
コトバ辞典
「さわ」とは,
沢,
の字を当てると,
低くて水がたまり,蘆(あし),荻などの茂った知,水草のまじり生えた地,
山間の比較的小さな渓谷,
の意であり,
多,
と当てると,
多いこと,あまた,たくさん,平面に散らばっているものにいう,
という意味になる(『広辞苑』)。『古語辞典』には,「さはに」の項で,
「平面に広がり散らばって数量・分量のおおくあるさま」
とあり,
「類義語シジニは,ぎっしりいっぱいにの意。ココダは,こんなに甚だしくの意。」
とある。『大言海』は,「さは」で,
「眞多(さおほ)の意。サホ,サハと転じたる語か(眞(さあを,は,さを。ほびこる,はびこる。ほどろ,はだれ))
とする。『日本語源大辞典』は,「さわ」について,
サオホ(真多)の転か(大言海),
物の多いのは前に進むときなどにサハル(障)ところから(名言通),
ソレハソレハ沢山の意から(言元梯),
シハ(数)の転。シバシバ(屡)の意から転じて多数の意となったもの(日本古語大辞典),
と載るが,いずれも語呂合わせのようで,現実感がない。和語は文脈依存性が強いということは,状況の具体的なものに即していたからではないか,と思う。『日本語源広辞典』は,「さわ(沢・澤)」の語源を,
「サハ(沢)」
とする。
「山間の広く浅い谷の水たまり,のことで,植物の繁茂が多いのが語源かと考えます。みずたまり,と,多い,との二つの意味を持つ言葉です。」
と。『大言海』の「さは(澤)」には,
「桑家漢語抄,澤『本用多字云々,水澤,生物繁多也,故曰佐和』和訓栞,さは『多を,サハと訓めり,云々,澤も,多の義,藪澤の意也』イカガアルベキカ」
と載せる。「さわ(沢)」の語源説は,
生物が繁茂するところから,サハ(多)の義(桑家漢語抄・東雅・和訓栞),
サカハ(小川)の義(言元梯・二本語原学),
サケハナル(裂離)の義(名言通),
いつも風があたり,波がサハガシキところからか(和句解),
と諸説ある(『日本語源大辞典』)が,僕は,僭越ながら,
さは(多),
は,
さわ(沢),
から出たのだと思う。抽象語から,具体語になるのは逆である。「さわ(沢)」のイメージが「さわ(多)」という言葉を生んだ,と考えるのが順当ではないか。
「多を,サハと訓めり,云々,澤も,多の義,藪澤の意也」
とする『和訓栞』の言い方に妥当性を感じる。
ところで,「沢」を
山間の比較的小さな渓谷,
という。「たに(谷)」とどう区別しているのか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%A2
は,「沢」を,
「沢(さわ)は、細い川、もしくは短い川の通称である。
沢の特徴は上述の通り短さ・幅の狭さであるがその区別は曖昧であり、長大な沢・広い河原を有する沢もあれば、長さ数百mに満たない川もある。更に沢の支流に川があることもある。また、原頭部からの距離が短く、したがって流量は少ないが水質の良い山間部の川を指す場合もある。湧水のことを指す場合もある。
沢も川の一種であるが、流量の少なさのため水利・水運・水防上の重要性が低く、一級・二級河川の指定を受けているものはない。地図上無名のものや、『一号沢』『二号沢』『一郷沢』『二郷沢』『一の沢』『二の沢』『中の沢』といった名称のものもある。」
とあり,『ブリタニカ国際大百科事典』 には,
「細長い凹地。成因的に構造谷と浸食谷に分けられる。構造谷は地殻変動によって生じたもので,断層谷,断層線谷など。浸食谷は河川,氷河などの外力によって形成されるものでV字谷,U字谷など。谷はそのほか,形態的に峡谷,欠床谷,床谷,盆谷あるいは横谷,縦谷に分けられ,発達段階的に幼年谷,壮年谷,老年谷などに分けられる。」
http://dic.nicovideo.jp/a/%E8%B0%B7
には,
「谷(たに、や、コク)とは、主に山などに囲まれた標高の低い土地のことである。谷の深いものを峡谷という。」
とある。これを信ずるなら,谷は,形状の側を指し,沢は,水の側を指すということになる。『古語辞典』に「谷」について,
峰の対,
とあるのも,それを傍証する。
「たに(谷)」の語源は,『日本語源広辞典』は,
「『垂り』で,水の垂れ集まるところの意です。方言に,タン,ターニなど,同源と思われる語があります。」
とあるが,『日本語源大辞典』によると,
水のタリ(垂)の義(古事記伝・言元梯・名言通・菊池俗言考・和訓栞・大言海),
谷は低くて下に見るところから,シタミの略転(日本釈名),
タカナシ(高無)の反(名語記),
間の転。または梵語タリ(陁離)の転か(和語私臆鈔),
とあるが,『大言海』は,「たに(谷・渓)」について,
「水の垂(たり)の意と云ふ。朝鮮語の古語,タン」
と付記しているのも気になる。因みに「さわ(多)」と同義の,「沢山」について,
『語源由来辞典』
http://gogen-allguide.com/ta/takusan.html
には,
「たくさんは、多い意味の形容動詞語幹『さは(多)』と、数の多いことを表す『やま(山)』を 重ねた『さはやま』に『沢山』の字を当て、音読したものといわれる。
ただし、「さはやま( さわやま)」の例が見られるのは近世に入ってからであるのに対し、『たくさん』の例は
鎌倉時代の『平家物語』に見られるため、『さはやま』は『沢山(たくさん)』の訓読みと考えるのが妥当である。その他、『たかい(高い)』『たける(長ける)』など、『tak』の音から『たく(沢)』が当てられ『たくさん(沢山)』になったとする説もあるが未詳。」
とある。「さわやま」
は,
「沢山」
ではなく,
「多山」
ではあるまいか。それほど,「多」と「沢」は,重なっているのである。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7上へ
「差し金」は,
指矩,
とも当て,
さしがね,
まがりかね,
かねじゃく、
とも言い,
曲尺,
とも当てる。工具としての,「曲尺(かねじゃく)」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba5.htm#%E6%9B%B2%E5%B0%BA)については触れた。「差し金」には,その他に,
文楽の人形の左手に取り付けられ,手首や指を動かす棒と紐の仕掛け,
歌舞伎の小道具の一つ。蝶・鳥などを操る黒塗りの細い竹竿,
の意味があり,それをメタファに,
転じて,陰で人をそそのかしあやつること,
という意味がある(『広辞苑』)。実は,「差金」は,
さしきん,
とも訓み,別の意味になり,
内金(うちきん),
不足の補いに出す金銭,さきん,
という意味や,建築用語で,
コンクリートの水平打継ぎにおいて,一体化させる目的や上部コンクリート型枠の控え止め固定用に,コンクリートに挿入する鉄筋,
という意味もある。ここで取り上げるのは,「陰で操る」という意味に転じた「差し金」についてである。
『日本語源広辞典』には,語源は,
「『サシ(操る)+カネ(針金)』です。人形芝居や舞台の陰で操る針金のこと」
とあるが,針金を使ったわけではないので,「カネ」を針金といっていいのかどうか。『日本語源大辞典』は,
「人形の腕にしかけた細い鉄の棒のことで,人形の指先に糸をつけて,人形遣いが操り,腕や指先を動かしたから。」
とあり,さらに,
「歌舞伎の小道具の差し金(作り物の蝶,小鳥,鬼火などを先端につけた黒塗りの細い竿。針金で結わえて作り物が弾むようにし,黒衣の後見が差しだして動かすもの)からとも言われる。」
と付け加えている。
実は,『大言海』は,「さしがね」は,
差鐡,
と当てるものと,
挿鐡,
と当てるものとを別項にしている。「差鐡」は,
「差出鐡(さしだしがね)の意なるべし。つらあかりをサシダシと云ふ。参件せよ。」
とあり,
「芝居にて用ゐる具(もの)。黒く塗りたる,細き竿の先に,針鐡をつけ,撓(しな)ふやうにし,其末に,造り物の小鳥,蝶,又は鬼火などをつけ,舞台に差し出し,竿の本を取りて,動かす。黒坊(くろんぼう)と云ふ者,身を隠して使うなり。」
とし,「挿鐡」は,
「操り人形に云ふ語。人形の腕の中に挿し入れおく,細き鉄の棒なり。人形の指先に,糸をつけ,棒に纏ひ,陰に居る人形遣いが,これにて,指先の働きをなさしむ。」
その上で,
「すべて,陰に居て,人を操り,嗾(そその)かして,使ふこと。人形芝居の隠語の普通語となりしなり。」
とする。つまり,「差し金」の語源は,人形浄瑠璃から来ている,と見なしている。ちなみに,『大言海』の言っている「サシダシ」とは,
つらあかり,
のことで,
面燈火,
と当て,
「古へ,芝居の舞台にて,夜間に,俳優の顔を,看客によく見するため,長柄の燭台に蝋燭を点じて,その前に差し出したるもの」
のことらしい。
http://tohjurou.blog55.fc2.com/blog-entry-1057.html
には,
「左遣い・・右手で「差し金」と呼ばれるものを持ち、人形の左手を操作する。あわせて左手で人形を支えたり、小道具の出し入れをしたり、時には人形の右手を主遣いから受け取って担当することもある。」
「足遣い・・人形の足を操作する。女の人形には原則的に足はなく、着物の裾を持って足の動きを見せる。」
とある。因みに,文楽人形は,三人遣いなので,
「主遣い・・左手で人形の首を支える「胴串(どぐし)」を持ち、右手は人形の右手を操作する。全体の動きの指
令を出す。」
ということになるらしい。こうもみると,「差し金」の意味に近いのは,文楽人形遣いから来ているというのではあるまいか。『語源由来辞典』
http://gogen-allguide.com/sa/sashigane.html
は,
「差し金の語源は、歌舞伎で黒塗りの竿の先に針金をつけ、チョウや鳥などの小動物を
操るための小道具を『差し金』と言ったことから、もしくは、人形浄瑠璃で人形の手首や指 を動かすために用いる細い棒を『差し金』と言ったことからとされる。
このうち、歌舞伎の小道具の説が一般的であるが、陰で舞台を操る意味から転じたことで共通することから、どちらの言葉が現在の『差し金』に由来するとは断定できない。」
とし,『由来・語源辞典』
http://yain.jp/i/%E5%B7%AE%E3%81%97%E9%87%91
も,
「もとは、歌舞伎や人形浄瑠璃に由来する言葉。
歌舞伎では、作り物の蝶や小鳥などを先端につけた黒塗りの細い竿のことで、針金で作り物を結わえ、黒衣が動かす。また、人形浄瑠璃では、操り人形の腕に取りつけた長い棒のことをいい、これで腕を動かし、棒につけた麻糸を引いて手首や指を動かす。どちらも、見えないところで操ることから、背後で人を操る意味へと転じた。」
とするが,蝶や小鳥の小物を扱うのと,主役の人形そのものを扱うのと,どちらが,「差し金」の意味に近いかというと,言うまでもないように見えるのだが。特に,歌舞伎の場合は,竿,であるのだから,
鐡(金),
というには,どうかと思うが,如何であろうか。
参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
http://tohjurou.blog55.fc2.com/blog-entry-1057.html
http://www.kabuki-bito.jp/special/tepco/26/no2.html上へ
「つく」という言葉は,
突く,
衝く,
撞く,
搗く,
吐く,
付(附)く,
点く,
憑く,
着く,
就く,
即く,
築く,
等々さまざまに当てる。当然,文脈依存の和語は,その使われる場面場面で,当事者に意味がわかればいいので,その都度意味が了解されていた。しかし,口頭ではなく,文章化されるにあたって,意味を使い分ける必要が出る。そこで,さまざまに漢字を当てて使い分けを図った,と見ることができる。
辞書によって使い分け方は違うが,『広辞苑』は,
付く・附く・着く・就く・即く・憑く,
と
吐く,
と
尽く・竭く,
と
突く・衝く・撞く・築く・搗く・舂く,
と
漬く,
を分けて載せる。細かな異同はあるが,「尽く」は,『日本語源大辞典』に,
着きの義(言元梯),
ツはツク(突)の義(国語溯原),
とあり,「付く」に関わる。「吐く」は,『広辞苑』に,
突くと同源,
とある。従って,おおまかに,
「付く・附く・着く・就く・即く」系,
と
「突く・衝く・撞く(・搗く・舂く・築く)」系,
に分けてみることができる。しかも,語源を調べると,「突く・衝く・撞く」系の,「突く」も,
付く,
に行き着くようだ。『日本語源広辞典』によると,「突く」は,
ツク(付・着)と同源,
とある。そして,
「強く,力を加えると,突くとなります。ツクの強さの質的な違いは中国語源によって区別しています。」
としている。その区別は,
「突」は, にわかに突き当たる義,衝突・猪突・唐突,
「衝」は,つきあたる,折衝と用いる。また通道なり,
「搗」は,うすつくなり,
「撞」は,突也,撃也,手にて突き当てるなり,
「築」は,きつくと訓む。きねにてつきかたむるなり,
と,『字源』にはある。となると,すべては,「付く」に行き着く。「付く」の語源は,
「『ツク(付着する)』です。離れない状態となる意です。役目や任務を負ういにもなります。」
とある(『日本語源広辞典』)ので,「付く」は「就く」でもある。『日本語源大辞典』には,「付く」は,
粘着するときの音からか(日本語源),
とあるので,擬音語ないし,擬態語の可能性がある。そこから,たとえば,『広辞苑』によれば,
二つの物が離れない状態になる(ぴったり一緒になる,しるしが残る,書き入れる,そまる,沿う,注意を引く),
他のもののあとに従いつづく(心を寄せる,随従する,かしずく,従い学ぶ),
あるものが他のところまで及びいたる(到着する,通じる),
その身にまつわる(身に具わる,我がものとなる,ぴったりする),
感覚や力などが働きだす(その気になる,力や才能が加わる,燃え始める,効果を生じる,根を下す,のりうつる),
定まる,決まる(定められ負う,値が定まる,おさまる),
ある位置に身を置く(即位する,座を占める,任務を負う,こもる),
(他の語につけて用いる。おおくヅクとなる)その様子になる,なりかかる(病みつく。病いづく),
と,その使い分けを整理している。
どうやら,二つのもの(物・者)の関係を言っていた「つく」が,
ピタリとくっついて離れない状態,
から,その両者の,
それにぶつかる状態,
にまで広がる。『広辞苑』は,「突く・衝く・搗く」の項で,
「抵抗のあるものの一点をめがけて腕・棒・剣などの先端を強く当てて,また貫く意」
とするが,これは,上記のように漢字を当てはめて後に,そう言う意が先鋭化しただけで,後解釈に過ぎない。しかし,両者のぶつかりが極まり,
それを突き抜けると,
漬く,
に行く。「漬く」は,
ひたる,
とか
つかる,
状態である。いやはや,「つく」は,和語の特徴をいかんなく発揮した象徴的な言葉だ。口頭で,その場その場で会話している限り,両者には区別がつく。漢字が必要になるのは,文字表現が必要になって以降に違いない。しかし,音を使っている限り,
都伎(古事記),
や
都気(万葉集),
と,音を漢字に置き換えたところから始まる。より抽象度を高めて表現する必要から,
「都伎」は,「付き」
に,
「都気」は,「着き」
に,置き換えられていく。表現の空間の自立と相まって,言語は,文脈を離れて自立をせざるを得なくなる。
参考文献;
簡野道明『字源』(角川書店)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
上へ
こういう説があるらしい。
「『働く』の語源は『傍(はた)を楽にする』だともいわれています。『はた』というのは他者のことです。他者の負担を軽くしてあげる、楽にしてあげる、というのがもともとの『働く』の意味だったんです。」
と,ご本人は大真面目である。全く,傍迷惑な説である。「はた(端・傍)」とは,
わき・かたわら,
そば,
という意味で,確かに他人には違いないが,無縁の人ではない,
側杖を食う,
の「そば(側・傍)」の意である。
http://www2.kobe-c.ed.jp/bch-ms/?action=common_download_main&upload_id=2534
にも,
「『はた』というのは他者のことです。他者の負担を軽くしてあげる、楽にしてあげる、というのがもともとの『働く』の意味だったのです。『働く』という言葉は、今は大人の人がお金を稼ぐための労働のことをイメージすることが多いと思いますが、昔はもっと広い意味で使われていたようです。家族を楽にすることも『働く』。地域のために掃除をするのも『働く』。お金をもらわなくても、誰かのためにがんばることは『働く』だったそうです。」
とある。人は,社会的存在であるから,人との関わりなしに自己完結して動くことはないが,かつて共同体の中でしか生きられない時代,共同体のために働くこと,共同体に資することが,そこで生きるために不可欠だったからで,発想は真逆である。こういうのを,ためにする議論,という。
働くとは,実存主義的に言えば,
自己投企,
である。ハイデッガーではないが,
人は死ぬまで可能性の中にある,
つまり,自分自身を未来へと投げかけていくことになる。働くとは,常に,
自分自身の発見であり,創造である,
となるし,フォイエルバッハやマルクス流に言えば,働くとは,
自己を対象化すること,
であり,それは自己実現に他ならない。その意味で,
未来へと投げかける自己,
も,
対象化される自己も,
自己自身の実現である。本来,働くとは,そういうことである。
「はたらく」は,もともと,
動く,
という意味であり,『古語辞典』をみると,
動作をする,
(情意などが)活動する,
積極的に活動する
出撃して戦闘する,
(資本などが)活用される,
等々の意味しかない。『日本語源大辞典』には,
@体を動かす,行動する,
A精出して仕事をする,
の,@が本来の意味。そこからAの意味が派生し,その意味を表すために「働」の字を作字した,とある。その意味では,動くこと,すべてについて,「はたらく」と言っていた。だから,戦闘も,奔走も,出仕も,すべてを言っていたということになる。『江戸語大辞典』には「働き」で,
生活能力,甲斐性,
とあるので,今日の意味に転じているのがわかる。今日だと,
仕事をする。労働する。特に、職業として、あるいは生計を維持するために、一定の職に就く。
という意味が最初に来る(『デジタル大辞泉』)。まだ,「動く」意味が強く残っているので,
機能する,また作用して結果が現れる(「引力が働く」「機械がうまく働かない」)
精神などが活動する(「知恵が働く」「勘が働く」),
という意味でも使われる。語源は,『語源由来辞典』
http://gogen-allguide.com/ha/hataraku.html
には,
「はた(傍)をらく(楽)にするからという説が広まっているが、これは言葉遊びで語源ではない。
働くの語源は、『はためく』と同様に『はた』という擬態語の動詞化であろう。 本来 は、止まっていたものが急に動くことを表し、そこから体を動かす意味となった。
労働の意味で用いられるのは鎌倉時代からで、この意味を表すために「人」と『動』を合わせて「働」という国字がつくられた。」
とある。『日本語源広辞典』には,三説載る。
説1は,「ハタ(擬音)+らく」。パタパタ動きまわって仕事をする意,
説2は,「畑+らく」。畑で仕事をする意,
説3は,「ハタ(果た)+ラク(動詞化,動く)」。成果を目指して動く意,
と。しかし,『日本語源大辞典』には,
身をせめハタルの意(和訓栞),
ハタル(課)の義(名言通),
ハタラク(端足動)の義(柴門和語類集),
ハタハタと動揺する音から(俚言集覧・語簏),
ハタメクと同様,擬音語ハタからの派生語(小学館古語大辞典),
マチュラク(両手動)の義(言元梯),
等々があるが,「はためく」が擬音語であり,そのハタと関連付ける説がリアリティがある,と思う。あとは,「傍(はた)を楽にする」と目くそ鼻くその語呂合わせに見える。「旗」そのものが,
はためくのハタ,
か,
織るときのハタハタ,
という擬音語から来ているのが参考になるように思える。
因みに,「動」の字は,
「重は『人が地上を足で突く形+音符東(つらぬく)』の会意兼形声文字。体重を足にかけ,足でとんと地面を突いたさま。動は『力+音符重』で,もと,足でとんと地を突く動作。衡(どんとつく)や踊(とんとんと上下にうごいて重みを足にかける)と近い。のち広く,静止の反対,つまり動く意に用いられる」
この「動」と区別して,人の活動を表すために,
「人+音符動」
を作ったようだ。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
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「ときめく」を引くと,
ときめく,
と
時めく,
が出る。「ときめく」は,「胸がときめく」の意味の,
喜びや期待などで胸がどきどきする,
という意味であり,「時めく」は,
よい時機に合って栄える,持て囃される,
主人などの寵愛をうけてはぶりがよくなる,
にぎやかにさわぐ
といった意味になる。両者に関係があるのではないか,という気がしないでもない。『日本語源広辞典』の,「ときめき」の項には,
「語源は,『時+めく(そういう様子になる)』です。『良い時期に巡り合い,栄える』意味です。現代語では,喜びや期待などで,胸がどきどきする意です。トキメキは,その名詞形です。」
とあり,
時めく→ときめく,
とする。これで言うと,状態表現としての「栄えている」という,客体表現言から,主体の感情表現に転じたということになる。「めく」は接尾語で,
「体言・副詞などについて,五段活用の動詞をつくる。特にそう見える,そういう感じがはっきりする」(『広辞苑』),
「名詞・形容詞・形容動詞の語幹や擬声語・擬態語などに付いて「〜のようになる」「〜らしくなる」「〜という音を出す」などの意の動詞を作る接尾辞」(『ウィクショナリー日本語版』),
「名詞や副詞,形容詞や形容動詞の語幹に付いて,…のような状態になる,…らしいなどの意を表す。『夏−・く』
『なま−・く』『ことさら−・く』『時−・く』『ちら−・く』『ひし−・く』『ざわ−・く』」(『大辞林』),
等々と説明される。
『古語辞典』をみても,『大言海』も,「ときめく」と「時めく」は,別の項として立てている。仮に,『日本語源広辞典』の説が正しいとしても,早くから別々に使われてきた,ということになる。
「ときめく」は,どこか擬音語ないし擬態語の気配があるが,『擬音語・擬態語辞典』の,
「どきどき」
に,
「『どきどき』は『はらはら』『わくわく』と合わせて使うことも多い。…また,『どきどき』からできた語に期待や喜びなどで心がおどる意の『ときめく』がある。」
とある。ちなみに,「どきどき」は,
激しい運動や病気で心臓が鼓動する音,
あるいは
心臓の鼓動が聞こえるほど気持ちが高ぶる,
の意味で,心臓の「ドキドキ」の擬音語である。
とすると,「ときめき」は,
どき(どき)めき→ときめき,
と,転訛したことになる。さらに,
どきめき→時めき,
と転訛したということもありえる。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1115078051
には,
「『ときめき』は、『ときめく(動詞)』の名詞です。『ときめく』は、喜び・期待などで胸がドキドキすることで、『動悸』に『めく』がついた『動悸めく』がなまったものじゃないでしょうか。「○○めく」とは、○○のように見える、○○の兆しが見える、という意味。(春めく・おとぎ話めく・きらめく・さんざめく、など)。ちなみに、「時めく」という動詞もあって、こちらは、時流に乗って栄える、という意味。」
と載り,あるいは,
http://www.lance2.net/gogen/z581.html
には,
「『ときめく』っていうのは、『何かに心が揺り動かされて喜びとか期待を感じてドキドキする様子』の事を指して使われる表現だね。これと同じように語尾に『めく』がくっついている言葉っていうのは『◯◯みたいに見える』というような意味で使われる事が多いんだよね。『ときめく』の場合は、『とき』というのが『動悸』からきているという説があるんだよね。つまり「ドキドキしているように見える」という意味から『動悸めく』という言葉が生まれて、そこから派生して『ときめく』という表現になったと考えられるね。」
とある。つまりは,
動悸めく→ときめく,
の転訛とする。こう見ると,接尾語「めく」を中心に考えると,
時+めく,
動悸+めく,
と,「ときめく」と「時めく」が二系統でできたとする考え方もあるが,いまひとつ,元々擬音語のドキドキからきた,
どきどき+めく(あるいは,どき+めく),
が,主体の,
いまの興奮状態を指し示す,
状態表現から,
その状態を外からの視線で見て,
もて囃されている,
と,客体表現に転じた,と見ることもできる。『語感の辞典』には,「ときめき」について,こうある。
「心臓がドキドキする意から。宝くじに当たったことを知った瞬間の喜びより,それによる素晴らしい未来を想像して昂奮する方に中心がある。」
ここにある語感は,いまの主体表現としての,
興奮した状態,
を,未来の主体表現,あるいは,未来の状態表現,
そういう状態にいる自分,
という含意がある。そこからは,外部の,他者の状態表現に転じやすくはないだろうか。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
中村明『日本語語感の辞典』(岩波書店)
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)
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「そばづえ」は,
側杖,
あるいは,
傍杖,
と当てる。『広辞苑』には,
喧嘩などの傍にいて,思わずその打ち合う杖などに打たれること,
転じて,
自身に関係のないことのために災難を蒙ること,とばっちり,巻き添え,
とある。
傍杖を食う,
という使い方をする。「とばっちり」は,
迸り,
と当て,『広辞苑』には,
(トバチリの促音化。傍にいて見ず背しぶきを受ける意から)傍にいて禍のかかること,巻き添え,
とある。「巻き添え」は,
他人の罪に関係して罪をこうむること,連座,また他人の事件に巻き込まれて損害を受けること,そばづえ,
入質(いれじち)の時の要求金額に対する担保の不足分を補う,たしまえ,
とある。類語である,
そばづえ,
とばっちり,
まきぞえ,
は,どうやら,由来が違うらしく,微妙にニュアンスが違う。「そばづえ」は,
「『ソバ(側)+ツエ(杖)』
で,文字通り,喧嘩で振り回した杖に当たる,という状態表現そのものから,巻き込まれること一般に転化したとみられる。因みに「つえ」は,
「突き+据え」
あるいは,
「突き+枝」
と,『日本語源広辞典』にはあるが,この二説にわかれるようだ。『大言海』も,「つゑ」で,
「突居(つきすゑ)の略かと云ふ。或いは突枝(つきえ)の略か。ツの韻よりキエは,ヱに約まる」
とある。
http://yain.jp/i/%E5%81%B4%E6%9D%96%E3%82%92%E9%A3%9F%E3%81%86
では,
「側杖を食う」 について,
「『側杖』とは、たまたま喧嘩をしている側にいたために、相手を叩こうとして振り回した杖に当ってしまうことをいう。それが転じて、たまたまその場にいたために、思わぬ被害を受けることの意で用いられるようになった。当初は『側杖に合う』の形で用いられていたが、江戸時代より『側杖を食う』の形が現れた。『食う』は身に受ける意を表す。」
とある。『江戸語大辞典』には,「そばずえ(側杖)」とあり,「側杖を食う」は,
傍杖が中(あた)る,
とも言ったと載り,逆に,「傍杖を食わせる」のを,
側杖を打つ,
として,「同罪にする」意とある。
「とばっちり」は,「とばしり」の促音化,とされるが,「とばしり」は,
飛び散ること,とばしること,
の意のほかに,
俗に,傍らに居て,禍にかかること,
とある。『日本語俗語辞典』
http://zokugo-dict.com/20to/tobacchiri.htm
には,江戸時代からとして,
「とばっちりとは飛び散る水しぶきを意味する『迸り(とばしり)』が音的に変化したものである。ただし、とばっちりと言った場合、水しぶきを指すのではなく、水しぶきの近くにいたために自分も水を浴びてしまうことから、傍にいたり、何らかの関係があったため、あわなくてもてもよい災難にあうことをいう。不機嫌な上司の傍にいたため、意味もなく怒られる。同業他社の不良品がニュース沙汰となり、問題のない自社製品まで売上げが下がるなど。」
とあって,水しぶきのかかることではなく,それにあわてて,
何らかの関係があったため、あわなくてもてもよい災難にあうこと,
とある。全くの無縁ではない,という含意である。
連座,
あるいは,
累が及ぶ,
である。その意味で,「まきぞえ」も,似ている。『大言海』には,
他人の罪に連れて,罪に陥ること,ひきあひ,連鎖,連累,
と,ある。「ひきあひ」とは,
引合,
と当て,
売買の取引,またその証書,取引前に条件などを問い合わせること,
という意の他に,
巻き添いを食うこと,
とある。商取引で巻き添いを食う,という意味になる。
たしまえ,
の意味があるのは,商取引に関連しているということになる。そう見ると,本当に,無関係に喧嘩のまきぞえを食うのは,
傍杖,
だけで,「まきぞえ」も「とばっちり」も,連座する謂れはあることになる。まあ,傍杖も,たまたまそこにいたというだけとは限らないが。
さて,以上の,「そばづえ」「とばっちり」「まきぞえ」は当事者視点だが,その視点をメタ化ないし,第三者視点に置き換えると,
はためいわく(傍迷惑),
ということになる。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
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「つっころばし」は,
「つきころばし」の促音化である。「つきころばし」の動詞「つきころばす」は,
突き転ばす,
と当て,
ついて転ばす,つっころばす,
という意味だ。「つきころばす」の「つく」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba7.htm#%E3%81%A4%E3%81%8F)
の項で触れたように,
ツク(付・着)と同源,
で,
「強く,力を加えると,突くとなります。ツクの強さの質的な違いは中国語源によって区別しています。」
としている。その区別は,
「突」は, にわかに突き当たる義,衝突・猪突・唐突,
「衝」は,つきあたる,折衝と用いる。また通道なり,
「搗」は,うすつくなり,
「撞」は,突也,撃也,手にて突き当てるなり,
「築」は,きつくと訓む。きねにてつきかたむるなり,
と,『字源』にはある。となると,すべては,「付く」に行き着く。「付く」の語源は,
「『ツク(付着する)』です。離れない状態となる意です。役目や任務を負ういにもなります。」
とある(『日本語源広辞典』)ので,「付く」は「就く」でもある。『日本語源大辞典』には,「付く」は,
粘着するときの音からか(日本語源),
とあるので,擬音語ないし,擬態語の可能性がある。そこから,たとえば,『広辞苑』によれば,
二つの物が離れない状態になる(ぴったり一緒になる,しるしが残る,書き入れる,そまる,沿う,注意を引く),
他のもののあとに従いつづく(心を寄せる,随従する,かしずく,従い学ぶ),
あるものが他のところまで及びいたる(到着する,通じる),
その身にまつわる(身に具わる,我がものとなる,ぴったりする),
感覚や力などが働きだす(その気になる,力や才能が加わる,燃え始める,効果を生じる,根を下す,のりうつる),
定まる,決まる(定められ負う,値が定まる,おさまる),
ある位置に身を置く(即位する,座を占める,任務を負う,こもる),
(他の語につけて用いる。おおくヅクとなる)その様子になる,なりかかる(病みつく。病いづく),
と,その使い分けを整理している。
どうやら,二つのもの(物・者)の関係をいっていた,「つく」が,
ピタリとくっついて離れない状態,
から,その両者の,
それにぶつかる状態,
にまで広がる。その意味で,
転ばす,
と,
突き転ばす,
では,人為的な「突く」行為が入っている,ということになる。ところが,「つきころばし」を転訛させた,
つっころばし,
となると,まったく別の意味になる。『広辞苑』には,
歌舞伎の役柄の一。極端に柔弱な色男の役,
とある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A4%E3%81%A3%E3%81%93%E3%82%8D%E3%81%B0%E3%81%97
には,
「つっころばしは、歌舞伎の役種の一。上方和事の、柔弱でやや滑稽味を帯びた立役をこう呼ぶ。具体的な役としては『夏祭浪花鑑』の玉島磯之丞、『双蝶々曲輪日記』の与五郎、『河庄』の紙屋治兵衛、『廓文章』など。
その語源が「肩をついただけで転びそうな」というところから来ていることからもわかるように、本来は優柔不断な若衆役であり、たいていは商家の若旦那や若様といった甲斐性なし、根性なしで、さらに劇中で恋に狂い、いっそう益体のないどうしようもなさを露呈することにある。そのさまは、特に紙治や伊左衛門に特徴的だが、あわれであると同時に、それを通りこして滑稽でさえあり、でれでれとした叙情的な演技が一面から見れば喜劇味をも含むという不思議な味いがある。
江戸和事の二枚目や、上方和事のつっころばし以外の二枚目との決定的な違いは、まさしくこの滑稽味、喜劇味の有無にあり、さらにいえばその原因となる性格造形の違いにあるといえるだろう。つっころばしは気が弱く、女に優しく、そのくせいいところの御曹司であるがために甲斐性や根性には欠け、なんとなくたよりない。これに対して江戸の二枚目は、表面上はつっころばしに似つつも、その芯の部分にはげしい気性や使命を帯びているために、どこかきりっとした部分が残るのである(それゆえに恋に狂っても喜劇的にはならない)。
つっころばしは上方独特の役種で、演技の巧拙以上に役者の持味、舞台の雰囲気に左右されることが多い。しばしば上方歌舞伎は型よりも持味、心情、雰囲気を重視するといわれるが、なかでもつっころばしはその典型的な例であるといえる。」
とある。ただ,
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12111328052
には,
「『つっころばし』ってのは江戸弁では今でも生きてる。ただし、意味は歌舞伎の世界と下町言葉じゃ全然違う。下町じゃ『乳母日傘で育って、ツンと指でつついたくらいでも転ぶような』『正真正銘のお嬢ちゃんお坊っちゃん』を指すんだよ。誰かさんたちが言うような『なよなよしてて、こらえ性も自分もない』っていう意味じゃない。」
とある。江戸ッ子が,歌舞伎の言い回しを真似たのか,歌舞伎が,江戸での言い回しを歌舞伎が真似たのかは,わからない。三田村鳶魚『江戸ッ子』(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-3.htm#%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%83%83%E5%AD%90)で触れたように,江戸ッ子は歌舞伎を気取ることが多いのだから,江戸風俗を歌舞伎が真似たとばかりは言えないのである。
参考文献;
簡野道明『字源』(角川書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/modules/kabuki_dic/entry.php?entryid=1207上へ
「はらはら」と,
ぱらぱら,
ばらばら,
と,
濁点と半濁点がつくだけで,微妙にニュアンスが変わる。
半濁点は,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E6%BF%81%E7%82%B9
濁点は,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BF%81%E7%82%B9
に詳しいが,ともに,旧仮名遣いでは必ずしも付されない,という。
「はらはら」は,
物と物のふれあうさま,またその音(物のふれあう音を表す語。はたはた),
髪などのまばらに垂れかかるさま,
花びら・木の葉・涙・露など小さくて軽いものが次々と散り落ちるさま,
扇などを使う音,
物の焼けて落ちるさま,ぱちぱち(物がはじけて発する音を表す語),
危険や不安を感じてしきりに気をもむさま,
というのが『広辞苑』に載る。その他,『デジタル大辞泉』『大辞林』には,
多くのものがいっせいに動くさま,
という意味が載る。
髪などのまばらに垂れかかるさま,
というのは,『源氏物語』などで,「御着物に御髪てがかかってはらはらとうつくしく」といった言い方で,その他衣擦れの音を示す例が多いが,現代では,「危険や不安を感じてしきりに気をもむさま」という用例が多い。しかし,これは,自分についてというより,自分が人のすることをみて,
ハラハラする,
というように,
「そばで見ていて,失敗しないかどうか,こまったことにならないかどうかを,心配でたまらない様子」
とする『擬音語・擬態語辞典』の意味が一番的確であるように思う。
『大言海』は,
物の散乱む,又は,摩擦する音に云ふ語,婆娑,
雫,又は,涙などの滴る状に云ふ語,滂沱,
切に気遣はしく思ひ,又は,心配する状に云ふ語,
とシンプルである。『擬音語・擬態語辞典』には,心配の意の類義語は,「どきどき」だが,
「『どきどき』が恐怖・不安・期待・驚きなどの心理状態を広く表すのに対し,『はらはら』は誰か他の人の身に起こっていることを見守る立場で心配したり気をもんだりする心理状態を表すのが普通」
とある。この意味で使われ始めたのは江戸時代ごろ,という。
木の葉などが散ったりする意の「はらはら」の類義語は,「ぱらぱら」「ばらばら」になるが,
「『はらはら』は雪・花びら・木の葉など薄くて小さなもの,『ぱらぱら』は雨・クルトン・ふりかけなど小さくて。軽いもの。『ばらばら』は大粒の雨・土・大きな葉など重みのあるものがそれぞれ落ちたり散らばったりする様子について用いられる。」
と,『擬音語・擬態語辞典』にある。
「ぱらぱら」は,『大言海』には,
「雨,霰,銭など,まばらに降り,又,撒く状に云ふ語」
とシンプルな意味だが,『広辞苑』には,
小石や雨のような粒状のものや紙片などがまばらに打ち当たる連続音・またそのさま,
存在や発現が空間的・時間的に非常にまばらであるさま,
ほぐれてまとまらないさま,
となる。さらには,『デジタル大辞泉』『大辞林』には,
本をめくる音や、そのさまを表す語。
本を手早くあちこち開いてみるさま。また、その音を表す語。
という意味も加わる。文脈毎に詳細にみていけば,使われ方はどんどん増える。
「ばらばら」は,『大言海』は,
散々,
と当て,
疎らに放たれて,ちりぢりに,離散,
まばらに,
あちらこちらに,
と,どちらかというと「散々」と当てた意味しか載せないが,『広辞苑』になると複雑に,
@小石や大粒の雨など粒状のものが連続して強く打ち当たる音,またさま,
A複数のものの存在や発現が空間的・時間的に間隔があるさま,
B一体であるべきものが離れ離れになったりとういつされていなかったりするさま,
と複雑になる。『擬音語・擬態語辞典』には,@Aの用例は古く,室町末期の『日葡辞典』には,「人がばらばらと立つ」という用例があり,Bの意味は江戸時代以降という。この「ばらばら」も,
ばらっばら,
と,表記するとまた意味が変わる。日本語が擬音語・擬態語の宝庫と言われる所以である。
参考文献;
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)
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「よし・あし」は,
良し・悪し,
善し・悪し,
と当てる。当然,
善いことと悪いこと,
という意味と同時に,
良い点も悪い点もあって,一概にどちらとも言えない,
という意味にもなる。この意味では,
よしわるし,
とも訓ませる。『デジタル大辞泉』には,こうある。
「現代語では、『よし』と対を成す形で『よしあし』『よかれあしかれ』『よきにつけあしきにつけ』などの語句の中にみられるほか、連体形『あしき』の形で「あしき前例を残す」など文章語的に用いられ、また、『あしからずご了承ください』『折あしく出張中だった』のような語形に用いられる。」
「よし」は,口語では「よい」というが,
「口語の終止・連体形は多く『いい』をもちいる」
とある。いずれも,
良い,
善い,
好い,
吉い,
佳い,
可い,
等々と当て,さらに,
賀し,
義し,
淑し,
とも当てるが,『広辞苑』『デジタル大辞泉』等々から,
@人の行動・性質や事物の状態などが水準を超えている(多く「良い」「好い」と書く),
A人の行動・性質や事物の状態などが、当否の面で適切・適当な水準に達している(多く「良い」「善い」と書く)
B人の行動・性質や事物の状態などが許容範囲内であるさま
C(「よい年」などの形で)ある程度の年齢に達している。また、分別を身につけているはずだ,
D吉である。めでたい(多く「好い」「佳い」「吉い」と書く),
E情操の面ですぐれている。情趣を解する能力がある,
F動詞の連用形に付いて、動作が簡単・容易・円滑・安楽にできるさまを表す。…しやすい,
等々とその意味の範囲は広い。『古語辞典』には,
「『あし(悪)「わろし(劣)』の対。吉凶・正邪・善悪・美醜・優劣などについて, 一般的に好感・満足を得る状態をである意」
とある。『日本語源広辞典』には,
「ヨイは,『人や物の質がヨイ。適合状態の良好サ』などが語源」
とある。とすると,「よし」は,
何らかの基準があって,それに適合している,
という,いっていって見ると,状態表現であったであった。そのことが,価値と見なされることで,価値表現へと転じた,と見ることができる。「よし」は,
宜し,
と当てることができるが,「宜し」は,
よろし,
とも訓ませる。「よろし」は,口語では,
よろしい,
だが,
「(ヨル(寄)の派生語であるヨラシの転)主観的に良しと評価される,そちらに寄りたくなる意」
とある(『広辞苑』)。『古語辞典』にも,「よらし(宜し)」について,
「ヨリ(寄)の形容詞形。側に寄りたい気持ちがするする意が原義。ヨリ(寄)・ヨラシの関係は,アサミ(浅)・アサマシ,サワギ(騒)・サワガシ,ユキ(行)・ユカシの類」
とある。「よろし(宜し)」は,だから,
「なびき寄り近づきたい気持ちがする意。ヨシ(良)が積極的に良の判定を下しているのに対し,悪い感じではない,まあ適当,相当なものだ,一通りの水準に達しているの意」
と『古語辞典』にはある。『日本語源広辞典』には,「よろしい」は,
「寄ロ+シイ」
で,どちらかというとそちらに寄りたい,という意味とする。こういうことだろうか,「よし」は,
ある基準を超えている,
だから,積極的な価値表現になる。しかし「よろし」は,その基準線すれすれ,つまり,
まずまず,
あるいは,
普通,
という意味になる。だから,
@まずまずだ。まあよい。悪くない。
A好ましい。満足できる。
Bふさわしい。適当だ。
C普通だ。ありふれている。たいしたことはない。
といった意味になる(『学研全訳古語辞典』)。だから,
宜し,
を当てるが,「よろし」に,
良し,
善し,
好し,
吉し,
佳し,
等々の字は当てない。「あし」は,
悪し,
と当てるが,『古語辞典』には,
「『よし』『よろし』の対。シク活用の形容詞は本来情意を表すものなので,アシはひどく不快である,嫌悪されるという感情・情意を表現するのが本来の意味。多くの人々が不快の念をいだくような害がある意から凶・邪悪の意を表した。」
とある。とすると,「あし」と対の「よし」も,本来は,
感情の好・快,
の表現だった可能性がある。だとすると,「よろし」の基準が出発点で,そこから,
よし,
へと転じたと見るのが,「あし」と対比するとき,見えてくる気がする。『日本語源広辞典』は,「あし」を,
「アラ(粗・荒)+シ」
を語源とする。口語の「悪い」は,「あし」からではなく,
わろし,
が転じている。「わるい」は,『日本語源広辞典』に,
「悪いの古語。ヨロシに対するワロシです。よくない意。」
とあり,『広辞苑』には,
「古くは主としてワロシが用いられた」
とある。「わろし」は,『広辞苑』にこうある。
「『あし(悪)』が物の本質がよくない意であるのに対して,他の物やある基準と比べて質や程度が劣っている意。後世ワルシが用いられる。」
と。「あし」と「わろし」の使いわけも,「よし」「あし」と同じだとすると,「あし」は,規準を超えていて,「わろし」は,程度のレベルが低い,という意味になるはずだが,「悪し」は日常語では消えて,「わろし→わるい」のみが残ったことになる。その意味で,今日,
よし−よろし,
あし−わろし,
の使い分けはわからなくなさっている。『デジタル大辞泉』には,
「『わろし』『わるし』は平安時代にほぼ並行して現れるが、『わろし』が優勢。中世から『わるし』が優勢となり、近世初頭から『わるい』となった。
『わろし』『わるし』は、元来『よろし』の対義語で『よし』と対をなすものではなく、中世以降『あし』が衰退するのに従って『あし』のもっていた意を『わろし』『わるし』が表すようになり、しだいに「よい』『わるい」という対義語関係が生じていった。」
とあり,『学研全訳古語辞典』も,
「参考中古から中世にかけては『わろし』の対義語は『よろし』、『あし』の対義語は『よし』であるととらえてよい。
語の歴史『あし』は奈良時代から用いられているが、『わろし』は平安時代に入ってから例が見いだされる。『わろし』から転じた『わるし』は、平安時代から並行して現れるが、やがて『あし』『わろし』の両者を吸収する形で現代語へと続いていく。」
とある。因みに,本来の,
よし→よろし,
あし→わろし,
の四者の関係について,
http://k-manabiya.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-d200.html
は,
「『よし』『よろし』『あし』『わろし』は古文の中で判断を表す形容詞としてよく目にする。基本的に『よし』=良い、『よろし』=悪くない、『あし』=悪い、『わろし』=良くないという意味である。だからよい方から順位づけしていくと『よし』>『よろし』>『わろし』>『あし』という順にでもなるのだろう。」
としている。妥当な線ではないか,と思う。
なお,「惡」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba4.htm#%E6%82%AA)については触れた。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
http://k-manabiya.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-d200.html
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「やま」は,
山,
のことである。例えば,『デジタル大辞泉』を見ると,
「1
陸地の表面が周辺の土地よりも高く盛り上がった所。日本では古来、草木が生い茂り、さまざまな恵みをもたらす場所としてとらえる。また、古くは神が住む神聖な地域として、信仰の対象や修行の場とされた。
2 鉱山。鉱物資源を採掘するための施設。また、採掘業。
3
㋐土や砂で1の地形を模したもの。「築山」「砂山」
㋑祭礼の山車 (だし) で、1に似せて作った飾り物。舁 (か) き山と曳 (ひ) き山とがある。また山鉾 (やまぼこ) の総称。
㋒能や歌舞伎で、竹の枠に張った幕に、笹や木の枝葉をかぶせた作り物。
4 高く盛り上がった状態を、1になぞらえていう語。
㋐高く積み上げたもの。
㋑物の一部で周辺よりも突出しているところ。
㋒振動や波動で、周囲よりも波形の高いところ。
5 たくさん寄り集まっていることや多いことを、1になぞらえていう語。
6 進行する物事の中で、高まって頂点に達する部分を1にたとえていう語。
㋐事の成り行きのうえで、それをどうのりこえるかで成否が決まるという、重要な部分。
㋑文芸などで、展開のうえで最も重要な部分。最もおもしろいところや、最も関心をひく部分。
7 できることの上限をいう語。精一杯。関の山。
8 見込みの薄さや不確かさを、鉱脈を掘り当てるのが運まかせだったことにたとえていう語。
㋐万一の幸運をあてにすること。
㋑偶然の的中をあてにした予想。山勘。「試験の山が外れる」
9 犯罪事件。主に警察やマスコミが用いる。「大きな山を手がける」
10 《多く山中につくられたところから》陵墓。山陵。
11 高くてゆるぎないもの。頼りとなる崇高なもの。
12 寺。また、境内。
13 遊女。女郎。
14 動植物名の上に付いて、山野にすんでいたり自生していたりする意を表す。
15比叡山 (ひえいざん) の称。また、そこにある延暦寺 (えんりゃくじ) のこと。
等々,盛り上がる,山をなすものに準えて言うので,意味はいくらでも膨らむ。,このほかに,助数詞として,
1 盛り分けたものを数えるのに用いる。「一山三〇〇円」
2 山、特に山林や鉱山を数えるのに用いる。
という使い方もあるし,接頭語として,
野生なるもの,
を表して,山犬,山猫,山椿,山男,
等々にも使う。
総じて,「山」の字がなければ,わかりにくいところだ。「山」の字は,象形文字で,
「△型のやまを描いたもので,△型をなした分水嶺のこと」
とある。さらに,
「地の高起せるもの。峰・嶺・岳・丘・阜・岡等の総称」
ともある。『古語辞典』には,
「『野』『里』に対して人の住まない所」
とある。「やま」の語源は,『日本語源広辞典』には,
「諸説が多く,みな信じがたいですが,『ヤマの二音節を分析せず,一語』そのものと見るべきと思います。『高くそびえ,盛り上がったところ』がヤマです。山の神が存在する神聖な地です。」
とある。その意味からすれば,
「祭礼の山車 (だし)」
が「ヤマ」と呼ばれるのは,「ヤマ」が,
神が住む神聖な地域,
という意味だけではなく,三輪山が大神(おおみわ)神社の神体であるように,
神体,
であるからこそ,それに似せた飾り物を「ヤマ」と呼んだに違いないのである。
『日本語源大辞典』には,
「陸地の表面が周囲よりも高くそびえたつ地形。また,それの多く集まっている地帯。山岳。日本では古来,神が住む神聖な地域とされ,信仰の対象」
されたとして,その語源を,
不動の意でヤム(止)の転(日本釈名・和訓栞),
どこにでもあるもので,不尽というところからヤマヌの意か(和句解),
ヤマ(弥間)の義(東雅・国語の語根とその分析),
イヤモエ(弥萌)の約か(菊池俗語考),
イヤモリクガ(弥盛陸)の義(日本語語原学),
弥盛の義(日本語源),
弥円の義か(名言通),
ヤハニ(弥土)の義(言元梯),
イヤホナ(弥穂生)の約(和訓集説),
ヤはいやが上に重なる意。マは丸い意(槙のいた屋),
イハムラ(石群)の反(名語記),
ヤマ(矢座)から出た語で,マはバ(場)と同じ(万葉集叢攷),
陸地の意のアイヌ語から(アイヌ語からみた日本地名研究),
等々の諸説を載せる。
「諸説が多く,みな信じがたいです」
というのがよくわかる。
Yama,
は,結局語源はわからない。僕は擬態語から来ているのではないか,という気がするが,もはやわからない,というべきだろう。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%BC%AA%E5%B1%B1
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「うみ」とは,
海,
のことである。「海」の字は,
「『水+音符毎』で,暗い色のうみのこと。北方の中国人の知っていてたのは,玄海,渤海などの暗い色の海だった。」
とある。「うみ」を引くと,いわゆる「海」の意の他に,
湖など広々と水をたたえた所,
という意味があり,いわゆる「湖」も,
「うみ」
と呼んでいた。確か,琵琶湖も,
うみ,
と呼んでいたと思って調べると,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%B5%E7%90%B6%E6%B9%96
に,琵琶湖は,
「都から近い淡水の海として近淡海(ちかつあふみ、単に淡海とも。万葉集では『淡海乃海』(あふみのうみ)と記載)と呼ばれた。近淡海に対し、都から遠い淡水の海として浜名湖が遠淡海(とほつあふみ)と呼ばれ、それぞれが『近江国(おうみのくに、現在の滋賀県)」と遠江国(とおとうみのくに、現在の静岡県西部)の語源になった。別名の鳰海(におのうみ)は、近江国の歌枕である。」
とある。「遠江」を,
とおとおみ,
と呼ぶのは,浜名湖が遠淡海(とほつあふみ)と呼ばれていたことに由来するのだろう。
ikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E6%B1%9F%E5%9B%BD
に,遠江國について,
「古くは『遠淡海(とほつあはうみ)』と表記した。この遠淡海は、一般的に浜名湖を指すと言う(ただし、国府のあった磐田郡の磐田湖(大之浦)を指すとする説もある)。これは、都(大和国)からみて遠くにある淡水湖という意味で、近くにあるのが琵琶湖であり、こちらは近淡海(ちかつあはうみ)で近江国となった。」
とある。因みに,それと関連させれば,「近江國」の「近江」も,琵琶湖と関わっていて,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%9B%BD
に,
「『古事記』では『近淡海(ちかつあはうみ)』『淡海(あはうみ)』と記されている。7世紀、飛鳥京から藤原宮期の遺跡から見つかった木簡の中には、『淡海』と読めそうな字のほか、『近淡』や『近水海』という語が見えるものがある。『近淡』はこの後にも字が続いて近淡海となると推測される。国名は、琵琶湖を『近淡海』と称したことに由来するとする説が広く知られているが、琵琶湖を『近淡海』と記した例はなく、『万葉集』をみても、琵琶湖は、『淡海』『淡海之海』『淡海乃海』『近江之海』『近江海』『相海之海』と記されている。『淡海』の所在する国で、畿内から近い国という意味であり、『近つ「淡海国」』であり、『「近つ淡海」国』ではない。おおよそ大宝令の制定(701年)・施行を境にして、近江国の表記が登場し、定着する。」
とある。閑話休題。
「うみ」の語源は,『大言海』には,
「大水(おほみ)の約轉。う(大)の條をみよ。禮記,月令篇,『爵(すずめ)入大水為蛤』註『大水,海也』」
とある。「う(大)」を見ると,「大」を当て,
「オホの約(つづま)れる語。」
として,
「おほみ,うみ(海)。おほし,うし(大人)。おほば,うば(祖母)。おほま,うま(馬)。おほしし,うし(牛)。おほかり,うかり(鴻)。沖縄にて,おほみづ,ううみづ(洪水),おほかみ,ううかめ(狼)」
と例示する。『語源由来辞典』
http://gogen-allguide.com/u/umi.html
も,
「『う』は「大」の意味の転、「み」は「水」の意味で、「大水(うみ・おほみ)」を語源とする説が有力とされる。
「産み」と関連付ける説もあるが、あまり有力とはされていない。 古代には 、海の果てを「うなさか」といい、「う」だけで「海」を意味した。
また、現代でいう意味以外に,池や湖など広々と水をたたえた所も『海』といった。」
と同説をとる。『日本語源広辞典』は,二説挙げる。
説1は,「溟」meiに,母韻uが加わり,umeiとなり,umiと変化した(荒川説),
説2は,「ウ(大)+ミ(水)」説。「万葉期,沼,湖,海,のことを,ミとか,ウミとか言ったようです。ウミを一語と見て,分解しないのがいいのかもしれません。大いに水をたたえているところの意です。」
とある。『日本語源大辞典』は,「うみ」の語源説を,
ウミ(大水)の意(東雅・日本古語大辞典・日本声母伝・大言海),
オホミ(大水)の約転か(音幻論=幸田露伴),
アヲミ(蒼水)の約転(言元梯),
ウミの語源はミで,マ・メと同根。マは間・場の意でこれに接頭詞ウを添えたもの(神代史の新研究=白鳥庫吉),
ウミ(産)の義。イザナギ・イザナミの神が初めて産み出したことから(和句解・和訓栞),
ウクミチ(浮路)の反(名語記),
ウミ(浮水)の義(関秘録),
ウカミ(浮)の略(桑家漢語抄・本朝語源),
ウツミ(全水)の義(名言通・和訓栞・言葉の根しらべ・国語の語幹とその分類),
ウキニ(浮土)の転呼か(碩鼠漫筆),
等々,諸種挙げるが,「大水」以外は,どうも,語呂合わせが過ぎるようである。
ところで,「うみ」を「わたつみ」とも呼ぶが,「わたつみ」は,
海神,
海津見,
綿津見,
等々と当てる。『古語辞典』には,
「海(わた)つ霊(み)の意。ツは連体助詞」
とある。
https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%82%8F%E3%81%9F%E3%81%A4%E3%81%BF
には,
「わたつみ 【海神, 綿津見】海うみにおわす神かみ。海うみ。」
と意味を載せ,
「わた(さらに古形は『わだ』)」は海の非常に古い語形、『つみ』は同系語に、山の神を意味する『やまつみ(cf.オオヤマツミ)』等が見られるように、『つ』は同格の助詞『の』の古形であり、『み」は神霊を意味する。なお、『わた』の語源は、現代朝鮮語「바다(/pada/ 海)」の祖語であるとの説もある。』
と説き,『大言海』も
「ツは,之,ミは,霊異(くしび)と通ず,或いは云ふ,海(わた)ツ海(うみ)の重言かと」
という。『日本語源広辞典』は,
「海の意味のワタツミの語源は,『ワタ(海)+ツ(の)+ミ(水)』です。ウミ,大海,のことです。ワタノハラとも,いいます。
とする。しかし,『日本語の語源』がシンプルに,
「ワタツカミ(海津神)―ワタツミ(綿津海)」
と書くように,神のなから転じたと見るのが妥当なのではあるまいか。『日本語源大辞典』は,
「ワタツウミの語形は,ミをウミのミと俗解したところから現れたものでも平安時代以降にみえる」
とする。「海津神」が,意識されなくなったところから来ているのだろう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%BF%E3%83%84%E3%83%9F
は,
「ワタツミ・ワダツミ(海神・綿津見)とは日本神話の海の神のこと、転じて海・海原そのものを指す場合もある。
『ワタ』は海の古語、『ツ』は『の』、『ミ』は神霊の意であるので、『ワタツミ』は『海の神霊』という意味になる
『古事記』は綿津見神(わたつみのかみ)、綿津見大神(おおわたつみのかみ)、『日本書紀』は少童命(わたつみのみこと)、海神(わたつみ、わたのかみ)、海神豊玉彦(わたつみとよたまひこ)などの表記で書かれる。」
としている。「わた」は,『古語辞典』は,
「朝鮮語pata(海)と同源」
としているが,『大言海』も,
「渡る意と云ふ,百済語。ホタイ,朝鮮語パタ」
としている。『日本語源広辞典』は,
説1は,ワタ(渡)。島々を渡っていくウミを意識した語根,
説2は,ワタ(内蔵,内容物,ハラワタ)です。大海を生命体と意識した語根
と,二説挙げている。その他に,
遠方,他界を表すヲト・ヲチ(遠)と同根と見る説もあるらしい。いずれも,広い大海を意識した言葉で,ウミの,
大水,
とは発想を異にする。渡来人の毛もたらした言葉なのかもしれない。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%9C%E5%90%8D%E6%B9%96
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%B5%E7%90%B6%E6%B9%96上へ
「みず」は,旧かなでは,
みづ,
と表記する。「水」のことである。『大言海』には,こうある。
「此語,清濁両呼なれば,満(みつ)の義か。終止形の名詞形は,粟生(あはふ)の類。水の神の罔象(みづは),美都波(みつは)(神代記,上)あり」
『日本語源広辞典』には,
「語源は,『ミ(水)+ヅ(接尾語)』です。海,湖を,ミ,渠,溝を,ミゾ,水脈を,ミヲと呼んだこと,水が一杯になることをミツ(満つ,充つ)と表したことと関連があるようです。朝鮮語ムルと関係があるという説もあるが不明です。」
とある。『古語辞典』には,
「朝鮮語milと同源」
とある。しかし,「みづ(ず)」ではなく,「み」で水を指したとすると,この説は如何であろうか。
『古語辞典』の「み」の項には,
「複合語として用いる。」
として,
垂水(たるみ),水草(みくさ),水漬き(みづき),水(み)な門(と),
の例が載っている。『大言海』にも,
水(み)際,水(み)岬,水(み)鴨,水(み)菰,
さらに,『日本語源広辞典』にも,
みなと(港),みかみ(水神),みくさ(水草),みぎわ(汀),みくまり(水配り),みづく(水漬く)屍,みぎり(砌),みなくち(水の口),
等々の例が載る。あるいは,「水の流れる筋」という意味の,
みお(水脈・澪・水尾),
という表現も,
みを(水緒),
みづを(水尾),
みづおほ(水多),
と,やはり,「み(水)」を中心に成り立つ。「うみ」
うみ
で触れたように,
「ウ(大)+ミ(水)」
という説もある。古くは,「み」と言ったと見なすべきなのだろう。『語源由来辞典』
http://gogen-allguide.com/mi/mizu.html,
は
「旧カナは『みづ』で、語源は以下のとおり諸説ある。
朝鮮語で『水』を意味する「ムル」からとする説。『満・充(みつ)』に通ずるとする説。その他、『満出(みちいづ)』『充足(みち
たる)』『実(みのる)』などで、『満・充(みつ)』の説がやや有力とされるが、正確な語源は未詳である。生命を繋げるものであることから、『み』が『身』のことで『生命』を意味し、『ず』は繋げるを意味するといった説もあるが考えがたい。」
としている。『日本語源大辞典』は,諸説を,
ミツ(満)の義(槙のいた屋・大言海),
ミツ(充)に通ず(国語の語幹とその分類),
ミチイヅ(満出)の義(名言通),
ミチタル(充足)の反(名語記),
イヅ(出)の義(日本釈名),
ミノル(実)の転(言葉の根しらべ),
ニツ(土津)の義(言元梯),
ミはマサリ(益)の約,ツはタル(足)の約(和訓集説),
カイヅ(海津)の義(和句解),
道の転(和語私臆鈔),
朝鮮語で水の意のムルから(風土と言葉),
等々と挙げている。「み(水)」の語源を解明するには足りないようだ。因みに「水」の字は,
「水の流れの姿を描いた」
象形文字,という。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%B0%B4
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4上へ
「はなす」は,
話す,
と当てるが,
咄す,
と当てる,とするものもある。
言葉で相手に伝える,
相談する,
等々の他に,
(遊里語で)遊女を買う,
という意味もあるようだ(『デジタル大辞泉』『広辞苑』)。ちなみに,「言う」と「話す」の違いにっいて,
「ことばを発する行動をさす日本語動詞のうち、おもなものとして『言う』と『話す』があり、その意味はすこし異なっている。『言う』は単にことばを発することであり、内容は『あっと言った』のように非常に単純なこともあり、『言い募る』といえることからもわかるように、一方的な行動のこともある。それに反し『話す』のほうは、相手が傾聴し、理解してくれることが前提となっている。また名詞形の『はなし(話)』にはっきり現れているように、『話す』ときの内容は豊かであるのが普通である。『言い合う』が、互いに自分の言いたいことをかってに言うことをさし、口喧嘩(くちげんか)の場合もあるのに対して、『話し合う』が、互いに相手の言い分を理解し、意見を交換することをさすことを考えると、人間の社会活動を助けることをそのおもな働きとする言語行動を代表する動詞としては、『話す』のほうがふさわしい。「話す」行動はかならず音声を用いるが、音声を用いずに意味の伝達をする行動として、手話がある。『話す』ときには、仮名で書き表せるような個々の音声単位の連続体、すなわち『語』を仲介として意味内容を伝えるが、手話では手や腕の動きによって直接に意味内容を伝える。また『話す』ことは暗闇(くらやみ)でもできるが、手話は相手が見える場合でないと成立しない。」(『日本大百科全書(ニッポニカ)』)
とある。「いう」は,
言う,
云う,
謂う,
と当てる。『デジタル大辞泉』は,
「『言う』は『独り言を言う』『言うに言われない』のように、相手の有無にかかわらず言葉を口にする意で用いるほかに、『日本という国』『こういうようにやればうまく行くというわけだ』など引用的表現にまで及ぶ。
『話す』は『しゃべる』とともに、『喫茶店で友達と話す』『電話で近況を話す』のように、相手がいる場での言葉の伝達である。『話し方教室』とはいうが、『言い方教室』とはいわない。
類似の語に『述べる』『語る』があるが、ともにまとまった内容を筋道を立てて発言する意の語であり、『意見を述べる』『紙上で述べる』のように用いたり、『物語』『義太夫語り』のような熟語を生んだりする。」
と区別する。「言う」は,しかし,「意見を言う」「紙上で言う」と言ってもいいので,かなり汎用性がある。『古語辞典』には,「言ふ」について,
「声を出し,言葉を口にする意。類義語カタリ(語)は,事件の成り行きを始めから終わりまで順序立てて話す意。ノリ(告)は,タブーに触れることを公然と口にすることで,占いの結果や名などについて用いる。ツグ(告)は,中に人いういいししししうううを置いて言う語。マヲシ(申)は,支配者に向かって実情を打ち明ける意」
とある。「もおす(まをす)」については,『古語辞典』は,
「神仏・天皇・父母などに内情・実情・自分の名などを打ち明け,自分の思うところを願い頼む意。低い位置にある者が高い位置にある者に物を言うことなので,後には『言ひ』『告げ』の謙譲表現となった。奈良時代末期以後マウシの形が現れ,平安時代にはもっぱらマウシが用いられた」
とある。「のり(宣り・告り・罵り)」については,
「神や天皇が,その神聖犯すべからざる意向を,人民に対して正式に表明するのが原義。転じて,容易に窺い知ることを許さない,みだりに口にすべきでない事柄(占いの結果や自分の名など)を,神や他人に対して明し言う意。進んでは,相手に対して悪意を大声で言う意」
とある。さらに,「述ぶ」は,「伸ぶ」「延ぶ」とも当てるので,
長く話す,
意となる。こうみると,
言葉を口に出すのを「いう」,
その言葉が連なって長いのを「述(陳)ぶ」,
その相手があるのを「はなす」
人を介して伝えるのを「つぐ」,
その特殊な発言で,
下から上を,「もおす」,
上から下を,「のる」,
その話の中身の起承転結あるを「かたる」,
と,同じく口に出すにしても,使い分けていたことになる。「いう」だけは,相手の有無にかかわらず言葉を口に出す一般を指す,とみることができる。
『大言海』は,「話す」を,
「(心事を放す意か)語る,告ぐ,言ふ,ものがたる」
とし,「言ふ」(「ゆふ」とも訛る)については,二項立て,
ものいふ,言(こと)問ふ,口をきく,
の意味と,
言葉に出す,語る,延ぶ,話す,
名づく,
の意にとに分けている。「はなす」の語源は,『大言海』の述べるように,
「放す(心の中を放出する)」
であるようだ。『日本語源広辞典』には,
「物をカタルとか,のカタル(語)が,ダマス(瞞,騙)に使われるようになって,ハナス,に漢字の『話』を当てて生まれた語です。」
とある。ついでながら,「放す」の語源は,
「ハナ(二つの物体の距離間隔が広がる)+ス」
として,
「話す人の手と対象との距離や間隔が広がる意です。ハナス,ハナツ,ハナレルは同源です。ハナスに漢字の『話』を当てて生まれた語なのです」
とある。その謂れについて,
http://kuwadong.blog34.fc2.com/blog-entry-729.html
には,
「言葉を発することを『話す』と言うが、その『話す』に『話』という漢字が用いられたのは明治時代になってからだという。室町時代や江戸時代『はなす』という言葉に当てはめられた漢字は口偏に『出る』と書いて『咄』という文字と口偏に『新』と書いて『噺』という文字が用いられた。『咄』という文字は、音読みで『トツ』であり、口と音を表す『出(シュツ)』からなる漢字であるが、『はなす』ということが、口から出るという意味で『はなす』に用いられたのだろうと推測される。
もうひとつの『噺』は江戸時代に作られた国字である。言葉を発するという意味で『はなす』以外に『かたる』がある。『物語』という言葉はあるが、『物語』は過去の古い事を表現するという意味合いがあったようで、新ネタを表現する場合に『はなす』が用いられ『噺』という国字が当てはめられたようです。
『はなす』という言葉は、室町・江戸という中近世に生まれた言葉でなく、鎌倉時代奈良時代からあったという。その時、用いられた漢字は『放』という漢字である。
「はなつ」という意味だ。」
とある。「話」の字は,
「舌(カツ)は,舌(ゼツ)とは別の字で,もと,まるくおぐる刃物の形(厥刀(ケツトウ)という)の下に口印を添えた字で,口にまるくゆとりをあけて,勢いよくものをいうこと。話は『言+音符舌(カツ)』で,すらすら勢いづいて話すこと」
らしい。
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