「うま」は, 馬, と当てるが,実は,この「馬」の, 字音「マ」 が,「うま」の語源だと,『広辞苑』にはある。実は,古代史の本を読んでいたら,こんなことが書いてあった。 「『馬』を『うま』と訓じるのは,中国語の『マ』(もしくは『バ』)が転じたものである。つまり和語にはあの動物を表す言葉がなかったのである。ほとんど見たこともなかったのであるから,それも当然である。馬のことを駒というのも,『高麗』つまり高句麗の動物という意味なのである。」 その結果,四世紀末から五世紀にかけて,朝鮮半島に出兵した倭国の大軍は,高句麗に大敗する。 「短甲(枠に鉄の板を革紐で綴じたり鋲で留めたりした伽耶『由来・語源辞典』の重い甲(よろい))と太刀で武装した重装歩兵を中心とし,接近戦をその戦法としたものであったのに対し,既に強力な国家を形成していた高句麗が組織的な騎兵を繰り出し,長い柄を付けた矛(ほこ)でこれを蹂躙したことによるものと考えられる。歩兵にしても,高句麗のそれは鉞(まさかり)を持った者や,射程距離にすぐれた強力な彎弓(わんきゅう)を携えた弓隊がいたことが,安竹3号墳の壁画から推定されている。 歩兵と騎兵との戦力差は格段のものがあり(一説には騎兵一人につき歩兵数十人分の戦力であるという),これまで乗用の馬を飼育していなかった倭国では,これ以降,中期古墳の副葬品に象徴されるように,馬と騎馬用の桂甲(けいこう 鉄や革でできた小札(こざね)を縦横に紐で綴じ合わせた大陸の騎馬民族由来の軽い甲)を積極的に導入していった。」 とある。日本の在来馬については, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9C%A8%E6%9D%A5%E9%A6%AC に詳しいが, 「日本在来馬の原郷は、モンゴル高原であるとされる。現存する東アジア在来馬について、血液蛋白を指標とする遺伝学的解析を行った野沢謙によれば、日本在来馬の起源は、古墳時代に家畜馬として、モンゴルから朝鮮半島を経由して九州に導入された体高(地面からき甲までの高さ)130cm程の蒙古系馬にあるという。」 としているので,高句麗大敗後のことという時代背景は合う。ただ,「高麗」由来という説は, 「『こま(駒)』の『こ』が上代特殊仮名遣いで甲類であるのに対し,『こま(高麗)』の『こ』は乙類である」 ため,現時点では,認められないようである(ただ,「上代特殊仮名遣い」自体は,あくまで仮説なので,それが覆る可能性はあると僕は思っている)。しかし,上記の由来を考えると,朝鮮半島を経由するプロセスで,「うま」と係る言葉を手に入れたと見なすのが妥当ではあるまいか。なお,「上代特殊仮名遣い」については,何度か触れたが, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E4%BB%A3%E7%89%B9%E6%AE%8A%E4%BB%AE%E5%90%8D%E9%81%A3 に詳しい。 さて,「うま」の語源であるが,『日本語源広辞典』は,二説載せる。 説1は,「『中国音m』が,語源だと言います。この音を単独で発音できない日本人は,前に,母音u,後ろに母音aを,加えてウマとしたのです。外来語に母音を加えて発音する習慣は,現在でも,インキ,ブック,デッキ,などにも見られる現象です。」 説2は,「『ウ(大)+マ(時間・空間)』説です。大いに,早く,遠くに行くものの意ですが,この説は疑問に思います。」 『日本語源広辞典』が疑問に思った説を,『大言海』は,「こま(小馬)」の項で, 「古名は,イバフミミノモノ(英語に云ふ,ponyなり)」 と注記して, 「応神天皇の御代に,百済国より大馬(オホマ 約めてウマ)の渡りたりしに対して,小馬と呼び,旧名は滅びたりとおぼし。神代期の駒(こま),古事記の御馬(みま)の旁訓は追記なり」 とし, オオマ(大馬)→ウマ, コマ(小馬)→コマ, と,その大小から,二系統の由来,ということになる。『日本語源広辞典』が,「こま」については, 「小+馬」 の音韻変化とするのは,暗に,「コマ」と「ウマ」の由来が別と,言っているような気がする。『岩波古語辞典』は, 「こま」の項で, 「こうま(子馬)の約」 としているのは,「大馬」が親馬で,「小馬」が子馬ということなら,意味が通る気がする。なお,「うま」の項で『岩波古語辞典』は, 「ウマは古くからmmaと発音されたらしく,古写本では,『むま』と書くものが多い」 として,朝鮮語,満州語に関連すると想定している。『日本語源大辞典』には,新村出説として, 「蒙古語mori(muri),満州語morin,韓語mat(mus)mar,支那語ma(mak)などと同語源。馬自体が大陸から伝わったのとともに,音も伝わった」(琅玗記) を載せている。確かに,馬とともに言葉も伝わったのだが,いずれも「マ」由来に見える。 さらに,『岩波古語辞典』には, 「平安時代以後は,歌謡には,馬を,コマということが多い」 とあり,駒と馬は,混同されていったようだ。なお,『日本語の語源』は, 「中国語のバイ(梅)・バ(馬)を国語化してウメ(梅)・ウマ(馬)という。『ウ』は語調を整えるための添加音であった。これに子音が添加されてムメ(梅)・ムマ(馬)になった。さらにム[mu]の母韻[u]が落ちて撥音化したため,ンメ(梅)・ンマ(馬)という。」 とある。 参考文献; 倉本一宏『戦争の日本古代史−好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』(講談社現代新書) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9C%A8%E6%9D%A5%E9%A6%AC 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 田井信之『日本語の語源』(角川書店) 「まぐろ」は, 鮪, と当てるが,『広辞苑』には, 眼黒の意, とある。『大言海』には, 「眼黒の義,或いは云ふ,真黒かと」 とある。 「まぐろ」については, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B0%E3%83%AD に詳しいが,そこにも, 「日本語の『マグロ』は目が大きく黒い魚であること(目黒 - まぐろ)に由来するという説がある。 他にも保存する事が困難とされた鮪は、常温に出しておくとすぐに黒くなってしまう為、まっくろ→まくろ→まぐろ。と言われるようになったと言う説も存在する。」 とある。ついでながら, 「現代の日本語では、マグロ属の中の1種であるクロマグロ(学名:Thunnus orientalis)のみを指して『マグロ』と呼ぶ場合も少なくない。また、『カジキマグロ』(カジキの俗称)および『イソマグロ』(イソマグロ属)は和名に『マグロ』を含むが、学術上はマグロ(属)ではなく、生物学の成立以前から存在した通俗名(梶木鮪、磯鮪、など)を引き継いだものである。 英語名 Tuna は『マグロ』と日本語訳されがちであるが、実際は上位分類群のマグロ族 (Thunnini) 全般を指し、マグロだけでなくカツオ、ソウダガツオ(マルソウダ、ヒラソウダ)、スマなどを含む。」 とある。「ツナ」にカツオが含まれるのは意外である。なお,「まぐろ」は, サバ科マグロ属, である。また,成長の度合いに応じて, メジ(30〜60センチの幼魚), シビ(成魚), かきのたね(稚魚), 等々という呼び名があるそうである。 「縄文時代の貝塚からマグロの骨が出土している。古事記や万葉集にもシビの名で記述されており、『大魚(おふを)よし』は、『鮪』の枕詞」 とか。『岩波古語辞典』には, 「大魚よしシビつく海人よ」(古事記) と例が載る。さらに, 「江戸の世相を記した随筆『慶長見聞集』ではこれを『しびと呼ぶ声の響、死日と聞えて不吉なり』とするなど、その扱いはいいものとはいえなかった。これは鮮度を保つ方法が無く、腐敗しやすいことが原因である。かつては魚介類の鮮度を保つには、水槽で生かしたまま流通させる方法があったが、マグロの大きさではそれが不可能であった。また干魚として乾燥させる方法もあるが、マグロの場合は食べるに困るほど身が固くなる(カツオの場合は、乾燥させた上で熟成させ、鰹節として利用したが、マグロはその大きさから、そういった目的では使われなかった)。唯一の方法は塩漬にする事だが、マグロの場合は食味がかなり落ちたため、下魚とされ、最下層の庶民の食べ物だった。」 とある。事実『江戸語大辞典』には,「まぐろ」の項に, 「しび・かじき・きわだ・びんなが(実はサバの一種)等の総称。総じて下賤の食用なれど,きわだを上,かじきを中,しびを下とする。安永七年・一事千金『まぐろのさし身にどじやうの吸い物,ふわふわなどでせいふせんととのへ』」 とある。「かじき」より下だったらしい。
閑話休題。 「やり」は, 槍, 鎗, 鑓, と当てる。「やり」については, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A7%8D に詳しいが, 「有史以前から人類が使用し続け、銃剣に代替されるまで長く戦場で使われ続けた。」 とある。『大言海』には, 「遣りの義。尺素往来『遣刀(やり)長刀』と見えたり。鑓は遣鐡の合字」 とある。「鑓」の字は国字なのだが,それは「槍」が「遣り」から来ているという前提で後世に作字されたということではないか。「槍」=「遣り」にはちょっと疑問符が付く。しかし,『日本語源広辞典』も, 「遣り(突きやるもの)」 という語源説をとる。また,『日本語源大辞典』も, ヤリ(遣り)の義, とするものが圧倒的に多い(和句解・言元梯・名言通・日本古語大辞典・国語の語幹とその分類・日本語源)。ほかに, ツキヤル(突遣)の義か(日本釈名・俗語考・古今要覧稿・傍廂), 茅屋を葺くために竹の先を細くとがらせたヤハリ(家針)に似ているところからその略か(類聚名物考), 等々がある。しかし,「やり」を考えるとき,同じように長柄の武器「ほこ」との対比で考える必要がありそうである。 「ほこ」は, 矛, 鉾, 戈, 戟, 鋒, 等々と当てるが, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%9B に, 「槍や薙刀の前身となった長柄武器で、やや幅広で両刃の剣状の穂先をもつ。 日本と中国において矛と槍の区別が見られ、他の地域では槍の一形態として扱われる。」 とある。その区別は,日本における「やり」の一般的な構造は, 「木製あるいは複合材の『打柄』の長い柄の先端に、先を尖らせて刃をつけた金属製の穂(ほ)を挿し込んだもの」 とされ,「ほこ」は, 「「穂先の形状に一定の傾向があり、矛は先端が丸みを帯び鈍角の物が多いのに対し、槍は刃が直線的で先端が鋭角である。矛は片手での使用が基本で逆の手に盾を構えて使用した。これに対し槍は両手での使用を前提としていた。」 とされる。そして,「やり」と「ほこ」の違いを, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A7%8D, で,「やり」の初出は, 「宴会で酔った大海人皇子(天武天皇)が槍を床に刺したという伝承」 とされるが, 「大海人皇子が使ったとされる槍も、矛が使われた時代である事から、詳細は不明だが矛とは構造的に異なるものであったと思われる。しかしながら、矛が廃れた後で登場した槍については、同じものを古代は矛、中世以降は槍と称したと解釈して問題ないように思われる。例えば『柄との接合部がソケット状になっているのが矛。茎(なかご)を差し込んで固定する方式が槍』という説があるが、実際には接合部がソケット状になっている袋槍が存在する。新井白石も槍について『"やり"というのは古の"ほこ"の制度で作り出されたものだろう。元弘・建武年間から世に広まったらしい』と著書で述べている。そして文中の記述において、"やり"には"也利"、″ほこ"には″槍"の字を充てている。」 とし,「ほこ」は, 「金属器の伝来と共に中国から伝わってきたと考えられている。材質は青銅製の銅矛で後に鉄で生産されるようになると、銅矛は大型化し祭器として用いられるようになった。 日本の訓読みで『矛』や『鉾』、『桙』だけでなく戈、鋒、戟いずれも『ほこ』の読みがあることから、この時代の「ほこ」は長柄武器の総称であった可能性がある。」 つまり,すべて「ほこ」と訓んだ時代から,次に,すべて「やり」と呼ぶ時代になった,ということなのかもしれない。中国・日本以外は,すべて, 槍, とされるのだから,他国に準じたという言い方になるのかもしれない。 「ほこ」の語は,『日本書紀』崇神天皇紀四十八年に, 「八廻弄槍(やたひほこゆけし)」 と見えるそうだ。 概して,「やり」は柄に差し込むのに対して,「ほこ」は,柄に被せる構造(槍主流の時代になると,被せるスタイルの槍を「袋穂の槍」と言ってい区別した)だが,両者の比較を, 「柄に被せる袋穂式(ソケット状)と挿し込み式{日本刀の茎(中芯・中心:なかご)のような造り}があり、単純に武器としての耐久強度としては挿し込み式の方が高いが、総合的に見ると絶対的に有利とは限らない。また、これらの接合に使われる部品は必然的に柄の補強とも統合される場合が多い。袋穂式は、完全に包み込むものと両側で挟み込むもの、片側のみで柄と繋ぐものなどがある。柄の製作や修理が比較的容易にできる代わりに、特に斬る・打つことがし難く、造りによっては挿し込み式より頑丈になることもあるが、金属製の補強用材(鉄及び真鍮・青銅など)のため重量が膨大になりやすい。」 としている。 「ほこ」の語源は,たとえば,『大言海』には, 「積木(ほこ)の義と云ふ。」 とする。『日本語源広辞典』は, 「ホ(突出・卓越)+コ(木)」 とする。その他, ホルキ(掘木), ホコ(外木), 等々,「木」と絡ませる説が多い。しかし,『日本語源大辞典』は, 「『木(こ)』は下に接続する要素のあるときの形であり,下接しない場合は『木(き)』となるのが普通である」 として,疑問符をつけている。つまり,はっきりしない。 『武家名目抄』刀剱部には,次の記事がある,という。 「按,也利はもとの用の語にて古事記の矛由気といへる由気のごとし。由気は令行(由加世の由気となる。加世のつづまり気なれば也)即こき出してかなたに衝遣ることなれば由気といひ也利といひ,語は異なれば意は全く同じ。おもふに此物古代の長鎗より出て,手鉾に対へて遣鉾といひけんを略して遣りとのみいへるなるべし。建武二年正月三井寺合戦の時土矢間より鑓長刀さし出せしといふこと太平記にしるせしが,此物の見えたる初めにて,是より前鎌倉殿の時さる物ありしこと更に所見なく伊呂波字類抄,字鏡集にも載ざれば元弘建武の際にやはじまりけん。庭訓往来・異制庭訓等はその頃の書なれじ,兵器を書きつらねたる所に也利といふことなきは極めて俗語なれば載ざるなるべし。其文字は鎗とも鑓とも書けど,鎗は保古と訓じ来れば,也利に用ひんこといとまぎらわし。鑓は作り字なれど,今標目になため用ひぬるはかふべき文字の外になく世に用ひ来たれることの久しきが故なり。尺素往来の遣刀の文字は一条禅閤の作意にてかかれたるなれば普通には用ひ難し」(『日本合戦武具事典』) で,笠間良彦氏は, 「『古事記』には矛由気,『衣服令義解』には鎗,『軍防令義解』には槍の文字をもって『ほこ』と訓ませているから,後世の槍ではなく鉾を由気・槍・鎗の文字を用いていたのである」 とし, 「目的物に衝遣るから由気(行)であり,遣るから也利である」 とするのはこじつけ,としている。 「ほこ」から「やり」への転換は, 「俗説では箱根・竹ノ下の戦いにおいて菊池武重が竹の先に短刀を縛り付けた兵器を発案したとされる。『太平記』などによれば、1,000名の兵で足利直義の率いる陣営3,000名を倒したという。菊池千本槍は、熊本県の菊池神社で見ることができる。後に進化し、長柄の穂と反対側の端には石突(いしづき)が付けられるようになった。 実際には鎌倉時代後期には実戦で用いられていたとみられる。茨城県那珂市の常福寺蔵の国の重要文化財『紙本著色拾遺古徳伝』(奥書は元亨3年11月12日)には片刃の刃物を柄に装着した槍を持つ雑兵が描かれている。」 とされる。因みに,『江戸語大辞典』の「やり(槍)」の項には, 「操り・浄るりの社会用語。やじること。半畳を入れること。」 しか載らない。 参考文献; 笠間良彦『日本合戦武具事典』(柏書房) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%9B https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A7%8D 大槻文彦『大言海』(冨山房) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社) 「かぶと」は, 兜, 甲, 冑, と当てる。 「軍陣としては,頭にかぶる部分である鉢とその下に垂れて首の部分を覆う錏(錣 しころ)からなる。鉢の頂を頂辺(てへん),通俗には八幡座とも言い,鉢の正面のところを真向(まっこう)という」 と,『日本語源大辞典』にはある。 埴輪や古墳の出土品からも「かぶと」は見られ, 「古墳から出土する甲(よろい)には短甲と挂甲(けいこう)の2種があり,冑にも衝角付冑(しようかくつきかぶと)と眉庇付冑(まびさしつきかぶと)の二つがある。形の上で衝角付冑は短甲に,眉庇付冑は挂甲に属するものと思われる。しかし関東地方出土の挂甲着装武人の埴輪に見られるように,ほとんどすべてが衝角付冑をつけており,古代の2種類の甲と冑との所属関係はかならずしも固定的なものではない。むしろ,衝角付冑と挂甲がいっしょに用いられたことが多かったと考えるべきであろう」(『世界大百科事典 第2版』) といった説明が見られる。 ところで,当てられる漢字,兜,甲,冑を見ると,「兜」の字は, 「白(人の頭)+儿(足の部分)にその頭を左右から包む形を加えたもの。頭を包むことに着目した言葉。甲冑の甲は,かぶせるかたいかぶとのこと。冑は,首だけ抜け出る同槙のいた屋のこと」 とある。「甲」の字は, 「もと,うろこを描いた象形文字。のち,たねを取り巻いたかたいからを描いた象形文字。かぶせる意を含む。」 とある。「冑」の字は, 「冑の原字は,上部の頭にかぶとを載せた姿と,下部の冒(かぶる)の字からなる。冑は『かぶる,かくすしるし+音符由』。頭だけ上部に抜け出るどうまきのこと。」 とある。『大言海』は, 「甲(よろい)の字をカブトに用いるは,誤りなり」 とするが,漢字の由来から見ると,「甲」「冑」ともに,「かぶと」の意がある。しかし,甲冑(かっちゅう)という言い方は,「甲(かぶと)」と「冑(胴巻)」のセットで,鎧を指すので,間違いとばかりは言えない。ただ『広辞苑』を見ると,「甲冑」で,「甲(よろい)と冑(かぶと)」と載せているし,『大言海』の「甲冑」の項を見ると, 「禮記,曲禮,上篇『獻甲者執冑』鄭注『甲,鎧也,冑,兜鍪也』 を引用しており,中国でも,甲は鎧,冑は兜鍪(かま)を指しているようだ。『岩波古語辞典』にも, 「『甲は,日本にかぶとと読むは誤りぞ。甲はよろひなり。冑はかぶとなり』〈燈前夜話〉。『冑,加布度(かぶと)。首鎧也』〈和名抄〉」 と載る。『日本語源大辞典』にも, 「『甲』は本来ヨロイを意味する字であるが,これをカブトと訓むのは,『華厳経音義私記』の『甲,可夫刀』(上巻),『被甲 上(略)可何布流,下可夫度』(下巻),『甲冑 上又為ナ字,可夫止』(上巻)にまで遡ることかできるが,本来,誤用である。」 と載り,さらに, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%9C にも, 「元来、『甲』は鎧、『冑』は兜を表していたが後に混同され、甲が兜の意で用いられる事もある。なお、兜、冑ともに漢語由来の字であるが、現代中国語では頭盔の字が使われる(突盔形兜の『盔』である)。」 とある。因みに,「突盔形兜(とっぱいなりかぶと)」とは, 「室町時代末期頃に発生した頂部が尖った兜。筋兜を簡略するかたちで変化したもの。椎実形、柿実形、錐形、筆頭形等の鉢頂部が尖った形の兜を総称して突盔形ともいう。」 とある。ついでに,戦国時代の兜の大きな変遷は,需要が増え,合理的な製作方法が開発され,鉄板数片で半球状をつくる方法になったようである。しかもこの方が従来の縦矧板を鋲留する煩雑な製造法よりも堅牢だったという。 閑話休題。さて「かぶと」の語源である。 『岩波古語辞典』には, 「朝鮮語で甲(よろい)をkap衣をotという。その複合語kapotを,日本語でkabutoとして受け入れたという。」 と載る。『大言海』も, 「頭蓋(カブブタ)の約転(みとらし,みたらし。いたはし,いとほし)。朝鮮語ににもカプオトと云ふ」 とある。確かに,朝鮮語由来という説は捨てがたいが,『日本語源広辞典』には, 「カブ(頭,被る,冠)+ト(堵,カキ,ふせぐもの)」 とする。『日本語源大辞典』も, 「『かぶ』は頭の意と考えるのが穏当であろうが,『と』については定説を見ない。」 としている。語源説を拾ってみても, カブは頭の意(古事記伝), カフト(頭蓋)の音義(和語私臆鈔), カブブタ(頭蓋)の約転(言元梯), カブト(頭鋭)の意(類聚名物考), カブは頭。トは事物を意味する接尾語(日本古語大辞典), 頭を守る大切なものという意で,カブ(頭)フト(太=立派なもの)か(衣食住語源辞典), カブツク(頭衝)の義(名言通), 頭にカブルものだから(日本釈名。箋注和名抄), カブルトの約か(菊池俗言考), カブルはカブル,トはヲトコ(男)の上下略か(和句解), カブシトトノフの義(桑家漢語抄), カウベフト(首太)の義(柴門和語類集), 等々。単純に, 「被ると」 という意味だったのではないか,と思いたくなる。文脈依存なのだから,兜をかぶりながら, 「被ると安全。。。」 と言ったような。 参考文献; https://matome.naver.jp/odai/2133715851085504501 藤本巖監修『図説戦国変わり兜』(学研) 笠間良彦『図説日本甲冑武具事典』(柏書房) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「さけ」は, 鮭, C, を当てる。『広辞苑』を見ると, 「アイヌ語サクイベ(夏の食物)からとも,サットカム(乾魚)からともいう」 とある。いわゆる, サケ目サケ科, の,サケ,ベニザケ,ギンザケ,マスの一部の総称,である。 『日本語源広辞典』も, 「『アイヌ語sakipe秋』です。シャケからサケへ変化した語です。秋の魚の意です。方言アキ(秋)+アジ(味)という語があり,語源が似ています。」 とアイヌ説をとる。『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/sa/sake_sakana.html も,諸説挙げた上で, 「アイヌ語で『夏の食べ物』を意味する『サクイベ』や『シャケンベ』は,魚の『マス』を意味する語に通じることや,鮭の大きなものを古語では『スケ』と言い,『shak』の部分は『スケ』や『サケ』の音に変化することは十分に考えられることから,アイヌ語説は有力とされている。」 確かに,アイヌ語由来というのは,頷けなくもない。『大言海』も, 「かたこと(慶安,安原貞室)『此魚,子を生まんとて,腹のサケはべる,とやらむと云へり』,和訓栞さけ『Cの字を讀むは,云々,裂けの義。其肉,片々,裂けやすし,と云へり』,共に,いかが,古語に,此魚大なるを,スケと云へり,参考すべし。」 と,「裂け」説に疑問を呈し,「スケ」説を取っている。因みに,『大言海』によると,「すけ(鮭)」は, 「古へ,鮭の大いなるものの称」 で,常陸風土記の注に, 「C祖は,鮭の親の義にて,鮭の大いなるものを云ふと云ふ」 とあるとし,更に新編常陸風土記の, 「常陸國南部,及び,松前の土人は,鮭の大なるを,佐介乃須介と云ひ,鱒の大なるものを痲須乃須介とと云ふ。彼土人の説を聞きたるなり。本國にても,往古は,此称ありしこと,明らかなり。魚鳥平家に,鮭大介鰭長と云へる名を設けしも,此塩湖りての事ぞと思はる」 を引く。 http://zatsuneta.com/archives/001763.html も, 「古く東日本で『スケ』と呼ばれていたものから転訛したという説。身が簡単に裂けるから『サケ』の名が付いたという説。アイヌ語の『シャケンペ』に由来する説がある。アイヌ民族はサケを『神の魚』として尊んだという。」 としている。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%B1 によれば, 「日本系サケと若干のマス類は、先史時代から漁獲の対象となってきた。かつて山内清男が縄文文化が東日本でより高度に発達した理由をサケ・マス資源の豊富さに求める説を唱えた。この説に対し当初は批判が多かったが、その後の発掘調査において東日本各地の貝塚でサケの骨が発見されるにおよび評価されるようになった。なお、平安時代の「延喜式」にも日本海沿岸諸国からの河川遡上魚の献上の記事が載せられている。」 とあり,東日本中心,ということが,いっそうアイヌ説に重みを持たせる気がする。なお, http://www.nihonjiten.com/data/45609.html は, 「『夏の食物』を意味するアイヌ語『サクイベ』・『シャケンべ』→『シャケ』→『サケ』と転訛したとする説、身が『裂(サケ)』やすいことに由来する説、肉の色が『酒(サケ)』に酔ったように見えることに由来する説、赤と同語源である『朱(アケ)』色が転じた説など、他にも諸説ある。」 とした上で,「鮭」「C」の漢字表記について, 「『鮭(サケ)』は国訓であり、『桂』の花が咲く頃に、川を上ってくることから『圭』の字を当てたとする説がある。本来は『C』と書き、生臭い意を表す。」 としている。しかし, http://zatsuneta.com/archives/001763.html によると, 「漢字の『鮭』は本来『フグ』を意味する。『圭』が『怒る』を表し、『怒ると腹がふくれる魚』=『フグ』となったという説がある。他にも説があり、シャケは元来『魚へんに生』で『C』と書いていた。これはサケが生臭い魚であったことに由来する。しかし、この漢字ではイメージが悪いため、『C』によく似た『鮭』に替えたという。」 の説を載せる。『大言海』も, 「鮭(けい)は,河豚(ふぐ)なり,C(せい)は,魚臭なり,ともに当たらず」 としている。『字源』には,「鮭」は国字,とあり,「C」(セイ,ショウ)の字のみ載せる(「なまぐさし」と)。『漢字源』は,「鮭」(ケイ,ケ)の字のみ載せ,「ふぐ」と「さけ」の意として, 「魚+音符圭(三角形に尖った,形がよい)」 と解字する。この辺りは,これ以上確かめようがない。 『日本語源大辞典』の諸説を整理しておくと, 肉が裂けやすいところから,サケ(裂)の義(日本釈名・滑稽雑談所引和訓義解・和訓栞・言葉の根しらべの), 稚魚のときから全長一尺に達するまで,胸腹が裂けているところからサケ(裂)の義。また,肉の赤色が酒に酔ったようであるところからサカケ(酒気)の反(名語記), 産卵の際,腹がサケルところからか(かた言), 海から川へサカサマにのぼるところから(和句解), 肉に筋があってほぐれやすいところから,肉裂の略か(牛馬問), 肉の色から,アケ(朱)の転(言元梯元), セケ(瀬蹴)の義(日本語原学), 鮭の大きいものを言う古語スケと関係がある(大言海), スケと同根,スケは夷語か(日本古語大辞典), 夏の食物の意のアイヌ語サクベイからか(東方言語史叢考=新村出), アイヌ語シャケンバ(夏食)が日本語に入ったもの(世界言語外説=金田一京助), 等々。やはり,古代の生活史から考えても,サケの実態から考えても,アイヌ説が有力である。因みに,いつも異説を立てる『日本語の語源』は, 「秋,川をさかのぼって上流の砂底に産卵した後,死ぬ。その語源はサカノボル(遡る)魚で,その省略形のさか魚が,サケ魚・サケ(鮭)・シャケに転音したと推定される。」 としている。 参考文献; http://www.zukan-bouz.com/sake/sake/sake.html 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 田井信之『日本語の語源』(角川書店) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 簡野道明『字源』(角川書店) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
「猫も杓子も」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba8.htm#%E7%8C%AB%E3%82%82%E6%9D%93%E5%AD%90%E3%82%82)を取り上げたついでに,「猫」を調べると,この語源が,またまた百家争鳴。 『広辞苑』は, 「鳴声に接尾語コを添えた語。またネは鼠の意とも」 とあり,『岩波古語辞典』も, 「擬音語ネに接尾語コをそえたもの」 とする。因みに接尾語「こ」は, 『広辞苑』には, こと(事)の下略, 互いにすること,相競うこと(「かけっこ」「くらべっこ」), さま,とういう状態表現(「ぺちゃんこ」「どんぶらこ」), 特に意味を持たず,種々の語に付く(「べ(牛)こ」「ちゃわんこ」「ぜにっこ」) の説明があるが,『大言海』は,「子」「縷」「處」「競」「箇」と当て,それぞれ由来が違う。 「子」は,「父母が,男女子を愛しみて名づけしに起れるなるべし。殊に女は親愛の情深きものなれば,後には専ら女子の名につくるが多くなれるなり」 「子」は,「其物事の體を成さしめ,名詞を形作らしむる語なるが如し。漢語の冊子・帷子・帽子・瓶子・雉子・椅子・茄子などの子と,その意同じ。倭漢暗合なり」 「縷」は,「常に子の字を記す。物の義なる子(すぐ上の『子』)にて,唯数ふるに云ふなるべし(縒り足る糸を一子二子と)」 「處」は,「ところのコ。在処(ありか),住処(すみか)のカに通ず」(「いずこ」「かしこ」「あそこ」) 「競」は,「クラベ,クラの約まりたるなり(クラベ,クラ,コと次第に約まる)」 「箇」「個」は,「箇(か),個(か)の百姓読み。箇(か)に同じ。物を数ふるに云ふ」 とある。これだと「ねこ」の「こ」がはっきりしないが, https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14119070404 によると, 「にらめっこ おにごっこ かけっこ あいこ なれっこ うそっこ かまいっこ ふざけっこ ⇒ すること、しないことを指す とりかえっこ かわりばんこ あてっこ ⇒ 二人以上で、類似のことを、交互にやることを示す 江戸っ子 だだっ子 ちびっ子 むすめっこ 売り子 縫い子 踊り子 お針子 ⇒ 属性を示す にゃんこ ⇒ 小さい生き物に親愛を込めた名詞にする 真智子 京子 桜子 珠子 菜々子 ⇒ 女の名前であることを示す 根っこ 端っこ はんこ あんこ すみっこ はらっこ ⇒ 幼児語、俗語 (短すぎてわかりにくくなる語を分かり易くする) ごっつんこ ぺちゃんこ ⇒ 擬態語を様子や状態を示す用語に転換する 断乎(だんこ) 確乎(かっこ) 茫乎(ぼうこ) 凛乎(りんこ) ⇒ ようすを示す」 の「にゃんこ」と似ているのではないか。「ね」が擬音語なら「にゃん」もそうだ。しかし,「擬音語+こ」は,一説に過ぎない。『大言海』は,その説を採らない。 「ネコマの下略。寝高痲の義などにて,韓国渡来のものか。上略してコマとも云ひしが如し。或いは云ふ,寝子の義マは助詞なりと。或いは如虎(にょこ)の音転など云ふは,あらじ。又タタケ(家狸)と混ずるは,非なり」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%B3 によれば, 「日本には奈良時代に倉庫の穀物や経典類の番人として輸入されたことにより渡来してきたものと考えられている」 とあるし, https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1146875076 でも, 「ネコは、経典などをネズミから守る為に奈良時代頃に中国から輸入されたと伝えられてます。」 とあるから,鳴声も「ミャウ」という呉音とともに入ってきたと考えられるのかもしれない。『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/ne/neko.html も, 「ネコの語源は『ネコま』の下略という説が多く,猫は夜行性で昼間よく寝ることから『寝子』に『獣』の意味の『マ』が付いたとする説。『ネ(寝)』に,『クマ(熊)』が 転じた『コマ』が付いたとする説。『ネ』が『鼠』、『こま』が『神』もしくは『クマ(熊)』とする説などがある。 平安中期の漢和辞書『和名抄』に『禰古万』とあり,『ネコマ』が『ネコ』の古称とされていたため考えられた説だが,『ネコ』と『ネコマ』のどちらが古いか定かでない。 有力な説は,『ネ』が鳴声,『コ』か親しみを表す接尾語というものである。 『源氏物語』ではねこの鳴声を『ねうねう』と『ネ』の音で表現しており,『猫』の呉音は『ミョウ』『メウ』で鳴声に由来する。 幼児語で,『ニャンニャン』『ニャアコ』,犬を『ワンワン』や『ワンコ』というように,鳴声で呼び,後に『コ』を加える点も共通している。 漢字『猫』は,獣偏に音符『苗』で,『苗』は体がしなやかで細いことを表したものか,『ミャオ』と鳴く声になぞらえた擬声語と考えられている。」 と,「鳴声+接尾語コ」としているが,やはり, 「『源氏物語』ではねこの鳴声を『ねうねう』と『ネ』の音で表現しており,『猫』の呉音は『ミョウ』『メウ』で鳴声に由来する。」 と,猫とともに,「鳴声」の表現を手に入れたというのが妥当かもしれない。『日本語源広辞典』も,「寝子」説を否定し,鳴声説を推す。 ついでながら,『日本語源大辞典』の,語源説を拾っておくと, ネは鳴声から,コはヰノコ(豕)などのコと同じ(雅語音声学・日本語源・音幻論=幸田露伴), ネウクの義。鳴声から(言元梯), ネコマの下略(南留別志), ネコマ(寝高痲)の略,あるいはネコ(寝子)-マの略,マは助詞(大言海), ネコマ(寝子獣)の義(日本古語大辞典), ネ(寝)コマの義。コマはクマの転。クマは猫の古名(名言通), ネコマの略。ネは鼠の義。コマはカミ(神)の転(東雅), ネウネウと鳴くケモノの義。コマはケモノの略(兎園小説), ネコ(寝子)の義(菊池俗語考・和訓栞), ネル(寝)をコノム(好)ところから(日本釈名), ネブリケモノ(眠毛物)または,ネケモノ(寝毛物)の義(日本語原学), ニフリモノ(睡獣)の略。ケモノの反はコ(円珠庵雑記), ネはネズミ(鼠)の意。コはコノム(好)の義(和句解・日本釈名・日本声母伝), ネコマチ(鼠子待)の略か(円珠庵雑記), ネカロ(鼠軽)の義。鼠にあうと軽々しく働く意(名語記), ネコ(似虎)の義(和語私臆鈔), ヌエの頭に似ているところから,ヌエコの略転(橿園随筆) 等々,あきらかに,「ヌエ」のように,「猫」を知ってからのものにこじつけるなど,あやしげなものが多い。異説を述べる『日本語の語源』も, 「ミャーミャーと食べ物をねだってしきりに鳴くので,ナクケモノ(鳴く毛物)と呼んでいたのが,上二音を残してナク・ネコ(猫)に転音した。」 と,さすがに,すこし滑っているようである。 なお,猫については, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%B3 に詳しが, 「世界のイエネコ計979匹をサンプルとしたミトコンドリアDNAの解析結果により、イエネコの祖先は約13万1000年前(更新世末期〈アレレード期(英語版)〉)に中東の砂漠などに生息していた亜種リビアヤマネコであることが判明した。」 そうである。ここまでくると,「いぬ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba8.htm#%E3%81%84%E3%81%AC)も調べてみたくなる。 参考文献; https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%B3 http://www.necozanmai.com/zatsugaku/origin-%22neko%22.html https://peco-japan.com/13943 「いぬ」は, 犬, 狗, と当てる。因みに,「犬」の字は, 「犬を描いた象形文字」 だが,「ケン」の音(漢音・呉音)は, 「クエンという鳴声を真似た擬音語」 という。「狗」(呉音ク,漢音コウ)は, 「犬+音符句(ちいさくかがむ)」 で,元々は,小犬を指す。後に犬の総称となり,さらに,「走狗」のように,いやしいもののたとえとして使われるようになる。 さて,和語「いぬ」である。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%8C によれば, 「日本列島においては犬の起源は不明であるが、家畜化された犬を飼う習慣が日本列島に渡ってきたと考えられている。縄文時代早期からの遺跡から犬(縄文犬)が出土しており、埋葬された状態で出土した事例も多い。縄文早期から中期には体高45センチメートル前後の中型犬、縄文後期には体高40センチメートル前後の小型犬に変化し、これは日本列島で長く飼育されたことによる島嶼化現象と考えられている。」 とあり,人とともにこの列島にわたってきたものらしい。 『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/i/inu.html によると, 「犬は縄文時代から家畜化されており、自然界の言葉と同じく基礎語にあたるため、語源 は以下の他にも多くの説があるが特定は難しい。 1.『イ』は『イヘ(家)』の意味で、『ヌ』 は助詞。 2.『イヌ(寝ぬ)』の意味や、『家で寝る』の意味で『イヌル』の下略。 3.すぐに立ち去ってしまうことから,『イヌ(往ぬ・去ぬ)』 4.『唸る(うなる)』の古語『イナル』の語幹『イナ』の転。 5.他の動物と同様に,また,犬の字音が『クエンクエン』という鳴声から『ケン』であるように,鳴声が語源で『ワンワン』や『キャンキャン』が転じたもの。 江戸時代以前,犬の鳴声は『ビヨビヨ』『ビョウビョウ』と表現されていたことを踏まえると,鳴声を語源とするのは考え難いが,更にそれ以前どう表現されていたか不明であるため,完全に否定することはできない。 小犬を表す『狗』は『エヌ』と呼ばれており,『イヌ』と『エヌ』が正確に区別されていたとすれば,『イ』は区別するための音で,『ヌ』に『犬』を表す意味が含まれている可能性が高い。」 とある。「イヌ」と「エヌ」の区別は, http://www2.plala.or.jp/terahakubutu/jyuunisiinu.htm に, 「『現代日本語方言大辞典』によるとイヌの方言には2系統あるようです。 [イヌ形]:イナ、イヌメ、イン、イングリー等 [エヌ形]:エヌコ、エヌッコ、エヌメ、エノ、エンガ、エンコ等 平安中期の源順が著した分類漢和辞書『和名類聚抄』に、狗(イヌ)を恵奴(エヌ)と注してあります。」 とあるが,あくまで「イヌ」を前提にしての話で,「いぬ」の語源とはつながらない。どうやら,諸説紛々,並べてみると, 鳴声。ワンワンのワがイに転じたか(大言海), 鳴声ウエヌの転(松屋叢考), 外来語か。あるいは,イナル(ウナル)の語幹イナの転か(日本古語大辞典), 遠くからでも飼い主のもとへイヌル意(和句解・日本釈名・柴門和語類集), イは,イヘ(家)の約音ヱの転,ヌは助詞(東雅), イヘ(家)のヌヒ(婢)か(和句解), イヌル,即ち家に寝る義(日本声母伝・和訓栞・言葉の根しらべ), ヲリヌル(居寝)の約(和訓集説), イネヌ(寝)の意(和語私臆鈔・日本語原学), イヌは犬,エヌは犬の子で区別するのが正しいが混同している(箋注和名抄), 古語のエヌから転じ,エヌは「犬」の別音yenである(日本語原考=与謝野寛), イ(忌)+ヌ(緩)で,主人の危機を緩めるもの(日本語源広辞典) 等々。『日本語の語源』は, 「安寝は『心安らかに眠ること。安眠』の意である。犬は家畜として警護・狩猟につかわれてきたが,そのお蔭で安眠ができるのでヤスイナル(安寝成る)毛物といった。イナル(寝成る)は,ナル[n(ar)u]の縮約でイヌ(犬)に転化した。」 とする。犬を見る視点ではなく,飼い主視点というのは,他にない視点で,ちょっと惹かれる。通常考えれば,鳴声説をとりたくなる。『日本語源広辞典』は,鳴声説で, 「ワン,ウワン,ウェヌ,ウェン,イェン,イン,イヌ」 と転訛をなぞって見せている。鳴声の初めの表現が分からないが,「犬」の訓みがそうであるのと同様,やはり「ねこ」 http://ppnetwork.seesaa.net/article/451841720.html で触れたように,鳴声から来ているのと準ずるのではないかという気がする。 『江戸語大辞典』には, 義理を知らぬ人間のたとえ(犬畜生), 似て非なるもの,多く草木名にいい,接頭語として用いる(犬蓼,犬枸杞), まわしもの,間者, 岡っ引きの異称 の意味しか載らない。何々の「いぬ」という言い方は, 『日本語俗語辞典』 http://zokugo-dict.com/02i/inu.htm に, 「古く江戸時代から間者(スパイ)という意味で使われていた言葉である。これは前田利家の名で知られている戦国武将“前田犬千代(通称イヌ)”が間者として活躍したからと言われている。また、イヌは単に犬の嗅覚や聴覚の鋭さからきた密偵者や軍事探偵の転意ともいわれている。どちらにしても現代使われているイヌはこれらが転じた密告者のイメージが強く、もともと犯罪グループにいたがなんらかの理由で警察の手先となった“情報提供者”や目上の人にチクった者を指すことが多い。この場合『警察のイヌに成り下がりやがって』といったように悪意をもって使われる。」 とあり,岡っ引きも,その意味の流れだが,「いぬ(犬)」のこの意味は,わが国だけである。 また,「犬侍」とか「犬死」と使われる接頭語は,『日本語の語源』に,こうある。 「否定の感動詞イナ(否)はイヌ(犬)に転音して,エセ(似而非)をあらわす接頭語になった。犬蓼・犬芹・犬梨・犬葡萄・犬桜・犬山椒など。犬侍も。山崎宗鑑の『犬筑波集』は二条良基の『菟玖波集』に対して似而非なる連歌集という意味で命名された。」 つまり,接頭語「犬」は,当て字で,「否」という意味ということになる。 それにしても,犬に絡む慣用句は,多いことに驚く。ちょっとと挙げても,犬が西向きゃ尾は東,犬に論語,犬も歩けば棒に当たる,飼い犬に手を噛まれる,犬猿の仲,犬馬の労, 喪家の狗,夫婦喧嘩は犬も食わない,負け犬の遠吠え等々。 なお,犬については, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%8C に詳しい。 参考文献; https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%8C 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 田井信之『日本語の語源』(角川書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「あゆ」は, 鮎, 香魚, 年魚, 等々と当てられる。「鮎」の字は,中国語では, なまず, を指す。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A6 には, 「漢字表記としては、香魚(独特の香気をもつことに由来)、年魚(一年で一生を終えることに由来)、銀口魚(泳いでいると口が銀色に光ることに由来)、渓鰮(渓流のイワシの意味)、細鱗魚(鱗が小さい)、国栖魚(奈良県の土着の人々・国栖が吉野川のアユを朝廷に献上したことに由来)、鰷魚(江戸時代の書物の「ハエ」の誤記)など様々な漢字表記がある。た、アイ、アア、シロイオ、チョウセンバヤ(久留米市)、アイナゴ(幼魚・南紀)、ハイカラ(幼魚)、氷魚(幼魚)など地方名、成長段階による呼び分け等によって様々な別名や地方名がある。」 とし,さらに, 「中国で漢字の『鮎』は古代日本と同様ナマズを指しており、中国語でアユは、『香魚(シャンユー、xiāngyú)』が標準名とされている。地方名では、山東省で『秋生魚』、『海胎魚』、福建省南部では『溪鰛』、台湾では『[魚桀]魚』(漢字2文字)、「國姓魚」とも呼ばれる。」 で,「鮎」=鮎になった由来は, 「現在の『鮎』の字が当てられている由来は諸説あり、神功皇后がアユを釣って戦いの勝敗を占ったとする説、アユが一定の縄張りを独占する(占める)ところからつけられた字であるというものなど諸説ある。アユという意味での漢字の鮎は奈良時代ごろから使われていたが、当時の鮎はナマズを指しており、記紀を含め殆どがアユを年魚と表記している。」 のだとある。「鮎」の字が当てられた由来については, http://www.maruha-shinko.co.jp/uodas/syun/39-ayu.html に, 「1.神武天皇が九州より兵を進め大和国に入り、治国の大業が成るか否かを占って瓶を川に沈めた時、浮き上がってきたのが鮎だった為。現在でも天皇の即位式において、階前に立てられる万歳旗の中の上方には『亀と鮎』が画かれている。 2.神功皇后が朝鮮半島に兵を出された折、今の唐津市松浦川のほとりで勝ち戦か否かを祈って釣ったのがアユだった為。 3.約1000年前の延喜年間に、秋の実りをその年の諸国におけるアユの漁獲漁の多寡で占ったことから。」 とするが,「鮎」の字は, 「魚+音符占(=粘 ねばりつく)」 で,どう考えても,ナマズのイメージである。それを「あゆ」に当てたのは,これまで漢字を当てた例からすると,単なる誤用ではなく,何か意味があるのかもしれないが, 「古く中国の『食経』(620年頃)にはアユは春生まれ、夏長じ、秋衰え、冬死ぬ生涯から1年魚の意味で『年魚』と書かれていた。年魚の読みから鮎の字を転用したとされていて、『東雅』(1719年)では鮎の字を呉(ご)音で『ネン』と読み、『年魚(アユ)』の『年(ネン)』と同じ読み方から鮎(ネン)の字を転用し『鮎魚(アユ)』としたとあり、『鮎魚』から鮎(アユ)になったとある。『日本書記通証』(1748年)や『倭訓栞』(1777年)では鮎(アユ)と読むのは『倭名類聚抄』(931年)が元となったとあり『鮎は鯰であるが神功皇后の年魚で占ったとの故事に基づいた』とある。年魚に転用された鮎の字は中国で鯰(ナマズ)を意味するとはわからず転用した様であり、鮎の字を転用したことで中国で鯰を表す他の字とも鮎として漢字が使われていて、また同じ川にいる鮠(ハヤ)を意味する漢字とも混用・誤用されて鮎として表記されている。年魚は鮎の他にC(サケ・鮭・左計)をも意味している」 とある。もともとは, 香魚,年魚,王魚, と呼ばれるか, 黄頬魚,銀口魚,氷魚,細鱗魚,国栖魚,渓鰮魚, とその状態から呼ばれていて,「あゆ」は, 安由,阿由,阿喩, と当て字をしていたはずである。「鮎」の字を当てたのは後世ではないか,という気がする。たとえば『古事記』の神功皇后が筑紫・玉島の里の小河で食事をした後、釣りをしたおりは,「あゆ」に, 年魚, が当てられ,『日本書紀』の,神功皇后が松浦・玉島の里の小河で食事をしその後,釣り占いをしたくだりでは,「あゆ」に, 細鱗魚, が当てられている。漢字について厳密に承知していた古代ではなく,後世の日本人が誤用したとしか思えない。 ま,漢字表記の経緯はともかく,「あゆ」の語源は,諸説ある(『日本語源大辞典』『鮎起源探訪』『大言海』等)。 古来、神殿に供え(饗・アへ)をしたことから饗(アへ)るから「アエ」・「ア イ」になり「アユ」になったとされる。鮎は古くから朝廷への献上品であった(垂仁天皇(656年)の伊勢国度会に倭姫命はアユを献上させ供したとある)(日本古代大辞典) 「アユる」は「落ちる」の古語で産卵鮎が川を落ちる(下る)ことから「アユる」が「アユ」になったとされる(日本釈名) 「アユる」は脆(もろ)く死ぬる意味で産卵後、鮎が死ぬことから「アユる」が「アユ」になったとされる(鰯は,弱しなりと云ふ)(大言海) 「ア」は小、「ユ」は白、から小さく白い魚の意味で「アユ」になった(東雅) アイ(愛)すべき魚(可愛之魚)から「アイ」「アユ」になった(和訓栞・鋸屑譚) アユは古い大和言葉(やまとことば)で「ア」は賛歎の語で「ユ」はウヲ・イヲ(魚)の短促音とあり、佳(よ)い魚あるいは美しい魚の意味とある(鮎考) 鮎が矢の様な素早い動きからアイヌ語で矢を意味するアイ「ay」から「アユ」になった(衣食住語源辞典) 酢酒塩とアへ(エ)て食べてヨキウヲのことからアエて美味しい魚「アユ」になった(和句解) アアヨ(呼々吉)から「アユ」になった(言元梯) アオユルミ(青緩)から「アユ」になった(名言通) イハヨルの反語から「アユ」になった(名語記) その他に,『日本語源広辞典』は,「落ちる」説のほかに, 「『ア(肖)+ゆ』が語源です。似る,好ましい魚,あやかりたい魚の意で,香魚,かおりの好ましい魚の意」 を載せる。『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/a/ayu_sakana.html は, 「アユは,産卵で川を下る姿から『こぼれ落ちる』『滴り落ちる』という意味の『あゆる(零る)』が語源とされることが多いが,アユが川を下る姿はさほど印象的ではなく,『アユ』という音から近い言葉を探し,うまく意味が当てはめられただけと思われる。 アユの語源は上記のほか諸説あるが,非常に素早く動き矢のようであることから,アイヌ語で『矢』を意味する『アイ(ay)』が転じたものであろう。」 とアイヌ語説をとる。しかし,「あゆ」の生態は, 「北海道・朝鮮半島からベトナム北部まで東アジア一帯に分布し、日本がその中心である[5]。石についた藻類を食べるという習性から、そのような環境のある河川に生息し、長大な下流域をもつ大陸の大河川よりも、日本の川に適応した魚である。天塩川が日本の分布北限。遺伝的に日本産海産アユは南北2つの群に分けられる。」 と,ほぼ日本全域をカバーする。アイヌ語由来とのみは言えない気がする。国栖魚(クズノウオ)という名が,吉野川のアユを朝廷に献上したことに由来するように,関東以北とは限らないのだから。 『日本語の語源』は, 「〈河瀬にはアユユ(鮎子)さ走り〉(万葉)と歌われた鮎は,ニシン目の溯河魚である。幼魚は海に住み,初春,川をさかのぼって急流にすむ。秋,産卵のために川を下るのが落ち鮎で,その寿命はふつう一年だから『年魚』とも書く。 生育がきわめて早く,また河瀬を疾走するところから,もと,ハヤウヲ(早魚)と呼ばれていた。ヤウ[j(a)u]の部分の縮約で,ハユヲ・ハユになった。さらに,ハの子音交替[fw]でワユに,[w]が脱落して,アユ(鮎)に転化したと推定される。」 とする。つまり, ハヤウヲ→アユヲ・ハユ→ワユ→アユ, と転訛したという訳である。この説に与したい気がする。 参考文献; http://www.zukan-bouz.com/syu/%E3%82%A2%E3%83%A6 http://www004.upp.so-net.ne.jp/onkyouse/tumjayu/page025.html 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 田井信之『日本語の語源』(角川書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「さけ」は, 酒, と当てるが,この「酒」の字は, 「酋(シュウ)は,酒つぼから発酵した香りの出るさまを描いた象形文字で,酒の原字。酒は『水+酉(さけつぼ)』で,もと,絞り出した液体の意を含む」 とあり,「酋」の字は, 「つぼの中に酒がかもしだされて,外へ香気がもれ出るさまを描いたもの。シュウということばは,愁(心が小さく縮む)・就(ひきしめる)などと同系で,もと,酒をしぼる,しぼり酒の意であったが,のち,それを酒の字で書きあらわし,酋はおもに,一族を引き締めるかしらの意にもちいるようになった。」 とある。ついでに,「酉」の字は, 「口の細い酒つぼを描いたもの。のち,酒の字に関する音符として用いる。」 どうやら,「酉(とり)」の意は,「作物をおさめ酒を抽出する十一月」というところからきたようだ。 http://kanji-roots.blogspot.jp/2012/03/blog-post_26.html には,「酒」は, 「会意文字であり、形声文字でもある。甲骨の字の酒の字は『酉』の字である。即ち酒瓶の象形文字である。両側の曲線は酒が溢れ出している様を表し、また酒の香りが四散しているとも理解できる。金文の酒の字は水の字を用いて、酒が大きな酒瓶に入った液体であることを強調している。 小篆の酒は左側に水の字を加え、液体であることが強調されている。右辺の『酉』は盛器を表示している。楷書は小篆を引き継いでいる。」 とある。 さて,「さけ」の語源だが,『広辞苑』には, 「サは接頭語,ケはカ(香)と同源」 とあるが,『岩波古語辞典』には, 「古形サカ(酒)の転」 と載る。しかし,『大言海』には, 「稜威言別四に,汁食(しるけ)の転なりと云へり。シルケが,スケと約まり,サケと転じたなむ(進む,すさむ。さかしま,さかさま。丈夫(マスラヲ)もマサリヲの転ならむ)。酒を汁(しる)とも云ふ。上代に,酒と云ふは,濁酒なれば,自ら,食物の部なり。万葉集二,三十二『御食(みけ)向ふ,木缻(きのへ)の宮』は,酒(き)の瓮(へ)なりと云ふ。土佐日記には,酒を飲むを,酒を食(くら)ふと云へり。今も,酒くらひの語あり,或は,サは,発語にて,サ酒(キ)の転(サ衣,サ山。清(キヨラ),ケウラ。木(キ)をケとも云ふ)。即ち,サ食(ケ)と通ずるか。沖縄にては,サキと云ふ(栄えの約とする説は,理屈に落ちて,迂遠なり)」 とあり, 古語,酒(キ),みき,みわ,しる,みづ,あぶら, と,異称をならべる。ちなみに,「き(酒)」の項には, 「醸(かみ)の約,字鏡に『醸酒也,佐介加无』とあり。ムと,ミとは転音」 とあるし,「しる(醨)」については, 「液(しる)の義。酒の薄きもの,もそろ」 とある。「もそろ(醨)」は,酒の薄い物のことのようだが,「倭名抄」の, 「酒類(あまざけ)類『醨,之流,一云,毛曾呂,酒薄也』」 あるいは,「名義抄」の, 「醦,モソロ,モロミ,ニゴリザケ,カスコメ,ゴク」 を引く。どうやら,「甘酒」のように薄いもののようだ。 『語源由来辞典』 http://gogen-allguide.com/sa/sake.html は, 「『さ』は接頭語『さ』で、『け』は酒の古名『き』の母音変化が有力とされる。」 とする。『日本語源広辞典』は,三説載せ, 説1は,「栄え+(水)」が語源で,酒の語根サケは,栄,盛,幸,咲と通じる, 説2は,「ササ(醸造酒)+キ(酒・音韻変化でケ)」で,醸造した水の意, 説3ハ,サ(純粋)+ケ(内にこもる味,香)」で,香り良き水の意, とするし,『日本語源大辞典』は, シルケ(汁食)の転。酒は濁酒であったので,食物に属した(稜威言別), サは発語,ケはキ(酒)の転か(大言海), 米を醸してスマ(清)したケ(食)の意で,スミケ(清食)の義か(雅言考), スミキ(澄酒)の約(和訓集説), おもに神饌に供する目的で調進せられたものでアルトコロカラ,サケ(栄饌)の転(日本古語大辞典), サケ(早饌)の義(言元梯), サカエ(栄)の義(仙覚抄・東雅・箋注和名抄・名言通・和訓栞・柴門和語類集), 飲むと心が栄えるところからサカミズ(栄水)の下略サカの転(古事記伝), 風寒邪気をサケルトコロカラ,サケ(避)の義(日本釈名), 暴飲すれば害となるのでトホサケル(遠)意からか(志不可起) サは真の義(三樹考), サラリと気持ちがよくなるところから,サラリ気の義(本朝辞源), 本式の酒献は三献であるところから,「三た献」を和訓してサケといったもの(南留別志・夏山雑談), 飲めば心のサク(咲・開)ものからサカ(酒)が生じ,イが関与してサケになったもの(続上代特殊仮名言葉), 「酢」の音sakが国語化したもの(日本語原考), 等々挙げるが,どれも語呂合わせで,ピンとこない。なんとなく,「キ」が,御酒と通じる気がしてならない。だから,御神酒は,屋上屋なのではないか。 酒の古名は,「サケ」「ミキ」「クシ」「ミワ」,として, http://www.maff.go.jp/kinki/seibi/ikeq/setumei/no06/page03.htm では, 「『古事記』には『サケ』という記述が全部で10カ所出てくる。たとえば、『八塩折之酒』(やしおおりのさけ)、『待酒』(まちさけ)、『甕酒』(みかさけ)などで、また『日本書紀』には19カ所(八醞酒(やしおりのさけ)、八甕酒(やはらさけ)、毒酒(あしきさけ)、天甜酒(あまのたむさけ)、味酒(うまさけ))などが出てくる。『ミキ』については、『古事記』に26カ所出てきて(美岐(みき)、登余美岐(とよみき)、意富美岐(いとみき)など)、『日本書紀』には15カ所(大御盞(おみき)、弥企(みき)、瀰枳(みき)など)出てくる。じつはこの『サケ』と『ミキ』がサケ古名の大半で『クシ』となると『古事記』には2カ所(具志(くし)、久志(くし)、日本書紀には1カ所(区之(くし))しか出てこない。『ミワ』という古名は『古事記』にはみあたらず |