「ヒバリ」は, 雲雀, 告天子, 等々と当てる。『広辞苑』には,その鳴き声を, 「一升貸して二斗取る,利取る,利取る」 と聞きなした,とある。 「日本では留鳥・漂鳥として河原・畑などにすみ、春になると空高く舞い上がりながら、ピーチュク、チルルなど長くて複雑な節回しでさえずる。」(『デジタル大辞泉』) とあるから,芭蕉の, ひばりより空にやすらふ峠哉(『笈の小文』) が生きてくるのだろう(『笈の小文』以外は「空に」は「上に」とあるらしい)。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%90%E3%83%AA には,「ヒバリ」の異称を, 告天子(こうてんし,こくてんし,ひばり), 叫天子(きょうてんし), 天雀(てんじゃく), 姫雛鳥(ひめひなどり), 噪天(そうてん), 日晴鳥(ひばり), 等々を上げている。 『大言海』は,「ヒバリ」の項で, 天鷚(てんりょう), の異称も挙げて(「鷚」はヒバリの意), 「日晴(ひはる)の意。空晴るれば,飛鳴して雲の上に昇る,日晴鳥(ひはれどり)なり」 とある。さらに, 日本釈名「告天子,ヒバリは日のはれたる時,そらに高くのぼりてなく鳥なり,ヒハル也。雨天にはノボラズ」 を引く。『日本語源広辞典』も, 「日+晴れ+り(鳥)」 とし,空晴れ天高く飛び鳴く鳥の意,とする。確かに,『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/hi/hibari.html が, 「奈良時代から見られる名。語源は,晴れた日に空高くのぼり鳴くところから,『日晴(ひはる)』の意味が定説となっている。しかし,ヒバリの鳴き声を模した表現には『ピーチク』『ピーパル』『ピーピーカラカラ』,また『ピーチクパーチクひばりの子』と言うように,鳴き声の『ピパリ』とする説ある。漢字の『雲雀』は,雲に届くほど天高く飛翔する雀に似た鳥の意味から。」 とする通り,「日晴」が定説のようだが,個人的にはすっきりしない。鳥は基本雨の日はあまり飛ばず,雨が上がると,賑やかに囀り飛ぶという印象をもっているからだ。晴れている日に鳴くのも飛ぶのも,「ヒバリ」に限ったことではないのではあるまいか。 『日本語源大辞典』は, ヒハル(日晴)の義。日が高く晴れたときのみ高く上り鳴くところから(日本釈名・滑稽雑誌所引和訓義解・和訓栞・大言海) 鳴き声がピパリからか(箋注和名抄・音幻論=幸田露伴), ヒラハリ(翩張)の義(名言通), 高く上るところからヘヘ(隔々)リの義(言元梯), ヒは日,ハはハルカ(遥)または羽,リはアガリサガリのリか。日のさすとき,はるばるとあがる鳥でるところから(和句解), と挙げるが,く上がるというのがヒバリの特徴なら,晴れよりそこに語源をさぐるべきではないか。 『日本語の語源』は, 「空高くしきりにさえずるのでシバナキ(屡鳴き)鳥と呼んだ。『シ』の子交(子音交替)[∫c],『ナキ』の縮約[n(ak)i]でヒバニ転音し,さらに語尾の子交(子音交替)[nr]でヒバリ(雲雀)になった。」 とするが,これも如何であろうか。 万葉集で「ヒバリ」を歌う歌は, うらうらに 照れる春日(はるひに)ひばり上がり 心悲(こころがな)しも ひとりし思へば(大伴家持) ひばり上がる 春へとさやに なりぬれば 都も見えず 霞かすみたなびく(大伴家持) 朝な朝な 上がるひばりに なりてしか 都に行きて 早帰り来む(安部沙弥麻呂) 等々あるらしいが,いずれも「ひばり上がり」である。いずれも,「日晴れ」といった開放感のある感じではない。「日晴れ」説には疑問である。 春を告げる鳥, とされる以上, 天く飛ぶ, か, 鳴き声, から採ったと見るべきではあるまいか。「ヒバリ」の囀りについて, https://www.bioweather.net/column/ikimono/manyo/m0604_2.htm は, 「ヒバリは上昇していくとき(『上がり』と呼ばれる)、空中で停飛しているとき(『空鳴き』、『舞鳴き』)、そして降りてくるときで(『降り』)、それぞれ鳴き方が異なります。 上昇していくときは比較的単純な鳴き声の繰り返しですが、停空飛翔状態になると、多い個体では15種類以上もの声のパターンを組み合わせて、複雑なさえずりを長時間続けます。そして降りてくる時には、スズメや他の鳥の鳴き声も混ぜ、少し短めの声を組み合わせてさえずります。」 という鳴き声を摑まないわけがない。『語源由来辞典』の, 「ヒバリの鳴き声を模した表現には『ピーチク』『ピーパル』『ピーピーカラカラ』,また『ピーチクパーチクひばりの子』と言うように,鳴き声の『ピパリ』とする説ある。」 から,「ピパリ」説に(あまりスッキリしないので不承不承)軍配を上げておくことにしたい。 参考文献; 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 田井信之『日本語の語源』(角川書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「モズ」は, 百舌, 鵙, と当てる。「鵙」(ゲキ,漢音ケキ,呉音キャク)の字は, 「貝の部分は,もと『目+犬』で,犬が目をきょろきょろさせることをあらわす。鵙の本字はそれを音符とし,鳥を加えた字で,芽をきょろきょろさせて虫を捕食する鳥を表す」 で,「モズ」の意である。「百舌」字は, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%82%BA に, 「様々な鳥(百の鳥)の鳴き声を真似た、複雑な囀りを行うことが和名の由来(も=百)」 とあるように,「モズ」の語原からくる当て字と思われる。『日本語源広辞典』は, 「モ(鳴声・擬音)+ス(小鳥)」 は,「モ」とは聞こえないのでむりがあるだろう。『語源由来辞典』は, http://gogen-allguide.com/mo/mozu.html 「百の舌を持つ鳥を表す」 とし, 「モズの語源は諸説ある。鳴き声に関するものが多く,中でも『モ』は鳴声,『ズ(ス)』はウグイスやカラスと同じく鳥を表す接尾語とする説が有名である。『ス』は妥当であるが,代表的な『モズの高鳴き』と呼ばれる鳴声は,秋に鳴く『キイーキイー』という高い音で,これを『モ』の音で表現するには無理がある。『モ』は鳴き声そのものの音ではなく,非常に多い数を表す『モモ(百)』で,百鳥の音を真似るところからの名であろう」 としている。『大言海』も, 「モは鳴く聲,スはウグイス,カラスなどのスと同じ,百鳥の音を真似る故に,百舌と云ひ,又,反舌とも云ふ。」と する。また,『日本語の語源』が,「百」を, 「鋭い声でけたたましく連続的に鳴くのでモモシタ(百舌)と読んでいた。語頭の『モ』,語尾の『タ』を落して,モシ,モス,モズ(百舌・鵙)と転音した」 とするのも,「モ」を「百」とする意味では同じ解釈といっていい。 『日本語源大辞典』には,その他に, メ(目)ノサスの反(名語記), モス(百舌)の義。セツの反。セッセッと鳴くところから(言元梯), その鳴声モヂリ(綟)の義(名言通), 反舌の義(東雅), といった説を載せるが, 百の舌, か 百の声, かというところだろう。
「モズの高鳴き」は, 「ヒヨドリ」は, 鵯, と当てる。『広辞苑』は, 白頭鳥, とも当てる,としている。 「鵯」(ヒ,漢音ヒツ,呉音ヒチ)の字は, 「『鳥+音符卑(背が低い)』あるいは,ぴっぴいと鳴く聲を真似た擬声語か」 とある(『漢字源』)。 必ずしも,「ヒヨドリ」を指していおらず,『字源』は,我が国だけで「ひえどり(鵯鳥)」,「ヒヨドリ」を指す,としていて,はしぶとがらす,みやまがらす,の意としている(鵯烏)。『漢字源』は,白頭鳥,またひよに似た鳥の総称,としている。どうやら,姿形もさることながら, 鳴き声, から来た字のようである。『大言海』は, 「ヒエドリ(鵯鳥)の転」 とし,「ひえどり」の項で, 「稗鳥の義。稗を食へば云ふならむ。字は,蓋し,鵯鳥の二合和字」 とある。しかし, http://www.nihonjiten.com/data/45847.html は, 「鳴声『ヒィーヨヒィーヨ』に由来する説、ヒエを好んで食べることから、古名『稗烏(ヒエドリ)』が転じた説がある。ただし、ヒヨドリはヒエは食べない。漢字表記『鵯』は国訓で『ヒヨドリ』、いやしいの意『卑』は『小さい』の意味に用いる『稗(ヒエ)』に通じるか。」 としており,「稗」は当て字,僕は漢字「鵯」から,名を取ったのではないか,だから, ヒドリ→ヒエドリ, と訓んだのではないかと勘繰りたくなる。しかし, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A8%E3%83%89%E3%83%AA の言うように, 「鳴き声は『ヒーヨ!ヒーヨ!』などと甲高く聞こえ、和名はこの鳴き声に由来するという説がある。また、朝方には『ピッピッピピピ』とリズムよく鳴くこともある。」 とあり, ひいよひいよ(『広辞苑』) ピーヨピーヨ(『デジタル大辞泉』) とい鳴き声からか, ヒヨ, とも呼ばれる。その意味では, ヒヨ→ヒヨドリ, は考るのが,自然なのかもしれない。『日本語源広辞典』は, 「ピーヨ,ピーヨ+鳥」 とするが,カラス,ウグイス,ホトトギス,の「ス」,スズメ,ツバメ,の「メ」等々と違い,なぜか, ヒヨメ, ヒヨス, とはならなかった。『日本語源大辞典』も, 鳴き声(和句解・音幻論=幸田露伴), 古名ヒエドリ(稗鳥)の転(大言海), の二説挙げるのみである。やはり, ピーヨ→ヒヨ→ヒヨドリ, と転訛したと見るのが妥当に思える。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 「ツグミ」は, 鶫, と当てる。「鶇」(トウ)は,我が国でのみ「つぐみ」に当てる。「鶫」の字は,その字に似せて,つくった国字らしい。 「鳥+音符東」 について, http://www.nihonjiten.com/data/45821.html 「音符『東』は、五色で青に配する意に通じるか。」 とある。 「古くは跳馬と呼ばれましたが、これは、地面をはねるようにとんでエサをとる格好から」 名づけられたとある(https://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/detail/1359.html)が,『大言海』は,「ツグミ」の別名に, 馬鳥, 鳥馬(テウマ), 『広辞苑』は, チョウマ, ツムギ, を挙げている。「チョウマ」「テウマ」は「跳馬」のことであろうか。 「ツグミ」は秋の季語。 喧嘩すな あひみたがひに 渡り鳥(一茶) という句もあるとか。秋に渡来し,越冬する。で, 「和名は冬季に飛来した際に聞こえた鳴き声が夏季になると聞こえなくなる(口をつぐんでいると考えられた)ことに由来するという」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%82%B0%E3%83%9F) という説がある。『大言海』も, 「噤(つぐ)みの義。夏至の後,聲無ければ云ふ」 とする。 『日本語源大辞典』は, 夏至の後は鳴かないところからツグミ(噤)の義(日本釈名・大言海), その形状から,セクグミ(背勾)の転スクミの義(名言通)。 の二説挙げる。「せくぐみ」は, 跼む, と当て, 背を丸め,体を前方にかがめる, 意である。「すくみ」は, 竦み, は,硬直して動かなくなる,意である。「ツグミ」の姿勢を指している。似た説は, http://ta440ro.blog.shinobi.jp/%E9%B3%A5/%E3%83%84%E3%82%B0%E3%83%9F%E3%81%AE%E8%AA%9E%E6%BA%90 が, 「ツグミという名の由来です。ネット上で調べてみると、日本に滞在している冬場は口をつぐんで鳴かないからだと書いてあるものが沢山見つかりました。…ツグミという鳥は冬場に囀りはしませんが、決して無口な鳥ではありません。知らないで近づいたときに不意にケッと鳴いて飛び立ったり、何かを主張しているのか騒がしく鳴いていることも多いのです。そんな鳥に果たしてツグミなんて名前を付けるでしょうか? 名づけた人は余程ツグミを観察したことがないのでしょうか? 一方で信憑性があると感じたのは、関東の方言でしゃがむことをつぐむといい、それに由来する、という説です。関東の方言でしゃがむことをつぐむというのか否かは知りませんが、ツグミは地面の上に直に降り立って、ちょっと嘴を上に向け、つんとした姿勢でいることが多い鳥です。広々とした地面に数羽が離れてポツンポツンと立ち尽くす鳥はそれほど多くありません。その姿を人がしゃがんでじっとしているように擬人化して見るのはそれほど無理がないように思えます。」 「しゃがむ」説を採る。かつて,「跳馬」(チョウマ)と呼ばれたのは,「ツグミ」の恰好であった。 「地面をはねるようにとんでエサをとる格好から」 名づけられた(https://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/detail/1359.html)という由来から考えても, セクグミ(跼)→スクミ(竦)→つぐみ, の転訛がだとに思えるが。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 「ムクドリ」は, 椋鳥, と当てる。 ムク, 白頭翁, とも呼ぶそうだ。 「ムクドリ」の語源は,大別, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%82%AF%E3%83%89%E3%83%AA の言う, 「『群木鳥・群来鳥(ムレキドリ)』から転じたとする説と、椋の木の実を好むからとする説」 に分かれるようだ。『日本語源大辞典』は,諸説を, 椋の実を群れはむところから(滑稽雑談), 椋の気に棲むところから(本朝食鑑), 必ず群れてとぶところから,ムレキドリ(群木鳥)の義(俗語考), ムレキドリ(群來鳥)の略転か(大言海), ムクんだ鳥の義か(大言海), と挙げる。さすがに『大言海』の, 「ムクみたる鳥の意か,又,羣來鳥(むれきどり)の略転か」 とする「むくみたる鳥」説は,『日本語源広辞典』が, 「身体がムクンダ鳥説(大言海)は疑問です」 という通り,ちょっと首を傾げたくなる。『日本語源広辞典』は, 「椋の実を好んで食べる鳥」 説を採る。『日本語の語源』は, 「ミクフ(実食ふ)木は,クフ[k(uf)u]の縮約でミク・ムク(椋)になった。〈大庭のムクの木を中に立て〉(平治)。椋の実を好んでついばむところから『椋鳥』の名がある。椋の実は小さいがあまく子供も好んで食べた」 とする。『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/mu/mukudori.html は, 「椋木( ムクノキ)の実を好んで食べることからというのが定説となっているが,ムクノキ以外の 種子や果実,昆虫なども食べる。ムクドリの特徴は,何万羽ともいわれる大群をつくって『リャーリャー』と鳴くところにあるため,『群木鳥(ムレキドリ)』もしくは『群來鳥(ムレキドリ)』の略転説がある。ムクドリを指す方言の『雲鳥(クモドリ)』は雲のように見える大群の鳥の意味から,『ムラ』『ムラドリ』が群れをなすところから,『ムクギ』『ムツキードリ』は『群來(鳥)』,『ムッツドリ』が『群集い』とすると,ムクドリの語源も『群れ』と考えるのが妥当である。」 と,「群れ」に着眼し,「群木鳥」系を採る。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%82%AF%E3%83%89%E3%83%AA には, 「日本の方言では、モクドリ、モク、モズ、クソモズ、モンズ、サクラモズ、ツグミ、ヤマスズメ、ナンブスズメ、ツガルスズメなど様々に呼ばれている。 秋田県の古い方言では、ムクドリのことを『もず』『もんず』と呼んでいる」 とあり,ここには,「群れ」も「椋」も関係なく,どこかに嘲りがある気がする。そのせいか, ムクドリ, には, 田舎から都へ来た者をあざけっていう, という意味がある。『江戸語大辞典』には, 「江戸へ出てきた田舎者,またその嘲称」 とあり,さらに, 「椋鳥のように群れをなす人の形容」 とある。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%82%AF%E3%83%89%E3%83%AA には, 「江戸時代、江戸っ子は冬になったら集団で出稼ぎに江戸にやってくる奥羽や信濃からの出稼ぎ者を、やかましい田舎者の集団という意味合いで『椋鳥』と呼んで揶揄していた。俳人小林一茶は故郷信濃から江戸に向かう道中にその屈辱を受けて、『椋鳥と人に呼ばるる寒さかな』という俳句を残している。」 とある。まあ,たまさか江戸に生まれただけで,江戸ッ子などといって田舎者を嘲るのは,虎の意を借る狐に似て愚かしいが,その江戸ッ子の実態は, http://ppnetwork.seesaa.net/article/436936674.html で触れた。,「江戸ッ子」は, 「表通りには住んで いない。皆裏通りに住んでいた」 輩を指す。目くそ鼻くそである。 しかし,不思議と,「ムクドリ」は,文学には登場する(確か古井由にも『椋鳥』という作品があった)。「ムクドリ」の季語は,冬。 榎の実散るむくの羽音や朝あらし(松尾芭蕉) といった句もあるとか。 やはり,「群れ」が目だったと考える方が自然かもしれない。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 田井信之『日本語の語源』(角川書店) 「ジュウカラ」は, 四十雀, と当てる。 白頬鳥, とも。どこかで,「四十雀」は, 「スズメ(雀)よりも40倍の価値があるから」 という説を聞いたことがあるが,『大言海』には, 「雀,四十を,其の一鳥ら代ふる意と云ふ,或は云ふ,四十は,羣(むれ)る意なりと,或は云ふ,鳴く聲を,名とせるなりと」 ある。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%82%A6%E3%82%AB%E3%83%A9 は, 「和名は鳴き声(地鳴き)に由来する。さえずりは甲高いよく通る声で『ツィピーツィピーツィピー』などと繰り返す。」 と鳴声説を採る。『日本語源広辞典』は, 「シジュウ(多く集まる)+から(鳴く鳥)」 としているが,よく意味が解らない。が,『日本語源大辞典』の, 四十カル(軽)の義。多く群れるところから・カルはカルク翻るところから(名言通), 四十は群がる意という(大言海), 雀四十を以てこの鳥一羽に代える意という(大言海), 鳴き声チンチンカラカラの略転(名語記), 鳴く声からという(大言海), シジウと鳴くカラの意。カラはヤマガラのガラ,ツバクロのクロと同じで,小鳥全体の総称(野鳥雑記=柳田國男) 諸説から,「から」が小鳥の総称ということがわかる。 http://yaplog.jp/komawari/archive/619 によると, 「雀は、種スズメではなく、小鳥一般を示す言葉です。」 とあるから,「から」を, 雀, と当てたのかもしれない。たとえば,「コガラ」は,小雀と当て,「ハシブトガラ」は,嘴太雀と当て,「ヤマガラ」は,山雀と当て,「ヒガラ」は「日雀」と当て,「ゴジュウカラ」は,五十雀と当てる。 「五十雀(ごじゅうから)」という名がある以上,そのことを合わせて説明しなくてはならないので,群がる,という説は少し説得力を失うだろう。しかし,『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/si/shijyuukara.html は, 「平安時代には,『シジウカラメ』と呼ばれ,室町時代から『シジュウカラ』と略された。シジュウカラのさえずりは『ツツピーッツピー』,地鳴きが『チ・チュクジュク』と表されるので,『シジウ』は鳴声を表したものと考えられている。『カラ』はヤマガラの『カラ』や,ツバクラメ(ツバメ)の『クラ』と同じく,鳥類を表す語。『メ』は『群れ』の意味か,鳥を表す接尾語(というより,「カラメ」と「クラメ」は同じではあるまいか)。 五十雀がいるせいか,四十雀の「四十」を『40羽』と考える説もある。ゴジュウカラはシジュウカラに似ているところから付いた名なので,五十雀の存在を考慮する必要はなく,四十は『シジウ』の音から当てられたと考えるのが妥当である。」 と言い切る。「シジュカラ」の語源は,鳴き声「シジウ」から来たとするのが妥当ではある。 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/841789/26 に, 「鳴き声に由来する思しき命名の方言も実に多岐にわたり千差万別です。しーながら・しゅんしゅんがら・ししがら・四十がらがら、しんしんがら・しんじゅがら・しじうがら・すすんがら・すんすんがら・ちんちんからからetc.農林省農務局 編『類ノ方言』」 とあるのでなおさらである。しかし,である。「ゴジュウカラはシジュウカラに似ているところから付いた名」とは,ちょっと決めつけが過ぎまいか。 http://yaplog.jp/komawari/archive/619 は, 「『四十雀に似てるから』などといういいかげんなのもありますが、分類では別のグループです。 確かに両者の姿形は明らかに異なっています。動き方も、かなり違います。また、木を逆さまに降りられる生態は、ゴジュウカラに独自のものです。『木廻(きまわり)』とか『逆鉾(さかほこ)』など、行動をよく表した異名もありますけれども、やはりこの鳥の正しい名は、江戸のむかしからあくまでも『五十雀』でした。 図説 鳥名の由来辞典…に、…むかしは四十歳で初老、五十歳で老人であったので、ゴジュウカラの青みがかったグレーの羽を老人に見立てた」 としている。とすると,「シジュウカラ(四十雀)」と「ゴジュウカラ(五十雀)」の名の由来は,セットで考えなくてはならなくなる。 さらに, http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1018806/88 には, 「『その鳴声は「親死ね、子死ね、四十九日の餅を食ひたい」(静岡市)』 ここから『シジュークンチ』とも聞こえてくることから後方音を省いて『シジュー』+『雀(から)』になったとすると、五十雀のことを『きわまり』と呼ぶ理由とも繋がりそうです。数字では49の『極まり(=桁上がり)』が50だからです。 とあり,「シジュウカラ」と「ゴジュウカラ」は,対になって名づけられているとみていいのではあるまいか。芭蕉の句に, 「老いの名もありとも知らで四十雀」(続猿蓑) とあるのも,そういう繋がりの中で詠むと,いっそう意味深い。なお, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%82%A6%E3%82%AB%E3%83%A9 に, 「総合研究大学院大学の研究で、シジュウカラが単語を組み合わせて文にし、仲間へ伝達する能力を持つことが明らかになった。研究では鳴き声の組み合わせを変えた時のシジュウカラの反応が異なるとされ、チンパンジーなど知能が高い一部の動物で異なる鳴き声を繋げる例は見られたが、語順を正確に理解し、音声を理解する能力は他に例が無く、言語学上重要な手掛かりとなると見られている。」 とあり,「シジュウカラ」の別の側面が見えてくる。ますます「シジュウカラ」と名づけた意味の奥行がのぞめるようだ。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 「ジュウシマツ」というと,僕などは,赤塚不二夫の『おそ松くん』の, 十四松, を思い起こしたりする(齢がばれるが,初期の週刊少年サンデー連載を知っている)が,ここでは, 十姉妹, と当てるそれである。僕は鳥に詳しくないが,この鳥,野生には存在しないらしい。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%9E%E3%83%84 には, 「野生種は存在せず、ヒトの手によって作り出された家禽で、コシジロキンパラ (Lonchura striata) の一亜種であるチュウゴクコシジロキンパラ (Lonchura striata swinhoei) の江戸時代に中国から輸入されたものが先祖と考えられている。家禽としての歴史が長いため飛翔力が弱く、かご抜けしても野生では長く生きることができないと考えられる。」 とか,何だか哀れである。 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13956188 には, 「江戸時代には日本で品種改良されて、飼い鳥になりました。その為、野生には、十姉妹という種類の鳥はいません。十姉妹は、とにかく飼いやすい小鳥として有名。まず、日本で品種改良された為、体質がこの国の気候に合い、丈夫です。しかも、性格はおとなしく、仲間同士で喧嘩することはまずありません。」 とある。想像だが,江戸時代の, 朝顔, 金魚, 等々の流行と似た流れの中にあるのではないか,という気がする。朝顔の品種改良はすさまじかったらしい。 その意味では,「ジュウシマツ」の品種改良などお手の物だったろう。 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjlp1960/40/4/40_4_364/_pdf には, 「日本のジュウシマツは中 国南部のコシジロキンパラを江戸 時代に輸 入したものがもとになっている。コシジロキンパラが子育て上手なことが人気を集め,その形質をさらに選択交 配して大きさが似たような鳥ならばどんな鳥の雛でも育ててしまうほどになった。安 政年間にはコシジロキンパラの白化個体が生じ,これが幸運を呼ぶとして人気を集めた。」 とある。こうして, 性格は大人しく、温和で、飼育がとても簡単, 1つのゲージに十数羽でも飼うことが出来るほど、仲良し, 等々ということで, 十人の姉妹のよう, ということから名づけられたとされる。面白いのは, https://www.sci.hokudai.ac.jp/bio/bio/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%9E%E3%83%84%EF%BC%88bengalese-finch-var-%EF%BC%89/ に, 「ジュウシマツは、“chunk”とよばれる2〜4個の異なる音素が一つの固まりをつくり、その固まりの間には繰り返し出現する“接続音素”が存在しています。符号化すると[(ABC)ddd(ABC)eee(FGH)(FGH)dddd(ABC)eeee…]のように表されます。脳のなかにはキンカチョウと同じように、さえずりを学習・生成する神経回路をもっているのに、そのさえずりパターンは大きくことなっています。」 とある。「キンカチョウ」は,「小鳥の歌の神 経科学で標準動物として使われている」鳥らしい。. で,この鳥, 「巣引き(飼育環境下での繁殖)が下手で、飼育下では抱卵を行わないことが多いため、ジュウシマツが仮親として使用される」 というのが笑える。で, https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjlp1960/40/4/40_4_364/_pdf には,ジュウシマツが祖先で あるコシジロキンパラょりもはるかに複雑な歌を歌うのだとある。 「ふつう鳥の歌はせいぜい2秒のソナグラムであらわせば,その全体像がみえるものである。ところが,ジュウシマツの歌をソナグ ラムであらわしてみると,とても2秒では表 現しきれな いものが ある」 とか。さらに, https://www.athome-academy.jp/archive/literature_language/0000000193_all.html では,岡ノ谷一男教授(千葉大学)は, 「ジュウシマツの歌には、ヒトの言葉と同じように音の並びに規則性がある」 し, 「実はヒナから成鳥になる間に、学習によって獲得されるものなんです。ジュウシマツの歌の学習には2段階あって、まず第1段階は親鳥などの成熟した歌を聴いて、自分の歌の手本となる歌や発声のモデルを造る。そして第2段階で、実際にでたらめな歌をうたってみて、第1段階で造ったモデルと自分の歌の誤差を修正します。生後35日くらいからうたい始めるようになって、安定した歌になるのは生後120日くらいです。」 といい,人となった同じく, 「自分の耳で聞きながら音を調節している」 のだとか。これは, 「恐らく卵をたくさん産むツガイを好んだ人間が、知らず知らずのうちに、複雑な歌をうたうオス達を選んでいったとも考えられます。」 という家禽故に変異した要素は大きいようだ。 「たいまつ」は, 松明, 炬, と,『広辞苑』は当てている。「松明」の字は, 「タキマツ(焚松)の音便」(『広辞苑』『大辞林』) から来た当て字と想像される。「炬」(漢音キョ,呉音ゴ)は, 「巨(キョ)は,工印のものさしにコ型の手で持つ所のついた形を描いた象形文字。上の一線と下の一線とがへだたっている。距離の距(間がへだたる)と同系のことば。炬は『火+音符巨』で,長い束の先端に火をつけてもやし,ずっとへだたった手に持つたいまつ」 で, かがり火, たいまつ, の意である。 「たいまつ」は, 松や竹の割り木,または枯れ草などを束ね,これに火をつけ照明とするもの, で, ついまつ, しょう めい(松明), ともいう。『大言海』は, 「焼(た)き松の音便。松明(しょうめい)は,通鑑,唐肅宗紀,註『松枯而油存,可燎之為明』という語句アリ,正字通『滇人以松心為炬,號曰松明』 としている。これを見ると,「松明」は当て字ではなく,中国由来の言葉と見える。『字源』をみると, 松炬(しょうきょ), 松明(しょうめい), というらしい。 『由来・語源辞典』 http://yain.jp/i/%E6%9D%BE%E6%98%8E も,やはり, 「火を焚くための松の意の『たきまつ(焚き松)』が音変化して『たいまつ』になった」 としており,『日本語の語源』も同様であるが,『日本語源広辞典』は,二説挙げている。 説1は,「タキ(焚)+マツ(松)」 説2は,「手+火+松」。 後者は,手にかざす松の灯り,の意で,由来になっていない気がする。なお,『日本語源広辞典』には, 「松明に使う松は松脂(まつやに)の多い部分(コエマツ)を使った」 とある。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9F%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%A4 も, 「『焚き松』や『手火松』」 を挙げている。しかし,『世界大百科事典 第2版』は, 「神話では伊弉諾(いざなき)尊が黄泉国(よみのくに)を訪れるとき,櫛の男柱を欠いて燭(しよく)としたとつたえる。国語の〈たいまつ〉は〈たきまつ(焼松)〉の音便であろう。手火松(たひまつ)とする語源説は文献からは成立しない。松を灯火に用いるには,〈ひで〉(根の脂の多い部分)をこまかく割って台の上で燃やすことが,近年まで日本の山村や中国の一部で行われており,松脂をこねて棒にした〈松脂ろうそく〉も用いられていた。」 と,「たきまつ(焼松・焚松)」説を採る。『日本語源大辞典』は,三説挙げる。 タキマツ(焼松・焚松・燔松)の(名語記・日本釈名・類聚名物考・箋注和名抄・俗語考・柴門和語類集・日本語原学=林甕臣・大言海), タヒマツ(手火松)の義(東雅・言元梯・和訓栞・語簏・火の昔=柳田國男), ツキマツ(続松)の転(塵袋), その上で, 「平安時代には,単に『まつ』とも言い,庭上で立てて使う場合は『たてあかし』『たちあかし』とも呼んだ。また,『ついまつ(続松)』と記した例も多く,両者は同じように使われていたらしい。鎌倉・室町時代になると『まつび』『まつあかし』『あかしまつ』などと新しい呼び名も生まれる」 としている。こうみると,「あてあかし」とわざさわ立てる場合読んだのは,「まつ」ないし「たいまつ」が,手で持つことを全体としていたからだと想像される。とすれば,わざわざ,屋上屋を重ねる, タヒマツ(手火松), という言い方をしたとは思えない。 参考文献; 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 田井信之『日本語の語源』(角川書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 「かがりび」とは, 篝火, と当て, 夜中の警護または漁獲などの際に周囲を照らすために焚く火, である。後者は,漁火を指すと思われる。『大言海』には, 篝(かがり)に焚く火, とある。篝とは, 「薪を入れ,篝火を焚くのに用いる鉄の籠。釣り下げているもの,足を組み立ててのせるものなどがある。」(『広辞苑』) 篝籠, の意味である。「かがり」は, 篝, 炬, と当てる。「篝」(漢音コウ,呉音ク)は, 「竹+音符冓(コウ 前後を同じ形に対応させて木や竹を組む)」 とあり,組んだ物をまとめて言うらしく, かご, かがり, ふせご(火や香炉の上にかぶせるかご。「衣篝(イコウ)」「香篝(コウコウ)」), を意味する。中國由来かと思れる。『大言海』には,「かがり」について, 「赫(かが)を,カガルと活用させたる動詞ありて,其名詞形ならむと思はる。カガヤキの意」 とある。他の辞書には載らないが,『日本語源広辞典』は, 「カガ(眩い・輝く)+リ+火」 とし, 「篝火は大言海の説に従います。鉄製の籠に入れて,輝きを一層強くした焚火のことをいいます」 とする。松明に比べ,確かに明るく感じたに違いない。『日本語源大辞典』は,「篝」(かがり)の項で,「かがり」の語源を,カガ(赫)の活用という大言海説以外に, カは焚く意。火を焚く籠の意か(東雅), カケアリ(懸有)の義(名言通), カゴイリヒ(籠入火)の意か(類聚名物考), カハカリビ(河狩火)の転(日本語原学=林甕臣), タケアカリ(竹明)の約(言元梯), を載せるが,『大言海』の「カガの活用」に分がある気がする。ただ, https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11153679381 で, 「『互い違いに編む』という意味の動詞『かがる』の連用名詞形『かがり』から篝火に使う籠が『かがり』と呼ばれるようになり、篝に燈す火を篝火と言うようになった。和名抄には「篝…竹器也」とあり、元は竹製だったようだ。 『輝く』と結びつける語源説もあるが、『輝く』は近世初めまで『かかやく』と清音だったことや『篝』は元々籠を指す言葉だった点からみて『輝く』と関連づけるのは無理。」 とある。『広辞苑』の意味なら,漢字「篝」とも重なる。 『岩波古語辞典』の「かがやき」で,確かに, 「近世前期までカカヤキと清音」 と,ある。「かがる」は, 縢る, と当て, 糸をからげるようにして(互い違いにして)編み,または縫う, 意である。篝の意味とも重なる。ただ,「かがやく」の語源を見ると,「岩波古語辞典」説とは異なり, カガ・カガヤ(眩しい・ギラギラ)+ク(動詞化)(日本語源広辞典), カガは,赫(かが),ヤクは,メクに似て,発動する意。あざやく(鮮),すみやく(速)(大言海), カクエキ(赫奕)の転(秉穂録), カガサヤクの約言(万葉考), カケイヤク(火気弥)の義。カはクハの反(言元梯), 光の強く目に感ずるさまと,カ音の耳に強く感ずる趣の相似ていることから(国語溯原=大矢徹), と必ずしも,清音にこだわっていない。第一, かがよひ という言葉がある。「カギロヒと同根」(岩波古語辞典)で, 静止したのがキラキラと光って揺れる, 意である(「ともし火の影にかぎろふつせみの妹が笑まひし面影に見ゆ(万葉))。「かぎろひ」をみると, 「カガヨヒ・カグツチと同根。揺れて光る意。ヒは火」 そして,「輝きはカカヤキと清音。(かぎろひとは)起源的に別」とする。しかし,「カグツチ」は, 「カグはカガヨと同根。火のちらちらする意。ツは連体助詞,チは精霊」 で, 火の神, なのである。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B0%E3%83%84%E3%83%81 には, 「カグツチとは、記紀神話における火の神。『古事記』では、火之夜藝速男神(ひのやぎはやをのかみ)・火之R毘古神(ひのかがびこのかみ)・火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ;加具土命)と表記される。また、『日本書紀』では、軻遇突智(かぐつち)、火産霊(ほむすび)と表記される。」 とある。さらに,「火之R毘古神(ひのかかびこ)」の, 「R(かか)は、現代語の『かがやく』と同じであり、ここでは『火が光を出している』といった意味」 「火之迦具土神(ひのかぐつち)」の, 「迦具(かぐ)は、『かか』と同様『輝く』の意であり『かぐや姫』などにその用法が残っている。また、現代語の『(においを)かぐ』や『かぐわしい』に通じる言葉であり、ここでは『ものが燃えているにおいがする』といった意味」 とあり,やはり,「かが」は,『大言海』の「赫」とつながるのではないか。仮に,「かか」と濁らなかったとしても, 「かか」「り」「ひ」 とつなげたとき,濁るようにになるのは自然ではあるまいか。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「以来」は, 已来, とも当てる。 そのときからこの方, という意味と, この後, の二つの意味がある。 ある時点から以後, という意味と, 今という時点以後, では意味が少し違う。他の辞書には載らないが,『大言海』は, それよりこのかた, の意味に, 左傳,昭公十三年『自古以来,未之或失也』「開闢以来」 を引く。ある時点を基軸に,それ以降,という意味である。その上で,もうひとつ, 「誤りて,この後,今後」 という意味を載せる。その意味で,「以来」は,本来, 爾来, それより後,その時以来, という意味だったと考えられる。ただ,今日,「以来」を,今後の意味では,あまり使わないが。 以来は謹むべき(大言海), 以来は酒をふつつとくだされまい(広辞苑), 以来屹度心得まする(大辞林), という用例は,あまり見かけまい。だから, 以来は、過去のことに限り(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1364822383), といった断言ができるのだろ。ま,言葉は生き物,言い切るのはちょと。。。。 さて,「以」(イ)の字は, 「『手または人+音符耜(シ すき)の略体』で,手で道具を用いて仕事をするの意を示す。何かを用いて工作をやるの意を含む,…を,…で,…でもってなどの意を示す前置詞となった」 とある。「以来」は,「それより来りて」といった意味になるので,一定時点が,過去でも,たった今でも,一秒でも前なら,その意の範囲に入る,と言ってしまえば,「過去」に限定などと堅いことは言えまい。因みに,「以」の草書体が平仮名の「い」になった。 「以来」は「已来」とも当てるが,「已」(イ)の字は,「未(いまだ)」と対で,既に,という意味になる。「已然」「已往(イオウ すでに過ぎ去ったこと)」「已知之矣(すでにこれを知れり)」といった使い方をする(漢字源)が, 「古代人がすき(農具)に使った曲がった木を描いたもの。のち耜(シ すき)・以(イ 工具で仕事をする)・已(やめる)などの用法に分化した。已(やめる)は,止(とまる)・俟(イ とまって待つ)に当てた用法。また以に当ててもちいる。」 とあり,「以来」と「已来」は代替されたとみられる。「已来」は「これより来った」といった意味なので,ある時点以降を指すという意味では,「以来」と重なる。 「爾来」は, それより後, の意だが,「爾」(漢音ジ,呉音ニ)の字は,「我」と対の「爾(なんじ)」であるが, 「柄にひも飾りのついた大きいはんこを描いたもの。璽(はんこ)の原字であり,下地にひたとくっつけて印を押すことから,二(ふたつくっつく)と同系のことば。またそばにくっいて存在する人や物を指す指示詞に用い,それ,なんじの意をあらわす」 とある。「爾来」は,「其処より来りて」といった含意であろうか。 ただ,「以」は,以後,以上,以下のように,その時点を含んだ含意が明確なので,発話者は,「以来」といったとき,その時点にまで立ち戻って,「それ以来」といっているニュアンスがあるが,「已来」も「爾来」も,「すでに」「そこ」と,今の時点からその時点を見て,遠くから発話しているというニュアンスを感じる。ま,臆説だが。 参考文献; 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「エビ」は, 海老, 蝦, 鰕, と当てる。 「海老」の字は,当て字のようだが, 「これは中国にはなく、平安時代の漢和辞書『和名類聚抄』(934年)に記載がある。エビはひげを蓄え、体が丸くなった老人に似ていることから、長寿を喜ぶ意味を込めて『海老』となった。」 とか(http://zatsuneta.com/archives/001917.html)。 漢字「蝦」の字は, 「右側の字(音カ)は,仮面や外皮を被る意を含む。蝦は,それを音符として,虫を加えたもの」 蝦蟆(カボ)はガマ,ヒキガエルの意になる。「鰕」(漢音カ,呉音ゲ)は, 「右側の字は,上にかぶせるという基本義をもつ。鰕は,それを音符にし,魚を添えた字」 とある(『漢字源』)。因みに「老」(ロウ)の字は, 「年寄りが腰を曲げてつえをついたさまを描いた」 象形文字。 一説に,「エビ」は, 「新井白石の『東雅』(1719)には、『エビは其(そ)の色の葡萄(えび)に似たるをいひ、俗に海老の字を用ひしは、その長髯傴僂(ちょうぜんうる)たるに似たる故也』と、エビの語源と海老の字義が載っています。 葡萄が語源なのです。」 とあり(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q119938581),この説がネット上では大賑わいである。たとえば, http://goshoku.co.jp/column/ebi/reason.html にも, 「 日本では古来からブドウ類をエビヅル(エビカズラ)と呼び、果実が熟した時の実や汁の濃い赤紫色の事をエビ色と呼んでいました。 一方、『エビ』を熱すると『葡萄』のような紫を帯びた暗い赤色になり、葡萄の色に似てきます。 このことから、『エビ』の事も『葡萄=(えび)』と呼ぶようになったんだそうです。」 と。しかし,「エビカヅラ」について,『岩波古語辞典』は, 葡萄, 葡萄蔓, と当て, 「蔓の巻き具合が,エビのひげに似る故の名か」 とある。
「エビカヅラ」は,エビヅルの古名。エビヅル(蝦蔓、蘡薁)は,
「サンマ」は, 秋刀魚, と当てるが(『大言海』は「秋光魚」とも当てる),中国語でも同じ漢字で記して「qiūdāoyú」と読まれている,とある。しかし, 「体が刀状で秋の代表的な魚であるところからの当て字」(『語源由来辞典』) らしい。かつては, https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1258000152 によると, 「江戸時代には『鰶』や魚ヘンに『箴』と書く漢字(鱵)があてられていたそうです。『鰶』は、サンマの呼び名『サイラ』に由来するとも言われます。南房総地方の網元に伝わる文書には、『サンマ』とルビのフられた『鰶』の文字がみられます。大正になると『鰶』と『秋刀魚』の両方が見られ、昭和になると『鰶』の文字は消滅するのだそうです。」 とか。 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%A7%8B%E5%88%80%E9%AD%9A には,「秋刀魚」の字に由来について, 「『三人麻雀』の略称である『三麻』を『さんま』と音読みすることから転じて、…『秋刀魚』の字をあてた」 と出ている。面白いが,如何であろうか。 https://www.videlicio.us/CULTURE/ZE2xt61c によると, 「当初、サンマはサヨリの仲間だと思われていたようで、『本朝食鑑』(元禄10年、1697年)では『サヨリ』の項に登場し、『沖サヨリ』と言う名前で紹介されています。また、『島サヨリ』とも言われていたようです。いちめいに『ノウラギ』とも呼ばれ、『乃宇羅幾』、あるいは『乃宇羅岐』と書かれました。(中略) 同書のサヨリの項でやっと『三摩(サンマ)』と言う呼び名が登場し、形はサヨリに似ているが、味は大きく劣る、と書かれており、食べたのは庶民が食べたとあります。 『本草綱目啓蒙』(文化2年、1805年)では『鱵魚』の項に延喜式ではヨリトウヲ、ヨロト、サヨリ、ナガイハシ、などの呼び名の後に、紀州熊野にではオキサヨリ、江戸ではサンマと呼ぶと書いてあります。また播州(現在の兵庫県辺り)、讃州(香川県辺り)ではサイラと呼ぶとあります。(中略) 『倭漢三才図会』(文政7年、1824年)では『さいら』の項に『のうらき』『乃宇羅岐』と付記してありますので、文政頃にどちらも同じ魚だと言うことになったのではないかと思われます。 「秋刀魚」の字が使われるようになるのは、明治に入ってからとの事です。」 明治になってからのことのようだ。この説に依ると,「サンマ」として,分化され,認知されるのは,かなり後になってから,ということになる。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%9E によると, 「サンマは古くは『サイラ(佐伊羅魚)』『サマナ(狭真魚〉)』『サンマ(青串魚)』などと読み書きされており、また、明治の文豪・夏目漱石は、1906年(明治39年)発表の『吾輩は猫である』の中でサンマを『三馬(サンマ)』と記している。これらに対して『秋刀魚』という漢字表記の登場は遅く、大正時代まで待たねばならない。現代では使用されるほとんど唯一の漢字表記となっている『秋刀魚』の由来は、秋に旬を迎えよく獲れることと、細い柳葉形で銀色に輝くその魚体が刀を連想させることにあり、『秋に獲れる刀のような形をした魚』との含意があると考えられている。1922年(大正10年)の佐藤春夫の詩『秋刀魚の歌』で、広くこの漢字が知れわたるようになった。ただし、迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)の幼少期のエピソードから、『秋刀魚』の表記は明治後期に流布していたとみなすこともできる。」 とあり,これは,「サンマ」が,一般的に食されるようになったこととつながる。『たべもの語源辞典』は, 「江戸では安永(1772〜81)ころになると『安くて長きはさんまなり』という壁書があるくらい流行してきた。下々の者が食べたのだが,寛政(1789〜1801)になると中流階層以上にも好む者が出て来て,『サンマがでるとアンマが引っ込む』といわれるほど健康によいたべものとされるようになる。京都ではサヨリとよんでいた。」 とある。なお,『大言海』は,京都にてはサヨリ,大阪にてはサイラとし,「さいら」の項を別途立てて, 「鱵魚(さより)の転」 としている。「サイラ」「さより」等々,地域性もあるにしても,様々に呼ばれてきたものが,18世紀末,つまり江戸の繁栄に伴って流入してきた江戸の下層民,つまりは江戸ッ子が,サンマを認知したことで,「サンマ」が「サンマ」として分化してきたように思われる。 さて,その「サンマ」の語源であるが,『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/sa/sanma.html 「サンマの語源は、体が細長いことから『狭真魚(さまな)』の音便約とする説。 古くは『三馬』や単に『馬』と言われており、『サウマ』『サムマ』『イソムマ(磯・甘味)』からとする説。『イサウマナ』『サムマナ』『サムナ』の順に変化したとする説などあるが、どれも確定できるものではない。」 と確定を避けているが,『大言海』は, 「三馬とも表記狭眞魚(さまな)の音便約なるべし(狭俵[さだわら],さんだわら)」 とする。『日本語源広辞典』も, 「狭(サ,細くとがった)+真魚(マナ)」 を採る。 「サマナ(狭真魚)」→「サマ」→「サンマ」 と変化したということになる。そのほか, 大群で泳ぐ習性があるので「大きな群れ」を意味する「サワ(沢)」と「魚」という意味の「マ」がくっついて「サワンマ」→「サンマ」になった, という説もある。 たべもの語源辞典』は, 「サンマのサンはたくさんという意で,マは,まとまるとか,うまいという意である。」 とする。しかし,江戸中期以降でないと,「うまい」とか「秋の味覚」という評価はなかったのではないか。こけれは聊か疑問である。その他, スナホメナ(真理魚)の義(名言通), もとサウマ・サムマ。イサウマ(磯・甘味)の意味(衣食住語源辞典=吉田金彦), とある。しかし,「サンマ」のうまさが認知されるまで,その呼び名はさまざまであった。たとえば, https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%BE には,凄い異称が並ぶ。 はりお(はりを) :源順 『和名類聚抄』 承平年間(931-938年)に「波里乎(ハリヲ)」の名で記載あり。 さいら(佐伊羅魚) さいら(鰶=魚偏に祭) :「鰶」の第1義はコノシロ。 さまな(狭真魚) おきさより(沖細魚) :人見必大 『本朝食鑑』 1695年(元禄8年)に記載あり。 さんま(三摩) :『本朝食鑑』に記載あり。織田完之 『水産彙考』 1881年(明治14年)等にも記載。 さんま(銅哾魚) :神田玄泉 『日東魚譜』 1741年(元文6年)に記載あり。 さんま(鱵=魚偏に箴) :松易遷編 『名物類篇』 1848年(嘉永元年)に記載あり。※「鱵」の第1義はサヨリ。 さんま(青串魚) :伊藤圭介 『日本産物誌』(原題「日本地誌略物産弁」) 1872-76年(明治5-9年)に記載あり。大蔵省記録局編 『漁産一斑』 1884年(明治17年)にも記載あり。 さんま(秋刀魚) :織田完之 『水産彙考』 1881年(明治14年)に記載あり。これが恐らくは初出。「三摩ヲ秋刀魚(シウタウギヨ)ト云ルハ拠処ナシ」(凡例より) しまさより :『水産彙考』に記載あり。 さんま(秋光魚) :農商務省水産局編 『日本有用水産誌』 1885年(明治18年)に記載あり。 さんま(鰊) :『日本有用水産誌』に記載あり。 さんま(小隼) :大槻文彦編著 『言海』 1889年(明治22年)にのみ記載。 さんま(鰶=魚偏に祭) :静岡県漁業組合取締所編 『静岡県水産誌』 1894年(明治27年)に記載あり。 さんま(西刀魚) :台湾総督府民生局編著 『台湾総督府民政局殖産部報文』 1896年(明治29年)に記載あり。 さんま(三馬) :夏目漱石 『吾輩は猫である』 1906年(明治39年)に それだけ,共通認識にはなっていなかったということだろうか。やはり, 秋刀魚, を当てた人は,明治期だろうが,卓見である。 因みに,「サンマ」の学名「Cololabis saira」の「saira」は, 「日本語での一古称であり紀伊半島の方言名である『サイラ(佐伊羅魚)』に由来している。」 とか。『江戸語大辞典』には,「さんま」の項で,「サイラ」を,上方方言としている。 なお佐藤春夫の詩『秋刀魚の歌』は, http://www.midnightpress.co.jp/poem/2009/06/post_95.html に全文載る。 参考文献; https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%9E 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 「イワシ」は, 鰯, 鰮, と当てる。「鰯」の字は,国字である。「鰮」(オン)の字は,由来は不詳。『字源』には, 「馬鮫(サハラ)に似たる小魚」 とあり,「イワシ」に当てるのは,我が国だけのようである。中国人の視野には入っていない小さな魚のようである。「鰯」の国字は,「イワシ」が 「弱しの転」(『広辞苑』) とされるところから作られたものらしい。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AF%E3%82%B7 にも, 「『イワシ』の語源については各説ある。陸に揚げるとすぐに弱って腐りやすい魚であることから『よわし』から変化したとの説(漢字の「鰯」がこれに由来したとする)」 とするが, 「藤原京、平城京出土の木簡には『伊委之』、『伊和志』の文字があり、鰯(日本で作られた漢字、国字)の最も古い使用例は、長屋王(684年?〜729年)邸宅跡から出土した木簡である。」 と,かなり古くから「イワシ」は馴染みの魚のようである。 「イワシ」の語源は, 死にやすい魚であるところから,弱しの転(滑稽雑誌所引和訓義解・東雅・大言海), イヲヨワシ(和句解), といった「弱し」転訛説以外にも, 賤しい魚である意から,イヤシの転(日本釈名), イワシ(祝)の義(柴門和語類集), 等々(以上『日本語源大辞典』)の他, 弱(いわ)けな魚(童という字も「いわけない」と読む。「なし」は強めの語である。幼い者は心が弱,驚きやすいということから,この魚が童児のようだとして), イワシを女房ことばで「むらさき」という。鮎(の字を藍と考えて)にまさるから, イワシの鱗が紫色に見えるから「むらさき」, 塩をしたイワシが紫黒だから「むらさき」, イワシの集まってくる海面が紫になるから「むらさき」 と(以上『たべもの語源辞典』),「むらさき」と呼ぶ説が結構あり,俗説ながら,「むらさき」説には, 「紫式部が夫の宣孝の留守にイワシを焼いて食べていたら,夫が帰ってきた。そんな卑しいものを食べてと叱ると,『日のもとにはやらせ給ふいはし水まいらぬ人はあらじとぞ思ふ』と歌で抗議した。紫式部の好きな鰮だから紫といった」 という説まであるらしい(『たべもの語源辞典』)。 どうやら,「弱し」説が有力に思えるが, https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1313276908 に, 「『よわし』→『いわし』と変化した…説は有力ではあるが、『ヨ』が『イ』へと変わる転訛の例が他にないため、その点においては否定的に見られる。」 とある。『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/i/iwashi.html も, 「いわしは、すぐに死んでしまう弱い魚であることから、『弱し(よわし)』が転じたとする説が 有力で、『鰯』の表記も平安時代から見える。また、ハ行転呼音の以前から、『弱し』も『いわし』も第二音節が『ワ』で一致する。ただし、第一音節の『ヨ』から『イ』への音韻交替は他に例がない。」 としている。 「イワシ」について,こんなエピソードがある(『たべもの語源辞典』)。 「白い土器(かわらけ)に鰯を入れて,その上に同じ土器をかぶせて供した。これを『きぬかつぎ』といったとある。隠して供したのは,イワシは下々の者の用いるものだからという。このイワシはゴマメ(五万米)で,カタクチイワシを素干し(生のまま風干し)である。『ごまめ』を『田作(たづく)り』ともいう。田をつくるときの祝肴に用いたからである。(中略)正月のたべものとして『田作り』は取り上げられるものである。(中略)天皇が御衰微のとき,頭つき一尾という儀式に際して,最も安いイワシを一尾用いられたという故事から正月の祝肴として用い,農夫もまた田植えの祝肴として用いたから『田作り』とよんだのである。イワシを茹でてから干したものを煮干しという」 この例といい,紫式部の俗説といい,イワシは下々の食するものであった。となると, いやし→いわし, ではあるまいか。 因みに,「カタクチイワシ」は,『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/ka/katakuchi.html に, 「下あごが小さく,上あごが前方に突き出ている。上あごだけで片方の口がないようにみえることから」 とある。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 「ナメクジ」は, 蛞蝓, と当てる。『広辞苑』には, なめくじり, なめくじら, とも,とある。 『日本語源大辞典』は,「ナメクジ」の語形について, 「全国に分布する語形の中で,ナメクジ,ナメクジリ,ナロクジラの三種が優勢であり,そのほか,マメクジラ,マメクジ,ナメラクジなど多様な語形がみられる。ナメクジリの語形は,この虫が野菜や樹木を「なめてくじる」という民衆語源からまれたと言われる。ナメクジラは,ナメクジリが『鯨』への類音牽引によって変化した可能性がある。ナメラクジはナメクジラの音位転倒形である。」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%A1%E3%82%AF%E3%82%B8 には, 「一般にナメクジと呼ばれるものは分類学的にはカタツムリと同じ有肺亜綱の柄眼目に属し、カタツムリの一種とも言える。カタツムリの貝殻が徐々に退化して小さくなり体内に入って見えなくなればナメクジの形になるが、実際にはその途中の形態をもつ種類もある。」 と,カタツムリの進化系なのだという。 カタツムリが進化していくうちに殻を退化させた, ものという。こういう「貝殻の消失」を, ナメクジ化(limacization), というらしく,こうある。 「海に棲む前鰓類のチチカケガイ科や後鰓類のウミウシ類もそれぞれ独自にナメクジ型に進化した巻貝と言える。ナメクジ化が起こる理由はかならずしも明らかではないが、殻を背負っているよりも運動が自由で、狭い空間なども利用できるメリットがある。地中でミミズ類を捕食するカサカムリナメクジ科では、その特異な捕食環境に適応した結果ナメクジ化したと見なすこともできる。」 と。 http://e-zatugaku.com/seibutu/sneil.html には, 「海の巻貝が進化して殻がなくなったのが『ウミウシ』で、アンモナイト(貝じゃなくて頭足類)が進化して殻がなくなったのが『イカ』っていう感じですが(厳密には違います)」 とあるのがわかりやすい。 さて,その「ナメクジ」の語源について,『大言海』は,「なめくぢ」の項で, 「ナメは滑の義,クヂは縁行の意か,又,滑鯨(なめくじら)の略か」 とある。 倭名鈔「蛞蝓,奈女久知」 本草和名「蛞蝓,奈女久知」 字鏡「蝓,奈女久地」 といずれも,「なめくぢ」である。『岩波古語辞典』は,「なめくぢり」で載り, 「ナメは,滑(なめ)の意」 とあるが,「なめくぢり」は,「ナメクジ」は, 蛞蝓, と当てるが, 蚰蜓, と当てると,「げじげじ」の意となる,とある。「なめ(滑)」は, なめらかなこと,なめらかなもの, の意である。『日本語源広辞典』は, ナメ(滑らかのナメ)+クジ・クズ(腐敗したもの), とする。「なめ(滑)」はいいとして,「くじ(くぢ)」が何かが焦点になりそうである。『語源由来辞典』も, http://gogen-allguide.com/na/namekuji.html も, 「『ナメ』は滑らかに移動する姿から『滑』の意味が有力と考えられ,舐めるように這うことから『舐め』というせつもある。」 とし,「滑」か「舐め」というところに行きつく。『語源由来辞典』は,さらに, 「『クジ(クヂ)』は,ナメクジが植物の上を這った後,えぐられたようになっていることから,『あける』『えぐる』という意味の『くじる』とする説もあるが,民間語源である。」 と,民間俗説とする。もともと「なめくじ」と「かたつむり」は区別されていなかったため,『日本語源大辞典』は, 「『なめくじ』をハダカナメクジ,ハタガカナイト,ハダカメーメー,ハダカダイロなどと呼ぶ地域があるが,これらは『かたつむり』とくべつするために『なめくじ』にハダカを冠した語形である。」 という。なかなか古代の人々の眼力は端倪すべからざるものがある。語源諸説は, ナメは滑,クヂは縁行の意か(大言海), ナメは滑の義,クジも滑る物の称(俗語考), ナメラケシ(滑化)の義(言元梯), ナメは滑の義,クチラはクヂリたる形から(日本語源=賀茂百樹), ナメクリタリ(滑転垂)の義(名言通), ナメクヂラ(滑鯨)の義(和字正濫鈔・俗語考・大言海・上方語源辞典=前田勇), ナメクシリ(圬来知)の義(柴門和語類集), とあるが,「クジ」「クジリ」の解は見当たらない。これは「クジ」「クジリ」が別の転訛ではないかと思わせる。『日本語の語源』は, 「古人は目口無き虫をみて〈無目口虫〉と漢文流に表現し,禁止の副詞の『な鳴きそ』の語法を応用してこれをナメクチ(無目口)と読んだのがナメクヂになった。文献には奈女久知(和名抄),奈女久地(新撰字鏡)と見えている。〈いみじくきたなきもの,なめくぢ〉(枕草子)。 室町時代にはナメクジ(日葡辞典)といい,語調を整えてナメクジリ(節用集。日葡辞典)・ナメクジラといった。〈五月雨に家ふりすててナメクヂリ〉(猿蓑)。 語頭の『な』が子交(子音交替)[nm]をとげてマメクジ・マメクジリ・マメクジラという所は多い。」 とある。いくらか苦しいか。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 田井信之『日本語の語源』(角川書店)
「いたる」は, 至る, 到る, と当てるが,「いたる」に該当する漢字は,この他, 格る, 詣る, 距る, 迄る, 等々もあるようだが,その区別について,『字源』は, 至は,至極の義にて,其の處まで来たり着く義。詩經「如川之方至」 到は,至也。彼より此処に到着する意。至と通用す。至家を到家ともかく,されども,知至・徳至には到は用ひず,論語「民到于今称之」 詣は進なり,往く也,到也などと註す, 格は,至也,来也,感通也と註す,至るべき正しき處に止まる義。書經「舞于羽于両階,七旬有苗格」, 距は,向こうにここ迄と限りありて至るなり,書經「予決九川,距四海」 迄は,至也。詩經「以迄于今」, とあり,どうやら,「至」と「到」の区別が基本と見える。 「至」(シ)の字は,会意文字で, 「『矢が下方に進むさま+一印(目指す線)』で,矢が目標線まで届くさまを示す」 とある(『漢字源』)。しかし, https://okjiten.jp/kanji975.html は, 「指事文字です。『矢が地面につきささった』象形から、『いたる』を意味する『至』という漢字が成り立ちました。」 とする。「会意文字」は, 「すでにある象形文字や指示文字を組み合わせて、もとの漢字の意味を生かした新しい漢字。木がたくさんある→木を組み合わせて→森」 で,「指示文字」は, 「形がない物事を線・点で表す漢字です。数を表す→一、二など,位置を表す→上、下など」 だが(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14112617784による),どちらかというのは微妙だが, https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%87%B3 は,象形又は指事とし, 「矢と地面を表し、矢が地面に刺さった形。矢がある目標地点に『いたる』ことを意味する。」 としている。いずれにしても,矢が,目標地点に届いたさま,ということになる。 「到」(トウ)の字は,会意兼形声で, 「到は『至+音符刀』。至は,矢が一直線に届くさま。刀は,弓なりにそった刀。まっすぐに行き届くのを至といい,弓なりの曲折を経て届くのを到という」 とある(『漢字源』)。 https://okjiten.jp/kanji1108.html は, 「形声文字です(至+刂(刀))。『矢が地面に突き刺さった』象形(『至る』の意味)と『刀」の象形(「かたな」の意味だが、ここでは、『召』に通じ(『召』と同じ意味を持つようになって)、『まねく』の意味)から、『(まねかれて)いたる』を意味する『到』という漢字が成り立ちました。』 とし,多少意味が違う。 因みに,「形声文字」は, 「意味を表す部分と音を表す部分を組み合わせて作った新しい漢字です。『洗』は、意味を表す『さんずい(水を表す)』と、どう発音するか音を表す『先(せん)』が合わさってできています。」 (https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14112617784による) を意味する。 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%88%B0 は,会意と形声の二説を挙げ, 「字の初形は、至と人とに従う。至は矢の到達するところ、そこに人の立つ形である。至と、音を表す刀とで、いたりつく意をあらわす。」 と二つの由来を挙げている。「刀」と「人」ということで意味がわかれる。しかし,いずれにしても,そこへ到達しているということよりは, たどりつく, という含意になるようだ。ついでに,「格」(漢音カク,コウ,呉音キャク)の字は,「格物窮理」「格物致知」の成語でも知られる。会意兼形声で, 「各は,夂(あし)と四角い石を組み合わせて,足が堅い石につかえて止ったさまを示す。格は『木+音符各』で,つかえてとめるかたい棒」 とある(『漢字源』)。しかし, https://okjiten.jp/kanji790.html は, 「会意兼形声文字です(木+各)。『大地を覆う木』の象形と『上から下へ向かう足、口の象形』(神霊が降ってくるのを祈る意味から、『いたる』の意味)から、木の枝がつきでる事を意味し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、『いたる』、『地位』、『法則』を意味する『格』という漢字が成り立ちました。」 とある。しかし「各物窮理」という表現の語感は,「足が堅い石につかえて止ったさま」がよく表している気がする。 さて,「至」「到」「格」等々を当てはめた「いたる」は,『広辞苑』は, 「イタ(致)ス,イタダキ(頂)と同源」 とし,『岩波古語辞典』も,「至・達・及」の字を当てて, 「イタは,イタシ(致し)・イタダキ(頂)・イタ(甚)と同根。極限・頂点の意。時間・程度道程などについて,出発点から徐々に進んで最高の度合いに達し,極まる意」 とする。その意味では,「到」ではなく,「至」の字を当てるのが妥当なのだろう。『大言海』は, 「行足(いきた)るの略か(かきなぐる,かなぐる)」 とし,萬葉集の, 「唐國に,行き足らはして,帰來む,丈夫(ますら)武男(たけお)に,御酒(みき)たてまつる」 の,「行き足らはして」を「いきとどきて」と解している。 しかし,「至」を当てたとすると,そこへ届いたという意であって,そのプロセスは含意にない。その意味で,「いた(甚)」の, 「極限・頂点の意。イタシ(致)・イタリ(至)・イタダキ(頂)と同根。イト(甚・全)は,これの母音交替形」 の説明(『岩波古語辞典』)の方が説得力がある。 『日本語源広辞典』は, イタ(極点)+ル(動詞化), イ(行き)+足る(わたる), の二説を選択していないが, 「極点に到達している」(『日本語源広辞典』) というのと, 「ある場所,ある時間,ある状態に,行き着く,または到達する」(『日本語源広辞典』) という意味の説明をみても,前者の方がすっきり納得できる気がする。 極点, そのものを動詞化したものとみたい。 「いくさ」は, 軍, 戦, 兵, と当てる。 「軍」(漢音グン,呉音クン)は,会意文字で, 「『車+勹(外側をとりまく)』で,兵車で円陣をつくって取り巻くことを示す。古代の戦争は車戦であって,まるく円を描いて陣取った集団の意。のち軍隊の集団をあらわす」 とあり,「たたかい」「つわもの」「兵団」の意である(『漢字源』)。 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%BB%8D には,「『勹』車に立てた旗を象ったもので象形とも」とある。 https://okjiten.jp/kanji660.html には, 「会意文字です(冖(勹)+車)。『車』の象形(『戦車』の意味)と『人が手を伸ばして抱きかかえこんでいる』象形(『かこむ』の意味)から、戦車で包囲する、すなわち、『いくさ』を意味する『軍』という漢字が成り立ちました。」 「戦(戰)」(セン)の字は, 「單(単)とは,平らな扇状をした,ちりたたきを描いた象形文字。その平面でぱたぱたとたたく。戦は『戈+音符單』で,武器でぱぬぱたと敵をなぎ倒すこと。また憚(タン はばかる)に通じて,心や皮膚がふるえる意に用いる。」 とある。「たたかう」意だが,「たたかう」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba8.htm#%E3%81%9F%E3%81%9F%E3%81%8B%E3%81%86) で触れたように, 「タタ(叩)クに接尾語フのついた語」 とあるから,「戦」の字義と通じるものがある。 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%88%A6 は,「單」を, 武器の一種の象形、盾の象形とも, とある。 https://okjiten.jp/kanji701.html は,だから, 「会意兼形声文字です(単(單)+戈)。『先端が両またになっているはじき弓』の象形と『先端に刃のついた矛(ほこ)』の象形から『たたかう』を意味する『戦』という漢字が成り立ちました。」 という説を採る。 「兵」(漢音ヘイ,呉音ヒョウ)の字は,会意文字で, 「上部は斤(おの→武器)の形,その下部に両手を添えたもので,武器を手に持つさまを示す。並べあわせて敵に向かう兵隊の意。」 とある。 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%85%B5 も, 「斤(おの)」+「廾(両手をそろえた様)」、斧(=武器)を両手で持つ様, とし, https://okjiten.jp/kanji635.html も, 「会意文字です(斤+廾)。『曲がった柄の先に刃をつけた手斧』の象形と『両手』の象形から、両手で持つ手斧を意味し、そこから、『武器・兵士・軍隊』を意味する『兵』という漢字が成り立ちました。」 とする。 「戦」「軍」「兵」ほ当てた「いくさ」は,例えば,『日本語源広辞典』が, 「イ(射)+クサ(人々)」 で,「射る兵卒」の意とするのが典型で,『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/i/ikusa.html も, 「いくさの『いく』は、矢を『射る』『射交わす』意味の『いくふ(いくう)』か、『まと(的)』を意味する『いくは』の語根。いくさの『さ』は、『矢』を意味する『さ(箭・矢)』、もしくは接尾語の『さ』。つまり、いくさの語源は『矢を射る』『矢 を射交わす』ことである。古く,『いくさ』の語は『矢射るわざ(こと)』の意味で用いられることが多く,『戦争』や『戦闘』の意味が主となったのは中世以降である。」 と,細部の分析はともかく,「矢」と「射る」というに深くつながるらしい。『大言海』は,「いくさ」について, 射, 軍, を別項を立てている。前者「いくさ(射)」は, 「イクは,射(いく)ふの語幹。,サは,箭(さ)なり。…箭を射ふ,即ち,射箭(イクヒサ)なり(贖物[あがひもの],あがもの,馳使部[はせつかひべ],はせつかべ)。賀茂真淵云ふ『伊久佐は,射合箭(イクハシサ)と云ふことなり』」 とし,「射(いく)ふ」の項で, 「射交(いか)ふ(行交ふ)の転にて(ゆかりなし,ゆくりなし。いつかし,いつくし),射るに連なりて,他動となり,射交わすの意ともなれるなるべし。明け暮らすも,自動と合して他動となる」 とし,「箭(さ)」の項では, 「刺すの語根にもあるべきか,…或は征箭(そま)の約かとも云ふ,いかが。朝鮮語に,矢を,サルと云ふとぞ」 とする。いささか自信なさげであるが,『岩波古語辞典』に「さ(箭・矢)」は, 「矢(や)の古語。朝鮮語salの末尾の子音を落した形」 とある。で,「いくさ(軍)」の項は, いくさびと, いくさだて, の意とある。これは,「いくさ」が戦いの意に転じた後の使い方なのだと思われる。 これまでのところ,「いくさ」は,「射交わす」の意とされているが,語源説は,大きく二つに分かれる。『日本語源大辞典』は, 「『いく』は『的』を意味する上代語の『いくは』,また『射る』の意の『いくふ』と関係があるか。『いきいきとして生命力の盛んなるさま』を表す接頭語の『いく(生)』との説もある。『さ』は『箭(や)』の意の『さ』『さち』と同根とも,接尾語の『さ』とも考えられる。」 と説くが,『岩波古語辞典』は, 「イクはイクタチ(生大刀)・イクタマ(生魂)。イクヒ(生日)などのイクに同じ。力の盛んなことをたたえる語。サはサチ(矢)と同根。矢の意。はじめ,武器としての力のある強い矢の意。転じて,その矢を射ること,射る人(兵卒・軍勢),さらに『軍立ち』などの用例を通じて矢を射交わす戦いの意に展開」 やはり「や(箭)」につながるが,「いく」が, 「生命力が盛んなのをほめる」 接頭語で,「生(いく)太刀」「生(いく)日」「生(いく)魂(むすび)」という言い方には,呪力を込める思いがある。結局, 矢を射る(人)→矢を射交わす→戦, と,意味がシフトしていったにしろ,その矢に思いを込めるという説に惹かれる。 『大言海』の,「軍」でいう,「いくさびと」は, 「射人(いくさびと)の義,射(いくさ),即ち,弓射る人の義。戦争の武器は,弓矢を主としたりき,後世,弓矢取,又弓取などと云ふも,是なり」 とあり,「いくさだち」(軍立)は, 「射立(いくさだち)の義。タチは役立(えだち)の立に同じ。射(いくさ),弓矢の役に立つ義なり,イクサとのみ云ふは,下略なり。…イクサと云ひて,戦争の意とするは後世の事にて,古くは見えず,上代にイクサと云ひしは軍人(イクサビト)のことなり。…然るに軍人の義なる語は,夙(はや)くに滅亡して,戦争(いくさ)の意,其称を専らとするに至れり」 とし, イクサビト(軍人)→イクサ(戦), と転じたとする。 どの場合も,「いくさ」しか指さなくなったが,考えれば,その目的はそれなのだから,はずれているというわけではない。戦争の意で用いられるのは,中世以降, 「特に,『平家物語』『保元物語』など軍記物語にはこの意でもちいられている。」 という。「いくさ」のこういう変化は,「軍→いくさ」「兵→いくさ」という拡大と重なっている。因みに,「軍立」は「いくさだて」と訓まれ, 戦いの方法, つまり,軍略の意,に転ずるのは当然と言えば当然か。 なお,「矢」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba7.htm#%E5%BC%93%E7%9F%A2)については で触れた。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 掌笹間良彦『図説 日本戦陣作法事典』(柏書房) 「鬨(とき)」は, 鯨波, 時, とも当てる。『広辞苑』には, 「合戦の初めに全軍で発する叫び声。三方の士気を鼓舞すると共に,敵に向かって戦いの開始を告げる合図としたもの。敵味方が相互に発し合い,大将が「えいえい」と二声発すると,一同が「おう」と声をあげて合わせ,三度繰り返すのを通例とした, とあり, 鬨をあわす, とは, 敵の鬨の声に応じて味方が鬨の声をあげることをいう, とあり,鬨をあげるのを, 鬨をつくる, とも言う。「鬨」(漢音コウ,呉音ク)の字は, 「門(たたかう)+音符共(いっせいに)」 で, ときの声, 戦場で,一斉にあげる声, で,どちらかというと,我が国のような「鬨をつくる」というよりは,どっとあげる喚声のイメージである。だから, 鬨ふ, で戦うという意味にもなる。 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%AC%A8 は, 「会意形声。『鬥』+音符『共』。『共』は手を『そろえて』物をささげる様。そろって争う。」 とある。『世界大百科事典』には, 「一般に戦場でのさけび声をいう。敵味方対陣するなか,戦闘は,それぞれがまず鬨をつくることから始められた。戦勝での勝鬨(かちどき)はよく知られている。《和訓栞》には〈軍神招禱したてまつる声を時つくるといひ,敵軍退散して神を送りたてまつる声を勝時と名(なづ)くともいへり〉とある。出陣にさいしても鬨をつくったことは,《吾妻鏡》の宝治合戦(1247)を記す部分に〈城九郎泰盛……一味の族,軍士を引率し,……神護寺門外において時声を作る〉とある例からも知られる。」 とあり,「勝ち鬨」について, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%A8 は, 「『鴉鷺合戦物語』(15世紀末前後)にも作法についての記述があり、戦初めの時に『鬨を三度』出し(これは13世紀成立の『平家物語』『平治物語』も同じ。)、戦後の勝ち鬨に関しては、『勝ち時(鬨)は一度、始め強く、終わり細かるべし』と記している。 上泉信綱伝の『訓閲集』(大江家の兵法書を戦国風に改めた書)巻十『実検』の中の、帰陣祝いの規式の法、の項に、『勝凱をつくることは、軍神を送り返し、奉る声なり』と記述されており、信仰的な面と繋がっていたことをうかがわせる。なお『訓閲集』の表記では、「えい」も「おう」も異なり、『曳(大将が用いるエイ)』『叡(諸卒が用いるエイ)』『王』の字を用いており、また、軍神を勧請する際、『曳叡王(えいえいおう)』と記し、大将が『曳』と発した後に、諸卒が『叡王』とあげるとしており、声に関しては、『初め低く、末高く張り揚げる』と記している(前述の15世紀成立の『鴉鷺物語』と表現に変化がみられる)。」 等々とあり,いってみれば儀式化していく。たとえば, 「大将の乗馬は東向きにし、凱旋の酒宴において大将は右手に勝栗(『搗栗』。弓とする流派もある)を取り、左手に扇子(軍扇とする流派もある)を開き、あおぎながら発声し、諸軍勢一同が武器を掲げてこれに声を合わせることを『勝鬨』と言った。なお、戦勝後のみならず出陣式で行うのも勝鬨と言い、出陣の際には『初め弱く終わり強く』、帰陣の際にはその逆にしていたと伊勢貞丈の『軍用記』には記されている。」 とあるが,あの信長でさえ,熱田神宮で戦勝祈願をしている。士気鼓舞にも縁起担ぎにも必要な手続きだったのだろう。それを,『武家戦陣資料事典』では,こう書いている。 「この時代(源平合戦期)の合戦の駆引はどう行ったかというと,先ず双方,部隊を配して威勢をあげるために鬨を上げる。大将や主だった者が音頭をとって『えいえい』と叫ぶ。間髪をいれず全員で『おーう』と答える。腹の底から全身で叫ぶのでヤマハ賑わうように轟き敵を威嚇するのであるが,士気が沈滞していると反って頼りない音声となり,敵にさとられてしまうので小人数でも大勢いるように怒鳴る。大将の音頭の状態で何度でもあげる。敵も負けじと鬨をあげて威嚇する。鬨は戦直前の恐怖を振り落して気力を充実させるためにも必要のことで,全員が一斉にそろう場合と,部隊の配置によって尾を引くように強まるものと尾を引くように弱まる時とがあり,戦馴れた物師(戦い慣れた武士)にはその調子で敵味方の士気から勝敗の予想をたてるものもある。」 ことほど左様に,結構重要な儀式ではあったらしい。 さて,「鬨」について,「鯨波」と当てるのは, 大波, という意味なので,波が次々押し寄せるように声の波を拡げるというメタファとして使う,というのはわかる。『字源』の「鯨波」(げいは)の項に, 大波,ときに鬨の声に喩ふ, とあるので,これも中国由来とみられる。しかし,「鬨」に, 時, の字を当てるのが気にかかる。他の辞書からは由来を探る手がかりは得られないが,『大言海』には, 「古へ,禁中にて,夜,時を奏(まう)す聲に起ると云ふ。転じて,衆人の呼聲ともなる。又,鬨は孟子,梁惠王,下篇,趙注『鬭(闘)声也』と。鯨波は,祖庭事苑,四『鯨常以五月就岸,生數萬子,至八月引子還海,鼓波成雷,噴水成雨,云々』の句に因ると云ふ。」 とあり,時を告げる声に由来するという。 時を奏す, という言葉があり,『岩波古語辞典』には, 「昔宮中では,夜警の兵士が,亥の一刻から寅の四刻にわたり一刻ごとに時間を奏上した」 とある。また, 時の奏, ともいう。『広辞苑』にはこうあり,より詳しい。 「律令制では陰陽寮に時守(ときもり)を置き,漏刻すなわち水時計を見守らせてその時々の鐘鼓を打たせ,宮中では亥の刻の初めから寅の刻の終りまで宿直の官人が一刻ごとに時の簡(ふだ)に杙を差し替えて時を告げた」 とある。しかし,これでは声を上げていない。「時の簡(ふだ)」とは, 「清涼殿殿上の小庭に立てた時刻を掲示する札。札に刺した杙(くい)を時刻こど内豎(ないじゅ)が差し替えた」(『広辞苑』) とあり,その位置は, 「『禁腋秘抄』に『下侍二間あり、東は妻戸なり、次一間蔀なり。二つにわりて、西は、おろして、御膳(もの)棚をその前に立て、そばに時の簡をたてたり』とある。 一昼夜12時を各時4刻にわけ、第4刻のときのみ時の杙をさしたらしい。」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E3%81%AE%E7%B0%A) いずれにしろ,主上に奏上するのは,別に叫ぶわけではない。「鬨」の由来は,「時」と重なるだけに,時刻を告げることと重なるが,それ以上には確かめられなかった。 参考文献; 笹間良彦『武家戦陣資料事典』(第一書房) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 「とき」は, 時, と当てるが, 秋, 世, 刻, 季, 期, 節, 辰, 運, も,「とき」と訓ませたりする。 時勢の意味(「世紀」), 時刻の意味(「刻限」), 季節の意味(「季節」), 期限の意味(「期間」), 時期の意味(「危急存亡の秋」), 気候の意味(「時節」), 星辰の意味(「辰刻」), めぐりの意味(「運勢」), 等々「とき」だけで表現できない意味を,漢字の陰翳を使って伝えようとする苦心といっていい。漢字がなければ,日本語は,そもそも成り立たない。ひらがなを仮名とよび,漢字を真名と呼んだ先人の思いがよくわかる。 多く当てられる「時」(漢音シ,呉音ジ)は, 「之(シ 止)は,足の形を描いた象形文字。寺は『寸(て)+音符之あし』の会意兼形声文字で,手足を働かせて仕事をすること。時は『日+音符寺』で,日が進行すること。之(行く)と同系で,足が直進することを之といい,ときが直進することを時という」 とある(『漢字源』)。 https://okjiten.jp/kanji145.html は, 「会意兼形声文字です(止+日)。『立ち止まる足の象形と出発線を示す横一線』(出発線から今にも一歩踏み出して『ゆく』の意味)と『太陽』の象形(『日』の意味)から『すすみゆく日、とき』を意味する漢字が成り立ちました。のちに、『止』は『寺』に変化して、『時』という漢字が成り立ちました。(『寺』は『之』に通じ、『ゆく』の意味を表します。)」 とあり,結果としては,同じである。 『大言海』は,「とき」の項で, 「常(とこ)の転か,或は,疾(とき)の意かと云ふ」 とする。『語源由来辞典』, http://gogen-allguide.com/to/toki.html も, 「とどまることなく流れることから『とこ(常)』の転とする説と、速く過ぎることから『とき(疾)』の意味とする説がある。『年』の語源が『疾し(とし)』にあるとすれば、それよりも速く過ぎる『時』の語源が『とき(疾)』でも不自然ではない。また、『常』は『とどまることなく』の意味からとされるが、『つねにあるもの』は『停滞』を意味し,『流れる』という意味が弱いことから、『とき(疾)』としたほうがよいであろう。」 と,二説挙げ,「疾し」説を採る。しかし,『日本語源広辞典』は,三説挙げる。 説1は,「月の音韻変化」説。月の満ち欠けによって時の動きを示す, 説2は,「解ける・溶けるのトキ」語源説。溶けていく過程に時間の移り行きを示す, 説3は,「疾き」説。早く過ぎ去るを示す「トキ(疾き)」で時間の進行を示す, 個人的には,「疾き」というのは,如何かと疑問である。「早い」と感じるのは,時間だけなのだろうか。他と比してそう感じさせたという根拠があるのだろうか。何となく,後世の理屈で解釈しているように思える。むしろ, tuki→toki と,月を基準にする説が自然に思える。『日本語源大辞典』は,四説載せる。 トコ(常)の転か(東雅・大言海), トキ(疾)の義。速く過ぎるところから(名語記・和句解・日本釈名・名言通・柴門和語類集), トキ(辰)の義(言元梯), ツボコシ(坪越)の反。坪を過ぎれば,時が移るところから(名語記) やはり, 「月の音韻変化」説, に軍配を上げたい。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 「斎」は, とき, と訓ませる「斎」である。『広辞苑』には, 「食すべき時の意」 とあり, 「仏家で,午前中にとる食事,午後は食しないと戒律で定めている。斎食。時食」 とあり,そこから, 精進料理, 寺で出す食事, 法事 と意味が広がっていく。「斎(齋)」(漢音サイ,呉音セ)の字は, 「『示+音符齊(サイ・セイ きちんとそろえる)の略体』。祭りのために心身をきちんと整えること」 であり, 祭りの前に酒や肉を断ち,きまったところにこもって心を一つにして準備する, の意であり,やはり, ものいみ, 精進料理, とき(僧の食事), という意味になる。 https://okjiten.jp/kanji1829.html によると,「斎」の字は, 「会意兼形声文字です(斉+示)。『穀物の穂が伸びて生え揃っている』象形(『整える』の意味)と『神にいけにえを捧げる台』の象形(『祖先神』の意味)から、『心身を清め整えて神につかえる』、『物忌みする(飲食や行いをつつしんでけがれを去り、心身を清める)』を意味する『斎」という漢字が成り立ちました。」 とあり,やはり,心身を浄め整える意味がある。 『岩波古語辞典』には, 「時の意。仏教では元来,正午以後の食事非時食(ひじじき)として禁じたので,食すべき正しい時の食事をトキといった」 とある。従って,『日本語源広辞典』は,「斎」の語源は, 「時(とき)」 とし,こう付言する。 「午前中のものをトキ,午後のものをヒジ(非時)といいました」 と。「時」の意を,「斎」のもつ含意から,当て嵌めたと見ることができる。『大言海』は, 「食すべき時の義,齋は梵戒の鄔波婆婆(Upavāsa)の訳語にて,齋戒の齋,即ち食事を謹む意。比丘は戒律上非時に食ふべからず,時(午前中)に食ふを定法とす。故に,齋を時にかよはし,転じて,僧食を一般に齋と云へり」 とする。 齋を時にかよはし, とはいい表現である。「斎」は, 「とき」 と訓ますだけでなく, いつき, ものいみ, とも訓ます。総じて, 身を浄め,心を整える, といった意味だが,「斎」の字は,「い」と訓んで,『岩波古語辞典』によれば, イミ(斎・忌)と同根。 で,神聖である意だが,複合語としてのみ, 「斎垣」「斎串」「斎杭」「斎槻」 等々。さらに, いつき, と訓ませれば,『岩波古語辞典』によれば, 「イツ(稜威 自然,神,天皇の威力)の派生語。神や天皇などの威勢・威光を畏怖して,汚さぬように潔斎して,これを護り奉仕する意。後に転じて主人の子を大切にして仕え育てる意」 とあり,それが特定されると, 斎宮(いつきのみや), の意となる。 いむ, と訓ませると,「忌」とも当て, 神に仕えるために汚(けが)れを避けて謹慎する, 意と, 死・産・血などの汚れに触れた人が一定期間,神の祀(まつ)りや他人から遠ざかる, 意となり,さらに広がって, 方角・日取りその他,一般によくないとされている, 意へと広がる。 いわい, と訓ませると,「祝」とも当て,やはり, 心身を清浄にして無事安全を祈り神をまつる, 意となる。当然だが, さい, と訓ませれば,漢字「斎」の意と重なる。和語は,「斎」を当てた瞬間に,「斎」の意味の外延からでられなくなったように見える。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 「トキ」は,あの絶滅した, 朱鷺, 鴇, の意である。他に, 鵇, とも当てるが,「鵇」は国字である。また,「鴇」(ホウ)の字を「トキ」に当てるのは,我が国だけである。 「左側の字は,呆・保と同なじく,包む意を含む。鴇はそれを音符とし,鳥を加えた字で,羽で全身を丸く包んだ風がたちをした鳥」 で,「のがん」「ゆましちめんちょう」等々に当てられている。「トキ」は, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%AD によると, 「かつては北海道・本州・伊豆諸島・佐渡島・隠岐諸島・四国・九州・琉球諸島といった日本各地のほか、ロシア極東(アムール川・ウスリー川流域)、朝鮮半島、台湾、中華人民共和国(北は吉林省、南は福建省、西は甘粛省まで)と東アジアの広い範囲にわたって生息しており、18世紀・19世紀前半まではごくありふれた鳥であった。」 が,ロシア,大韓民国,朝鮮民主主義人民共和国,日本,台湾では絶滅,野生では中華人民共和国(陝西省など)に997羽(2010年12月現在) が生息しているだけとされる。 「飼育下では中国に620羽(2010年12月現在)、日本に211羽(2013年8月現在)、韓国に13羽(2011年7月現在)がおり人工繁殖が進められている」 という,ほぼ絶命状態である。人類が絶滅させた種の一つである。 『大言海』は,「トキ」に, 桃花鳥, 鴇, 鵇, と当て, ツキの転, としている。「ツキ」は「トキ」の古名である。「桃花鳥」というのは, 鵇色(ときいろ), から来ている。「鵇色」とは, 薄い桃色, であり,「トキ」を, 紅鶴, というのも,「トキ」の。 鵇(とき)の翅の如き色, で,『大言海』は,それを, 「薄紅の灰色を帯ぶる」 と表する。『岩波古語辞典』の「ツキ」の項に, 「紅鶴,ツキ」(名義抄) が載る。その翅の色が,染色に色として残った。 「トキ」の語源は, 「古名ツキの転」 という『大言海』の説以外,あまり載らないが,『日本語源大辞典』には,「ツキ」の由来について, 殺すと色がつくところからツキ(着)の義(名言通), タウケ(桃色)の義(言元梯), の二説のみ載る。いずれも,如何かと思う。 「サギ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%82%B5%E3%82%AE%EF%BC%88%E9%B7%BA%EF%BC%89)の項 で, 「『キ(ギ)』は『トキ』『シギ』などと同じく「鳥」を意味する接尾語で、『サ』が『白』を表し、『白い鳥』の意味とする説。」 が,最も魅力がある。『日本語源広辞典』は「とり」の項で, 「ト(飛ぶ)+り(接尾語)」 としているのでなおさらである等々と書いた。ただ,「トキ」は,「ツキ」の転とすると,「ツ」について考えなくてはならない。ひとつの臆説は,「ツ」は, 「チ(血)の古形」 と,『岩波古語辞典』にあることだ。とすると,「トキ」の, 淡紅色を帯びた白色。顔と脚が赤く,頭に冠羽がある, 特色ともつながる気がする。「朱鷺」と当てることとも通うじる。 ツ(血)+キ(鳥の意), 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店)
「ぬか」は, 糠, と当てる。穀物,特に玄米を精白した際に出る果皮,種皮,胚芽などの粉状のものを指す。細かなそれをメタファに,ある語に冠して,「細かい」「頼りない」「はかかない」等々の意を表す, (粉)糠雨, 糠喜び, 等々といった使い方をする。「糠」(コウ)の字は, 「庚(コウ)は,かたいしん棒を描いた象形文字。かたく張る意を含む。康(コウ)は『米+音符庚』からなり,穀物のかたいから。糠は『米+康』。」 とあり,穀物の外皮,さらにぬかの意。「糠」は, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B3%A0 には, 「日本では合成洗剤が普及するまで、米糠は洗剤としても広く用いられていた。米糠に含まれるγグロブリンというタンパク質が界面活性剤の役割を果たしているとされている。布袋に包んで、柱や床を磨き上げるなどの掃除にも利用された。」 とある。 『大言海』には, 「脱皮(ぬけがは)の略と云ふ」 とある。『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/nu/nuka.html も,同じく, 「ヌケカハ(脱皮)」の意味であろう。 『和名抄』にも『糠 米皮也』とあるように、玄米が皮を 覆った米とするならば、精米は皮が脱がされたもので、糠は脱がされた皮にあたる。 」 とある。『日本語源大辞典』も, ヌケカハ(脱皮)の義(箋注和名抄・名言通・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子。国語の語根とその分類=大島正健・大言海), ヌケカハの反(名語記), ヌギカハの略(本朝辞源=宇田甘冥) 米のヌケガラの義(和句解・日本釈名), と概ね「ヌケカワ」説である。『日本語源広辞典』は,「ヌケカハ」説ながら,「ヌカ」の「カ」について, 「ヌカの語源は,ヌケカハが,ヌカハ,ヌカと音韻変化したものです。ヌは,脱穀の意のヌですが,カを皮とみるか,離ルノカとみるか,二説あります。」 とし, 「説1は,『ヌ(脱ぐ)+カ(皮)』で,脱穀させたあとの,ヌケカワ説です。説2は,『ヌ(脱ぐ)+カ(離る)』で,籾のち,穀粒と離されたものというヌカ説です。農民は,コヌカ(粉+糠)―玄米の皮,外胚皮などが砕けて粉になったコメヌカ(米+糠)と,モミヌカ(籾+糠)―モミガラ(籾+穀)と区別しています。」 とするが,ここでは,前者の「コヌカ」を問題にしているので,この説明は,あまり意味がない。結局,「カ」は,いずれとも決めていないが,普通に考えれば, ヌ(脱ぐ)+カ(皮), ではあるまいか。 因みに,「糠喜び(ぬかよろこび)」は, 当てが外れて喜びが無駄になる, 意だが,『語源由来辞典』は, http://gogen-allguide.com/nu/nukayorokobi.html 「ぬか喜びの『ぬか』は,玄米を精白する時に生じる種皮や胚芽の粉末の『糠』のこと。『糠』はその形状から,近世頃より『細かい』『ちっぽけな』といった意味で用いられるようになり,『糠雨(ぬかあめ)』や『糠星(ぬかぼし)』という言葉にも使われている。さらに、『糠』が『小さい』の意味から派生し,『はかない』『頼りない』などの意味を持つようになり,はかない喜びを『ぬか喜び』というようになった。」 とある。しかし,個人的にはどうも精米するときの飛び散るイメージから来ているように思えてならない。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 「ほむら」は, 焔, 炎, と当てる。「炎」(エン)の字は, 「『火+火』で,盛んに燃えるさまを示す。談・啖・淡などの音符としては,タンと読むことがある。」 とある(『漢字源』)。 「焔(焰)」(エン)の字は, 「臽は穴にはまる意をあらわすが,ここでは単に音符で,元の意味は関係ない」 というしかないが(『漢字源』), https://okjiten.jp/kanji2294.html には, 「会意兼形声文字です(火+臽)。『燃え立つ炎』の象形(『火』の意味)と『人が落とし穴に落ちた』象形(『落ちる、落とす』の意味)から、火が落ちる事を意味し、そこから、『火が少し燃え上がるさま』を意味する『焰』という漢字が成り立ちました。」 とある。 「焔」「炎」いずれも,「ほのお」の意味である。 『広辞苑』『デジタル大辞泉』は「ほむら」の項で, 「火群(ほむら)の意」 としている。 「ほ(火)」は, 「ひの古形,他の語を伴って複合語をつくる」 とある。「火影(ほかげ)」「火口(ほぐち)」「火屋(ほや)」「火筒(ほづつ)」「火 垂 (ほたる) 」等々。「ほむら」は,単なる火ではない。 火の群れ, である。だから,「ほむら」は,メタファとして, 怒り,怨み,嫉妬の燃え立つ, 意としても使われる。「炎」は,また, ほのお, とも訓ませるが,語感としては,「ほのお」より大きく盛んな感じである。「ほのお」は, 「火の穂」 と,『広辞苑』にはある(『大言海』『日本語源広辞典』も)。『日本語源大辞典』には, 「キ(木)に対して複合語に表れる「コ」(木だち,木の葉)と平行的関係のもの」 とある。「ほのお」は,単に「火の穂」を示していて,ここには,状態表現しかない。「ほむら」となると,そこに価値表現が加味されている気がする。 そして,この「ほ」(火)は, 穂, にも通じる。「ほ(穂)」について,『日本語源広辞典』は, 「抜きん出ているもの」 の意とし,火の穂,稲の穂の意とし,『大言海』は, 「秀(ほ)の義,分明にあらわるるより云ふ」 とある。際立つ,という含意であろうか。『日本語源大辞典』には,「穂」を, 火の義,穂の出始める色が赤いところから(和訓栞・柴門和語類集・言葉の根しらべの=鈴木潔子), とする説もある。「穂」「火」は漢字でしかない。「ほ」は,穂でもあり,火でもあり,秀でもあった。『岩波古語辞典』は,「ほ」の字に, 穂, 秀, であった。際立ち,抜きん出る物を指していたと見ていい。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「はづき」は, 葉月, 陰暦八月の意である。仲秋である。 「古くはハツキと清音」 とある(『広辞苑』)。『岩波古語辞典』には,「はつき」で載り, 「八月,ハツキ」(色葉字類抄) 「葉月,ハツキ,八月の異名」(伊京集) を引く。 https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%88 には,八月の異名が, 秋風月(あきかぜづき), 雁来月(かりきづき), 観月(かんげつ), 建酉月(けんゆうげつ), 木染月(こぞめつき), 壮月(そうげつ), 竹春(ちくしゅん), 仲秋(ちゅうしゅう), 月見月(つきみつき), 燕去月(つばめさりづき), 紅染月(べにそめづき), 月見月(つきみづき), 等々と載る。まさに,新暦九月のイメージである。 https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%88 は,葉月の由来を, 「木の葉が紅葉して落ちる月『葉落ち月』『葉月』であるという説が有名である。他には、稲の穂が張る『穂張り月(ほはりづき)』という説や、雁が初めて来る『初来月(はつきづき)』という説、南方からの台風が多く来る『南風月(はえづき)』という説などがある。」 と併記にとどめる。たしかに,「葉落ち月」系の説が目につき,たとえば, http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/saijiki/hatuki.html は, 「平安末の藤原清輔著『奥義抄』は『木の葉もみぢて落つるゆゑに葉落ち月といふをあやまれり』とし、『葉落ち月』を略したものと古人は考えていたようだ。『はつき』を『葉尽き』の掛詞としている歌が幾つか見えることも、この語源説の補強材料になるだろうか。 もとより全般として落葉が本格化するのは晩秋からであるが、桜の葉などはこの時期すでに色づいており、散り始める樹も少なくない。陰暦八月頃は、古人にとって殊更木の葉に注意が向く時節だったのだろう。 室町初期の成立と推測されている歌集『蔵玉集』には、八月の異名として『秋風月』『月見月』『紅染こぞめ月』の三つを挙げている。」 歌人の感性は感性として,語源とはなり得まい。ただ,『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/ha/hazuki.html が, 「葉月の語源は、新暦では九月上旬から十月上旬の秋にあたるため、葉の落ちる月『葉 落ち月』が転じて『葉月』になったとする説。 北方から初めて雁が来る月なので、『初来月』『初月』から『葉月』になったとする説。稲の穂が張る月『穂張り月』『張り月』から、『葉月』になったとする説がある。「葉落ち月」の説が有力にも思えるが、必ずしも漢字が そのまま残るとは限らず、当て字の可能性もあるため、正確な語源は未詳。」 というように,「葉月」は当て字なので,この字から由来を推測するのは,いささか危うい。『大言海』は, 「稲穂の發月(はりづき)の意と云ふ,或は云ふ,葉落月の意なりと,いかがか」 と決定を避けているが,「いかがか」は,後者の説に向けているように思われる。『大言海』は,これまで,十二月(しわす)から七月(ふづき)まで, 師走(陰暦十二月 http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%81%97%E3%82%8F%E3%81%99) 睦月(陰暦一月 http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%82%80%E3%81%A4%E3%81%8D) 如月(陰暦二月 http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%81%8D%E3%81%95%E3%82%89%E3%81%8E) 弥生(陰暦三月 http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%82%84%E3%82%88%E3%81%84) 卯月(陰暦四月 http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba10.htm#%E3%81%86%E3%81%A5%E3%81%8D) 皐月(陰暦五月 http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%81%95%E3%81%A4%E3%81%8D) 水無月(陰暦六月 http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba10.htm#%E3%81%BF%E3%81%AA%E3%81%A5%E3%81%8D) 文月(陰暦七月 http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba10.htm#%E3%81%B5%E3%81%A5%E3%81%8D) 一貫して,農事と関わらせて「月名」の由来を説いてきた。ただ葉が落散る月は,ありえるのかという含意と見る。和訓栞に, 「はづき,八月を云ふ。葉月の義。黄葉の時に及ぶを云ふめり,西土にも葉月の名あり」 を意識したのかもしれない。『日本語源広辞典』は,「發月」説を採る。 「『稲の穂の張る月。充実する月。つまり,発月(ハリツキ)』が語源と考えます。『稲ばらみの果てる月』ともとれますが,果て月は縁起が悪いので語源となりにくいと考えます」 と。僕も,農事と関わるという意味で,この説に与したい。 『日本語源大辞典』は,例によって諸説挙げている。 ハオチ(葉落)月の略(奥義抄・和爾雅・日本釈名・菊池俗語考・紫門和語類集・大言海), ホハリ(穂発・穂張)月の義。稲の穂をはる月の意(語意考・古事記伝・百草露・古今要覧稿・日本語原学=林甕臣・大言海), ハナヅキの略。初稲の花の月の義(兎園小説外集), ハはハシキのハ。稲の實が端に現れる月の意(嚶々筆語), 初雁の来る月であるところからハツキ(初來)の義(滑稽雑誌・類聚名物考), ハジメノツキ(初月)の略(和語私臆鈔), 等々。農事にかかわる意味では, ハナヅキの略, ハはハシキのハ, もあるかもしれない。しかし,『日本語の語源』は, 「ハチヅキ(八月)−ハヅキ(葉月)」 と,珍しく滑っている。八月だけが「八」を言う意味がはっきりしなければ,意味のない説に思える。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 田井信之『日本語の語源』(角川書店) 「ながつき」は, 長月, と当て, ながづき, とも言った(『広辞苑』)。旧暦九月の異称である。 「ながつき」の異称には, https://ja.wikipedia.org/wiki/9%E6%9C%88 に, 彩月(いろどりづき), 祝月(いわいづき), 詠月(えいげつ), 菊開月(きくさきづき), 菊月(きくづき), 晩秋(くれのあき), 玄月(げんげつ), 建戌月(けんじゅつづき), 青女月(せいじょづき), 竹酔月(ちくすいづき), 寝覚月(ねざめづき), 晩秋(ばんしゅう), 暮秋(ぼしゅう), 紅葉月(もみじづき), 稲刈月(いなかりつき), 等々新暦10月頃の季節感と合う。『岩波古語辞典』には, 「玄月,ナガヅキ」(伊京集) が載り, 「後世ナガヅキとも」 とあるので,「ながつき」と訓むのが古いようである。多くは, https://ja.wikipedia.org/wiki/9%E6%9C%88 のように, 「長月の由来は、『夜長月(よながつき)』の略であるとする説が最も有力である。他に、『稲刈月(いねかりづき)』が『ねかづき』となり『ながつき』となったという説、『稲熟月(いねあがりづき)』が略されたものという説がある。また、「寝覚月(ねざめつき)」の別名もある。」 と,「夜長月」を有力とし,『日本語の語源』も, 「ヨナガツキ(夜長月)」 を採る。また『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/na/nagatsuki.html も, 「語源は諸説あり、新暦の十月上旬から十一月の上旬にあたり、夜がだんだん長くなる『夜長月(よながつき)』の略とする説。その他、雨が多く降る時季であるため、『長雨月(ながめつき)』からとする説。『稲刈月(いなかりづき)』『稲熟月(いなあがりつき)』『穂長月(ほながつき)』の約や、稲を刈り収める時期のため、『長』は稲が毎年実ることを祝う意味からといった説。『名残月(なごりづき)』が転じたとする説などがある。この中でも、『夜長月』の略とする説は、中古より広く信じられている説で最も有力とされている。」 と,「夜長月」を採る。しかし「長月」は当て字である。当てられた字からの解釈は,ほぼ意味がない。「師走」から順次見てきたが,ほぼ農事と関わらせている。秋の夜長を楽しむとは,後世の,歌人の思い入れではあるまいか。『大言海』は, 「稲熟(いなあがり)月の約かと云ふ。夜長月はいかがか」 と,夜長月に疑問を投げかける。『大言海』は,これまで,十二月(しわす)から八月(はづき)まで, 師走(陰暦十二月 http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%81%97%E3%82%8F%E3%81%99) 睦月(陰暦一月 http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%82%80%E3%81%A4%E3%81%8D) 如月(陰暦二月 http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%81%8D%E3%81%95%E3%82%89%E3%81%8E) 弥生(陰暦三月 http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%82%84%E3%82%88%E3%81%84) 卯月(陰暦四月 http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba10.htm#%E3%81%86%E3%81%A5%E3%81%8D) 皐月(陰暦五月 http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%81%95%E3%81%A4%E3%81%8D) 水無月(陰暦六月 http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba10.htm#%E3%81%BF%E3%81%AA%E3%81%A5%E3%81%8D) 文月(陰暦七月 http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba10.htm#%E3%81%B5%E3%81%A5%E3%81%8D) 葉月(陰暦八月 http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba11.htm#%E3%81%AF%E3%81%A5%E3%81%8D) と一貫して,農事と関わらせて「月名」の由来を説いてきた。それが正しいと,僕は思う。『日本語源広辞典』は,二説挙げる。 説1は,「夜+長月」。夜の長い月, 説2は,「稲熟月(イネアガリツキ)」 を挙げ,「イネアガリツキ」という大言海説は, 「イネアガルという用例が少ないのが難点であり,疑問」 とする。しかし,それなら,当て字にすぎない「長月」から,「夜長月」と考えるのも,因果が逆立ちしているのではあるまいか。『日本語源大辞典』は, ヨナガツキ(夜長月)の略(奥義抄・和爾雅・日本釈名・類聚名物考・古今要覧稿・菊池俗語考・紫門和語類集), イナカリツキ(稲刈月)の略(語意考・兎園小説外集・百草露・日本語原学=林甕臣), イナアガリツキ(稲熟月)の約か(古事記伝・大言海), ナガ(長)は稲の毎年実るを祝う意で,稲を刈り収めるときであるところから(嚶々筆語), ナコリノツキ(名残月)の略(和語私臆鈔), 等々と挙げた上で, 「語源はあきらかでない。『拾遺−雑下』に,『夜昼の数はみそぢにあまらぬをなど長月といひはじめむけむ』『秋深み恋する人のあかしかね夜を長月といふにやあるらん』とした,伊衡と躬恒との問答の歌があり,また,夜がだんだん長くなるから『夜長月』というのを誤ったものだと,『奥義抄』にあるので,(ヨナガツキ(夜長月)の略)のような語源説が中古以来広く信じられていたことがわかる。…折口信夫によれば,五月と九月は長雨の時季で,『ながめ』と称する物忌の月だという。」 とある。「中古」から信じられていたのは,「長月」という字を当てて後のことでしかなく,「ながつき」の語源とは採れない。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 田井信之『日本語の語源』(角川書店) 「ナシ」は, 梨, である。「梨」(リ)の字は, 「会意兼形声。利は犁の上部と同じで,ざくざくとよく切れる,すきの刃。さくさくと歯切れよく切れるなしの実をあらわす。俗に,音符を利(よく切れる)にかえて梨と書く」 で,おそらく,梨の実と一緒に中國から入って来たに違いない。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%B7 によると, 「日本でナシが食べられ始めたのは弥生時代頃とされ、登呂遺跡などから多数食用にされたとされる根拠の種子などが見つかっている。ただし、それ以前の遺跡などからは見つかっていないこと、野生のナシ(山梨)の自生地が人里周辺のみであることなどから、大陸から人の手によって持ち込まれたと考えられている。文献に初めて登場するのは『日本書紀』であり、持統天皇の693年の詔において五穀とともに『桑、苧、梨、栗、蕪菁』の栽培を奨励する記述がある。」 とあり,古くから食べられていた。『たべもの語源辞典』によると, 「『万葉集』には,梨の歌が四種ある。『妻梨の木』と書いたもの二首,梨・棗とあるもの一首,梨という名は出ないが梨の黄葉を歌ったもの一首である。」 とある。「梨」の出る三首は, 2188: 黄葉のにほひは繁ししかれども妻梨の木を手折りかざさむ 2189: 露霜の寒き夕の秋風にもみちにけらし妻梨の木は 3834: 梨棗黍に粟つぎ延ふ葛の後も逢はむと葵花咲く である(http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/flower/nasi.html)。 『たべもの語源辞典』はさらに, 「白楽天の長恨歌に『梨花一枝春雨帯』とあるが,中国では,梨の花が清白だから雪にたとえられ,一転して美人の形容となった。中国梨は,日本梨と同種である。」 とある。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%B7 には, 「五世紀の中国の歴史書『洛陽伽藍記』には重さ10斤(約6キログラム)のナシが登場し、『和漢三才図会』には落下した実にあたって犬が死んだ逸話のある『犬殺し』というナシが記述されている。」 といい,江戸時代には栽培技術が発達し、100を越す品種が果樹園で栽培されていた,とか。松平定信が記した狗日記によれば、 「『船橋のあたりいく。梨の木を、多く植えて、枝を繁く打曲て作りなせるなり。かく苦しくなしては花も咲かじと思ふが、枝のびやかなければ、花も実も少しとぞ。』とあり、現在の市川から船橋にかけての江戸近郊では江戸時代後期頃には、既に梨の栽培が盛んだった」 という。「ナシ」は「無し」に通ずるというので,忌み言葉として, アリノミ(有の実), と呼んだが,「この起源は相当にふるくて,平安時代の女房ことばにアリノミ」がある,というが,「ナシ」が古くあるのだから,当然といえば当然だろう。 さて,「ナシ」の語源は,『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/na/nashi.html は, 「果肉が白いことから『なかしろ(中白)』、略されて『ナシ』になったとする説。梨は風があると実らないことから『かぜなし(風無し)』で、『ナシ』になったとする説。果実の中心が酸っぱいことから『なす(中酸)』が転じたとする説。梨は次の年まで色が変わらないことから『なましき』が転じたとする説。『あまし(甘し)や『ねしろみ(性白実)』から、『ナシ』になったとする説。奈良時代当時、ナシとリンゴの原種となったカラナシ以外に果実の底が著しくくぼんだものが見当たらないことから、『つまなし(端無し)』の『つま(端)』が脱落したなど諸説あるが未詳。 平安時代には、『ナシ』が『無し』に通じることを忌んで『ありのみ(有の実)』と呼ばれたり、『無し』に掛けた言葉や歌が多く見られるが、語源とは結びつかない。」 と諸説挙げるだけだが,『大言海』は,「奈子」説を採る。 「奈子の音かとも云ふ,外国渡来のものか」 とあるが,『日本語源広辞典』も,その説を採り, 「語源は,奈子の字音(大言海説)です。(中略)奈は,『赤なし』です。木の下に,示を加えた字の誤字です。中国の留学生が『奈という果実』としたのが語源」 とする。「奈」(呉音ナイ・ナ,漢音ダイ・ダ)の字は, からなし, 野生のリンゴ(ベニリンゴ), あかなし, の意とある。 「会意文字。『来+示(祭礼)』が本字で,祭りの供え物として備えるからなしの木をあらわす」 で,調べると「カラナシ」は,「唐梨」と当て, カリンの別称,バラ科の落葉高木,園芸植物,薬用植物, と, リンゴの別称,バラ科の落葉高木,園芸植物, とあり,「赤い実のリンゴ」としているのは,「和名抄」らしい(ベニリンゴの古名)ので,その区別は,いまではよく分からない。ただ,「ベニリンゴ」は, 「別名ウケザキカイドウ(受咲海棠)ともいう。楕円形のリンゴに似た果実が垂れ下がる。先端に宿存萼(がく)があり、10月ころ紅色または黄色に熟す」(日本大百科全書(ニッポニカ)) カリンと似ているのだろうか。 しかし,カリンは,中国では, 「国語では『爾雅』にも記載がある『木瓜』(もっか)を標準名とする。他に『榠楂』(『図経本草』)、木李(『詩経』)、『木瓜海棠』、『光皮木瓜』、『香木瓜』、『梗木瓜』、『鉄脚梨』、『万寿果』などの名称がある。」 と,「ナシ」とは別である。日本で,「奈」がカリンと混同されたものだろう。『日本語源大辞典』に, 「奈良時代当時の果実では,ナシとカラナシ(リンゴの原種)のほかに底の部分がくぼんでいるものが見あたらない」 とあり,「奈」を,ベニリンゴ(カラナシ)とナシを混同した可能性がなくもない。 『日本語の語源』は, 「夏季の野菜・果物をナツミ(夏実)といったのがナスミ・ナスビ(関西)・ナス(茄子)・ナシ(梨)になった。」 とし,この「ナツミ(夏実)」説を,『たべもの語源辞典』も, 「日本梨の早生種は七月中旬からとれ,夏の実(ナツミ)という名がつけられたものがいくつかある。たとえば,ナツミからナスビがナス(茄子)となる。そしてナツミからナシになった。ナシは,どの果物にくらべても果汁の多い点では負けない。牛乳の水分は88パーセントだが,ナシは89パーセントもある。水菓子という名にふさわしい果実はナシである。」 と,諸説挙げた中で肩入れしている。その他, 中心が白いナカシロ(中白)の略(日本釈名・柴門和語類集), 風があると実らないところから風ナシの義(滑稽雑誌所引和訓義解), ナス(中酸)の転(東雅・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子), 奈良時代当時の果実では,ナシとカラナシ(リンゴの原種)のほかに底の部分がくぼんでいるものが見あたらないところからツマナシ(端がない)のツマが脱落した(木の名の由来=深津正), 等々が『日本語源大辞典』に載るが,その他も諸説あって定まっていないが,その外観が似ているところから, 奈子(柰子)説, に与しておきたい。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 田井信之『日本語の語源』(角川書店) 「弱冠(じゃっかん)」は,『広辞苑』に,こうある。 「(古代中国で男子20歳を『弱』といい,元服して冠をかぶったことから)男子の20歳の異称,また成年に達すること」 とあり,転じて, 年の若いこと, とある。出典は,『礼記』曲礼上。 人生十年曰幼 學 二十曰弱 冠 三十曰壯 有室 四十曰強 而仕 五十曰艾 服官政 六十曰耆 指使 七十曰老 而傳 八十九十曰耄 七年曰悼 悼與耄雖有罪不加刑焉 百年曰期 頤 とあるらしい(https://kanbun.info/koji/jakkan.htmlによる)。訓読文は, 人生十年を「幼」と曰ふ、學ぶ。二十を「弱」と曰ふ、冠す。三十を「壯」と曰ふ、室有り。四十を「強」と曰ふ、而して仕ふ。五十を「艾」と曰ふ、官、政に服す。六十を「耆(き)」と曰ふ、使を指す。七十を「老」と曰ふ、而して傳ふ。八十九十を「耄(ぼう)」と曰ふ、七年「悼」と曰ふ、悼と耄とは罪有りと雖へども刑を加えず。百年を「期」と曰ふ、頤(やしな)う。 つまり, 二十曰弱冠(「弱」と曰ふ、冠す), から来ている。「冠す」とは, 冠(かんむり)をのせる。転じて元服する, 意である。 「弱」(漢音ジャク,呉音ニャク)の字は, 「会意文字。彡印は模様を示す。弱は『弓二つ+二つの彡印』で,模様や飾りのついた柔らかな弓」 とある(『漢字源』)。これだと「よわい」という意味がよく出ない。 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BC%B1 には, 「『弓』+『彡』(かざり)の会意文字。装飾的な弓は機能面で劣ることから、『よわい』という意味がでた。」 とあり, https://okjiten.jp/kanji206.html は, 「会意文字です(弓+彡×2)。『孤を描いた状態の弓(たわむ弓)』の象形と『なよやかな毛』の象形から、『よわい、たわむ』を意味する『弱』という漢字が成り立ちました。」 とある。これだと,「弱」の意味に辿り着く。 「冠」(カン)の字は, 「会意兼形声。『冖(かぶる)+寸(手)+音符元』で,頭の周りを丸く取り囲むかんむりのこと。丸いかんむりを手で被ることを示す」 とある(『漢字源』)。 https://okjiten.jp/kanji1616.html は, 「会意兼形声文字です(冖+元+寸)。『おおい』の象形と『かんむりをつけた人』の象形と『右手の手首に親指をあて脈をはかる』象形から、『かんむりをつける』、『かんむり』を意味する『冠』という漢字が成り立ちました。」 冠をかぶるという動作そのものを形にしているとすると,「冠する」という言葉そのものとつながる。 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BC%B1%E5%86%A0 には,福沢諭吉が, 「そもそも義塾の生徒、その年長ずるというも、二十歳前後にして、二十五歳以上の者は稀なるべし。概してこれを弱冠の年齢といわざるをえず。たとい天稟の才あるも、社会人事の経験に乏しきは、むろんにして、いわば無勘弁の少年と評するも不当に非ざるべし。」(福沢諭吉『経世の学、また講究すべし』) を,「本来的には誤用、修飾に用いて」若くしての意に使っている,とする。はすでに意味が,変じている証である。『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/si/jyakkan_toshi.html は, 「中国周時代の 制度に由来する。古代中国では男子の20歳を『弱』といい,その歳になると元服して冠をかぶったことから,男子の20歳を『若冠』と言うようになった。日本でも20歳の意味で使われていたが,『年が若い』という意味でも使われるようになり,基本的に男性のみに用いるが,女性にも用いられるようになった。さらに現代では,『弱冠17歳○○でした』『弱冠28歳△△でした』というように,一般的に成し遂げられる年齢よりも若いという意味で用いられるようになった。」 と意味の変化に触れている。NHK放送分化研究所 https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/gimon/132.html は, 「『弱冠』の本来の意味は『(古代中国で男子20歳を『弱』といい、元服して冠をかぶったことから)男子の20歳の異称。また、成年に達すること』(『広辞苑』岩波書店)です。これが転じて今では『相対的な若さを表現する』場合や『20歳前後の若い人を指す』言い方として使われることが多くなっています。しかし、もともとの意味とは異なるうえ一般にはわかりにくく抵抗感があります。また、新聞社の中には『用字用語ハンドブック』の中で、『弱冠』について『男子20歳の異称』と本来の意味を示したうえで、新しい用法について『20歳前後に使う。「弱冠30歳」などとはしない』『10代からせいぜい20代までで「弱冠30歳」などとは使わない』と記述してあるところもあります。放送でも、『弱冠』の本来の意味と使い方をよく認識したうえで的確な表現を心がけましょう。」 とある。言葉は生き物だから,斯く変わっていく意味を,押しとどめることは難しいかもしれない。 参考文献; 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
「弱」(漢音ジャク,呉音ニャク)の字は, http://ppnetwork.seesaa.net/article/460804485.html?1532912174 で触れたように, 「会意文字。彡印は模様を示す。弱は『弓二つ+二つの彡印』で,模様や飾りのついた柔らかな弓」 とある(『漢字源』)。これだと「よわい」という意味がよく出ない。 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BC%B1 には, 「『弓』+『彡』(かざり)の会意文字。装飾的な弓は機能面で劣ることから、『よわい』という意味がでた。」 とあり, https://okjiten.jp/kanji206.html は, 「会意文字です(弓+彡×2)。『孤を描いた状態の弓(たわむ弓)』の象形と『なよやかな毛』の象形から、『よわい、たわむ』を意味する『弱』という漢字が成り立ちました。」 とある。これだと,「弱」の意味に辿り着く。 『岩波古語辞典』は「よわし」の語源を, 「ヤワシの母韻交替形か。『強し』の対」 とある。「やはし」は,「やわらげる」「帰服させる」「平和にする」といった意味だが, 「ヤハは擬態語」 とある。「やわ」は, 和, 柔, と当て,「やわらかなさま」「弱い」という意味で,今日でも,「やわな奴」「軟な立て付け」等々と使う。しかし,『大言海』は, 「彌折(イヤヲ)れ撓(タワ)れの意。柔(やわ)しに通ずと云ふ」 とある。「やはし」は, 柔, 軟, と当て, 「彌淡(ヤアハシ)の略」 とする。いずれも, yahasi→yohasi, と見ていることは通じている。しかし,『日本語源大辞典』は,同じ, ヨハはヤハ(柔)の義(言元梯), を,「仮名遣いが『よわし』であるところから,ヤハ(柔)と同根とする説は無理がある」 と一蹴している。ただ理由を述べていない。 『日本語源大辞典』は,その他に, イヤヲレワワシ(弥折撓々如)の義(日本語原学=林甕臣), ヨリタワメキシ(寄撓如)の義(名言通) ヨは夜の義,ワは縛定る義(国語本義), ヨハはイトヒタの反。また,イトフタの反。弱い糸は二つに切れるところから(名語記), ヨハはその音勢が無力のさまのようであるところから(国語溯原=大矢徹), 「弱」の字音ニャクの訛音ヤに接尾語のワのついたもの(語源辞典=形容詞編=吉田金彦), 等々を載せるが,他の語源説「撓む」系の「たわむ」は, 「加えられた力に耐えながら,しやかに曲がる意。類義語シナヒはみずから曲線美をなす意」 とあり,「よわい」という意味と微妙にずれる。『日本語源大辞典』は理由を述べず一蹴するが, 柔(やわ)しに通ず, とする『大言海』と『岩波古語辞典』の説を採る。少なくとも「やわ(柔)」には,今日に通ずる「よわい」意味があるのだから。 ただ,「やわ」に当てた「柔」(漢音ジュウ,呉音ニュウ)は, 「『矛(ほこ)+木』で,ほこの柄にする弾力ある木のこと。曲げても折れないしなやかさを意味する。」 と,「たわむ」(「撓」の字もしなやかに曲がる意)と通じるところがあり,少し迷うが。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「弱虫」 意気地のないものを罵っていう語, とある(『広辞苑』)が,『江戸語大辞典』の, 弱いこと, 弱いことを罵っていう語, というのがシンプルなのではないか。「虫」は,いわゆる「昆虫」の意の他は, 癇癪, 腹痛, などを指して,「腹の虫」「癇癪の虫」といったり, ふさぎの虫, というように, 「潜在意識。ある考えや感情を起すもとになるもの,古くは心の中にある考えや感情をひき起す虫がいると考えていた」(『広辞苑』) それが広がって, 本の虫, 等々というが,その流れに, 虫が知らせる, 虫がいい, 虫が好かぬ, 虫が障る, 等々。それを拡げて, 「ちょっとしたことにもすぐそうなるひと,あるいはそういう性質の人をあざけっていう語」(『広辞苑』) の中に, 弱虫, 泣き虫, は入るようだ。この「虫」は,「むし」の項, http://ppnetwork.seesaa.net/article/450968686.html でふれたように, 虫の知らせ,腹の虫,腹の虫が治まらない,虫の居所が悪い,虫が(の)いい,虫が(の)好かない,獅子身中の虫等々の言い回しがされたのは, 「日本では《三尸の虫》(さんしのむし)というものの存在が信じられた。これは中国の道教に由来する庚申信仰(三尸説)。人間の体内には、三種類の虫がいて、庚申の日に眠りにつくと、この三つの虫が体から抜け出して天上に上がり、直近にその人物が行った悪行を天帝に報告、天帝はその罪状に応じてその人物の寿命を制限短縮するという信仰が古来からあり、庚申の夜には皆が集って賑やかに雑談し決して眠らず、三尸の虫を体外に出さないという庚申講が各地で盛んに行われた。」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%AB) とあり,体内に虫がいると信じそれがさまざまなことを引き起こすという考えを抱いていたからである。ちなみに,「三尸」とは,正確には, 「中国,道教において人間の体内にいて害悪をなすとされる虫。早く,晋の葛洪の《抱朴子》には,人間の体内に三尸がおり庚申の日に昇天し司命神に人間の過失を報告して早死させようとすると記す。くだって,宋の《雲笈七籤》所収の《太上三尸中経》では,三尸の上尸を彭倨,中尸を彭質,下尸を彭矯と呼び,この三彭は小児や馬の姿に似,それぞれ頭部,腹中,下肢にあって害をなす。庚申の日,昼夜寝なければ三尸は滅んで精神が安定し長生できると記す。」(『世界大百科事典 第2版』) 「庚申」とは, 「庚申の日に、仏家では帝釈天たいしやくてん・青面金剛しようめんこんごうを、神道では猿田彦を祀まつって徹夜をする行事。この夜眠ると体内にいる三尸の虫が抜け出て天帝に罪過を告げ、早死にさせるという道教の説によるといわれる。日本では平安時代以降、陰陽師によって広まり、経などを読誦し、共食・歓談しながら夜を明かした。庚申。庚申会。」 で,これを「庚申待ち」と呼ぶらしい。また,「三尸」とは, 「三尸(さんし)とは、道教に由来するとされる人間の体内にいると考えられていた虫。三虫(さんちゅう)三彭(さんほう)伏尸(ふくし)尸虫(しちゅう)尸鬼(しき)尸彭(しほう)ともいう。 60日に一度めぐってくる庚申(こうしん)の日に眠ると、この三尸が人間の体から抜け出し天帝にその宿主の罪悪を告げ、その人間の寿命を縮めると言い伝えられ、そこから、庚申の夜は眠らずに過ごすという風習が行われた。一人では夜あかしをして過ごすことは難しいことから、庚申待(こうしんまち)の行事がおこなわれる。 日本では平安時代に貴族の間で始まり、民間では江戸時代に入ってから地域で庚申講(こうしんこう)とよばれる集まりをつくり、会場を決めて集団で庚申待をする風習がひろまった。」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B0%B8) とあり, 「上尸・中尸・下尸の3種類があり、人間が生れ落ちるときから体内にいるとされる。『太上三尸中経』の中では大きさはどれも2寸ばかりで、小児もしくは馬に似た形をしているとあるが、3種ともそれぞれ別の姿や特徴をしているとする文献も多い。 病気を起こしたり、庚申の日に体を抜け出して寿命を縮めさせたりする理由は、宿っている人間が死亡すると自由になれるからである。葛洪の記した道教の書『抱朴子』(4世紀頃)には、三尸は鬼神のたぐいで形はないが宿っている人間が死ねば三尸たちは自由に動くことができ又まつられたりする事も可能になるので常に人間の早死にを望んでいる、と記され、『雲笈七籤』におさめられている『太上三尸中経』にも、宿っている人間が死ねば三尸は自由に動き回れる鬼(き)になれるので人間の早死にを望んでいる、とある。」(仝上) と詳しい。 「弱虫」も,その「三尸(さんし)」のせい,ということになる。自分の咎ではない,と言い訳できるところがみそ。『笑える国語辞典』 https://www.fleapedia.com/%E4%BA%94%E5%8D%81%E9%9F%B3%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9/%E3%82%88/%E5%BC%B1%E8%99%AB%E3%81%A8%E3%81%AF-%E6%84%8F%E5%91%B3/ は,「弱虫」の項で, 「弱虫とは、臆病な人、意気地のない人をあざけっていうときに用いる言葉。『泣き虫』が『すぐ泣いてしまう人』を意味するように、『虫』は『ある性格をもった人』のこと。しかし『弱虫』に対する『強虫』という言葉がないように、人間に追いかけ回されてたたきつぶされる貧弱な性質がすでにこの『虫』という言葉に表現されており、『金食い虫』『点取り虫』なども同様に、弱々しい性質の人をあざけるのに主に用いられる。ただし『本の虫』『研究の虫』などといったときの『虫』は、本にとりついて紙を食べる虫のように本や研究を生きがいとしている人をいったものであり、『弱虫』の『虫』ほどあざける気持ちはなく、同じ『虫』でもさまざまなプロフィールがあることを頭に入れておかなければならない。」 とし,既に,「三尸」が忘れられていることを示している(『大言海』は,「三尸蟲」(さんしちゅう)としている)。 「つよい」は, 強い, と当てる。『岩波古語辞典』には, 「『弱し』の対。芯がしっかりしている意。類義語コワシは,表面が堅くて弾力性がない意。カタシ(堅)は形がきちんとしていて,壊れず,崩れない意」 とある。それに当てた「強(强)」(漢音キョウ,呉音ゴウ)の字は, 「会意兼形声。彊(キョウ)は,がっちりとかたく丈夫な弓。○印は丸い虫の姿。強は『○印の下に虫+音符彊の略体』で,もと,がっちりしたからをかぶった甲虫のこと。強は彊に通じて,かたく丈夫な意に用いる。」 とある(『漢字源』)が,少しわかりにくい。 https://okjiten.jp/kanji205.html は, 「会意兼形声文字です。『弓』の象形と『小さく取り囲む文字と頭が大きくてグロテスクなまむし』の象形(『硬い殻を持つコクゾウムシ、つよい、かたい』の意味)から、『つよい』を意味する『強』という漢字が成り立ちました。」 とするが,これも意が通じない。 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BC%B7 は, 「会意説:『弘』+『虫』で、ある種類の虫の名が、『彊』(強い弓)を音が共通であるため音を仮借した(説文解字 他)、または、『弘』は弓の弦をはずした様で、ひいては弓の弦を意味し、虫からとった強い弦を意味する(白川静)。会意形声説:。『弘』は『彊』(キョウ)の略体で、『虫』をつけ甲虫の硬い頭部等を意味した(藤堂)。同系字:剛。」 と,ますますわからない。 http://kanjibunka.com/kanji-faq/old-faq/q0435/ では, 「字源に関する基本的な文献、『説文解字(せつもんかいじ)』を見ると、『強』に関しては図のように記述されています。…まず一番上に『強』という字が示されていて、その次に書いてある妙な形をした図形は、篆文(てんぶん。篆書)の『強』。そしてその下には、『強』は『虫へん』に『斤』と書く漢字と同じである、と書いてあります。…この『虫へん』に『斤』…は、コクゾウムシという、固い殻をかぶった昆虫の一種を表す漢字だ、とされています。つまり、『強』とは本来、コクゾウムシを表す漢字であって、その殻が固いことから、『つよい』という意味へと変化してきた、というわけです。」 とあるから,「甲虫」か「コクゾムシ」となるが,白川説の,「虫からとった強い弦」というのは, 「『字統』(白川静,平凡社)によれば、『強』に含まれる『虫』はおそらく蚕(かいこ)のことで、この漢字は本来、蚕から取った糸を張った弓のことを表していた、ということになります。その弓の強さから転じて「つよい」という意味になったというわけです。」 となる。しかし,「よわい」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba11.htm#%E3%82%88%E3%82%8F%E3%81%84)「弱冠」 (http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba11.htm#%E5%BC%B1%E5%86%A0)の項 で触れたように,「弱」は, 「模様や飾りのついた柔らかな弓」 と,「弓」と関わる。「強」の字も,「弓」についての説明がなければ,「弱」との辻褄が合うまい。 さて,『日本語源広辞典』には,「つよい」について, 「縄文時代からの言葉です。日本書紀には,勁,八世紀の経典には,健,堅。近世人情本には,強が使われ現代に至ります。」 とあり,「つよい」は,勁,健,堅,強と使い分けてきたものらしい。あるいは,「つよい」も含意が変わってきたのかもしれない。 「勁」(漢音ケイ,呉音キョウ)の字は, 「会意兼形声。巠(ケイ)は,上下のわくの間に,縦糸をぴんと張った姿。勁はそれを音符とし,力を添えた字で,足るまずぴんと張ること,つよい力で張り切る意に用いる」 「健」(漢音ケン,呉音ゴン)の字は, 「会意兼形声。建は『聿(筆の原字で,筆を手で立てて持つさま)+廴(歩く)』の会意文字で,すっくとたつ,からだをたてて歩く意を含む。健は『人音符建』。建が単にたつ意となったため,健の字で,からだをく立てて行動するの原義をあらわすようになった」 「堅」(ケン)の字は, 「会意兼形声。臤は,臣下のように,からだを緊張させてこわばる動作を示す。堅はそれを音符とし,土を加えた字で,かたく締まって,こわしたり,形をかえたりできないこと」 と,それぞれの含意をねこめて「つよい」の意味の陰翳を漢字に託したのであろうか。 さて,「つよい(つよし)」の語源は,『大言海』は, 「突能(つきよ)しの略。弱しに対す」 とある。『日本語源広辞典』も, 「ツ・ト(突・鋭利)+ヨ(能)+シ(形容詞語尾)」 とし,「突き方の強さ」を指す,とするのである。『日本語源大辞典』が挙げる諸説も, 副詞ツユ(露)と同源(続上代特殊仮名音義=森重敏), ツは強いさまを表現するときに発する音,ヨは弥の義(日本語源=賀茂百樹), ヨロヅヨキの義か(和句解), ツヨはイツヨ(稜威弥)の義, 人も物も多数寄り集まると国家が強くなるところから,ツは一ツ二ツのツ,ヨは寄り会う義(国語本義), をのぞくと, ツクヨキ(突能)の義(名言通), ツキヨシ(突能)の略(大言海), ツク(突)意から出た語か,ヨは助声(国語の語根とその分類=大島正健) ツはト(鋭)の転。ヨは形容接尾語ヤの転,シは活用語尾。精鋭の転義(日本古語大辞典=松岡静雄), と,今日の「つよい」の, 力が優れている, 丈夫である, 気丈である, 堅固である, 等々の意に比べると,限定的に鋭利さ,鋭さを指していたように見える。漢字に,勁,健,堅,強等々と当て分けていくことで,意味の範囲を広げたようである。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
「サザエ」は, 栄螺, 拳螺, と当てる。「サザイ」とも言う。 栄螺, を訓んで, エイラ, とも言うらしい。他に, サダエ, サタベ, サザイガイ, 等々の名もある(『たべもの語源辞典』)。「拳螺」の字を当てたのは, こぶしの形をした螺(巻貝), というわけである。また「栄螺」の字を当てたのは, 「栄を「さかえ」とよむので,この目出度い字を螺にそえて字面をよくする目的と,「さかえ」がサザエに近い音なので,組み合わせ」 たもと,という(仝上)。 別称に, 莿螺(しら), ウズラガイ(鶉貝), ウツセガイ(虚貝), ともいうらしい(仝上)。 『日本語源大辞典』には, 「平安時代の語形は『さだえ』であり,『さだい』と変化し,室町時代に『さざい』となった。18世紀から20世紀にかけて徐々に『さざい』から『さざえ』に移行した。現代語の『さざえ』は,古代語形『さだえ』が古典籍書写の場で中世古辞書の干渉を受け当代語形『さざい』というの混淆形として生まれたものとみられる」 とある。 sadae→sadai→sazai→sazae, と変化したということになる。とするなら,『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/sa/sazae.html が, 「『ササエ(小家)』の転,『ササエ(小枝)』の転,『サヘデサカエ(塞手栄)』の転,『サザレ(礫)』の転,『ササエダ(碍枝)』の転など諸説あり,未詳。『サザレ(礫)』が転じたとする説が若干有力とされているが,平安時代の語形は『サダエ』で,その後『サダイ』と変化し,室町時代に『サザイ』,18世紀初頭から徐々に『サザエ』になった語であることから難しい。」 という通り,「さだえ」の語源を説明できなくてはならない。しかし, ササエ(小家)の義(日本釈名・東雅・日本語源広辞典), 小さなヱ(柄)のようなものを多くつけた貝の意(和訓栞後編), ササハルエダ(碍枝)の義(名言通), サザレ(礫)の転か(日本古語大辞典=松岡静雄), イサイチ(礫々)がつづまってイサザからサザとなり,それにエナ(胞)が付いたもの(衣食住語源辞典=吉田金彦), 等々と「さだえ」の説明になっていない。 『たべもの語源辞典』は, 「ササは小さいことで,エは,古くはウ・エの合わさった音で,もとはササウエで,ウは座ること,海底に小さく座っているという意からサザエになった。貝殻の中でカキはその殻がかけることから名が付いたが,サザエは角を出してじっと座っているところからサザエと名づけたのである。サザエのエは江で,入り江・湾などにサザエがいたからである。」 と,独自の説を述べるが,古形「さだえ」の説明をスルーしている。 『大言海』は,やはり, 「日本釈名(元禄)『栄螺(ささえ),ササは小也。エは,家なり』,東雅(享保)『栄螺子(ささえ),ササは小而小也,エは家なり,蝸牛の殻をかたつぶりのいへと云ひ,蜘蛛の巣を,蜘蛛のいと云ふが如く,其殻の少しきなるを云ふ』,和訓栞後編,さざえ『少しき柄の如きもの,多くつける貝也』,サダエ,サザイは音轉なり(塞ぐ,ふたぐ。腐る,くだる。吉(よ)し,美(い)し)。栄螺(えいら)の字,漢語に見えず,本朝食鑑(元禄)『栄螺,佐々伊,殻背尖角,如枝芽之向栄,故名之乎』」 と,「サザエ」を前提に解釈する。しかも「サダエ」「サザイ」は訛としている。これはいただけないが,どの説も,江戸期以降のものだから,致し方ない。結局, サダエ, の語源はわからない。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 「カキ」は, 牡蠣, 蠣, 牡蛎, 蛎, 等々と当てる。「蠣」(漢音レイ,呉音ライ)の字は, 「会意兼形声。右側の氏iレイ)は,ごつごつしたの意を含む。蠣は,それを音符とし,虫を加えた字で,ごつごつした殻を被った貝」 だが(「蛎」は「蠣」の異字体),「牡蠣」の字に,「牡」を当てたのは,「カキ」は, 「イタボガキ科の二枚貝。イタボガキは雌雄同体である。同一の貝に雄の時代と雌の時代が交互に現れる。カキという字を牡蠣と,牡の字をつけてしまったのは,ある時季のカキを調べたとき牡ばかりだったからであろう。」 としている(『たべもの語源辞典』)が,『語源由来辞典』は, http://gogen-allguide.com/ka/kaki_kai.html は, 「牡蠣が同一個体に雌雄性が交替に現れる卵生か卵胎生の雌雄同体で,外見上生殖腺が同じであるため,すべてオスに見えたものと思われる。」 としている。なかなか「カキ」は厄介で, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%AD_(%E8%B2%9D) によると, 「雌雄同体の種と雌雄異体の種があり、マガキでは雌雄異体であるが生殖時期が終了すると一度中性になり、その後の栄養状態が良いとメスになり、悪いとオスになるとされている。」 という。 「カキ」を食べた歴史は古く,ローマ人は,2000年以上前に養殖を始めたとか。日本では,『古事記』の 「允恭天皇のくだりら衣通(そとおり)姫が天皇に献じた歌『夏草の相偃(あいね)の濱の蛎貝(かきがい)に足蹈(あしふま)すな明して通れ』とあるのを初めとする。『延喜式』には,『伊勢より蛎および磯蛎を進む』とあるから古代からカキを食べていたことがわかる。」(『たべもの語源辞典』) とある。 「カキ」の語源は,『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/ka/kaki_kai.html は, 「牡蠣は,掻き落として取ることから「かき」になったとする説や,殻を欠き砕いて取ること から「かき」になったとする説,「掻貝(かきかい)」の意味などあり,牡蠣の殻を取るため の動作を語源とする説が多く,妥当な説と考えられる。 その他,「か」は「貝」,「き」は『着』の意味からという説もあるが, 説得力に乏しい。」 と,「カキ」を捕獲する動作を語源と見做す。『大言海』も, 「カキ介とも云ふが正しきか(或は,カキ殻(がひ)か)。石より掻き落とす意,又は,殻を缺き砕く意なるべし」 と,それに連なる。『たべもの語源辞典』は, 「カキの名は,石から掻き落としてとることからといわれるが,カキの貝殻が欠けることから,と,その身を掻き出して食べることから『かき』としたものである。」 と,食べる行為の方を採る。しかし,『日本語源広辞典』は, 「『欠く,掻く,の意の連用形名詞化』の語,貝殻を欠き(掻き),そして肉を取る貝の意です。」 と, 「かく(掻く,欠く)」そのものの名詞化, とする。たぶん,これが一番正鵠を射ている,と思う。 『日本語源大辞典』には,その他の説として, カキカヒ(掻貝)の意(日本古語大辞典=松岡静雄), 殻の相着きしをいうか(東雅), コリキ(凝貝)の約転(言元梯), カは貝,キはキル(着)の意(和句解), 等々が載るが。 参考文献; 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「かき」は, 垣, 以外に, 牆, 籬, 等々とも当てる(和名抄「墻,垣,賀岐」)。 「垣」(漢音エン,呉音オン)の字は, 「会意兼形声。亘(カン)は,取り巻いて範囲を限ることを示す会意文字。垣は『土+音符亘(カン)』で,周囲にめぐらした土塀のこと。」 とあり,「亘」(セン・コウ)の字は, 「会意文字。『上下二線+めぐるさまを示すしるし』で,ぐるりとめぐらす意味を示す。音符としては,セン・かん・などの音を表す。桓(カン 周囲をめぐらす並木)・垣(エン 周囲にめぐらす垣根)・宣(セン ひろくいきわたる)の字に含まれる。」 とある(『漢字源』)。 https://okjiten.jp/kanji1762.html は, 「会意兼形声文字です(土+亘)。『土地の神を祭る為に柱状に固めた土』の象形(『土』の意味)と『物が旋回する』象形(『めぐる』の意味)から、城にめぐらした『かき』を意味する『垣』という漢字が成り立ちました。」 と具体的である。 「牆(墻)」(漢音ショウ,呉音ゾウ)は, 「会意兼形声。嗇(ショク)は『麥+作物を取り入れる納屋』からなり,収穫物を入れる納屋を示す。牆は『嗇(納屋)+音符爿(ショウ)』で,納屋や倉のまわりにつくった細長いへいを示す」 とある(『漢字源』)。 「籬」(リ)の字は, 「竹+音符離(リ)(別々のもうひとつをくっつける)」 で,柴や竹であんでつくった垣根。まがき,の意である。 「かき」の語源は,『大言海』は, 「構(か)くの名詞形。武烈即位前紀『八重の組麦k(くみかき),琵煤iかが)めども』 と,「かく」の名詞化説を採る。ほぼ同じなのが,『日本語源広辞典』で, 「語源は,『動詞カク(懸,掛)の連用形,カキ』です。現代語の掛ける・懸けるの意のカクが,語源です。組み立てたり編んだりすることをカクといいます。日本書紀に『組垣カカめども』などと使われています。家と家の境に,石とか,柴とか,竹などで,組んだり,編んだりしたものを掛キ・懸キといったもの。あぐらをカクも組むいです。」 とあり,妥当な見解に思える。因みに,「構く」は,「懸く」と同源。「かく」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%81%8B%E3%81%8F%EF%BC%88%E6%9B%B8%E3%81%8F%EF%BC%89) で触れたように, 書く, も, 掻く, も, 懸く, も 掛く, も, 舁く, も, 構く, も, 区別なく,「かく」であった。漢字で当て分けて意味を分けているだけである。 『日本語源大辞典』には,その他の説として, カギリ(限)の略(日本釈名・東雅・古事記伝・和訓考・言元梯・名言通・碩鼠漫筆・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子), カコヒの約(万葉代匠記・俗語考・家屋雑考), カコミ,又はカクミの約(俚言集覧), カコムの名詞形(国語の語根とその分類=大島正健), 動詞カクム(囲)の語幹の母韻交替形。カキ(垣)はカクムモノの代表(古代日本語文法の成立の研究=山口佳紀), カコヒキ(囲木)の義(日本語原学=林甕臣), カゲ(陰)の転声(和語私臆鈔), 等々を載せるが,「かく」という動詞由来が妥当に思えてくる。 参考文献; 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「ハマグリ」は, 蛤, 文蛤, 蚌, 浜栗, 等々と当てるらしい。「蛤」(コウ)の字は, 「虫+音符合(コウ あわててふさぐ)」 で,「ハマグリ」である。「蚌」(ボウ)の字は, 「右側の字(音ホン)は,三角形に合わさる意を含む。蚌はそれを音符とし,虫を添えた字で,二枚の殻の頂点があわさり,横から見て三角形をなす貝」 である。やはり「ハマグリ」を指すが,「蚌蛤(ボウコウ)」ともいう。 「日本人にとって非常に古くから親しまれてきた食材で、縄文時代からの出土事例があり、『日本書紀』にも記述がある。」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%9E%E3%82%B0%E3%83%AA) と,古くから馴染みのものである。 「中国の『礼記』に『爵大水に入って蛤となる』とあるが,爵は雀のことで,雀が海に入ってハマグリになったという説は中国からきたものである。初午にハマグリを食べると鬼気に犯されないといい,伏見稲荷で食べたのは,摂州住吉の洲崎がその名産地で,小さなハマグリのむき身を酢にした酢ハマグリだった。伊勢・桑名のハマグリは貝が厚くこわれないから『貝合わせ』(また『貝おおい』という)の貝にした。ひとつの貝殻は他の貝殻とは合わないので平安時代から遊びに用いられ,『源氏物語』にも載っている。後にこれを割符にもしたことがある。」(『たべもの語源辞典』) と,生活にしみ込んでいる。 さて,「ハマグリ」の語源は,『広辞苑』『岩波古語辞典』『日本語源広辞典』『大言海』は共に,「ハマグリ」の項で, 「浜栗の意」 としている。『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/ha/hamaguri.html は, 「形が栗の実に似ており、浜辺に生息していることから『浜栗』の意味が定説。ハマグリは『日本書紀』にも記述が見られるように、古くから食糧にされている。植物の栗も古代 から重要な食糧であるため、『山の栗』に対して『海の栗』と考えたのであろう。 石を意味する古語『クリ』から『浜の石』の意味とする説もあるが,石に見立てた場合に『浜の』とする…!?は疑問」 とするし,『由来・語源辞典』 http://yain.jp/i/%E3%83%8F%E3%83%9E%E3%82%B0%E3%83%AA も, 「浜辺にあり、栗と形が似ていることから『浜栗(はまぐり)』と呼ばれたことに由来するとされる。また、石ころを『クリ』と呼ぶことから浜にある石のような貝との意で『ハマグリ』と称されたとの説などもある。」 も,同趣の説をし,ほぼ「浜栗」説一辺倒である(名語記・和語私臆鈔・燕石雑志・瓦礫雑考・箋注和名抄・雅言考・名言通・柴門和語類集・碩鼠漫筆・大言海)。異説は「浜石」(東雅),他に, アワセメアツクアリ(合目圧在)の義, のみである(『たべもの語源辞典』)。『たべもの語源辞典』も, 「ハマグリ(浜栗)の義,浜にある栗に似たものであるから」 とする。カタチだけから,そう言ったとするのである。聊か疑問である。さらに,『大言海』は,「ハマグリ」の古名を, 「うむき」 とし,『岩波古語辞典』には, 「うむぎ」 で載る。和名抄にも, 「海蛤,宇無木乃加比(むぎのかひ)」 と載る。このことに言及するものが少ない。『たべもの語源辞典』も, 「ハマグリの古名はウムキ,方言では宮古島でシナ,上総・千葉県山武郡で,ゼンナ」 と載せるのみであるが,「ウムギ(ウムキ)」の意味はまったく辿れなくなっている,ということなのだろう。本来, 「ウムギ(ウムキ)」の語源を辿り直すことで,「ハマグリ」の語源を照射できるのだろうが。 なお, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%9E%E3%82%B0%E3%83%AA には,「ぐれる」の語源を, 「ぐれるとは不良になることで、…『ぐれはま』を略したものに名詞を動詞化する接尾語『る』をつけたもの。不良行為・非行行為をするようになるという意味で江戸時代頃から使われるようになった。もともと『不良』という意味を持っていないが、一説には『ぐれる』という行為が『親が望む子の姿から(当てが)外れた』ということから、動詞化する際に『不良』という意味をもったと言われている。」 としている。ちょっと一考の余地がある。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
「サバ」は, 鯖, と当てる。「鯖」(漢音セイ,呉音ショウ)の字は, 「魚+音符青(あおい)」 である(『漢字源』)。サバの背の色が青いので,とあるが,「鯖」をサバにあてるのは,我が国だけのようである(『字源』)。 「魚,あるいは鳥獣の肉を混ぜて煮た料理」(「五侯鯖」は王氏五侯の珍しいよせなべ) の意とあり,その他に, 淡水の菁魚(「青魚」), の意もあり(『漢字源』),「さば」は, 菁花魚, というらしい(『字源』)。古くは, 「アオサバ(菁魚)」 と呼んだらしいので,「鯖」が「サバ」ではないことは,承知していたと推測される。 サバは, 「江戸時代に七夕祭の宵,すなわち七月六日の御三家をはじめ諸大名から七日七夕の祝いとして将軍家にサバを(刺鯖にして)献上したものである。後に,本物の鯖ではなく鯖代として金銀を献上することになった。これが今日のお中元と称して進物する起源となったのである。」 という(『たべもの語源辞典』)。因みに,「刺鯖」とは, 「サバを背開きにして塩漬けにしたもの。二尾を刺し連ねて一刺しという。盆の贈物にもちいた」 とある(『広辞苑』)。「二枚ずつ頭のところで一本の串にさした」(『江戸語大辞典』)という。サバはいたみやすたかったからであろう。 サバの語源には諸説あり,『日本語源大辞典』は, 歯が小さいところから,サバ(小歯)の義(日本釈名・滑稽雑誌所引和訓義解・大和本草・和語私臆鈔・柴門和語類集・和訓栞・大言海), サバ(狭歯)の義(名言通), セキバ(狭)の略転(関秘録), 多くの集まるところから,サハ(多)の転(東雅), 周防国サバ(佐婆)郡の名産であるところから(和語私臆鈔), セアヲハ(背菁斑)の義(言元梯), 盂蘭盆の際に蓮葉で包む魚であり,葉をくさくするところから,サはクサシの上下略,ハは葉か(和句解), と挙げる。この他にも, アイヌの人たちが,サバを「シャンバ」と呼んでいたことから,これが変化してサバになった, という説もある。『日本語源広辞典』は,「サバ(小歯)」説,「サバ(多)」説以外に, 磯で獲れる代表的な魚なので,「磯庭,イサバからイ音脱落」説, も挙げている。 『大言海』は, 「小歯(さば)の義,サバの魚と云ふが,成語なり。其歯,細小なり(鮫も,小眼(サメ),鰆も小腹(さはら)),日本釈名(元禄),鯖『サバは,小歯(さば)也,サは,ササヤカの意。小也。此魚,他魚(コトウオ)に変りて,歯也』。アオサバと云ふは,色ければなり。鯖は魚の合字」 とし,『たべもの語源辞典』も, 「その名称が魚体の特色からつけられると考えるならば,歯が小さい魚だからサバであるとの説がよい」 としている。 小歯, か 狭歯, なのだろう。『大和本草』(江戸時代,宝永)は, 「此の魚牙小なり,故にサハ(狭歯)と云ふ」 とあり,『日本釈名』(元禄)の, 「サバは,小歯(さば)也」 と,対である。他の説と比較するなら,「菁色」由来の語源が無い以上,この何れか,ということに落着く。 参考文献; 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店)
「タイ」は, 鯛, と当てる。「鯛」(チョウ)の字は, 「魚+音符周(まんべんなく調和がとれている)」 で,「たい」を指す。「鯛」が「たい」を指すので当てたが,しかし, 「正しくは棘鬣魚(きょくりょうぎょ)である」(『たべもの語源辞典』) とある。『字源』には, 紅魚, 銅盆魚, ともある。 https://zatsuneta.com/archives/001742.html には, 「漢字の『鯛』は、中国の文献に『骨の端が脆もろい魚』という意味の記載があるが、タイは歯も顎の骨も硬く、ひれには丈夫な棘があり、『骨の端が脆い魚』ではない。そこで、もう一つの意味である『調和のとれた魚』が考えられる。まんべんなく調和がとれていて、どこでも(周=あまねく)見ることができる魚である。」 とある。日本では一般的に, 「高級魚として認知されているが、日本人以外の民族で、この魚を『魚の王』とみなしている例はほぼ皆無である。」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AF%9B) という。日本人好みなのだろう。万葉時代から上等の魚とされた,という。 「『延喜式』に『平魚(たいらうお)』とあるのは,タイのことである。」(『たべもの語源辞典』) とある。『岩波古語辞典』には, 「醤酢(ひしほす)に蒜(ひる)搗き合(か)ててタヒ願ふ」 と,万葉集から引き,「和名抄」の, 「鯛,太比(たひ),味甘令無毒,貌似鰤(ふな)而紅鰭者也」 を載せている。 『岩波古語辞典』は,「たひ(鯛)」の語源を, 「朝鮮語tomi(鯛)と同源」 とする。『大言海』は, 「平魚(タヒラヲ)の意と云ふ。延喜式に平魚(タヒ)とあり,玉篇に,魚名。崔禹錫,食経『鯛,似鰤而紅鰭』とありて,當れり。朝鮮にて道味(どみ)魚」 とし,この「平魚」説が大勢である。『日本語源広辞典』も, 「タイラ(体型がタイラな特徴の魚)」とし,『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/ta/tai.html も, 「他の魚に比べ側扁した体が特徴的であることから、『たいら(平ら)』の『たい』と同源と考えられ、歴史的仮名遣いは『たひ』で『平ら』も『たひら』なので一致する。漢字も『調和のとれた魚』の意味があり、均整のとれた側扁に由来している。日本では赤い色がめでたい色とされており、また『タイ』が『めでたい』に通じることから、古くから縁起の良い魚とされ、現代でも祝いの席には鯛の尾頭つきが出される。」 と,平魚説であり,『たべもの語源辞典』も, 「平魚と書かれるように,平らな魚,タイラウオが略されてタイとなったのである。」 とする。「延喜式」に「平魚」とある以上,これが妥当なのだろう。 『日本語源大辞典』には,その他, えびすが釣る魚であるところから,メデタイの義か(和句解), 三韓の方言から(東雅), イタヒラ(痛平)の義(日本語原学=林甕臣), とあるが,「平魚」説には勝てない気がする。 「アワビ」は, 蚫, 鮑, 鰒, 等々と当てるらしい。「蚫」(漢音ホウ,呉音ビョウ)の字は, 「『虫+音符包(ホウ からでからを包む)』。貝殻で包まれた貝」 「鮑」(漢音ホウ,呉音ビョウ)の字は, 「会意兼形声。『魚+音符包(つつむ)』。塩で包む魚。または,腹の中へ塩を包み込むさかな」 の意で,「しおうお」(魚をひらいて塩でつけ,くさくなるまでおいたもの)をさし,「アワビ(アハビ)」に当てたのは,我が国だけらしい。ただ, 「今では,中国でも,鰒(フク アワビ)の俗名として鰒魚を用いる」(『漢字源』) ともある。「鰒」(フク)の字は, 「会意兼形声。右側の字(音フク)は,ふっくらとふくれたとの基本義をもつ。鰒はそれを音符とし,魚を添えた。」 で,「アワビ」の意だが,我が国では,「ふぐ」に当てた。 https://zatsuneta.com/archives/001875.html には, 「漢字の『鮑』は、魚へんに『つつむ』を意味する『包』という字を組み合わせたもの。これは楕円形の殻に覆われて岩に付着する姿が、身を包んだように見えることに由来する。」 とある。 なお,『大言海』には, 「常に,鮑,又は,蚫の字を書く,鮑は,塩漬の魚にて,誤用なれども,和漢共に,古くより交じりたり。急就篇,注『鮑,亦海魚,加之以塩而不乾者也』香祖筆記『鰒魚,京師,率作鮑魚』。蚫は,天治字鏡に載せて,小学篇字の中にあれば,疑ひもなく,古き和製字なり。鮑の偏を変じたるなるべし。我邦のホシアハビを,干蚫と記して,支那に渡せるなり。蚫の字,彼邦に伝はりて,蚫(パオ)と称して用ゐ居るなり」 とある。「遅くとも江戸時代には日本から中国(当時は清)に輸出されていた(俵物)」とされる大事な輸出品であった。 「アワビ」は牡蠣等と異なり,片側にしか殻がないので「磯の鮑の片思い」と言われるのは, 伊勢の海人の 朝な夕なに かづくとふ 鮑の貝の 片思ひにして という万葉集の歌に由来するらしい。 https://www.bioweather.net/column/ikimono/manyo/m0706_1.htm によると,そのほかにも, 手に取るが からに忘ると 海人の言ひし 恋忘れ貝 言(こと)にしありけり という歌があるらしい。 さて,「アワビ」の語源は,『大言海』は,「あはび」の項は, あはびかひ(鰒), に導かれ,「あはびかひ」の項に, 「合はぬ肉介(みかひ)の略轉なるべし。知らぬを,跡白波などと云ふ例なり(黍(きみ),きび。夜の目,さの目もあはざの烏)。桑家漢語抄(足利時代)『鮑,阿波美(あわみ,常片甲而維(かかる)岸岩不逢佗之義也)』」 とある。『日本語源広辞典』も, 「アワ(合わせる)+ミ(身・肉)」の音韻変化, とみる。その他, フワヌミ(不合肉)の略轉(和句解・和語私臆鈔), アハスミ(合肉)の義(名言通), アヒ(合)の轉(俚言集覧), アハ(合)デ−ヒカル(光)の義,また,アハ(合)デ−ヒラク(開)の義。ふたがないため(日本釈名) 等々も同趣旨の説だろう。その他には, イハフ(岩礁)の轉(言元梯), イハハヒミ(岩這身)の義(日本語原学=林甕臣), 肉の味がアハアハシクて,乾して種々の用途に用いられるためか(和訓栞), アマフカ(甘深)食の反(名語記), 不逢陀の義(桑家漢語抄), 等々があるが,「あはみ」と古くはあるところを見れば,『大言海』説に落ち着くのかもしれない。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「タケ」は, 竹, と当てる。「竹」(漢音・呉音チク,唐音シツ)の字は, 「象形。タケの枝二本を描いたもの。周囲を囲む意を含む」 とある(『漢字源』)。 『たべもの語源辞典』に「竹」について, 「モウソウという竹は,元文年間(1726-41)徳川八代将軍吉宗のとき,琉球から薩摩に二本移植されたのが始まりである。これは中国中部の江南竹で,雪竹ともいう。日本で孟宗竹とよんだのは,中国の筍の産地として有名な西湖近くの法華山一帯から出るものを毛笋(モウシュン)とよんでいるから,これが訛ってモウソウとなり,孟宗とあて字したものである。中国から日本に移植された竹は,マダケ(漢名,苦竹。ニガタケともよぶ),ハチク(漢名,淡竹。苦味がうすいからである。クレタケ,カラダケともいう),布袋竹(ホテイチク。短い節間がふくれていて,ほていさんの腹を連想させるところからの名),鼓山竹(ゴザンチクともいう。漢名多般竹)である。日本原産の竹は,中部山岳地帯,東北地方にあるスズタケ(篶竹。スズ・ミスズともいう。スズは篠(しの)と同じ意)である。」 とあり,これによると,「篠竹」以外は,中国由来,ということになる。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9 に, 「日本ではタケは青森県(本州北端)から九州だが、ほとんどは帰化植物と見られる。」 とある。 『たべもの語源辞典』は,語源説のどれかに肩入れはしていないが, 「新井白石の『東雅』には,『万葉集抄』にタは高いことだとあって,ケとは古語に木をケというようであり,タケとは,生じて高くなる木という意味でつけられて名である,と説いている。タカムナという筍の異名からタカムは高くなることで,ナは『菜』でたべものを意味するという説もある。」 と紹介する。『大言海』は, 「長(たけ)生(お)ふる義,成長の早きにつきて名あるか。又,高(たか)生(は)えの約と云ふ」 とし,『日本語源広辞典』は, 「説1は,『高い草』語源説です。説2は,『中国音tikuがtake音韻変化した語』だという説です。タカイの語源がタカシですから,これをたどって,文字のない時代まで遡ると,タケが,タカ(高)から,生まれたことがうなずけます。また大陸からの原人の中国音が影響したかともかんがえられます。」 とする。ただ, 『岩波古語辞典』は,「タケ」の項で, 「タケ(丈)・タカ(高)と同源とする説は,アクセントを考えると成立困難である。」 と「高」とつなげる説を一蹴する。『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/ta/take.html は, 「語源は諸説あり、主な説は『高(たか)』『丈(たけ)』と同源で高く伸びるものの意味。タケノコの旺盛な成長力から、『タケオフ(長生)』の意味からとする説。『タカハエ(高生)』の約とする説。朝鮮語で『竹』を意味する『tai(タイ)』からとする説がある。『高』や『丈』と『竹』はアクセントが異なるため難しいとの見方もあるが、区別するためにアクセントが変わった可能性もある。また朝鮮語『tai』の説には,和語として『高』や『丈』の意味に分化したとする説や、『タ』が朝鮮語『tai』からで,『ケ』が『木』の意味からとする説もある。」 の言うような,「『高』や『丈』と『竹』はアクセントが異なるため難しいとの見方もあるが、区別するためにアクセントが変わった可能性もある」とするのは,文脈依存の和語ということを考えると,ひとつの考え方かもしれない。確かに,高・丈とつなげる説は結構多いのである。 タカ(高)の轉(日本釈名・日本声母伝・円珠庵雑記・言元梯・菊池俗語考), タケ(丈)が高いところから(古今要覧稿・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子・日本語源=賀茂百樹), 動詞タク(高)の連用形名詞法(続上代特殊仮名音義=森重敏), 『大言海』の「高生え」も「長生ふ」も,「長け」は, 「タカ(高)の動詞化」 なので,やはり,「高」とつながり,難しい。「高」との関わりを捨てるとなると, タは,竹の意の朝鮮語takiから,ケはキ(木)の意(国語学通論=金沢庄三郎), になるが,僕は,篠竹以外,ほとんどが中国由来,ということを考えると,『日本語源広辞典』の, 中国音tikuがtake音韻変化した語, という説が捨てがたい。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 「ささ」は, 笹, 篠, 小竹, と当てる。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9 によると,広義には,竹とは, 「イネ目イネ科タケ亜科のうち、木本(木)のように茎が木質化する種の総称である。通常の木本と異なり二次肥大成長はせず、これは草本(草)の特徴である。このため、タケが草本か木本かは意見が分かれる(『木#学術的な定義を巡って』も参照)。ただし、タケの近縁種は全て草本で、木本は存在しないので、近縁種に限った話題では、近縁の完全な草本と対比して、タケは木本とされることが多い。」 とし,その生育型から, 狭義のタケ, ササ(笹), バンブー (bamboo), の3つに分けられる,その「笹」である。 その違いは, 「バンブーは地下茎が横に伸びず、株立ちとなる。大型になり、熱帯域に多い。 タケは地下茎が横に伸び、茎は当初は鞘に包まれるが、成長するとその基部からはずれて茎が裸になる。 ササはタケと同じく地下茎が横に伸びるが、茎を包む鞘が剥がれず、枯れるまで残る。 一般にササはタケより小さいが、一部には逆転する例もあり、オカメザサはごく小さなタケ、メダケは大きくなるササである。」 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%B5)。 『字源』によると,「笹」は,國字とあるが,『漢字源』には, 「『竹+世(何代にもはえる)』の会意文字か」 とあり,さらに,一説に, 「『竹+葉(小さい竹の葉)』の会意文字とも」 とあるので,見解は別れているようだ。「ささ」は, くまざさ,ちまきざさ,など小形の竹の総称, とある。「篠」(ショウ)の字は, 「竹+條(細いすじ)」 で,「しのだけ」を指す。幹が細く矢柄に用いる。「ささ」は, 小竹, と当てるように,「ささ」は「細」,小さい意である。「ささ」(細小・少)のみで, 「小さいもの,細かいものを賞美していう」 とあり,「ささ蟹」「ささ濁り」等々と用いる。その「ささ」の意の可能性はある。 『大言海』は,「ささ」を二項に分ける。ひとつは, 小竹, 細竹, と当てて, 「細小竹(ささたけ)の下略。或は云ふ,葉の風に吹かれて相觸るる音を名とし,竹の異名としたるなりと」 とし, ささだけ,又は竹の異名, とする。いまひとつは, 笹, と当て, 「(小竹)の語の,一種の竹の名に移りしなり(神榊(さかき)の榊となり,薄(すすき)の芒(すすき)となりし類)。細小(ささ)は,自ら低きをいふこととなる,笹の字は,和字なり(節(よ)を世(よ)に寄せて作れるか))」 とあり,「笹」は,やはり『字源』のいう通り,國字ということのようである。 こうみると,「細小」の「ささ」が「笹」となったか,と思われる。擬音語「ささ」は,『擬音語・擬態語辞典』によれば,「ささっ」は, 「鎌倉時代から『ささ』の形で見える。」 とある。新しい使い方のようなのである。『デジタル大辞泉』に載る「ささ」の用例は, 水が勢いよく流れたり注ぎかかったりするさま。「あがきの水、前板までささとかかりけるを」〈徒然・一一四〉 風が吹くさま。「扇をひろげて、殿上をささとあふぎ散らして」〈盛衰記・三〉 動きの速いさま。「人々のささと走れば」〈大鏡・道長下〉 大勢の人々が口々に物をいってさわがしいさま。また、一時に笑うさま。「聴聞衆ども、ささと笑ひてまかりにき」〈大鏡・道長下〉 と,鎌倉時代である(古くは,「さざ」と濁ったようである。あくまで,「水の擬音」として使われてきた。「ささ」と風音に使うようになったのが,鎌倉時代以降ある)。やはり,たぶん竹と比べて「細小(ささ)」から,「ささ」となったと見るのが妥当に思える。『日本語の語源』も, いささたけ(細小竹) から「ささ」となったとしている。『日本語源広辞典』には, 「『ササ(わずかな,ちいさい,細,小)』です。万葉集の『わが宿のイササ群竹吹く風の』のイも,ササも小さい意味です。笹の字は国字です。『竹+世(葉擦れの音)』。竹の葉擦れの音を文字にしたものです。」 とある。その他,『日本語源大辞典』には, サシノハ(小篠葉)の義(日本語原学=林甕臣), も載るが,「細小」説の一種とみていい。 なお,酒を「ささ」というのは,女房詞かららしいが, 「さけ」の「さ」を重ねたものとも, 中国で酒を竹葉といったことからとも, いうらしい。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 田井信之『日本語の語源』(角川書店) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 「酒」は, ささ, とも言う。 「酒をいう女房詞」 らしいが,『広辞苑』には, 「『さけ』の『さ』を重ねた語。一説に,中国で酒のことを竹葉というのに基づくとする」 とある。『デジタル大辞泉』にも, 「中国で酒を竹葉といったことからとも、『さけ』の『さ』を重ねたものともいう」 とある。『岩波古語辞典』では,「ささ(笹・小竹)」の項に,載せる。「笹」とどんな関係があるのか。『たべもの語源辞典』は,「さけ」の語源として, 「中国で酒の異名を竹葉というが,竹葉から笹となり酒となったなどのこじつけ」 と一蹴するが,「さけ」の語源かどうかはさておき,「竹葉」の故事自体は,室町時代の古辞書『土蓋嚢抄』(1446)に, 酒ヲ竹葉ト云事ハ如何, に応えて, 竹ノ葉ノ露タマリ。酒ト成ル故ニ。竹葉ト云ト, とあり, 昔漢朝ニ劉石〔リウセキ〕ト云者アリキ。繼母ニ合テケルカ。其繼母我ガ實子ニハ能飯〔イヒ〕ヲ食セ。孤子〔マヽコ〕ニハ糟糠〔サウカウ〕ノ飯ヲ與ヘケリ。劉石是ヲ不得食シテ。家近キ所ニ木ノ股ノ有ケルニ。棄置ケリ。自然ニ雨水落積テ,漸ク乱レテ後芳バシカリシカハ,劉石之ヲ試ルニ其味ヒ妙ナリ。仍テ竹ノ葉ヲ折テ指覆フ。其心ヲ以テ酒ヲ作テ國王奉リシカ。味ヒ比无(ナク)シテ褒美ニ預リ。献賞ヲ蒙テ家富ミケル也。是ニ依テ。酒ヲ竹葉ト云云。 と,由来を述べている(https://www.komazawa-u.ac.jp/~hagi/Ko_sake_nomi.htmlより),という。竹の葉を折って覆ったらなぜ美酒になるかはともかく,こんなところから,酒を「竹葉」という謂れはある。ただ,それから,「ささ」につながるというのは,少々牽強に過ぎまいか。むしろ,「笹」は酒と関係が深いらしい。 https://sasa-japon.info/culture/sasa-sake/ には, 「日本の古い詩にも笹と酒の関係性が発見できます。 『岩魚(イワナ)にはまだならずとも笹魚(ササウオ)のササをすすむるひと筋となれ』 このように酒と笹の縁は国をまたいで古くから伝わっています。 酒をつくる時、飲む時、そこにも酒と笹とのつながりがあります。酒をつくる際、防腐剤としてもっとも古くから使われてきたのはクマ笹の葉を粉末にしたものを使う方法です。戦前まで函館の酒造所で行われていたようです。 中国では酒の発酵を止めるのにも使っていたとか……。」 と,笹と酒の関係は深そうである。で,「ささ」と言ったと説く方がまだ,わかる。「竹葉」経由では少し回りくどい。 『大言海』は, 「和訓栞,ササ『小児詞にて,サケを重ねたるにや』。小児語より婦女の語にも移りたるなり(愛(は)し,母(はは)。鶏(とり),とと。浅漬,あさあさ。数子(かずのこ),かずかず)」 と,幼児語説を採る。 『日本語源大辞典』は, 酒の異名「竹葉」を和語化した語か(嘉良喜随筆・漫画随筆・閑窓瑣談・和訓栞), サケ(酒)ノサを重ねた語か(古事記伝・和訓栞・大言海), 人に酒をすすめる時のことばから(総合日本民俗語意考), と挙げる。『日本語源広辞典』も,この三説をあげるが,「酒をすすめる」説について, 「イザイザの音韻変化,勧める語」を酒の名詞と思い間違った」 としている。『日本語源大辞典』は,更に, 君にササグルの略語(柴門和語類集), 三々九度の「三々」から(貞丈雑記), 「酢々」が国語化したもの(日本語原学=与謝野寛), と,三説を紹介している。しかし,前述の, https://sasa-japon.info/culture/sasa-sake/ が, 「群馬県や和歌山県新宮市では酒をササという文化が僅かに残っています。宮中では酒のことを表す言葉として、ササとオッコンの両方が使われています。また、『日葡辞典』には酒粕のことをササノミと載っています。」 とある。「ささ」は「さけ」の語源とつながっているのではあるまいか。 「酒」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba8.htm#%E9%85%92)の語源については触れたが,『岩波古語辞典』に「き」が酒の古名とあり,この「き」は,「kï」である,とする。「ki」ではない。この「き」について, 「古語時代は食べることまたは食べ物を『ケ』、飲み物はそれが転じて『キ』となった」(東雅) 「奇(く)しをつめて,キと呼び,キと呼んだ」(たべもの語源辞典) の説が目に留まったが,『日本語源大辞典』は, カミ(醸)の約(大言海), キ(気)の義か(和訓栞), ケ(饌・食)の轉(言元梯・日本古語大辞典=松岡静雄), 蛮語である(和訓八例), キ(醗)の字音(日本語原学=与謝野寛), と諸説載せる。どうやら,「さけ」が,『大言海』の言うような, 「サは,発語にて,サ酒(キ)の転(サ衣,サ山。清(キヨラ),ケウラ。木(キ)をケとも云ふ)」 に落ち着くとすると,「ささ」は,本来意味のなかった「さ」を, 重ねた, とするのが妥当に思える。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) シカト, と表記されることの多い「しかと」は, 確と, 聢と, と当てられる, はっきりとしているさま,確実でまちがいのないさま,たしかに, かたく,しっかりと,十分に,完全に, すきまなく,びっしりと, という意味で使われるそれではなく, 相手を無視する, という意味で使われる「しかと」である。『広辞苑』には, 「花札の紅葉の札の鹿がしろを向き知らん顔しているように見えることからいう」 とある。 『広辞苑』に載るくらいだから,一般に認知された言葉と思えるが,そんなに古くはない。他の辞書には当然載らないが,『語源由来辞典』(http://gogen-allguide.com/si/shikato.html)には, 「シカトは、花札の十月の絵柄『鹿の十(しか のとお)』が略された語。十月の札は、鹿が横を向いた絵柄であるため、そっぽを向くこと や無視することを『シカトする』と言うようになった。 警視庁刑事部による『警察隠語類集』(1956年)には、『しかとう とぼける。花札のモミヂの鹿は十であり、その鹿が横を向いているところから』とあり、このころはまだ『シカト』ではなく『しかとう』で,賭博師の隠語であったことがわかる。その数年後には、不良少年の間で使われ、『しかとう』から『シカト』に変化している。やがて、一般の若者にも『シカト』は使用されるようになった。」 とある。『とっさの日本語便利帳』(https://kotobank.jp/word/%E3%82%B7%E3%82%AB%E3%83%88-898732)には, 関東地方での使用頻度が高い, とある。『日本語俗語辞典』(http://zokugo-dict.com/12si/sikato.htm)には, 「昭和時代のツッパリ・ブームで不良が頻繁に使わったことから広く普及(不良漫画ではカタカナのシカトがよく使われる)。しかとは行為をする当人が「しかとしよう」といったものより、された側の「しかとかよ」「しかとすんなよ」という使われ方のほうが多い。余談だが動物がそっぽを向いた他の花札に『松に鶴(一月)』がある。こちらが使われていたら『ツルイチ』というちょっと間の抜けた語感の言葉になっていたのかもしれない。」 とあり,同趣旨のことは,http://zatugaku1128.com/sikato/にもあり, 「ちなみに動物がそっぽを向くという柄は、鹿の他にも一月の最高札である『松に鶴』もあります。もしこちらが使われていたら『シカト』ではなく『ツルイチ』になっていたわけですが、『松』も『鶴』も日本では縁起の良いものとされてきたため、隠語としてはどこか仰々しいというところもあったのでしょうか、『シカト』のほうが広まっていきました。」 とある。『笑える国語辞典』(https://www.waraerujd.com/blank-39)は,なぜ「鹿に紅葉」が使われたかについて, 「無視することという意味で、一九八〇年代頃の不良仲間が愛用した隠語。 シカトは、花札の十月の札に描かれた鹿が、横を向いてこちらを無視しているように見えることから、十月の鹿、鹿十(しかとお)からシカトに変化した言葉だと言われる。しかし、花札に描かれた動物で私たちと目を合わせている(正面を見ている)ヤツはいないし、鹿の場合は、後ろを振り返っていてこちらを見ようとしている風情もあり、古人が作った和歌を見ても、鹿は女を求めて鳴いてばかりいて『知らん顔』とはほど遠く、そんな彼がなぜ『シカト=無視』の象徴に選ばれたのかは不明。もしかして、『無視か!(むシカ)』というダジャレか?」 としている。そんなところなのかもしれない。 花札にはまったく知識がないが,「花かるた」とも呼ばれ, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E6%9C%ADによれば, 「八八花のことで、一組48枚に、12か月折々の花が4枚ずつに書き込まれている。48という枚数は、一組48枚だったころのポルトガルのトランプが伝来した名残である。2人で遊ぶこいこい、3人で遊ぶ花合わせ、という遊び方が一般的だが、愛好家の中では八八という遊び方に人気がある。」 とか。なお,https://allabout.co.jp/gm/gc/215733/によると,花札用語と関わる賭博用語からきたものに,「ボンクラ」が, 「漢字になおすと『盆暗』。盆は博打場のことであり、ここで目端が利かず負けてばかりの人間をさす言葉が一般語化しました。」 とあるし,「ぴか一」は, 「『光一』という花札の役の名前です。7枚の手札のうち、1枚だけ光り物(20点札)で残りがカス札ばかりの役なのですが、ここから他のものから1つ頭が抜けていることをこう呼ぶようになったのです。」 とか。『語源由来辞典』(http://gogen-allguide.com/hi/pikaichi.html)には, 「ピカイチは、花札用語で手役のひとつに由来する。その手役とは、初めに配られた七枚の札のうち二十点の札が一枚だけあり、残りの六枚が全てカス札の場合、同情点を四十 点ずつもらえる役のことである。二十点札を『光り物(ピカ)』と言うことから、この役は『光一(ピカイチ)』と呼ばれ、転じて『抜きん出る』意味となった。」 とある。 「シカ」は, 鹿, と当てる「シカ」のことである。 『広辞苑』には, 「『めか(女鹿)』に対し牡鹿をいうとも」 とあるが,これは,『語源由来辞典』(http://gogen-allguide.com/si/shika.html)に, 「古くは、シカは『カ』といった。その『カ』に『シ』が付いた『シカ』がオス、『メ』が付いた『メカ』がメスを表した。オスを表す『シ』は『夫』を表す古語『セ』の転で、メスを表す『メ』は『女』である。やがて、オスを表す『シカ』がメスも表すようになり、オスは『ヲジカ』、メスは『メジカ』と呼ばれるようになった。」 とあるのに対応する。『岩波古語辞典』にも」「か」は, 鹿の古名, とあるが,『播磨風土記』に, 「おおぎみ…『しか鳴くかも』とのりたまいき。かれ餝磨(しかま)の郡となづく」 とあるように,ふるくから「シカ」も使われている。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%82%AB には,その辺りの経緯を, 「シカを意味する日本語には、現在一般に使われる『しか』のほかに、『か』、『かのしし』、『しし』などがある。地名などの当て字や、『鹿の子(かのこ)』『牝鹿(めか)』などの語に残るように、古くは『か』の一音でシカを意味していた。 一方、古くからの日本語で肉を意味する語に『しし』(肉、宍)があり、この語はまた『肉になる(狩猟の対象となる)動物』の意味でも用いられたが、具体的にはそれは、おもに『か』=シカや『ゐ』=イノシシのことであった。 後に『か』『ゐ』といった単音語は廃れ、これらを指す場合には『しし』を添えて『かのしし』『ゐのしし』と呼ぶようになったが、『かのしし』の方は廃語となって現在に至っている。さらに、『鹿威し(ししおどし)』『鹿踊り(ししおどり)』にあるように、おそらくある時期以降、『しし』のみでシカを指す用法が存在している。 こうした一方で、『しか』という語も万葉集の時代から存在した。語源については定説がないが、『か』音は前述の『か』に求めるのが一般的である。一説に『せか』(『せ』(兄、夫)+『か』)の転訛と考え、もと『雄鹿』の意味であったとも、また、『しし』+『か』の変化したものかともいう。」 と詳しい。『大言海』は,「か」(鹿)で, 「鳴く声を名とす,『カヒよとぞ鳴く』など云ふ」 とある。 「『鹿』は秋の季語であり和歌などに詠まれ、歌集におさめられている。シカは秋に交尾期があり、この時期になるとオスは独特の声で鳴き角をつきあわせて戦うため人の注意を引いたのだろう。」 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%82%AB)ように,鹿の鳴き声は,さまざまに歌に残されている。 奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき(猿丸大夫)(『古今和歌集』「詠み人知らず」) 下紅葉 かつ散る山の 夕時雨 濡れてやひとり 鹿の鳴くらむ(藤原家隆) 『新古今和歌集』 世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる(藤原俊成) 『千載和歌集』 等々。なお, 「ニホンジカの夏毛は茶褐色に白い斑点が入った模様をしており、これは鹿の子(かのこ)と呼ばれ、夏の季語である。」 で,『大言海』は,「シカ」に, 牡鹿, と当てて,前述来と同趣旨のことを, 「夫鹿(せか)の転。女鹿(めか)に対す。カセギというも,鹿夫君(かせぎみ)なりと云ふ。一説に,其角,桛木(かせぎ)に似たれば名とすと云ふ。セウガ,メウガと同趣(か,をシカ,サをシカ見合わすべし)」 とする。 『日本語源広辞典』は,以上から,二説に集約する。 説1は,「メカ(女鹿)」に対する牡鹿を,セカ(夫鹿)と呼び,その変化したもの, 説2は,「シ(肉)+カ(接尾語)」 『日本語源広辞典』は,「カ」を接尾語とするが,「カ」は「シカ」の古名と考えていい。『日本語源大辞典』は, 「古代からの食用狩猟獣で,猪と共に肉を意味する『しし』の語でよばれた。猪と区別して『かのしし』とよび,また『かせぎ』ともいう。これらに共通する『か』が,鹿を意味する基本的な語のようだが,『しか』と『か』の関係は明らかではない」 というが,「か」は,『大言海』のいうように,鳴き声,つまり擬音語からきているとみていい。ただ,「しし」というときは,(食用の)肉をさし,「シカ」は,「せか」「めか」と呼ぶときは,動物としての「シカ」を指していたのではないか。だから,歌や風土記などでは,「か」あるいは「シカ」が使われてきた。主体側の意識の差で,相手をつかいわけていただけなのではあるまいか。 『日本語源大辞典』には,諸説が メカ(女鹿)に対していうセカ(夫鹿・雄鹿)の轉(万葉集講義=折口信夫・大言海), シカ(妋鹿)の意(日本語原学=与謝野寛), シシカ(肉香)の義(名言通), シは発語。カは鹿(国語の語根とその分類=大島正健), シ(宍)カの意。カはケ(食)の分化した語で,肉が食用に供される動物をいう(日本古語大辞典=松岡静雄), シシ(獣)の中で身のカルイ(軽)ものの義か。あるいは,シはシシ(獅子),カはカナシ(悲)の義か(和句解), よく天道を知り,嗅覚が発達しているところから,シカ(知齅)の義(柴門和語類集), シはシタフ意,カは鳴声から(槙のいた屋), シロ(白)く,臭(か)あるところから(日本釈名), アシキハの略(関秘録), ホシケ(星毛)の義(言元梯), 背も角もシッカリした獣であるところから(本朝辞源=宇田甘冥), シカ(大角),またはシカ(獣角)か(語源辞典=動物編=吉田金彦), 載るが,その区別がついていないと思えてならない。。 因みに,「鹿」(ロク)の字は,(角のある牡)シカの姿を描いた象形文字。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「タケ」は, 茸, 菌, 蕈, と当てるが,「きのこ」の意である。「きのこ」も,同じ字を当てる。 「きのこ」は, 木の子, で,「たけのこ(竹の子)」に対しての語(『日本語源広辞典』)とあるが,『大言海』は, 「竹の子,芋の子もあり」 としているので,必ずしも対ではなさそうだ。木に寄生するために,そう名づけたものらしい。「くさびら」(クサヒラ)とも言うらしいが,古くは, 木茸(きのたけ), 土茸(つちたけ), といったらしい。『大言海』の「たけ(茸・菌・蕈)の項には, 「椎茸,榎茸の類は木ノタケと云ひ,松茸,初茸の類を土タケと云ひ,岩茸の類は岩タケと云ふ」 と区別している。『大言海』が引用しているのを挙げると, 和名抄「菌茸,菌有木菌木菌岩菌,皆多介,如人著笠者也」 箋注和名抄「菌,太介,有數種,木菌土菌石菌云々,形似蓋者」 本草和名「木菌,岐乃多介,地菌,都知多介」 等々。なお,「たけ」の訓みについて, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%8E%E3%82%B3 「日本語のキノコの名称(標準和名)には、キノコを意味する接尾語『〜タケ』で終わる形が最も多い。この『〜タケ』は竹を表わす『タケ』とは異なる。竹の場合は『マ(真)+タケ(竹)』=『マダケ』のように連濁が起きることがあるが、キノコを表わす『タケ』は本来はけっして連濁しない。キノコ図鑑には『〜ダケ』で終わるキノコは一つもないことからもこれがわかる。しかし一般には『えのきだけ』、『ベニテングダケ』のような誤表記が多い。」 とある。「タケ(竹)」とは異なる,特殊の位置を「タケ(茸)」は持っているらしい。 さて,「タケ」の語源であるが,『岩波古語辞典』は, 「タケ(長)と同根高く成るものの意」 とあり,「長け」を見ると, 「タカ(高)の動詞化。高くなる意。フカ(深)・フケ(更)・アサ(浅)・アセ(褪)の類」 とある。この「長け」は,身の丈の「丈」とも通じる。「たけ」については,
「ゆきたけ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba6.htm#%E3%82%86%E3%81%8D%E3%81%9F%E3%81%91)、 「たけ」は, 丈, 長, と当てると, 物の高さ,縦方向の長さ, となり, 動詞「たく(長く)」と同源, であり, 岳, 嶽, と当てると, くて大きい山, の意となり, 「たか(高)」同源(中世「だけ」とも), とある(以上『広辞苑』)。 しかし,『岩波古語辞典』をみると,「たけ(長・闌)」は, 「タカ(高)と同根。高くなるものの意」 とあり,単に物理的な長さ,高さだげではなく,時間的な長さ,高まりも指し,「たけなわ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%81%9F%E3%81%91%E3%81%AA%E3%82%8F)の項 で触れたように, 「長く(タク)は,高さがいっぱいになることの意で使います。時間的にいっぱいになる意のタケナワも,根元は同じではないかと思います。春がタケルも,同じです。わざ,技量などいっぱいになる意で,剣道にタケルなどともいいます。」(『日本語源広辞典』) という意味も持つ。だから, 「タカ(高)と同根。高い所の意」 である「たけ(岳・嶽)」ともほぼ重なる。 『大言海』は,「たけ(嶽・岳)」を, 高嶺(たかね)の約, とし,「たけ(丈)」を, 高背(たかせ)の約,長(た)くの義, とするが,これは,逆立ちではあるまいか。「嶽」の字,「丈」の字を当てはめた後の解釈にすぎないのではないか。僕には, 丈も長も, 岳も嶽も, かっては,「たけ」だけで済ませていた。文脈依存の文字を持たない祖先にとって,その区別は,その場にいる人にわかればいいのである。そう考えると, 「たけ(茸)」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba11.htm#%E3%82%BF%E3%82%B1%EF%BC%88%E8%8C%B8%EF%BC%89)
も,
も,すべて, 「てぬぐい」は, 手拭い, と当てる。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E6%8B%ADによると, 「今昔物語では「手布(たのごい)」という表記の記述があり、和名抄には「太乃己比(たのごひ)」という表記の記述があり、それぞれ、手拭を指しているといわれている。」 とあり,『岩波古語辞典』には, てのごひ, と載り, たのごひ, とも。とある。「て(手)」は,古形が「た」なので,「たのごひ」というのも「てぬぐい」のことである。「のごひ」は, 拭い, と当てる「ぬぐい」の古形である。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E6%8B%ADによれば, 「暖簾と区別も曖昧であり、所定の場所に掛けて日除けや塵除けや目隠しとして使われ、その用途は人の装身具として求められた機能と同じであり、垂布(たれぬの)や虫垂衣(たれむし)や帳(とばり)と呼ばれていた。また紋や家紋を入れる慣わしも同じである。」 とあり,奈良時代には, 「神仏の像や飾り付けなどの清掃を目的とした布として、使われていた」 とする説があり,平安時代には, 「平安時代に、神祭具として神事に身に纏う装身具として使われていた。当初は布は貴重なため、祭礼などを司る一部の身分の高い者にしか手にすることはなかったが、鎌倉時代以降から庶民にも少しずつ普及し、室町時代には湯浴みの体を拭うためにも使われるようになり、戦国時代には広く用いられるようになった。」 とある。『大言海』の「てぬぐい」の項には, 手巾, 手帕 帨 とも当てるとある。「手巾」(シュキン)は, 手ぬぐい,またはハンカチ, を指し,「手帕」の「帕」(ハク・バツ)は「はちまき」(抹額)を意味し,「帨」(エツ・ゼイ)は「てぬぐい」「てふき」(佩巾)を意味する,というように,当てた漢字からも意味の幅がある(『字源』)。 「3尺から9尺であったが、江戸時代には一幅(曲尺の1尺1寸5分、約34.8cm・反物の並幅、約36から38cm)で、長さは鯨尺2.5尺(約94.6cm)になり、ほぼ現在の約90cm x 35cm程度の大きさになった。詳細に寸法が違うのは一反(12m前後とまちまち)の布から8から11本を裁断したために、大きさが規格として曖昧になっていることや、着物を作成した時の反物の端切れからも作られたことによる。手拭の端が縫われていないのは、清潔を保つ為水切れをよくし早く乾くようにと云う工夫である。」 とある。なかなかの工夫の跡である。『デジタル大辞泉』には, 「手・顔・からだなどをふくのに用いる布。鉢巻きやほおかぶりなどにも使う。ふつう、一幅 (ひとの) の木綿を3尺(約90センチ)に切ったもので、模様や文字が染め出してある。」 とあり,用途はさまざま。 『江戸の風呂』によると, 「手拭いを古くは,胾,帍,手巾と書いて『てのごい』と呼んだが,それが『てぬぐい』となったのは,『手拭』と書く近世になってからである。長さは一定せず,用途によって都合のいい尺数に切って使ったが,幕末になってほぼ鯨尺二尺五寸(約95センチ)に定まったようにだ。 古くは白の木綿地,江戸時代になって赤手拭い,澁手拭い,染め分け手拭いがあらわれ,さらに豆絞り,けし玉,王しぼり,半染手拭いなどが市場に出まわった。これは入浴に限らない。かぶりものにも,帯や目印にもされた。」 とある。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E6%8B%ADには, 「江戸時代には都市部近郊に大豆などと並んで綿花の穀倉地帯が発展し、木綿の織物とともに普及していった。都市近郊で銭湯が盛んになったことや、奢侈禁止令により、絹織りの着物が禁止され、木綿の着物がよく作られるようになると、端切れなどからも作られ、生活用品として庶民に欠かせないものになった。この頃から『手拭』と呼ばれるようになり、入浴に使われたものは、『湯手(ゆて・ゆで)』とも呼ばれた。 また実用だけでなく、自身を着飾るおしゃれな小間物として、己の気風や主義主張を絵文字の洒落で表し、染めぬいたものを持ち歩いたり、個人が個々の創作で絵柄を考え、発注した手拭を持ち寄り、『手拭合わせ』という品評会を催されるまでになり、折り紙のような趣きとして『折り手拭』という技法もうまれ、庶民の文化として浸透していった。」 とある。 『笑える国語辞典』 https://www.fleapedia.com/%E4%BA%94%E5%8D%81%E9%9F%B3%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9/%E3%81%A6/%E6%89%8B%E6%8B%AD%E3%81%84-%E6%89%8B%E3%81%AC%E3%81%90%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%AF-%E6%84%8F%E5%91%B3/ にも, 「庶民の間に広く普及していた江戸時代には、ハンドタオル、ハンカチのように水や汗で濡れた手や顔をぬぐうほか、入浴後に体をふくバスタオルの機能もはたしていた。(中略)庶民の誰もが手ぬぐいを持っていた江戸時代には、染色が発達しデザインも多様になり、手ぬぐいをもちよってそのデザイン性を競う競技会のような催しも行われたほどである。また手ぬぐいは、身体をぬぐうという本来の用途のほか、はちまき、ほおかぶり、あねさんかぶりなど、かぶりものとしても広く用いられ、物売りや農民など日中外で仕事をする人々のほか、夜間に人目を忍んで活動する泥棒にも、頭や顔を隠す必需品であった。」 とある。今日のマフラーの代用品でもあった。なお,「てぬぐい」の柄については, https://kamawanu.co.jp/tenugui/origin.html http://ky.japanese-towel.com/pattern.html に詳しい。ところで,落語の世界で手ぬぐいのことを「まんだら」というらしいが, 斑, とも当て, 「元来は仏教絵図だが、四角いところから言う」(『業界用語辞典』), 「手拭いを「マンダラ」という。折りたたんだところが斑というところから出た。」(『落語文化史』) 「扇子を風(かぜ)と呼び、開いたり畳んだりして、きせる、刀、箸、筆、竿、傘、お銚子、などを表現。手ぬぐいは何にでも化けることから曼荼羅(まんだら)と称し、手紙、本、財布、たばこ入れなどとなる。」(知恵蔵) と,諸説あるらしいが,http://textview.jp/post/hobby/11244で,浄土真宗本願寺派 如来寺第19世住職の釈徹宗氏が, 「もともと『高座』という言葉は『お説教をする場所』を指していました。和服を着て座布団に正座する落語のスタイルは、仏教のお説教の影響を色濃く残していると言えます。お扇子を持つのもおそらく、お坊さんの使う、『中啓(ちゅうけい)(扇)』が源流でしょう。落語界では手拭いを『まんだら』と呼びますが、あれも、四角くて模様がついている様子を曼荼羅(まんだら)に見立てたわけです。また『前座(ぜんさ)』は、本格的な大説教者が出る前にお話する『前座(まえざ)』から来ています。そう考えると、説法と芸能という目的の違いはあるものの、形態は共通しているんですね。」 との説明が説得力がある。 参考文献; 今野信雄『江戸の風呂』(新潮社) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 簡野道明『字源』(角川書店) 「石鹸」は, シャボン, のこととされる。明治初めまで,石鹸に,シャボンとルビさえ振った。『江戸語大辞典』にも,「しゃぼん」の項で, 「スペイン語でjabonの古い綴字xabonのポルトガル語訓みか」 として,石鹸の意とする。『大言海』も,「石鹸」の項で「しゃぼん」の意とする。確かに,石鹸は, 「日本には安土桃山時代に西洋人により伝えられたと推測されている[4]。最古の確かな文献は、1596年(慶長元年8月)、石田三成が博多の豪商神屋宗湛に送ったシャボンの礼状である。 最初に石鹸を製造したのは、江戸時代の蘭学者宇田川榛斎・宇田川榕菴で、1824年(文政7年)のことである。ただし、これは医薬品としてであった。 最初に洗濯用石鹸を商業レベルで製造したのは、横浜磯子の堤磯右衛門である。堤磯右衛門石鹸製造所は1873年(明治6年)3月、横浜三吉町四丁目(現:南区万世町2丁目25番地付近)で日本最初の石鹸製造所を創業、同年7月洗濯石鹸、翌年には化粧石鹸の製造に成功した。」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%B9%B8) とされるのが一般的である。『語源由来辞典』(http://gogen-allguide.com/se/sekken.html)も, 「石鹸の『石』は固い物の意味。『鹸』は塩水が固まったアルカリの結晶、また灰をこした 水のことで、アルカリ性で洗濯にも使えることから、本来は『鹸』の一字で『石鹸』も意味 する。 つまり、『固い鹸』の意味として日本人が考えた造語である。南蛮貿易により渡来したが、当初は灰汁を麦粉で固めたものを言い、『鹸』の意味のまま用いられていた。江戸時代には『シャボン』が常用語として使われていたため『石鹸』の語はあまり見られないが、明治に入ると漢語重視の風潮になり、多く用いられるようになった。たたし、この当時の振り仮名は『シャボン』とされるのが普通で、『せっけん』と読まれるのは明治後半からである。」 とする。しかし,シャボンと石鹸は別物である,という。 慶長十七年(1612)に,東大寺三蔵(正倉院)の御宝物改めをした記録に, 「長持ち一つ,内しゃぼん一長持有」 とあるそうである(『江戸の風呂』)。つまり,慶長年間には調査した人間が「しゃぼん」という言葉を知っており,奈良時代からあった宝物をそう呼んだ。ただ,これは, 蜜蝋の類, と今日では見なされている。上記にもあるが,慶長元年(1596)伏見大地震の見舞いに,博多の豪商神屋宗湛(1553−1635)が石田三成(1560−1600)宛にシャボンを贈っており,この時の礼状が, 「しゃぼん二被贈候遠路懇志の至り…」 と,残っているとか(仝上)。 「当時のしゃぼんの産地はおもにスペインで,『ペネチア石鹸』とか,『マルセーユ石鹸』『カスティリア石鹸』と呼ばれる高級品だった」 が,南蛮交易に進出した宗湛だからこそ入手できた(仝上)。 しんし,「石鹸」は,元来中国産である。https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q127648597には, 石鹸を, 中国の湖の付近の石が、アルカリ性で泡が立ち、洗濯に使っていたのが語源, とし,この石は、 「ラーメンのコシを出すのに使う事もあり、『灌水(かんすい)』とも、呼ばれています。」 とあるが, 「石鹸は元来中国産である。明の名医李時珍が,1590年に著した『本草綱目』のなかに石鹸という字があり,これを幕府の儒官林羅山(1583−1657)が二本に紹介したもので,製法はかの地の山東に産する草の灰汁にうどん粉をこねあわせて石のように固めたもので,洗濯にも使い,まんじゅうのふくらし粉にも使うとあるから,いわゆる脂肪酸アルカリ塩としてのしやぼんとは性質のちがうものだった。」 とある(『江戸の風呂』))。「鹸」(漢音カン,呉音ケン)の字を見ると, 「会意兼形声。『鹵(転々とアルカリの噴き出たさま)+音符僉(ケン・セン 引き締める,集めて固める)』」 とあり, 塩水の固まったアルカリの結晶, あく,灰を溶かした水の上澄み,アルカリ性で選択に使える, とあり,まさにこれが「石鹸」であり,シャボンとは全く別物。この字を当てて,シャボンと訓ませていた,ということになる。 しゃぼんは,江戸時代後半には蘭医学とともに薬用としておおいに利用され,明治五年,京都府が設立した舎密局(化学研究所)が石鹸製造を始めたというたという。さらに, https://www.live-science.com/honkan/soap/soaphistory01.html に, 「国産の石鹸が初めて売り出されたのは1873年(明治6年)。堤磯右衛門が1本10銭で棒状の洗濯石鹸を販売したのです。しかし、その品質は舶来の石鹸に比べて今ひとつでした。その後1890年(明治23年)には、国内初のブランド石鹸『花王石鹸』が発売になります。現在の花王石鹸創立者・長瀬富郎が製造販売したもので、桐箱に3個入って35銭。当時は米1升が6〜9銭で買えましたから、それを考えると非常に高価な商品でした。」 とある。 因みに,サボテンはシャボテンとも言うが, 「日本には16世紀後半に南蛮人によって持ち込まれたのが初めだそうで、その南蛮人がウチワサボテン(↑の画像)の茎の切り口で汚れを拭き、樹液を石鹸(シャボン)として使っていたとか。そこで、石鹸のようなものという意味で石鹸体(しゃぼんてい)となったとか。」(http://coolum.sblo.jp/article/88317671.html) と,シャボンと関係がある由である。 参考文献; 今野信雄『江戸の風呂』(新潮社) 前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「三助(さんすけ)」は, 下男の通名, 後に,銭湯で風呂を焚いたり浴客の体を洗ったりする男, の意で, 「近世では,商家や町家の下男の通り名であったが,次第に風呂屋の男の使用人に用いられるようになった。燃料を町内や廻り場から集め,釜を焚き,また特に洗い場で浴客のあかすり,肩もみを行う職業として知られた。」(『ブリタニカ国際大百科事典』) の説明が意を尽くしている。今日はほぼ見かけなくなった。 「三助」の語源は,『日本語源大辞典』には, 「下男・小者など奉公人の通称」 と, 「銭湯で湯をわかしたり,客の体を洗ったりする男」 と,それぞれ由来を別とするとして,前者は, 「飯炊き女を『おさん』と呼ぶの対」(江戸語大辞典), 後者は, 「湯屋の下男に三助という名の者が多かったからか」(大言海), と区別している。湯屋が始まるのは,天正十九年(1591)の蒸風呂らしいが,当初は,湯女を置いた。それが,明暦三年(1657)の湯女禁止令で,その後男に代わり,三助が登場するだから,いわば,商家の下男に当てていた名を振り替たとも言えるし,元々別系統ともいえるが,『大言海』の「三助」の説明は, 「垢掻男に,三助と云ふ名の者多かりしが故に,呼びしならむ。飯焚(めしたき)を権助,田舎人を権兵衛,丁稚を三太と呼ぶ例なり」 と,湯屋に限定している。『江戸語大辞典』は, 「飯炊き男の通名。飯炊き女を『おさん』と呼ぶのと対」 とし,更に, 「湯屋で,釜焚き男,また湯汲み男。客の背を流す。」 とし,下男→釜焚き男と転化されたという説のようだ。その他,「三助」語源には, 「越後から江戸へ湯奉公にきた三兄弟の名が,二之助,三之助,六之助と「助」の字が付き,しかも三人は骨身惜しまず働いて,客に人気があったところから,…三人の助,三助と呼ばれるようになった」 「慶安五年(1652)六月,湯女は三人までという町触れが出…,やがて風紀上の問題から湯女が男にかわり,三人の男ということで三助になった」 「聖武天皇の后光明皇后が,奈良法華寺の温室(浴堂)で施浴のため千人の垢を流すことを誓願しかし,たが,このとき皇后の手伝いをしたのが,早蕨(さわらび),小菊,皐月という典侍たちだった。典侍は別に『すけ』ともいい,その三人のすけで三助になった。」 等々の説がある(『江戸の風呂』)。どうも後世のこじつけの感じがする。むしろ, 「三助の『三』は炊爨(すいさん)の『さん』の意味で、炊爨やその他雑用を勤めたことによる。現代のように銭湯の浴室で浴客の垢すりや身体を洗う接客、その他雑用を行った男性被用者を一般に指すようになるのは享保(1716年 - 1736年)、または化政期以降である。それ以前の江戸時代は、雑用に従事し身分の低い男性奉公人である下男や小者の通称が三助であった。」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8A%A9) とある,その「さん」が気になるのは,飯焚き女を, おさん, とか, おさんどん, と呼んだことだ。下男の意の「さんすけ」と「おさん」「おさんどん」の「さん」が共通しているのである。 「おさん」は, 御三 御爨, と当てる。 台所で働く下女の通称。おさんどん, だが,それから転じて,「おさんどん」で, 台所仕事, を意味するよになる。語源は, 貴族の屋敷の奥向き「御三の間」の略から, かまどをいう「御爨」に掛けたしゃれから, とするのが大勢だ。『大言海』は,前者だが,「三の間」とは, 貴族の邸の奥向き,下婢の居る所,さんのま, というらしいが,そこから下女を指す言葉になったというのは聊かこじつけずぎまいか。しかし, http://www.gengosf.com/dir_x/modules/wordpress/index.php?p=66 に, 「『おさん』は、貴族や将軍などに雇われ雑用をする女、とくに飯を炊き炊事する女である。『飯をたき炊事する』にあたる和語は『かしく』で、これを古字書を見ると、古代から『炊』『爨』の漢字をあてていた。この二種の漢字で、漢字の字義上、和語『かしく』に対応する漢字は『爨』であり、この漢字を使用するのが正式であったと考えられる。それで下女を雇う貴族や将軍家などでは漢語を重視して『炊事』の言葉として漢語『爨』を用いるとともに、その炊事をする者をも指すようになり、ついには『お』を付して『おさん』と丁寧に扱いもしたようである。これが次第に敬意が逓減して下女の別名として使用された。一方、同じ役割の男にも『爨』に男を表す『助』を加えて『爨助』とし、最初は女の場合と同じく炊事用の水汲み、その薪割りの仕事などに従事した者とみられる。かくして男女ともに対応した語、『お爨(おさん)』「爨助(さんすけ)」を作り上げて体系ができたのである。」 と,ここまで説かれると首を傾げつつも黙るしかない。 個人的には,僕はそんな大層ないわれはない,と思っている。たとば,『日本語源大辞典』の, 「女中の名は,家々で決まった名のある所が多く,代々の女中の呼名をそれにし,その選定がたまたまいくつかの名に偏った場合の一つであろう」(擬人名辞典=鈴木棠三) というのが妥当な気がしてくる。個々人の名前はなく,ただ役割名があった,他の誰に代わっても誰も気づかない。「三助」も同じで, 「飯炊きの下女をさんどんというように,三助もその程度の身分低き下男という意味ではなかったのだろうか」 というのが最も納得できる(『江戸の風呂』)。 参考文献; 今野信雄『江戸の風呂』(新潮社) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社) 「風呂」は, 「もともと日本では神道の風習で、川や滝で行われた沐浴の一種と思われる禊(みそぎ)の慣習が古くより行われていたと考えられている。仏教が伝来した時、建立された寺院には湯堂、浴堂とよばれる沐浴のための施設が作られた。もともとは僧尼のための施設であったが、仏教においては病を退けて福を招来するものとして入浴が奨励され、『仏説温室洗浴衆僧経』と呼ばれる経典も存在し、施浴によって一般民衆への開放も進んだといわれている。特に光明皇后が建設を指示し、貧困層への入浴治療を目的としていたといわれる法華寺の浴堂は有名である。当時の入浴は湯につかるわけではなく、薬草などを入れた湯を沸かしその蒸気を浴堂内に取り込んだ蒸し風呂形式であった。風呂は元来、蒸し風呂を指す言葉と考えられており、現在の浴槽に身体を浸からせるような構造物は、湯屋・湯殿などといって区別されていた。」 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E5%91%82)。『広辞苑』には, 「ムロ(室)の転か。一説に『風炉(ふろ)』からとも」 とある。上記ウィキペディアも, もともと「窟」(いわや)や「岩室」(いわむろ)の意味を持つ室(むろ)が転じたという説, 抹茶を点てる際に使う釜の「風炉」から来たという説, の二説を挙げる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E5%91%82)し,『日本語源広辞典』も同じである。因みに「風炉」(ふろ)は,茶道で、茶釜を火に掛けて湯をわかすための炉のことで,釜の下で火を焚いてお湯を沸かすという共通点があるものの,かつては蒸風呂であり,ちょっと後世の説に思える。 『大言海』は, 「湯室の略轉。又一説に,ムロの轉。土窟,石窟の義と(新村出の説)」 とする。常識的には, ムロ, ないし, ユムロ, の轉ではないか,という気がする。『語源由来辞典』(http://gogen-allguide.com/hu/furo.html)は, 「風呂の語源は、物を保存するために地下に作った部屋の『室(むろ)』からとする説。 茶の湯で湯を沸かすための『風炉(ふろ)』からとする説。 『湯室(ゆむろ)』が転じたとする など諸説ある。 風呂は平安時代末頃から存在したが、蒸気を用いた蒸し風呂形式の ものをいった。湯をはって浴槽につかる形式の風呂は江戸初期から現れるが、『湯屋』『お湯殿』といって風呂と区別されていた。正確な語源は未詳であるが、用いられた形式を考慮すると『湯室』の説は考え難く、お茶の『風炉』も『湯』を主に考えると難しいため、『室』の説がやや有力と考えられる。」 と,「室」説を採る。『江戸語大辞典』の「風呂」の項には, 「家庭に設けた浴場・浴槽。その他は固有名詞・慣用語にいうのみ」 とあるのは,一般には,「湯屋」といったためと思われる。 『ブリタニカ国際大百科事典』は, 「穴倉や岩屋を意味する室 (むろ) から転じた言葉で,元来は湯に入ることと区別されていたが,江戸時代中期以降,湯の中にからだを入れる湯殿と風呂場との区別がなくなった。蒸し風呂は初めからだを清潔にするためよりも疲労を除き,病を養う目的が強く,室町時代に京都の寺院などの施浴から始り,市中にも風呂屋,湯屋が現れて大衆化した。町風呂は慶長年代に単なる銭湯から湯女をおく庶民の享楽の社交場になっていった。」 と,「室」説を採る。『百科事典マイペディア』は, 「室(むろ)から転訛した語といわれる。古くは石を焼いて水に投じ温浴。釜で湯を沸かし蒸気を室内に充満させる蒸風呂は,寺院の僧侶が湯気で膚をやわらげ垢(あか)を落とすのに使用したもので,のち一般に普及したといわれる。」 とし,『とっさの日本語便利帳』も, 「古い風呂が、室の中に蒸気を充満させて身体を温めて、垢を落とす蒸し風呂であったため『むろ』と呼ばれ、それが『ふろ』に転じた。」 とする。極めつけは,『日本大百科全書(ニッポニカ)』の, 「『ふろ』の語源は室(むろ)から転じたものといわれ、窟(いわや)または岩室の意味である。石風呂(いわぶろ)(または岩風呂)というものが、瀬戸内海沿岸あたりからしだいに発達して周辺に広がっていった。海浜の岩窟(がんくつ)などを利用した熱気浴、蒸し風呂の類(たぐい)である。また自然の岩穴でなく、石を土などで築き固めた半球形のものもある。これらの穴の中で、雑木の生枝、枯れ枝などをしばらく焚(た)くと、床石や周辺の壁が熱せられ、そこに海藻などを持ち込み、適当な温度になったところで中の灰をかき出すか、または灰をならして、塩水に浸した莚(むしろ)を敷き、その上に横臥(おうが)して入口をふさぐ。暖まると外に出て休養し、また穴の中に入るということを何回か繰り返す。雑木の枝などを燃やすことによって、植物に含まれる精油その他種々の成分が穴の中にこもり、また海藻を持ち込むことは、水蒸気の中に塩分とかヨード分が含まれることになるので、往古の人にとって保健療治の効果は大なるものがあったに違いなく、自然に獲得した知恵としては驚嘆に値する。瀬戸内海沿岸および島などに弘法大師(こうぼうだいし)の広めたと伝える石風呂遺跡の多い理由も、これらのことから理解しやすい。」 とある。『日本語源大辞典』をみると, ムロ(室)の轉(風呂の起源=柳田國男・国語学叢書=新村出・話の大辞典=日置昌一・万葉集叢攷=高崎正秀・湯屋と風呂屋=喜田貞吉), で,「湯屋」説は『大言海』のみ, 茶の湯のフロ(風炉)から(名語記・守貞漫稿・和訓栞・話の大辞典=日置昌一・上方語源辞典=前田勇), が風炉説である。 薬草などを入れた湯を沸かしその蒸気を浴堂内に取り込んだ蒸し風呂形式, の蒸風呂を考えると, 「窟」(いわや)や「岩室」(いわむろ)の意味を持つ室(むろ)が転じた, とする「室」説が妥当なのだろう。その蒸風呂,平安時代になると寺院にあった蒸し風呂様式の浴堂の施設を上級の公家の屋敷内に取り込む様式が現れる。『枕草子』などにも、蒸し風呂の様子が記述されている。 浴槽にお湯を張り、そこに体を浸けるというスタイルは,江戸時代で,戸棚風呂と呼ばれる下半身のみを浴槽に浸からせる風呂から,風呂と呼ばれる全身を浴槽に浸からせる風呂へと転じていく。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社) 「ふすま」と当てるものには, 襖(ふすま) - 和室の建具の一種。 衾(ふすま) - 古典的な寝具の一種で、就寝時に掛け布団のように体にかける。 麩・麬(ふすま) - 小麦を製粉したときに篩い分けられる糠。 がある。「ふすま(麩・麬)」は,項を改めるとして, 襖(ふすま), と 衾(ふすま), は,関連がある。 「衾」は,『広辞苑』『岩波古語辞典』『大言海』では, 被, とも当て, 「布などで作り,寝るとき身体をおおう夜具」 とある。『岩波古語辞典』によると, 「八尺または八尺五寸四方の掛布団。袖と襟がない」 とある。 『大言海』は,「ふすま(衾・被)」を, 「臥裳(ふすも)の転かと云ふ。或は臥間の衣の略」 とし,「紙」でつくったものを「紙衾」というとする。この「紙衾」が,「ふすま(襖)」の項の, 「紙衾に似たるより云ふかと云ふ。或は,衾(ふすま)に代わりて寒を防ぐ意か」 と,「衾」と「襖」をつなげる。この説を基に, https://www.fusuma.gr.jp/fusuma/history.html が, 「平安時代には貴族の邸宅は『寝殿造り』が典型的となりますが、内部は丸柱が立ち並ぶだけの広間様式で、日々の生活や、季節の変化・行事祭礼・接客饗宴に応じて、屏風や几帳など障子を使うことにより内部を仕切り、畳やその他の調度品を置いて『しつらい』をしました。『しつらい』とは『室礼』と漢字をあてますが、この意味は『釣り合うようにする』ことだといいます。また、『障子』の『障』には『さえぎる』という意味があり『子』とは『小さな道具』という意味があります。障子の中でも寝所に使用されたものを『衾障子(ふすましょうじ)』と呼び、『寝所』を『衾所(ふすまどころ)』と言いました。『大言海』によれば『衾(ふすま)』はもともと寝るときに体に掛ける布製の『寝具』の意味であり、原初の形態は板状の衝立の両面に絹織物を張ったものであったと考えられています。これを改良して周囲に桟を組み発展させたものを壁に(副障子)応用しました。『襖』は衣服の『あわせ』=袷あわせ、また『裏の付いた着物』の意味があることから絹織物を張った『衾障子』は『襖障子』と称されるようになっていきました。ちなみに現代『襖』を『からかみ』とも呼ぶようになったのは、この後中国から『唐紙(からかみ)』と呼ばれる文様紙が『襖障子』に使われるようになり普及していったのがはじまりであります。」 と展開している。 ただ,「ふすま(衾)」は,「伏(臥)す裳(衣)」説(大言海・箋注和名抄・言元梯・名言通・和訓栞・国語の語根とその分類=大島正健)以外に,別に, 「伏す+間+着」,寝室用の着物,伏す間着の省略, 「含す+マ(もの)」包んでいる内容物を筒も隠す(以上『日本語源広辞典』), フシマトフ(臥纏)の義(日本釈名・東雅), 等々があるが,いずれも衣と関わる。他方「ふすま(襖)」の語源は,「紙衾」説以外に, 「伏す+間」。寝室用の障子をフスマショウジと呼び,証示を省略した, 「含す+マ(もの)」包んでいる内容物を筒も隠す(以上『日本語源広辞典』), 襖を拡げたように張るところから(嬉遊笑覧), フスマダテ(臥間立)の下略(日本語原学=林甕臣), 伏所の障子の意から(筆の御霊), 裏ある服をフスマと同じく,裏表から張るところから(俚言集覧), 等々とある。「襖障子」の略では,「襖」の説明にはなっていない。少なくとも, ふすま(衾)の布団からきたのか, それとは別に, ふすま(臥す間)という場所からきたのか, に別れるが,「ふすま(衾)」のある場所だから「臥す間」と呼ばれたのではないか。「ふすま(襖)」は「ふすま(衾)」がと深くつながっている。 「障子という言葉は中国伝来であるが、『ふすま』は唐にも韓にも無く、日本人の命名である。『ふすま障子』が考案された初めは、御所の寝殿の中の寝所の間仕切りとして使用され始めた。寝所は「衾所(ふすまどころ)」といわれた。『衾』は元来『ふとん、寝具』の意である。このため、『衾所の衾障子』と言われた。さらには、ふすま障子の周囲を軟錦(ぜんきん)と称した幅広い縁を貼った形が、衾の形に相似していたところから衾障子と言われた、などの説がある。『衾(きん)』をふすまと訓ませるのは、『臥す間(ふすま)』から来ていると想像される。いずれにしても『ふすま』の語源は『衾』であるという学説が正しいとされている。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%96) と。因みに,「衾(漢音キン,呉音コム)は,夜着の意だが, 「会意兼形声。『衣+音符今(とじあわせる,ふさぐ)』で,外気と体の間をふあさいで体温を保つ」 で,「襖」(オウ)は,「わたいれ」の意で,建具の「からかみ」の意で使うのは我が国だけである。 「会意兼形声。『衣+音符奥(燠。ぬくみがこもる,あたたかい)』」 である。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
「オニ」は, 鬼, と当てるが,「鬼」(キ)の字は, 「大きなまるい頭をして足元の定かでない亡霊を描いた象形文字,『爾雅』に『鬼とは帰なり』とあるが,とらない」 とある(『漢字源』)。中国語では,本来, 「おぼろげなかたちをしてこの世に現れる亡霊」 を指す。『漢字源』には, 「中国では,魂がからだを離れてさまようと考え,三国・六朝以降は泰山の地に鬼の世界(冥界)があると信じられた。」 とあり,やはり,仏教の影響で,餓鬼のイメージになっていった,と見られる。これについては,「鬼」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba4.htm#%E9%AC%BC)の項 で触れた。「オニ」は,『広辞苑』)は, 「隠(おに)で,姿が見えない,意という。」 とあり,『岩波古語辞典』も, 「隠の古い字音onに,母音iを添えた語。ボニ(盆),ラニ(蘭)に同じ」 とある。『日本語源広辞典』も, 「『隠の字on+i』です。隠れて目に見えないもの,の意です。」 とし,『大言海』は,もっと詳しい。「和名抄」に云う,として,こう書く。 「『四聲字苑云ふ,鬼(キ),於爾,或説云,穏(オヌノ)字,音於爾(オニノ)訛也,鬼物隠而不欲顕形,故俗呼曰隠也,人死魂神也』トアリ,是レ支那ニテ,鬼(キ)ト云フモノノ釋ニテ,人ノ幽霊(和名抄ニ『鬼火 於邇比』トアル,是レナリ)即チ,古語ニ,みたま,又ハ,ものト云フモノナリ,然ルニ又,易経,下経,睽卦ニ,『戴鬼一車』疏『鬼魅盈車,怪異之甚也』史記,五帝紀ニ,『魑魅』註『人面,獣身,四足,好感人』論衡,訂鬼編ニ,『鬼者,老物之精者』ナドアルヨリ,恐ルベキモノノ意ニ移シタルナラム。おにハ,中古ニ出来シ語トオボシ。神代記ナドニ,鬼(オニ)ト訓ジタルハ,追記ナリ」 さらに,『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/o/oni.html も, 「中国では 『魂が体を離れてさ迷う姿』『死者の亡霊』の意味で鬼の字が扱われていた。 日本では、『物(もの)』や『醜(しこ)』と呼んでいたため、この字も『もの』や『しこ』と読まれていた。『おに』と読まれるようになったのは平安時代以降で、『和名抄』には、姿の見えないものを意味する漢語『隠(おん)』が転じて,『おに』と読まれるようになったとある。」 ととする。かつて「オニ」は見えないものであり,「鬼」の字を当てたのには,それなりに意味があった。 『日本語源大辞典』も,基本,「隠(オン)が変化したもので,隠れて人の目に見えないものの意」とし, 「オン(隠)がオニとなるのは,onにiの母音が添えられたからと言われ,類例としては『ボン(盆)』→ボニ,『ラン(蘭)』→『ラニ』が挙げられる。」 とする。諸説をみても, オン(隠)の字音から転じた語(和名抄)。オニは古語ではなく,古くは,神でも人でもない怪しいものを,モノといい,これに適合する漢字はなかった。モノは常に人目に見えず隠れているということから,オン(隠)の字音を用いるようになり,オニと転じた(東亜古俗考=藤原相之助), 「陰」の字音から転じた語か(日本釈名・東雅), 等々が,その主張である。その他に, オニは漢字の転音ではなく,日本古代の語で,常世神の信仰が変化して,恐怖の方面のみ考えられるようになったもの(信太妻の話=折口信夫), オは大きいの意,,ニは神事に関係するものを示す語。オニは神ではなく,神を擁護するもの,巨大な精霊,山からくる不思議な巨人をいい,オホビト(大人)のこと(日本芸能史ノート=折口信夫), といった折口説が有る。折口は, 「極めて古くは、悪霊及び悪霊の動揺によって著しく邪悪の偏向を示すものを『もの』と言った。万葉などは、端的に『鬼』即『もの』の宛て字にしてゐた位である」(『国文学』) としているが,大野晋は「『もの』という言葉」と題した講演で 『もの』という精霊みたいな存在を指す言葉があって、それがひろがって一般の物体を指すようになったのではなく、むしろ逆に、存在物、物体を指す『もの』という言葉があって、それが人間より価値が低いと見る存在に対して『もの』と使う、存在一般を指すときにも『もの』という。そして恐ろしいので個々にいってはならない存在も『もの』といった。 古代人の意識では、その名を傷つければその実体が傷つき、その名を言えば、その実体が現れる。それゆえ、恐ろしいもの、魔物について、それを明らかな名で言うことはできない。どうしてもそれを話題にしなければならないならば、それを遠いものとして扱う。あるいは、ごく一般的普遍的な存在として扱う。そこにモノが、魔物とか鬼とかを指すに使われる理由があった。」 と批判している(http://www.fafner.biz/act9_new/fan/report/ai/oni/onitoyobaretamono.htm)らしい。しかし, 「古くは、『おに』と読む以前に『もの』と読んでいた。平安時代末期には『おに』の読みにとって代わられた」 とされているが, 「得体が知れない存在物」で『物』としかいいようのないものがある」(藤井貞和) のは確かで,むしろ「もの」としか和語は識別できず,神と鬼とに分化していったと見るべきなのだろう。折口が,古代の信仰では 「かみ(神)と、おに(鬼)と、たま(霊)と、ものとの四つが代表的なものであった」(『鬼の話』) とするが,平安時代以前は、 「『かみ』『たま』『もの』の三つであって『おに』は入らない。」(大和岩雄『鬼と天皇』) とする(http://www.fafner.biz/act9_new/fan/report/ai/oni/onitoyobaretamono.htm)。こうみると,ぼくには,「もの」が「かみ」「かま」「もの」に分化(というより,「もの」から「かみ」と「たま」が分化)し,さらに「もの」から「おに」が分化していった,というように見える。 なお,「鬼」については, 民俗学上の鬼で祖霊や地霊。 山岳宗教系の鬼、山伏系の鬼、例、天狗。 仏教系の鬼、邪鬼、夜叉、羅刹。 人鬼系の鬼、盗賊や凶悪な無用者。 怨恨や憤怒によって鬼に変身の変身譚系の鬼。 という5種類に分類されるらしい(馬場あき子説 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC)。 参考文献; 鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫) 稲田浩二他『日本昔話事典』(弘文堂) 乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
「しな、すがり、すがら」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba1.htm#%E3%81%97%E3%81%AA%EF%BC%8C%E3%81%99%E3%81%8C%E3%82%8A%EF%BC%8C%E3%81%99%E3%81%8C%E3%82%89)
「ろくろくび」は, 轆轤首, と当てるが, ろくろっ首, とも言う。 首が非常に長くて,自由に伸縮できる化け物, と『広辞苑』にあるが,化け物ではなく,そういうタイプの人間がいる,と見なされていた説話もある。「ろくろ首」は, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%A0%AD%E8%9B%AE には, 「首が胴から離れて飛び回るものがあるが(『曽呂利物語』や『諸国百物語』などの説話、小泉八雲の『怪談』収録の「ろくろ首」等にみられる)、これは中国の飛頭蛮が由来と考えられている。」 とある。確かに,江戸時代の『画図百鬼夜行』では,「飛頭蛮」の字に「ろくろ首」と訓が添えられている。 中國の「飛頭蛮」は,通常は人間の姿と変わりないが、夜になると首(頭部)だけが胴から離れて空中を飛び回るものとされる。 「『三才図会』によれば、大闍婆国(だいしゃばこく、ジャワ島のこと)に、頭を飛ばす者がいる。目に瞳がないのが特徴で、現地では虫落(むしおとし)、落民(らくみん、首が落ちる人の意)と呼ばれる。漢の武帝の時代には、南方に体をばらばらにできる人間がおり、首を南方に、左手を東海に、右手を西の沢に飛ばし、夕暮れにはそれぞれが体に戻って来るが、途中で風に遭うと、海の上を漂ったりしたという」 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%A0%AD%E8%9B%AE)とか。 『和漢三才図会』では,ただ首が離れるのではなく,紐というか綱というか,首とつながっていると解されている。 ただ,日本での原型は,「抜け首」とも呼ばれ,ろくろ首の原型とされている,らしい。 「このタイプのろくろ首は、夜間に人間などを襲い、血を吸うなどの悪さをするとされる。首が抜ける系統のろくろ首は、首に凡字が一文字書かれていて、寝ている(首だけが飛び回っている)ときに、本体を移動すると元に戻らなくなることが弱点との説もある。古典における典型的なろくろ首の話は、夜中に首が抜け出た場面を他の誰かに目撃されるものである。抜け首は魂が肉体から抜けたもの(離魂病)とする説もあり、『曽呂利物語』では「女の妄念迷ひ歩く事」と題し、女の魂が睡眠中に身体から抜け出たものと解釈している。」 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8D%E3%81%8F%E3%82%8D%E9%A6%96より)。ここでは,中国の「飛頭蛮」そのものである。それを, 「ろくろ首(抜け首)の胴と頭は霊的な糸のようなもので繋がっているという伝承があり、石燕などがその糸を描いたのが、細長く伸びた首に見間違えられたからだとも言われる」 らしい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8D%E3%81%8F%E3%82%8D%E9%A6%96)。つまり霊的糸を視覚化した流れから,それが伸びる首へ転じていったものとみられる。 「ろくろ首」は,どうやら中国の志怪小説から由来したものらしいが,では,「ろくろ首」とはどこから来たのか。この語源は、 ろくろを回して陶器を作る際の感触, 長く伸びた首が井戸のろくろ(重量物を引き上げる滑車[5])に似ている, 傘のろくろ(傘の開閉に用いる仕掛けを上げるに従って傘の柄が長く見える, の説がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8D%E3%81%8F%E3%82%8D%E9%A6%96)。どうやら,これは,「轆轤」の意味からくる。 「主として回転運動によって円形の器物をつくる機械で、木工用、焼物用、金属加工用などがある。また、重い物を引いたり持ち上げたりする巻上げ機、船の錨(いかり)を引き上げる揚錨(ようびょう)機、車井戸のつるべを上下させる滑車、傘の先の骨が集まって、傘を開閉させる仕掛けの部分などもろくろと称する。」(『日本大百科全書(ニッポニカ)』) で,どれが古いかわからないが,土器のそれは, 「土器を作るための回転台です。手で回したり、足でけって回したりします。古墳時代の中頃に朝鮮半島から伝えられました。」 とあり,滑車のそれも,古墳という土木事業をしている以上,その時代までに伝わっていたと見ることができる。傘の「轆轤」は,そのどちらから当てたと見ることができるので,滑車か,轆轤台のいずれかに由来すると思われる。 ちなみに,「轆」(ロク)の字は, 「ころころ,くるくるという音をあらわす擬声語」 で,滑車や車の意味,「轤」(漢音ろ,呉音ル)は,滑車で,「轆轤」として使われる。滑車,回転する車などの称。これを木工用、焼物用、金属加工用など,円形のものを形作ったり,削ったりする工作機械に当てたのは,我が国だけで,「轆轤」は回転装置を指し,それを応用する機械にまで広げて使うのは,我が国だけということになる。 『日本語源広辞典』は, 「轆轤+首」 とする。「轆轤」は,「陶器を作るのに使う回転する機械」で, 「地面においた木製の大きなロクロの回転軸がすり減って,奇妙な形に細くなったものを,首に喩えたもの」 とする。 https://akio-aska.com/column/100/100_01.html も, 「ろくろ首のろくろは「轆轤」と書き、陶芸家が粘土をこねるのに使う回転盤のことである。」 としつつ, 「縄に吊り下げられた釣瓶〔つるべ〕を上げ下げすると、釣瓶の縄が伸びたり縮んだりすることから、ろくろ首が生まれたのかもしれない。」 と,断定しかねている。ただ,釣瓶の綱の上下と,伸縮する首とは,つながらない。 首の回りに輪のような筋がある, とあり,それはむしろ糸巻きの玩具に似ているように思える。 参考文献; 鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%A0%AD%E8%9B%AE https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8D%E3%81%8F%E3%82%8D%E9%A6%96 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 「ぐる」は, グル, と表記する「導師」のいみのそれではなく, ぐるになる, の「ぐる」である。 (悪だくみの)仲間, 示し合わせて悪事を企てる仲間,一味, というようにあまりいい意味では使わない。『江戸語大辞典』にも,一味,同類,の意として載るほど,かなり昔から使われている。『江戸語大辞典』には,「ぐる」の意味で,その他に, 繰り・浄瑠璃社会及び芝居者隠語,帯, という意味が載る。「ぐる」は何かの集団の隠語ではないかと思われるので,少し気になる。 その『江戸語大辞典』は, 「ぐるめ」の略とも「ぐるぐる」の略とも, としている。「ぐるめ」とは,「ぐるみ」で, 〜ぐるみ, という言い方を今もする。その「ぐるみ」は, くるむの連用形連濁, で, ひっくるめて, 〜ごと, という意味である。「ぐるぐる」は,『岩波古語辞典』に, 回転するさま, 幾重にも巻きつくさま, とあり,これも,「ひっくるめる」と重ならなくもない。『日本語源大辞典』は, 「クルムの名詞形」 とし, 「家族ぐるみなどのグルミが語幹だけ使われた」 とする。『由来・語源辞典』(http://yain.jp/i/%E3%81%90%E3%82%8B%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8B)は, 「一説に、物が回ったり巻きついたりするする様子を表す擬態語『ぐるぐる』から来た言葉で、ぐるぐると輪になって相談する様子から」 とする。個人的には,「ぐるみ」が,常識的には妥当に思える。 『大言海』は 「トチグルヒの上下略ならむか(ねぐらかへ,くらがへ。がさつき,がさつ)」 というが,例示から見ると説得力があるが,語感からすると,少し無理かもしれない。その他, 「ぐるりと輪になって密談することに由来する。」 と言う説もある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AB_(%E6%9B%96%E6%98%A7%E3%81%95%E5%9B%9E%E9%81%BF)が,如何であろうか。 『語源由来辞典』(http://gogen-allguide.com/ku/guru.html)は, 「語源は諸説あり、同じ輪の中に入る意味で『グルグル』や『包(ぐるめ)』などの略。 江戸 時代には着物の帯を『グル』と言っていたため、帯のイメージから連想したとする説があり、どちらも輪になる意味を持つため有力と考えられる。 一説には、馴れ合いを意味する隠語『とち狂ふ(とちぐるふ)』の略とする説もある。 江戸末期の歌舞伎では『共謀』を『くる』と呼んだ例があるため、グループの略とする説は明らかな俗説である。 また、『グルグル』の説の中には、子供の遊戯『かごめかごめ』で鬼を取り囲むことから、共謀して苛めることを言うようになり転じたとする説もあるが、江戸末期以前にカゴメ遊びが『グル』と呼ばれたり、『グルになる』などと言われた例は見当たらにない。」 と整理するにとどめるが,「ぐるめ」ではなく,「ぐるみ」と表記すると,「ぐる」との隅の重なりが一層際立つ気がする。ただ, https://japanknowledge.com/articles/blognihongo/entry.html?entryid=161 で,『日本国語大辞典 第2版』の, 「目代(めしろ=目付役)になる此の乳母(うば)はぐる也」(浄瑠璃『鑓の権三重帷子』) 「うぬはあの野郎と共謀(グル)だな」(歌舞伎『勝相撲浮名花触(かちずもううきなのはなぶれ)』) を引きつつ, 「歌舞伎の用例のように『共謀』と書いて『ぐる』と読ませている例もある。『日本国語大辞典』で引用した用例はほとんどが浄瑠璃や歌舞伎の例なので、ひょっとすると芝居関係者の隠語だったのかもしれない。」 としている。『江戸語大辞典』を見ると, 「さる女郎と茶屋とぐるになって田舎客をむごくひったくりし事あり」(蕩子筌枉解) 「おかねまでがぐるになって承知しそふもねへもんだが」(通仁枕言葉) と,それ以外の用例もあるので,芝居関係とは断定できない。隠語節用集は捨てがたいが,「ぐるみ」に落ち着くのが妥当だろう。 参考文献; 前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 「魔が差す」は, 悪魔が入り込んだように,ふと普段では考えられないような悪念を起こす, 意と,『広辞苑』にはある。しかし,https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1138914296にあるようにに, 悪いことをした後の言い訳, によく使う。 「一瞬、判断力を失う」といった意味です。似た言葉に「出来心(できごころ)」があります。」 の説明が的を射ている。ただ,「出来心」は, 「もののはずみで,ふと起こった悪い考えや思い」 で,どちらも江戸時代に用例があるが,「魔」自体は,「吾恋八魔目(吾が恋止まめ)」という用例があり, 「魔(ま)」自体は「奈良時代に普通に使われる語であったと思われる。」(『岩波古語辞典』), ということらしい。 「出来」は,『岩波古語辞典』に,接頭語として, 「にわかの,急ごしらえの,の意を表す」 とある。心に瞬時に浮いた,というところに焦点を当てると, 出来心, となり,それの誘因に焦点を当てると,他責として, 魔が差す, となる,ということか。『笑える国語辞典』 https://www.fleapedia.com/%E4%BA%94%E5%8D%81%E9%9F%B3%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9/%E3%81%BE/%E9%AD%94%E3%81%8C%E5%B7%AE%E3%81%99%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B/ に, 「魔が差すとは、悪魔が心に入り込んだかのように誤った行動や判断をしてしまうという意味で、悪事を働いた者が『私は通常は善人であるが、そのときだけ悪魔にそそのかされて悪人になってしまった』と、まるでその犯行は自分の責任ではないかのように、相手に情状酌量を求めるために用いる。類似のシチュエーションで用いられる釈明の仕方に『つい出来心で』があるが、こちらは『どこからともなくわいてきた悪心』といった意味であり、『悪魔』という主犯の存在を明らかにしている『魔が差す』より具体性に欠ける。合理的な説明を求められる海外で悪事を働く予定のある方は、『魔が差す』と似たニュアンスの現地語を探すことをお薦めする。」 と揶揄している。 「魔」は,『大言海』に, 「梵語Māra(摩羅)の略。舊譯の經論は,もと磨に作る。梁の武帝より,魔の字に改めしと云ふ。弘法外典抄(寶永,光榮)『魔字従石,自梁武帝來,謂,魔能惱人,字宜従鬼』」 とある。 「魔羅(まら)、殺者、障礙ともいう。仏道の修行を妨害したり、人の行う善事を妨げるものを指す。」 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%94)。さらに, 「仏教の世界観では、魔は欲界の衆生の1つであり、欲界の1つである第六天の他化自在天に魔王の宮殿がある。 釈迦が成道した際に、魔王波旬が娘を派遣して釈迦の心を乱そうとしたり、また、睡魔などの12の軍勢を送って釈迦を悩ませたが、釈迦が地面に触った瞬間に退散したという。 転じて、仏教の修行の邪魔となるものという意味で修行僧の間で陰茎のことを指して『マラ』と呼ぶようになり、現在でも男根の隠語として使われている。」 とある(仝上)。 「魔」は,したがって,『大言海』に, 人命を害ひ,人の 善事障礙するもの, 転じて,心を乱す霊(たま),惡しき神,天魔,悪魔。 とある。其処から転じて,『広辞苑第5版』には, 熱中して異常な行いをするもの, とある。電話魔,メモ魔,といったたぐいである。なお,「枳園本節用集」には, 「魔,マ,天狗也」 とある。天狗のせいとしておけば,気は楽ではある。 「魔が差す」の「さす」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba8.htm#%E3%81%95%E3%81%99) で触れたが,「さす」と当てる字は, 止す, 刺す, 挿す, 指す, 注す, 点す, 鎖す, 差す, 捺す, 等々とある(『広辞苑』。『岩波古語辞典』は,「さす」は, 「最も古くは,自然現象において活動力・生命力が直線的に発現し作用する意。ついで空間的・時間的な目標の一点の方向へ,直線的に運動・力・意向がはたらき,目標の内部に直入する意」 とある。で,「射す・差す」について, 「自然現象において活動力が一方に向かってはたらく」 として,光が射す,枝が伸びる,雲が立ち上る,色を帯びる等々といった意味を挙げる。次いで,「指す・差す」について, 「一定の方向に向かって,直線的に運動をする」 として,腕などを伸ばす,まっすぐに向かう,一点を示す,杯を出す,指定する,指摘する等々といった意味を挙げる。次いで,「刺す・挿す」について, 「先の鋭く尖ったもの,あるいは細く長いものを,真っ直ぐに一点に突き込む」 として,針などをつきさす,針で縫い付ける,棹や棒を水や土の中に突き込む,長いものをまっすぐに入れる,はさんでつける等々といった意味を挙げる。さらに,「鎖す・閉す」について, 「棒状のものをさしこむ意から,ものの隙間に何かをはさみこんで動かないようにする」 として,錠をおろす,ものをつっこみ閉じ込めるといった意味を載せる。さらに「注す・点す」について, 「異質なものをじかにそそぎ加えて変化を起こさせる」 として,注ぎ入れる,火を点ずる,塗りつけるといった意味を載せる。最後に,「止し」について, 「鎖す意から,動詞連用形を承けて」 として,途中まで〜仕掛けてやめる,〜しかける,という意味を載せる。 こう見ると,「さす」の意味が多様過ぎるように見えるが, 何かが働きかける, という意味から,それが,対象にどんな形に関わるかで, 刺す, や 挿す, や 注す, に代わり,ついには,その瞬間の経過そのものを, 〜しかけている, という意味にまで広げた,と見れば,意味の外延の広がりが見えなくもない。「魔が差す」は,「差す」か「射す」でなくてはならない。『日本語源広辞典』が, 「魔(梵語,人の善事を妨げる惡神,藻意も寄らない出来心)+射す(おこす)」 というのは間違っていない。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 「ニラ」は, 韮, 韭, と当てる。ヒガンバナ科ネギ属に属する多年草,緑黄色野菜である。「韮」(漢音キュウ,呉音ク)の字は, 「象形文字。地上に,ニラが生え出た姿を描いたもの。」 である。「韭」(漢音キュウ,呉音ク)の字も,同じく,ニラが生え出た姿を描いた象形文字である。 「『古事記』では加美良(かみら)、『万葉集』では久々美良(くくみら)、『正倉院文書』には彌良(みら)として記載がある。このように、古代においては『みら』と呼ばれていたが、院政期頃から不規則な転訛形『にら』が出現し、『みら』を駆逐して現在に至っている。近世の女房言葉に二文字(ふたもじ)がある。」 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A9)。『日本語源広辞典』は,だから, カミラ→ミラ→ニラ, との転という。「ニラ」は,他に, 豊本,豆実,白薤,懶人菜,起陽草,鐘草乳, 等々の異名がある(『たべもの語源辞典』)。方言では, 「ふたもじ(二文字。千葉県上総地方)、じゃま(新潟県中越地方)、にらねぎ(韮葱。静岡県、鳥取県などの一部)、こじきねぶか(乞食根深。愛知県、岐阜県の一部)、とち(奈良県山辺郡、磯城郡)、へんどねぶか(遍路根深。徳島県の一部)、きりびら(沖縄県島尻郡)、ちりびら(沖縄県那覇市)、きんぴら(沖縄県那覇市)、んーだー(沖縄県与那国島)などがある。」 等々とか(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A9)。 『日本語源大辞典』にも, 「『古事記・中・歌謡』に『賀美良(カミラ)』の根と芽を一つにして的を撃とう,という歌があり,上代の人々がニラをミラと呼び,邪悪なものを追い払う力があると信じていたことがわかる。『大言海』にミラは『かみらノ略カ,芽平(メヒラ)の約か』とみえ,『こみらハ,今,訛シテ,にらト云フ』とある。『新撰字鏡』には『韮 太々美良』とある。平安時代にはタダミラ(タタミラ)・コミラなどミラ系が中心であった。平安後期から末期にはニラも現れ,『観智院本名義抄』には『タダミラ ニラ コミラ』と並べられている。」 とあり,やはり, カミラ→ミラ→ニラ, と転じたものとみていい。『岩波古語辞典』の「かみら(韮)」には,ニラの古名として, 「カは香,臭気ある意」 とある。『大言海』は, 「(ミラの転)古言,ラミラ。コミラ。ミラ。ナメミラ。異名フタモジ」 とし,「名義抄」には, 「韮,ニラ,コミラ,薤,ミラ,ニラ」 とある。「薤」(漢音カイ,呉音ゲ)も,ニラである。 「ニラ」の語源説は, ニホヒキラフ(香嫌)の略(日本釈名・滑稽雑誌所引和訓義解・柴門和語類集), 髪に似るところからニは似,ラはカシラの義か(和句解), ネメヒラ(根芽平)の転訛, 細く伸びた形をしているのでノヒラカの略, 等々あるが,「ニラ」は, ミラの転, であり,ミラは, カミラの転訛, とするなら,その語源を探るしかない。『たべもの語源辞典』は, 「ニラのニはニオイ(匂)の略である。ラは,キラフ(嫌)の略である。その臭気を嫌った名であるという。ナメミラは嘗韮であり,ククミラは茎韮である。古名のカミラは香韮である。コミラは小韮でオオミラ(大韮)に対しての呼び名である。オオミラはラッキョウである。また,ミラは美良である。ニラには,においがあるからカミラ(香韮・臭韭)とよんだもので,カミラがコミラともよばれたのである。コミラの意も香韮と同じことである。ミは,『満る』とか『みづみづし』と,美しいもの立派なものである。ミラは,良いもの,美しいものである。ニラが生えているさまが美しかったから,ミラという古名が生まれ,転じてニラとなったのである。香りが高いからカミラとも呼んだ。嫌っての名ではない。」 と述べ,カミラ(香韮),ミラ(美良),から転じたニラに,「美」と「香」が通底していることを主張している。妥当である。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 「地音(ちいん)」は,今日意味が薄まって, 知り合い,知人, という程度の意味で使われるが, 音を知る, から来ていて, よく心を知りあっている人, という意味で,単なる, 親友, というのも意味が違う。 『語源由来辞典』(http://gogen-allguide.com/ti/chiin.html)には, 「知音は、『列子(湯問)』などの故事に由来する。 中国春秋時代、伯牙(はくが)という琴 の名手がいた。 友人の鐘子期(しょうしき)が死に、伯牙は自分の琴の音をよく理解して くれる者がいなくなったと嘆き、琴の弦を切って二度と弾かなかった。 そこから、自分を知ってくれる人や親友を『知音』というようになり、よく知る人の意味から、恋人、女房、知人などにも、『知音』が用いられるようににーなった。」 とある。 子期死して伯牙復琴をかなでず, というもいい, 断琴の交わり, 伯牙絶絃, とも言う。単なる俱とはちょっと違う,ということだろう。『呂氏春秋』等々には, 伯牙鼓琴。鍾子期聽之。 方鼓琴而志在太山。鍾子期曰。 善哉乎鼓琴。巍巍乎若太山。 少選之間。而志在流水。鍾子期又曰。 善哉乎鼓琴。湯湯乎若流水。 鍾子期死。伯牙破琴絶弦。終身不復鼓琴。 以為世無足復為鼓琴者。 非獨琴若此也。賢者亦然。 雖有賢者。而無禮以接之。賢奚由盡忠。 猶御之不善。驥不自千里也。 と載る,とか。 伯牙(はくが)琴(きん)を鼓(こ)し、鍾子期(しょうしき)之を聴く。 琴を鼓するに方(あた)りて、志(こころざし)太山(たいざん)に在らば、鍾子期曰く、 善い哉かな、琴を鼓する、巍巍乎(ぎぎこ)として太山の若し、と。 少選(しょうせん)の間にして、志流水(りゅうすい)に在らば、鍾子期又た曰く、 善い哉かな、琴を鼓する、湯湯乎(しょうしょうこ)として流水の若し、と。 鍾子期死す、伯牙琴を破り絃を絶ち、終身復(また)琴を鼓さず、 以為(おもへらく世に復た琴を鼓すに足る者無しと。 独り琴のみ此の若きに非ざるなり、賢者も亦た然り。 賢者有りと雖も、而も禮以て之に接する無くば、賢、奚(なに)に由りて忠を尽くさん。 猶ほ御(ぎょ)の善ならざれば、驥(き)も自ずから千里ならざるがごときなり。 なお,驥(き)とは,一日に千里を走るという俊足の馬をいう。 伯牙は、中国春秋時代の晋の大夫。伯雅とも。姓が伯、名が牙。 「伯牙が高い山に登る気持ちで琴を弾くと、鍾子期は『すばらしい、まるで険しい泰山のようだ』と言い、伯牙が川の流れを思い浮かべて弾くと、鍾子期は『すばらしい、まるで広大な長江か黄河のようだ』と言った。」 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%AF%E7%89%99)。こんなわが想いを思い,わが心を心する友がいるなら,たぶん,他は,迚も堪えられまい。 中國の, 「朝廷や諸侯はおのおの楽師をかかえ,それを養成する機関をもって,典礼や饗宴で演奏させていたが,民間にも多数の音楽家がいた。とくに戦国期(前5〜前3世紀)になると,衛の王豹(おうひよう)や斉の綿駒(めんく)といった歌手,琴家の伯牙(はくが)など古典に名をとどめるものもおり,趙の女性楽人のように,全国を回る旅芸人が活躍するようになる。」 とある(『世界大百科事典』)。中国春秋時代の晋と言えば,紀元前11世紀 - 紀元前376年である。まだ日本列島は縄文時代である。 水星のクレーターの1つが「Po Ya(伯牙)」と命名されている,とか。また,祇園祭の山鉾にも,この故事にちなんだ「伯牙山(はくがやま)」というのもあるとか。 参考文献; 尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館) http://www.kokin.rr-livelife.net/classic/classic_oriental/classic_oriental_350.html http://www.gionmatsuri.or.jp/yamahoko/hakugayama.html 「化け猫」というと,ある年代の人には, 鍋島の化け猫騒動, が記憶に残る。単なる怪談話だが, 「佐賀藩の2代藩主・鍋島光茂の時代。光茂の碁の相手を務めていた臣下の龍造寺又七郎が、光茂の機嫌を損ねたために斬殺され、又七郎の母も飼っていたネコに悲しみの胸中を語って自害。母の血を嘗めたネコが化け猫となり、城内に入り込んで毎晩のように光茂を苦しめるが、光茂の忠臣・小森半左衛門がネコを退治し、鍋島家を救うという伝説」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%96%E3%81%91%E7%8C%AB) である。この背景にあるのは,沖田畷の戦いで討ち死にした龍造寺隆信に代わって,鍋島直茂(隆信の生母慶ァ尼が鍋島清房の継室となったため,隆信の従弟(直茂の生母と隆信の父が兄妹)で義弟)に実権を握られ,藩を簒奪されたと思った孫の高房が自害したという歴史的背景が,怪談話化へと展開した,と見られている。 それにしても,なぜ猫か。 「ネコが妖怪視されたのは、ネコが夜行性で眼が光り、時刻によって瞳(虹彩)の形が変わる、暗闇で背中を撫でれば静電気で光る、血を舐めることもある、足音を立てずに歩く、温厚と思えば野性的な面を見せることもあり、犬と違って行動を制御しがたい、爪の鋭さ、身軽さや敏捷性といった性質に由来すると考えられている」 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%96%E3%81%91%E7%8C%AB)が, 「化け猫の俗信として『行灯の油を舐める』というものがあり、江戸時代の百科事典『和漢三才図会』にも、ネコが油を舐めることは怪異の兆候とある[6]。これは近世、行灯などの灯火用に安価な鰯油などの魚油が用いられ、ネコがそうした魚油を好んで舐めたためと見られている。また、当時の日本人の食生活は穀物や野菜類が中心であり、その残りを餌として与えられるネコは肉食動物ながらタンパク質や脂肪分が欠乏した食生活にあった。それを補うために行灯の油を舐めることがあり、行灯に向かって二本足で立ち上がる姿が妖怪視されたものとの指摘もある。」 ともある(仝上)のに,猫が化ける,との俗説は強く,たとえば, 「尻尾の完全な猫は化けるという俗信があり仔猫のちに人が尻尾を切断して根元だけをわずかに残す習俗」 が最近まであった(『日本怪談集 妖怪篇』)。あるいは, 「猫を飼うには,最初その猫に向かい『二年間飼うてやる』とか『三年間飼うてやる』とかいって,あらかじめ年限を定めて飼わねばならぬ。もし年限をきめずにおくと,年老いて古猫になり化けるからいけない。年限を定めておくと,その年期が満つればねこはどこともなく行ってしまう。また猫は毒を喰うか殺されるかしないかぎり,その死骸を人間に見せないものであるという。」 等々。僕も,猫は「死骸を人間に見せない」という話を聞いたこともあるし,どこかへ消えてしまって帰ってこなくなった猫も何代かいた記憶がある。ま,俗説ではある。 古猫については, 「古猫の尻尾の二本に裂けた猫股(猫又とも)はよく化ける」 とか, 「飼猫が一三年たつと化けて人を害す」 という。この辺りは「化け猫」は, 「猫又と混同されることが多く、その区別はあいまいである。」 とされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%96%E3%81%91%E7%8C%AB)のを証しているように見える。 「猫又」は, 「大別して山の中にいる獣といわれるものと、人家で飼われているネコが年老いて化けるといわれるものの2種類がある」 らしい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AB%E5%8F%88)。 「中国では日本より古く隋時代には『猫鬼(びょうき)』『金花猫』といった怪猫の話が伝えられていたが、日本においては鎌倉時代前期の藤原定家による『明月記』の天福元年(1233年)8月2日の記事に、南都(現・奈良県)で『猫胯』が一晩で数人の人間を食い殺した という記述がある。」 という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AB%E5%8F%88)。猫又が文献上に登場した初出らしいが, 「目はネコのごとく、体は大きい犬のようだった」 とあり,猫かどうか。しかし,鎌倉時代後期『徒然草』(1331年頃)に, 「奥山に、猫またといふものありて、人を食ふなると人の言ひけるに……」 と記され,江戸時代の怪談集『宿直草』『曽呂利物語』で, 「猫又は山奥に潜んでいるものとされ、深山で人間に化けて現れた猫又の話があり」 他方で,鎌倉時代成立の『古今著聞集』(1254年稿)の観教法印の話では、 「嵯峨の山荘で飼われていた唐猫が秘蔵の守り刀をくわえて逃げ出し、人が追ったがそのまま姿をくらましたと伝え、この飼い猫を魔物が化けていたもの」 とし,『徒然草』は,これもまた猫又とし、 「山にすむ猫又の他に、飼い猫も年を経ると化けて人を食ったりさらったりするようになる」 と書く。江戸時代以降には, 「人家で飼われているネコが年老いて猫又に化けるという考えが一般化し、…山にいる猫又は、そうした老いたネコが家から山に移り住んだものとも解釈されるようになった」 とある。こうなると,「猫又」も「化け猫」もほぼ重なってしまう。 それにしても,なぜ猫だけが化けるのか。同じく人間と古い付き合いの犬が化ける,というのは聞いたことがない。今野円輔氏の, 「もとは隠された猫神信仰が広く分布していたのかもしれない」 との説は,河童が水神信仰の成れの果てであるように,多くの妖怪変化が,かつての神霊現象ないし信仰の衰退した結果であることを考えると,宜なるかなと思う。 参考文献; 今野円輔『日本怪談集 妖怪篇』(現代教養文庫) 「くだを巻く」は, とりとめのないことをしつこく言う, とか, 酒によってとりとめないことをくどくど言う, 意味だが,『広辞苑第5版』には, 「糸車の筟(くだ)を巻く音がぶうぶうと音を立てることに結び付けて」 とある。『デジタル大辞泉』も, 「管(くだ)の連想からとも、この管に糸を巻きつけるとき、ぶうぶう音を立てるところからともいわれる。」 『大辞林第三版』は, 「『管』を連想して『巻く』といったもの」 とあるので,管の意味の, 糸繰り車の紡錘(つむ)に差して糸を巻きつける軸, に準え,そこから,その音を連想し,喩えた,という流れになる。「管」にはいろいろな意味があるが,ここでは, 「機の具。緯絲(すきいと)を巻き付けて,梭(ひ)に納(い)れて,緯を遣るもの。筟,籰」(つまり,機はたを織るとき、緯よこ糸を巻きつける芯) の意と, 「糸車の左の方にある紡錘(つむ)に挿む,小さき軸」(つまり,糸繰り車のつむに差して、糸を巻きつける軸) の意とが問題だが,どうも,「糸車の,糸を巻きつける軸」の意ではないか,と思われる。 「くだを巻く」 の管は, 「筟」(フ)ないし「籰」(ワク)の字を当てていた「くだ」ではなく,「管」なのではないか,と思われる。つまり,『広辞苑第5版』の「糸車の筟(くだ)を巻く音」ではなく,「糸を巻きつける管」なのではないか。字鏡に, 「籰,纏絲者也,久太」 とあり,「和名抄」に, 「筟,纏(まく)絲管也,管子,久太」 とある(『大言海』)「くだ」は,「機」の「くだ」である。で,『大言海』は,糸車の軸の説明の後, 「車をめぐらせば,オビイトより,ツムに伝ひと,ぶうぶうと音をたつ。これに因りて,酔漢の,漫語(たわごと)をぶうぶう言ふを,くだをまくと云ひ,又何事にも,くだくだしく繰言するをも,くだをまく,くだまく,と云ひ,略して,くだとのみ云ふ。」 とある。 管に糸を巻く作業を「管巻き」というらしいので,ぶうぶういう音に喩えて,「くだまき」といったものとみられる。 『語源由来辞典』(http://gogen-allguide.com/ku/kudawomaku.html)は, 「『くだ(管 )』とは機織りで糸を紡ぐときに用いる軸のことで,これを『糸繰車(いとくりぐるま)』にさして糸を巻くと『ぶうんぶうん』と単調な音で鳴る」 としているのは,機織と糸巻を混同しているのではないか。「糸繰り車」とは,「糸車」と同じで, 「車の回転を利用して、綿花や繭から糸を紡ぎ出したり、また、紡いだ糸を縒(よ)り合わせたりする道具。」 である。 『由来・語源辞典』(http://yain.jp/i/%E7%AE%A1%E3%82%92%E5%B7%BB%E3%81%8F)の, 「『管』は糸車の紡錘(つむ)にさして糸を巻き取る軸のこと。糸を巻き取るとき、その管がぶうんぶうんと単調な音を立てることからの形容。また、『管』はくだくだしいの『くだ』にも掛けている。」 のが正確である。 なお,「くだ」は, クタケ(空竹)の義(言元梯), 吹き下し,飲み下すところからクダス(下)の義(名言通・和訓栞), クダは韓語か(東雅), と諸説あるが(『日本語源大辞典』),『日本語源広辞典』は, 「クダル(下る)クダス(下す)のクダ」 説を採る。「丸く細長く中のウツロなもの」とある。竹を思い浮かべるが,「竹」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba11.htm#%E3%82%BF%E3%82%B1%EF%BC%88%E7%AB%B9%EF%BC%89) で触れたように,「竹」は,中国から輸入されるまで,笹竹しか知らないので,竹とのつながりがないようである。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 簡野道明『字源』(角川書店)
「のぼり」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba10.htm#%E3%81%AE%E3%81%BC%E3%82%8A)で触れたように,もともとは, 「とぐろを巻く」の「とぐろ」は, 塒 蜷局, と当てる。しかし「塒」(呉音ジ,漢音シ)は, 「『土+音符時』で,鶏がじっととまって休む土の囲い」 で, ねぐら, ないし 鶏舎, の意である。「蜷局」の字は,当て字。「蜷」(漢音ケン,呉音ゲン)は,曲がる意で,我が国では,巻貝の名に当てている。「とぐろ」と訓ませると,「蜷局」は, 「ヘビなどが、渦巻き状に体を巻くこと。また、その巻いた状態」 の意となるが,「けんきょく」と訓ませると,「虫の屈まりいくさま」から, 縮まって進まないさま。背をまるくして伸びないさま。転じて、順調でないさま, の意であり,これは中国の語意をそのまったく受けている。なぜ,「とぐろ」この「蜷局」と「塒」を当てたのかはわからないが,あまりピッタリではない。そのはずで,「塒」を「とぐら」とも訓ませる。「とぐら」は, 塒, 鳥栖, 鳥座, と当て,『広辞苑第5版』には, 「(『くら』は人・動物が居る所,また物を乗せておく所)鳥の夜寝る所,ねぐら」 の意である。『岩波古語辞典』は,「とぐら」は, トリクラの約。 とし,『大言海』は, 鳥座(トグラ)の義 とする。これなら「塒」の字の意味のままである。 「くら」は, 座, と当て,『岩波古語辞典』は, クラ(鞍)と同根, とする。 人や物が乗る台, とすると,「とぐろ」は,どうやらこの言葉とつながる。『日本語源大辞典』は, トグラ(所坐)の転か(大言海・上方語源辞典=前田勇), 藁縄を螺旋状に巻いた円筒をいうツグウと関係する語か(蝸牛考=柳田國男), を載せる。『日本語源広辞典』は, 「ト(所)+グラ(座)」の転訛説, と, 朝鮮語(tong-korami)で,モンゴル語(tugurik)語源説, を挙げるが,「どくろを巻いている状態」が, 鳥がじっととまって休む, 意の「塒」から,「とぐら」を連想し,その転訛,つまり, 「ト(所)+グラ(座)」の転訛が, とぐろ, となったとしてもおかしくはない。思いつきをこねくり回しても,原義に辿りつけるとは思えない。 そうすると,「とぐろを巻く」は, 蛇などが、からだを渦巻き状に巻いた状態でいること。また、その状態, という状態表現から,この場合,ねぐら(塒)を連想するほど,ニュートラルな意味だったのが, 数人が一ヵ所にたむろして不穏の気勢を示すさま, その場所に腰を落ち着けてなかなか動こうとしないさま, と,あまりいい意味ではない価値表現へと転じたということになる。 『笑える国語辞典』(https://www.waraerujd.com/blank-99)は, 「とぐろを巻くとは、渦巻状に丸くなってくつろぐという意味(ただし、ヘビにとって)。または、数人でうんこ座りし、タバコをふかてムダ話をしながらくつろぐという意味(ただし、ヤンキーにとって)。または、他人の家などに居座ってくつろぐという意味(ただし、招かれざる客にとって)。『とぐろ(塒、蜷局)』は、わらで編んだ釣鐘形、半球形の籠である『つぐら(ちぐらともいう)』の形に似ているところから来ていると言われる。つぐら(ちぐら)は、赤ん坊や飯びつなどを入れて保護するための籠で、最近は猫の寝床『猫つぐら』『猫つぐら』で知られる。」 と,「つぐら」説を採る。「つぐら」は, 「わら製の保育用具。イヅミとか,エジコなどともよぶ。大小いろいろに作って冬期には飯の保温用にも使う。イヅミは飯詰の意である。秋田ではイヅミ,青森・岩手ではイヅコ,エジコ,信州北部から越後にかけてはツグラ,フゴ,佐渡ではコシキ,東海地方ではエジメ,クルミ,三重県ではヨサフゴという。イヅミは多く中部地方から東北地方の寒い地方で使われている。」(『世界大百科事典 第2版』) で,いづめ(飯詰)ともいうのは,保温用飯びつ入れと同形のためなので,とうてい「とぐろ」とは似ても似つかない。「塒」の字を当てた謂れとつながらない。ちなみに,「つぐら」を猫用にしたものが, 猫つぐら, が訛って, 猫ちぐら, となる。「猫ちぐら」は, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AB%E3%81%A1%E3%81%90%E3%82%89 に詳しい。 参考文献; https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AB%E3%81%A1%E3%81%90%E3%82%89 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店)
「まくら」は,「まく(巻く)」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba11.htm#%E3%81%BE%E3%81%8F%EF%BC%88%E5%B7%BB%E3%81%8F%EF%BC%89)の項 で触れたように,「巻く」は,『岩波古語辞典』に, 「一点,または一つの軸を中心にして,その周囲に渦巻状の現象や現状が生ずる意」 とあり,『大言海』には, 「圓く轉(く)る意か」 とし, 「渦の如く,クルクルと折り畳む」 とする。そして, 纏く, をつなげ, 纏いつく, 絡み付く, 意とつなげている。そして, 枕く, は, 「纏く意,マクラと云ふも頭に纏く物なれば云ふならむ」 とする。「枕く」は, 相手に腕をかけてかき抱く, と,「巻く」とつながるのである。で,改めて,「まくら」に触れてみたい。「まくら」は, 枕, と当てるが,「枕」(チン,シン)の字は, 「会意兼形成。右側の冘は,人の肩や首を重荷でおさえて,下に押し下げるさま。古い字は,牛を川の中に沈めるさま。枕はそれを音符として,木を加えた字で,頭で押し下げる木製のまくら。」 とある(『漢字源』)。 『日本語の語源』は,「まくら」の語源を, 「アタマオク(頭置く)の省略形としてマク(枕く・四段)という動詞が生まれた。『枕とする枕にして寝る』という意味である。」 という説は,逆立ちではあるまいか。「まく」という動詞は,「巻く」「纏く」「枕く」と意味の繋がりがあり,普通に考えれば,その「枕く」から「まくら」となったと見るべきではあるまいか。 『大言海』は,「まくら」を, 「間座(まくら)の義。頭のすきまを支ふるなり」 とする。もしあるとすると, 枕く座, なのかもしれない。「くら」は,『岩波古語辞典』に, 「鞍と同根」 とし, 「人や動物が乗る台,また物を乗せておく設備」 とある。「高御座(たかみくら)」「千座」「鳥座」等々,複合語に残っている。 『日本語源広辞典』は,二説挙げる。 説1は,「マ(間・床と頭の間)+クラ(座)」の大言海説。 説2は,「マク(枕く)+ら(接尾語)」。 『語源由来辞典』は, http://gogen-allguide.com/ma/makura.html 「枕の語源は、『ま+くら』とする説と、『まく+ら』とする説がある。『ま+くら』の説には、頭 の隙間を支える意味で『間座(まくら)』、神・霊を召喚するために頭を乗せる意味で『真座(まくら)』などがある。その他、『ま』を『頭のま』とする説など数多くあるが,それぞれの言葉が使われていた時代が前後するため,有力な説とはされていない。 『まく+ら』説は,『枕にして寝る』意味の『まく』に接尾語『ら』がつき名詞化されたというものである。万葉集に『大和女(やまとめ)の膝麻久(ひざまく)ことに 吾を忘らすな』と,『まく』の例がみられる。また『ま+くら』と『まく+ら』の中間に位置する『纏(ま)く+座(くら)』や『巻く(まく)+座(くら)』といった説もある。」 と書くが,「巻く」も「纏く」も「枕く」も,さらに「婚く」も,「まく(巻く)」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba11.htm#%E3%81%BE%E3%81%8F%EF%BC%88%E5%B7%BB%E3%81%8F%EF%BC%89) で触れたように,ほぼ重なることを考えると, 枕く+座(くら)。 makukura→makura, の転訛もありえる,と僕は思う。 『日本語源大辞典』は,『大言海』の「間+座」説以外に,以下のように諸説挙げている。 マはアタマの略。アタマクラ(頭座)の義(日本釈名・茅窓漫録), アタマクラ(天顖座)の義(言元梯), マクラ(頭座)の義か(箋注和名抄・雅言考), 目をおいてやすむところから,マクラ(目座)の義(類聚名義抄・俚言集覧), メクラ(目座)の義(名言通), メクラミ(目座)の義(日本語原学=林甕臣), 目鞍の義(名語記), マはカミ(首)の義(東雅), マク(枕)の義から(雉岡随筆), 動詞マク(枕)と同根(小学館古語大辞典), 古くは畑を巻いて枕としたところから,マン(巻)の義(古事記伝・俚言集覧), マキクラ(纏座)の義(古事記伝・和訓集説・雅言考・菊池俗語考・日本語源=賀茂百樹), マクとクラ(座)の合成語(国語の語根とその分類=大島正健), 神霊を呼び出す手段として枕するための。マクラ(真座)の義か(文学以前=高崎正秀), 「巻く」「纏く」「枕く」が重なるとすると,ほぼ, まく(巻く・纏く・枕く)+くら(座), に行きつくが,ひとつ,頭を乗せる,という意味の, 頭座, は,いかにもありそうだが,「あたま」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba11.htm#%E3%81%BE%E3%81%8F%EF%BC%88%E5%B7%BB%E3%81%8F%EF%BC%89) で触れたように,『岩波古語辞典』に,「あたま」は, 「古くは頭の前頂,乳児のひよめき。頭部全体は古くはカシラといったが,中世以後,アタマともいうようになり,カシラはだんだん文語的につかわれるようになった。」 とある。「あたま」は全体を指さなかった。 かしら+くら, では語源とはなるまい。 参考文献; http://www.fujibed.com/pillow_museum/kind.html 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 田井信之『日本語の語源』(角川書店) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
「まる」は, 丸, 円, と当てる。 「圓(円)」(エン)の字は, 「会意兼形声。員(イン・ウン)は,『○印+鼎(かなえ)』の会意文字で,まるい形の容器を示す。圓は『囗(かこい)+音符員』で,まるいかこい」 とあり,「まる」の意であり,そこから欠けたところがない全き様の意で使う。我が国では,金銭の単位の他,「一円」と,その地域一帯の意で使う。 「丸」(漢音カン,呉音ガン)の字は, 「会意文字。『曲がる線+人がからだをまるめてしゃがむさま』で,まるいことを表す。」 とある。もとは,弾丸や丸薬など,丸い粒状のものを意味したようである。我が国では,円形・球状,まるめる,まるごと(全部)の意で使う。丸を接頭語的に,丸裸,丸のまま,というのは我が国だけの用法である(以上『漢字源』)。 なお, 「丸」と「圓」の使い分けは, 圓は,方の対,まんまろきなり,形態に限らず,義理の上にも広く用ふ。圓満,円熟。韓非子に「左手畫圓,右手畫方,不能兩全」 丸は,弾丸なり,丸薬などの如くまんまるくころげるものなり, とあり(『字源』),どちらかというと,丸は,粒,円は,方形に対し円いという含意である。 『広辞苑第5版』は「まる」は, マロの転, とする。『岩波古語辞典』も,「まろ」を, 「マルの古形。球形の意。転じてひとかたまりであるさま」 とする。『日本語源大辞典』は, 「中世期までは『丸』は一般に『まろ』と読んだが,中世後期以降,『まる』が一般化した。それでも『万葉−二〇・四四一六』の防人歌には『丸寝』の意で『麻流禰』とあり,『塵袋−二〇』には『下臈は円(まろき)をばまるうてなんどと云ふ』とあるなど,方言や俗語としては『まる』が用いられていたようである。本来は,『球状のさま』という立体としての形状を指すことが多い。」 とし,更に, 「平面としての『円形のさま』は,上代は『まと』,中古以降は加えて,『まどか』『まとか』が用いられた。『まと』『まどか』の使用が減る中世には,『丸』が平面の意をも表すことが多くなる。 と,本来,「まろ(丸)」は,球状,平面の円形は「まどか(円)」と,使い分けていたが,「まどか」の使用が減り,「まろ」は「まる」へと転訛した「まる」にとってかわられた,ということのようだ。『岩波古語辞典』の「まろ」が球形であるのに対して,「まどか(まとか)」の項には, 「ものの輪郭が真円であるさま。欠けた所なく円いさま」 とある。平面は,「円」であり,球形は,「丸」と表記していたということなのだろう。漢字をもたないときは,「まどか」と「まる」の区別が必要であったが,「円」「丸」で表記するようになれば,区別は次第に薄れていく。いずれも「まる」で済ませたということか。『日本語源大辞典』には, 「『まと』が円状を言うのに対して『まろ』は球状を意味したが,語形と意味の類似から,やがて両者は通じて用いられるようになる」 とある。なお,「まとか」が,「まどか」と濁音化するのは,江戸時代以降のようである。 とすると,語源は,「まろ」と「まどか(まとか)」と,別々に探るしかない。 『日本語源広辞典』は,「まる」について, 「満(満三年・まる三年)です。manがmaruと音韻変化した語」 として,中国語「満」が語源とする。「満」は,満ちる意であり,「まる」を球形の意にに用いていたことと繋がりは見えるが,これでは,もともと「まろ」と言っていたこととどうつながるのだろうか。 『日本語源大辞典』は, 音を発するときの口の形から(国語溯原=大矢徹・国語の語根とその分類=大島正健), マアル(真在)の義(日本語原学=林甕臣), 全の義(俚言集覧), と挙げているが,いずれもちょっと説得力を欠く。僕は,臆説ながら, で取り上げた,「巻く」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba11.htm#%E3%81%BE%E3%81%8F%EF%BC%88%E5%B7%BB%E3%81%8F%EF%BC%89)と関係があるのではないか,と推測してみる。大言海』は,「巻く」を, マルククル(円転), としていた。 僕には,そこから「廻る」との関連が気になった。「廻(まは)る」は,『岩波古語辞典』には, 舞ふと同根, で, 「平面を旋回する意」 とある。「舞う」の語源を見ていくと,『日本語源大辞典』に, 「類義語『踊る』があるが,それは本来,とびはねる意であるのに対して,『まう』は回る意」 とある。こう見ると,「巻く」は「まる」とつながり,「まる」は「廻る」とつながっていく。「まる」は, 廻る, という動作や所作から生まれて来たのではないだろうか。 「まどか」の語源は,『日本語源広辞典』は, 「マド(円)+カ(状態)」 とする。『日本語源大辞典』は, マタキ(全)と通ず(和訓栞・国語の語根とその分類=大島正健), マタキカタ(全形)の義(名言通), マトは円の義(語簏), マロカ(丸所)の義(言元梯), タマ(玉)トイハンの略か,またマロク(円)の転か(和句解), 陽がのぼると先円い形であるところから,先起日の義(国語本義), を挙げるが,「まどか」が平面であることを無視した説は捨ててよい。『日本語源大辞典』は,こう付記する。 「『まと』は『またし(全)』と同根で,円環が完成した状態を意味する。」 としている。しかし,僭越ながら,「全き」という抽象概念から,具象的な「円(まどか)」が生まれたということは,文字を持たない和語の状態からは考えにくい。むしろ逆であろう。その意味で,「まと」は, 的, の「まと」ではないか。「円」を「まと」といい,「的」も「まと」といった(『岩波古語辞典』)。「的」の項で,『岩波古語辞典』は, 「(マト(円)の意か)弓を射る時の目標に立てておく物」 とし,『日本書紀』仁徳十二年の, 「高麗国,鉄の盾・鉄の的を貢る」 を引く。この形から来たという方が,納得がいく。「まと(的)」の語原は,『大言海』も挙げているが,『日本語源広辞典』は, 「マ(目)+処」 で,目あてにする所,とする。『日本語源大辞典』は, 一般的な形状からマトカ(円)の義(名語記・日本釈名・箋注和名抄・本朝軍器考・類聚名物考・名言通), マト(目処)の義(国語溯原=大矢徹・音幻論=幸田露伴), メアテシロ(目当代)の転か(和語私臆鈔), メアテ(正鵠)の義(言元梯), マは円,トは星の意の斗の意か(和句解), と挙げ,形に注目させていないが。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 麿, 丸, と当てる「まる」は, まる(丸・円) で触れた「まる(丸・円)」と同じく, まろ, の転である。「まろ」は, 麻呂, 麿, と当てる。 「一人称,主として平安時代以降,上下,男女を通じて使われた」(『広辞苑第5版』), とあり,『大言海』は,「まろ(麿・麻呂)」の項を三つ別に立てている。第一は, 「麿は麻呂の合字,生(うまれ)の約轉かと云ふ。我と云ふも生(あれ)なるべく(稗田阿礼など名とせしもあり),生子(むすこ),生女(むすめ)など,生まれた子の称あり。親より子を生(まろ)と云ひ,子自らも呼ぶやうになり,生(あ)れ継ぐ男子(おのこご)の称となりしなるべし」 とある。そして,意味を, 親より子を親しみて呼ぶ語(後世,子を坊と呼ぶが如し), 男子の名とする語,後,美称となり,高貴の児童の名に加ふ, 父母愛して,吾が見の如く思ふ由にて名づく。転じて,丸とも書く, とする。二項目の「まろ(麿・麻呂)」は, 自称の代名詞。われ,の意, で,三項目の「「まる(麿・麻呂)」は, 自称より転じて,人名の下に用いる, とある。この経緯は,『岩波古語辞典』に, 「奈良時代には,多く男子の名に用いた語。平安時代には広く男女にわたって自称の語として使われ,親愛の情の籠められた表現であった。室町時代転じてマルになり,接尾語となった。」 とある。『日本語源大辞典』にも, 「名称の構成要素として,あるいは自称の代名詞として『まろ』を用いることがあるが,やはり中世期に『まる』に転じている。」 とある。どうやら, 子供への親愛の情のマロ, から, 男の子の名前, となり, 男女の自称, となり, 遂に,接尾語となって, 犬の名, としても,用いられるに至る。接尾語として,「まる」と転じて以降,「丸」と表記して,「牛若丸」というような人の名以外に, 名刀の名(蜘蛛切丸), 鎧(胴丸・筒丸), 楽器の名(富士丸,獅子丸), 船舶の名, 等々へと転用されていく。この「まろ→まる」は,円・丸の「まろ→まる」と,音は重なるが,別系統なのではないか,という気がする。この流れは,「丸・えん」の意味の流れとはまったく交わることはない。 船の名が愛称の流れからきているというのは,どうかと思うが, 「日本の船名のあとにつけられる語で,使われた上限は 12世紀末期までさかのぼる。一般に普及したのは室町時代以後で,小船を除いてほとんどの船が船名のあとにこの丸号をつけた。その由来には諸説があって,定説はない。しかし目下のところでは,刀や楽器などに丸をつけたのと同様に,船主が自己の所有船に対する愛称として用いたとする説が最も無難のようである。」(『ブリタニカ国際大百科事典』) とある。ただ,この他に, 「本丸、一の丸などといった城の構造物を呼ぶときの「丸」からとられたという説。つまり船を城に見立てた」 という説がある(今日の船名は,明治期に制定された船舶法取扱手続きに、「船舶ノ名称ニハ成ルベク其ノ末尾ニ丸ノ字ヲ附セシムベシ」という項があり、これが今日の日本商船の船名に「丸」がつく大きな理由になったものらしい(https://www.jsanet.or.jp/seminar/text/seminar_029.html)。 城の「本丸」「二の丸」は,曲輪(くるわ)から来ている。郭(くるわ)とも書くが,これは, 「古築城は,くるくると円くめぐらせたり,丸と云ふ,是なり」(『大言海』) と,その形状から来ている。あるいは, 「螺旋状に築くところから」 とも言われるのは,同じである。つまり,城の「本丸」「二の丸」は丸い曲輪の形状から,「まろ(円・丸)」から来ている。とすると,船は,その系譜ではなく,「まろ(麻呂・麿)」の系譜ということになる。 形状からでないとすると,では,「まろ(麿・麻呂)」の語源はどこから来たか。『大言海』は, 生(うまれ)の約轉, としたが,『日本語源大辞典』は, マルは不浄を入れる容器。鬼魔も嫌うものであるところから,それらが近づかないように祈願してつけたもの,また人徳円満の意をも兼ねる(海録所引貞丈漫筆・続無名抄), ものをよく知っている人を言う角に対する丸の意から,卑下して付けたもの(松屋筆記所引宗固随筆), を挙げるが,いずれもちょっと首肯しがたい。その謂われで,自称の名に用いるとは思えない。たしかに,「まる(放)」には排泄の意があるが,古形は「まろ」であったことを考えると,『大言海』説, 生(うまれ)の約轉, 以上の説は見当たらない。
「焼きが回る」は, 刀の刃などを焼く時も,いき渡り過ぎてかえって切れ味が悪くなる, という意味から,転じて, 齢を取ったりして能力が落ちる, 意で用いられる(『広辞苑第5版』)。しかし,転じるにしても,火が回り過ぎることが,転じるとしても,齢を経て能力が落ちるいとは,どうもつながらない。「火がいきわたりすぎる」ことと「齢を経ること」とのつながりがよくみえない。 「日本刀を製造する過程で、硬くする目的で火に入れることはよく知られています。しかし、あまり火を入れすぎると、かえって切れ味が悪くなることもあるそうです。このことを『焼きが回る』と表現したのが、転じて『能力が落ちる』という意味になったのです。」(http://aslan-bun.com/?p=2504) という説明だと,火を入れ過ぎるのを「焼きが回る」といい,切れ味が劣るという意味から,「能力が落ちる」意になるのまではわかる。しかし,それが「齢を取って」問い意味が出てくるのは,火が回り過ぎる,つまり時間が過ぎる,という意味なのだろうか。 たとえば, 「焼き入れする場合、刀身に焼刃土(やきばつち)を塗ります。主成分は耐久性のある粘土で、木炭の粉や砥石の粉などを混ぜて作りますが、伝法によって焼き入れの温度が違うため、各自工夫したものを作ります。重要なのは高温に耐えられ、簡単にはげ落ちてしまわないものを作るということです。粘土は熱によって焼き締まるので刀身に貼り付き、砥石の粉は焼刃土のひび割れを防ぎ、木炭の粉は焼き入れの促進と断熱の役割を果たしていると考えられています。 火造りが終わった刀身を藁灰で洗って油分を取り、十分に乾かしてから焼刃土を塗ります。刃になる部分には薄く、それ以外は厚く塗ります。自分が目指す刃文の形に塗り、足(あし)などを入れる場合はヘラの薄い部分に焼刃土を付け、足を入れる部分に置いていきます。」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~osaru/dekirumade.htm) 「焼き入れする前の日本刀の組織は、アルファ鉄というものになっていますが、加熱していくと726度で変態します。これをA1変態点といいアルファ鉄がガンマー鉄に変化する点です。刃文が出るようにするには、A1変態点以上に熱しなければなりません。ただし、800度以上になってしまうと鉄の結晶が肥大化してしまいます。最も硬くなるのは750〜70度に達したときです。…焼き入れ直前の日本刀はアルファ鉄がガンマー鉄に変わり、オーステナイトという組織になっています。これを水中で急冷するとガンマー鉄がアルファ鉄に変わりマルテンサイトという組織になります。日本刀の刃の部分は薄く、焼き刃土も薄く塗ってあるので、水に入れると瞬間的に冷却されマルテンサイトに変化します。マルテンサイトは硬度が非常に高く、物を斬るのに適しています。また、オーステナイトからマルテンサイトに変化すると膨張します。つまり刃の側が膨張するので自然と反りが生じるのです。」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~osaru/kagaku.htm#yakiirenokouka) を見ると,ひとつは,粘 土,木 炭 粉,砥 石 粉 な どを水で練 り合わせた「焼 刃土」の塗り方であり,いまひとつは,冷却する水であるように見える。「講談などで師匠の焼き入れの際の水の温度が知りたくて、湯舟に手を入れて温度を知ろうとした弟子が師匠にその手を切り落とされた」(仝上)といった話があり,「焼きが回る」につながることは見つけられない。 「通常高温の金属を水で急冷する場合金属と水との温度差が大きいと金属表面付近の水が激しく沸騰し,そこで生じる蒸気が薄 い膜となって金属表面全体を覆う(膜沸騰段階)この段階では水と金属が直接接触していないため,冷却は緩 やかとなる.これがある温度に達すると蒸気膜が切れ,水と金属が直接接 するようにな り(核沸騰段階),金属は急激に冷却されるようになる焼刃土を塗るとこのうちの膜沸騰段階が生じず,冷却開始直後から核沸騰段階となって金属が急冷されるため,焼刃土を塗った方が早く冷却される結果になるのである」.(上原拓也・井上達雄「日本刀の焼入れにおける焼刃土の効果」) と,やはり冷却に焦点が当たっている。ただ, 「高炭素の備前伝では 780℃,低炭素の相州伝では 800℃程度と,いずれも Ac1 変態点(760℃ ) 以上に加熱し,前者では常温から 40℃,後者では約 80℃の水に焼入れる」 とあり,この微妙な火加減,温度加減を言っているのだとすると,ほんの数秒単位のことを指しているやに思われる。 「この焼き入れによって刀身に自然とおよそ二分五厘(7.5粍)の反りが生じます。それは刃側の鉄組織が膨張するのに対し、棟側は焼刃土を厚く塗っているため膨張せずにいるからです。」(仝上) とあり,焼き入れの時間の微妙さが伝わってくる。『江戸語大辞典』を見ると, 焼きが廻る, で, 火加減がいきわたり過ぎて却って切れ味が悪くなる, 意から,転じて, 鋭さがなくなる, とある。ここまでが本来の意味の転化なのだろう。つづいて 頭の働きや腕前が衰える, 老いぼれる, すっかり古びる, とあるので,鋭さがなくなる,から,老いへと転じ,古びると転じた流れが見える。 その焼き入れ時間の微妙さは僕にはわからないが,むしろ,似た言い回しで, 刃金が棟に回る, の方が実感がある。その意味は, 「(『棟』は刀のみね)刃の鋼の部分がすり減って,みねの部分を刃として使うようになってしまう。知恵や力量が衰えることの喩え」(『故事ことわざ辞典』) とある。それだけ使える刃は,いいものだったということでもあるが。 『笑える国語辞典』の, https://www.fleapedia.com/%E4%BA%94%E5%8D%81%E9%9F%B3%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9/%E3%82%84/%E7%84%BC%E3%81%8D%E3%81%8C%E5%9B%9E%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B/ 「焼きが回る」の説明がなかなかふるっている。 「焼きが回るとは、刃物の制作過程である焼き入れをやりすぎて刃がもろくなり、切れ味がわるくなるということで、年を取るなどして能力が落ちるという意味で用いられる。仕事を頼まれた高齢の職人がうまくできなくて、『オレも焼きが回ったものだ』などと嘆息するといったシーンがありがちだが、このじいさんは、焼きが回っていなければ(つまり若いうちは)オレも日本刀のように切れまくっていたのだと、言い訳しつつ実は大いに自慢しているのである。」 「焼きが回る」と「刃が棟に回る」は関連があるらしい(http://www.web-nihongo.com/edo/ed_p0116/)。 「江島其磧(えじまきせき)の浮世草子『世間娘気質(せけんむすめかたぎ)』(享保2年〈1717〉序)に、『亭主手の物(得意なこと)と料理自慢の包丁の焼がむねへまはり、鰒汁(ふぐじる)の仕ぞこなひに客も其身(そのみ=本人)も大きにあてられ(死んでしまう)』とある。 包丁のむね(刀のみね)を引用し、焼きが包丁のむねのほうへまわるといっている。この『世間娘気質』の譬(たと)えの場合、「焼き」(刀剣などを鍛えるために熱処理すること)が、本来あるべき包丁の刃の部分に回らず、むねのほうに回ったというのだから、得意としていた料理の腕前の包丁さばきが発揮されなかったという意味にとれる。」 とある。「焼きが棟に回る」の方が,「焼きが回る」よりも,「焼き入れ」の失敗が明晰に思える。 なお,「地金」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E5%9C%B0%E9%87%91)については触れた。 参考文献; https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsms1963/44/498/44_498_309/_pdf 尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
神無月(かんなづき)は,陰暦十月の異称である。『広辞苑第5版』には, カミナヅキの音便, とある。『大言海』は,「かみなづき」の項に載る。 「神無(かみな)は當字なり,醸成月(かみなんづき)の義(萬葉集…『十月(かみなづき)』の條に,古義の記せる大神景井の説),萬葉集…『味飯(うまいひ)を,水(酒)に醸成(かみなし)云々』。十月は,翌月の新嘗(にひなめ)の設けに,新酒を醸す月の義なり(睦月の語原を見よ)。借字に就いて言ひしは,曾丹集,十月『何事も,行きて祈らむと思ひしを,社(やしろ)はありて,神無月かきな』。是れ等,古かるべきか,花山天皇の頃の人なり。藤原清輔(治承元年卒)の奥義抄,上,末に『十月(かみなづき),天下のもろもろの神,出雲國に行きて,異国(ことくに)に神無きが故に,かみなし月と云ふをあやまれり』とあり,是等に因りてか,従来,紛々の説あれど,神々の,出雲の集りたまふこと古典に絶えて據りどころなききが如し,一切,妄説なるべし」 とある。なお,「(睦月の語原を見よ)とあるのは,睦月(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%82%80%E3%81%A4%E3%81%8D)で触れたようにに,『大言海』は,「むつき(睦月・正月)」の項で, 「實月(むつき)の義。稲の實を,始めて水に浸す月なりと云ふ。十二箇月の名は,すべて稲禾生熟の次第を遂ひて,名づけしなり。一説に,相睦(あひむつ)び月の意と云ふは,いかが」 とし, 「三國志,魏志,東夷,倭人傳,注『魏略曰,其俗不知正歳四時,但記春耕秋収為年紀』 を引いて,「相睦(あひむつ)び月の意」に疑問を呈して,「實月」説を採っていた。 要は,「神無月」は当て字であり,「神無」を「神が不在」と解釈するのは,その当て字を基にした解釈にすぎない,と言うことに尽きる。『日本語源広辞典』も, 「国中の神が出雲にいらっしゃって,不在になる月という…説は平安期の付会」 と見ている。逆に,出雲地方には神々が集まるだろうという俗信が生じ、出雲地方では、10月が神在月(あるいは神有月)と呼ばれるようになった,というのも俗説であり,これも、中世には唱えられていた,という。 「藤原清輔(治承元年卒)の奥義抄,上,末に『十月(かみなづき),天下のもろもろの神,出雲國に行きて,異国(ことくに)に神無きが故に,かみなし月と云ふをあやまれり』」 と,どうやら平安期に出た俗説らしいが, 「出雲大社に全国の神が集まって一年の事を話し合うため、出雲以外には神がいなくなるという説は、中世以降の後付けで、出雲大社の御師が全国に広めた語源俗解である。高島俊男は、『月の名で、師走と同じくらい古い民間語源を有するのが「神無月」である。十月には各地の神さまがみな出雲へ行ってしまって不在になるので神無月、という説明で、これも平安時代からある。『かみな月』の意味がわからなくなり、神さまがいないんだろうとこんな字をあてたのである。『大言海』は醸成月(かみなしづき)つまり新酒をつくる月の意だろうと言っている。これも憶測にすぎないが、神さまのいない月よりはマシだろう。』と評している。」 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%84%A1%E6%9C%88)。あるいは, 「《古事記》《日本書紀》における出雲系神話の量は多大であるし,歴史時代に入ってからでも,出雲の場合は国造制を最後までのこし,その出雲国造(くにのみやつこ)は代替りごとに参朝して神賀詞(かんよごと)を奏上するという慣行をもった。そのような古代以来の実績と直接つながるかどうかは不明であるが,やがて中世になると,ここにいわゆる〈神在月(かみありづき)〉なる伝承をもつようになる。すなわち旧暦10月を他国では神無月(かんなづき)というが,ひとり出雲国では神在月という。」(『世界大百科事典』) と,出雲信仰とのつながりがあるのかもしれない。 結局「神無月」の語源は不詳である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%84%A1%E6%9C%88)と言うほかないのだが, 「有力な説として、神無月の『無・な』が『の』にあたる連体助詞『な』で『神の月』」 という説があり(「水無月」が「水の月」であることと同じ),『日本語源広辞典』も, 「神+の+月」 説を採る。『語源由来辞典』(http://gogen-allguide.com/ka/kannazuki.html)も, 「神を祭る月であることから『神の月』とする説が有力とされ、『無』は『水無月』と同じく『の』を意味する格助詞『な』である。」 とする。しかし,僕には,この月だけ,急に神に関わる月名を採るというのは解せない。 「憶測にすぎないが、神さまのいない月よりはマシだろう」(仝上)と評された,「水(酒)に醸成(かみなし)」とする『大言海』説と同じなのが,『日本語の語源』で, 「米を噛んで酒をつくったことから,酒を造りこむことをカミナス(噛み成す)といったのがカミナス(醸み成す)に転義した。正月用の酒を造りこむ月という意味で,カミナシ(醸み成し)月といったのがカンナヅキ(神無月。陰暦十月の異称)になった」 としている。諸説は,『日本語源大辞典』(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%84%A1%E6%9C%88も合わせ)によれば, 諸神が出雲に集合し、他の地では神が不在になる月であるから(奥義抄、名語記、日本釈名), 諸社に祭りのない月であるからか(徒然草、白石先生紳書), 陰神崩御の月であるから(世諺問答、類聚名物考), カミナヅキ(雷無月)の意(語意考、類聚名物考、年山紀聞), カミナヅキ(上無月)の義(和爾雅、類聚名物考、滑稽雑談、北窓瑣談、古今要覧稿), カミナヅキ(神甞月)の義(南留別志、黄昏随筆、和訓栞、日本古語大辞典=松岡静雄), 新穀で酒を醸すことから、カミナシヅキ(醸成月)の義(嚶々筆語、大言海・日本語の語源), カリネヅキ(刈稲月)の義(兎園小説外集), カはキハ(黄葉)の反。ミナは皆の意。黄葉皆月の義(名語記), ナにはナ(無)の意はない。神ノ月の意(万葉集類林、東雅), 一年を二つに分ける考え方があり、ミナヅキ(六月)に対していま一度のミナヅキ、すなわち年末に近いミナヅキ、カミ(上)のミナヅキという意からカミナヅキと称された〔霜及び霜月=折口信夫〕, 等々がある。因みに,出雲大社の御師の活動がなかった沖縄においても、旧暦10月にはどの土地でも行事や祭りを行わないため、神のいない月として「飽果十月」と呼ばれるという(仝上)。 これまで触れてきたように, 睦月(陰暦一月 http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%82%80%E3%81%A4%E3%81%8D) 如月(陰暦二月 http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%81%8D%E3%81%95%E3%82%89%E3%81%8E) 弥生(陰暦三月 http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%82%84%E3%82%88%E3%81%84) 卯月(陰暦四月 http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba10.htm#%E3%81%86%E3%81%A5%E3%81%8D) 皐月(陰暦五月 http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%81%95%E3%81%A4%E3%81%8D) 水無月(陰暦六月 http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba10.htm#%E3%81%BF%E3%81%AA%E3%81%A5%E3%81%8D) 文月(陰暦七月 http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba10.htm#%E3%81%B5%E3%81%A5%E3%81%8D) 葉月(陰暦八月 http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba11.htm#%E3%81%AF%E3%81%A5%E3%81%8D) 長月(陰暦九月 http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba11.htm#%E3%81%AA%E3%81%8C%E3%81%A4%E3%81%8D) 霜月(陰暦十一月 http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba12.htm#%E9%9C%9C%E6%9C%88) 師走(陰暦十二月 http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%81%97%E3%82%8F%E3%81%99)
すべて,農事と関わる月名であった。「長月」(陰暦九月)が,
「おとり」は, 囮, と当てる。 他の鳥獣を招きよせてとらえるための鳥獣, の意とあり(『広辞苑第5版』),これだと意味が分かりにくいが, 鳥や獣を捕らえようとするとき、誘い寄せるために使う同類の鳥・獣, だと,その意がよく通じる(『デジタル大辞泉』)。 椋 (むく) の木におとり掛けたり家の北, という子規の句があるそうである。 この意をメタファに, 他の者を誘いよせるために利用する手段, という意に広がったらしい。 媒鳥, とも当てるらしいので,分かりやすい。『広辞苑第5版』には, ヲキとリ(招鳥)の略か, と載る。鳥獣というより,鳥を捕える手段だったのではないか。『大言海』には, 「招鳥(をきとり)の略。説文『率鳥者,繋生鳥以来之,名曰囮』」 とあり, 「鳥を繋ぎ置きて,他鳥を誘い捕ふるに用いるもの」 とある『倭名抄』には, 「媒鳥,少養雉子,至長狎人,能招引野雉者,乎度利」 とあり,『字鏡』には, 「囮,袁止利,鳥以呼鳥」 とあり,『東雅』には, 「囮,テテレ,云々,テテレとは,トトリト云ふ語の轉ぜしに似たり。ヲトリと云ふは,招引之義なるに似たり」 とあり,いずれも,鳥,あるいは特定して雉としているので,鳥を捕える手段であったらしいことがわかる。 餌の意で,人を引き寄せる手段という意味に転じたのは,江戸時代と思われる。『大言海』には,『東海道中膝栗毛』(享和)の, 「兩側より,旅雀のヲトリに出しておく留女の顔…」 と,遂に人を招く「招鳥」に使われるようになる。 『日本語源広辞典』も, 「オキ(招くの連用形)+鳥」の音韻変化, とする。「招き」は, 「神や尊重するものなどを招きよせる」 とある(『岩波古語辞典』)。 正月(むつき)立ち春の来たらばかくしこそ梅を招(を)きつつ楽しき終へめ, という万葉集の歌があるらしい。この含意と,「をとり」(囮)のいみとは,どうも重ならない気がするが, 招餌(をきえ), という言葉があり, 鷹を招きよせる餌, とあり(大言海), 拾遺集の, 「おしあゆ,『はし鷹のをきゑにせんと構へたる,オシアユがすな,鼠とるべく』」 の例があり,やはり,「招(おき)鳥」だと納得する。ただ,オトリにするにしても,その仕方で, 鳥の脚に緒をつないで,余鳥を捕える媒とすることから,ヲトリ(緒鳥)か(言元梯), ヲトリ(雄取)の義(和訓栞・柴門和語類集), ヲソトリ(偽鳥)の義か。ヲソは野鳥の義(名言通), 等々の異説もある。 なお,「囮」(カ,ガ)の字は,まさに「他の鳥を招きよせるため籠に入れて見せびらかす飼い鳥」の意。 「会意兼形声。化は,立ったひとがしゃがんだ形に姿を変えたことを示す会意文字。囮は『囗(かこい)+音符化』で,姿を変えて相手をだますオトリを,かこいの中に入れたことを表す」 である。 偽客の意のサクラ(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba5.htm#%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%83%A9)触れた。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
「物の怪(もののけ)」は,今日死語だが(「もののけ姫」というのがあった), 人間に憑いて苦しめたり、病気にさせたり、死に至らせたりするといわれる怨霊、死霊、生霊など霊, を指したとある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E3%81%AE%E6%80%AA)。 妖怪、変化(へんげ)などを指すこともある, らしい。なぜなら,「物の怪」は, 「『もの』は本来『霊魂』のこと,『け』は『病は胸,もののけ・脚のけ』(『枕草子』)とある『気(病気)』を意味していた」(『日本伝奇伝説大辞典』) のだから。生霊,死霊が病因と見なされたとすると,妖怪,変化がそれでもおかしくはないからである。 『広辞苑第5版』は, 「死靈・生霊などが祟ること,またその死霊(しりょう)・生霊(いきりょう)」 を指す,とシンプルである。因みに,「死霊(しりょう、しれい)」は、 死者の霊魂, 生霊の対語であり,「生霊(いきりょう、しょうりょう、せいれい、いきすだま)」は、 生きている人間の霊魂が体外に出て自由に動き回るといわれているもの, とされている。 『岩波古語辞典』に,「物の怪」の項で, 「もの(鬼・靈)のケ(気)の意」 とあるのは,「オニ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba11.htm#%E3%82%AA%E3%83%8B、http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba4.htm#%E9%AC%BC)で触れたように,「鬼」を, 「日本では、『物(もの)』や『醜(しこ)』と呼んでいたため、この字も『もの』や『しこ』と読まれていた。『おに』と読まれるようになったのは平安時代以降」 とあるように,「もの」と訓んでいたことと関わる。 『もの』という精霊みたいな存在を指す言葉があって、それがひろがって一般の物体を指すようになったのではなく、むしろ逆に、存在物、物体を指す『もの』という言葉があって、それが人間より価値が低いと見る存在に対して『もの』と使う、存在一般を指すときにも『もの』という。そして恐ろしいので個々にいってはならない存在も『もの』といった。 古代人の意識では、その名を傷つければその実体が傷つき、その名を言えば、その実体が現れる。それゆえ、恐ろしいもの、魔物について、それを明らかな名で言うことはできない。どうしてもそれを話題にしなければならないならば、それを遠いものとして扱う。あるいは、ごく一般的普遍的な存在として扱う。そこにモノが、魔物とか鬼とかを指すに使われる理由があった。」(大野晋は「『もの』という言葉」) と, 「得体が知れない存在物で『物』としかいいようのないもの」(藤井貞和) の意で,「もの」は,古代の信仰では 「かみ(神)と、おに(鬼)と、たま(霊)と、ものとの四つが代表的なものであった」(折口信夫『鬼の話』) というより,ぼくには,「もの」が「かみ」「かま」「もの」に分化(というより,「もの」から「かみ」と「たま」が分化)し,さらに「もの」から「おに」が分化していった,と見えると書いた。「物の怪」の「もの」は,そういう意味で, 「得体が知れない存在物で『物』としかいいようのないもの」 の意と考えていいのではないか。『大言海』が, 物怪 物氣, と当てて, 「鬼祟(オニ)の氣の意。怪は借字」 としているのはその意味である。 「モノノケ(物の怪)などのモノは人間への対義としての『モノ』であり、全ての無物無生物、超自然的な存在を指すことが本義であった。転じて平安時代の『延喜式』文脈には、『疎ぶ物』『麁ぶ物』など災いや祟りを引き起こす悪神を『モノ』と表し、人間・生物に幸福安泰や恵みをもたらす善神の反対の概念と用いている。」 としている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E3%81%AE%E6%80%AA)のも同趣である。万葉集で,「題詞」の「鬼病」を,「もののけ」と訓ませている,という。 「物の怪」は,祟り信仰の類型と位置づけられるらしく, 「『たたり』の原義は,神ないし神意の発顕を意味する『たつ』の内容に要求性を含む現象だが,やがて神霊が人間の行為を咎めて災いをもたらす『祟り』の義に転じて,人間の精神的・肉体的な病の原因は,生霊・死霊などのうらみの顕れと思惟された。のち,病原体(生霊・死霊)じたいを『物の怪』と呼ぶようになったのは,『もの』に対する恐怖の観念を示す。」 とされる(『日本伝奇伝説大辞典』)。たとえば, 「『もののけ』は,目指す相手の生理的な危機状態(懊悩・不安・身体不調・出産時の衰弱など)につけこむ。『源氏物語』で,葵上が初産で苦しみ出したときに出没する物の怪について人々が,『この御いきすだま(生霊),故父大臣の御霊』(葵巻)だと取沙汰する場面は,前者が六条御息所(みやすどころ)の生霊,後者は御息所の亡き父大臣の死霊を指して」 いる。とある(『日本伝奇伝説大辞典』)。 世間之事,毎有物怪寄祟先靈,, と『続日本紀』にあるらしく,なかなか社会的な広がりがあった。しかし今日,「物の怪」は,「もの」や「靈」意へ畏怖が失せて,別の意味で使われ出しているらしい。 『日本語俗語辞典』(http://zokugo-dict.com/35mo/mononoke.htm)は,「もののけ」とは, もののけとは、非常に不細工な人のこと, とし,2007年以降, 「もののけとは不細工な人や雰囲気が良くなかったり、暗い人を意味する。もののけとは本来、死霊・生霊・邪気及びそれらが祟る(たたる)ことを意味する。ここから、それら霊や霊の祟りに匹敵するほど不細工・暗いというニュアンスで用いられるようになった。主にコンパやオフ会など、初対面の人が多い場所で使用。女性が不細工な男性に、男性が不細工な女性に、双方に用いられる。」 となったとする。それは「物の怪」ではなく「物の奇」だろう。人の心が奥行をなくし,薄っぺらになった証拠だ。 なお,「もの」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba11.htm#%E3%82%82%E3%81%AE), 「オニ」((http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba11.htm#%E3%82%AA%E3%83%8B、http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba4.htm#%E9%AC%BC))については で触れた。 参考文献; 鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫) 乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房)
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