われている。ムクゲは木の皮が強く、江戸時代は紙に漉(す)いた(『大和木経(やまともくきょう)』文政(ぶんせい)年間)。これはコウゾの紙よりは美しい。ムクゲの品種は江戸時代に分化した。『花壇地錦抄(かだんちきんしょう)』(1695)は、八重咲き、色の濃淡を含めて12の品種をあげている。その一つ『そこあか』は、千利休(せんのりきゅう)の孫の千宗旦(そうたん)の名をとどめる、白色で中心部が赤いソウタンムクゲを思わせる。」 と,お国によって,愛で方が異なるのも面白い。「槿」について,『漢字源』には, 「花は朝開いて,夕方にはしぼむので,移り変わりのはやいことや,はかなてことのたとえにひかれる」 とあり,「舜(しゅん)とよばれた」というだけの謂れはある。日本で,古く,「あさがお(朝顔)の名があったのもそのゆゑである。しかし,朝鮮では,「夏から秋に次々と長く咲き続けるので、無窮花(ムグンファ)と愛(め)でた」というが,今日,「木槿」は,韓国の国花,という。 さて「むくげ」の謂れである。『大言海』は, 「字の音の轉」 とする。『由来・語源辞典』 http://yain.jp/i/%E6%9C%A8%E6%A7%BF も, 「日本には奈良時代に渡来したとされる。漢名『木槿』の字音『もっきん』が音変化したもの。また、韓国名の『無窮花』(ムグンファ)から来たという説もある。」 としている。 http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E3%83%A0%E3%82%AF%E3%82%B2 は, 「木(モク)+菫(ゲ)すなわち『木に生えるスミレ』が訛って「モクゲ」⇒「ムクゲ(槿)」となったとする説が有力である」 とする。『日本語源広辞典』も, 「中国語で,『木(ムク moku)+槿(ぎん kin gin)の音韻変化』が語源」 とする。『日本語源大辞典』も, 木槿の字音の轉(万葉代匠記・日本釈名・年山紀聞・滑稽雑談所引和訓義解・古今要覧稿・外来語辞典=荒川惣兵衛), を挙げる。僕は,字音の転は転としても, 中国語の木槿(ムーチン), ではなく, 韓国語の『무궁화』(無窮花; ムグンファ), の転,ではないのか,と思う。ただ,木槿のイメージが,我が国では,中国と似て,朝顔のような儚さ,であったところから見ると,朝鮮半島経由ではない,という気もするが。 参考文献; 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 大槻文彦『大言海』(冨山房) https://item.rakuten.co.jp/hana-online/niwaki_mukuge_soutan/
「の」は, 野, と当てるが,「はら(原)」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba8.htm#%E3%81%AF%E3%82%89)に触れた折,『日本語源大辞典』は,こう述べていた。 「上代において,単独での使用例は少なく,多く『萩はら』『杉はら』『天のはら』『浄見はら』『耳はら』など,複合した形で現れ,植生に関する『はら』,天・海・河などの関する『はら』,神話・天皇・陵墓に関する『はら』等々が挙げられる。したがって,『はら』は地形・地勢をいう語ではなく,日常普通の生活からは遠い場所,即ち古代的な神と関連づけられるような地や,呪術信仰的世界を指す語であったと考えられる。この点,『の(野)』が日常生活に近い場所をいうのと対照的である。しかし,上代末,平安初期頃から,『の』と『はら』の区別は曖昧になった。」 今日, 野原, と一括りにして言うが,この説に従えば, 原 と 野 とは,区別があった,ということである。繰り返しになるが,「はら」は,「晴れ」に通じ, ハレ(霽), になるのであり,「の」は, ケ(褻), なのである。ハレ(晴れ、霽れ)は, 儀礼や祭、年中行事などの「非日常」, 「ケ(褻)」は, 普段の生活である「日常」, を表しているとされるが,「ハレ」は日常の軛から脱するとき(場)でもある。あるいは,「の」は, 現実の平らに開けた地, を指すが,「はら」は, 非現実の地, を指すという言い方もできるのかもしれない。 「野(埜)」の字は, 「予(ヨ)は,□印の物を横に引きずらしたさまを示し,のびる意を含む。野は『里+音符予』で,横にのびた広い田畑,のはらのこと。古字埜(ヤ)は『林+土』の会意文字。」 で,のび広がった郊外の地,という意味である。和語「の」は,『岩波古語辞典』には, 「ナヰのナ(土地)の母音交替形」 とある。「なゐ」は, 地震, と当て,その項に, 「ナは土地,ヰは居。本来,地盤の意。『なゐ震(ふ)り』『なゐ揺(よ)り』で自身の意であったが,後にナヰだけで」 とある。その「ナ」が母韻交替で「ノ」になったということになる。つまりは,「土地」という意である。『大言海』は, 「ヌの轉」 とある。「ぬ(野)」をみると, 「緩(ぬる)き意」 として, 「野(の)の古言, として,『古事記』の, 次生野神(ヌノカミ)名,鹿屋野比賣神, 等々を引く。とすると, ナ→ヌ→ノ, あるいは, ヌ→ナ→ノ, と交替したということなのだろうか。ただし『日本語源大辞典』には, 「ノ(野)を表すときに用いられる万葉仮名『努』は,江戸時代以来ヌと呼ばれてきたが,昭和の初め橋本進吉の研究によってノの甲類に訂正された。ただし,『奴』と表記されたものはヌと読む」 とあるので,「ヌの轉」説は,消える。 『日本語源広辞典』は「の」の語源について,『大言海』の「ぬ(野)」を「緩(ぬる)き意」としたのと同じく, 「ゆるやかにのびているノ(和)」 で,緩い傾斜の平地の意,とする。『日本語源大辞典』 伸びる意の古語ノから(東雅), ノブ(延)の義(国語本義・音幻論=幸田露伴), ノブル(延)のノに通ず(国語の語幹とその分類=大島正健), ナヰ(地震)のナの母音交替形。山のすそ野,緩い傾斜地(岩波古語辞典), ノ(野)は,平地に接した山の側面。麓続きをいう(地名の研究=柳田國男), ヌルキの義か(名言通), 田畑などに境を分けてノコ(残)る所の義か(和句解), と並べた上で, 「上代の用法はハラ(原)とよく似ているが,古代にノ(野)と呼ばれている実際の土地の状況などを見ると,もと,ハラが広々とした草原などをさすのに対して,ノは低木などの茂った山裾,高原,台地状のやや起伏に富む平坦地をさしてよんだものかと思われる。」 と述べる。山が神体と見なされた時代,「の」はその裾の地を指した,というような気がする。 参考文献; 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 兎は, 一羽,二羽, と数える。これについては,諸説あるが, http://japanknowledge.com/articles/kze/column_kaz_02.html には, 「獣(けもの)を口にすることができない僧侶(そうりょ)が二本足で立つウサギを鳥類だとこじつけて食べたためだという説や、ウサギの大きく長い耳が鳥の羽に見えるためだとする説などが有力です。 それだけでなく、ウサギの数え方の謎は、ウサギの名前の由来とも少なからず関係があるようです。ウサギの『う』は漢字の『兎』に当たるものですが、残りの『さぎ』はどこから来ているのかはっきりしたことが分かりません。一説では、『さぎ』は兎の意味を持つ梵語(ぼんご)『舎舎迦(ささか)』から転じたものだとか、朝鮮語から来ているとされています。さらに、『さぎ』に鳥のサギ(鷺)を当てたとする俗説まであります。仮に、ウサギが『兎鷺』と解釈され、言葉の上では鳥の仲間と捉(とら)えられていたとしたら、『羽』で数える習慣が生まれても不思議ではありません。現代では、ウサギを『羽』で数えることは少なくなり、鳥類とウサギを『羽』でまとめて数える場合以外は、『匹』で数えます。」 とある。また, http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000101035 は,うさぎを“何羽”と数える由来は諸説あり、正確な説は定かではないとされているとしつつ, ・宗教上の理由で僧侶が獣の肉を食べるのを禁止されていたため,後ろ足二本で立つウサギを鳥と見なして食べていた時代の名残, ・「ウ(鵜)とサギ(鷺)という二羽の鳥」ということで,兎二匹で一羽と数えるという説, ・獲るときに鳥と同じように網に追い込んで捕まえたからという説, ・ウサギの長い耳を羽に見立てているという説, を挙げる。また, https://www.benricho.org/kazu/column_usagi-2yurai.html は, @ 長い耳が鳥の羽のようだからとする説。 A 骨格が鳥に似ているからとする説。 B 二本の足で立つ兎を鳥に見立てて、鳥と称して食べたとする説。 C「ウサギ」を「ウ・サギ」と分解して発音し、「鵜う」と「鷺さぎ 」の二羽の鳥であるとする発音説。 D ぴょんぴょんと跳ねる様が飛ぶ鳥のようだからとする説。 E 肉が鳥肉に似ているからとする説。 F 耳を括って持つことがあり、括ったもの、束ねたものを数える「 一把いちわ」「二把にわ 」から、鳥にも似ているので「一羽」になったとする説。 G 網を使った捕獲方法があって、鳥を捕る方法に似ているからとする説。 H 兎を聖獣視する地方で、そのほかの獣と区別する意味合いで数え方を変えたとする説。 等々を挙げ,その他に, 「一種の『 洒落しゃれ 』から始まったのではないかとする説もあります。上記のような様々な理由から鳥に似ているため、猟師などが『洒落』で、鳥を数える『一羽』を使っていたのではないかとする」 やはり, 説も加えているが,結局,南方熊楠『十二支考』の「兎に関する民俗と伝説」の, 「従来兎を鳥類と 見做みなし、獣肉を忌む神にも供えまた家内で食うも忌まず、一疋二疋と数えず一羽二羽と呼んだ由、」 に落ちつくようだ。鍵は,「うさぎ」という言葉にありそうである。 『広辞苑』には, 「『う』は兎のこと,『さぎ』は兎の意の梵語『舎舎迦(ささか)』の転とする説と朝鮮語起源とする説とがある」 としている。『大言海』も, 「本名ウにて,サギは,梵語,舎舎迦(ささか)(兔)を合せて略轉したる語かとも云ふ(穢し,かたなし。皸(あかがり),あかぎれ)。転倒なれど,乞魚(こつお),鮒魚(ふな),貽貝(いがい)など,漢和を合したる語もあり。朝鮮の古語に,兔を烏斯含(ヲサガム)と云へりと云ふ(金澤庄三郎,日鮮古代地名)。」 と,両説挙げる。「う(兔)」の項では, 「此の獣の本名なるべし。古事記上三十二に,『裸なる菟伏也』継体紀に,『菟皇子』などある,皆,ウと訓むべきものの如し」 としている。『岩波古語辞典』は,「うさぎ(兎)」の項で, 「兔,宇佐岐〈和名抄〉,朝鮮語t`o-kkiと同源」 とするのみである。『日本語源広辞典』は,梵語説の他に, 「ウサ・ヲサ(設)+ギ(接尾語)」 で,いつでも飛び出せるように,ヲサ(用意)のある動物を指す,という。「おさ」とは, おさおさ怠りなく, の「おさ」なのだろうか。しかし,この「をさ」は,「長を重ねた語」で, いかにも整然としているさま, の意で(『岩波古語辞典』),ちょっと意味がつながらない。『日本語源大辞典』は,「う(兔・兎)」と「うさぎ(兎・兔)」と「おさぎ(兎)」とを項を別にし,「う」については, 「ウ」の音は安らかに発せられるところから易産の意で名づけたか(和訓栞), ウム(産)の「ウ」と同じ(俗語考), ウサギの略(日本語原学=与謝野寛), と挙げているが, 「一拍語の語源解釈は,その音を含む種々の語に付会されやすい。また一拍しか音がないのであるから,諸説の真偽の判定も困難である。」 としている。「うさぎ」では, ウと言う。ウサギは後の訓(和訓栞), 「万葉−東歌」にはヲサギとあるので並び用いられたか(時代別国語大辞典・上代編), 本名はウで,サギは梵語ササカ(舎舎迦)を合わせて略轉した語(大言海), ヲサキ(尾先切)の転(言元梯), ウはウ(菟),サギはサケ(細毛)の転(日本古語大辞典=松岡静雄), ウスゲ(薄毛)の転(日本釈名), ウサギ(愛鷺)の意か(和字正濫鈔), うちへうつぶいた鷺の意(本朝辞源=宇田甘冥), かがまったさまが,憂くみえるからか。ウは中,サキは上(和句解), ミミフサナギ(耳房長)の義(日本語原学=林甕臣), 朝鮮語t`o-kki(兎)と同源(岩波古語辞典), 等々を挙げた上で, 「ウが古形であり,オサギ(ヲサギ)は,上代より東国語形として見える。一拍語であるのを嫌って『サギ』を補ったのであろう。このサギを『暮らしのことば語源辞典』では鷺にもとづく説を紹介している。」 とし,「おさぎ」では, うさぎ(兎)の訛語(大言海), ヲサギ(尾先切)の転(言元梯), 白兎は形が白鷺に似ているところから,ヲソギ(偽鷺)の義(言元梯), としている。『岩波古語辞典』も,「をさぎ」を, 「うさぎ」の上代東国方言, としているので,あるいは,この言葉が鍵になるのかもしれない。 『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/u/usagi.html は, 「うさぎの語源は諸説あり未詳、大まかに分けると以下のとおりである。 1.古形は『う』で,『さぎ』を補ったとする説。 2.『ヲサキ(尾先切)』が転じたとする説。 3.『ウスゲ(薄毛)』が転じたとする説。 4.高句麗語で『うさぎ』を意味する『オサガム(烏斯含)』が変化したとする説。 5.特徴的な耳と口から,『ウス(薄)』+『アギ(顎)』からか,『ウス(失)』+『アギ(顎)』からとする説。 古形『う』については,『うさぎ』から『う』の呼称が生じたともいわれるが,一拍語は嫌われる傾向にあり,古形が『う』で『さぎ』がついたと考えるのが妥当であるため,[1]の説が有力である。[1]の中にも,白い色から鳥の『さぎ(鷺)』のこととする説,『うさぎ』を意味するサンスクリット語『ササカ(舎舎迦)』が付いたとする説,東国語形では『ヲサギ』といったことから,古形の『ウ』と『ヲサギ』きが合わさったとする説などがある。しかし古形の『う』が何を表したかも定かでなく,うさぎの語源を特定することは非常に難しい。 うさぎの数え方には,『匹(ひき)』と『羽(わ)』があり,地域によっては『耳(みみ)』とも数えられる。『一羽,二羽』と数える由来は,獣肉を口にすることが出来なかったことから,鳥類といって食べたとする説があるが定かではない。鳥に見立てたのは,二本足で二つこと,大きな耳が羽に見えること,うさぎの名前には『ウ(鵜)』と『サギ(鷺)』の鳥の名が含まれていることからなどといわれる。」 とうまく整理している。要は,古名「う」は,古くから,「うさぎ」(東国では訛って「をさぎ」)といったということがわかる。おそらく,獣肉云々は後世の付会にすぎないと見る。むしろ,「をさぎ」が「うさぎ」の転とするなら,ずいぶん昔から,「うさぎ」と呼んでいたに違いない。なぜサギをつけたかは,もはやわからなくなっている。「さぎ」にいろいろ付会するのも,後世の後知恵に過ぎまい。むしろ「うさぎ」ということばの「さぎ」のもつ多重な含意から,後に,鳥に見立てたり,洒落で,鶏肉といったに過ぎぬように見える。 そう見ると,『日本語の語源』が, 「牛・兎は草食の家畜であるためクサクヒ(草食ひ)と呼んだ。『ク』の子音交替[kf],クヒ[k(uh)i]の縮約でフサキに転音し,『フ』の子音[f]が脱落してウサギ(兎)になった。さらに,サギ[s(ag)i]の縮約がウシ(牛)に転音した。」 という音韻変化説が,新鮮に見える。しかし,この説では,一羽,二羽,と数える謂れが見えなくなってしまうが。 因みに,「兎(兔)」の字は, 兎のすがたを描いた象形文字, である。 参考文献; https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%83%8E%E3%82%A6%E3%82%B5%E3%82%AE https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%B5%E3%82%AE 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 田井信之『日本語の語源』(角川書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
「うなぎ」は,『岩波古語辞典』『大言海』に, むなぎの転, とある。『大言海』は,さらに,「むなぎ」の項を立て, 「胸鰓(あぎ)のぎと云ふ。或いは云ふ,胸黄の義と。腹赤の類」 とある。『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/u/unagi.html にも, 「うなぎは,古名『むなぎ』が転じた 語で,『万葉集』などには『むなぎ』とある。 むなぎの語源は諸説あるが,『む』は『身』を,『なぎ』は『長し(長い)』の『なが』からとする説が有力とされる。この説では,『あなご』の『なご』とも語幹が共通する。その他,胸が黄色いため『胸黄(むなぎ)』が変化したとする説や,『棟木(むなぎ)』に似ているからといった説もあるが,いずれも俗説である。鵜が飲み込むのに難儀するからといった説もあるが,『うなんぎ』→『むなぎ』→『うなぎ』の変化は考え難いため,『うなぎ』の呼称が成立した以降に作られた俗説であろう。」 とする。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%8A%E3%82%AE も, 「日本では奈良時代の『万葉集』に『武奈伎(むなぎ)』として見えるのが初出で、これがウナギの古称である。院政期頃になって『ウナギ』という語形が登場し、その後定着した。そもそものムナギの語源には 家屋の『棟木(むなぎ)』のように丸くて細長いから 胸が黄色い『胸黄(むなぎ)」から 料理の際に胸を開く『むなびらき』から など、いくつかの説があるが、いずれも民間語源の域を出ない。前二者については、『武奈伎』の『伎』が上代特殊仮名遣ではキ甲類の仮名であるのに対して、『木』『黄』はキ乙類なので一致しないという問題があるし、『ムナビラキ』説については『大半の魚は胸側を開くのになぜ?』という特筆性の問題がある上、ムナビラキ→ムナギのような転訛(または省略)は通常では起こり難い変化だからである。この他に、『ナギ』の部分に着目して 『ナギ』は『ナガ(長)』に通じ『ム(身)ナギ(長)』の意である 『ナギ』は蛇類の総称であり、蛇・虹の意の沖縄方言ナギ・ノーガと同源の語である → 参考: 天叢雲剣#「蛇の剣」 『nag-』は「水中の細長い生き物(長魚<ながうお>)」を意味する。この語根はアナゴやイカナゴ(水中で巨大な(往々にして細長い)魚群を作る)にも含まれている などとする説もある。いずれにしても、定説と呼べるものは存在しない。 近畿地方の方言では『まむし』と呼ぶ。『薬缶』と題する江戸小咄では、『鵜が飲み込むのに難儀したから鵜難儀、うなんぎ、うなぎ』といった地口が語られている。また落語のマクラには、ウナギを食べる習慣がなかった頃、小料理屋のおかみがウナギ料理を出したところ案外美味だったので『お内儀もうひとつくれ、おないぎ、おなぎ、うなぎ』というものがある。」 と,懇切な詳説が載る。そうすると,『日本語源広辞典』の, 「ウナ(うねうね)+ギ(接尾語)」 とする説は,擬態語として魅力的ではあるが,「むなぎ」が「うなぎ」の古形とすると,棄てざるを得まい。 『日本語源大辞典』は,「うなぎ」と「むなぎ」と項を分け, 「うなぎ」では, 古語ムナギの転(東雅・大言海), ムナギは,皮をムク(剥)から(名語記), ムナギ(棟木)に似ていることから生じたムナギから(日本釈名), 胸が黄色いことから(日本語源=賀茂百樹), ハムノコ(鱧子)の約転(日本古語大辞典=松岡静雄), ムは身を表す語。ナギは長いものを表し,蛇類の総括名称。ムの子音が脱落して母音のみのウとなったもの(南島叢考=宮良当壮), ウヲナガキ(魚長)の義(和句解・日本語原学=林甕臣), と挙げ, 「@奈良・平安時代は『むなぎ』で,『万葉-十六・三八五三』『新撰字鏡』『和名抄』などに見られる。A『万葉-十六・三八五三』の家持歌に『石麻呂にわれ申す夏痩に良しといふ物ぞ武奈伎(むなぎ)取りめせ』があった,古来鰻が栄養価の高い食品とされたことがわかる。これ以降,伝統的な和歌に詠まれることはなく,俳諧狂言などに,庶民の食生活を描く素材として取り上げられる。B調理法としては,室町時代に酢(すし)や蒲焼きが行われるようになり,これらを『宇治丸』と称した。夏の土用の丑の日に鰻を食する習慣は,江戸時代の文化年間に始まったという。」 と付記する。さらに,「むなぎ」の項では, ムナアギ(胸鰓)の義(和語私臆鈔・和訓栞・大言海), ムナキ(胸黄)の義か(大言海), ミナガキ(身長)の転, を挙げ, 「『時代別国語大辞典−上代編』では,ムナギのナギについて,琉球語のナギ・ノーガ(虹・蛇の意)と同じであるとする説を紹介している。」 と付記する。 ここまで来ると,『語源由来辞典』の有力とする, 「『む』は『身』を,『なぎ』は『長し(長い)』の『なが』からとする説」 に傾くほかはない。「『あなご』の『なご』とも語幹が共通する」というのも,惹かれる。それを,『日本語の語源』は,音韻変化から,補強してくれる。 「ムナガキ(身長き)魚は,ガキ[g(ak)i]の縮約でムナギ(万葉集に武奈伎)に転音し,『ム』の子音[m]の脱落で,ウナギ(鰻)になった。」 と。 因みに,「鰻」の字は,「うなぎ」の意だが, 「魚+音符曼(マン かぶさってたれる,細く長くのびる)」 とされる。「曼」の字は, 「『おおうしるし+目+又(て)』で,長いたれ幕を目の上にかぶせてたらすこと」 とある。 http://zatsuneta.com/archives/001707.html には, 「『鰻』のつくりの字『曼』は、『細長い』『長くのびる』という意味で、ずるずると長く伸びた草木の『つる』を『曼』という。この『曼』という字が、細長い魚であるウナギを表す字に当てられた。」 と説く。 なお,ニホンウナギについては, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%82%A6%E3%83%8A%E3%82%AE http://www.ysk.nilim.go.jp/kakubu/engan/kaiyou/kenkyu/hakase/unagi-phd.pdf に詳しい。 参考文献; https://www.zukan-bouz.com/syu/%E3%83%8B%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%82%A6%E3%83%8A%E3%82%AE https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%8A%E3%82%AE 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 田井信之『日本語の語源』(角川書店) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「うなぎのぼり」は, 鰻上り, 鰻登り, と当てるが, 物価・温度,また人の地位などが,見る見るうちにのぼること」 という意味である。語源は,二説ある。『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/u/unaginobori.html には, 「以下の通り二説あり,いずれもうなぎの性質に由来する。 ひとつは,うなぎは急流であっても水が少ないところであっても,登っていくことからとする説。もうひとつは,うなぎの体はぬるぬるしていて,捕まえようとしてもさらに上に登ってしまうことからとする説。」 と二説を整理している。『広辞苑』は, 「ウナギが水中で身をくねらせて垂直に登ることから」 と,前者を採り,『大言海』は, 「鰻を摑むに,粘ありて昇る。両手で代る代る摑むに,益す益す昇りて,降りることなし」 と後者を採る。『江戸語大辞典』は,二つの意味を載せている。 「@すべて物事が,見る見るうちにのぼる形容。鰻はどんな急流をもさかのぼるのでいう。A鰻か身をくねらせて泳ぎ切るところから,のらりくらりと逃げるさまにいう。」 とある。後者の用例に, 「いや明日はきっと発足する,間違ひないと被仰(おっしゃ)っても,夜が明けてみると一日々々鰻のぼりののんべんぐらり,ついついのびのびに為りました。」(文政十年・其俤夕暮譚) どうやら,この二説は,『日本語源大辞典』によれば, 鰻の体には粘りがあるのでつかむとのぼってしまい,両手でかわるがわるつかもうとするとますます上にのぼり,降りてことないことから(大言海), ウナギはどんな急流をもさかのぼるから(江戸語大辞典), とあるところから見ると,『大言海』と『江戸語大辞典』に元があるらしい。しかし,『大言海』の説は,上記『江戸語大辞典』の言うAの意味, のらりくらりとつかみどころがない, という意味を指しているのではあるまいか。「のらりくらり」という擬態語は, 仕事につかず遊んで暮らす様子, 仕事にまじめに取り組まず,怠けている様子, の他に, 答弁や言い訳の際,要点をそらしたり,明確なことを言わないなど,さまざまに言い抜ける様子, という意味がある。この「のらりくらり」より弱めなのが, ぬらりくらり, という言い方で,『擬音語・擬態語辞典』には, 「『ぬらりくらり』は験を左右にして質問をかわし言い逃れる様子を言うが,『のらりくらり』はそういう様子に加えて,応対が鈍くまともに取り合わない態度で接する感じがある。」 とあり, 「現在では,『ぬらりくらり』は言葉をめぐるやりとりでの人の態度について用いるが,もともとは,鰻や鯰などが滑ったりして,つかみにくい様子をいう。」 とある。とすると,「うなぎのぼり」は,今日使う上昇一途という意味とは程遠いのではないか。 さらに,水中を遡る,という説についても,『日本語の語源』は,「うなぎのぼり」について,音韻変化説で, 「『鰻が水中で身をくねらせて垂直に登ることから,物価や温度や,また人の地位身分などが見る見るうちにのぼるのにいう』(『広辞苑』)。この説明も納得できない。 『絶えることがない』ことを〈わが泣く涙止むこともない〉(万葉)といった。連続的上昇のことをヤムナキノボリ(止むなき昇り)といったのが,語頭をおとしてムナギノボリになり,さらに語頭の子音[m]を落としてウナギノボリ(鰻登り)になったと推定される。 実は,それには根拠がある。〈石麿にわれ申す夏やせによしといふものぞムナギ取り召せ〉(万葉)という歌があるが,鰻の古名をムナギ(武奈伎)といい,子音[m]を落としてウナギになった。」 とある。「うなぎ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%81%86%E3%81%AA%E3%81%8E)については で触れた。この音韻変化が妥当に思えるが,気になるのは,「うなぎのぼり」について,『岩波古語辞典』は, 鰻幟, の字を当て, 「近世,端午の節句に揚げた,ウナギのように長くなびくようにつくった紙幟」 とあることだ。用例に, 「釣竿と見ゆるは鰻幟かな」(俳・口真似草) とある。しかし,「紙幟」は, 「5月の節句に用いる紙製ののぼり。《季 夏》「笈 (おひ) も太刀も五月にかざれ紙幟/芭蕉」(『デジタル大辞泉』) 等々と説明が載るが,「鰻幟」という言葉は,ちょっと調べ切れなかった。しかし,「のぼり」を調べると, 「祭礼,戦陣などに用いる旗の一種。のぼり旗の略といわれる。布の上部と横側に乳 (ち。竿,紐などを通すためにつけた小さな輪) をつけて竿に通す。旗は元来高く掲げ,風にひるがえることを特徴としたが,そうすると旗の裾がほかの物にからみ,戦陣で使うのに不便であったので,乳を用いるようになった。」(『ブリタニカ国際大百科事典』) とあり,さらに, http://www.callmyname-rec.com/archives/28.html に, 「のぼりには『乳付き旗』という別名があります。 これは、のぼりを竿に止めるための筒状の布部分を『乳』(ち)と呼ぶためです。なぜあの部分が『乳』と呼ばれるかは、一説によれば『犬の乳首の様に行儀よく並んでいるため』であることからだそうで、なるほど言われてみれば、伝統的なのぼりの形をみてみると、きちんと行儀よく乳が並んでいます。 のぼりの語源には、旗竿の上へ上へと押し上げることから『昇り』と表現されるようになったという説があり、幟の持つ意味や使われ方などを見ても、その語源の信ぴょう性は高そうです。 『鯉幟』の場合は、もともと武家が始めた端午の節句に幟を掲げるという風習の中で、中国の古事にある『鯉は天に昇って龍になる』という話を、男児の立身出世への願いに重ねて、幟に『鯉が昇る絵』を描いたことから始まりました。」 とある。この由来は, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%9F に, 「近代までの軍用の幟は、綿もしくは絹の織物を用いた。布の寸法は由来となった流れ旗に準じ、高さを1丈2尺(約3m60cm)、幅を二幅(約76cm)前後が標準的であった。このほか、馬印や纏に用いられる四方(しほう)と呼ばれるほぼ正方形の幟や、四半(しはん)と呼ばれる縦横比が3対2の比率(四方の縦半分ともされる)の幟が定型化する。もっともこれらはあくまで一般的な寸法であり、家によって由緒のある寸法を規定することや、流行に左右されることもあった。 また旗竿への留め方によって、乳(ち)と呼ばれる布製の筒によって竿に固定する乳付旗(ちつきばた)と、旗竿への接合部分を袋縫いにして竿に直接縫い付けることによって堅牢性を増した縫含旗(ぬいふくめばた)に区別できる。 旗竿は千段巻と呼ばれる紐を巻いた漆塗りの樫材や竹を用い、幟の形態に応じて全体をトの字型あるいはΓ字をにした形状にして布を通した。」 とある。この幟は,けっして下がらない。風に吹かれても,上に巻き上がるばかりである。どうも, うなぎのぼり, は,『岩波古語辞典』の言う, 鰻幟, から来ているように思えてならない。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫) 田井信之『日本語の語源』(角川書店) 高橋賢一『旗指物』(人物往来社) 「あなご」は, 穴子, と当てる。その生態から名づけたものと想像される。『日本語源広辞典』は, 穴+子, と,穴に住む意とし, 「穴から首を出して餌を狙う習性が,語源に関わったと思われます。」 としている。 http://www.yuraimemo.com/892/ では, 海鰻, とも当て, 「アナゴは『ウナギ目アナゴ科』とのことなので、やはり(ウナギと)同類のよう。日中は岩穴や砂の中に棲む夜行性の魚だそうで、「穴籠り(あなごもり)」することから「穴子」となったという説が最有力といわれています。」 としている。たしか, http://ppnetwork.seesaa.net/article/455534185.html?1513196483 で触れたように,『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/u/unagi.html は, 「うなぎは,古名『むなぎ』が転じた 語で,『万葉集』などには『むなぎ』とある。 むなぎの語源は諸説あるが,『む』は『身』を,『なぎ』は『長し(長い)』の『なが』からとする説が有力とされる。この説では,『あなご』の『なご』とも語幹が共通する。」 としていた。「アナゴ」の項では, http://gogen-allguide.com/a/anago.html 「日中は岩穴や砂の中に棲む夜行性の魚であることから、『穴子』と呼ばれるようになっ たとする説が有力とされる。 この説では、『穴籠り(あなごもり)』が変化したとの見方も ある。 また、『なご』の語根がうなぎの『なぎ』と共通し、水中に棲む長い生き物を『nag』の音で表していたとも考えられている。『nag』の音に関連する説では、『長魚(ながうお)』が転じたとする説がある。」 とする。「うなぎ」が, 「む(身)+なぎ(長)」→うなぎ, なら,「あなご」は, 「あな(穴)+なぎ(長)」→あななぎ→あなぎ→あなご, ではないか,と想像したくなる。となると,「子」は当て字ということになるのだが。 『日本語源大辞典』は, ナガウオ(長魚)の変化した語で,ウナギ(鰻)と同根か(日本語を考える=柴田武), アナゴ(穴魚)。穴に居るから(言元梯・日本語源=賀茂百樹), アナゴモリ(穴籠)の義(日本語原学=林甕臣), 古く水中の或種の霊物をNとGの子音で表示する風習があった(魚王行乞譚=柳田國男), と諸説を並べるが,昔アナゴを獲った者たちが,ウナギとアナゴを同一視するはずはない。どう考えても,その生態の, 穴魚, か 穴籠, と考えるのが妥当だろうが,個人的には, あなうお(穴魚)→あなご, あなご(穴籠)→おなご, という転訛よりは, 「あな(穴)+なぎ(長)」→あななぎ→あなぎ→あなご, という転訛かという臆説にこだわりたい気がするが。 ちなみに,穴子の稚魚「のれそれ」については, https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1258721702 で,その語源について, 「高知で、アナゴ類の稚魚を『ノレソレ』と呼びます。高知市付近ではノレソレ、須崎市付近ではタチクラゲと呼ばれています。地引網を引くと、ドロメは弱いのですぐに死んで網にくっついてくるのですが、ノレソレは、そのドロメの上にのったり、それたりしながら網の底に滑っていきます。この『のったり、それたり』という地引網の中の様からこう言われているようです。」 としている。やはり,生態の擬態語から来ている。 なお,同じウナギ目のウナギとアナゴの違いについては, https://chigai-allguide.com/%E3%81%86%E3%81%AA%E3%81%8E%E3%81%A8%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%94/ に詳しいし,アナゴについては, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%82%B4 に詳しい。 参考文献; https://www.zukan-bouz.com/unagi/anago/anago.html 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 「あんぽんたん」は,『広辞苑』は, 安本丹, と当て, アホタラの撥音化か, とし, 愚か者をののしって言う語。 カサゴ(笠子)の俗称(寛政の末江戸ででまわったが,味がよくなかったので), という意味を載せる。 カサゴ(笠子)については, 「和名は、頭部が大きく、笠をかぶっているように見えることから起こった俗称「笠子」に由来すると考えられている。」 もので, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B5%E3%82%B4 https://www.zukan-bouz.com/syu/%E3%82%AB%E3%82%B5%E3%82%B4 に詳しいが, 「無骨な武士を思わせる外見から、端午の節句の祝いの膳にのせられる。」 というし, 「旬は初夏から冬。 ただし年間を通じてあまり味が落ちない。外見とは裏腹に白身魚で、非常に上品な味わい。」 とあるので,「まずい」というのがよくわからない。しかし,『江戸語大辞典』にも,「あんぽんたん」の項で, 「笠子の類。この魚,寛政末年に市中に出盛った不味なのでこのながあると。」 とし, 「馬鹿もあんぽんたんも海で出来 芦風」(馬鹿は馬鹿貝) という用例を載せている。 それはともかく,「あんぽんたん」は,『大言海』が,『広辞苑』同様, 「アホタラを,音便にはねたる語。約(つづ)しき服を,ツンツルテンなど云ふ類なり(種々なる語源説あれど,皆付会なり),和訓栞,後編,あんぽんたん『近世の俗語也。あほうの轉也』」 としており,『日本語源広辞典』も, 「アホダラを,撥音化して,薬名らしくもじったもの」 とし,「江戸期の,反魂丹,万金丹になぞらえ,安本丹とした語」としている。『江戸語大辞典』も, 「あほ太郎を薬名に似せたしゃれ。阿呆。馬鹿。宝暦十三年頃から流行し出したという。上方語(宝永期)の移入。宝暦十三年・風流志道軒伝序『夫(それ)馬鹿の名目一ならず。(略)また安本丹の親玉あり』」 としているところから見ると,「あほた(だ)ら」の撥音化に間違いはなさそうであるが,『日本語源大辞典』は,和訓栞・後編の,「あほうの轉」につづいて, 「あほうの轉。また,西南海の蛮国の名か。日本に漂着したその国の人が,言語不通で愚痴だったとろから,人を軽蔑していう流行語になったという」 という説を載せているが, 「本来上方語とされるが,宝暦本から江戸でも流行した語。『日本語源広辞典』には諸説あるが,アホウから生じたアホタラ,アホ太郎を,『反魂丹』『万金丹』などの薬名になぞらえたものと考えられる。」 とまとめている。ただ,これだと,「あほう」と「あほだら」とのつながりが見えないが,『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/a/anpontan.html は, 「あんぽんたんは、『阿呆』と愚か者の意味の『だらすけ』が複合された、『あほだら』『あほんだら』が、転じた言葉である。『阿呆』は『あっぽ』とも言われ、『陀羅助(だらすけ)』 という薬(『陀羅尼助』の略)もあったため、『反魂丹(はんごんたん)』や『萬金丹(まんきんたん)』という薬の名から、『安本丹』ともじられた。あんぽんたんは、近世に上方で生まれた言葉で、宝暦末年(1764年)頃には、江戸でも流行したことが、江戸時代の随筆に残されている。あんぽんたんの語源として、1789〜1801に江戸市中に出回った『アンポンタン』と呼ばれる魚(カサゴの一種)が、大きい割に美味しくなかったため、『独活の大木(うどのたいぼく)』と似たような意味で使われ、それが転じたという説もある。しかし,あんぽんたんという言葉は、それ以前から存在していたため、その魚があんぽんたんからつけられたとは考えられるが、あんぽんたんの語源とは考え難い。他には、フランス語で性交不能を意味する『アポンタン』からとする説、江戸時代に漂流した外国人の名前からとする説もあるが、そのような文献は見当たらない。」 で,諸説の脈絡がつながる。「あほ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%81%86%E3%81%AA%E3%81%8E)については 触れた。「あほたら」「あほだら」は, あほたれ, の転訛で,「ちんたら」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%81%A1%E3%82%93%E3%81%9F%E3%82%89) で触れたように,『広辞苑』は, 阿呆垂れ, とあて,「たれ(垂れ)」は, 「(名詞の下に付けて)人を悪く言う意を表す語」 とある。 洟垂れ, くそたれ, という言い方もする。「あほんだれ」の「だれ」,「あほんだら」の「だら」は,「たれ」の転訛と見ることができる。『日本語源大辞典』は,「あほだら」に, 阿呆陀羅, と当てているが,『日本語源広辞典』は, 「阿呆+ダラ(陀羅)」 として, 「おまえみたいな無能な奴に陀羅尼経を読ませても全く分かるまい」という意だと,少し穿ち過ぎの解説をしている。『大言海』は, 愚, と当て, 「大和國の方言なり。阿房(阿呆)を擬人して,阿房太郎(あほたら)なり(愚太郎[ぐふたら]兵衛,鈍太郎,惡太郎)。阿房陀羅経あり,アホタをはねて,アンポンタン,アホチンタンなどとも云ふ。京阪にては,アンダラと云ふ(カホバセ,カンバセ。オホバコ,オンバコ)。」 としている。 あほう→あほたら→あほたれ→あほんたれ→あんぽんたん といった,揶揄の変化といったところか。なお,アホ・バカ分布(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba1.htm#%E3%82%A2%E3%83%9B%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%AB%E5%88%86%E5%B8%83%E5%9B%B3)については触れた。また,「あほだら経(阿呆陀羅経)」は, 「俗謡の一種。江戸時代後期に流行し、近代に及んだ。世態、風俗、時事などから取材した戯(ざ)れ文句を、経を読むように歌った。「仏説あほだら経……」で始まり、小さな木魚をたたいて拍子をとり合の手を入れながら早口に歌うところに特色がある。願人坊主や僧形の芸人がよく歌った。安永(あんえい)・天明(てんめい)(1772〜1789)ごろの発生という。文化(1804〜1818)のころ呑龍(どんりゅう)という説教坊主が大坂や名古屋で阿呆陀羅経を口演して評判だったことが『摂陽奇観』『見世物雑志』などにみえる。明治時代にも「尽し物」が大いに受けていた。祭文(さいもん)、ちょぼくれ(ちょんがれ)などとともに浪花節(なにわぶし)成立への一過程をなす。」(『日本大百科全書(ニッポニカ)』) というが, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%BB%E3%81%A0%E3%82%89%E7%B5%8C に詳しい。 参考文献; https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B5%E3%82%B4 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「もみじ」は, 紅葉, 黄葉, と当てられる。いずれも,漢語からの当て字のようである。『広辞苑』には, 「上代には,モミチと清音。上代は『黄葉』,平安時代以後『紅葉』と書く例が多い」 とある。秋に,木の葉が赤や黄色に色づくことやその葉を指す。カエデの別称でもあるが, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%85%E8%91%89 に, 「秋に一斉に紅葉する様は観光の対象ともされる。カエデ科の数種を特にモミジと呼ぶことが多いが、実際に紅葉が鮮やかな木の代表種である。狭義には、赤色に変わるのを『紅葉(こうよう)』、黄色に変わるのを『黄葉(こうよう、おうよう)』、褐色に変わるのを『褐葉(かつよう)』と呼ぶが、これらを厳密に区別するのが困難な場合も多く、いずれも「紅葉」として扱われることが多い。」 とする。『デジタル大辞泉』には, 「動詞『もみ(紅葉)ず』の連用形から。上代は『もみち』」 とある。『岩波古語辞典』には「もみぢ(紅葉づ・黄葉づ)」の項で, 「奈良時代にはモミチと清音で四段活用。平安時代に入って濁音化し,上二段活用」 とある。紅や黄色に色づくという意の動詞である。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%85%E8%91%89 には, 「もみじ(旧仮名遣い、もみぢ)は、上代語の『紅葉・黄葉する』という意味の『もみつ(ち)』(自動詞・四段活用)が、平安時代以降濁音化し上二段活用に転じて『もみづ(ず)」となり、現代はその『もみづ(ず)』の連用形である『もみぢ(じ)』が定着となった言葉である。 上代 - もみつ例 『子持山 若かへるての 毛美都(もみつ)まで 寝もと吾は思ふ 汝は何どか思ふ (万葉集)』 『言とはぬ 木すら春咲き 秋づけば 毛美知(もみち)散らくは 常を無みこそ (万葉集)』 『我が衣 色取り染めむ 味酒 三室の山は 黄葉(もみち)しにけり (万葉集)』 平安時代以降 - もみづ例 『雪降りて 年の暮れぬる 時にこそ つひにもみぢぬ 松も見えけれ (古今和歌集)』 『かくばかり もみづる色の 濃ければや 錦たつたの 山といふらむ (後撰和歌集)』 『奥山に 紅葉(もみぢ)踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき(古今和歌集)』 秋口の霜や時雨の冷たさに揉み出されるようにして色づくため、『揉み出るもの』の意味(『揉み出づ』の転訛『もみづ』の名詞形)であるという解釈もある。」 と詳しい。いずれにしても,秋の葉の色づくのを言ったものらしい。その「もみぢ」の語源について,『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/mo/momiji.html は, 「元々は『もみち』と呼ばれていた。 秋に草木が赤や黄に変わることを『もみつ(紅葉つ・黄葉つ)』や『もみづ』ちいい,その連用形で名詞化したのが『もみち』であった。平安時代に入り,『もみち』は『もみぢ』と濁音化され『もみじ』へと変化した。古くは『黄葉』と表記されることが多く,『紅葉』や『赤葉』の表記は少ない。」 色づく意とする。しかし,『大言海』は, 「色は揉みて出すもの,又,揉み出づるもの,されば,露,霜のためにモミイダさるるなり」 と,「モミイヅ→モミヂ」を採る。『日本語源広辞典』も, 「『モミ(揉み)+ツ(出づ)』の連用形名詞化モミヂ」 を採る。しかし,古形が,「もみち(つ)」だとするなら,ちょっと辻褄が合わない。『日本語源大辞典』をみると,しかし,その説を採るのが多い。 色を揉み出すところから,モミジ(揉出)の義。またモミイヅ(揉出)の略(和字正濫鈔・日本声母伝・南嶺遺稿・類聚名物考・槙のいた屋・大言海), しかし,その他, モミヂ(紅出)の義。モミ(紅)の色に似ているところから(和句解・冠辞考・万葉考・和訓栞), モユ(燃)ミチの反(名語記), モミテ(絳紅手)の義(言元梯), モミチ(炷見血)の義(柴門和語類集), マソメイタシの約(和句解), 秋の田のモミ(籾)が赤くなるところからか。チは田地の義(日本釈名), と載るが,そもそも色づくことを,「モミチ」と言った謂れは分からない。 なお, http://mobility-8074.at.webry.info/201510/article_43.html に, 「紅葉 (もみじ) とは,秋に木の葉が赤や黄色に色づくことです。語源としては,〈色づく〉 という意味から『揉み出 (い) づ』 が音韻変化して『もみぢ』になったと言われています。 ここで大事なことは,植物学の上では『もみじ』という樹木名はありません。『もみじ』とは,あくまで〈葉が色づくこと〉であり,まあ,その延長として〈色づいた葉〉のこともいいますが,樹木を具体的に限定したことばではありません。 ただ,秋に赤や黄色に色づく樹木の中で,『楓 (かえで)』の葉が最もきれいに色づくということから,〈色づく〉という意味での『紅葉 (もみじ)』の代表格である『楓』のことを『もみじ』と呼ぶようになってしまったということです。 なお,『楓 (かえで) 』の語源は,〈葉が蛙の手に似ている〉ことから『蛙手 (かえるで)』と呼ばれていたものが縮まって『かえで』になったとされています。 『椛』『栬』も『もみじ』と読む漢字ですが,本来の『もみじ』を表しているように思えます。」 とあるのが,妥当なのかもしれない。結局,色づく意味で「もみち」と言った,その謂れは分からなかった,ということだろう。 ただ,「椛」の字は,木が花のように色づくという意で造られた和製漢字である。また「栬」の字は,くいを指し,「もみじ」の意とするのは,我が国だけのようである。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%A8%E3%83%87 「かべ」は, 壁, と当てる。「壁」の字は, 「辟(ヘキ)は,壁(ヘキ)の原字で,薄く平らに磨いた玉。表面が平らで,薄い意を含む。壁は『土+音符辟』で,薄くて平らなかべ」 で, 「牆(ショウ 家の外をとりまく長いへい)に対して,薄く平らなついたて式の中庭かべをいい,家の内外の平らなかべをいう」 とある。『岩波古語辞典』には, 「カはアリカ・スキカのカ。ヘは隔てとなるもの」 とあり,本来の家の内外の「壁」とは異なり「かべ」は, 部屋などの間を隔てるもの, と,障壁となるもの,隔てとなるものに広げた意味をもっている。だから,『大言海』も, 「構隔(かきへ)の意かと云ふ。部曲(かきべ)と云ふ語あり,駕籠(かご)も,舁駕(かきこ)なるべし」 とする。ちなみに,「かべ」には, 「寝(ぬ)るを,塗るにかけたる謎詞」 として,「夢」の異名としても使われる。『大言海』は,「かべ(壁)」「かべ(夢)」と別に項を立て,後者について, 「夢をば,寝(ぬ)る時見るによりて,夢をカベとは云へり,カベも,塗るものなるによりてなり」(歌林良材) を引く。さらに,後撰集(廿 哀傷)から, 「妻(メ)のみまかりて後,住み侍りける所の壁に,彼の侍りける時,書きつけて侍りける書(て)を見侍りて,『寝ぬ夢に,昔のカベを見てしより,うつつに物ぞ,悲しかりける』。同,九,戀『まどろまぬ,カベにも人を,見つるかな,まさしからなむ,春の代の夢』」 を引く。「かべ」の意は,さらに, (壁を「塗る」と「寝(ぬ)る」に掛けて)夢の異称, (女房詞)豆腐, 女郎部屋の張見世の末席, 近世後期,野暮の意の通後, 等々に広がる(『岩波古語辞典』)。野暮という意味で, 壁と見る, としいう言い方があったらしい。『江戸語大辞典』では, 野暮,無粋, の意が最初に載る。どうやら, 「其者(そいつ)を壁て見,不通(やぼ)と見て為口論(とりあ)ふべからず」(安永八年・大通法語), とある,「通じない」という含意のようだ。関係ないが, 黙っていても 考えているのだ 俺が物言わぬからといって 壁と間違えるな(壺井繁治) という詩を思い出す。通じない,ということは,そういう含意を相手に与えるものらしい。 壁に為る, という言葉があって, ないがしろにする, という意味だが,いわば,シカトすることである。『江戸語大辞典』には,「女郎部屋の張見世の末席」について, 吉原詞。見世を張る時,壁際に坐ること。またその女郎(新造)。籬(まがき)と共に一座の末席である, と載る。 壁を背負う, という言い方があったらしく,吉原の張見世には擬して, 「かゝアが宗旨の本尊を中坐にして,我仏を隅へ押し籠めて壁を背負(しょは)せて置きながら」(文化十四年・大千世界楽屋探) を引用している。 『日本語源広辞典』は,「かべ」の語源を二説挙げている。 説1 「カ(処)+へ(隔)」。場所の隔ての意。 説2 「カキ+ヘ(垣・隔)」。建物のまわりや内部内部の仕切の意。転じて,物事の障害,じゃまの意。 『日本語源大辞典』は,もう少し丁寧に異説を列挙している。 カヘ(垣隔)の義(東雅・言元梯), カキヘ(構隔)の意か(大言海), カはアリカ・スミカのカ。ヘは隔てとなるもの(『岩波古語辞典』), カキヘ(垣方)の義(和訓栞), カギリベ(限方)の義(名言通), カタヘ(片辺),また,カタヘ(堅辺)の転(本朝辞源=宇田甘冥), カゲ(陰)の転声(和語私臆鈔), しかし,『岩波古語辞典』の, 「『かべ』の『か』は、『ありか』や『すみか』などの『か』と同じで『所』という意味、『べ』は隔てるものという意味の『へ』で、『かべ』は『ある場所をへだてるもの』ということ」(『日本語俗語辞典』) というのが,説得力がある。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) https://www.fleapedia.com/%E4%BA%94%E5%8D%81%E9%9F%B3%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9/%E3%81%8B/%E5%A3%81%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B/ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%81 「はた」は, 旗, と当てる。「旗(簱)」の字は, 「其(キ)は,四角い形の箕(キ み)を描いた象形文字で,四角くきちんとしたとの意を含む。旗は『はた+音符其』で,きちんとした形のはた」 で,はたの総称とある。『字源』によると,「旗」は, 「古は,熊虎を画き,大将の建てしもの」 とある。中国語には,「はた」に関わる漢字は一杯ある。たとえば,旌旗の「旌」の字は, 「生は鮮明な意を含む。旌は『はた+音符生』で,すみきった色彩のはたじるしのこと」 とある。『字源』には, 「旗竿の上に旄(からうし)の尾をつけ,之に析きたる鳥羽をつけたるはた」 で,「昔は兵卒を元気づけて進めるために用いた。のち,使節のもつ旗印のこと」(『漢字源』)という。さらに,「旗幟」の「幟」の字は,我が国では,「旗」と区別して「のぼり」の意だが, 「戠(ショク)の原字は,Y型の杭を立てて,目印とすることを示す。のち音符を加え,ことばでめじるしをつけること。つまり『識』の意を表した。幟はそれを音符とし,巾(ぬの)を加えた字で,布のめじるし」 で,「めじるしのために立てる旗」を意味する。「幡然」(ほんぜん)の「幡(旛)」の字は, 「番は,播(ハ)の原字で,田に種をまきちらすこと。返・版・片などに通じて,平らに薄く,ひらひらする意を含む。幡は『巾+音符番』で,平らに薄く,ひるがえる布のはたのこと。翻ときわめて近い」 で,「色のついた布に字や模様をかいてたらしたはた」の意である。なお,古代律令(りつりょう)の編目の一つ「軍防令(ぐんぼうりょう)」には軍旗の制があり, 「将軍旗は纛幡(とうばん)、隊長旗は隊幡、兵士の旗は軍幡と注する(『令義解(りょうのぎげ)』)。すでに所属・職階の標示となっている。」(日本大百科全書(ニッポニカ)) というが,ここでは「はた」に,「幡」を使っている。 「旆」の字は, 「市(フツ)〔市(シ)ではない〕は,たらした布を描いた象形文字。發(ひらく)と同系。旆は『はた+音符市』で,先端が二つに開くはた。」 で,「いろいろな色の布で,二つに開く尾をつけたはた」とある。「旄」の字は,氂(からうし,ヤクのこと),あるいはその尾を意味するが, 「『はた+音符毛』で,はたにつける飾り」 だが,その尾を竿頭につけた旗の意である。「幢」の字は, 「『巾(ぬの)+音符童(つきぬく,筒型)』で,筒型の幕のこと。また,中空で筒型をしたものがゆらゆらと揺れるさま」 で,『字源』には, 「旌旗の属とあり,絹の幕で筒型に包んで垂らした飾り,のことらしい。朝廷の儀仗行列の飾りに用いる。」 とあるが,『魏志倭人伝』に, 正始六年詔賜倭難升米黄幢付郡假授, とある,「黄幢」の「幢」である。このことはまた,後で触れる。 「はた」は,『岩波古語辞典』では, 旗, 幡, を当て,『大言海』は, 旗, 幡, 旌, の字を当てる。『大言海』は,「はた」の語源を, 「風にはためくものか,或は云ふ,潤iはた)を用ゐれば云ふか」 とする。なんとなく, はたはた, という擬音語のような気がするが,「潤iはた ソウ)」とは,「絹,帛の総名。『鋤蛛x。古は帛といひ,漢代は盾ニいふ」(『字源』)とある。帛,つまり絹布のことである。 『日本大百科全書(ニッポニカ)』が,「旗」について, 「日本の旗(はた)は、布地の意味の『ハタ』が語源とされ、王権や軍事のみならず、宗教的なものと深く結び付いている。それは神降臨の顕(しるし)であり、京都賀茂(かも)神社の御阿礼(みあれ)神事では、賢木(さかき)に五色の帛(はく)を結び付けた幡(はた)が立てられる。『宇佐八幡(はちまん)宮託宣集』には、この神の化身である応神(おうじん)天皇降誕のときに、天より八流の幡が降下したとある。そして、この観念は仏教とも混じり、仏像を幡蓋(ばんがい)で覆うことは、仏の来臨の表現を意味するともされる。今日、運動会などの会場を万国旗で飾るのは、単なる装飾のみならず、それで非日常の空間を演出する意味が含まれているのであろう。」 といっている「布地」とは,「潤vを指すと思われる。『日本語源広辞典』は,「はた」の起源を二説挙げる。 説1は,「パタパタの音韻変化」。「ハタメクもの」の説, 説2は,『ハ(延)+タ(手)』で,織る機械ハタ。ひいて,「ハタで織った標識」。布帛,布地,も意味する, と。擬音語説と,署焉Cということになる。『日本語源大辞典』は, 風にハタメクものであるところから(菊池俗語考・難波江・国語の語幹とその分類=大島正健・大言海), 織る時の音ハタハタから(和句解), ハタ(潤jを用いるところからか(大言海), ハは長の意,タは手の意(東雅・本朝軍器考), ハタル(羽垂)の義(和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子), ハテ(羽手)の義(言元梯), ハは葉・羽の義。タは接尾語(日本古語大辞典=松岡静雄), ハリタレ(張垂)の義(名言通), ハタ(端)の義。竿のの先にっけてなびかすところから(日本声母伝), と列挙しているが,前述した『魏志倭人伝』で, 倭の難升米に黄幢を帯方郡に託して授けた, という「黄幢」は,帛であった可能性が高い。それは, https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13147120008 「これはいわゆる『旗』ではなく『吹き流し』のような形状だったと考えられています。」 とあるように, 「絹の幕で筒型に包んで垂らした飾り」 ではあるが, 「旌旗の属」 とあり,「絹の幕で筒型に包んで垂らした飾り」のついた旗なのではないか。高橋賢一氏の言う通り,歴史書に載った,初めての旗である。これが,「はた」の由来と考えるなら, 「潤iはた)を用ゐれば云ふ」 という『大言海』の説は捨てがたいのではないか。 なお, 「おもに縦長で、上辺の旗上(はたがみ)を竿(さお)に結ぶ流旗(ながればた)、鉾(ほこ)などにつけた比領(ひれ)という小旗などが古い形式である。のちに上辺と縦の一辺を竿につける、やはり縦長の幟旗(のぼりばた)とよばれる形が現れ、さらに正方形に近い形など、さまざまな種類も生じた。」(『日本大百科全書(ニッポニカ)』) は,「はた」小史になっている。 参考文献; 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 高橋賢一『旗指物』(人物往来社) 「かき」は, 柿, 柹, と当てる(『広辞苑』)。 「東アジア温帯固有の果樹で,長江流域に野生,日本に輸入されて古くから栽培」 したものらしい。「柿(柹)」の字は, 「右側はもと市ではなく,つるの巻いた棒の上端を一印で示した字(音シ)。上の棒の意を含む。柿の元の字はそれに木を加えたもの。かきの皮を水につけ,その上澄みからしぶをとる。」 とある。これは, https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10146565810 に, 「もともとカキという字は『柹』という風に書き、つくりの部分は『し』という音読みで、『一番上』という意味を持っている字です。カキは、皮を水につけて、その上澄みからしぶをとっていたためこの字になりました。そのあと、形が変化し、『柿』という字になったのです。これと似たようなものに『姉』があります。これも『あね』が一番上のため「姊」という字になり、「姉」に変化したんです。」 という説明がよくわかる。ただ,「柹」の字については,『大言海』が, 「正しくは,杮なり,柹は俗字なり。然れども,市(イチ)にて通用す。」 としている。「柿」(シ カキ)と「杮」(ハイ)」の区別は,正直つかない。 『大言海』は,「かき」の語源について, 「赤木(あかき)の上略にて(殯〔もあがり〕,もがり),實の色につきての名か。」 とある。『日本語の語源』も, 「アカキミ(赤き実)―カキ(柿)」 と,実の色説を採る。『日本語源広辞典』は,三説挙げる。 説1は,「コケラ(柿の古語)の変化」説。コケラ→カケラ→カケィ→カキと変化した, 説2は,「アカキ(赤木・赤い実)からア音が脱落」説, 説3は,実を収穫するとき,枝をカキトルところから,「カク果実」が語源, しかし,「こけら」は, https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10146565810 に, 「こけらというのは木の切りくずのことです。つくりの部分は双葉が左右に開くことを意味しており、「ハイ」という音を持ちます。(市場の市と似ていますが別物です)それに木偏がつき、左と右とに削り取った木の皮という意味になり、木の切りくずの意味になりました。」 としており,字は,「柿」(シ かき)と「杮」(ハイ)」と似ているが,別物である。『大言海』に, 「こけら葺をカキブキと云ふは,果(くだもの)のカキの字と見誤りて読むなり」 とある通りである。 『日本語源大辞典』は,例によって諸説並べている。 赤い実のなる木であるから,アカキ(赤木)の上略か(和句解・東雅・大言海), その実の色から,アカキ(赤)の上略(日本釈名・滑稽雑談所引和訓義解・和訓考・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子の), 「赤」の別音kakの転(日本語原学=与謝野寛), アカミ(赤子)の義(言元梯), 葉,実が赤いところから,カカヤクの略転(俚言集覧), 実が堅いところから,カタキ(堅)の略(本朝辞源=宇田甘冥), サキ(幸)の転声か(和語私臆鈔), カキ(欠)の意。枝をカキて実をとることから(名言通), この他,朝鮮語kam(柿)の同源とする説もあるらしいが,結局,実の赤さから来たと見るのが妥当なのだろう。 『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/ka/kaki.html は, 「実がが堅いことから『カタキ(堅)』、つやつやして輝いていることから『カカヤキ(輝)』など多くの説があるが、 これらの特徴よりも、秋の山野になった実の赤い色の方が印象は強く、『アカキ』の上略 が語源と考えられている。 『アカキ』の『キ』については、『赤木』の『木』、『赤き実』の『き』,『赤黄』の『黄』など考えられるが断定は難しい。 柿は中国の長江流域に自生していたものが、栽培で東アジアに広がったもので、現在では日本の秋を代表する果樹となっている。『日葡辞典』で『リンゴに似た日本の無花果(いちじく)』と解り辛い紹介をしているように、ヨーロッパにはない果樹であった。南蛮貿易によってヨーロッパへ伝えられたことから,学名も『Diospyros kaki(Diospyros は神様の食物)』と『カキ』の名が使われ,食材としても『KAKI』と呼ぶ国が多い。」 と整理している。やはり目に入った「あか」の印象ではあるまいか。 参考文献; https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%AD%E3%83%8E%E3%82%AD 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 田井信之『日本語の語源』(角川書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「すもう」は,『広辞苑』は, 相撲, 角力, と当て, 「動詞『すま(争)ふ』から。仮名遣スマウとも」 としているし,『大辞林』も, 「動詞『争(すま)ふ』の連用形から」 としているが,この「すまふ」について, 『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/su/sumou.html は, 「『争う』『負けまいと張り合う』を意味する動詞『すまふ(争ふ)』が名詞化して『すもう』になったか、『すまふ』の連用形『すまひ』がウ音便化されたと考えられる。 平安時代の辞書『和名抄』に『相撲 須末比』とあるように、古くは『すまひ』と呼ばれていたが、ウ音便化されたという確定的な文献がないため、『すまふ』と『すまひ』のどちらであるかは断定できない。」としており, すまふ→(すまう)→すもう, すまひ→(すまう)→すもう, の転訛の二説があるとする。しかし, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E6%92%B2 は, 「『すもう』の呼び方は、古代の『スマヰ』から『すまひ』→『すまふ』→『すもう』に訛った。表記としては『角力』、『捔力』(『日本書紀』)、『角觝』(江戸時代において一部で使用)、など。これらの語はもともと『力くらべ』を指す言葉であり、それを『すもう』の漢字表記にあてたものである。19世紀から20世紀初頭までは『すもう』は『角力』と表記されることが多かった。古代には手乞(てごい)とも呼ばれていたと言う説も有る。(手乞とは、相撲の別名とされ、相手の手を掴む事の意、または、素手で勝負をする事を意味する。)」 と説いている。確かに,『大言海』は,「すまひ(相撲)」と「すまふ(相撲・角力)」の二項に分け,どうやら, すまひ→すまふ→すまう→すもう, を採っている感じがする。まず「すまひ(相撲)」について, 「(争〔あらそ〕ふの名詞形。争〔すま〕ひの義。戦場の組打の慣習〔ならはし〕なり。源平時代の武士の習ひしスマフも,それなり)二人,力を闘はする技,其,相當るを,取ると云ふ。其手,種々あり(スマフ〔相撲〕)の條,見合はすべし)。其闘ふ者を,相撲人(すまひびと)と云ひ,第一の人を,最手(ほて)と云ひ,第二の人を,最手脇(ほてわき)と云ふ。古へ,相撲の節とて,禁中,七月の公事たり。先づ,左右の近衛,方(かた)を分けて,國國へ部領使(ことりづかひ)を下して,相撲人(防人)を召す。廿六日に,仁壽殿にて,内取〔(うちどり)地取(ぢどり)〕とて,習禮あり。御覧あり,力士,犢鼻褌(たふさぎ)の上に,狩衣,烏帽子にて,取る。廿八日,南殿に出御,召仰(めしおほせ)あり,勝負を決す。其中を選(すぐ)りて,抜出(ぬきで)とて,翌日,復た,御覧あり。」 と説明する。「犢鼻褌(たふさぎ)」は,「褌」とも当てるように,『大辞林』に, 「〔古くは『たふさき』〕短い下袴。今のふんどし、またはさるまたのようなものという。とうさぎ。」 である。いまの「まわし」の先駆だろうか。しかし,狩衣。烏帽子姿というのは,さすがに御前だけのことはある。 で,「すまふ(相撲・角力)」の項では, 「(すまひ〔相撲〕の訛)すまひ(相撲)の技に同じ。武技の一。昔は,組討の技を練る目的にて,武芸とす。其取方は,勝掛(かちがかり 勝ちたる人に,その負くるまで,何人も,相撲ひかかること)と云ふ。此技,戦法,備わりて組討を好まずなりしより,下賤の業となる(即ち,常人の取る相撲(すまふ)なり)。」 とあり,どうやら,戦場の技であるが,そういう肉弾戦は下に見る傾向となり,今日の相撲になったものらしい。で,その次に, 「後に,一種,専業とする者起こる。力士,力者,相撲取,と称し,所在に,仮場を開きて,観客より錢を収めて,興行す。場の中央に,土俵を設け,力士を,東西に分ち,裸体にて,褌(まわし)のみを着け,素手にて取る。其の技に,反(そり),捻(ひねり),投(なげ),掛(かけ)の四手ありて,各十二に分かれて,四十八手など云へり。(中略)興行する者を,勧進元と云ふ,今は,これらの団体を,相撲協会と云ふ。勧進相撲,寄相撲などあり。勧進相撲は,京畿にては,古くよりありしが,江戸にては,寛永元年,四谷,鹽町にて興行せしを,始とす(相撲大全)。晴天,六日間なりき。然るに,寄相撲に,争亂(いさかひ)ありて,慶安元年,禁止となり,又,寛文元年,再禁止にて,中絶す。のち,正徳中,深川の三十三間堂(明和六年,暴風雨にて倒る)にて興行を許可せられしが,堂,破壊に及びたれば,同じ深川の八幡社内にて,興行することとはなれり。爾来,興行地に変遷ありて,文政十年,両国橋東,回向院境内にて,毎年,春と夏と(春場所,夏場所)の二期に,各,晴天十日づつ,興行することとなりたり」 とある。しかし,『日本語源大辞典』が, 「@『書紀-垂仁七年七月』に見られる『捔力(すまひ)』の例が,日本における相撲の始まりとされる。この『捔力』は,中国の『角力』に通じ,力比べを意味する。『新撰字鏡』にも『捔力』に『知加良久良夫(ちからくらぶ)』とある。A中古和文の仮名書き例は『すまひ』のみであるが,中世には『すまう』も使用されるようになる。『文明本節用集』『運歩色葉』『日葡辞典』などの辞書類においても『すまう』とあるところから,中世末には『すまひ』より『すまう』の方が,より日常的な語形となっていたと考えられる。」 とするところからみると,「すまひ」が,動詞『争(すま)ふ』の連用形からと見なすと, すまふ(動詞)→すまひ(名詞化)→すまう→すもう, と考えていいのではあるまいか。『日本語の語源』は,独自の音韻変化から, すまふ→すまひ→すまい→すまう→すもう, と見なしているようである。 「セメアフ(攻め合ふ)という語は,セの母音交替[eu],メア〔m(e)a〕の縮約の結果,スマフ(争ふ)に変化した。『あらそふ。負けまいと張り合う。抵抗する』意の動詞である。〈女も卑しければスマフ力なし〉(伊勢)。〈秋風に折れじとスマフ女郎花〉(後拾遺集)。 スマフ(相撲ふ)に転義そして,二人が組み合い力を戦わせて勝負することをいう。その名詞形のスマヒ(相撲。角力)は力比べの競技のことをいう。〈当麻蹶速(たぎまのけはや)と野見宿禰(のみのすくね)とをスマヒとらしむ〉(垂仁紀)。両人は相撲道の始祖といわれている。 平安時代には,宮中の年中行事としてスマヒノセチ(相撲の節)がおこなわれ,毎年七月に諸国から召集した力士に勝負をきそわせた。 〈相撲の節は安元(高倉天皇ノ時代)以来耐えたること〉(著聞集)と見え,平安末期に滅びたが,民間の競技としては各地で盛んにおこなわれていた。〈スマヒの勝ちたるには,負くる方をば手をたたきて笑ふこと常の習ひなり〉(今昔物語)。 スマヒの転のスマイは,母韻交替をとげてスマウ・スモウに転音した。」 ところで, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E6%92%B2 には, 「日本における相撲の記録の最古は、『古事記』の葦原中国平定の件で、建御雷神(タケミカヅチ)の派遣に対して、出雲の建御名方神(タケミナカタ)が、『然欲爲力競』と言った後タケミカヅチの腕を摑んで投げようとした描写がある。その際タケミカヅチが手を氷柱へ、また氷柱から剣(つるぎ)に変えたため掴めなかった。逆にタケミカヅチはタケミナカタの手を葦のように握り潰してしまい、勝負にならなかったとあり、これが相撲の起源とされている。」 とある。人間同士の相撲で最古のものとしては, 「垂仁天皇7年(紀元前23年)7月7日 (旧暦)にある野見宿禰と『當麻蹶速』(当麻蹴速)の『捔力』(「すまいとらしむ・スマヰ」または『すまい・スマヰ』と訓す)での戦いがある(これは柔道の起源ともされている)。」 という。「すまふ(ひ)」は,『岩波古語辞典』には, 拒ひ, と当て, 「相手の働きかけを力で拒否する意」 とある。先の,『古事記』の,出雲の建御名方神(タケミナカタ)と建御雷神(タケミカヅチ)の「すまひ」は,建御名方神(タケミナカタ)の拒絶の意味が含まれている,とみるとなかなか意味深である。大国主神の次子「建御名方神」は,国譲りに反対し,武甕槌(たけみかづち)神と力比べをして争って敗れたのだから。 『日本語源広辞典』には,「すもう」について,語源は, 「スマヒ(争う・拒む)」 として, 「相手の力に負けまいとして抵抗すること,手向かうことの意です。」 としている。もともとは, 手向かう, 意であったようである。 参考文献; https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E6%92%B2 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 田井信之『日本語の語源』(角川書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
「サギ」は,
「うそ」は, 噓, と当てる。この字は, 「『口+音符虚』で,口をとがらせてふっと息を出すこと」 で,「息を吐くときの擬声音」。 息をはく, うそぶく, 吹聴する, 嘆息する声, という意味になり,「嘘をつく」という意味の「うそ」に使うのは,我が国だけである。 https://okjiten.jp/kanji1324.html には, 「『口』の象形と『虎(とら)の頭の象形(「虎」の意味だが、ここでは「巨」に通じ(「巨」と同じ意味を持つようになって))、『大きい』の意味)と丘の象形(『荒れ果てた都の跡、または墓地』の意味)』(『むなしい』の意味)から、むなしい言葉『うそ』を意味する『嘘』という漢字が成りたちました。 『虚』は息を吐くときの擬声語(動物の音声や物体の音を象形文字で表したもの)とも言われており、『吹く』、『吐く』の意味も表します。」 とあるが,「虚」(漢音キョ,呉音コ)の字は, 「丘(キュウ)は,両側におかがあり,中央にくぼんだ空地のあるさま。虚(キョ)は『丘の原字(くぼみ)+音符虍(コ)』。『虍』(とら)とは直接の関係はない。呉音コは虚空(コクウ),虚無僧(コムソウ)のような場合にしか用いない。」 で,「虚」自体は,むなしい,中がなくて空ろ,という意味しかない。因みに,「丘」の字は, 「もとの字は,周囲が小高くて中央がくぼんだ盆地を描いたもの。虚(くぼみ)の字の下部にあって音符として用いられる。邱とも書く」 とある。「噓」の字自体に,「むなしい」という含意はあっても「うそ」という意味はない。 さて,「うそ」とは, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%98 に, 「事実に反する事柄の表明であり、特に故意に表明されたものを言う。 アウグスティヌスは『嘘をつくことについて』(395年)と『嘘をつくことに反対する』(420年)の二論文において、嘘について「欺こうとする意図をもって行われる虚偽の陳述」という定義を与えている。この古典的定義は中世ヨーロッパの言論・思想界に大きな影響を与えた。」 とある。その意味の,「うそ」の語源は,『大言海』は, 「ウソブクのウソなるべし」 とする。「うそぶく」で,さらに。 「ウソは,浮空(うきそら)の略にもあるか(引剥〔ひきはぎ〕,ひはぎ。そらしらぬ,そしらぬ)。虚空のことなるべし。」 としている。しかし,『岩波古語辞典』は,「うそぶく」について, 「ウソ(嘯)フキ(吹)の意」 としているので,「うそぶく」が「うそ」から派生したことはわかるが,「うそぶく」が「うそ」の語源ではありえないように見える。ただ,「うそぶく」は, 嘯く, と当て,意味は, 口をすぼめて息を大きく強く吹く,また口笛を吹く, (鳥や獣が)鳴声を上げる,ほえる, 詩歌を口ずさむ, という状態表現で,それが転じて, そらとぼける, 大きなことを言う, と価値表現に転じている。この「うそぶく」に当てる「嘯」の字は, 「口+音符肅(ショウ) 細い,すぼむ」 で,まさに,「うそぶく」の意味と重なり, 口をすぼめて長く声をひく, 口をすぼめて口笛を吹く, の意である。この意味の「うそ」は, 嘯, の字を当て, 口をすぼめて強く吹きだす, 口笛, うそぶき, の意味になる。『岩波古語辞典』は,この「うそ」に, 嘯, 噓, 啌, の字を当てている。こう見ると,「嘯吹(うそふ)き」が,「空吹き」の意になり,「嘘つき」と転じた,と思いたくなる。また,「うそぶく」と「噓」「嘯」の字との微妙な意味との重なり具合が気になる。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%98 も, 「日本語の『嘘』の語源は古語の『ウソブク』という言葉が転化したものである。ウソブクという言葉は口笛を吹く、風や動物の声といった自然音の声帯模写、照れ隠しにとぼける、大言壮語を吐く、といった多義的な使われ方をしていた。また、独り歌を歌うという意味もあり、目に見えない異界の存在に対し個人として行う呪的な行為を指した。中世に入って呪的な意味が薄れ、人を騙すといった今日的な『嘘』が一般に使われるようになったのは中世後期になってからのことである。」 と,「うそぶく」語源説をとる。 http://www3.kcn.ne.jp/~jarry/jkou/ii013.html は,噓の語源として, 「<1>うつけ説 「う」はうつけのう、「そ」はそらごとのそ、合わせて「うつけたそらごと」という意味で「うそ」と使うようになりました。 <2>玉須説 昔、中国に玉須(ぎょくす)という鳥屋がいました。「白いカラスが見たい」という人がいたところ「ああ、それならうちの店にいるよ」と答えました。実際に店に訪れてみるとそんな鳥がいるはずもなく、白い(素)カラス(烏)は「烏素(うそ)」であった、という故事から生まれた言葉です。そして「玉須さん」が「だます」の語源ともなっています。※とてもよくできたおもしろい展開ですが、これこそ誰かが作り上げた「うそ」なのでしょうね。 <3>うきそら説 浮つく(うわつく)の「浮」と空々しいの「空」で、「うそ」となりました。 <4>カワウソ説 カワウソが尾を振って人をばかすという俗信から、カワウソを省略して「ウソ」となりました。 <5>実質説 中身が何もない「失せ」と実質的に「薄い」ことから、「薄き」「失せ」が合わさって「うそ」ができあがりました。 <6>迂疎説 迂(う=避ける、実質にあわない)と疎(そ=うとい、うとむ)が合わさって「うそ」ができあがりました。」 と挙げているが,「うそぶき説」はない。『日本語源広辞典』は,「うそ」の語源を三説挙げる。 説1は,中国語の「迂疎」で,遠ざけるものの意, 説2は,「ウ(大いなる)ソ(そらごと,そむくこと)」で,大きなソラゴトの意, 説3は,うそぶく(そらとぼける)の語幹説, と挙げる。『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/u/uso.html は, 「嘘の語源は以下の通り諸説あり、正確な語源は未詳である。 関東地方では、近年まで『嘘』を『おそ』と言っていたことから、『軽率な』『そそっかしい』を意味する『をそ』が転じたとする説。 漢字の『嘘』が、中国では『息を吐くこと』『口を開いて笑う』などの意味で使われていたため、とぼけて知らないふりをすることを意味する『嘯く(うそぶく)』の『うそ』からとする説や、『浮空(うきそら)』の略を語源とする説などがある。また、『噓』の意味として,奈良時代には『偽り(いつわり)』、平安末期から室町後期になり、『うそ』が使われ始めている。」 として,未詳とする(時期については,『広辞苑』には室町末の日葡辞典に「ウソヲツク」と載るとしているので,その時期にはそういう使われ方が定着していたとみられる)。『日本語源大辞典』は,十一の語源説を列挙しているが,確定させていない。 ウキソラ(浮虚)の義(和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子), ウキソラ(浮空)の略か(大言海), ウチソラ(内空)の義(日本語源=賀茂百樹), 実質のウスキ(薄),或はそのウセ(失)たる言の意(国語の語幹とその分類=大島正健), 古語ヲソの転(雅言考験・玉勝間・俚言集覧), ヲソ(獺)に擬して言う語。カワウソが尾を振って人をばかすという俗言から(かた言), 虚を意味するあざの転訛(日本古語大辞典=松岡静雄), ウソ(烏素)で,烏は黒いのにシロ(素)いといつわりをいうぎ(志布可起), 口をすぼめて唇を突きだしたまま声を出すウソプク(嘯)から。ウソも不真面目な調子の作り声でいうことが本来の意(万葉代匠記所引奥義抄・不幸なる芸術=柳田國男・大言海), ウはウツセミ,ウツケのウ,ソはソラコトのソ。うつけたそらごとの意(両京俚言考), ウは大いなる義。ウソは大いにそむく意(日本声母伝), 「迂疎」の音Wu-soから(日本語原学=与謝野寛), しかし,「うそ」が最初からこんにちの「噓」の意でなかったとすると,「噓」の漢字を当てた人の思いからするなら,それと重なる, 口をすぼめて息を吹き,音を出す→ほえる,なく→うそぶえを吹く→そらとぼける→大きなことを言う と,状態表現から価値表現へと転じた「うそぶく」が, 大きなことを言う→ソラゴトを言う と,価値表現の意味が,大きなことから,空事,虚言,へと転じた見るのが自然に思える。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) https://okjiten.jp/kanji1324.html
この「ミイラ」は, ミイラ取りがミイラになる, という諺の「ミイラ」である。昔から不思議であった。「ミイラ」というのは, mirra, で,ポルトガル語らしい。 木乃伊, と表記するが,これは漢訳語そのものらしい。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%A4%E3%83%A9 には, 「漢字表記の『木乃伊』は14世紀の『輟耕録』巻3に回回人の言葉として出現し、中国語では『蜜人』というとしているが、おそらくは同じ語にもとづく。日本語の漢字音で読む『モクダイイ』はあまりにも原音から遠い印象があるが、北京語でこれを読むと『ムーナイイー』(普通話: mùnǎiyī)のようになる。『輟耕録』ではミイラを回回人の習俗として記し、手足をけがした人がミイラを食べるとたちどころに直ると記述している。『本草綱目』でも『輟耕録』を引用しているが、本当に効果があるかどうかはわからないとしている。日本でもこの表記を中国語から借用し、『ミイラ』の語に充てるようになった。」 とある。日本でも,「即身仏」という, 「密教系の日本仏教の一部では、僧侶が土中の穴などに入って瞑想状態のまま絶命し、ミイラ化した物」 があるが,日本の風土ではなかなか難しいが, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%A4%E3%83%A9 に, 現存する即身仏の一覧, が載っている。 さて,「ミイラ取りがミイラになる」 とは,落語にも「木乃伊取り」があるように, 人を連れ戻しに出かけた者が,そのまま帰ってこなくなる,転じて,相手を説得するはずが,逆に相手に説得されてしまう, という意味だが(『広辞苑』),どうして,「ミイラ取りがミイラになる」が生まれたのか,なかなか不思議である。なお,落語の「木乃伊取り」は, http://senjiyose.cocolog-nifty.com/fullface/2004/11/miiratori.html にあるように,相手を連れ戻しに行って帰ってこなくなる,という噺である。しかし,どうしてそういう意味になったのか。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%A4%E3%83%A9 に, 「日本語の『ミイラ』は16〜17世紀にポルトガル人から採り入れた言葉の一つで、ポルトガル語: mirra は元来『没薬』を意味するものであった。『ミイラ』への転義の詳しい経緯は未詳であるが、没薬がミイラの防腐剤として用いられた事実や洋の東西を問わず“ミイラ薬”(ミイラの粉末)が不老長寿の薬として珍重された事実があることから、一説に、“ミイラ薬”(の薬効)と没薬(の薬効)との混同があったという。只、薬に使用したため、体調を崩し、死者まで出た事から、後には燃料として、欧米中心に輸入されていたと早稲田大学名誉教授でエジプト考古学研究の権威吉村作治は述べている。」 とある。『広辞苑』には,「没薬(もつやく)」は, ミルラに同じ, とある。「ミルラ」を引くと,ラテン語で,myrrha, 「主に東部アフリカおよびアラビアなどに産するカンラン科の諸植物から採取したゴム樹脂。黄色,赤色または褐色。芳香と苦味とがあり,古来香料・医薬また死体の防腐剤などに用いた。」(『広辞苑』) とあり, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%A1%E8%96%AC には, 「古くから香として焚いて使用されていた記録が残されている。 また殺菌作用を持つことが知られており、鎮静薬、鎮痛薬としても使用されていた。 古代エジプトにおいて日没の際に焚かれていた香であるキフィの調合には没薬が使用されていたと考えられている。 またミイラ作りに遺体の防腐処理のために使用されていた。 ミイラの語源はミルラから来ているという説がある。」 つまり,語源から見ても,ミイラづくりに使う薬剤から見ても,「ミイラ」と「ミルラ」は混同されやすい。『大言海』の「ミイラ」の項には, 「元来,防腐剤,香料を意味する語なりしが,防腐を施して固まりたる人,及,動物をも云ふに至れり」 とある。 http://kotowaza-allguide.com/mi/miiratorigamiira.html には, 「『ミイラ』とは、防腐剤として用いられた油のことをさす。ミイラ(木乃伊)は、アラビアやエジプトなどで死体に塗る薬のことで、この薬を布で巻いて箱に入れ棺におさめると死体が腐るのを防げた。この薬を取りに行った者が、砂漠で倒れるなどして目的を果たせず、ついには自分がミイラになってしまったことが、このことわざの起源とされている。『ミイラ』はポルトガル語で「没薬」という意味。」 とある。似た解釈は, https://kakuyasu-eigo.com/gooutforwool/ 「“ミイラ”の元々の意味は、『没薬』を意味する防腐剤として用いられた油のことでした。これがいつの間にか、今の「ミイラ」じたいを指す言葉に転義したようです。そしてこの『ミイラ』が、16〜17世紀ごろのヨーロッパにおいて、漢方のような薬として広まったことから、墳墓などにミイラを取りにいく商人が増えました。 さらに江戸時代に日本にも、ミイラという言葉とともに輸入され、”ミイラの粉末”が大名など有力者を中心に、薬として入ってきたようです。」 である。しかし,ミイラを造っている薬剤ミルラを取りに行かなくても,ミルラそのものを採取すればよいのに,そうしなかったのは,その製造方法が廃れたためなのだろうか。
「しこな」の, 四股名, は当て字,本来, 醜名, と当てる。『広辞苑』には, 自分の名の謙称。「行成がシコナ呼ぶべきにあらず」(大鏡)。類聚名義抄「諱,シコナ・イミナ」 渾名。「彦根の事をいうてしかり給ふゆゑ,後々には子どもも。シコナを彦根ばばといひし」(おあん物語) (「四股名(しこな)」は当て字)相撲の力士の呼び名, と意味が載る。「しこ」は,『広辞苑』は, 醜, 鬼, の字を当て, 強く頑丈なこと, 頑迷なこと,醜悪なこと, と載る。『岩波古語辞典』は,「しこ」について, 「ごつごつしていかついさま。転じて,醜悪・凶悪の意」 とある。『日本語源大辞典』は,醜悪なことの意と,さらに, けがらわしい,いとわしい, の意も載せ, 「多く,接頭語的,または『しこの』『しこつ』の形で,ののしったりへりくだったりする場合に用いられる。『醜い女(しこめ)』『醜草(しこぐさ)』『醜手(しこて)』『醜(しこ)ほととぎす』『醜(しこ)つ翁』など。」 と載る。この「しこ」の語源は,『大言海』には, 「又,シキとも云ふ」 とあるが,『岩波古語辞典』は,「しき(醜)」の項に, 「万葉集で『しこ(醜)』の万葉仮名『四忌』をシキと誤読してしまって生じたた語」 とある。『日本語源大辞典』は,「しこ」について, シカミ(顰),シカル(叱)等のシカと同語か。あるいはカ(赫)からか(日本古語大辞典=松岡静雄), シカル(叱)のもととなった動詞シクの転(続上代特殊仮名音義=森重敏), シコフ(重瘣)の義(言元梯), 下子の義か(コクゴ), と挙げた上で, 「『しこ』がツングース系ソロン語〔sĭkkwl〜sĭrkwl〕(鬼の意)と対応するとする説(村上七郎)により,原義を『鬼』とする考えがある。」 としている。なお,『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/si/shiko.html は, 「漢字は当て字で、『醜(しこ)』を語源とする説が 有力である。 「醜」は醜く良くないことの意味もあるが、古くは強く恐ろしいことや頑丈な ことを意味したことから一連の動作を『醜足(しこあし)』といい、略されて『しこ』となったという。その他、『肉凝(しこる)』の意味からといった説もある。」 と,異説を載せている。 いずれにしても,「しこ(醜)」は,自らを謙遜し,他を貶めるという意味で,あまりいい意味をもっていない。『大言海』は,「しこな」について, 「讒(しこ)つる名の意か」 として, 戯れ謗りて,名づくる名。謔名。渾名, としているが,どうも,『大言海』は,名義抄の, 「諱,シコナ,イミナ」 引用し,『広辞苑』は, 類聚名義抄「諱,シコナ・イミナ」 を引用していた,「諱(いみな)」との関係が気になる。「諱」は, 忌み名, で, 死語に言う生前の実名, 後に,貴人の実名を敬っていう, 更には,死後に尊んでつけた称号,諡(おくりな), という意味だが,通称と実名との違いは,たとえば,武田信玄は, 太郎が通称(仮名〔けみょう〕・字), 晴信が諱(真名), 信玄は法諱, 正式には, 源朝臣武田太郎晴信, となる。「実名敬避俗(じつめいけいひぞく)」として, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B1 に, 「漢字文化圏では、諱で呼びかけることは親や主君などのみに許され、それ以外の人間が名で呼びかけることは極めて無礼であると考えられた。これはある人物の本名はその人物の霊的な人格と強く結びついたものであり、その名を口にするとその霊的人格を支配することができると考えられたためである。」 とある。とすると,当初は, しこな, は,諱(実名)を意味していたはずなのに,ついには,渾名となり,「四股名」となり,芸名へと堕した,ということになる。 相撲の「四股名」については, 「力士の名のりのこと。古くは『しこ』を醜と書き、強いという意味が醜に共通し、自分を卑下して謙遜(けんそん)する場合にも使われて、『しこの御楯(みたて)』などともいった。平安朝の『大鏡』に、『行成(ゆきなり)が醜名(しこな)呼ぶべきにあらず』とあるように、自分の名を謙称していったことから始まり、強いという意味が含まれているところから、江戸時代に入って『名のり』『綽号(あだな)』といったことばにかわって、のちに力士専用にしこ名という名称が用いられるようになった。」(日本大百科全書(ニッポニカ)) とあり, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%82%A1%E5%90%8D には, 「四股名の誕生は江戸時代、興行としての勧進相撲が始まった頃からと考えられている。例えば『信長公記』など戦国時代の歴史書にあらわれる相撲取りは、本名かそれに準ずる通り名などで相撲を取っていた。 職業として相撲を取る者が現れたことで、四股名が用いられる様になったが、当初は古典に登場する豪傑の名を取ったような、荒々しいものが多かった。 由井正雪の謀反事件の後、江戸幕府によって一時期四股名の使用が禁じられた。叛意を持った浪人が来歴を偽って相撲取りの巡業の中に潜伏するようなことを、取り締まるためだった。やがて幕政が安定するとこれも解禁され、谷風梶之助、小野川喜三郎らの活躍する寛政期になると、現在に通ずるような勇ましさだけでなく優雅さを強調した、「山」「川」「花」「海」といった文字を盛り込んだ四股名が使われ始めた。」 とある。なお,力士の「しこな」については, http://www.geocities.jp/buffie7wolf/shikona.htm に詳しい。 参考文献; https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%9B%E5%A3%AB#/media/File:Kuniyoshi_Utagawa,_The_sumo_wrestler.jpg 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
「こんにゃく」は, 蒟蒻, 菎蒻, と当てる。 「サトイモ科の夏緑多年草植物で、学名はAmorphophallus konjac。英名はelephant footあるいはdevil's tongueとも言う。地下茎はコンニャクイモ(蒟蒻芋)と呼ばれる。原産地はインドまたはインドシナ半島(ベトナム付近)とされ、東南アジア大陸部に広く分布している。」 という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%8B%E3%83%A3%E3%82%AF)。 『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/ko/konnyaku.html には, 「こんにゃくは、奈良時代に薬用として中国から伝来した植物で、漢語『蒟蒻』も一緒に伝わったようである。 蒟蒻の読みは、『本草和名』に『古爾也久(こにやく)』、『和名抄』に『古迩夜久(こにやく)』とあるように、古くは『コニャク』と読まれていた。『コニャク』が中世に音変化し、『コンニャク』になったとされる。また、『蒟蒻』を呉音で『クニャク』と言ったものが、日本で『コニャク』となり、『コンニャク』になったとする説もある。」 としている。『大言海』は, 「韻會『蒟,果羽切,音矩』コと云ふは呉音なり。コンニャクは,音便轉(牛蒡〔ごぼう〕,ごんぼう。古年童,こんねんどう)。左思,蜀都賦『其圃則有蒟蒻茱萸』劉達,注『蒟,蒟醤(きんま)也,蒻,草也,其根,名蒟蒻』。キンマと,コンニャクと,二物なるに,唐宋以来誤りて,蒻を,蒟蒻と呼ぶと云ふ(箋注倭名抄)」 とある。「きんま(蒟醤)」について,『大言海』は, 安南地方の常緑樹の名, とあり,「わたたび(蒟醤)」の項で, いまのフトウカヅラ(風藤蔓)なるべし。きんま(蒟醤)の一種, と載る。『広辞苑』には, 「『本草啓蒙』『和訓栞』に蛮語とあり,タイ語またはビルマ語の転化」 として, 「マレーシア原産のコショウ科の常緑蔓性低木。」 で転じて, 蒟醤手(きんまて)の略, として使われる。「蒟醤手」とは, 「キンマの葉を入れるのに用いる舶来の漆器」 を指す。 「黒漆地に朱漆または色漆で,塡漆の技法により文様を表した漆器。中国の沈金の影響をうけてタイでつくられたが,16世紀以降はミャンマーが主産地である。素地は竹で,編胎,捲胎とし,高級品は馬毛を用いた。加飾は黒漆地に両刃の刀で,下図なしに直接文様を彫りつけ,油の入った色漆を一面に塗り,乾燥を待って刻線以外の色漆を研ぎ落とす。最後に油混和の漆を薄く塗って光沢を出す。古くタイではビンロウ(檳榔)の実に石灰をまぶし,蔓草の一種であるキンマ(蒟醬(くしよう))の葉に包んでいっしょに嚙む習慣があり,これらの材料を地産の漆器に入れて客をもてなした。」(『世界大百科事典 第2版』) で, https://www.kagawashikki.org/kinma には,「香川県漆器 蒟醤(きんま)について」として, 「香川漆芸の代表である蒟醤は、タイ国の植物の実の名称だといわれ、何回も塗り重ねた上にケンで文様を線彫りしてそのくぼみに色漆を象嵌する技法で、漆の面を彫るという点では、沈金と変わらないようですが、朱漆、黄漆の色ごとに彫りあげ充填させる作業を繰り返し、全部の充填が終わると表面を平らに研ぎ出すといった独特の技法です」 とあり,『大辞林』には,「蒟醤」について, 「タイやビルマから産する漆器で、漆を塗った面に文様を線彫りし、そこに朱漆などの彩漆などをうずめて研出したもの。素地は多くは籃胎です。また日本では高松市より産します。」 とある。唐宋以来,蒟醤と蒟蒻を間違えていたというのは,実物ではなく,文字から来たことに違いあるまい。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%83%9E に,その辺りについて, 「日本に於いては、キンマとはビンロウジと石灰とキンマの葉を噛む習慣を考慮して、そのすべてをまとめてキンマと呼ぶことが多い(#嗜好品としてのキンマ)。日本語におけるキンマの語は、タイ語における『キン(食べる)+マーク(ビンロウジ)』(ビンロウジ(檳榔子)を食べる、の意)という語の訛である。ビンロウジとはビンロウ(檳榔、ヤシ科 Areca catechu、ビンロウジとの区別でビンロウジュ(檳榔樹)とも言う)の実のことを言う。マークという言葉の本来の意味は『実』であったが、タイに於いてはアユタヤ王朝時代から、貴賤問わず広く服用され日常性が高かったために、「実を食べる」という略語的用法がそのまま『キンマを用いる』という意味になっていった。 一方で日本においては江戸時代から本草学の研究などで知られるようになり、「蒟醤」と字を当てて書かれた。のちに日本では「キンマ」の言葉自体が、元々の「実(あるいはビンロウジ)を食べる」という本来の意味からはずれ、ビンロウジと一緒に口に入れる葉の名前として借用されることになった。…キンマはタイで広く愛好されたが、痰壺やキンマの道具入れなどの用具が発達し、上流階級では漆を塗ったりして、凝ったものを作るようになっていった。これは江戸時代の日本にも輸出され、蒟醤手という名で茶人の香入れとして愛用された。」 とある。キンマは, 「キンマ(蒟醤・学名Piper betle)はコショウ科コショウ属の蔓性の常緑多年草で、ハート型のつやのある葉をつけ、高さ1mほど。白い花をつけるが目立たない。薬効のあるのは葉である。本来の分布地はマレーシアであるが、インド、インドネシア、スリランカでも自生している。」 で,コンニャクは, 「サトイモ科コンニャク属の多年草で、学名は Amorphophallus rivieri。英名は Devil's tongue, Voodoo lily。東南アジアのベトナム南部からインド東部にかけて分布しています。わが国へは奈良時代に渡来しました。直径30センチもある大きな球茎から、高さ50〜200センチの円柱状の葉柄を伸ばします。葉柄の先に鳥足状複葉をつけます。初夏に、暗紫色の仏炎苞に包まれた肉穂花序をだします。花序の基部に雌花、その上に雄花が密集します。球茎は『こんにゃく』の原料となります。」 である。 『たべもの語源辞典』には, 「中国から日本に渡来したのは奈良時代である。鎌倉時代の僧侶はコンニャクを味つけして煮たものを糟雞(そうけい)と称して食べていた。山河豚の刺身とか,こんさしといって,コンニャクを刺身にして食べた。コンニャクの田楽が現れるのは元禄(1688-1704)ころである。屋台の煮売物として愛好されたので,現今のおでんの先祖と言ってよかろう」 とあり,『日本語源大辞典』には, 「『京阪の諺に,坊主と菎蒻は田舎がよし,と云ことあり』(『守貞漫稿』)とあるように,地方産が美味とされた。『砂払(すなはらい)』の異名のとおり,こんにゃくを食べると体内の砂を排出できるという俗言があるが,病人には有害で多食してはならないとされた。」 とある。 なお,こんにゃくの歴史は, http://kan-etsu.com/knowledge/rekishi/ にくわしい。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) https://www.weblio.jp/content/%E3%81%93%E3%82%93%E3%81%AB%E3%82%83%E3%81%8F https://www.kagawashikki.org/kinma https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%83%9E https://vietnam.vnanet.vn/japanese/%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%81%A8%E3%83%92%E3%82%99%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%82%A6%E3%81%AE%E6%96%87%E5%8C%96/43334.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%83%9E 「すずなり」は, 鈴生り, と当てる。 果実などが神楽鈴のように群がって房をなすこと, で, ふさなり(総生り), とも言うらしい。その意味から派生して, 多くのものが房状に集まってぶら下がっていること。また,大勢の人が1か所にかたまっていること, も言い,「鈴生りの観衆」と言ったりする。『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/su/suzunari.html は, 「鈴なりの『鈴』は、神楽鈴のこと。 神楽鈴は、12個または15個の小さい鈴を繋いで柄に 付けたもの。 果実が群がってなるさまが、神楽鈴の鈴の付き方と似ていることから『鈴なり』と呼ぶようになり、物や人が群がり集まることも意味するようになった。 鈴なりの『なり』は『生り』であるが、『なりふり』や『身なり』など形状を表す『なり(形)』と解釈して、『鈴形』と表記されることもある。」 とあるので尽きているのかもしれない。 「神楽鈴(かぐらすず)」は,神楽を舞うときに用いる鈴で,小さい鈴を12個または15個つないで柄をつけたもの,という。歌舞伎舞踊の三番叟(さんばそう)などにも用いる,とある(『デジタル大辞泉』)。 「鈴」は, すず, とも, れい, とも呼ぶが,に,「すず(鈴)」と「れい(鈴)」は別で, 「すず(鈴)」は, 「中空の身の中に,丸(がん)を封じた楽器,鳴物。身は球形で一端に細い口(鈴口(すずくち))をあけるのが一般であるが,扁平なものや砲弾形,多角形のものもあり,また何ヵ所もの口をあける場合がある。比較的小型で,金属のほか土や木でもつくられ,吊り下げるための鈕(ちゆう)をもつ。〈がらがら〉などと同じように,乾燥した木の実などに,その原型を求める説もある。日本では古く〈須須(すず)〉と書かれ(《和名抄》),その語源は朝鮮語起源説(《東雅》),〈音の涼しきより名づくならむ〉(《和訓栞(わくんのしおり)》)などと諸説あるが,明らかではない。」(『世界大百科事典 第2版』) 「中空で割れ目のある器体に丸 (がん) を入れて振鳴らす振奏体鳴楽器。『すず』は大和言葉で,日本には古来木の実や土でつくった原始的な鈴があったとされるが,今日一般的な金属製のものは古墳時代に大陸より伝来したといわれる。リズム楽器としてのみでなく,呪術的な意味をもつ装身具としても用いられ,棒の先に複数の鈴を取付けた神楽鈴は,巫女舞や神聖視される能『三番叟』の舞踊などに使われてきた。そのほか,神社拝殿正面の大きな鈴,歌舞伎囃子に用いられる『駅路 (えきろ) 』などがある。なお,同じ字をあてるが鈴 (れい) や鈴 (りん) と読む場合は異なる楽器をさす。」(『ブリタニカ国際大百科事典』) 「れい(鈴)」の項は, 「〈鈴〉の字をレイと読む場合,日本では有柄有舌の体鳴楽器,すなわち把手をもち内部に舌(ぜつ)を吊るして,振ると舌が本体の内側を打って発音するものをいい,一般には密教法具の金剛鈴(こんごうれい)を指す。しかし中国で〈鈴〉とするものは,スズや日本のレイと異なり,有鈕有舌の鐘(かね),すなわち吊り手をもち,内部に舌を吊るすものをいい,日本ではこれを古くから鐸(たく)と呼んでいる。さらに中国ではレイにあたる有柄有舌のものに鐸の字を用いており,混乱を招きやすい。」(『世界大百科事典 第2版』) 「日本の体鳴楽器。『振鈴』『鈴鐸』『金鐸』などともいう。金属製の楽器で,円筒の中に金属の舌 (ぜつ) をつるし,それが周囲に当って音を出すものであるが,無舌のものもある。仏教儀式中,特に密教の修法に柄のついた手鈴が用いられ,金剛杵の一部に鈴をつけたようなものであることから,『金剛鈴』ともいわれ,『独鈷 (とっこ) 鈴』『三鈷鈴』『五鈷鈴』などの別がある。歌舞伎の下座音楽では,宮殿,寺院などの場で,雅楽の気分を出すために鉦鼓の代用として用いられる。いわゆる『すず』と『れい』を合せて「すず」と呼ばれることもある。」(『ブリタニカ国際大百科事典』) とあるので,神楽鈴は,「すず」である。「鈴」は,別に, りん(れい), とも訓み,小さい鉢形をした仏具。響銅(さはり)で作る。読経の際に小さい棒でたたいて鳴らす,「お鈴」(おりん)ということもある。「錀」とも書くらしい。 「すず」の語源は,『大言海』は, 「響くを名とす。或いは云ふ,音の清(すず)しき意かと」 とする。『日本語源広辞典』も,同じく, 説1は,「スーン,スーン・スーズー(擬音)による語」 説2は,「音のスズシサを表した語」 と,二説挙げる。『日本語源大辞典』も, 音がスズシイ(清・涼)ところから(和句解・日本釈名・百草露・名言通・和訓栞・本朝辞源=宇田甘冥。国語の語幹とその分類=大島正健・大言海), 響く音から(大言海), スム(清)の義(言元梯), と,ほぼ同じ二説になる。響く音の擬音と,その清んだ音からきたといえるのだろう。 ところで,「すずなり」と似た意味で, せんなり(千成・千生), という言葉がある。『岩波古語辞典』には, 千成瓢(せんなりひさご), とあり, 瓢箪の一種,果実が二三寸の長さで,数多く群がりなるもの, とあり, 千生柿, 千生酸漿, とも言う。今日では,秀吉の, 千成瓢箪, が有名だから,「千生り」というと,そのことが浮かぶ。因みに, 秀吉の馬印は,千成瓢箪ではない。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E5%8D%B0 に,豊臣秀吉の馬印は, 小馬印 - 金の逆さ瓢箪に金の切裂 大馬印 - 金の軍配に朱の吹き流し 千成瓢箪は馬印としては用いられなかったが、船印に使用されていたという説もある, とあるように,秀吉神話(自作自演の可能性もある)にすぎないようだ。 参考文献; http://www.ise-miyachu.co.jp/faq/?cat=42 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4_(%E4%BB%8F%E5%85%B7) 高橋賢一『旗指物』(人物往来社) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 「すし」は, 鮨, 鮓, と当て, 寿司, とかくのは当て字とある(『広辞苑』)。『日本語源広辞典』は,「すし」は, 「酢+シ・酸+シ」 で, 鮨, も当て字とする。「鮨」の字は 魚の鰭, うおびしお,魚のしおから, を意味し,我が国だけで, 酢につけた魚, 酢・塩をまぜ飯に,魚肉や野菜などをまぜたもの,寿司, の意で使う。「酢」は, 塩・糟などにつけ,発酵させて酸味をつけた魚。たま,飯を発行させて酸っぱくなった中に魚をつけた込んだ保存食, の意で,「華南・東南アジアに広く行われた」(『漢字源』)物を指す。これは, なれずし(熟れ鮨・馴れ鮨), と重なる。「酢」を「鮨」と同様の意味で使うのは,我が国だけである。『たべもの語源辞典』も, 「スシのスは酸であり,シは助辞である。すなわち『すし』とは『酸(ス)シ』の意である。古く延喜式の諸国の貢物のなかに多く『すし』が出てくる。これは『馴れずし』で魚介類を塩蔵して自然発酵させたものである。発酵を早めるために,飯を加えて漬けるようになったのは,慶長(1596‐1615)ころからと伝えられる。飯に酢を加えて漬けるようになったのは江戸時代になってからで,江戸末期に酢飯のほうが主材となって飯鮨とよばれるようになり,散らしや握り鮨が生まれる。スシはスシミ(酢染)の義とか,口に入れるとその味がスッとはするところからスウキ味からスシになったとかいい,また,石を錘においたから,スはオス(押す),シは石の義だというような説まである。」 としている。なお,『日本語源大辞典』には, 「表記については,『十巻本和名抄-四』に『鮨(略)和名須之 酢属也』とあり,『鮨』と『鮓』は同義に用いられていた可能性がある。ただし,飯の中に魚介類を入れて漬けるのが酢で,魚介類の中に飯を詰めて漬けるのが鮨であるとも言われている。『寿司』という表記は,演技をかついだあて字と考えられ,近代以降のものである。」 とある。「鮨」と「鮓」は使い分けがなされていた可能性が高い。 https://chigai-allguide.com/%E5%AF%BF%E5%8F%B8%E3%81%A8%E9%AE%A8%E3%81%A8%E9%AE%93/ にも, 「最も古い表記は『鮓』で、元々は塩や糟 などに漬けた魚や、発酵させた飯に魚を漬け込んだ保存食を意味した漢字であるため、発酵させて作るすしを指し、馴れずしが当てはまる。『鮓』の漢字は、鯖鮓や鮎鮓、鮒鮓 などで使われるため、関西系のすしに用いられる傾向にある。」 とある。 なお,「なれずし」については, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%82%8C%E3%81%9A%E3%81%97 に, 「主に魚を塩と米飯で乳酸発酵させた食品である。現在の寿司は酢飯を用いるが、なれずしは乳酸発酵により酸味を生じさせるもので、これが本来の鮨(鮓)の形態である。現在でも各地でつくられている。現在の主流であるにぎり寿司を中心とした早ずし(江戸前寿司)とは、まったく違う鮨(鮓)である。」 とあるが,ただ, 「日本のなれずしは、弥生時代に稲作が渡来したのと同時期にもたらされたものとする見解があるが、これは飯に漬けて発酵させるという製法から米に結び付けて説明されており、明証があるわけではない。」 とし,こう付け加えている。 「平安時代中期に制定された延喜式には、西日本各地の調としてさまざまななれずしが記載されている。アユやフナ、アワビなどが多いが、イノシシ、シカといった獣肉のものも記述されている。従来の見解では、室町時代に発酵期間を数日に短縮し、『漬け床』の飯も食する『生成(ナマナレ)』が始まり、江戸時代になると酢が出回るようになり、発酵によらずに酢飯を使用した寿司が作られ、それが主流となるとされていた。 しかし、『生成(ナマナリ、ナマナレ)の鮨(鮓)』というのは、十分に完成していない鮨(鮓)という意味ではあるが、その種類はフナに限られており、ふなずしの食べ方を指す言葉であると考えられる。飯を共に食することはなく、発酵が不十分であることから、酢に浸けて食べるものである。さらに、室町時代以降に『なれずし』の発酵期間が短縮され、『漬け床』の飯も食用とされたということを史料で確認することもできない。」 さて,「すし」の語源であるが,『大言海』も, 酸シ, とするなど,これが主流だが,『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/su/sushi.html も, 「すしの語源は『すっぱい」を意味する形容詞『酸し(すし)』の終止形で、古くは魚介類を塩 に漬け込み自然発酵させた食品をいい、発祥は東南アジア山間部といわれる。『酢飯(すめし)』の『め』が抜け落ちて『すし』になったとする説もあるが、飯と一緒に食べる『生成 (なまなれ)』や、押し鮨の一種である『飯鮨(いいずし)』は、上記の食品が変化し生まれ たもので、時代的にもかなり後になるため、明らかな間違いである。 すしの漢字には、『鮓』『鮨』『寿司(寿し)』があり、『鮓』は塩や糟などに漬けた魚や、発酵させた飯に魚を漬け込んだ保存食を意味したことから,すしを表す漢字として最も適切な字である。『鮨』の字は、中国で『魚の塩辛』を意味する文字であったが,『酢』の持つ意味と混同され用いられるようになったもので、『酢』と同じく古くからもちいられている。現代で多く使われる『寿司』は、江戸末期に作られた当て字で,『壽を司る』という縁起担ぎの意味のほか,賀寿の祝いの言葉を意味する『壽詞(じゅし・よごと)』に由来するとのみかたもある。」 と丁寧に説く。また, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E5%8F%B8 も, 「『すし』の語源は江戸時代中期に編まれた『日本釈名』や『東雅』の、その味が酸っぱいから『酸し(すし)』であるとした説が有力である。」 としている。因みに,『日本語源大辞典』には,「酸し」以外の,語呂合わせ説の出典を上げている。 スシミ(酢染)の義(名言通), スウキ味で,口に入れるとスッとするところから(本朝辞源=宇田甘冥), 石を重りにおくところから,スはヲス,シは石の義(和句解), 等々。 http://iroha-japan.net/iroha/B02_food/18_sushi.html に, 「にぎり寿司として食べるようになったのは、江戸時代末期(19世紀初め頃)の事です。この当時江戸中で屋台が大流行し、その屋台から『にぎり寿司』が登場しました。このにぎり寿司は、東京湾すなわち江戸の前(江戸前)でとれる魚介・海苔を使うことから『江戸前寿司』と呼ばれるようになりました。この当時のにぎり寿司はテニスボール位の大きさであったと言われています。また「なれずし」とは違い、すぐに食べられる事から「はやずし」とも呼ばれ,江戸中で流行しました。」 とある。これが今日の寿司である。なお,「江戸前」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba5.htm#%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%89%8D)については, で触れたように,三田村鳶魚は,『江戸ッ子』で,江戸前を,具体的に, 「両国から永代までの間,お城の前面」 と言い切り,文化・文政頃に,本所・深川まではいる,という言い方をしている。 参考文献; https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E5%8F%B8 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%82%8C%E3%81%9A%E3%81%97 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 三田村鳶魚『江戸ッ子』(Kindle版) 「もち」は, 餅, とあてるが,「餅」の字は, 「『食+音符并(ヘイ 表面を平らにならす)』で,表面が薄く平らである意を含む」 で,中国では, 小麦粉などをこねて焼いてつくった丸くて平たい食品, 「月餅」の「餅」である。「もち米などをむして,ついてつくった食品」に当てるのは,我が国だけである。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%85 には, 「漢字における「餅」は、本来は小麦粉などで作った麺などの粉料理(麺餅(中国語版))を指し、焼餅・湯餅(饂飩・雲呑の原型)・蒸餅(焼売・饅頭の原型)・油餅などに分類されていた。中華文明圏などでは穀物の粉から作った『練り餅(ねりもち・日本においては、菓子に代表される餅)』が一般的で、(日本のような)臼と杵を使って作るつき餅は一部の地域に限られる。」 とある。因みに,「月餅」は, 「古代の月餅はお供え物として中秋節に食べられていた。しかし時の移り変わりとともに、月餅は中秋節の贈り物に用いられる食品へと変わっていった。中秋節に月餅を食べる習俗は唐代に出現した。」 ので,月餅は,月に見立てて丸く平たい。 「もち」は,『広辞苑』『岩波古語辞典』は, モチヒの約, 『大言海』も, モチイヒ,又はモチヒの約, とするが,『日本語源大辞典』は,三説挙げている。 説1は,「モチャつく(粘る)のモチ」 説2は,「モチ(粘る)+イイ(飯)」 説3は,「モチ(保存)によい食べ物」 その他,モチイ,モチイヒ以外の説を,『日本語源大辞典』も, モチ(望)の日に神に供するところからモチイヒ(望飯)の約(金太郎誕生譚=高崎正秀), マロツキ(円月)の反。望月に似ているところから(名語記), 望月の語から。望は満の意(俚言集覧), タモチ(保)の義(日本釈名), 持久の義(国語の語幹とその分類=大島正健), モツ(持)の義(名言通), 保存に堪えるの意のモツや所持のモツから(村のスガタ=柳田國男), ムシの義。糯米を蒸して製するところから(日本釈名), と諸説挙げる。確かに,『日本語源広辞典』の擬態語から来ているという説は,和語の特徴から考えられなくもないが,『日本語源大辞典』は, 「@古くは『モチイヒ』の略で『モチヒ』とよばれていた。鎌倉時代に入ってもモチヒの形が見られるが,平安時代中期にはハ行転呼の現象により,既に『モチヰ』の形をとっていたと思われる。A鎌倉時代にはヰとイの混乱が生じており,『モチイ』は末尾の母音連続を約して『モチ』となった。B室町時代の辞書類を見ると,モチ・モチイ両方の形をのせているものが多い。『七十一番職人歌合』の『もちゐうり,あたたかなるもちまいれ』のように両方同時に用いた例も見られる。しかし『くさもち』『かいもち』のように複合語はほとんどモチの形になっている。Cこの変化はやがて単独での語形にも及び,江戸期に入るとミチのみをあげる辞書がほとんどとなり,『餅 モチヒ〈略〉俗にはモチといひ又カチヒといふ也』(東雅-十二)など,モチヒを古語扱いしたものもあるる」 とあり,「モチイヒ」「モチヒ」から語源を考えるべきなのだろう。因みに,『日本語源大辞典』は,「モチイ」「モチイヒ」の語源について, モチ(糯)の語から(和句解), モチイヒ(持飯・携飯)から(ことばの事典=日置昌一), とある。しかし「糯」の字は, 「『米+需(柔らかい)』。軟は,その語尾が転じた同系語」 で,「もちごめ」の意で,『大言海』には, 「モチは粘るもの,黐(もち)に同じ」 「(粳〈うるち〉に対す)通じて,粟,黍などにも云ふ」 とあるので,これでは「もち(餅)」に戻る。『日本語源大辞典』は,この「モチ(糯)」の語源を, モチ(黏)の義(言元梯), モツ(持)の義(名言通), として,『日本語源広辞典』の説に近づく。さらに,『大言海』は,「黐(もち)」の項で, 「粘るにより餅の義か」 と,「モチ(餅)」へ戻してしまう。しかも,『岩波古語辞典』は,「モチ(黐)」の項で, 「モチヒのモチと同じ」 とする。「黐」の字は, 「离は,まといつくへび。黐はそれを音符とし,黍を加えた字で,ねばってまといつくとりもち」 で,「とりもち」つまり, 鳥を捕えるのにもちいるもち, の意。どうも,この「黐」が先のような気がする。『大言海』には, 「脂(やに)の如く極めて粘りあるもの。トリモチの木の皮を削り,搗き砕き,久しく水に浸して,湯に煮て製錬す」 とあるが,他の製法もあるかもしれないが,この「黐」の「モチ」から,「モチ(餅)」の粘りに当てはめたと考えるのが妥当に思える。その語源を,『日本語源大辞典』は, 餅のように粘る意か(東雅・大言海), 樹皮からとりもちをつくることができるから(牧野新日本植物図鑑), モチ(持)の義(名言通・和訓栞), モツ(物着)の義(言元梯), と,どうやら,『日本語源広辞典』の, 「モチャつく(粘る)のモチ」 「モチ(粘る)+イイ(飯)」 か, 「もつ(持つ)」 に絞れそうだ。これか発端と考えた方がいいように思う。 「もち(餅)について,『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/mo/mochi.html は, 「餅飯(モチイヒ)」を略した『モチヒ』が更に略された語。 小鳥や昆虫を捕らえるため、竿の 先などに塗って用いる粘り気の強い『鳥黐(トリモチ)』や、その原材料となる『黐の木( モチノキ)』など、粘り気のあるものに『もち』が使われているため、古くから、粘り気の あるものを意味していたと考えられる。また、長期保存に適した食べ物であるため『長持ち』や、携帯できる飯として使われていたため『持ち歩く』とする説があるが、正確な語源は未詳。」 としている。その他, http://www.mottie.co.jp/useful/knowledge/word_root/index.html は, 「昔からおもちの名前の由来には、様々な説があります。 谷川士清が『倭訓の栞』で、契沖(江戸時代の国学者)の影響を受けたかどうかわかりませんが、『もちは望月の望である』と述べています。月の世界でウサギがおもちをついているというおとぎ話との関連とは別として、望月説の支持者は今に続いています。望月の『円』が円満の象徴であると説きます。我々の祖先は太陽や月を尊崇し、祭りなどのたびに太陽や月になぞられて、もちの形を円にするようになったのではないでしょうか。 『和漢三才図会』・『箋註倭名類聚妙』・『古今要覧校』・『成形図説』などは、『搗きたてのお餅は股坐膏薬よりよくくっつく。それで鳥黐・黐木のモチからきた』とする粘着説をとっています。新井白石の『東雅』は、『もちひは糯飯なり』といっていますが、おもちのもちと鳥黐のもちと糯米のもちのいづれが元のことばなのかは、前記の望月のもちと餅のもちと同様に、言葉と物の名称あるいは物の名付けのどちらが古いか(淵源であるか)は興味のある課題と言えます。 古川端昌氏は、昭和47年に『餅の博物誌』の中で台湾語がもちの語源になったという説を出しました。『台湾ではもちを(MOA-CHI)といいます。また、台湾には中国大陸の福建省から人の移動が多かったのですが、福建省では餅をMOA-CHI といい、中国の江南地方でもモアチイと発音しているので、江南地方から直接にもち米と一緒に伝来したか、台湾を通って伝わったか、どちらにしてもモアチイがもちに転化した』という説です。」 と詳説しているが, 「おもちのもちと鳥黐のもちと糯米のもちのいづれが元のことばなのか」 は,生態から考えるなら, 鳥黐, の「もち」から来たと考えるのが自然な気がしてならない。『たべもの語源辞典』は, 「鳥黐や黐木のモチのように,搗きたての餅が粘着することからモチとなったという説もあるが,良くない。」 と否定しているが,「モチ」が擬態語からきていると考える方が,和語の特徴に叶っているように思えてならない。ただし,とっさに思い浮かぶ「もちもち」という擬態語は, 「近代から現れる語」 と,『擬音語・擬態語辞典』にはある。 参考文献; https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%85 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1114098441 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E9%A4%85 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫) 「みかん」は, 蜜柑, と当てる。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%A6%E3%83%9F%E3%82%AB%E3%83%B3 によれば,「みかん」は, ウンシュウミカン(温州蜜柑、学名:Citrus unshiu), を指す。 「『冬ミカン』または単に『ミカン』と言う場合も、通常はウンシュウミカンを指す。」 とある。 「甘い柑橘ということから漢字では「蜜柑」と表記される。古くは『みっかん』と読まれたが、最初の音節が短くなった。『ウンシュウ』は、柑橘の名産地であった中国浙江省の温州のことで、名は温州から由来する。つまり、名産地にあやかって付けられたもので種(しゅ)として関係はないとされる。」 ただし, 「中国の温州にちなんでウンシュウミカンと命名されたが、温州原産ではなく日本の不知火海沿岸が原産と推定される。農学博士の田中長三郎は文献調査および現地調査から鹿児島県長島(現鹿児島県出水郡長島町)がウンシュウミカンの原生地との説を唱えた。鹿児島県長島は小ミカンが伝来した八代にも近く、戦国期以前は八代と同じく肥後国であったこと、1936年に当地で推定樹齢300年の古木(太平洋戦争中に枯死)が発見されたことから、この説で疑いないとされるようになった。発見された木は接ぎ木されており、最初の原木は400 - 500年前に発生したと推察される。中国から伝わった柑橘の中から突然変異して生まれたとされ、親は明らかではないが、近年のゲノム解析の結果クネンボと構造が似ているとの研究がある。」 というので,今日の「みかん」の原産地は, 鹿児島県長島(現鹿児島県出水郡長島町) である。『日本語源広辞典』 http://gogen-allguide.com/u/unsyuumikan.html は,「温州蜜柑(うんしゅうみかん)」について, 「室町 時代末期から『温州橘(うんじうきつ・うんじゅきつ)で見られ、江戸時代から『温州蜜柑』 や『唐蜜柑』と呼ばれている。『温州』は中国浙江省の地名で、みかんの中心的産地 として知られる。しかし、原産は鹿児島県出水郡長島町と考えられており、中国には同じ品種が存在しないことから、原産地に由来する名ではなく、遣唐使が温州から持ち帰った種(もしくは苗)から突然変異して生まれたため、この名が付いたと考えられている。 新品種はDNA鑑定の結果からクネンボと考えられ、クネンボの伝来が室町時代で時代的にも合うため間違いないと思われるが、クネンボは沖縄を経て伝来しているため、遣唐使が温州から持ち帰ったために付いた名ではなく、みかんの原産地として有名であった『温州』にちなんだだけとも考えられる。 アメリカでは『Mikant(ミカン)』の名称のほか、薩摩から渡ってきたため『Satsuma(さつま)』とも呼ばれる。また、ナイフで皮を剥くオレンジと違い、温州みかんはテレビを観ながらでも食べられることから、アメリカ・カナダ・オーストラリアなどでは『TVorange(テレビオレンジ)』の愛称がつけられている。」 と詳しい。 因みに,「クネンボ」とは, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%8D%E3%83%B3%E3%83%9C に, 「クネンボ(九年母、学名:C. reticulata)は、柑橘類の一種。沖縄県ではクニブーと呼ばれる。 東南アジア原産の品種といわれ、日本には室町時代後半に琉球王国を経由しもたらされた。皮が厚く、独特の匂い(松脂臭、テレピン油臭)がある。果実の大きさから、江戸時代にキシュウミカンが広まるまでには日本の関東地方まで広まっていた。」 とあり, 「2016年12月には、農業・食品産業技術総合研究機構(農研機構)果樹茶業研究部門が、DNA型鑑定により、ウンシュウミカンの種子親はキシュウミカン、花粉親はクネンボであることが分かったと発表した。」 とある。また, http://www.yaoyasan.info/hpgen/HPB/entries/42.html には,「みかん」の 「『栽培』ということになると、最古の記述は紀元前22世紀頃、中国でのことです。…その頃には既に『柑橘系』の概念が生まれていたとのこと。様々な植物の栽培方法や種類などを記した栽培史のひとつである橘誌には、品種別けや特性なども詳細に表されていました。中国との国交が盛んであった日本においても、柑橘類は日本書紀や魏志倭人伝にその名が記されています。しかしまだまだその頃のみかんは現代のものとは違い、酸っぱさが優っていたものでした。」 ともある。 さて,「みかん」は, ミカン科ミカン属, 原産地:日本(鹿児島), ということになる。『日本語源広辞典』は, 「『ミ(蜜・甘い)+カン(柑子・コウジの木)』」 が語源とし, 「古く,コウジ,タチバナといいました。」 とある。『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/mi/mikan.html は, 「みかんは、1603年の『日葡辞書』に「miccan」と表記されているように、古くは『ミッカン』と発音されていたが、促音の『ッ』が省略され『ミカン』となった語である。 室町時代に中国 から伝えられた品種が、それまであった柑橘類とは異なり甘かったことから、蜜のように 甘い「柑子(カンジ・コウジ)」の意味で『蜜柑』の語が生まれたと思われ、室町時代から『 蜜柑』の文字は見られる。」 『日本語源大辞典』は, ユカン(柚柑)の訛りか(古事記伝), その味からミツカン(蜜柑)の義(古今要覧稿), と挙げた上で,こう述べている。 「@この類については,古く『柑子』が伝来し,『かうじ』という字音語でよばれ,中古・中世,『今昔物語』や『徒然草』に見られるように,おいしい果物として大切にされていた。後に『蜜』のように甘い果汁の新品種が伝えられ『蜜柑』と呼ばれたが,『看聞御記-応永二七年』によると,足利義持の好物である蜜柑を病気見舞のために手を尽くしたけれどもなかなか数をそろえられなかったといっている。A当時はミッカンと音読することが多く,時に促音を省いてミカンともよばれたのであるが,次第にミカンの形の方が一般化する。」 と。なお,『たべもの語源辞典』は, 「漢名は柑,また柑子・柑橘・金囊・水晶毬・金苞・洞庭子・瑞金奴などの異名がある。…古くは柑子・むかしぐさ・とこよもの・ときじくのかぐのこのみ。また禁中の女房ことばでクダモノとは蜜柑のことであった。」 とし, 「『日本書紀』には,垂仁天皇が田道間守(たじまもり)を常世の国に遣わして非時香果(ときじくのかぐのこのみ)を求めさせた。間守は往復一〇年を費やして帰ってくると霊果の種を御陵の傍に播き,七日七夜泣き暮らして遂に事切れた。時人がその誠忠に感じて,芽生えた樹に田道間守の名を冠し,タヂの花と称したのがタチバナとなったという。菓子職の人は橘を印とし,果祖として田道間守を祀った。昔は蜜柑の名はなく,橘と唱えられた。それがいつしか蜜柑と変り,現在では橘といえば原種に近い柑子に限られることになった。蜜柑の文字は鎌倉時代までの文献には見当たらない。永享から寛正五年まで(1429−64)につくられた『尺素往来』一条兼良著と伝えるものに,蜜柑と出るのが初めらしい。よみはミツカンである。ミカンのよび名は『文禄四年御成記』(1595)に出る。紀州の有田蜜柑は天正二年(1574)に肥後国八代から小木を持ってきたとある。紀州蜜柑が江戸に送られたのは寛永十一年(1634)で,滝が原村の藤兵衛という者が,蜜柑四〇〇籠ほどを廻船に積み合わせたところ,一籠半が金子一両の値で売れた。大利を得て帰国したという。紀州蜜柑には,明恵上人の伝記にからむ話がある。上人は,弁大僧正で栂尾に茶の実を蒔いて茶樹栽培を始めた名僧(1232年,60歳没)であるが紀州在田(有田)郷の生まれである。上人の両親は熱心な仏教信者であったが,不幸にして子がなかった。それで仏さまに子を授けてほしいと祈っていたが,ある代の夢に異人が柑子(ミカン)を授けるのを見て程なく上人を生んだという(『元享釈書』)。これから考えると鎌倉時代以前にミカンがあったことになる。…蜜柑のもとである柑子が中国から日本に渡来したのは『続日本紀』にある聖武天皇の神亀二年(725),播磨の直(あたい)兄弟が柑子を唐国から持ってきて中務少丞佐味虫麿がその種を植えて子を結んだのが初めである。ミカンの語源は,柑子の甘いものを蜜柑と称し,ミツカンと呼んだが,これがミカンとなる。ユカン(柚柑)の訛りかという説はよくない。」 としている。どうやら「蜜柑」の訓みの, ミツカン→ミッカン→ミカン, と転訛していったと見るのが妥当なのだろう。 参考文献; https://www.kudamononavi.com/gallerys/view/id=7392 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%A6%E3%83%9F%E3%82%AB%E3%83%B3 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
「夕立」は, ゆだち, ともいい,『大辞林』に, 夏の午後から夕方にかけ,にわかに降り出すどしゃぶり雨。雷を伴うことが多く,短時間で晴れ上がり,一陣の涼風をもたらす, とある。この場合,「夕」に騙されると, 夕方降る雨, となるが,『日本語源広辞典』には, 「夕方でもないのに,庭か雨で一時的に暗くなって夕方らしくなる,が本義です。」 とある。 「夏の午後から夕方にかけ」 というのに意味がある。しかし, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%95%E7%AB%8B には, 「古語としては、雨に限らず、風・波・雲などが夕方に起こり立つことを動詞で『夕立つ(ゆふだつ)』と呼んだ。その名詞形が『夕立(ゆふだち)』である。 ただし一説に、天から降りることを『タツ』といい、雷神が斎場に降臨することを夕立と呼ぶとする。」 とある。しかし,別名, 白雨(はくう), とも言うところから見ると,明るい時刻に違いない。 http://yain.jp/i/%E5%A4%95%E7%AB%8B は, 「夏の午後に、多くは雷を伴って降る激しいにわか雨。白雨(はくう)。」 とし,やはり, 「動詞『夕立つ(ゆうだつ)』の連用形が名詞化したもの。『夕立つ』は、夕方に風・雲・波などが起こり立つことの意。動詞『立つ』には現象が現れるという意がある。」 としているが, http://mobility-8074.at.webry.info/201606/article_22.html は, 「夕方に降るから『夕立』と言うというように何となく思っていましたが,語源を調べてみたら,ちょっと違うようです。まず,『立つ』には,〈隠れていたもの,見えていなかったものが,急に現れる,急に目立ってくる〉という意味があります。『目立つ』『きわ立つ』 の『立つ』です。 「夕立」 の 「立つ」 は, 〈雲 ・ 風 ・ 波などが,急に現れる〉 ことを言っています。ここで注意したいのは, 『夕立』は,本来は〈雨〉 のことではないということです。雲が現れた結果として雨になることが多いのですが,語源的には『ゆうだち』は雨ではありません。『夕立』の『夕』は,雲や風が現れるのが夕方ということではないのです。この『夕』は,〈夕方のようになる〉という意味での『夕』です。(中略) で,『夕立』というのは,〈まだ昼間の十分に明るい時間帯なのに,突然,雨雲が湧いてきて,あたかも夕方を思わせるほどに薄暗くなる〉状態のことなのです。『ゆうだち』は,もとは『いやふりたつ (彌降りたつ)』だったという説です。この『彌』は〈いよいよ,ますます,きわめて,いちばん〉の意味の副詞です。つまり,〈きわめて激しく降り出した雨〉という意味の「いやふりたつ」が『やふたつ』→『ゆふたつ』→『ゆふだち』へと変化してきたという説です。」 としている。そう見ると,『大言海』が「ゆふだち」の意味に, 「雲にわかに起(た)ちて降る雨」 とあるのが生きてくる。『日本語源大辞典』には,「立つ」について, 「『万葉集』にすでに『暮立』の表記でみえる。ユウダチのダチ(立つ)は,自然界の動きがはっきりと目に見えることをいう」 とある。『広辞苑』の「立つ」には, 「事物が上方に運動を起こしてはっきと姿を表す」 意の中に, 雲・煙・霧などが立ち上る, という意味が載る。 ただ気になるのは,『広辞苑』は,「夕立」の項で, 「一説に,天から降ることをタツといい,雷神が斎場に降臨することとする」 とあることだ。『岩波古語辞典』には,「立つ」について, 「自然界の現象や静止している事物の,上方・前方に向き合う動きがはっきりと目に見える意。転じて,物が確実に位置を占めて存在する意」 とある。とすると, 雲がにわかにむくむくと立ち上がるのを龍に見立てる, ということはあるかもしれない。『日本語源広辞典』は,「たつ(竜)」の語源を, 「立つ」 としているので,「たつ(立つ)」と「たつ(竜)」がつながらないわけではない。龍については,「逆鱗」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba6.htm#%E9%80%86%E9%B1%97) で触れたが,「龍」は,水と関わる。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%9C に,「龍」は, 「中国から伝来し、元々日本にあった蛇神信仰と融合した。中世以降の解釈では日本神話に登場する八岐大蛇も竜の一種とされることがある。古墳などに見られる四神の青竜が有名だが、他にも水の神として各地で民間信仰の対象となった。九頭竜伝承は特に有名である。灌漑技術が未熟だった時代には、旱魃が続くと、竜神に食べ物や生け贄を捧げたり、高僧が祈りを捧げるといった雨乞いが行われている。」 とし, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%AB%9C は, 「竜神は竜王、竜宮の神、竜宮様とも呼ばれ、水を司る水神として日本各地で祀られる。竜神が棲むとされる沼や淵で行われる雨乞いは全国的にみられる。漁村では海神とされ、豊漁を祈願する竜神祭が行われる。場所によっては竜宮から魚がもたらされるという言い伝えもある。一般に、日本の竜神信仰の基層には蛇神信仰があると想定されている。」 「仏教では竜は八大竜王なども含めて仏法を守護する天竜八部衆のひとつとされ、恵みの雨をもたらす水神のような存在でもある。仏教の竜は本来インドのナーガであって、中国の竜とは形態の異なるものであるが、中国では竜と漢訳され、中国古来の竜と混同ないし同一視されるようになり、中国風の竜のイメージに変容した。日本にも飛鳥時代以降、中国文化の影響を受けた仏教の竜が伝わっている。」 とある。 なお, 夕立は馬の背を分ける, という言葉があるが, https://www.waraerujd.com/blank-131 に, 「夕立は馬の背を分けるとは、夕立は馬の片身に降っても反対側の片身には降らないという意味で、夕立の局地性を表現したことわざ。」 である。 参考文献; https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A8%E3%82%92%E9%99%8D%E3%82%89%E3%81%9B%E3%81%A6%E6%AE%BA%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E7%AB%9C https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%AB%9C 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
「くだん」は,
岡本綺堂のさりげない地の文に,芝居の薀蓄が散りばめられている。そのことは,「とんだ孫右衛門」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba1.htm#%E3%81%A8%E3%82%93%E3%81%A0%E5%AD%AB%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80)の項
でも,「三つの声」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-4.htm#%E4%B8%89%E3%81%A4%E3%81%AE%E5%A3%B0)の項
や,「喩」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba1.htm#%E5%96%A9)の項
で,「粟津の木曾殿」について,触れたことがあるが,たまたま,また綺堂の『鎧匱の血』を再読していて,前にはスルーしていた,
「つらつら」は, 熟々, 倩々, と当てて, つくづく, よくよく, 念入りに, という意味である。「熟」という字は, 「享は,郭の字の左側の部分で,南北に通じた城郭の形。つき通る意を含む。熟の左上は,享の字の下部に羊印を加えた会意文字で,羊肉にしんを通すことを示す。熟は丸(人が手で動作するさま。動詞の記号)と火を加えた文字で,しんに通るまで軟らかくすること」 とある。「熟」は, 煮る, とか, 熟れる, という意味だが, 熟考, 熟視, といった,「つらつら」と同じ,「奥底まで詳しいさま」の意でも使う。この当て字は慧眼である。 https://okjiten.jp/kanji971.html によると,「熟」の字は, 「会意兼形声文字です(孰+灬(火))。『基礎となる台の上に建っている。先祖を祭る場所の象形と人が両手で物を持つ象形』(『食べ物を持って煮て人をもてなす』の意味)と『燃え立つ炎』の象形から、『よく煮込む』を意味する『熟』という漢字が成り立ちました。」 とある。ついでながら,「倩」の字は, 「『人+音符(セイ)』で,清らかにすんだ人のこと」 で,どうも「すっきりした男」「いきなさま」の意味以外ではなく,「つらつら」の意で使うのは,我が国だけのことらしい。何が曰くがあってこの字を当てたのだろうか。 『大言海』も「倩」の字を当てているが, 「連々(つらつら)の義,絶えず続きての意」 とし, 名義抄「倩 ツラツラ」「熟 つらつら」 を引用している。さらに, 「遊仙窟(唐,張文成廿六)『新婦錯大罪過,因廻頭熟視下官曰,新婦細見人多矣』」 を引きつつ, 熟視(つらつら), 細見(つらつら) と,ルビを振っている。『岩波古語辞典』は,「つらつら」を,「よくよく」の意で, 名義抄「熟 ツラツラ・コマヤカニ・クハシ」「細 コマヤカナリ・クハシ」 とより精しく引用した上で,他に, すらすら, の意を載せ, 「御涙にぞむせびつつ,つらつら返事もましまさず」(浄瑠璃・むらまつ) を引用する。もし「つらつら」が,「連々」とするなら, 「つらつら返事もましまさず」 という使われ方はあり得る。『日本語源広辞典』は, 「『連ね連ね』の約です「連連(つらつら)が語源」 とする。『日本語源大辞典』は,大言海説の他, ツラツラ(連々)の義。不断の意から転じた(日本古語大辞典=松岡静雄), も載せる。他に, ツヅラ(蔓)から派生した語(国語溯原=大矢徹), ツラはツレア(連顕)の約(国語本義), と,「連」と関わる説が多い。この他の説は, ツラは,ツヨシ(強)のツヨ,ツユ(露),ツラ(頬・面)と同源(続上代特殊仮名音義=森重敏), がある。つなみに,「つら(面)」も,『日本語源広辞典』によれば, 「『ツラ(頬)』です。ヨコッツラ,ウワッツラ,左ッツラなど頬の意です」 とあるが,『大言海』の「つら(頬)」の項には, 「左右の連なる意」 とあり,「つら(面)」は, 「つら(頬)の転」 とある。『岩波古語辞典』には, 「古くは頬から顎にかけての顔の側面をいう。類義語オモテは正面・表面の意。カホは他人に見せること,見られることを特に意識した顔面」 とあり,連なる,ということとつながる。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 大槻文彦『大言海』(冨山房)
「ぞっこん」は,『広辞苑』に, 「たすき」は, 襷, 手繦, と当てる。ただ,「襷」は国字のようである。『広辞苑』『岩波古語辞典』には, 「タはテ(手)の古形」 とある。これは、「て」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba8.htm#%E3%81%A6) で触れた。「繦(呉音キョウ〔キャウ〕,漢音コウ〔カウ〕)」は, 「糸+音符強(丈夫な)」 で,「ひも」を意味し,繦褓(きょうほう),といった言い方がある。これも当て字と思われる。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9F%E3%81%99%E3%81%8D に, 「たすき(襷、手繦)は、主に和服において、袖や袂が邪魔にならないようにたくし上げる為の紐や布地を指す。通常、肩から脇にかけて通し、斜め十字に交差させて使用するが、輪状にして片方の肩から腰にかけて斜めに垂らして用いる方法もある。交差させて使用した場合を綾襷(あやだすき)と言う。『襷』という漢字は国字である。」 とあり,さらに, 「古代は神事の装飾品であった。群馬県で出土した巫女の人物埴輪では、『意須比』と呼ばれる前合せの衣服に帯を締め、襷をかけている姿となっている。加えて、日本神話では天照大神(あまてらすおおみかみ)が天岩屋に隠れた際 『アメノウズメの命、天の香山(かぐやま)の天の日影を手次(たすき)にかけて 』(『古事記』)踊ったと記されており、これらの巫女が着用した例は襷を掛ける者の穢れを除く、物忌みの意味があったとされている。」 とある。さらに,平安時代でも, 「神社では神を祀る時には木綿襷(ゆうだすき・楮の樹皮を用いたもの)をかけ神事に臨み、聖なる行事の装飾品として用いた。」 とあるし,安土桃山時代の風俗潅風絵に, 「田植えをする女性が襷をかけている姿が描かれており、これらも古代と同様、田植えは本来聖なる行事であったことから、襷を身につけ穢れを除くためと考えられている。」 とある。そうしした名残であろうか,何か力んでしようとする時は,いまでも,襷掛けをするし,襷掛けすると,どこが心が引き締まる感じがする。 『由来・語源辞典』 http://yain.jp/i/%E8%A5%B7 「語源は『た(手)』+『すき』で、『すき』は小児を背負うための帯のこと。働くときに用いるようになったのは近世以降のこと。」 とあるのは,それこそ近世以降ではあるまいか。むしろ逆に,「繦」が紐の字を持っているので,当てたというべきではなかろうか。上記,ウィキペディアには, 「江戸時代になると町人、職人、階級や老若男女を問わず、襷は大いに定着する。日々の暮らしに密着した日用品へと主目的が移るに従い、行事ごとなどを除いて、襷をかけたまま神社・仏閣に参拝したり、客の応対に出ることは相手に失礼であるという意識を伴った。」 と逆転しているところを見ると,襷を掛けることが,生活レベルに堕したということなのだろう。しかし,『大言海』は,「たすき」を, 襷, 手繦, と当てるものと, 襷, を当てるものと二項別々に載せている。前者の「たすき」(襷・手繦)には, 「天治字鏡,四-三『繦,負兒帯也,須支』とあり,されば手に懸くる繦(すき)の義ならむと云ふ。襷は擧衣の和合字なり」 として, 「上代,神事の時,肩に懸くる紐の如きもの。背に打交へたるが如し。謹みて物奉るに,手の力を助(す)くるなりと云ふ(上代の衣は筒袖なり)。また膳部の供物などまかなふ時,袖に觸れむを恐れて束ぬるもの」 と意味が載る。やはり実用よりは神事の色合いが強い。『大言海』は,後者の「たすき」(襷)は, 「前條の語意の転」 とある。つまり,「たすき」が実用へと転換したということになる。その意味では,『日本語源広辞典』の, 「タ(手)+スキ(助)」 とする語源説も,後世の実用性から考えすぎている。「繦」の字を当てたのは,それがあくまで「ひも」の意だかだと思う。『大言海』の引く, 「天治字鏡,四-三『繦,負兒帯也,須支』」 が正しいと思う。『日本語源大辞典』は, 「記紀では『手繦』『手次』などと表記され,上代から神事などの際,袖が供物に触れるのを防ぐ手段として用いられた。」 としている。これも,『大言海』の, 「上代の衣は筒袖なり」 から考えると,後世からの解釈に思える。「たすき」を掛けること自体が,神事だったということなのではないか。その「紐」の材料は, 「様々で、日蔭蔓(ひかげかずら)・木綿(ゆう)・ガマ (蒲) など植物性の類から、勾玉や管玉などを通した『玉襷(たまだすき)』があった。玉襷は襷の美称の言葉でもあるが、玉類を利用した襷にも用いる言葉である。平安時代でも、神社では神を祀る時には木綿襷(ゆうだすき・楮の樹皮を用いたもの)をかけ神事に臨み、聖なる行事の装飾品として用いた。」 とある。あるいは,紐自体にも,神聖な意味があったのかもしれない。因みに,「玉襷」は, 「神霊の宿る襷。襷は一般に着物の袖をあげるために肩から脇にかけて結ぶひも。ただし、手に巻く場合もある。『玉』がつくと、神霊が宿る襷の意となる。」(『万葉神事語辞典』) とあり,『日本語源大辞典』には, 「実際に勾玉・菅玉などの玉の付いた襷であるとする説と,玉に実質的な意味はなく単に襷の美称であるという説がある。しかし『たまくしげ』『たますだれ』などと同様,本来,実際に玉の付いたものをいう一方で,単に美称としての意識も強かったと考えられる。」 とあり,どちらの説にしろ,「襷」の重要性が,逆に際立ってくる。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「たつ」は, 竜, と当てて,『広辞苑』には, 「タチ(古代語で神祇の意)からか」 とある。「りゅう(漢音はリョウ 龍)」と同じである。なお,「竜」と「龍」の字は,「竜」が古字であるようだ。「竜」の字は,象形文字で, 「頭に冠をかぶせ,胴をくねらせた大蛇の形を描いたもの。それに,いろいろな模様を添えて龍の字となった」 とある。 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%BE%8D には, 「もとは、冠をかぶった蛇の姿で、「竜」が原字に近い。揚子江近辺の鰐を象ったものとも言われる。さまざまな模様・装飾を加えられ、『龍』となった。」 とある。 「たつ」の語源について,『日本語源広辞典』は, 「『立つ』です。身を立てて,天に昇って行く動物の意」 とし,『大言海』は, 「起(た)つ義か」 とする。夕立(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba13.htm#%E3%82%86%E3%81%86%E3%81%A0%E3%81%A1)の項で触れたように,『広辞苑』は,「夕立」の項で, 「一説に,天から降ることをタツといい,雷神が斎場に降臨することとする」 としているので,「立(起)つ」と「たつ(竜)」の関係は気になる。『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/ta/tatsu_ryuu.html も, 「竜(龍)は呉音で『りゅう』、漢音では『りょう』といい、『たつ』は日本での読み方である。竜(龍)を『たつ』というのは、身を立てて天に昇ることから『たつ(立・起)』また『たちのぼる(立ち昇る)』の意味とする説。『たかとぶ(高飛)』または『たかたる(高足)』の反で、『たつ』になったとする説。『はつ(発)』の意味から、『たつ』になったとする説がある。竜は蛇と体が似ており、日本では蛇と混同されていたこともあるため、蛇に対して竜を『身を立てて天に昇る蛇』と考え、『たつ(立・起)』また『立ち昇る』からという説が妥当であろう。」 としている。「た(立)つ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E7%AB%8B%E3%81%A4) で触れたことがあるが, もともと坐っている状態が,常態だったのだから, 立つ, ということはそれだけで目立つことだったのに違いない。そこに, ただ立ち上がる, という意味以上に, 隠れていたものが表面に出る, むっくり持ち上がる, と同時に,それが周りを驚かす, 変化をもたらす, には違いがない。「立つ」の語源は,『日本語源広辞典』にある, 「タテにする,地上にタツ」 と見なすのが妥当で,それが中国由来の龍につながるのは自然に思える。 「日本語にない,立つ,起つ,建つ,発つの区別は,中国語源に従う」 ということだろう。 「龍」については,「逆鱗」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba6.htm#%E9%80%86%E9%B1%97) で触れた。 参考文献; https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%BE%8D 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 大槻文彦『大言海』(冨山房)
「魂魄」は,『広辞苑』には, (死者の)たましい,精霊,霊魂, と載る。しかし, たましい, 精霊, 霊魂, とは,三者微妙に意味が違いはしまいか。『大言海』は, たましひ, とし,さらに,中国では, 「霊魂を説くに,人の神気を,魂と云ひ,形骸を,魄と云ふ。死すれば,魂は,天に発散し,魄は,地に止まるとす」 として, 「禮記,郊特牲篇『魂氣歸于天,形魄歸于地』」 を引く。 四代目鶴屋南北の『東海道四谷怪談』の元になった『四谷雑談集』については, http://ppnetwork.seesaa.net/article/456630771.html?1517604760 で触れたが,その『東海道四谷怪談』で、お岩さんが夫伊右衛門に殺される時, 「魂魄この世にとどまりて、怨み晴らさでおくべきか」 と言ったとされるが,上記の大言海の説では,止まるのは,「魄」のみとなる。しかし,『大言海』が引く「左傳」(昭公七年)では, 「匹夫匹婦強死,其魂魄猶能憑依於人」 とあるので,あながち間違いではないのかもしれない。それだけ恨みが強いということか。『世界大百科事典』によると,「こんぱく(魂魄 hún pò)」は, 「人間の精神的肉体的活動をつかさどる神霊,たましいをいう。古代中国では,人間を形成する陰陽二気の陽気の霊を魂といい,陰気の霊を魄という。魂は精神,魄は肉体をつかさどる神霊であるが,一般に精神をつかさどる魂によって人間の神霊を表す。人が死ぬと,魂は天上に昇って神となり,魄は地上に止まって鬼となるが,特に天寿を全うせずに横死したものの鬼は強いエネルギーをもち,人間にたたる悪鬼になるとして恐れられた。人の死後間もなく,屋上から死者の魂を呼びもどす招魂や鎮魂の習俗儀礼は,こうした観念から生まれたものである。」 とあり,さらに詳しく, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%82%E9%AD%84 では, 「中国の道教では魂と魄(はく)という二つの異なる存在があると考えられていた。魂は精神を支える気、魄は肉体を支える気を指した。合わせて魂魄(こんぱく)とも言う。魂と魄は易の思想と結びつき、魂は陽に属して天に帰し(魂銷)、魄は陰に属して地に帰すと考えられていた。民間では、三魂七魄の数があるとされる。三魂は天魂(死後、天に向かう)、地魂(死後、地に向かう)、人魂(死後、墓場に残る)であり、七魄は喜び、怒り、哀しみ、懼れ、愛、惡しみ、欲望からなる。また、殭屍(キョンシー)は、魂が天に帰り魄のみの存在とされる。(三魂は「胎光・爽霊・幽精」「主魂、覺魂、生魂」「元神、陽神、陰神」「天魂、識魂、人魂」、七魄は「尸狗、伏矢、雀阴(陰)、容贼(吝賊)、非毒、除秽(陰穢)、臭肺」とされる事もある。)」 とある。括ってしまえば,「たましい」ということになる。『日本語源広辞典』の言う, 「魂(精神を司るタマシイ)+魄(肉体を司るタマシイ)」 が明快である。 「魂は,天上にある善霊,魄は,地下にあるべき悪霊をいいます。日本語では。区別なくたましい,霊魂の意味で使っているようです。」 が,是非はともかくわかりやすい。この説は,朱子学的ではある。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%82%E9%AD%84 では, 「張載(11世紀)の鬼神論を読んだ朱子の考察として、世界の物事の材料は気であり、この気が集まることで、『生』の状態が形成され、気が散じると『死』に至るとした上で、人間は気の内でも、精(すぐ)れた気、すなわち『精気』の集まった存在であり、気が散じて死ぬことで生じる、『魂は天へ昇り、魄は地へ帰る』といった現象は、気が散じてゆく姿であるとした。この時、魂は『神』に、魄は『鬼』と名を変える(三浦国雄『朱子集』朝日新聞社)。」 とある。 さて,「たましい」は,和語では, たま(魂), に同じとされ,「たま」は,『岩波古語辞典』には, 「タマ(玉)と同根。人間を見守り,助ける働きを持つ精霊の憑代となる,丸い石などの物体が原義」 とある。今日の「たましい」の意味は,たとえば, 「人の正命のもとになる,もやもやとして,決まった形のないもの。人が死ぬと,肉体から離れて天に上ると考えられていた」(『広辞苑』) と,人のそれを指すが,「たま」は人を守る精霊を指す。「精霊」は,たとえば, 「草木・動物・人・無生物などにここに宿っているとされる超自然的な存在」(『広辞苑』) だから,「魂魄」は,かつては,人も万物もひとしく,見守られていた「たま」の意味ではなく,「たましい」の意味なのだとすると,冒頭の『広辞苑』の説明は,拡大解釈しすぎかもしれない。 さて,まず,漢字の「魂」「魄」から確認しておく。「魂」の字は, 「鬼+音符云(雲。もやもや)」 「魄」の字は, 「『鬼+音符白(ほのじろい,外枠だけあって中味の色がない)』。人のからだを晒して残った肉体のわくのことから,形骸・形体の意となった」 で,『漢字源』には,重複するが, 「『魂』は陽,『魄』は陰で,『魂』は精神の働き,『魄』は肉体的生命を司る活力人が死ねば魂は遊離して天上にのぼるが,なおしばらくは魄は地上に残ると考えられていた」 と付記されている。ついでに,「靈(霊)」の字は, 「靈の上部の字(音レイ)は『雨+〇印三つ(水たま)』を合わせた会意文字で,連なった清らかな水たま。零と同じ。靈はそれを音符とし,巫(みこ)を加えた字で,神やたましいに接するきよらかなみこ。転じて,水たまのように冷たく清らかな神の力やたましいをいう。冷(レイ)とも縁が近い。霊はその略字。」 で,和語で言う「たま」を指す。 「人間を万物の霊長と言い,麒麟,鳳凰,亀,竜を動物の四霊という」 と,『漢字源』にある。ついでながら「鬼」の字は,和語「おに」とは別で, 「大きな丸い頭をして足元の定かでない亡霊を描いたもの」 で,『漢字源』には, 「中国では,魂がからだを離れてさまようと考え,三国・六朝以降には泰山の地下に鬼の世界(冥界)があると信じられた。」 とある。 「たましい」の語源は,『大言海』には, 「魂(たま)し霊(び)の義にて,タマは美称,シは氣息(いき),ビは奇(くしび)の意」 とする。『日本語源広辞典』は, 「タマ(霊・魂・玉)+シヒ(接尾語)」 とするが,如何であろうか。『岩波古語辞典』の「たま」の説明で尽きていると思うが,様々の異説がある。 タマは玉で貴重の義,シヒは霊の義(日本釈名), タマチ(霊魂)の転か。ヒは延音(日本古語大辞典=松岡静雄), タマは魂で,体内に魂の宿るところをいう。シは之ヒは霊(国語の語幹とその分類=大島正健), 玉火の義で,シは助詞(和訓栞), タマシヒ(魂火)の義(雅言考), タマシミ(霊神)の義(言元梯), タマシボミ(霊萎)の義か(名言通), 玉にシヌイキル(死生)の語を添えたか。またシヰは眼のつぶれる意で,滅する玉の義(和句解), 天神の御霊がシッと粛(ちぢま)って我が主となったところをいう(本朝辞源=宇田甘冥), マシヒは正しくはマスビで,ムスビと同語。タマとムスビを連結したもの(神代史の研究=白鳥庫吉) タマシヒ(賜息)の義(柴門和語類集), タマは,体に止まる意でトマの転。シヒはキ(気)に同じ(国語蟹心鈔), 等々。やれやれ。 参考文献; https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%B0%B7%E6%80%AA%E8%AB%87 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 「虎嵎を負う」(とらぐうをおう)という言い回しがある。見たのは,石川淳『森鷗外』である。 「自分のみじんまくはとうにどこかで附けておいて,外部にむき直ったひとのことばである。作者は檀上に立って咆哮する徒ではないが『北條霞亭』に至るまでの生涯の大事業が陰然とうしろに聳えている。あたかも嵎を負う虎である。」(「古い手帳から」) 因みに,「みじんまく」とは,東京方言(江戸方言かも知れない)という。 身慎莫, とあてて, 身なりを整えること,とある。みじたく, と『デジタル大辞泉』にあるが,『江戸語大辞典』にも載り, 身の始末, の意である。単なる身づくろいではあるまい。「身の始末」という言い方が,この場合ふさわしい。 「嵎を負う虎」は,一般には, 虎嵎を負う, という諺として使われる。出典は『孟子』である。前に読んだときには,あまり引っかからず,流したらしい。 「嵎」の字は, 「『山+音符禺(グウ)』で,窪んだ山のくま」 で,隅(すみ),寓(隅に引っ込んだ仮住まい)と同系,とある。 くま,山のくぼんだすみ, とある。「くま」は, 隈, 道や川などの湾曲して入り組んだ所, という意味である。 奥まって隠れたところ という意味だが,「隈」字は, 「禺(グウ)は,頭の大きい人まねざるを描いた象形文字で,似たものが他にもう一つある,の意を含む。隈は『阜(土盛り)+音符禺』で,土盛りをして□型や冂型にかこんだとき,一つ以上同じような角のできるかたすみ」 を指す。 「虎嵎を負う」は,『故事ことわざ辞典』には, 「(『嵎』は,山の折れ曲がった,山ふところのようなところ)虎が山ふところを背にして身構える。英雄が一方に割拠して威力を示すことのたとえ」 とある。 http://nekojiten.com/kotowaza/tora/toraguu.html には, 「虎が山の一角を背にしてかまえる。転じて、勢力のある英雄が一地方にたてこもって勢いを振るうたとえ。また、非常に勇猛なさま。」 とある。この方がわかりやすい。いわば,ただ, 虎が山の一角を背にしてかまえる, という状態表現に過ぎなかったものが,それを,転じて, 非常に勇猛なさま, という価値表現に変えたということだろう。この「負う」は, http://gaus.livedoor.biz/archives/24229536.html によれば, 何かを背後にして頼みにする意味, になる。 実は,『孟子』の原文は,「盡心章句下」23にあり,斉で飢饉があり,陳臻(ちんしん)が,前に先生がしてくださったように,王にすすめて米蔵を開いて,施米をして下さるだろうと頼みにしていますが,二度は出来ないことなのでしょうか,と尋ねたのに対して,孟子が答えた中に出てくる。 孟子曰く、是れ馮婦(ふうふ)を為(まね)するなり。晉人に馮婦といえる者あり,善く虎を搏(てうち)にせり。卒(のち)に善士と爲りて野に之(ゆ)けるとき,衆虎を逐(お)えるあり。虎嵎(ぐう)に負(ちたの)み,敢て攖(ちか)づくものなし。馮婦を望み見て,趨(はし)りて之を迎う。馮婦臂を攘(かか)げて車を下る。衆皆之を悦びしも,其の士たる者之を笑えり。 ここでは,馮婦の, 嵎を負う虎, に素手で立ち向かう振る舞いを喩えに,二度もそんな振る舞いは出来ないと言ったにすぎない。しかし,この孟子が喩えで言わんとしたのは, 馮婦と同様に素手で虎に向かうようで,とうていできない, という意味なのか, 馮婦と同様に素手では,虎に向かうことははできない, という含意を込めたものなのか,『孟子』の訳注者(小林勝人)は,括弧つきで, 「(今更このわしが施米をすすめたとて,どうなろう。馮婦の二の舞は御免だ)」 と,訳に付け足している。しかし,もう少し含みのある喩えに思える。 ところで,馮婦の「嵎を負う虎」に向かう振る舞いに,孔子の, 暴虎馮河, を思い出す。 暴虎馮河し,死して悔いなき者は,吾与にせざるなり。必ずや事に臨みて懼れ,謀を好みて成さん者なり」 と。昨今の勇ましい暴虎馮河な連中に聞かせたいものだ。 参考文献; 小林勝人訳注『孟子』(岩波文庫) 貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫) 尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館) 前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A9
等々でも触れたように,「きさらぎ」も,自然の移り変わりや農事と関わると見るのが普通ではないか,と思う。 「かく」は, 書く, 描く, 画く, 等々と当てる。何れも漢字の意味を当てにした当て字である。「描く」「画く」で, (筆などで)線を引く,絵や図をえがく, と使い分け,「書く」で, 文字をしるす, 文につくる, と使い分けているにすぎない(『広辞苑』)。 『広辞苑』『デジタル大辞泉』には, 「『掻く』と同源。先の尖った物で面を引っかく意が原義」 とある。とっさに,粘土板に掻いた楔形文字を連想した。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%94%E5%BD%A2%E6%96%87%E5%AD%97 に, 「楔形文字(くさびがたもじ、せっけいもじ)とは、世界四大文明の一つであるメソポタミア文明で使用されていた古代文字である。筆記には水で練った粘土板に、葦を削ったペンが使われた。最古の出土品は紀元前3400年にまで遡ることができる。文字としては人類史上最も古いものの一つであり、古さでは紀元前3200年前後から使われていた古代エジプトの象形文字に匹敵する。」 とある。 『大言海』は, 「筆尖にて紙上を掻く意ならむ」 としているが,ここは『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/ka/kaku.html の, 「書く・描く・画くは、全て『掻く(かく)』に由来する。かつては、土・木・石などを引っ掻き、痕をつけて記号を記したことから、『かく』が文字や絵などを記す意味となった。」 でいい。『日本語源大辞典』には,それ以外に, カカグ(掲)の義(名言通), カオク(皃置)の約(柴門和語類集), カは日で色の源の意,クは付き止る意(国語本義), 「画」の入声音Kakから(日本語原学=与謝野寛), と載せるが,ちょっと実態とはかかわりが見えない無理筋に見える。 「人類の起源はほぼ200万年前にさかのぼるといわれ、また言語の起源も少なくとも数十万年前にさかのぼると推定されるのに対し、人類が文字によって言語を記録し始めたのは、資料によって確かめられる限り、紀元前3000年前後のころ、すなわち、いまからせいぜい5000年前のことにすぎない。したがって、火の使用、道具の発明がごく早期の文化だとすれば、これは動物の家畜化、植物の栽培などと並ぶ、後期の文化ということができる。 しかし一般に『書く』という行為は、体系的な文字の成立以前、あるいはそれが完全に成立することのなかった自然民族のもとでも、ある種の記号(サイン)を使用する際に、多かれ少なかれ生じたと考えられる。なぜならば『書く』という語は、各国語において『引っ掻(か)く、掻き削る、彫りつける、刻む』などを意味し、あるいはそれらを意味する語に発しており、『書く』ことの起源を暗示しているからである。」(『日本大百科全書(ニッポニカ)』) 「かく」は,人類共通の出自らしい。「書」の字は,しかし, 「『聿(ふで)+音符者』で,ひと所に定着させる意を含む。筆で字をかきつけて,紙や木簡に定着させる」 である。ついでに,「描」の字は, 「手+音符苗」 で,「苗」の字は,「艸+田」で,苗代に生えた細くて弱々しいなえのこと」。「描」の意は, 「こまかく手や筆を動かす」「ある物の形の駒かいところまで写しえがく」意である。「画(畫)」の字は, 「『聿(ふでを手に持ったさま)+田のまわりを線で区切ってかこんださま』で,ある面積を区切って筆で区画を記すことをあらわす。新字体は聿(ふで)の部分を略した形」 とある。「聿」の字は, 「筆の原字で,筆を手にもつさまをあらわす。のち,ふでの意の場合,竹印をそえて筆と書き,聿は,これ,ここに,などリズムを整える助詞に転用された。」 とある。「筆」は, 「毛の束をぐっと引き締めて,竹の柄をつけたふで」 だが,思うに,筆以前は,竹を削った先で「かいて」いたのではないか。 ところで,「かく」の語源「掻く」について,『岩波古語辞典』は, 「爪を立て物の表面に食い込ませてひっかいたり,絃に爪の先をひっかけて弾いたりする意。『懸き』と起源的に同一。動作の類似から,後に『書き』の意に用いる」 とあり,「懸き」について, 「物の端を対象の一点にくっつけ,そこに食い込ませて,その物の重みを委ねる意。『掻き』と起源的に同一。『掻き』との意味上の分岐に伴って,四段活用から下二段活用『懸け』に移った。既に奈良時代に,四段・下二段の併用がある。」 としている。漢字がなければ, 書く, も, 掻く, も, 懸く, も 掛く, も, 舁く, も, 区別なく,「かく」であった。 参考文献; https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%94%E5%BD%A2%E6%96%87%E5%AD%97 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
「おもわく」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba5.htm#%E3%81%8A%E3%82%82%E3%82%8F%E3%81%8F)
でそれぞれ触れたように,
「あじ(ぢ)」は, 味, と当てる。 「舌が食べ物や飲み物などに触れたときに起こる、甘い・辛い・しょっぱい・エグい・渋い・うまいなどの感覚。」 であり,それに準えて, 「ものごとの持つ深み。表面的には強く現れていないが、対象について知るにつれて分かってくる良さ。」 にまで,意味が広がる。 当てた「味」の字は, 「未は,細いこずえのところを強調した象形文字で,『微妙』の妙と同じく,細かい意を含む。味は『口+音符未』で,口で微妙に吟味すること」 とあり, https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%91%B3 には, 「微妙な違いを表す(藤堂[明保])。新芽の味わい(白川[静])とも。」 の意を持つとも,載せる。 「あじ(ぢ)」について,『大言海』は, 「假名遣いは,万葉集に,紫陽花を,『味狭藍(アヂサヰ)』『安治佐為(アヂサヰ)』。日本釈名(元禄)下五十三味『アヂは,甘き乳(チ)也。乳味は,食の始にて,甘き物也』。乳を元とする語とす,いかがあるべき」 と,疑問符を付けつつ紹介している。『岩波古語辞典』には, 「万葉集にアヂサヰを『味狭藍』と書いているから,古くからアヂという言葉はあったのだろうが,室町時代頃まで,字書類の訓にもアヂの例は見えない。アヂハヒはある」 とあり,「あぢはひ」を見ると 「アヂ(味)を活用させた語。サキ(幸)サキハヒの類」 とある。「味」の認識はなかったはずはないのだが,「あじわう」味覚体験は言語化できても,「味」という味覚自体を対象化できなかった,ということなのだろうか。しかし,それにしては,「あぢはひ」が「あぢ」の活用とあるのは,よく分からない。『日本語源広辞典』には, 「語源は,『アジ』(うまさ,あじわいの良さ,良い感じ,妙味)です。こういう日常生活に密着している言葉の語源は,これ以上分解できないようです。魚の鯵,鳥のアジなど,味のいい魚や。鳥の意にも使います。古語は,味ハヒで,中世以降は,アジ,味,が使われるようになりました。」 とあり, アジ(ヂ)ハヒ→アジ(ヂ), という経緯を想定する。「鯵」の語源として, 味がある魚の意, という説もあるし,鴨の「アジ(シマアジ)」については, 「和名アジは味が良かったことに由来する」 とあるので,「味」との関係は深いのは確かであるが,『日本語源広辞典』によれば,「味」という概念ないまま,「あじわい」という味覚言語が先にあった,ということになる。 『日本語源大辞典』は, アマチ(甘乳)の約(日本釈名), アはアマ(甘)のア,チはトロ(蕩),トク(解)などのト(日本語源=賀茂百樹), ウマタリ(可美垂)の義。ウマの反ア,ダリの反ヂ(和訓栞)。 アヘ(饗)と同源か(日本古語大辞典=松岡静雄), アは賞(め)でる意味の感動詞,チはすぐれた感覚,何ともいえぬ作用をこめた霊(衣食住語源辞典=吉田金彦), と挙げて, 「味覚についていう場合,『味はひ』が古くから用いられていた。『味』がとってかわるのは中世以降とされる。」 と述べる。どうやら, あじ(ぢ)わひ, という状態を言い表わす言葉が先で,「味」という抽象概念が,後に抽出された,という感じらしいのである。和語らしいと言えば言えるのかもしれない。 味覚(みかく)は、動物の五感の一つであり、食する物質に応じて認識される感覚である。生理学的には、甘味、酸味、塩味、苦味、うま味の5つが基本味に位置づけられる。 ところで,五つの基本味は, 甘味,酸味,塩味,苦味,うま味, であるが, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%B3%E8%A6%9A によると, 「1916年、ドイツの心理学者ヘニング(Hans Henning)は、この4つの味とその複合で全ての味覚を説明する4基本味説を提唱した。ヘニングの説によると、甘味、酸味、塩味、苦味の4基本味を正四面体に配し(味の四面体)、それぞれの複合味はその基本味の配合比率に応じて四面体の稜上あるいは面上に位置づけることができると考えた。 日本では1908年に池田菊苗がうま味物質グルタミン酸モノナトリウム塩を発見した。このうま味は4基本味では説明できないため、日本ではこれを基本味とする認識が定まった。しかし西洋では長らく4基本味説が支持され続け、うま味が認められたのは最近のことである。現在では味蕾(の)に受容体が存在するものとして定義されており、甘味、酸味、塩味、苦味、うま味の5つが該当し、五基本味と位置づけられる。」 とある。 参考文献; https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%B3%E8%95%BE https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%B3%E8%A6%9A https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%91%B3 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「アジ(ヂ)」は, 鯵(鰺), を当てる,魚のアジのことである。「あじ(味)」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%81%82%E3%81%98%EF%BC%88%E5%91%B3%EF%BC%89)の項 で触れたように,「アジ」は,語源として, 味がある魚の意, という説もあるほど,「あじ(味)」と繋がりのある言葉のようである。ただ,当てられた「鯵(鰺)」の字は, 「魚+音符參(もとは操の右側の『喿』)だったのを書き誤ったもの」 とある。しかも, なまぐさい, という意味で,魚の「アジ」の意味に使うのは,我が国だけの用法である。 『大言海』には, 「和訓栞,アヂ『新撰字鏡ニ,鰺を訓ゼリ,萬葉集ニ,味と書けり,味ノ佳ナルヲ稱スルナルベシ』。いかがあるべき」 と,「味」から来た説に,いささか疑問を呈しているようである。『大言海』は,「字鏡」の, 「鰺,阿地」 「本草和名」の, 「鰺,阿知」(「和名抄」も同じ) を引用しているのは,「鰺」は,「あぢ」ではなく「あち」と訓んでいたかもしれないからである。 因みに,「アジ」は, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B8 に, 「体側の側線上に鋭い突起をもつ稜鱗(りょうりん: Scute)が発達することでアジ科の他の亜科と区別される。稜鱗は、日本では『ぜんご』『ぜいご』という俗称で呼ばれることが多く、学術的には楯状鱗と呼ばれることもある。種類によって稜鱗の並ぶ長さや幅は異なり、同定の手がかりになる」 とある。 『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/a/aji_sakana.html は,しかし, 「アジの語源は『味』で、その味の良さをほめて名付けられた。 他にも味の良い魚はある が、『魚』の意味で『アジ』を用いる方言が各地で見られるように、イワシやサバなど とともに日本の代表的な食用魚で、漁獲量が多かったことも『アジ』という名前の由来に 関係している。漢字の『鯵(鰺)』は、元は魚偏に『操』だった右側の字を日本人が『参』と 書き間違えたもので、『参る』の意味に関係するものではない。」 と,「味」説を採る(ただ,魚偏に「喿」の字が手元の『字源』『漢字源』には見当たらないのだが)。 http://zatsuneta.com/archives/001721.html は,「鯵」(あじ)の名前の由来について,やはり, 「『アジ』という名前は、単純に「味のよい魚」だからアジになったという。漢字の『鯵』は魚へんに『喿』の字の写し間違いであるとする説がある。つくりの『喿』は『生臭い』という意味。他にも、アジの一番おいしい季節が旧暦の3月なので、数字の『参』が使われたという説。『おいしくて参ってしまう』の意であるとする説。『参』には『多くのものが入り交じる』という意味があり、群集する魚であるから『鯵』になったという説がある。」 としている。しかし「参(參)」の字は, 「三つのかんざしをきらめかせた女性の姿を描いたもの。のち彡(三筋の模様)を加えて參の字になった。入り混じってちらちらする意を含む。」 で,「いつもいっしょに入り混じる」「ちらちらする」という意はあっても,「集まる」という意はない。 http://www.yuraimemo.com/1210/ は,「アジ」の由来について, 「『アジ』の由来は、旧暦の三月より旬となるので魚偏に参と書くという説があるようだがそれは誤りであって、鰺の字は生臭いという意味があるらしい。でもその漢字『鯵』についても、元は魚偏に『喿』だった右側を日本人が『参』と書き間違えたのだという説もあるから何を信じればいいのか。だから漢字の『参る』には何の意味もないと考える方がいいようである。…『アジ』の名前の由来を調べると、そのアジの美味しいところからきているという…。つまりアジは「味」とのことで、食べて美味しいから『アジ』ってことになる。『イワシ』とか『サバ』とか味のいい魚は他にもいくつかいるけど、なぜアジなのか?これらの魚も含めて、地方によっては方言で漁獲量の多い美味しい魚全般を『アジ』と呼ぶのだそう。その中でも一番とれたからこの魚が『アジ』と呼ばれるようになったと考えればいいらしい。」 http://diamond.jp/articles/-/19045 には, 「新井白石――江戸時代中期の政治家で儒学者――が享保2年(1717年)に書いた『東雅《とうが》』という語源辞典の中で、『或人の説く鰺とは味也、其の味の美をいふなりといへり』と書いているのです…。新井白石の功績とネームバリューからか、今日ではこの説が広く採用されていますが、他に、鯵が群れをなす習性から、群がり集まることを『あち』といい、これが『あぢ』に変わり、『あじ』になったという説があります。 実は、漢字の方の鯵にはさまざまな説あり、『魚』偏に『参』となったのは、鯵が参集する(群れる)魚だからという説が、有力候補の一つになっています。 また、寛永20年(1643年)に刊行された、我が国最古の料理の専門書『料理物語』では、鯵は『魚』偏に『良』と書いて、『あち』と読ませています。」 とあるが,「喿」を「參」と書き間違えた後では,後解釈にすぎないだろう。 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q118663351 は,ご丁寧に,対比しつつ, 「最初の方の説明ををA、次の方の説明をBとして、その点検のなかで説明をしていきたいと思います。 @Bの説明は『群れをなす』から『あつまる(参集する)』として、この漢字が作られたとしています。『千葉県水産総合科学研究センター』のサイトを根拠とされています。 AAはそれを「間違い」とされています。その通り、間違いでしょう。Bのような説明がされることがあるのは事実です。しかし、『参』という字に『群れをなす』とか『あつまる』という意味はありません。むしろそれを言うなら『参』ではなくて『集』の方でしょう。 B中国語の『鯵』という字はどんな意味なのか。確かに『鯵』という字には『生臭い』という意味もあります。では、鯵とは『生臭い魚』という意味なのでしょうか?もちろん、魚は生臭い物です。しかし、鯵が特に生臭い魚の代表だとはとても思えません。むしろ、それは同じ大衆魚なら「生き腐れ」と言われる鯖(さば)の方が似つかわしいでしょう。」 「鯵」の偽字(『字源』は譌(なまる)字としている)をもとに解釈しても,語源には届かないだろう。結局, アヂ(味)ある魚の意から(和語私臆鈔・俚言集覧・和訓栞・本朝辞源=宇田甘冥・東雅) が大勢のようだが,『日本語源大辞典』には, アラヂ(粗路)の義。その背の形から名づけられた(名言通), イラモチ(苛持)の義(日本語原学=林甕臣), の説も載るが,『大言海』が少し疑問を投げながら,否定できない「味」説になるのだろう。その場合, 「地方によっては方言で漁獲量の多い美味しい魚全般を『アジ』と呼ぶのだそう。その中でも一番とれたからこの魚が『アジ』と呼ばれるようになったと考えればいいらしい。」 という(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q118663351)ように,「アジ」の範疇を広くとらえていいのではないだろうか。ただ,『大言海』が引用していたように, 「鰺,阿地」(「字鏡」) 「鰺,阿知」(「本草和名」「和名抄」) の,「アチ」という訓みの問題は残る。「味」は,『岩波古語辞典』の言うように, 「万葉集にアヂサヰを『味狭藍』と書いているから,古くからアヂという言葉はあった」 と,「アヂ」であり,「アチ」ではないのだから。 参考文献; https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B8 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 「アジサイ」は, 紫陽花, と当てられるが,「味」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%81%82%E3%81%98%EF%BC%88%E5%91%B3%EF%BC%89)の項 の項で触れたように, 「假名遣いは,万葉集に,紫陽花を,『味狭藍(アヂサヰ)』『安治佐為(アヂサヰ)』」(『大言海』)。 とされていたほどに古い。『大言海』は,「あぢさゐ」の項で, 「集眞藍(あづさあゐ)の約轉(阿治(あぢ)の語原を見よ。眞〔サアヲ〕,サヲとなる)。」 としている。「あぢ(阿治)」の項には, 「集(あつ)の転(あづさゐ,あぢさゐ)。群集の意。播磨風土記,揖保郡香山(かこやま)里,阿豆村『人衆,集來談論,故名阿豆』(字鏡廿三『諵,阿豆萬利(あずまり)氏語事』)。アヂガモと云ふが,成語なるべし。臘觜鳥(アトリ)も集鳥(アツドリ)なり。あぢ群(むら)〔鶴群(タヅムラ)〕と云ふは,群がる意。アヂの群鳥(ムラドリ)とも云ふなり。和訓栞,後編,アヂムラ『今,アヂ鳧(ガモ)と云ふ,多く集まる鳥也』。」 とあり,「あぢがも」の項には, 阿治鴨, と当てている。「アジサイ」という花は, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%B5%E3%82%A4 にあるように, 「アジサイ(紫陽花、学名 Hydrangea macrophylla)は、アジサイ科アジサイ属の落葉低木の一種である。広義には『アジサイ』の名はアジサイ属植物の一部の総称でもある。狭義には品種の一つ H. macrophylla f. macrophylla の和名であり、他との区別のためこれがホンアジサイと呼ばれることもある。原種は日本に自生するガクアジサイ H. macrophylla f. normalis である。」 が,「アジサイ」の語源は, 「アジサイの語源ははっきりしないが、最古の和歌集『万葉集』では『味狭藍』『安治佐為』、平安時代の辞典『和名類聚抄』では『阿豆佐為』の字をあてて書かれている。もっとも有力とされているのは、『藍色が集まったもの』を意味する『あづさい(集真藍)』がなまったものとする説である。そのほか、『味』は評価を、『狭藍』は花の色を示すという谷川士清の説、『集まって咲くもの』とする山本章夫の説(『万葉古今動植物正名』)、『厚咲き』が転じたものであるという貝原益軒の説がある。」 と諸説紹介しているが,『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/a/ajisai.html は, 「あじさいは,古く『あづさヰ(あじさヰ)』であった。『あづ(あぢ)』は集まるさまを意味し,特に小さいものが集まることを表す語。『さヰ』は『真藍(さあい)』の約。もしくは,接頭語の『さ』と『藍(あい)』の約で,い小花が集まって咲くことから,この名が付けられたとされる。ただしあじさいを漢字で『集真藍』と書いたとする説は誤りで,語源をさかのぼって漢字を当てはめるならば『集真藍』の字であろうというものである。漢字の『紫陽花』は中国の招賢寺にあった花の名前で,日本のあじさいとは異なるものであったといわれる。日本の古い文献では,『万葉集』で『紫陽花』の例が見られる。あじさいには『七変化』や『七色花』などの異名があることから,新潟県や佐賀県では皮膚の色が変わることに喩え,『七面鳥』といった呼び方もされる。」 また,『由来・語源辞典』 http://yain.jp/i/%E7%B4%AB%E9%99%BD%E8%8A%B1 も, 「あじさいの語源は、『藍色が集まったもの』を意味する『あづさい(集真藍)』が変化したものとされる。『あづ』は集まる様を意味し、特に小さいものが集まることを意味し、『さい』は『さあい』の約、接続詞の『さ』と『あい(藍)』の約で、青い小花が集まって咲くことから、この名がつけられたされる。また、『あぢさゐ(味狭藍)』の意で、『あぢ』はほめ言葉、『さゐ』は青い花とする説もある。」 とし,その解釈は異論があるが,「藍色が集まったもの」とするようだ。『日本語源広辞典』も, 「あぢ・あづ(集める)+さゐ(真藍)」 とする。『日本語源大辞典』も, 「『あじ(あぢ)』は『あつ』で集まること,『さい』は真藍(さあい)の約で,い花がかたまって咲く様子から名づけられたとする説が有力か」 としている。たしかに,微妙な差はあるが, アヅサヰの約転。アヅはアツ(集),サヰはサアヰ(真藍)の略, とする『大言海』説以外にも, アダアヰの略(万葉考), ウスアヰ(薄藍)約転(言元梯), アツ(当・集)フサ(総)アヰ(藍)の転(語源辞典・植物編=吉田金彦), アツサキ(厚咲)の訛り。またアツアヰ(厚藍)の転(日本釈名・滑稽雑談所引和訓義解), と色にまつわるものがあるし,その他, 群れて咲くことから,アヂサハヰ(鴨多率)の約(名言通), もあるが,もっと大事なのは,「味」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%81%82%E3%81%98%EF%BC%88%E5%91%B3%EF%BC%89) で触れたように,万葉集に,「アジサイ」を「味狭藍(アヂサヰ)」と当てたことから,「あぢはひ」との関係も無視できない。味と関わらせる説には, アヂサヰ(味狭藍)の義。アヂ(味)はほめることば,サヰ(狭藍)は青い花の色を言う(万葉代匠記・和字正濫鈔・万葉集類林・和訓栞・日本古語大辞典=松岡静雄), がある。「味」の語源とも絡み,僕は,「味狭藍(アヂサヰ)」説に惹かれる。万葉集に, 「言問はぬ 木すら味狭藍(あぢさゐ) 諸弟(もろと)らが 練りの村戸(むらと)に あざむかえけり」(大伴家持) 「安治佐為(あぢさゐ)の 八重咲くごとく 八つ代にを いませ我が背子 見つつ偲ばむ」(橘諸兄) を,花色の変化と華々しい八重咲きを,花の「あじはひ」と見たように思うのは,僻目であろうか。 ところで,「アジサイ」に,「紫陽花」と当てたのは, 「『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』で、著書の源順(みなもとのしたごう)が白居易(はくきょい)の詩に出てくる紫陽花をこの花と勘違いしたことによるとされる。漢名の紫陽花は別の花。」(『由来・語源辞典』) であるが,『倭名類聚抄』には,「紫陽花」ついて, 「白氏文集律詩云 紫陽花 和名安豆佐爲」 とある。では,白楽天はどういっているのか。 http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama/e/904352b2ae5e0bc1e663e73fad2668e8 によると,白居易は,杭州の長官だった頃,郊外にある招賢寺という山寺を訪れ,そこにひっそりと咲く見知らぬ花を「紫陽花」と名付けて,七言絶句一首を作った,という。 何年植向仙壇上 早晩移栽到梵家 雖在人間人不識 与君名作紫陽花 何れの年に植えて仙壇上に向かう 早晩移し栽えて梵家に到る 人間に在りと雖も人識らず 君に名を与えて紫陽花と作す https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%B5%E3%82%A4 によると, 「日本語で漢字表記に用いられる『紫陽花』は、唐の詩人白居易が別の花、おそらくライラックに付けた名で、平安時代の学者源順がこの漢字をあてたことから誤って広まったといわれている。草冠の下に「便」を置いた字が『新撰字鏡』にはみられ、『安知佐井』のほか『止毛久佐』の字があてられている。アジサイ研究家の山本武臣は、アジサイの葉が便所で使われる地域のあることから、止毛久佐は普通トモクサと読むが、シモクサとも読むことができると指摘している。また『言塵集』にはアジサイの別名として「またぶりぐさ」が挙げられている。」 と,何だか身もふたもない話になってしまう。アジサイは,「綉球花」あるいは「八仙花」と呼ばれるとか。 参考文献; https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%B5%E3%82%A4 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama/e/904352b2ae5e0bc1e663e73fad2668e8 「くじら」は, 鯨, と当てる。「鯨」の字は, 「魚+音符京(大きい,強い)」 である。「京(亰)」の字は, 「上部は楼閣の姿(高の字の上部と同じ),下部は小高い土台を描いたもので,く明るく大きいの意を含む。上代の人々は洪水や湿気をさけて,く明るい丘の上に部落をつくり,やがてそれが中心都市となり,京(ミヤコ)の意を生じた。」 で,千,萬,億,兆,京(ケイ)の「京」でもある。 「くじら」の仮名遣いは,「くぢら」であったが,院政時代に「くじら」が見られたと,『広辞苑』にはあるが,『岩波古語辞典』の「くぢら」の項にはこうある。 「古くはクヂラ(kudira)と発音されていたらしいが,京都でも院政期ごろにはクヂラ・クジラ(kudira,kuzira)と両用された。一般に,ヂとジの混乱は京都では室町末期ごろに広まるが,これはその古い例」 と同時に, 「朝鮮語korariと同源」 ともある。『大言海』には, 「其口,大なれば,口廣(くちびろ)の約轉なりと云ふ(スベラギ,スメロギ。濁音の上下するば。イヅツシの語原を見よ。)字鏡に久地良,本草和名に久知良とあり(神武紀に久治良と見ゆるは鷹〔くち〕なり)。又,案ずるに,常陸風土記,久慈郡『有小丘體似鯨鯢,倭武天皇因名久慈』。塵袋(弘安)六『クヂラをば,或はクジラと云へる事もあり,云々,常陸國に,久慈理の岡と云ふ岡あり,其の岡の姿,鯨鯢に似たる故に斯云へりと,云々。俗語には,謂鯨為久慈理と云へり』。同國風土記に,常陸は,衣手漬(ころもでひたしの)國,那珂郡,大櫛岡は,大朽(おおくつ)の義に因るとあり。万葉集の廿に,天地(あめつち)を阿米都之(つし)と,母父(おもちち)を阿母志志(あもしし)とあり,東國の發音なるか。然れども,名義抄に『鯨,クヂラ,クジラ』とあり(ちぢむ,しじむ),土佐,薩摩の人は,今も,平常ニ,ヂと,ジとを別ちて發音し,鯨は,クジラなりなりと云ふ。熟考すべきなり。和訓栞,後編,クヂラ『典籍便覧に,海翁,音,屈支羅と見えたり』。」 とある。なお,「いづつし」の項には,「つつ」が「つづ」「づつ」と転倒することについて, 「(「いづつし」の)ツツは,約(つづ)しなり,発語の下に,連声(れんじょう)にて,清濁転倒するなり。テヅツ,むクチヅツと云ふ語も,手約(てつづ),口約(くちつづ)なり。屈(かが)む,かぐむ。被(かぶ)る,かがふるの,サも,カも発語なれば此の如し。ほぞ,(臍)とばそ(戸臍,樞)。偶違(すみちがい),すぢかひ(筋違)も同例なり」 としている。『日本語源大辞典』は,「くじら」「くぢら」について, 「『十巻本和名抄』や『新撰字鏡』はクヂラ,『観智院本名義抄』にクヂラ・クジラの両形,古本節用義類はおおむねクジラ,『日葡辞典』も『Cujira(クジラ)』というように,『クヂラ』から『クジラ』へという傾向がうかがわれる。仮名遣いの混乱には上代東国方言の関与も考えられる。」 院政期を画期としているのは,東国武士の台頭と関わるのだろう。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%B8%E3%83%A9 には, 「貝原益軒著『日本釈名 中魚』(元禄13年、1700年)や新井白石著『東雅 十九鱗介』(享保4年、1719年)によれば、『ク』は古語で黒を表し『シラ』は白を表し『黒白』で『クシラ』であった。その後『し』は『チ』に転じて『クチラ』になり『チ』が『ヂ』に変り『クヂラ』になったと解説している。また、『日本古語大辞典』では『ク』は古韓語で『大』を意味し、『シシ』を『獣』、『ラ』を接尾語としている。その他、『大言海』では『クチビロ(口広)』が変化したものとし、『日本捕鯨語彙考』では『クジンラ(九尋羅)』が変化したものとしている。」 として,「クジラ」の表記の移り変わりを, 奈良時代(710 - 794年) 古事記 - 「区施羅」クヂラ。 日本書紀 - 「久治良」クヂラ。記紀共に今の鯨(クジラ)を指すかどうかは諸説ある。 平安時代(794年-1185年) 新撰字鏡 - オスは「鼇(本来は大亀の意味)」クチラ(久治良)。メスは「鯢」メクチラ(女久治良)。 類聚名義抄 - オスは「巨京(渠京を略した文字としている)」クヂラ、ヲクヂラ。メスは「鯢」クヂラ、メクヂラ。 としているが,『大言海』の「久慈」「久慈理」から,「久地良」「久知良」と当て字が変じていくところを見ると, クシラ→クジラ→クヂラ→クジラ, と,転訛が目まぐるしかったことを想像させる。 http://mobility-8074.at.webry.info/201707/article_27.html や『日本語源広辞典』『たべもの語源辞典』等々,諸説が載っているが,他称の異同はあるが,『日本語源大辞典』によると, クシシラ(大獣)の約,クは大を意味する古韓語。シシは獣,ラは接尾語(日本古語大辞典=松岡静雄), クロシラ(黒白)の約,皮が黒く,内側の白いことから(和句解・日本釈名・東雅), クシラ(奇)の義(たべもの語源抄=坂部甲次郎), コジル義。捕まえても簡単におとなしくならないすことから(名言通), クジラ(穿輩)の義,浮上して舟を穿つことから(桑家漢語抄), ハクヒロ(百尋)の略転(言元梯), 口が大きいので,クチビロ(口広)の約転か(『大言海』)。 等々。その他, 朝鮮語korariと同源(岩波古語辞典) 潜るの古語,クギルが音韻変化してクヂルとなり,クヂラ,クジラとなった(『日本語源広辞典』) 「肉白(にくじろ)」が,「に」が脱落して「くじろ」,「くじら」 に転音, 常陸国久慈理 (くじり) の岡が,この生き物の背中に似ていたので「くじり」と呼ばれ,「くじら」に転音した, 等々。結局諸説あり,定まっていないということらしい。しかし,存外,常陸風土記の, 有小丘體似鯨鯢,倭武天皇因名久慈, 常陸國の久慈理の岡と云ふ岡, の「久慈(理)」が,「くじ(ぢ)ら」が既に,人々に知られていた生き物で,そこから名づけられた「久慈理」から,一般化したということはあるのかもしれない。 なお, 万葉集に, 鯨魚取(いさな)り海や死にする山や死にする死ぬれこそ海は潮干て山は枯れすれ, と詠まれるなど,「くじら」のほかに,「いさな」という呼び方もしていた。 『日本語源大辞典』は,「いさな」の語源について, イサナ(勇魚)の義(万葉代匠記・東雅・万葉集類林・和訓栞・国語の語根とその分類=大島正健・日本語源=賀茂百樹), イサナ(五十尺魚)の義(言元梯・たべもの語源抄=坂部甲次郎), イサナ(不知魚)の義。水中の計り知れぬ所にいるから(槻の落葉信濃漫録) 等々と載り,この他にも, 「いそな(磯魚)とり」の音変化(デジタル大辞泉), 「いさなとり」の「いさな」を「勇魚」と解してできた語(書言字考節用集), 等々とあり,これも諸説定まらない。蕪村には,「いさな」を詠んだ, 菜の花やいさなも寄らず海暮れぬ, と同時に,「くじら」を詠んだ, 弥陀佛鯨なる浦に立玉ふ という句もあるそうで,語源はともかく,『たべもの語源辞典』の言うように,かつては,両方とも通用していた,ということだろう。 参考文献; https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/kuniyoshi023/ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%B8%E3%83%A9 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
「むべ」は, 宜なるかな, の「むべ」である。 「うべに同じ」 とある。「うべ」は, 宜, 諾, とあて, もっともであること, なるほど, の意であり,副詞として, 肯定する意に言う語, で, なるほど, 道理である, という意味で使う。『広辞苑』には, 「宜宜(むべむべ)し」 も載り, いかにももっともである, 格式ばっている, という意味で,『岩波古語辞典』には, 「『うべうべし』を平安時代以後,普通にmbembesiと発音したので,それを仮名で書いたもの」 とある。「うべうべし」は, おももち・声づかひ,うべうべしくもてなしつつ」(『源氏物語』) という用例があり,さらに, うべしこそ, という言い回しもあったらしい。 「ウベに間投助詞シ,係助詞コソをつけて強めた表現」 で, 「これやこの天の羽衣うべしこそ君がみけしとたてまつりけれ」(『伊勢物語』) という用例が載る。 『岩波古語辞典』には,「むべ」について, 「『うべ』を平安辞退以後,普通にmbeと発音したので,それを仮名で書いたもの」 とあり(「うべ」はubë),「うべ」の項では, 「ウは承諾の意のウに同じ。ベはアヘ(合)の転か。承知する意。事情を受け入れ,納得・肯定する意。類義語ゲニは,諸説の真実性を現実に照らして認める意。」 とある。しかし,『大言海』は, 「得可(うべ)の義。肯(うけ)得べき理(ことわり)の意。為可(すべ)と同趣」 とある。どちらも,意味は同じのようだが,是非を判断する材料はない。 「むべなるかな」の「むべ」は, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%99 のいう, 「ムベ(郁子、野木瓜、学名:Stauntonia hexaphylla)は、アケビ科ムベ属の常緑つる性木本植物。別名、トキワアケビ(常葉通草)。方言名はグベ(長崎県諫早地方)、フユビ(島根県隠岐郡)、ウンベ(鹿児島県)、イノチナガ、コッコなど。」 の「ムベ」でもある。この「ムべ」も,また, ウベ, とも言う。『大言海』は「和訓栞」を引いて, 「郁子『苞苴(おほにへ),おほんべ,うんべ,うべ』」 の転訛を取っているが, http://blog.goo.ne.jp/33bamboo/e/34faaa5d7e4df49eb476d58d395eef16 https://rocketnews24.com/2015/11/25/669653/ 等々に, 「天智天皇が8人の子供を持つ大変元気で健康的な老夫婦に出会い、『汝ら如何に斯く長寿ぞ』と長寿の秘訣を尋ねたところ、老夫婦は『この地で取れる無病長寿の霊果を毎年秋に食します』と言いながら果実を差し出した。天智天皇は一口食べ、『むべなるかな』と応えられた」 により,この果物が「ムベ」と呼ばれるようになったという,とある。俗説だが,もっともらしいのは,「ムベ」が「ウベ」とも言うところにある。 http://www.sankei.com/west/news/151110/wst1511100067-n2.html によると, 琵琶湖南部の蒲生野(かもうの)(現滋賀県東近江市一帯)、奥島山(現近江八幡市北津田町) であるとされ, 「以来、毎年秋になると同町の住民から皇室にムベが献上されるようになったとされる。平安時代に編纂された法令集『延喜式』31巻には、諸国からの供え物を紹介した『宮内省諸国例貢御贄(れいくみにえ)』の段に、近江国からフナ、マスなどの琵琶湖の魚とともに、ムベが献上されていたという記録が残っている。」 という。しかし,『日本語源広辞典』には,「ムベ」は, 「朝廷に献上したオオニエ(大贄)が語源です。オオニエ→オオムベ→ウムベ→ムベの変化です。」 とあり,『大言海』の引く「和訓栞」と一致するし,『日本語源大辞典』も, オニヘ(御贄)の転(晴翁漫筆), 朝廷に献上したので(大贄)・オオムベと言い,ウムベ・ムベと転じた(牧野新日本植物図鑑), と,「大贄」か「御贄」説を採る。これが妥当だろう。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%99 「顰(嚬)み」は, 眉をひそめること, で,「ひそめる」とは, (不快な気持ちで)眉のあたりに皺をよせること, である。「顰」の字が,それをよく表していて, 「頻(ヒン)は,間隔をつめてぎりぎり近寄ること。顰は『卑(低い,ひくめる)+音符頻』で,頭をひくめて,眉の間隔を近寄せることをあらわす」 とある。 顰に倣う, は, 西施の顰に倣う, とも言う。『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/hi/hisomininarau.html には,「顰に倣う」とは, 「善し悪しも考えずに、人のまねをする。また、他人と同じ 行動をする際、謙遜して言う言葉としても用いる。」 とあり,その由来は, 「『顰(ひそみ)』は動詞『ひそむ(顰む)』の連用形で、眉間にしわを寄せて顔を しかめることを表す。出典は、中国の『荘子』に見える次のような故事から。中国の春秋時代、越の国に西施(せいし)という美女がいた。西施が胸を病み、顔をしかめているのを見た醜女が、自分も眉間にしわを寄せれば美しく見えると思い、里に帰ってそれを真似た。それを見た人々は、あまりの醜さに気味悪がって.門を固く閉ざして出なくなったり、村から逃げ出してしまったという。そこから、善し悪しも考えずに他人の真似をすることや、他人と同じ行動をする際、見習う気持ちであることを表す謙遜の言葉として、『顰に倣う(西施の顰に倣う)』というようになった。」 と。 西施捧心(ほうしん), とも言い, 「西施心(むね)を捧ささぐ」 と訓読する,とか。もとは,荘子であるらしい。 http://ikaebitakosuika.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-cc6c.html に,『荘子』・天運篇の一節, 故西施病心而矉其里、其里之醜人見而美之、歸亦捧心而矉其里。 其里之富人見之、堅閉門而不出、貧人見之、挈妻子而去之走。 彼知矉美而不知矉之所以美。 が載る。 故に西施心(むね)を病んで其の里に矉(顰)せるに、其の里の醜人見てこれを美とし、歸(かえ)りて亦た心を捧げて其の里に矉す。 其の里の富人はこれを見、堅く門を閉して出でず、貧人はこれを見、妻子を挈(たずさ)えて去りて走る。 彼は矉を美とするを知るも、矉の美なる所以(ゆえん)を知らず。… 原文に当たっていないし,荘子自体をよく知らないが,これをみる限り,為にする議論に思えてならない。 「この話、『荘子』・天運篇では、孔子が衛の国に遊説に出かけた際、魯の楽師の師金が孔子の弟子の顔淵に、『孔子は周の国で行われたことを魯の国で行っているだけで、水の上を進むための船で陸を進んでいるようなものだ…』、などと批判した後に、上述の西施の例え話をするものである。」 とある。あまりいい例でもないし,喩えとしては筋が悪い。孔子がそういったとは思えないが,もしそうだとしたら,相当に下品である。だから,後世は, 他人に見倣ってすることを謙遜して言うのに使う, ようになったに違いない。なお, 「『其里之醜人』乃ち『同じ村の醜女』を、『西施』と対照的な不特定人物『東施』とし、『東施倣顰』、『東施顰に倣う』、というようにも使われる。」 というが,更に品がない。 西施は, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%96%BD によると, 「本名は施夷光。中国では西子ともいう。紀元前5世紀、春秋時代末期の浙江省紹興市諸曁県(現在の諸曁市)生まれだと言われている。現代に広く伝わる西施と言う名前は、出身地である苧蘿村に施と言う姓の家族が東西二つの村に住んでいて、彼女は西側の村に住んでいたため、西村の施→西施と呼ばれるようになった。 越王勾践が、呉王夫差に、復讐のための策謀として献上した美女たちの中に、西施や鄭旦などがいた。貧しい薪売りの娘として産まれた施夷光は谷川で洗濯をしている姿を見出されたといわれている。策略は見事にはまり、夫差は彼女らに夢中になり、呉国は弱体化し、ついに越に滅ぼされることになる。 呉が滅びた後の生涯は不明だが、勾践夫人が彼女の美貌を恐れ、夫も二の舞にならぬよう、また呉国の人民も彼女のことを妖術で国王をたぶらかし、国を滅亡に追い込んだ妖怪と思っていたことから、西施も生きたまま皮袋に入れられ長江に投げられた。その後、長江で蛤がよく獲れるようになり、人々は西施の舌だと噂しあった。この事から、中国では蛤のことを西施の舌とも呼ぶようになった。 また、美女献上の策案者であり世話役でもあった范蠡に付き従って越を出奔し、余生を暮らしたという説もある。」 とある。范蠡とは,『太平記』の,児島高徳が, 「天勾践を空しゅうする莫れ 時に范蠡無きにしも非ず」 という句の,范蠡である。勾践は, 臥薪嘗胆, の,当の人である。なお,国四大美人の一人と呼ばれる西施は,大根足であったとされ,常に裾の長い衣が欠かせなかったといわれている,とか。なお,中国四大美人とは, 西施(春秋時代), 王昭君(前漢), 貂蝉(後漢)(ちょうせん), 楊貴妃(唐), で,貂蝉は,『三国志演義』に登場する架空の人物。このほかに卓文君(前漢)を加え,王昭君を除くこともあり,虞美人(秦末)を加え、貂蝉を除くこともある,という。西施は,沈魚美人とも言われるが, 「貧しい薪売りの娘として産まれた施夷光(西施)は谷川で洗濯をしている姿を見出されて越国の王宮へ召しだされた。たとえ乱れ髪で粗末な格好をしていても美しいと評された西施の美貌に迷い、呉の王夫差は越の狙いどおり国を傾けてしまう。彼女が川で洗濯をする姿に見とれて魚達は泳ぐのを忘れてしまったと言われる。俗説では、大足が欠点であったという。なお、最初と呼ばれる沈魚美人は毛嬙。」 とある。四大美人については, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%9B%9B%E5%A4%A7%E7%BE%8E%E4%BA%BA#%E6%B2%88%E9%AD%9A%E7%BE%8E%E4%BA%BA に詳しい。 参考文献; https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%9B%9B%E5%A4%A7%E7%BE%8E%E4%BA%BA#%E6%B2%88%E9%AD%9A%E7%BE%8E%E4%BA%BA https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%83%E8%A0%A1 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%96%BD 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
「あんちょこ(アンチョコ)」は, 安易にちょこっと参照する, といった意味の略語だと思っていたが, 「アンチョク(安直)の訛」 とか。『広辞苑』には, 「教科書で学習する要点が記されていて,自分で調べたり考えたりする必要のない参考書,虎の巻」 とあるが,「あんちょこ」と「虎の巻」とでは少しニュアンスが違う気がする。「虎の巻」は,『広辞苑』には, 「中国の兵法書『六韜(りくとう)』の虎韜巻から出た語」 とあり, 兵法の秘伝を記した書, 転じて,秘事・秘伝の書, 講義などの種本, 教科書の安直な学習書, 等々と,転じて転じて,とうとう「あんちょく」とほぼ重なったということか。『岩波古語辞典』を見ると, 「中世に流布した兵書四十二巻のうち,もっとも重要とされた一巻の名」 とある。これが,「虎韜巻」ということになる。『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/to/toranomaki.html には,「虎の巻」について, 「虎の巻は、中国の兵法書『六韜(りくとう)』から出た言葉。 六韜は文・武・竜・虎・豹・犬の六巻からなり、そのうちの兵法の奥義が記された秘伝書『虎韜の巻(ことうのまき)』の名が略され、『虎の巻』となった。 虎の巻は本来の意味から、単に秘伝書の意味に転じ、教科書の解説本などの意味で使われるようになった。」 とある。「六韜」の「韜」の字は, 「右側の字(音 トウ)は,外枠の中へいれる,枠の中でこねること。韜はそれを音符とし,韋(なめしがわ)を加えた字。かわをそとにめぐらせてその中に包見込む意」 で,「弓や剣を入れておくふくろ」から,「包んで隠す」,「中に隠す」という意で,「韜」は秘伝の意(『日本語源広辞典』)らしい。「六韜」については, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%9F%9C に詳しいが, 「中国の代表的な兵法書で、武経七書の一つ。このうちの『三略』と併称される。『韜』は剣や弓などを入れる袋の意味である。一巻に『文韜』『武韜』、二巻に『龍韜』『虎韜』、三巻に『豹韜』『犬韜』の60編から成り、全編が太公望呂尚が周の文王・武王に兵学を指南する設定で構成されている。中でも『虎の巻(虎韜)』は、兵法の極意として慣用句にもなっている。」 とあり, 「平野部での戦略、武器の使用法についての記述」 があるとか。とうとう「あんちょこ」と同義まで落ちたが,「あんちょこ」は,『日本語源広辞典』に, あんちょく, チョク, チャーク, チョコ, 虎の巻, トラ, 等々とも呼ばれるらしい。『日本語俗語辞典』 http://zokugo-dict.com/01a/ancyoko.htm には, 「あんちょことは『安直(あんちょく)』が変化した言葉で、教科書を解説した参考書のことである。教科書を転写したものに語句や公式など要点を解説したり、教科書にある問題を解説したものが多い。自習参考書とも呼ばれるように、本来は予習・復習など自習のために作られたものだが、宿題として出された教科書の問題を手っ取り早く済ませるために購入する者も多い。あんちょこという呼び方は昭和初期から使われており、俗な呼び方の中では最も広く使われている。また、一般的には教科書ガイドと呼ばれている。」 とあり,昭和初期から使われていたようだ。 https://ameblo.jp/kujoyuiko/entry-11540502270.html には,「安直」の意味を, 「1.値が安いこと。金がかからないこと。 2.十分に考えたり、手間をかけたりしないこと。」 としているが,そうではない気がする。「虎の巻」同様,「あんちょこ」も,「安直に」作られたものは,所詮それだけのものではないのか。 「あんちょこ」に似たことばに, カンペ, というのがある。『日本語俗語辞典』 http://zokugo-dict.com/06ka/kanpe.htm には, 「カンペとはカンニングペーパーの略で、試験の際、カンニングに利用するための公式や歴史の年号、英単熟語などが書かれた紙切れを意味した(ちなみにカンニングペーパーも和製英語です。英語では"crib sheet"や"cheat sheet"という)。ここからTV番組で司会者など出演者に台本内容や構成を掲示するための紙(主にスケッチブック)のこともカンペと呼ぶ(歌番組では歌詞が書かれたカンペを見て歌う歌手もいる)。このカンペは基本的にTV画面に映らないものだが、近年のバラエティー番組では、あえてカンペを持ったADを映すことで笑いをとるものもある。」 とあるが, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%9A には, 「テレビ番組などの収録で用いられる用語で、台詞や番組進行などをカメラに写らない位置に掲示し、演者に伝えるための大きな用紙・スケッチブックのこと。語源は『看板ペーパー』(紙で作られた看板)であるが、発音や音素から、カンニング・ペーパーの略語と誤解される場合も多い。看板ペーパーの『看板』は、『Kanban(英語版)』として、日本語に由来する英単語の一つとなっている。 (他方)暗記を評定する試験の際に、受験者が不正に用いる紙片やメモのこと(をいうカンペは),カンニング・ペーパーの略語であるが、舞台芸術の分野でいう『カンペ』とは、その意味も語源も異なるため、混同しないよう注意が必要である。」 と, 「看板ペーパー」(紙で作られた看板) のカンペと, カンニング・ペーパーの略語, のカンペとは,語源が異なるらしい。カンニングという意味では似ている, プロンプター, という言葉がある。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%97%E3%82%BF%E3%83%BC_(%E8%88%9E%E5%8F%B0%E8%8A%B8%E8%A1%93) には, 「プロンプター(英: [名] prompter, [動] to prompt)とは、舞台演劇において、出演者が台詞や立ち位置、所作を失念した場合に合図を送る(プロンプトを行う)ことを役割とする舞台要員(スタッフ)のこと。」 として, 「プロンプターの必要性、すなわち舞台上で俳優が台詞等を失念する可能性は、演劇の誕生とともにあったと考えるのが自然である。ただし、古代ギリシャや古代ローマでの古典演劇では、誰がどのようにしてプロンプトを行っていたのかに関しての資料が乏しい。 現代の演劇公演においては、プロンプトは舞台監督の職責の一部と考えられている。舞台監督は通常上手(かみて)袖の部分に設けられた『プロンプト・コーナー』あるいは『プロンプト・デスク』と呼ばれる場所(劇場や演目の規模に応じて、文字通り単なる小机であることも、各種機材の設置されたブースであることもある)に位置し、照明・音響などの合図(キュー出し)を行うとともに、俳優が台詞や動作を失念した場合にはその「きっかけ」を与えて助ける。」 とある。こうなると,もうカンニングというより,システム化したカンペに近い。これをシステム化したものが,今日の,原稿表示用機器としての, プロンプター, で, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%97%E3%82%BF%E3%83%BC_(%E9%9B%BB%E6%B0%97%E6%A9%9F%E5%99%A8) に, 「プロンプター、テレプロンプターとは、放送・講演・演説・コンサートなどの際に、電子的に原稿や歌詞などを表示し、読み手や演者を補助するための装置・システムを指す。」 とあり, 「プロンプターと呼ばれるシステムには、大きく分けて3通りの種類がある。いずれの場合もパソコンからの原稿映像を離れた場所にある液晶モニタなどに映し出して使用する。ビデオカメラの場合はレンズの前に液晶ディスプレイとハーフミラーが組込まれており、演説などの場合はハーフミラーが演台の前にセットされる。またコンサートなどではステージと客席の間に大型のディスプレーを配置する。」 とか。ここまでくると,「あんちょこ」もばかにはならない。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 恥ずかしながら,ちょっと勘違いをしていた。「春秋の筆法」を,単純に先達の物言いに倣って厳しいものの見方で書く程度の意味と思っていたが,どうも,いろいろ調べていくと多義的である。 まず,『広辞苑』。 「『春秋』のように批判の態度が中正で厳しいこと。また間接の原因を直接の原因であるかのようにいう論法」 「春秋」とは, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%A7%8B 詳しいが, 「魯国の年次によって記録された、中国春秋時代に関する編年体の歴史書である。儒教では、孔子の手が加わった、もしくは孔子が作ったとされ、その聖典である経書(五経または六経)の一つとされている。」 とあり,「春秋をもって春夏秋冬の1年を意味したもの」として, 「その内容は王や諸侯の死亡記事、戦争や会盟といった外交記事、日食・地震・洪水・蝗害といった自然災害(伝統的には災異と呼ばれる)に関する記事などが主たるもので、年月日ごとに淡々と書かれた年表風の歴史書である。」 が, 「「春秋」は極めて簡潔な年表のような文体で書かれており、一見そこに特段の思想は入っていないかのように見える。 しかし後世、孔子の思想が本文の様々な所に隠されているとする見方が一般的になった(春秋の筆法)。例えば、『宋の子爵(襄公の事)が桓公の呼びかけに応じ会盟にやってきた。』というような文章がある。しかし実際は宋は公爵の国であった。これに対して後世の学者は『襄公は父の喪中にも拘らず会盟にやってきた。不孝であるので位を下げて書いたのだ。』と解釈している。 このような考え方によって、『春秋』から孔子の思想を読みとろうとする春秋学が起こった。」 とされる。ここに,「春秋の筆法」の謂れがある。だから,その解釈にも,微妙な陰影がある。だから,『大辞林』は, 孔子の筆になるという「春秋」のような厳しい批判の態度, (「春秋」が些事をとりあげて,大局への関係を説く論法であることから)間接的な原因を直接的な原因として表現する論法。また,論理に飛躍があるように見えるが,一面の真理をついているような論法, となる。つまり, 単に厳しい批判的, というだけではなく,例として妥当かどうかわからないが,たとえば, バタフライの羽根のひとふりが台風をもたらした, といった飛躍した論法,でもあるらしい。しかし,それは,『デジタル大辞泉』では, (「春秋」の文章には、孔子の正邪の判断が加えられているところから)事実を述べるのに、価値判断を入れて書く書き方。特に、間接的原因を結果に直接結びつけて厳しく批判する仕方, となる。それに似ているのは,『とっさの日本語便利帳』の, 「孔子が『春秋』を修訂するにあたってとった歴史記述の手法。“春秋謹厳”といわれる記述の厳正さと共に、遠因であっても善悪・是非を暗に伝える記述をする、などの特色のこと。」 で,それは,価値表現で状況表現をする,というのに近い。 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1167481121 は, 「元々は孔子が書いた『春秋』の記述スタイルから、 ・厳しい批判の態度 ・些事をとりあげて、大局への関係を説く論法 のような記述スタイルを「春秋の筆法」と呼ぶようになりました。また、曲筆(筆を曲げる−事実とは異なるとわかっていて書くこと)とは厳密には意味は違うのですが、曲筆と同じような意味で使われる事もあります。 春秋は孔子の信念に基づいた歴史批判の書とも言えるのですが、信念の方を優先させて事実と異なる事も書かれています。基本的にはあまりいい意味では使われませんね。」 と,自身の価値観で裁く(捌くではなく)ことの意味でもある。 「『春秋』の経文はわずか1800余条、一万数千字の簡略なものであるが、その制作にあたって孔子は、勧善懲悪(かんぜんちょうあく)的な精神をもって、乱世をただす王法を『春秋』に託したとされている。司馬遷(しばせん)はこのことを『史記』に、「孔子、言の用いられず、道の行われざるを知り、二百四十二年の中を是非(ぜひ)し、以(もっ)て天下の儀表と為(な)す」(太史公自序)といっている。」(『日本大百科全書(ニッポニカ)』) 「勧善懲悪」とは,言い得て妙である。その例は, https://ameblo.jp/yk1952yk/entry-11365919881.html がよく伝えている。 「周室の式微(しきび)を嘆き、その光復を願って果たさなかった孔子は、晩年最後の力をふりしぼって「春秋」を著した。これは魯(ろ)の公式記録を整理し、隠公から哀公に至る十二代二百四十二年間の出来事について、理非曲直(りひきょくちょく)を明らかにしたもので、この書に対する孔子の態度は秋霜烈日(しゅうそうれつじつ)、厳格 そのものであった。 たとえば、諸侯が王を称するのは不遜、不敬として呉王、楚王という代わりに呉子、楚子(いずれも子爵だった)と呼び、また権威を失った周の天子が諸侯に呼ばれて会盟に参加した事実に対しては、故意に筆を曲げて「天子が巡狩(じゅんしゅ)した」と書くなどして、周室の尊厳を取り繕(つくろ)った。 このように是非当否を論じ、大義名分を明らかにし、仮借ない筆をふるったため、『孔子、春秋を作りて乱臣賊子懼(おそ)る』という言葉が生まれたし、後世、「春秋の筆法」という批判方法が行われるようになった。間接原因を直接原因のように言う次のような論法である。」 これだとまだ分かりにくいが, http://fukushima-net.com/sites/meigen/1478 は, 「例えば、隱公元年の出来事として次の文章があります。 夏五月、鄭伯(テイハク:テイの君主)、段(ダン:人名)に鄢(エン:地名)に克(か)つ。 鄭伯と段(共叔段:キョウシュクダン)は兄弟です。鄭伯が兄で段が弟です。 @共叔段は弟としての道を誤まったので、「弟の段」とは記さない。 A二國君の間で行なわれるような激しい戦いだったので、「克(か)つ」と記す。 B(兄と書かずに)「鄭伯」とするのは、弟を善導できなかったから。 という理由で、『鄭伯、段に鄢に克つ』。という短い文章でまとめられたそうです。 これが【春秋の筆法】による表現だそうです。」 この,一見「王や諸侯の死亡記事、戦争や会盟といった外交記事、日食・地震・洪水・蝗害といった自然災害(伝統的には災異と呼ばれる)に関する記事などが主たるもので、年月日ごとに淡々と書かれた年表風の歴史書」の表現の中に,既に価値表現が入っている。 「孔子の思想が本文の様々な所に隠されているとする見方」 をもって「春秋の筆法」というのだが,あるいは,贔屓の引き倒し,その見方自体が期待による深読みなのかもしれない。 「春秋」自体が孔子の筆になる,という前提で考えると,「春秋の筆法」となるが,そうでなければ,単なる深読み,勝手読みでしかない。上述の「春秋」項は, 「伝統儒学では『春秋』の成立に孔子が関わったとされる。ただし、歴史的にその解釈は一様ではない。 最初に孔子の『春秋』制作を唱えたのは孟子である。孟子は堯から現在に至るまでの治乱の歴史を述べ、周王朝の衰微による乱世を治めるために孔子が『春秋』を作り、その文は歴史であるけれども、そこに孔子の理想である義を示したという(ただし、この孟子の『作春秋』にもいろいろな解釈があり、『「春秋」を講説した』とする立場もある)。」 から始まって,諸説紛々として定論をみないらしい。孔子云々を別として,『春秋』筆者の周を是とする立場からの物言いは,維新を是とする,非とする歴史論など,いつもあることだ。というより,立場のない史観などないし,立場のない思想はない。そもそも人そのものが現象学的な視界をもつ等々,いわばきりのない話。 「春秋の筆法」つづめて「春秋筆法」は, 春秋筆削, と評される。「公正で厳しく批評する春秋筆法を評する言葉」とか。さらに, 一字褒貶, とも言う。「文章を書く際の一字の使い分けで、人を褒めたりけなしたりすること」。上記の「「鄭伯」という言い方に良く現れている。 この『春秋』から, 「孔子の意図するものを汲(く)み取るため、各種の解釈書がつくられた。『漢書(かんじょ)』の「芸文志(げいもんし)」によると、漢代には左(さ)氏、公羊(くよう)、穀梁(こくりょう)、鄒(すう)氏、夾(きょう)氏の五伝があったが、鄒氏はそれを伝える師がなく、夾氏は書物になっておらず、他の三伝だけがあったことを伝えている。この『左氏伝』(春秋左氏伝)、『公羊伝』、『穀梁伝』を「春秋三伝」といっている。伝とは解釈書という意味である。三伝のうちでは『公羊伝』の成立がもっとも早く、孔子の門人の子夏(しか)の弟子である公羊高(くようこう)がつくり、5世の孫の公羊壽(くようじゅ)が前漢景帝(けいてい)(在位前157〜前141)のとき、門人胡母生(こむせい)らと問答して一書としたとされる。」(『日本大百科全書(ニッポニカ)』) とか。しかし,それは,淡々とした「春秋」の文章の,単なる状態表現に,価値表現を見ようとして,「一字褒貶」「春秋筆削」と見立てた儒者側の筆法なのかもしれない。 「最初に孔子の『春秋』制作を唱えたのは孟子である」 というところに,孟子の意図を見るのは,穿ちすぎか。 因みに,孔子とは, 「氏は孔、諱は丘、字は仲尼(ちゅうじ)。孔子とは尊称である(子は先生という意味)」。 参考文献; https://kotobank.jp/word/%E6%98%A5%E7%A7%8B-78611 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%A7%8B http://yoji.jitenon.jp/yojii/4043.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E5%AD%90
「おとずれる(おとづる)」は, 訪れる, と当てる。『岩波古語辞典』には, 相手を訪ねる, 音信する, 声を掛ける, という意味が並ぶが,『広辞苑』には, 音を立てる, 人を訪ねる, (ある時期・状況などが)やってくる 手紙で安否を問う, という意味が並ぶ。「音を立てる」という意味が,「おとずれる」という言葉の由来を何か示しているようだ。「とむらう」 http://ppnetwork.seesaa.net/article/457294689.html?1519935277 で触れたように,『岩波古語辞典』の「おとづれ」の項に, 「音連レの意。相手に声を絶やさずにかける,手紙を絶やさずに出す意が原義」 とあり,関連する「おとなう(ふ)」が,やはり, 「音を立てる動作をするのが原義。ナヒは,アキナヒ(商)・ツミナヒ(罪)・うべなひ(諾)などのナヒに同じ」 とあり,「おとなひ」は, 音を立てる, 声を立てる, (門口で咳払いをしたり扇子を鳴らしたりして音を立て,来訪を知らせるので)訪問する, 便りをする, と,ほぼ「おとずれる」と意味が重なるが,より「音」の意味が強い。 『大言海』より両者の関係を強調している。「おとづる」の項で, 「音は,オトラフと同じく,ツルは,連るるなるべし」 とあり,「おとなふ」は二項立て, 響, を当てた「おとなふ」は, 「ナフは,行ふ意。自動詞となる,寇(あた)なふ,幣(まひ)なふ(賄)」 とし, 音,發(た)つ。ひびく, という意味を載せ, 訪問, と当てた「おとなふ」は, 「響(おとな)ふに同じ。人家の門にモノマウの聲を發する意なるべし」 とし, 訪れる, 意とする。一層,「おと」由来らしく見えてくる。因みに,「ものまう」は, 「(物申すの略)他家を訪問するときに使う挨拶のことば」 で,いまふうに言うと,ごめんください,の意となる。 『日本語源広辞典』は,「おとずれる」は, 「音+づる(動詞化)の下一段化」 「おとなう」は, 「音+なふ(動詞化)」 で,「音を立てる」「声をかける」意で,「おとなう」と同源,とある。どうやら,「音」を立てることは,他家の前では,来訪を知らせるために必要な行為だったらしい,とうかがわせる。 『日本語源大辞典』は,「おとなう」について, 「名詞『音』に,ある現象を生じる意の接尾語『なふ』の付いてできた語で,音がする,聞えるというのが原義であろう」 とある。また,「おとづれる」は, ツルはツ(連)ルルか(大言海), 音に連れそう義(和訓栞), 音連ルの意。相手に声を絶やさずかける,手紙を絶やさずに出す意が原義(岩波古語辞典), オトヅレはアタツレ(当行)の転(柴門和語類集),音を立てる意から,戸を叩くことの印象が強くなり,訪問の意になる(国文学の発生=折口信夫), と,やはり,「音」を立てることとつながる。手紙は後のこととして,人の家を訪ねたときに,特別の合図として,音を立てたのかもしれない。 「おと」は,「音」と当てるが,「音」の字は, 「言という字の口の部分の中に,・印を含ませたもの。言は,はっきりとけじめをつけたことばの発音を示す。 音は,その口に何かを含み,ウーと声を出すことを示す」 とある。『漢字源』には, 「朽ちを塞いで出す,ウーという含み声。生態を振るわせて出るおと」 とあり, 「舌や脣などの調整が加わった声を『言』といい,調整の加わらない声を『音』といった」 とある。どうやら擬音語らしい。 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9F%B3 には, 「『言』の『口』の部分に点を打ち、言葉を発するのに、いったん口に入れる意を表わす(藤堂)」 「『口』は神器であり、それに針を置き誓いを述べる意(白川)。」 という語源説も載る。和語「おと」も,『日本語源広辞典』によると,擬音語らしい。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9F%B3 「おとずれる」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%81%8A%E3%81%A8%E3%81%9A%E3%82%8C%E3%82%8B) で触れたが, 「音」の字は, 「言という字の口の部分の中に,・印を含ませたもの。言は,はっきりとけじめをつけたことばの発音を示す。 音は,その口に何かを含み,ウーと声を出すことを示す」 で,『漢字源』には,「音」は, 「朽ちを塞いで出す,ウーという含み声。生態を振るわせて出るおと」 とあり, 「舌や脣などの調整が加わった声を『言』といい,調整の加わらない声を『音』といった」 とある。「音」の字は,「言」という字から出たとされるが,「言」の字もまた, 「『辛(切れ目をつける刃物)+口』で,口を塞いでもぐもぐという音(オン)・諳(アン)といい,はっきりとかどめをつけて発音することを言という」 と,どうやら擬音語からきたらしい。しかし,擬音語とは言え,「言」には, 「辛は入れ墨に用いる針で,これを「サイ」という器にそえて神に誓約を行い,もし誓が真実でなく信じられない者の場合は,真実を受けるということを,言という文字は表している」 という意味があるとされ, この下の器(サイ)の中に・または−が加えられたものが「音」の字とされる。だから, 「音は神への誓の言に感応して神の反応が訪れたことを示すものだとし,この暗示的な神の感応を推測すること」(白川静) を意味するので,「言」に「・」「−」を加えたのが,「音」という字だということになる。 では,万葉では,於等,於登,音等々,と当てられていた,和語「おと」はどこからきたか。 『岩波古語辞典』には, 「離れていてもはっきり聞こえてくる,物のひびきや人の声,転じて,噂や便り。類義語ネ(音)は,意味あるように聞く心に訴えてくる声や音」 とあり,「ね」と「おと」は,「音」の字を当てても意味が違う,とする。「ね」を見ると, 「なき(鳴・泣)のナの転。人・鳥・虫などの,聞く心に訴える音声。類義語オトは,人の発声器官による音をいうのが原義」 とあり,「おと」は「物音」,「ね」は,「人・鳥・虫などの音声」という区分けになるようだ。「ね」には,人側の思い入れ,感情移入があるので,単なる状態表現ではなく,価値表現になっている,といってもいい。 http://gogen-allguide.com/o/oto.html 「音の語源には、『お』が『発声』、『と』が『とく(疾)物に当たる音』とする説。『あた(当)』に通じるとする説や、『おとろ(驚)』からとする説。上から下へ落ちるに従い響き出ることから、『おとす(落とす)』を語源とする説。『トントン』『ドンドン』などの擬音からなど諸説あるが、決定的な説はなく未詳。『万葉集』や『古今集』などの歌集では、音を『水』『波』『風』などと合わせて用いた例が多くみられる。」 と,「おと」は,いわゆる「物音」に近い。『大言海』は, 「當(あた)と通ずるか。織衣(おりぎぬ),ありぎぬ。いたはし,いとほし」 としているが,『日本語源広辞典』は,擬音語とし,『日本語源大辞典』は, トントン,ドンドンから出たものか(国語溯原=大矢徹), オは発声,トはトク(疾)物に当たる音か(俚言集覧), アタ(当)に通じるか(大言海), オトロ(驚)から(言元梯), 上から下へ落ちるに従って響き出るものであるところから,オトス(落)からか(和句解), アアト(阿迹)の転語(柴門和語類集), オモトホル(重徹)の義(名言通), と,諸説挙げるが,どうやら物音を指している気がする(「とんとん」は江戸期からみられると,『擬音語・擬態語辞典』にある)。なぜなら,「声」は,別に「ね」という言葉を持っていた。 「ね」は,『日本語源広辞典』も,『岩波古語辞典』と同様, 「ナ(泣・鳴)からネへの変化」 とし,『大言海』は,「ね」について, 音・聲, と当てて, 「声の色あるもの,細く易しげ鳴る音」 と, 音・哭, と当てて, 「泣く聲」 として, 声立てて泣くこと, を区別しているが,等しく「声」とする。『日本語源大辞典』は, ナ(鳴)の義(言元梯), ナク(鳴・泣)のナの転(岩波古語辞典), ナク(泣・鳴)のナと共通(小学館古語大辞典), ナケ(鳴)の反(名語記), ネル(練)の義か。音は声の軽重清濁の文あることをいうところから(和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子), 夜の静かなときに,ネ(寝)てよく聞こえるところから(和句解), 心根から出るものであるところから(本朝辞源=宇田甘冥), ナレの約(和訓集説), デ(出)の義。ネとテは通音(日本釈名), と挙げるが,「おと」と「ね」を区別していた以上,「ね」には,「おと」とは異なる,特別の意味があったはずである。日本人(敢えて言うとかつての日本人を指す。いまの日本人は,風鈴の音〔おと〕が喧しいと感ずるらしいので)には,虫の音(ね),風鈴の音(ね)が,「おと」ではなく「ね」であった。『日本人の脳』で。角田忠信氏が指摘した「日本人の耳」に通じることだと思う。 参考文献; 北村 音一「音の語源」(日本音響学会誌 50 巻 2 号) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 角田忠信『日本人の脳』(大修館書店) https://okjiten.jp/kanji198.html https://okjiten.jp/kanji196.html 「やよい」は, 弥生, と当てるが,陰暦三月の異称で,ほかに, 花月(かげつ),嘉月(かげつ),花見月 (はなみづき),夢見月(ゆめみつき),桜月(さくらづき),暮春(ぼしゅん),季春(きしゅん),晩春(くれのはる・ばんしゅん),建辰月(けんしんづき),早花咲月(さはなさきつき),蚕月(さんげつ),宿月(しゅくげつ),桃月(とうげつ),春惜月(はるをしみつき),雛月(ひいなつき), 等々の別称があるらしい(https://ja.wikipedia.org/wiki/3%E6%9C%88)。 『広辞苑』には, 「イヤオヒの転」 とあるが,「弥(彌)」(呉音ミ,漢音ビ)の字は, 「爾(ジ)は,柄のついた公用印の姿を描いた象形文字で,璽の原字。彌は『弓+音符爾』で,弭(ビ)(弓+耳)に代用したもの。弭は,弓のA端からB端に弦を張ってひっかける耳(かぎ型の金具)のこと。弭・彌は,末端まで届く意を含み,端までわたる,遠くに及ぶなどの意となった」 とあり,「端まで届く意から転じて,A点からB点までの時間や距離を経過する」「広く端まで行きたっている」「いよいよ」「遠く伸びていつまでも程度が衰えない意を表すことば,ますます」という意で,類義語「愈」との区別を, 愈は,まさると訓む。いやましと訳す,一段を上れば又一段といふ如く,さきへさきへとこゆる意なり, 弥は,わたると訓む。段々に満ちて,一杯になりたる意なり, としており,「弥」を,「ますます」「いよいよ」の意に当てて,「弥生」と当てたようにも見える。つまり,「弥生」の字を前提の解釈の見えて仕方がない。しかし,『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/ya/yayoi.html も, 「『弥生(いやおい)』が変化したものとされる。『弥(いや)』は、『いよいよ』『ますます』などの意味。『生(おい)』は、『生い茂る』と使われるように草木が 芽吹くことを意味する。草木がだんだん芽吹く月であることから、弥生となった。」 とするし,『由来・語源辞典』 http://yain.jp/i/%E5%BC%A5%E7%94%9F も, 「草木がいよいよ生い茂るようになるところから、『いやおい(弥生)』の意。『いや(弥)』は物事がはなはだしくなるさまの意。」 とし, https://ja.wikipedia.org/wiki/3%E6%9C%88 も, 「弥生の由来は、草木がいよいよ生い茂る月「木草弥や生ひ月(きくさいやおひづき)」が詰まって「やよひ」となったという説が有力で、これに対する異論は特にない。」 と,断定してはばからない。『大言海』にも, 「イヤオヒの約転。水に浸したる稲の實の,イヨイヨ生ひ延ぶる意」 としているし,『日本語源広辞典』も, 「『彌(イヤ)+生(オヒ)』です。iyaohiとは,草木がいよいよ生い茂る月の意です」 とあり,大勢はこの説で,これで決まりのように見える。 『日本語源大辞典』も,いくつか説を載せるが, クサキイヤオヒツキ(草木弥生月)の略(語意考), イヤオヒ(弥生)の義(奥義抄・和爾雅・日本釈名・類聚名物考・兎園小説外集・古今要覧稿・和訓栞・大言海), 草木がいよいよ花葉を生じる意(和句解), ヤヤオヒ(漸々成長)の約(嚶々筆語), ヤヤオヒヅキ(漸生月)の義(日本語原学=林甕臣), 桜梅の盛りであるところから,ヤウバイの反ヤヒの転か。また花咲き乱れて天が花に酔う心地するところから,ヤマイロヱヒ(山色酔)の反か,また,ヤナイトヒキ(柳糸引)の反,また,ヤマフキ(款冬)の反ヤヒの転か(名語記), いずれも,開花の盛りや生い茂るにことよせて,いろいろ捻っているのには変わらない。 『日本語の語源』も,同じ系統で, 「草木がいよいよ生い茂ることをイヤオヒ(彌生)といったのが,ヤオヒ・ヤヨイ(陰暦三月の異称)になった」 としている。たしかに, 「木草(きくさ)弥(い)や生(お)ひ茂る月」 から,「弥生」となったというのは,もっともらしいが,しかし,僕には,繰り返しになるが, 弥(彌)生, という漢字を当てはめた後の,その字に基づく後解釈に思えてならない。『大言海』の, 「イヤオヒの約転。水に浸したる稲の實の,イヨイヨ生ひ延ぶる意」 の,ただ草木ではなく,「稲の實」と,農事との連続性に着目した説に軍配を上げたい。それは, 師走(陰暦十二月 http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%81%97%E3%82%8F%E3%81%99) の,
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各項で触れたように,『大言海』のみが一貫しているのである。月ごとに,謂れを変えるのは,どう考えても,後の世の視点に過ぎる。古代のひとにとっては,一貫して,農事と関わらせる視点があった,とみる。 「漢字」は,なぜ,「漢字」と呼ぶのか。我が国に漢字が入ってきたのが, 前漢(紀元前206年 - 8年) ないし, 後漢(25年 - 220年) の頃に入ってきたせいではないか,と勝手に考えていたが,そうではなかったようである。たとえば, 古い文字が漢水の辺りで発見されたから, 漢民族の言葉であるから, 漢の時代につくられた世帯が基本になっているから, 等々の説があるようだ。『日本語源広辞典』は, 「漢(中国古代国名)+字」 としているが,どうもそうではないようである。 http://kanjibunka.com/kanji-faq/old-faq/q0208/ によると, 「漢字の起源は紀元前1300年ごろまでさかのぼることができるとされています。漢王朝は、紀元前2世紀から紀元後2世紀までの約400年間、中国を支配した王朝ですから、漢字の歴史は漢王朝よりもずっとずっと古いのです。」 とあり, 「『漢字』の『漢』とは王朝の名前ではなく、民族の名前だと考えた方がよさそうです。現在の中華人民共和国の人口の大半を占めるのは、漢民族と呼ばれる民族です。私たちが普通に『中国人』としてイメージしているのは、この漢民族の人々です。ですから、彼らが日常使っている言語、つまりは私たち日本人が『中国語』と呼んでいる言語のことを、中国語では『漢語』と言います。それと同様に、漢民族が使っている文字という意味で、『漢字』という呼び方があるのだと思われます。」 とし, 「彼ら自身は、自分たちの使っている文字のことを単に「字」とでも呼べばよく、特別に『漢字』と呼ぶ必要はなかったはずです。しかし、10世紀ごろになると、漢民族の周辺にいた民族たちも、漢字にならって自分たち自身の文字を開発し始めます。おそらくこのころ、『漢字』ということばが誕生したのではないでしょうか。『大漢和辞典』では、『漢字』ということばが使われるようになったのは、モンゴル文字と対比してのことだと、説明しています。」 と,長く,文字のあったのは漢民族だけだったが,周辺が文字を創り始めたことで,自分を意識した,と言うのはなかなか面白い。「かな」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba5.htm#%E3%81%8B%E3%81%AA) で触れたように,文字を持たなかったわれわれは,漢字を改造して, 仮名, あるいは, 仮字, と呼んでいた。それが訛って, 「かりな」→「かんな」→「かな」 と転じた。だから,漢字を「真名」と呼んだ。『大言海』は, 「真名(漢字)の音,又は訓を取りて,国語の音を写すに,仮り用ゐる字の義なり。人を,比止と書き,瓶を加女など書くが如きを云ふ。…即ち仮借字にて,これを真名書きと云ふ,是れ仮名なり。奈良朝の頃までは,すべて真名書(万葉仮名)なりしに,其の字の画の多くして,書くに難渋なるの因りて,平安朝の初期に至り,婦人の用に,比止,加女などの草書の體を,甚だしく崩して,ひと,かめ,などと書き取ることとなりて,草仮名とと云ひ,女手(おんなで)とも云ひ,遂に,此草仮名を,専ら,単に,かな,かんな,と云うふやうになり(後にひらがなの称,起こる)」 としている。『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/ka/kanji.html は, 「中国、漢民族の間で作られた 文字である。 漢民族が使っていた言葉を『漢語』といい、その漢語を表記するための文字なので『漢字』というようになった。 現存する最古の漢字は、殷墟から出土した紀元前15世紀頃の甲骨文字で、非常に長い歴史をもつ文字である。日本では、一世紀頃委奴国王の金印などに見られるものが最も古い。上記の通り、本来は漢語を表すための文字を指すものであるが、同様の形態や機能をもつ『和製漢字(国字)』も含めて言う。」 とある。漢字は, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E5%AD%97 には, 「伝承によると、中国における文字の発祥は、黄帝の代に倉頡が砂浜を歩いた鳥の足跡を参考に創った文字とされる。また『易経』には聖人が漢字を作ったと記されている。考古学的に現存する最古の漢字は、殷において占いの一種である卜(ぼく)の結果を書き込むための使用された文字である。これを現在甲骨文字(亀甲獣骨文)と呼ぶ。甲骨文以前にも文字らしきものは存在していたが、これは漢字と系統を同じくするものがあるか定かではない。当時の卜は亀の甲羅や牛の肩胛骨などの裏側に小さな窪みを穿(うが)ち、火に炙って熱した金属棒(青銅製と言われる)を差し込む。しばらく差し込んだままにすると熱せられた表側に亀裂が生じる。この亀裂の形で吉凶を見るのであるが、その卜をした甲骨に、卜の内容・結果を彫り込んだのである。」 とある。黄帝の代とは,紀元前2510年〜紀元前2448年ということになる。殷は,(紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年とされ,現在存在する中での最古の漢字は,この殷墟から発掘される甲骨などに刻まれた甲骨文字とされているそうである。 文字として使用できる漢字が出来上がったのは約3300年前のこの頃とされ,この甲骨文字は物を見たままを描く象形文字であり,その他, 「ある種の事態を表現する動詞や形容詞の文字も存在した。例えば、『立』の原型である人が地面を表す横棒の上に書かれた字(指示文字)、女性が子供をあやす様から『好』や人が木の袂(たもと)にいる様から『休』などの字(会意文字)も既に含まれていた」 という。 参考文献; https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E5%AD%97 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%B7 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 大槻文彦『大言海』(冨山房)
「さつき」は, 皐月, 五月, と当ててあるが,陰暦五月のことである。『広辞苑』には, 「『早月』とも書く」 とある。陰暦「五月」の異名は, https://ja.wikipedia.org/wiki/5%E6%9C%88 に, 「いななえづき(稲苗月)、いろいろづき(五色月)、うげつ(雨月)、けんごげつ(建午月)、つきみずづき(月不見月)、さつき(皐月)、さなえづき(早苗月)、さみだれづき(五月雨月)、しゃげつ(写月)、たちばなづき(橘月)、ちゅうか(仲夏)、ばいげつ(梅月)、よくらんげつ(浴蘭月)」 等々とあるとあり,「あやめづき(菖蒲月)」ともいう,とある。旧暦の五月は新暦では六月から七月に当り,梅雨である。五月雨(さみだれ)とは梅雨の別名であるし、五月晴れとは本来は梅雨の晴れ間である,という。そういった季節感がよく出ている。 https://ja.wikipedia.org/wiki/5%E6%9C%88 によると,「さつき」は, 「田植えをする月であることから『早苗月(さなへつき)』と言っていたのが短くなったものである。また、『サ』という言葉自体に田植えの意味があるので、『さつき』だけで『田植の月』になるとする説もある。 『日本書紀』などでは『五月』と書いて『さつき』と読ませており、『さつき』を皐月と書くようになったのは後のことである。『皐月』という表記は元来、漢籍に現れる陰暦五月の別名である。『爾雅』によると古代中国では12か月をそれぞれ「陬如寎余皋且相壯玄陽辜涂」と呼んでいた(皋は皐の本字)。」 とある。「皐月」の「皐」については,「サツキツツギ」の「サツキ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba10.htm#%E3%82%B5%E3%83%84%E3%82%AD)に ついては触れた。 『大言海』には, 「早月とも記す。奥義抄,一『早苗月の略』(卯花月,卯月。かみなし月,かみな月。あれつく少女[をとめ],あれをとめ。播殖子[うまはりこ],うまご)。即ち,五月を,早苗(さなえ)月とも云ふの,早苗を植うる月の義なり。…早苗を下略する語に,早少女(さをとめ),早開(さびらき),早上(さのぼり),早下(さおり)などあり。またこのサを,五月のことに用ゐらる。五月蠅(さばえ),五月雨(さみだれ),五月夜(さよ)など,これなり」 とある。『岩波古語辞典』に, 「サは神稲,稲を植得る月の意」 とあるので,「さ」のみで意味があったのかもしれない。『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/sa/satsuki.html には, 「皐月は、耕作を意味する古語『さ』から、稲作の月として『さつき』に なった。 早苗を植える月『早苗月(さなえづき)』が略され、『さつき』になったとする説もあるが、『早苗』の『さ』も耕作の『さ』が語源とされる。 漢字『皐』には『神に捧げる稲』の 意味があるため、皐月が当てられたと思われる。」 としている。単純に, 「早苗を植える月の意で『早苗月(さなへつき)』と言っていたのが短くなった」 というだけではないだろう。しかし,「さ」の意味が分からなくなっている。 『日本語源広辞典』は, 「『サ(稲の神)+月』です。稲作の神が,田植えを見守ってくださる月です。サトメは,早乙女は当て字で,稲作に奉仕するオトメです。サナエは,稲作の心霊の宿った苗,古典に出てくるサニワは,農業の神を祭る神聖な斎場なのだという意味も納得できます。」 サツキの花が,山籠りから降る乙女がかざすことについては,「サツキ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba10.htm#%E3%82%B5%E3%83%84%E3%82%AD) で触れた。その意味では,「さ」の意味に言及しない語源説は採るに足らないと思う。『日本語源大辞典』には,十数の説が載るが, サは耕作のことをいう古語。田植えの月であるところから(兎園小説外集), サは「社」の別音sa。社祭を行う月の意(日本語原学=与謝野寛), あたりまでであろう。 http://xn--cbktd7evb4g747sv75e.com/2015/0218/satukinoimi/ は,その辺りを, 「皐月は、『耕作』を意味する古語の『さ』から、稲作の月の事を指して『さつき』になったと言われています。別名にもある早苗を植える月である『早苗月(さなえづき)』が略され、『さつき』になったという説もあります。ただし、『早苗』の『さ』も耕作の『さ』が語源になったと言われているので、皐月の由来には 『耕作(稲作)』が関与しているのは間違いないようです。さつきの『皐』という漢字には『神にささげる稲』という意味があるため、『皐月』という漢字が当てられたと考えられています。」 とする。ただ, 「『皐』という漢字には『神にささげる稲』という意味があるため、『皐月』という漢字が当てられた」 という説は,手元の漢和辞典では見あたらなかった。「皐」は,五月の異称だから,採っただけではあるまいか。 なお, https://www.chiba-muse.or.jp/MURA/kikaku/nencyugyozi/kaisetu/sanaburi.htm の,「サナブリ」という言葉の説明で, 田植えが無事に終了したことを感謝し、田の神を送る、田植え終いの稲作儀礼」 とし, 「サナブリ(またはサノボリ)という行事名の最初のサは、豊作をもたらすとされる田の神様、または田植えそのものをさす言葉といわれます(5月のことをサツキ=皐月というのは、旧暦の5月が田植えのある月だからとか、田植えをする女性や少女のことをサオトメ=早乙女というのも、サが同じような意味で使われていると考えられる)。つまり、田の神様を天上へ送る行事のことを、サナブリ(サがのぼる)というわけです。これに対して、田の神様を地上へ迎える行事のことをサオリ(サがおりるという意味)といったりします。通常サオリが田植え始めにあたって行われ、サナブリが田植え終了に際して行われます。このように田植えは、田の神様の見守られる中で行われるという意識があるため、かなり神事的な意味あいを持つものでした。田植えで残った苗を荒神様(火やカマドの神)などに供える風景がよく見られますが、そうすることで、苗の無事な生長と豊作を祈ったのです。」 というのが,「サ」の傍証となろう。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) |
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